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ニューヨークで見る、日本の写真の現在

Heavy Light: Recent Photography and Video from Japan

ニューヨークで見る、日本の写真の現在 真評論家、研究者などが展覧会の企画に参与している。また、写真展

Heavy Light: Recent Photography and に限定されることなく、ビデオやインスタレーションをも含む多様な作

Video from Japan 品を紹介する展覧会が頻繁に開催されていることも ICP の特徴と言え

るだろう。

「Heavy Light」展は、ICP のキュレイターであるクリストファー・フィリッ

小林美香 プスと、インディペンデント・キュレイターの福のり子が協同して企画を

行った。クリストファー•フィリップスは、過去に「Art In America」誌にて

『写真空間2』に掲載。展覧会の詳細については以下のサイトを参照 シニア・エディターを務めていたほか、美術理論誌「OCTOBER」など

のこと に写真史に関連する優れた論考を発表するなど、数々の著作を発表

http://www.icp.org/site/c.dnJGKJNsFqG/b.3962161/k.8DE6/Heavy_ してきた研究者であり、近年では中国の現代美術や写真を紹介する

Light.htm 展覧会、「Between Past and Future: New Photography and Video from

China(過去と未来のはざまで:中国の新たな写真と映像)」(2004 年、

2008 年 5 月 16 日から 9 月7日にかけて、ニューヨークの国際写真 ICP)や、「Atta Kim: On Air(アッタ・キム:オン・エアー)」(2006 年、ICP)、

センター(International Center of Photography: 以下 ICP と表記)で、 「Shanghai Kaleidoscope(上海カレイドスコープ)」(2008 年、ロイヤル・

「Heavy Light: Recent Photography and Video from Japan」と題された展 オンタリオ美術館)などアジア圏の現代美術の動向を紹介する展覧会

覧会が開催された。タイトルが示すように、この展覧会は日本の現代 を企画し、高い評価を得ている。

写真及びビデオ作品を紹介するグループ展であり、ニューヨークで三 一方、福のり子はロバート・メイプルソープ、シィンディ・シャーマン、

十年ぶりに開催される大規模な日本の写真展として大きな話題を集め キース・へリング、ナン・ゴールデン、フィリップ=ロルカ・ディコルシア

た。 など現代美術や写真のさまざまな展覧会の企画を手がけたり、世界各

筆者はアジアン•カルチュラル・カウンシル(ACC) の日米芸術交流 地のフォト・フェスティヴァルでの展示企画を行ったりするほかに、京

プログラム・フェローシップの招聘により、2007 年 9 月から 2008 年 6 都造形芸術大学で教鞭をとり、ACOP(Art Communication Project)と

月までニューヨークに滞在し、ICP の展覧会部門のアシスタントとして いうユニークな対話型美術鑑賞教育の実践と研究を展開していること

本展覧会の企画・準備の業務に携わる機会を得た。本稿ではこの展 でも知られている。

覧会が企画された経緯をふまえ、出品作家とその作品を紹介し、展覧 冒頭でも述べたように、「Heavy Light」展は、ニューヨークの美術館

会の構成と趣旨を報告するとともに、展覧会の企画することから得た でおよそ三十年ぶりに開催された日本の写真のグループ展である。

見解を述べておこう。 三十年前の展覧会とは、ICP で 1979 年に開催された「JAPAN: A

SELF PORTRAIT」のことであり、その前には 1974 年にニューヨーク近

ICP とは 展覧会開催の経緯とその射程 代美術館で「New Japanese Photography」展が開催されている。両方の

展覧会ともに、当時『カメラ毎日』で編集長を務めていた山岸章二が企

ICP は、1974 年にコーネル・キャパによって設立された写真専門の 画に携わり、日本における戦後写真の展開をアメリカに紹介する意図

美術館と学校で構成されている組織であり、タイムズ・スクエアに程近 を持っていた。その後、この二つの展覧会を通して紹介された森山大

い、マンハッタンの中心(センター)に位置している。ICP の美術館で 道や東松照明は、それぞれに「Daido Moriyama:Stray Dog」(サンフラ

は、写真史に名を残す写真家の個展から、現代の写真家の活動を紹 ンシスコ近代美術館, 1999 年)、「Shomei Tomatsu:Skin of a Nation」

