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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2019年4月1日 第79号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 〈赤い繭〉̶̶これは私の大好きな作品だ。これまでにも、何度か、ラジオ
ただ を通
けの って やテレビにする機会があったが、私はそのたびに出ししぶり、断ってきた。
番地
に届
きま 『音楽・声・舞台』(全集第12巻、462ページ上段)

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 アベ・コベ音頭:宮西忠正作詞/岩田英哉補詞…page10
3 奉天新市街の写真…page11
4 『カンガルー・ノート』論(13):岩田英哉…page13
5。3 存在を招来する
  5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
5 何故日本文学は衰退したのか?…page30
6 月刊誌『一個人』特集・安部公房篇余滴…page34
7 安部公房とチョムスキー(7):6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」
に関する補遺的説明/(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:
真珠の分類と存在の凹の形象の一致:岩田英哉…page 37
8 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(24)∼安部公房をより深く理解する
ために∼:岩田英哉…40
9 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 44
10 編集後記…page 47
11 次号予告…page 47

・本誌の主な献呈送付先…page48
・本誌の収蔵機関…page 48
・編集方針…page 48
・前号の訂正箇所…page48

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10


リュウジ@新アカ(乗っ取られたので)@ryujilion1 3月6日
路上ライブやってたら安部公房の「壁」もらっ
en M
ole たありがとうございます!
Gold
e
Priz

e
橋の上のルル@ruruonthebridge 3月9日
ol
er M
Silv 昭和55年62刷『沈黙』巻末PRに並ぶ大江健三郎、
e
Priz
安部公房らの、今も瞬時に世界が蘇る作品名に
しばし見入った。ごく普通の若者がこれら同時
代の書下ろしを、当たり前に読む時代に若者だっ
たことはなんて幸運だったろう。いま日本の小
説メインストリームにいて30年後こんなふうに
受けとめられる作家は…

今月の誕生日
@ 3@s9uare6usher 3月7日
Kobo Abe was bone at Tokyo /
1924.03.07. 今日は #安部公房
の誕生日です。大正13年

へび@unagihebi 3月7日
今日は3月7日
安部公房の誕生日

PICOスタッフ@pico_staff_H 3月7日
今日は安部公房のお誕生日スタッフはやはり砂の女が好きですね∼
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未来の安部公房に捧ぐ!? 10部∼注文可能表紙はテンプレでお任せでもOKの「わ
たしの小説セット」大好評ですぜひ皆様の創作活動にお役立てください∼https://
www.pico-net.com/doujinshi/service/doujin_print/set/026.html …
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たけし(ミステリと猫が好き)@hira66434538 3月7日
おはようございます。また寒い朝です。
今日は安部公房の誕生日。作曲家モーリスラヴェルの誕生日でもあります「亡き
王女の為のパヴァーヌ」が好きですね。ボレロなんかが人気でしょうが。
牡丹のつぼみが出てきましたが、咲くのはまだ先ですね。
今日も、良い一日を。

今月の石川淳
ホッタタカシ@t_hotta 3月7日
ちなみに安部公房と石川淳は同じ3月7日が誕生日でした。こちらは1988年のETV
特集の動画。6:32より、弔辞を述べる安部公房が映っています。安部の前に中村
真一郎、加藤周一。安部の後に丸谷才一、武満徹。斎場では武
満の「弦楽のためのレクイエム」がかかっています。
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https://www.youtube.com/watch?v=UL2dTJo5bAw
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今月の朗読会
朗読者 in the world@roudoku_sha 3月13日
安部公房「詩人の生涯」
上演は4月21日22日。久々のインス
タレーションを駆使した美術空間で
硬い体としなやかな弦がぶつかり合
います!

朗読者 in the world@roudoku_sha 3月7日


4月に開催する安部公房に関するイベントの打ち合わせで、故・川本喜八郎氏のア
トリエへ伺いました。川本氏が作成した「詩人の生涯」(原作 安部公房)を拝見し
た後、チェコ留学時の話やお気に
入りのお店の話まで。アトリエは
レトロで意匠の凝った二軒長屋!

今月の大阪万博
カトウ・ニニ。@ninikatu 3月15日

この1970年の日経新聞・万博特集号に
掲載された広告。おなじみの人間洗濯
機(多分そんな名前ではない)も。2枚目の安部公
房・脚本/勅使河原宏・監督の映画「一日240時
間」というのが気になって検索してみたら、内容
をさっくり紹介したページがありました→http://
infoseek_rip.g.ribbon.to/expo70-
web.hp.infoseek.co.jp/jidoushakan4.html …
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今月の読書会
natsumoto@natsumoto 10時間
みなさんお疲れさまでした。次回は5月下旬開催、お題
本は安部公房『砂の女』とマーク・ハッドン『夜中に
犬に起こった奇妙な事件』、B面のお題(二次会用)
は板垣巴留『BEASTARS』です。ビースターズはズー
トピア超えてきた感があるので、余力があればぜひご
一読ください。難波のビーストかわいかったな

吉田佳奈 prow 芝居初心者@prownatsu 3月11日


読書会楽しかったぁ!♡
岡田さん、アレンさん、番場先生、あゆみちゃん。会いたい人にやっと会えた。
嬉しかった楽しくなっちゃって、話いっぱい脱線しすぎて申し訳なかった 笑 ほ
んまにほんまに楽しかった 次回も絶対参加します(́◡`๑)
#安部公房 #読書会

今月の桂川寛
Toshimi Yoshida@NeverGirls 10時間
もうじき終了の国立近美の熊谷守一展、想像を超える展示量で満腹と思いきや、
常設のコレクション展もと欲張ったかいあって3Fに、安部公房と組んで「世紀」
という前衛芸術活動をしていた桂川寛による「壁」(1951年刊 月曜書房版)の
挿絵の原画が9点展示されていたのは拾い物でした。ご遺族が寄贈。

今月の演劇
ステージナタリー@stage_natalie 15時間
舞台芸術創造機関SAI「箱男からの思想」
安部公房作品から着想 https://natalie.mu/
stage/news/273918 …

今月の初版本
玉英堂書店@gyokueido8044 3月15日
【商品紹介】
「猛獣の心に計算器の手を」
安部公房 平凡社 昭32
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初版 装幀・安部真知 本文ヤケシミ カ
バー背ヤケ・帯背ヤケ
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今月の安部公房スタジオ・ワークショップ
寂光根隅的父@jakopapa 3月7日
大好評の「安部公房のシステムによる演劇ワークショップ」、2年ぶりの開催が
決定!定員は20名、お早めに!! 詳細はこちらから → https://
www.facebook.com/events/2003256803255890/ …

今月の安部公房論
劣性の思想--安部公房『カンガルー・ノート』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
120000980678 …

安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40001291768 …

今月の似顔絵
RTした安部公房の写真、かっこいいな。(見ながら描いたのに
なぜこんなに違う絵になるのか)

今月のジャコモ・フォスカリ
愛書家日誌@aishokyo 3月7日
ヤマザキマリの「ジャコモ・フォスカリ」には安部公房がモデ
ルらしき作家が登場します。サイダー
のエピソードもでてきます
http://buff.ly/1p9wI3e

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今月の口あんぐり
井野朋也(新宿ベルク店長)@Bergzatsuyoten 3月7日
思想家の柄谷行人さんは迫川の『新宿ダンボール村』をご覧になって、安部公房
の『箱男』を思い出したと仰った。光栄すぎるし、安部公房についてマニアのよ
うに夢中になって語る柄谷行人という意外な光景に(「批評空間」はなぜか安部
公房を無視したとよく言われるだけに)口あんぐりになったのだった。

今月の安部公房本
◆『文豪文士が愛した映画たち』根本隆一郎・著(ちくま文庫/税別950円)
 根本隆一郎編『文豪文士が愛した映画たち』は、井上靖、大岡昇平、遠藤周作
など、昭和の作家による映画に関する文章を集めたオリジナル・アンソロジー。
江戸川乱歩の一文はヒッチコック会見記。来日したホラーの巨匠は、特別のワイ
ンしか飲まず、日本料理も口にしない「傍若無人」な態度だったが、夫人がそれ
をフォローした。「こんな愉快な映画を、ついぞ見たことがない」と檀一雄が絶
賛したのは、デ・シーカの「昨日・今日・明日」。川端康成と安部公房のモン
ロー論など興味津々だ。

今月の安部公房特集

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旭川東鷹栖安部公房の会活動記録 あさひかわ新聞
今年1月27日に東鷹栖公民館にて行った『水
中都市』朗読会につきまして、

・2月13日 あさひかわ新聞
・3月号 メディアあさひかわ
・4月号 北海道経済

地元の3紙に掲載されましたのでお伝へします。

メディア旭川

北海道経済

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アベ・コベ音頭

宮西忠正作詞/岩田英哉補詞

裏と思へば表ぢやないか
表を返して一捻りすれば
私の顔も他人の顔
ああ、ビルから落ちて棒になる
カラコロカラコロ コロカラリン

終りし道の標べには
砂の女が一人棲む
夕日に暮れる満洲よ
ああ、赤い繭はどこへ行く
カラコロカラコロ コロカラリン

魔法のチョークを手にすれば
パンもコーヒーも食卓に
あつといふ間に満腹さ
ああ、後で空しい壁の絵よ
カラコロカラコロ コロカラリン

箱をかぶつて密会すれば
地図も燃え尽きノートも燃える
間氷期などは何のその
ああ、無名詩集に華も咲く
カラコロカラコロ コロカラリン

デンドロカカリア、S・カルマ
あいつもこいつも変形ばかり
救いの舟はさくら丸
ああ、乗船すればアベ・コベの
カラコロカラコロ コロカラリン
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もぐら通信                          11
ページ

