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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2019年6月1日 第81号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 美の極致が古代の遺跡であるように美しいものはいつも何かの抜け殻にきまっ
ただ を通
けの って ていた。
番地
に届
きま 『美について』(全集第9巻、435ページ上段)

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 『カンガルー・ノート』論(15):5.4 第5章新交通体系の提唱:
                              岩田英哉…page3
2 何故日本の文学は衰退したのか(2):岩田英哉…page16
3 安部公房とチョムスキー(8):7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く:
                              岩田英哉…page 19
4 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(26)∼安部公房をより深く理解する
ために∼:今月は休載:岩田英哉…75
5 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 76
6 編集後記…page 79
7 次号予告…page 79

・本誌の主な献呈送付先…page80
・本誌の収蔵機関…page 80
・編集方針…page 80
・前号の訂正箇所…page80

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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もぐら通信
もぐら通信                          ページ 3

『カンガルー・ノート』論
    (15)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
1。1 様式について
1。2 内容について
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容

2。『カンガルー・ノート』の呪文論 青字は前回までに
2。1 呪文とtopologyと変形の関係
て論じ終つたもの、
3。『カンガルー・ノート』の記号論 赤字は今回論ずるもの、
3。1 章別・記号分類 黒字はこれからのもの
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
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(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」(v3)

*****
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5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
この章の作品全体の中での位置を確認してから本題に入ります。

(全集は第29巻、ページ数のみを挙げます。)

「4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に従ひ、秘儀の式次第の6つのプロセスに即して、
これを各章に割り当てれば、次のやうになります。

(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根
(2)呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
(3)存在を招来する:第3章:火炎河原;第4章:ドラキュラの娘
(4)存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
(5)存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:鎮魂歌
(6)次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌」

さて、最後の第7章人さらいでいよいよ明らかになつたことは、「『カンガルー・ノート』論
(1)」(もぐら通信第66号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の
「(6)二種類の救済者」で述べた通りに、「文脈によつては、この二人の未分化の実存の大
人と子供の女性は、等価で交換可能であるといふことに」なる其の文脈が、この新交通体系の
提唱といふ章にはあるといふことです。

それでは、その文脈は何かといふと、一つの交通体系から逸脱して、待避線に入る場合、それ
も其処に至るまでに「運河めざして地下の行動を疾走していたときの感覚」を持つて「待避線」
へと「すれちがった遊園地の周遊電車に垂れ目の少女が乗っていた」ときなのです。(ページ)

このことが第5章の新交通体系の提唱といふ章の題名に深く関係してゐるわけなのです。

第5章の新交通体系の提唱といふ章で、『通りゃんせ、通りゃんせ』の古謡によつて、通りゃ
んせの繰り返しの呪文の後の其の沈黙と余白のテキストに歌はれてゐる天神様をお参りするこ
とで、この二種類の未分化の実存の女性が等価交換可能であり、作品の文章(テキスト)の内
部と外部の交換ともどもに、さうなることの詳細な理由は、「(6)二種類の救済者」と「(1
5)満願駐車場の呪文」(共にもぐら通信第66号)に詳述しましたので、ここでは再説せず、
先を急ぎます。

5。4。1 目次
第2章緑面の詩人以降の目次を受け継いで、第4章同様、次の目次を採用して話を進めます。

(1)冒頭共有
(2)結末継承(大)
(3)結末継承(小)
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(4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。
(5)呪文を唱える
  (A)地の文の呪文
  (B)呪文らしい呪文
  (C)3回の呪文の後に登場する者
(6)存在を招来する
  (A)3回鳴る甲高い音
  (B)存在の始め
  (C)存在の終はり
(7)存在への立て札を立てる
(8)存在を荘厳(しょうごん)する
(9)次の存在への立て札を立てる
  (A)最初の立て札
  (B)最後の立て札

