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<解説> 【注釈】
「安寿と厨子王」は、磐城地方(今の福島県)に伝わる 実話:
古いお話です。九百年も昔の平安時代にあった実話に基
∼に基づく:
づくお話のようで、いわき市内には彼らが住んでいたと
親しむ:
される住吉城跡があり、田村郡三春町が安寿と厨子王の
祖母の出身地と言われています。 ∼てきた:
人形浄瑠璃:
この「安寿と厨子王」は、中世に起こった「語り」の
一種で、説経節と呼ばれ、庶民に親しまれてきました。 歌舞伎:
江戸時代に入ると、人形浄瑠璃や歌舞伎などに取り入 しばしば:
れられて、しばしば上演されました。明治に入って「語り」
上演する:
は廃れますが、「安寿と厨子王」を素材として、森鴎外
廃れる:
が 1915(大正)年「山椒大夫」を文学作品として書き
「語り」 素材:
表したことから、一躍有名になりました。しかし、
では安寿が拷問で殺されるのですが、鴎外の作品では沼 一躍:
に身を投げて死ぬ場面に書き換えられ、厨子王が山椒大
拷問:
夫らを鋸引きの刑で殺す場面も書き換えられています。
沼:
では、ここではできる限り、オリジナルの「語り」に近
いストーリーの復元を試みてみましょう。 身を投げる:
場面:
書き換える:
鋸引きの刑:
オリジナル:
ストーリー:
復元を試みる:
137
安寿と厨子王
一
【注釈】
今は昔、平安朝も末のこと、越後の今津(今の新
浜辺の道:
潟県直江津)へ向かう浜辺の道を、疲れた足取りで
足取り:
歩く子供づれの旅人の姿がありました。母と息子と
子供づれ:
娘、乳母の四人連れでした。この主従四人は、七年
旅人の姿:
前、農民の窮状を救うため将軍に楯をつき、左遷さ
れた父平正氏が住む筑紫(今の九州)へ向かう途中 乳母:
でした。母は三十歳過ぎ、姉の名は安寿といい十四 主従:
歳、弟の名は厨子王といい十二歳でした。 窮状を救う:
この四人は磐城(今の福島県ー太平洋側ー)から
楯をつく:
いくつもの山を越えて、日本海に面するこの異郷の
∼に面する:
地まで来たのですが、歩く姿も痛々しく、姉の安寿
異郷の地:
は脚を引きずるようにして歩いています。
痛々しい:
乳母は「もうすぐ宿に着きますからね」と子ども
たちを励ますのですが、子どもたちはただうなずく 脚を引きずる:
ばかり、返事をする元気もありません。 ただ∼ばかり:
しばらく行くと、藁葺きの家が立ち並ぶ海辺の村 うなずく:
がありました。もう日も暮れかかっています。四人
藁葺き:
が宿を探そうと思っていたとき、ちょうど向こうか
立ち並ぶ:
ら、空桶を担いだ女がやってきました。
日が暮れかかる:
乳母はその女に「もしもし。この辺に宿はありま
空桶を担ぐ
せんか」と声をかけました。すると女は、「お気の
毒ですが、この土地には旅の人を泊めてあげる所は お気の毒:
一軒もありません」と言います。 国守:
「どうして泊まることができないのですか」 掟:
「国守の掟ですから、しかたがないのです。あそ
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そこに立ってる高札に書いてありますが、近ごろ悪 高札:
い人買いがこの辺に現れては、人をさらっていきま 人買い:
す。それで見知らぬ旅人に宿を貸してはならぬとい さらう:
うお触れが出たのです。泊めたものには、重いお咎
見知らぬ:
めがあります」
∼てはならぬ:
「そこを何とかならないでしょうか」、乳母が尋ね
お触れ:
ると、女は、「野宿なさるよりほかしかたがありま
すまい。野宿されるなら、あそこの橋の下がいいで お咎め:
しょう」と教えてくれました。そして、「私は塩浜 ∼よりほかしかたがない:
の持ち主のところにいます。あそこに見える森の中 野宿する:
のうちです。夜になったら、藁や薦を持って来てあ 持ち主:
げましょう」と言いました。
藁:
主従四人は橋のある方へ急ぎました。橋のたもと
薦:
に着くと、河原へ下りる道がありました。河原には
橋のたもと:
石垣があり、大きな木がたくさん立てかけてありま
河原:
した。見ると、木と石垣の間がほら穴のようになっ
た所があります。厨子王が奥に入っていって、「お 石垣:
姉えさん、早くおいで」と手招きしました。 立てかける:
「まあ、お待ちなさい」、乳母は背に負っていた包 ほら穴:
から着換えの衣類を出すと、河原の砂地の上に敷い
手招きする:
て、親子を座らせました。そして、携帯食として持っ
包:
ていた食べ物を取り出しながら言いました。
背に負う:
「ここでは焚火をすることは出来ません。もし悪
着替え:
い人に見つけられてはならぬからでございます。私
はあの塩浜の持ち主の家まで行って、お湯をもらっ 携帯食:
てまいりましょう。そして藁や薦のことも頼んでま 焚火:
いりましょう」 まめまめしい:
乳母は、まめまめしく出て行きました。
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二 ザクザクと:
しばらくして、ザクザクと人が近づいてくる足音 ∼にしては:
がしました。「姥竹かい」と母親が声をかけました。 (数詞)ばかり:
姥竹というのは乳母の名です。しかし、森まで行っ
