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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2019年3月1日 第78号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 化娘(語り) 私は、波のあいだを、どこまでも流れて行きました……
ただ を通
けの って
番地 『お化けが街にやって来た』(全集第14巻、9ページ上段)
に届
きま

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(13):5。2 呪文を唱える:第2章 緑面の詩人:岩
田英哉…page10 
3。私の本棚:磯崎新『第四間氷期』:建築家の論じた安部公房…page60
3 安部公房とチョムスキー(6):4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持
つ冗長性とは何か:岩田英哉…page 59
4 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(23)∼安部公房をより深く理解するため
に∼:岩田英哉…81

5 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 65
6 編集後記…page 89
7 次号予告…page 89

・本誌の主な献呈送付先…page90
・本誌の収蔵機関…page 90
・編集方針…page 90
・前号の訂正箇所…page90

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10

en M
ole くぶとすりㅤ@ana_boko
Gold
Priz
e 2月17日
安部公房だ

o le
er M
Silv らじ子(脱無職)@razy13 9時
e
Priz
間 9時間前
安部公房が好きで知人にすすめるもだいたいわかっ
てもらえないという人生だったんだけどはじめて「安
部公房おもしろいですね!」と言ってくれた人とんで
もない公房フリークになっていた…

orgeLuisBorangutan@bigfoot_0202 10時間 10時間前


先週みた『密猟妻 奥のうずき』とおなじく『ズームアッ
プ ビニール本の女』もロケ(と美術)がすばらしい。羽田近辺の荒涼とした埋立
地や廃墟と化した工場での撮影はお見事。安部公房やバラードを思わせる光景

misty@misty882311 2月17日
安部公房『カンガルー・ノート』一気に読み終えた。なんだこの小説は!

今月の豚
トレイデス@atoreides 2月16日
奥野健男『三島由紀夫伝説』の文学者たちのパーティのくだりを読み返していて、
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三島由紀夫宅でのパーティと共に、安部公房が開いたパーティーについても触れ
られているのを見かける。安部、豚を一頭丸焼きにして客を したのだとか。 
小説作からの作者イメージと一寸ズレたもの感じられて、ハッと。
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The worst tweets 10


糖類の上@tinouye 2月14日
Amazonの表記だけでなく、講談社の自社サイトでさえ誤植しているアホさ加
減。。。安部公房を誤変換するって、どういう入力のしかたしとんねん!!w
pic.twitter.com/kN8d8AFAJa

立川志らべ@TATEKAWASHIRABE 2月21日
前座さんが開高健も安部公房も知らないということを知って、かるーくショック
を受ける夜。

ぶらりちゃん@BlogBurari 2月21日
父が、安部公房の本を捨てると言うので、
貰い受けました。

今月の書評
こはる @koha___kohha 2月26日
今回の書評は、安部公房の「壁」です!
安部公房さんの作品面白しろかったから、何か買いたいんだけど、オススメとか
ありますか

今月の『燃えつきた地図』や『密会』
JorgeLuisBorangutan@bigfoot_0202 2月24日
シネロマン池袋で『密猟妻 奥のうずき』。安部公房
の『燃えつきた地図』や『密会』をアダプテーショ
ンしたような観念的ポルノグラフィ。

今月の箱男
見習いたん @chantoneru 2月14

安部公房の箱男を思い出す。

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今月の朗読会
朗読者 in the world@roudoku_sha 2月21日
朗読者 in KAWAGUCHI vol.16
#安部公房「詩人の生涯」(新潮文庫「水中都市・デンドロカカリヤ」所収)
2018年4月21日22日
於KAF GALLERY @KAF_artkouba
演出 #北川原梓
出演 #奈佐健臣 (#大沢事務所)、#河崎純(コントラバス)

柴田望@NOGUCHIS7 2月15日
『メディアあさひかわ』3月号
に《東鷹栖安部公房の会》の
活動、大きく紹介されておりま
す☆
*
p151 「東鷹栖安部公房の会」
が3回目の朗読会
   音と映像で短編『水中
都市』読み進める

p189 談話室−ひと・はなしー
「安部公房」

今月の『けものたちは故郷をめ
ざす』
ホッタタカシ@t_hotta 2月24

安部公房 『けものたちは故郷
をめざす』が新潮文庫に復活.

安部公房 『けものたちは故郷をめざす』 ¦ 新潮社


ソ連軍が侵攻し、国府・八路軍が跳梁する敗戦前夜の満州。敵か味方か、国籍さ
えも判然とせぬ男とともに、久木久三は南をめざす。氷雪に閉ざされた満州から
の逃...
shinchosha.co.jp
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今月の『内なる辺境』と『都市への回路』
ホッタタカシ@t_hotta 2月14日
去年の7月発売予定が延期になっていた、安部公房『内なる辺境』と『都市への回
路』の合本文庫は来月発売とのことですが、はたして無事出るのでしょうか?
【内なる辺境/都市への回路】

内なる辺境/都市への回路
書くことには集中があり、対話には挑発があり、談話には自由がある――。現代
の異端の本質を考察した連作エッセイ「内なる辺境」
honto.jp

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月16日
〈オブジェ〉達の革命 : 花田清輝と安部公房「壁 : S・カルマ氏の犯罪」 http://
ci.nii.ac.jp/naid/120005724052 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月16日
予言=権力 : 安部公房『第四間氷期』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/40019842612 …
『方舟さくら丸』論--二つの<穴>,あるいはシミュラ-クルを超えて (特集 安部公房--
ボ-ダ-レスの思想) -- (作品の新しい顔) http://ci.nii.ac.jp/naid/120002165397 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月15日
〈中折れ〉してしまう記述者 : 安部公房『他人の顔』試論 http://ci.nii.ac.jp/
naid/110009432959 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2月15日
〈オブジェ〉達の革命 : 花田清輝と安部公房「壁 : S・カルマ氏の犯罪」 http://
ci.nii.ac.jp/naid/120005724052 …

hirokd267@hirokd267
安部公房の広場2月16日
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【安部公房関連論文】
岩本知恵「自他境界は欲望するー安部公房「飢えた皮膚」論ー」
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もぐら通信                           ページ 7

「立命館文学」第652号 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/652/652PDF/
Iwamoto.pdf …
関西安部公房オフ会のメンバーが安部公房の研究を続けておられるのがうれしい
です。

今月の壁と桂川寛
トムジィ@tomzt1026 2月18日
安部公房の『壁』の挿画をしてた桂川寛の作品を近代
美術館で観た。『壁』は高校生の頃に夢中で読んだ
作品だったので、「とらぬ狸」のイラストがすごく懐
かしかった。

今月の寓話
misty@misty882311 2月17日
僕は安部公房の『壁』が好きすぎるやつです。S・カルマ氏の犯罪、あれ完璧な寓
話だと思うなあ。そんなわけでプチ安部公房読書期間です。

猫の踵(140字小説)@DEELVLkuROM7Ud5 2月14日
返信先: @chirigamittyさん
安部公房は僕が読書好きになるきっかけになった作家ですね。赤い繭(教科書に載っ
てました!)だったんですが衝撃的でしたね。存在のあやふやさや不条理感にやら
れました。安部公房の比喩ですか。うん、なるほど…こういう話は面白いな。

今月の『なわ』
有川オレガ@orega2061 2月14日
小島監督に触発されて超久々(10年以上ぶり)に安
部公房『なわ』読了。 の多い短 。不思議な小
説だ。解説を読んでもよくわからない。この「
の多い」という感想をさっき金子修介監督『1999
年の夏休み』でもツイートしたが、これは作者自
身にも なのかもしれない。ゆえに作者には長い
格闘がつづく。

今月の読書会安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


真夏 日和@MilkBanan 2月17日
安部公房『他人の顔』読書会ちゅう。男のひとの感想はやっぱり女のひとと違う
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なぁと思う。やっぱり顔をかえても身体で分かるやろって、女性の意見(笑)

ひねもすのらり@naughty_clouds 2月16日
母と娘で安部公房週間

今月の読書感想文
G.T.@R_type_delta 2月15日
【壁 (新潮文庫)/安部 公房】を読んだ本に追加 → https://bookmeter.com/
books/580836 #bookmeter

Takashi Wada@tw1963 2月14日


【本棚登録】『安部公房とわたし』山口 果林 http://booklog.jp/item/1/
4062184672 … 本棚登録なう。 #booklog

真夏 日和@MilkBanan 2月14日
やっと読み終わった。時間かかりました。終わり間近まで主人公の幼稚な自分勝
手さかげんにムカついて仕方なかっ...『他人の顔 (新潮文庫)』安部 公房 ☆2
http://booklog.jp/users/milkchiaki/archives/1/410112101X … #booklog

今月の箱根
一個人編集部@ikkojin_mag 2月16日
安部公房が晩年を過ごした箱根に来ています。公房はこの地でどんな日々を送っ
ていたのでしょう。
来月発売の#一個人 4月号では「文士と画家
が愛した宿」を大特集します!

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倉垣吉宏@kanivasami_kura 2月14日
倉垣吉宏さんが舞台芸術創造機関SAIをリツイートしました
そして本日より
次回公演の稽古開始。こちらは麻宮チヒロが演出として、本格的に挑戦する新作
です。
空白の時代に生きた劇作家:安部公房の思想を現代にアップデートする試み。上演
と言う名の儀式。
新作【箱男からの思想】はチケット絶賛発売中!!!
http://stageguide.kuragaki-sai.com/guide/av01boxman/

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『カンガルー・ノート』論
    (13)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

2。『カンガルー・ノート』の呪文論 青字は前回までに
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 赤字は今回論ずるもの、
3。1 章別・記号分類 黒字はこれからのもの
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
もぐら通信
もぐら通信                          11
ページ

(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
5。2。1 (1)冒頭共有
5.2。2 (2)結末継承(大)
5.2。3 (3)結末継承(小)
5.2。4 (3)シャーマン安部公房の秘儀の式次第
5.2。4。1 (1)差異を設ける
5.2。4。2 (2)呪文を唱える
(A)呪文らしい呪文
(B)地の文の呪文
(C)3回の呪文の後に登場する者
5.2。4。3 (3)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
(B)存在の始め
(C)存在の終はり
5.2。4。4 (4)存在への立て札を立てる
5.2。4。4。1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』
(A)何故『大黒屋爆破事件』といふ小説が怪奇小説なのか
(B)怪奇小説『大黒屋爆破事件』の作者と註解者の再帰的な関係
(C)「僕の中の「僕」」の話法を記号論で読み解く
(D)《縞魚飛魚》といふ名前の由来
(E)烏賊とは何か:烏賊の存在論
(F)怪奇小説『大黒屋爆破事件』の超越論的時間
(G)存在の記号『 』と[ ]の位置関係
(H)《縞魚飛魚》といふ因子を上の記号的存在の世界に入れてみる
5.2。4。5 (5)存在を荘厳(しょうごん)する
5.2。4。6 (6)次の存在への立て札を立てる

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
もぐら通信
もぐら通信                          12
ページ

5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****

(以下次ページへ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ13

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
この章の作品全体の中での位置を確認してから本題に入ります。

(ページは皆全集第29巻のページです。)

「4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に従ひ、秘儀の式次第の6つのプロセスに即して、
これを各章に割り当てれば、次のやうになります。

(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根
(2)呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
(3)存在を招来する:第3章:火炎河原;第4章:ドラキュラの娘
(4)存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
(5)存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:鎮魂歌
(6)次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌」

結末継承は重複を厭はずに再掲して、各章の全体をそれぞれ見直し理解するために、次の順序
で再度各章の全体を提示したい。この様式的な順序は最後の7章まで以後通用する順序としま
す。第1章かいわれ大根では、最後の第7章人さらいまでの存在を巡る大事な形象を主体にし
て、最初に作品全体の構造を明らかにしましたから、今度は個別各章から見た各章共通の構造
から作品全体の繋がりを見てみようといふのです。

「1。結論:この小説には何が書いてあるのか」の「1。1 様式について」で明らかにした
作品の様式が、全ての章を通じて縦断する一定の此の考察を可能ならしめてゐます。

結末継承[註1]は、「(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)」(以下「結末継
承(大)」といふことにします)と「(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)」(以
下「結末継承(小)」といふことにします)を各章ごとに大小引用し、加へて冒頭共有[註
1]を続けて明らかにし、次に「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」といふ順序で論じま
す。作品に登場する存在を巡る形象については、必要な場合以外、再度の引用はしません。都
度「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」をご覧ください。

(1)冒頭共有
(2)結末継承(大)
(3)結末継承(小)
(4)シャーマン安部公房の秘儀の式次第(冒頭共有は重複するので省きます)

[註1]
『デンドロカカリヤ(前篇)』(もぐら通信第53号)より、冒頭共有、結末共有、結末継承の定義を引用します:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 14

(1)冒頭共有の定義
冒頭共有とは、安部公房の全ての作品が、作品の最初に時間と空間の差異を設けることで、その差異と其の交差点
を冒頭に共有してゐることを言ひます。

交差点(存在の十字路)に呪文類[註A]とともに存在が現はれる。結末共有があれば、冒頭共有があり、冒頭共
有があれば結末共有があるといふtopologicalな等価交換の接続関係が、安部公房生涯の作品群を無時間で、即ち
時間を捨象して構造化してゐる。これによつて空間的には作品群がtopologicalな接続関係の集合、即ち存在になる。
時間的には結末継承によつて作品群は同様に時系列的に、しかし更に同様にtopologicalに連続的・非連続的に接
続されて、メビウスの環(二次元)の又はクラインの壺の接続面(三次元)によつて螺旋構造で接続されて、垂直
方向の接続、即ちやはり同様に時間のない方向へのtopologicalな接続関係の集合、即ち存在になる。

(2)結末共有の定義
結末共有とは、安部公房の全ての作品が、互いに透明感覚を結末に共有してゐることを言ひます。

全ての作品は、リルケに学んで自家薬籠中のものとなした此の透明感覚を結末に共有してゐる。透明感覚とは、存
在となつた主人公の意識の姿を、そのものとして象徴的に表してゐる。その色が透明の、色なき色であり、リルケ
に安部公房が学んだ「沈黙と余白の論理」又は「空白の論理」の上にある感覚であり、感情である。

(3)結末継承の定義
結末継承とは、前作の結末を次作の冒頭で継承すること、後者の冒頭が、前者の結末であることを言ひます。

この接続関係についても、topologyに基づくので、相互に正反対の又は両極端の連続的・非連続的な接続であつて、
肯定と否定、陰と陽、上と下、左と右、臭気と消臭等々といつたメビウスの環(二次元)の又はクラインの壺の接
続面(三次元)によつて螺旋構造で接続されて、垂直方向の接続、即ちやはり同様に時間のない方向への
topologicalな接続関係の集合、即ち存在になる。

[註A]
「2。『カンガルー・ノート』の呪文論」(もぐら通信第66号)に従ひ、呪文類の定義は次の通り:

「(1)呪文:安部公房が(リルケに学んだ)存在の交差点にある、存在の凹(窪み)に存在を招来するための
繰り返しの言葉。安部公房文学の場合、普通の日常語が繰り返しの言葉として使はれて、これが呪文の役割を演ず
るので、これも本来は呪文の中に含めるべきですし、さう致しますが、しかし、ここでは特にカタカナで書かれた
繰り返しの言葉を呪文として考へます。このカタカナの呪文の書き方は、奉天の小学生の時に書いた「クリヌクイ 
クリヌクイ」の詩のカタカナ表記と、それとまた言葉と言葉の間に(沈黙と余白の、即ち「空白の論理」に従つて)
一文字の空白を置くといふ書き方も、最晩年の此の作品でも変はりません。代表は、ハナコンダやアナコンダの呪
文、満願駐車場のアナコンダ地蔵尊のお告げ、「オタスケ オタスケ オタスケヨ」の呪文または此の一行で始ま
る二行の呪文です。
(2)古謡:いつとは知られぬ日本の古い時代からの歌謡。作中では「通りやんせ」といふ童歌(わらべうた)が
歌はれてゐる。代表は、「通りやんせ」です。「空白の論理」に従つて安部公房が最初の二行を残してその余の行
を余白と沈黙に置いたことが共通してゐる二種類の通りゃんせ、即ち、地の文に歌はれる「通りゃんせ 通りゃん
せ」の歌と存在に関係して歌はれる『通りゃんせ 通りゃんせ』の二種類の通りゃんせがあります。
(3)御詠歌:日本民族の深層心理の古層から生まれ、仏教の語彙を使つて歌はれた仏教歌で、日本人が其の心と
意識の根源に古代的・土俗的に持つてゐる叙情を歌つた歌謡。代表は、第3章の火炎河原の章にある、存在を招来
する呪文としての御詠歌です。
(4)詩:日本近代文学史上、萩原朔太郎が創始し確立した口語自由詩。代表は、第7章の人さらいの歌です。安
部公房の詩です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

これら4つの歌を、ここでは便宜上、呪文類と呼ぶことにします。

さて、しかし、安部公房の詩文の類は、喪はれたものを悼み、これを鎮魂するための呪文の性格を濃厚に有してゐ
ます。『終りし道の標べに』のエピグラフに書かれた金山時夫の死への追悼文は、死者を鎮魂し死者を蘇生させて
招来するための呪文であることは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』
(もぐら通信第32号及び第33号)に、また『旅と鎮魂の安部公房文学』(もぐら通信第65号)に詳述した通
りです。

さて、この作品に呪文類の出てくる章は、次の通りです。

(1)第1章:かいわれ大根:呪文
(2)第2章:緑面の詩人:呪文
(3)第3章:火炎河原:御詠歌、呪文
(4)第4章:ドラキュラの娘:なし。空白の章。
(5)第5章:新交通体系の提唱:御詠歌、古謡
(6)第6章:風の長歌:呪文
(7)第7章:人さらい:詩、呪文

第4章のドラキュラの娘に呪文の唱へられないのは、存在の凹の空間、即ち存在の交差点、存在の十字路がなく、
脱出するための閉鎖空間がないからです。即ち、第4章は、次の存在との上位接続(conjunction)の場所ではな
いことを示してゐます。以下にもう少し仔細に見てみませう。(略)」

しかし、まあ、一体安部公房は何のために此のやうな個々の作品と作品群全体をこれほどまで
に構造化したのかといふ問ひ対しては、次の答へ以外の答へはない。といふ以外にはありませ
ん。といふ以外にはないと3回呪文のやうに繰り返す以外にはありません。以下「5。1。4。
1 寓話とは何か」より引用します:

安部公房の名付けた新象徴主義哲学といふ「この哲学とは『詩と詩人(意識と無意識)』に拠
つて簡潔に言へば、二項対立の両極端の項を否定して、自己喪失による記憶の喪失を代償に(こ
の否定の中に自分自身の否定を、この否定とは自己喪失と記憶喪失と意識喪失のことにほかな
りませんが、このやうな否定を含むといふことです)、果てしない垂直方向(時間の存在しな
い方向)に次元展開を繰り返した果ての究極に観る(自己の反照としての)第三の客観、即ち
存在の創造をするといふ方法論でありました。ここで

(1)観ることと
(2)自分自身が存在になることと
(3)存在自体の出現

これら三つが一つになつてゐます[註2]。ここにも3といふ数字があります。
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もぐら通信                          ページ16

安部公房の、これが創作の秘密であり、一生を貫く創作のための方法論です。これは、コン
ピュータの基礎であるブール代数による二進数の論理演算の論理によれば、否定論理積といふ
論理に当たります。これが、一生の安部公房の生きる論理であり、安部公房の「現代の実存哲
学とは一寸異つた実存哲学」であるのです。

[註2]
(1)観ること
これもリルケに学んだ事です。以下中埜肇宛書簡より引用します:

「中埜君、
御變りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて參りました。永い旅でした。丁度リルケがロダンから學んだ如
く、僕もリルケから「先ず見る事」を學びました。」(『中埜肇宛書簡第5信』全集第1巻、92ページ)

安部公房の詩に『観る男』といふ詩がある。(全集第1巻、133ページ)ここには、既に「明日の新聞」が「書
き了へた」「未来の日記」とし出てくる。

また、汎神論的存在論の形象(イメージ)が、後年の海や洪水などに通ずるものとして、次のやうに歌はれてゐる。

「此の果てしない存在にとりかこまれて、あふれ出た透明な涙を両手に受けるのは…… ?唯一未来の日記を書き
了へた時に……。」

此の詩には、これ以外にも、転身、沈黙、「僕の中の「僕」」の話法、出発、忘却といふ、安部公房文学にとつ
て本質的な用語が書かれてゐる。

(2)自分自身が存在になること
「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐ら
く僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存在
自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言ふ事が
必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」
(『中埜肇宛書簡第8信』(1946年12月23日付)、全集第1巻 188ページ下段)」

(3)存在自体の出現
『詩と詩人(意識と無意識)』より引用します。ここでいふ第三の客観こそが、安部公房のすべての主人公の最後
に観る究極の存在のことなのです:

「 諸々の声は吾等の魂が夜の本質にふれた所から始まる。それが様々な次元に展開されて言葉となる。それは自
己否定=自己超越の形を以て意識の中に捉えられる。物それ自体、云い代えれば夜の直覚が展開する自体として或
種の象徴的予感を産みつける。その中にこそ実存的意義を失わない、客観なる言葉を生み出した本源的な内面的統
一に反しない、第三の客観が覗視されるのではないだろうか。
 如何なる表現も主観を通してのみなされ得ると云う事は明かである。主観的体験のみがあらゆる意識を言葉たら
しめるのである。そして当然、生存者としての人間各個の内面的展開次元の相異に従って、その言葉の重さ(含ま
れている次元数)の相異が考えられる。主観はその魂の夜の本質にふれる程度によって様々な重さを持つ。
 では此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。その時人間の魂は限りない夜
への切迫を体験するのである。夜の直覚は単なる概念ではなくなり、行為・体験・方法の中に現実的な姿を表すの
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

である。そして、此の永遠の距離を以てはるかへだたっている究極を、吾等は第三の客観として定義する事は出来
ぬものであろうか。」
(全集第1巻、107ページ)」

この作品に特有の呪文類については既に次に挙げる章にて詳細な分析と統合をして解説しまし
たので、この章では敢へて言及はしませんので、知りたい場合にはこれらの章を参照下さい。

(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?

