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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2019年5月1日 第80号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 美の極致が古代の遺跡であるように美しいものはいつも何かの抜け殻にきまっ
ただ を通
けの って ていた。
番地
に届
きま 『美について』(全集第9巻、435ページ上段)

ヨルダンで撮影したダリの絵みたいな景色

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もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(14):5。3 存在を招来する/5。3。2 存在の中
の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘:岩田英哉…page13
3 何故日本文学は衰退したのか?(2)…page30
4 安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼:ドーナツとは何か:岩田英哉…
page13
4 安部公房とチョムスキー(8):今回は休載:岩田英哉…page 37
8 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(25)∼安部公房をより深く理解する
ために∼:岩田英哉…40
9 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 44
10 編集後記…page 47
11 次号予告…page 47

・本誌の主な献呈送付先…page48
・本誌の収蔵機関…page 48
・編集方針…page 48
・前号の訂正箇所…page48

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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安部公房のアメリカ論
(3)
∼贋物の国アメリカ∼
    ドーナツとは何か
岩田英哉

     目次

1。アメリカ文化の特徴
2。アメリカ文化の贋物性の起源
3。ドーナツは何の贋物か?
3.1 貨幣と通貨
3.2 通貨の分類(形状視点による分類)
4。何故ドーナツは通貨の贋物なのか?
5。何故ドーナツには穴が空いてゐるのに、アメリカの通貨には穴が空いてゐないのか?
6。再度コカコーラとは何か?
7。追記
***

『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)と『安部公房のアメ
リカ論(2)∼『アメリカ発見』を読み解く∼』(もぐら通信第23号)といふアメリカ論の
続きです。

この論考は同じ「安部公房のアメリカ論」の下で書かれてる3つめのものとなりますが、しか
しこの間アメリカ人の野球(baseball)が旧約聖書の創世記(Genesis)の焼き直しの贋物で
あることを論じた『安部公房の読者のための村上春樹論 (中):Baseballとは何か?∼
Baseballは旧約聖書の創世記の贋物である∼』(もぐら通信第50号)を書きましたので、ア
メリカ贋物論としては4つめの論考といふことになります。これらはみな最初のアメリカ贋物
論に詳述したアメリカ文化の贋物性の起源論に基づいて書かれてゐますので、この起源論の詳
細は最初の論である『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)
をご覧ください。:https://ja.scribd.com/document/375253518/第22号

さて、以下簡単にこれまでのアメリカの文化の贋物性の起源論をおさらひした上で本題に入り
ます。

1。アメリカ文化の特徴
アメリカ文化の特徴は一言でいふことができるのでした。それは、

「いつでも、どこでも、誰にでも」

といふことです。この代表的な例として、以下のものを一連の論考で論じました。
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(1)都市(町):ラスヴェガスに典型的なやうに人工の、従ひ贋の、そして実際贋物の建築
物からなる(ディズニーランドに通じる)都市
(2)ディズニーランド:デンマークのTivoliといふ(今でいふなら)テーマパークの贋物
(3)コカコーラ:神聖な伝説と神話の世界(ヨーロッパのキリスト教中世)の森の中に滾々
(こんこん)と永遠に湧き出る泉の水
(4)カウボーイ:旧約聖書とヨーロッパの羊飼いの贋物
(5)ジーンズ:羊飼いの贋物とアメリカン・ドリーム(一攫千金の夢)の体現
(6)ハンバーガー:イギリスのサンドイッチ伯爵の考案した手軽な食べ物とハンバーグ・ス
テーキの贋物
(7)ジャズ:黒人の音楽の贋物
(8)インターネット:贋の現実

これらに今回はドーナツを加へようといふのです。今様の風俗を見れば、携帯電話とか、スマ
ホと呼ばれるiPhoneその他のモバイル・フォンを入れても良いと思ひます。これも「いつでも、
どこでも、誰にでも」です。即ち便利である。便利といふことから、セブン・イレブンのやう
な通称コンビニ(convenience store)も同様です。また便利といふことから「いつでも、ど
こでも、誰にでも」決済できるクレジットカードを入れても良いでせう。

2。アメリカ文化の贋物性の起源
『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)より要約的な引用を
します。

「アメリカは、その建国の最初は、インディアンを大量虐殺して、その歴史の上に成り立った
国ですし、また、アフリカから黒人を攫(さら)って来て、売買をし、奴隷貿易とその上に立っ
た経済で莫大な富を築いた国であり、そうして、そのようなアメリカの白人種が、その罪深い、
残虐な前史を忘却し、その忘却の上に成立した全く新しい国家です。

それは、はい、何月何日にそれまでの世界とは全く別した、新しい国ができたのです、それ以
前の歴史は在りませんというものの考え方において、共通しています。この一点に於いて、ア
メリカという国は、共産主義国家です。(アメリカという国は、自国の成り立つ前史を、すべ
ての共産主義国家がそうであるように、否定することはあっても、決して正視し、直視するこ
とができません。)

その共産主義的な国家の成り立ちを宣言したものが、1776年7月4日の独立宣言(The
Unanimous Declaration of the thirteen United States of America)ということになりま
す。

普通、自然に生まれた国家、即ち、アメリカのように人造の国家、人工的な国家ではない、そ
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の国の民族の神話とそれに由来する歴史を有する普通の国家は、そのようにものを考えません。
その国の神話と歴史を尊び、大切にして、その国の今があるでしょう。

こうしてみると、アメリカという国の民主主義という政体も、その思想も、人造国家の政体で
あり、人造国家の思想だという意味では、贋物の政体、贋物の政治思想だということが言える
でしょう。

そして、当然のことながら、ヨーロッパの世界の民主主義の贋物でもあるわけです。ヨーロッ
パとの歴史的な連続性をも、その絶縁を宣言することによって、成立した国であり、従い、ア
メリカは、ヨーロッパの資本主義と民主主義(これらは表裏一体の関係にあります)の鬼子
です。

これは、このアメリカという国を治めている権力の正当性の根幹に関わる大きな問題です。

アメリカという国は、誰からどんな建国の権力の正当性を歴史的に授かり、保証されて、成り
立ったのか。アメリカという国は、このことそのものを、この問いそのものを否定する国家な
のです。(このことは、間違いなく、アメリカという国の外交政策に現れています。)

自国の歴史に相対して向き合い、それを直視出来ないものは、外へ膨張する以外にはありませ
ん。これは、マルクス主義を始めとする共産主義国にも共通の特徴です。

(略)

また、ヨーロッパの白人諸国には、それぞれの神話があるのに対して、上述の建国の成り行き
から言って、アメリカには、古代の、そして中世の神話の世界はありませんし、そもそも持ち
ようがありません。

これが、例えば、日本の国のように古事記や日本書紀を持ち、伊耶那岐命(いざなぎのみこ
と)、伊耶那美命(いざなみのみこと)や天照大御神やその他の八百万の神々を有する日本
の国とは、本質的に、決定的に、異なることです。

逆にいいますと、これから論じますが、アメリカ人の白人種は、そのような神話を無意識に、
強烈に、求めているのです。何故ならば、このようなアメリカという人工国家について、それ
以外の国とを比較して考えて見ると、国家が成り立つには、やはり神話がなければ成り立たな
いからです。

