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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2019年1月1日 第76号 第四版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の : 秋でした。晴れた午后。
あな
ない
迷路 あ どんなにか此の日々を、
ただ を通
けの って
番地 思ひを込めて待ちこがれた事か。
に届
きま

〈秋でした〉(全集第1巻、64ページ)

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               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(11):(23)尻尾/(24)3といふ数/(25)自走ベッ
ドによる章の間の結末継承(2):岩田英哉…page7 
3 私の本棚:庄田秀志著『戦後派作家たちの病跡』の「第5章 安部公房論」を読む…
page 32
4 安部公房とチョムスキー(4):5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:(1)
チョムスキーの統辞理論とは何か/(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か:岩田英哉…page 44
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(21)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…61

6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 65
7 編集後記…page 68
8 次号予告…page 68

・本誌の主な献呈送付先…page69
・本誌の収蔵機関…page 69
・編集方針…page 69
・前号の訂正箇所…page69

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

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今月の安部公房と伊藤整
ジャンボ尾崎手配犯@hayasiya7 2月9

安部公房と伊藤整。安部公房は眼鏡をか
けてないと、バナナマン設楽と島田紳助
を足して2で割ったような感じになる
な。

今月の『時の崖』と『仔象は死んだ
ホッタタカシ@t_hotta 2月7日
安部公房が原作・脚本・監督の短篇映画
『時の崖』とビデオ作品『仔象は死ん
だ』。画像は上映会のチラシと淀川長治の絶賛批評「無限の流動美
-(影と光)の中に-」 #DVD化されたら泣いて喜ぶ映画

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今月の壁
白山Kンジ@Knji366 2月11日
桂川寛による月曜書房版の安部公房『壁』挿東
京国立近代美術館の所蔵作品展MOMATコレク
ションにて。

白山Kンジ@Knji366 2月6日
『壁 第一部 S・カルマ氏の犯罪』 安部公房

今月の箱男
真以美(カクシンハン)@imymimymi 2月5日
朗毒会12時間完走しましたっ!耐久っていってるけど
耐久どころかあっという間!夜の部はスガダイローさ
ん河内さん朗読、村田さんタップの即興ライブ。
もう、すんごかった!朗読タップ、マンドリン、サッ
クス、ピアノが安
部公房の世界で実現する奇跡。大ファン、ノイ
ズさんのMCも聞けて、嬉しかった∼

今月の他人の顔
homelistening@homelisteningjp 2月1日
homelisteningを2月号に更新しました。
今月の選曲は安部公房さん原作の映画「他人の
顔」をモチーフにしていま
す。
是非チェックしてください。

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今月の読書会
山本多津也@猫町倶楽部@tatsuya1965 2月7日
#猫町倶楽部 名古屋文学
サロン月曜会 今夜は安
部公房の『砂の女』満員
御礼です。

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 6時間
〈おれ〉の〈ユダヤ性〉にみる実存的状況 : 安部公房『赤い繭』論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/110000437716 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 23時間
安部公房「壁あつき部屋」試論--罪責の行方 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40015983416 …

hirokd267@hirokd267 2月10日
【安部公房関連著作】
江口真規「日本近現代文学における羊の表象: 漱石から春樹まで」彩流社 (2018/1/
17)第四章 安部公房にみる羊
満洲の牧歌的風景への憧憬や郷愁と、「詩人の生涯」における羊の表象との関係性
を分析!

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月1日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/120005851876 …

物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその
変容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

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内田 慧@zsuchida 2月1日
2018年1月の読書メーター
■安部公房全作品 7...

今月の青少年読書感想文全国コンクール
 第63回青少年読書感想文全国コンクール(全国学校図書館協議会、毎日新聞社
主催、内閣府、文部科学省後援、サントリーホールディングス協賛)で、同志社香
里高3年の山中菜月さんが毎日新聞社賞に輝いた。大阪市立天満中2年の瀧本彩桜
(さくら)さん、堺市立少林寺小1年の立花優芽(ゆめ)さん、大阪教育大付属池
田小6年の伴百合子さんは、サントリー奨励賞に選ばれた。

大きな賞は初めて 毎日新聞社賞 同志社香里高3年 山中菜月さん
 近現代文学が好きで、安部公房の代表作「砂の女」を選んだ。
 砂穴の家に閉じ込められ、出られないと知った男は、溜水装置を研究し、砂丘の
人々の称賛を得る。男の行動を「物質的に満たされなくても、承認欲求を満たす幸
せを選んだ」と読み解く。
 高校では書道部に所属。男の行動は、入賞を目指し、必死に練習する自身の姿と
重なった。「人から褒められ、承認欲求が満たされた時、その内容が自らの存在理
由や生きがいになるのだと思う」

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『カンガルー・ノート』論
    (11)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

青字は前回までに
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
赤字は今回論ずるもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 黒字はこれからのもの
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
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(12)人面スプリンクラー
(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)
5。1。4。1 寓話とは何か
5。1。5 章間形象連続性分類
5。1。6 存在の祭りと次の存在への立て札

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
5。2。1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****
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もぐら通信                          ページ 9

5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(23)尻尾
この論の最初のところに書いた模様・図柄と変形の箇所を引用して、この章を始めます。

「1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容
上記「1。2 内容について」で述べたやうに、形象は作品の質を決定します。

その形象については「5。1。4 差異を設ける:第1章:かいわれ大根」の「5。1。4 
『カンガルー・ノート』の形象論」に、その後の物語の織物の展開の中に作品を縦断する縦
糸として列挙し、最初から最後まで織り込まれる図柄として詳細に論じましたので、ご覧くだ
さい。

この図柄は、topologicalに絶えず変形して、恰も別の図柄のやうになつて、現れます。」

「この図柄は、topologicalに絶えず変形して、恰も別の図柄のやうになつて、現れ」てゐる
といふ最たるものの一つが、豚です。

最初は一筆書きの、即ちtopologyで描かれた(尻尾のない)豚として登場し、最後は尻尾の
ない鯛焼きとして登場します。それでは、その間に此の豚は出てこないのかといへば出てくる
のです。尻尾のない一筆書きの豚とは、形象としては此れまでも多々書いて来ました凹の形象
の全てでありますから、この間の此の豚の形象は『7。附録 章別詳細「函数形式と存在の
プロセス形式』に列挙した形象が全て、尻尾のない豚の形象の変形です。それも、更に屋上屋
を重ねるといふ言ひ方に倣へば、存在に存在を重ねてゐるのです。何故ならば、「角度が狂っ
てい」るとはいへ「この豚は飼葉桶にむかって、首を伸ばしている」からです。つまり、凹が
凹に入るといふ二重構造の凹になつてゐる。

「一筆描きの豚が、これまた下手な飼葉桶に首をさしのべている。警官の尋問の狙いはいっ
たい何だろう?その狙いがなんであれ、『尻尾』といふ答えを求められていることは、最初か
ら分かっていた。しかし、むしょうに腹が立ってくる。もし警官から、脚の《かいわれ大根》
を咎められたのなら、もっと素直に応じることもできただろう。しかしこの尋問は許せなかっ
た。人格にかかわる侮辱のように感じられたのだ。ぼくは意地悪く、反射的に豚の絵のあら
捜しをはじめていた。」(全集第29巻、96ページ上段)

「意地悪く、反射的に豚の絵のあら捜しを」した結果が上記の二重構造の凹といふわけです。

この後に、いつも通りに風が吹きます。トンネルの形象である「何処か坑道の出入口みたい
なところ」から「硫黄の臭い」のする「湿っぽい刺激的な風が吹き上がって」きて、さうして、
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存在の存在(凹の凹)といふことから更に三つ目の存在(凹)の底へと主人公は坑道といふ
トンネル、バロック的な上位接続(論理積:conjunction)の形象を通つて三つ目の存在の中
へと降りて行きます。「移動車がバックで坑道を降りはじめた。クレーンのフックが外され、
ベッドはゆっくり加速しながら自走し始める。これはもうぼくの意思ではない」状態で降り
て行く垂直といふ方向は時間のない方向ですから、上方も下方も同じこと、上昇も下降も同
じことです。

さて、豚に戻りますと肝心なのは、豚本体ではなく、そして豚の尻尾が単なる地の文の尻尾
ではなく、存在の記号を使つた《尻尾》であることが、安部公房のクレオール論と同じ
topologyの発想です。

豚の本体 《尻尾》
親の言葉 《クレオール語》

といふ関係になります。

《クレオール語》は『カンガルー・ノート』では豚の《尻尾》に変形してゐるわけです。

同じ構造を此の作品の主人公に適用すると、

豚の本体   《尻尾》
主人公の人体 《かいわれ大根》

といふわけです。

このtopologicalな構造は普段普通には人目にはつかない無意識なものですが、しかし、これ
を見とがめる人間がゐて、その典型的な(主人公の意識と其の意識する対象の関係を監視す
る第三者としての)職業の名前が、安部公房の世界では、警察官なのです。それで、主人公は
「その狙いがなんであれ、『尻尾』といふ答えを求められていることは、最初から分かってい
た。しかし、むしょうに腹が立ってくる」のです。

警官の尋問の狙ひは、本体にではなく附属物にある。といふことなのです。即ち、上で示し
たやうに、また既述のやうに、

「この記号の関係そのものが、この小説の構造そのものなのです。」(「3。『カンガ
ルー・ノート』の記号論」(もぐら通信第66号))

同じ警察官といふ名前を、私たちは『赤い繭』に「彼」といふ三人称で見知つてゐます。『デ
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もぐら通信                          ページ11

ンドロカカリヤ』では「あの男」や「あの人」として登場してゐるコモン君の監視者です。ま
た『S・カルマ氏の犯罪』では、「私設警察」を名乗る二人の「大男」がそれです。

『カンガルー・ノート』の第1章かいわれ大根の警察官が豚の絵といふ凹の形象と(一筆書
きの邪魔になるので)欠けてゐて存在しない《尻尾》を示したならば(つまり警察官といふ
第三者の監視者が豚と《尻尾》の所有者だといふことであれば)、これは、第6章風の長歌
での同じ変形である縄文人と其の好物の鯛焼きといふ凹への変形(尻尾を齧つて此れを無き
ものにして餡子を吸い出して鯛焼きを凹にするといふ変形)を通じて、最後の第7章人さらい
ではどのやうに警察官と凹と《尻尾》が最終的に変形して登場してゐるかといふと、これが驚
くべきことに、結論を云へば、「垂れ目の少女B」が警察官の変形であり、凹は勿論「大型冷
蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」であり、

豚の本体   《尻尾》
主人公の人体 《かいわれ大根》

といふ関係から云つて、《尻尾》は《かいわれ大根》といふことになつて、再度恐ろしいこ
とに、脛に《かいわれ大根》を持つ主人公は、「垂れ目の少女B」による殺人幇助によつて殺
されるといふ結末になつてゐるのです。この見方で、主人公の最後をお読み下さい。すると、
一体結末はどうなるか、安部公房は何を書いてゐるのか。安部公房自作の「人さらい」の詩
の後に改行して新しい次の段落を続けて、次の文章があります。

「網膜周辺でしか見えない、数人の小さな人影。闇に身を潜めるようにして、待合室を迂回
し、大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱を運んでくる。Bの歌の底に敷き込むみたいに、
呟きに似た囁き声で……

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)

 箱が窓の下に据えられ、ランニング・シャツの一群[註1]が、ぼくを窓から引き下ろそう
とする。濡れぞうきんのようにまるめ、箱の脇から追い込もうとする。あえて逆らわなかった
のは、B自身が小鬼に手を貸し、協力しようとしていたからだ。(略)」
(全集第29巻、188ページ)(傍線筆者)

「待合室を迂回し、大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱を運んでくる」のは「網膜周
辺でしか見えない、数人の小さな人影」である。この「数人の小さな人影」は、小鬼とは名
指ししてゐないので、非連続の連続または連続の非連続といふtopologicalな接続表現になつ
てはゐるが、第3章火炎河原に登場した「オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ 
タスケテヨ」の「オタスケ・マーチ」に合わせて「屏風岩の左手から、最初の小鬼とそっく
りな蓬髪に伸びきったランニング姿の子供達が六人、視界の稜線沿いに姿を現した」その小
鬼たちですし(全集第29巻、122ページ下段)、その後に「引率者にうながされ」主人
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もぐら通信                          12
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公のベッドへと「駆け降りてきた」小鬼たちです。さうして、最後の章では「待合室を迂回し、
大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱を運んでくる」姿は、第3章火炎河原では主人公
のベッドを押すために「岩から岩に、アメンボなみの身軽さ」(以上傍線筆者)でやつて来
て、次の姿として書かれてゐる。これは、主人公の人生を前に進めようとして、

「両側にひとりずつ、後ろに四人、取り付いた。歌いながら、押しはじめる。
   オタスケ オタスケ オタスケヨ」
(全集第29巻、123∼124ページ)

[註1]
安部公房の好みの此の継承(イメージ)は『密会』にも登場します。

ここで、「箱が窓の下に据えられ、ランニング・シャツの一群が、ぼくを窓から引き下ろそう
と」して、第3章火炎河原の場合とは正反対に今度は主人公の人生を此処で終はりにしよう
として、主人公の体を「濡れぞうきんのようにまるめ、箱の脇から追い込もうとする」かのや
うに箱の中に入れようとしてゐるにも拘らず、主人公が「あえて逆らわなかったのは、B自身
が小鬼に手を貸し、協力しようとしていたから」です。「垂れ目B」は直接には手を下しては
いませんが、しかし此れは、超越論に基づく存在の十字路の歌を、即ち時間の存在しない時
差といふ時と時の間の時間といふ差異の歌を歌ひながら、影となつた(視界の周辺にゐる)
小鬼たちの殺人幇助でありませう、主人公の殺人に手を貸してゐる[註2]。ここでもう一
度、この最後の「Bの錆びた笛のような歌」に耳傾けると、「(22.2)章別・呪文解説」
の(もぐら通信第75号)での文法的な解釈[註3]とは別に一入(ひとしほ)感ずるもの
があります。

「北向きの小窓の下で
 橋のふもとで
 峠の下で

 その後
 遅れてやってきた人さらい
 会えなかった人さらい
 わたしが愛した人さらい

  遅れてやつてきた人さらい
  会えなかった人さらい
  わたしが愛した人さらい」
(全集第29巻、188ページ下段)
もぐら通信
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ページ

[註2]
この最後の章の無時間の存在の十字路での殺人は、第6章風の長歌で縄文人が学生に死に際に苦しんで呻いてゐ
る老人の殺人を強制するといふ、時間の中での殺人を描いた病院といふ空間に対して配した殺人です。

[註3]
この詩の解釈そのものは、既に「(22.2)章別・呪文解説」(もぐら通信第75号)の「(7.6)詩3」
にてお話ししましたが、再掲します。

「第一連は、いづれの場所も存在の交差点、存在の十字路を歌つてゐます。第二連は、定時定刻に対して超越論
的に遅刻した人さらひについて、第三連は一文字分下に行を落としズラして差異を第二連とは異なるやうに設け
て、一文字分の余白を示して、これがはじめも終はりもない存在の人さらいであることを示してゐます。

それでは、第二連の人さらいとどこが違ふのかといふと、第二連の最初の一行にある「その後」といふ時間の起
算点の有無が違ふところです。即ち、第二連はまだ此の現実の時間の中で話者の期待した人さらひなのであり、
第三連はもう「既にして」(超越論的に)無時間で遅延を生ぜしめ、時間の隙間を創造してこの世にゐない故に
「会えなかった人さらい」であるのです。後者の「会えなかった」といふ時制の形式は、文法学の視点で見ると、
実は単純過去ではなく、即ち過ぎ去つてしまつた単純な過去なのではなく、英語やドイツ語ならば祈願を表現す
る祈願文であつて、過去形から音韻を変形させて創造する接続文(conjunctive)、正確にいへば上位接続
(conjunction:論理積)の文なのです。英語で非現実話法と教はつたのが、これです。

If I were a bird, I would like fly to you.(もし鳥だつたなら、あなたの所へ飛んで行くのだ


がなあ)

といふ例文を教はらなかつたでせうか。

この例文のwere(be動詞)が、これです。またwouldといふ助動詞が、これです。といふ訳で、この最後の詩の
第三連で主人公は(時間を捨象して)願ひがかなつて次の存在へと脱出することができるといふ訳です。

この呪文の特徴は、これまでの呪文とは異なり、安部公房の詩と記号によつて存在化された呪文の組み合わせで
あることです。(7.5)呪文20は「呪文存在化記号規則」でいふ5番目の最終段階に至つた存在の呪文の提
示。それだけでは足りず、最後の最後に主人公が成仏するには、安部公房自身の詩と抱き合はせることが成仏の
必須条件であるといふことになります。」

(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
結論:3といふ数字は存在に関係してゐて、安部公房文学作品の根本であり骨格の論理であ
る。

(24.1)3といふ数字は存在に関して、どのやうに関係してゐるのか?
函数形式・一般式と、概念連鎖の一般・個別を再度ここで、3といふ数字との関係で、見て
みませう。

結論を言へば、「1。函数形式・一般式」が、3といふ数字との関係では完全に連鎖が成立
してゐます。といふことは、この3といふ数の繰り返しは、安部公房の作品の根本であり骨格
の論理であるといふことになります。
もぐら通信
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ページ

また、下記の「(24.2)一般」で青色に着色された言葉を見ると、いよいよ第7章が総仕上
げの最後の章であることが一目瞭然です。「硫黄泉の露天風呂」ですら、敢へて青色にはしま
せんでしたが、しかし《尻尾》のない豚が尻尾のない鯛焼きに変形されて、この鯛焼きには
「「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひ」が漂つてゐるからには、同じ色に着色しても良いので
す。

(24.2)一般
「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(18)駐車場」(もぐら通信第70
号)より「1。函数形式・一般式」「2。概念連鎖・一般式」「3。概念連鎖・個別式」を引
用します。これによつて、作品中の列車の位置を確かまることにします、例によつて、列車と
いふ形象に関係する言葉は青色にします:

