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道 元禅 師 の伝説 (東)

道 元 禅 師 の 伝 説
東 隆 眞
道 元禅 師 の伝 説 と は、 い つごろ、 だ れ に よ つ て、 ど のよ う さ れ る ﹃元 祖 孤 雲 徹通 三 大 尊 行 状 記 ﹄ のな か の ﹁越 州 吉 祥 山
な経 緯 か ら 生 れ たも の か は、 あ ま り 詮 索 さ れ な いま ま、 な ん 永 平 開開 道 元 和 尚 大 禅 師 行 状 記 ﹂ であ る。 こ の文 献 に は、 い
とな く 語 り し る さ れ て き た、 道 元 禅師 を め ぐ るも の が たり と わゆ る伝 説 め いた は な し は、 ま つ たく み と めら れ な い。 こ の
いう よ うな 意 味 であ る。 こと は、 大 い に注 意 し てお か ね ばな ら ぬ こ と とお も う。
然 し、 日本 仏 教 各 宗 の祖 師 のな か で、 道 元 禅 師 ほ ど、 伝 説 次 に、 天 正 十 七 年 に端 長 が書 写 し た ﹃永 平 高 祖 行 状 建 拗
の少 な い ひと は 稀 れ であ り、 これ を ま つこう か ら とり あ げ た 記 ﹄ に な る と、 いさ さ か の伝 説 が 登場 し てく る。 まず 入 宋 中

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調 査、 研究 と い つた も の は、 一、二を の ぞ い て、 ま つた く な の事 件 と し て、大 権 修 利 菩 薩 があ ら われ、碧 巌 集 書 写 を 助筆 し
され た こと が な か つた。 た こと であ る。 帰 朝 後 の事 件 と し ては、 永 平 寺 にお いて、 寛
そ れ はな ぜ か。 す で に、 これ が ひと つの 大 きな 問 題 であ る 元 三 年 四月 結 夏、 そ の上 堂 の前 後 に、 天華 が道 元 禅師 を は じ
が、 そ れ は さ て お き、 そ れ では、 道 元 禅 師 の伝 説 は、 ま つた め いなら ぶ 諸 僧 の座 上 や 茶蓋 のな か に散 り入 る と いう こ と、
く な い のか と いう と、 も ち ろ ん な いわけ で はな い。 そ こ で、 寛 元 五年 正 月 十 五 日説 戒 のと き、 正 面 の障 子 に 五色 の光 が あ
わ ず か で はあ る が、 お も に 江戸 期 ま で に成 立 し た 伝 記 のな か ら わ れ、 同 席 の二 十 人 あ ま り が これ を実 見 し た と いう こ と、
に みら れ る 伝 説 を 概 観 し て、 こ れら の 伝 説 が 生 れ た 背 景 事 宝治 二年 四 月 か ら十 一月 十 二 日ま で、僧 堂 の内 外 に、 す ぐ れ
情 な ど から、 気 づ い た 点 を、 ひ と つふ た つ 報 告 し て お き た た 香 りが 漂 よ い亘 つた と いう こと、 宝治 三年 正 月 一日 の羅 漢
い。 供 養 の 日、 木像、 画像 の羅 漢 が 光 を放 つた こと、 建 長 三年 正
宗 内 の伝 記 で、 現 存 最 古 の文献 は、 螢 山 紹 理 の撰述 と 推 定 月 五 日 の夜、 花 山 院 宰 相 入道 と 霊 山院 庵 室 で法 談 中、 遠 く 鐘
の音 が 二百 声 ば か り 聞 え た と い う こ と、 以 上 で あ る。 建 蜥 帰 朝 後 の事 件 と し て は、 寛 元 二年 七 月 十 八 日、 山神 が雲 の か
は、 大 権 修 利 菩 薩 の碧 巌集 助 筆 に つい て は、 は つき り した こ た ち を な し て あら わ れ た の で、 これ を 吉 徴 と み て、 傘 松 峯 を
とは 判 ら な い、 つま り 伝説 だ ろう と い つ て い る が、 永 平 寺 で 改 め 吉祥 山 と名 づ け た こ と、 宝 治 三 年 春、 羅 漢 会 で、 羅 漢 が
