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釜匠:1985 年生まれ

私は 1985 年に大阪で生まれた。幼稚
園の頃まではマンションに住んでいた
が、母の再婚を機に一軒家へ引っ越
した。その家は大阪市西淀川区の工
業地帯にあり、家のすぐ裏には淀川
が流れていた。引っ越したばかりで近
所に友達も居なかった幼い私は毎日
のように淀川の河川敷で1人遊んで
いた。

カエル、バッタ、カマキリにカメ…

高くそびえるコンクリートの堤防を越
えるのはとても恐かったが、一歩河
川敷に入ればそこは当時の私にとっ
てはまさに楽園だった。毎日沢山の
動物達を追いかけて遊んだ。母が再
婚するまでは独りが怖くて泣いてば
かりだったが、河川敷で沢山の生き
物と遊ぶようになってから泣く事は少
なくなった。人間ではない彼らと接す

ナカマハズレ H116.7 x W91cm oil on canvas

る事で私は初めて自分も"ヒト"という"生き物"だと実感出来た。独りで部屋に取り残されるより、沢
山の命に溢れた河川敷に居る方が心地よかったのだ。

しかし、小学校低学年の頃に一斉に始まった護岸工事のせいで河川敷の景色は一変した。

かつて西淀川区や対岸の此花区は大正期に住友グループを中心とした大規模な開発が行われた
ことで阪神工業地帯の中心を担っていた。重工業地帯だったことが災いし第二次世界大戦では集
中的な爆撃で壊滅的な被害を受け、また、高度経済成長期には激しい公害に見舞われるなどした。
昭和の終わりには産業構造の転換により工場の地方・海外移転が進んだことで空き地や廃工場が
多く見られるようになった。私が移り住んだのはちょうどこの辺りで、その頃には河川敷や空き地に
は沢山の自然環境が点在していた。しかしその後、1995年の阪神淡路大震災や2001年開業の
テーマパーク『ユニバーサルスタジオジャパン』等のアミューズメント産業地区開発やそれに伴った
居住区開発をきっかけに身の回りの環境は一変した。

生命豊かな草原は埋め立てられ、大好きだった河川敷は歩行しやすいようコンクリートが敷き詰め
られた。そして、みるみるうちに生き物は姿を消し、ついにはバッタ一匹見つけられなくなった。敷き
詰められたコンクリートの上、対岸に巨大な建物が建ち並んでいく様子を私は睨むようにして見てい
た。私はこんな事を平気で行う大人達が憎かった。それと同時に、そんな事が出来る大人達が恐ろ
しくもあった。その出来事以降、私は"ヒト"という生き物に違和感を感じるようになった。そして、その
時に芽生えた違和感は強い疎外感となって、今でも消えずに私の中に深く根付いている。
スイゾク ウーディシードラゴン
40×20×5(㎝) 乾漆、螺鈿、銀粉

佐野 曉:1981 年生まれ

私自身にとって昭和とは子どもの時の記憶そのものだ。

ファミコンやビックリマンシール、ミニ四駆など様々な玩具が流行り、バブルは弾け日本は長らく続く不況の時代へと入った
わけだが、そんな世間とはお構いなく、私自身といえば絵を描いたり勝手な物語を作ったり、ザリガニを捕まえたりととに
かく一人遊びの得意な子どもであった。

昭和の終わりに生まれたそんな子どもは携帯ゲームを片手に一人遊びにふける平成の子どもの嚆矢であったのかもしれ
ない。私自身にとって作品を作るということはひとえにそのような子ども時代の遊びを辿る追憶の行為である気がしてなら
ない。
松本央:1983年生まれ

私の生まれた 1983 年にはインター
ネットが始まり、任天堂からファミリ
ーコンピューターが発売された。こ
れらのテクノロジーは現在まで発展
を遂げ、今の自分の生活の中にも
深く浸透している。

思い返せば、私の幼少期である、
1983 年から 1989 年ごろまでは、す
ごく未来への展望が明るかったよう
に思う。大阪万博の名残なのか、
バブルで景気が良かったからなの
かはよく分からないが、科学技術
やテクノロジーが高度に発展した輝
かしいユートピアのような未来世界
を子供ながらにイメージしていた記
憶がある。分かりやすく言うと「鉄腕
アトム」で描かれているような未来
世界である。なぜ、「鉄腕アトム」を
例に出したかというと、
遊び場 H45.5 x W53 cm oil on panel

