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人間の幸福と経済

名目でみた経済規模が拡大しない定常的世界は、
「経済的至福」
(ケインズ)への到達を意味するもの
ではなく、むしろゼロ・サム的な経済活動を前提とする社会である。日本経済が定常的世界となったの
は、マクロ経済の変調による帰結であって、日本の雇用システムがもつ硬直性、あるいはある種の経済
的規制によって引き起こされたものではない。
例えば、日本の雇用システムは、派遣労働者が効率的に活用できるようになったことで、以前のそれ
よりもより柔軟になっている。労働者派遣事業は、1986 年に法律によって新たに認められた事業であり、
これによって、労働者が雇用契約を締結する事業主と指揮命令を受ける事業主が異なるという、それま
でには存在しなかった雇用の形態が可能になった。労働者の派遣が可能な業種や派遣期間などに関する
規制は、これまでしだいに緩和されてきた。従来は、専門的業務とされる 26 業務(1996 年以前は 13 業
務)だけが派遣の対象とされ、いわゆる「ポジティブ・リスト」方式が取り入れられていたが、1999 年
の改正では、特別の業務を除きどの業務も派遣の対象にできる「ネガティブ・リスト」方式に変更され
た。2004 年には、これまで禁止されてきた製造工程現場への派遣が可能となり、製造業における派遣労
働者の増加につながっている。
こうした法律の改正にも後押しされ、非正規雇用者の数は 1990 年代後半以降特に著しく増加した。
2002 年以降は景気拡張過程に入り、完全失業率は低下した。しかしそうした中でも定常的世界となった
マクロ経済に変化はなく、雇用情勢が改善する一方、所得が相対的に低い非正規雇用者の構成比が高ま
ることで所得の低下が進んだ。マクロ経済の根本問題(流動性の罠)には、雇用システムの柔軟化はほ
とんど効果がなかったということが指摘できる。そして 2008 年秋以降の経済危機では、おおくの派遣
労働者が解雇、雇い止め等にあい、大きな社会問題を引き起こした。
定常的世界では、労働市場の二重構造はより先鋭化する。内部労働市場に止まる労働者の雇用の安定
は、原則的には保障される一方、非正規雇用者の構成比は高まる。こうして、景気が拡張し雇用情勢が
改善する中でも、経済的格差は高まる。しかし、内部労働市場に止まる労働者の雇用をより柔軟にする
ことは、仮にそれが可能であったとしても、マクロ経済の根本問題が解決されない限り、ただ「二次的
労働市場」の規模を拡大させるだけである。マクロ経済の根本問題は、雇用システムの問題とは切り離
して解決を図る必要がある。

定常的世界では、労働生産性の上昇は名目所得の増加(あるいは労働時間の短縮)にはつながらず、
物価は下落する。労働の価値は停滞する一方、生活者の側面からみれば、物価の下落によって一定の購
買力は確保される。このようにみると、マクロ経済の変調によって労働の価値が低下したとしても、生
活者/労働者が被る満足度あるいは幸福度1の低下がのどの程度かは別の尺度によって測る必要がある。
ただし、名目所得ではなく物価の低下を加味した実質所得で測るべきことを主張したいのではない。人
間が顕示性を追い求める存在であれば、たとえ物価が下落しても、賃金の引き下げは受け入れがたいも
のとなる。また失業が人間心理に与える影響は大きく、その意味するものは所得の低下にとどまるわけ
ではない。その一方、完全失業率が改善しても、非正規雇用者の増加によっておおくの労働者が不安定
な雇用に就くことを余儀なくされる場合には、満足度(幸福度)が大きく上昇するとは考えにくい。も

1
ここでは特にことわらない限り、満足と幸福を同義とみる。

-1-
し社会的に集約された満足度(幸福度)というものがあるとすれば、それを最大化させるよう、労働と
貨幣の間で、労働生産性の上昇によって得られた価値の配分を調整することも、人間の幸福を高める手
段としては考え得る。2そのための手段となるのが金融政策や財政政策であり、あるいは労働者の交渉力
に影響する制度的な取り組みである。ここに功利主義にもとづくマクロ経済運営の可能性をみることが
できる。功利主義とは、ある側面からみれば、個人の幸福の水準を具体的に把握するとともにその総和
を最大化するという考え方である。その限りにおいて功利主義とは統治の理論であり、そこに社会設計
的な思想をみることができる。

