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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2018年12月1日 第75号 第三版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の : 作品のえがきだす軌跡にのみ、自己のすべてをかけている石川さんは、むしろもっぱ
あな
ない
迷路 あ ら生活のまっ殺に心をくだいているように見受けられる。その妥協のない一貫性が、
ただ を通
けの って
番地 あるいは奇人の誤解をまねく原因になっているのかもしれない。
に届
きま

『師と私と——石川淳氏』(全集第20巻、51ページ)

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               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 「水中都市」安部公房∼サウンド・音楽と映像による朗読会 :東鷹栖安部公房の会 
柴田望…page 8
3 『カンガルー・ノート』論(10):(22)呪文/(22.1)呪文の分類/(22.2)
章別・呪文解説(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?:
岩田英哉…page 11 
4 安部公房とチョムスキー(3):3.3 バロック文学:差異の文学/3.4バロック哲学:差
異の哲学:岩田英哉…page 44
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(20)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…page72

6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 76
7 編集後記…page 79
8 次号予告…page 79

・本誌の主な献呈送付先…page80
・本誌の収蔵機関…page 80
・編集方針…page 80
・前号の訂正箇所…page 80

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

Best tweets 10
rinnna@rinnna02162917 1月31日
安部公房の「笑う月」に登場するあの恐怖の月は、花王石鹸のマークを正面
en M
ole から見たようなという表現だったので、どう考えても可愛いお月様なイメー
Gold
Priz
e ジしか思い浮かばなかったのだけど。いま分かった!あぁ!確かにこいつに
追いかけられたら怖いわ。ちなみに安部公房は1924年生まれだそうだ。

ole
er M
Silv
e
該当tweetなし
Priz

今月の読書会
しめじ@abekoubou 1月31日
【2/3安部公房読書会】「人間そっくり」の読書会を2月3日(土)17:00より荻窪ベル
ベットサンにて開催いたします。安部公房の単行本中最も薄い本作品。当日の朝読
んでも参加可能なはず。紙幅は薄いが内容は濃い本作について人間らしき人たちと
語り合いましょう。詳細は→http://bit.ly/2DNGlMy
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今月のアーカイブ
NHKアーカイブス認証済みアカウン@nhk_archives 1月31日
【なつかしの番組】「テレビドラマ 日本の日蝕」(1959年)∼「寒い」番組特集
∼作家・安部公房が「テレビ構成詩」として戦時下の悲劇を描いた、和田勉演出、
NHK大阪局制作のドラマで、伊藤雄之助演じる巡査のうろたえぶりが見もので
す!

今月の人間そつくり
【2月3日安部公房読書会】 #TAP_MTG
いよいよ明後日! 『人間そっくり』読書会@荻窪ベルベットサン、詳細・予約はこ
ちらから→https://atnd.org/events/94416
現在6名参加予定。画像は筒井康隆・編『SF教室』(1971)に載った『人間そっく
り』紹介文。私はこれで安部公房を知りました。

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今月の即売会
ギャラリー★北大路@gallery_kitaoji 23時間
【イベント】「安部公房『箱男』完全読解」即売会を開催いたします!
■日時:2018年2月3日(土)10時∼22時
■会場:ギャラリー北大路(地下鉄烏丸線「北大路駅」6番出口すぐ)
詳細→http://www.books-ogaki.co.jp/gallery-k/

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 1月21日
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその
変容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

今月の朗読会
柴田望@NOGUCHIS7 1月28日
「画けそうかい?」とおれが聞いた。  彼は黙ったまま答えなかった。  しかし
おれももう返事を待ってはいなかった。おれはその風景を理解することに熱中しは
じめているのだった。  この悲しみはおれだけにしか分からない・・・。 (安部
公房「水中都市」)
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今月の演劇
鈴木彰紀 Akinori Suzuki@Akinori_Akky03 1月22日
チケット発売開始

『箱男からの思想』
3/22(木)∼3/26(月)
@江古田アトリエサードプ
レイズ

発売開始いたしました
安部公房「箱男」
に着想を得たアヴァンギャ
ルドシアターです

▼鈴木彰紀予約フォーム
https://www.quartet-
online.net/ticket/av01boxman?m=0ehcija …

何卒よろしくお願い致しますm(._.)m
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今月の音楽
homelistening@homelisteningjp 8時間
homelisteningを2月号に更新しました。
今月の選曲は安部公房さん原作の映画「他人の顔」をモチーフにしています。
是非チェックしてください。
http://homelistening.jp

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「水中都市」安部公房∼サウンド・音楽と映像による朗読会

東鷹栖安部公房の会

■1月27日(土)13時半より、東鷹栖公民館・東鷹栖安部公房の会主催「安部公房 ∼サウン
ド・音楽と映像による朗読会『水中都市』」、東鷹栖公民館1階にて行い、おかげ様にて会場
満席の盛会となりました。会場へお越し戴いた皆様へ心より御礼申し上げます。
*
【動画】「水中都市」安部公房∼サウンド・音楽と映像による朗読会 東鷹栖安部公房の会
2018 01 27
https://youtu.be/zE1tybyGvzc
*
「水中都市」は1952年(昭和27年)、安部公房が28歳のときに発表された短編小説です。「デ
ンドロカカリヤ」の3年後、「壁∼S・カルマ氏の犯罪」の1年後、代表的な「砂の女」の10年
前の作品になります。昭和27年は、東大のポポロ劇団事件や早大事件、破壊活動防止法が公布
し反対デモで火炎瓶が登場するなど、学生や労働者のデモが活発化。GHQが廃止され、陸上自
衛隊の前身である保安隊が発足した激動の年。後年、インタビュー「都市への回路」(二つの
インタビューと講演を収録した『都市への回路』中央公論新社1980年6月刊、又は安部公房全
集では第26巻に収録。)で安部公房は当時を振り返り、このように語っています。「舞台化し
ようとして、久し振りに読み返しながら、びっくりした。あれは僕がコミュニストとしていち
ばん活躍していたときの作品なんだよ。除名されても無理ないと思ったな。あの頃僕は、下丸
子へんでオルグして壊滅しかかっていた工場の組織の再建をやっていた。その時期なんだよ、
「水中都市」を書いたのは。いわゆる党の方針とはしじゅう衝突していたけど、まださほど懐
疑的ではなかった。」(「都市への回路」)
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もぐら通信                          ページ 9

 帰り道が同方向だった男が突然、主人公のアパートに入り込み、父親と名乗り住みつくと奇
怪な魚に生れ変って窓から飛び出し、街全体が水中の世界に変ってしまう物語。登場人物の変
身する様が、安部公房独特の寓意とユーモアあふれる文体で表現されている、短編小説「水中
都市」。「変身」「変わってしまう」そして「街全体」というキーワードがここに見られます。

一つは「変形」、人間が魚になってしまう変身譚であるということです。太宰治の「魚服記」
や、おとぎ話(絵本「おさかなになったおんなのこ」(スペインの昔話))。ジブリ映画の「崖
の上のポニョ」は人間になりたいと願う魚の女の子が主人公です。もう一つは街、「都市」に
ついて。単に都市を舞台としてえがくのではなく、都市そのものを書く。安部公房文学のテー
マの一つと言えます。「都市への回路」にはこのように書かれています。「都市的なものが社
会構造の中で、もはや付属的な従属的なものではなく、むしろ本質なのだと認めなければ世界
もつかめないという認識もはっきり根づきはじめた」さらに「都市への回路」では、満州での
終戦体験が語られています。「完全な無政府状態だった。しかし、かならずしも無政府状態と
いうわけではないんだ。政府がなくなったのに続く、ある種の「恒常的なもの」。その発見が
何よりも大きなショックだったと思う。」終戦によって昨日と今日が意外に変わらなかっ
た・・・「昨日まで日本人は支配民族だった。その日本人が終戦と同時に素っ裸にされてしまっ
たわけだ。都市がその日本人を受け入れるはずがないと思った。」「ところがそうじゃないん
だ。同じことなんだ。」「それに中国人の側でも、国民党系あり、八路系ありで、終戦と同時
にいろいろな対立が表面に浮かび上がってきた。」「国家権力というこのがなくなったら、当
然暴力が起きるというのが一般の通念だけど、実際は違うんじゃないか?暴力を行使している
のは、むしろ国家の側なんじゃないのか?」安部公房が人間社会の根本を、このような視点か
ら見つめていたことは、他の作家との大きな違いではないかと思われます。

 時代は変わりますが。2011年の東日本大震災では、被災地の方たちの行動が世界の注目を集
めました。過酷な状況の中でも、日本の人々は秩序を守り、礼儀正しくしている。なぜ暴動が
起きないんだ?と驚いている国もある。世界各国より称賛されています。称賛されるというこ
とは、国が違っても、人間はこうするのが本当なんだ、と頭ではわかっている、共感できる、
ということではないかと考えます。「都市的なものが社会構造の中で、本質なのだ」人間が他
者とどのような関係を構築していくかを、本質的な問題として捉えて生きなければならない。
社会状況の大きな変化、その中で生きる私たちは変化・変形・変身を絶えず求められます。変
形の手法によって、そして都市の問題について「水中都市」には書かれているのだと、特に感
じさせるシーンがこの作品にはあります。それは最後の場面です。

∼おれたちはまたながい間、次第に変わっていく工場の風景を、黙って眺めつづけた。
 すると、その風景が変化するにつれて、おれ自身も変化していくような気がした。
 「画けそうかい?」とおれが聞いた。
 彼は黙ったまま答えなかった。
 しかしおれももう返事を待ってはいなかった。おれはその風景を理解することに熱中しはじ
めているのだった。
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もぐら通信                          ページ10

 この悲しみはおれだけにしか分からない・・・。
(安部公房「水中都市」)

 「この悲しみはおれだけにしか分からない」本来悲しみといった人間の感情は、分かち合え
るものであるという前提が、逆説的な効果によって浮かび上がります。「他者との通路が回復
しないかぎり、人間の関係は本物じゃないんだ・・・」このことが一貫した創作のテーマであ
ると、後年安部公房はNHKのテレビインタビュー(ETV特集「テレビが記録した知性たち3安
部公房 複眼の冒険者」1999年3月17日放送)で語っています。都市と変形、人間社会の根本を
鋭く見つめた安部公房の活躍は、世界に注目され、高い評価を得て、ノーベル文学賞の候補に
も挙がりました。安部公房作品により提起される問題は現在でもまったく古くありません。時
代を超えて、今現在世界中が直面している様々な問題に対しても、新しい視点や考え方を提示
します。安部公房の原籍地は、この旭川市東鷹栖の地であります。「東鷹栖安部公房の会」で
は、これからも、今回のような安部公房作品を紹介する活動などを行って参ります。どうぞ宜
しくお願い致します。会場へ足をお運び戴きました皆様、開催にあたりまして、ご協力を戴き
ました皆様へ心より御礼申し上げます。
*
安部公房 ∼サウンド・音楽と映像による朗読会
『水 中 都 市』
日 時  : 2018年1月27日(土)
(開演 13 時 30 分  終演 15 時 00 分)
場 所 : 東鷹栖公民館 (旭川市東鷹栖4条3丁目)
参 加 費 : 無料
主 催  : 東鷹栖公民館 ・ 東鷹栖安部公房の会
*
2018-01-27. 東鷹栖安部公房の会 柴田望
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もぐら通信                          ページ 11

『カンガルー・ノート』論
    (9)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

青字は前回までに
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
赤字は今回論ずるもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 黒字はこれからのもの
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
もぐら通信
もぐら通信                          12
ページ

(12)人面スプリンクラー
(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)
5。1。4。1 寓話とは何か
5。1。5 章間形象連続性分類
5。1。6 存在の祭りと次の存在への立て札

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
5。2。1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱

5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)

5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****
もぐら通信
もぐら通信                          13
ページ

5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
「2。『カンガルー・ノート』の呪文論」による呪文類の分類は[呪文、古謡、御詠歌、詩]
といふ四つの呪文でありました。この分類に至る次第は「(16)風の音」(もぐら通信第
68号)で明らかにした通りです。

この分類に基づく最初の狭義の呪文には、更に下位分類に次のやうな3種類の呪文がありま
す。これらの分類は、満願成就視点の分類です。あるいは、あなたが神社にお参りして願掛け
をする際の呪文であり、祈願文であると云つても良い。この下位分類を明細にした上で、全
体的に再度呪文をまとめると次のやうになります。

①呪文
(あ)脱皮の呪文
  存在への脱皮:バナナの皮でくるみますといふ呪文
(い)満願駐車場の呪文
  満願成就へ誘(いざ)なふ呪文でありお告げである。この呪文の性質から云つて、次の
「(う)主人公または話者が願ふ「オタスケ」の呪文」と対になつてゐる。「オタスケ」の
呪文は、第1章から第7章まで、満願駐車場の呪文に向かつて/との関係で唱へられてゐる。
(う)「オタスケ」の呪文
  主人公または話者が願ふ「オタスケ」の呪文。どうか助けてください。この閉鎖空間か
らの脱出を成就させてくださいといふ呪文
④御詠歌:賽の河原の歌。仏教の御詠歌
⑤古謡:通りやんせの歌。片道切符のお札を納めにゆくことを歌つた古謡といふ名の呪文。

(22.2)章別・呪文解説
さて、この作品に呪文類の出てくる章は、第4章ドラキュラの娘を除く残りの6章ですので、
各章毎に呪文類の各種に通し番号を振つて、あとで参照し易いように整理をし、その上で全
ての呪文類を列挙し、簡単な解説を付すると、次の通りになります。

(1)第1章:かいわれ大根:呪文
(1.1)脱皮の呪文1
ハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ……(全集第29巻、91ページ上段)

  (あ)風の歌つてゐる呪文である。
  (い)地の文に書かれてゐる、即ち記号化されてゐない。
  (い)読点「、」があるので、上記(い)と併せて、時間の中の呪文である。
もぐら通信
もぐら通信                          14
ページ

(2)第2章:緑面の詩人:呪文
(2.1)脱皮の呪文2
ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ……/唐辛子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマス(全
集第29巻、100ページ下段)

   (あ)地の文に書かれてゐる、即ち記号化されてゐない。この呪文に関する「呪文存在
化記号規則」については、この章の中の然るべき箇所で引用し、後述します。
   (い)読点「、」がない。即ち一文字分の空白があるので「沈黙と余白の論理」に従
つた存在の呪文である。
   (う)上記(い)のことを示すために(1.1)脱皮の呪文1の二つ目の呪文構成単
位の音がズレてゐて、差異を設けてゐる:「アラコンダ」が「アラゴンダ」(濁音)になつて
ゐる。

(2.2)脱皮の呪文3
アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ……/唐辛子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマス(全
集第29巻、100ページ下段)

   (あ)地の文に書かれてゐる、即ち記号化されてゐない。
   (い)読点「、」がない。即ち一文字分の空白があるので「沈黙と余白の論理」に従
つた存在の呪文である。
   (う)上記(い)のことを示すために(1.1)脱皮の呪文1と(2.1)脱皮の呪文
2にある呪文構成単位が、最後の構成単位を除き、最初の二つの構成単位の音がズレてゐて、
意図的に差異を設けてゐる。これまでの3つの呪文の構成単位を挙げて、同じものには同じ
色をつけて整理すると次の通り:

呪文1:ハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ
呪文2:ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ
呪文3:アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ

これを更に、前綴(prefix)と語幹に分けると次の通り。

           前綴         語幹
呪文1の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、コンダ、ゲンタ)
呪文2の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、ゴンダ、ゲンタ)
呪文3の構成:(アナ、アナ、アナ)、(ベンダ、ゴンタ、ゲンタ)

「(16)風の音」(もぐら通信第68号)で既述の通り、前綴の意味は次の通りです:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

「アラ(粗)とは凸凹してゐるといふ意味。ハナは凸、アナは凹で存在の陰陽。ベンタ・ゴン
タ・ゲンタは(『S・カルマ氏の犯罪』以来の)non-senseの脚韻、即ち呪文の本体、語幹で
ある。アラ、ハナ、アナは、従ひ前綴(prefix)となる。無意味から生まれる有意味。言葉に
意味はないといふ安部公房らしい言葉遊びです。即ちクレオール語の発生と同じで、語幹(親)
に意味があるのではなく、前綴(prefix。附属の子供)に意味があり、これが語幹と接続して
全体の意味を構成するといふ論理。アラ(粗)とは凸凹してゐるといふ此の形象は、この後
の章にも凸凹といふ記号的な形象と一緒に、地形の形象として複数回現れます。」

呪文1から呪文3に至るまでの間に、この呪文は段々と存在の呪文になつてゆく筈ですので、
呪文3の構成をみると前綴は確かにアナが3回といふ(3回唱へられて)凹である存在の形
象になつてゐます。

語幹を見ると、呪文1から呪文3までにゲンタは変はらずにあり、共通して変化するのは、コ
ンタ系と仮に清音の語幹を仮定して呼ぶと、コンタ系の語の最初と最後の文字と清音のいづれ
か一方を順次濁音にするといふ規則に従つて、呪文1はコンダとし、呪文2をゴンダとし(こ
れは両端の濁音化)、呪文3をゴンタとするといふことがわかります。

始めと終はりといへば、これも音がtopologicalに変形されてゐて、上の規則を繰り返すやう
ですが、コンタ系の言葉については、呪文1は最初の文字の音が清音で始まり最後の文字の
音が濁音、呪文2は最初と最後の文字の音がともに濁音、呪文3は最初の文字の音が濁音、
最後の文字の音が清音といふ規則的な配列に、コンタ系を変化させてゐることがわかります。
もつと抽象化すれば、

(清音、ん、濁音)
(濁音、ん、濁音)
(濁音、ん、清音)

といふ変化です。

(2.3)脱皮の呪文4:アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ……全集第29巻、101ペー
ジ上段)
   (あ)地の文に書かれてゐる、即ち記号化されてゐない。
   (い)読点「、」がない。即ち一文字分の空白があるので「沈黙と余白の論理」に従
つた存在の呪文である。

脱皮4を脱皮1から3までの解析に続けて見ると次の通り。文字を着色して識別できるよう
にしました:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

呪文1:ハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ
呪文2:ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ
呪文3:アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ
呪文4:アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ

これを更に、前綴(prefix)と語幹に分けると次の通り。

           前綴         語幹
呪文1の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、コンダ、ゲンタ)
呪文2の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、ゴンダ、ゲンタ)
呪文3の構成:(アナ、アナ、アナ)、(ベンダ、ゴンタ、ゲンタ)
呪文4の構成:(アラ、ハナ、アナ)、(ベンタ、ゴンタ、ゲンタ)

呪文4の始めと終はりを見ると、コンタ系について、四つの呪文を並べて抽象化すれば、

呪文1(清音、ん、濁音)
呪文2(濁音、ん、濁音)
呪文3(濁音、ん、清音)
呪文4(濁音、ん、清音)

といふ変化となり、全体を眺めると、呪文1が最後に呪文4でメビウスの環の一捻りで上位
接続される/する一連なりの呪文になつてゐることがわかります。則ち、文1(清音、ん、濁
音):呪文4(濁音、ん、清音)といふわけです。

ん、といふ文字と音は、日本語の五十音図の上ではワ行の最後の音であり、阿吽(あうん)
の呼吸の あ は宇宙の最初、始まりの義、ん は宇宙の最後、終はりの義ですから、終は
りの音を間に挟んで、その前の音と後の音の等価交換を考へたといふのは、如何にも安部公
房らしい。安部公房の新象徴主義哲学[註1]の論理で解釈すれば、清でもなく濁でもな
く、第3の客観としての音が、二つの両極端の音の間にある ん といふ文字であり音だと
いふことであれば、これはニュートラルといふ安部公房スタジオの演技論の中核概念の呪文
化といふことになります。

確かに、脱皮の呪文の構造はわかりましたが、しかし、ここまでやるか、安部公房といふ気
がします。本当に徹底してゐる。

[註1]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づけ
れば新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。
存在象徴の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

この安部公房の哲学は『詩と詩人(意識と無意識)』に詳細に論ぜられてゐる。

以上は語幹についての考察ですが、前綴について見て見ると次のやうになります。

ハナは凸、アナは凹。アラは凸凹して粗いといふことですので、この凸凹(デコボコ)した現
実の世界の記号化された文字だと考へると[註2]どうなるか。アラは―で表します。

