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人口減少と投資の減退

流動性の罠では、名目金利はこれ以上低下しても投資が増加しないような「下限」に達する。名目金
利がその下限に達すると、それ以上貨幣を発行してもそれらはすべて生活者の家計の中に退蔵され、発
行された貨幣は意味をなさなくなる。この下限をクルーグマンらは名目金利の非負制約によって表現し
た。物価の下落が今後も続くと予想される中では、名目金利がゼロに達しても、企業が投資の水準を決
定するにあたって参照する実質金利は高止まる。よって、金融市場における金利調整メカニズムと政策
金利を目標とする中央銀行の伝統的な金融政策によって企業の投資を促進させ、所得ないしGDPを増
やすことはできなくなる。
こうして、経済全体が定常的な状態に止まる。もちろん、ピグー効果によって物価の下落が実質消費
を増加させる可能性は残るし、企業が資金の借り入れを行うことなく内部資金を活用して実質消費の増
加に見合う投資を行い、労働者を雇用することもある。それには、経済主体が予想する将来のインフレ
率の低下にあわせ、物価と賃金が継続的に下落し続けることが必要となる。この場合、経済のもつ潜在
的な供給力に見合う需要を得ることで、失業の問題を回避することも可能になる。しかし物価は、価格
の改定にともなって生じる「メニュー・コスト」の存在等から、経済の実物的側面の動きに合わせスム
ーズに下落するとは考えにくい。賃金もまた、雇用されている労働者にとっては顕示的な意味をもつも
のであり、その引き下げは容易ではない。すなわち、経済の循環的な変動を前提とした中で、完全失業
率の上昇を十分に回避することで完全雇用を達成することはほとんど不可能である。
人々の貨幣を保有したいという気持ちが強まることが結果的には失業者の増加につながることについ
て、ケインズは『一般理論』の中で、つぎのように表現している。40

喩えて言えば、失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象(貨幣)が生産
しえぬものであり、その需要が容易には尽きせぬものであるとき、人々が雇用の口を見つけるのは
不可能である。月も生チーズも大差ないことを大衆に納得してもらい、チーズ工場(中央銀行)を
公的管理のもとにおく、それ以外に苦境を脱出する途はない。

経済全体に定常性をもたらした原因として、流動性の罠にともなう投資の停滞とは別に、あるいはそ
れと分かちがたく結びつくものとして、人口減少という経済の長期に及ぶ構造的変化を指摘することが
できる。
人口減少社会とは、経済を維持・発展させていく上で不可欠な要素である労働力が希少化していく社
会を意味する。しかしながらそれは必ずしも人手不足社会が到来するとかひとりあたりの賃金が高まる
ことを約束するものではない。確かに労働力が希少になり潜在的な供給力を制約することになれば、企
業は労働節約的な投資を行い労働者ひとりあたりの資本の量(資本装備率)が増加するため、労働に対
する価値の配分である賃金は高まる。このため人口が減少すると人々はより豊かになることを指摘する
ような見方もある。この見方は、人口学者であったトマス・ロバート・マルサスの過剰人口論にも相通
じるものである。しかし同時にこの見方は、市場に供給される商品ないし労働力が価格調整メカニズム
を通じてすべて需要されることを前提としたモデルに基づいている。実際には、供給された商品ないし

40
ジョン・メイナード・ケインズ(間宮陽介訳)
『雇用、利子および貨幣の一般理論(上)
』 331 頁。

-28-
労働力がすべて需要されるとは限らない。人口が減少する中で、経済全体としてみた場合の需要(総需
要)が縮小することになり経済全体がデフレを基調とするようになれば、労働生産性は上昇しても賃金
は増えず、完全失業率は高まり、新たな社会不安の種を蒔くことにもなる。
こうした視点はジョン・メイナード・ケインズの『人口減少の若干の経済的帰結』41という 1937 年の
イギリス優生学会における講演録において指摘されたものである。42ケインズの人口論は、
『平和の経済
(1919 年)など初期の作品においては新マルサス主義43的な色彩が濃いものとなっており、過剰
的帰結』
人口という「マルサスの悪魔P.
」を懸念するものとなっている。この悪魔は、好ましい条件が続き生産
性が上昇しているときには鎖につながれているが、人口増加が引き起こす一時的に有利な状況が終わる
と解き放たれることになる。欧州の人々は第一次世界大戦の前まで、農業や原材料生産がもはや自己充
足的なものではなかったにもかかわらず、製品輸出に頼ることで高い生活水準を享受していた。しかし
その大きな人口は、戦争による産業破壊や集団移民の機会がない中で、もはや維持することはできなく
なっていた。ケインズは、第一次世界大戦後の出生率の低下は好ましい社会発展を促進するものだと感
じ、出産奨励主義者たちを批判した。また彼の時代のほかの知識人のように、より良識的な階級の出生
数がそうでない階級の出生数よりも先に低下するという優生学に反する帰結を懸念した。
しかしケインズは 1920 年代の後半に幾分急進的に心変わりをし、
彼の初期の経済的な悲観論と過剰人
口の危機についての新マルサス主義的な見方を否定するようになり、代わりに需要不足のリスクにより
関心をもつようになる。1933 年のマルサスに関する伝記的エッセイでは、過剰人口を懸念する人口学者
マルサスよりも需要の失敗を懸念する経済学者マルサスをより際立たせる。
そして 1937 年のこの講演録
において、人口減少という反対の危険、つまり 20 世紀において始めて 1930 年代に過剰貯蓄と過少消費
による失業という「マルサスの悪魔U.
」が解き放たれる現実的な可能性を指摘することになる。

