オリジナル*die Tageszeitung 13. 10. 2015: taz.de http://www.taz.de/!

5238682/
翻訳責: 三浦公道

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ダニエル・ドゥフェール、ミシェル・フーコーについて語る。

「彼はいつも警察と闘っていた」
哲学者ミシェル・フーコーの恋人が自伝を刊行した。アドルノやエイズとの闘い、そして、 68 年につ
いて語る。

パリはヴォージラール街 285 番。ダニエル・ドゥフェールのパリの住まい。この住居を、彼はミシェ
ル・フーコーと分かち合っていた。20年以上ににわたってドゥフェールとフーコーは共にあった。
二番目の中庭。右側。8階。1937 年生まれのドゥフェールは社会学者であり哲学者でもある。1984 年
にフーコーが HIV により死去して後、ドゥフェールは AIDES を設立。ドイツにおけるエイズ・ヒル
フェに比肩する今日フランスでもっとも大きなエイズ団体となった。
渦巻き上の階段。茶色の扉。ドゥフェールが扉を開く。狭い廊下の向こう側に大きな窓に面した大きな
部屋が待ち構える。居間には本棚が、著名なフーコー写真にもあるのと、同じように立つ。三つのソ
ファーが並べてある角にある小さいテーブルの上にはあらゆる言語によるフーコーの著作とフーコーに
ついての著作が山と重なっていた。

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taz: ドゥフェールさん、あなたはドイツ語を話します。それはマルクス、それともゲーテのお陰です
か?

ダニエル・ドゥフェール:ドイツ語は学校で習ったのです。確かに。もう長いこと一年に一度はドイツ
にいきます。
ドイツではベルトルト・ブレヒトの講演を訪れています。
あれは 1960 年の 9 月のことです、その折、ドイツ縦断の旅をしました。ハイデルベルクでは毎日ベル
ト・ブレヒトの講義を訪れました。フランクフルトではアドルノ夫人と非常に親しくしていた若い男性

と出会いました。彼はアンドレ・ジッドについての論文を書いていました。私たちは恋におちたのです。
その彼がアドルノの講義を訪れようと私に提案したのです。
アドルノと知己を得たのですか?
アドルノと知己を得ることはありませんでした。その時は疲れていたのでよいと思ったのです。それか
らフランスに戻り、フーコーを紹介されたのです。あれから後悔しています、というのは、アドルノと
フーコーと同じ週に時同じくして出会うことができたかもしれなかったのですから。
フーコーは、アドルノをもっと早い時期に読んでいれば、回りくどいことを書かずにすんだのに、と
いったそうではありませんか。
思うに、それは礼儀からでた言葉でしょう。

フランクフルトの社会学派は長きに渡りフーコーを拒否してきました。

歴史性との取り組み方が全く対極的です。フランクフルト学派あるいはハンナ・アーレントでさえも歴
史について語るときは、常に間接的な言及にとどまっています。しかし、フーコーはアーカイヴで直接
原典にあたることを重要視していました。

逆に、フランクフルト学派のフランスでの受容は今日に至るまで決して大きなものではありません。

ジャン・ボードリアールを通して初めて受容の動きが訪れました、しかし、それも第二波目というべき
でしょう。それ以前にはアンリ・レフェーブルがいましたし。
フーコーは非常に多くのドイツ哲学者を引用しています。
むしろ、彼はドイツ好き、であったいうべきでしょうね。ドイツ語で読んでいましたし、話していまし

た。高等師範学校でドイツ語の試験を受けた折、あるドイツ語の単語を誤って発音しました。教官は彼
を笑いフーコーはそれを恥ずかしくおもっていました。ですので、フーコーの父親が、彼の業績に対し

てなにかご褒美がほしければ何かと尋ねられたおり、フーコーは「ドイツ語の授業」と答えたそうです
フーコーの死後、あなたはフランスで最初の、今日に至るまで最大のエイズ支援団体、 AIDES、を創
立され、エイズとの戦いはあなたのライフワークとされてきました。この顛末を著作の中で記述されて
います。(訳者注・ベルリンはメルヴェ出版 Merve Verlag よりドフェールの「ある政治的一生」”Ein

politisches Leben”のドイツ語訳が昨今出版されている)
ええ、私の組織 AIDES はこの機関の歴史についてのアーカーブを設置したいと望んでいました。私自

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身は書くことは好きではないので、この本はインタービュー形式で出版しました。それでも、最初の版
の一つは私の意にはそまわないものだったのです。
なぜでしょう?