のさ ま ざま の奇 瑞 は、 道 元 禅 師 自 身 の記 録 や、 ほか にも た し 光 を 放 ち、 松 の 上 に降 り た こ と、 宝 治 二年、 嫉 妬 深 い 一婦 人
か な 史 料 が の こ つ て いる から、 た ん な る 虚 構 で はな い こと を が 死 ん で蛇 と化 し た の で、 こ れ に菩 薩 戒 を授 け る と、 忽 ち男
強 調 し た いか のよ う に う か が われ る。 子 と な つて 空 に昇 つて い つた こと、 にと ど ま る。
然 し、 俄 か に、 伝 説 が と り いれ ら れ てく る のは、 寛 文 十 三 こ の ﹃日 域曹 洞 列祖 行 業 記﹄ を、 さき の天 正本 ﹃建 衡 記 ﹄
年 刊、 宇 冶 興 聖 寺 の獺 禅瞬 融 が著 わ し た ﹃日域 曹 洞 列 祖 行 業 と 対 比す る と、 前 書 が後 書 を受 け 継 い で いる の は、 一夜 碧 巌
記 ﹄ のな か の ﹁初 祖道 元禅 師 ﹂ であ ろ う。 即 ち、 入 宋 中 の事 と、 羅 漢 放 光 の 二点 であ る が、 こ れ さえ も 若 干 の変 化 が み ら
件 と し て、 あ る 夕 暮 れ、 道 元 禅 師 の目前 に、 一頭 の虎 が う な れ、 とく に、 前 書 に は、 入宋 中 の伝 説 が、 大 幅 に 増加 し て い
り声 を 発 し て立 ち 向 つ てき た の で、 も つ て いた 柱 杖 を投 げ る る こと が め だ つて いる。
と、 こ の柱 杖 が忽 ち 竜 と化 し た の で、 虎 は す ごす ご と去 つて そ れ は な ぜ か。 明和 八年、 京 都 柳 枝 軒 刊、 ﹃宝 慶 記 ﹄ の 冒

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い つた こと、 そ の翌 日、一童 子が き て、 早 く 日本 に 帰 り、仏 法 頭 に、 ﹁承 陽 祖 弾 虎 像 ﹂ と題 し て、 空中 に お ど る 一頭 の 竜 に
を 弘 め る よ う に勧 め た の で、名 前 を た だす と、 吾 は草 将 軍 な 坐 し た道 元禅 師 と、 そ の膝 も と に、 柱 杖 を か む 一頭 の虎 のさ
り と答 え た こ と、 碧 巌 集 書 写 を助 け てく れ た白 衣 の老 翁 は、 し 絵 が 描 か れ て お り、 こ の裏 に、 ﹁祖像 因 縁 ﹂ と題 す る 面 山
ト ラ ハネ
日本 の男 女元 神、 白 山 明神 であ る とな の つた こ と、 宝 慶 三 年 瑞 方 の解 説 が あ る。 こ の解 説 の 一節 によ れ ば、 こ の 弾 虎 の柱
冬、 帰 国 の船 に、 一神 人 が 現 わ れ、 自 分 は弟 子 の竜 天 であ つ 杖 のは な し は、 道 元禅 師 の弟 子 のひ とり 寒 巌義 タ が 入 宋 し て
て、 支 那 では 招 宝 七郎 大 権 修 理 菩薩 と名 づ け る が、 いま 道 元 み る と、 か の地 の いた る と ころ で、 こ の こ とを 図 に し てあ が
禅 師 を 守 護 す る と い い、 三寸 ば か り の白 蛇 に 化 け て、 そ の荷 め て いる のを 見 た の で、 これ を 写 し て 日本 に帰 り、 そ の 一軸
物 い れ に は いり 込 ん だ こと、 ま た、 暴 風 雨 激 し く、 船 は木 の が江 州 の青 竜 寺 にあ つた の で、 いま 自 分 は み ず か ら 再 写 し
葉 のよ う に ゆれ る の で、 観音 経 を 諦 む と、 忽 ち 観 音 菩 薩 が蓮 て、 こ こ に掲 げ た と いう。 と き に 寛 延 三年 の夏 であ る。
華 に の つて海 上 にう か び、波 風 おさ ま つた こと。 と ころ が、 寒 巌 義 歩 と いえ ば、 ﹃日 域 曹洞 列 祖 行 業 記 ﹄ の撰 者 ・獺 禅
