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恵那山学会誌

恵那山研究
第2号

(この画像は国土地理院の数値地図 25000(地図画像)及び 50m メッシュ(標高)を使用し、カシミール 3D により作成したものです)

平成 19 年(2007 年)4 月

恵那山学会
恵那山学会誌

恵那山研究
第2号
恵那山研究第2号の発刊にあたって
会 長 金井 孝素
昨年創刊号を発刊して以来、多くの皆さんから暖かい励ましやご指導をいただきま
した。そしてここに第2号を発刊できることはこの上もない喜びであります。
行政区画の多くが山の稜線になっていることからもうかがえるように、かつて(今
でもそうかもしれませんが)山は地域と地域を分断する障壁でありました。近年数多
く設立されている「地域学」にしても、行政と結びついている限り、この壁を無くす
ことはできません。恵那山研究という以上、恵那山という領域設定が必然性を持たな
ければならないでしょう。山を障壁ではなく、地域と地域をつなぐ存在として認識す
ることによって、この必然性が生き生きと浮かび上がってきます。そして、その研究
は多様な方法論を許容するものでなければなりません。民俗や歴史の探求は数学的な
方法とは異質なものです。自然科学的なアプローチにしても、実験室で再現できるよ
うな、いわゆる「閉鎖系の科学」である精密科学的な方法のほかに「開放系の科学」
としての「観察」と「仮説」の連鎖が必要になりましょう。
恵那山の研究において、もっとも注意して避けなければならないことは、独りよが
りの仮説や思い込みに安住することであります。「恵那山研究」を介して、会員のみな
らず、広く一般の皆さんの批評とご指導をいただきたく心からお願いいたします。

恵那山学会

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目 次

恵那山研究第 2 号の発刊にあたって・・・・・・金井 孝素 01
『広済院の位置』は、強清水(?)である・・・張山 勇 03
七代目団十郎の手紙・・・・・・・・・・・・・張山 勇 10
二ツ森山行(1223.3m)・・・・・・・・・張山 勇 18
セイタカアワダチソウを喰らう・・・・・・・・金井 孝素 23
恵那山はなぜ二十合か・・・・・・・・・・・・樋口 帯刀 24
トテコッコを喰らう・・・・・・・・・・・・・金井 孝素 27
トイレあれこれ・・・・・・・・・・・・・・・樋口 帯刀 28
分類ということ・・・・・・・・・・・・・・・金井 孝素 31
けやき平の落葉広葉樹林・・・・・・・・・・・上杉 毅 35
トウノウネコノメの分布 三国山篇・・・・・・上杉 毅 44
強清水風穴のコケ・・・・・・・・・・・・・・上杉 毅 47
前山登山記・・・・・・・・・・・・・・・・・吉田 真 48

2
『広済院の位置』は、強清水(?)である

『広済院の位置』は、強清水(?)である
張山 勇

昭和12年(1937)4月17日、園原薬 に分村し、馬籠地区は山口村へ、湯舟沢地
師堂(阿智村)の前に比叡山開創1150年、 区は越県して中津川市に編入しました。こ
伝教大師広拯院遺蹟碑が建立されました。 のため碑の右側面には協賛中津川市、旧神
最澄(伝教大師)は、767年(神護景雲元年) 坂村と併記されています。以来約半世紀、
に生まれ、12歳で近江国分寺に入り、 山口村は中津川市との越県合併が既に決定
14歳で得度、785年(延暦4)4月6日、 しています。新聞発表では来年(2005)2
19歳のとき東大寺で具足戒(小乗戒) を受 月13日調印予定となっており、結果的に
けて正式に僧の資格を得ています。しかし、 は神坂村は、47年目にして中津川市民と
そのわずか3ケ月後の7月17日、突如と して再び元の鞘に納まることになります。
して比叡山に入って草庵を構えています。 最澄は、今(2004年)から ちょうど
『最澄瞑想』(梅原 猛) によれば、最澄は、 1200年前の延暦23年(804)、遣唐大
かどの はやなり
このときまだここに天台仏教の根拠地をつ 使藤原葛野麻呂に従って、空海、橘逸勢(後
くろうという気持ちがあったわけではなく、 に嵯峨天皇、空海とともにわが国三筆の一人) らと入
なにわ
のちに延暦寺と名づけられた比叡山寺を開 唐留学しています。5月12日難波を立ち、
くのは延暦7年(788)、22歳のときと伝 7月6日、肥前久賀島の田ノ浦から出発、
えられていますから、このときから数えて 9月上旬明州に着いています。天台山の国
どうずい
1150年ということでしょう。 清寺を訪ねた最澄は、台州の龍興寺で道邃
ぎょうまん
園原薬師堂の広拯院遺蹟碑建立に後れる や行 満 に天台の教義(法華経)を、そして帰
じゅんぎょう
こと21年、昭和33年(1958)11月 国のせまった翌年4月に、 順 暁 から密教
25日、霧ケ 原集会所の隣に「伝教大師広 を学び、在唐8ケ月で帰国の途につきまし
済院遺趾顕彰碑」が建立されました。この た。5月18日に帰国した最澄は、7月に
碑は、総本山天台宗議会が、立 教 開 宗 上京してすぐさま宮中に召され、病床にあ
1150年記念として神坂村の協力を得て った桓武天皇の病気平癒を祈っています。
建設したものです。 翌延暦25年(806)1月3日、文書で
この碑は、もともと比叡山開創記念事業 もって年分度者のうちに天台法華宗を加え
として広拯院遺蹟碑とともに、昭和12年 て止観業(瞑想)、遮那業(密教)各1人を賜る
に建設されるはずでしたが、広済院の遺跡 ことを請い、26日付の太政官符で天皇か
については諸説があってその所在をつきと ら許可を得ています。年分度とは毎年許可
ほっそう
めることが出来ず、やむなく霧ケ 原に遺蹟 される僧の数で、これにより最澄は、法相・
じょうじつ くしゃ
碑としてではなく、顕彰碑として建立され 三論・華厳・律・成 実 ・倶舎の、いわゆる
たのです。 南都(奈良)6宗に並んだ宗派を形成するこ
神坂村は、明治7年(1874)に湯舟沢村 とになりました。
と馬籠村が合併して出来た村ですが、この 立教開宗1150年というのは、この時か
年(昭和33年)の11月1日付で84年ぶり ら数えてということでしょうか。

3
『広済院の位置』は、強清水(?)である

昭和43年3月に発行された『中津川市 北側を通り、冷川を渡って峠へとたどった
史』(通史 上巻) は、東山道の坂本駅から神 ことが分かるとしています。
坂峠への道筋は、諸説あるうち、駒場∼上 これは駒場(坂本駅) から落合五郎を経て新
金∼銭亀∼平石∼川表∼霧ケ 原∼神坂峠説 茶屋で中山道と分かれ、コウモリ岩を抜け
を、そして広済院の所在については、霧ケ て、山畑から中央道に沿って細野まで行き、
原説を最も有力としています。しかしその 川並から冷川右岸を通ってケヤキ平へ出、
後の相次ぐ遺跡の発掘により東山道の道筋 神坂峠に至るとするもので、『ふるさとの
に関する研究は大いに進みました。 道』や『岐阜県の地名』もこの説をとって
昭和43年7月から8月にかけて名古屋 おり、結果として「広済院霧ケ 原説」は否
やんばた
大学考古学研究室による山畑遺跡、同年8 定されています。
月には阿智村教育委員会主催で神坂峠、更 神坂峠(信濃坂) は、たびたび崩れていま
たいら
には45年1月の 平 遺跡の発掘調査によ す。
『長野県歴史大年表』によれば、天延3
り、これらは祭祉遺跡であることが確認さ 年(975) 7月29日、東国に風害あり、
れています。またコウモリ岩、上田、殿畑、 信濃の御坂の峠路が崩壊(『日本紀略』)、康平
栃の木橋、強清水、追分、水マタギなどの 1年(1058)12月16日、神御坂が崩壊
遺跡からは、4世紀中葉から平安期にかけ ) とあり、更にこの頃木曽地方に
(『扶桑略記』

ての遺物が出土しています。 平安時代の遺跡が急増すると載せ、
『木曽福
昭和61年8月から翌62年の3月にか 島町史』も、この頃より交通、木曽山道の
けて、国道19号線中津川バイパスの建設 方へ移る。と記しています。
のぶただ
に伴い、名古屋大学考古学研究室の指導で 任期を終えた信濃守藤原陳忠が、京都へ
中津川市教育委員会により、落合五郎遺跡 帰る途中の信濃坂で乗馬もろとも谷底に転
ひらたけ つか
の発掘調査が行われ、同63年1月に「落 落し、助けられるとき平葺をいっぱい掴ん
合五郎遺跡発掘調査報告書」として出され で上がってきたという、
『今昔物語』の貪欲
ています。 国主の話はこの頃のことです。
それによれば、18基の掘立柱の柱穴が検 『松本市史』によれば、陳忠が信濃守に任
出され、その配置から建築遺構であること 命されるのは、天元5年(982) 3月で、
が判明しています。本体部分16基の配列 正暦3年(992) には藤原惟正が任命され
からその規模は、東西(19・2m)×南北(6・ ています。任期は、「大宝令」(701) では
4m) と確認され、2基については、全体の 4年となっていますが、天平宝字2年(75
位置関係から入口部分の施設と見られてい 8) に6年と改められ(『岐阜県歴史年表』)、弘

ます。 仁6年(815)元の4年に戻っています。
(『長

この遺構と関連すると推定される200点 野県歴史大年表』

ごんき
余りの遺物から、8∼9世紀代の造営と考 『権記』の長保5年(1003)11月15日
えられ、この年代からして東山道との関連 の記事中、
「・・・今夜舞姫参入、相模守清
は無視できない。とし、これら一連の発掘 重女、母故信濃守陳忠女なり」とあります
と調査により、その遺跡の位置から推定し から、このとき陳忠は既に亡くなっていま
て東山道は、落合五郎遺跡から湯舟沢川の す。谷へ転落するのは、恐らく982∼

4
『広済院の位置』は、強清水(?)である

992年の間でしょう。 す。
この転落場所について『下伊那史』は、次 『ふるさとの道』の編集者で、郷土史家の
のような玉置忠平氏の手紙を紹介していま 鈴木克明氏にお聞きした話では、この道は
りんう ながあめ
す。 康平1年(1058)、川並道が霖雨( 長 雨 )
(前略) により崩壊し、通行不能となった際に迂回
川並つまり冷川の右岸を登りたるが本筋の 路として開かれた可能性もあります。この
ようです。小生の父などの話もあり、小生 ときの崩壊箇所ともいわれる冷川上流で、
の幼時御坂へ通ふ当時、少し大雨の有りし かつて砂利砕石業者が原石の採石中に、川
時など冷川が出水して現霧ケ 原へは出られ 底から土砂に埋まり半ば炭化状となった大
なくなり、やむなく風穴下の別れ路より川 量の大木を掘り出したという。またこの崩
並へ向って下ったものでした。その頃は未 壊の60数年前に、藤原陳忠が馬もろとも
だ富士見台もしられぬ当時にて、殆んど通 谷底に転落したとする場所をこの川並道と
る人もなきけわしきものでした。それでも するならば、ここ以外には考えられないと
大雨の中を川並へ下ったものでした。 のことでした。
天延3年(957)風雨害にて御坂路くずる、 平成13年(2001)9月29∼30日、
又康平3年(康平1年のことか?)11月霖雨の 阿智村に於いて「東山道サミットin阿智
為御坂路崩壊すると有りますが、兼好屋敷 村」が開催されました。このときの資料、
奥の崩壊ケ所等も其の当時よりのものでな 別紙「古代東山道マップ」によれば、坂本
いでしょうか。いづれにしましても、西よ 駅∼阿智駅間は38kmとなっています。
り東に向ひ登る時は美園より冷川に沿ひて もっともこのマップは、山畑∼強清水間
川並道を行くのが本来と思ひます。 6・5kmが「広済院遺趾顕彰碑」経由の
(下略、昭和31年7月20日付) 霧ケ 原道となっています。この間の冷川右
ちなみに玉置氏は、東山道の道筋につい 岸を経由する川並道の距離に関する資料は
ては、千旦林(坂本駅) ∼恵那山麓∼釜沢∼ 有りませんが、同じ位とみて差し支えない
蕨平∼川並∼兼好屋敷∼ケヤキ平∼栃の木 でしょう。
るいじゅうさんだいきゃく
橋∼峠、説を主張しています。 『 類 聚 三 代 格 』斉衡2年 (855) 正月
『下伊那史』は、陳忠の乗った馬が足を 28日の太政官符は、恵奈郡坂本駅と信濃
ふみはずして谷底に落ち込んだ昔の事を心 国阿智駅とは、相去ること74里(約40km)
にえがきながら幾度か御坂道を往復したが、 となっており、この数字は、
「古代東山道マ
霧ケ原道にも、網掛道にもそんな所はない。 ップ」とほぼ一致しています。
どうしてもこの御坂の渓谷道か、そうでな 東山道坂本駅の所在地についても諸説(千
ければ栃の木橋から分かれる川並道のけや 旦林・駒場・落合) あります。
『中津川市史』は
き平あたりより外には、求められないよう 駒場説をとり、『恵那市史』は落合(千旦林・
に感ぜられる。と記しています。 駒場)を想定して、大井駅(恵那市東野)落合間
あららぎ
かつて細野から南沢岳の峠を経て、 蘭 を16km ( 30里 )としています。この
へ抜ける道がありました。今も石ダタミが 30里は、大宝令の諸道30里ごとに1駅
残り、いわゆる清内路古道と呼ばれていま を置くとする原則に正にピッタリです。

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『広済院の位置』は、強清水(?)である

『古代の美濃』
(野村忠夫) は、坂本駅は駒 も坂本駅と大差のない「程途悠遠」という
場から千旦林へ移行したとして、その理由 ことになったと理解してよいのではなかろ
を次のように述べています。 うか。やはり大井駅家の崩壊は回復できず、
承和5年(838) 11月2日、美濃国か 復興されたのは坂本駅だけだったのである。

ら次のような1通の申請書(「解」)が太政官 それはまた坂本駅子たちが逃亡をくりかえ
に提出された。管下の恵奈郡には人物がな す一因にもなったのであろう。
・・・と。
く、郡司が愚拙であるために、大井駅家は 『岐阜県の地名』も、この駒場から千旦
人馬の疲弊が激しく、官舎も崩壊してしま 林への坂本駅移転説をとっています。
う状態になった。その結果、ただでさえ重 『恵那市史』は、土岐駅(瑞浪市馬屋) ∼大
負担にあえぐ隣の坂本駅では、駅子がすべ 井駅(東野)を22km(39里)、大井駅∼坂
て逃亡してしまった。そこで国司は、管下 本駅(落合)を16km(30里)としており、
むしろだ くにのみやっこのまおおじ
席田郡の人、国 造 真 祖 父 を起用して教諭さ 少なくとも承和5年(838) から嘉祥3年
せたところ、逃亡していた駅子たちが帰っ (850) までは、駅家としての機能をはた