私が絵を描くことを意識しだしたのが、手塚治虫の影響が強いからだ。1989 年に手塚は逝去するが、その時
にテレビで大々的に特集が組まれていた。それを見て影響を受けた私は絵を描くことが、とてもかっこよく思え
たのだ。それをきっかけに漫画家になること(絵を描くことを仕事にすること)を意識し始める。手塚が亡くなっ
た 1989 年は同時に昭和天皇が亡くなった年でもあり、時代が昭和から平成へと移り変わる転換点でもあった。
これ以降は未来への展望というのが、徐々に暗く破滅的な方向へ変わってきたように思う。バブルの崩壊、ノ
ストラダムスの大予言、酸性雨などの環境問題、など暗い話題が連日のように盛んにテレビで報じられていた
ような記憶がある。当時小学生であった私はメディアの影響を受け心底恐ろしく感じ、1999 年以降の未来は想
像できなかった。しかし、あっけなく 2000 年を迎え、今は 2017 年である。漫画や映画などで描かれた未来世界
の年代に突入したが、1990 年代に私が心配したようなこと(人類の破滅や世界の終末)は無かった。また、幼
少期に希望を抱くような未来世界でもなかった。私の幼少期から現在を振り返ってみる

と、ただひたすらにどうしようもない世界が広がっているように感じる。これは良い意味でも、悪い意味でもある。
確かに、テクノロジーは進化し、ケータイ、スマホなど無くてはならないものになっている。人間の生活をより豊
かに便利にするのに役立っているのだろう。しかし、一方で新しいテクノロジーができると必ず悪用しようとす
る人間が現れたり、開発者が意図した本来の目的とは外れた使い方をするものが現れたりする。時にはその
誤った使われ方によって爆発的に普及するなどといったことがよく見られる。例えば、パソコン、インターネット
の普及の背景にあるアダルト産業の影響などがあげられる。

このような人間の持つ「どうしようもなさ」に私は強く引き付けられる。カンボジアの舗装されていない土の道の
脇にペットボトルやプラスチックゴミが散乱していたり、アンコールワットの遺跡が妙に整備され観光地化され
ていたり、住民が無秩序に増築した九龍城などのスラム街に造形的な魅力を感じたり、ついこないだまで文明
と接したことがないアマゾンの原住民がなぜかアディダス製のハーフパンツだけをはいていたりするのを見る
と、私はほほえましく思え、妙に安心するのである。科学者や学者にとっては、新しいテクノロジーの開発、発
見というのは、人類の発展にとって非常に大事なことであることは理解できる。しかし、大多数の人間にとって
はそうではなく、ただ目の前にあるものを使って生きていくというシンプルな行いだけが、長い間繰り返されて
きただけのように思うのだ。それはどの時代、地域であっても変わることは無い普遍的なものであると思う。そ
の行いが良いか悪いかは置いておいて、どうしようもなくそうなってしまうという人間の持つエネルギーの大き
さや、その正体、根源のほうが私には興味があり、絵を描くうえでも気にかかっているテーマである。
阿部瑞樹:1987 年生まれ

1987 年 2 月、日本という平和な国に私は生まれた。

幼少期のかすかに残ってる社会的な事象の記憶でパッ
と思い浮かぶのはベルリンの壁の崩壊、バブルの崩壊。
ほとんど記憶はないが大人達のざわついた空気を肌で
感じた事は覚えている。物心ついてからは阪神淡路大
震災、地下鉄サリン事件、9・11 テロ、最近では東日本
大震災などが挙げられる。

しかし、私が画家として絵を描くにあたって直接的に影
響されている出来事というのは正直なところ、ほぼ無い
に等しい。ニュースで歴史を揺るがす大事件が起こって
もニュースの中の出来事で現実感がないし、そのニュー
スですらあまり信用できない時代でもある。もちろん心
は痛むけれど、一方でその自分の心に懐疑的になって
いる自分もいる。ぬくぬくと幸運に恵まれ何不自由なく
平和で幸せに育ってきた私には、どこか人間として抜け
落ちてしまっている部分があるように感じる。何を描いて
も自身でも現実感がなくただの嘘になるので、自然と身
近な事柄を絵の題材・モチーフにすることが主になっ
た。

ここからはとても個人的な話になるが、私には二人のち
ょっと変わった祖父がいる。(いた。)ひとりは父方の、実
家富山の祖父だ。実家の裏庭は祖父の温室や素材置
き場になっていた。悪い表現で言うとゴミ屋敷だ。そこに
刻 333×242mm 麻布、ボローニャ石膏、アシェット、銀箔、膠、アクリル

