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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2019年2月1日 第77号 第四版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の : 僕は今こうやって孤独になって見て、やっと解った様な気がするのだ。
あな
ない
迷路 あ 転身とか変容とか云う事に対して今 何と言う誤解をしていたものだろう。
ただ を通
けの って
番地
に届
きま 〈僕は今こうやって〉(全集第1巻、88ページ上段)

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(12):5.1.4.1 寓話とは何か:岩田英哉…page6
3 言語とは何か II:言語起源論:岩田英哉…page38 
4 安部公房とチョムスキー(5):5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ:岩田英哉…
page 59
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(22)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…63

6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 67
7 編集後記…page 70
8 次号予告…page 70

・本誌の主な献呈送付先…page71
・本誌の収蔵機関…page 71
・編集方針…page 71
・前号の訂正箇所…page71

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The worst tweet of the month

Yutaka Inada@nighttime_sky 2月11日


ole
Gold
en M 小説家が私の年齢で何を書いていたのか調べてみた。
Priz
e 村上春樹 1Q84
大江健三郎 燃え上がる緑の木
筒井康隆 朝のガスパール・パプリカ後断筆
開高健 珠玉・花終わる闇
安部公房 方舟さくら丸
クリスティ 満ち潮に乗って
クリスティ以外、どれも散り終わった桜を見るよう。

The best tweet of the month

o le
er M
Silv 鴻巣友季子(助走中)@yukikonosu 2月18日
e
Priz
『砂の女』。当時の世界における安部公房のポジションが明快に語れた。同
書は旧ソ連東欧で即日完売の爆発的ヒット。しかし外国語に訳しにくい所も
ある。戯曲「友達」には「人のうちに土足で入ってくるなんて」という台詞が
あるが、欧米だと何の衝撃もない(笑)逆にデパート屋上の遊園地は想像を
絶する

今月の人魚伝
烈十@仰げば尊死@RyK49DwErIgNnHe 2月17日
安部公房「I love you.」①

Takayuki TATSUMI@t2tatsumi 2月20日


中村文則原作「愛と仮面のルール」の映画化は期待を上回る出来だった。玉
木宏と新木優子を中心に、これは現代に蘇った「他人の顔」(安部公房)だ。だ
がそれ以上に、ミステリ仕立ての小説にあくまで忠実に、耽美と退廃感あふ
れる独特な雰囲気を紡ぎ出した中村哲平監督のセンスが、磨き抜かれていた
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のだ。
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小島秀夫@Kojima_Hideo 2月12日
十代の頃、最も影響を受けた日本人作家は安部公房で
ある。同じ頃、影響を受けた日本SF作家は田中光二と
山田正紀になる。SFでありながらも、ハードボイルド、
ノワール、ポリティカルフィクションを併せ持つ、硬派
な作風が好きだった。しかし、平井和正を再読してみ
て、かなり影響を受けていた事を実感。

今月の朗読
朗読者 in the world@roudoku_sha 2月21日
朗読者 in KAWAGUCHI vol.16
#安部公房「詩人の生涯」(新潮文庫「水中都市・デンドロカカ
リヤ」所収)
2018年4月21日22日
於KAF GALLERY @KAF_artkouba
演出 #北川原梓
出演 #奈佐健臣 (#大沢事務所)、#河崎純(コントラバス)

今月のS・カルマ氏
白山Kンジ@Knji366 2月20日
今テレ東で放映されている番組のナレーター、垂木勉氏は安部公房スタジオ(安
部公房が主宰した演劇集団)が1978年に上演した舞台『S・カルマ氏の犯罪』のS・
カルマ氏役の人なのだ。
しかし残念ながら映像化はされていない。

柴田望@NOGUCHIS7 2月15

『メディアあさひかわ』3月
号に《東鷹栖安部公房の会》
の活動、大きく紹介されてお
ります☆
p151 「東鷹栖安部公房の会」
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が3回目の朗読会
音と映像で短編『水中都市』
読み進める
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今月の水中都市
sakaime@no_matter_line 2月11日
安部公房はAIがお嫌い? 早稲田大学・鳥羽耕史教授に聞く

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/091200162/092000003/?
n_cid=nbpnbo_twbn

今月の動画
カラマーゾフ@mrbean1968 2月11日
ETV特集 テレビが記録した知性たち3安部公房 複眼の冒険者1999.3.17 https://
youtu.be/cgEeQB3QzXo @YouTube
さんから

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月19日
所有の始原 : 安部公房「赤い繭」論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007506049 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月11日
安部公房「壁あつき部屋」試論--罪責の行方 http://ci.nii.ac.jp/naid/40015983416 …

河村書店@consaba 2月13日
2/17(土)18:30∼20:00 沼野充義+島田雅彦 ボーダーレス時代の世界文学  カ
フカ「断食芸人」、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、ウェルベック「服従」 
安部公房「砂の女」 NHK文化センター青山教室 http://www.nhk-cul.co.jp/
programs/program_1141777.html … #s_info
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『カンガルー・ノート』論
    (11)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

2。『カンガルー・ノート』の呪文論 青字は前回までに
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 赤字は今回論ずるもの、
3。1 章別・記号分類 黒字はこれからのもの
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
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もぐら通信                          ページ 7
(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 8

5。1。4。1 寓話とは何か
紙の書籍と違つてスクロールするもぐら通信はpdfの電子書籍でありますから、紙のページをパ
ラパラとめくつて往復することが容易ではないので巻末に註解を集める訳にも行かず、例によつ
て論考中に幾つかの長い註釈がありますが、「「ヘビ、長すぎる」などというしゃれた文句が出
てくる前に」(『ヘビについてII』の冒頭の第一行;全集第19巻、131ページ))、さう思
つたら、本論の大意を掴むことを優先させて、飛ばして下さつて結構です。後でお読み下さい。

1。何が問題か
安部公房の作品を読むと理解ができないので、寓話といひたくなるのです。 as is (アズ・イズ:
現状有姿)のままで理解することができない、あるいは人に自分の言葉で、作品の全体がわから
ないものだから説明し、伝へることができない。では、私はあなたに問ひたい。何故寓話だと思
ふかと。寓話だと思ふと何故安部公房の作品が理解できる/できたやうに思ふのでせうか。むし
ろ事情は、さうではなく、安部公房の作品が as is (アズ・イズ:現状有姿)のままで理解で
きないから、寓話だと思ひたくなり、寓話だと思ふと理解ができる/たやうに思ふからではない
でせうか。

さうだとすれば、私の問ひは、次の二つです。

(1)何故寓話だと思ふと理解できる/たやうに思ふのか……(A)
(2)寓話とは何か……(B)

この章は、この二つの問ひに答へやうといふのです。

この二つの問ひを眺めて思ふのは、(B)の問ひに解答することができれば、(A)の問ひにも
回答することができるといふ、そのやうな物事の順序であるといふことです。何故ならば、(B)
の問ひは、時間を捨象した本質論を考へること、即ち、寓話といふ概念を定義することであり、
(A)の何故といふ問ひは、時間の中で原因と結果の連鎖で考へることだからです。

言葉の意味(本質的な意味)もまた差異でありますから(言葉に限らず本質とは常に差異ですか
ら)、差異は従ひ時間の中では反復として現れます。上記で「時間の中で原因と結果の連鎖」と
書きましたのは、原因1は結果1の原因になりますが、結果1は次には原因2になつて結果2を
生み、結果2は直ちに原因3となつて結果4を生みといふ連鎖を延々と無限に繰り返すことにな
ります。これが「時間の中で原因と結果の連鎖で考へること」と書いた「連鎖」といふことの意
味です。即ち、因果律で考へるといふことです。

言葉の意味(本質的な意味)もまた差異であるといふ意味は、時間の中では役割を交代して、つ
まり役割が(機能といつても良いのですが。これが言語は時間の中では機能だといふことなので
すが)、常に役割がreversal(ひつくり返るの)である、則ち互ひにrecursive(再帰的)であ
るといふことなのです。『方舟さくら丸』ならば、船長が船員になり、船員が船長になる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 9

そして、この連鎖は果てしなく続き、無限であり、時間の中ではS・カルマ氏は名刺であり、
名刺はS・カルマ氏であり続ける。さうしてS・カルマ氏はS・カルマ氏でありたいと思ふので、
則ち人間としての自分自身の再帰性を大切にしたいと思ふので、S・カルマ氏は現実の時間か
ら逸脱し、逃亡し、逃げに逃げて遂には世界の果てにまで至り、バロック的な意味での上位
接続(論理積:conjunction)のトンネルを抜けて、最初から向かうに見える次の現実が贋物
と知つてゐても(これがバロック的といふ意味の一つ)、今ゐる閉鎖空間の内部から外部へ
と(自らが立て札といふ存在の方向への標識板になり、そして前の世界の境界域の★印の柵
[註1]を越境して遂には)topologicalな接続(自分自身が壁になること)を生み出して変
形する。この接続と変形のために安部公房の全ての主人公が至る世界の果てに超越論的に「ふ
と気がづくと」「いつの間にか」(以上超越論的時間)「どこからともなく」(超越論的空
間)主人公の元に「既にして」(超越論的時間)、時間の先後なく「ふと気がづくと」其処
にあるのが、「明日の新聞」です。

[註1]
『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第71号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(1
9)「進入禁止」の立て札」より引用します:

「最後に芥川賞受賞作『S・カルマ氏の犯罪』の結末が、禁忌をめぐっての全く以上の後年の作品通りの論理で
主人公が壁になるのだといふことを、ここで、このやうに考へて来ますとわかりますので、お伝へします。勿論、
ここでの禁忌は、世上よく言はれるやうに、名付けることと存在を巡る社会的・法律的な禁忌(タブー)を、超
越論的に破つた[註13]、そしてそれ故に罰せられる主人公の姿です。[註14]

[註13]
超越論については、『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第67号)及び『Mole Hole Letter(6):超越論
(2):カナヘビ捕り』(もぐら通信第70号、それから「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の
「5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く」をお読みください。にて詳述しましたので、ご
覧ください。

[註14]
何故安部公房の主人公は皆罰せられるのかは、特に『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第67号)を参照く
ださい。

この禁忌の柵を越えて、オルフェウスのやうに上へ上へと樹木のやうに登つて行く主人公は、この作品では、『他
人の顔』の仮面の場合が素顔と仮面の等価交換であるのと同様に自分の内部と外部が交換された「曠野」といふ
動態的なメビウスの環の接続点またはクラインの壺の接続面といふ等価交換関係といふ関係の「その中で」『静
かに果てしなく成長してゆく壁」になつてゐる、文字と記号のtopologicalな関係の交換によつて「 」を取り払
はられて地の文の中でぼくと表現される「彼」である「ぼく」に変形してゐるわけです。

自分自身が等価交換の対象であることは、『他人の顔』での禁忌がさうであるやうに、「彼は、性の禁止を破る
とき、同時に自分自身の柵も踏み砕いているのである」とあることからも、S・カルマ氏自身もまた命名と存在
を巡る禁忌を破る時には「同時に自分自身の柵も踏み砕いているの」[註15]です。引用中「窓ガラス」は、
安部公房がリルケに学んだ透明感覚であり、全ての作品の共有する結末共有[註16]です。

「首をもたげると、窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿ではなく、四角な厚手の板に手足と
首がばらばらに、勝手な方向に向ってつき出されているのでした。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ10
 やがて、その手足や首もなめし板にはりつけられた兎の皮のようにひきのばされて、ついには彼の全身が一枚
の壁そのものに変形してしまっているのでした。

              ★

見渡すかぎりの曠野です。
 その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。」
(全集第2巻、451ページ下段)

[註15]
『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)をお読みください。自分自身を含む「転身」について詳細に
論じられてゐます。安部公房の「転身」がどのやうなものであつたかは、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語
について』(もぐら通信第56号から第59号)で論じましたので、ご覧ください。

[註16]
透明感覚については「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号号)及び『もぐら感覚7:透明感覚』(も
ぐら通信第5号)をご覧ください。

安部公房は、この禁忌の柵を、★で表したのです。

「手足や首もなめし板にはりつけられた」とは、S・カルマ氏自身が板に、即ち立て札になつてしまつたといふ
事です。かうして、S・カルマ氏は「完全な存在自体」になつたのです。

さうして、禁忌の柵の象徴である★を超えて、人称が三人称から一人称に変形する。

この星はまた、少年安部公房が、奉天の曠野にあつて「首をもたげると」満天の夜空の天幕(テント)に滲むや
うに降つて実在する星なのであり、そしてまた成城高校生であつた安部公房がリルケの『オルフェウスのソネッ
ト』に歌はれる一筆書きの、即ちtopology(トポロジー)の星座の星、一つ一つが接続点である一個の孤独の星
[註17]なのです。即ち、天にあつては存在(entity)として生きること、地にあつては死を受け容れること
です。

[註17]
「リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(12)∼安部公房をより深く理解するために∼」(もぐら通信第67号)
から以下に引用します。(略)」

何故(これは因果律での説明)「明日の新聞」が其の時其処にあるかといへば、既に諸処に
て既述の通り、時間を単位化すれば時間は等価交換が可能ですから空間化されて(これが安
部公房のtopologicalな方法論、即ち時間の空間化)、一体どうなるかと言へば、今日は昨日
の明日、今日は明日の昨日、昨日という今日は明日という今日の昨日、明日という今日は昨
日という今日の明日といふことになりますので、昨日と明日は今日といふ一日の単位の場で
等価交換することができる。(これを私たちの縄文以来の古神道・神道では中今(なかいま)
といつてゐます。昨日と明日の間の中の今日といふ今といふ意味です。しかし時間の連続の中
にある今では決してない、これは超越論的な「明日の新聞」の今である其のやうな今を、私
たち人間が名付けることができなくても、目の前に見えてゐる物事の名前を知らなくても、
その物事を意識するにせよ意識しないにせよ、その価値が等価で遍在している世界、即ち私
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ11
が其れを認識して構成要素を単位化すれば等価交換できる世界(例へばライプニッツのモナド論)、
即ち汎神論的存在論の世界、即ちtopologyの世界であるといふことなのです。

以上の説明で、ユーラシア大陸の極西ヨーロッパ地域の白人種がキリスト教といふ唯一絶対全知全
能のGodから(無意識に)逃れやうとして、表看板は其のやうなGodの存在証明のために生み出し
た近代の西洋哲学でいふ超越論とtopologyといふ(接続と変形の)幾何学と、私たちユーラシア大
陸の反対側に位置する極東の日本列島にすまふ日本人といふ有色人種の大地母神崇拝の心にある論
理(何しろ時間は直進せず永劫に、前の場所より一次元上の同じ場所へ、前の場所より一次元上の
同じ場所へといふやうに常に回帰を繰り返す)、即ち八百万の神々との関係が、お解りになるので
はないでせうか。何しろあなたは毎年歳があらたまれば元旦に、また願ひごとがあれば神社にお参
りに行くでせう、そのことの哲学的な意味が、これらのことなのです。

ただ問題は、欧米の白人種キリスト教徒が此の一神教を否定すると、(私たちとは違つて)無宗教
といふことになり、この無宗教といふことから其のまま虚無主義(nihilism:ニヒリズム)になつ
て、それまで自分と他人との意思疎通の媒体(または媒介者)であつた唯一絶対全知全能の宇宙の
創造者Godを失ふと、人と人の間、文字通りに人間に隙間ができ空虚が生まれて、自分がどうして
良いかわからなくなり、安部公房の言ひ方を借りれば座標がなくなつてしまつて[註2]、どうや
つて物を考へて判断をしたらよいのかがわからなくなつてしまふのです。それで、それでは言語に
戻つて考へようと思つて、存在(sein:ザイン)といふあなたと私、私と誰れ彼れを接続する(英
語ならば)be動詞を持つて来て、この言葉を媒体または媒介として、人間同士の意思疎通(コミュ
ニケーション)を確かなものにしようといふのが、ヨーロッパの近代の哲学の歴史であり、特に[カ
ントーショーペンハウアー]に始まる生命の哲学、即ち超越論の歴史であつたのです[註3]。こ
れに対して[カントーヘーゲル]の系譜は、Godを否定してマルクス主義を生み、無宗教といふこ
とから其のまま虚無主義(nihilism:ニヒリズム)に陥つて、論理構造上はGodの位置にただ別の
マルクス主義の教義(ドグマ)が入れ替はつただけです。何故ならば(1)[カントーヘーゲル]
の系譜は言語の再帰性を絶対的に否定する論理であり、従ひ[カントーショーペンハウアー]の系
譜の大地母神崇拝である超越論ではなく、父権宗教キリスト教と同じ論理であり(2)ヘーゲルは
キリスト教の教義(ドグマ)に抵触することを恐れて一切これには触れず、das Ding an sich(ダ
ス・ディング・アン・ジッヒ:物自体)を体と心の内部に置いて、カントのいつた外部にあるdas
Ding an sich(物自体)との接続関係をフィヒテの哲学を容れてそのまま否定したから(3)人間
の体と心の中心にはdas Ding an sich、即ち日本語でいふ物(ブツ)自体が入つてしまひ、人間は
物(ブツ)になつてしまふから、このマルクス主義の教義(ドグマ)は此の教義(ドグマ)以外の
領域では人間の意思疎通の媒体(または媒介者)の役割を果たすことができず、マルクス主義では
ない人間を物質のやうに扱ひ、人間の命を救ふ方向にではなく全く逆に人間を事実として殺戮し、
隠喩としても人間を殺して来たことは、マルクス主義以降の共産主義、更に共産主義が衣を替へて
名前の変はたつだけのglobalismといふ国際金融資本主義と無国籍企業主義の、その後の道徳と倫
理の欠落した金を儲けさへすれば良いといふ収奪と略奪の歴史の示すところです。

[註2]
座標なくして判断は有り得ないものだろうか?いや、あり得るといふのが18歳の安部公房の解答です:
「では此の事――真理の認識――は不可能なのだろうか。しかし此処に新しい問題下降――一体座標なくして判断は有
り得ないものだろうか。これこそ雲間より洩れ来る一条の光なのである。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

(『問題下降に依る肯定の批判』全集第1巻、12ページ上段)(原文は傍線は傍点)

[註3]
[カントーショーペンハウアー]の系譜のうち、ショーペンハウアーとニーチェは、存在といふ言葉に頼つてはゐ
ません。前者はカントのdas Ding an sich(物自体)を意志だと喝破して意志といふ生命力を哲学の中心に据えて
汎神論的存在論と、私たちの哲学でそのまま言ふことのできる哲学を唱へました。後者もまた全集を通覧します
と、存在といふ言葉は認識できないといふ文脈か(存在が本質だからでせう)、または物事の虚妄または仮象で
ある事との関係で使はれてゐて(これも存在が本質であるからでせう)、存在といふ言葉を細かく詮索する事はし
てをりません。ですから、存在といふ言葉と此の事について細かくいふやうになつたのは、ハイデッガー以降とい
ふことになるのでありませう。この章のどこかで書いたやうに、哲学の領域で概念を定義することは、そのまま
存在を論ずることなのです。それで存在論といふことが頻りに言はれるやうになつたのです。