介するグループ展まで幅広い展覧会が開催されており、ICP に所属 (サンフランシスコ近代美術館、ジャパン・ソサエティー共催, 2004 年)

するキュレイターだけではなく、インディペンデント・キュレイターや写 という回顧展を通して、戦後の日本の巨匠写真家として広く認知される

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までにいたっている。また、これらの回顧展が開催された時期に挟ま や、写真を表現手段として用いていたとしても、自らを写真家とは称さ

るようにして、ヒューストン美術館では、日本の写真の黎明期から現代 ない作家も増えてきていることは、周知の通りであろう。「Heavy Light」

にいたるまでを年代的に辿る大規模な展覧会、「The History of 展はこのような写真の位置づけの多様化を前提とした上で、日本の現

Japanese Photography(日本の写真の歴史)」展(2003 年)が開催されて 代写真の展開を包括的に辿って紹介するというよりも、出品作品を通

いる。 して日本の文化や社会の中にある際立った傾向や特徴を浮かび上が

そのほかに、欧米を拠点に日本の写真家や現代美術作家が活動し、 らせようとする意向が強く打ち出されていた。展覧会は、4 つのテーマ

個展やさまざまなグループ展、アートフェアなどを通して作品を発表 ──1、世界の表面/2、伝統の変容/3、自己顕示としてのコスチュ

する機会も増え、たとえば村上隆が企画に携わった「Little Boy: The ーム/4、文化的アイコンとしての子ども──によって構成されていて、

Arts Of Japan's Exploding Subculture(リトル・ボーイ:爆発する日本のサ これらのテーマは、外から見た日本の社会や文化の特徴を言い表す

ブカルチャー・アート)」展(ジャパン・ソサエティ、2005 年)が話題を集 ものとして設定されている。したがって、日本国内で、作品や作家が

めてきている。このような状況や、近年の美術市場で日本人作家の作 評価されたり、関心を集めたりするのとは明らかに異なった視点が盛り

品の値段が高騰していることが話題になったことを鑑みれば、欧米で 込まれ、作家と作品が選び出されているということが、「Heavy Light」展

日本の現代美術の展開に関心が高まっていることは紛れもない事実 の大きな特徴である。翻って見れば、日本の中で形成されているのと

と言えよう。しかしそれにもかかわらず、日本の現代写真やビデオに は異なるコンテクストに照らし合わせられることで、作品に対する見方

焦点を合わせた展覧会がかくも長い間開催されてこなかったことにつ や評価の仕方の幅がいかに拡張されるのか、ということが一つの挑戦

いて、キュレイターのクリストファー•フィリップスと福のり子は次のような であったとも言えるだろう。

説明をしている。一つには、アメリカでは「ここ数年間、中国の現代美 本展覧会のために選出された出品作家は、会田誠、畠山直哉、鍛

術や写真が大きなブームになっており、日本の現代写真はそのブー 冶谷直記、鬼海弘雄、小松原緑、中川幸夫、楢橋朝子、小沢剛、澤田

ムの陰に隠れてしまっていて、キュレイターや批評家たちが日本の写 知子、鈴木理策、ヤノベケンジ、やなぎみわ、吉永マサユキの 13 名で

真の展開に注意を払ってこなかった」ということがある。また、日本の ある。写真やビデオの作品がすぐに思い浮かべられるような作家はも

写真を取り巻く環境̶̶日本国内の小規模なギャラリーを拠点とする写 ちろんのこと、中川のような前衛的な生け花で知られる作家や、ヤノベ

真家の活動のあり方や、写真集や写真に関連する出版物が限られた のような大規模な立体作品やインスタレーションを制作する作家も含

部数しか刊行されず、その流通が日本国内に限られているということ まれている。また、関西を中心に活躍する作家が占める割合が高いと

̶̶も、外側から見れば、閉鎖的なものとして映り、その中で起きている いうことも、一つの特徴と言えるだろう。展覧会に併せて刊行されたカ

ことの情報が日本の外に伝わりにくい状態が続いていたということも要 タログには、作品図版に加えて、それぞれの作家へのロング・インタビ

1
因の一つとして挙げられている 。したがって、「Heavy LIght」展開催の ューも掲載された。カタログの中で個々の作家のインタビューを掲載

目的の一つとして、このような状況で生じてきた日本国内と国外の情 することが重視された理由は、本展覧会にはアメリカ国内でほとんど

報のギャップを埋めるということがあった。 知られていない作家も含まれるために、作品の制作過程や内容につ

先に 挙げ た 「 New Japanese Photography 」 展や 「 Japan: A Self いて充分な解説が必要となるということ、また多様な作家が選ばれ、作