道 元禅 師 の伝 説 (東)
道元禅師 の伝説 (
東)
は、 実 は寒 巌 派 の本 拠 地、 肥後 大 慈寺 の大 焉広 椿 の法 嗣、 万 碧 巌 集 の助 筆 者、 大権 修 理 菩 薩 が、 日 域 男 女元 神、 白 山明
安 英 種 の弟 子 であ つて、 し た が つ て、か れ自身 ま た寒 巌 派 に 神 とな の つた とあ る が、 大 権 修 理 菩 薩 は のち に仏 法 の守護 神
属 し て いる。 さ ら に、 こ の ﹃日域 曹 洞 列 祖 行 業記 ﹄ そ のも の と さ れ、 白 山 明 神 は、 こ れ は土 地 の守 護 神 であ る。 と く に、
が、 道 元、 懐弊、 徹 通、 寒 巌 と、 即 ち大 慈 寺 所伝 の法 脈 に基 白 山明 神 は、 加 賀 の白 山を さ し、 越 前、 能 登 い つた い の北陸
いた、 寒 巌 と、 即 ち 大慈 寺 所伝 の法脈 に基 いた、 寒 巌 派 中 心 地 方 の土俗 信 仰 の中 心 であ る のみ な ら ず、 富 士 山、 立 山 と な
の僧 伝 であ る。 いま、 こ れら の こ と から 推 測 す る と、 ﹃日 域 ら ぶ祖 霊 の霊 山 であ る。 永 平 寺 や 大 乗 寺 を 拠 点 と する 初 期道
曹 洞 列 祖 行 業 記﹄ に出 て い る入 宋 中 の伝 説 は、 お そら く、 こ 元門 下 に と つても、 や は り白 山 は、 素 朴 な 原 始 的 な意 味 で自
の寒 巌 な いし 寒 巌派 から 発 生 し た も の が た りを 集 大 成 し た と 分 た ち の守護 神 であ り、 土 地 の 人 達 に 教 化 を 布 く場 合 にも、
考 え て よ い の ではな か ろう か。 白 山 信 仰 に対 す る感 情 を 無 視 でき な か つた とお も わ れ る。 永
こ こで気 づ く こと は、 さ き の天 正 本 ﹃建 衡 記 ﹄ が、 ﹁虎 鰍 平 寺 や 大 乗 寺 の ﹁白 山 水 ﹂、螢 山紹 瑛 の ﹃総 持 寺 中 興 縁 起 ﹄
ノ柱 杖﹂ は、 か つ て道 元禅 師 が、 越 前 波 着 寺 に置 か れ た こと の鎮 守 三所 権 現 と し て の ﹁白 山 ﹂、﹃螢 山 情 規﹄ の ﹁白 山 八幡
監 斉 使 者 ﹂、﹁仏 法 大統 領 白 山 妙 理 権 現 ﹂、陸 奥 黒 石 正 法 寺 開

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があ つた が、 いま は 盗 ま れ て 無 い と録 し て いる こと であ る。
も し、 これ によ れ ば、 か の地 で、 道 元禅 師 が、 邪 魔 な 虎 を 柱 山 ・無 底良 紹 の新 寺 造営 祈 願 文 の ﹁白 山妙 理 大 権 現﹂、越 前
杖 で追 つぱ ら つた こと は、 事 実 であ つた のかも し れな い。 そ 大野 宝 慶 寺 開 山 ・寂 円 のた て た ﹁白 山神 社 ﹂、宝 慶 寺 塔 頭 の
の柱 杖 が 竜 に 化 け た の は、 す な わ ち虚 飾 の伝 説 と いう も ので 白 蔵 庵 はす な わ ち ﹁白 山権 現 ﹂ の別 当 であ る こ と、安 芸 洞 雲
あ ろ う。 永 正 十 四年、 祐 稟 の か い た ﹃襯酬舳眼 法燈 円明 国 師 之 寺 に つた わ る道 元禅 師 にま つわ る ﹁白 山 石 ﹂ の伝 説な ど は、
フク コ
縁 起 ﹄ の ﹁伏 虎 禅 師 ﹂ の こ とを 想 起 す る と、 この 母 胎 と な る こ の こ とを 示 す 証明 の ひ と つ であ ろ う。 こ れら を、 た ん に神
な ん ら か の事 実 があ つた と お も わ ざ る を え な い。 仏 習 俗 思 想 のあ ら わ れ とみ る のは、 あ ま り に も 浅薄 にす ぎ よ
そ れ では、 ど う し て、 些 細 な 事 実 に、 尾 鰭 が つ い て、 大 袈 う。 白 山明神 のく み あ わ せ に、 北 陸 土 着 民 の息 吹 きが、 な ま