さて、やつと本題に入ります。できるだけ枝葉は省き、本題の幹のみを即物的に挙げて行きま
す。

5。2。1 (1)冒頭共有:(1)差異を設ける
   ①時間の差異:「坑道口に投げ捨てられたのは、つい二十分ほど前のことである。」(9
8ページ上段)
   ②空間の差異:「最初しばらくは急斜面が続き」(98ページ上段)(傍線筆者)

5.2。2 (2)結末継承(大)
トンネルまたは坑道によるtopologicalな接続。トンネルはバロックの形象。

5.2。3 (3)結末継承(小)
第1章かいわれ大根から第2章緑面の詩人への結末継承の接続

     第1章かいわれ大根          第2章緑面の詩人
(A)「移動者がバックで坑道を降りはじめた」:「坑道口に投げ捨てられた」  
(B) アトラス社製のベッド:         アトラス社製のベッド 

この(A)(B)の対照は、

(A)については、第1章は移動者の意志で能動態で積極的に、第2章は移動者が受動態で消
極的に、それぞれ行動を降り、投げ捨てられた。
(B)については、共に同じアトラス社製のベッド
もぐら通信
もぐら通信                          18
ページ

となつてをり、(A)は非連続、(B)は連続といふメビウスの環の一捻りが効いてゐる。

5.2。4 (3)シャーマン安部公房の秘儀の式次第
5.2。4。1 (1)差異を設ける
上記「5。2。1 (1)冒頭共有」の通り。

下記(1)から(3)の甲高い音の鳴り響く前後を調べますと、「シャーマン安部公房の秘儀
の式次第」からは当然のことながら、差異を設けた後、甲高い音を巡つて各章単位でも次のや
うな順序で書かれてゐることが判ります。3回の音の反響に合はせて、次の順序が一つの様式
上の単位として3度繰り返されるのです。

(1)立て札を立てる
(2)呪文を唱へる
(2.1)甲高い音が鳴り響く

本来は「甲高い音が鳴り響く」は、「(2)呪文を唱へる」の一部ですから、このやうに数字
で順位を表しましたが、しかし、その様式上に占める重要性、即ちいつも(立て札、呪文、甲
高い音)といふ、3つとも等価で一単位を構成してゐるので、敢へて次のやうに番号を振るこ
とにします。

(1)立て札を立てる
(2)呪文を唱へる
(3)甲高い音が鳴り響く

これが存在を招来するための一式といふわけです。

さうして、この一式がこの順序で3回繰り返されると、存在の招来に至り、ここで存在の始め
が始まり、この始めに対応することとして、存在の終はりが章の最後に書かれる。以後一つの
章の中で、存在への立て札を立てる→存在を荘厳する→次の存在への立て札を立てる、といふ
順序もまた構造上は作品全体の大きな7つの章と同じです。

これは、安部公房が他の章でも、また作品全体としてでも為した構造化であり、3といふ数字
を使つて存在の小説を構造化した(となれば、3といふ数字は存在の数字だと断言しても良い
でありませう)といふことが、やはり言へます。

これだけ3をふんだんに使つた構成であれば、安部公房の小説そのものが、どの小説も、実は
呪文ではないのか?[註3]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

[註3]
『5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論』(もぐら通信第76号)の「(24)『カンガルー・ノート』
の中の3といふ数」をご覧ください。詳述しました。

5.2.4.2 (2)呪文を唱える
安部公房の唱へる呪文には単に繰り返しといふ視点だけではなくて、らしさといふ視点から見
直しますと、二種類の呪文があることが判ります。それは、地の文の呪文と呪文らしい呪文の
二つです。

(A)呪文らしい呪文
最初の立て札の後に:
   ①「ハナコンダ アラゴンタ アナゲンタ
     唐芥子ノ油ヲ塗っテ バナナノ皮デクルミマス」(100ページ上下段)
   ②「アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ
     唐芥子ノ油ヲ塗ッテ バナナノ皮デクルミマス」(100ページ下段)
   ③「アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ……」(101ページ上段)

(B)地の文の呪文
一つ目の甲高い音の後に:「金切り声をあげて車輪が軋り、ベッドがジャンプした。」:(9
8ページ下段)
①「膀胱にも蜘蛛の子をちらすような刺激」:膀胱は袋。存在の袋または袋といふ存在の形象
と(第1章の冒頭のかいわれ大根による「蟻走感」と同様に)「蜘蛛の子をちらすような刺激」
といふ繰り返しの触覚が書かれてゐる。(98ページ下段)

二つめの甲高い音の後に:「甲高い警笛の断続。」(101ページ下段)
②「波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか?櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁をた
たく水のおと、まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だしとそっくりじゃないか。バンド
内の紛争でロジャー・ウォーターズが抜けた後、87年に製作された新グループによる作品
だ。」

三つ目の甲高い音の後に:「天井のアーチは、残響効果を強める構造になっているらしい。ぼ
くの声は意味なく拡散し、壁から壁に反響を繰り返し、チベットの大笛に負けないほどの咆哮
になって鳴り響いた。」(105ページ上段)

「三日堂」といふ存在の方向への立て札を廻つた向かうで、

③何か記憶の中でうごめくものがある。(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信                          20
ページ

うごめくのは、視覚的な地の文での繰り返しの呪文。

(C)3回の呪文の後に登場する者
1回目の呪文の後では、主人公の自走ベッドがトンネル(最初の上位接続線)を通り抜けるだ
けで(99ページ)、「垂れ目の少女」は出てきませんが、トンネルを潜つた後向かうの世界
で唱へる2回目の呪文の後では、次のやうに未分化の実存の前触れが書かれてゐます:

「ベッドすれすれに、五両編成の小型車両が駆け抜けた。乱気流が巻き起こした埃のせいで、
くしゃみの連発、それにしても意外だった。通過したのは予想していたようなトロッコではな
く、けばけばしく着飾った遊園地ふうのミニ列車だったのだ。」(102ページ上段)

3回目の呪文の後で、「垂れ目の少女」が初めて登場します。「下り目の少女を乗せてすれち
がった、例のミニ列車も、やはりこの桟橋から乗り換えたのだろうか。船の接岸装置が岸壁を
噛んだ。」(104ページ下段)

5.2.4.3 (3)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
甲高い音が、この章でも3回鳴つてゐる。

(1)「金切り声をあげて車輪が軋り、ベッドがジャンプした。」:(98ページ下段)
(2)「甲高い警笛の断続。」(101ページ下段)
(3)「天井のアーチは、残響効果を強める構造になっているらしい。ぼくの声は意味なく拡
散し、壁から壁に反響を繰り返し、チベットの大笛に負けないほどの咆哮になって鳴り響い
た。」(105ページ上段)

この第2章といふ箱の中でも、甲高い音が3回鳴り響きますから、3回目の音の後からは、存
在の存在の存在といふことになつて、3回目の後に続く『大黒屋爆破事件』は「存在の存在の
存在」の中の「存在の物語」といふことになります。

(1)の甲高い音のあとで、「レールの継ぎ目の規則的リズムには、郷愁に似た催眠効果があっ
た。穴の中で、さらに深い穴の中に落ちていく夢。待てよ、役に立ちそうなイメージだぞ、穴
のなかの穴、ちょっぴりは猥褻感もあるし、カンガルー・ノート向きじゃないかな?」となつ
て、主人公は定型通りに意識を失ひ、記憶が曖昧になる。(99ページ下段)

(2)の「甲高い警笛の断続」の後で、交通体系の「ポイントが切り替へられ、引込線に誘導
される。汗びっしょりだ。いいさ、汗もいずれは《かいわれ大根》の味付けに役立ってくれる
のだ。」「ベッドすれすれに、五両編成の小型車両が駆け抜けた。乱気流が巻き起こした埃の
もぐら通信
もぐら通信                          21
ページ

せいで、くしゃみの連発、それにしても意外だった。通過したのは予想していたようなトロッ
コではなく、けばけばしく着飾った遊園地ふうのミニ列車だったのだ。」(102ページ)こ
こではまだ「垂れ目の少女」の名前は書かれてゐませんが、しかし、それと思はれる「その手
の振り方が、気になった」「六、七歳か、せいぜい十歳どまり」の「二両目の後部ドアの窓越
しに手を振っていた少女」として登場します。(102ページ下段)

とあつて、「垂れ目の少女」の乗る遊園地にあるやうなミニ列車(お猿の電車)が支線から本
線へと登場する。(102ページ)くしゃみの連発は地の文の呪文。さういへば、けばけばし
くといふ繰り返しの形容も。

(3)の「チベットの大笛に負けないほどの咆哮」のあとには、「三日堂」といふ存在の方向
への立て札が、3といふ数字を含んで立つてゐる。(105ページ上段)

(B)存在の始め
「点滴容器のほうは、減るいっぽうなのに」「蝦蟇の腹みたいにふくらみ、破裂寸前」の「小
便袋」が、この章の存在の始めです。(98ページ下段)

小便袋といふ存在の形象と主人公は点滴の(大小二つの点滴袋と接続されてゐる一本の)チュー
ブで接続されてゐる。この点滴袋とチューブと自走ベッドの関係については、「5。1。3 
如何にして主人公は存在になるか」(もぐら通信第66号)を参照下さい。

(C)存在の終はり
これに対して、この章の終はりでは、バナナの皮の呪文を巡る看護婦と主人公の会話(113
ページ下段)の直ぐ後に、「トンボ眼鏡の看護婦」が主人公の陰茎に処置を施して、点滴袋と
いふ凹の形象である「はち切れんばかりに膨らんでいた袋から、音を立てて小便が噴出」して
便器の中に流れ、「トンボ眼鏡が小型の鋏を取り出し、鎖骨から五センチほどのところをまず
切断した」とあるので、主人公と自走ベッドの関係を、案内人が切断して主人公を閉鎖空間か
ら救い出す。

これを救済と見るか殺人と見るかは、安部公房の世界ですから両義性があります。(「弱者へ
の愛には、いつも殺意がこめられている――」[註4])後者と取ると、第5章交通体系の提
唱で案内人の役割が「垂れ目B」から「トンボ眼鏡の看護婦」に交代して、第7章人さらいで
「垂れ目B」が主人公の殺人幇助をするといふ結末に繋がつてゐるといふ理解ができることに
なります。

[註4]
『密会』のエピグラフ。(全集第26巻、8ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

さて、次の立て札との接続を考へますと、上記(3)の三つ目の「チベットの大笛に負けないほ
どの咆哮」の直ぐ次に、「判読できる標識」である「三日堂」といふ存在の方向への立て札が次
のやうに立つてゐる。

5.2.4.4 (4)存在への立て札を立てる
上記の「チベットの大笛に負けないほどの咆哮」といふ3回目の甲高い音の直ぐ次に、3つ目の
立て札である「三日堂」といふ存在の方向への立て札が次のやうに立つてゐます。 

この「三日堂」といふ存在の方向への立て札は、怪奇小説『大黒屋爆破事件』といふ物語の中へ
と入るために謂はば「終はりし道の標べに」として立てられてゐる、

 ①「町名、もしくは真上に位置している建物の屋号らしい」名前の書いてある「青に白抜きの
表示板」(104ページ上段)
 ②「三日堂」といふ「照明の真下だったのと、簡明な字画だったせいで、判読できる標識」(1
05ページ上段)

といふ訳です。

5.2.4.4.1 存在の中の存在の中の存在の怪奇小説『大黒屋爆破事件』
さうして、この存在の方向への三日堂の立て札の直ぐ次に始まるのが、存在の物語として記号化
されてゐる『大黒屋爆破事件』の冒頭の、これもまた存在が記号化されてゐる次の一行です。[註
5]かいわれ大根を脛に持つ主人公は、この存在の物語の中に入つたわけです。

「何か記憶の中でうごめくものがある。
(そのとき男は三日堂の二階でチョコレート・パフェを舐めていた)」

安部公房の記号の意味に拠つて、

(1)『大黒屋爆破事件』は「《存在》と《現存在》に関する」哲学的な物語である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 23

(2)この哲学的な物語は上の( )の中の一行で始まるので、主人公は「存在の中に存在するこ
とを意味する」。

といふことになります。

[註5]
「1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容」より以下に記号の意味を引用します:

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号∼第59号)で使つた方法を『カ
ンガルー・ノート』でも使つて、この作品には一体何が書いてあるのかをみてみたのが「3。『カンガルー・ノート』
の記号論」 [註7]です。この章の結論を先取りして、最初にお伝へすれば、安部公房の使用する記号に着目すれば、
結局この作品は、次の5つのことについて書いてあるのです。

(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味
する。
(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語につ
いてのものであることを意味する。
(3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。
(4)「 」:地の文にある立て札を意味する。
(5)( ):存在の中に存在することを意味する。」

この第2章緑面の詩人を通じて明らかになつたことは、《 》といふ記号は最初は主、[ ]といふ記号は最初は従、
前者は本体、後者は附属といふ関係にあるといふことです。勿論安部公房の世界ですから、後々等価交換可能の関係
です。

さて、さうして、この怪奇小説の構成は「前半はかなり荒唐無稽な冒険小説風」であり、後半に
は「[緑面の詩人]と題した作者の友人の手になる解説がついていて、それが作者《縞魚飛魚》
の無罪証明の役割[註6]をしている」そのやうな解説のある、前半後半二つの部分からなつて
ゐる。

[緑面の詩人]と題した作者の友人の手になる解説とは、ここでも表立つては『S・カルマ氏の
犯罪』以来の超越論的な遅延(difference)が原因で社会と法律が主人公を追ひかけて罰すると
いふ[註6]、これまでの作品全てに通ずる動機(モチーフ)が、ここにあります。この「友人
の手になる解説」が作中果たす役割は、「それが作者《縞魚飛魚》の無罪証明の役割をしている」
といふことであり、その理由が「本文作者と親友の解説者が、じつは同一人物ではないかと疑わ
せるもの」[註7]があるからだといふのであれば、ここまで来ると、傑作『箱男』で読者のあ
なたを存分に苦しめ又その分だけ楽しませてくれた、これが安部公房独自固有の「僕の中の
「僕」」といふ話法に基づくものであることを思ひ出すでせう。[註8]

[註6]
この超越論的な遅延と、安部公房の考へる其の罰については『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら通信第●
もぐら通信
もぐら通信                          24
ページ

号)に詳述しましたので、これをお読み下さい。

[註7]
『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)にて詳述しましたのでご覧ください。

[註8]
『デンドロカカリヤ論(後篇)』にて詳述しましたのでご覧ください。

安部公房が恐ろしくも早く十代で概念化した自分の宇宙のあの概念用語の一式、即ち、部屋、窓、
反照、自己証認[註7]は、最後の作品にあつても虚構の中で、自己証認が「作者《縞魚飛魚》
の無罪証明」のこととして、さうして現実に生きる安部公房自身の中で、生きてゐる。自分が自
分自身の自己証認を、即ち「私は私である」といふ人間と言語の再帰性を証認する、即ち其の正
しさを証明し、承認する。存在の中で同一人物である解説者、即ち二義的な又は二次的な位置に
ゐる[緑面の詩人]が、一義的な又は一次的な位置にゐる作者《縞魚飛魚》の自己同一性即ち「私
が私である」ことを自己証認する。さうして、存在の中で二人は等価交換可能であるといふこと。

かうして考へて参りますと、この「存在の存在の存在」の中にある存在の怪奇小説『大黒屋爆破
事件』は、このまま『箱男』の構造なのです。

安部公房の作品はいつも、3回立て札が立ち、3回呪文が声明され、3回甲高い音が響くごとに、
1段づつ存在は3階層にまで深まつて行き(主人公は下降して行き)、3回目では存在の底に至
る。

上位接続点の数を数へると、『箱男』は四次元小説です。『カンガルー・ノート』も四次元小説
です。[註8]即ち、

(1)地の文の階層:次元1:次元4
(2)存在の階層1:次元2:次元3
(3)存在の階層2:次元3:次元2
(4)存在の階層3:次元4:次元1

となつてゐるのです。

安部公房は勿論、その上の五次元にゐて小説を書いてゐるのです。

さうして、安部公房の世界は、記号の関係そのものが、上の小説の構造そのものであることを思
ひ出して下さい。[註9]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ25

[註8]
「『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く」(もぐら通信第34号)で構造を論じました。『箱男』は四次
元小説です。『カンガルー・ノート』も四次元小説です。

[註9]
「3。『カンガルー・ノート』の記号論」より再度引用してお伝へします。
最初に、次の5つの記号の意味をお伝へします。

(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味する。
(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語についてのものであることを
意味する。
(3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。
(4)「 」:地の文にある立て札を意味する。
(5)( ):存在の中に存在することを意味する。

これらの記号の階層は、次のやうになります。

存在といふ視点から分類すれば、その階層は、階位の高い順に並べると、
(1)( )
(2)《 》
(3)『 』
(4)[ ]
(5)「 」

となります。

しかし、地の文である「 」が存在の( )以下の階層の記号と等価交換されて、この「 」と( )が最後にはメ
ビウスの環の一捻りの接続を構成するのですから、実は、上の階層は、次の階層と裏表の関係にあるのです。

(1)「 」
(2)[ ]
(3)『 』
(4)《 》
(5)( )

この論考をお読みになると次第にお分かりになると思ひますが、この記号の関係そのものが、この小説の構造そのも
のなのです。

(A)何故『大黒屋爆破事件』といふ小説が怪奇小説なのか
さて、かうなりますと、私の疑問は何故『大黒屋爆破事件』といふ小説が怪奇小説なのか、どこ
が怪奇小説なのかといふ疑問です。この小説が小説『箱男』と同じ構造をしてゐるのであれば謎
が解ける。『箱男』は、乞食とチェ・ゲバラの話でした[註10]。しかし『箱男』はチェ・ゲ
バラの話といふよりは、乞食の話である。となれば、安部公房は再度『箱男』を採り上げ、今度
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

チェ・ゲバラの話として『大黒屋爆破事件』といふ小説を書いたのではないだらうか。

[註10]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(1)』(もぐら通信第32号)より引
用してお伝へします。

「安部公房は、1968年の『三田文学』誌上で、秋山駿のインタビューによる質問に答えて、次のように、満洲は
奉天で子供時代に見た窓について語っています(全集第22巻、45ページ)。傍線筆者。

「秋山 「燃えつきた地図」の調査員の人、レモン色のカーテンのところにいる女の人が 好きなのですね。
 安部 女というより、場所みたいなものですね。
 秋山 安部さんのあの小説を読んでいますと、非常に精巧な機械みたいなものを感ずるのですが、女の人が実に生々
しく感じられるものですから。
 安部 それはうれしい。あれも満州育ちのせいですね。日本でも最近は団地などで窓が目立って来たけど。
 秋山 窓を。普通はあまり意識しませんね。
 安部 僕には、非常に強い意味をもっているのですね。
 秋山 あちらは、窓というのは。
 安部 非常に重要なんですよ。
 秋山 そうだもう一つお聞きしようと思っていて、この小説は、坂道を上っていく最初の場面がもう一度最後のと
ころで現れるわけですね。あそこの道の描写にその難しい性質が現れているように思うのです。一番最初に出てくる
ときは「急勾配の切石の擁壁」ですが、二番目ですとそれが「わずかな勾配」ということになっているものですから。

 安部 あれ、文章は同じなのです。
 秋山 文章は同じなんですか......。いや、同じではないと思いますが。
 安部 なるほど「急勾配」と「わずかな勾配」か……サインとタンジェントのちがいだな……ぼくとしては、同じ
つもりで......はじめは水平の視線で、あとは垂直の視
 線なんですね。」

このインタビューのあった1968年は、前年に『燃えつきた地図』を出し、1970年までの前期20年の終わり
の時期に当たっています。『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』の3部作、即ち社会的関係の中に存在を求め
る3部作を世に出して、名実共に小説家としての盛名を馳せた其の前期20年の終わりの時期です。

上に引用した箇所の前で、安部公房は次の小説、即ち『箱男』の構想を語っています。上の前期20年の後半の3部
作を「失踪前駆症状にある現代」を描いた作品群であるのに対して、このとき「この次は、すでに失踪してしまった
状況で、失踪の向こうにある世界を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの話です。」といっています。

この「チェ・ゲバラ」という言葉からわかるように、『箱男』は明らかに、埴谷雄高の言葉を借りて言えば「存在の
革命」を起こすこと、読者の中に存在の革命を起こすことを企図していたのです。それ故の、多重的・多次元的な構
造を敢えて作品の中に採用したということなのです。即ち、読者を小説の理解の共同作業の中に招じ入れることによっ
て、読者に『箱男』という小説を創造することに加担させて、言語によって読者の意識を根本から変革しようとした
のです。」

それ故に[緑面の詩人]は、《縞魚飛魚》が警察の嫌疑、即ち「事故当時縞魚本人が『大黒屋』
の隣の『三日堂』にひんぱんに出入りしていたという事実」によつて警察の嫌疑が当時がかかつ
もぐら通信
もぐら通信                          27
ページ

たことに関して「一応は説得性のある論陣を張って」ゐて、次の解説を施す。この解説を引用す
るのは《縞魚飛魚》である。

「作者が作品の登場人物に似た行動をとるのは、経験によって現実感を把握するためであり、泥
棒が下見を兼ねるのとは訳が違う」。……(a)

そして『大黒屋爆破事件』の話者については、

「しかし父は赤のマーカーでそこに疑問符をいれているのだ。そして小さく鉛筆で記入してある。

「犯人は必ずは犯行現場に執着をいだきつづけるものである」」……(b)

と書いてゐる。

このやうに考へて来ると、(b)の「犯人は必ずは犯行現場に執着をいだきつづける」当の犯人
とは、1968年でのインタヴューを思ひ出せば、これはまさしく作者安部公房自身のことであ
る。安部公房は『箱男』の描く筈のゲリラ、チェ・ゲバラの話を『大黒屋爆破事件』として存在
の3階層目の中での物語として「僕の中の「僕」」の話法を使つて、即ちS・カルマ氏が最後に壁
になつて時間のない垂直方向へと無限に成長する其の砂漠の階層と同じ階層に、チェ・ゲバラの
話を『大黒屋爆破事件』として置いたといふことなのです。しかしまた、犯人もメモを残した父
もまた多義的です。後述する「(B)「僕の中の「僕」」の話法を記号論で読み解く」をご覧に
なつて、この謎をお解きください。安部公房の曲藝、ここに極まれり。

また、(a)の「作者が作品の登場人物に似た行動をとるのは、経験によって現実感を把握するた
めであり、泥棒が下見を兼ねるのとは訳が違う」といふ文は、『箱男』刊行後の講演で安部公房
が、小説の成り立ちのための取材に上野公園の浮浪者の取り締まりを見に行つたといふ話から始
めることの説明になつてゐる。[註11]つまり、安部公房がかいうことをいふとは、本当に現
実に上野公園の浮浪者の取り締まりを見物に行つたかどうかは不明であり怪しく、この意味でも
怪奇です。

[註11]
『箱男 小説を生む発想 「箱男」について』と題した次のYouTubeの4つの動画での安部公房の声をお聴き下さい。
最初に上野の浮浪者の取り締まりを観に行ったことが語られてゐる。