「1。函数形式・一般式

存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]

2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖

座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を告
げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の空間
の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)→
存在の出現ー閉鎖空間からの脱出

3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖
ー「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひー硫黄泉の露天風呂ー存在の凹ー賽の河原ー呪文類ー満願
駐車場ー未分化の実存の子供達(「垂れ目の少女」「トンボ眼鏡の看護婦」)ー窓ーサーカスー
人さらいー列車ー駅ー交通体系ーポイントの切り替え(支線から本線へ)ー笛の音(警笛の
音)ー(時間の断面の複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー人さら
い)ー」

(24.2) 個別
2.3に、ここまで3といふ数に関係して言及して来た箇所を全て列挙し、以下の規則を抽出し
ましたので、整理をして並べます。他の作品を読む場合にも、精密精緻な思考を体系的に徹底
する言葉の科学者にして言葉のエンジニア安部公房のことですから、これは同様の筆法によつ
て書かれてゐると考へられますので、以下の3といふ数の用例を参照しながら読み解くことが、
必ずできる筈です。以下、敢へて一つにまとめることをせず、生々しい形のままに列挙します。

(1)【3といふ数字は存在に関係してゐる】
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もぐら通信                          15
ページ

(2)【3といふ数字は存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】
(3)【存在の招来に関係してゐる呪文は3回唱へられる】あるいは逆に【呪文が3回唱へ
られると存在がやつて来る】
(4)【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続く
と呪文となり、存在が招来される】
(5)【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】
(6)【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、始めと終
はりの差分が絶対値が3といふ値をとると、その差異に存在が招来される】
(7)【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来
る】
(8)【3回繰り返すといふことは、故郷に住む兄弟の身を廻向するためである】または【3
回繰り返すといふことは、故郷に住む兄弟の冥福を祈り、また霊を鎮魂するためである】
(9)【立て札があつて、3回唱へられる呪文があつて、3といふ数字を担つた何かが十字
路(または交差点)を通過すると存在が現はれ、その交差点が存在の十字路になる】
(10)【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続
くと呪文となり、存在が招来される】といふ規則に従ひ、【3の倍数も単位化されることに
よつて、無時間の3である】
(11)【3回繰り返されるのは、超越論的に時間と空間の差異に関する文章であれば、文
章の単位でも良い】
(12)【立て札も3回続けて登場すれば、存在への方向指示板としての呪文になる】
(13)【垂直に立つ壁や岩(「カーブの向かう」)を巡ることに関して同じことの繰り返
しが、物理的にであれ、数の3であれ、登場人物の行為であれ、3回続いて下降すると、そ
こは存在である】
(14)【垂直に立つ壁や岩(「カーブの向かう」)を巡ることに関して同じことの繰り返
しが、物理的にであれ、数の3であれ、登場人物の行為であれ、呪文または御呪(まじな)
いが3回続くことを通して下降すると、そこは存在であり、ニュートラルな場所になるが、そ
こで、登場人物の役割の交代が行はれる】
(15)【3といふ数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の
声明(しょうみょう)であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌である】
(16)【3回繰り返す呪文の霊験(最終目的)は、主人公を閉鎖空間(といふ物語)から
脱出させることである】

(24.2.3)これまでの用例
『カンガルー・ノート』に頻出する3といふ数字を列挙する。号数は『カンガルー・ノート』
論掲載のもぐら通信の号数を示す。
もぐら通信
もぐら通信                          16
ページ

第66号:
(1)ピンク・フロイドの『エコーズ』は、『 』の記号入りで3回、この最終章に登場する。
(2)第1章、第2章、第3章と下降、下降、下降と3回の接続を下に降りて行き、存在の
中の存在の中の存在に辿り着く。
(3)満願駐車場の呪文は次の通りです。呪文は全部で3つありますが、少しづづ呪文の内容
がズレて行きます。

【3といふ数字は存在に関係してゐる】

第68号:
(1)閉門について3つの風がある。
  ①存在を招来する風
  ②存在である風
  ③次の存在へと主人公をさらつて行く風

【存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】

(2)VV 呪文:「波のうねり」「櫓を漕ぐひそかなきしみ」「船縁をたたく水の音」(10
4ページ上段):呪文が3回続く。3といふ数字はあちこちに出てきて繰り返される。

【存在の招来に関係してゐる呪文は3回唱へられる】あるいは逆に【呪文が3回唱へられる
と存在がやつて来る】

(3)YY 3といふ数字(105ページ下段):「三日堂」の立て札の後に、安部公房は3と
いふ字を三回繰り返して呪文となしてゐる。一つ目は上の( )の中の「三日堂」、二つ目は
「四年ほど前、父の遺品として宅配便で送られてきた三冊の本」、三つ目は「『大黒屋爆破
事件』を、暇にあかせて三度も読まされてしまったのである。」:存在。物語は閉鎖空間で
ある。

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文
となり、存在が招来される】
【存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】

(4)[註3]
『砂の女』の最初と最後にある主人公の年齢を引き算するとー3年といふ3といふ数字に関
係してゐる筈。この数字については別途論じます。
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ページ

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、始めと終はりの
差分が絶対値が3といふ値をとると、その差異に存在が招来される】

(5)e「断続するベルの音が三回」鳴る(150ページ上段):やはりここで劇の開幕のベ
ルの甲高い音が3回鳴つてゐる。終はりのベルが鳴る前に「既にして」「いつの間にか」終
はつてゐる劇が同様に「既にして」「いつの間にか」終はつてゐることを告げるベルの音であ
る。

超越論的な開始のベルの音。既に上で「b 時間の単位の等価交換(149ページ上段)」が
主人公と「トンボ眼鏡の看護婦」の会話で交はされてゐて、1週間と1日といふ時間の単位の
等価交換が主人公の記憶の中で行われて、時間が無化されて、無時間の空間となつてゐること
を思ひ出すこと。

【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来る】
【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、単位が人の記憶
の中で等価交換されると、時間が無化されて、そこは時間の存在しない空間となる。】

(6)御詠歌
「ふたつ積んでは、母のため……」
「みっつ積むのは、誰のためか知ってる?」

安部公房は、ここでも3といふ数字を重要視してゐて、これ以降の歌の行を沈黙と余白に隠し
てゐる。といふことは、三つめ以降に喪はれた子供達が一体何を歌ふのかが大切だといふこ
とである。それを第4章火炎河原から引用すると、

「ひとつつんでは ちちのため
 ふたつつんでは ははのため
 さんじゅうつんではふるさとの
 きょうだいがみをえこうして
 (略)」

【3回繰り返すといふことは、故郷に住む兄弟の身を廻向するためである】

(7)q 3といふ数字:線路と道路の交差した存在の十字路に、「RUN」の文字が点滅して
ゐる「大きめの矩形」の信号としての立て札と「警笛の断続」と『通りゃんせ、通りゃんせ』
の呪文と「三両編成の電車」が通れば、存在の十字路に必要な4つの構成要素は皆揃つたと
いふことである。『通りゃんせ、通りゃんせ』の呪文は、この第5章新交通体系の提唱とい
ふ超越論の交通体系の創造にあつては計3回繰り返されることにご注意下さい。
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もぐら通信                          18
ページ

【立て札があつて、3回唱へられる呪文があつて、3といふ数字を担つた何かが十字路(ま
たは交差点)を通過すると存在が現はれ、その交差点が存在の十字路になる】

(8)立て札の数が6であるのは、3の倍数であるから。6は単位化すれば3だと解するこ
とができるので、ここでも時間は、時間の中の数を単位化することによつて、存在しないこ
とになる。

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文
となり、存在が招来される】といふ規則に従ひ、【3の倍数も単位化されることによつて、
無時間の3である】

(9)『通りゃんせ、通りゃんせ』の呪文が鳴つてゐる箇所をまとめると、
(1)一回目:存在の記号『 』で記号化された『通りゃんせ、通りゃんせ』(152ページ
下段)
(2)二回目:地の文の「通りゃんせ/通りゃんせ」(154ページ下段)
(3)三回目:地の文の「通りゃんせ/通りゃんせ」(155ページ下段)

【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来る】

(10)u「三軒の商店と契約」(155ページ上段):「トンボ眼鏡の看護婦」は、3とい
ふ数字に関係して三軒の店と契約をして「ローリング族」といふオートバイ族の情報を収集し
てゐる。

【3といふ数字は存在に関係してゐる】

(11)pp 3といふ数字(163ページ下段):「風が蝙蝠を二、三回叩き落とした。だれ
かの甲高い呻き声。

【3といふ数字は存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】
【存在の招来に関係してゐる呪文は3回唱へられる】あるいは逆に【呪文が3回唱へられる
と存在がやつて来る】
【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来る】

(12)ddd 3といふ数字(172ページ上段):「老人が眠りに落ち、看護婦が詰め所引
き返すのを確認して、一気にボタンを押した。呼び出しのベルが鳴りはじめる。三度目のベル
で応答があった。」3回鳴る(風の音に同じ)甲高い音。

【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来る】
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(13)eee 風の音(173ページ下段):「誰かが何処かで溜め息をついた。」安部公房が
成城高校時代に読み耽ったリルケの詩の世界では、溜め息は風であり、従ひ存在である。この
風が吹いたあとで、次の3といふ数字のある一行が来る。

fff 3といふ数字(173ページ下段):「学生が壁からカレンダーをめくり(あと三日で月替
りだ)、テーブルにひろげてアミダ籤の作成をはじめた。運命を左右する横線の一本々々
に、何やら念じながら息を吹きかけている。」:これは初期安部公房で頻出した「運命の顔」
に関係する未来の時間・人間・運命・存在についてのアミダ籤。ここでは哲学用語はもはや
現れず、『S・カルマ氏の犯罪』の軽みを帯てゐる。「念じながら」「吹きかけている」息は、
勿論存在の風。このアミダ籤は、甲高い呻き声を繰り返す老人を安楽死殺人するためのアミ
ダ籤である。

【3といふ数字は存在に関係してゐる】
【3といふ数字は存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】

(14)安部公房のつもりでは、第7章で二度満願駐車場の呪文が唱へられることは、この作
品の内部では第6章に一度、第7章に二度ですから、これで章間接続は終はり、(即ち、計3
といふ数の通りに3回唱へた)、しかし此の3といふ数字の関係を相似のままに此れを生かし
て、今度は作品間で、この最終章の二度の満願駐車場の呪文を、『カンガルー・ノート』に対し
ては外部である次の作品で、即ち『さまざまな父』の中で、三度目の、しかし『さまざまな父』
といふ作品の内部では最初の、「オタスケ」の呪文を唱へて、この意味でも作品間の結末継承
を図りたいと考へてゐたのではないかといふことです。これは、3といふ数の意味は「(24)
3といふ数」で、それから呪文については「(22)呪文」で詳しく考察をします。

といふことは、3といふ数字とともに、2といふ数字もまた、そして1といふ数もまた、考慮
に入れて3といふ数を考へるといふことになります。何故人間は、1、2、3と数を数えるので
せうか?これは一体何を意味してゐるのでせうか?

この考へ方で『さまざまな父』を見ると、第1話は「短い沈黙」のあとに「不意打ち」ドアの
開扉、そして次に「風の気配」が漂ふ(全集第29巻、257ページ上段)。更に「湿っぽい
風が道いっぱいに吹き抜け」て(同巻、259ページ下段)、3の倍数であるカメラの「6X6
判」のことが父によつて語られて(同巻、259ページ下段)、第1話の最後には「遠くから
救急車のサイレンの音が近付いてくる。」(同巻、261ページ)。呪文は第2話以降で唱へら
れるのでありませう。

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文と
なり、存在が招来される】といふ規則に従ひ、【3の倍数も単位化されることによつて、無時
間の3である】
もぐら通信
もぐら通信                          20
ページ

第69号:
(1)この小説には、3度、笛という言葉が出て来ます。

一つ目は、チベットの大笛
二つ目は、やはり、草笛
三つ目は、「喉を笛のように吹」いて出る声の音色

【甲高い音が3回鳴り響くと、超越論的に始めも終はりもなくなり、存在がやつて来る】

(2)連続して此の章の冒頭に繰り返される次のニュートラルの論理、即ち超越論の論理の
3回の繰り返しが、呪文である。
②「チャーシュー麺を半分だけ残し、かろうじて平らげた。残して、平らげたというのは、矛
盾した表現だ。」(145ページ上段)
③「引き戸の外はモノクロームの朝。明暗の識別には十分だが、色彩を行き渡らせるまでに
は熟しきっていない時刻。」(145ページ上段)
④「一番電車は出てしまったが、二番電車の発車までには間があるらしく、駅前の県道はひ
どく閑散としていた。」(145ページ下段)

【存在の招来に関係してゐる呪文は3回唱へられる】あるいは逆に【呪文が3回唱へられる
と存在がやつて来る】

着目すべきは、このニュートラルといふ概念に基づいた文章が3回連続して続いてゐるといふ
事です。この3といふ数字による回数の連続は何を意味するのかは「(24)3といふ数」
で後述します。この概念を表した冒頭の3回の繰り返しは、この章の(安部公房の執筆の)
目的と(安部公房が賦与した、他の章にはない此の章の特別な)性格を表してをり、何故こ
の章で「トンボ眼鏡の看護婦」と「垂れ目の少女」が案内人の役割を、存在の奥宮、即ち天
神様の社殿で交代するのかを、また作品全体の中では其れまでの交通体系から(超越論に基
づく体系である)新交通体系への切り替への章である事を、最初に読者に提示してゐるのです。

【3回繰り返されるのは、超越論的に時間と空間の差異に関する文章であれば、文章の単位
でも良い】

第70号:
(1)燃えつきた地図:
この駐車場の場面について、3といふ数との関係で例を挙げれば、次のやうになります。

1。駐車場の3つの立て札:
3つの立て札は三つとも全体または部分が《 》の記号で括られてゐて、この駐車場は存在へ
と接続される上位接続点であることを示してゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

「《有料駐車場・一時間七十円・定期契約します》
 下に赤字で電話番号。
 《すぐそこ》と、一メートルもある手がさしている、旅館の案内。
 出入り口の守衛小屋を、覆うようにして、《花輪個人タクシー営業所》」

【立て札も3回続けて登場すれば、存在への方向指示板としての呪文になる】

《危険 立入禁止 飲むべからず》……でもこれが医者のカルテに従って辿り着いた現実な
ら、黙って従うしかないじゃないか。べつにぼくが舵を取ってきたわけじゃない。ベッドの誘
導に任せた結果なのだ。」(全集第29巻、119ページ上段)

《飲用可》に挟まれた文字が存在の記号の隙間にあることから、これは存在の水を飲むとい
ふ事を意味してゐて、この世の話であれば、それは死ぬことを意味してをりますし、《危険 
立入禁止 飲むべからず》といふ表記もまた、記号については勿論ですが、それぞれの言葉
の間に一文字分の空白が挿入されてゐて、これは既にお話したやうに、これは安部公房の空白
の論理に従ひ [註5]、存在の宿る空白であり、危険と立入禁止と飲むべからずの三つの言
葉、これも3といふ数に関係してゐて、これらの言葉を上位接続(conjunction)してゐるこ
とを意味してゐます。即ち、

「西側三分の一を遮っていた屏風岩の背後」(これも3といふ数で構成される1、即ち全体、

即ち存在である西側といふ方向または方面である側の其の背後)には、凹といふ形象である
存在が存在するといふことになります。

【立て札も3回続けて登場すれば、存在への方向指示板としての呪文になる】

さて此の「屏風岩をのぼる道」を行き、『カンガルー・ノート』の主人公が「西側三分の一
を遮っていた屏風岩の背後に」周(まは)つて地獄の温泉に浸かるやうに、仁木順平は「岬
の裏側にまわる」ことによつて、さうして「長いゆるやかな上り坂につづく、急な下り坂…
急な下り坂につづく、長いゆるやかな下り坂……一と足、一と足を、ビーズ玉をつなぐように、
つぎ足していく、忍耐の連続」の後に、即ち3といふ数字の三回の下降の果てにどうなるか?