ケインズによれば、人口の増加は資本需要に極めて重要な影響力をもつ。資本需要は、その資本を用
いて生産する際の予想収益に依存するが、人口の増加は将来の需要増加への期待を与えることで資本需
要を高める。もちろん資本需要に影響を与えるのは人口の増加だけではなく、生活者ひとりあたりの消
費(生活水準)や「平均生産期間」
(資本が消耗されるまでの期間を総合的にみたもので、それが長期化
することは、使用されている資本が耐久的なものであることを意味する)にも依存する。確かに生活水
準は、技術革新によって時代とともに高まっている。しかし一方で、時代が経過するにしたがい、おお
くの発明は一定の結果を生むために必要な資本を引下げる方法を発見することに向けられるようになり、
人間の選好は、あまり耐久的ではない資本財に向けられるようになった。すなわち「平均生産期間」は、
時代が経過するにしたがい減少せしめられるようになり、富裕になるにつれ、消費は平均生産期間の比
較的短い消費財、とりわけ他人のサービスに向けられる傾向をもつようになる。こうして、人口減少下
における資本への純増加は、生活水準の改善、ないしは利子率の低下に完全に依存するものとなる。

41
John Maynard Keynes “Some Economic Consequences of a Declining Population” (Eugenics Review,
vol. 29, Apr. 1937, pp.13-17)
42
以下の記述は、David Coleman “Introduction to John Maynard Keynes: Some Economic Consequences
of a Declining Population in Jones, S. and M. Keynes (eds) Twelve Galton Lectures. London” を
参照した。
43
「新マルサス主義」とは、生活水準の維持向上のために人口抑制が望ましいとし、その方法として産
児制限を主張する考え方である。

-29-
経済が発展するにつれ、製造業などの第二次産業の規模はしだいに縮小しサービス経済化が進む。特
に近年では、後述するように、主要な貿易財産業である製造業では、雇用者は減少しつつ労働生産性が
高まっている。上述のようなケインズの見方は、現代の日本経済にもあてはまるものである。
さらにケインズによれば「完全雇用はそれに対応する所得の大きさを持つとともに、それに対応した
貯蓄率=投資率をもつのであって、完全雇用が持続するためには、それに対応した投資率=貯蓄率が維
持されなければならない」44ことになる。完全雇用が達成され得るためには、それに応じた新たな資本
需要がなければならない──これはケインズのいう「基本的な心理法則」から論理的に導かれる事柄で
ある。ケインズは、英国における概括的なデータにもとづき、
「数年にわたる繁栄の均衡状態を確実なも
のとするために、われわれの制度と富の分配とを、所得のより小なる割合が貯蓄され得るように改変す
るか、あるいは、産出高に比してはるかに大なる資本の使用をともなう技術、またはそのような方向へ
の消費の極めて大なる変化が利益を生むに十分なほど利子率を引下げることが不可欠」であり、あるい
はこれら二つの政策をある程度までともに追求することが、より賢明な方策であるという長期的な展望
を述べている。
完全雇用の達成のためには、経済全体として貯蓄率を低下させるか、利子率を大きく低下させること
が必要になる。しかし、
「古いマルサス主義」によれば、ひとりあたりの資本資源の増加は生活水準にと
って著しく有利なものでなければならないのであって、人口増加はこの増加を遅らせることによって人
類の生活水準にとって害悪となる。この「古いマルサス主義」と上述のような長期展望との関係につい
て考えるとき、確かに定常的人口は生活水準の向上を促進するが、そのためには、人口の定常性によっ
て可能となるひとりあたりの資本資源の増加と、それに応じた所得と消費の増加が実際に起こることが
必要だ、ということに留意しなければならない。この条件が満たされないときには、
「マルサスの悪魔と
少なくとも同じ激しさをもったいまひとつの悪魔──有効需要の崩壊を通じて逃れ出てくる失業という
悪魔──」が逃れ出る。
「マルサスの悪魔P.が鎖につながれたいま、マルサスの悪魔U.の縛めの縄は
緩くなりがち」となり、
「われわれは以前にも増して資源の不完全利用という他の悪魔U.の脅威にさら
される」ことになるのである。
ケインズによれば、定常的人口の状態では、消費の増加、より平等な所得と低い利子率によって二つ
の「マルサスの悪魔」の均衡を最適に保つことが必要となる。しかしこれは容易に実現し得るものでは
ない。人口増加社会から人口減少社会へと移行するとき、人間は慣習に引きずられることによって過去
に似た状態が将来においても生じるものだと認識しがちであることから、所得再分配の程度や利子率を
新たな状態に則して改めることを躊躇する。ケインズはこの講演録の最後に、自身は古いマルサスの結
論から離反するものではないとし、ここで警告したいことは、一つの悪魔を鎖につなぐことは、もしわ
れわれが不注意であるならば、一層激しく一層耐え難いいまひとつの悪魔を解放することに役立つに過
ぎないことであると述べている。

