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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2018年10月1日 第73号 第二版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
スパッ スパッ フウ/スパッ スパッ フウ/ねがいがあれば/パイプにたのめ/スパッ ス
あな
ない
迷路 あ
ただ を通 パッ フウ/赤いしっぽに 煙の目玉/スパッ スパッ フウ/ するとたちまち/おのぞみど
けの って
番地 おり/スパッ フウ(全集第10巻、10ページ)
に届
きま

ラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』安部公房作詞/芥川也寸志作曲/橋本力編曲

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(8):(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・
ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》:岩田英哉…page 12 
3 ホキ德田『優しい友へのレクイエム∼万国博覧会と東京の芸術家たち∼』…page 19 
4 安部公房とチョムスキー(1):岩田英哉…page 23
  (1)ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
  (2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
5 書評三題…page 29
(1)今泉早織:〈研究論文〉「自覚」と「不快」 : 埴谷雄高の創作における西田幾多郎の影響
(2)西法太郎:死の貌(かお)
(3)西村幸祐:報道しない自由
6 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(18)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…page 36
7 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 39
8 編集後記…page 42
9 次号予告…page 42

・本誌の主な献呈送付先…page43
・本誌の収蔵機関…page 43
・編集方針…page 43
・前号の訂正箇所…page 43

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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もぐら通信
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  ニュース&記録&掲示板

今月のtweet best 10

笑和笑女@Htreetop 2017年12月26日 

en M
ole 綿のように疲れてしまった方へ。
Gold
Priz
e 安部公房原作、川本喜八アニメーション『詩人の生涯』。
これは39歳の老婆が綿ように疲れ果て、糸車に巻き込まれて綿糸になるとこ
ろから始まる物語。ユーキッタン……と糸車の音が響きます。就寝前にどう
ぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=FIdH19HESlg

ole
er M ムラたん@murachan48 2017年12月29日
Silv
e
Priz 帰省して安部公房全集を読むこととします。

今月の安部公房の読者(Kobees)悲しみのtweets
KIYOSUE KOHEI@mstr_kk 2017年12月28日 

次に内容レベルですが、「S・カルマ氏の犯罪」がどんな「政治批判」で「現代批
判」なのか、ぜひ100字くらいで教えていただきたい。『砂の女』とか『箱男』と
かもお願いしたい。安部公房を卒論に勧められた石原千秋の教え子は、はたしてそ
の卒論を書けたのでしょうか。


KIYOSUE KOHEI@mstr_kk 2017年12月28日 



《小説をまとめればそのまま「論」になるから、卒業論文がまったく書けない学生
には安部公房を勧めることがある。》石原千秋

考えれば考えるほど、いろいろひどい。


KIYOSUE KOHEI@mstr_kk 2017年12月28日 



《寓話とは、個々の小説を、たとえば「政治批判」とか「現代批判」と一括りにし
てしまうことだ。安部公房の小説がそうで、寓話だから2回読もうという気は起き
にくい。それなら評論を書けばいいのにと思ってしまうからだ。》石原千秋、引用
続く。

Yo (nothere records)@nowayout1986 2017年12月28日 



安部公房の小説から寓意以外何一つ感じ取れないとしたら、不幸以外の何物でもな
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いと自分は思う。


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hirokd267さんがホッタタカシをリツイートしました

(笑)
リアリズムが政治的であらざるを得なかった安部公房の時代。文学から政治を排斥
しようとすること自体が政治的、という安部公房からすれば、石原氏の政治的立場
が浮かび上がりますね。 


hirokd267さんが追加

ホッタタカシ@t_hotta

返信先: @hirokd267さん 

私は安部公房の魅力はアレゴリーを超えたところにあると思いますが、寓話として
解釈するにしても、簡単に解答が用意されたイメージではないですよね。石原先生
はカフカでも一回しか読まれないのかなぁ。

hirokd267@hirokd267 2017年12月28日 

hirokd267さんがホッタタカシをリツイートしました

安部公房の小説を「政治批判」「現代批判」と一括りにされているのは石原氏だが、
一方で「政治的正しさ」は文学をつまらなくしている、と述べている。
http://www.sankei.com/life/news/171126/lif1711260034-n1.html …

小説をそんな風に政治的につまらなくとらえようとしている、としか思えない。


hirokd267さんが追加

ホッタタカシ@t_hotta

>寓話とは、個々の小説を、たとえば「政治批判」とか「現代批判」と一括りにし
てしまうことだ。安部公房の小説がそうで、寓話だから2回読もうという気は起き
にくい。それなら評論を書けばいいのにと思ってしまうからだ。…


hirokd267@hirokd267 2017年12月28日 

hirokd267さんがホッタタカシをリツイートしました

寓話だとしても、そんなに明確ではないので、何の寓意か知りたいために、人は何
度も読み直し、安部公房に魅せられていく…そして彼の深い世界観に触れてしま
う… 


hirokd267さんが追加

ホッタタカシ@t_hotta

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>寓話とは、個々の小説を、たとえば「政治批判」とか「現代批判」と一括りにし
てしまうことだ。安部公房の小説がそうで、寓話だから2回読もうという気は起き
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にくい。それなら評論を書けばいいのにと思ってしまうからだ。…


ホッタタカシ@t_hotta 2017年12月28日 

とはいえ「文芸漫談」で『砂の女』を取り上げた時も、安部公房の方法論について
「寓意の部分を理解しただけで全体を見切ったと思われやすい」という欠点がある
のでは、と奥泉光も指摘していたな。 


ホッタタカシ@t_hotta 2017年12月28日 

ホッタタカシさんがhirokd267をリツイートしました

>寓話とは、個々の小説を、たとえば「政治批判」とか「現代批判」と一括りにし
てしまうことだ。安部公房の小説がそうで、寓話だから2回読もうという気は起き
にくい。それなら評論を書けばいいのにと思ってしまうからだ。

2回目は、寓意以外の部分を読めばいいのでは……。 


ホッタタカシさんが追加

hirokd267@hirokd267

ん?「卒業論文がまったく書けない学生には安部公房を勧めることがある。」早稲
田大学教授 石原千秋氏 産経新聞文芸時評 「小説をまとめればそのまま「論」
になるから」って…
https://news.headlines.auone.jp/stories/domestic/culture/11260924?
genreid=4&subgenreid=13&articleid=11260924&cpid=10130017 …


今月の読書会
#猫町倶楽部 名古屋文学サロン月曜会 2月開催のお知らせ
■名古屋会場 2/7(水)課題本:安部公房の『砂の女』http://nekomachi-
club.com/schedule/51524

【2/3『人間そっくり』読書会】 #TAP_MTG
1ヶ月後! 2月3日(土)にTAP恒例の安部公房読書会を行います。課題本は『人間
そっくり』。会場は荻窪ベルベットサン。開場16:30、開演17:00∼終演20:00。料
金¥1500(1D付)。初参加大歓迎。
節分の日には安部公房で内なる辺境に豆を撒きましょう。

[拡散希望]【関西安部公房オフ会】第14回読書会のお知らせ
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
3月11日(日)午後1時∼5時 高槻市民会館集会室203号にて
課題書『人間そっくり』(新潮文庫)
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 6

詳細は http://w1allen.seesaa.net/article/456067706.html …
皆様のご参加をお待ちしています。

2017年12月読書記録 壁/安部公房 https://www.amazon.co.jp/dp/4101121028/


ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_emUsAb7C45XFB …... https://tmblr.co/
ZHsg0e2TbYy4s

今月の安部公房の原稿
米田知子 - 安部公房の眼鏡 ‒ 「箱男」の原稿を見る2013,
"Kobo Abe s glasses ‒ Viewing the Manuscript of The Box Man"
Between visible and invisible serie
2013
Tomoko Yoneda
#米田知子 #安部公房 #写真

今月のゼミ
関谷ゼミブログ
安部公房『鉛の卵』

安部公房  三島由紀夫  徳田秋声 -
関谷ゼミブログ
初日は館山桟橋が強風のため保田漁港、
カネシローが浅い湾内で釣れるはずもな
い高級魚マハタ20センチ級を..
http://d.hatena.ne.jp/sekiya_itiro/
20171231/1514745330

今月の朗読会
12時間耐久朗毒会
『夢の逃亡 僕の果て』
∼燃えつきた向うに安部公房∼
河内大和(WORDS) 村田正樹(TAP)
2月4日(日)9:00∼21:00
朝の部1,500円(1D付)
9:00∼12:30
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昼の部2,500円(1D付)
13:00∼15:30
guest:矢崎浩志(gt,mandolin)
→(続く)
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柴田望@NOGUCHIS7
《東鷹栖安部公房の会》より、1月のイベントをお知らせ致します。
*

安部公房 ∼サウンド・音楽と映像による朗
読会
『水 中 都 市』
*

∼それを現実だと思いちがいしていただけ
なのさ、現実は不連続さ、そうだろう。∼
*
柴田望@NOGUCHIS7
・音楽・サウンドと映像による新しいタイプ
の朗読会を企画致しました。(安部公房が所
有していたシンセサイザーEMS Synthi AKS
の音色と映像資料をご紹介します。)

今月の桂川寛 所蔵作品展
桂川寛《安部公房著『壁』挿絵3》
2018年2月18日(日)まで
所蔵作品展「MOMATコレクション」

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#東京国立近代美術館
http://www.momat.go.jp/am/
exhibition/
permanent20171114/ …
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 8

