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錦絵春画と検閲

アマウリ・A・ガルシア・ロドリゲス

広く人々の人気を得ていたである。
ある文化的な制作に与えた検閲の影響を
検討する場合に、禁令によって引き起こさ

れた負の影響だけが論じられがちであるが、
しかしその制御によって逆に生じた陽性の

春画を江戸時代の他の出版物から分離して

ことが非常に重要である。つまり木版画の

どのような位置を持っていたかを検討する

大衆文化と出版業界において浮世絵春画が

閲の歴史を理解するためには、その時代の

江戸時代の春画に対する取り締まりや検

の懸念に依っていた。したがって出版物の

もに出版物の生産に対する幕府からの特定

春画と検閲との関係は、出版界の挙動とと

令で春画を直接指名する必要はなかった。

非常に特殊な場合を除き、出版取り締まり

販売の取り締まりを受けていた。実際には

様に、その時代の一般的な出版物の発行や

浮世絵春画は出版界の他のジャンルと同

ある。したがって、こうした新しい技法や

技法やパロディーという趣向を試みたので

ウンドの特質を利用して、木版画の新しい

されたテーマを隠すために、アンダーグラ

編み出したのであった。浮世絵春画は禁止

世絵春画は禁令をかいくぐる新しい趣向を

当時の浮世絵や大衆文学と同じように、浮

り手たちの優れた戦略を示すいい例である。

盛は、幕府の禁令に対処した江戸時代の作

結果を忘れてはなるまい。浮世絵春画の隆

特別なものとして評価することは不適切で

問屋仲間に対して発布された一般的な出版

趣向を模索することは、春画の生存のため

ことに留意したい。

あり、浮世絵春画は江戸時代の市場の需要

取り締まり令は、間接的に春画にも影響を

だけでなく、町人文化の出版文化全体の繁

一般的な出版物だった春画

を満たした多種多様な出版物の単に一つの

与えたことが見られる。

さまざまな工夫をこらした版元・絵師・彫

栄ためにもいいことであった。そのために

ジャンルであったとみるべきである。そし
て出版市場における春画の需要はたいへん
大きく、市井の本屋や貸本屋によってその

衆本や浮世絵の生産、販売を担っていた。

彫師、摺師、版元は、同時に他の多くの大

絵春画の製作や販売に従事していた絵師、

の艶本を見出すことができる。また、浮世

そのおかげで、今日、草双紙類の中に多く

画は、江戸時代の大衆文学の中で発展した。

本として販売されていたので、木版画の春

肉筆春画と違って、浮世絵春画は主に絵

しばしばアンダーグラウンドで行われてい

販売は、版元に課された禁令の目を逃れて、

かし江戸時代には、木版画の春画の生産と

を作らないことといったものであった。し

なことを書かないこと、また豪華な出版物

一族に言及しないこと、珍奇なことや新奇

の新たな規制を確立した。主には徳川家の

幕府は問屋仲間の統制下における 出版物

享保の改革の初期 (一七二一─二三)に、

らに加えてこの禁令が、
江戸の菱川師宣(一

取り扱われていることに注目されたい。さ

既成の「軍書類、歌書類、暦類」と同様に

と通知されている。ここで「好色本」が、

た場合は、御番所からの指示を求めるべし

好色本類」などの疑わしい注文を受けとっ

その禁令では、
「軍書類、歌書類、暦類、

期 (一六六一─七三)の禁令に見いだされる。

への最初の言及は、問屋仲間に向けた寛文

江戸時代の出版取り締まり令の中で艶本

師・摺師の役割を認めることが必要である。

したがって、江戸時代の春画に対する検閲

たことを忘れてはならない。それによって

六一八~九四)や京都の吉田半兵衛 (?─一

浮世絵春画の隆盛と
享保の改革の禁令

ということで言えば、春画が直接検閲の対

春画は幕府の取り締まり令にもかかわらず

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要求が満たされたのである。

象になったことは非常に少なかったという

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功につながった。特に祐信は最も有名な艶

によって強化され、空前の浮世絵春画の成

─?)と京都の西川祐信(一六七一~一七五〇)

その後の二人の絵師、
江戸の杉村治兵衛(?