功利主義的な統治を認めるか、政府によるあらゆる介入を排除し市場等における個人の自由を優先す
るか、という二者択一についての考え方は人それぞれである。宮台真司は、過剰流動性(教育などを通
じた社会階層移動のダイナミズム)が高まり人々が不安に陥ると、政治において「不安のポピュリズム」
が大きな成果を上げ、都市の浮動票を中心に人々が動員されやすくなることを懸念する。3特に日本にお
いて過剰流動性が問題であると考える理由は、欧州の階級社会がもっているようなソーシャル・デザイ
ン(社会設計)を行うエリート、あるいはエリートによって設計されたフィールグッド・ステイト(安
楽国家)を「正統化」する機構が日本に存在しないためである。どんな社会でも境界線の設定は不可避
であり、境界設定にはつねに恣意性がともなう以上、その恣意性を覆い隠す「正統化」のための装置が
必要となる。さもなくば、境界線の根拠付けのために、相対化(差異化)を無限後退的に続けることが
強いられる。
宮台は、過剰流動性の問題に対処するには全体性を観察してソーシャル・デザインすることが不可欠
であり、また民衆からいかにしてソーシャル・デザインを受け入れてもらうかというテクネー(技能)
の問題、それをどう正統化/正当化するのかという困難を解決する必要があると指摘する。
フィールグッド・ステイトは「アーキテクチャー」による人間行動の管理によって可能になる。アー
キテクチャーとは、ローレンス・レッシグが提唱した人間のコントロールのための手段に関する概念で
あり、法律、市場、規範とともに現実空間あるいは情報空間の設計に用いられることで、人間の行動に
影響を与える。このアーキテクチャーが高度に発達することで、リスクを事前に排除し、われわれ自身
が快適にそして幸福に生きることが、功利主義の立場から肯定される。

功利主義的な統治という考え方の背景には、こうした社会設計的な思想がある。一方で、労働力も市
場において取引される商品であると位置づけ、市場を中心におく国家像を重視する見方もある。稲葉振
一郎は、労働力=人的資本というものが存在しそれはれっきとした資産であるとの擬制をつらぬき、そ
の財産権の主体として労働者を位置づける福祉国家を構想するべきと主張する。 4新古典派経済学には、
労働市場で評価される限りでの人間の能力、体力、知識、人間関係処理能力等々を「人的資本」という特
殊な財産とみなし、賃金をそのレンタル価格とみなす考え方がある。5この考え方に沿って、個人を労働
力(人的資本)という「もの」の所有者と位置づけ、その所有権の保護を軸として個人と国家の関係を
考えることができる。これに対し、雇用とはそもそも交換・売買ではなく貸借でさえなくそこに取引の
対象となる「もの」は存在しないとの立場に立って、所有権ではなく契約の権利・契約による権利の保

2
前章 Fig.5 を参照。
3
宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』。
4
稲葉振一郎『「資本」論』 。
5
ゲーリー・ベッカー(佐野陽子訳)『人的資本 教育を中心とした理論的・経験的分析』
(前掲)

-2-
護を軸として個人と国家の関係を考えることもできる。ILO憲章(フィラデルフィア宣言)にいう「労
働は商品ではない」との宣言は、この後者の見方に沿うものである。平凡な人間が安定した職業生活を
営もうと思うなら後者を目指した方が安全な場合がおおいであろうが、その道は同時に、自分自身のキ
ャリアの設計と管理の権限を雇い主に売り渡すことになる。
ここでは労働力、いいかえれば労働者の生命そのものを「剥き出しのもの」として扱うのではなく、
商品とその所有者という擬制でガードされたものとして扱うべきことが主張される。ただしそのために
は「ロック的但し書き」
、すなわち、自然の恵みが共有物として他人にも十分に、そして同じようにたっ
ぷりと残されていること、いいかえれば経済全体が拡張的であることが前提となる。
労働者は、合理的な判断力をもつた主体として、企業に対峙し交渉を行うことができる。しかし定常
的世界においては「ロック的但し書き」は満たされず、労働者は一転して弱い立場となる。そもそも人
間の不完全さを前提にすれば、経済主体の行動を誘導する市場の働きによって、人間の行動は容易に方
向付けられてしまうことになる。

