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「限界芸術」領域におけるアーツマネジメント理論の構築とその実践
~「アーツ」を暮らす術としての冠婚葬祭をターゲットとして~
2007.3  小暮宣雄(京都橘大学)

はじめに

 本稿では、アーツマネジメント理論にとってこれから欠かすことのできないことになると筆者が考える「芸術の創造及び享

受双方においてどちらにあっても非専門的である人びとによる芸術」を 対象とする。すなわち「限界芸術(マージナルアー

ト)」と呼ばれるようになったこの「生活と芸術の境界にある領域」において、いかにすればアーツマネジメントが生かされう

るのか、その用語によってどのような展望が開けるのかを、資料的理論的整理を中心としつつ、前半ではできるかぎり現場的

かつ歴史的に叙述しようとするものである。そして、人びとの限界芸術領域のうち、日常生活とともに大切となる非日常の生

活、つまりは冠婚葬祭を中心とした「ハレ」のアーツマネジメント「術」が人びとに「『アーツ』を暮らす」という実感を与えうる

ことの「説明」、これが後半の重要な眼目となる。

 なお、とりあえずここで言及される「アーツマネジメント」とは、アーツ(さまざまな芸術という意味で art の複数形 arts)

と社会(ここでもさまざまな社会という意味で諸社会とでもいいたいぐらいのもの)との出会いをアレンジ(=環境デザイ

ン)する行為や、その行為を可能にする制度・組織を指すとしておく。したがって、“アーツの拡張概念のひとつとして提起さ

れている「マージナルアート」と社会との出会い環境形成(=「マージナルアーツマネジメント」)”がこの論稿の焦点である

と言い換えることができるであろう。

 まず第 1 章では、どうして限界芸術が、企業メセナや地域文化政策の現場において、すなわち、アーツマネジメント実践にお

いて、その重要な対象としてとらえられるようになったのか。そのいきさつを明らかにするため、最初に限界芸術という用語

と考え方をこのアーツマネジメントの世界に導入したアサヒビールの加藤種男(以下、表記上、人名に敬称を略するが、加藤

は企業メセナの主要な先導者の一人)の発言を紹介することにする。そのため彼の発言ドキュメントを紐解き、彼の身近にい

てその活動を目撃してきた筆者の目線も交えての紹介となる。そして、彼が 1990 年代後半(いま手元にある資料では 1998

年ごろと推察される)、どのような必要から、限界芸術という、哲学者の鶴見俊輔によって著書『講座・現代芸術』(勁草書房、

第 1 巻、1960 年) で提起された専門用語を、加藤自らが実践するメセナ事業において援用するにいたったかを、具体的に見

ていきたいと思う。

第 1 章 「限界芸術」とアーツマネジメント実践との出会い―その背景と経緯―

第 1 節 1990 年代における企業メセナ活動の先導性と地域アーツマネジメントの胎動

 筆者はもともと、自治を担当する公務員として、全国各地に数多く設置された文化ホールをはじめとする公共文化施設の企

画運営(マネジメント)をどのようにしたらもっと素敵になるのか、そのための専門的人材(ヒューマンウェア)の研修や

アーツソフトの制作と流通の仕組みづくり(ソフトウェア)の探求と実践に携わっていた。一言でいえば、文化政策を地域主

導で行うための支援業務担当というような役目だったのであろうか。

アーツマネジメントという分野が日本で紹介されその開発が始まったとされる 1990 年前後、ちょうど、地域行政側にあっ

ては、バブル経済をうけて、竹下登内閣による「ふるさと創生」という使途を定めない予算の大判振る舞いがあった2。経済・政

治・行政・教育・文化の東京一極集中と資本のグローバル化のなかで、画一化がすすみ特色が薄れつつあった各地域において、

逆 説的ではあるが、自らの個性を「創生、創造」するために、忘れられていたご当地(ふるさと)資源を発掘するような「文化事

業」や、新たな特色を持たせるための「文化施設」が望まれるようになったのであった。

他方、同じころ、民間企業においては、フィランソロピー、あるいは CSR(企業の社会的責任)の一環として、地球環境や福

祉貢献、地域社会への配慮や、文化、とりわけ芸術に 対しての貢献、すなわち、メセナ支援の必要性が言われだしてきていた。さ
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らに、地域行政の動きよりも早く、1990 年には、社団法人企業メセナ協議会が設立され、芸術を宣伝広告として活用するので

はない新しい支援のあり方が研究されていた。

そのため、企業メセナ協議会の専門スタッフやその主要なメンバーである先進的な企業群の文化担当のスタッフ(いうま

でもなくアサヒビールの加藤種男はその中心の一人)、劇団やダンスカンパニーをマネジメント実践において成功させてき

た大物マネージャーや、芸術運営を研究する大学研究機関、文化事業を委託して研究実施してきたコンサルタント企業の研究

員が、地域文化政策を担当する者にとっては、まさに貴重な先達であった。彼ら彼女らの力を借りつつ、共同して、ハードウェ

アとしての文化施設(ハコモノ)だけではなく、プログラムや仕組みづくりのソフトウェア、そして、それらを担う主体であ

るヒューマンウェア3をいかにして構築し根付かせうるのかを、実践的に少人数のワークショップ形式で行いだしたのが旧国

土 庁で開始された地域芸術環境づくりスタッフのための「ステージラボ」という研修事業であった。

さらに、それを含む諸活動を恒常的に行うためにようやくできたのが財団法人地域創造である。この財団は、当時の自治省

の所管として地方公共団体間の文化活動を支援するために 1995 年 9 月設立。先行したステージラボという研修事業やその

研修成果としての人材ネットワークをもとに、地域の芸術環境づくりという助成フレームも拡充しつつ、研究調査広報を行う

プログラムも曲りなりに備えたものであった。まさしく、企業メセナの連合ができてから 6 年してようやく、地域文化政策、と

りわけ、地域と芸術が出会うようなアレンジをするアーツマネジメント担当者のための拠点ができたのである4。

第 2 節 「一過性のイベント」から潜在的鑑賞者の発掘としての「アウトリーチ」活動へ

 1990 年代、アーツマネジメント領域で課題となったことのひとつに、
「一過性のイベント」からの脱却という課題があった。

そこで、アーティストが地域に滞在するアーティストインレジデンスや楽団・劇団などのホールフランチャイズ制の導入、あ

るいは地味だが重要な課題である稽古場不足の解消など、地域にアーツが根付くために、表現者・創造者側へのアプローチが

さまざまに試みだされた。

 他方、一過性のイベント問題は、地域の享受側、鑑賞側の課題でもあった。子ども時代からはじまる経験不足、あるいは必要

な選択肢情報やさらには心理的な余裕・心構えのようなものの欠如・・・・すなわち、諸芸術に対する読解力、アーツリテラシー

力の不足により、地域においては、有名なもの、流行しているものだけを、自分の力ではなく、マスコミなど外部の情報に左右

され、みんなが見ているからという理由で、一過的なイベントとして消費しがちなのである。そして、また新しいものが来る

(地方圏においてはそれは往々にして、中央=東京もの、あるいは舶来ものということになる)と同じように一過的に消費す

るという悪循環に陥るという現象が生じてきている。

 企業メセナ、地域文化施設などのアーツマネージャーが有名なもの、メジャーなものに頼らず、これはいい、と自らの目で判

断できるようになると、今度はそれをいかに 聴衆に、観客に、鑑賞者に伝えるかということが焦点になる。有名なもの、すなわ

ちブランドものは、鑑賞者へのアプローチを省略することができるのだが、いまはまだ社会の多くの人にとって未知であるよ

うなアーツにおいては、社内、組織内の内部的説得と平行して、潜在的鑑賞者に対して、鑑賞する力と術を形成してもらうこと

がどうしても必要となる。もちろん、それは明治時代に義務教育でいままでの音楽文化を無視し西洋音楽を上から与えたよう

な方法などではなく、双方向的なかたち、セルフエデュケーションに近いかたちの伝達がのぞましいのはいうまでもない。

 ところで、美術領域からはじまった「ワークショップ」は、美術技術の伝達ではない新たな可能性を引き出したといえる。こ

の美術のワークショップは、他のジャンル、とりわけ、演劇やダンスの領域に大きな刺激を与えたといえる。一時期、筆者も 、

MODE という劇団とともにワークショップを旅する活動に同行したり、自ら青年団の平田オリザの演劇ワークショップを北

九州市立の稽古場で体験したり、天王洲にて長谷川六が企画した子どもたちのダンスワークショップを間近で 観察すること

が毎週のようにあったときがあった。音楽においても、参加対象を広げたクリティックも依然としてさかんであったが、打楽

器を中心として、奏法などを教授するものではない体験的な音楽ワークショップも開発されるようになってきた。これらのワ
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ークショップは、表現者、創作者のために行われるものであったとしても、そのアーツを深く鑑賞するためにもとても役立つ