ケインズの講演録は、人口減少下における需要不足問題を指摘するものである。このとき、資源の不
完全利用によって失業が生じる危険は高まり、資本需要は低下する。将来の需要増加に対する期待は弱
まり、企業が行う設備投資の予想収益率である「資本の限界効率」の低下にともなって利子率も低下す
る。そしてこの利子率の低下が、物価の下落が続く中である「下限」に達すれば、経済は流動性の罠に
陥ることもある。人口の減少傾向がはっきりしてくれば、将来の需要が収縮するであろうことを経済主

44
塩野谷九十九『経済発展と資本蓄積』 147 頁。

-30-
体が予想するため、このような変化は実際の人口減少に先立って生じることになる。人口減少は確かに
潜在的な供給力をも引き下げるであろうが、需要の収縮がそれに先んじて生じれば、過剰な供給力は完
全失業率を上昇させる要因となり、またそれ自体が経済をデフレに導くことになる。このようにして人
口減少社会では、経済が流動性の罠に陥る危険はつねにとなり合わせとなる。人口減少による需要の収
縮は、経済規模が不変な定常的世界を導くこととなるのである。

ケインズの講演録は、人口減少下において資本需要の低下が失業者を増加させる危険について警鐘を
鳴らすものであったが、一方で、流動性の罠は名目金利の非負制約によって生じるものであり、市場の
価格調整メカニズムがスムーズに働くような経済であっても生じ得るものである。この場合完全雇用は
達成され、たとえ所得は増えなくとも物価の下落に応じて実質消費が増えることで数量的な経済成長は
可能となる。ただし貨幣を基準にみた消費(名目消費)は増加しない。貨幣の発行を増やしても、名目
金利がゼロとなれば、それ以上の貨幣の増加は貯蓄として退蔵されることになる。
ケインズ革命以前の古典派の経済学では、
「供給はそれみずからの需要を創り出す」という法則(セイ
法則)が支配的であった。しかしその考え方は、貨幣は単に商品の交換のための媒体に過ぎないという
見方にもとづくものである。また、セイ法則が成り立つとき、非自発的な失業者は存在しない。つまり
完全雇用に対応する労働の投入がどんな水準にあったとしてもそこで需要と供給は均衡する。
実際には、
労働者にとって賃金の引き下げは受け入れがたく、経済全体として名目所得が減少することは結果的に
非自発的な失業者の増加を招く。しかしながらこの条件をいったん留保したとしても、経済は流動性の
罠に陥ることがある。流動性の罠に陥れば、国内のすべての生活者がものを買うために支出する貨幣の
額、すなわち有効需要は限られたものとなる。
日本における長期にわたるデフレ下の不況の下で、企業は非正規雇用者を増加させることによって名
目所得の削減を事実上達成することができた。
流動性の罠に陥った日本経済が 2002 年以降外需主導によ
る数量的な経済成長を実現した背景には、非正規雇用の活用によって擬似的な賃金調整を実現したこと
があったと指摘することができる。しかしくり返すが、賃金調整が可能な経済であっても流動性の罠に
は陥り得る。数量的に経済が成長し、完全失業率が低下していても、名目所得は停滞し経済的格差は拡
大する。これが 2002 年以降の長期間にわたる実感の乏しい経済成長の真相である。
このことは、いいかえれば労働市場の賃金調整メカニズムだけで流動性の罠から脱することは不可能
だということである。賃金調整メカニズムが可能にしたのは、不安定な働き方をする者をさらに増加さ
せることにすぎない。一方 1990 年半ばの時点では、物価の下落に応じた実質賃金の調整は困難であった
ため、完全失業率は急激に上昇している。