5。4。2(1)冒頭共有
①時間の差異:
(a)「引き戸の外はモノクロームの朝。明暗の識別には十分だが、色彩を行き渡らせるまで
には熟しきっていない時刻。」(145ページ上段)
(b)「一番電車は出てしまったが、二番電車の発車までには間があるらしく、駅前の県道は
ひどく閑散としていた。」(145ページ下段、傍線部分)これは、読者にお馴染みの超越論
的時間の叙述。即ち、始めも終はりもない時間の差異の叙述。

②空間の差異:
(a)「一番電車は出てしまったが、二番電車の発車までには間があるらしく、駅前の県道は
ひどく閑散としていた。」(145ページ下段、傍線部分)

もし空間的と次の冒頭の第二段落目をいふならば(さうして、さういふことができるのです
が)、これも安部公房の超越論的な、即ち上記(b)の時間的な超越論の始めも終はりもない
といふ叙述に相当する空間的な超越論による次の叙述を挙げることができる。この場合の上位
接続の論理は、チャーシュー麺を「残して平らげる」といふ論理です。

(b)「チャーシュー麺を半分だけ残し、かろうじて平らげた。残して、平らげたというのは、
矛盾した表現だ。でも事実だから仕方がない。箸で線を引いて一応の目安を立て、目安の分は
きれいに平らげたのだから、やはり残して平らげたことになる。」(145ページ上段)ここ
まで来ると、「このはし渡るべからず」といふ表札をみて、橋の真ん中を堂々と渡つたといふ
一休さんの頓智と何ら変はらない。

稿を改めて『安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く』と題して論じますが、実は安
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もぐら通信                          ページ 7

部公房の二項対立の否定による否定論理積といふ論理は、禅の公案の解を導く論理でもあるの
です。禅のお坊さんも、廊下の雑巾掛けを朝早くから行ひ、また箒を持つて庭の掃除をしなが
ら、同じ論理に頭を悩ませながら修業したのです。

5。4。3(2)結末継承(大)
第4章と第5章の接続は《かいわれ大根》入りの味噌汁による接続。お椀の凹の中の《かいわ
れ大根》から、同じ凹の中の《かいわれ大根》への再帰的な接続。存在へと存在自体が回帰す
るための接続。このことと同じ理由で、冷暖の差異のない接続に対して、この章の(前章を受
けた冒頭の)結末継承も、味噌汁の冷暖の差異のない接続である。

5。4。4(3)結末継承(小)
第4章ドラキュラの娘から第5章新交通体系への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

   第4章ドラキュラの娘の終はり       第5章新交通体系の始め
(A)《かいわれ大根》:          《かいわれ大根》
(B)《かいわれ大根》入りの冷暖の差異の: かいわれ大根》入りの冷暖の差異 
   ない味噌汁              のない味噌汁
(C)存在の十字路にあるラーメン屋:    存在の十字路にあるラーメン屋
(D)ラーメン屋の内部へ:         ラーメン屋の外部へ

上記(A)(B)(C)のことは、第4章と第5章に差異はなく、章としては同じ平面にあるこ
とを示してゐるし、その通りでせう。しかし、これに対して、(C)(D)がtopologicalな連続の
非連続・非連続の連続たるメビウスの環の一捻り、即ち内部と外部の交換であり、また存在の
十字路でのラーメン屋の内部と外部の空間の等価交換といふことで、特に(C)が重複接続し
てゐるといふことで一層、章間での上位接続(conjunction:論理積)を果たしてゐます。

5。4。5 (4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。

5。4。6 (5)呪文を唱える
(A)地の文の呪文
①「「考えれば考えるほど、腑に落ちない事だらけだな。」」(145ページ下段)
②「ぼくがかまわず大股で歩き出すと、彼女もしぶしぶ足を早めた。」(147ページ上段)
③「ベッドのやつ、のろのろと子供の三輪車並みだったのに、いきなりスピードをあげ、等間
隔を維持し続けるのだ。」(147ページ上段)
④「通りゃんせ 通りゃんせ」(154ページ下段、155ページ下段)
⑤「「ニュース、ニュース、すごいニュース」」(155ページ上段)

