世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   

Mole Communication Monthly Magazine

2017年11月1日 第62号 初版

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あな

迷う

たへ

事の

あな

ない

迷路

J……男……アメリカ人……三十四歳、西部小都市の高校教師……待合室のアナウンス

ただ

を通

に、ふと夢想からさめる……マイクの声が告げているのは、《S市》行定期便の搭乗案

けの

って

番地

に届

内である。

きま

『砂の女(映画のための

概)』の最初の一行

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               目次

0 目次…page 2

1 ニュース&記録&掲示板…page 3

2 リアリテイの問題̶̶安部公房『人間そっくり』早川日本SFシリーズ̶̶:荒巻義雄

                                   …page 10

3 「安部公房の写真」とは何か:岩田英哉…page 16

4 安部公房文学メタSF論∼記号と文字のtopology∼:岩田英哉…page 29

5 安部公房の札幌文学への批判…page 43

6 荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(3):「ウォール」:岩田英哉…page 46

7 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(7)∼安部公房をより深く理解するため

に∼:岩田英哉…page 51

8 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 55

9 編集後記…page 57

10 次号予告…page 57

・本誌の主な献呈送付先…page58

・本誌の収蔵機関…page 58

・編集方針…page 58

・前号の訂正箇所…page 58

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•

シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。

そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

1。

今月の安部公房ツイート BEST 10

ize

e Pr

Mol

Gold

en

ニコラシカ @har_tetra 6月7日

安部公房「からあげ」ってありそう

ize

Pr

ole

ty_Rogosu @ty_Rogosu 6月5日

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Sil

安部公房氏の名前がど忘れして出て来ず、ずっと阿部九州男

さんの顔が出て来た

ゆりもハメド・アリ @kenforew 6月5日

呑気に安部公房全集読んでる場合じゃないのはそれはそうなんだが

柘榴石(ざくろいし) @zakuro_ishi 6月1日

女性が痴漢をされないための究極の防御方法って、安部公房の箱男になるし

かない気がしてきた。

トバモリィ @Tobermory90125 5月30日

「え、安部公房を読んでるの?優秀だね」って言われたことがあるけれど、

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概ね内容を理解できていないから、いつか時間を見つけて再読したい。

でもね。シンプルに雰囲気というか……淡々とした感じが好きなんだよね。

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あるみ @aluminumtsukai 6月5日

安部公房を現国の課題図書に選んだ国語科教師許さん

読むだけで苦痛だった

SAY HELLO @say12hello 6月7日

母の自室に置いてあった星新一や世界名作全集を読んで読書に対する興味がわき、

筒井康隆と安部公房と三島由紀夫を読んで人生が狂いました

taka @metalpurin 6月4日

市立図書館で借りてきた。安部公房全集を1巻から読み尽くしてみたいと思います

https://www.instagram.com/p/BU6vkkogsg3/

disco cat @aciddazeareback 6月4日

失踪したい時に読む本を三冊考えてみた。私の場合安部公房『燃えつきた地図』、

車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』かな。あとの一冊はこれから探そう

ぬかてぃ@やきうの話しかしたくない! @you_get_miko 6月3日

返信先: @you_get_mikoさん

鞄/安部公房

俺の文章の諸悪の根元。俺の文章は安部公房に憧れを抱いて始めたのだ。あの時

の感動は今でも忘れられず、未だ机にしがみついているわけです。俺が国語の世界

に活路を見出だした、本当に崇高にして諸悪の根元

史樹 @yuya260 6月3日

推し:朔太郎さん、北原一門

リアル文豪としての推し:だざお、朔太郎さん

文体としての推し:はくしう先生

作品としての推し:谷崎

ですね

梶井さん来たら推しと文体と作品の所に入ります。

(来ない気がするが)安部公房来たら作品に入ります。

安部さん来てくださいお願いします。

たちみつ @mituki1kyou 6月3日

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この悪夢感、断絶されているくせに連続している展開、理解できない不条理が襲

いかかってきて語り手を喰らい尽くして骨も残さない感じ、まさに安部公房

最高

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2 今月の落札本

真琴 @W_Makoto_Rose 6月3日

@signbonbon 初版道様 先日は安部公房作品についてアドバイス頂きましてあり

がとうございました。昨日オークションにて署名入りの初版本を落札しました。

安部公房作品も偽物は出回っておりますか?方舟さくら丸を購入いたしました。

3 今月の展示会

こうだたけみ @kouda_takemi 6月3日

初日に見てきた(新宿高野ビル6Fにて展示)。小規模なので、お近くの方は!と

いう感じ。私は安部公房の「棒になった男」の芝居のポスターが見れてよかった。

enpaku 早稲田大学演劇博物館 ¦ あゝ新宿 アングラ ストリート ジャズ展

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4 今月の企画委員

竹原 一 @ryu201102 6月2日


企画委員に加わられた 作家 故 安部公房氏 他紹介されていて 皆さん 当然の様に

お若く 何やら感慨深し 


5 今月の安部公房論

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月5日

狂気の躍動--安部公房『密会』 (特集 〈精神病院〉の文学) http://ci.nii.ac.jp/

naid/40019027292 …

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6 今月の読書会(終了)

奥村飛鳥 Asuka Okumura @askafeyokumura 5月31日

奥村飛鳥 Asuka Okumuraさんが法政大学文学研究会をリツイートしました

母校!安部公房好きがいることに感動。

奥村飛鳥 Asuka Okumuraさんが追加

法政大学文学研究会 @h_bunken

明日6/1(木)18:40∼ 安部公房『無関係な死』の読書会を行います。

今回は青空文庫にない作品なので購入していただくことになりますが、ぜひ参加

していただければと思います。

お待ちしております!

7 今月の仙川邸

えんじ @enzienzi 5月30日

返信先: @_ban_cha_さん

あと、安部公房の住宅も自転車で行ける範囲(広い…)にあったので、見に行っ

たのですが、購入には至りませんでした(あたりまえだー)。

解体前のは、雑誌に載ってますが、もうすでに、跡地になってました。

8 今月の上演

•カテゴリ:出演者募集


返信(0) 閲覧(187) 2017/06/06 08:23

さんらん公演・安部公房作『制服』

キャストオーディション

2017年7月5日(水)開催

*公演概要*

『制服』

作:安部公房/演出:尾崎太郎(さんらん)

日程:2017年11月22日(水)∼11月26日(日) (8st)

会場:アトリエだるま座(JR荻窪駅・徒歩10分)

料金:一般3300円 高校生以下500円

*団体概要*

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「さんらん」は2016年に葛飾で結成。

社会を照射する作品をあたたかみのある演出でお届けします。

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『制服』は今年3,4月にSPACE雑遊(新宿)で上演した『どれい狩り』に続いての安

部公房作品上演です。

https://stage.corich.jp/bbs/41343

遠藤杜洋 @morihiro_104 6月4日

劇団fffff『お前にも罪がある』、絶賛稽古中です。安部公房氏の戯曲、現代にも刺

さってくる所が沢山あり、非常に面白いと思います。本番は6/15∼18です、皆様

是非ご来場ください!ご予約は遠藤まで直接ご連絡頂くか、次記のURLからお願

いします!

廣瀬正仁(トランジスタone) @hirosemasahito 6月1日

6月になりました。今月25日、29日∼7月2日までせんがわシアターセレクトに出

演致しますよ。

今日は珍しく稽古場ショットを載せまーす。

私の代表作とも言える 安部公房のパニック 是非、ご来場下さい☆

詳細チケットはこちらから

https://www.quartet-online.net/ticket/grandprix820moments?m=0acgiea …

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9 今月のCD

厩戸モナ @monako_oao_ 5月31日

【文学】人魚伝 安部公房【ドラマCD】 http://nico.ms/sm7448289 #nicobox

#nowplaying

おすすめっす…………古川登志夫さんの朗読がまじぱねぇやべぇ(語彙力)やし話に

引き込まれるよ

10 今月の読書会(これから)

安部公房のエッセイを読む会(通称「CAKE」:Club of Abe Kobo s Essays)(第10

回)を開催しますので、お知らせします。開催の要領は次の通りです。

I 日時と場所

(1)日時:2017年7月2日(日)13:00∼17:00

(2)場所:南大沢文化会館 第1会議室

(3)交通アクセス:京王線南大沢駅下車徒歩3分:http://www.hachiojibunka.or.jp/

minami/

(4)参加費用:無料

(5)二次会:最寄駅近くの安い、居酒屋という迷路を酩酊しながらさ迷います。割り勘

です。いつも時間は2時間ほどです。明るいうちに始まり明るいうちに解散します。

II 課題エッセイ

(1)『物質の不倫についてー『死霊』論』:全集第2巻80ページから:前回の続きで

す。80ページ上段左二行から

(2)『ドストエフスキー再認識について』:全集第2巻96∼97ページ

(3)『横顔に満ちた人ー椎名麟三』:全集第2巻96∼97ページ

そのほかに、

(1)創造のモメント:全集第2巻98ページ:必要に応じて参照します。

(2)全集第7巻に、「椎名麟三小論」といふエッセイがあります。これは1957年1

1月10日付のエッセイです。「横顔に満ちた人」の他に、合はせて読んでをくと、一層

椎名麟三を安部公房がどう理解したかがわかるので、良いのではないかと思ひます。

ご興味のある方は、もぐら通信社宛、下記のメールアドレスまでご連絡下さい。:

s.karma@gmail.com

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リアリテイの問題

̶̶安部公房『人間そっくり』早川日本SFシリーズ̶̶

荒巻義雄

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リアリテイの問題

̶̶安部公房『人間そっくり』早川日本SFシリーズ̶̶

荒巻義雄

 SFを読み慣れた読者が、この作品に多分物足りなさを覚えたであったことは、想像できるこ
とである。が一方には、安部ファンという、読書人としてはハイヴラウな階層があるわけで、作
家は、この読者をも満足させねばならない。〈人間そっくり〉は、SFと小説との両方の側から
ひきさかれている作品であるということができる。そして客観的に見れば、SFと文学との接点
的な作品として別な興味をかんじさせる小説ということができるだろう。
 実は、安部公房という作家は、SFが書けぬ作家ではないと思っている。初期の短編集をみる
とわかるが、日本にSFの流行する以前に、むしろ単独でSFを発見していた作家ということさえ
できるのである。が、それに満足せず、よりハイブラウな段階で、むしろSFの特異性を作品の
舞台装置につかって、文壇的常識に対抗しようとしている̶̶という気もしているが、あまりSF
の側からみるのは、ひいきのひき倒しになりかねない。むしろ逆に、安部公房は、SFという特
異な形式を手段としている、又しようとしている文学者とみる方が、当をえているのではないだ
ろうか。
 フランスのヌヴォロマンの将星、ビュトールが日本に来た時、安部氏との対談で「推理小説と
いう極わめて厳格なルールをもった特異な形式をかりて自分の文学を書く……」という意味の
ことをいっていたはずだったが、それと同じように、安部公房は、SFという(狭義に解釈すれ
ば、これほどめんどうなルールを持った形式も他に類がない)形式を借りて、独自な文学的空間
を発見しようという実験を意図しはじめたようにも思われる。
 〈人間そっくり〉の主題はどうもSFそのものであるらしい。SF小説をさかなにした小説とい
う気もするのである。それを主調として、小説のリアリテイということが、意識の前面に出てい
るのではないだろうか。
 即ち、火星人という架空的な存在をして、読者にどのように信じさせてしまうか、これが作者
の意図である。田中という火星人だと称する男と三文作家であるぼくとの会話のやりとりがそれ
である。その結果、読者は、トポロジーのホモローグ転移と称する理論で、巧妙にまるめこま
れ、かくして、信じて疑わなかった現実性というやつが、一挙に崩壊してしまい、なんともいえ
ない仮空的世界と変質させられた心もとない現実の中に、立たされてしまうことになる。その変
換の方法が、いわゆる幻想小説的なイメージの変換ではなくして、現実は現実そのまま、たとえ
ば電話ボックスがテレポート装置であるというように、意味の転換であり、又それを裏づける
ものが、いかにももっともらしい理論的な説得であるために、かえって、現実性の持つ枠組をつ
き崩すのである。
 この作品は、現実性というものが、いかに脆弱かということを示しながら、日本式リアリズ
ム小説のあり方に皮肉な視線をむけているようにも思えるし、もう一つの顔で、SF小説のあり
方に批判的なまなざしを与えているようにもみてとれる。

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 今のところは、そんな風にしかいえないのだが、この過渡的小説を経て、次作のあたりから
作者が本当は何を意図していたのか、もう少し具体的に示されてくるようにも考えている。とし
ても、小説のリアリテイとは何か、いわゆる小説の構造上の問題としてみたときこの小説はやは
り問題となる小説である。世界文学がリアリズムということで遂には、ヌヴォロマンのロブグリ
エやサロートの純客観主義を生んだことや、アメリカ作家のカボーテが、超ルポタージュ的な手
法をみつけだしたことなどと考えあわせると、安部公房もまた、何かを意図しているにちがいな
い。それは憶測にすぎぬけれども、そんなに的外れな見方ではないと思っている。

【編集部より】

上記文中、傍線はみな原文傍点です。

「はじめての宇宙塵投稿が安部公房「人間そっくり」評でした。公開OK。」と荒巻さん御自ら
おつしやつて下さつて、この転載を許可してくださつたことに感謝致します。

「人間そっくり」は1967年の作品、安部公房がSFという言葉をいはなくなつて4年後の作
品です。今読者が新らためて此れを読み、また荒巻さんの書評を読んで何を感じ、何を思ふか。
興味津々たるものがあります。

荒巻さんの評言も当時の安部公房の迷ひ、とまでは云ひませんが、しかし考へてゐたことの急所
をついてゐて、この年は『燃えつきた地図』を出した年ですが、リルケと自分の詩の世界への回
帰を既に考へ始めててゐた時期でもあります。[註1]この年には漠然とした構想ながらも『箱
男』を書くことを思つてゐました。この年に、SFから見たら純文学、純文学から見たらSFとい
ふやうに見える作品を書いたことは、誠に一方に偏することのない安部公房らしく、やはり意味
があると、荒巻さんの当時リアル・タイムで書かれた書評を読んで思ひました。

[註1]
この事情については、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の「I 安部公房の自筆年譜と
『形象詩集』の関係について」(もぐら通信第56号)にて詳述しましたので、これをご覧ください。

何故ならば、1970年(の三島由紀夫の死)を境にして、1973年の『箱男』は荒巻さんの
『緑の太陽』(1971年)と同じ、「メタSF一人称」(これは勝手なるも私の命名)、即ち
「箱男」内複数人格一人称の四次元小説だからです。これ以前にもこれ以後にもこんな複雑な、
即ち次元数の多い小説を安部公房は、詩人から小説家になるときの初期安部公房の、あの存在
の記号を使つて書いた時期以外には書いてをりません。となると、この『人間そっくり』とい
ふ作品は、やはり1970年以降の安部公房が初期安部公房に回帰することを予見した作品と
いふことになります。『箱男』と同年に始まつた安部公房スタジオの活動はまさしく、その通り

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の活動でした[註2]。さうすると、

       [前期20年] [ー3年(1970年)+3年] [後期20年]
(1946∼1952年)  (1967年)  (1973年)  (1991年)
  初期安部公房     →『人間そっくり』 →『箱男』 →『カンガルー・ノート』
 『第一∼第四の手紙』
 『終りし道の標べに』
 『名もなき夜のために』

といふ作品の系譜を考へる事ができます。

誠に1970年は三島由紀夫の死に象徴されるやうに、しかしそして此処でも、日本の政治、経
済、文化の分岐点ではないかと思はれます。P.F.ドラッカーの『断絶の時代―来たるべき知識社
会の構想 』の奇しくも出版され、ベストセラーとなつたのは、その前年1969年です。