⒈ https://www.youtube.com/watch?v=JI_V9gZJoJ0
⒉ https://www.youtube.com/watch?v=QN68K4CZIOE
⒊ https://www.youtube.com/watch?v=IEgC_oIPzV4
⒋ https://www.youtube.com/watch?v=5N68d2rX_Tk

何故『大黒屋爆破事件』といふ小説が怪奇小説なのか、どこが怪奇小説の怪奇なのかといふ疑問
もぐら通信
もぐら通信                          ページ28

に戻つて回答しますと、烏賊爆弾といふ生物爆弾で『大黒屋』が爆破される事件は起こつたが、
誰が犯人か解らない、また一人に絞りきれないといふことになるでせう。何しろ存在の中では記
号を使へば、本体も附属も主も従も作者も解説者も父も息子も等価交換の関係にあれば、アガサ・
クリスティの『オリエント急行殺人事件』のやうに全員が犯人になるのであるが、しかしそれで
あるが故に、誰が犯人かが解らない。これが奇々怪々の怪奇小説といふ意味でありませう。それ
で、

「最後に解説者も書いている。真に裁かれるべきは誰だろう。烏賊爆弾の縞魚か、それとも女た
らしの緑面か。」

私の断固たる推理によれば、真に裁かれるべきは、烏賊爆弾の縞魚でもなく、女たらしの緑面で
もなく、真犯人は《カンガルー・ノート》の作者《安部公房》であり、《公房安部》である。あ
なたの意見や如何に。

また付言すれば、[緑面の詩人]といふやうに存在の記号[ ]を使つてあるやうに「存在の存
在の存在」の中にゐる存在の詩人については、従ひ、この[詩人]の[緑面][註12]とは、
椎名麟三のやうに又安部公房が理想として思ひ描く自分自身であるやうに「横顔に満ちた」顔[註
13]を有する詩人であるのでせう。

[註12]
緑色については、『もぐら感覚21:緑色(1)』(もぐら通信第25号)及び『もぐら感覚21:緑色(2)』(も
ぐら通信第26号)で詳述しましたので、ご覧ください。

[註13]
安部公房が顔を二次元の面の集合であると考へてゐることは、椎名麟三の顔を「横顔に満ちた」顔と呼んだことでわ
かります『横顔に満ちた人ー安部公房』(もぐら通信第64号)で詳述しましたので、これをご覧ください。

安部公房の全ての作品は、本文と註解から成つてゐる。安部公房の全ての作品は、本文といふ地
の文の文章(テキスト)と註解(これもテキスト)からなつてゐる再帰的且つ「間テキスト」的
な、存在概念の中で等価交換可能なテキストであり、作品である。となれば、安部公房の個々の
作品は、どれもが存在の作品でありますから、相互に等価交換可能であり、従ひ、全作品は一つ
の集合としてとして存在である。[註14]といふ事が、再度topologyで、しかし今回は記号を
用ゐた存在論(汎神論的存在論)の観点からも、ここで証明されたといふことになります。

[註14]
『デンドロカカリヤ(前編)』(もぐら通信第53号)より引用します:

「9。結論:安部公房の文学とは一体何か
以上1から8までを通して考へて来ますと、安部公房の全作品を一言で要約せよと云はれれば次のやうになります。

安部公房の全作品は、存在である。
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もぐら通信                          ページ29

いや、更に言ひ換へませう。

安部公房の全作品が、存在である。

そして、この存在たる作品群は、何故さうなつてゐるかと云へば、このデジタルの、空間的な、時間を捨象した作品
の構造化は、全作品同士の冒頭共有(差異を設けること)と結末共有(透明感覚の提示)によつて其れが可能となつ
てゐるからであり、また時間の中での個別作品同士
の連続的なアナログの創造関係は、個別に同じ又は類似の形象と語彙の結末継承によつて連続性を保持してゐるから
である。

と、このやうに纏めることができます。

偉大なるかな、安部公房。一生涯に亘り、初志貫徹せり。

安部公房は、個々の作品の冒頭共有と結末共有をして、全ての作品を一個の作品となした。そして、結末継承は、各
作品を全て接続するための糸である。そして、どの作品にも、全ての作品が宿つてゐる。これは、従ひ、安部公房と
いふ合わせ鏡の世界に生きた再帰的人間(recursive man)の自画像である。即ち、全体は部分からなり、各部分に
全体が宿つてゐる。即ち、安部公房の世界は、体系なのであり、英語でいふthe systemなのです。全く、言葉の科学
者であり、言葉のエンジニアと呼ぶに相応しい。」

さうして、この再帰的な文章(テキスト)に、安部公房が独自に意味を割り当てた記号を導入し
て、topologicalに、(自分自身も含めて、もつと精密に云へば、自分自身の意識・無意識を含め
て)テキストと記号の内部と外部を、記号とテキストの外部と内部を等価交換した。これによつ
て、初期安部公房は純情な詩人から辛辣な小説家に変形し「転身」した、作品もまた安部公房の
成長とともに変形し「転身」した。[註15]

[註15]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関
係について」(もぐら通信第56号)より:

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、ここでいふ安部公房文
学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者のご理解を得てから本題に入ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)にて明らかに致しまし
た「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づいて定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によつて美事に成功する時期、
即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭和21年)安部公房22歳から『デンドロカカリ
ヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房18歳から西暦1944年
(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、西暦1945年(昭和20年)安部公房21歳ま
での1年間を含んだ時期を併せた全体の時間を言ひます。
もぐら通信
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[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、 もう一つは、「書
肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、後者を『デンドロカカリヤ
B』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25歳の時、後者の発行は1952年12月31日、安部
公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』
論(前篇)」もぐら通信第53号)」

これらはみな18歳の論文『問題下降に依る肯定の批判』に書かれた、既に此の時安部公房らし
くも名前こそ表には出さね、topology(位相幾何学)[註16]による「遊歩場」といふ道即ち
「此の道は他の道とははっきりと区別されて居なければいけない。第一に此の遊歩場はその沿傍
に総ての建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。
それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外
地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。或る場合には、森や湖の湖畔に
住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所となると同
時に、或種の交易場ともなるのだ」といふメビウスの環(二次元)やクラインの壺(三次元)の
接続点と接続面の抽象的な空間を密かに核心とした都市設計(全集第1巻、13ページ上段)の
ことが、その都市のtopologcialな道といふ建物と建物の隙間に棲む超越論的な人間である「此の
遊歩場の沿傍に住まう人々」である大勢の箱男のことが(全集第1巻、13ページ上段)、「実
を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大なる蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居る巨大
な蟻の巣」であるといふ閉鎖空間である社会のことが(全集第1巻、13ページ下段)、topology
が閉鎖空間を脱出する「雲間より漏れ来る一条の光」であることが(全集第1巻、12ページ上
段)、topologyを応用して時間の中で「今こそ君は自由な」身になるために「動かなくてはなら
ない。そして動かさなければならない。手を、指を、そして目と鼻を」(全集第1巻、15ペー
ジ上段)といふ実践的な問題下降の方法が、さうして現実の問題解決のために「問題を下降させ
るにも上昇させるにも」必要な方法論としてある此のやうな威力を有するtopologyのこと、即ち
「問題下降に依る肯定の批判」のことが書かれてゐます。これを精緻に理論化して完成させたの
が、「一種の高次的下降」について論じた(全集第1巻、14ページ上段)、20歳の論文『詩
と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ上段)、即ち安部公房の基本ソフトウエ
ア、即ちOS(Operating System)です。

これで、18歳の『問題下降に依る肯定の批判』に基づいて、広義の初期安部公房[註17]か
ら最後の『カンガルー・ノート』に至るまでの人生の全体をまとめたことになります。

[註16]
『中埜肇宛書簡 第3信』(全集第「巻、72ページ)
「中埜肇君へ、

 すぐにも、手紙を出す可き所なのに、今日迄書かなかつたのは、決して外的な原因があつたのではなく、内的要求
がさうさせた為なのです。僕は、心の中にある果実が みのり切って終ふ迄は、どうしても無理にもぎ取つて終へな
い人間なのです。僕は君の手紙を前にして、言ふ可き事が 餘りにも多過ぎる。消化不良。だが其の点から言へば、
今だつて未だ早過ぎるのですが。……
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

 いつだつたか、君と話し合つた夜、例の問題下降の行づまりとして、要するに、人間の眞理、存在への方向、云ひ
代へれば開示性の巧みな曲げ方が、ある人に歴史的価値、偉大さを与へたのだ と云ふ結論が得られた事を憶へて居
て下さるでせうね。つまり、例のあの崖へ行く前に、途を変へなければならないのです。けれど その上へ行つて終
つた以上は。……僕達には唯だ没落があるのみです。概念より生への没落。僕はやつと、その途を発見し、それを他
の曲げ方と、色々比較して見る事が出来る程になりました。最も完全な曲げ方、……結局問題は其處にあるのだ、と
僕達は話し合ひましたね。そしてやつと、其の曲げ方に行く可き小路を見つけ出せた様な気がして居ます。」

[註17]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関
係について」(もぐら通信第56号)より:

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、ここでいふ安部公房文
学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者のご理解を得てから本題に入ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)にて明らかに致しまし
た「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づいて定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によつて美事に成功する時期、
即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭和21年)安部公房22歳から『デンドロカカリ
ヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房18歳から西暦1944年
(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、西暦1945年(昭和20年)安部公房21歳ま
での1年間を含んだ時期を併せた全体の時間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、 もう
一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、
後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25歳の時、後者
の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥
川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通信第53号)」

しかし、10代の高校生の時代ではなく、安部公房が耽読したリルケがいふやうに、幼年期こそ
が最もその人間にとつて本質的な時期なのです。安部公房の主人公が教師の場合には、何故高校
教師ではなくいつも中学教師であるのか[註18]を考へて下さい。私の観察では、人間は性的
分化とともに此の幼年期の膨大な量の記憶を忘れる。安部公房にとつては、これが満洲は奉天で
の幼年期であることは、読者のあなたのご存じの通りです。[註19]そして、安部公房は奉天
のことを忘れなかつた。サーカス、満洲族のシャーマンの儀式、奉天の駅舎の待合室(内部)と
窓から見える広いプラットフォーム(外部)、大陸仕様の大きな列車、大陸の人々のcorna(コ
ルナ)またはその他のhand sign、底なし沼、砂漠、バロック様式の都市、建築物の窓(「奉天
の窓」[註19])、病院等々。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ32

[註18]
『名もなき夜のために』や『飛ぶ男』の主人公たちがさうです。

[註19]
『奉天の窓の安房を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(前篇)』(もぐら通信第32号)と『奉天の窓の
安房を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(第33号)をご覧下さい。このことを詳細に論じま
した。

さて、話を怪奇小説『大黒屋爆破事件』に戻しますと、上で引用した三つ目の呪文のあとは安部
公房の沈黙と余白の論理(「空白の論理」)「……」に従ひ、この「……」の記号は書かれてゐ
ないものの隠れた論理としては、安部公房独自固有の話法「僕の中の「僕」」の中に落ちて行く
のです。[註20]それで初めて「何か記憶の中でうごめくものがある。」といふで出だしの一
行が成立する。そして、この境界線は意識と無意識のこと故曖昧であり、主人公は「いつの間に
か」(超越論的時間)「どこからともなく」(超越論的空間)物語の中に入りこんで主人公と註
解者になつてゐて、存在の記号( )による次の二行目が成立する。

[註20]
「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号)をお読みください。安部公房固有の此の話法について
は詳細に論じました。また、安部公房の此の「空白の論理」については『奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数
学的能力について∼』(もぐら通信第33号)と『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』
(もぐら通信第55号)で、これも詳細に論じましたので、お読みください。

(そのとき男は三日堂の二階でチョコレート・パフェを舐めていた)

といふ( )の前の地の文の冒頭の二つ目の一行、即ち物語の第一行を読みますと、この主語は「三
日堂」といふ3といふ数字の書かれた立て札の横を通り過ぎて、その向かうへ廻ると[註2
1]、最初の「何か記憶の中でうごめくものがある。」といふ一文があるのですから、この文の
主語は分脈からいつて、かいわれ大根を脛に持つ主人公であると自然に理解される。

といふことは、この『大黒屋爆破事件』の主人公は、かいわれ大根といふ存在の形象を脛に持つ
主人公なのであり(これはこれで脛に傷持つ身、凶状持ちと言つても良い位です。何しろ傷は凹
の形象だから)、ここでも『S・カルマ氏の犯罪』の結末の場合と同じやうに、「僕の中の
「僕」」といふ話法を導入すると、話法が一人称から三人称に人称が転換されてゐる、即ちS・カ
ルマ氏ならば★印の柵を超えると、又脛にかいわれ大根を持つ凶状持ちの主人公は「三日堂」の
立て札といふ柵[註21]を超えると、「僕の中の「僕」」の話法の前者の僕から後者の僕に一
階層ここで深く主人公は存在の中に踏み込んで降りて行き、人称が変はることでS・カルマ氏が壁
になることがさうであつたやうに、かいわれ大根を持つ凶状持ちの主人公は、この話を語る三人
称「作者《縞魚飛魚》」に変形するのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

何故存在の作者《縞魚飛魚》が「チョコレート・パフェを食べる」のではなく、「チョコレー
ト・パフェを舐め」なければならないかといふと、これがバナナの皮の呪文に関係するからで
す。エッチな安部公房。論考といふ論理的な散文の中に、こんな卑語を入れて良いものであらう
か、もう少し品位を以つて言ひ換へろといはれると、性愛に満ちた安部公房。そして、何しろ
チョコレート・パフェは、バナナの皮で包みますといふ呪文の中身が外部に出てゐるので、《縞
魚飛魚》の口はバナナの身を包むことになるといふ性変態的な、つまり異性愛ではない、これは
話の出だしなのである。即ち、怪奇小説『大黒屋爆破事件』の作者と註解者の再帰的な関係とい
ふ、同性同士の単性生殖の関係を暗示する、物語の出だしの一行なのです。確かに、チョコレー
ト・パフェは、バナナの皮で包まれた中身によく似てゐます。

       長い方                    短い方

[註21]
『5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論(19)』(もぐら通信第71号)の「(19)「進入禁止」の立
て札」をご覧ください。3といふ数字の関係でも、詳述しました。

S・カルマ氏が柵を超えるといふことが何を意味するか、つまりリルケの『オルフェウスへのソネット』の最初の詩
に歌はれてゐる限界を超えて上昇するオルフェウスと同様に、安部公房の小説の中に立つ存在の方向への立て札は禁
止命令の立て札であつて、主人公が此れを廻つて向かうの領域に入ることは禁忌(タブー)を犯すことになるといふ
ことを、『S・カルマ氏の犯罪』のみならず、その他『砂の女』や『他人の顔』についても同じ箇所を挙げ論じまし
た。
もぐら通信
もぐら通信                          34
ページ

(B)怪奇小説『大黒屋爆破事件』の作者と註解者の再帰的な関係
さて再度、「作者《縞魚飛魚》」の語る『大黒屋爆破事件』には註解者がゐて、これが作者の友
人の[緑面の詩人]だといふ。この記号は上の[註9]によれば、「存在の中の存在の中の存在
であることを意味する」ので、後者もまた前者と等価な存在であり、安部公房の超越論(汎神論
的存在論)によつて等価交換可能であり、従ひ「本文作者と親友の解説者が、じつは同一人物で
はないかと疑わせるものがあった」どころか、二人は「存在の中の存在の中の存在」の中にゐる
存在である以上、差異は記号の《 》と〔 〕の違ひだけであり、ともに存在を表す以上ともに同
じ人物であり、そして名前はS・カルマ氏の如くに本来が無名の存在になる(存在とはそもそも無
名であり、存在になるとは有名が無名となる)ことであるから、二人は同一人物なのである。

何故かといふと、この話者の語る「父がこの本に書き込みをするほど、こだわった」(106ペー
ジ上段)といふ其のこだわりの書き込みとは次のやうなものであり、このやうなものであるから
です。豚の《尻尾》と主人公の《かいわれ大根》の主体と客体、subjectとobjectの関係を思ひ出
してもらひたい。クレオール論の論理、即ちtopologyです。

A
豚の本体  《尻尾》
人間の本体 《かいわれ大根》

さうであれば、

B
無名の作者     《縞魚飛魚》
作者の親友の解説者 [緑面の詩人]

と置くことができる。

AとBの場合の違ひがあるとすれば、それは「作者の親友の解説者」が作者の附属物、附属者であ
るからで、最初から二義的な又二次的なtopologicalな「周辺飛行」ができる「内なる辺境」の位
置にゐるといふことです。かうしてみると「内なる辺境」の位置とは、「僕の中の「僕」」とい
ふ話法の位置である事が明確になります。安部公房スタジオの時代に書いた「周辺飛行」につい
ても同様です。その二義的な又二次的なtopologicalな位置を示すのが、[ ]といふ記号であると
いふことになります。

さうであれば、一層topologicalに階層化されてゐて、Aと同様に並べると、

C
 豚の本体  《尻尾》
 作者     解説者
《縞魚飛魚》 [緑面の詩人]
もぐら通信
もぐら通信                          35
ページ

といふことになつて、存在の外部にゐやうが、存在の内部にゐやうが位置の関係としては等価で
すから、Cは次のやうになつて、

C-2
《存在の外部》《存在の内部》
《存在の内部》《存在の外部》
 豚の本体  《尻尾》

であるならば、

《存在の存在の存在の内部》《存在の存在の存在の外部》
《存在の存在の存在の外部》《存在の存在の存在の内部》
   《縞魚飛魚》       [緑面の詩人]

といふことになり、この記号の中の二人をtopologicalに等価交換すれば、

《緑面の詩人》 [縞魚飛魚]

といふやうに、名前が入れ替はり、しかし本来が存在の中で無名の二人ですから、名前が交換さ
れても、もともと無名といふことから等価でありますから、どうといふことはなく、この交換は
可能なのです。

《縞魚飛魚》の父の残した書き込みの一つは、このやうなメモであつたことでせう。

(C)「僕の中の「僕」」の話法を記号論で読み解く
さて、しかし、ここで、話法として文章(テキスト)の文字面を見ますと、やはり依然として「僕
の中の「僕」」の話法の前者の僕が話をしてゐて、

安部公房>話者1>物語1(『カンガルー・ノート』)>話者2(脛にかいわれ大根を持つ主人
公)>物語2(脛にかいわれ大根を持つ主人公の話す話)>柵(世界の果てにある境界線)>話
者3(話法が一人称から三人称に人称転換された「僕の中の「僕」」の後者の話者4>話法が一
人称から三人称に人称転換された「僕の中の「僕」」の後者の話す話(物語3):三人称で語ら
れる主人公の話)>話者5(この場合は「作者《縞魚飛魚》」)>話者5の語る『大黒屋爆破事
件』(物語4)

といふ階層構造になつてをり、この構造を以下のやうに記号化して再度整理すると、

(0)安部公房:AK(Abe Kobo)
(1)話者:W(Washa)
もぐら通信
もぐら通信                          36
ページ

(2)物語:M(Monogatari)
(3)柵(世界の果てにある境界線):SH(Sekai no Hate no Kyokaisen)
(4)立て札:TF(Tate Fuda)
(5)「僕の中の「僕」」:[I in I](アイ・イン・アイ)
(6)人称:P(Person):一人称はP1、二人称はP2、三人称はP3

といふ記号化をあらかじめご了解戴くとして、この話法による『カンガルー・ノート』といふ作
品全体の構造は、次のやうになります。

AK>【W1>M1>W2>M2>TF>SHK>【W3[P1→P3]in[ I in I]】>W4(Who?:
透明な話者)>M3 by P3>W5>M4】

この記号化された階層構造からわかることは次の通り。上の記号で【】(赤色)と【】(青色)
はそれぞれ一つの意味あるまとまりを示す。

(1)TF>SHK:3回目の立て札があると直ちに世界の果てに至る。
(2)【】と【】は入れ違い、二つの物語の筋が互い違い、斜(はす)交ひになつてゐる、襷掛
けになつてゐる。これが物語の中のメビウスの環であり、安部公房のいふ存在の十字路である。
(3)【と】の間にある物・事・人はニュートラルな状態にある。かうして見ると、結局、
(4)安部公房スタジオの演技論の中核概念は「僕の中の「僕」」の話法の後者の僕に、前者の
僕がなることと、これら二つの等価交換ができるやうになることを意味してゐたといふ事がわか
る。
(5)【と】からなる存在の十字路では、一人称が三人称に役割を交代する。これによつて、
(6)「W4(Who?:透明な話者)」が生まれる。これが20歳の論文『詩と詩人(意識と無
意識)』に理論化して第三の客観と名付けた(次元展開の果てに見、現れ)自己自身を含んで立
ち現れる存在の事[註22]、即ち安部公房作品にいつも登場する透明なるもの(結末共有)で
あり、登場人物としては透明人間であり、従ひ話の最後に透明感覚が書かれて主人公は次の存在
へと失踪するといふ、ニュートラルになつた主人公のことである。
(7)【と】の間にあつて【W3[P1→P3]in[ I in I]】とあるニュートラルの状態で「何か
記憶の中でうごめくもの」とあるやうに「僕の中の「僕」」の話法の物語は、一旦の記憶喪失の
後で思ひ出す非連続にして連続・連続にして非連続のtopologicalな接続と変形の、時間のない物
語だといふことである。これはこのまま20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』に書かれた
詩人の(詩との関係に於ける)詩人のあり方であり、この安部公房の理論は既にこの時、実に自
分の生理に忠実に文字に解き起こして理論化してゐたといふことがわかる。恐るべし安部公房(あ
べきみふさ)。

[註22]
以下「5。1。4。1 寓話とは何か」より引用します:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

安部公房の名付けた新象徴主義哲学といふ「この哲学とは『詩と詩人(意識と無意識)』に拠つて簡潔に言へば、二
項対立の両極端の項を否定して、自己喪失による記憶の喪失を代償に(この否定の中に自分自身の否定を、この否定
とは自己喪失と記憶喪失と意識喪失のことにほかなりませんが、このやうな否定を含むといふことです)、果てしな
い垂直方向(時間の存在しない方向)に次元展開を繰り返した果ての究極に観る(自己の反照としての)第三の客観、
即ち存在の創造をするといふ方法論でありました。ここで

(1)観ることと
(2)自分自身が存在になることと
(3)存在自体の出現

これら三つが一つになつてゐます。ここにも3といふ数字があります。

安部公房の、これが創作の秘密であり、一生を貫く創作のための方法論です。これは、コンピュータの基礎であるブー
ル代数による二進数の論理演算の論理によれば、否定論理積といふ論理に当たります。これが、一生の安部公房の生
きる論理であり、安部公房の「現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学」であるのです。