骨組み:
て来たにしては、戻ってくるのが早すぎます。
たくましい:
入って来たのは、四十歳ばかりの骨組みのたくま
近寄る:
しい男でした。男は近寄ると、顔に笑みを浮かべな
がら、こんなことを言いました。 笑みを浮かべる:
「わしは山岡大夫という船乗りじゃ。国守のお触 船乗り:
れのせいで、難儀している旅の者がいると聞いて ∼せいで:
やってきたんじゃが、見れば暖も取らず、子供衆も 暖を取る:
米菓子を食べていなさる。そんな物では腹の足しに
腹の足し:
もなるまい。たいしたもてなしはできぬが、わしの
たいした:
うちでもよければ、芋粥でも進ぜよう。幸いわしの
もてなし:
家は街道の外れで、人を泊めても、見つかる恐れが
進ぜる:
ない」
男の親切な申し出に、母親は「誠にありがとうご 街道の外れ:
ざいます。貸すなという掟のある宿を借りて、あな 恐れがない:
た様にご迷惑をかけないかと、それが気がかりでご 誠に:
ざいますが、私どもはともかく、子供らには温かい
迷惑をかける:
お粥なりと、食べさせてやりとうございます」と言
気がかり:
いました。
∼はともかく:
山岡大夫はうなずいて言いました。「そんなら、
∼なりと:
すぐに案内をして進ぜましょう」、男はそう言って
立ち上がりました。母親は申し訳なさそうに言いま 申し訳ない:
した。「どうぞ少しお待ちくださいませ。実はもう 実は:
一人連れがございます」 耳をそばだてる:
山岡大夫は耳をそばだてました。
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「うぬ?連れがおありなさる。それは男か女子か」 まもなく:
「子供たちの乳母でございます。今、お湯をもら お女中:
いに、塩浜の持ち主のところに行っておりますが、 薄ら笑い:
まもなく帰ってまいりましょう」
問う:
「おお、お女中か。そんなら待って進ぜよう」
∼る・ままに:
山岡大夫の顔に薄ら笑いが浮かびました。こうし
∼た・きり∼ない:
て、その夜、主従一行は、山岡大夫のうちに泊まる
ことになりました。 尋ねる:
わかりきったこと:
三 ∼しか∼ない:
その夜、母親は山岡大夫に問われるままに、夫が 難所:
筑紫へ行ったきり帰らないので、二人の子供を連れ
削り立てる:
て会いに行くところだと話しました。そして、筑紫
荒波が打ち寄せる:
までどうやっていけばいいか、男に尋ねました。
横穴:
山岡大夫は、「それはわかりきったこと、船路し
波が引く:
かあるまい。陸を行けば、隣の越中(今の富山県)
に入る国境に、親不知子不知(おやしらずこしらず) ∼ねばならぬ:
の難所がある。そこは削り立てたような岩石に荒浪 顧みる:
が打ち寄せていて、旅人は横穴に入って、波の引く それ故:
のを待って、狭い岩石の下の道を走り抜けねばなら
足下:
ぬ。そのときは親は子を顧みることが出来ず、子も
揺らぐ:
親を顧みることが出来ぬ。それ故、親不知子不知と
千尋の谷底:
呼ばれているのじゃ。また山を越えると、足下の石
険しい:
が一つ揺げば、千尋の谷底に落ちるような、険しい
山道がある。それに比べれば、船路は安全だ。確か 確か:
な船頭にさえ頼めば、百里でも千里でも行ける。わ ∼さえ∼ば:
しは西国まで行くことはできぬが、諸国の船頭を 頼む:
知っているから、いい船頭を紹介することとも
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できる」と、さも親切そうに話しました。 さも∼そう:
母親は、
「願ってもありません。ぜひお願いします」 願ってもない:
と答えました。乳母の姥竹は、母親の袖を引くと、 ぜひ:
首を横に振って、「お気をつけくださいませ」とめ
袖を引く:
くばせしたのですが、母親は「せっかくのご厚意を
首を横に振る:
お断りするのは失礼です」とはねつけると、山岡大
めくばせする:
夫に向かって、
「よろしくお願いいたします」と深々
と頭を下げました。姥竹も主人の命には従うしかあ せっかく:
りません。 はねつける:
夜が明けるか明けないかのうちに、山岡大夫は主 命:
従四人をせき立てるようにして家を出ました。まだ 従う:
薄暗い浜辺に着くと、人目につかない岩蔭に、舟が
∼しかない:
二艘止まっています。
∼か∼ないかのうちに:
山岡太夫は、
「さあ、ご覧のとおり船も小さいから、
せき立てる:
二人ずつ分かれてお乗りなされ。どれも西国への便
人目につく:
船じゃ。舟足というものは、荷が重過ぎては走りが
悪いのだ」と言って、母親と姥竹を一つの船に、安 ∼なされ:
寿と厨子王をもう一つの船に乗せました。 船足:
山岡大夫は、「わしはこれでお暇をする。ご機嫌 ご機嫌よう:
ようお越しなされ」と言って立ち去りました。
お越しなさる:
遠ざかる:
四
顔を見合わせる:
二艘の船は、だんだん浜を遠ざかって行きます。
声を立てる:
母親は不安になって尋ねました。「同じ道を漕いで
行って、同じ港に着くのでございましょうね」 ∼ず:
二人の船頭は顔を見合わせて、声を立てて笑いま ぐんぐん:
した。そして、二人の船頭は何も答えず、沖へ沖へ 漕ぎ出す:
と舟をぐんぐん漕ぎ出しました。しかし、しばらく