市場はときに不完全であり、経済活動には負の側面があることも考える必要がある。例えば公害など
の環境問題がある。リーディング産業の成長によって高度経済成長が実現しても、環境汚染によって生
活環境が著しく悪化すれば、ほとんどの生活者にとって経済成長は不幸をもたらすものとなる。こうし
た動きは、高度経済成長期が終焉する 1970 年代の日本において実際にみられた。このように、ある経
済主体の行動が他の経済主体の行動に影響を与えることを外部性という。負の外部性は、市場の失敗の
ひとつであり、経済全体の効用の水準を引き下げる原因となる。
ほかにも、市場がつねに効率的であるとは限らないことを示す事例には事欠かない。情報の非対称性
の事例を考えてみよう。米国の医療保険制度では、公的保険は高齢者が対象のメディケア、低所得者等
が対象のメディケイドに限られており、
大半の人は民間保険会社が提供する保険によってカバーされる。
医療の現場では、医師はおおくの情報や知識を保有している一方、患者には専門的な医学の知識は皆無
であり、両者には著しい情報と知識の格差が存在する。このとき患者は、治療方法、薬の種類や量を適
切に選択することができない。一方医師は、自らの利益を最も高める治療方法等を選択しがちであり、
その結果、患者は効率的な治療を受けることができなくなる。よって医療費は高騰し、保険料が上昇す
ることを危惧する民間保険会社は、保険の対象となる医療供給者や治療の内容を制限しようとする。実
際に米国では、医療費が高騰し保険料を支払うことができないため、国民の7人に1人は無保険である
ともいわれている。6
このように市場の失敗が生じる場合には、制度によって市場を設計することが許容される。ジョセフ・
スティグリッツは、情報の非対称性のある市場での統治主体の介入を積極的に認める。7情報が不完全で、
特定情報をある人々が知っている一方ほかの人々は知らないという情報の不均衡が生じている場合には、
“見えざる手”は初めから存在しない。しかも情報の不均衡はまれに生じるものではなく、ほぼ常態化
している。政府が適切な規制と介入を行わなければ、市場における経済効率の向上は望めないと主張す
る。