こうした見方とは異なり、日本の停滞の真相を労働市場の調整不良にあるとする説には根強いものが
ある。その中では、解雇規制など労働者保護のための制度の存在が障害となって労働生産性の低い産業
から労働生産性の高い産業へ労働者が移動することが円滑に行われず、ひいては日本の低成長の要因と
なっていることが指摘されている。もしこの説を受け入れるとするならば、労働市場の流動化を高める
ことが労働生産性と所得の上昇につながるはずである。しかし現実の経済をみると、物価は低下してい
るが名目所得は停滞を続け、
「生産性は上昇しても所得は増えない」という労働者にとって厳しい状況が
続いている。

-31-
野口旭は、
二つの財からなる一般均衡モデルの含意から、
「高生産生産業の縮小と低生産性産業の拡大」
という現象は極めて正常な産業構造調整の姿であることを指摘している。45生産性の上昇した財の生産
量が単純にその分だけ増加するとき、その財の相対価格は市場での過剰供給によって低下する。したが
ってその産業の要素報酬(賃金、利子)もまた他産業のそれよりも低下する。要素報酬の格差は、生産
性上昇産業から生産性一定産業への資本、労働の移転をもたらす誘因となるのである。
現実をみても、製造業等の第二次産業では生
(Fig.9) 労働生産性と就業者数
産性が高く、1990 年代以降サービス業等の第三
140
2008年
次産業の生産性を超えてより大きく高まる傾向
(労働生産性 2000年=100)

120 がみられるが、就業者数は減少を続け、その一
2008年 方で第三次産業の就業者数は傾向的に高まって
1991年
100 いる(Fig.9)。このような現象は、日本経済の産
業構造調整の不良に関係するものではなく、野
80
口が指摘するように、極めて健全な産業構造調
1980年
60 1980年 整の姿だといえる。なお一国の産業構造がしだ
60 80 100 120 いにサービス経済化することは先進諸国では普
第二次産業 第三次産業 (就業者数 2000年=100) 遍的にみられる現象であり、これがペティ・ク
(資料) 内閣府「国民経済計算」
ラークの法則とよばれていることは先に指摘し
たとおりである。
野口は、日本の長期不況期にみられたのは「総需要不足の結果としての擬似的構造問題」であるとす
る。仮に長期不況が生産性の低下など供給側の要因によって生じたのだとすれば、商品の供給に制約が
生じ、物価は上昇することになるだろう。またこの間完全失業率は大きく上昇しているが、後述するフ
ィリップス・カーブ(Fig.10)からもわかるように、
自然失業率の変化は小さなものであることが伺える。
こうした点を鑑みれば、長期不況の主因を総需要不足に求める野口のような見解は極めて妥当なものと
いえるだろう。非正規雇用者が増加したのも、雇用システムの変化にともなうものではなく、企業が賃
金調整の手段として非正規雇用者を活用したことによるものと考えられる。

(参考) ジョン・メイナード・ケインズ『人口減退の若干の経済的結果』
※塩野谷九十九による翻訳(塩野谷『経済発展と資本蓄積』所収)を一部変更


将来はけっして過去に似たものではない──そのことはわれわれのよく知っていることである。しか
し、一般的にいって、われわれの想像力とわれわれの知識とはあまりにも弱く、いかなる特定の変化が
期待されるかをわれわれに語ることを得ない。われわれは将来がいかなるものであるかを知らない。そ
れにもかかわらず、生活し活動する実在として、われわれは行動することを余儀なくされている。心の
平静と慰め[comfort]とは、われわれの予測[foresee]するものがいかに僅かであるかということを、わ
れわれ自身に隠すべきことを要求する。しかもわれわれは何らかの仮説によって導かれなければならな
い。それゆえに、われわれは、達しがたい知識に代えるにある種の慣習[conventions]をもってしようと

