全国自死遺族連絡会・フォーラム(東京)2013.09.07.

ただいま、ご紹介いただいた上智大学の岡と申します。
今回は、第 6 回の全国自死シンポジウムということなんですが、私は、去年も、お
ととしも、このシンポジウムでお話しをさせていただいたような記憶があるので、
「あ
あ、また、あいつか」と言われるんじゃないかと、ちょっと、ひやひやしながらお話
ししていますが、今回は、少し気が楽なんですね、
というのは、メインのスピーカーは、私の次にお話しされるトマシーナ、ボークマ
ン先生でして、今回、私は、ボークマン先生の前座を勤めるということで、ここに立
たせていただきました。
私の今回のお話しは、20 分ということで、短いので、ここでは 3 つのことをお話
しさせてもらいます。
まず、ひとつは、ボークマン先生のご紹介ですね。
それから、自助グループとは何か、ということ。
そして、3 つめは自助グループが、つくりあげていく「体験的知識」とは何か、と
いうことです。
この体験的知識というのは、自助グループの強みとして国際的に言われるのですが、
これは、いまから 40 年ぐらい前の 1970 年代に、先生が書かれた論文が、もとになっ
ているのですね。
ということで、先生のご紹介と、自助グループの定義と、体験的知識についてお話
ししたいと思います。
まず、先生のご紹介ですが、いま、さっき申し上げたように、いまから 40 年近く
前に、先生は自助グループの体験的知識という論文を発表されまして、これが今日の
自助グループの研究では、非常に大事な概念になっています。
先生は、40 年以上の間、一貫して自助グループの研究をされていまして、その結
果、現在では、自助グループの研究者として国際的に非常に有名なかたになっていま
す。
たとえば、自助グループに焦点をあてた専門雑誌というのが、アメリカの出版社か
ら、ひとつ、出されていて、International Journal of Self-help and Self Care という
雑誌なのですが、これが現在のところ、自助グループ研究では世界で唯一の専門雑誌
なのですが、その雑誌の編集長をされています。ですから、世界中の自助グループの
研究を、大局的に見るという立場にあるかたでもあります。
それから、今回のシンポジウムのパンフには載っていなかったと思うのですが、ア
メリカに NPO の研究をする大きな学会がありまして、Association for Research on
Nonprofit Organizations and Voluntary Action という学会なのですが、文字どおり訳
せば、NPO とボランティア活動についての学会ということなのですけど、そちらの学
会長をされたご経験もあります。
つまり自助グループというのは、NPO、つまり非営利団体のひとつなんですね。日
本で、別に NPO 法人をとらなくても、学問的には、非営利団体のひとつになるんで
すよ。みなさんの活動は、営利のために、つまりお金もうけのために活動をされてい

上智大学 岡 知史 1

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るわけではないので、立派な NPO なんですね。ボークマン先生は、NPO としての、
非営利団体としての自助グループを研究されているわけです。
ここまでボークマンさんが、アメリカ国内はもちろん国際的にも自助グループの研
究者として、いかに広く認められているかたか、ということを申し上げましたが、ど
うしてこんなことを、くどくどと申し上げたかというと、この事実は、ぜひ、みなさ
んの活動が、日本の社会のなかで、特に行政とか、専門家とか、そういう人たちを相
手に交渉したり、話し合ったりするときに使っていただきたいと思うのですね。
田中さんが、よく言っておられましたが、自死遺族の会というのが、会の中に専門
家が入っていないということで、行政などから、なかなか社会的に認められない、と
いうことだそうですが、
それならば、ボークマン先生のような国際的に広く認められた学者からも、自死遺
族の自助グループは素晴らしい活動なんだと断言しているという事実は、ぜひ使って
もらいたいと思います。
特に、日本の精神科医とか心理学者という人たちは、アメリカの学者の権威に弱い
という話なので(笑)
、ぜひボークマン先生の権威をみなさん、自死遺族の自助グルー
プが社会的に、日本の専門家の間に認められるために、使っていただければと思って
