世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   

Mole Communication Monthly Magazine

2017年9月1日 第61号 第二版

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あな

迷う

たへ

吾々の間に、最も意義あり且つ必要欠く可からざるものとして、反省と云う言葉が、

事の

あな

ない

迷路

或る場合には殆ど不愉快な程屡々取り交わされるのである。

ただ

を通

けの

って

番地

に届

『問題下降に依る肯定の批判ー是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光であるー』の最初の一行

きま

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ページ

    

               目次

0 目次…page 2

1 ニュース&記録&掲示板…page 3

2 もぐら通信目次総覧…page 10

3 安部公房の小説論総覧:安部公房全集より…page 11

4 荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(2):老人と飛行士:岩田英哉…page 14

   0。SF文学とは何か

   1。老人と飛行士

5 アスペルガーとしての安部公房:アスペルガーを媒介項にして安部公房を読む(2):

  最終回:ヴィトゲンシュタインと安部公房:岩田英哉…page 41

6 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(6)∼安部公房をより深く理解するた

めに∼:岩田英哉…page 64

7 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 69

8 編集後記…page 71

9 次号予告…page 71

・本誌の主な献呈送付先…page72

・本誌の収蔵機関…page 72

・編集方針…page 72

・前号の訂正箇所…page 72

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•

シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。

そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

1。

今月の安部公房ツイート BEST 10

ize

e Pr

Mol

Gold

en

yochi @yochi35 5月24日

ありがとう筒井康隆。

ありがとう安部公房。

ize

Pr

ole

有川オレガ @orega2061 5月26日

ve

Sil

アーサー・C・クラーク先生ありがとうございます。モノリ

スという壁の謎を遺してくれて。『壁』の安部公房先生あり

がとうございます。きょう壁の中に旅立ちます。

しぃら @Sira__lovee_ 5月28日

安部公房のエッセイ短編読んでるけどちょいちょい自分に似ててなんという

かいやーな気持ち

やみ @8383838 5月28日

わたしがいちばんいやーなきぶんになるのは安部公房の砂の女です

fukuhara @aphter17 5月27日

高校生の頃、嫌々読書感想文を書くことになり、安部公房の第四間氷期を読

んだのだが感想が書けず、苦肉の策で著者の学歴(東大医学部)を褒めまくる

というナゾの字数埋めをしたけど、今読んだら彼の良さがわかるだろうか

あれ以来安部公房アレルギーなのだ

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2。今月の演劇

THEATRE MOMENTS @THEATRE_MOMENTS 5月16日

昨日せんがわ劇場にて6月「せんがわシアター・セレクト公演」のJCOM取

材を受けました。メイントークは820さんの洞口さんとMOMENTS佐川。

MOMENTS作品紹介の時には、中原も。カメラマンさんから「漫才!」頂

きました。いつもの前説の感じです。放送日は後ほどお知らせします。

平野 ぷりん @hirano_purin77 5月27日

このキャストで、

演出も安部公房さんとは、、、

いやー、どっかにビデオとか

残ってないかな

さあ、これから帰って

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熊野香名 @kumaaan86 6月4日

劇団fffff『お前にも罪がある』安部公房の世界を丁寧に立ち上げながら、攻め

た演技をやってのける共演者の飯野愛希子さんと遠藤杜洋くん。必見です。上

手な演技を通り越して、面白い!引き込まれる!

【仕事募集】山崎洋平(江古田のガールズ) @yamazaki_yohei 5月26日

今日は、9月の安部公房作品のオーデションです。

それまでは、「仁義ある宴会」台本作りです。

高橋 鮎生 @ayuoworldmusic1 5月19日

こないだのジェノームのライヴで武満 徹作曲、安部 公

房原作、勅使河原 宏監督の映画『他人の顔』からのワ

ルツを演奏しているAyuoの写真です。5/25(木)19:30∼

渋谷公園通りクラシックスのライヴでも演奏します!

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3。今月のパロディー

サバコP @385sentimental 5月25日

魔王「よくぞここまで辿りついた、勇者よ」

勇者「もっと安部公房風に」

魔王「きみはいったい、何をする存在なんだ?」

彼は何かを想出そうと努力しながら、微かに首をふった。その瞬間、冬の小蠅

のように鳴きながら、ぼんやり首をかしげ、そのままどこか見えないところを

見る目つきで、かすか

4。今月の読書会

法政大学文学研究会 @h_bunken 5月25日

文研は常時部員募集中です。来週の木曜日18:40∼は安部公房『無関係な死』

で読書会を行います。興味のある方はぜひB141教室へ!

木曜読書会 @mokuyou_dokusho 5月25日

第二回木曜読書会終了しました。参加者8名、レポートのみ1名の計9名で、『砂

の女』について楽しく語り合いました安部公房好きの方もいらっしゃって、内

容はもとより作者についての見識も深まった大変有意義な会となりました。ご

参加くださった皆様まことにありがとうございました

5。今月の写真

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masako 安部公房の広場

toda @kumamuta

5月25日

安部公房の写真

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6。今月の安部公房論

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 5月23日

安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://

ci.nii.ac.jp/naid/40006272201 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 5月19日

劣性の思想--安部公房『カンガルー・ノート』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/

120000980678 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 5月16日 その他


メビウスの輪--安部公房「砂の女」 (特集 脇役たちの日本近代文学) -- (脇役28選)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40005656921 …


詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 5月14日

〈おれ〉の〈ユダヤ性〉にみる実存的状況 : 安部公房『赤い繭』論 http://

ci.nii.ac.jp/naid/110000437716 …

7。今月のお墓

吉川浩満 @clnmn 5月22日

「作家の墓」という面白いサイトがあって、English Versionへのリンクがあるんだ

けど、これがGoogle翻訳へのリンクで、安部公房の墓がTomb of Abe Public House

とかになっていて面白い。

http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-n-sakka.htm

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8。今月の講演

ホッタタカシ @t_hotta 5月22日

今年の2月から5月にかけて、メキシコではUNAMアジア研究講座が主催する「安部

公房シンポジウム」が行われていた模様。>RT

http://www.mx.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/00_000931.html …

2月16日,UNAM人文科学センターにおいて,

同大学アジア研究講座主催「第三回日本文化シ

ンポジウム」の一環として,サンブラノ東京大

学准教授に関する講演会が行われ,当館より清

水公使がコメンテーターとして参加しました。

サンブラノ准教授は,講演会において,安部公

房の作品における普遍性,大都市における社会

的激動の反映などについて説明を行いました。

また,作品の登場人物が,その複雑性,魅力,孤独,強迫観念,死の観念などに特徴づけられる
旨述べました。
清水公使は,自身の高校時代,安部公房が一定層に熱心に読まれていた旨述べると共に,参加者
に対し,日本文学の翻訳者がもっと増えて欲しいとの期待を表明し,また,安部公房や他の日本
文学作品を是非堪能して欲しい旨述べました。

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もぐら通信目次総覧

創刊号から今月号、更に未来に亘つて発行されるもぐら通信の目次専用のページを
設けました。過去の記事や投稿を検索するためにお使ひ下さい。鋭意、随時更新中
です。

http://molecom-all-the-contents.blogspot.jp

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ページ10

安部公房の小説論総覧

安部公房全集より

岩田英哉

ある機縁あり、我がMacintoshの中に置いてをいてももつたいないので、広く世に伝へて、

読者の安部公房論に資することもあらうかと思ひ、ここに安部公房の小説観について安部公

房が発言してゐる全集の当該ページをファイルより取り出して以下にまとめましたので、ご

覧下さい。

あなたが安部公房論を書く際に、あなたの筆が小説論に及ぶ場合には、あるいは安部公房の

作品を読むにあつて必要な場合には、これらの作品を其の根拠として下さい。論ができまし

たら、もぐら通信へお寄せ下さると有難い。4つには便宜上分けてありますが、お互ひに相

互参照的(referencial)であることはいふまでもありません。

I 物語は、時間の空間化であるといふ安部公房の小説観

時間の空間化、即ち函数化といふ小説観はこのまま安部公房の演劇観であり、これを演技論

に問題下降したものが、安部公房スタジオの演技論の中核概念「ニュートラル」である。

1。『歴史を棄てるべき時』:全集第25巻、392ページ:

武満徹との対談にこのことが出てくる。それから、プロットの強固さについて:ポーから学

んだことが。

2。安部公房氏(散文精神):全集第28巻、298ページ

3。『賭け』という小説がある:全集第11巻、305ページ

4。『作品が命じる』:全集第19巻、21ページ

5。『作品の側に主導権(私の小説作法)』:全集第19巻、21ページ

6。『抽象的小説の問題』:全集第7巻、154ページ

7。『何を書きたいか』:全集第4巻、348ページ

8。『なぜ書くか』:全集第28巻、69ページ

9。『生の言葉』:全集第1巻、481ページ

10。物語とは:第23巻、111ページ

11。わが作品を語る:第30巻、174ページ

12。わが小説(「第四間氷期」):第15巻、436ページ

13。わが文学の揺籃期:第23巻、24ページ

やはり1970年には、前期20年を振り返ったということを、この題名は意味している。

14。わたしの小説観:第4巻、282ページ

15。わたしの小説作法:第19巻、21ページ

16。わたしの文章:乳5巻、343ページ

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11

ページ

17。周辺飛行1:物語とは(全集第25巻、111ページ)

「物語とは、因果律によって世界を梱包してみせる思考のゲームである。現在というこの瞬

間を、過去の結果と考え、未来の原因とみなすことで、その重みを歴史の中に分散し、かろ

うじて現在に耐え、切り抜けていくための生活技術としての物語。」

18。私の文学観 演劇観:全集第23巻、350ページ

19。『僕の小説の方法論』:全集第3巻、177ページ

20。全集第23巻、109ページ:夢化作用ー第13回女流新人賞選評

ここに積算の文学についての自分の創作方法のわかりやすい説明がある。これを活用するこ

と。

21。『散文精神』:全集28巻、298ページ

22。『小説の書き方』:全集第4巻、492

23。『小説の好悪像と書き方(二)』:全集第4巻、492ページ

24。『小説の秘密』:全集第27巻、54ページ

25。『小説は考えて』:全集第25巻、537ページ

26。『小説は無限の情報を盛る器』:全集第28巻、49ページ

27。『小説を生む発想』:全集第23巻、337ページ

28。『ストーリー主義の克服』:全集20巻、136ページ

29。『ストーリーという罠』:全集第8巻、141ページ

30。『「砂の女」と小説作法』:全集第19巻、207ページ

31。『創造のプロセスを語る』:全集27巻、29ページ

32。『創造のモメント』:全集第2巻、98ページ

33。『誰のために小説を書くか』:全集第2巻、375ページ

34。『僕の小説の方法論』:全集第3巻、177ページ

II 仮説設定の文学とSF文学論

自分の仮説設定の文学の淵源をポーに求めてゐる

1。私の文学を語る:全集第22巻、42ページ上段

子供のころから文章を書くのが好きだったという発言がある。小学生のころ作り話をして先

生に盗作の疑いをかけられて叱られたこと。そうして、中学二年頃に、ポーに熱中したこと

が発言されている。

このインタビューは、この前後も非常に重要な安部公房の発言を含んでいる。

2。私の創作ノート:全集20巻、162ページ

3。『仮説の文学』:全集第15巻、237ページ

4。『仮説・冬眠型結晶模様』:全集第7巻、77ページ

5。『空想科学小説について』:全集第15巻、237ページ

6。『空想科学小説の型』:全集第8巻、252ページ

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12

ページ

7。『空想的リアリズム』:全集第7巻、50ページ

8。『ぼくのSF観』:全集17巻、288ページ

9。『SFの流行について』:全集第16巻、376ページ

III 小説の構造と言語の構造の一致と同一性の実現

安部公房が考へてゐたのは、言語構造と作品構造の一致と同一性の実現である。作品構造が

そのまま言語構造である小説を書かうとした。以下、これに関する当該箇所を。

1。安部公房氏語る;::第29巻、194ページ

『長編書き下ろし(仮題「飛ぶ男」)やってて、ひどい病気して。で、入院してる間に、

ちょっと焦ったんじゃないか。あんまり長いこと書いていないこともあるし。それで向こう

側から、あるものが見えてきたんだよ。』

2。安部公房さんに聞く:全集第29巻、228ページ:

『カンガルー・ノート』は、「全体がびっくり箱みたいに」「フランス料理から日本の懐石

まで全部入っているような」

3。大江健三郎との対談:「構造が全部ぬけたテントの梁みたいな小説」(全集第29巻、

74ページ上段)

IV 安部公房の言語論

『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号9

の一章「4。言語論といふ毒(問題下降の毒)」の最後に、安部公房の言語論をまとめて引

用しましたので、ご覧下さい。

安部公房の言語論に関する発言はこれ以外にも全集のあちこちに多くありますが、ここでは

小説論との関係で僅かに上記の、しかし本質を語つてゐる、参照に留めます。安部公房の言

語論に関する作品の総覧はまた別途掲示します。とはいへ、安部公房の言語論は、実は単な

る言語論一分野の話ではなく、実にバロック的な人間らしく範疇横断的に、小説構造論、言

語とエロス(性愛)論、逆進化論と結びついてゐるのです。それは、全集の次のVに掲げた

当該ページをご覧ください。いづれにせよ、言語論の総覧は稿を改めて別途掲示します。

V 逆進化論

この年1978年は、『密会』の刊行後で、逆進化の言葉が多い。とすると、『密会』と

は、逆進化論、そして言語とエロス(性愛)、言語構造と小説構造、言語のデジタルとアナ

ログ性を巡る小説といふ事になる。これらの主題に関する発言は、全集の次のページに明確

である。

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13

ページ

1。全集第26巻、143ページ:「密会」の安部公房氏

2。全集第26巻、146ページ:構造主義的な思考形式:渡辺広士のインタヴュー

3。全集第26巻、193ページ:都市への回路:『密会』を巡って逆進化論が始まる。

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ページ14

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む

(2)

老人と飛行士

岩田英哉

0。SF文学とは何か

この間、詩集『骸骨半島』を更に読み、巽孝之氏編著『日本SF論争史』を通覧し、『定本

荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』を手に取り、この詩人のweb小説『ムーア

から来た男』を読み、一体SFとは何かといふ問いを立てて答えて見た。それは、かうであ

る。

SF文学といふ言葉が普通に使われてゐる以上、人の世の言葉についての常で、意味はよくわ

からないけれども、何か意識の深いところで人は其の意味を了解してゐるに違ひない。さう

であれば、これもまたさう呼ばれる以上、文学の何かであり何かの文学である。それでは、

文学とは何かといへば、これは私の二十歳前後以来変はらぬ定義であるが、文学とは、言語

に拠る藝術、即ち言語藝術である。そして言語とは何かといへば、言語は機能である。これ

が安部公房ならずとも徹底的に言語の本質を考へれば誰でも至る言語機能論である。これは

安部公房の専売特許ではない。さて、言語が機能だとして、この言語機能を用ゐた言語藝術

の最高度のものが詩(poetry)である。これは前回(1)の私の詩の定義に拠れば、詩

(poetry)は連想の藝術であり、同じことがアリストテレスによれば、連想は人類最高の能

力であるといふからには、詩こそ言語藝術の最高度のもの、即ち俗にいふ文藝の華、文学の

精華である。とあれば、文学の精華は詩である以上、SF文学にもSF詩といふものがあらう。

さて、ここでかう考へる。

一体、SF詩と非SF・詩の間に違ひはあるだらうか?

あるとすれば、選択する素材と対象の相違だけではないか?

私はさう思ふ。とすれば、SF文学と非SF・文学の相違は、詩が其の言語による文藝の精華

であり最高位にある言語表現であれば、その下位に位置する言語藝術である小説にも、全く

無いことになる。文学は文学であるといふ再帰的な一行を書く以外にはなく、しかしまた、

書くことができる。勿論、文藝の最高位に位置する小説も、当然あるのであり、その中には

詩を歌ふといふ、我が国の伝統に照らせば大和物語以来の歌物語を書く、安部公房のやうな

古典的・伝統的な日本語の作家もゐるわけである。

安部公房が十代から二十代前半まで表立つては詩人であり、実際には生涯詩人でありながら

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ページ15

小説を書いたことと(それは下記のスペクトラムに示すところによれば安部公房の書いた全

ての小説はSF小説だといつても一向さしつかへないものである)、荒巻義雄といふSF作家

が、今まで実は詩人が小説を書いてゐたのだといつて70歳を超えてから此の第一詩集を出

したことは、文学といふ藝術の本質に関する、topologicalに時間を捨象して幾何学的に対

称的にある何か表裏一体のこととして思はれる。

安部公房は戦後直後の二代詩誌『荒地』と『列島』の、後者の創刊号の編集委員であり、前

者の詩人集団は此の詩人が「東京での遊学時代『荒地』で育った世代だ。今は一九五一年の

もの一冊しか残っていないが、同人らの詩は新鮮で実験的で、生気に満ち、若者の心を揺さ

ぶったのである。(『荒地詩集1951』国文社)」と語つてゐる(詩集の「覚え書き」、

99ページ)こともまた、下記の[註1]と相俟つて、ここでも二人の詩人は表裏一体の関

係にあるやうに思はれる。二つの詩誌に共通するのは、シュールレアリズムです。といふこ

とは、この詩人と安部公房に共通するものの一つは、シュールレアリズムだといふことにな

ります。

[註1]

『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用してお伝へします。

「[註8]

『列島』は、敗戦後の日本語の世界の二大詩誌『荒地』と『列島』の片方の雄であり、『荒地』と並んで詩の

新たらしい潮流を生み出した詩誌でした。

『列島』がシュールレアリスムからドキュメンタリズムを志向する詩誌であり、尚且つその詩誌の名前が列島

ということから判るように、日本の国と国民のあり方を問題意識に持っていて、サークル詩の活動を組織して、

全国的に組織だった活動を行ったのに対して、『荒地』は、個人としての詩人を中心に、お互い自律的にその

活動を行った詩誌です。後者の現実認識は、大東亜戦争敗北後の日本の国土は、その精神の国土も含めて、荒

地であるというものであり、詩誌の名前はそのことに由来します。二つの詩誌に共通するのは、シュールレア

リズムです。後者にあって前者にないのは、戦前からのモダニズムです。前者『列島』は、1952(昭和27)年3

月創刊,1955(昭和30)年3月終刊、後者『荒地』は、1947(昭和22)年9月創刊、1948(昭和23)年6月

終刊。『列島』と安部公房については、稿を改めて論じます。」

結局、此のやうな考への順序を踏むことと、冒頭に挙げた作品を読んで至った私の結論は次

のやうな、階調で表した文学地図とでもいふべきスペクトラム『近代日本文学と科学のスペ

クトラム』である。二つのスペクトラムの帯は横に開いてありますが、両極端は、一捻りさ

れて接続されてメビウスの環となつてゐます。そのやうに想像してご覧ください。このスペ

クトラムに至るまでの思考プロセスは省略して、後日のSF文学を論ずる際に、必要に応じて、

この地図とともに詳細な説明をしたい。文学の採用する素材と対象に焦点を当てて見たスペ

クトラムです。

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16

ページ

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このスペクトラムに技術のスペクトラムを追加すれば、医学、工学、農学、薬学などの応用

技術または応用科学のスペクトラムを描くことができ、さういつた世界に材をとつたSF小

説が生まれる。原理を考へる科学(science)を現実の中に応用するengineering(応用技術)

の階層である。安部公房ならば、砂に関する地質学または地学、医者と患者に関する医学、

顔の表情に関する認知学、探偵のさ迷う地図学、箱男の位相幾何学といふ事になる。これら

に共通して更に心理学があるでせう、あるいは精神医学が。

荒巻義雄といふ詩人は、全く安部公房と同じ考へ方で、科学(science)の階層で製作した

模型(model)を実際の現実的な問題の解決に役立てる技術者(engineer)の階層に降ろし

て、そこで実践的に使はれる応用技術またはengineeringの関係を、Kunst論、ドイツ語の

Kunst(クンスト)とは単なる技術も含み藝術といふartの意味を一緒に含む語ですが、その

SF文学Kunst論である『術の小説論―私のハインライン論』(『SFマガジン』1970年五

月号発表)の最後に『日本SF論争史』採録に当たつて自ら註記をし、医者と患者の関係と

いふ譬喩を使つて病気を治療するための術(Kunst)に喩えて、技術の問題として此の関係

を説明し、SF文学を考へてゐる。SF作家は従ひ、模型としての体系的な知識に習熟し、応

用技術としての執刀用のメスも持つてゐなければならないといふ訳です。さうして、この論

理の延長に「戦争シミュレーションへの展開」を考へてゐると言つてゐて、これは其のまま

現実をズラした、さういふ意味では模型と現実の間にある差異をみるといふ、さう、敢へて

此処でもバロック的と言ひませう、安部公房ならば『人間そつくり』の中に火星人が主人公

の人間に語るtopology(位相幾何学)の論理と全く変はらない。[註2]SF作家としての此

の詩人の書いた架空戦記物のSF小説の由緒がよくわかります。後述でするニーチェの『ツァ

ラトゥストゥラはかく語りき』の主人公ツァラトゥストゥラの科白によれば、「1が2にな

つた。ツァラトゥストゥラが通り過ぎたのである。」といふことなのです。

超人たる主人公が通り過ぎれば、通り過ぎられたものであるKがK になる。これがSF文学な

のです。主人公は皆、このやうな超能力を有するものたちである。その能力は作者自身の能

力と同じで、現実といふKをズラしてK にするのです。多次元宇宙の世界です。この詩人が

高校生の時代に書いた最初の詩に歌はれるKさんといふ女性もまた「秋が来ました」と話者

が呼びかけた瞬間に時間の先後を問はずに、従ひ超越論的に、詩人の中でK になつた。それ

故に「以来、このKは私の大事な秘密の記号になり、性別を変えてよく私の作品に登場する」

のです。このK を作者は「Kは、記号以上の内包(シニフィエ)を持つ変化自在な人格なの

である」と言つてゐます。これはこのまま、この詩人のデヴュー以前の小説『ムーアから来

た男』に登場する人間に憑依する生命体になつても少しも不思議ではありません。また同じ

理由と感覚によつて、作者の処女長編で其れとは知らずに採用したプリコラージュといふ(レ

ヴィ・ストロースの構造主義哲学によれば、諸民族に伝わる神話の構造として同じであつた)