(D)《縞魚飛魚》といふ名前の由来
今、《縞魚飛魚》といふ名前の由来を考へて見ますと、《飛魚》は『密会』の主人公の履いてゐ
るジャンプ・シューズと同じやうに、垂直の方向へ、即ちあのS・カルマ氏が物語の最後に無時間
の中で永遠に垂直方向へと成長する壁になるやうに、《飛魚》もまた海面を抜けて無時間の方向
である垂直方向へと跳躍(ジャンプ)するからでありませうし、さうであれば飛魚は存在の魚と
いふことができます。

《縞魚》の方はどうかと云へば、これはやはり文字通りの縞のある魚といふことですから、縦縞
からなる隙間だらけの魚といふ意味であり、さうであれば、存在の魚といふことでありませう。
この縞の形象はカイワレ大根の形象と同じです。隙間と隙間の窓から世界を眺める。と、其処に
あるのは存在の世界、箱男の世界です。箱男がジャンプシューズを履くと《縞魚飛魚》になる。

そして、如何にも安部公房らしいのは、《縞魚飛魚》といふ名前は、《飛魚縞魚》といふ名前に
も、内部と外部の交換によつて変形せしめて、両義性を備へた名前にできるといふことです。《安
部公房》《公房安部》である。二つの名前の末尾は魚の文字ですから、尻尾で繋がることができ
るといふ、これもtopologicalな一筆書きの名前になつてゐて、この作品中の繰り返しの呪文また
は呪文の繰り返しと変はらない構造になつてゐます。

豚と鯛焼きの尻尾に上位接続機能はないが、これに対して魚の尻尾にはあるといふわけです。

(E)烏賊とは何か:烏賊の存在論
上で記号化して確かめたやうに、安部公房の独自固有の「僕の中の「僕」」といふ話法の中では、
《縞魚飛魚》(作者)と[緑面の詩人](解説者)は、交換可能な関係にあるわけですから、こ
の交換関係を可能ならしめる接続が必要になります。または言ひ代へれば、媒体または媒介と云
つても良い。それは一体何でせうか?
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 38

それが、点滴袋にそつくりな烏賊であり、烏賊のやうに「支柱の上に」あつて「蛍イカみたいな
淡い光を二、三秒に一回ほどのゆっくりしたリズムで明滅させはじめた」点滴袋、もつと云へば、
初期安部公房の時代から変はらずに、凹の形象、即ち存在の形象なのです。存在の中で、本体と
附属は、主体と客体/客体と主体といふ交換関係にあつて、二人は等価交換される。

何故ならば、烏賊の姿をみてご覧なさい。蛸と烏賊の違ひは、脚の数だけではありません。烏賊
は袋になるが、蛸は袋にはならない。烏賊は体の袋に飯を詰めて烏賊飯になるが、反対に蛸飯は、
蛸は切り刻まれて飯の中に含まれる。笑つてはいけません。いや、しかし、ここは笑つて解すべ
きでせう。

(F)怪奇小説『大黒屋爆破事件』の超越論的時間
さて、さうして、この烏賊の点滴袋が繰り返しの呪文として明滅するのは、『三日堂』といふ『 』
の記号の中に書かれた「標識を通過して間もなく」なのです。存在への方向指示板の側を通過し
た後なのです。(全集第29巻、109ページ)下段)

これは、いつも安部公房が一次元の現実の時間をではなく、隙間の時間、即ち定時定刻に対する
に遅延を生ぜしめる典型的に超越論的な文章です。即ち、定時定刻が曖昧で不明である。[註2
3]

[註23]
「(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?」(もぐら通信第76号)で同じ超越論に
基づく文章の解析をしましたので、ご覧下さい。また、超越論については『Mole Hole Letter(3):超越論(1)』
(もぐら通信第70号)に詳述しましたので、これも参考になります。

この「標識を通過して間もなく」の「間もなく」といふ時間の長さが不明な以上、話の語られる
時間までの隙間に、上述して論じた『大黒屋爆破事件』を巡る父と息子の作者と友人の解説者の
ことが語られてゐるといふわけです。この時間の隙間では、安部公房のいつもの伝で、時間の速
度に遅延が生じますので、最初は立て札として登場した三日堂といふ地の文の店の名前が「間も
なく」の時間の経ち・経たぬ隙間の中では「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからともな
く」(超越論的空間)『三日堂』と記号化されて書かれて存在の店となつてしまつてゐる。『大
黒屋』といふ記号化も然り。さうして此の隙間を潜り抜けると、今度は隙間に入る以前の表示と
は違つて、『大黒屋爆破事件』の物語に入る直前に立つてゐた立て札の上に書かれた 三日堂 
ではなく、『三日堂』といふ存在の店の「標識」即ち存在の方向への方向指示板に、隙間を出た
直後ではなつてゐるのです。(107ページ、下段)

この『三日堂』といふ存在への方向指示板に主人公が従つて進む場面は海の上でのことです。海
は、安部公房がリルケに学んで自家薬籠中のものとした存在の形象(イメージ)であり、概念で
す。これに対して、主人公の乗船してゐる烏賊釣船に次に向かつてやつて来る立て札は、運河の
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

桟橋に立つ立て札であり、従ひ普通の日常の時間の、即ち地の文での立て札です。

それ故に、「目の前に古びたコンクリートの階段があった。運河側からは柱の陰になって、見え
なかったのだ。」といふ運河(といふ海と陸の接続を通過して上陸するところ)にある陸地には、
存在のではない、地の文の普通の店の名前が立て札の形式を取らずに、地の文にベタで次のやう
に書かれてゐる「粗末なプラスチックの案内板があり、赤い矢印と店名が表示してある」といふ
其の案内板であり、その上にあるのは次の文字です。これは『大黒屋爆破事件』の物語の直前の
3つ目の立て札に書かれた 三日堂 の場合のやうな枠囲いではなく、ベタで地の文に白地に次
のやうに書かれてゐる。

雑貨ショップ 物欲

日常の時間の中の繰り返しでありますから、この立て札の次に来るのは「定期購読」といふ定期
的に配達される[物]と[ ]の記号で示されるカタログ雑誌です。[物]と書いてルビが 
YOKU と振られてゐる。定期刊行物が[物]と記号化されてゐれば、安部公房の読者ならば、こ
れは「明日の新聞」[註24]であることにお気づきでせう。

[註24]
「明日の新聞」については、次のものをご覧ください。

(1)埴谷雄高『安部公房のこと』解題(もぐら通信第51号)の「7。安部公房独自の方法論」
(2)『魔法のチョーク』論(もぐら通信第52号)の「4。存在への立て札を立てる。:「明日の新聞」」
(3)『赤い繭』論(もぐら通信第51号)
(4) 『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)で、自己承認との関係で「明日の新聞」」が論じられてゐ
ます。

さて、この記号は、[緑面の詩人]の記号と同じですから、[詩人]は[物]であるといふこと
になつて、これは全く初期安部公房の名品『名もなき夜のために』の第3部たる(第2部の後に
続けて直ぐに)最後に置かれた存在の記号( )の中に書かれた言葉と寸分違ふものではありま
せん。[註25]即ち、リルケの無時間の世界と同様に、有機物も無機物も存在の中では分け隔
てなく生きてゐる。

[註25]
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(第56号)の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩
集』の関係について」より以下に引用します:

「このやうに、安部公房十代からの此の論理の上に、安部公房は新たに『マルテの手記』の解釈を加へて、詩人から
小説家になる為に、『マルテの手記』を自分自身のものとする為に、あるいは『マルテの手記』を超越するために、
「空白の論理」の中に第一部でもなく第二部でもない第三部、即ち第三の客観、即ち存在を仮構して、この作品をま
とめたのです。
もぐら通信
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小説家になる為に、『マルテの手記』を自分自身のものとする為に、あるいは『マルテの手記』を超越するために、
「空白の論理」の中に第一部でもなく第二部でもない第三部、即ち第三の客観、即ち存在を仮構して、この作品をま
とめたのです。

第一部でもなく第二部でもない、第三部。それが、最後に安部公房が『名もなき夜のために』の付け加へた存在を示
す( )の中に敢へて書いたテキスト(文字)なのです。

「(此処に空白がある。空白の告白がある。これが恐怖なのだろうか。僕は欺瞞が苦しかった。まだとどまっている
と思わせる駆け引きいやだった。僕ら人間を物への供物としよう。名もなき夜に生きて昼を織り出すものとなろう。
 ある日…………。)」(全集第1巻、558ページ下段)

ここまで考へてみれば、この最後の、( )で象徴される存在の中の文字を読むと、安部公房が何を考へてゐるかは、
よくわかります。「ある日」もまた空白と沈黙の中にある。「ある日」の物語もまた空白と沈黙の中にある。何故な
ら其れは特定の日ではなく、「ある日」
だからです。

そして、「転身」は、この( )の中や「……」や(文字通りの物質的な)余白の中、即ち夜の支点の余白と沈黙の
中で、人知れず、誰とも名前を言はれずに、おこなはれるのです。

安部公房の意識と無意識の入籠構造であり、螺旋構造です。そして、このやうな( )と「……」と(文字通りの物
質的な)余白の使ひ方は、このまま、領域を問はぬ、安部公房の作品の入籠構造または螺旋構造をなす話中話、劇中
劇の構造になつてゐます。」

このことを記号化すれば、さうして小説に書かれてゐる記号通りに分類すれば、

存在の中の人と物([緑面の詩人]、[物])
存在への立て札(『大黒屋』、『三日堂』)

といふことになるでせう。

さうして、次の海陸の接続点(桟橋)に到着してみれば、立て札に書かれてゐた地の文の、 

雑貨ショップ 物欲 

という名前の店は、「いつの間にか」(超越論的時間)『三日堂』は代替はりをしてゐて、同じ
場所が「どこからともなく」(超越論的な空間)、[物]と書いてルビが YOKU と振られてゐ
る定期刊行物を発行してゐる、

『物欲ショップ』

となつてゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          41
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いふまでもなく、存在の中にあれば、存在の中にある[緑面の詩人]と[物]は等価で交換可能
です。存在への立て札である『大黒屋』と『三日堂』も同様に等価で交換可能と考へることがで
きる。さうして、『三日堂』と『物欲ショップ』も同様です。それ故に/何故ならば、冒頭の病院
で登場する「トンボ眼鏡」の看護婦が存在の階層を自由に往来できる越境者たる未分化の実存と
して、この作品の中の至る所で又この章にあつても、主人公が窮地に陥ると「不意に」「突然」
「いつの間にか」「ふと気がつくと」(超越論的時間)「どこからともなく」(超越論的な空間)
現れて、主人公を存在の方向へと導く案内人の役割を演じることができてゐるの/からです[註2
6]。謂はば、生きた有機物としての案内板が「トンボ眼鏡」の看護婦であるからです。勿論、
終始一貫主人公とともに一体となつて主人公を存在へと案内する案内人は、これも有機物の《か
いわれ大根》です。

[註26]
「(6)二種類の救済者」(もぐら通信第66号)を参照ください。

(G)存在の記号『 』と[ ]の位置関係


この「[物]と書いてYOKUとルビを振ったカタログ雑誌の直営店」である『物欲ショップ』は
「『大黒屋』の一角に出店している評判の店だ。」とあるので、前者は後者の一部です。といふ
事は、やはり[物]は『物欲ショップ』との関係で[ ]といふ記号で書かれ得る理由があるわけ
です。これは、《縞魚飛魚》と[緑面の詩人]の関係について上述した通り。従ひ、ここでも、

[ ]と『 』の二つの記号は、「僕の中の「僕」」の話法による話中話の前者の僕の話が内部
から外部へと交換されて後者の僕が話の外部へと出て来ることによつて、[ ]と『 』は等価
で交換可能であるといふことです。といふ事は、

{([緑面の詩人]、[物])、(『大黒屋』、『三日堂』『物欲ショップ』)}

となるでせう。これは更に、思ひつくままに等価交換して、

{([緑面の詩人]、『大黒屋』)、([物]、『物欲ショップ』)}
{([緑面の詩人]、『物欲ショップ』)、([物]、『大黒屋』)}
{([緑面の詩人]、『大黒屋』)、(『物欲ショップ』、[物])}
{([緑面の詩人]、『物欲ショップ』)、([物]、『大黒屋』)}
{([緑面の詩人]、『物欲ショップ』)、(『大黒屋』、[物])}
{(『物欲ショップ』、[物])、(『大黒屋』、[緑面の詩人])}

等々といふ言葉の単位の交換による換骨奪胎が可能だといふことになります。

この章では、実際その通りでありまして、烏賊爆弾の炸裂する場面のあとに続いて、次の記号化
もぐら通信
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された言葉が一挙に並置されて出てきます。

(1)《かいわれ大根》(3回)
(2)[緑面の詩人](2回)
(3)[B2](1回)
(4)『大黒屋』(1回)
(5)『物欲ショップ』(1回)

(以上110ページから111ページ)

上記(3)の[B2]といふ文字は、次の空間への入り口である「小さな裸電球のおかげでなん
とか判読できる」「鉄扉の字」である。[B2]と[ ]といふ記号で記号化されてゐる以上、
この意味は、存在の存在の存在の中の接続を意味してゐます。即ち、『三日堂』は代替はりをし
てしまつてゐて『物欲ショップ』になつてゐますので、

{([緑面の詩人]、[物]、[B2])、(『大黒屋』、『物欲ショップ』)}

といふ安部公房の記号の世界での配置関係となるでせう。

勿論、繰り返すまでもなく、[B2]が加はつたからといつても、前者の存在の( )の中での
みならず、後者の存在の( )の中の言葉とも、記号の種類の如何を問はず、これらの言葉は相
互に等価で交換可能です。( )の中は無限なのです[註27]。安部公房の、私の言葉でいふ、
汎神論的存在論です。欧州白人種キリスト教の哲学でいふ超越論であり、ヨーロッパ近代の歴史
の中で同じtopologicalな再帰的論理を探せば、17世紀に登場するデカルトやライプニッツによ
るバロックの再帰哲学です。

[註27]
1946年11月に敗戦後に大陸からの引き揚げ船の中で起稿した『天使』の中で主人公の独語して居る閉鎖空間の
中にある無限に関する科白「お解りだろうか。実のところを言えば、私も始めこれは唯の部屋だと思っていた。所が
あにはからんやである。これが宇宙そのものだったのだ。そして固い冷たい壁だと思っていたものが、実は無限その
ものであり、恐ろしい不快な鉄格子だと思っていたものが、実は未来の形象そのものに他ならなかった訳なのだ。」
とあるのが、このことです。(新潮社刊『(霊媒の話より)題未定』所収『天使』98ページ))

さて上記のやうな等価交換関係の記号を使つて『カンガルー・ノート』の主人公は、《縞魚飛魚》
が執筆し、[緑面の詩人]が解説した物語の内部から外部へと脱出することに成功するに際して、
この内部と外部の等価交換の場面で、あの「トンボ眼鏡の看護婦」が「いつの間にか」(超越論
的時間)「どこからともなく」(超越論的空間)存在の階層を自由自在に往来し、境界線を越境
して登場するのです。この「トンボ眼鏡の看護婦」は、安部公房の未分化の実存たる、時間の中
では女性といふ性として『S・カルマ氏の犯罪』のマネキンのY子以来いつも「二種類の救済者」
もぐら通信
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の一人として登場する未分化の実存です。もう一人はいふまでもなく、幼年の「垂れ目の少女」
です。[註28]

[註28]
「(6)二種類の救済者」(もぐら通信第66号)を参照ください。

(H)《縞魚飛魚》といふ因子を上の記号的存在の世界に入れてみる
話が逸れるやうですが、《縞魚飛魚》といふ因子を上の記号的存在の又は存在の記号の世界に入
れてみませう。さうすると、どうなるか。

【《縞魚飛魚》{([緑面の詩人]、[物]、[B2])、(『大黒屋』、『物欲ショッ
プ』)}】

さうして、更に『カンガルー・ノート』の作者安部公房を加へると、

安部公房【《縞魚飛魚》{([緑面の詩人]、[物]、[B2])、(『大黒屋』、『三日堂』、
『物欲ショップ』)}】

といふことになります。これを更に話法の形式に変換して、この章のみならず作品としての全体
を示すと、次のやうになります。

安部公房>話者1>『カンガルー・ノート』[註29]>話者2>「僕の中の「僕」」>話者3:
「僕の中の「僕」の後者>怪奇小説『大黒屋爆破事件』>【《縞魚飛魚》{([緑面の詩人]、
[物]、[B2])、(『大黒屋』、『三日堂』、『物欲ショップ』)}】[註30]

[註29]
この『カンガルー・ノート』の『 』の記号は、私が採用してゐる著作名を示す記号です。安部公房の記号とは無関
係です。

[註30]
既述の文章で十分に伝はつてゐることと思ひますが、安部公房らしい、実に多層的な構造化を、安部公房は図つてゐ
ます。この構造化の原理は等価交換といふtopologyで、誠に単純な原理なのですが、この単純な規則から生まれる世
界は多層多種多様多岐多彩で、実はこれは私たちの現実の本当の姿と変はらない。私たちが安部公房の読者である由
縁です。

これらを要するに、(存在の中の人と物)と(存在への立て札)は、等価交換可能であり、従ひ、
(存在の中の人と物)と(存在への立て札)は、(存在への立て札)と(存在の中の人と物)と
なり、(存在)の中では、(立て札、人、物)は皆同じ質と値(または価値)を有するものとな
もぐら通信
もぐら通信                          44
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つて、従ひ、板ならば立て札、人ならば案内人、物ならばガイドブック(案内書)といふことに
なるわけです。これは『S・カルマ氏の犯罪』の結末で、何故朝起きた時から「既にして」「何の
理由なく」「いつの間にか」存在になつてゐたS・カルマ氏が、時間の中で存在であるが故に、
★印の直前で立て札そのものになり、★印といふ世界の果ての、世界(時間が流れてゐる世界)
と存在(時間は存在しない世界)の境界線を越えると壁といふ時間のない垂直方向へ無限に成長
する壁になるのかといふ論理的な、またtopologicalな理由なのです。

従ひ、安部公房の世界では、一人の登場人物が一つの役割を演ずるに留まる事はありません。こ
れは私たちの実際の現実の姿、即ちあなたの演じてゐる子供、父親母親、上司部下、先生生徒、
その他の社会的職業の名前で幾つもの役割を演じてゐる姿そのものです。

さて、話を、超越論的に「いつの間にか」「どこからともなく」登場する案内人である「トンボ
眼鏡」の看護婦に戻します。

5.2.4.5(5)存在を荘厳(しょうごん)する
この看護婦は此の章の最後に登場して、「(5)存在を荘厳(しょうごん)する」プロセスのための
呪文である、性的な暗示を掛けた次の呪文に関するやりとりを主人公として、直接の呪文を唱へ
るのではなく、また第1章のやうに風が唱へるのではなく、間接的な会話による暗示として、呪
文を裏返しにして、次のやうな呪文の後に、その性愛を暗示する会話を交わします。

まづは、この章で唱へられた呪文類:

(5)存在を荘厳(しょうごん)する:
   ①「ハナコンダ アラゴンタ アナゲンタ
     唐芥子ノ油ヲ塗っテ バナナノ皮デクルミマス」(100ページ、上下段)
   ②「アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ
     唐芥子ノ油ヲ塗ッテ バナナノ皮デクルミマス」(100ページ、下段)
   ③「アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ……」(101ページ、上段)

アナゲンタがアナベンダに、同じアナ(穴)によつて接続してゐる。この最初の行のアナ(穴)
に対して、二つ目の行の呪文は、いふまでもなく「バナナノ皮デクルミマス」とある以上、陰画
の陽物(ペニス)である。「唐芥子ノ油ヲ塗」つて勃起することはないでせうが(男性の読者は
お試しあれ!私はお断りしますが)、安部公房が言ひたいのは、さうではなく、この「唐芥子ノ
油」の対極にある塗布型の精力剤の類を言ひたいのです。安部公房の「空白の論理」です。男根
の勃起といふ存在への立て札を立てた前のプロセスにしたがつて、次の此のプロセスでは、最初
の行では存在を褒め称へ荘厳する呪文を唱へ、二行目では勃起した陽物を陰画の陽物、即ちバナ
ナの皮として褒め称へ荘厳する。陽物の勃起を確かなものにするための塗布型の精力剤もまた陰
画で唱へて(なにしろ唐辛子の油では勃起することはなく反対に没起するでありませう)二つの
文を接続し、更にそれぞれの一行目の呪文は、終はりと始めをアナ(凹)で接続して、各二行ふ
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たつの呪文を一つに、二つ目の呪文の一行めの最後をアナ(凹)で終はつて、最初の呪文の一行
目の始めのハナ(凸)にメビウスの環を作つて接続するといふtopologicalな発想です。アナとは
勿論、女性の秘所である凹のことです。また、遅ればせながら申し上げれば、バナナそのものが、
通俗的な意味では男根の擬似的な形象でありませう。

と、私が書いて来て此処に至ると、もはや笑はずにはゐられません。卑俗な言ひ方を許してもら
へれば、「よくやつてくれるぜ、安部公房」といふ感じが致します。確かに立つてゐるとはいふ
ものの、勃起した陽物を存在への方向を示す標識の立て札とするとは。それも陰画の勃起による
立て札とするとは。この陰画による勃起であるといふことによつて、この先の未分化の実存の女
性二人との禁欲的な性愛が暗示されてゐるわけです。即ち10代のリルケの詩に学んだ安部公房
の詩の主要な主題の一つである、愛の永遠の証明のために、主人公は二人のいづれとも別離する
のです[註31]。「トンボ眼鏡の看護婦」とは第5章心交通体系の提唱の章で、「垂れ目の少
女」とは最後の第7章ひとさらいの章で。

[註31]
安部公房がリルケに学んだ愛については次のものをお読みください。永遠に別離することによつて愛の真実性が証明
できるといふものの考へ方です。これを安部公房は全集第1巻所収の『没我の地平』と『無名詩集』に、また同巻の
他の詩の中に何度も歌つてゐます。永遠の別離の相手はこれらの詩集にあつては男の友であり、後年小説家になつて
からは、これに二種類の女性が、未分化の実存として加はります。未分化といふことから当然のことながら、性愛の
交換はなく、そのままにいつも別離するのです。例外は『砂の女』です。

遥かな遠さということ、相手と遠い遥かなる距離があること、即ち別れること、別離、これが10代の安部公房にとっ
ては、大切な愛の証明であったことを思い出すことに致しましょう。この愛と別れと死については、『もぐら感覚21:
緑色』(もぐら通信第25号、第26号)で詳細に論じましたので、これをお読み下さい。遠い距離というのは、リル
ケの動機(モチーフ) なのです。

(1)『もぐら感覚21:緑色(1)』(もぐら通信第25号)および『もぐら感覚21:緑色(2)』(第26号)