経済的格差の存在もある。所得の分布が著しくゆがんでいれば、大多数の生活者にとって、経済成長

6
時事通信 2010 年3月 22 日配信記事。なお、医療保険改革法は、2010 年3月に成立した。
7
ジョセフ・スティグリッツ前掲書。

-3-
の恩恵を享受することはできない。経済的格差については「クズネッツの逆U字説」が知られている。
経済発展の初期においては主要産業が農業から工業へと移り変わり、格差が相対的に大きい工業部門の
ウェイトが高まることで経済的格差は拡大する。しかしその後は、低所得層の政治力が拡大し法律や制
度の整備が進むことで経済的格差は縮小する。
ところが米国では、それまで経済成長が進むにしたがい縮小しつつあった所得格差が、1980 年代から
逆に、経済成長が進むにしたがい拡大するようになった。8特にトップ 0.1%の所得シェアが大きく高ま
っており、その主たる要因として、税制改革により所得再分配機能が相当程度弱まったことや、企業内
の収益配分構造の変化によって経営者の報酬が非常に大きなものとなったことが指摘されている。また
一般的な議論として、技術革新や自由貿易、金融のグローバル化などによって経済的格差は拡大すると
される。
他の先進諸国をみると、アングロサクソン諸国や北欧諸国では経済成長が進むにしたがい経済的格差
が拡大する傾向がみられる一方、欧州大陸諸国では経済成長が進むにしたがい経済的格差は縮小してい
る。このように、経済成長と経済的格差の関係には国や地域によって異なった特徴がみられる。ただし
総じてみれば、
「クズネッツの逆U字説」は近年見直される向きが強まっている。
ロバート・フランクとフィリップ・クックは、米国で進む経済的格差の拡大を「1人勝ち市場」とい
う言葉によって説明する。91人勝ち市場とは、貢献の小さな差が報酬の大きな差に変わるような特徴を
もつ市場のことである。プロ・スポーツやショー・ビジネス、文筆業などでは、最終的な勝者の報酬が
成果や能力の差と比べて過大なものになる。その反対に、2番手、3番手の者は、その成果や能力に応
じた報酬を受け取ることができない。成果や能力の絶対的な差よりもその相対的な差によって報酬の大
きな差が生まれるのである。1人勝ち市場が市場経済の中でおおくを占めるようになると、仕事や地位
をめぐる競争は過剰となり、経済の効率は低下する。つまり新古典派経済学の教えとは異なり、自由競
争は経済的な効率を高めることには必ずしもつながらない。
これらを踏まえてフランクらは「累進課税は経済効率を犠牲にするという大方の主張は少なくとも再
検討に値する」と指摘する。市場は、コストを要せずに最も優れた人を識別し公正に価値付けるような
機能をもっているわけではない。1人勝ち市場ではこのことが重大な束縛となって、自由競争がさらな
る効率の低下を促すことになるとする。

経済的格差は、自由放任主義によって拡大し得るものであるが、その一方で、功利主義的に承認され
てしまう可能性もある。
「最大多数の最大幸福」という古典的な功利主義の基準にしたがえば、所得分布
に偏りがあっても、ひとりあたりの所得がより大きくなることが望ましい状態である。この問題につい
ては、現代の功利主義では一定の解決のための方向性があたえられている。上述のような功利主義の問
題はジョン・ロールズによる功利主義批判の中に含まれている。ある人々に対して高い生涯の見通しを
あたえることと、それを相殺するためにすでに不利な状態にある人々に対してより低い生涯の見通しを
あたえることを功利主義は許す、というのがその批判の骨子である。 10しかしこの批判は、有利な状態
にある人々と不利な状態にある人々の利害を同等に評価することを前提としており、この前提に異なる
解釈をおく功利主義を考えることは可能である。また確かにロールズの批判は「所与の状況において客

8
以下の記述は、内閣府『平成 19 年度 経済財政白書』を参照した。
9
ロバート・フランク、フィリップ・クック(香西馨監訳) 『ウィナー・テイク・オール 「ひとり勝ち」
社会の到来』 。
10
以下の記述は、松嶋敦茂『功利主義は生き残るか 経済倫理学の構築に向けて』を参照した。

-4-
観的に正しい行為は、その行為によって影響を受けるすべての人々の幸福を考慮に入れて、最大の幸福
を生み出す行為である」と定義される行為功利主義にはあてはまる。ただし、一回の行為の結果生じた
社会的損失がそのマクロの集計において行為の回数倍以上の社会的損失をもたらすことがあり、その結
果、私的な合理性と社会的な合理性との間に矛盾が生じることになれば、私的な合理性を制約するため
の規則や制度が求められるようになる。このとき、功利主義における評価の対象を行為ではなく規則や
制度におく規則功利主義、制度功利主義を考えることができることになり、これらの場合にはロールズ
の批判はあまり妥当しない。