それから、神話に根差した宗教がなければ、国として、その国が成り立ちません。従い、やは
りキリスト教は必要とされ、確かにアメリカの大統領は、就任時には聖書に手を置き、神に誓っ
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て、政治を始めるのです。宗教と政治は不可分です。

さて、宗教は、政治と共にあるとして、しかし、神話の無いアメリカという国では、またアメ
リカ人は、それを意識していなくとも、無意識の裡に、神話を心底欲しているという状態にあ
る以上、一体どうやってその渇望と憧憬を満たして来たのでしょうか。

アメリカ人は、こころの底では、古代に通じる国とそこに生きる人間たちに関する神聖性、
the holinessを欲しているということです。そのことを、アメリカ人は、無意識に知っている
のです。大東亜戦争で日本と戦ったアメリカという国は、この日本の国の神話を欲し(神武天
皇の建国から数えても当時皇紀2600年という日本の歴史)、それ故に、それを憎んだかも
知れないという仮説を立てることができます。

この欲求、渇望、渇仰、憧憬が、アメリカ建国の独立宣言によるアメリカ前史の罪深い残酷な
忘却と、やはり分ち難く結びついているのが、アメリカという国なのです。

即ち、歴史の忘却によって自己を喪失し、自らの神聖性を恢復し、何かを創造するということ
です。この神聖性の恢復は、自己喪失による忘却によるということから、同時にそのとき、ア
メリカという国家もアメリカ人も、無名性という性質の烙印を必然的に押されることになり
ます(この烙印を一体誰が押すのでしょうか。やはり、それはGodなのです)。この必然性を、
アメリカ人は求めているのです。

神聖性を恢復する事と裏腹な関係にある、この無名性という性質が、アメリカ文化の特質で
す。」

この神聖性を体現するのが、アメリカの文化にあつては子供であり、アメリカ文化の無名の人
間としての幼児性が、これを示してゐます。即ち、子供は純粋無垢であり、そのやうに無知で
あるが故に罪はなく穢(けが)れはなく、それ故に神聖なる人間の姿として(安部公房ならば
未分化の実存二種の女性のうちの一人、即ち知恵の遅れた偏奇な少女といふところです)
innocent(イノセント)、無実無罪である。

さうして、この「アメリカ文化の特質」である「神聖性を恢復する事と裏腹な関係にある、こ
の無名性という性質」が、「いつでも、どこでも、誰にでも」なのです。

3。ドーナツは何の贋物か?
さて、同じアメリカの文物の一つとして典型的に「いつでも、どこでも、誰にでも」ある贋物
としてのドーナツを論じます。

問ひ:一体ドーナツとは何の贋物なのでせうか?
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答へ:ドーナツは通貨(currency)の贋物である。もつと卑俗に云へば、ドーナツはお金の
贋物である。

これがこの論考でお伝へしたいことの結論です。

以下、論証です。別途用意してゐる『言語貨幣論』の成果の中から、ここに必要な結論だけを
以下にお伝へして本題に入りたい。

3.1 貨幣と通貨
一言で私たちはお金といふわけですが、よく考へるとお金には次の二つがあります。

(1)貨幣(money)
(2)通貨(currency)

安部公房の読者にはこの分類はお馴染みのtopologicalな分類ですので多言を要しない筈です。
何故なら、安部公房の存在の記号を用ゐて水平方向に同じ平面の上にこれら二つを同列に、
安部公房の小説の登場人物たちがいつもさうであるやうに、superflatに並べれば、この二つ
の関係は次の通りであるからです。

《貨幣》《通貨》

これは安部公房の作品では、一つの存在であれ、また存在の存在の中であれ、存在の存在の
存在といふ三番底の存在の中であれ、等価交換が可能な関係を意味するのでした。即ち、貨
幣と通貨は等価で交換が可能である。

あるいはまた『カンガルー・ノート』の第二章緑面の詩人での記号[ ]を使ふと、この二つ
の名前の関係は、同じ存在の中では次のやうになります。

《縞魚飛魚》[緑面の詩人]
《緑面の詩人》[縞魚飛魚]

といふことは、安部公房の読者であるあなたは次の等価交換の関係に自然に気づくでせう。
それは安部公房の哲学、新象徴主義哲学の存在の記号を使つた次の関係です。

《存在》《現存在》

前者は時間と無関係な何か、後者は時間の中に現れた前者です。お金の世界では、同じこと同
じ関係が、
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もぐら通信                          ページ 8

《貨幣》[通貨]
《money》[currency]

と呼ばれてゐる。この関係がそのままtopologicalに等価交換されて、

《通貨》[貨幣]
《currency》[money]

となつて、人間そつくりの火星人と人間の関係、即ち贋物と本物、本物と贋物の等価交換可
能なtopologicalな相互関係であることは、安部公房の読者には理解が容易なことは自明であ
りませう。[註1]

[註1]
『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」
か、または「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「2。1 呪文とtopologyと変形の
関係」をお読みください。詳述しました。

言語の常で、言葉の意味は使ひ方によります(言語機能論)。概念は同じですが、領域が異
なるので、名前が異なつてゐる、あるいは異なつてゐるだけなのです[註2]。即ち、ここで
も汎神論的存在論、即ち西洋哲学用語でいふ、カントーショーペンハウアーの系譜の超越論が
適用されます。[註3]従ひ、今私が執筆してゐる言語貨幣論は、カントーヘーゲルの系譜に
属するカール・マルクスの貨幣論の否定であり、従ひマルクスの資本論の否定であり、従ひ共
産主義の経済とこれに基づく政治の全面的な、しかも哲学と論理学による徹底的な否定です。
超越論の論理と共産主義の論理が相容れることはありません。前者は後者を理解することが
できますが、後者は前者を理解することはできません[註4]。

[註2]
「『カンガルー・ノート』論(5)」(もぐら通信第70号)の「(18)駐車場」をお読みください。詳述し
ました。。

[註3]
『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)をお読みください。

[註4]
これが何故かも、西洋論理学の用語と概念で説明が簡単にできますが、これは稿を改めます。今備忘のために記
すれば、前者は全体を考へた上での論理積(conjunction:AND)であるのに対して、後者のヘーゲルの弁証法
は否定論理(non-disjunction:NOR)のみでものを、しかも時間の中でのみ(即ち歴史の中でのみ)考へるだ
けだからです。後者の論理がどれほど歪(いびつ)であるかは、後日初等数学で教はつた集合論のベン図を用ゐ
て詳細に、しかし簡単明瞭に論じます。
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もぐら通信                          ページ 9

通貨がcurrency(カレンシー)だといふのは、電流を英語でcurrent(カレント)と言ひ、実
際に時間の中を流れる電気(electricity)が電流と呼ばれてゐることを想起して下さると、存
在と現存在、貨幣と通貨といふ関係と同じであることが、即ち存在と時間と名前の関係が、
わかるのではないでせうか。