奉天新市街の写真

この絵葉書にある奉天の写真の外に人力車が絵筆で描かれ
てゐます。二人乗つてゐますが、手前の人の右隣にも空き
の座席がありますから、全部で4名を乗せたものと見えま
す。手前に乗つてゐるのが支那女、背中を見せて向かうに
ゐるのが和服を来た(また髪型からいつても)日本の女性
と見えます。しかし、この髪の感じは堅気の女ではなく、
藝者であらうか、藝者衆も海を渡つたのであらう。この後
ろ姿は春日八郎の歌つた「粋な黒塀 見越しの松に 婀娜
(あだ)な姿の洗ひ髪」といふ感じがする:
https://www.youtube.com/watch?v=Ev8hztKqpzA

葉書の中の写真の一番手前に並んでゐるのが、この人力車
だと思はれる。このやうの大勢の人力車が並んでゐますか
ら、今のタクシーと同じで、駅の前かといふことになれば、
奉天駅の前の広場であらうかと思はれます。

安部公房もこれに乗車したものでせう。

また、人力車の手前の列から数へて三列目の市街に一番近
い列の左端にある数台はタクシーであるやうに見えます。
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もぐら通信                          ページ 12

『満州写真館 奉天 その1』より:

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/080223/houten1.html

前ページの人力車の列を別の角度から撮影した写真と思はれます。正面の大通りが浪速通り。
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『カンガルー・ノート』論
    (14)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

2。『カンガルー・ノート』の呪文論 青字は前回までに
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 赤字は今回論ずるもの、
3。1 章別・記号分類 黒字はこれからのもの
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
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もぐら通信                          14
ページ

(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原:
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」

*****
もぐら通信
もぐら通信                          15
ページ

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
この章そのものが、呪文類ばかりの声明される章となつてゐて、文字通りに章全体として、存
在を招来する章となつてゐます。

5。3。1。1 目次
第2章緑面の詩人を受け継いで、次の目次を採用して話を進めます。

(0)第3章火炎河原と第4章ドラキュラの娘との関係
(1)冒頭共有
(2)結末継承(大)
(3)結末継承(小)
(4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。
(5)呪文を唱える
  (A)地の文の呪文
  (B)呪文らしい呪文
  (C)3回の呪文の後に登場する者
(6)存在を招来する
  (A)3回鳴る甲高い音
  (B)存在の始め
  (C)存在の終はり
(7)存在への立て札を立てる
(8)存在を荘厳(しょうごん)する
(9)次の存在への立て札を立てる
  (A)最初の立て札
  (B)最後の立て札

5。3。1。2 (0)第3章火炎河原と第4章ドラキュラの娘との関係
「『カンガルー・ノート』論」(もぐら通信第66号)の「(10)自走ベッドによる章の
間の結末継承」より以下に引用します。第2章は緑面の詩人、第3章は火炎河原です。

「第1章、第2章、第3章と下降、下降、下降と3回の接続を下に降りて行き、存在の中の
存在の中の存在に辿り着くと、(略)[引用者補記:第3章は火炎河原であり]第4章はド
ラキュラの娘の章で」ある。この第3章と第4章は、同じ平面上にあつて、「5。3 存在
を招来する」ための章の二つの構成部分の章となつてゐます。即ち、

この二つの章の関係は、第3章の冒頭で三層目の存在に達したあと、次の第4章の終はりに
今度は垂直方向に上昇して上の階層の存在へと主人公は向かふのです。この場合、読者周知の
通り、3といふ数字を巡つて問題下降する際には存在の十字路の「カーブの向かう」へと立
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

て札または壁か屏風岩を巡り、問題上昇するに際しては、また3といふ数字を巡つて再び立
て札または壁か屏風岩を巡つて存在の十字路の「カーブの向かう」へと行くのです。

前者については、この論考の「(5)呪文を唱える」に後述するやうに、「タンニン・ロー
ドはシルク・ロードと交差する、茶を運搬するための道のことである」(傍線筆者)といふ
交差点で、後者については、第4章ドラキュラの娘の最後の会話、

「幼い女性とが闇の中を指差した。
「どの辺?」
「県道に出て、すぐの角。長距離トラックの近道なんだ」
(143ページ下段)(傍線筆者)

といふ会話の中での交差点で、それぞれの呪文とともに、主人公は存在の世界の階層を上下
します。

前者の呪文は「(5)呪文を唱える」に後述のバナナの皮の呪文を含む二種類の呪文らしい
呪文であり、後者の呪文は「聞こえるのは黙々とラーメンをすする音だけ。和気藹々とみえる
ぼくらは、たちまち注目の的になってしまう」(傍線筆者)といふ地の文の呪文である。

5。3。1。3 (1)冒頭共有
「1。函数形式・一般式
存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]」に戻ると、

この式の「差異(時間、空間)」とある「茶を運搬するための道」「タンニン・ロード」が
「シルク・ロードと交差する交叉路で歌はれた後に招来される存在の為の凹(差異)は、次
のやうな差異です。いつもの通り、時間と空間といふ二つの本質的な差異、即ち時間の隙間
と空間の隙間に分けます。

(1)空間の差異:「船尾が跳ね上がった。舳先から滝壺に落ちていく。(略)地底に落ち
たのだろうか?地獄だろうか?」(116ページ上下段)
(2)時間の差異:「太陽が雲の庇をかざし、線描用の絵筆が岸壁に朱を入れた。夕暮れの
残光だろうか、それとも朝焼けだろうか?暗渠水路の彷徨のせいで、時間感覚が狂ってしまっ
たらしい。」(116ページ下段)

「2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を
告げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の
空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧にな
る)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出」と比較をすると、
もぐら通信
もぐら通信                          17
ページ

これら二つの(1)と(2)の差異は、「沈黙の空間の誕生」と、空間と時間に関しての「自
己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)」と重なつてゐます。

このやうに此の河原は既に夢か現(うつつ)か不明な境界域である事は上記の(1)と(2)
で判ります。「滝壺に落ち」、しかし主人公が「漂流してきた運河は、海抜ゼロメートルの河
口付近だった」のであれば、今ゐる此処は『方舟さくら丸』と同様の地下の凹であるといふ
ことになり、やはり硫黄の臭ふ地獄谷といふことになります。『方舟さくら丸』の地下の洞
窟が存在の洞窟であれば、この河原も存在の河原といふことになります。

前者は便器を通じて海といふ存在の海に接続してをり、この河原は何を通じて次の章へと接
続してゐるのかと云へば、前者の便器に相当する役割を演じてゐるのが、「市営温泉会館付
属の保育園『お助けクラブ』」といふことになります。『みどりご』と記号化されて、次章で
《お助けコーラス》といふ《 》で此れも記号化された存在のコーラスを歌ふことになつて
ゐる小鬼役の子供達は『お助けクラブ』保育園の子供たちであり、この『みどりご』たちが
此の章と次章の「ドラキュラの娘」との接続機能を果たしてゐます。つまり、この子供達の歌
ふ歌は、存在の便器と同様に、何でも吸い込んでしまふ万能唱歌、万能御詠歌、万能呪文と
いふわけです。

5。3。1。4 (2)結末継承(大)
「『カンガルー・ノート』論」(もぐら通信第66号)の「(10)自走ベッドによる章の
間の結末継承」より以下に引用します。第2章は緑面の詩人、第3章は火炎河原です。

「(2)第2章と第3章の接続:水から水へ、運河から運河へ。(リルケに学んだ)存在の
海の形象が背後にある。「こんどは下り階段だ」とあるので、(1)の[引用者註:第1章
と第2章の]接続と同様に垂直方向の下降接続。しかし、土から水へといふ対照的な接続。
(略)
第1章、第2章、第3章と下降、下降、下降と3回の接続を下に降りて行き、存在の中の存
在の中の存在に辿り着くと、(略)[引用者補記:第3章は火炎河原であり]第4章はドラ
キュラの娘の章であり、第4章と第5章と、それから第5章と第6章の結末継承は、存在
(凹)同士の再帰的な接続になつてゐる。存在同士の接続とは、垂直も水平も方向がないと
いふ意味である。さうであればこそ、最後の第6章と第7章の結末継承の接続は、「風の中
の風」としての「吹きすさぶ風」、即ち存在の風なのです。

この第1章、第2章、第3章と下降、下降、下降と3回の接続を下に降りて行き、存在の中
の存在の中の存在に辿り着くことは、既に第2章の最初のところで、次のやうに書かれてゐま
す。

「レールの継ぎ目の規則的なリズムには、郷愁に似た催眠効果があった。穴の中で、さらに
深い穴の中に落ちていく夢。待てよ、穴のなかの穴、ちょっぴり猥褻感もあるし、カンガ
ルー・ノート向きじゃないかな?メモをとっておきたい。筆記用具の工面だけは早いとこ手
もぐら通信
もぐら通信                          ページ18

をまわしておこう。」(99ページ下段)(傍線筆者)

「ちょっぴり猥褻感もある」のも、話の展開通りです。」

5。3。1。5 (3)結末継承(小)
「『カンガルー・ノート』論」(もぐら通信第76号)の「(25)自走ベッドによる章の
間の結末継(2)」より引用します:

「2。第2章緑面の詩人から第3章火炎河原への結末継承の接続
この第2章から第3章火炎河原への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

     第2章緑面の詩人の終はり        第3章火炎河原の始め
(A)「またも下水の臭気」:         タンニンの臭気
(B)「船縁を叩く、溜め息まじりの水の音」:(水に対して)題名が火炎河原
(C)「ピンク・フロイドの最新作の導入部」:「ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ/唐

(『鬱』の導入部:「櫓を漕ぐひそかなきしみ、 子ノ油ヲ塗ッテ バナナの皮デクルミマ
  船縁をたたく水の音」)          ス」といふ呪文
(D)「乾いたチノパンツの感触が素晴らしい」:(乾きに対して)運河の水の流れ」

忘れぬうちに此処で言つてをくと、この章の始めに「すごい臭気。タンニンの噴霧だ。鼻の
粘膜がむくむ。」とあるのは、前章の最後に臭つてゐた「下水の臭気」の消臭のためです。
[註1]さうやつて、章の間の接続を消してしまふのです。Topolgoicalな連続の非連続・非
連続の連続を生み、メビウスの環の一捻りが生まれる。さうして、この章では、第1章で案
内人である「トンボ眼鏡の看護婦」の言つた通りに「硫化水素の風が渦巻き、めくれ上がっ
て、河原を走」るのです。かうして、この章では「硫化水素の風」の臭ひが、存在の臭ひとな
るのです。