こんなことは、私たち日本人には何の関係もない。これはヨーロッパ地域に住む人間たちの苦
しみであつて、それはそれでお気の毒ではあるが、しかしそれは他に求めるのではなく、自分
で解決すべき問題である。そして、私たちがことさらに問題にする必要のない本来問題である。
しかし、この哲学から生まれた科学といふものが物質に関する科学であつて(これを「物質科
学」と呼ぶことにします)、これを応用した技術によつて此れも圧倒的な軍事力を生み出し(こ
れを「物質技術」と呼ぶことにします)、さうして物質科学と物質技術によつてこれも圧倒的
な経済力を生み出したので中産階級を中心にして其のまま圧倒的な富を資本として蓄積をした
ので、この地域の外にある富の収奪と略奪をするために植民地を作り(全て金儲けのための資
源の収奪と略奪である)、私たち南北アメリカ、アジア、インド、アフリカ、オーストラリア
に平和裡に住んでゐた有色人種にとつての、コロンブスのアメリカ発見( 誰がコロンブスを見
つけたか? )以来の近世の、有色人種の大虐殺の500年であり(一体彼奴等は何億人を殺
戮したのだ?)、ヨーロッパ地域の人間による命名によれば、素晴らしい海外雄飛の大航海時
代の500年といふことになるわけです。このやうな欧米白人種キリスト教徒の植民地化によ
る我が国の富の収奪と略奪(これには文化や伝統や歴史の破壊も当然に含まれる)から自国を
護るために幕末にかけて(隣の大陸の清朝のやうにならぬやうにと)苦労をして成つたのが、
明治維新であり明治政府であり、大日本帝国といふ日本の近代国民国家(Nation State)です。

さて、この有色人種への収奪と略奪の近代国民国家を支持したのが、この文明の最高度の学問
である哲学の階層では[カントーヘーゲル]に始まる植民地主義である共産主義の系譜であり
(この後マルクス主義ーフランクフルト学派ー国際金融資本と無国籍企業のglobalismと二十一
世紀の現在にまで共産主義の、口にして唱へる名目はどうあれ金の力に任せた収奪と略奪は続
いてゐる)、これは弱肉強食の進化論である。他方これに反対し、否定して、これを超克しよ
うとしたのが[カントーショーペンハウアー]の超越論の系譜であること(その後ニーチェー
ハイデッガーハラルト・ヴァインリッヒ/デリダ/ドゥルーズ等々と続きます)、そして安部公房
が日本人としてこれに連なり逆進化論を唱へたことは、繰り返し既述の通りです。[註4]

哲学といふ(ユーラシア大陸の極西の)ヨーロッパ地域の文明の論理の背骨を洗い出して時系
列に並べて整理整頓すると実に見晴らしがよくなり、私たち日本列島文明といふ(同じユーラ
シア大陸の極東に位置する)島国、島嶼(とうしょ)国の世界史上の位置も、私たち島嶼の再
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もぐら通信                          ページ13

帰哲学の位置も意義も、かくも明らかになる。明治以来の先人の御苦労に感謝する以外には
ありません。私の此の文章も、この感謝の上にあります。

[註4]
『安部公房とチョムスキー(1)』 (もぐら通信第73号)の「(1)ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/
あるのか」および「(2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」をご覧ください。また逆進化論の具体的な経
済と政治への応用については『安部公房とチョムスキー(4)』(もぐら通信第76号)の「5。チョムスキー
の統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法」の「(1)チョムスキーの統辞理論とは
何か」と「(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か」をご覧ください。

超越論の話でした。

この『カンガルー・ノート』論(1)の「0。はじめに」に安部公房自身の言葉を借りて書
きましたやうに、全ての安部公房の作品は、その藝術範疇を問はず、「明日の新聞」なのです。
さうしてあなたは「明日の新聞」を読んで、次の存在へと今ゐる閉鎖空間(これも存在なわけ
ですが、この空間)を脱出するといふわけです。安部公房の考へでは、小説と呼ばれる近代の
物語形式は閉鎖空間なわけですから[註5]、これは小説のみならず、生きるために(現実の
時間の中で時系列で語られる)物語をあなたが必要とするのであれば、それがどんな物語で
あれこれもまた物語である以上閉鎖空間になるのであり(何故ならこの物語もまた言語で語
られるから)、さういふう夢の、夢想の、空想の、想像の物語の実現を願ふあなたが苦しみ
の/からの逸脱と逃亡の果てに世界の果てに至つた場所にあるのが、「明日の新聞」、即ち安
部公房の作品群といふわけです。

[註5]
以下、『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界
認識」より、少し長い引用を致しますが、お読み下さい。

「IV 安部公房の小説観と世界認識
この『キンドル氏とねこ』のメモを総覧しますと、存在になる「アクマ氏」に対するカルマ氏とコモン氏に対す
るに更に、複数たり得るキンドル氏を自己証明書の交付資格を有する第三者として配し、「夜のアクマ」にメタ
嬢を恋愛関係の中にある女性として配してゐることが判ります。そして、この物語の主人公は、やはり「複数の
キンドル氏」なのです。何故ならば、メモの第一行が、次のやうであるからです。

「複数のキンドル氏→だからこれはあるキンドル氏の物語と言ってもよい。」
                        
同じ文章が、私たちは『人魚伝』といふ、最後には主人公が「沢山のぼくの類似品」になつてしまつてゐる小説
の冒頭にあることを知つてをります。

「 ぼくがいつも奇妙に思うのは、世の中にはこれだけ沢山の小説が書かれ、また読まれたりしているのに、誰
一人、生活が筋のある物語に変わってしまうことの不幸に、気がつかないらしいということだ。 [註10-1]
(略)
 物語の主人公になるといふことは、鏡にうつった自分のなかに、閉じこめられてしまうことである。向う側に
あるのは、薄っぺらな一枚の水銀の膜にしかすぎない。未来はおろか、現在さえも消え失せて、残されているの
は、物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりすることだけである。(略)息をひそめた囁きや、しのび
もぐら通信
もぐら通信                          ページ14

足が求めているのは、むしろ物語から人生をとりもどすための処方箋……いつになったら、この刑期を満了でき
るのかの、はっきりした見とおしだというのに。」(全集第16巻、77ページ)(傍線筆者)

これでわかる事は、安部公房の物語観ですし、それは其のまま小説観です。

(1)物語は主人公の閉籠められてゐる閉鎖空間である。何故ならば、
(2)この空間は合わせ鏡の空間であるからだ。
(3)この空間には時間は存在しない。従ひ、
(4)主人公はただ「物語という檻の中を、熊のように往ったり来たりすることだけである。」

しかし、

(5)小説は本来「筋のある物語」ではない。即ち超越論的な物語である。
(6)日常の時間に生きる人間は「筋のある物語」を求める不幸の自覚がない。
(7)「自分の人生をとりもどすための処方箋」として、安部公房の「筋のない物語」として小説はあるのだ。
[註10-2]

[註10-1]
18歳の安部公房は此の社会を「無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口が殆ど無い」「偉大なる蟻の社会」
と呼びました。(『問題下降に依る肯定の批判』全集第1巻、13ページ下段)

[註10-2]
この(1)から(7)の全体を安部公房はエドガー・アラン・ポーを規準にして「仮説設定の文学」と呼びました。詳細は
「安部公房の変形能力2:ポー」(もぐら通信第4号)をご覧下さい。

この(7)にある此の目的のための小説の形式(form)と様式(style)が、「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」です。
それ故に、いつも安部公房は存在へのtopologicalな「終わりし道の標べに」立て札の標識を立てて、そこに存在の方向を示
して、この世での主人公の死とともに、読者を次の次元へと案内して、小説は終る、いや、開いて続くのです。

この安部公房の小説観のついでに、同じ小説観を述べてゐる作品で、『人間そっくり』の元の短編『使者』にある主人公奈
良順平が火星人だと自称する男と会話をしながら心の中で思ふ論理を見てみませう。

「……気違いだとすると、こいつは相当によく出来た気違いだよ。だが待てよ、もし本物の気違いなら、この話はそのまま
使ってもかまわないだろうな。これが使えるとなると、今日の馬鹿気た手違いも、まんざらではなかったということになる。
さっそく今日の講演に拝借してやるか……うん、ちょっとした風刺もあるし、なかなか悪くなさそうだぞ……題は「偽火星
人」……通俗的すぎるかな?「箱の中の論理」というのはどうだろう?いや、ちょっと高級すぎるよ。なにかその中間くら
いのを考えてみることにしよう……」(『使者』全集第9巻、306ページ下段∼307ページ上段)(傍線筆者)

この同じ「箱の中の論理」、即ち後年の『箱男』の論理をtopoloty(位相幾何学)との関係で、本物と偽物、この論考でい
ふ真獣類と有袋類の関係を、人間と人間そつくりの関係の問題として解を種明かしとして説明してゐる箇所が、前者、即ち『人
間そっくり』に書かれてゐます。即ち『箱男』はtopologyで解読することができるのです。即ち、このことは、『箱男』のみ
ならず、全ての安部公房の作品は、接続と変形といふ視点、言ひ換へれば真獣類と有袋類といふ視点から解読することができ
るといふことを意味してゐます。 [註11]

[註11]
Topologyと存在概念については、『存在とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼』(もぐら通信第41号)をご覧
ください。また「箱の中の論理」と其の読解については『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く∼」(もぐら通信
第34号)をご覧ください。
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『人間そっくり』より以下に引用する奈良純平といふ主人公と火星人との会話を読むと解りますが、主人公の思
つた「箱の中の論理」は、「そつくり」といふ事の内にtopolotyと呪文と変形(の方法論と方法)を含んでをり、
あるいは逆にこれらの三つの構成要素に基礎を置いて、全ての作品の持つ「箱男」の論理は成立してゐるのです。

十代の安部公房が考へ抜いて概念化した四つの用語、即ち部屋、窓、反照、自己証認からなる安部公房の宇宙を
思ひ出して下さい。部屋は存在の部屋、窓はtopologicalな変形と脱出の出入り口、反照は再帰的な複数の自己の
存在する合はせ鏡、自己証認は次元展開、即ち「転身」の果てにみることによつて成り立つ第三の客観によつて
存在が証明される「僕の中の「僕」」。これらの関係については『詩と詩人(意識と無意識)』に詳述されてゐ
ますので、ご一読をお薦めします。

「「それ、なんなの?トポロジー、トポロジー、と、しきりに言っているけど、さっぱり、どうも、その方面の
ことにはうとくてね。」
「要するに、ほら、位相幾何学のことですよ。」
「そう言われても、残念ながら、ぼくの知識はやっとこさ球面幾何どまりなんだ。」
「これは失礼……なあに、原理はひどく単純素朴なものでしてね……一と口に申せば、《そっくり》の数学とで
も言いますか……つまり、《人間そっくり》の《そっくり》ですね。従来の数学では、イコールで結ぶことなど
思いもよらなかった、たとえば、野球のバットとボールの様なものでも、トポロジーの世界では、共に一次元ベッ
チ数がゼロの、ホモローグな球面ということで、イコールになってしまう。ちょっと、奇妙に感じられるかもし
れませんが、これがけっこう、人間の直観の形式に、ひどく似通ったものを持っているんですね。別なたとえで
すが、ドーナッツ、あの輪の形をした揚げパン―トポロジーのほうでは、一次元ベッチ数2のトーラスって言う
んですが―一応ドーナッツの形をしているかぎり、ふくらんでいようが、ひしゃげていようが、人間の眼には同
じドーナッツです。ところが、電子計算機にとっては、変形ドーナッツのパターンの判読は、意外にやっかいな
ことらしいんですね。反対にこれが、犬なんかの場合だと、まるでホモロジーでないパンとドーナッツでも、原
料と製法が同じなら、完全に同じものに見えるにちがいない。どうです、トポロジーってやつは、えらく人間く
さいものでしょう。逆に言えば、これまではただ曖昧で、いいかげんな概念だと思われていた《そっくり》が、
じつはトポロジー以前の数学ではとらえられないほど、高度、かつ精密な論理構造を持っていたといふことにも
なるわけですね。たかだか《そっくり》だなんて、馬鹿にしちゃいけないってことですよ。まったく、その《そっ
くり》のおかげで、ぼくなんか、現にこのとおり、半死半生の目にあわされているんですから。」
「それよりも、君、彼女たちの方は……」
「まあ聞いて下さいよ……けっきょく、気違いと火星人という、二つのヴェクトルを統一する場は何か。考えら
れるのは、まず次の様なトポロジーです。すなわち、自分を火星人だと思い込んで居る、地球人の気違い……」
「……それだけ?」
「もしくは、自分を火星人だと思い込んで居る、地球人の気違い……だと思い込まれている、火星人……」
(略)
「でも、いまのホモローグ、直観だけじゃ追いつけないんじゃないですか。先々、どこまでも、無限に続いていっ
て……自分を火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人だと思い込んでいる地球人
の気違いだと思い込まれている火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人……」
「その辺で、もうけっこう。それじゃ、その呪文を、君のトポロジーでやったら、うまく、けりがついてくれるっ
ていうの?」」(『人間そっくり』全集第20巻、304ページ下段∼305ページ上段)(傍線筆者)

「人間そつくり」から「真獣類そつくり」に、「キンドル氏そつくり」に話を戻します。

さて、従ひ、「複数のキンドル氏→だからこれはあるキンドル氏の物語と言ってもよい。」といふメモは、上記
(1)から(7)を巡る物語のメモなのです。といふ事は、一人の主人公が閉鎖空間である物語といふ現実に流
布されてをり人々が信じてゐる、時間の流れる一次元の日常の虚構または虚構の日常から脱出すると、キンドル
氏は複数になる、これを分裂といふのが適切かどうか、要するに同じキンドル氏が複数、日常の時間を脱すると、
ゐるといふことになる。
もぐら通信
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再度前述の「人間の存在形式の原型である」玩具(おもちや)の猫、即ちこの「現実という複雑な傾斜の上をこ
ろが」る「言語という球」としての猫についての引用しますと、「この猫は現実の時間の断層であり断面である
斜面を転がつて、言語的に多次元的な諸相を写し映すものである、そのやうな写像の対象となる投影体である」
ならば、何匹もの猫が(この世にはあらぬ)不在のチェシー猫として、安部公房の主人公が凹(窪み)を脱出す
る際にいつも見る時間の断層と断面である此の世の現実の斜面に存在するといふことになります。安部公房の猫
は、このやうに、人間の意識に応じて、何匹にも異次元では分かれてゐるのです。

さて、このことを念頭に置いて先へ進みます。

上の『人魚伝』の冒頭にある安部公房独特の小説観と上の段落の此の再述を併せて考へますと、安部公房は明ら
かに現実を面の集合と考へてゐることが判ります。[註12]安部公房は二次元の面の集合として、立体的な三
次元の此の時空間を考へてゐる。成る程、これで何故安部公房が言語の本質を人に伝へる時にいつも幾何学的に、
二次元の平面としての円を持ち出して、この円の積分値を求めれば、ほら見てごらん、3次元のチューブになる
だらう、これが言語なのだよ、といふ理由がよく解ります。[註13]

[註12]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より、言語化する禁忌(タブー)の意識と現実を面としてみて、その交換を
topologicalに考へる19歳の安部公房の言葉を『僕は今こうやって』(全集第1巻、88ページから89ページ)から引用
します。

「冒頭引用した『〈僕は今こうやつて〉』の文章に戻ります。これを読むと、安部公房の展開する論理は、「僕が其の内面
について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事なのだ。努力して外面を見詰め、区別し、そしてそれ
を魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。そして特に、僕達が為し得る事は、そして為さねばならぬ事は、その
外面を区別し見る事を学ぶと云う事ではないだろうか。」
(略)
この窪みにある秘密は、「では内面は?そうだ、それが問題なのだ。だが一体言葉がその内面に直接触れる等と言う事があっ
て良いものだろうか。勿論それはいけない事だし、それに第一あり得可からざる事ではないだろうか。」と考えているよう
に、言葉にしてはならないという禁忌意識と分かちがたく結び付いています。」

[註13]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論理といふ毒(詩
の毒)」より、以下に引用してお伝へします。

「[註20]
「 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて推測すれば、要するに言語は一般条件反射の積
分値だと言いたかったんじゃないかな。
――-積分値、ですか?
安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考えて貰えばい
い。初めが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換のほうを採り
たいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理しているのかは、今後の研究に待つ
しかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。 」(『破滅と再生2』全集第28巻、25
5ページ)また、

「たとえばパブロフは、条件反射で有名なあのパブロフですが、《言語》を一般の条件反射よりも一次元高次の条件反射と
みなしていたようです。(略)
 「一次元高次」のという意味は、たとえば紙のうえに円を画き、その円を紙から話して空中移動させてみてください。
チューブが出来ますね。平面が一次元高次の空間になったわけです。言葉を替えれば二次元が三次元に積分されたことにな
ります。つまりある条件反射の系の積分値として《ことば》を想定したのがパブロフの仮説になるわけです。ぼくとしては「積
分」よりも「デジタル転換」のほうを採りたいような気もしていますが、今のところこれ以上の深入りはやめておきましょ
う。肝心なことは、《ことば》をあくまでも大脳皮質のメカニズムとして捉えようとした姿勢です。」(『シャーマンは祖
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17
国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、232ページ)」

安部公房全30巻をかいつまんで話すと、以上のやうになるでせう。

さて、この場合、このやうな安部公房文学にある次の三本柱を再度思ふことにしませう。

(1)存在といふ概念[存在といふ概念は絶対的に固定してゐるのではなく、相対的に(何
かとの関係で常に)動態的な関係にある:超越論または汎神論的存在論]……(C)
(2)言語機能論[言葉の意味は使ひ方によつて定まる:一つの概念は複数の定義として/な
つて遍在する:超越論または汎神論的存在論]……(D)
(3)Topology(位相幾何学)[接続と変形の数学:超越論または汎神論的存在論]......
(E)

(A、B)は、(C、D、E)に関係してゐます。

(C、D、E)といふ組紐を紐解けば、それはそれぞれ次の問ひに、即ち哲学的な問ひになり
ます。

(C)存在とは何か
(D)言語とは何か
(E)接続とは何か[または変形とは何か][註6]

[註6]
接続がなければ変形はありませんし、変形があるといふことはー例へば『デンドロカカリヤ』のコモン君や『S・
カルマ氏の犯罪』のS・カルマ氏の例を思つて下さいー接続があるといふことなので(つまり、コモン君は植物
といふ人間とは別の有機物になり、S・カルマ氏といふ有機物は壁といふ無機物になる、即ちtopologicalな変形
とは、人間が対象を観る限り有機物・無機物に無関係であるといふことですから)、この接続と変形に関する二
つの問ひは実は同じことの両面です。この数学を一つにまとめて一言でtopology(位相幾何学)といひます。

寓話といふ題との関係で(C)(D)(E)の三つが何を意味するかといへば、安部公房は一
つの語をそれだけで論じ、考えることはないといふことです。これは特別なことではなく、
ものの道理として普通に考へてもさう。さうではなく、安部公房を理解するためには、一語
があれば対立するもう一つの極の言葉を持つてきて考へる、さうして二項対立にある語を否
定してその向かうに第三の客観を求めるのだ、といふ『詩と詩人(意識と無意識)』以来の
新象徴主義哲学の論理です。となれば、寓話に対抗する正反対の、二項対立としてある言葉は
何か。それが現実といふ言葉です。あるいは実話です。即ち現実の話といふことになります。
安部公房のエッセイに『寓話と現実』といふエッセイがあります。この全集の1ページに収ま
る短いエッセイは「アメリカを追われた監督ダッシンがフランスでつくった『宿命』という映
画」についての感想が書かれてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ18