         前綴         語幹
呪文1の構成:(凸、―、凹)、(コンダ、コンダ、ゲンタ)
呪文2の構成:(凸、―、凹)、(コンダ、ゴンダ、ゲンタ)
呪文3の構成:(凹、凹、凹)、(ベンダ、ゴンタ、ゲンタ)
呪文4の構成:(―、凸、凹)、(ベンタ、ゴンタ、ゲンタ)

[註2]
これらの、ハナは凸、アナは凹。アラは凸凹して粗いといふことについての詳細は「(16)風の音」(もぐら
通信第68号)を参照ください。

結論を申し上げれば、前綴の構成単位全てに亘る特別な規則性を見つけることは出来ません
でした。いや、ある筈だといふあなた、挑戦しては如何。まだ私が考へてゐないのは、語幹と
の組み合わせで前綴の( )の中の記号の配置を考察することです。

(3)第3章:火炎河原:呪文、御詠歌
(3.1)呪文5:ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ……/唐辛子ノ油ヲ塗ッテバナナの
皮デクルミマス(全集第29巻、116ページ上段)
   (あ)脱皮の呪文2と同じ呪文である。

(3.2)呪文6:アナベンダ アナゴンダ アナゲンタ(全集第29巻、116ページ上
段)

呪文1から4と同様の手法で、5も含めて、呪文6までを整理してみます。

呪文1:ハナコンダ、アラコンダ、アナゲンタ
呪文2:ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ
呪文3:アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ
呪文4:アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ
呪文5:ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ
呪文6:アナベンダ アナゴンダ アナゲンタ
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もぐら通信                          ページ18

これを更に、前綴(prefix)と語幹に分けると次のやうになります。

           前綴         語幹
呪文1の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、コンダ、ゲンタ)
呪文2の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、ゴンダ、ゲンタ)
呪文3の構成:(アナ、アナ、アナ)、(ベンダ、ゴンタ、ゲンタ)
呪文4の構成:(アラ、ハナ、アナ)、(ベンタ、ゴンタ、ゲンタ)
呪文5の構成:(ハナ、アラ、アナ)、(コンダ、ゲンタ、ゲンタ)
呪文6の構成:(アナ、アナ、アナ)、(ベンダ、ゴンダ、ゲンタ)

呪文1と呪文2の構成の前綴が同じで、さうであれば、語幹もコンタ系で同じである。
呪文3と呪文6の前綴が同じで、さうであれば、語幹はコンタ系の文字と音の前後は同じで、
コンタ系の文字と音が、前者のゴンタから後者のゴンダにズレてゐるといふところが異なる。
後者のズレは、

呪文1(清音、ん、濁音)
呪文2(濁音、ん、濁音)
呪文3(濁音、ん、清音)
呪文4(濁音、ん、清音)
呪文5(清音、ん、濁音):呪文4の両端の音を交換し、コンタ系とベンタ系の位置が交換
されてゐる。
呪文6(濁音、ん、濁音):呪文5の両端の音を交換し、コンタ系とベンタ系の位置が元に
戻つてゐる。

呪文1から4でtopologicalな一廻りが終はつたので、新たに語幹の構成単位二つを入れ替へ
たのが呪文5、元に戻したのが呪文6。と、かうして見ると、前綴の、

呪文4の構成:(アラ、ハナ、アナ)と
呪文5の構成:(ハナ、アラ、アナ)も

呪文5と6と同様の規則で、前者のアラと後者のハナが交換されてゐます。かうして規則性を
探すと、構成要素の第一位と第二位を交換したといふことになります。

安部公房が何をどう考へて此の呪文の構成単位の配列を考へたのかの詮索は、ここまでとし
ます。Topologyといふ以外にはありません。

(3.3)御詠歌1:すべて平仮名である(全集第29巻、121ページ上下段)
しでのやまじのすそのなる さいのかわらのものがたり
 きくにつけてもあわれなり
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もぐら通信                          19
ページ

 ふたつや みつや よついつつ とおにもたらぬみどりごが
 さいのかわらにあつまりて ちちうえこいし ははこいし
 こいしこいしとなくこえは このよのこえとはことかわり
 かなしさほねみをとおすなり
 かのみどりごのしょさとして かわらのいしをとりあつめ
 これにてえこうのとうをつむ

 ひとつつんでは ちちのため
 ふたつつんでは ははのため
 さんじゅうつんではふるさとの きょうだいがみをえこうして
 ひるはひとりであそべども ひのいりあいのそのころは
 じごくのおにがあらわれて やれなんじらはなにをする
 しゃばにのこりしちちははは ついぜんさぜんのつとめなく
 ただあけくれのなげきには むごや かなしや ふびんやと
 おやのなげきはなんじらが くげんをうくるたねとなる
 われをうらむことなかれと くろがねぼうをうちふるい
 つみたるとうをおしくずす
 そのときかわらのいしもあかくやけ
 かわのながれはかえんとなり ものみななベてほねとかす」

(3.4)御詠歌2(151ページ上段)
「ふたつ積んでは、母のため……」
「みっつ積むのは、誰のためか知ってる?」

「風の声」(もぐら通信第68号)より引用します:
「安部公房は、ここでも3といふ数字を重要視してゐて、これ以降の歌の行を沈黙と余白に隠
してゐる。といふことは、三つめ以降に喪はれた子供達が一体何を歌ふのかが大切だといふ
ことである。それを第4章火炎河原から引用すると、

「ひとつつんでは ちちのため
 ふたつつんでは ははのため
 さんじゅうつんではふるさとの きょうだいがみをえこうして」
(傍線筆者)

傍線部を見るとおわかりの通り、安部公房は一つ、二つ、三つといふやうな連続にはしてをら
ず、上記で1週間と1日の時間の単位を等価交換したのと同じく、数を単位化して、三つ目で
は「三重積んでは古里の 兄弟我身を回向して」と30にしてゐる。3を10倍して単位化し、
ひとつのまとまりある意味をもたせたら、これ以降の3で全て30の倍数である意味のまと
まりを表すことができる。しかし、安部公房の世界は超越論の世界であるので、この論理は
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此れ以降のみならず、これ以前にも最初から適用できるといふことになる。

といふことは、安部公房は3の意味は、時間を捨象したある単位、即ち単位は無時間であり、
そもそも時間には無関係でありますので、そのやうな空間を創造するに際しては、安部公房
は3といふ数字を用ゐて、そして其れを単位化して、話を書いたといふことになります。しか
し、それが何故3であるのかを論ずるには別稿を要します。」(傍線筆者)

私の上の引用傍線部分の解釈は、三重を30と解したものですが、これを文字通りに三つ重
ねと取ると解釈はどう変はるかといへば、三重といふことで(3といふ数字のあることから)
それ以降の石の積み重ねを全て(3の倍数とするのではなくて)此の数字で代行させて歌は
れてゐるといふことになります。即ち、3といふ数字で数字自体の単位化を図つてゐるといふ
こと、単位化とは上の引用に書きましたやうに、単位化されて物事は無時間となるといふ解
釈です。

(3.5)呪文7:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、122ページ上段)
   (あ)この呪文は此の章の中で計3回繰り返されてゐるので、存在に関係した呪文で
ある。実際最後の第7章人さらいの章の最後で存在の記号( )の中に置かれてゐる。 それ
も存在の記号の中では二行に分かち書きされずに、二つの行が一つになつてゐて、一行で1と
いふ存在になつてゐる。

(3.6)呪文8:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第
29巻、122ページ上段)
   (3.5)呪文7参照。2回目の呪文7

(3.7)呪文9:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、122ページ下段)
   (3.5)呪文7参照。3回目の呪文7

(3.8)呪文10:オタスケ オタスケ オタスケヨ(全集第29巻、124ページ上
段)  
   (あ)(3.5)呪文7の前半の半分だけが唱へられてゐる。
   (い)後半の半分は「沈黙と余白の論理」に従ひ、隠されてゐるといふことである。
つまり「オネガイダカラ タスケテヨ」といふ救済の願ひが沈黙の中で祈られてゐるといふこ
とである。この隠された後半は、それほどに存在に深く関係してゐることを意味してゐる。そ
れゆえに第7章の最後に存在の( )の中に此の願文が書かれて願ひが成就する。
   (う)この章では計3回、この半分だけの呪文10は繰り返されてゐるので、これも存
在に関係した呪文である。その心は上記(い)に同じ。
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もぐら通信                          ページ21
  (3.8)呪文10参照。2回目の呪文10

(3.9)呪文11:オタスケ オタスケ オタスケヨ(全集第29巻、124ページ下段)
  (3.8)呪文10参照。3回目の呪文10

(3.10)御詠歌3:和漢混淆文である(全集第29巻、126∼128ページ)
死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
聞くにつけてもあわれなり
二つや 三つや 四つ五つ 十にもたらぬ嬰児(みどりご)が
賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身をとおすなり
かの嬰児の所作として 河原の石をとりあつめ
これにて回向の塔をつむ

(3.10.1)御詠歌4:御詠歌部分1:ひとつ積んでは 父のため/ふたつ積んでは 母の
ため(全集第29巻、126ページ上段)

(3.10.2)御詠歌5:御詠歌部分2:三重積んでは故郷の 兄弟が身を回向して/昼はひ
とりで遊べども 陽の入相のその頃は(全集第29巻、126ページ下段)

(3.10.3)御詠歌6:御詠歌部分3:地獄の鬼があらわれて やれ汝等はなにをする(全
集第29巻、126ページ下段)

(3.10.4)御詠歌7:御詠歌部分4:娑婆にのこりし父母は 追善作善のつとめなく/た
だ明け暮れの嘆きには 酷や 悲しや 不憫やと/親の嘆きは汝等が 苦げんをうくる種とな
る(全集第29巻、126ページ下段)

(3.10.5)御詠歌8:御詠歌部分5:われを恨むこと勿れと くろがね棒をうちふるい/
積みたる塔をおし崩す(全集第29巻、127ページ上段)

(3.10.6)御詠歌9:御詠歌部分6:そのとき河原の石も赤く焼け/川の流れは火炎とな
り ものみななべて骨と化す(全集第29巻、127ページ上段)

(4)呪文12:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、127ページ下段)
  (3.5)呪文7参照。4回目の呪文7

(5)呪文13:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、126ページ下段)
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ページ

9巻、126ページ下段)
  (3.5)呪文7参照。5回目の呪文7

(6)呪文14:オタスケ オタスケ オタスケヨ(全集第29巻、128ページ下段)
  (3.8)呪文10参照。4回目の呪文10

(4)第4章:ドラキュラの娘:呪文なし。空白の章。

(5)第5章:新交通体系の提唱:御詠歌(全集第29巻、150ページ下段)
死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
聞くにつけてもあわれなり
二つや 三つや 四つ五つ 十にもたらぬみどりごが
賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身をとおすなり

ここでは、最後の二行「かの嬰児の所作として 河原の石をとりあつめ/これにて回向の塔を
つむ」が隠されてゐる。

(5.1)古謡1:『通りゃんせ、通りゃんせ』のメロディー(全集第29巻、152ページ
下段)
    「『 』で記号化された存在の呪文類:存在の古謡:甲高い警笛の音と一緒に踏切で
此の曲が鳴る。大切なことは、賽の河原の御詠歌と同様に、『通りゃんせ 通りゃんせ』の
あとに続く沈黙と余白に置かれた文字である。」
(「(16)風の音」(もぐら通信第68号))

また、いふまでもなく『 』といふ記号は、「3。『カンガルー・ノート』の記号論」(もぐ
ら通信第66号)によれば、

「(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語に
ついてのものであることを意味する。」

といふことですので、

古謡1:『通りゃんせ、通りゃんせ』は、「存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《安
部公房》の書いた物語についてのものであることを意味する」

といふことになります。
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ページ

安部公房の話法「僕の中の「僕」」が、存在の存在の存在にゐて『通りゃんせ、通りゃんせ』
を歌つてゐるといふことになります。

(5.2)古謡2:通りゃんせ/通りゃんせ(全集第29巻、154ページ下段)
    地の文の通りゃんせ通りゃんせ。
(5.3)古謡3:通りゃんせ/通りゃんせ(全集第29巻、155ページ下段)
    地の文の通りゃんせ通りゃんせ。

この古謡の3回出てくるといふ呪文は、ローリング族といふオートバイの暴走族が鉄道の踏
切を交差して横断する際の次の函数の一般式によつて表されるのでした。

存在への上位接続点[(開門、閉門)、(風、甲高い音、呪文類)]

これは後述する「(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?」
に話が繋がつてゐますので、ご留意下さい。

(6)第6章:風の長歌:呪文
(6.1)呪文15「オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ」(全集
第29巻、161ページ下段)
    (あ)直接話法による引用符「 」の中の呪文である。
    (い)(3.5)呪文7参照。6回目の呪文7

(6.2)呪文16:満願駐車場の呪文1:満願駐車場カラノオ知ラセデス。アナコンダ地蔵
尊ノオ告ツゲニヨッテ、タダイマ閉門サセテイタダキマス。満願駐車場カラノオ知ラセデス。
アナコンダ地蔵尊ノオ告ゲニヨッテ、タダイマ閉門サセテイタダキマス。
(全集第29巻、164ページ上段)

この呪文16:満願駐車場の呪文1を、(6.3)呪文17に引用した「呪文存在化記号規則」
の1番目の段階ととることができる。句点「。」があるので、まだこの世に未練があるとい
ふ意味に取ることができる。

(6.3)呪文17:太鼓の音1:̶̶トントコ トントコ トントン トントコ……
(全集第29巻、167ページ下段)
    この呪文は、「呪文存在化記号規則」のうちの3段階目の段階を意味してゐる。そ
の理由は次の通り:

「安部公房の呪文の使ひ方による存在の物語の存在化の深まりの度合ひは、次のやうになつ
てゐる。呪文に関する存在化深化の記号を使つた表記規則です(以下必要に応じて「呪文存
在化記号規則」と呼ぶ事にします)。
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ページ

①呪文を地の文にベタで書く
②呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶̶」と「̶̶」
③呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶̶」と「……」
④呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶̶」と空白:最後の端には記号を置かずに余
白(と沈黙)とする。
⑤呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「(」と「)」:存在の記号( )を使ふ。
安部公房の呪文は、この5つの順序を踏んでゐる。」
(『5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論』(もぐら通信第68号)の「(16)
風の音」)

(7)第7章:人さらい:詩、呪文
(7.1)詩1:
むかし人さらいは
子供たちを探したが
いまは子供たちが
人さらいを探している
(全集第29巻、175ページ上段)

(あ)(7.4)詩2の詩の一部のみの文字化。残りは「沈黙と余白の論理」に従ひ隠され
てゐる。隠された後半は、それほどに存在に深く関係してゐることを意味してゐる。残りの詩
の求め歌はれてゐるところは、従ひ超越論の世界であり、始めも終わりもない世界である。

(7.2)呪文18:――オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ……

(全集第29巻、175ページ下段)
   この呪文は、「呪文存在化記号規則」のうちの3段階目の状態を意味してゐる。(6.
3)呪文17を参照。

(7.3)呪文19:満願駐車場の呪文2:̶̶満願駐車場カラノオ知ラセシマス。アナコン
ダ地蔵尊ノ寄付ノ受ケ付ケモ間モナク締メ切ラセテイタダキマス。オ急ギクダサイ。(全集第
29巻、179ページ下段)

この呪文16:満願駐車場の呪文1を、(6.3)呪文17に引用した「呪文存在化記号規則」
の3番目の段階ととることができるか。句点「。」があるので、まだこの世に未練があると
いふ意味に取ることができるので、さうとつて、これを3番目の段階とすることはできるか
も知れない。満貫駐車場の呪文の末尾の句点「。」は「呪文存在化記号規則」の末尾記号の
様式と差異があり、ズレてゐるので、果たしたここに安部公房のどんな意図を読むべきか。
現世との未練が記号化されてゐると上で読んだ次第です。
もぐら通信
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ページ

(7.4)詩2:
むかし人さらいは
子供たちを探したが
すべての迷路に番号がふられ
子供の隠し場所がなくなったので
いま人さらいは引退し
子供たちが人さらいを探して歩く
いまは子供たちが
人さらいを探している
だれも人生のはじまりを憶えていない
だれも人生の終わりに
気付くことは出来ない
でも祭りははじまり
祭りは終わる
祭りは人生ではないし
人生は祭りではない
だから人さらいがやってくる
祭りがはじまるその日暮れ
人さらいがやってくる
(全集第29巻、187ページ下段∼188ページ上段)

いふまでもなく、超越論を巡る詩である。

(5.1)古謡1から(5.3)古謡3の『通りゃんせ、通りゃんせ』の歌謡の3回出てくる呪
文は、ローリング族といふオートバイの暴走族が鉄道の踏切を交差して横断する際の次の函数
一般式で解けましたが、同様に此の詩を同じ一般式で解くことができる。

存在への上位接続点[(開門、閉門)、(風、甲高い音、呪文類)]

「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(18)駐車場」(もぐら通信第7
0号)より:
「1。函数形式・一般式」「2。概念連鎖・一般式」「3。概念連鎖・個別式」を引用しま
す。これによつて、この詩を解いても良い。

「1。函数形式・一般式
存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]

あるいは、同じ「(18)駐車場」より次の式を:
もぐら通信
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「2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を
告げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の
空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧にな
る)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出」

(7.5)呪文20:(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)
(全集第29巻、188ページ上段)
「呪文存在化記号規則」でいふ5番目の最終段階に至つた呪文です。願ひが成就された呪文
です。

(7.6)詩3:
北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で

その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

 遅れてやってきた人さらい
 会えなかった人さらい
 わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)
(全集第29巻、188ページ下段)

第一連は、いづれの場所も存在の交差点、存在の十字路を歌つてゐます。第二連は、定時定
刻に対して超越論的に遅刻した人さらひについて、第三連は一文字分下に行を落としズラして
差異を第二連とは異なるやうに設けて、一文字分の余白を示して、これがはじめも終はりも
ない存在の人さらいであることを示してゐます。

それでは、第二連の人さらいとどこが違ふのかといふと、第二連の最初の一行にある「その
後」といふ時間の起算点の有無が違ふところです。即ち、第二連はまだ此の現実の時間の中
で話者の期待した人さらひなのであり、第三連はもう「既にして」(超越論的に)無時間で
遅延を生ぜしめ、時間の隙間を創造してこの世にゐない故に「会えなかった人さらい」であ
るのです。後者の「会えなかった」といふ時制の形式は、文法学の視点で見ると、実は単純
過去ではなく、即ち過ぎ去つてしまつた単純な過去なのではなく、英語やドイツ語ならば祈
もぐら通信
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願を表現する祈願文であつて、過去形から音韻を変形させて創造する接続文(conjunctive)、
正確にいへば上位接続(conjunction:論理積)の文なのです。英語で非現実話法と教はつた
のが、これです。

If I were a bird, I would like fly to you.(もし鳥だつたなら、あなたの所へ飛んで行くのだ


がなあ)

といふ例文を教はらなかつたでせうか。

この例文のwere(be動詞)が、これです。またwouldといふ助動詞が、これです。

といふ訳で、この最後の詩の第三連で主人公は(時間を捨象して)願ひがかなつて次の存在
へと脱出することができるといふ訳です。

この呪文の特徴は、これまでの呪文とは異なり、安部公房の詩と記号によつて存在化された
呪文の組み合わせであることです。(7.5)呪文20は「呪文存在化記号規則」でいふ5
番目の最終段階に至つた存在の呪文の提示。それだけでは足りず、最後の最後に主人公が成
仏するには、安部公房自身の詩と抱き合はせることが成仏の必須条件であるといふことにな
ります。成仏といふのは仏教用語ですが、うまく伝はることを願つて用ゐました。(オタスケ 
オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)。勿論、主人公は此の世では死人も同
然ですが、しかし次の存在にあつて生きてゐるのです。何故ならば、安部公房の世界には、
私たち読者にはありがたいことに、極楽も天国もなく、あるのはただ地獄のみですから、成
仏することはなく、安心してまた地獄巡りができるといふ安心と安全な、希望もなく絶望も
ない第三の客観(存在)への灰色の旅の過程があるばかりだからです。