[註1]
「『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く」(もぐら通信第34号)より以下に同じ消臭による二つの
章の接続についての例を引用します:

「即ち、それが次の章、『《……………………》』で始まる章です。
(略)
そうして、従い、最初から、次の呪文が唱えられるのです。

「 妙なことになってしまった。何度も繰り返して、彼女の手紙を読み返してみた。何か別の読み方がありうる
だろうか。文字どおり解釈する以外、いまのぼくには不可能だった。三つに折ったその緑色の罫の便箋を嗅いで
みた。微かにクレゾールの臭いがしただけだった。」

「何度も繰り返して」というところが、もっと言えばこの副詞句の掛かる「何度も繰り返して、彼女の手紙を読
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

み返してみた。」という一文が、文としての呪文になるでしょう。

そうして、「その緑色の罫の便箋を嗅いでみた。微かにクレゾールの臭いがした」という其の臭いを嗅ぐ行為
に、貝殻草の匂いを嗅ぐと、夢を見て存在になる贋魚の章との接続が暗示されております。

微かなクレゾールの臭いは、前の章の臭いの消臭を意味しています。話を続けて続けない、続けずに続けるとい
う絶妙な連続と非連続の接続、如何にも安部公房らしい第三の道としての接続、即ち存在の接続というべき接続
を此処でも実現しているのです。この接続の呪文によって、この呪文で始まる章は、更に次元を垂直方向に上げ
ることになるのです。

さうして、《 》で記号化されてゐる存在のかいわれ大根、即ち《かいわれ大根》もまた、こ
の「固茹で卵の黄身の臭い」がしてゐて、「硫化水素」の存在の臭ひを発し、この存在の河原
と一体となるのです。

5。3。1。6 (4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。

5。3。1。7 (5)呪文を唱える
次の二つの呪文の直前に主人公の乗つてゐる船が「水路が直角に折れた」とあり、これは『燃
えつきた地図』の冒頭で主人公の探偵が「カーブの向かう」を曲がるのと同じこと、即ち存
在の十字路を曲がることです。ここを曲がつた後に、一つ目の自己意識の喪失が起きて主人
公は「ぼくは死んだのだろうか。死んで黄金郷(あのよ)に辿り着いたのだろうか。」と独
白し、「悲しみがこみあげて」きて、「鼻の付け根を揉むと、意味もなく歌の一節が口をつ
いてでた」とある其の歌である第3章火炎河原の冒頭の呪文は次の通り:

①「ハナコンダ アラゴンタ アナゲンタ
  唐芥子ノ油ヲ塗っテ バナナノ皮デクルミマス」(116ページ上段)
②「アナベンダ アナゴンタ アナゲンタ(116ページ上段)」

差異が設定されれば、存在を招来すると、その凹の窪地に存在が宿るのでした。さうして此
の差異は、十字路に交差してあるのでした。主人公が「カーブの向かう」を曲がると、第1
章ではそれとは明かされてゐなかつた上の呪文は、第3章の此の章では、その出自が明かされ
てゐて、この二つの呪文が「『タンニン・ロードの夜はふけて』の節回し」で歌はれ、「タン
ニン・ロードはシルク・ロードと交差する、茶を運搬するための道のことである」(傍線筆
者)と説明されてゐます。

この存在の交差点で歌はれる『タンニン・ロードの夜はふけて』といふ節回し①②の歌は、
『大黒屋』や『三日堂』と同じやうに『 』の記号で括られてゐることから(116ページ
上段)、この歌は話中話の中で歌つた歌、即ち存在の中の存在の中の存在で歌はれる歌とい
ふことであり、さうであれば、火炎河原の世界は存在の中の存在の中の存在の世界といふこ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

とになります。そして安部公房は、この章では、この三重の存在の世界の中に更に後々に子供
達を小鬼に仕立てて『みどりご』と記号化して呼び、劇中劇と云ふ存在の演劇を演じさせる
といふ、三重の物語(または見方によれば三重底の劇中劇ですから四重の物語)への多層化
を図つてをります。

さて、この作品の概念連鎖にしたがつて、次の青字の箇所が此の呪文の前後のことですから、
これを一度ざつと眺めてから話を次に進めます。

「1。函数形式・一般式
存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]

2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を
告げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の
空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧にな
る)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出

3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖
ー「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひー硫黄泉の露天風呂ー存在の凹ー賽の河原ー呪文類ー満
願駐車場ー未分化の実存の子供達(「垂れ目の少女」「トンボ眼鏡の看護婦」)ー窓ーサー
カスー人さらいー列車ー駅ー交通体系ーポイントの切り替え(支線から本線へ)ー笛の音(警
笛の音)ー(時間の断面の複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー
人さらい)ー」

主人公の乗つてゐる船が「水路が直角に折れ」て存在の十字路を曲がると、例によつてそこ
は賽の河原、即ち砂の穴[註2]、即ち存在の形象である凹となるわけです。

[註2]
この賽の河原は『砂の女』の砂の穴と同じ役目を果たしてゐます。『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第7
1号)の「(19)禁止の立て札」より以下に引用します:

「最後に『カンガルー・ノート』と『砂の女』の関係について、主題と動機(モチーフ)の関係で、この「(1
9)「進入禁止」の立て札」を書くにあたり、私の知り得たことをお伝へします。

『砂の女』を読み返してみますと、既に此の作品に、砂の女と主人公の会話の中に賽の河原が出てをりました。
以下に引用するのは其の一部ですが、この会話のやりとり全体と其の前後の地の文は、『カンガルー・ノート』
の註釈と言つても良いものです。何故なら、この会話は、主人公が砂の穴から脱出して逃走しながら思ひ出す砂
の女とのやりとりですが、これの意味する所を一言でいひますと、砂の穴とは賽の河原であるといふことだから
です。

「(略)......もっとも、百姓の場合は、米や芋の収穫というお返しがあるだけ、まだましってものかな?それに
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

くらべると、この砂掻きときたら、まるで賽の河原の石積みじゃないか!
「賽の河原って、あれ、しまいに何うなるんでしょうねえ?」
「どうもなりゃしないさ……どうにもならないから、地獄の罰なんじゃないか!」
(略)
「やっぱり、貯金がたまったら、ラジオを買ったりしたんでしょうねえ……」
(略)
それにしても、分からない……女が、あの賽の河原に、なぜあれほど執着しなければならないのか、さっぱりわ
けが分からない……「愛郷精神」だとか、義理だとか言っても、それを捨て去るときに、一緒に失うものがあっ
て、はじめて成り立つことではないか……いったい彼女が、失う何を持っていたというのだ?
(ラジオと、鏡……ラジオと、鏡……)[註18]」
(全集第16巻、220ページ∼221ページ)

[註18]
ラジオと鏡を、呼子と鏡と置き換へると、読者には目立たぬ短編小説『鏡と呼子』(全集第6巻、273ページ)

を読み解くことができます。この小説の冒頭もまた、存在の十字路である川と橋の交差点に、主人公がやつて来
るところから話が始まります。
(略)」

上記「2。概念連鎖・一般式」にある(存在の十字路の後の)案内人の交換とは、「トンボ
眼鏡の看護婦」がゐなくなり、今まで通り《カイワレ大根》に案内人の役目が戻つたといふ
ことであり、「詩文・散文のtopologicalな交換」といふことが実際に上記①②の呪文の唱導
であり、これによつて「沈黙の空間の誕生」があるといふのは呪文の後に船の「船尾が跳ね
上がっ」て「舳先から滝壺に落ちていく。錯覚にきまっているさ。ぼくが漂流してきた運河は、
海抜ゼロメートルの河口付近だった。それより低い滝壺なんて、ありっこない。地底におちた
のだろうか?地獄だろうか?」といふ下降によつて存在へと落ちてゆく此れが、丁度安部公
房がポーの次に好きだといふ『不思議の国のアリス』の冒頭でアリスが案内人の兎の後を追
つて垂直の穴の中を落ちてゆくといふ際の沈黙の空間になつてをり、アリスも此の沈黙の空
間では内心の独白を落ちるに従つて、『カンガルー・ノート』の主人公同様に、繰り返すの
でした。この次の「(詩文も含む)呪文類による唱導」を敢へて挙げれば、「船底を石が削っ
た。もしくは、石を船底が削った。」(116ページ下段)といふtopologicalな等価交換の
繰り返しの二行でせうか。さうして、主人公は「自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧にな
る)」する。自己喪失した後に見る賽の河原の景色が、これです:

「太陽が雲の庇をかざし、線描用の絵筆が岸壁に朱を入れた。夕暮れの残光だろうか、それ
とも朝焼けだろうか?暗渠水路の方向のせいで、時間感覚がくるってしまったらしい。/光が
翳る。きらめく黄金郷が、卵焼き色に変わってしまった。大小の岩石、枯葉色、ニンジン色、
カボチャ色……硫黄でまぶした溶岩台地。なるほど地獄の一丁目かもしれない。どこかの温
泉土産に溶岩飴というのがあったっけ、軽石そっくりで、舌と上顎のあいだで簡単に砕けて
うしまうやつ。硫化水素の風が渦巻き、めくれ上がって、瓦を走った。三途の川かな。」と
なつて「存在の出現」が書かれ、存在が出現します。三途の川を渡り、存在といふ死者の世
界に「いつの間にか」(超越論的時間)主人公はゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          22
ページ

(A)地の文の呪文
この章にあるのは、呪文らしい呪文ばかりで、これは読者のご覧になつた/なる通りです。敢
へて挙げれば、次のやうな地の文の呪文があると言へるでせうか。傍線部が地の文の呪文です。