「事実は小説よりも奇なりということがよくいわれる。寓話的な架空性よりも、現実のほう
が大事だということだろう。しかし、考えてみれば、そうしたいい方自体が、すでにすこぶ
る寓話的な発想ではないだろうか。寓話を否定したようなつもりで、結局、別の寓話のなか
に落ちこんでしまっているのではなかろうか。寓話などと頭から軽べつしているものが、実は
知らぬ間に、寓話に首をしめられているのかもしれないのである。
(略)
いいかえれば、現実は寓話をこえてはるか向かうにあるものだが、しかしその手前にはない
ということ――すなわち現実に深くせまろうとするものほど、かえって寓話を必要とするのか
もしれない、ということである。」(全集第7巻、448ページ)

このエッセイの寓話と現実に関する文章を読んでも、やはり安部公房の論理は、二項対立を
否定して、その向かうへ、即ち問題は「その手前にはないということ」を、「現実は寓話を
こえてはるか向かうにあるものだ」と論じてゐることがわかります。後者のいひ方を、安部公
房の存在の記号を使つて言ひ直せば「《現実》は寓話をこえてはるか向かうにあるものだ」
といふことになります。[註7]これは藝術範疇を問はず、安部公房の全ての論理の根底にあ
る論理です。これが20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』の新象徴主義哲学の論理だ
といふことは、諸処にて繰り返し既述の通りです。

[註7]
安部公房のエッセイもまた小説と同じやうにあなたが難解であると感じたら、此のやうに地の文では記号が消え
てしまつてをりますから、存在の《 》を入れて読み直せば、安部公房の論旨を必ず理解することができます。

率直に申し上げますが、あなたが『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ペー
ジ)の新象徴主義哲学を理解したら、安部公房文学を隅々まで理解することができます。こ
の論文は、安部公房のOS(基本ソフトウエア)、即ち安部公房の、自然言語による
Operating Systemです。このシステム(体系)の中に、既に後年詩人から小説家になるため
に使用した記号、《 》( )「......」、そして沈黙と余白そのもの(「沈黙と空白の論理」ま
たは「空白の論理」)が使用されてゐるのです。どうか20歳の安部公房から逃げることなく、
正面から体当たりでぶつかつて、相撲ならば安部公房の土俵に上がつて(何しろ世界中に通
用する幾らでも変形する土俵である)安部公房の世界はsuperflatで番付も年齢も関係ない、
20歳の横綱の胸を借りるつもりでがつぷり四つに組んで、豆腐の角に頭をぶつけて死んで
もらひたい。

私が今示してゐるのは、あなたが安部公房の作品を読んでゐて難解だと思ふ箇所があれば、そ
れを解読するための安部公房自身の方法です。即ち安部公房の哲学論理(再帰哲学の論理)
に従つて安部公房自身の文学作品の文章(テキスト)を読み解くといふ「テキスト再帰的な」
「間テキスト的な」読解法です。私のこれまでの安部公房論はみな此の普遍性のある言語原理
(logos:ロゴス)に拠つた方法によつてゐます。それでは、その上に載つている方法論はと
いへば、それが上記の三本柱といふことなのです。
もぐら通信
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さて従い、上のエッセイの論理にある通り、もし安部公房の小説(虚構)を読んで、寓話と
解するのであれば、その寓話である虚構に対するに現実の何たるかといふその構成要素を論
じなければ、安部公房の小説を論じたことにはならないのです。

言葉そのものが物語といふ(現実から見れば)虚構であるのだから、寓話といふ言葉(の意
味)を疑ふことなく、寓話といふ言葉によりかかつて安部公房の小説といふ虚構(物語)の
話をしても、

(1)寓話とは何かといふ問ひに自分自身で答へてゐない
(2)安部公房の論理に従つてゐない、適(かな)つてゐない

といふこの二つの意義に於いて、安部公房の作品群を寓話で解説することができないのです。

この場合、以上のことから、次の二つの主張が可能です。

(1)安部公房の作品は寓話であるといふ主張
(2)安部公房の作品は寓話ではないといふ主張

上記(2)の場合には、それでは安部公房の作品は一体何なのかといふ問ひに、次に、答へ
なければなりません。この答へを得るためには、上記(C)(D)(E)を元にして論ずるこ
とになるわけです。即ち、

(A)(B)といふことを明らかにするといふ目的のためには、(C)(D)(E)といふ手段
を、あなたは必要とする。

私の結論は次のやうなものです。これはそのまま、何故安部公房は記号を駆使して作品を書い
たか、普通の文字だけで書く小説家とは何故この点で異質かといふことの説明にもなつてゐ
ます。

安部公房の文学は、本人が23歳の時に、実存主義ではなく新象徴主義であるといつてゐる
やうに、象徴主義文学なのです。[註8]これは人間としてとても大切なことですが、安部公
房は言葉を正しく使ひます。安部公房の文学はsymbolismである。それでは象徴(symbol)
とは何か?と問とふことになります。

[註8]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づけ
れば新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギー(引用者註:存在論のこと)の上に
立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。
 それから、現代のいはいる実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。一口に言つてあの下劣なコッケイさが実存主義
なら僕は反実存主ギ者だと言はれてもかまはない。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそれ以上
の相違が在ると思ふ。あれは単なる流行主ギだ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上段)
もぐら通信
もぐら通信                          20
ページ

2。象徴と寓話の関係:象徴とは何か、寓話とは何か

結論をいひますと、象徴といふ言葉の意味と寓話といふ言葉の意味の関係は、次のやうに、

象徴>寓話(象徴といふ言葉の意味が、寓話といふ言葉の意味を包摂する)

といふ階層の関係になつてゐる。反対の包摂関係はない。即ち、象徴は寓話を其の部分とし
て含み、後者は前者の外に出ることはない。何故なら、いつもお世話になるWebster Online
には、

allegory is a symbolic representation[註9]

とあるからです。さうして、Symbolを引くと、ここにallegoryといふ語は出てこないからです。
即ち、この一行の文のいふところは、

寓話は、象徴的なもののrepresentationである。……(A)

といふことです。それでは、representationとは何かといへば、

2: to serve as a sign or symbol of the flag represents our country

とあるので、ここに、国旗は私たちの国を代表するとあるやうに、全体が目に見えない何か
の全体を一つの徴(しるし:a sign:記号)または象徴(形象としてのシルシ)として具体的
な形をとつて役立つものである。と、このやうに考へますと、

寓話とは、象徴的なもの、即ち全体が目に見えない何かの全体を一つの徴(しるし:a sign:
記号)または象徴(形象としてのシルシ:a symbolー目に見えるemblem(標章)が類義語と
して挙げられてゐるがー、このやうなシルシ)として具体的な形をとつて役立つものであ
る。……(B)

といふ定義を得ることができる。

この「全体が目に見えない何かの全体」を言葉の世界でもし意味の総体、即ち概念のことだ
とすると、言葉の意味は目には見えませんので、この文は次のやうに変形する。

寓話とは、象徴的なもの、即ち言葉の概念を一つの徴(しるし:a sign:記号)または象徴(形
象としてのシルシ:a symbol)として具体的な形をとつて役立つものである。

となり、更に、この文より象徴といふ重複する語彙を省くと、
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寓話とは、言葉の概念を一つの徴(a sign:記号)または形象としてのシルシ(a symbol)


として具体的な形をとつて役立つものである。……(C)

といふ定義になり、更に、ここまで来ると、allegoryの訳語は寓話ではなく、何故ならこれは
話のみのことではないのだから、allegoryのもう一つの訳語である寓意といふ語を採用して、
寓話と入れ替えると、

寓意(allegory)とは、言葉の概念を一つの徴(a sign:記号)または形象としてのシルシ
(a symbol)として具体的な形をとつて役立つものである。……(D)

と、ここまで簡略化して、更に再度(B)に戻らう。即ち、小説との関係では、このやうな定
義になるでせう。

安部公房の小説とは、象徴的なもの、即ち全体が目に見えない何かの全体を一つの徴(しる
し:a sign:記号)または象徴(形象としてのシルシ:a symbol)として具体的な形をとつて
役立つものである。……(B-2)

安部公房の読者が、安部公房の作品は寓話だといふ場合には、この(B-2)の場合を指してゐ
ると解することができる。さうして、冒頭吟味したやうに

「象徴>寓話(象徴といふ言葉の意味が、寓話といふ言葉の意味を包摂する)

といふ階層になつてゐる。反対の包摂関係はない。即ち、象徴は寓話を其の部分として含み、
後者は前者の外に出ることはない。」

といふことであるから、上記(C)の文は、次のやうに変形される。

象徴とは、言葉の概念を一つの徴(a sign:記号)または形象としてのシルシ(a symbol)


として具体的な形をとつて役立つものである。……(C-2)

となれば、安部公房の読者のうちで、

(1)安部公房の作品は寓話であるといふ主張
(2)安部公房の作品は寓話ではないといふ主張

これらいづれの一見相反する主張をする読者たちであつても、上記(C-2)の定義には同意を
してくれることでせう。何故ならば(1)の肯定的な主張は、既に最初から象徴といふ言葉
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の意味の総体、即ち概念の中に含まれてをり、(2)の否定的な主張もまた象徴ではあるが
寓話ではないといふ(象徴>寓話といふ意味の上下・大小の関係にあつて、寓話以外の意味
の範囲にある象徴といふ言葉の)意味の範囲に含まれるからです。象徴と寓話(または寓意)
といふ二つの言葉の関係を、その他の類似の概念との関係でも、図示すれば、次のやうにな
ります[註A]。

安部公房流に言へば、二項対立の双方を否定して(論理的には厳密には違ふのですがー委細
「3。新象徴主義哲学」にて後述ー、それでも)第三の回答を得たといふことになるでせう
か。その答へが(C-2)といふわけです。さうであれば、

安部公房の文学は象徴主義の文学である。
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といふ一行の文は正しい文だといふことになります。あとは、安部公房20歳の論文『詩と
詩人(意識と無意識)』に説かれる方法論にしたがつて、この方法論は全く安部公房独自の
新しいものでありますから、これを更に、

安部公房の文学は新しい象徴主義の文学である。即ち、

安部公房の文学は新象徴主義の文学である。

と、安部公房にならつて私たち読者も呼んで差し支へないといふことになります。さうしてこ
こまで参りますと、上述の次のこと、則ち、

「(1)寓話とは何かといふ問ひに自分自身で答へてゐない
 (2)安部公房の論理に従つてゐない、適(かな)つてゐない

といふこの二つの意義に於いて、安部公房の作品群を寓話で解説することができない」ので
はなくて、(1)については自分自身で答へ、(2)についても安部公房の論理に従つてゐて、
この二つの問題を解決したことになります。

さて、更に、この章の「1。何が問題か」の最初の問ひに戻りませう。

「私の問ひは、次の二つです。

(1)何故寓話だと思ふと理解できる/たやうに思ふのか……(A)
(2)寓話とは何か……(B)

この章は、この二つの問ひに答へやうといふのです。」

といふこの二つの問ひにも答へたことになります。(B)については良いでせう。(A)につ
いては、再度次の引用を結論の一つから引用しますと、

「安部公房の小説とは、象徴的なもの、即ち全体が目に見えない何かの全体を一つの徴(し
るし:a sign:記号)または象徴(形象としてのシルシ:a symbol)として具体的な形をとつ
て役立つものである。……(B-2)

安部公房の読者が、安部公房の作品は寓話だといふ場合には、この(B-2)の場合を指してゐ
ると解することができる」からであるといふ答へを、私たちは既に得てをります。

何に「役立つものである」であるかは、読者によつて、自分の人生のためにとか、安部公房
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の小説は楽しいからとか、いや、難しいのでそれを味はふのが良いのだとか、主人公がどれ
もこれも自分にそつくりで共感できるとか、まあ、いろいろな目的と理由のあることでせ
う。

以上の思考プロセスと其れによつて至つた結論である上の定義は、初期安部公房の三作品『赤
い繭』『洪水』『魔法のチョーク』が「三つの寓話」といふ一つの題名の元に雑誌『人間』
に発表されてゐやうが(1950年(昭和25年))、後年安部公房が自分の小説は寓話ではない
と発言しようが、またいつの時代の読者の間で甲論乙駁しようが、一向に変はりません。

さて、最後に私の論の正否の検証です。

私は前章の「1。何が問題か」にて、

「(A)(B)といふことを明らかにするといふ目的のためには、(C)(D)(E)といふ手
段を、あなたは必要とする。」

と書きました。果たして、私は(C)(D)(E)を用ゐて証明をしたのかどうかを検証してみ
ませう。(C)(D)(E)とは、次の三つでした。

「(C):存在とは何か
 (D):言語とは何か
 (E):接続とは何か[または変形とは何か]」

これは勿論、安部公房自身の方法による再帰的な論証の仕方でした。これをその前段で次の
やうに解説してをりました。

「(1)存在といふ概念[存在といふ概念は絶対的に固定してゐるのではなく、相対的に(何
かとの関係 で常に)動態的な関係にある:超越論または汎神論的存在論]……(C)
(2)言語機能論[言葉の意味は使ひ方によつて定まる:一つの概念は複数の定義として/な
つて遍在する:超越論または汎神論的存在論]……(D)
(3)Topology(位相幾何学)[接続と変形の数学:超越論または汎神論的存在論]......
(E)」

寓話といふ概念を定義するに当たり、十分に(2)と(3)を使ひましたので、これらを用
ゐたといふことについては良いでせう。(1)といふ存在といふ言葉は用ゐませんでしたが、
論理としては(3)と同じですので、これも用ゐて論じたといふことになります。何故ならば
存在とはドイツ語のSein(ザイン)の訳語ですが、これは英語のbeであつて、その両側に主
語と述語の言葉を配すれば、その二つの名詞(または名詞相当語句)を接続する機能(また
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は役割)を演じてゐるのが、このbe動詞、則ちザイン(Sein)、則ち存在であり又は存在で
あるといふことであるからです。このやうに、AはBであると言葉で概念を定義するといふ形
式が、存在論による証明方法なのです。

唯一残つてゐること、まだ文字にして論じてゐないのは、

「私の結論は次のやうなものです。これはそのまま、何故安部公房は記号を駆使して作品を書
いたか、普通の文字だけで書く小説家とは何故この点で異質かといふことの説明にもなつて
ゐます。」

といふことに関する説明は、既に一般論は初期安部公房論[註10]にて、また個別論は此
の『カンガルー・ノート』論の「3。『カンガルー・ノート』の記号論」(もぐら通信第6
6号)に詳しく論じましたので、これらをご覧下さい。

[註A]
Webster Onlineより寓話に関係した類義語の解説を引用します:

(1)寓話1:動物寓話
①Definition of fable
: a fictitious narrative or statement: such as
a : a legendary story of supernatural happenings
Minerva is in fables said, from Jove without a mother to proceed ―Sir John Davies
b : a narration intended to enforce a useful truth; especially : one in which animals speak
and act like human beings The theme of the fable was the folly of human vanity.
c : falsehood, lie The story that he won the battle single-

First Known Use: 14th century

(2)寓話2:allegory:寓喩といふ意味での寓話(動物寓話を含む一般的な寓話)
安部公房について言はれる寓話といふ言葉の使ひかたは通常はこれである。そして初期安部公房の3つの寓話は
寓話1の寓話である(『プルートーのわな』『イソップの裁判』『新イソップ物語』)。何故これら3つの動物
寓話(寓話1)を安部公房は書いたのかは『VII 安部公房猫殺人事件論余滴:安部公房はオルフォイスを殺し
たか?』に詳述しましたので、これをご覧ください。以下一部のみ引用します:

「このやうにみて参りますと、『壁』で1951年上半期芥川賞受賞後の1951年から1952年の安部公房
の文学は、受賞時既に日本共産党員になつてゐた安部公房が、現実の社会と虚構の関係及び虚構の作者(である
自分)と現実の実践者(である自分)との関係を考へるために採用した方法が、子供の時のサーカスの経験以来
好きであつた動物の話、即ちイソツプ物語の教訓的な結末で終はる実験的なコントの執筆であつた。

この方法論について、安部公房は『僕の小説の方法論』(1952年1月1日)と題して此の年の初めに理論篇
を書いてゐます(全集第3巻、177ページ)。これは3つの章からなつてゐて、各章の見出しは次の通りです。
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(1)「一、文学のジャンルについての考察」
(2)「二、自然主義リアリズムの克服」
(3)「三、シュール・リアリズムの評価」

(1)は、パブロフとポアンカレーを引用して「言語の社会機能」を論じた、安部公房の言語機能論
(2)は、当然のことながら一次元の時間の中での時系列的な事実及び虚構を書くことの否定と、文藝思潮の主
義によらずいづれも「仮説設定」の文学としてあるべきだといふ主張
(3)「自然主義リアリズムの克服としてのシュール・リアリズム」の再評価

1952年に特徴的な一連のコントは、「自然主義リアリズムの克服として」といふ此の目的のために実験的に
書かれたものでせう。つまり、このコントの主題は何かといへば、社会と人間の関係にある罠に落ちないこと、
その陥穽に落ちないことといふ主題です。この罠に落ちるといふ主題、あるいは罠に落ちるなといふ主題が、A
でもなくZでもなく第三の客観を求め、存在を求める安部公房の思考論理から生まれることは、よくわかります。
社会でもなく人間(個人)でもない存在になることによつて逃れることのできるAとZの隙間にある人間社会の
(人間が時間の中に生きてゐることの自己矛盾としてある)罠。これは此のまま表現の媒体を問はず、映画『壁
あつき部屋』(1953年11月1日)や『おとし穴』(1962年3月10日)や其のほかのシナリオ・ライ
ターや戯曲家としての作品に其のまま継承されてゐるのではないでせうか。勿論小説の中にもまた。」

以下英語の原語と類義語の引用です:

①Definition of allegory
plural allegories
1: the expression by means of symbolic fictional figures and actions of truths or generalizations about
human existence a writer known for his use of allegory; also : an instance (as in a story or painting) of
such expression The poem is an allegory of love and jealousy.
2: a symbolic representation : emblem 2

First Known Use: 14th century

②Definition of representation
1: one that represents: such as
a : an artistic likeness or image
b (1) : a statement or account made to influence opinion or action (2) : an incidental or collateral
statement of fact on the faith of which a contract is entered into
c : a dramatic production or performance
d (1) : a usually formal statement made against something or to effect a change (2) : a usually formal
protest
2: the act or action of representing : the state of being represented: such as
a : representationalism 2
b (1) : the action or fact of one person standing for another so as to have the rights and obligations of the
person represented (2) : the substitution of an individual or class in place of a person (such as a child for
a deceased parent)
c : the action of representing or the fact of being represented especially in a legislative body
3: the body of persons representing a constituency

First Known Use: 15th century


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③Definition of represent
transitive verb
1: to bring clearly before the mind : present a book which represents the character of early America
2: to serve as a sign or symbol of the flag represents our country
3: to portray or exhibit in art : depict
4: to serve as the counterpart or image of : typify a movie hero who represents the ideals of the culture
5
a : to produce on the stage
b : to act the part or role of
6
a (1) : to take the place of in some respect (2) : to act in the place of or for usually by legal right (3) : to
manage the legal and business affairs of athletes represented by top lawyers and agents
b : to serve especially in a legislative body by delegated authority usually resulting from election
7: to describe as having a specified character or quality represents himself as a friend
8
a : to give one's impression and judgment of : state in a manner intended to affect action or judgment
b : to point out in protest or remonstrance
9: to serve as a specimen, example, or instance of
10
a : to form an image or representation of in the mind
b (1) : to apprehend (an object) by means of an idea (2) : to recall in memory
11: to correspond to in essence : constitute
intransitive verb
1: to make representations against something : protest
2 slang : to perform a task or duty admirably : serve as an outstanding example