インタビューアーが私個人のストーリーとして機関の歴史を再編集してしまったからです。それが私に
は気に入りませんでした。ある一つの年代記を作り出そうとする折、すべてを一つのリニアな時間軸に
そった語りに構成しなおすと、ある出来事の意味までも変えてしまうのです。
何を正確には個人的と感じられたのですか?
私の人生とフーコーとの関係に関わる部分です。勿論、AIDES の創立はフーコーの死と関わりがあり

ます。しかし、私はなにも個人的な部分についてまで語ろうとは思わなかったのです。ですので、最初
のプランを破棄して、あらたにこの本を作り直したのです。
あなたは、フーコーの伝記作者のうちで、例えば、恐らくもっとも知られているフーコーの伝記作者の
一人であるディディエ・エリボンとの対話を拒否されています。
ええ、拒否しました。エリボンはフーコーのよき知己でありました。フーコーの死後、二年程連絡が
途絶えていました。すると、ある日私に電話をかけてきてこうのです、伝記を書きたいと。私は彼に会
いたくはありませんでした。

そのことを後悔されていますか?

エリボンの伝記は許容できるそれなりのものになるだろうとは思っていました。それどころか、私抜
きでやるほうがよいだろうとも。というのは、彼は彼なりの答えと事実について究めなければなりま

せんでしたから。私個人の感想としては、研究者フーコーとしての内容が強いと感じたました。ですの
で、私はある意味がっかりしました。というのは、この伝記は、フーコーが実際にそうであったとこ
ろについて、示すところがなかったのです。
それはどの程度でしょうか?

彼はフーコーの人生の想像的かつ情熱的な側面を削り取ってしまったのです。こうして失望してしまっ
てので、伝記作者のジェイムス・ミラーの問いには何個か答えることにしたのですが、それには憮然さ
れられました。

どうしてでしょう?

ミラーの伝記は真剣さに欠けています。それどころかバカげている。デイヴィッド・マッケイは「ミ
シェル・フーコーの生」で良質の伝記を書き上げました。マッケイは非常に良く下調べをし、フーコー

のテクストも読み込みましたが、エリボンの興味を惹いたのはフーコーのアカデミックな人生であって、
テクストまで目を通すことはありませんでした。その一方で、マッケイはフーコーのテクストを研究し
ました。フーコー研究に携わる多くの人々はマッケイの本を使います。

ジェイミス・ミラーと話を持ったことを後悔しているとおっしゃられましたが。

ミラーはなんとしてもサド・マゾ的なストーリーをフーコーの人生から描き出したかったのでしょう。
マッケイは知識人としての一面に興味をもったのですが。

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しかしフーコーはエリボンにとってはただのスター研究者ではなかった。

1960 年に私がフーコーと出会ったとき、彼はちょうどドイツからもどってきたばかりで、マントに身
をつつんだ、「ミスター・プロフェッサー」でした。そうしたルックの人を 1968 年以前のドイツでは
「教授」と呼んだものです。彼は当時 30 歳、私は 21 でした。彼のそうした「ミスター・プロフェッ
サー」然とした出で立ちに強い印象をうけたものです。

そして 68 年を境にそうした習慣は変わったものでしょうか。
すでにそれ以前にフーコーは変わりました。1966 年にフランスからチュニジアに移ったのですが、そ
こで彼は、学生たちと深く結ばれていました。66 年の3月には最初の学生運動に関わっていました。
そして 68 年では?