ちなみに、カントもヘーゲルもショーペンハウアーもニーチェも貨幣論の著作はありません。
貨幣論を書いたといふのは、この二つの系譜では、マルクスの独創です。しかしこれは経済学
だからで、哲学と領分が異なりますので当然といへば当然です。カントーヘーゲルの共産主義
の系譜にある俗称弁証法はキリスト教の論理(スコラ哲学といふ神学)の延長にある焼き直
し(二番煎じ)ですので、それは必然的に擬似哲学、擬似科学、擬似宗教になることは『安部
公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第70号)にて明解に分類して論じた通りです。

同じカントーヘーゲルの共産主義の系譜ではマルクス以外に誰が他に貨幣論を書いたか、また
カントーショーペンハウアーの超越論の系譜では、ニーチェの後で誰か貨幣論を書いたものが
ゐるかどうか、これは後日の課題とし、そこで論じます。[註5]

[註5]
今私の手元にある超越論に基づく日本人の貨幣論には次のものがあります。ともに優れた著作です。

(1)『貨幣とは何だろうか』今村仁司著。ちくま新書。
(2)『貨幣論』岩井克人著。ちくま学芸文庫。

一言でいへば、貨幣とは何かといふ問ひに、ユーラシア大陸の極西の大陸哲学でいふ超越論、
即ち私たちユーラシア大陸の極東の島嶼(とうしよ)哲学でいふ(八百万の神々の世界でい
ふ)汎神論的存在論、そして数学でいふtopology(位相幾何学)の論理によつて本質的、根
源的な解を得ることができるといふことです。

3.2 通貨の分類(形状視点による分類)
貨幣(といふ存在)が時間の中に姿を現して物体化した通貨と呼ばれる物(無機物としての現
存在)の一次分類は次の二つです。分類と命名は私によるものです。[註6]

(1)環穴型通貨
(2)棒型通貨

[註6]
参照した著作は『Curious Currency』(Robert D. Leonard Jr.著。Whitman Publishing, LLC)です。また、
岩井克人著『貨幣論』の本文によれば、これ以外には、人類史の中での古今東西の通貨を列挙した類似の著作に
『Primitive Money』(2nd ed., New York: Pergamon Press, 1966)があります。後者によれば、古今東西の
貨幣には「金のほかに、銀、銅、聖堂、鉄、鉛、黒曜石、石の円盤、ガラス玉、陶片、指輪、塩、矢、斧、鉄砲、
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もぐら通信                          ページ 10

木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム芋、砂糖、茶、ラム酒、
ジン、タバコ、笛、太鼓、毛布、麻布、綿布、羽毛、毛皮、皮革、牛、羊、水牛、豚、トナカイ、干し魚、バ
ター、子安貝、法螺貝、カタツムリ貝、鯨の歯、犬の歯、豚の歯、蜜蝋、そして人間の奴隷といったありとあら
ゆるものが古今東西にわたって貨幣として流通していたことが書かれている。」(同書140∼141ページ)

この二つの一次分類の下位分類がその変型としての下記の(2)から(4)の3つです。『Curious Currency』
に掲載の古今東西の通貨の実例の写真を基にして下記の分類を得た。

(1)環穴型通貨:穴に紐を通して単位化できる形態
(2)半環型通貨:同書75ページ以降を参照。半分環状であるといふことは、その隙間は上記(1)の環穴貨
幣の表現形態の変型であるといふことがいへる。
(3)棒穴型通貨:棒型通貨に穴のある通貨(同書23ページ)
(4)板型通貨:棒型通貨を潰した形の平面の貨幣。動物の皮の通貨、織物の通貨などあり(同書29ページ以
降、また98ページ以降参照。
(5)棒型通貨:棒状にして単位化された形態。

古今東西、全ての人類の歴史上の通貨は、これら5つの分類のどれかに当て嵌まります。上に列挙されてゐる通
貨もみな上記5つのどれかに分類される。詳細は『言語貨幣論』にて詳述します。

(1)環穴型通貨とは、次の写真のやうに、環の真ん中に穴が一つ空いてるゐる通貨のこと
です。
(2)棒型通貨とは、次の写真のやうに、文字通りに棒の形をしてゐる通貨です。

これら二つの形状の共通点は、見かけは似てゐませんが、しかし、単位化して一つになり、ま
た一つにすることができる、即ち1であり、従ひ存在であるといふことです。バラバラであれ
ば通貨(現存在)であるが、紐を通したり、そもそも棒型であることから単位化されてゐると
いふことから、ともに単位化して一つにすれば存在(貨幣)である。

例へば(1)環穴型通貨の例:インディアンの環穴型通貨
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もぐら通信                          ページ 11

例へば(2)棒型通貨の例:塩の棒の通貨

これら二つの形状の共通点が、単位化して一つになり、また一つにすることができるといふこ
とは、人間の次の世界観の二つの原理によつてゐます。

(1)世界は差異である(認識論)
   差異あるが故に/にも拘らず、時間の中で等価交換が生まれる。人間はこの差異をなく
さうとする。これが人類の歴史である。
(2)価値は等価で遍在する(存在論)
   等価交換といふ世界の差異の値を0(ゼロ)に、またニュートラルな状態にする/なつ
てゐることを補償し/保障する、これは存在論である。この交換によつて、後述するやうに余
剰の価値(富)が生まれる。

かうしてみると、この二つの人類の思考原理は、言語の本来的な性質、即ち本性に従ひ、互ひ
に再帰的であり又互ひに冗長性を有してゐることが判ります。[註7]

[註7]
『安部公房とチョムスキー(6)』(もぐら通信第78号)の「4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語
の持つ冗長性とは何か」より引用します:

「チョムスキーは言語の再帰性の持つ、この場合は日本語が文の中に文を埋め込むことができるといふ冗長性
(redundancy:リダダンダンシー)が理解できてゐないといふことを意味してゐるのです。

このポイントこそが、言語の本質、言語の機微、言語の要諦、言語の奥義、言語の奥の細道の奥、安部公房のい
ふ鳥居といふ門を潜つて至る天神様の奥の宮であるのです。安部公房のいふならば、言語構造としてよく語る遺
伝子の二重螺旋構造といふことです。これが冗長性の構造です。

この言語構造をもつと日常的な音声の時間のある世界に上昇させるとこれはそのまま社会システムの構造となり
ますので、あなたの場合でいへば、あなたは同じことをPC(パソコン)のファイルをiCloudやWindowsのサー
ビスの自動バックアップか、又は有料のMozyなどといふバックアップサービスによつて、要するに同じファイ
ルを複製して保管してくれるサービスを利用してゐるのではないでせうか、さうであれば、これがあなたと社会
の共有する冗長性、即ち主体を二重に(redundantに)するバックアップ・システム、即ちoriginal(元々の何
か)やorigine(起源)を複製し保管するシステムなのです。これは、チョムスキーが疑問の立て札を立てた「終
りし道の標べ」に存在してゐる言語の再帰性の別名なのです。

再帰性とは自己を鏡に映して記憶すること、即ち冗長性(redundancy)のことである。

Redundancyを例によつてWebster Onlineに伺ひを立てますと[註2]、これも案に相違せず、1601年文献
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もぐら通信                          ページ 12