きである。

画制作に先立っていたことも注目されるべ

六九二)といった浮世絵師たちの旺盛な春

見せしめとして祐信が罰せられたというも

物取り締まりの効果を最大にするために、

れもベストセラーとなっていたので、出版

有名な浮世絵師であり、彼の描いた本がど

ある。第二の理由は、西川祐信が当時最も

を逸脱していると見なされたというもので

持することが重要であった武家政治の理念

ており、それが社会的身分制度を厳しく維

まざまな社会的に異なる階級の女性を描い

本類が再び禁止され、書物の奥書に作者と

〇一)の改革の時であった。そこでは好色

再び強化されたのは寛政期 (一七八九─一八

享保七年 (一七二二)の取り締まり令が

を迎えることになる。

技術が発明されると、浮世絵春画は黄金期

世紀半ばから、
「錦絵」という多色彩の摺

開を見せながら繁栄していった。特に十八

がてすぐに春画の出版は回復し、新しい展

た最初の頃は確かに避けられていたが、や

す けの ぶ

そうした先行した師宣や半兵衛の勢いは、

本絵師の一人であり、後の絵師たちへ大き
のである。

寛政の新たな取り締まりでいかなる春画本

版元の実名を記すことが強調された。この

な影響を与えた。彼は膨大な数の版画浮世
絵を描いたが、同時に数多くの浮世絵春画
を描いており、幕府の好色本規制のかっこ
った時期が、享保の改革という江戸時代の

りの量がアンダーグラウンドになってしま

享保の出版取り締まり以後、艶本のかな

よって検閲されたことは知られている。

いう有名な作家が寛政期に出版した書籍に

かし朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝と

が検挙されたかを示す証拠がまだない。し

最初の改革期と一致していた。この時に幕

った。そして大衆本から艶本の予告広告が

錦絵春画の繁栄と
出版取り締りの強化

府が春画の木版画の生産と流通を規制する

消え、艶本から作家・絵師・版元の実名が

うの標的となった。祐信が最も生産的であ

禁令を直接に実施したことが初めて記録さ

隠されるようになった。この禁止令はその

人女郎品定』は艶本ではなく、記録で言及

絶版にされたという記録が残っている。『百

したことによって処罰され、版木は削って

品定』とその 春画バージョンを制作出版

享保八年 (一七二三)に祐信が『百人女郎

元に対して罰金を実行した。また明和八年

(一七四〇)には、浮世絵春画を販売する版

七点の好色本のリストを発行し、元文五年

には、大坂の版元仲間は販売を禁止すべき

ざるを得なかった。享保二十年(一七三五)

版元仲間はその存続のために対策を実施せ

後も変更を加えながら守られていたので、

れている。
その事件の詳細な記録は残っていないが、

している春画バージョンについては異なる

(一七七一)には、京都の版元仲間が『禁書

ひゃく に ん じ ょ ろ う

見解もあるが、
『百人女郎品定』の刊行の

目録』という書籍を発行しその中にいくつ

る。この事件については好色本の取り締ま

制、自己検閲にもかかわらず、浮世絵春画

幕府の取り締まり令、版元仲間の自己規

し な さだめ

日付は、好色本等の出版の取り締まり令が

かの艶本の題名を掲載した。

りということだけでなく、別の理由も考え

の出版は停止しなかった。禁令が発布され

ひゃくに ん じ ょ ろ う し なさだめ

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公布された数ヶ月後であったと知られてい

られる。第一の理由は、両本とも当時のさ

百 人女郎品 定

西川祐信 享保 8 年(1723)
 墨摺大本二冊 大英博物館蔵
さまざまな身分・職業の女性たちが描かれ、この図では娼妓たちが支度をす
る様子が描かれている。宮廷や武家の女性たちとこのような遊女を一緒に並
べた本書は発禁の対象となった。