てきて、妻子ともども定住することになっ すことができない状態に追い込まれていた
た。この真祖父の起用で、恵奈郡の駅家再 と見るべきであろう。貞観年間(859∼79)
興は、一時的に成功したかにみえる。しか にはまだ再興されていなかったように思わ
し再興できたのはどうも坂本駅だけで、大 れる。と述べ、
「大井駅廃絶」説を記してい
井駅はついに放棄せざるをえなかったふし ます。
が濃い。 恵奈郡坂本駅と信濃国阿智駅とは相去る
ついで嘉祥3年(850)5月28日の太政 こと74里(約40km)とする太政官符は、
官符は、またもや坂本駅子の逃亡を載せて 斉衡2年(855) 正月28日付です。この
いる。ここで美濃国司からの報告は、管下 ことからこの74里は、移転後の新駅まで
ていとゆうえん
の土岐・坂本2駅は、それぞれ「程途悠遠ニ の距離を意味していることになります。
こうり へいばい
シテ行李難渋シ、負担の辛、他所ニ剰倍ス」 大井駅∼落合(坂本駅)間16kmの内訳
(原漢文) という現状で、国司がいろいろ配 について、
「古代東山道マップ」は落合五郎
慮しても、駅子らの逃亡が少なくない。こ ∼坂本駅(駒場)を6kmとし、
『中津川市史』
のため長い行程にわたって公使を送る駅子 は駒場(坂本駅)∼千旦林を4kmとしてい
とどこお
が不足して、往還に 滞 りが多い、といっ ますから、千旦林∼大井駅 (東野) は、6
ている。この現状はやはり承和5年(838) kmとなります。
の駅家復興で、大井駅が再興されなかった 坂本駅が駒場から千旦林へ移行したとす
ことに原因がある。 れば、移行前の最初に置かれた大井駅∼坂
実は、土岐駅と坂本駅との中間に、大井駅 本駅間は、10km(19里弱)となり、30
が駅家の機能を維持していれば、3駅の行 里ごとに1駅を置くとする大宝令の原則の
程はそれほど遠いことはない。ところがそ 2/3にも満たなくなります。
の大井駅が再興できず、坂本駅をやや西方 規定の3倍を数える駅馬30疋を備え、
の千旦林(?)に移して、2駅分をひとつ 1駅の距離が数駅分となり、しかも標高
にまとめたために、土岐駅の分担する範囲 1595m、寒節の中には道にて死する者

6
『広済院の位置』は、強清水(?)である

多し、と恐れられる信濃坂を控えて1歩で 泰範へ宛てた手紙に、「来春の節をもって、
ず だ
もその距離を短縮しなければならないのが 頭陀(托鉢して修行して歩く)し・・・」と記して
坂本駅です。最初につくられた坂本駅は、 いることからみて、翌弘仁8年に決行され
やはり落合(オガラン付近)とするのが妥当と たものであろう。と述べています。
考えられます。 空海の帰国(806)、入京(809) 以来、
東山道が整備され、開通するのは大宝2 親交を深めていた最澄が、泰範の去就をめ
年(702)です。以来百数十年にわたって ぐって空海との間にとりかえしのつかない
過酷な使命を余儀なくされてきた坂本駅は、 亀裂が生じ、訣別するのはこのときからで
大井駅廃絶によって生じる16kmを分担 す。
するため、やむなく落合から6km西方の 坂本駅の移行は、承和5年(838) ∼嘉
駒場へ移されることになったのではないで 祥3年(850)ころであり、最澄が信濃坂
しょうか。これにより土岐駅∼坂本駅は約 を越えるのは移行前の弘仁6年(815)と
58里(32km)となり、斉衡2年(855) いわれていますから、このとき坂本駅はま
の太政官符が記す恵奈郡坂本駅と信濃国阿 だ落合にあったと考えられます。
智駅とは相去ること74里(約40km)とな 阿智サミットの古代東山道マップでは、落
ったのでしょう。 合五郎∼阿智駅間は32kmとなっていま
弘仁5年(814) 春、最澄は、布教と入 す。
唐成功の神恩に報謝するため九州筑紫まで 最澄は、この間に広済・広拯の2院を設け
赴き、天台宗の根拠地を建て、宇佐八幡と ています。阿智駅∼広拯院(月見堂) 間は、
香春の神宮寺を詣でています。東国巡化の 11kmとなっていますから、残りは21
道を東山道にとつて旅立つのは、翌弘仁6 kmとなります。落合五郎∼強清水間
年(815) 8月、和気氏の要請で大安寺で 10・5kmは、そのちょうどその真ん中
の天台講演の直後とされています。 となり、全体を3等分しています。
最澄の没後4、5年のうちに直弟子の仁忠 坂本・阿智両駅の駅馬は、ともに30疋で
によって成立したといわれる『叡山大師伝』 いずれも3駅分であり、道程の厳しさから
には、神坂越えは最大難所で、美濃・信濃 しても両院は、1駅に相当する役目を担っ
の国境に広済・広拯、両院の布施屋を置い ていたのでしょう。
て旅人に宿泊の便宜を与えたとなっていま 東山道最大の難所、神坂峠の取り付きの谷
す。 間に位置する標高1100mの強清水は、
東国では法華経2千部を書写し、最澄に 山越えに備えて喉をうるおし、ひとときの
どう ちゅう ゆいてい
ゆかりの深い鑑真の高弟道 忠 の遺弟 らが 安息と気力を養うには絶好の場所でもあり
みとの
いる上野の緑野寺(浄土寺)と下野の小野寺(大 ます。
慈院) を伝道の拠点として宝塔を建立し、そ この広済院の縁により、昭和53年(1978)
の落成にはそれぞれ9万余と5万余が参集 に特別養護老人ホーム延暦寺広済寮が開設
して慶賀したという。 され、平成13年(2001)9月吉日、伝教
この東国巡化について、『最澄と天台教団』 大師(最澄)の偉業を継承する為、入口にそ
ぎょうおう
(木内 尭 央 )は、弘仁7年5月1日付の弟子 の尊像が建立されました。その台座には、

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『広済院の位置』は、強清水(?)である

せん ぎょう すう しん
「瞻 仰 崇 信」と刻まれています。
(2004・05・17)

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『広済院の位置』は、強清水(?)である

神坂峠
16km(30 里) 10.5km

この距離は諸道 30 里ごとに 1 駅を置くとする大宝令 11km


(701 年)とピッタリと一致している。

広拯院︵月見堂︶
10.5km

広済院︵強清水︶
6km 4km 6km
22km(39 里)

坂本駅︵落合五郎︶

阿知駅︵木戸脇︶
大井駅︵恵那市東野︶

駒場︵新坂本駅︶
千旦林
至土岐駅︵瑞浪市馬屋︶

大井駅廃絶(838~50 年)
に際して移転。
32km を 3 等分しており合理的である。

38km
恵奈郡坂本駅と信濃国阿智駅とは相去ること 74 里(約 40km)とする太政官符は斉衡 2 年
(855)正月 28 日付であり、このことは移転後の新駅までの距離を意味しており、38km と
は極めて近い。

9
七代目団十郎の手紙

七代目 団十郎の手紙
張山 勇

代々豊蔵を襲名する中山道落合宿の旧家 歌舞伎年代記』

上田家(現当主信義氏)には、7代目市川団十 さっそく、大坂へ赦免の知らせを伝える
郎(海老蔵) の手紙2通と、お礼の品々が今 使者には、次男の重兵衛が使者に立ちまし
も大切に所蔵されています。この書状には た。正月興行を控える8代目にはとてもそ
月日は記されていますが年号は無く、何年 の余裕はありませんでした。重兵衛が大坂
に書かれたのかは不明です。9月29日付 に着いたのは、明けて嘉永3年の正月そう
の第1の書簡と、4月5日付の第2の書簡 そうでした。
『団十郎と勧進帳』
(小坂井 澄)

です。 このとき海老蔵は、いなば(伊奈波・稲葉・
『木曽路文献の旅』は、9月29日付の 因幡)芝居に於ける正月興行のため12月か

第1信を、旅興行の帰途、雲助の難にあっ ら岐阜に滞在していました。この芝居小屋
た団十郎が、上田豊蔵や本陣の助けにより、 は伊奈波神社の社前(現岐阜市伊奈波通一丁目)
神坂峠から夜陰にまぎれて信州伊那方面へ にあり、1月8日に初日を迎えていました。
逃げのび、無事に江戸へ帰着出来た礼状と (『平成13年度秋季特別展』)

し、7代目団十郎が8代目に団十郎をゆず だしものは、
「忠臣蔵裏表」で大入りを続
って、再び海老蔵を名のった天保3年から け、とうとう10日には客止めをする始末
江戸を追放される天保13年(1832∼42) でした。
『市川団十郎』
(西山松之助)

までの間のどの時点かで落合宿に寄った可 『手前味噌』
(3代目中村仲蔵) によれば、重兵

能性はあるとしながらも、嘉永3年(1850) 衛が赦免の知らせを携え、大坂からその足
と推定し、『中津川市史 』は、嘉永 4年 で大入り満員の続く岐阜に到着するのは正
( 1851)としています。 月の16日です。このとき仲蔵は、海老蔵
平成13年9月30日から11月4日ま の計らいで「忠臣蔵裏表」に出演していま
で岐阜県博物館・中日新聞社の主催でひら した。
かれた「七代目団十郎と国貞・国芳」
(平成十 海老蔵から呼び寄せられた仲蔵が、名古屋
三年度秋季特別展) は、嘉永3年とする上田家 へ着いたのは正月2日です。しかし誰も居
伝承を紹介し、今後新たな資料が発掘され、 なかったので3日の夜いろいろ相談して、
より一層この間の事情が明らかになること 4日に名古屋を発ち清洲で一泊、5日に笠
を期待したい。と述べています。 松で昼食、夜岐阜に着き、翌日7代目の宿
だいきゅう
天保13年(1842)6月22日、天保の 大 久 へあいさつにいっています。仲蔵は東
倹約令に触れ、江戸10里4方追放を申渡 海道を美濃路に入り、尾張街道(岐阜街道)を
された海老蔵が赦免されるのは、7年後の 通って岐阜に入っています。『市川団十郎』(西

嘉永2年(1849)12月26日です。(『続 山松之助)

10
七代目団十郎の手紙

この道は、岐阜から加納宿を経て茶所の妙 なります。公演を終えた海老蔵が江戸へ到
寿寺(加納八幡町)で中山道から分かれ、笠松 着するのは、2月29日(新暦4月11日)で
村で木曽川を対岸の里小牧村(木曽川町)へ渡 す。
船し、黒田村(木曽川町)→一之宮村→妙興村 『木曽路文献の旅』や上田家の伝承では、
おりつ
(一宮市大和町)→赤池村(稲沢市)→下津村(稲 海老蔵はこのとき江戸への帰路を中山道に
沢市)→を経て井之口村(稲沢市) にて美濃路 とり、落合宿で雲助の難に遭ったのではな
きよす
(熱田∼垂井)に合し清須(洲)に至っています。 いかと推定しています。上田家伝承を要約
(『岐南町史』
) するとつぎのようになります。
仲蔵は朝、清洲を発って笠松で昼食をとり、 山にはまだ雪が少し残っている時分であっ
夜岐阜に着いています。 た。落合宿の手前にある茶屋の主人が、旅
海老蔵は、正月の19日から22日まで、 人を連れて上田豊蔵のもとを訪れた。茶屋
お名残り狂言に「菅原伝授手習鑑」を演じ の主人が言うには、この人達は雲助につき
て、その夜のうちに出立しています。よほ まとわれ難儀しているので助けてあげては
ど急いでいたのでしょう。 もらえかいか、と。一行は、男二人、女中
海老蔵が岐阜公演を終え、その夜のうちに 衆が二人、長持ち担ぎが二人の合わせて六
出立したのは、翌日名古屋(橘町)に着くた 人であったが、うちひとりが進み出て、団
めには、どうしてもその日のうちに笠松ま 十郎(当時、海老蔵)であることを名乗ったと
で行き(泊まり) →始発で渡船→清洲(昼食) いう。江戸へ向う途中の彼らは、ひとまず
→夜到着(橘町)を考えてのことでしょう。 飯田にいるひいきのところまで無事にたど
海老蔵の名古屋での公演は嘉永元年(1848) りつけるように豊蔵の助力を求めた。そこ
の8∼9月の「清寿院芝居」(『尾張名古屋 芝 で豊蔵は、落合宿本陣と協議のうえ、団十
)以来1年半ぶりです。
居番付』 橘町(中区)は、 郎一行を夜が明けないうちに配下の者二人
東本願寺名古屋別院から橘小学校にかけて を付け、路銀三両を持たせて豊蔵宅の裏木
の一帯で、この付近はお寺が集中し寺町を 戸から雲助に気付かれぬようにこっそりと
成しています。 旅立たせた。その間、表では雲助達が様子
名古屋では、2月5日より中村津多右衛門 をうかがっていたものの、朝になって一行
座(橘町芝居)で、一世一代を称して がひそかに出発したことを知り、豊蔵宅に
いちのたにふたばぐんき
「一谷嫩軍記」などを演じています。
(『平成 なだれ込んできたが豊蔵の一喝であきらめ
13年度秋季特別展』
) て退散した、と。
(『平成十三年度秋季特別展』)

海老蔵江戸帰参の途次と聞いて、ここも 橘町から熱田(東海道宮宿)までは1里足らず
遠近から客が詰めかけ、5日の予定を3日 の目と鼻の先です。まさに帰りがけの駄賃
も日延べしました。
(『団十郎と勧進帳』
) です。宮宿から江戸(日本橋) へは88里で
待ちに待った8年ぶりの江戸への帰参の す。

旅です。さぞかし気が急いたことでしょう。 加納宿(中山道)から江戸(日本橋)まで105
「特別展」は、2月5日を初日としていま 里です。名古屋から犬山を経て鵜沼宿に出
すから、千秋楽は2月12日ということに たとしても江戸までは更に100里ありま