このKをK に対概念として変形させるといふ方法が「芥川龍之介が今昔物語などの古典の書

きかえをやったのと同じことです。ぼくは、芥川こそSF作家の元祖ではなかろうか、と思っ

ているくらいです」(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』の「あとがき

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ページ18

に代えて」、355ページ)と語る根拠になつてゐます。この説は論理的に正しい。芥川龍

之介も古典を変形させる規則について考へたに違ひないからです。さうでなければK は生ま

れない。

[註2]

この論理を『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)より引用します。

「話は『カンガルー・ノート』に飛びます。ここに猫と鼠の関係を解く鍵があります。その鍵は、小説の冒頭

に主人公が職場の上司と交わす会話の中の、生態学的分類に関しての、有袋類を巡る動物の分類にありました。

以下、その会話です。

「ぼくはただ、カンガルーの生態学的特徴に関心をもっただけなんです」

「で、君の提案の真意は……要約すると、ノートの何処がカンガルー的なの?」

「何処と言われても……」

「何処かに袋がついているんだろ?」

「つい先週、週刊誌に『有袋類の涙』という記事が載っていて……」

「そう言えば、コアラも有袋類だったっけ。待てよ、そう言えばうちの息子が履いていた靴、たしかワラビー

とか言っていたっけ。ワラビーもカンガルーの一種だね?どこか愛嬌があるんだよ。有袋類ってやつは」

「その『有袋類の涙』という記事によると……」

「とにかく、週末までに、ラフ・スケッチでいいから……もちろん部外秘……採用に決まれば、賞与はもちろ

ん、昇給の可能性だってあるんだ……期待していますよ」

「でも有袋類って、観察すればするほどみじめなんです。ご存じとは思いますけど、真獣類も有袋類も、鏡に

映したみたいにそれぞれに対応する進化の枝をもっていますね。ネコとフクロネコ、ハイエナとタスマニア・

デビル、オオカミとフクロ・オオカミ、クマとコアラ、ウサギとフクロウサギ……すみません、つい脱線して

しまいました」(全集第29巻、83ページ;最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承と作品継承につ

いて』もぐら通信第57号を参照下さい)

ここに言はれてゐるのは、真獣類と呼ばれるネコ、ハイエナ、オオカミ、クマ、ウサギに対して、有袋類が対

になつてゐて、フクロネコ、タスマニア・デビル、フクロ・オオカミ、コアラ、フクロウサギと、分類上対照

的に「鏡に映したみたいに」並んでゐるといふことです。かうしてみると、安部公房の関心は、主たる真獣類

にではなく、存在を宿す形象である凹を意味する袋を前綴に持つ有袋類にあることはお判りでせう。後者は、

安部公房のクレオール論に通じる親のない子供、主語のない子供、主語(主体)ではなく述部にある目的語(客

体)こそが真獣類に対して本質的な価値を持つといふ論理による有袋類の選択なのです。主人公は続けて次の

やうに上司に弁明します。

「……たとえば、リスの背の縞模様、けっこう明瞭なうえに、ちゃんと個体差が識別されます。でもフクロリ

スの縞はぼやけていて、個体差もないにひとしい。それからフクロネズミ、動作もけっこう敏捷だけど、ほん

ものの鼠にはとうていかないません。有袋類というのは、結局のところ、真獣類の不器用な模倣なんじゃない

んでしょうか。その不器用さが、一種の愛嬌になって、身につまされるというか……」(全集第29巻、83

ページ下段∼84

ページ)

この箇所を見ますと、やはり、真獣類が其の名前の通りに本物であるならば、これに対して、有袋類のネズミ

は本物ではなく、偽物または贋物の鼠だといふことに、主人公の考へでは、なる。「真獣類の不器用な模倣」

ですから、全く同じではなく、そこに何か差異があつて且つ似てゐる、即ち火星人は「人間そつくり」だとい

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ページ19

ふのと同じ論理で、「真獣類そつくり」が有袋類の特徴だといふのです。この論理は安部公房らしい。有袋類

は火星人である。」

(『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』もぐら通信第58号)

さうして、この図を描きながらまた改めて思つたことは、ドイツ語の世界では、文学とは

die Literaturewissenschaft、リテラトゥーア・ヴィッセンシャフトといひ、英語に直訳す

ればLiterature Science、即ち文藝科学であり、これが文学といふ意味であることは自明と

いふことになり、さうして此のLiterature Scienceは、die Geisteswissenschaft、即ち精神

科学の一分野なのである。

SF文学の世界の人たちとは別に、しかし同様に、私の気づいてゐることで、非SF・文学の

近代の日本文学の、特に先の戦前の、哲学とliberal artsに関する教育を受けてゐない戦後教

育で育つた読者の研究や文学論には致命的な欠陥があるといふことがある。この致命的な欠

陥とは、方法論(Methodologie、methodology)と、従ひ方法(Methode、method)の

欠如といふことです。もし文学が上にいふやうな科学であるならば、方法論と方法を、SF文

学者たちのSF論争の歴史が示すやうに、まづ最初に論ずるべきである。安部公房はこのこ

とを、三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』で語つてゐる。(安部公房全集第20巻、7

4ページ)[註3]しかし、三島由紀夫も『美しい星』といふ優れたSF小説を書いてゐるこ

とを考へて、均衡(バランス)よく二人の対談をお読み下さい。三島由紀夫は、安部公房と

話すときにはドイツ語を使つてゐる。これでいっぺんに旧制高校生の時代の雰囲気を共有す

るのです。かういふところからも、二人の交流の親密な事がお判りでせう。

[註3]

「メトーデの伝統

三島 伝統の問題があるな。

安部 伝統はよそうや。

三島 安部公房のような伝統否定と、おれのような伝統主義者とが、どういう風にケンカするかということは、

おもしろいよ。

安部 おれも科学的伝統は幾分守っているからな。

三島 でも科学には、前の学説が否定されたら、どうやってやる?

安部 方法だよ。

三島 メトーデの伝統か。

安部 そうそう、事実というものはだね、科学のなかでは非常にもろいものだよね。だから好きなんだ、俺は、

科学は。

三島 日本の伝統は、メトーデが絶対ないことを特色とする。

安部 それが伝統か。困ったな。

三島 それはそうだよ。絶対にそう思う。日本では、伝承というものにメトーデが介在しないのだ。それがい

ちばんの日本の伝統の特徴だよ。たとえば秘伝というものがあるだろう。(略)」

(安部公房全集第20巻、74ページ)

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20

ページ

私が云ひたいことは、『日本SF論争史』を読むと、安部公房に典型的なやうに、SF文学の

世界の作家の特徴は、方法論と方法を実作者自らが論ずるといふことに於いて、非SF・文

学の世界の作家たちとは著しく異なってゐるといふことである。簡単に言へば、理論と実践

です。小説家が批評家であり、批評家が往々にして小説家である。もつと言へば、作家自身

と、従ひ作品自身が自己批評を含んでゐて外部に開かれてゐるといふこと、体系の中に最初

から反体系を入れるといふことです。それ故に編者の巽孝之氏が最初に配置された「序説 

日本SFの思想」の二つ目の段落で「というのも、SF史とはけっきょくSF論争史のことであ

るからだ」といふ事の次第なのです。この作品内に自己批評、自己批判、即ち回帰するたび

に少しづつズレる自己を受け容れる安部公房の作品は、その典型です。それが典型であるの

は、言語藝術家の思考論理が再帰的であり、合わせ鏡の世界を構成してゐるからです。これ

は、19世紀後半のフランスの象徴派の詩人の考へたことでもありますが、そもそもボード

レールがポーに影響を受けて詩を書いたといふのなら、ポーもさうであり(ポーがさうなら

SF文学もさうでせう)、しかし何よりも同じ19世紀の後半の時代をポーの後に生きた哲

学者ニーチェの論理の元にあるこれらの人々の論理であり、1875年にプラハで生を享け

たリルケの詩がさうであり、同じ年齢のドイツのトーマス・マンの小説がさうである。外部

に開かれ、体系に反体系を入れるとは、夢に現実(うつつ)を、現実に夢を入れることであ

り、このやうな次第で、言葉が象徴的な性格を帯びることになります。

この歴史的な欧州19世紀の遺産をSF文学は受け継いでゐるといふことになる。即ち、上

掲『日本SF論争史』の掉尾を飾る大原まり子のエッセイ「SFの呪縛から解き放たれて」の

「d わたしにってのSF、SFの理念」に書いてゐるやうに「SFが、聖書を持つ文化から生ま

れてきたことは、興味深い事実である。」「全能の神の存在を受け入れることができたら

(略)心が安定するかわりに、自分というものの一部が死んでしまうような気がした。」と

ある通りです。正直で素直な人だ。欧州白人種キリスト教徒の文明の最高位にゐる哲学者も

詩人も同じことを感じ考へた。これが、私の考へるSF小説の起源である。唯一絶対の全知

全能のGodは論理的に普通に考へておかしいと考へた其の個人は、白人種でなくとも、他の

私たち日本人も含めた有色人種のやうに、理の当然として汎神論的存在論に、宗教ならば多

神教の世界、八百万の世界に、赴く。何故ならば、唯一絶対の全知全能のGodの創造し給ひ

し宇宙も、その宇宙の外に外部を持つてゐるからである。これを否定したら、スコラ哲学者

たちの議論になつて、延々とGodの存在を証明しようとすると論理矛盾の説明をすることに

終始して百年単位で数へる時間を浪費することになる。このやうなスコラ哲学を十分に学ん

だ上で、17世紀のバロックの哲学者デカルトのcogito ergo sumの一行が生まれた。[註

4]

[註4]

これも訳しようが、即ち解釈が日本語では幾つもある。即ち上の一行は、次の4行を含んで全体である。

(1)私は考へる、それ故に私は存在する。

(2)私が考へる、それ故に私が存在する。

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ページ 21

(3)私は考へる、それ故に私が存在する。

(4)私が考へる、それ故に私は存在する。

SF文学は、この起源からして、反、といふよりも、最初から哲学的思弁の領域を含むことか

ら、唯一絶対の全知全能のGodを信ずるキリスト教から生まれた現実の政治・経済制度に関

しては、超資本主義であり且つ超民主主義である。従ひ、大原まり子氏のいふ「SFマインド

があるとは、世界を外側から眺めるような巨大なものさしを持っている、ということだと

思っている」(傍線筆者)といふ考へは、SF文学の本質を歴史的にも論理的に言ひ当てて

ゐる。それ故に、地球外の宇宙も含めて空間的に、また時間の単位を幾らでも大きく取るこ

とに不思議はなく、さうして其のやうな宇宙は最新の科学的知見の採用による事になるでせ

うから、最初のSFはScience Fictionと呼ばれる事になつたが、それは時間の中での歴史的

な由緒、由来、縁起から来た命名であり、それはそれとして一旦その文学範疇が生まれたか

らには、今度は時間を捨象したSF文学の構造と特色を見た上での命名があるだらう。後者

の命名が、そのままSFといふ略称を生かして、上に述べたやうな最高度の哲学的な領域の文

学といふ意味で、また方法論をそれ自体に含む再帰的な、self-referencialに批評的・批判的・

反省的(reflective)な文学であるといふ意味で、Speculative Fictionといふのが正式名称

だとしても議論の余地はないやうに思はれる。詩人荒巻義雄の脳内宇宙も、現実(うつつ)

に対しては外部宇宙であるのだ。要はどこに立つて、その一行を書くのかといふ事に尽きる

のです。

話が逸脱しますが、大原まり子氏のSF論の「e. 資本主義・近代科学・SF・女性性」に次の

箇所があることは、1977年に安部公房の刊行した『密会』を巡つて安部公房の主張して

ゐる「逆進化」論にそのまま通じてゐて面白い。安部公房の「逆進化」論は、上述したSF

文学の性格からいつて、そのまま超資本主義であり且つ超民主主義になつてゐて、これは、

世界中の安部公房の読者が論ずべき「二十一世紀の安部公房論」の主要な主題の一つです。

「当然、収益や拡大といった資本主義的な効率は落ちるだろうが、もはや経済発展が失速し

なければ、人類の今回の文明がやってゆけないことは、冷静に考えれば明らかではないかと

思う。

 体制が変わらざるを得ないこの時期に、大新聞の記者がSFバッシングを行なったのは本

能的な恐怖からではないだろうか。

 なぜなら、女性性というとき――惜しみなく与えるというとき、おそるべき大地母神の姿

が現れるからだ。

 奪う側はあくまで強者で、奪われる側は弱者である、という視点は、たやすくひっくり返

される。」(同書、371ページ下段)

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ページ22

欧米白人種キリスト教徒のいふ汎神論的存在論とは、白人種の古代感覚の復活であり、古代

のそれぞれの民族の信仰し日常身近にゐる神々の復活のことなのです。古代ローマ帝国のコ

ンスタンティウス皇帝を名乗る父子二代の強大な権力を利用してキリスト教が迫害し、弾圧

し、追ひ払つた古代の欧州各民族固有の神々の蘇生と復活、この感情と裏腹な論理が、SF

文学の根底にある哲学の論理と感情といふことになります。これは当然ながら、

Speculative Fictionになりませう。このことを『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄

昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む』(もぐら通信第59号)でSF文学の世界

に即して、またこの優れた評論集の力を拝借して、次のやうに私は書いたのです。

「どうも此の著作を読みますと、SF文学といふのはそもそも其の出自から言つて、バロッ

ク文学ではないのか? [註5]これが、サイバーパンクとかスチームパンクとかいふSF文学

的なパンクの正体ではないのか、またクルトゥフ神話と呼ばれるラヴクラフトによるものも

同様の理由で、さうなのではないのか。ラヴクラフトがアメリカ人だといふのが面白い、即

ち贋の神話の創造であることは全く、他のアメリカ製の文物に徴しても、同じだからである。

[註7]即ち、安部公房が確信的に予見したやうに、SF文学は汎神論的存在論の世界では

ないのか? YES。と、私はいひたいのであるが、あなたの意見は如何か。

[註5]

『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』によれば、パンクと呼ばれるSFのサブ

ジャンルについては、次のやうな、1985年8月31日に「北米SF大会(ナスフィック)で開催された世界

最初の「サイバーパンク・パネル」における作家ジョン・シャーリィの発言が、その理由を雄弁に物語ってい

るだろう。」とあつて、このジョン・シャーリィの発言を著者は、巽孝之著『サイバーパンク・アメリカ』(勁

草書房、1988年)25ページより次のやうに引用してゐます。傍線筆者。

「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だろう。いっぽう、SFは多くの文化̶ ̶主流文学、現代詩、ロッ

ク ̶を吸収するジャンルだった。パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した̶ ̶それはいってみれ

ば〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり、少なくとも二〇年間というものSFの成長を不毛にしてきたク

リシェの一群を拭い去ってくれるひとつの浄化作用なのだ。サイバーパンクは、だからパンク音楽における怒

りのエネルギーと幻視力の強さをあわせもった新たなメディア・マトリクスを利用する点でSF的プロセスの等

価物と呼ぶことができる。」

「パンク・ロックはあらゆるものを歪曲する力だ」といふ言葉は、「パンク・バロックはあらゆるものを歪

曲する力だ」と、私には聞こえる。何故ならば、「あらゆるものを歪曲する力」があるからだ。バロックの語

源はbarrocoといふポルトガル語で歪んだ真珠といふ意味であれば、これは連続量、連続体としての差異をい

つてゐるのである以上、そしてバロックの概念は差異である以上、パンク・ロックが「あらゆるものを歪曲す

る力」があるのは然るべきことだと私は考へる。従ひ、本文で論じたやうに、SFそのものの出自がバロックで

あるので、即ち汎神論的存在論であるので、「パンクはそんなSFを強く弁護しうるものとして浸透した」とい

ふのもまた当然です。それが証拠に、この作家は続けて「〈水の中の水〉のようにSFのなかにしたたり」とい

つて、バロックの概念である差異といふ概念が再帰的な概念であることを発言してゐるのも、然るべき発言の

論理の筋道です。それ故に、安部公房の「奉天の窓」の格子窓の論理[註6-1]、即ち「メディア・マトリク

スを利用する」といふ言葉も正しいし、「SF的プロセスの等価物」といふ等価交換についての言葉も正しい。

この作家は非常に明晰な文体を有する作家です。本質的にものを考へて生きて来た作家です。

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ページ23

[註6-1]

奉天の窓については『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通

信第32号及び第33号)をご覧ください。

[註7]

安部公房の世界から観たアメリカ文化の贋物性の起源については、『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリ

カ∼』(もぐら通信第22号)をご覧ください。

上記のスペクトラムを見れば、SF文学があらゆる意味で科学的であることは、少しもおか

しいことではなく、むしろ純文学と呼ばれるものを含む非SF・文学の方が思考の範囲が狭

隘であつて、その文学の適用範囲に科学的要素を含まないことを、むしろ非SF・文学の小

説家と批評家が自らに問ふて疑ふべきだといふ事になる。疑似科学でいいのだ。事の本質

は、それが言語機能を発揮した、現実であるかどうかといふことである。晩年安部公房が称

揚した1981年度ノーベル文学賞受賞者エリアス・カネティの自伝でいふ言葉を引用すれ

ば、それが「第二の現実」(die zweite Wirklichkeit、ディ・ツヴァイテ・ヴィルクリッヒ

カイトとカネッティは云つてゐる。シェークスピア役者であつた父親を早くに亡くし(同じ

役者である)母一人子一人の親子で、母親と離れてスイスの学校で寄宿舎生活をしていた1

4歳の時に思つた言葉である此の現実)になつてゐるかどうかである。

文学(Literature Science)は科学(Science)である。方法論を持つた此の文学を安部公

房は(ポーに淵源する)仮説設定の文学[註6]と呼び、人間は透明人間になり、空を飛

び、植物や繭に変形する。少しも文学と科学は矛盾しない。何故か?言語は機能であるから。

アインシュタインの相対性理論も、言語構造に基づき、その外へ出ない。そして、その外宇

宙へと出ることもまた言語に拠るし、拠る以外にはない。[註7]それを物理学のやうに、

記号と数字で計算して表すか、文学のやうな精神科学に於いて、記号と文字で計算して表す

かの違ひである。安部公房は、冒頭共有と結末共有、そして結末継承といふ作品間の接続関

係の創造によつて、そして言語機能を使つて言語機能のままに、すべての作品群を一つの存

在となしたことは、「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)で証明し

た通りです。此の接続関係が機能である。安部公房は、個々の作品を機能の集合となし、こ

れによつて一生涯に亘る総ての作品全体を互ひの接続関係によつて再帰的な、self-

referencial(自己参照的)な存在となした。合わせ鏡の世界である。荒巻義雄といふSF詩

人も(かうして見るとSFといふ略号はすつかり記号化して、方法論と方法を持ち科学的であ

ることを意味する前綴になつてゐる)、安部公房と同じことを企図して生きて来たし、これ

から更に徹底した其の実現に向かつてゐることを、次のやうにいつてゐる。長編小説の連作

について、既刊の2作、即ち『白き日旅立てば不死』『聖ステファン寺院の鐘の音は』につ

いて名前を挙げたあと、3作目について次のやうに語つてゐる。

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ページ24

「さらに第三部が予定されているが、発表は、多分、私の死後になるだろう。ただし、第三

部の題名だけは決まってる。『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』がそれだ。

 人生の最期、臨終の脳が見せてくれるドラマは、多分、合わせ鏡のような構造だと思

う。」

(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』月報)(傍線筆者)

[註6]

