世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2017年3月1日 第55号 第三版 www.abekobosplace.blogspot.jp

あな
迷う たへ
事の
ない
:
あこのもぐら通信を自由にあなたの「友達」に配付して下さい
あな 迷路
ただ を通
けの って
番地
に届
きま

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               目次

0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 九堂夜想十三句:九堂夜想…page 11
3 安部公房文学の毒について:岩田英哉…page 51
4 連載物次回以降予定一覧…page 52
5 編集後記…page 53
6 次号予告…page 54

・本誌の主な献呈送付先…page78
・本誌の収蔵機関…page78
・編集方針…page 78
・前号の訂正箇所…page78

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプしま
す。そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

1。 今月の安部公房ツイート BEST 10

e
Priz
en Mole
Gold 歯車の谷の真宮さん @mamiya_lotus 2月9日
私を救ってきたのは文学というよりは劇なんだなと最近気がついた。プラトンの対話
篇だってそう。安部公房の象徴だってそう。みんな文章のうまい劇作家じゃあないか。

le 賞
r Mo 戸川祐華 @nebusokuchan 2月8日
Silve
安部公房のデンドロカカリヤ一行目から美しすぎて一回本閉じた。

25A @19MI95 2月7日
安部公房読んでたときに気づいたんだけれど、句読点の存在ってそれからそれから…って
感じに次に何が来るんだろうって感じするから不思議だなって思う。よくわかんないけれど
そんな気がする。

たに @trp_e8 2月4日
12年かけて刊行された安部公房全集30冊をいつかは集めたい。付録のCD-ROMまで手に入
れたらたぶん一生分の空き時間を潰せる。

みづき ?
@MzkMky 2月17日
文化盗用に関しては、まじで安部公房大先生にひとつお話を書いていただきたいと思ってい
ます……

Yoshihiro Ishii @YoshihiroIshii1 2月15日
いや安部公房はしばらく休もう

みっちぇる @shell_cmd08 2月10日
安部公房『カンガルーノート』のあらすじを友達に説明したら爆笑されたあ(́'¬'`)

Ken.K @kamadabzbz 2月14日
安部公房のエッセイ読んでるけど、
やっぱこの人どうかしてるし、
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この突飛な天才性に惹かれるし、
これを好きな早川先生もとても変わってると思う
でもめちゃくちゃ面白い
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たまご @kntyko 2月13日
安部公房も谷崎も中学生の頃のあたしにはえっちすぎてヤバかったよ

青雲空 @1998seiunsky 2月13日
@hongasuki__mh @_sunflower_226 僕が最初にハマった日本文学は安部公房でした。文
学上の革命だったと思います。心酔してしまいました。僕の16から19ぐらいまではヤバかっ
たです。心酔はいいことではありません。

キエ @yukiemcat 2月11日
いきなり、方舟さくら丸が読みたくなった。安部公房!

はる@丘 @223bis 2月11日
あーっ、久しぶりに安部公房作品読みたい!
高校の授業で「公然の秘密」を扱ってくれた現文の先生には感謝しても感謝しきれないくら
い、安部公房作品を知れて良かったと思ってる。

ピーマン仮面@ブレッド&バター @shin2sa6cho7_V3 2月8日
俺なんか安部公房を出版社だと思ってたんだからね。 #ヨルナイト

まこ @hakegc 2月1日
ディストピア小説にハマって、安部公房ばかり読んでいた時期がある。

2。 今月の箱男

Iatsu @Iatsu420 2月1日
@Iatsu420 安部公房-箱男

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盛田 諒 @moritakujira 2月1日
突然ですがわたしは安部公房が好きで、『砂の女』ではなく『箱男』を勧めているの
ですが、昨日久しぶりに読みなおしたら「ダンボールを用意します、サイズはこう、素
材はこう、外を見るための穴をあけなきゃいけないんですけど下を見ないと危ないので
基準線を引いて」と淡々と書いててやっぱ最高でした

3。今月の安部公房史

山中剛史 @ymnktakeshi 2月7日
劇団青年座の稽古場開き。昭和30年10月4日。渋谷区大和田木造平屋26坪。三島由紀
夫、安部公房ほか参加。

4。今月の石川淳

Heibon White @HeibonWhite 2月9日
石川淳Botの断片に興味をそそられて未読だった『西游日錄』(『石川淳選集』第十七巻)を
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読む。ソヴィエト・ライターズ・ユニオンの招待を受けての外遊の記録(同行者は安部公房、
江川卓、木村浩)。冒頭に「オリンピックの東京といふ逆上ぶりを見ないですませるため」に
日本を発ったとある。流石。
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5。今月の批評

yab take4 @YAB_take21 2月4日
未来予測の言説に表現されるのは、未来などでは無く、その時点における語り手の関心、欲
望だ。安部公房の「第四間氷期」が圧倒的に優れているのは、未来を安易に現代の延長と考え
ることの愚かしさ、現代と未来の断絶を見据えている点であり、SF的道具立てを安易に使った
ファンタジーとは一線を画す。

Kashima 2B @syuukyuukyo 2月3日
安部公房の第四間氷期を読んでいる。面白い面白すぎる。これが書かれたのが1959年という
のも驚かされる。砂の女や箱男も面白かったけど、この作品のが断然読みやすい。共産主義は
ユートピアという批判が見えるような気がする。時代は1959年。

6。今月の朗読会

東鷹栖安部公房の会 @20110904 2月1日
2017年2月25日(土) 旭川市中央図書館にて、《安部公房∼サウンド・音楽と映像による
『無名詩集』朗読会》を行います。
*
日時 : 2017年2月25日(土) 13:30∼15:00... http://fb.me/1NInAqEoJ













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東高栖安部公房の会の朗読の動画は、次のURLにて公開してゐます。

https://www.youtube.com/watch?v=to2A59epewY

7。今月の上演

ぶん @fumi_wmglba 2月27日
来月末、公演があります。出演もします。初の外部出演です。
さんらん
『どれい狩り』
作:安部公房 演出:尾崎太郎

3/29(水)∼4/2(日)
@新宿・SPACE雑遊
料金…3500円

ご予約はこちらから(青木扱い)↓
http://ticket.corich.jp/apply/80780/019/ …

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8。今月の読書会

ゆりいか @yuriikaramo 2月13日
【参加してね】2月の月吠え読書会
日時・2月26日(日曜日)
13時から17時ごろまで(読書会自体は2時間ほどを予定)
場所・新宿ゴールデン街『月に吠える』
参加費・無料
課題図書 安部公房『砂の女』

ホッタタカシ @t_hotta 2月18日
【安部公房読書会】1ヶ月後! 3/18(土)に東京・安部公房・パーティーによる『箱男』
読書会を開催します。会場は荻窪ベルベットサン。16:30開場、17:00開演、料金¥1500
(1D付)。予約サイトができたら改めて告知します。みなさま奮ってご参加ください。
#TAP_MTG

ことばを食べるカフェ「みずうみ @cafe_mizuumi
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2.24(金)19:30∼【『箱男/安部公房』箱越しの読書会】を開催します!
実際に穴開きの箱をかぶってみて、箱男追体験もしてみましょう ♪ お気軽にご参加くだ
さい
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9。今月の上映

ホッタタカシ @t_hotta 2月18日
ユーロスペースの死刑映画週間で、安部公房脚本&小林正樹監督『壁あつき部屋』
(1953)を久々に観る。トークゲストにうじきつよし登壇。なぜかと言えば、うじき
さんの父親は元陸軍将校でB級戦犯として8年を過ごし、巣鴨プリズンにも3年いたの
だとか。歌のサービスも。 pic.twitter.com/JJL5n2Riyc

ミュー @0720032maro 2月18日
「壁あつき部屋」
当初「M(1931)」のあと帰って 龍の歯医者 をみるはずたったが、脚本が安部公房と
いうことで気になり鑑賞。
作品はとても良かったし、今の世の中戦犯になる可能性もありそうな感じになりつつ
あるのでこういう作品は大事だなと感じた。

ライカ(人生) @trush_key 2月4日
ライカ(人生)さんが新文芸坐をリツイートしました
えー、『燃えつきた地図』って映画化してたのか!しかも脚本も安部公房が手がけて
いる…これは3/3行くしかないな ライカ(人生)さんが追加
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新文芸坐 @shin_bungeiza
没後20年 三船・勝新・錦之助③
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28火 座頭市御用旅/新座頭市物語 折れた杖
3/1水 御用牙/御用牙 かみそり半蔵地獄責め…

ホッタタカシ @t_hotta 2月7日
3/3、新文芸坐の勝新特集で『燃えつきた地図』(脚本・安部公房、監督・勅使河原宏)
と『顔役』(監督・勝新太郎)の二本立が上映されますね。前者の現場が後者の演出に与
えた影響など、比較してみると面白いと思います。http://www.shin-bungeiza.com/
program.html

10。今月の俳句

hirokd267 @hirokd267 2月4日
【安部公房句会】
先のもぐら忌、安部公房忌に多くの句をいただき、ありがとうございました!(参加7名、
24句)
これらをtwitterのモーメントでまとめていますので、ご覧いただければありがたく存じま
す。
https://twitter.com/i/moments/822965878635384833 …
#もぐら忌 #公房忌

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九堂夜想十三句

九堂夜想
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安部公房文学の毒について
∼安部公房の読者のための解毒剤∼

岩田英哉

     目次

0。二十一世紀の安部公房論
1。直喩といふ毒(修辞の毒)
2。空白の論理といふ毒(詩の毒)
3。空間感覚といふ毒(存在論の毒)
4。言語論といふ毒(問題下降の毒)
*******

0。二十一世紀の安部公房論

安部公房の文学を一語で安部公房文学と一つらなりに呼んで、安部公房の文学の毒についてお伝
へしたいと思ひます。

何故、こんなことを書くかと言ひますと、安部公房を先の戦争後の15年間、即ち1960年
以前までの、即ち経済の歴史としては日本の国が高度経済成長を成し遂げた10年間の時間以
前の戦後直後から1950年代末までといふ時代に押し留め、時代的な其の時間の長さに限定
して評論し、当時(戦争直後であつたが故になお一層)流行した前衛やアヴァンギャルドといつ
た言葉との関係で論ずる事には、もはや限界のあることが明白になつた、いよいよ、時代だと
思つたからです。

西暦2017年1月20日に第45代のアメリカ大統領に(不動産業で富を築いた)トランプ
といふ人物が就任したといふ歴史的事実が、この時機に私に此の一文を書かしめた複数の理由
のうちの一つです。この、500年前から世界を支配したヨーロッパ文明が限界に達して今起き
てゐる此の世界史的な激動の変化を前にして、安部公房の文学を論じたい。兼ねて思つてゐる「二
十一世紀の安部公房論」の一つに繋がるやうな、この一文が二十一世紀の今も新しく「前衛的」
な考察であることを願つてゐます。二十世紀の文学論とは異なり、二十一世紀の文学の世界に政
治的論争を持ち込むことは控へたい。たとへヨーロッパの白人種にとつては大航海の500年
であつたでせうが、他方それ以外の地域の有色人種と民族にとつては、日本民族も含めて、大
虐殺の500年であり、安部公房の言葉を借りれば、次のやうな大虐殺の500年です。さて、
この歴史上の事実を思ひ出した上で、私たちは、どのやうな二十一世紀の文学を創造するのか。
安部公房の言葉に耳を傾けませう。
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「この前もテレビで大航海時代なんでロマンチックな特集番組をやっていたけど、要するにあれ
は略奪農耕なみの乱暴な植民地収奪じゃないか。血も凍るほどの第一期の植民地時代、皆殺し
政策だからね、やるほうはテレビゲームはだしの面白さだろうけど、やられる側はロマンチック
どころの話じゃないよ。」(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、159ページ上段)

「けっきょく世界は植民地支配国と、被支配国の二つに分けられる。(略)ところがなぜか日
本は植民地化されなかった。地政学的には当然侵略の対象になってしかるべきアジアの一角に
ありながら、なぜか支配をまぬかれた。偶然か必然かはさておいて、おそらくアジアでは唯一
の植民地化されなかった国だろう。だからもし日本の特殊性を言うなら、文化だとか風土だと
か伝統なんかではなく、きわどいところで植民地化をまぬかれたという点……[註A]
―――要するに偶然の結果だということですか。
安部 必然が意識された偶然だとすれば、やはり偶然と言ってもいいでしょう。要するにどこの
国でも、植民地化の運命さえまぬかれていたら、日本と同じようなコースをたどれたかもしれな
いということが言いたかった。この問題に対する日本人の鈍感さはまさに西洋人なみだ。だか
ら日本のテレビがポルトガルの大航海時代を祝う式典を中継して、ひどくロマンチックな解説を
つけて、西と東の文化の交流の記念だとかなんとか一緒になって手をたたいてみせたりする。文
化の交流どころか、一つ間違ったら植民地化の先兵になりかねない連中だったんだ。裸の子供
のところにライオンが入ってくるようなものさ。
 そして運よく食用にならずにすんだ日本という子供は、遅ればせながらローロッパ式の近代化
をとげ、遅ればせながら植民地支配の仲間入りをしてしまう。ところが先輩たちにさんざんうま
い汁を吸われてしまった後だったから、戦火による略奪というひどく不器用な手段にたよるしか
なかった。
 いわゆる発展途上国に見るべき文学がないのも、けっきょくは植民地収奪の結果だと思う。
発展途上国にも文学があり、その民族のためのすぐれた文学が生まれていると主張する人もい
るけど、ぼくはそう思わない。すくなくとも世界文学、あるいは現代文学という基準では、文学
と言うにたる文学はない。
 逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも言える。西欧的な方法をよりどころにして
いるから駄目なのではなく、植民地主義の土台にきずかれたものだから駄目なんだ。反植民地
主義的な思想にもとづく作品でさえ、植民地経済を基礎にしていた国からしか生まれ得ない。
メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなものさ。(『錨なき方舟の時代』全集
第27巻、159ページ下段∼160ページ上段)(傍線筆者)