11
七代目団十郎の手紙

す。中山道は夏街道ともいわれており、こ 昔の旅立ちはずいぶん朝早かったものとみ
の時期の通行は難儀でもあります。橘町か えます。
ら中山道へ引き返すには少なくとも一日半 高輪には、宝永7年(1710)に大木戸が造
はかかるでしょう。先を急ぐ海老蔵が東海 営され、大名の参勤交代の際や、旅人の送
道の入口熱田(宮宿)を目の前にして、遠回 迎などもここで行われ、今も史跡として残
りとなる中山道へわざわざ引き返すのは余 されています。
程の事情でもない限り不自然と考えられま 2月29日、江戸に着いた海老蔵は、3月
す。 17日にはさっそく河原崎座の舞台に立ち、
「団十郎と『勧進帳』」によれば、「実は上 「 下 り お 目 見 え 狂 言 」 と し て
ありがたやえどのかげきよ
方滞在中、海老蔵はかなりの借金を作って 『難有御江戸景清』を演じています。
おり、その始末のため、また江戸に戻れば 『續歌舞伎年代記』によれば、幕開きを前
戻ったで「木場の親方」としての体面もあ に海老蔵は、要約すると次のような口上を
り、ふところをあたためておかねばならな 述べています。
かったのだ。餞別などを加えて七百両あま 「高うはござりますれど・・・・私には
りを手にした海老蔵は、弟子を従え意気 12人の子供がございます。内5人は女に
揚々と旅立った。二月の末、東海道を江戸 て、とんと役者の間には合いませぬが、7
に入り、芝まで着くと、八代目団十郎はじ 人は男でございます。惣領は、一方ならぬ
め門弟一同、裏方衆、さらには贔屓の人々 お引立てに預かりました団十郎、次男新之
がにぎにぎしく出迎えた。
・・・」とありま 助は幼年の折、疱瘡にて、私の譲りました、
す。 かんじんの眼玉を一つ失いましたので、素
たかなわ
「芝」は、品川宿の一部で、新橋から高輪に 人になり、十兵衛と申して只今は木場に居
かけての東京湾沿いの芝浦から、三田、白 ります母の世話など致しておりま
金台地一帯です。ここには、徳川氏の菩提 す。・・・・・」
寺の増上寺や、赤穂浪士ゆかりの泉岳寺な この十兵衛が赦免状を携え岐阜へ旅した重
どがあり、また伊達家や島津家をはじめと 兵衛です。重兵衛が岐阜で、8年ぶりの再
する大名の上屋敷が建ち並んでいました。 会を遂げたときの様子を『団十郎と勧進帳』
ここには遠山家・山村・千村両代官の江戸 は、次のように記しています。
屋敷も同じ一画に隣接して建てられていま 海老蔵の宿で父と対面した重兵衛は、痛々
せきがん
した。 しい疱瘡の跡の残る顔の隻眼(片目)を、涙
品川宿は、東海道五十三次の最初の宿駅で、 で光らせた。
「お江戸∼日本橋∼七ッ立ち∼」と唄われ 「とっつぁん、ご赦免だぜ」
る起点日本橋から2里に位置しており、板 夢にまで見た知らせを告げられ、海老蔵は
せんじゅ
橋(中山道)、千住(日光道中)、内藤新宿(甲州 うれしさがあふれ出そうになったが、生来
し しゅく
街道)とともに江戸四 宿 といわれ、江戸の玄 の意地っぱりがこう言わせた。
関口としての役目も果たしていました。 「なんでぇ、いまごろ、もったいつけゃが
ちなみに「七ッ」は、現在の午前4時です。 って。だいたい、このおれが江戸で芝居を

12
七代目団十郎の手紙

しねぇでどうするっていうんだ。・・・・」 20日甲府のひいき筋を出て、杖突峠・高
海老蔵の江戸到着は、2月29日といわれ 遠・大草を経て、24日川路に到着してい
ています。上田家所蔵の礼状(第一の書簡)の ます。興行は8月2日から始まり終日の1
日付は9月29日です。いくら多忙とは云 0日目の14日まで、中3日間の雨天を除
え、義理堅い海老蔵が、江戸到着から7ケ いて催されました。
月後にやっと礼状を出すのでは、やはり不 帰路には天竜舟下り路が選ばれて、8月
自然と云わねばなりません。 20日出立し、川田から乗船・途中天竜村
うぐ す
『長野県歴史大年表』は、天保12年(1841) の鶯 巣 で土地の郷士松下弾右衛門方で一
なかべ
7月27日、伊那郡下川路村(現飯田市川路) 泊・翌日中部で下船、秋葉山に参詣して灯
に7代目団十郎による江戸芝居があるが、 篭一対を寄進し、東海道の袋井から清水港
飯田領内の者は決して見物に行かぬよう達 に至り、再度船旅で江戸へ帰ったとしてい
おおえ
しがある。と載せています。 ます。江戸帰着は9月21日(大上家所蔵書簡)
当時飯田藩は外様小大名の堀家でしたが、 で、その一週間後から中村座に出演、その
ちかしげ
10代親 は、天保12年には若年寄を経 前後に成田山を詣でています。
(市川団十郎来峡

て江戸城の側用人に登用されていました。 百五十周年『信州伊那 川路来演の記録』


天保の飢饉は同4年から7年にかけてがピ ちなみにこの一座は57人あるいは72
ークで、天保12年5月には老中首座水野 人といわれ、10戸近い民家に分宿してい
忠邦による奢侈禁止・緊縮政策が始まって ます。興行は、一行28日間の滞在費を別
います。川路公演の2ケ月前です。親 は として、219両余の赤字で、川路の勧進
幕政への遠慮からこの興行に禁制の布令を 元8人が負担しています。このうち大上の
出したのです。 関島記一は、94両余負担したといわれて
「大黒屋日記」には、馬籠の旦那衆や女中 います。この興行の契約金320両のうち、
衆が飯田まで5日泊まりで見物に出かけた 200両が海老蔵の給金でした。
様子が記されています。この興行に際して 中部で一泊、翌22日早朝より山路を越
海老蔵が落合宿に立寄った可能性を検証し して10年ぶりに秋葉山を参り、2年ぶり
てみます。 3ケ月に及ぶこの旅の、海老蔵自筆による
天保12年は、海老蔵(51歳)が江戸を追 見聞記ともいえる『遊行やまざる』は袋井
放される前の年であり、海老蔵が赦免され までで事実上記述を終え、清水港から船に
て江戸へ帰る嘉永3年の9年前です。 乗り江戸へ帰ったとしています。海老蔵が
この年海老蔵は、5月に江戸河原崎座で曽 江戸へ帰着するのは、袋井到着の22日か
我の五郎の役で出演、同年9月下旬(廿七日) ら丁度1ケ月後の9月21日の夜で、この
からは中村座で「双蝶々」の長五郎役で出 1ケ月間の行動はまったくナゾにつつまれ
演しており、川路興行はこの間のこととな ています。
ります。 袋井宿(東海道)から清水港(江尻宿)までは
6月下旬に江戸を出発した海老蔵は、甲府 19里余だから、徒歩でもわずかに2日の
の亀屋座で興行し、身延山に参詣、7月 行程です。

13
七代目団十郎の手紙

『遊行やまざる』は、この旅を「商売 遊 たりでもう一泊してきたのでしょう。大湫
参半ぶん 秋の月」と云い、
「ゆるりと江戸 宿∼落合宿(泊)は7里です。
で遊びやせうと、目出たく海上道中無事に 恵奈郡坂本駅は、信濃国阿智駅と相去るこ
帰国して・・・」と述べているから、この と74里(約41km)といわれていますから、
間、途中下船して寄り道したとも思えませ 落合∼神坂峠∼川路(泊)はざっと10里で
るいじゅうさんだいきゃく
ん。清水港から江戸までは42里だから徒 す。『 類 聚 三 代 挌』

歩でも4日です。船でそれ以上かかること 飯田高校の矢島 勝先生は、


『七代目団十郎
おおえ
はないでしょう。 と大上家』
(伊那1959・12) で、大上家に

海老蔵には、各地に狂歌狂句仲間があり、 は5冊の本に貼られてある2∼3百枚の版
それはまた海老蔵のひいき筋でもあった。 画があって、それらの半分位は7代目団十
海老蔵は九州にまで及ぶ、何度かの旅興行 郎の時代に、歌舞伎の今日でいえば宣伝係
を行っているが、これは、各地のひいき筋 りをした五渡亭国貞のものである。と述べ
即ち狂歌狂句仲間を回る興行でもあった。 ています。そのなかに飯田の人が描き刻し
と『川路村誌』は記しています。 たという印のある1枚の版画があり、上部
『尾張名古屋 芝居番付』は、
「7代目が実 の方に団十郎の書体で、
「爪に染みて 園原
子の海老蔵に8代目を譲ってみずから海老 うれし 秋の風 白猿」と記されている
蔵と称するのは天保3年で、7代目の名古 と紹介し、この句により団十郎は、名古屋
屋公演の「お目見え」は天保8年の若宮芝 から園原に出てきたものと想像することも
居である」と載せており、海老蔵は、この 出来るだろうか。と述べています。この句
川路公演の4年前に名古屋公演を行ってい が知られるようになるのは恐らく昭和34
ます。 年(1959)からでしょう。
川路公演を終え、なお一ヵ月を残す海老蔵 上田家所蔵の海老蔵の手紙が日の目を見る
の脳裏に、4年前に世話になった名古屋の のは、昭和45年です。『木曽路文献の旅』
ひいき筋の顔が浮かばなかったとはどうし が発行されるのが7月で、その5ケ月前に
ても思えません。 『落合郷土誌』が出ています。
『落合郷土誌』
袋井から熱田(宮宿)まで29里弱ですから は、この「七代目団十郎の手紙」を取り上
3日の行程です。8月23日に発てば、 げるにあたって、
『木曽路文献の旅』の原稿
25日には着けます。 を引用しています。矢島先生は、団十郎の
上田家伝承では、海老蔵一行6人は大湫宿 この手紙が、上田家の土蔵の中で眠ってい
に泊まり、早朝出立して十三峠を下る頃か ることなど知るはずもありません。
ら雲助に付きまとわれた。となっています。 明治26年5月13日、恵那登山を終え
袋井宿で一座の一行と別れた海老蔵ら6人 たウェストンは、2度目の天竜下りをして
は、帰路を中山道にとり上街道即ち名古屋 います。時又∼浜松間(約144km)を1日
から小牧街道を経て大湫宿へやって来たこ (12時間)で一気に下ったウェストンは、
「こ
とになります。名古屋(志水口)∼大湫宿は の舟旅ほど面白かったことはない」と大い
16里ですから、海老蔵は中間の土田宿あ に満足しています。

14
七代目団十郎の手紙

天竜川(東海道浜松宿と見付宿の中間)から清水 候通り御聞済に相成」と記されています。
港(江尻宿) まで約21里、その中間は藤枝 このことについて、第一の書簡、嘉永3
宿あたりとなります。江尻宿から江戸(日本 年説をとる『木曽路文献の旅』は、
「長い間
橋)まで42里ですから、見付宿から江戸ま の御赦免の願いがやっと聞き届けられて、
で徒歩で計算したとして6日となり、都合 晴れて江戸へ舞いもどることができたこと
11日となります。 を意味していると考えられよう。」としてい
江戸時代の大名行列は、
「下にぃ∼ 下にぃ ます。
∼」の掛け声とともに隊列を組み、整然と 海老蔵から大上家への礼状も、恐らく上田
行進したように思い勝ちですが実態は大違 家への礼状と同じ9月29日頃出され、
「私
いです。 身分御願申上候通り御聞済に相成」と記さ
尾張徳川家の参勤交代も、中山道を10泊 れているのではないでしょうか。
11日で名古屋に着いています。
「岐岨路紀行」 海老蔵の峠越えを天保12年9月15日と
(横井也有) 仮定すれば、新暦では10月29日となり
この間100里以上ですから、天下の御三 ます。
家といえども一日10里となり、「大名旅 同じく嘉永3年2月、海老蔵落合宿通過説
行」のイメージとは程遠い強行軍です。毎 をとる上田家伝承は、海老蔵の峠越えの時、
日マラソン(42・195km)をしているよう 「山にはまだ雪が少し残っている時分であ
なものです。 った。」としています。嘉永3年2月29日
苗木遠山氏は7泊8日で江戸に到着してい は新暦では、4月11日ですから、海老蔵
ます。(遠山史料館開館10周年特別展「大名行列」
) の落合宿通過は3月末か4月の初めと考え
江戸(日本橋) から新茶屋の一里塚まで83 られます。
里ですから苗木まではそれ以上となり、や 「大黒屋日記」には、天保12年の初雪の
はり一日当り10里強となります。 記録は見当たりませんが、文政9年(1826)
海老蔵が江戸に到着したのは9月21日 9月21日(新暦10月22日)の項には、「す
です。1ケ月29日として逆算すれば、名 こしく天気、山に雪降る」とあり、同年
古屋出立は9月10日頃となります。8月 10月26日(新暦11月25日)「夜、初雪す
の末頃名古屋に着いたとして、海老蔵は9 こし降る」とあるのは里でしょう。
月上旬までの約半月間程は名古屋に滞在す 安政7年 (1860) 9月10日 (新暦10月
ることは可能と考えられます。 、恵那山へ雪来る。至りて寒気。
23日)

9月21日の夜江戸に着いた海老蔵は、 文久3年(1863)9月21日(新暦11月2
翌22日病気入湯のため旅をした旨届け出 日)、恵那山に雪かかる。などが散見されま

て聞き届けられています。
(『川路村誌』
) す。
当時の役者たちには、旅興行は表だっては 茄子川村庄屋、藤井久衛門(豊常)は、慶
許されず、
「湯治」などと称して旅に出たと 応2年(1866)9月18日(新暦10月26日)
いわれています。
(『川路来演の記録』
) 恵那山へ登山しています。「藤井家年内日
上田家の第一の書簡には、
「私身分御願申上 記」にはこの時、
「峰雪降る」と記されてい

15
七代目団十郎の手紙

ます。 天保13年6月、江戸を追放されて下総
海老蔵が落合宿から神坂峠を越えるのは、 の成田山にのがれた海老蔵が、伊勢の古市
はたがや
天保12年9月中旬(新暦10月下旬) と考え に「幡谷重蔵」の変名で登場するのが翌天
られますから、この時期標高1595mの 保14年5月中旬です。この道中の途中の
峠に雪があったとしても、それはありえな 4月5日頃、名古屋で興行したのではない
いことではなく、上田家伝承と一致します。 かと考え、その資料を探しましたがどうし
『遊行やまざる』には、川路へ向う途中 ても見つかりませんでした。
の海老蔵が、八ケ岳を眺めた直後の甲斐路 『尾張名古屋 芝居番付』によれば、
「海
の団子村で数十人の人足に跡を追いかけら 老蔵の名古屋公演の「お目見え」は天保8
れて酒手をたかられ、早速狂歌一首を詠ん 年の若宮芝居である」とあり、その後の名
でいます。 古屋での公演記録は次の通りです。
「ほらふくや 甲斐がねたいこ とりまか
れ 何ンと信濃へ 気はいそげども」と。 嘉永1年(1848)
『川路来演の記録』は、こうした大名優 8月(清寿院境内芝居所)
の川路来演が、天保12年に実現したこと 9月( 同 所 )
はまさに歴史的でき事であり、人気絶頂の 3年(1850)
赦免により、2月29
海老蔵が、最も充実した芸風の時代であっ 2月(橘町常設芝居場)
日江戸へ帰着
たと見られています。と記しています。 5年(1852)
上田家伝承の路銀3両は、上田豊蔵や本 6月(同所) 上田豊蔵、 海

陣の計らいによって海老蔵を取り逃がし、 7月(同所) 老蔵と再会

いきり立つ雲助どもをなだめるための、あ 安政1年(1854)
るいは酒手だったのではないでしょうか。 3月24日(若宮御社内) 4 月 5 日 第

第2の書簡は名古屋から出されており、 4月14日( 同 所 ) 二の書簡発信

その日付は4月5日です。しかも「名古屋 5月 4日( 同 所 )
表芝居ヘ出勤仕此節興行ニ相成候」とある 5月11日( 同 所 )
から、興行のための滞在中に発信されてお 7月28日( 同 所 )
(父子共演)