読者ご存じのの通り、あの底なし沼に足を取られて沈んでゆくのです。即ち、

屏風岩の背後に、3段の階段を降りると地獄である底なし沼がある

とすれば、『方舟さくら丸』の便器の登場する前にも、屏風岩が立つてゐる筈です。それも、
屏風岩の背後に、屏風岩を周ると便器は其処に、3といふ数と深く関係して、3段深い場所
に、存在の存在する凹の空間がある筈です。と思つて、最初に便器の書かれてゐる箇所を読み
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

ますと(全集第27巻、299ページ∼303ページ)、

【垂直に立つ壁や岩を巡ること(「カーブの向かう」)に関して同じことの繰り返しが3回
続いて下降すると、そこは存在である】

①便器はやはり「左側の壁面」にある(全集第27巻、299ページ上段)。そして、
②もつと直かに屏風岩に相当する壁が出てくる。
「この壁の石、本当に青いの。青く見えるだけかな」 [註6](全集第27巻、300ペー
ジ上段)
③便器の所へ4人が行く前に、主人公は階段を降りるわけですが、「まだ三段残っていた
が、ひと思いに飛び降り」る(全集第24巻、300ページ上下段)。そして、
④第18章「そして便器に墜落した」で、主人公は便器といふ地獄である底なし沼に墜落す
るわけです(全集第27巻、404ページ上段)。

【垂直に立つ壁や岩を巡ること(「カーブの向かう」)に関して同じことの繰り返しが3回
続いて下降すると、そこは存在である】

また、ここで、3といふ数字について記してをきたいことは、上の①から③の箇所の前に、
「なんのまじないかサクラが指を三本、唾でしめして額になすり付け、思い出したように付
け加えた」り、(全集第27巻、209ページ上下段)、「サクラが梯子から手を離し、三
歩さがって中立の姿勢をとった」りすることです(全集第27巻、300ページ上段)。こ
こでは、サクラが地獄への案内人の役割を演じてゐると考へることもできます。

【垂直に立つ壁や岩を巡ること(「カーブの向かう」)に関して同じことの繰り返しが、物
理的にであれ、数の3であれ、登場人物の行為であれ、呪文または御呪(まじな)いが3回
続くことを通して下降すると、そこは存在であり、ニュートラルな場所になるが、そこで、登
場人物の役割の交代が行はれる】

丁度『燃えつきた地図』で、依頼人の「弟」が案内人として、存在の喫茶店《つばき》の3つ
の立て札の立つ駐車場といふ上位接続点に停めてある主人公の車の位置が「ぼくの車は、左
側の列の、三台目だ。」とあつたやうに(全集第21巻、137ページ下段)。『燃えつき
た地図』では、この場面では、存在への案内人が猫から此の「弟」(謂はば贋の弟)に交代
するやうに、『方舟さくら丸』では、この「屏風岩の背後に、3段の階段を降りると地獄で
ある底なし沼がある」といふ場面で、昆虫屋からサクラへと案内人の交代が行はれてゐるの
です。

【垂直に立つ壁や岩を巡ることに関して同じことの繰り返しが、物理的にであれ、数の3で
あれ、登場人物の行為であれ、呪文または御呪(まじな)いが3回続くことを通して下降す
もぐら通信                         

もぐら通信 23
ページ

ると、そこは存在であり、ニュートラルな場所になるが、そこで、登場人物の役割の交代が
行はれる】

第72号:
(1)このページの間で(同巻186ページ上段)名前の3回挙げられるピンク・フロイド
の曲『エコーズ』を巡つて、「なんだっけ?ピンク・フロイドの……むかし、サーカスのとき
よく聞いた、『エコーズ』……じゃなかったけ……」とあるのは、「……むかし、サーカス
のときよく聞いた、『エコーズ』……じゃなかったけ……」と「……」といふ沈黙と余白の
記号 [註2]の中で、それも肯定され其のあとに否定されるといふ陰陽二つの間にいづれで
もない形で、即ち第三の客観(自己を含む存在) [註3]として言及されてゐることから、
やはり『エコーズ』といふ曲は、安部公房が奉天で聞いたサーカスの興行の際の演奏される
曲に似てゐるのでありませうし、それ故に後述する理由によつて引用されるに足る存在の荘
厳と死者への鎮魂の曲なのでありませう。

【垂直に立つ壁や岩を巡ること(「カーブの向かう」)に関して同じことの繰り返しが、物
理的にであれ、数の3であれ、登場人物の行為であれ、呪文または御呪(まじな)いが3回
続くことを通して下降すると、そこは存在であり、ニュートラルな場所になるが、そこで、登
場人物の役割の交代が行はれる】(「この道を北に辿って行くと、松林があって、その向こう
は海なんだってね」全集第29巻、182ページ下段)

(2)さて、さうして、『エコーズ』の曲が演奏され続け、『エコーズ』の名前が3回二人の
口から発声される時間の隙間に、次のことが超越論的に、即ち時間の前後とは脈絡なく、起
きます。傍線筆者。
 (1)「とつぜん警笛が響きわたり、ホームに二両編成の電車がすべりこんできた。けば
けばしく着飾った、例の遊園地スタイルのミニ電車だ。夜光塗料か蛍光塗料を使った、窓の
周囲のエキゾチックな幾何学模様。」(同巻186ページ上段)
( 2)「六つの電動ドアが一気に開いた。誰も降りてこない。いや、なにか灰色の小動物
の群れが飛び出してきたような気もした。すごいスピードでジャンプしながら、ホームを横切
り、闇のなかに散らばっていく。カンガルーにしては小さいので、ワラビーかもしれない。そ
してふたたび、静まり返ってしまう。」 [註8](同巻186ページ下段)
(3)祭りは存在の祭りであり、その祭りは「風の中の風の音」といふ笛や警笛と同じ高い
音として鳴ると、忽(たちま)ち存在の中の存在の中に存在する。「祭りの賑わい」は、実
は存在の存在の存在にあつて、この賑はひは存在の賑はひである以上、沈黙に等しい賑はひ
であり、3回その曲の名前が唱へられて、確かに主人公のいふ『エコーズ』に聴く「狂気の静
寂ってやつ」なのです(全集第29巻、186ページ上段)。

【3回繰り返されるのは、超越論的に時間と空間の差異に関する文章であれば、文章の単位
でも良い】

この同じ超越論の論理もまた、祭りといふことから、カーニヴァルといふ祭りの前夜祭が舞
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

台の『密会』といふ小説の中で、何故カーニヴァルを想定し、その前夜祭を描くのか、その
書き出しの最初の段落で何故時間の隙間の「夜明け前、たしか四時十分頃、約束通り」と書
き出されてゐるのか、さうして「約束通り」といふ未来の予約された時間に対して、「そこで
いきなり」記録の委嘱の仕事を主人公が引き受けて、主人公がどのやうに「約束通り」とい
ふ未来の予約された時間に対して、遅延を生ぜしめて予定された祭りの記録が超越論的な無
時間の「既に」記録されてゐたドキュメンタリー(documentary)のノートになるのか、何
故冒頭の第2段落で馬が「旧陸軍射撃演習場跡」を競技場にして「8往復もしたらしい」時
間の間に「たったの三度しか転倒しなかつた」といふ「本当だったとすれば」といふ非現実
に関する3といふ数字への言及の箇所から「既にして」記録が始まつてをり、最後に主人公
が世界の果てといふ地下の閉鎖空間からの脱出を試みる際には配達される「明日の新聞」の
登場の間に、カーニヴァルの前夜祭が記録されるのかの理由なのです。

さうであれば、『エコーズ』の曲の単調な繰り返しもまた、眠たくなるやうに響いてゐる。『密
会』の最後の此処で数へられる数字が呪文であり、繰り返しの数字であるならば、3といふ
数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の声明(しょうみょう)
であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌であるといふことが判ります。安部公房は3とい
ふ数字を御詠歌にした。

【3といふ数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の声明(しょ
うみょう)であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌である】

『密会』の『エコーズ』は、小説の最後に次のやうに響きます:
「副院長のコルセットよりも厚いゴムの袋に閉じ込められてしまう直前、遠くで歌っている女
秘書の声が聞こえた。
――九九を言ってごらん。
誰かぼくのために追悼の辞を読みはじめる。
――二二が四、二三が六、二四が八、二五の十……」
(全集第26巻、137ページ下段)

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文
となり、存在が招来される】

(4)この呪文の前後に三回3といふ数字が書かれてゐる。『エコーズ』と同じです:
「約束の時間を三十分近くも過ぎている。」(同巻、136ページ下段)
「ぼくはジャンプ・シューズを使って、天井近くまで跳ね上ってみた。三度目に、奥の隅にう
ずくまっている薄茶のブラウスと視線があった。」(同巻、136ページ下段)
「トレパン姿の若者が三人、人ごみの中から姿を現した。」(同巻、137ページ上段)
これは、主人公が存在の中へと入つてゆく前兆を意味してゐるのです。さうして、それは死ぬ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ25

ことに等しいので、3といふ数字と其の倍数は、特に後者は数学的な繰り返しを意味しますから、
これはtopologyによる作品の構造化と相俟つて、呪文となり、3といふ数字と其の回数による
記述の繰り返しとともに、主人公を死に出の旅へと送り出す餞(はなむけ)の言葉となるのです。

【呪文が3回唱へられると存在がやつて来る】
【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文と
なり、存在が招来される】

(5)アリスといふ少女が未分化の実存たる資格を備へる、上のやうな経験可能な少女であつた
といふこと、『カンガルー・ノート』ならば存在の3階層を自由に往来する能力を有する「垂れ
目の少女」であつたといふことです。

第75号:
(1)「2。『カンガルー・ノート』の呪文論」による呪文類の分類は[呪文、古謡、御詠歌、
詩]といふ四つの呪文でありました。この分類に至る次第は「(16)風の音」(もぐら通信第
68号)で明らかにした通りです。

この分類に基づく最初の狭義の呪文には、更に下位分類に次のやうな3種類の呪文がありま
す。これらの分類は、満願成就視点の分類です。あるいは、あなたが神社にお参りして願掛け
をする際の呪文であり、祈願文であると云つても良い。この下位分類を明細にした上で、全
体的に再度呪文をまとめると次のやうになります。

①呪文
(あ)脱皮の呪文
  存在への脱皮:バナナの皮でくるみますといふ呪文
(い)満願駐車場の呪文
  満願成就へ誘(いざ)なふ呪文でありお告げである。この呪文の性質から云つて、次の
「(う)主人公または話者が願ふ「オタスケ」の呪文」と対になつてゐる。「オタスケ」の
呪文は、第1章から第7章まで、満願駐車場の呪文に向かつて/との関係で唱へられてゐる。
(う)「オタスケ」の呪文
  主人公または話者が願ふ「オタスケ」の呪文。どうか助けてください。この閉鎖空間か
らの脱出を成就させてくださいといふ呪文

【3回繰り返されるのは、超越論的に時間と空間の差異に関する文章であれば、文章の単位で
も良い】

呪文1から呪文3に至るまでの間に、この呪文は段々と存在の呪文になつてゆく筈ですので、
呪文3の構成をみると前綴は確かにアナが3回といふ(3回唱へられて)凹である存在の形
象になつてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

【3といふ数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の声明(しょ
うみょう)であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌である】

「風の声」(もぐら通信第68号)より引用します:
「安部公房は、ここでも3といふ数字を重要視してゐて、これ以降の歌の行を沈黙と余白に隠
してゐる。といふことは、三つめ以降に喪はれた子供達が一体何を歌ふのかが大切だといふ
ことである。それを第4章火炎河原から引用すると、

「ひとつつんでは ちちのため
 ふたつつんでは ははのため
 さんじゅうつんではふるさとの きょうだいがみをえこうして」
(傍線筆者)

傍線部を見るとおわかりの通り、安部公房は一つ、二つ、三つといふやうな連続にはしてをら
ず、上記で1週間と1日の時間の単位を等価交換したのと同じく、数を単位化して、三つ目で
は「三重積んでは古里の 兄弟我身を回向して」と30にしてゐる。3を10倍して単位化し、
ひとつのまとまりある意味をもたせたら、これ以降の3で全て30の倍数である意味のまと
まりを表すことができる。しかし、安部公房の世界は超越論の世界であるので、この論理は
此れ以降のみならず、これ以前にも最初から適用できるといふことになる。

【3といふ数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の声明(しょ
うみょう)であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌である】

といふことは、安部公房は3の意味は、時間を捨象したある単位、即ち単位は無時間であり、
そもそも時間には無関係でありますので、そのやうな空間を創造するに際しては、安部公房
は3といふ数字を用ゐて、そして其れを単位化して、話を書いたといふことになります。しか
し、それが何故3であるのかを論ずるには別稿を要します。」(傍線筆者)

【3回繰り返されるのは、超越論的に時間と空間の差異に関する文章であれば、文章の単位で
も良い】
【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】

私の上の引用傍線部分の解釈は、三重を30と解したものですが、これを文字通りに三つ重
ねと取ると解釈はどう変はるかといへば、三重といふことで(3といふ数字のあることから)
それ以降の石の積み重ねを全て(3の倍数とするのではなくて)此の数字で代行させて歌は
れてゐるといふことになります。即ち、3といふ数字で数字自体の単位化を図つてゐるといふ
こと、単位化とは上の引用に書きましたやうに、単位化されて物事は無時間となるといふ解
釈です。

【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、始めと終はりの差
分が絶対値が3といふ値をとると、その差異に存在が招来される】
【3といふ数字の意味は、また、それは繰り返しの呪文の最小単位であり、追悼の声明(しょ
うみょう)であり、御詠歌であり、死者を傷む鎮魂歌である】

(3.5)呪文7:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、122ページ上段)
   (あ)この呪文は此の章の中で計3回繰り返されてゐるので、存在に関係した呪文で
ある。実際最後の第7章人さらいの章の最後で存在の記号( )の中に置かれてゐる。 それ
も存在の記号の中では二行に分かち書きされずに、二つの行が一つになつてゐて、一行で1と
いふ存在になつてゐる。

【呪文が3回唱へられると存在がやつて来る】

(3.6)呪文8:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第
29巻、122ページ上段)
   (3.5)呪文7参照。2回目の呪文7
(3.7)呪文9:オタスケ オタスケ オタスケヨ/オネガイダカラ タスケテヨ(全集第2
9巻、122ページ下段)
   (3.5)呪文7参照。3回目の呪文7

【呪文が3回唱へられると存在がやつて来る】

(3.8)呪文10:オタスケ オタスケ オタスケヨ(全集第29巻、124ページ上
段)  
   (あ)(3.5)呪文7の前半の半分だけが唱へられてゐる。
   (い)後半の半分は「沈黙と余白の論理」に従ひ、隠されてゐるといふことである。

つまり「オネガイダカラ タスケテヨ」といふ救済の願ひが沈黙の中で祈られてゐるといふこ
とである。この隠された後半は、それほどに存在に深く関係してゐることを意味してゐる。そ
れゆえに第7章の最後に存在の( )の中に此の願文が書かれて願ひが成就する。
   (う)この章では計3回、この半分だけの呪文10は繰り返されてゐるので、これも存
在に関係した呪文である。その心は上記(い)に同じ。

(3.8)呪文10参照。2回目の呪文10
(3.9)呪文11:オタスケ オタスケ オタスケヨ(全集第29巻、124ページ下段)
  (3.8)呪文10参照。3回目の呪文10

【呪文が3回唱へられると存在がやつて来る】
もぐら通信                         

もぐら通信 28
ページ
(5.1)古謡1:『通りゃんせ、通りゃんせ』のメロディー(全集第29巻、152ページ
下段)
  (2)古謡1:『通りゃんせ、通りゃんせ』は、「存在の中の存在の詩人または其の物語
の作者《安部公房》の書いた物語についてのものであることを意味する」といふことになりま
す。

安部公房の話法「僕の中の「僕」」が、存在の存在の存在にゐて『通りゃんせ、通りゃんせ』
を歌つてゐるといふことになります。

(5.2)古謡2:通りゃんせ/通りゃんせ(全集第29巻、154ページ下段)
    地の文の通りゃんせ通りゃんせ。
(5.3)古謡3:通りゃんせ/通りゃんせ(全集第29巻、155ページ下段)
    地の文の通りゃんせ通りゃんせ。
この古謡の3回出てくるといふ呪文は、ローリング族といふオートバイの暴走族が鉄道の踏
切を交差して横断する際の次の函数の一般式によつて表されるのでした。

【呪文が3回唱へられると存在がやつて来る】

(3)「u「三軒の商店と契約」(155ページ上段):「トンボ眼鏡の看護婦」は、3とい
ふ数字に関係して三軒の店と契約をして「ローリング族」といふオートバイ族の情報を収集し
てゐる。

このオートバイ族は、函数形式の問題下降したものが、

存在への上位接続点[(開門、閉門)、(風、甲高い音、呪文類)]

といふことでありますから、本文を読みますと、その成り行きは、この集団が踏切の交差点を
通過するまでに「あと二十秒」といふ(何時何分とは言はれぬ定時定刻では本当はない)定時
定刻に対して二十秒前に、踏切の交差点[門の開閉(0、0)、(全員が乱れ打ちした「太鼓
に仕立てた象の剥製」、「おくればせに警報」、『通りゃんせ、通りゃんせ』)]といふこと
になります。
【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文と
なり、存在が招来される】

門の開閉がともに値が0であるのは、そもそも此の場面でも踏切を通る始めと終はりが不分明
であり、オートバイ族は警笛に対して既にして「通過してしまった」(155ページ下段)も
のとして書かれてをり、また従つて終はりについても同様で、『通りゃんせ、通りゃんせ』の
後で「数秒の間をおいて」「警笛」が遅れて鳴つてゐるからです。始めと終はりは、ここでも
不分明です。即ち、ここでも、オートバイ族は「あと二十秒」といふ定時定刻に対して「「来
たぞ! でも早すぎるんじゃないか」と二階からアメリカ人のキラー君がわめいた」やうに(1
55ページ下段)、踏切には早過ぎて到着をしてゐるといふ超越論的な通過をしてゐます。
それ故に、踏切の警笛は始めと終りに事後で遅れて鳴るといふことになります。第5章新交通
もぐら通信
もぐら通信                          29
ページ

体系の提唱の駅の近くの存在の踏切の十字路でオートバイ族が「太鼓に仕立てた象の剥製を、
全員が乱れ打ちしながら通過してしまった」とある此の大きな象の剥製を思ひ併せ、この3回
目の『通りゃんせ、通りゃんせ』の呪文で解ることは、奉天の小学生であつた安部公房にとつ
ては、木下サーカスでは間違ひなく、矢野サーカスではひよつとしたら、観た象といふ動物は、
ゆつくりと動くので、超越論的な動物であつたといふことです。定時定刻に対して緩慢に動く
(超越論的な遅延を生まれつき生ずる)大きな象が、安部公房は好きであつた。しかし、これ
に対して小さな象、即ち安部公房の表記でいふ「仔象」[註7]は、小さい象であつて、擂鉢
(すりばち)の底の円の中の舞台では、鞭打たれ、定時定刻通りに動くことを強ひられてゐて、
小学生の安部公房には哀れを催す可哀想な動物であつた。まだ大人になる前の未分化の実存と
しての(毎日定時定刻に学校と教室といふ閉鎖空間へ入らねばならぬ)自分自身の姿をそこに
観たのではないでせうか。(略)」

【3といふ数字は存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】
【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】