ものであり、徐々に、ダンスを言葉で表現するワークショップ(松山市総合コミュニティセンターで筆者もファシリテーター

を務めたことがあった5)のように、享受しそれをレビューする楽しみまでをターゲットとするものまで出現した。

 財団法人地域創造を立ち上げる前後、ワークショップをはじめとして、公演・展示だけではなくアーツを伝え感じてもらう

多 様な活動の必要性をより明確にするために、新たな言葉を導入する必要が生じ、水戸芸術館の森司学芸員などとも話し合い

ながら、「アウトリーチ(out-reach)」という英米の用語を次第に使うようになった(もちろん筆者たちだけではなく同時

期にこの言葉は関係者において使われだしていたと記憶している)。これが、外に(アウト)腕(リーチ)をのばすという比較

的わかりやすい単語であることもあって、ワークショップもアフタートークもレクチャーつきコンサートや劇場探検ツアー

なども、広い意味ではアウトリーチであると理解しようと考えていた(ただし、議論の過程で、アウトはいいが、リーチは押し

付けにどうしてもなるので避けたほうがいいのではないかという危惧の声を聞きつつ、何度も話しあったことを記憶してい

る)。

もちろん、欧米で言うところのアウトリーチというのは、社会階層的に普段芸術になかなか接する機会のない人びと、美術

館(劇場・コンサートホール)に行こうと思っても忙しくていけない、行っても面白くないしわかるはずがないと思っている

人びとへ、アーツを届ける活動であった。したがって、アーツが人びとの元にお出かけするデリバリー型のもの、あるいは、通

りすがりに、まちかどで体験できるようなカジュアルな形が狭義のアウトリーチである。しかしながら、それを中核としつつ

も、芸術鑑賞という従来型以外のアーツ体験やアーツ教育を広く「アウトリーチ」と呼ぶ日本的なアウトリーチ観がちょうど

いまから 10 年ちょっと前(1997 年ごろ)から始まったのであろうと思われる6。

第 3 節 「限界芸術(マージナルアート)」という言葉の登場とその意義

 第 1 節で述べたように、企業メセナがアーツマネジメントの現場を牽引しその分野を拡大してきた 90 年代、とりわけ、ア

サヒビールの企業メセナ活動が果たした役割は限りなく大きい。音 楽の分野だけでも、どうして企業は、オーケストラばかり

を助成するのか、たとえばオペラ公演など西洋クラシック音楽ばかりに協賛金をあてるのか、音楽を享受する機会の提供、あ

るいは、音楽家の活動を支援するために、もっと挑戦することがあるのではないか、そういう問題意識から、先駆的なアーツ、

とりわけ実験的な音楽ワールドを探索して、さまざまな世界の音楽の紹介公演が本部ビル1階ロビーはじめ各地の支社、工場

などで展開された7。その結果、ダルムシュタットや秋吉台などのセミナー帰りのバリバリの現代音楽から、
「ニューミュージ

ック」と欧米で称されるようなコンテンポラリーな音楽シーン、あるいは、アコーディオン、マリンバ、バンドネオン、鍵盤ハー

モニカ・グループやストロー吹きの音 楽、おもちゃ 楽器などにいたるまで、幅の広い音 楽が私たちの目の前、いや耳のそばに到

達したのであった。

 当時、この活動も、筆者は第 2 節で述べたように先駆的・実験的音楽のアウトリーチの一環として考えていたのであった。が、

たんにアウトリーチとして音楽鑑賞の領域を広げていただこうというだけではなく、音楽ってこんなのもあるのよ、こういう

聴き比べができるんだ、と示唆し、自分でもやってみよう、もう無意識にやっているんだよ、と促し気づいてもらうことが大切

だということからすすんで、さらに、
「じつは専門家でない人による音楽が音楽の源流ではなかったか」という急所がここには

潜んでいることを、次に紹介する 1998 年のアサヒビール音楽講座・レクチャーコンサートシリーズ全 3 回『音を開く―多様

な日本音楽の世界』の DOCUMENT8で思い至ることになった。

 このシリーズは、第 1 回「声のダイナミズム―真言声明の世界―」(98.5.25)、第 2 回「おもちゃになった日本の音―おも

ちゃが奏でる音の世界―」(98.6.22)、第3回「お酒を造る唄の話―越後野積杜氏の世界―」(98.7.13)からなり、上越教

育大学教授、茂手木潔子のナビゲーションによって、アサヒビール吾妻橋ビル横の Asahi スクエア A で行われたものである。

チラシには、
「昨年は、クラシック音楽に焦点を絞り、新しい聴き方・観方・感じ方に挑戦しました。今回は、我々の原点に立ち
4
返り、日本の風土に生まれ育ち、人々の生活に偏在していた、日本の音の発見をしていきたいと思います」と書かれてあり、さ

「レクチャーコンサ-トシリーズでめざしたいもの―日本音楽ミニ会話」のなかで加藤種男
らに、この DOCUMENT の冒頭、

(アサヒビール環境文化推進部)は、日本人は日本音楽に無知であるが、
「この世界の扉を開いてみると、そこには思いがけぬ

豊かな多 様な音 楽がある」と指摘した後、こう述べている。

 私たちの願いは、この試みが単なる未知なるものの紹介にとどまらず、現代の音楽の世界をもっと自由なものへと作

り替え、開かれた音楽への創造的な刺激となることです。
「伝統文化」としてただ保存することではなく、これらの音と交

流してみたいのです。なにはともあれ扉を開いて一緒に 聴いてみましょう。(同 DOCUMENT 1p)

 第 1 回で声明9の「重厚な声の響き」が「五線譜のようなデジタルな音の確定方法とは対照的な音づくり」であることを確

認10した後、第 2 回「おもちゃになった日本の音―おもちゃが奏でる音の世界―」の加藤種男による解説のなかではじめて、具

体的に「限界芸術」という語が使われたようである。当該 DOCUMENT によると、あそびという言葉は古くは楽器を演奏し合

奏するという意味も持っていたこと、子どもはあそびの天才でいつも歌を唄い、おもちゃ(楽器)を演奏しているし、かつて

は大人も自分で操れる楽器(宴会や、祭囃子村芝居における太鼓や三味線など)を持っていた、と加藤は述べた後、

 このシリーズで取り上げられている音楽は、人々の幅広い人生経験の中から生まれてきた無名性の音楽であるが、い

ま仮にこうした芸術を「限界芸術」と呼んでおこう。
「限界芸術」は、仕事や信仰や、あそびのなかから生まれてくる。今回

は主としてあそびのなかから生まれた音をとりあげていただく。
「限界芸術」の大きな効用は、一方で芸術の見巧者を生

みだし、また他方では芸術創造の刺激となる・・(同 DOCUMENT 14p 波線は小暮)

と、続けている。つまり、ここに述べられているように、限界芸術とは、加藤によれば「人々の幅広い人生経験の中から生まれて

きた無名性」の芸術である。そして、
「仕事」から生まれる限界芸術の一つが酒造り唄であり、
「信仰」から生まれるのが声明、そ

して「あそび」からがおもちゃ楽器である。

「実験的な芸術活動における限界芸術の働き」のひとつ、音楽の創造性を刺激する「おもちゃ楽器」については、筆者も、昨今

の音楽演奏会(ライブ)において、それがシリアス音楽であるかポピュラー音楽であるかという区別なく自在に使われる様

子を経験したりワークショップなどに参加したりして、それが確かに創造性への刺激になっているのではないかと感じてい

る。また、鑑賞する側としては、身近なおもちゃや台所用品、文具、自然素材だったりすることで、音楽の専門者でないと鑑賞で

きないのではないか(楽器の構造を知っていてそれを演奏できることが前提だというようなプレッシャー)、というような

尻込みから自由になることができる点も評価している。したがって、
「一方で芸術の見巧者を生みだし」、という加藤の言葉が

実に納得できるわけで、結局、限界芸術を取り上げることで、新たな「見巧者(みごうしゃ)」11を生むための音楽鑑賞の「アウ

トリーチ」ということにもつながっていることもわかってくる。

 第3回「お酒を造る唄の話」について。第2回では、まさしくおもちゃ楽器という限界芸術の素材を使って、新たな先駆的芸

術を創造するという試みだったのに対して、第 3 回は、限界芸術としての仕事唄そのものに焦点を当てたレクチャーコンサー

トであった。したがって、
「仕事をしながら動作を伴ってはじめて」その杜氏さんの塩から声が、その前屈姿勢から生まれるの

だということなどを検証している12。そして、加藤は、全3回をまとめ、
『限界芸術の挑戦』のなかで、この企画は、
「そのはじめ

からすべての方向が決まっていたり、意味付けがはっきりして」いたりしたわけではなく、いろいろ議論しながら進める中で

こそクリエイティブな試みとなってきたとして、以下のように続けている。
5
・・・このところ考え続けてきた「限界芸術」が、結果として3回を通しての主題であったと確認できたことは、私には望外