人間の満足度(幸福度)には、経済的要因のほかにつぎのような要因が影響を与えると考えられる。
例えば、共同体内部の交換の形態である互酬や国家による再分配を支える信頼である。特に家族間の信
頼は、幸福度を高める上で大きな要因となる。ほかにも、個人の健康、精神的なストレスなどがある。
もちろん、失業などによる所得の喪失や経済的格差が、統治主体や共同体内の構成員間の信頼あるい
は自分自身の健康やストレスに影響を与え、結果として満足が損なわれるという経路もある。もし経済
的要因以外の満足に影響する効果を、計量モデルを使用することで除去することができれば、経済的要
因から満足へとつながる純粋な効果だけを分離してみることができる。
こうした疑問に対し答えをみつけ出そうという現在進行中の試みがある。近年経済学の世界では、人
(Subjective Well-Being)に関する研究がさかんに行われている。11厚生、幸福
間の「主観的幸福度」
などの訳語が当てはめられる”Well-Being”は、客観的には脳波による測定やうつ状態のような外見的
特徴として、主観的には調査における自己評価として把握することができる。
幸福の経済学(Happiness Economics)では、客観的なものさしによっては測ることができない人間の
主観的な評価や判断が分析の対象となる。従来の考え方では、主観的幸福度の大きさを比較することは
価値判断に属するものであり、実証科学の対象とはなり得ないとされる傾向があった。ところが近年の
研究では、サンプル調査の回答をもとに、個人が主観的に感じる幸福の程度に影響を与えるさまざまな
属性や要因を一般化線型モデル(General Linear Model)を利用した回帰分析によって比較するという
分析手法が取り入れられている。
一般化線型モデルでは、非連続的(離散的)な値をとる被説明変数である主観的幸福度をいくつかの
説明変数(属性や要因)をもつ関数によって表現する。

・・・,属性・要因n)12
主観的幸福度=f(属性・要因1,属性・要因2,
主観的幸福度=f(属性・要因1,属性・要因2,

11
主要な文献としては、ブルーノ・フライ、アイロス・スタッツアー(沢崎冬日訳) 『幸福の政治経済
学 人々の幸せを促進するものは何か』 。また日本語による文献として、大竹文雄、白石小百合、筒井義
郎(編著) 『日本の幸福度 格差・労働・家族』およびそれに一部所収された包括的なサーベイ論文とし
て、白石賢、白石小百合『幸福度研究の現状と課題──少子化との関連において』 (ESRI Discussion Paper
Series No.165)がある。
12
実際にはプロビット・モデルや多項ロジット・モデルによって分布関数を仮定する。例えば主観的幸
福度が「幸福である」=1、「幸福でない」=0という離散的な2値をとる場合、プロビット・モデルによ
る関数型はつぎのように表現される。
1 a + b⋅t  − t2 
P ( y = 1) = F (a + b ⋅ x ) = ⋅ ∫ exp dt
2π − ∞  2 
ただし、y:主観的幸福度, x:属性・要因, P:y=1 となる確率, a,b:定数、である。なお、被説明変数が
2値ではなく数段階の値をとる場合は、順序選択モデルの考え方を適用した順序プロビット・モデルが

-5-
推定された関数を用い、さまざまな属性や要因の係数と有意確率を評価することで、他の条件を一定と
したときにそれぞれの属性・要因が相対的に主観的幸福度にどう関係するのかがわかる。ある特定の属
性や要因に該当したとき主観的幸福度は高くなる、という事実がおおくの人に共通した傾向としてみら
れる場合、その属性や要因は主観的幸福度を「高める」属性や要因である可能性がある。職業的成功を
例にあげれば、職業的に成功した人の主観的幸福度はベンチマークである成功しなかった人のそれより
も高い(ないし低い)ということがわかることになる。ただし、職業的な成功が主観的幸福度を高める
要素なのか、主観的幸福度の高い人間が職業的成功を収める確率が高いのか、といったような因果関係
の方向性をこの関数のみによって見定めることは難しい。
幸福度の測定は可能であるとの見地から従来の経済学を見直そうとする動きもあり、
例えばロバート・
フランクは、主観的幸福度は一貫性をもち信頼に足るもので行動科学の標準的な基準からみても確かな
ものだという。そして脳波を測定することで、その偏りの特徴から幸福の度合いを測定するといった近
年の研究などを紹介している。13
こうして従来は哲学や思想の領域に属していた幸福の研究は、しだいに実証科学の領域にも居を定め
つつある。これらの研究は、功利主義による統治によって国民の幸福度を高めるという究極的な政策に
道を開く可能性をももつ。

