世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2018年2月1日 第65号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
事件それ自体は大した問題ではなかった。簡単に言えばありふれた過失致死罪、いや、
あな
ない
迷路 あ
ただ を通 単なる過失か或いは妄想にしか過ぎなかった。 
けの って
番地
に届
きま 『牧草』の最初の二行

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               目次
0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 『密会』の書き捨て原稿に描いた安部公房の落書き(3/3):安部公房…page10
3 寒冷地の食物:安部淺吉…page 12
4 渡辺三子さん追悼:東鷹栖安部公房の会 柴田望…page 16
5 山椒魚ともぐら(2) ∼祖父と孫、父と息子の話∼:岩田英哉…page 21
6 旅と鎮魂の安部公房文学:岩田英哉…page 32
7 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(10)∼安部公房をより深く理解するた
めに∼:岩田英哉…page 53
8 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 56
9 編集後記…page 59
10 次号予告…page 59

・本誌の主な献呈送付先…page60
・本誌の収蔵機関…page 60
・編集方針…page 60
・前号の訂正箇所…page 60

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

安部公房の従姉妹である渡辺三子さん御逝去

安部公房の従姉妹である渡辺三子さんが8月1日(火)18時20分、心筋梗
塞にて亡くなられたとのことです。ご家族葬にて、同日通夜、翌日出棺の儀が
執り行はれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

1。今月の安部公房ツイート BEST 10

ole
en M いしゃどう @hito_genom 7月27日
Gold
Priz
e 安部公房っぽいな

ole
M
r
ve
Sil e
iz
Pr

あらた @arata_feast 7月24日
平沢進は論理空軍という単語でしか知
らないし安部公房の密会も読んだこと
無いいずれ読む

藍鼠 @indigo_mou5e 7月29日
声に出して読みたい日本語ってやつ、ずっと理解はしても共感はできなかったの
だが、安部公房の壁を読んでようやくその感覚を体感できた。この文のリズムは
本当に美しい。自然と音読してしまう。

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岡村 直 @Nao0000Okamura 7月23日
父が読書好きだった。本棚には松本清張と横溝正史と筒井康隆と宮沢賢治の文庫本
が多かった。あとは森村誠一、椎名誠か。でも本人いわく「安部公房が断然いいね」
と。 #これを見た人は本を読み始めたきっかけを語らねばならない

助手席ウンコ @msadralapse 7月24日
なんか臭いと思ったら、助手席に 安部公房 のウンコが座ってた... https://
tr.twipple.jp/y/10/44/%e5%ae%89%e9%83%a8%e5%85%ac%e6%88%bf.html …

ミーちゃん @ichihara_mina 7月24日
もう一週間出てない... 安部公房 の顔に思いっきりクソをひり出してやりたい
https://tr.twipple.jp/y/10/44/
%e5%ae%89%e9%83%a8%e5%85%ac%e6%88%bf.html …

2。今月の安部公房の声
ホッタタカシ @t_hotta 22時間
22時間前
安部公房が参加した、第48回国際ペン大会(1986)のセッションの音声録音が全
編公開されています。出席者はG.グラス、C.シモン、J.アップダイク、M.バルガス=
リョサ、J.M.クッツェーなど。安部の発言は1h13分ごろから。
https://archive.pen.org/asset?id=54

T. Hashimoto @biotit 8月2日
返信先: @biotitさん
これは本当にすごくて、例えば1986年の国際会議で各国から14人の作家が議論す
る回は、ギュンター・グラス、バルガス・リョサ、クッツェー、アップダイク、安部
公房といった面々だ: https://archive.pen.org/asset?id=54

3。今月の上演
ステージナタリー @stage_natalie 20時間
20時間前
安部公房「砂の女」が高野志穂&綱島郷太郎の二人芝居に http://natalie.mu/
stage/news/243853 …
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笛井事務所さんがリツイートしました

髙橋初香(ザレ ゴト) @19932410 7月29日
チラシデザイン公開です!

【愛の眼鏡は色ガラス】
原作:安部公房
演出:山崎洋平(江古田のガールズ)
@あうるすぽっと
9月15∼17日

よろしくお願いします!

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4。今月の映画
人文書院 @jimbunshoin 7月25日
ラピュタ阿佐ヶ谷にて特集上映「アヴァンギャルド・ニッポン 安部公房 勅使河原
宏」が8/19まで開催中。弊社『戦後前衛映画と文学 安部公房 勅使河原宏』(友田
義行著)もぜひ。http://www.laputa-jp.com/laputa/program/abe_teshigahara/
… http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b99288.html …

5。今月の箱男
加藤升巳・づら丼 @duradon 7月28日
次回の水曜日のダウンタウンは安部公房先生の箱男っぽいhttp://wb2.biz/fUe
朝日奈央さんも出るっぽい 今日は飲み過ぎと暑さで一日家明日は河瀬直美監督のあ
んを見に行くか千早の夏祭箱崎宮の夏越祭に行くか

6。今月のR62号の発明

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7。今月の論文
雑学系論文bot @kumagaikazuhimi 7月29日
安部公房論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007025818 … #文学

CiNii 論文 - 安部公房論
安部公房論 和田 勉 九州産業大学国際文化学部紀要 37, A1-A14, 2007-09
ci.nii.ac.jp

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月28日
『他人の顔』--変貌する<世界> (特集 安部公房--ボ-ダ-レスの思想) -- (作品の新しい顔)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40001343312 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月28日
安部公房『他人の顔』論 : 自己疎外と加工された顔 http://ci.nii.ac.jp/naid/
120005942791 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月27日
地図と契約--安部公房『燃えつきた地図』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40016907083 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月25日
安部公房『第四間氷期』--水のなかの革命 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005481595 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月25日
流動と反復--安部公房『砂の女』の時間 http://ci.nii.ac.jp/naid/40006048786 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月24日
所有の始原 : 安部公房「赤い繭」論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007506049 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月24日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://ci.nii.ac.jp/
naid/120005851876 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月23日
メビウスの輪--安部公房「砂の女」 (特集 脇役たちの日本近代文学) -- (脇役28選)
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http://ci.nii.ac.jp/naid/40005656921 … | www.abekobosplace.blogspot.jp
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詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月23日
地図と契約--安部公房『燃えつきた地図』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40016907083 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 7月23日
安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40001291768 …

8。今月の東鷹栖安部公房の会の活動
8月3日(木)の北海道新聞夕刊(マイたうん旭川)に、東鷹栖安部公房の会が8月1
日(火)に安部公房の通つた近文第一小学校で開催した作品読み聞かせの様子が大き
く掲載されました。

「集まった同校の児童ら約30人は、安部さんの作品の不思議な世界観に引き込まれ
ていた。」とのことです。

同会の柴田望さん曰く、同日に亡くなられた渡辺三子さんも、これからの若い世代に
安部公房作品を伝えていくことを望んでおられました。とのことです。

8月26日(土)に、東鷹栖安部公房の会による「安部公房の戦後作品を読む」と題
し、北海道教育大学名誉教授片山晴夫氏による特別公演が行われます。開催要領は下
記のポスターの通りです。

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東鷹栖安部公房の会の柴田望さんが、詩集『黒本』を刊行しました。AMAZONより
購入可能です。

もぐら通信に掲載した作品や、今年行った安部公房作品朗読会の様子を題材にした作
品も収録してゐます。お求めは::https://goo.gl/cK6aPf

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『密会』の書き捨て原稿に描いた
安部公房の落書き
(3/3)
安部公房

安部公房の落書きは、やはり一筆書きです。小説と同じくtopologicalです。
前回までは「粘土塀」または「壁」である『密会』の原稿用紙を齧つて、これを削
つてゐる図であつたものを、この何者かは小説の中身を蹴つ飛ばしてゐる、やうに
見えますが、如何。
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落書きの線が、pdfに変換するとぼやけてしまつてをりますので、改めてブログ「安
部公房の広場」に上掲しました。この方が線の輪郭は明瞭です。以下のURLにてダ

ウンロードすることができます。

1回目:
https://abekobosplace.blogspot.jp/2017/06/blog-post_82.html
2回目:

https://abekobosplace.blogspot.jp/2017/07/blog-post_30.html

今回の三つ目の落書きもブログに上掲しました。

3回目:

https://abekobosplace.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html
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ページ

寒冷地の食物

安部淺吉
奉天市大和區紅葉町

 生物は氣候風土によつて棲息範圍が限定せられて居る。人類に於いても矢張り或る人種
は熱帶に適し、或る人種は寒帯に適してゐる。然し文化の程度の高いものは知識と經驗を
以つて自然を克服して――若し自然を克服するといふ言葉が不遜であるといふならば自然
に順應してと云つても好いが――出生地のそれと非常に異なつた氣候風土の土地にもよく
生活し得るものである。
 この風土適應の問題は勿論衣食住の三方向があり、更に寒冷地の民族が暑熱地に移住す
る場合及びこれと反對の場合、海岸の住民が大陸に移住する場合及びこれと反對の場合等
があつて簡單な問題ではない。
 大和民族は現に北は樺太、北滿から南は臺灣、南洋諸島に至るまで住んで居り、暑熱に
堪へる點に於ては白人に優り、慣例に耐へる點に於て黑人に勝つて居るから、暑熱に對し
ても寒冷に對しても極めて適應生に富んだ民族だと云ふことが出來る。又極めて勤勉で困
苦缺乏にもよく堪へるのであるが、保守的で何處まで行つても白米と刺身と疊(たたみ)
がなくては落付いた氣持になれないといふ根强い半面を持つて居るといふことも否定出來
ない。大和民族の風土適應問題が今日程大きく浮び上がつたことは嘗てないことであつて、
東亞共榮圈確立といふ世紀の大業の成否も畢竟するに懸つて此の點に存するのである。
 筆者に與へられた題目は「寒冷地の食物」といふのである。寒冷地の食物などゝ云へば
何だか北極人種の食物のやうにも聞えるが、出題者の意圖はそんな所にあるのではなく、
大和民族が北部大陸に移住した場合如何なる食生活をなすべきであるかといふ點を述べさ
せようとするにあると信ずるので、滿洲特に北滿に於ける合理的食生活竝びにこれが基礎
をなす農業形態に關して若干卑見を述べたいと思ふ。

 機械文明の進步發達につれて從來全く不可能事と思はれてゐたことが可能となることが
少くない。問題を食物に限定して考へて見ても、昔は新鮮なる食物はその產地に於て、し
かも一定の季節にしか賞味することが出來なかつたのであるが、冷藏法及冷凍法の進步と
交通機關の發達した結果、遠隔の地に於てしかも時を選ばず却つて產地の市販品より新鮮
なる狀態に於て賞味出來るやうになつたものもある。又新鮮度さへ問題にしなければ罐詰、
壜詰、鹽藏、燻蒸、乾燥及これ等の 用により多數の食品が安全に長期の保存に堪へ且つ
輸送上便利な製品となつた。これがため季節的過不足と地方的偏在を防ぎ、吾人の食生活
を經濟的にし又豐富にもして吳れた。さり乍ら資本主義的自由主義は徒らに衆愚の末梢感
覺的嗜好におもねり種々の弊害を伴つて來たことも事實であるから、行き過ぎの點は此際
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は十分檢討し正しい軌道に乘せねばならぬ。卽ち、將來大東亞共榮圈が確立し、南北山海
の食品が選擇自由の曉に於ても、若干の嗜好品は別とし主たる食糧は現地產を用ふ可きで
あり、各地に於てはその氣候風土に最も適した農業を營み、その產物の合理的消費法を硏
究し、最後に思考をこれに馴致せしむる方針を堅持すべきであつて、單に原住地に於て獲
得した嗜好を主として無理なる農業形態を採用する事のなきやう嚴に誡めねばならぬ。

筆者は昭和十三年(当時満洲医科大学栄養科長)日本学術振興会第二十八小委員会の依嘱
を受け北満に於ける農業開拓民の食物を調査して報告(満洲医学雑誌第三十六巻第六号昭
和十七年六月十一日発行)したがその第六章第二節「食料問題より見たる開拓民農業形態
の考察」に於いて次のやうに述べた。
 「今回調査した所は入植後相当の歳月を経てやつと大地に根を下したといふ時期の開拓
民である。勿論真の成長発展はこれからであるが、此時期には比較的入植当時の熱意が停
滞することが多い。食物の方でも勿論真の軌道に乗るのはこれからである筈だが、将来特
別の指導をしなければ内地の延長に終るに違ひない。農家経済といふものは自給自足を主
眼とすべきものであるが、特に食物に於ては此の原則が一層重要視されねばならぬ。従つ
て将来の食生活の指導は満洲の農業形態と睨み合わせてその方針を確立する必要がある。
 満洲農業は従来北支からの移住者及び出稼人によつて量的には急速に発展したが質的に
は滿鐵、北鉄両会社の農業試験場が農事の改善に多大の功績を挙げたにも拘らず、一般満
洲農民はその埒外に在り何ら科学的進歩の見るべきものがなかつた状態である。然るに開
拓事業の創始以来此方面に深き注意が向けられ、満洲農業は嘗て見ざる質的変化を起そう
として居る。
 満洲に於ける農業經營に就いては猶幾多検討の余地があるが、有畜乾燥農業を以つて最
適とすると言ふのが専門家の一致した意見である。にも拘らず今尚水田造成意見が相当強
いのは、現地に於ける直接指導者が米作を太宗とする内地の直輸入で満洲農業の経験がな
いことと、邦農の米に対する傳統的愛着心との然らしむる所である。然し乍ら満洲に於け
る米作は決して内地同様有利ではない。此點は開拓地の食料政策決定上極めて重要問題で
あるから、若干卑見を述べて置きたい。
 元来農業といふものは極めて着実な職業であると同時に一面又極めて大なる投機事業で
ある。即ち農業には自然的環境の支配が絶対的で一度干害、水害、冷害、虫害等に会へば
平成如何なる努力を払つても総てを失ふ場合が多いが、気候の順調な時は少い努力でも相
当の収穫を得る。殊にアメリカの如く高度資本主義によつて広い面積に単一作物を専門的
に耕作する大農経営の場合に此傾向が強い。
 日本に於いては小農であり乍ら作物は米作一本槍である。此農業政策は地域的には相当
危険性を孕みつゝも全国的には比較的安全であり、且小面積に大人口を養ひ得るので全幅
的支持を受けて居るのである。即ち日本は降雨量多く地勢も感慨と排水に便であり、地理
的、気候的に雨は南は熱帯より北は亜熱帯に及び、気候の変化に富んで居る。此等の諸条
件は稲の作付に適当な許りではなく、全国一斉に干害、水害、冷害、虫害等を蒙ることも
亦稀である。のみならず、日本に於ける作物中単位面積から最も多くの熱量を生産するも
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のは米と甘藷であるが、主食物としては米の方が遙かに優つて居る。かゝる理由で日本で
は米作を大宗とし米を主食物として居るのであるが、斯くのごとき多量の收穫を擧げつゝ
ある理由は永年に亙る科學的硏究と農民の勤勉熟練と過剩とも思われる位充分なる農業勞
働力を保有して居たことによるものである。此等の諸條件は北滿に於いては其趣を異にす
る。第一に北滿に於いては氣候の地域的差異は極めて少く、假に何等かの自然的被害があ
れば北滿全地域一齊に此影響を受けることが多く、又灌漑と排水北滿の河川の現狀と地形
から見て有利ではない。又農業勞働力も眞の自作主義で行くなれば開拓民の耕作民を現在
よりも遙かに縮小せねば人手を要する水田耕作には不足なることは言ふ迄もない。
 然るに邦農の米作に對する愛着は極めて强く、現在入植して居る開拓民も ね濕地を利
用して水田を經營して居る者が多いが、多くは排水困難な所で水田適地でない。若し新た
に大量の水田を得るためには大規模の土木工事を必要とするのみならず、稻は元來熱帶植
物であつて近年品種改良され寒地に適するものも造られて來たが尙北滿に於いては寒冷氣
候の制約を多分に受けることを深く考慮せねばならぬ。かゝる條件を充分考慮せねば苦汁
を嘗める可きことは北海道の開發に於いても見られる所である。卽ち北海道では地理的、
氣候的諸條件を考慮せずして無暗に水田を作り冷害等に脅かされて失敗し、多額の負債を
背負つて畑に還元しつゝある例に乏しくない。北滿でも水田造成には十分注意して決して
此轍を踏んではならない。
 結局滿州では適地適作主義により、交換經濟的觀念を淸算して可及的自給經濟を目的と
する經營法を採るべきである。卽ち北滿では山林をも織込んだ有畜乾燥農業が一般に最適
で榮養經濟的にもこれが最も有利である。かくすれば家畜からは牛乳、山羊乳、豚肉、羊
肉、兎肉、鷄肉、鷄卵の如き動物性食品、羊毛、羊皮、兎毛、兎皮等の防寒被服材料及び
此等の加工品竝に肥料の自給、山林よりは燃料、建築材料の自給が可能となり、生活を極
めて豐富にすることが出來、物價の變動等に關係なく落付いた生活をすることが出來る。
 以上は北滿に於ける開拓民の食生活の基礎となすべき正しき營農形態に就いて述べたの
であるが、これは單に開拓民のみならず北滿居住の凡ての人々に當て嵌るものである。卽
ち種食物は粟、小麥、燕麥、ライ麥、蕎麥等であつて、これに大豆をはじめ各種の豆類を
配し、調理法としては或は飯とし或は粉末としてパン、ホツトケーキ、饅頭(マントウ)、
燒餠(シヤオピン)、煎餠(チエンピン)、 子(クワヅ)等、或は饂飩、そば等が採用
さるべきであるが、猶調理法に關しては今後の期待に工夫する所が多い。又副食品は鷄肉、
鷄卵、豚肉、牛肉、牛乳、羊肉、山羊乳及現地產の淡水魚等の動物性食品より各種の野菜
を適當に配合すれば現地品丈で立派な食事が出來る筈である。只殘念なことは北滿には果
實が少いことであるが、南滿には柿、蜜柑等を除けば種々の果物が出來るのであるから、
果實類も大體南滿もの位で閒に合はせたい。
 然しこれは大體の原則を云ふのであつて、何でも彼でも現地品だけで閒に合はせ、少し
も内地品を使つてはいけないと極論するのではない。從來のやうに新鮮なる現地品よりも
怪しげな内地品を高級視するの弊を改め、堅實なる食生活を營ませたいと念願するのみで
ある。