Portrait」展のような展覧会が開催された 1970 年代と現在とでは、当然 品の傾向がそれぞれに異なるために、作家自身の言葉を通してそれ

のことながら写真を巡る状況は大きく様変わりしている。1970 年代当 ぞれの経歴や、作品の制作過程のみならず、日本の社会的・文化的

時は、写真雑誌や写真集のような印刷媒体が、写真家の作品発表や な状況を浮かび上がらせるという意図もあった。

活動の場として位置づけられ、写真家という職業や立場がそのような さて、展覧会のタイトルである「Heavy Light」についても説明を加え

媒体によって認識され、輪郭づけられていた。しかしその後現在にい ておこう。タイトルの中に含まれる Light には、「光」と「軽い」の両方の

たるまで、ギャラリーや美術館での展示を活動の中心に据える写真家 意味がかけ合わせられている。(写真や映像を作りだす)「重い光」とも

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解釈されうるが、展覧会の意図としては、後者の「軽い」の方の意味が 賞者を出迎えるように設置されている。この作品は、澤田自身がさまざ

強く、日本語では「重い 軽い」と訳される。このタイトルは、展覧会の まな生徒と担任教師に扮して個別に撮影した写真を背景の写真と合

内容や方向性、コンセプトを明快に言い表すものとして掲げられてい 成して作られたクラスの集合写真である。入学や新学期の開始や卒業

るというよりも、漠とした印象や感覚、それも正反対の関係にあることが のような学校生活の節目のイベントと、夏の衣替えの時期にあわせて

隣り合わせにあるような、矛盾した調和のとれていない状態を想像さ 集合写真を撮ることは日本の学校では恒例行事として慣習化されて

せるものだろう。先に紹介した4つのテーマや出品作品に照らし合わ いるが、欧米ではさほど一般的ではないという。この作品は当初卒業

せると、古さ/新しさ、老い/若さ、深刻なこと/ユーモラスなこと、美 アルバムの中に収められるような小さなプリントとして発表されていた

しさ/醜さ、安定/不安定、画一性/多様性、、、などさまざまな矛盾 が、この展覧会のために、鑑賞者に対して展覧会の開始を印象づけ

する関係がそれぞれの作家の作品の中に、あるいは作家の組み合わ るために特別に大きく引伸ばされたプリントでは、澤田が扮するそれ

せの中に見出されるのであり、そのことは会場の構成にも反映されて ぞれの生徒の髪型や表情、顔の特徴の差異がより明確になり、その違

いた。 いを見比べられるようになっている。全員が同じ制服を身につけること

展覧会の会場は、先に述べた4つのテーマによる区分が明確に示 で強調される集合としての均質性と、その中で澤田が演じ分ける微妙

されてはいなかたももの、ゆるやかに相互の連関を持たせるようにし な個別性やその間の差異が、際立ったコントラストとして視覚化されて

て構成されていた。ちなみに、それぞれのテーマによって、出品作家 いる。

は以下のようにカテゴライズされていた̶̶世界の表面(畠山直哉、楢

橋朝子)/伝統の変容(中川幸夫、鈴木理策、小沢剛、鍛冶谷直記)

/自己顕示としてのコスチューム(澤田知子、吉永マサユキ、鬼海弘

雄、小松原緑)/文化的アイコンとしての子ども(会田誠、やなぎみわ、

ヤノベケンジ)。

「Heavy Light」展を歩く

(図 2)