First Known Use: 14th century

④Definition of emblem
1: a picture with a motto or set of verses intended as a moral lesson
2: an object or the figure of an object symbolizing and suggesting another object or an idea
3
a : a symbolic object used as a heraldic device
b : a device, symbol, or figure adopted and used as an identifying mark

First Known Use: 15th century

⑤Definition of symbolize
symbolized; symbolizing
transitive verb
1: to serve as a symbol of
2: to represent, express, or identify by a symbol
intransitive verb
: to use symbols or symbolism
― symbolizer noun
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もぐら通信                          ページ 28

First Known Use: 1603

(2)象徴:symbol
①Definition of symbol
1: an authoritative summary of faith or doctrine : creed
2: something that stands for or suggests something else by reason of relationship, association,
convention, or accidental resemblance; especially : a visible sign of something invisible the lion is a
symbol of courage
3: an arbitrary or conventional sign used in writing or printing relating to a particular field to represent
operations, quantities, elements, relations, or qualities
4: an object or act representing something in the unconscious mind that has been repressed phallic
symbols
5: an act, sound, or object having cultural significance and the capacity to excite or objectify a response

First Known Use: 15th century

②Definition of creed
1: a brief authoritative formula of religious belief the Nicene Creed
2: a set of fundamental beliefs; also : a guiding principle
Never settle for mediocrity is his creed. ―Jill Lieber
― creedal or credal play \ krē-dᵊl\ adjective

First Known Use: before 12th century

③Definition of sign
1
a : a motion or gesture by which a thought is expressed or a command or wish made known
b : signal 2a
c : a fundamental linguistic unit that designates an object or relation or has a purely syntactic
function signs include words, morphemes, and punctuation
d : one of a set of gestures used to represent language; also : sign language
2: a mark having a conventional meaning and used in place of words or to represent a complex notion
3: one of the 12 divisions of the zodiac
4
a (1) : a character (such as a flat or sharp) used in musical notation (2) : segno
b : a character (such as ) indicating a mathematical operation; also : one of two characters + and − that
form part of the symbol of a number and characterize it as positive or negative
5
a : a display (such as a lettered board or a configuration of neon tubing) used to identify or advertise a
place of business or a product
b : a posted command, warning, or direction
c : signboard
6
a : something material or external that stands for or signifies something spiritual
b : something indicating the presence or existence of something else signs of
success a sign of the times
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もぐら通信                          29
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c : presage, portent signs of an early spring


d : an objective evidence of plant or animal disease
7 plural usually sign : traces of a usually wild animal red fox sign

First Known Use: 13th century

[註10]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)を参照くだ
さい。

3。新象徴主義哲学
この哲学の主題は、言語と空間との関係が時間の中で物語られると、その空間は閉鎖空間に
なるといふものですので、「閉鎖空間からの脱出」が主題となつてゐます。[註11]

[註11]
この主題については、「『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く∼」(もぐら通信第34号)を、それ
からtopologyと呪文と安部公房の小説観と世界観については『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(も
ぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」をご覧ください。最後世界観については、上記[註
5]に引用しました。

この閉鎖空間の生まれる論理上の理由、背景、あるいは実存的な欲求については、諸処に既
述の通りですが、ここでは次のやうに説明しませう。

(1)これは成城高校時代に既に完成してゐた主題です。これを書いたのが18歳の論文『問
題下降に依る肯定の批判』です。(全集第1巻、11ページ)これは1942年12月9日
成城高校の校友会誌『城』に発表されました。これは一つ目の、安部公房が「遊歩場」の創
造といふことに関してtopologyに言及した文章です。
(2)安部公房は、晩年、1985年に書いた『NHK対談のためのメモ』に、次のように備
忘を書いています(全集第28巻、145ページ)。安部公房、61歳。

「★ 子供のころいちばん恐かったのは辻斬りのイメージと、兵隊蟻の運命だった。」

安部公房は『問題下降に拠る肯定の批判』の中で次のように書いています(全集第1巻、1
3ページ)。

「実を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大な蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居
る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口が殆どないのだ。」

ここに既にして、安部公房の発想と感受性の総てがあるでしょう。そうして、61歳のときの
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

上のメモには、この18歳のときの論文の三行が、全く変わらずに生きていることを知ること
ができます。

また辻斬りといふ殺人が交差点や十字路で行われることが既に小学生の時に安部公房の念頭に
あつたといふことは誠に興味深いものがあります。存在の十字路の、これは起源でもあります。
則ち、存在の十字路と其処で起きる不意の殺人と、兵隊蟻の社会といふ言語による絶対命令に
従ふ役割分担社会といふ閉鎖空間の二つは安部公房の中ではいつも一つのもの、一対のものに
なつてゐるのです。それで1985年に一見唐突に見えるとしても依然として『シャーマンは
祖国を歌う̶̶儀式・言語・国家、そしてDNA』といふエッセイ(全集第28巻、229ペー
ジ)の書かれる理由があるのです。

さてしかし、後者については脱出のためのたった一つの方法がある。その方法がtopologyです。
この方法を適用して脱出すると前者の結果に至る。この否定再帰的な接続と変形の数学の論理
(これが下記に述べる否定論理積といふ二進数の論理なのですが、これ)についての言及は、
当時親しく哲学談義を交はした友、中埜肇宛の手紙に次のやうに書かれてゐます。これが再帰
的な数学であるtopologyに関する二つ目の安部公房の言葉です:

「 いつだつたか、君と話し合つた夜、例の問題下降の行きづまりとして、要するに、人間の
眞理、存在への方向、云ひ代へれば、開示性の巧みな曲げ方が、ある人に歷史的價値、偉大さ
を与へたのだ と云ふ結論が得られた事を憶へて居て下さるでせうね。つまり、例のあの崖へ
行く前に、途を変へなければならないのです。けれど、その上へ行つて終つた以上は。……僕
達には唯だ没落があるのみです。概念より生への没落。僕はやつと、その途を発見し、それを
他の曲げ方と、色々比較して見る事が出来る程になりました。最も完全な曲げ方、……結局問
題は其處にあるのだ、と僕達は話し合ひましたね。そしてやつと、其の曲げ方に行く可き小路
を見つけ出せた様な気がして居ます。」
(『中埜肇宛書簡 第3信』全集第1巻、72ページ)

以上の(1)と(2)が、安部公房特有の哲学的主題が生まれる理由と背景です。

実存的な欲求は既に『問題下降に依る肯定の批判』に現れてゐますが、その詳細な理論化とな
ると、やはり成城高校時代を終えて20歳の時の論文『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第
1巻、104ページ)を待たねばなりません。ここに、安部公房は独自の新象徴主義哲学とい
ふ、西洋哲学の系譜でいふなら[カントーショーペンハウアー]の系譜に連なる、これも一生
を貫く独自の生命の哲学を打ち立てました。上記の哲学談義を親しく交はした友、中埜肇は京
都帝国大学へ行つてヘーゲル哲学の研究者になりましたので、安部公房の友人の選択の仕方は
いつも自分の論理と正反対の論敵を選ぶといふ事は此の後小説家として世に出ても三島由紀夫
がさうであつたやうに、またマルクス主義とこれを奉じる日本共産党が自らの超越論の全くの
絶対的な否定者であつたにも拘らず日本共産党員にまでなつて第三の道を求めたやうに、これ
が安部公房の友人の選び方であり、人生観であつたといふ事は誠に苛烈なものがあります。さ
て、中埜肇宛の手紙では次のやうに言つてゐます。
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「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学
(?)を無理に名づければ新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオント
ロギー(引用者註:存在論のこと)の上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創造的解
釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上
段)

この哲学とは『詩と詩人(意識と無意識)』に拠つて簡潔に言へば、二項対立の両極端の項
を否定して、自己喪失による記憶の喪失を代償に(この否定の中に自分自身の否定を、この
否定とは自己喪失と記憶喪失と意識喪失のことにほかなりませんが、このやうな否定を含む
といふことです)、果てしない垂直方向(時間の存在しない方向)に次元展開を繰り返した
果ての究極に観る(自己の反照としての)第三の客観、即ち存在の創造をするといふ方法論で
ありました。ここで(1)観ることと(2)自分自身が存在になることと(3)存在自体の
出現が一つになつてゐます[註12]。安部公房の、これが創作の秘密であり、一生を貫く
創作のための方法論です。これは、コンピュータの基礎であるブール代数による二進数の論理
演算の論理によれば、否定論理積といふ論理に当たります。これが、一生の安部公房の生き
る論理であり、安部公房の「現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学」であるのです。

[註12]
(1)観ること
これもリルケに学んだ事です。以下中埜肇宛書簡より引用します:

「中埜君、
御變りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて參りました。永い旅でした。丁度リルケがロダンから學んだ如
く、僕もリルケから「先ず見る事」を學びました。」(『中埜肇宛書簡第5信』全集第1巻、92ページ)

安部公房の詩に『観る男』といふ詩がある。(全集第1巻、133ページ)ここには、既に「明日の新聞」が「書
き了へた」「未来の日記」とし出てくる。

また、汎神論的存在論の形象(イメージ)が、後年の海や洪水などに通ずるものとして、次のやうに歌はれてゐ
る。

「此の果てしない存在にとりかこまれて、あふれ出た透明な涙を両手に受けるのは…… ?唯一未来の日記を書
き了へた時に……。」

此の詩には、これ以外にも、転身、沈黙、「僕の中の「僕」」の話法、出発、忘却といふ、安部公房文学にとつ
て本質的な用語が書かれてゐる。

(2)自分自身が存在になること
「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐
らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な
存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言
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ふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」
(『中埜肇宛書簡第8信』(1946年12月23日付)、全集第1巻 188ページ下段)」

(3)存在自体の出現
『詩と詩人(意識と無意識)』より引用します。ここでいふ第三の客観こそが、安部公房のすべての主人公の最
後に観る究極の存在のことなのです:

「 諸々の声は吾等の魂が夜の本質にふれた所から始まる。それが様々な次元に展開されて言葉となる。それは
自己否定=自己超越の形を以て意識の中に捉えられる。物それ自体、云い代えれば夜の直覚が展開する自体とし
て或種の象徴的予感を産みつける。その中にこそ実存的意義を失わない、客観なる言葉を生み出した本源的な内
面的統一に反しない、第三の客観が覗視されるのではないだろうか。
 如何なる表現も主観を通してのみなされ得ると云う事は明かである。主観的体験のみがあらゆる意識を言葉た
らしめるのである。そして当然、生存者としての人間各個の内面的展開次元の相異に従って、その言葉の重さ(含
まれている次元数)の相異が考えられる。主観はその魂の夜の本質にふれる程度によって様々な重さを持つ。
 では此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。その時人間の魂は限りない夜
への切迫を体験するのである。夜の直覚は単なる概念ではなくなり、行為・体験・方法の中に現実的な姿を表す
のである。そして、此の永遠の距離を以てはるかへだたっている究極を、吾等は第三の客観として定義する事は
出来ぬものであろうか。」
(全集第1巻、107ページ)

詳細はまた別途稿を改めて論じますが、ここに備忘のために書き留め置けば、安部公房の全
ての作品は、コンピュータの論理演算のための二進数の基礎になつてゐるブール代数の論理で
云へば、否定論理和で始まり(これが迷路に迷い込むといふこと)、否定論理積でいつも終
はる(これが主人公の命を掛けての閉鎖空間からの脱出といふことな)のです。これを安部公
房は数字(number)と記号(sign)ではなく、3といふ数字と文字(letter:symbol)と記
号(sign)で書いた[註B]。これが安部公房の文学です。(これが、安部公房が言語はデジ
タルだといふことの[註13]ー何しろ言語で本当にものを考へるには二項対立を知り、こ
れを否定して第三の項を知ること、即ち上記3つの(1)観ることと(2)自分自身が存在
になることと(3)存在自体の出現の三つが一つになることであるといふことのー理由でも
あります。)

[註B]
Webster Onlineより。文字(letter)もまた英語ではsymbolである:
Definition of letter
1: a symbol usually written or printed representing a speech sound and constituting a unit of an alphabet
2
a : a direct or personal written or printed message addressed to a person or organization
b : a written communication containing a grant ―usually used in plural
3
letters plural in form but singular or plural in construction
a : literature, belles lettres
b : learning
4: the strict or outward sense or significance the letter of the law
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もぐら通信                          33
ページ

5
a : a single piece of type
b : a style of type
6
: the initial of a school awarded to a student for achievement usually in athletics

First Known Use: 13th century

[註13]
安部公房は色々なところで言語とは何かといふ問ひに答へてゐますが、そのうちの今二つを以下の通り引用し
ます。:

「文学というものは、言語というデジタルを通じていかに超デジタル的なものに到達するかという、自己矛盾の
仕事なんだ。デジタルを通じて超デジタルに、つまり、最終的にその先のアナログに到達するための努力なんだ
ね。そうすると、文学はものすごく苦しい作業でなければならない。だから、小説家は音楽家に非常にね
たみを感じるんだよ。そのねたみの本質は何かというと、音楽家がストレートにアナログに到達できるのに小説
家は苦しい廻り道をしなければならないからだ。」(『内的亡命の文学』全集第26巻、383ページ下段)
(傍線筆者)

「その遺伝子情報に「言語」を組み込んだらどうなるか。人間になるわけだ。そうなんだよ、「言語」というの
はデジタル信号だろう。他の動物の場合、行動を触発する刺激情報はアナログなものに限られるけど、人間だけ
はデジタル信号を行動触発のサインにすることが出来た。」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ページ上
段)」

さて、話を当時流行した実存主義に戻しますと、上記に引用した手紙の段落の直ぐ後に、2
3歳の安部公房は次のやうに、フランスの哲学者サルトルを契機にして当時流行した実存主
義哲学を否定して、続けてゐます。

「それから、現代のいはいる(引用者註:原文のママ)実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。
一口に言つてあの下劣なコッケイさが実存主義なら僕は反実存主ギ者だと言はれてもかまは
ない。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそれ以上の相違が在ると思ふ。あ
れは単なる流行主ギだ。」

(この手紙に挙げてゐる譬へもまた「ハナコンダ」などの呪文のやうに凸の「ハナ」が、哲
学的な思考を思ふと連想されて即座に出てくるところが面白い。確かに安部公房の新象徴主
義哲学は、流行の凸(「ハナ」)ではなく、全く逆の凹の形象の「アナゲンタ」の「アナ」
(凹)の哲学であり、存在の哲学であつた。かうして見ると、安部公房は子供時代から、自
分の顔を鏡で見て、顔といふものを抽象化して凸凹の集合と観じたのかも知れない。これは
十分にあり得ることだと私は思ふが、如何か。)

このやうに、安部公房の哲学は実存主義ではなく、安部公房の名付けたやうに新象徴主義と
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呼ぶのが正しいのです。即ち、それは流行主義であつたフランス人の考へた実存主義では全
くないのです。これが、安部公房がこれまで一番誤解されて来たことの一つです。安部公房の
対談やインタヴューの回答を読みますと、実存主義といはれることを否定してゐないやうに見
えますが、これは実存主義ではなく、実は《実存》主義だといつてゐるのです。勿論、安部
公房は《 》といふ記号については発声する事もなく、説明する事もありません。

安部公房の小説がもし寓話であるとあなたが思ふならば、以上の論述の過程を踏みますと、
この新象徴主義との関係で作品を論じなければなりませんし、もし寓話でないとあなたが考
へるならば、さうであつてもやはり、この新象徴主義との関係で作品を論じなければならな
いでせう。

さうして、《 》〈 〉といふ記号が最終的に外されて、安部公房の書く文字から消えてなくな
り、この過程の中で/ままに、安部公房は詩人から小説家への「転身」に成功しました。即ち
記号化されてゐた安部公房の存在論と詩論の言葉が皆、地の文にベタで書くことのできる言
葉に、言葉の方もまた「転身」に成功したのです。[註14]ここに下位概念の寓話ではな
い、上位概念である象徴による安部公房の象徴的な言葉が記号抜きの文字として誕生したの
です。

[註14]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』
の関係について」(もぐら通信第56号)より:

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、ここでいふ安部公
房文学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者のご理解を得てから本題に入ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)にて明らかに致し
ました「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づいて定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によつて美事に成功する
時期、即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭和21年)安部公房22歳から『デン
ドロカカリヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房18歳から西暦194
4年(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、西暦1945年(昭和20年)安部公房
21歳までの1年間を含んだ時期を併せた全体の時間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、 もう一つ
は、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、
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後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25歳の時、後者の発行は
1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞してゐ
ます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通信第53号)

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)を参照くだ
さい。

このやうにして生まれた安部公房固有の象徴的な言葉を世の読者は寓意(allegory)と言ひ、
また同じ言葉で書かれる作品を寓話(動物寓話である寓話1のfable、即ち「三つの寓話」を
含む寓話2をallegory)と言つて来たわけです。英語では二つの意味を含み、一語です。

その好例を、後期20年の傑作の一つ『密会』の冒頭から引用すると、この馬と呼ばれる男
の此の名前は、別に渾名(あだな)なのではなく、隠喩(メタファ)でももはやないのです。
それ以上でもそれ以下でもない馬である馬。といふ再帰的な名前と命名。といふことは、象
徴的とは再帰的であるといふこと[註15]が判ります。出だしはいつもの安部公房の通り
の、時間の隙間(夜明け前)。跡地とあらば、本来の目的からは打ち捨てられた場所、即ち
箱男の棲息する空間の隙間といふことでありませう。則ち、時間と空間の交差点、時間と空
間の十字路で始まる、言語により語られ、あなたの時間の中で読まれる物語。則ち閉鎖空間
と其処からの、最初から終はつてゐて最初から喪われてゐる、脱出の物語の始まり。遺作『飛
ぶ男』と類似の始まり[註16]。

「夜明け前、たしか四時十分頃、約束どおり旧陸軍射撃演習場跡に馬の食事を届けに行き、
(略)しかも今朝の馬は、いつになく上機嫌だった。」(全集第26巻、10ページ上段)

[註15]
『飛ぶ男』の冒頭は次の通り。

「ある夏の朝、たぶん四時五分ごろ、氷雨本町二丁目四番地の上空を人間そっくりの物体が南西方向に滑走して
いった。」(全集第29巻、15ページ上段)

この後「飛ぶ男」といふ名前には、存在の記号《 》で囲はれて《飛ぶ男》と書かれてゐる。さうして、主人公の
弟は『弟』と記号化されてゐるので(全集第29巻、26ページ下段)、この二人の登場人物は、「『カンガ
ルー・ノート』論」(もぐら通信第66号)の「1。結論:この小説には何が書いてあるのか」の「1。2。1 
量としてある言葉の視点から見た内容」を参照すれば、