り、更に「一昨年ハ御苦労様ニ相成御親切 (閏)7月19日( 同 所 )( 同 )

様ニ御世話被成下候」と記されています。 海老蔵の名古屋での公演はこれだけで、
この「一昨年」については、9月29日付 この中で4月5日付名古屋発信の第2の書
第一の書簡、即ち海老蔵が落合宿で世話に 簡に該当するのは、安政元年(1854)だけ
なったことへの礼状(その年) を指している です。しかもこの時は、6月を除いて3月
うるう
と思い込んでいました。 から 閏 7月まで、半年にも及ぶ長滞在です。
天保12年の川路公演の帰途を第1の書 上田家伝承では、 「・・・
(雲助を振りきって)

簡とし、それを第2の書簡が「一昨年」と ようやく頂上(神坂峠) に着いて、ここまで


しているとすれば、第2の書簡は天保14 来れば大丈夫だと安心して昼の弁当をひろ
年(1843)となります。 げた」 その時の開放感を海老蔵は、後に

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七代目団十郎の手紙

なって再会した豊蔵に熱っぽく語ったとい め、大黒屋へ案内しています。この利左衛
う。 門は泉屋8代由裕(『夜明け前』青山半蔵の内弟子
「 爪に染みて 園原うれし 秋の風 林勝重の父、稲葉屋儀十郎) です。

白猿 」は、このとき詠んだのでしょう。 翌安政6年3月23日、海老蔵は69歳
安政元年の一昨年は嘉永5年です。第2の で波乱の生涯を終え、その10年後、明治
書簡の「一昨年」は、この再会した時のこ 2年2月23日、2代目上田屋豊蔵(雄吾)
とを指していたのでしょう。 は亡くなっています。
安政5年4月16日、水戸徳川家へ嫁ぐ
さと ひめ?
鋭 姫 一行が落合本陣に宿泊しています。 (2006年5月30日)
「大黒屋日記」によれば、豊蔵は翌17日、
同行の鋭姫御典薬大橋清を、鈴木利左衛門
の依頼により大黒屋の養子熊次郎診察のた

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二ツ森山行 (1223・3m)

二ツ森山行 (1223・3m)
張 山 勇

夏も終わりの8月30日(曇)、先輩のS 周囲が石で組まれたこの古池は、「氷餅の
さんに誘われ、かねてから一度行きたいと 池」と呼ばれ、町指定史跡として保護され
思っていた二ツ森山へ初めて登りました。 ています。しかしどう見ても池としか思え
その日は雨上がりのため眺望はイマイチで ないこの水たまりは、実は井戸なのです。
した。今度はお誘いして一週間後の9月5 この井戸が掘られるのは、今から283年
日(快晴)、もう一度行ってきました。 前です。苗木藩の氷餅屋は、当初は城内風
二ツ森はその名のように、高さは違います 呂屋門付近にあったのが高峰山へ移された
が東西にラクダのこぶのような二つの峰(東 と伝えられています。
森1155m・西森1223・3m) を持ち、デザ 「ニツ森氷餅屋覚」(志津 典氏所蔵) によれ

イン化されて福岡町(現中津川市福岡) のシン ば、氷餅屋が高峰山からニツ森山へ移転さ


ボルマークにもなっています。 れるのは、享保8年(1723)のことです。
国道257号線を下野の信号で左折、付 標高は、城山 ( 高 森 山 ) 433m、高峰山
知川を渡って県道70号 (福岡・白川線) を 945mに対してニツ森山は1223mあ
20分ほど(約10㎞)走ると、広域基幹林道 り、苗木藩領の最高峰です。移転のたびご
二ツ森線の入口に到着します。ここは白川 とに、より不便で難儀な高地へと、なぜ移
町との境界切越峠の少し手前で、
「ニツ森山 って行ったのでしょうか。理由は定かであ
あと3k」の標識が立っています。終点の りませんが、需要増に対して、厳寒期に限
登山口駐車場まであと10分ほど(3・6k) られた製造期間を延長するため以外には考
です。左折して2・8k、左にアスレチッ えられません。ニツ森北側斜面に位置する
ク場のやぐらが見えてきます。100m程 水源池は寒中、水に浸して凍らせ寒風にさ
先の右手には、中津川市指定重要文化財「氷 らして乾燥させる氷餅屋にとっては、絶好
餅の池」の看板が設置されています。ここ の場所だったと思われます。
で右折して200m、左手にシンピジウム この引越しには、道つくり人足184人、
の畑(恵那農高実習園) を過ぎれば、500m 井戸堀に20人とあり、延べにして204
で行き止まりの終点です。ここには、駐車 人の人足が動員されています。工事は10
場や休憩所もつくられており、案内標識に 月6日(新暦11月2日) に始まり8日までの
は、7合目登山口 山頂まで560mとあ 僅か3日で終えています。積雪期を目前に
ります。所要時間は、平地ならほんの10 しての突貫工事だったのでしょう。
分足らずの距離ですが、4∼50分かかり 江戸中期から明治維新まで藩直営で行わ
ます。 れたこの「氷餅」の製法に関する資料は伝
250mほど登ると8合目の標識があり、 えられていませんが、
「寒製太白氷餅之粉」
道の右手に水を湛えた小さな池が見えて来 という木版型が天王社に現存していること
くずこ
ます。約2m四方、深さ75㎝(水深50㎝)、 から、葛粉のような粉状に加工し、販売も

18
二ツ森山行 (1223・3m)

されたと考えられます。 勺の日当(扶持米)が支払われています。
『大言海』は、氷餅の製法について、餅を ちなみに「塚田年鑑」は、享保17年(1732)

四角に切って水に漬け、芯まで浸みとおら の落合宿川並役・山口までの背負荷・遠七
せ、厚さ5分(1・5㎝)ほどに切り、寒夜に 里(飛脚)の手当ては共に1日米1升、中津
晒して凍らせて又乾かす。とあり、
『日本民 川へは米5合と記しています。
つ しみ もち
俗大辞典』は、搗いた餅を切餅にして藁や 凍餅とも呼ばれる氷餅は、保存食や病人
ひた
細縄などで連状に編み、水に浸したのち、 食として東北地方や長野県などで多く作ら
寒中の夜、軒先につるしさらす。と記して れており、ヨモギやヤマゴボウの葉などを
います。 入れた草餅もありました。食べるときは、
文化4年(1807)の「福岡村氷餅屋人足 砂糖を加えて熱湯を注いだり、油で揚げた
届書」
(水垣 清氏所蔵)には人足63人、外に りしました。またいったん水に浸し、やわ
登山の節、藁7束を運び上げたとあります。 らかくしてから焼いて醤油や黄粉をつける
この藁は、恐らく切餅を干し柿のように連 などして食べました。
状に編むのに使用されたのではないでしょ 氷餅は、幕府への献上品としても珍重さ
うか。藁で編まれた切餅は、水に漬け芯ま れていました。苗木藩から幕府への献上品
で充分浸してから、厳寒期の氷餅屋の軒下 は、2月にカヤ、5月に氷餅、9月に大和
や天井から吊るして凍らせ、寒風にさらし 柿、そして11月に栗となっていました。
乾燥させて完成したのでしょう。この製造 岐阜県天然記念物、瀬戸の大カヤ(市岡信之氏
過程からしても、深く掘り下げられた一般 宅・根元の太さ6・5m、高さ15・8m)は、樹齢

的な井戸よりも、深さ75㎝のこの井戸の 5∼600年と推定され、秋には4俵ほど
方が作業に適しています。享保8年、高峰 の実が収穫でき、菓子の材料や非常食とし
からの移転に際して掘られた井戸は、この ても備蓄されたそうです。
(市岡氏談)

「氷餅の池」だったのではないでしょうか。 江戸時代、6月1日に氷餅などを食べて祝
「氷餅の井戸」とするのがより正確な呼び う行事があり、氷室の節句、あるいは氷の
ついたち
方でしょう。 朔日などといわれていました。氷餅が5月
氷餅の製造には、餅米3石から4石ほど に献上されたのは、この行事に間に合せる
が使用されたといわれています。1臼2升 ためだったのかもしれません。
として150∼200臼です。3人掛りで、 天保3年(1832)6月、互友坊(前号忘我・
後の加工作業も含めて1日10臼搗いたと 宗泉寺12世) の一周忌に際して、友左坊(美

しても、15∼20日となり、延べ45∼ 濃派9世) は湖友を伴って落合に来遊し、雅

60人となります。この外に薪伐り人足・ 会が催されています。
荷物の上げ下ろし人足も要ります。前記、 うち解けた 遊ひ楽もし 氷室の日
文化4年の資料は63人、安永5年(1776) 友左宗師
69人、同じく翌安永6年は40人となっ 氷室の日 とて味ひも 無味
ています。 素 涼
寛政10年(1798)の資料(「諸産物代米覚帳」・ 夏の氷餅も冬至(新暦12月22日頃)のカボチ
志津 典氏)には、氷餅屋人足薪伐、1人に付 ャと同じで、さぞ味気無かったのでしょう。
き米6合、上げ下ろし人足には、米7合5 最も近頃カボチャは、産地直送で海外から

19
二ツ森山行 (1223・3m)

飛行機で運ばれ年中旬の味です。 天保3年、同10年、弘化3年)登場し、なかでも

素涼は、落合宿年寄役で泉屋6代目を継い ペリーの来航した嘉永6年(1853)の雨乞
だ鈴木清茂です。天保6年嵩左坊の坊号を いの様子は詳しく述べられています。
『岐阜
許され、中津川の霞外坊とならんで東美濃 県歴史年表』も、この夏大旱魃と載せ、
『夜
の宗匠の一人となっています。嵩左坊は山 明け前』は、この時の様子を次のように記
村・千村両代官の師匠として俳諧を手解き しています。
しています。 ・・・六月に入って見ると、うち続いた快
晴で、日に増し照りも強く、村中で雨乞い
池を過ぎて100mほど行くと、Tの字 でも始めなければならないほどの激しい暑
に突当ります。左は東森、右は西森でそれ 気になった。荒町の部落ではすでにそれを
ぞれ残りあと200mの標識が立ち、丸太 始めた。
でつくられたベンチも用意されています。 ―(中略)―
ここから山頂までは、木の根っこを踏締め 「おい、どこへ行っていたんだい。」
ながら登る急坂となります。頂上の手前で、 「馬買いよなし。」
ひで
太さ30㎝ほどの檜が途中でへし折られ、 「この旱りを知らんのか。お前の留守に、
たんぼ
根元まで引き裂かれています。裂け目の新 田圃 は 乾 い て し ま う 。 荒 町 あ た り じ ゃ
ぼんてんやま
しさからして、つい最近のことと思われま 梵天山へ登って、雨乞いを始めている。氏
せ ん ど まい
す。恐らく雷に直撃されたのでしょう。 神さまへ行って御覧、お千度 参 りの騒ぎ
もう50年(昭和30年8月3日)になりますが、 だ。」
神坂中学校生徒4名が犠牲になった富士見 「そういわれると、一言もない。」
い せ ぎ
台での落雷による遭難が思い起こされます。 「さあ、このお天気続きでは、伊勢木を出
頂上に建てられた東屋の屋根には、避雷針 さずに済むまいぞ。」

が取り付けられています。 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願を籠める
山頂には巨岩が2つ並んで鎮座していま ための神木を指す。こうした深い山の中に
す。手前の岩には2等三角点標識が埋め込 古くから行われる雨乞いの習慣である。よ
まれ、側面には、風化して判読不能ですが くよくの年でなければこの伊勢木を引き出
数箇所に年月日と名前が刻まれています。 すということもなかった。
かまど
もう一方には、高さ50㎝の石の祠が祀ら 六月の六日、村民一同鎌止めを申し合せ、
れ、沢山の絵馬も奉納されています。この 荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、
山は地元では、雨乞いの山としても崇めら 問屋をはじめ、宿役人から組頭まで残らず
もみ
れており、雨乞いが行われた際に、彫られ そこに参集して、氏神境内の宮林から樅の
たものといわれています。雨乞いは古くか 木一本を元伐りにする相談をした・・・と。
ら行われています。「出雲国風土記」(天平5 快晴は5月24日頃から続き、4日から始
年〈733〉成る) には、タキツヒコノミコト まった雨乞いは、7日には村中160軒か
みたま
の御魂という石神に祈願したとあり、
「肥前 ら19文づつ集めて諏訪様へ4日掛かりの
国風土記」は、同じく二つの石に祈願する 代参まで出して、11日まで続けられてい
と必ず雨が降ったと記しています。 ます。そのご利益(御利生) により、ついに
「大黒屋日記」にもたびたび(文政10年、 八つ時(午後2時頃)、西より雲が出て大雷雨

20
二ツ森山行 (1223・3m)

となり、一同大喜びして氏神様へお礼参り うです。そっと近寄り、しばし耳を澄まし
に行っています。 て聞き惚れる。やがて笛は止みました。
頂上からの展望はすばらしく、眼下に福岡 「おじゃましてすみませんでした。ちょっ
の町が広がり、正面(東南)に恵那山、南西 とお聞きしても、よろしいでしょうか」
に笠置、北北東に御嶽、更には遥か南アル 「どうぞ」
プスの山並みが一望できます。スモッグが 階段を上がって中へ入ると、正座ではなく、
ふち
吹き飛ばされた、台風一過の澄み渡った日 床の縁に腰を掛けていたのです。大地につ
などには遠く伊勢湾も光って見えるそうで いた両足は素足でした。歳の頃は70半ば
す。 です。
「出演依頼で引っ張りだこじゃあないです
東森への分岐点まで降ったところで、下の か、どれ位やって見えますか?」
方からにぎやかな男の子の話し声が聞こえ 「いえいえ、そんなんじゃありません。詩
てきました。中津では学校は既に(8月30 吟の伴奏位はします。かれこれ40年にな
日・水) 始まっているから、きっと都会の子 りますが、本格的にやるようになったのは、
供達だろう。などと話しながらしばし待つ。 会社勤めを終えてからですから、精々15
小学生低学年とおぼしき兄弟と祖父母の4 ∼6年ほどです」
人づれです。 肩越しにテキストを覗くと、見たこともな
「僕達、どこから来たの?」 い記号がぎっしりと縦に書かれています。
「忘れたょ!」には恐れ入る。すかさず祖 「この記号は何ですか?」
母が「地元の黒川からです」 「楽譜です。五線譜にかかれた普通の楽譜
「学校はまだなの?」 もあります」
「来月になってからです」 題名は、
「鶴の巣籠」となっています。鶴の
後で(9月5日)解ったことですが、山頂の東 巣かご? 二ツ森山頂の木の幹には、小鳥
屋に備えられたノートには、来年も一緒に の巣箱がいくつか取り付けられていました
登りたいと書かれており、子供達と祖母の が、既に巣立後とみえて出入りする姿は見
苗字は違っていました。外孫だったのでし かけませんでした。鶴は大きいから巣箱で
ょう。 はとても間に合いません。竹で編んだ大き
東森の休憩所の屋根は、かまぼこ型でした。 な皿状のものなのであろうか。などと、チ
ここで昼食をとり、帰路は林道を直進して ラッと頭をかすめる。商売柄(ガソリンスタン
蛭川経由とすることにしました。 ド勤務)、
「馬籠(うまかご) は、どう行ったら
まごめ
駐車場から、1kmほど行くと左側にハン いいでしょうか」と、馬籠への道を聞かれ
グライダーの発進基地があり、駐車場には ることもしょっちゅうです。
乗用車が1台止まっています。近づくと尺 「題名は鶴の巣までは読めますが、その下
八の音が聴こえてきました。車のナンバー は何と読むのですか?」
は尾張小牧となっています。すぐそばの一 「巣ごもりです」
かえ
段高い丘には東屋が造られており、中央に 「卵を抱いて雛を孵すことですか」
一人の人影が確認できます。正座し背筋を 「そうです」
ピシッと伸ばした後姿は、まるで仙人のよ 「鶴の恩返しと関係ありますか」