68 年の 5 月は彼はチュニジアにいました。当地では、フランスではなく、彼と学生たちとの関係も変
化を遂げており、反階層的闘争に関わっていました。それどころか、ミスター・プロフェッサーのス

テータスを矢継ぎ早に新しく作り出す傾向にあったコレージュ・ド・フランスでも、彼は、学生達と
また別の関係を維持しようと心がけていたのです。そこでの彼の講義には 600 人を越える聴講者がい
つも訪れていました。それは一つのスペクタクルでした。フーコーは、むしろ、アメリカ的な、小さな

ゼミで、学生たちが自由に発言するような授業の仕方を好んでいました。学生との距離の近さがより気
に入っていたのです。これらはすべて、ご質問の中で述べられた様な、スター研究者としてのあり方と
はかけ離れたものでした。

そのことをエリボンは隠蔽しようとしたと?

エリボンはよく知っていたのですが、フーコーの私的生活に対して上品ぶろうとするところがありまし
た。彼は、自身のアカデミックな人生に対する願望をフーコーの上に投射したのです。ミラーは、それ
に対して、いくつかの出来事について知ったうえで、アメリカからやったきたものですから、それに対
して私は興味を持ったのです。それは独自のもので、深みがありました。そうした要素はエリボンには

なかったものです。しかし、ミラーの本は全く狂気に満ちたものでした。彼は自身の性的願望をその中
に結びつけたのです。
両者のポジションは興味深いものです。一方はアカデミックな、もう片方はセクシュアルなファンタ
ジーをフーコーの生に投影しようとしたものとして。

そうですね。フーコの母上は非常にエレガントでブルジョワな方であったことを御存知でしょうか。彼
女はいいました、私は彼のことについて語ることなどできない、と。というのも、私は彼のボーイフレ
ンドだから。彼女は正しかった、と思います。ですので、そのことを基本路線として踏襲しました。で
すから私自身の自伝では彼について言及はしたくはなかったのです。もっとも、読者はそれを期待して
いたのでしょうが。

もちろん、読者はそのこと期待しています。というのは、フーコーはスーパースターであるわけですか

ら。もっとも、フーコーは、確かに、彼の人生にたいするそうした関心を拒否したかもしれませんが。
ところで、昨年、私たちはヴァンドゥーブルの彼の生誕の地そして彼の墓所を訪れたのですが・・・。

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・・・フーコーの母上は彼の墓に「コレージュ・ド・フランス教授」と墓碑銘に刻み込ませたのです
が、それは見られましたか?
ええ。

私はショックをうけました。彼女とそのことについて話たのですが、こう言われました。「ああ、ただ
の数語といえども数語よ、学位のことは忘れたりしなくとも、何の教授であったかは忘れられてしま
うわけだから」、と。こうして彼の墓はあるアカデミーの会員の墓としてあるわけです。
彼女はフーコーのことを非常に誇りに思っていたのですね。
はい。

あなたは政治的なストーリーを語ろうとされました。それほど個人的なものとしてではなく。そして、
今、ここで、私たちはフーコーについて語っています。
私が自身で考え書き上げたことの多くは、フーコーより触発されたものです。彼が実際に発言した、と
いう意味においてではなく、ある特定の思考のハビトゥスにおける意味においてです。ある AIDES の

会員が、ドフェールはいつもフーコー的な理論を私たちに強いている、と言いました。私は、そうして
いると感じたことは、一度たりともありませんでしたが。
彼の死が AIDES でのあなたの活動の契機であったのでしょうか。
たしかに私はフーコーの名において AIDES を創立しました。彼の母上も私を支持してくれましたし、
私に対しては、彼のためこそしなくてはならない、とおっしゃられました。

あなたは、あなたの人生について語るのは愉快なことではない、と何度かおっしゃられた。なぜ、か

くも自身について語ることが困難なのでしょうか。書くということにおいてもでしょうか。著作の中で
あなたは、なにがしら語るべきことにたいして一つの新しいフォームを見出さない限りは、それは、
自らについてかたるようなことは、実に余計なことなのだ、と書かれました。
自身は著者ではない、という私が深く感じていることに関わることなのです。フーコーは、対して、毎

日書いていました、25年間に渡り、一日4、5時間書いているのをみてきました。もし、彼が 2 日間
なにも書いていなければ、ほとんどノイローゼに近い状態でありました。フーコーは書くことに大きな
喜びを見出していました。私にとっては書くことは愉快ではなかった。そして、なにも書かねば、お前
の書く能力を変えることなどできない。新しい形式など見出せないのだ、と。そういうものです。
こうしてあなたは政治活動に集中していたと。