経済学では、個人の効用またはそれを一国全体で合計した効用を最大化することが、分析における主
たる目的となる。効用とは「人がある財貨またはサービスを消費することから得るところの主観的な満
足感または有用性」であるとされる。14このように効用の概念が物質的な面に限定して考えられるよう
になったのは、
「喜びと苦痛の欠如」
(ジョン・スチュアート・ミル)とされていた以前の効用概念をア
ルフレッド・マーシャルらその後の古典派経済学者が考察を進める過程で変更が加えられていったこと
にさかのぼる。15このように効用は、厳密には主観的幸福度と概念が一致するものではないが、効用を
めぐる議論はそのまま主観的幸福度にもあてはめて考えることができる。
効用にはこれを量として計ることができるかどうかをめぐっての議論がある。 16ライオネル・ロビン
ズは、選好順序は序数的なもので、異なる2つの選好順序の背後にそれ自身比較され得る大きさがある
と想定することはできないと主張した。
「同様の環境下にある人間は、同等の満足を得ることができる」
というのは人間性にとって普遍的な事実ではなく、効用比較は本質的に規範的なものであって純粋科学
ではないとした。これに対しヤーノシュ・ハルシャーニは、我々の間には大きな類似性があり、この仮
定の上に、他人と自分の内にある客観的差異の認識を斟酌することによって我々は他人の効用の正しい
評価に到達するとした。ハルシャーニは、ロビンズの立場は自分のみが意識をもつた実存的存在であっ
て他人はロボットであるとみなす立場に帰着するとみる。一方でハルシャーニの功利主義に対しては、
個人の個別性を真剣に考えていないと批判する見方もある。
おおくの経済学者は、効用は量的に計ることができずその大小(順序)だけに意味があるものである
(序数的効用)との考え方をとるようである。効用を量的に計ることができること(基数的効用)は、

適用される。
13
Robert H.Frank “FALLING BEHIND How Rising Inequality Harms the Middle Class”
14
ポール・サミュエルソン、ウィリアム・ノードハウス(都留重人訳) 『経済学』より。
15
石川経夫『所得と富』 第2章など。
16
松嶋敦茂前掲書を参考にした。

-6-
経済学の理論の中では必ずしも必要とされてはいない。しかし効用が序数的なものであるとの前提に立
つと、つぎのような問題が生じる。功利主義という考え方は、社会的効用(社会的な幸福に係る基準)
を量的に最大化すること(最大多数の最大幸福)を主眼とする。しかしこの社会的効用を一意に定める
ことができるか、ということは、大きな問題となり得る論点である。功利主義では、一意に定められた
社会的効用の集計に際し、諸個人の効用の可測性(基数性)と、諸個人の効用の個人間の比較の可能性
という2つの条件を満たすことが出発点となるが、序数的効用の立場に立つと、これらの前提は排除さ
れる。このとき、有名な「アローの不可能性定理」が成立する。つまり、①二つの選択肢の間の効用の
順序が全員一致である場合、社会的な効用も同じ順序を持たなければならないこと(パレート原理)
、②
ある特定の個人の選好がつねに社会的な効用を決定する、ということにはならないこと(非独裁性)
、③
ある二つの選択肢の間の効用の順序は、無関係な選択対象に依存しないこと(独立性)
、という3つの条
件を同時に満たすような社会的な効用は存在しない、ということが理論的に証明されているのである。
序数的効用の立場に立つと、功利主義が前提とするような社会的効用を一意に定めることはできないこ
とになる。
社会的効用を一意に定めることができず、よってこれを目的関数とする理論モデルを考えることがで
きないということは、一般化線型モデルによる主観的幸福度の分析でも同じように問題となり、
「この宣
告は、社会厚生関数に準じるものとして使われた場合の幸福関数にも妥当する」
(ブルーノ・フライ=ア
イロス・スタッツアー)ことになる。17
これに加えて、仮に(社会厚生関数の被説明変数としての)社会的効用というものが存在し得るとし
ても、統治主体がそれに則した政策を行う誘因(インセンティブ)をもつかどうかはわからない。社会
厚生関数の最大化を通じて最適な政策を引き出すことが意味をもつのは、最適な政策を実際に施行しよ
うというインセンティブが政府に与えられている場合のみである。これが成立するのは、
「慈悲深い独裁
者」政権が想定されている場合に限られる。しかし実際には、政府はよく機能する民主制のもとでさえ
慈悲深いものではない。社会厚生の最大化は、インセンティブという非常に重要な側面を無視したテク
ノクラート/エリート主義的プロセスに相当しているのである。
社会的効用をめぐる問題や政府のインセンティブに関わるこれらの問題を踏まえ、フライらは、幸福
の最大化を通じて最適な政策を導くといったように結果を直接決定しようという努力を行うのではなく、
制度の設計によって政治・経済プロセスを形成していこうというアプローチへと向かう。例えば『幸福
の政治経済学 人々の幸せを促進するものは何か』では、国民の政治への参加というプロセスが主観的
幸福度を高める傾向があることを指摘する。経済政策は、個人の選好を可能な限り実現できるように基
本的制度の確立に貢献するものであるべきだとしている。
功利主義による統治によって国民の幸福度を高めるという究極的な政策は、ここまでみてくると、実
際にはそう簡単なものではないことがわかる。第一に、ミクロな主体としての国民それぞれがもつ主観
的幸福度の総和である「社会的幸福度」なるものが存在するには、それぞれの主観的幸福度が基数的に
比較し得るという前提に立つ必要があるが、それを完全に保証する理論はまだ存在していない。第二に、