展覧会の実際の会場の動線に即して解説しながら、展覧会のテー 壁画大の澤田の作品に続くようにして、入り口の右脇には、ヤノベ

マとタイトルによって示唆されている対象的な関係が、どのように視覚 ケンジの立体作品「青い森の映画館」が設置されている。(図2)この作

化されているのかを見ていきたい。 品は、象の背中の上に設置された小屋のような映画館と、その脇に添

えられた樽の上に立つ腹話術人形の「ナニワのトらやん」で構成され

ている。トらやんが身にまとう黄色い衣装は、ミニ・アトムスーツと呼ば

れるもので、放射能を遮断する機能を持ち、その数値を探知するため

のガイガーカウンターが装着されていて、映画館は子どものための核

シェルターとしての機能を備えている、という設定になっている。ビデ

オの中でヤノベの父親は孫たち(つまりヤノベの息子たち、ひいては

次世代を担う子どもたち)に対して、核の危機が起きた際に映画館で

(図1) あるシェルターの中に籠って身を守り、どのように生き延びるのかとい

会場の入り口の壁面(図1)には、床から天井まで届くように大きく引 うことをトらやんとの会話を交わすようなかたちで語っている。作品は

伸ばされた澤田知子の「School Days」が、美術館に足を踏み入れる鑑 一見したところ、アミューズメント・パークの遊具施設にも似た親しみや

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すい外観を備えており、映画館の中で上映されるビデオの中で、トら で撮影された「River」及び「Underground」というそれぞれのシリーズか

やんとヤノベの父親はユーモラスなコントのようなやり取りで鑑賞者を ら数点の写真が選び出されている。このような構成によって 1980 年代

惹きつけていくが、作品全体としては、その親しみやすさとは裏腹に、 末から現在にいたるまでの代表的な作品が辿られるとともに、都市空

危機的な時代を生きる現代の子どもたちへ向けられたシリアスなメッ 間をテーマとする作品(「Untitled」、「River」及び「Underground」)と、都

セージが込められている。 市空間を構築するコンクリートを産出する石灰鉱山(「Lime Works /

Lime Hills」、「Blast」)という二つの異なった環境の対比とその間の関

係に焦点があわせられている。

(図 3)

ヤノベと同じ展示室の中には、楢橋朝子の「half awake and half (図 5)

asleep in the water」から選び出された4点の写真が、大型のプリントと 続く展示室は、中川幸夫と鈴木理策の展示に充てられている。中川

して展示されている(図 3)。これらの写真は、日本のさまざまな場所を 幸夫は 1950 年代から、伝統的な華道の表現や家元制度と決別し、革

海の中から陸地を臨むような視点から撮影されていて、向こう側に見 新的な生け花の表現を追求してきた作家として知られている。中川は、

える陸地や建物が水面の上に浮かんでいるようにも、海の中に沈没し 土門拳に師事して写真を学んでおり、一連の写真作品は、添えられた

てしまうかのようにも見える。一連の作品は、そのタイトルが示すように タイトル̶̶親交のある作家やその作品にちなむものが多い̶̶と相ま

半ば覚醒し、半ば夢のなかにあるような、見る側の意識の状態を想起 って、美しくもあると同時にグロテスクな様相を見せるような独特な世

させると同時に、外側から眺められたときの日本という国の不安定さや 界を作り出している(図 5)。

寄る辺のなさを映し出しているようにも見える。 たとえばチューリップを素材にして制作された作品では、花弁が無

数に積み重ねられていたり(「魔の山」)、ドーナツ状の形状に花弁が

固められて水分が血液のように滲み出ていたり(「泉」)、花弁が腐敗し

て液状化していたり(「死の島」)、花弁を外されて茎に雄蕊と雌蕊だけ

が残った状態(「チューリップ星人」)になっていたりして、花のさまざま

な様態を印象づけるだけでなく、あらゆるものに通底する生と死という

時間の循環を想起させる。

(図 4)

続く展示室は全体が、畠山直哉の作品の展示に充てられている(図

4)。東京近郊を俯瞰する視点で撮影した写真をグリッド状に配置した

「Untitled」と、石灰岩の鉱山とその工場を撮影した「Lime Works / Lime

Hills」、鉱山の発破の瞬間をとらえた「Blast」、東京の都心とその地下

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されている。地階の会場の入り口で鑑賞者の注意を惹きつけるのは吉