の喜びだった。はじめる前には、このことによく気がついてはいなかったのだ。
「限界芸術」は、人々の生活の中から自然

に生まれでてくる。芸術と芸術でないものとの境界にあるものだ。いわゆるハイ・アートとか純粋芸術と呼ばれる芸術が、

ほんとうに豊かなものになるかどうかは、限界芸術の裾野の広がりにかかっている、というのが近頃の私の仮説である。

(同 DOCUMENT 46p)

 このシリーズは、アーツマネジメントにおいて「限界芸術」の意味をはじめて提起した貴重な瞬間ではないかと筆者は思っ

ている。まさしく、手探りのなかで、実践とともに理論が生み出されるのがこのアーツマネジメント学の領域であることを明

証するドキュメントでもある。

 そして、この文章のあと、限界芸術というのは、その時代に生まれほとんどは滅んでゆく運命にあると述べ、
「しかし、また新

しい時代には新しい時代の限界芸術が発生」し、
「その新しい限界芸術が、新しい芸術の創造に寄与する」と結んでいる。この

「仮説」、つまり、筆者のフィールドに引き寄せると、アーツマネジメントにおける限界芸術領域開拓の大きな可能性をどのよ

うに実証していくのかが次章からのテーマとなる。そのために、いましばらく、加藤種男が残した「限界芸術」に関するレクチ

ャー記録を辿りながら、限界芸術をアーツマネジメント世界に導入するというテーマに向かって論をすすめていくことにす

る。

第2章 「限界芸術」論のアーツマネジメント的展開

第1節 芸術の公共性論の動向

 1990 年代の後半になると、アーツマネジメント領域では、その手法開発とともに、資金獲得と説明責任を果たすための議

論が盛んになり、実践を根 拠付ける理論構築ニーズが高まってくる。すなわち、芸術家の創造的表現と享受者の喜びに 満ちた

鑑賞に帰するように見えるアーツに、どうして公共性があるといえるのか・・・すなわち、公共事業として整備する道路や下水

道と同様に、行政が事業を行う公共的な必要があるのか、あるいは、営利企業が社会貢献の一環として、自然環境問題や障碍者

福祉と同じように、(メセナ事業として)芸術を支援(投資)する社会的な意義があるのかなど、公共性と芸術との関係にお

ける説明責任=アカントビリティ論が焦点となってきた。芸術の館からの出前、アウトリーチは鑑賞者開発など手法であると

ともに、芸術を閉ざさないで開くという意味で公共性の担保手段であったわけであるが、それよりももっと切実に財政がより

厳し くなった地域においては、目前のファンドレイジング(資金確保)のためにも、
「アートの公共性」が議論の中心となって

いた。

 その議論の先導役の中心はやはり企業メセナだった。たとえば、社団法人企業メセナ協議会が発行してきた季刊誌『メセナ』

第 29 号(1997.7)では、
「民間からの政策提言[芸術編]」を特集しているが、そのなかで加藤種男は当時の状況(芸術の公共

性論議がなかなか深まらないという状況)を踏まえて以下のように発言している(p.4、波線は小暮。前者の破線にはアーツ

が有する社会批評性を評価する公共性論、あるいはアーツのイノベーション価値説への言及が見られ、他方、後者の破線では、

アーツの先駆性と市場性とが背反する関係にあることについての指摘が見られる)。

確かに、芸術の公共性や社会的役割、あるいは意義に関する議論は、実はこれまでほとんど深まっていません。だから

文化政策といっても『個人の趣味は勝手にやらせとけばいい』ということになりかねない。

常に他に先駆けて世の中の変化を敏感に察知し、新しい価値を発見し、その社会にとっての意義を、目に見えるかたち

でわかりやすく表現してくれるのがアートじゃないですか。だからこそアートには社会的な価値がある。しかし、そうい

う表現はあまりに先駆的でマーケットにまるでのらないために、やむをえず公的なかたちで支援していく必要があるわ
6
けです。(季刊誌『メセナ』第 29 号 p.4 当時電通総研にいた伊藤裕夫による基調報告に対するシンポジウム形式による

発言となっている)

そして、中央(=東京)における議論だけではなく、そこで形成されつつあったメセナ理論(「なぜ」「
/ どのように」「
/ なに

を」メセナするのかを明らかにする考え)を、実践者が多く参加した文化現場における交流・研修の中で試す場として、重要な

役目を果たしたのがトヨタ・アートマネジメント講座(略して TAM)であった。この TAM 講座は、1996 年 6 月にはじまり

2004 年 3 月に終了したが(そのあとも、トヨタ自動車は「ネット TAM」であるとか、芸術家と子どもたちへの橋渡しプログ

ラム支援などより具体的なアーツマネジメントを支援するメセナを展開しようとしている)、その間、全国 32 地域で 53 回

の開催、なんと延べ1万人が参加したということである13。

前書きが長くなった。ここからが限界芸術との関係ということになるが、この TAM のなかに、


『アートはつかれる?―回路

を開く ―』という高知でのセッション(第 21 回目)があり、その報告書が残されている 14 。それによると、その最終日

(1999.3.7)のパネルディスカッション「明日の文化的アクションを考える」のなかで、アサヒビール環境文化推進部エグゼ

クティププロデューサー、加藤種男が「マージナル・アートと専門的な芸術家を繋ぐ」ことが大事だという文脈のなかで、第1

章で詳述した前年の音楽講座を引用しながら、地域におけるアーツマネジメントの明日への提言を語っているのである。

第 2 節 芸術の公共性論における限界芸術の役割

 高知での TAM においても加藤はまだ幾分、限界芸術についてはためらい勝ちである。報告書(2000)15のp 100 からp

102 に記されているが、加藤は、企業メセナや行政が支援すべき芸術と市場に任せるべき芸術という2分法をまず行う。つま

り:

大衆芸術といわれるものは、劇団四季みたいなものでしょうかね、例えていうと。みんなによく分かるから。みんなに

よく分かるっていうことはどういうことかっていうと、経済的に考えると市場が成り立つんですね。マーケットってい

うか、経済的に成り立っているんです。経済的に成り立っているものをわざわざ応援してみせることはないでしょう。そ

れを我々の宣伝活動に、もし仮にね、使いたいって思って使うんだったらそれはまた別なんですが、ビジネスを離れてメ

セナということで考えるんだったら、あるいは行政がおやりになるんだったら、ちょっと違うのではないか。私企業なん

ですから、市場の成立したものを我々は応援することはないし、また行政も応援することはないんじゃないか。(102

p)

 これに対して加藤が企業メセナと文化行政が支援すべきものとして第一にあげているのが、
「訳のわからない先駆的な試み

をしておられるところ」である。どうしてか。たとえば高知大学で理科系の研究とか数学をされている研究者を考えてみる。こ

れって文科系の者などには中身は分からない、でも、国立だったら国がお金を出すことを誰もおかしいといわないでしょう、

と。ところが、芸術となると途端に、おかしい、
「我々に分からん物を作るのはけしからん」と言い出す。
「分からないものを今作

ってなければ、20 年、30 年後に我々の宝になる物っていうのは生まれてこないんじゃないか」。こういう先駆的な芸術、分か

らないことにこそ価値があるというふうに認めるシステムづくりが、アーツマネジメントであり文化政策なのだということ

が結論的に述べられる(p 101)。

なお、大衆芸術(市場が成立する芸術なので、階層論とかと混線することを避けて、
「市場芸術」と筆者は呼ぼうとしている

が)と先駆的芸術(実験芸術、前衛アートなど呼び方はいろいろあるが、筆者は「先端芸術」と呼んでいる)の間に、部分的に

は市場が成立するジャンルがあるとも加藤は考えている(p 101)。つまり、
「比較的我々に解り易いけれども、でも顧客がも
7
のすごく沢山いるわけじゃないようなジャンル、例えばオーケストラとかですね」、高知県立美術館は「わりあい新しいことを