45
野口旭『日本経済の長期停滞は構造問題が原因か─産業構造調整不良説の批判的検討─』
(浜田宏一、
堀内昭義編集『論争 日本の経済危機』所収)。

-32-
するのであって、そのうちの主なものは、あらゆる可能性[likelihood]とは逆に、将来は過去に似るで
あろうと想定することである。これがわれわれの実際に行動する仕方である。19 世紀における自己満足
のひとつの要素[ingredient]であったと思うのであるが、人々は人間行動への哲学的反省において、ベ
ンサム学派のとてつもない新考案[contraption]を受け入れていた。それによると、行動の代替案
[alternative courses of action]の可能なすべての諸結果はそれらに、第一には、それらの相対的有利
さ[comparative advantage]を示す数が、そして第二には、問題の行動案から続いて起こること
[following]の確率を示す別の数字が付されており、したがって、ある所与の行動[a given action]の可
能なすべての結果に付された数を掛け合わせ、その結果を足し上げる[adding the results]ことによっ
て、われわれは何をなすべきかを発見することができる。このような方法によって、あり得べき知識
[probable knowledge]の架空的な体系が、将来を現在と同じ計算可能な状態にまで還元するために用い
られた。何人もかつてこのような理論を基礎として行動したことはない。しかし、私は、今日でさえわ
れわれの思惟がときどきこのようなえせ合理主義的観念[pseudo-rationalistic notions]によって影響
されていると信ずる。
ところで、今夜私が強調したいことは、それによってわれわれが将来を合理的である以上に過去と似
たものであると想定するこの慣習──われわれの何人もがそれなくしては済まし得ない行動の慣習──
の重要さである。なぜなれば、私の考えでは、それはわれわれが確定的な変化を期待すべき十分な理由
をもつ場合においてさえわれわれの心を支配し続けるからである。そして、おそらく、われわれが実際
に将来を見通すかなりの力をもつ場合のもっとも顕著な例は、人口の予測される趨勢である。われわれ
は、
将来に関するほかのほとんどいかなる社会的ないし経済的要因について知るよりもはるかに確実に、
われわれが過去幾十年もの間経験した着実で[steady]しかも急角度な人口増加に代わって、遠からず定
常的なまたは逓減的な水準に直面するであろうということを知っている。低下の率については疑問があ
る。しかし、転換が、われわれのこれまで慣れていたものに比べて、大となるべきことは事実確かであ
る。われわれが将来に関してこの異常な程度の知識を持っているのは、人口統計の結果[effects]におけ
る長期にわたる、しかし確定的なタイムラグのゆえである。それにもかかわらず、将来が現在と異なっ
ているという観念はわれわれの思惟と行動の慣習的様式に矛盾する[repugnant]ものであるから、
われわ
れ──われわれのほとんどは、実際にそれを基礎として行動することに大なる抵抗を加える。事実、人
口増加が減少に転じている結果、すでに予測し得る若干の重要な社会的諸結果が存している。しかし、
私の今晩の目的は、特に、この差し迫った変化のひとつの顕著な経済的結果を取り扱うことにある。も
し、すなわち、私が、しばらくにもせよ、諸君を、諸君の心の確立された慣習から離れて、将来が現在
とは異なったものであるという観念を受け入れるよう、十分に説得することができるとするならば。


人口増加は資本需要に極めて重要な影響力を持っている。資本需要が──技術的変化と生活水準の向
上とから離れて──人口とおおかれ少なかれ比例的に増加するのみではない。企業期待は予測された需
要よりははるかにおおく現在の需要に依存するものであるから、人口増加の時代は楽観を促進する傾向
をもっている。けだし、需要は一般に希望されたところを、下回るよりはむしろ、超過する傾向にある
からである。のみならず、特定類型の資本の一時的過剰をもたらすような誤りは、このような状態のも
とでは急速に修正される。しかし、人口減少の時代にはその逆があてはまる。需要は期待されたところ
を下回る傾向をもち、超過供給の状態は容易には修正されない。かくして、悲観的な雰囲気が生じ、つ
いには悲観はそれの供給への効果を通じておのずから修正され得るであろうけれども、人口増加から人