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は併走していた二艘の船でしたが、突然、母親と姥 併走する:
竹を乗せた船は北へ、安寿と厨子王を乗せた船は南 向かう:
へと向かい始めました。「あれあれ」と呼び交わす 呼び交わす:
親子は、ただ遠ざかっていく行くばかりです。
遠ざかる:
姥竹は「もし船頭さん、もしもし」と声をかけま
ただ∼ばかり:
したが、船頭は返事もしません。そこでのとうとう
そこで:
船頭の幹のような脚にすがって叫びました。
とうとう:
脚にすがる:
叫ぶ:
うるさい:
怒鳴る:
振り向きざまに:
蹴り上げる:
その弾みに:
真っ逆さま:
絵師 歌川国芳
「これはどうしたことでございます。どうぞあの
舟の行く方へ漕いで行ってくださいまし」
船頭は「うるさい」と怒鳴ると、振り向きざまに
姥竹を蹴り上げました。その弾みに、姥竹は真っ逆
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さまに海の中に落ちました。そして、「奥さま∼、 沈む:
安寿さま∼、厨子王さま∼、もうこれまででござい 物狂おしい:
ます」と叫びながら、海の中に沈んでいきました。 船端:
母親は物狂おしげに船端に手をかけて、姥竹の名
手をかける:
を呼び続けました。そして、母親はもうこれまでと、
これまで:
「もうしかたがない。これが別れだよ。安寿は守り
守り本尊:
本尊のお地蔵様を大切におし。厨子王はお父さまの
くださった護り刀を大切におし。どうぞ二人が離れ お地蔵様:
ぬように」と子供たちに言うと、海に身を投げよう 護り刀:
としました。船頭は、
「お前まで死なせてなるものか。 実を投げる:
大事な商品じゃ」と、髪を掴んで引き倒しました。 ∼う・とする:
子供たちは、「お母さま、お母さま」と泣き叫ん
∼ものか:
でいます。しかし二艘の船は遠ざかるばかり、もは
大事な商品:
や声も届きません。安寿と厨子王の叫ぶ声が、波間
髪を掴む:
に空しく響きました。
引き倒す:
彼らは人買いの罠に落ちたのです。
もはや:
五 声が届く:
安寿と厨子王は、船の中で抱き合って泣いていま 波間:
す。二人は故郷を離れるのも、遠い旅をするのも母
空しい:
と一緒だと思っていたからこそ、耐えることもでき
響く:
たのです。しかし、今、母親と引き裂かれて、どう
罠に落ちる:
していいかわかりません。ただ泣き続けることしか
∼からこそ:
できませんでした。
お昼になって、船頭は餅を取り出して食べ始めま 耐える:
した。そして、「もう泣くな。お前らの母御は、今 引き裂く:
ごろはもう佐渡の島へ渡っていることじゃろう」と
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言って、安寿と厨子王に餅を一つずつくれました。 ∼ずつ:
しかし、二人は食べようともせず、目を見合わせ 目を見合わせる:
て泣いています。そのうち二人は泣き疲れたのか、 寝入る:
抱き合って寝入りました。
夜を明かす:
船頭と二人は、幾日か舟で夜を明かしました。人
∼上に:
買いの船頭は越中、能登、越前、若狭と、安寿と厨
なかなか∼ない:
子王を売り歩いたのですが、二人は幼い上に、体も
か弱く見えるので、なかなか買い手が現れません。 折り合う:
たまに買い手があっても、値段が折り合いません。 いらいらする:
船頭はいらいらし始め、しだいに「いつまでも泣く しだいに:
か」と二人を殴るようになりました。 廻り回って:
舟は廻り回って、丹後の由良の港に来ました。こ
分限者:
こには山椒大夫という分限者がいて、石浦というと
構える:
ころに大きい屋敷を構えて、奴隷を使って田畑に米
奴隷:
麦を植えさせ、山では狩りをさせ、海では漁をさせ、
機織り:
或いは機織りをさせ、たいそうな権勢をふるってい
ました。 権勢をふるう:
港に出張っていた山椒大夫の奴頭は、安寿と厨子 出張る:
王をすぐに七貫文で買いました。 餓鬼:
船頭は、「やれやれ、餓鬼どもが片づいて身が軽
片づく:
うなった」と言って、受け取ったお金を懐に入れる
懐に入れる:
と、波止場の酒店に入っていきました。
建ち並ぶ:
肘掛け:
六
太い柱が何本も立ち並ぶ大広間の奥に、布団を何 もたれる:
枚も重ねて、その上で肘掛けにもたれて座っている 赤ら顔:
男がいました。年の頃は六十歳ぐらい、朱を塗った 逆立つ:
ような赤ら顔で、額が広く、顎が張って、逆立った
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髪も鬚も銀色に光っています。この男こそ山椒大夫 狛犬:
でした。その左右には二郎、三郎という二人の息子 もともと:
が狛犬のように座っています。 企てる:
もともと山椒大夫には三人の息子がいましたが、
捕らえる:
長男の太郎は今から十九年前、逃亡を企てて捕えら
奴:
れた奴に、父が焼印をするのを見るに見かねて、家
焼印:
を出て、行方知れずになりました。
見るに見かねる:
奴頭は安寿と厨子王を連れて、山椒大夫の前へ出
ました。そして二人の子供に「お辞儀をせい」と言 ∼かねる:
いましたが、二人の子供は奴頭の言葉が耳に入らな 行方知れず:
いのか、頭を下げようとしません。 耳に入る:
