You are on page 1of 5

朝 CAMP<11> ゲーテ『色彩論』配布資料

2011/2/22
swingingbrain@yahoo.co.jp

「分析と統合」
p.58 彼[ニュートン]の誤りは,唯一の,しかも人為的な現象を根底に据え,そのうえに仮説を築き,この仮説からきわめて多種多様な
無際限の現象を説明しようとしたことである.
p.59 ひたすら分析に没頭し,綜合をいわば恐れるような世紀は正しい道にあるとは言われない.なぜなら,呼気と吸気のように両者
がいっしょになって初めて科学の生命をなすからである.
p.60 このように近代科学は,主として,自然が結び合わせたものを分離することにもとづいている.われわれは,自然を分離された諸
要素において知るために,自然の綜合を廃棄してしまうのである.生物以上に高い綜合があるだろうか.われわれが解剖学・生理
学・心理学などといってさんざん苦労するのも,いかに多くの部分に分解されても絶えずもとどおりになる複合体を多少なりとも
理解するためにほかならない.

『色彩論』教示編
第 1 編 生理的色彩
1 これらの色彩を冒頭におく正当な理由は,それらが主観に,すなわ
ち眼にまったくあるいは大部分属しているからである.これらの色
彩は色彩論全体の基盤をなし,論争のもとになっている色彩の調和
をわれわれに示してくれるのである[…].
52 夕方私がとある酒場に立ち寄り,透き通るように白い顔をした,黒
い髪の,真っ赤な胸衣を着た,立派なからだつきの少女が私のいる
部屋へ入ってきた[…].しばらくして彼女がその場から立ち去ると,
私は向かい側の白い壁の上居に,黒い顔が明るい輝きに包まれてい
るのを見た.輪郭のはっきりした残りの衣服は美しい淡緑色に見え
た.
54 […]夕方遅く,明澄な夜になろうとする黄昏どきに私が一人の友人
と庭をそぞろ歩きしていたとき,われわれは,他の花に優って強烈
な赤い色をした東洋産のケシの花の近くに炎に似たようなものを
はっきりと認めた.われわれはこの多年性植物のまえに立って注意
深くその上を眺めたが,もはや何も認めることができなかった.[…]
ここで判明したのは,それが生理的色彩現象であり,あの閃光のよ
うなものがほんらい要求された青緑色をした花の仮像にほかなら
ないということである.
55 青いガラスを通してしばらく眺めるがよい.そうすると外界はその
後,それを取り去った眼に,たとえ曇天で秋の無色の風景であって
も,あたかも太陽に照らされたように見えるであろう.
59 灰色の石灰岩で舗装され,舗石のあいだから草が生い茂っていたあ
る中庭のことである.夕焼雲が赤味がかった微光を舗石の上に投げ
かけたとき,草の緑は限りなく美しく見えた.

対比の現象 明度・彩度・色相という色の三次元全てにおいて対比現象が観察
される.また,補色による対比も観察される. (青山学院大学田辺正美ゼミナー
ル http://www.sipec-square.net/ より) (Conway et al., 2010, J. Neurosci.)
第4編 内的連関の概観
色彩の容易な生成
690 […]いかなる光も,それが眼で見られる限り,色彩を帯びていると呼んでさしつかえない.無色の光とか無色の面というのは,あ
る程度まで抽象の産物である.

色彩の決定性
696 一般的に見て色彩は二つの方面に向かって自己決定を行う.色彩が提示する対立関係をわれわれは分極性と名づけ,プラスとマイ
ナスによってひじょうによく表示することができる.
プラス マイナス
黄 青
作用 脱作用
光 陰影
明 暗
強 弱
暖 寒
近 遠
… …

高進した両端への結合
702 […]単純な対立関係にある両端は混合によって美しい快適な現象を惹き起こしたが,高進した両端は結合されるとさらにいっそう
優美な色彩を生ずるであろう.そればかりでなく,色彩現象全体の頂点がここにあるとさえ考えられるのである.

多種多様な色彩現象の全体性
707 色相環はわれわれの眼前に出現し,生成変化の多種多様な関係はいまや明瞭となる.二つの純粋に根源的に相対立するものが全体
の基盤である.

色彩現象全体の調和
708 […]ここで考慮すべきことは,物理的対立関係と調和的対比関係の違いである.前者は,分離したものとみなされる限りの純粋な
むき出しの根源的二元性にもとづいている.後者は派生的な,展開され提示された全体性にもとづいている.