[註A]
アジアの中で、欧米白人種(キリスト教徒)諸国の植民地化による収奪を免れて、国家としての独立を維持したの
は、我が日本国の他には、タイ王国だけです。

「二十一世紀の安部公房論」は、言語本来の性質に従つて静寂にして静謐であり、従ひ非政治
的であり、哲学的には汎神論的存在論、即ち安部公房のいふ「新象徴主義哲学」[註1]の論に
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なるでせう。さうして、安部公房の「新象徴主義哲学」が差異に着目し、世界は差異であるとい
ふ認識に基づく存在と象徴のバロック哲学であるといふことから、二十一世紀をバロックとし
て論ずることになるでせうし、やはりバロックは汎神論的存在論であるといふことからまた、
安部公房の有する古代感覚の一つであるシャーマンの感覚を想起することになりませう。これ
が「二十一世紀の安部公房論」です。そして、これが、安部公房がドナルド・キーンさんに語つ
たといふ「まあ、 しかし、お父さんには大変な野心がありました。というのは、長いこと日本
の現代作家は、ヨーロパ人から学ぶとい うことが、非常に大切だったのです。外国文学を読ん
で、なにか新しい日本文学を作るという考え方がありました。 お父さんはむしろ、先駆的なこ
とをやってみたい、まだ西洋人が考えたこともないことをやってみたい、未来の西洋文学者たち
は、自分をまねするだろうなどと考えていました。」」(「贋月報25」(全集第25巻))と
いふ言葉の意味なのです。[註2]

[註1]
23歳の安部公房が親しく哲学談義を交わした友、中埜肇に当てて書いたように、もし安部公房の思想に名前を つ
けるならば、それは「新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギー(筆者註:存在論の事)の
上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創 的解釈、それが僕の意志する所だ。」とある通りで す。(全集第1
巻、270ページ。中埜肇宛書簡第10信)加へて安部公房は、同じページで、次のやうに続けます。

「それから、現代の現代のいはいる実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。一口に言つてあの下劣なコッケイさが実存
主ギなら僕は反実存主ギ者だと言はれてもかまはない。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそれ以
上の相違が在ると思ふ。あれは単なる流行主ギだ。」

[註2]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第42号)から引用して解説します。

この「安部公房の自負の念は、上述の言語と世 界の差異に関する認識に基づいていて、それは、既に述べてきたよ
うに、十分な理由が、あり過ぎる位にあるのです。 安部公房の先駆性は、従い、

1。人間の言語(言葉)には、本来再帰性が宿っていること
2。この再帰性が、人間と言語の構造の在り方であること、従い、
3。この構造をそのまま物語に仕立てて、多次元的な宇宙を表すこと
4。上記1から3のことを実現すれば、唯一絶対の神による(言語の)再帰性の否定によって成り立っている近代ヨー
ロッパの文明(資本主義と民主主義とマルクス主義)を超えて、再帰性の肯定を超越論的に求めて汎神論的存在論へ
と向かうことになる「未来の西洋文学者たちは、自分をまねするだろう」

と考えたところにあるということなのです。

安部公房の文学の世界性、地球の上の文明のレベルでの普遍性があるのは、この批判の地点であるのです。それ
が、 その近代の、このことを最初に明確に文字にして表現したヨーロッパのバロック時代の精神に全く通っている
のです。 何故ならば、バロックの人間の精神は、どの領域であれ、それが文学であれ、絵画であれ、庭園であれ、
建築物であ れ、数学であれ、哲学であれ、ただただひたすらに差異だけに着目し、差異だけを探究し、差異だけを
表す精神だか らです。それ故に、バロックの人間は、例外なく、この差異という一点のみを通じて逸脱し、越境し、
業際間を自由に往来し、多領域で活躍する多能の人間なのです。即ち、100人のうち99人が自己の再帰性を否定し
て生きてい るのに対して、再帰的な人間とは、自己が再帰的である事を全面的に肯定して生きる人間なのです。安
部公房のように。それが、文学であれ、劇作であれ、演技論であれ、ラジオ・ドラマであれ、シナリオであれ、映
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画であれ、写真 であれ。安部公房にとっては、奉天の窓(という言語と存在の窓)から眺めると、どの領域も皆同質
のものであり、 同じ質を備えた価値(value)を持っているのです。再帰的な構造は、どの領域にあっても、言葉の眼
で眺めれば、 全く変わらないのです。

私が、安部公房の文学は、世界文学のレベルでは、バロック文学だという理由が、ここにあります。」

この安部公房の言葉については、既に『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』
(もぐら通信第33号)で詳述しましたので、これをご覧下さい。

1。直喩といふ毒(修辞の毒)

どの言語の文学であつてもさうですが、その民族、その国の一級の文学にあつて、その級(クラ
ス)の作家の書くものには毒があります。

私は此の級(クラス)の作家と其の作品世界を河豚(ふぐ)に譬(たと)へてゐます。安部公房
と云へば、安部公房といふ人間、即ち其の思考論理と其れに基づく言語表現の持つ毒といふわ
けです。

安部公房は河豚である。

この河豚の猛毒について云へば、読者であるあなたは当然の事ながら無害な河豚料理などには
興味がないでせうから、あなたの舌が適度に痺れて死に至らない程度の毒を残して、次のやうに
話を始めたいと思ひます。

上で書いた「安部公房は河豚である。」といふ一行は、修辞学でいふ隠喩(metaphor:メタ
ファ)です。この譬喩(ひゆ)は、三島由紀夫が好みました。今引用の典拠を示すことができま
せんが、私の記憶によれば間違ひなく、自分は安部君のやうな直喩は使へないのだと明言して
をります。

修辞学の視点から観ると、三島由紀夫は隠喩の作家、安部公房は直喩の作家です。

安部公房の愛用した譬喩は、三島由紀夫の隠喩(metaphor:メタファ)に対して直喩(simile:
シミリ)と云ひます。今手元にある『安部公房レトリック事典』(谷真介著)を開くと、安部公
房の直喩の例がたくさん並んでゐます。この事典を『安部公房直喩事典』と呼んでも良い位です。
例へば、幾つかの引用を無作為にしてみますと、

(1)短いスカートの下に、融けたガラスを一気に引き伸ばしたような脚(方舟さくら丸)
(2)時が凍りついていくような悲しい味がした(密会)
(3)踵(かかと)だけで歩いているような足音(燃えつきた地図)
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もぐら通信                          16
ページ

(4)そのままどこか遠い空の涯につきすすんでいくような足どり(飢餓同盟)
(5)世界をねっとりと融かすような雨脚の中で(名もなき夜のために)
(6)風が息づくたびに、雨脚のしぶきがクラゲの傘のようにひるがえる(箱男)
(7)爪先から未来に向かってすべりこんでいくように、ドアを開けて廊下に出た(盲腸)
(8)断水した水道管のような吐息(鍵)
(9)まるで夜明かしをした人間が、冷たい朝の空気を吸い込む時のように、深々と吐息をつ
いた(終りし道の標べに)
(10)東京には、数えきれないくらいの人がいて、数えきれないくらいの町があるのに、どの
人もどの町も、見分けがつかないほどよく似ていて、いくら歩いても、同じところにじっとして
いるような気がして、ちょうど海のような町なのです。どこにいても、みんなが道に迷っている
のです(死んだ娘が歌った……)

以上のやうな例を見ることができます。

さて、

安部公房は河豚である。

といふと隠喩ですが、

安部公房は河豚のやうである。

といふと直喩になり、これが安部公房の好んだ譬喩(ひゆ)となるのです。

さて、ここからが本題です。

安部公房が『終りし道の標べに』を問題下降した『デンドロカカリヤ』(雑誌『表現』版)以
降には使はなくなり姿を隠した存在といふ文字は、文字は消えて隠れただけで、存在といふ概念
は安部公房文学の地下に文字通りに脈々と流れをります。

安部公房は河豚のやうである、といふ一行は何を意味してゐるかといふと、

1。安部公房は河豚なのではない、しかし、
2。安部公房は河豚のやうな、即ち安部公房ではない、何かなのである

といふことを意味してをります。

この何かを存在と言ひます。
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もぐら通信                          ページ17

名付けられないので、私たちは日本語で何かといふわけです。他の言語ではまた別の何かに当た
る言葉があるでせう。英語ならばwhat、ドイツ語ならばwas(ヴァス)といつたやうに。しか
し、言葉は違つても概念は変はらず、概念と存在(といふ概念)の関係は変はらないのです。こ
れが存在であり、存在といふ概念です。

そして視点を変へれば、この直喩は、安部公房と河豚の間に差異を設けてゐる。安部公房と河豚、
即ち主語と目的語、subjectとobject、主体と客体、主観と客観、主辞と賓辞、即ちいづれの場
合でもこれら二つの言葉の間に差異を設ける譬喩(ひゆ)、これが直喩なのです。

この差異にある何か、これを存在と言ひます。

即ち、安部公房の作品からは存在といふ文字は隠れましたが、概念は直喩として生き生きと、
あなたの生理感覚に訴求する表現になつて脈々と生き続けてゐるのです。

従ひ、上に引用した直喩の例で言へば、脚、味、足音、足どり、雨脚、雨脚のしぶき、ドアを
開けて廊下に出たこと、吐息、深々とつく吐息、町、これらはみな存在なのです。あるいは、存
在につけられた名前なのです。更に有名な存在につけられた名前のあることを小説の読者は知つ
てゐます。曰く、砂、顔、地図、箱、病院、方舟(といふ地下世界の洞窟)、ノート・ブック。

あなたは河豚のやうである。

あなたは河豚ではないが、しかし、河豚のやうな何かである、即ち、この一文を頭の中に思ひ
浮かべたあなたは「既にして」「いつの間にか」「理由なくして」存在なのです。

そして、あなたは自分の名前を失ふ。例へば、『S・カルマ氏の犯罪』の冒頭から少し話の進み、
「S・カルマ」といふ名前が太字で書かれてゐる名刺が立て札として立つてゐる直後の次の箇所:

「S・カルマ……、口の中で繰返してみました。ぼくの名前のようではありませんでしたが、や
はりぼくの名前らしくもありました。けれど、いくら繰返してみても、忘れていたものを思い出
したというような安心感も感動もないのです。」(全集第2巻、380ページ)

S・カルマといふ名前を「口の中で繰返して」みても、「いくら繰返してみても」、この呪文は
効かない。何故ならば、言葉の繰り返しといふ呪文は存在を呼び出すためのものですが、しか
し、S・カルマ氏は「既にして」「いつの間にか」「理由なくして」存在になつてしまつてゐた
からです。既に招来されてゐる存在に呪文は不要であり、従ひ、S・カルマといふ名前を「口の
中で繰返して」みても、「いくら繰返してみても」、効かないのです。

あなたは、S・カルマ氏のやうである。
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もぐら通信                          ページ18

この「S・カルマ氏のやう」である何か、即ち存在は、従ひ、更に視点を変へて哲学的に言へば、
それはsubject(主観:「あなた」)とobject(客観:「S・カルマ氏」)の媒介(media)であ
り、媒介物(無機物)であり、媒介者(有機物)です。即ち、関数(または函数)です。

この小説の主人公は、名前を失ふことによつて「S・カルマ氏のやう」である何かと成り、差異
に在る媒介者として読者であるあなたを迷宮の世界に案内する案内人になるわけですし、存在
は、このやうに、差異に存在するわけですから、主人公は差異を追ひ求めて果てし無く際限の
ない(社会からの逸脱と)遁走を行ふことになり、安部公房の世界を迷宮や迷路に読者が譬(た
と)へることができるのは、安部公房の全ての主人公が差異を求める、即ち「存在自体になり
たい」[註3]と願つてゐるわけだからです。

安部公房の世界は、遅くとも18歳の時に成城高等学校の校友会誌「城」に発表した『問題下
降に依る肯定の批判』以来、終生、座標の無い世界です。[註4]座標がなければ、即ち物・事・
人に名前が無ければ、S・カルマ氏のやうに、差異を求める以外には生きて行くことができませ
んし、上述したやうに、論理的にも世界は差異である以上、その逸脱と遁走は果てしなく続く
のです。

[註3]
1946年12月23日付で成城高校時代に親しく哲学談義をした友、中埜肇宛に次のやうに語つてゐます。安部
公房は存在自体になりたかつたのです。

「 詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てゝ生きると言ふ事は、恐
らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思ひます。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存
在自体――愚かな表現ですけれど――であれば良いのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作といふ事
が必要なのです。これが僕の仕事であり労働です。」(『中埜肇宛書簡第8信』全集第1巻、188ページ)

[註4]
「勿論一つの断定は座標に依って為されなければなるまい。が一体その座標はそれ自身何処に定義されて居るのだ。
此処に於いて更に新しい座標ーより抽象的なーが現れる。そして此の事は無限に繰返されて行く。では此の事ー真
理の認識ーは不可能なのだろうか。しかし此処に新しい問題下降ー一体座標なくして判断は有り得ないものだろう
か。これこそ雲間より漏れ来る一条の光なのである。(『問題下降に依る肯定の批判』全集第1巻、12ページ上
段)

以上のことを修辞学の視点からではなく、作品構造論の視点から眺めると、安部公房のすべての
作品は冒頭共有・結末共有と結末継承によつて接続されてをりますので、そしてこのやうに語の
レヴェルと文のレヴェルから一個の作品のレヴェルまで直喩によつてをりますので、安部公房の
作品群は、またテキスト群は、隅から隅まで存在であるといふ事ができます。『カンガルー・
ノート』の鯛焼きならば、餡子が隅から隅まで一杯詰まつてゐるといふやうなものです。これは
直喩です。安部公房の作品は、存在の餡子の一杯詰まつた鯛焼きなのです。これは隠喩です。
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さて、このやうに、安部公房の文章の持つ直喩、これが安部公房独特の、生理感覚に訴求する
文体(style)となつてゐて、あなたの体を痺れさせ、あなたは「既にして」「いつの間にか」
「理由なくして」中毒になつてしまつてゐる。即ち、

あなたは、自分自身が存在になつてゐることを知らずに、無意識にさうであるが故に、小説を
読みながら、毒に当たつて痺れてゐるのです。

この中毒症状を何と名付ければ良いものか?