 食生活改善の理論は一應誰でも首肯するが、實際上の障碍をなすものは食習慣である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

食習慣の改變は仲々容易ではないが、方法よろしきを得れば不可能ではない。最良の方法
は兒童期よりこれに慣らすことである。
 元來家庭食には種々の缺陷が、それ等に比較して更に缺陷の多いものは辨當である。大
學まで行くものは殆んどを發育期閒をこの不完全極まる辨當を續けるわけであるから、若
しこの辨當に代ふるに合理的でしかも家庭食の陷り易い缺陷を補正するが如き學校晝食を
作って與へるならば、どの位體位の向上に役立つかわからないと思ふ。更にこの學校給食
をして國家の食糧政策の線に沿ふ如く食習慣改變に應用するならば一石二鳥である。從つ
て學校晝食榮養改善上合理的であるべきは勿論其の材料及調理法は現地各地の實情と睨み
合はせて作らねばならぬ。
 更に一方に於いては從來の如く個人の食生活を自由に放任せず國家的に一定の規制と積
極的指導を望む。一例を云へば、白米が惡いとすれば精白度に一定の制限を設くるとか、
主食としてパン食を採用しなければならぬといふやうな場合があるならば農村家庭は別と
するも、都會に於てはパン工場は國立又は準國立にする位にし、現在の如く菓子屋の片手
仕事では駄目である。官民協力して計劃的に行へば各地に適當にして特色ある食生活を確
立することは案外容易ではなからうか。

  最後に是非附加へて置かなければならないことは、寒地に於ける冬期閒の食料品の貯
藏問題である。北滿に於いては約半ケ年は天然の冷藏庫なるのだから、南方と異なり肉類
や魚類の貯藏は極めて容易である。ところが野菜類は冬期は生產しないので全部貯藏に俟
たねばならぬ。野菜は生野菜の貯藏の外乾燥野菜、壜詰野菜、鹽漬野菜等として貯藏出來
る。これ等の貯藏法も日本内地に於いては平時その必要を見ないので餘り硏究せられて居
ないが、今後も大いに硏究しなければならぬ問題である。然しそれにもまして重要なのは
矢張り生野菜の貯藏であるが、生野菜は凍結せしむればその性質に變化を來たし食用に堪
へなくなるものが多い故にこれを凍結せしめず、而も腐敗せしめず出來るだけ長く新鮮な
る狀態に貯藏する必要が生ずるのであるがそのためには植物生理學の敎ふる所に從ひ、植
物の新陳代謝を最小限度に保つやうにすれば好いのであるが實際上貯藏庫の設計、貯藏管
理法等に關しては猶多く硏究すべきある。
 寒帶地の食物といふ題目からは若干逸脫したが要するに新天地に發展するためにはそれ
に適應した生活は如何にするかといふ點を先づ硏究し、出來るだけ早くこれに習慣するに
ある。幾年經つても内地生活の延長で、自然の猛威の前に縮こまつてゐるやうでは先住民
の指導はおろか自分達の發展さへも望めはすまい。

[編集部註]
このエッセイは『日本醫事新報』(「Nr. 1064 20 FEBRUAR 2603、昭和十八年二月
二十日發行 第一千六十四號」)に掲載されたものです。2603は皇紀2603年の意。名前
に付された住所は、既に滿州醫科大學を退職して小児科の医院を開業してゐるからです。
退官は昭和17年5月(西暦1942年)。住所は、『日本醫事新報』(西暦1943
年2月20日発行、第1064号)によれば、奉天市大和區紅葉町とある通りです。
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もぐら通信                          ページ16

渡辺三子さん追悼

東鷹栖安部公房の会
 柴田望

『郷土誌あさひかわ』代表、渡辺三子さんが8月1日に亡くなられたとのお知らせが入り
ました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

渡辺三子さんは安部公房の従姉妹にあたられ、国内外の安部公房研究家と交流深く、昨年
5月には所蔵の300点以上もの資料を市に寄託され、東鷹栖支所に常設展示されています。

*

...

『郷土誌あさひかわ』
*

渡辺三子さんの家に何度もお邪魔するようになって
旭川の街の精神の源流にたどり着いたと感じたこと
*

居酒屋、ラーメン屋、喫茶店・・・
街の至る所に『郷土誌あさひかわ』は置いてあり
街を歩くことは読んでいることと同意義である
という状況が永遠に変わらないと思っていたこと
*

国立国会図書館に全ての号が保管されていること
(この間、足りない号を送ってほしいと連絡がきた)
*

高野斗志美先生の安部公房論が連載されていて
それは後に一冊の本にまとめられたこと
*
もぐら通信
もぐら通信                          17
ページ

昨年6月に東鷹栖支所の展示を行ったとき
展示室の写真の説明を作るために
三子さんにたくさん質問をして
丁寧に答えてくださったこと
*

砂澤ビッキの死の直前
病院へ見舞いに行かれたときのことや
砂澤ビッキの消えた作品群のことを
いつも残念そうに語っておられたこと
*

東京の新婚当時の安部公房宅を
三子さんが訪れたことや
(その時の様子を書き残したいと
願っておられた)
*

安部公房が旭川に来たときの様子を
懐かしそうに何度も語っておられたこと
三子さんと高野斗志美先生が旭川を案内した
(そのときの写真も東鷹栖支所に展示されています)
*

90歳を超えておられるのに
いつもお宅にお邪魔すると
なんと二時間以上も情熱をこめて
たくさんのお話をしてくださったこと
*

詩人中桐雅夫のサイン入り詩集『会社の人事』
(「渡辺三子さんへ」と著者の字で書いてある)
東鷹栖支所談話室の書棚に今もあること
*

本を大切に扱っておられたこと
*
もぐら通信
もぐら通信                          18
ページ

東鷹栖支所の展示は、当初
三子さんの文学室をそのまま
再現して展示するということだったので
資料入れ替えのお話には
何となく気が乗らなかったこと
*

三子さんは資料が市役所の一室のような場所ではなく
安部公房文学館に収めらることを夢見ていた
安部公房は西欧だけではなく
東欧や南半球の各国でも読まれた稀有な作家である
安部公房の文体は散文ではなく詩であり
安部公房は詩人です、と語っておられたこと
*

ニューヨークのコロンビア大学で行われた
安部公房シンポジウムに参加されたときのことを
懐かしそうに何度も話してくださったこと
*

ドナルド・キーン氏と渡辺三子さんが写っている写真が
東鷹栖支所に展示されています
*

東鷹栖支所の展示について
北海道新聞に載ったとき
芥川賞や埴谷雄高の手紙などではなく
コロンビア大学での国際シンポジウムのことを
書いてほしかった、安部公房は
世界の安部公房なのに、と
残念そうに仰っていたこと
*

だから今年2月の朗読会では
安部公房の世界的な評価について
ノーベル文学賞目前であったことや
3日間のシンポジウムの様子について
解説で詳しく話したこと
*
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

イベントを行う度に資料や写真を持参して
三子さんに報告したこと
新聞記事やぼくの書いた物も読んでくれて
「活躍してくれてありがとう
あなたがいないとだめじゃないの」と
いつも電話で優しく励ましてくださったこと
*

2月25日旭川中央図書館で行った
安部公房『無名詩集』朗読会の前日に
たくさんの資料を持参して
渡辺三子さんのお宅にお邪魔して
三子さんはその資料を胸に抱きしめて
何度もありがとうと言ってくださり
帰り際、ぼくがエレベーターに乗るまで
見送ってくださったこと
まるで最後のお別れのようでした
*

砂澤ビッキが彫った『あさひかわ発行所6F』看板
三子さんが「これは安部公房とは
関係ないかもしれないけれど
多くの人に見てもらいたい」と願ったので
三子さんの部屋の壁に掛けてあったのを
怖れ多くもぼくが外して
東鷹栖支所に届けたこと
裏面に砂澤ビッキのサイン
1987年 渡辺三子様
*

展示の説明には次のように書かせていただきました
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-
『郷土誌あさひかわ』看板
砂澤ビッキ作

■世界的彫刻家・砂澤ビッキ(北海道旭川市出身 1931年3月6日 - 1989年1月25日)が制
作し、親交の深い渡辺三子氏(『郷土誌あさひかわ』代表)へ贈られた。
もぐら通信
もぐら通信                          20
ページ

タウン誌『郷土誌あさひかわ』は発行当時の旭川市の情報や
旭川ゆかりの文化・芸術を伝える話題で毎月の誌面が飾られた。
市の歴史を伺える貴重な資料である。

安部公房関連の記事・評論・対談等も数多く掲載され、その成果は2013年
『安部公房を語る : 郷土誌「あさひかわ」の誌面から』(あさひかわ社)に
まとめられた。

本展の資料は2011年3月から2016年5月まで
『郷土誌あさひかわ』編集室内「安部公房文学室」(宮下通7丁目駅前ビル6階)で
公開されていた。国内のみならず海外からも多くのファンや安部公房研究者が訪れた。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

*

『郷土誌あさひかわ』はもう発行されていないけれど
いまでも旭川の街の至るところに
当然置いてあるような気がすること
*

2017-08-02.
もぐら通信
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山椒魚ともぐら
(2)
∼祖父と孫、父と息子の話∼

岩田英哉

     目次

1。井伏鱒二と安部浅吉
2。安部浅吉と安部公房
3。石川介と石川淳
4。石川淳と安部公房

*****

1。井伏鱒二と安部浅吉
実は、井伏鱒二と、安部公房の父安部浅吉の生年は、同じです。

前者は西暦1898年(明治31年)2月15日、没年が1993年(平成5年)7月10日) 、後者は生年
が西暦1898年(明治 31年)1月10日、没年が1945年(昭和25年)12月21日[註1]
です。

[註1]
『安部公房・荒野の人』(宮西忠正著)49ページ。

さうして、安部公房が存在の中で師弟の礼をとつた[註2]夷斎先生こと石川淳の生年は、上の
二人と一年遅れの西暦1899年(明治32年)の3月7日 、没年は 1987年(昭和62年)12月29
日)。

[註2]
少し長い引用になりますが、『奉天の窓の暗号を解読する(後篇)』(もぐら通信第33号)[註41]より、該
当部分を引用します。

「[註41]
これらのことを考えて参りますと、安部公房の師、石川淳の葬儀の場で安部公房の読んだ弔辞の、次の言葉が思い
出されます。この弔辞に使われている語彙は、この論考をここまで書いて参りますと、実に安部公房好みの語彙が
選択されており、その世界に石川淳を、いつもの陰画の呪文を唱えて結界を張り、蘇生させて、呼び出したいとい
う安部公房の強い思いが伝わって参ります。
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そうして、ここで石川淳との関係を深海の中での関係として述べていることは、そのまま『無名詩集』の(既にこ
の論考で読んだ)『心』や、同じ詩集の『防波堤』や『孤独より』の「其の七」という詩や、『水中都市』や『第
四間氷期』や、安部公房スタジオの『イメージの展覧会』の布(存在)や『水中都市(GUIDEBOOKIII)』の布(存
在)や『人命救助法』の水(存在)の形象(イメージ)や『S・カルマ氏の犯罪(GUIDEBOOKIV)』の砂漠(存
在)、即ち裏返しの海(存在)の形象や『仔象は死んだ(イメージの展覧会)』の布(存在)で安部公房が表現し
た存在の中での師弟関係であったといっているのです。

