世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2017年12月1日 第63号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
ある夏の朝、たぶん四時五分ごろ、氷雨本町二丁目四番地の上空を人間そっくりの物
あな
ない
迷路 あ
ただ を通 体が南西方向に滑走して行った。 
けの って
番地 『飛ぶ男』の最初の一行
に届
きま

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               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 『密会』の書き捨て原稿に描いた安部公房の落書き(1/3):安部公房…page 9
3 詩二題『プラン』『違い』:柴田望…page 10
4 安部公房はいつまでSFの世界と交流があったか:岩田英哉…page 12
5 山椒魚ともぐら∼井伏鱒二の形代(かたしろ)と安部公房のtopology∼:岩田英哉
                                 …page 18
6 荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(4):「タイムズ スープ」:岩田英哉
                                  …page 29
7 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(8)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…page 40
8 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 46
9 編集後記…page 48
10 次号予告…page 48

・本誌の主な献呈送付先…page49
・本誌の収蔵機関…page 49
・編集方針…page 49
・前号の訂正箇所…page 49

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

1。 今月の安部公房ツイート BEST 10

ole うっく@マカロン @ukku1102 6月13日
en M
Gold
Priz
e いろんな文豪の本が電子書籍で読める時代を生きられて良かった…しか
し、三島由紀夫と安部公房の本が全く電子書籍化されないのはなぜだ、
何かのいやがらせなのか。「豊饒の海」を大きめ活字でゆっくり読みた
いんだけど

オーミ @kipplemaker 6月9日
ole
M
r 返信先: @unadukiharuhikoさん
i l ve
S
ize
Pr そうなんだ!そうそう、あと60年代の小説で五木寛之が書いた青年は荒
野をめざすっていうのがある。あと安部公房の小説でけものたちは荒野
をめざすっていうのもあるね

あびすけ @abityan_11 6月7日
安部公房の人魚の短編あるじゃないですか、あれが悪夢的でスゲー好きなん
だよ

この紅蓮の誕生日やぞ祝えよ @glencgs 6月7日
安部公房は正直良くわからん

oʞ s nı @asarin 6月10日
宇沢弘文はフェスティンガーが安部公房に傾倒していた説も唱えていた.こ
れも御大はほんまかいなとおっしゃっていた.どうもおじいさんたちの言う
ことは下手に具体的なので信じてしまうが虚実ない交ぜな気がする.御大も
含めて.https://goo.gl/eEucy8

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2。今月の花田清輝
ぎんしょう @ishoukiyou 6月15日
なんで花田清輝は座談会でいちいち安部公房につっかかるんだ

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3。今月の安部公房論
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月18日
書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40020255668 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月16日
流動と反復--安部公房『砂の女』の時間 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40006048786 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月16日
仮面-コミュニケ-ションの壁--安部公房の作品から (仮面<特集>) http://
ci.nii.ac.jp/naid/40002021137 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月15日
〈おれ〉の〈ユダヤ性〉にみる実存的状況 : 安部公房『赤い繭』論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/110000437716 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月14日
予言=権力 : 安部公房『第四間氷期』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40019842612 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月14日
安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://
ci.nii.ac.jp/naid/40006272201 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月13日
〈おれ〉の〈ユダヤ性〉にみる実存的状況 : 安部公房『赤い繭』論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/110000437716 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月8日
仮面-コミュニケ-ションの壁--安部公房の作品から (仮面<特集>) http://
ci.nii.ac.jp/naid/40002021137 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月8日
自由と反復 : 安部公房『砂の女』論 (特集 変容する欲望 : 高度経済成長期を読
む) http://ci.nii.ac.jp/naid/40019623991 …
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詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月9日
安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/naid/
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詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月8日
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその
変容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6月10日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://ci.nii.ac.jp/
naid/120005851876 …

4。今月の文庫版
マイアン @myung_dt 6月8日
おおお、安部公房の『内なる辺境』と『都市への回路』が一冊になって文庫で出る
のか。再読のいい機会だし買おうかな

猫の泉 @nekonoizumi 6月6日
中公文庫7月。「書くことには集中があり、対話には挑発があり、談話には自由が
ある―現代の異端の本質を考察した連作エッセイ「内なる辺境」、文学、演劇など
芸術観のすべてを語った「都市への回路」。…」
安部公房『内なる辺境/都市への回路』

5。今月の演劇
オーディションプラススタッフ 村本幸奈 @audition_plus 6月8日
さんらん公演『制服』オーディション
2017年11月、安部公房の『制服』を上演します(主催:さんらん、カテゴリ:舞台)
http://audition.nerim.info/audition-201706/audition-2017060781.html …
6。今月の箱男
kuriyama1youth @kuriyama1youth 6月7日
写真を長年やっていてつくづく思うのが、カメラは人を傲慢にする道具であるし、
その自覚がないまま撮り続けると面倒くさい怪物が生まれるなと。写真を撮りアー
カイブする行為自体が美しいものを捕らえ支配する構造と同じだし、 安部公房『箱
男』 の記述は正しいと年々確信が深まってる。

絶滅危惧種のウツノミヤたちが可哀想 @Plastic_16g 6月13日
中学の時、朝読書の時間に本を忘れてしまった友人に箱男を貸したところ、安部公
房の経歴を見て「なんでこの人、東大の医学部出てこんなワケワカラン小説書いて
んの?」って言われたのが忘れられないや…。文学・舞台の世界ではすごい人なん
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やで…
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7。今月の榎本武揚
63stratcaster @63stratcaster 6月6日
安部公房「榎本武揚」読了。著者と作品名との結びつきが分からず、つい手に取っ
た一冊。予想通り?所謂歴史小説とは趣を異にした、著者にとっても異彩な作品。
読んでみれば、確かに興味深い題材であるよなぁと感心したりもする‥ #読了 #
安部公房 #榎本武揚

8。今月の安部公房全集
右手@創作、読書 @migite1924 6月14日
安部公房の全集ほしいなと思ったけどビンボー人に手が出せるお値段じゃなかっ
た。買う価値は十二分にあると思うけど額面だけでビンボー人にはツライ

9。今月の安部公房の影響受益作家
ホッタタカシ @t_hotta 6月9日
『神は銃弾』のボストン・テラン、影響を受けた日本の作品に小津安二郎『東京
物語』、黒澤明『生きる』、三島由紀夫『豊饒の海』、安部公房『砂の女』、芥
川龍之介を挙げている。

【謎多き作家ボストン・テラン インタビュー|ニフティニュース】

謎多き作家ボストン・テランインタビュー|ニフティニュース
『神は銃弾』『音もなく少女は』といった傑作で日本で多くのファンを獲得して
いるボストン・テラン。世界を満たす暴力と理不尽を、カルト教...
news.nifty.com

へのしりす @henosiris 6月9日
中村文則の短編集「A」を読んでいるが、やっぱりこの作者色々抱えているんだ
なと思う。安部公房に影響を受けているのははっきりとわかる。

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10。東鷹栖安部公房の会の活動報告:実績と予定

6月28日、総会を開催。

8月1日、近文第一小学校にてラジオドラマ「豚とこうもり傘とお化け」読み聞
かせ上演予定。

8月26日、北海道教育大学名誉教授 片山晴夫氏による講演:片山先生の講演
は「安部公房の世界」というタイトルです。

11。もぐら通信は七月は休刊にします。

と言つても、半年で計12号1年分のもぐら通信を発行しました。この第63号
は毎月単位で定期的に出してゐれば12月号になります。

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『密会』の書き捨て原稿に描いた
安部公房の落書き
(1/3)
安部公房

彼女を食べようとしてゐるのか?
人間そのものが迷路なのか?

これは骸骨であるのか?(箱根の仕事場にあつたやうな)
片腕、片脚がない、半身だけである(安部公房らしいことに:「空白の論理」)
もぐら通信
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ページ

詩二題
  『プラン』『違い』
柴田望

  プラン

橋が見える場所で
川沿いの街灯が見える場所で
車を停めて
飲み物を買ってきて
やっと二人きりになって
溶けていく時間の彼方や
設計される未来の破片へ
おたがい
の家族や過去
の同僚が囁く
わたしにとって〈大変〉なことは
あなたにとって〈大変〉じゃない

  違い

あの方が何か思いつかれると
周りの部下たちが大声で
ことごとく批判する
とくに女性は手厳しい

どうだシバタくん
わざとここまで言わせているんだ
凄いだろう と笑っておられる

最終的にはあの方の判断であると
だれもが百も承知だが
だれにも叱られなくなったときが
気を付けなければならないときだ
もぐら通信
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ページ

戦局が悪くなっても
ヒトラーのもとへは
良い報告しか入らなかった

耳の痛い 聞きたくない
ことを言ってくれる人は
とても貴重でありがたいのだ

高い理想をお持ちだからこそ
自己満足を戒めるのだ

弱い犬ほどよく吠えるが
飼い主は
昨日と今日の
吠え方の違いで
犬の気持ちを見破るのだ
もぐら通信
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ページ

安部公房はいつまでSF小説の世界と交流があつたか

岩田英哉

掲題の主旨は、この問ひに答へようとすると、安部公房の箱根隠棲の10年間は何を意味する
か?といふ問いに答えることができるかも知れないと考へたからです。

どうも一読者として安部公房の資料を読みますと、箱根隠棲の十年間に関する記述のある資料が
非常に少ない。私は安部公房の読者でありますから、安部公房の私事ををあれこれと詮索する
興味はない。トリビアを幾ら積み重ねても其の作家には至らない。その作家の事実を時系列に
列挙することは大切ですが、しかし事実を幾ら調べても虚構の世界を知るには至らない。

そもそも箱根隠棲の十年間といひましたが、どこが起算点であるのかといふことから考へるに
は、SF文学の世界の人たちとの交流がわかれば、それが一つの目安になるのではないかと、『安
部公房文学メタSF論』(もぐら通信第62号))にて「SF小説論と安部公房の関係」チャート
図を書いてゐて思つたことが切つ掛けでした。

安部公房は1950年代は日本共産党員であつて(埴谷雄高の言葉を借用すれば)「存在の革
命」を、言語によつて起こそうといふ此の実践的な期間にあつては、上の論で示したやうに幾
つもSF文学論、即ち仮説設定の文学を主張してをりますが、1962年に『砂の女』で洛陽の
紙価を高めたあとは、翌年1963年の『ぼくのSF観』(全集17巻、288ページ)を最後
にSFの文字を使つてのSF文学論はなくなります。

さて、この後にSF文学の世界の人士との交流はどうなつてゐるのかといふ話になります。

1965年に、山野浩一の最初の小説作品集の本の帯文を星新一と並んで、安部公房は書いてゐ
ます。「夢と現実を結ぶ航路の再現」と題した此の帯文は、全集第29巻、546ページに其の
全文が収録されてゐる。当時刊行の装幀と帯文の写真を掲げます。
もぐら通信
もぐら通信                          13
ページ

山野浩一いふ方は、SFの世界の草創期からの優れた批評家です。今巽孝之編著『日本SF論争史』
より山野浩一に関する記述を一部引用します。(同著、140ページ)

「山野浩一(一九三九―)は、日本におけるニューウェーヴ運動の推進役として絶大な影響力を
ふるった作家・批評家である。当初、映画青年だった彼は、関西学院大学法学部を中退して上京
後、寺山修司の勧めで小説執筆を決意。かくして一九六四年、〈宇宙塵〉に発表された最初の作
品「X電車で行こう」が評判を呼び、〈SFマガジン〉に転載されて衝撃のデビューを飾り、三島
由紀夫や安部公房からも絶賛される。翌一九六五年にはそれを標題作にして早川書房から第一短
編集が刊行され、以後七〇年における自己のSF雑誌〈季刊NW・SF〉創刊をはさみ、独自の第二
短編集『鳥は今どこを飛ぶか』(一九七一)、第一長編『花と機械とゲシュタルト』(一九八
一)、連作集『レヴォリューション』(一九八三)など多数の著作を出版、高い評価を受けてい
る。」(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 14