今月の安部公房論
CiNii 論文 - 書評 リチャード・F・カリチマン『国家を超えて : 安部公房の作品にお
ける時間、書くこと、そして共同体』 https://ci.nii.ac.jp/naid/120006359581 …
#CiNii
書評 リチャード・F・カリチマン『国家を超えて : 安部公房の作品における時間、書
くこと、そして共同体』 鳥羽 耕史 日本研究 56, 218-221, 2017-10
ci.nii.ac.jp

書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40020255668 …

所有の始原 : 安部公房「赤い繭」論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007506049 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 1月1日
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその変
容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40020255668 …

地図と契約--安部公房『燃えつきた地図』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40016907083 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2017年12月29日
安部公房『第四間氷期』--水のなかの革命 http://ci.nii.ac.jp/naid/
120005481595 …

今月の壁
使ってないUSBから、9年前
の絵が出てきて驚愕!!
安部公房の短編集「壁」を
イメージして描いたんだっ
たかな?
「赤い繭」と言う話が面白
いですよ。
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"夜"サエキ
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今月の安部公房全集 at ヤフオク
番場 寛(Hiroshi Bamba)さんがWoody Allenをリツイートしまし

僕もとても悲しいです。安部公房の特に初期の作品は、読みさえすれば、若い女性も
きっと好きになるのになあ。
番場 寛(Hiroshi Bamba)さんが追加

Woody Allen@w1allen
返信先: @hirokd267さん
東京女学館短期大学図書館ですか・・・
何とも悲しくなりますね。

hirokd267さんがhirokd267をリツイートしました
安部公房全集を除籍する大学って?
hirokd267さんが追加

hirokd267@hirokd267
【中古】安部公房全集 全30巻 新潮社 全月報揃 CD-ROM付 大学図書館 除籍本 A
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q189050526 … #ヤフオク

今月のアンソロジー
根本隆一郎編『文豪文士が愛した映画たち 昭和の作家映画論コレクション』。安
部公房、池波正太郎、江戸川乱歩、川端康成、司馬遼太郎、高見順、谷崎潤一郎、
永井荷風、三島由紀夫ら、昭和を代表する作家が書き残したモンローやヒッチコック。
映画に関する文章を集めたオリジナル・アンソロジー。

今月の受賞
ホッタタカシ@t_hotta
安部公房の広場 |2017年12月27日
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#かんぺ大賞
作品賞 ざ・鬼太鼓座(加藤泰)
監督賞 イェジー・カヴァレロヴィチ(太陽の王子ファラオ)
もぐら通信
もぐら通信                           10
ページ

脚本賞 水木洋子(もず)
女優賞 渡辺美佐子(青い乳房)
男優賞 ハロルド・ロイド(ハロルド・ディドルボックの罪)
特集賞 アヴァンギャルド・ニッポン/安部公房 勅使河原宏(ラピュタ)

ケイコトロン@kco_tron 2017年12月26日
かんぺ大賞の特集賞、夏にラピュタでやった勅使河原宏と安部公房でも良かったな
∼。この私が休みの日に早起きして阿佐ヶ谷まで通ったし、恐るべしアヴァンギャル
ド、ではないか

今月の画廊
北井画廊 gallerykitai @gallerykitai_s
上野のレストラン Didot では千葉蒼玄個展を開催中です。カウンター近くに展示の
細字の作品は安部公房の「壁」の1章が数ミリのサイズ文字で一面に書かれています。
(全席貸切の場合がございますので事前にお電話でお店にご確認ください。)
http://www.kitaikikaku.co.jp/gallery-news/201711242866/ …

千葉蒼玄 個展 レストラン Didot (ディド)

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もぐら通信                           11
ページ

今月の新刊
書名 文豪の女遍歴
監修・編集・著者名小谷野敦 著
出版社名幻冬舎
出版年月日2017年9月28日
定価本体840円+税
判型・ページ数新書・265ページ
ISBN 9784344984660

「筆者の小谷野敦さんは1962年生まれ。東京大学の大学院を出た比較文学の研究者だ。
『聖母のいない国』でサントリー学芸賞を受賞し、将来を嘱望されて大学で教えていたが、
その前後に出した『もてない男』『童貞放浪記』などの著書が大いに話題になり、現在は文
筆業。アカデミズムから離れ、小説も書くなど比較的自由な立場にある。したがって本書は
幻冬舎と小谷野さんの組み合わせだからこそ可能になった気がする。
 タイトルは刺激的だが、内容は端正なつくりだ。明治以降の62人の物故作家の男女関係に
ついて、1人の作家を3∼4ページでまとめている。坪内逍遥、森鴎外、夏目漱石から三島
由紀夫、澁澤龍彦、高橋和巳、江藤淳、開高健、加藤周一、安部公房・・・登場する文学者は
壮観だ。小谷野さんには『谷崎潤一郎伝』『川端康成伝』(ともに中央公論新社)などの著
作もあり、実は作家の評伝はお手の物なのだ。」

今月の朗読会(2):東鷹栖安部公房の柴田望さんが詩誌創刊、朗読会を開催
詩誌『FRAGILE』創刊記念朗読会( 12月2日(土))まちなかぶんか小屋にて。
朗読会にて、安部公房論についての解説をなさいました。『詩と詩人(意識と無意
識)』と『デンドロカカリヤ』を巡り柴田さんが安部公房の「変形譚」を語る動画
は次のURLにて:https://youtu.be/Qwr3Jw_BgBU

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『カンガルー・ノート』論
    (6)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

青字は前回までに
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
赤字は今回論ずるもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 黒字はこれからのもの
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
もぐら通信
もぐら通信                          13
ページ

(12)人面スプリンクラー
(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(23)尻尾
(24)3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)
5。1。4。1 寓話とは何か
5。1。5 章間形象連続性分類
5。1。6 存在の祭りと次の存在への立て札

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
5。2。1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱

5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)

5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****

5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
もぐら通信
もぐら通信                          ページ14

(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シ
ロクマ》

前回の「『カンガルー・ノート』論(6)」(もぐら通信第72号)では「(20)サーカ
ス」と題して、安部公房とサーカスの関係を論じました。その中の「(20.3)何故安部公房
は『不思議の国のアリス』に触発されて『S・カルマ氏の犯罪』を書くことができたか?」に
て、後者に登場する次のやうな動物の名前を列挙しました。ここから話を始めます。

「『S・カルマ氏の犯罪』の動物:
(1)象:全集第1巻、389ページ下段
(2)ライオン:390ページ上段
(3)熊:390ページ下段
(4)河馬:390ページ下段
(5)縞馬:同上
(6)狼:同上
(7)キリン:同上
(8)双峰ラクダ:同上
(9)《しろくま》:393ページ上段」

「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「1。結論:この小説には何
が書いてあるのか」の「1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容」から、以下記号
に関する安部公房の割り当てた意味を再掲して本題に入ります。

「『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号∼第5
9号)で使つた方法を『カンガルー・ノート』でも使つて、この作品には一体何が書いてある
のかをみてみたのが「3。『カンガルー・ノート』の記号論」 [註7]です。この章の結論を
先取りして、最初にお伝へすれば、安部公房の使用する記号に着目すれば、結局この作品は、
次の5つのことについて書いてあるのです。

(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味す
る。
(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語につい
てのものであることを意味する。
(3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。
(4)「 」:地の文にある立て札を意味する。
(5)( ):存在の中に存在することを意味する。」

この引用の(1)の《 》が、「《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の
哲学用語を意味」してをりますので、『S・カルマ氏の犯罪』の動物中「(9)《しろくま》」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 15

は、存在の《しろくま》であり、存在として時間の中にある即ち現存在としてある《しろくま》
であることがわかります。即ち、

「(9)《しろくま》」は、象と同様に、現実の時間に対して遅延を生ぜしめるゆつくりとし
た動作をする超越論的な動物[ 1]であること、そして「(3)熊」とは別に《しろくま》と
したのですから、前者は黒い毛皮のクマであり、後者はサーカスで藝をする文字通りの白い毛
皮の北極のクマ(ホッキョクグマ)であるといふことになりますが、この白色が存在の色足り
得るのは、安部公房がリルケに学んだ余白と沈黙の論理[ 2]に従つたと考へるのが良いので
はないでせうか。つまり、安部公房が時間のない超越論的な世界を創造するための、即ち現実
の時間の進行に対して遅延を生ぜしめる主人公の意識の記録をするための(始めも終はりもな
い)白い手帳、白いノートと同じ白い《しろくま》といふことです。

何故象は《象》《ぞう》《ゾウ》とはならず、地の文の中に象と書かれ得るかは、既に此の動物
は、安部公房によつて/にとつて十分に概念化されてゐて、存在の記号を取り外すことができて
ゐるからでありませう。 [註3]

[ 1]
現実の時間に対して遅延を生ぜしめるゆつくりとした動作をする超越論的な動物である象が何故そのやうな動物と
して小学生の安部公房の眼に映じたかは、『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第67号)にて詳細
に論じましたので、これをご覧ください。超越論とは何かがお判りになる筈です。

[ 2]
『安部公房文学の毒について』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論理といふ毒(詩の毒)」に詳述しました
ので、お読みください。