これは、すべてリルケに学んだ存在という概念なのです。何故ならば、海の水は、どんなに物に衝突して離れても、
また向こう側で必ず一つになるもの、即ち存在であるからです。( [註12]の提灯や入籠構造を備えた器であな
たに示した言語の形象を思い出して下さい。)リルケが同じ性質を有するものとして褒め称え、荘厳した存在に、
風があり、人間の風である息があり(息が機縁となって人間の内部と外部が交換されるから)、動物としては、空
を飛ぶ鳥と其の鳥の群れがあります。これらに共通していることは、分かれ別れても一つになるということなので
す。それから、植物、循環して生き、垂直に成長して無時間の空間を生きる植物である木や花が、風と同様に、リ
ルケの純粋空間に生きる生き物なのです。自然がそうであり、動物や植物がそうであれば、一体人間はどうなので
しょうか。存在としての人間が、即ち繰り返し循環しながら無時間の純粋空間に果てしなく垂直に成長して行く存
在である人間がいるのではないでしょうか。それが、すべての安部公房の主人公たちなのです。リルケが『オルフェ
ウスへのソネット』で歌った神的な青年、即ち自己を喪失して刻一刻果てしなく変身を続けて存在の中に隠れ続け
て、誰にも知られることのないオルフェウスのような(垂直方
向に樹木のようにいつまでも成長し続ける)存在が、即ち差異(時間の無い純粋空間)に棲む人間たちが、すべて
の安部公房の主人公たちなのです。

こうしてみますと、安部公房がリルケに学んだ存在の概念は誠に深く深く、安部公房のこころに生きております。

さて、長くなりましたが、存在の中での師弟関係を読んだ、安部公房の弔辞です。傍線筆者。

「 いわゆる弔辞をのべるつもりはありません。弔辞というものは、ナメクジにかける塩のようなものです。
危険なもの、不穏なものを消してしまうための呪文にすぎません。
 石川さんには危険で不穏な存在のままでいてほしい。石川さんが亡くなったという実感がまるで湧いてこない、
この気分をそのままに維持しておきたいのです。文壇という村構造に異議申したてをつづけ、潜水作業中の孤独な
作家に酸素を送る仕事を引き受けた石川さんになお休息は許されない。石川さんのポンプから送られてくる救命用
酸素を待つ者はいまなお跡を絶たないのです。
 ぼくも石川さんの救命ポンプに救われ、はげまされた一人です。(略)
 (略)あるべき表現を「精神の運動」と言いきった石川さんは、孤独な深海作業者のための命綱であっただけで
ははなく、自分自身もまた孤独な深海作業者だったのです。
 そして救命ポンプは現に作動中です。
    一九八八年一月二二日
                            安部公房」」」

井伏鱒二の『半生記』(『新潮現代文学2 井伏鱒二』新潮社)から、その冒頭を引用して、安
部浅吉の生まれた時代がどのやうな時代かを知つてゐただきたい。

河盛好蔵の巻末の解説によれば、この「『半生記』は昭和四十五年十一月から十二月にわたっ
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て『日本経済新聞』に「私の履歴書」と題して連載、のちに『早稲田の森』に収められた文章で
ある。このとき作者七二歳であるが、この作品は昭和十一年(三八歳)に書かれた「雞肋集(け
いろくしゆう)」と共に、井伏鱒二の人と作品を理解するために欠くことのできない重要な文
献である。」以下『半生記』より。

「 私は明治三十一年二月十五日に生まれた。第三次伊藤内閣が出来てつぶれ、第一次大熊内
閣が出来てつぶれ、第二次山県内閣が成立し、幸徳秋水等の社会主義研究会が成立した年であ
る。政界が騒々しい年だったらしい。
 私の生まれた在所は広島県深安郡加茂村粟根。現zぁいは、三箇村合併で加茂町粟根と変更さ
れている。山陽線沿いの福山市から約四里ほど北で、南北に細長く続く二つの山に夾まれた地域
である。
 (略)」
 明治三十一年といえば七十二年の昔である。当時の古風な村の風儀は今ではまるきり見るこ
とが出来なくなった。一方、明治三十一年という年は、江戸時代の最末の年から数えて三十一
年しか経っていない。だから私が子供のころは、江戸時代に生まれた人が一軒に一人や二人ぐら
いはいたわけだ。爺さん婆さんとも野良仕事に出ている一家もあった。極老の爺さん一人だけ
の家もあった。その人たちのうち、現在の私ぐらいな年の老人は、私の生まれた年には文政年
間に生まれたわけである。おそらく江戸時代の田舎の風儀を身に浸みこませていた人たちだろ
う。言葉づかいもそれに相応していたことだろう。
 「こんにちゃ、良(よ)え潤(うるお)いでござりゃんすでござりゃんすなあ」と婆さんたち
は、久しぶりに雨が降る日に人に逢うと、そんな言葉づかいで挨拶した。昔の農村だから挨拶
言葉は稲や耕作などと関連を持っている。
 「おしまいでござりゃんすか。さまじいことでござりゃんすでござりゃんす」と小母はんたち
は、梅雨で降りつづけるころ、日が暮れて人の家を訪ねたときそんな挨拶をする。」

と、このやうな時代と土地柄にゐて、井伏鱒二は六歳で父を亡くしたために、以後祖父に育てら
れる。

さうして、「父は世間とのつきあいも自分の子供の躾(しつけ)かたも、すべて祖父の云うまま
にしていたのではないかと思う」と言ひ、両親の呼び方を井伏家では、「オトウサン」「オカア
サン」といはずに、「トトサン」「カカサン」と「天保生まれの祖父の好みで」呼んでゐたと
書いてゐる。さうして、更に祖父との関係について、

「先に云ったように私は六つのとき父を失って、後はずっと祖父に育てられたのでその影響を多
く受けたと思う。青春時代までの私は祖父に甘え祖父に反抗した。」とあります。

安部公房の読者であるあなた自身の胸に手を当ててよく思ひ出して考へて欲しいのですが、私の
貧しい人間観察によつても、親に反抗すればするほど子供は親に似るのです。反抗する娘は、反
もぐら通信
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ページ

抗される母親に益々似、反抗する息子は、反抗される父親に益々似るのです。さうしてお互ひが
お互ひの鏡になつて、お互ひの姿をみて、ある時些かの嫌悪の情を催すといふことになる。あな
たにも同じことがあるでせう。その同じことを井伏鱒二は次のやうに書いてゐます。

「たいていの男の子は、十八、九になると少しは父親に反抗してみるものだ。ところが年をとる
につれて父親に似て来るから妙なものである。私も祖父のすること為すこと、じじむさくて困っ
たものだと気にしていたが、今では天保生まれの祖父に自分が似てしまったのではないかと思っ
ている。」

前回論じた井伏鱒二の形代(かたしろ)の感覚と論理は、江戸時代の天保年間から土地の風儀
であるといふ事になります。「江戸末期は文化文政から、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、
元治、慶応と続く。そして明治である。」とあるので、1898年に井伏鱒二の生まれた頃の祖
父が、仮に此の『半生記』を書いた井伏鱒二の年の七十二歳であつたとすれば、今手元にある
江戸時代の年表によつて逆算すれば、祖父の生まれたのは天保年間といふ事であるので、この
始まりは1830年(天保1年)となり、嘉永6年間、安政6年間、万延1年間、文久3年間、
元治1年間、慶応3年間、井伏鱒二の生まれる明治31年間の人生を、祖父の人生は閲してゐる
といふ事になる。この時代の年号の時間の短さを見ても、改めて此の時期の日本の歴史の激動
を知る事ができます。

さうして、井伏鱒二の形代(かたしろ)の感覚と論理は、江戸時代の天保年間から土地の風儀で
あるといふ意味は、この祖父が井伏鱒二が尋常小学校の頃二度熱病に罹つて床に臥せるとか、
「左足の皿を割って長い間学校を休」むかするやうな大きな病気の時に、さうして後者の時には、

「お爺さんは肝をつぶして氏神様に願かけした。多四郎という男衆に、亀を一ぴき買って来させ、
朱墨を膠(にかわ)に溶かして亀の甲羅に私の名前を書いて生年月日を記し、「大願成就」と書
いてお宮の池に放った。私もお袋も反対したが聞き入れなかった。
 私はうんざりした。亀の放流はこれで二度目であった。」

しかし、孫の井伏鱒二は、亀といふ形代(かたしろ)の代わりに、鯉といふ形代を池に放つた
事は前回お話しした通りです。

恐らくは、この祖父に育てられたといふ事が、井伏鱒二の文体が、あの『山椒魚』や『鯉』と
いふ短編のやうに最初から完成してゐた大きな理由ではないかと私は思ひます。私の浮世での経
験から言つても、祖父母いづれに育てられるにせよ、私の知見は祖母に育てられた二十歳の若者
でしたが、老成の風があり、言葉がしつかりとしてゐるので、不思議に思つて尋ねると、さうい
ふ事でありましたから。

井伏鱒二の文章には江戸時代の安藝(あき)の国の賀茂の土地の文化が映つてゐるのです。吉行
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淳之介の『文章読本』(福武文庫)に、井伏鱒二の『「が」「そして」「しかし」』と題した文
章論が、作家による文章論の一つとして、収録されてゐます。その最後のところです。

「 私は言葉に調子をつけた文章はなるべく避けたいが、無理して書くときには古めかしい調子
のついた文章になるので気がひける。新聞を読むのに昔の老人が調子をつけて朗読するような
もので、読み易いから調子をつけるだけのことなのだ。私が気の向かないときに文章を書くと、
安易に流れて私の祖父が新聞を音読していたときの調子が出る。
 後味が甚だよろしくない。この文章もその一例である。」

さて、井伏鱒二と同年の安部浅吉が、祖父の安部勝三郎にどれほど甘え、反抗したのかは、私
は知りません。『安部公房伝』(安部ねり著)によれば、旭川の荒地を開墾し、成功して、後に
「村の小学校設立や、飢饉対策、土木工事など、精力的に地域振興に貢献し、水田開拓にも奔走
した」とありますから、通俗的な理解を敢へてしてみれば、富裕な家の家長となる二代目が浅吉
でありますから、この富の蓄積の上に育つて、このやうな家では、カメラの趣味などは其の好例
ですが、東京の流行と最新の情報もほとんど同時に入つて来る事でせうから、文化的な教養も
深め、趣味も多彩の、東京に来てからも、大正時代には都会の裕福な中産階級に帰属してゐたも
のと考へられます。

2。安部浅吉と安部公房
安部勝三郎と浅吉の関係はどうあれ、しかし、勝三郎の孫公房は勝三郎の息子であり安部家の
家長である浅吉に徹底的に反抗したものと見えます。しかし、この時の浅吉の態度は、明治生ま
れの男に典型的な家長の態度ではない。井伏鱒二の祖父の権威ある様子とは大いに異なります。
といふ事は、浅吉は勝三郎に徹底的に反抗してかうなつたか、または安部家の文化的蓄積の中に
生まれ育つて、東京に流入する国際的な文化文物を同時に取り入れて自分のものとなして(と、
かう書いて来ると、安部公房にそつくりです。実際には安部公房が浅吉にそつくりなわけですが)
これを享受し、文化的な教養人として、このやうな態度と自然になつたのものか。浅吉について
の温厚にして奇抜な逸話を資料のあちこちで読みますと、どうも後者ではないかと思はれます。
『安部浅吉のエッセイ『ストツクホルムの野菜サラダ』について』(もぐら通信第64号)より
以下に引用します。安部公房の弟、井村春光の後年の回想です。

「安部公房の弟井村春光は、1940年(昭和15年)肺浸潤で一度奉天に戻っていた成城高
校生の安部公房の、父親に対する態度を、次のように語っています。

「わたしの父親(安部浅吉)は昔気質の、四大節には国旗を掲げ浪花節をこよなく愛する人で
あった。その対極に兄がいた。(略)公房が結核ということで奉天に帰省してウツウツとしてい
た頃に浪曲の時間が昼間にラジオから流れて来た。私はその放送が好きでも嫌いでもなかったの
で聞くともなく聞いていた。父がソファーに座って浪花節を楽しんでいたが公房がスイッチをぱ
ちんと切って、「くだらないものを聞いていると人間が馬鹿になる」と怒鳴った。父は落語でも、
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漫才でも、浪花節でも長い日本の伝統文化の一つとして尊重しなければいけないのだと言った。
/それからしばしの間ああだこうだのやり取りが続いた。私はどちらにも荷担するでもなく聞い
ていたが、父の方にやや勝ちと思った。それからしばらくはラジオのスイッチは切られたままで
あった。」(郷土誌あさひかわ刊『安部公房を語る』所収の『エッセイ「父浅吉、兄公房」の
親子喧嘩のこと』、同書143ページ)」

この位に父親と其の伝統的な趣味を否定した息子安部公房であれば、本論上述の如く、安部浅
吉そつくり(これは小説の題名ではありませぬ)になつてゐるに違ひありません。といふ事は、
全集の贋月報に登場して一人娘安部ねりさんのインタビューに答へてゐる友人たちの、安部公房
に関する普通の人ではないことに関する記憶と回想の言葉は、たとへ其の100%とは言はず
とも、そのまま父親安部浅吉にも通用すると考へても良いものと思はれます。

さて、石川淳の話です。

3。祖父石川介と石川淳
石川淳も、文学の世界では、祖父に育てられました。祖父の名前は、石川介といひ、号は省斎
といひます。孫の石川淳が夷斎と号したのは、この祖父の号に倣つたものでありませう。『省斎
石川介編集の漢詩集』(山口俊雄)(『愛知県立大学説林』愛知県立大学国文学会編。通巻5
5号。2007年3月)によつて、祖父と孫の間の素読の講義について、次のやうなことがわか
ります。

「年譜執筆者・伝記調査者の努力の蓄積により、最新の石川淳年譜では、《石川家は代々の幕
臣で、祖父・石川介は省斎と号し、幕末に昌平黌儒官をつとめた漢学者。明治初年代には本郷
春木町家をもち、日本人の漢詩の詩華集の編纂《[明治三十八年]4月、精華小学校に入学。
この頃から毎日のように机の前に座らされ、祖父より」の素読を受ける》と記されている。和漢
洋にわたる該博な教養を持った作家と言われることの多い石川淳だが、其の「漢」に関わる素
養の基礎は祖父によって与えられたものだ。なぜなら祖父はかつて昌平黌儒官だったのだから――
このように理解されてきたのである。」

このことを、孫石川淳の側から回想すると次のやうになります。以下、山口氏の論文より。

「小説家・石川淳はその祖父について次のように語っている。

わたしがものごころついて以来最初にぶつかつた本らしきやつはいつたい何であつたか。子供
の絵本のたぐひは別としえt、ウソにも本と名の附いたものでいへば、さう、論語であつた。た
だし、これは決してみづから欲して読んだのではなく、いやいやながら無理に読まされたもので
ある。
 わたし幼少のみぎり、毎日のやうにぢいさんの部屋に呼びつけられて、机の前にすわらされる
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ページ

といふ家内工業的な課目があつた。机の上には、四角な字のならんだ大版の本がひろげてある。
今おもへば江戸の刊本の、これが論語といふ小にくらしいしろものに相違なかつた。ぢいさん
がムニヤムニヤ読む。わたしはただそのまねをして、無意味に口をうごかしてムニヤムニヤ……
もとよりこころここに在らずで、食らへどもそのあぢはひを知らず、漫然と火の玉を食らつたの
み。(1)

 祖父は石川甲太郎といいましてね、聖堂には顔を出していたようですが、儒官というほどのも
のじゃありません。[略]甲太郎は通称で、ナントカ斎とかいう号があります。夏生ともいって
たかな。ヘッポコですよ(笑)(2)