この作家を高く評価したことからも帯文の筆を執つたといふこともありませうが、しかし星新一
と並んで此の作家の推奨文を書いてゐるといふことは、やはり安部公房は当時も依然としてSF作
家でもあるといふ意識が、SF文学の世界の人たちにもあつたことを示してゐるでせう。それは、
次にみる1973年に行はれた小松左京との対談を読めば、やはり其の親しさから見ても、十分
な交流は双方にあつたと思ふことができます。ちなみに、上の引用にある三島由紀夫が『美しい
星』といふSF小説を上梓したのが1962年10月20日です。

1973年に小松左京との対談『日本の理想国家はカナダだ』と題した対談を行なつてゐます。
この年は、安部公房が『箱男』を同年3月30日に、小松左京が『日本沈没』を3月20日に上
梓し、共にベストセラーになつたのを受けての此の同年7月13日の対談といふわけです。(全
集第24巻、387ページ)その冒頭の掛け合い漫才のやうなやりとりから其の親しさが伝はつ
て来ます。

「小松 『箱男』売れてますね。
 安部 『日本沈没』にはかないっこないよ(笑い)。
 小松 いや、毎日ベストセラーの伸びぐあいを見るとオッカナくってしようがない。安部さん
が『箱男』になって追いかけてくる夢をみる(笑い)。
 安部 箱の中から、のぞいてるだけさ(笑い)。」

小松左京の『日本沈没』は、外宇宙とまでは云ひ得ませんが、物理的な宇宙の中の地球の天災地
変の話であるのに対して、安部公房の『箱男』は、山野浩一の論じた「内宇宙」の話であり、箱
男の着用する箱はSF文学の山野浩一の唱へたニューウェーブで云ふ「内宇宙服」(inner space
suit:インナー・スペース・スーツ)に他なりませんから、さういふ意味では此の時でもまだ共に
SF仲間といふことがいへませう。二人は1970年の「国際SFシンポジウム」と大阪万国博覧会
でも一緒になつてゐます。

小松左京は「1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、
アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディ
スらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデュー
サー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。」とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/
小松左京)、安部公房は、自動車館で上映された「1日240時間」(監督:勅使河原宏)に、脚本
を書いてゐて参加してゐます。(『ミュージカル・ファンタジー 1日240時間―物体としての
人類に関する感傷的方程式[シナリオ]』全集第23巻、63ページ)

話が横道に逸れますが、1973年9月には筒井康隆の『日本以外全部沈没』が出版されてゐま
す。これも、日本以外の国が皆水没してしまつて当時の冷戦時代の世界中の相敵対する政治家た
ちが日本に逃げて来て新宿であるか銀座であるかバーのカウンターに仲良くぼやきながら会話を
交はすといふ抱腹絶倒のSFです。一読をお勧めします。国家続きで云へば、『燃えつきた地図』
の出た1967年の3ヶ月前の6月1日には、同じ帯文を書いた星新一の『マイ国家』が出てゐ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

ます。これも21世紀の今の日本の現状を、今読めば尚更に痛烈に批判した、そして星新一らし
く品のいい、しかし辛辣な小説です。未読の方には、これもお勧めします。

さて、1978年には山尾悠子の『夢の棲む街』といふ処女作について、この出版当時学生だつ
た作者は、安部公房について、次のやうに言つてゐます。

「「夢の棲む街」を書いた時は、まず現場の理解が得られるのかと心配だったものだが(何しろ
どう見てもSFではないので)、しかし案ずるまでもなく、この時の担当さんと編集長は最良の理
解者だとわかったし、安部公房氏が読んで褒めて下さっていることも教えてもらった。まだ誰も
私のことを知らず、四回生になっていたので将来への不安はあったものの、それ以外に心配事も
ない世界は翳りなく進行しつつあった。苦労などまだ何も知らなかった。これは昔むかしの子供
時代のこと。」(『増補 夢の遠近法 初期作品選』の「自作解説」ちくま文庫、416ページ)
(傍線筆者)

安部公房は1984年に『方舟さくら丸』を出しますが、この年の前に札幌に来てゐてSF作家荒
巻義雄に関係者を通じて連絡あり、小樽にある荒巻山の採石場を見たいといふ照会があつたとい
ふことを同氏より伺ひましたので、『方舟さくら丸』の前でせうから、1982年か1983年
かと思はれます。

さて、安部公房は1993年1月22日に亡くなりますので、この間およそ10年余を「箱根隠
棲の十年」と呼ぶことにします。この箱根隠棲の十年は、『安部公房・荒野の人』によれば次の
やうな様子です。

「一九八〇(昭和55)年、八十一(昭和56)年、八二(昭和57)年と、公房はめぼしい活
動を見せていない。わずかに《芸術新潮》に「フォト&エッセイ――都市を盗る」で写真と短い
エッセイを二年間にわたり連載したぐらいである。コンタックスRTS、キャノンオートボーイと
いったカメラと望遠レンズを肩に、公房は公衆便所、雑踏、地下道、深夜の路上で、都会の日々
の死を撮った。カメラによる「マルテの手記」だった。
 一九八〇年四月からは箱根の山荘を拠点とし仕事場としていた。リビングとキッチン、書斎兼
寝室をもつ、芦ノ湖を見下ろす山荘である。」(同書、180ページ)

荒巻義雄氏と此の上の引用を併せて考へますと、安部公房は此の期の狭義の文学活動といへば『方
舟さくら丸』のみに集中してゐたといふ事になります。また、この時期にSF作家荒巻氏に会ひた
いと考へたのには、次のやうなことがあつたのではないかと全集を読むと思ひます。それは、『方
舟さくら丸』に関する次のインタヴューによるものです。

「―新聞のうけうりみたいなんですけど、昆虫屋が「現代はシミュレーションゲームの時代だ。
もぐら通信
もぐら通信                          16
ページ

現実の記号の混同がおこったり、一種の閉所願望、トーチカ願望がある」と言っています。
(略)」(『「方舟さくら丸」の冒頭に』全集第28巻、224ページ下段)

このインタビュアーの引用していゐる箇所は、確かに荒巻義雄といふSF作家が、このあと1986年
以降に発表する要塞シリーズと呼ばれる一連の戦争シミュレーションSFものを、既に安部公房は
ひよつとしたら予期してゐたのかも知れないと思はれる程です。余りにもタイミングが良すぎま
すので、単に採石場の見学のみならず、これらの主題についても一緒に話をしたかつたのではな
いかと、それ故に安部公房は同氏に連絡をとつたのではないかと思ひたくなります。さうして、
改めて『方舟さくら丸』の最初を読みますと、主人公が尋ねる百貨店の屋上の展示会に並ぶもの
の一つに「▽日本海海戦で使用された(と称する)血染めの信号用手旗」があるのです。

さて、これ以降の安部公房の隠棲生活の次第を知るには、もし日記があれば日記を読むことに普
通はなるでせう。しかし『もぐら日記』は普通のいふ意味での日記ではない。何月何日、天気晴
朗、何某来たり、外出してどこそこを訪ぬ、誰と会ひ、何を食し、帰宅何時、何時就寝といつた
やうなことは一切ないのです。1980年以降を全集によつて、特に「もぐら日記」に注意を払
いながら、まとめると、次のやうな生活をしてゐる事になります。

(1)『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』を執筆する。
(2)言語に関する考察を集中的に深める。チョムスキーの生成文法、クレオール語について。
人間の精神と意識・無意識について。パブロフの条件反射について。ローレンツについて。分子
生物学と遺伝子について。国家と言語の関係について。
(3)読売文学賞などの選考委員を務める。
(4)インタビューを受ける。インタヴューの数多し。
(5)講演をする。
(6)対談をする。座談は『安部公房氏と語る』のみ(全集第28巻、473ページ)。
(7)北欧旅行をする。1985年6月。全集第28巻、173ページ)
(8)外部の情報はTV放送と新聞(「朝日新聞」)から得てゐる。(全集第28巻、206ペー
ジ上段)
(9)新しいカメラを買ふ事。(全集第28巻、179ページ上段)
(10)お昼などを行きつけのレストラン「ブライト」で食べる事(全集第28巻、182ペー
ジ上段):『安部公房の箱根の仕事場とご贔屓のレストラン「ブライト」を尋ねる∼存在の部屋
と『もぐら日記』の中のレストラン∼』(もぐら通信第49号)をお読みください。
(11)新しい小説の構想(全集第28巻、184ページ下段)
(12)国際会議への出席(全集第28巻、190ページ下段;全集第28巻、204ページ)
(13)新田敞(新潮社編集者)とドナルド・キーンさんと交流はあつたこと。
(14)数少ないエッセイを書く。

箱根隠棲の10年が以上のことがらから成つてゐたといふことは、これはこれとして、その間(か
ん)同時にあつた安部公房の生活はといふと、「ときには電話のコードさえ公房は断っていた。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ17
その山荘からさえ姿を隠し、行方知れずの時さえあった」。(『安部公房・荒野の人』192
ページ)恐らくは、『方舟さくら丸』以降の生活は、このやうな生活になつて行つたのかも知れ
ない。世俗の人間には理解ができないことでせうが、これは誠に安部公房らしい、孤独ではある
がしかし、素晴らしい生活であると、私には思はれる。1924年、安部公房生誕の年にヴァレ
リーがリルケをスイスに尋ねて、その余りの孤独の生活に驚いて心配をしたといふ此の故事に相
応しい晩年の安部公房です。

考へてみれば、リルケの歌つた内面空間は、メタSF文学としてある内宇宙空間であると考へるこ
ともできる事に気づきます。内宇宙空間の服、innter space suitを着て、リルケもまた存在を歌
つた。内宇宙と外宇宙を交換するために。

さて、この期間の安部公房を一人娘ねりさんの目から見ると、安部公房の生活はまた次のやうに
なります。

「独りになった公房は、山荘でお気に入りのシンセサイザーやワープロに囲まれ、しゃぶったマ
ンゴーをほして、外に向かってひげが生えた種を額装して飾り付け、トイレットペーパーの芯な
ど日常的な、不要になった物をつかい、整然としたオブジェをつくって男の子らしい生活を満喫
した。父の書斎には、大きなワープロが置かれ、『科学の事典』などの本が並べられ、発想をメ
モした紙が差し込まれた紙入れに、芥川賞の金時計が架けられていた。簡易の現像セットも持っ
ていて、書斎の椅子の横の壁には自分で撮影した写真を現像して貼り付けた。それを見ながら小
説の発想を待った。ベッドサイドには、夢を忘れないうちに記録する小型のテープレコーダーや、
四角い付箋紙をおいて、会話やモノローグなどの発想を書き付けてピンで留めたコルクのボード
を立てかけた。(安部ねり著『安部公房伝』218ページ)

さて、これらの総体が箱根隠棲の10年であつた。さうだとして、安部公房の内面の宇宙は、や
はり読者の常でありまた務めとして、作品を読む以外に知る道はないのです。

なんだか、平凡な結論となりました。しかし、安部公房は鋭い。この時期の名作『方舟さくら丸』
で昆虫屋のいふ、

(1)現代はシミュレーションゲームの時代であること。
(2)現実の記号の混同がおこったり、
(3)一種の閉所願望、トーチカ願望がある

といふこれらの科白は、二十一世紀の今日も通用してゐるのではないでせうか。

これらの問題提起へのあなたによる回答は、あなたが「自己閉鎖生態系」に生きるユープケッチャ
になつて考へる以外にはありません。どうでせうか。あなたもユープケッチャといふ(『砂の女』
の贋ニワハンミョウと同じ)予(あらかじ)め失われた案内人に、即ち人間ならば「人間そつく
り」の人間(simulated/simulating man:模擬人間/モドキ人間)に、なつてみては。
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ページ