[註2]
安部公房スタジオの基本概念ニュートラルを体得する「ゴム人間」の準備体操が如何にtopologicalな考へに基づく
ものであり、同じ考へによつて安部公房が詩人から詩人のままに小説家になつたかは、『安部公房の初期作品に頻
出する「転身」といふ語について(4)』の「VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形した
か(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」(もぐら通信第59号)をお読みください。詳述しました。

1967年の表通りにある作品は『燃えつきた地図』であることは周知ですが、しかし同じ年
の裏通りにある『人間そっくり』が、最晩年の傑作、『人間そっくり』の火星人のいふtopology
のホモローグ理論が真獣類・有袋類理論として冒頭主人公によつて語られる表通りの『カンガ
ルー・ノート』(1991年)へと、かうしてみれば裏が表か表が裏か、見事にメビウスの環に
なつて接続してゐることが判ります。更に一歩を進めて云へば、かうなると、『カンガルー・ノー
ト』のあのカイワレ大根の自生する脛を持つ主人公は有袋類だといふことであれば、この無名
の、存在の隙間から成るカイワレ大根に寄生・寄食された人間は『人間そっくり』の火星人だ
といふことになります。

このやうに考へて来ると、「この過渡的小説を経て、次作のあたりから作者が本当は何を意図し
ていたのか、もう少し具体的に示されてくるようにも考えている。」「いわゆる小説の構造上の
問題としてみたときこの小説はやはり問題となる小説である。世界文学がリアリズムということ
で遂には、ウヴォロマンのロブグリエやサロートの純客観主義を生んだことや、アメリカ作家の
カボーテが、超ルポタージュ的な手法をみつけだしたことなどと考えあわせると、安部公房もま
た、何かを意図しているにちがいない。」(傍線筆者)といふ指摘は誠に的確です。荒巻義雄は
目利きです。

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また、「安部公房は、SFという特異な形式を手段としている、又しようとしている文学者」と
いふ安部公房観も正しい。確かに安部公房は作家以上の作家でしたから、いや安部公房流に云
へば「作家以前」の作家でしたから、言葉の本義としての文学者(Literature Scientist)と呼ば
れて然るべき言語藝術家です。

荒巻氏のご指摘「〈人間そっくり〉の主題はどうもSFそのものであるらしい。SF小説をさかな
にした小説という気もするのである。」とは、まさしくメタSF文学といふ再帰的な文学、即ち
自己批評と方法論を自己の中に含むSF文学の核心をついてをります。さかなになつた有袋類とし
ての魚が『箱男』の中に登場する贋魚であることは、読者周知のことでありませう。メタSF文
学もまた有袋類であり、『砂の女』の案内人である(現実のニワハンミョウとはズレた、従
ひ)存在に棲む贋ニワハンミョウである。「純」文学?そんな文学は存在しない。

「安部公房文学メタSF論」の視点で観ると、安部公房の文学と文学史は、以上のやうなことに
なります。その他、本文に出て来た言葉に、貧しいながらも、以下、敢へて註を施します。

(1)宇宙塵
「『宇宙塵』(うちゅうじん)は、1957年から2013年まで発行されていた、日本最古のSF同人
誌。」:https://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙塵_(同人誌)

(2)ビュトール
「ミシェル・ビュトール(Michel Butor, 1926年9月14日 - 2016年8月24日[1])はフランスの
小説家、詩人、批評家、ブック・アーチスト(livre d'artiste)。フランス北部モン=ザン=バルー
ルで生まれる。ヌーヴォー・ロマン(nouveau roman)の作家の旗手のひとりと目される。」:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミシェル・ビュトール

確かに以下の記述は安部公房の文学に通じてゐる。

「1956年、小説第2作『時間割』でフェネオン賞(le Prix Fénéon)を受賞、翌年1957年第3作
目の『心変わり』(La Modification)でルノードー賞(le Prix Théophraste Renaudot)を受
賞し注目を集めた(主人公に二人称代名詞「あなたは」<vous>を採用した小説作品として有
名)。1960年に4作目の『段階』(Degrés')を発表後は小説作品から離れ、1962年『モビール
-アメリカ合衆国の表現のためのエチュード』(Mobile. Étude pour une représentation des
États-Unis)を皮切りに空間詩とよばれる作品を次々と発表し始める。

画家とのコラボレーション作品が数多く、書物を利用した表現の可能性を追究し続けている。
文学をはじめ絵画、音楽などを論じた批評集『目録』がある。」(傍線筆者)

全集には『ぼくたちの現代文学』と題してビュートルと安部公房の対談がある。(全集第20巻、
402ページ)これが本文中荒巻氏が言及してゐる対談です。

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(3)サロート
「ナタリー・サロート(Nathalie Sarraute, 1900年7月18日 - 1999年10月19日)はフランスの
小説家、劇作家。旧姓チェルニャーク。ロシア出身でフランスに移住したユダヤ人で、ヌー
ヴォー・ロマンの代表的作家の一人として活躍した。プルーストやジョイスらによる人間心理の
探求をさらに推し進め、意識される心理の下層にある潜在的な心の動きを描き出す作風で知ら
れる。」:https://ja.wikipedia.org/wiki/ナタリー・サロート

この Wikipediaに書かれてゐる作品の次の特徴は、安部公房の世界に確かに通じてゐる。

「サロートの小説は、他人と関わったり独りでいたりするなかでの人間の心理の底における自
覚されないような心理的作用を捉えようとするところに特色がある。それまでの小説の 意識の
流れ などの技法をさらに突き詰め、「会話の下にあるもの」「言葉以前のもの」を、断片的な
記述を編み上げるようにして描こうとした。そこで問題にされるのは「心理以前の心理」であ
り、人間の潜在意識に起こる微細な動きのひとつひとつである。そのような作用を捉えるため
に、例えば『見知らぬ男の肖像』では登場人物が匿名の二人だけに限られているなどの工夫が凝
らされている。」(傍線筆者)

この記述からは、安部公房とJame Joyceを論ずる契機が、俗にいふ「意識の流れ」との関係で
あり得ることを示唆してゐる。しかし「意識の流れ」では時間範疇の叙述といふことになるが、
安部公房は正反対に、言語機能を使つて「意識の流れ」といふ時間の変化を際断して空間化する
といふことをした作家ですから、この女流作家が「会話の下にあるもの」「言葉以前のもの」
を求めたとあれば、恐らくはJoyceよりもよりもつと安部公房に近しい作家でありませう。

(4)カポーティ
「トルーマン・ガルシア・カポーティ(Truman Garcia Capote, 1924年9月30日 - 1984年8月25
日)は、アメリカの小説家。」:https://ja.wikipedia.org/wiki/トルーマン・カポーティ

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「安部公房の写真」とは何か

岩田英哉

「安部公房の写真」が小説に登場するのは、1973年の『箱男』が有名ですが、しかし考へて
みれば、写真ではなくとも例へば1967年の『燃えつきた地図』にも自筆の地図が挿入されて
ゐて、これは安部公房の描いた新宿駅の地上と地下世界の地図の手書きの写真であり、またF町
の手書きの地形の写真だといふ事ができます。地形の真を写した写真は地図に外なりません。
[註1]

1967年の『燃えつきた地図』を発表する前後から、安部公房はリルケの詩の世界への回帰
を思つてゐますから[註2]、1973年の『箱男』に、安部公房にとつては詩である写真が挿
入されても不思議ではありません。さて、さうだとすると、写真そのものが挿入されなくとも、
主人公が写真撮影をして、その写された対象を文字で描いたとしても、これは写真に相当する詩
の世界だといふ事ができます。

[註1]
『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)に詳述しましたので、これもお読みください。

[註2]
この回帰については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1)』(もぐら通信第56号)
の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」に詳述しましたので、ご覧ください。

何故写真撮影が詩を書くことに等しいかといへば、写真は言葉を要せず、直に対象に観入するか
らです。詩も言葉を媒介とせずに直に対象を言葉自体によつて表すからです。即ち言葉を要しな
い、言葉を媒介とはしないといふ意味で二つは共通してをり、また従ひ、直観による藝術だとい
ふ意味で同じものなのです。

詩が言葉を要しないといふのはおかしいではないか、詩は言葉で書かれてゐると、あなたは反論
するかも知れませんが、これが多くの詩の読者と詩人たちの陥る「おとし穴」なのです。

詩とは連想の藝術である。[註3]

と、私は定義しました。詩が連想(association)である以上、詩は語と語の間の接続
(association)にあり、文字で書かれた言葉自体に意味はないからです。言葉に意味はないと
いふ考へは、安部公房の考へでもあり、言葉の意味は使い方によつて定まるといふ考へを言語

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機能論といふ事は、もぐら通信の諸処で述べて来たところです。安部公房の言葉の論理で、安部
公房の詩の世界を論じようといふのです。言葉は機能であると考へれば、世にいふ記号論まであ
と半歩の距離です。

[註3]
『荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(1):世界接触部品』(もぐら通信第60号)に論じましたので、これをご
覧ください。

言葉に意味はなく、直観による対象の観入による対象の直かの把握だとすると、このやうに考へ
て来ますと、実は『密会』の副院長の馬の行ふ盗聴といふ世間的には犯罪的行為も、この視点
からは、音声による写真撮影といふことになつて、言葉を媒介とせずに対象を直かに把握する
といふ事では同じだといふことになります。そして、この詩人の論理と感性は、盗聴といふ事か
ら其のまま覗き見るといふことに通じてゐて、さうすると、後期20年の『箱男』『密会』『方
舟さくら丸』『カンガルー・ノート』は、この視覚的写真撮影、聴覚的盗聴撮影といふ点で、一
脈も二脈も通じてゐるといふことになります。

『カンガルー・ノート』が何故通じてゐるのか?と問ふ読者もゐる事でせうが、主人公が(リル
ケの純粋空間に棲む植物と同様に)存在の植物である(限りない差異と隙間からなる)カイワ
レ大根が脛から或る朝前触れなく突然に、従ひ超越論的に生えてしまつてゐて、已む無く此れも
「いつの間にか」(超越論的に)「どこからともなく」(超越論的に)因果関係の説明なく
(「いつの間にか」「どこからともなく」入つてしまつてゐる手術室の空間は、かうして安部公
房の存在の部屋ですから扉がなく、段落と段落の間の余白と沈黙の空白の中で)主人公が横に
なつてしまつてゐるアトラス社製のベッドは、主人公の意識と接続してゐて、いつも主人公と一
緒にある盗聴システムだといふ事ができるからです。このやうに考へてみると、安部公房の意識
の中では、

地図描画ー写真撮影ー盗聴録音

これらの三つは、存在概念の通つた一と連なりの等価交換可能のtopologicalな行為であるとい
ふことになります。

さうすると、安部公房が地図についていふ、地図には無限の情報が存在してゐるといふ言葉[註
4]は、撮影された写真にも当て嵌まり、盗聴された録音についても当て嵌まることになりま
す。そして、安部公房が小説についていふ、小説には無限の情報が存在してゐるといふ言葉[註
5]を思ひ出せば、小説もまた、文字による地図であり、写真であり、盗聴であるといふことは
いふまでもありません。最後の盗聴とは、これは読者が安部公房の小説に対して行ふ盗聴であり、
従ひ、かう考へて来ても、やはり『箱男』は言葉を介さずに直かに覗き見といふ視覚的盗聴を

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読者ができる、そして写真が入つてゐるといふ意味でも実際視覚的な盗聴小説なのです。だから
皆読者は惹かれる。何故ならば現実の社会の中では犯罪行為である事が、少しも犯罪行為では
ない世界が、そこにあるから。しかも、合法的に新潮社から出版されて。

[註4]
『方舟は発進せず』の「3 小説は無限の情報を盛る器」に安部公房の次の発言があります。

「安部 (略)だけど実際の地図というのは、見れば見るほど際限なく読みつくせるものですよ。
 斎藤 例の等高線などが書いてある、ああいう地図ですね。
 安部 そうです。あの地図。目的に応じて読み方が変ってくる。それが本当の、有効な地図ですよ。いちばんよ
いのが航空写真。無限の情報が含まれている。そういう無限性がないとぼくは作品といえないと思う。あらゆるも
のは無限の情報をもってますよ。人間でもそうですね。あいつはどういう奴だと、一口でいったらどういう奴だと。
一口でいえないのにさ。いや、言ったっていいんだよ。無限の情報ですよ、人間なんて。そういう風に人間をみる
ということ、いや、みなくてはいけない、見るんだ、ということを作者は、読者に伝えなくてはいけないのです
よ。」(全集第28巻、52ページ)

[註5]
『方舟は発進せず』の「3 小説は無限の情報を盛る器」のはじめの方を読むと、インタビュアーの小説に関する
質問をすると、直ぐに其の話が地図の話になり、地図が多彩な視点から見て多彩な解釈を許容するといふ話に地続
きで繋がつてゐて、小説と地図は安部公房にとつては同質の範疇であることが判ります。

さて、以上を前書きとして、安部公房の撮影した写真とは何かといふ本題に入ります。

ここでは主人公が写真撮影の好きな設定になつてゐて、安部公房自らの命名になる、さういふ意
味では再帰的であり、再帰的である事から繰り返されて、従ひ呪文的な命名[註6]といふこと
のできるもぐらといふ名前を仇名とする主人公の登場する『方舟さくら丸』をみて見ませう。

[註6]
恐らくは、この非常に重要な指摘を安部公房の読者として最初にしたのは田邉栞さんの論考『名付けるという行為
―安部公房における匿名性―』(もぐら通信第4号)です。欧米白人種キリスト教徒には、このやうな論理と古代
的な感覚を根底にして自己の所論の根拠として論ずる事は殊(こと)に学術的な欧米の世界の人間にはあり得ない
し、また日本人の書いた今までの安部公房論のほとんどは、安部公房の文学を此のやうな言語の視点から論ずるも
のではなく、先の戦争直後の限定された時代に限つての安部公房前衛論が中心でありましたから。田邉栞氏の論考
の当該箇所から以下に引用します。田邉栞さんの指摘は鋭い。その指摘の箇所に傍線を付しました。自己を巡る(無
名、命名、呪文、存在、時間)の五者の関係が簡潔に、正鵠を射て的確に、書かれてゐます。

「2. 安部の作品における名前の役割

 ところで、「けものたちは故郷をめざす」において登場人物は名付けられている。そしてその名前が重要な役割
を果たしている。ここでは、主な人物である高石塔と久木久三について考えたい。高ははじめ、久三に対して「汪
木枕」と名乗る。その後、「新しい名前はまたそのうち教えてやる」と言い、暫く「無名氏」として過ごし、「高
石塔」と名乗る。そして物語の最後には「久木久三」と名乗る。ここでは、偽名であると思われるが作中で一番長