[註3]
この、安部公房が記号を使つて超越論に関係する存在と現存在についての哲学用語を含む用語をどのやうに概念化
して内部と外部をtopologicalに等価交換して記号を外して行つたかは、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」
といふ語について』(もぐら通信第56号∼第59号)にて詳細に論じ、実証し論証しましたので、これをご覧く
ださい。

さて、この芥川賞受賞作に他に記号はないかを見ますと、《しろくま》以外にも、次のやうな
記号化された言葉がありました。結論を先に言ひますと、《 》と『 』といふ二種類の記号が使
はれてゐます。

後者については、(4)の『手帳』も含め、安部公房特有の「僕の中の「僕」」の話法[ 4]
をつかふ場合に用ゐられてゐます。『手帳』の場合は「(手帳の)僕の中の(手帳の)「僕」」、
即ち『手帳』といふわけです。かうしてみると、やはり、この作品全体の結末で/としては主人
公の意識が禁忌(タブー)の★印の柵[ 5]を超えたところで人称が変はることが示してゐる
通りに、一人称が三人称に、三人称が一人称に転じ得る契機と話法上の構造があることが判り
ます。以下引用するページ数は全て全集第2巻のページ数です。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ16
[ 4]
この安部公房特有の「僕の中の「僕」」の話法については、『デンドロカカリヤ論(後編)』(もぐら通信第5
4号)で詳述しましたので、ご覧ください。

[註5]
主人公の意識が禁忌(タブー)の★印の柵については「『カンガルー・ノート』論(6)」(もぐら通信第71号)
の「(19)「進入禁止」の立て札」をご覧ください。

(1)「次第にゆっくり歩きました。「疲れているのね。」とY子が言いました。うなずいて、
しかし心の中では『いいや。』と首を振りました。『疲れているんじゃない、もし明日までに
ぼくの名刺と話合いがつかなかったら、この瞬間は、僕にとって死刑囚の最後の散歩になるん
だよ。動物園に入れないわけを説明するために、ぼくは君にすべてを打明けなければならない
だろう。』」(408ページ下段)
(2)「しかし心の中ではやはり別なことを考えるのでした。『十時……しかし、もし君が本
当のことを知ったらどうだろう。君はきっとぼくのことを笑いだすにちがいないね。』」(4
08ページ下段)
(3)《旅への誘い! 世界の果てに関する講演と映画の夕べ》(411ページ下段)
(4)「と帽子が得意そうに言い、そのすぐ後で同志『手帳』作革命歌がより優秀であること
を証明する会というのを開催するなら俺も賛成だ。」と手帳が言いました。」(415ページ
上段)
(5)「おまえは、ここを、どこだと思う?」「ぼくの部屋です。」パパはつづけて、「三に
五を足すと幾らだ?」/『八です。』とすぐに答えようとして、ぼくはふと思いなおし、パパの
顔を見返しました。」(418ページ下段から上段)
(6)《世界中、どこまでも……》(428ページ下段)
(7)「「思わず拍手の手をゆるめると、せむしは慌てて言いました。「駄目だ、やめちゃい
かん!」『そうは言っても、おれは勝手に止めることだって出来るんだぞ。』心の中でそう言
返すと、ぼくは逆に寛容な気持になり、三十分たった、と言ったときのせむしの調子を想出し
て、『だが、せむしだって別に好きでやっているわけじゃないんだ。』ぼくはさっきよりは不
自然でありませんでした。」(433ページ下段)(傍線は原文では傍点)
(8)「瓶には《カメレオンの涙》と書いてありました。」(440ページ上段)
(9)《成長する壁調査団》(440ページ下段、442ページ下段、448ページ下段、4
49ページ下段)
(10)けれどお聞きよ/私の好きな人がおっしゃった/『善をなさんと欲して悪をなす。』(4
45ページ上段)

上の引用中、ゴシック体の太字になつてゐる引用の言葉は仔細に見ますと、文章の中にあつて
皆存在への回帰をいふ立て札、即ち世界の果てに立つ「終りし道の標べ」を示してゐます。
[ 6]作品中に立つてゐる立て札の太字についてはいふまでもありません。科白としての立て
札が太字で書かれてゐる例が一つだけあります。存在の存在の中への旅と逃走の始まりの立て
札、存在への回帰のための立て札[ 7]といふことになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

「「ここにいた!」大声がして、不意にぼくは両側から4本の屈強な腕でおさえつけられていま
した。」(392ページ上段)

[註6]
この太字の使ひ方も、安部公房は首尾一貫してをります。「『カンガルー・ノート』論(6)」(もぐら通信第7
1号)の「(19)「進入禁止」の立て札」より引用します。

「(4)《灰色のノートを逆さに使って、その余白に、最後のページから書き加えられた、自分だけのための記
録》:字体はゴシック体で書かれてゐる[註7]。(略)

[註7]
何故特別に太字で題名が書かれてゐるかと言ひますと、この章はメビウスの環の一捻り、即ち次の次元との接続
点であり、クラインの壺の接続面であつて、この最後の章は、この小説の冒頭に回帰するといふことを意味して
ゐること、これを示すために活字のフォントを変へてゐるのです。」

さうして、(4)の「『手帳』は、上記の定義にある通り、《縞魚飛魚》を此の物語の話者で
あると考へて取り除ければ、「(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者の
書いた物語についてのものであることを意味する」といふことになり、とすると、地の文の発
話者である手帳は、実は詩人であり、この革命歌は、(「ここにいた!」と大声で始まる存在
の存在の中での、更に三層目の)、存在の存在の存在の革命歌、即ち『カンガルー・ノート』
でも同じ階層である存在の存在の存在にあつて《縞魚飛魚》によつて書かれてゐる怪奇小説
『大黒屋爆破事件』と同じ階層にある革命歌であるといふことになります。となれば、S・カ
ルマ氏は、何と、《縞魚飛魚》であつた。

最後にもう一つ付け加へると、最初のところで存在への旅を始める契機となる場所は、やはり
病院の待合室からであり、そこには『魔法のチョーク』のアルゴン君の殺風景な部屋と同じく、
また『他人の顔』の《黒いノート》の待合室と同じく、この作品の場合には、存在の部屋とい
ふ空間に待合室が変ずる条件[ 8]を備へてゐることが、「ソファの前にテーブルがありま
した。テーブルの上に灰皿とスペインの絵入雑誌」(385ページ下段)があるといふ舞台設
定で、これが判ります。そして、この「スペインの絵入雑誌」である「写真雑誌」(388ペー
ジ下段)に曠野といふ(また砂漠といふ)存在の写真が掲載されてゐる。

勿論この「スペインの絵入雑誌」である「写真雑誌」は定期刊行物であつて、安部公房の主人
公が世界の果てに到達するといつも「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからともなく」
(超越論的空間)配達される「明日の新聞」[ 9]であることはいふまでもありません。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ18
[註8]
存在の部屋が存在になるための条件を備へた空間の様子について、以下に「『カンガルー・ノート』論 (6)」
の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(19)「進入禁止」の立て札」(もぐら通信第71
号)より引用します。

「(3)《黒いノート》の①から⑥のうち、④の《K高分子化学研究所》が、存在の方向を指し示す立て札です。
ここでは、同じ役割、同じ形が、「あまり目立たない標札」と呼ばれてゐる。表札ではなく標札である事に、『終
りし道の標べに』と題した処女作と同じ標(しるべ)であることの意識を示してゐます。

この立て札の後に続くのは、次の待合室の景色であつて、これが『魔法のチョーク』のアルゴン君の殺風景な部
屋と同じく、存在の部屋になり得る部屋の条件を備へてゐるのです。まづ椅子といふ、この空間の構成要素から。

「狭い待合室には、古びた木製のベンチと、脚のついた灰皿と、月おくれの雑誌が何冊か置いてあるだけだっ
た。」 [註9]

『魔法のチョーク』の冒頭の存在の部屋は次の通りでした。

「三メートル四方の小さな部屋に似合わず、ひろびろと見えるのは、壁ぎわによせて置かれた椅子が一つあるだけ、
ほかになんにもなかった」。

[註9]
これが、このまま安部公房スタジオの演技論の中核概念、ニュートラルである事は、『安部公房の初期作品に頻
出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第59号)の「VII 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、
どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説) 」及び『安部公房の奉天の窓の暗号を解読す
る∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第33号)の「7。安部公房のニュートラルという概念 」
にて詳述しましたので、これらをご覧ください。」

[註9]
「明日の新聞」といふ超越論的な日単位の定期刊行物については、『安部公房と三島由紀夫の超越論∼「明日の
新聞」と死後の子供達への誕生日プレゼント∼』(もぐら通信第48号)に詳述しましたので、お読み下さい。

象と《しろくま》の話が、結局は、存在の話になつてしまひました。まあ、これが、安部公房
の世界なのでせう。

とすれば/として、そのまま象と《しろくま》の話をS・カルマ氏の話に転ずれば、S・カルマ氏
が最後に壁になつたといふことは、S・カルマ氏が《S・カルマ氏》になつたといふことを意味
してゐます。《S・カルマ氏》は白い余白と沈黙の、何もない曠野と砂漠の中に立つて成長する
《しろくま》、即ち存在のノート・ブックであるといふことになります。かくして、《S・カル
マ氏》は、《カンガルー・ノート》(全集第29巻、82ページ)であつた。