①「硫化水素の風が渦巻き、めくれ上がって、河原を走った。」(117ページ上段)
②「さざ波の襞の下さえ、クリスタルの透明感だ。」(117ページ下段)
③「せめて半日は湯浴みを繰り返し、《かいわれ大根》の変化を見極めてからでも、遅くは
ないだろう。」(117ページ下段)
④「同時にどこかで梵鐘の鐘。小振りの鐘らしく、澄んだ悲鳴のような余韻。」(120
ページ下段)

(B)呪文らしい呪文
この章の呪文らしい呪文については、次の三つの章(もぐら通信第66号)に既にまとめ、
詳述しましたので、これをご覧ください。

(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説

(C)3回の呪文の後に登場する者
上記「(22.2)章別・呪文解説」をご覧になるとお判りの通り、この章は次の第4章ドラ
キュラの娘と共に3層目の存在の中で同じ平面で地続きになつてをりますので、それから上
述の通りに呪文が3回以上にふんだんに唱へられてゐますので、「3回の呪文の後に登場する
者」は現れません。

5。3。1。8 (6)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
①「「無断入浴は禁止だぞ!」
 不意にハンド・マイクによる警告。
(略)周波数が高く、(略)」
(119ページ下段)
②「呼び子が鳴った。」
(124ページ上段)
③「ガイドの娘が笛を吹いて乗車をうながした。」
(127ページ下段)

(B)存在の始め
この章そのものが、存在を招来する章でありますから、冒頭の「タンニン・ロードはシルク・
ロードと交差する、茶を運搬するための道のことである」といふ其の交差点で、この存在の
交差点で歌はれる『タンニン・ロードの夜はふけて』といふ節回しの歌とともに、この章そ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ23

のものが存在となつたわけですから、この章の中に3回目の甲高い音の後に来る存在の形象
はみな、地の文にある存在の形象です。これらの形象については、既に「7。附録 章別詳
細「函数形式と存在のプロセス形式」」に列挙したところです。この中から当該箇所を引用
します。

「36小型バス(127ページ下段):存在。老人たちが小型バスに乗つて帰つて行く。
 37カンガルーの袋(128ページ上段):存在」
(もぐら通信第68号)

更に「7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」」に列挙されてゐない遺漏の
地の文にある存在の形象を改めて列挙すると次の通りです。凹の形象=1箇所の開口部+(素
材を問はず)袋状の形態 です。

①鞄(128ページ上下段):同名の短編小説または戯曲でお馴染みの存在の形象。
②風呂敷(128ページ下段):開くことのできる存在の形象。
③スーパーの紙袋(128ページ下段):開口部のある袋故に存在の形象となる。
④熱湯をたぎらせ始めた薬罐(128ページ下段):蓋が隙間をつくるので凹の存在の形象
となる。
⑤野菜畑(128ページ下段):かいわれ大根と同じ形象。溝といふ隙間の集合である。
⑥落花生・ピーナッツ・南京豆(129ページ上段):真ん中にピーナッツとあるので、割
れた隙間のある落花生または南京豆といふことになる。
⑦誰かが置き去りにした朝刊の皺(131ページ上段):皺は、上の野菜畑と類似同様の存
在の形象。付記すれば、これはいつもの超越論的な「明日の新聞」の朝刊。
⑧露天風呂(131ページ下段):開口部のある存在の形象
⑨薄いプラスチックの小箱(132ページ下段):開口部のある存在の形象
⑩缶ジュース2本入りの紙袋(132ページ下段):開口部のある存在の形象
⑪缶コーヒー(132ページ上段):開口部のある存在の形象
⑫テント(132ページ下段):開口部のある存在の形象

(C)存在の終はり
「5。3。12 (9)次の存在への立て札を立てる」で後述するやうな詳細な理由により、
第3章火炎河原と第4章ドラキュラの娘は同じ平面で3層目の存在としてtopologicalな接続
をしてゐるので、ここで存在の終はりはありません。即ち、この章では存在の十字路が登場
しないといふこと。これが登場するのは「5.3.3 (0)第3章火炎河原と第4章ドラキュ
ラの娘との関係」で述べたやうに、第4章の最後です。

再度、第4章ドラキュラの娘の最後の会話、

「幼い女性とが闇の中を指差した。
「どの辺?」
もぐら通信
もぐら通信                          24
ページ

「県道に出て、すぐの角。長距離トラックの近道なんだ」
(143ページ下段)(傍線筆者)

といふ会話の中での存在の十字路です。

5。3。1。9 (7)存在への立て札を立てる
次は、この章の中での、存在への立て札を立てるといふプロセスです。

主人公が硫黄の温泉に入るところに立て札が立つてゐて、そこにはご詠歌が書かれてゐるのか
ゐないのか、丁度そこに「ハンド・マイクを通した小鬼」の声が響いて、小鬼によるご詠歌
が歌はれて、ご詠歌が立て札の文字であつたといふ仕立てになつてゐます。(121ページ上
下段)

このご詠歌は、その前段では主人公の想像の中では立て札に書かれた文字としては、温泉水
が《飲用可》なのか《危険 立入禁止 飲むべからず》なのかの二つの選択肢があり、即ち
立ち入つて飲用できるか、それとも其の反対であるのかといふ二項対立の両極端を否定して、
主人公の求める第三の客観、即ち(自己の反照たる)存在であるといふことを意味してゐる
のです。如何にも安部公房らしい。確かにご詠歌は飲むものでも飲まざるものでもない。

《危険 立入禁止 飲むべからず》といふ立て札が3つの要素からなるてゐるといふのは、
『燃えつきた地図』の存在の喫茶店《つばき》の駐車場で、主人公の探偵が依頼者の弟に出
あふ際に有る駐車場の3つある看板の3といふ数字の最初の一つの立て札に《有料駐車場・
一時間七十円・定期契約サービスします》とある此の3つの要素と同じです。

さて、この詠歌の内容は、子供が賽の河原で俗世にゐる父母のために石を積んでも、父母が
子供を喪つたことを嘆くので、これが因をなして、結局父母が子供達の親への思ひの結晶であ
る石の塔を「おしくずす」ことになつて、子供達は永劫に石を積むことを止めることができ
ないといふ、日本版のシージュフォスの神話といふべき御詠歌です。親子の縁が因果となつて
石が崩れるときに、

「そのときかわらのいしもあかくやけ
 かわのながれはかえんとなり ものみななべてほねとかす」

と詠はれるやうに、この最後の二行が此の章の題名「火炎河原」の由来です。この後に再度
和漢混交文で御詠歌が歌はれますが、これを見ますと、「地獄の鬼」が現れて、棒で石で積
んだ塔を打ち壊すのです(127ページ上段)。

この御詠歌の後に続けて、小鬼が立て札の文字を更に読み上げるわけですが、それは立て札
の側にある風速計に関する立て札で、風速計で計測した風速に応じて「風力3以下のときは
入場禁止。」となる注意事項に注意を促す「大きな赤字で『注意!』」の文字があり、次に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ25

「長時間の駐車は車のエンジンに損傷を与へる可能性あり。」、また「管理者は一切の責任
を負いません。」といふ3つの言葉が書いてあるのも、また同じです(122ページ上段)。
これは立て札であり、従ひ存在の方向への標識板でありますから3といふ数字で言葉が書か
れてをり、また存在が上述の如くに既に招来されてゐるのですから、その次には存在を荘厳す
る呪文を唱へることになり、次の呪文が連続的に3回続きます。

「オタスケ オタスケ オタスケヨ
オネガイダカラ タスケテヨ」
(122ページ上下段)

5。3。1。10 (8)存在を荘厳(しょうごん)する
存在の火炎河原で小鬼たちを指揮してゐる「引率者」が、やはり存在の世界の引率者である
ことは、「斜面を降りて来」る[註3]ことで、それを示し、腕につけてゐる腕章が[観光
課]と[ ]で記号化されてゐるやうに、[緑面の詩人]や[B2]と同様に話中話、存在の
中の存在の中の存在の中の登場人物、それも《 》で記号化される主たる者と交換可能な従た
る位置にゐる註釈者であることが明確にされてゐます。

[註3]
「斜面」はリルケの詩に歌はれる差異です。斜めの差異、これが崖であり斜面です。晩年の安部公房の
箱根の仕事場の山荘が斜面にあることを思ひ出してください。この仕事場は斜面に立つ存在の仕事場であり、存
在の中で安部公房は仕事をしたといふことなのです。

『オルフェウスへのソネット』のXVの第二連に vom Hang des Apennins と、アペニン山脈の斜面または崖と


して出てきますし、そのほかの詩集にも名詞としてのHang(ハング:崖または斜面)としてのみならず、差異の
間にぶらさがつてゐるといふ動詞としても幾つも此の差異の間にある状態が歌はれてゐます。

この[観光課]といふ腕章をつけた職員のとの話の後から始まり、ひらがな文の御詠歌の場
面も含めて/通過して小鬼の子供達の唱へる3回の呪文「オタスケ オタスケ オタスケヨ/オ
ネガイダカラ タスケテヨ」の前半部分の、(和漢混交文の御詠歌の場面も含めて/通過して
歌はれる)「オタスケ オタスケ オタスケヨ」といふ呪文が更に3回繰り返されて、次のプ
ロセスである「(6)次の存在への立て札を立てる」の前で終はる所まで「(5)存在を荘
厳(しょうごん)するといふプロセス」が続きます。

(A)最初の立て札
[観光課]といふ腕章をつけた、小鬼たちの引率者である職員が「馴れなれしく、ベッドに
座りなおし、ポケットの印刷物の束から一枚ぬき取って、「いまから始まるショウの歌詞、
参考にして下さい」といって主人公に渡した「歌詞カード」(125ページ上段)

最初の立て札と最後の立て札の間に、「明日の新聞」が挿入されてゐます。それは、安部公房
らしくいつもの伝で病院の待合室と同じ役割を果たしてゐる、人が呼ばれて存在の中へと入つ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

て行く前に待機する待合室である「ロビーで待たされた。誰かが置き去りにした朝刊の皺」
のある「明日の新聞」の登場した後に最後の立て札が次のやうに立つのです。

(B)最後の立て札
[観光課]といふ腕章をつけた、小鬼たちの引率者である職員から受け取った「薄いプラス
チックの小箱と缶ジュース二本入りの紙袋」が、これら存在の形象のままに、次の(第4章と
して第3章と地続きの平面に立つ)存在の方向への立て札となります。

