You are on page 1of 5

雇用システムの理論

雇用問題は、ミクロ経済的な資源配分に関わるとともに、マクロ経済の変動とも密接に関わる。ここ
では、雇用問題について検討するにあたり、その枠組みとしてまずは「雇用システム」
「雇用システム」という概念をと
「雇用システム」
りあげる。62『雇用システムの理論』の著者であるデーヴィッド・マースデンによれば、雇用システム
とは、個々の企業の中で従業員を管理する仕組みであるとともに社会的な制度でもある。雇用システム
は労働市場という概念に対するオルタナティブとして提示された概念ではない。それはひとつの社会の
中で、労働市場を包摂する雇用の秩序の大系である。
企業の人事管理や賃金・給与の一般的な制度には国ごとに一定の特徴がみられる。この特徴を、以後
の議論ではマースデンによる枠組みにしたがってみていくことになる。こうした国ごとに特徴をもつ多
様な雇用システムを考慮しない雇用に関する提言や論考は、もしそれが実現されることになれば、一国
経済全体の効率性や社会の安定性を損なうことになる。
例えば経済学の理論では、労働者が受け取る賃金は、労働を1単位追加したことによる収益の増分で
ある労働の限界生産性となる。すなわち企業が利潤を最大化するよう経営を行い、その条件のもとで、
労働者の賃金は労働の限界生産性に一致するよう決定されることになる。このとき、賃金が増加(減少)
することは労働の限界生産性が上昇(低下)したことを意味するため、労働需要は減少(増加)する。
こうして労働市場における需要曲線は右下がり(賃金が減少すると労働需要は増加)となり、これが労
働供給と均衡するとき、もっともおおくの労働力が企業に雇用され、その意味において労働市場は効率
的となる。これを事実として受けとめる論者は、企業の利潤最大化と雇用の最大化のため、労働市場に
おける自由な取引関係を阻害する労働者の交渉力や法令等によるさまざまな規制に否定的な態度をとる。
実際には賃金や価格には粘着性があり、労働者の受け取る賃金は労働市場の需給関係いかんによって
即時に調整されるわけではない。しかしこの点を留保したとしても、そもそも労働者が現実に受け取っ
ている賃金は、その労働者が提供する労働力が生み出す価値だけで決まるものではないとすれば、上述
のような労働市場論にもとづく判断にはさらなる疑問が付されることになる。
労働者が受けとる賃金はその提供する労働力が生み出す価値だけによって決定されているのだろうか
──この問いはいまだ「開かれた問い」である。しかしこの問いに対するマースデンの回答は明快であ
る。使用者(同書の中では「雇用者」
)と労働者は、雇用関係が継続している期間にわたって相互に「義
務の束」を交換しあっているのであって、労働力の売買というスポット的な契約を交わしているわけで
「労働の価格は数字としてではなく、ルールとして取り扱われるべきである」63とさ
はない。このため、
れる。
この立場は、賃金は単に労働に対する対価と考えるべきではなく生計費に応じたものとすべきだ、と
するような見方とも異なっている。青木昌彦と奥野正寛らは、経済システムをさまざまな制度の集まり
と考えることで多様な経済システムとそのダイナミズムを分析しようとする経済学の分野を「比較制度
分析」とよび、日本経済をこの立場からさまざまな側面を通して分析している。64マースデンの雇用シ
ステムの理論では、雇用と賃金の仕組みについて、いうなればこの比較制度分析の立場から国際比較を

62
以下の議論は、デーヴィッド・マースデン(宮本光晴、久保克行訳)
『雇用システムの理論 社会的
多様性の比較制度分析』を参照した。
63
マースデン前掲書 228 頁。
64
青木昌彦、奥野正寛編著『経済システムの比較制度分析』。