なにか形になることを行なうことにいつも喜びを感じていました。それが形になれば、それが完成形
です。ひょっとしたらそれはヒステリーの兆候かもしれませんね。G.I.P.(監獄情報グループ)での作業
は素晴しいものでした。フーコーもやりがいを感じました。
あなたたちはどれほど密接に共同に作業されていましたか。
フーコーと出会ったころ、彼はフランスに留まろうとは考えてはいませんでした。彼はそれまでス

ウェーデン、ポーランド、ドイツに滞在していました。そして、日本へいきたがっていました。私は哲

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学のアグレガシオンを終わらせたいと思っていました。将来に備えるためにね。私は日本にいくことを

拒みました。ですので、フーコーはフランスに留まることにしたのです。私は決心を改めて、共に日本
に行く気になったのですが、彼はすでに日本行きを断っていたので、彼にはなにも言うことはありませ

んでした。私たちはパリに留まり、彼は「言葉と物」に、私は自分のアグレガシオンに取り組みました。
「言葉と物」で彼は最初の成功作です。私たちは、若く、互いに非常に愛し合ったカップルでした。そ
れはこの著作の執筆過程、そしてつまるところその著作と彼の最高に書き込まれていると思います。私

はそれからチュニジアに赴いて、フーコーもその後を追いかけてきました。そして、68 年が訪れ、私
は後になってから運動に参加したのですが、それから、禁止されてからですが、マオイストのグループ
に。それから政治犯の裁判に関わることになったのです。フーコーの「監獄の誕生」−この作品で彼は

はじめて国際的な成功を収めたのですが − は私たちの共同生活、そして、もちろん G.I.P.とも結びつい
ています。政治的な取り組みはフーコーの思想、彼の理論にとって、非常に重要なものでありました。
あなたはフーコーの作品と彼の政治活動、彼の政治への介入についてなんども触れていますが。
フーコーは、それまで政治的とはみなされていなかった物事を政治的な対象となるような状況へと提起
しています。彼が、50 年代の終わりから 60 年代の初頭にかけて狂気について取り組んでいたころ、そ
れは政治的なテーマではありませんでした。そして、監獄。68 年においても政治的なテーマでは決し
てありませんでした。1971−72 年以降初めて、フランスで監獄にて大規模な蜂起がおこるにいたって
からです。当時、35 の蜂起があり、何個かの監獄は完全に破壊されました。私が自身の政治的人生に

ついて語る折、私の世代の殆どの人々にとっては半ば冗談のように聞こえますが、多くの人にとっては
私は政治的にアクティヴであったと受け取られていませんでした。というのは私は共産党員ではありま

せんでしたし。しかし、私の人生は、監獄運動とエイズ運動との関わりゆえ、政治的でありました。
両者とも、対象の政治化がまず行なわれねばなりませんでした。つまり、政治的な生が意味するのは、
政治の革新であるということです。このまさに二番目の側面において、この見方においてフーコーは政
治的に絡んでいたといえるでしょう。彼はほんの短い期間のみ共産党に属していましたが、すぐ離党し
ています。彼は政治にただ携わるのではなく、そこに楽しみを見出していたのです。しかし、彼の行動
は政治的でありました。
政治の形式化について語りましょう。あなたの本には、68 年以降社会分析とは、社会学の対象である

というよりも、むしろある一つの大衆運動自体である、とあります。
ええ、それは私の経験そのものです。私は、ある社会学の研究所で調査に携わるため、イギリスに滞在
しました。そこで、明らかになったのは、分析とは路上にあるのであると、社会運動とはそれ自体が
分析であると。

同様のことが今日も見出せますか。
私はそう思います。しかし、私はインターネットを使いませんので、その手の運動とは関わりはありま

せん。新しいネットワークの形成、新しい形の人々の結びつきがあります。それについて何も理解して
いません。それはもはや路上での出来事ではありません。今のところなにも理解はしていませんけれど
ひょっとしたらいつかは。思考することよりも、むしろ出来事を巡っているのです。出来事に対して常
に敏感であろうとしてきました。そして、出会いや状況に対しても。それが常々動機であり続けていま
す、なぜならば、私の人生については一定の時間軸に沿った語りなど存在しないからです。そこには論

