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■経済統制は必然的に思想統制に進む

自由主義は、交通ルールを設定して、そのルールに従っている限りは、どこに行こ
うと個人の自由だとする。それに対して、全体主義では個々の車に「どこに行け」
と命令する。

家庭のような小さな集団なら、家長が家族の一人一人に個別に命令してやっていく
ことができる。村単位でも、村長が指導者として村民を指図しながら引っ張ってい
くことができよう。しかし、国家という大きな単位ではどうか。

戦時とか、とか、経済恐慌などという非常時においては、政府が国政と国家経済に
おいて、全国民に一つの方向に行くよう命じて、危機を乗り切ることが効率的であ
る。

しかし、ある程度、豊かな国家においては、無数の国民がそれぞれ「遊びに行きた
い」とか、「買い物に行きたい」などと個人的欲求を持つ。こうした状況で、社会
全体を政府があれこれ個別命令してうまく運営していく事は不可能だ、というの
が、ハイエクの考えである。

実際に、ソ連にしろ、中国にしろ、計画経済を試みた全体主義国家は、みな失敗に
終わっている。また同様に戦後のイギリスも労働党政権下で社会主義政策がとられ
たが、それが長期的な英国経済の低迷をもたらした。

全体主義国家での計画経済はかならず失敗する。その失敗を隠して、独裁政権を維
持しようとすると、かならず報道統制、言論統制などという手段で、国民の目から
真実を隠さなければならなくなる。

経済統制はかならず思想統制に進む、というのが、ハイエクの主張である。

■組織の本能である「拡大指向」を「縮小均衡」に向かわせるもの

無理な経済統制を続けて崩壊したのがソ連であったが、計画経済を捨てて、中国は
「社会主義市場経済」という「独創的」な活路を見いだした。我が社では裁量労働
制、『自由な』事業発案と経営陣とその意だけを汲んだ人事セクションの不法な労
働時間強制による統制を行っているが、これは両立しうるのか?
ここで、自由主義とは、「交通ルールを設定して、個々の車の行き先はそれぞれに
自由にさせる」こと、というハイエクの比喩に戻って考えてみよう。

ここでの交通ルールとは万人に共通に適用されるべきものであり、独裁者が恣意的
に適用して良いものではない。「速度制限60キロ」と言うルールに対しては、一
般国民も共産党員も等しく従う、というのが大前提である。

しかし、独裁体制において、スピード違反を取り締まるべき警察も、また違反者を
処罰する裁判所も、党幹部が統制しているとしたら、どうなるか。

党幹部は速度制限など気にせずに、好きなだけスピードを出すことができる。一
方、一般国民は速度制限を守らなければ、逮捕され処罰される。そこには公正な競
争はあり得ない。

会社幹部が、好きなだけ自らの立場を良い事に好き勝手やりながら、不良債権の山
を築く。労働基準法など無視して労働者を酷使する。これは強者のみが自由に振る
舞える弱肉強食のジャングルであり、しかもそのジャングルは箱庭の中に作られた
小さな世界なのだ。こうした会社では、経営陣や既存の管理職は好きな様に振る舞
え、新入社員や中途社員は彼らの行為の犠牲にならざるを得ない。

新たに入った社員は既存の社員の能力以上を発揮する事を許されないか、発揮した
としても評価されることはなく、独裁国家における特権階級が永久にその立場が保
証されているのと同じように、彼らが新たに既存の幹部社員、経営陣の立場に上り
詰める事はできない。

しかし、その代償としてその社会から隔離された小さなジャングルはビジネス、組
織の機能の両面に於いて縮小均衡を起こし必然的に収縮に向かう。

■絶対的権力は絶対的に腐敗する

そんな腐敗は一部の現象であって、独裁的経営でも公正な社則の支配・適用が行わ
れて、自由な社員間競争や主体的な事業起案、自然的な事業拡大指向を組織が実現
すると考える人もいるだろう。

これに対する反論として、「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という19世紀英国
の自由主義思想家アクトン卿の言葉がある。ソ連や中国の共産党幹部の「労働貴
族」ぶりを見てみれば、この法則の正しさは歴史的に実証されていると言える。
翻って我が社はどうだろうか?