安部公房の仮説設定の文学論を引用する。

「1962年(38歳)に安部公房は「SFの流行について」(全集第16巻、376ページ)と題したエッセ

イ(評論)を書いています。その二つ目の章は「仮説の素材としての科学」と題されていて、ポーが仮説の文

学の典型として論ぜられています。そうして、その章の最後に次のように言っています。

「日常性とは、言い換えれば、仮説を持たない認識だともいえるだろう。いや、仮説はあるのだが、現象的な

事実と癒着してしまって、すでにその機能を失ってしまっているのだ。そこに、あらたな仮説をもちこめば、

日常性はたちまち安定を失って、異様な形相をとりはじめる。日常は活性化され、対象化されて、あなたの意

識を強くゆさぶらずにはおかないはずである。

 ポーの気球も、大渦も、しゃべる心臓も、けっきょくはその仮説にほかならなかったのだ。科学は目的では

なく、仮説を形象化するための、素材にすぎなかったわけである。

 なにも、ポーにかぎらず、一般にSFを、仮説の文学だと考えても差しつかえないのではあるまいか?」

更に、このエッセイの最後の章「SF的発想の再認識を」の最後で次のように、ポーについて語って、エッセイ

を締めくくっています。

「さて、こうしてふりかえってみると、仮説の設定を、方法として自覚的にとりあげたという点で、近代SFの

始祖は、探偵小説の場合と同じく、やはり、ポーにつきるように思われるのだ。ポーの方法を、形式の点でも

―純化、もしくは俗化の、程度の差はあれ―かなり忠実に受けついだ、ガーネット、コリア、サキ、ダール、

ブラッドベリ、シェクレイなど、だれかが「奇妙な味」と名づけた、あの一群の短編作家たちならずとも、直

接、間接に、ポーの影響をうけなかった現代作家は、まずいないといっても、いいすぎではないのではあるま

いか。

 そろそろ、芸術至上主義者などという固定観念にはとらわれずに、ポーの再評価をこころもみてもいい時期

にさしかかっているように思われるのだが……。

 SFの流行も、これを仮説精神の回復とみるならば、単なる現象をこえた、文学の本質にかかわる問題である

はずだ。」(『安部公房の変形能力2:エドガー•アラン•ポー』もぐら通信第4号)

また、この仮説設定の文学を簡明に、次のやうに言つてゐる。

「AとBの、単純な算術的和をCとした場合、Cを、AとBの単なる量的延長として捉えることが出来るだろう。

だが、OとHを化合させ、H2Oをつくる場合には、かなり事情が違ってくる。H2Oの物理的性質を、いくらい

じりまわしてみても、HやOの性質を類推させるものは、まず発見できないはずである。またH2Oを、HとOを、

HとOに分解したとたん、もとのH2Oの性質は完全に失われてしまうのだ。わたしの夢と体験の関係も、この

分子と化合物の関係に、どこか似ているような気がしないでもない。(略)創作という行為は、とりもなおさ

ず、HやOから出発して、そのどちらの性質も現象的には含まない、まったく新しい物質H2Oをつくり出すこ

とであるはずだ。夢化作用のエネルギーが、内部にみなぎり活性化してきたときに、はじめて創造へのパスポー

トが与えられ、作品の受胎期もはじまるのではないだろうか。」(『夢化作用ー第13回女流新人賞選評』全

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ページ25

集第23巻、109ページ)

安部公房は、仮説設定の文学を積算の文学、私小説を足し算の文学と明言してゐる文章があるが、今回典拠を

探したが、上手に見つけることができなかつた。

[註7]

『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)から、安部公房の

言語論をまとめた一連の発言を引用する。

「この、世界の果てから聞こえて来る呪文についての安部公房の言葉です。これらの言葉は全て、言語は再帰

的(recursive)であるといふ事実に拠ってゐます。即ち、言語は繰り返し自分自身に帰つて来るのです。

「―― 散文が儀式化なしに対抗できる理由はなんでしょうか。

 安部 儀式化そのものが強力な言語機能なんだよ。言語に対する有効な解毒剤はやはり言語以外にはありえ

ない。そういう言語を散文精神と命名したまでのことさ。でもこの規定は、今後批評の基準として利用できそ

うだね。けっきょくテレビ攻撃より、散文精神の確立のほうが、僕らにとっては急務だろう。」(『破滅と再

生2』全集第28巻、266ページ)

「まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう遺伝子が遺伝子自身を認識して

しまったんだよ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだよ。

 だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表現でさえ言語表現

の枠を出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語の中を覗き込んでいるのが人間なんだな。

―― つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。

 安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ペー

ジ)

「安部 (略)いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の謎なんだ。一種

の「認識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超えたものがあるはずだという……

 ―― つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。

 安部 そうなんだ。でも認識に限界があるという認識は何によって認識されるかというと、言語以外にはあ

りえない。だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。」(『破滅と再生2』全集第28巻、253ページ)

「スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることは、僕のなかでなんら矛盾する

ものではないんだ。小説の場合、言語の構造として確かな手触りが成り立てば、それは現実と等価なんじゃな

いか。言葉でしか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたかの説明を、小説以外の外の世界から借りてく

る必要なんかぜんぜんないと思う。」(『破滅と再生2』全集第28巻、258∼259ページ)

「大事なのは多分、技術が内包している自己投影と自己発見の問題でしょう。あるときぼくはカメラのちょっ

とした故障を修繕しながら、うまくいきそうになった時、無意識のうちに「人間は猿ではない、人間は猿では

ない」と呪文のように繰り返しているのに気付きました。(略)ぼくの呪文は、単に作業をプログラム化でき

たことの喜びを表現しようとしただけのことです。ところがこの「作業のプログラム化」とは、いったい何で

しょう?試行錯誤もあるでしょうし、イメージのなかでの座標転換作業もあるでしょう。しかしけっきょくは

時間軸に沿った手順の見通しです。自分の行動と対象の変化を、因果関係として総体的に掌握することです。

《ことば》の力を借りなければ出来ることではありません。もともと自己投影とは《ことば》の構造そのもの

なのですから。」(『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、231ペー

ジ)

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ページ26

少し長い引用になるが、安部公房のいふ「技術が内包している自己投影と自己発見の問題」について、荒巻義

雄といふSF作家に初めて言及した『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲー

ム論集』を読む』(もぐら通信第59号)から此の問題に関係するところを以下に引用する。

「(4)「思弁説(スペキュレイティヴ・フィクション)の新しい体系――『定本荒巻義雄メタSF全集』完結

によせて」(P82∼P84)

「大変面白く興味深いことは、著者の文章を読むと、この荒巻義雄さんといふSF作家もまた、安部公房と同然

の、再帰的(recursive)な人間であつて、標題の自分の全集の編集に作家自身が積極的に関はつて「テクス

トの校訂(アップデート)という形で作品群の読み直し(リ・リーディング)に参加していることだろう。こ

うして本全集は作品集という体裁を取りつつも、実質的には批評集でもあるという、まこと特異な性格を帯び

るに至った。」とありますし、「自作解説魔」たる作家自身を含んだ多士済々たる解説者や月報寄稿者」とい

ふことですから、この方もまた、合わせ鏡の世界に棲んでゐる再帰的な人間なのです。

この後に続く文章の中の言葉には、ノヴァーリスの名前があり、『体現/体験されるマニエリスム』(高山宏

著)の名前があり、最後のページをめくると、カウンターカルチャーは、「内宇宙(インナー・スペース」で

あることが判る。この内宇宙が「無限の発展可能性を秘め」てゐるとあるならば、この宇宙もまた特異点で外

部宇宙と等価交換されて、自らが外宇宙となるといふ、topologicalな展開が前途に控へてゐるのでありませう。

それも、等価交換される宇宙が一つとは限らない。といふ。

(5)「「世界にあけられた弾痕」にふれて――『定本荒巻義雄メタSF全集 別巻』月報解説(P85∼P8

6)

安部公房の名前が最初に出てくるので、冒頭を引用する。

「一九八一年生まれの私が荒巻義雄(敬称略)の名前を初めて意識したのは、国書刊行会から『山尾悠子作品

集成』が出版された二〇〇〇年までに遡る。かつて荒巻は、山尾の『夢の棲む街』(一九七八)や『仮面物語

〈或は鏡の王国の記〉』(一九八〇)の解説を手がけていたが、そこではデュシャンやダリが言及されつつ、

「小説のアナログな力」(安部公房)を復権する硬質な幻想小説として、山尾の作品が位置づけられていた。」

(傍線筆者)

荒巻義雄さんといふ方は、上記[註2]に引用した安部公房の言葉に接して、これを理解したSF作家のお一人

だといふことになります。

この作家が、この山尾評を書いた8年後の開催になる「SFセミナ−2008」の場で、「Speculative Japan

始動!」とあるパネルの下に、他のパネリストに同席して語つたといふ「物質元素と空間認識を軸としたバシュ

ラールの理論を紹介することで、自然科学的な認識論と詩的なイマージュの橋渡しの必要性を訴えかけたのだっ

た」(傍線筆者)といふのであれば、これは安部公房の文学そのものであり、上の安部公房の文章を読んでゐ

たことはむべなるかなと思ひます。

この方の小説の中には、安部公房の小説のやうに、詩が歌はれることがあるのでせうか。読んで見たいと思ひ

ました。」(『岡和田晃著『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』を読む』も

ぐら通信第59号)

上記[註2]に引用した安部公房の言葉とは次の言葉です。これが、当時この詩人の読んだ安部公房の言語論

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ページ27

の一部なのだと思ふ。

「 [註2]

安部公房は色々なところで言語とは何かといふ問ひに答へてゐますが、そのうちの今二つを以下の通り引用し

ます。:

「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾

の仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力な

んだね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にね

たみを感じるんだよ。そのねたみの本質は何かというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小

説家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。」(『内的亡命の文学』全集第26巻、383ページ下段)

(傍線筆者)

「その遺伝子情報に「言語」を組み込んだらどうなるか。人間になるわけだ。そうなんだよ、「言語」という

のはデジタル信号だろう。他の動物の場合、行動を触発する刺激情報はアナログなものに限られるけど、人間

だけはデジタル信号を行動触発のサインにすることが出来た。」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ペー

ジ上段)」

上の[註7]の「(5)「「世界にあけられた弾痕」にふれて――『定本荒巻義雄メタSF

全集 別巻』月報解説(P85∼P86)」の引用の最後にあるやうに「この方の小説の中

には、安部公房の小説のやうに、詩が歌はれることがあるのでせうか。読んで見たいと思ひ

ました」とは、実にその通りで、この方はそもそも詩人でありましたし、またweb小説『ムー

アから来た男』には、後述するやうな宇宙船に乗り込む新兵の歌が歌はれてゐる。私の疑問

は氷解しました。

さて、長い前書きとはなりましたが、以上のことを念頭に置いた上で、この詩集の最初のSF

詩を読む事にします。

1。『老人と飛行士』を読む

老人と飛行士

フィヨルドの奥深く一人の老人が、

夏は狐を狩り

冬は海豹(あざらし)を獲って

暮らしていると聞いた。

おれは土の滑走路に不時着して

老人に逢いに行った。

出迎えた老人は、彼方の煌めく大氷河の末端を指し

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「この土地は全部おれのものだ」

北極圏の荒波と風が

気まぐれな贈り物を渚に打ち寄せさせる、

この岸辺の住人は、

「女どもが、いつも、おれの孤独を盗みに来るから、ここに住んでいるのだ」

屈託のない笑いを、深く刻まれた皺々の顔に浮かべながら、

頼りない僅かな夏草の茂みを指し、

「ここでおれは生まれた」

流木の墓標には、すでに老人の名が刻まれ、

その場に立ちすくみ、

静寂は、時を止める。

「それにしても、あんさん、詩の匂いがするな」

おれは、土の滑走路の端っこに、辛うじて停まっている戦闘機を指して、つぶやく。

「ごらんのとおりさ」

めくれあがったジェラルミンの大穴は、世界にあけられた弾痕だった。

矛盾の機関砲弾が、またしても

世界の裂け目を掃射したのだ。

「ご苦労なこった」

老人が皺々の顔を歪めると、世界も彼に習った。

「来なさい」

連いて行くと、老人は自慢の流木製材所を見せ、

「あんさんもやってみるか」

地の底から吹きだす衝動の蒸気が、欲望の発電装置を動かし、

魂の発動機が回り出すと 帯鋸は金切り声を発しつつ

見る間に、

おれの世界を善と悪に挽き割るのだった。

安部公房と同じく、この詩人も空を飛ぶ。存在になつた詩人は空を飛行士になつて飛翔する。

これが現実であり、科学だといふ事については、言語の問題として前章で述べた通りです。

「言葉を〈存在の秘儀〉に近づけようと努力するのが詩人だ」からであり[註8]、「詩の

使命は、〈存在の秘密〉に迫ること」[註9]であるからです。秘儀は曖昧なものではな

く、秘儀である以上、「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」と同様に、秘儀は様式を持ち、

しかしもし秘儀が曖昧ならば、その様式の曖昧さもまた論理的に明確である。曖昧な言葉な

ど、ない。人間が言葉を曖昧に使つてゐるだけだ。意識すれば、そして研鑽を積めば、言葉

を曖昧に使ふことすら明確に使ふことができる。これが言葉であり、肉体の生理的な感覚に

直結してゐる言葉の働き(機能)の持つ作用です。言葉の此の作用を、三島由紀夫は最晩年

のエッセイ『太陽と鉄』で、言葉の「腐食作用」と呼んだ。

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29

ページ

[註8]

この詩集の自筆後書きともいふべき「覚え書き」(98ページ)を参照。

[註9]

この詩集の「覚え書き」(103ページ)を参照。

そして詩人であつた三島由紀夫は同じエッセイの中で更にかういふのである。

「私が夢みたようにすべてが回収可能なのではなかった。時はやはり回収不能であるが、し

かし思えば、時の本質をなす非可逆性に反抗しようという私の生き方は、あらゆる背理を犯

して生きようとしはじめた戦後の私の、もっとも典型的な態度ではなかったろうか。もし、

信じられているように、時が本当に非可逆的であるなら、私が今ここにこうして生きている

と云うことがありえようか。私は十分にそう反問するだけの理由を自分の裡に持っていた。

 私は自分の存在の条件を一切認めず、別の存在の手続きを自分に課したのだった。そもそ

も、私の存在を保障している言葉というものが、私の存在の条件を規制している以上、「別

の存在の手続」とは、言葉の喚起し放射する影像の側へ進んで身を投げ出すことであり、言

葉によって創る者から、言葉によって創られる者へ移行することであり、巧妙細緻な手続き

によって、一瞬の存在の影像を確保することに他ならなかった。(略)言葉による存在の保

障を拒絶したところに生まれたそのような存在は、別のもので保障されなければならぬ。そ

れこそは筋肉だったのである。」(『太陽と鉄』)

三島由紀夫にとつて、言葉による腐食作用を一切排した肉体が、純粋なる存在であつた。さ

うして、市ヶ谷のあの癩王のテラスで、内部と外部を、精神と肉体を交換したのである。こ

の切腹は社会的な儀式なのではなく(勿論表面上は古来の儀式に見えやうが)、全く論理的

な切腹である。三島由紀夫の転生輪廻に関する考へ方は別途『三島由紀夫の「転身」と安部

公房の「転身」』と題して、『豊饒の海』を含めて、論じます。三島由紀夫もまた、安部公

房と同様に、リルケの『オルフォイスへのソネット』の愛読者以上の愛読者であつたとは。

戦後の、ドイツ的教養の喪失が、二人の文学の理解を難しいものにしてゐることを痛感する。

さて、荒巻義雄といふSF詩人もまた、従ひ、言葉と時間の関係について考へる事に集中す

る事になる。現実の非可逆的な時間の中で、どうやつて秘儀があり得るのか。この答へは「タ

イムズ スープ」といふ詩に、その構成から言つても解りやすく、よく読むことができます

が、他の詩と併せて此の詩は次回以降に論じます。

勿論、「老人と飛行士」も、表立つてはゐないが、詩人の存在と時間に関する秘儀の上にな

りたつてゐます。そして、このSF作家はどうしても詩で以つて其の秘儀を歌ふ以外にはない

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と考へてゐる。何故ならば、詩こそ言語藝術の精華であり、藝術といふ最高度の技術

(Kunst)を駆使して生まれる第二の現実であるからであり、詩人独自の用語を使へば、そ

の現実は読者の「脳内宇宙」といふ、この現実に対する外部宇宙にありありと生まれるから

である。詩人は、言葉スイッチ論[註10]の後に続けて、次のやうに語つてゐる。

「私は詩の本質は、読者の言語巣を刺激して、鮮度のいい新たなイメージ(内包/意味され

るもの(シニフィエ))を再生産する言葉の技術であり、優れた詩人の技は、日常を飛び越

えて別世界を覗かせてくれる。言いかえれば、連続体であるわれわれの〈世界〉を詩の言葉

で切り取り、不連続化することである。」(この詩集の「覚え書き」、97ページ)

[註10]

「あえて言おう。人生のほんとうの豊かさは富なのではなく、記憶の豊かさである。少年時代や青春時代に様々

な経験をし、それが記憶されている人生は最高に豊かなのではないだろうか。

 問題は、この記憶を呼び覚ますスイッチである。それが言葉だ。」

私も全く同感です。言葉は記憶を呼び覚ますスイッチなのです。どうやつてあなたの記憶が呼び覚まされるの

か?それは、連想によつてであり、従ひ、詩によつて忘却されてゐた豊かな記憶が、いや記憶を思ひ出す、即

ち連想によつて思い出されて豊かに記憶がなるのです。スイッチとは、ここでも機能のことを云ひ、言葉の概

念と概念を接続する機能を発揮するのです。あるいは、接続そのものが機能であるといふべきでせう。安部公

房の世界です。私は、この概念の接続を、概念連鎖と呼んでゐます。プラトンの想起説を思ひ出しても良いで

せう。これは言語論理、即ちlogos(ロゴス)のことですから、個別言語を問はず、どの民族のどの言語につい

ても通用することです。これも、安部公房の世界です。

このやうなSF文学の言葉を読むと、純文学とはSF文学のことかと怪しまれる。

不連続化するとは、道元禅師の言葉でいへば際断[註11]すること、言語の機能自体を使

つて「連続体であるわれわれの〈世界〉」を機能化して際を、縁(へり)を断つこと、即ち

時間を単位化して、流れる時間を等価で交換可能にすることである[註12]。私たちは連

続量は単位化する以外には認識できない、あるいは単位化すると認識、即ち理性で名前をつ

けて或る体系の中に位置付けて呼ぶことができる。A cup of teaといふやうに、あるいはa

bottle of waterといふやうに。これがヨーロッパの哲学者たちの超越論、即ち私達の哲学で

いふならば、汎神論的存在論である。何故ならば、時間が単位化されるならば、昨日といふ

一日と、明日といふ一日は等価で今日といふ一日に於いて今日といふ一日(といふ時間の単

位)として交換できるから。これが、安部公房の「明日の新聞」の発行される契機に現れる

論理、内部宇宙と外部宇宙とが等価交換される契機にいつも、従ひいつも主人公が世界の果

てに至ると「いつの間にか」「どこからともなく」時間の先後なく、従い超越論的に、発行

される新聞の論理です。だから、それ故に、あなたは『密会』の主人公になつて「いくら認

めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何度も確実に

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死につづける」のだ。「やさしい一人だけの」再帰的な「密会を抱きしめて……」(原文傍

線は傍点)といふのは、この意味である。(『密会』全集第26巻、140ページ)

かうして私たちは、私たちの最たる恐怖の一つである未来を知ることができないといふ恐怖

を克服することができる。人間の持つ此の心理に関する事実を安部公房は物語の起源として、

物語は時間の空間化だと云ひ、小説論と演劇論の根幹に置いてゐます。時間論は、近くは

H.G.ウエルズ以来、SF文学の主要な主題の一つですが、安部公房は此のやうに時間を、言

語機能を使つて空間化し、荒巻義雄といふ詩人もまた豊かな形象を以つて同じ超越論の論理

を基礎にSF詩、SF小説をお書きになつた。安部公房の仮説設定の文学論によれば、かうし

てみると、キリスト教を超えた古代の神々の蘇生と復活といふSF文学の一つ目の起源に続

き、起源の二つ目は、人間は未来を知ることができないといふ事に対する恐怖を克服するた

めに時間を空間化した超越論的な物語を人間が必要としたといふ事だといふことになりま

す。後者については、何も特別にSF文学固有の事情ではない、素材と対象は人間一般に関す

る心理的問題の解決ですので、これは非SF・文学についても同様です。

[註11]