はパイプやら色んな金属部品やら瓦やらが赤土の地面に積まれており、おなじ場所で烏骨鶏や品評会用の植物なども育
てられていた。幼少の頃は裏庭が秘密基地のようで探索しながら遊んでいた。錆びた金属と赤土の色、におい、温室のむ
せ返るような湿度、烏骨鶏や虫の鳴き声。子ども心にはとても興味が惹かれる要素がそこには詰まっており、今でも鮮明
に思い出せる。

戦後、「物が無い」という中でサバイバルしてきた祖父にとって、物を集めてストックしておくという事が習慣になっていたの
かもしれない。また富山は米どころと言われ、阿部家もご多分に漏れず兼業農家で米をつくっていたので農業機械のメン
テナンスも必要になってくる。年に一度しか使わない田植え機やコンバインなどはたまにしか使わないせいでトラブルが起
きやすく、その都度修理しながら使わなくてはならない。毎年のように業者による修理を待っていたのでは田植えも収穫も
なかなか進まないので、よく祖父達が(おそらく適当に)修理して使っていた。祖父の車(旧ビートル)でさえペンキを塗りなが
ら長い事乗っていた。しかし時代は進んで技術革新が起こり便利な道具が増えて壊れにくくなってくるにつれて、祖父が収
集していた”いずれ何かに使う”部品などは必要とされる場面が無くなった。あとはもう溜まる一方、錆びる一方で、私の脳
裏に深く刻まれている裏庭が完成したのだと考える。

そして三重の母方の祖父だ。残念ながらもうこの世にはいないが、三重の祖父もある意味変わり者だった。とても頭の良
い人で、若い頃は学者でカナリアの研究をしていたと聞いた事がある。自分にも人にも厳しい人だったらしいが、私は優し
い祖父のイメージしかない。幼い頃から毎年のように三重に遊びにいっていたが、寝る前には孔子の教えを子どもの自分
に分かりやすいように説いてくれていたのを覚えている。また、円空をリスペクトしており、祖父自身もよく色んな山へ登山
しにいったり木っ端仏をたくさん彫っていた。幼い時分にはよく分かっていなかったが、三重の祖父は信心深い仏教徒とい
うわけではなく、その思想や哲学を学び日常に活かしたり孫である私に教えてくれようとしていたのだろう。と、ここまでは
普通に良いおじいちゃんな祖父だが、私が大学4年生、21歳の時に祖父は山で行方不明になった。「この人は山で死ぬ
んだろうな…」という予感めいたものはずっとあったにせよ、現実に山で行方が分からなくなるというのは人生の中で 1、2
を争うほどの衝撃だった。約半年後に遺体で見つかり、警察署で一家が集まりデジカメの画像にて遺体確認を行う際、ど
んな恐ろしい画像を見る事になるんだろうと思っていたが、見た瞬間にすっと心に落ちて納得できる事があった。それは
「人は土に還る」という事である。そこには「悲しい」という感情はなく、祖父は土に還ったんだなという納得しかなかった。ま
た、祖父の遺体の画像の色は偶然にも上記した富山の祖父の裏庭の景色の色とも重なり合うのだ。人も、物も、いずれ
は朽ちゆくという事を本当の意味で意識し、理解したのはこの時だろう。ニュースであたかも別世界のように感じていた死
というもの。希薄になっていた死生観がこのときはじめて目を覚ました。現代では火葬が 99%以上を占めるこの日本で、は
じめて向き合った生々しい「死」がこの祖父の死だった事、また、幼少の頃から見てきた「錆びた」景色と相まって、現在の
私の作品に多いに影響を及ぼしていると言える。いささかマイクロポップではあるが、私にはこれだけしかない。
陶球体白蛹#1 18x18x18cm 半磁土

遠藤 良太郎:1987 年生まれ

1987 年生まれ
新潟県燕市に生まれる。1987 年生まれは、いわゆるゆとり第一世代。要するに旧課程からゆとり教
育に移行するためのお試し世代(実験的な期間)といわれている。また 2009 年のリーマンショックに
より、就職難を迎えた世代でもある。

中学3年から高校1年の頃、ケータイ電話が急激に普及し始めた。ケータイ電話の普及により、今ま
での生活から、様々なこと(人との接し方、距離感などなど)が一気に変わりだした。

自分の意思とは関係なく、変化を強要されることが多かった世代ともいえる。私は、そうした、自分
の意志とは関係なく起こる、様々な変化に抵抗感を覚え、学校教育から距離を置いた。大きな流れ
に身を任せること、流れに抗う事、どちらが正しいのかは分からないけどそういう選択をした。