(2)『リルケの形象詩集を読む(連載第5回)』(もぐら通信第36号)の【解釈と鑑賞】
(3)『リルケの形象詩集を読む(連載第2回)』(もぐら通信第33号)の【解釈と鑑賞】
(4)埴谷雄高『安部公房のこと』解題(もぐら通信第51号)の「2。椎名麟三の愛と安部公房の愛」

話を呪文に戻しますと、上の最初の二つの呪文は軌道を走る自走ベッドの「レールの継ぎ目の規
則的リズムには、郷愁に似た催眠効果があった」間の「郷愁に似た催眠効果があった。穴の中で、
さらに深い穴の中に落ちていく夢」を見てゐるやうな状態の時の呪文ですが、しかし三つ目の呪
文は周りの様子も「しだいに侘しく、レールの歌も先細りになって消えていく」に際して唱える
呪文です。それ故にアナ(凹)繋がりにはならず、「アラベンタ」といふ似て非なる接続点の名
前になつてゐます。さうして、それ故に可能となるのですが、この三つ目の呪文の三つ目の最後
の語は、再び「アナゲンタ……」に戻り、アナ(凹)といふことから、回帰して最初の呪文のハ
ナコンダのハナ(凸)に戻り、メビウスの環の一捻りを構成したあとは安部公房の沈黙と余白の
論理(「空白の論理」)に従ひ、安部公房独自固有の話法の「……」の中に落ちて行く。
もぐら通信
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   ③「アラベンタ ハナゴンタ アナゲンタ……」(101ページ上段)

この「……」の中から再た、2回目の立て札(勃起した男根)、呪文、甲高い音と続いて、二
つ目の存在での新しい物語が始まるのです。

「5.2.4.3 (3)存在を招来する:甲高い音が聞こえる」で挙げたやうに、上記の3つの
呪文の直後に甲高い次の音が3回、主人公が問題下降する存在の3階層をそれぞれ境界を超え
てそれぞれ降りてゆくに連れて、鳴るのです。[註32]

(1)「金切り声をあげて車輪が軋り、ベッドがジャンプした。」:(98ページ下段)
(2)「甲高い警笛の断続。」(101ページ下段)
(3)「天井のアーチは、残響効果を強める構造になっているらしい。ぼくの声は意味なく拡
散し、壁から壁に反響を繰り返し、チベットの大笛に負けないほどの咆哮になって鳴り響い
た。」(105ページ上段)

[註32]
「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」をもう少し階層化して問題下降[註B]すれば、次のやうになります:

(1)差異を設ける
(2)呪文を唱へる>(2.1)甲高い音が発生する
(3)立て札(を立てる)
(4)存在を招来する>(3.1)存在が現れる
(5)存在への立て札を立てる
(6)存在を荘厳(しょうごん)する
(7)次の存在への立て札を立てる

詳細な説明をした6つの次第は:

(1)差異(十字路)という神聖な場所を設けて、
(2)その差異に向かって、また其の差異で呪文を唱えて、
(3)その差異に、存在を招来し、
(4)主人公と読者のために、存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を存在の十字路(差異)に立て、また
は案内人か案内書(「ガイドブック」)を配し、
(5)存在を褒め称え、荘厳(しょうごん)して、
(6)最後に、次の存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を立てる。

[註B]
問題下降については「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)をお読みください。安部公房
固有の此の話法については詳細に論じました。
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3回目の甲高い音、「天井のアーチは、残響効果を強める構造になっているらしい。ぼくの声は意
味なく拡散し、壁から壁に反響を繰り返し、チベットの大笛に負けないほどの咆哮になって鳴り響
いた」ら(超越論的時間)「どこからともなく」(超越論的空間)怪奇小説『大黒屋爆破事件』
が、存在の存在の存在の底で、始まるといふわけです。

さうして、この存在の物語の最後が、主人公が運河の岸壁に着岸して「三度目の(引用者註:烏賊
の攻撃といふ)攻撃が始まるまえに、階段目指して駆け出し」て、岸壁の階段を降りてからの、こ
こでも万引きを疑はれた主人公の窮地を救ふために「トンボ眼鏡の看護婦」が超越論的に、即ち脈
絡なく不意に、救出のために出現するのです。

上記①②③のバナナの皮の呪文を巡り/連想させる主人公と看護婦の性愛を暗示する次の会話:

《かいわれ大根》を
「どこかで洗えないかな、どぶ川につかってしまったんだ」
「いいじゃないの。肥やしだと思えば」
「冗談いうな、大事な食料なんだ。バナナの一本も持たせてくれなかったくせに」
「バナナ、好きなの?」
「茶化すんじゃないよ」
(113ページ、下段)

「トンボ眼鏡の看護婦」は案内人ですから、『大黒屋爆破事件』の物語の主人公が閉鎖空間から脱
出するのを助ける役割を演じます。(安部公房によれば何しろ言葉で語られる物語は全て閉鎖空間
でありますから[註33])さうすると、《縞魚飛魚》によつて書かれた「存在の中の存在の中の
存在」の中で語られる存在の物語の内部から外部へと脱出するに際して、次の章へと向かふ前に、
再度存在の方向への立て札が立つことになります。

[註33]
安部公房の小説観と世界認識については、『2。『カンガルー・ノート』の呪文論』(もぐら通信第66号)の「2。
1 呪文とtopologyと変形の関係」を参照ください。詳述しました。

物語の閉鎖空間から脱出した主人公は、自分の意志によらず、自然のままに次の存在への立て札を
立てることになります。性愛続きで、何と驚くなかれ、『大黒屋爆破事件』の物語から脱出するた
めの立て札、それがまた男根(ペニス)です。

5.2.4.6 (6)次の存在への立て札を立てる
最初の呪文であるバナナの皮の呪文のすぐ前に立つてゐる立て札は、やはり勃起した男根でした。

(A)最初の立て札:
「関節をつけ忘れたような看護婦の指が、ふさふさと生い茂った《かいわれ大根》の中をまさぐり
はじめる。(略)勃起しかけているみたいだぞ。めっそうもない、こんな状態での勃起なんて真っ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

平だ。(略)」(100ページ、上段)

これが最初の立て札なら、今度は章の終わりで、『大黒屋爆破事件』の物語の閉鎖空間から脱出
に成功して次の存在へと向かふ主人公の前に、勃起した男根の方向標識板が立つのです。

(B)最後の立て札:
前の節のバナナの皮の呪文を巡る看護婦と主人公の会話の直ぐ後に、看護婦が主人公の陰茎に処
置を施して、点滴袋といふ凹の形象である「はち切れんばかりに膨らんでいた袋から、音を立て
て小便が噴出」して便器の中に流れてから(114ページ、下段)、

主人公の「陰茎の先から、血が一滴にじみだした。看護婦が消毒綿で、亀頭を圧迫すると、そん
なつもりはないのに、急速な勃起がはじまる。」(114ページ、下段)

とある通りに、再度この勃起する陰茎が、次の存在への立て札となつてゐます。

次の存在の章へと接続する階段は、「こんどは下りの階段」であり、上へと登る階段ではなく、
従ひ此処でも安部公房は連続の非連続・非連続の連続といふtopologicalな接続を行つてゐて、「三
つ目の鉄扉」にあるかも知れない文字についての言及は、入り口の鉄扉にはなく、そして今度は
階段を(降りるのではなく反対に)昇つて、『大黒屋爆破事件』といふ物語の閉鎖空間から脱出
して、元の「存在の存在の存在」へと上昇して戻るためですから、最後の出口の扉には[B2]と
あるのです。メビウスの環の一捻りです。

そして次に「船縁を叩く、溜め息まじりの水の音」の、従ひ此れも繰り返し聞こえる地の文の呪
文である水の音が聞こえてから、更に再々度の念の入れやうで、今度は水から離れて正反対の「乾
いたチノパンツ」の「素晴らしい感触」で終はり、次章へと接続されて、次章では結末継承とな
る、これが最後の一行となつてゐます。「『カンガルー・ノート』論(11)」(もぐら通信第
76号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(25)自走ベッドによる章
の間の結末継承(2)」(もぐら通信第76号)より引用します。

「2。第2章緑面の詩人から第3章火炎河原への結末継承の接続
この第2章から第3章火炎河原への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

     第2章緑面の詩人の終はり        第3章火炎河原の始め
(A)「またも下水の臭気」:         タンニンの臭気
(B)「船縁を叩く、溜め息まじりの水の音」:(水に対して)題名が火炎河原
(C)「ピンク・フロイドの最新作の導入部」:「ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ/唐辛
(『鬱』の導入部:「櫓を漕ぐひそかなきしみ、 子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマ
  船縁をたたく水の音」)          ス」といふ呪文
(D)「乾いたチノパンツの感触が素晴らしい」:(乾きに対して)運河の水の流れ」
もぐら通信
もぐら通信                          49
ページ

かうして、『S・カルマ氏の犯罪』であれば「世界の果て」と(一枚の白い存在の布である)映写
幕に映写されて、映写機が/を通して、こちらの世界が次の存在の世界に接続してゐる、そして/し
かし相変わらず贋の、とはいへしかし次の現実を目指して、『カンガルー・ノート』の自走ベッ
ドは「迷宮のあいだの移動用乗り物として」接続の空間といふ隙間たる、しかし同様に上位接続
(論理積:conjunction)といふ存在の中を走ることになります。

以後、この第2章で得た次の目次を共通の目次として、最後の第7章まで論述を進めます:

(1)差異を設ける
(2)呪文を唱える
  (A)地の文の呪文
  (B)呪文らしい呪文
  (C)3回の呪文の後に登場する者
(3)存在を招来する
  (A)3回鳴る甲高い音
  (B)存在の始め
  (C)存在の終はり
(4)存在への立て札を立てる
(5)存在を荘厳(しょうごん)する
(6)次の存在への立て札を立てる
  (A)最初の立て札
  (B)最後の立て札
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 50
私の本棚
磯崎新『第四間氷期』論
      建築家の論じた安部公房
      (『現代思想』2017年10月2日発行)
岩田英哉

この建築家の話の進め方も、安部公房と同じで始めと終はりがないやうな印象を受ける。それ
は最後に述べるやうに確かに始めと終はりはあるのだが、しかしそれを自分では余り意識して
ゐる気配はなく、ここが安部公房とは異なる。これは多分、始めと終はりの間に語られる論の
筋道が、牛若丸の八双飛び(いや、発想飛びか)で、この人の興味にしたがつて記憶の中から
様々な事柄が『第四間氷期』を巡つて関係づけられるからです。

しかし、建築家といふ空間的な構造体の設計者が意識ぜずに始めと終はりを超越論的に回避す
るといふことも想像しにくい。後述するやうに、この方の建築思想は、先生としてついた丹下
健三を通じて受け取つたル・コルビジェの建築思想がそのまま、しかし姿を変へて、この人流
に生きてゐるからです。

今やこの世界的な建築家の歴史上の位置を明示します。

(http://sakuhin.info/japan/modern-j/kenchiku_sekkeisya_keihu/)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 51

[註●]

(http://sakuhin.info/japan/modern-j/kenchiku_sekkeisya_keihu/)

さて、以上のことを思つて、この論者の1960年代の論文とエッセイを全て収録した『空間
へ』といふ題名の著作を読みました。

この建築家によれば、安部公房との初めての出あひは、安部公房から「生意気だな」と言はれ
た第一声に始まる次のやうな次第です。この生意気だと安部公房に言はれた建築家の卵だつた
学生が後年映画『他人の顔』の診療室の空間構成をオブジェを用ゐてするのだから、明日のこ
とは判らない。安部公房も若かつた。

「 住宅街にある一軒家。中では数人の青年が居間に陣取って文学や美術と共産主義といった
芸術論をたたかわせていた。私はしばらく耳を傾けていたが、やがて白熱した雰囲気につられ
て議論に割って入った。内容はよく覚えていないが、瀧口修造の「近代芸術」で読んだような
ことをしゃべった気がする。すかさず一人の青年が「お前、生意気だな」と言い放ち、こちら
に鋭い視線を投げ掛けた。しばらく後に芥川賞を受賞することになる作家の安部公房である。

 安部さんはその年、東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業した勅使河原宏らと「世紀の
会」という芸術集団を結成していて、私はその会合にもぐり込んでいたのだ。彼は四八年に画
家の岡本太郎が作家の花田清輝、埴谷雄高、野間宏らと旗揚げした「夜の会」にも加わってい
る。画家や作家、詩人、評論家らがジャンルを超えて集結。変革を旗印にしたグループが当時、
次々と産声をあげていた。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 52

 フランスで思想家のジョルジュ・バタイユらと親交を結び、シュルレアリスムや抽象芸術運
動のさなかで青春を送った岡本太郎が復員し、上野毛にかまえたアトリエで猛然と活動を始め
ていた。ヨーロッパのアバンギャルドを精力的に日本に紹介し、特高に拘束された瀧口修造も
「日本アヴァンギャルド美術家クラブ」「実験工房」などを創設した。この二人が一つの核と
なって、反体制だとして抑圧されていた前衛運動が息を吹き返し、六〇年代にかけて大きなう
ねりとなっていく。」(#805-6 (私の履歴書) 建築家 磯崎新(6)東大入学――変革、ゴミ
溜めで始動:http://blog.livedoor.jp/akatele/archives/52685901.html)

また、次の引用は2014年12月18日付の記事で東京・神宮前のワタリウム美術館で開催中の「磯
崎新 12 5=60」と題し、そんな磯崎の「建築外的思考」に注目した企画展でありまし
たが、「磯崎は展覧会に寄せた文章にこう綴つている。

 〈私はたまたま建築家と世間では呼ばれているけれど、本人は「建築外」だけを考えている。
他の領域の人々のなかには同じくみずからの専門を超えて思考している人がいる。一歩外に出
たところで交換する。(略)歴史的には文人といわれた人たちのやったことです〉」

「私はたまたま建築家と世間では呼ばれているけれど、本人は「建築外」だけを考えている」
といふ、自分の主題に対して否定的であつて其れ以外の領域を最初に考へるといふ論理もまた、
安部公房に通じてゐます。[註1]

[註1]
〈僕は今こうやって〉(全集第1巻、88ページ)を参照ください。またこのエッセイの持つ安部公房特有の陰画
の論理と「僕の中の「僕」」に関する言葉による表現についての禁忌(タブー)の意識については『もぐら感覚2
0:窪み』(もぐら通信第18号)、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)および『安部公房文学の毒
について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)をご覧ください。それぞれの主題毎の文脈
に於いて詳述しました。

かうしてみると、建築家といふよりも抽象的な構造体の空間設計者といふ方が当たつてゐる此
の『第四間氷期』論者も、安部公房に似て複数の異領域を横断することのできる知性をもつた
人間で、科学と学問でいふならば学際的な視点といふ立体的な、高次元の複眼思考の持ち主と
いふことになります。この人の設計する建築も同様にできてゐる筈です。この方の手になる建
築物は、ル・コルビジェのものと並べて、後掲します。

同じネットの新聞の記事より、もう少し、安部公房に似てゐるものを挙げると、自作の次のや
うな極私的書斎があります。木の上に住む箱男といふところでせうか。

「 中国明代末期の文人、董其昌(とう・きしょう)は書画船で各地を巡ったというが、磯崎
は長野・軽井沢に「鳥小屋(トリー・ハウス)」と呼ばれる書斎を構える。会場には、その実
寸模型が登場。丸太を削っただけの階段を登りきると、そこは四畳半の極私的空間。本だけが
ある。」(http://www.sankei.com/life/news/141218/lif1412180007-n1.html)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ53

会場に展示された「鳥小屋(トリー・ハウス)と呼ばれている軽井沢の書斎」実寸模型 (岡倉禎志撮影)

この建築家は、建築物を其の外部である環境との関係で考へて設計をする。当たり前といへば
当たり前ですが、しかし此の方の思考の範囲は広く、従ひ環境とは、建築物の立つことになる
都市と都市設計、都市である以上交通路、地番を振る行政府、さうしてこれらを生み出す様々
な技術、さてこれらの更に外部である気象を意識した上で、『第四間氷期』論を書いてゐる。
論文とエッセイの題を眺めると、さうして実際中身に入ると、都市虚妄論、虚体としての都市
論、見えない都市(となると透明なる存在の都市、即ち函数の集合の都市といふことである)、
記号としての都市論、自作の詩、成長する建築物、死者のための都市(エジプト)、迷路と秩
序の美学、《鳥》的都市の歩く空間、また路上と薄明と幻覚などといふこれも安部公房ばりの
ニューヨーク論のエッセイもあり(デカルト座標の説明あり、これも間違ひなく安部公房とは
余計な説明抜きで話が通じた筈)、ユートピア都市論等々、魅力的な文章が続き、これの細部
に言及すると第四間氷期論を離れるので、以上作品の名前を列挙してをくに留めて、本題に入
ります。

この『第四間氷期』論の骨子は次のことからなつてゐる。

(1)ローマクラブ[註2]のレポート『成長の限界』(1972年)を政治問題化したの
が、当時アメリカの副大統領であり、『不都合な真実』(2006年)を著したアル・ゴアで
ある。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 54

[註2]
スイスのヴィンタートゥールに本部を置く民間のシンクタンク。資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全
地球的な問題に対処するために設立した。世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人
からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/ローマクラブ)

(2)「振りかえってみれば京都、続いてパリの議定書は市場資本主義が仕掛けた政治的詐欺
事件だったのではないかと疑われてくる。」[註3]

[註3]
これは既に此の『第四間氷期』論の書かれた2017年には明らかにはつてゐる事実ですが、気候温暖化説といふ
仮説はデータの捏造の上になりたつてゐた捏造情報であつた。藤井厳喜氏の解説による動画によれば事実は次の通
りです。20世型の一斉同報マスメディアは一切報じないし、政府も政策の誤りを訂正してゐない。

(1)この地球温暖化または気候温暖化捏造仮説は、クライメートゲート事件と呼ばれてゐて、過去3回に亘るデー
タ測定・調査機関の捏造と、公式発表機関からの機密情報漏洩によつて明らかである。
(2)データ測定・調査機関の名前は、IPCC(Intergovernmental Pontoon Climate Change)といいひ、
(2)公式発表機関は、イギリスのイーストアングリア大学気候研究所といふ。
(3)情報漏洩は、後者のイーストアングリア大学気候研究所より2009年11月19日に発生した。これを情
報漏洩の1.0といふ。
(4)2011年11月22日に2.0が起こり、
(5)2013年3月13日に3.0が起こつた。
(6)いづれも情報漏洩した人物の名は、Mr. FOIAと名乗る人物である。

(3)このやうに人間は文明と称して無駄ばかりをやってきた。
(4)バッキー・フラーといふ磯崎新の親しかつた建築家が言ひたかつたことは、この(3)
のことである。その主張は「限られた資源をもとにシナジーの原理に基づく技術開発へとすす
めば、「地球号」は安全運転できる」といふものである。
(5)この(4)がモントリオール博覧会、大阪万博の「隠れた建築的主題ではあったのだが
国際的な金融資本主義が市場を席巻しはじめたために腰折れになる。その後約半世紀、大小の
博覧会が全世界各地で催されるときテーマとして常に環境問題がかかげられているのにもかか
わらず、有効な解決法が示されたためしがない。」しかし、
(6)「地球温暖化は続いている。氷河が消えつつあることに気づいた一九五〇年頃には、海
面は100メートル上昇するといわれていた。誰が修正したのか60メートルまで下がった。
『不都合な真実』では6メートルになっている。それでも今日の気象異変はすべて地球号温暖
化が原因であると語られる。」しかし、この数字はおかしいとは上記(2)の通り。
(7)京都議定書も、そのあとのパリ議定書も偽書なのではないか?もつと言へば、ヒトラー
の時代にユダヤ人の迫害と虐殺に利用した(「シオン賢者たちの」)『議定書』が偽物の故に
本物だとしてこれを実行したヒトラーと同じ論理をアル・ゴアは使つたのではないか?
もぐら通信
もぐら通信                          55
ページ

(8)この論理の上に、偽物は本物、本物は偽物といふ論理の上に立つて、議定書が本当だと
すれば、「地球号」の海面がかつての説のように一〇〇メートル上昇するならば、この半世紀
間に上昇した世界人口の増加分、三〇億人は溺れることになる。」
(9)安部公房の『第四間氷期』は「スプートニクのガガーリンがはじめて宇宙から「地球は
青い」という声を送ったのと同時に安部公房が連載をした未来予測論のSFである。文学作品と
しては高い評価を受けていない。だが私は彼の最高傑作だと考えている。」「人類がはじめて
地球は「水の惑星」だと認識することになる声が届いてかr約一〇年後に、月面の着陸地点を探
索するために月の周囲軌道にのったアポロ八号から月面上に浮かぶ地球の写真が送られてきた。
地球もまたひとつの天空に浮かぶ惑星であることが瞬時に理解された。(略)一九六一年のひ
とつの声=言葉と約一〇年後のひとつの映像=イメージによって地球は水(そして水蒸気)で
おおわれたひとつの惑星だと人類は認識することになった。
 安部公房はあのガガーリンの「地球は青い」に感応している。『第四間氷期』がその証拠で
ある。」
(10)「やっと六〇〇〇年前に今日の海水面が安定する。第四間氷期と呼ばれるこの六〇〇
〇年間に人類は道具を使いながら文化をつくり、それを文明に築きあげたに過ぎない。宇宙か
ら見える地球は刻々と変化する雲の流れでおおわれている。水面レベルはすこしばかり長い期
間で氷の量によって変動しているというわけだ。バッキー・フラー(略)に対して安部公房は
人類の生存条件の危機を警告したいと考えたに相違ない。」

以下安部公房との思ひ出と作品の関係について筆が進む。

(11)「バッキーからはひたすら教説を聞いただけだが、安部公房とは冗談を交えて会話で
きたので、彼が作家、思想家として自ら書き残した以外の論説もかなり聞いた。みずから練習
した子豚の丸焼きをご馳走になったこともある。『第四間氷期』の実験室での水棲動物飼育で
も豚がかわれている。カフカが『変身』で描写した奇怪な昆虫を再現させたい。実験的にうみ
だしたい、こんな妄想をもっているに違いないと私は考えていた。ともあれ医学部出身であり
解剖学の知識は実習し、とりわけ発生学に興味をもっていた。みずからパブロフ主義者を自称
していた。」

ここからあと、最後の2/3ページは、水棲人間といふ「バイオロボット」の話に継いで、今や世
事となつて人の口の端にのぼるAI(人工知能)の話に移り、この作品の仕組み、即ち、