『梨という名前の階段、階段という名前の梨∼従属文の中の安部公房論∼』(もぐら通信第27号)より引用

します。

「安部公房が時間の空間化といったのと同じことを、道元禅師が『正法眼蔵』の最初に述べております。『正

法眼蔵第一 現成公案』(げんじょうこうあん)に次の言葉があります。この道元禅師の言葉を読むと、言語

機能論は、時代も人種も民族も個別言語も国も宗教もどの領域も何も問わないということが、お解りでしょう。

ここで論じているのは、時間と言葉と人間の思考による物事の機能化(函数化)ということ、単位化というこ

と、位ということです。道元禅師は禅のお坊さんですから、宇宙のこの法則の単位を、法位と呼んでいます。

「たき木はひ(火)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと

見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。

灰ははいの法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひ(灰)となりぬるのち、さらに薪とならざる

がごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれる

ならひなり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごと

し。冬の春となるとおもはず、春の夏といはぬなり。」

一次元の時間の中にいるわたしたちは、平凡普通に時が流れてゆくと思い、春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、

そして冬は春になり、移り変わってゆくと思っておりますが、道元禅師はそうではないとはっきり言うのです。

そうではない、春には春の位があり、夏には夏の位があり、秋には秋の位があり、冬には冬の位がある。即ち、

春と夏の前後は際断せり、夏と秋の前後は際断せり、秋と冬の前後は際断せり、冬と春の前後は際断せり。時

間の中の前後ではないという思想なのです。そして、これは宇宙の真理であるから、それを法位と言うのだと、

そうおっしゃっております。灰と薪の関係も然り、従い、生と死の関係も然り。

また、ヴィトゲンシュタインというオーストリアの哲学者もソシュールというスイスの言語学者も、この道元

と同じ、言語機能論です。」

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[註12]

一日を一時間といふ単位にしても、単位である以上同じです。遺作『さまざまな父』の冒頭をご覧ください。

「いつものどおり四時十分に学校から戻ると、父が先に帰宅していた。珍しいことだ。ふつう父の帰宅は五時

二十分にきまっている。」

この一行が超越論であるのは、「いつものどおり四時十分に」といふ主人公の現在に、未来に起こるべきこと

がいつも決まつてゐる「五時二十分」の父の帰宅が、現在の四時十分といふ時刻に既にして(未来が)過去の

こととして起つてしまつてゐることを知るからである。

それ故に『密会』の最後に主人公が、病院の内部宇宙を逃げ続けて遂に外部宇宙との境の(内部宇宙の)世界

の果てに至ると、「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、何

度も確実に死につづける。やさしい一人だけの密会を抱きしめて……」(全集第26巻、140ページ)(傍

点は原文は傍点)といふことになるのです。

さて、この詩人の「明日の新聞」は、この詩では何と呼ばれてゐるか。それが流木です。流

木が世界の果てである北極圏の「フィヨルドの奥深く一人の老人が」暮らしてゐる岸辺に流

れ着くのです。この流木について、この詩人の処女作『白き日立てば不死』(『定本 荒巻

義雄メタSF全集 第3巻』)の「あとがきに代えて」の最後に詩人は自らかう書いてゐる。

「おそらく当時の私は、それがいずくの海辺に流れ着くのか判らぬままに投じた、瓶の中の

手紙をしたためるような気持で、これを書いていたのだろう。そして、私自身にとっての小

説を書くという行為の本当の意味は、他ならぬこの初心にあったのだ……と、遅まきながら

反省したりしているのである。」(同巻361ページ)

「遅まきながら反省」して、詩人は初心を詩にした。海に詩人が投げた小瓶の中に入れた手

紙、これが「老人と飛行士」の流木なのです。この小瓶に入れた手紙が海流に乗つて何処か

の岸辺に流れ着き、誰かが偶然に「気まぐれな贈り物」を見つけて瓶の中の詩を読む。これ

が詩人が詩に関して持つ、自分の詩が読まれることの形象(イメージ)なのです。小説家が

読者に対して持つ形象とは異質です。詩とは海に流す小瓶の中の誰かに宛てた手紙だといふ

同じ譬喩は、パウル・ツェランが、また現代ドイツの詩人ドゥルス・グリューンバインが同

じ譬喩を継承して用ゐて或るエッセイで詩の伝達の持つ此の本質を伝へてゐます。小瓶の中

の手紙といふ譬喩は欧州の詩人の歴史的・伝統的な譬喩なのか。荒巻義雄といふ詩人の用ゐ

た此の譬喩は、歴史を超えた、詩人同士の無意識の連絡なのでせう。

さて、飛行士は、その偶然の、世界の果ての読み手である。その流木の手紙には何と書いて

あつたか。流木は墓標であり、「すでに老人の名が刻まれ」てゐたのです。即ち、これは老

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人も飛行士も、二人ながら一人の、話者といふ透明人間に変身して語つてゐる詩人の姿なの

です。私は自然と其のやうに読んだ。従ひ、これは再帰的な関係ですから、この話法は、安

部公房に固有のあの「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的な話法と同じ話法なのです。

前者の僕が飛行士なのか、後者の「僕」が飛行士なのか、後者の「僕」が老人なのか、前者

の僕が老人なのか。この詩人の詩は、余りに安部公房の文学に親和性の高い詩です。

この岸辺の住人たる飛行士は、

「頼りない僅かな夏草の茂みを指し、

 「ここでおれは生まれた」

 流木の墓標には、すでに老人の名が刻まれ、

 その場に立ちすくみ、

 静寂は、時を止める。」

とあつて、世界の果て、隣の世界との境界域では、時間は止まり、無音であり、静寂が境界

域を領してゐる。「その場に立ちすく」むのは、「流木の墓標」なのか、老人であるのか、

いづれにせよ其れは「世界接触部品」でありませう。接触とは此の意味です。安部公房なら

ば、リルケの純粋空間だといふでせう。この空間は、時間が無い故に純粋空間と呼ばれ、生

きることを其処でゆるされてゐるのは、垂直方向といふ無時間の方向に限りなく成長を続け

る植物、即ち樹木、それに花、薔薇の花、噴水。これらは生と死を永遠に繰り返し、循環す

るからです。樹木の落ちて種子の埋もれる地下の世界は死者の世界である。さうしてまた春

になれば、芽を出して、次の季節の周期を生きることを繰り返す。このやうに、循環、即ち

反復とは周期によつて単位化された無時間の行為です。この反復といふ周期性のある行為は

差異があつて初めて、時間の中に生まれ出る。「差異と反復」は対語であり、連語であり、

互ひに縁語です。

世界の果ては、この世から見れば死者の世界に踵を接してゐますから、老人はもう一人の私

である飛行士にかういふ。「それにしても、あんさん、死の匂いがするな」。「死の匂ひの

する」のは前者の指差す後者の乗る戦闘機である。ジュラルミンの機体には大穴が開けられ

てゐて、それらは「世界にあけられた弾痕だった」が、しかし、次の二行を読めば、文脈

(context)と詩行の流れの声調から言つて、この世界によつて穿たれた大穴は、この飛行

機乗りの方から仕掛けて射撃したが故に、世界が報復、応戦してあいた弾痕であることがわ

かる。

「矛盾の機関砲弾が、またしても

 世界の裂け目を掃射したのだ。」

飛行機乗りの装備してゐる機関砲は、矛盾そのものである機関砲弾を射撃する機関砲である

か、射撃すれば世界の持つ矛盾を露呈せしめて亀裂を入れ裂傷を負はせる機関砲であるのだ。

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しかし、かうして見れば、老人が飛行士であり、飛行士が老人であるやうに、どちらの砲弾

であれ世界であれ、その関係は等価に交換可能で、同じことだ。再帰的な、合わせ鏡の、荒

巻義雄の詩の世界である。この詩人は、長編小説の連作の再帰性について、既刊の2作、即

ち『白き日旅立てば不死』『聖ステファン寺院の鐘の音は』について名前を挙げたあと、3

作目について次のやうに語つてゐる。

「さらに第三部が予定されているが、発表は、多分、私の死後になるだろう。ただし、第三

部の題名だけは決まってる。『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』がそれだ。

 人生の最期、臨終の脳が見せてくれるドラマは、多分、合わせ鏡のような構造だと思

う。」

(『定本荒巻義雄メタSF全集第3巻 白き日立てば不死』月報)(傍線筆者)

この「合わせ鏡のような」言語構造を知ることができてゐるのは、上の引用の同じ段落の前

段で詩人が第一部について振り返つて云ふ「従って、もはや、本作の構図は明らかであろう。

【α】最初は無意識で書かれた物語のはずが、次第に魔力を帯び、独立・自律しはじめる。

【β】物語自身の〈世界律〉が続編を支配するようになるのだ。かくして〈秘教的〉かつ〈秘

儀的〉な異界への上昇の開始。」

【α】の文は、言葉の命は詩人の制御を超えてゐて、詩人には制御できないといふことをい

つてゐる。同じことを繰り返し、安部公房もいひ[註13]、またトーマス・マンもいつてゐ

て、三島由紀夫も上に引用したやうに否定的な腐食作用といふ言い方であるが、三人とも十

代は詩人であり、同じことをいつてゐて、そして此の詩集の「覚え書き」によれば既に高校

生の時には詩人であつた荒巻義雄であり、これが言語と詩人の本質的な関係なのである。世

俗の、言葉を手段として日常の意思疎通に使ふだけの、それが言葉と思ひ疑はぬ人には理解

ができないであらう。

[註13]

安部公房は、ナンシー・S ・ハーディンとの対談で次のように言っています。

「しかし、一度書き出してしまったら、不思議なことに、書いている作品自体が主導権を握り、ぼくはそれに

従うしかない。もはや自分が書いているものを支配できなくなるんです。ある段階を超えてしまうと、自分で

はコントロールできなくなる。」

これは、この空虚を持ち、知っている言語藝術家だけが覚える言語の自己増殖です。同じ経験を、トーマス・

マンは繰り返し述べています。言語組織が、自己の意思を持って増殖し、有機体を完成して行く。他方、普通

の言語使用者は、言語を制禦(コントロール)できると思っていて、そのように言葉を使用すること をよしとす

るのです。これが、普通の世間に棲む人間たちの世界での言語についての考え方です。法律も、この 考え方で

できている。しかし、安部公房の主人公たちは皆、法律の外に、無名の、世間に未登録の人間として生きてい

ます。

(『安部公房との対話』ナンシー・S ・ハーディン。全集第24巻、477ページ。)

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【β】の文は、この詩人が、リルケや安部公房や三島由紀夫やトーマス・マンといふ詩人た

ちと同様に、垂直の方向には時間が存在せず、従い此の上昇は積算であり、上位接続された

次元は現実の時間の中では有り得ぬ(リルケならばいふ)純粋空間であることを知つてゐる

ことを意味してゐる。この詩人の詩を読むと、数学用語が幾つも出てくるので、私がこのこ

とをいふのは無用の長物、釈迦に説法でありませう。

さて、飛行士が激しく被弾した飛行機の機体を眺めて「ご苦労なこった」と、これは機体に

向かつていふのであらう、さういふや「老人が皺々の顔を歪めると、世界も彼に 習った」

とは、またもや「差異と反復」である。世界は最初から歪んでゐる、皺々に褶曲してゐると

いふのが、この詩人のバロック的世界認識である。宇宙の本質である差異は、時間の中で周

期的な反復として現れる。だから、「世界も彼に習った」のである。

老人に連れられて流木製材所に行き、帯鋸を持たされると、「地の底から吹きだす衝動の蒸

気が、欲望の発電装置を動かし、魂の発動機が回り出」して、「帯鋸は金切り声を発しつつ

/見る間に/おれの世界を善と悪に挽き割るのだった。」

この詩人にとって大地はすつかり死の世界だとはいへないが、しかしそれでも死の世界なの

である。飛行士が着陸すると、出迎えた老人は「この土地は全部おれのものだ」といふのだ

が、老人が飛行士、飛行士が老人である以上、これは飛行士の科白と解してもよく、同じセ

リフが散文ではなく、詩で歌はれる箇所が、この詩人のweb小説『ムーアから来た男』の第

2章に、宇宙船に搭乗する新兵の歌として次のやうにある。

「テラに降りればよ

 骨っこ ざくざく

 髑髏(ドクロ)が ごぉーろごろ

 ホーイ ホイ」

さう、この最果ての極北の「この土地は全部おれのものだ」といふが、老人以外には誰も住

まうとはしない次の宇宙への境界域。帝国主義の領土とは全く対極の領土ならぬ、「髑髏(ド

クロ)が ごぉーろごろ」「骨っこ ざくざく」の土地である。この土地が二つ目の「骸骨

半島」といふ詩の意味する骸骨の土地である。三つ目の「ウォール」にも草むらにゐる髑髏

が出てくる。この髑髏がいふ「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはな

い」と。何故ならば、この詩人一流の逆説的交換の論理によつて、「この荒涼たる景色」は、

髑髏の「おれの心」だから、だから「おれの心に近づくな」と「虚空の眼(まなこ)」で「草

むらの髑髏が言い放」つのである。

確かに老人の住む土地は荒涼たる土地である。

『ムーアから来た男』は、その最初に置かれた「註3」によれば、「本作はプロダム・デ

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ビュー前に書いたスペース・オペラを意識した作品であるが、二回連載で中断。今回、大幅

な改稿、さらに第二章5節以降を書き継ぎ完成」とあるので、詩人の極く初期からの、この

境界域の土地、即ち主人公が間違ひなく垂直方向といふ時間の無い方向へと宇宙船に乗つて

飛翔する土地は、帝国の領土ではない土地に関する此の詩人の確たる形象であるのだ。この

詩の主人公もまた飛行士である。

『ムーアから来た男』を読むと、これはスペース・オペラであるのみならず、宇宙生命の憑

依譚でもあつて、私が此の詩集を読む限り、この詩人もまた、安部公房同然に、シャーマン

なのだと思はずにはゐられない[註14]。かうして考へて来ると、帯鋸の「金切り声」

は、シャーマンの祈祷の声に聞こえる。安部公房の場合ならば、悲鳴のやうな救急車のサイ

レンの音が、これに当たる。この詩人の世界は、安部公房の世界にとても親和性が高い。

[註14]

この詩集の「覚え書き」で、此の詩に歌つた極北の老人の噂を聞いて実施に飛行機に乗つて訪ねた時の経験を、

次のやうに此の詩人は書いてゐる。

「この最果ての場所には聖霊が棲むと私は確信した。

 さらにストックホルムに飛び、ここからスカンジナビア半島を北上した際の寝台車でのまどろみのなかで、

先年、九十六歳で他界した母と再会下が、死者と話すとき言葉は霊性を帯びている。詩があるのは、日常を超

えた何かを伝えるための表現としてあるのだと気付く。」(同詩集、99ページ)

救急車の甲高い悲鳴のやうなサイレンの音が聞こえると、「見る間に、/おれの世界を善と

悪に挽き割るのだった。」帯鋸の「金切り声」を契機に、老人の世界が善と悪に挽き割られ

る。この抽象的な位相幾何学的な土地に転がつてゐる骸骨が陰画に生きるシャーマンの骸骨

であるといふことは、18番目の詩「淤能碁呂幻歌(おのごろげんか)」にも歌はれてゐる。

この骸骨は、上で引用した大原まり子のいふ大地母神の面影があり、この骸骨はそのまま二

つ目の詩「骸骨半島」に歌はれる、最初に女と呼ばれ、最後に母と呼ばれる女性の形象であ

ると思はれる。さうであれば、この形象もまた「奪う側はあくまで強者で、奪われる側は弱

者である、という視点は、たやすくひっくり返される」といふ神威を有する、大原まり子氏

のいふやうな大地母神ではないのだらうか。とはいへ、詩人は男性であるが故に、あくまで

も骸骨半島は、飛行士の訪ねた老人の極北の土地と同じく「静寂は、時を止め」てゐて、沈

黙に満ちてゐて、荒涼たるものである。

上に引用した「地の底から吹きだす衝動の蒸気が、欲望の発電装置を動かし、魂の発動機が

回り出」してとある行を読むと、この詩人が単なるバロックだけではなく、「骨っこ ざく

ざく/髑髏(ドクロ)が ごぉーろごろ」としてゐる重複した土地として、「差異と反復」と

いふ事から、もう一つバロックと重複する領域を有するマニエリスム[註15]といふ土地

にも脚を置いてゐる理由もわかります。この詩人には「地の底から吹きだす衝動の蒸気」が

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あり、この熱意、熱情は、リルケならば地底といふ死者の世界の、生命が育つ為の世界にも

また棲む「父母実生以前本来面目」(12番目の詩「霞論哲学」)である此の詩人の姿を思

はせるからです。

「おれの世界を善と悪に挽き割」られた老人は一体そのあとどうするのであらうか。やはり

飛行士になつて、空中戦を展開し、世界の裂け目を掃射するのであらう。とあれば、この飛

行士を、或る日、この飛行士自身が、再帰的に、self-referencialに、老人となつて、合わせ

鏡の世界の中で、

「フィヨルドの奥深く一人の老人が、

 夏は狐を狩り

 冬は海豹(あざらし)を獲って

 暮らしていると聞いた。

 おれは土の滑走路に不時着して

 老人に逢いに行った。」

と、自分自身に逢いに行くといふことになつてゐたのではないでせうか。最初から、超越論

的に。決して運命や通俗の予定調和によるのではなく、自分の意志で。

[註15]

安部公房のマニエリスムについて、『安部公房の変形能力16:まとめ∼安部公房の人生の見取り図と再帰的

人間像』(もぐら通信第17号)より引用します。

再帰的な人間といふ「この人間は、他者を参照し、引用をすることをしません。いつも自己を参照し、言葉も

また自己のテキストから引用を繰返すのです。普通の人間は、自分以外の人間の真似をして生きておりますが、

再帰的な人間は、他人の真似を一切しません。つまり、自分自身を真似るのです。その限りにおいて、普通の

人間から見れば、この人間は、孤独であるということになり、奇妙な人間だということになるでしょう。

また、合わせ鏡ということから、この人間は、物事の対称性ということを大切に致します。

わたしの人生において、わたしは、何人かの再帰的な人間を知っております。わたしの知っている再帰的な人

間の名前を挙げるとすると、次のような人間たちがおります。

アイヒェンドルフ、ショーペンハウアー、トーマス•マン、ジャック・デリダ。それから、最後に小さな文字で

書けば、今ここでこのようにこのような文字を書いているこの私自身(私自身という言葉が既に再帰的です)

も、その人間の一人です。

確かに、上の図像の人間達は、父親や母親に似ているのではなく、人が似るようなその人の好きなひとに似て

いるのではなく、異様であり、異形であり、普通ではありません。それはいつも自分自身に回帰して、自己を

参照するからです。言語の視点で言えば、再帰的な人間とは、自己の内部以外からは、一切言葉を引用しない

人間なのです。

ショーペンハウアーというドイツの哲学者は、その主著『意志と表象としての世界』では、ひとつの原理、即

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ち世界は意志であるという原理から、宇宙にある森羅万象を説明しました。その宇宙は、宇宙の根底にある意

志が、自分自身を観る為に、その意志の最高の段階の生物として人間を生み、人間が宇宙を観じるとは、意志

が自分自身を観じることであるという、そのような合わせ鏡の宇宙なのです。意志を純粋に認識するそのよな

主体を、ショーペンハウアーは、鏡と呼んでいます。そうして、ひとつの原理に絶えず戻り、その原理を何度

も何度も反復しながら、森羅万象を説明します。これは、実に面白い本です。哲学は、人類最高の娯楽である

と、わたしは思います。

ジャック・デリダというフランスの哲学者は、その英文のテキストを読むとよく解りますが、文字として、用

語として、文がいつも再帰的です。再帰的とは、いつも同じ発想、同じ言葉が繰返されて語られるということ

を意味しています。同じことを語りながら段々と話が遷移し、言葉の概念に対する理解と認識が深まって行く

のです。(安部公房の小説の世界によく似ています。)上の図像の持つ意味のひとつが、繰り返しです。ジャッ

ク・デリダのテキストも実に面白いテキストです。哲学は、人類最高の娯楽であると、ここでも、わたしは思

います。

トーマス•マンの小説も、同じ文、同じ章句が繰り返し、その小説中で繰返され、話の筋の中、時間の中で、

その変わらぬ言葉が繰返されて行く度に、その意味が変容し、全く別の意味を持つように、その小説が作られ

て、その変容に読者は胸を打たれるのです。そればかりか、後年に書かれた小説は、前に書かれたの小説の一

句、一文を、小説を跨いで引用するのです。また、トーマス•マンは、その20代に、自分自身のグロテスク

な、奇怪な戯画として、そのような自分自身の姿を傴僂(せむし)の、成長の止まった小男として描き(安部

公房ならば実存といったことでしょう)、『小男フリーデマン氏』という傑作を書いております。

安部公房自身よる、作品を跨いでの同じ語句の引用の例を挙げましょう。これは、意識的な引用というよりも、

無意識の引用だと思いますけれど。いつも同じ語彙、同じ形象(イメージ)で以て、その世界を構成するとい

うことです。

『燃えつきた地図』:

「車の流れに、妙なよどみがあり、見ると轢きつぶされて紙のように薄くなった猫の死骸を、大型トラックま

でがよけて通ろうとしているのだ。」(全集第21巻、311ページ)

『密会』:

「女秘書は腹立たしげに、地面から拾った小枝の先でその布(筆者註:布団になった溶骨症の少女の母親)の

かたまりを引きずり出すと、力まかせに振りまわした。車に轢きつぶされた緋色の猫の死骸のように見えた。」

(全集痔26巻、123ページ)

また、『箱男』の最後の救急車のサイレンと、『密会』の最初の救急車のサイレンを挙げてもよいと思います。

他にもこの種のことはあちこちに散見されることと思います。

さて、アイヒェンドルフの詩もいつも同じものが歌われています。森、狩り、狩人、狩りの笛の音、城、河、

天(大空)、雲雀、春等々、いつも詩の要素は変わりません。この芸術家の書く小説も実はそうなのですし、

その詩の中には実にシュールレアリスティックな詩が何篇もあります。その詩を18世紀から19世紀にかけ

て、この時期に書いたということは、わたしは素晴らしいと思っております。時間という一次元の中に藝術を

編成する文学史の愚かさをこそ、ひとびとは知るべきであると思います。この詩人も、時間を空間化した芸術

家のひとりです。こういう藝術家に、時間を適用して、時間の一次元の流れに従えというあなたの命令は、通

用しないのです。何しろ、その世界には時間が存在しないのですから。

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これらの特徴を一言で言えば、再帰的人間は、mannerismの人間だといってもいいのです。水戸黄門や遠山の

金さんというお話のような、いつも同じひと、同じ設定、同じ話の筋が語られる、マンネリズムです。

安部公房もマンネリズム、或いはマニエリスムの作家なのでしょうか?安部公房は前衛的な、アヴァンギャル

ドの作家だったのではないでしょうか?しかし、安部公房が再帰的人間である限りにおいて、わたしは、その

通りだと、そう思います。そうしてみれば、確かに、安部公房の話は、いつも同じではないでしょうか?この

ように言う事は、安部公房の諸作品の冒瀆でしょうか。

ショーペンハウアーは、再帰的人間として、何かに成るということは実に恐ろしい事だと正直に、その主著の

中で、言っております。つまり、自分自身を参照する人間が、他人の真似をしないということの意味が、ここ

にあります。普通は、自分以外の人間の真似をし、他の物に容易になったりすること(典型的には役者のよう

に)、それが普通であり、平然と行われ、罪の意識もないというのに対して、この人間は、自分が誰かに似て

いたり、誰かになったり、何か自分と別のものになること、誰かの、何かの役割(機能)を演じることには、

恐怖と罪の意識を覚える人間だと言い換えてもいいでしょう。他者への通路を見つけることが実に難しいと、

普通の人以上に感じ、考える人間なのです。そういう人間である筈の安部公房が、演劇の世界を切り拓いたと

いうそのこころの根底には、時間の空間化があり、即ち時間の変化に対する恐怖があるのであり、時間の中で

演ずる人間同士の役割を受け容れることに対する恐怖心があるのです。この理由によって、安部公房の演劇は、

再帰的な人間ではない人間の書く演劇とは、全く異質なのです。

こうして、段々と安部公房に近づいて来たでしょうか。もう少し、安部公房のマンネリズムについて語ります。

いつも安部公房の小説で同じ要素を挙げることにします。

(1)主人公は旅をする。空間から空間へ。壁からカンガルー・ノートまで。主人公は旅人であるので、その

空間にあっては異邦人である。主人公の意識は、どんな細部にあっても旅をしている。儀式化された形式から

抜け出して、その意識が連続している。これがこのまま、安部公房の小説の細部の描写につながる。これが安

部文学の魅力の源泉。こう書いてくると、細部が安部公房の作品の多様性を保証しているということがわかり

ます。

(2)細部を描きながら、登場人物の関係の変化を描いてゆく。時間は経過しない。登場人物の関係が変化す

るだけです。これが、安部公房の言う時間の空間化ということです。

(3)登場人物達が、お互いに役割(機能)を交換することができる。

(4)役割の交換、即ち変装、変身ということから、いつもどこかで、カーニバル、祭典、祭りが意識されて、

この意識が作品の底流に流れている。

(5)そして、この祭典の意識は、いつもこれを裏側から眺める、陰画の祭典である。

(6)従い、主人公はいつも、アンチヒーロであり、話のクライマックスは、いつもアンチ•クライマックス

である。

(7)主人公は、いつも帰って来る。最初の場所に帰って来る。これは安部公房の位相幾何学の思考と感覚と

しても、そうである。

(8)主人公は、いつも自己の投影、反照を向こう側に、相手側に見る。これは、「もぐら感覚18:部屋」

で論じた通り、反照として窓(鏡)の向こうに自己の投影を見るということです。そう意味では、安部公房に

は、最初から、又は最初には、他者はいないのです。いつも自己と、鏡に映っている自己の姿です。その仮象、

夢、しかし実在の夢、非現実の現実の自分自身を自己と思う以外にはありません。

(9)その他のいつも同じ諸要素には、思いつくままに挙げると、以下のものがあるでしょう。

夜又は闇

無名の主人公

緑の色

笛、口笛、草笛

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方舟

ほうき隊の老人

便所や便器

成熟した女

その脚と、特に膝小僧

偏奇な少女

贋の父親、贋の魚、その他の贋の人物と物事

切符

部屋

反照

自己承認の問題

閉鎖空間

閉鎖空間からの脱出というプロット

外部と内部の交換(次元転換)

まだまだ、あることでしょう。

(10)安部公房の作品は、水戸黄門や遠山の金さんのお話と同じです。これらの主人公は、通俗的なわたし

たちの心理が求めるところに従って、最後には正義が勝ち、悪を懲らしめるわけですが、しかし、普段は別人

に変装し、世に隠れて生きているところが全く同じです。

安部公房の登場人物たちは、同様にみな同じ面の上に(水戸黄門や遠山の金さんならば世間という庶民の平面

の世界の中で)同じ価値を持たされて並んでいて、安部公房の世界の登場人物たちは、インターネット時代の

用語を使えば、みなsuperflatな世界に住んでいます。(これが普通の社会人の垂直構造になれている感覚から

みると、その作品がシュールレアリスティックに見える理由です。)その世界には絶対的な正義はないので、

お裁きがないのです。従い、その代わり、告発者が被告になったり、被告が告発者になったり、登場人物たち

は、お互いの役割を交換し、そうすることによって、互いの関係を変化させることができます。医者が患者に

なったり、患者が医者になったり。船長が船員になったり、船員が船長になったり。

このような役割の交換を、人類学の用語で、communitasと呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社

会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明され

ています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/

%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):

「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。

通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。

身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた

反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」

文化人類学者のこの観察が正しければ、安部公房の意識は、いつも変化の中に自分自身をおいていたというこ

とになるでしょうし、その限りにおいて、安部公房は終生前衛の、アヴァンギャルドの作家だったことになり、

他方、その世界の一定した諸要素の機能化によって、その世界は構造を以って安定しており(或いは逆に、構

造があるので、諸要素の機能化が成り立つというべきでしょう)、偉大なるマンネリズムの作家ということが

できるでしょう。この二つは、安部公房の中では、少しも矛盾しておりません。(略)」

(続く)

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アスペルガーとしての安部公房

アスペルガーを媒介項にして安部公房を読む

(2)

ヴィトゲンシュタインと安部公房

岩田英哉

               目次

1。天才の語源と定義

2。ルイス・キャロルと安部公房

3。ヴィトゲンシュタインと安部公房

****

3。ヴィトゲンシュタインと安部公房

ヴィトゲンシュタインといふ哲学者が一体どういふ人間かをWikipediaより引用して、最初

にお伝へします。

この哲学者は言語に強い関心を持つて、言語の探求をした哲学者です。その言語論は、安部

公房の至つた結論と同じ、言語機能論です。言語機能論といふと何か難しい論のやうに聞こ

えるかも知れませんが、さういふことはなく、既に私たちが学校でならつてゐる文法で、一

つの文の構成要素を品詞と呼び、品詞の構成によつて文の意味を理解し、人に説明するとい

ふこと、この品詞といふ構成要素で考へるといふ事が、既に最初から、無意識のうちにでも、

言語は機能であると考へてゐるといふ事なのです。

この言語論は、言葉自体、その単語または言葉または語自体に意味はなく、言葉の意味は使

ひ方によつて決まるといふ考へかたです。この、言はれて見れば至極当たり前のことを主張

したのが、このヴィトゲンシュタインといふ哲学者です。

従ひ、このことを巡つて思弁を一生続けて、その人生がどういふ人生であつたかが、以下の

同書からの引用で判ります。そして、これらのどれだけが安部公房に当て嵌まり、また自分

に当たつてゐるか、または当たつてゐないかを、深刻でなくて良いので、瞥見するだけでも

価値があるかも知れません。

ヴィトゲンシュタインの特徴は量が多いので、特徴を挙げながらコメントをつけます。

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(1)吃音:「生涯彼に綴りの問題と吃音があったことは広く知られていた。」「彼の吃音

は一九二〇年代には消えていたが、それ以後、彼はこの障碍を克服した人々によく見られる

明瞭なかん高い声で話した。(114ページ)

ルイス・キャロルも同じ吃音者でした。安部公房がさうだといふのではありません。しかし

「僕の中の「僕」」といふ安部公房固有の話法(勿論安部公房以外にも、あるいはあなたも

此の話法を密かに日常あなたのこころの中で使つてゐるかも知れません)が、社会や他人と

の間で起きる差異であり、下記(7)の理由でさうなるのでせう。吃りである或る友人の一

人のいふところによれば、吃りには二種類あり、何かを言語に変換して発声しようとすると

其処で吃る吃りと、発声したあとで文や単語の発音に吃りが生ずる吃りと二つあるのださう

です。人間が思考するとは、かう考へて来ると、吃ることなのかも知れません。そして、呪

文は実は吃ることなのかも知れません。下記(7)にあるヴィトゲンシュタインの特徴は人

間が言葉を考へ、言葉を話すといふことについて誠に示唆するところが大きいやうに思はれ

ます。

(2)「いつも語気強く、しかも明瞭な抑揚をつけて話した。彼は優れた英語を、教育を受

けた英国人のアクセントで話したが、時どき彼の文の構造はドイツ語的となった。」(11

5ページ)

安部公房の文は時々クレオール語的になつたといふことができます。これが安部公房特有の

直喩になつて現れて、読者は此の毒に殺(や)られるといふ説は、『安部公房文学の毒につ

いて∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「1。直喩といふ毒(修

辞の毒)」でお話しした通りです。

(3)「読字障碍は彼の哲学の初期作品に影響を与えた。」「画像的思考への嗜好が結果的

に『論考』の『言語の画像理論』になった」。「読みの障碍のた目に、彼は言語の理解の場

合でも、言語的媒体よりも、幾何学的手段とでも行ってよいような視覚的媒体を好んだ」。

(117ページ)

「彼は言語の理解の場合でも、言語的媒体よりも、幾何学的手段とでも行ってよいような視

覚的媒体を好んだ」といふ特徴は、そのまま安部公房に当て嵌まります。Topology、写真

撮影、地図や絵の文章の中への挿入といつた安部文学の典型的な特徴を思つて見れば良いと

思ひます。

(4)「主要な著作が言語的構造の問題、ことばの意味の問題および言語学習の問題を扱う

試みで」あった。(117ページ)

これもいふまでもなく、全集によれば遅くとも成城高校の時代には既にさうでしたし、『安

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ページ43

部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第3

2号及び第33号)で、少年安部公房の孤独の原因としても、これを論じた通りです。数学

と言語は安部公房にとつては等価で交換可能な関係にあるものでした。Topologyといふ位

相幾何学と訳される数学を使つて如何に詩人から小説家にリルケの歌ふオルフェウスのやう

に「転身」したかは、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐ

ら通信第56号から第59号)にて詳述した通りです。

(5)「隠喩に秀でていた。」「マルコムによると、あるときその日の仕事がはかどってい

い気分でいるとき、」「それを「私の脳の中で、太陽が輝いている非常に短い間に干し草を

作る」と表現した。(118ページ)

小説家になつてからは、作品では直喩を多用する安部公房ですが、もともと詩人であります

から、詩人の譬喩(ひゆ)の最たるものはやはり隠喩(メタファ)です。奉天の千代田小学

校時代の安部公房が音楽の授業で「ベートーヴェンの月光の曲の読本[巻12第9課]を読

んでの感想発表のとき、「ベートーヴェンは、その時、水を満々とたたえたバケツを頭の上

にかかげて、一滴もこぼさないように大事にかかえて来た思いをピアノにブッツケルように

して作曲したに違いない」と公房は発言したというのである。この学習係(公房)の頭の中

は一体どんな仕組みになっているのか、と末松優は驚かされた(宮武城吉傘寿記念文集よ

り)」(宮西忠正著『荒野の人・安部公房』、21ページ)とある通りです。

同級生の正確に伝へる安部公房の発音の「ブッツケル」といふ発声の「ッ」といふ促音便は、

同じ小学生の時代の詩『風』といふ詩の中の「風が/僕のほうぺった なで ゆく/凍ったお

手で なで ゆく」の「ほうぺった」や「凍った」といふ促音便に、そして後者は普通の音

便ですが、しかし前者は安部公房に特有の音便で、音楽の授業にも、安部公房固有の内省的・

独白的な話法「僕の中の「僕」」の後者の「僕」と前者の僕との葛藤から生まれた吃音であ

るのかものかも知れません。

(6)「自分自身に話しかけたが、これはHFA/ASPの人々に珍しいことではない。」(1

19ページ)「彼の小集団での教育法は極めて奇妙であった(略)彼の会話は独言であって

対話ではなかった。」(131ページ)

安部公房スタジオの俳優佐藤正文によれば、安部公房は「自分で演って見せたことがない」

が、しかし、一回だけ、中年女を演ったことがあるんです。[緑色のストッキング]で条さ

んがやった奥さん、妻です。めちゃくちゃうまかった。」(「贋月報」全集第24巻)舞台

に立つての本番前の稽古は別でせうが、稽古場の期間での安部公房は若い役者たちの演技を

観察して、沈黙の中で「僕の中の「僕」」と対話してゐたのではないだらうか。「彼の」安

部公房スタジオでの「教育法は極めて奇妙であった(略)彼の会話は」上の「一回だけ」の

場合以外は、「独言であって対話ではなかった」のかも知れない。

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(7)「その吃音は、思考のどもりと並行していた。」(119ページ)

ヴィトゲンシュタインについての此の一行は、恰も安部公房の文章を読む喜びや愉しみ、愉
悦といふことをいつてゐるかのやうに聞こえる。即ち、小説や戯曲の科白であるならば、科
白と科白の間の飛躍(差異)であり、小説の地の文章ならば、直喩を使つて表現する何かと
何かの隙間(差異)、即ち其処にある何か、即ち存在のことである。

(8)言葉遊びや掛詞をつくるユーモアの感覚を持っていた。(123ページ)ナンセンス
ユーモアに没頭することがあつた。(125ページ)「面白いことに、ルイス・キャロルも
ナンセンスユーモアに秀でていた。」(126ページ)「彼は哲学でユーモアを研究した。
彼はユーモアを気持ちではなく世界の見方であると信じた。」(127ページ)た。」

これは此のまま安部公房です。勿論安部公房の場合はブラックユーモア、即ち辛辣で残酷な
黒い笑ひです。

(9)「かなりの模倣能力を持っていた。/彼は物まねがうまい。(略)それは彼の魔法の
一部であったに違いない……彼は呪文でどんなものでも呼び出せるかのようだ。」

これは上記(6)に説明した通りです。そして、その一回限りみせた絶妙な模倣能力は、一
種「魔法のチョーク」を使つて夜の闇に描いた線なのでせう。その為(目的)なのか、それ
が故に(原因)なのか其の先後はどちらもあり得ますし、いづれでもないかも知れませんが、
この無時間の差異を前にして「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」によつて存在を呼び出
すのための呪文を、安部公房も唱へたのでした。

(10)「学校では、彼は級友との間にある種の隔たりを保っていた。」「彼にとって(後
年になってと同様に)教室に坐ることは苦痛であった。」

この他者を必要としない、といふよりも、他者に学ぶことにそもそも無関心であるといふ独
習者のあり方は、ルイス・キャロルもさうでしたし、下記(19)にあるやうにヴィトゲン
シュタインも同様でした。安部公房が「教室に坐ることは苦痛であった」ことは、日本共産
党員時代で一番苦しかつた1953年のエッセイ『思い出』を読むと、小学生の安部公房の
持つてゐた、学校へ行き教室といふ空間の中に足を踏み入れるといふ行為に対する恐怖心が、
よく知られます。また、世に出た後に書いた[1948年 冬頃]の詩「悪夢のやうに」は、
教室といふ社会的な空間が、社会といふ一層社会的な実際の空間になつたのでせう、次のや
うなものです。

「悪夢のやうに小学校の黒板を想出すと、
 放課後はたそがれた光線の中で、
 白い線がくつきりと問題を残してゐる。
 答へは書いてないが、もう済んでしまつた問ひを……。

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 そんなにして、ぼくらは沢山の問ひを済ませてきた。

 その後に 答へのない問ひだけを残して、

 それでも済ませてきた、

 いつも生存の放課後のたそがれの中に……。

 しかしまだ何かを問はうとするのだらうか、

 一つの問ひを消し過去のものにするのは、

 その解答ではなく、

 新しい、別の問ひである。」

これは此のまま安部公房です。勿論安部公房の場合はブラックユーモア、即ち辛辣で残酷な

黒い笑ひです。

上に言及した『思い出』といふエッセイは、後年の『笑う月』(新潮社文庫)所収の安部公

房の見た夢の話と同じ性質の「思い出」であることが、既に此のエッセイで、解ります。そ

してここには、荷馬車も、廊下といふ迷路も、鞄も、父親との関係も、「運動会のとき一番

ビリになっってもらった」鉛筆も、それから遅刻した罰もあつて、それぞれ、『箱男』のショ

パンの話中話の逸話、戯曲『友達』、小説・戯曲『鞄』、贋の父親(『さまざまな父』や

『S・カルマ氏の犯罪』)、『S・カルマ氏の犯罪』の中で「ロール・パン氏が悲痛な調子

で」朗読する鉛筆の詩、それから『箱男』の中の写真に添えられた詩に歌はれる「夜の競技

場」を周回遅れで「贋のゴール」めがけて走る何種類もの名前で呼ばれてゐる箱男たちまで

もが、ここに「幼年の」「いつわりにみちている」「思い出」として書かれてゐます。更に

此処に出てくる「小使」は、後年幾つもの小説に登場する監視者であり、従い例えば『密会』

の副院長の馬であり、『S・カルマ氏の犯罪』でS・カルマ氏を追跡する緑の服の男であり、

主人公を裁く法学者です。そして、馬と一緒に、リルケの『涙の壺』、即ちtopologicalに変

形する基本形であり「ゼロのニュートラル」[註1]である凹の形象も、「コトコト」「ギ

イギイ」といふ呪文も、劇場の幕が開き且つ降りるといふ超越論的な話の開始と終わりの契

機となる救急車の甲高いサイレンの音でに相当する、馬車の「ギイギイほとんど悲鳴にちか

い、叫び声」も出てきて、凝縮した安部公房の形象の勢揃ひと云つて良いでせう。

「 幼年の思い出はいつわりにみちている。

  白い砂ほこりの中を、三頭立ての荷馬車がコトコト進んでいた。いや、コトコト鳴って

いるのは車のそばにつった黒い油壺で、馬車はギイギイほとんど悲鳴にち書い、叫び声をあ

げていた。(略)

 とつぜん私は思い出した。今日はみんなで大人になる注射をうけに行く日だった。今日か

ぎり、世界中の子供がみんな大人になって、もう子供はいなくなるはずだった。それだのに

遅刻した私だけが取り残されて、まだ子供でいるのだった。

 罰だ!と小使が大声で叫び、乾いた白い手のひらで私を打ちすえた。(略)」(全集第4

巻、312∼313ページ)

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46

このエッセイは、安部公房文学の本質的な形象の文字通りのエッセンスです。一読をお薦め

します。

[註1]

「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)より以下に引用します。

「7。安部公房のニュートラルという概念

安部公房は、ニュートラルという概念について、次の文章を書いております(全集第24巻、146∼147

ページ)。以上述べ来たった奉天の数学的な窓を念頭においてお読みになると、安部公房の言っている言葉は

少しも難しくないことがお判りでしょう。(強調赤文字は筆者。傍線は原文は傍点)

「 演技におけるニュートラルという概念は、ぼくが思いついて命名したもので、かならずしも一般的なもの

ではない。それだけに、誤解の可能性も大きいので、今回は多少こまかくその定義づけをしてみよう。

 前回であげた例題---聞こえている多数の音の中から、比較的聞き分けやすく、持続的な音を選び出し、それ

に集中することで、他の感覚を排除する(読者もこの場で、ぜひ一度こころみていただきたい)---は、ニュー

トラルの重要な原型の一つはあるが、すべてではない。比喩的に言えば、ニュートラルにおけるゼロの状態、

もしくは、ゼロのニュートラルにすぎないので

ある。

 この、ゼロのニュートラルを基点にして、無数のニュートラルの変形が存在する。」

(11)「ある日、映画を見るために映画館の前で並んだのだが、列があまりにも長いこと

に気づいた」ヴィトゲンシュタインは「急にさようならも言わないで帰ってしまった。」

安部公房はリルケの『マルテの手記』のマルテに学んで、忍耐強く待つことをしましたから、

これは当て嵌まらない。むしろヴィトゲンシュタインが『マルテの手記』を読むべきでした。

私は文学に於いては安部公房型、現実に於いてはヴィトゲンシュタイン型です。あなたはど

うでせうか?