「(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味する。
 (2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語についてのものである
ことを意味する。
 (3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。」
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といふわけであるから、この『弟』とは、《飛ぶ男》といふ《存在》と《現存在》に関する物語の主人公にとつ
ては、「存在の中の存在の詩人または其の物語の作者」であり、つまり《飛ぶ男》は『カンガルー・ノート』の
存在の存在の存在の中で物語られる『大黒屋爆破事件』の作者《縞魚飛魚》と等価であるといふこと、従ひ、『大
黒屋爆破事件』の註解者である[緑面の詩人]といふ「作者の友人」であるが、しかし実は作者《縞魚飛魚》で
あるといふ人物に相当する(等価である)人物がゐるべきですが、残念なことに、遺作の残つてゐる原稿の中に
は登場してをりません。『弟』が《飛ぶ男》によつて記述されてゐくうちに「存在の中の存在の詩人」即ち《飛
ぶ男》の、または「其の物語の」中の『弟』となるのでありませう。《飛ぶ男》といふ真獣類が再帰的に成る有
袋類としての註解者の名前は如何に。[緑面の詩人]といふ名前と同様に、多分遺稿の最後の、氷雨発酵研究所
に関する一行「試験農園の温室の実態は、ただの廃屋にすぎない」といふ廃屋の中に隠れてゐるのではないだら
うか。緑色の姿をして。これは多分デンドロカカリヤの変形した姿ではないだらうか。

[註16]
荒巻義雄作『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』の巻末「用語解説と参考文献」に次の註解がある。(同書431
ページ上段)

「マラルメの詩にある螺旋階段
 前掲、『マラルメ全集I』二二〇ページ。 時間の長い螺旋階段と長い回廊の果てに。」とある註解を読めば、
19世紀後半の、エドガー・アラン・ポーに由来するフランスの象徴主義の詩もまた超越論であつて、バロック
様式を(少なくとも)その論理に含んでゐるといふことがいへる。象徴的とは再帰的であるといふ私の考へは正
しいのではないかと思はれる。

この詩人は宇宙といふ書物を読み、書物としての宇宙を創造しようとした詩人であるとのことなので、これは1
7世紀のデカルトが世間といふ書物を読むためにと『方法序説』に文字で書いて30年戦争の世の中に出たのと
同じ論理を求めたことになります。対象を書物として読むといふ発想は、このヨーロッパ地域の古代ギリシャ以
来の伝統的な慣用句であるとはいへ。かうなると、同じ時代を行きたドイツの詩人、安部公房の耽読したリルケ
もまた、その『形象詩集』『時祷詩集』の原題に書物といふドイツ語を含み編まれることから、リルケもまた同
様に此の視点からはバロックの詩人だとふことができる。17世紀のバロックの書物として世間を読むといふこ
とについては、当時のドイツの長編小説のベストセラー『阿呆物語』の表紙絵に関する説明で示したところです
此の書物としての世間を読むといふ動機(モチーフ)については「リルケの『形象詩集』を読む(連載第1回)」
(もぐら通信第32号)と『安部公房とチョムスキー(3)』(もぐら通信第75号)「3.3 バロック文学:
差異の文学」をご覧下さい。詳述しました。

後者の「リルケの『形象詩集』を読む(連載第1回)」(もぐら通信第32号)より以下に引用します:

「もう少し、この詩集の題名についての説明をしてから、本題に入ります。迂遠なようですが、安部公房という
人間を理解するために大切なことですので、お聞きください。

この詩集は「形象詩集」と日本語訳されておりますが、正確には「形象詩集」ではなく、「形象の本」「形象の
書物」「形象の巻」と訳されるべきものです。The Book of Imagesと英語であれば訳されるべき原題なのです。

『形象詩集』の後に、1905年、リルケは『時祷詩集』(『Das Stundenbuch』)と訳されている詩集を出
しますが、この詩集も正しくは『時間の本』「時間の書物」「時間の巻」という意味です。この時間は、宗教的
な祈りの時間ですので、日本語の訳では『時祷詩集』にある「時祷」という言葉を冠して呼ばれているわけです。
The Book of Hours、或いはThe Book of The Hoursということになります。

本といえば、16世紀にドイツのグーテンベルグが印刷機を発明して以来、今では普通の所謂(いわゆる)本で
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あり、紙の本ですし、最近では電子書籍という本まで出ていますが、ヨーロッパの人間にとって、その素材の如
何を問わず、本とは単なる物体としての書物であるばかりではなく、歴史的・伝統的に、その構造を以って読む
べき何ものかなのです。

「世間という書物を読む」という言い方、この慣用句が、古代ギリシャのプラトンの(確か)『国家』に出てき
ます。つまり社会を一冊の本として読み解くという意味です。時代が下って17世紀のバロック様式の時代にな
りますと、バロックの哲学者、デカルトの有名な著作『方法序説』に書いてあることですが、スコラ哲学を学び
尽くした後、やはり「世間という書物を読む」ために学窓を去って、従軍して、当時のドイツの30年戦争を実
見する旅に出ますし、デカルトの旅をした同じこの時代のドイツには、ドイツのバロック小説の傑作『阿呆物語』
が生まれており、この作品の当時の其の表紙は次のようなものです。

この表紙の中で、奇怪な姿をした主人公(人間という生き物はこのような奇怪な姿をしているのです)が手に持っ
て指差している本が、書物としての世間であり人間社会なのです。この本の中には、王冠、大砲、城、杯等々世
俗の諸物が描かれています。また、足元にはたくさんの人間の顔の仮面が落ちていて、これもまたバロック文学
の形象(イメージ)と動機(モチーフ)の一つなのですが、これらのことを挙げるだけでも、またこの絵を見る
だけでも、バロック文学が相当に安部公房の散文の世界に通じていることがお分かりでしょう。[註3]

[註3]
安部公房は、コリーヌ・プレのインタビューで次のように、日本文学と世界文学に関する自分自身の位置について語っていま
す(全集第28巻、104∼105ページ)。
(略)」
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言語とは何か II
言語起源論
岩田英哉

目次

1。言語起源論:私の場合
2。言語起源論:ルソーの場合
3。言語起源論:ヘルダーの場合
4。言語起源論:セキセイインコの場合
5。言語起源論:西部邁氏の場合

以前同じ題でお伝へした言語の本質論『言語とは何か』[註1]の続きです。

[註1]
『言語とは何か』は、もぐら通信第39号でご覧ください。

1。言語起源論:私の場合
前回は、言語とは何かといふ問ひに対して、初等論理学と、初等数学(算数)の集合論の視点から、
意味の集合論、即ち概念同士の位置関係によつて言葉の意義(sense:内包)と意味(meaning:
外延)が定まること、即ちその言葉の使ひ方によつて言葉の意味は定まるといふこと、その概念
の位置関係がそのまま修辞学の視点では譬喩(ひゆ)の位置関係であることといふ、即ち言語機
能論の考へ方をお伝へしました。

『アスペルガーとしての安部公房(2)∼アスペルガーを媒介項にして安部公房を読む∼:ヴィト
ゲンシュタインと安部公房』(もぐら通信第61号)より以下に言語と吃音の関係に言及しました。

「(1)吃音:「生涯彼に綴りの問題と吃音があったことは広く知られていた。」「彼の吃音は
一九二〇年代には消えていたが、それ以後、彼はこの障碍を克服した人々によく見られる明瞭な
かん高い声で話した。(114ページ)

ルイス・キャロルも同じ吃音者でした。安部公房がさうだといふのではありません。しかし「僕
の中の「僕」」といふ安部公房固有の話法(勿論安部公房以外にも、あるいはあなたも此の話法
を密かに日常あなたのこころの中で使つてゐるかも知れません)が、社会や他人との間で起きる
差異であり、下記(7)の理由でさうなるのでせう。吃りである或る友人の一人のいふところに
よれば、吃りには二種類あり、何かを言語に変換して発声しようとすると其処で吃る吃りと、発声
したあとで文や単語の発音に吃りが生ずる吃りと二つあるのださうです。人間が思考するとは、か
う考へて来ると、吃ることなのかも知れません。そして、呪文は実は吃ることなのかも知れませ
ん。下記(7)にあるヴィトゲンシュタインの特徴は人間が言葉を考へ、言葉を話すといふことに
もぐら通信
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ページ

ついて誠に示唆するところが大きいやうに思はれます。

(略)

(7)「その吃音は、思考のどもりと並行していた。」(119ページ)
ヴィトゲンシュタインについての此の一行は、恰も安部公房の文章を読む喜びや愉しみ、愉悦とい
ふことをいつてゐるかのやうに聞こえる。即ち、小説や戯曲の科白であるならば、科白と科白の
間の飛躍(差異)であり、小説の地の文章ならば、直喩を使つて表現する何かと何かの隙間(差
異)、即ち其処にある何か、即ち存在のことである。

(8)言葉遊びや掛詞をつくるユーモアの感覚を持っていた。(123ページ)
ナンセンスユーモアに没頭することがあつた。(125ページ)「面白いことに、ルイス・キャ
ロルもナンセンスユーモアに秀でていた。」(126ページ)「彼は哲学でユーモアを研究した。
彼はユーモアを気持ちではなく世界の見方であると信じた。」(127ページ)た。」

これは此のまま安部公房です。勿論安部公房の場合はブラックユーモア、即ち辛辣で残酷な黒い笑
ひです。」

私の結論を申し上げれば、

言語の起源は吃りである。

といふ結論なのです。これが、超越論(汎神論的存在論)に拠る私の仮説です。

人間の発声する音声である声が吃ると、現実の時間の中に差異が生まれる。さうして、世界は差異
であるといふ現実に成り、即ち私たちは現実に世界を創造することができる。……(A)

ヴィトゲンシュタインの場合が、そしてルイス・キャロルもさうであつた筈ですが、「その吃音は、
思考のどもりと並行していた。」

ナンセンスユーモアとは言葉遊びですから、即ち言葉遊びとは掛け言葉であり、掛け言葉とはズ
レを産み、従ひ差異を産むことに他ならないからですが、さうしてこれは、一見相反するやうに見
えますが、しかし似たもの同士を集めることに他ならないのですが、これが吃りの産物なのです。
といふと、あなたは驚くでせうか。

(A)に戻ります。

人間の発声する音声である声が吃ると、現実の時間の中に差異が生まれる。さうして、世界は差異
であるといふ現実に成り、即ち私たちは現実に世界を創造することができる。
もぐら通信
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といふことが、これがそのまま呪文であるといふことはお判りでせう。

呪文は同じ言葉を繰り返す。さうして、少しづつズレて行く。

私が学んだドイツ文学史上の最古の文字になる文章の一つで資料として残つてゐるものは、やはり
呪文であつて、それは『メルゼブルクの呪文』と呼ばれるものです。以下手元にある『ドイツ文学
史』(佐藤晃一著。明治書院)より引用します。あなたは成る程と思はれるのではないでせうか。
つまり、私たちが何か願ひごとをする際の心事と言葉との関係そのものであるからです。

「古高ドイツ語で書かれたもので、しかしまだキリスト教の影響を少しも示さず、まったく古ゲル
マンの習俗や気風につらぬかれたものもある。その一つは、のちメルゼブルクの寺院の書庫に発見
されたために『メルゼブルクの呪文』Merseburger Zaubersprüche(引用者:メルゼブルガー・
ツァオバーシュプリューヘ)と呼ばれている二編の短い詩で、九世紀か十世紀に筆写されたもので
ある。うち一つは、戦争で捕虜になった男が、いましめから脱しようとしてとなえるもの、他は脱
臼や骨折をなおすために用いられるものである。これらはいずれも本来の呪文に当たる部分の前
に、以前この呪文が効を奏したときのことを述べた叙事的な部分をもち、古代ゲルマンに固有の頭
韻を使用している。また、フォール、ヴォータン、フリーヤ、フォラなどゲルマンの神々の名が現
れ、これは、タキトゥスのしるしているゲルマン人のまじないや祝福の歌の原型を推測する上にも
意義深い。」(同書12ページ)

「戦争で捕虜になった男が、いましめから脱しようとしてとなえる」などといふ呪文は、閉鎖空間
より脱出を図る全ての安部公房の主人公の唱へる呪文と全く同類である。また「ゲルマンの神々の
名が現れ」るならば、これは神聖な存在に向かつて祈ることに他ならず、安部公房の場合ならば次
の存在に向かつて祈つて呪文を唱へることと同義です。これがどんな民族の言語にも文法学上ある
筈の、過去形から変形してつくる話法による時間のない祈願文、即ち非現実である現実を招来する
ための差異を生み出す呪文、即ち神事としての吃りの由来です。

古神道・神道の祝詞(のりと)も祓詞(はらひことば)も呪文です。私たちも日常相槌を打つのに、
さうさう、とか、成る程成る程といつたやうに、お互ひの意思疎通が上手く行つてゐる理解し合
つてゐるといふ非現実を現実化するために、毎日呪文を唱へてゐるのです。

2。言語起源論:ルソーの場合
フランス人のアンリ・ルソーの著はした『言語起源論』の最初の二つの章で、それぞれ次のやう
に言つてゐて、私のやうな語彙を使つてはゐませんが、同じことを次のやうに言つてゐます。(傍
線は引用者)

第1章 われわれの思考を伝達するさまざまな手段について:
「言葉は最初の社会的な制度なのであるから、その形態を自然の原因だけに負うているのであ
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ページ

る。ある人間がものを感じ、考える存在として、他の人間から似た存在として認められるやいな
や、自分の感情や思考を彼に伝達したいという願望または欲求によって、彼はその手段を求めるよ
うになった。その手段は、人間が他人に働きかける唯一の道具である感覚からしか引き出すこと
はできない。これが思考を表現するための感覚的な符牒(シーニュ)の設定である。言語を作っ
た人たちはこのような推論を行いはしなかったが、しかし本能によってその結果を思いついたので
あった。」(ルソー著『言語起源論』10ページ。現代思潮社)

第2章 言葉が最初に作られたのは〔身体的〕欲求からではなくて情念によるものであること:
「人はまず初めに推理したのではなくて、感じたのである。人間は自分の〔身体的な〕欲求を表
現するために言葉(パロル)を作り出したのだと主張されているが、その意見はわたしには支持
できないように思われる。最初の欲求の自然の結果は、人間をお互いに近づけることではなく、
遠ざけることであった。種が拡がって、地上がすみやかに人間で一杯になるためには、そうなるこ
とが必要だった。そうでなければ、人類は世界の片隅に積み重なり、その他の場所は全て人がい
ないままとなっただろう。
 これだけのことから結果として明らかに、言語の起源は人間の最初の欲求に負うものでは少しも
ないということになる。というのは、人びとを遠ざけている原因から、人びとを結びつける手段
が出てくるというのは不条理だろうから。それでは一体、この起源はどこから発しているのだろう
か。精神的な欲求、つまり情念からである。あらゆる情念は、生きようと求める必要のためお互
いに避け合わざるをえない人間たちを近づけるのである。彼らに最初の声を出させるのは飢えでも
乾きでもなくて、愛であり、憎しみであり、憐れみであり、怒りである。果物はわれわれのてか
ら逃れていくことは決してない。人びとはものもいわずにそれで身を養うことができるし、たらふ
く食べたいと思う獲物を黙って追い求めるものである。しかし若い心を感動させるため、不正な侵
入者を撃退するためには、自然はアクセントや叫び声や嘆きの声を思いつかせる。これが考え出
されたもっとも古い言葉であり、だからこそ最初の言語は、単純で、方法的である以前に歌うよ
うな情熱のこもったものだったのである。以上すべてのことは無差別に真実なのではない。しかし
いずれ後にまたそのことに触れるだろう。」(同書あ21∼22ページ)

第3章 最初の語法(ランガージュ)は比喩的であったに違いないこと:
「人間にものをいわせた最初の動機は情念であったのだから、その最初の表現は譬喩であった。
比喩的な語法(ランガージュ)が最初に生まれ、本来の意味は最後に見いだされたのである。人
びとは、事物をその真の形にもとに見たとき、はじめてそれを真の名称で呼んだ。まずはじめ、
人びとは詩でしかものをいわなかった。理性によって考えることを思いついたのは、ずっと後のこ
とにすぎない。」(同書25ページ。同章冒頭の文章)

譬喩とは吃りです。吃ることで音をズラして、その差異に似たものを招来する。それが隠喩であり、
直喩です。あるいは隣接して語の概念同士の交はることのない換喩です。これらの譬喩の関係につ
いては『言語とは何か』(もぐら通信39号)をご覧ください。ここでは再説しません。

第1章の「思考を表現するための感覚的な符牒(シーニュ)の設定」とは、赤ん坊のあなたの発
もぐら通信
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する最初の繰り返しの、といふことは差異を産み出す最初の発声、即ち最初の呪文である。確か
に赤ん坊は泣き声や喃語を繰り返すことによつて「最初の言語は、単純で、方法的である以前に
歌うような情熱のこもったものだったので」あり(第2章)、「あらゆる情念は、生きようと求
める必要のためお互いに避け合わざるをえない人間たちを近づけるのである。彼らに最初の声を
出させるのは飢えでも乾きでもなくて、愛であり、憎しみであり、憐れみであり、怒りである。」
(第2章)

第1章にある「最初の欲求の自然の結果は、人間をお互いに近づけることではなく、遠ざけるこ
とであった。」「あらゆる情念は、生きようと求める必要のためお互いに避け合わざるをえない
人間たちを近づける」といふルソーの洞察は卓抜である。なぜならば、私の考へによつても、世
界が差異であるならば、さうして言語の起源が呪文といふ繰り返しによつて差異を生む言葉であ
るならば、私たちはお互いに他者も他人も、本来は必要としてゐない、自分が自分自身である、即
ち「私は私である。」といふことが最初から言へてゐて、それで十分だからである。

何故ならば、唯一絶対全知全能のGodを戴く此のキリスト教と対比すると分かりやすいので名前
を挙げて続けますが、これに対して日本列島といふ汎神論的存在論の世界にすむ日本人は、最初
から西洋哲学でいふ超越論でありtopologyの世界でありますから「価値が等価で遍在する」等価
交換の世界でありますから、私たちは自然の一部であり実際にさうであれば、私たちの心と体の
内外に八百万の神々がゐましまし、其処此処へゆけば、また其処此処の神社にお参りすれば(カ
ソリックであるプロテスタントであるといふ宗門の区別はない)、至る所で私はあの神この神で
あり、至る所でこの神あの神は私である。それ故に目に青葉と思へばそれで十分に自足充足してを
り、もつと云へば、この美意識の上にそのまま生まれた時から人間は完成してゐるといふことなの
です。

しかし、世に生きることは、全てと言つて良いか、これと正反対のことを強いられるやうに私に
は思はれる。

「人はまず初めに推理したのではなくて、感じたのである。人間は自分の〔身体的な〕欲求を表
現するために言葉(パロル)を作り出したのだと主張されているが、その意見はわたしには支持
できないように思われる。最初の欲求の自然の結果は、人間をお互いに近づけることではなく、
遠ざけることであった。」といつたルソーの言葉は、他者を本来必要としないといふ所を、ヨー
ロッパの人間らしく人間を中心に考へてゐるところが自然を中心に考へる私たちと異なりますが、
しかしルソーの主張は、多分あなたも嫌々(私はさうだつたが、あなたは違ふかも知れないが、
そんなこともある)学校で学んだやうに、自然に帰れといふことであるからには、やはりどこか
此の人の逆転の論理は物事の真実を突いてゐて、18世紀に生まれた生きた此の人(1712年6月28
日 - 1778年7月2 日))の思想は、次の18世紀末から19世紀にかけて、ルソーと同時代を生き
たカント(1724年4月22日 - 1804年2月12日)を継承し、カントの論理を主著『意志と表象とし
ての世界』の最初の1ページで更に逆転させてカントの論理の限界を踏み越えて(この論理がショー
ペンハウアーの超越論である。詳細は別途稿を改めます)、カントを継承したショーペンハウアー
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(1788年2月22日 - 1860年9月21日)にも確かに生きてゐる。