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く使用されていた「高石塔」で彼を名指すことにする。高は状況に合わせて偽名を用いる。しかし、名付けるとい
う行為は呪術的である。名前は過去も未来も背負っているのである。偽名を用いるという行為は、単に呼び名を増
やす行為とは異なる。呼び名や綽名というのは、自分が名付けたとしても基本的には他者によって用いられるもの
である。一方で偽名は自分が用いるものであり、他者が偽名で呼んだとしてもそれは自分がそう呼ばせているため
である。また、偽名を用いるという行為は自分のもつ過去と現在と未来を増やす行為であり、自己の増殖である。
名付けられた者はその名前からは逃れることができない。高は偽名を用いることで、逃れられない自己を増やして
しまい、結果的に自由が制限されていったといえるだろう。一つの身体で背負える名前はせいぜい一つが限界であ
ろう。最後に高は、久三に出くわしてしまったがために背負い切れなくなった名前「久木久三」を繰り返し唱え
る。何度も自分が久木久三であると繰り返している様はまるで呪文である。あたかも自らを呪うかのように繰り返
し口に出し、必死に「久木久三」であろうとしたのだ。また、不本意にも増殖されてしまった久三も遂にはけもの
となってしまった。自分の名前が自己から乖離してしまったことで、久三の行く末は明るくなくなったのである。
名付けられてしまった以上、しっかりと名前を存在の近くに寄せておかなければならない。なぜなら名前はそれだ
けで自己を代表してしまうからである。署名が力をもつことは、名前が力をもつことを示している。安部が名付け
を躊躇ったのは、名前のもつ力が大きいことを十分に知っていたからであろう。そして「けものたちは故郷をめざ
す」では名付けるという行為の強大さを読み取ることができるだろう。」

安部公房のtopologicalな論理と感性によつて、最初と最後に写真撮影の場面が出てきます。
Topologyの論理に従ひ、最初に最後を、最後に最初をみることにします。『カンガルー・ノー
ト』でも最初に小さな「《提案箱》」(といふ壺や袋と同じ形象の凹の中)に「《カンガルー・
ノート》」といふ一行だけ書かれた紙片を主人公が入れ、最後には存在の記号である( )の
中の呪文の中から、今度は「《提案箱》」とは対照的に大きな「大型冷蔵庫でも入りそうな、
ダンボール箱」が運ばれて来るのでした。この場合、《 》の記号は『第一の手紙∼第四の手紙』
と『終りし道の標べに』以来の、安部公房が、地の文とは分けて、哲学用語の世界を示す記号
であることは[註7]、既にお伝へした通りです。

[註7]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)』(もぐら通信第58号)の「VII 「転身」と
いふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」に詳述したと
ころを、ご覧ください。

存在の窪み、即ち凹に回帰して存在自体となつた主人公のみる対象はいつも透明であり、それが
景色ならば、次のやうな透明な景色になります。これは、主人公の以前の世界からの脱出または
失踪を意味してゐるでせう。いつもの安部公房の、閉鎖空間からの脱出の形象(イメージ)です。

この小説の最後もまた此のやうな写真撮影で、小説冒頭の市庁舎の透明な鏡の壁面が、最後に
は実際の景色と入れ替わって、景色が透明になってゐます。安部公房のtopologicalな構造は、文
章でも写真でも、十代の詩人の頃から少しも、変はらない。

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「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向かって、カメラを構えてみる。二十四ミリの広角レンズ
をつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。それにしても透明すぎ
た。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明な街
だ。ぼくもあんなふうに透明なのだ廊下。顔のまえに手をひろげてみた。手を透して街が見えた。
振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。誰が生き
のびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした。」(全集第2
7巻、469ページ下段)(傍線筆者)

同じ写真が、全集第2巻の表表紙を開いて其の裏両面にあります。もぐらの撮影した写真は、き
つとこんな写真に違ひなく、再帰的な写真、即ち合はせ鏡の世界を写した写真です。安部公房の
topologicalな構造は、写真でも文章でも変はらない。

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写真家は、言葉を媒介にすることなく直観で此の写真の中に観入する。直かに此の写真を撮影
し、また撮影された写真をみると直かに理解をする。安部公房にとつては、このやうに、写真
は詩の世界でした。この写真を今度は言葉に変換して箇条書きにしてみませう。一体この写真は
何であるのか。「安部公房の写真」とは何かと題した由縁です。以下のことはみな安部公房の論
理と感性の特徴です。

(1)左の男が半身しか写されてゐない。しかし、
(2)右の磨かれた石の鏡面に、男の全体が、鏡でありますから左右が引つ繰り返つて映つて
ゐる。それも、
(3)男の半身(これは垂直方向の半身)のみならず、男の上下の半身(これは水平方向の半身)
の上半分はいづれも写しても映つてもゐない。
(4)実際に歩道を歩いてゐる其のやうな男の映る鏡面には、男以外の他の歩道を歩く人々も
影として映つてゐて、男を含み、アベコベの(安部公房の文学はアベコベの文学)、謂はば贋の
現実の中に歩く人々となつてゐる。更に仔細にみると、
(5)この鏡面は、安部公房の好む格子になつてゐて、例えば『箱男』の中に挿入された男子便
所の写真の壁のタイルの格子と同じ形象である。「奉天の窓」です。一つ一つの格子が窓になつ
てゐる。汎神論的存在論の世界です。そして、
(6)鏡面であるといふ事から、透明な世界、現実を透明に映してゐる世界です。そして、
(7)半身の男の先、右手にある垂直の棒もまた、その方向の持つ意味、『S・カルマ氏の犯罪』
の最後の限りなく垂直に成長してゆく壁と同じ意味を持つでせうし、また、
(8)其の壁である複数の垂直の棒が、並んでゐるといふことは、それぞれの間に隙間があるこ
とであり、これも存在のゐる差異の空間であり、
(9)その垂直棒の立つのは、階段の上であつて、ここにも段差といふ差異を構成する最初の
段に立つてゐる。そして、よく見ると、
(10)この半身の男や鏡の中の人々の歩いてゐる歩道は、この階段との関係を見ると、傾斜し
てゐる歩道であつて、下から上へと此れも上昇する面であるといふことであり、現実は傾斜し傾
いてをり、実にバロックであり、更に此の事から、
(11)傾いた歩道と、水平方向にある最初の階段の間には隙間がある。

と、このやうになるでせう。

同じ全集第2巻の、今度は裏表紙を開いて其の裏両面にある写真を見てみませう。

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呪文を唱へれば存在の宿る無数の(罅割(ひび)れのやうな)割れ目の上を、バットマンの
やうなボロ雑巾のやうなカラスが一羽、影のやうになつて、飛んでゐる。黒いカラスの色と
は対照的に、その右上方に何か風に吹かれて白い紙か何か、安部公房らしく、やはりこれも
ゴミが飛んでゐる。カラスはゴミを漁りますから、これは好一対といふことになり、『カン
ガルー・ノート』によれば、前者が真獣類ならば、後者は有袋類といふことになり、このま
まこの論理を延長すれば其のまま、ゴミや廃棄処分の場所の好きな、作家としての安部公房
論になるでせう。

このやうに、写真と小説の間には連続性がある。二つは別のものではないのです。前者は詩
の世界であり、後者は散文の世界でありますが、かうして見ますと、安部公房の小説は詩的
散文である、或は直喩を多用した詩的小説であると言つてもよく、安部公房の小説の中に詩
文があるといふ、他の作家には見られない特徴を説明する理由になるでせう。

この写真は、まるでSF小説の世界で描く火星の地表のやうです。この地表の上を、宇宙服を
着た人間が歩いてゐてもおかしくはないと思はれるほどです。

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熊谷良樹さんにご寄稿戴いた貴重なる安部公房写真論『安部公房の写真について2』(もぐら
通信第39号)の「■第2章 公房の写真の特徴」から以下に、このやうな効果を醸し出す安部
公房の好んだ撮影・現像技術について書かれてゐるところを引用し、読者のあなたに、安部公房
の持つ写真技術についてご理解を改ためて深めて戴きたい。改めて此処でも熊谷良樹氏に感謝申
し上げます。

「01撮影・現像のプロセス:大半を占めるモノクロ写真/増感現像の効果/ノーファインダーが
もたらす二つの困難/ディスタゴンT*25ミリ/困難な撮影状況下でのパンフォーカス」といふ
章より、以下に引用してお伝へします。傍線は筆者。

「本論では、公房の写真の中で大半を占めるモノクロ写真について、考察を進めることにする。
なぜなら、確かに、上記したようなカラー写真も見られるが、公房が公に発表した写真は、す
べてモノクロ写真であったし、また、筆者は、モノクロ写真であることが、公房の写真観の中で
も非常に大きな意味を持っている、と考えるからである。公房の写真観については、次章で記す
ことにするが、この節では、公房のモノクロ写真における、画像的な部分についての考察をして
いく。

増感現像の効果

公房が、モノクロ写真を好んで撮った、その理由の一つに、自分で現像し、焼き付けることが
できるために、自分の意図したとおりに、写真を仕上げることができるという理由があったこ
とは、「増感して、ノーファインダーなんかで撮るわけですからね。他人にはわからない。そう
すると写真の狙いのようなものは、やはり自分で伸ばさないと出てこない」という言葉からも
分かるだろう[註2]。

ここで、「増感」という言葉について説明を加えると、増感とは、フィルム現像の手法の一つ
であるが、これは、撮影したフィルムを普通に現像せずに、より強く現像すること(現像時間を
長くしたり、普通よりも高い温度の現像液で現像する)で、露光量不足のフィルムを救済する方
法である[註3]。

また、増感現像は、普通では露出不足となってしまうフィルムを、現像によって救済するとい
う目的だけではなく、意図的に用いられることもある。それは、一般的に、増感現像を行う
と、コントラストが強くなり、画像の粒子が粗くなってしまうという特徴があるからである。そ
のような画像を得たい場合に、写真家は故意に、増感現像を想定した露出によって撮影を行うこ
とがある。

公房の写真の中にも、そのような特徴は見られ、特に『箱男』の8枚の写真の中の、人物の
写った4枚の写真〈図1.4.6.7〉には、増感現像で得られた非常に粒子の粗い、ざらついた画像
が見られる。これらの写真に関しては、増感現像によるだけでなく、トリミングによって、大き

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く引き延ばされた画像。あるいは、サイズの小さなフィルム(8ミリフィルムのような)によっ
て撮影された写真である可能性が高い[註4]。公房の写真の中で、この4枚ほど粒子の粗い写
真は、他には見られないが、全体的にコントラストが高い写真であるということは、一貫して、
公房の写真に共通していると言えるだろう。

どうして、増感現像というプロセスを選んだのか、それは、もちろん、公房が、ハイコントラ
ストな画像、粒子の粗い画像を、写真に求めたという理由もあるだろう。その理由に関しては、
次章で詳しく述べることにする。しかし、単に、写真の画像的な欲求を満たす、という理由の他
にも、公房の写真撮影のプロセスに起因した、必然的な増感現像の必要性があったと思われる。
それは先に例に出したような、増感現像せざるを得ないという撮影状況があったということで
ある。

ノーファインダーとは、言葉の通り、写真の構図を決めたり、ピントを合わせるために行う、
ファインダーを覗くという行為なしに、写真を撮るということである。このような撮影方法は、
被写体が人間である場合、相手に気づかれることなく撮影できる。公房の写真に写っている人
物達の誰一人として、公房のカメラに向かって、見返しておらず、カメラに対して、何の意識も
持っていないように見えるのは、このためであろう。

ノーファインダーで撮影する場合に、普通に撮影する場合と比較して二つの困難が考えられる。
一つは、撮影した画面、フィルムに写った画像を、現像するまで知ることができないという点で
ある。そして、撮影者自身にすら、どのような画像が写っているのか、分からないのであるから、
当然、ピントを合わせることはできないという点である。

これを解決するために、公房は二つの方法を用いた。一つは広角レンズの使用。そして、二つ
目はパンフォーカスという表現技法である。

ディスタゴンT*25ミリ

前出した公房の言葉にあった、「レンズが25ミリ」というのは、25ミリの広角レンズをつけ
たカメラで撮影したということであるが[註6]、広角レンズは画角が広く、多くのものを写し
込めるために、ファインダーを覗かなくても、大体の見当を付けて、その方向にレンズを向けれ
ば、写したい被写体を捉えることが可能である[註7]。

広角レンズを用いることで、写真に表れてくる特徴として、画面の遠近感が強くなってしまい、
写真の周辺部分には歪みが出てくる。しかし、公房にとっては、そのような画面の効果を得るた
めではなく、やはり、被写体を捉えるための広角レンズの使用と考えていいだろう。なぜなら、
『箱男』の自転車を押している男の写真〈図7〉と、『都市への回路』の「全財産」〈図10〉と
は、同じネガから焼かれた写真であり、『箱男』の方は『都市への回路』の写真からトリミン
グして使われているからである。もし、広角レンズの視覚効果を用いたいのであれば、トリミン
グすることによってその視覚効果は失われてしまうことになる。

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レンズに関しては、「都市を盗る」シリーズの撮影データによって、公房がディスタゴンT*
という25ミリのレンズを主に使っていた、ということが分かる。そして、これに付け加えると、
このレンズは、カールツァイスという非常に優れたドイツの光学メーカーのレンズであり、また、
カールツァイスというメーカーのレンズは、その解像力に対する評価、信頼性においては、世界
一のブランドであると言われている。

前章中に、公房の写真器材に関して、簡単に触れたが、公房には「カメラマニア」的な面もあっ
て、いろいろなカメラを手にしていたようである。ただ、「都市を盗る」シリーズで、写真に添
えられた撮影データからも分かるように、コンタックスのRTSというカメラを、特に気に入って
使っていたようである。これは、カメラ雑誌で写真家林忠彦と共に「われらコンタックス仲間」
という対談を行っていることからも分かるだろう[註8]。

この対談の中で、なぜ、コンタックスのRTSというカメラをよく使うのか、その理由として、
RTSのシャッター音が、街の中にある、ありふれたノイズに非常に近いから、ということを公房
は挙げている。シャッター音が周囲の雑音に混じって、目立つことがないということは、街の中
でのスナップショットを多く撮った公房にとって、相手に悟られることなくシャッターを押すこ
とができるという点で、必要なことであったと思われる。

ただ、筆者は、公房がRTSを選んだ理由として、そのシャッター音以外の、もう一つの決定的
な理由があったように思う。それは、コンタックスというブランドのカメラに、カールツァイス
レンズが搭載されていたからではないだろうか。そして、そのレンズに対するこだわりは、写真
の画像的な情報量への執着の象徴であったのではないだろうか。

困難な撮影状況下でのパンフォーカス

公房が行ったもう一つの方法であるパンフォーカスは、レンズの絞りを絞り込むことで得られ
る効果で、パン(=全てに)フォーカス(=焦点のあった)という言葉通り、ピントを近景から
遠景まですべてに合うようにする技法である。パンフォーカスにすることによって、ファインダー
でピントを合わせなくても、ほとんどの距離でピントは合うことになるのである。

また、広角レンズには、被写界深度が深いという特徴があり[註9]、その特徴を利用するこ
とで、絞り8程度でパンフォーカスを得ることができる。

パンフォーカスにする際には、絞りを絞り込むわけであるから、当然、シャッタースピードは
それに対応して遅くなっていく。しかし、シャッタースピードが遅くなればなるほど、被写体は
ブレやすくなってしまう。公房の写真の中には、ブレた写真〈図17〉もあることはあるが、そ
のような写真は例外的と考えていいだろう。

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明るい場所であれば、それでも撮影できるのであるが、公房の写真には、地下道であったり、
公衆便所であったり、路地裏であったり、薄暗い場所で撮影した写真も多く見られる。このよ
うな状況で、パンフォーカスにするのは、非常に困難な作業になってくる。三脚でも使えば、そ
れも容易であろうが、手持ちで、しかも、ノーファインダーでは、まともな写真は期待できない
だろう。

そこで増感現像の必要性が生まれたということが考えられる。つまり、絞りを絞ったことによっ
て低速になってしまうシャッタースピードを、増感現像するという条件で、手持ちでも充分な
シャッタースピードで撮影することができるようになるのである。あらかじめ、そのような設定
で撮影をしていれば、暗い場所であっても、ある程度のシャッタースピードが使えるし、また、
逆に明るい場所での撮影になったとしても、その時は、絞りを・・・・絞り込むか、シャッター
スピードを・・・・速くすることで対応できるのである。