そうした経験の中から、あらゆる物事は自分の意志とは関係なく、大なり小なり、色々なスピードで
変わっていくことに気付く。それは自分という存在の小ささを思い知った瞬間でもある。しかし変化に
は常に、大きなストレスと、そして同時に人生の面白さ、喜びが詰まっていた。この星には本当は善
も悪もない。ただただ全てを丸く飲み込みながら、変わり続け、そして生きていく、それだけなんだと
思う。私は、その単純で完璧な構造に魅了されたのだ。
公庄直樹:1982 年生まれ

鳥や猫からカエルやヤモリまで、
様々な生き物を木彫で表現する。
素材とする木材の種類も様々で、
モチーフとなる生き物の形や質感
に合わせて使用する木材の特徴
を見極め、作品に使用している。

では何故木彫で生き物なの
か・・・それは幼少期の経験が確
実に強く影響している。1982 年に
滋賀県の大津市に生まれ、物心
がついた時に家には 4 匹の黒猫
と毎日家に立ち寄る一匹の黒い
野良犬がいた。父親の仕事が休
みの日にはよく近所の山や畑に
連れていってもらい、自然の中で
気配 H48 x W41 x D6 cm イチョウ、真鍮

遊ぶことを教わった。川に入ったり、木に登ったり、変わった鳥や虫がいればじっと眺めたりしていた。当
時の家には幼児向けのキャラクターやおもちゃといった物はほとんど無く、僕の遊びといえば犬や猫と触
れ合い、野山に行き、家の中では絵を描くことであった。今思えば父親はあえて子供を一般的な遊具か
ら離し、自然や動物と触れ合わせることで素朴な感性を養いたかったのではないかと思う。

しかし小学校に入り友人が増えるにつれて、少しずつそういった「遊び」からは離れていくことになる。友
人の家では当時流行っていた漫画を読み、外では学校のグラウンドでサッカーをしたりと、いわゆるごく
普通の小学生であった。そのまま淡々と進学していき、高校生になる頃には、もはや頭の中は受験で一
色になり、自分の将来は偏差値で決まるものだと思い込むようになってしまっていたのだった。

そんなか、高校3年生の夏期講習の帰りにふと立ち寄った本屋で偶然とある画集(確かモネの池ような綺
麗な絵だった)を手にとった時に、幼少期の記憶が一気にフラッシュバックしたのを覚えている。自然の色
と音と匂い囲まれて、鳥や虫の気配を感じながら野山を走り回り、家では犬や猫とじゃれあい、一生懸命
自由に絵を描いていた日々が鮮やかに蘇った。そこそこ良い大学に進学し、無難な会社に入る事が自
分のやりたい事なのか。そうではない、漠然と何かを表現したい、もしもそれで生計を立てられるのなら
こんなに素晴らしいことはないと。そう思った。その直後から進路を芸術大学に変更し、紆余曲折しなが
らも京都市立芸術大学の工芸科に入ることが出来た。大学1回生の授業で布、土、木、漆など一通りの
工芸素材を扱ってみて、木が一番自分と相性がいいと思うようになった。木材には多種多様な種類があ
り、色や木目も様々で何より削った時の匂いと感触が心地よかった。木を使い始めた頃は箱物や家具と
いった木工芸品を作ったりしたが、やがては木彫にたどり着いた。やはり幼少期に抱いていた自然に対
する感激というのか畏怖というのか、そういったものを自然素材の木を使って形にしたいと思うようになっ
ていたのである。

今現在もこの根っこは変わらない。生き物や植物といった自然がもつ造形の美しさ。それは厳しい弱肉
強食の世界で必死に存続しようという種の本能がそれぞれの環境に合わせて進化してきた、洗練された
生命のカタチの美しさなのだと僕は思う。その息遣いが聞こえてきそうな気配や存在感を、木材がもつ魅
力を活かして表現したい。思わず立ち止まって、見惚れるような、そんな美しいカタチの木彫作品を作り
たい。
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午前二時三十七分 10 H72.7 x W72.7 cm 麻紙 岩絵具

八木佑介:1991 年生まれ

町の景色が変わっていく。私は 1991 年、京都と大阪に挟まれた郊外の町に生まれた。小学生の頃、99
年に巨大なイオンモールが、03 年には第二京阪道路、久御山ジャンクションが久御山町に広がる農耕
地の上に完成した。当時、「10 年後の久御山町」という小学校の授業では発展続ける町の将来を想った。
同じく、京都議定書についての授業もよく覚えている。京都盆地の底である私の町は海面上昇により海
に沈むかもしれないと教えられた。