つまりまた、ルソーの此の従来の言語観を引つくり返した言語起源論の発想と、カントの人生も
また大学では自然学に関心が向かひ17世紀のバロックのライプニッツやニュートンを研究したと
いふことからも、ショーペンハウアーといふバロック・超越論の哲学者がこれを引き継ぐ要素は十
分すぎる位にあつて、それを以下のやうに説明することができる。

物理学者アインシュタインの問ひに、

(1)月が存在するから、私に見えるのか、それとも、
(2)私が月を見るから月が存在するのか

といふ問ひがあります。

次元が複数あつて、その相互の時間と空間の差異に着眼した物理学での相対性理論[註2]は、
哲学の世界でいふ超越論でありますので、当然のことながら、上記(2)の選択がアインシュタイ
ンの結論でした。

カントも同じ「コペルニクス的転回」を行なつた。これがルソーと同じく、それまでは「月が存
在するから、私に見える」といふ過去の論理をひつくり返した論理です。つまり「私が月を見るか
ら月が存在する」と言つたのが、哲学の世界のコペルニクスであるカントであり、カントの認識
論だといふことなのです。

[註2]
相対性理論もまた、次の二つの原理からなる超越論です。

(1)世界は差異である(認識論):ニュートンの絶対空間ではなく、複数の座標を考へて相対的に、とは、差異に
着眼するといふこと。
(2)価値は等価で遍在する(存在論):特殊相対性理論の場合には「等価原理」と呼ばれてゐる。

さうであれば、ルソーの著作をよく読んだといふカントと、また同時代のルソーの論理は、論理
の転倒と逆転、即ち価値の体系の内部と外部を等価交換して過去の論理を自分の論理の一部と成
したといふ点で、全く共通してをります。これは、20世紀の初頭にアインシュタインがニュート
ンの古典力学を自分の相対論の一部として統合したのと同じことです。言語の観点から歴史的な転
換点に何が起きるかを『安部公房の札幌文学批判』(もぐら通信第62号)より再度図示します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ44

           歴史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係

「特殊性の中にほうがんされない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存在しない」と
は、内部と外部を交換し、その境界域の両義性に身を没して自己を生かすtopologyの考へ方です。これは、
単なる言葉の意味と位相幾何学的な問題だけなのではなく、歴史が其のやうに展開し、人間に働きかける
ものだからです。歴史の根本的な変化は、言語(logos)の観点からみると、いつも次のやうに動きます。
安部公房は当然このロゴスの働きを知つてゐたのです。宇宙は単純にできてゐる。小学生の安部公房の知つ
てゐた「奉天の窓」です。Aをあなただと思つて見ませう。すると、→は、次の次元へのあなたの失踪を意
味するといふことになります。Bをあなただと思つてみませう、「あなたそつくり」の、しかし、異次元で
の、また別の人生がある。といふことになります。あなたは何処にゐるのか?」(『安部公房の札幌文学批
判』(もぐら通信第62号))

Aが(1)月が存在するから、私に見えるといふ考へ、Bが(2)私が月を見るから月が存在する
といふ考へです。

さて、以上が、カント/ルソーーショーペンハウアーの系譜[註3]の、言語の観点からみた、言
語起源論であるといふことになります。

[註3]
『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)の「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか」
と「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」をご覧ください。

(A)に戻れば、

人間の発声する音声である声が吃ると、現実の時間の中に差異が生まれる。さうして、世界は差異
であるといふ現実に成り、即ち私たちは現実に世界を創造することができる。(私の認識論によ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

れば、これが言霊(ことだま)の発生と効果です。)

実は聴覚的な音声だけではない。私の観察によれば、視覚的に、私たちが何かを見れば、それは
ズレるのです。差異が生まれる。見たからズレるのか、ズレてゐるからさう見えるのかといふ問ひ
に対する私の答へは、アインシュタインと同じです。

世界が差異であるのは、私が見るまたは観るからです。これに時間の先後はそもそも無い。これを
超越論といひ、日本列島の上で縄文以来無時間で生きる私たちの汎神論的存在論がこれだといふ
のです。

ショーペンハウアーは、同じ此れを「世界は私の表象(imagination)である」と言ひました。こ
の哲学者の二本の柱のうちの一つです。

安部公房の場合ならば、これは「僕の中の「僕」」といふ話法です。[註4]勿論、安部公房は身
体の外部をも見る。しかしS・カルマ氏のやうに、安部公房は胸の陰圧によつて見た外部のものを
たちどころに内部へと吸い込んでしまひ、この話法によつて其れを新しい価値の創造に転じる。
そして、この話法にあつて、安部公房は吃りである。この「僕の中の「僕」」といふ話法の差異の
構造をみると、前者の僕は表層的な時間の中の一人称であり、後者の僕は深層的な無時間に生き
る一人称であり、前者の僕ではないといふことであれば三人称足り得る何かだと解すれば、さう
して実際にさうでありますが、これはそのまま読者であるあなたの話法の構造といふことになつて、
あなたも間違ひなく日常生活の中で呪文を唱へてゐるに違ひありません。あなたの呪文は、他の人
と同じく、

私は私だ。俺は俺だ。あたしはあたしよ。

といひたいあなたを否定する現実の閉鎖空間からの脱出を願ふ呪文に相違ないのです。あなたが安
部公房の読者であれば尚更に。

[註4]
この安部公房固有の話法については『デンドロカカリヤ(後篇)』(もぐら通信第54号)にて詳述しましたので、
ご覧ください。

ドイツ語続きで恐縮ですが、ドイツ語の文法はほとんど例外のない、例外だらけの英語といふだら
しのない言語に比べれば非常に体系的で、英語とは比較にならぬほどわかりやすい(といふ意味
は例外の暗記は無用であるから。その分規則を覚えるのが大変といふことでもありますが、しか
し)、文字の上でも書記法の上でも規則の際立つた言語ですが、この初等文法書を開くと最初の
ところで定冠詞の格変化といふものを覚えます。ドイツ語には男性、女性、中性といふ文法上の性
(Gender)が三つあつて、これは改めて見ますと、呪文に他ならないことに気づきます。男性名
詞の例です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 46

der(デル)
des(デス)
dem(デム)
den(デン)

あの時ドイツ語の先生が、君たち、これは呪文である、これは君たちが閉鎖空間に閉ぢ込められ
たら、いましめから脱しようとして唱へるもので、他には君たちの人生の脱臼や骨折や捻挫や擦り
傷をなおすためにもよく効くのだといつてくれれば、もつと身を入れて勉学に励んだかも知れない。
といふのは後の祭りです。後の祭といふことであれば、後の祭り、祭りの後を回避するのが安部公
房の世界ですから、これは益々安部公房の超越論の世界に関係してゐる[註5]。

[註5]
私の本棚:庄田秀志著『戦後派作家たちの病跡』の「第5章 安部公房論」を読む(もぐら通信第76号)より引用
します:

「「精神病理学者木村敏によって概念づけられた時間体験の存在様態です。フェストゥムは祭り、つまりフェスティバ
ル。木村はそれに前、瞬間、後の意味をこめて、祭りの前、アンテ・フェストゥム、祭りの最中、イントラ・フェス
トゥム、祭りの後、ポスト・フェストゥムと命名します。時空間兆候に鋭敏な統合失調者気質者は、アンテ・フェス
トゥム的に、つまりいまだ起こらないそ由来を先取りする形で感覚が動きやすく、メランコリー親和者、とりわけ二
十世紀、共同体への献身に親和性があるといわれたメランコリー型(Typus melancholicus)では、取り返しのつか
ない過去をポスト・フェストゥム的に、つまり負債になってしまった時間として体験しやすいと整理されます。てんか
ん気質、境界例、アスペルガー症候群[註5]では、素裸の中心そのものが瞬間に境界との混淆として体験される傾
向をもちます。不安・恍惚、陶酔、衝動といった体験が一刹那、凝縮・融合・爆発するのが特徴で、イントラ・フェ
ストゥム的といわれます。臨床精神病理学的にも、人間学的にも、きわめて明快な概念です。」(同書134∼13
5ペー
ジ上段)といふこの学説によれば、安部公房の超越論は、祭りの始めも終はりもない、いつ始まつたのかいつ終はつ
たのか判らない、または始まる前に終はり、終はる前にやつて来て遅刻するといふ始めと終はりに行き違ふといふ全
ての主人公たちの意識と行為の在り方は、祭りの前、アンテ・フェストゥム型であり、また祭りの最中、イントラ・
フェストゥム型と、祭りの後、ポスト・フェストゥム型を回避してゐる超越論であるのに対して、三島由紀夫の超越論
は、祭りの最中、イントラ・フェストゥム型といふことになるでせう。」

3。言語起源論:ヘルダーの場合
言語起源論といふ題名の本を、フランスのルソーの他に、ドイツのヨハン・ゴットフリート・ヘル
ダーといふ文学者が同じ題名の本を表してゐます。一度これまで挙げた名前の人間たちの生きた時
間を整理しますと、次のやうになります。

ルソー:1712年6月28日 - 1778年7月2 日
カント:1724年4月22日 - 1804年2月12日
ヘルダー: 1744年8月25日 - 1803年12月18日
ショーペンハウアー:1788年2月22日 - 1860年9月21日
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もぐら通信                          ページ47

ヘルダーはカントの自然学を講じた時代の大学での講義を受けてゐます。またルソーと同じく、こ
こでは論の詳細には立ち入りませんが、やはりヘルダーは言語とは何かといふ問ひ対しては、God
由来の言語起源ではなく、人間起源の言語を主張し、さうして人間と自然の関係を言語発生と発
声に関係して考察するといふ、ルソーに通ふ言語起源論の開巻第一行は、次のやうな一行です。

「人間は動物としてすでに言語をもっている。」(ヘルダー著『言語起源論』木村直司訳、3ペー
ジ。大修館書店)(傍線は原文は傍点)

ここに、やはりルソーに通じる自然を前提にして人間の言語の起源を考へる考へ方を見ることが
できます。上の一行は次の二行目以降に接続してゐます。

「すべての強烈な感覚、強烈な感覚のなかで最も強烈なもの、すなわち身体の苦痛の感覚と魂のす
べての激情は、直接に、叫び声を、音、荒々しい未分節の音声となって現れる。苦しんでいる動物
は、英勇フィロクテーテスと同様に、苦痛に襲われると、泣いたり呻いたりするであろう。たとえ
孤島に置き去りにされ、仲間の姿を見たり、その助けを期待したりすることができない場合でも
そうである。それはあたかも、燃えるような不安に満ちた息を吐き出すことによって、呼吸をかる
くしようとするかのようである。それは、自分の苦痛の一部を嘆息によって追い払い、ものいわぬ
風を呻吟で満たすことによって、何もない空間から少なくとも苦痛を忘れるためにあたらしい力を
吸いこむかのようである(略)」

そして、自然の法則に基づくのが、人間と自然の関係から生まれた言語だとして、次のやうに考へ
ます。これらの行はすべてに傍点が打たれてゐますが、これを略して引用します。

「ここに感覚機能を持った生物があり、それは自分の活発な感覚を、一つとして自分自身のうちに
閉じこめておくことができず、いかなる感覚をも、それ(引用者註:人間と「同じように感ずる反
響に向かって叫びかけること」)に襲われた最初の瞬間に、なんらの恣意と意図なしに音声にして
表さざるをえない。
(略)
この嘆息、この音声は言語である。それゆえ、直接の自然法則である感覚語というものがある。
 人間がこの言語をもともと動物と共有していたことを実際に示している(略)」と言ひ、人間の
言語と動物の言語は根源的に同じであるのだといふ見解を述べてゐます。

ヘルダーは此の著作の後半に、その間考察して来た言語に関する主張を4つの自然法則として定め
ます。次の第一自然法則は、安部公房の話法「僕の中の僕」に他なりません。

第一自然法則:
「かれ(引用者註:人間のこと)の悟性の最小の行為さえも標識語なしには起こり得なかったと
いふことが証明済みであるならば、内容の最初の瞬間もまた言語の内部的成立の瞬間であった。」
(原文は「といふことが証明済みであるならば」の箇所以外は傍点)(同書117ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

ここでいふ「標識語」とは、ルソーのいふ「符牒(シーニュ)」のことです。安部公房の記号論[註
6]を想起して下さい。

[註6]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「3。『カンガルー・ノート』の記号論」をご覧く
ださい。

第二自然法則:
「人間はその使命から見て、群居ないし社会の生物である。それゆえ、言語の継続的形成はかれ
にとって自然的、本質的、必然的となる。」(同書137ページ)(原文はすべて傍点)

この第二自然法則は、ルソーのいふ「結果として明らかに、言語の起源は人間の最初の欲求に負
うものでは少しもないということになる。(略)あらゆる情念は、生きようと求める必要のため
お互いに避け合わざるをえない人間たちを近づけるのである。彼らに最初の声を出させるのは飢え
でも乾きでもなくて、愛であり、憎しみであり、憐れみであり、怒りである。」といふ箇所に相
当してゐる。たとへルソーの論理がヘルダーの論理に対して、逆説に見える論理であるとしても。

ルソー(1712年6月28日 - 1778年7月2 日)とヘルダー( 1744年8月25日 - 1803年12月18日)


といふ同時代を生きた隣国同士の人間の言語観が同じであるといふことが、そのまま此の時代こ
の18世紀のヨーロッパ人の言語をGodではなく、Godから離れて、自然との関係で考へるといふ
ことを示してゐる以上、これはそのまま汎神論的存在論である超越論の系譜であるカントーショー
ペンハウアーの系譜に繋がり、ニーチェーハイデッガーと続いて、後者で初めて言語を問題にして
人間と言語の関係を考へる哲学を考へたといふ順序次第が腑に落ち、よく理解されるのです。かう
して見るとハイデッガーは言語もまた自然の一部である、自然から発生したものだと考へてゐるこ
とが判ります。それが此の哲学者のリルケ論、ヘルダーリン論の筈です。安部公房と三島由紀夫の
共有してゐた此の二つの論と、言語の観点から見たハイデッガー論は稿を改めて論述します。

これに対して、カントーヘーゲルの系譜は、さうは考へず、キリスト教の神学であるスコラ哲学と
の関係を整理することなく、カントのいふdas Ding an sich(ダス・ディング・アン・ジッヒ:物
自体)が現実である外部にあることとの関係を切断して、かう考へたフィヒテの説を採用し、物自
体を自分の心と体の中にだけ置くことでものを考へることで、キリスト教の教義(ドグマ)に抵触
して争ひをローマ法王庁と起こすことなく、これを回避して、(私の仮説としてある)むしろ逆に
論理としてはスコラ哲学のGodの存在の真実性の論証の論理を、ヘーゲルは正反合といふヘーゲル
流の弁証法に焼き直して(中身は論理上スコラ哲学と全く同じく)時間の中での否定論理和を考
へるといふ、さうして此の否定論理和に枠組みを提供するのが精神であるのだといふ、このやう
に超越論を否定することを行ひ、その後継のマルクスに至つてはルネサンス以前の中世に共産党に
よる暴力を是認してまでも、即ち目的のためには手段を選ばないといふ本末転倒のものの考へ方
で実に無道徳無倫理に、ルネサンス以前の中世に戻るといふ愚行を冒したことは、『安部公房と
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

チョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)で論じた通りです。[註7]

チョムスキーはこの、歴史をではなく時代のあるべき姿を実現する時計の針を反対に廻した逆行
に怒つた。

[註7]
『安部公房とチョムスキー(4)』(もぐら通信第76号)の「5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:
生成文法とポール・ロワイヤル文法」の「(1)チョムスキーの統辞理論とは何か/(2)ポール・ロワイヤル文法と
は何か」をご覧ください。

この怒りはショーペンハウアーの怒りでもある。この哲学者はヘーゲルを徹底的に否定し、あらうことか主著『意志
と表象としての世界』の地の文の中で複数回ヘーゲルの名前を挙げるところでは繰り返し罵詈雑言を浴びせて罵倒し
た。

私の経験による人生で最も得難い教訓は、その人間の思想を知るには、その人間が何を言つたか
ではなく、その人間が何をしてゐるか、何をして来たか、何をしたかを見ることが、正解への最短
路であるといふことです。巧言令色少なし仁。言葉を言葉であるといふ理由で、また文字で書かれ
てゐて、しかも分厚い書物であるといふ技術上の理由で、当人の言葉を鵜呑みにしてはならない。
さう、もぐら通信が幾らページ数が増へても、否、増えれば増えるほど逆に疑ふべし。大切なこと
は、言語の再帰性といふ、あなたの言葉の本来の性質に戻ることです。この性質は個別言語により
ません。即ち、どこにゐても、いつの時間にあつても、

私は私である。

第三自然法則:
「人類全体が一つの群居社会に止まることが不可能であったように、それは一つの言語を保持す
ることができなかった。それゆえ、種々異なった国民語の形成が必然的となる。
 ほんらいの形而上学的な意味に置いても、男と女、父と息子、子どもと老人のもとで同じ一つ
の言語というのは不可能である。」(同書150ページ)(原文は全文傍点)

「人類全体が一つの群居社会に止まることが不可能であった」とは、ルソーの言語起源論の第1
章にある「最初の欲求の自然の結果は、人間をお互いに近づけることではなく、遠ざけることで
あった。」「あらゆる情念は、生きようと求める必要のためお互いに避け合わざるをえない人間
たちを近づける」といふルソーの深い洞察と同じことを言つてゐる。

私のいふ言語の観点からみれば、人間は本来再帰的であり、他者を必要としないといふことです。
ルソーの言ひ方では、本来再帰的である人間が「生きようと求める必要のためお互いに避け合わ
ざるをえない人間たちを近づける」。
もぐら通信
もぐら通信                          50
ページ

第四自然法則:
「人間が恐らくある偉大な経済性にもとづく、ある一つの根源からの漸進的全体をなしているよ
うに、すべての言語と、それらにともない教化の鎖全体もそうである。」(同書162ページ)
「言語は人類とともに繁殖し継続的に形成される。」
(同書162ページ)(原文では二つの引用とも全文傍点)

しかし、カントーヘーゲルー共産主義の系譜のやつてきた行ひは、本来再帰的である「言語は人類
とともに繁殖し継続的に形成される」と考へる超越論の正反対ですから、言語の本来の性質であ
る大地母神崇拝の絶対的肯定ではなく、これを絶対的に否定して、人間を物(ブツ)と考へて、(何
しろ物自体が体内にあるのだから)人類の個別言語を繁殖させるところではなく逆に絶滅させるこ
とであることは(恐ろしいことに浄化とまで言つてゐる)、一番卑近な例は、20世紀から最近
にいたつてまでの中国共産党のチベットやウイグルなどに対する政策をみれば明らかです。さうし
て同類の所業をなす国際金融資本主義と無国籍企業主義。そしてまた同類の二十世紀一斉同報型オー
ルド・マスメディアは、此の事実を一切報ぜずに、事実を隠蔽してゐるといふ此れが、超越論の文
法・言語学者チョムスキーをして根源的(radical)な、従ひ激越で徹底的なマス・メディア批判
をなさしめてゐることは『安部公房とチョムスキー(4)』(もぐら通信第76号)の「5。チョ
ムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法」にて既述の通り
です。