山椒大夫は、「買うて来た子供はそれか。わざわ
わざわざ:
ざ連れて来させてみれば、顔も青白く、体もか細い。
か細い:
何に使えばよいか、わしにはわからぬ」と言いまし
すかさず:
た。
さっき:
すると、一番下の三郎がすかさず言いました。
「いや、お父っさん。さっきから見ていれば、辞 名のり:
儀をせいと言われても辞儀もせぬ。ほかの奴のよう 弱々しい:
に名のりもせぬ。弱々しゅう見えても、しぶとい者 しぶとい:
どもじゃ。我が館では、奉公はじめは男が柴刈り、 奉公はじめ:
女が汐汲みと決まっている」
柴刈り:
「おっしゃるとおりです。この者たち、いくら聞
汐汲み:
いても、私にも名を言いませぬ」と、奴頭が言いま
嘲る:
した。大夫は嘲るように笑うと、「よいよい、名は
わしがつけてやる。姉は垣衣(しのぶぐさ)、弟は ー荷:
萱草(わすれぐさ)じゃ。垣衣は浜へ行って、日に ∼に免じて:
三荷の潮を汲め。萱草は山へ行って日に三荷の柴を ∼して取らせる:
刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」
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奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて行って、安 桶と杓:
寿には桶と杓、厨子王には籠と鎌を渡しました。 籠と鎌:
新参小屋は、ほかの奴隷の居所とは別になってい 新参小屋:
て、この小屋には燈火もありませんでした。
居所:
燈火:
七
霜が降りる:
翌日の朝はひどく寒く、屋根の上の藁の上にも霜
が降りていました。厨房にはもう大勢の奴隷が順番 厨房:
を待って並んでいます。奴隷たちはどんぶりに入っ 大勢:
たお粥とお椀に入れた湯をもらっているのです。 奴隷:
安寿と厨子王もお粥とお湯をもらいました。二人 どんぶり:
はその朝げを食べながら、「こうした身の上になっ
お粥:
た以上、運命と思って諦めるよりほかはない」と相
朝げ:
談しました。そして姉は浜辺へ汐汲みに、弟は山へ
身の上:
柴刈りに向かいました。
∼以上:
木戸を出ると、二人は左右へと別れなければなり
ません。二人は互いに何度もふり返りながら、別々 ∼よりほかない:
の道を歩いていきました。 互いに:
厨子王は、雑木林の中に立って、呆然としていま 雑木林:
した。どうやって柴を刈ればいいのかも知らなかっ
呆然とする:
たのです。ようやく気を取り直して、一枝二枝刈り
ようやく:
始めましたが、うまくいきません。そこに一人の木
気を取り直す:
こりが通りかかって、「お前も大夫のところの奴か、
木こり:
柴は日に何荷刈るのか」と問いました。
「日に三荷です。しかし、どうやって刈ればいい 通りかかる:
のかもわかりません」と厨子王は正直に言いまた。 奴:
すると、木こりは「柴はこうして刈るものじゃ」 ∼ものだ:
と教えてくれ、すぐに厨子王のために一荷刈ってく
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れました。 降り立つ:
浜辺に行った姉の安寿は、潮を汲む場所に降り立 汲みよう:
ちましたが、汐の汲みようを知りません。困ってい
無邪気:
る安寿を見て、隣で汲んでいる女子が、「どれどれ、
気に入る:
私が汲みようを教えて上げよう。右手の杓でこう汲
昼げ:
んで、左手の桶でこう受けて」と教えてくれました。
身の上:
そして、安寿のために一荷汲んでくれました。 女
は無邪気な安寿がとても気に入り、二人は昼げを食 打ち明ける:
べながら、身の上を打ち明けあって、姉妹の誓いを 誓い:
しました。その女は伊勢の小萩といって、二見が浦 具合:
から買われて来た女子でした。
言いつける:
最初の日はこんな具合に、姉が言いつけられた三
なんとか:
荷の潮も、弟が言いつけられた三荷の柴も、なんと
整える:
か整えることができました。
絵師 歌川国芳
148
そんな毎日が過ぎていきました。姉は潮を汲み、 ∼ていく:
弟は柴を刈って、日暮れを待って小屋に帰れば、二 手を取り合う:
人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡 恋しい:
にいる母が恋しいと言っては泣いていました。
離ればなれ:
∼ぐらいなら:
八
訴える:
やがて十日が経ち、新参小屋を出なければならな
いときが来ました。小屋を出れば、男と女は別の組 たわけた話:
に入るのです。二人は「離ればなれにされるぐらい 婢:
なら、死ぬ」と言って、激しく泣きました。 引きずる:
奴頭がそのことを山椒大夫に訴えると、「たわけ 命じる:
た話じゃ。奴は奴の組へ引きずっていけ。婢は婢の
∼とおり:
組へ引きずっていけ」と命じました。
引き分ける:
その時、二郎が父に言いました。
童ども:
「おっしゃるとおりに童どもを引き分けさせても
∼ところ:
よろしゅうございますが、童どもは死んでも別れぬ
と申しております。私の見たところ、あの者たちは 元も子もない:
本当に死ぬかも知れません。それでは元も子もあり 任せる:
ません。私に任せて下さいませんか」 損:
山椒大夫は、「それもそうだな。損になるのはわ