広大な田畑を貫くように伸びる巨大な高速道路とジャンクションに沿って私は通学していた。夜が明るく
なっていくことに気付く。闇に覆われていたはずの街の風景を、人工の光が明るく照らし出す。等間隔に
並ぶ街灯が遠い町まで続く。人間の活動が止み、無人となった午前二時に私は街を散策し、人工の光を
物質として点描で描く。人間の文明による営みを俯瞰して見る。資源を削り、途方も無い速度で物が生
産されているその恩恵の中で生きている。都市という人類の生きる巣の姿を描く。
洗面鉄道 H50 x W60.6 cm Acrylic on panel

宮本大地:1991年生まれ

僕は誰でも見たことのある場所やモノの中に小さな世界を造りあげる作品を描いている。そこには、現代
にあるモノ、過去にあったモノ、現実には存在しないモノ、様々なモノが自由に組み合わさり詰め込まれ
ている。そこに表れる世界は、自分の人生の蓄積による世の中の見え方の様に感じる。作品を描けば描
くほど、自分がどういう人間なのか、何に興味があるのか、自分の人生がどう作品に影響を与えている
のかが見えてくる。?

1991年生まれ、景気が不安定になる中、両親の共働きも当たり前となっていた。そのため幼少期は祖母
と過ごす時間が多く、1番初めに絵を描く事を教わったのも祖母だった記憶がある。遊び道具はもっぱら
ミニカーにプラモデルにオモチャのロボット。それらを使って自分だけの小さな世界を作り、没入していた
感覚は今の作品と大きく繋がっている。小中学校の頃には世の

技術もどんどんと向上し、身の回りには小型ゲーム機やノートパソコン、携帯電話、ウォークマン。モノの
ハイテク化が進む中で、自分も当たり前に順応していると思っていたが、どこかで置いていかれてる感覚、
便利になりすぎる事への怖さを持ち続けていた。ネットが発達し、世の人たちの世界が広がり続ける中、
自分の望む世界は幼少期にオモチャを使って遊んでいた様な、自分の視界におさまる小さな世界、人と
人との温もりを感じる昔ながらの世界だったのだろう。そこに感じるズレの中で生まれた過去のモノに対
する憧れや興味が作品のモチーフの選択に表れている。旧車や黒電話やレコードなど、自分が生まれ
る前に活躍していたモノたち。そこには作り手の温もりを感じ、憧れを感じ、知らないからこそ魅力を感じ、
自分の理想を重ねる。その世界にこそリアルを感じ、作品に残したい。描き続ける事で自身を掘り下げ、
理解し、また描き続ける。
太田夏紀:1993年生まれ

1993年、三人姉妹の真ん中っ子として生
まれる。小さい頃から、暇さえあればチラ
シの裏や自由帳に絵を描いて遊んでい
た。 紙の上に自分の想像した世界が出
来上がっていく事が楽しくて、絵を描くこ
とが大好きだった。

物心がつく前から、子供向けの漫画やア
ニメを見て育ってきた私は、常に非現実
的な出来事で満たされていた。そのため、
実社会で起こっている問題などを肌で実
感する事は難しく、今でもそれらに対して
極めて鈍感になってしまった。大人にな
ったら漫画家になりたいと思うほど絵を
描く事が好きだったけれど、もちろんそ
の他の遊びもたくさんして育った。近所
の川に入って魚を探したり、泥団子を作
ったり、家の中だけではなく外で活発に
遊んでいたように思う。

その頃は、虫でも魚でも関係なくゲーム
感覚で触って遊んでいた。きっと生き物
は「動くオモチャ」のような物だったのだ
福子 30×22×24 cm 素材:陶土

ろう。 しかし、そんな遊びをしていたのは小学校低学年の頃までの話。ある時、畑にいた大きな虫を夢
中になって捕まえていた私は、捕まえる際に誤って手で潰して殺してしまった。

さっきまで動いていた虫が、ぐちゃぐちゃになって動かない。それまでは〝たった一匹の虫〟程度の認識
だったものが、なぜかその時ばかりはとても怖くて、今でもはっきりと思い出せるほど、その時の私にとっ
ては衝撃的な出来事だった。もちろん、死んでしまった生き物を初めて見たというわけではないし、その
頃はペットの犬が老衰して亡くなってしまっても、川で魚が逆さ向きで浮かんでいても、正直あまり理解
出来ていなかった。