5。3。1。11 (9)次の存在への立て札を立てる
最後の(6)に立てられてゐる存在の方向への立て札は、[観光課]の職員から主人公が受
け取る「薄いプラスチックの小箱と缶ジュース二本入りの紙袋」です。(開けられた)箱も、
(開けられた)缶も、それらを入れてある紙袋も、いづれもtopologicalには凹の同じ形象で
あり、存在の形象ですから、この劇中劇の存在の存在の存在の職員から受け取つた箱と缶と
紙袋は、謂はば、浦島太郎が龍宮城を去る時に乙姫様から受け取るblack boxである(黒い漆
塗りであるかも知れない)箱(凹)となんら変はりません。

地上に戻つて、《かいわれ大根》を脛に生やして存在であつた主人公が、この箱を開けると、
時間の差異が一挙にゼロになつて、本人は白髪の老人になるか、死んでしまふことになります。
上の「薄いプラスチックの小箱」は、最後の第7章の最後には、「人さらい」の御詠歌とい
つてもよく、また呪文ともいふことのできる詩文の後に小鬼たちの運んで来る「大型冷蔵庫
でも入りそうな、ダンボール箱」に変形して、再び姿を現します。これは冒頭の存在の小箱で
ある《提案箱》に縁起する大きな箱です。箱と袋とその他の凹といふ存在の形象と形象同士
の関係については、既に記述の通りです。これら数多くの存在の凹の形象を書き継ぎ書き継
ぎして、安部公房は『カンガルー・ノート』を書いた。

この章と次の「ドラキュラの娘」の章の結末継承の接続を見てみませう。前者の最後は、

「日が翳り、雲が崩れ墜ちてくる。
「雨が来そうだ。」
「テント、間に合ってくれるといいな。催促しておきますよ。」
   (略)
「降って来た。雨というよりは、大粒の霧だ。タオルケットをテントがわりに被り、サンドイッ
チから《かいわれ大根》をせっせとほじくり出した。(略)雨に濡れながら、吐きつづけ
た。」(132ページ下段)

となつてをり、この終はり方を、安部公房は次の章ではどのやうな非連続の連続といふ接続、
連続の非連続といふ接続となしてゐるのかをみてみませう。もう一つ追記すれば、「テントが
わりに被」るタオルケットもまた、存在の一枚布には違ひない。あの砂の女が自分の顔に掛
けて眠るあの手拭ひです。[註4]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

[註4]
『横顔に満ちた人――安部公房∼横顔と手と吸い込むことについて∼』(もぐら通信第1号)より引用します:

「5。顔と仮面と手の関係
手についても、安部公房は同じ論理で語ります。

両手と片手が、安部公房にとつては意味が異なることは、既に『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)で詳
細に論じた通りです。片手は存在の手であり、存在である以上、人相を見る場合と同様に、時間を捨象してゐる
手でありますから、手相をみることはなく、見ることはできず、のつぺりとした存在の手になつてゐるのです。
勿論、存在の顔もまたのつぺりとしてゐて、何も皺のない顔といふことになります。前期20年の名作『砂の
女』の第1章第7節、砂の穴で一晩宿泊した翌朝、素つ裸の女の顔を見て驚く主人公の、次の驚き。

「 涙でにごった視界のなかに、女は影のように浮かんで見えた。畳の上に、じかに仰向けになり、顔以外の全
身をむきだしにして、くびれた張りのある下腹のあたりに、軽く左手をのせている。ふだん人が隠している部分
は、そんなふうにむきだしにしているのに、逆に、誰もが露出をはばからない、顔の部分だけを、手拭いで隠し
ているのだ。」(全集第1巻、139ページ下段)(傍線筆者)

その人間の未来の時間を読み取るやうな人相のない、従ひのつペりとした布一枚の存在の顔が、ここに描かれて
ゐて、砂の女が存在の女であり、男との関係でもし性交渉を持てば、男は存在の凹の中、即ち砂の穴に囚われる
ことの象徴的な、手拭ひの顔、布一枚の、人相のないのつぺら坊の顔であることが暗示されてゐます。この手拭
いは、1970年代の安部公房スタジオの『水中都市』や『仔象は死んだ』の舞台の一枚の布と同じ存在の手拭、
存在の一枚布です。

さて、それでは、脱出不能を知つて家に戻り、砂の女のところに行つて手拭いを取つて現れた砂の女が隠した顔
はどのやうに書かれてゐるか。のつぺら坊ではなく、凸凹のある人間の顔になつてゐるのでせうか。しかし、こ
こに至ると、砂の女は普通の女ではない。通俗的にいへば、この世の女ではない。この女は時間の中に住む生き
た人間なのではなく、砂の穴が存在になり得る凹(窪み)であり[註4]、第2章最初の第11節冒頭の「ジャ
ブ ジャブ ジャブ ジャブ/何の音?/鈴の音」で始まる砂の女の呪文によつて存在が招来され、さうして二人
の念願のラジオが、即ちラジオといふ常に時間の中で起きる最新の事件を配達する「明日の新聞」が存在の穴の
中に配達されて、戯曲『友達』の結末がさうであるやうに、主人公と存在の間の遥かなる距離がゼロになり、即
ち内部と外部が交換されて、といふことは砂の穴が世界の果てになることになつて、到頭存在の穴が存在になり、
主人公は結末共有である透明感覚の留水装置の水を手に触覚して、存在となつた穴からの脱出を放棄する。代は
りに、砂の女が外部へ、子宮外妊娠といふ原因によつて、部落といふ社会の中へと(自分の意志によらぬ消極的
な)脱出をする。主人公が死ぬか失踪するといふ普通の安部公房の小説のプロットとは逆のプロットになつてを
り、これが安部公房がそれまでの社会と存在の均衡を破つて、社会の中に存在を求めることを決心した最初の作
品であることは、もぐら通信の諸処でお話した通りです。同じ価値を有する三島由紀夫の作品は1956年の『金
閣寺』です。さて、この世の女の顔ではなく、化け物のやうな砂の女の顔を。

「女の体から砂が流れて、肩と、腕と、脇腹と、腰の一部の、素肌がのぞいた。だが、それどころではない。近
づきざま、顔の手拭いを、ひきはがした。顔は一面むらだらけで、砂に包まれた体とくらべると、不気味なくら
い、生々しかった。昨夜ランプの光で、いやに色白に見えたのは、やはり化粧のせいだったらしい。その白いも
のが、ぼろぼろになって、はげかけている。其のはげかたは、ちょうど卵をつかってない安物のカツレツの感じ
で、案外その白いものは、本物の小麦粉だったのかも知れない。」(全集第1巻、139ページ下段)(傍線筆
者)

存在を象徴する一枚布を顔から剥がした此の砂の女の「むらだらけで」「不気味なくらい、生々し」い顔、即ち
「むらだらけで」とあるやうに凸凹した此の顔に、仮面を被せると『他人の顔』といふ作品が生まれます。この
砂の女の素顔と仮面(手拭い)の関係や、『他人の顔』の主人公の化学的実験の事故で「むらだらけで」凸凹し
もぐら通信
もぐら通信                          ページ28

た顔になつた素顔と仮面(マスク)の関係は、既に上述したやうに二つの詩集『没我の地平』と『無名詩集』中
の詩篇に詠はれてをりますが、しかし、他方小説としては、これも既に『第一の手紙∼第四の手紙』に詳しく散
文的に、従ひ論理的に、安部公房の論理の問題として記述されてをります。この小説では、「むらだらけで」「不
気味なくらい、生々し」い顔に対するに、「誰もいない小部屋で、そっと鏡をのぞき込んで見」て鏡に映る顔を、
リルケの世界と自分の詩の世界の用語であることを示す〈 〉の記号を使つて〈運命の顔〉と呼んでゐます。勿
論安部公房のことですから、この関係は固定してゐない。いつも入れ替わつて、この二つの顔の間を、素顔と仮
面といふ関係を函数にして、主人公の意識が往復、往来、往還するのは、『他人の顔』と変はりありません。こ
のことを、最晩年に安部公房はジュリー・ブロックによるインタビューで、実に簡潔明瞭に、次のやうに言つて
ゐます。もぐら通信第45号より引用します。

「[註7]
(略)
また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解して
いた。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理
解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ
上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。

「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを
問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
 フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」
が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように
方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、
五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方を
するのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれど
も、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなけれ
ば、それは観念論になってしまうということです。
(略)」

「次の存在へと降りて行くために、主人公はベッドのままに「エスカレーターに足をのせ、
三段ほど下がったところで[註5]、到着地点に少年がたちはだか」つてゐて衝突するもの
の、次の階に降りる(129ページ下段∼130ページ上段)。その後に、余白と沈黙の一
行(「空白の論理」)があつて(130ページ下段)、「気が付くとぼくはまたベッドの上
にい」て、「場所はどこか廊下の隅」とあるやうに、「いつの間にか」(超越論的時間)「ど
こからともなく」(超越論的空間)次の存在の章へのトンネルにゐることになつてゐる。

この第3章から第4章ドラキュラの娘への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

     第3章火炎河原             第4章ドラキュラの娘
(A)「日が翳り、雲が崩れ落ちてくる。/:「切れぎれに先を争う雲の下から、さらに暗い  
   「雨が来そうだ」          雲がせりあがり、雨脚は激しくなる一方だ。」

(B)「すっかり馴染んだアトラス・ベッド。:「ぐしょ濡れになってしまったタオルケッ    
   ひんやりと敷布に横になる。 」     ト」
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もぐら通信                          ページ29

(C)「風がはためく」:前章に同じ平面に接続してゐるので(差異がないので)風は吹いて
ゐない。「風が渦巻」くのはもう少し後です(133ページ下段)。
(D)「薄いプラスチックの小箱」:「飛び箱」

第3章と第4章の接続は、階段を降りるのではなく、エスカレーターによつて降つてゐる事
[註5]、それから上の接続項目を見ると、(A)(C)(D)に時間的・形象上の連続性が
あることから((B)は非連続)、やはり此の二つの章は同じ平面に置かれて繋がってゐると
考へることができる。」(もぐら通信第68号)

[註5]
階段の上昇下降は存在の中での行為であるのに対して、エスカレータの上昇下降はさうではないことは、リルケ
の『オルフェウスへのソネット』の第一連にある通りの理由であること、即ちこちら側にある禁止の規則を破つ
て禁止則の立て札の向かうへと自らの足を使つて上昇下降することによつて存在の中へと出入りすることは、
「(19)禁止の立て札」で記述の通りです。
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もぐら通信                          ページ 30

何故日本文学は衰退したのか

岩田英哉

https://ja.scribd.com/document/373250218/何故日本文学は衰退したのか3

この問ひの視点から上記URLにダウンロードできる年表を作成したところ、次のことがわかりま
した。

この場合の利害関係者は、次の三者です。

(1)読者
(2)作家
(3)編集者

1。日本の文学の衰退は、最初に読者の劣化、次に作家の劣化、そして編集者の劣化の順に起き
たこと
2。読者の劣化1は、ヴェトナム戦争終結とともに始まったこと(1975)
3。作家の劣化は二度あり。劣化1は1980年(S55)、劣化2は1985(S60)である
こと。世界と日本の歴史上、1980年には何があり、1985年に何があつたか?