21
二ツ森山行 (1223・3m)

「いいえ、仏教の説話を題材としており、 関でSさんが手招きしています。どうやら
親子の情愛を描いたものです。吹き終える 留守ではなかったようです。
に24∼5分掛かります」 「通りがかりに突然おじゃましました。張
「エッ! 一曲にですか」 山です。かれこれ50年ぶりです。ちょっ
「そうです」 とお聞きしたいことなどもありまして・・・
そばに開いたトランクが置かれている。 いやぁ∼確かに面影あるぅ・・・」
「尺八専用ですか?」 「町の(方の)張山さん?」
「そうです。4本入ります。それぞれ長さ 「いえ、ほら近所の・・・3軒おいた・・・
が違いますから」 辻屋の隣りの・・・」
「1尺8寸と決まっているんじゃあないで しばらく記憶をたどった後、ようやく思い
すか」 出してもらえたようです。同級生に同姓は
「長さによって音の高低が違うのです」 3人いますが、皆男です。今もそうだが、
ここへは、たびたび来られるそうで吹いて 昔からオレ、目立たなかったからなぁ
いた尺八は、京都の真竹で作られたものだ ∼・・・
そうです。曲の続きをアンコールする。 「お稲荷さんの、あの立派なキツネは、
すぐ隣りには、ハングライダーの発進台 ご主人が彫られたとお聞きしています
が造られています。普段は施錠されており、 が・・・」
中へ入ることは出来ません。10m以上は 「いいえ、あれは旦那ではありません。
あろうかと思われる助走路の先端は、急斜 息子の方です」
面となっており、そのはるか下は樹海です。 「本場ですから、やはり地元の石で・・・」
空中で手を離せば、あの世へ一飛びで着地 「ちょっと、聞いてきます」 「あれは
できるでしょう。そばには上昇気流確認の 福島の石だそうです」
ためでしょうか。吹流しも立てられていま 作品によって、加工に適した産地の石が使
す。 われるようです。
同じ村内で、10分ほどの所にラジウム
20分ほどで蛭川に着きました。石材の 温泉(東山温泉)があり、一風呂浴びて帰るこ
本場です。お稲荷さん(杉松稲荷大明神) に奉 とにしました。日帰り入浴、お一人様・金
納されているキツネの石像は、ここの石材 500円也です。
屋さんで造られたものです。近所のM先生 いろんな人との出会いがありました。山
の娘さんの嫁ぎ先です。 行ではなく、何だか旅行でもしてきた気分
同行のSさんは、2∼3度お伺いしたこ です。しゃべりづめで、足より口の方がく
とがあるとのことで、立ち寄ることにしま たびれた一日(8月30日)でした。
した。最後に見かけた記憶は、47∼8年
前のことです。高校(中津商業)3年のときだ (2006・09・11)
ったと思います。たまたま廊下で見掛けた
新入生が彼女だったのです。
新築間もないお宅の前の、大きな2枚の休
耕田には、沢山の錦鯉が泳いでいます。玄

22
セイタカアワダチソウを喰らう

セイタカアワダチソウを喰らう
金井 孝素

セイタカアワダチソウとは、言わずと知れ では味が落ちる。上品な皿に少しだけ盛り付
た悪名高き黄色の花が咲くキク科のセイタカ け、こだわりの塩をつけて食べれば、高級料
アワダチソウである。かつては花粉症の元凶 亭の味がする。
だとか、日本中がセイタカアワダチソウに覆 上品な食べ方をする限り、消化器系に悪さ
われるなどという濡れ衣を着せられていたが、 をすることはない。手足がシビレることもな
最近は少し見直されているようである。しか い。安心して春の食卓を飾る逸品である。
し一旦広まった風評はなかなか完全消火とは
いかない。セイタカアワダチソウは虫媒花だ
から花粉が飛び散る事はないし、ある程度繁
茂すれば自ら身を引き、どこかの国のエライ
様のように、その地位にいつまでも執着する
ことがないという。
恵那山の秋を彩るアキノキリンソウとは同
属で Solidago(完全な状態)属である。セイ
タカアワダチソウを悪く言う人には「この紋
所が眼に入らぬか」と、キク科の「完全な状
態」属であることを教えてやったら面白かろ
うと思う。
インターネットでセイタカアワダチソウを
調べているうちに、偶然、
「セイタカアワダチ
ソウは食べることが出来る」という記事に出
会った。インターネットの情報は玉石混交だ
から頭から信用したらひどい眼に遭うことも
あるので警戒しなければならないが、キンポ
ウゲ科のニリンソウでも食用になるので、キ
ク科だったら恐らく大丈夫だろうと早速たべ
てみた。
春になればよく肥えた新芽が勢い良く伸び
てくるので、それを摘んで、定番は薄く衣を
つけてテンプラである。口に入れるとほのか
に菊の香り(花の香りではなく葉の香りであ
る)がして、オトナの味が口に広がる。
どの野草山菜でもそうだが、ザルに山盛り

23
恵那山はなぜ二十合か

恵那山はなぜ二十合か
落合 樋口 帯刀

どこの山も、その頂上を十合目としてい 一服後歩きだせばすぐに十三合目標柱であ

る。これ常識である。だが恵那山だけは例 る。

外である。なんと二十合なのである。川上

ルート(01 年再整備から前宮ルートと呼ん

でいる)が二十合に設定され、石造の標柱

を現在 4 本見出すことができる。

現地を見てみよう。まず恵那神社を後に

沢を 2 本渡渉し、植林地を抜けると道はト

ラバース気味になる。突き当たって左側に

五合目標柱がある。 十三合 (裏面)中川成智 H60×W12×T


12 これには合目の目の刻字は無い。

痩せ馬の背と云いたくなる細い尾根を、

物見の松、行者越と緊張して行けば、小さ

なコブ状の所に十四合目の標柱がある。

十四合 (左側面)中川政憲 H60×W12.3


×T12.3 これも目の刻字は無い。

数本だけしか残っていない空八丁の古木

から、笹の急斜面となり、コメツガの大木

五合目 (裏面)山口村 花春蔵 同才助 H の根元に十六合目の標柱がある。


(地上高 cm)80×W(巾)12.5×T(厚)
12.5。
この先、左側の崩壊地に、かつては水場
があった。
高度を上げて 1.800m の三角点に到着。

24
恵那山はなぜ二十合か

中世へタイムスリップすれば、遠山家は

織田信長の妹を奥方に迎えている。
「敵は本

能寺にあり」から秀吉の時代となる。こん

ななか遠山は徳川家康側の人となる。ここ

から国替え無しの安堵が始まる。

参勤交代での江戸詰では、歴代御門番を

勤番している。また今様では出向にあたる
十六合目 (裏面)原権兵衛 H60×W12× 駿府加番と、若年寄の重職を勤めた領主も
T12

さて初めに戻って、山口村の花氏は、今 いる。若年寄職は老中職に次ぐ要職である。

のところその後の所在を見出せない。中川 これは破格の家格である。一万石で城持ち

氏は、地元画家の中川ともの家系である。 領主は少ないという。江戸幕府のこの厚い

原氏は川上村(現中津川市)の名主の家柄 待遇は、同規模の領主にとって羨望の的で

である。こんな事から造立奉納は、明治の あったであろう。

時代と判断される。 遠く飛鳥時代の黎明期、仏教が伝来する。

今後、標柱の探索に労苦を投入すれば、 それまで森羅万象に、全て神が宿るとして

空八丁の前後で十五合。コリ取池から神坂 いた。これを古神道とし、以後宗教は仏主

分岐の区間で、十七合十八合の 3 柱を発見 神従となり、明治まで 1 千年の歴史を辿る。

できるかもしれない。 招来した仏教を中心にした先進文化も、

ここで二十についてみれば 成熟して江戸中期となる。そこで、そろそ

① 修験道では、十界十種の世界があ ろ外来文化を見直そうとの機運が芽生える。

る。合わせて二十である。 国学の勃興である。

② 神道では、神饌が一単位が二十で 年号も天保になって以後、外国が貿易の

ある。 中継点確保で、開国を迫ってくる。幕府か

これから恵那山の合目は、神饌が根拠に 朝廷かの引き金である。慶長 5 年の関ヶ原

設定されたように考えられる。じゃあなぜ の戦以来、260 年の平穏を破って、内乱が

神饌なのか追ってみる。 起こる。第一次長州征伐である。これに遠

恵那山々麓木曽川から西、飛騨川までは 山領主が幕府方で参戦している。

遠山領である。高一万石、小さくて赤壁な 慶応 3 年大政奉還。これで幕府が消滅。

がら木曽川河岸の絶壁に天守閣が聳えてい 慶応 4 年神仏判然令。国学が結実して、

た。主の遠山家は、明治まで 12 代を数える。 この時点から神主仏従となる。

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恵那山はなぜ二十合か

明治 6 年修験道禁止令。 恵那郡史 大正 15 年 恵那郡教育会

一万石の小国、譜代に匹敵する家格。こ 苗木藩政史研究 昭和 43 年 中津川市

の時局の激動に、小国遠山政権は新政府に 神仏の明治維新 1979 年 岩波書店

対して、どういう顔をすればいいのだろう 神と祭りの伝統 平成 13 年 神社新報社

か、首脳陣の陣痛推し量って余りある。生

き残れる道は、新政府に忠誠を披瀝するこ

とに結論づけられるのである。この後廃仏

毀釈の嵐が吹き荒れるのである。

中津川は、尾張領の大国の傘の中にある。

この新政府の政策の受け止めは、鈍重で敏

感でなかったようだ。しかし、神社から神

仏習合の、遺物は取り除かれたようである。

この鈍重の意味は、探求の対象になりそう

だ。

この時機、恵那山の頂上稜線の神社 7 社

のうち、修験道と講中の 5 が祭神が替られ

ている。これに併せて、登山道の道標が設

置奉納されたのではないだろうか。隣国の

喧騒も働き、また多少の誇示も意識されて、

神饌の二十合をとったのではないだろうか。

全国的にみて、特異で稀有なケースと思

っている。

参考文献

中津川市史 昭和 43 年 中津川市

26
トテコッコを喰らう

トテコッコを喰らう
金井 孝素

「トテコッコ」とは「コケコッコ」が コが一面に咲いていた。ヤギや羊がもっ
変化したものだろうと思う。コケコッコ とも好んで食べる草である。不思議なこ
とはニワトリのことである。 とにウサギはこの草を食べない。
偶然にも中津川市の川上(カオレ)の 山野草を食べる話をしていた時、「ト
ニワトリも「トテコッコ」と鳴くことを テコッコを食べたが結構美味しかった
発見した。それは恵那山について川上の よ」という話になった。「トテコッコな
古老に聞き取り調査を行っていた時のこ んて昔は毒だって言われていたんだよ」
とだ。 と古老がいう。古老とは私の姉である。
「『恵那山の泊まり小屋の裏の岩の上 古老などというと怒ると思うがこの文が
に登れば飯田の鶏の鳴く声が聞こえる』 眼に触れることは想定できないので問題
と聞いた。『トテコッコ』って」。 ない。そういえば、サツマイモの蔓を食
本当に聞こえたか、うら若い女性を男 べていた頃だって、ニリンソウやトテコ
どもがからかったのかもしれない。だか ッコなんか食べたという話は聞いたこと
ら飯田のニワトリが「トテコッコ」と鳴 はない。
くかどうかわからないが、少なくとも川 ヌメリがあって、甘味があって旨い野
上のニワトリは「トテコッコ」と鳴いて 草である。甘味があるといっても甘草で
いたのである。 はなくて「萱草」である。
ニワトリの頭には赤いトサカがある。 ヤブカンゾウは食べられる野草として
ヤブカンゾウの花は赤くてニワトリのト かなり一般的であるので、食べるのに命
サカのように見える。 がけになる必要はない。春の感動を素直
私の郷里の地方では、ヤブカンゾウの に感じ取ればよい。酢味噌和えが定番で
ことを「トテコッコ」という。今でもそ あるが、花の甘酢漬けも結構いけるそう
うだと思うが田圃の畦にはこのトテコッ である。