第5編 隣接諸領域との関係
746 色彩論という美しい主題はこれまで原子論的な偏狭固陋と孤立の状態に追いやられていたが,色彩論をここから再び現代の喜ぶ活
動的生活の普遍的な発生論的流れに返してやることがもし可能ならば,知識と学問,また手工業と美術にとって慶賀すべきことで
あろう.

第6編 色彩の感覚的精神的作用
758 […]色彩は,それが主として帰属している眼という感覚およびその仲介により心情に対して,その最も普遍的かつ初源的な現象の
まま,[…]個々には一定の特殊な作用,並置された場合には調和的あるいは特徴的,しばしばまた不調和な作用,しかしつねに明
確な著しい作用を惹き起こし,この作用は精神的なものと直接につながっている.色彩が美術の一要素として見られる場合,最高
の美的目的を達成するための手段の一つとして利用されうるのはそのためである.
760 この視覚器官はつねにみずから色彩を生み出す素質を有しており,自分の本性に適合したものが外部からもたらされたり,自己決
定の可能性の可能性がある方向に著しく確定されたる場合に,快い快感を享受するのである.

赤色
794 黄色と青の場合にわれわれは赤へと迫る高進性を見,…高進した両極の合一において理想的満足と呼んでもいいような心情の鎮静
作用が起こりうるということである.[…]あらゆる色彩現象の中のこの最高のものは二つの相対する末端が一つに合わさることか
ら生じてくる.
796 この色彩の作用はその本性と同じく比類がない.その与える印象は厳粛と品位とならんで愛らしさと優美である.[…]老年の品位
も青春の愛らしさも同一の色彩に包まれることができるのである.

全体性と調和
804 […]われわれがある色彩によって取り巻かれ,この色彩がその性質の感覚をわれわれの眼の中に惹き起こし,このような仕方によ
って,この色彩と同一の状態にあくまでとどまることをわれわれに強要する場合,それは強制された状態であって,視覚器官はそ
こにとどまることを好まない[…]
805 個々の色彩は,一定の特殊な感覚によって,眼の中に普遍性を求める内的欲求を呼び起こすのである.
806 この全体性を知覚し自分自身を満足させるために,眼は有色の空間とならんでいつも無色の空間を求めるが,それは要求された色
彩をこの空間に生み出すためである.
808 したがって,ここにこそあらゆる色彩調和の根本法則があり,これについては,われわれが生理的色彩編において示した諸実験を
みずから検証することによって,だれでも自己の経験を通して確信することができるのである.
810 黄色は青赤色を要求し
青は赤黄色を要求し,
深紅色は緑色を要求する.
812 眼は自分に押しつけられた個々の色彩と対立するものを生み出し,それに伴い満足すべき全体性をつくり上げることによって,み
ずからを自由な状態にするのである.
813 もともと自然の意図は,われわれを全体性によって自由へと高めることであり,われわれがこのたび手にした自然現象は美的な使
用に直接役立ちうるのである.
814 虹を色彩の全体性の一例とみなしてきたのは不当だということである.深紅色が生じえないのは,この現象のさいには在来のプリ
ズム像の場合と同じく橙色と菫色が互いに触れ合うことができないからである.
歴史的考察
835 自然人,未開の民族,子どもたちは最高のエネルギーを有する色彩,したがって特に橙色をひじょうに好む.
841 教養のある人々は色彩をきらう傾向がある.このようなことになるのは,視覚器官が虚弱なためと,趣味が不確かで,とかくまっ
たくの無へ逃げ込もうとするためである.女性の服装はいまやほとんど白一色で、男性のはもっぱら黒である.

明暗法
851 明暗法をすべての色彩現象から分離することは可能であり,また必要である.芸術家は,明暗法をまず色彩から独立のものと考え,
その全範囲をよく知ったとき初めて,この描法の謎を解くことであろう.

対象の採色
879 風景の採色と対象の彩色を調和させることは,色彩論においてわれわれが論じてきたことを考察すれば,才気豊かな芸術家にとっ
てこれまでよりずっと容易になるであろう.

最終目的
901 われわれがこれまで論述してきたすべてのことを芸術家は銘記されたい.光と影,明暗の釣り合い,真実の特徴のある彩色の三つ
が一致することによってのみ,絵画は,われわれが現在眺めている側面から完成されたものとみなすことができるのである.