山椒魚ともぐら
∼井伏鱒二の形代(かたしろ)と安部公房のtopology∼

岩田英哉

何故、一体、井伏鱒二と安部公房にどんな関係があるのだ?と読者は問ふでありませう。

しかし、その巫術とみられて欧米の近代文明には低くみられて未開の習俗だといふことになる筈
の、しかし古代の儀式に関はる私たち日本民族の古代感覚に於いて二人は共通してゐるのです。
私もこのことに前者の詩集『厄除け詩集』を読むまで気づきませんでした。私たち自身のこと
ですから、理解は容易です。順を追つて話します。

この古代感覚の出入り口は、安部公房と同様に、井伏鱒二の場合も部屋があり、それも二階の
部屋の窓なのです。井伏鱒二は、安部公房と同じく、二階の部屋の窓から出入りをするのです。
『厄除け詩集』から「歳末閑居」を引いて説明します。

「歳末閑居

 ながい梯子(はしご)を廂(ひさし)にかけ
 拙者はのろのろと屋根にのぼる
 冷たいが棟瓦(むながはら)にまたがると
 こりや甚だ眺めが良い

 ところで今日は暮の三十日
 ままよ大胆いつぷくしてゐると
 平野屋は霜どけの路を来て
 今日も留守だねと帰つて行く

 拙者はのろのろと屋根から降り
 梯子を部屋の窓にのせる
 これぞシーソーみたいな設備かな
 子供を相手に拙者とシーソーをする

 どこに行つて来たと拙者は子供にきく
 母ちやんとそこを歩いて来たといふ
 凍えるやうに寒かつたかときけば
 凍えるやうに寒かつたといふ」
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「ながい梯子(はしご)を廂(ひさし)にかけ/拙者はのろのろと屋根にのぼる」のは何故かと
いふと、第二連にある通りで「平野屋」が「霜どけの路を来」るからである。平野屋とは何者
かといへば、これは近所の酒屋で、酒屋の亭主が歳末の「暮の三十日」であるので酒代の借金
を取り立てに井伏鱒二の家へと「霜どけの路を来」るのである。家の主人は、それ故に二階の
窓から出て「ながい梯子を廂にかけ/拙者はのろのろと屋根にのぼ」るのです。

借金取りは、疫病神である。といへばお判りでせう。こんな疫は落してしまへといふのが、この
詩集の題名の由来であり、詩人の隠した心なのです。つまり、この詩集そのものが、厄除けのた
めに編んだ詩集なのであり、この詩集に収められた詩の一つ一つが厄除けのために書いた詩な
のです。

一体厄除とは何か?それは、生きてゐれば、人は穢(けが)れるものですから、その穢れを祓
ふといふことを、この詩人は心底に思つてゐるのです。つまり、厄除けとは穢れを祓ふことなの
です。こんなことは近代ヨーロッパ文明の理屈にはなく、どんな立派な理論を持つて来ても、井
伏鱒二を体系的に論ずることはできず、理解することもできません。高橋英夫さんといふヨーロッ
パの思想に詳しく名前のある批評家が、これは正確な引用ではありませんが、井伏鱒二をどう
やつても説明がつかないといふことを言つてゐるのださうですが、それもむべなるかな。この詩
人は日本人なのですから。

生まれは広島県加茂村といふ土地で、地図を見ますと、海から少し離れてをりますが、大きな池
といふか、あるいは現地に足を運べば沼かもしれず、小さな湖かも知れぬ水の溜まりがあります
し、加茂川といふ川その他の名の川もあるやうです。古代の名前で言へば備後の国です。

この「歳末閑居」といふ詩そのものが厄除けのお札なのであり、後述するやうにもつと適切な
言葉を持つて来れば、形代(かたしろ)なのです。人の形をした白い紙に、私たちの穢(けが)
れを移して、川へ流す。流し雛といふ習俗もあります。灯籠流しも同じ心なのではないでせうか。
今ネットのgoo辞書といふ辞書を引きますと、形代の説明が次のやうにあります。

「1 祭りのとき、神霊の代わりとして置くもの。人形 (ひとがた) 。
 2 陰陽師 (おんようじ) ・神主などが祓 (はら) えや祈祷 (きとう) のとき、人間の身代わりとし
た人形。多く紙製で、これに罪・けがれ・災いなどを移して祓えをし、川や海に流す。ひな人形
も、もとはこの一種。《季 夏》
 3 身代わり。
  「かの―のことを言ひ出で給へり」〈源・宿木〉」
(https://dictionary.goo.ne.jp/jn/41872/meaning/m0u/)
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この形代をめぐる穢(けが)れとお祓ひに関する私たちの古代感覚は、日本列島に住む縄文時
代からの私たちの習俗の根底に潜む感覚であり、理屈を超えた論理です。私たちはもつと私たち
の歴史と伝統と、この古代感覚を思ひ出すべきではないでせうか。何故私たちは神社にお参りす
るのでせうか、あるいは神輿を担ぐのでせうか。

平野屋といふ酒屋の親父と井伏鱒二とは、かくして「これぞシーソーみたいな設備かな」と此の
梯子をいひ、プラスになつたりマイナスになつたり、その借金と支払ひの関係があつて、またさ
うやつて、自分の家族を、特にいたいけな可愛い我が子を守つた心情が、このシーソーといふ言
葉を媒介にして、

「子供を相手に拙者とシーソーをする」と第二連の最後に書き、第三連を続けて、

「どこに行つて来たと拙者は子供にきく
 母ちやんとそこを歩いて来たといふ
 凍えるやうに寒かつたかときけば
 凍えるやうに寒かつたといふ」

自分の妻には、そろそろ30日で酒屋の親父が取り立てに来るから、お前は子供を連れて外を一
廻りして参れと、さう命じたのでありませう。それ故に、それを承知の上で、

「「どこに行つて来たと拙者は子供にきく
 母ちやんとそこを歩いて来たといふ
 凍えるやうに寒かつたかときけば
 凍えるやうに寒かつたといふ」

といふ我が子との会話があるのです。

これが井伏鱒二の悲哀とユーモア、悲しみと笑ひです。

上の辞書に引いた2番目の意味の形代の意味のよくわかる詩をもう一つ挙げます。

「石地蔵

 風は冷たくて
 もうせんから降りだした
 大つぶな霰(あられ)は ぱらぱらと
 三角畑のだいこんの葉に降りそそぎ
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もぐら通信                          21
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 そこの畦みちに立つ石地蔵は
 悲しげに目をとぢ掌(て)をひろげ
 家を追ひ出された子供みたいだ
 (よほど寒さうぢやないか)

 お前は幾つぶものあられを掌に受け
 お前の耳たぶは凍傷(しもやけ)だらけだ
 あられは ぱらぱらと
 お前のおでこや肩に散り
 お前の一張羅のよだれかけは
 もうすつかり濡れてるよ」

石地蔵は、さうとは文字では書いてをりませんが、しかし此の呼びかける話者の寒さ辛さを一
身に引き受けて霰の礫の中に立つてゐる。「家を追ひ出された子供みたいだ」といふ一行は、
最初の詩「歳末閑居」の子供の心を察する親の心でありませう。

「つくだ煮の小魚」といふ詩があります。上に説いた同じ心で読んでご覧なさい。「つくだ煮の
小魚」の心が判る筈です。

「つくだ煮の小魚

 ある日 雨の晴れまに
 竹の川に包んだつくだ煮が
 水たまりにこぼれ落ちた
 つくだ煮の小魚達は
 その一ぴき一ぴきを見てみれば
 目を大きく見開いて
 環になつて互にからみあつてゐる
 鰭も尻尾も折れてゐない
 顎の呼吸(こきふ)するところには 色つやさへある

 そして 水たまりの底には放たれたが
 あめ色に小魚達は
 互に生きて返らなんだ」

「逸題」といふ詩があります。この題名から更に此の詩の後に井伏鱒二の漢詩の和訳をお目にか
けませう。それが如何に「逸題」であるかを。そして「逸題」の心が、安部公房の心に通ずる変
形のことであることを知つてもらひたい。変形とは何か。
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「逸題

 今宵は中秋名月
 初戀を偲ぶ夜
 われら萬障くりあはせ
 よしの屋で獨り酒をのむ

 春さん蛸(たこ)のぶつ切りをくれぇ
 それも鹽でくれぇ
 酒はあついのがよい
 それから枝前を一皿

 ああ 蛸のぶつぎりは臍みたいだ
 われら先ず腰かけに坐りなほし
 静かに酒をつぐ
 枝豆から湯氣が立つ

 今宵は中秋名月
 初戀を偲ぶ夜
 われら萬障くりあはせ
 よしの屋で獨り酒をのむ

 (新橋よしの屋にて)」

この詩には幾つもの解釈と理解があるでせう。しかし、今形代との関係で詩を読んで見ますと、
何か葬式の後の厄落としの歌と聞こえる。それが井伏鱒二の獨酌である。厄落としには塩が要
る。だから、

「春さん蛸(たこ)のぶつ切りをくれぇ
 それも鹽でくれぇ」

と、馴染みの居酒屋の馴染みの娘に註文をする。上の二行は、呪文のやうに聞こえる。安部公
房ならば存在を招来する呪文です。「萬障くりあはせ」て、誰かの何かの葬式に行つてきた。さ
う、「今宵は中秋名月/初戀を偲ぶ夜」であれば、既に失はれた初戀を偲ぶ心が、この詩である。
静かにつがれる酒も、湯気の立つ枝豆も、蛸のぶつ切りも、何かかうしてみれば、神前に供へら
れた魚や野菜に思はれる。備後の国、加茂村は古式ゆかしき土地なのでありませう。これは明
らかに神道ですし、さうはいはずとも、私たちの縄文以来の古来の心です。従ひ、
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逸題とは、題を逸すると訓ずれば、一つには、この主題を言葉にすることができないといふ意
味であり(さう、初戀を偲ぶ心の遣る瀬なさ)、二つには、本題を逸れていふといふ意味、三つ
めは、本題を逸れていふに言はれぬことをいふ、となれば、三つ目は一つ目に戻ります。このや
うな意味ではないでせうか。

この逸題の心は、そのまま上に言及した漢詩の和訳に現れます。世によく知られてゐる「勸酒」
を以つて説明します。勸酒は、今の略字でいへば勧酒、酒を勧める歌です。カタカナで表記され
た和訳も含めて全体で一つ、一対の詩なのです。

「勸酒

 勸君金屈巵
 滿酌不須辭
 花發多風雨
 人生足別離

 コノサカヅキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトへモアルゾ
 「サヨナラ」だけが人生ダ」

これは見かけ上、漢詩を訳してゐるやうに見えますが、さうではありません。漢詩は形代、和訳
は謂はば自在の訳で、自分自身の生活と感情と論理の上で書かれた、即ち穢(けが)れの祓は
れた清い言葉の、従ひ白い世界なのです。神社の玉砂利を思つて下さい。そこには何の形式もな
い、ただ玉砂利を踏み歩むだけで良いのです。この白は後で鯉の白と見えるでせう。