女性の場合ならば、これも、差異を限りなく埋めて0にする溶骨症の一種であらうか(『密
会』)。男性の場合ならば、それとも、『箱男』の贋魚の章にある「夢の中の魚が経験する時
間は、覚めている時とは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の
数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて感じられるらしいのだ。」(全集、ページ)
といふ時間の差異が限りなく0になる贋魚病といふべきであらうか。

しかし、いづれにせよ、安部公房の作品を読む読者の精神状態は常にニュートラル(neutral)
になることに案内されるので、男女の性(sex)には関係なく、それぞれ各人に応じて溶骨症で
あり、贋魚病または時間感覚溶解病または時間感覚喪失病といふべきなのでありませう。

これが、安部公房の毒にやられて呈する症状の個別具体的な名前といふわけです。

さて、あなたは安部公房の文章(text)を読んで「いつの間にか」「理由なくして」、気がつい
たら「既にして」存在になつてゐるわけですから、そこには個別の名前はなく、やはり存在と呼
ぶ以外にはない何かとなつてゐる以上、あなたは名前を失ひ顔を失つたのっぺら坊のS・カルマ
氏なのであり、それ故に、次の毒にやられるのです。

2。空白の論理といふ毒(詩の毒)

安部公房は、いつも半分または半面しかものを言ひません。

残りの半分または半面はいつも白紙の中に、沈黙の中に、無言の中に、余白に置いて、言語で
表すことをしません。それ故に読者に誤解が生じる。これが、二つ目の、安部公房といふ河豚
の毒です。何故なら、読者は無邪気に、文字に現れた半面だけを信じるからです。

安部公房の此の沈黙の態度[註5]そのものが、現代、いや近代のヨーロッパ文明と其処から生
まれた近代・現代文学に対する挑戦そのものです。これが、安部公房が二十一世紀にも依然とし
て生きてゐることの意義です。
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[註5]
安部公房20歳の時に書かれた論文『詩と詩人(意識と無意識)』から、態度といふ言葉の哲学的な、といふより
も、時間の因果を離れて思考する超越論的な、しかも且つ具体的・日常的な、一見矛盾してゐる此の言葉の意味を、
安部公房は次のやうに述べてゐます。

「(略)吾等は原因と結果の逆行に陥らぬ様批判しつつ論理をすすめて行かねばならぬ。
  その為には先ず態度と言う事が顧慮されねばならぬ。以上述べ来たった事からも明らかな如く、かかる問題に
対している批判者は常に絶えざる展開の運動飛躍の最中に身を投入れつつ、そのともすれば見失われがちな次元段
階の究極の反照を心の裡に保ち続けなければいけないのだ。」(全集第1巻、111ページ上段)

またエッセイ『平和について』から、現実的なことに対する態度といふ言葉の意味を、引用して、更に読者の理解
を得たい。このエッセイは、1948年、先の戦争直後の時期であるので、平和といふことが随分と世間で言はれ
もし、論じもされたのでありませう。そのやうな時代背景が窺はれる文章です。しかし、世俗の世の発想と議論と
は全く異質に、安部公房は態度といふことをいふのです。これは『詩と詩人(意識と無意識)』の論理と全く変は
りません。以下詳細な説明は省きますが、態度といふ言葉の出てくるところをのみ抽出します。

(1)「(略)絶望がある。その深淵に向かって平和を打ち建てようとする創造者の態度は、平和にしてはいささ
か激し過ぎる。」(全集第2巻、54ページ下段)
(2)「平和は要するにそれを求める態度の中にしか客観性を現さぬのだから。そうして見ると僕は案外平和なの
だろうか。」(全集第2巻、54ページ下段)
(3)「いや一切の言葉がそうなのだ。ロゴスとカイロスは対立のまま統一せねばならぬという花田清輝の沙漠精
神のとおり、概念は僕等の態度、その概念を現存在として了解する態度に於いて暗号性を持ち、実存であり、僕の
ものとなるのだ。従って平和について書くことは、態度について平和を書くことは態度について書くことに他なら
ぬ。これが存在の象徴である。」(全集第2巻、56ページ下段)(原文は傍線は傍点)
(4)「真に総合的な態度とは、己の中に「暗号」を求めることなのだ。実践とか行動とかいうことを余りに劇的
に、英雄的に考えることは危険だ。」(全集第2巻、57ページ下段)

全集に収められてゐる最初の作品は、成城高校時代の18歳の時に寄稿した論文『問題下降に拠
る肯定の批判』です。しかし、この題名にあるやうに、この時既に、安部公房は物事の半面を空
白に置いて、文字にしてをりません。

問題を下降するためには、当時安部公房が読みふけったニーチェの『ツァラトゥストゥラ』の主
人公のやうに高い山から下山しなければなりませんが、安部公房は「問題上昇」については書
かないのです。[註6]既に其のことは自明のこと、既に終つて成し遂げられてゐること、即ち
「既にして」「いつの間にか」「理由なくして」安部公房は山の頂上にゐるのです。謂はば、空
を飛んで、山の麓の「蟻の社会」といふ閉鎖空間の外にゐるのです。さうして、そのことを文字
にはせずに、人には語らずに、山を降りる。[註7]即ち、これが問題下降です。問題下降する
際には、既に問題の整理は終つてゐる。

[註6]
『問題下降に拠る肯定の批判』には、問題上昇といふ言葉はないが、しかし、物事の反面を表す言葉として、この
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反面または半面のことは、「勿論吾々が問題を下降させるにも上昇させるにも、何か或る一定の立場ー人に依って
異なるがーを認識せねばなるまい。」とあるので(全集第1巻、12ページ上段)、このことに触れてはゐる。し
かし、この上昇については敢へて論じないのである。

[註7]
『没落の書』の後半部は、『概念の古塔』といふ散文詩になつてゐて、詩人である私は「或る月夜だった。私は不
思議な力を得て天空を飛翔した。そしてあの概念の古塔の上へとやって来た。月は太陽のように輝き渡って、総て
を私の前にてらし出した。私は総てを見た。塔も、塔の中も、山も、麓も町々も、又火をはいて居る自己証認も。
皆が月の光に、白く浮かんで居た。……塔の中は完全な空虚ー無だった。そして深い深い崖だった。きり立った丸
い谷間だった。其の底に、私は流れを見た。それは歌い、且つ笑って居た。そして黄金色に光って居た。そして私
は総てを理解した。やがて私は没落をした。私は人々に向って叫んだ。私達の為し得る事は、又為す可き事は、如
何にして山を下るを得るやとい云う問題の解決にあるのだ。そして私自身も没落を試みた。第二の没落を。」(原
文は傍線は傍点)

この散文詩から読み取ることができることは、次のことである。

(1)ここにある空飛ぶ詩人の姿は、安部公房が『マルテの手記』の愛は飛翔するといふ一行から学んだ形象とは
いへ、既にここに、存在となつたが故に飛翔能力を獲得した「飛ぶ男」と同じ形象が書かれてゐる。詩人は空を飛
ぶ。存在であるが故に。そして其の能力は、愛に基づいてをり、愛は自己犠牲と自己喪失による「没落」をするこ
とである。
(2)そのための方法を、問題下降といふ。
(3)言葉による体系的な世界、即ち概念の存在する古来からの高い言葉の塔は、空虚であり、その中は無である。
何故ならば、言葉に意味はないからだ。しかし、そこには生命と豊饒なる自然が存在してゐる。そしてそれは実在
ではなく、豊饒な無である。
(4)この概念の古塔には、山麓に住む「黒蟻の様な人間共」は到達することができず、よしんばできたとしても
塔の中に入ることはできないのである。空を飛ぶ詩人だけが塔の内部、その無と無の豊饒を観ずることができる。
(5)上記(3)の塔の様子は、後年の『バベルの塔の狸』のあのシュールレアリスムの塔に通じてゐる。
(6)問題下降とは、詩人が、概念による高みの世界から、如何に山麓の蟻の社会といふ閉鎖空間の中に降りて来
るべきであり、降りてくることができるのか、その方法を示す方法であり、問題下降論とは、その方法論のことで
ある。そのために、
(7)この『没落の書』は、「存在論的現象批判、並びにその構造」を示す方法論の散文詩なのである。(全集第
1巻、141ページ上段)

『僕は今こうやつて』といふやはり19歳のエッセイがあります(全集第1巻、88ページ)。
そこに次の文章があります。この、言語表現することとの関係に在る禁忌(タブー)の意識が、
この物事の半面しか言葉で表さないといふ安部公房の表現に対する考へかたの根底にある理由
なのです。『もぐら感覚20:窪み』(もぐら通信第18号)から、安部公房の言語と言語表現
に関する内面の禁忌(タブー)の意識と論理を再掲致します。

「安部公房は、その幾何数学的な能力を駆使して、リルケの詩『秋』に歌われた唯一者(神)の両
手の窪みを徹底的に独自に概念化して、自家薬籠中のものとなし、変形させて、これを自分の思
考の中心の座としたのです。
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(略)
さて最後に、また再び、『〈僕は今こうやって〉』に展開される安部公房の論理を、全く純粋に
論理の問題として論じて、この考察の掉尾を飾ることに致しましょう。

純粋に論理の問題としてとは、経験や知識に一切拠る事無く、言語と思考の問題として、10代
の安部公房の論理と心理(こころの内)を解析するということです。

冒頭引用した『〈僕は今こうやつて〉』の文章に戻ります。これを読むと、安部公房の展開する
論理は、

「「僕が其の内面について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事なの
だ。努力して外面を見詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事
なのだ。そして特に、僕達が為し得る事は、そして為さねばならぬ事は、その外面を区別し見る
事を学ぶと云う事ではないだろうか。」

とある通りですが、この箇所を読むと、これは本当に安部公房らしい。何故ならば、普通の人
間とは思考が全く倒立しているからです。

普通の人間ならば、内面を論じているのですから、内面を外面と区別すると考え、そう書くで
しょう。しかし、安部公房は、内面をではなく、外面を区別すると考え、そう書くのです。

(意識する対象、問題とする対象を動詞の目的語にするのではなく、そうではない、それではな
い物事を目的語にして、当の物事について考えようというのです。この思考の形式、この思考の
方法は、10代から晩年に至る迄、安部公房に特徴的なものです。)

そうして区別された筈の内面については、一切触れないという態度を堅持します。

この論理からわかることは、安部公房の言う内部とは、外部ではないという否定(negation)でい
われる外部で すから、それは、裏返された内部だとわかります。そうして、すなわち、それは、
そのまま、裏返された外部で あることになることも、おわかりでしょう。

これが、いつもの、最晩年に至るまでの、安部公房の論理展開の骨格なのです。小説の地の文章
でも、その中の会話でも、戯曲の科白でも、エッセイの論旨の展開でも、対談でも、座談でも
どのような文章においてでも、です。

さて、こうして、生の本質、生の秘密は、言葉にされることがなく、言葉によって表現されない
ことによつて、 否定の論理(negation)、陰画の論理によって護られるというのが、安部公房の論
理です。
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しかし、他方、安部公房は生の窪みを削りとる行為によって、その行為を言葉に変換するわけで
すから、言葉で 表すわけですが、それは否定的な言語表現によって表される(negation)という
ことにより、肯定的に表すとい うこと(position)をしないという状態を維持することができると
いうわけなのです。

この窪みにある秘密は、

「では内面は?そうだ、それが問題なのだ。だが一体言葉がその内面に直接触れる等と言う事が
あって良いものだろうか。勿論それはいけない事だし、それに第一あり得可からざる事ではな
いだろうか。」

と考えているように、言葉にしてはならないという禁忌意識と分かちがたく結び付いています。

それは何故かというと、

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して
其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努力が
ありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何うすべき
なのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きであろうか。
いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎないのではあ
るまいか。」

とあるように、外面が固定されるからであるということが判ります。このことを、安部公房は嫌っ
たからです。 それは、生、生命、das Leben、ダス•レーベン、生きることを、そのまま生きて
いる生命のまま捉えたいと考え ていたからです。そうでなければ、このようには考えないし、
考えることができないものです。それが、安部公 房の次元展開という、20歳の時の『詩と詩人(意
識と無意識)』で理論化した、詩の創 のための方法論的な 自己放棄、自己喪失のこころなので
す。

このこころ、この思い、この感情のありかた、この論理に、わたしは10代の、そして最晩年ま
でに至る、安部公房の純潔、純粋を、安部公房のこころの戦慄、戦(おのの)き、震えを覚えます。
果肉のように柔らかな、柔らかに震える安部公房の内面の姿です。

それほどに自己の内面と分ち難く、宇宙の神秘は、言葉によって表してはいけなかった。

また、更に更に、もっと別の視点、即ち文法の視点から、安部公房の窪みと、その禁忌(タブー)
の意識をみてみましょう。
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そうしてみると、再び三度(みたび)、安部公房の認識した実存の概念に戻ることになります。