© The Trustees of the British Museum c/o DNPartcom

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式を生み出した武家出身の作家であったが、

の事件が興味深い。春町は黄表紙という形

これらの三人の作家の中では、恋川春町
売が急速に高くなると同時に、庶民の識字

ョップが成長した時であった。出版物の販

派がしのぎを削り、彫師や摺師のワークシ

まり令の狙いとして艶本の重要性を指摘し

ラックリスト」が報告されており、取り締

一方で出版を差し止めるべき春画本の「ブ

で ほ ん や こうの

ている。その「ブラックリスト」には歌川

あ づ まげ ん じ

ち んぺ ん

し ゅ ん じょう ぎ だ い み ず あ げ ち ょ う

率と読解力が高くなった時期でもあった。

国芳や歌川国貞が描いた『仮名手本夜 光

寛政の改革の一環として松平定信が実現し
それとともに「錦絵」は前例のない技術的

玉』(一八二八年 )

『春 情 伎談水揚帳』(一
し んけ いば い

一つとして、この艶本『遺精先生夢枕』の

『鸚鵡返文武二道』が検閲を受けた理由の

の本の題名を『遺精先生夢枕』としている。

本の春画パロディー本であった。林氏はこ

本は春町自身の『金々先生栄花夢』という

を風刺したものと指摘されている。この艶

任一七八七年~一八三七年)将軍の放蕩生活

氏は、その主人公はおそらく徳川家斉 (在

という生活を描いたものである。故林美一

女や藩内の多くの女性と乱交をくり広げる

夢の中で大名になるという下級武士で、遊

あったかも知れない。その艶本の主人公は

黄表紙の艶本を刊行していたことも関係が

検閲をうけた遠因として、春町が同じ年に

著名な作家や絵師たちが検挙された。

まられた。そして繁栄していた版元と共に、

という種類の出版物も同じく厳しく取り締

されていた。そして「合巻」と「黄表紙」

人画」の生産と流通に対しても厳しく施行

に対してだけではなく、
「役者絵」や「美

だこの時期の出版取り締まりは「好色本」

事件に関して詳細に知ることができる。た

いるので、春画本に対して実施された検閲

の時期の文献や記録類は大量に保持されて

っても新しい重大な事柄であった。またこ

る出版の取り締まり令は、浮世絵春画にと

仕掛けられたのである。天保の改革におけ

が執行されて、出版界に対しても猛攻撃が

そんな中で天保の改革 (一八三〇─四三)

水に対する摘発の理由はその人情本によっ

う人情本が検閲の対象となった。しかし春

氏』という合巻と『春 色 梅児誉美』とい

まりの対象となり、二人の『偐 紫 田舎源

種彦と為永春水という有名な作家が取り締

取り締まり令が発布された。 そして柳亭

春画本の生産と流通を再び禁止するための

その後天保十三年 (一八四二)の半ばに、

お う む がえし

ようとした緊縮政策を風刺した『鸚鵡 返
発展を遂げ、木版画春画も新たなブームを


『吾妻源氏』(一八三七年)

『枕辺
八三六年)

たま

文 武 二道』という本によって、
寛政元年(一
引き起こした。

存在があったという証拠はない。しかし両

『市中取り締まり類集』というような記録

ぶ んぶ ん のふ た み つ

七八九)に検閲を受けた。しかしその本が

本ともに武家社会の不様な状態を公にしよ

によれば、天保十二年 (一八四一)の終わ

深閨梅 』(一八三八年)などの 書名があがっ

うとしていることは非常に興味深い。また

りに、遠山金四郎という北町奉行所の奉行

い せ いせ んせ いゆ めまくら

ていた。

両本が幕府から取り締まり令が発布される

が与力たちに出版事情を探らせたことが知

し ゅ ん しょく う め ご

に せ むらさき い な か げ ん

直前に刊行されていることも示唆的である。

られている。与力の報告書によると、検閲

恋川春町 寛政元年(1789)
 墨摺中本三冊 
立命館大学アート・リサーチセンター林美一コレクション
黄表紙の名作「金々先生栄花夢」のパロディ本で、原作と同じく「邯
鄲の枕」をテーマにしている。同書は「遺精先生夢枕(いせいせんせ
いゆめまくら)
」の改題本で内容は同一のもの。