-48-
通じつきつめた分析を行っており、国家権力や道徳などの規範性に関わる議論はその理論の背後に後退
している。

雇用システムの基礎を形作るのは雇用契約である。ロナルド・コースによれば、雇用契約とは、使用
者に対し労働者が行う仕事をある範囲内で特定化する権限を与えるものである。またハーバート・サイ
モンによれば、雇用契約では、使用者と労働者がある一組の仕事について合意し、契約が結ばれた後に
その中から使用者は選択できる。いずれにせよ、雇用契約とは契約を締結する時点ではその内容を明確
に定めることのできない不完備契約である。労働力をスポット的に売買するのではなく、雇用契約とい
う形態を選択することの使用者にとってのメリットは、人の管理に費やす時間を節約し生産組織を柔軟
に変え得るものにするとともに、将来の不確実性がある中でも確実に労働力を利用できるようにするこ
とである。一方労働者にとってのメリットは、雇用の継続によって所得の安定を得ることである。
スポット的な契約によって労働力を適宜調達できるようにすることで使用者は経営の柔軟性を確保す
ることができるようになる、というもはや人口に膾炙した労働市場論的な見解があるが、一方で上述の
ようなそれとは異なる見解をとった場合、雇用契約によって労働者を一定期間企業に結びつけることの
方が、使用者に柔軟性の獲得と不確実性への対応を可能にすることになる。また雇用契約の実行可能性
は、労働市場とその基盤となる制度や経済全体の状況に依存する。すなわち世の中においてスポット的
契約が主たる部分を占め流動的な労働市場が存在していれば、労働市場における探索コストは使用者と
労働者双方にとって小さなものとなり、雇用契約は必ずしも有利なものとはならないが、逆に(日本の
ように)長期間継続する雇用契約が主たる部分を占めていれば、流動的な労働市場の規模は小さくなり
探索コストが高まるため、雇用契約は双方にとって有利なものとなる。
加えて、バブル期のように雇用情勢が事実上完全雇用を達成されているような場合、使用者にとって
必要な労働力を外部から即時に調達することは困難なものとなるため、雇用契約により労働力を安定的
に確保することで生産量の確保を可能にすることは、経営上より有利な戦略となる。デフレ下にある現
在の日本ではこれとは反対のケースが生じており、使用者は外部から労働力を確保することが容易であ
る。
雇用契約によって労働者との長期的な関係を維持することにはコストが生じるが、一方で市場での取
引にもコストは発生する。コースが指摘するように、取引相手の探索、契約の締結、およびその後の履
行監視にかかるコスト(取引コスト)が大きい場合、雇用契約による労働者との長期的な関係は必ずし
も非合理的な選択とはならない。また、取引コストが存在するということ自体、企業(法人)という組
織によって生産活動が行われることの根拠でもある。
このように、雇用契約は経済学の理論が前提とする条件の下でも効率的な選択となり得る。しかしそ
れは、あらゆる経済主体が情報の収集、情報の処理、情報の伝達について完全であることが前提である。
現実には経済主体の能力には限界があるため、合理的な行動は限定的であるかもしれず(限定合理性)

市場では売手と買手の間には情報の非対称性がある。これらは、使用者と労働者の双方に機会主義的な
行動をとることへの誘因を与えるものとなり、特に雇用契約の不完備性によって機会主義的な行動は増
幅され、雇用契約の利点は容易に浸食される。雇用契約の下で柔軟な生産組織を実現しつつ機会主義的
な行動を抑制するための制度的な仕組みを創ろうとする中で、さまざまな形態の雇用システムが生まれ
る。
雇用契約は、工業化の進展によってそれまでの労働請負制に替わり広くみられるようになったもので
ある。日本も例外ではなく、日露戦争後の重化学工業化の進展によって生産技術が高度化し、それまで

-49-
の「親方」による間接的な雇用管理に替わり、大工場がみずから熟練工を養成するようになったことに
端を発している。熟練工を養成することには当然コストが生じるため、企業は長期的な雇用契約によっ
て熟練工を「囲い込む」ことが必要となったのである。雇用契約が広くみられるようになった理由とし
てマースデンが指摘するのは、労働請負制は必要に応じた労働力の調達を約束するものではなかったこ
と、企業が要求する技能を形成しようとするインセンティブが労働者に欠如していること、ある種の機
会主義をコントロールすることが困難であること、労働請負業者の強欲によって生じる社会的混乱、そ
してある種の取引コストの存在である。

