You are on page 1of 5

印度學佛教學研究第 四十餐第 二號 準成 四年 三月 二五二

新 草 十 二巻 本 ﹃正 法 眼 蔵 ﹂ の構 成 に つ い て
石 井 清 純
か ら、 宝 治 元 年 (一二四七) の鎌 倉 行 化 の不 成 功 に置 き つ つ、
はじめに
具体 的 執 筆 を 建 長 二年 六月 頃 と 推 定 さ れ て い る。 そ し て、 十
十 二巻 本 ﹃正法 眼 蔵 ﹄ は、 そ こ に収 録 さ れ る 各巻 の間 に強 二巻 本 に 限 って は撰 述 と 編 集 と が 同時 に 行 な わ れ て い たも の
い連 関 性 が 指 摘 さ れ て い る (伊藤秀憲氏 ﹁十二巻本 ﹃正法眼蔵﹄ とさ れ て い る。
に ついて﹂﹃宗学研究﹄第 二八号、 一九 八六年)。そ れ ら が、 何 を ま た、 石 井 修 道 博 士 は ﹁最 後 の道 元 ﹂(﹃十 二巻本 ﹃正法眼蔵﹄

-768-
意 図 し て編 ま れ たも のであ る か は、 種 々異 論 の存 在 す ると こ の諸問題﹄ 一九九 一年 一一月) にお いて、 ﹃永 平 広 録﹄ と の関 連
ろ であ るが、 少 なく とも、 内 容 的 に こ れ ら の十 二巻 が 密 接 に を中 心 に、 そ の構 想 が 寛 元 年 間 か ら 存 在 し た こと を 指 摘 さ れ
絡 み合 って い る こ と は、 否 定 でき な い事 実 と 考 え る。 本論 つ つも、 多 く 柴 田 氏 の説 を 受 け、 ﹁不離 吉 祥 山 示 衆 ﹂ の 行 な
は、 そ れ ら の内 容 的 な 考 察 で はな く、 十 二巻 本 の構成 が、 い わ れ た建 長 二年 頃 に具 体 的 執筆 が 行 な わ れ た も のと さ れ て い
つ頃 ど のよ う な 形 で行 な わ れ て い った の か、 そ の経 緯 に 的 を る。
絞 り、 ﹃永 平 広 録﹄ に 収 録 さ れ る 上 堂 語 と の 内 容 的 関 連 性 の つま り、 両 氏 は共 に、 そ の成 立 を建 長 二年 以降 と さ れ、 撰
上 から、 私 見 を 呈 示 す る こと を 目 的 と し たも のであ る。 述 と 編 集 と を 同 時 進 行 し た も のと さ れ て いる のであ る。 結 果
さ て、 こ のよ う な 十 二巻 本 の編 集 形 態 に つい て、 柴 田道 賢 的 に本 論 は、 両 氏 の説 に疑 義 を 呈す る も のであ る。
氏 は、 ﹁正法 眼 蔵 の編 集 に つい て1 特 に 道 元 禅 師 の親 集 を 中
﹁供 養 諸 仏 ﹂ の巻 の成 立 年 代 の 推 定
心とし て ﹂ (﹃駒沢大学宗教学論集﹄第 六輯、 一九 四七年) に お
い て、 十 二巻 本 の撰 述 動 機 を、 ﹁名 越 白 衣 舎 示 誠 ﹂ と の 関 連 十 二巻 本 ﹃正 法 眼 蔵﹄ 諸 巻 は、 そ のほ と ん ど に 成 立 年 代 を
示す 奥 書 が 存 在 し な い。 は っき り と そ れが 知 れ る の は、 ﹁八 迦牟尼仏、親 しく 曾て古 釈迦牟尼仏国 にあり、仏および弟子、
大 人覚 ﹂ 一巻 の み と 言 って良 か ろ う。 し か し そ の い く つ か 自が舎 に来 たり宿 りしたとき、 一に与 に草座 ・石蜜を供養 して
は、 ﹃永 平 広 録﹄ の上 堂 と内 容 的 に深 い関 連 性 が 指 摘 で き、 誓願を発す。今、 已にそ の願 いを成就せり。