いっぱいやっておられますが、一般的に言いますと、美術館」とかがそれにあたるもので、部分的に市場が成り立つのだから、

成り立たない部分だけ、つまり部分的に応援すればいいのではないか、というわけである。

そのあと、先駆的芸術について、体験的プログラムを組むことや、子どものときの芸術体験などの必要を述べて、
「まだある

んですね、これ」と言いよどみ、
「いいですか」と鼎談相手に聞きながら、ようやく、
「マージナル・アート」へと話を進める。すな

わち、その前に指摘した、先駆的芸術、大衆芸術、部分的に応援する芸術(のちに加藤はこれを伝統芸術とするが)のほかに、

「芸術といやあ芸術だし、芸術じゃないといやあ芸術でないような、この境目にあるようなものがまた一つあるんですよ」:

 あの、昔でいうとですね。我々集まるとすぐ宴会が始まってですね、宴会が始まるとすぐそこで、今なんか宴会という

と、最後カラオケにいって大衆芸術に参加するだけなんですが、昔はそうじゃありませんで、誰か歌を歌いはじめる訳で

すよ。そうすると手拍子が出て誰かが踊り始めるということが我々の幼少の砌には、まだかろうじてですね田舎では残

っていたわけです。それが今や、もう世界中、世界中じゃないな、日本中どこにも無くなった訳ですが。(p 103)

他方、アマチュアのオーケストラのような、専門家の芸術があってそれを模倣する芸術は地域(ここでは例えば四万十)で

けっこうさかんだが、これと「マージナル・アート」は違う。先駆的なアーティストが地域にいく意義は、アマチュア芸術(お習

いアーツ、生涯学習的芸術)の人たちを指導するだけでは何の刺激にもならないが、ここでマージナル・アートと出会うとい

うのならば、相互刺激になるのではないか。

そういうことが実は地域の文化の発信ということになっていくんじゃないのかと思うので、ぜひその先駆的な芸術を

中心に支援をされ、それから大衆芸術には原則手を出さず、マージナル・アートの新しい、再生みたいな、昔の物を発掘し

てもしょうがないんですが、しかしそういうマージナル・アートを専門的な芸術家と繋ぐ仕事も含めてお考えをいただ

きたい。そういうことに、企業なり行政なりが少しはお手伝いをしていくことがあるとよいんではないかなと思うんで

す。(p 104)

第3節 芸術への社会的公的投資論

 1999 年 12 月 9 日(木)、栃木県総合文化センター会議室において、筆者ははじめて加藤種男のアーツマネジメントとし

ての体系的な限界芸術論を聞くことになる16。分科会 A 基礎編。ただし、平成 11 年度関東甲信越静・東海北陸地区アートマネ

ジメント研修の受講生ではなく、加藤種男講師のあとにつづけてレクチャーする講師として。加藤が「アートと公共性」、筆者、

小暮は「地域の芸術環境」が与えられたテーマであった。当時の様子は日記的エッセイとして、すでに学会誌に発表している17

ので、詳しくはその記事を参照のこと(受講者は、その理論があまりにも先鋭的だったために、自分たちがやっていることと

かけ離れていること、しかも「(商業)ミュージカル」や「市民オペラ」
「県民文化祭」は大衆芸術なので、投資をしてはならない

ものだという理論にかなり戸惑っていたと記憶している)。

残念ながらこの研修の報告書18(2002 年 2 月発行)は、研修当時に配布されたレジュメといくつかの質疑応答(ほとんど小

暮に対するもの)が記録されているだけで、加藤の講演そのものの記録は残ってはいない。しかしながら、その配布されたレ

ジュメには重要な項目や表があるため、加藤の講義はそれを見ているとだいたい思い出すことができる。

(表-1)芸術分類と社会的公的投資の関係(加藤種男 1999.12)
芸術の種類 芸術の事例 市場との関係 社会的公的投資(メセナ)との関係
8
大衆芸術 ミュージカル、団体展、カラオケ、市民オペラ、県 市場が成立する 投資は市場を混乱させる
民文化祭、ピアノの稽古
(popular art) (投資をしてはならない)
伝統芸術 美術館、オーケストラ、能楽 市場は部分的に成立す 部分的な投資が必要であり効果
る 的
(traditional art)
先駆的芸術 都市の芸術、メディア・アーツ、体験記憶の 市場が成立しない 重点的かつ継続的な投資が必要
芸術
(experimental art)
限界芸術 宴会芸、祭、仕事歌、遊び歌、盆栽、立 市場になじまない 先 駆 的芸術との連携による投資
花、ストリート・アーツ、E メール、庭園 が有効
(marginal art) (経済の範疇外)
(投資になじまなかった)

まず、この(表-1)であるが、加藤自身が語っているように、芸術の種類と芸術の事例の部分は、1960 年に発表された鶴見

俊輔の「限界芸術論」19をベースにしている。ただし、大衆芸術と限界芸術は同じだが、
「純粋芸術(pure art)」と鶴見がジャ

ンル化した部分は、(「市場との関係」を考える必要性があるためもあって)伝統芸術と先駆的芸術に分けられていて、事例も

1960 年当時のものから 1999 年当時のものに置き換えられているので、個別にとりあげれば多くの論点がでてくる。しかし

ながら、前節ですでに解説したとおり、この芸術論を「市場との関係」すなわち市場性と公共性の関係論に結びつけ(文化経済

学的考察)、そこから「社会的公的投資(メセナ)との関係」へとつなげているところが、アーツマネジメント理論への貢献と

してはとりわけ重要な点である。

また、レジュメで重要なポイントとして、
「社会的公共投資とはなにか」があげられる。ここで加藤は、
「行政による文化支援、

企業による企業メセナ、市民による芸術支援のすべて」がそうだとし、とりわけ、官中心ではない公共性の再定義が必要で、市

民社会とは「自分の人生と、自分たちの住む社会は、自分たちで決めて、自分たちで作る」という理想を言うのだということを

強調していた。

この時点で、この最後の「市民による芸術支援」が社会的公共投資であることを明確にし、21 世紀にはいって急展開する「ア

ート NPO」の文化政策主体化の方向を見据えていた点もさることながら、やはりアーツマネジメント論への貢献ということ

からは、つぎのような「つなぎ手の役割」の重要性への言及がより重要であることはいうまでもない。すなわち、作り手と受け

手をむすぶつなぎ手は、

① 「芸術によって社会を変え、社会によって芸術をかえる戦略」をとるべきである。それは、それぞれの内容というよりも、

「社会のあり方、芸術のあり方(存在様式)の変革」なのである。そのためのつなぎ手(アーツマネージャー)の専門性とは、

「社会的価値のフローとストックを評価する力」である。ここでの「社会的価値」とは、芸術の社会的価値ということだと推量で

きるが、そのフローとは、いまのムーブメントの方向性であり、そのストックとは、伝統的な蓄積、あるいは、地域の文化的価値

のことかどうか、いささか、これは筆者の憶測的解説となっている。

② 「Arts to the Future」。すなわち未来への投資とは、


「伝統の消費ではなく、伝統を未来芸術への投資に活用する」ことで

ある。①の「芸術文化による社会的価値のストック」とつながると思うが、「ストックの生かし方(投資効率をいかに上げる

か)」が大事で、そのためには、伝統的な文化ストックを保存第一主義あるいは懐古趣味にとどめないで、未来志向にしなくて

はいけないという「つなぎ手」の能力課題がここではいわれている。

「『音を聞く音楽講座(声明、おもちゃ、酒造り)』」が例示としてあげられている。
③ 「Marginal Arts の可能性」。ここでも、

すでに第 1 節で詳述したとおりであり、先駆的芸術への貢献、先駆的芸術が限界芸術を現代によみがえらせる意義、そして、芸

術享受者(開発・啓発)への貢献の可能性があげられていたと思われる。

④ 「芸術との直接の交通」。すなわち、
「アートを容器から取り出して、自分たちの空間に、自分たちで置きなおしてみる」こと

が大切だということ。いままで、美術館や画廊、コンサートホールや音楽事務所、劇場や映画館、劇団、ダンスカンパニーを通じ

て芸術に接近していた公共ホールを中心とする文化事業担当者に、より、直接的なコミュニケーション=交通の必要を説いて
9
いる。これはまた、「まち」とアーツの直接的呼吸の必要とも関係する。