(12)「後年になって、」「他の人々の顔や顔の表情の重要性を認めるようになった。彼

は他人の顔から学べることの重要性を発見したのである。」

これも既に十代の詩人の時代からの安部公房の詩の形象であり、詩作の動機の一つです。巷

間言はれるやうには花田清輝の影響なのではない。『マルテの手記』から当該箇所を引用し

ます。

「Die Frau erschrak und hob sich aus sich ab, zu schnell, zu heftig, so dass das

Gesicht in den zwei Händen blieb. Ich konnte es darin liegen sehen, seine hohle

Form. Es kostete mich unbeschreibliche Anstrengung, bei diesen Händen zu bleiben

und nicht zu schauen, was sich aus ihnen abgerissen hatte. Mir graute, ein Gesicht

von innen zu sehen, aber ich fürchtete mich doch noch viel mehr vor dem bloßen

wunden Kopf ohne Gesicht.」

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「女はその音で驚いて、両手から顔を上げた。あまりに急激に上げたので、顔面が二つの手

のなかに残った。僕は顔面のうつろな裏側が手のなかに残っているのを見ることができた。

てからもぐ離された顔を見なくて、手に残った顔面だけを見ているのは、恐ろしい努力を要

した。顔面の裏を見るのも恐ろしかったが、顔面がなくなったのっぺらぼうな顔を見るのは、

もっと恐ろしかった。」(望月市恵訳『マルテの手記』11ページ、岩波文庫版)

三島由紀夫も『マルテの手記』を読み耽つて、この箇所に深く感銘を受けた。安部公房は『他

人の顔』を書き、三島由紀夫は『仮面の告白』を書いた。二人は、三島由紀夫邸の「太陽の

部屋」か六本木のCHIANTIであるか、リルケの『マルテの手記』の此の二行について親し

く語りあつた筈です。以下、三島由紀夫の学習院高等科時代の親友三谷信氏の『級友 三島

由紀夫』より引用して、この作家が如何にリルケに耽溺したかをお伝へします。

「此の便りとは関係ないが、思い出したことを書いておきたい。二階の彼の部屋に相当大き

な西洋館の写真がかかっていた。彼の机からみて斜め右手の壁にである。尋ねると、それは

リルケの最後の住居となった、かのミュゾットの館であった。ともあれ、高等科の頃、彼は

「マルテの手記」に夢中であった。「男が膝に置いた両手の中に顔を埋めていた。やがて顔

をあげると、掌に顔がそっくり冩っていたと云うんだねえ」と感心して語った。その時、こ

ちらを見つめた黒く円(つぶら)な瞳が目に浮かぶ。(略)

 彼は「マルテの手記」の中に挿入されている一角獣と少女のゴブラン織りの写真に惚れこ

んでいた。それを何遍も指で撫でて、「君、綺麗だねえ」を連発した。三島にはそれが信じ

られぬくらい美しく見えるようであった。彼は、例によってその本を親切にも貸してくれた。

しかし私には良く解らなかった。」(中公文庫、69∼70ページ。1999年12月18

日発行)

この『マルテの手記』は、『定本 三島由紀夫書誌』(薔薇十字社)によれば、昭和15年

(西暦1940年)2月10日発行、大山定一訳、白水社版の『マルテの手記』である。成

城高校生であつた安部公房も同じ『マルテの手記』を読んだ。三島由紀夫のリルケ熱から言

つて、また此の書誌の記録から言つて、三島由紀夫はリルケの作品が訳されれば此れを買つ

てゐるので、この年の前に『マルテの手記』の翻訳出版はなく、後に出るのは同じ訳者で養

徳社から昭和25年(西暦1950年)4月5日であるから。

三島由紀夫は後年『他人の顔』の書評を書いてゐる(『 仮面の男 を主題に―安部公房著「他

人の顔」』決定版 三島由紀夫全集第33巻、208ページ)が、そこにはリルケと『マル

テの手記』の名前は書かれてゐない。それほどに、大切な作品であつた。人間の心理として、

本当に大切な物事は他言しないものである。「1964年(昭和39 年)初めには『浜松中納言

物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め」たとありますから(https://

ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫)、この年に書いた『絹と明察』にはハイデッガーとヘ

ルダーリンといふ十代に読んだ哲学者と詩人の名前の出てくることから、三島由紀夫は十代

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48

ページ

の詩と文学の世界に回帰することが、虚飾を捨てて大切だといふことを、死の一週間前の古

林尚によるインタヴューで語つてをりますので、安部公房と同様に一度は否定したリルケ

(『花ざかりの森・憂国』自筆後書。新潮社文庫)をもう一度想起したことでせう。『豊饒

の海』といふ名前は『絹と明察』に引用されてゐる、これも十代以来読みふけったヘルダー

リンの詩『追想』(『Andenken』)に詠まれるガロンヌ河が遂に流れ入る「豊饒の海」で

あり、主人公松ケ枝清顕の夢日記による転生輪廻がリルケの『オルフォイスへのソネット』

のオフフォイスの「転身」の果てに見る夢物語だといへば、あなたは驚くでせうか。安部公

房のリルケも三島由紀夫のリルケも、文学と言葉といふものは、普通の世の人が思ふやうな

通り一遍のものではなく(勿論娯楽として読んでもいいでせう、しかし)、誠に言語の藝術

家にとては其の生死を賭けた人間の命そのものだといふことを深く深く感じるのです。この

問題は『三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」』と題して稿を改めます。

これも不思議な一致ですが、それぞれの文学の十代の師ともいふべき阿部六郎と蓮田善明が

成城高校の同僚であり、成城高校で催された後者の追悼会に前者と、そして三島由紀夫が参

列をし、また三島由紀夫が詩に於いて師事した伊東静雄の京都大学の親しき友蒲池歓一が、

安部公房と一緒に北海道に旅行して[註2]此の際に戯曲『どれい狩り』と『ウエー』の着

想を得ることになり[註3]、後年三島由紀夫が安部公房と親しく交はることになるといふ

ことには、何か普通の縁ではない、縁以上の縁を、生まれる前からの、大和言葉でいふえに

しを、私は感じます。

[註2]

更科源蔵宛書簡(全集第29巻、338ページ)を参照ください。

[註3]

このことは『更科源蔵と安部公房∼『どれい狩り』『ウエー』の旅∼』(もぐら通信第25号)に詳述しまし

たので、ご覧ください。

(13)「彼には服装が不適切であることが気にならなかった。実際彼は同じ服を長期間き

ていることが好きであった。」「服装に関して、態度を変えなかった。彼は財産を処分して

から、いつも同じ型の服を着ていた。」

私にはこれは解らない。雑誌に載つてゐる写真を見ると、おしやれだつたのではないかと察

せられる。

(14)「大人とは対照的に、」「一般に子どもとは特別にうまく関係を持つことができた。

そして、実際心から彼らの世話をした。」

これはさうではないかと思はれる。安部公房の初期の小説に少年が登場するし、男といふも

のが一体にさうですが、何歳になつても少年の心が大人の体の中に生きてゐるものですか

ら。

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ページ49

(15)同様に、「鳥とも異常にうまく関係を持つことができた。これは彼の障害の終わり
のころのアイルランでの生活で明らかになった。HFA/ASPの人々は、ときに動物とうまく
意思伝達できることがある。」ヴィトゲンシュタインも「例外ではなかった。ロスロで、彼
は毎日鳥に話しかけ、餌をやった。そして、多くの鳥を手なずけ、彼がその地を去るとすぐ
に何羽が死んだほどである。彼は鳥の名前や癖を知っていた。実際鳥と一緒にいる時の振る
舞いや動物に対する配慮において、」「アシシの聖フランシスやアイルランドの聖ケビンと
似ていると、ウォールは述べている。」(152ページ)「自閉症の人々は、ウィングが記
載しているように、鳥に特別の興味をもつ。そしてウィトゲンシュタインはこの特別な覚知
を持っていた。」(230ページ)

安部公房の詩文散文を読むと、樹木や、植物や、生き物と話ができたのではないかと思はれ
る。「アシシの聖フランシスやアイルランドの聖ケビン」といふのは修道院の僧侶であらう。
ドイツ文学には、ヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデといふ中世の詩人で、鳥
と話のできる有名な詩人がゐる。この詩人の描かれた肖像です。切手になつて今も生きてゐ
る。

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(16)「人々から離れようとしたために、彼はしばしば孤立を必要とした。(略)彼は自

らを追放し、彼を知っているすべての人々から遠く離れた場所、つまりノルウェイで数年間

すごさねばならな買った。彼はまったく一人で自活して、つまりは隠遁者の生活をおくり、

論理の仕事以外にはなにもしなかった。」(153ページ)ヴィトゲンシュタインは「仕事

をするために地球上で一番隔絶した場所を探していたように思われる。(略)彼はフェロー

諸島やシェトランドあるいはへブリッジに行くことを考えていた。(略)哲学者F・フィチ

ム・オドハーティは、ウィトゲンシュタインが、私は暗闇の中でもっともよく考えられる、

ヨーロッパのもっとも「闇の深まり」の一つがあるのはアイルランド西部だと言ったことを、

覚えている。」(154ページ)

上の引用の主語を安部公房に入れ替えれば、そのまま安部公房の心事を知ることに似てゐる

かも知れない。「別離とも呼ぶ孤独の惑星」(原文は傍線は傍点)に移住しようとした安部

公房である(『別離』、詩集『没我の地平』所収、全集第1巻、181ページ)。安部公房

にとつての「「仕事をするために地球上で一番隔絶した場所」は箱根であつた。「私は暗闇

の中でもっともよく考えられる」といふ考へも全く安部公房らしい。

(17)「彼は全ての点で最小限要求者であった。(略)第一次大戦後、ウィトゲンシュタ

インは彼の莫大な財産を放棄した。金銭の処分は生活を最小限にするための努力であった。」

(157ページ)

「最小限要求者」といふ訳語は、多分英語のminimalistではないかと思ふ。安部公房の思考

は一見複雑であるが、その心はいつも単純であつた。奉天の窓のやうに単純であつた。親し

かつた成城高校の後輩に当たる堤清二氏の言葉によれば、カメラを次から次へと買ひ替へた

といふ話の後に「あの人、車だって、好きでいろんなのに乗ったけど、それを所有したいっ

てことで乗ってたわけじゃない。乗るのが愉快ってことだった。使用価値の合理性、それが

モダンですよ。見栄とかステイタスシンボルとしてモノを見るっていうことはなかった。」

(「贋月報23」、全集第23巻)

これは、この通りだと思ひます。欲のある人間に資本主義と民主主義といふ所有を前提にし

た経済と政治の裏表、表裏一体の仕組みを批判することはできない。勿論、欲があつても良

いが、要は道徳と均衡(バランス)の問題です。堤清二の指摘は、欧州に発し米国に一層栄

えた白人種の近代文明が其の根底に置いた、有色人種の富の徹底的な収奪システムである植

民地主義の上に立つ文学は駄目だ、さうでない文学を創造せよといふ安部公房の主張に通じ

てゐると思はれる。私はこれを二十一世紀の安部公房論と呼んでゐます。

「いわゆる発展途上国に見るべき文学がないのも、けっきょくは植民地収奪の結果だと思う。

発展途上国にも文学があり、その民族のためのすぐれた文学が生まれていると主張する人も

いるけど、ぼくはそう思わない。すくなくとも世界文学、あるいは現代文学という基準では、

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文学と言うにたる文学はない。

 逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも言える。西欧的な方法をよりどころに

しているから駄目なのではなく、植民地主義の土台にきずかれたものだから駄目なんだ。反

植民地主義的な思想にもとづく作品でさえ、植民地経済を基礎にしていた国からしか生まれ

得ない。メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなものさ。」(『錨なき方

舟の時代』全集第27巻、159ページ下段∼160ページ上段)(傍線筆者)

植民地主義ではなく、しかしまた反植民地主義でもなく、自己の果てしない転身といふ次元

展開の結果遂に至つて観る第三の客観、即ち存在、ここでも安部公房の主張は首尾一貫して

ゐます。特に、また最後の「メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなもの

さ」といふ発言を聞きますと、初期安部公房が考へ抜いた天使・悪魔論[註4]が依然とし

て生きてゐることを知るのです。

[註4]

天使・悪魔論についての安部公房文学史上の意義と位置については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」

といふ語について(4)』及び同論考(5)(それぞれもぐら通信第59号及び第60号)にて詳述しました

ので、ご覧ください。

私は現在の日本文学の衰退の原因は、この自覚の欠如にあると思ふ。昨今日本のSF文学の

世界に触れて作品を読むと、率直に言つて、SF文学の方が本来の文学の主たる潮流ではな

いのか[註4A]といひたくなり、実際には安部公房の主張はこれであることを実感する。

二十一世紀の文学は仮説設定の文学であるべきだし、「べき」論をいはずとも、さうなので

はないだらうか。といふ事に、ここでも、なる。

[註4A]

この同じ主張の安部公房によるSF王道論またはSF正当異端論といふべき論は、『ぼくのSF観』(全集第17

巻、288ページ)に書かれてゐます。

(18)ケンブリッジの「彼の部屋は、……高い階段の一番上にあった。」

これは三島由紀夫により当てはまりさうに見える。安部公房ならば、果てしなく成長する壁

やジャンプシューズを履いて飛ぶ垂直方向といふ無時間の方向がこれだといふ事になりませ

う。勿論この部屋は存在の部屋です。

(19)「多くの点で、独学者であり、これはHFA/ASPの人々に典型的である。その結果、

彼は他人から、それがたとえ指導教官であっても学ぶ姿勢を見せなかった。」

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再帰的な人間はいつも自分自身の文章(テキスト)を引用し、他者の文章を引用しない。

と言ひ換へることができるし、実際上記(19)と同じことを此処では言つてゐる。

(20)同一性の保持:「哲学や機械に対する猛烈な興味から分かるように、限局された反

復的で常同的な、行動や興味や活動のパターンが見られた。HFA/ASPの人々の儀式的行動

や同一性の保持への欲求は、激しいものである。ウィトゲンシュタインは本来的に儀式に興

味を持っており、子どものころカトリックの儀式や伝統をよく知っていた。(略)/同一性

の保持が見られる他の領域は、ダブリンでの食行動であった。(略)グラフトン通りのビュー

レイのコーヒー店で毎日まったく同じ物を食べた。死の直前、彼はケンブリッジのビューヴァ

ン医師の家で暮らしていたが、毎日同じ食事を要求した。(略)アメリカのマルコムのとこ

ろで短期間滞在したとき、食生活を決して変えようとはしなかった。」(165∼166ペー

ジ)

これは逆に安部公房の儀式嫌いに通じてゐる。安部公房がヴィトゲンシュタインとは逆なの

は、陰画でものを見るからです。この論理は数学的に別途『安部公房の論理学』と題して説

明します。しかし、食については、安部公房は多彩です。これはこれで別途『安部公房の食

卓』と題して論じます。しかし哲学的・抽象的なtopologicalな統一的な共通性が多彩な食卓

の下に隠れてゐるといふことを考へると、ここでも安部公房には当て嵌まってゐると考へる

ことができる。

(21)「音楽はウィトゲンシュタインにとって非常に大切なものであった。(略)彼は定

期的にビンセントと、リズムに関するいくつかの音楽的実験を行なってさえいる。そうでは

あったが、彼は古典的な自閉症様式で、何度も何度も同じ音楽を聴く傾向にあった。ウィト

ゲンシュタインは古典的な自閉症スペクトラムといふ意味で、非常に独学的であった」。

これも、安部公房の好きな音楽には顕著な傾向がある。バッハといふバロック音楽、それに

きつと安部公房にとつてはバロック音楽の一種であつたに相違ないピンク・フロイドの音楽。

(22)「言語的な謎を解くことに興味を持っていた。/ヴィトゲンシュタインは、偉大な

哲学的作品を作り出すこと以外に価値のあることはないと考えていた。実際彼は自分の作品

に生涯を捧げた。」

これも安部公房の生涯そのものである。

(23)「ウィトゲンシュタインの影響の多くは、哲学的問題であろうと日常生活の問題で

あろうと、それらに対して彼の示したまじりけのない確信のせいであるといえる。ムーアは、

「ヴィトゲンシュタインが口にするすべてに対して示す強い確信や、彼が聴衆から引き出し

たい強い関心」を正当に評価できないと述べた。これはヒトラーと似ていなくもない。ヒト

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ラーもまた自閉症的精神病質であった。(177ページ)

これもまた確かに「まじりけのない確信」が安部公房にはあつた。安部公房「口にするすべ

てに対して示す強い確信や、彼が聴衆から引き出したい強い関心」を正当に評価すべきこと

です。「これはヒトラーと似ていなくもない」とある一行は、安部公房がドイツ・ナチスの

映画を見ることが好きであることに通じてゐる。もつとも安部公房は、日本共産党員であつ

た自分の心事の弱点を反省して、陰画としてヒトラーとヒトラーに服従した若者の姿を人間

の反劇的な姿として観てゐるのだが。(『反劇的人間』全集第24巻、324∼327ペー

ジ)

(24)ヴィトゲンシュタインと魔法や魔術や呪文の関係を口にする知人友人たちがゐる。

(177ページ)「魔術師で人々に魔術を掛けた」(建築家のコリン・ジョン・ウィルソン

卿)「ウィトゲンシュタインは彼の経歴に付き纏う魔術師であった」(エドモンズとエーディ

ナウ)「彼は(ヒトラーのように)呪文を掛けた。その結果、彼がペテン師か天才かが、同

時代の人々の心を占めた。」(ファニア・パスカル)「ウィトゲンシュタインは現代思想の

神聖な怪物である。」(ブライアン・モートン)

これもその通りの安部公房ではないだらうか。勿論、安部公房がぺてん師だとは思はぬが、

しかし安部公房はリルケをエッセイ『リルケ』の最後でリルケを「ぺてん師リルケ」と呼ん

でゐるから、案外自分もさうだといふ自覚があつたかも知れない。勿論これは虚構といふ文

藝の世界での詐欺師であり、トーマス・マンが小説家は詐欺師にそつくりだといつて最晩年

に『詐欺師フェリックスクルル』といふ詐欺師の話を書いたのと同じ意味でのことである。

何故小説家は詐欺師にそつくりかといふと、時間の中で立体的な構造的な話をすると、必ず

矛盾が生じるものを、(何故ならばバロックの世界観から言つても、この世は隙間だらけで

あり、この世はスケスケだからであるが、しかし)その矛盾がないようにこのスケスケとい

ふ差異をゼロにして見かけ上上手に完璧な話を作るのが、この世では一つは詐欺師、もう一

つは職業的な小説家だからである。前者を職業と言つて良いかどうかは疑問が残るが、しか

し、安部公房が『箱男』脱稿後の講演をYouTubeで聴くと、本当に導入部の話が上手くて、

いつのまにか其の世界に引き込まれてしまふ。大体箱を被つたままの浮浪者が、警察署の廊

下の椅子に座つてゐるわけもないではないか。と思ふ間も無く、読者は疑似科学の世界の中

へと入つて抜けられなくなり、その脱出の方法は作品中の「案内人」や案内板(「立て札」)

や案内書(「ガイドブック」)が教へてくれるといふ趣向である。

(25)「自閉症の人々は寒さに鈍感である。」

あんなに冬は寒い筈の箱根に隠棲するのであれば、さうかも知れないと思ふ以外にはない。

(26)自己同一性の拡散

ヴィトゲンシュタインは「修道僧、神秘主義者、および工学者の際立った組み合わせ」であ

り「落ち着きのない精神」の持ち主である。「これらの特徴はHFA/ASPとしばしば関連し

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ている。それ以上に、自己同一性の拡散や自己感の缺如が中心にある問題であった。ウィト

ゲンシュタインは生涯を通して自己感を探求しつづけた。アメリカの批評家マージョリ・ペ

ルロフはウィトゲンシュタインが「究極の現代的なアウトサイダーであり、やむことなく自

己を改革する醜い子」のように見えると述べた。」(183ページ)訳註によれば「醜い子」

とは、「changeling:妖精が美しいかわいい子の代わりにすり替えて残していったと信じら

れた子・取替えっ子」のことである。(183ページ)