あと、私がかねてより疑問に思つてゐたことを改めて、この作表をしてみて書きますと。1960
もぐら通信
もぐら通信                          31
ページ

年代に始まつた高度経済成長、これは政府と行政官僚といふ政治の側からの経済に関する命名で
すが、これに対して文化の側の作家や評論家たちからは何の命名もないのはおかしいのではない
か?といふことなのです。高度文学成長時代とでもいふのか?それとも、この時代の日本文学はバ
ブルであつたのか?ヴェトナム戦争の終結とともに読者の劣化が顕著に始まるとはこれ如何に。

この間俗にいはれる団塊の世代(今の70前後より以降の世代)はヴェトナム戦争反対に浮かれて
ゐて勉学を怠つてゐたのではないのか?これが、今の若者たちの感じてゐる、年金問題の将来も含
めての、この世代への猛烈な怒りの原因の一つではないのか?

https://ja.scribd.com/document/373250218/何故日本文学は衰退したのか3

この表を見て、その他思ふこと多々あり。あなたに於かれては如何に思はれるか。

これは、わたしたち安部公房の読者の問題でもあります。

2。輸入映画の題名の邦訳とカタカナでの訳との比率
輸入映画の題名の邦訳とカタカナでの訳との比率を統計的に調べた論文がありましたので、上掲
します。

『外国映画題名のカタカナ表記についてー変遷とその社会的意味ー』:
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004533894.pdf?id=ART0007289393

何故映画の邦訳・カタカナ題名の比率に着目したかといひますと、これは、日本文学の衰退と大
いに関係があると考へたからです。何故ならば、邦訳をするには映画の本質を凝縮した簡潔な日本
語にしなければならず、ここにはやはり古典的伝統的な言語感覚と日常生活に訴求するある種の智
慧が命名者に要求されるからです。

私の子供時代の外国映画の邦訳は心に残る、いい邦訳が幾つもありましたが、しかし最近のは、
ある時期からカタカナによる言ひ換へに過ぎず、言つて見れば頭を患はせることのない、教養を必
要としない題名になつてしまつたことの、その統計的な事実が、やはり私の経験の説明をしてくれ
てをります。

この表からわかることを次に列挙します。これは前回投稿した年表相応になつてゐて、日本文学の
衰退が映画のカタカナ題名比率の増加と反比例の関係にあつて劣化の曲線を描いてゐることがわ
かります。前回投稿した年表は:https://ja.scribd.com/document/373250218/何故日本文学は衰
退したのか3

1。①:先の戦争中にも外国映画は戦後の総数と変はらぬ映画が輸入され上映されてゐたこと。
もぐら通信
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2。②:敗戦後の5年間にも、外国映画の総数は増加してゐるにもかかはらず、カタカ
ナ題名の映画数は戦前よりは逆に低下してゐること。

3。③:GHQの占領統治(1945∼1952)が終了後も、その比率は変はらず、カ
タカナ題名は最小3.6、最大8.0に留まってゐること。

4。④:戦後顕著にカタカナ題名が増えたのは(10%を超えて12%になり更に16.
9%までになつた)、やはりむべなるかな1960年代以降の戦後高度経済成長の時代
であること。
もぐら通信
もぐら通信                          33
ページ

5。⑤:如何なる意味に於いても戦後の画期的年である三島由紀夫の死の年である1970
年以降に更にカタカナ題名は急増して、40%に達したこと。

6。⑥:新潮社編集部長であつた谷田昌平が証言する1975年を境に読者の劣化が始まっ
たといふ事実に、この⑥の比率である39.0といふカタカナ題名の数字は当てはまつてゐる
こと。即ち更にいへば、その前の1970∼1975年までのカタカナ題名の比率である4
0%が、既にその予兆であり前段階であつて(何故ならこれ以前の比率は増へたとはいへ1
2∼16.9%である)、このことが映画のみならず、本来日本語の洗練されてゐた筈の専門
領域である日本文学の世界に及んでゐることを示してゐるといふこと。

7。⑦:作家の劣化1の始まつたこの1980年からのカタカナ題名の比率は、62%であ
り、この年初めて、邦訳の比率38%を逆転した比率となつたこと。前年までの5年間の比率
は、邦訳72%、カタカナ題名46%とあつた均衡が大きく崩れたといふことである。

8。⑧:作家の劣化2/編集者の劣化1の始まつた1985年からの5年間は、ほぼ均衡して
ゐる。カタカナ題名が49.1%。

9。⑨⑩:1990年∼1999年は、カタカナ題名が優勢であり、これ以降現在までもが
さうではないかと、ここからは(論文の発表以降であり数字がないので)経験上の判断であ
るが、思はれる。優勢とは、カタカナ語の題名が50%以上を超えてゐるといふ意味である。
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もぐら通信                          ページ34

月刊誌『一個人』特集・安部公房篇余滴

岩田英哉

2018年(平成30年)3月13日発刊の月刊誌『一個人』の特集「文士の愛した宿と店」の
安部公房篇ために書いた原稿から、活字にならなかつた部分を此処に掲載して、これはこれで大事
な知識故記録に留め、また読者の理解を得たいと思ふ。

(1)安部公房の及ぼした同時代への影響
恐らくは日本に名前の届いてゐない海外の作家で安部公房の影響を受けた作家はたくさんゐるも
のと思はれます。何故ならば、安部公房といふ作家は、文明論的な階層で同時代者としての意識を、
文学ならば同じバロックの作家でtopologyの都市を描いたフランスのロブ・グリエや、これもバ
ロックの哲学者のラカン(デゥルーズの共著者)や、またこれら二人とは違つて実際に会ふことは
ありませんでしたが、更にフランスのジャック・デリダ、ドイツのハラルト・ヴァインリッヒらの
同じバロック的超越論の哲学者たちと時代意識を共有してゐるからです。ここで、この名簿にモー
リス・ブランショとサミュエル・ベケットを付け加へませう。また、イギリスの作家では、デヴィッ
ド・ミッチェルが安部公房の愛読者であり、アメリカには、安部公房の愛読者としてポール・オー
スターがゐます。それから、言ふまでもない事ですが、当時共産主義圏であつた東欧諸国には、政
治的な事情もあつて一層尚『砂の女』が広く読まれ、また勅使河原宏監督の同名の映画もまた優
れた映画として、これらの国々の読者の記憶に素晴らしい作品として留まつてをります。音楽家で
はグレン・グールドが夏目漱石の愛読者であるとともに、安部公房の愛読者でありました。グレン・
グールドも、バッハの演奏で有名なバロックの音楽家でありましたし、安部公房もグレン・グール
ドが好きでした。音楽といふことで話を延長すれば、音と沈黙を探求した二十世紀の音楽家であ
る海外のジョン・ケージ、スティーヴィ・ライヒ、フランシスコ・ロペス、ポーリング・オリヴェ
ロス、ブライアント・イーノなどと、また国内にあつてはいふまでもなく安部公房前期20年失踪
三部作の映画『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』(いづれも監督は勅使河原宏)の音楽を
作曲した武満徹と同じ意識を、安部公房は共有してゐた。国内の演劇では、真壁茂夫のOM-2も、
安部公房と同じ意識の共有者です。

かうして安部公房に関連する藝術範疇と名前を挙げてみると、安部公房といふ藝術家の活動領域は
実に多彩多岐に亘ることに改めて驚きます。

(2)安部公房の及ぼす後代への影響
後代への一番の影響、即ちこの二十一世紀に於ける安部公房の最大の影響は、安部公房が超越論
(汎神論的存在論)に基づいて提唱した逆進化論でありませう。勿論、これは超越論の一部に過
ぎません。

二十世紀まではヘーゲルの哲学の上にあるダーウィンの進化論が優勢であつたのですが、これは弱
肉強食の思想です。政治も経済も実際にその通りでした。しかし、これに対して安部公房の超越論
は現実の時間に対して常に遅延を生じさせて生きることですので、少しも未来の方向へと弱肉強食
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

が進まずに、競争をしてゐるのではなく、競争をしないどころか遅延を生ずるといふ思想でありま
すから、逆に強肉弱食でありますし、これによつてマイナスに力を働かせてプラス・マイナス0の
値に現実にある差異の価値をニュートラルになすことなのです。これは本来の、縄文時代以来の日
本人の思想です。本来の日本人の思想は、弱きを助け、強気を挫くといふのではなかつたでせうか。
それで全体のバランスをとる。しかし、近頃の日本人には弱いもの虐めをする輩が跳梁跋扈してゐ
る。あなたも、難しい議論は抜きにして、この方面からご自分の人生を振り返つて見ては如何でせ
うか。つまり、あなた、金儲けのために本末転倒の人生になつてゐないか?といふことです。