もし、これが外面であると考えたり、これが内面であり、内面とはかくかくしかじかのもので
あると、言葉によっ て定義すると、外面も、そして尚更内面、生の本質、生の秘密も、主語と
述語に分裂して、それは、未分化の状 態ではなくなるからであり、即ち、実存の状態ではなく
なるからです。この場合、こうして考えて参りますと、 安部公房は、この未分化の状態、実存、
即ち生の本質に帰属しているし、そこに棲んでいる、生きていると考え ていたことがわかりま
す。

リルケを読み耽った安部公房は、間違いなく、そう考えたのです。

こうして考えて見ると、安部公房は、自分の認識した実存をかく在らしめるために、このような
論理を選択したということがわかります。それが、生命を活かす道だと、ここでも否定的な論理
(negation)によって、安部公房は、考えたのです。

この窪みは、平たくいへば、死と生の在る宇宙の中心のことです。宇宙の中心を窪み(凹)と陰画
として言ったことが、安部公房に実に特徴的で、独創的なことです。これは、譬喩(ひゆ)ではな
く、安部公房にとっては、事実であり、物事の本質でした。

「註15への註」
両手の窪みは、全集第1巻の詩を読みますと、両手の窪み―両手で掬う水―透明感覚―死という
連鎖と、両手の窪 み―(『リンゴの実ー真知の為にー』という詩にある)生命の充実―生命―生
―歴史という連鎖の両方方向に連なっ ていて、死と歴史の両端で一つになっています。まさし
く、死と生のある宇宙の中心という形象(イメージ)となっ ています。安部公房の透明感覚につい
ては、もぐら通信第5号『もぐら感覚7:透明感覚』をご覧下さい。また、 安部公房の窪みについ
ては、『もぐら感覚20:窪み』(もぐら通信第18号)をご覧ください。 」

上の[註5]に引用した『詩と詩人(意識と無意識)』といふ安部公房20歳の論文があります。
これは、安部公房一生を貫く理論篇で、私は安部公房のOS(Operating System)と呼んでゐま
すが、ここにも同じ論理が、部立てといふ文章の形式の、即ち構造の問題として現れてゐます。

全体が第一部と第二部になつてゐるのですが、第一部は文字で書かれ、表立つた安部公房の主
張が述べられてゐますが、第二部は全くの白紙であり、空白です。[註8]文字の部は、その均
斉を、この空白の部があつて初めて成り立つてゐるのですし、成り立たしめてゐるのです。安部
公房は、このことをさへ、文字の部で明白に述べてゐます。[註9]

[註8]
全集第1巻、後ろから6ページには、この原稿の第二部について、編集部は、次のやうに註してゐる。
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「*第二章は「二」と書かれた後、空白となっている。」

そして、本文には、この「二」といふ文字が印されてゐない(第1巻、117ページ下段)。編集部も、この数字
「二」とそのあとの余白の意味は理解できなかつた。これは印字されるべき「二」であつた。せめて其の後に置か
れるべき空白の1ページ分と共に。

[註9]
[註8]にも拘らず、安部公房は、空白の第二部の意義を、第一部で、次のやうに説明してをります。

「解釈学的体験、― 次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に此の
余白を用意したのだ)
 ………………………………………………       
     ………………………………………………
         …………………………………………

 そして人間の在り方は正に此の数行の余白によって明確に示されるのだ。夜はかくあらしめるものであった。」
(全集第1巻、112ページ下段)

そうして此の5ページ後に、単に第二章第二節に「二」とだけ次節の数字の文字を書き付けて、さあ、あとは君た
ちが自分の言葉で、自分の人生をどう生きるつもりなのか、この先を書いてくれと、そうその思ひを伝へてゐるの
です。当然のことながら、第一部の最後は第二部への接続のために、次の一行で終はってゐる。これは後年の、安
部公房の書いた最も複雑な四次元小説『箱男』の章と章の接続と同じ《……》の接続を意味してゐます。

「悲しき反照の対立は消え去って、言葉無き夜が身近にせまり、肉体を押し包む永遠の一瞬なのだ……。」
(全集第1巻、117ページ下段)

この『詩と詩人(意識と無意識)』と同じ構成が、詩集『没我の地平』と『無名詩集』の中の、
ぞれぞれ「実存ー幼き日」と「その故か」の間にもみることができます。以下に引用しますので、
前者の第三連と、それに相当する後者の第三連の空白に着目して下さい。空白ですから、第三
連といふ名前も名付けることが不可能です。ここで私たちは後者のエピグラフ、「私の真理を害
ふのは常に名前だつた/ー読人不知」の本当の意味を、そして具体的な意味を、禅の言葉でいへ
ば不立不文字として、知るのです。この空白の論理は、安部公房の生涯に亘つて徹底してゐます。

「実存ー幼き日

 その故か 凍てる窓辺に
 息して咲ける花
 輝けり
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

 その故が 秋の日に
 落つる為にほころべる花
 まどろめり

 うべなひの行く姿
 昇る日の 木の間流るを
 暁と 人呼ぶ如く」
(『没我の地平』全集第1巻、160ページ)

「その故か

 その故か 凍てる窓辺に」
 息をして咲ける花
 輝けり

 その故か 秋の日に
 落つ為にほころべる花
 まどろめり

           」
(『無名詩集』全集第1巻、248ページ)

即ち、後者の「その故か」の第三連は、前者の「実存ー幼き日」の第三連、即ち、

「うべなひの行く姿
 昇る日の 木の間流るを
 暁と 人呼ぶ如く」

この3行が隠れてゐるのであり、これこそが隠れて目に見えない、従ひ透明である、「命名以前」
の何か、即ち存在なのです。

これは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第54号)で論じましたやう
に、『没我の地平』は『無名詩集』に問題下降する前の、謂はば「概念詩集」でありますから、
そして『没我の地平』を問題下降したものが『無名詩集』ですから、上に引用した後者の「実
存ー幼き日」の最後に置かれた空白の消しゴムで書かれた第三連は、1947年6月17日付
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(安部公房23歳)中埜肇宛の書簡に書かれてゐる「此の詩集で僕は一応是迄の自分に解答を与
へ、今後の問題を定立し得た様に思っております。」(中埜肇宛書簡第9信』。全集第1巻、268
ページ)と述べられてゐる問題定立の定立された複数の問題中の一つであることは間違ひありま
せん。

また、この三行から、読者は例へば『赤い繭』の次の冒頭を思ひ出すことができるでせう。も
つとも、「実存ー幼き日」の第三連の時間的な差異は、暁であり、『赤い繭』の冒頭は夕暮れ
であるといふ相違はあるのではありますけれど。しかし、空間的な差異については変はること
なく、上の消しゴムで書かれた空白の三行は「木の間」の隙間であり、『赤い繭』の空間的な
差異は、「家と家との間の狭い割目」です。以下『赤い繭』の冒頭です。

「 日が暮れかかる。人はねぐらに急ぐときだが、おれには帰る家がない。おれは家と家との
間の狭い割目をゆっくり歩きつづける。」

この、呪文によつて存在の招来される差異、即ち時間と空間の交差点たる隙間、即ち「木の間」
や「割目」に存在が、繰り返しの呪文の言葉によつて「既にして」「いつのまにか」「どこか
らともなく」、従ひ超越論的に、招来されゐるが「故に」、「その故に」『その故か』といふ
詩の第三連には全くの空白が置かれてゐるのです。この文字の擬態は、そのまま安部公房の主人
公が「人間そっくり」であることの論理的な根拠となつてゐます。最初期の短編『白蛾』を思ひ
出して下さい。さう、この蛾もまた空白の色、即ち書物のページと同じ白い色をしてゐて、遁走
の挙句に自分自身と同じ白い色の船を見つけて、船長曰く、「あの白バラの花弁に止まっている」
のです(全集第1巻、217ページ下段)。

さて、かうしてみると、「実存ー幼き日」の第三連のための呪文は、「それ故に」であり、他方、
散文である『赤い繭』の冒頭の呪文は、次のやうに「沢山の家が並んでいる」といふ空間的な
繰り返しと、時間の中の疑問の繰り返しが呪文であることが解ります。

「街中こんなに沢山の家が並んでいるのに[註10]、おれの家が一軒もないのは何故だろ
う?……と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。」(全集第2巻、492ページ上段)
(傍線筆者)

後者の繰り返しは、「何万遍かの呪文を、また繰り返しながら」と言つても同じです。そして、
主人公は「たくさんの家が並んでいる」といふ空間的な繰り返しの中を「ゆっくり歩きつづけ
る」のです。この呪文の唱へられた後の道は、あるいは超越論的には、呪文が唱へられれば其れ
以前に時間の順序で語られた物事はみな時間が捨象され、時系列の順序は喪失され、全く異な
つた配列となるわけですので、この作品にあつても、主人公の歩む道は、「ゆっくり歩きつづ
ける」存在の道、即ちtopology(位相幾何学)の道、即ち「接続と変形」の道[註11]となる
のですし、実際その通りの物語になつてゐます。
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[註10]
三島由紀夫も、安部公房と同じ呪文には精通してゐました。たとへば十代の短編小説『彩絵硝子』の冒頭を引用し
て、三島由紀夫のの呪文をお伝へします。これは他の小説にも必ず登場します。

「化粧品売場では粧つた女のやうな香水壜がならんでゐた。人の手が近よつてもそれはそ知らぬ顔をしてゐた。彼
にはそれが冷たい女たちのやうにみえた。範囲と限界のなかの液体はすきとほつた石ににてゐた。壜を振ると眠つ
た女の目のやうな泡がわきあがるが、すぐ沈黙即ち石にかへつて了ふ。」(傍線は筆者)

[註11]
安部公房の文学が「接続と変形」の文学であることは、『存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼』
の連載第一回(もぐら通信第41号)をご覧下さい。

詩文散文ともに、シャーマン安部公房の秘儀の式次第は、ここでも有意義であり有効なのです。
この形式を遵守する限り、安部公房は詩人のまま小説家になることができる。この形式が安部
公房の散文形式として、作品全体に及んでいゐること、即ち此れが安部公房の作品構造であるこ
とは、『赤い繭』を詳細に論じた「『赤い繭』論」(もぐら通信第51号)をご覧下さい。[註
12]

[註12]
その外には、「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)、「『デンドロカカリヤ』論」(もぐら通信第5
3号)を、そして安部公房シャーマン論を最初に書いた『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学
的な能力について∼』(もぐら通信第32号及び第33号)をご覧ください。

さてひとまづ『没我の地平』と『無名詩集』の関係をまとめます。

読者には、後者の消しゴムでで書かれた詩行を見ることは普通にはできないでせう。

そして、この改稿で判ることは、宇宙の生命に関はる最も大切なものを空白に置くこと、そして
沈黙して、黙して語らぬことが、「それ故に」「幼き日」といふ時間を脱し、大人になることだ、
あるいは一人前の人間になることだといふ考へです。しかし、他方、世間は喧騒に満ちてゐると
いふのに。これが安部公房の論理です。

この白紙、空白、余白が、さうではない対極の現実と均衡し、均斉が取れてゐる。そして、この
両極端は交換関係に絶えずあるのです。従ひ、安部公房は、白紙、空白、余白、隙間については、
決してこれを言語に表すことをしません。何故ならば、交換関係にある此の動態的な物事の姿こ
そが、私たちが生きてゐることであり、命の姿、安部公房が旧制高校生の時代に習ったドイツ
語で言へばdas Leben(ダス・レーベン)、即ち其の訳語たる生(せい)の本然の姿であるから
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

です。これが上に述べた『〈僕は今こうやって〉』に書かれてゐる、生命と言語化に関する安部
公房の禁忌(タブー)の意識です。

これが、安部公房の毒薬です。

そして、安部公房の読者は、これを見落とす。何故なら、世界中の読者は文字を読んでゐるか
ら。

この空白または余白または沈黙を大切にするといふ考へは、虚構と現実の関係にも安部公房は
適用してゐます。安部公房は、ほとんど私事を語りません。それは家族にすら、また最も親しい
人にすら話さなかつたのであらうと推測される程に、さう思はれます。

さて、『様々な光を巡って』といふエッセイがあります(全集第1巻、202ページ)。このエッ
セイも『詩と詩人(意識と無意識)』同様に、二部構成になつてゐます。前半は、歴史と凹(窪
み)、即ち歴史と存在、即ち時間と存在に関する論であり、後半は、人間と凹(窪み)の関係、
即ち歴史といふ時間の中に生きる人間と存在の話であり、実際に現実の中に起きる問題と解決
といふ因果関係では其の先後が明確には考へることのできない問題を、「問題以前」といふ超
越論でものを考へることによつて、「問題以前」は「解決以前」であると言ひ、この二つは交
換関係に在ると述べて、これが「象徴的な、観念に対立するものの暗示として用いられる」場合
には現実の中で行動することの意味であると言ひ、何故なら其れは「超越である」から、そし
て此の超越を「しかし、更に忘却である」からだといふのです。即ち、

安部公房の余白、空白、沈黙とは、忘却であり、それが自己に関する忘却ならば、自己忘却で
あり、すべての物事に優先する超越論的な、問題であり且つ解決である、そのやうな交換関係
に在る解決であり且つ問題なのだといふのです。これを、次のやうに論の最後に述べてをります。

「〈問題〉……如何にして忘却する可きであるか?
 〈解決〉……其れは忘却によってである。
 現代にとって此の定律の宣告は生々しい記憶である。」

安部公房が、小説、エッセイ、戯曲、インタヴューを問はず、「……」と文字になつてゐる時に
は、自問自答の独白に落ちる、即ち自己忘却に落ちる徴(しるし)です。[註13]