脇を向く:
しも嫌いじゃ。どうにでもお前の好きなようにしろ」
小屋をかける:
と言って、ふんと脇を向きました。
見回る:
二郎は三の木戸の脇に小屋を作って、姉と弟とを
虐げる:
一緒に住ませました。二郎の仕事は、館を見廻って、
強い奴が弱い奴を虐げたり、けんかをしたり、盗み けんかをする:
をしたりするのを取り締まることでした。 取り締まる:
ある日、二郎は二人が母や父のことを話しながら
泣いているのを見ました。二郎は小屋に入って、
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「いくら父母のことが恋しくても、佐渡は遠い。筑 ∼がいい:
紫はそれよりまだ遠い。子供の行ける所ではない。 ∼あまりに:
そんなに父母に逢いたいなら、大きくなる日を待つ 逃げ出す:
がよい」と言って、出て行きました。
算段:
それから幾日か過ぎたある日のこと、二人はいつ
かまう:
ものように、父母のことを語り合っていました。そ
お目にかかる:
の日は、逢いたさのあまりに、逃げ出す算段を話し
合っていました。姉がこう言いました。「私は体も 伺う:
丈夫ではないし、二人で一緒に逃げるのは無理。だ ところが:
から、私にはかまわないで、お前一人で逃げて。そ 運が悪い:
して先へ筑紫の方へ行って、お父さまにお目にか ∼ことに:
かって、どうしたらいいか伺うのだね。それから佐
たまたま:
渡へお母さまのお迎えに行くがいいわ」
耳にする:
ところが運が悪いことに、小屋の前をたまたま通
ぬっと:
りかかった三郎が、この安寿の言葉を耳にしてしま
鬼:
いました。三郎はぬっと小屋に入ると、鬼のような
形相で言いました。 形相:
「こら。お前ら、今、逃げるたくらみをしておっ たくらみ:
たな。逃亡の企てをした者には焼印をする。それが 企て:
この館の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ」
焼印:
二人の子供の顔は蒼白になりました。安寿は、
「あ
館の掟:
れは言葉の弾みでございます。あまり親に逢いたい
蒼白:
ので、あんなことを申しました。決して本気で逃亡
言葉の弾み:
しようとなど考えていたのではありません」
しかし、三郎は、「ふん。お前たちの話は、おれ 本気:
が確かに聞いておいたぞ」、こう言うと、三郎は両 確かに:
手で二人の手を掴んで、山椒大夫がいる大広間に 引っ張る:
引っ張っていきました。
137
そこには大勢の人が黙って並んでいます。三郎は 炭火:
何やら山椒大夫の耳元でつぶやくと、二人を炭火が (火が)おこる:
真っ赤におこった炉の前まで引きずって行こうとし
炉:
ました。二人は「ご免なさい。ご免なさい」泣き叫
引きずる:
んでいましたが、三郎の力にはかないません。
かなう:
合図をする:
火箸:
抜き出す:
引き寄せる:
十文字:
悲鳴:
響き渡る:
髪を掴む:
引き起こす:
楽しむ:
絵師 歌川豊国
∼かのように:
正面には山椒大夫が座っていて、「やれ」と手で 残忍:
合図をしました。三郎は炭火の中から、赤く焼けた
首根っこ:
鉄の火箸を抜き出すと、安寿を引き寄せて、その額
に十文字に当てました。「ぎゃーっ」、安寿の悲鳴が
大広間に響き渡りました。三郎は、今度は倒れてい
た厨子王の髪を掴んでを引き起し、その額にも火箸
をジュウと十文字に当てました。厨子王の悲鳴がま
た大広間に響きました。三郎は楽しむかのように、
残忍な笑いを顔に浮かべています。
それから三郎は、また二人の首根っこを掴んで外
138
に連れ出すと、凍った土の上に放り出しました。 凍る:
放り出す:
九
よろよろ:
どこをどう歩いたのか、二人はよろよろと自分た
死骸:
ちの小屋に戻ると、死骸のように倒れていました。
お守り袋:
しばらくして、厨子王が、「姉さん、お母さんが
枕元:
渡してくれたお地蔵様を」と言いました。
安寿はすぐに起き上がって、肌につけたお守袋か 神仏に頼る:
らお地蔵様を出すと、枕元に置きました。今の二人 こらえる:
には、神仏に頼るしか道がなかったのです。 掻き消す:
二人は手を合わせて祈りました。「どうか私たち
触れる:
をお助けくださいまし」、必死で祈りました。する
手のひら:
とどうでしょう。あのこらえられない額の痛みが、
撫でる:
掻き消すようになくなりました。そして、二人がお
鮮やか:
地蔵様に触れた手のひらで額を撫でると、傷も消え
ました。はっとして、お地蔵様の額を見ると、その 刻む:
額には、十文字の傷が鮮やかに刻まれていました。 ∼を境に:
その日を境に、安寿は人が変わったようになりま 眉:
した。眉には皺が寄り、毎日何かを思い詰めたよう 皺が寄る:
に、目ははるかに遠いところを見つめています。そ
思い詰める:
して、すっかり無口になってしまいました。
はるか:
やがて年も暮れ、雪が降ったり止んだりするよう
すっかり:
になりました。奴も婢も外に出る仕事を止めて、家
降ったり止んだり:
の中で働くことになりました。安寿は糸を紡ぎ。厨
子王は藁を打ちます。 糸を紡ぐ:
やがて月日が流れ、水が温み、草が萌えるころに 温む:
なりました。また明日からは外の仕事が始まるとい 草が萌える:
う日に、二郎が小屋にやって来ました。