漢文のほうは、ぼくは子供のときじいさんに漢文教えてもらったものだから、漢文のほうは曲り
なりにもあたりがつく。垣のぞきにしてもね。(3)

石川が祖父について直接語った言葉はほぼこれに尽きるが(といつて、上の最初の引用の「年譜
執筆者以下の文に繋がる)」

この引用の(1)(2)(3)といふ論文の註によれば、

「(1)「一冊の本」(初出『朝日新聞』一九六一・六・十八)『石川淳全集第十四巻』筑摩
書房、一九九〇」
(2)吉川幸次郎との対談「中国古典と小説」(初出『中国古典選別巻』朝日新聞者、一九六
九)石川淳『夷斎座談』中央公論社、一九七七。なお、甲太郎、夏生については未詳。
(3)インタビュー「無意識の選択」(初出『季刊 文学的立場』一九七二・七)前掲『夷斎座
談』」

上記の石川淳による祖父石川介についての言葉を見ますと、これはいづれの言葉も祖父を隠し、
自己を韜晦してゐる。特に(2)の対談相手は吉川幸次郎でありますから、一流の人間同士が同
じ専門の領域で話をして、三つの言葉を口にしたら、これは戦国時代の一流の剣士剣豪の真剣勝
負のやうなもので、相手の力量の程度と其の腕前の履歴来歴までを一瞬で見抜かれること必定、
さうして互ひに素知らぬ顔して、それもまた互ひによく知るところとなるといふ対談であつたの
でせう。この対談を読みますと、上の引用の後に吉川幸次郎が石川淳の祖父のことを尋ねて詳し
く知りたいと思ふと、上の(2)の最後で「ヘッポコですよ(笑)」と云つた後すぐに話をはぐ
らかして、孔子の話に話を移してしまひます。

しかし、このやうな韜晦にも拘らず、石川淳の漢学の素養教養は其のやうな本人が韜晦したやう
なものでは全くありませんでした。『思考のレッスン』(文春文庫)から、丸谷才一の言葉を引
用します。丸谷才一も石川淳に私淑した作家でした。石川淳の葬儀の写真を掲げます。安部公房
を真ん中にして其の直ぐ左(向かつて右)の席に座つてをります。この安部公房の占めた位置で、
もぐら通信
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文壇が石川淳と安部公房の関係をどのやうに考へてゐたかが判るでせう。安部公房の最左翼(向
かつて右)は武満徹、その最右翼が下に名前の出てくる、さうして安部公房『近代文学』以来の
知友である中村真一郎です。安部公房と中村真一郎の間にゐるのが加藤周一です。

「石川淳とホーム•グラウンド

 石川淳さんの場合には、江戸がホーム•グラウンドと言えるでしょうね。もちろんこれにフラ
ンス文学が加わります。つまり石川さんという人は、西洋の文学を読んだ目で江戸を見ていた。
その体験がすべてにわたってものを言うんですね。
 石川さんは「パリに出かける金がないから江戸へ遊学した」なんて言ってますが、あれは生半
可な勉強じゃないですね。硬いものも軟らかいものも、よく読んでます。荻生徂徠、本居宣長、
蜀山人はもちろんですが、平田篤胤も一通り目を通してました。僕が、為永春水は『梅ごよみ』
だけ読みましたと言ったら、「あとを引かなかった?」とけげんそうにしてた。つまり、『辰巳
園』(たつみその)も『梅見船』も『英対暖語』(えいたいだんご)もと、続けて読まないの
が不思議なんでしょうね。でもね……(笑)

 以前、中村真一郎さんが、「石川淳さんは江戸の漢詩をよく読んでるし、その感想がいちい
ちツボを外れない」と感心してたけど、その通りなんだろうと思います。

 その石川さんが最晩年、こんなことをおっしゃった。「このあいだ小説で江戸を書こうと思っ
もぐら通信
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て、江戸について何を自分が知っているか考えてみたら、驚いたことに、何も知らないというこ
とがわかった」とね。」(同書143ページ)

一体石川淳の漢学の素養がどの位見事なものかは、安部公房が「解題」を書いた『夷斎筆談』
をお読み下さい。この中に収められてゐる9作品の散文は、漢文体を含み、これを使つて圧倒的
に凝縮された見事な、高速度の詩的散文になつてゐます。安部公房は、このことを其の解題で、
所収の作品の一つ「面貌について」にある一行「散文の美學は物理學よりほかには無い。」と
いふ一行を引用した後で、「むろんこの物理学は通常概念の物理学ではない。かと言って単なる
反語でもない。あえて解説すれば、「詩」と「俗」という対立物を弁証法的に止揚した統一物
としての物理学なのである」と云つてゐます。この論理もまたAでもなくZでもない、第三の客
観を求める安部公房らしい論理です。

さて、石川淳と祖父の関係に戻ります。

上記に引用した山口氏の論考によれば、

「和学講談書の設立から廃止に至る毎年の出来事を記録した『和学講義所御用留』をもとに渡
辺滋氏が調査したところによると、石川省斎は若い頃(1864年)、昌平黌(昌平坂学問所)
から和学講談所に引き抜かれ相応に出世を果たしたが、幕末の混乱の中で講談所が廃止された
後は、(略)」

とありますから、西暦1864年で若い頃であるならば、上に井伏鱒二の祖父の年齢と生きた
幕末の年号を考へるところで引用したやうに、1864年は元治元年、この年1年限りの年号
であり、続いて慶応元年になりますから、1863年で若いとして20歳とすると1844年で
弘化元年、24歳とすると1840年で天保11年となり、井伏鱒二の祖父の天保生まれとい
ふことと其れ以後の育ちの時期が、片や安藝の国の加茂村、片や花のお江戸とはいへ、少しば
かり年齢の差があつても、江戸時代の此の時期に二人の人生は重なつてをります。

山口氏の論考を読むと、石川淳は私事を語らなかつた。死後石川淳の妻、石川活(いく)さん
の書いた『晴のち曇、所により大雨―回想の石川淳』によれば、やはり石川淳は其のやうな人
間であつたと想像される箇所があります。自分の妻になる人にも私事を語ることを控へたと見え
ます。しかし、石川活(いく)さんといふ女性もまた大した女性でありまして、石川淳のやうな
喧嘩つ早い下町の江戸つ子の旦那を持つた、戦前の山の手の富裕な中産階級の出である二十歳
年下の女性が、一体どのやうな立ち回りを石川淳と演ずるのかは、これはこれで石川淳といふ人
間を理解する入り口になつてをります。石川淳については、坂口安吾からみた石川淳も論じたい
ところですが、これはまた別の機会に致します。石川淳は坂口安吾の父阪口五峰を『諸国畸人伝』
の中で畸人の一人として、「しかし、わたしにとつて因縁といえば、このひと、なによりも亡友
坂口安吾のおやじ殿である」として論じてをります。坂口安吾も石川淳が好きであつた。日本文
学史上では、太宰治や織田作之助などを入れて、先の戦争後に無頼派と呼ばれたうちの二人です。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ30
4。石川淳と安部公房
さて、石川淳は私事を語らなかつたといふこと、これが安部公房に通じてをります。

さうして、このやうに述べて来て、わたしが言ひたいことは、父浅吉と1年しか違はなかつた石
川淳に、安部公房は父浅吉に対するのと同じやうな父性についての感情を抱いてゐたのではない
かといふこと、恰も自分の父親のやうに思つてゐたのではないかといふことなのです。

安部公房にとつて其のやうな石川淳が、江戸の風儀を、それも武士の風儀と(フランス文学に
加へて)漢学の深い教養を身につけてゐて、江戸つ子であるといふ事が、大陸の奉天で育つた安
部公房の、若い時からの一生の存在の師匠であつたといふ事が、このやうに反骨の師弟の日本
文学の伝統と歴史上の連続である事が、即ち日本の近代国家のあり方に(石川淳同様)徹頭徹
尾反骨の姿勢を貫いた永井荷風と同様の、謂はば反骨の連続性が、江戸文学から平成に至るま
での安部公房文学にあることを、私たち読者が思つて見ることは価値あることではないでせうか。
父安部浅吉と同じ年の井伏鱒二を師と仰いだ太宰治の名前を、二十一世紀に残る作家三人を挙げ
よと、安部公房スタジオのまな弟子山口果林に問はれて、太宰治の名を2番目に挙げた安部公房
であれば、尚更に。

安部公房は、このやうな反骨の精神を、「逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも
言える。西欧的な方法をよりどころにしているから駄目なのではなく、植民地主義の土台にきず
かれたものだから駄目なんだ。反植民地主義的な思想にもとづく作品でさえ、植民地経済を基
礎にしていた国からしか生まれ得ない。メフィストフェレスなしにファウストがありえないよう
なものさ。(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、159ページ下段∼160ページ上段)(傍
線筆者)」と云つてゐるわけです。[註3]

石川淳も安部公房も自らの、前者は深いフランス文学と漢学の教養を、後者は此れも深いドイツ
哲学と文学の、加へてtopologyといふ数学の、深い教養を当たり前のものとした上で、敵を知
り己を知れば百戦危ふからず、即ち、さうして、安部公房の論理に従へば、「西欧的な方法」を
熟知した上で、欧米白人種キリスト教徒の近世・近代500年の収奪と略奪の有色人種に対する
植民地主義を離れ、また此れを超越して、植民地主義を土台にするのでもなく(「植民地経済を
基礎にした」)反植民地主義に拠るのでもない、第三の客観、即ち『榎本武揚』の主人公の求
めた通りの第三の道と第三の人間像を求めた、存在の師弟に倣つて、新たな二十一世紀の文学
と私たちの生き方と考へ方を真剣に考へるべきことであり、その時であるのではないでせう
か。

「メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなものさ」といふ発言に、『第一の手
紙∼第四の手紙』や『悪魔ドゥべモウ』や『キンドル氏と猫』または『複数のキンドル氏』や
『S・カルマ氏の犯罪』以来の、初期安部公房の若い時代からの天使・悪魔論の論理が依然とし
て生きてゐることを読者は知ることができます。[註4]戦争がなければ平和はなく、穴がなけ
ればドーナツはなく、影がなければ人間はなく、胸の陰圧がなければ現実はない。「奉天の窓」
の論理です[註5]。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

[註3]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「0。二十一世紀の
安部公房論」をご覧ください。

[註4]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)』の「VI 「転身」といふ語は、詩文散文統合
後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」(もぐら通信第59号)及び安部公房
の椎名麟三論を論じた『横顔に満ちた人ー安部公房』(もぐら通信第64号)をごらんください。

[註5]
「奉天の窓」の論理については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する』(第32号、第33号)をごらんくだ
さい。

時代に制約された、といふ事は直ぐに古びてしまふ、そして実際に既に古めかしい、苔むした前
衛などといふ言葉を使ふことなく、時代を超えてある反骨といふ言葉を云へば、私たちは日本
人であり日本語を当然の如く日本の文化の中で自然に解しますから、それで安部公房の精神を、
理屈抜きに、知ることができ、体の中に感じて、そのまま受け継ぐことができます。

17世紀の後半、江戸は元禄時代の松尾芭蕉が、初めて会ふた名古屋の連衆と巻いた歌仙『冬
の日』の、次の二句一想にある、杜國(とこく)が野水(やすい)の句に付けた骨をご覧くだ
さい。

冬がれわけてひとり唐苣(たうちき) 野水
しらしらと砕けしは人の骨か何    杜國

[註6]
唐苣(たうちき)は、不断草のこと。アカザ科フダンソウ属の耐寒性一年草-二年草。

冬に荒野に分入れば、「しらしらと砕けしは人の骨か何」。杜國のこの一行を安部公房の世界
に相移転すれば(topologically)、これは骨であらうか、いや分明ではない、骨のやうな何か
だといふ事になつて(安部公房の直喩の一行)[註7]、この何かといふことから、これは存在
だといふ事になるでせう。安部公房の箱根の仕事場にあつた人体の骸骨の模型を思つても良い
でせう。

今から数えると330年以上も前に詠はれた此の俳諧といふ高級な文藝の骨は、私たちといふ
「人の骨か何」といふ存在の骨になつて、二十一世紀の今も私たち日本人の反骨となつてゐる。

[註7]
安部公房の直喩が存在を意味することについては、『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤
∼』(もぐら通信第55号)の「1。直喩といふ毒(修辞の毒)」をお読み下さい。
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ページ

旅と鎮魂の安部公房文学

岩田英哉

       目次

1。旅と鎮魂といふ原型と現代小説家
2。安部公房文学の旅と鎮魂
2。1 19歳の処女作『(霊媒の話より)題未定』(1943年)
2。2 最後の作品『カンガルー・ノート』(1991年)
2。3 『終りし道の標べに』(1948年)
3。安部公房の「奥の細道」:『問題下降に依る肯定の批判』(1943年)

*****

1。旅と鎮魂といふ原型と現代小説家
1968年に発行された『批評』(冬季特別号(通巻14 昭和43年12月15日発行))での
三島由紀夫、山本健吉、佐伯彰一三氏による「原型と現代小説家」と銘うつた座談会があります。
以下、掲題に関する箇所を引用して、安部公房文学を理解する縁(よすが)と致したい。次のや
うな、日本文学上の旅と鎮魂に関する談義です。

「三島  鎮魂の主題に戻りますが、鎮魂というものの現代文学への影響というのは、いろい
ろぼくはあると思う。たとえば島尾敏雄なんかは、一種の鎮魂文学と考えていいでしょうね。そ
れからあと、川端さんもそうですね。それからあとは、谷崎さんは、ちっとも鎮魂してくれなかっ
たな、一生。
 (略)
 三島 上林暁にもあるしね。(略)
 (略)
 三島 (略)あとまあどういう人がいるか。日本で気持の澄んだ印象を与える文学者という
のは、たいてい鎮魂があるのだな。ぼくは井伏さんが鎮魂だというのには反対があるのだ。
 佐伯 そうですか。全部がそうとは言えないけれども、初期の『さざなみ軍記』とか『鯉』
とか『黒い雨』などはそうだと思うけれども、違うかな。
 (略)
 山本 『新古今』は鎮魂ですか。
 三島 『新古今』はどうでしょうか。あんなアーティフィシャルで、鎮魂ができるでしょう
もぐら通信
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ページ

 山本 できない。
 三島 どうでしょうか。
 山本 日本の和歌史では、万葉時代には鎮魂というのはあったけれども。
 三島 『新古今』のあるものまででしょう。顔つきでもだいたい鎮魂できる人と、できない
人があってね。
 山本 釈迢空……
 三島 釈迢空は鎮魂ですよ。
 山本 『死者の書』などというね。
 佐伯 典型的なものですね。
 三島 ほかに若い作家で、鎮魂ができそうなのはだれだろう。
 山本 島尾敏雄ですね。ほかにそういないですよ。やはりアメリカニズムがはやってきている
から。アメリカ化していますよ。いまの小説は。『三匹の蟹』だけではないですよ。
 三島 それは大江君にもね、かなり入っているね。安部公房なども、コスモポリタニックな言
語というものをある程度信じている。
 佐伯 ぼくはしかし、『万延元年のフットボール』にも、祖先の怨みつらみというような設定
で、鎮魂というモチーフが生かされれば、もっと切実な小説になったのじゃないかと思う。安部
くんの場合は、やはりしょっちゅう旅人でしょう。それはぜんぜん自分では意識してないけれど
もね。旅人の位置に主人公をおくという、これはなるほど根なしのコスモポリタニズムのごとく
だけれども、無意識のうちにつながっている。
 三島 彼はやはり流浪の旅というところがあるね。旅人文学だと思う。
 山本 日本では旅人文学というのが、すでに鎮魂の文学なんですよ。
 三島 本当はね。
 山本 旅に出ると、必ず鎮魂をやる。そのときに歌が生まれるのだよ。夜ね。だから旅人の
夜の歌になるんです。
 三島 なるほど、なるほど。
 山本 黒人などは典型だけれどもね。
 三島 佐伯さんもアメリカで鎮魂した……(略) 」
(『批評』1968年、142ページ∼143ページ)