[註13]
次に再掲する三田文学誌上のインタヴューで秋山駿に言葉に答へて独白に落ちたろころは、まさに安部公房の独白
の典型です。自問自答の沈黙に落ち、記憶の中に埋没して連想が連想を呼び、意識が表層に浮かび上がつて来た時
には解を得てゐるのです。これは、小説の中でも、エッセイでも、戯曲でも変わりません。以下『安部公房の奉天
の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号)より引用します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 30

「安部公房は、1968年の『三田文学』誌上で、秋山駿のインタビューによる質問に答えて、次のように、満洲は奉
天で子供時代に見た窓について語っています(全集第22巻、45ページ)。傍線筆者。

「秋山 「燃えつきた地図」の調査員の人、レモン色のカーテンのところにいる女の人が 好きなのですね。

安部 女というより、場所みたいなものですね。 秋山 安部さんのあの小説を読んでいますと、非常に精巧な機械み
たいなものを感ずる のですが、女の人が実に生々しく感じられるものですから。 安部 それはうれしい。あれも満
州育ちのせいですね。日本でも最近は団地などで窓が 目立って来たけど。
秋山 窓を。普通はあまり意識しませんね。 安部 僕には、非常に強い意味をもっているのですね。 秋山 あちらは、
窓というのは。

安部 非常に重要なんですよ。 秋山 そうだもう一つお聞きしようと思っていて、この小説は、坂道を上っていく最
初 の場面がもう一度最後のところで現れるわけですね。あそこの道の描写にその難しい性 質が現れているように
思うのです。一番最初に出てくるときは「急勾配の切石の擁壁」 ですが、二番目ですとそれが「わずかな勾配」と
いうことになっているものですから。
安部 あれ、文章は同じなのです。
秋山 文章は同じなんですか......。いや、同じではないと思いますが。
安部 なるほど「急勾配」と「わずかな勾配」か......サインとタンジェントのちがいだな......ぼくとしては、同じつ
もりで......はじめは水平の視線で、あとは垂直の視 線なんですね。」

このインタビューのあった1968年は、前年に『燃えつきた地図』を出し、1970年までの前期20年の終わりの時期
に当たっています。『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』の3部作、即ち社会的関係の中に存在を求める3部
作を世に出して、名実共に小説家としての盛名を馳せた其の前期20年の終わりの時期です。」

この章の見出しを「空白の論理」としましたが、この命名から、私たちは『方舟さくら丸』に
あるやうな御破算の論理を考へても良いでせう。勿論、初期の作品にも『洪水』といふやうな水
と水性人間と方舟の登場する御破算の論理を前提にした作品があります。水は、安部公房がリル
ケに教はつた存在の形象ですから[註14]、安部公房にとつては全てが空白になり、余白にな
り、沈黙になつた其の姿、全てが失われ、喪失されて、物事のまたは宇宙の全体が失はれ且つ在
ることが、忘却なのであり、言語に変換できない状態なのであり、「言語以前」なのであり、
水は其の象徴なのです。それ故に、いつも物語の最後に主人公は失踪する。そして無名の何かと
なる。(勿論安部公房は自分自身をも、この中に入れて計算をし、考へるのです。即ち自己忘却
するために其のやうに計算し、考へ、作品を書く。)安部公房スタジオの『水中都市』の舞台
の布もまた、空白の論理による存在の舞台なのです。俳優たちは存在になるために、いや、「既
にして」存在であるといふ(時間を捨象した)ニュートラルの演技を演技する。

[註14]
「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)より結末共有の箇所を以下に引用します。透明なる
ものが物語の中で、如何に主人公が存在に化する予兆であることか。

「結論をいへば、上記5に定義したやうに、全ての作品は、リルケに学んで自家薬籠中のものと なした透明感覚を
結末に共有してゐる。

以下「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)より引用して、お伝へします。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

「安部公房の詩も小説も、その最後に(リルケに学んだ)透明感覚が出てきます。この透明感覚 が現れると、主人公
は現実の世界での死または失踪を迎えることになります。例を挙げれば、 『砂の女』の最後の濾過装置の水の透明
感覚、『他人の顔』の最後の電話ボックス(のガラス)、 即ち透明な箱、『燃えつきた地図』の最後の電話ボックス(の
ガラス)である透明な箱、 『箱男』 の最後の「じゅうぶんに確保」されてゐる余白と沈黙の「......」のある「落書
きのための」透 明な箱、『密会』の最後の(『砂の女』の最後と同じ)「コンクリートの壁から滲み 出した水滴」 (と
「明日の新聞」)、『方舟さくら丸』の最後の手が透けて見え、景色も透け て見える透明感 覚、『カンガルー・ノー
ト』の最後の透明感覚を巡る会話(「君には見えてい るの?」/「見え ていないと思う?」)[註1]

[註1]
安部公房の透明感覚については、『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)にて詳細に論じてをりますので、 こ
れをお読みください。」 」

安部公房の空白の論理を一層知るために、全集所収の最初の詩、19歳の時の『〈秋でした〉』
といふ全部で6連からなる詩の第1連と第6連を見て見ませう。

「 一

 秋でした。晴れた午后。
 どんなにか此の日々を、
 思ひを込めて待ちこがれた事か。
 胸苦しい木の葉は、
 一枚 一枚と 地に落ちて、
 二つの影をゆるやかに、
 池の面(おもて)にゆらせます。」
(全集第1巻、64ページ)

「 六

 白い壁の上に 秋の日差しは、
 クリーム色に柔らかな影やそよぎを
 ぢつと 静かに夢見ます。
 けれど小さな滴がぽつたりと……
 おゝ 僕は、
 大きなゆがんだレンズです。
 救ひに両手を差しのべる、
 大きなゆがんだレンズです。」
(全集第1巻、67ページ)

上の二つの詩に見える一文字分の空白に、即ち文字と文字の隙間に、呪文を唱へる事によつて、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 32

存在が立ち現れるのです。

第一連をみてみませう。

秋といふ季節は、安部公房の耽読したリルケの詩の一つに、特に好きだつた『秋』といふ詩が
あります。[註15]
秋、即ち、夏と冬の間の季節です。リルケの『秋』には、落ちて来るもの全てを受け止める、唯
一者の両手が歌はれてをります。この両手は、第六連に、救ひの両手なのか、救ひを求める両手
なのか、または両義性のある両手なのか、そのやうに多義的に歌はれてゐます。[註16]多義
性のある両手ととる方が、内部と外部の交換関係を大切にした安部公房らしく、正しい解釈の
やうに思はれます。

[註15]

 リルケの秋という詩は、次のような詩です。

 秋

 数々の葉が落ちる、遠くからのように
 恰(あたか)も、数々の天にあって、遥かな数々の庭が凋(しぼ)み、末枯 (すが)れるかの如くに
 葉は、否定の身振をしながら、落ちる
 そして、数々の夜の中で、重たい地球が落ちる
 総ての星々の中から、孤独の中へと。

 わたしたちは皆、落ちる。この手が、落ちる。
 そして、他の人たちを見てご覧 落ちるということは、総ての人
 の中に在るのだ。

 そうして、しかし、この落下を、限りなくそっと柔らかく、
 その両手の中に収めている唯一者がいるのだ。

[拙訳]

[註16]
安部公房の両手の意味については、片手の意味とともに、『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)に詳述しま
したので、お読み下さい。

さて、リルケに深く詩を学んだ安部公房とはいへ、ここにあるのは、既に独立した詩人としてあ
る安部公房独自の詩です。
もぐら通信
もぐら通信                          33
ページ

秋といふ夏(暑さ)と冬(寒さ)の隙間の季節に、第二連以降の連を読むとわかりますが、この詩
の話者は、此の隙間の季節の「此の日々を」二人の友の来るのを「思ひを込めて待ちこがれ」てゐ
た「木の葉」自身なのであり、その胸中は二人の友が来るか来ないかといふ「胸苦しい」思ひでゐ
るのです。

自らが「一枚 一枚」と枯葉として地に落ちると、即ち同じ言葉の、それも落下するものの言葉を
繰り返す呪文を唱へて、繰り返される言葉の其の隙間の空白を創造すると、あるいは空白そのもの
になると、二人の友は、枯葉の落ちる地上にではなく、その樹木自身の姿が反映してゐる「池の面
(おもて)」に、その「二つの影をゆるやかに、」「ゆらせる」のです。

話者と二人の友は、前者は地上、後者は水にあつて、そして前者から見れば、二人の友は池の水面
に反照する影として互ひにあることができる。そして、さうあることができるのは、第二連以降で
二人の友に呼びかける話者が、自らの身を捨てて落ち葉となつて大地に落下することを契機に、さ
うあることができるのです。話者は二人の友と永遠に交はることはできない。それ故に、第二連で
は「じつと炎える様なさぐる様な僕の眼を」話者はする事になり、この「僕の眼」の中に反照し、
返照してゐる(話者自身である)「木の間木の間」を「いつか遠ざかり乍ら」「静かに縫つて行く」
二人の友であるのです。何故「木の間 木の間」ではなく、「木の間木の間」であるかと言へば、
話者は既に「一枚 一枚」と「地に落ち」た結果、既に存在になつてゐるからです。話者自身が隙
間に存在を招来し、存在自体になつたので、二人の友は「木の間 木の間」ではなく、「木の間木
の間」を行くのです。

ここに「既にして」、陰圧の胸を持ち、見たものを全て眼から吸い込み、外部と内部を交換するが
故に、社会から見れば其の人間の在り方そのものが既に犯罪者であるものとして監視され追跡され
て、絶えざる遁走を続けるS・カルマ氏の原型があります。

今度は最後の連、第六連を見てみませう。

「 六

 白い壁の上に 秋の日差しは、
 クリーム色に柔らかな影やそよぎを
 ぢつと 静かに夢見ます。
 けれど小さな滴がぽつたりと……
 おゝ 僕は、
 大きなゆがんだレンズです。
 救ひに両手を差しのべる、
 大きなゆがんだレンズです。」

壁は白く、空白の色である。S・カルマ氏ならば、その小説の最後に書かれてゐる透明感覚の結末
共有である箇所、即ち「首をもたげると、窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿
もぐら通信
もぐら通信                          ページ34

ではなく、四角な厚手の板に手足と首がばらばらに、勝手な方向に向ってつき出されている」「白
い壁」です。そして、秋といふ隙間の季節(時間の差異にある季節)の日差しは相変はらず差し
てゐる。他方、隙間といふ存在の空間では、「3。空間感覚といふ毒(存在論の毒)」で詳述
するやうに、時間はゆつくりと流れてゐる。贋魚といふ「夢の中の魚が経験する時間は、覚めて
いる時とは、まるで違った流れ方をするという。速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数
日間にも、数週間にも、引延ばされて感じられるらしいのだ。」と『箱男』にある時間と同質
の、「秋の日差し」といふ季節の隙間の光が夢見る「クリーム色に柔らかな影やそよぎを/ぢつ
と 静かに夢見る」夢なのです(傍線筆者)。ここで「ぢつと」と「静かに夢見る」との間に
一文字分の空白のあるのは、この存在の空白によつて、時間が流れずに(隙間で見られた)夢の
中で「ぢつと」「静かに」止まつてゐるからです。

「けれど」、話者は二人の友と永遠に直接に会ふことはなく、その影を存在の隙間から覗き見
るだけでありますので(例へば、『燃えつきた地図』の結末共有の探偵の姿をご覧下さい。あ
るいは初期の短編の『牧草』の最後を。あるいは『方舟さくら丸』の結末共有でのカメラのファ
インダーといふ(箱男ならば箱の窓といふべき)窓から覗いて見える透明な街と(存在の)手の
向かうに見えるやはり透明な街。またあなた次第で思ひ出す其のほかの小説のままに)、『魔
法のチョーク』の結末共有と同様に「小さな滴」の透明な涙が一筋「ぽつたりと」「白い壁」
といふ「……」で表された空白の上を、アルゴン君の涙と同質の涙として、伝つて落ちるのです。

「おゝ」、このやうな

「僕は、
 大きなゆがんだレンズです。」
 救ひに両手を差しのべる、
 大きなゆがんだレンズです。」

この同じレンズが『箱男』の中の写真の一葉のカーブミラーとして登場することは(全集第24
巻、109ページ)、既に『『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く 』(もぐら通信第
34号)で論じた通りです。ここでは、『終りし道の標べに』の中に書かれてゐるレンズを引用
して、この箇所の文章を詩の解釈のための理論篇とします。

「さて粘土塀で行きづまった極点で不信を信に置きかえた。そして幸福の上に理解の信仰を附
加えたのだ。何一つ出来なかった私は、今や一切を理解する忘却の旅に立ったのだ。確かに《終
りし道の標べに》は一つの象徴であったし、粘土の塀もその確証であったにちがいない。しか
しあの私と今の私とは恐らくなんの関係もないだろう。一切の関係が更に新しい象徴の影に消
えてしまったのだ。私はしばらくの間、その阿片の幕に映った不思議に明るい光の点を見詰めて
いた。しかも幸いな事に私の手の中には存在象徴というレンズが摑まれている。用心深くその関
係にそって、そのレンズを動かして見た。するとやがてその光の点は明瞭な焦点を結ぶ。それ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

は……。」(全集第1巻、309∼310ページ)

この詩の「レンズ」は「存在象徴」なのです。また「存在象徴」とはレンズなのです。それも「大
きなゆがんだレンズです。」即ち、このレンズはカメラのレンズと同じで、焦点を合わせるとモ
ノの影が映る。あるいは反照が映る。関係としては正反対にある像が、このレンズを通じて、結
像する。第一連の地上と池の水面の関係、話者と二人の友の関係、話者の落下による死と二人
の友の(無時間・無音の空間的な差異の中を)ゆっくりと行く影等々の対照的な像の数々。そ
して、これらの対照物は、みな交換関係にある。それを可能にするのがレンズであり、レンズで
ある存在象徴である。