27
トイレあれこれ

トイレあれこれ

落合 樋口 帯刀

トイレについて、他愛もないことである

が、あれこれ書いてみたいと思う。

昭和 30 年代、新聞にトイレに関しての記

事が 2 回載っていた。どれも「お尻を拭う」

方法である。

1 つは、縄を張っておいて、これを跨い

で使用する方法である。どこの国のどの地
蛭川 博石館 トイレ展示ハウス全景
域の習慣であるのか、記事の内容が記憶に

残っていない。

もう 1 つは、石を用いる方法である。石

で拭いた後、これを水で洗って乾かしてか

ら再使用する。で石の数で、その家の居住

人数がわかるわけである。これは日本の南

の方面の島だったと思うが、はっきり覚え

ていない。
入り口の案内
さて、地元の蛭川区に博石館がある。こ

の中にトイレの展示スペースがあって、小

規模だが展示ハウスが建っている。ハウス

内には、便器が数個展示してあるだけだが、

この企画に熱いエールを送りたく思ってい

る。衛生器具の製造企業の展示室以外に、

このような出展が無いからである。

05 年瀬戸市で、万博が開催された。大観 展示の便器

覧車の下に地球市民村というゾーンがあっ ヶ月間展示があった。ここの熱利用展示

て、自然エネルギーをテーマに、5 月の 1 品の説明ボランティアに参加した。

28
トイレあれこれ

この展示の入れ替に、6 月から 1 ヶ月間、 ているが、当時は都電のチンチン電車が通

この場所でトイレに関する展示があった。 っていた。その通りに面して寝起きしてい

どんなメニューで出展されるか、興味があ たのである。対面がパチンコ屋で、朝から

って期待していた。 晩まで「上海帰りのリル」を掛けっぱなし。

6 月になったので、見学に入場したが、 その隣が魚屋で、小僧のきっぷのいい大声

バイオでの終末処理方法がほとんどで、発 が客を呼び込んでいた。

展途上国の出展でしめていた。したがって さてトイレなんだけど、私のいた所は水

民族習慣的なものは得られなかった。 洗であって、その清潔さにはびっくりした

犬山のリトルワールドに、インドの民家 ものである。私の生まれた所は、フン尿は

の移築展示がある。2 階に上がると平らな 大切な肥料で、近くは上部が開放の桶を天

石に浅い舟が彫られていて、外の雨樋の立 びんで運んでいた。遠くは鏡にホゾの付い

樋のような筒に継っていた。一目見て、こ た樽を使う。で根津も当時は、水洗式より

れはトイレだなと思った。 肥溜式の所が多かった。だから月に 1 回ぐ

もしこれで、男子が小用をしたら、四方 らいの間隔で、路地にホゾの付いた肥樽が、

へ飛び跳ねて大変なことになると思う。だ 幾本も並べられた。この樽の間をアサリ売

から男子も、シャガンで用を足すのだろう り、納豆売り、ソバ屋のデッチがドンブリ

と思っている。チベットの旅行記を読んだ を重ねて肩あたりまで持ち上げ、片手ハン

時に、野外で僧侶が大勢シャガンで、小用 ドルで自転車を走らせるのである。

をしているショットを見たことがある。ヒ 山でのトイレはどうだろうか。百名山詣

ンズー教圏やラマ教圏は、男子もお座りの での人達と、中高年の多人数の押し掛けで、

文化なのであろう。 排泄物も自然浄化が不可能になっている。

東京の国立競技場に、女子の立小便器が 近年この対策に、方々でトイレを新築して

設備されている。グラフで見たのであるが、 いる。既存のものも、前向きの設備に改修

競技場という場所がら、利便を考慮に入れ されている。いずれバイオの方式を取り入

た適切な設備であると思う。 れている。

私は昭和 27 年に 1 年間だけ、東京の根津 恵那山も近年、この方式でトイレ棟が新

に居住した実績がある。東は上野動物園の 築された。でも、夏季にハエが多量に湧い

高台、西は東大農学部の高台に挟まれた谷 ている。これあまりいい気持ちしない。施

間である。現在は、地下鉄の根津駅になっ 設の構造さえわかれば、対策がみい出され

29
トイレあれこれ

ると思う。 形の生活文化だと思っている。

登山道の途中で、白い紙を見かけること 追記

がある。テッシュペーパーは、浄化が遅い 原稿を書き上げて、あらためて責任を感

ので、何時までも白く目立っている。トイ じ 07.1.27 確認のため、博石館に入場した。

レットぺーパーなら、浄化も早く原形で残 ちゃんとトイレの展示ハウスが健在してい

ることは無いと思う。私は入山時には、風 た。こんなうれしいことはなかった。

袋縮小のためロールの芯を抜いて携行して 取り上げた、女子の立便器の説明パンフ、

いる。ヒマラヤの登山記で、サーブの通っ 縄の使用の絵、コッパの実物が展示されて

た後は、白い物が目立って、現地の住人が いるではないか。この充実に感激する。か

閉口している記事を読んだ。所により先進 っての展示品の便器は、棚に陳列されてい

文化も考えもんである。 る。

話題を始めに戻したい。阿寺山系の山麓 石の博物館に、トイレのコーナーなど、

地域に、贅沢な習慣があった。桧のコッパ 場違いが一般的な見方かもしれない。設立

で拭う方法である。このコッパは、ナタで 当時コーナー設置に踏み切った着想に、心

割って作り、子供の仕事であったという。 から敬意を表したいと思っている。同時に

さらに展示品の充実されんことを願ってい

る。

檜のティッシュペーパー 通称コッパ

学校から帰れば、すぐに親の手伝いが待っ

ていた時代のことである。近年子供が、ナ

タを使う機会は皆無に等しい。

博石館のトイレ展示ハウスと、桧のトイ

レットペーパー(?)、この 2 つは、有形無

30
分類ということ

分類ということ
金井 孝素

1.人生は分類である 一方、中尾佐助先生は文献1の「終わり
私は長年にわたって分類を生業としてきた に」で、こんなことも書いている。「分類とは、
と思っている。文献の分類、部品の分類、材 人間が頭脳の活動によってやるものであると、
料の分類、現象の層別、組織構成員(従業員)、 一般的には自明の前提であるように了解され
GT(グループ・テクノロジー:異なる部品 てきた。しかし生物界全般を見渡すと、ほと
の類似性に着目した製造システム)、等々。だ んどの生物が何かの分類をやっていることが
から、「この社会は分類をなくしたら成り立た わかる」
ない」ということを体験的に知っている。 たしかにミツバチは蜜のある花と無い花を
その中で、当然の前提としたのは、第1に 分類しているし、草木は受粉できるかどうか
分類とは「目的ありき」であること。言い換 を見極めている。生物に限ったものではない、
えると、目的ごとに違った分類があるという 全ての化学反応だって同じことだ。そうなれ
こと。第2は、分類はむやみに変えてはいけ ば、「人生は分類である」どころか「宇宙は分
ないこと。一旦決めたら多少不便があっても 類である」といったって間違いではないだろ
我慢して使う。そして一定期間、または一定 う。
限度を越えたら見直すということである。つ 中尾先生は1916年生まれ(1993年
まり、「基準はむやみに変えるな」ということ 没)で、池田先生は1947年生まれである。
である。 なんでも新しい方が正しいという訳ではない
そんな訳で、わたしは「人生は分類であ が、池田先生の主張の方がスンナリ受け入れ
る」という主張には絶対的な説得力があると られる。
信じている。分類のもっとも基本的で単純な 私より10歳近くも若い池田先生が、19
ものは、2つに分けることであるが、これは 92年発行の文献2の表紙でこう書いている。
人生が一本道であることとか時間の流れが不 「私が生物学者の卵だった頃、分類学と言う
可逆ということと関連があるのかもしれない。 のは古色蒼然とした学問で、分類理論はとっ
長い人生の中で「あの時の分類基準はチョッ くの昔に確立されているものとばかり思い込
トまずかった。あの時、分類を間違えた」と んでいた。ところが・・・」
いう想いを持っている人は案外多いのではな 何十年も人生を生きながらえてきた私にと
いかと思う。 って、1992年といえば昨日のように最近
の話である。私も池田先生と同感であるが、
2.分類の論議は今でも新しい ごく最近になってこんなことを聞くとは思っ
分類の解説本を何冊か読んでみた。 てもいなかった。特に、植物の学名について
池田清彦先生は文献2のまとめで「私が依 は信仰にも似た完全性を信じていた。ところ
拠する立場は極めて単純だ。分類はいずれに が、ものの本を読んでみると、どうもそうで
せよ、人間の行なう営為のひとつである、と はないらしい。
いうことだ。すなわち、全ての分類は人為分
類である。したがって全ての分類は本来的に 3.学名について(植物)
恣意的なものである。
」と述べている。 学名の標記はラテン語という訳のわからな
31
分類ということ

い言語である。「なに、ローマ字的に読めばい 要するにまだよくわかっていないというこ
いんだよ(どうせ死んだ言語なんだから)。自 とである。何がよくわかっていないかという
信を持って発音する事だね」と、どこかで読 と、何のためにやっているかという分類の目
んだ時には妙な自信が湧いてきた。 的がよくわかっていないということである。
文献 4. によれば、植物の学名は、基準標 「普遍的分類のためにやっている」というの
本、タイプ、タイプ標本などと呼ばれる 1 個 であれば止めたほうが良い。学者は謙虚に、
の植物標本に与えられたもので、群に与えら 「明確な目的を持った者が必要な分類をしや
れたものではないというのである。「植物の学 すいようにデータを集める」ということに徹
名は分類群に含まれる植物の総称として与え することである。もともと分類は現場の仕事
られるのではありません。種に対する学名の なのだから。
場合、ある 1 点の植物標本にまず学名を与え、 そうはいっても、データを並べて「さあ
その標本が有する特徴と同じ特徴を持つ植物 どうぞ」といわれても私のような素人は困っ
に対し、その標本につけられた学名で表現す てしまう。もし、自分の目的に近い分類がそ
るという方法を取っています」。そうなると、 こにあれば、多少使い勝手が悪くてもその分
当然、「その特徴って何?」という疑問が湧く。 類の世話になるのが普通だろう。ただ、素人
古典的名著といわれる 文献 3.では、「以 の私にしてみれば、遺伝子がどれだけ違おう
上のことからわかるように、分類群をどう捉 とも、染色体が何本あろうが、五感で区別で
えるかということは、研究者に認められた権 きないような違いは違いではない、というよ
利なのである」「既にお分かりのように、ある り仕方がない。遺伝子の違いを外観の違いに
植物の種をどう特徴付けるかは個人の判断や 翻訳してくれるインタープリターが頼りであ
決定に委ねられていることである」 る。
こうなるとますます分からなくなる。たと
えば、恵那山のシャクナゲのうち、中腹にあ 4.分類体系
るものは、キョウマルシャクナゲかアズマシ わたしは、米倉浩司氏(東北大学)と梶田
ャクナゲかという問題があるが、杉野孝雄氏 忠氏(東京大学〔現・千葉大学〕)を中心に作
は、文献(5)の中で、
「これらシャクナゲの 成された、「BG Plants 和名−学名インデック
分類は外部形態に基づいています。日本のシ ス」(YList)
「http://bean.bio.chiba-
ャクナゲの系統がどのようであるかについて u.jp/bgplants
は、遺伝子解析など著しい進歩を遂げている /ylist_main.html」に最優先で依存すること
手法を用いることにより明確になるのではな にしている。タイプと先取権方式が採用され
いでしょうか。静岡県の花はツツジです。シ ている限り、正しいか正しくないかは大きな
ブカワツツジ、スルガヤマツツジ、オオヤマ 問題ではない。Y-List は、使い勝手がよいの
ツツジの由来などツツジに関する課題 は山積 である。ちなみに Y-List ではキョウマルシャ
しています。これらの課題に、若手の方で挑 クナゲはホンシャクナゲやツクシシャクナゲ
戦される人が出現することを期待していま の系統で、アズマシャクナゲの系統ではない
す」と書いている。 ようだ。キョウマルシャクナゲの学名は、

32
分類ということ

Rhododendron japonoheptamerum Kitam. しない言語である。そのことは、日ごとに


var. kyomaruense (T.Yamaz.) Kitam. 「理解できない言葉」になっているというこ
である。種小名の japonoheptamerum の hepta とであって、誰でもわかるということとは程
は7である。ところがキョウマルシャクナゲ 遠い話である。もっとも理解しやすいレベル
の花は 5 裂である。文献 5.によれば、
「 5 裂、 は、「学名とは記号であって意味のある名前で
7裂は変わりやすいから見ないことにしよ はない」つまり四角という学名がついていて
う」ということらしいから、命名と分類とは も、実体は三角ということもありうるのであ
同義だと思っていた素人の私にはどうしたら る。つまり「hepta」を7と読み取ってはいけ
よいかわからなくなってしまう。更に、文献 ないのである。「hepta」は「h・e・p・
3 はこう言い切ってしまう。「記載が不備で t・a」である。それには、年々意味がわか
あるとしても、学名はその植物をあらわすも らなくなっているラテン語が好都合である。
のとして通用する。つまり、名前は名前であ もっとも、属名と種小名との間で性の不一致
って、記載ではないのだ」と。こうなると は認められないというから、この一族は男家
「美子ちゃんは不美人に成長してもやっぱり 族、この一族は女家族と決まっているという
美子さん」だし、「善雄君は刑務所に入っても ことかも知れない。
善雄だ」と納得するより仕方がない。
富士見台の水跨ぎ附近にある白花のツリフ 5.「普遍的分類学」はあるが「普遍的
ネは、誰がなんと言っても「ミサカツリフ 分類」はない
ネ」でよいのである。しかし一方で、「あれは 中尾佐助先生は文献1の中で普遍的分類学
キツリフネの白花種だ」と主張する人が出て の可能性について論じている。私などは分類
くるのでことはやっかいである。 学は全て「普遍的」だと思っていたから驚い
種小名が 1 個の個体に与えられたものであ てしまう。たとえば「普遍的物理学」なんて
れば、それより下のレベルは時系列に沿った 言葉を聞いたことがない。多少条件がつくと
系統を表すものでないことは自明である。そ しても、分類学も物理学も普遍的でなければ
れにもかかわらず品種は種が少し変わったも 困るのである。ところが分類は違う。文献2
の、変種はもっと変わったもの、亜種はもっ で池田先生が言うように、全ての分類は人為
ともっと変わったもの、などと思うのは素人 分類である。したがって全ての分類は本来的
の思い過ごしだろう。「原種が変種で、変種が に恣意的なものである。つまり、すべて特殊
変化したものが種」と、訳のわからないよう である。新エングラー体系にしてもクロンキ
な場合も結構あるようなので厄介である。 スト体系にしても、深田久弥の日本百名山に
ここまで思いをめぐらしてくると、学名が したってそれぞれ特殊な分類体系である。
ラテン語でつけられている理由が読めてくる。 我々は自分で自分の目的に合った分類体系を
文献 3 はいう。「植物学の命名法はラテン語 つくる能力がないので、勝手に使わせていた
である。それゆえ、言語の異なる全ての人々 だいているだけである。
が理解できるのである」と。ラテン語は死ん 長田武正先生は、文献6の中で述べている。
だ言語である。だから、現代語のように変化 「・・だから出来上がった『科』の特徴とい

33
分類ということ

うものを専門の書物で読むと、われわれはが (2007−1−2)
っかりしてしまう。『花弁は3,5または多数、
ときにない』とか『心皮は1または多数、離
生または癒合し』などとあって、みればみる 【参考文献】
ほど一体どこがポイントやら、たちまち迷宮 1.中尾佐助著 「分類の発想」
(朝日新聞社)
をさまよいだす。 そうなればこそ自然分類 2.池田清彦著 「分類という思想」(新潮選
と、いい聞かせてはみたものの、これでは実 書)
用にならない」 3.L.H.ベイリー著「植物の名前の付け方」(八
これは「科」だけの問題ではない。「種」で 坂書房)
も似たりよったりだ。何故花弁の2と4がな 4.土橋豊著 「ビジュアル園芸・植物用語辞
いのか、6、7・・・は多数に入るのか。正 典」
にこれは人為分類である。これを自然分類と 5. 杉野孝雄「自然史しずおか」創刊号 2003
して理解しようとするから混乱するのだろう。 年 6 月 10 日発行
人為分類と割り切ればこんな事に目くじらを 6.長田武正著「野草の自然誌」
(講談社学術文
立てることもなくなるに違いない。人為分類 庫)
なら大御所が「そう決めたんじゃ」といえば 7.出典: フリー百科事典『ウィキペディア
それでOKであるが、自然分類はそれなりの (Wikipedia)』
理由が必要である。図鑑にはその理由が書い 8.国際植物学会編 「国際植物命名規約」
てないので素人は困ってしまう。 9.池田清彦著「構造主義科学論の冒険」
わたしは、分類体系としてクロンキスト系
を勝手に使わせていただいている。なぜかと
いえばクロンキスト系のほうがしっくりする
からである。たとえば、アジサイは新エング
ラー系ではユキノシタ科であるが、クロンキ
スト系ではアジサイ科である。ネムノキはマ
メ科からネムノキ科に、恵那山にたくさんあ
るミヤマキケマンはケシ科からケマンソウ科
になっている。ヤマエンゴサクもそうである。
長田先生は文献6の中で「植物を学び始め
たころ、
・・・・・ムラサキケマンがけし科で
あるのが不思議でならなかった」と書いてい
る。クロンキスト系ではケマンソウ科になっ
たので、初心者にはわかりやすくなったとい
うべきか。
本当のところ、「オレ流の分類体系」が欲し
いのだが、土台無理な話である。