全体主義経営が必然的に腐敗するのは、経営陣が組織目的を決め、「目的は手段を
正当化する」という論理から、好き勝手ができるからである。「社員/会社を幸福
にする」という目的のためには、「社員からアイディアを奪ったり、対抗勢力を恫
喝と無茶なルールで屈服させる」という手段も正当化される。

自由主義社会における法律や道徳の基盤は、どのような高尚な目的のためでも、
「やってはいけない事はやってはいけない」と手段の善悪を問う所にある。貧乏人
に小判を配ろうと金持ちの家に泥棒に入るネズミ小僧は、法治社会では犯罪者であ
る。

「目的は手段を正当化する」という考え方は、個人の倫理観、道徳感情を麻痺させ
る。その結果、ナチスがユダヤ人を抹殺しようとしたり、ソ連で収容所列島が作ら
れたり、中国で知識階級を追放したり、という人権無視の暴走政策が取られるよう
になる。その一方で、国民一人一人が持つ宗教心や道徳心は政府の批判につながり
かねないので、徹底的に弾圧する。ソ連ではキリスト教が、中国では儒教が弾圧さ
れた。

我が社では既存事業以外は経営陣、幹部・幹部候補社員により徹底的に無視、もし
くは弾圧されている。
「何が正しいか」を決めるのは経営陣/幹部社員であって、各社員はそれに従うだ
けである。逆に言えば、経営陣がすることはすべて正しいことになる。
経営陣は経営の失敗をとらず職位も維持したまま高額なサラリーを手にしたまま、
一般の社員はそのつけを払わされる。
こうした狭窄的視野を持つ経営陣/幹部社員が統制する職級の流動性を持たない会
社は、組織の能力の縮小均衡を起こしやすく自由競争社会の中で勝ち続けていくこ
とは難しい。

■社員の不満を封じるための情報コントロール

こうした腐敗/組織の能力低下により、社員の全体の幸福や業界内での確固たる地
位を目指していたはずの会社は、幹部社員と一般社員の貧富の差が激しくなる。そ
れが社全体の利益が下がったとしてもである。
旧ソ連においても、「上位人口の11~12%が、国民全体の所得の約50%を得
ている」という推定があった。これは当時の米国の上位10%が国民所得の約3
5%を得ていた状況よりもひどい。
中国における貧富格差も同様にすさまじい。1998年の時点で上位10%の人口が
総収入の38.4%を占めていた(何清漣『中国現代化の落とし穴』草思社)とい
う。
10億円クラスの超高級住宅に住み、1億円以上もする超高級車を乗り回す大富豪
がいるかと思うと、年収百ドル以下の農民が9千万人もいる

そのような体質の会社ではどうだろうか?会社の売上は横ばいの状態が続き、経営
陣の思い込みで実施されるコスト効率性の悪いプランが、ただでさえ少ない利益率
を悪化させているにもかかわらず、経営陣は別荘や洒落たアパートを買い、日々高
額な遊興費をつかっているかと思えば、有形無実な管理職という肩書きだけを与え
られ、特別な手当も無く長時間労働を強制されている社員が何十人といる。

我々は皆が貧乏であったり苦しい境遇であれば我慢できるが、自分が貧しいのに豊
かな人がいると、妬みの情を抱く。まして実績も無く無能が証明された経営幹部が
特権を使って金持ちになったのであれば、なおさらである。

知識を伝える学校教育、新聞や映画などのメディアは、人々が統制する側を信頼す
るように仕向けるためにだけ使われるようになり、疑いや躊躇を生む可能性のある
情報は発表されないようにコントロールされる。

■本来の組織のパワーを取り戻し、そこで働く人々が健康的で幸福な状態を手に入
れるには

組織主導の「経営改革」「現場改善」「人材教育」といった「組織を良くする事」
は多くの場合、経営陣/もしくは幹部社員の無能さを覆い隠す役目が主たる目的と
なっており、効果は期待できない。
すべてにおいてそうした改善プランの判断は、根源的な問題点となっている当の本
人達が行うからに他ならない。

ではそうした組織は縮小均衡の果てに消えてなくなってしまうしか無い運命なので
あろうか?
筆者はそうではないと考えている。
最も効果的で且つ最も容易い方法が残されているのである。もしその会社が上場な
どしておらず、少数の株主が経営権を持っている非上場会社であれば。

その方法とは無能が証明された経営陣の更迭を速やかに行う事に加え、その経営陣
に寄生してきた社員を一掃する事である。

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