やはり、山本健吉の日本文学への造詣はいふまでもないことですが、深く、さうして其の発言に
即応する三島由紀夫の理解も同様に深い。アメリカ文学に造形の深い佐伯彰一も、日本の国に
於ける学術の世界といふ社会的な地位にゐて外国人に日本文学の特性と特色を理解して説明する
といふ必要のあることからも、同様の理解の深さを有してをります。安部公房は「自分では意識
してないけれどもね。旅人の位置に主人公をおくという、これはなるほど根なしのコスモポリタ
ニズムのごとくだけれども、無意識のうちにつながっている」といふ佐伯彰一は、若い時からの
安部公房の友人であり、安部公房没後10年に安部公房展を開催した世田谷文学館の館長であ
り、安部公房のことを良く知つてをります。
もぐら通信
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しかし、安部公房全集には、このやうな日本文学の伝統との関係で特質のある対談や座談は全
くと云つて良いほどなく、あるとすれば三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』とドナルド・
キーンさんとの対談『反劇的人間』ですが、しかし、これらの対談とても、対談中の一例を挙
げれば、三島由紀夫についてはいふまでもなく、キーンさんはイタリアオペラが大好き、対する
安部公房は大嫌いといふやうな具合で、かうしてみますと、成城高校時代の哲学談義を親しく交
はした友、中埜肇、後年世に出てからの三島由紀夫、ドナルド・キーンさんと、安部公房の対談
座談の相手は、いつも自分の思考論理や感性と対極にある論理と感性を有する相手だといふ事
になります。

さて、このやうなことから、どう考へても、安部公房の思考は常に変身し続ける、絶えず旅をし
てやまない、即ち十代以来リルケとニーチェに読み耽って自得したところに従ひ、いつも愛と存
在と別離を気にかけてゐて此れを思ひ、従ひ、これは譬喩(ひ)ではなく、安部公房はどんな細
部にあつても、それが目に見えない思考論理の細部であれ具体的な作品の細部であれ、常に人
と別れて真実の永遠の愛を証明するために存在への旅をしてゐる、さうであれば安部公房は存在
論的な旅人であると、さう云つても構はないのです。

この、常に旅をしてゐる論理とは、勿論20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』に既に大成
されてゐる、両極端を否定して(排除するのではない事にご注意)、両極端を否定するといふ言
ひ方がわかりにくければ、両極端を陰画として(S・カルマ氏が現実を全て眼から陰圧の胸の中
にと吸い込んで)自分の体内に一旦入れて、自己の命を賭けて果てしのない(自分自身を含む)
次元変換の末に至り観る、そして成り至る、さう、観ることと在る事が一体としてある(自己の
反照としてある)第三の客観を求める無私の行為にあることはいふまでもありません。さうして、
この数学的な論理、即ち接続と変形の論理であるtopology(位相幾何学)と裏腹には、文学の
領域ではリルケの『オルフェウスへのソネット』の主人公、絶えず変身し、自分自身以外の諸物
に姿を変へて止まない変身するオルフェウスの姿のあることは、これも既にお伝へした通りです。
[註1]

[註1]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)をご覧くださ
い。初期安部公房が、如何に詩人から詩人のままに小説家に変身したのかを詳細に且つ明解に論じました。

さて、山本健吉のいふ「旅に出ると、必ず鎮魂をやる。そのときに歌が生まれるのだよ。夜ね。
だから旅人の夜の歌になるんです」といふ「原型と現代小説家」に関する伝統的な日本の文藝
の、古代にあつては万葉集に始まる和歌といふ詩文の伝統と歴史が、安部公房文学にどのやう
に現れてゐるか、即ち安部公房文学が如何に古代以来の私たち日本民族の詩と詩の様式(style)
または形式(form)を、近世・近代の文明を築いた欧米白人種キリスト教の資本主義と民主主
義から生まれた植民地主義に徹底的に抗して、これを(日本共産党員にまでなつてして)超越し
ようとしたか[註2]、この作品を書いた時にはまだ党員ではありませんが、しかし、その文学
的人生の最初から、私たちの伝統的・歴史的な詩の様式(style)または形式(form)を継承し
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

てゐることを見てみませう。

[註2]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用してお伝へします。

「安部公房は、『牧神の笛』で願った通りに、小さきものを思考するときには詩人であり、小ささを思考するとき
には小説家(散文家)であるという自分の念願を(全集第2巻、200ページ下段∼201ページ上段。1950
年5月5日)、マルクス主義の終末思想と方舟思想を否定して、これらを陰画としてみることによって、マルクス主
義を陰画の媒介とすることによって、5年間を掛けて、ここに達成することができたのです。

一言でいえば、安部公房が詩人から散文家に変貌するために、安部公房はマルクス主義と日本共産党を必要とした
のです。

中埜肇宛書簡第17信に「マルクスシズムはぼくのアンチテーゼではなく、ぼくの超えるべきものであるやうに思
はれます。」(全集第2巻、333ページ。1950年4月20日)と、いつもの安部公房の論理で、マルクス主
義は私を否定するものではなく、私の方こそがマルクス主義を超えるべきものだという、あれほど読み耽ったニー
チェの『ツァラトゥストラ』に学んだ安部公房らしい論理で、それまでの自分の思想の統合への決意を書いてから
5年の時間が経っていました。

安部公房は、この5年間の間に、『S・カルマ氏の犯罪』の主人公と同様に、胸の陰圧を使って現実をその眼から陰
画として吸い込んで、陰画としてのマルクス主義を自己のものにしたと言い換えてもいいでしょう。従い、このマル
クス主義のふたつの主題は、安部公房の胸の奥底で、終生の、重要な主題となりました。」(『安部公房と共産主
義』もぐら通信第29号)」

2。安部公房文学の旅と鎮魂
2。1 19歳の処女作『(霊媒の話より)題未定』(1943年)
さうして、19歳の処女作『(霊媒の話より)題未定』を開くと、確かに山本健吉のいふ通りに、
さうして三島由紀夫のいふ通りに、夜に鎮魂の歌を詠ふといふ、そして私が繰り返し諸処でいふ
やうに大和物語や源氏物語以来の、伝統的な、近代文学の中では小説家が誰も書かない(時代
物の小説は別ですー例へば五味康祐の傑作『柳生武芸帳』)和歌物語になつてゐます。

「一方パー公はすたすたと其の暗い夜道を歩き続けた。もう月は西の空に沈んで居た。今や町中
が死んで終った様に見えたけれども、彼に取っては今や総てが魂を持って、恐ろしい叫ぶ声をあ
けで(原文のママ)宙に躍り上った。何も彼もが其の中に融け込んで行く様な巨大な音楽が、恐ろ
しい無言の歌が、喜びに満ち満ちたそして死を讃える様な悲痛な夜と昼の歌が、龍巻の様に彼の
周囲に起って、彼は危く其場に気を失って終いそうだった。」
(全集第1巻、38ページ下段)(傍線筆者)

このあとに「彼は停車場で二時間程待たなければならなかった」と始める一行で段を改めてか
ら、この二時間といふ「その間に」主人公の胸中に湧いた詩を詠ふ思ひについて、作者が顔を出
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ36
して曰く、この小説の読者は其の思ひについては理解せず、「内容に至っては、目を通す価値す
ら無いと考えて居る」だらうといふことを述べてゐて、全く未来の私たち読者の、安部公房の小
説は読むが詩は読まないといふ、安部公房文学に対するこれまでの偏つた読み方を予見してを
り、先廻りして指摘してをります。

パー公の胸中にあつて、この主人公が詩を詠ふ理由は、作者によれば、次のやうなものです。こ
れは、これ以来最後の作品『カンガルー・ノート』に至るまで、安部公房が作中に詩を挿入する、
一生涯変はらぬ理由であると思はれる。(パー公は旅する曲馬団の一員たる孤児、『カンガ
ルー・ノート』の主人公はアトラス社製の(主人公の意識に連動して)旅するベッドの上の患者
であることを思ひ出しませう。)

二時間といふ時間の「その間に、彼の心の中を走りまわった色々な影絵は、一つの長い十数年
の感情の歴史であり、又それは一つ一つの夢の断片であった。それは人間の最初の歌であり、
自ずと湧いて出た詩であった。それには言葉が無かった。」
(全集第1巻、38ページ下段∼39ページ上段)(傍線筆者)

これは、「それは言葉が無かった」とある通りに、沈黙と余白の「空白の論理」[註3]であり
ますから、それは安部公房スタジオの舞台の一枚の白い布を思へばお判りの通り、存在であり、
存在であれば愛と別離と愛の真実性の証明のために存在へと向かふといふ、安部公房がリルケ
に学んだ動機と主題が、自ずとそこに歌はれることになります。その歌です。傍線は筆者。

[註3]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』の「2。空白の論理といふ毒(詩の毒)」(も
ぐら通信第55号)をご覧ください。

「̶̶夜、嵐の中を歩み行く人は、
   唯静かな朝を待ちこがれる
   生も無く、死も無く、
   声も無く、無言も無く、
   愛も無く、憎しも無い、
   巨大なる混沌の中から、
   その歌は始めて生まれ出る。
   静かなる朝を求めて。
   それは始めて嵐の中に息を吹き返す、
   其の日は、
   生と愛とからの別離の日、
   総てが深淵の中に吸い込まれて行くのを、
   魂のぬけた目で眺めやり、
   恐ろしい嵐の中に歩み入る。
   其の深淵の中から、
もぐら通信
もぐら通信                          37
ページ

   愛を求める英雄を讃える歌。
   悲痛を喜ぶ蜘蛛の糸。
   空虚を愛する死人の家。
   我と我が身をさいなみて、
   孤独の祭壇にひざまずく、
   主、「惨酷」
   やがて嵐はその犠(いけにえ)に、
   恐ろしい拷問、幻影を課する。
   静かな朝、
   それは限り無い愛をはらんで、
   低く低く身を起す。
   そしてやさしい白い手を、
   美しく、そして暖かく、
   なごやかにまねき乍ら、
   「生」の歌を舞い続ける。
   しかし、突如としてその後ろに、
   巨大な深淵は真っ黒な口を開く。
   そして、忘れられて居た苦悩の死骸が、
   悲しい想出の舞を始める。
   見捨てられた血の出る様なささやき、
   一刻一刻遠ざかって行く姿「友」
   それ等はやがて重なり合って、
   目をむき出し、歯を食いしばり、
   やがて暗の中に融け込んで行く。
   暗、暗、
   そして彼は深い深い吐息をつく。」
(第1巻、39ページ∼40ページ上段)

三度繰り返される静かな朝といふ朝は、祈りの成就する朝(あした)なのです。夜に話者は、あ
るいは詩人は、何も差異の無い、といふことは「巨大なる混沌の中」で祈る其の混沌の中から
「その歌は始めて生まれ出る」。歌は、あるいは詩は、夜の祈りのあとに静かな朝が来れば、
それまでは夜の中で死んだやうになつてゐたものを、「初めて嵐の中で息を吹き返す」。といふ
事は、明日といふ朝(あした)の光のある昼間の中に生きるといふ事は、それは嵐の昼間であ
り、嵐である理由は、「生と愛とからの別離の日」であるからだ。だから、これまでの「総て
が深淵の中に吸い込まれて行く」のであり、「生と愛とからの別離」といふ「恐ろしい嵐の中に
歩み入る」と詠はれてゐる。その「総てが深淵の中に吸い込まれて行」きながら、様々な声が深
淵の中から聞こえて来る。それ等は、愛であり、悲痛であり、空虚であり、同時にこれ等と正
反対の英雄讃歌であり、蜘蛛の糸の喜びであり、空虚を愛する死人である。即ち、詩人は「我
と我が身をさいなみて、/孤独の祭壇にひざまずく」のである。主たる唯一絶対神は詩人を助け
もぐら通信
もぐら通信                          ページ38

ざるが故に、「生と愛とからの別離」の嵐の中で、一人詩人は「犠(いけにえ)」となる。三
つ目の朝に、しかし、至ると、最初の静かな朝では「静かな朝を待ちこがれる」詩人は、二つ
目の静かな朝では、詩人は嵐の中に歩み入つてゐるが、しかし、さて三つ目の静かな朝には、
主語は詩人では無く、「静かな朝」が、今度はtopologicalに主客が交換されて、「それは限り
無い愛をはらんで、/低く低く身を起こす。/そしてやさしい白い手を」を「まねき乍ら、」詩人
の蘇生させた「「生」の歌を舞い続ける。」その舞は「美しく、そして暖か」い。

「静かな朝」の「白い手」とは、いふまでも無く、存在の片手[註4]です。さうして、普通私
たちには昼間の光ある人生(life)といふ生(life)が「 」に入つてゐるのは、これが詩人の「生
と愛とからの別離」の生であり、深淵に全てを喪失した詩人の生、陰画の生、昼間の光の中の
生ではない生であるからです。そして、最後には、日常の時間の流れとは全く無関係に「突如と
してその後ろに、/巨大な深淵は真っ黒な口を開く。」その深淵には、喪失によつて忘却された
筈の「苦悩の死骸が」見え、「悲しい想出の舞」が見え、「見捨てられた血の出る様なささや
き」が聞こえ、即ち自らが存在になつてまで(友には知られぬやうに、沈黙の中で)愛を尽く
した当の相手の其の友が「一刻一刻遠ざかって行く姿」が見えるのです。これ等は皆単なる記憶
の再来なのでは無く、詩人の一旦の忘却によつて、日常の時間の流れの中の時間によるのでは
無く、其の時間の配列を失った思ひ出として記憶として、詩人の意志とは無関係に「突如として」
其処に出現し、詩人の制御不能のままに、これ等の全ての形象は溶暗し、「暗、暗、/そして彼
は深い深い吐息をつく」のです。

[註4]
存在の片手については、『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)と『安部公房ー横顔に満ちた人』(もぐら通
信第64号)をご覧ください。

さて、この詩の後に、主人公のパー公はどうするのか。

作者曰く、「これから我々の主人公は汽車に乗ってやはり長い事、希望と苦悶、期待とあきらめ
の旅行を続ける」のです。

2。2 最後の作品『カンガルー・ノート』(1991年)
最後の作品『カンガルー・ノート』の主人公も、あのアトラス社製のベッドに乗つて「やはり長
い事、希望と苦悶、期待とあきらめの旅行を続け」るといふ地獄巡りの果てに、最後には、処
女作の最後に置かれた上記の詩人の運命と同じく、主人公は、夜に夜の歌を詠います。その夜
に、二つの夜の歌を詠い、二つの人さらいの歌を詠います。