等価交換可能な、汎神論的存在論である(これは哲学の)、topology(これは数学)の、超越
論の「明日の新聞」の世界。

まあ、これが、安部公房の世界なのです。
もぐら通信
もぐら通信                          19
ページ

ホキ德田『優しい友へのレクイエム
∼万国博覧会と東京の芸術家たち∼』

岩田英哉

月刊誌『すばる』(2018年(平成三十年)01号)に、ホキ徳田さんといふ女性歌手として活躍
した方の、さうして安部公房も書評を書いたヘンリー・ミラーといふアメリカの著名な作家[註
1]の8番目の妻になつた方の4ページに亘る同号の連載が、標題の通りに、1970年(昭和
四十五年)といふ大阪の万国博覧会と此の時代の東京に住まふ藝術家たちとの交流を描いてゐて、
安部公房の名前は出てきませんが、しかし、勅使河原宏、岡本太郎、堤清二などの名前が登場
しますので、後年の読者として当時の時代の人間模様と風景と雰囲気を知るには良いかと思ひ、
ここに安部公房に関係のあるところだけを拾つて、当時を偲ぶ縁(よすが)と致したい。

[註1]
「[全集未収録資料]:書評「強烈な現実愛が生む混沌 ヘンリー・ミラー著『ネクサス』
(1965年2月26日)」(もぐら通信第60号)を参照ください。

たつた見開き4ページを読むと、此の草月会館での著名人たちとの出会ひを巡って、当時北海道
の東の原野の縁(へり)、啄木が「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入に
き」と詠んだ辺鄙な港町にゐた小学生の私にも懐かしく思ひだされるほどに、「その頃パンア
メリカン航空とのタイアップで続いていた『兼高かおる世界の旅』の旅人・兼高かおるさんにも
ここ[註:草月会館のこと]で会った」といふ此の日本人の母を持ち、インド人の父を持つ異
国的で美しい女性の顔と、そして美しく上品な日本語、その旅行記の話を受ける聞き手の芥川隆
行の此れも丁寧で美しい、安定した控へめな男の声と其の相槌や、新奇珍奇なものをみた小さな
驚きの声と、此の掛け合いのなりゆきに、異国の景色を観ながら、耳傾ける毎日曜日の朝の三
十分の贅沢を思ひ出すのでした。

1970年(昭和四十五年)は、確かに万博の年であり、私は我が家にやつてきたアイヌ犬の子
犬に、万博にちなんで、パックといふ名前をつけた。その前の代のアイヌ犬には、ピックといふ
名前をつけたのは、これが1964年のオリンピックの年にもらはれて来たからである。と、こ
んな私事を思ひだすほどに、当時の東京は首都としての活気が大いにあつて、その勢ひはTVを
通じて全国津々浦々に及んでゐたのです。

この年は、またいふまでもなく、三島由紀夫の没した年であり、其の数年前より安部公房が表
立つて存在へと回帰する事を決心して前期20年から大きく方向転換をして後期20年の、10
代のリルケと自らの詩の世界へと再帰的な旋回をする、安部公房文学史上の節目の年でもあり
ます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

さて、その年の話です。

「今年の春と夏、昔の友達のショーを観るため、港区赤坂の青山通りに面したカナダ大使館の
並びにある、草月会館の地下のホールを訪ねた。
 五十年も前にその建物の最上階によく招かれていた事を思い出して泣きそうになった。あの頃
会った藝術家達はどうしているのだろうか?あまりにも時間が経ってしまった。
「デジャブ」という歌がアメリカで流行したことがあるけれど、まるで時間がさかのぼって、昔
よく行った所へ自分だけが時空を超えて舞い戻ったような気がした。ショーのその時、周りに
いた人達の誰も私を知らない、会ったこともない、歌手である友達の大勢のファン(ほとんど
女性)だけの中でそんな不思議な思いをしました。
一九七〇年、大阪でアジア初の「万国博覧会」があった。私はその年の初め、東京へ久し振り
の歌仕事で戻った。アメリカ人の作家、ヘンリー・ミラーと結婚して一、二年経った頃でしたっ
け。
 仕事は何とその万博のテーマ・ソングを歌うためだったのだ!」

「その万博の仕事の話を持って来て下さったのが私の父の友人だった。父とはエスペラント語で
つながっていたのか[久保さんは]父の紹介状を持って、わざわざアメリカまで訪ねていらした
のだ。」

「そしてこの久保さんに紹介されたのが草月流三代目家元で芸術家の勅使河原宏(テシ)さん。
草月流は青山通りの赤坂離宮に面した所に草月会館を所有している。草月会館上階からの光景が
忘れ難い。目の前に皇族のお住まいなどがあり、延々と続く緑の広がりは見た事のないような
荘厳なもので、さすが草月流のお家元のビルなのだなぁと実感したものでした。
 此のシリーズでも登場した堤清二さん、岡本太郎さん、黒川紀章さん、丹下健三さんなどにも
草月で開かれた何かのパーティーでヘンリー・ミラーの妻という形で紹介されましたっけ。」

もし堤清二、岡本太郎といふ安部公房と交流のあつた友人たちの、ホキ徳田を巡る動静を知り
たければ、この歌手のこれまでの連載を読むと良いといふことがわかります。

ホキ徳田は1937年(昭和十二年)の生まれですから、安部公房とは13年の違ひ、その父
親である徳田六郎は、エスペランチストであつたことが書かれてゐます。Wikipediaによれば、
徳田六郎は「エスペランティスト・NHK解説委員」であり、ホキ徳田は「徳田六郎の長女とし
て東京上野に生まれる」とあります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/ホキ徳田)

安部浅吉は1989年(明治 31年)の生まれ。とすれば、徳田六郎はもう少し若く、とはい
へ、当時のエスペラント語の流行[註2]に感化された若者の一人であつたのでせう。

「1906年 - 日本で日本エスペラント協会が発足し、二葉亭四迷がエスペラント学習書を発行す
るなどして、本格的な普及運動が始まる」とありますので、安部浅吉も徳田六郎も、この機運に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 21

乗つたものと見えます。

[註2]
Wikipediaによれば、その流行と運動の次第は次のやうなものです(https://ja.wikipedia.org/wiki/エスペラント#
言語の発展):

年表
• 1859年 - エスペラントの創案者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフがポーランドに生まれる。
• 1887年 - 最初の文法書が出版される。
• 1905年 - 第1回世界エスペラント大会がフランスのブローニュ=シュル=メールで行われ、『エスペラ
ントの基礎』が出版される。
• 1906年 - 日本で日本エスペラント協会が発足し、二葉亭四迷がエスペラント学習書を発行するなどし
て、本格的な普及運動が始まる。
• 1908年 - 当時19歳のエスペランティスト、ヘクター・ホドラーが中心となって世界エスペラント協会
(UEA)が設立される。
• 1966年 - パスポルタ・セルヴォ(エスペランティストの国際ホームステイシステム)が始まる。

そして、この日本人の海外進出の機運は、江戸幕末の開国の機運の現れの延長にある当時の時勢
から、日本のサーカス団の海外進出といふことにも同時並行的に現れてゐて、これによつて小学
生の安部公房は木下サーカス団の興行[註3]を奉天の千代田公園で観ることができたわけで
す。

[註3]
「『カンガルー・ノート』論(8):サーカス」(もぐら通信第73号)をご覧ください。

話を東京の草月会館での話に戻します。

「草月会館で開かれたパーティや、誕生月会の中で一番強烈な思い出のある会は、確か八〇年頃。
岡本太郎と、ニューヨークからいらしていた彫刻家イサム・ノグチ(元女優の李香蘭は元妻)が
いた。(略)確かではないが多分十一月生まれの人達の集まりだったのではなかったか?とに
かく著名な芸術家が集まっていた。もちろんその会の主役は勅使河原宏さんで、その頃は草月流
の家元は妹さんが継がれていたのではなかったか?映画監督をしていらした後、焼き物に夢中に
なられていた。ヘンリーに自分で焼いた大きな鉢を送って下さったりした。このテシに、私は小
学生の頃に会っていたようなのだ。日比谷公会堂に伯母とピアニストの原智恵子さんの演奏を聴
きに行っていた頃で、那須家の指定席があり、大人たちの中で一人ポツネンと坐っていた私が
そーっと演奏中に後部の扉を開けて外でオセンベイを食べようとしていたのを手伝って重いドア
を開けて下さった芸大のお兄さんだったことが、彼との話の中で分かったのだ!私に吉行淳之
介さんを紹介して下さった頃から、私が時々東京に帰って来ると草月会館のパーティに誘って下
さった。音楽家の武満徹さん、岩城宏之さん、石井好子さんなど多くの著名人に会ったのも草
もぐら通信
もぐら通信                          22
ページ

月会館でだった。」

歴史の不思議といひませうか、ホキ徳田の母の実家は、平家物語の中の、海中に馬を乗り入れて、
船中にあつて平家方の掲げる扇子を見事に射抜いて見せた那須与一といふ逸話で有名な此のお
さむらひの家系であつて、この女性が46歳年上の当時75歳のヘンリー・ミラーといふアメリ
カ人と結婚するとは、那須与一も知らぬことでありましたらう。まあ、ヘンリー・ミラーの心
臓を射抜いたといふところが同じといふことかも知れませんが。三百通の恋文をもらつたと書
いてあります。