⑤ 「芸術家との直接のコミュニケーションの場づくり」。これは、④の具体的な例示でもあるが、芸術家自身と社会や組織、ま

ちが直接つきあうこと、その「場づくり」=環境づくりが大事なことを強調して、このレジュメは終わっている。

そして、さらにつなぎ手は対等の立場で行うことが大切であり、商品における市場(marketing)調査と「もっともかけ離

れている」のが芸術で、つまり、芸術は「作り手(artist)」が勝手に創造するもの」で、頼まれもしないのに(具体的にそれを

望むといわれていないのに)創られるという特質があることに注意を促している。

以上、第 2 章では、3 つの節を通じ、とりわけ「限界芸術論と芸術の公共性論との出会い」を中心として、限界芸術論がいかに

アーツマネジメント論と交わったかについて、近過去の歴史的な考察を行いその意義を明らかにした。そこで、最後の第 3 章

においては、限界芸術のなかで、アーツマネジメントの理論と実践としてどのような分野を取り上げていくのがいま有効かに

ついて、筆者の試論(仮説)を提示したいと思う。

すなわち、限界芸術のなかの候補事例として、いま変容しつつある日本社会の冠婚葬祭、特にその儀式・披露の演出や展示な

どのあり方を取り上げ、それが個性を生かした自分らしい暮らしの句読点としての「ハレ」の日になるためには、私たちの生活

に対話を生む「術」としての芸術(すなわちマージナル・アーツ)が不可欠ではないか、さらには、そのための「マージナル・ア

ーツ・マネジメント」が必要ではないかという提案(仮説)に論をすすめていきたいと思う。

なお、ここでもう一度、鶴見俊輔の原典にあたって、限界芸術(Marginal Art)の定義を確認しておこう。
「両者(純粋芸術

と大衆芸術:小暮注)よりもさらに広大な領域で芸術と生活の境界線にあたる作品を『限界芸術(Marginal Art)」と呼ぶ」

「限界芸術は、非専門的芸術家のよってつくられ、非専門的享受者に享受される」ものということができる20。
ことにすると、

第 3 章 「アーツ」を暮らす―術としての冠婚葬祭―

第1節 冠婚葬祭に見られる芸術の様相

 限界芸術のひとつに冠婚葬祭があることは、たとえば、前述の加藤の(表-1)にある限界芸術の事例のなかに「祭」があるこ

とでも明らかであろう。もっと広げていえば、
「宴会芸」は伝統社会においてはおもに冠婚葬祭時に発揮されたものであるし、

いけばなの原型である「立花」もまた「ハレ」の日の大切な設えであった。

 なおここでは、冠婚葬祭をそのマニュアル本にあるように広いジャンルとして扱いたいと思う。すなわち、マニュアル本21

では冠婚葬祭は、
「冠」
「婚」 「祭」の 4 つに分けて分類され、
「葬」 「婚」が結婚、婚礼、
「葬」が葬儀、葬送であるのはそのままだが、

「冠」が妊娠から成人式までの成長の節目の儀礼(最近のマニュアル本では厄年や還暦など長寿の祝い、新築祝いなどまで入

れてある)、「祭」は祖先祭祀が元であるとしながらも、年中行事全般をカバーしている。

 有力者や有名人(最近の言葉では「セレブ」)における冠婚葬祭は、皇室はじめ、公共電波に乗る公開性≒公共性を有してい

る一方、そうでない者(非セレブ)にあっては、冠婚葬祭こそ個人的家族的集落共同体的、あるいは倶楽部的な親密な圏内に

おける営みである。したがって、セレブな冠婚葬祭では、結婚式披露宴や葬送告別式なども公開され、儀式の宗教性や様式はも

とより、礼服や喪服、ブライダル衣装などのファッション様式、あるいは、そこで披露される伝統芸能やライブ音楽、各種飾り

つけ、映像・写真、おめでたい挨拶や告別の辞という文学なども、伝搬性(公開的であることからの一種の公共性が持つ影響

力)の強いものとして伝達され人々に模倣されてゆく。

したがって、かつて、皇帝の結婚式や葬送のために作曲された音楽はまさしく「伝統芸術」(鶴見俊輔では純粋芸術)であり、

正月という祭事などで詠まれた詩歌もまた同じである。セレブな死者の住居としての墳墓土木建築やその石室に描かれた 絵

画(古くは、作者はまだアーティストとして特定できないとしても専門的職人として召し上げられていたわけである)・各種

聖者・偉人を追憶するための彫刻、皇太子の新居としての建築作品、新妻のためのガーデン、元服の肖像画などなど、セレブな
10
冠婚葬祭における芸術のジャンルは限りなく多く、ほぼすべてにわたっており、かつ、当時の一流の職人、あるいは芸術家によ

る専門的なものであったことはいうまでもない。

 他方、一般人、つまり非セレブ(無名)な人たちにあっては、その冠婚葬祭は、むやみには公開されず22、したがって、そこに

あるのは、親密性に 満ちた非日常の空間と時間ということになる。冠婚葬祭をあえて一言で言えば、人生の句読点、社会的な通

「人生を送る積極的な営みの生活文化」(宮田登23)、あるいは「『生物としてのヒト』を文化的な存在
過儀礼と言える。つまり、

にするための発明品」(斎藤美奈子24)が、この非セレブ冠婚葬祭の本質であり、そこにおける芸術の諸相は、セレブとは違っ

て、無名性の芸術、芸術と生活のへりになるようなマージナルなアーツであったといえる。

 では、非セレブ冠婚葬祭には、具体的にどのような「限界芸術」があげられるのか。そのためには、原典である鶴見俊輔の限界

芸術論の表「芸術の体系」25に戻って眺めてみることにしよう。

(表-2)芸術の体系(鶴見俊輔 1960)
限界芸術 大衆芸術 純粋芸術
芸術のレベル

行動の種類
身体を動かす → みずから 日常生活の身ぶり、労働のリズム、出ぞめ 東おどり、京おどり、ロカ バレー、カブキ、能
のうごきを感じる 式、木やり、遊び、求愛行為、拍手、盆おどり、 ビリー、トゥイスト、チャ
阿波おどり、竹馬、まりつき、すもう、獅子 ンバラのタテ

建てる→住む、使う、見る 家、町並、箱庭、盆栽、かざり、はなお、水中 都市計画、公園、インダス 庭師のつくる庭園、彫刻
花、結び方、積木、生花、茶の湯、まゆだま、 トリアル・デザイン

かなでる、しゃべる→きく 労働の合の手、エンヤコラの歌、ふしこと 流行歌、歌ごえ、講談、浪 交響楽、電子音楽、謡曲
ば、早口言葉、替え歌、鼻唄、アダナ、どどい 花節、落語、ラジオ・ドラ
つ、漫才、声色 マ
えがく→みる らくがき、絵馬、羽子板、しんこざいく、凧 紙芝居、ポスター、錦 絵 絵画
絵、年賀状、流灯
書く→読む 手紙、ゴシップ、月並俳句、書道、タナバタ 大衆小説、俳句、和歌 詩
演じる→見る、参加する 祭、葬式、見合、会議、家族アルバム、記録映 時代物映画 文楽、人形芝居、前衛映画
画、いろはカルタ、百人一首、双六、福引、宝
船、門火、墓まいり、デモ
 当時の文化状況や鶴見俊輔の発想を熟知してみないと分からない部分はあるが、実に興味深く、さまざまな研究課題、実践

テーマが浮かぶ表だと筆者は思っている。純粋芸術のなかで、たとえば、交響楽(オーケストラ演奏)と謡曲(能楽)は加藤

の分類によれば、伝統芸術になり、電子音楽や前衛映画は、当時の先駆的芸術になることはいうまでもなく、ここでそういう分

類をしていないのは、この表を見て明らかなように、限界芸術の多 様さを浮かび上がらせることが眼目だからである。

 ただ、限界芸術と大衆芸術などとの線引きについては、かなり時代的な流動性があると思われる。たとえば、漫才が限界芸術

で、落語や浪花節が大衆芸術というのは、現代(1980 年代以降)では少し違うだろうと思われる(漫才が大衆芸術で、落語

や浪花節、講談などはいくぶん伝統芸術的な要素が入りつつあり、USA におけるジャズ音楽についての扱いに近い)。同じく、

紙芝居が大衆芸術であった時代はすでに終わっていて、いまの電気紙芝居、すなわちテレビという超大なる大衆芸術装置を前

にすると、手作り性とか無名性(水木しげるや白土三平のような貸し漫画界に移ってから有名人になった画師はいるが、ほと

んどの実演者は無名であった)からは限界芸術に近いといえそうにも思える(凧絵や大津絵が限界芸術であったように)。

第2節 限界芸術として冠婚葬祭が占める位置

 さて、鶴見による限界芸術の表(表-2)から、冠婚葬祭に関するものだけをピックアップしてみよう。逆に言うと、冠婚葬祭

以外のものは、日常的な生活における限界芸術の事例ということになる。
11
 まず「身体を動かす」、つまり、ダンス系では、盆おどりと阿波おどりが祭そのものの芸能としてあげられている。出ぞめ式も