17
日本労働研究雑誌 2006 Feb.-Mar. 所収の『学界展望 労働経済学研究の現在』では主観的変数の扱
いについて議論がされており(11~12 頁) 、
「納得度って、個人間での比較はできませんよね」、
「主観的
な変数を使うこと自体は、反対ではないのですが、それを計量分析するときに、クロスセクショナルデ
ータを使うのは問題だ」(大森義明)といった発言がみられ、心理学のように「いろいろな角度から質問
をして、整合的な答えを引き出す」 (神林龍)ことが労働経済学で主観的変数を扱う上での将来の課題で
あるとして合意されている。

-7-
主観的幸福度は調査の設計者によって容易に「アーキテクト」されてしまい、かつ主観的幸福度を設計す
る立場にある統治主体に最適な政策を施行しようという誘因があるわけではない。

しかし、功利主義的な経済運営の困難さが市場の自律的な動きに委ねることを正当化することにはな
らない。金融政策を考えてみたい。金融政策の基本的な考え方では、
「経済厚生上の損失」を最小化する
ことを目的に政策運営が行われる。実際にこれは現在の主流なマクロ経済学の識見となっている。
経済厚生上の損失は、①物価上昇率と、②生産可能な能力の水準である潜在GDPが現実の実質GD
Pからどの程度乖離しているかを表すGDPギャップ、の二つを説明変数として与えられた関数で表現
される。物価上昇率が経済主体の予想を超えて高くなれば、生活者の便益は低下する。一方GDPギャ
ップが大きくなれば、労働力の冗長性が大きくなり完全失業率が高まることで、労働者の便益が低下す
る。

経済厚生上の損失=L(物価上昇率,GDPギャップ)

ただし、物価上昇率とGDPギャップ(ないしは完全失業率)には、一方が大きくなれば他方は小さ
くなるというトレード・オフの関係(フィリップス・カーブ)がある(前々章 Fig.10)。この関係のもと
で経済厚生上の損失を最小化すると、その経路として、最適金融政策ルールが導かれる。金融政策はル
ールによって運営されることが適切である。なぜルールであることが適切なのかというと、裁量的な金
融政策では、
例えば中央銀行がインフレの引き下げをより優先して金融を引き締めることを宣言しても、
民間部門は将来の金融緩和の可能性を察知してその宣言を信用せず、経済主体の予想する物価上昇率が
下がらないことで実際の物価上昇率も低下しない、といったような時間不整合の問題が生じるためであ
る。具体的な損失関数は、経済主体が物価上昇率とGDPギャップのどちらをどれだけ優先するか、と
いう判断にしたがってその形状が決定される。物価上昇率を優先することは、生活者への価値の配分を
優先することになり、GDPギャップを優先することは、労働者への価値の配分を優先することになる。
モデルによって演繹的に解答を導くことができるのはこの先の話である。この前にある具体的な損失
関数の決定にかかわる問題、すなわちGDPギャップ(完全失業率)を基準とした物価上昇率のコスト
の決定という問題は、開かれたままである。