そ の上 堂 の行 な わ れ た 年 代 か ら、 撰述 年 代 を 推 定 す る こと が (鏡島本巻三 ・一二 一-三)
〇 ﹁供養 諸仏﹂
可能 な の であ る。 こ れ に ついて は、拙 論 ﹁十 二巻 本 ﹃正法 眼
< ﹃大般浬葉経﹄巻 二二 ﹁光明遍照高貴徳王品﹂よ り の ﹁売身
蔵 ﹄ 本 文 の成 立 時 期 に つ い て ﹂ (﹃
駒 沢大学仏教学 部論集﹄第 二
菩薩﹂ の引用省 略>そ のとき の売身 の菩薩 は、今釈迦牟尼仏 の
二号、 一九九 一年 一〇 月) にお いて詳 細 に論 じ た が、 そ の 中 で
往 因なり。他経 を会 通すれば、初阿僧祇劫 の最初、古 釈迦牟尼
も、 も っと も 注 目 す べき も の は、 以下 に 示す ﹃永 平 広 録 ﹄ 巻
仏 を供養 したてま つりましますときなり。か のとき は、瓦師な
二 ・第 一八 二上 堂 と ﹁供 養 諸 仏 ﹂ の巻 と の関連 で あ る。
り。そ の名 を大光 明と称す。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子 に供
〇 ﹃永平広録 ﹄巻 二 ・第 一八二上堂 養 するに、三種 の供養 をも てす。 いはゆる、草座 ・石蜜漿 ・燃
上堂。我が本師 釈迦 牟尼大和 尚、先世 に瓦師と作 る。名づけ て 燈なり。そ のとき の発願 にいはく、国土 ・名号 ・寿命 ・弟 子、
大光明と 日う。爾 の時 仏あり、釈迦牟尼仏と名つく。 彼 の仏世

-769-
一如今釈迦牟尼仏。 か のとき の初願、す でに今日成就す るも の
尊、寿命 名号 ・国土 ・弟 子 ・正法 ・像法、 一に今 仏 の ご と な り。(大久保本上 ・六五 八)
し。彼 の仏と弟 子と、倶に瓦師の舎 に至 って宿 る。瓦師、草座 <本論文 におけ る引用 は、﹃永平広録﹄ は、鏡 島元隆博士 校 註
・燃燈 ・石蜜漿 をも って仏 および比丘 に施 して誓 願を発す、当 ﹃道 元禅師全集﹄巻 三 ・四 (一九八八年、春 秋社刊)の訓 読 文
来、 五濁 の世 に仏と作 り、仏 および弟 子の寿命 ・名号 ・国土 ・ を、また ﹃正法眼蔵 ﹄ は、大久保道舟博士編 ﹃道元禅師全集﹄
身量 ・正法 ・像 法、 一切 みな今釈迦牟尼仏 のごとく にして異な 上 (一九 六九年、筑摩 書房刊。 一九 八九年臨川書店復 刻)をそ
らざら ん、と。そ の昔 の願のごとく、今 日仏と作 り、国土 ・弟 れぞれ使用 し、大久保 本 ・鏡島本と略称するV
子、正法 像法、寿命 ・名号、 一切 みな古 釈迦牟尼 仏 の ご と
し。日本国越宇、開關永 平寺 沙門道 元、また誓願 を発 す、当来 ﹃永 平 広 録 ﹄の第 一八 二上 堂 は、寛 元 四年 (一二四六)七月 に
五濁 の世 に仏 と作り、仏および弟子 の、国土 ・名 号、正法 ・燥 行 な わ れ たも の であ る。 冒 頭 の ﹁我 が 本 師 釈 迦 牟 尼 大 和 尚 ﹂
法、身量 寿命、 一に今日の本師釈迦牟尼仏 のごとく にして異 か ら ﹁異 な ら ざ ら ん﹂ ま で は ﹃大 智 度 論 ﹄ 巻 三 (
大 正 二五 ・八
ならざら んと。 ⋮(中略)⋮かく のごとくな りと いえども、今 釈 三) よ り の引 用 であ るが、 こ の内 容 が、 ﹁供 養 諸 仏﹂ の巻 に お
新 草 十 二巻 本 ﹃正 法 眼 蔵﹄
叩の構 成 に つ いて (石 井) 二五 三
新草十 二巻本 ﹃正法眼蔵﹄ の構成に ついて (石 井) 二五四
い て、 ﹃大 般 浬 藥 経 ﹄ 巻 二 二か ら の引 用 の後 に、 ﹁他 経 から の 巻 本 の成 立 に直 結 す ると 考 え る の はあ ま り に短 絡 的 であ る。