そんな私が、悪気なく自らの手で命を奪ってしまった事をきっかけに、生き物の“存在”をその時初めて理
解したように思う。そしていつしか、二次元の「絵の世界」に興味を持っていた私は、船越桂とロン・ミュエ
クの作品に出会い、三次元の「存在する物達」へと関心が移っていった。彼らの作品を見た時、私は初
めて、生きていないのに生きているような存在感を放つ物がある事を知ったのだ。幼い頃に、生き物の
死を目の当たりにしたからといって、生き物が苦手になったというわけではないし、もちろん今でも生き物
は大好きだ。しかし、人間と密に接する生き物に対しては、愛おしいと思う反面、違和感のようなものを
常に少しだけ感じるようになった。

この違和感のようなものはきっと、私達に関わってしまっている生き物に対しての「制御できる可愛らしさ
と、制御できてしまう不気味さ」なのだと思う。だがこの違和感のようなものは、今現在、私達と私達に関
わってしまっている生き物達が生きている中では〝普通〟の事になっているのではないだろうか。この
「違和感のある普通」を「生き物のような生き物」として、丸みを帯びた身体を持ち、私達をただただじっと
見つめるような表情をした焼き物で表現したい。
岡部賢亮:1990 年生まれ

すべての人はその優劣にかかわらず等しく
いずれ死が訪れます。生きることと死ぬこ
とは完全に同数であり、今現在変えること
はできません。私の作品の背景には、生き
ることと死ぬことが同数であるということを
実感したことと、その 2 つの対極にある概
念が拮抗する瞬間に現れる強烈な印象を
目の当たりにしたという 2 つの体験から成
り立っています。

1つ目は父の死であり、2 つ目は祖父の生
についてであります。2000 年に私の父は
不慮の事故により他界しました。死の瞬間
に立ち会えなかった私は、死んだということ
を頭では理解しましたが、実感の伴った他
者の死ではありませんでした。

それはまるで、TV ゲームで主人公の仲間
が死んでしまったようなものです。ゲーム
の世界では、ゲームオーバーの後間髪を
入れずにコンティニューの文字が現れ、先
ほどの死が形だけのものとなり生が繰り返
されます。
Vase_girl H55×W50×D45 FRP,真鍮,硝子,箔

ゲームの中では生きることと死ぬことは完全な同数ではなく、他者の死を実感することはできません。し
かしながら、私たちが生きているのはゲームの世界ではなく現実の世界です。他者の死は遅かれ早か
れ必ず実感を伴う瞬間が訪れます。きっかけは人それぞれだと思いますが、私の場合父が亡くなった 2
年後、当時のクラスメイトのご親族が亡くなられたときに訪れたお通夜でした。そのとき、泣いているクラ
スメイトを見て初めて父や他者の死を理解ではなく実感するとともに、生きることと死ぬことは完全に同
数であるということを身に染みて感じたのです。 この体験は私が作品を制作するうえで最も重要な基礎
の部分となっています。なぜなら私の作品は立体物であるため、生きることと死ぬことが同数であるとい
うこの現実の世界のうえに作品を成立させる必要があるからです。

2 つ目の体験は、2007 年に私の祖父が急性腎不全により多臓器不全を起こし、病院の集中治療室で 1
ヶ月近く死の淵を漂っていた様子を目の当たりにしたことです。身体中に点滴や人工呼吸器などの管と
いう管を通し心電図の規則的な音の中、死に行こうとする身体をかろうじてこの世界に留めている様が
ありました。そこには一切の彩りはなく生と死という対極にある概念が完全に拮抗した状態を保っていた
のです。その祖父の姿はわたしに強烈な印象を与えました。生きているのか死んでいるのかそのどちら
でもないのかどちらでもあるのか。医師はそれ を「峠」と表現していました。

私はそのとき受けた、えも言われぬ感覚を他者と共有したいのです。そのときの強烈な光景が、何度も
私の脳裏をよぎります。 「Vase」という作品は実家の床の間に生けられた花を見ていたときに、あの時受
けた強烈な印象とリンクする部分があると感じたことから始まりました。生けられた花は当然根から切り
離され、死んでいるといえます。しかし、土に生えていたときよりも活き活きとしているようにも感じるので
す。生けられた花は生きてもいるし死んでもいるのではないでしょうか。対極にある概念が拮抗したとき
に見え隠れする、医師が「峠」と表現したあの感覚を共有できるのではないかと思い制作にいたりまし
た。

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