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「どうじゃな。明日から仕事に出られるかな。今 進み出る:
日は小屋を見て廻っているのじゃ」 取り計らう:
すると、安寿が糸を紡ぐ手を止めて、二郎の前に ∼ずに:
進み出て言いました。
思い詰める:
「それについて、お願いがございます。私は弟と
取りなす:
同じ所で仕事がしとうございます。どうか一緒に山
何はさておき:
へやってくださるように、お取り計らいください」
二郎は何も言わずに、安寿の目をじっと見ていま 口添え:
したが、二郎には安寿が何か思い詰めていることが 胸を刺す:
わかりました。 迷い:
「わし一人では決められぬが、わしが父を取りな ∼かのように:
して、山へ行けるようにしてやろう。何はさておき、
ざくり:
お前たち二人が無事に冬を過せてよかった」
切り取る:
こう言って小屋を出て行きました。
明くる朝:
翌日、奴頭がやってきて、安寿に向かって、「二
郎さまのお口添えで、お前が山へ行くのを、太夫さ
まがお許しになった。しかし、三郎さまが、それな
ら垣衣の髪を切り、大童にして山へやれ、と私に命
じられた。そこでわしは、お前さんの髪をもろうて
行かねばならぬのじゃ」
厨子王は、この話を胸を刺されるような思いで聞
いていました。ところが姉の安寿は、鎌を手にする
と、何の迷いもないかのように、自分の長くて美し
い黒髪をざくりと切り取って、「これをお持ち下さ
い」と奴頭に渡しました。
明くる朝、二人は背に籠を負い、腰に鎌を下げて
140
木戸を出ました。山椒大夫のところに来てから、二 麓:
人が一緒に歩くのはこれが初めてです。山の麓に来 こらえかねる:
たとき、厨子王はこらえかねて聞きました。
∼かねる:
「姉さん。あなたは私に隠して、何か考えていま
隠す:
すね。どうか私にだけは本心を話してください」
本心:
しかし、安寿は答えようとしません。岩の間に咲
∼う・としない:
いた小さい菫の花を指して、「ごらん、厨子王。も
う春になるのね」と笑うだけです。 菫の花:
厨子王は、去年も柴を刈った辺りまで来たので、 辺り:
「姉さん。柴はここらで刈るのです」と言いました。 ずんずん:
しかし安寿は、「もっと高い所へ登ってみましょう」 頂上近く:
と言って、先に立ってずんずん登って行きます。や
たやすい:
がて雑木林を抜け、頂上近くまで来ました。
思い切って:
安寿は足を止めると、ふり返って厨子王に言いま
逃げ延びる:
した。「厨子王や。今日は私の言うことをよくお聞
き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこ 神仏のご加護:
の土地までの道を、私に詳しく話して聞かせてくれ 出会う:
た。ご覧なさい。あの山を越して行けば、都はもう ∼(よ)う:
近いのだよ。筑紫へ行くのは難しいし、佐渡へ渡る 頬を伝う:
のもたやすいことではないけれど、都へならきっと
行けます。お前はこれから思い切って、この土地を
逃げ延びて、どうぞ都へ上っておくれ。神仏のご加
護で、よい人に出会えたら、筑紫へお下りになった
お父さまのお身の上も知れよう。佐渡へお母さまを
お迎えに行くことも出来よう」
厨子王は黙って聞いていましたが、涙が頬を伝っ
て流れて来ました。姉が何を考えていたのか、今、
はっきりわかったからです。
141
「それで、姉さん、あなたはどうするのですか」 ひどい目:
「私のことはかまわないで、お前一人ですること 遭う:
を、私と一緒にするつもりでしておくれ」 耐える:
「でも、私がいなくなったら、山椒大夫はあなた
∼抜く:
をひどい目に逢わせましょう」。
毅然とする:
「そうかも知れぬ。しかし、私は耐え抜いて見せ
背く:
ます。耐えてあなたの迎えを待ちます。それにあの
人たちは、金で買った婢を殺したりはしません」 木立ち:
こう言って、安寿は先に立って山道を下りて行き 落ち葉:
ました。その毅然とした後ろ姿に、厨子王は姉の言 腰を下ろす:
葉に背くことはできぬと感じました。木立ちの所ま 手渡す:
で下りて、二人は落ち葉の上に腰を下ろしました。
預ける:
そこで姉は、守本尊を取り出し、弟に手渡しなが
危ない目:
ら言いました。
追っ手がかかる:
「これを今度会うまでお前に預けます。このお地
追いつかれる:
蔵様を私だと思って、護り刀と一緒に大事に持って
行っておくれ」 ∼に決まっている:
「でも、姉えさんにもお守りがなくては」 上手:
「いいえ。私より危ない目に逢うのはお前です。 ∼しだい:
晩になってもお前が帰らなければ、きっと追っ手が
開ける運:
がかかります。子供の足では、いくら急いでも、追
∼とおりに
いつかれるに決まっています。その時は、さっき見
た川の上手にある和江という所まで行って、あの塔
が見えていたお寺に入って隠しておもらい」
「でも、お寺の坊さんが隠してくれるでしょうか」
「さあ、神仏のご加護しだいです。開ける運なら、
坊さんがお前を隠してくれるでしょう」
「わかりました。何でも姉さんのおっしゃるとお
142
りにします」 別れを告げる:
「よく聞いておくれだ。坊さんはよい人で、きっ 一目散に:
とお前を隠してくれるでしょう」 駆け下りる:
厨子王は安寿に別れを告げると、一目散に坂道を