会 通 ﹂ (傍線部) と し て述 べら れ る内 容 と完 全 に 一致 して い る こ の時 点 で は、 こ の巻 は いま だ 独 立 し た 一巻 と し て存 在 し た
の であ る。 とす れ ぽ、 こ こ に いう ﹁他 経 ﹂ と は、 第 一八 二上 も のと 捉 え る べき であ り、 当 然 こ の後 の修 訂 をも 考 慮 す べき
堂 に引 いた ﹃大 智 度 論 ﹄ を 指 し て い る こ と にな る であ ろう。 も のと 思 わ れ る の であ る。 そ れ 億、 次 に示 す ﹃永 平 広 録 ﹄ 巻
そ れ に加 え、 そ の引 用 に対 す る禅 師 自 身 の著 語 さ え も 共 通 し 六 ・第 四 三〇 上 堂 の存 在 に よ る。
a
て い る のであ る から、 こ の巻 の成 立 に、 こ の上 堂 が 深 く 関 わ 二十 五有 に流 転 す る際、 も っと も 得 難 き 事 あ り。 いわ ゆ る、 生
b
って いる 可能 性 が 指 摘 でき る の であ る。 ま れ て 仏 法 に値 う な り。 既 に仏 法 に遭 え ど も、 菩 提 心 を 発 す ご
a
ま た そ の他 にも、 同年 の九 月 に、﹁供養 諸 仏 ﹂の巻 に お い て と、 ま た も っと も 難 し。 既 に仏 法 を 得 れ ど も、 親 を 捨 て て出 家
﹁僧 祇 律 も と も根 本 な り﹂ (大久保本上 ・六六四) と 絶 賛 さ れ る す る こと、 劇 た も っと も 得が た し。 既 に親 を 捨 て て出 家 す る こ
﹃摩 詞 僧 祇 律﹄ 十 八 よ り の引 用 を 用 い、 ﹁南無 仏 陀 耶、 南 無 仏 と を 得 れ ど も、 ま た 六親 を 引 導 し て仏 道 に 入ら しむ る こと、 ま
た も っと も 難 し。 諸 仏 成 道 の後、 五事 を 行 ず る内、 父 母 の た め
陀 耶﹂ と 結 ぶ 第 一九 七 上 堂 が 存 在 す る。 石井 博 士 は前 掲 論 文
に説 法 し て 仏 道 に 入ら し む る は、 そ の 一な り。 これ 父 母 六親 な

-770-
に お い て、 これ を、 こ の巻 の構 想 の み の存 在 と捉 え られ て い
り と いえ ど も、 も しそ の子 の比 丘 ・比 丘 尼 ・沙 門 を し て家 に還
るが、 これ ほ ど の内 容 的 類 似 が 存 在 す る 以上、 これ は、 かな
り 俗 に還 ら し め、 ま た仏 道 を 障 う る の因 縁 を教 えば、 当 に知 る
り近 い時 期 に、 後 者 の撰 述 が 前 者 を 踏 ま え つ つ行 な われ たと
べ し、 これ 悪 父 母 な り、 順 う べ から ず。 も し 出家 修 道 の 因縁 を
解 釈 す べき であ ろう。 教 え ば、 当 に知 る べ し、 これ 菩 薩 父 母 な り。 曹 難 高 祖、 昔、 盧
﹁供養 諸仏 ﹂ の成 立 年 代 を以 上 のよ う に設 定 した と き、 注 行 者 た り し時、 ⋮< 以下 ﹃広 燈 録﹄ よ り の 六祖 伝 の引 用省 略 >
目 す べき は、 そ れが、 七 十 五 巻 本 ﹃正 法 眼 蔵 ﹄﹁出 家 ﹂ の巻 の ⋮ 師 云く、 曹 難 ・印 宗 師資 の講 諦、 既 に能 く か く のご と し。 如
示 衆 (同年九月十五日)と 時 期 的 に重 って い る こ と であ る。 来世尊 ・
高 貴 徳 王 の所 説 所聞、巳 に かく の ご と く な る を得 た り。