4。言語起源論:セキセイインコの場合
私は、セキセイインコとは7つの言葉を了解してゐれば、意思疎通ができた。それは、次の言葉で
ある。

(1)お早う、今日は
(2)お腹が空いた、餌をおくれ
(3)水が飲みたい、水道の蛇口を捻つておくれ
(4)あつちの部屋に行きたいので、ドアを開けておくれ
(5)それは嫌だ、お断りだ、放つといてくれ
(6)何をしてゐるの?
(7)水浴びがしたいよ

この7つの言葉で、私は毎日この真つ白なセキセイインコと何の分け隔てもなく誤解もなく一緒に
生活することができた。小鳥とであるのみならず、生きた人間ともこの7つの言葉で生活すること
ができないものであらうか。さうであれば、文字・数字・記号で生まれた文明[註8]は崩壊す
るが、しかし、その方が人間にとつて幸せなのではないだらうか。老子の理想郷のやうな数百人
もゐない誠に小さな村の中で暮らすことになるだらう。さうして、私たちの言語本来の再帰的な生
活に戻つて、毎日小鳥のやうに吃つて生きる、囀つて生きるのだ。ピーチク パーチク 雀の子。
ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ 何の音/鈴の音。さうしたら、その吃りが其のまま歌声になり、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

歌を歌ひながら生きたら、さうして文字がなくなれば、耳にした歌を体と心で記憶する以外には
なく、体感し感得した歌を翌日また起きて歌ひ続けるとは、何といふ幸せな生活であらうか。

[註8]
私の文明の定義は次の通りである。:

「(ii)神話論
さらに、本質的なこととして、文明と文明「以前」の観点から、次の論点を追加したい。

(8)神話論

文明とは何かと云へば、次の3つの構成要素から成り立つてゐる文化のことです。これは、私の分類です。

(1)文字
(2)数字
(3)記号

あなたの周囲の日常の世界を見廻してご覧なさい。物を除けば、この3つしかない筈です。それが単なる物だとして
も、あなたがこれら3つの印(しるし)を印すれば、それは単なる物ではなくなる。文学も例外ではありません。(ま
た、絵画や写真もまた、これら三つに還元され、または(還元と考へないのであれば反対方向に)抽象化されます。
音楽は五線譜で楽の音色が譜面に写されてゐる限り、これら三つに還元されます。しかし、楽の音色そのものは、こ
れは例外であり、別格の何かです。)極端に云へば此の3つの構成要素のない、即ち所謂「無文字社会」からなる文
明は、文明「以前」の文明といふことになります。これは、安部公房文学の世界では、余白と沈黙の世界、即ち「空
白の論理」に依る世界です。(この場合も、両極端の間に、文明から文明「以前」に亘る階調(スペクトラム)があ
ると考へて下さい。)」(「『カンガルー・ノート』論(2)」(もぐら通信第66号)の「6。『安部公房文学と
大地母神崇拝』∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」)

子供の頃田舎の家の立つなだらかな丘陵を降りて有る湖畔の道を歩いてゐて(北海道の道東は原野
で湖沼が多い)、ふと足元を見ると雀の小さな群れのゐるのに気づいたことがある。雀たちが逃
げなかつたのは、私が気づいてはゐたが心を動かさず無意識にそこまで歩いて来たからであつたと、
子ども心に思つた。そこで焼き鳥にして食べてしまふぞと内心で言葉にすると、雀の群は途端に
さつと飛び去つてしまつたのである。言葉を発声せずに、安部公房の愛の論理と同じで、別離す
ることによつて私は雀と、雀は私と話ができたといふことであり、意思疎通の真実性の証明がで
きたといふことである。この論理は上で考察したルソーの言語起源論の論に通じてゐる。

長じて後仕事を通じて、この逸話の示すところの範囲は拡張されて、私の意識してゐることは地球
上の誰かの意識してゐることであり、誰かが意識をしてゐることが、そのまま私の意識してゐるこ
とだといふことを知るに至つた。さう考へなければ、何故地球上で同時に同じことを距離を隔て
て人間が発想し、発明をなすのか、勿論時系列的な伝播はあるにしても、何故同じ文化的な様式が
同時並行的に多発的に別々の地で生まれるのかといふことの歴史的事実の説明がつかないのであ
る。17世紀のバロック様式はまさにこの例であるのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ52

東京に出て来てWalter von der Vogelweide(ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ)


といふ中世ドイツ語の名のある詩人のゐるのを知り、この詩人も小鳥と話のすることができる人
間であることに親近感を覚えて、爾来この詩人の詩集はいつも手元にある。

キリスト教の聖人アッシジの聖フランチェスコも小鳥と話をする僧侶で、小鳥に説教をしたと知
つたので、このお坊さんの写真も掲げます。人間に言葉は通じないが、鳥には言葉が通じるといふ、
これは絵ではないのか。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 53

ヘルダーのいふ通りに「人間は動物としてすでに言語をもっている。ならば、人間の類概念(上位
概念)である動物の種概念(下位概念)であるインコの類の小鳥もまた「動物としてすでに言語
をもってゐる」。

5。言語起源論:西部邁氏の場合
西部さんといふ方がお亡くなりになつて、多摩川に身を投げて死んだといふ報に接して、言語とは
何かといふ題の二つ目を、かうして、実は、書こうと思つたのです。

それは何故かと言へば、このかたは18の歳まで吃りであつて、沈黙の中に生活した人だと聞い
たからです。私も子供の頃一度吃りになりかけたことがあつて、身に危険を感じたことがある。こ
の危険の感覚とは、吃りになることを世間に笑はれるのを恐れるといふのではなく、安部公房の
話法でいへば「僕の中の「僕」」の二つめの私が表に、現実の時間の中に現れてしまつて私が死ん
でしまふことに対する恐怖であつたのではないかと今思ふ。人間といふ生き物は、みな此の恐れ
を抱いて毎日流暢に、如何にも知つたやうにして言葉を話してゐるのではないか。さうであれば、
『安部公房とチョムスキー』(もぐら通信第76号)でチョムスキーとの関係で整理した安部公
房文学を理解するために描いた言語機能論の階層図は正しいのではないか。

安部公房の分類:https://ja.scribd.com/document/371370776/安部公房の分類-v2

「僕の中の「僕」」といふ前者の僕は表層構造(チョムスキーのいふ音声の層)に、後者の僕は
深層構造1と2(チョムスキーのいふ文字と文法構造の層)にゐるのです。

私には、この図でいふなら三層目の差異の構造の階層で言葉を発した記憶がある。それは後天的
に得た知見によれば、私が赤ん坊の姿でこの世に生まれて、寝返りを打つやうになる時期の生後数ヶ
月から半年の間に違ひのない記憶で、体がまだ柔らかすぎて、あるいは力がないのかそれで体がい
もぐら通信
もぐら通信                          ページ54

ふことをきかないのか、私は「僕の中の「僕」」が、自分自身で立ちあがらう(といふことは歩
かうとして。私は確かにさう思ひ、この意識は鮮明に今も記憶にあるが)幾らやつても体がいふこ
とをきかず(これも動きの繰り返しである)、この身体的動きを動きながら其の不自由を不思議に
思ふ心を完成した一行の文に生成してゐたことを、その繰り返して私の成した文が何であつたかど
んな文言であつたかを此処で文字にすることはしないが、しかし、今に至るも記憶してゐて折に触
れ思ひだす。これは、既に大人の、現実の時間の中で作る文であつた。即ち、既に主語と述語でで
きてゐた。この事実はもうこの時「既にして」「いつのまにか」(超越論的時間)「どこからとも
なく」(超越論的空間)知つてゐた。この文は、もし文字にして表せといふならば、安部公房の詩
の場合と同じやうに、カタカナで書くべき、クリヌクイ クリヌクイ、異界の言葉です。安部公房
ならば、人さらいの呪文だといふでせう。

これは三島由紀夫の『仮面の告白』の開巻第一行の「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光
景を見たことがあると言い張つてゐた。」に相当する経験であつたらうと思はれる。「永いあい
だ」「言い張つてゐた」とは繰り返しの呪文である。三島由紀夫は戦争の終はつた日の20歳の
時に、それまでの詩人であることをやめ、小説を書いて何としてでも戦後の時代を生きていかうと
決心し、「僕の中の「僕」」の後者の私が話した(三島由紀夫の場合は観たといふべきでありま
すが)言葉の内心の秘密を処女作の第一行で公にし、その記憶にある事実を現実の時間の中に文
字で書いて正直に公にして、実際生きることに於いても正直に生き、他方小説の世界では全くの虚
構の中に此の繰り返しの呪文を表現して生きて行かうとし、此の二つの現実と虚構の世界の均衡
(バランス)を宰領して生きることが生きることだと、さうして生きて行けると思つて生き、諸説
あれどもいづれにせよ、自然の死を死ぬのではなく、そして自ら死を選んだ。

三島由紀夫とは、安部公房の言によれば、あらゆる接点を共有していながら互ひにすべての接点で
正反対の方向、或いは接点そのものの陰陽が裏返っている(「彼との接点は、全部うらがえしに
なっている。」:「『対談』[対談者]大江健三郎・安部公房」全集第29巻、73ページ下
段)。

安部公房は、自ら死ぬことなく、最後の最後まで生きた。確かなる推測などといふ推測が果たし
てあるものか、私の確かなる推測では、安部公房にも三島由紀夫と同様の経験があるに違ひない
のである。さうでなければ、自らをもぐらにあれだけ一生を通じて擬するわけがない。その記憶
の中の文はもぐらといふに足り値する経験的な、といふ意味は体の動きや皮膚感覚や触覚に関係し
てある記憶であつた筈だと私は思ふ。十代の少年三島由紀夫が『花ざかりの森』を書いた16歳
に書いた詩は『理髪師』と題した、剃刀を持つて自分以外のすべての物を剃刀で切り殺して行く蛇
の詩であつた。(一体手足のない不具のーこの形象には性的不能といふ意味での16歳の少年の、
といふことはそれ以前に大人を観察して至つた自分自身がまだ性的に未分化の少年として考へて将
来は不具者である/あらうといふ含意がある当の)この蛇は最晩年のエッセイ『太陽と鉄』にまで
及んで、作家がF-104ジェット戦闘機に搭乗して成層圏から眺める地球を囲繞する大蛇として書か
れてゐる。安部公房はもぐらであつたが、三島由紀夫は蛇であつた。蛇もまた其のくねくねうねう
ねとした動きをみれば、また其の赤い舌の動きをみれば、其の口から発するシューシューといふ声
もぐら通信
もぐら通信                          ページ55

を聞けば、繰り返しの、即ち全身から呪文を発する生物である。三島由紀夫の作品はみな、最初
の一行が呪文で始まる[註9]。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪
文と秘儀』で詳述しました。ここに三島由紀夫の超越論が言語論として率直に述べられてゐます。
三島由紀夫の言語の定義は、次のやうなものです。

「43歳の三島由紀夫は、『太陽と鉄』といふエッセイで、精神との関係で、言葉の本質的な機能
と其の言葉による呪術が一体どのやうなものかについて、次のやうに書いてゐます(新潮文庫版、
88∼89ページ)。

「前に述べた私の定義を思い出してもらひたい。[註1]私は言葉の本質的な機能とは、「絶対」
を待つ間(ま)の永い空白を、あたかも白い長い帯に刺繍を施すやうに、書くことによつて一瞬
一瞬「終はらせて」ゆく呪術だと定義した(略)」

これは『仮面の告白』の開巻第一行の「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たこと
があると言い張つてゐた。」に相当する。これが三島由紀夫の言語藝術の呪術の目的であつた。
三島由紀夫の作品は皆、「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い
張つてゐた」このことの発露であり、繰り返しの変形であつた。

[ 1]
この簡潔な定義に関する、次のやうな「前に述べた私の定義」の詳細な叙述がある。:

「 私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。
それといふのも、虚無を汚し、虚無を染めなし、京都の今なほ清い川水で晒されてゐる友禅染のやうに、二度と染直
せぬ華美な色彩と意匠で虚無をいろどる言葉は、そのやうにして、虚無を一瞬一瞬完全に消費し、その瞬間瞬間に定
着されて、言葉は終り、残るからだ。言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集
積によつて、生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少なくとも、「絶対」の医者
を待つ間(ま)の待合室の白い巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。そしてその、虚無を一瞬毎に汚すこ
とにより、生の連続感をたえず寸断せねばならぬのと引き代へに、少くとも、虚無を何らかの実質に翻訳するかの如
き作用をするのである。」(新潮文庫版の77∼78ページに)

この詳細な説明を読みますと、安部公房が言葉と空間の関係をのみ、即ち時間を捨象して、その空間化を考え、即ち
現実の諸関係を関数関係に変換して、その関係を形象(イメージ)として表すのに対して、三島由紀夫は常に言葉と時
間の関係をのみ考へ、現実の中の時間は捨象せずに、むしろ其の時間の中に「「絶対」を待つ間の、いつ終わるとも
しれぬ進行形の虚無」、即ち時間の刻一刻の、時刻と時刻の間に在る虚無を表して残るのが言葉だといふことがよく
解ります。

「生の連続感の一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する」とあるやうに、時間の「一刻一刻の断絶」
の此の断絶と其の寸断にこそ、言葉の力が宿るといふ考へです。

この、時間の「一刻一刻の断絶」の此の断絶と其の寸断によつて、従い年月日や時刻を記して始まる冒頭の一行を備
へた小説が、すべて、叙事詩としての小説なのです。

それは、いはば、時差に在る追想と追憶の美を求める叙情詩とは裏腹の、丁度貨幣の裏表の関係にあつて表裏一体
もぐら通信
もぐら通信                          ページ56

の、叙事詩のあり方です。

従い、上の引用の前半では、時差、即ち時刻と時刻の き間を「現在進行形の虚無」と言っているのです。さうして、

「いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終わるともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのであ
る。」

といふ此の言ひ方に、15歳の三島由紀夫の詩『凶ごと』の真意があります。それは、次のやうな詩です。傍線筆者。

「凶ごと

わたしは夕な夕な
窓に立ち椿事(ちんじ)を待つた、
凶変のだう悪な砂塵が
夜の虹のやうに町並みの
むかうからおしよせてくるのを。

枯れ木かれ木の
海綿めいた
乾きの間(あひ)には
薔薇輝石色に
夕空がうかんできた……

濃(のう)沃度丁幾(ヨードチンキ)を混ぜたる、
夕焼の凶ごとの色みれば
わが胸は支那繻子(じゅす)の扉を閉ざし
空には悲惨きはまる
黒奴たちあらはれきて
夜もすがら争ひ合ひ
星の血を滴らしつゝ
夜の犇(ひしめ)きで閨(ねや)にひゞいた。

わたしは凶ごとを待つてゐる
吉報は凶報だつた
けふも轢死人の額は黒く
わが血はどす赤く凍結した……。

(『Bad Poems』、決定版第37巻、400∼401ページ)」

[註9]
三島由紀夫の作品はみな、最初の一行が呪文で始まることと、この作者自身の規準による作品の分類は『三島由紀夫
の十代の詩を読み解く26:イカロス感覚6:呪文と秘儀』で実証しましたのでご覧ください:https://
shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_18.html
もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

さうして、西部邁さんといふ方も吃りであつたといふ。『知性の構造』といふ著作は、亡くなつた
後に、複数の識者の褒めて言ふ此の方が1996年57歳の時にお書きになつた著作で、これを
読まうとネットの上であちこちの販売店を幾ら探してもどこも全て売り切れであつたので、これは
相当なる著作であると思ひ、なんとか別の町の遠い図書館に赴いてやつと目を通すことができた。
読んでみると、評判の通りの素晴らしい本で、知性といふ文字に嘘偽りはなく、構造といふ文字に
も嘘偽りはなかつた。これは、この方が吃りといふ有声と有声の間の差異にある沈黙の隙間で書
いた深い洞察の書です。馴れ合ひや出来合いの言葉によらぬ、内輪ぼめなどとはそもそも無縁の、
従ひ見知つたあの顔この顔などを一切思ひ浮かべて書いてゐないこと明らかな、徹頭徹尾論理的
な散文であり、これは言葉と幾何学的な図形による厳格なる文明批評(正確にはKritik、文明批判
といふべきです)であり、日本文化批判(Kritik)です。私は、これこそが批評といふに値する批
評だと思つた。この方は幾何学的な図形を何枚も何枚も重ねて描きながら、長い間これは私的な
思考記録として手元に置いてゐた。多分、いや間違ひなく沈黙の中で思考した思考論理を表(おも
て)に、文字によらずにまづ図形で出すこと、これが18歳まで吃りであつて言葉を発しなかつ
たこの方の最良の生き方であつた。「その吃音は、思考のどもりと並行していた。」西部さんも
小鳥と話のできる方だつたに違ひない。私も二十年間沈黙した。

これで、三人目の吃音者が、そして三人目の吃音者は、自らの命を断つことを、二人目と同様に、
選んだ。私のいふ一人目は安部公房、二人目は三島由紀夫、三人目は西部邁。三人とも呪文で繋
がつてゐる。[註10]

[註10]
もし四人目の、戦後の有名な吃音者の名前を挙げれば、それは田中角栄といふ優れた政治家でありませう。無明にあ
る日本の国民は一体この政治家に何をしたか?日本の国民はー碌でもない20世紀一斉同報型捏造報道マスメディア
がとは、敢へていふまいーこの政治家を文字通りに犯罪者として葬りさつたのである。他の3名がさうされなかつた
とは一体誰がいへやうか?