永マサユキの「GOTH-LOLI」と「BOSOZOKU」の二作品である(図 7)。

これらの作品は、二台の大型モニタ上でスライドショーとして上映され、

それぞれ 50 点前後の写真により構成されている。「GOTH-LOLI」に

は、東京や大阪の街中で撮影された、ゴシック&ロリータのファッショ

ンを身にまとい、奇抜なメーキャップやヘアスタイルの若者たち(主に

若い女性たち)の写真が、「BOSOZOKU」には、特攻服を着た暴走族

(図 6) たちがバイクで走行する場面や、それぞれのグループの集合写真、

中川幸夫の作品と向かい合わせるように、鈴木理策の作品が展示 スタジオで撮影されたポートレート写真が収められている。二作品とも

されている(図 6)。出品作品の「KUMANO」は、1997 年に刊行された に、服装がそれを身にまとう個人のアイデンティティを表すだけでは

同名の写真集の中から展覧会のために選びだされた 20 点の写真に なく、その人が何らかの集団やコミュニティの中に帰属していることを

より構成されていて、一連のシークエンスとして、東京から鈴木の生地 証明する役割を果たしていることを強く印象づける。その奥に続く展

である熊野へといたる旅の軌跡を辿っていく。展示は小さな炎を点す 示室では、澤田知子の「School Days」の夏服バージョンの作品が展示

人物を背後からとらえた写真から始まり、東京を出発して移動する過 されていて、吉永の二作品にも通底するテーマである、集団と個人と

程を経て、お燈祭(熊野で毎年2月6日に開催されている祭)で燃え盛 の関係を再び想起させる。

る松明の写真へとつながってゆく。つまり、火という要素を通して、場

所の移動や時間の推移が、線的な進行として表されているだけでは

なく、繰り返される循環として表されている。その循環の中で、東京で

の日常生活と、千四百年以上もの歴史を持つお燈祭の時空間が接続

されている。

ロードムービーのようなシークエンスとして構成された鈴木の展示と、

13 点の個別の写真で構成された中川の展示は、テーマ、被写体、作

品の形式においても大きく異なってはいるものの、時間や自然に対す (図 8)

る感覚において、双方の作品の中に共通する要素を見出すこともでき 同じ展示室の中には、小松原緑の「サンクチュアリ」と鬼海弘雄の白

るであろう。 黒のポートレート写真が展示されている(図 8 写真左側3点)。小松原

緑の「サンクチュアリ」は、ボーイズ・ラブの漫画やアニメの世界から着

想を得て制作されている。小松原は、女性の頭と男性の体をデジタル

技術で合成して、架空の男子校を舞台に繰り広げられる物語の中の

登場人物を作り出し、さらに登場人物を二人ずつ組み合わせて、物語

の中で繰り広げられる恋愛関係を示唆させるようなシチュエーション

の情景を作り出している。一連の作品の中で、それぞれの登場人物

の動作や表情とともに、学校や制服のような舞台設定も物語の進行の

(図 7) 中で重要な要素であることが示唆されている。小松原の一連の作品は、

一階の会場が、環境や自然に関連する作品によって構成されてい 描き出されている主題においては大きく異なるものの、制服によって

るのに対して、地階は人や文化、生活に関連する作品を中心に構成 ある集合体や関係性や舞台設定が表されているという点において澤

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田知子の「School Days」や吉永マサユキの「BOSOZOKU」との共通性 ーフとしつつ、場面を演出して撮影する手法を用いることで、従来から

を見いだすことができるであろう。 ある物語や伝統文化に対して再解釈や独自のひねりを加えて作品を

吉永や澤田、小松原の作品が描き出す人物/個人のあり方が、た 制作しているということに共通点を見出すことができる。(図 10)

えずそれを取り囲む集団との関係の中に位置づけられているとするな

らば、同じ展示室に展示されている鬼海弘雄の作品(図 8 写真右側)

は、徹底して個の存在に焦点を合わせて人物を描き出している。鬼海

弘雄は 1970 年代初頭から現在にいたるまで浅草寺で境内を行き交う

人たちのポートレート写真の撮影を続けている。それぞれの写真には、

鬼海が被写体になった人たちから聞き出した言葉や、見出した事柄

がタイトルとして添えられていて、ポートレート写真と言葉が結びつくこ

とによって、あたかもそれぞれの人物が映画や物語の主要な登場人 (図 10)