(4)「この子の七つのお祝い」を主人公がする「七つの」「この子」とは、「垂れ目の少女」
には相違なく、さうであれば、天神様の細道の奥、即ち存在に、主人公はお札を納めに参ると
いふことになる。ところが、他方、この[NO1]といふお札を授けたのは「トンボ眼鏡の看護
婦」なのであり、「七つの」「この子」の手を引いてお参りするのが、この看護婦であつても
おかしくはないのです。この3人は疑似家族です。

【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】
【3といふ数字は存在に関する何かの始めと終はり、開閉に関係してゐる】

(5)再度ローリング族の3つの句に戻ります。
 (1)警報器が歌ふといふこと
 (2)太鼓に仕立てた象の剥製
 (3)暴走族の全員が太鼓を乱れ打ちするといふこと

(2)と(3)は、安部公房が満洲で実際に見聞したシャーマンの祭祀儀礼で説明がつきます。

【文字であれ、時間の単位であれ、数の単位であれ、その他の単位であれ、3回続くと呪文と
なり、存在が招来される】
【3の数字とともに存在が物語られる場合には、物語は閉鎖空間になる】
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 30

(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)
「(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)」が基本的な大きな接続を示したもので
あるのに対して、ここでは一層詳細で章間に具体的に接続されてゐる今までの形象をまとめて
挙げて、章間の細かな接続関係の全体を示します。

1。第1章かいわれ大根から第2章緑面の詩人への結末継承の接続
この第1章から第2章緑面の詩人への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

     第1章かいわれ大根          第2章緑面の詩人
(A)「移動者がバックで坑道を降りはじめた」:「坑道口に投げ捨てられた」  
(B) アトラス社製のベッド:         アトラス社製のベッド 

2。第2章緑面の詩人から第3章火炎河原への結末継承の接続
この第2章から第3章火炎河原への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

     第2章緑面の詩人の終はり        第3章火炎河原の始め
(A)「またも下水の臭気」:         タンニンの臭気
(B)「船縁を叩く、溜め息まじりの水の音」:(水に対して)題名が火炎河原
(C)「ピンク・フロイドの最新作の導入部」:「ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ/唐辛
(『鬱』の導入部:「櫓を漕ぐひそかなきしみ、 子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマ
  船縁をたたく水の音」)          ス」といふ呪文
(D)「乾いたチノパンツの感触が素晴らしい」:(乾きに対して)運河の水の流れ

3。第3章火炎河原から第4章ドラキュラの娘への結末継承の接続
この第3章から第4章ドラキュラの娘への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。。

     第3章火炎河原             第4章ドラキュラの娘
(A)「日が翳り、雲が崩れ落ちてくる。/:「切れぎれに先を争う雲の下から、さらに暗い  
   「雨が来そうだ」          雲がせりあがり、雨脚は激しくなる一方だ。」
(B)「すっかり馴染んだアトラス・ベッド。:「ぐしょ濡れになってしまったタオルケッ
   ひんやりと敷布に横になる。」     ト」       
(C)「風がはためく」:前章に同じ平面に接続してゐるので(差異がないので)風は吹いて
ゐない。「風が渦巻」くのはもう少し後です(133ページ下段)。
(D)「薄いプラスチックの小箱」:「飛び箱」

4。第4章ドラキュラの娘から第5章新交通体系への結末継承の接続
この第4章から第5章新交通体系への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 31

   第4章ドラキュラの娘の終はり       第5章新交通体系の始め
(A)《かいわれ大根》:          《かいわれ大根》
(B)《かいわれ大根》入りの冷暖の差異の: かいわれ大根》入りの冷暖の差異の
   ない味噌汁              ない味噌汁
(C)存在の十字路にあるラーメン屋:    存在の十字路にあるラーメン屋
(D)ラーメン屋の内部へ:         ラーメン屋の外部へ

上記(B)のことは、第4章と第5章に差異はなく、章としては同じ平面にあることを示して
ゐる。

5。第5章新交通体系の提唱から第6章風の長歌への結末継承の接続
この第5章から第6章風の長歌への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

   第5章新交通体系の提唱の終はり       第6章風の長歌の始め
(A)沈黙と余白の一行にある意識の喪失: 「長い針で局所麻酔を打たれた」         
(B)「気合いとともに、後頭部に肘打ちを:「ゴムの大型ハンマーで、こめかみの辺りを
   強くわされた」其の肘打ち      強打される」 其の強打と「鼻をひねりあげ
                     られた」と「往復ビンタ」
(C)「顎をくるんだ氷嚢」の中で「触れ: 「ガラス板に顔を押しつけられた」其のガラス    
   合っている氷」(透明感覚):    板
(D)「顎をくるんだ氷嚢」:        「顎をくるんだ氷嚢」

6。第6章風の長歌から第7章人さらいへの結末継承の接続
この第6章から第7章人さらいへの結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

   第6章風の長歌の終はり        第7章人さらいの始め
(A)風の長歌(鎮魂歌):      (風の反歌(鎮魂歌)):この題は沈黙と余白に置
                    かれてゐる
(B)「吹きすさぶ風。風の中の風の音」:「吹きすさぶ風」:存在の中の存在の中で吹く激
                    しい風
(C)「祭りの賑わい」:        人さらい:人さらいの四行詩:これが(風の
                    反歌)である
(D)「吹きすさぶ風。風の中の風の音」:「速度の違う大気の流れが、上空で摩擦し合う
                    音」:超越論的な遅延の発生:第7章での次の存
                    在の世界の誕生
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 32
私の本棚
庄田秀志著『戦後派たちの病跡』の「第5章安部公房論」

岩田英哉

第1章が一般論、そのあとの4章が個別論といふ構成になつてゐて、後者については、井
上光晴論、島尾敏雄論、三島由紀夫論、そして最後に安部公房論となつてゐます。

文学の世界の人間には決して書けない安部公房論です。この一大特色を以つて論評するに
足ると思ひて、ご紹介するものです。それも諾(うべ)なるかな、著者は安部公房にそつ
くりな方である。本業は精神医学の臨床医、そのご年齢からゐつても職業から言つてもド
イツ語がおできになること、数理的な能力からトポロジーを理解してゐること、哲学の本
質を理解してゐること、さうして上記四人の作家を論ずる共通の基盤として、「読解する
には、それぞれの作家にふさわしい補助用具が必要である」といふ考へから「精神病理学
や精神分析学の下敷き」の上に、更に「実存主義やシュールレアリスムや仏教学やトポロ
ジーについて、せめて概念の門構えくらいは見ておかないと、話が始まらない」といつて
(安部公房のほかに三島由紀夫論にも著者はクラインの壷を図示し、トポロジーでも三島
由紀夫を論じてゐる)、四人の作家の個別論も、各作家の章に何々論と題した次には全て
の個別論を共通に構造化して、各節の見出しを抽象化すると、次のやうになつてゐます。

(1)第1節:その作家が藝術作品を創造する際の根源的な転換点または境界域について
の題名
(2)第2節:その作家を論ずる視点につけた名前
(3)第3節:註解

作家論のみならず、第1章である一般論も、同様の構造化がなされてゐます。

この体系的な叙述の仕方は、これそのものがまさしく科学者としての安部公房の感情と論
理にかなつてゐます。第1章をよみますと、この著者が何故これら四人の作家に深い関心
を抱いたのかといふご自身の思ひが率直に語られてゐますので、病跡学的視点からとはい
へ、凡百のよくある例ですが理論を機械的に適用してただ無機的な書き手自身の生命のな
い文章を書いてゐるのではなく、全く逆に自分の人生を、文字によつては勿論、行間にも
伝へる、読むに値する作家論に、自づと、なつてゐます。

上記の構造化された第1章から第5章までの第1節の見出しを挙げてみませう。

(1)第1章第1節:なぜ人は作品を作ろうとするのか
(2)第2章第1節:井上光晴の魔力
(3)第3章第1節:島尾敏雄の陰影
(4)第4章第1節:三島由紀夫の逝った日
(5)第5章第1節:安部公房の変身
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ33
第2節の見出しは次の通り。

(1)第1章第2節:エイドス論的視点から
(2)第2章第2節:虚言から虚構の彼岸へ
(3)第3章第2節:「生きられる空間」を逍遥するシュールレアリスト
(4)第4章第2節:劇空間の空虚
(5)第5章第2節:ノスタルジアの消去・永遠の異邦性

この論文全体の視点である上記(1)のエイドス論的視点にいふエイドスについて、以
下に引用します。

「エイドスという言葉はプラトンが「自然(ピュシス)に置いてあるかぎりのものにつ
いて、それらのエイドスが存在している」と述べた言葉に始まり、アリストテレスはイ
デアに近い意味でこの言葉を用い、Husserl, EはWesenの意に用いた。エイドスはこの
世の背景世界を通して、そのつどさまざまな相貌をわれわれの眼前に現し、われわれの
眺めになると考えられている。妄想知覚では、それを読みちがえる。」(同書018ペー
ジ)

第3節の見出しは、すべて註解となつてゐます。「あとがき」によれば、この註解の由
来は「トロール漁法で引っかかってきた著者註解の文章」であり(これは多分著者は精
神療法医ならぬ、精神漁法医なのでありませう)、「それぞれの論文を漁船に見立て、
トロール漁法の網をしかけて動かして見た。そこに引っかかってきた雑多な魚介類につ
いて調べていく作業もおもしろそうに思われた。それが著者註解である」といふところ
にあります。巻末の著者の略歴を拝見しますと、宮城県の生まれとありますので、太平
洋側の海に面した漁港で生まれ育つたものかと拝察します。この隠喩(メタファ)は間
違ひなく著者の生理的な感覚に適つた譬喩(ひゆ)であるのです。この海の向かうから
富が魚群が無尽蔵に押し寄せて来るといふ港町の人間たちの共有する日常的な生活感覚
を次のやうに第1章の一般論「なぜ人は作品を作ろうとするのか」の最初の項「サルト
ルの文芸作品に対する考え方」の冒頭の、戦後派作家四人を論ずるといふ一種の、しか
し控へめな宣言の後に、第二行目をかう始めるのです。

「作家、読者の関係に、解釈する者という第三項目が入ることで、作品は作者を離れた
生き物(運動体)になります。虚構の質の高いものほど、多様な解釈が可能であり、こ
の世に無尽蔵にある書かれたものは、誰かに発見され、新たな体験をしたがっています。
あまたの戦後派作家たちの中で特に四人について論じてみたいと思った動機は、それぞ
れの論の前書きにに示したとおりです。」

第三者たる評者は、かうして漁師であり、その作家の作品群はそのまま魚群である。そ
の生命の海にトロール漁で網を張り、病跡学の視点で魚を獲ると、一体どんな魚が人間
の無意識から獲れるものなのか。その生きた魚の名前は一体何か。このやうな生きのい
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 34
い魚を生け捕るための網が、病跡学といふわけです。著者による病跡学の定義は次のや
うな定義です。

病跡学とは「病みながら創造するものの創作の謎を考えていくものであり、「想像力と
その受難としての妄想という二元的な整理のしかたは」いづれも構想力
(Einbildungskraft)がかかわ」つてゐるので、その二元的であつても「きわめて流動
的な」「陰画(ネガ)と陽画(ポジ)の関係」を、その流動性に乗って精神医学の基礎
知識[註1]を使い、作家の心を考え、作品の成り立つプロセスを探求しようとする」
学である。

[註1]
この学をcreative illnessとして体系立てた人物の名前として、アンリ・エレンベルガーの名を挙げてゐま
す。

この定義はヤスパースの病跡学(Pathographie)の定義に適ひ沿ふものだといふことか
ら、ヤスパースの病跡学の定義も引用されてをります。上の定義はこの著者の思ひ、ヤ
スパースの定義は此れをもう少し抽象化したものといふことができます。

Pathographie(パトグラフィー)とは「精神病理学的に興味のある精神生活の側面を述
べ、そういう人間の創造の原因に対してこの精神生活の諸現象・諸過程がどんな意義を
持つかを明らかにしようとする生活記録」である。

安部公房は世にでる前の成城高校の時代に/からヤスパースを読んでをりましたから、著
者の分析は一層興味深いものが、安部公房の読者として、あります。

Topologicalに「終はりし道の標べに」から始めませう。

第3節註解には次の17の註解が施されてゐます。見出しを列挙します。実に的確に安
部公房を論じてゐることがお解りでせう。

以下上記の順に解説すると、これがそのまま著者による安部公房論になります。必要に
応じて、他の章の作家論も引用して著者の定義にある心を伝へたい。*と一つ星を末尾
に付した用語は直接にバロックといふ概念に含まれ/に関係するもの、**と二つ星を
付したものは、病跡学がバロック概念を含み/に関係するものです。またトポロジーに関
係するものは、最初の番号を青字に着色しました。また、超越論に関係するものは赤字
に着色しました。

(1)Es gibt das Sein*


(2)世界外へとポイエーマ化する*
(3)非対称的に分化した形象*
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ35
(4)メタファー*
(5)プロット*
(6)トポロジー*
(7)砂漠の乾燥量と一滴の水の関係は不変*
(8)リルケ*
(9)この小説(『燃えつきた地図』)の恐ろしい解決篇*
(10)オルフェウス神話*
(11)アレゴリー*
(12)統合失調症(「クレッチマーのいうSchizothymie シゾチーム」)*
(13)ante festum的契機(「アンテ・フェストゥム」的契機)*
   (実はこれも超越論のみならずトポロジーで説明することができる)
(14)症状精神病をわずらったシゾチーム者**
(15)Jaspers, K.の自我意識の統一的な様態**
(16)自我収縮論**
(17)集合的無意識**

これらをざつと打ち見るに、病跡学といふ精神医学は除いても、それ以外の項目は、専
ら文学の範囲内で安部公房の読者であるあなたが論じようとすると、やはり論ずる前に
一度は考へてをかねばならない項目です。(1)から(13)をまとめると、安部公房
文学の核心が露わになります。

(1)存在(といふ概念):存在といふ相対概念
(2)Topology:接続と変形の数学。内部と外部の交換
(3)隠喩(metapher)といふ譬喩(ひゆ):三島由紀夫が隠喩の作家であるのに対
して、安部公房は直喩の作家でした。しかし隠喩を使用する時には「警報機が歌う」[註
2]といふ例が典型的であるやうに満州族のシャーマンの祈祷の儀式の踊りを伴ふ甲高
い発声音をいふ際に、即ち存在を招来する際に、安部公房は外の作品でも「歌ふ」とい
ふ隠喩を使つてゐます。探してごらんなさい、必ずあります。
(4)Allegorie(寓話):安部公房がいつも誤解される代表的な誤解のされ方の例の一
つ。安部公房は自分の作品は寓話ではないとはつきり言つてゐます。
(5)オルフェウス神話とプロット:物語の最後に女性に手を引かれ/の手を引いて閉鎖
空間から脱出する主人公と、言語で語られた物語そのものが閉鎖空間である、そのため
の脱出の言語論理(ロゴス)がtopologyであるといふ安部公房の考へ方
(6)リルケ:いふまでもなく広義の初期安部公房[註3]から最晩年に至るまでの安
部公房文学の豊かな水脈

[註2]
『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第75号)の「(23.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩
いて踏切を渡るのか?」(33ページ)を参照ください。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ36
[註3]
初期安部公房論『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号より
第59号まで)をご覧ください。詳述しました。。

病跡学の領域の用語である(14)から(17)を、私の言ひ方で一つにまとめますと、
言語とともにある人間の意識の再帰性に関する専門用語への註解といふことができます。
即ち、著者が引用し依拠してゐる精神科学の身体と意識の症状は、自我(といふものが
あるとして、その)概念の否定と肯定と、精神の境界域を挟んでその統一と分裂を巡る
註解なのです。

(14)症状精神病をわずらったシゾチーム者**:統合失調症(旧名の方が分裂性が
明示されて分かり易い:精神分裂病)
(15)Jaspers, K.の自我意識の統一的な様態**:統一的な自我意識の様態の構成要
素が4様態挙げられてゐる。
(16)自我収縮論**:言葉の意味との関係で本論第二節(363ページ下段)より
引用すると「収縮した自我は動物の擬態死に似ているが、自我の皮膚は淡く、他なるも
のの意味群の侵襲にさらされ続けている」とある自我収縮論を巡る安部公房の自我に関
する考察の此の一行を、三島由紀夫は肉体に対する言葉の「腐食作用」(『太陽と鉄』)
と言つたのです。『太陽と鉄』より引用します。

「つらつら自分の幼児を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉体の記憶より
もはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉体が先に訪れ、それから言葉が
訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進
まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体
は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。
 まづ白木の柱があり、それからも白蟻が来てこれを蝕む。しかるに私の場合は、まづ
白蟻がをり、やがて半ば蝕まれた白木の柱が徐々に姿を現はしたのであつた。」

白木の柱といふ隠喩が既に不吉ですが、しかし、この文章に語られてゐることは、三島
由紀夫の現実であつたのです。この隠喩による言葉の表現が現実でありますから、この
豊かな修辞の能力が三島由紀夫を殺したのだ、と、これもまた隠喩を使つて無責任に説
明することは、もはや、私はしたくありません。

この隠喩の能力は、『仮面の告白』の有名な最初の一行に深く密に関係してゐます。

「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。」

これは、この後に続く産湯のお湯の波が木製の盥(たらい)の縁(ふち)に照り映える
光の中で打ち寄せる形象も含めて、身体と記憶と誕生(といふことは死といふ)ことと
考へ併せて、三島由紀夫の一生を貫く、時間の作家三島由紀夫の差異を生み出す、差異
に関する、差異に依る超越論です。[註4]何故なら、三島由紀夫が一生を掛けて「永
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 37
いあいだ」(永遠に)「言ひ張つてゐた」(反復し、繰り返した)のは、この「私は自
分が生まれたときの光景を見たことがある」といふ事実の記憶であり記憶の事実であり、
この反復される事実と記憶の差異を隠喩で一気に埋めて懸隔なく一つに接続する能力が
三島由紀夫の隠喩生成の能力の源であるからです。