このやうに、アベコウボウの文学を一言でいふと、アベコベの文学なのです。

このことを少し小難しくいふやうですが、安部公房の逆進化論といひますのは、こヨーロッパの近
代国家のマルクス主義を含む(広義の)共産主義から生まれたglobalismといふ(国際金融資本と
無国籍企業だけの儲かる)世界的な仕組みと、これによつて貧困化する各国の国民たちといふ世
界的な貧富の格差の増大に対するアンチテーゼを提案してゐたことなのです。安部公房は、これを
近世・近代のヨーロッパ白人種キリスト教徒の植民地主義と呼び、また反植民地主義も単なる反
対である以上同じ穴のムジナであると言ひ(例へば、俗称ポスト・モダン)、そのやうな搾取や
収奪とは無縁の第三の新しい世界の創造を考へてをりました。その要の論理が、安部公房の超越
論であつたのです。

安部公房曰く、二十世紀の大きな課題は弱者の救済である。しかし、安部公房の没後二十一世紀
に生きる私たちは、この課題が依然として大きな課題のままであるどころか、これが一層大きな
問題となつてゐて、地球上で一向に解決されてゐないことを知つてゐます。 この場合、安部公房
のいふ弱者とは、100人のうち99人が定時定刻の遵守に生きる人たちであるとすれば、反対
に、定時定刻に対して遅延を生ぜしむることによつて現実の時間と空間といふ差異の価値を0に、
即ちニュートラルにして生きる人々、即ち前者のやうに一つしかない時間に統制されて支配・非支
配の関係に入ることなく、その関係の外にあつてそのやうな関係とは無関係に無名のままに生き
る人々のこと、即ち超越論の実践者、即ち典型的には「箱男」のことです。『箱男』に挿入された
8枚の写真のうちの自動車の廃棄処理場の写真に添へられた次の詩を引用します。贋のゴールとは
勿論、あなたが現実の定時定刻の守るべき約束のゴールのことです。あなたは箱男である。

「走りつづけたが
 追いつけなかった人々の
 贋のゴール
 旗は振られ
 審判も観客も
 とうに引き揚げてしまった
 夜の競技場」

この超越論による逆進化論は、二十世紀にあつては、日本の読者にも海外の読者にも理解されま
せんでした。二十世紀に猛烈苛烈の高速度の時間を生きる国内外の読者の誰もが現実の時間に対
もぐら通信 ページ36
する遅延を生ぜしめて生きようなどとは思はず、この所論は理解されることが極めて少なかつた。
しかし、安部公房と同じ問題意識を共有した同時代者として上に名前を挙げた文学者や哲学者や
音楽家たちはこれを、安部公房と同じ質と同じ方向に考へてゐた。二十一世紀の今にこそ安部公房
が再評価されるならば、これらの哲学者や藝術家たちもまた再評価されるべきでせう。ノーベル
文学賞候補に挙げられても当然のことでした。

(3)上記(1)と(2)のその凄さ
上記のやうに、安部公房の精神性の高さと先見性の凄さは、二十世紀に於いて如何に理解されず誤
解され続けてゐたかといふこと、日本共産党員であつたことから全く逆に通俗的に又日本の情緒
的な理解の風土から、超越論ではなく正反対に共産主義的な前衛(アヴァンギャルド)だと誤解
されてゐたことー1985年の時点で「安部さんの最もおききらいな前衛といふ言葉」についてイ
ンタヴュアーが質問をしてゐる(全集第28巻、58ページ)ー、即ち世界中の読者に全くと言つ
て良いほどに体系的に理解されなかつたこと(勿論自分の人生に合はせて好きなやうに読むのは
読者の特権です)、そして誤解され続けたこと、これこそが安部公房が如何に本物であるかといふ
ことの証明です。二十一世紀にこそ先見性を持つた安部公房の精神は生きてゐる。安部公房の哲学
(新象徴哲学といふ存在論)と言語論とtopologyから導き出される所論は、まとめると次の四つ
です。

(1)超越論による逆進化論の現実的な展開(ヘーゲルとダーウィンとマルクスの系譜による進化
論、即ち弱肉強食といふ此の思想の否定)
(2)近世・近代の欧米白人種キリスト教徒の文明による資本主義・民主主義・(マルクス主義を
含む)共産主義および其の延長にあつて一層過酷なglobalismによる収奪と殺戮の植民地主義・反
植民地主義(弱肉強食)によらない、これを超克した(支配・非支配の関係のないニュートラル
な)第三の経済形態と政治形態の創造と、地域性を大切にした各民族各国民に親しい古代からの
又は古典的な道徳と倫理への個人と、従ひ国家の、回帰
(3)宗教的には、父権宗教から大地母神崇拝への転換。これは私たち人間の意図的な努力の結
果といふよりも、地球的な規模での人類の無意識の構造の現れといふべきでありませう。
(4)上記(1)及び(3)に依る又はこれらを創造するために結果として寄与する超越論(安
部公房の名付けた名前でいふと新象徴主義哲学)に基づく第三の文学の創造。これは、二十一世
紀のこれからの、日本語から外国語にそのまま翻訳すればそのままに世界に通用することのでき
る、日本文学のあるべき姿です。

カントの物自体より分岐する此の超越論と共産主義の二つの系譜、即ちドイツ超越論とドイツ観念
論の系譜については『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)をご覧くださ
い。

また超越論とはそもそも何かといふことについては『Mole Hole Letter(3):超越論』(もぐら


通信第67号)と『Mole Hole Letter(6):超越論(2)カナヘビ捕り』(もぐら通信第70
号)をご覧ください。また実際に安部公房のテキスト(文章)読解の例は「『カンガルー・ノート』
論(1)」(もぐら通信第66号)の「5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの
章を読み解く」の「5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く」を
ご覧ください。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 37

安部公房とチョムスキー
(7)

岩田英哉

      目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
青字は前回までに
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置 論じ終つたもの、
3。バロックとはどういふ時代か 赤字は今回論ずるもの、
3.1 バロックとは何か 黒字はこれからのもの
3.2 バロック建築:差異の建築
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロック哲学:差異の哲学
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
(2)ヨーロッパのバロックの概念と定義:ヨーロッパのバロック概念を中心にヨーロッパの17世紀を再帰的に読
み解く:何故ヨーロッパの人間はバロックに戻るべきか
 (あ)政治:ウエストファリア条約
 (い)金融: イングランド銀行の設立
 (う)経済:株式会社の成立
 (え)文化:バロック様式
    ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
    ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
7。イスラムから見た近代史:『イスラームから見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読
む:イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
8。日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する
9。 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
10。座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
11。二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
12。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(0)ヨーロッパ中世スコラ哲学の論理を論破し、topologyで変形させる
 (あ)カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学とカントーショーペンハウアー(超越論)の
    系譜に内在するスコラ哲学を比較して継承と消滅と残存変形をみ、これをtopologyで論破し、再度変形する
 (い)共産主義の系譜と超越論の系譜に生きてゐるスコラ哲学の論理をtopologyで論破し、これを変形して超越
    する
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 38

6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明:再度バロックとは何か:
バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致

「3.1 バロックとは何か」(もぐら通信第74号)にて記述の通り「バロックの語源を尋ねれ
ば、ポルトガル語のbarroco、即ち歪んだ真珠といふ意味」であり、何故歪んだ真珠が様々な領
域のバロック様式の共通した命名になつてゐるのかのといへば、対象を連続量としてみれば、差
異とは歪みであり、非連続量としてみれば、差異とは隙間です。Barrocoと呼ばれる歪んだ真珠
は表面が連続量でありますから、その差異は歪みと呼ばれてゐるといふわけです。

辞書を開きますと、言葉の意味は具体的な物の名前の意味から段々と抽象的な意味の名前へと高
度に階層化されてゆくことが判ります。バロック(barroco)もまた同じで、実際の現物としての
物の意味から段々と抽象的な意味の名前へと高度に抽象化されたといふことになりますので、さ
うして確かにさうでありますから、そもそもの最初の「歪んだ真珠」の形象に戻つて、ここで、
考へてみようといふわけです。これが、補遺的説明と題した理由です。

どんな領域の物事であつても、それが広く通用してゐるのであれば、必ず分類がなされてゐます。
人間は分類をする動物です。さうして、分類には分類の視点が必ず幾つもあります。真珠の分類
のための視点には次のものがあります。:http://4cs.gia.edu/ja-jp/blog/真珠-品質-基礎講座-gia-
検査-分類-真珠/

(0)天然か養殖か
(1)大きさ(サイズ)
(2)形状
(3)色
(4)光沢
(5)表面
(6)真珠層の厚さ(品質):真珠の構造視点の分類
(7)マッチング(連相):真珠の組み合わせ視点の分類

このうち(2)の形状には主に次の3つの下位分類あり、

(1)球状
(2)対称
(3)非対称(セミバロックとバロック)

となっている。

上記(3)がバロックといふ形状であり、これも、非対称と準非対称の二つのあることがわかり
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 39

ます。 私たちが問題にしてゐるのは、この二つの非対称の真珠であるといふことになります。こ
の3つの更に下位分類がありますが、ここでは省略します。[註1]

[註1]
『真珠の定義および命名法に関する規定』(2016年1月)と題した宝石鑑別団体協議会および日本ジュエリー協
会(ともに一般社団法人)による詳細な定義と命名法に関する資料がある:http://www.jja.ne.jp/books/pdf/
pearl28.pdf

ネット上から探した非対称の真珠の写真を以下に掲示します。これで、バロックという概念を具
体的な形象として理解することができます。

これらを見ますと、バロックとは確かに凹の形象であつて、といふことは凸の形象と裏表であり
ますが、安部公房の存在概念の形象である砂の穴や顔や地図にある窪地や、陰画としての箱や地
下の洞窟や、カンガルー・ノートを投書した提案箱や、これらを要するに開口部が一つである箱
や袋(カンガルーといふ有袋類!)といふ形象に一致してゐることが判ります。

これが、私が安部公房文学はバロック文学だといふことの、物質の階層での理由です。勿論哲学
的な、存在を巡つて高度に抽象化され、神も仏もあるものかは、キリスト教の唯一絶対全知全能
のGodから離れ別れてさやうならをしたバロックといふ概念は、デカルトやライプニッツが、こ
の論考で既述の通りに、代表してゐる。この哲学が超越論であり、私たちの汎神論的存在論であ
ることは、これもまた既述の通りです。

具体的な形象(イメージ)で抽象的な概念を理解してもらひたいと思ひ、この短い一章を挿入し
ました。
もぐら通信
もぐら通信                          40
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(24)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXIV

SOLLEN wir unsere uralte Freundschaft, die großen



niemals werbenden Götter, weil sie der harte

Stahl, den wir streng erzogen, nicht kennt, verstoßen

oder sie plötzlich suchen auf einer Karte?