年中行事であるのでそうだし、獅子舞もまた祭において登場する舞である。あと、すもうも、いまはスポーツとしてあるが、も

ともとは祭の神事、占いの一種であった。求愛行為の一部は婚礼のプレ行事というふうに考えることもできる。プロポーズの

行為(&ことば、演技)が伴うからである。

 「建てる」では、墓が葬の重要な限界芸術であることはいうまでもない。沖縄に見られる亀甲墓など、地域文化の個性を感じ

させるものでもある。最近、個性的な墓を創るニーズも出てきたことを反映して、墓石業界に彫刻科出身に求人が集まるとい

うこともあるという。

 「かなでる、しゃべる」のなかに具体的にはあがっていないが、お祝い歌やお経(声明)と鉦など冠婚葬祭の音楽や詩歌は重

要なものであることはいうまでもなく、祭の舞踊にはつねに音楽が奏でられ、歌が歌われる。餅つき歌や三味線餅つきのよう

に、餅という祝祭の食べ物を作るプロセスに音楽が入ることも興味深い現象である。

 「えがく」では、絵馬、羽子板、凧 絵が正月の祭としての限界芸術であり、年賀状は、版画を描いたり書道をしたりして作品と

しては庶民が芸術する重要なアイテムだった。流灯もまたお盆の行事である。しんこざいく(飴細工も同じだが)もまた縁日

=お祭にかかせない芸であった。

 「書く」では、タナバタ。なるほど、ここに願いを書くのである。書道も書初めとなると祭の景色となる。辞世の句となれば、俳

句もまた同じだし、いま結婚式で手紙を花嫁が両親に宛てて書いて読むという感動系演出がはやっているそうだ26が、ここに

もまた婚礼における手紙というシーンが、手紙が非日常になったために行われたりするものと考えることができる。

 最後に「演じる」。ここでは、ずばり、祭、葬式、見合があげられている。とりわけ「見合」の演技性の指摘は卓眼であり、限界芸

術を考えたり、ドキュメント映画における演技ということに思いをいたしたりするときにも応用できるものだと思う。また、

いろはカルタ、百人一首、双六、福引、宝船はお正月行事であり、門火はお盆、墓まいりもお盆(プラス春分、秋分、正月と4回ま

いる丁寧な人は少なくなっただろうが)である。もちろん、デモは政治的な事情によるが、春のメーデーは、いまは力を衰えつ

つあるが、祭といえるものであった。

 以上の考察でも分かるように、生活時間としては日常の時間が占める割合がとても多いのだが、限界芸術のなかに占める非

日常的な冠婚葬祭の役割はかなり大きい。それはどうしてかというと、非日常の時間が、人びとの生活では「ハレ」の重要なと

きであり、そのために日常を働いているとすら言えるのであるからである。

 ところが残念なことに、冠婚葬祭だけを見ても、かつて鶴見が例示した行事がすでに消滅したり、とても少なくなっていた

りするものが多々あることにも気づかされるであろう。端的に、1960 年から 40 数年して、私たちはより自らを無名のまま親

密な世界のなかで表現できる「芸術」のジャンルを失いつつあるのであり(他方におけるカラオケやコンピュータゲームはじ

めとした「大衆芸術」=市場化するアーツの席捲であり)、それが前章で見てきたような加藤の危機意識につながるのである。

第3節 冠婚葬祭をアーツマネジメントすることの意味

 限界芸術のなかの「ハレ」の場を占めるはずの冠婚葬祭であるが、前節で見たとおり、伝統的な行事は徐々になくなってきて

おり、手作りのよさ、地域ごとの味わい、親密なる関係の回復、祖霊との交流など、かつて冠婚葬祭のときに私たちが実感した

ものはすでにかなり薄れてきているのが現状である。すなわち、冠婚葬祭に見られた限界芸術は、別の「術」、すなわち市場芸術

やそれとの関係がつよいサービスに代替されてきていると考えることができる。

「婚」の場合、結婚式では、戦前までは残っていた花嫁行列などの地域性、人前結婚とその宴会における「高砂や~」
 たとえば、

の謡いから放歌、ドジョウ掬いなどのどんちゃん騒ぎ的踊りまでの芸の交歓は、神前結婚の普及と高度成長期の専門式場ブー

ムあたりにおいて影をひそめてしまう。せいぜいあるのは、カラオケなどによる婚礼にふさわしい定番大衆音楽の披露である。

ただし、昨今のホテル婚、海外挙式やハウス婚、レストラン婚にいたって、少しずつ、ウェディング・コーディネーターの専門
12
性が評価されだしたことも加わり―従来の地域特性とは切り離されたかたちではあるが―、オートメーション的な画一的挙

式ではない「手づくり感」
「こだわり感」
「そのひとらしさ演出」が見られるようにはなっている。しかしながら、個別化個性化す

るためには、費用がよりかかったり当人の作業が大変になったりすることなど、資本主義における法則とその事情は変わりな

いこともまた確かである。また、スペクタクルな演出により、花嫁・花婿・両親など演じる方と、参列者が分離し、劇場における

観客感覚で参列者が参加する習性がついてしまったあとで、そのよそよそしさ、フィクション性をもう一度、双方向の交流、親

しいコミュニケーションに変えることは、ただ、私企業経営感覚だけでは無理なのではないか、と思える。

したがって、そこに、かつての限界芸術的な婚礼が持っていたような、素朴でアットホームな交流、親密圏内だから起きる感

情の交通をマネジメントするために、何らかのアーツ的手法が活躍する場があるのではないか。すぐには思いつかないが、手

軽な ホームビデオカメラの活用とか、ワークショップを行って納得の行くブーケをつくるというような提案が、アーティスト

的感覚を付与することで可能ではないか、というのが、婚におけるアーツマネジメント的可能性の提起なのである。

 また、 「婚」に比べて、その全国的均一化の足取りは遅かった。しかしながら、土葬がほとんどなくなりつつある現在、
「葬」は、

自宅葬も(集会所葬、寺などの宗教施設葬も含めて)また葬儀専門式場( 斎場)葬に場所を移している。それにともない、従

来集落や親族で行っていた葬儀にかかわる作業・事務が葬祭ビジネスに移行されてきている。日本消費者協会の調査によると、

1992 年には、自宅葬が 52.8%、斎場葬が 17.8%だったのに対し、2003 年では、自宅葬 19.4%、斎場葬 56.1%となっており、

この傾向はより続くと予想されている(碑文谷創の予測によると、2010 年で自宅葬 10.0%、斎場葬 71.%)27が、実に急激

な変化を遂げていることがこれをみても明らかであろう。

 さらに、葬祭会場(斎場)の全国数値の変化をみると、1990 年に 914 ヶ所だった会館が、2005 年には 4890 ヶ所に増加

しており、15 年間で 5 倍というハイスピード展開なのである28。自宅や近くの集会所において近隣のなかの行事としてあっ

たかつての葬儀や埋葬式(霊柩車が発達する前は、葬列、お弔いの行列が葬送の一番重要なセレモニー演出・展示であったし、

土葬において墓掘りは地域の重労働であった)はすでにほとんどなくなったというのが現状であろう。

 そのような地域儀礼文化の喪失のなかで浮上してきているのが、
「自分らしい葬儀」、
「自らが選びとる死後」への希求である。

オートマチックな流れ作業でどこにでもあるお葬式をあげてもらうのはいやだ。家墓に入るということ以外に埋葬のされか

たはないのだろうか。子孫に迷惑をかけたくもないし、血縁だけで自らを追想されるというのは違うのではないだろうか。自

由葬を提唱した一人、安田睦彦『お墓がないと死ねませんか』(岩波ブックレット NO.262、岩波書店 1992 年)はじめ、この

10 年近くに数多くの変わる葬送をめぐる書物29が出版されてきた(筆者の研究室にあるものだけで約 20 冊を数える)。

 葬送文化と現代社会の関係は、限界芸術論だけではなくさまざまな問題やテーマにわたるのだが、とりあえず、ここではア

ーツマネジメントという面だけを指摘しておきたい。もともと、仏教式の葬儀とそれに続いて行われる告別式、その前の通夜

(枕経)を含めて、それは宗教的であると同時に、きわめて習俗的かつ限界芸術的、すなわち限界美術、限界音楽・朗唱、限界舞

踊、限界演劇的な表現・身振りに 満ちた営みである。喪服と死装束もまた特別の舞台衣装と考えられる。

自分の一生を集約するお葬式、それはまた、見送る方においては、その方の一生を追想し記憶する重要な場である。深い哀し

みという意味の「グリーフ」が遺族や関係者に訪れる。そのグリーフの時間をどのようにキープするのか。その感情が波打つシ

ーンにおいては、結婚式とはまた違う芸術的な想像力、そして演出力が要求されると思う。まさしく、個別の固有の存在として

の人の死に向かって、きわめて個性を屹立させて表現するアーティストこそ、戸惑うことの多いこの重い哀しみに直面する場

面に 対して、ありきたりではない提案ができるのではないか。そして、そういう提案をする必要のあるヒューネラルマネージ

ャー(専門職としての資格葬儀者)が、アーツのエッセンスに学ぶことによって、いままさに危機にある「自分らしい死」の世

界への希求に答えるヒントがあるのではないか。

これが、
「葬」におけるアーツマネジメントの意義にこめた筆者の思いなのである。葬送だけではなく、冠婚葬祭はすべて一

つの区切り(別れと始まり)であり、いわば「小さな死」を経験して次に行くことなのである。能では、シテの「高い技倆に魅せ
13
られて観客は、高い木戸銭を払い、殺されにいく」 というが、芸術には一度ふだんの俗世的自分、社会的な役割(肩書き)の
30