[註4]
三島由紀夫の超越論については、下記の題名と同じもぐら通信第48号、または次のURLをご覧ください:

『安部公房と三島由紀夫の超越論:「明日の新聞」と死後の子供達への誕生日プレゼント』:https://
abekobosplace.blogspot.jp/2016/07/blog-post_29.html

その家にとつて、初めての子が長子であるといふ誕生は一種の祭りでありませう。

さうであれば、上の「(13)ante festum的契機(「アンテ・フェストゥム」的契
機)*(実はこれも超越論のみならずトポロジーで説明することができる)」といふ祭
りの「前・瞬間・後」の時系列的な時間の流れに対してある此の用語は著者の註解によ
れば、次のやうなものです。

「精神病理学者木村敏によって概念づけられた時間体験の存在様態です。フェストゥム
は祭り、つまりフェスティバル。木村はそれに前、瞬間、後の意味をこめて、祭りの前、
アンテ・フェストゥム、祭りの最中、イントラ・フェストゥム、祭りの後、ポスト・フェ
ストゥムと命名します。時空間兆候に鋭敏な統合失調者気質者は、アンテ・フェストゥ
ム的に、つまりいまだ起こらないそ由来を先取りする形で感覚が動きやすく、メランコ
リー親和者、とりわけ二十世紀、共同体への献身に親和性があるといわれたメランコリー
型(Typus melancholicus)では、取り返しのつかない過去をポスト・フェストゥム的
に、つまり負債になってしまった時間として体験しやすいと整理されます。てんかん気
質、境界例、アスペルガー症候群[註5]では、素裸の中心そのものが瞬間に境界との
混淆として体験される傾向をもちます。不安・恍惚、陶酔、衝動といった体験が一刹那、
凝縮・融合・爆発するのが特徴で、イントラ・フェストゥム的といわれます。臨床精神
病理学的にも、人間学的にも、きわめて明快な概念です。」(同書134∼135ペー
ジ上段)

といふこの学説によれば、安部公房の超越論は、祭りの始めも終はりもない、いつ始ま
つたのかいつ終はつたのか判らない、または始まる前に終はり、終はる前にやつて来て
遅刻するといふ始めと終はりに行き違ふといふ全ての主人公たちの意識と行為の在り方
は、祭りの前、アンテ・フェストゥム型であり、また祭りの最中、イントラ・フェストゥ
ム型と、祭りの後、ポスト・フェストゥム型を回避してゐる超越論であるのに対して、
三島由紀夫の超越論は、祭りの最中、イントラ・フェストゥム型といふことになるでせ
う。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ38
三島由紀夫の生が、「取り返しのつかない過去をポスト・フェストゥム的に、つまり負債
になってしまった時間として体験しやすいと整理され」て、「素裸の中心そのものが瞬間
に境界との混淆として体験される傾向をもち」、「不安・恍惚、陶酔、衝動といった体験
が一刹那、凝縮・融合・爆発するのが特徴」だといふことは、確かにその通りです。とす
れば、次に問ふべき問ひは、

祭りとは何か?

といふ問ひでありませう。

安部公房の超越論は、三島由紀夫の例を挙げるまでもなく、安部公房一人にいはれるもの
ではないことは、ジャック・デリダの差異論を見ても同様であり、また日本の哲学者坂部
恵[註6]もまた同様であり、この超越論に関する安部公房の論理と経験の実際は
『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第67号)で、安部公房の小説とエッ
セイの文章(テキスト)を読み解きながら詳述した通りです。

[註5]
『アスペルガーとしての安部公房』の(1)及び(2)(もぐら通信第60号および第61号)をご覧くだ
さい。

[註6]
『安部公房とチョムスキー(3):3.4 バロックの哲学:差異の哲学』(もぐら通信第75号)を参照
下さい。

また、第1章第2節の「エイドス論的視点から」にある「二 超越論的間主観性のありか
た」はお読みになることをお勧めします。安部公房の仮説設定の文学(またはメタSF文学
論)に関係するところを此の節より引用します。

「虚構では作者は、イマージュの意識で世界を主観性の究極のところまで歪形する。そこ
では事実性をめぐる実在判断はほとんど問題にならない。したがって妄想気分・妄想知覚・
妄想加工のように、「ほんとうらしさ」と客観的事実が等式である必要はまったくない。」
(同書037ページ下段)

「ところで人が虚構として作品を書く場合、妄想知覚や妄想加工と同様、作者はイマージュ
母体が他者と分有されることを志向している。作者は自分の裡なる他者に向かって書く。
身近な友人、教師、批評家、一般読者、そしてついにその姿を隠蔽して永劫に押し黙り続
ける沈黙の天才、神に向かって書く。」(同書038∼039ページ)(傍線筆者)

上の引用の二つ目の下線部の行は、まさに安部公房のことであると思はれる。安部公房の
話法は「僕の中の「僕」」に向かって書くことでした[註7]。当然のことながら安部公
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ39
房と三島由紀夫の対談『二十世紀の文学』(全集第20巻、80∼82ページ)での三島
由紀夫の発言と『燃え尽つきた地図』の帯文に三島由紀夫の書いた文章を引用して、後者
については此のことを次のやうに説明してゐます。

「私が「三島が安部のもっとも適切な理解者」であると思えたのは、論文の中でも触れて
あるとおり、三島の、『燃えつきた地図』(昭和四十二年発刊)の帯文によってでした。
「これは動いている小説である。……その結果、イリュージョンがついに現実に打ち克ち、
そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで明晰になる……」は、安部公房の小説
技法がトポロジーの運動であることを指摘しているといえます。」(「第一節 安部公房の
変身」同書322ページ)

[註7]
『デンドロカカリヤ論(後篇)』(もぐら通信第54号)に詳細に論じましたので、ご覧ください。

(17)集合的無意識**:言語の再帰性といふ根源的な性質に立ち返つて考へますと、
ユングの言は、自分の意識と集合的意識の再帰的な関係の調和こそが大切だといふ説をな
してゐることに帰着します。そのやうに著者の説明を理解しました。

さて、註解一つ一つを更に註記しようと思いひましたが、紙幅が尽きました。ご興味のあ
る方は是非書店にてお買ひ求めください。読むに値する優れた安部公房論であり、他の3
人の作家たちに共通に適用した病跡学といふ方法論でありますので、さうしてまた著者が
人生とは何か、人間とは何かといふ問ひに年来考へ抜いて来た努力によつて此の方法論は
生きてをりますので、単に安部公房一人の論のみならず、一般的な批評としても優れた批評
となつてをります。現今の文学批評が批評になることが少ない理由は方法論の欠落だと、
これまでの私の文章の何処かで辛辣に申し上げました通りのことですが、この著者は精神
科学といふ文字通りのscienceまたはdie Wissenschaft(ディ・ヴィッセンシャフト)を以
つて方法論となし、臨床医としての上記の御努力と相俟つて、これは優れた安部公房論と
なつてゐます。

最後に付言すれば、著者が『赤い繭』を論じるところで、高野斗志美氏の名前を挙げて、
この短編小説の意義は安部公房がそれまでの「一連の実存主義的哲学小説が自己の存在の
根拠を執拗に問い、問い自体が不可能なところにまで認識の駒を進めていると指摘してい
る」といふ同氏の批評の引用をし、更に著者の批評としてtopologyの概念を用ゐて文を続
け「その窮境に、安部は一本の補助線を引き、視点を反転させた。おのれの存在はもとよ
り無根拠である。主概念は運動性であり、この世のあらゆる対象は、言葉という記号に媒
介され、「白昼の夜」の形象としてトポロジカルに析出されているに過ぎない。このような
変容原理を図式化してみせたのが、アレゴリカルな短編小説『赤い繭』であった」とある
ことは、二つの意味で嬉しいことでした。

一つは、後者の引用にある通りに、安部公房の大好きだつた(それ故に「沈黙と余白の論
理」に従つて、ほとんど公言してゐない)[註8]topologyによつて理解を示してくれてゐ
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 40
ること。二つは、前者の引用にある通りに、最初の安部公房論を著した高野斗志美氏の
名前を挙げて、この哲学徒が正面から安部公房文学に四つに組んで発した存在論に関す
る正確な理解の言葉を引用してくださつたことです。この方が最初の安部公房論を書い
て下さつたことは、世界中の安部公房の読者にとつて本当によかつたと私は思つてゐま
す。

[註8])
安部公房全集には『あなたにトポロジー的哄笑を』といふ短いエッセイと(全集第20巻、492ページ)
がありますし、ナンシー・シールズ著『安部公房の劇場』(安保大有訳)の「まえがき」(同書22ペー
ジ)に次の文章があります。

「安部の純粋数学、とりわけ非ユークリッド幾何学の模型の研究を伴う位相幾何学に寄せる愛着も、それ
(引用者註:「安部の試作衝動は写真に現れていた」その写真撮影)に劣らず重要であった。安部のイメー
ジの多くは詩的な数学的観察から生まれており、その観察が、安部の神経を張りつめた精密な調査の下で、
思いがけないものの性状を典型的にあばいて見せていた。砂丘のような現象、昆虫、檻、微笑、鞄は、研
究され尽くしていた。時空という抽象概念は、何にもまして安部の心を占領していた。安部はそういう抽
象概念を量子物理学者のように熟考していた。

https://www.amazon.co.jp/戦後派作家たちの病跡-庄田秀志/dp/4585290095/
ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1518262622&sr=8-1&keywords=庄田秀志
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もぐら通信 41
ページ

追記:
この著者についてもう一言。この方の批評家として優れてゐることは、ヨーロッパの哲学と中
世のスコラ哲学について、日本人として理解する教養をお持ちであることです。

私は、『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)の「1。ヨーロッパ文明の
近代とは何であつた/あるのか」と「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」にてヨーロッ
パの近代の哲学の生まれた由来と、カントから分かれる共産主義・globalismの系譜と、カン
トから分かれる超越論の系譜の二つを明らかにしました。この系譜と明確な境界線(差異)を
図示した図表「西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」のダウンロードは:
https://ja.scribd.com/document/368975265/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置

著者はヨーロッパ中世のスコラ哲学とハイデッガーについて、次のやうに述べてゐます。これ
はこのままtopologyで論じた文法学に外なりません。

(1)スコラ哲学
「そこでは(引用者註:安部公房の著名な作品群のこと)、かつてスコラ哲学が主概念である
Daseinの側に階層づけた神や人間の魂・精神・生命や物質は分け隔てなくKhaosに投げ込ま
れ、神のDaseinのみに特別とされたExistentia=Essentiaもはずされ、ありとあらゆるDasein
が変幻してやまない物質のイメージに置き換えられている(Sosein)。さらに安部は、運動性
を主概念に立てることで、西洋に伝統的だった存在論的主賓概念「(主概念)S(Dasein)ハ
(賓概念)P(Sosein)デアル」という思考習慣をも括弧に入れてしまう。この創作姿勢は、
因果律の崩れた非ユークリッド幾何学空間に現代神話を志向していた安部の理にかなってい
た。」(同書「第二節 ノスタルジアの消去・永遠の異邦性」352ページ下段)

これは私も繰り返し安部公房論で既述して来たtopologyの考へ方です。バロックの原理二つの
うちの一つ、「価値は等価で遍在してゐる」といふことの文法学的な存在論に関する説明です。
もう一つの原理は、世界は差異である。といふ認識論の原理でありました。

(2)ハイデガー
Es gibt das Sein(エス・ギープト・ダス・ザイン)といふ「このやうな形式的指標はハイデ
ガーが、「存在が存在する」という言い方をわざわざ避けるためでした。存在するのはあまた
の存在者であり、その特権的立場に置かれていたのが、中世西洋神学が主題とした神であり、
バックボーンになる理論の一つがスコラ哲学でした。近代に入って懐疑主義、自我意識が科学
主義に後押しされながら神の特権を少しずつ我が物にし始めます。そのような時代風潮を、ハ
イデガーはいち早く察知し、「神が去り、新たな時代の神が現れない」と思想的危機感をいだ
きます。」(同書「第三節 註解」377ページ下段)

ドイツ語で、Es gibt das Sein(エス・ギープト・ダス・ザイン)といふ意味は、著者も書い


てゐる通りに直訳では「それが存在(または存在すること)を与へる」といふ意味です。これ
を更に展開して、普通日本語では、das Seinではなく、普通の名詞、例へば花とか茶碗とかい
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 42
ふと、「花がある」とか「茶碗がある」とか訳すのです。ですから、この伝で行きますと、Es
gibt das Seinもまた「存在(または存在すること)が存在する」と訳すべきなのです。しかし、
「存在が存在する」といふ日本語を逆に普通のドイツ語で再帰的に書くとしたら、

Das Sein ist.

となつてしまひ、das Seinの元々の形であるsein(英語のbe動詞)が、現在形の三人称の変化
をしてしまひ、ist(英語のis)となりますので、個別の例になつてしまつて存在の全体を表すこ
とができなくなるといふ問題が起きるのです。ですから別の言葉が要る。さうしてまた、これで
は述語部に入るべき言葉がなく、主語と述語からなる一つの文が完成しない。それ故に、かう
して考へますと、Es gibt 何々といふ言ひ方が別に必要となるといふことなのです。

しかし、他方ドイツ語が他言語に対して持つ長所は、言語の本質である再帰性に豊かであつて、
再帰動詞が数多くあるといふことです。例へば、座る、遠ざかる、動く、廻る、隠れる、開く、
伝はる、慣れる、増える、拡まる、退屈するなどなど、こんな動詞にでも、再帰的な代名詞sich
(ジッヒ)、即ち、主語である自分自身を目的語にとつて、次のやうになるのです。

sich setzen(ジッヒ・ゼッツェン):自分自身を据へる→座る(据はる)
sich entfernen(ジッヒ・エントフェルネン):自分自身を遠ざける→遠ざかる
sich bewegen(ジッヒ・べヴェーゲン):自分自身を動かす→動く
sich drehen(ジッヒ・ドレーネン):自分自身を廻す→廻る
sich verbergen(ジッヒ・フェルベルゲン):自分自身を隠す→隠れる
sich öffnen(ジッヒ・エフネン):自分自身を開く→開ける
sich mitteilen(ジッヒ・ミッタイレン):自分自身を伝へる→伝はる
sich gewöhnen(ジッヒ・ゲヴェーネン):自分自身を慣らす→慣れる
sich vermehren(ジッヒ・フェルメーレン):自分自身を増やす→増へる
sich verbreiten(ジッヒ・フェルブライテン):自分自身を拡める→拡まる
sich langweilen(ジッヒ・ラングヴァイレン):自分自身を退屈させる→退屈する

私の言語学上の考へから、何故ヨーロッパ近代にあつてドイツに俗にいふ観念論哲学といはれ
る、言語の再帰性を巡る肯定と否定の哲学が盛んになつたかといへば、それはドイツ語が再帰
性に富んだ言語であるからだと考へてゐます。ヨーロッパの近代といふ時代が再帰的な性格を濃
厚に宿した古代ゲルマン民族以来の再帰的なドイツ語といふ言語を必要とした。しかし、その
ドイツ語を話す民族が二十世紀に二度の大戦で敗北を喫した。それ故に唯一絶対全知全能のGod
の存在を証明しようとして来た中世スコラ哲学の論理的な誤ちを超克して(何故ならば著者の
いふ通りで、それまでの文法学や論理学は「(主概念)S(Dasein)ハ(賓概念)P(Sosein)
デアル」という形式を絶対的に固定してゐて、主語と述語の関係は動きませんでしたから)、1
7世紀のデカルトやライプニッツのtopologicalな等価交換関係を創造する論理をカントが引き
継いで、その後にカントーショーペンハウアーの超越論の系譜に進めばよかつたものを、現実
の近代国家(Nation State)はカントーヘーゲルの共産主義・globalismの系譜を採用したとい
ふこと、これが相変はらず二十一世紀の今日のglobalismが世界の戦争の原因をなしてゐるとい
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 43
ふことは、『安部公房とチョムスキー(1)』で明らかにした通りです。

そして最後の最後に。

この著者が哲学の本質を、個別言語を超えてご存知であるといふ証拠を以下に引用ます。これ
は、私がソクラテスの問ひとは、常にそれは何か?といふ問ひだと繰り返しいふことそのもの
です[註9]。Sein(存在)とDasein(現存在)に関する本質的な問ひに対する答へとしての
ハイデッガーの考へ方を要約したあとで、著者は次のやうに続けます。

「子供は無心になって遊びながら、「ソレは何だ」と問い、モノの何たるかを、大人に教えら
れます。そのモノが別の経験から、まったく違って見えたりします。その驚きが新たなレベル
の「本当はソレは何だ」という問になります。こうして、問い方自体が徐々に先鋭化し、「自
分がここにこうして行きている存在の根拠は何か」、ひいては、「究極の根拠である存在とは
何か」との問いへと研ぎ澄まされます。」(同書「第三節 註解)379ページ上段)

[註9]
『Mole Hole Letter(6):超越論(2):カナヘビ獲り』(もぐら通信第70号)をご覧ください。同じこと
がまた別の角度、即ち超越論と言語論の視点から書かれてゐます。

わたしのいつもの結論:

哲学は人類最高の娯楽(entertainment)である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 44

安部公房とチョムスキー
(4)