この形代に穢れを移し、写し、映すといふ古代的な行為は、安部公房の世界のtopologyでいへ
ば、差異を設けるといふこと、大和ことばでいへば、ズラすといふことになりませう。それは
本物を、ではなく、似顔絵を描くことだと言つても良い。細かなことや素材のことやら何やら
一切を捨象すれば、コーヒーカップはドーナッツなのであり、ドーナッツはコーヒーカップと等
価であり、この二つは互ひに交換可能な二つなのでした。井伏鱒二は、この交換のための接続
関係に形代を置いたのです。形代は、私の穢れを一身に背負つて、川に流され、やがては海へと
出てゆく。この海の先へが西方浄土であるといふ平安時代の人々の思ひと、この形代の習俗の
思ひは、どこかで通じてゐるのではないでせうか。井伏鱒二は、私と死者との間、また従ひ穢れ
た生者(自分自身も含み)の間に、無私有形なるものとして、形代を媒介項として置いたのです。
と、安部公房ならばさう言ふ事でせう。媒介項は、私の穢れを一身に背負ふて、川に流され、や
がては海へと出てゆく。出てゆくと、それは漂民となり、ジョン万次郎の物語となり、漂民宇
三郎となる。これらの民は、日本の国の外へと外洋へと出て行つて、日本の国の穢れを祓ふ男
の物語といふことになります。さうであれば、『黒い雨』の雨もまた、あるいは主人公の養殖し
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ようとした鯉もまた形代ではないかと思はれる。

最後に小説の話をします。井伏鱒二の有名な短編に『山椒魚』といふ作品があります。ある時自
分の棲む岩屋、岩穴から出ようとしたら、二年間そこにゐたて外へ出ないうちに体が大きくな
つてゐて、頭がつかへて出られなくなつた山椒魚の話です。自分の故郷には池もあり沼もあつて、
山椒魚も棲んでゐたのです。

さて、さうだとしても、大事なことは、山椒魚は此の閉鎖空間(と安部公房ならば呼んだ)とい
ふ空間から幾度か脱出しようとして果たさない。穴といふ窓の向かうに外の世界が見える。閉鎖
空間、窓は、抽象化すれば、安部公房と共有する空間と形象(イメージ)です。平野屋から逃げ
るための窓を思ひだして下さい。さうして、そこに天井の窪みといふ凹の形象まで登場する。凹
は安部公房ならば代表的には『砂の女』の(存在の)砂の穴です。そしてその凹に外から一ぴき
の蛙が迷い込むと、穴に頭の栓をして、蛙が逃げられないようにと意地悪をする。蛙は蛙で食は
れるといけないので凹からはいつかな出てこない。さうして、2年の間お互ひに悪口を言ひ、罵
りあふ毎日を過ごすのです。

蛙の来る前までの山椒魚の気持ちは鬱屈してゐる。それを井伏鱒二は此のやうに書いてゐます。

「山椒魚は、杉苔や銭苔を眺めることを好まなかった。寧ろそれ等を疎んじさえした。杉苔の
花粉はしきりに岩屋のなかの水面に散ったので、彼は自分の棲家の水が汚れてしまうと信じたか
らである。剰(あまつさ)え岩や天井の凹みには、一群ずつの黴さえも生えた。」(傍線筆者)

山椒魚は、棲家の汚(けが)れ又は穢(けが)れることを嫌つたといふことがわかります。しか
し、このままでは穢れを祓ふ形代もなければ、この現実に屈託した心情を救ふこともできない。
それ故に、山椒魚は窓から眺められるメダカたちの一糸乱れぬ動き方を次のやうの心中思つて
軽蔑するのです。この軽蔑は後述する同時期の短編『鯉』では、真白で大形な堂々たる、メダカ
やそのほかの小魚を引き連れ従へて早稲田大学のプールの中を遊弋する鯉の姿として、全く正反
対の山椒魚の姿として、実に感動的に描かれてゐます。井伏鱒二は釣りが好きでした。軍隊に召
集された時にも、釣竿を持つて家を出たさうですから、この作家にとつての釣りは余人の釣り
とは異質で、鯉といひ山椒魚といひ、池や沼に棲む生き物は何か神聖で巫術を秘めた、形代とし
ての生き物であつたのでせう。弟子の太宰治は『井伏鱒二選集』第4巻の後書きで、井伏鱒二の
旅と釣り道具の持参とは深い関係のあることだと身近にゐた人間の一人としての深い観察を書い
てゐる。井伏鱒二にとつては、軍隊の兵舎に赴くこともまた旅の一つであり、釣竿は欠かせぬ
道具であつた。かうなると、井伏鱒二の釣りとは、生死の間に釣り糸を垂らした太公望といふ
ことになる。

「多くの目高達は、藻の茎の間を泳ぎぬけることを好んだらしく、彼らは茎の林のなかに群れ
をつくって、互いに流れに押し流されまいと努力した。そして彼等の一群は右によろめいたり左
によろめいたりして、彼等のうちの或る一ぴきが誤って左によろめくと、他の多くのものは他の
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ものに後れまいとして一せいに左によろめいた。若し或る一ぴきが藻の茎に邪魔されて右によろ
めかなければならなかったとすれば、他の多くの小魚達はことごとく、ここを先途と右によろ
めいた。それ故、彼等のうちの或る一ぴきだけが、他の多くの仲間から自由に遁走して行くこと
は甚だ困難であるらしかった。
 山椒魚はこれ等の小魚達を眺めながら、彼等を嘲笑してしまった。
「なんという不自由千万な奴らであろう!」」

この山椒魚の鬱屈を、後年弟子となつた太宰治が、師の『井伏鱒二選集』の後書きに、次のや
うな40歳の井伏鱒二の鬱屈として書いてをります。『青ヶ島大概記』を書いてゐた頃のことで
す。

「四十歳近い頃の作品と思われるが、その頃に突きあたる絶壁は、作家をして呆然たらしめるも
のがあるようで、私のような下手な作家さえ、少しは我が身に思い当たるところもないではない。
たしか、その頃のことと記憶しているが、井伏さんが銀座からの帰りに荻窪のおでんやに立ち寄
り、お酒を呑んで、それから、すっと外へ出て、いきなり声を挙げて泣かれたことがあった。ず
いぶん泣いた。途中で眼鏡をはずしてお泣きになった。私も四十歳近くになって、或る夜、道を
歩きながら、ひとりでひどく泣いたことがあったけれども、その時、私には井伏さんのあの頃
のつらさが少しわかりかけたような気がした。」(選集第二巻後書き)

四十歳の声を挙げて泣くほどの辛さは、恐らくは早や二十歳前後にしてあつた井伏鱒二の辛さで
あり、屈託であつた。これを太宰治は同じ選集の第3巻後書きに次のやうに的確な評を書いて
ゐる。

「この巻の作品を、お読みになった人には、すぐにおわかりのことと思うが、井伏さんと下宿
生活というものの間には、非常な深い因縁があるように思われる。
 青春、その実態はなんだか私にもわからないが、若い頃という言葉に言い直せば、多少ははっ
きりして来るだろう。その、青春時代、或いは、若い頃、どんな雰囲気の生活をして来たか、そ
れに依って人間の生涯が、規定せられてしまうものの如く、思わせるのは、実に、井伏さんの下
宿生活のにおいである。
 井伏さんは、所謂「早稲田界隈」をきらいだと言っていらしたのを、私は聞いている。あのに
おいから脱けなければダメだ、とも言っていらした。
 けれども、井伏さんほど、そのにおいに悲しい愛着をお持ちになっていらっしゃる方を私は知
らない。
(略)
 早稲田界隈。
 下宿生活。

 井伏さんの青春は、そこに於いて浪費せられたかの如くに思われる。汝を愛し、汝を憎む。
井伏さんの下宿生活に対する感情も、それに近いのではないかと考えられる。」
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恐らくは早稲田界隈の下宿屋に住み、二階の窓から、何の事情があれ出入りをすることが、若
き井伏鱒二にはあつたのでありませう。上の同じ第3巻の後書きの続きに尚、太宰治は、地上
を行く井伏鱒二と池に棲む井伏鱒二のことを次のやうな譬喩(ひゆ)を使つて、これも実に見事
に描いてをります。余談になりますが、この選集の太宰治の文章は素晴らしい。

「いつか、私は、井伏さんと一緒に、(何の用事だったか、いま正確には思い出せないが、と
にかく、何かの用事があったのだ)所謂早稲田界隈に出かけたことがあったけれども、その時
の下宿屋街を歩いている井伏さんの姿には、金魚鉢から池に放たれた金魚の如き面影があっ
た。」(傍線筆者)

太宰治が此のやうに描いた井伏鱒二といふ金魚は、若年にあつては『山椒魚』と同時に書いた
『鯉』といふ佳作の小品の中に山椒魚の裏返しの姿として、次のやうに生きてをります。

「私は鯉を早稲田大学のプールに放つた。
(略)
 或る夜、あまりむし暑いので私は夜明けまで眠れなかつた。それ故、朝のすがすがしい空気
を吸はうと思つて、プールのあたりを歩きまはつた。こんな場合には誰しも、自分はひどく孤独
であると考へたり働かなければいけないと思つたり、或ひはふところ手をして永いあひだ立ち止
まつたりするものである。
「鯉が!」
 この時、私の白色の鯉が、まことにめざましくプールの水面近くを泳ぎまはつてゐるのを私は
発見したのである。私は足音を忍ばせて金網の中に入つて行つて、仔細に眺めようとして跳込台
の上に登つた。
 私の鯉は、与へられたゞけのプールの広さを巧みにひろびろと扱ひわけて、こゝにあつては恰
も王者の如く泳ぎまはつてゐたのである。のみならず私の鯉の後には、幾ひきもの鮒と幾十ぴ
きもの鮠(はや)と目高とが遅れまいとつき纏つてゐて、私の所有にかゝる鯉をどんなに偉く見
せたかしれなかつたのだ。
 私はこのすばらしい光景に感動のあまり涙を流しながら、音のしないように注意して跳込台か
ら降りて来た。」

さて、「冷たい季節が来て、プールの水面には木の葉が散つた。それから氷が張つた。それ故、
すでに私は鯉の姿をさがすことは断念してゐたのであるが、毎朝プールのほとりへ来てみること
は怠らなかつた。(略)或る朝、氷の上には薄雪が降つた。
 私は長い竹竿を拾つて来て、氷の面に絵を描いてみた。長さ三間以上もあらうといふ魚の絵で
あつて、私の考へでは、これは私の白色の鯉であつたのだ。
 絵が出来上がると、鯉の鼻先に「…………」何か書きつけたいと思つたがそれは止して、今度
は鯉の後に多くの鮒や目高とが遅れをまいとつき纏つてゐるところを描き添へた。けれど鮒や
目高達の如何に愚かで惨めに見えたことか!彼らは鰭がなかつたり目や口のないものさへあつ
たのだ。わたしはすつかり満足した。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

主人公にとつては、形代であり依り代である白色大形の鯉が、氷の、謂はばガラス窓の向かう
にそのやうに遊弋してゐるのが、二階の下宿屋の上から、窓から見える。[註]私は、もはや早
稲田界隈といふ固有名詞を超えた空間にゐて、私である白い鯉の似顔絵を描く。この鯉に私は名
前をつけて呼ぶことができない。さうして、「…………」といふ沈黙と余白の記号を描くことし
かできなかつた。この存在の余白と沈黙に、井伏鱒二の鯉は生きてゐるのだ。安部公房ならば
さういふでせう。存在の鯉!井伏鱒二は此の余白と沈黙を「逸題」と呼んだ。画家を志した少
年井伏鱒二の初心が生きてゐる。

[註]
『鯉』の中に、主人公が引越しをして、引越し先の下宿には真白き鯉を飼ふ池のないために、親友青木の家の庭の
池に預かつてもらつてゐた鯉を、親友の死とともに引き取るために其の池に行つて鯉を釣る場面があり、それは次
のやうに書かれてゐます。

「枇杷の実はすでに黄色に熟してゐて、新鮮な食慾をそゝつた。のみならず池畔の種々(いろいろ)なる草木は全
く深く繁つて、二階の窓からも露台の上からも私の体を見えなくしてゐることに気がついたので、私は釣竿を逆さ
にして枇杷の実をたゝき落とした。ところが鯉は夕暮れ近くなつて釣ることができたので、つまり私は随分多くの
枇杷の実を無断で食べてしまつたわけである。」