に初出の、即ち案の定17世紀の第一年目にヨーロッパの世に現われ出でた言葉でした。この酷い時代は世紀の
最初に冗長性、再帰性を必要とした。まあ、平俗に考へると、いつ財産が30年戦争の擾乱で失はれるかわから
ないので(未来は予見できないので)、今のうちに全財産の複製を作つてをいて他所へ預けて隠して置かうとい
ふ考へだといふことになります。つまり、いつでも自分の元に帰つて来る権利、取り戻す権利を有する(時代が
時代ですから権利もへつたくれもありませんが)、そのやうな再帰性であり、これは庶民には無理で、ある程度
の財がなければなりませんから、さういふ意味でも豊かで(abundance)、余剰の富であり(superfluity)、従
ひそつくりそのまま全く同じ姿をした余計なもの(redundancy)であつて、従ひ、不要な繰り返し(needless
repetition)であり、伝達手段ならば本質的な情報を失はずに削除できるそのやうなメッセージの部分であると
いふ訳であり、特に最後の伝達メディアのことは、私が上で例に挙げた、あなたのパソコンのハードディスクの
ファイルの複製の保管のことに当たるといふわけです。」

さて、今は果たして上掲の(1)環穴型通貨が紐を通して1になつて単位化された通貨であれ
ば、女性の首環(ネックレス)も通貨かといふ議論には(誘惑に抗して)入らずに、本題に沿
つて話を進めます。

4。何故ドーナツは通貨の贋物なのか?
超越論に基づく私の仮説によれば、環穴型通貨が、超越論的な、即ち時間を超えた、時間に
無関係の、従ひ始めも終はりもない、最初の、始原の通貨の形である。超越論即ち汎神論的
存在論であるtopologyではこの形をトーラス(torus)[註8]と呼んでゐます。即ち、

通貨の本質とは、穴である。

といふこと、即ち、

穴があるから通貨になる。

といふことなのです。

[註8]
https://ja.wikipedia.org/wiki/トーラス より:
「最もありふれたトーラスは、円(周)の外側に回転軸を置き得られる回転体、いわゆる「ドーナツ型」であ
る。」(傍線引用者)

ドーナツ
もぐら通信
もぐら通信                          13
ページ

ここで、S・カルマ氏と『バベルの塔の狸』の貧しい詩人アンテン君のことを思ひ出してくだ
さい。前者は、本人よりも、本人ではない、さういう意味では贋物の名刺の方が本物(本人)
よりも世間では通用するのでした。後者は、捕らぬ狸に影を食はれて、影がないために本人は
透明人間になつてしまひ、世間では通用しない人間、即ち影がなければ本人が世間に存在し
ない人間、即ち凸といふ陽画の人間ではなく、誰にも見えない凹の陰画の透明人間になつて
しまふのでした。

このやうに、本人が存在するから存在してゐると思つてゐた二次的・二義的なものがあればこ
そ、さう、名刺や影といふ二次的・二義的なものの方こそが、本人、本体、実体と思はれてゐ
るものを、時間の中に、即ち世の中に存在せしめてゐる当のものであつたといふわけです。

上で見たやうに、貨幣がなければ通貨がないのではなく、後者がなければ前者がない。

このやうな二つの本物と贋物の関係を成り立たせてゐるのが、存在の形象凹でした。即ち、
穴、です。安部公房の読者ならばお馴染みの、『砂の女』の砂の穴、傷ついた『他人の顔』の
主人公の顔の凹、『燃えつきた地図』に安部公房の描いた窪地凹の地図、『箱男』の覗き窓の
ある箱の凹、『密会』の病院の広がる凹の地形、『方舟さくら丸』の凹である地下の洞窟、
『カンガルー・ノート』のやはり覗き窓のある提案箱の凹、といふことは、簡単に言へば、哲
学的に云へば、

通貨は凹から生まれた

といふこと、即ち、

通貨は存在から生まれた

といふことなのです。

これが、何故ドーナツは通貨の贋物、それも環穴型通貨の贋物なのか?といふ問ひに対する、
私の超越論的な答へです。いや、安部公房の答へだといふ方がいい。

更に、この答へを、アメリカの歴史と文化との関係で、特殊な問ひに適用して回答すると、

問ひ:「いつでも、どこでも、誰にでも」といふアメリカの文物の無垢の手放しの幼児性は、
ドーナツの場合、何から生まれたのでせうか?
答へ:それは、お金に対する飢餓感から生まれた。

といふことになります。これもS・カルマ氏ではありませんが、いやしかし同様に、物を見た
だけで何でも(陰圧の凹の胸ならぬ)陰圧の凹の腹の中に吸収してしまふ、アメリカ人の飢餓
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もぐら通信                          ページ 14

感から生まれたのです。

何故ならば、ドーナツの生まれた直前の時代はイギリスからの独立戦争直後であつて、アメリ
カはハイパーインフレーション[註9]のために物価が急激に高騰して通貨が通貨の役に立た
なくなり、つまりお金として機能するお金が、国民庶民の間にはなかつたからです。

[註9]
ハイパーインフレーションの定義:

「フィリップ・ケーガンは、ハイパー・インフレーションにかんする有名な研究のなかで、月平均五〇パーセン
トを越す物価上昇が一年以上も続いた状態ハイパー・インフレーションと定義している。」(岩井克人著『貨幣
論』の註(23)。229ページ)

また、この著者は、有名な事例である第一次大戦後のドイツの場合の他に、次の例を挙げてゐる。

「このドイツの経験のほかにも、古くは独立戦争直後のアメリカやフランス革命下のフランスにおけるハイパー・
インフレーションの事例が有名であり、今世紀に入ってからは、社会主義革命直後のロシア、第一次大戦後のオー
ストリア、ハンガリー、ポーランド、第二次大戦後のギリシャ、ハンガリー、共産党政権確立前の中国、一九八
〇年代の中南米諸国、さらには社会主義体制崩壊後の東ヨーロッパ諸国や旧ソヴィエト連邦諸国な度がはげしい
ハイパー・インフレーションにみまわれている。」(同書206ページ)

アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地が宗主国イギリスから独立するための独立戦争は、
1775年4月19日から1783年9月3日まででした。ドーナツといふ言葉は、文献としては180
3年出版の料理本に附録としてついてゐるレシピに初出です。[註10]

[註10]
https://en.wikipedia.org/wiki/Doughnut:
According to anthropologist Paul R. Mullins, the first cookbook mentioning doughnuts was an 1803
English volume which included doughnuts in an appendix of American recipes.