「しかしあの私と今の私とは恐らくなんの関係もないだろう。」とあるやうに、私といふ一人
称の我もまた、時間軸を取り払はれ、互ひに無関係なものとなつて、下記の「3。空間感覚と
いふ毒(存在論の毒)」に詳述したやうに、時系列の一次元の並びの中にはなく、少なくとも
二次元の並列である差異の中なる存在の中心に(蜘蛛として)在り、存在の手[註16]の中
に収まってゐる「存在象徴というレンズ」を通じて「あの私と今の私と」の相互の関係が結像さ
れて「新しい象徴」が生まれたとはいふものの、その我もまた、更に其の新しい象徴の影の中に
消えて行つたのです。

この象徴とは、上の詩にあるやうに、地上での落葉といふ自らの死によつて、池の面(も)に
映る反照たる樹木の所で(話者の)愛する二人の友が無時間の中を、即ち永遠の差異の中を歩
む姿なのであり、これは、話者の眼に映じることを通じて、そして話者は時間の中に生きるもの
でもありますから其れ故に、「木の間木の間」を「静かに縫って行く」二人は、一回限りの歩
みなのではなく、歩みは幾度となく繰り返されますので、「其の度に」「新しい象徴」が繰り
返し話者の前に現れ、「一切の関係が更に新しい象徴の影に消えてしま」ふことを繰り返すので
す。さうして、話者は其の差異(窪み、凹、隙間)へと繰り返し永劫回帰する。

かうして見ますと、「存在象徴というレンズ」とは、相反して存在するものを一つに結像するた
めの函数(function)であるといふ事になります。二つの相反するものが焦点が合ひ、結像する
とどうなるのか?写された対象は「……」といふ沈黙と空白の中に現れるか、「……」といふ
沈黙と空白そのものとなるのです。

安部公房がカメラを愛する大きな理由です。何故ならば、カメラは、言葉といふ媒介を必要とせ
ず、無媒介で対象に観入することのできる「象徴存在」といふレンズを備へてゐるからです。言
葉は媒介であり媒体であるのに対して、その媒介または媒体を要せず、直に生命に触れる其れが、
直観、即ち詩、無媒介、即ち詩です。[註17]

[註17]
安部公房のカメラと詩の関係については、『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にて詳述しましたので、ご
覧下さい。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ36

さて、かうして、安部公房の此の論理と実際に紙面にある空白を意味がないと飛ばして読む読者
は、ここで安部公房の毒を飲んで「やられる」事になるのです。安部公房のテキストでは、無意
味と思はれる一文字分の空白、一行分の空白、小さな沈黙である「……」こそが、現実に対して
又現実に生きる私たちのために、有意味であり、有意義であるといふのに。または安部公房ス
タジオの舞台に広がる、変形自在の一枚の白い空白の、存在の布。

安部公房の持つ効き目の強い毒の一つが、この空白の論理といふ毒です。世界中の読者のほとん
どが、恐らくは此の毒にやられてゐる筈です。

空白は、物理的な道を歩く通りすがりの誰の眼にも触れず、忘れられ打ちやられてゐる空間であ
り場所であるからです。さう、安部公房の好む廃棄物の捨てられたゴミ捨て場、誰の目にも留ま
らぬ差異の場所、即ちビルの谷間、橋の下[註18]、即ち箱男の棲息する存在の空間です。

[註18]
橋の下といふ場所は、川と橋の交差点であり、十字路であることを思ひ出して下さい。川は時間を、橋は空間(の
道)を表してゐることは、いふまでもありません。

この章が、あなたのための解毒剤になりますように。

3。空間感覚といふ毒(存在論の毒)

安部公房が奉天を自分の故郷であるといふ際には[註19]、『安部公房の奉天の窓の暗号を解
読する∼安部公房の数学的能力について∼』に書いた此の町の持つバロック様式の建築群の窓
の他に、もう一つ、日本列島の島々に住む日本人には理解することの全くできない日常感覚が
あります。満洲帝国の奉天にはあつたが、日本の国にはなかつたし、今も無い日常感覚。

[註19]
『消しゴムで書くー私の文学』(全集第20巻、87ページ)に、安部公房が奉天を故郷といつてゐる其の一例が
あります。

それが、空間感覚です。

地平線。空間の中に時間の代表である太陽が出てくる。地平線から地平線に沈む。空間の中に
時間がある。東京では全く正反対。一日は日の出とともに始まり、日没で終はる。時間の中に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

空間がある。

私事ですが、上で此の日常感覚は「日本列島の島々に住む日本人には理解することの全くでき
ない」と書いたのは、私には此の空間感覚があるからです。多分私は日本の外に、この原稿を書
いてゐる今も、ゐるのです。あなたは、(私の戸籍上の故郷である)北海道の道東に来れば、地
平線をみることができます。多和平といふところがあつて、そこに来れば、ほんの少しの傾斜を
登ると360度地平線を眺めることができます。ここが日本で地平線を眺めることのできる唯一
の場所です。ここに立つと、なるほど、人間は円盤の上にゐて生活してゐるのであり、大地は円
盤であるのだといふことがわかります。そうして、地平線の向かうから太陽が昇り、半球の天を
なぞりながら移動して行き、一日の最後には地平線の向かうに太陽が沈む。Google Earthで検
索すると、この場所は直ぐに出てきます。

従ひ、季節の到来が3ヶ月ズレてゐること、美術の教科書にあつたやうな内地の四季の(霞の
かかつたやうな輪郭の曖昧な美しい)景色と自然を私は嘘だと思ひ、画家の空想だと思つてゐ
たこと、『終りし道の標べに』の結末にあるやうな一斉に大地の芽吹く春は五月であること、
時間の速さが遅いこと(何故なら空間の中を時間が流れてゐるから)等々、これらのことは、大
陸の奉天に暮らした少年安部公房の感覚に直接通じてゐます。奉天の緯度は北緯41度、私の故
郷の町の緯度は北緯42度。多和平の緯度は北緯43度です。通年を通して、例へ夏であつても、
寒さを抜きにものを考へ、日常の生活をすることはできません。冬は厳寒といふべき、寒さ以
上の寒さです。いや、安部公房流にいへば、「寒さ以前」の寒さです。人間の生死に直接関はる
寒さです。

北緯41度の奉天の空間について、安部公房は次のやうに語つてゐます。

「安部 零下二十何度かになると学校休みだったな。後ろ向きに歩ける眼鏡を発明しようとし
たことがあるよ、本気になって。風に向かって歩くとつらいんだ、眼も鼻も凍ってしまう。そう
言えば、ぼくの場合むしろ小学校の教科書だろうね、体験の特殊性を言うなら。つまり原形に
なる風景というのが、地平線までのっぺりして何にもなくて……
―――太陽がその地平線から上がってくる……
安部 いや、そんなに早起きじゃないから、見るのは沈む太陽のほうだけ。ところが学校で使っ
ているのは日本の教科書だろ。日本の教科書に出てくる風景というのは、家のすぐ裏に山があっ
たり、川があったりする。
―――-兎追いしかの山……(笑)
安部 そう、谷川があって、せせらぎがあって、そこに魚が泳いでいたんじゃ。こっちはコンプ
レックスにおちいるしかないだろう。まさにファンタジーだ、あこがれだよ、窓からひょっと見
たら山が見えるなんで、まるでチョコレートの箱の絵みたいじゃないか。」(『錨なき方舟の時
代』全集第27巻、156ページ))

この、内地には無い空間感覚が日本の読者にはないので、安部公房の文学に惹かれるといふ、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ38

意識はされませんが、これが隠れた理由の一つであると思ひます。この空間感覚の中に、極寒に
対する皮膚感覚、即ち皮膚による触覚といふもぐら感覚を入れても良いと思ひます。

他方、地球上の大陸に住む安部公房の読者たちにとつては、この空間感覚は、大都市は別として、
日常でありますから、その親しさに惹かれることがあるかも知れません。つまり、安部公房の
世界が日本に特有の世界であるとは思はないので、やはり此れも意識されないといふ理由で、大
陸の読者との関係では、その世界が普遍性を持つといふことになります。

島国の読者と大陸の読者の間には、このやうな誤解があるでせう。これは、良し悪しを言つて
ゐるのではありません。

空間の中にゐると時間の流れが遅くなる。これは実際、空間の大小には関係がない。例へば、
「この石積の斜面の、隙間という隙間を、線香花火のような棘だらけの葉で埋めている」とい
ふ貝殻草の匂いを嗅ひだが故に、従ひ存在になつたが故に贋の文字を冠して名付けられた贋魚
の時間を『箱男』から:

「夢の中の魚が経験する時間は、覚めている時とは、まるで違った流れ方をするという。速度
が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて感じられるらしい
のだ。」(全集第24巻、35ページ)

しかしながら、経験や育つた風土から安部公房の文学を論ずることは、私の本意ではありませ
ん。それだけでは、安部公房に限りませんが、藝術家の文学の全体と本質を理解することはで
きないものです。やはり芭蕉のいふ通りで、「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめ
よ」(『許六離別の詞』中、「柴門の辞」)といふのが、文学研究の方法ではないでせうか。
即ち、テキスト(text)といふ織物(texture)の目(隙間、差異)、即ち「奉天の窓」です。縦
糸と横糸の交差した其の存在の結び目を読むといふことです。即ち勿論、糸といふ線がなければ
結び目も、目に見える現実の中の事実とは、普通には思はれないわけですけれども。

しかし、論理の問題としては、順序は逆(reversal)であることは、すなわち結び目に存在が存
在して初めて、垂直と水平の糸が交差して編まれ、網になるといふことは、詳細に『安部公房の
奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号及び第
33号)で論じた通りです。

その例を『無名詩集』から以下に引用します。、

「倦怠

 蜘蛛よ
 心の様にお前の全身が輝く時
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

 夢は無形の中に網を張る
 おゝ死の綾織よ
 涯しない巣ごもりの中でお前は幻覚する
 渇して海辺に走る一群のけだものを」

この詩の「網」も「綾織」も、「奉天の」窓、即ち存在の交差点であり、存在の十字路なのです。

この詩から判るやうに、この十字路は、詩人が身を没して自己放棄をし、自己を忘却して自己喪
失するために、「死の綾織」と呼ばれ、その綾織を紡ぐ蜘蛛である詩人は「網を張る」わけで
すが、しかし、それは存在であるが故に「無形の中に」於いてだと歌はれ、更に安部公房の存
在論(これもリルケの詩に習ひ教はつたところ)に従ひ、蜘蛛が主体となつて見る夢の網なの
ではなく、夢が主体となつてみせる「無形の中に」「張る」「網」なのです。即ち、詩人は夢の
客体、夢は詩人の主体といふわけです。

同じ詩集の『心』に同じやうに「又無数の運命の網目」が歌はれてをります(全集第1巻、22
4ページ)。

そして、夢のみせる網の上の交差点で詩人のみる夢を「幻覚」と呼び、この幻覚する更に客体(目
的語)は「渇して海辺に走る一群のけだもの」なのです。ここに後年の詩的短編『夢の逃亡』の
論理と世界が既に歌はれてをります。又、同じ文脈の中で「凋落する獣性の化石」(『嘆き』全
集第1巻、241ページ)や、「恐らくは陰影に漂ふ存在の深さを/知り染めた野獣の血が妬み
の中で」、黄昏や笑ひや愛との関係で、歌はれてをります(『嘆き』全集第1巻、247ペー
ジ)。

安部公房は作家を蜘蛛に譬(たと)へて次のやうに言つてゐます。

「作家というのは、現実と表現との割れ目にすくう、一匹のクモなのである。自分の軌跡を、
ただそのはりめぐらせた透明な糸にたくして、自分は割れ目の陰にひっそりと身をかくす、一匹
のクモなのである。」(『消しゴムで書くー私の文学』全集第20巻、87ページ)

割れ目といふ空間的な差異に隠れる、これは、詩人の姿です。蜘蛛といふ贋魚。

この蜘蛛は、安部公房のすべての主人公の意識の姿、他者との間に求める関係の当の姿だと言っ
て良いでせう。これが、安部公房の好きであつたtopology(位相幾何学)といふ数学の、トポ
ロジーの分類の内の、スター型のネットワーク・トポロジー、即ち蜘蛛の巣の網目の形で其の
ままあることは、『存在とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼』(もぐら通信第4
1号)の連載第一回目に以下のスター型のネットワーク・トポロジーの図も其の一部として示し
て、そのほかのトポロジー図全体の中で、存在といふ概念との関係で、詳細に論じた通りです。
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ページ

この、安部公房のネットワーク・トポロジーを歌つた詩があります。それは、「理性の倦怠」と
いふ、『没我の地平』に所載の、次の詩です。

「理性の倦怠

 八つの手をもて織りなせる
 七つに光る魔の網よ
 吾が怖るゝは汝が綾の
 無形の夢の誘ひにあらず

 沈黙して待てる恐怖の墓
 面つゝむ美貌の面紗(きぬ)よ
 夕べ渇きに湖辺(うみべ)に走る
 吾が獣群を拒むのは誰

 おゝ此の涯なしの死の巣ごもり
 受動の傷に此の血失せ
 昼の転身(みがへ)に果つる迄
 天の没我に息絶ゆる迄」

今まで述べ来つたところを理解して下されば、読者各人で第二連と第三連をある程度理解する
ことができるのではないでせうか。この詩は稿を改めて詳細に論じます。ここでは、第一連に着
目しませう。
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ページ

