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財政マネタイズと仕事と生活の調和

定常的世界のなにが問題なのかといえば、労働生産性の上昇が持続的な物価の低下を引き起こし、そ
れによって労働を単位としてみた所得、すなわち労働の価値が低下し続けることである。
「経済的至福」
では、余暇の増加によって人間が経済以外の活動に従事する時間を増加させてくれるはずの労働生産性
の増加が、ここでは労働の価値の低下を引き起こすのである。
しかし、労働の価値を貨幣ではなく、購入可能な商品の量におくとすれば、労働生産性の上昇は労働
の価値を高めるはずである。このような見方は、第2話においてみた「実質」値を重視する経済学の世
界での標準的なものであり、このとき、貨幣は単なる交換のための媒体にすぎないものとなる。ケイン
ズ革命以前の古典派の経済学では、
「供給はそれみずからの需要を創り出す」という法則(セイ法則)が
支配的であった。生産されたある商品の買い手が売り手よりもおおいとすれば、ほかの商品では売り手
よりもおおくの買い手が存在している。ある商品の価格が低下すれば、ほかの商品の価格は上昇する。
すなわち、個別の商品の価格が低下することはあっても、物価が大きく下落するわけではない。貨幣は
ヴェールに過ぎず、市場は実物的に満たされることになる。
しかしこのような見方は現実的ではない。現実には、すべての商品が売れない時期が到来することも
ある。マルクスは、1857~58 年の商業恐慌の時期のように、すべての商品が売れない時期には、貨幣の
「買い手」がおおく存在していたと指摘している。23恐慌では、経済全体のバランスは大きく失われ、
物価が下落する一方で、商品に対する需要もまた縮小する。

 >  ×  =  > 


 × 
 = 
 > ⋯

労働生産性が上昇し、商品の購買力を基準とした所得である実質所得(名目所得÷物価)が増加する
とき、その増加分は、すべてが実質消費の増加につながるわけではない。生活者は、その一部を手元に
残しておきたいと考える。ジョン・メイナード・ケインズは、これを「人間性に関するわれわれの先験
的知識と詳細な経験的事実とから大なる確信をもって依拠することのできる基本的な心理法則」24
(fundamental psychological law)であるとした。この心理法則を引きだす人間の性質とは、将来の不
確実性に対する予備的な動機などから生じる流動性への選好である。
また、予備的動機だけに限らず、人間とは、貨幣そのものに対してこだわりをもつものでもある。人
間がより顕示的な仕事や地位を追い求める存在であることは、それらの仕事や地位に付随した所得水準
が、実物的な満足を支える手段以上の意味をもつものであることを示す。したがって、個々の労働者に
とって賃金の引き下げは受け入れがたいものであり、賃金を引き下げることは、労使間の不信や労働者
のモラルの低下を引き起こすことになる。これは、
「賃金の下方硬直性」とよばれるものである。この場
合、労働者は、労働時間を縮減することで労働の価値を追求することが経済全体にとって合理的な選択

23
カール・マルクス(武田隆夫、遠藤湘吉、大内力、加藤俊彦訳)『経済学批判』。
24
ジョン・メイナード・ケインズ(間宮陽介訳)『雇用、利子および貨幣の一般理論』(第8章)
。なお
ケインズは、この「基本的な心理法則」を人間の慣習的な生活標準にもとづくものであるとし、特に短
期においては、実際の所得と慣習的な生活標準の差額は貯蓄にまわされる傾向があるとする。また、貯
蓄の動機は、生活にゆとりが生じてはじめてその効力を発揮するとし、実質所得の増加によって、一般
には所得のますます大きな割合が貯蓄にまわされることになるとみている。