といふことは、ドーナツといふお菓子は1775年4月19日以降1803年の28年の間
に生まれたといふことになります。一つのお菓子が生まれてアメリカ国内に広がつて洗練され
料理本のレシピになる十分な時間の長さです。

しかし、アメリカのドーナッツは日本で売られてゐるドーナツ・チェーン店のドーナツより
も、もつともつと甘いといふことです。何故そんなに甘いドーナッツを求めるのか?といふ問
ひに答へると、甘味といふ味は、貧しい時には豊かさ、贅沢さとして感じられる味であるから
です。アメリカ人が何かに自分たちの貧しさを感じ、飢餓感を覚えたので、その解決として甘
さといふ味を強烈に求めたのだといふのが私の考へです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 15

先の戦争後の日本人の味覚も同様でした。戦後の貧しさの中では甘さといふ味覚は贅沢を意
味してゐた。チョコレートは今よりももつと甘かつたし、ケーキの味も甘かつた。甘さは贅沢
であつた。今ではむしろチョコレートはカカオの味を生かした苦い物まで出てきて、甘すぎ
るやうなチョコレートは姿を消してゐる。ケーキも、もともと甘い物ですが、しかし強い甘さ
だけを求めて、甘さを基準にして、私たちはもはや食べてゐるのではない。つまり、

このお菓子の過ぎたる甘味と環穴の形状であるドーナツには、やはりお金に対する飢餓感に
由来するお金持ちになりたちといふ強い願望であるアメリカン・ドリームが宿つてゐて、その
思ひが物体化した物がドーナツである。このお菓子を食べると、ジーンズがさうであつてジー
ンズを一着に及ぶと其の夢が叶ふかも知れないやうに、自分の素朴な物体化した贋の貨幣と
いふ贋の神話性を食べて食べて食べ続ければ、自分の体に其のやうな神話性が時間の中に生
きる自分の血肉に、食べ続ける限り永遠に、宿ることになるといふことなのです。

ここで神話といふ言葉を使つたのは故なきことではありません。『安部公房とチョムスキー
(3)』(もぐら通信第76号)を再掲します。

「安部公房の分類:https://ja.scribd.com/document/371370776/安部公房の分類-v2
チョムスキーの分類を更に時間といふ視点で、即ち安部公房文学の《存在》と《現存在》と
いふ新象徴主義哲学の視点で分類し直すと、次のやうになります。」

神話はこの図の三層目に当たります。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ16
この言語階層図の三階層のうち深層構造2(存在2)が、時間の存在しない、さういふ意味では
永遠の、差異からなる神話の階層です。何故なら宇宙は差異から生まれるから。その差異から生
まれる差異といふ再帰的な差異といふ(安部公房の記号で表せば)《存在》の物語が、また存在
の中では《縞魚飛魚》と[緑面の詩人]の等価交換可能な関係の物語が、神話であるからです。

そして、深層構造2に生まれ、文字・数字・記号を刻印され凹の印(しるし)を押され刻まれる
こと[註11]によつて深層構造1(存在1)の存在と貨幣は成り、記憶(media)と記録
(documentary[註12])として此の階層で物体化してから(あるいはさうなることで此の階
層を創造し形成してから)、次に表層構造といふ時間の存在する現実の中を流通する通貨
(currency)となつて、私たちの財布の中に携帯され、現実の時間の中で等価交換(売買に際し
て同時決済)されるといふ順序、さうしてtopologicalに貨幣といふ存在が循環すること、等価交
換が余剰(富)または剰余価値(富)を産むこと、何故ならば安部公房の読者に周知の通りに等
価交換は論理積(conjunction:上位接続)であるからー安部公房の主人公たちの最後の死は常
に此の論理積の否定である否定論理積であつて、この論理の実践によつて此の富をそれまでの次
元に残して無一文の人間(「箱男」)として次の次元である存在へと失踪するのですが、しかし
哲学的・数理的にまた人間個人の意志の問題としてはさうであつてもー経済といふ社会や国家の
問題としては、これが貨幣の観点から見た私たちの経済の構造であるといふことなのです。従ひ、

通貨には、貨幣(存在)の神話性が宿つてゐて、このことからも貨幣は、呪術やシャーマンの祈
祷や、従ひ/それ故に、大地母神崇拝から生まれたことが判ります。[註13]Godは一つしかゐ
ないといふ前提で物を考へる欧米白人種キリスト教徒による貨幣論には最初から限界がある。こ
の安部公房文学の性格は、安部公房シャーマン論として諸処に記述の通りです。この論考の文脈
では、安部公房の存在の文学は貨幣小説であるといふことができます。例を他に挙げれば谷崎潤
一郎の『少年の王国』、アンドレ・ジッドの『贋金造り』、ボードレールの『贋金』、ゲーテの
『親和力』、安部公房の一番好きな作家であつたエドガー・アラン・ポーの『黄金虫』など、他
にもまだまだ存在概念との関係で貨幣小説と呼ばれ得る小説はある筈です。贋金の生まれる契機
と贋の父親の登場する契機は同じです。同じ契機によつて、安部公房の世界の家族は常に擬似家
族、即ち贋の、即ち存在の、即ち貨幣の家族である。

私たちは、このやうな経済構造の上に生きてゐる。ここまでお話をすると、これがそのまま言語
構造であることもお解り戴けると思ひます。超越論者であるチョムスキーと安部公房が、もし対
談をして経済を論ずる企画があつたとすれば、話は此のやうになり、ユダヤ人のチョムスキーの
ことですから旧約聖書の言葉も引用して、また存在と神話の関係は初期安部公房からの此の作家
の謂はば十八番(オハコ;箱に通じてゐるわけ)ですから、非常に人間と貨幣と存在と言語に関
する根源的(radical)な対話になつたことでせう。

[註11]
文字・数字・記号を刻印することと、文明と文化の関係については、「『カンガルー・ノート』論(2)」の「6。
安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」(もぐら通信第70号)をお読みください。

[註12]
通貨はドキュメンタリーなるものです。Webster Onlineより:
赤字にした一行bが、貨幣の記録性(documentary)を、素材と思考論理と象徴との関係で定義してゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 17

Definition of document
1 law
a archaic : proof, evidenceb : an original or official paper relied on as the basis, proof, or support of
something
c : something (such as a photograph or a recording) that serves as evidence or proof
2
a : a writing conveying information financial documents historical documents a classified document that
was leaked to the media
b : a material substance (such as a coin or stone) having on it a representation of thoughts by means of
some conventional mark or symbol
c : documentary
3: a computer file containing information input by a computer user and usually created with an
application (such as a spreadsheet or word processor) create a new document

[註13]
世にある貨幣論の中には、貨幣の呪術性や祝祭性に起源を求める論のあることが岩井克人著『貨幣論』からわか
ります。

「たとえば、フィリップ・グリアソンは、貨幣の起源として、ひとの魂を鎮めたり神の心を鎮める力をもつお祓
い(pacification)=支払い(payment)の手段としてもちいられた共同体てきな「原始貨幣」が「一般貨幣」へ
転用された可能性を指摘している。Philip Grierson, The Origines of Money, Research in Economic
Anthropology, vol.1, pp 1-35, 1979」(同書註(15)。145ページ)

5。何故ドーナツには穴が空いてゐるのに、アメリカの通貨には穴が空いてゐないのか?
さて、最後の論題です。しかし、何故ドーナツには穴が空いてゐるのに、アメリカの通貨には
穴が空いてゐないのでせうか。私たち日本の国の通貨には穴の空いた通貨があります。この原
稿を書いてゐる時点で、50円玉と5円玉は、私の分類でいふ古代的なまた神話的な、直接に
存在起源の環穴型通貨です。