夜に詠ずる一つ目の夜の歌は、「六つの電動ドアが一気に開いた。誰も降りてこない。いや、
なにか灰色の小動物の群れが飛び出してきたような気もした。すごいスピードでジャンプしなが
もぐら通信
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ら、ホームを横切り、闇のなかに散らばっていく。」とある夜に、男女二人が「シャーマン安部
公房の秘儀の式次第」に則り、結末共有である透明感覚を巡る次の哀切な会話を交はした後の
「むかし人さらいは/子供たちを探したが」で始まり「祭りがはじまるその日暮れ/人さらいがやっ
てくる」で終はる人さらいの歌です。(全集第29巻、187ページ下段∼188ページ上段)
(傍線筆者)

「「君には見えているの?」
 「見えて居ないと思う?」
 「暗すぎるじゃないか」
 「わたしは見える」」
(全集第29巻、186ページ∼187ページ上段)

夜に詠ずる二つ目の夜の歌は、一つ目の人さらいの歌の後に直ぐ続いて「網膜周辺でしか見え
ない、数人の小さな人影。闇に身をひそめる様にして、待合室を迂回し、大型冷蔵庫でも入りそ
うな、ダンボール箱を運んでくる」といふ(傍線筆者)、作品の冒頭の存在の《提案箱》といふ
《 》といふ哲学用語を示す記号で括った[註5])小さな《存在》の《箱》のの後に、今度は
「大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」といふtopologicalな交換を最初と最後で行なつ
てメビウスの環の又はクラインの壺の接続を創造したあとで、存在の記号( )[註5]の中に
(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)といふ存在を呼びだす呪文
をカタカナで書き、その後に箱と同型である凹(窪み)の形象である( )の中にもう一度同
じ存在招来の呪文を置いて、其の二つの呪文の間、即ち「空白の論理」に従ひ存在の沈黙と沈黙
の間、余白と余白の間に挿入された「北向きの小窓の下で/橋のふもとで/峠の下で」で始まり「遅
れてやってきた人さらい/会えなかった人さらい/わたしが愛した人さらい」で終はる人さらいの
詩です。

[註5]
《 》といふ哲学用語を示す記号、〈〉といふリルケの詩の世界と自分の詩の世界を示す記号、および存在の記号
( )については、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)』の「VII 「転身」といふ
語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」(もぐら通信第5
9号)をお読みください。詳述しました。

さうして巻末には、次の存在の方向を示す標識である立て札が立ち、読者であるあなたを存在の
方向へと案内してくれるわけです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ40

この立て札が新聞記事である以上、これは、主人公が、そして読者であるあなたが、世界の果て
に至つたことを意味してをり、従ひ此の新聞は、「既にして」超越論的に昨日といふ時間単位に
「いつとはなく」「ふと気がつけば」、即ち無時間で発行されてゐて、明日といふ時間単位に(昨
日と交換されて「いつの間にか」「ふと気がつけば」今日配達されてしまつてゐる)「明日の新
聞」の、あなたが現実の時事刻々の時間の流れの中で今『カンガルー・ノート』の最後でペー
ジをめくつて読んでゐる其の記事なのです。戯曲『友達』の最後の場面と同じです。

かうして、処女作から最後の作品まで、安部公房の作品に詩歌が挿入されてゐれば、その詩歌の
現れる契機(タイミング)は皆、これら二つの作品と同じであり、詩歌が挿入される理由もまた、
処女作に作者自らが書いたのと同じ上記に引用した理由によるものでありませう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

この章の最後に最初に戻り、冒頭の座談での山本健吉の発言に戻ります。

詩歌が挿入される理由もまた、処女作に作者安部公房自らが書いたのと同じ理由である例をあ
と一つだけ挙げて、山本健吉の冒頭の発言の検証をします。

パー公の胸中にあつて、二時間といふ時間の「その間に、彼の心の中を走りまわった色々な影
絵は、一つの長い十数年の感情の歴史であり、又それは一つ一つの夢の断片であった。それは
人間の最初の歌であり、自ずと湧いて出た詩であった。それには言葉が無かった。」(傍線筆
者)とある、この安部公房の主人公の夜の歌の起源は、山本健吉の言葉によれば、「日本の和
歌史では、万葉時代には鎮魂というのはあった」のであり、「日本では旅人文学というのが、
すでに鎮魂の文学なんですよ。(略)旅に出ると、必ず鎮魂をやる。そのときに歌が生まれるの
だよ。夜ね。だから旅人の夜の歌になるんです。」といふことと同じことであれば、「影絵」の
鮮やかな夜に、万葉時代からの鎮魂の心を以つて、歌を詠ずる主人公か又は話者は、「言葉が
無かった」のであるから沈黙と沈黙の間、隙間、即ち差異に、その詩は「自ずと湧いて出た詩」
なのであり、単に個人的な私的なものである「数十年の感情の歴史」から生まれた詩であると
はいへ、それが「自ずと湧いて出た詩」であり「言葉が無かった」ことが文字に示された無言
と無言の差異にある詩である以上、「一つ一つの夢の断片」は皆単なる記憶の再来なのでは無
くして、詩人の一旦の忘却によつて、日常の時間の流れの中の時間によるのでは無く、其の時間
の配列を失った思ひ出または記憶としてある「一つ一つの夢の断片」なのですし、詩人の意志と
は無関係に「突如として」其処に出現し、詩人の制御不能のままに、「己が心の木の間 木の間
に/誰かこゞみてすゝり泣く」と最後の行に詠じた22歳の、それも万葉時代の言葉を使つた、
安部公房の22歳の次の詩を読む事にします。

19歳の小説の処女作での主人公の詩の最後は、「忘却から現れた全ての形象は溶暗し、「暗、
暗、/そして彼は深い深い吐息をつく」のですが、22歳の詩の最後では、「誰かこゞみてすゝ
り泣く」のです。

「第4回 CAKE読書会報告∼Topologyと地図(map)∼」(もぐら通信第44号)より、少し
長い引用になりますが、しかし安部公房の詩の本質的な事柄を列挙してありますので、お読み下
さい。安部公房といふ人間の論理と感情をより深く理解する事になる筈です。

「第4回 CAKE読書会報告∼Topologyと地図(map)∼:

(5)③『主観と客観』(『没我の地平』収録の詩。全集第1巻、165ページ)1946年
冬頃、安部公房22歳の作品。

この詩は次のような詩です。
もぐら通信
もぐら通信                          42
ページ

「主観と客観

しぐれ行く黄昏の鈍色(にぶいろ)よ
木の間木の間に
よび返し ものおじしつゝ
泣くのは誰ぞ?
闇と嘆きと…………蹲る影
おゝ悲しき現在(いま)よ つれなしの
吾が在り様のことはりよ
されど物問ふ唇に
黙して傾ぐ愛の眼に
返り叫ぶ君がさゝやき
姿見の照り返し
夕辺に満てるあらけなの
吾が在り様の夢と夢
あはれ此処には吾れも無し
大地は天に駆け消えて
ゆくさもくさも雨のそぼふり
蹲る影 おゝ血と涙
さすらひの初め
ひそけさよ
おゝかの言葉 吾が胸に
帰れと叫ぶ かの言葉!
己が心の木の間 木の間に
誰かこゞみてすゝり泣く」

以下、備忘のように参加者の知ったことを箇条書きにする。

第1連:
  ①第一連の「木の間木の間」とあるように、安部公房は木の間という空間的な隙間(差異)
を歌い、しかし他方同時に、その連の第一行では「しぐれ行く黄昏の鈍色よ」とあるように、
時間を歌っている。この時間は、昼と夜の、やはり境目であり差異であり、時間の隙間という
べき黄昏なのであり、時間の其の境界域の色は鈍色なのである。
  ②その存在の存在する隙間に「蹲る影」として、未分化の実存たる誰かがいる。これが今現
在という此の瞬間の時間に生きる、「つれなしの」であるから孤独で一人でいる「吾が在り様
の」道理であり、「ことはり」である。当時旧制高校生であった安部公房ならば、このような
人間の「吾が在り様の」を、現存在(das Dasein:ダス・ダーザイン)とドイツ語でいうことを
十二分に知っていました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ43

第2連:
  ①しかし、第1連のそのような自己のあり方にもかかわらず、それに抗して、「君がささや
き」を返してくれる。これは、「姿見の照り返し」なのである。
  ②この「姿見の照り返し」とは、「返り叫ぶ君がささやき」である。
  ③この「姿見の照り返し」とは、それが姿見という鏡である以上、そこに映じているのは、
「されば物問う」「吾」の姿である。
  ④これは、私が諸処でいうように、再帰的な人間の姿である。
  ⑤この「吾」は、「されば物問う唇」を持っているのみならず、「黙して傾く愛の眼」も持っ
ている。
  ⑥これらの沈黙の唇と愛の眼に、そのもう一人の自分自身が「返り叫ぶ」のである。
  ⑧この「返り叫ぶ」とあるのにもかかわらず、それは全く正反対に「ささやき」と言われて
いる。ここにも安部公房は極端な差異を設けている。それは、その差異に存在を招来するため
である。叫ぶようなささやきは、またささやくような叫びは、普通は此の世には存在しない声
のあり方である。
  ⑨このように自己が時間の隙間に鏡に映じているさまは、互いに反照であることから言って
も、それは夢と夢の関係なのだ。それが、「吾が在り様の夢と夢」という意味である。
  ⑩しかも、その夢は、第1連にも歌った通りに、「夕辺に満てる」境目の時間の「夢と夢」
の関係にある、従い時差の中の再帰的な関係なのであり、この関係は「あらけな」の関係なの
である。

「あらけな」とは、これを「散(あら)ける」という動詞に由来する形容詞なのであれば、そ
の言葉と意味は、日本書紀にまで溯る事の出来る古語である。

「あら・ける [3] 【散らける・粗ける】
( 動カ下一 ) [文] カ下二 あら・く
①離れ離れになる。散り散りになる。 「あやしき少女の去りてより,程なく人々−・けぬ/う
たかたの記 鷗外」 「是に−・けたる卒(いくさ)更に聚る/日本書紀 舒明訓」
②道や場所をあける。また,間をあける。 〔日葡〕
③火や灰などをかきひろげる。 「馳走ぶりに火を−・ける/多情多恨 紅葉」」
(Weblio辞書:http://www.weblio.jp/content/粗ける)

従い、この第1連、第2連の趣旨に沿って考えれば、「あらけな」とは、「①離れ離れになる。
散り散りになる。 」という意味でもあり、また「②道や場所をあける。また,間をあける。」
という、全く差異に、そうして差異に存在する存在に命を懸けて生きようとする22歳の安部公
房のこころを其のままに表しているのです。

第3連:
  ①以上の第1連第2連の事から、「あはれ此処には吾も無し」という事になりましょう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 44

何故ならば、「木の間木の間」という空間の差異に棲む吾も、「黄昏」や「夕辺」と呼ばれる
時間の差異に棲む吾も、それは「夢と夢」の関係にあり、従い再帰的な関係にある「あらけな」
の関係なのであるから。散り散りバラバラの吾であり、散り散りバラバラになったものの差異に
棲む吾であってみれば、そうであるからなのである。
  ②従い、そのような未分化の実存たる存在(das Dasein:ダス・ダーザイン)と化した吾に
は、「大地は天に駆け消えて」しまう。自分自身は再帰的な「夢と夢」の関係、鏡に映る鏡像
関係にあって自己を喪失するが、このことによって同時に、他方、天地という最大の距離は一挙
にゼロになるのだ。天が地に墜ちるのではなく、大地が天に「駆け消える」という形で、即ち垂
直方向の、従い時差の存在しない方向を以って、最大の差異が消失するのだ。ここに、安部公房
の読者は、既に『S・カルマ氏の犯罪』で、主人公が最後に何故砂漠の中で壁になって垂直方向
に果てしなく成長を続けるかの答えを予め得るでありましょう。
  ③この天地の差異がゼロになるところでは、やはり其れは晴天ではなく、「ゆくさもくさ
も雨のそぼふ」る雨天なのである。「ゆくさもくさも」という言葉もまた、古語であり、万葉
集の第1784番目の歌に、次の歌があります。傍線筆者。

「1784 相聞,遣唐使,餞別,送別,無事
[題詞]贈入唐使歌一首
海若之  何神乎  齊祈者歟  徃方毛来方毛  <船>之早兼

海神の いづれの神を 祈らばか 行くさも来さも 船の早けむ 
わたつみの いづれのかみを いのらばか ゆくさもくさも ふねのはやけむ
・・・・・・・・・
海神のどの神様にお祈りしたら、行きも帰りもお船が早いだろうか
・・・・・・・・・
*「海のどの神様に」とも、また古事記に出ているように海の神は底津綿津見神、中津綿津見
神などわたつみのかみにも色々あるので、その中のどの海の神に、ともとれる。 」
(ブログ『ニキタマの万葉集』:http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/24966104.html)

22歳の安部公房の詩人としての努力は、このような古代の日本書紀や万葉集以来の古語を用い
て、時間と空間の差異と存在を歌うことにあったということがわかります。

さて、そうすると、この「ゆくさもくさも雨のそぼふり」とは、行きも帰りもそぼ降る雨であっ
たという意味になります。

  ④大地の差異がゼロになったのである以上、既に棲家はなく、それは否が応でも「蹲る影」
である吾は、「おゝ血と涙」とある通りに、自らの血を以って、また其の苦しみに堪えるために
流す涙を以って、旅に出なければなりません。
  ⑤それが、「さすらいの初め」ということなのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

  ⑥そして、その漂白の旅立ちは、「ひそけさ」がなければならない。即ち、誰にも知られる
ことなく、ひっそりと、隠れるように、世の人の目から消えなければならない。
  ⑦そうして、第2連で歌われた「姿見の照り返し」であるもう一人の自分自身、否それが自
分であるならば、その照り返しを見る吾こそが影という「夢と夢」の関係にある吾と吾、その
前者の吾か、後者の吾かはわからないが、その吾が「帰れと叫ぶ」のである、「おゝかの言葉」
を「吾が胸に」叫ぶのである。

「かの言葉」とは、上で述べたように、第2連で歌われた「姿見の照り返し」であるもう一人
の自分自身、否それが自分であるならば、その照り返しを見る吾こそが影という「夢と夢」の
関係にある吾と吾、その前者の吾か、後者の吾かはわからないが、その吾の叫ぶ「帰れと叫ぶ」
「かの言葉」なのである。

以上のような書き方そのものが既に、再帰的な言語表現になっている。そうして、出発が最初か
ら帰還であると歌われている。「さすらひの初め」に、「木の間木の間」に「蹲る影」たる自分
が、「帰れと叫ぶ」のである。どこに帰るのか。存在の凹み、空間と時間の二つながらある差
異に、その空間と時間の交差する十字路にまた戻るのである。これが、安部公房の世界である。
奉天の窓は無数にあることは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能
力について∼』(もぐら通信第32号と第33号)で詳述した通りです。