私、過去をひきずった囚われの身を一度無に(リセット)してくれる機能を有しており、だからこそ、限界芸術をいま私たち

の「生」の中に取り入れる術(すべ)をマネジメントすること、芸術を人生=生(死)の傍らにより添わせることが、求められ

ているのである。

なお、さらに具体的に、
「グリーフケア(深い哀しみへの共感)」というアーツセラピーとしての葬送という側面でもあるこ

とをこの論稿を進めるなかで気づくにいたったことも付記しておきたい。じつは、婚姻においても、あるいは、妊娠、出産、成人、

厄年、還 暦という人生の節目、節目において、大きなターニングポイントは飛躍でもあるとともに、躓きやすい振り返りのとき

でもある。その場が、実は「ハレ」であるのは、そこで日常ではない「術」、すなわち、アーツの存在が必要であるということが、こ

の第 3 節での論説で少しは展開できたのではないかと思っている。

以上、まだまだ、考察したいものが多いテーマであるが、限界芸術論をアーツマネジメント論、芸術の公共性論に出会わすに

いたった経過とその意義の叙述からはじめた本稿も、冠婚葬祭におけるアーツセラピー的要素を大切にしたマネジメントと

いう指摘を最後にすることで。ひとまず終わることにしたい。


1
 第 2 章までは、日本マネジメント学会の学術誌『アートマネジメント研究』(美術出版社、2007.10)に掲載予定。
2
「ふるさと創生と地域の感動プロデュース(1991 年)」、小暮宣雄『アーツマネジメントみち―社会に未知、まちにダンス―』(晃洋書房 、
2003 年)p167~176。当時、筆者はふるさと創生を「定住環境としての地域に、新しいダイナミズムと個性形成・地域間交流などを取り組む
形で、所与としての地域でない『ふるさと』の創生が希求され」ていると記述した(p169~170)。

3
文化政策の分野におけるヒューマンウェアの重要性を指摘する中川幾郎によると、
「すべての政策の前提に、理念や哲学が当然必要であるよ
うに、ハード企画やソフト企画以前に、ヒューマンウェア調整の視点が必要になる」(中川幾郎『分 権時代の自治体文化政策―ハコモノづくり
から総合政策評価に向けて』勁草書房、2001 年、p87)。ところが、
「多くの自治体では、文化政策マトリクスのうち、ヒューマンウェアに関わ
る問題意識や施策対応が弱体となる傾向がある」(同書 p48)ため、自治体の文化政策のひとつであるホールマネジメント分野にまず全国組
織としてその仕事を着手したのである。

4
小暮宣雄『地域文化・情報化戦略―地方行政活性化講座第 3 巻』(ぎょうせい、1995 年)p312~371。この地域創造という財団が特に力を
入れる 5 点を筆者は以下のようにまとめていた。
「①地域のアーツ企画・提供者が、主体的に他地域のアーツ企画・提供者やアーツの制作現場(アーティスト、技術スタッフ、マネジメント担
当者)などと顔が見える関係で水平につながれるような、環境や風土をつくること。②地域での多彩なアーツ鑑賞機会の増加、鑑賞者づくり
の支援ともに、地域での芸術創造環境づくりに関する実践を応援していくこと。③地域の行政組織上において、いままでの特殊でマージナル
な扱いではなく、生活行政や産業政策との連関のなか、地方公共団体の行政分野の一翼に芸術環境行政が確立されるとともに、芸術環境行政
にタッチすることが公務員の研修や感性の向上に大切なセクションであるとの理解を広げること。④地域にとって、行政にとって未知の領域
であるような、今に生きるアーツ(現在形の芸術)、確立していないアーツジャンルやアーティストを大切にすること(古典芸術においても
それが今私たちになぜ必要なのか、を常に問うことによって、現在形の芸術になることができる)。⑤アーツの制作者・技術スタッフやアー
ティストによってより創造的で未来につながる活動ができるような環境を、多 様な地域が個性的に提供することによって、すなわち芸術が地
域と結ばれることによって、これらのアーツが、今までの日本のアーツシーンの問題点を少しでも克服してオリジナルティに富んだスリリン
グな展開が行われることに、間接的に寄与していくこと。」p315~316。

5
1999.2 には伊藤キムのダンス公演を鑑賞したあとに筆者とキムが対談し(ポシトトーク)、翌日にはそれを経験した人たちとその鑑賞に
ついて話し合い言葉化するというワークショップを行った。さらに同年 11 月にはアマンダ・ミラーのダンスカンパニー公演においても同じ
ようにダンスをレビューするというワークショップをした。もちろん、鑑賞ワークショップの参加者にはそのあと松山コンテンポラリーダン
スの中心となるダンサーも混じっていて、鑑賞することと表現することを画一的に切り分けることはできないが、これら「松山ダンスウェー
ブ」という事業はもともとダンス(伝統的な舞踊も含めて)資源があった松山という土地に 対してあらたな刺激を与えた活動であったこと
は確かだったと思われる。

6
たとえば、水戸芸術館の森司が代表となり筆者なども実行委員となっていた「ドキュメント 2000 プロジェクト―社会とアートの橋渡し」の
活動中間報告(1996~1997)書(1998 年 11 月 20 日発行、ドキュメント 2000 プロジェクト事務局長の橋本敏子、久保田テツによる編
集)内に付属している用語解 説(森司担当、60 p)で、以下のようにアウトリーチが解説されている。
「『アウトリーチ』はまだ対象と出会っ
ていない方にする啓蒙教育活動を現す。この狭義な解釈から、社会全般に対しアートの魅力を橋渡しする活動としてアウトリーチを理解する
広義の解釈が生まれる。このアートコミュニケーション活動を現す重要用語は、アートを伝達する活動域の認識を深めたアートマネジメント
と無縁でない。」
なおこの共同メセナの先駆としても評価された 5 年間の活動成果は、ドキュメント 2000 プロジェクト実行委員会『社会とアートのえんむす
び 1996-2000―つなぎ手たちの実践』(トランスアート市谷分室、2001 年)として出版された。

7
アサヒビール環境社会貢献部発行『アサヒビールメセナデータブック 1990-2000』(2003.4.1)によると、アサヒビールロビーコンサー
ト(プレのあと、1991 年からスタートした自主事業)だけで、117 回を数えていて、それ以外に提携事業として、ここで 1998 年開催のみを
詳しく紹介することになる音 楽講座や 対談シリーズ“TALKING”(美術、音楽、映画、ダンスなどクロスオーバーしたもの)、“アートノヴァ”
などがあり、さらに芸術協賛(通常の企業メセナではほとんどこれが中心)、文化講座、(社員)参加型文化活動などが紹介されている。
「①評価の定まった大家ではなく、いまだ評価の定まら
アサヒビールの独自性はこのブックのなかで加藤種男が述べているように(p103)、
ない若手を支援する、②メジャーなイベントへの冠協賛ではなく、独創的な企画を組み立てる、③質が高く、時代の精神を読み解く、先駆的な
活動を行う」ことにあったと言えよう。

8
アサヒビール音楽講座レクチャーコンサートシリーズ『音を開く―多様な日本音楽の世界』DOCUMENT、1998.12.1、
「アサヒビール音楽
講座」実行委員会(社会工学研究所内)編、アサヒビール株式会社環境文化推進部刊。