上の言語階層図の三階層のうち深層構造2(存在2)といふ時間の存在しない、さういふ意味
では永遠の、差異からなる神話の階層で鋳造された通貨には穴が空いてゐる。例へば、これは
日本列島文明の縄文時代前期(約7,000 - 5,500年前)[註14]に製造された石の通貨の例
です。文字・数字・記号といふ有文字文明化してゐない時代の、無文字文明である文明の通貨
の最初の形態には存在の穴が空いてゐるのです。私が此の写真を撮影した東京都埋蔵文化セン
ターの分類では「環状石器」となつてゐますが、しかし、私の仮説によれば、これは石器では
なく、明らかに縄文時代の、私たちの祖先の縄文人の製造し使用した石の通貨です。
もぐら通信
もぐら通信                          18
ページ

[註14]
https://ja.wikipedia.org/wiki/縄文時代#時期区分

また、人類の貨幣史では必ず出て来る太平洋のヤップ島の石の通貨も同様です。この石
の大きな通貨の現物は東京の日比谷公園にありますので、ご覧になるのも一興です。

此の二つの石貨をみると、ともに火山の爆発によつて出来た礫や変成岩であることに気づき
ます。勿論地域によるでせうが、大地の爆発といふことから生まれる恐ろしい自然の力を神
聖なるもの、即ち人間の意志と支配を超えるものとして、崇敬の念からそのやうな石を素材
として選んだのかも知れません。何故なら通貨の素材は、穴があるのであれば何でも良いか
らです。私たち人間のtopologyは、形に着目して価値の分類をするのであつて、素材には拠
らないからです。さて、さうして、そのやうに、試しに一定期間文字を使はずに私たちも普
段生きて見れば、古代の人間の心情と存在論の論理を理解することができるかも知れませ
ん。

このやうに穴といふ存在概念の形象を考へると、アメリカの通貨に穴の空いてゐないのは、
神話を持たない国であり、神話を有するまでに古代まで遡ることの出来る古い歴史がない国
であるからだといふことになり、他方反対に、神話を有する国々の通貨には穴が空いてゐる
といふ事になります。

試しに歴史の浅い人工的な国家の通貨を調べてみると、シンガポール(マーライオンの像の
立つ海の岸辺に建国の神話を謳つた詩碑が立つてゐますが、勿論これも贋の神話です)、中
華人民共和国、またヨーロッパの経済共同体EUの硬貨に穴はない。(ちなみに、EUは生ま
れから言つて共産主義です。シンガポールも同様です。中華人民共和国についてはいふまで
もありません。)アフリカ大陸の諸国には古代からの神話がある筈ですが、穴のあるものも
あれば、無いものもあり、後者の数がGoogleの画像検索では圧倒的に多いやうです。欧州白
人種の植民地支配による収奪によつて、安部公房の言葉によれば「ぺんぺん草も生えない」
ほどに徹底的に搾取され文化を破壊されたので、それができないのかも知れません。しかし、
エチオピアの通貨には今も、二種類の異なる素材を使つて、素材の色によつて真ん中の円に
穴の形象を際立たせたものがあります。また、古代神話のあるスエーデン、ノルウエー、そ
れから同じ支那でも宋の時代の硬貨には穴が空いてゐます。また20世紀初等のフランスの
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19
硬貨、低地ドイツやスエーデンと同じ文化圏である今のデンマークの硬貨にも穴の空いた通貨
があります。

穴といふ形象が通貨の形態の初原であるとして、いづれにせよ文字・数字・記号を刻印すると
いふことが同じ凹を刻む行為でありますから、この意義にあつては、国の成り立ちの新旧古代
現代を問はず、通貨で存在の《穴》の無い通貨は無いのです。それでは、紙幣はどうだといふ
事になれば、それは絵画がさうであるやうに、二次元の平面の紙幣の上に立体的な凹凸の図柄
を描いてゐるので、これも同じことになります。通貨として物体化されるのは、素材が不変性・
耐久性がある限り、即ち変質しない限り、素材は何でも良いのです。また、通貨に使はれた金
属の幾つもの種類、そしてまた紙幣といふ紙の通貨については、これらの素材加工技術の時代
ごとの難易度によつて通貨製造のための(通貨としての)地位の優劣が定まり、その通貨の通
用する共同体の最高権力が最高機密の通貨製造技術を独占するといふのが、通貨から見た人間
の歴史であるといふのが私の仮説です。既に古くなつた製造技術による通貨は、通貨の身分を
落として行き小銭になつてあなたの財布にかうして収まつてゐるる。この最高度の技術を独占
したものに富が集まり、富が資本と呼ばれて蓄積される。今は紙の通貨製造技術(印刷技術)
以上の高度な電子的技術が生まれて、暗号通貨(script currency)、通称仮想通貨が通貨の素
材と製造技術の交代の問題になつてゐる。これらの委細は『言語貨幣論』で論じます。

この事からわかることは、穴の空いた通貨の持つ次の事についての総合的・統合的な象徴性で
あり、象徴の力です。

(1)古代
(2)神話
(3)呪術
(4)シャーマン
(5)共同体
(6)単位化:単位化とは、存在が時間の中へと現出する事、貨幣が通貨になる事、即ち国ま
たはその他の大小の通貨使用共同体が「既にして」(超越論的に)「いつの間にか」(超越論
的時間)「どこからともなく」(超越論的空間)誕生してゐることを意味する。紐やその他の
結びといふ上位接続(conjunction)によつて個々の通貨が1に、即ち時間の中の現存在(通
貨)が存在(貨幣)になる事である。
(7)存在
(8)記憶

以上が無文字文明での通貨の穴を巡る象徴的要素ですが、文字・数字・記号を通貨に刻印する
事によつて、同じ凹を記録するといふ行為であつても、更にこれらの上に、有文字文明では次
の要素が加はります。

(9)記憶と忘却
(10)記録と消失
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もぐら通信 20
ページ

(11)死者と生者
(12)鎮魂・追悼と御祝ひ
(13)存在(貨幣)と単位化(通貨):この文脈で再度上との重複を厭はず挙げます。
(14)計算と記録
(15)記録と管理台帳

さて、最後の最後に、一体何故アメリカ人はそれほど食慾といふ慾を冒されるほどに強烈な
飢餓感をお金(money)に対して覚えて、そして今も覚えてゐるのだらうか?それは、

(1)独立戦争後のハイパーインフレーションの時代には特に、単純に非常に貧しく、餓え
てゐたから(2)この貧しさはお金があれば何でも買へて、その貧しさを埋めることができ
ると考へたから、でありませうか。

しかし、この説明は余りにも単純で表層的に過ぎるのではないでせうか(「安部公房の分類」
の言語機能論の三階層図を参照のこと)。ここにあるのはコカコーラを生み出し、果てしな
く此の贋の水を生産し、毎日大量消費する動機と同じ動機が隠れてゐるのではないか。即ち
それは、

(1)自分たち白人種の、人間としての魂と精神の消耗の恢復といふことである。何に対す
る消耗か?それは、
(2)インディアンの大虐殺と黒人奴隷の売買といふ建国以前の歴史的事実、即ちアメリカ
といふ国の根底にある自分たちの罪に対する贖罪への非常に強い感情である。ドーナツの場
合には、贖罪を食材と二つの言葉を並べても良いかも知れない。即ち、

茶色に揚げ、また黒いチョコレートを掛けるのは、黒人やインディアンといふ有色人種に対
する歴史的な贖罪の感情とともに、その裏返しにある茶色や黒い色に対する憧れを逆に意味
してゐるのではないだらうか。コカコーラの黒がさうであり、白人のジャズがさうであるや
うに。コカコーラを飲めば罪が赦され、ジャズを演奏すると罪が赦される。