(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
この暴走族の横断する踏切といふ列車とオートバイの交差する存在の十字路が、『カンガ
ルー・ノート』といふ作品の中で如何に多義的な構成要素から成る重要な場所であることか。
この踏切が第5章新交通体系の提唱で、新旧の、さうして支線が本線に等価交換されて
topologicalな時間の無い存在の世界を創造する交差点であるのです。何故ローリング族は象
の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?といふ問ひの元に、このことを理解して下さい。[註
3]

[註3]
新旧交通体系の等価交換については『箱男』に格好の説明があるので引用します:

「さて、第5章の新交通体系の提唱といふ章に関係して、私たちは『箱男』の写真の一枚に貨車の写真があり、
その写真の下に丁度未分化の実存である箱男が同じ文脈の中で一つの交通体系の支線から逸脱して、本線に入る
場合を、安部公房が詩にして詠つてゐるのを見てみませう。それ故に『箱男』といふ物語の中には幾人もの箱男
が登場するのです。即ち、それまで在ると思つてゐた座標が無くなり、時間の断層と断面が露わになつて、そこ
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もぐら通信                          ページ 28

に何人もの箱男が映じてゐる。これは、このまま小説『箱男』の解読の方法です。

これを要するに、クレオール論の場合と同じで、親子の関係が逆転して入れ替はり、主語である親が、述語であつ
た子供と等価交換されて、後者が主語に、前者が述語になるのです。即ちそれまでの座標が失はれて、コモン君の
場合と同様に天地が鳴動して、地面に亀裂を生じて、断層が露わになり、ここに鏡に映ってゐるやうな状態になる。
[註21]下記の『箱男』の写真の詩の場合であれば、支線に切り替へられた線路を走る列車が、支線から本線
に入つて来るといふこと、即ち交通体系のシステムの支線を走つてゐた列車が、本線にはいるといふこと、これは
「遊園地のミニ列車」である「お猿の電車」が本線に入るのと同じく、即ち部分が全体になること、即ち全体が
部分になること。このこと、この事実(といふべきでせう、これ)を『安部公房の北海道文学への批判』(もぐ
ら通信第62号)の中で図示しましたので、その図を前後の文章と一緒に以下に引用します。図をご覧になれば、
一目瞭然でありませう。部分が全体になること、即ち全体が部分になること、即ち後者が前者になるとは、この
ことです。

[註21]
「特殊性の中にほうがんされない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存在しない」とは、内
部と外部を交換し、その境界域の両義性に身を没して自己を生かすtopologyの考へ方です。これは、単なる言葉の
意味と位相幾何学的な問題だけなのではなく、歴史が其のやうに展開し、人間に働きかけるものだからです。歴史
の根本的な変化は、言語(logos)の観点からみると、いつも次のやうに動きます。安部公房は当然このロゴスの
働きを知つてゐたのです。宇宙は単純にできてゐる。小学生の安部公房の知つてゐた「奉天の窓」です。Aをあな
ただと思つて見ませう。すると、→は、次の次元へのあなたの失踪を意味するといふことになります。Bをあなた
だと思つてみませう、「あなたそつくり」の、しかし、異次元での、また別の人生がある。といふことになります。
あなたは何処にゐるのか?

歴史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

ローリング族と呼ばれるオートバイの暴走族が列車の来るのが間近な踏切を渡る前後の文脈
(context)を「7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」から再掲します。

原文では、6つの存在の方向を指し示す標識板が派手に盛大に林立してゐる箇所(全集第29
巻、153ページ)のあとの154∼155ページです。ここでは全文の引用は量が多いので
引用は控へます。その分を此の2ページを構成する以下の複数の引用を読んで、文脈の全体を
思ひ出して下さい。以下「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」(もぐら通信第6
6号)の「(6)二種類の救済者」より:

「u「三軒の商店と契約」(155ページ上段):「トンボ眼鏡の看護婦」は、3といふ数字
に関係して三軒の店と契約をして「ローリング族」といふオートバイ族の情報を収集してゐる。
このオートバイ族は、函数形式の問題下降したものが、

存在への上位接続点[(開門、閉門)、(風、甲高い音、呪文類)]

といふことでありますから、本文を読みますと、その成り行きは、この集団が踏切の交差点を
通過するまでに「あと二十秒」といふ(何時何分とは言はれぬ定時定刻では本当はない)定時
定刻に対して二十秒前に、

踏切の交差点[門の開閉(0、0)、(全員が乱れ打ちした「太鼓に仕立てた象の剥製」、「お
くればせに警報」、『通りゃんせ、通りゃんせ』)]

といふことになります。

門の開閉がともに値が0であるのは、そもそも此の場面でも踏切を通る始めと終はりが不分明
であり、オートバイ族は警笛に対して既にして「通過してしまった」(155ページ下段)も
のとして書かれてをり、また従つて終はりについても同様で、『通りゃんせ、通りゃんせ』の
後で「数秒の間をおいて」「警笛」が遅れて鳴つてゐるからです。始めと終はりは、ここでも
不分明です。即ち、ここでも、オートバイ族は「あと二十秒」といふ定時定刻に対して「「来
たぞ! でも早すぎるんじゃないか」と二階からアメリカ人のキラー君がわめいた」やうに(1
55ページ下段)、踏切には早過ぎて到着をしてゐるといふ超越論的な通過をしてゐます。

それ故に、踏切の警笛は始めと終りに事後で遅れて鳴るといふことになります。第5章新交通
体系の提唱の駅の近くの存在の踏切の十字路でオートバイ族が「太鼓に仕立てた象の剥製を、
全員が乱れ打ちしながら通過してしまった」とある此の大きな象の剥製を思ひ併せ、この3回
目の『通りゃんせ、通りゃんせ』の呪文で解ることは、奉天の小学生であつた安部公房にとつ
ては、木下サーカスでは間違ひなく、矢野サーカスではひよつとしたら、観た象といふ動物は、
ゆつくりと動くので、超越論的な動物であつたといふことです。定時定刻に対して緩慢に動く
(超越論的な遅延を生まれつき生ずる)大きな象が、安部公房は好きであつた。しかし、これ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

に対して小さな象、即ち安部公房の表記でいふ「仔象」[註7]は、小さい象であつて、擂鉢
(すりばち)の底の円の中の舞台では、鞭打たれ、定時定刻通りに動くことを強ひられてゐて、
小学生の安部公房には哀れを催す可哀想な動物であつた。まだ大人になる前の未分化の実存と
しての(毎日定時定刻に学校と教室といふ閉鎖空間へ入らねばならぬ)自分自身の姿をそこに
観たのではないでせうか。「仔象」と「仔」の文字を使つて特徴を際立たせた意味は、「仔象」
は定時定刻までに移動し藝を見せなければならず、幼いがためにうまく行かず、そのために鞭
打たれてゐる「仔象」の姿に、いづれ死ぬ運命をみてゐたか、既に時間の中で死んでゐる「仔
象」であるといふ意味を持たせたか、そのやうな感懐を同じ子供として抱いたかといふことに
なります[註8]。小学校の教室といふ閉鎖空間と安部公房の「既に此の時にあつた」超越論
の関係は、『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第68号)で詳細に論じました
ので、これをご覧ください。

[註7]
この表記の持つ意味については、「『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第53号)をごらんくだ
さい。

[註8]
『笑う月』(新潮社文庫)所収の「公然の秘密」に、この仔象の話を主題として、安部公房の形象が書かれてゐる。
ここでは、最後には仔象は殺されるわけです。最後にある一行は、「当然だろう、弱者への愛には、いつだって殺
意がこめられている。/やがて仔象は、古新聞のように燃え上がり、燃えつきた。」(傍線は原文傍点)

この憎悪の原因については、『Mole Hole Letter(3):超越論』で論じました。強者とは超越論的な遅延を否


定する者たち(ほとんど大多数の人間たち)、これに対して弱者とは日常の時間の中で前者が未来に予定した定
時定刻に対して常に超越論的な遅延をすることによつて、世のため人のために(この世での自己の時間を喪失して)
絶えず現在の値をゼロ(ニュートラル)にする少数の者たちです。」

次に、ローリング族が踏切を超越論的に通過することを巡る二種類の救済者の役割交代と交通
体系の入れ替はりと『通りゃんせ、通りゃんせ』と、存在の記号と地の文のテキストの、これ
もtopologicalな等価交換と、時間の断層が生じて二種類の救済者が複数(これもtopologicalに)
生まれることと、主人公と二人の救済者の疑似家族関係と、存在の神社の奥宮に([NO1]と
いふ片道切符の)お札を納めに参るといふことについてです。ローリング族が踏切を超越論的
に通過することを巡つて、これだけの多義的な主題と動機(モチーフ)が一つに統合されて、
一次元上の存在が作品の中に立ち現れる非常に重要な場面です。

「この、最初は「トンボ眼鏡の看護婦」が登場して存在へと案内をし、最後は「垂れ眼の少女」
が存在への脱出を手伝ふといふ筋立ての其の二人の役割交代の文脈は何かといふと、第5章の
新交通体系の提唱の章で、駅の側に位置する存在の交差点で、しかも通りやんせの歌が鳴る場
面なのです。

このことが第5章の新交通体系の提唱といふ章の題名に深く関係してゐるわけなのです。何故
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

ならば、「トンボ眼鏡の看護婦」はここで役割を終え、「垂れ眼の少女」が以下に述べる理由
と経緯によつて、その役割を引き継ぐからです。この場合、存在の交差点とは次の意味です。

この章で、存在の交差点に『通りゃんせ、通りゃんせ』の曲が最初に流れて、「駅の方角から
警笛、発車の合図」が聞こえて来る。最初の旋律は『通りゃんせ、通りゃんせ』と『 』の記号
の中で歌はれてゐるが、次の二つの通りゃんせの繰り返しは、地の文で歌はれてゐる。二つの
地の文の、最初の旋律の鳴る交差点を通過する列車は駅に向かふが、しかし二つ目の旋律の鳴
るのは、既に「ローリング族」と呼ばれる暴走族の一種が交差点を、といふ事は線路に対して
直角の線上に、といふ事は地の文で交差点を形成して、あつといふ間に、即ち超越論的に通過
を終はつてしまつてゐて、その後に順序が前後して、遅れて警報器の警笛が鳴り響くのです。
第1章の玄関の診察の立て札とその後に超越論的な、主人公を巡つて遅延の生じる、定刻との
関係での診察の実行と同じです。即ち、

ここで、交差点で、『通りゃんせ、通りゃんせ』と地の文の「通りゃんせ 通りゃんせ」が交
差するのです。即ち二つの通りやんせの内部と外部が交換されて、存在になる。さうして、こ
の存在の交差点で、一つになつた通りやんせの呪文の中で、「トンボ眼鏡の看護婦」が本物の
「看護婦の制帽を脱」ぎ、その役目を、「垂れ目の少女」と交代するのです。それが証拠に、
次の第6章の風の長歌では、「トンボ眼鏡の看護婦」が「脚の綺麗な看護婦」や「右目の下の
泣き黒子の看護婦」に自己増殖を始め、即ち時間の断層が現れて、この看護婦の座標が失はれ
るのです。この役割交代の契機に、「トンボ眼鏡の看護婦」が本物の「看護婦の制帽を脱」ぎ、
その後に続く主人公との会話の中で、学校霊花子といふ小学校のトイレに出る女の子の幽霊の
話をする事は、誠に示唆的です。これは、そのまま「垂れ目の少女」への役割の手渡しを意味
してゐます。

これに対して、一つ章をずらして、最後の第7章で「垂れ目の少女」が新交通体系といふ新し
い体系に登場するのは、新しい交通システムの支線から本線に入る場合、それも其処に至るま
でに「なんとなくレールに乗って揺られている感じが」しながら「運河めざして地下の坑道を
疾走していたときの感覚」を主人公が思ひだし、「待避線があって、すれちがった遊園地の周
遊電車に垂れ目の少女が乗っていた」際、即ち普通の大きな列車に乗つてゐた主人公が待避線
に入り、反対に小さな遊園電車に「垂れ目の少女」が乗つて本線に入つて行つた際なのです。
「トンボ眼鏡の看護婦」は、既に第5章で既存の交通体系をおり、第7章では、「垂れ目の少
女」が、かうして表舞台に登場するわけです。

さうして第6章では、「トンボ眼鏡の看護婦」が「脚の綺麗な看護婦」や「右目の下の泣き黒
子の看護婦」に自己増殖を始め、「トンボ眼鏡の看護婦」と同一人物かどうかが怪しくなり、
第7章では、「垂れ目の少女」が、本線と待避線、全体と部分の交換、内部と外部の交換で時
間の断層と断面が生じたために、「垂れ目 A……垂れ目B……垂れ目C……」となつて、幾人も
の「垂れ目の少女」が生まれる事になる。さうして、それまで識別子のない「垂れ目の少女」
も垂れ目Bに交代して、最後まで主人公を見守るのは、結局この少女なのです。
もぐら通信
もぐら通信                          32
ページ

さうして、何故「トンボ眼鏡の看護婦」と「垂れ目の少女」(この少女は結局は垂れ目Bであ
るわけですが、まだ此の第6章では「垂れ目の少女」である)の役割が交代するのは、再度く
どいやうであつても、理由を述べますと、やはり『通りゃんせ、通りゃんせ』と地の文の「通
りゃんせ 通りゃんせ」の歌が鳴り響く上記の交差点で行はれるからなのです。何故此の交差
点でそれが可能かといふと、この童歌(わらべうた)を文字になつてゐる二行だけで
はなく、安部公房が「空白の論理」を以つて余白と沈黙に隠した其の後の歌詞を読めば、この
曲の鳴り響く交差点で二人の交代が起きた、その謎が次のやうに解けます。

この歌謡の全文を改めて読んでみますと、全く此れが存在の神社へと主人公がお札を納めに、
即ち[NO1]といふお札を納めに参詣する古謡なのであり、「行きは良い良い 帰りは怖い」
とあるやうに、お札を納めたら最早帰えることはできない恐ろしい片道切符を手にして、細い
topologicalの道を『赤い繭』の主人公の如くに参詣するのです。天神様を存在と読み替へて、
お読み下さい。

「通りやんせ 通りやんせ、ここはどこの細道ぢや 天神様の細道ぢや 一寸通してくだしや
んせ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きは良い良い 帰りは怖い 怖い
ながらも 通りやんせ 通りやんせ」

「この子の七つのお祝い」を主人公がする「七つの」「この子」とは、「垂れ目の少女」には
相違なく、さうであれば、天神様の細道の奥、即ち存在に、主人公はお札を納めに参るといふ
ことになる。ところが、他方、この[NO1]といふお札を授けたのは「トンボ眼鏡の看護婦」
なのであり、「七つの」「この子」の手を引いてお参りするのが、この看護婦であつてもおか
しくはないのです。この3人は疑似家族です。

この二種類の未分化の実存の女性たちに座標の喪失が起きるのは、コモン君がデンドロカカリ
ヤに変形するのと同じ契機に、即ち、交差点で『通りゃんせ、通りゃんせ』と地の文の「通りゃ
んせ 通りゃんせ」が、「この子の七つのお祝いに お札を納めに参」るといふ上の理由から、
鳥居を潜つて至つた天神様の細道の奥、即ち存在で、また存在の奥の宮で、記号化された通り
やんせと地の文の通りやんせの交換と、二人の交換と、これら文章(text)の内部と外部の交
換が、一緒に行はれるからです。

安部公房の曲藝、ここに極まれり。
(略)
従ひ、第5章の新交通体系の提唱といふ章に存在する交通体系は、時間のない、従ひ超越論に
基づく交通体系なのです。」

さて、何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
もぐら通信
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何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?

この問ひに答へませう。

小説の原文は次のやうになつてゐます:

「太鼓に仕立てた象の剥製を、全員が乱れ打ちしながら通過してしまった。おくればせに警報
器が歌いだす。」

「通過してしまった」のは、超越論的な事実のことを書いたとして、何故なら次の文で警報器
の鳴るのが遅すぎるといふ遅延を生じてゐるからですが、さて、しかし、この安部公房には珍
しい「警報器が歌ふ」といふ隠喩(メタファ)の使用に注目して、これも勘定に入れて、これ
以外の文章(テキスト)の要素は何かと問へば、それは次の三つです。

(1)警報器が歌ふといふこと
(2)太鼓に仕立てた象の剥製
(3)暴走族の全員が太鼓を乱れ打ちするといふこと

私の仮説は、少年安部公房は満洲族のシャーマンの太鼓を奉天でみたのだといふ仮説です。

鳥居龍造の民俗学のウエッブページにある写真と解説を引用します(『フォトギャラリー:鳥
居龍蔵の満州調査』1989-2017 © 鳥居龍蔵写真資料研究会・東京大学総合研究博物館:http://
torii.akazawa-project.jp/cms/index.html)。

鳥居龍蔵が大陸に渡つて満州調査で撮影した写真に「奉天清寧宮内保存の薩満教祭具」と題し
て写真集に収められているものがある。「それによればこれらは乾隆帝当時のものであるとい
う。このなかでも鳥居はとりわけシャーマンの用いる太鼓に注目し「この太鼓(手鼓)及び鞭
は尤も古形を有するものにして、現今黒龍江方面に行わるるそれと全く相等し」、と述べてい
る」とのことです。満州語の薩満とはサマン、即ち普通にいふシャーマンのことです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 34

この写真に写る台の上にあつて真ん中にある円形の祭具が、シャーマンの太鼓だと思はれる。

また増井寛也氏の論文『清初の満洲人サマンsaman とその変容―シャマンshaman から祭司


priest へ―』(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/masui.pdf)によれば、
満洲の漢民族のシャーマンに関する考察があり、そこに冒頭引用されてゐるシャーマンの定義
は、次のものです。

「宗教人類学者の佐々木宏幹氏は代表的な諸家の見解を検討した結果、「一応作業仮説的な
シャーマニズムの定義」であると前置きして、シャーマニズムとは、通常トランスのような異
常心理状態において、超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流し、この過程で
予言、託宣、治病行為などの役割をはたす人物(シャーマン)を中心とする呪術-宗教的形態で
ある。と要約する2)。本稿でもシャマニズムをこのような意味で理解しておきたい。」とある
此の定義は、普通今の私たちの通念でもあると思ひますので、此の定義を念頭に置いて話を進
めます。

この論文では満洲に住む満州族のシャーマンの類型についての複数の比較表はあるのですが、
満州族の太鼓については言及がなく、むしろ満洲帝国時代に住む漢族の職業シャーマンについ
ての次の図表があります。下記二つのシャーマンの類型に当たるシャーマンはともに太鼓を打
ち鳴らし、程度の差こそあれ、これもともに踊り、片や歌舞(歌を伴ふ)するとあります。

安部公房が奉天で見たシャーマンが満洲族のシャーマンでなければ、漢族の職業シャーマンで
あつたかも知れません。職業シャーマンであれば、より公に表に出て、対する家の中で主宰さ
れるシャーマンの儀式[註4]とはまた別に、日本人の目に触れる機会があつたのではないか
と推測されます。勿論、これがあり得るのは、安部公房が子供らしい冒険心を発揮して奉天の
旧市街の中に入つて行つた場合です。[註5]あるいは両親のいづれかに連れられて見物に行
つた場合も考へられるでせう。
もぐら通信
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[註4]
増井寛也氏の論文『清初の満洲人サマンsaman とその変容―シャマンshaman から祭司priest へ―』58ページ
(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/masui.pdf)

[註5]
『瀋陽十七年』(全集第4巻、86ページ)に次のやうにある:
「駅を中心にした大部分がはっきりと日本時だけの街だった。
  しかし変わらなかったのは、土地の人間である中国人と、場内を中心にしたその街だった。変わらないばかり
か年々悪くなってさえいた。ここは追い詰められた敗者の町だった。たとえば場内の一流デパートをのぞいてみる。
(略)」以下の旧市街についての経験の多くはない記述がある。