さて、ホキ徳田が勅使河原宏と遊び、飲みに行つたバーがありました。この店は「昔アルバイト
で弾き語りをしていた新橋の高級会員制でもなく、新橋のハチャメチャな文士の溜り場でもなく、
銀座のハクい女性の沢山いる所でもなく、新橋に近い所にある「トニーズ・バー」という店だっ
た。(略)

 そんな私は新橋の「トニーズ・バー」にはトニーが亡くなる時まで、テシの仲間や他のアーティ
ストの年上のオジサマ達と遊びに行き、ピムスカップNO.1を飲み続けておりましたっけ。」(原
文棒線は傍点)

安部公房もまた勅使河原宏に連れられて「トニーズ・バー」に行つたものかどうか。また、安部
公房は勅使河原宏をテシなどと呼んだものかどうか。いづれにせよ、安部公房が飲んだにせよ、
飲まなかつたにせよ、ピムスカップNO.1といふ名前のカクテルの写真を最後に掲げます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 23

安部公房とチョムスキー

岩田英哉

目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
4。チョムスキーとバロックの言語学:変形生成文法とポール・ロワイヤル文法
5。チョムスキーと安部公房
6。座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))
を読む
***

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
この問ひに対する私の、言語の観点からの結論は、ヨーロッパ近世・近代文明の最大の問題であ
り課題は、言語の再帰性を如何に考へ(肯定か否定かの二つしかない)、これを現実的に如何に
実現するか?といふことであつた。現実的にとは、言語の問題としてのみならず、政治的に経済的
に其の仕組みの問題としてもといふことです。即ち民主主義と資本主義が根本に抱へ込んでゐる致
命的な問題のことです。[これについては別途『言語貨幣論』『言語経済形態論』『言語政治形態
論』として稿を改めて、この致命的な制度設計欠陥を直したそれぞれのモデル(模型)を提示しま
す。]

言語の再帰性を絶対的に否定したのがキリスト教(と他の二つの、同じ唯一絶対神を奉ずるユダ
ヤ教とイスラム教)です。さうして、これに対して、言語の再帰性を絶対的に肯定したのが大地母
神崇拝です。安部公房は後者、即ち哲学的には超越論、即ち汎神論的存在論です。これは、「カン
ガルーノート論(2):6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」
(もぐら通信第67号)で詳述した通りです。

さうして、ヨーロッパの哲学の歴史は、中世のスコラ哲学といふ神学の一部としてあつた哲学の時
代(ルネサンス以前の時代)から、この宗教の信仰する唯一絶対全知全能神の存在証明を言語に
拠つて論理的に証明しようといふ歴史でした。

しかし、言語の本質が再帰性にあるのである以上、これを肯定する以外にはなく、これを肯定す
れば言語論理としては多神的・汎神的に、即ち哲学的には汎神論的存在論になり、従ひキリスト教
の否定になるか、または其の唯一神を、地球上の各地域各民族の神々の一柱であると相対化する
ことになる(例へばショーペンハウアー)。……(A)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

対して、今度は言語の再帰性を否定しようとすると、言語の本来性を否定するのですから、キリ
スト教といふ宗教または一神教といふ宗教に戻ることになつて、幾ら言語論理で理屈を立てよう
が結局キリスト教といふ宗教に極似した絶対命令の、つまり論理上の矛盾の正視に耐えられない
といふ理由から、即ち結局唯一絶対神の肯定といふキリスト教の教義(ドグマ)に抵触すること
に信仰上の心理的な恐怖心が論者にあることが理由で(しかし此れが生活であり生きるといふこ
となのですが、にも拘はらず)、この問題を回避するか又は折衷するかといふことになつて、こ
の意味では本来の哲学とは言へない(政治的な)擬似哲学又は擬似宗教になつてしまふ。……
(B)

しかし、カント以降、ヘーゲルに始まる近代哲学の系譜は(B)であり、ショーペンハウアーに始
まる系譜は(A)であるのです。

当然のことながら、ヨーロッパで優勢であつた当時のヘーゲルの後を継いで、ヨーロッパ産の哲
学史は(B)でありますから、ヘーゲルと全く同じ時代を生き、同じベルリン大学の講壇にも立
つたヘーゲルの徹底的な否定者ショーペンハウアーに始まる(A)の系譜については、それ故に、
日本の西洋哲学史や西洋哲学者と其の哲学の解説本には、大体の場合ショーペンハウアーの名前
はなく、あつても歴史的思想史的な脈絡は不明になつてをり、つまりは(A)の系譜と(B)の系
譜がごちやごちやになつてゐて、ヨーロッパの哲学とは何か、ヨーロッパの哲学者各人が歴史上
又論理上一体どのやうな位置にゐるのか其の全体が不明のままで来たのが、明治以来の此の私た
ち日本人の近代の此の150年であつたのです。

勿論、ショーペンハウアーといふバロック哲学者を、ヨーロッパの哲学界は軽視してをり(晩年
に此の哲学者の思想が流行したとはいふものの)、自分たちの文明にとつて致命的な問題を指摘
してゐる極めて重要な哲学者だと考へてはをりませんので(何故ならば言語の再帰性を絶対的に
否定するのがヨーロッパのキリスト教の歴史ですから)ーその癖、ショーペンハウアーを読み抜
いて理解した上で打ち立てたヴィトゲンシュタインの哲学を難解だと嘆く愚かさよー、当然哲学
を輸入して来た日本人もまた21世紀の今日に至るまで、個々の哲学者がどうであるとか其の個
別的な学説の詳細はかうであるといふ議論と此れに関係する知識の習得は別にしても、上記のこ
とは、結局よくわからないままできたのです。これが「近代の超克」をする私たちの問題でした。

それを、安部公房を此の近世・近代西洋哲学史の中に置いてみて、その位置を明らかにすること
によつて、逆に西洋の近世・近代西洋哲学思想史を明らかにしようといふのが、この論考の試み
です。安部公房の哲学とは、勿論、新象徴主義哲学[註1]のことです。そして同時にまた、これ
によつて逆に20世紀、21世紀での安部公房の世界文学と世界哲学に於ける位置と其の意義を
明確にする試みです。これが、安部公房文学と「21世紀の安部公房論」が文明論的な階層(レ
ヴェル)に持つ核心的な役割です。

[註1]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づければ
新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴
の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 25

それから、現代のいはいる(原文のママ)実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。一口に言ってあの下劣なコッケイさ
が実存主ギなら僕は反実存主ギだと言はれてもかまは無い。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそ
れ以上の相違が在ると思ふ。あれは單なる流行主ギだ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ
上段)

安部公房独自の此の哲学は、『詩と詩人(意識と無意識)』に詳しい。(全集第1巻、104ページ)

安部公房文学の世界文学上の諸作家と文藝思潮との関係は『安部公房文学世界地図』(もぐら
通信第60号)と題して示しましたが、再掲しますので、これをご覧ください。ダウンロードは:
https://ja.scribd.com/document/349163377/安部公房文学世界地図-v2
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

さて、ここでは、コロンブスのアメリカ大陸の発見( 誰がコロンブスを発見したか? )からの


500年を近世と呼び、そのうち国民国家(Nation State)がヨーロッパの主要な国で成立した
フランス革命以後の18世紀からの20世紀までの200年を近代と呼ぶことにします。

2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
まづ最初に『西洋近世哲学史の中の安部公房の位置』と題した図を掲げますので、ご覧ください
ダウンロードは:
https://ja.scribd.com/document/368975265/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置

図をご覧になると、明治以来私たち日本人を苦しめて来た、と言つて良いでありませう、ヨーロッ
パ近代文明の核心にある哲学、宗教、言語学、時代と世紀の関係がよく解る筈です。この図表の
世紀の中に時系列で、啓蒙主義(18世紀)や帝国主義(19世紀)といはれる時代と世紀、そ
れに二度の大きな戦争、一言で安部公房の云ふ植民地主義があるのです。まづ言語の観点から大
略を摑(つか)まへて下さい。安部公房とチョムスキーに焦点を絞りましたので、その他の重要
な名前、例へばソシュールやヴィトゲンシュタインその他の名前は表立つては書いてはをりませ
ん。

簡単にこの図の分岐にあたる節々について説明をします。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

カントからヘーゲルとショーペンハウアーに分岐するに当たっての重要な鍵語(キーワード)は、
物自体(das Ding an sich:ディング・アン・ジッヒ)といふカントの用語であり概念です。

ヘーゲルは、フィヒテの論を受けて此れを外部にではなく自己の内部にのみ適用し、ショーペン
ハウアーは、これを其のまま受け継いで意志(der Wille:デア・ヴィレ)と呼びました。自己の
外部に物自体を置かぬヘーゲルから共産主義が生まれ、物自体は「既にして」もともと最初から
自己の内部にあり、さうして物自体である意志は外部と内部の両方に(卑俗に言へば)一気通貫
してあると考へたショーペンハウアーから超越論即ち汎神論的存在論が生まれました。