そして、私たち日本人も其の魅力に抗することができない。

6。再度コカコーラとは何か?
このやうに考へて来て、コカコーラの場合の4つの構成要素、水、黒い色、発泡、臭ひを、
ここで再度整理すると、

(1)製造法の秘匿による贋の神聖性の創造
(2)黒い色といふ一番強い贖罪の意識の色。そして黒人の色。
(3)この神聖な水は、祖先の地である(つまり、独立宣言以降にも歴史的にも血統として
繋がつてゐる筈の)ヨーロッパの神話の世界の神聖な場所である森の中に滾々(こんこん)
と尽きず永遠に湧き出る神聖なる泉の水であり、それは湧き続ける炭酸の泡によつて其の神
話の永遠性が保証されてゐるといふ事。またヨーロッパの都市の中心の広場(市場)にある
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 21

やうな泉は無い替はりに、ガラスの瓶に詰められて携帯性を帯びた其の聖水を「いつでも、ど
こでも、誰にでも」飲むことができるということ。
(4)独特の消臭剤の臭ひで、罪の臭ひを消してしまふといふこと。しかし、この臭ひは薬臭
ひといふことから「(1)自分たち白人種の、人間としての魂と精神の消耗の恢復」をも含ん
でゐる。プラトンの言葉でいふ、コカコーラはアメリカ人のpharmakon(ファルマコン)[註
15]である。

これが、コカコーラといふ贋の神聖なる飲み物の象徴的な意義、即ち深い意味の様々といふ事
になります。

[註15]
pharmakon(ファルマコン)とは、古代ギリシャ語で、薬である毒、毒である薬といふ薬効/毒効を揺する物事
のこと。プラトンは『パイドロス』で、文字を使つて書くことと記憶と忘却の関係で、この言葉を使つてゐる。
`Pharmakonは、エジプトの神テウスからの贈り物であるといふ。薬である毒、毒である薬といふことが既に、
このエジプトとギリシャの話では、神話の世界と結びついてtopologicalな等価交換の関係にあることが判る。こ
れは、一神教の、時間の中で常に人間が選択を迫られる二項対立ではなく、時間とは無関係な、構造的で物事の
性質を問ふ多神教の両義性を備へた思考論理であり、二つの宗教の性格の相違がここにも現れてゐる。勿論後者
は超越論であり、前者は、近代にあつては、目的のために暴力を含めた手段を選ばない絶対命令による中央集権
化といふことであれば、カントーヘーゲルの系譜の共産主義であり、ファシズムになる。

「プラトンのパイドロスでは、登場人物であるソクラテスとパイドロス(と登場はしないリュシアス)が、書き
言葉と話し言葉を巡る部分で書き言葉=筆記をその例として挙げている。

They go on to discuss what is good or bad in writing. Socrates tells a brief legend, critically commenting
on the gift of writing from the Egyptian god Theuth to King Thamus, who was to disperse Theuth s gifts to
the people of Egypt. After Theuth remarks on his discovery of writing as a remedy for the memory,
Thamus responds that its true effects are likely to be the opposite; it is a remedy for reminding, not
remembering, he says, with the appearance but not the reality of wisdom.
Discussion of rhetoric and writing (257c‒279c)

書き記すことは記憶を助ける薬であるように思われるが、実際には覚えるのではなく覚えたことを思い出させる
に過ぎず、むしろ覚えることの妨げ=毒になるという内容だ。パイドロスでのファルマコン・パルマコンについ
てはジャック・デリダが題材としており、「散種(La Dissémination)』には「プラトンのパルマケイアー」と
いう一節がある(ちなみにこれは英語ではPlato s Pharmacyと訳されている)。」
(https://pcareer.m3.com/plus/article/pharmakon/)

この一節は、無文字文明である大地母神崇拝と、有文字文明である文明(文字で書かれた聖典を有する父権宗教
である一神教はこれに属する)の相違を、ここでも想起させる。

デリダの此のセッションは、私も読みましたが、いつもながら面白いもので、私の好きなテキスト(文章)の一
つです。しかし題名の訳では誤訳といふべきであつて、それは何故かといへば、散髪するやうに鋏で髪の毛をぱ
ちぱちと切つて散らばせるものではなく、これは人間の意志を以つて、従ひ目的を持つて種を撒くのであるから
(撒水にも手偏があれば消防署員と消防車の目的があらう)、種を播(ま)く、チラスのではなく(チラシ寿司
ならいいだらうが)マクのであるから、やはり播種と和訳の題名を直してもらひたいものである。さうでなけれ
ば、中身の誤訳多きことを恐れ、私は今だに訳本を買つてゐない。あるいは、かくして、撒種ならまだ赦せる。
しかし尚、そのやうな通用する語は普通にはなく、やはり播種である。もし漢字の字義を知らずに訳者が訳する
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

のであれば、やまと言葉で、種播き又は種まき、といふ題名の方が遥かに分かり易くて良いと、私は思ふのであ
る。年とともに意地悪な蛇足の註釈を[緑面の詩人]になつて付けたくなる私である。

別途『安部公房とチョムスキー』(第73号以降)に、また其の中で論じる予定の『近代の超
克』といふ題の座談会で、津村秀夫さんといふ方が、アメリカ文化の映画とエロティシズム(性
愛のあり方/表現の仕方)を簡潔に批評して、アメリカ文化の本質を、既に大東亜戦争開戦直
後に(そして、アメリカから見ると確かに太平洋戦争直後に)、それまで日本の経験して来た
アメリカ文化を省察して、的確に言ひ当ててゐます。これは映画だけのことを言つてゐるので
はありません。

「津村 第三には元来、アメリカといふ国自体が伝統的文化を持たなかつたと思ひますが、こ
れも重要な理由です。といふのはアメリカ映画がそれを正直に反映して行つたために、そこに
鑑賞上の世界的普遍性が生まれた。風俗、習慣、道徳等が欧州のやうに複雑でないから、如何
なる国民にも理解が容易であるといふ結果が生まれて来る。」(『近代の超克』255ページ。
富山房百科文庫)

先の敗戦直後から早速、企業人も含めた日本人と八百万の神々が、アメリカ文化を如何に変形
させて、戦後の経済の急成長による国の復興をなさしめ、またアメリカの文化を日本文化の一
部となしたかは、別途稿を改めて論じます。

いづれにせよ、1945年から数へて此の原稿を書いてゐる時点で70有余年を閲(けみ)し
たのである。この歳生まれた人間の一生のうちのほとんど全ての時間といふべき人生の時間に
値する大切な、二度と繰り返さぬ、取り返しのつかぬ時間の長さである。

70有余歳の人間の、自分の人生を振り返つて、自分の人生に果たして悔いなきか。

7。追記
このアメリカの文化の一つの産物であるドーナツを、言語貨幣論の観点から論じて見て、あら
ためて思ふのは、18世紀のカントが分岐となつて二つに分かれた、カントーヘーゲルの共産
主義の系譜とカントーショーペンハウアーといふ超越論の系譜のことである。