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となるのだが、顕示的なものを追い求める人間の習慣は、それを認めることができない。そして「賃金
の下方硬直性」は、結果的に、完全失業者の増加を招くことになる。
このような環境下で労働生産性が絶え間なく上昇すれば、物価は下落してもそれに応じて実質消費が
増えることはなく、貨幣は生活者によって蓄積され、翌期以降の名目所得は減少を続けることになる。
こうして、経済のバランスは大きくゆらぐことになる。貨幣の蓄積が進むと定常的世界における翌期の
名目所得は減少し、実質消費は抑制され、生活は豊かにはならない。

この経済のバランスをとりもどすためには、何が必要だろうか。ひとつは、労働生産性の上昇に応じ
て物価は下落するが、経済主体が予測する翌期の物価上昇率を引き上げることで、生活者が今期の実質
消費を増やすよう促すことである。25これは、政府が発行した国債を中央銀行が引き受け、資産側の国
債に相当する貨幣を新たに発行することで可能になる。26貨幣の発行を増やし経済主体が予測する翌期
の物価上昇率を高めることは、貨幣価値を低下させることである。また、実質消費が増加するよう財政
支出によって予算制約のある低所得者の所得を増やす政策を行う。これらは1回の国債発行で同時的に
行うことができる。なおこの場合、発行される国債は新たに発行された貨幣と等価であり、中央銀行が
それを保有することになる。
現実の世界では、これは財政マネタイズとよばれ、政府の負債を際限なく増やし将来の高いインフレ
ーション(物価の上昇)を引き起こす原因となることから忌避されている。しかし、昭和恐慌時には、
この財政マネタイズによって財源調達と同時に国債市中消化を円滑させ、世界恐慌の中で日本経済はい
ち早く景気回復を実現したことが知られている。

もうひとつは、労働生産性が上昇しても価格が維持され、労働の価値が高まることによって物価の下
落を回避することである。その鍵となるのは、労働力を保有する主体としての労働者の交渉力とその手
法である。すなわち、労働者の交渉力によって労働時間を縮減し、労働1単位あたりの所得の増加を果
たすのである。この場合、物価の持続的な下落が引き起こされることにはならないが、実質消費は増加
せず、生活の豊かさが実物的な豊かさによってきまると考える経済学の一般的な考え方からすれば満足
が高まることにはならない。しかし、余暇の増加によって必ずしも満足の水準が下がるとは限らない(た
だし、生産コストの増加が過大になると、商品の供給が減少する可能性はある)

人間が根本的に実物的な豊かさ、ないしは貨幣そのものを追い求める存在であると考えるならば、価
格の低下を望む者もおおく存在することになる。価格の低下は、同一価格で販売されている商品の質(例
えば、情報機器の処理能力など)が向上することでも生じる。家庭電化製品や自動車の普及は、家事な
ど生活に必須な仕事を削減しよりおおくの自由な時間を人間にもたらしたが、これらの商品がさらに便
利になるよう、企業では、日夜研究開発が進められている。人間は誰しも、現在よりも高い機能を有し
より安全な情報通信機器や交通手段が普及した未来を想像する。また、小売店の営業時間の延長は、商

25
生活者は、翌期(以降)の物価の上昇を認識すれば、今期の消費を増やす。これは、期待によって、
翌期の消費よりも今期の消費を選好するという動学的なリバランス効果が働くためである。一方、財政
政策のみを行えば、生活者は翌期(以降)の増税を予期し、動学的なリバランス効果によって財政政策
の効果は打ち消される(リカード中立命題) 。ただし、生活者の予算制約が大きい場合は財政政策にも効
果があり、今期の実質消費が増える可能性はある。
26
ここでは銀行が存在しない世界を想定しているため、信用創造が働かない。また、暗黙に貨幣流通速
度が一定であることを想定している。このため、中央銀行が貨幣の発行を増やせば、貨幣供給(マネー
ストック)は増加する。

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品の販売に付随するサービスの質を高めるもので、これもまた目に見えない形で価格の低下を引き起こ
している。通常の生活者は、ごく当然のように、よりよくかつ便利な商品を求め続けているのである。
それを自重し余暇の増加を望むことは、われわれ人間の性向がいまのそれとは別のものに変わることを
意味するもので、それは容易に達成されるものではない。