こ の こと は、 一部 の巻 であ る に せ よ、 十 二巻 本 が、 旧草 の (鏡 島 本 巻 四 ・ 一五- 七 頁 )
完 全 な修 訂変 更 の上 に成 立 し て い ったも のと捉 え る こと を拒 こ れ は、 建 長 三 年 の 四 月 下 旬 頃 に 行 な わ れ た 上 堂 で あ る。
む材 料 と いえ る であ ろ う。 ﹁供 養 諸 仏 ﹂ の 巻 末 尾 に ﹁
盧 行者 は 昼夜 に や す まず 碓米 供衆 す
ただ し、今 見 た ﹁供養 諸 仏 ﹂ の成 立 年 次が、 そ のま ま 十 二 る ﹂ (大 久 保 本 上 ・六 六 六 ) と い う 一節 が 存 在 す る が、 そ れ は、
引 用 で は省 略 し たが、 こ の上 堂 に おけ る、 二祖 の行履 の詳 述 ﹁三時 業 ﹂ の修 訂時 期 を知 り う る 材 料 は、 次 に 示 す ﹃永 平
を多 分 に意 識 し たも のと 考 え ら れ る の であ る。 ま た さ ら に、 広 録 ﹄ 巻 六 ・第 四 三 七上 堂 < 建 長 三年 六月 > と永 光 寺 本 ﹁三
こ の上 堂 は、他 の巻 と の内 容 的 関 連 を も 指 摘 でき る。 傍 線 a 時 業 ﹂ の巻 と の関 連 であ る。
は ﹁出 家 功徳 ﹂・﹁八
大 人 覚 ﹂ と、 ま た b は ﹁発 菩 提 心﹂、そ れ
〇第四 三七上堂
に加 え て、 省 略 し た引 用 文 中、 唯 一 ﹁見 性 ﹂ の語 が ﹁仏 性 ﹂ た やす
上堂。それ仏法を学ぶ漢、用心身儀、太だ容易 からず。凡夫
に変 え ら れ て い るが、 これ は ﹁四禅 比 丘 ﹂ の見 性 批 判 を 意 識
外道、倶 に坐禅を営む。然れども凡夫 ・外道 の坐禅 は、仏仏祖
し た も のと いえ る。 祖 の坐禅 に同じ からず。然る所以 は、外道 の坐禅 は邪見.著味
こ れ に類 す る上 堂 は、 他 にも 同 年 夏 に行 な われ た 第 四 四六 ・僑慢あ る故な り。⋮(中略)⋮世尊、 一時羅閲城者閣堀山中
a
上堂 が あ るが、 建 長 三 年 の春 か ら 夏 に かけ て は、 単 独 の巻 ど に在 ま し て、 大 比 丘 衆 五百 人 と 倶 な り。 爾 の時 提 婆 達 兜、 衆 僧
の関連 を 指 摘 でき る 上 堂 と 共 に、 こ のよ う な十 二巻 本 の複 数 を 壊 乱 し、 如 来 の足 を 壊 り、 阿 閣 世 を し て父 王 を取 って殺 さ し
の巻 と 複 合 的 に関 連 し て く る 上 堂 が 散 見 さ れ る の であ る。 め、 ま た 羅 漢 ・比 丘 尼 を 殺 し、 大 衆 の中 にあ って こ の 説 を 作
す。 ﹁
何 れ のと こ ろ に悪 あ り や、 悪 は何 く よ り生 ず る や、 誰 か
即 ち これ に よ って、 本 文 内 容 の成 立 と は別 に、 こ の時 点 で

-771-
こ の悪 を 作 し て当 にそ の報 いを 受 く べき、 我 ま た こ の悪 を作 し
禅 師 に十 二巻 本 (ただし巻数 は未定 であ ったと思 われ るが) の 構
て そ の報 を受 け じ﹂ と。 (鏡 島 本 巻 四 ・二 七)
想 が 具 体 化 し た ので は な いか と考 え ら れ る のであ る。 実 に、
○永 光 寺 本 ﹁三時 業﹂
﹁供養 諸 仏 ﹂ のよ う な、 早 い成 立 に な る巻 以 外 の 十 二巻 本 の
提 婆 達 多、 比 丘と し て 三無 間 業 を つく れ り、 い は ゆ る、 破 僧.