(B)呪文らしい呪文
①「ハナコンダ アラゴンダ アナゲンタ
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  唐辛子ノ油ヲ塗って バナナの皮デクルミマス」(149ページ上段)
②「死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
  聞くにつけてもあわれなり
  二つや 三つや 四つ五つ 十二もたらぬみどりごが
  賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
  恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
  悲しさ骨身をとおすなり」(150ページ下段)
③「それからあの有名な『ひとつ積んでは父のため』に続くわけさ……」(150ページ下段
∼151ページ上段)

やはり、呪文らしい呪文は三つです。

それから呪文に関係して、『ひとつ積んでは父のため』その他の記号化された言葉が此の章に
は出て来ます。これらの言葉の意味は、カンガルー・ノート論(1)(もぐら通信第66号)
の「3。『カンガルー・ノート』の記号論」に示した通り、

『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語についてのも
のであることを意味する。

といふ事でありますので、上記「5。4。4(3)結末継承(小)」で述べた通りに「第4章
と第5章に差異はなく、章としては同じ平面にあることを示してゐる」のですし、従ひ、《縞
魚飛魚》が此の章にも隠然として存在してゐる事になり、といふ事は『大黒屋爆破事件』の(作
者《縞魚飛魚》と同一人と思はれる)註釈者[緑面の詩人]もまた生きてゐることになり、と
なると、この章の話者は、カイワレ大根の主人公の他には、依然として此の2人であるといふ
可能性も十分にあることになります。

「3。『カンガルー・ノート』の記号論」によれば、

[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。

といふわけですから、存在の三番底が相変はらず此の章にも接続されて通じてゐると理解する
ことができます。となると、この章の話者は[緑面の詩人]かも知れません。更に、といふ事
は、やはり此の作品の構造は、記述の通り、『箱男』と同じ構造をしてゐることが、ここでも
わかります。勿論、この構造の根底にある文法学でいふ話法(mode:モード)は、安部公房
固有の話法である「僕の中の「僕」」といふ二重構造の話法、もつと云へば、存在の話法とい
ふべき話法[註1]、意識・無意識往還話法[註2]です。

[註1]
この話法については『デンドロカカリヤ論(後篇)』(もぐら通信第54号)を参照ください。詳述しました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 9

[註2]
理論的には、この話法のことは、20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』の詳しい。(全集第1巻、104
ページ)

(C)3回の呪文の後に登場する者
3回の呪文の後に登場するモノは、次の6つの立て札です。(453ページ)

立て札にAから Fまでの識別符をつけます。

F E D C B A

一体これらは何かといへば、立て札の立つ直前の地の文にある通りに「線路の裏側からみると、
ガラスの引き戸一面に、見たこともないようなチラシや看板が貼られている。こんな表示にも
多少の有効性はあるのだろうか?」とあるやうに、これらはチラシや看板である。

書体をみると、DとEは同じ書体ですので、この二つは同じ仲間である。即ち、日本尊厳死協会
と日本安楽死クラブは、尊厳死が安楽死であり、安楽死は尊厳死であるといふことで裏表の関
係にある団体であるといふことになる。この6枚の立て札は、安部公房の黒い笑ひ、ブラック
ユーモアの極みである。

Aの立て札の意味するところは、「トンボ眼鏡の看護婦」と案内人の役割を交代して「垂れ目
の少女」が表舞台に登場することになる新交通体系とは、実は此の章のRUNといふ緑色の標識
が点滅する所の遮断機を欠いた踏切がさうであるやうに、遮断機のない踏切に人を渡らせて人
を殺すことによつて「信号機による人口調節」を可能にする人口減少策の提案をする研究所、
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もぐら通信                          ページ10