結びのことば
多くの理由から芸術家さえディレッタントを尊重しなければならないように,科学的な研究対象の場合はいっそうはるかに,愛好者は喜ばし
いこと有益なことをなしうるのである.科学は芸術よりもはるかに経験にもとづいており,経験することに適した人の数も多い.[…]健全な
感性に恵まれたすべての人々,婦人,子どもたちはみな,生き生きとした注意深い観察をわれわれに伝えることができる.[…]不充分なもの
も,誤謬でさえも役に立つか刺激となり,将来のためにむだにはならないからである.

多くの者が生を享けて過ぎゆき,知識はいやまさん.
以下は読書会当日お配りしなかった,参考文献からの引用メモです.2 冊とも現在入手困難ということもあり,更にご関心を持った方のため
に添付いたします.読書しながらの覚書なので文末や変換など一部不正確な部分,省略,誤記などがありますが,ご了承ください.

村田純一 (2002)『色彩の哲学』岩波書店
メタメリズム(条件等色)と呼ばれる現象
私たちの知覚する色が,光の物理学と必ずしも対応しないことを物語っている.光は色の原因として,譬えていえば,必要条件であるが,
十分条件ではない.色はそれによって目のなかに起こっている別の現象である.色は物理的世界の事実ではない.色は感覚である.(金子隆
芳 1988, 18)

実在と仮象,物理的性質と感覚といった明確な二元論的な図式が前提されており,[…]色を含まない自然科学的世界像と色を含む知覚的な
世界像とが両立不可能であることを直ちに意味するわけではないはずである.

色彩の「世界内存在」とその「多次元性」

客観的世界と主観的感覚というガリレオやニュートンが前提した対立はわたしたちがそこで生きている「生活世界」を隠蔽し,忘却するこ
とから成立した抽象的な概念対立であり,それゆえ,そのような概念枠組みを前提したうえでの色彩の存在をめぐる対立は,原理的に解決不
可能な疑似問題ということになる.

ゲーテは『色彩論』(1810) の中で,色彩現象を生理的,物理的,そして化学的現象の三種類に分類し,それぞれの特徴を具体例を駆使して
示している.ゲーテの色彩論の大きな特徴は,この三種類の分類にみられるように,色彩現象をその異なった在り方を明確に区分してとりあ
げる点にある.ゲーテは色彩現象をどれかひとつの種類の現象に焦点を当てて考察するのではなく,少なくとも三つの種類の色彩を平等に取
り上げようとしており,その点で,ゲーテの色彩論の最も重要な特質を色彩の多次元性への注目に見いだすことができるだろう.多次元性を
否定せずに共通性を確保すること,あるいは,多様性のなかに統一性を見出すこと,これがゲーテ色彩論の基本的なねらいであった.
ゲーテによると,ニュートンの色彩論に見られる基本的欠陥は,多次元性,多様性を無視ないし軽視して,あるひとつの観点からのみ色彩
現象の本性を捉えうると見なした点に見出される.

色彩現象は,光の変様によって生まれることはないというテーゼこそが,伝統的な色彩論(変様説)に対するニュートンの根本的な批判で
あり,それを「証明」することがスペクトル実験の最大の目的であった.実際,ニュートンは太陽光の「白色」に関して,「この混合中にお
ける射線はそれぞれの色彩上の性質を失ったり,あるいは変えたりするのではなく,それらの種々の作用すべてが感覚器官中で混合されるこ
とにより,それらの色すべての中間色,つまり白さの感覚が生じる」と述べている.したがって,混色が生じるのは物理的世界のなかではな
く,「感覚器官のなか」でなのであり,その意味で,均質光の色以外では,その色の本性を物理的世界にはもっておらず,それはもっぱら生
理的現象であり,感覚現象であるということになる.

もし実在というものを物理的次元のみに属すると見なすなら,色彩が変化しているように見える感覚的次元の現象は実在に対応しない主観
的な現象,すなわち,「錯覚」にすぎないということになる.
まさしくゲーテが標的にしていたのが,このような近代科学の基本枠組みを形成する見方であった.こうした見方に対して,ゲーテは,徹
頭徹尾,「自然」を知覚された色彩の次元で捉えようとする.ゲーテの言い方を使うと,
「色彩とは眼という感覚に関係する合法則的自然であ
る」ということになる.このテーゼが示しているように,ゲーテによると,色彩現象は知覚者と知覚されるものの相関関係のなかで登場する
ものであり,この点で,ゲーテが問題にする「自然」は最初から最後まで知覚するものと知覚されるものとが同時に属している「自然」であ
り,それは決して色彩現象の「原因」として知覚者から独立に捉えられるようなものではない.したがって,「自然は色彩のなかで自らの姿
をあらわにする」というゲーテの言葉に従うなら,自然現象とは知覚者と知覚されるものとの関係が示される現象であるということもできる.