います。
まあ、こんなふうに申し上げますと、いかにもエライ先生で、とっつきにくい感じ
がされるかもしれませんが、私は、先生とは、もう 20 年ぐらいのおつきあいになると
思うのですが、お人柄も、よく存じ上げているのですけど、ちょっと 10 代の少女のよ
うな、かわいらしいところもあるような方なんですね。
成田空港に午後 2 時について、時差もあるから、当然、次の日は、いちにち休まれ
るだろうと思っていたのですが、ホテルについたとたん、次の日の「はとバス」
、東京
の観光バスですね、それに予約されて、私は「ちょっと止めたほうがいいんじゃない
かな」と思ったのですが、
「いや、どうしても行きたい」ということで、予約されたん
ですね。
ところが、アメリカの都会のバスツアーというのは、ずっとバスに乗って、ぐるぐ
ると回るというイメージなんだそうですが、東京のはとバスというのは、バスは、そ
こに行くだけで、行った先では、ひたすら歩くというツアーだったそうで、二日目の
夕方にお会いしたら、もう疲れきった顔をされていました。それで、今日は大丈夫か
なと、かなり心配したのですが、今日のためにドレスアップされて、がんばってくだ
さるようで、安心しました。
これでボークマン先生のご紹介は終わりまして、あと 2 点ですね。それは、ボーク
マン先生のご講演で、みなさんにぜひ注意して聴いていただきたい 2 つのポイントで
もあります。
ひとつは、自助グループとは何か、ということですね。特に「専門家が中にはいっ
てファッシリテーターをしたりするときにも、そのグループのなかに当事者が何人か
いたら、それも(広義の)自助グループだ」と、そんなふうに呼んでいる人がいて、

上智大学 岡 知史 2

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行政とか、専門家のなかにも、そういう考え方をする人がいて困るんだと、田中さん
は、常々、おっしゃっているわけですね。
言うまでもありませんが、専門家とか、ボランティアが中にはいって、司会をした
り、進行役をしたり、なにか重要な役割をしたら、もうその時点で、自助グループで
はないんですよ。
「それを、ぜひ強調してくれ」と、私は、もうここ数年、何度も何度も繰り返し田
中さんから頼まれてきまして、だったら、いっそのこと、自助グループの世界的権威
の先生をここに連れてきて、アメリカの多くの事典とかで、自助グループの項目を担
当しているボークマン先生を連れてきて、ビデオとか、録音とか、パワーポイントを
youtube に載っけて、これで「専門家がやっているグループを、自助グループなんて
呼ぶのは、間違っているよ!」という証拠、裏付けにしてもらおうと思ったわけです
ね。
たとえば、行政のほうで「保健師が自死遺族の自助グループを始めました」なんて
いう記事が出たら、「保健師が作るようなグループは、自助グループとは呼ばないん
だ!」という主張とともに、ボークマン先生の講演の youtube のリンクを送ってね、
「いや、そういうのは、自助グループではないんですよ、ほら、自助グループの国際
的な権威も、そうじゃないと言っているでしょ」と、そんなふうに使ってもらえたら
と思います。
自助グループの言葉の定義なんて、言葉の問題だから、どうでもいいじゃないかと、
部外者の方で思うかたがいらっしゃるかもしれませんが、実害があるんですよ。
たとえば、実際に、自助グループというのは当事者だけでやっているものだと思っ
て、(それが正しい理解なのですが)、自分の辛い体験を話してみたら、あとで、その
場にいた人から「いや私は、遺族ではないんですが、いろいろ、いいお話しを聴かせ
ていただきまして、勉強になりました」なんて言われると、相手が遺族だと思うから、
いろいろ話したのに、
「なんだ、遺族じゃないんだったら、最初から、そう言いなさい
よ!」という、なんだか騙されたような、裏切られたような気持ちになる人が、いっ
ぱいいらっしゃるという話なんですね。
だから、言葉の問題というのは、リンゴだと言われて買って、袋をひらいてみたら、
実は、みかんだった、というようなもので、どうでもいい問題ではなくて、非常に大
事な問題なんですね。
だから、まず今回は、自助グループの定義の決定版として、ボークマン先生のご講
演を、Youtube に残しておいて、自助グループとは何か、なんていうことが問題にな
ったら、即刻そのリンクを送る、というようにできたらいいと思っています。