さて、満洲でシャーマンが儀式の時に屠られて生贄になるのが満洲豚の黒豚である。楊紅氏の『満
州族のシャーマニズムと女性たち』と題した論文によれば、祭祀儀礼は次のやうに執行される。

「男性は黒豚の両足を縛って、西の部屋に過去日、頭を西の祖宗板に向け、その腹を南に向けて
置く。男性シャーマンと他の男性が祖宗板に非跪き、女性は庭に跪き、祭祀儀礼を開始する。そ
して、男性シャーマンがこの家の男主人あるいは族長に杯を渡し、豚の耳に酒を注ぎ入れる。す
ると豚の耳が揺らし動くと、その時祖先や神がやってくることを示している。
 その後、犠牲の黒豚を屠る。その血を祖宗板に供える。その家の主婦が、北のオンドルに座っ
て、黒豚の内臓を洗浄する・・。」(『満州族のシャーマニズムと女性たち』14ページ:
https://www.fujixerox.co.jp/company/social/next/foundation/pdf/536.pdf)(原文傍線は傍
点)

満洲の黒豚
もぐら通信
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『カンガルー・ノート』の第1章にも豚が出て来るが、この豚の形象(イメージ)は、普通の日
本人とは違つて、安部公房の場合は例へば此の黒豚のやうな満洲の豚なのであると思はれる。何
故なら更に『方舟さくら丸』(新潮文庫版)の最初に出て来る耳の長い、胴体は犀のやうな動物
は豚であつて、大陸の梅山豚(メイシャントン)とふ豚でもあるからです。[註6]

[註6]
「一九八四年十一月に刊行された「方舟さくら丸」に掲載されている「豚」の原画が我が家に残っている。これは
中国の梅山豚(メイシャントン)がモデルだ。」(山口果林著『安部公房とわたし』128ページ)

実写の梅山豚 『方舟さくら丸』の梅山豚

また、次の此の熊の剥製もシャーマンの祭祀儀礼に使はれたものと、鳥居龍蔵の説明文からは読
むことができます。奉天の清寧宮内の宝物に此の熊の剥製があり、鳥居龍蔵が写真を撮影したの
が1905年でありますし、安部公房の成年1924年にも近く、また此れは名前から言つても
然るべき建物ですから、少年安部公房も此の熊を見た可能性は十分にあると私は思ひます。
もぐら通信
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「これも鳥居が注目した熊の剥製。乾隆19年(1754年)に将軍阿送到が献じたとされている。
鳥居はシャーマンの祭具や鹿角椅子やこの熊などは「満的心性及び固有の風習を示せるものとし
て、余は幾多高価の金玉類よりも斯くの如きものの調査に重きを置くものなり」と結んでいる
(1905)。右端が鳥居」と、上の写真に説明があります。

再度ローリング族の3つの句に戻ります。

(1)警報器が歌ふといふこと
(2)太鼓に仕立てた象の剥製
(3)暴走族の全員が太鼓を乱れ打ちするといふこと

(2)と(3)は、安部公房が満洲で実際に見聞したシャーマンの祭祀儀礼で説明がつきます。

何故暴走族かといへば、暴走族は違法行為を道路上で繰り返す人間たちであるからです。安部公
房の全ての主人公たちと同じく、法律の網の目から落ちて生きる箱男たち、即ち国家の管理台帳
に登録されてゐない人間であるからです。剥製が何故象であるのかといふことは、上述したサー
カスで見た象に、安部公房は超越論的な同情を寄せたことからです。それほどに安部公房は象と
いふ動物を、馬のやうな他の敏捷な動物と分けて考へてゐた。

それでは(1)についてはどうでせうか。

安部公房が満洲で見たシャーマンは、やはり踊りながら歌つたのではないでせうか、あるいは歌
ふやうな調子で発声して呪文を唱へるといふことを繰り返す。それも、甲高い声を糸を引くやう
に発したのではないでせうか。

私が安部公房の作品(戯曲も含みます)に、既に諸処で既述のやうに、存在の現れる前に存在を
呼ぶ音として甲高い音が響きます。それは笛の音であれ、風の音であれ、救急車のサイレンの音
であれです。風の音の場合には、次の3種類の風が甲高い音を立てて吹くのでしたが、何故甲高
い音が存在との関係で例外なく響くのか、これが積年の私の疑問でありました。例へば風の音で
あれば、存在に関係して次のやうな超越論的な重要な役割を演じます。『5。1。4 『カンガ
ルー・ノート』の形象論』(もぐら通信第68号)の「(16)風の音」より:

「外部と内部の門の開閉との契機(定時定刻)に関して、また物事の開始と終了に関して、この
二つの関係の間に(隙間に)あつて、風には次の通り、3種類の風がある。

①存在を招来する風
②存在である風(①と②の風の関係は再帰的でありtopologicalで、誠に安部公房らしい)
③次の存在へと主人公をさらつて行く風
もぐら通信
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この3つの風です。」

安部公房の世界に響く此の甲高い音がシャーマンの発する叫び声であり、呪文であるならば、

ーシャーマンー太鼓ー豚ー超自然的存在(神、精霊、死霊、祖霊など)の降臨ートランス状態ー
甲高い音ー呪文ー予言・託宣ー治病行為(病院を舞台にした作品の多さ)ー……(A)

といふ概念連鎖が無理なく自然に生まれて、安部公房の世界のほとんど全てのと言つて良い範囲
に及ぶ説明がつくのです。

これが、「(1)警報器が歌ふ」といふことの意味ではないでせうか。安部公房は、この連鎖を
実際に奉天で見聞して知つてゐた。

さうであればこそ、何故晩年になつて『シャーマンは祖国を歌う――儀式・言語・国家、そして
DNA』といふやうな題名の元に、国家との関係でシャーマンといふ名前が唐突に表に出てきた
のか、その理由の説明もつくのです。勿論それまでも処女作『(霊媒の話より)題未定』以来最
後の『カンガルー・ノート』に至るまで、またフロッピー・ディスクにあつた遺作まで、どの作
品にあつてもシャーマン安部公房の書いた、見かけ上は哲学的な意匠をしてゐても(さうして中
身も実際にさうなわけですが)、特に金山時夫の死を契機にして書かれた『終りし道の標べに』
以降は、そのエピグラフに記念碑といふ言葉がある通りに、終始一貫死者への追悼の情が底流に
流れてゐる作品群であるわけですが、この論考の文脈で此のシャーマンの文字の入つたエッセイ
をかうして読みますと、

ーシャーマンー儀式ー言語ー国家ーDNAー……(B)

といふ題名の言葉の連鎖は、全く無理のない接続であるといふことに気付くのです。あなたはど
う思ひますか?

この連鎖をかう変形させても良いでせう。

ーシャーマンー儀式ー呪文ー歌謡ー詩文ー言語ーDNAー存在ー超越論ー汎神論的存在論ー国家ー
個人ー……(C)

この(C)に(A)を並べて比較をしてみませう。

ーシャーマンー太鼓ー豚ー超自然的存在(神、精霊、死霊、祖霊など)の降臨ートランス状態ー
甲高い音ー呪文ー予言・託宣ー治病行為(病院を舞台にした作品の多さ)ー……(A)
もぐら通信
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ページ

ーシャーマンー儀式ー呪文ー歌謡ー詩文ー言語ーDNAー存在ー超越論ー汎神論的存在論ー国家ー
個人ー……(C)

(C)の儀式といふ言葉の中に、(A)の「太鼓ー豚ー超自然的存在(神、精霊、死霊、祖霊な
ど)の降臨ートランス状態ー甲高い音ー呪文ー予言・託宣ー治病行為(病院を舞台にした作品の
多さ)」といふ連鎖が全て入つてしまふ。

私が「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」と名付けた安部公房固有の作品の、topologyと超越
論(汎神論的存在論)に基づく構造化と其の配列様式に関する理解は正しかつた。

それでは、(A)の連鎖式では、安部公房の世界(C)の「呪文ー歌謡ー詩文」は呪文類であり
ますから、これも儀式といふ言葉にに収まりますので、さうなると(C)の式は、次のやうにな
ります:

ーシャーマンー儀式ー言語ーDNAー存在ー超越論ー汎神論的存在論ー国家ー個人ー……(C2)

「超越論ー汎神論的存在論」を一つにして簡略にすると、次のやうになります:

ーシャーマンー儀式ー言語ーDNAー存在ー汎神論的存在論(超越論)ー国家ー個人ー……(C3)

さうして、最後の個人はtopologicalにメビウスの環になつて最初のシャーマンに一次元上の回帰
を反復しますので、個人としてはシャーマンである安部公房は、自分の内に此の連鎖を含む言語
藝術家だといふことになります。

更に「言語ーDNA」を言語機能論と置き換へますと、

ーシャーマンー儀式ー言語機能論ー存在ー汎神論的存在論(超越論)ー国家ー個人ー……(C4)

これが安部公房の本質的な世界だといふことになります。

(このやうな連続的な文の変形が、自然言語で私たちの行つてゐるtopology(位相幾何学)です。
またチョムスキーの統辞理論または変形生成文法です。『安部公房とチョムスキー』(もぐら通
信第73号以降で詳述してゐます。)

もし私の仮説が正しいとすれば、「シャーマンは祖国を歌ふ」の論旨を再度吟味することになり、
もともと「シャーマンは祖国を歌ふ」と安部公房がいへたのは、この祖国が日本ではなく満洲で
もぐら通信
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あるからではないのかと考へることになります。そして、楊紅氏の論文を読むと、満州族の
シャーマンは大地母神崇拝から生まれた習俗であり、さうしてこれは全地球的に有色人種にあつ
ては古代以来(本当はヨーロッパ白人種にあつてもそもそも古代ケルト民族以前・以来、たとへ
キリスト教に弾圧され禁圧されてきたとはいへ)大地母神崇拝でありますから、さうであれば安
部公房のいふ「シャーマンは祖国を歌ふ」といふ言葉は二重の意味をもつてゐることになりま
す。

その二重の意味とは、一つはシャーマンの起源は大地母神崇拝であるといふこと。これは、しか
し、世界的に一般的な理解が得られてゐるでせう。もう一つは、近代日本がヨーロッパ白人種キ
リスト教徒の主要国(父権宗教であるキリスト教といふ言語の再帰性を絶対的に否定する宗教と
此のやうなあり方を肯定する近代国民国家(Nation State)を支持するヘーゲル哲学による支配
を受けて来た国々)から、その文明の圧力によつて止むを得ず開国し、そこから文物を輸入して
建設した近代日本国家に対する、安部公房文学の持つ其の野蛮な近代文明に対する絶対否定に基
づく、即ち超越論(汎神論的存在論)と安部公房の言語機能論(言語の再帰性の絶対肯定)に基
づく発言であるといふ解釈です。[註7]近代拒否の此の生きる姿勢、この態度は、安部公房の
師石川淳の生き方にそのまま連なつてをります。(またこの列には永井荷風を入れても良いでせ
う。そもそも明治時代以来の作家・詩人の苦労と苦しみがー自殺者も多いー日本近代文学史です。
私には死屍累々といふ感じがする。)この近代の超越と超克を、安部公房は植民地主義によらな
い文学と呼んだのであり、安部公房の文学は、『カンガルー・ノート』をかうして此れ以前の、
勿論初期安部公房[註8]も含め其れ以降の作品群との関係を考へながら読んで来ますと、上記
(C4)にある通りの、安部公房の文学であることがわかります。

安部公房の新象徴主義哲学[註9]の論理では、近代と反近代、植民地主義と反植民地主義とい
ふ二項対立の二つの項を両方否定して、その向かうへと超越し、自己の反照たる第三の客観(存
在)を創造するといふこと、これが「近代の超克」といふ明治以来の日本の国の問題に対する安
部公房の解決策であつたのです。しかし、これを二十歳で完成させるとは、恐るべし安部公房。

[註7]
(1)『6。『安部公房文学と大地母神崇拝』∼神話論の視点からみた安部公房文学∼』(もぐら通信第67号)
をお読みください。この問題を神話論の視点から論じてあります。
(2)『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)の「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/
あるのか」および「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」をご覧ください。

[註8]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関
係について」(もぐら通信第56号)より:

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、ここでいふ安部公房
文学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者のご理解を得てから本題に入ります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)にて明らかに致しま
した「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づいて定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によつて美事に成功する時
期、即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭和21年)安部公房22歳から『デンドロ
カカリヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房18歳から西暦1944
年(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、西暦1945年(昭和20年)安部公房21
歳までの1年間を含んだ時期を併せた全体の時間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、 も
う一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、
後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房21歳の時、後者
の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥
川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通信第53号)

[註9]
安部公房の新象徴主義哲学は『詩と詩人(意識と無意識)』に詳しい。(全集第1巻、104ページ)

『カンガルー・ノート』は、安部公房が人生の最後の最後に到達し、達成した最高傑作です。そ
れでも安部公房は50年かけても道遠し[註10]と述べてゐます。私たち読者が、この意志を
受け継いでゐるのです。明治時代以来の日本人のやうに日本一国に「近代の超克」を考へるので
はなく、地球的な人類の規模と階層(レヴェル)で「近代の超克」を考へ解決策を、(globalism
である)共産主義によるのでは全くなく、超越論(汎神論的存在論)で実現すること、カントー
ショーペンハウアーニーチェーハイデッガーー安部公房/チョムスキー/デリダ/ドゥルーズ/ハラ
ルド・ヴァインリッヒ等の系譜[註11]で実現すること、これが私たちの「二十一世紀の安部
公房」論なのです。

さて、結局、満州は奉天が、安部公房の故郷であると本人がいふふるさとの意味は、次の4つで
あり、これらは一体であるといふ事になります。[註12]本当に奉天は安部公房のふるさとで
あつた。安部公房の都市、数学、哲学、文学を育てたふるさとであつた。

(1)Topology:バロック様式の都市設計と同じ様式の建築群と其の窓(のマトリックス)即
ち「奉天の窓」による汎神論的存在論:安部公房の新象徴主義哲学:西洋哲学用語でいふ超越論:
これは(2)(3)(4)に繋がる
(2)シャーマン:大地母神崇拝:これは(1)(3)(4)に繋がる
(3)呪文類:これは(1)(2)(4)に繋がる。
(4)汎神論的存在論:奉天の窓:西洋哲学用語でいふ超越論:これは(1)(2)(3)(5)
に繋がる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ42

(5)時間のない空間の世界:リルケの詩の世界:幾何学的な世界:これは(1)(3)(4)
に繋がる

[註10]
『カンガルー・ノート』論(1)「0。はじめに」より以下に引用します:
「『自作再見――『密会』』といふ、これは多分出版社の、作家による自作再見といつた連載物の問ひに答へた短
文ではないかと思はれますが、この文章の最後に次の言葉があります。(全集第29巻、227ページ下段)

「『密会』の最後で作者は虚構の世界で「ぼくはその幻影の愛玩動物みたいな少女を抱きしめて、ただやみくもに
病院の地下の迷路を彷徨し続けた。」と書いた後に続けて、

「その迷路の床に、「明日の新聞」が落ちていた。
電池の切れたマイクに向かって、鼻水まじりに訴え続ける。「助けて下さい、絶対にいい患者になることを誓いま
すから」
 そしてどうやら『カンガルー・ノート』は、その「明日の新聞」の内容ということになるのだろうか。五十年も
かかって歩き続け、まだ迷路からの出口の予感さえない。」

この文章の書かれたのは、1991年12月15日、生年1924年を単純に引き算すれば、安部公房67歳とい
ふことになります。この歳から50年を此れも単純に差し引くと、1941年、安部公房17歳といふことになり
ます。全集第1巻の最初の作品が『問題下降に依
る肯定の批判』が1942年12月9日付ですから、この「五十年もかかって歩き続け」といふ言葉は、安部公房
が遅くとも十代の後半、成城高校時代に文学に志してからの50年といふ意味になります。」
(もぐら通信第66号)

[註11]
『安部公房とチョムスキー』(もぐら通信第73号)の「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか」お
よび「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」をお読みください。

[註12]
奉天といふ大陸の都市が安部公房文学にとつてどんなに本質的な都会であつたかは『安部公房の奉天の窓の暗号を
解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号および第33号)をご覧区ださい。

最後に(2)太鼓に仕立てた象の剥製に戻ると、何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切
を渡るのか?といふ問ひの最初のところで述べたやうに、「奉天の小学生であつた安部公房にと
つては、木下サーカスでは間違ひなく、矢野サーカスではひよつとしたら、観た象といふ動物は、
ゆつくりと動くので、超越論的な動物であつたといふことです。定時定刻に対して緩慢に動く(超
越論的な遅延を生まれつき生ずる)大きな象が、安部公房は好きであつた。」とふことから来た
象の剥製を使つた太鼓といふことでありませう。即ち超越論的な太鼓であり、シャーマンのやう
にローリング族と呼ばれる無法者たちが、此の太鼓を激しく打ち鳴らして存在の十字路たる踏切
を「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからともなく」(超越論的空間)「通過してしまっ」
てゐて(上位接続・無時間時制:論理積(conjunction):動詞の過去から創る時間のない非現
もぐら通信
もぐら通信                          ページ43

実話法)、甲高いシャーマンの呪文の声で「おくればせに警報器が歌いだ」したのです。これが、
珍しくも直喩の作家安部公房が隠喩(メタファ)で、この二行の文を書いた理由です。

安部公房はどこまでもどこまでも、ふるさと満洲は奉天のことを(文学的にはリルケに学び、数
学的にはtopologyに学び、哲学的には超越論に学んだ)「沈黙と余白の論理」に忠実に、誰にも、
物理的に近い距離にゐるどんな身近な又親密な人間にも、現実の時間の中では決して語らなかつ
た。ただ虚構の中でのみ、経験を変形させて超越論的に「僕の中の「僕」」[註13]にだけ、
また此の話法を使つて、語つた。安部公房のふるさとの喪失は余りにも大きかつたのです。これ
らのことが「沈黙と余白の論理」の表立つた起源です。

[註13]
この安部公房固有の内省的話法については『デンドロカカリヤ論(後篇)』(もぐら通信第54号)をご覧くださ
い。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 44

安部公房とチョムスキー
(3)

岩田英哉

      目次

青字は前回までに
1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
て論じ終つたもの、
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
赤字は今回論ずるもの、
3。バロックとはどういふ時代か
黒字はこれからのもの
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロックの哲学:差異の哲学
4。チョムスキーの統辞理論とは何か
5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:変形生成文法とポール・ロワイヤル文法
6。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
7。ラシーヌと三島由紀夫:三島由紀夫とバロック
8。チョムスキーと安部公房:安部公房とバロック
9。バロック人間としての安部公房と三島由紀夫:先の戦後の日本史と世界史に二人の果たした役割と偉業
10。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
(2)ヨーロッパのバロックの概念と定義:ヨーロッパのバロック概念を中心にヨーロッパの17世紀を再帰的に読
み解く
11。イスラムから見た近代史:『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を
読む
12。座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
13。座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
14。二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
15。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」:日本の世界史的立場と世界の日本史的立場について:ヨーロッ
パよ、バロックに回帰した/する自覚を持て
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国体の復元を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論:ヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
3.3 バロック文学:差異の文学
17世紀のヨーロッパは30年戦争といふ大きな戦争がドイツを舞台に戦われた惨憺たる結果を
残した世紀でした。

原因は、この章では今簡単に申し上げれば、カソリックとプロテスタントといふ要するにキリスト
教の宗門争ひと、各国の王たちの権力争ひが加はり、特にオーストリアのハプスブルク家とスペイ
ンを中心とするヨーロッパ諸国の権力争ひにあります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

さて、しかし、文学の世界に話を戻すと、かういふ時代にこそ、さうハイデッガーがリルケ論『何
のための詩人か』に「欠乏の時代にこそ」(ドイツ語で、zur dürftigen Zeit:ツーア・デュルフ
ティゲン・ツァイト)と言つただらう時代にこそ、素晴らしい作品が生まれるのです。

私はこれが人間だと思ふ。時代のせいにして嘆いてゐても、何も新しいものは生まれない。問題解
決のためにあなたが問ふべき問ひはいつも、プラトンの描いたソクラテスの問ひ、即ち、それは何
か、である。