上のヴィトゲンシュタインを安部公房に替へれば、そのまま安部公房の事になるのではない

だらうか。「やむことなく自己を改革する醜い子」とは、処女作『(霊媒の話より)題未定』

の無名の主人公、家なき子であり、アンデルセンの童話にある「醜いアヒルの子」を思はせ

る。女性の読者ならば、あるいは、シンデレラの物語を考へても良いと思ふ。

「自己同一性の拡散や自己感の缺如が中心にある問題」も、その通りではないかと思はれる。

前期20年は「自己同一性の拡散」、後期20年のうち特に後半10年は自己同一性の収縮、

これはルイス・キャロルもさうであつた。「自己感の缺如」は、世の人から見るとさう見え

るのであり、安部公房の論理ではむしろ逆であるだらう。ヴィトゲンシュタインもまた同様

に見られたといふことである。もぐらの一匹であるあなたも、社会からこの所見をもらうこ

とが十分にあり得る。勿論そんな所見をもらつても、どうつてことないのだが。

(27)「しばしば、ウィトゲンシュタインは修道僧になろうと思った。」(184ページ)

私も大学を出たら越前は永平寺に行つて坊さんにならうと思つて、割合と真剣にある期間を

置いて何度か考へたことがあるが、酒が飲めないといふことが障害になつて遂になることが

できなかつたが、今でも『正法眼蔵』は座右にある。勿論私が永平寺の高僧になつたらもぐ

ら通信は出てゐない。坊さんにならなくてよかつた。道元禅師の時間論は、安部公房の時間

論である[註5]。他に栄西の書いた碧巌録のある箇所を目にしたことがあるが、そこは二

進数の論理演算でいふ否定論理和の列挙であつて、身の廻りのものと其の名前を延々と時間

の中で否定して行くのであるが、これは若いお坊さんのための悟りを開くための方法なのだ

と知つた。かうしてみると鎌倉時代に武士といふ激しい精神が(何しろ二進数でデジタルに

黒か白かと問ふて生きたら親は勿論周囲と激突することは必定、血縁は関係なく実際に『吾

妻鏡』をみると叔父と甥が平氏と源氏に別れて戦をしてゐる位の激越さを以つて)関東から

生まれたことと、デジタルで二進数で考へて論理の究明の果てに、ある差異、即ちインドな

らばインダス川を舟で渡つて彼岸に至るといふ例えば般若心経の最後の箇所の呪文である

ギャーテイギャーテイハラギャーテイといふ呪文を唱へながら、陸地の間の差異を情緖では

なく論理で渡つて行くとふ、仏祖を殺せといふ禅の持つ此れも激しい悟りへの道の、これら

の意義もよくわかるのである。鎌倉仏教と武士はデジタルに二進数で考へてゐる。

[註5]

この事について、もぐら通信第27号より引用します。

もぐら通信

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ページ55

「安部公房が時間の空間化といったのと同じことを、道元禅師が『正法眼蔵』の最初に述べております。『正

法眼蔵第一 現成公案』(げんじょうこうあん)に次の言葉があります。この道元禅師の言葉を読むと、言語

機能論は、時代も人種も民族も個別言語も国も宗教もどの領域も何も問わないということが、お解りでしょう。

ここで論じているのは、時間と言葉と人間の思考による物事の機能化(函数化)ということ、単位化というこ

と、位ということです。道元禅師は禅のお坊さんですから、宇宙のこの法則の単位を、法位と呼んでいます。

「たき木はひ(火)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと

見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。

灰ははいの法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひ(灰)となりぬるのち、さらに薪とならざる

がごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれる

ならひなり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごと

し。冬の春となるとおもはず、春の夏といはぬなり。」

一次元の時間の中にいるわたしたちは、平凡普通に時が流れてゆくと思い、春は夏に、夏は秋に、秋は冬に、

そして冬は春になり、移り変わってゆくと思っておりますが、道元禅師はそうではないとはっきり言うのです。

そうではない、春には春の位があり、夏には夏の位があり、秋には秋の位があり、冬には冬の位がある。即ち、

春と夏の前後は際断せり、夏と秋の前後は際断せり、秋と冬の前後は際断せり、冬と春の前後は際断せり。時

間の中の前後ではないという思想なのです。そして、これは宇宙の真理であるから、それを法位と言うのだと、

そうおっしゃっております。灰と薪の関係も然り、従い、生と死の関係も然り。」

(『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨∼従属文の中の安部公房論∼』もぐら通信第

27号)

(28)「自己同一性の問題が、彼の心を占めていた。(略)書くことは彼の自己同一性と

わかちがたく結びついており、作品がほとんど出版されなかったものの、生涯膨大な量を書

いた。「私は考える故に私は存在する」および「私はかくゆえに私は存在する」は、彼の信

条のようであった。」(185ページ)条のようであった。」

安部公房についても同様であつて、これについてはいふことがない。「空白の論理」によつ

て、安部公房の、これも密かに愛読した哲学書はデカルトであり、『方法序説』は当然のこ

とながら其の一書であつた筈である。後年安部公房はデカルトの名前をジュリー・ブロック

のインタヴューでかろうじて「カルテジアン」(デカルト流の)といふ形容詞として挙げて

ゐる。以下もぐら通信第45号より引用します。

「[註7]

(略)

また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法

に近い意味に解していた。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト

的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏

と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)。ジュリー・ブロックと

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もぐら通信

ページ56

のインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。

「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデ

ンディティのことを問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は

「顔」である、というような。

 フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考える

とき、いつも「ジュ」が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてき

ませんでした。それで私は、数学のように方程式をつくれば、答えのXが現れると思いまし

た。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から勉強を始めて、

四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。

安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義と

いうような考え方をするのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は

本質に先行する」ということだけれども、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、

「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまう

ということです。

ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。

安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:

「デカルト的な」の意味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」(『安

部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)

(29)「多くの論者は、ウィトゲンシュタインの作品の宗教的次元について意見を述べて

いる。宗教的資質は、ニュートンやラマヌジャンやルイス・キャロルなど、HFA/ASPの天

才にしばしば見られる資質である。(略)宗教人、聖人および苦悩者としてのウィトゲンシュ

タイン像が、彼についての多くの逸話に一貫してみられる。」

安部公房の宗教的資質は、本人は存在を論じたが、これが汎神論的存在論であり、本人が全

く世に隠れたシャーマンである以上、安部公房の宗教的資質は「天才にしばしば見られる資

質」だといつて良い。何しろ夢を記録して、意識と無意識の境界を生きる安部公房が此の資

質に欠けてゐるとは思はれない。

(30)視ー空間能力:「視ー空間関係は、自閉症の人々では大いに発達しうる。、彼らに

はしばしば建築屋、コンクリートとか鉄のような、彼らがうまく扱える資材を使った仕事に、

優れた才能を発揮する。ウィトゲンシュタインは並外れた視ー空間能力を示し、それは工学

と建築にみられた。(略)一九〇八年はじめてイギリスに来たすぐあとで、彼はプロペラを

開発したが、それは第二次世界大戦中に首尾よく使用された。ドゥルーリーはまた、ウィト

ゲンシュタインがニューカッスルの病院の研究室で働いていたとき、血圧を測定する器具を

開発したと記録している。」

安部公房の「視ー空間能力」の持ち主であることはいふまでもありません。十代の安部公房

は「丁度リルケがロダンから學んだ如く、僕もリルケから「先ずみる事」を學びました」

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(『中埜肇宛書簡第5信』全集第1巻、92ページ)とあるやうに、詩的にも、また

topologicalに位相幾何学的にも、安部公房が見るといふよりは、観る人間である事は、生

来の資質と其の後努力によつてもさうである人間である事は、その通りでありませう。この

書簡は1944年、安部公房20歳の書簡。この後同じ年に『観る男』といふ詩を書いてゐ

ます(全集第1巻、133ページ)。これを読むと、安部公房がリルケに学んだ「先ずみる

事」の意味がよくわかります。ここでは、言葉、存在、観る事、「未来の日記」(後年の「明

日の新聞」の先例)無名の我、物(事物)との関係の取り方、事物と存在の関係をどう考へ

るか、「転身」、木や雲の自然、詩と心と友と愛、気分と概念、魂、静寂を命ずること(「静

かに!黙つて!」)、自己を包む無限の存在、憧れ、過去との別離と新たな出発、忘却が書

かれてゐます。あなたも一度お読み下さい。お薦めします。

(31)「ワイトによると、ウィトゲンシュタインは家からあらゆる古典的な装飾を取り除

き、「飾り気のない線と面と体積の簡素な構成物」を作った。」(222ページ)

この感覚と論理は、安部公房らしいと思ふ。前期20年の安部公房の盟友といふべき勅使河

原宏が花道の世界へ戻つて、最初に活けたお花が、勅使河原蒼風の高弟の女性のお一人がい

ふには、宏が活けた最初の花は、全ての花を切り捨ててしまひ、枝だけの花になつたといふ

ことが、誠に安部公房の友といふ気がします。箱根の仕事場にある骸骨の模型と同様に、安

部公房の関心は衣装といふ肉を剥ぎ取つた骨格(モデル)でありますので、「飾り気のない

線と面と体積の簡素な構成物」を作ったといふ事は、事実です。

(32)アスペルガー医師は「彼の患者の思考が独創的であり、そして患者の興味が「ほと

んど実用性のない抽象的な事柄に対してしばしば向けられる」ことを指摘した。また彼は患

者が示した高い知能と論理領域の特別な能力をも強調した。このことはウィトゲンシュタイ

ンに完全に当てはまる。」(223ページ)

これも安部公房に「完全に当てはまる。」

(33)「ウィトゲンシュタインは論理や言語をひたむきに追求したが、それらは彼の哲学

の経歴の中で中心的なものであった。(略)ウィトゲンシュタインは論理的問題に完全に没

頭した。「それらは彼の生活の一部ではなく、全体であった」。」

これも然り。

(34)「言語は哲学の主要対象であった。」

これも然り。

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(35)前期の作品『論考』は、ウィトゲンシュタイン自身の視点で書かれた一人称の哲学

なのである。」(242ページ)「われわれは『論考』が一人哲学に基づいており、『哲学

探究』が二人あるいは多人数哲学に基づいていると、理解できる。」(251ページ)

この記述も、安部公房固有の「僕の中の「僕」」の話法を、ヴィトゲンシュタインが共有し

てゐたことを示してゐる。この話法が、安部公房の人称の選択に影響を及ぼしてゐるか、そ

れがどのやうなことであるかは、「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54

号)に詳述した通りです。

(36)後期の作品ー『哲学探求』は、それまでの「誤りを正した結果」生まれた「二人称

の哲学」である。「彼は対人関係の脈絡を発見し、それが『哲学探求』の中心となった。対

人関係、表情、そして他人の観点の認識の重要性が、彼の新しい考察の焦点となった。」(2

46ページ)

これも上記(35)と同じです。この記述の意味するところは、ヴィトゲンシュタインの関

心事は文法学でいふ話法であることがわかります。話法といふ視点で見ると、前期ヴィトゲ

ンシュタインの『論理哲学論考』と後期ヴィトゲンシュタインの『哲学探求』は根底にあつ

ては、表現はどうあれ、同じ論考だといふ事になります。

(37)「『哲学探求』の中心には、哲学に現実の問題はない、あるのは言語的謎だけであ

るという考えがある。」(247ページ)

これも然り、安部公房は現実は迷路であると考へてゐます。安部公房の現実の謎とは、言語

的謎であるといふ事になります。

(38)「概説したように、ウィトゲンシュタインにとって規則は非常に重要なものであり、

世界を意味あらしめる方法を提示するものであった。HFA/ASPの人々にとって規則は魅力

的なものである。彼らを生活に結びつけるからである。ウィトゲンシュタインの後期の哲学

は、HFA/ASPの人が社会的脈絡とは何か、社会の規則とは何か、特にHFA/ASPでない人々

の社会でのコミュニケーションの規則は何かを考えだそうとする試みであると見ることがで

きる。この点において、クラーグは、エイヤーと同様、ウィトゲンシュタインはコミュニ

ティーの中にいたが、コミュニティーには属していなかったと信じている。これはHFA/ASP

の人についての優れた記載である。実際、クラーグは、「彼の哲学的思索で中心的役割を演

じるコミュニティーは彼自身にお人生経験では大いに缺如していた」と付け加えた。」

「特にHFA/ASPでない人々の社会でのコミュニケーションの規則は何かを考えだそうとす

る試みであると見ることができる」とは、topologicalに考へて見て、視点を変へて見れば、

座標は世の人が盲目的に信じ込んでゐるやうに一つではなく、幾つも座標があるのだし、も

つと云へば、そもそも座標など此の宇宙にはなく、世界の底は抜けてゐる。世界は差異であ

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るとは、このことです。

従ひ当然のことながら「彼の哲学的思索で中心的役割を演じるコミュニティーは、彼自身の

人生経験では大いに缺如していた」と付け加えた。」とあるコミュニティーは、安部公房に

とつては、安部公房スタジオであつたと、私は考へてゐます。このスタジオは、安部公房の

創造した一つの社会であり、この模型としての社会を以つて、日本人を始め、米国へも進出

しましたから、世界の人間の意識の革命、即ち埴谷雄高の言葉でいふ「存在の革命」を起こ

さうとしたものです。

(39)「哲学は理論ではなく活動であるという考えは、ウィトゲンシュタインにとってき

わめて重要なものであった。理解は言語の意味ではなくその使用法に基づく。この点に関し

て、サールはウィトゲンシュタインの好んだ標語が「意味を問うな、使用法を問え」であっ

たと指摘している。」(252ページ)

言語を介した「理解は言語の意味ではなくその使用法に基づく」のであり、言語は媒体(函

数)である機能であるといふ言語機能論は、安部公房の言語論です。言葉に意味はなく、言

葉の意味は使ひ方によるのです。あなたも、これも、日常生活の中で、「意味を問うな、使

用法を問え」といふ標語を掲げて生きて下さい。実に生きるために、またあなたが外国語の

みならず、私たちの日本語をより深く理解するためにも、役立つ言語論です。この言語論は、

言語機能論とか意味形態論といふ名前で呼ばれてゐます。言葉と現実の変化を体系的に知る

ために役立つ言語論です。私はこれでもぐら通信の論考を書いてゐる。

(40)「哲学の理論や競技や模範と同様、本質の概念、例えば言語の本質はなんらかの統

一された形あるいは形態にあるといった概念をも、ウィトゲンシュタインは拒絶した。その

代わりに、彼は「家族的類似性」の概念を提出した。(253ページ)

言葉に意味はないといふ事、つまり本質(といふ言葉)には実体はないといふ事、そして「実

存は本質に先行する」といふ安部公房の実存主義に関する(言語論との関係でも正しい)理

解は、「言語の本質はなんらかの統一された形あるいは形態にあるといった概念」を拒絶す

るでせう。拒絶といふ言葉の「使用法」は誠に強烈で、著者の此の言葉の選択は、ヴィトゲ

ンシュタインが表に出した気性の激しさを思はせます。ここは、安部公房とは異なるでせ

う。

また「その代わりに、彼は「家族的類似性」の概念を提出した」とは、安部公房の描く家族

が皆疑似家族であることを思ひ出せば、良いのではないでせうか。処女作の『(霊媒の話よ

り)題未定』、1960年代の『砂の女』の男女、『他人の顔』の贋の(存在の)顔を介し

た夫婦、『燃えつきた地図』の探偵と洋裁店を経営する妻の離婚話中の夫婦、喫茶店つばき

と弟の関係。さうして考へると、後期20年の『箱男』『密会』『方舟さくら丸』『カンガ

ルー・ノート』は、『密会』を除けば夫婦は登場せず、独身者または単身の男であるといふ

ことが、特徴であるといふ事になります。『密会』ですら、夫婦である叙述はなく、妻が救

急車に攫(さら)われたあとは行方不明で、最後の仮面のカーニヴァルで再登場する妻に似

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た女性が本当の妻なのかも曖昧のままである。

(41)「哲学的問題を理論としてではなく活動として扱うことで、ウィトゲンシュタイン

は哲学の価値を治療的なものと考えた。HFA/ASPの人々はしばしば非論理的である。シャー

フシュタインは、ウィトゲンシュタインの言語の特異性に対する興味が、目の前の木の「こ

ぶと突起物」を中心にして彫像を作る彫刻家の興味に似ていると述べた。彼は視覚を明確に

細部に当てることで問題から逃れようとした。彼の意図は現実を変えることではなく、明晰

な肉眼を用いて現実に適応することであった。フロイトと同様、ウィトゲンシュタインは見

る能力自体が「治療的」であると信じた。」(255ページ)

「ウィトゲンシュタインの言語の特異性に対する興味が、目の前の木の「こぶと突起物」を

中心にして彫像を作る彫刻家の興味に似ている」といふ指摘は興味ふかい。これは安部公房

の強い興味の対象である凹の形象の反転した、さういふ意味では凸の形象と裏表の関係にあ

る「こぶと突起物」に興味があるといふ意味では、安部公房も処女作の『(霊媒の話より)

題未定』の背広の袋・袋の背広から始まり、晩年の『カンガルー・ノート』の提案箱に至る

まで、すべての小説は凹といふ陰画の凸の形象に基づいて書かれてゐる事、死後の『スプー

ン曲げの少年』のスプーンの凸凹の形象と同じであり(裏返すと凸は凹、凹は凸)、藝術範

疇を問はずに例えばラジオドラマの『ひげの生えたパイプ』のパイプの形象に同じですか

ら、この凸凹を現実に関はる幾何学的な、画像的な形象と観ることが、安部公房に通じてゐ

る。つまり、この種の人間には、世界は最初から歪んでゐるのです。

「ウィトゲンシュタインは見る能力自体が「治療的」であると信じた」とあれば、『箱男』

が窓から覗き見る又は観るといふ能力と其の行為もまた「治療的」ではないのか?この観点

からどなたか「箱男論」をお書きになりませんか?

(42)「ウィトゲンシュタイの私的言語への攻撃は、私的言語が言語ゲームの一部ではあ

りえない、言語はたえず対人関係的であり社会的脈絡を持っていると、示唆しているように

思える。だがこのことは特に意味をなさない。なぜならば彼はしばしば自分の作品が自分自

身との対話であると述べるからである。彼の私的言語への攻撃は、メタ表彰の缺陥のためか

もしれない。つまり他人の心についての理論を作り出すことが、彼には困難であったためか

もしれない。実際、ウィトゲンシュタインは内的体験に言及する私的言語の可能性を否定し

た。この点で、ウィトゲンシュタインはデカルトの心の理論を拒否した。彼の主張するとこ

ろでは、言語は公的でなければならない。」「HFA/ASPの患者は内的言語に問題を持ち、

メタ表象の缺陥を示す。」

「言語はたえず対人関係的であり社会的脈絡を持っている」といふ考へは、言葉の意味は使

ひ方によつて決まるといふ言語機能論によれば当然だといふ事になる。「彼はしばしば自分

の作品が自分自身との対話であると述べる」といふのも、上記(35)(36)で見た通り

です。これらの付番と併せて、この(42)を見ると、「僕の中の「僕」」といふ内省的・

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独白的話法を、ヴィトゲンシュタインは社会的な意思疎通であると考へ、「言語はたえず対

人関係的であり社会的脈絡を持っている」と考へてゐた事がわかります。安部公房も同様で

した。安部公房も「僕の中の「僕」」の後者の「僕」を読者と考へた。[註6]そのたこの

話法については「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号)で詳述しまし

たので、これをご覧ください。

[註6]

三島由紀夫との対談「二十世紀の文学」より以下に引用します。

「安部 そうでしょう。その、つまりおのれのなかの読者、というものが、僕は、伝承している主体だと思う

のだ、作者ではなくて。だからきみが言っているように、出来上った結果を受け継いでいるにしても、その受

け継いでいる人間はさ、作者三島ではないのだ。きみの対話者なんだな。だからその対話者がきみであって、

作家三島は他者だよ。他人だよ、きみにとっては。

三島 僕は僕自身の作品を絶対にエンジョイできないもの。

安部 それは自己を分裂させた代償だよ。

(略)

三島 きみは、それは集合的無意識ということを言うの?