このようにみると、雇用契約とはあらゆる国に共通して歴史的に登場し得るもののように思われるか
も知れない。実際、各国の文化やそれぞれの文化がもつ規範性をよりどころとせず、共通の枠組みの下
で成り立つ理論を構築していることがマースデンの『雇用システムの理論』の特長である。しかし同時
に、各国の制度や規範性に応じ、雇用システムは多様な形で進展してきたことも事実である。
雇用契約が使用者と労働者の双方にとって有利なものとなり、実行可能な形態となるためには、
「効率
性」と「履行可能性」という二つの制約をクリアすることが必要となる。雇用関係のルールが生産効率
的であり履行可能であることが雇用契約が選択される理由であり、さもなくばスポット的な契約が選択
される。これら二つの制約を解決する方法として、それぞれ二つのアプローチが考えられている。二つ
の制約と二つのアプローチによって、4つの異なる取引ルールができる(Fig.1)。
効率性の制約からみてい
(Fig.1) 雇用システムの類型

効率性の制約
こう。
「生産アプローチ」で
履行可能性の制約
生産アプローチ 訓練アプローチ は、職場においてそれぞれ
「職務」ルール 「職域」/「職種」ルール の職務にあたる労働者を最
業務優先アプローチ
(米、仏) (英) 小化するよう仕事が構成さ
「職能」ルール 「資格」ルール れる。一方「訓練アプロー
機能優先アプローチ
(日) (独)
チ」では、教育訓練コスト
(出典) マースデン前掲書
を最小化するため技能の利
用水準が高まるよう仕事が構成される。技術的な補完性を優先し仕事に人をあわせるのが生産アプロー
チである。一方、英国のようにクラフト(熟練した職能)別の労働組合が存在したり、ドイツのように
職業教育が重視されていることによって職業別労働市場が形成されている場合には、企業の仕事の構成
を労働市場における職業区分にあわせることが必要となり、
訓練アプローチを選択する誘因が強くなる。
つぎに履行可能性の制約をみる。
「業務優先アプローチ」では、使用者が個々の労働者に割り当てる仕
事の性質を特定化することによって雇用契約の不完備性の問題をコントロールする。生産アプローチの
場合は職務記述書を用い(
「職務」ルール)
、訓練アプローチの場合は業務に用いる工具や材料を特定化
する(
「職域」/「職種」ルール)
。一方「機能優先アプローチ」では、使用者の権限を明確化すること
に加え、さまざまな仕事の要求と労働者の能力の間の一致を図るため、労働者をカテゴリー別に組織化
する手続きを明確化する。生産アプローチでは労働者と仕事をその複雑さ等に応じた「ランク付け」の
手続きが採用され(
「職能」ルール)
、訓練アプローチでは受けた訓練のタイプに応じて組織化する手続
きが採用される(
「資格」ルール)

「雇用システムの理論」は、労働市場と人的資源管理に関わる制度理論である。ダグラス・ノースに
よれば、制度とは、人々の相互行為にある安定的な構造を確立することによって不確実性を縮減するメ
カニズムであり、それが実行可能であるためには、拘束力を備える必要がある。
「雇用システムの理論」

-50-
では、
企業と労働者が雇用契約を結ぶとき両者は互いに履行可能であることを求めた義務を交換し、
個々
の企業と労働者の選択は他の企業と労働者の選択にも影響を及ぼす。
雇用システムが意味するのは、
個々
の企業の中で従業員を管理する仕組みであるとともに社会的な制度でもある。
4種類の取引ルールは、統治主体によって強制されることなく、各国ごとに多様な形で制度化される
ことになる。マースデンはこの過程について、メイナード・スミスによって提示された「進化論的安定
戦略」
(ESS)に部分的に類似した関係があると指摘する。
「進化論的安定戦略」とは、多数の動物種
の間の縄張りルールの生成と普及を説明するために用いられたもので、一つのルールがひとたび広がる
と他人の行動の予測可能性が高まり、そのルールが広範囲に広がることでルールに対する信頼性も高ま
る。これと同様に、集団的な調整が存在しなくとも4種類の取引ルールは広く普及するようになる。こ
のように雇用システムとはいわば「自生的秩序」であって、その秩序は、経済主体の予測可能性を高め
不確実性を縮減することに寄与しそれによって経済の効率性を高めるものとなる。
ロバート・フランクがいうように、
「囚人のジレンマ」状態では機会主義的な行動は自己利益につなが
らず、むしろ公正にふるまうことが自己利益につながることがある。65公正にふるまうことは信頼を形
作り、コミットメント・モデルが形成されることで不確実性が低下し自己利益がもたらされることにな
る。マースデンのいう雇用システム(4種類の取引ルール)は、それぞれがコミットメントを強化する
役割を果たすことで機会主義的な行動を抑制し、予測可能性を高め、雇用契約の効率性と実行可能性を
高めることになるのである。