トーマス・マンは同じ考へをtrotzdem(トロッツデーム)の精神といひました。trotzdem(トロッ
ツデーム)といふのは、辞書を引きますと「∼にも拘らず」とか「∼にもめげず」とか「∼に抗し
て」とか、要するに何か災難、難儀、さう特に病気、その他の問題があつても、それに負けずに
打ち勝つて、いや勝たなくてもいいからせめて負けることなく(例へばカフカの精神)美しい藝
術作品を創造をするといふマンの言葉なのです。日本語の日常的な感情の言葉でいへば、何クソと
いふことです。宮沢賢治ならば、雨ニモマケズ/風ニモマケズといふことです。

日本ならば、バロックの時代の30年戦争は、南北朝を含む室町時代や応仁の乱を含む戦国時代
といふことでせう。しかし、この間室町幕府は確かに戦国時代にまで存続してゐたので、室町幕府
の始めから終はりまで237年間ですから、ヨーロッパの30年戦争など時間の長さで比べれば、
我が国の比ではありません。しかし、この治世の乱れた世であるにも拘らず、trotzdem(トロッ
ツデーム)、その時代の藝術家は次のやうな今日の日本文化の礎石を置きました。思ふままに挙
げますと、

(1)華道
(2)茶道
(3)連歌(ここから芭蕉の俳諧ーこれも差異の文学、バロック文学ーが17世紀に生まれる)
(4)水墨画、大和絵
(5)能、狂言

さて、「欠乏の時代にこそ」trotzdem(トロッツデーム)といふ精神で、もつと卑俗に言へば根
性で生まれたヨーロッパの17世紀の詩の話に入ります。

今手元にあるレクラム文庫(これは岩波文庫が判型を真似をした本家の文庫です)の『Gedichte
des Barcok』(和訳:『バロックの詩』)の最初の詩篇を引用して、バロックとは何かといふことを
お伝へしたい。

この詩の題名は『PostBott』(ポスト・ボット:郵便集配人)といふ詩です。伯爵に命ぜられて、
戦さに負けた敵方の王をヨーロッパ中に探し求める郵便集配人の話です。伯爵に命ぜられる地位に
ゐるのですから、あるいは伯爵家の重要な機密文書などを配達する使命を担つた雇用されてゐる専
属の郵便集配人であるのかも知れませんが、ここではただ郵便集配人と訳して措きます。このやう
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

な挿絵が最初に掲げられてゐて、その下に詩が続きます。

この絵は依頼主である伯爵の館を角笛を吹き立てながら出立したところでせう。

この詩の背景にある30年戦争について簡単にWikipediaから引用して、ざつと目を通してから先
へ進みませう。

「三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、独: Dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)


におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から
1648年に戦われた国際戦争。ドイツとスイスでの宗教改革による新教派(プロテスタント)とカ
トリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる。当初は神聖ローマ帝国内
で局所的に起きた小国家同士のプロテスタントとカトリックの戦争が、ドイツ以外のデンマーク、
スウェーデン、フランス、スペインなどヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展した。戦争はカ
トリックの国であるフランス王国がプロテスタント側につくなど、次第に宗教とは関係のない争い
に突き進んだ。統一的な様相としては、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国
と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/三十年戦争)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 47

この戦争で詩の第一連に登場するブコイ伯爵といふ人物は次のやうな人物で、ボヘミアの支配者で
あつた。この強者に負けて逐電したのが、郵便集配人が探し求める敵方の王といふわけです。

第1連は次のやうに歌はれてゐます。

「おいらは郵便集配人、ブコイ伯爵に
 国の外へと飛ばされて、あらゆる国へと
 あの新しい王を探し求めて
 ボヘミアから狩猟で狩り出され追い出されたやうな王を
 ああ、何て話なのと、おいらの彼女のいふことにや、どこで見つけようつてのよ
 (見つかるわけがないぢやない)
 戦さに負けたあの帝領伯が 」

「あの新しい王」とは最近王位に就いた王ととるか、または同じような意味ですが、日本語の意
味では(土地のものから見れば、それまでの為政者とは違ふ土地の事情のわからぬ)新参者の王
といふ意味にもとることができますし、この文脈では地政を知らなかつたので敗者になつたとも
とることができます。「ボヘミアから狩猟で狩り出され追い出されたやうな王」とありますから、
這々(はふはふ)の体で逃げ出したのでせう。散々な負け戦さであつた。

「戦さに負けたあの帝領伯」と訳しましたが、ドイツ語の負けたといふ語義は英語と同じで同時
に失はれたといふ意味でもあります。安部公房の読み耽った『マルテの手記』の最後にふるさとの
村、父親の元に回帰し、帰郷する放蕩息子の放蕩に当たる言葉なのです。言ひ替へれば、戦ひを放
棄して逐電してしまつた帝領伯、放蕩の帝領伯といふわけです。この語の旧約聖書来の歴史的伝統
的な意味からいつて、放蕩息子であるからまた戻つて来るといふ意識が前提にあるのでせう。こ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

のことから、この勝者と敗者の戦ひは、同じあるまとまりのある国土の上で行はれたのであつ
て、それ故に、さうであれば、敵同士とはいへ、同じ国の人間といふある種の一体感といふもの
が、あると云へばあるのだと推測されます。そして、理由があつて、郵便集配人はヨーロッパ草の
根分けても探して来いと探索を命ぜられた。郵便集配人に命ずるのですから、草の根分けても探
し出して殺せといふのではなく、やはり書状を届けるのではないでせうか。

さて、この詩の舞台設定に既にバロック的な要素があります。まづ、

(1)詩の書き手が無名氏( ANONYM )であること。


あなたは安部公房の詩集『無名詩集』といふ題名と其のエピグラフ「私の真理を害ふのは常に名
前だつたー読人不知ー」を思ひ出すでせう。
(2)話者によつて語られる主人公が常に移動してやまない郵便集配人であること。
安部公房が「沈黙と余白の論理」によつて名前を読者に徹底的に秘した「転身」(連続的な変身
を)してやまないオルフェウスのやうである。さうして、
(3)郵便集配人に下される命令が、命令者に敵対して敗れた相手方、即ち「既にして」失はれた
者であること。安部公房の世界ならば、主人公を導く案内人のことです。例へば『砂の女』の一度
採り逃して失はれたニワハンミョウ。[註1]
(4)国境を越えてヨーロッパの諸国を東西南北、(3)の失踪者をあてどもなく探して旅をする
こと。
安部公房の典型的な作品では『燃えつきた地図』の主人公の探偵を思ひ出すでせう。さうして、
(5)どこまでもどこを訪ねても失踪者は見つからず、最後には疲れ果てて、もはやこれ以上の探
索は不可能、依頼人の伯爵からもらつた報酬を分けてやるから、誰か代はりに探してくれないか。
と、どこかの国の酒場で酒を飲みならが周囲のものにいふのです。これが最後の第16連。失踪者
は発見できず、探索者が失踪してしまふ。後者もまた故郷に帰ることができないまま物語が終はる。
安部公房の小説そつくりの結末になつてゐます。

[註1]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(もぐら通信第33号))よ
り引用すると、個別には次のやうな案内人たちです。

「さて、前期20年の案内人は、次の通りです。

(1)手記(実は存在しない):『終りし道の標べに』
(2)名刺(失われた名前の書いてある):『S・カルマ氏の犯罪』
(3)とらぬ狸(存在しない):『バベルの塔の狸』
(4)ニワハンミョウ(一度取り逃がして失った):『砂の女』
(5)損傷した顔(失われた):『他人の顔』
(6)依頼人の夫(失踪した):『燃えつきた地図』

後期20年の案内人は、次のようになるでしょう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

(1)箱男(失踪した男)の書いた箱の製法のマニュアル:『箱男』
(2)救急車に誘拐された妻(失踪した女):『密会』
(3)ユープケッチャ(無時間ー永遠ーに棲息する=存在しない):『方舟さくら丸』
(4)カイワレ大根(脚に生える=存在しない):『カンガルー・ノート』

これらの案内人をみると、みな予(あらかじ)め失われたものと一言でいうことができることに気づきます。」

この詩は全部で16連ある長い詩ですので、全部を訳出せず、バロックの特徴の判る箇所を引用し、
訳して、解説をすることにします。それによつて、安部公房の読者であるあなたにバロックといふ
概念を知つてもらひたい。この概念が何から成つてゐるかといふと、繰り返しますと、

(1)世界は差異である(認識論)
(2)価値は等価で遍在してゐる(存在論)

といふ此の二つの原理です。この二つの原理は互ひに同じ硬貨の裏表でありますから、一原理二相
と云つても良いのです。

郵便集配人は差異を求めて当てのない旅をする。旅する先は、ボヘミア、ハンガリー、メールン、
プラハと、もつと後にはフランケンタールなどにも。しかし探しても探してもゐないので、今度は
下層階級へと階級の階段を降りて行つて農夫の間に入つて行つて尋ね歩く。忠臣蔵ならば吉良上
野介を邸内を探してもゐないので、納屋に隠れてはゐないかといふところでせう。さうしてまた更
にはベトレン・ガーボルといふボヘミア(ハンガリー)の敵である君主にまで会ひ行つて、敵であ
るから「戦さに負けたあの帝領伯」の行方について知つてゐるに違ひないと思ふて尋ねるが、しか
しこれも無駄足に終はり、次には失踪情報を共有してゐる筈と思つたのでせう、連合軍を組んでゐ
る多数の君主に向かふも結果は同じ。それでは足らじとオランドの偉い君主の所にゆくが……。こ
れをあと5回繰り返しして、第12連ではユダヤ人の衣装販売店を尋ねます。

「あなたはユダヤ人だから、金も衣装も一杯お持ちでせう
 あの伯爵はあなたの店にゐて、ごやつかいになつてゐませんか?
 稼いだ労賃で珍しい衣装を(姿を隠すために)一着に及んで
 誰にも知られぬままに逃げたのではないのですか?
 ああ、何て話なのと、おいらの彼女のいふやうは、どこで見つけようつてのよ
 (見つかるわけがないぢやない)
 戦さに負けたあの帝領伯が 」

この連を読みますと、それ以前の連での探索徒労の姿がありますから、郵便集配人が一々衣装の
ぶら下がつてゐる其の衣装の間の隙間を執拗に探し求めてゐるといふ連想が働きます。まるで差異
を求めて彷徨ふ安部公房の小説の主人公たちのやうです。この郵便集配人は、ヨーロッパ17世紀
のS・カルマ氏です。まるで、安部公房の撮影した写真をみてゐるかのやうな気持ちがします。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ50

また訳はしませんが、別のバロック詩の、意味ではなく、詩の姿を見てください。安部公房がポー
の次に好きだといふルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の始めの方に書かれる詩のやう
に、文字を装飾的に絵画的に使つて効果をあげるといふ書き方です。否、単に効果をあげるためと
いふよりも生理と論理(一原理二相)の求める必然だと思はれる。

この詩は『至福の角笛』といふ詩です。この「至福」といふ単なる幸福ではなく、13世紀中世
キリスト教成熟期(あるいは、それ以前でも17世紀でも現代でもさうでせうが)では、勿論キ
リスト教のGodの与へ給ひし人間の至福のことで、その中身を読めば、冒頭からGod信仰の至福
どころか、この角笛を吹くと、数々の果物や、花屋、麦などの穀物類や、桜ん坊や、林檎や、え
えいほかにももつとあればあるだけ、といふやうに、飢餓を救ふ夢の食べ物が出現するといふ、
まるでこれも「魔法のチョーク」のアルゴン君の書いた詩ではありませんか。神も仏もあるもの
か。これは、このキリスト教の用語を使つて、宇宙を創造した唯一絶対全知全能のGodがゐるの
だつて?ゐるわけがないだらう、もしゐるなら、こんな美味いものを出してみろ、俺たちの腹を
満たしてみろ、といふヨハン・シュタインマンといふ作者の怒りと諧謔と辛辣なユーモア(これ
も安部公房に通つてゐる)に満ちた表現なのです。神聖な用語を、恐ろしいことにtrotzdem(ト
ロッツデーム)、時代が時代なら冒瀆すると言はれてゐるところです。後述するcorna(コルナ)
は、イタリア語で角(つの)を意味するといふのであれば、この角笛は二重にキリスト教を侮辱
するといふ形象であることになります。

時代は違ひますが、この詩と同じイギリスは19世紀のヴィクトリア朝の『不思議の国のアリス』
の中の、上の詩よりももつととぐろを巻いた螺旋構造をしたバロック詩を。大変よく似てゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          51
ページ

更に、『砂時計』と題した、砂時計の形をした砂時計の詩を。向かつて左の時計の柱は上の六行
から下に詩が繋がつてゐて、右の時計の柱も同様になつて其のまま意味ある詩として繋がつてゐ
て、真ん中の胴体の括(くび)れた砂の入つてゐるガラスの部分はこれはこれで詩が砂のやうに
下に落ちるやうに意味をなしてゐて、「ああ!青ざめた神」といふ言葉が丁度これら三つの部分
の真ん中、即ち胴体部の一番括(くび)れたところに置かれてゐるといふ用意周到な詩です。左
右の柱の詩は、勿論唯一絶対の神の否定です。わたしが言ひたいのは、ヨーロッパの白人種キリ
スト教徒よ、この17世紀の辛辣、諧謔、笑ひ(ユーモア)、そしてGodと教会に対する反骨を
思ひ出せといふことなのです。
もぐら通信
もぐら通信                          52
ページ

最初の二行には、おお人間よ、この詩にある警告を忘れるな/さらば、永遠なるお前の人生行路が
産まれるぞ!と言つて、ここから左右の柱に詩が分かれて砂のやうに落ちて行くのです。左の柱に
は何が書いてあるか。目も彩な(または種々雑多な)軍事同盟、銭の音はチャラチャラと、女は沸
騰し(女がどれもこれも売春するといふ意味かも知れない。男からみての沸騰でせうから)、友は
(犬のやうに)吠え、嫉妬も吠える……とあり、他方右の柱には、左の柱のそれぞれの一語一行に
対して反対の極の言葉が置かれて詩になつてゐる。

例へば、上に訳した「目も彩な(または種々雑多な)軍事同盟」に対しては死が、その「目も彩な
(または種々雑多な)」といふ形容詞には幸せが(この言葉もまたGodの支配の下での幸福であり
ますから、これも軍事同盟に対するに辛辣な皮肉、Godの否定です。「銭の音はチャラチャラと」
の銭の音に対しては、災難が、以下能(あた)ふる限り対応関係を取りながら両方の柱の詩は下降
しながら、世の華美、威勢、権力、時間、被害、体(このドイツ語は死体といふ意味でもある)、
詐欺、敵といふ言葉が落ちて行く。さうして、三つの部分の真ん中の、ガラスの容器のくびれたと
ころで、最前の「ああ!青ざめた神(God)」が主語になつて、Godの両隣の柱の同じ行を共有す
る言葉は、左は血、右は(Godや貴族たちの)威容・華美となつてゐて、これも辛辣。「青ざめた
神」のGodには定冠詞がついてゐるので、この糞野郎といふ意味であり、この糞野郎のGodは/借金
の催促状で/間違ひなく何度も何度もしつこくやつて来やがるし(訳者:実際にキリスト教会への寄
付金のことでせう)/そのくせ直ぐに報はれることはない。/といふ内容の、砂時計の上半分の詩な
のです。

次の詩は、バロック様式の庭園の挿絵のある詩で、挿絵の上にある看板は『この世は迷路だ/魔女
の時代の後をキリストがついて行く』といふ代物ですし、挿絵の下にある詩の題名は『世界の迷路』
といふ題です。短い詩ですので訳出します。
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この世は迷路だ
悪魔の詐術と奸智で一杯だ。
「悪に満ちた過ち通り」(といふ名前の悪の道)が四通八達してゐる。
祈れ!神がわたしを手離さないように。

とあるやうに、最初の三行に対して最後の一行は、これも実に皮肉に満ちた辛辣なキリスト教批
判です。唯一絶対全知全能の神に祈つても解決にはならないといつてゐる。

バロックの精神は、神も仏もあるものかだ。といふわたしのいふ意味もお分かりなるのではない
でせうか。絶対的な座標がないので、バロック的な人間にとつては世界は迷路です。これは、安
部公房の世界認識でもあるのは、読者ご存知の通りです。差異だけを求めて、差異を考量し、自
分で/の座標を絶えず創造しながら生きて行く事しか生きる道がない。このやうにものを考へる人
間にとつて、さうしてあなたも安部公房の読者として其の一人でありませうから、社会がいつも
絶対的な座標の内部にゐることを要求するだけであるからには、あなたは生きることに困難を覚
え、助けを求めて安部公房を読む。如何に上のやうなバロック庭園の閉鎖空間の迷路を脱出する
か?その方法を考へよ。それが、topologyであり、言語機能論(変形生成文法:普遍文法規則)
であり、汎神論的存在論または超越論といふわけです。即ちバロック。

(1)世界は差異である(認識論)
(2)価値は等価で遍在してゐる(存在論)

といふバロックの此の二つの原理から言つて、「3。バロックとはどういふ時代か」(もぐら通
信第73号)で述べたやうに、

「幾何学的な図形でいへば、バロックといふ概念は差異にありますので、形は直線ではなくクネ
クネとした曲線であり、真円ではなく楕円であり、正方形ではなく並行四辺形であり、3次元で
は遺伝子と同じく隙間の集合である螺旋形であり、安部公房が言語の本質を説明する言葉を借り
れば「「たとえばパブロフは、条件反射で有名なあのパブロフですが、《言語》を一般の条件反
射よりも一次元高次の条件反射とみなしていたようです。(略)/「一次元高次」のという意味は、
たとえば紙のうえに円を画き、その円を紙から話して空中移動させてみてください。チューブが
出来ますね。平面が一次元高次の空間になったわけです。」といふことであるのです。

安部公房が《言語》と書いて言語といふ言葉を《 》といふ記号によつて存在の言語と化さしめて
ゐること [註2]は、改めていふまでもありません。言語は存在に直結してゐるのです。さて、
その上で、安部公房のいふ「紙のうえに円を画き、その円を紙から離して空中移動させてみてく
ださい。チューブが出来ますね」と言ひながら、安部公房の両手は真つ直ぐ直線的に垂直方向に
チューブを描いたのではなく、両手を左右にゆらゆらさせながら、謂はば螺旋形にクネクネと
チューブを描いたのです。」
もぐら通信
もぐら通信                          54
ページ

さうして、うねうねとした曲線を描くことができるのは、(1)世界は差異である(認識論)と
いふことと併せて、

(2)価値は等価で遍在してゐる(存在論)

からです。

上の詩のうねうねの曲線は、誤解してはなりません、幅に広狭があらうとも、価値としては等価
であるのです。バロックは量ではなく、質なのです。上のくねくねした複数の詩は行の長短によら
ず、詩は確かに同じ方向を向き、さうなつてゐる。

上のやうな絵画的に文字をつかふ詩の書き方もバロックですが、このやうな意味でも、確かに安
部公房は『不思議の国のアリス』が二番目に好きだつたのです。

今度はバロックの小説でバロックとは何かを示します。

これはスペインのバロック小説『ドン・キホーテ』に対して同じ時代のドイツのバロック小説『阿
呆物語』の表紙です。ここにある通り、人間といふ生き物は人間といふよりも得体の知れぬ様々
な動物たちの部分の合体した化け物です。ドイツは30年戦争の戦はれた当の戦地ですから、国
土も、従ひ人心も荒廃し、人間観も此のやうになるのは止むを得ない。神も仏もあるものか。そ
のやうな時代の此れは人間像です。1951年の遺伝子の二重螺旋構造の発見以来時代は全地球
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にバロックだとこれまで申し上げて参りましたが、従ひ此の主人公の絵姿はそのまま今かうして
生きてゐる私たちの姿であると考へてよいのです。さて、あなたがかういふ人間になりたいかど
うかは、また別問題です。地球上に又日本列島に住まふ人間たちに、例へ日本人であらうとも、
実際に現実に此のやうな日本人がゐるのだと考へてみることです。様々に世を騒がす事件に関は
る人間たちは、政治家であれ商人(ビジネスマン)であれ、庶民であれ、皆このやうな化け物で
ある。