裟 な 伝 説 にな つた も ので あ ろ う か。 そ れ は いろ いろ 解 釈 が な な ま し く感 じら れ る か ら であ る。
り た つが、 そ の 一例 とし て、 い わ ゆ る 一夜 碧巌 の こと を 考 え さ て、 こ の よう に ﹃日域曹 洞 列 祖 行 業 記 ﹄ は、 そ れ以 降 に
てみ た い。 成 立 し た各 種 の道 元 伝 記 に み ら れ る伝 説 の源 頭 に立 つ位 置 を
占 める のであ る。 そ れ と 同時 に、 こ の書 は、 そ の十 六 年 後、 で、 道 元 禅 師 は 大 般 若 の兄 文 を 唱 え て 杖 で打 つと、 こ の鬼 神
す な わ ち元 禄 二年、 宗 外 の ひ と、 結 城孫 三郎 ら に よ つ て写 さ は悟 り を え た。 こ の杖 の傍 ら に こ の兜 文 を か く の が、 疸 瘡 の
れ た、 説 経本 の ﹃越 前 国 永 平 寺 開 山記 ﹄ の成 立 に、 大 き な 影 ま じ な いと なり、 ま こ じや く し と言 つ て いる。 や が て、 永 平
響 を与 え た も の と考 えら れ る。 いま 必 要 な 個 所 を 摘 り 出 す 寺 を開 き、 そ の 父 と義 弟 のか な 若 丸 の為 に 法 華 経を 諦 む と、
と、 入 宋 の舟 案 内 人 は、 白 山権 現 であ り、 天 竜山 案 内 の老 人 そ の功徳 で成仏 の姿 を あ ら わ し た。
は達 磨 大 師 であ つて、 こ の化 身 が碧 巌 書 を 渡 し、 早 く 帰 国 を こう し て、道 元 禅 師 伝 が、 た く み に 終 始 一貫 し て伝 説 化 さ
勧 め、 天 竜 山 から の帰 路、 こ の達 磨 の化 身 か ら与 えら れ た柱 れ て いる の であ る が、 こ れ は ﹃日域 曹 洞 列 祖 行業 記 ﹄ と ﹃道
杖 が大 蛇 と な つて、 虎 の難 から 守 る。 帰 国 の海 路、 風 雨 に み 正 庵 元 祖 伝 ﹄ と を参 考 に し て脚 色 した も の であ る こ と は、 ほ
ま わ れ、 竜 女 が あら わ れ て、道 元禅 師 の血 脈 を 乞 う。 竜 女 は と ん どま ち が いな いと お も わ れ る。 ﹃道 正 庵 元 祖 伝 ﹄ は、 寛
返 礼 と し て、行 動 を と も に し て いる 木 下道 正 に妙 薬 を 与 え、 永 十 六 年 の刊 行 で、 そ の趣 旨 は、 木 下 道 正 が道 元禅 師 に つ い
そ の製 法 を 教 え る。 即 ち ﹁神 仙 解 毒 万 病 円 ﹂ で あ る。 こ こ て 入宋 し、 広 野 で、禅 師 が病 気 にな つた とき、 稲荷 神 が あ ら
で、道 元 禅 師 と道 正 が観 音 経 を よ む と、 観 音 があ ら わ れ る。 わ れ て、 妙 薬 を 与 え、 そ の製 法 を教 え、 こ れを道 正 が 伝 え た

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や が て、 日本 へ帰 り、 こ の 二人 は 宇治 に光 照 寺 を た て、 大 い と いう も の であ る。
に ﹁神 仙 解毒 万病 円﹂ を ひ ろ め る。 ま た、 大 原 の奥 に、 貧 し こ れ は、 宗 外 では、 江戸 時 代 に、 宗 門 と因 縁 あ さ か ら ざ る
い母娘 が いる。 道 正 は、 病 母 に 考 行 す る こ の娘 に、 解 毒 丸 を 道 正 庵 に よ つて、解 毒 丸 の宣 伝 を かね て、 道 元 禅師 の遺 徳 を
授 け、 道 元禅 師 は 戒 経 を 与 え、 娘 はお 礼 に、 お守 り を 道 元 禅 宣揚 す べく、 ま つた く伝 説 的 な 道 元 伝 を つく り あ げ た も の で