34
けやき平の落葉広葉樹林

けやき平の落葉広葉樹林
瀬戸市 上杉 毅
広大な恵那山の山域はほとんどどこも人間 所は面積が 10 ヘクタールにも満たないが、よ
活動の影響を色濃く残している。とくに裾野 く調べてみると周辺の地区では普段見られな
から中腹まではスギ、ヒノキ、カラマツなど い植物が現れる。恵那山周辺の自然の本来の
の植林が多く、標高 1500 メートルの山腹では あり方を考える上で面白い手がかりである。
神坂峠周辺の笹原がかつての放牧の跡である 平成 18 年はそういう場所のひとつであるけ
ように、原生的な自然がまとまって残された やき平に足を運んだ。けやき平は恵那山の北
場所は標高 1900 メートル以上のシラビソ帯 麓の標高 860 メートルから 900 メートル付近
以上に限られてしまう。しかし裾野にもまだ に位置し、神坂峠から北に流れる冷川の二本
原生的な自然が点在している。その代表的な の支流に挟まれるようにしてある。地図ソ
例が黒井沢登山道の旧バス停で、ここにはシ フトのカシミールで見ると、けやき平は二
ナノキ、イヌザクラ、サワグルミ、イタヤカ 本の支流が深く侵食することにより、台地
エデなどの大木が林立している。黒井沢登山 状に取り残されたもののようである。(図 1。
道の入り口周辺(中津川の河畔林)にもブナ、 北北西から神坂峠方面への谷を俯瞰) 調査
トチ、サワグルミ、ミズナラなどの大木があ は 5 月 13 日、9 月 9 日、10 月 29 日、11 月 19
り、ミズナラにあっては胸高幹囲 4 メートル 日の 4 回である。この間、約 200 種の植物を
をゆうに超える大木が見られる。こういう場 確認している。

(この画像は国土地理院の数値地図 25000(地図画像)及び 50m メッシュを使用し、カシミール 3D により作成したものです)

35
けやき平の落葉広葉樹林

冷川はその上流側に風穴が多く、低温で ンド(現在放置)周辺は樹冠が小さく、大木が
あることから名づけられたものと考えられ ないことも判る。この極相にある見事な自
る。内部の植生については 44 ページの拙稿 然のなかでキャンプをすれば教育的なある
を参照されたいが 9 月 9 日の観察でも冷風 いはレクリエーションとしての価値が高い
の噴出し口の気温は摂氏 5.4 度を記録した。 という判断でキャンプ場としての利用が始
盛夏を過ぎているとはいえ、20 度低い気温 まったのかもしれない。しかしこのキャン
差は石室全体にシダ以上の高等植物の発芽 プ場として利用がもたらす、人為的な影響
を阻み、地衣類と蘚苔類のみが繁茂してい は否定できない。事務所周辺にカキドオシ、
る。風穴の成立については「恵那山研究」 ムラサキケマン、ヒメオドリコソウなどが
創刊号の村松武先生の論文「ハンマー片手 進入しているのはその一例であろう。ただ
に恵那山」に詳しい。この付近では、冷川 東濃地方の土地利用において人工林が高率
の 1 キロほど西を北流する川には温川とい であることを併せ考えると、キャンプ場と
う名がつけられていることや、冷川と温川 しての利用はこの森が拡大造林の時代を無
の間の台地に「霧ヶ原」と名づけられてい 事にやり過ごすシェルターの役割を果たし
ることなど、気温差の関係を連想させる名 たのかもしれない。もうひとつ指摘できる
が並ぶ。 ことは、キャンプ場はつねにキャンプでき
さて、けやき平の特徴としてはまず大木 る環境を維持しなければならないことだ。
が林立する豊かな植生が挙げられる。この ここではササ刈り(写真 2)が行われる。その
ことはグーグルの航空写真を見ても明らか ことが多様な草本類に生き残るチャンスを
で、大木の樹冠が周囲の樹木の樹冠とはっ 与えている。
きり区別できるほどの大きさに写っている。
(写真 1)

写真 2 モミの大木の周囲の笹狩り跡

その対極にあるのは愛知県の段戸国有林
である。そこもやはり標高 900 メートル前
後に位置し、モミ、ツガ、ブナの大木が林
立しているが、林床にはスズタケが優占し
ており、ワチガイソウやスミレの仲間など
写真 1 けやき平の写真 が見られるのは、沢筋や遊歩道の脇などに
この画像では冷川の左岸や北方のグラウ 限られる。どちらの管理がいいかという問
36
けやき平の落葉広葉樹林

題ではないが、段戸ではあまりにも旺盛に カエデもここでは見られ、5 月 13 日の観察


繁茂する笹が草本類を閉めだしている印象 では美しい新緑と花が見られた。(写真 4)
をぬぐえない。
植物の種類別に見ると、カエデの仲間を
中心に落葉広葉樹が多く、それにモミ、カ
ヤなどの針葉樹が混生する。
ホソエカエデは東濃地方以西ではほとん
ど見られないカエデだが、けやき平ではも
っとも普通で、10 月 29 日の観察では落葉
が路面を広く被っていた(写真 3) 。

写真 4 ミツデカエデ

写真 3 ホソエカエデ

メグスリノキは葉や樹皮を煎じて目薬に
したという説があるが、洗眼に使ったとい 写真 4-2 ミツデカエデの花

う説や飲み薬にするという説があり、真偽 さらに紅葉でイロハモミジに並んで色彩
が定かでない。三出複葉だが、葉柄に毛が が鮮やかなオオモミジもここで見られる。
多い。11 月 19 日には見事な紅葉(写真 4)が
観察できた。

写真 5 オオモミジ

その他、カエデの仲間ではウリハダカエ
写真 4 メグスリノキ デ(写真 6)、ヒナウチワカエデ(写真 8)、チ
メグスリノキと同様に三出複葉のミツデ ドリノキ(写真 9)、コハウチワカエデ、イタ
37
けやき平の落葉広葉樹林

ヤカエデ(写真 10)、コミネカエデなども見
られる。これらはほぼ平地から山地あるい
はブナ帯に分布する種であり、標高に似合
った植生といえる。このうちチドリノキは
沢筋に多いものであり、水の豊富なけやき
平の特徴を現している。

写真 10 イタヤカエデ

カエデ以外の落葉広葉樹ではその名の通
り、ケヤキ(写真 11)とトチノキ(写真 12)の
大木が目立つ。

写真 6 ウリハダカエデ

写真 11 ケヤキ

写真 8 ヒナウチワカエデ

写真 9 チドリノキ 写真 12 トチノキ

38
けやき平の落葉広葉樹林

また、ミズナラ、チョウジザクラ(写真 13)、
カラスザンショウ、サワグルミ、シオジ(写
真 14)、アワブキ、クマシデ(写真 15)、イヌ
シデ、ホオノキ、アオダモ、カツラ(写真 16)、
イヌブナ、ハリギリなどが見られる。

写真 16 カツラ

林床の草本類も多くの種が分布している。
コガネネコノメソウ、ニッコウネコノメ
(写真 17)は愛知県の東部でも見られるが、
西濃地方、あるいは鈴鹿山地近辺ではあま
写真 13 チョウジザクラ り見られない種である。

写真 17 ニッコウネコノメ

写真 14 シオジ クワガタソウ(写真 18) ミヤマエンレイ


ソウ(写真 19) シコクスミレ(写真 20)、も同
様である。

写真 15 クマシデ

写真 18 クワガタソウ

39
けやき平の落葉広葉樹林

写真 19 ミヤマエンレイソウ 写真 22 ワチガイソウ

ワチガイソウ(写真 22)、ニリンソウ(写真
23) ミヤマキケマン(写真 24)、スルガテン
ナンショウ、ツチアケビ、ユキザサ(写真 25)、
コチャルメルソウ(写真 26)、エイザンスミ
レ(写真 27)、ミヤマハコベ(写真 28)などは
西濃・東濃を問わない。

写真 20 シコクスミレ

フタバアオイは、東濃・西濃を問わずに
見られ、大きな群落を作って地表を被う。
写真 19 ではミヤマエンレイソウの左下に
その姿が見られる。 コウシンヤマハッカは
「甲信ヤマハッカ」の名の通り地域が限定
される。 写真 23 ニリンソウ

写真 24 ミヤマキケマン

写真 21 コウシンヤマハッカ

40
けやき平の落葉広葉樹林

写真 25 ユキザサ 写真 28 ミヤマハコベ

マルバコンロンソウ(写真 29)、ヤブニン
ジン(写真 30)、ホウチャクソウ(写真 31)な
どは西濃地方や鈴鹿山地で出会うことが多
く、東濃地方ではあまり出会わない。この
ような例には豊田市足助町の飯盛山にキク
ザキイチゲ、カタクリ、マルバコンロンソ
ウ、ヒトリシズカなどが分布している例あ
り、本来の東濃地方もまたこのような草本
類が多産していたのではないかと思わせる。

写真 26 コチャルメルソウ

写真 29 マルバコンロンソウ

写真 27 エイザンスミレ

41
けやき平の落葉広葉樹林

写真 30 ヤブニンジン

写真 33 コケイラン

つる性の植物ではツルマサキ、マツブサ、
ツルアジサイ、イワガラミ、マルバフユイ
チゴ、ツタウルシなどが見られる。シダで
はオシダ、ジュウモンジシダなどがある。
ツルアジサイ(写真 34)、マルバフユイチゴ
(写真 35)、オシダ(写真 36)などはブナ帯の
植物であり、けやき平の特徴をよく現して
写真 31 ホウチャクソウ いる。
そのほかに目立ったところではツクバキ また前述のグラウンドでゲンノショウコ
ンモンソウ(写真 32)、ツクバネソウ、コケ (写真 37)の赤花と白花が混在している。ま
イラン(写真 33)などがある。 た山側の谷沿いではシオジが多産していて
注目される。

写真 32 ツクバキンモンソウ 写真 34 ツルアジサイ(オクノカンスゲも写っている)

42
けやき平の落葉広葉樹林

写真 35 マルバフユイチゴとイワガラミ 写真 38 クマの糞

上 写真 36 オシダ 下 写真 37 ゲンノショウコ

写真 39 ムササビに食べられたケンポナシ

野鳥、昆虫についても貴重種の生息が予
想されるところだが、まだほとんど知見が
ない。本年 3 月 31 日の観察ではゴジュウカ
ラ、アカゲラ、アオゲラ、ヤマガラなどの
声が響いていたが、今後の課題である。

動物では 5 月の観察時にイノシシのラッ
セル跡が見られたほか、9 月の観察時には
ツキノワグマのものらしい糞(写真 38)とケ
ンポナシの葉(写真 39)が落ちていたが、後
者はムササビが二つ折りにして食した跡の
ようである。

43
強清水風穴のコケ

強清水風穴のコケ
瀬戸市 上杉 毅

2. カタウロコゴケ「亜高山帯以下の腐
植土上に生育」
3. オオヒシャクゴケ「おもに亜高山帯
以上の腐植土上や、岩上、樹幹基部
に生育」
4. イトハイゴケ「山地のやや湿った岩
上、木の根元、腐木上などに生える」
5. タマゴケ「山地の日陰の岩上、岩隙、
あるいは地上に塊を作る」
上の写真は 2006 年 10 月の神坂風穴観察 6. ナスシッポゴケ「山地の腐木上、と
の様子である。過去、風穴は蚕の孵化調整 きに樹上に群生する」
のために利用され、採取場所ではすでに屋 7. タチハイゴケ「高地の地上、岩上、
根が崩落しているもののまだ四囲が岩の壁 腐木上に普通・・・・イワダレゴケ
で囲まれていて冷気が貯留しやすい。 とともに亜高山帯樹林の林床に大き
本会では同年 7 月にこの風穴を観察し、 な群落を作る」
シダを含めて種子植物がまったく生育して これらの蘚苔類以外に地衣類が提出され
いない特殊な環境に注目していた。今回、 たが、それらはハナゴケの一種とされてい
中津川市の教育委員会により風穴の保存調 る。
査が行われることが判明したため、2006 年 同定してくださった樋口正信氏にはこの場
10 月 3 日にコケのサンプル 10 点を採取し、 で厚く御礼申し上げたい。
専門家にその同定依頼をした。これについ
て国立科学博物館の樋口正信氏から回答を
頂くことが出来たのでここに報告する。
なお写真では人物の背後の一角から冷気
が噴出している。2006 年 7 月 8 日にここで
放射温度計により零下 2 度を記録した。

平凡社の「日本の野生植物コケ編」によ
ると、それぞれの種の自生環境は以下の通
りである 2006 年 7 月 8 日撮影 これはカタウロコゴケと思われる

1. シッポゴケ「腐植質に富んだ半日陰
の地上に群生する」

44
トウノウネコノメの分布

トウノウネコノメの分布 三国山篇
瀬戸市 上杉 毅

創刊号に続いてトウノウネコノメの分布 旬から 4 月中旬である。この約 1 ヶ月間に


について報告したい。 調査を完了させなければならず、短期間
創刊号ではトウノウネコノメが恵那山周
辺のみではなく、西は愛知県瀬戸市、南は
大入渓谷まで分布していることを報告した。
しかし、それらは偶然に発見したものの集
積にすぎず、恵那山の固有種という見方を
払拭する意味しかない。つまりトウノウネ
コノメがどのような分布をしているかを理
解できたわけではない。自生地が見つかっ
たら、つぎの段階としてその周辺にどれく
らい分布しているのか、どこからどこまで
分布し、どこから先は分布しないかを突き 写真 2 開花の様子