安部公房の文学について縷々論じて来たやうに、安部公房文学は、topologyといふ幾何学の体を
哲学の衣装で等価交換に包んだシャーマンの文学、呪文の文学です。三島由紀夫の文学も呪文の文
学であつた。西部邁さんといふ方の思想もまた、どの領域で何を論じても、その根底にあるのは
呪文の論理、「その吃音は、思考のどもりと並行していた」のではなかつたか。私にはさう思はれ
てならない。

前二者の死の後に、西部さんといふ方の死が私たちに語ることは、戦後70余年、アメリカの贋
の文物を[註11]、さう金儲けの世界ならば、アメリカ流のプレゼンなどと称するテイのいい、
上つツラだけの、聴衆に合はせて幾らでも同じ文字の言葉を反対の意味に言ひ換へて聴衆を説得す
るやうなタレント(小賢しい才能)の虚しい言葉はもういい、もうたくさんである、70余年日本
人が放擲して来た古代をもう一度思ひ出して、そこへ回帰して、普遍的な言語の起源に立ち帰つて、
あなたの人生の、あなたが誕生した時の初心に立ち帰つて、たとへ吃つてもいいのだから、豊か
な呪文を正直に率直に声明せよといふことではないか。「過ちは二度と繰り返しませぬから」で
もぐら通信
もぐら通信                          ページ58

はなく、過ちであらうと繰り返すことそのことが大切で、生きる命そのものの現れが繰り返しなの
であるからには、私たちが思ひだすべきは、何度も何度も繰り返すこと、言語ならば差異を産み、
呪文を唱へることではないのか。日本人ならば日本語で呪文を唱へることではないのか。言葉の
意味とは差異であり、世界は差異であるのだから。これは宇宙の真理である。どこにも誰にも恥
じることはないのだ。

[註11]
『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)をご覧ください。アメリカの文物と文化の
贋物性について、その正当なる由来と根拠について、それらの特徴について詳細に論じました。一言でこれをいへば、
全てのアメリカ製のものに共通する特徴は「いつでも、どこでも、誰にでも」(卑近な例はインターネットといふ仮
想現実の世界)といふことである。政治もまた然り。経済もまた然り。

私は西部さんとは面識はなく、恥ずかしながら一冊の本も読まず、訃報に接して上記の本を読み、
感動を覚え、18歳まで吃りでありほとんどものをいはない子供だつたと知つて尚感動を覚え、
その死に方を大切にして静かに追悼したいと思つた。

この『言語とは何か II』と題した言語起源論を、個々の専門家の理解の偏りを指摘するほどに素
晴らしく正確に深くヨーロッパの書物を読まれ理解されて、日本語で文字にする「以前に」(安部
公房ならさういふであらう)、自分の思想を幾何学的図形で(それも密かに)著し持つてゐた西部
邁といふ、北海道は長万部に生まれ育つた方の、さうして東京へ出て来る其の間の故郷(ふるさ
と)での18年を沈黙の中に生きた方への追悼文と致し、人生の最後にその円環を自ら潔く閉ぢ
て同じ沈黙といふ故郷(ふるさと)の中へと帰還して行つた、尊い御霊に捧げる。

遠い町の図書館で私はこの本を読んで、読みながら涙を禁じ得なかつた。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 59

安部公房とチョムスキー
(5)

岩田英哉

      目次

青字は前回までに
1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
論じ終つたもの、
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
赤字は今回論ずるもの、
3。バロックとはどういふ時代か
黒字はこれからのもの
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロックの哲学:差異の哲学
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。ラシーヌと三島由紀夫:三島由紀夫とバロック
7。チョムスキーと安部公房:安部公房とバロック
8。バロック人間としての安部公房と三島由紀夫:先の戦後の日本史と世界史に二人の果たした役割と偉業
9。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
(2)ヨーロッパのバロックの概念と定義:ヨーロッパのバロック概念を中心にヨーロッパの17世紀を再帰的に読
み解く
 (あ)政治:ウエストファリア条約
 (い)経済:株式会社の成立
 (う)文化:バロック様式
    ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
    ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
10。イスラムから見た近代史:『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を
読む:イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
11。日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
11.1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
11.2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
11.3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
12。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(0)ヨーロッパ中世スコラ哲学の論理をtopologyで変形させる
  (あ)カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学とカントーショーペンハウアー(超越論)の
     系譜に内在するスコラ哲学を比較して継承と消滅と残存変形をみる
  (い)共産主義の系譜と超越論の系譜に生きてゐるスコラ哲学の論理をtopologyで変形して超越する
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国体への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論:超越論に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
ラシーヌの書いた『ポール・ロワイヤル略史』の本文を読み、巻末の註解を読むと、この時代のポー
ル・ロワイヤル修道院を巡る当時の状況は次の通りです。

(1)16世紀末にはローマ・カソリックの道徳と倫理が非常に乱れてゐた。
(2)当然この風潮に反対し、カソリックの世界を本来の厳しい戒律の遵守を実践することによ
つて改革しようとする人たちがゐた。
(3)その一つがポールロワイヤル修道院である。
(4)この修道院に深い縁のある人間に、修道院にゐるもの、また出入りする人間たちに血縁あ
るものも含めて、パスカルとラシーヌ、それにポールロワイヤル文法を著はした二人、ランスロー
といふ文法学者とアルノーといふ論理学者がゐた。
(5)この修道院の考へ方は、ローマ法王庁の教義に反対するジャンセニズムといふ考へ方に組
するものであつた。ジャンセニズムとは『アウグスティヌス』を著したオランダの神学者ジャンセ
ニウス(1585ー1638)による主張である。
(6)ジャンセニズムは五命題を肯定したが、
(7)この五命題をローマ法王庁は否定をして、ジェンセニズムを異端とし、弾圧した。
(8)この五命題とは、Godによる恩寵と人間の自由意志の関係にあつて、前者を絶対とするか後
者を可能とするか、後者を肯定とするか前者を否定するかを巡る五つの命題であつた。

ジェンセニズムの人間観の一番極端なものは、「人間の自由意志を重視し、むしろ恩寵の存在を
否定している」(同署163ページ)考へから「人間の自由意志が恩寵にあらがったり服従する
ことができるような恩寵」であつたりといふ折衷的なものまであり、当然のことながらローマ法
王庁の教義はこれらの説を異端として弾圧したわけです。

このやうな論争の原因は、上記(1)の宗教的道徳と倫理の紊乱にあるのです。さうして、僧籍に
ある人間が上から下まで堕落をしてゐるので、このやうな人間には果たしてGodの恩寵があり得る
のかどうかといふ議論なのです。僧侶が堕落をすれば、今の日本も同様ですが、普通の人間もまた
堕落をする。と考へれば解りやすい。つまり人間の堕落とは、社会的な身分や宗教的な身分に関
はりなく、金儲けを目的にして生きるといふことであり、世俗とキリスト教がなあなあの関係であ
つた。

(9)当然に、ポールロワイヤル修道院は異端となつて弾圧の対象となつた。僧侶としての戒律規
律を厳守すると、ローマ法王庁に罰せられ弾圧されるといふのも酷い話である。かうして見ると、
パスカルとラシーヌ、それにポールロワイヤル文法を著はした二人、ランスローとアルノーは反骨
精神の持ち主であり、この系譜に連なる後代19世紀のニーチェのやうな反時代的な人間である
ことに繋がつてゐるといふ事が判る。思想といふものの伝へる精神は、やはりかうして見ると、間
違ひなく何代にも亘つて受け継がれるものなのだ。
(10)他方同時並行的に、ローマ法王庁のあり方を全面的に否定したルターが16世紀に起こ
したプロテスタント派に対抗して生まれたカトリック側の対抗勢力イエズス会が、この異端である
とローマ教皇が断罪したジャンセニズムの弾圧の尖兵となつて活動をしてゐた。
もぐら通信
もぐら通信                          61
ページ

(11)従ひ、紛争が起きたのは、次の利害関係者の間である:

①ローマ教皇>大司教>司教>司祭
②ローマ・カトリク法王庁>イエズス会
③ジャンセニズム>ポールロワイヤル修道院

このラシーヌの書いた『ポール・ロワイヤル略史』を読むと、ローマ・キリスト教会が、どのやう
に組織化してヨーロッパ地域を宗教的に支配をして来たかがよくわかります。

修道院といふ隠者の系統を束ねるための階層は、

ローマ法王庁>大司教>司教>修道会>修道院

といふ階層になつてゐる。

このやうにローマ法王庁の組織図をみれば、国々、土地土地で、カソリック教会の組織とそれぞれ
の王と領主の権利と、その国の中に入ると土地土地で階層化された教会に任命された大司教や司
教との軋轢が生じることが、これもまた当然に考へられることである。さうすると、上の階層に
世俗の階層を入れると、次のやうになります。

①ローマ法王庁>大司教>司教>修道会>修道院
②ローマ教皇>大司教>司教>司祭
③ローマ・カトリク法王庁>イエズス会
④ジャンセニズム>ポールロワイヤル修道院
⑤皇帝>国王>領主

これが、要するにユーラシア大陸の西の端ヨーロッパ地域のキリスト教といふ宗教を司るローマ法
王庁と、世俗の政治と経済を司る王との権力争ひの構造なのである。といふ事が、この略史の本
文ではなく註釈を読むとよく判る。本文は、私たち日本人から見ると誠に煩瑣な、宗教と王権の
関係に複雑にある上の階層の利害関係者の、敵と味方と血縁の、これでも略史かといひたいほどの
煩瑣な出来事の歴史なのです。

かういつた構造の上に、17世紀の30年戦争が起きたといふことなのであり、この悲惨なる戦
争のお陰でバロックといふ様式が、文法学、論理学、言語学、哲学、数学、建築学、その他藝術
の領域では文学や美術の領域に優れた人間たちが生まれた。といふことなのです。これらの人々に
共通なる考へ方は次の通りでした。神も仏もあるものか。

(1)世界は差異である(認識論)
(2)価値は等価で遍在する(存在論)
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

さうして、ここからデカルトーカントーショーペンハウアーーニーチェーハイデッガー等々のバロッ
ク哲学の系譜が生まれ続けて、超越論、即ち歴史に進歩などはない、そんなものの考へ方に対抗し
て全く正反対に安部公房の新象徴主義哲学といふバロック哲学の超越論に基づく逆進化論、即ち
私たち日本人の感情と論理に沿つた「弱きを助け、強きを挫く」といふ弱者の救済を伝へ、これ
に反するカントーヘーゲルーマルクスーフランクフルト学派ーGlobalismといふ進化論、即ち弱肉
強食の系譜、即ち金の力に任せて無道徳無倫理にも「弱きを挫き、強きを助ける」といふあるま
じき世界的勢力と対立して、二十世紀までは後者が優勢であつたものを、二十世紀末/二十一世紀
の初頭から、あの2001年9月11日を境にして、混乱は続いてゐるものの、既に前者が優位に
立ち始めたといふのが、1951年生物の遺伝子の二重螺旋構造発見以来全地球的にバロック紀
元の現下の情勢であるといふのが、この論考でも種々論じて来た私の見立てでありました。

ラシーヌとポール・ロワイヤル修道院の関係を略史の「訳者あとがき」より引用します。これを読
みますと、この劇作家で著名な人物の実際の人生が、三島由紀夫の人生と虚構の小説や劇の世界
に通じてゐる事がわかります。これに共鳴するところが大いにあつて、三島由紀夫はラシーヌの『ブ
リタニキュス』を共訳の形で翻訳して上梓したのではないでせうか。共通するところを以下に挙げ
ます。

(1)ラシーヌは孤児であつた。
(2)祖母が実質的な母の役割を演じた。
(3)ラシーヌの劇は、一つの喜劇を除き全て悲劇であつて、
(4) 恋に呪はれた女 がつきものの悲劇であつた。(『フェードル』内藤濯(ないとう あろう)
訳、岩波文庫訳者後書き)

「ラシーヌ家とこの修道院との関係は深い。祖母のマリー・デムーランは看護修道女、彼女の娘、
アニュスはラシーヌの晩年、女子修道院長に就任している。(略)祖母は実質的な母として、おば
はもっとも近い肉親の一人として、孤児であったラシーヌの幼少期に決定的な痕跡を残している。
そしてラシーヌ自身、ポーヴェで初等教育を終えると、二人の後を追うように一六五五年、ポール・
ロワイヤルの「小さな学校」に入学する。ラシーヌは一六五八年までここにとどまってニコル、ラ
ンスロ、ル・メールといった17世紀フランスの一流知識人から教育を受けることになるが、こ
の間、官憲の弾圧による「小さな学校」の閉鎖(一六五六)という生々しい現実を体験する。本
書でもこの青春の体験は、感情を押し殺した歴史的編纂官の眼で冷静に言及されてゐる。」
(同書173∼174ページ)

(つづく)
もぐら通信
もぐら通信                          63
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(22)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXII

Wir sind die Treibenden.



Aber den Schritt der Zeit,

nehmt ihn als Kleinigkeit

im immer Bleibenden.

Alles das Eilende



wird schon vorüber sein;

denn das Verweilende

erst weiht uns ein.

Knaben, o werft den Mut



nicht in die Schnelligkeit,

nicht in den Flugversuch.

Alles ist ausgeruht:



Dunkel und Helligkeit,

Blume und Buch.

【散文訳】

わたしたちは、何かを追い立てる者、急(せ)き立てる者だ。
しかし、時間の前進を、小さい取るに足らぬこととして
いつも留まっているものの中で捉えなさい。

すべて急ぐものは、必ず既に過ぎ去ったものとなる。
何故ならば、留まるものは、まづ最初にわたしたちを
祓い清め、神聖にするからだ。

少年たちよ、ああ、勇気を
速度の中に、空を飛ぶ試みの中に
投げ入れてはならない
もぐら通信
もぐら通信                          64
ページ

すべては、休息しているのだ。すなわち、
闇と明るさ
華と本

【解釈と鑑賞】

今度は、前のソネットとは打って変わって、言ってみれば、大人の世界。リルケの連想は反転す
る。

悲歌5番の冒頭の第1行に見るような、何々するものという言い方をして、わたしたちを定義し
た、これが冒頭の第1行。

近代文明は、リルケの嘆いた方向へとますます進展してきた。交通機関も発達し、わたしたちは
超音速の飛行機を飛ばしてしまって、世の中はますます忙しくなり、急きたてられて、また急き
たてている人間たちよ。

しかし、宇宙は、もともと、そのバランス、均衡を考えれば、休息しているものなのだ。

闇と明るさ

といったように対照的に。

華と本

といったように、ネスト構造、入籠(いれこ)構造で、安定して。

華の最たるものを、リルケは薔薇の花に見ていたことは、既に悲歌でも見た通りです。その薔薇
がどのような構造を象徴しているとリルケは見たか、それは、リルケの空間論で論じたところで
した。興味ある方は、次のURLアドレスへ。ご覧いただけるとうれしく思います。

http://shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html

【安部公房の読者のためのコメント】

1。対比的な言葉の使ひ方
これは私たち人間がものを考へる場合の基礎的な、基本的な対照です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ65

(1)追い立てる者、急(せ)き立てる者:いつも留まっているもの
(2)急ぐもの:留まるもの

この相反するもの均衡を保つのが子供だとリルケは、最後の連を見ると、さう言つてゐる。さ
うして、あなたがさうであつたのかも知れないやうに、あなた自身が追い立てる者、急き立てる
者になるのではなく、急ぐ者になるのではなく、さうではなく反対に、いつも留まつてゐる者、
留まる者になりなさいと言つてゐる。

リルケの超越論といつて良いでせう。何故ならリルケも存在を歌つた詩人であるからです。

超越論とは、かうして見ると、宇宙のバランスをとる考へ方であるといふことができます。その
均衡の中心は不動で、とはいへ荒々しいものでも仰々しいものではなく、休息してゐるものであ
り、静かなものであるからだ。

2。未分化の実存

少年たちよ、ああ、勇気を
速度の中に、空を飛ぶ試みの中に
投げ入れてはならない

といふ最後の連をを読むと、未分化の実存に急ぐことを戒めてゐる。しかし、この詩の読者は大
人でありませうから、大人には少年であることを思ひ出せといつてゐることになります。

私たちは勇気を失つてしまつたのであらうか?さうであれば、今日より早い日はない。勇気を
思ひ出せ。と、言つてゐるやうに思はれる。

3。対比語と同類語

闇と明るさ
華と本

これまでに歌つて来たところを最後のところで対比を言ひ、

闇と明るさ

その次に、類似のものを持つて来て、

華と本
もぐら通信
もぐら通信                          66
ページ

と締める。

最後の「華と本」はドイツ語で

Blume und Buch:ブルーメ ウント ブーフ

と読んで、ブルーメとブーフのそれぞれの語頭のブが頭韻を踏んでゐます。韻をふむといふのは、
つまり、繰り返しとして(リフレイン)美しく響くといふことです。

最後の二行は、対比語と同類語を一行づつ並べ置いて、リルケのいひたいことは、

すべては、休息しているのだ

といふことでありませう。

何故ならば、留まるものは、まづ最初にわたしたちを
祓い清め、神聖にするからです。
もぐら通信                         

もぐら通信 67
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ68
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 69
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語と言霊の関係
(68)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(69)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(70)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(71)安部公房の超越論と神道(1):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(72)安部公房の超越論と神道(2):topologyと産霊(むすひ)または結び
(73)安部公房の超越論と神道(3):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(74)安部公房の超越論と神道(4):呪文と祓ひ・鎮魂
(75)安部公房の超越論と神道(5):存在(ザイン)と御成り(をなり)
(76)安部公房の超越論と神道(6):案内人と審神者(さには)
(77)安部公房の超越論と神道(7):汎神論的存在論と分け御霊(わけみたま)
(78)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(79)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(80)安部公房とチョムスキー
(81)三島由紀夫のドイツ文学講座
(82)安部公房のドイツ文学講座
(83)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(84)安部公房のドイツ哲学講座
(85)火星人来日記
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記
ページ 70

●『カンガルー・ノート』論(12):5.1.4.1 寓話とは何か:寓話とは何かを追加して
論じたのは、石原何某といふ早稲田大学の教授職にある人間が、安部公房の小説は寓話とし
て読めばそのまま論文になるから、論文のかけない学生には安部公房をすすめてゐるといふ
発言を、おいこんなツイートがあるぞと人に教へられて読んで驚き、こんな人間でも教授職が
務まるのか、そんな馬鹿なと再度驚いて、反論を書いてみようかと思つたが、馬鹿馬鹿しい、
時間が勿体無いと思つて打ちやつてをいたところを、その後tweets上に安部公房の愛読者た
ちの嘆きのツイートとリツイートのあるのを幾つも発見して、それはさうに違ひないと思ひ、
それでは寓話とは何かを根本から論じてみよう、さうすれば瓢箪から駒、災い転じて福となす、
禍福はあざなへる縄のごとし、安部公房文学の理解の一助になるだらうおもつて論じた次第
です。しかし、誰かのツイートにもありましたが、何より学生が可哀想である。石原何某の処
女評論は夏目漱石論のやうであるが、それならあんた、我輩は猫であるの猫の話は寓話か?
寓話として読むと論文が書きやすいので夏目漱石を選んだのか?それとも寓話ではなく難し
い話なので夏目漱石を選んだのか?だったら何故その読解の方法を学生に教へないのか?
と、まあ、これ以上嫌味をいふだけ時間の無駄。
●言語とは何か II:言語起源論:これは西部邁さんへの鎮魂の追悼文です。そして、ここまで
日本の窮状が酷いものになると、私のといふよりも、誰が見てもさうだらうといふ言語起源
論をヨーロッパの近代の言語起源論と比較し、哲学の系譜とも平仄を合はせて遺漏なきを期
し、論じた次第です。ご冥福を祈ります。しかし私たちはこの酷い時代を更に生きなければな
らない。
● 安部公房とチョムスキー(5):5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ:キリスト教
徒がGodは一つしかないのではないと考へられて毎日の生活に不安なく生きて行けたら、即
ちローマ法王庁の教義(ドグマ)を否定して生きる手立てがあれば、無宗教→虚無主義(ニ
ヒリズム)に陥らぬための方途があれば、この地域での騒乱は収まる筈です。それにはそれ
ぞれの民族の古代の神々の復活が最適解だと私は思ふ。しかしこの選択をするのは彼の地の
諸国民であつて、余計なでしやばりは僭越である。私たちは私たちの分を守り身を護るべし
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(22):幼年期こそあなたの人生の謎を
解く鍵です。安部公房は心中に深く秘めて隠した。これもまた人生です。
●では、また次号。

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0 次号の予告
03東京都
調布
市若葉町「 1。『カンガルー・ノー
閉ざされた
無 ト』論(13): 5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
限」
2。火星人特派員地球滞在報告記
3。私の本棚:建築家磯崎新のエッセイ『第四間氷期』を読む
4。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(23)
5。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          71
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第76号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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