結局言語貨幣論の観点から此の分岐を眺めると、前者は貨幣を経済論の論理の中にのみ限定し
て論じ、近代国家といふ政治と経済の関係の内部でのみ論ずる狭い道を敷いたことになり、他
方反対に、超越論に拠つて近代国家の枠を超えて、その経営する経済の外部に文化の問題とし
て哲学的・言語論理的な原理を求めた後者の系譜は、広い道を敷いたことになる。何故なら、
前者は言語と貨幣の本質である再帰性を絶対的に否定し、他方後者は言語と貨幣の本質である
再帰性を絶対的に肯定する思考であるからだ。そしてまた、再帰性は自己を映し記憶する鏡と
しての冗長性(redundancy)と常に裏表の関係にあることを忘れてはならない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ23

結局いづれの道が正しかつたか。正しかつたかといふのは、どちらが人間と社会と国家により
多く不都合の播種(デリダの用語法とは正反対の用語法であるが、しかし其の)の量を減少さ
せたか。即ち、人間をより幸せにしたか。その答へは明らかである。

今村仁司著『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)に著者の次の言葉がある。これは二十一世
紀に今ゐる私たちには自明なほど理解に努力を要しない。私がしばしば、資本主義と民主主義
とマルクス主義を一式にして共産主義と読んでゐることと同じことを、また安部公房が植民地
主義と同様に一括して呼んでゐることを、著者はもう少し専門の立場から詳しく述べてゐるの
である。「貨幣形式と資本主義」と出した節から引用する。この著者は超越論者です。

「しかも現在、資本主義なる言葉はすでに時代遅れである。それは理論概念としてなお学問的
有効性をもっているが、現実の世界はすでに資本主義的ではない。それは二十世紀の三〇年代
以降から社会主義的資本主義ないしは「国家資本」の社会主義のいずれかになったのである。
 西欧では「社会化した資本主義」(国家管理を強化した資本主義)は十九世紀の自由競争資
本主義を追放してしまったし、おなじ西欧でもドイツやイタリアでは、国家社会主義が「ファ
シズム」として実験された。
 他方、東欧圏ではスターリン主義の実験があり、それは「社会主義」と定義されてきたが、
実態はいわば全資本を国家に集中した「国家資本主義」である。二十世紀はどの地域でも「社
会主義」時代であった。そしてその内容は、ジンメル風にいうと「貨幣の不滅性」を証明した
ようなものである。」(同書073∼074ページ)

さうして二十一世紀の現在は二十世紀後半からいよいよ明らかになつて其の姿を現した「無国
籍国際金融資本主義」または「無国籍企業主義」といふ、「国家資本主義」を超えた「無国籍
資本主義」が跳梁跋扈してゐるといふことになつた。しかし、これは国家の枠を超えただけで
あつて、しかも国民の福祉のことはどうでもよく金儲けのためだけに国家の法律の外部にゐつ
づけようといふ意志のある丈一層貧富の差を激しくして一層共産主義であり、安部公房の言葉
でいふ植民地主義であることを止めない。

かうしてみると、18世紀のカントの分岐点の鍵語(キーワード)、das Ding an sich(ダス・


ディング・アン・ジッヒ)即ち物自体といふ言語論理の再帰性に全くの信を置いたカントが哲
学を打ち建てた同じ時代に、ルソーやヘルダーが言語起源論を、キリスト教から離れてそれと
は無関係に、人間の能力とは何かといふ問ひとともに、考へ探求したことは正しい努力であり、
時代の要求する思潮であつたのです。しかし人間は愚かにもカントーヘーゲルの共産主義の系
譜を選択した。

著者は更に「言語起源論について」と題した第3章第1節で次のやうな疑問を呈してゐます。

「言語の起源に関する議論と研究が十八世紀に集中的に行なわれた(ヴィーコ、ルソー、アダ
ム・スミスなど)。言語起源論に託された課題は二つある。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ24
 ひとつは、言語の起源を迂回して認識と思考の根源を考えることであり、もうひとつは、文
学と芸術の起源を考えることである。前者はコンディヤックやデステュット・ド・トラシー、
あるいはアダム・スミスがとりくむ。後者はヴィーコとルソーの問題であった。
 しかし、なぜ十八世紀において、いくつかの西欧の国々で、同時多発的に言語起源論が提出
されたのであろうか。」(同書184∼185ページ)

この著者の問ひに対しては、言語と哲学と貨幣の関係及び哲学の系譜の分岐を論じた『安部公
房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)と、超越論に基づく言語起源論である『言
語とは何か II:言語起源論』(もぐら通信第77号)で論じましたので、これをご覧下さい。

これら二つの論考と此のアメリカ文化贋物論である「ドーナツとは何か」論の三つを併せて、
著者の疑問に十分に回答し得てゐると私は思ふが、如何か。

また、著者曰く「フランス革命は西欧のみならず世界の歴史の全体的転換を画すことになるが、
言語起源論はまさにフランス革命の直前の時期に集中している。こうして問題は、歴史一般で
はなくて、ひとつの歴史的時期(十七、十八の二世紀間の第一近代)の終焉と次の時期への危
機的移行における文明と文化の問題に通じている。」(同書186ページ)

この近代史の転換点であるフランス革命の標榜した自由・平等・博愛といふ観念も、二十一世
紀に入つて2017年1月20日のトランプ大統領の就任演説で終焉を迎へたことは、『言葉
の眼 11:安部公房の世界からトランプ大統領の就任演説を読む』(もぐら通信第54号)
でお話しした通りです。何故ならば、近世・近代の共産主義(または安部公房のいふ植民地主
義)を含めて、これまでのキリスト教といふ唯一絶対全知全能神の支配してきた地域の侵略的
な文明に替はつて、二十一世紀初頭に登場したトランプといふアメリカの大統領は、不動産と
いふ大地母神の資産の売買を業と為して財をなした男であり、従ひ、父権宗教から生まれた絶
対命令による言語再帰性の否定をするものではなく、全く正反対に、同氏の標語がAmerica
First(米国本位)といふやうに、アメリカの大地と言語の再帰性を絶対的に肯定するものであ
るからです。

二十一世紀の時代は、言語再帰性の、従ひ言語冗長性の、絶対的な肯定に向かつてゐる。わた
しが、1951年の遺伝子の二重螺旋構造の発見以来全地球的にバロックの時代であり、バロッ
ク紀元だといふ所以です。

『貨幣とは何だろうか』は1994年9月20日の初版発行。歴史に学んで、これからの時代
の潮流を良く読み抜いた、今も読まれるべき優れた本であると、私は思ひます。

この著者の思考論理は超越論でありますから、貨幣と通貨の本物贋物論なども含めて、安部公
房の読者にはお馴染みの論理であり、読み易く理解し易い筈です。同様に、同じ理由で、これ
まで何度か参照して来た岩井克人著『貨幣論』といふ超越論に拠る貨幣論も一読をお薦めしま
す。ともに読みながら、貨幣といふ存在の観点から、人間や社会や国家を、そして安部公房の
読者であるあなた自身を再帰的に省察することができませう。これは読書の楽しみであり、愉
悦です。両著ともに、章末・巻末に参考文献が列挙されてゐる。

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