岩田英哉

      目次

青字は前回までに
1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
て論じ終つたもの、
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
赤字は今回論ずるもの、
3。バロックとはどういふ時代か
黒字はこれからのもの
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロックの哲学:差異の哲学
5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
6。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
7。ラシーヌと三島由紀夫:三島由紀夫とバロック
8。チョムスキーと安部公房:安部公房とバロック
9。バロック人間としての安部公房と三島由紀夫:先の戦後の日本史と世界史に二人の果たした役割と偉業
10。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
(2)ヨーロッパのバロックの概念と定義:ヨーロッパのバロック概念を中心にヨーロッパの17世紀を再帰的に読
み解く
 (あ)政治:ウエストファリア条約
 (い)経済:株式会社の成立
 (う)文化:バロック様式
    ①目に見えるバロック様式:文学、都市設計、建築、美術、天文学
    ②目に見えないバロック様式:哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
11。イスラムから見た近代史:『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を
読む:イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
12。日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
12.1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
12.2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
12.3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
13。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(0)ヨーロッパ中世スコラ哲学の論理をtopologyで変形させる
  (あ)カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学とカントーショーペンハウアー(超越論)の
     系譜に内在するスコラ哲学を比較して継承と消滅をみる
  (い)共産主義の系譜と超越論の系譜に生きてゐるスコラ哲学の論理をtopologyで変形して超越する
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国体への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論:ヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
チョムスキーの統辞理論を一言でいふと、人間とは何かといふ問ひに、言語の観点から答へよう
といふ試みです。『統辞理論の諸相』(岩波文庫版)のチョムスキー自身による2014年版のた
めの序文によれば、用語は専門用語で一見難しさうであるが、一言でさういふことができます。

もう少し私たち日本人に身近な、卑俗な言ひ方をすれば、これまでの文法は、人間の死体を腑分
けして、これが頭で、これが胴体で、これが四肢であり、これが心臓、これが肝臓、これが肺臓、
これが膵臓とやつただけの分析的な、分解的な文法であつて、それは死体の腑分けと同じである、
発声する現に生きた人間の生体を其の全体として説明することのできない文法であつたといふ意
味です。

要するに、落語の例へを持ち出せば、目黒の秋刀魚(さんま)を幾ら食べても美味い筈がない、
生きた旬の秋刀魚を食はうといふ事、生きて言葉を発声し、意思疎通(コミュニケーション)を
図る人間とは何かといふ問ひに、言語とは何かといふ問ひに正面から答へることで、答へようと
いふ言語論が、チョムスキーの言語論なのです。

チョムスキーは17世紀のポール・ロワイヤル文法誕生以前の文法は目黒の秋刀魚であつたと、
『デカルト派言語学』といふ著書で述べてゐるわけです。300年余の時間を超えて、私の言語学
は、言葉の意味とは差異でありー差異がなければ変形は成り立ちませんー、そこに生きた即ち時
間の中での人間と言語の関係を明らかにすることにあるのだと言つてゐるのです。この間、ヨーロッ
パの近代国家(Nation State)は政治的には帝国主義であり、安部公房の言葉でいふ植民地主義で
あり、さういふ意味ではデカルトやライプニッツ等に始まるカントーショーペンハウアーに始まる
超越論(私たち有色人種ならば汎神論的存在論)の生命の哲学の系譜は等閑に付され[註1]、
カントーヘーゲルの共産主義の系譜が、猖獗を極めて来たと言つてゐるのです。

[註1]
これはチョムスキー一人の所感ではなく、チョムスキーの登場した同時代の人間たちの共有する意識であることが、
『デカルト派言語学』のエプグラフとしてチョムスキーの引用した、ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead、
1861年2月15日 - 1947年12月30日)の次の言葉でわかる。

「その後につづく2世紀と4分の1、われわれの時代に至るまで、その間のヨーロッパ諸民族の知的生活を簡約に、
しかも十分的確に記述するならば、17世紀の天才によって供与された観念の蓄積資本によって生きてきたというこ
とである。」(『科学と近代世界』Science and the Modern World (1925))チョムスキーの『統辞理論の諸相』の
刊行は1965年。

それ故に、チョムスキーは言語学者でありながら、政治的・経済的な厳しい根源的(radical)な
批評家であり続けてゐます。特に、言語を使用して正しい報道をするといふ使命を有してゐる筈の
20世紀型一斉同報マスメディが、二十世紀以来相変わらずの植民地主義であつて一向に言語が人
間に授ける使命に忠実ならず、ブラック・プロパガンダを繰り返して世界中で国民の目から現実に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 46

ある事実を覆い隠してゐることに対する怒りは誠に大きい。この怒りが、チョムスキーにメディア
批判の書物[註2]を書かせてゐる理由です。

[註2]
『メディア・コントロール』(鈴木主税訳。集英社新書)『グローバリズムは世界を破壊する プロパガンダと民意』
(藤田真利子訳。明石書店)と題された邦訳があります。それぞれ原題は『Media Control』『Propaganda and the
Public Mind』。

チョムスキーの言語論の構造は次のやうなものです。生きた人間を対象にするのですから、文字で
書かれた文章ではなく、当然に今現に生きてゐる人間と、人間個人が内心であれ外にであれ発声
する音声としての言葉と、その音声に従つて、前者であれば無文字の文・節・句、後者であれば書
かれた文字の文・節・句が中心に置かれてをりますから、チョムスキーは言語能力と、その能力
が発揮された時間の中での言語の運用といふことの二つに分類して言語を論じてゐます。

(1)言語能力
(2)言語運用

さうして、時間の中での運用ですから、当然用語についても、私がよく使ふ言語構造、即ち入籠構
造またはネスト構造とは言はずに、「埋め込み」といふ言葉を使用してゐる。即ち言語運用する主
体たる人間個人が、入籠構造を現実に発生する文の中にリアル・タイムで埋め込むのだといふ考へ
方です。この人間の言語運用は「埋め込みは無限に続いていき、その埋め込みの深度に限りがない
ことは明らかである」と序文には書かれてゐる。

この現実的な時間の中の「埋め込み」に関して、意思疎通の話ですから、一対の「理想的話者ー聴
者」といふ対話モデルも考へてゐる。これはチョムスキーに限らない、一般的な此の分野のモデル
です。

時間との関係は以上のやうな考へ方ですが、他方時間を捨象して(当然のことながら理論ですか
ら)構造的に言語とは何かといふ問ひ答へると、この著作の題名が示してゐるやうに、言語の原理
があつて、その時間的な現れの諸相があるのだと、また言つてゐるわけです。この原理をチョムス
キーは普遍文法と名付けました。その定義は「全ての人間がほぼ完全に共有している、遺伝的に決
定付けられた言語機能の初期状態である」といふものです。その次に直ぐ文を続けて言ひ換えて「別
の視点から見ると、このように理解されたUG(引用者註:Universal Grammer、即ち普遍文法の
事)とは「言語獲得装置」[註3]なのである」といつてゐます。言語獲得装置などといふ言ひ方
は、私たち日本人には馴染みのない考へ方です。私たちにとつては、言葉は装置ではない。装置が
生きてゐるとは奇妙なことである。しかし此の語彙の選択は、上述した「埋め込み」といふ言葉
の選択に関係し、このことに沿つてゐるのです。「埋め込み」はソフトウエア用語でもあります。
ある体系(システム)の中に何かを部分的な、さうしてシステム全体と調和して機能するもの(装
置)として「埋め込み」をするのです。チョムスキーは人工言語の場合と同様に自然言語について
も考へてゐることが判ります。さて、しかし、この違和感は、チョムスキーを理解する上では大切
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です。何故ならば、差異こそ認識であるからです。

[註3]
チョムスキーは『統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論』(1956年)の第1章の序文の第一行に於いて統
辞論を次のやうに定義してゐる。

「統辞論(syntax)は、個別の言語に於いて文が構築される諸原理とプロセスの研究である。ある言語の統辞的研究
は、分析の対象となっているその言語の文を産み出すある種の装置とみなせるような文法を構築することを目標とし
ている。(こうした研究から最終的にもたらされる成果は言語構造の理論でなくてはならず、この理論においては、
特定の個別言語に言及することなしに、個別文法で用いられる記述装置が抽象的に提示され、研究される。そして、
この理論の1つの機能は、ここの言語の文のコーパス【発話やテクストの集積】が与えられた時に、その言語にとって
の文法を選択できるような一般的方法を提供するということである。」

さて、以上のことの上に、チョムスキーの関心は、人間個人がどのやうに言語能力を獲得するの
かといふことに向かひ、これを体系的に説明することが、チョムスキーの課題となります。さうす
ると、上述の分類は、次のやうになります。

(1)人間個人が言語を獲得すること(I言語ーアイ言語)
(2)人間個人が獲得した言語能力
(3)人間個人が其の言語能力を運用すること

人間個人によつて獲得された言語を、英語ですから、私といふ意味でI(アイ)といふ一人称を用
ゐて「I言語」と呼んでゐます。2014年版の序文に次の註釈が付されてゐます。

「二十世紀中葉に一世を風靡していた構造主義・行動科学観においては、I言語として人間語を捉
えるような考え方は極めて異質なものであった。」……(A)

この註釈によつて、上述のこと(A)が次のチョムスキーの理解(B)であることがお解りでせ
う。

「チョムスキーは17世紀のポール・ロワイヤル文法誕生以前の文法は目黒の秋刀魚であつたと、
『デカルト派言語学』といふ著書で述べてゐるわけです。300余年の時間を超えて、私の言語学
は、言葉の意味とは差異であり、そこに生きた、即ち時間の中での人間と言語の関係を明らかに
することにあるのだと言つてゐるのです。この間、ヨーロッパの近代国家(Nation State)は政治
的には帝国主義であり、安部公房の言葉でいふ植民地主義であり、さういふ意味ではデカルトや
ライプニッツ等に始まるカントーショーペンハウアーに始まる超越論(私たち有色人種ならば汎神
論的存在論)の系譜は等閑に付され、カントーヘーゲルの共産主義の系譜が、猖獗を極めて来
た」。……(B)

チョムスキーは、この論考の主題に沿って、バロックの言語学者です。上の引用(A)によつて、
私といふ一人称に主眼を置いた文法が、安部公房の考へ方に同じだといふことがお解りのことと
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ページ

思ひます。それに、チョムスキーは2016年版の序文の最後の方で次のやうに言つてゐるからで
す。

「ガリレオの時代(引用者註:1564年∼1642年;バロック時代といつて良いでせう)に
続く何世紀かにおいても、人間の心が持つこの驚嘆すべき特性に対する認識が述べられたことは
何回かありました。人間の心が持つ驚嘆すべき特性――それは、人間という種に固有の特性であ
り、全ての人間に共有されており、人間にのみ存在し、そして人間が成し遂げることが出来る様々
な事柄の主要な源なのです。しかしながら、基本特性の研究を進めるための技術的道具立てが当時
はまだ用意されていませんでした。この状況は、アラン・チューリングや他の優れた数学者たちが
確固として基礎を持つ計算の論理を打ち立てたことにより、二十世紀中葉までに変化しました。
其の結果、個別言語の生成文法、さらには言語機能の根本原理を考察することが可能になったの
です。」

上記下線を引いた一文に、個人といふ人間に主眼を置き、また其の言語をI言語と命名して、この
二つを主体にしたデカルト的な考へ方があることに気付きます。デカルトならば『方法論序説』の
開巻第一行に「良識はこの世で最も公平に配分されているものである」といふ言葉に、その心は
同じです。

日本人の日本語の作家として日本語で、上記「個別言語の生成文法」を考へたのが安部公房であり、
同時にチョムスキーによればまた「言語機能の根本原理を考察」したのが安部公房であるといふ
ことになります。「言語機能の根本原理を考察」といふ言葉から、チョムスキーも言語機能論であ
ることが判ります。チョムスキーの機能といふ概念の理解は、当然のことながら正確です。

上記下線を引いた二つ目の「基本特性」については、チョムスキーは次のやうに説明してゐます。

「言語表現は背後に構造を持ち、各々の表現は、思考を表す意味解釈を持つと共に、なんらかの
感覚様式――通常は音声――を通して外在化することが出来ます。そして、言語機能はこのやうな
構造化された言語表現の無限の配列を構築する主眼を提供しているのです。これが言語機能の「基
本特性」です。」

さうして、デカルトの名前を挙げましたのでここで言及すれば、チョムスキーの此の『統辞理論の
諸相』の副題は「方法論序説」といふのです。デカルトの意志を継いだ言語学のための方法論序説
といふわけです。これで何故チョムスキーが『デカルト派言語学』を著したのか、以上の説明の総
体の中で此れを考へると、一層よくお解りでせう。

生成文法には、統辞部門のみならず、ほかに音韻部門と意味部門といふ主要な部門を擁してゐます。
これらの三つの部門について「訳者解説」の記述を整理して、次のやうな二つの図を作成しました。
一つはチョムスキーの分類、もう一つは安部公房の分類です。これで、チョムスキーと生成文法の
全体がわかり、この生成文法と安部公房の言語観の関係がわかります。これが、「生成文法とは、
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端的に言えば、明示的で明確に定義された方法をもって文に構造記述を付与する規則のシステムに
他ならない」と本人の述べてゐる生成文法といふ文法の構造分類です。

チョムスキーの分類:https://ja.scribd.com/document/371339394/チョムスキーの分類

安部公房の分類:https://ja.scribd.com/document/371370776/安部公房の分類-v2
チョムスキーの分類を更に時間といふ視点で、即ち安部公房文学の《存在》と《現存在》といふ
新象徴主義哲学の視点で分類し直すと、次のやうになります。
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安部公房スタジオでの安部公房の演技論の中核概念ニュートラルを役者たちに教へたといふこと
は、上記の3階層を「問題上昇」し「問題下降」[註4]を繰り返して指導したことを意味してゐ
ます。

また、この二つの分類が手元にあれば、チョムスキーの言語論で安部公房文学を論じることがで
き、チョムスキーの言語学の領域の数理的・数学的な用語の理解の難しさを横に置けば、
topologicalに今度は安部公房の言語論でチョムスキーの言語論を藝術の領域に応用して論ずるこ
とができることになります。

[註4]
『デンドロカカリヤ論(前篇)』(もぐら通信第54号)を参照ください。詳述しました。

(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
上述のチョムスキーの統辞論の説明で、ポール・ロワイヤル文法の本質的な説明を同時にしたこと
になりますが、それでも個別に此の文法に焦点を当ててもう少し論を進めます。

この文法の生まれた17世紀は、既に他の章で既述の通り、三十年戦争が起きてヨーロッパの人
心は荒廃し、神も仏もあるものかといふ時代でした。このやうな時代であればこそ、唯一絶対全
知全能のGodなどに頼らずに(何しろ現実は其のGodの実在を疑ふこと、その不在を現実に証明す
ることの連続であるわけですから)、自分自身の力で人生を切り開かなければならない。さうな
れば、民族や人種や国家を超えて何か共通する普遍的な尺度と規則を求めるのは、人の慣ひです。
それがこの時代の謂はば合言葉ともいふべき、memento mori(死を忘れるな)とcarpe diem(今
を楽しめ)といふ一見矛盾してズレてゐて差異のある、これこそバロック的な流行語です。

さて、このやうな時代に、ポール・ロワイヤル文法は二人の学者、ランスローといふ文法学者とア
ルノーといふ論理学者の二人の手になる文法である。この二人の専門領域の統合といふ事が、この
ままポール・ロワイヤル文法成立の目的と性格を表してゐる。それまでの言葉の意味の形式論理的
な説明であつた論理学と、また同様に単なる「形態的文法、換言すれば言語上の形態の分析が優
位を占めていた諸文法しか存在していなかつた」文法学[註5]を文の構成要素を品詞に機能分解
して其の実際の働きとして考へる、即ち意味を知る思考から、それを音で発声し、文字を書き又は
記号化するまでの生きた人間の言語行為の統合的論理を考へた文法学への、これは、言語を表層
構造(意識)と深層構造(無意識)に階層化した一次元上の統合であつて、これが新しい言語学
であり、これがポール・ロワイヤル文法だとチョムスキーは、デカルト哲学との関係で、見抜いて、
1966年に、ポール・ロワイヤル文法の発表された1660年から300年余を経て二十世紀
に復活させたのです。……(A)

[註5]
『ポール・ロワイヤル文法』の「編者の序」の「一大転換をなさしめたもの」(同書ivページ)
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このことを、この文法書の編者のポール・リーチは、二人による「言語の水平面つまり形態論から
脱皮して、思考すなわち意義の領域たる言語の垂直線を辿」つたものだと、その通りのことを水平
と垂直といふ方向転換の事件として解説してゐます。

チョムスキーの『デカルト派言語学』公刊と同じ年に、ミシェル・フーコーの『言葉と事物』が
公刊され、第4章「話すこと」に於いてポール・ロワイヤル文法を考察の対象としてゐます。これ
は当時のヨーロッパに、この文法の持つ言語論の目的に適ふ理論を求める機運があつたことを意
味してゐます。

折角ポール・ロワイヤル文法があつたのに、デカルトが出現したのに、バロック以来300年間
一体お前たちは、この富をないがしろにして、一体何をしてきたんだといふのが、チョムスキーの
怒りです。多分怒りであつたでせう。何故ならこの間、近代といふ時代にあつて安部公房のいふ植
民地主義が地球上を覆ひつくしたからですし、チョムスキーのマス・メディアと民主主義と資本主
義に対する批判は実に激しいものだからです。

17世紀のポール・ロワイヤル文法といふ(近代に資する筈の)新しい言語学を放擲し忘却して、
この言語学の思想とは正反対にこの間動いて来た政治と経済とは別の、その正反対の正反対の言
語学が、チョムスキーの生成文法といふことなのです。

それ故に、チョムスキーは言語学者でありながら、政治的・経済的な領域でも厳しい根源的
(radical)な批評家であり続けてゐるのです。特に、言語を使用して正しい報道をするといふ使
命を有してゐる筈の20世紀型一斉同報マスメディが、相変わらずの植民地主義であつて一向に使
命に忠実ならず、ブラック・プロパガンダを繰り返して国民の目から現実にある事実を覆い隠して
ゐることに対する怒りは大きい。この怒りが、チョムスキーにメディア批判の書物[註6]を書か
せてゐる理由です。

[註6]
『メディア・コントロール』(鈴木主税訳。集英社新書)『グローバリズムは世界を破壊する プロパガンダと民意』
(藤田真利子訳。明石書店)と題された邦訳があります。それぞれ原題は『Media Control』『Propaganda and the
Public Mind』。