真白き形代の鯉を釣るには、「二階の窓からも露台の上からも私の体が見え」るようにしてをかねばならないとい
ふ此の感情と論理、「二階の窓からも露台の上からも私の体が見え」ないことはいけないことだといふ此の感情と
論理は、井伏鱒二に独特のものです。ですから、既に二階は二階ではなく、その窓は窓ではなく、二階の窓は二階
の窓では最早や、ない。『屋根の上のサワン』で雁がいつのまには屋根に登ることを覚えて、自分の仲間の三羽の
雁たちと夜に交信することを始めたことに気づいた主人公は、降りて来いとサワンに声をかけても降りてこない此
の雁のことを次のやうに思ふのです。

「もしこのときのサワンのありさまをながめた人があったならば、おそらく次のような場面を心に描くことができ
るでしょう――遠い離れ島に漂流した老人の哲学者が、10年ぶりにようやく沖を通りすがった船を見つけたとき
の有様――を人々は屋根の上のサワンの姿に見ることができたでしょう。」

この「遠い離れ島に漂流した哲学者」とは、やはり形代として川から海へと流れ入り、漂民となつたサワンのこと
でありませう。サワンもまた、ジョン万次郎であり、漂民宇三郎であるのです。平野屋の亭主から逃れて、二階の
窓から梯子を掛けて屋根の上といふ「遠い離れ島に漂流」する井伏鱒二の姿です。

氷の下に生きてゐる白い鯉の似顔絵を描くこと、これが井伏鱒二にとつての小説を書くことであ
つたのです。太宰治は、この時、津軽にゐて、或る夏休みに帰省した時に「その兄が、その夏に、
東京の同人雑誌なるものを三十種類くらい持って来」た中の一つに『山椒魚』があつて、太宰治
は「坐つておられないくらいに興奮し」、「天才の作品」だと思つたとあります。これも選集、
第一巻の後書きにある太宰治の言葉です。

太宰治はイタコといふ巫女のゐる津軽の生まれであり育ちでありますから、井伏鱒二の、言葉と
の関係で有してゐる、形代と依り代の、穢れと祓ひの、その感情と論理を直覚したのでありませ
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もぐら通信                          ページ28

う。さうして、言葉にしてはをりませんが、師のそばにゐて、上に引用したやうな、生死の間に
釣り糸を垂れる旅して止まぬ男の姿の意味するものを、同じ古代感覚を共有する人間として、如
何に東京が近代化されてゐようとも、さういふ意味では十分に田舎者として頑固に、師の形代で
ある無償の心を直覚したのでありませう。シャーマン安部公房が女優山口果林に二十一世紀に
も残る日本の小説家は誰か、3人挙げよと問はれて(最初に宮沢賢治を)、2番目に太宰治を挙
げた理由が、これでわかります。

かうしてみますと、太宰治の死も、見かけとは異なり心中といふやうなものでは全くなく、自ら
を形代にして世と人の穢れを一身に背負つて川に流されることで、世の中の幸きはふことを祈り、
これを選択した人間の死であると、私には思はれる。秘書でもあつたスタコラさっちゃんの手
と堅く結び合はせた赤い紐の赤い色もまた、白い鯉の白さに似て、かうして見ると一層、古代め
いて見える。

安部公房の場合ならば、その主人公が皆存在自体になりたいと願ふtopologicalなシャーマンで
あることは、既に諸処に述べて来た通りですから、読者にをかれては、上述の記述の中と引用の
中の此処かしこに安部公房の汎神論的存在論の論理と感情を、従ひ井伏鱒二の汎神論的存在論
の論理と感情を、読みとることができるでありませう。

さうして、そのやうな思想は、感情と論理は、あなたの日常の生活そのものの実感ではないのか
と私は思ふのです。お考へください。
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もぐら通信                          ページ29

荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む
(4)
タイムズ スープ

岩田英哉

この詩は、時間を歌つた詩です。しかし、この詩人の時間論は時間を論ずるだけには留まら
ない。その裏には汎神論的存在論がいつもあるからです。それが、time s soupといふ題名
の意味です。Times soupであれば、一層時間は幾つもあるといふ意味にもなり、また時代
のスープといふ意味にもなるでせうが、そもそも其の複数の時間のあるといふ由来は時間の
本質に由来するのであると考へると、time s soupで十分であるといふ考へにもなります。

しかし、時間に本質などといふものがあるのかといふことを此の詩は歌つてゐて、そんなも
のはないのであるといふことを結論としてゐるのです。しかし、こんな理屈を詩にしても、
それは詩ではない、散文です。それでは、何が此の詩を詩足らしめてゐるのかといふと、
soupといふ液体の形象(イメージ)なのです。それ故のTime s Soupなのです。さうであれ
ば、この詩の題名の、もう一つ深い意味は、

Time is soup

といふ意味になるでせう。

本題に入る前に、この詩の構成について整理をします。まづは詩の全文をお読みください。

スープの中を
未来に背を向けて
後ずさりしているのが真相なのだ。
背中に眼などないのだから
虚ろな瞳が向けられているのは
霧の彼方……
神話の故郷……
われらは向かっているのではない
遠ざかっているのだ。
岸を離れた帆掛け船のように
やがて
水線の彼方に陸は没し
やがて記憶も薄れ
船出した港までも忘却される。
もぐら通信
もぐら通信                          30
ページ

人が未来に向かっていると確信しているのは錯覚なのだ。……(A)

人々はいつ時という言葉を思いついたのだろうか。

timeは潮
chronos――円環する時

だが、おれは思うのだ
密かに……
時というものを、おれたちの言葉で喩えることはできない、と。
時は隠喩(メタファー)たり得るか――否
時は換喩(メトニミー)たり得るか――否
時は提喩(シネクドキ)たり得るか――否

だが――
強いてイメージすれば
おれたちは、透明なスープの中にいるのであって……
むろん……
この無限大のスープ鍋の持ち主が だれかを知らないけれども。……(B)

たしかに大宇宙は開闢したが――ビッグバン
たしかに
あるとき
時ははじまり……
突如
あてどもなく
流れはじめはしたが……
だが、それとても……
所詮の一宇宙にすぎない……

スープ鍋の中で起きる対流の中にいる我
翻弄され
悶え
笑い
神妙になり
おれたちって
バカみたいだぜ。
物質進化の……
巨いなる潮の中で弄ばれていることは 認めるけれど
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

神様……
あなたの仕業などではない。

ニーチェ氏にならえば「大いなる遊戯」
フッサール氏にならえば「判断中止」
ウィトゲンシュタイン氏にならえば「言語ゲーム」……(C)

いま、秋は色づき
落ちた庭の胡桃(くるみ)をわが妻は拾い
書斎の俺は 書きかけの詩を中断するのだ…… ……(D)

この詩の構成する段落の最後にアルファベットで識別子をつけました。この識別子の上まで
は、当該段落であるといふ意味です。さうすると、この詩は4つの段落からなることになり
ます。

(A):Topologyで時間を観る
(B):時間とは何か
(C):宇宙の時間と人間の時間
(D):現実只今のこの時間

結局題名の通り、この詩は時間についての詩であることが判ります。時間はスープである。
一つ一つの段落をみて見ませう。最初に(B)から見てみます。結論をいひますと、

この詩人の時間は流動する液体状の連続した空間である

といふことなのです。空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化するのです。さ
うしてそれは食べられるものであり、また皮膚感覚として触覚に訴求するものであり、それ
が生きてゐるといふことである、といふ其のやうなスープです。

さうして、スープは、この詩の中だけに出てくる液体ではありません。『聖シュテファン寺
院の鐘の音は』といふ長編小説があります。この物語の最終局面に、やはり時間が論ぜられ、
時間といふことから当然に次元についての思弁が記述され、その思弁は、次元と次元の層、
即ち前者を此の現実のある次元だとすれば、後者は異次元であり、〈〉といふ記号を使つて
〈異界〉と呼ばれてゐます。さうして、この二つの次元には当然のことながら境界面があり、
この「境界面を浸透する」のが「熟語の駿馬にまたがる主語」であることは、『世界接触部
品』で論じた通りです。さうして見ると、この接触といふ言葉の意味もまた一層よく、私た
ちには理解されるのではないでせうか。私たちが「世界を横断する者」である限り。そして、
「横断する」とは、「浸透する」ことであるのです。自分が液体状になつてゐる。この独特
もぐら通信
もぐら通信                          ページ32

の感覚は、Time s Soupにも現はれてゐます。さうして、最後には私たちは〈異界〉から浸
透して来て、(D)の「現実只今のこの時間」に回帰して、ハッと眼を醒ますのです。

上の長編小説に顕著な特徴は、主人公が〈異界〉にゐる女性を求めて「境界面を浸透する」
旅をするところにあります。現実のデンツといふ町がズレて変形し、同じ名前ではあるが別
の次元の町へと変容する。安部公房の世界ならば、KがK に変形するのです。真獣類から有
袋類が生まれる。

「《わずかな、……〈世界〉の真実を告げる〈言葉〉の力によって、この〈異界〉はふたた
び異なる〈次元〉へと〈現象学的トラバース〉を起こす可能性があるかもしれない》」とあ
る(『定本メタSF全集第4巻 聖シュテファン寺院の鐘の音は』262ページ)、このやう
な記号の使ひ方を見ると、安部公房の「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的・再帰的話
法の場合の使用法と同じく、さうして『第一の手紙∼第四の手紙』の記号の使用法と同じく、

《》は、哲学的思弁によるまとまりある内省的・独白的・再帰的話法を示し、
〈〉は、その思弁の中で使はれる異次元での、または異次元に関わる諸事諸物を示してゐる
ことが判ります。安部公房の場合の「異次元に関わる諸事諸物」とは、リルケの詩の世界の
言葉でありました。

空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化する例を上の長編小説より引用しま
す。

「執事のマルクスさんがおっしやっておられましたが、いま〈次元の潮〉が強まって、〈異
界〉の〈次元層〉が乱れているんですって」(同巻、363ページ)

この、〈次元〉は海であり、海流であり、潮の満ち引きといふことがあるといふ形象(イメー
ジ)であることが判りますが、この形象は、同じ小説で、

「秘儀である。
 母と呼ばれる子宮への回帰。
 生まれた場所へ戻ること。
 すなわち、アルカディアの夜が、白樹に見せた幻の意味……。」
(同巻、316ページ)

とか、

「彼は悟る。〈鹿の園〉こそが……あるいは〈生命の泉〉こそが、この〈異界〉の理想郷、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

アルカディアの子宮であることを。そこが〈異界〉の中心なのだ。理想的な愛の園なのだ。」
(同巻、317ページ)

とか、さうして何よりも上の「秘儀である」「母と呼ばれる子宮への回帰」は、「乳蛍」と
いふ蛍の乱舞する「乳の池」の中に裸になつてエンマ夫人と二人で浸かつて此の夫人によつ
て主人公の知らされ意識するやうに「この乳池の乳は、あなたの母の乳よ。さ、乳の中に体
を沈めて、好きなだけお飲みなさい」といふ母の乳であると同時に、もつと汎神論的に「言
われたとおりにしながら、彼がこの〈異界〉にやってきて出会った総ての女たちが、彼自身
の無意識に潜む母親の影であったのかもしれない……と気付いた」といふ其のやうな、大地
ならば大地母神と呼ばれる女性の神または神々なのです。(同巻、314∼315ページ)