「色彩は光の行為であり,受苦である」

なかでも際立っている特徴は,色彩に関する「分極性」であり,いわゆる「補色」ないし「反対色」の関係である.ゲーテはこの関係を色
相互が「眼のなかで相互に呼び求めあう」関係と読んでいる(教示篇 50 809 以下) .典型例は,残像の色や,同時的対比や経時的対比の現
象であるが,その他多くの場合にもこの構造が見られる(教示篇 225 など).
第二の特色は全体性である.ゲーテは色彩相互の関連現象に関して, 「本当は眼はここで全体性を要求していて,自分自身のなかで色彩環を
完結しているのだ」(教示篇 60 さらに 805 など参照)という言い方さえしている.
ゲーテにとって,色彩の明るさや鮮やかさなどは,最初から感情的作用,あるいは精神的意味と切り離して問題にできるものではなかった.
色が単なる視覚的な性質につきない多様な性質をもっていることは,これまでもさまざまな仕方で指摘されてきたし,現代の色彩学の教科
書でも必ず触れられている.「寒色」と「暖色」, 「進出」と「後退」
色彩自体がこうした多次元的な特質を備えていることが主張されているのであり,したがって,さまざまな色彩の間で快感や美的感覚をも
たらす調和の関係もまた,色彩自体に備わる特質と見なされる.それゆえまた,色彩の性質について見出された事柄は直ちに絵画での彩色の
仕方に関係するのであり,色彩論はそのまま美学的意義をもつことになる.
ゲーテは,生理的,物理的,化学的といった色彩の異なった種類のあり方を考慮したのみならず,そうした多様な色彩現象の共通性をなす
「根本現象」それ自体にも,色彩のさまざまな意味や価値を含む多次元性を見出しているのである.

ウィトゲンシュタインは死の直前の 1950 年から 51 年にかけてゲーテの色彩論を読んで大きな刺激を受け,色彩について集中的に考察を


始めた.『色彩について』
ウィトゲンシュタインの「パズル命題」では,取り上げられたそれぞれの色彩がほかの色彩とのあいだで,あるいは,輝度や透明度といっ
た特性に関して,単なる偶然的,外的な関係ではなく,必然的,内的な関係をもっていることが強調されている.いうまでもなく,この「内
的,必然的」関係をどのように理解するかという問題は,伝統的には「総合的アプリオリ」をめぐる問題と呼ばれてきた問題であり,まさし
くこの問題こそ,ウィトゲンシュタインが『色彩について』のなかで格闘した最も重要な問題であった.

「わたしたち」の言語ゲームを「わたしたち」のものとしているのは,たんにそれを「規約」として受け入れていることのみに基づいてい
るのではなく,ウィトゲンシュタインも指摘しているように,わたしたちが赤緑色盲でないとか,あるいは,黄や緑を「ユニーク色」として
見てとっているといったような経験的条件が成立していることが大きな理由になっているからである.
ある言語ゲームが「わたしたち」の言語ゲームであるのは,それがこうした経験のあり方に埋め込まれていることに基づいているのであり,
この点で,言語ゲームは「規約と事実」「論理と経験」に両方の次元をまたいで存在している点にその特徴が見られる.したがって,こうし
た言語ゲームに支えられた「パズル命題」も,論理と経験の二者択一によっては整理できない性格を示し,両者の間の「境界」にあるとしか
いいようのない特徴を示すことになる.

さまざまな命題がしばしば論理と経験の境界で使われ,その結果,命題の意味はそうした境界を超えてあれこれと変化し,ある
ときは規範の表現と見なされ,あるときは経験の表現と見なされる(色彩について).