日本の事例をもとに考えてみよう。日本の雇用慣行としては、長期雇用、年功賃金、企業別労働組合
といういわゆる「三種の神器」がその特徴を表すものとされている。これらはそれぞれが密接に結びつ
き、不可分な要素として形作られたものである。
上図(Fig.1)の演繹的に導かれた取引ルールの分類にしたがえば、日本の雇用システムは、まず仕事の
プロセスを重視し、職業訓練においては職場でのオン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)を通じて、
企業が労働者の教育訓練を行うことの比重が大きいため、訓練アプローチよりも生産アプローチに近い
ものである。訓練アプローチでは、職業別労働市場を通じて労働力を調達し労働者の技能に応じて仕事
を構成することが要求される。労働者の教育訓練はオフ・ザ・ジョブ・トレーニング(Off-JT)
が中心となり、そのコストを節約するため、仕事の標準化が求められる。一般的には職業別労働市場が
明確に存在せず、新規学卒者の定期採用によって基幹的労働者を採用する日本の雇用システムでは、訓
練アプローチのような仕組みは脇におかれるものである。
また日本の雇用システムでは、個々の労働者に割り当てる仕事は必ずしも明確化されておらず、職能
に応じ労働者をグレード・等級別にカテゴライズし、それぞれのカテゴリーに応じた仕事を人に応じて
割り当てる。66このことは、上図の分類をもとに考えると、職務ルールよりも職能ルールに近いことを
示すものである。職務ルールでは、責任の範囲が不明確とならないよう、職務遂行にあたって労働者が
互いに協力し合うことに使用者は反対する。しかし職能ルールでは、労働者の仕事の境界には重なり合
う部分が生じ、協調性が促される。さらに職務ルールでは、
「ふだんと異なる作業」に対処するための特
別の職務・ポストが必要となるが、職能ルールでは、
「ふだんと異なる作業」は職場集団に学習の機会を

65
ロバート・フランク(山岸俊男監訳)『オデッセウスの鎖 適応プログラムとしての感情』。
66
日本の長期雇用は、「企業内での長期雇用」であって同一の仕事(ジョブ)での長期雇用ではない。
濱口桂一郎は、「日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップ」であるとして
いる(『新しい労働社会──雇用システムの再構築へ』)

-51-
与えるものとなる。このように職能ルールとは、一定の制約下において、労働者に裁量を認めるような
雇用のルールである。
この議論は、小池和男による「知的熟練」に関する議論をもとにしている。67知的熟練論は、日本の
長期雇用システム、特に大企業ブルーカラー層において日本的特徴がみられる技能形成システムを論じ
たところに重要な意義がある。年齢階級別の賃金について国際比較を行うと、ホワイトカラーについて
は各国共通して 40~50 歳代まで年齢が高まるごとに(勤続や経験を通じ)賃金が高くなる傾向がみられ
る。一方日本に特徴的なのは大企業ブルーカラーであり、この層では日本の賃金はホワイトカラーと同
様年齢が高まるほど賃金が高くなる傾向をもつのに対し、
米国や英国では 20 歳台までは急激な賃金の上
昇があるもののそれ以降は横ばいで推移する。このような違いが生じる理由として小池が指摘するのが
知的熟練の存在である。
生産ラインで働く直接生産労働者の一見単調にみえる労働には
「ふだんの作業」
と「ふだんと異なる作業」があり、後者では、機械の知識や生産の仕組みの知識が必要となる。このよ
うな知識は「企業特殊的な熟練」によって得られるものであり、長期勤続のもとでの幅広いOJTによ
って身に付けることができる。日本では、熟練労働者による熟練の独占が生じなかったため、企業内部
での労働者の配置転換等に応じ技能が広まった。またこれによって、長期雇用システムは一般的な慣行
としての位置を占めるようになったことを指摘している。
小池の知的熟練論は、日本の雇用システムを解釈する上でいまだ主流の位置を占めていると考えられ
るが、その理論的な正しさをめぐって批判もあることには留意が必要である。68

mailto: kuma_asset@livedoor.com

67
小池和男『仕事の経済学 第3版』。
68
例えば野村正實『労働市場』(大原社会問題研究所雑誌 2000.7)

-52-

You might also like