空間を思ふと時間を思ひ、時間を思ふと空間が液状化し、そして其の液状のもの又はそれほ
どに柔らかいものに可塑性を与へて可食性のあるものと化する好例は、初期の短編の傑作『時
の波堤』(のちに『大いなる正午』と改題)の波、『柔らかい時計』のポタージュの池、『大
いなる失墜』のアンアンといふ何時でも何処にでも存在する汎神的女性、同様の性質を持つ
た『トロピカル』のミス・トイによく現れてゐます。しかしそもそもの処女作である『しみ』
といふ短編に、此の詩人の空間的な流動性の高い時間感覚がよく現れてゐます。

「〈沼地〉じゃなく〈過去〉だって言っているんだよ、そう、過去、未来の過去だよ。過去
に足をとられて、そこんとこに虫が食いついているらしいんだ。沼地なら虫はいるけどさ。
 辻つま合わないだろう。てっきり酔っぱらっているんじゃないかって俺は思ったな。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻 柔らかい時計』446ページ)(傍線筆者)

さうして同様にもう少し先の、「僕の中の「僕」」といふ内省的・独白的・再帰的話法によ
る次の独白を。後年であれば《》といふ記号の中で語られるべき哲学的思弁です。

「驚いたよ。やつらは時間的な生物なんだ。俺たちが空間を自由に動きまわれるように、奴
らは時間の中を行き来できるってことだよ。体の構造も時間的に拡がっているんだとか言っ
ていたぜ。頭が未来にあって、足が過去にあるなんて場合もありうるわけだな。つまり俺た
ち三次元生物にとって空間にあたるものが、やつらの場合は時間ってことなんだぜ。」(同
巻、448ページ)

以上を一言で云へば、この詩人の空間には可塑性があり、変形し、この変形は流動性を具へ
てゐて、流体となり、この液状の体の中で、話者または主人公は、生きてゐることの現実を、
それが此の現実であらうが、あの〈異界〉であらうが、味覚と触覚を用ゐて確かめ、安心す
るといふ時間的空間であり、空間的な三次元以上の時間なのであり、従ひ、安部公房の場合
と同様に、これが此の詩人の大量流布の存在概念なのであり、抽象的・哲学的にいへば、汎
神論的存在論の存在概念なのである。この場合、上に味覚と書いたが、味覚といふよりも、
可食とか飲むといふことから口唇による(結局は)触覚といふ感覚の方が優勢であると私に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ34

は見える。『しみ』の異生物である(立体時間的な生物である)シミが、やはり此の現実の
空間を可食なものとして食べてしまふ生物だといふことに着目すべきではないかと思ふ。こ
れが、この詩人の生きてゐるといふ感覚であり実感なのです。

女性は大地母神といふのが陸上の女性観ですが、これに対して、この詩人の女性は海であつ
て、海の女性観です。それ故に潮も満ち引きし、海流は対流し、この汎神論的存在論の形象
は、大地母神に倣つて云へば、大海母神となり、大和言葉で呼べば、オオハハワタツミと呼
ぶ以外にない独自の神となる。

ですから、「大学浪人時代」に読んだカミュの「異邦人」の出だしの一行「きょう、ママン
が死んだ」は、確かに詩人にとつて「驚きは忘れられない」ものであつた筈です。(『定本
荒巻義雄メタSF全集別巻』の「骸骨半島」の「覚え書き」、111ページ)詩人によれば
「カミュの文体はハードボイルドである」とあり、これが同じあとがきの、言葉との関係に
ついて人間を考える時にいふ「散文ではその(筆者:言葉のこと)機能が究明できない、何
かが詩にあるのかもしれない。たとえば、比喩表現である。/たとえば、エリオットであ
る。」とあるやうに、詩を書くことがハードボイルドであり、事実の率直な表白なのであり、
それがエリオットの詩であるのです。エリオットの詩の魅力は「自由連想」であることを詩
人はエリオットの有名な詩「荒地」の冒頭「四月は残酷な月だ」からの数行を例に挙げて、
このことを述べてゐます。この論考の連載の最初に詩の定義を示したやうに、自由連想は詩
の極意です。

『異邦人』の上の一行の次に「それに続く光溢れるアルジェの風景」への言及がある。この
「光溢れるアルジェの風景」は、海のある景色でありませう。「きょう、ママンが死んだ」
とゴシックにして書いてある一行、これはこの詩人がゴシック体を使うことの解説に、その
まま、なつてゐます。

『大いなる失墜』で汎神論的存在であるアンアンの名前とその行為がゴシックになつてゐる
のは、カミュの『異邦人』の冒頭の一行をゴシックにしたのと同じ心、即ち変幻自在、変形
自在の海なる母、母なる海を自由連想してゐるからです。

さうしてみると、『柔らかい時計』の「柔らかい時計」が作中ゴシックであるのも、これが
汎神論的存在論としてある母と海の形象、遍在し限りなく変形する柔らかい存在の形象が可
食であるからでせう。その中に浸かり、または食することによつて、母なる何かと触覚を通
じて「浸透」することによつて一体となるのです。

してみると、『ゴシック』という題名の詩集(といふべき)作品の題名も、これに由来する
のではないかと思はれる。マルセル・デュシャンの『大ガラス』と通称される作品に関する
此の藝術家の同じ説明の言葉の引用を詩人が繰り返しするのも、この引用文がゴシックの意
味を詩人の代わりに明かしてゐるからです。このデュシャンの作品の引用を読むと、この作
もぐら通信
もぐら通信                          35
ページ

品の唯一其処にゐる処女はほとんど巫女である。

また、この海の母は(先走るやうであるが)『骸骨半島』に歌われる母でもある。それが半
島であり、内陸の大地ではない、即ち大陸ではないことが重要である。海に接した半島、半
分だけ大陸である半島といふ島でなければならないのです。何故ならば、半島は海といふ母
性の液体に浸ることのできる唯一の大地の地形であるからです。半島は母乳といふ液体に包
まれるといふ形象を最初から含んでゐる。

『タイムズ スープ』にある「……」といふ点線による記号は、このやうに読んで来ると、
ここまで思弁的であり且つ実感される感覚にまで詩人の中で連続してゐるのであれば象徴化
してゐる、母なる海であるといふことができる。

(A):Topologyで時間を観る
人間は「……」といふ母なる大海の回想と忘却の意識の中にあつて、topologicalに時間が
相殺されることになる。何故なら、始まりは終はり、終はりは始まりであるから。即ち、
「スープの中を」、私たちは、

「未来に背を向けて
 後ずさりしているのが真相なのだ。」

からであり、他方、私たちのすることは、

「われらは向かっているのではない
 遠ざかっているのだ
 岸を離れた帆掛け舟のように」

とあるやうに、時間といふ空間の中を、陸地を離れて海なる母の中へ、即ち「タイムズ スー
プ」の中へと出帆してゐる。さうして、話者の意識は既に水平線の彼方にあつて、

「水線の彼方に陸は没し
 やがて記憶も薄れ
 船出した港までも忘却される」

このやうに「人が未来に向かっていると確信しているのは錯覚なのだ。」何故なら、あなた
は陸地を離れて海の中へと水平線の彼方へとむかふからであり、陸地のことは忘却され、後
は母なる時間の海神(わたつみ)の中へと参るからである。

以上がtopologicalに、この詩人の世界を眺めた時の、私たちの「真相」としてある生活な
のです。さて、その上で、それでは、時間とは何かを問ふのが次の段落です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ36

(B):時間とは何か
この段落の最初の一行「人々はいつ時という言葉を思いついたのだろうか。」といふ問ひに
答へようとする。しかし、その回答は既に第一段落で出てゐる。更にしかし、

「だが――
 強いてイメージすれば
 おれたちは、透明なスープの中にいるのであって……
 むろん……
 この無限大のスープ鍋の持ち主が だれかを知らないけれども。」

この「だが」といふ接続詞の後に置かれてゐる「――」の記号は、主題に関して本質的なこ
とを言ひたい時に使用される記号なのでした。そしてやはり、ここでも液体状の流動性のあ
る汎神論的な母性の形象が「透明なスープ」といふ時間のスープ、時間のポタージュを遍在
する存在概念の形象(イメージ)を表す言葉として歌へば、其の次には忘却と想起の記号
「……」が書かれることになる。思ひ出さうとしても、スープの鍋の外側になにがあるのか、
何が此のスープ鍋を支持してゐるのかは、内部にゐる私には解らない。上善水の如し言つた
老子の言葉を思はせる。スープは鍋から溢(こぼ)れても、形に合はせ、次の器に合はせて
変形することでせうから。ここで大事なことは、このスープ鍋の大きさは無限大であるとい
ふことです。しかし無限を内に含む器にも、外部は常に存在するといふ詩人の認識が示され
てゐます。

(C):宇宙の時間と人間の時間
さて、さうなると、物理学者のいふやうにビッグバンで生まれた宇宙であつても、宇宙にも
外部のある限り、

「だが、それとても……
 所詮の一宇宙にすぎない……」

即ち唯一絶対の全知全能のGodなどは存在せず、私は「この無限大のスープ鍋の持ち主が 
だれかを知らないけれども」、この時間のスープの海と其処にかうして其の対流に翻弄され
ながら生きてゐる私たちの生活は、「神様……/あなたの仕業などではない」ことを知って
ゐる。(私は此処での「……」といふ忘却と記号に、荒巻義雄といふ詩人の持つ優しさを感
ずる。)何故ならば、一次元の、両端点の不明の、直線的な時間だけがあるのではないから
だ。「無限大のスープ鍋」は幾つもあり、鍋の外に鍋があるといふ、ロシアの人形のマト
リョーシュカのやうに入籠構造を、宇宙はしてゐるからだ。一柱の神だけでは人間を肯定す
る宇宙創生はできない。古事記を読み給へ。幾柱の神々の力があつて、宇宙が生まれるもの
かを。一柱の神の力による、そんな宇宙が仮にあつたとして、それでは神は人間と意思疎通
ができずに絶対命令のGodとなつてしまふ以外にはないだらうから。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

しかしまた、かういふことをよく知つてゐる我々なのに「スープ鍋の中で起きる対流の中」
にゐて「翻弄され/悶え/笑い/神妙になり」「おれたちって/バカみたいだぜ。」しかし此の
無目的な私たちの行為を3人の哲学者は「大いなる遊戯」「判断中止」「言語ゲーム」と言
つた。生きてゐることは遊戯であつて、生きることに目的はない。私たちは幻を見、夢を見
てゐるのだ。この私の今ゐる宇宙の「無限大のスープ鍋の持ち主が」誰かは知つても良いし、
知らなくても良い。何故ならば「時というものを、おれたちの言葉で喩えることはできない」
からだ。時は隠喩(メタファー)足り得ず、換喩(メトニミー)足り得ず、提喩(シネクド
キ)足り得ない。それは、詩人の能力を超えてゐる何かである。そのやうな人間の言語能力
を超える「透明なスープの中」の私たちの日常生活の、現実只今の此の時間とは、次のやう
なものである。

(D):現実只今のこの時間
「いま、秋は色づき
 落ちた庭の胡桃(くるみ)をわが妻は拾い
 書斎の俺は 書きかけの詩を中断するのだ…… 」

『大いなる正午』(『時の波堤』改題)の終はりも同様に次のやうになつてゐる。

「夢想――
 それは大いなる哲学の、幻夢だったのだろうか。ヒトは、ありきたりの平凡な土木技師に
戻っていた。
 今、彼は岡の上に立ち、緑なす地上の山河に対峙している。
 ――やがて、男はゆっくりと彼の住む街に向って道を下りはじめた。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻』203ページ)

安部公房にも最初が最後に戻るといふ作品は、topologyといふことから当然ながら多々あ
るわけですが、荒巻義雄の詩も小説も、安部公房の詩と小説と同じく、最後に最初に回帰す
るといふ性質を備へてゐます。これを話法(mode)で説明をすれば、