 ⑧さて、この詩の最後がまた安部公房らしい。何故ならば、世に出てからの小説と同様に、
その最後は最初になり、最初は上に此の詩で見たように最後になるのであるが、この出立のた
めの最後に、安部公房はメビウスの環を形成して、内部と外部の交換の永遠の循環の構造を成す
のだ。

それは、第1連では「木の間木の間」の差異に吾が存在していたものを、この最後の連では、勿
論topology(位相幾何学)という数学の論理の世界では数字と記号で描かれるべきところを、
文学の世界、生きた人間の文字の世界では、リルケに教わった通りに、しかし論理として
topologyのままに、内部と外部を入れ替えて言語表現と化さしめているのである。即ち、「己
が心の木の間 木の間」の差異「に」、吾は帰るのである。

「木の間木の間」が、「己が心の木の間 木の間」となっていることに、読者は注意されたい。

前者の木の間は、吾の存在する(外部の)木の間であり、後者の木の間は、吾の中にある、そ
れも吾の心の中に存在する木の間である。それ故に、安部公房は、奉天の小学生の「クリヌクイ 
クリヌクイ」の詩以来変わることのない安部公房の詩の作法の通りに、木の間と木の間に一文
字分の空白を設けて、そのことを示したのである。この安部公房の詩の作法についても、やはり
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 46

32号と第33号)で詳述した通りですので、これをご覧ください。

誠に、「さすらひの初め」にある「ひそけさ」の中で、誰にも知られることなく、リルケに教
わった通りに、静かに存在を褒め称え、荘厳する安部公房の姿があります。」

「さすらひ」とは、言ふまでもなく、旅のことであり、「ひそけさ」といふ静寂の中で「吾が
胸に」唱へる「帰れと叫ぶ かの言葉」とは、沈黙と沈黙、余白と余白の隙間に在つて他者に
は聞こえない、上の⑦の解釈で明らかにしたやうに、再帰的な自己に回帰せよといふ、失われ
た自己のための鎮魂の言葉です。

詩の生まれる契機である夜は、勿論、第一連に歌はれてをります。

このやうに縷々考へて参り、この章で最後に思ひ至つたことは、二十一世紀の安部公房論は、
安部公房の文学を知るには、読者は安部公房文学の内部に留まる事に甘んじるのではなく、安
部公房自身のtopologicalな思考形式を使つて、従ひ再帰的に、安部公房文学の外部と内部を、
内部を外部と交換することで、生まれるだらうといふ事です。

この場合、安部公房文学の外部が、日本の歴史と伝統と文化であり、内部はtopologyといふ接
続と変形の数学であり(また思考形式であり)、存在であり、言語機能論であり、直喩といふ
譬喩(ひゆ)です。[註1]

[註1]
『存在とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼』(もぐら通信第41号)をお読み下さい。安部公房文学
といふ缶詰を開ける缶切りの名前と其れが何かが語られてゐます。また、

『「安部公房」に缶切りを!∼安部ねり&加藤弘一 −トークライブ報告∼ 2013年2月20日紀伊國屋書店新宿南店』
(もぐら通信第6号。ホッタタカシ報告)より以下に引用して、この缶切りという隠喩(metaphor)の由来をお伝
えします。:

「「本当にウマの合った二人だった」と安部公房と三島由紀夫の幸福な交遊関係に触れ、安部公房の友達は右翼が
多かったな、とポロリ。さらに、「『終りし道の標べに』が出た時、推薦人は埴谷雄高、激賞の手紙を送ってきた
のは石川淳、最初に批評を書いて褒めたのが三島由紀夫。『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞をもらった時は、川端
康成が推してくれました。認めてくれるのは作家ばかりなんですよね、評論家じゃなくて」
 と言うと、加藤さんもうなずき、
「評論家は鈍いですね。三島論にくらべると安部論はぜんぜん少ないし……」
 なぜ少ないのかと問われて、
「缶切りが見つからないんだと思いますよ。安部公房の文学をどうやって蓋開けていいのか、わからないんです」
「みなさん、(缶切りを)見つけてください」
 と、ねりさんの観客への呼びかけで1時間のトークライブは幕となった。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 47

言語の観点から見れば、全部で缶切りは3つあります。

(1)存在という概念(概念)
(2)言語機能論(言語の本質)[註1]
(3)譬喩(ひゆ:trope)[註2]

[註1]
言語とは何かを論じた『言語とは何か』(もぐら通信第40号)をお読みください。

[註2]
譬喩とは、隠喩(metaphor)と換喩(metonymy )と直喩(simili)という、詩(poetry)と詩文(poem)を構
成する主要な詩文(poem)の要素のことです。数学的・論理学的に見ると、隠喩は掛け算、換喩は足し算であり
(言語機能論を論じた『言語とは何か』(もぐら通信第40号)をお読みください。)、また直喩は差異を生み出
すための譬喩です。直喩は差異を生み出すということから、如何にも安部公房好みの譬喩です。

このように書きますと、安部公房の文学にとって、隠喩と直喩が如何に大切か、そうしてこれらの譬喩による文字
と、その文字によって表される概念が、如何に安部公房の文学と文字の世界にとって重要であり、本質的であるか
がおわかりになるでしょう。

(1)と(2)と(3)、即ち概念・言語・譬喩、この三つは、実は同じ物・事です。同じ物・事の3面3相3態
なのです。この3面3相3態の元にある何かを、安部公房は名付けられぬものとして在る存在と呼んでいるのです。
これについては、「9。詩人は存在を歌う(2):安部公房」で、安部公房の『没我の地平』と『無名詩集』の詩
を読み解くことによって、安部公房がリルケにならって如何に存在を歌う詩を書いたかを後述します。

何よりも、この論考では、安部公房の読者であるあなたへの、存在という概念の説明と伝達に焦点を絞ります。

(略)

数学の観点から見れば、缶切りは二つあります。

(1)Topology(位相幾何学):トポロジー
(2)Networkという概念」

2。3 『終りし道の標べに』(1948年):問題下降に依る肯定の批判(1943年)
この旅と鎮魂の代表的なものは、安部公房の詩の世界では上でみたやうに既に旅と鎮魂の思ひ
は詠はれてゐたとはいへ、また19歳の処女作も既にさうであつたとはいへ、作家としての名実
もぐら通信
もぐら通信                          48
ページ

ともに最初の本格的な世に認められた小説は、金山時夫の訃報に接して書いた『終りし道の標べ
に』(真善美社版)です。金山時夫と親しく語らい共有したリルケの『オルフェウスへのソネッ
ト』の、第1部Vの詩の最初の一行にある「記念碑を建てることをしてはならない」とあるリル
ケの命令に背いてまで書いた『終りし道の標べに』といふ、親友の死を弔らひ、その霊を鎮魂
する記念碑としての小説であることは、その有名なエピグラフが、次に示してゐる通りです。

「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
 そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
 記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……。 」
(全集第1巻、272ページ)

上記に書いたことと一部重複しますが、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の
数学的能力について∼』(もぐら通信第33号)の[註5]より引用して、お伝へします。

「完全な存在自体」になりたいといふことについて、またこの言葉で言ひ表してゐることが、ど
んなに金山時夫の死に直結してをり、その死に起因してゐるかをお読み下さい。

「『終りし道の標べに』:
この表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、やはり自己と金山時夫との差異につ
いての言葉で始められていることに、改めて、気づきます。

「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
 そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
 記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につな
 がるのかも知れぬが......。」

これは未分化の実存(性の分化しない年齢)である時代からの親友の死と自己の生の差異を書
いた鎮魂の献辞ですから、その差異を埋めるための安部公房の感情は、鎮魂の、弔(とむら)
いの感情ということができます。
もぐら通信
もぐら通信                          49
ページ

この鎮魂と弔意の感情は、この後の小説の冒頭の全てに立ち現れていると理解することができま
す。当時金山時夫の訃報に接した安部公房は、高校時代以来の親しい友人、高谷治に次のように
書いています。

「 尚ほ、今の計画としては、金山の伝記を書き度いと思つてゐる。これは容易な仕事ではない。
詩であつてもならないし、伝説であつてもならない。やはり、悩み、生き、そして最后に、存在
に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦び
でもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないのだと
したら......」(『高谷治宛書簡』(1946年11月5日付)全集第29巻、277ページ下段)

ここに書いてある23歳の安部公房の思い、親友への鎮魂と弔いの念は、この処女作も含み、
遺作『飛ぶ男』と『さまざまな父』までの全ての著作に及んでいます。何故ならば、これらの作
品の主人公は皆「存在の中に姿を消した」主人公、即ち金山時夫であるからです。

更に、何故ならば、安部公房の造形する主人公たちは皆、「やはり、悩み、生き、そして最后に、
存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない
悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友」であるからです。

そうして、この鎮魂と弔いの念は、この「一人の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないの
だとしたら」一体どういう「詩であつてもならないし、伝説であつてもならない」そのような
散文を書くべきかという問いに答えることを安部公房に要求し、そうして安部公房は、その死者
を「此処で再び永遠に生かさねばならない」という鎮魂と弔いのこころで、作品を書いたからで
す。

従い、このように、安部公房は、その物語の最初に死者を蘇生させ、復活させ、その物語の空間
に呼び出し、招来するための差異という数学的な認識に裏打ちされた呪文をまづ唱えてから話
を始めるという此の儀式を誰にも、読者にも知られぬように姿を隠して唱えている透明なるシャー
マンなのです。

『終りし道の標べに』の表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、この奉天の親友
の霊魂を呼び出す、実は呪文であったのです。

安部公房の語り批判するシャーマンは、公共の儀式の場では、祖国の詩を歌いますが(『シャー
マンは祖国を歌う』全集第28巻、229ページ)、他方、実はシャーマンである安部公房自
身は、認識された差異に在る存在を歌うことによって、死者と其の霊魂を招来して、神話の世界
である存在を、やはり詩として歌うのです。[註37]
もぐら通信
もぐら通信                          50
ページ

かうしてみますと、安部公房は、実は隠れたシャーマンなのです。

シャーマンですから、安部公房は、古代的な感覚を持った人間であり、古代的な感覚を持った
存在であるといっていいでしょう。『カンガルー・ノート』に至って、遂に賽の河原の歌が登場
することは、少しも不思議ではないのです。賽の河原で御詠歌を歌う子供たちは、『終りし道の
標べに』の表紙裏にある言葉、奉天以来の親友であり子供である亡き金山時夫への鎮魂の献辞
と同じこころで歌われているからです。見事に、処女作と最後の作品が照応しております。従い、
この間にあるすべての作品も、同じこころで書かれたと理解することができます。」『安部公房
の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第33号)

金山時夫の訃報に接したのは、高谷治宛の書簡を見れば、その日付の1946年11月5日の
前の恐らくは直近の時期、中埜肇宛に『中埜肇宛書簡第8信』で「完全な存在自体」になりた
いと書いたのが、翌月の1946年12月23日(全集第1巻 188ページ下段)といふこと
を時系列で読みますと、『終りし道の標べに』(1948年10月10日)には、この二つの
思ひ、即ち前者にあつては弔ひと鎮魂の思ひが、後者にあつては「完全な存在自体」になりた
いといふ思ひが凝縮してゐるのです。即ち、

安部公房の心の中では、物語の主人公が「完全な存在自体」になることが、金山時夫への鎮魂
なのです。

このやうな思ひと意図で書かれた『終りし道の標べに』が一体、初期安部公房の此の時期、即
ち詩人から詩人のままに小説家に「転身」しようとしてゐた安部公房にとつて、どのやうな作品
であるかは、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)』の「IV 「転
身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)」(もぐら通
信第58号)から以下に抜粋してお伝へします。

「結局安部公房は、『終りし道の標べに』で一体何を書いたのかといへば、

(1)『終りし道の標べに』の地の文では圧倒的に、象徴と存在と愛の関係について書いてゐる
といふこと。これに対して、上で見たやうに、
(2)《 》といふ記号を使つた哲学的思惟の領域では、安部公房はもつぱら存在と現存在に
ついて書いてゐるといふこと。即ち、
(3)『終りし道の標べに』は二層になつてゐて、下層は存在と現存在について語り、上層は、
これもやはり時間の中で、即ち後者、即ち現存在に人間が生きることの象徴と存在と愛の関係に
ついて語つてゐること。即ち、

『終りし道の標べに』の中で安部公房は何を書いたのかといふと、「金山の伝記を書き度いと
思つてゐる。これは容易な事ではない。詩であつてもならないし、伝説であつてもならない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れ
ず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此
処で再び永遠に生かさねばならないのだとしたら……」といふ思ひで、この「……」といふ余白
と沈黙の中で書いた此の小説は、存在と現存在との関係で、歴史と時間の中に生きる人間につい
ての象徴と存在と愛について書いたのだ、といふことになります。」
(『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)』の「IV 「転身」とい
ふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)」(もぐら通信第58
号))

3。安部公房の「奥の細道」:『問題下降に依る肯定の批判』(1943年)
さて、再々度冒頭の座談に戻つて、日本人の歴史と伝統と文化の中で、旅をするとは一体何かと
問ふて、それは鎮魂であるといふことは、即ち鎮魂とは、大和言葉で訓ずれば、魂鎮(たましづ
め)ですから、死者の御霊を弔ひ、御魂(みたま)を鎮めるための旅だといふ事になり、確か
に最初と最後の作品でも、従いひ此の間の作品に詩文が挿入されてあれば総てが、この慣(なら)
ひであり、さうして、旅の途次に歌が詠まれてゐるといふことになります。

と、このやうにあらためて思つて見れば、西行の旅がさうであり、芭蕉の旅がさうである。後
者の『奥の細道』を、安部公房の世界の位相に転ずれば『存在の細道』となる。実際に『赤い
繭』の無名の主人公は「おれは家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩きつづける」わけです
し[註6]、それは事物の深い奥へと、即ち存在へと歩み続ける道であり、18歳の安部公房の
言葉でいへば[註7]、何処にも時間の中には物理的には存在しない道であつて、即ち「第一に
此の遊歩場はその沿傍に総ての建物を持っていなければなら」ず、「つまり一定の巾とか、長さ
等があってはいけない」道であつて、「それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽
象概念でなければならぬ」といふ遊歩場と呼ばれる「都会に住む人々の休息所となると同時に、
或種の交易場ともなる」、従ひ安息と交換といふ即ち変形の道であつて、且つ「第二に、郊外
地区を通らずに直接市外の森や湖に出ることが出来る事が」可能な[註7]、即ち郊外地区を
通ることのなく通じてゐるとは、内部が外部であり、外部が内部であるといふ、二次元ならば
メビウスの環のやうな、三次元ならばクラインの壺のやうな道である。この成城高校の校友会
誌『城』に投稿した論文の中で、18歳の安部公房が既に思ひ描いた道は、最初から奥の細道、
即ち存在(森羅万象の奥義)へのtopologicalな(位相幾何学的な)細道なのです。

安部公房の総ての主人公は、この「狭い割目」の「奥の細道」を存在、即ち宇宙の奥義に向か
つて「ゆっくり歩きつづける。」「ゆっくり」とは、無時間の中をといふ意味です。