これが新交通体系研究所といふ研究所であるといふことです。

これは、安部公房年来読者お馴染みの人殺しの方法のうちの一つである「未必の故意」[註3]
といふことになりませう。

[註3]
弁護士ドットコム:
https://www.bengo4.com/c_1009/d_645/
「未必の故意
読み方:みひつのこい

未必の故意とは、罪を犯す意志たる故意の一態様であり、犯罪の実現自体は不確実ではあるものの、自ら企図し
た犯罪が実現されるかもしれないことを認識しながら、それを認容している場合を意味する。故意は、刑法におい
て「犯罪を犯す意志」(刑法38条1項)をいい、過失犯として法律に特別に規定のある場合を除き、犯罪の成立に
必要とされる。

故意の具体的内容は、犯罪の客観的な構成要件を認識・認容されていることをいうとされる。未必の故意は、犯罪
の実現自体は不確実という認識を犯罪行為者が有しているものの、実現される可能性を認識しながら、それを認
容している点で「罪を犯す意志」として十分であるとされている。これと異なり、犯罪の認識はあるが、認容を欠
く場合には過失(認識ある過失)となり、故意は認められないことになる。

未必の故意の具体例としては、人を包丁で刺す際に、この行為により相手が死ぬかもしれないが死んでも構わない
と思っていた場合があげられる。

<未必の故意に関連する事件>
ボンネットに捕まっていた人を振り落すためにに蛇行運転した行為に殺人未遂罪の未必の故意を認め、第一審の
暴行罪を破棄した事例(東京高判昭和41年4月18日)

<未必の故意に関連用語>
故意、過失、認識ある過失、業務上過失」

この未必の故意を巡つて、主人公と「トンボ眼鏡の看護婦」は、次の会話を交はします。

「それにしても、あんな標識、物騒すぎるな」
「緑色のRUNっていうやつ?」(英語は太字でゴシック)
「当局に掛け合ってみるべきだよ」
「調査中なんだって。でも、あれを設置した関係当局がどこのだれか、はっきりしない限り、
手出しは無理だとさ。すごいお役所仕事。もちろん私は、あれを設置したのが誰か、ちゃんと
知っているけど、絶対に教えてなんかやるものか」(153ページ下段)

Bの意味するところは、「トンボ眼鏡の看護婦」が「ドラキュラ協会」(157ページ上段)
の会員であることから、世界ドラキュラ協会日本支部の会員であつて、この協会の使命は、看
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もぐら通信                          ページ11

の会員であることから、世界ドラキュラ協会日本支部の会員であつて、この協会の使命は、看
護婦が入院中の65歳以上の老人の採血して殺してしまふ協会といふ意味になります。これは、
場所が病院であるといふこととの関係では、相変はらず『密会』の主題を受け継いでゐる。「弱
者への愛には、いつも殺意がこめられている……」(全集第26巻、7ページ)、これを地で
行くのが、世界ドラキュラ協会である。といふとこれは、ドラキュラ伯爵に名を借りた(今流
行りの言葉で云へば)殺人グローバリズムである。

とすれば、A、Bと来て、Cの立て札の意味するところ、立て札の文字の活字が他の五本のもの
とは異なつてゐる、太字ではない明朝体の種類で書かれてゐることからも、これは市中にある
薬局の看板といふことでせう。アメリカ人は鉄砲で人を殺すが、日本人は毒草で人を殺すのか。

Dの立て札の意味するところは、文字通りに尊厳死協会といふのでありますが、こうしてみる
と、尊厳死を促進する協会といふ意味でありませう。

Eの立て札の日本安楽死クラブの安楽死に通じてゐることは、これも上述の通り。この団体が
まだ設立準備段階にあるのは、安楽死が日本では合法化されてゐないからでせう。

Fの立て札の意味するところは、以上のやうにみてくると、この極念流空手といふ流派は、人
を死に至らしめるための、それが安楽であれ尊厳死でありいづれにせよ殺人のための流派であ
るといふことになり、あの世へ導くのでハンマー・キラーといふ名前のアメリカ人は導師とい
ふ尊称で呼ばれてゐるのでせう。あるいは、この空手の練習中に骨折して此の接骨院に運び込
まれると、導師があなたに引導を渡しますので、安楽死ができますよといふ意味かも知れない。