註2 安部公房 林忠彦 「われらコンタックス仲間」 『日本カメラ』 日本カメラ社 1979
  年4月号
註3 例えば、暗い場所で、カメラを手に持って撮影する際、感度が100のフィルムでは、その
  まま撮影するにはシャッタースピードが遅くなってしまい、手持ちでは、ぶれた写真になっ
  てしまう。だからといって、シャッタースピードを速くすると、今度は、露光量が足りず、
  普通に現像すればアンダー(露光量不足)のネガになってしまう。そのようなとき、撮影す
  る際に、フィルムの感度を、あらかじめ1600や3200といった高い感度のフィルムに設定し
  て、手持ちでもぶれないくらいのシャッタースピードで撮影する。そして、そのフィルムを
  現像するときに、増感現像を行うと、普通では撮りにくいような暗い状況でも、手持ちで
  撮影することができるのである。
註4 公房がトリミングを行っていたことは、『箱男』の中の自転車を押す男の写真が、『都市
  への回路』の「全財産」と同じネガであることから分かる。また、公房は当時、ミノック
  スという8ミリのフィルムを使うカメラを所持していた。
註5 安部公房 「「水中都市」から」 1978年 全集26巻収録
註6 公房は25ミリの他に、「都市を盗る」シリーズの中でゾナー135ミリという望遠レンズに
  よる撮影も行っている。公房自身は、広角レンズによる撮影を好んでいたようである。「い
  ろんな写し方をして回ったあげく、最近は大体二つの種類の撮り方になった。一つは、広角
  レンズをつけて絞りこみ、カメラをのぞかずにノー・ファインダーで、目見当でなるべく対
  象に接近しながらシャッター切ってゆくという方法。もう一つは、かなりの望遠でやる場
  合。でも、広角でゆくのが一番自分に向いているような気がするな」(『都市への回
  路』)
註7 「25ミリというアングルは、のぞかなくとも狙ったものが必ずはいっています」(「われ
  らコンタックス仲間」)
註8 註2参照。
註9 被写界深度は、ピントを合わせた距離を中心にして、ピントの合う奥行きのことで、広角
  レンズほど被写界深度は深くなる。」(以上傍線は筆者)

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さて、最後に『方舟さくら丸』の冒頭に戻つて、最後にもぐらの写真撮影の対象となつた合
同市庁舎の場面を振り返つてみませう。

「《豚》もしくは《もぐら》がぼくの綽名である。身長一メートル七十、体重九十八キロ、
撫で肩で手足は短かめだ。体形をを目立たせまいとして、丈の長い黒のレインコートを試して
みたこともある。しかし駅前の大通りに面して新築された合同市庁舎の前で、そんな幻想はあっ
けなく吹き飛ばされてしまった。市庁舎は黒い鉄骨と黒いガラスに覆われた、黒い鏡のような
建物で、列車を利用しようと思えばどうしてもその前を通らざるを得ないのだ。黒いガラスに
映ったぼくは道に迷った仔鯨か、ゴミ捨て場で変色したラグビーのボール[註8]に見えた。
背景の町が歪んで映るのは面白いが、歪んだぼくは惨めなだけだ。」(全集第27巻、25
0ページ上段)

[註8]

仔鯨とラグビーのボールについては「『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第53号)で論じま
したので、ラグビーのボールは三島由紀夫の語彙ですが、その形象の意味するところと、安部公房の仔鯨の仔と
いふ文字に使用の深い意味については、これをお読みください。

「《豚》もしくは《もぐら》」とあるやうに、安部公房が使ふ《》が哲学用語として使つた
此の記号の意味については、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
(4)』(もぐら通信第59号)の「VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのや
うに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」にて解説した通りです。 [註
9]謂はば、主人公は存在の《豚》であり、存在の《もぐら》であることが示されてゐるので

す。《豚》と《もぐら》は等価で交換可能です。Topologyの世界です。こう書かれたら、ここ
から先は存在の世界の小説であるといふ事になります。

[註9]

以下もぐら通信第59号より引用します。

「安部公房が《》と〈〉の記号を用ゐて、作品を最大3層にして、それぞれ次元の異なる世界を交互に主人公の
意識が往来するといふ作品構造化上の工夫については、既に詳細に論じ、お伝へした通りです。[註3]安部公
房の場合には、《》に哲学用語を、〈〉にリルケと自分の詩の用語を入れて、二つの記号を使つて『第一の手紙
∼第四の手紙』を書き、これが分岐して、前者の記号は『終りし道の標べに』に、後者の記号は『名もなき夜の
ために』に、それぞれ生かされてゐること、更に『第一の手紙∼第四の手紙』では《》と〈〉の関係を前者を上
位、後者を下位に置いて、即ち《》の中に更に入籠構造にして〈〉を《》の下位の階層に置いて、安部公房固有
の「僕の中の「僕」」といふ話法の中でこれら二つの記号をそのまま生かして、戯曲家または脚本家としての作

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品を生み出したといふことを述べたのでした。この間(かん)、安部公房スタジオの演技指導論がさうであつ
たやうに、《》と〈〉の中の文字の量を少なくして0にし、対して、地の文の普通用語の量を多くしてA+B=K(定
数)をAxB=K となして、記号と文字の世界を入れ替へ、交換することによつてtopologicalに、安部公房は、哲
学的な詩人から見事に「転身」を遂げて小説家になつたのでした。」

この小説冒頭の市庁舎の透明な黒い鏡の壁面が、最後には実際の景色と入れ替わって、景色が
透明になってゐます。安部公房のtopologicalな構造は、文章でも写真でも、十代の詩人の頃
から少しも、変はらない。最後に二つを対比してみて、この最初と最後の間の隙間に挟まれた
存在の世界の話の筋を思ひ出す事に致しませう。それはどんな冒険であつたか。

最初は個人が《》といふ記号の中に入れられてもぐらが存在に生きる(恰も時間の中でのやう
に語られる物語、としての現実の世界では)未分化の実存であることを示し、そのやうな存在
とはいへ、「出来れば顔見知りとは顔を合わせたくない。影のように綽名がついてまわる」
人間として書かれてゐるが、しかし最後には再度次に引用するやうな透明なる存在自体に変形
した透明なる人間として書かれてゐます。存在になつたので透明になる。

「合同市庁舎の黒いガラス張りの壁に向かって、カメラを構えてみる。二十四ミリの広角レン
ズをつけて絞り込み、自分を入れて街の記念撮影をしようと思ったのだ。それにしても透明す
ぎた。日差しだけではなく、人間までが透けて見える。透けた人間の向こうは、やはり透明
な街だ。ぼくもあんなふうに透明なのだ廊下。顔のまえに手をひろげてみた。手を透して街が
見えた。振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。街ぜんたいが生き生きと死んでいた。
誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、ぼくはもう考えるのを止めることにした。」
(全集第27巻、469ページ下段)(傍線筆者)

主人公のもぐらが最後の場面で撮影した写真は、熊谷氏の説明にいふ「増感現像で得られた
非常に粒子の粗い、ざらついた画像」であつて、実際の安部公房の写真画像の質感と同じやう
な質感を有する、言つてみれば、砂の粒子が画面に夥しく飛散してゐて、その隙間から私たち
が覗いて対象が存在するといふやうに見られる存在の写真である事でせう。画質にまで隙間
といふ空間的な差異を求めた安部公房であつたといふ事になります。

かういふ訳で、安部公房の写真を眺める、これも写真を読むといふ事から読者と言つてよいで
でせうから、そんな私たち読者は砂の粒子の隙間といふ差異の向かうに、一度見つけてをき
ながら見失い、従ひ既に予(あらかじ)め失はれてゐる「ニワハンミョウに似た」ニワハン
ミョウにそつくりな案内人としての「小っぽけな薄桃色の虫」、即ち贋ニワハンミョウを探し
てゐる仁木純平にいつの間にかなつてゐるのです。

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29

ページ

安部公房文学メタSF論

∼記号と文字のtopology∼

岩田英哉

数学的な頭脳を持つた詩人が、小説家にならうとするに際して、一体どうやつてそれを成し
遂げたのかを、記号と文字のtopologyといふ観点から、二人の詩人、即ち安部公房と荒巻義
雄を例にして伝へたい。

『荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(2):老人と飛行士』の「0。SF文学とは何か」
(もぐら通信第61号)で、SF文学の特徴を次のやうに私は述べました。

「『日本SF論争史』を読むと、安部公房に典型的なやうに、SF文学の世界の作家の特徴は、
方法論と方法を実作者自らが論ずるといふことに於いて、非SF・文学の世界の作家たちとは
著しく異なってゐるといふことである。簡単に言へば、理論と実践です。小説家が批評家で
あり、批評家が往々にして小説家である。もつと言へば、作家自身と、従ひ作品自身が自己
批評を含んでゐて外部に開かれてゐるといふこと、体系の中に最初から反体系を入れるとい
ふことです。」(『荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(2):老人と飛行士』もぐら通
信第61号)......(A)

私がSF文学の詳細も知らずに大所高所からこのやうにしたSF文学の定義は、欧米白人種キリ
スト教の思想史と哲学史と、またSF小説の生まれた縁起から考へると、当然上のやうになり、
哲学史の上では、カントーヘーゲルーマルクスといふ系譜ではなく、カントーショーペンハ
ウアーニーチェーハイデッガーといふ系譜に連なり並行する文学であつて、この意味では、
19世紀前半のエドガー・アラン・ポーに淵源する19世紀後半のフランス象徴主義の詩人
たち、さうして同じ世紀の前半をポーと共に共有するショーペンハウアー、また同じ世紀の
後半を共有するニーチェ、そしてニーチェの死は1900年ですから、この二つの世紀を跨
ぐ二人の詩人と小説家、即ち共に1875年生まれのリルケとトーマス・マンの名前を挙げ
て、これらの文学の共有する際立つた特徴を上のやうに述べたわけです。

この私の説明を巽孝之氏が次のやうにもつと簡潔に語つてゐます。これはSF作家荒巻義雄の
作品を、SF文学史上それまでの典型的にはスペース・オペラのやうな外宇宙との関係ではな
く、人間内部の精神世界といふ内部宇宙として捉へることを宣言したJ・G・バラードを巡る
「ニューウェーヴ」のSFについて述べた後に語られてゐるものですが、それは次のやうな言
葉です。

「そうしたニューウェーヴの影響を受けて出発した荒巻作品をもSF批判のSF、SFを内部か
ら自己言及的に脱構築するSF、すなわち、「メタSF」という枠組みで捉え直すのは、決して

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的外れではあるまい。折しも欧米ではフランスの新小説(ヌーヴォー・ロマン)や北米のブ
ラックユーモア小説、南米のマジック・リアリズム小説のように、旧来の文学的約束事をふ
まえつつも内部から転覆していくポストモダン文学、転じてはメタ文学の動きが盛んになり
つつあった矢先に、SFというジャンルにおいては思弁小説がメタSFの実験として行われてい
たのである。(『定本 荒巻義雄 メタSF全集 第1巻』同氏解説「メタSF全集の夢」503ペー
ジ)......(B)

ヌーヴォー・ロマンは、20世紀を通じてある思潮であり、またマジック・リアリズムも同
様であれば、北米のブラックユーモアも含めて、これらの世界的文藝思潮と安部公房の作家
としての20世紀の人生は同時並行的に、従ひ文明史・世界文学史的なレヴェルで、このや
うな文藝思潮と同時並行的に理解するすることができる。これが、文明史・文学史的なレヴェ
ルでの、バロック作家としての安部公房の位置といふことになる。

ジャック・デリダのdeconstructionの訳語である脱構築といふ、巽先生の使つてゐる言葉を
此処でいふならば、哲学者の次の系譜を考へる事ができる。

カントーショーペンハウアーニーチェーハイデッガーージャック・デリダ/ジル・ドゥルーズ
(共にフランス)/ハラルト・ヴァインリッヒ(ドイツ)/ポール・ド・マン(アメリカ)

といふ超越論(欧米白人種の反または超キリスト教の哲学)または汎神論的存在論(有色人
種の多神的世界の哲学)の系譜です。

ジャック・デリダ/ジル・ドゥルーズ(共にフランス)/ハラルト・ヴァインリッヒ(ドイツ)
/ポール・ド・マン(アメリカ)は、1924年生まれの安部公房と全く人生の長さが重なつ
てゐる哲学者たちであることは、誠に興味ふかい。歴史も人間の意識の深いところで働いて
ゐるが、働きかけられる意識もまた、人間の深いところで働いてゐる。これらの世界的思潮
と安部公房の作家としての20世紀の人生は同時並行的に、従ひ文明史・哲学史的なレヴェ
ルで、このやうな哲学思想と同時並行的に理解するすることができる。これが、文明史・哲
学史的なレヴェルでの、バロック作家としての安部公房の位置といふことになる。

この哲学的な系譜と共にSF小説がポーに淵源して近代のSF文学が始まつたといふことになる。
ショーペンハウアー(も含め)以降の哲学者は、バロックの哲学者だとして一括りにする事
ができる。即ち19世紀と20世紀に生きた「世界は差異である」といふ認識者たちの系譜
です。安部公房の「新象徴主義哲学」[註1]も其の哲学のうちの一つです。

[註1]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づ
ければ新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつ
た。存在象徴の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(全集第1巻、270ページ上段)

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アイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラークといふ「外宇
宙志向のハードコアSF」と、これに対して1962年にJ・G・バラードの書いた『内宇宙へ
の道はどれか?』と題した「ニューウェーブSF宣言」以後のメタSF[註2]もまた、上の世
界哲学的、世界文学的潮流に沿つたものといふ事ができる。

[註2]
『定本荒巻義雄メタSF全集 第1巻 柔らかい時計』の「メタSF全集の夢」、同巻502ページ)

少し横道に逸れると、アイザック・アシモフの生年は1920年1月2日から1992年4月6日とい
へば、そのまま安部公房の生涯に重なる(1924年 (大正13年) 3月7日 - 1993年 (平成5年) 1
月22日)。ロバート・A・ハインラインは1907年7月7日 から1988年5 月8日)であれば、
安部公房の発見者、埴谷雄高の生涯に其のまま重なる(1909年(明治42年)12月19日 -
1997年(平成9年)2月19 日))。アーサー・C・クラークの生年は1917年12月16日から
2008年3月19日であれば、二人の「不可能性の作家」の人生に、これもそのまま重なる。安
部公房の存在の中での師匠石川淳の人生も(1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62
年)12月29日)で、ロバート・A・ハインラインの人生にそのまま重なる。勿論、安部公房
の人生は、これらのSF作家の人生と其のまま重なつてゐる。そしてこれらの作家たちと同時
代を共に生き、そして時代を超越したといふことです。

さて、荒巻義雄のSF作家としての人生も安部公房の9年後進として上のSF作家たちの人生に
重なり(1933年4月12日∼)、初期作品から首尾一貫して変はらぬ内宇宙のSF観はニーチェ
やジャック・デリダ以降の哲学史に沿ってをり、巽先生が此の「メタSF」全集と特に銘打つ
た全集の解説で上のやうにメタSFを定義することは、正しいと、SFの門外漢ながら、私は思
ふ。

このやうに考へてきて上記(A)と(B)を振り返れば、安部公房の小説はメタSF小説であ
るといふ事ができ、既に其の小説と舞台芸術(安部公房スタジオ)に関するtopologicalなも
のの考へ方は同一である事を証明しましたので[註3]、安部公房スタジオの存在の舞台もメ
タSF演劇だといふ事ができます。こんな演劇用語は日本の演劇界にはないだらうが、安部公
房スタジオの総合藝術としての存在の舞台にこそふさはしい命名である。