(Fig.2)心の豊かさと物の豊かさ/収入と自由時間 しかし、容易ではないにしても、少なか
70.0
らず、人々は物質的な満足だけには飽き足
60.0
らなくなりつつある。
全国の 20 歳以上の者
50.0
に対し、現在の生活や今後の生活、家族・
40.0
家庭についての意識などを調査した結果を
(%)

30.0
みると、
「物質的にある程度豊かになったの
心の豊かさ
20.0
ものの豊かさ で、これからは心の豊かさやゆとりのある
10.0 自由時間をもっと増やしたい
収入をもっと増やしたい 生活をすることに重きをおきたい」と考え
0.0
る者の割合は、
「まだまだ物質的な面で生活
1970 1975 1980 1985 1990 1995 2000 2005 2010
を豊かにすることに重きをおきたい」と考
(資料) 内閣府「国民生活に関する世論調査」
える者の割合よりも、1979 年以降一貫して
高くなり、経済成長が停滞した 1990 年代以降も概してその差は拡大している。
その一方で、自由時間をもっと増やしたいか、収入をもっと増やしたいかを聞いたところでは、
「収入
をもっと増やしたい」の方が「自由時間をもっと増やしたい」よりも高くなる。また、2008 年秋に始ま
る経済危機とその後の雇用情勢の悪化を反映してか、その差はこのところ高まっている。ものの豊かさ
よりも心の豊かさを重視する一方で、自由時間よりも所得を増やしたいと考えているということには、
一見矛盾を感じる。しかし、もし貨幣に単なる交換のための媒体以上の意味が付与されているならば、
あり得ないことではない。このとき、ものの豊かさが満たされたとしても、よりおおくの貨幣が生活者
によって蓄積されることとなる。なお、2008 年秋以降の大きな変化を除いてみれば、その差は、緩やか
ながら縮小しているようにもみえる(Fig.2)。

政府は、仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)の実現に向けた取組を行っている。政労使
の合意のもと策定された『仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章』27では、人々の働き
方に関する意識や環境が社会経済構造の変化に必ずしも適応しきれないため、仕事と生活が両立しにく
い現実に直面していると指摘する。具体的には、正社員以外の労働者(いわゆる非正規雇用者)が大幅
に増加し、働き方の二極化が進んでいること、女性の社会参加が進む一方で、子育て支援等の社会的基
盤が必ずしも対応しきれていないことなどの問題が生じている。憲章では、仕事と生活の調和と経済成
長は「車の両輪」であるとしている。誰もが意欲と能力を発揮し労働市場に参加することは国の活力と
成長力を高め、ひいては少子化の流れを変え、持続可能な社会の実現にも寄与するという。
政府の取り組みは、労働の価値を高めて人間の生活時間に占める労働時間(経済活動に要する時間)
の割合を縮小させることよりも、
むしろ少子化の問題がその推進の核心部分であるように思う。
しかし、
実物的な豊かさの追求を抑制し、自由時間を拡大することで、生活の中の選択肢を増やすことを目指し
ているという意味では、同じ方向を向いた取り組みであるといえる。

27
http://www8.cao.go.jp/wlb/government/20barrier_html/20html/charter.html

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ここでは、生活者の予算制約を緩和するとともに消費に対する誘因を高める財政マネタイズ、労働者
の余暇への選好を高めつつ所得の確保を可能にする政労使の取り組みである仕事と生活の調和という二
つの方向性から、定常的世界を脱却する術を考えた。以降では、近年の労働時間の推移と要因をみると
ともに、生活者が実物的豊かさを追求している中にあっていかにして日本経済は定常的世界となってし
まったのかを考える。そうした中で、これら二つの方向性の意義についても再確認することになるだろ
う。

mailto: kuma_asset@livedoor.com

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