-33-
口減少への転換の繁栄への最初の影響は極めて悲惨な[disastrous]ものであろう。
19 世紀およびそれ以降における資本の巨大な増加がいかなる原因によるかを査定する際、他の影響力
を除外した人口増加の影響力には、これまであまりにも僅かの重要性しか与えられなかったように思わ
れる。いうまでもなく、資本需要は三つの要因に依存する。人口、生活水準、および資本技術がそれで
ある。ここで資本技術というのは、現在消耗している[currently consumed]ものを調達する[procuring]
効率的方法としての長期プロセスの相対的重要性を意味するのであって、便宜上私が生産期間とよび得
ると考えている要因である。それは、大まかにいえば、なされた仕事と製品の消耗との間に経過する期
間の加重平均である。いいかえれば、資本需要は、消費者数、消費の平均水準、および平均生産期間に
依存するのである。
今日、人口の増加が資本需要を比例的に増加せしめることは必然的事実である。そして、発明の進歩
は生活水準を高めるものと期待され得る。しかし、発明の生産期間への効果は、時代の特徴をなす発明
の型に依存する。19 世紀においては、交通、住宅の標準および公共サービスの改善がこうした特徴をな
すものであり、これらはいくらか消耗期間[period of consumption]46を増大せしめる傾向のものである
ことは真実であったのかも知れない。高度に耐久的なものがヴィクトリア時代の文明の特徴であったこ
とは周知のことである。しかし、今日同じことが真実であるかどうかは同様に明らかなことではない。
おおくの近代の発明は、一定の結果を生むに必要な資本投下量を引下げる方法を発見することに向けら
れている。そして部分的には、嗜好および技術の変化の急激さに応じたわれわれの経験の結果として、
われわれの選好はあまり耐久的ではない型の資本財に決定的に向けられている。したがって、私は、現
在の技術の変化がそれ自体において平均生産期間を著しく増大せしめる傾向をもつ種類のものであると
は信じない。利子率のあり得べき変化の効果を別にして考えれば、平均期間は減少する傾向にあるとい
うのが事実ですらあり得るであろう。のみならず、平均消費水準の改善は、ことによると、それ自体に
おいて、平均生産期間を減少せしめる効果をもち得るかも知れない。富裕になるにつれて、われわれの
消費は平均生産期間の比較的短い消費財、
とりわけ他人のサービスに向けられる傾向にあるからである。
いま、もし消費者数が減少し、生産期間の顕著な技術的延長に期待できないとするならば、資本財の
純増加への需要は、平均消費水準の改善か、あるいは利子率の低下に完全に依存するものとなる。関係
する異なる要因別の桁数の大きさ[order of magnitude]を比較してみるために、試みに、ほんの少しと
てもラフな数字を出してみよう。
1860 年から 1913 年までの約 50 年間という期間を考えてみよう。私は技術的生産期間の長さが重要な
変化を示したという証拠を見出さない。実物資本の数量統計は特別の困難さ[special difficulties]を
示す。しかし、われわれのもつ統計は、産出物一単位を生産するのに用いられる資本量に大なる変化が
あったことは、これまでのところ示唆してはいない。最も高度に資本化されたサービスのうちの二つ─
─住宅と農業のそれ──は、確立されてからすでに古い。農業は相対的重要性を縮小させてきた。もし
人々が住宅へ支出する彼らの所得の割合を明らかに増加させていたならば、そのときにおいてのみ──
そのことについては、戦後において、実際、若干の証拠がある──、私は、技術的生産期間の顕著な延
長を期待すべきであろう。戦前 50 年間においては──その間、利子率の長期平均[the long-period
average of the rate of interest]はかなり安定的であった──、生産期間の延長は、もしいくらかあ
り得たとしても 10%を超えなかったとみることに若干の確信がある。
ところで、この同じ期間に、イギリスの人口は約 50%増加し、イギリスの産業および投資が支えてい

46
塩野谷訳では「生産期間」としている。

-34-
た人口はそれよりもはるかに大なる割合で増加した。そして生活水準は約 60%程度増加したに相違ない
と想像される。かくて、資本需要の増加は、主として、人口増加と生活水準の向上とに帰し得るもので
あったのであり、消費一単位あたりの資本増加を要求するたぐいの技術変化には僅かの桁数分しか帰し
得ない。要約すると、信頼し得る人口統計は、資本増加の約半分が人口増加をまかなうべく要求された
ものであったことを示している。おそらく数字はつぎのようなものであったであろう。もっとも、これ
らの結論は極めて粗雑であって、事態の経過への大まかな指針としてのみみなされるべきものであると
いうことは強調したいところであるが。

1860 年 1913 年
実物資本 100 270
人 口 100 150
生活水準 100 160
生産期間 100 110

したがって、生活水準の同じ改善と生産期間の同じ延長のもとでの定常的人口は、実際に起こった資
本存在量の増加の半分よりも僅か大なる増加を要求したに過ぎなかったであろう、ということになる。
のみならず、国内投資のほとんど半分が人口増加によって要求された一方で、当時の対外投資のおそら
くはそれよりもかなり高い割合が、この原因に帰し得るものであったであろう。
他方、平均所得の増加、家族の大きさの減少、その他数おおくの制度的ならびに社会的影響力が、完
全雇用状態のもとにおいて貯蓄されるであろう国民所得の割合を高めることは可能であっただろう。私
はそのことについて確信をもってはいない。なぜなれば、それとは逆の方向に作用する他の諸要因──
特に目立ったものとしては、極めて裕福な者への課税のごとき──があるからである。しかし、私は、
今日完全雇用状態のもとにおいて貯蓄されるであろう国民所得の割合は、年々の所得の8%と 15%との
間のどこかにあるといって間違いないと思う──そして私の議論にとってはそれだけで十分である。一
体、資本存在量の年々のいかなる比例的増加がこの貯蓄率をともなう[involve]であろうか。これに答え
るためには、現存する資本存在量が、われわれの国民所得の幾年分を代表しているかを推定しなければ
ならない。それはわれわれの正確に知る数字ではない。しかし、桁数の大きさを示すことは可能である。
諸君はおそらく、私がその答えを諸君に語った場合、それが諸君の期待するものとかなり違っているこ
とを発見するであろう。現存の国民資本存在量は一年の国民所得の約4倍に等しい。すなわち、もし我
が国の年々の国民所得が 40 億ポンドの近傍にあるとすると、
我が国の資本存在量はおそらく 150 億ポン
ドである。
(ここでは私は対外投資を含めていない。もしそれを含めるとすると、数字は、大体 4.5 倍に
高まるであろう。
)したがって、一年の所得の8%ないし 15%の率の新投資は、年2%ないし4%の資
本存在量の累積的増加を意味するであろう。
議論を要約しよう。私がこれまで二つの暗黙の想定を設けてきたこと──すなわち、富の分配または
貯蓄される所得の割合を左右するすべての要因に急激な変化がなく、さらに、平均生産期間の長さを大
きく修正するに足るような利子率の大なる変化がないということ──に留意されたい。この二つの想定
の撤去については、後に顧みられる。しかしながら、これらの想定の上に立ち、われわれの現存組織が
そのままであって、かつ繁栄と完全雇用の状態のもとにおいては、われわれは年々2%ないし4%に達
する資本存在量への純追加需要を発見しなければならないであろう。そしてこのことが年々限りなく続