物であるかのような重厚な存在感が醸し出されている。

この展示室の奥へとつながる展示室では、室内の照明が落とされ、

展示されている個々の作品̶̶会田誠の「愛ちゃん盆栽」とやなぎみ

わの「Fairly Tale」̶̶には、スポットライトで照明が当てられている。入

り口の正面に設置された会田誠の立体作品「愛ちゃん盆栽」は、松の

盆栽と少女のフィギュア人形の頭部を組み合わせて作られたものであ

り、作品のタイトルはフィギュア人形の共同制作者である加藤愛に由

来している。立体作品に加えて、会田と加藤が「愛ちゃん盆栽」を剪定 (図 11)

したり眺めたりするような場面を設定して撮影した写真作品が展示さ 人との関わりや日常的な生活環境という側面に焦点をあわせた作

れている。(図 9) 品として、小沢剛の「Vegetable Weapon」と鍛冶谷直記の「JPEG」があ

る。この二人の作品は、吉永マサユキの2作品のスライド作品の展示

に充てられた、地階の入り口から続くような空間に展示された。

「Vegetable Weapon」は、小沢が世界各地を訪れて現地の人たちと協

同して行うプロジェクトに基づく作品である。そのプロセスとは、小沢が、

行く先々で現地の女性に依頼して、その女性とその土地の料理を作

るために一緒に食材を買いに行き、食材を用いてマシンガンのような

オブジェを作って、それを女性にマシンガンを構えるようなポーズで

(図 9) 写真を撮影した後に、オブジェを解体し、一緒に料理を作って振る舞

一方、やなぎみわの「Fairly Tale」は、「ヘンゼルとグレーテル」や う、というものである。料理と食事という行為を通して相互に理解と親交

「シンデレラ」などの西欧のおとぎ話を再解釈して作り出された場面を、 を深めることがプロジェクトの目的であり、9・11のテロに対する一つ

密室劇のように演出を施して撮影された写真作品である。一連の作品 の提言として開始されたという。(図 11)本展覧会では、写真作品に併

の中では、物語に登場する少女と老女の関係に焦点があわせられて せて、プロジェクトのプロセスを記録したビデオも上映された。

おり、物語の中に含まれている女性の心理的な葛藤を描き出されてい 一方、鍛冶谷直記はデジタルカメラを用いて日本各地の繁華街な

る。会田とやなぎの作品は、双方ともに少女(子ども)をテーマやモチ どでいたるところに見られる看板や、パチンコ屋のネオンサイン、電線

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の張り巡らされた路地裏の光景などをスナップショットで撮影している。 結びにかえて