自助グループの定義の要点は、要するに、当事者だけが集まって行うのが、自助グ
ループということなんですよ。自死遺族の会では、一切、当事者ではない人をわかち
あいの輪のなかに入れないということですが、それが自助グループの基本の形ですよ
ね。
アルコール依存症の人たちの自助グループには、当事者ではない人たちも、ミーテ
ィングに出られるところがあります。実は昨日、ボークマン先生を、そういうミーテ
ィングにお連れしました。

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しかし、それはゲストとして、仮に行くだけで、グループの人たちが「今回は、遠
慮してください」と言われたら、すぐに出ていかなければいけないわけですよ。
家族でも、お客さんが、たまに来ますよね。でも、そのお客さんが勝手に台所に入
ってきて、夕食の準備をしたりしないでしょ。お客さんが来ても、それは仮にいるだ
けで、ずっとはいないし、まして家族になれるわけでもない。
それと同じで、自助グループのなかには、メンバーが体験を話すときに部外者がそ
の場にいてもいいというところがあります。
その事実を使って「ボランティアや専門家が入っても、広義の(広い意味での)自
助グループと言える」という人がいるそうですが、これは全くの誤解なんですね。
家族で、お母さんの友達が、たまたま家にきたと。そこで数時間、おしゃべりをし
ていた。じゃあ、そのお友達を広義の家族として含めよう、なんていう人は、誰もい
ないですよね。
そして、家族のなかで「じっくり話をするときには、お客さんは呼ばないようにし
ようね」と決めたら、お客さんは家族のなかに入れないのです。自死遺族の会は、自
助グループとして遺族ではない人を「わかちあいの輪」のなかに入れないというのは、
そういう家族のありかたと似ているわけです。
「外部の人を『わかちあいの輪』に入れないから、自死遺族の会は閉鎖的だ」とい
う批判があるそうですが、それは間違った批判だと思います。あとでボークマン先生
の講演でも出てきますが、基本は「わかちあいの輪」には当事者ではない人は出るこ
とはできないのです。アルコール依存症者のグループでは、部外者にも理解を広げる
ために、その一部の集まりを開いているということだけなのですね。基本は当事者だ
け、というのは、自助グループの基本的なあり方です。
そして、もうひとつボークマン先生の講義で聴いていただきたいことが、体験的知
識というものです。この体験的知識というのは、さっきも申し上げたように、自助グ
ループの強みとして国際的に言われるのですが、これは、いまから 40 年ぐらい前の
1970 年代に、先生が書かれた論文が、もとになっているのですね。英語版のウィキピ
ディアにも、この体験的知識という項目がありまして、自助グループに関する言葉と
しては、トマシーナ・ボークマン先生が提唱した、とはっきりと書かれています。
この体験的知識というのは、文字どおり「体験による知識」ということなんですが、
専門的知識ということと対比して、論じられることが多いのですね。専門的知識が、
本とか、学校での講義とか、そういうものから学ぶものであるのに対して、体験的知
識というのは、当事者が自助グループのなかで、それぞれの自分の体験をわかちあっ
て、それでつくっていく知識なんですね。
ここで大きな誤解が、むかしからあるんですね。それは、たとえば、
「私は病気をし
て、胃の手術をした」と。だから、
「私は胃の手術について体験的知識があるんだ」と。
でも、そういうのを体験的知識とは言わないんです。
つまり、個人である自分が、ある体験をしたら、それで体験的知識が得られる、と
いうことではないんです。それは、ただの一個人の体験にすぎません。
個人的な体験には、意味がない、ということではなくて、個人的な体験というのは、
あくまで個人的なもので、他の人に、その知識が使えるのかどうか、それはわからな
い、ということなんですね。自助グループの体験的知識というのは、お医者さんや看
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護師さんが、学校で、あるいは実習で一生懸命学んだ専門的知識と同じくらいの重み
があって、あるいは、それ以上の重みがあるというということなので、単に一個人が、
自分が体験をしたというだけで、専門的知識に対抗できるものがあるとは、とても思
えないのです。