師 に渡 す。 こ のお 守 り は 系 図 で、 娘 は禅 師 の妹 であ る こ と が あ ろ う。 そう し て、 これ ら伝 説 的 な ﹃越 前 国 永 平 寺開 山 記﹄
判 り、 や が て母娘 は 出 家 す る。 ま た、 鎌 倉 の辻 堂 で、 道 元 禅 な ど が、 そ の後、 宗 内 でか か れ た各 種 の道 元 伝 に、 ほ と ん ど
師 が宿 を と つて いる と、 そ の夜、 そ ば の井 戸 か ら 女 の霊 が 出 無 批 判 に採 用 さ れ る こ と とな る。 これ は、 執 筆 し た宗 内 学 者
た の で、 これ に 戒 経 を 授 け た。 こ れを 鎌 倉 の ほ し 井 戸 と い が、 あ え て無 批 判 に 集録 し たも の であ ろう。 これ は、 お そ ら
う。 ま た、 鎌 倉 か ら の帰 路、 越 前 の い のふ 峠 で、第 六 天 の魔 く、 民 間 伝 説 のあ ま り にも 少 な い道 元 禅 師 の生涯 に、 そ の史
王 の春族、 七 せ ん夜 叉 のあ に ら じ んま にら じ んが 現 わ れ た の 実 の有 無 はと も か く と し て、 で き る だけ の庶 民 性 と い う か 大
道 元禅師 の伝説 (東)
道元禅師 の伝説 (
東)
衆性 と いお う か、 現世 利 益 的 な 功徳 を 付 加 しよ う と いう、 多 つ て、道 元 禅 師 は、 あ る 一定 の期 間 に わ た つ て、 九 州 に滞 在
分 に 意 図 的 な 操 作 が働 いて いた も ので はな か ろう か。 し て いた こ とを 暗 示 し て いる の では な いか とお も う。 そ れ と
以 上 は、 宗 内 で成 立 し た道 元伝 記を め ぐ る伝 説 と そ の成 立 いう のも、 水 野 弥 穂 子 氏 に よ れば、 正法 眼 蔵 ﹃辮 道 話 ﹄ に、
事 情 と を 中 心 に ふ り か え つてみ た の であ る が、 次 に、 宗 内 と ﹁紹 定 のは じめ、 本 郷 に か へり し ﹂ とあ る が、 禅 師 が 九 州 に
は全 く 無 関係 に お こな わ れ て いる宗 外 の伝 説 に つ い て、 つけ 着 いた の は、 紹 定 元 年 の前 年、 す な わ ち宝 慶 三年、 日本 の安
た し て おき た い。 貞 元 年秋 であ り、 本 郷 と は本 国 つま り 日本 の こ と で はな く、
昭 和 四十 四年 に刊 行 さ れ た 安 川 浄 生 氏 の ﹃道 元 禅 師 撤蘇 生 れ故 郷 の京 都 を 指 す と みら れ る と い う (﹃正法眼蔵辮道 話、
地 点 の 研究 ﹄ に は、 道 元 禅 師 に 関す る 九 州 地 方 の 民 間 伝 説 正法眼蔵随聞記他﹄、古 典日本文学全集)。
が、 沢 山 のせ てあ る。 そ れ は、 こ れま で宗 内 や 中 央 に は 紹 介 いま水 野 氏 の意 見 に し た がう と、 安貞 元年 秋、 九 州 に 上陸
さ れ な か つた も のば か り であ る。 北 九州 市 地 方 に あ る道 元 と し て直 ち に京 都 建 仁 寺 へ入 つた の では なく、 半 年 間 く ら いは
こ が さ さり んど う
いう 地 名、 道 元 禅 師 を拝 む た め の墓、 久 我 家 の笹 竜 胆 を 家 紋 鎮 西、 太 宰 府 あ た り に滞 在 し て いた と いう こ と にな る。 いず
と し て 久我 性 を な のる 人 々の 現 存 す る こ と、 道 元 禅 師 が、 れ に せ よ、 いま か れ こ れ考 え あ わ せ る と、 一見 突 飛 な 伝 説

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悪 蛇 か ら 娘 を 救 つた はな し、 悪病 退散 のた め に た て た地 蔵 堂 も、 道 元 禅 師 の伝 記 な い し史 実 を 再吟 味 し て、 よ り 正 確 なも