安部 むずかしいことを言うなよ。そういう学術的用語を抜きにしてだな。(笑)

三島 僕は混沌がとてもいやなんだ。つまり、読者とかね。

安部 読者は自己の主体で、作者は客体化された自己なんだよ。」

(全集第20巻、81∼82ページ)

(43)「結局、ウィトゲンシュタインは、「哲学者は社会的常識を持つ市民ではない。そ

のことによって彼は哲学者となる」と信じていた。このことはまた、ウィトゲンシュタイン

の疎外感や社会的共同体のどこにも所属していないという感覚を説明している。ナーゲルに

よると、ウィトゲンシュタインは「自覚的に時代から一歩外に出ていた……。〔しかも彼

は、〕二十世紀の数少ない偉大な哲学者の一人として慣習的に敬われているにもかかわらず、

どう時代の哲学にほとんど同化されないままであった」。彼がHFA/ASPであったことを思

えば、彼が時代から一歩外に出ていたことは驚くべきことではない。」(267ページ)

安部公房は「自覚的に時代から一歩外に出ていた……。〔しかも彼は、〕二十世紀の数少な

い偉大な」作家の「一人として慣習的に敬われているにもかかわらず、同時代の」作家や批

評家に「ほとんど同化されないままであった」。私たち読者にとつては、安部公房が

「HFA/ASPであったことを思」はなくとも、「彼が時代から一歩外に出ていたことは驚く

べきことではない。」と言ひたい。この(43)の最初の三行も安部公房に当て嵌まる。

(44)「カーカップは彼の自伝『私とすべての人々』の中で、ウィトゲンシュタインがゆ

きずりのセックスを目的として、若い男や「サド的同性愛者」を引っ掛ける癖があったと述

べた。(略)文句はカーカップの事件の説明について次のように書いている。「ウィトゲン

シュタインは私の消極性を軽蔑していた。しかし、私が時々遊覧者のよく行く場所であるエ

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ルドン・プレイスのYMCAの背後にある公衆トイレで出会うと、彼はもっと友好的であっ

た。」(略)しかし、ウィトゲンシュタインのウィーンのプラターでの同性愛行為は、どう

あっても疑いのないことであるだろう。彼がそこにいたのは、同性愛の欲求を叶えるためで

ある。」(268∼269ページ)

ヴィトゲンシュタインは男色者であつたことがわかります。同じ言語観を共有する安部公房

にも特に成城高校の時代に身近にゐた美しい友人に惹かれたことが中埜肇宛の書簡に書かれ

てゐます。[註7]再帰的な人間に、その傾向のある事は、三島由紀夫、トーマス・マンの

例のある事は、他のところで述べた通りです。

[註7]

「君の事ですからすつかりご存じだつたかも知れませんね。でも、兎角僕の口から云ふのはきつと、これが始

めてでせう。……それは高谷の事なのです。僕は実は、今だから申上げますけれど、彼に対しては興味と云ふ

よりは愛に近いものを感じてゐたのです。それで僕は彼の美を恐れて居ます。彼の存在は僕に取つてあらゆる

意味で苦痛です。どうか、あの―伯父ワーニャのなかの医師・アーストロフの言葉を思出して見てく下さい。」

『中埜肇宛書簡第5信』(全集第1巻、92ページ)

公衆トイレが男色者の一種の出会ひの場であるといふ事と、安部公房の小説や写真には便所

が頻出するといふ事に、もし分析しようとすると、同性愛との関係を見る事を、安部公房一

人に関してではなく、男性一般の性向と嗜好の事として論ずることができると私は思ふ。私

は論じませんが。精神分析医学と文学は、また別の領域です。人の言葉を分析するといふの

であれば、精神分析医学は、文学(Literature Science)の下位に位置する応用の学だとい

ふ事になりますので、それから科学の分類から言つてもさうですので、安部公房のいふクレ

オール語の発生論理を理解しない精神分析医でない限り、上位科学である文学(literature

science)を論ずる事はできないでせう。私が学生の時にも、専ら文学好きの医者が病跡学

(pathography)を元に文学を論じてゐましたが、ただもの珍しいだけで、文学を革新する

やうな論はさつぱりうまれなかつた。

さて、従ひ、安部公房の読者であるあなたも、前回今回と二回に亘つて続いた此の論に対し

ては、So What?と問へば良いのです。だから、何だつてんだ!といふわけです。それ故に、

前回冒頭に書いた医学の知識とアスペルガーの関係についての前置きであり、二つの関係は

階調をなしてゐて明確な線が引きにくいといふお話でありました。全ての作家が病気なわけ

ではなく、病気になれば作家になるといふわけではないし、作家になる必要もない。トーマ

ス・マンの言葉によれば、次の通りです。

藝術家は、病気に罹つてゐる事にも負けずに、作品を創造するのだ。

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とはいへ、アスペルガーの特徴といふ視点から以上44項目を吟味して見ると、安部公房

とヴィトゲンシュタインはほとんど重なつてゐる。

安部公房の読者であるあなたは如何でしたか?

もし余りにも当て嵌まる項目が多いと感じたら、すぐ病院へ行くことをお薦めします。さ

うしてもしあなたが病院内で迷子になつて世界の果てにゐる事になつても大丈夫、もぐら

通信は変形して「明日の新聞」として配達されます。過去に隔離病棟にお住いの読者にも

もぐら通信は確かに届いてをりましたから。

追伸:

同書の「第五章 キース・ジョーゼフ卿」に、この政治家に関する次の記述があります。

「ジョゼーフは高度に方法論的かつ論理的な思考を示した。彼は「一級の行政的官吏の精

神」を示したといわれている。確かに、彼はノートを取ることに脅迫的であった。実際、

彼がノートと鉛筆を手放すことはほとんどなかった。「大臣としての在職中も引退後も、

彼はそれらを手離さなかった。」ノートへの「嗜癖」はHFA/ASPの人々に普通に見られ

る。これはヴィトゲンシュタインにも見られた。」

また「ルイス・キャロルと同様に、ジョーゼフは文通を重大なものと考え、幾分それに関

して脅迫的であった」とあります。

この二つは「僕の中の「僕」」の話法の実例だと私には思はれる。ジョーゼフ卿の例は、

前者の僕が後者の一人称の「僕」に手紙を書く場合、ルイス・キャロルとジョーゼフ卿に

共通の二つ目の例は、後者の「僕」を二人称として考へて手紙を書く場合、あるいはやは

り手紙といふノートに書いて、二人称の「僕」宛に郵送する場合。といふことになります。

安部公房の小説が往々にして書簡体であり、またノート・ブックに記述する小説であるこ

とはいふまでもないでせう。

これもまた、あなたにをかれては如何に。

(終り)

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リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む

(6)

∼安部公房をより深く理解するために∼

岩田英哉

VI

IST er ein Hiesiger? Nein, aus beiden

Reichen erwuchs seine weite Natur.

Kundiger böge die Zweige der Weiden,

wer die Wurzeln der Weiden erfuhr.

Geht ihr zu Bette, so laßt auf dem Tische

Brot nicht und Milch nicht; die Toten ziehts ―.

Aber er, der Beschwörende, mische

unter der Milde des Augenlids

ihre Erscheinung in alles Geschaute;

und der Zauber von Erdrauch und Raute

sei ihm so wahr wie der klarste Bezug.

Nichts kann das gültige Bild ihm verschlimmern;

sei es aus Gräbern, sei es aus Zimmern,

rühme er Fingerring, Spange und Krug.

【散文訳】

オルフェウスは、ここにいる者なのだろうか。否、オルフェウスの
遥かなる性質は、両方の領域から成長したものだ。(だれでも柳の枝をたわめることは容易で
あるが、しかし)柳の根を経験し、知っているものこそ、(そうでない者よりも)もっと精通し、
熟知して(地上に出ている)柳の枝々を撓(たわ)めることができよう。(オルフェウスは、そ
のような者であれ。)

お前たちが、寝床へ行くならば、テーブルの上に、パンを残しておいてはいけないし、

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牛乳を残しておいてもいけない。というのも、そうすると、死者たちがやって来るからだ。
しかし、オルフェウス、この魔法を使って呼び出すことのできる者は、瞼(まぶた)の柔和さの

下で、死者たちの出現を、すべての見られたものの中へと混ぜよ。大地の煙と菱形の魔法は、オ
ルフェウスにとっては、最も清澄な関係のように真実であれかし。

これがオルフェウスだといって表わされて通用している姿、像は、どれもオルフェウスを貶める
ことはできない。たとえ、それが、墓場から出てきた像であれ、部屋べやからの、つまり、部
屋に飾ってある絵や像の姿であれ。オルフェウスは、指輪、バックル(帯止め)、そして壺を褒
め称えよ。

【解釈と鑑賞】

オルフェウスへのソネットのVIを読んでみよう。

段々と、こうしてリルケのソネットを訳すということ、勿論そのためには解釈をして詩を理解す
ることになるわけだけれども、それが楽しいと思うようになってきた。多分、わたしは、何か、
リルケの詩の根底に触れているのだろう。リルケの詩の言葉が難しいものに思われなくなってき
たのだ。言葉の難しさとは、その発想、語の配列といえばすべてであるが、語の飛躍、語の省
略も含めて、そうなのです。

わたしは、嘗(かつ)て自分自身で定義した、詩は連想の芸術であるという定義に従って、この
定義を詩にあてがい解釈することによって、今までソネットを解釈してきたわけですが、どうも
これで無理がないように思われます。

ソネットVIは、またこれは、興味深い、おもしろいソネットだと思います。このソネットその
ものが、ひとつの魔法の呪文のようである。祈願文で出来ているソネットです。

第1連の最初の一行、オルフェウスは、ここにいる者、ここの者なのかという疑問文は、前のソ
ネットVの中の第3連の3行目のdas Hiersein、ここにいること、を受けている。オルフェウスは、
ここに常にはいず、あっという間にあそこへと姿を消すもの、変身するものであった。

二つの領域とは、何であろうか。第2連を読むと、それは、昼と夜、生と死だということがわか
る。いづれの領域にもオルフェウスは精通しているというのだ。

第2連で、寝る前には、食べたものをテーブルに残すなという、多分ドイツ人の言い伝え、慣用
句があるのだろう。そうすると、寝る前に食べたものをそのままにしておくことが、死者を引
き寄せるから。というのが、原文の直訳です。

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しかし、オルフェウスは、死者が出現しても、それを、オルフェウスが見ることによって見られ
た対象となるすべてのものと同じものとして、その見られたものの中に混ぜ入れてしまえと、リ
ルケは歌っています。それがオルフェウスに可能であるのは、オルフェウスの瞼が柔和であるか
ら。これは、読み過ぎかも知れませんが、瞼のドイツ語は、Augenlid、このLid、リート、瞼と
いう文字を見ると、つい薔薇の花を連想してしまいます。

大地の煙と菱形の魔法とは、一体何をいっているのでしょうか。このソネットVIの文意からいっ
て、あるいは文脈からいって、オルフェウスは魔法を使うことができるのです。ですから、大地
の煙とは、大地の持つ力を意味するのではないでしょうか。何かそこから立ち出る力。この大
地と訳したドイツ語は、Erde、エールデで、リルケがソネットIII第3連において、いつその男は、
大地と星辰を、我らが存在に向けるのかと歌っている同じ大地です。大地や星辰は、大いなる力
を有しているのですが、神的な存在であるオルフェウスは、これらの力を使うことができるので
しょう。

菱形とは何か、ですが、これは、あるいは魔方陣の形を言っているのか。あるいは、この菱形
という形そのものに、何か意味があって、それがオルフェウスの力に関係しているということな
のでしょう。わたしの貧しい知識から思い出してみると、菱形は、それぞれの頂点から対角線を
相手方の頂点に引いてやると(これが両点の最短の意志の疎通の距離)、2点の間に障害があっ
ても、他のどれかの線を伝って相手方に到達できるという幾何学的な形にはなりますから、あ
るいは、オルフェウスの、失われた恋人への強い思いがあるのかも知れないとも、思ったりいた
します。

さて、古来、オルフェウスの姿は、彫刻にされ、絵に描かれてきたものだと思います。そのこと
が、第4連で歌われている。どうも、墓の中にもオルフェウスの像を納めた死者がいるようです。
部屋べやというのは、絵画ではないかと思いますが、彫像もあったことでしょう。その姿は、
指輪をはめ、バックルをつけ、壺を持っているという姿だと歌ってあると読めますが、これは、
どういうことでしょう。(しかし、他方、オルフェウスの姿は、必ず竪琴と共にありますので、
それをリルケが言わないのは、おかしなことです。)

もし、そうではないのであれば、これは、賞賛することが、オルフェウスの仕事であれと言って
いるということになります。こうしてみると、実際に、次のソネットVIIは、同じ賞賛すること
という言葉で詩が始まっており、オルフェウスは、賞賛するように決められている者と歌われて
いますので、ソネットVIの最後の連の最後の行は、そのように読むことがよいのだと思います。

そうすると、指輪、帯止め(バックル)、そして壺とは一体何かということですが、これは、
壺については、ソネットVの最後の連の最後の2行のところで述べたように、また第2部のソネッ
トXXIVの壺のことでの言及でも、前回のブログで述べましたように、既に考えてきたことをも
とに考えて見ますと、これらのものは、いづれも、定住し、町をつくり、社会を営む上で必要
なものの象徴として、リルケは挙げているのではないかということです。指輪は婚姻の、また商

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売の、また身分の、あるいは帯止めも身分を表わし、壺は町の繁栄をあらわす、といったように。
オルフェウスは、人間の営みを褒め称えることをせよ、とリルケは歌っているのでしょう。手、
体、町という順序で、リルケは歌っています。

【安部公房の読者のためのコメント】

1。手もまた安部公房にとつては重要な片手、存在の手でありました。詳しくは『もぐら感覚
6:手』(もぐら通信第4号)をご覧ください。

2。オルフェウスの菱形は、平行四辺形に襷(たすき)掛けをした図形で、これは安部公房の小
説の構成にも反映してゐる(『燃えつきた地図』)[註]のみならず、『詩と詩人(意識と無意
識)』に論ぜられた問題下降時代の安部公房の概念連鎖一式(部屋、窓、反照、自己証認)
が、これに当たるでせう。他にも安部公房文学の菱形はある筈です。これを探すのも楽しみにし
つつ。

3。地下には死者が棲みます。樹木は果実をつけ、熟して実を地面に落とし、落とした実は割れ
て、種がまた冬を越えて春に芽を出す、この自己犠牲により生まれる生命の永遠の循環をリルケ
は歌ひます。これはそのまま安部公房の詩や、表立つては文字になつて目に見えませんが、小説
の中にも現れます。最後に存在へと別離して向かうことで、自己の死と引き換へに生命を蘇生さ
せようといふ主人公の密かな願ひは、どんなに小説の中で変形され、奇怪なものになつてゐて見
えようとも、安部公房の此れは愛の表現なのです。

4。オルフェウスの像や絵が墓の中にまで持ち込まれて、死後の生活にもあれかしと願つたとい
ふことは、安部公房の主人公の、未分化の実存の女性に手を引かれて行く、『S・カルマ氏の犯
罪』や『燃えつきた地図』や『方舟さくら丸』や『箱男』や『カンガルー・ノート』の結末の道
行きの姿に重なります。

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68

ページ

[註]
『燃えつきた地図の構造』(もぐら通信第7号)より以下にお伝へします。

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69

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連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ

(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降

(3)存在の中での師、石川淳

(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち

(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房

の汎神論的存在論

(6)安部公房文学サーカス論

(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』

(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙

(9)言葉の眼12

(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)

(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)

(12)安部公房の作品論(作品別の論考)

(13)安部公房のエッセイを読む(1)

(14)安部公房の生け花論

(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める

(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門

(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼

(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼

(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼

(20)安部公房の詩を読む

(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学

(22)安部公房の書簡を読む

(23)安部公房の食卓

(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論

(26)安部公房全集未収録作品(1)

(27)安部公房と本居宣長の言語機能論

(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学

(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き

(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命

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ページ70

(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論

(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む

(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼

(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか

(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか

(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか

(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼

(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する

(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く

(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写

    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』

(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい

    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて

(42)安部公房の超越論

(43)安部公房とバロック哲学

    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum

    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論

    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異

    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異

    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法

(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)

(45)安部公房とバロック文学

(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」

(47)安部公房とパスカル・キャニール:二十世紀のバロック小説(1)

(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)

(49)『密会』論

(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論

(51)『方舟さくら丸』論

(52)『カンガルー・ノート』論

(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ

(54)アスペルガーとしての安部公房:アスペルガーを媒介にして安部公房を読む

    ①ルイス・キャロルと安部公房

  

②ヴィトゲンシュタインと安部公房

(55)言語とは何か II

(56)エピチャム語文法(初級篇)

(57)エピチャム語文法(中級篇)

(58)エピチャム語文法(上級篇)

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【編集後記】

ページ 71

●一つ一つの論考が、数少ないものの少し長目になり、70ページに近づきましたの
で、切りが良いので、第61号として発行します。やはり、1ヶ月を15日位にしても
らひたい。さうすると一ヶ月に2度出しても、世間の人は不思議に思はぬであらう。
この暦日(カレンダー)を変更するには、天体の運行を変へてしまへば良いのである。
と、このやうに考へるのが仮説設定の文学です。この例で行けば、これを小説にした
ら、フレドリック・ブラウンばりの話ができる。あなたの小説も募集します。
●安部公房の小説論総覧:読書と執筆にお役立てください。
●もぐら通信目次総覧:これもお役立て下さい。情報を広く共有したいと思ふ。
●荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(2):老人と飛行士:このSF詩人の詩を読

みますと、SF文学こそ文学の本流なりといふ安部公房の仮説設定の文学の趣旨がよ

くわかります。SF文学がもつと表に出てくる時代になると、面白い。さう願つてゐま

す。/安部公房の『逆進化』論を書こうと思ひましたが、次号以降に。大原まり子さ

んといふSF作家が安部公房と同じことを考へてゐたとは。あなたも二十一世紀の安部

公房論を書いて下さい。ご寄稿をお待ちします。
●アスペルガーとしての安部公房 アスペルガーを媒介項にして安部公房を読む(2):
ヴィトゲンシュタインと安部公房:これでおしまひですが、読者にをかれては、相当
ヴィトゲンシュタインだといふ方もゐるのではないかと察します。何か苦しい時の症状
の判定にこの号を取り出してお使ひ下さい。ひょっとすると、お役に立てるかもしれ
ません。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(6):この詩にも安部公房が、い
やリルケのオルフェウスがゐると書いてしまふほどに、二人はよく似てゐる。
●ではまた次号。

差出人:

贋安部公房

次号の原稿締切は6月23日(金)です。
〒 1 8 2 -0 0

ご寄稿をお待ちしています。

03東京都

次号の予告

調布
市若葉町「

1。安部淺

閉ざされた

吉のエッセイ

限」

2。三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」

3。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝

4。「安部公房の写真」とは何か

5。私の本棚:荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(3):骸骨半島

6。安部公房の「逆進化」

7。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(7)

8。言葉の眼12:メイド論

もぐら通信

もぐら通信                         

72

ページ

【本誌の主な献呈送付先】

【前号(第60号)の訂正箇所】

P6:「わが町ー調布」:本文6行目
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくために、

「関心」は「感心」に
安部公房縁りの方、有識者の方などに僭越ながら
本誌をお届けしました。ご高覧いただけるとありが

以下「荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む」の訂正:

たく存じます。(順不同) 

P14:最後の段落5行目

「Got ist tod!」を「Gott ist tod!」に
安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池田龍雄様、

二つ目の「神が死んだ!」を「神が死んだ!」)に
ドナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正様(新
潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新潮社)、三浦

P15:真ん中の段落の4行目
雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎様、巽孝之様、鳥

「同じ次元の内で平面上に広げた白布、を、同じ次元の
羽耕史様、友田義行様、内藤由直様、番場寛様、田

内で平面上に「広げた白布、に。
中裕之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦

P17:真ん中の大きな段落の9行目
様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤田

(『密会』第26巻、を、(『密会』全集第26巻、 
康和様(朝日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、

に。
待田晋哉様(読売新聞社)その他の方々

P20:真ん中の段落の2行目
【もぐら通信の収蔵機関】

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数

学的能力について∼』(後篇)、を、

 国立国会図書館 、日本近代文学館、

『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處 

学的能力について∼』(後篇)(もぐら通信第32号及
 にも無い圖書館」

び第33号)、に。

【もぐら通信の編集方針】

P22: [註4]

禅と同じと言つても良い、しかし安部公房固有のバロッ
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集と交歓の

ク的認識を20歳の安部公房は次のやうに書いてゐます。、
場を提供し、その手助けや下働きをすることを通し

を、
て、そこに喜びを見出すものです。

バロックは禅と同じと言つても良い、いや、バロックが
2.もぐら通信は、安部公房という人間とその思想

禅である。しかし無について、安部公房固有のバロック的
及びその作品の意義と価値を広く知ってもらうよう

認識を20歳の安部公房は次のやうに書いてゐます。、に。
に努め、その共有を喜びとするものです。

P23:最後の段落3行目
3.もぐら通信は、安部公房に関する新しい知見の

「宙浮く」を「宙に浮く」に
発見に努め、それを広く紹介し、その共有を喜びと
するものです。

上の三つの号は特に配信はいたしませんがGoogle Drive

に収めてある上記の号は最新版(改訂版)に差し替へてあ

ります。
4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、もぐら
通信の編集及び発行を行うものです。

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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