[註3]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4):VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合
後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)』(もぐら通信第59号)

安部公房が《》と〈〉の記号を用ゐて、作品を最大3層にして、それぞれ次元の異なる世界
を交互に主人公の意識が往来するといふ作品構造化上の工夫については、既に詳細に論じ、
お伝へした通りです。[註3]安部公房の場合には、《》に哲学用語を、〈〉にリルケと自分
の詩の用語を入れて、二つの記号を使つて『第一の手紙∼第四の手紙』を書き、これが分岐

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して、前者の記号は『終りし道の標べに』に、後者の記号は『名もなき夜のために』に、そ
れぞれ生かされてゐること、更に『第一の手紙∼第四の手紙』では《》と〈〉の関係を前者
を上位、後者を下位に置いて、即ち《》の中に更に入籠構造にして〈〉を《》の下位の階層
に置いて、安部公房固有の「僕の中の「僕」」といふ話法の中でこれら二つの記号をそのま
ま生かして、戯曲家または脚本家としての作品を生み出したといふことを述べたのでした。
この間(かん)、安部公房スタジオの演技指導論がさうであつたやうに、《》と〈〉の中の
文字の量を少なくして0にし、対して、地の文の普通用語の量を多くしてA+B=K(定数)を
AxB=K となして、記号と文字の世界を入れ替へ、交換することによつてtopologicalに、安
部公房は、哲学的な詩人から見事に「転身」を遂げて小説家になつたのでした。

この記号と文字の使ひ方を、SF詩人荒巻義雄の場合を例にとつて説明します。一体これがど
ういふ世界を創造するかといふことなのです。この詩人の場合にも同様に初期の作品から好
例を幾つか挙げて見ます。シュールレアリズムの画家ダリの有名な絵に『記憶の固執』とい
ふ題の次の絵があります。安部公房と荒巻義雄は共にシュールレアリスムを共有してゐます。

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作者の解説によれば、ダリの「「柔らかい時計」を眺めているうちに、もしもこんな世界が
あるとすれば、果たしてどういう世界律を持つだろうか、逆に考えて書き出した。自分なり
の小説作法が出来あがったような気のした作品です。」とあります。[註4]

これはポーの『詩の原理』と同じ発想、『モルグ街の殺人』の密室殺人事件の不可能犯罪と
同じ発想です。安部公房ならば、仮説設定の文学と称したことは、読者ご存知の通りです。

[註4]
『定本 荒巻義雄 メタSF全集 第1巻』の著者後書き「たった一人でも――あとがきに代えて――」441ペー

以下に、記号を使つた用例を列挙すると、次のやうになります。これらの記号の中にある名
前は、歴史的実在した当のものの名前ではない。これら記号化されたものはみな、主人公の
私の意識である〈ワタシ〉の中に実在して絶えず〈ダリ〉の発揮する猛烈な食欲との関係で
幾らでも柔らかく変形する「架空の惑星」である火星にやつて来た〈ワタシ〉の中の内部宇
宙に存在するものなのである。だから、〈ダリ〉はダリではない。安部公房の読者には『カ
ンガルー・ノート』を思ひ出して、真獣類のKが有袋類のK になるといふ此の一対の関係を
思つてもらひたい。KとK の二重の世界が繰り広げられて主人公が往来するのは、『カンガ
ルー・ノート』と同じである。『カンガルー・ノート』では主人公の意識に従つて動くベッ
ド、即ち「とにかくこれはアトラス社製のベッドで、ぼくの医師に感応して自走する能力さ
えそなえているらしいのだ」[註5]とある謂はば意識のベッドの、ベッドの意識が此の〈ワ
タシ〉の意識の内部宇宙だと思つて見ると、メタSF小説も極く自然な小説に思はれることで
せう。

[註5]
全集第29巻、92ページ下段

記号の列挙:
〈ダリ〉
〈ワタシ〉
〈火星のウェルズ〉
〈ウェルズ〉
〈嫉妬に狂った騾馬が、蹄鉄のついた尻尾で天使を冒瀆する〉
〈モナリザの微笑〉
〈柔らかい時計〉:この文字は特に此の文字だけ太字で印刷されてゐる。
〈原餓〉

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「白昼の抹殺」
「超現実的庭園」
「理科年表」

『ブヨブヨ工学』

だから、〈嫉妬に狂った騾馬が、蹄鉄のついた尻尾で天使を冒瀆する〉と書いてある文字を
読めば、実際にこのシュールレアリスティックな事件が読者の目の前で実際に起きる。とし
か、いいやうのない現実感を覚える。

〈ワタシ〉は「その日、火星の正午。赤道直下の目も眩む太陽の照射のもとで催された、パー
ティーの主題は「白昼の抹殺」。火星でも屈指の大富豪、テキサス州ほどの土地を所有する
〈ダリ〉家の主催」する、当家の「超現実的庭園」と名付けられる〈ダリ〉の大庭園での出
来事に遭遇し、その〈事実〉が語られる。全ては作者の愛用する言葉でいへば「脳内宇宙」
の出来事であり、バラードの宣言書によれば「内宇宙服(インナー・スペース・スーツ)」
を着て作者が書いた『柔らかな時計』の世界の中の、話者の語る〈ワタシ〉の中の、火星に
存在する〈ダリ〉の「白昼の抹殺」と題した大庭園の中にある可食性で美味しい〈柔らかい
時計〉は、次のやうな文脈で語られてゐる。地の文の私とそれから〈ワタシ〉が、同様にダ
リと〈ダリ〉が二つの領域を往来するか、二つの領域がこれらの名前を交換して、どつちが
どつちか読者にはわからぬうちに、この交換が私たちの意識に、無意識のうちに働きかけて
実に現実的な感覚を与へることが体感できるでせう。

「その時はじめて〈ワタシ〉はあの〈柔らかい時計〉というやつを見たのだった。
 イシャウッド教授が、何気なく机の縁に置いた時計だった。
「珍しい時計ですね」と私は目を丸くして叫んだ。
「これですか、私の発明した新蛋白質で造ったものです」と教授はいった。「ちゃんと動い
て時を刻みますよ。温度をうんと上げれば、チョコレートのように溶けてしまいますが、常
温では、ほら此のとおり」
 なるほど、柔らかい。それは、サルバドール・ダリの有名なあの絵のように、机の縁で、
重力の法則通り折れ曲がって、だらり、下へ垂れ下がっていた。
「心配だったのは、時計が折れ曲がった状態で、歯車や軸が、なおかつ正常に動くかという
ことでしたよ」
「でしょうね。機械的な方法では、不可能ですからね」と私は感嘆せざるを得なかった。
「と思うのが当然。私の新蛋白質には、物質そのものに特別の性質がありましてね。たとえ
ば、折れ曲がった回転軸は、そのまま回転を正常に伝えるのです。つまりこの新物質はそれ
自体、自在継手(ユニバーサル・ジョイント)ともいえるのです」
「手のこんだ玩具ですね」と私はいった。
「玩具とばかりはいえません」と教授は抗議した。「これが実用化されると、地球の産業界

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もぐら通信

ページ35
に大革命がおこりますぞ。たとえば、自動車類のエンジンですが、位相幾何学的に狂いさえ
しなければ、平たくも、細長く棒状にも、ねじるなり、どのような形にも加工することがで
きるのです」

『ブヨブヨ工学』とは、この科学を現実に応用した応用科学の名前です。

これはほんの一部の例ですが、このやうに記号を使って、世界を二層にすることを楽々とす
るKunst(クンスト)、即ち藝術と呼ばれる実地応用技術のことを、このSF詩人は、医学と
医術との関係で、安部公房ならば真獣類Kと有袋類K の関係、即ち人間と人間そつくりと同
じ関係として『術の小説論―私のハインライン論』で、カントの三批判書を元に論じてゐま
す。つまり、模型(model)と応用、理論と実践の関係です。『純粋理性批判』と『実践理
性批判』の関係です。

上の例では、〈柔らかい時計〉の文字だけが、特に太字で印刷されてゐますが、これを一つ
の人称に、ひらがなのわたしと、太字フォントの私を〈〉に入れて〈私〉とし、地の文の私
を無記号の私として、3つの私を一人称の中に表現して、3重人格の人間を描いてゐる『緑
の太陽』といふ作品もあります。

物質としての言葉、即ち文字を、そのやうに変形させて意味をそれぞれに割り当てて使って
ゐるといふことです。そして此の物質としての言葉、即ち文字は、作者の意識と密接に繋が
つてゐる。同じ考へで、初期安部公房も位相幾何学的な問題下降を行つたことは、上述の通
りです。

『大いなる正午』といふ作品があります。この小説の話者もまた、安部公房の「僕の中の
「僕」」といふ内省的・独白的、もつといへば再帰的な話法を使つてゐて、作中折々に、ア
ンアンといふ女性に呼びかけますが、この女性が、安部公房の存在概念と同じで(例えば、
『砂の女』の砂、『洪水』の洪水、『事業』のソーセージ、『水中都市』の海、『手』の「お
れ」等々大量頒布、大量流布の形象(イメージ))、汎神論的な存在として話者の意識の中
に境界なく、何物にも変形して行き渡つてゐます。

この世界では何もかもが生きてゐる。「架空の惑星」である火星にあるものが全て可食であ
るといふ柔らかな宇宙であるのと同様に、この宇宙でも、遍在する意識の生み出した物は、
「枕代りに、腰の下に敷いた、真紅の絹みたいなつるつるした、光沢のあるクッションが、
動物的に呼吸していて、鉱物と動物の性交のあげく生まれてきた物みたいだ。テーブルも帽
子掛も、いろいろな調度品の類も例外ではなく、みんな生きている。」

安部公房の読者ならば、『詩人の生涯』の母親のジャケツや『密会』の溶骨症の少女の成つ
たクッションや其の母親の「綿吹き病」の綿で出来た布団を思ひだすでせう。

そして、このやうな世界にあつて、

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36

ページ

「Kは、アンアンの外側にいるのに、もうひとりのアンアンに対しては、内側にいるのだ。
(略)
 Kは、両方のアンアンに対して、同時に直角に交叉しているように交わっていたが、別々
にセックスしていた。Kは、何か超次元的な、だまし絵のように二重露出したような、漫画
本を読んでいた。アンアンも漫画本を読んでいた。アンアンの、いま熱中しているその本を、
のぞきこむと、部屋の情景とそっくりなのである。本の中のKは、本の中のアンアンとセッ
クスしている。Kが動くとそのKもそっくりに動く。アンアンだって同じだ。本の中のアンア
ンも漫画本を読んでおり、やはりその中のミニチュアな情景は、部屋とそっくりだった。
「ねえ」とアンアンがひとり言のようにつぶやいた。「あなたって、おかしな人ね」

「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的話法であり、これが再帰的な話法であること、合
わせ鏡の世界であることは、安部公房の場合と同じです。

これは、かうしてみますと、詩人が小説家になる順序といふよりは、再帰的な人間であるこ
とを十分に自覚した人間が、文藝の世界で詩人として出発をし、如何に記号と文字を使つて
自己を「転身」または変形させて小説家になつたかといふ、一人の人間の物語だといふ方が
正しいといふことになります。

SF詩人は此の作品の生まれた契機について、かう言つてをります。

「同じく(筆者註:『トリピカル』がロブ=グリエに関係して書かれたやうに)、「新しい
小説」群のイタロ・カルヴィーノを意識して書いたことを否定しません。それと、女性雑誌
アンアン を本屋で手にとり、頁をめくって一瞥したときの直感的印象を絡ませた。
 この作品で、私なりに一番気にっている個所は、主人公が木星の大赤斑に降って行くとこ
ろです。巨大なものと対峙したときの感覚と、そこへ降りていくときの降下感覚はいったい
どのようなものであろうかと、想像するのに必死になった。」とある後半の段落の此れは、
そのままポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』や『ハンス・プファアルの無類の冒険』
を思はせます。

『仮説の文学』と『ぼくのSF観』に[註6]、安部公房が「仮説を設定することによって、日
常のもつ安定の仮面をはぎとり、現実をあたらしい照明でてらし出す反逆と挑戦の文学伝統
の、今日的表現にほかならない」仮説の文学伝統に則る文学だとして挙げてゐるSF小説は、
次のものです。

ルキアノス「本当の話」
「竹取物語」
呉承恩「西遊記」

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ページ37

セルバンテス「ビイドロ博士」
スウィフト「ガリバー旅行記」
M・W・シェリー「フランケンシュタイン」
ポオ「ハンス・プファアルの無類の冒険」
メルヴィル「白鯨」
コローディ「ピノキオ」
キャロル「不思議の国のアリス」
スティーヴンソン「ジーキル博士とハイド氏」
ヴェルヌ「海底二万マイル」
ウェルズ「透明人間」
チャペック「人造人間」「山椒魚戦争」
アポリネール「オレノ・シュブラックの滅形」
幸田露伴「番茶会談」
内田百間「冥途」
シュペルヴィエル「ノアの方舟」
三島由紀夫「美しい星」
その他マーク・トウェイン、石川淳、花田清輝、安部公房の諸作品。

[註6]
『仮説の文学』(全集第15巻、238ページ下段)
『ぼくのSF観』(全集17巻、288ページ)

安部公房が上の二つのエッセイを書いたのは、それぞれ1961年と1963年。SF詩人荒
巻義雄が『大いなる正午』(『時の波提』改題)で登場するのが、1970年。安部公房全
集のSF小説に関するエッセイや評論の類の発表年 [註7]をざつと見ますと、1963年の
『ぼくのSF観』が直接SFとの関係で文学を論ずるのが最後で、そのあと1970年以降はSF
の文字が抜けて、演劇との関係で創造行為の一つとしての文学と小説を論じ、1980年代
は言語との関係でやはり創造行為としての小説論になつてゐます。これは、1970年代の
安部公房スタジオの活動との関係で、また1980年代以降のより一層の言語とクレオール
語とチョムスキーと、そして其のやうな言語への関心との関係で語られる国家と分子生物学
への関心との関係で理解することができます。さうすると、1963年以降1970年まで
の間の期間は、一般的な小説論はなく、個別の作品についての機会的な発言といふことにな
る。二人は行き違つたことになります。さうして、全集第30巻の「作品目録」を見ますと、
小説論を積極的に語ることのない1970年代と1980年代には一貫して、『箱男』(1
973年)以来の写真に関心を集中させてゐることが判ります。

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ページ38

荒巻義雄氏曰く、1980年代に安部公房が札幌に来てゐて、小樽の荒巻山にある採石場を
見るために自分に会ひたい言つてきたとのことですから、これは間違ひなく『方舟さくら丸』
(1984年)のための取材であつたでせうから、同氏が小学生時代に遊び場にしてゐた此
の採石場を介して二人が出会つてゐたら、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』の世
界ではありませんが、日本列島の上ではSF文学が純文学を凌駕して、日本の文学史が一変し
てゐたかも知れないと想像すると、SF詩人である二人が会へなかつたことは残念です。もし
会つてゐたら、そしてもつと前に会つてゐたら、安部公房の1970年代以降の作品に異変
が生じてゐたかも知れない。『箱男 』『密会 』『方舟さくら丸 』『カンガルー・ノート 』
の異次元が出現してゐたことでせう。

以上、SF小説論を基準にして上の段落で得たところを、次の図表にしましたので、掲げます。
この図表は随分と色々なことを語つてくれてゐます。図表の後に文字でまとめました。