(12)「ここで発明されたAIが発明者本人を裏切り、つまり本人の分身としての人工頭脳か
ら逆に抹殺される」「この仕組みは『人間そっくり』以後の安部公房の文学(演劇)的主題に
なっていく。人間と人造人間の区別がはっきりつかなくなり、人間相互か人造人間相互かいや
人間と人造人間相互か、おたがいに殺し合いが起こる。戦争という非日常ではなく、日常その
もののなかにそんな自体が発生する。虚実入り乱れるというはやさしい。地域ごとに異なる条
件下で発生した大洪水どころの比ではない。海面がせりあがって、地表の住居可能許可地帯の
大半が水没するというわけだ。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 56

この論の最初も地球の表面が水没するといふ話で始まり、最後も水没の話で終はる。最後の段
落は次のやうになつてゐる。位相を一つづつズラして行くといふ、これはこのまま磯崎新とい
ふ建築家の建物の造り方に違ひない。

「第四間氷期終末状態では自動車ではなくその生命体は水中船になっているだろう。パラサイ
トしているのは水棲人間としてのバイオロボットだろう。あるいは耳が鰓になった猪八戒かも
知れぬ。相棒だった沙悟浄は元来水棲人間であった。」

最初に冒頭に掲げた建築家系譜図に依つて、コルビジェの建物の特徴を挙げます。その次に写
真をみてください。この建築家がどういふ人間か、また其の建築設計に関する論理が安部公房
に通じてゐることが理解できるでせう。

(1)複数の脚(柱)の上に箱が乗ってゐる。
(2)主副、主従、本体・附属の二つの部分から構成されてゐる。
(3)隙間または窓を強調する線から成つてゐる。

Marseille_la_terrasse_de_la_citée_radieuse
サヴォア邸

ラ・トゥーレット修道院

国立西洋美術館(東京)
もぐら通信
もぐら通信                          57
ページ

磯崎新の建築もまたこの線上にあると見える。あるものについては、岐阜にある合掌造りを真
似たやうにも見える。このやうに日本的な要素もある。コルビジェに日本的な要素を入れたも
のが、場合によつては、磯崎新の建築ではないでせうか。

大分医師会館

岡之山美術館

兵庫県西脇市出身の芸術家の横尾忠則の作品展示と保存
を目的として1984年(昭和59年)に開館した。3両連結
の列車車両をイメージしたユニークな外観。

アートプラザ(旧大分県立大分図書館)

つくばセンタービル

岩田学園

静岡県コンベンションアーツセンター
もぐら通信
もぐら通信                          58
ページ

最後に。磯崎新はカントに似てゐる。理屈つぽいところも似てゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 59

安部公房とチョムスキー
(6)

岩田英哉

      目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
青字は前回までに
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置 論じ終つたもの、
3。バロックとはどういふ時代か 赤字は今回論ずるもの、
3.1 バロックとは何か 黒字はこれからのもの
3.2 バロック建築:差異の建築
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロックの哲学:差異の哲学
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。ラシーヌと三島由紀夫:三島由紀夫とバロック
7。チョムスキーと安部公房:安部公房とバロック
8。バロック人間としての安部公房と三島由紀夫:先の戦後の日本史と世界史に二人の果たした役割と偉業
9。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
(2)ヨーロッパのバロックの概念と定義:ヨーロッパのバロック概念を中心にヨーロッパの17世紀を再帰的に読
み解く
 (あ)政治:ウエストファリア条約
 (い)経済:株式会社の成立
 (う)文化:バロック様式
    ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
    ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
10。イスラムから見た近代史:『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を
読む:イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
11。日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
11.1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
11.2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
11.3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
12。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(0)ヨーロッパ中世スコラ哲学の論理をtopologyで変形させる
  (あ)カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学とカントーショーペンハウアー(超越論)の
     系譜に内在するスコラ哲学を比較して継承と消滅と残存変形をみる
  (い)共産主義の系譜と超越論の系譜に生きてゐるスコラ哲学の論理をtopologyで変形して超越する
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国体への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論:超越論に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
『4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法』(も
ぐら通信第76号)の「(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か」に引用したチョムスキーの日
本語に関する掲題の疑問について、順序は前後しますが、しかし補足的に説明をして読者の理解
を得たい。以下同号からの引用です。

「(3)言語学の立場から、人間とは何か、さうしてほかの動物と人間を別してゐる人間の心と
は何かといふ問ひに答へる学問がチョムスキーの統辞理論であり統辞構造論、即ち上述の外の二
部門からなる変形生成文法または生成文法である。(同書訳者解説:207ページ)

さうしてそのためには、バロック時代の文法学であるポール・ロワイヤル文法をデカルト思想と
の関係で吟味する必要があるので、チョムスキーは『デカルト派言語学』を書いた。何故ならば、
言語一般の有する「その言語の生成文法は無限に多くの構造を生成する機能(再帰性)を持たな
ければならない」からである(同書訳者解説:203ページ)。デカルトの哲学は17世紀のフ
ランス人の考へた再帰哲学(cogito ergo sum:我思ふ、故に我有り)、即ち超越論だからであ
り、安部公房の新象徴主義哲学の論理、AでもなくZでもない第三の客観といふ(二項対立を超
越した)一次元上の統合的存在(上位接続:論理積:conjunction)を求める論理であり、そし
て此の17世紀の哲学と文法学の論理は、言語の本質に基づく論理であるといふ点で、チョムス
キーの差異と接続と変形に関する生成文法といふ再帰文法と全く考へ方を同じくしてゐるからで
す。

言語の生成機能とは再帰性のことであるといふ言語の本質にある認識がチョムスキーの言語論の
核心にあるといふことを安部公房の読者に申し上げれば、私もこれまで繰り返し論じてきたこと
ですし、そのまま通じるのではないでせうか。つまり、この章は、安部公房の言語機能論[註8]
によつてチョムスキーを語つたのです。

さて、この言語の再帰性はいつも入籠構造を取りますので(例へば『カンガルー・ノート』の「存
在の存在の存在」といふ3階層の入籠構造のやうに)、チョムスキーは日本語を例にとつて、更
に次のやうに述べてゐます。

(4)「例えば入れ子構造が処理にそれほど負荷をかけるならば、なぜ人間言語は入れ子構造を
到るところで作り出すのだろうか。日本語の文の埋め込みなどは、入れ子構造であるのみならず
(文の内に文を埋め込むのであるから自己埋め込み構造であり、従ってその処理には大きな負荷
がかかるが、それならばなぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成
をその中核部分において許し続けているのだろうか。」(同書訳者解説:203ページ)といふ
問ひに対する答へを示さうとするのが、生成文法だといふことなのです。(傍線は原文傍点)

以上の箇所の論点を抜き出すと、次の二つです。
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ページ

(1)言語の生成機能とは再帰性のことであるといふ言語の本質にある認識がチョムスキーの言
語論の核心にあるといふこと
(2)この言語の再帰性はいつも入籠構造を取るといふこと(例へば『カンガルー・ノート』の
「存在の存在の存在」といふ3階層の入籠構造のやうに)

この二つのことを踏まへた上で、再度次の疑問を読みますと、

「例えば入れ子構造が処理にそれほど負荷をかけるならば、なぜ人間言語は入れ子構造を到ると
ころで作り出すのだろうか。日本語の文の埋め込みなどは、入れ子構造であるのみならず(文の
内に文を埋め込むのであるから自己埋め込み構造であり、従ってその処理には大きな負荷がかか
るが、それならばなぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をその
中核部分において許し続けているのだろうか。」

といふ箇所にあるチョムスキーの疑問は、箇条書きにすると次のやうになります。

(1)一般
入籠構造が処理にそれほど負荷をかけるならば、なぜ人間言語は入れ子構造を到るところで作り
出すのだろうか?
(2)個別
なぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をその中核部分において
許し続けているのだろうか?

チョムスキーの疑問は、最初に一般的な問ひを立て、といふことは自分の言語である英語も入籠
構造であるとよく知つた上で、次に個別の具体的な、それもチョムスキーの関心を強く惹く例と
して日本語の例を挙げてゐるといふことがわかります。

まづ「入籠構造が処理にそれほど負荷をかける」といふことをもう少し、この章で、詳しく説明
をします。

入籠といふ構造については説明は不要でありませう。それでは、処理と負担といふ言葉の意味に
ついての説明をします。入籠といふ構造の文を、あなたが心身の中でまたは身心の中で、意識的
にか無意識的にかいづれの場合にあつても、生成するといふことです。

さて、そこで、です。「(1)チョムスキーの統辞理論とは何か」でお話ししたやうに、チョム
スキーは言語能力と言語運用の二つを明確に区別してゐることを思ひ出して下さい。さうすると、
二つの区別は次のやうなチョムスキーの分類になります。

(1)言語能力(言語構造):入籠構造(nest structure)による文の生成能力
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もぐら通信                          62
ページ

(2)言語運用(発話):木構造(tree structure)による文の生成能力

安部公房の分類を使へば、安部公房の読者には、より一層具体的にわかるでせう。

(https://ja.scribd.com/document/371370776/安部公房の分類-v2)

上記(1)の言語能力は、構造(文法)の層に当たり、構造としては安部公房の存在論の記号を
使へば《存在2》に当たり、(2)の言語運用は、音声の層に当たつて、現実の時間の中で《現
存在》として《存在2》を身心と心身に隠し持つた又は内に蔵したままで生きることを意味して
ゐます。これが超越論による存在論の、言語の観点からの説明です。安部公房に惹かれて読者で
ゐるあなたは、間違ひなく、このやうな人生を送つて来た。《現存在》は現実の時間の中で、《存
在2》は無時間の記憶と意識の階層で、ともに一つの自分として、あなたの名前であるS・カル
マさん!と呼ばれて、はい!と返事をして来たのです。しかし、この現実の中の自分と《存在2》
に生きる無名の自分自身の間に隙間が生じてゐる、差異があることをあなたは言葉でうまく言へ
ないが、しかし感じてゐる。もしあなたがこの事実を認識すれば、即ち有名(S・カルマさん!)
であれ無名(沈黙と余白の中のあなた)であれ、自分自身も含めて世界とこれを呼ぶならば、

世界は差異である(認識論)

といふ超越論による認識論を、悩むことなく思ひ出すでせう。

さうであれば、《存在2》の階層では、あなたは他の人と同様に無名の何か、即ち存在なわけで
すから、有機物無機物を問はず等価交換可能でありますので(何故なら有機物にも無機物にも名
前がないから)、

価値は等価で偏在してゐる(存在論)
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もぐら通信                          ページ63

といふこともまた思ふことができるのではないでせうか。それ故に、この存在論はまた前者の認
識論であることもそのまま理解が行くのではないでせうか。即ち、あなたは差異そのものであり、
且つあなたは差異に生きてゐる人間だといふわけです。さうして、あなたはS・カルマさん!と病
院の待合室で、定期刊行物の雑誌をパラパラめくり眺めながら此の「明日の新聞」を読むのを読
みさして、名前を呼ばれて思はず返事をするあなたである。さうして、あなたは《現存在》(有
名)と《存在》(無名)の間を右往左往してゐる。もちろんどちらを主体にするかはtopological
には、あなたが自分の意志で決めて構はない。この存在論による等価交換は以下のやうになる。

Subject Object
主体     客体
主観     客観
《現存在》 《存在》

または、

Subject Object
《存在》 《現存在》

といふことである。このことを次に再掲する安部公房の「主観・客観等価交換表」(https://
ja.scribd.com/document/371370776/安部公房の分類-v2)の上で主体客体の等価交換をしてみ
て下さい。
もぐら通信
もぐら通信                          64
ページ

これを再帰的な関係といひ、その関係の性質を再帰性といひます。

さて、その上で、再度あなた自身の言語の再帰性の話です。

(1)言語能力(言語構造):入籠構造(nest structure)による文の生成能力:《存在2》
これは、前回示した日本語の再帰的な入籠構造の図の通りです。ここでは省略します。

さて、これに対して言語運用の木構造(tree structure)は《現存在》に当たります。

(2)言語運用(発話):木構造(tree structure)による文の生成能力:《現存在》
チョムスキーは、この時間の中の階層での発話による文について、次の4つに分類してゐます。
これは英語による分類ですが、普遍性があるので、私たちの日本語にも適用されますし、そもそ
も日本語も同じ分類を、《現存在》としての私たちはとつてゐる。次の4つは、入籠構造の、時
間の中で現れる下位分類です。留意すべきは、チョムスキーは、《現存在》として私たちが発生
する言葉を、句単位での接続で考へてゐることです。しかし日本語の場合の冗長性の大きい言語
については①自己埋め込み構造といふのは文単位の接続のことを意味してゐるといふことです。
これはチョムスキーの生成文法を理解する上で大事な理解です。

①自己埋め込み構造(self-embedded constructions)
②多項枝分かれ構造(multi-branching constructions)
③左枝分かれ構造(left-branching constructions)
④右枝分かれ構造(right-branching constructions)

以下これらの文例をチョムスキーの挙げてゐる英語ではなく、新たに日本語で同例を示します。

①自己埋め込み構造(self-embedded constructions)(同書52∼53ページ)

(A)魚屋の店先で秋刀魚を盗んだ猫
(B)「魚屋の店先で秋刀魚を盗んだ猫」は我輩だといつてゐる猫

即ち、(A)の句が(B)の句に其のまま含まれてゐる再帰的な句構造。

②多項枝分かれ構造(multi-branching constructions)(同書53ページ)

「多項枝分かれ構造とは、内部構造を持たない構造のことである。」

チョムスキーの例に倣へば次のやうなものです。
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もぐら通信                          ページ65

太郎、花子、次郎、三郎、寿限無寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の……。

「内部構造を持たない構造」といふと難しいさうですが、要するに内部構造(入籠構造)がない
ので無限に名前を列挙することです。

③左枝分かれ構造(left-branching constructions)

句の左側に入籠構造が接続されてゐる句の構造のことです。要するに①自己埋め込み構造の構成
要素の言葉を少しズラせば良いのですから、次のやうな句構造が、これです。

我輩は猫であるといつてゐた、魚屋で旬の鯛をお金を払つて買ひ、美味さうに食らひついてゐる

これは左方向に幾らでも入籠構造にして無限に続けることができる。まあ、安部公房の読者なら
ば、閉鎖空間といふ単位が連続的に接続されて列車状になつてゐると思ふと理解ができませう。

④右枝分かれ構造(right-branching constructions)

これは③左枝分かれ構造とは反対に、右方向に幾らでも入籠構造にして句を無限に続けて一つの
言葉に掛かる構造のことです。

あれは、魚屋で旬の鯛をお金を払つて買ひ、美味さうに食らひついてゐるが、我輩は猫であると
いつてゐた、猫である。

といふ一文に相当する例が原著には挙げられてゐます。(同書54ページ)

チョムスキー以外に、超越論者が言語機能論者、即ち言語再帰性論者だといふ好例を以下に挙げ
ませう。

(1)ジャック・デリダ
デリダの話した(発声した)セッションを文字に起こした記録を読むと、その論理はいつも少し
づつ概念の(意味の総体中の)個々の意味に、次から次へと此れも類似の文脈(context)を聴
衆の目の前で創造しながらズレを起こすことであり、さうしながら話を継続してゆく様を読むこ
とができます。脱構築(deconstruction)は超越論です。それで話の最後にはBook Endなどとい
ふセッションでは差異の両端にあるブックエンドが全く別のものに変形してしまふ。しかし、こ
こでは、簡単な此の哲学者の論理の再帰性を示すこと顕著な、本の題名を挙げませう。

The Animal That Therefore I Am.

といふのです。和訳すれば、
もぐら通信
もぐら通信                          66
ページ

私がそれ故に動物である其の当の動物。

これも確かに句構造であり、この入籠構造の展開を、デリダは言葉の意味の最上位の階層から最
下層まで、いつて見れば二種類の未分化の実存の女性たちのやうに問題上昇と問題下降を繰り返
し、また一つの列の階層上下いづれに到達しても其処から一転、隣の列に(「奉天の窓」のマト
リクスを念頭に思ひ浮かべてください)、飛び移つて、また其の列の全ての階層を上昇下降し下
降上昇する。プラトンの描くソクラテスの思考プロセスと同じです。

(2)安部公房
これは『人間そっくり』を思ひ出して下されば、安部公房の読者には十分でありませう。勿論全
ての作品の入籠構造は、文字の上のみならず、存在にまで及んでゐる。

「まあ聞いて下さいよ……けっきょく、気違いと火星人という、二つのヴェクトルを統一する場
は何か。考えられるのは、まず次の様なトポロジーです。すなわち、自分を火星人だと思い込ん
で居る、地球人の気違い……」
「……それだけ?」
「もしくは、自分を火星人だと思い込んで居る、地球人の気違い……だと思い込まれている、火
星人……」
(略)
「でも、いまのホモローグ、直観だけじゃ追いつけないんじゃないですか。先々、どこまでも、
無限に続いていって……自分を火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている
火星人だと思い込んでいる地球人の気違いだと思い込まれている火星人だと思い込んでいる地球
人の気違いだと思い込まれている火星人……」
「その辺で、もうけっこう。それじゃ、その呪文を、君のトポロジーでやったら、うまく、けり
がついてくれるっていうの?」」
(『人間そっくり』全集第20巻、304ページ下段∼305ページ上段)(傍線筆者)

つまり、これで、ここでわかることは、超越論、言語再帰性論(言語機能論)、topologyは、み
な入籠構造といふことに於いて、現れは異なるやうに見えるが、みな論理構造は同じであるとい
ふことです。

(3)デカルト
我思ふ、故に我あり。

この文をチョムスキーの生成文法に従つて変形させてみませう。なんだか俳句のやうですが、

①我思ふ故に我ありと思ふ我
②我ありと思ふ我が故にある我
③我思ふ故に我ありと思ふ我が故にある我
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もぐら通信                          ページ 67

デカルトの哲学は、いふまでもなく此のやうに、言語論理(logos)に忠実なる再帰哲学です。個
別言語としてはデカルトは『方法序説』を自分の母国語であるフランス語で書きました。あなた
が日本語で書いても同じです。

(4)カント
カントもどのページも再帰的な表現に満ちてゐます。カントの後に二つに分岐するヘーゲルも
ショーペンハウアーも再帰的な文の羅列です。要するにドイツ観念論とは、言語の再帰性に関し
て又これを巡つて、森羅万象を、キリスト教の唯一絶対のGodに頼ることなく、むしろ其の教義
(ドグマ)と分かれて全く別に、言語によつて体系的に叙述しようといふ哲学なのです。従ひ、
義務教育の世界史で習つたヨーロッパの啓蒙主義の意味が非常に今よく解るのですが、これはキ
リスト教の教義(ドグマ)によらずに、このやうに言語をもつ人間が言語の規則に従つて自然と
人間の関係を考へよう、さうしたらこうなのだといふことを説いた時代であるといふことなので
す。これが啓蒙、無知蒙昧の蒙を啓(ひら)くといふ言葉の意味であり、即ちキリスト教を迷蒙
だと考へて、此のことから付けられた名前だといふことです。(何故日本の教育では此のことを
教へないのであらうか?)

「もし主観の(直観する)直観が単なる自己独立活動性であるならば、即ち知的であるといふの
であれば、主観が対象としてゐる主観といふものは、主観によつて現象にすぎないと想像され(表
象され)得るであらうし、主観が自分自身について判断をするやうなものではないものであら
う。」(拙訳)[註1]

[註1]
以下原文の赤字にしたところは、主観か主観自体を意味する再帰的な言葉です。

(原文)
「das Subjekt welches der Gegenstand desselben ist, würde durch denselben nur als Erscheinung vorgestellt
werden können, nicht wie es von sich selbst urteilen würde, wenn seine Anschauung blosse Selbsttätigkeit,
d.i. intellektuell, wäre.」
(Kndle版:19782/76058ページ:Sametliche Werke: Philosophische Schriften, Aufsätze & Biografie
(Vollständige Ausgaben)):ISBN 978-80-268-6648-0)

このカントの文は次のやうに変形される。

[条件文]
もし主観の(直観する)直観が単なる自己独立活動性であるならば、即ち知的であるといふので
あれば、

[主たる句構造]
主観によつて現象にすぎないと想像され(表象され)得るであらうし、主観が自分自身について
判断をするやうなものではないものであらうといふ当の其の主観が対象としてゐる主観(といふ
もの)
もぐら通信
もぐら通信                          68
ページ

まあ、段々と何が何だかわからなくなつてきましたので、ここらへんでやめにしますが、要するに
これが入籠構造である当の言語の文法構造である入籠構造なのです。

さて、再度チョムスキーの疑問に戻ります。

「例えば入れ子構造が処理にそれほど負荷をかけるならば、なぜ人間言語は入れ子構造を到ると
ころで作り出すのだろうか。日本語の文の埋め込みなどは、入れ子構造であるのみならず(文の内
に文を埋め込むのであるから自己埋め込み構造であり、従ってその処理には大きな負荷がかかる
が、それならばなぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をその中
核部分において許し続けているのだろうか。」

これまでの入籠構造に関する説明で此の構造については理解されたことと思ひます。次に

「日本語の文の埋め込みなどは、入れ子構造であるのみならず(文の内に文を埋め込むのである
から自己埋め込み構造であり、従ってその処理には大きな負荷がかかるが、それならばなぜ日本
語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をその中核部分において許し続け
ているのだろうか。」(傍線は引用者)

といふ文章の意味は、

(1)日本語は入籠構造であること(①自己埋め込み構造型)。それも、
(2)句をではなく、主文と同じ文を文の中に「埋め込む」のであるから、自己埋め込み構造の
文であるのだが、
(3)「なぜ日本語の統辞法はそのような処理上不効率きわまりない構造の生成をその中核部分
において許し続けているのだろうか」

といふことになり、最後の(3)がチョムスキーの疑問、最初の(1)と(2)が自分の統辞理
論による理解といふことになります。この二つのことが理解されてゐて、その上にある(3)の疑
問ですので、これは何を意味するかといふと、チョムスキーは言語の再帰性の持つ、この場合は日
本語が文の中に文を埋め込むことができるといふ冗長性(redundancy:リダダンダンシー)が理
解できてゐないといふことを意味してゐるのです。

このポイントこそが、言語の本質、言語の機微、言語の要諦、言語の奥義、言語の奥の細道の奥、
安部公房のいふ鳥居といふ門を潜つて至る天神様の奥の宮であるのです。安部公房のいふならば、
言語構造としてよく語る遺伝子の二重螺旋構造といふことです。これが冗長性の構造です。

この言語構造をもつと日常的な音声の時間のある世界に上昇させるとこれはそのまま社会システム
の構造となりますので、あなたの場合でいへば、あなたは同じことをPC(パソコン)のファイル
をiCloudやWindowsのサービスの自動バックアップか、又は有料のMozyなどといふバックアッ
プサービスによつて、要するに同じファイルを複製して保管してくれるサービスを利用してゐるの
もぐら通信
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ページ