「八つの手をもて織りなせる
 七つに光る魔の網よ」

これを、上のネットワーク・トポロジーで説明をすると次のやうになります。

しかし、これでは「魔の網」の数は7つではなく、8つになります。これはどのやうに理解した
ら良いものでせう。

この8つの手を、時間の順序に、即ち時間の中で一次元で並べてみると次のやうになります。
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このやうな樹木の並列した、これは安部公房ならば空間的な繰り返しの呪文だといふことにな
りますが、この算数の問題はご記憶ではないでせうか。

8つの木が立つてゐる。その木と木の間、その隙間は7つである。

手は8つある。その手と手の間の隙間は7つである。

もつといいませう。

時間を捨象したら、「八つの手をもて織りなせる/七つに光る魔の網」は、8つの隙間として並
列してゐるが、しかし、この「八つの手」を時間の中に繰り返しの形象(または空間的な呪文)
として直列に並べたら、それは「七つに光る魔の網」である。前者は掛け算、後者は足し算、
前者の値は積算値、後者の値は和算値といふわけです。

これは、このまま、安部公房の言語機能論です。[註20]

[註20]
「 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて推測すれば、要するに言語は一般条
件反射の積分値だと言いたかったんじゃないかな。
――-積分値、ですか?
安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考えて
貰えばいい。初めが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換のほ
うを採りたいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理しているのか
は、今後の研究に待つしかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。」(『破滅
と再生2』全集第28巻、255ページ)

また、

「たとえばパブロフは、条件反射で有名なあのパブロフですが、《言語》を一般の条件反射よりも一次元高次の条
件反射とみなしていたようです。(略)
 「一次元高次」のという意味は、たとえば紙のうえに円を画き、その円を紙から話して空中移動させてみてくだ
さい。チューブが出来ますね。平面が一次元高次の空間になったわけです。言葉を替えれば二次元が三次元に積分
されたことになります。つまりある条件反射の系の積分値として《ことば》を想定したのがパブロフの仮説になる
わけです。ぼくとしては「積分」よりも「デジタル転換」のほうを採りたいような気もしていますが、今のところ
これ以上の深入りはやめておきましょう。肝心なことは、《ことば》をあくまでも大脳皮質のメカニズムとして捉
えようとした姿勢です。」(『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、232
ページ)
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空間感覚を論じると、話が尽きません。

さて、このやうに、安部公房の空間感覚は、言語の領域では其のまま言語機能論ですので、次は、

4。言語論といふ毒(問題下降の毒)

安部公房は、言語に関する発言をするときには、半面だけではなく、例外的に、しかし文字の
上でだけではありますが、それでも、その両面に言及します。

『問題下降に依る肯定の批判』では、問題下降のみを論じますが、他方、言語に関する話をす
るときには、問題下降の前にあるべき、さうして実際にあつた、問題上昇について率直に述べて
をります。

それが、デジタル変換、アナログ変換といふ、安部公房の創作プロセスの一対です。

前者が問題上昇、後者が問題下降です。前者は概念化のプロセス、後者は形象化または文脈
(context)の創造です。前者は、哲学的に概念を定義し(これは論理の世界ですから時間は存
在しない)、後者は、前者で定義された概念を、今度は具体的な、時間の中の物事の名前を付
けて、その名前と其の名前の持つ形象との関係を接続して、確立すること、これが、安部公房の
いふデジタル変換・アナログ変換です。今、前者、即ち問題上昇の好例を挙げませう。
もぐら通信
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この写真に写つてゐるカードのうち、多分『密会』を書いてゐた時に作成したものと思はれる
のが、下にある金属の金環で綴られたカードの一枚めです。ここには、患者とは何かと題して、
その下に患者の定義が書かれてゐます。これによれば、

患者とは、人格を、一時小荷物あずかりに所にあずけた人間の状態をいう

とあります。

人格を一時小荷物あずかり所にあずけた人間の状態になれば、誰でも患者なわけですから、確
かに医者も患者になり、患者も医者になり得るのです。Superflatな安部公房の世界です。

これが、安部公房のデジタル変換の好例です。

これを概念化といひます。

結局、概念化とは、それは何か?といふ問ひに答へることです。何かと問はれた其の概念を定義
する。これが、問題上昇です。さうすると、これに対するに、問題下降とは、それは何々である
といふ定義に従つて形象(イメージ)豊かな、読者の生理に訴へる直喩の文体を創造するとい
ふこと、これが、デジタル変換(問題上昇)、アナログ変換(問題下降)です。そして、これが
其のまま安部公房の文体(style)の本質です。

さて、最後に、安部公房文学の持つ最大の毒のお話をします。そして、世界中の安部公房の読者
は、この毒に、恐らくは例外なく、やられてゐる。それは、

言語の有する集団化の機能と個別化の機能の問題を如何に理解するか?

といふ、この、安部公房の言語機能論と安部公房文学の関係から生まれる「言語論といふ毒」
についてです。これは、このまま安部公房の「クレオール論の毒」と言つても良い。

『シャーマンは祖国を歌う 儀式・言語・国家、そしてDNA』で、安部公房は言語の機能を「分
化」と「集団化」といふ「《ことば》の二つの機能」に分けて説明をしてゐます。(全集第28
巻、238ページ)

このエッセイは、安部公房の言語機能論を理解するためには格好の文章の一つですが、しかし、
ここでも上の両面の機能については言及し、特に後者、即ち後者の「集団化」の機能について
は紙面を割いて詳しく論じてゐますが、しかし、他方「分化」の機能については、言葉が相対的
に誠に少なく、この機能が後者の機能を備へたプログラムが閉じたプログラムであるものを、
前者の機能が働くことによつて開かれたプログラムとして機能させるのだといふだけの簡潔な主
張をしてゐるに留まります。後者の機能を働かせる役割を演ずるのが、祖国を歌ふ儀式のシャー
マンといふわけです。
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「いったいシャーマンは何を歌いつづけているのでしょう。聞き違いでなければ、ぼくにはどう
も、国家のように聞こえます。あまりいい傾向ではありません。《ことば》自体は本来、分化や
分業化を得意としていたはずですが、いったん「全員集合」の号令をかけると、これもまた強力
な信号として働きます。」(全集第28巻、236ページ上段)

しかし、既に諸処で、また最初に安部公房の全作品との関係で『安部公房の奉天の窓の暗号を
解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第33号及び第33号)にて詳細
に論じた通り、安部公房自身がシャーマンです。

従ひ、安部公房の読者が、上の安部公房の言葉を表面的に鵜呑みにしてしまひますと、論理の
必然から言つて、安部公房の言語機能論の本質を知らずに半面だけの理解で反儀式、反国家を
一知半解の状態で復唱するだけのことになるわけですから、安部公房の文学を理解することが
できずに、逆に其れ故に、何でも権威や権力に反対すればいいのだといふ実に短絡的な皮相的
な人間になつてしまひ、自分の人生を大変貧しいものにしてしまひます。これが、安部公房の、
恐らくは最大の毒でせう。

つまり、このエッセイにあることを其のまま鵜呑みにすると、国家の否定といふことになり、
安部公房は左翼だといふことになって、しかも本人の言語による「存在の革命」といふ真意を周
囲に全く理解されることのないまま日本共産党員になり1961年9月6日に除名されるわけ
ですから、マルクス主義といふglobalismに感化され、日本共産党員にまではならないものの、
反国家を唱へる事が安部公房の読者で在ることだといふやうな誤解が世間に充満することにな
つたのが二十世紀の安部公房論でありませう。[註21]

[註21]
日本共産党員にまでなつたものですから、安部公房は二十世紀の左翼右翼といふ用語がまだ生きてゐた時には、左
翼であると思はれてゐましたが、しかし、安部公房は全く左翼ではありませんでした。安部公房の革命は、言語に
よる意識の革命、即ち埴谷雄高の言葉でいふなら「存在の革命」を起こさうといふものですから、畢竟リルケに学
んだ自己忘却と、またtopologyの変形の中に自分自身を入れて計算するといふ(父親安部浅吉由来の)自己犠牲の
自覚、もつと言へば、自分の死を厭はないといふ覚悟を持つてゐる事が、既に当時の周囲にゐた友人知人たちとは、
全く異質の人間です。世紀の会主催の座談会での発言に、左翼の友人知人たちとの異質性を十分過ぎる位に読む事
が出来ます。

一言で云へば、当時の左翼の若者たちは、如何に生きるべきかと問ふたのに対して、安部公房は、如何に死ぬべき
かを論じてゐるのです。話が全く噛み合つてをりません。さうして、前者は日本共産党といふ組織に頼つて(今風
にいふ)自己実現を藝術家として図らうといふのに対して、安部公房は全く正反対に、藝術家の真理探究の中での
孤独な死が、人類の人間としてある典型となるのだといふ主張を繰り返ししてゐます。

満洲で敗戦の後の国家秩序の崩壊した経験を語つた後に、安部公房は次のやうに続けます。

「その時感じたんですが、ダヴィンチなんかが暴徒に襲われ家の門を破られそうになったとき、「神よみ心のまま
に」といって仕事を続けたとか、またアルキメデスが幾何を解いていたとき後ろから殺され用とした時の話とか、
それがどんなに充実した生の瞬間であったか……これは個人的な立場にとどまらず、もっと人類的なもの、同時に
もぐら通信
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人類的なものへ引き上げられてきていると思う。物を人類的に考えるということ、個人的に考えるということは、
どちらか一方だけであってはいけないので、一種の緊張の中に自分を納得させるものが生まれてくるんじゃないか
と思ったんですがね。」(全集第2巻、66ページ)

また更に、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より以下に引用します。

ドナルド・キーンさんとの対談『反劇的人間』の中で、安部公房は自分はナチス・ドイツの映画を見ることが好き
で、繰り返し見るのだといひ、それが何故かといふ文脈の中で、次のやうに語つてゐます。

「存在になるとは、 戦敗したナチスの若い兵士のように「まるで、楽屋に戻った俳優が、仮粧といっしょに、扮し
ていた役柄まで洗い落と してしまった後のような、生々しい素顔」になること(『ミリタリィ・ルック』:全集第22
巻、130ページ下段)、 即ち、役者以前の誰でもない者、もともとの、リルケに習った無名の者に戻ることです。[註
24]の後半で、安部公 房が、言葉との関係で、演技者に存在になることを求めた考えを、その演技論をお読み下さ
い。

また、このナチスの兵士の話と同じ文脈の中で、安部公房は、「人間を信じるのは、疑うのと同じくらいいけない
ことだとつくづく思いました。」と語っています(『反劇的人間』全集第24巻、327ページ上段)。このとき、1973
年、安部公房49歳。ここに、ナチスの若い兵士について語ることの中に、日本共産党員時代の、若かった自分自身
に対する苦い反省があります。

安部公房にとって、ナチスの純粋制服が何を意味していたかは、『もぐら感覚22:ミリタリィ・ルック』をお読み下
さい(もぐら通信第27号及び第28号)。

安部公房の中では、10代にリルケに学んだ未分化の実存という人間のあり方と、ナチスの若い兵士の純粋制服の姿
と、ナチス軍に引き立てられるユダヤ人の姿と、死を直前にしたときのダヴィンチやアルキメデスの姿[註18]と、
安部 公房スタジオの俳優たちに教えたニュートラルという概念と、これらはみなひと連なりになっているのです。 」

また再度、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より以下に引用します。

「[註18] ナンシー・S・ハーディンとのインタビュー、『安部公房との対話』(全集第24巻、478ページ下段)で、 安
部公房は次のように、『第四間氷期』と革命について述べて言います。これは、結局、安部公房を発見した埴谷雄
高の至った「存在の革命」と同じことを、安部公房は言っているのです。それを「内部の対話を誘発すること」と
言っております。これは、その人間の意識の革命のことを、ふたりとも言っているのです。

「ーまだ話題にしていない小説のひとつに『第四間氷期』があります。あとがきのなかで、この小説の目的のひ と
つは「読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発すること」(『第 四
間氷期』二七二頁)だと書かれていますが。

安部 ひとことだけ説明します。ぼくは革命というものに決して反対ではありません。しかし、強調しておきたいの
は、革命ではそれを望む人々が逆に殺され傷つけられたりすることが少なくないということです。革命家が自覚し
て己の幸福のためよりもむしろ革命のために進んで苦しんでいるならば、自分の命を賭ける自信や、革命で殺され
てもよいと信じる意志がないならば、革命など起こせません。反対に、もしそれほどの強い意志があるならば、当
然起こすべきです。それが『第四間氷期』のテーマです。」(傍線筆者)

安部公房を発見した埴谷雄高が、存在を絶対的なものとみたことに対して、安部公房は、存在を相対的なもの(関
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 47

係概念)とみたことが、この二人の一番大きな違いです。この、存在が相対的なものであり、即ち関係であるこ と(関
係概念)を、安部公房は同じこのインタビューの中で、10代で考えた自分の実存主義の理解として、次 のように述べ
ています。傍線筆者。

「ぼくが実存主義に傾倒した一番大きな理由はごく単純で、「存在が本質に先立つ」とぼく自身考えたからです。
軍国主義においては本質が存在に先立っていました。祖国とか母国という概念が本質というカテゴリーに入るわけ
です。ところが実存主義的観点からすれば、そうした概念は一種の従属概念に過ぎません。」(全集第24巻、476ペー
ジ下段)この発言による10代の安部公房の考えは、そのまま最晩年のクレオール論の考えです。

また、この註の、上の安部公房の革命についての最初の引用、「革命家が自覚して己の幸福のためよりもむしろ革
命のために進んで苦しんでいるならば、自分の命を賭ける自身や、革命で殺されてもよいと信じる意志がないなら
ば、革命など起こせません。」という言葉は、1970年代になって立ちあげた安部公房スタジオで、安部公房が俳優
たちに教えたニュートラルという演技概念と全く同じものです。即ち、安部公房は、戦勝しているときのナチスド
イツの兵士に引き立てられるユダヤ人の姿を例にとって、これがニュートラルだと教えています。