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理はありません。むしろ、偶然と賭、出会いが論理です。

誰があなたの同志でありましたか?
マオイストの運動に関わっていた頃は、プロレタリア運動が私たちのモデルでありました。移民系の労
働者や女性たちとともに活動したいと思っていました。しかし、1972 年に明らかになったのは、女性

たちは監獄においては、プロレタリア的でないテーマと関わりがあるということでした。そして、それ
は闘争の細分化というその後に起こったことの兆候であったのです。労働組合や政治政党は全く別の問

テーマを持っていましたし、私たちは、プロレタリアというよりも、むしろトランスジェンダー、ゲイ、
フェミニストたちのグループでありました。
ドイツでは非政治的であるどころか、それどころかネオコン的なフーコーの読解が行なわれています。
フーコーは国家による検閲的な分析を退け、それに代わり、多様な権力の用いられ方を視野に収めて、

権力を力の関係の仕方として分析しましたから。彼にとって重要であったのは、国家権力の元での実際
の用いられ方や関係の仕方でありました。言い換えれば、医者と患者、教師と生徒の間の、つまり、
統治するものと統治されるものの間に見られるような、関係についてです。当時、マルキシストにとっ
ては、権力は抑圧するものとしてしか存在しませんでした。フーコーは、それほど、国家という枠に拘

泥することはありませんでしたが、それでも、統治される過程の形成を問うていました。彼の関心はコ
ントロールの技術に存していたのであって、実際それを行使する機関にはありませんでした。
彼は、それ故、国家に対して行動の矛先を向けた武装化した極左勢力に対して懐疑的ではありませんで
したか?

フーコーは民主主義化した国家におけるテロリズムに対しては懐疑的でありました。それ故、彼はイタ
リアの赤の旅団を支持することを拒否したのです。ルニータ誌のインタビューで答えています。ここに
至って、フェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズとの緊張状態に至ったです。私は、寧ろ、アドリ
アーノ・ソフーリやロッタ・コンティヌアの立場に近かったと言えます。ガタリがトロツキーのドイツ

におけるファシズムに関する論文を出版した際、ドゥルーズとフーコーの間に亀裂が生じました。フー
コーは、当時、ドイツの政体がファシストの体制であるとは言えない、という考えでありました。フー

コーはドイツ赤軍に対して大きな関心を寄せていましたが、懐疑的ではありました。ドイツ赤軍はソ連
に援助を受けていると確信していましたから。
あなたはベルリンではドイツ赤軍のお陰で警察の監視下におかれていましたね。
私たちはとあるレストランでメルベ出版のペーター・ゲンテとハイディ・パリスについてドイツ赤軍に

ついて語り合っていました。ハイディ・パリスは外見が少々当時そこら中で指名手配中の写真が見るこ
とができたインゲ・ヴィッテに似ていましたからね。私たちがレストランを立ち去ろうとしたおり、私

たちは、武器をもって走り寄ってきた警察に逮捕されました。フーコーは、警察と議論することにはな
れていました。闘うことにもね。でも、ペーター・ゲンテはこう叫びましたよ、「ベルリンでは違う、
パリでは、そうでも。ここではやつらは撃つよ」と。で、フーコーはすぐさま抵抗をやめました。こう
して、私たちはモアビットに送致されました。フーコーは、レストランで長居をしないでおけばなと、
言っていましたが、それでも、私は3時間の間のことだと思いますが。
フーコーはよく警察と闘っていましたか?

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彼はよく拘束されました。そして常に警察と対立していました。過激な左翼として知られていましたし。
サルトルも参加していた監獄情報グループでの活動もその理由でしょうか。
サルトルとフーコーは当時非常に密接な関係にありました。それはしかし知識人としての関係ではあり

ませんでした。というのは、彼らは非常にまれにしか議論をしませんでしたから。フーコーがサルトル
と出会ったときは、すでに彼は非常な老齢で殆ど目が見えなくなっていました。サルトルは、当時私た
ちが監獄情報グループで書いているのとは全く違うことを書いていました。
もう少し正確におっしゃていただきますと?