(1)1950年代、安部公房は日本共産党員でありました。この期間にはSF小説を集中的に論
じた。何故か?これは下記(6)と裏腹の関係にあると考へる事ができる。
(2)1960年代の日本の高度経済成長の時代には、安部公房はSF小説を論じてゐない。何故
か?自分の仮説が実現したからなのか?これも下記(6)の文学論と裏腹の関係にあると考へる
事ができる。
(3)1960年代に、安部公房は自ら「失踪三部作」と呼ぶ前期20年中後半10年の代表作
を書いてゐる。何故か?三人称小説→一人称小説→一人称小説といふ変遷がある。
(4)安部公房スタジオの開始と同時に、小説『箱男』を含み、写真への関心が強まってゐて、
最晩年まで此の関心は継続する。何故か?答へ:既に『もぐら感覚3:窓』(もぐら通信第4
号)で論じたやうに、写真への関心は詩への関心であり、10代のリルケと自分の詩の世界への
回帰である。従ひ、
(5)安部公房スタジオの活動は、安部公房が変形させ、別の位相に転移させた詩の世界、即ち
存在の世界である。存在の世界を現出せしめるための演技論の中核概念が「ニュートラル」であ

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もぐら通信
る。「ニュートラル」とは役者が存在になることである。[註7]金山時夫のやうに。

ページ39
(6)上の図表で、1950年代の言語論が破線になつてゐるのは、直接に言語を論ずるといふ
よりも、日本共産党員になつて現実の変革との関係での安部公房の悪戦苦闘が、安部公房の言語
に関する関心と言語の観点からなされてゐたからです。その次第は、『安部公房と共産主義』(も
ぐら通信第29号)に詳述した通りですし、言語への深い関心に拠る論考があります。[註8]
(7)1960年代の日本の高度経済成長の時代の10年間には、言語論は影をひそめるが、1
970年代に入つて安部公房スタジオといふ形で詩への回帰を行ひ、この総合的な詩的演劇活動
の終焉した後の1980年代から再び積極的に表立つて言語への関心が復活する。何故か?
(8)上記(7)の期間の間の1960∼1970年代の20年間、安部公房は引き続き「映画、
戯曲、TV・ラジオドラマのシナリオ」を書くが、これは安部公房独自の内省的・独白的な話法で
ある「僕の中の「僕」」といふ話法による領域の活動、即ち私が「B系統の作品」[註9]と名付
けた系統の作品群である。これらのシナリオのうち、1950年代から顕著に1960年代初ま
で、日本共産党員でありながら安部公房は自分の詩心を救ふために『S・カルマ氏の犯罪』の原点
に戻つて子供向けのシュールレアリスティックな台本をラジオドラマ向けに複数書いてゐることは、
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)に詳述した通りです。[註10]
(9)上記(3)に倣つて、後期20年の作品の人称を追ふと、『箱男』『密会』『方舟さくら
丸』『カンガルー・ノート』は、メタSF一人称(同一「箱男」内複数人格一人称)→一人称→一
人称→一人称といふ事になる。結局、安部公房の創作上の苦心は、三人称と一人称の使ひ方とい
ふ事になるのではないか。『S・カルマ氏の犯罪』の結末で三人称に代はつて、壁になる話者が一
人称で登場するやうに。安部公房の好む手紙体または書簡体と「僕の中の「僕」」といふ内省的・
独白的・再帰的話法とA系統・B系統の関係を『詩人から小説家に、詩人のままに』のチャート図
[https://ja.scribd.com/document/348350137/詩人から小説家へ-v9]を眺めると、その回答を
得る事ができる。これは課題として稿を改めて論じます。

[註7]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2)』(もぐら通信第57号)の「III 「転身」とい
ふ語のある詩を読む(「①詩の世界での問題下降」期の詩)」の「2。2 安部公房はリルケから何を独自に学んだ
か」の[註10]より引用してお話しします。

「[註10]
「贋月報」(安部公房全集第24巻)に安部公房スタジオの俳優であつた佐藤正文が、稽古場で安部公房の口にした
愛といふ言葉について、その驚きを次のやうに回想してしてゐる。後期20年の安部公房が、リルケの詩の世界と自
己の詩の世界への回帰だといふことの、これは証言といふ事がいへるでせう。そして、ここで安部公房が若い役者た
ちに伝へたかつた愛とは、存在と別離と自らの死と、即ち「転身」の事なのであること、これは存在の十字路にあつ
て初めて愛は現実のものとなるのだ、この十字路に存在する事が、ニュートラルといふ言葉の意味なのだ。と伝へよ
うとしたのだといふ事が、よく解ります。

「 稽古の前の話でとくに印象に残っているのはね、最後は愛なんだっていう話になったことがあったんです。なに
かどうしても解決できないことがあって、どうしたらこれが解決できるだろうか、乗り越えられるだろうか、ってい
う時に、何だと思う、しつこくみんなに聞いて、わかんない、なにも答えがでなくって。愛なんだよって。あのとき
はびっくりしたな。理詰めにだーっと分析していってね。で、これどうするって話じゃないですか。突然これ解決す
るのは愛なんだって。愛しかないんだって。それから、付け足したんです。でも、最後は愛しかないんだよ、ってい
うふうに言うと、既成のある小説家の名前を挙げて、それと一緒にされるからけっして言わないけどね、って。それ
から覚えているのは、二十一世紀の大きなテーマとして弱者の救済っていうのがあったはずなのに、って。弱者の救
済、弱者への愛っていうのがテーマだって。そんな話をしてからですよね。「仔象は死んだ」をやったのは。」

もぐら通信

もぐら通信                         

ページ40

「 稽古の前の話でとくに印象に残っているのはね、最後は愛なんだっていう話になったことがあったんです。なに
かどうしても解決できないことがあって、どうしたらこれが解決できるだろうか、乗り越えられるだろうか、ってい
う時に、何だと思う、しつこくみんなに聞いて、わかんない、なにも答えがでなくって。愛なんだよって。あのとき
はびっくりしたな。理詰めにだーっと分析していってね。で、これどうするって話じゃないですか。突然これ解決す
るのは愛なんだって。愛しかないんだって。それから、付け足したんです。でも、最後は愛しかないんだよ、ってい
うふうに言うと、既成のある小説家の名前を挙げて、それと一緒にされるからけっして言わないけどね、って。それ
から覚えているのは、二十一世紀の大きなテーマとして弱者の救済っていうのがあったはずなのに、って。弱者の救
済、弱者への愛っていうのがテーマだって。そんな話をしてからですよね。「仔象は死んだ」をやったのは。」

さうして、ここで安部公房の語つた弱者の救済の弱者とは、例を挙げれば『没我の地平』の「主観と客観」の詩にあ
る「木の間 木の間」に蹲る、人知られずに無償の人生を存在の中で生きる何者か、時間的・空間的な差異(十字路)
に存在する無名の人間のことをいつてゐるのです。即ち「既成のある小説家」が恐らくは書いてゐたやうな通俗的な
弱者などでは全然ないのです。『仔象は死んだ』といふ戯曲は、やはり安部公房の理解をして自家薬籠中のものとし
たリルケが姿を変へて、存在の舞台として現れてゐるのです。」

[註8]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用します。

「何故安部公房は日本共産党に入党したのでしょうか。1950年代の文章を読むと、日本共産党の党員になった動
機と目的は、次の4つが挙げられます。

(1)典型的な人間としての詩人の意識と無意識の個人の在り方を、社会と人間の抑圧と被抑圧の関係にまで拡張し
て考えたこと。
『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)で確立した人間の典型としての詩人の意識と無意識の
境域に在るその意識・無意識の在り方を、社会と人間の抑圧と被抑圧の関係にまで拡張して考えたこと。『シュール
レアリスム批判』(全集第2巻、260ページ)と、もぐら通信第15号の『安部公房の変形能力14:シュールレ
アリズム』を参照下さい。

(2)生という混沌たる現実の背後に法則を見つけようとしたこと。
『文学における理論と実践』(全集第4巻、314ページ。1954年6月30日)

(3)言語の観点から、文学における理論と実践の統合を考えた事
『文学における理論と実践』(全集第4巻、314ページ。1954年6月30日)。これは、(2)と表裏一体の
関係にあります。

大変興味深いことは、このエッセイで、この時点でマルクス主義に決別することを考え、同時にそのことに迷い、悩
みながら書いた『文学における理論と実践』で引用するレーニンとマルクスとスターリンの言葉は、みな言語に関す
るものであり、言語の観点からのものであることからも、安部公房は、共産党に対しても、その言語観の証明と実現
のために接近し、急激に左傾化して、その党員となったということが判ります。

同じ考え、すなわち言語の側から考えるということは、『文学理論の確立のために』でも述べられています(全集第
3巻、229ページ、1952年6月10日)。

(4)日本の国に、言語の側から、革命を起こしたいと思ったこと
『〈人物カルテ〉『社会新報』の談話記事』(全集第15巻、480ページ、1962年3月11日)。また、『偶
然の神話から歴史への復帰』(全集第2巻、337ページ。1950年8月)参照。

もぐら通信

もぐら通信                         

ページ41

池田龍雄の『詩的発明家---安部公房』(『安部公房を語る』、あさひかわ社、144ページ)によれば、安部公房は、
この言語の側からの革命のシナリオを思い描き、革命が1957年に起きると本気で、そう考え、思い込んでおりま
した。[註23]安部公房がこのことを池田龍雄に暗い小声で話したのは、間違いなく1955年2月25日以前の
時点です。

つまり、以上4つのことを一言で言うと、言語の観点から現実を捉えようとしたということ、そして自分の言語観の
正しさを現実の時代の中で実践的に証明しようとしたこと、そして、その正しさによって革命、即ち日本人の意識の
根本的な変革を起こすことによって現実を実際に根本から変革しようとしたことが、安部公房入党の動機です。大事
なことは、徹頭徹尾、それが言語の観点からなされたということです。これは、共産党員であった時代にも、終始変
わらぬ、10代からの安部公房の姿です。」

[註9]
A系統とB系統については、『VI 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界
での問題下降」後の小説)」(もぐら通信(第59号))に詳述しましたので、お読みください。

[註10]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用します。

「あれほど、リルケを読み、ニーチェを読み耽って、用心に用心を重ね、慎重に慎重を期して、またリルケとニー
チェに倣って、生と自己と言葉と若さに対して、最も遠い距離を維持していたにもかかわらず、その距離を一挙に失っ
て、即ち我を忘れてしまって、感動ではなく、現実に触れて感激するだけの安部公房が、ここにはいます。これでは、
何かを言語を以って創造することは、詩においても小説においても、できません。

実際に、1953年は『R62号の発明』という短編小説以外の小説を書いておりません。しかし、『壁あつき部屋』
という映画のシナリオを書いていて、ドラマ(drama)を構築するということが、当時の安部公房のこころを救って
いたということを想像することができます。全集を読みますと、この日本共産党員であった時期の前半の5年間は勿
論ですが(戯曲『制服』『奴隷狩り』等)、しかし特に後半の5年間は、その量の多さから言って、戯曲(『幽霊は
ここにいる』等)と、それからラジオ・ドラマ(『棒になった男』や子供向けの『キッチュ・クッ
チュ・ケッチュ』等)やTVドラマ(『日本の日蝕』等)という、即ちシナリオ(drama)を執筆するということが、
やはり安部公房のこころを救っていたのです。[註6]

([註6]を略す)

さて、これら二つの作品以外には、『少女と魚』という戯曲があり、この三作だけが、この歳の成果ということにな
ります。『少女と魚』は、シュールレアリズムの作品で、1955年以降安部公房が手を染める児童向けラジオドラ
マをここで既に先取りしております。

この無残な歳の成果をまとめますと、次のようになります。勿論、これらの作品が無残なのではありません。これら
の作品を構築する本来の安部公房の言葉と、現実に対したときの安部公房の言葉が、かくも分裂しているということ
が、安部公房の苦しみの原因であり、その藝術活動を貧しくした原因なのです。

(1)小説:『R62号の発明』。SF小説、即ち仮設設定の文学、自分独自の小説観に基づいた小説
(2)映画のシナリオ:『壁あつき部屋』
(3)シュールレアリズムの戯曲:『少女と魚』。『壁』以来のルイス・キャロルに学んだ、言葉の意味を捨象した
non-senseの文体の継続的な維持

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もぐら通信

42
安部公房は、この最も苦しい1年の間にも、自分にとって大切な、この3つの領域は死守したのです。[註7]

ページ

([註7]を略す)」

上記(9)については、この論考の主題のSF用語を使へば、メタSF一人称(同一「箱男」内複数
人格一人称)[註11]といふ発想は、小説にあつては既に1959年の『デンドロカカリヤA』
(雑誌「表現版)には「断層面」として(全集第2間、236ページ下段)、1952年の『デ
ンドロカカリヤB』(書肆ユリイカ版)には「複雑なカットグラス」として(全集第3間、354
ページ下段)出てくるものです。更に同じ1952年の作品『イソップの裁判』には「イソップ」
といふ名前の元にある複数の人格の異なるイソップたちの総称としてのイソップが語られてゐて、
その一人であるプリトリスが9番目のイソップとして、プリトリスの同盟者のアニウスが10番目
のイソップとして処刑される。『箱男』の発想と同じです。「箱男」といふ人間の名前も、「イ
ソップ」と同様の性格を備へてゐるといふわけです。安部公房のメタSFの論理は初期から最晩年
まで首尾一貫して変はらない。

その他詩も含めると、1948年には、資料の上では早くも此の発想と論理がある。次の作品に
傷口、傾斜、断面と呼ばれて、同じく時間の断面や断層に、即ち一次元の時間の切り口に層をな
して、恰も地層がさうであるやうに、複数の層にある複数の自分が再帰的に映る事が書かれてゐ
る。

1。詩『夜のうた』(1948年12月17日):全集第2巻、188ページ:傷口
2。小説『悪魔ドゥべモウ』(1948年3月25日以降):全集第1巻、420ページ上段:
傾斜
3。小説『壁の変貌』(1951.10.20:全集第3巻、89ページ上段):断面

勿論、この起源は遅くとも(それまで思弁したことを文字にしてまとめた)20歳の論文『詩と
詩人(意識と無意識)』に論理的に安部公房の文学の方法論と方法が明らかにされてゐる。

(上掲図よりここまでの文章は次のURLにてダウンロードすることができる:https://
ja.scribd.com/document/351505353/SF小説論と安部公房の関係)

同じSF詩人荒巻義雄の第一詩集『骸骨半島』の「ウォール」の最初の一行は次のやうに始まる。

「傾くは地層の無意識
 鋭く北に
 対峙して黒々……」

ウォール(壁)といひ、地層といひ、安部公房と同じ用語と形象(イメージ)を持つ此の詩につ
いては、安部公房の詩や小説を参照しつつ、稿を改めて論じます。

[註11]
『箱男』が四次元小説である理由は、『『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く∼』(もぐら通信第34号)
にて詳細に論じましたので、これをご覧ください。

もぐら通信

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ページ 43

安部公房の札幌文学への批判

岩田英哉

1954年に、安部公房は、札幌文学会か

らの同人誌または会誌を寄贈されて、次の

文学観を述べてゐる。

その一部を後で引用する札幌文学の編集後

記に、おそらくは北海道に文学の根拠を置

いた文学の是非について編集子が書き、地

域性と自分たちの文学への思ひが書かれて

ゐたのではないかと思はれる。それを強い

     調子で肯定するといふ同学会の   

     志向について思ふところを述

     べた安部公房の回答は次の

やうなものである。

「一、特殊性の中にほうがんさ

れない普遍性はない。同時に、

普遍性につらぬかれない特殊は

存在しない。眞実はその統一の

発見にあると思う。しかし私は、

地方という言葉を、風土的にと

らえることは反対だ。あくまで、

社会的に、地方的なものを否定

するための強い批判の場所とし

てのその地方でありたいと思う。

もぐら通信

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44

ページ

二、「おれたちは、おれたちで、すきなことをやっているのだ。」というような後記の書い

てある同人誌ほど馬鹿げたものはない。批判精神のない、思想のない同人誌はあってもいい

が、なくてもいい。札幌文学には、期待しています。」

実際に「札幌文学」の最新号には、「おれたちは、おれたちで、すきなことをやっているの

だ。」と編集後記に書いてあつたのでせう。好き嫌いで文学活動ができるかといふと、それ

はできない。詩を書き小説を書くにせよ、言葉の選択には深い思索と高い論理性が要求され

ますから、最初の「一、」で、安部公房は地方性を脱却して普遍性に、普遍性が余りに一般

化し過ぎぬように地方の特殊性を、それぞれの関係にあつて双方が生きるような均衡(バラ

ンス)の取れた文学の創造を伝へたものと思はれます。ここにも普遍性でもなく、特殊性で

もなく、自己を其の計算の中に入れて、限りない「転身」の末に至り自己の反照として観る

べき第三の客観を求め、そこで遂には自分自身が存在自体になるといふ、身を捨ててこそ成

る、命懸けの批評精神を伝へたかつた。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

「特殊性の中にほうがんされない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存

在しない」とは、内部と外部を交換し、その境界域の両義性に身を没して自己を生かす

topologyの考へ方です。これは、単なる言葉の意味と位相幾何学的な問題だけなのではなく、

歴史が其のやうに展開し、人間に働きかけるものだからです。歴史の根本的な変化は、言語

(logos)の観点からみると、いつも次のやうに動きます。安部公房は当然このロゴスの働

きを知つてゐたのです。宇宙は単純にできてゐる。小学生の安部公房の知つてゐた「奉天の

窓」です。Aをあなただと思つて見ませう。すると、→は、次の次元へのあなたの失踪を意

味するといふことになります。Bをあなただと思つてみませう、「あなたそつくり」の、し

かし、異次元での、また別の人生がある。といふことになります。あなたは何処にゐるの

か?