[註6]
この箇所は『赤い繭』の冒頭(全集第2巻、492ページ上段)にあります。

[註7]
以下引用の箇所は、『問題下降に依る肯定の批判』(全集第1巻、12ページ下段∼13ページ上段)にあります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ52

さうして、これが旅である以上、そして安部公房が日本人であり日本語の作家である以上、安部
公房の心性は、私たち読者と同じく、あるいはまた読者ではない日本人と同じく普通に、個人
の人生は人生として、『終りし道の標べに』を書いた安部公房の心は心として、死者の霊魂を慰
め、鎮魂する旅とは自然に相成り、旅の途次では歌枕を尋ね、和歌を読み俳句を詠む、即ち詩
を詠むといふことになり、実際に安部公房の作中には、節々に詩が挿入されてをり、また場合に
よつては、凹の形象をした存在の窪みに存在を呼び出すところでは、呪文の繰り返しの言葉が
挿入されることは、これまでの幾つもの論考でお伝へした通りですし、『カンガルー・ノート』
に至つては、御詠歌までが歌はれてゐます。(「火炎河原」の章、全集第29巻、121ページ)

この御詠歌については、やはり、安部家の出自である、父方は祖父勝三郎の四国の讃岐の国(香
川県)であり、母方は阿波の国(徳島県)の出であれば、共に弘法大師、空海の、お大師様の
土地柄ですから、日常生活の中にお大師様が今も生きてゐて、子供の躾と道徳を教へるのに、お
大師様が見てゐると、またお大師様はかういつてゐると、大人達に諭される土地柄ですので、当
時ならば尚この風は、そのまま浅吉とヨリミ夫妻を通じて、安部公房兄弟にも、さうして長兄で
ある安部公房には最初の子供であることから特に、意識・無意識に、伝はつた事でせう。如何
に、安部公房が父浅吉に反抗し、浪花節や浪曲を否定しようとも。

実に安部公房らしいことに、全集第28巻には、『黛君に調査依頼の件』(1989年2月9
日付。415ページ)といふメモがあり、この中で、安部公房は「① 四国香川県『屋島』の
堀川家についての情報。わが祖父母以来の脱出衝動の内的、もしくは外的要因が発見できるかも
しれない。クレオールへの道の選択。」に始まり、計5つのメモが残つてゐます。クレオールも
また脱出の道であるらしい。

人生の最晩年に自分の血筋のふるさとを尋ねる安部公房の姿は、これもまた安部公房らしく
topologicalであると思ひます。これらのメモにある文字を拾ふと、秋田蛮画、茶器、利休、秀
吉、茶器のバロック趣味、かぶく趣味、キリシタン大名、クレオール衝動、伊達政宗と「伊達な」
といふ言葉が見られます。

これらの言葉に共通する意味を求めると、やはりズレであり、歪みでませう、従ひ、逸脱であ
り、歪みであり、さうなるとバロック(barocco)であり、辺境であり、異端であり、といふこ
とになります。

これらのことについて、もし安部公房がまとまりある文章を残してゐれば、冒頭共有と結末共有
と結末継承に即して接続され変形された[註8]他の作品同然に、安部公房流の「奥の細道」、
即ち(十代にリルケに習ひ倣つて)存在を褒め称へ荘厳する[註8]旅と鎮魂の存在の文学にな
つたことでせう。

[註8]
『デンドロカカリヤ論(前篇)』(もぐら通信第53号)をごらんください。安部公房文学の構造を明解に説き、
安部公房の心と存在を褒め称へ荘厳しました。
もぐら通信
もぐら通信                          53
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(10)

∼安部公房をより深く理解するために∼

岩田英哉

X

EUCH, die ihr nie mein Gefühl verließt,

grüß ich, antikische Sarkophage,

die das fröhliche Wasser römischer Tage

als ein wandelndes Lied durchfließt.

Oder jene so offenen, wie das Aug

eines frohen erwachenden Hirten,

― innen voll Stille und Bienensaug ―

denen entzückte Falter entschwirrten;

alle, die man dem Zweifel entreißt,

grüß ich, die wiedergeöffneten Munde,

die schon wußten, was schweigen heißt.

Wissen wirs, Freunde, wissen wirs nicht?

Beides bildet die zögernde Stunde

in dem menschlichen Angesicht.

前のソネットの主調の構成要素、死者たち、それから二つの領域(二重の領域)から連想して、
このソネットでも、死のことと、二重の領域である時間と空間の関係が歌われます。
また、このソネットXには、第2連についてのリルケの自註があります。

【散文訳】

お前たちよ、わたしの感情を決して去らなかったものたち、
古代の石棺、ローマ時代の日々のよろこびの水が
逍遥する歌として流れ通る石棺よ、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ54

わたしはお前たちに挨拶をする

あるいは、うれしく思い、目覚めている羊飼いの眼のように
かくも開いている石棺に挨拶をするー羊飼いの眼の内側は
静けさと蜂の眼で一杯だー その眼から、魅了された蝶たちが
渦を巻いて飛び立って行った

疑いから奪い取るすべてのものに、すなわち、
沈黙とは何を意味するかを
既に知った再び開かれた唇に、わたしは挨拶する

わたしたちがそれを知っているか、友よ、わたしたちがそれを知らないか
両方が相俟って、人間の顔の中に、
躊躇する時間を形成するのだ。

【解釈】

古代の、ローマ時代の石棺に呼びかける話者。ローマの石棺と同じものとして、第2連では、「う
れしく思い、見張っている羊飼いの眼のようにかくも開いている石棺」にも挨拶をしています。

この第2連について詩人の自註があり、この石棺のある墓は、マルテの手記でも書いた、Arles
の傍のAllyscamps墓地のことを思って書いたとあります。参照すると、このソネットの理解が
深まることと思います。

死んでいても、眼を開けていて(蜂のように)、死ぬことのない、生きているものたち、すなわ
ち沈黙や静けさを知るものたちへの呼びかけではないでしょうか。

第3連で呼びかけられている唇は、沈黙とは何かを既に知った、疑うことのない唇。この既に、
schon、ショーンと同じ既にが、第2部ソネットVIIIの第2連にも出てきます。

そこでは、ガラスの割れる音の中で既に自らを砕く、そのようなグラスとして歌われ、この副詞
が使われています。何かが起こる前に、時間の中でではなく、それとは無関係に既に起こってい
るという、既に、です。確かに、既に知っていたと書いてある原文の動詞は過去形なのですが、
既に過去に知ったことだとしても、その知り方が、このような既にだと思われるのです。

この唇も、Allyscamps墓地の石棺のように、また羊飼いの眼のように開かれている唇です。
Offen、オッフェン、開かれているというところに眼目があるのだと思います。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ55

何が生で何が死か、何が現在の現実で、何が不変であるか、わたしたちはその答えを知っている
のか、それとも知らないのか、友よ、友のあなたがたよ、と話者は呼びかけている。
この両方のこと、そういったことを知っているということと知らないということの両方が、人
間の顔の空間の中に、躊躇する時間を形成する。

人間の顔というと、悲歌では空間をそのまま意味しておりましたので、この最後の文も、その通
りだということになるでしょう。空間の中に時間があるのです。悲歌で論じた通りです。友よと
呼ばれたわたしたちは、疑いを持っているので、その時間も躊躇した時間と呼ばれるのでしょう。

【安部公房の読者のためのコメント】
眼、唇、沈黙、生と死の二重性、友、顔、顔といふ空間と顔の中の時間。これがみな後年の作
品の主題であり、場合によつては作品の題名になつてゐることを、読者であるあなたは知つてゐ
るでありませう。

眼は、S・カルマ氏の現実を吸い込む眼。唇は『無名詩集』の最初の詩「笑い」の「じっと噛み
しめて/二度と笑わなくなった唇」、即ち、繰り返しである日常の笑い( あつはつはつはつ! )
の発声を放棄放擲して、時間の外にゐる唇、従ひ沈黙、即ち安部公房の沈黙と余白の論理(「空
白の論理」)、顔は空間であるといふリルケの認識と理解、顔といふ空間の中の時間、然し無
時間の時間であつて、安部公房の椎名麟三論『横顔に満ちた人ー椎名麟三』にある通りに、人
相を読むことのできない二次元の面としてある顔の集合である顔、友よ、と呼びかけられてゐる
友は生者とも、死者ともとることができる。後者ならば、

古代の石棺、ローマ時代の日々のよろこびの水が
逍遥する歌として流れ通る石棺よ、

と呼びかけられてゐることから、この棺でさへもが、友の一人であるやうに思はれる。何故なら
ば、リルケの純粋空間といふ時間の存在しない空間に存在する幾多りかのものの中にあるのが、
欧州の町中の広場(市場)に大地を脈々と通つて、そこに吹き出る水であり、石造りの噴水で
あり、それは何故存在であり得るのかと云へば、天と地上と地下を循環するものであるからだ。
リルケの地下に棲むのは死者であり、さうであれば、「ローマ時代の日々のよろこびの水が
」時代を超越して、「古代の石棺」を洗ふのであり、それは律儀に目的を達成するための「よろ
こびの水」なのではなく、「逍遥する歌として流れ通る」水なのである。そのやうなものとして
ある、死者の眠る石棺よ。

後者であれば、私の問ひは一つ。あなたは「人間の顔の中に、/躊躇する時間を形成する」あな
たであるのか?
もぐら通信                         

もぐら通信 56
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ57
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キャニール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 58
ページ

(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げ
の少年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の小説観
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ59
● 『密会』の書き捨て原稿に描い た安部公房の落書き(3/3):pdf
に変換すると輪郭がボケるので、今回も別途ブログに上掲しました。これが最後の落書きです。掲
載の許可をくださつた安部ねりさんに感謝致します。●寒冷地の食物:安部淺吉のエッセイです。
文章を転記してゐて、この人間の持つてゐるユーモアを感じる箇所が、やはりあります。安部公房
の父親であると、さう思ひます。「怪しげな内地品」といふのは、思はず笑つてしまひました。今
も変はらず、日本人は「外地品」を有難がつてゐるのではないでせうか。せめて自分の脳味噌位は
自前の日本製でありたい。私の故郷の魚市場には新鮮な蟹味噌の詰まつた小さなタラバガニが一匹
3万円で並ぶことがありますが、この頃思ふことは、せめて3万円位の値のつく我が脳味噌であり
たいといふことです。問ふ、あなたの脳味噌に3万円の価値のありやなしやと。●山椒魚ともぐら
(2) ∼祖父と孫、父と息子の話∼:井伏鱒二と安部浅吉の生年が同じだといふことを知つて自然
に生まれた続編です。おまけに石川淳までもが一年違ひとは。安部公房は全集の中の短文で、石川
さんは純粋なアナーキストだつたのだと思ふと書いてゐます。安部公房よりも過激です。さすが安
部公房の師匠です。ところが、この過激な師匠の上を行く人間がゐて、これが活(いく)さんとい
ふ石川淳の奥さんです。名だたる文士たちの列席する宴席で、夫との間に何があつたかは知りませ
んが、突然立ち上がり、石川淳の頭にビールをぶっかけて、この三文文士野郎!と叫ぶことのでき
るのは、この奥さん以外にはありません。この方の回想録は面白い。●旅と鎮魂の安部公房文学:
『批評』のことは三島由紀夫研究家西法太郎氏にご教示戴きました。謹んで謝意を評します。これ
でいよいよ、安部公房文学は日本文学の伝統と歴史の中に位置付けられ、収まりました。これは一
例です。日本の近代文学には、こんな哲学的な旅と鎮魂の文学はゐないでせう。明治時代の前には、
論考中名を挙げた芭蕉がゐます。芭蕉は荘子の愛読者でした。西行のことを思ふと、日本人の哲学
者は、旅と鎮魂をおこなふ哲学者だといへるでせうか。然し、旅に出ると哲学者になれるかといふ
とさうはならない。私の若い頃には、若者がビートルズの影響もあるでせうが、盛んにインドに行
くものたちがゐて、日本に帰つて来ると社会からみな脱落してしまふので、インドに行つてはなら
ぬといふ半ば冗談めいた事実が語られてゐました。長髪、長い髭、ジーンズ(当時はGパンと云つ
た)の汚い格好でしたが、然し格好はどうあれ、死者への鎮魂のこころがあればこそ、しかし其の
こころはなかつたのです。今の70歳前後から上の俗称団塊の世代の話です。●リルケの『オルフェ
ウスへのソネット』を読む(10):この詩もまた、リルケであり安部公房です。そこに列挙した
語彙はみな安部公房のものとなりました。石棺などは、まさしく閉鎖空間そのものです。死んだ後
に入るか、生きてゐるうちに入るか。安部公房は後者を選択して、『世紀の歌』(1949年)と
いふ詩では早やミイラになつてをります。勿論、自分の命を賭けて、言語による存在の革命を起こ
すためでした。あなたは何に命を賭けて生きてゐるのか?●ではまた次号

差出人:
次号の原稿締切は9月29日(金)です。
贋安部公房
ご寄稿をお待ちしています。
〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。三島由紀夫の陸軍と安部公房の海軍
限」
2。三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
3。安部公房の逆進化論:種の起源未来縁起説:超越論的『種の起源』
4。荒巻義雄第一詩集『骸骨半島』を読む(5):エリオット氏に捧げ詩
5。『 カンガルー・ノート』の呪文の謎を解く
6。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(11)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 60

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第64号訂正箇所】

P43:
安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池
[訂正前]足音を待つのかといふ結末
田龍雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治 [訂正後]足音を待つといふ結末
様、宮西忠正様(新潮社)、北川幹雄様、
冨澤祥郎様(新潮社)、三浦雅士様、加藤 P43:
[訂正前]「一体彼は何に変形していこうとするのだろう」
弘一様、平野啓一郎様、巽孝之様、鳥羽耕 「一体彼は何に変形していこうとするのだろう。」
史様、友田義行様、内藤由直様、番場寛様、
田中裕之様、中野和典様、坂堅太様、ヤマ P43:
[訂正前]虫歯の痕のような黒い隙間
ザキマリ様、小島秀夫様、頭木弘樹様、 高
[訂正後]虫歯の痕のような黒い隙間
旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、藤沢美
由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝日 P44:

新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田 第二段落の後に次の文言を追加する。
(この「濃度の高い液の中で融けるべきものでも大きく
晋哉様(読売新聞社)その他の方々 結晶してゆく」高次のものが『S・カルマ氏の犯罪』の最
後に主人公が変形して果てしなく垂直方向に成長を続ける
【もぐら通信の収蔵機関】 壁であることはいふまでもありません。)

P44:
 国立国会図書館 、日本近代文学館、 下から3行目の、
 コロンビア大学東アジア図書館、「何處  [訂正前]冒頭述べた此のエッセイで

 にも無い圖書館」 [訂正後]冒頭要約した通り此の椎名麟三論で

P45:
【もぐら通信の編集方針】 下から4行目の、
[訂正前]一次話者が次の話者に手袋の話をする
[訂正後]一次話者が次の話者に仮面と手袋の話をする
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き P48:
をすることを通して、そこに喜びを見出す 下から二つ目の段落の、

ものです。 [訂正前]それは不可能だといひ
[訂正後]その比較は不可能だといひ
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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