∼に沿って:
駆け下りて、沼に沿って街道に出ました。幸い、人
街道:
通りもありません。厨子王は、姉に言われたように、
幸い:
大雲川の岸を川上へ向かって急ぎました。
人通り:
川上:
急ぐ:
見届ける:
一時:
(数詞)ほど:
絵師 歌川豊国
安寿は厨子王の姿が見えなくなるのを見届ける
と、夕暮れまで柴を刈って、山椒大夫の舘に戻りま
した。奴頭に「萱草はどうした」と聞かれましたが、
「もう少し柴を刈ってから戻ると申すので、私が先
に戻ってきました」と告げました。しかし、一時ほ
どしても厨子王は帰ってきません。
143
これはおかしいと思った奴頭は、安寿を山椒大夫 問いただす:
のところに連れて行きました。三郎は「萱草はどこ 口を開く:
に行ったか」と問いただしますが、安寿は口を開き 差し向ける:
ません。山椒大夫は、部下に「すぐに追っ手を差し
命じる:
向けよ」と命じました。そして、
「垣衣が言わぬなら、
鞭で打つ:
言えるようにしてやれ」と三郎に命じました。
水責め:
三郎は激しく安寿を鞭で打ちますが、安寿は何も
言いません。それからは、水責め、火責め、膝の皿 火責め:
に錐で穴を開けるといった、言うのもおぞましい拷 膝の皿:
問を加えました。拷問室からは安寿のうめき声が大 錐:
広間にまで聞こえてきます。 穴を開ける:
大広間でこれを聞いていた二郎が、忍びがたくな
おぞましい:
り、止めに行ったときには、安寿の体はもう冷たく
拷問を加える:
なっていました。三郎は、安寿の顔にぺっと唾を吐
うめき声:
きました。
忍びがたい:
一方、山椒大夫一家の追っ手は、厨子王の後ろに
迫っていました。 ∼がたい:
つばを吐く:
十一 声を限りに:
厨子王が丹後の国分寺の門前に着いたとき、追っ
あわやこれまで:
手は厨子王のすぐ近くにまで迫っていました。厨子
駆け込む:
王は「お願いします。門を開けて下さい」、何度も
再び:
何度も声を限りに叫びました。あわやこれまでかと
松明:
思われたとき、寺の門が開きました。厨子王が駆け
込むと、再び門は閉められました。 乱れる:
国分寺の門前には松明の火が乱れて、大勢の追っ 薙刀:
手が集まって騒いでいます。薙刀を手にした三郎は、 手にする:
寺の門の前に立つと、大声で言いました。
144
「われは石浦の山椒大夫のところのものじゃ。館 逃げ込む:
の奴の一人が、この山に逃げ込んだのを見た者がい ∼とすれば:
る。隠れるとすれば、この寺よりほかにはない。す ∼よりほかない:
ぐにここへ出してもらおう」
手下:
僧侶たちは、悪名高い山椒大夫の手下たちと聞い
∼まいとする:
て、門を開けまいとしましたが、住持曇猛律師があ
いらいらする:
けさせました。しかし、本堂の戸は閉じられたまま
です。 扉:
三郎は本堂の前までやって来ると、いらいらしな 威厳に満ちる:
がら、大声で「奴を出せ!奴をここに出せ!」と叫 一瞬:
びました。しばらくして、本堂の扉が静かに開きま 静まる:
した。律師が自分で開けたのです。律師は本堂の階
下人:
の上に立ちました。律師はまだ五十歳を越したばか
許可:
りでしたが、威厳に満ちています。追っ手の者たち
∼なくして:
は、律師の姿を見て一瞬静まりました。
見知らぬ者:
律師は静かに口を開きました。
「聞けば逃げた下人を捜しに来られたようじゃが、 よかろう:
当山では住持のわしの許可なくして、見知らぬ者を 狼藉を働く:
入れることはせぬ。わしが知らぬから、その者は当 ただでは済まない:
山におらぬ。それでも探すというなら、お堂の中に
首が飛ぶ:
入るもよかろうが、当山は勅願の寺院であり、もし
睨む:
ここで狼藉を働けば、お主ら、ただでは済まぬぞ。
歯ぎしり:
またわしが総本山東大寺に訴えたら、お主らの首が
打ち破る:
飛ぶことになろう」
こう言って、律師はお堂の扉を閉めました。三郎 踏み込む:
は歯ぎしりしましたが、戸を打ち破って踏み込むだ 勇気:
けの勇気もありません。 鐘楼守:
このとき大声で叫ぶ者がいました。それは鐘楼守
145
の親爺でした。「もしや、その逃げたというのは 親爺:
十二、三の小童じゃないかい。それなら先ほど、築 もしや:
泥の外を通って、南へ駆けて行ったわ」 小童:
それを聞くと、三郎は、「それじゃ。子どもの足
先ほど:
ではまだ遠くへは行けまい。続け」と部下たちに言
築泥:
うと、馬に乗って追いかけました。松明の行列が寺
駆ける:
の門を出て南へ行くのを鐘楼から見て、鐘楼守の親
爺は大声で笑いました。 ∼まい:
追いかける:
十二 行列:
それから数日後、鐘楼守の親爺と頭を剃って僧衣 頭を剃る:
を着た厨子王が、寺の門を出て、都の方に向かう姿
僧衣:
がありました。昼間は街道を歩いて、夜は行き先々
昼間:
の寺に泊りました。都の南、山城の地まで来たとき
行き先々:
です。親爺は、「ここまで来れば、もう追っ手の心
目と鼻の先:
配もない。守本尊を大切にして都に行け。ここまで
来れば、もう都は目と鼻の先だ」と言うと、踵を返 踵を返す:
して帰途につきました。 帰途につく:
都に上った厨子王は、僧形になっているので、東 僧形:
山の清水寺に泊りました。
平癒:
明くる朝目が覚めると、一人の老人が厨子王の枕
夕べ:
元に立っていました。
佛のお告げ:
「お前は誰の子じゃ。もし何か大切な物を持って
拝む:
おるなら、おれに見せてくれい。おれは娘の病気の
平癒を祈るために、夕べこちらに参ったが、昨夜、 関白:
夢で仏のお告げがあった。僧形の童が持っている守
本尊の地蔵様を借りて拝ませれば、娘の病は治ると
いうお告げじゃった。おれは関白師実じゃ」
146
厨子王は言いました。「私は陸奥掾正氏という者 ∼ともども:
の子でございます。父は筑紫に行ったきり、帰って つぶさに:
まいりません」、そこで、母ともども父を訪ねて旅 ∼る・なり:
立ったこと、恐ろしい人買いに取られて、母は佐渡
∼こそ:
へ、姉と自分が丹後の由良へ売られたことなど、つ
かねて:
ぶさに話しました。そして、「これが私の持ってい
聞き及ぶ:
る守本尊のお地蔵様でございます」と言って、師実
に見せました。 百済の国:
師実はお地蔵様を手に取って見るなり、「これこ ∼からには:
そ、かねて聞き及んだ、百済の国から渡ったと言わ 嫡子:
れる放光王地蔵菩薩じゃ。これを持っておるからに ∼に相違ない:
は、お前は筑紫へ左遷させられた平正氏が嫡子に相
当分:
違ない。当分は、おれの家の客として滞在するがい
病の床につく:
い」と言いました。
日に日に:
関白師実の娘は長い間病の床についていたのです
還俗する:
が、厨子王の守本尊を借りて拝むと、日に日に回復
に向かいました。師実は喜んで、厨子王に還俗させ ∼と同時に:
ると同時に、正氏がいる筑紫へ赦免状を持たせて使 元服する:
いをやりました。しかし、この使いが筑紫に着いた 赦免状:
ときには、正氏はもう亡くなっていたのです。
名のる:
既に元服して正道と名のっていた厨子王は、身の
やつれる:
やつれるほど歎きました。
嘆く:
朝廷:
十三
その年の秋、正道は朝廷から丹後の国守に命じら ∼における:
れました。国守となった正道が行った最初の政は、 すぐさま:
丹後における人の売り買いと奴隷の使用を禁ずるこ 赴く:
とでした。正道は、すぐさま山椒大夫の館へ赴き、
147
家財産を没収し、奴隷たちを全て解放しました。正 家財産を没収する:
道は姉の所在を尋ねましたが、姉をいたわった小萩 所在を尋ねる:
の口から安寿が三郎に責め殺されたことを知らされ いたわる:
ました。正道は怒りで体が震えました。直ちに山椒
責め殺す:
大夫と三郎を鋸引きの刑にかけました。続いて越後
直ちに:
に赴いて山角太夫を探し出し、火あぶりの刑にしま
鋸引きの刑:
した。二郎はというと、安寿のことがあって以来、
館を出て僧門に入っていました。もちろん、お咎め 火あぶりの刑:
はありません。 ∼て以来:
正道は丹後の国でこれらの仕事を終えると、朝廷 僧門:
に退官を申し出て、単身佐渡へ渡りました。母が生 咎め:
きていれば、佐渡にいるはずでした。
行方:
しかし、役人に頼んで島中を探してもらいました
思案に暮れる:
が、母の行方はわかりません。正道は思案に暮れな
∼ともなく:
がら、どこへ行くともなく歩いていると、町外れに
遊女:
ある遊女の村にやってきていました。
畑道を歩いていると、壊れた土塀に囲まれた一軒 土塀:
の古びた百姓家がありました。庭には粟の穂が干し 百姓家:
てあり、庭に敷かれたござの上には、乞食のような、 古びる:
ぼろを着た老女が座っていました。老女は長い棒で
粟の穂:
雀を追いながら、なにやら歌うかのようにつぶやい
ござ:
ています。
乞食:
正道はなぜか老婆の声に懐かしさがこみ上げ、足
ぼろを着る:
を止めました。よく見ると、老女は盲目です。耳を
澄まして聞くと、老女がつぶやいていたのは、こん なにやら:
な歌でした。 懐かしさ:
安寿恋しや、ほうやれほ。 こみ上げる:
厨子王恋しや、ほうやれほ。 耳を澄ます:
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鳥も生あるものなれば、 思わず:
疾う疾う逃げよ、逐わずとも。 脱走を図る:
「は、は、母上」、正道は思わず叫びました。それ 足の筋:
はまちがいなく厨子王の母親でした。佐渡に売られ
目をつぶす:
た母親は遊女にさせられていましたが、島から脱走
止めどなく:
を図り失敗して、逃げられないように、足の筋を切
涙が湧く:
られ、目を針で刺されてつぶされていたのでした。
正道は駆け寄ると、老女の前に手をついて、泣き 手で探る:
ながら言いました。 確かに:
「母上、お迎えが遅れて、申しわけのう存じます。 潤い:
ただ今、獅子王がお迎えに上がりました」 戻る:
厨子王の目には、止めどなく涙が湧いてきます。
さめざめと:
「厨子王かい?ほんとうに厨子王かい」
夕焼け:
厨子王は、母から渡された守り地蔵を母親に手渡
染める:
しました。母親はそのお地蔵様を手で探りながら、
「おお、これは確かに私が安寿に渡したもの。夢で
はないのですね」と声を上げました。老女の目から
涙が流れました。その時です。両方の目には潤いが
戻り、母親の目が開いたのです。
「見える。見えるぞ、厨子王」
二人は強く抱き合って、さめざめと泣きました。
西の空には夕日が沈み、夕焼けが二人の顔を赤く染
めていました。
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