き んき んせ んせ いえ いが のゆ め

春町は幕府から取り締りに呼び出されたが、

から逃れようとする書籍があり、取り締ま
出版の準備にかかっている「人情本」や「読

のが

健康に問題が生じたとして出席せず、その

り令を嘲笑するような書籍もある 。また

十九世紀前半は江戸の出版界が最も繁栄

本」の類の書名についても言及されている。

こ うしょくこ ん た ん い せいのゆ め

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後すぐ死亡した。
した時期である。この時期は浮世絵の各流

好 色 魂膽遺 精 夢

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し ゅ ん しょく は つ ね の う め

てだけではなく、彼の『春色梅児誉美』の
艶本バージョン本である『春 色 初音之六
女』(一八四二年)という 春画本も同時に摘
発された。

明治以降に
「猥褻」という概念で検閲
さて、春画に対する江戸時代の禁止令の
理由はどこにあったのだろうか。
この問題を論じる際に、江戸時代と明治
以降の春画の検閲の理由が大きく違うこと
に留意することが重要である。
いわゆる
「猥
褻」という概念によって、道徳的な理由で
もよお

春画を検閲し始めたのは明治時代以降のこ
とである。春画が人に性的な邪念を催させ
道徳的な嫌悪感を与えるという理由によっ

かったことや、そうした作品を実際に所有

が立派な肉筆春画をまったく取り締まらな

れたということではなかった。それは幕府

はすべてのエロチックな視覚作品が禁止さ

うことであった。したがって、江戸時代に

町人文化が既成秩序を壊しはしないかとい

ことは、春画のみならず一般的な出版物や

連したことではなかった。幕府が懸念した

閲の対象となつた理由は、性そのものと関

ある。これに対して、江戸時代に春画が検

序の崩壊を大きく揺らがすことに貢献した

活動の成長を促し、幕府の統制的な経済秩

絵春画の進化を煽り、大衆文化による経済

ったからである。しかしそれは反って浮世

れは彼らに対する牽制として最も効果的だ

において著名な人物たちであったため、そ

れた作家や絵師、版元はその時代の出版界

とする瞬間であった。そして実際に検閲さ

て春画が大きな人気を得て繁栄期に入ろう

締まり令が発布されたのは、出版界におい

対してであった。実際、春画に対して取り

枕辺深閨梅

ち んぺ んし んけ いば い

歌川国芳 天保 9 年(1838)
 色摺半紙本三冊 国際日本文化研究センター蔵
曲亭馬琴の長編小説「新編金瓶梅」の艶本化。富豪の姦夫西門慶の強烈な欲望の世
界が描かれている。

歌川国貞 天保 13 年(1842)
 色摺大本三冊 
国際日本文化研究センター蔵 
為永春水作の人情本「春色梅)兒譽美(うめごよ
み)
」の艶本化。巻中に六人の婦女が登場すると
ころから六女と書いて「うめ」と読ませている。

て検閲されたのは、明治時代以降のことで

し賞美していたことによっても理解されよ

といえよう。

かえ

う。

(エル・コレヒオ・デ・メヒコ大学院大学アジア・ア
フリカ研究センター教授)

春 色 初音之六女

の うめ

しゅんしょくは つ ね

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江戸幕府が望ましくないものとして懸念
したのは、商業的に成功した浮世絵春画に

仮名手本 夜 光玉
か な で ほ ん や こうのた ま

歌川国貞 文政 11 年(1828)
 色摺半紙本三冊 国際日本文化研究センター蔵
浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」のパロディ本。討ち入りを擬して炭部屋で一儀に及んだ
り、珍しいお産の場面などがあったりと多彩な内容。

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