巻 々 の多 くが、 こ の頃成 立 し た も のと 推 測 でき ると いう 事 実 a
出血 ・殺阿羅漢な り。ある いは提婆達兜 と いふ、此翻天 熱。そ
も 存 在 す る。 (
前出 ﹃駒大論集﹄所収 拙論参照)
の破僧と いふは、将 五百新学愚蒙比 丘、吉 伽耶山、作 五邪法、
そ こ で次 に、 ﹁三時 業 ﹂ の巻 の、 洞 雲 寺 本 (草案) から 永 光 而破法輪僧。身 子厭之眠熱 目連摯衆将 還。提婆達多、 眠起 発
寺 本 (十二巻本 ) へ の修 訂、 収 録 の行 な わ れ た 年 時 の設 定 か 誓、誓報此恩 棒縦三十肘 広十 五肘石 榔 仏。山神以 手遮 石、
ら、 これ に つい て考 察 し て み る こと に し た い。 小石送、傷仏足血出。
b
も しこの説 によらば、破僧さき、出血 のちなり。もし余 説によ
﹁三時業 ﹂ の巻 の修 訂 に つい て
らば、破僧 ・出血 の先後、 いまだあきら めず。 また拳 をもて、
新草十 二巻本 ﹃正法眼蔵﹄ の構成 に ついて (石 井) 二五五
新草十 二巻本 ﹃正法眼蔵﹄ の構成 に ついて (石 井) 二五六
蓮華色 比丘尼をうち ころす。この比 丘尼 は阿羅漢な り。これ を た の は、 柴 田 氏 の説 と は違 い、 個 々 の巻 の成 立 が、 部 分 的 に
三無 間業 を つく れりと いふなり。(大久保本上 ・六八五-六) は十 二巻 本 と し て の構 成 に先 立 って いた 可 能 性 が高 いと いう
右 の ﹁三時 業 ﹂ の 一節 にお いて、洞 雲 寺 本 と の共 通 部 分 は、 こと であ る。 これ は 言 い換 え れ ば、 十 二巻 本 のす べ て の 巻
冒 頭 と末 尾 の波 線 部 分 のみ で、 そ れ 以外 は永 光 寺 本 への修 訂 が、 十 二巻 本 と いう 構 想 の下 に書 き 下 さ れ た も の では な いと
に当 た って付 加 さ れ た も のであ る。 さ てそ の付 加 部 分 を 見 る いう こと にな ろ う。
と、 傍 線 a ・b に て示 し た、 漢 訳 の相 運 や、 ﹁
余説 ﹂と し て そ し てそれ が ど のよ う な 形 で体 系 化 さ れ た のか と い え ば、
引 合 に出 さ れ る内 容 な ど、 明 ら か に第 四三 七上 堂 の ﹁世 尊 ﹂ 十 二巻 本 ﹃正法 眼 蔵 ﹄ の構 想 の具 体 化 は、 洞 雲寺 本 ﹁三時 業 ﹂
以下 に引 用 さ れ る ﹃増 一阿 含 経 ﹄ を 意識 した も の と な って い か ら 永 光寺 本 への修 訂 時 期 の設 定 か ら、 建 長 三年 前 後 ま で下
る の であ る。 即 ち これ に よ り、 洞 雲 寺 本 か ら 永 光 寺 本 への修 るも のと考 え られ、 そ の時 点 で、 十 二巻 の第 一に当 た る ﹁出
訂が、 第 四三 七 上 堂 に おけ る説 示 を 多 分 に意 識 し つ つ、そ の 家 功 徳 ﹂を 導 入 と し、 ﹁八大 人 覚 ﹂ に 至 る体 系 を 意 識 し つ つ、
欠 を 補 う形 で 行 な わ れ た も のと 考 え ら れ る ので あ る。 そ れ 以前 に用 意 さ れ て いた 巻 の中 か ら、 そ れ に見 合 った巻 が

-772-
永 光寺 本 は、 十 二巻 の形 態 を 完 備 し た 現 存 唯 一の写 本 であ 抽 出 され、 現 存 す る形 に 構 成 さ れ て い った も の と考 え ら れ る
り、 そ の点 か ら考 え れ ば、 こ の修 訂 が、 ﹁三時 業 ﹂ の巻 の、 十 の では な い であ ろ う か。
二巻 と いう体 系 への組 み 込 み に際 し て 行 な わ れ た も の と解 釈
でき る。 そ し て それ が、 第 四三 七 上堂 の行 な わ れ た直 後、 即 <キーワード> ﹃永平広録 ﹄、十二巻本 ﹃正法眼蔵﹄、﹁供養諸仏 ﹂
の巻、 ﹁三時 業﹂ の巻
ち 先 ほど から 再 三 に亙 って 述 べ てき た、 建 長 三 年 の春 から 夏
(駒沢大学助手)
に かけ て の こ とだ った と 考 え ら れ る の であ る。
むす び
以上、 極 め て少 な い用 例 で、 全 く 億 測 の域 を 出 な いも の で
あ るが、 ﹃永 平 広 録 ﹄ の上 堂 と の 関連 か ら 十 二巻 本 ﹃正 法 眼
蔵 ﹄ の構 成過 程 に つ いて 考 察 し て み た。 そ こで ま ず 指 摘 でき

You might also like