上記(A)に戻ります。

この考へは、現在只今言語を使ひ、言葉を発してゐて生きてゐるあなたを言語論の中心に据ゑると
いふ考へですから、ここで、チョムスキーの言語学と哲学が交差するのです。後者の哲学とは、い
ふまでもなく、超越論です。さう、チョムスキーの言語学は、言語の視点からみた超越論なのです。
これを言語学の領域で、個別的に変形するので変形生成文法と呼び、一般的な言ひ方としては生成
文法と呼んでゐるのです。さう、チョムスキーの生成文法は、接続と変形の数学topologyで説明で
きるのです。即ち、ここでも、汎神論的存在論です。価値は等価で遍在する。
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これを一言で言ってみれば、バロック言語学と現代政治との戦ひ、バロック哲学と現代政治との戦
ひといふことができます。

これをこのまま、安部公房と現代の政治との戦ひと言い換へてみれば、安部公房の新象徴主義哲学
といふバロック哲学とバロック文学の、現実に対する戦ひだといふ事になり、この関係は私たち
安部公房の読者の国境を超えた戦ひだといふことになります。

これをこそ、二十一世紀の前衛(アヴァンギャルド)と、今度は此の世紀では、反共産主義、反グ
ローバリズムとの戦ひを呼ぶ事ができる訳です。安部公房の読者たちがみなさうであるやうに、超
越論は徒党を組みませんし群れませんから、党はなく、独立自尊で(箱男はヘタれゲバラ、ヘタれ
オルフェウスであるとはいへ)、従ひ此れは地球上の人類と各個人共通の深層意識と表層意識の二
つながらの戦ひといふことになります。これは文明間戦争です。

二十一世紀の前衛(アヴァンギャルド)とは、見事にtopologicalに、メビウスの環が一捻りされ
て上位接続即ち超越論の登場が実現してゐます。二十世紀の、共産主義と安部公房との関係が見事
にひつくり返つて、超越論と安部公房の関係に位相が転移した。言語と時間の関係の視点から、
言葉の意味がどのやうに遷移するかといふことを説明した下図をご覧ください。再掲します。

安部公房の言「特殊性の中にほうがんされない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存在しない」
とは、内部と外部を交換し、その境界域の両義性に身を没して自己を生かすtopologyの考へ方です。これは、単な
る言葉の意味と位相幾何学的な問題だけなのではなく、歴史が其のやうに展開し、人間に働きかけるものだからで
す。歴史の根本的な変化は、言語(logos)の観点からみると、いつも上のやうに動きます。安部公房は当然この
ロゴスの働きを知つてゐたのです。宇宙は単純にできてゐる。小学生の安部公房の知つてゐた「奉天の窓」です。
Aをあなただと思つて見ませう。すると、→は、次の次元へのあなたの失踪を意味するといふことになります。B
をあなただと思つてみませう、「あなたそつくり」の、しかし、異次元での、また別の人生がある。といふことに
なります。あなたは何処にゐるのか?
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言葉は博物館に飾つてをく剥製ではなく、生きた私たちの思考し発声する当の生き物であります
から、この理解から言つても、チョムスキーの生成文法といふバロック言語学とポール・ロワイ
ヤル文法といふバロックの文法は時代と地域を超えて、現在を生きる私たちのために、同期してゐ
るのです。

近代の哲学史・思想史の視点からもつとはつきりといへば、これは、

[カントーヘーゲル]の系譜と[カントーショーペンハウアー]の系譜の戦ひである[註7]

といふことであり、更にいへば、従ひ、これは、

共産主義と超越論の戦ひである

といふことであり、二十一世紀の政治と経済の地球上の現況に応じた用語を使へば、これは、

グローバリズムと超越論の戦ひである

といふことになります。

[註7]
「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」(『安部公房とチョムスキー』(もぐら通信第73号)の分類により
仕分けると次のやうになります。 判定の規準は『西洋近世哲学史の中の安部公房の位置』と題した図です。ダウンロー
ドは:
https://ja.scribd.com/document/368975265/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置

上記(A)に戻ります。

「(1)チョムスキーの統辞理論とは何か」でお伝へしたことを、重複するやうですが、大事で
すので再度もう少し縮約して『統辞理論の諸相』への著者自身の序文と訳者解説を引用し、しかし
また別の角度からまとめてお伝へしますと、チョムスキーの言語学的な試みの目的は、歴史的に
みれば、言語学に於いて、

(1)言語に関する物質科学的な説明と精神科学的な説明を一次元上で統合することであり(同
書訳者解説:215ページ)、
(2)上記(1)の目的は、「人間の心が持つこの驚嘆すべき特性」(序文:8ページ)即ち「人
間の機能が有する「基本特性」(Basic Property)」即ち「言語表現は背後に構造を持ち、各々の
表現は、思考を表わす意味解釈を持つと共に、何らかの感覚様式――通常は音声――を通して外在
化することが出来る」といふ、「言語機能はこのような構造化された言語表現の無限の配列を構
もぐら通信
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築する手段を提供している」といふ基本的な特性を、「近代科学革命の黎明期に、ガリレオ(1564
年2月15日 - 1642年1 月8日)や彼の同時代人たちにはっきりと認識されていた」事実を、上記
(1)の考へ方で再度20世紀及び21世紀に行はうといふ目的なのです。

これを要するに、

(3)言語学の立場から、人間とは何か、さうしてほかの動物と人間を別してゐる人間の心とは何
かといふ問ひに答へる学問がチョムスキーの統辞理論であり統辞構造論、即ち上述の外の二部門
からなる変形生成文法または生成文法である。(同書訳者解説:207ページ)

さうしてそのためには、バロック時代の文法学であるポール・ロワイヤル文法をデカルト思想との
関係で吟味する必要があるので、チョムスキーは『デカルト派言語学』を書いた。何故ならば、
言語一般の有する「その言語の生成文法は無限に多くの構造を生成する機能(再帰性)を持たな
ければならない」からである(同書訳者解説:203ページ)。デカルトの哲学は17世紀のフ
ランス人の考へた再帰哲学(cogito ergo sum:我思ふ、故に我有り)、即ち超越論だからであり、
安部公房の新象徴主義哲学の論理、AでもなくZでもない第三の客観といふ(二項対立を超越した)
一次元上の統合的存在(上位接続:論理積:conjunction)を求める論理であり、そして此の哲学
の論理は、言語の本質に基づく論理であるといふ点で、チョムスキーの差異と接続と変形に関す
る生成文法といふ再帰文法と全く考へ方を同じくしてゐるからです。

言語の生成機能とは再帰性のことであるといふ言語の本質にある認識がチョムスキーの言語論の
核心にあるといふことを安部公房の読者に申し上げれば、私もこれまで繰り返し論じてきたこと
ですし、そのまま通じるのではないでせうか。つまり、この章は、安部公房の言語機能論[註
8]によつてチョムスキーを語つたのです。

[註8]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第5号)から、安部公房の言語の再
帰性に関する言葉を引用します。

「「いったいシャーマンは何を歌いつづけているのでしょう。聞き違いでなければ、ぼくにはどうも、存在のように
聞こえます。結構いい傾向です。《ことば》自体は本来、分化や分業化を得意としていたはずですから、いったん「言
語のシャーマンになれ」の号令をかけても、これがまた強力な信号として働かないのです。」

と、私ならば言ひ換へる所です。

つまり、読者一人一人が言語とは何かといふ問ひに答へる事がなければ、読者は安部公房と同列に並ぶシャーマンに
なる事ができないといふ此の難しさの、安部公房によつて隠された、即ち生命そのものを文法に則つて自分自身の言
葉で言語化するといふ変形の仕事を欠いては、読者は此の言語・存在論的な窪み(凹)に足を取られて躓き、安部公
房の考への全体を知る事ができないといふことになるのです。そして、自分と社会との関係、自分と国家との関係を
考へるための言葉(語彙)を持つ事の出来ない幼稚な人間になつてしまふ。それ故に、自分の言葉で社会や国家を批
判する事が出来ない。これが、安部公房文学の、恐らくは最大の毒です。何しろ奉られることは、安部公房の最も忌
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避すべきことでありませうから。

この安部公房最大の毒に対する免疫をあなたが獲得するためには、「もはやどんなシャーマンの御宣託にも左右され
ない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」を受けねばなりません。(全集第28巻、239ページ)これが、
安部公房の処方した「国家信仰」を冷却させるための具体的な提案です。

勿論、これは何を意味するかといふと、シャーマン安部公房の言葉を鵜呑みにするのではなく、「もはやシャーマン
安部公房のどんな御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」を、あなたが自らに施さなけ
ればならないといふ事なのです。安部公房は、この「教育」のための独立した「府」を追加して、現行の民主主義の
三権分立に加へて、四権分立とする提案をしてをります。あなた自身が、この「府」の長官に就任しては如何でせうか。
あるいは「府長」といふのでせうか。このやうに考へて初めて、あなたは権力とは何か?国家とは何かといふ本質的
な問ひに答へることになり、安部公房が実際に行つた問題上昇、即ちデジタル変換を経験することになるのです。従
ひ、安部公房の言ふ「もはやどんなシャーマンの御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」
とは、(言語機能論に依る)哲学、即ち安部公房の象徴学、即ち「新象徴主義哲学」にほかなりません。

どうか、あなたの人格を、安部公房といふ一時小荷物預かり所に預けてしまひませんように。

さて、これで一通り、安部公房文学の含んでゐる毒を四つ挙げてお話ししました。お読みになつたやうに、どれも猛
毒である上に、これらはいづれも相互に有機的に関係してをりますので、その圧倒的な総合力に読者は戦ふすべなく、
いつの間にか、あれおかしいなと思つてゐるうちに、「いつの間にか」「既にして」「気づいたら」、即ち超越論的
に、安部公房の直喩の富んだ文体に、みな殺(や)られてゐるといふ事になるのです。

読者としては、「もはやどんなシャーマンの御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学的言語教育」を
自らに施し、その毒に対する免疫力を養ふ以外にはありませんが、さう言つた途端に、そんな免疫力なんてできるわ
けがないぢやないか、言語の本質を知らなければ、即ち言語は機能であるといふことを知らなければ、といふ誰かの
声が、世界の果てから聞こえてきさうな気がします。この、世界の果てにゐる誰かであるS・カルマ氏の声は、安部公
房の読者であるあなた自身の声の再帰的な木霊(こだま)であり、再帰的な、従ひ常に反復され繰り返される呪文の
解毒剤なのです。

この、世界の果てから聞こえて来る呪文についての安部公房の言葉です。これらの言葉は全て、言語は再帰的
(recursive)であるといふ事実に拠ってゐます。即ち、言語は繰り返し自分自身に帰つて来るのです。

「―― 散文が儀式化なしに対抗できる理由はなんでしょうか。
 安部 儀式化そのものが強力な言語機能なんだよ。言語に対する有効な解毒剤はやはり言語以外にはありえない。
そういう言語を散文精神と命名したまでのことさ。でもこの規定は、今後批評の基準として利用できそうだね。けっ
きょくテレビ攻撃より、散文精神の確立のほうが、僕らにとっては急務だろう。」(『破滅と再生2』全集第28巻、
266ページ)

「まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう遺伝子が遺伝子自身を認識してしまった
んだよ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだよ。
 だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表現でさえ言語表現の枠を
出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語の中を覗き込んでいるのが人間なんだな。
―― つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。
 安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ページ)

「安部 (略)いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の謎なんだ。一種の「認
もぐら通信                         

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識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超えたものがあるはずだという……
 ―― つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。
 安部 そうなんだ。でも認識に限界があるという認識は何によって認識されるかというと、言語以外にはありえな
い。だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。」(『破滅と再生2』全集第28巻、253ページ)

「スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることは、僕のなかでなんら矛盾するもので
はないんだ。小説の場合、言語の構造として確かな手触りが成り立てば、それは現実と等価なんじゃないか。言葉で
しか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたかの説明を、小説以外の外の世界から借りてくる必要なんかぜんぜ
んないと思う。」(『破滅と再生2』全集第28巻、258∼259ページ)

「大事なのは多分、技術が内包している自己投影と自己発見の問題でしょう。あるときぼくはカメラのちょっとした
故障を修繕しながら、うまくいきそうになった時、無意識のうちに「人間は猿ではない、人間は猿ではない」と呪文
のように繰り返しているのに気付きました。(略)ぼくの呪文は、単に作業をプログラム化できたことの喜びを表現
しようとしただけのことです。ところがこの「作業のプログラム化」とは、いったい何でしょう?試行錯誤もあるで
しょうし、イメージのなかでの座標転換作業もあるでしょう。しかしけっきょくは時間軸に剃った手順の見通しです。
自分の行動と対象の変化を、因果関係として総体的に掌握することです。《ことば》の力を借りなければ出来ること
ではありません。もともと自己投影とは《ことば》の構造そのものなのですから。」(『シャーマンは祖国を歌う―
儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、231ページ)」

さて、この言語の再帰性はいつも入籠構造を取りますので(例へば『カンガルー・ノート』の「存
在の存在の存在」といふ3階層の入籠構造のやうに)、チョムスキーは日本語を例にとつて、更
に次のやうに述べてゐます。

(4)「例えば入れ子構造が処理にそれほど負荷をかけるならば、なぜ人間言語は入れ子構造を
到るところで作り出すのだろうか。日本語の文の埋め込みなどは、入れ子構造であるのみならず(文
の内に文を埋め込むのであるから自己埋め込み構造であり、従ってその処理には大きな負荷がか
かるが、それならばなぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をそ
の中核部分において許し続けているのだろうか。」(同書訳者解説:203ページ)といふ問ひ
に対する答へを示さうとするのが、生成文法だといふことなのです。(傍線は原文傍点)

桜の花が咲いてゐるといふ一文を例にとると、日本語の入籠構造は次のやうになるでせう。

【{[《〈(桜)の〉(花)》が]《〈(咲いて)(ゐる)〉》】

この函数形式の入籠構造を図示すると次のやうになります。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ57

(5)以上(1)から(4)の考へ方の上に、チョムスキーは生成文法を上記に分類して図示し
たやうに、①統辞部門②音韻部門③意味部門の3つの部門に分けてゐるわけです。

安部公房の小説の二人の救済者、即ち未分化の実存二種類の女性が、その存在の存在の存在の三
つの階層の世界を境界を越えて自由自在に往来する能力を、《存在》として時間の中に生きる《現
存在》として有してゐるやうに、チョムスキーの言語観は、上記三つの部門の階層を自由自在に往
来する能力を人間はそもそも有してゐるといふものです。チョムスキーの人間観は超越論的な人間
観であるといふことになります。これはこのまま国境を越えて二十一世紀の人間観としてあらまほ
しき人間観の好例ではないでせうか。

私が、ここまでの文章を書くために読んだチョムスキーの著作をここで挙げてをきます。

(1)統辞理論の諸相 方法論序説(岩波文庫。福井直樹・辻子美保子訳)
(2)統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論(岩波文庫。福井直樹・辻子美保子訳)
(3)デカルト派言語学 合理主義思想の歴史の一章(みすず書房。川本茂雄訳)
(4)メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会(集英社新書)
(5)我々はどのような生き物なのか(福井直樹・辻子美保子編訳)
(6)グローバリズムは世界を破壊する プロパガンダと民意(藤田真利子訳。原題:
Propaganda and the Public Mind)

上記(3)の邦題にある通り、再度チョムスキーの言語学は上でも述べ又 『安部公房とチョムス
キー(1)』(もぐら通信第73号)の「(2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」でも図
示しましたやうに超越論であり、私たちの有色人種大地母神崇拝の世界の哲学用語でいふならば
汎神論的存在論でありますから、当然のことながら、近世西洋哲学史上ではカントーショーペン
ハウアーに始まる超越論の系譜に収まり、これを其の図で明示した通りです。

近代国家の政治・経済の在り方を徹底的に批判するチョムスキーは、ヨーロッパの鬼子であるア
メリカ国内では当然のことながらまた一層に極左ですが(チョムスキーはアナーキストを自称して
ゐる)、しかし共産主義者ではなく、反共産主義者であり反グローバリズムの論者です。かういふ
欧米の論者の主義主張の位置関係が、私たち日本の国は全くキリスト教の国ではありませんし、
ヨーロッパやアメリカのやうな大陸にある国家ではありませんので、島国に住む私たちには日常的
な感覚では理解の難しい、また浅はかにも誤解をしやすいところです。チョムスキーも舶来品です
から(これはチョムスキーのせいではありません)、チョムスキーのいふことを鵜呑みにしてはな
りません。日本人のチョムスキー論者、ならまだ良いですが無批判に情緒的な信奉者になります
と、チョムスキーとは正反対の共産主義者、globalism賛成者、反キリスト教主義者、国際金融資
本主義者、ケイマン諸島などのオフショアにペーパーカンパニーを設立して無税天国(tax heaven、
本当は脱税天国といひたい)に本社を置いて自国の国民のために税金で利益を還元しない、道徳
も倫理もないただ自分だけ金儲けできれば良いといふ考への無国籍企業信奉者になつてしまふこ
とになります。あるいは、安部公房の主張を文字通りに文字の通りにとつてしまひ、国境を越える
もぐら通信                         

もぐら通信 58
ページ

とか越境者といふ見かけ上格好の良い言葉(これは前衛といふ言葉と同じ)を情緒的に鵜呑みに
してしまひますと(安部公房が情緒的な発言をするわけがない)、安部公房が超越論であるとい
ふことを理解せずに、表面的に文字面だけで理解したやうな気になつてしまひますと、何故安部
公房がチョムスキーの生成文法をクレオール論の理論的証明の例としていつも同論と一緒に言及す
るのかの理解ができないことになります。再度当該図表ダウンロードのURLを:https://
ja.scribd.com/document/368975265/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置