もう少し詳しく繰り返しますと、

物自体(das Ding an sich:ディング・アン・ジッヒ)を、自己との関係で、それが現象の世界


の外部にあることを全く否定したのがフィヒテであり、そのフィヒテの此の論理を採用して、自
己の哲学を打ち立てたのがヘーゲルです[註2]。ヘーゲルは、人間個人の持つ再帰性を他者に及
ぼすのではなく、自己の内部に及ぼすことで、キリスト教の教義の根底にある言語の持つ再帰性
の絶対的否定に抵触しない論理を展開することができました[ 3]。このフィヒテの論理はヘー
ゲル哲学の要の論理であつた。それが何故自分夫婦の墓を死後フィヒテ夫妻の墓の隣にまでして
永眠したかつたかといふヘーゲルの思ひであつたのです。これがヘーゲルの『大論理学』(『Die
Wissenschaft der Logik』:直訳は『論理学の科学』『論理学といふ学問』)です。

[ 2]
ヘーゲルの『大論理学』を読みますと、ヘーゲルの論の立て方は、古代ギリシャのプラトンの書いた『パルメニデ
ス』中の基本的な三つの単位化された比較論理の使用と応用を、そのまま引き継いで展開してゐます。即ち、やはり
ヘーゲルは中世のスコア哲学が立てた此の論理の論じ方を基本として、体系的な叙述であるようにして書かれてゐる
のです。18世紀、19世紀までにも中世のスコラ哲学は生きてゐた。

私が当時1970年代後半の東ドイツに住んで直観した、マルクス主義の運動はヨーロッパのルネサンス以前に戻る
ことだといふ直観は正しかつたといふことが云へます。即ち、マルクス主義といふ擬似一神教、擬似キリスト教の元
での時間の停止です。このことの詳細は「カンガルーノート論(2):6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の
視点からみた安部公房文学∼」(もぐら通信第67号)で論じましたので、これをご覧ください。

ヘーゲルの『大論理学』を読みますと、異なる言葉同士の関係に常に再帰的な関係を考へて此の
用語同士の関係の論理に基づく論理を展開しますが、この両極端の、正反対の単語単位の相互否
定的な関係が、そのままヘーゲルの哲学の体系の構造を生み、また体系の一部でもある弁証法の
基礎になつてゐます。今ここではこれについては詳述しませんが、ヘーゲルにとつてもまた、言
語の持つ固有の性質である再帰性といふことは、自己の哲学を考へるためには必須のことであつ
たのです。再帰性については、上記のやうに物自体に関する考へ方が異なりますが、しかしやは
りショーペンハウアーにとつても同じであり、その哲学は、意志の再帰性、いつて見れば外部に
ある物自体の再帰性と人間の主観の相互関係・相互交流についての動態的な生命力の横溢する思
考と論理の体系となつてをります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 28

[註3]
この私の理解は次に引用する『大論理学』(Kindle版)のドイツ語原著の序文を書いてゐるドイツ人の理解に一致し
てゐます。

【原文】
Mit Kant bestimmt er die Aussenwelt als solche, die Welt der Raumdinge als phänomenal, als Erscheinung
eines Dinges an sich. Zugleich aber hält er, im Gegensatz zu Kant, eine Metaphysik für möglich, die - auf
Grund der innern Erfahrung - das Wesen des Ding an sich selbst zu bestimmen vermag.

【拙訳】
カントを使つて、彼(訳者註:ヘーゲル)は外界を次のやうなものと規定した、即ち外界とは現象的である空間諸物
の世界であり、物自体の現れである。同時にしかしヘーゲルは、カントとは正反対に、内的経験を根拠にして、物自
体の本質を規定することのできる形而上学が可能だと考へた。

この論理の危険性は、その論者が自己中心的な独善的な人間になるといふ危険性です。

これに対して、カントの物自体を批判的に、しかしそのまま正当に受け容れて此れを意志と呼び、生命に溢れる哲学
を打ち立てたのがショーペンハウアーです。これがカントの後の超越論の系譜です。ほら、この文章を読んでゐるあ
たな、既にして身内に意志を覚えてゐるだらう?理屈抜きに、因果関係を離れて。さうして其のままで世界が目の前
にあるだらう?といふわけです。

この章の最後に、『西洋近世哲学史の中の安部公房の位置』に対応する『バロック的・再帰的・
超越論的人間及び共産主義的人間の生涯年一覧』を掲げます。この後必要な都度参照することに
します。ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/368981308/ハ-ロック的-再帰的人間
の人生一覧-v2
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 29

書評三題

岩田英哉

(1)今泉早織:〈研究論文〉「自覚」と「不快」 : 埴谷雄高の創作における西田幾多郎の影

(2)西法太郎:死の貌(かお)
(3)西村幸祐:報道しない自由

***

(1)今泉早織:〈研究論文〉「自覚」と「不快」 : 埴谷雄高の創作における西田幾多郎の影

埴谷雄高の言葉と論理の持つ再帰性を正面から、つまり哲学的な問ひに逃げることなく回答す
るといふ姿勢があることに驚きを覚えたので、この論文[註1]を批評の対象として取り上げた
次第です。

[註1]
雑誌名求真
巻21
ページ15-30
発行年2016-03
http://hdl.handle.net/2241/00143073

それも西田哲学といふ、これも言葉と論理の持つ再帰性に基づく日本人の自前の(といふ意味
は、単なる輸入や紹介ではなく)哲学作品を読んで、二人それぞれの文学者と哲学者を比較して、
再帰性といふ言葉を共通の概念として立てて、さうして確かに言はれて見れば其の通りであつて、
この用語の一般的な概念を媒介にして二人を接続して全体の論をなすといふ論理展開を持つ手堅
い、安心して読むことのできる論文でありました。それ故に他にも此の論者の論考を探して讀む
といふのは、私には近時にないことでした。もう一つの論文は『埴谷雄高の文学における政治
批判 : 「自同律の不快」を手がかりに』[註2]と題されたもので、この二つを見ますと、論者
は埴谷雄高の研究者だと思はれます。この二つの論文は、実際の発表年月日はまた異なるのかも
知れませんが、ともに2016年3月に発行されてをります。

[註2]
雑誌名倫理学
号32
もぐら通信
もぐら通信                          30
ページ

ページ61-74
発行年2016-03-20
http://hdl.handle.net/2241/00143849

以下が目次です。これをご覧になつて、内容を推し量られたい。

(1)序
(2)一、「自覚」と「不快」の動静
(3)二、同一性と差異性
(4)三、「言葉」以前への回帰と「難解さ」
(5)結

讀むに値する論考ですので、上の[註]に引用したURLアドレスにいらしては如何でせうか。

論文を読みますと、埴谷雄高もやはり(安部公房と同様に)存在の作家と呼んで良いことがわ
かります。そして、以下に引用するやうに、『死霊』もまた安部公房の文章と同じ3回呪文をく
りかへして唱へて存在を招来してゐる。特に病後の後の執筆再開後の文体に此れが特徴的である
といふ。(傍線は筆者)

「おお、亡者共よ、それが何んであれ、「正」の「砂宇宙」のなかの一粒の砂と砂と砂の重なっ
た乾いた一塊りの灰褐色の砂世界であれ、「負」の遠い「真空宇宙」のなかの果てもない静か
な静かな無音、が一長く長く低く低く木霊する余韻をひきつづけている不思議な矛盾に充ちた
空虚世界であれ、俺があとで説明する「非」の宇宙のなかの生と死の亡者などにまったく無縁
な無生無亡者の世界にほかならぬ超精霊世界であれ、もしお前達か、いいかな、全身全霊精魂
こめて凝視に凝視を重ねてさらにさらになお凝視しつづけているならば、そのお前達の眼前にあ
るそのものの薄暗い深い底辺の底辺の底辺、全暗黒の奥所の奥所の奥一防に、ぷふい! 「名状
しがたいもの」こそがぼんやりとした見えるとも見えぬともなく漠とした怖るべきとも不思議
ともいえる或るかたちもないかたちの輪郭をもって必ず浮き上ってくる筈なのだ。」
(『埴谷雄高全集』(講談社、全集一二『死霊最後の審判』、七四四頁。)

「薄暗い深い底辺の底辺の底辺、全暗黒の奥所の奥所の奥所に、ぷふい! 「名状しがたいも
の」こそがぼんやりとした見えるとも見えぬともなく」(傍線筆者)などといふ箇所を読みま
すと、本当に安部公房に通つてゐる。

また、埴谷雄高がドイツ語から持つて来たと思はれる「ぷふい!」といふ呪文もまた、発せら
れる場所は、存在といふ言葉を使ふならば、存在の存在の存在の奥にであつて(本当に安部公
房の作品のやうである。例へば『カンガルー・ノート』)、さうして「名状しがたいもの」こそ
がぼんやりと見え又見えぬかといふ境域であり境界であり、見えることと見えぬことの隙間で
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

発せられるといふことまたよく判ります。

「ぼんやりとした見えるとも見えぬともなく」とは、安部公房ならば『赤い繭』の、昼と夜の
間の隙間の時間の夕間暮れといふことでありませう。三輪与志もまた、このたそがれ時に(安
部公房の)topologicalな細い道を時間無くゆつくりと歩みながら各戸の窓を叩き、拒絶されて
はまた叩くといふ生活者なのでありませう。

安部公房文学に極めて特徴的な(リルケに学んだ)「沈黙と余白の論理」と同じ論理を埴谷雄
高は共有していたことのわかる叙述が論文中にありますので、少し長いのですが、引用して、読
者が埴谷雄高と安部公房の二人の共有してゐる領域のより深い理解のために、西田哲学に関する
文章を媒介にして、供します。(傍線は筆者)