止めたい。 集中して何度も足を運ばなければならない。
そこで 2006 年は 3 つの自生地のうち、 その点で私の自宅から片道 15 分くらいで
瀬戸市と豊田市、土岐市にまたがる三国山 現地に到着できる三国山は好適であった。
(標高 701 メートル)の周辺について詳細に 実際の調査は全 10 回で、3 月 19 日、21 日、
調べてみた。恵那山でなくこの場所を選ん 25 日、26 日、4 月 1 日、2 日、8 日、9 日、
だのには理由がある。トウノウネコノメは 15 日、18 日に行われた。午前中に 1 回目
冬季にも観察は出来るが、全体に小さいの の調査をし、帰宅して昼食後、二回目の調
で見つけにくい(写真 1)。 査を行うこともあり、すべての沢筋を踏査
してほぼ全容を解明することが出来たはず
である。もし恵那山でこれを行うとなれば、
面積が広大であることから 1 シーズンでは
完了しないだろう。
調査には GPS を用い、トウノウネコノメ
を確認するたびに場所をチェックし、帰宅
後パソコン上にデータを読み込んで分布地
を確認した。早春とはいえ、谷地形が狭く
深いことや人工林が多いことから、電波が
写真 1 瀬戸市内で 2007 年 1 月 2 日に撮影 十分に拾えず、GPS だけでは位置確認がで
もっとも発見しやすいのは花が咲く 3 月中 きなかったところもあったが、トウノウネ

45
トウノウネコノメの分布

コノメが必ず沢筋に分布するという地図上 くない。これら①から④までの渓流は北流
に特定しやすい性質にも助けられ。満足す して庄内川に合する。
べき精度で調査が出来たと思う。その結果 豊田市藤岡町西市野々では 3 本の渓流で
を図 1 に示す。緑色のラインで示された沢 トウノウネコノメの自生が確認された。そ
筋はトウノウネコノメの自生が確認できた のうち東端の沢⑤(写真 3)は急傾斜だが、頂
ところ、赤いラインで示されたのは確認出 上直下の標高 600 メートル地点まで辿るこ
来なかったところである。一口に言って南 とが出来る。この場所の調査ではノウサギ
北にやや長く、9 つの沢に分かれて分布し が飛び出した。
ている。それらは庄内川と矢作川の 2 つの
流域に分けられる。
三国山の北側では土岐市坂下近辺に分布
地があり、北麓を北へ流下する 4 つの沢に
自生が確認できる。そのうちもっとも西の
瀬戸市上半田川町①は瀬戸市内で唯一の自
生地であるが、県道 363 号線から下流に分
布は限られていて、標高 500 メートル以上
には分布していない。この沢筋は不法投棄
されたゴミが多く、とくに右岸は新旧のゴ 写真 3 西市野々の沢

ミで埋まっている。この状況が続けば自生 ⑥の沢は深い藪を掻き分けていくため、
地の存立におおいに不安がある。②の分布 遡上には忍耐力を必要とするが、トウノウ
地は三国山の標高 600 メートル付近から始 ネコノメの密度は高い。猿投北断層沿いの
まり、県道 363 号線をくぐり、田園地帯を 沢⑦は沢の規模が大きいが、分布している
縫って流れ、さらに深い谷を通って笠原川 のは⑥との合流地点が多く、上流にさかの
の本流に注ぐまでつづく。この沢筋にはニ ぼるにつれて個体数は減る。ただし、この
ホンカモシカのフィールドサインがあるほ 沢は豊田市と瀬戸市との市境の峠を南に超
か、アズマヒキガエルの産卵シーンを撮影 えて、白藤川に入ってみると、猿投北断層
していたら、ニホンリスが現れ動画を撮影 の延長線上にあるにもかかわらず一株も見
することが出来るなど大いに楽しむことが ることが出来ない。豊田市藤岡町北曽木で
出来た。話はそれるが、ニホンカモシカは は 628 メートル峰に南東からえぐりこむ沢
名和明・石黒茂(愛知県立鳴海高校教諭)らの で数多くの自生が確認できた。ここでもト
最近の研究で名古屋市守山区での生息が確 ウノウネコノメは頂上に程近い標高 550 メ
認されている。おそらく三国山から定光寺 ートル付近まで分布するが、沢に表流水が
経由で名古屋市まで移動しているのであろ 見られなくなるところでは姿を消す。また
う。坂下③は田んぼの土手にトウノウネコ ⑨の自生地はやはり土取り現場のすぐ脇で、
ノメが自生するが、最近になって近接地で 一回の土石流でもなくなりそうである。ま
土砂採掘が始まり、先行きが危ぶまれる。 さに風前の灯だが、ヤマルリソウ、ミカワ
④は②の支流とも言うべき沢だが、数は多 チャルメルソウ、ユリワサビなどが自生す

46
トウノウネコノメの分布

る美しい沢である。これらの⑤から⑨まで テーマとしては恵那山周辺の分布について
の沢は矢作川の源流部である。 調べてみたい。ひきつづき情報があれば提
以上の通り、三国山付近のトウノウネコ 供をお願いする。
ノメの分布がほぼ明らかになったが、次の

図中、緑は自生地の沢、赤は自生が確認されなかったところ
この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(多治見・猿投山)を使用したものである。

47
前山登山記

前 山 登 山 記
(2007/3/21 単独行) 吉田 真

気象庁の長期予報で暖冬になると予想された

とおり、平成19年は雪のないお正月で幕を開

け、厳しい冷え込みも少なく過ごしやすい冬で

あった。

誰にも得手と不得手があるように、私にとっ

て文書を書くことは非常に苦手で、恵那山学会

の会誌原稿の締め切りも過ぎ、あわよくば今回
PIC1 前山全景(秋撮影)
は投稿無しでもと原稿の請求を受けないよう目
前山 標高1350.7m。
恵那山を隠すように横たわる前衛の山。急峻な
立たなくしていたつもりだったが、3月に開催
山故、崩壊地が多く、ここを源とする四ッ目川
は古くより災害を発生させ、直轄砂防工事が長
した観察会の場でやはり催促されてしまった。
年に亘り施行されてきた。
さて、何を書こうかと頭を悩ませながらネタ

を探すも、時間は過ぎるが原稿用紙は埋まらず、 こ の 前 山 登 山 道 は 恵 那 山 学 会 誌 創刊 号 に

また日延べが始まってしまった。 TOKI アルパインクラブ 渡辺さんが投稿され

3月21日春分の日、2月より寒さを感じる た落合川の支流日陰谷と、四ッ目川の支流杉流

ような3月も半ばを過ぎると、朝夕の寒さも少 川を分かつ尾根を登る比較的急な道であるが、

しずつ和らぎ日差しに春を感じるようになった。 人の手が余り加わらず山野草や木々を観察でき

昼食を食べ、日本百名山の名峰「恵那山」の るすばらしいコースである。

露払いをしてくれている「前山」登山を俄に思

いついた。 平成19年3月21日単独行

地元の人でも恵那山に登ったことのない人は 天候は快晴、遠く木曽谷の上空あたりにうっ

相当多く居るようであるが、それらの人々も黒 すらと雲が浮いているだけの最高の登山日和。

井沢や富士見台といった登山コースは知ってい 里では春の息吹を感じる日もあるが、恵那山

る。 しかし、この「前山」になると名前だけ の谷筋には残雪が残り、山々はまだ春遠しの眺

で登山ルートは知らない人が殆どだろう。 めである。前山では残雪こそ見えないが日影に

はまだ雪が残っているだろう。

48
前山登山記

12:33 山頂での防寒のため厚手のジャケ

ットを着て十年選手のマツダボンゴフレンディ

ーに乗り自宅を出発。国道19号線中津川バイ

パスを北上、中津の市街地を左手に見て松田の

交差点を鋭角に右折する。中央自動車道を高架

で通り過ぎる辺りから、殆ど直線的に山をめが

けての道となる。昔この付近は農地の中に民家
PIC2 イノシシ駆除ゲート
が点在していただけであったが、今では両側に
12:45 支度を済ませていよいよ出発であ
アパートが数多く建っている。
る。ゲートを跨ぐと三方に道が分かれている、
アパートも少なくなる辺りから、恵那山と前
右の道は四ツ目川支流杉流川方面へ伸び、中央
山がどんどん迫ってくる。右手に四ツ目川砂防
の道は畑へ向かう道。目指す登山道は左へ伸び
堰堤への進入路が見える辺りから、名峰恵那山
る道である。扉を開けて入れば自動車はまだ暫
も行く手を遮るような前山の壁に隠れてしまう。
く進めるが、開け閉めするよりここに車を止め
右手に松田の溜め池の堰堤をみると終点は目の
る事をお勧めする。
前。交差点から約2.5kmの距離である。
道路の舗装はすぐに途切れる。昨年秋に来た
林道は終点ではないが、付近の農地をイノシ
ときは荒れていた土道であるが今回は整備され、
シの被害から守るためにゲートがありイノシシ
雨が道を洗わないような工夫もされ歩きやすく
駆除云々と書いてあるが、人間駆除のゲートで
なっている。両側ともにヒノキ林の中に所々松
もあると地元の人に聞いた事がある。今ではゴ
の木が立ち、膝丈ほどの笹が茂っている。
ミの分別収集もあたりまえとなったが、以前は

林道脇にゴミを捨てていく人が多く、粗大ゴミ、

電気製品、自動車部品と多種多様だったらしい。

ゲート前には数台は車を置けるだろうが、今

回で5回目の前山登山であるが登山者と会った

事はない。

PIC3 登山道入り口

12:53 道路右側に小さいが判り易い「前

49
前山登山記

山登山口」の案内板があり、左側に自動車が数 ここの土質のせいであろうか?径路も階段状に

台ほど駐車できる待避所がある。 ならず、枯葉の滑り台を登るようで踵も着けず

看板の脇を通り笹の中を登り始める。植生は 歩き辛い。しかし、最近足を運んだ百名山の中

変わらないが笹の中にはっきりとした径路があ には登山道の整備された山が多く見受けられる

り道に迷うことはない。 が、ここは自然に近い大変すばらしいコースだ

と思う。

PIC4 痩せ尾根

13:00 杉流川と日陰谷を分ける尾根に出 PIC6 中津川市内を望む

た。まだ十五分しか歩いていないが、厚手のジ 13:20 勾配が少し緩やかとなる。尾根を


右に左に縫っての径路も石や木の根が階段を作
ャケットが災いして暑くなってきた。早速ここ
り意外と歩きやすく、足元にはイワウチワ・イ
で芋虫の如く2枚ほど脱皮し、クマ除けにラジ
ワカガミの葉が出迎えてくれるようになる。こ
オも取り出した。しばらくはなだらかではある こからしばらくは所々左右の視界の開けた撮影

が痩せた尾根歩きが続く。 ポイントが続く崩壊地の頭を歩く。市内の展望
はもちろん高峰山・御岳・二つ森・笠置山まで
眺めが非常に良いが右側の町から吹き上げてく
る風が意外に強い。

PIC5 御岳を望む

13:10 そろそろ急な登りとなる。林の中

を九十九折れを繰り返しながら斜面を上るが、 PIC7 督ノ城跡

50
前山登山記

13:50 登ること約1時間、突然広場が現 を過ぎてから登山道の頭上もやや開け、昨年有


れ大きなカエルに似た石が出迎えてくれる。督 名になったコウヤマキの木が目立ち、立派な石
ノ城址である。以前は径路が少し南に寄ってい 楠花も姿を覗かせてくれるが、岩陰にちらほら
てこの城址を見過ごしていたが、道が付け替え 残雪が見え始める。
られ小さな案内板もあり、今では見過ごすこと
はなくなった。
小休止。右前方木立の中に前山の頂上が遠く
に見える。
ここで携帯が鳴る! 大した用事ではなかっ
たが仕事の電話で現実に引き戻されてしまった。
ここには朽ちた大木の株の上に木が立ってい
る、リョウブの木であろうか?強い生命力であ
る。 PIC9 イワカガミの絨毯
14:30 残雪に足跡を残す。植生が変わっ
て来た、頭上も先ほどより開け頂上に近いのが
判る。辺りはイワカガミが絨毯のように敷き詰
められている。
突然ヤマドリが二羽飛び立ち驚かされる、こ
の羽音以上にこんな山の上にいるのも驚きだ。

PIC8 朽ち株に立つ木
14:05 督ノ城址出発 小さなアップダウ
ンを過ぎると比較的楽な登りが続き、徐々に登
山道に石が目立ち始めるようになる。この辺り
の岩は登山の邪魔ではなく、うまく階段を織り
成し大変重宝なものである。
10分程歩くと痩せ尾根を登る高度を稼ぐ岩 PIC10 最後の急坂
場の急坂であるが、比較的苦を感じない。中腹

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前山登山記

14:37 主稜線へ辿り着く。少し右手山頂

方面に行くと恵那山の展望が開ける場所がある。

下界からでは見る事の出来ない、前山の裏側の

恵那山の雄姿が映し出される。

PIC11 恵那山展望

頂上が木立に少し隠れているのが残念だ。写
真を撮り頂上へ向かう、一度鞍部へ下ってから PIC13 頂上と三角点

登りとなる。径路はなんとか判るが背丈ほどの 14:50 前山頂上到着


笹を掻き分けながら、時折道を見失いながら進 意外と寂しい頂上である。少し広場が拓け誰
む。笹の隙間から時折頂上が見え、だんだん近 かがつけた前山頂上の看板と三等三角点がある。
づくのがよくわかる。 木立の隙間から下界が遠くに望めるが、周囲の
木立に若葉が茂るころになると見晴らしも悪く
なりそうだ。
休憩!
帰りは同じ道の引き返しである。径路には
赤・青・白と色とりどりのテープが目印として
付けられているが、恵那山の展望地から斜め左
へ下る場所に気をつけたい、私も初めて登った
時はこの目印を見逃し落合へ向かう尾根を降り
始めたことがある。
もう一点、
登りでは楽であった岩場の階段は、
下りは十分に気をつけたい。

15:17 もう一度恵那山を眺め下山

PIC12 主稜線の笹道

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前山登山記

16:20 駐車場着 ところが今日に限って、昼食のとき何気なく

見てしまった中日新聞今日の運勢

「とり年 生と死と交差する一大事。心を直に

して突破。」

読んだのを後悔しながらの登山であったが、無

事帰って来る事ができ一安心の単独行であった。

山には其々見所がある、石楠花やイワカガミ

PIC14 ゲートから北を望む の咲くころ訪れると一段と感動が多いだろう。

16:35 自宅着 弁当を持って一日かけて登るのがよさそうだ、

近くて遠い山「前山」一度訪ねてみてはいかが
後記 日ごろ私は占いや運勢は見ないように
ですか。
している。理由は、朝から悪い運勢を見ると一
日気になってしまうから。

PIC15 前山登山道コース図
この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図

(中津川)を使用したものである。

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編集後記
東濃地方と私の住む愛知県瀬戸市とを結ぶ植物としてはハ
ナノキ、モンゴリナラがあるが、代表格はやはりシデコブ
シだろう。今年は 2 月に暖冬傾向が強く、3 月 29 日現在す
でに瀬戸市で満開をすぎつつある。トウノウネコノメもそ
ろそろ開花が終わる頃だろう。例年より 10 日早い花暦。安
易に異常気象といいたくないが、これからどうなるのか。

恵那山研究 第2号
2007 年 4 月 25 日 発行

発行人 金井 孝素 編集 上杉 毅

発行所 恵那山学会

http://www.enasan.info/index.php

〒508-0011 岐阜県中津川市駒場 398-8 金井方

表紙説明 ほぼ真北の男ダル山(大株)上空 40mから見た恵那山の図です

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