最後にチョムスキーの著作から、超越論である言語論を政治や経済に適用したら一体どのやうな
論になるかの一例をお見せします。

チョムスキーは『我々はどのような生き物なのか』の「資本主義的民主制の下で人類は生き残れ
るか」と題した章[註9]で、アダム・スミスの『国富論』の分業に対する考へが、金儲けだけを
考へれば良いとして道徳を省みない無国籍企業資本家と国際金融資本家によつて逆用され悪用され
てゐることをを指摘し、アダム・スミスの真意はさうではなく、分業といふ言葉は全く逆の分脈で
語られてゐるとし、この文章は全く引用される事がないとして、次のやうに超越論的言語論を現実
に適用して発言してゐます。一言でアダム・スミスの主張をいひますと、一生を分業で過ごしたら、
その人は自分の能力を活かす機会を得ず、人生の全体を失ふといふことです。従ひ「政府がそれを
防ぐなんらかの対策を取らないかぎり、民衆の大部分を占める下層労働者は必ずこういった状態
に陥ってしまうのである。」(『国富論』第5編第1章第3節第2項)といふアダム・スミスの言
葉の後にチョムスキーはかう続けます。超越論とは、世界は差異であるといふ認識に基づく論であ
り、時間にあつては遅延を、空間にあつては隙間(非連続量)または歪み(連続量)を生み出す
ことだということを想起してお読みください。安部公房の逆進化論、即ち弱者の救済です。

「つまり、文明化した社会における政府の課題は、分業を妨げることなのです。従って、我々が共
通善を気にかけるかぎり、分業という非道な政策の影響を克服するための方法を見つけ出さずに
はいられないはずです。これは、教育制度から労働条件に到るまでのあらゆる領域で行われなけれ
ばなりません。そして、全体として、人びとがその知力を発揮し、人間的発展が多様性を最も豊か
に示すような形で涵養される、という古典的リベラリズムの中核的原理が実現する機会を提供しな
ければならないのです。」

[註9]
『我々はどのような生き物なのか』63ページ。

チョムスキーはアダム・スミスの言葉を引用して、更に次のやうにいひます。ここに欧米の初期資
本主義の古典的リベラリズムの復興を唱えるチョムスキーの心があります。

「もう一つの主要著作である『道徳感情論』を、彼は次のような所見を述べることによって始めて
ゐます。「いかに人間が利己的であるように見えようとも、人間の本質の一部として、他の人の運
命に関心をいだき、そして他の人の幸福を自分にとってもかけがえのないものと感じる何らかの原
理が明らかに存在している。たとえ自分が得るものが何もなくても、他の人の幸福を見るだけで
もぐら通信                         

もぐら通信 59
ページ

嬉しいと感じる何かがあるのである」(『道徳感情論』第1部第1編)。スミスは人間の本質が
持つこのような側面を基礎にして自分の思想を組み立てました。そして、彼が「人類の支配者たち
の卑しい格言」と呼ぶ「全ては自分たちのために、他の人たちには何ひとつ渡さない」という考
え方と、人間の本質が示すいま述べた側面とを対比させています。人間が本来持つ心優しい部分が、
人類の支配者たちの病理を克服することを可能にするのではないかとスミスは明らかに願っていま
した。

今日では、「卑しい格言」を説く人たち、つまり所有的個人主義の教義を説く人たちにとって、ア
ダム・スミスは偶像となっていて、その偶像には、現代のネオリベラリズム(引用者註:グローバ
リズムの一つ)の中核的教義である「卑しい格言」に従う「経済人」のイメージがまとわりついて
います。しかし、本当のアダム・スミスは、こういった考え方に対して真っ向から反対していまし
た。
(略)
ちょうどスミスと同じように、彼(引用者註:クロポトキン[註10])は進化の駆動因は相互
扶助であると論じています。つまり、アダム・スミスの「共感」や「他者の幸福を願う気持ち」と
似たような考えです。これが進化に関する一つの考え方です。これとは対照的な考え方は、過酷な
世界における「適者生存」というハーバート・スペンサーの考え方です。ここでは、自然は「血塗
られた赤い歯と爪」に象徴される存在なのです。この後者の考えが、資本主義の成長と共に生き残っ
てきたのです。他の多くの側面と同様に、この面においても現代の資本主義は、初期の創始者たち
の思想と全く正反対のものになってしまっています。」(同書64∼67ページ)

[註10]
https://ja.wikipedia.org/wiki/ピョートル・クロポトキン

超越論を、または私たちの汎神論的存在論を、政治と経済の社会に適用すると、ここでチョムス
キーの述べてゐるアダム・スミスやクロポトキンのやうな考え方になるといふことになります。こ
の人生観は、私たち日本人にも受け容れられるものです。

しかし『我々はどのような生き物なのか』をお読みになれば、欧米の社会も国家も、私たち日本
人が想像する以上に複雑な要因が動因になつてゐることを知るでせう。勿論、日本の私たちに其
の全てが即座に理解できるわけではありませんが、しかし一読してみることは、チョムスキーの思
想を知るために、また欧米の社会を知るために、あなたの理解に資することがありませう。もし
この本の内容を、私たち日本の社会と国家に活かすとすれば、日本の社会と国家の中の全ての要因
と其の相互関係を洗ひ出し、その動因を整理整頓することになります。さうすれば、私たち日本人
に最適化された、超越論(汎神論的存在論)に基づく経済形態論と政治形態論が生まれます。

私事を申し上げれば、高校生の時の教科書に、これは倫理社会といふ教科であつたやうに記憶し
ますが、近代民主主義の基本的な考へ方について書いてあつて、イギリスのジョン・ロックといふ
人が『リヴァイアサン』といふ本で、あるページに、万人は万人に対する狼であるといつたとあり、
次のページを捲(めく)るとジェレミ・ベンサムといふ人が、民主主義の原理として最大多数の最
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ60
大幸福といふことを言つたと書いてあるのを読んで、驚いた記憶があります。ロックといふ人の人
間観、社会観で政治を行ひ、その原理がベンサムといふ人のいふ原理であるならば、これはもはや、
私たち日本人の人間観でもなければ、人生観でもなければ、社会観、国家観でもない。狼が最大
多数の最大幸福などと考へたならば、世の中はどうなるか。果たして其の後長ずるにつれ見聞を
広めるに従ひ世の中を国際社会も含めて観ると、安部公房の言葉でいへば、これでは民主主義も植
民地主義、資本主義も植民地主義、共産主義も植民地主義といふことの同じ穴の三匹の狢(むじ
な)であつて皆同罪にならざるを得ないといふことを知るのです。今思へば、教師はこの講義の時
に、何故これは私たち日本人の人間観ではないとはつきり明言して私たち子供に説明をしなかつ
たか。わたしは、これは教育ではないと思つてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          61
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(21)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXI

FRÜHLING ist wiedergekommen. Die Erde



ist wie ein Kind, das Gedichte weiß;

viele, o viele.... Für die Beschwerde

langen Lernens bekommt sie den Preis.

Streng war ihr Lehrer. Wir mochten das Weiße



an dem Barte des alten Manns.

Nun, wie das Grüne, das Blaue heiße,

dürfen wir fragen: sie kanns, sie kanns!

Erde, die frei hat, du glückliche, spiele



nun mit den Kindern. Wir wollen dich fangen,

fröhliche Erde. Dem Frohsten gelingts.

O, was der Lehrer sie lehrte, das Viele,



und was gedruckt steht in Wurzeln und langen

schwierigen Stämmen: sie singts, sie singts !

【散文訳】

春がまたやって来た。大地は、
色々な詩を知っている子供のようだ。それというのも、
こんなにたくさん、ああ、こんなにたくさんの詩を知っているのだ….
長い間学んだことの、その労苦に対して、大地はご褒美を貰う。

大地の先生は厳しかった。わたしたちは、老人の髭(ひげ)にある
白いものが好きだった。
さて、こうしたわけで、今や、わたしたちは、緑のものの名前を、青いものの名前を
質問することができる(ゆるされる)。すなわち、大地は質問ができる、
大地は質問ができるよ。
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

自由を得た大地よ、お前、幸せな者よ、さて冬も過ぎたのだから、
子供たちと遊べよ。わたしたちは、お前を捕まえたいよ、歓びの大地よ。
最も歓ぶ者に、それがうまく行くよ。

ああ、あの先生が大地に教えたもの、すなわち、数多きもの、そして
根っこの中と、長い難しい幹の中に、捺染(なつせん)されてあるものを、
大地は、それを歌う、大地はそれを歌うよ。

【解釈と鑑賞】

前のソネットが、ロシアでの思い出だったので、ロシアということから、その厳寒の冬、そ
うして、歓喜の春を想起したのでしょう。

春のよろこびを歌ったソネット。春と子供。これから大きくなる最初の季節ということで、似
ているのでしょう。

長い冬が終わって、先生である白い髭の老人のもとでの修業も終わりを告げる。長い冬は厳し
かった、先生は、厳しく寒かった。しかし、今や春である。

リルケは教えることと学ぶことに関心があたっと見える。それは、第1部ソネットVIII第3連
第2行に学ぶことが、第2部ソネットXIV第2連第3行に教えることが出てくるので、そうと
察せられる。前者は、泉の妖精(末娘)の話し。後者は、先生としてでてくる。もっとも、後
者の先生は、これもやはり厳しい先生で、リルケは、先生というものにそのようなイメージを
持っているのだと察せられる。

春と詩と子供。詩は、様々な色のものを歌うということが暗に言われている。最後の連を読む
と、どうやら、先生、即ち冬の教えるものも、数多くのものであるようだ。春はそれを開花
させる。

長い冬に耐えて来た、木の根っこや幹の中にある色柄をも(捺染と訳した)、大地は歌う。地
上に出ている幹ばかりではなく、地下にあるものをも歌うことで、既に最後の連では、また
死、すなわち冬を暗示しているのか。

しかし、全体の調子は、とても明るい。文字通りに、子供のような歓びの気持ちになるソネッ
トだ。

リルケは、春が好きだなあと思われる。悲歌に歌われた春にも、そう思った。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 63

【安部公房の読者のためのコメント】
わたしはこの詩を読んで、『終わりし道の標べに』と『デンドロカカリヤ』(雑誌『表現』版)
の二つの作品を思ひました。この二つの作品は、春といふことで結末継承[註1]がなされてゐ
ます。

以下、前者は終はりのところを、後者は始まりのところを。前者は暗く、後者は明るい。散文の
世界で、詩文からの問題下降をして、詩文と散文を統合する過程[註2]の中間での結末継承で
す。

前者の春の最後の段落:
「わたしはいきなりその草の芽に噛みついた。顔中で地面をこすり、舌や歯でさぐりながら、根
こそぎ噛み切ろうとした。うまく行ったらしい。だがひどくしぶい。口の中がじゃりじゃりする。
粘土を噛んだのだろうか。ああ嘔気がする。畜生、血だ、血だ、真っ赤だ。いや死なない。私は
死なない。あの名を口にするまで死ぬはずがないじゃないか。それまではお前だってやはり落ち
るはずだ。勝手に待ち呆けるがいい。私は永久に死なない。あの名をいつまでも口に出さないで
いてやるんだ。
 ああ、旅はやはり絶えざる終焉のために……。」
(全集第1巻、300ページ下段)

後者の春の最初の段落:
「道を歩きながら石を蹴っとばしてごらん。何を考えているの?さあ言ってごらん。何処にいる
の?季節は教えてあげてもいい。春だよ。路端の、石がころげて行った先の、黒くしめった土く
れ。みどりいろ。何が……、何が生えてくるのだろう?いや、君の心にだよ。何か植物みたいな
ものが、君の心にも生えてきてるのじゃないの?」
(全集第2巻、234ページ上段)

[註1]
「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)「3。3回の問題下降と結末継承の分析」の「3。1 
3回の問題下降」より引用します。

「(2)処女作『終りし道の標べに』を問題下降したのが、短編小説『デンドロカカリヤA』であること。中間項は、
『名もなき夜のために』。それ故に、後者は前者の、後述する「結末継承」をしてゐる。即ち、前者の結末を、後者
の冒頭が継承してゐる。」

[註2]
「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)の「1。二つの『デンドロカカリヤ』」より引用しま
す。以下のURLにて関係するチャートをダウンロード下さい:

(1)https://ja.scribd.com/document/343689487/詩人から小説家へ-しかし詩人のままに-藝術家集団を付記-v8
(2)https://ja.scribd.com/document/348350612/初期安部公房の主題と作品の構造から観た作品系統図

「『問題下降に依る肯定の批判』から『デンドロカカリヤB』までの間は次の3つの時期に分けることができること
もぐら通信
もぐら通信                          ページ64

(1)散文形式による創作理論(『問題下降』論)の確立:1942年∼1944年:18歳
∼20歳:緑色の枠で示してゐます。
(2)詩と散文の統合:詩形式による「今後の問題の定立」(『無名詩集』):1946年∼
1949年:22歳∼25歳:青い色の枠で示してゐます。
(3)散文形式(小説形式)の確立:1949年∼1952年:25歳∼28歳:赤い色の枠で示してゐます。

上記(1)と(3)の間に『デンドロカカリヤA』が位置してゐる作品であること。即ち、『デンドロカカリヤA』は、
詩と散文の統合を図つた中間期の作品であること。この作品の有する意義は、これであること。

上記(1)の時期に書かれたものはみな、謂はば『問題下降』論です。問題下降の理論の構築に、この時期、安部公
房は集中したこと。

上記(2)に書かれた『デンドロカカリヤA』に至るために、安部公房の試みは、更に次の二つの時期に分けられる
こと。即ち、

(2。1)詩の世界での問題下降
(2。2)詩と散文統合の為の問題下降

『デンドロカカリヤA』は、上記(2。2)の、移行期の作品であること。これはどのやうな試みであつたかは、後
述します。」

結末継承と、初期安部公房が詩人から小説家になる「転身」[註3]の小説作法上の問題下降に
よる統合の過程を復習することになりました。

[註3]
「転身」については、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第5
9号)をご覧ください。詳述しました。
もぐら通信                         

もぐら通信 65
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ66
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 67
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語と言霊の関係
(68)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(69)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(70)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(71)安部公房の超越論と神道(1):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(72)安部公房の超越論と神道(2):topologyと産霊(むすひ)または結び
(73)安部公房の超越論と神道(3):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(74)安部公房の超越論と神道(4):呪文と祓ひ・鎮魂
(75)安部公房の超越論と神道(5):存在(ザイン)と御成り(をなり)
(76)安部公房の超越論と神道(6):案内人と審神者(さには)
(77)安部公房の超越論と神道(7):汎神論的存在論と分け御霊(わけみたま)
(78)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(79)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(80)安部公房とチョムスキー
(81)三島由紀夫のドイツ文学講座
(82)安部公房のドイツ文学講座
(83)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(84)安部公房のドイツ哲学講座
(85)火星人来日記
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記
ページ 68
● 『カンガルー・ノート』論(11):(23)尻尾/(24)3といふ数/(25)
自走ベッドによる章の間の結末継承(2):本当に安部公房は緻密だ。もしわたしが
小説を書くとして、こんな小説はとてもかけないと思ひました。『安部公房なりきり
マニュアル』などといふ安部公房流の小説作法についてのマニュアルを書くのは、面
白いが、しかしまた大変なことである。/この先のどこかで小説を離れて、そもそも3
といふ数字は何かを後日作品論の中で論じたい。

●私の本棚:庄田秀志著『戦後派作家たちの病跡』の「第5章 安部公房論」を読む:
書評冒頭に書いた通りで、文学の世界の読者にはとても書けない安部公房論です。他
の作家たちの論考も優れてゐます。最寄りの図書館にもしあれば、ご一読を薦めます。
この著者が優れてゐるのは、病跡学にせよ哲学にせよ(スコラ哲学に言及してゐたの
は誠に驚きでした、これは大変な事です)頭で捻つた机上の理屈ではなく、臨床医と
して精神医学の世界で患者に接して仕事をしながら、人間の本質を考へ抜いてきたか
らだといふ事が、文章から直に伝はつて参ります。そして註解がトロール網といふ隠
喩はいい。私も港町の生まれと育ち故、思はず潮の匂ひと海の風の皮膚感覚を思ひ出
し、目の前を鴎が横切りました。

●安部公房とチョムスキー(4):これで、何故後年安部公房がチョムスキーをクレ
オール論と遺伝子のことでで盛んに引用するのかの理由がご理解戴けたのではないで
せうか。わたしも初めてチョムスキーの本を読みました。勉強になりました。安部公
房に感謝です。しかしまあ、箱根の山荘でこんな本を読んでゐたのであるな。もぐら
日記に名前のある他の本も読んでみよう。

●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(21):ロシアの大地の春は、満
洲の春に同じでありませう。芽の出る季節は五月です。一斉に青い色が大地から立ち
上がるのです。春もまた、日本の春ではありません。『カンガルー・ノート』の豚と
同じです。

●では、また、次号にて。
差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(12):5。1。4。1 寓話とは何か
限」
2。火星人特派員報告記
3。私の本棚:建築家磯崎新のエッセイ『第四間氷期』を読む
4。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(22)
5。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          69
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第75号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド  1。33ページ:最初の行
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正 訂正前:(22.3)
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正後:(22.3)を削除する
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行 2。40ページ:最後の段落、最後の行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、 訂正前:二十代初
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、 訂正後:二十歳
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日 3。65ページ:最初の段落、上から六行
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富 目
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売 訂正前:キリスト教徒と
新聞社) 訂正後:キリスト教と

【もぐら通信の収蔵機関】 Googleドライブには訂正後の最新版を差し
替へて置いてあります。
 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」 4。66ページ:[註10]
(1)
【もぐら通信の編集方針】 訂正前:裸身のままたちつくす
訂正後:裸身のままたちつくす
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集 (2)
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き 訂正前:二つ目に
をすることを通して、そこに喜びを見出す 訂正後:一行目に
ものです。  
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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