歴史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係

もぐら通信

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ページ 45

『関東文芸同人誌交流会の掲示板』(http://9301.teacup.com/douzinnnzassi/bbs/1518)

に「安部公房の北海道文学への批判・・・証拠になる葉書が残っている」とあり、 「投稿

者:根保孝栄・石塚邦男 投稿日:2015年 1月23日(金)23時27分59秒」によれば「北海道新

聞」の2014年12月25日に、「道立文学館の宝物」として連載されている記事に「安

部公房のはがき」と題して同館専務理事の谷口孝男氏が概略以下のことを書いているとのこ

とを知つたのでお伝へします。

「昭和54年11月、安部公房から札幌の同人雑誌「札幌文学」に葉書が届いた。できたば

かりの札幌文学を安部公房に寄贈したところ、受領の葉書が届いた。札幌文学は地域に根ざ

した文学を日頃主張し、北海道文学のあり方を模索する立場であったのだが、安部公房はこ

れに反発する立場。葉書には次のように反論していた。」と冒頭あつて、上記に示した内容

の文面となつてゐる。

投稿者の根保孝栄・石塚邦男氏は同一人物、もと苫小牧新報の記者です。上の掲示板を見ま

すと、同人誌に関しての、今も活発に批評活動をなさつてゐます。

また、安部公房は後年1985年、61歳になつても首尾一貫して『子午線上の綱渡り』と

題したコリーヌ・プレのインタビューで次のように、同じ文学観を日本文学と世界文学に関

する自分自身の位置として語っています。(全集第28巻、104∼105ページ)。

「―― 安部さんは処女作『終りし道の標べに』から、すでに日本の伝統を拒絶しているよ

うに見えます。日本、もしくは世界文学の流れのなかで、自作をどのように位置づけている

のですか?

 安部 その返事も誰か他人に任せましょう。僕も解答をぜひ聞かせてほしい。ただ言える

ことは、僕は日本語でしか考えることが出来ないということ。日本のなかで、日本語で考え、

日本語で書いている。しかし日本以外にも読者がいるということは、現代が地域性を超えて、

同時代化しているせいではないか。その点、言語の特殊性と普遍性についてのチョムスキー

の考え方に同意せざるを得ません。すべての個別文法の底に、遺伝子レベルの深さで地下水

のように普遍文法が流れているという考え方です。僕が拒絶したのは日本の伝統ではなく、

あらゆる地域主義的な思想の現象に対してなのです。」

(全集第28巻、104∼105ページ)。

この考へ方と、上掲の『歴史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係』図は、後日

『安部公房の逆進化論』を論ずる際に再び登場することでせう。

もぐら通信

もぐら通信                         

ページ46

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む

(3)

ウォール

岩田英哉

この『ウォール』といふ詩は、安部公房と此のSF詩人の、いや最初の『世界接触部品』を

書いて以来幾つもの小説を読んでゐるのでかう呼ぶのが最もふさはしいとおもはれるが、宇

宙人といふやうな具合にSF人と呼ぶと其のSF人の、安部公房と共有する題名と用語で始ま

る此の壁を歌つた詩の第一連を引用して、「ウォール」論を書く事にする。

このSF人の最初の長編『白き日旅立てば不死』は昭和47年12月31日、西暦1972

年、安部公房が『箱男』を出し、安部公房スタジを発足させて目立つてリルケと自分の詩の

世界へ回帰する年の前年です。この小説の題名を構成する3つの言葉が、この詩人の、そし

て小説の、そしてまた詩の、姿を既に言ひ表してをります。最初の長編を1992年に再々

度出版するに当たり書いた自筆の解説に次のやうに書いてゐます。作家としての出発が19

70年、この文章を書いた20年後に、安部公房の死のこれもまた前年に、既にかう書いて

ゐる。

「作家は経験を積み、知識を増やすことにより熟練していくが、失うものも多い。何かとい

えば、第一に感性である。作家生活を送ることの慣れが、文体の瑞々しさを失わせる。人は

齢を重ねることによって、世の中に馴染み、それなりの居心地のいい場所を得るものだが、

これが作家の仕事に限らず、創造行為にとっては最大の敵なのであろう。

 むろん、わかってはいた。承知はしていた。多くの前例があったから。自分なりに警戒し

ていたから、できるだけ〈中心〉から離れようとしていた。しかし、たとえ離れていても、

書くことによって作家は書くことそれ自体に慣れる。これが怖い。初心に返らなければと思

うものの、周囲の環境がそれを許してくれない。矛盾である。

 今になって気付いたのだが、『白き日旅立てば不死』の中心テーマは、この〈外縁の魂〉

だったと思う。社会の中心界の縁、つまり境界の外にいる者のことを、概念化して社会心理

学は、アウトサイダーと呼ぶ。コリン・ウイルソンの著書『アウトサイダー』も、この心理

学のタームから取られているのだ。

 辺境人と訳されている。国境の近くに住む者たちということいなるだろうか。」(『定本

荒巻義雄メタSF全集 第3巻 白きひ旅立てば不死』の「解説 漂白する魂の記録」363∼

364ページ)

これから本論に入るに当たり先に少し此の詩人の割り当てた記号の意味について述べると、

著者が〈〉といふ記号を使ひ〈中心〉と書き〈外縁の魂〉と書くときには、中心ではなく外

縁の魂ではなく、この世と非連続的に連続し、また連続的に非連続してゐる別の次元の〈中

もぐら通信

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ページ47

心〉であり、そこからみて云ふ現実と人が盲目的に信じてゐる世界の中心ではない〈中心〉

のことであり、この詩人の魂が既に其処にある時には、其処にあるが故に〈中心〉と書くの

であり、そのやうな魂を〈外縁の魂〉と書くのです。これが解説の題名の「漂白する魂の記

録」といふ言葉の意味なのです。そして作者は同じ記号を使つて次のやうに書いてゐる。

主人公の白樹は「遠藤というSF作家に出会うことによって、世界そのものの持つメビウス的

二重構造に気付き、ついに〈異界〉の存在を容認するのだ。

 物語のプロットはざっと右のとおりだが、重要なのはやはり〈気分〉であろう。作品世界

に漂っている空気のような者だ。『白き日……』の世界は白い。ブラウン管の向こうに見え

る景色のように透明である。ではなぜ白なのか。黒の反対概念として白が必要だったからか。

なぜ透明なのか。世界の汚辱性の反対概念として必要だったからか。この作品は、さまざま

な象徴記号によって構成されており、その記号の意味と解法は、作者だけの解読表に委ねら

れる。」とするならば、作者の解読表の復元こそが、読者のなすべきことといふことになる。

この詩人は安部公房の余白と沈黙の透明な白を共有してゐる。そして、この解説の最後にか

う書くのです。

「そして、諸権力の支配する現世より離脱して、魂は〈異界〉を目指すのだ。もはや生も死

もない世界の相。その世界相は、生死連続体である。すべてが脱色されたような不死世界へ

と魂は旅立つのだ。多分そこにも、救済の一つのあり方があると思うから……。」(同巻3

68∼369ページ)

この言葉の意味するところは、詩集の最後に置かれた詩『世界接触部品』の最後の連の、

「われらは定住者の帝国主義者ではない

 われらは世界を横断する者

 熟語の駿馬にまたがる主語は 境界面を浸透する」

とあるところに従へば、現世は、脱色ではなく着色された生と死の世界に定住する者たちの

住む世界であり、この定住する国を此の詩で帝国と呼び、対して最初に置かれた詩『老人と

飛行士』で老人のいふ「この土地は全部おれのものだ」と飛行士に向かつていふ土地とは〈土

地〉であり〈異界〉であり、現世に対しては実は〈外縁の魂〉の住む外縁であり、やはり「熟

語の駿馬にまたがる主語」が「浸透する」「境界面」といふ「生死連続体」の、辺境人の棲

む宇宙の実は〈中心〉なのだ。さあ、そして第一連は次のやうに始まる。

「傾くは地層の無意識

 鋭く北に

 対峙して黒々……」

もぐら通信

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ページ48

三行目の「地層の無意識」が白ではなく「対峙して黒々」であるのは、このウォールと呼ば

れる、ローマ帝国の築いた境界線を示す防御壁は、領土拡張のためにローマ軍がブリテン島

に上陸してケルト民族と戦つた時の軍事防衛線として北に対峙するものであり、北といふ以

上それは霊獣玄武を意味し、北の方角の色彩は黒であるから、また確かにヒースの丘陵は曇

天といふ天の低い時には黒々として見えたのかも知れないと想像をする。

「黒々……」とある記号「……」は、安部公房ならば「僕の中の「僕」」に独白的・内省的・

再帰的な対話の中に思考が落ちて行くことを示して、いや暗示して、ゐますが、この詩人の

場合にも此のことは当て嵌まります、しかしもつと表に、内にではなく外に向かつて、外部

と内部とこれらの接続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人公の思ふ永遠、即

ち〈異界〉への思ひの、無意識の地層または「地層の無意識」からの湧出を明示的に且つ暗

示的に、この記号は示すのです。

この意識の地表に湧き出た無意識は、現世では、しかも此の帝国と戦つた最初から多次元的

な「地層」に存在する「無意識」にとつては、白ではなく黒い色を帯びて現世の意識となり、

帝国の行つた殺戮に対する悲憤慷慨の感情を歌ふことになる。

第一連の最後の黒い色の「……」は、最後の連の最初では、

「傾くは地層の無意識……」

と歌はれて、外部と内部とこれらの接続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人

公の思ふ永遠、即ち〈異界〉への思ひの無意識の地層または「地層の無意識」へと回帰して

行く。さう、帝国の領土なのではない、そこを宇宙船に乗つて「カルナック航法」によつて

遥か彼方のあの惑星のあの土地へ、老人の住む辺境の「北極圏の荒波と風が/気まぐれな贈

り物を渚に打ち寄せさせる」(現世の生者から見たらほとんど死に等しい)あの土地へと帰

還するのだ。北とはそのやうな方角であり、そのやうな方角に存在する土地である。最後の

連の此の象徴的記号「……」の後に、次の四行が続いて詩は(見かけ上)終はる。

「「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」

 と、草むらの髑髏が言い放ち 虚空を見つめる

 虚空の眼(まなこ)

 「おれの心に近づくな」と――」

地層は時間のまとまりある幾つもの層を持つてゐる断面である。そして垂直の崖もあらうが、

眼にすることのできる地層の壁(ウォール)は大体が傾き傾斜してゐるだらう。この「連な

る塁壁(ローマン・ウォール)を敢へて地層の無意識ととるならば、そのやうな「地層の無

意識」である。ここは、辺境人と戦ふために、

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ページ49
「かつて軍団は ここに留まり
 彼らの旗
 帝国の平和」

を実現しようとして心ならずも、「熟語の駿馬にまたがる主語」である辺境人による「境界
面を浸透する」力に負けて遂には防御線を築かざるを得ず、できた壁である。それ故に、こ
の荒涼たる景色は、

「連なる塁壁(ローマン・ウォール)
 意識は吹き払われ 剥き出されるヒースの荒野
 吹き渡る風 蛮族の恨みと化し
 たれ込めし暗雲の冷たく湿り気を帯び 風すら剣となり
 血の匂いを運ぶ 黒い丘の国」

と第二連で歌はれる。この壁の立つ丘の国は黒い。ローマは帝国であるが故に「帝国の平
和」の名前、

「その名は パクス・ロマーナ
 ブリタニアの屍の丘と化し
 王妃は犯され
 王女らは弄ばれ
 王の首は平和の証
 世界の富は彼らの都に
 すべての道は彼らの都に」

略奪され、運ばれて行つた。王族の処刑の様は繰り返しとなつて、そのまま呪文となり、死
者の霊を慰めるかのやうに聞こえる。

しかし私は「傾くは地層の無意識……」の「……」の象徴的な記号の、辺境の、〈異界〉の
住人である此の詩人は、こんな詩行を書いて満足するつもりなど毛頭ない。「おれはこの荒
涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはない」のだ。

この科白は死んだ兵士の髑髏の発する言葉です。

「と、草むらの髑髏(どくろ)が言ひ放ち 虚空を見つめる」

「傾くは地層の無意識……」の後は、その世界は〈異界〉になるので、髑髏もまた生きてゐ
る。何故ならば、この象徴的記号は、内にではなく外に向かつて、外部と内部とこれらの接
続と、そして此の接続関係にあつて作者と話者と主人公の思ふ永遠が語られるからである。

これが、

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ページ50
「虚空の眼」

であり、髑髏といふよりは、この「虚空の眼」が「言ひ放つ」と言つても良いのである。こ
こは〈異界〉であり、帝国の侵略できぬ辺境である、塁壁はあり、ここから先は白い世界で
あるからには、お前たち「定住者の帝国主義者」たちよ、お前たちの住むべき土地ではない、
さつさと帰るがよい、この土地は私の〈外縁の魂〉の住む北極圏である、「おれの心に近づ
くな――」と。

そのやうに時間の中の現実にあつて〈異界〉を見ることのできる「虚空の眼」。この眼の虚
ろな眼窩は「不思議な襞/襞によって創られる空間は 果たして/外部でしょうか。/内部でしょ
うか。/細長ければそれは溝/溝が縮まれば穴/位相学的には同じもの」「さあ、白い大きな
布を広げなさい」「広げた布をぐちゃぐちゃにすれば/突起が/窪みが/現れる」からです。こ
れが「〈世界〉の秘密を解き明かす試み」

あなたも「さあ、白い大きな布を広げなさい」。

しかし、このtopologicalに真つ白な「秘密のカタログ」を手にしてゐないものは、「おれ
の心に近づくな――」。

この詩人は骸骨の「虚空の眼」で観て何かの本質を語らうとするときにこの長い棒線を象徴
的に使ふやうに見えます。一つ一つの詩を読みながら、長い点線同様に、この象徴記号を深
く味はい、読み解きたい。

最後に付言すれば、最後の連の「傾くは地層の無意識……」といふ多次元的な、現世と連続
的な非連続の、また非連続的な連続の接続関係にある永遠の〈異界〉に向かつて、また「既
にして」ゐる〈異界〉の中で「おれはこの荒涼たる景色を一編の詩に閉じこめるつもりはな
い」と「言い放ち 虚空をみつめる」「草むらの髑髏」の時間論は、15番めの詩『アイン
シュタイン・タンゴ』の第一連に登場する、

「馬車の時代が終わり 初めて目撃した車窓の景色
 人が速度というものを初めて経験したとき
 一人の少年が奇妙な観念にとりつつかれた」

と歌はれる少年こそ、この草むらに死者として現実の世界では物質的に横たわつてゐる此の
髑髏なのです。私たちは此の世に生まれてきた初心をすつかり忘れてゐるので、時間の本質
について生まれる前に既に知つてゐたことを忘れてしまつてゐるのです。このSF人の時間論
はまた此の作品にて論じます。無意識の地層が断面であれば、そのまま安部公房の世界に通
じてゐますから。何故あなたは安部公房の読者であるのか?