Diese gewaltigen Freunde, die uns die Toten



nehmen, rühren nirgends an unsere Räder.

Unsere Gastmähler haben wir weit ―, unsere Bäder,

fortgerückt, und ihre uns lang schon zu langsamen Boten

überholen wir immer. Einsamer nun auf einander



ganz angewiesen, ohne einander zu kennen,

führen wir nicht mehr die Pfade als schöne Mäander,

sondern als Grade. Nur noch in Dampfkesseln brennen



die einstigen Feuer und heben die Hämmer, die immer

größern. Wir aber nehmen an Kraft ab, wie Schwimmer.

【散文訳】

偉大なる、決して求めることのない神々よ、わたしたちは、わたしたちの太古からの友情を、わ
たしたちが厳しく育てた鉄鋼がその友情を知らないからという理由で、斥(しりぞ)けてよいも
のでしょうか、それとも、わたしたちは、その友情を、突然に、何の脈絡もなく、地図の上に
探せばよいものなのでしょうか。

わたしたちから死者たちを奪い取る、この権力ある、強力なる友人たちは、わたしたちの運命
の車輪には、どこにも触れないのです。わたしたちの饗宴を、わたしたちは遥かなところで開き
ます。わたしたちの沐浴もまた、わたしたちは、先へと押しやられて、遥かなところで沐浴をし
ます。そして、われわれの友人の、わたしたちにとっては既にゆっくりとし過ぎている使いの使
者たちを、
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もぐら通信 41
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わたしたちは、いつも追い越すのです。こうして、お互いを知らないのに、より孤独に、お互い
にまったく頼り切って、わたしたちは、もはや美しいつづら折りの道を行くのではなく、

階級、位階の道を行くのです。かろうじて、ボイラーには、昔の、また将来の火が燃えているし、
いつも大きくするハンマーは、引き上げ、起こしている。わたしたちは、しかし、スイマー、泳
ぐ者のように、段々と力を失って行く。

【解釈と鑑賞】

19世紀末、20世紀初頭の現代文明と、人間が太古から大切にしてきた神々との友情の関係を、
最初の連で問うている。20世紀にも神々との関係はあるべきだし、あると、リルケは言って
いる。

2連目で、その神々との関係を歌っている。

2連目の「美しいつづら折りの道」と訳したところは、小アジアのメアンダーというな名前の、
そのような様子をした河の名前が挙げられていて、リルケのいう神々も、キリスト教徒の世界か
らみれば、異教的であると言えましょう。詩人の想像力の世界です。

神々の使者たちよりも、わたしたちの方が急いでいて、いつも追い抜いていると言っている。そ
れが現代の社会のわたしたちだといっているのでしょう。そうして、神々の使者たちよりも先に
いってしまっていて、人間同士を頼りにする以外にはなくなり、さらに、社会の階級にとらわれ
てしまって、リルケが思い描いているような、自由な社会と人間の関係ではなくなってしまって
いる。神々の使者たちは、遅く、まだ、わたしたちのその時間、その場所に到達していないので
す。そうやって、生きていかねばならない。わたしたちの生活は、それほど急(せ)わしない。

ここは、第1部XIの騎士ふたりのソネットと関係があることでしょう。騎士たちも、修業のた
めに同じ道を旅しているのに、そのこころが離れ離れであるか、その危険があるのでした。そう
して、どこかの城で、日本流にいうならば、草鞋を脱ぐたびに、饗宴の場所で差別され、区別さ
れて、namenlos、ナーメンロース、無名に、ふたりは、なるのでした。食卓は社会の秩序の象
徴なのです。リルケは、この無名であることに意義を認めていますので、それは、人間が過酷な
現実に堪える姿と理解することができるでしょう。

人間の人智を超えたものとの関係を考えることなく、ただ与えられた階級の形式の力を頼りに、
その分だけ一層孤独になって、物理的な距離としては寄り合って、何かをなしていると思ってい
る現代人たちの姿。

第3連の火は、人間が求める根源の火であるかどうか。わたしたちは、力を失うのですから、
わたしたちとは無関係の力、わたしたちを益することのない、あるいは逆の力だといっている
のでしょう。
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もぐら通信 ページ 42
【安部公房の読者のためのコメント】

第二聯の、

「わたしたちから死者たちを奪い取る、この権力ある、強力なる友人たちは、わたしたちの運
命の車輪には、どこにも触れないのです。わたしたちの饗宴を、わたしたちは遥かなところで開
きます。わたしたちの沐浴もまた、わたしたちは、先へと押しやられて、遥かなところで沐浴を
します。そして、われわれの友人の、わたしたちにとっては既にゆっくりとし過ぎている使いの
使者たちを、」

といふ言葉の運命の車輪とか、沐浴とか、それも遥かなる場所での沐浴とか、これらの言葉は
非キリスト教的な感じがします。

運命の車輪などは、私たちの言葉でいへば、御釈迦様のいふ輪廻であり、因果応報であり因縁
であり、自業自得であり、沐浴といふ言葉もまた、私たちの言葉でいへば、滝に打たれるのか、
もつと卑俗にいへば要するに風呂に入つて垢を落とすことです。まあ、リルケの詩をここまで落
として理解して良いかどうかとはいへ、しかし、かう思へば得心はするのです。

この連の最後の行の、

「われわれの友人の、わたしたちにとっては既にゆっくりとし過ぎている使いの使者たちを、」

から次の連に繋がつてゐるわけですが、次の第3連は、

「わたしたちは、いつも追い越すのです。こうして、お互いを知らないのに、より孤独に、お互
いにまったく頼り切って、わたしたちは、もはや美しいつづら折りの道を行くのではなく、」

となつてゐて、これは論理は反対ですが、箱男の次の詩と同じ詩想を詠んでゐます。

「走りつづけたが
 追いつけなかった人々の
 贋のゴール
 旗は振られ
 審判も観客も
 とうに引き揚げてしまった
 夜の競技場」

「わたしたちは、もはや美しいつづら折りの道を行くのではなく、」いつも効率的だといふ理
由で、味も素つ気もない一直線のトラックを走つてゐる。
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もぐら通信 43
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あなたも、たまにはくねくね、うねうねした道を追い越されながら歩いては如何か。まあ、安
部公房の読者であるあなたには釈迦に説法かも知れないが。「遥かなところで沐浴をします。」
といふならば、どこかの温泉に行つてみるのも一法。
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もぐら通信 44
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連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ45
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
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もぐら通信 46
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ 47


●アベ・コベ音頭:これは傑作です。安部公房全集の編集者でゐらした宮西忠正氏の作
詞、かくいふわたくし目の補作です。どなたか曲をつけてくださる方はゐませんか?僅
少なれども謝礼をお支払ひし、誌上にて発表します。曲調はお任せしますが、安部公房
の世界ですから長調ではなく短調かと思ひますが、如何?●奉天新市街の写真:たまた
まヤフオクで見つけ手に入れました。新市街のこの角度からの駅前の写真はめづらしい
かと思ひました。まあ、藝者衆もまた海を渡つたのでありませう。安部公房もこんな人
力車に乗つたのかと思ふと愉しい。●『カンガルー・ノート』論(14):第3章:火
炎河原:安部公房の曲藝極まれり。嘆声を発すること幾たびぞ。こんな小説を書いた作
家は世界中のどこにもゐません。間違ひなくゐません。●何故日本文学は衰退したの
か?:何故日本語の小説はつまらないのかを原因究明するための数ページです。利害関
係者にあと不足してゐる当事者は批評家です。この批評家の劣化を入れると年表は完成
します。絶望は希望の一形態か?希望など一切持たずに先へとまとめてみませう。しか
し、まあ、編集者がサラリーマンになつちやあお仕舞いよ。作家もだけど。それから、
読者も、批評家も。しつかりしてくれよな、皆の衆。村田英雄の歌を思ひ出すな:
https://www.youtube.com/watch?v=uaBQ8dBV9MY
●月刊誌『一個人』特集・安部公房篇余滴:紙の出版業界のことには全く不案内ですか
ら勝手もわかりませんでしたので、問はれるまま、言はれるままに記事の元になる原稿
を書きましたが、編集者北田さんの手腕もなかなかのもので、私の生硬な文章をよくあ
そこまで柔らかいものに編集したものだと思ひました。感謝です。イラストよし写真よ
しで、どうか箱根芦ノ湖湖畔のレストラン・ブライトに足をお運び下さい。安部公房の
読者ですといふとご店主の松井さんは喜ばれて、安部公房の話をして下さるとおもふ。
●安部公房とチョムスキー(7):6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」
に関する補遺的説明/バロックの概念:真珠の分類と存在の凹の形象の一致:再度のお
さらひといふも、実際のバロックと呼ばれて分類される真珠の実物写真を見ると本当に
凹の形象でした。納得です。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(24):安部公房は本当にリルケを
読んだことがよくわかる、これもソネットでした。オルフェウスを到頭箱男に変形して
しまつた安部公房。●ではまた、次号

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(15):第4章ドラキュラの娘
限」
2。火星人特派員日誌
3。。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(25)
4。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          48
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第78号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行 の最新版を差し替へて置いてあります。
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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