「小林敏明は「分節や差異を拒絶する実在」という言葉を絶したものの記述こそが西田の求め
たものであり、ジレンマであったと述べている。しかし、一方でこうした「無限なるもの」は
分節化においてのみ触れることができる、と上田閑昭は指摘している。

「(無限なるもの)が有るというのではありません。分節においてのみ(従って分節は重大で
す)、見えない仕方で、現れてくるのです。そのような仕方で分節され尽さないものは、分節さ
れた面で言えば所謂「行間」がその象徴になるでしょう。それも、「行間」が空白であるだけ
にどこまで深いかわからないという意味においてです。

 実はそれと似た発想を後年の埴谷も持っているのである。中村雄二郎、松岡正剛との対談で、
埴谷は言葉と言葉のあいだにある空間を伝えたいのだと語る。中村が「語り」はたえず「現実」
から離れてゆくのではないかと述べたのに対し、埴谷は一一字と一字のあいだにある「断絶の空
間」があり、それをあらわしたいのだと答える。そしてその「一種の渇望空間」をつくろうとし
ているのが『死霊』だという。

言葉と言葉とのあいだにあるものを捉えようとするがために、逆説的に言葉を使って書かなけれ
ばならない。西田と埴谷の双方の「書く」という「行為の中にはそういった矛盾が既に含まれて
いたといえる。両者の文体の独自さはそうした矛盾と格闘した痕跡であろう。」

西田幾多郎の『善の研究』を、安部公房も成城高校時代に読んだといふ発言が全集のどこかに
ありましたが、「沈黙と余白の論理」によつて、容易に見つかりません。
もぐら通信
もぐら通信                          32
ページ

(2)西法太郎:死の貌(かお)

https://goo.gl/XhwPHM

どの章も情報満載充実の、これは、富岡氏の帯文では一石を投じた
とありますが、一石どころか二石も三石も投じた作品、波紋ならぬ
衝撃の一作です。

恐らく、著者には各方面、各研究者、各読者から問い合はせが引き
も切らぬことになるでせう。

勿論、資料を以つて其の事件、其の成り行きについて、また其の存
在について、証明できない論理的、またやむを得ぬ推論的な、事実
については、異論も来れば反論もあるでせう。しかし、きちんと(こ

んなことをいふのは略歴を拝見すれば三島由紀夫の後輩である東京大学の法学士には釈迦に説法
ですが)資料の引用典拠も明らかですから、日本人自身も、また海外の読者も共に、議論を深め、
三島由紀夫といふ人間と生きた時代と、更に其の時代を超えた思想と人生を、さうしてそれ故の
苦しみと悲しみと歓びもまた、論ずるためには必読の書となりませう。

各章を飾る、それも薄い墨色で写された三島由紀夫のブロンズの裸像は、著者自らの撮影になる
ものであれば、尚一層この著作の価値を、拝見すると、高めてゐます。この薄墨の写真に対して、
表紙のカヴァーの原色の写真の裸体像の表裏は、これも人目を惹かずにはをきません。色は黒地
を背景にしてゐるので、また光の当て具合にもよるのか金色に見えますが、もしさうであれば、
否、さうでなくとも、また現実がさうでなければ一層尚、自らをエッセイの中でミダス王に喩へ、
手に触れたものを皆瞬時にして黄金に変じせしめた三島由紀夫にふさはしいあしらひだと思ひま
した。

著者による簡潔な序文を読めば、この著者もまた多感な少年であつて、自分自身の死を含めて、
三島由紀夫の死に強く強く惹かれた子供であつたこと、今もあること、これからもあることを読
者に伝へてゐます。この心事が、三島由紀夫文学の世界の読者に伝はらぬわけがありません。情
を抑へ、理に徹して事実を徹底的に調査した挙句の散文でありますから、実証性がありますので、
未来の読者のための必読の書になると確信してゐます。

かうしてみれば、題辞とした、死の貌といふ文字の選択と結合、これに訓じて後者の漢字を「か
たち」と読ませたひらかなの意味は、『字統』を開いて知る漢字の文字の字義に照らして其の通
りの意味となり、三島由紀夫といふ言葉の様式に徹して此れに命を捧げた藝術家の、即ち副題通
りの「三島由紀夫の真実」を、上述の新発見の資料と事実をもとにして、かへつて見事に明らか
にしてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

著者が今回の作品からとりよけざるを得なかったといふ神風連、保田与重郎、蓮田善明につい
ても、この著作によつて間違ひなく、著者は読者を獲得したことでありませうから、次作、次々
作に刊行を期待して、発表を待つことに致します。

これら三つの論考があれば、今回の作品ではあちこちに作者の興味と関心の顔を覗かせてゐる
歴史と時代と政治の事が表に出て語られることになり、私たち日本人の近代史を、三島由紀夫
の文学の世界から俯瞰することができることでせう。

一層の、これからの著者のご精進とご活躍を祈ります。

***

(3)西村幸祐:報道しない自由

https://goo.gl/3e5B5h

報道しない自由などといふ自由はない。それは好き勝手といふのである。

自由といふ概念はnegative definition(消極的定義、否定的定義)でのみ定義可能な概念であつ
て、それは平和の定義が、戦争のない状態といふがごとく、幸福の定義が、不幸ではない事と
いふに同じである。

自由とは、不自由ではない事である。

不自由の例は、日常生活してゐれば、私たちは無数に挙げられる事であらう。そのやうな数々の
不自由のないことが、自由であるといふ事なのです。それでは、日本のマスメディアは一体何が
不自由だといふのであらうか。マスメディアにそれを挙げてもらひたい。マスメディアがこれを
やらないので、彼奴らに代はつてこの事を論じて、社会的政治的現象とその本質を検証してゐる
のが、この本です。

商売の世界に国内法の網の目を掻い潜って、労働派遣で偽装派遣が
連続的に摘発されたことがありましたが、商売でも嘘がまかり通り、
最近でも名のあるメーカの品質管理に嘘が平気で横行してゐるほどに、
日本人が道徳と公共心を失つたのは、日本がGHQの偽装憲法の元に
偽装国家であり続けて来たからです。

ことを国際レヴェルに引き上げると、国際法の網の目を日本国と
日本人自らが掻い潜ってきたからです。それが戦後70有余年。一つの
時代が始まり終わるに十分な時間の長さです。ソ連の共産党は70年で
もぐら通信
もぐら通信                          ページ34

瓦解、中国共産党も70年で今や然りとなり、滅びつつあり、また欧州では、これまで本心を
抑圧されて来た無名の民の反グローバリズムが選挙結果として表に噴出してやまない。しかし、
対岸の火事とはいへないのは、同じ周期的な論理に基づいて、わが偽装国家日本もまた、同様の
運命にあるといふ事です。

こんな自由ならざる不自由を以つて、この自覚もなく、20世紀型のオールド・メディアの悪が
猖獗を極めてゐる戦後の日本といふ偽装国家に寄生する既存の利権メディアとしてあるマスメディ
アが、この本ではフェイク・メディア(例へば同書55ページ)と呼ばれてゐる。

日本語でいふと、記事捏造メディア、事実歪曲メディアといふ方がわかりやすい。国家が偽装国
家であり、この70有余年の戦後体制を擁護するための御用メディアであるから、偽装メディア
と呼んでも良いのです。

となると、一体偽装メディアは誰の御用メディアであるのか、偽装国家を擁護するメディアとは
一体何なのかといふことを詳細に近時の具体例を以つてわかりやすく整理して論じてゐるのが、
再度この本です。

日光東照宮に飾ってある左甚五郎の猿は、見ざる、言はざる、聞かざるの三猿ですが、この古
典的伝統的な三匹の猿に対して、偽装メディアは国民に、見せず、言はせず、聞かせずといふ三
猿を好き勝手に強いてゐる訳です。これを偽装メディア三猿主義と呼ばう。真実を知りたい民に
は不自由を、自分の偽装を隠蔽したい我らには自由を!といふのが、捏造報道に隠された本音
のスローガンです。これは表立っては口にできないので、徒党を組んで、日本国民の意識をプロ
パガンダの量で支配しようと図る。

この偽装メディアの偽装三猿主義を、著者は、近時の事例事件を元に、曰く森友学園、Jアラー
ト、北朝鮮戦時情報、加計学園、小池百合子都知事、朝ドラとTVワイドショー番組、朝日サン
ゴ事件、TV朝日の椿取締役発言、電波オークション、天皇陛下のご譲位、NHKによる皇室用語
の言葉狩り、管直人政権の尖閣ビデオの隠蔽、偽装メディアによつて報道されない国際的な事例
4題、ポリティカル・コレクトネス、見えないが在る東京の壁、終戦の詔勅とGHQ等々、これ
らの事実認識と原因分析をした後で、最終章で、東京の壁の背後にゐるものの名前として、アメ
リカのWar Guilty Information Programといふ共産主義的な自主検閲の仕組みを隠微に(日本
人の意識に)仕組んだ GHQ(アメリカ)と、それからその体制を維持するために工作してゐる
中国共産党の名前を主要なものとして挙げてゐる。