作者(a)>話者(b)>話者の語る物語(c)

といふ三階層をなす話法の普遍的な形式に於いて、(c)まで行つた物語が(a)に回帰したとい
ふことです。あるいは(b)に回帰したといふことです。今思ひつくままに名前を挙げれば、安
部公房の『牧草』『燃えつきた地図』『方舟さくら丸』、芥川龍之介の『杜子春』などを思
ひ出します。別にtopologyを持ち出さなくとも、もつと様々な作品がある筈です。安部公房
ならば『終りし道の標べに』でいふ「現存在」のことを、詩人は最後に語つてゐるのです。
しかし、若き安部公房は人生の最初に詩人であることを主張して生きたので厳しい思弁によ
る哲学用語を用ゐる事になりましたが、しかし、荒巻義雄は古希を過ぎて自分が詩人である
ことを宣言することができたがために、後者の「現存在」は、存在を歌つたあとでも、今色
もぐら通信
もぐら通信                          ページ38

づいた秋の中で静かです。

現実の時間の中では、季節は秋であり、春夏秋冬と四季は巡る、庭の胡桃は実をつけ、詩人
が書斎で描きかけの詩を中断するのは、「timeは潮」だからなのか、「chronos――円環す
る時」だからなのか、時を名付けることは、私はできない以上、沈黙する以外にはなく、詩
人は書きかけの詩を中断して、後は、最後の「……」に委ねる以外にはないことが示されて
詩は終はる。忘却と想起の記号の中に、即ち余白と沈黙の中に、私たちは本来生きてゐる。

最後に、遍在する母なる存在といふ汎神論的存在論による形象を暗示する、この詩人のゴシッ
ク体の文字が、メタSF理論としては一体何を意味するのかを、この詩人の処女評論『術の
小説論―私のハインライン論』より、当該ゴシック体で書かれてゐる箇所のみを以下に引用
して、この作家の宇宙を想像されたい。

(1)「 術 をもってSFの本質とする」。
(2)「SFにとって倫理とは、時代と環境に相関する一つの約束事にすぎない。」
(3)SFを手段として解決していく、「すなわち倫理の地平から湧きおこってくるさまざま
な矛盾を、科学の論理や成果を武器として、合理的に解決していく」、この思索の過程こそ
SFではないのだらうか。
(4)「いったんSFの方法論を作家が体得した場合、文学のあらゆる主題すらもSFにおい
て書きかえられるのではなかろうか……。」
(5)「僕たちは、事実的問題を前にして既成の知識をいかに適用するかを考える。」
(『定本荒巻義雄メタSF全集第1巻』)

上記(5)の後で、現実にある科学と科学的な産物をS派(科学主題派)とF派(幻想小説
派)の違ひを論じた後に、これら(1)から(5)のことを一言で、どちらをも含み、それ
らを超える第三の小説としてのSF、「すなわち、本来は、形而上学的主題ともいえそうなも
のが、形而下的レベルにひきずりおとされる。そして、この白日化への技法がSFの方法なの
である。」と主張するのである。このeither-orの否定の論理は、実に安部公房に通つてを
ります。AでもなくZでもない、(自分の身を捨てて)第三の客観を求める事。

これは、成城高校生の時代の18歳の安部公房ならば「問題下降」といつた方法論であり、
長じて作家となつたとあとにSFの領域では、SFは仮説設定の文学であると言ひ、『仮説の
文学』といふ短いエッセイの中で次のやうに言つてゐます。

SFとは「仮説を設定することによって、日常のもつ安定の仮面をはぎとり、現実をあたらし
い照明でてらし出す反逆と挑戦の文学伝統の、今日的表現にほかならないのである。」(全
集第15巻、238ページ下段)

安部公房らしく、また安部公房らしくなく、伝統といふ言葉を、SFの世界についてならば
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

云ふのです。

これはまた、巽先生の編まれた『日本SF論争史』の中でいふ、石川喬司が「戦略的SF論」
(福島正実編『SF入門』1965年/207ページ/早川書房)のなかで、「SFの効用は〝日常
生活への衝撃〟にある」(216ページ)と言っているのと同じことです。

「余人の知らぬ秘密の辞書を使い、謎めいて詩を書く楽しさを晩年の歓びとしたい。」「詩
の使命は〈存在の秘密〉に迫ることである。」と、この詩集のあとがきである「覚え書き」
で語り、この秘密は散文では叶はず、やはり詩による以外にはないと考へる詩人であります
ので、この私の散文では「〈存在の秘密〉に迫ること」は諦め、せめて詩人〈荒巻義雄の秘
密〉に迫ることで満足する事に致します。
もぐら通信
もぐら通信                          40
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(8)

∼安部公房をより深く理解するために∼

岩田英哉

VIII

NUR im Raum der Rühmung darf die Klage

gehn, die Nymphe des geweinten Quells,

wachend über unserm Niederschlage,

daß er klar sei an demselben Fels,

der die Tore trägt und die Altäre. ―

Sieh, um ihre stillen Schultern früht

das Gefühl, daß sie die jüngste wäre

unter den Geschwistern im Gemüt.

Jubel weiß, und Sehnsucht ist geständig,

nur die Klage lernt noch; mädchenhändig

zählt sie nächtelang das alte Schlimme.

Aber plötzlich, schräg und ungeübt,

hält sie doch ein Sternbild unsrer Stimme

in den Himmel, den ihr Hauch nicht trübt.

【散文訳】

賞賛することという空間の中でのみ、悲嘆は行くことが
ゆるされる。悲嘆とは、涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフであり、
わたしたちの落下が、門を担い、祭壇を担っている同じ岩のところで、
清澄であると思って(清澄であることを)見張っているのだ。

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは
自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

歓喜は知っているし、憧憬は告白するが、
しかし、悲嘆だけがまだ学ぶのだ。
悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、
娘の手で数えている。

しかし、突然、斜めに(まっすぐではなく)、
そして未熟に(手際よくなく)、
悲嘆は、その息が曇らせることのない天の中へと、
わたしたちの声の星座を掲げて保つのだ。

【解釈と鑑賞】

前回読んだソネットVIIでよくわからなかった、

腐敗の王たちの墓穴の中では、賞賛することが嘘であるといって
オルフェウスを責め、罰することはないし、また
神々から一つの影が落ちて来るからという理由で、
オルフェウスを罰することはないのだ。

という連の、腐敗の王の墓穴でなぜオルフェウスは責められないのかというところですが、ソネッ
トVIIを読むと、オルフェウスは、賞賛する者として歌われていて、その象徴として成熟した果
実を鉢に抱いている姿として歌われています。

生きているもの、生命あるものは、この世では腐敗しますから、そのような王たちのところに
行って、そうして死者でもある(生命のない)王たちのところへ行って、豊かな果物を持ち、そ
の素晴らしさを歌っても、オルフェウスの場合には、決して、そんなことを歌っていても、いづ
れは生あるものは腐敗するだといって呵責されないといっているのだと思います。このように読
みたいと思います。それが、オルフェウスの竪琴と歌声のなす音楽の力、聴力に訴える力なので
しょう。

またこうして考えてみますと、同様によくわからなかった、最後の連、

オルフェウスは、死者たちの戸口の中に、
もっとずっと中に入っていって、賞賛に値する果実を盛った鉢を
手に持っている、留まる使者のひとりなのである。

という連も、成熟した果実とは反対の世界にいる死者たちの中に、上に述べた腐敗の王たちの
もぐら通信
もぐら通信                          42
ページ

中でも非難されないということと同じ理由で、臆することなく入っていけるオルフェウスの姿を
歌ったものと解釈することができると思います。もっとも、死者たちという言葉は、リルケの場
合には注意が必要で、生の反対の存在とはいえ、オルフェウスのように「留まる使者」には、極
く近しい存在だということは留意しておく必要があると思います。

さて、ソネットVIIIに参りましょう。このソネットVIIIでも、さらに、引き続き、前のソネット
の賞賛という主調を受けて、賞賛の空間という言葉から始まります。

【解釈】

まづ、賞賛すること、ということを空間だとするリルケは、いつものリルケです。この詩人にとっ
て、言葉の意味とは、ひとつの空間に他ならないのです。悲歌の世界を読み、慣れると、この出
だしは、すんなりと入ってきて、驚くことはありません。

そうして、リルケが空間といったならば、既に今までソネットIIIとソネットIVで見てきたよう
に、Hauch、ハオホ、息と関係があるのでした。そのように、まさしく、このソネットのさい
ごの一行に、Hauch、ハオホ、息が出てきます。

さて、最初の連で、悲嘆が出てきます。この悲嘆は、「涙を流し泣かれた源泉の精、ニンフ」と
言い換えられています。これは、泉、源泉があって、それが泣かれるという言い方なのですが、
泉が泣かれるとは、誰かが泣いた涙が泉の水となって、そこから流れ出るような、そのような泉、
源泉という意味です。その泉の精が、悲嘆と呼ばれているのです。そのような泉であり、泉の精
であれば、そのニンフの名前は、悲嘆の名にふさわしいということになるでしょう。

そうして、このニンフは、「わたしたちの落下」を見張っているのです。わたしたちは、泉から、
泣かれた水として激しく落下する水の流れなのです。(Niederschlagという言葉の意味からして、
わたしたちは望んで落ちているのではありません。)そうして、泉の精は何を見張っているかと
いうと、わたしたちの落下が、同じ岩のところで、清澄であること、清らかであることを見張っ
ているというのです。時間の中で流れるわたしたちの生の一瞬一瞬がklar、クラール、清らかで
あることを見張っているのです。

岩が不易を意味することは、既に悲歌2番の最後の連で、言葉は別ですが同じ岩(Gestein、ゲ
シュタイン)として歌われ、流行であるStrom、シュトローム、流れと対比させて歌われていた
ことを思い出しましょう。詩人という人間は、必ず概念化をしますので、仮に時間の中でバラバ
ラに詩を書いているように見えていても、言葉を立体的に使って作品を構築するものですから、
詩人は無意識にでも、そうする者なのですが、リルケの場合は、明らかに意識的にそうしてい
ます。しかも、悲歌とソネットは同じ時期を重ねて詩作されている。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ43

また、klar、クラール、清らかなという形容詞は、ソネットIの動物たちの棲む森の形容詞でも
ありましたし、ソネットIIで、乙女の姿を形容する副詞として出てきたことを思い出しましょう。
これは、rein、ライン、純粋なという言葉と相当程度意味の重なる言葉として出てきているよう
に思います。Rein、ライン、純粋なという言葉も、リルケ好みの言葉でした。

さて、そうして、その、流れの清澄度を測る定点である動かぬ岩は、門(複数)と祭壇を担って
いると歌われています。前者の門、ドイツ語では、Tor、トア(英語のドアです)といいますが、
これを見て反射的にわたしが連想するのは、町の門です。ドイツの町は城壁に囲まれていて、中
世の姿をしていますが、東西南北に門、城門がある。後者の祭壇は、寺院を連想させます。この
ように考えると、これらふたつの言葉は、世俗の社会と、神聖な世界のふたつを指し、いづれ
をも、この不易の岩が担っていると解釈することができます。さて、次の、

見てごらん、ニンフの静かな両肩の周りには、こころの中に住む姉妹のなかでは
自分が一番年下で若いと思っている感情が、早々と萌(きざ)している。

というこの行は、何を歌っているのでしょうか。

これは、次の連との比較で読むと、歳が若くて、年下で、何もものごとを知らないという嘆きの
(悲嘆の)感情だということがわかります。この泉の精は、そう思って、嘆いているわけです。