9
声明とは、
「仏教の伝統的儀式音 楽のこと」ですなわち「儀式で僧侶がその進行と不可分の関係で歌う歌や朗誦のこと」(p10、波線は小暮。儀
式で不可分の形で歌われるというところが、限界芸術的な要素であり、作業と不可分に歌われる酒造り唄などとつながるところである)。以
下の引用も含めて、参考としているのは、岩田宗一『声明は音楽のふるさと』(法蔵館、2003 年)である。
「儀式に携わる僧侶の方たちの意識は
別としまして、声明は歌われ朗誦される音 楽であり、声 楽です。歌う声明とは儀式を行う場所に本尊や諸仏・諸菩薩を呼んだり、それぞれの徳
を称えたりするところのいわば“讃歌”です。朗誦とは釈迦の教えを説いた経やそれについて議論した文章の類を読み上げることであり、なか
には儀式の目的や願い事を述べた文章もあります。しかしそのような儀式音楽を声明と呼ぶようになったのは、日本では鎌倉時代、13 世紀初
め以降のことで、それまでは通常「梵唄(ぼんばい)」といっていました」(p10~11)

10
茂手木潔子「・・・声明の魅力としましては、基本的に1本の旋律でできているものがほとんどで、それをひとりで唄うのですが、なんと言う
のでしょうか、ひとりの声に色んな声の響きが含まれています。これをよく“声明声”なんて言ったりします。昔、清少納言が「枕草子」の中で、
“蝉声”なんて言ったりします。ミンミン蝉、あるいは浪曲のような、いろんな響きを持った声、それを最近はホーミーと比べる学者もいらっし
ゃいます。・・・」(同 DOCUMENTp11)。
そして、一人でも豊かな響き持つ声明だから、それが何人も集まると非常に幅の広い音の帯ができる。さらに、仏教楽器は混ざり物のいっぱい
つまった音色を持っていて、その結果 α 波がたくさんでる音 楽といわれるようになった。つまり、西洋音 楽では純粋化をめざし、ベルカントの
訓練を行うが、声明では、ぎゃくに、各人の声質が異なることを前提に、大勢の声が響き合って工事の倍音を生み出すライブの醍醐味を 楽しむ
ことができる。

11
「物の見方の上手なこと。また、そういう人」(広辞苑)。とくに、歌舞伎などのお芝居を見慣れている人を指す。音楽だから見巧者ではなく、
「聴巧者」かも知れないが、専門的音楽家と専門的聴衆によって成立する音楽を鶴見俊輔が「純粋芸術」と呼んだことと関連・照応しているこ
とにも注目しておきたい。

12
茂手木潔子が監修した CD『越後酒造り唄の世界』(1998 年、日本コロンビア、CODF-15050)の彼女による解説によると、杜氏がどうし
てこれほど熱心に唄を歌う必要があったのかをヒアリングして調べると以下のような理由になるという。
「①寒く眠く辛い作業を紛らし、気持ちに張りを持たせるため(洗場唄、桶洗唄)。②作業の連続を監督者が確認するため(洗場唄、桶洗唄)。
③攪拌回数と攪拌時間の確認のため(酛すり唄、二番櫂など)。④集団労働を合わせるため(米洗唄・酛すり唄、仕込唄、三ころなど)。⑤水
や湯の桶数、蒸米の桶数を数えるため(数番唄)。⑥作業後のほっとする時間の娯楽のため(酛すり唄など)」。

13
企画・編集 TAM 運営委員会「トヨタ・アートマネジメント講座の軌跡 1996―2004」(トヨタ自動車㈱広報部社会文化広報室 、
2004.9.15)より。

14
「トヨタ・アートマネジメント講座 Vol.21 高知セッション―美術 7:アートはつかれる?―回路を開く―報告書」編集・制作・発行:トヨ
タ・アートマネジメント講座高知セッション’99 実行委員会、財団法人高知県文化財団、2000.6.27。

15
同上報告書 p100~104 の加藤種男発言。

16
 小暮宣雄「公文協主催のアートマネージメント研修に参加して―地域のアーツセンターを巡るミクロ的観察と思考、記録の断片―」、
『ア
ートマネジメント研究』(美術出版)第 1 号、2000 年、p14~15。

17
同上、10 p~16 p。
18
『平成 11 年度日本財団補助事業「地域文化活性化のための人材育成」関東甲信越静・東海北陸地区アートマネ
 加藤種男「芸術の公共性」、
ジメント研修報告書』 発行:社団法人全国公立文化施設協会、編集:財団法人栃木県総合文化センター、協力:株式会社社会工学研究所 、
2002 年 2 月、p78~81

19
鶴見俊輔「芸術の発展」、
『限界芸術論』ちくま学芸文庫、筑摩書房、1999 年、p10~88。解説「鶴見俊輔の身振り」四方田犬彦。
『限界芸術論』
「芸術の発展」は、まず、1960 年 7 月、
(1999)の解題によると、 『講座・現代芸術』(勁草書房)第一巻「芸術とは何か」に発表され、1967 年
に単行本『限界芸術論』(勁草書房)に所収された。その後、
『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房)第四巻「芸術」に収められたが、このときに引用文
がすべて現代仮名遣いに改められている。

20
 同上、鶴見俊輔(1999)、p14。

21
1970 年初版の塩月弥栄子『冠婚葬祭入門―いざというとき恥をかかないために』(光文社)には、
「冠」の項に「成人式後の祝い」
「特別な祝
い」がないが、2002 年発行の風間茂子監修『心のこもった冠婚葬祭』(長岡書店)では、それらが詳述されている。

22
死亡した事故(事件)の被害者の 顔を含めて報道され葬儀などにも取材が入ることが最近特に多い。これはひとえにマスメディアの都合
であり、死者にはプライバシーがあるかどうかという問題の前に、葬送文化の基本が弔問であり追悼であるとすると、生前にセレブでなかっ
た死者が訴えられないから死後セレブとして報道してもいいという発想は問題だといわざるをえない。
 もちろん、花嫁行列や葬列などにおいて、派手地味の区別はあるが、普段の暮らし「ケ」とは違って、地域の人たちに公開し、祝ってもらい、餅
とかお祝い記念を振舞うという部分的な公開性、すなわち平凡な庶民があこがれる「ハレ」の日の晴れ舞台性は、とくに「限界芸術」としての演
出・展示性の部分として昔から伝統的に地域特有の文化として形成されてきたということもまた真実である。

23
宮田登『冠婚葬祭』岩波新書 630、岩波書店、1999 年、p2。

24
斎藤 美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書 1004、岩波書店、2006 年、pⅲ。なお、のページにはつづけて、短くウィットにあふれた定義をそ
のそれぞれにしている。いわく、
「冠は『第二次性徴の社会化』、婚は『性と生殖の社会化』、葬は『死の社会化』、そして祭は『肉体を失った魂の社
会化』」というわけである。ここでも加藤が言っていた「アーツの社会的価値」という課題が頭をよぎる。すなわち、この「社会化」をどのように
行うのか、画一的・無味乾燥にするのか、個性的な自由な表現のなかで「社会化」が規範化ではなく、社会との対話化になるのかという点と関
係することにつながるのである。

25
 同上、鶴見俊輔(1999)、p88。

26
 同上、斎藤美奈子(2006)、p118。
「新郎が来賓に向けて(外向きの)挨拶をし、新婦が両親にあてた(内向きの)挨拶をする。新手の性
別役割分業ともいえなくもないけれど、
「新郎の挨拶」
「新婦の手紙」がつまり今の披露宴にはつきもので、そのための文例集も出版されている。

27
 碑文谷創「斎場の変化・葬儀の変化」、『SOGI』84 巻、NOVEMBER 2004、表現文化社、2004.11.10、p26~28。

28
 編集部「恒例 葬祭会館の全国集計 2006」、月刊『ヒューネラルビジネス』No.113、April 2006、綜合ユニコム株式会社、2006.4.1、p14
~40。

29
『改訂葬儀概論』(表現文化社、2003 年)という教科書(『葬儀概論』初版は 1996 年)を執筆している碑文谷創の『自分らしい
たとえば、

葬儀―生前から考え、準備しておく―』(小学館、1998 年)や、井上治代『最期まで自分らしく』(毎日新聞社、2000 年)など。

30
「いわゆる『見所同心』も裏を返せば、見所が役者と同心となることと同義である。
古東哲明『〈在る〉ことの不思議』勁草書房、1992 年、p299。

観客 はあの世へと 歩み往く。演者はこの世へと 歩み 帰る。その両者の 歩み寄りが、心の劇場となって 弾け飛ぶ。だから能とは、観客を他界人と


化す技芸」。「死びとへの同化を媒介に観客もしばし〈死に身〉となってしまう時空の変身劇である」(同書、p299)。

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