色の両立不可能性は,明らかに,ウィトゲンシュタインに『論理哲学論考の教説』を放棄させることを導いた問題である.ウィ
トゲンシュタインは,色の関係に関する諸問題に解決を見出そうと努力し続けたが,彼の分析と彼の後継者たちの分析は常に的
を外してきた.その理由は,色を記述する仕方を形成しているのは,色についてのわたしたちの経験なのであり,(ウィトゲン
シュタイン主義者がいうように)色空間の構造は規約によって確立されるわけはないからである(ハーディン 1988, 202)

ハーディンによると,色に関する経験を形成している要因のうちで最も重要なのは生理学的機構であり,両立不可能性に関する問題を理解
するには,ヘリングによって明らかにされた生理学的な反対色過程に基づく説明がもっとも適切だということになる.だからこそ,言語的規
約に基づく議論や物理主義的な議論が批判されることになる.こうした観点を示すために,あるものが全面にわたって赤であると同時に緑で
あることはありえない,という命題について,ハーディンは次のような議論を提示している.
なぜ,ある特定の色相の組み合わせの場合には,両者を組み合わせて用いることは決してありえない(赤緑,あるいは,赤っぽい緑)のみ
対して,ほかの場合には,組み合わせて用いることがありうる(青緑,あるいは,青っぽい緑)のか,については説明できない.このような
理由からハーディンは言語的規約による色の両立不可能性の説明は不十分であると批判している.
さらにハーディンは色相を波長特性に対応させる物理主義的説明も全く不十分であることを指摘する.例えば,赤であると同時に,緑であ
るものというのは,長波長の光と中波長の光を同時に反射する表面であると考えることができるが,このようなものであれば,ごくありふれ
たものとして存在している(例えば白色の表面).したがってハーディンによれば,物理主義的,客観主義的説明はまったく不十分であり,
生理学的な説明の仕方が不可欠であるということになる.

ただしここでいう「物理学」とは色相を波長に対応させるような単純な物理学的説明ではなく,色の現れ方の違いに即した「現象学的」な
いし「生理学的」なレヴェルを考慮した物理学である(ウェストファールはそれを「ゲーテ的」物理学とも呼んでいる).そして「パズル命
題」の解明は科学的理論によって実現されるものではないというウィトゲンシュタインの考えは,科学ということでもっぱらニュートン的科
学を考えたことに基づくのであり,ウェストファールによれば,ウィトゲンシュタインはこの点で「科学主義的思考パターンの犠牲者」のひ
とりに数え上げられることになる.

J. ダビドフ (1993)『色彩の認知新論』マグロウヒル出版
赤,緑,黄,青の領域は内部色空間に固定される最初の色であり,疑いもなく反対色過程から結果する面の整合性の結果である.かくして
色空間のこれらの焦点化あるいは標識色はユニバーサルと呼ばれた.しかし色を内部空間に範疇化することはまた知的言語的発達とも関係が
ある.そこで色のネーミングにはなんらかの発達的および文化交差的多様性が避けられない.色という語は内部色空間に構成された情報に与
えられた総合的名称であるから,その用法には個人差もある.どのような色空間でいようとも,モジュール的な色と他の記憶知識との連合が
ある.かくしてまた色の意味にも著しい文化差があるだろう.赤や他の電磁放射の波長が生得的に決まった色刺激であるという真の可能性に
もかかわらず,あらゆる色の意味には文化的連合が重なっている.色の感情的調子は一定の物に連合しているのでないかぎり,優れて恣意的
であるということも論じた.

視覚系の第一次的機能は,画像レジスタにおいて境界のある面を物として範疇化することにある.この機能は面の色の範疇化よりも先であ
る.かくして面の見えの変化は,色よりは物についての情報をまず意味するということができる.色の範疇化よりも物が優先するということ
は,それについたラベル(名前)が結果的に優先することを意味する.普通,形は色よりも速くネーミングされる.語を表す特別な形(つま
り文字)は第 11 章で論じたように,非常に速くネーミングされる(読まれる)ことから,特殊な自動的処理が提案された.その結果として,
名前をアウトプットする競争があるとき,面の色のネーミングよりも語のネーミングが勝つ.したがって色のネーミングの発達が遅いのは,
物の範疇化が優先することによる可能性がある.

一般に西欧社会が色を抽象的にしようするようになったのは近年のことである.しかしかつて今世紀の始め,標準的 8 歳児の言える色はた
った 4 色であったということは信じがたい.今日,それは 3 歳で期待される.人類はもっと知的になった.世界の色彩が確実に豊かになった
のも宜なるかなである.

You might also like