フライらは、主観的幸福度を目的(被説明変数)として一般化線型モデルにより推計される物価上昇
率の相対的なコストについて述べている。欧州 12 カ国と米国の 1975 年から 1991 年までのマイクロ・
データを用いたラファエル・ディテラらによる推計では、完全失業率を1ポイント低下させるためは物
価上昇率が 1.7%高まることを受容しなければならない。18また、左翼的な人は物価上昇率よりも完全失
業率に関心を注ぐ一方、右翼的な人は完全失業率が上昇したときよりも物価上昇率が上昇したときによ
り大きな主観的幸福度の低下を味わうことが、ディテラらによる別の研究によって示されている。左翼
的な人は、完全失業率1%ポイントの上昇に対して 1.8%ポイント物価上昇率が低下することを要求す
るが、右翼的な人は 0.9%低下すればよいと考える。このことは、貨幣の価値と労働の価値のどちらを

18
Di Tella, Rafael, Robert J. MacCulloch and Andrew J. Oswald “Preferences over Inflation and
Unemployment: Evidence from Surveys of Happiness” (ZEI Working Paper)による。なお、引用した
推計では、各国ごとのタイムトレンドを説明変数に加えると、完全失業率を基準とした物価上昇率のコ
ストは1となり、犠牲率は単純に物価上昇率と完全失業率を足しあげたものとなる。

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優先するのかとの問いに対する回答を表しているようにもみえる。左翼的な人間は右翼的な人間よりも
2倍程度労働の価値を優先する。逆にいえば、右翼的な人間は左翼的な人間よりも2倍程度貨幣の価値
を優先する。ただし総じていえば、物価上昇のコストは、1%ポイントの完全失業率の上昇コストを
1%ポイントの物価上昇率の上昇コストと同じとみなす従来の経済学における一般的な見方よりも小さ
なものである。19
しかし、物価上昇率の相対的なコストは、マクロ経済の状態によっても変わり得る。完全失業率は景
気の過熱によって低下することになるが、労働力の供給がその潜在的な限界に達し完全失業率が「ある
水準」に達することになればそれ以上の完全失業率の改善は望めない。労働力人口には限界があり、需
要が過剰に高まれば商品を供給する企業側に制約が生じることで需要に応じた商品の供給ができなくな
る。その後は、物価は加速度的に高まる。完全失業率の「ある水準」とは、物価を加速させない完全失
業率の下限(NAIRU;Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)である。20完全失業率がこ
の下限に達すれば、労働者の幸福度もさらなる雇用情勢の改善によってさらに高まるとは考えにくい。
一方物価の上昇は加速度的であり、生活者には大きな負担がのしかかる。しかし定常的世界では、労働
生産性の上昇によって物価は下落し、完全失業率は大きく高まり、労働者には大きな負荷がのしかかる。

mailto: train_du_soir@livedoor.com

19
日本における物価上昇率の相対的なコストについては、内閣府「国民生活選好度調査」の8時点の調
査を用いた大竹文雄の推計がある(大竹文雄『失業と幸福度』 (日本労働研究雑誌 2004.7)
)。これによ
れば、完全失業率は 4.5%で最も低くなり、それまでは完全失業率が高くなるほど幸福度は高くなる。
物価上昇率についても 3.5%で最も高くなり、それまでは物価上昇率が高くなるほど幸福度は高くなる。
これらの結果は、後述するように日本の NAIRU が3%台半ば以下であると考えれば違和感の残る結果で
ある。大竹自身も「少ない時系列情報から失業率とインフレ率が幸福度に与える影響を判断するのは危
険」であるとしている。
20
筆者の推計では、日本の NAIRU は約 3.5%程度となる。ただし、この推計に仮定される物価上昇率と
完全失業率の逆数との線型性は実際には確認できず、グラフは下に凸の形状となる。このため、真の
NAIRU はもっと低くなる可能性が排除できない。なお 2002 年以降の景気回復過程では、完全失業率の最
低値は 3.6%(2007 年7月)であった。

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