あ と、 自 作 の木 魚 な ども 伝 わ つて い る。 とく に興 味 を ひく の のに書 き改 め な け れ ば なら ぬ鍵 を 秘 め て い る の で はな か ろう
は、 鹿 児 島 県 坊 の津 港 は、 明全 と道 元禅 師 が、 入 宋 のた め、 か。 そ う いう 一例 で あ る。
こ の 地 の栄 松 山 興 禅 寺 に 滞留 し て便 船 を ま つう ち、 明 全 は病 こ れも 最 近 の こと であ る が、 昭 和 四十 三年 刊、 村 岡 潔 氏 の
気、 遷 化、 そ の遺 該 を葬 つた禅 師 は、 ひ と り こ こか ら 入 宋 し ﹃吉 田松 陰 と僧 黙 森 ﹄ を よ ん で いる と、 月性 は、 そ の幼 少 時
た と い い、 明 全 の墓 が現 存 し て い る。 こ の 伝 説 に つ い て、 代 ﹁妙 円 寺 の鼻 つた れ 道 元 坊 ﹂ と よ ば れ て い た。 ﹁道 元 は 鎌
安川 氏 は、 坊 の津 は、 道 元 禅 師 が宋 か ら 帰 朝 し て 上陸 し た 地 倉 時 代 初 期 の偉 い僧 で、 越 前 の永 平寺 を 総 本 山 と し た 人 だ
点 で は な いか と 推定 し て いる。 が、 どう した わ け か よ く 憎 ま れ 口 の替 え玉 に つか わ れ た﹂ と
こ れ ら の伝 説 のこま か い検 討 は さ て お き、 こう し た道 元 伝 あ る。 腕 白 小 僧 の こと を な ぜ 道 元 坊 と よ ぶ のか、 村 岡 氏 に照
観 が 伝 えら れ て いる こ とそ れ 自体 が、 非 常 に重 要 な こと であ 会 し たと ころ、 山 口 県 地 方 及 び滋賀 県 の 一部 で、 いた ず ら の
ひ ど い 子 を、 ﹁こ の ど ー げ ん め ッ﹂ と か ﹁ど ー げ ん 坊 ず め ッ﹂
と い いな ら し て い る こ と と、 小 説 手 法 的 な 修 辞 上 の 点 か ら、
﹁ど ー げ ん 坊 ず ﹂ の 語 意 を 強 め る た め、 道 元 禅 師 を ひ き あ い
に 出 し た も の で、 決 し て 伝 承 文 献 に よ つ た も の で は な い と の
返 信 に 接 し た。 し か し、 こ れ な ど は、 さ し ず め、 現 代 も な お
新 し く つ く ら れ つ つ あ る、 道 元 禅 師 の伝 説 と い つ て よ い の で
は あ る ま い か。
付記 発 表 のあ と、 新 潟 県 双 壁 寺 住 職 坂 内 竜 雄 老 師 か ら、 新 潟 県
北 魚 沼 郡 小出 町 の曹 洞 宗 寺 院、 西 福 寺 に、 江 戸 か ら流 れ ついた
仏 師、 酒井 雲 蝶 が彫 刻 し た、 いわ ゆ る ﹁虎退 治 の道 元 禅 師 像 ﹂
が 開 山 堂 に安 置 さ れ てあ る と知 ら さ れた。 文 政 末期 の作 で、 極
彩 色 の立派 な も のだ と いう。

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ま た、 駒 沢大 学 講 師 峯 岸 孝 哉 氏 から、 大 分 県 の豊 後 竹 田 の ち
かく に ﹁道 元越 え﹂ と よば れ る と こ ろ が あり、 同 地 では、 帰 国
し た 道 元禅 師 は、 肥 後 河 尻 から こ こ を と お つて別 府 湾 へ、さ ら
に 瀬 戸 内 海 を わ た つて京 都 へ着 い た と伝 え ら れ る はな しも あ る
と教 え ら れ た。 な お、 こ の豊 後 竹 田あ た り に は、道 元 禅 師 の筆
蹟 の断 簡 が散 在 し て いる。
以 上、 と り あ えず 両 氏 の御 教 示 を ご紹 介 す る と とも に、 あ ら
た め て深 い感 謝 の こ こ ろを さ さげ る も の であ る。
道 元 禅 師 の伝説 (
東)

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