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リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む

(7)

∼安部公房をより深く理解するために∼

岩田英哉

VII

RÜHMEN, das ists! Ein zum Rühmen Bestellter,

ging er hervor wie das Erz aus des Steins

Schweigen. Sein Herz, o vergängliche Kelter

eines den Menschen unendlichen Weins.

Nie versagt ihm die Stimme am Staube,

wenn ihn das göttliche Beispiel ergreift.

Alles wird Weinberg, alles wird Traube,

in seinem fühlenden Süden gereift.

Nicht in den Grüften der Könige Moder

straft ihm die Rühmung lügen, oder

daß von den Göttern ein Schatten fällt.

Er ist einer der bleibenden Boten,

der noch weit in die Türen der Toten

Schalen mit rühmlichen Früchten hält.

【散文訳】

賞賛すること、これだ。賞賛するように決められている者、
オルフェウスは、石の沈黙の中から生まれる鉱石のように、
現れた。オルフェウスのこころは、ああ、人間たちにとっては
果てしない葡萄酒の圧搾機、過ぎ行く圧搾機だ。

神的な例がオルフェウスを捕まえるならば、その度に、
塵芥(ちりあくた)に接していても(触れていても)、

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声は、オルフェウスのいうことをきかないということはない。
オルフェウスの感じている南の地で熟成して、
すべては、葡萄の山となり、全ては葡萄の房となる。

腐敗の王たちの墓穴の中では、賞賛することが嘘であるといって
オルフェウスを責め、罰することはないし、また
神々から一つの影が落ちて来るからという理由で、
オルフェウスを罰することはないのだ。

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、
もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を
手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

【解釈】

一体このソネットは何を歌っているのだろうか。

前のソネットの最後の行の賞賛という言葉を受けて、ソネットVは、賞賛という言葉から始まり
ます。

第1連の

オルフェウスのこころは、ああ、人間たちにとっては
果てしない葡萄酒の圧搾機、過ぎ行く圧搾機だ。

という文は、オルフェウスは、ものごとのエッセンスを抽出するといっているのでしょう。それ
も、第2連を読むと、どうもオルフェウスは、塵芥であろうと、オルフェウスの歌う声に触れれ
ば、葡萄の山になり、葡萄の房になるようですから、それを圧搾機にかけて、葡萄のエッセン
ス、すなわち葡萄酒を搾り出す者が、オルフェウスだということになります。「過ぎ行く圧搾機
だ」とあるのは、オルフェウスが、既に見たように、変身してやまない、ここにはいない存在だ
からでしょう。

毎日葡萄酒が飲めるのならば、わたしはオルフェウスと一緒にいたい。しかし、それは無理なの
だな、やはり変身して、その場を次から次と転ずるからだ。それに、それでは、酒を味わう時間
がない。こうして考えてみても、オルフェウスは、無私の存在だということがわかる。変なわか
りかたかも知れないが。

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「腐敗の王たち」と訳した、この王様たちが、一体何者なのかが、今この文を書いているとき
に、わかりません。墓穴とあるので、いづれにせよ、生前は栄華を極め、死者となって今は墓の
中に横たわっているのでしょう。この詩から言って、この王たちは、死の世界で、裁きの権利を
持っているようです。

また、「神々から一つの影が落ちて来るからという理由」とは、何をいっているのでしょうか。
神々という、誤謬のない、煌々と輝いている世界の存在から影が落ちるということは、あり得
ないことの譬えなのでしょう。

最後の連は、

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、
もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を
手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

と歌われていますが、これは、何を歌っているのでしょうか。

やはりわかることは、オルフェウスは、何かの使者であって、それも留まる使者たちのひとりで
あるということです。留まる死者の留まる、bleiben、ブライベンという言葉は、悲歌にも出て
くる、リルケの好きな言葉のひとつです。この世の変化とは無縁に、いつまでも同じ場所にいる
という意味です。辞書には、そうは書いていませんが、リルケが独自に概念化した、リルケ好み
の言葉です。

使者とあると、悲歌の2番でも、青年は、人間の旅姿に身をやつした大天使とともに、戸口に立
ち、父親の代理として、いわば使者として、旅立つところでした。戸口は、旅立つということ、
そうして使者ということばと一緒にひとつの連想をなす、リルケの詩世界のことばなのだと思い
ます。

オルフェウスは、豊かな果物を盛った鉢を、あるいは皿を手にしている。そうして、死者たちの
家々の中、奥深くにまで入ってゆくことができるのです。この詩の文脈からいうと、オルフェウ
スは、賞賛するために、死者たちの戸口の奥深くへと入っていく、そのような不変の使者だとい
うことになります。賞賛すべき立派な果物を持って。

オルフェウスと死者たちの関係はどのようなものなのか、これは、もう少しソネットを読みなが
ら、考えてゆかなければなりません。悲歌のことを思い出すならば、オルフェウスは青年であり
ますから、それだけの理由で、死者とはとても親しい関係を有しているのだと思い当たります。
リルケの意識の中では、この組み合わせは、無理のない、自然なものなのです。

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54

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【安部公房の読者のためのコメント】

(1)第2連で、オルフェウスは、塵芥であろうと、オルフェウスの歌う声に触れれば、葡萄の
山になり、葡萄の房になるといふのは、安部公房のゴミ捨て場好みや、それを写した写真や、『箱
男』を見れば、安部公房も小説の主人公もまたオルフェウスだと考へることができる。箱男はオ
ルフェウスであると考へてみれば、確かに箱男は様々な箱男に変身する。

(2)最後の連で、オルフェウスは、何かの使者であって、それも留まる使者たちのひとりであ
るということは、『使者』といふ小説や『人間そっくり』といふ小説を思はせます。また、

(3)使者とあると戸口に立ち、戸口に立つとはいわば使者として、旅立つといふ事は、安部公
房の主人公たちが最後には皆、失踪するといふ事に通じてゐます。かうして見ると、

(4)論理を逆転させれば、安部公房の主人公たちはみな、使者であるといふことができる。
安部公房の主人公は皆「人間そつくり」である。『カンガルー・ノート』の冒頭の会話からい
へば、最初から真獣類ではなく有袋類である、KではなくK である。存在になるか既に最初から
存在である贋の何かである。だから、脛から或る日突然に(超越論的に)カイワレ大根が生え
てしまつてゐる。そして読者がページをめくると或る時突然に(超越論的に)失踪してしまつて
ゐる。

(4)リルケの悲歌2番では父親の代理として旅立つわけですが、安部公房の場合には、主人
公は不在の父親として旅立ち失踪するといふことがやはり陰陽は逆ですが、通じてゐます。即ち、
安部公房の作品の隠された主題の一つは、父親の不在であり、不在の父親であるといふことな
のです。
だから、安部公房の描く家族はみな、小説『闖入者』や戯曲『友達』に代表的なやうに、どの
作品に於いても、主人公は孤児であり、家族はみな曲馬団といふ疑似家族であり、砂の穴でも
さうであり、「他人の顔」の仮面を被つて妻に対して主人公はさうであり、「燃えつきた地図」
を手にして彷徨ふ探偵も妻に対してさうであり(別居離婚話中)、箱男についてはいふまでもな
く、「密会」の場所でも、探しても探しても永遠に妻に会ふ事はできず、「方舟さくら丸」のも
ぐらの選んだ乗組員も疑似家族を構成し、「カンガルー・ノート」といふ存在の帳面(ノート)
の中を彷徨う主人公もまたベッドの上の孤児である。さうして、安部公房スタジオもまた疑似家
族であつた。19歳の処女作『(霊媒の話より)題未定』のもぐらであるパー公の世界が安部
公房スタジオの世界であり、その舞台であつた。としてみれば、最後の小説『カンガルー・ノー
ト』の主人公の寝てゐるベッドといふ空間はサーカスの舞台に等しく、この空間以外で起きる事
件や出逢ふ人間たちはみな、この孤児のベッドの空間を反転させ陰画となした、即ち空間の内
部と外部を交換して生まれたサーカスの舞台の上で演じる藝人たちであるのかもしれない。カイ
ワレ大根を脛に生やした主人公は、1970年代に安部公房スタジオの稽古場で若い役者達の
演技を見つめてゐた安部公房自身だといふ事に、かうして考へて来ると、なります。

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55

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連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ

(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降

(3)存在の中での師、石川淳

(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち

(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房

の汎神論的存在論

(6)安部公房文学サーカス論

(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』

(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙

(9)言葉の眼12

(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)

(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)

(12)安部公房の作品論(作品別の論考)

(13)安部公房のエッセイを読む(1)

(14)安部公房の生け花論

(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める

(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門

(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼

(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼

(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼

(20)安部公房の詩を読む

(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学

(22)安部公房の書簡を読む

(23)安部公房の食卓

(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論

(26)安部公房全集未収録作品(2)

(27)安部公房と本居宣長の言語機能論

(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学

(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き

(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命

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ページ56

(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論

(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む

(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼

(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか

(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか

(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか

(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼

(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する

(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く

(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写

    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』

(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい

    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて

(42)安部公房の超越論

(43)安部公房とバロック哲学

    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum

    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論

    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異

    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異

    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法

(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)

(45)安部公房とバロック文学

(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」

(47)安部公房とパスカル・キャニール:二十世紀のバロック小説(1)

(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)

(49)『密会』論

(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論

(51)『方舟さくら丸』論

(52)『カンガルー・ノート』論

(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ

(54)言語とは何か II

(55)エピチャム語文法(初級篇)

(56)エピチャム語文法(中級篇)

(57)エピチャム語文法(上級篇)

(58)二十一世紀のバロック論

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【編集後記】

ページ

57
●表紙画像:映画シナリオ版の梗概『砂の女』は全くSF小説の出だしです。小説や映画と全く異なる。
或いはハリウッドで映画化する話でもあつたのでせうか。書いたのが1962年10月。全集第30
巻、99ページ。小説が6月ですから、安部公房の執筆意欲の旺盛なる事に驚く。主人公の名前はJ
になつてゐる。●「安部公房の写真」とは何か:論じたいとかねて思つてゐたことの最初を論じまし
た。安部公房の写真について論ずる写真の専門の読者がゐればと思ひます。第5号に『安部公房の写
真』をご寄稿して下さつたmarmotbabyさんなどに書いて戴けると嬉しい。勿論、どなたでも。●
安部公房文学メタSF論∼記号と文字のtopology∼:書きながら新しい発見が幾つもありました。や
はり世界の哲学史と文藝思潮の上での安部公房論が二十一世紀の安部公房論の主要な柱の一つになる
でせう。これは論中言及しましたやうに、メタSF文学の世界と軌を一にしてゐます。といふ事は、も
はや此の21世紀にあつては到頭、純文学とSF文学の垣根は消滅したといふ事を意味してゐます。も
ぐら通信がメタSFを論じ始めたことが其の証左です。日本文学は今こそ安部公房を必要としてゐる。
仮説設定の文学を。安部公房全集が一つのアイコンの下に全て収まつて電子書籍で出たなら、安部公
房研究が一挙に進展する。検索機能が凄まじいから。少し古典的に云へば、Twitterの愛読者の間で
は新潮社に対する怨嗟の声が満ち満ちてゐる。その裏の声は、いつも安部公房を携帯して一緒にゐた
いの、お願ひ。といふ声です。●札幌文学宛の安部公房の葉書:安部公房らしく若い時も晩年も変は
らぬtopologicalな安部公房です。世間の人はかういふでせう。安部公房は頑固だ。しかし文藝は様式
が全てです。この様式に対する厳格な遵守の超人的な意志は、三島由紀夫と双璧です。現実に決して
妥協しない。逆に現実を変形させてしまふ。この記事はSF批評家の、もぐら通信第59号の「私の本
棚」で論じた『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷ーSF・幻想文学・ゲーム論集』の著者岡和田晃
氏に此の葉書のこととこれに言及した掲示板のことを教へていただき生まれました。ここに同氏に謝
意を表し、お礼を申し上げます。●荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(3):「ウォール」:こ
のメタSF詩人は、本当に安部公房と共有するものが多い。シュールレアリズム、topology、存在の記
号、詩人である事、世界は差異であるといふ認識、北海道の生まれである事、地方性をではなく其れ
を超えた普遍性を求める事、仮説設定の文学、言語と哲学と心理学と精神医学に深い関心と造詣のあ
る事、等々。しかし何故かにかくに北海道のSF作家は皆思弁的(speculative)なのか?荒巻氏の詩
を論じながらそんな調べ物をしてゐて、ルイス・キャロルとジェームス・ジョイスで有名な柳瀬尚紀
さんが我が故郷の隣の支庁所在地114キロ離れた根室のご出身と知って大いに驚く。それこそ骸骨
半島であり何もない荒涼たる土地である。何もないと思弁的になるのか?さうかもしれない。●リル
ケの『オルフェウスへのソネット』を読む(7):今回の連にも安部公房が居た。一級の藝術家がど
のやうに対象を変形させるかといふ好例です。●ではまた次号。

差出人:

贋安部公房

次号の原稿締切は7月28日(金)です。

〒 1 8 2 -0 0

次号の予告

ご寄稿をお待ちしています。

03東京都

調布

1。安部淺吉のエッセイ

市若葉町「

閉ざされた

2。『デンドロカカリヤ』

限」

の中の花田清輝

3。三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」

4。安部公房の逆進化論:種の起源未来縁起説:超越論的『種の起源』

5。荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(4):タイムズ スープ

6。もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降:安部公房の没落

7。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(8)

8。言葉の眼12:メイド論とSFと安部公房

もぐら通信

もぐら通信                         

58

ページ

【本誌の主な献呈送付先】

知ってもらうように努め、その共有を喜び

とするものです。
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など

3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高

い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
覧いただけるとありがたく存じます。(順

その共有を喜びとするものです。
不同) 

4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池

もぐら通信の編集及び発行を行うもので
田龍雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治

す。
様、宮西忠正様(新潮社)、北川幹雄様、
冨澤祥郎様(新潮社)、三浦雅士様、加藤
弘一様、平野啓一郎様、巽孝之様、鳥羽耕
史様、友田義行様、内藤由直様、番場寛様、
田中裕之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマ
ザキマリ様、小島秀夫様、頭木弘樹様、 高
旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、藤沢美
由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝日
新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田
晋哉様(読売新聞社)その他の方々

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、日本近代文学館、
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處 
 にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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