しかし、この表紙のバロック人間は、またもう一つのことを教へてゐる。それは、表紙絵の中に
描いてゐるところですが、世間といふ書物を読むといふこと、社会、世界を一冊の書物と見立て
て、これを読むのだといふ考へ方です。これはやはりフランスのバロックの哲学者デカルトの『方
法序説』にも書いてある考へ方ですから[註2]、ドイツとフランスの大陸の二国でさう考へら
れてゐるならば、ヨーロッパ全体でもさう考へられてゐたと考へることができます。30年戦争も
ヨーロッパ全域で行はれましたから、このことからも、さうであつたと考へてよいでせう。実は、
この隠喩(メタファ)は、古代ギリシャのプラトンの著作の中にもソクラテスの言葉として出て
きてゐて(今出典を明示できないのが残念)、ですから、ヨーロッパ地域の古代からの慣用句な
のです。

[註2]
「こういうわけで私は、成年に達して自分の先生たちの手から解放されるやいなや、書物の学問をまったく捨てたの
である。そして、私自身のうちに見いだされうる学問、あるいはまた世間という大きな書物のうちに見いだされうる
学問のほかは、もはやいかなる学問も求めまいと決心して、私は私の青年時代の残りを旅行に用い、あちらこちらの
宮廷や軍隊を見、さまざまな気質や身分の人々を訪れ、さまざまな経験を重ね、運命が私にさしだしすいろいろな事
件の中で私自身を試そうとし、いたるところで、自分の前に現れる事物について反省してはそれから何か利益を得よ
うとつとめたのであった。(『方法序説』第1部最後の部分)

このことに学ぶならば、今の21世紀の私たち日本人に必要とされることは、生きるために世界
をまた日本を、一冊の書物として読むことではないでせうか。さうして、何をあなたが理解する
ことができるようになるのかは、一人一人によつて人生に差異があるに応じて異なることでせう。
しかし、他方人生の価値は、たとへ万人に相違してゐても、等価で遍在してゐるのです。人生の価
値が等価であるとは、身分の上下、支配・被支配の別はなく、いづれもsuperflatで、それはさう
でせう戦乱の時代ですから垂直方向の秩序はほとんどない、また、この点でも安部公房の世界で
す。君、5分後に原爆水爆が落ちてきて世界が破滅するかしないか、どちらに賭ける?といふ安
部公房の声が聞こえてきさうです。昨日、今日、明日と時間は連続してゐるのではない。今日は昨
日の明日、今日は明日の昨日であれば、この1日といふ時間の単位は等価で交換可能であり、昨日
といふ明日が今日であり、明日といふ昨日が今日であり、今日といふ昨日が明日であり、明日と
いふ今日が昨日である。超越論の世界、時間の存在しない汎神論的存在論の世界、私たちの日本
列島でいふ八百万の神々の世界です。
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三つ目にいふべきことは、この表紙絵の人間の足下にたくさんの仮面が落ちて散らばつてゐると
いふことです。戦乱の時代は人間は互ひに利害が対立してゐる。昨日の友は今日の敵、明日の敵
は昨日の友である。このことに堪えて生きるために、人間は幾つもの仮面を被つてゐる。となる
と、これもまた安部公房の世界であり、バロックの世界なのです。仮面の数ほど、人間は社会の
中で多義的な役割を演じてゐるといふ意味です。あなたは散文的に一意的に、絶対座標の中で生
きてゐるのではない。

四つ目にいふべきことは、corna(コルナ)です。コルナとは指による意思表示のことです。この
怪物が書物を手にしてゐる左手の指の中指と薬指が内側に折られてゐることで、ある侮蔑と怨霊
退散の意志を表示するといふ此の行為のための指の形をコルナといひます。万国共通のコルナは、
勿論人差し指と中指の間に親指を通す猥褻なるコルナでありませう。

以下この指の形のコルナについての説明です。

阿呆物語の表紙絵の主人公が左手の指にある形を形成して本の挿絵の内容を指差していることの
意味は何かというと、これがcornaといふhand gesture or hand signなのです。次のURLへ:
http://en.wikipedia.org/wiki/Sign_of_the_horns

これによれば、次の二つの意味がコルナにはあります。

(1)その指差しによって、対象を侮蔑する。
(2)その指差しによって、悪魔払いをする、怨霊退散ということ、災厄が我が身にかかって来
るのを防ぐ厄除けである。

といふ此の二つの意味があることがわかります。

阿呆物語の主人公の此の絵も、30年戦争といふ乱世である世間という書物に対して、そのよう
な考えと感情と態度を示しているわけです。

上記の(1)も(2)も、安部公房の世界のことである。

(1)は、バロックの時代は、神聖なるものを冒瀆し侮辱することと冒瀆することと、神聖なる
ものが並存並置されて行はれる時代ですので、神聖だと安部公房が考えている病院や父親を、侮
辱によって、存在と化さしめるということに於いて、さうである。[註3]

[註3]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(もぐら通信第33号)の「1
4。安部公房はサンタクロースである」と「15。サンタクロースを安部公房に変形する」をご覧になると、安部公
房が心に抱く、病院といふ場所はとても神聖な場所であるといふこと、医者も看護婦も神聖な職業であること、そし
て窓から家に入るといふことは、とても神聖な行為であること、しかし/それ故に罵倒し冒瀆する感情と感覚と論理が
バロックであることの一見矛盾したかに見える関係が理解できる筈です。中心部分を引用します。
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「何故安部公房は、神聖なる職業である医師として神聖なる病院で働く父親を、罵倒すべき馬に変形させたのでしょ
うか。馬は、奉天の街でみた、安部公房が生理的に嫌った身近な動物でした。[註30]

安部公房の変形能力は、そうして上でわたしがサンタクロースを実際に同じ論理で変形させてみせたように、両極端
のものを上位接続(積算)して、その差異をゼロにして、それを形象化するというものですから、この能力を使って、
一番尊敬する神聖なる父親を、生理的に子供時代に奉天で嫌悪した動物である馬と接続をして、父親を変形させて馬
の形象と化さしめ、こころの中で一生涯大切にしたのです。これがバロックの感覚です。そうして、読者は、それが
安部公房の父親であるとは誰も気づかない。そしてまた実際に、言葉の上の事実として、それは既に安部公房の父親
である安部浅吉では全然なくなっているのです。これが、安部公房が全く私事を語らず、小説の中や戯曲の中でだけ、
自己の人生を語る理由なのです。」

(2)は、安部公房が小学生のときの詩を書いたときから最晩年に至るまで内心に一生持ってい
た、言葉と呪文(呪術)に対する感情に於いて、さうである。この感情は、鎮魂と弔いの感情で
あった[註4]。この場合、呪文の言葉は、

(1)語彙が異なっていても、文章であつても、また数字であつても、それは常に繰り返しを意
味する。
(2)語と語の間に一文字分の空白ををいて表され、段落と段落の間に一行分の空白ををいて表
され、また直線の点線によつて表され、余白によつて表され、また複数の記号(例:『』《》)
[註5]によつて存在との関係で表される。
(3)上記(2)の空白は、後年(文学的にはリルケにも見つけて)言う余白でであり、即ち透
明なる関数としての上位接続機能のことである。即ち、
(4)差異のことである。

[註4]
『旅と鎮魂の安部公房文学』(もぐら通信第65号)より少し長い引用ですが、全体を理解して戴くために敢へて引
用します:
「2。3 『終りし道の標べに』(1948年):問題下降に依る肯定の批判(1943年)
この旅と鎮魂の代表的なものは、安部公房の詩の世界では上でみたやうに既に旅と鎮魂の思ひは詠はれてゐたとはい
へ、また19歳の処女作も既にさうであつたとはいへ、作家としての名実ともに最初の本格的な世に認められた小説
は、金山時夫の訃報に接して書いた『終りし道の標べに』(真善美社版)です。金山時夫と親しく語らい共有したリ
ルケの『オルフェウスへのソネット』の、第1部Vの詩の最初の一行にある「記念碑を建てることをしてはならない」
とあるリルケの命令に背いてまで書いた『終りし道の標べに』といふ、親友の死を弔らひ、その霊を鎮魂する記念碑
としての小説であることは、その有名なエピグラフが、次に示してゐる通りです。

「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
 そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
 記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……。 」
(全集第1巻、272ページ)
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上記に書いたことと一部重複しますが、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』
(もぐら通信第33号)の[註5]より引用して、お伝へします。

「完全な存在自体」になりたいといふことについて、またこの言葉で言ひ表してゐることが、どんなに金山時夫の死
に直結してをり、その死に起因してゐるかをお読み下さい。

「『終りし道の標べに』:
この表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、やはり自己と金山時夫との差異についての言葉で始められ
ていることに、改めて、気づきます。

「亡き友金山時夫に

(以下エピグラフを略す)」

これは未分化の実存(性の分化しない年齢)である時代からの親友の死と自己の生の差異を書いた鎮魂の献辞ですか
ら、その差異を埋めるための安部公房の感情は、鎮魂の、弔(とむら)いの感情ということができます。

この鎮魂と弔意の感情は、この後の小説の冒頭の全てに立ち現れていると理解することができます。当時金山時夫の
訃報に接した安部公房は、高校時代以来の親しい友人、高谷治に次のように書いています。

「 尚ほ、今の計画としては、金山の伝記を書き度いと思つてゐる。これは容易な仕事ではない。詩であつてもなら
ないし、伝説であつてもならない。やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて
行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で
再び永遠に生かさねばならないのだとしたら……」(『高谷治宛書簡』(1946年11月5日付)全集第29巻、
277ページ下段)

ここに書いてある23歳の安部公房の思い、親友への鎮魂と弔いの念は、この処女作も含み、遺作『飛ぶ男』と『さ
まざまな父』までの全ての著作に及んでいます。何故ならば、これらの作品の主人公は皆「存在の中に姿を消した」
主人公、即ち金山時夫であるからです。

更に、何故ならば、安部公房の造形する主人公たちは皆、「やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為
に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行
つた一人の友」であるからです。

そうして、この鎮魂と弔いの念は、この「一人の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないのだとしたら」一体ど
ういう「詩であつてもならないし、伝説であつてもならない」そのような散文を書くべきかという問いに答えること
を安部公房に要求し、そうして安部公房は、その死者を「此処で再び永遠に生かさねばならない」という鎮魂と弔い
のこころで、作品を書いたからです。

従い、このように、安部公房は、その物語の最初に死者を蘇生させ、復活させ、その物語の空間に呼び出し、招来す
るための差異という数学的な認識に裏打ちされた呪文をまづ唱えてから話を始めるという此の儀式を誰にも、読者に
も知られぬように姿を隠して唱えている透明なるシャーマンなのです。

『終りし道の標べに』の表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、この奉天の親友の霊魂を呼び出す、実
もぐら通信
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は呪文であったのです。

安部公房の語り批判するシャーマンは、公共の儀式の場では、祖国の詩を歌いますが(『シャーマンは祖国を歌う』
全集第28巻、229ページ)、他方、実はシャーマンである安部公房自身は、認識された差異に在る存在を歌うこ
とによって、死者と其の霊魂を招来して、神話の世界である存在を、やはり詩として歌うのです。[註37]

かうしてみますと、安部公房は、実は隠れたシャーマンなのです。」

[註5]
安部公房の記号の意味と種類と用法については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐ
ら通信第56号∼第59号)を参照ください。詳細に論じました。または「『カンガルー・ノート』論(1)」(も
ぐら通信第66号)の「1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容」をご覧ください。簡略に示しました。

また、日本語のWikipediaには、次の記述がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/コルナ

「コ ルナ (corna) はジェスチャーのひとつで、人差し指と小指を立てて中指と薬指をたたみ、そ
こへ親指を添えるジェスチャーである。地中海諸国では侮辱的な意味を持つ。この ジェスチャー
の起源は古代ギリシアまで遡るとされている。コルナは、イタリア語で角(つの)を意味する。

イタリアでは、伸ばした2本の指を角に見立てて本人に見つからないように後ろ頭から出す、あ
るいは妻(稀に夫)に騙されていることを示唆するために相手に突きつけたりする。イタリア語
cornuto は角を持つ意であるが、暗喩としては不貞の妻を持つ夫を意味しているのである。

侮辱的なコルナは、様々な職の中でもとり わけサッカーの審判員に向けられる傾向にある。とい
うのも、イタリア人の間では、贔屓のサッカークラブの敗北を、無能、あるいは賄賂を受けてい
る、その他 不適格な審判員を責める際に使われる習慣があるためである。これは常套手段として
既に固定観念になっている。

これらの起源はミノタウロスの伝説まで遡ることが出来る。彼はパシパエと白い牛の間に生まれ、
クレタ島のミノスに背いた。角の生えたミノタウロスは、裏切りの最も顕著な証となり、シンボ
ルとなっていったのだ。」

上記の最後の段落の説明は、もし半人半獣の怪物に適用できる解釈であるとすれば、阿呆物語の
表紙絵の怪物の性格の由来を示しているものと思われる。この表紙絵の人間もまた裏切り者だと
いふことである。戦乱の世であり、昨日の友は今日の敵、今日の敵は明日の友である。

バロックの人間像とは、従い、この古代ギリシャの文明のミノタウロス伝説にあるように、パシ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

パエという人間の女(妃)と白い牛の混血の中間状態の生き物である。人間であり人間ではなく、
獣であり獣ではないという生き物。[註6]この間の隙間に生きる生物といふことになり、これ
もこのまま安部公房の主人公たちの生きる境界域での姿である。パシパエという妃は、牛の模型
の中に身を隠して、即ち変装して、或いは仮面を被って、白い牛に近づき、性交して、ミノタウル
スを生む。どんなに哲学的な意匠を凝らしてゐようと『他人の顔』の主題である。

[註6]
安部公房は『牧神の笛』といふエッセイの最後に、古代ギリシャの半獣半身の神パンまたはフォーンを自らになぞら
へて、詩と小説の統合への決意を語つてエッセイを締めてをります。この最後の一行が再帰的な文であることに注意。

「結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーンの快活さにたいしてであり、それは同時に、ほかで
もないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身へのいきどおりにほかならなかったのではなか
ろうか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹かねばならぬのだ。」
(全集第2巻、202ページ)(傍線は原文傍点)

また、かうしてコルナといふ言葉と意味を知ることによつて、私たちは『方舟さくら丸』の登場
人物であるサクラの次の最初の引用中の行為はコルナであり、次の存在へと(3といふ数字を数
へてから)下降する上記(2)の意味の、即ち結界を張るためのコルナであることを知るのです。
しかし、尚上記(1)のコルナの意味も生きてゐる。下線を付しました。

「女が両手を打ち合わせた。
「すごい、声がびんびん響くね。」
「ここで歌えば、歌が上手くなったような気がするぞ」昆虫屋が仰向いて残響に耳を傾ける。
「もちろんおれたちも船賃を払わせてもらいます。こいつは値打ち物だ。只ってわけにはいかな
いな。相談のうえ、適正価格で支払わせてもらいます」なんのまじないかサクラが指を三本、つ
ばでしめして額になすり付け、思い出したように付け加えた。「菰野さん、忘れないうちに言っ
とくけど、販売促進協力費、未徴収だからね」
(『方舟さくら丸』全集第27巻、299ページ)

また、このやうな眼で作品を眺めますと、同じ作品の他の箇所でも、次のやうな文章があります。

「とつぜん昆虫屋が鼻にかかった裏声で歌い出した。
「黄金虫ィは、金持ちだァ……」その一節だけで歌いやめ、間が悪そうに鼻を鳴らす。「口癖な
んだ、ユープケッチャの前に、しばらくクワガタを扱っていたものでね」
「サクラから聞いたよ、角のある種類でしょう」
「こんなふうにやるのさ」左手の人差し指を宙に立て、声帯を詰め気味にして、「見えるかな、
ほら、この指先にとまっている虫。古来、わらべうたにも唄われておりますとおり、甲虫類は縁
起がいい。(略)」
(『方舟さくら丸』全集第27巻、286ページ)
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もぐら通信                          61
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二つ目の引用を見ると、角のことを言ひ、「左手の人差し指を宙に立て」てといふ指を使つた仕
草は、同様にコルナの一種のhand signであることは間違ひありません。また、黄金虫の歌を途中
でやめて、しかも裏声て歌つてゐて、これを続けなかつたといふことは、これまで安部公房の小
説を読んできたところによれば「沈黙と余白の論理」に従つて『通りゃんせ通りゃんせ』の歌と
同様に、隠された後半部に小説と其の存在に深く関係する意味が隠されてゐることになります。
ここではこれ以上は詮索することは控へて先に進みます。

コルナに限らず、大陸の人間は指を使つて意思疎通を図ります。私の知つてゐる例では、アメリカ
の詩人ハート・クレインの詩の中の一篇に五本の指の役割に応じて、親指を職場のボスに見立て、
ほかの指を部下に見立てて、更にもつと深い男色者の隠れた隠語と組み合わせて美しい詩に仕立
てた詩があります。何故親指だけがthumbといはれてボスであり支配者なのかといふことの理由
は、五本の指のうちで、ほかの四本の指と意思疎通が自由にできるのは親指だけだからです。あ
なたの五本指でやつてご覧なさい。ほかの指同士をくつつけての会話は容易にできないのです。
同じ文化を当然のことながらイギリス人も共有してゐます。親指トムといふ主人公がお話の世界に
ゐますから、これも相応の解釈が可能でありませう。

ですから、アメリカの小学校で先生が低学年の教室で、あなたの指は何本ですか?と尋ねると、
子供達は一斉に両手を先生に示して、親指は折畳んで内に入れて、8本と声をあげて答へます。親
指は支配者であつて、あるいは父親であつて、指(fingers)ではないのです。小説家の村上春樹
はアメリカ文化の通俗に通じてゐますから、処女作『風の歌を聴け』の中で此の論理を使つて、
ひと夜を一緒の寝床で眠つた美しい、しかし白い腐乱したかのやうに見れる女性の裸体の足先か
ら頭頂までを主人公の指で身長を測らせて、最後に親指分だけが余つたなどといふ場面を描いて
をります。勿論、日本の読者は此の意味を知りませんから、村上春樹の謎などといつて幾つもの
本が出る始末です。村上春樹の主人公はこのやうに父親になることのできない男です。海外の読
者は此のエロティクな意味を理解してゐるのです。しかし、日本の読者には隠して、海外の読者に
わかるとは、これ如何に。

日本の島に此のやうな指で標(しるし)を立てる文化があるでせうか。私には身近ではありませ
のでわかりませんが、あなたの土地では如何でせうか。かう思ひますと、これも安部公房が満洲
は奉天で習い覚えた漢人か満州人の、大陸の人間たちの、意思疎通のhand signの一つなのでせう
か。

本題に戻ります。

さて、表紙絵の主人公の足下に散乱してゐる仮面は、このやうな奸智と策略の結果不要となつた
仮面なのかも知れないし、さう理解することができる。数の多さは、これが日常茶飯事であるこ
とを意味してゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 62

また、この絵姿は、阿呆物語の時代、17世紀のバロックのドイツには、この古代ギリシャの伝
説が伝はつて生きてゐたということを意味している。さうでなければ、ヨーロッパの人間は、時
代が此のやうな時代であれば、人間と獣の合成生物を考へるものだといふことになる。これは、
私たち日本人の発想とは大いに異なつてをり、キリスト教といふ一神教の考へる唯一絶対のGod
といふ前提から此の前提を否定して考へて至る人造人間の製造といふ発想[註7]のみならず、古
代ギリシャといふ多神教の世界、汎神論的な世界でも、このことを絶対的に肯定しても此のやう
に随分とよく似た、人間と異生物の部分合成といふ発想が生まれるといふことは、此の地域の奴
隷制度を許して来たものの考へ方と思ひ併はせて、単に一神教・多神教といふことばかりではな
い、何か非常に根深い此の地域の人間観が根底にあるものと考へられる。つまり、