展示では、それらの写真を大きく引き伸ばした上でそれらを隙間なく

グリッド状に組み合わせることによって、日本の町中で頻繁に見られる これまでに、展覧会のテーマに照らし合わせながら、美術館の中で

看板や装飾物のけばけばしい色彩や、雑然とした雰囲気を提示して それぞれの作品がどのように展示され、異なる作家の作品が有機的

いる。(図 12) に関連づけられていたのかということを辿って解説してきた。このよう

な見方は、筆者のような立場、すなわち日本人として日本国内の文化

や社会状況をある程度把握し、写真や現代美術の作品に接した経験

を持ち、展覧会の企画/準備段階からそれぞれの作家や作品に接し、

展覧会の全体像や作品の意図を把握してきた立場にあるからこそ会

得しているものである。つまりそれは同時に、企画側として展覧会の

内部に入り込んでいるがゆえに、鑑賞者が作品に接して抱くような印

象や疑問点を持ち得ないということでもある。しかし、展覧会の会期中

(図 12) に何度かツアーガイドをつとめる機会を得たり、質問を受けて作品の

展覧会会場には、以上のような 13 人の作家の作品のほかに、作家 解説を行ったりするなど、展覧会や作品に対する鑑賞者からのさまざ

の活動やインタビューを紹介するビデオ作品を上映するコーナー(上 まな反応に接する機会に恵まれた。その中で、作品に対する見方や

映されたのは、畠山直哉、鈴木理策、吉永マサユキ、ヤノベケンジに 受け止め方の仕方に大きな幅があることや、作品によっては日本の文

関連する作品)と、出品作品に関連する作家の写真集や作品集、ポー 化的な背景を含めて解説することの難しさを実感することもあった。

トフォリオを展示するケースが設けられている(図 13)。このような資料 たとえば、鬼海弘雄の作品については、ダイアン・アーバスやアウ

展示が要視された理由として、アメリカでの知名度が低い作家や作品 グスト・ザンダーが手がけてきたようなポートレート作品がアメリカの鑑

も含まれるために、作家に関する具体的な情報や、作家が作品制作 賞者の間ですでに広く受容されているということもあり、浅草という場

に取り組む姿勢も含む情報を提示する必要があるということに加えて、 所や、日本という国の固有性ということへの関心に加えて、写し取られ

欧米で日本の写真家の写真集に対する関心が高まっているという事 た被写体一人一人の個としての存在の重みや、それぞれの多様性に

2
情がある 。日本の写真家の活動が、長らく雑誌や写真集のような出版 感嘆や共感の声が寄せられるのを頻繁に耳にした。鬼海の作品のよ

物と密接に結びついて展開してきたことを鑑みれば、展示作品と写真 うに、作品の成り立ちやその意図について、さほど多くの言葉を要さ

集/作品集との関連性や、作品形態の違いを提示することは十分に ずとも、解説する側として鑑賞者との間に共通の了解に持つことがで

意義のあることと言えるだろう。 きる場合もあれば、日本の文化的な背景を説明することが、作品を理

解する上で肝要となる場合もある。たとえば、小松原緑の「サンクチュ

アリ」は、日本においてある程度時代的な流れを含めて認識されてい

るボーイズ・ラブの漫画やアニメという背景があってこそ、その意図が

読み取られる作品である。したがって、男性の同性愛的な関係を描き

出す物語が、女性の漫画家によって描き出され、それらの作品が女

性の読者に支持されてきたという事情も含めた多少込み入った解説

が必要になってくる場合もある。そのせいか、人によっては(日本の漫

(図 13) 画やアニメへの関心の度合いも影響してくるのであろうが)作品の新

奇さは印象に残るものの、その意図するところがすぐには腑に落ちな

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い、という感想を耳にすることもあった。

ここで鬼海と小松原の作品に対する反応を例に出したのは、もちろ

ん、それぞれの作品としての優劣や、作品の受容のありかたを比較す

るためではない。そうではなくて、展覧会を通して、異なる文化圏の中

に作品が紹介される場合には、日本国内では自明のものとされてい

た条件、すなわち作品を作る側と受容する側の間で、ある程度の文化

的なコンテクストが情報として共有されているという前提が問い直され

たり、別のコンテクストを参照にして見られたりすることもあるということ

を、指摘するためである。このような事態は、写真にかぎらず、また展

覧会という場に限らず、視覚伝達の場において絶えず問われてきて

いることであろうが、形式としても主題としても多様な傾向を持つ作品

を取り上げた本展覧会においては、作品それぞれに対する反応から

顕著にそのことが伺い知れたように思われる。

ニューヨークというアート市場の中枢として位置づけられている場所

においては、作品に対する反応が、市場での価値づけや流通と直接

的に結びついている。このような流通の現場で、筆者が日本の作家に

よる写真及び映像作品に接し、紹介する機会を得たことは、それらが

どのような観点から価値づけられるのかということを、たえず意識させ

られるとともに、自らにとっての日本という出自の国との関係を「日本の

写真」を見ることを通して考え直す契機になった。また、現代の写真の

展開に焦点をあわせた展覧会に関わることで、現代へいたるまでの歴

史的な流れを再考する必要性をよりいっそう強く認識するようになった。

「Heavy Light」展に続いて、パリ・フォトで日本の写真の特集が組まれ

るなど、日本の写真を海外に紹介する機運が高まっている。これらの

イベントが一過性のブームではなく、日本の写真に対する関心を喚起

する契機となることを期待したい。

1
Heavy Light: Recent Photography and Video from Japan, A
Discussion with Christopher Phillips and Fuku Noriko , in
Aperture , 191, Summer 2008, p.70
2
たとえば、オークション・ギャラリーの SWANN GALLERIES
(http://www.swanngalleries.com/)で開催される写真集のオー
クションには、日本人写真家の写真集が数多く出品され、高値で
取引されているものも多い。

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