-35-
かなければならないであろう。以下においては、低い推定──すなわち2%──を採用しよう。なぜな
らもしそれが低すぎるとすれば、議論はかえって強化[fortiori]されるからである。
これまでのところ、新たな資本需要は二つの源泉から生ずるものであって、その各々はほぼ均等な力
を持つものである。その47半分よりやや少ない部分が人口増加の需要に適合し、その半分よりやや大な
る部分が、ひとりあたりの産出高を増加せしめて生活水準を向上せしめるところの発明および改善のた
めの需要に適合するものであった。
現在のところ、過去の経験は、生活水準の年1%以上の累積的増加はほとんど実行できないことを示
している。たとえ発明の豊かさがそれ以上のものをゆるし得たとしても、われわれはそれにともなう以
上の変化率に、容易に順応することができない。この国においても過去百年間において改善が年1%の
率を超えた 10 年ないし 20 年はあり得たであろう。しかし、一般的にいって、改善率は年1%以下の累
積率であったようにみえる。
諸君は、私がここで、資本一単位がより少ない労働量の助けによって生産物一単位を生産できるよう
にする発明と、生み出される生産物に比して使用される資本量をより大ならしめる変化を導く発明とを
区別していることを知るであろう。私は前者の部類の改善が最近におけると同じように将来もまた進展
するであろうということを想定しているのであって、しかもそれらが近い将来においてわれわれが過去
において経験した最善の水準を超えるであろうということを私の想定として採用する用意がある。そし
て私はこの部類に属する[falling under this head]発明が、完全雇用と定常的人口との状態を想定した
場合のわれわれの貯蓄の半分よりもはるかにおおくを吸収し得る可能性はないであろうと計算する。し
かし、第二の範疇においては、各種の発明がそれぞれの仕方でそれを打開する[cut some way and some the
other]ため──不変の利子率を想定すれば──発明の純結果は生産高一単位あたりの資本需要を変化せ
しめるかは、いずれにしても[one way or the other]明らかではない。
したがって、数年にわたる繁栄の均衡状態を確実なものとするためには、われわれの制度と富の分配
とを、所得のより小なる割合が貯蓄され得るように改変するか、あるいは、産出高に比してはるかに大
なる資本の使用をともなう技術、
またはそのような方向への消費の極めて大なる変化が利益を生む[make
profitable]に十分なほど利子率を引下げることが不可欠であるということになる。
あるいはいうまでも
なく、最も賢明な方法であるが、われわれは二つの政策をある程度までともに追求することができる。


一体、このような見解は、ひとりあたりの資本資源(古い著述家たちによっては主として土地のかた
ちで想像されている)の増加は生活水準にとって著しく有利なものでなければならないのであって、人
口増加はこの増加を遅らせることによって人類の生活水準にとって害悪となるとする古いマルサス理論
といかなる関係を持つか?一見、私はこの古い理論に抗議し、それとは逆に、人口減退の段階は繁栄の
維持を以前に比べて著しく困難なものたらしめると主張しているようにみえる。
ある意味においては、それが私のいっていることの正しい解釈である。しかし、もしここに古いマル
サス主義者が出席しているとすれば、私が彼らの本質的な議論を否定していると彼らに想像せしめては
ならない。たしかに、定常的人口は生活水準の向上を促進[facilitate]する。しかし、そのことはひと
つの条件のもとにおいてのみ可能である。すなわち、場合によっては[as the case may be]人口の定常
性によって可能となる資源または消費の増加が、実際に起るということである。われわれがすでに学び