反キリスト教を唱へると、人間がGodにならうとするか又は人間がGodになつてホムンクルスやフ
ランケンシュタインのやうな人造人間を創造するか、あるいは戦乱の原因がキリスト教内の宗門
争ひであつてキリスト教を巡る一見宗教的な擾乱のやうに見えてゐて、しかし人心が荒廃して人間
が神も仏もあるものかと思ふと(反キリスト教といふよりも)無宗教の状態になつてしまふと『阿
呆物語』の表紙絵の姿のやうな複合生物人間といふ異様な人間の姿を合成してしまふ。どつちに
転んでも救いやうのない人間たちである。この状態にある人間個人の生き方を問ふならば、汎神
論的存在論へと向かふことに気づかないし、その意志が起こらないのであれば、これは安部公房
の哲学は、たとへ人間個人本位に考へてゐても、確かに安部公房のいふ通りに、ヨーロッパ白人
種キリスト教の実存主義は実存主義ではなく(例へば先の戦争後に流行したフランスの哲学者サ
ルトル)、全く正反対の、確かに新象徴主義哲学[註8]だといふことになります。

私たちは、このやうな事情を有する西洋哲学に、たとへ論理を理解したとしても、そのまま私た
ちの生活と文化に鵜呑みにして取り容れてはならぬといふことが判ります。

[註7]
『メタSF作家A氏への五つの手紙』(もぐら通信第71号)の「4。A氏への手紙 IV」の「4.3 何故キリスト教徒
は人造人間を製造するのか?」をお読みください。

[註8]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づければ
新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴
の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上段)

結局、かう考へて来ると結論は、大陸の人間と島嶼(とうしょ)の人間ではものの考へ方が全く
異質であると考へる以外にはないといふことです。

前者は人間も奪い合ふ対象としてある資源だといふことになり(確かに20世紀後半にglobalism
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もぐら通信                          ページ 63

の流行とともに流行し始めた企業の人事部の英訳はHuman Resources Departmentであり、相変


はらず人間も搾取と収奪の対象といふ考へ方から外へとは出てゐない。この考へ方では相変はら
ず意識の中には奴隷制度が残つてゐて、人間も売買の対象となる私的所有の財産であり、財産で
あるから売買のための市場が立つといふことになる)、つまり大陸では資源は人間も含めて、恐
ろしいことに物質的な資源なのであつて、富は互ひに奪い合ふものであるのに対して、私たち日
本人のやうな島国に生きて来た人間のものの考へ方は全く異なり正反対に、富は奪ひ合ふもので
はなく、海の彼方から無限に豊かにやつて来るので人間同士で奪ひ合ふ必要はなく、逆に採り過
ぎないようにして自然を大切にすることが大切だといふ(自然に対する)節度と限度を考へたも
のの考へ方だといふことなのです。山の幸についても同様です。つまり富は人間のものではなく、
そもそもが自然のものであり、余つたら自然に返すといふ考へ方です。かうして継時的に富を受
け継ぎ、後世に伝へ来たのが島国に住む人間のものの考へ方であり、ここまで考へて見ると、生
き方であり、人生観であり、社会観であり、国家観であり、道徳であり、自然観であり、世界観
であり、宇宙観であるといふことになります。

資源と富といふことから、突飛なやうですが、日常生活に目を転じてみれば、料理に対する考へ
方も、ヨーロッパ大陸の料理はスープの出汁(だし)を取れるまでとつたら骨柄は捨てるのに対
して、日本の料理は発酵の料理を其の典型ととると、糠床であれ麹であれ、伝統的に一つのもの
を受け継いで此れを維持して繰り返し使ひ続け、作り込み続けるといふ違ひがあります。これが、
無駄にするなとか、もつたいないと日常いふ私たちの意識の根底にあるものの考へ方ではないで
せうか。これは、戦後流入して来た、この70余年猖獗(しょうけつ)を極めてきたアメリカの
大量販売、大量消費、大量廃棄の粗雑な使ひ捨て文化とは、勿論、大いに違ふ。

今ここで、これからの論のために書き留めてをくと、大陸はと一般化はできるものかどうか、ユー
ラシア大陸の少なくとも極西のヨーロッパ地域では、ものの考へ方がスープの出汁をとつたら捨
てる「スープ出汁ガラ文化」、対して島国である(少なくとも)日本は糠床・麹を捨てずに継承
し作り込んで代々受け渡す「糠床・麹文化」又は「発酵文化」と名前をつけて分類してをくこと
に、ここでは後々のために、してをきます。

話がバロック的に逸脱してしまひましたので、話の分岐に戻ります。

人造人間と複合生物合成人間の話でした。

バロックの原理に戻りませう。バロックの原理とは、

(1)世界は差異である(認識論)
(2)価値は等価で遍在してゐる(存在論)

といふ二つの原理からなるのでした。
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(1)世界は差異である(認識論)
(2)価値は等価で遍在してゐる(存在論)

といふ二つの原理からなるのでした。

確かに人造人間と複合生物合成人間の話は、私たちとは異質であるといふ認識をしてをくこと、
即ち(1)にあるやうに差異を認めること(認識論)は大切です。さうしてをいて、他方(2)価
値は等価で遍在してゐる(存在論)といふことに解決策を考へるといふことになります。

後者は、物質的には国際貿易の世界から、精神的には哲学の世界から、といふことは、国家間の
意思疎通(コミュニケーション)の問題から、異国個人間の言語を介する意思疎通の問題に至る
までに、上記(2)の方程式を問題解決のために適用することになります。考へてみれば、国際
貿易も国家間のコミュニケーションです。そのための人の行き来の手段が飛行機であり列車であ
り船である。これらの交通体系(システム)もまた、コミュニケーションそのものである。とい
ふことになります。

ここで初めて、安部公房の言語機能論(と新象徴主義哲学)が役に立つことになります。あるい
はチョムスキーの変形生成文法といつても良いかも知れません。チョムスキーの言語論と此れに
基づく激越で徹底的な、民主主義・資本主義とブラック・プロパガンダを執拗に繰り返す二十世
紀型の一斉同報オールド・マスメディア批判については別に章を立てて述べることにします。

くれぐれも肝に命じてをかねばならないことは、上記(2)は論理として世界中に民族・人種・
言語・国家を問はず、論理としては(また感情としても)其のまま通用するからと言つても、決し
て共産主義でもglobalismでもないこと、即ち一神教であるキリスト教に淵源する絶対的に主語と
述語の関係の固定した教義(ドグマ)と主義(イデオロギー)を盲信する絶対中央集権的な全体
主義やファシズムではないこと、又そのやうに誤解してはいけないこと、何故なら此の論理は動
態的(dynamic)な等価交換の世界であるからであり、安部公房の世界と同じで支配・被支配の
関係を生み出す世界ではないニュートラルな世界であること、さうではなく全く正反対に、これ
は超越論であり汎神論的存在論なのであるから、私たちに身近な言ひ方をすれば、自然には神々
が宿つてゐるのであり、従ひ私といふ存在も含めて自然である以上、私たちもまた自然の一部と
して神なのであり、有機物無機物の識別区別なく、このやうな極く日常的な(実は私たちの無意
識にある)感覚と感情と論理に基づく汎神論的存在論による世の中をつくるといふことなのであ
るといふことです。あるいは、これらのことを日本列島といふ島国に住む日本人が思ひ出すとい
ふことです。

目に青葉、桜は美しい、紅葉は美しい、岩も美しい、あの山この山は美しい、霊峰富士は美し
い、何故ならば人間も自然の一部である以上、自然には(自分自身も含めて)神々が宿つてゐる
からといふことです。これが私たち島国に生きてきた人間の自然観であり、人間観です。
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旧来の二十世紀来の読者は安部公房論がこんなことを口にし、文字にして良いのだらうか、と問ふ
でせう。いいのです。何故なら、これまでの読者は先の敗戦後は心情的・情緒的に共産主義の系譜
に共感して、しかしまた他方、どうも安部公房は超越論であるらしいといふやうな漠然とした此の
哲学に対する魅力的な多次元論の私たちの風土に通ずる感触をもつてゐるだけで、言語の本性であ
る再帰性から観ると此れの肯定と否定の二つの系譜がヨーロッパ近世・近代の哲学史の上ではキリ
スト教との関係で鮮明に両極端に分れてゐる[註9]にも拘らず、(日本人である私たちにとつて
は余りに自明なことであるので、ヨーロッパ文明に対しては勿論、自分自身に対してすら言葉で此
の理屈を説明することができませんから)心情・情緒と論理が整理できないままにどつちつかずに
曖昧な其の間の灰色の領域で個別バラバラにぼんやりと考へて来た、辛辣な言ひ方をすれば群盲象
を撫でて来たからです。(再度「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか」及び「2。
西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」(もぐら通信第73号)をお読みください。)

しかし、それも仕方のないことであり、止むを得ないことでした。何故なら、哲学研究の専門家た
ちにも二つの系譜に整理整頓ができてゐなかつた150年であつたからです。何故なら、やはり専
門家たちもまたヨーロッパの哲学思潮の流行を受け入れて、これに積極的であるにせよ消極的であ
るにせよ、喜んでであるにせよ渋々であるにせよ、従ふ以外には生きる道がなかつたからです。日
本人の脳味噌で自前の哲学を創造するには、西田幾多郎ほかの少数の哲学者を除いては、否、この
人間たちにとつても、明治維新以来の此の150年、常に時代は急であり過ぎた。二十一世紀の今
も時代の速度は変はらないどころか、インターネットといふ通信技術の発達によつて益々速くなつ
てゐる。

私たちは超越論に基づいて遅延を生ぜしめて、益々遅く生きなければなりません。これが、安部公
房の逆進化論です。例を挙げれば、その現象の一つは、スローライフといふある種の流行も、無意
識のうちに表層的に超越論が思はれてゐるといふ其のやうな時代が、今なのです。

[註9]
『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)で論じた次の二つの章をお読みください。
(1)ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
(2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置

(勿論、私たち安部公房の読者は、生きるために安部公房文学を必要として読んでゐるのですし、
読み方は千差万別、読者の人生が千差万別であるに応じて、好きなやうに読めば良いことですし、
好きなやうに読んで一向構はないといふ読者の特権を、これまで通り、存分に行使すれば良いので
す。)

安部公房の表立つた哲学は、言語論理上共産主義を絶対的・全面的に徹底的に否定する新象徴主義
哲学といふ(西洋哲学用語でいふ)超越論の哲学[註10]ですがー西洋哲学史の上ではヘーゲル
と同時期にベルリン大学の講壇に立つたショーペンハウアーがこれも徹底的にヘーゲルを否定して
やまなかつたことを想起することー、しかし近代ヨーロッパの国民国家(Nation State)は前者を
採用し、後者を軽視するといふ致命的な過ちを犯した。ヨーロッパの近代国家は近代国家を支持す
もぐら通信
もぐら通信                          ページ66

るヘーゲルを捨てて、生命の哲学の系譜たるショーペンハウアーに発する超越論の系譜を採用すべ
きであつたのです。他方反対に、私たちの歴史的・伝統的な文化と文明は古代以来超越論であり、
(文学的には安部公房がリルケに学んだ)「沈黙と余白の論理」に従つて超越論は其のまま汎神
論的存在論であり、大地母神崇拝の復活であり[註11]、それは無文字文明であり、日本語の
世界でいへば「言挙げせぬこと」が私たちの文化であり文明なのであり、沈黙と余白にあつて何
かが降臨して存在となる古代的なシャーマン安部公房の典型的な姿であるのです。

[註10]
超越論の系譜に連なるハイデッガーが1933年5月27日 フライブルク大学学長就任演説で語つた次の言葉がある。
当時の政治的な情勢の中での演説ではあれ、文章そのものから読むことのできる大地母神崇拝の復活、即ちゲルマン
民族の古代の神話の復活に関する言及として、即ちヨーロッパの哲学者が超越論を考へると自分の民族の神話に思ひ
を致すといふことの例として、ここに再録して引用します。

「われわれが学問の本質を、存在するもの全体の不確かさのただなかで問いつづけ、裸身のままたちつくすという意
味において意志するならば、この本質意志はわが民族に、最奥かつ危険きわまりなき世界、すなわち精神世界を作り
だすのである。〔中略〕それは、民族の血と大地に根ざすエネルギーをば最深奥部において保守する威力、すなわち
民族の現存をば、最奥かつ広汎に昂揚せしめ、ゆりうごかす威力なのだ〔中略〕存在一般の疑わしさは、国民にたい
して勤労と闘争とをもって献身せしめ、諸々の職務を包括するところの国家へと国民を帰属せしめるのである。(ハ
イデガー『ドイツ的大学の自己主張』)」
(熊野純彦著『日本哲学小史』256ページ)

上記下線部の存在に関する言葉と一行目に下線を引いた隠喩(メタファー)の使用が、このナチスの政権下でのハイ
デッガーの心中の何かを言ひ表してゐると思はれる。これを言ひ換へれば、次のやうになる。

(1)存在するもの全体の不確かさ、存在一般の疑わしさ
これは言語論の視点で読むと、この時勢といふ時間の中で、ドイツ国家も個人も述語部を作ることができないと言つ
てゐる。国家は、私は、とまでは言つても、その先が続かない、言葉がないといふことである。現実の時間の中で文
を生成することができないといふこと、即ち現存在になることができないといふことである。日本語でいふならば、
もはやこれまで、といふことである。

(2)裸身のままたちつくす
従ひ、このやうな隠喩を使ふ以外にはない。即ち言葉といふ媒介者が述語部にないので、媒介者である衣装といふ言
葉を身にまとひ、言語の再帰的な関係を生み出すことができないので、国家も個人も学問もまた、無媒介で、即ちむ
きだしで現実に直面する以外にはないといふ意味である。

しかし、哲学者や藝術家が隠喩を使用することは、戦時にあつては特に油断禁物である。私の第一印象では、ハイデッ
ガーのこの隠喩の語選択は甘いやうに思はれる。一部の引用のみをみていふことは僭越であり、禁物であるとはいへ。

(3)民族の血と大地に根ざすエネルギーをば最深奥部において保守する威力
かういふ時代であるから、上の引用には文字としてはないが、ゲルマン民族の古代の神話「ニーベルンゲンリート」
が文句なく、即ち私たちドイツ民族を無媒介に直かに受け容れてくれるのだ。といふことを言つてゐるのです。この
論理は論理そのものとして正しい論理です。そして此の論理は、時代背景を考へても、当時のドイツは、民族の神話
を否定するマルクス主義といふ(カントーヘーゲルの系譜の共産主義)に対抗してドイツ人の国家の維持の選択を肯
定する論理ですから間違つてはをりません。
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[註11]
「『カンガルー・ノート』論(6)」の「 6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学
∼」をお読みください。

二項対立を否定することによつて、否定する主体自体の中に此の否定を含み且つ此れによつて二
項対立を超越して(自己の反照たる)第三の客観としてある存在を求めるのが、新象徴主義哲学
でありました。即ち、

思考と思考論理としては、バロックといふ概念を構成する二つの原理が一見相矛盾するやうに(現
実の時間の中で)見えた場合こそが、私たちが注意をはらふべき場合であり、物事の急所なので
あり、時代の急所、即ち時代の転換点なのであり、ここで二項対立を一次元上で統合する汎神論
的な存在を生み出すことが、その存在がどんな名前で呼ばれるにせよ、これが私たちの使命であ
り、日々の仕事であるといふことになります。これで随分と、安部公房の言語機能論も新象徴主
義哲学(超越論)も、topology(バロックの原理の(2)の方程式又は汎神論的存在論のことに
外なりません)も、この論考を書きながら、実用的になつて参りました。

私たち日本列島にある縄文時代以来の、何といふべきでせうか、神道といふ名前は明治時代以来
の(ヨーロッパに対抗して日本の国が植民地化されて其の富を野蛮で徹底的な収奪から守るため
に、ヨーロッパに倣つて対抗するために)急ごしらへで同じ近代国家を作るための命名であつて、
それ以前では同じ自然観・人間観を古神道と分けて呼んでゐるやうですが、いづれにせよ此の神
ながらの道とtopologyの関係については別途稿を改めて論じます。Topologyで神道(と仮にここ
では呼びますが、この道)をあなたに説明し、縄文時代以来の神道でtopologyをまたあなたに説
明しようといふのです。勿論、私たちが二十一世紀といふ全地球的なバロックの時代、戦争の止
まぬ戦乱の時代を生き抜くためであり、そのために変形の限りを尽くさうといふのです。

思へば、華道、茶道、香道、柔道、剣道、弓道、書道などなど、確かに私たちは何々道と名付け
ることが好きです。

3.4 バロックの哲学:差異の哲学
「3.1バロックとは何か」(もぐら通信第74号)で、バロックといふ呼称について、私は次の
やうに言ひました。

「実は、この場合名前はなんでもよろしい。バロックといふも、脱構築(deconstruction)とい
ふも、捻れてゐればフーテンの寅さんの口上「見あげたもんだよ、屋根やのフンドシ」でもいい、
要するに、世界は差異であるといふ認識と其の事実をいふだけなのです。」

この論考を書くために日本の近代哲学史の本を幾つか読んでゐて、熊野純彦著『日本哲学小史』
もぐら通信
もぐら通信                          ページ68

といふ良書で坂部恵といふ日本語の本当の哲学者に出逢ひました。最初はデカルトやライプニッ
ツをお伝へしようと思つてゐましたが、日本人のバロック哲学者がゐるとなれば、この方の話を
お伝へする方が、日本人であり日本語のことでありますから話が早いし、やはり差異に着眼した
日本の哲学者といふことであれば、尚一層安部公房とチョムスキーの超越論の系譜に入れて論ず
べき人だと思つたからです。

日本の近代の哲学者、といつても、大体が西洋哲学の研究者であり、西洋哲学史の研究者であつ
たりして、独自に日本語でものを考へて哲学を自分自身の言葉で学問として、即ち森羅万象を体系
的に叙述する、即ち自分の日本語の定義された語彙の体系を創造する本来の意義での哲学者は少
ないものです。その数少ない本物の哲学者が、この坂部さんといふ方です(1936年2月11日∼
2009年6月3日)。WikipediaのURLです:https://ja.wikipedia.org/wiki/坂部恵

私は此の原稿を書いてゐる時点で此のかたの原著を読んでをりません。『日本哲学小史』より一
部を引用して、安部公房の読者であるあなたにお伝へします。後日あらためて、日本語といふ言語
との関係で、原著を読んで論じるのではないかと思ひます。差異に着目した哲学者ですので、当然
のことながら超越論者です。あなたは、この哲学者の言葉の中に、安部公房と同じ論理、同じ言
葉、同じ文字を幾つも見るでせう。ある記述にあつては『飢餓同盟』を思ふ読者もゐるでせうし、
戯曲『幽霊』を思ふ読者もゐるでせう。あるいは自ら語学はできないと自称してゐた安部公房の
翻訳した二つの戯曲を翻訳した理由もまた語られてゐます。さうして、差異といふことから、当然
のことながら、ここには安部公房の駆使した記号論もまた同様に使用され語られてをりますし、
小説に書かれまた安部公房スタジオで演ぜられた場所、即ち存在の交差点についても、そして大
地母神崇拝についても述べられてゐます。わたしは、新象徴主義哲学[註12]と自らの哲学を
称した安部公房の自己洞察の深さと聡明を、この坂部さんといふ哲学者のエッセイ「しるし」の
一部を読んで、あらためて思ひました。

[註12]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づければ
新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴
の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上段)

要するに、この哲学者の論じてゐることは、言語の再帰性であり、言語の再帰性の構造、即ち主
体と客体の等価交換と、言葉と概念の関係のこと、一言でいへば、自然言語のtopologyなのです。

引用は一段低く引用され、その前後は著者熊野純彦氏の解説になつてゐます。

1と2の引用文中の傍線は引用者による。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ69

1。標(しるし)と差異について
「「しるし」(一九七六年)

しるしと生
 西洋哲学の根本概念を、あたかも翻訳をかいくぐることなく、自国語の経験のうちに把握し、
かつ同時に、その伝統の理解を深化させるような思考と文体を自らのものとした数少ない哲学者
に、坂部恵は属する。その試みを、決して「大和(やまと)ことば」による哲学と簡単に要約し
てしまうわけにはいかない。多くの場合、私たちは自国語で哲学することを余儀なくされるので
あるから、むしろ問題となるのは、異質なものを内的に生きる仕方なのである。思考を強く鍛え
るのは、異なる言語との格闘をおいてほかになかろうが、これを〈翻訳〉と呼ぶことができるな
らば、坂部の文体は、まさに絶えざる〈翻訳〉によって産み出されたた思考のかたちにほかなら
ない。(略)