即ち、死を前にして、それを受け容れる、(わたしの言葉でいえば)無言で誰にも言わずにその覚悟をした人間の姿の
ことです(全集第24巻、147 148ページ)。このニュートラルという概念を、安部公房は言い換えて、安部スタジオ
の俳優たちに「ニュートラル」になることを、即ち役割を「演ずる前に、まず存在していなければならない」こと
を求めたのです(『人間・反人間』:全集第24巻、465ページ)。また[註24]でも、同じことを三島由紀夫との共有す
る演技論・演劇論として述べている安部公房がおりますので、お読み下さい。

この「無言で誰にも言わずにその覚悟をした人間の姿」とは、それから、また、この、役割を「演ずる前に、ま ず
存在していなければならない」とは、すでに10代の安部公房の愛と別れと死の、そうして ニーチェに習っ た独自
の思想「概念から生への没落」による、世間に「未登録の人間」の姿、あの『旅よ』という詩で歌った「木 の間
木の間」に滴る緑色の雫であり、この未分化の実存としてその隙間の接続空間(論理積、conjunction) に孤独に「蹲
る影」(『主観と客観』、全集第1巻、165ページ)としての人間の姿、即ち雫としてかくも小 さいが、しかし存在と
して在る絶えず旅して、移動して止まないfunction、即ち一次元上の空間を旅する機能としての人間であることは、
『もぐら感覚21:緑色』(もぐら通信第25号と第26号)で詳しく論じた通りです。

安部公房スタジオの創設とは、安部公房を発見した埴谷雄高流の言い方をすれば、「存在の革命」を起こすことで
あったのです。即ち、その人間の意識の革命のことです。この場合の人間とは、劇場の中にいる、舞台の上で 演技
する俳優と、その演技を観る観客でありましょう。この世界を劇場と見る考え方は、既に20歳の理論篇『詩と詩人
(意識と無意識)』に明らかに述べられています(全集第1巻、104ページ下段から105ページ上 段)。この劇場観、即
ち、バロック的な世界観については、[註7]と[註21]を参照下さい。

他方、この同じ理由が、小説の領域では『箱男』を書き、何故安部公房が読者も参加する構 の小説を考えたかとい
う理由なのです。小説の読者にも意識の根本的な変革を願い、『箱男』を執筆したのです。(略)」

「いったいシャーマンは何を歌いつづけているのでしょう。聞き違いでなければ、ぼくにはどう
も、存在のように聞こえます。結構いい傾向です。《ことば》自体は本来、分化や分業化を得意
としていたはずですから、いったん「言語のシャーマンになれ」の号令をかけても、これがまた
強力な信号として働かないのです。」
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もぐら通信                          48
ページ

と、私ならば言ひ換へる所です。

つまり、読者一人一人が言語とは何かといふ問ひに自ら答へる事がなければ、読者は安部公房
と同列に並ぶシャーマンになる事ができないといふ此の難しさの、安部公房によつて隠された、
即ち生命そのものを文法に則つて自分自身の言葉で言語化するといふ変形の仕事を欠いては、
読者は此の言語・存在論的な窪み(凹)に足を取られて躓き、安部公房の考への全体を知る事
ができないといふことになるのです。そして、自分と社会との関係、自分と国家との関係を考へ
るための言葉(語彙)を持つ事の出来ない幼稚な人間になつてしまふ。それ故に、自分の言葉
で社会や国家を論理的に批判する事が出来ない。これが、安部公房文学の、恐らくは最大の毒
です。何しろ自分が奉られることは、安部公房の最も忌避すべきことでありませうから。

この安部公房最大の毒に対する免疫をあなたが獲得するためには、「もはやどんなシャーマン
の御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」を受けねばなりません。
(全集第28巻、239ページ)これが、安部公房の処方した「国家信仰」を冷却させるため
の具体的な提案であり、解毒剤です。

勿論、これは何を意味するかといふと、シャーマン安部公房の言葉を鵜呑みにするのではなく、
「もはやシャーマン安部公房のどんな御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学
的言語教育」を、あなたが自らに施さなければならないといふ事なのです。安部公房は、この
「教育」のための独立した「府」を追加して、現行の民主主義の三権分立に加へて、四権分立と
する提案をしてをります。あなた自身が、この「府」の長官に就任しては如何でせうか。あるい
は「府長」といふのでせうか。このやうに考へて初めて、あなたは権力とは何か?国家とは何か
といふ本質的な問ひに答へることになり、安部公房が実際に行つた問題上昇、即ちデジタル変
換を経験することになるのです。従ひ、安部公房の言ふ「もはやどんなシャーマンの御宣託にも
左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」とは、(言語機能論に依る)哲学、
即ち安部公房の象徴学、即ち「新象徴主義哲学」にほかなりません。

どうか、あなたの人格を、安部公房といふ一時小荷物預かり所に預けてしまひませんように。

さて、これで一通り、安部公房文学の含んでゐる毒を四つ挙げてお話ししました。お読みになつ
たやうに、どれも猛毒である上に、これらはいづれも相互に有機的に関係してをりますので、そ
の圧倒的な総合力に読者は抗ふすべなく、いつの間にか、あれおかしいなと思つてゐるうちに、
「いつの間にか」「既にして」「気づいたら」、即ち超越論的に、安部公房の直喩に富んだ文
体に、みな殺(や)られてゐるといふ事になるのです。

読者としては、「もはやどんなシャーマンの御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための
科学的言語教育」を自らに施し、その毒に対する免疫力を養ふ以外にはありませんが、さう言
つた途端に、そんな免疫力なんてできるわけがないぢやないか、言語の本質を知らなければ、
もぐら通信
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即ち言語は機能であるといふことを知らなければ、といふ誰かの声が、世界の果てから聞こえ
てきさうな気がします。この、世界の果てにゐる誰かであるS・カルマ氏の声は、安部公房の読
者であるあなた自身の声の再帰的な木霊(こだま)であり、再帰的な、従ひ常に反復され繰り
返される呪文の解毒剤なのです。

この、世界の果てから聞こえて来る呪文についての安部公房の言葉です。これらの言葉は全て、
言語は再帰的(recursive)であるといふ事実に拠ってゐます。即ち、言語は繰り返し自分自身
に帰つて来るのです。

「―― 散文が儀式化なしに対抗できる理由はなんでしょうか。
 安部 儀式化そのものが強力な言語機能なんだよ。言語に対する有効な解毒剤はやはり言語
以外にはありえない。そういう言語を散文精神と命名したまでのことさ。でもこの規定は、今
後批評の基準として利用できそうだね。けっきょくテレビ攻撃より、散文精神の確立のほうが、
僕らにとっては急務だろう。」(『破滅と再生2』全集第28巻、266ページ)

「まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう遺伝子が遺伝子自
身を認識してしまったんだよ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだ
よ。
 だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表現で
さえ言語表現の枠を出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語の中を覗き込んでいる
のが人間なんだな。
―― つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。
 安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)」(『破滅と再生2』全集第2
8巻、254ページ)

「安部 (略)いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の
謎なんだ。一種の「認識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超え
たものがあるはずだという……
 ―― つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。
 安部 そうなんだ。でも認識に限界があるという認識は何によって認識されるかというと、
言語以外にはありえない。だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。」(『破滅と再生
2』全集第28巻、253ページ)

「スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることは、僕のなかでな
んら矛盾するものではないんだ。小説の場合、言語の構造として確かな手触りが成り立てば、
それは現実と等価なんじゃないか。言葉でしか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたか
の説明を、小説以外の外の世界から借りてくる必要なんかぜんぜんないと思う。」(『破滅と再
生2』全集第28巻、258∼259ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ50

「大事なのは多分、技術が内包している自己投影と自己発見の問題でしょう。あるときぼくはカ
メラのちょっとした故障を修繕しながら、うまくいきそうになった時、無意識のうちに「人間
は猿ではない、人間は猿ではない」と呪文のように繰り返しているのに気付きました。(略)ぼ
くの呪文は、単に作業をプログラム化できたことの喜びを表現しようとしただけのことです。と
ころがこの「作業のプログラム化」とは、いったい何でしょう?試行錯誤もあるでしょうし、
イメージのなかでの座標転換作業もあるでしょう。しかしけっきょくは時間軸に沿った手順の見
通しです。自分の行動と対象の変化を、因果関係として総体的に掌握することです。《ことば》
の力を借りなければ出来ることではありません。もともと自己投影とは《ことば》の構造その
ものなのですから。」(『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第
28巻、231ページ)

以上の晩年の論理と同じ論理を実作として既に表してゐる19歳の小説の処女作『(霊媒の話よ
り)題未定』の冒頭最初の段落をご覧ください。

「 そう、もう十年以上も昔になるかね。今と異(ちが)って失業者とか乞食とか云う結構な連
中がぞろぞろして居た頃さ。其頃と言えば全く、今の様にこう戦争が始まって皆の心持ちが引き
しまって居る状態から見れば、全くの所お話にならぬ程馬鹿馬鹿しい事も多かったね。今から
話そうって言う事もまあ其の一つかも知れないね。だがまあそれにしてもなかなか面白い事なん
だ。」(傍線筆者)

そして、『(霊媒の話より)カンガルー・ノート』の最後の呪文。存在の箱の中へと人さらひを
招来するための、さうやつて箱の中から窓を通つて主人公がさらはれて脱出するための、この
小説最後の呪文。存在を表す「( )」の中で唱(とな)へた、存在としての、存在の中での、
最後の呪文。

「(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」(全集第29巻、18
8ページ下段)

(終りの始まり/始まりの終り)

そして、安部公房が奉天で書いた、今残つてゐる、恐らくは一桁の学齢の時の、最初の詩、『(霊
媒の話より)クリヌクイ』。存在の部屋の中へと人さらひを招来するための最初の呪文。

「クリヌクイ クリヌクイ
 カーテンにうつる月の影」

(始まりの終り/終りの始まり)
もぐら通信
もぐら通信                          51
ページ

シャーマン安部公房は、呪文の繰り返しの間(ま)と、文字の間(はざま)の一文字分の空白
に今も生きてゐる。即ち存在、即ちこの世に生きるあなたから見ると、あなたを強烈に惹きつ
ける、無名の人間である何か、即ち言語として、否、言語構造として、全ての作品の中に。言語
構造、即ち存在として。

この一文が、あなたが自分自身であなた自身のために再帰的に調合する解毒剤の参考となり、
あなたが更に一層、孤独と「強靭な自己凝視」の迷路迷宮を果てし無く彷徨(さまよ)ふこと
になることを祈つてをります。

絶望の日々をお送り下さい。
もぐら通信
もぐら通信                          52
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連載物次回以降予定一覧
(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5
回):安部公房の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6)
(9)言葉の眼11
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(17)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」入門
(18)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(19)バロックとは何か
(20)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』
(21)安部公房の詩を読む
(22)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(23)安部公房の書簡を読む
(24)安部公房の食卓
(25)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論
(26)安部公房の女性の読者のための超越論
(27)安部公房全集未収録作品(1)
もぐら通信                         
もぐら通信 53
ページ

【編集後記】

●九堂夜想さんのご寄稿をいただきました。いつもながらありがたうございました。安
部公房の世界に通ふ13句、味はつて下さるとありがたい。小説の読者が、俳句といふ
詩文に触れるといふことが、九堂夜想さんに戴くご寄稿の値打ちだと思つてゐます。何
故ならば、安部公房は終生、存在を歌ひ、存在を荘厳した詩人だからです。リルケのや
うに。

●今月号は、他にも安部浅吉のエッセイ、「『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝」、
「「安部公房の写真」とは何か」、「安部公房の詩の中で歌はれる「転身」について」、
「安部公房の論理学」を同時に用意してゐたのですが、紙面の都合で次号に廻しまし
た。毎号50ページを目安にしてゐるのです。それが丁度、読者にも読みやすい量かと
思ひます。

●ではまた来月

差出人:
贋安部公房 次号の原稿締切は3月24日(金)です。
〒 1 8 2 -0 0
03東京都 ご寄稿をお待ちしています。
調
布市若葉町
「閉ざされ
次号の予告
た無限」
1。安部浅吉のエッセイ
2。安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高校の教授たち
3。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝
4。「安部公房の写真」とは何か
5。リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
6。言葉の眼11
7。その他のご寄稿と記事
もぐら通信
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【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新しい知
見の発見に努め、それを広く紹介し、その共有
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくため を喜びとするものです。
に、 安部公房縁りの方、有識者の方などに僭
越ながら 本誌をお届けしました。ご高覧いた 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、も
だけるとありがたく存じます。(順不同)  ぐら通信の編集及び発行を行うものです。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池田龍 【前号の訂正箇所】
雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治様、宮西
忠正様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 P36、3段落目、下から3行目:『デンドロ
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎 カカリヤ』論(後篇)
様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行様、内藤
由直様、番場寛様、田中裕之様、中野和典様、 1。訂正前:
坂堅太様、ヤマザキマリ様、小島秀夫様、頭木 やはり、命を命として其のままに大切にしたと
弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、 いふ気持ち
藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝
日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田晋 2。訂正後:
哉様(読売新聞社)その他の方々 やはり、命を命として其のままに大切にしたい
といふ気持ち
【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、日本近代文学館、
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處 
 にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集と交
歓の場を提供し、その手助けや下働きをするこ
とを通して、そこに喜びを見出すものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間とその
思想及びその作品の意義と価値を広く知っても
らうように努め、その共有を喜びとするもので
す。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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