47
塩野谷訳には「
〔新たな資本需要の〕
」との注釈が挿入されている。

-36-
知っているとおり、われわれはマルサスの悪魔と少なくとも同じ激しさをもったいまひとつの悪魔──
有効需要の崩壊を通じて逃れ出てくる失業という悪魔──をわれわれのすぐ近くにもっている。おそら
くわれわれはこの悪魔をもまたマルサスの悪魔と呼び得るであろう。なぜなれば、この悪魔についてわ
れわれに最初に語ったのはマルサス自身であったからである。けだし、若きマルサスが彼の身辺にみた
人口の事実によって心の安静をかき乱され、その問題を合理化しようとしたと同じように、後年のマル
サスは彼の身辺にみた失業の事実によって心の平静をかき乱され、
その問題をもまた──他の国々に[on
the rest of the world]与えた彼の影響に関するかぎり前の場合に比べてはるかに成功的ではなかった
けれども──合理化しようとしたからである。マルサスの悪魔P.が鎖につながれたいま、マルサスの
悪魔U.の縛めの縄は緩くなりがちである。人口の悪魔P.が鎖につながれたときには、われわれはひ
とつの脅威から自由となる。しかしわれわれは以前にも増して資源の不完全利用という他の悪魔U.の
脅威にさらされる。
私が主張しようと思うことは、定常的人口の場合には、われわれの繁栄と人民の平和の維持は、一層
平等な所得の再分配によって消費の増加を図るとともに、生産期間の長さを大きく変化[substantial
change]せしめることを有利ならしめるよう利子率を引下げるという政策に絶対的に依存することにな
る、ということである。もしわれわれが、確固たる目標を持って、これらの諸政策を追求しないとする
ならば、間違いなくわれわれはひとつの悪魔を鎖につなぐことによって得らるべき[stand to gain]利益
を欺き取られ、他の悪魔のおそらくは一層耐え難い略奪[depredations]の被害をこうむることになるで
あろう。
しかも[Yet]、必要な変革に抗しようとする社会的政治的諸力が存するであろう。おそらくそれを徐々
に実現するのでなければ、賢明な変革は不可能であろう。われわれはわれわれの前にあるものが何であ
るかを予見し、それに対応するよう半ば漸進する必要がある。もし資本家協会[capitalist society]が
所得の一層平等な再分配を拒否し、
銀行および金融勢力が 19 世紀を通じて支配した平均的水準に近い利
子率(ついでながら[by the way]、それは今日支配している利子率よりはやや低いものであった)を維
持することに成功するならば、資源の不完全利用への慢性的傾向は、ついにはこの社会形態を弱体化し
[sap]破壊せざるを得ない。
しかし、
他方、
もし時代の精神と啓蒙とによって説得され指導されるならば、
それは──それが可能であると私が信ずるように──蓄積へのわれわれの態度48の漸次の発展を許容す
る。よってそれは定常的または逓減的人口の状態に適合され、おそらくわれわれは両方の世界の最善の
もの──われわれの現体制のもつ自由と独立を維持し、他方それのより明白な欠陥[its more signal
faults]が、資本蓄積の重要性とそれに付与される報酬が、社会機構のうちにおいてその適切な位置にま
で引き下げられるにつれて、漸次安楽死[euthanasia]を遂げるに至るということ──を獲得することが
できるであろう。
あまりにも急速な人口の減退は、明らかにおおくの激しい問題を含むであろう。そして、今晩の議論
の範囲を超えたところには、その現象あるいはその現象の脅威において、それを防止するための諸方策
がとられるべき強い理由がある。しかし、定常的なまたは逓減的な人口は、もしわれわれが必要な力と
知恵とを用いるならば、生活水準をあるべき水準にまで高めることを可能ならしめるであろうし、他方
においてわれわれの伝統的な生活様式のうち、それが失われたならばいかなる事態が起こるかを知るが
ゆえに現在われわれが高く評価する部分を維持するであろう。
したがって、最後的な総括としては、私は古いマルサスの結論から離反するものではない。諸君に警

48
塩野谷訳には「
〔貯蓄性向〕
」との注釈が挿入されている。

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告したいことは、ただ、一つの悪魔を鎖につなぐことは、もしわれわれが不注意であるならば、一層激
しく一層耐え難い[intractable]いまひとつの悪魔を解放することに役立つに過ぎないであろうという
ことである。

参考文献
1.John Maynard Keynes “Some Economic Consequences of a Declining Population” (Eugenics Review,
vol. 29, Apr. 1937, pp.13-17)
2.塩野谷九十九『経済発展と資本蓄積』
(東洋経済新報社 1951 年)

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