根源としての「差異」
ここでまず、しるしの定義と言うべきものを引用しておこう。

 「しるしとは、一つの現象(あらわれ)が、他のことなった現象(あらわれ)をしるしづける
ところに成立する二重化された現象(あらわれ)にほかならない、と言うことができようか。し
るしをしるしとして成り立たしめるものは、しるしづける現象(あらわれ)をしるしづけられる
現象(あらわれ)から分けへだてるその差異(ことなり)である。」

(略)たしかにそこにすでにしるしの構造を、根源的な差異化の構造を見て取ることができる。
坂部自身は、このような思考を徹底して解釈したデリダの用語、すなわちあらゆる直接的な現前
のうちに、(時間的・空間的)遅延・ずらしが必然に孕まれていることを意味する「差遅
differance」を参照している。
 いずれにせよ、しるしがこのように解釈されるならば、それは私たちの認識どころか、知覚一
般の根底にあって、自然、世界、現実そのものの経験を可能にするようなシェーマであると言う
ことさえできよう。この意味でしるしは言語よりも古く、代置をこととする記号操作は、生とし
るしの関係を基礎にしていると考えることができる。」
(『日本哲学小史』178∼181ページ)

〈翻訳〉、代置、(時間的・空間的)遅延・ずらし、これらは変形(transformation)といふこ
との/に相当する一部です。即ちtopologyならば、位相を変へることです。

2。境界と差異について
以下下線部は原文傍点。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ70

「「生死往来の場」としての境界
 (略)
おそらく「しるし」というエッセイの最大の独創は、しるしの(原)体験の痕跡を日本語のうち
に探り当てながら、この体験と場との、忘却され、抑圧された原初的な関係に注意を向ける点に
ある。
 しるしは、占有・領有・統治・支配といった原義をもつが、ここからしるしの体験が標野(し
めの)の形成によって具象化されることになる。ある土地が自分のものであることを祖神の名の
もとにしるしづけ、知らしめること、それがしるしが出現する場において原初的に起こっている
ことにほかならない。しかし、私たちは、しるしを掲げることではじめて自他を区別するのでは
ない。根源的には、私たちの方が、しるしづけると言う行為によって産み出されるのであり、同
時に、他者や世界との関係もまた、そのとき産み出されるのである。
 この根源的な他者との関係は、坂部にとって、死者たちとの関係であったかのようである。

  「しるしの立ちあらわれてくる世界あるいは境位(さかい)は、こうして、ことなりの相を
もった世界、境界(さかい)が同時にそれによって限られた境域(さかい)であるような境位に
ほかならない。そこでは、生は同時に死をはらみ、あらわれはあらわれざるものを、存在は不在
を、つねにはらむ。」

 しるしが不在の現れであるならば、この不在者をもっともよく象るのは死者たちであると言う
べきであろう。「わたしたちの生死往来の場は、しるし(兆・徴・標・験・記・印)と著(しる)
きあらわれのことなり(差異、事成り)の境位」である。実際ここで境界の体験が幽明の体験で
あると言うこと以外の何が言われているというのだろうか。
 しるしを産み出す差異(ことなり)の究極の根拠は、死者たちの存在――それはむしろ差異
(ことなり)そのものだ――にある。坂部がしるしの体験される場を注視し、忘却から救い出そ
うとしているのは、まさにこのことであるように思われる。境界のみにおいてしるしが現れるの
なら、形式化された記号概念は、この境界の忘却ないしは抑圧によって成立しているのである。
(『日本哲学小史』181「∼183ページ)(原文は下線部傍点)

3。母の不在と大地母神崇拝
「しるしとイメージ
 この問いに「しるし」は明確に答えていない。しかし、生と死のあわいで経験する不在者が一
体誰なのかと問うとき、その手掛かりが見出される。それはもはやしるしとは呼ぶことのできな
いイメージ、それも母の面影(イメージ)ではないのか。このイメージは、決して何かほかのもの
へと回付される記号ではなく、みずからそれ自身を意味しながら、つねに遠くに逃れ去るものだ
からである。実際、本文中で参照されるフロイトの有名な糸巻き遊びの例で、不在であるのは母
であった。しるしの考察は、こう言ってよければ、〈歴史〉と〈自然〉――坂部はエッセイの最
後に「母なる大地」と言う言葉を漏らす――の交叉点にまで導くのである。」
(『日本哲学小史』184ページ)(原文は下線部傍点)
もぐら通信                         

もぐら通信
かうしてみますと、折口信夫もまた日本の哲学者である。またもつと降(くだ)つて18世紀の
ページ71
江戸時代の伊勢松坂の本居宣長もまた日本の哲学者であるといふことになります。

本居宣長が独自に考へ抜いてどんなに西洋の論理学に通じてゐたか、この論理学を以つて、文字
と意味と形式(用法)を一体にして(今なら単なる文法ではなく、意味論と統辞論といふことで
す)源氏物語を論じたかは、稿を改めて論じます。宣長は、内包と外延といふ概念を知つて大和
言葉で言ひ表し、これを源氏物語論に使つてをります。本居宣長は、安部公房と同じ、ヴィトゲ
ンシュタインと同じ、ソシュールと同じ、言語機能論です。即ち、言葉の用ひ方、使ひ方、即ち文
脈(context)で言葉の意味が定まるといふ考へ方です。以下『玉勝間』巻八より引用してお伝へ
します。

内包(intensive)は「しかいふ本の意」といはれ、外延(extensive)は「用ひたる意」と呼ばれ
てゐます。後者については確かに、言葉の用ひ方、使ひ方、即ち文脈(context)によつて定まる、
通り一辺倒に、杓子定規に文字の意味をとるのではなく、文章(テキスト)に応じてその次第を
内包をよく理解した上で、個別に用例をよく吟味せよといふのです。これは、このまま宣長の学
問の方法でした。それ故に用例を遺漏なく列挙して(これはデカルトの方法と全く同じです)[註
13]、内包と外延を識別して、もののあはれを論理的に論じた。内包は英語ではsense、日本語
訳は意義、外延は英語ではmeaning、日本語訳は意味といひます。このやうな文法と論理学の(言
語を超えた)理解を明らかにしようとしたのが、17世紀フランスのポール・ロワイヤル文法な
のであり、チョムスキーが著した『デカルト派言語学』といふ20世紀の所論なのです。勿論1
8世紀を生きた宣長が此のポール・ロワイヤル文法の求めたところを明らかにして、実際に応用
して其の学問を確立したのは、ソシュールやヴィトゲンシュタインよりも100年早く、チョムス
キーよりも200年早い。この3人は言語機能論ですから、哲学からみれば、超越論です。哲学
と言語機能論からみれば、内包は概念、外延は定義です。本居宣長の用語で云へば、前者は「し
かいふ本の意」、後者は「用ひたる意」といふことです。

日本語であなたが学問を志す限り、あるいは普通に此のやうに論理的に日常の日本語で考へ生き
る道を求めるためには、本居宣長の方法論と方法は世界中に通ずる学問と科学の正攻法であり王
道ですから、宣長の学問を抜きに、世界に伍して一家を立て、一流をなすことはできません。

「……されば言のはのがくもんは、その本の意をしることをば、のどめおきて、かへすかへす
も、いにしへ人のつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざ也、たとひ其もとの意は、
よく明らめたらむにても、いかなるところにつかひたるといふことをしらでは、何のかひもなく、
おのが歌文に用ふるにも、ひがごとの有也、今の世古学するともがら殊に、すこしとほき言とい
へば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのが
つかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし、すベて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意と
は、多くはひとしからぬもの也」
(『玉勝間』巻八より)

[註13]
このデカルトの方法については、安部公房とデカルトの『方法序説』を論じた『Mole Hole Letter(4):デカルト』
(もぐら通信第69号)をご覧ください。わかりやすく説明しました。
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リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(20)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XX

DIR aber, Herr, o was weih ich dir, sag,



der das Ohr den Geschöpfen gelehrt? ―

Mein Erinnern an einen Frühlingstag,

seinen Abend, in Rußland ―, ein Pferd...

Herüber vom Dorf kam der Schimmel allein,



an der vorderen Fessel den Pflock,

um die Nacht auf den Wiesen allein zu sein;

wie schlug seiner Mähne Gelock

an den Hals im Takte des Übermuts,



bei dem grob gehemmten Galopp.

Wie sprangen die Quellen des Rossebluts!

Der fühlte die Weiten, und ob!



Der sang und der hörte ―, dein Sagenkreis

war in ihm geschlossen. Sein Bild: ich weih's.

【散文訳】

しかし、お前、神よ、ああ、わたしはお前の御許(みもと)で言祝(ことほ)ぎ、浄(きよ)め
る、そう、被造物に耳を教えたお前よ。ある春の日の、わたしの思い出、その夕べ、ロシアで、
一頭の馬が….

村からこちらへと、その白馬が、一頭だけ、やってきた。
体の前にある枷(かせ)の木杭に身を打ちつけながら
その夜を草原でひとりでいるために。

どんなに、その鬣(たてがみ)の縮ぢれた髪が、酷(ひど)く阻(はば)まれて疾駆しながらも、
それに負けずに、奔放不羈の拍子をとって、首を打っていたか。どんなに馬の血の数々の源が、
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跳ねていたことか。

その馬は、遥かな距離を感じていた、勿論、そうだ。
馬は、歌い、そして、耳傾けた ― お前の伝説の環は、
この馬の中で閉じていたのだ。この馬の像、それをわたしは
言祝ぎ、浄(きよ)める。

【解釈と鑑賞】

前のソネット全体の主題を受けて、しかし、といって、このソネットは始まる。呼びかける相手
は、神。前のソネットの最後の2行を直接には受けているのでしょう。

リルケがロシアを訪れたときの、思い出を歌ったものだろう。
身につけた枷を前にしながら、猛々しく走る白馬の様子を見て、リルケは、このようなことを思っ
たのだ。この馬の姿、像は、果てしない距離を思う人間やその他の生物の姿のようだ。
オルフェウスの歌と竪琴は、そのような生物のこころを慰め、従わしめる。

最初の「お前」は神だが、最後の「お前」は、「伝説の環」とあるので、オルフェウスだと思う。

こうしてみると、話者は、リルケ自身が顔を出したと読むこともできる。

【安部公房の読者のためのコメント】

1。リルケの馬と安部公房の馬
この馬は、安部公房の馬と異なり、聖なる馬であるといふことがわかる。ここが、安部公房の
馬とは異なるが、しかし、他方安部公房の馬の神聖性は侮辱され、歪められる。さうして、その
変形によつて神聖であるといふバロックの作家らしい一次元上での二項対立の融合を、美との
関係で示してゐる。

2。象と馬との関係
『安部公房とチョムスキー(3)』(もぐら通信第75号)の「3.3 バロック文学:差異の
文学」より引用して、この事情の説明を再掲します:

「『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(も
ぐら通信第33号)の「1 4。安部公房はサンタクロースである」と「15。サンタクロースを
安部公房に変形する」をご覧になると、安部公房が心に抱く、病院といふ場所はとても神聖な
場所であるといふこと、医者も看護婦も神聖な職業であること、そして窓から家に入るといふこ
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とは、とても神聖な行為であること、しかし/それ故に罵倒し冒瀆する感情と感覚と論理がバロッ
クであることの一見矛盾したかに見える関係が理解できる筈です。中心部分を引用します。

「何故安部公房は、神聖なる職業である医師として神聖なる病院で働く父親を、罵倒すべき馬に
変形させたのでしょうか。馬は、奉天の街でみた、安部公房が生理的に嫌った身近な動物でし
た。[註30]

安部公房の変形能力は、そうして上でわたしがサンタクロースを実際に同じ論理で変形させてみ
せたように、両極端のものを上位接続(積算)して、その差異をゼロにして、それを形象化する
というものですから、この能力を使って、一番尊敬する神聖なる父親を、生理的に子供時代に奉
天で嫌悪した動物である馬と接続をして、父親を変形させて馬の形象と化さしめ、こころの中で
一生涯大切にしたのです。これがバロックの感覚です。そうして、読者は、それが安部公房の父
親であるとは誰も気づかない。そしてまた実際に、言葉の上の事実として、それは既に安部公房
の父親である安部浅吉では全然なくなっているのです。これが、安部公房が全く私事を語らず、
小説の中や戯曲の中でだけ、自己の人生を語る理由なのです。」

安部公房の作品で馬の登場する作品を思ふままに以下に挙げます。いづれの馬も、上の引用のや
うなグロテスクな馬として扱はれてゐる。かうして見ると、グロテスク(grotesque)とは、神
聖なるものと冒瀆の裏表の混合といふことになる。

(1)『天使』
(2)『(霊媒の話より)題未定』
(3)『水中都市』
(4)エッセイ『思い出』
(5)『箱男』
(6)『密会』

このやうに考へてみると、安部公房は馬が好きだつたことが前提として、この変形の前にあると
いふことがわかります。といふことは、上の引用では奉天の街中を歩く馬としましたが、それは
それとしても、この馬はまた奉天のサーカス興業でも見たものでありませう。

象と異なるのは、象は超越論的な遅延を生ぜしむるのに対して、馬はむしろ逆で、規則正しく速
く一定のリズムを以つて力強く歩みまたは走り、集団的な統制のとれた藝を観客に見せるとい
ふことが誠に、象とは対照的な動物だといふことになります。とあれば、安部公房は、学校の教
室へ向かふ自身の現実の姿として馬を見てゐた、即ち、象は内心の本当の自分の姿を、馬はこれ
は内心の外の規則で強ひられて行為を強制される自分の姿を思ひ描いてゐたに違ひありません。

3。神話を内蔵する馬
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馬は、歌い、そして、耳傾けた ― お前の伝説の環は、
この馬の中で閉じていたのだ。この馬の像、それをわたしは
言祝ぎ、浄(きよ)める。

この最後の連は、「歌い、そして、耳傾けた」とあるので、大地の上にある荒々しい馬は、オル
フェウスの琴の音と歌に耳傾けたのでせう。さうして、オルフェウスの伝説の環は、このやうな
馬の中で閉ぢてゐる。何故、この生命力のある馬の中で閉ぢるのか、即ち完結するのかといふ
と、それは、ともに歌ふことによつて、また同時に「その馬は、遥かな距離を感じていた」か
らである。

4。遥かな距離
第XIIで、リルケは都会の中に張り渡されたアンテナ間の遥かな距離を歌つてゐました。これと
同じ主題が、この馬の詩でも歌はれてゐます。以下引用します。

「(1)遥かな距離といふ言葉は、リルケの言葉ですが、しかしまた、これは安部公房の言葉
でもあります。一体何がこの人間同士の遥かな距離をゼロにして、二人の人間の意思疎通を完全
に、容易に為らしめるのかといふと、それが音楽であり、音楽が示してゐる「純粋な張り渡し」
である。家の上のアンテナからもう一つの家のアンテナに張り渡されてあるアンテナであるとい
ふのです。
(2)この遥かな距離をアンテナを介して身近なものにしてくれる文明の利器の典型的なものの
一つが、安部公房のよく登場させるラジオです。『砂の女』のラジオを思ひ出して下さい。砂の
女が内職をコツコツとしてお金を貯めて、第2部で呪文が冒頭で唱へられた後に、到頭ラジオが
砂の穴、存在の凹の中へとやつて来る。遥かな距離がゼロになつて、砂の穴は存在の宿る穴に
なる。」

馬とオルフェウスがともに歌を歌ひ、歌を共有することで、遥かな距離が0になる。

「ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの音?
 鈴の音

 ジャブ ジャブ ジャブ
 何んの音?
 鬼の声」
(『砂の女』全集第16巻、156ページ上段)

砂の女の此の呪文の歌を共有すれば、存在がやつて来て、遥かな距離は0になり、砂の穴とい
ふ凹は存在になる。さう、結局仁木純平が共有したのは、小説の結末の第3章の最後の段落で、
溜水装置の透明感覚といふ結末継承の完成とともに、「家の中では、乾いた声で、ラジオが歌
つている。」からなのだ。かうして、男は存在の中に留まること、即ち存在になること、即ち法
律の支配する社会から見ると死者となることを選択するのだ。砂の穴の中で、かうしてまた男の
中で、「伝説の環」が閉ぢる。
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もぐら通信 76
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
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もぐら通信 ページ77
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 78
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語と言霊の関係
(68)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(69)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(70)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(71)安部公房の超越論と神道(1):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(72)安部公房の超越論と神道(2):topologyと産霊(むすひ)または結び
(73)安部公房の超越論と神道(3):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(74)安部公房の超越論と神道(4):呪文と祓ひ・鎮魂
(75)安部公房の超越論と神道(5):存在(ザイン)と御成り(をなり)
(76)安部公房の超越論と神道(6):案内人と審神者(さには)
(77)安部公房の超越論と神道(7):汎神論的存在論と分け御霊(わけみたま)
(78)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(79)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(80)安部公房とチョムスキー
(81)三島由紀夫のドイツ文学講座
   (あ)リルケ
   (い)ヘルダーリン
   (う)トーマス・マン
(82)安部公房のドイツ文学講座
   (あ)リルケ
    (い)ヘルダーリン
    (う)トーマス・マン
(83)三島由紀夫のドイツ哲学講座
   (あ)ニーチェ
    (い)ハイデッガー
(84)安部公房のドイツ哲学講座
   (あ)ニーチェ
    (い)ヤスパース
    (う)フッサール
    (え)カント
   (お)ハイデッガー
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記
ページ 79
● 『カンガルー・ノート』論(10):(22)呪文
『カンガルー・ノート』の中を流れる呪文類をこれまで各章で論じたところを一つに
まとめて全体を提示しました。満洲族のシャーマンの儀式を、少年安部公房は間違ひ
なく見学してゐます。この仮説を立てると、安部公房の作品をジャンル(範疇)を問
はず説明がつき、理解することができるからです。
●安部公房とチョムスキー(3)
バロックとは何かを小説と詩をひいて説明をしました。安部公房の世界に余りによく
似てゐるので驚かれたのではないでせうか。普通の読者はもし此の様式に興味がある
とすると、大抵は音楽とか、絵画とか、彫刻とかいふものから入るのではないかと思
ひますが、差異と等価交換といふ視点から見直しをしてみるのも一興です。

哲学者とは、智を愛する(フィロソフィア:philosophia:sophia(ソフィア:智慧)
をphilein(フィレイン:愛する)といふ意味ですから、哲学者とは愛智者、則ち知る
ことを求める者、真理の探求者といふ意味です。あなたも、真の知識を求める道をゆ
く哲学者ならむ。この論考を書くために参照した本の一つにかうありました。哲学者
になるには、別に大学の講壇哲学を聴く必要はない、道を歩きながらでも考へれば哲
学者になれる、と。ソクラテスは此の心をeros(エロス)と呼び、憧憬、憧れと呼び
換へました。このエロス、則ち憧れは、あなたの心にも生きてゐる。あなたが問ふべ
き問ひは、それは何か?です。私は此の問ひを問ひながら商店街の道を歩き、大きな
タバコの金物の丸い看板に頭を打つて、満洲族のシャーマンの鳴らす太鼓の音もかく
ならむ、銅鑼(どら)のやうな大きな音を立てたことがあります。5、6歩行つてか
ら気がつきました。あれ、今大きな音がしたな、と。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(20)
やはりまた、存在と呪文と『砂の女』の結末に、話は戻りました。本当に安部公房は
リルケをよく読んだ。明治以来の日本人で、安部公房ほどリルケを、しかも数学的に、
理解し、そして自分の人生の肥やしとして生きた日本人はゐません。只々、感嘆する
のみ。
●では、また、次号にて。

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(11):(23)尻尾
限」
2。私の本棚:庄田秀志著『戦後は作家たちの病跡』所収の「第5章 安部公
房論」
4。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(21)
5。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          80
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第74号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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