最近私はNHKの契約を解約したが、その後も執拗に繰り返し地域担当の係がTVを購入したかど
うかの確認にやつてくるので、ついに堪忍袋の尾が切れて、NHKとは日本反日協会だとネット
で言われてゐること、渋谷の本局の中に中国共産党の中央電視台といふ宣伝工作機関が日本支局
を開設してゐることを大声で言つて、知ってゐるかと問ひ、したがひTVの所有の有無に拘らず
支払ふ意思のないことを伝へたが、いやそれは知らなかつた、上のものに伝へますだとさ。上
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

のものとは、中国共産党に相違あるまい。

書評を書いてゐるうちに段々と腹が立って来たが、その腹立ちの根拠を理性を以つて冷静に書い
てゐるのが、このジャーナリストの知性です。

副題に「なぜ、メディアは平気で嘘をつくのか」とある問ひに答へた著者であるといつてもよい。
私には日本語の能力が、偽装メディアにあつては驚くべきほどに劣化してゐるからとしかいひや
うがない。著者が選んで分析した作中の事例をお読みください。

今日プールに行って、そばの老年のご婦人方三人のおしゃべりを聞くともなく聞いてゐると、北
朝鮮の船が何隻も漂着して身の安全に不安を覚えるといふ会話であり、マスメディアはただ右か
ら左へと何かを垂れ流してゐるのではダメよねえと話してゐるのでした。

先だっての衆議院選挙の18歳の若者たちの自民党への投票率に鑑みると、老若男女、いよいよ
国民は偽装メディアを必要としてゐないのである。著作中にある電波オークション(101ペー
ジ)の早急なる国会審議と法律の制定と実施が願はれる。

かういふ報道機会の多様性と聴取視聴機会の多様性をdiversity(多様性)といふのではないか
ね、political correctnessといふ偽善の大好きな偽装メディアの諸君。

誰はともあれ、諸君に是非一読をお薦めしたいのが、この一冊です。

読後、諸君の務めとは何か?に俄然目覚める筈です。良薬は口に苦し。諸君の栄誉ある仕事は勿
論、東京の壁を破壊し、偽装国家日本を破壊する事です。自らの命を懸けるならば、諸君の本望
でありませう。
もぐら通信
もぐら通信                          36
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(18)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XVIII

HÖRST du das Neue, Herr,



dröhnen und beben?

Kommen Verkündiger,

die es erheben.

Zwar ist kein Hören heil



in dem Durchtobtsein,

doch der Maschinenteil

will jetzt gelobt sein.

Sieh, die Maschine:



wie sie sich wälzt und rächt

und uns entstellt und schwächt.

Hat sie aus uns auch Kraft,



sie, ohne Leidenschaft,

treibe und diene.

【散文訳】

主よ、聞こえますか、新奇のものが
鳴り響き、振動している音が。
それを高く掲げる告知者たちがやって来ます。

荒れ狂い、暴れま廻られた状態に置かれる中では、いくら聞いても、
完全ではなく、無傷ではなく、健全ではないのだが、
しかし、機械の部分は、今や、褒められたいと思っているのだ。

ごらんなさい、機械を。
どのように機械が雪崩を打って進み、そして復讐して、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

そして、わたしたちを不具にして、そして衰弱させるかを。

機械が、わたしたちの中からも力を奪うならば、
機械という奴は、情熱もないくせに、駆り立て、奉仕する(役に立つ)のだろう。

【解釈と鑑賞】

機械文明への批判のソネットだ。

なによりも、騒音を問題としている。リルケの主人公、オルフェウスは、聴覚の世界の住人だか
らだ。また、その声と演奏を聴くものたちも。

このソネットは、現代でも、そのまま生きている。

リルケは、詩を書いていて、このとき、その場所で、騒音を聞いていた筈はないと思う。静かな
小さな村にいたのではないか。パリにいたときの、過去の思い出から引用したのだろうか。

一人でいても、世界のことを考えていたということなのでしょう。

【安部公房の読者のためのコメント】

この詩を読んで、短編小説『詩人の生涯』(1951年)と長編小説『第四間氷期』(1958
年)を思ひ出しました。

騒音と静寂の対比といふことであれば、安部公房は、バロック音楽の好きであつたことを思ひ
出します。それから甲高い救急車のサイレンの音(逆に静寂が染み渡る)、ピンク・フロイドの
曲で船体に波が寄せて立てる音……。『カンガルー・ノート』の第2章「緑面の詩人」より:

「 波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか?
櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁をたたく水の音。まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だ
しとそっくりじゃないか。」(全集第29巻、104ページ上段)

「 こんどは下り階段だし、荷物も少なく、動作も自由なので、はるかに楽だ。二つ目の鉄扉で、
優雅なバロック音楽が消え、闇につつまれた。三つ目の鉄扉で、またも下水の臭気がまつわり
ついてきた。
 船縁を叩く、溜め息まじりの水の音、ピンク・フロイドの最新作の導入部。舳先に雌烏賊の
もぐら通信
もぐら通信                          ページ38

臓物を掲げた追っ手の船も、もう待っていてはくれなかった。ベッドに這い上がり、眼をとじる。

 乾いたチノパンの感触が素晴らしい。」(全集第29巻、115ページ上下段)
もぐら通信                         

もぐら通信 39
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ40
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 41
ページ

(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げ
の少年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語と言霊の関係
(68)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(69)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(70)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(71)安部公房の超越論と神道(1):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(72)安部公房の超越論と神道(2):topologyと産霊(むすひ)または結び
(73)安部公房の超越論と神道(3):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(74)安部公房の超越論と神道(4):呪文と祓ひ・鎮魂
(75)安部公房の超越論と神道(5):存在(ザイン)と御成り(をなり)
(76)安部公房の超越論と神道(6):案内人と審神者(さには)
(77)安部公房の超越論と神道(7):汎神論的存在論と分け御霊(わけみたま)
(78)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(79)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(80)安部公房とチョムスキー
もぐら通信                         
編集後記
もぐら通信 ページ 42
● 『カンガルー・ノート』論(8):(20)サーカス(その2):安部公房は本当に記号を
駆使して書いた。これはやはり数学者だからでせうねえ。こんな作家は日本にはこれまでゐませ
んでした。むしろ古代の記紀万葉の世界にはゐたといふべきでせうね。さういふ意味でも、安部
公房は古代的な精神の、その超越論即ち汎神論的存在論をおもひあはせて、その持ち主だとおも
はれます。これはもう少しあとの呪文のところでお伝へしたい。シャーマン安部公房なり。
●ホキ德田『優しい友へのレクイエム∼万国博覧会と東京の芸術家たち∼』:この女性の名前は
私が子供の頃よく目にしたものですが、またここでお目にかかるとは。しかし当時の東京は実に
活気がありましたね。さうして集まつてゐる人間たちがまた凄かつた。まあ懐古ばかりでは仕様
がありません。新しきものを創造致しませう。勿論これは伝統と歴史を受け継いで凡人たる私た
ちは行ふのです。安部公房の真似をして猿真似に堕すると人生を過つ。伝統と伝統といふ観念を二
つに分けて、細心に後者を自分の作品から取り除けるなどといふ曲藝は、安部公房級の藝術家に
しかできませぬ。まあ、とはいつても、安部公房はシャーマンなり。
●安部公房とチョムスキー(1):これで明治維新来やつと俗にいふ「近代の超克」ができるか
といふところまで参りました。言語の根本を押さえると個別言語が何語でも本質は同んなじだな
あ。覚悟して志したのが東京に出てきた18、19の頃ですから結構年季が入つてゐて、まあ、毎
日人に知られず苦節ウン10年(とは当人は少しもおもつてゐないけれど。これが若さ)。図表に
まとめるのに今回初めて読んで、カント、ヘーゲル、シェリング、フィヒテのドイツ語が楽々と読
めるのにはあたしやあ驚きやしたね。歳は取るものぢや。これでやつと安部公房の成城高校時代の
親しき哲学の友中埜肇の水準に近づいたかな。それにしてもチョムスキーは過激だ。アメリカの
政治がそれほどひどいのだらうな。日本の政治もおんなじだ。日本のチョムスキーよ出でよ。そし
て、二十一世紀の前衛(アヴァンギャルド)の一等星となれ。我は老眼星とならむ。
●書評三題:このひと月にアマゾンに書いた書評を転載しました。プロの作家への書評は世評よ
かりき。また、今泉早織さんは掘り出し物でした。まあ、私がかういふ世界に疎いのかも知れま
せんので、名のある方かも知れませんが。論考中引用されてゐる他の論者の引用を読みますと、
埴谷雄高の読者はまた安部公房の読者とは少し毛色が異なるやうです。埴谷雄高の読者の中にも
安部公房論の書き手を探してみんと思ふ我なりき。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(18):騒音と静寂。安部公房の音はどれも
後者を際立たせるためにある。といふことは、サイレンの高音に対するに、安部公房の世界はや
はり低音であつて、とすれば、やはり根の国、地下の世界のもぐらの世界といふ事になりませう
や。
●では、また、次号にて。

差出人:
次号の原稿締切はありません。いつでも
贋安部公房
ご寄稿をお待ちしています。
〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。詩的な、余りに詩的な:安部公房が芥川龍之介と共有する小説観
限」
2。私の本棚:。建築家磯崎新の『第四間氷期』論
4。言葉の眼:スイスのトンネル開通式典の異様:大地母神の復活
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(19)
6。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          43
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第72号訂正箇所】
 なし
安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正  
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
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