もちろん、その本人にとっては自分が体験をして得たことは重要です。でも、他の
人にとってどうか、社会的にみてどうなのかというと、やっぱり、あなたにとって大
事でしょうけど、他の人にとっては、そうだとは限らないということだと思うのです。
でも、そういうことは、みんな内心はわかっているのだけれども、体験したことは、
大事なんだということで、たとえば精神障害の体験をした人とか、子育てを体験した
人とかを「体験的知識をもった人だ!」というように呼んで、ときには、ピア・カウ
ンセラーとか、ピア・サポーターという名前をつけて、いろんな場で働いてもらって
いるということは、実際には、あるわけですね。
それは、それで意義がある活動だと思います。私は、その活動の意義を否定する立
場では全くありません。しかし、その場合は、一個人の体験をもとにした知識にすぎ
ないので、当然、不完全なわけです。ですから、ピア・カウンセラーというのは、基
本的には、専門家の、あるいは専門職の監督、指導、研修が必要だという理屈につな
がっていくのですね。
田中さんなども、何度も言われたとおっしゃっていますが、遺族が自助グループを
するのなら、きちんと専門家の研修を受けてからにしなさい、と言われたわけです。
これは、その背後には「体験的知識」という概念の誤解といいますか、浅い理解があ
ると思うのですね。
一個人が、その出来事を体験したら、体験的知識があるというのなら、それは、一
個人の体験でしかないのですから、あぶなっかしくて、やっぱり専門家の指導や監督
が必要だというのは、わからないことはないですね。
私の知っている事例でいえば、障害のあるお子さんの子育てをした、と。だから、
その体験を活かして同じように障害のあるお子さんの子育てをしているかたのアドバ
イスを、ボランティアとしてされているわけですね。そのとき、そのかたは、お医者
さんや看護師のかたの講義を受けたり、指導を受けたりしているわけですよ。
これは、相談をする側にとっては安心ですよね。子どもの障害なんていうのは、も
のすごい種類があって、子どもの数だけ状況の違いがあると言ってもいいかもしれま
せん。それを、自分の子どもの子育ての経験だけを軸にして、他の全く違う障害の子
どもさんを育てているお母さんにアドバイスしたとしたら、それは、もう危なかっし
いですよね。
本物の体験的知識というのは、そういう危ない感じではないのです。もっと信頼で
きるものなのです。だから専門家の監督とか、指導は必要ないんです。それどころか、
専門家こそ、その当事者の体験的知識から学ぶことがいっぱいあるはず、というくら
いの豊かな、深い内容をもっているのです。
なぜ、そんなことが可能かというと、そこには個人の力を超えた、自助グループの
力があるからですよ。本当の意味での「体験的知識」というのは、自助グループの存
在なしでは、考えられないのですね。

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なぜかというと、自助グループには、いろんな人が参加しますよね。たとえば自死
遺族の場合、ひとことで自死遺族といっても、いろいろ状況が違うでしょう。亡くな
った状況も違うし、亡くなったあとの家族の状況も違うでしょう。そういういろいろ
な違いがあるメンバーが集まることによって、あ、この場合は、こうなんだな、あ、
こういう場合は、こんなに違うんだと、だんだん、メンバーの体験が積み上げられる
ことによって、徐々に体験的知識がつくりあげられていくんです。
だから、個人が、体験をした! そこですぐにその人に体験的知識が身についた、
と、そういうことではないんですね。体験的知識は個人のなかではなくて、わかちあ
いの輪のなかで時間をかけて、徐々に形成されていくものなのです。
ボークマン先生の講演のなかで、その体験的知識がつくられていくメカニズムがモ
デルとして紹介されています。簡単にいえば、誰かの体験を聴いて、それが自分に当
てはまるか考えてみて、それから実際に自分の生活なかで実行してみて、その結果を
みんなに話す、というプロセスですね。その繰り返しのなかで体験的知識が、みなさ
んのなかで、少しずつつ作られていくわけです。
たとえば、みなさんの自死遺族の会の体験的知識は何でしょうか。たくさんあると
思いますよ。
私がみなさんから聞いて、印象的だったものを頭にうかぶ順に並べますと、
「炊事を
しているときに、突然、悲しみがバーッときたら、それを、パッと避けるんですよ」