ではないでせうか、さうであれば、これがあなたと社会の共有する冗長性、即ち主体を二重に
(redundantに)するバックアップ・システム、即ちoriginal(元々の何か)やorigine(起源)
を複製し保管するシステムなのです。これは、チョムスキーが疑問の立て札を立てた「終りし道
の標べ」に存在してゐる言語の再帰性の別名なのです。

再帰性とは自己を鏡に映して記憶すること、即ち冗長性のことである。

Redundancyを例によつてWebster Onlineに伺ひを立てますと[註2]、これも案に相違せず、
1601年文献に初出の、即ち案の定17世紀の第一年目にヨーロッパの世に現われ出でた言葉
でした。この酷い時代は世紀の最初に冗長性、再帰性を必要とした。まあ、平俗に考へると、い
つ財産が30年戦争の擾乱で失はれるかわからないので(未来は予見できないので)、今のうち
に全財産の複製を作つてをいて他所へ預けて隠して置かうといふ考へだといふことになります。
つまり、いつでも自分の元に帰つて来る権利、取り戻す権利を有する(時代が時代ですから権利
もへつたくれもありませんが)、そのやうな再帰性であり、これは庶民には無理で、ある程度の
財がなければなりませんから、さういふ意味でも豊かで(abundance)、余剰の富であり
(superfluity)、従ひそつくりそのまま全く同じ姿をした余計なもの(redundancy)であつて、
従ひ、不要な繰り返し(needless repetition)であり、伝達手段ならば本質的な情報を失はずに
削除できるそのやうなメッセージの部分であるといふ訳であり、特に最後の伝達メディアのこと
は、私が上で例に挙げた、あなたのパソコンのハードディスクのファイルの複製の保管のことに
当たるといふわけです。

チョムスキーはアメリカ英語で考へてゐるから、再帰性は別にして、冗長性といふ半面のことに
なかなか思ひ到りませんが、これがドイツ語であれば、此の再帰的な動詞の豊かな言語は[註
3]、関係代名詞を入れて文の中に文が、その中にまた文が入り、更にその中にまた文が入りと
いふ入籠構造は、学術的な論文や、ましてや哲学書などでは当たり前ですし、トーマス・マンな
どは此の入籠構造の作文の名人ですし、17世紀の『阿呆物語』やカントの文章やジャン・パウ
ルの文章などと同様に、一ページ一行の文といふのは珍しくもありません。冗長性が文化的余剰
から生まれるものだといふことはよく知られてゐる、上の定義通りのことなのです。チョムスキー
は日本語にも、ドイツ語と同じ再帰的な豊かさといふ冗長性を見てゐるといふことになります。

[註2]
「Definition of redundancy
plural redundancies
1
a : the quality or state of being redundant : superfluity
b : the use of redundant components; also : such components
c chiefly British : dismissal from a job especially by layoff
2: profusion, abundance
3
a : superfluous repetition : prolixity
b : an act or instance of needless repetition
4: the part of a message that can be eliminated without loss of essential information
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ70
First Known Use: 1601」

[註3]
『私の本棚:庄田秀志著『戦後派たちの病跡』(もぐら通信第76号)の「第5章安部公房論」をご覧ください。ド
イツ語の再帰性について、動詞の例を挙げ、解説をしてあります。

これらのことは、みな言語の再帰性、即ち喪失を免れるための冗長性といふ一種の言語が持つ生
来の安全の仕組みに関する性質のことですから、日本語はこの冗長性といふ再帰性に豊かだとい
ふことをチョムスキーは述べてゐるのです。この冗長性は垂直方向といふ時間の存在しない方向に
存在する隙間、即ち差異にあるのです。(このことを敷衍すると日本語といふ言語の言霊論になり
ますし、古事記論になり、神話論になります。今はここまでに筆を留め置いて、詳細な論は、また
稿を改めて超越論との関係、即ち私たち日本人にとつては汎神論的存在論との関係で、また言語
機能論との関係で、またtopologyとの関係で、別途論じます。)

何故チョムスキーは言語の再帰性の半面の性質である冗長性(redundancy:リダダンダンシー)
に気づいてゐて言葉にできないでゐるかといひますと、チョムスキーはユダヤ人であるので、ユダ
ヤ教徒でありませうから、(1)言語の再帰性については深い洞察に至りましたが、しかし、
(2)その半面である冗長性には思ひが行かない。何故ならば、チョムスキーはあくまでも理性
による政治的・経済的な問題の超越論的な解決を主張し、実際に行動してゐるわけですが、しかし、
理性といふ概念そのものが近代ヨーロッパの哲学の産物であり、キリスト教の教義(ドグマ)か
ら遠ざかるためにあるための人間の能力の、認識に関する最上位概念であるからです。理性といふ
言葉を使ふ限り、チョムスキーはキリスト教を意識した論理に拘泥せざるを得ないのです。即ち、
チョムスキーの生成文法では、更に一歩踏み込んで冗長性を定義しない限り、近代ヨーロッパ文
明、即ち17世紀以来の欧米の300年の文明の内在する致命的な問題を解決して、これを超越す
ることができないといふことを意味してゐるのです。以上のことの問題を二つにわけて説明しま
す。言ひ換へれば、

チョムスキーは、言語学者としてカントーショーペンアウアーの系譜の超越論者でありながら、カ
ントーヘーゲルといふ敵の土俵で戦つてゐる

といふことになります。それはユダヤ教徒であるといふ、キリスト教と同じ一神教に生きる人間だ
からです。となると、これは、ユダヤ教とキリスト教の文明間戦争でもあるのです。

(1)言語の再帰性とユダヤ教のGodとの再帰的な関係
チョムスキーはユダヤ人であるので、ユダヤ教徒でありませうから、(1)言語の再帰性につい
ては深い洞察に至つた理由を旧約聖書に求めて説明をします。ヤハウエと呼ばれるGodとモーゼの
対話があつて、そこでGodはモーゼの問ひに対して自分が再帰的な存在であること、その存在の仕
方は遍在であること(モーゼが何処に行かうともいつも一緒にゐるといふこと)を告げるのです。
ルターのドイツ語訳の聖書よりの拙訳です。Godがモーゼに命じて、エジプトからイスラエルの子
供達(これは隠喩であつて、自分の子供達であるイスラエルの民といふ意味です)を連れ出しな
さいといふ前段のところからです。Godはder Herr(デア・ヘア)と呼ばれてゐて、日本語ならば
主人といふ意味です。主人といふと余りに世俗的なので、よく見るやうに主と訳します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ71

再帰的な言葉は赤字にしました。

「9。さてかうして、イスラエルの子供達の叫び声が私の所にまでやつて来るので、そして、お
まけにエジプト人たちが子供達を不安にさせると子供達の不安を目の当たりにするので、10。
行け、お前をファラオに送らう。我が民族、イスラエルの子供達をエジプトから連れ出しなさい。

11。モーゼはGodに言つた:ファラオの所に行き、イスラエルの子供達をエジプトから連れ出
す此のわたくしとは一体誰なのでせうか?
12。Godは言つた:私はお前と一緒にゐる。そして、これが、私がお前を遣はしたといふこと
の、お前の印である:我が民をエジプトから連れ出したならば、お前達は、Godに生贄を捧げな
さい、この山の上で。
13。モーゼはGodに言つた:もし私がイスラエルの子供達のところに行き、かう話をする:お
前達のGodが私を遣はしたのだ、とすると子供達は私にいふことになる:Godの名前はなんとい
ふのか?と、さうすると私はなんと子供達に言へば良いのですか?
14。Godはモーゼに言つた:私だ、(今もこれからも)私である私だ。と言ひなさい。そして
言つた:さうであれば、お前はイスラエルの子供達に:(今もこれからも)私であること(であ
る私)が、私をお前達のところに遣はしたのだ、と。
15。そしてGodは更に続けた:さういふ次第だから、お前はイスラエルの子供達にかう言ひな
さい:主は、お前達の父祖のGodである、即ちアブラハムのGodである、イサークのGodである、
ヤーコブのGodである(といふこれらのGod、即ち父祖たちのGodである)この主(der HERR:
デア・ヘア)が、私をお前達のところへと遣はしたのだ。これが永遠に私の名前であり、この名
の元に、私は人々の記憶に永遠にいつまでも残ることになるのだ。」
(1811-1812/74987;Kndle版Gesammelte Werke:
Lutherbibel+Predigten+Traktae+Briefe+Gedichte+Brografie)

旧約聖書のここを読みますと、代々の世代ごとに人ごとに人が何処にゐてもいつも一緒にゐる神
の名前は Godであり、これらの連続して受け継がれてきた信仰の対象として時間を超えてある神
をder HERR(デア・ヘア)即ち主と呼んでゐることが判ります。これが日本語で説明する神と
主の関係です。ドイツ語ならばGott(英語のGod)とder HERR(デア・ヘア)の関係といふこ
とになります。英語版の聖書を読みますと、GodとLORDと、やはり使ひ分けられてゐます。

上記14の、モーゼにかう答へなさいといふ答への文の主語が、これはヘブライ語の文法上の理
由でも可能だといふことなのですが、しかし何の屈曲もなくそのまま再帰的な句[註4]が主語
になつてゐる。英語の聖書でも、(今もこれからも)私であること(である私)と訳したところ
は、「私であること」といふ句が主語になつてゐます。ですから、私のドイツ語からの訳も英語
に合はせれば、(今もこれからも)「私であること」といふ訳に直訳すれば正しくは、さうなる
のです。(今もこれからも)と補足的に説明したのは、ドイツ語では文法形式上は未来形になつ
てゐて、これは英語の未来形と少し意味が異なり、未来には必ずさうなるといふ意味、人間の意
志が働いてさうなる/するのでもなく(英語のshall)、運命によつてさうなるのでもなく(英語
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ72
のshall)、事実としてさうでありさうなつてゐることになるのである(sein:ザイン:英語のbe)
といふ意味だからです。

[註4]
実は私はここで読者の理解のために句と呼んでゐますが、英訳で見ると主語は「I AM」と大書されてゐて、これは名
詞化された、しかし一つの文であるのです。従ひ、ここから先は句といはずに文といひます。ちなみに「私だ、(今
もこれからも)私である私だ」は、「I AM WHO I AM」となつてゐます。デリダの著作名と同じです。

この、唯一絶対全知全能のGodとの間(隙間、差異)にある名づけることと言語の再帰性の問題
は、安部公房の世界ならば、あなたもご存知の通りの名前と存在の関係のことに当たります。「私
の真理を害ふのは常に名前だつたー読人不知ー」(『無名詩集』全集第1巻、221ページ)即
ち、旧約聖書では、Godが自分自身を再帰性によつて、みづからが再帰的な存在であることを、

(1)いつでも何処でも一緒にゐる汎神論的なGodとして、モーゼに示してゐるのですし、他方
(2)時間を超越したそのやうな時間に無関係な空間的な在り方をするGodはder HERR(デア・
ヘア)と呼ばれてゐる。といふことなのです。

以上のことから、

言語の観点からみれば、このGodの回答は、Godそのものが主語になり得る一つの再帰的な文であ
つて(実際にさう書かれてゐる)、この再帰的な文があれば、そこにGodがゐるのだといふことを
言つてゐるのです。といふことは、God以下人間が再帰的な文を生成できれば、そこにGodが一緒
にゐるといふことになります。これが、ユダヤ人が離散して何語の個別言語で生きやうが、ユダヤ
人の論理だといふことになり、此の論理を共有してゐるならば、勿論他にユダヤ的な様々な儀礼も
儀式もありませうがこれらも含めて、ユダヤ人であるといふことなのです。

このGodが言語の再帰性をユダヤ人に伝へるに当たり、文を主語に立てて自分自身との関係でモー
ゼといふ人間に示し、実際にかうイスラエルの民に言ひなさいと範を示すといふ意義に於いて、
日本人である私たちはユダヤ人と、個別言語は違へ、言語論理(ロゴス)の問題としては共通の
理解の元にそれこそ理性的に意思疎通のできることを意味してゐます。

更に以上に加へて、ユダヤ教は、その宗教の外部に、太陰暦を使用してをりますので、大地母神崇
拝を含んでゐるといふことを想起してください。『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第27号)
の「6。『安部公房文学と大地母神崇拝』∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」より引用し
ます。以下最初の父権宗教とは一神教のことです。

「(v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
この父権宗教と、母権の大地母神崇拝との地位の優劣の逆転が生じたのは、前者、即ちユダヤ教、
キリスト教、イスラム教、釈迦の開いた仏教が生まれてからといふことになります。今世界中で起
きてゐる政治・経済上の反globalismの激動は、神話論の視点で眺めると、父権宗教の衰退と、大
地母神崇拝の復活を意味してゐます。前者は論理の結果として男尊女卑、後者は女尊男卑です。
言語の視点から見れば、父権宗教とは、言語の本質である再帰性を絶対的に否定した宗教、大地
母神崇拝は、言語の本質である再帰性を絶対的に肯定した汎神論的存在論です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ73

(略)
安部公房の主人公たちの経験する地軸の喪失によつて、時間の断面に断層が現れる。さうして、
大地母神崇拝といふ古代的な汎神論的erosの復活が始まり、汎神論的存在論の紀元がやつてくる。
さうすると、1960年代以降のやうに、また安部公房が世界中で読まれることになるのかも知
れません。二十世紀の当時は東西の冷戦といふ地軸の喪失と時間の地割れが、欧米で読まれる主
要な原因をなしてゐましたが、二十一世紀の今度は、あるとしたら、globalismの衰退に反比例し
て大量頒布され大量流布する(これが安部公房の小説の中の汎神論的存在論の形象の一つ)地球
的な規模での大地母神崇拝の復活と共に、あることでせう。

大地母神の復活と父権宗教に対する優越的地位の恢復、これが世界中の孤児の求めてゐる、自己
を含んだ生命の蘇生です。私たちは男女を問はず、みな母から生まれて来る。この事実は、とて
も大切なことです。父親は常に命令者であり、しかし永遠の生命を産むことはできない。何故な
らば、この世での、男の最初で最後の仕事は、死、であるからです。
(略)

(ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
かうしてみますと、次の二つの論点の生まれた先後を考へる事になります。

(1)大地母神崇拝(汎神論的存在論)
(2)言語機能論または言語再帰論(汎神論的存在論)

安部公房の論理では、いづれも汎神論的存在論の範疇に収まつてをりますから、西洋哲学用語を
利用して云へば、この言葉の通りであり、これは超越論でありますから、時間に先後なく、これ
らの論に先後なしといふ事になりませう。

父権宗教である唯一絶対のGodを奉戴する複数の一神教、即ちキリスト教、イスラム教に共通す
る聖典であり、ユダヤ教とイスラム教の共有する『旧約聖書』の「創世記」の冒頭には言語につ
いてのことは書かれてゐない。天地創造は、最初に天と地といふ差異がGodによつて「最初に」
(ルター訳聖書では Am Anfang ;英語のon)創造されてゐるが、しかし言語との関係は書か
れてゐない。

しかし、この関係は、キリスト教といふ宗教の二つ目の聖書である『新約聖書』といふイエス・
キリストといふ開祖の言行と事蹟の記録を記(しる)した聖書のヨハネ1章1節∼5節に、これ
ら二つの関係が天地創造との叙述の際に書かれてゐる。ルターのドイツ語訳からの拙訳は、次の
通り。

「福音書 ヨハンネスに拠る」といふ主題が最初に掲げられてをり、その下に副題で「言葉が肉
になつた」と書かれてゐます。さて、『新約聖書』の冒頭の第一行です。Gottは英語のGodです。
この日本語の文章の中ではGodと表記します。ここに言葉とある言葉は、日本語でいふ言葉の意
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 74

味の通りで、言語ではありません。日本語では言葉も言語も区別がありませんが、前者はやまと
言葉であり、後者は(ドイツ語ならばSprache、シュプラーヘ)の訳語です。前者は英語ならば
word、後者は英語ならば(ドイツ語から直訳すれば、speech、しかし)languageといふ事にな
ります。ここでは前者、即ちwordの意味、正確にはthe wordの意味です。

「最初に言葉があつた、そして言葉はGodの許(もと)にあつた、そしてGottは言葉であつ
た。」
(Im Anfang war das Word, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.)

実は、上の原文の( )の中の最初にあるIm Anfangを直訳すると、始めの中に、最初の中にと
いふ意味です。つまり、始め(文字通りに開始の意味、起算点です)には外部があるといふこと
を意味してゐる。始まりの内部にないのであれば、言葉がないこともあり得るといふことを、こ
の文は言つてゐます。つまり、

始めを意識すると、言葉は始めの内部にあるが、しかし、始めを意識しないと、外部にあるもの
については、言葉との関係では何がどうなのかは(この文の書き手は)知らないし、関知しない
し、言ふことはしない、とにかくものごとは開始の内部から始まるのだといつてゐる。さうして、
この世界の内部では、言葉があつて、これが内部では必要だと言つてゐるのです。この内部にあ
るものは上から下まで言葉で表される。余白と沈黙はない。安部公房の「空白の論理」は通用し
ない。

キリスト教でいふ宇宙の始まりに関する言葉の外部には何があるのかと云へば、以上論じ来つた
通りで、大地母神が存在してゐるのです。前者、即ちキリスト教は、言葉と文字によつて成立し
たが、後者、即ち大地母神崇拝には言葉も言語もありますが、文字がない。文明は文字、記号、
数字の3つで成り立つのでした。さうしてみれば、父権宗教といふ唯一絶対のGodを奉戴する一
神教は、文字によつて父権的なGodの言葉、即ち絶対命令を聖典に書かれた文字によつて伝へる
宗教だといふ事になります。そして事実その通り。これに対して、大地母神崇拝は、文字によら
ず、従ひ経典などなく、絶対命令によらず、従ひ宗教(religion)ではなく、地球上の地域地域に
よつて、人種人種により民族民族によつて様々に異なる、生命を産み出す大地母神の姿を形象化
して大切にする、男女を問はぬ母性への崇拝心であるといふ事になります。

「最初に言葉があつた(A)、そして言葉はGodの許(もと)にあつた(B)、そしてGottは言葉
であつた(C)。」

といふ冒頭の一文を構成する3つの文は、二つの「そして」によつて接続されてゐます。この
(A)(B)(C)の関係を考へてみると、共通してゐることは、これは既に過去に起こつた事実
であるといふ考へで書かれてゐること、そして3つの関係はどんな関係かといふと、

「最初に言葉があつた、そして言葉はGodの許(もと)にあつた、そしてGottは言葉であつ
た。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 75

(Im Anfang war das Word, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.)

といふことから、「最初に」を時間の始まりの内部と理解すると、その内部に言葉があり、「そ
して」(この「そして」は、時間の始まりのこと故に、これ)は、同時にといふ意味になるでせ
う、同時に「言葉はGodの許(もと)にあつた」。しかし、「言葉はGodの許(もと)にあつ
た」といふ文からは、Godが「最初に」といふ時間の始まりの内部にゐるのか外部にゐるのかの
言及はない。過去形では内部にゐたことは書いてあるが、しかし現在と未来にあつてはどうなの
か。過去・現在・未来が連続してゐて、時間は直線の一次元であるといふ考へであれば、現在も
未来もGodは存在するといふ事にはなる。キリスト教が終末の到来を説くのであれば、結局此の
考へを採用したといふことになります。

しかし、「最初に」の「に」を空間的な、文字通りに文字通りに内部と理解をすれば、過去・現
在・未来が連続してゐて、時間は直線の一次元であるといふ考へは、この空間的な外部では成立
せず、一体過去・現在・未来が連続してゐないとしたら、時間とは何なのだ?と問ふ事になりま
す。欧米白人種キリスト教徒にとつては、超越論、即ち汎神論的存在論は、ここから考へ始める
空間的な論だといふ事になります。

そして実際に、汎神といふことから云つても、日本列島の至るところに神社が鎮守の森の中に立
つてをります。さうして総ての神社を束ねるのが、時間を超越した、即ち神武天皇以来125代
の個々の天皇といふ存在に付けられた御名前はどうあれ、首尾一貫して連綿と天皇といふ存在で
あるといふ歴史的事実。さうして天皇といふ存在の務めが、国民の安寧を祈るための神祇祭祀、
即ち祈祷であり、深夜に神殿の中で誰にも見られることなく一人で呪文を唱へるといふ行為であ
るといふ事実。これを鑑みるに、私たち日本人の意識と論理は、どんなに上辺は西洋風の理屈を
捏(こ)ね、横文字を使つて立派さうなことを言つても、汎神論的存在論であるといふ事実に変
はりはないといふことになるのです。この間に挟まれて、私たちは、家庭でも学校でも社会でも、
余計な負荷を背負つて、苦しんで生きてきた。それで、あなたは安部公房の読者だといふわけで
す。 [註C]

繰り返しますが、父権宗教とは、言語の本質である再帰性を絶対的に否定した宗教、大地母神崇
拝は、言語の本質である再帰性を絶対的に肯定した汎神論的存在論です。

私たちは明治以来、この二十一世紀の今日までの150年間、この二つの絶対の差異の間に挟ま
れて苦しんで来た。どちらに本当の自分自身がゐるのか、いふまでもありません。私たちの思考
と発声の言語の本質に素直に従ふことであることは、自明です。(これが、上の引用にある通り
の安部公房の選択です。)この絶対の差異を解決するのが、topologyです。これが、AでもなくZ
でもない第三の客観を求める安部公房の存在の文学です。20歳の論文『詩と詩人(意識と無意
識)』で、安部公房の哲学は完成してゐた。それ故に、私たちは安部公房文学を論じながら、宗
教と哲学を同列に、即ち等価交換しながら、文明間を楽々と往来して論ずることができてゐると
いふわけです。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 76
[註C]
(略)

(さうして、欧米白人種キリスト教の父権宗教の論理でつくられた近代制度を前にして、大地母
神崇拝を否定すれば、父権宗教の側に揺れ、父権宗教を否定すれば、母権的な大地母神の世界に
揺れ戻る。政治的にも経済的にも然り。これが江戸幕末の開国と尊王攘夷を巡る大騒動の、激動
の時代の、神話論的な解釈といふ事になります。このglobalismとの対決・対抗は二十一世紀の
今でも変はらず、それどころか一層激しくなつてをり、globalismとは大地母神崇拝の人種・民族
に対する植民地主義による収奪と略奪と虐殺にほかなりませんから、安部公房の文学の依然とし
て生きてゐる事について、世界文学の階層でもつと評価さるべき事については、二十世紀よりも
一層なさるべき事です。Globalismとは、近世・近代500年の、即ち文字文明である父権宗教
のキリスト教圏の白人種によれば目出度くも大航海時代、対して本来無文字文明である私たち大
地母神崇拝の母権的多神教有色人種有色民族から見れば大虐殺時代の、資本主義、民主主義、マ
ルクス主義、それからアメリカのウオール街の金融資本主義といふ名のこれらglobalismといふ
名前の共産主義、即ち安部公房が一言でいふ植民地主義のことです。)

さうして実際に、私たちの言語である日本語は、自他の識別なく、三人称を本来欠いてをり(彼・
彼女は明治時代の翻訳語)、また一人称の我・吾(あ)は、二人称としても使はれ、この二人称
は一人称としても使はれてゐます。私たちは、実は自他の区別なく[註5]、大変幸せな生活を
してゐるのです。文法と話法といふ言語の視点から見ると、これが何故私たち日本人は二次元で
ものを考へる事に長けてゐて、折り紙といふ面を立体に折りなす技が独自の文化になつてゐるの
かの理由です。折り紙は、鋏を使ひませんから、これは一筆描きの世界です。Topologyと言語の
関係(実は話法の関係なのですが、これ)は、稿をあらためて委細後日と致します。

[註5]
この言語論理(logos)上(一般、普遍)または日本語の文法上(個別、特殊)自他の区別のないことが、わたし達
日本人の意識と社会と社会生活と国(国家)のありかたに典型的な再帰性と冗長性、即ち豊かさを授けてゐるのです。

安部公房に独自固有の「僕の中の「僕」」と、これまでの論考で話法の問題については言つて参
りましたが、かうして見ますと、これは安部公房一人の事のみならず、本来は私たち日本人とい
ふ日本語で生きて来た・ゐる・生きる人間にとつての本質的な話法であつたといふ事に、超越論、
即ち汎神論的存在論の視点から、即ち神話論の視点から、即ち大地母神崇拝の視点から、なりま
す。

「最初に言葉があつた、そして言葉はGodの許(もと)にあつた、そしてGodは言葉であつ
た。」(Im Anfang war das Word, und das Wort war bei Gott, und Gott war das Wort.)