しかし、話者は、ただこの泉の精を嘆かせているだけではありません。Fruehen、早くに萌す
という動詞を使って、その本質的な重要性を表わしています。Frueh、フリュー、早くにという
言葉は、リルケ好みの言葉であって、宇宙の創世の初期、ものごとの叢生の初期、人間の子供の
ころという初期を、初期という初期をリルケがどんなに大切に思っていたかは、悲歌を通して歌
われていた通りです。実は、fruehen、フリューエン、早く萌すという動詞は、ドイツ語にはな
く、これはリルケの造語です。

ですから、このまだ未熟だという泉の精の感情、こころは、決して消極的なものではなく、深
い意味のあることなのです。こう考えてみると、リルケが、「ニンフの静かな両肩の周りには」
と歌ったところで、still、シュティル、静かなという形容詞にも、この語を選んだ必然的な理由
が伺われます。沈黙は、今まで読んだソネットの中でも、何か大切なものが生まれてくる場所で
したし、前のソネットVIIでも、石の沈黙から、賞賛者としてのオルフェウスは生まれて来るの
でした。ですから、このように、賞賛の空間では、沈黙に類する言葉が出てくるのでしょう。

しかし、何故、肩なのでしょうか。これは、前の行に、岩が門と祭壇を担うとあるからでしょ
う。泉の精は、まだその足りなさゆえに、門と祭壇を担うようにはできないのです。あるいは、
それの相当する、泉の精としての仕事を担うことができないのです。
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もぐら通信                          ページ 44

さて、次の第3連では、泉の精、すなわち悲嘆は、姉妹のなかで一番未熟な年少者ゆえに、まだ
学ぶものとして歌われています。これは、この詩行の通りの理解でよいのではないかと思います。
ただ、悲嘆といい(同じ悲嘆という擬人化された名前は、悲歌10番にもでてきます)、歓喜
と憧憬といい、リルケは、よくこのような擬人法を使用します。しかし、わたしは、これは単な
る修辞的な擬人法ではないと思っています。これは、もっと中世的な、言葉に対する考えと姿勢
から生まれてくるものではないかと思っています。このことと、リルケが空間ということとは密
接な関係があると思います。それは、ひとことでいうと、自分の言葉の体系を極めつくした者だ
けが辿り着く、概念化の極地だということです。

悲歌に限らず、リルケが何故天使に惹かれ、天使の歌を多く歌っているのかは、興味のあるとこ
ろです。

さて、最後の連ですが、「斜めに(まっすぐではなく)、そして未熟に(手際よくなく)」とい
うのは、この泉の精が、まだ一番若く、そういう意味では未熟だということを表わしているのだ
と思います。慣れていないのです。しかし、オルフェウスの賞賛の空間では、このような振る舞
いも、このソネットの冒頭にあるように、ゆるされてあるのです。

そのようにあるものであれば、泉の精の吐く息は、それが息、空気、空間であることから言っ
て既に、天を曇らせることはないことでしょうし、そのような天の中へと、「わたしたちの声
の星座を掲げて保つ」ことができるのでしょう。

また、「突然に」とは、ploetzlich、プレッツリッヒとは、悲歌の中でも特別な意味を持つ副詞
でした。このリルケ好みの言葉については、悲歌の「天使論」(2009年7月4日:http://
shibunraku.blogspot.jp/2009/07/blog-post.html)で、空間との関係で論じましたので、それ
をご覧ください。ここでも、ploetzlich、プレッツリッヒ、突然に、このような一種の奇跡は、
時間とは無関係に現れるのです。

わたしたちがオルフェウスに歌を教わるのか、またはオルフェウスの歌声を聞いて何かを悟るの
かは、それぞれの場合があるでしょうが、いづれにせよ、そうやって発声せられた「わたしたち
の声」が、天の星座となるほどの力を、この泉の精のあり方は、持っていると詩人は歌っている
のだと思います。これは、オルフェウスに匹敵する、オルフェウスの力に均衡する力です。(こ
う考えてくると、「悲嘆は、夜通し、古い、昔の悪いものを、娘の手で数えている。」とは、こ
の泉の精が、未熟で苦労をしている刻苦勉励の姿だと理解することができます。)

こうしてみると、悲歌10番の悲嘆も、このような理解の仕方から、もう一度読むことは、意味
のあることではないかと思います。何故、それが悲嘆の一族であり、それはかつては栄耀栄華を
極めたが、没落しているのかという問いに答えてみるということになります。この問いに答える
ことで、悲歌10番の意味も、わかるかも知れません。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

【安部公房の読者のためのコメント】

(1)褒め称へるといふ行為は、表立つてはをりませんが、安部公房の文学の根底にある行為
であり、また感情です。存在を褒め称へる。賞賛といふ空間を再帰的に賞賛する。しかし此の感
情は、『終りし道の標べに』のエピグラフにあるやうに、金山時夫の死によつて、存在の中へ
と消えて行つた親しき友への追悼と愛惜の念と分かち難い、安部公房独特の感情へと一層、こ
の時変質してをります。

(2)この詩の悲嘆の泉は、泉といふ形状からいつても、安部公房ならば凹といふ窪みの形で
ありませう。この窪みは存在の宿る窪みであり、その力は尽きることがない。『終りし道の標
べに』の冒頭に主人公が粘土屏に手形を押して付ける。この、自分が今現に此処に生きてゐると
いふこと(現存在)の証である凹を、目前にいつも壁のやうにある現実を削り、存在といふ尽
きせぬ泉の水を招来する事、また水といふ存在の形象を創造する事、これが安部公房の仕事で
もあつたのです。さうして、この仕事は、いつも悲嘆といはれてゐるやうに、悲しみを伴なふ仕
事なのです。これをユーモアを以つて笑ひに変へることが、安部公房の仕事でした。

水と共に、リルケに学んだ風もまた存在の象徴的形象でありました。それ故に、気づかぬやう
にして、登場人物のだれかれは笛を吹き、また笛の音のやうな音が立つのです。人さらいの前触
れである救急車の甲高いサイレンの音もまた、この笛の音の一種であると、このやうにリルケと
の関係を考へますと、知られることに至ります。

(3)「突然に」とは、ploetzlich、プレッツリッヒとは、時間とは無関係に何かが現れ、成る
事をいふ、リルケの其のやうな明瞭な意識を以つて使はれる言葉でありました。リルケの天使
は「突然に」現れてゐて、「いつの間にか」「どこからともなく」その空間の其処にゐる。接続
の機能を持つリルケの天使の此の無時間の接続もまた、文学的には安部公房が深くリルケに学
んだ事は、作品の中の段落と段落の間の余白や、一文字分の余白としても、同類の副詞を使ふ以
外に、表してゐることは、これもまた諸処で論じた通りです。

(4)「悲嘆」といふ言葉を単なる擬人化の方法といふのではなく、それ以上の言葉の意味と
して生きてゐる概念として表はすには、解釈と鑑賞で述べましたやうに「もっと中世的な、言葉
に対する考えと姿勢」を必要とし、これは厳しい修練の果てに「自分の言葉の体系を極めつく
した者だけが辿り着く、概念化の極地」なのです。これは洋の東西を問ひません。『密会』の冒
頭から登場する、「馬」でもなく『馬』でもない、地の文に馬と書かれる副院長が其の典型的
な例です。
もぐら通信                         

もぐら通信 46
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ47
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キャニール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信
● 『密会』の書き捨て原稿に描いた安部公房の落書き(1/3):安部公房の落書きは読者に ページ 48
も初お目見えではないでせうか。安部公房、原稿書きながらこんな絵を描いてゐたのかと思ひ
ます。しかし安部公房らしいユーモラスで奇怪で魅力的な絵です。許諾くださつた安部ねりさん
に感謝いたします。● 詩『プラン』『違い』:柴田望さんにご寄稿を戴きました。『違い』
の笑ひと『プラン』の真剣。ゲーテの箴言で「人生は厳粛、藝術は明朗」( Leben ist ernst,
Kunst ist heiter )といふ言葉を思ひ出しました。学生の頃ドイツ料理の店の壁に掛かつてゐた
ものです。●安部公房はいつまでSFの世界と交流があったか:安部公房の帯文の載つてゐる山
野浩一さんの初作品集の表紙の写真は荒巻義雄さんに戴いたものです。貴重な写真で、お礼を
申し上げます。『箱男』を出した年の小松左京との対談を読みますと、SFの世界の作家とは相
当に親しい。誰か此の方面から論じてくれる論者がゐるとありがたい。多分SFの世界の読者で
ありませう。●山椒魚ともぐら∼井伏鱒二の形代(かたしろ)と安部公房のtopology∼:井伏
鱒二の詩に接する機会があり、一気に自然に生まれた作文です。日本人である私たちの、この
日本語による表現の深層古層に一体何があるものか、興味津々、思ひだす以外にはありません。
プラトンのいふ通りです。●荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(4):「タイムズ スー
プ」:萩原朔太郎の確立した口語自由詩は既に行き詰まつて袋小路に迷い込んでおりますが、
しかし袋小路であるならば、これをメタSFの世界で此の詩人がしてゐるやうに、袋を
topologicalに変形させれば幾らでも言葉も形象(イメージ)も湧いて出てくるだらうにとさう
思ひます。人間は怠惰だ。これは10歳に満たないショーペンハウアーの言葉です。●荒巻義雄
第一詩集『骸骨半島』を読む(4):「タイムズ スープ」:口唇の食感とスープやポタージュ
や、といふのが此の詩人の宇宙の素材であり動機です。この感覚が抽象的な概念と連続してゐる
といふところが、素晴らしく、論じがいがあるのです。●リルケの『オルフェウスへのソネット』
を読む(8):安部公房との関連もまたコメントすることができました。どれをどう読んで、
安部公房になつたのか。その藝術家の本質を学ぶといふことは実に難しいものがあります。よ
く言はれることは守破離でありますが、まづ教へを学ぶことが難しい、次に教へを守ることが
難しい、それに加へて更にこれを破り捨て、新たに独自のものを創造するだけの離れ(距離)
に至るには、並大抵の努力ではない。しかし安部公房の読者であるあなたにをかれては、独自
の道を行き、独創的な人生を歩んでもらひたいと願ふ。あなたの人生といふ時間は二度繰り返
すことはない。教師や上司や社長のいふことを聞くな、それではあなたの人生はない、前の人
間たちと同じことをしても何も新しいものは生まれない。といつたのはソニーの創業者盛田昭
夫さんです。全く同感。その著書の名は『学歴無用論』1960年代のベストセラーです。
●ではまた次号。
差出人:
次号の原稿締切は7月28日(金)です。
贋安部公房
次号の予告 ご寄稿をお待ちしています。
〒 1 8 2 -0 0 1。フェルメールの部屋
03東京都
調布
市若葉町「 と安部公房の部屋
閉ざされた
無 2。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝
限」
3。三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
4。安部公房の逆進化論:種の起源未来縁起説:超越論的『種の起源』
5。荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(5):エリオット氏に捧げる死
6。メタSF文学と俳諧
7。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(9)
8。言葉の眼12:メイド論とSFと安部公房
もぐら通信
もぐら通信                          49
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
覧いただけるとありがたく存じます。(順 その共有を喜びとするものです。
不同) 
4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池 もぐら通信の編集及び発行を行うもので
田龍雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治 す。
様、宮西忠正様(新潮社)、北川幹雄様、
冨澤祥郎様(新潮社)、三浦雅士様、加藤 【前号訂正】
弘一様、平野啓一郎様、巽孝之様、鳥羽耕
P33:『安部公房文学メタSF論∼記号と
史様、友田義行様、内藤由直様、番場寛様、
文字のtopology∼』:第3段落:
田中裕之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマ
「医師」を「意志」に訂正
ザキマリ様、小島秀夫様、頭木弘樹様、 高
旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、藤沢美
由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝日
新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田
晋哉様(読売新聞社)その他の方々

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、日本近代文学館、
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處 
 にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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