例えば、彼は拘束されている人たちこそが私たちの為に闘争しようととしているのだ、ということを書
いていました。フーコーはそうしたことを決して物しようとはしなかったでしょう。しかし、にもかか

わらず、彼らは非常に友人として接し合っていました。フーコーはサルトルをどこへでも連れて行きま
した。ルーノーの工場へもストライクにも、どこにでも。それは非常に実地的な友情でありました。お
互いの違いについては語り合わなかったのです。

フーコーは当時また別の極左知識人でもあったギー・ドゥボールとは出会いましたか。

いえ。「監獄の誕生」はまさに「スペクタクルの社会」の対局にありましたから。フーコーは、ドゥ
ボールの著作をいくつかは読んでいましたが、それほど集中的にではありませんでした。「監獄の誕
生」には、19 世紀の弁護士に関する記述がありますが、フーコーは監獄をローマのサーカスのまさに

対局にあるものとして描いていました。フーコーは、近代社会が、見せ物の世界ではなくて、コント
ロールと監視にその拠り所を置いているということを示す為に、まさにその点を取りかかりにしたので
す。それはまさにドゥボールの対極にあります。それでも、シチュアショニストにはイジドール・イ
ズーがいました。彼はフーコーの講義にも現れましたし、自身の著作をフーコーにも送ってきました。
今あなたはフーコーについての論考を大量に送付される立場にありますが。
その論文の山は近々ノルマンディーにある IMEC[Institut Mémoires de l‘éd ition contemporaine] に寄
付することになるでしょう。
パリにはフーコー・アーカイブもあります。
ええ、アーカイブは先日フランス国立図書館に買い上げられました。私は長きに渡ってフーコーのすべ

ての原稿を護ってきましたが、それは彼が一切の死後の出版を望んでいなかったからです。年月がたち、
私とフーコーと家族は、作品を出版することに決めました。昨年、37000 ページに渡る手書きの原稿
を国立図書館に売却しました。
その中には「性の歴史」の第四巻であるフーコーの「肉の告白」も含まれているのでしょうか。
いえ、しかし、彼の家族は全てを出版することを決めたのです。
それは本当ですか。その「性の歴史」の第四巻もでしょうか?
フーコーの家族が近々出版することになっています。
あなたにとってはそれは不本意なものでありますか。

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いいえ、私には作品に関してはなんの権利も所有していません。そして、原稿に関しても。私は、住居
の共同所有者で、住居にあったものの全てに関しては権利を所有しているのみです。そして、著作の原
稿は私たちの住居にありましたが。

しかし、フーコーは死後には一切の出版をしてはならない、ということを厳しく望んでいました。それ
でも、すでにコレージュ・ド・フランスでの講義録は死後出版されています。

講義録の出版には私も助力しました。私たちはある一つの状況に直面していました。まず、講義録はイ
タリアで出版されました。フーコーの家族がそれを阻もうしましたが、フランスの法はイタリアでは効
力はありません。さらに困難であったのは、フーコーが遺稿の出版に関して常にノーを言い続けていた
ことです。というのは、彼は、カフカのようになることを恐れていたのです。しかし、同時に、彼の学
生たちには、講義の記録をとることを許したのです。フーコーの死以来、私たちは著作集(„Dits et

Ecrits“ )の他 13 巻にのぼる講義録を出版しました。まだすでに、6巻か 7 巻が出版されることにな
りますが。

あなたはフーコーとおっしゃっていますが、ミシェルではなく。

かつては、彼について語る折、いつもミシェルと言っていました。しかし、彼は公の一人でありますし、
常々私がミシェルと言っていたおり、私の周りの人間がミシェルと呼んでいました。それが私にはいつ
も我慢がならなかったのです。というのは、彼は私のミシェルであったからです。 AIDES での体験の

全ては彼とともにある機会でありました。私は常に彼のことを思っていましたし、彼とともにありま
した。それは彼の近くにある機会でもあったのです。私の人生において、全体として見れば、彼ともに

ある時間よりも、彼なしにいる時間のほうが長かった。しかし、すべてのこれらの活動を通して私毎日
彼と共にありましたし、今もなお共に在るのです。

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