とか、田中さんが私におっしゃったときに、横に三上さんがいらっしゃって、そうそ
うと頷いていらっしゃったことを覚えていますが、そんなふうに、悲しみがバーッと
突然、ふりかかってきたときに、どう対処するかということが、会のなかで、わかち
あいの中で共有できていたら、それは体験的知識ですよね。
あるいは、わかちあいの会のことで言えば、どんなことが、わかちあいのなかで言
われても、受け止める、
「そうだね、大丈夫ですよ」と受け止める、ということ、です
ね。悲しみだけではなく、怒りや呪いの言葉だって、「そうですよね、そうですよね」
と受け止めていくそうですね。
あるいは、わかちあいの会で、入り口のすぐ近くで迷って、うろうろしている人に
も、声をかけないほうがいいんだ、ということ。これは少し、私は驚きましたけれど
も、自分で、自分の意思で入ってきてもらうことなんですね。
あるいは、わかちあいの会で、最初に、簡単な自己紹介をしてもらうこと。これは、
間違って、当事者ではないのに来てしまった人がいることがあるので、安全のために、
やるんだとおっしゃっていました。
あるいは、すごく深いわかちあいになったあとには、必ずクールダウンと言って、
すこし社会にもどっていくための時間をつくるとか。
クールダウンという考え方のように、その知識のなかには、遺族のかたが、どこか
の本で読んだものとか、あるいは専門家のサポートグループで学んだものとか、そう
いうものもあるかもしれませんね。
でも、そういうものであってもいいんです。みなさんが、それを体験して、それが
いいものであったと思えば、それを体験的知識として取り入れたらいいんですよ。そ
ういうことも、ボークマン先生の講演のなかで出てきます。
あるいは、ある会では、常識になっていることが、他の会では、そうではないかも
しれません。その場合は、こういう全国的なつながりのなかで、うちの会は、こうや
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っている、こういう考えで、こんなことをやっているということを言っていただいて、
それを、良ければ、自分の会でもやってみる、いや、自分たちの会では合わないな、
と思えば、それは使わない。日本全国広いですから、土地柄というか、地方によって
文化も違いますからね。実際に、やってみて、体験から自分たちの会のなかで、ある
いは自分たちの生活のなかで実際に体験してみて、ああ、これはいいと思えたら、そ
れを体験的知識としてもいいんですね。
私が関係していることでいえば、
「悲しみは愛しさ、グリーフ・イズ・ラブというこ
とが、良かった」と、昨日、お会いした遺族のかたに言っていただきました。
これは、たしかに、こういう言葉にしてみてはと提案したのは、私でしたが、そう
いう思想、考えたというのは、自死遺族の間に、すでにずっと広がっていたというの
が、私が、田中さんを始め、遺族のかたにインタビューさせていただいたことで気づ
いたことだったんですね。
ですので、私が貢献できたことがあるとすれば、それを簡潔に言葉で表現してみた
ということであって、これもまた、みなさんの体験的知識なんですね。
悲しみ、グリーフというのは、そこから回復するべきだとか、取り除くとか、そう
いう病気のようなものではなくて、愛しい人への思いそのものであるわけですね。
グリーフワークなんていいますけど、ワークって仕事でしょ。仕事で、嫌々ながら
でも義務としてグリーフを乗り越えていかなければいけないんだという、そういう価
値観が基本にあると思うのですが、グリーフ・イズ・ラブで、悲しみは愛しさなんだ、
ということであれば、ぜんぜん違った見方、世界が見えてくるわけですよね。
興味深いのは、こういう悲しさへの考え方、愛しさへの考えかたは、日本の平安時
代には、ごく当たり前の常識としてあったということなんですね。
今日は、資料(最後のページに掲載)として、その古語辞典の「かなし」という項
目と、悲しさと、愛しさがどうして同じ言葉だったのかということを解説した、国文
学者の本の一節をコピーしてきましたので、あとで見ていただければと思います。
さて、20 分という私の持ち時間も終わったようですので、これで、さっそくボーク
マン先生にマイクをお渡ししたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

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