といふ三つめの「そして」について述べますと、前二者は「同時に」といふ意味でありましたが、
この最後者の「そして」は、「Godの許(もと)にあつた」言葉が、何故Gottと等しいのか?ド
イツ語の此のbei(バイ)といふ前置詞は、英語ならばbyである事は申し上げましたが、誰それ
に寄宿してゐるとか、さう、下宿してゐるとか、寄寓の身であるといふ場合に、日常のドイツ語
ではbei(バイ)といふ前置詞を使ひますので、このことからみて、まあ一寸解りやすく言へば、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ77

言葉はGodの家に仮寓の身であったといふ事になります。其れであるが故に、言葉はGodのいふ
事に従ひ、謂はば居候ですから、Godは言葉を内包し、言葉はGodと等価交換をされることがな
い。Godは言葉ではあるが、しかし言葉はGodではない。このGodは、安部公房の世界のやうな
topologicalな等価交換の対象ではないのです。それ故に、このtopologicalな着想を得た欧州の1
7世紀のバロックの哲学者たちは、まあ苦労しながら、オランダに亡命もし、如何にローマ法王
庁の監視と検閲の眼を掻い潜つて、汎神論的存在論を唱へるかを一生の命を賭けて工夫したとい
ふわけです。

以上、『新約聖書』のGodと言葉の関係の記述を読んだ結論です。

それ故に、キリスト教は、Godと言葉の関係も常に絶対的に固定してをりますから、Godの存在
の真実の証明をするための哲学として、古代ギリシャのアリストテレスの哲学を採用したのです。
何故なら、アリストテレスの論理学では、主語と述語の関係は絶対的に固定してゐるからです。
この上にスコラ哲学が生まれました。これに対して、キリスト教の異端と言はれる宗派は(例え
ばグノーシス派)、プラトンの哲学を採用しました。何故ならば、プラトンの哲学の論理では、
イデアはどの事物のどの階層にも汎神論的に存在してゐるからです。さうして、そのイデアに対
する憧れをerosと呼んでゐるからです。これが、ソクラテスを主人公にしたプラトンの哲学の、
父権宗教と相反する、根本のものの考へ方です。

この二つの父権宗教と大地母神崇拝の対立が、文字と無文字の対立が、音と沈黙の対立が、昼と
夜の対立が、アナログとデジタルの対立が、欧州では古来歴史的には継続してあり、それが上記
に引用した17世紀のバロック哲学以来(近代哲学のカントから更に発する)汎神論的存在論の
哲学者たちの系譜になつて現れてゐるわけです。

父権宗教とは、言語の本質である再帰性を絶対的に否定した宗教、大地母神崇拝は、言語の本質
である再帰性を絶対的に肯定した汎神論的存在論です。

さて、欧州人の神学史と哲学史のおさらひは、ここまでとし、筆を先に戻して前に進みます。

それから、大地母神崇拝は、太陽暦ではなく、太陰暦だといふ事、太陽ではなく月である事をい
はねばなりません。同じGodを戴くユダヤ教の聖典(キリスト教のいふ)『旧約聖書』の冒頭は、
上に述べたやうに、Godによる天地の開闢の差異は差異としてのみ示されてゐる。ここに言葉は
介在しない。そして、『旧約聖書』の冒頭で、Godが「最初に」天と地を創造したとルターがド
イツ語で訳し、今私が日本語に訳してゐる「最初に」と、『新約聖書』の「最初に」は、意味が
異なるのです。つまりヘブライ語の原文が、古代ギリシャ語の原文と、異なつてゐるのです。言
葉の視点から見ると、ユダヤ教は、大地母神の影があります。それは、前者の聖典の「最初に」
の「に」は、始めの内部をいふのではなく、始めといふ開始の所、場所に(人間ならば)手で触
れて、頼つて、依拠して、勿論その手を何かの一部分に触つて頼りにしてゐるものの全体は、こ
の一行を書く執筆者には知られてはゐないが、しかし其の全体の一部を頼みにして、全体がどこ
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ78
にあるかわからないが、しかし其のやうな「最初に」「Godは、天と地を創造した。」のです。
その全体が何かは文字で書かれてをりませんが、しかし、その全体の名前が大地母神であれば、
何故ユダヤ教の暦が、太陽暦ではなく、太陰暦であるのかの説明がつきます。そして、其の通り
の相違になつてゐて、『旧約聖書』の天地創造は空間的であり、従ひ無時間的であり、『新約聖
書』の天地創造は時間的である。

(略)」

(2)冗長性と理性といふ概念の超越
何故チョムスキーは言語の再帰性の半面の性質である冗長性(redundancy:リダダンダンシー)
に気づいてゐて言葉にできないでゐるかといふ問ひに対する答へは、上述の通り、日本語の冗長
性に関心を示したチョムスキーであれば、日本語の領域に踏み込んで研究をし論をなすことによ
つて、チョムスキーの言語論と生成文法の上で冗長性の定義ができるのではないかと私は考へる。
あるいは、二度の大戦に敗れたドイツ民族の、再帰性に富んだドイツ語を研究するかといふ二つ
の選択肢があります。

さて、理性による政治的・経済的な問題の超越論的な解決を主張するといふことから、チョムス
キーによる哲学の領域(理論)と進化論的政治経済の領域(実践)での地位と位置は次のやうに
なります。

チョムスキーは、超越論の言語学者としてカントーショーペンアウアーの系譜の超越論者であり
ながら、カントーヘーゲルーマルクス主義(狭義の共産主義)ー(広義の)共産主義ーGlobalism
(広義の現下の共産主義)といふ敵の土俵で戦つてゐる(これは哲学の領域)。またはヘーゲ
ルー(ダーウィン)ーマルクス主義(狭義の共産主義)ー(広義の)共産主義ーGlobalism(広
義の現下の共産主義:金融資本主義と無国籍企業主義)の系譜の、これも敵の土俵で(これは政
治的・経済的進化論の領域)、超越論の逆進化論者としてチョムスキーは戦つてゐるといふこと
です。

その心は、

人間とのみは言はず人類の言語の本性である再帰性を活かした政治と経済を実現しろ

といふことになります。この主張をもつと敷衍して、私がいふと、

個別言語によらぬ人類に普遍的である言語論理(logs)の本性である再帰性と冗長性[註6]を
実現する函数(再帰函数)を「埋め込んだ」(embedded)政治形態と経済形態を一体として実
現しろ

といふことになります。
もぐら通信                         

もぐら通信
[註6]
ページ 79
日本語の冗長性の保証はどこにあるかといへば、それは五十音図にあるのです。これが私たち日本語の生命です。この
図を覚醒させること、これが21世の日本と人類の世直しです。別途論じます。

これが、安部公房との関係でいふと、安部公房とチョムスキーの共有する言語機能論と超越論(汎
神論的存在論)から帰結する21世紀以降の政治・経済の仕組みであるといふことなのです。

この章の最後に附言すれば、カントーヘーゲルの進歩史観の系譜にあるダーウィンに対して、超越
論(汎神論的存在論)による逆進化論の論者はヨーロッパ近代には同じ時期にゐなかつたのか?と
いふ問ひを問ふてみると、次の関係者の生年没年を並べることになります。

イマヌエル・カント(Immanuel Kant) 1724年4月22日 - 1804年2月12日


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
                    1749年8月28 日 - 1832年3月22日
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)
                    1770 年8月27日 - 1831年11月14日
アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)             
                    1788年2月22日 - 1860年9月21日
チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin )
                    1809 年2月12日 - 1882年4月19日
カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx)
                    1818年5月5日 - 1883年3 月14日

ヨーロッパ地域の近代で、ヘーゲルに発する共産主義・globalismと歴史の進化論に対するに、根源
的なものの姿を大切にし、逆進化論を唱へたのは、そのものの考へ方からいつて、ワイマール王国
の宰相にして文豪であるゲーテであり、植物論、色彩論、生物の変態論、地質学論を書いた科学者
のゲーテである筈です。この場合ゲーテが同時代のカントの哲学をどう考へてゐたか、ヘーゲルの
哲学をどう考へてゐたか、ショーペンハウアーの哲学[註7]をどう考へてゐたか、さうして人間
の理性と精神を自然との関係でまたは言語との関係でどう考へてゐたかといふことを調べると自づ
と答へを得ることができませう。

しかし何故このやうなことが明治維新以来150年広く世に知られなかつたのかといへば、それは
やはり各人が各専門の領域の外部へと出る努力を怠つて来たからです。ここにおいても、安部公房
の文学と哲学の意義は、21世紀になつていよいよ其の重要性を増すことになります。20世紀に
使用された「越境者」は情緒的な、その意味では論理性と首尾一貫性を欠いた共産主義的な越境者
でありましたが(何しろあなたの帰属する国家の旅券がなく無断で他国の国境を越えたら即座に機
関銃で射殺されるといふ現実に無知である)、21世紀の越境者であるあなたは、国家の交付する
旅券がなくとも、また黙つてゐても、超越論者として「いつの間にか」(時間的超越論)「どこか
らともなく」(空間的超越論)「既にして」超える「以前に」越えてしまつてゐる再帰的な冗長性
豊かなる越境者でありまりませう。安部公房のやうに。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 80
[註7]
ゲーテはワイマールの宮廷にゲーテを尋ねて滞在した若きショーペンハウアーに面会し、クリストーフ・ルードヴィッ
ヒ・フリードリッヒ・シュルツ(Christoph Ludwig Friedrich Schulz)宛の手紙(ワイマールにて1816年7月19
日付)には、ショーペンハウアーの博士論文を読んで、其の滞在期間中に謂はばショーペンハウアーにその後に成つた
哲学へ向かふよう後押しをした/背中を押したことを書いてをります。
(268834-268835/400903:Goethe, Johann Wolfgang von. Saemtliche Werke von Johann Wolfgang von Goethe
(Illustrierte) (German Edition) (Kindle版). Delphi Classics.
もぐら通信
もぐら通信                          81
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(23)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXIII

O ERST dann, wenn der Flug



nicht mehr um seinetwillen

wird in die Himmelstillen

steigen, sich selber genug,

um in lichten Profilen,

als das Gerät, das gelang,

Liebling der Winde zu spielen,

sicher, schwenkend und schlank,

erst, wenn ein reines Wohin



wachsender Apparate

Knabenstolz überwiegt,

wird, überstürzt von Gewinn,



jener den Fernen Genahte

sein, was er einsam erfliegt.

【散文訳】

飛行というものが、もはや自分のためではなく、天の静けさの中へと
昇って行くのであれば、そうして、それが、明るい横顔を様々にみせながら、
風の好きな遊びをすることに成功した器具として、しっかりと、揺れながら、
みめかたちよく遊ぶためであるならば、そうなって、ああ、初めて、

成長する器具たちのひとつの純粋な方向、彼方へ行くことが、少年の名誉心を凌駕するならば、
そのとき初めて、

そうやって得るものに驚いて慌てて、遠い距離に近いあの者は、自分が孤独に飛行して到達して
得るものになる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ82

【解釈と鑑賞】

このソネットは、前のソネットの速度と飛行の試みから、飛行機が歌われている。飛行機も詩に
なるのだ。

少年の名誉心を凌駕する、とは、少年が飛行機に魅了される様を言っているのでしょう。我を
忘れて、飛行に見入ってしまい、魅入られる少年。

「遠い距離に近い」というリルケの発想は、いつもの言葉。既に何度も論じてきた通り、一番
そばにいるものほど遠いところにいるというのがリルケの詩想でした。それを克服するために
何をしなければならないか。オルフェウスの変身は、そのためでもありました。

「遠い距離に近いあの者」とは、オルフェウスととっても良いし、それ以外の、ここで歌われて
いる心性のひとなら誰でもと理解してよいのではないでしょうか。

【安部公房の読者のためのコメント】

この詩にも安部公房の本質(essence)が凝縮し、従ひ透明に横溢してゐる。

1。横顔
最初の連の二行目にある「それが、明るい顔を様々にみせながら」といふ言葉に接して、文壇に
登場したあとの安部公房が椎名麟三論である『横顔に満ちた人――椎名麟三』といふエッセイ
[註1]で、横顔を存在といふ概念との関係で論じてゐることをおもひだしました。

[註1]
このエッセイは全集第2巻(130ページ)に収録されてゐる。また、そのエッセイの読解は『安部公房ー横顔に
満ちた人』(もぐら通信第64号)をご覧ください。

そして何よりも最後の作品『カンガルー・ノート』には人面スプリンクラーといふ名前で二次元
の平面的な、病室の天井に張り付いてゐる顔として変形してこの顔が登場するのですから[註
2]、「記念碑を建てることをしてはならない」といふ一行で始まる5番目の詩の場合と同様に、
この横顔もまたリルケに由来するに違ひないのです。

[註2]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(12)人面スプリンクラー」をご覧ください。
もぐら通信
もぐら通信                          83
ページ

今新ためて此の横顔といふ日本語に当たるドイツ語を見ますと、これがProfil(プロフィール)
でありますから、近頃和物洋物を問はず、警察TVドラマや刑事映画などでプロファイリングと
いふ言葉がよくいはれてゐるやうに、このプロフィール、即ち横顔は、当人に関する時間を含ん
だ人生の履歴といふ個人に関する歴史的事実をみな含んで良く分類されてゐる其の横顔が、安部
公房のいふ横顔なのだといふことが、これも、この詩で判ります。

安部公房は本当にリルケの一行一行一文字一文字を自分の血肉にした。

さうしてそれをそのまま小説に活かして続けた。さうして此のことに、周囲の人も含めて両者の
関係については読者は誰も気づかなかった。気づかなかつたといふのは、これは如何にも安部
公房らしい。初期安部公房の定義も含め[註3]、どのやうな方法論と方法を使つて、安部公房
が純情な詩人から共産党に入党してから辛辣な小説家へと変貌する基礎を如何に固めたかは(と
いふよりはtopologyでありますから、基礎を柔らかく変形させたかは)『安部公房の初期作品
に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)をご覧ください。

[註3]
初期安部公房の定義については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房
の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」(もぐら通信第56号)をご覧ください。

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、
ここでいふ安部公房文学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者
のご理解を得てから本題に入ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)
にて明らかに致しました「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づい
て定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によ
つて美事に成功する時期、即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭
和21年)安部公房22歳から『デンドロカカリヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭
和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房1
8歳から西暦1944年(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、
西暦1945年(昭和20年)安部公房21歳までの1年間を含んだ時期を併せた全体の時
間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、 も
う一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』と呼び、
後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25歳の時、後
もぐら通信
もぐら通信                          ページ84

者の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カルマ氏の犯罪』で
芥川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通信第53号)

2。成長する器具たち
成長する器具たちのひとつの純粋な方向、彼方へ行くことが、少年の名誉心を凌駕するならば、
そのとき初めて、

とある「成長する器具たち」とは飛行機のことでありませう。「純粋な方向」とは勿論、S・カ
ルマ氏が最後に壁になつて無限に成長してゆく、このオルフェウスを歌つた詩集の最初の詩のオ
ルフェウスと同様に、垂直の方向、即ち時間の存在しない純粋な差異の存在する、いふまでもな
く、さういふ意味では純粋空間の存在する垂直方向のことです。

「そうやって得るものに驚いて慌て」るのは、勿論これも子供でありませう。さうして、子供と
は「遠い距離に近いあの者」と呼ばれてゐる。

として見ると、この詩の第一連の第一行は、以上のこと全てを含んで次のやうに歌はれてゐるこ
とが判る:

飛行というものが、もはや自分のためではなく、天の静けさの中へと
昇って行く

これは全ての安部公房の主人公が自己の命を捨ててまで世のため人のために憧れる次の存在の
静寂の世界、無音の、沈黙の世界です。

3。「遠い距離に近いあの者」
「遠い距離に近いあの者」とは、典型的には二種類の未分化の実存[註4]でありませう。よ
く小説に登場する偏奇な少女と大人ではあつて性的な魅力に溢れてゐるが少年のやうな成人女性
であつて、いつも主人公を救済しに不意にどこからともなく出現する。

[註4]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」
の「(6)二種類の救済者」をご覧ください。

4。周辺飛行
そうやって得るものに驚いて慌てて、遠い距離に近いあの者は、自分が孤独に飛行して到達して
得るものになる。
もぐら通信
もぐら通信                          85
ページ

といふ最後の一行から、あなたは安部公房スタジオの活動期に連載した、安部公房の演技論
「ニュートラル」に関する『周辺飛行』といふエッセイの題名を思ひ出すでせう。この詩は、私
の仮説1970年を境にして(実際には1967年の『燃えつきた地図』の少し前からですが)、
安部公房はリルケと自分の詩の世界に回帰したといふ仮説、安部公房スタジオの活動は其の一
つであるといふ仮説の正しさを証明する資料の一つになります。

さうして、このリルケの詩は、安部公房固有の「僕の中の「僕」」にあつては、「内なる辺境」
と呼ばれる。

「遠い距離に近いあの者」は常に愛するものとの別離を、何故ならばそれが(これもリルケに
学んだ通り)愛の真実性の証明にほかならないから、覚悟して生きる。

それが「自分が孤独に飛行して到達して得るもの」、即ち安部公房の象徴主義文学の存在の記号
を用ゐて記すれば、《存在》なのです。

勿論、このために「昇って行く」とは、オルフェウスのことですから、第一番目の詩の第一行と
同様に、steigen(シュタイゲン)、即ち階段を登つて行くといふ意味であり、『カンガルー・
ノート』で章間接続に際して存在のカイワレ大根を脛に自生させたまま生きる主人公が常に登る
階段と同じ階段なのです。

さうして誰も、これが、この主人公が、オルフェウスだとは思はず、これがリルケの詩へのオマー
ジュ(献辞)だとは思はない。

安部公房は本当にリルケの一文字一文字一行一行を自分の血肉にした。
もぐら通信                         

もぐら通信 86
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ87
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 88
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員報告記
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記
ページ 89
●『カンガルー・ノート』論(13):5。2 呪文を唱える:第2章 緑面の詩人:
シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則り、第2章は呪文を唱へる章です。とはいへ
安部公房のことですから、この章を論じて明らかにした章の構造は、そのまま他の章
にも実現してゐる筈です。/しかし安部公房はエッチである。確かに緑面の詩人には「彼
の女癖についてうんぬんする声があるが、言いよる娘が後をたたないからと言って、
彼を非難するのはお門ちがいもいいところだ」が。安部公房におつきあひをして、バ
ナナ・パフェを長短大小を二本立てることにしました。確かにこれは男根である。『カ
ンガルー・ノート』の第2章を読んで、私は『ペニスに死す』といふトーマス・マン
ばりの短編小説を着想した。●私の本棚:磯崎新『第四間氷期』:この人のエッセイ
と論文は八艘跳びならぬ発想跳びである。しかし、どうやつて地球温暖化の捏造を疑
ふに至ったのかといふ順序は、この作品論では文字にはしてゐない。この方の建築と
建築外を接続する思考論理に隠れてゐるのでせう。かういふ越境者よ、もつと世にで
よ。と言つてもみんなもぐらなのでなかなか地表には出てこないのであらうな。/安
部公房が磯崎新に初会で、お前、生意気だな!と言つたといふ逸話を読むと、安部公
房も若かつた。●安部公房とチョムスキー(6):4.1 チョムスキーの疑問に回
答する:日本語の持つ冗長性とは何か:相当にチョムスキー自身の生成文法の論理に
したがつて言語の本質を論じました。日本語の冗長性の保証はどこにあるかといへば、
それは五十音図にあるのです。これが私たち日本語の生命です。この図を覚醒させる
こと、これが21世の日本と人類の世直しです。別途論じます。チョムスキーさん、
今の日本人は誠に愚かにして頭の中にMade in Japanと刻印されたレジスター(抵抗
器)が学校教育が誠に優れてゐて外れてゐるものだから、それとも生来抜けてゐてな
いのか、この150年来の悪弊で舶来品をありがたがるので、どうか日本語を勉強し
て日本語の変形生成文法を説教しておくれ。などと思ひたくなる昨今であるな。●リ
ルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(23):安部公房は本当に本当にリル
ケを読んだ。そして地表に出さなかつた。もぐらのままtopologicalに地下に隠した。
といふべきでせうなあ。これぢやあ、コーボーさん、読者は困るよ。でも読者に創作
の秘密を明かす作家はゐないな。これは小林秀雄のいふ通り。●では、また次号

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(14):5。3 存在を招来する
限」
2。火星人特派員日記
3。。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(24)
4。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          90
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第77号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド 1。46ページ
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正 訂正前:3。言語起源論:ルソーの場合
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正後:3。現ご機嫌論:ヘルダーの場合
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行 2。60ページ
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、 訂正前:次の五つの命題である
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、 訂正後:五つの命題であつた。
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日 3。61ページ
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富 訂正前:思想といふもの伝へる精神
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売 訂正後:思想といふものの伝へる精神
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】 Googleドライブには訂正後の最新版を差し
替へて置いてあります。
 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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