これらの立て札の立つ以前には、ハンマー・キラーといふアメリカ人は主人公と「トンボ眼鏡
の看護婦」の間で噂になり(148ページ上段、152ページ上段)、この立て札の立つた後
では物語の中に登場人物として実際に登場する((154∼155ページ)。

5。4。7 (6)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
①「「鳴いているよ……雀が、キリギリスみたいな声」」(146ページ下段)
②「断続するベルの音が三回。二番目の電車がホームに入ってくる合図だろう。」(150ペー
ジ上段)
③「ベッドが横断地点に接近する。同時に駅の方角から警笛、発車の合図らしい。」(152
ページ上段)
(この後に「緑色の警告ランプが点灯する。『通りゃんせ、通りゃんせ』のメロディーが、追
い立てる調子でせわしなく鳴りはじめた。」といふ文が続きます。
④「警笛。鼓膜の周囲で血が沸騰した。近距離用らしい三両編成の電車が、空気に鉋を当てな
がら通過した。警笛の断続。オレンジ色のモダンな車両だ。」(152ページ下段)
⑤「警笛が鞭のようにしなって、建物が揺れ、床が波打った。」(154ページ下段)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

(この後に、地の文で「警報機のメロディー、/通りゃんせ/通りゃんせ」と続きます。)

「太鼓に仕立て、象の剥製を、全員が乱れ打ちしながら通過してしまった。おくればせに警報、
/通りゃんせ/通りゃんせ」」と鳴つた後に、次の甲高い音が響きます。

⑥「数秒の間をおいて、警笛、大気の皮膚を剥ぎとる電車の摩擦。」(155ページ下段)

これら③から⑥の4つの警笛の音は警笛の音ですから、これらを一つとみれば、音の種類とし
ては3種類3回と解することは/が、できます。

(B)存在の始め
上記「5。4。2(1)冒頭共有」の通り。

(C)存在の終はり
下記の「5。4。8 (7)存在への立て札を立てる」で立つ6つの立て札のうちの最後の立
て札F、即ち極念流空手道接骨院の立て札の直前に、存在の風の音が次のやうに響いて、次の
第6章風の長歌の前触れとなつてゐますが、同時に此の風の後に主人公の起きる自己喪失が、
この章の存在の終はりです。

「耳をそばだてる。風の音にはあらゆる音の要素が溶け込んでいるから、あらゆる音が聞こえ
てくる。壁に耳を押し付けてみた。風の音が誇張され、怪しげな音がますます怪しげになるば
かりだ。
 首が痛くなった。また何度か居眠りをした。」(157ページ下段)

この場面の直ぐ後に、主人公が大欠伸をしたために顎の関節が外れて言葉を失ふといふ話は、
滑稽な場面とは云へ、やはり安部公房の文学の深い半面である「沈黙と余白の論理」を示して
ゐると思はれる。[註4]

[註4]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論理
といふ毒(詩の毒)」をお読みください。

5。4。8 (7)存在への立て札を立てる
作品全体との関係では、この章そのものが存在への立て札を立てる章であるので、上述の通り。

他方、個別に此の章との関係では、上記6つの立て札のうちの最後の立て札F、即ち極念流空
手道接骨院の立て札が、この章の最後に再度立てられてゐて、存在への立て札となつてゐる。
(158ページ)
もぐら通信
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この立て札の直前に、存在の風の音が次のやうに響いて、次の第6章風の長歌の前触れとなつ
てゐます。

「耳をそばだてる。風の音にはあらゆる音の要素が溶け込んでいるから、あらゆる音が聞こえ
てくる。壁に耳を押し付けてみた。風の音が誇張され、怪しげな音がますます怪しげになるば
かりだ。」(157ページ下段)

5。4。9 (8)存在を荘厳(しょうごん)する
上記のFが再度最後に立てられて立て札の直後に、ガラスの透明感覚が描かれてゐて、これが存
在を荘厳する透明なるものとなつてゐます。[註5]

「恥も外聞もなく、ガラス戸をノックしつづけた。」(158ページ上段)

[註5]
安部公房の詩も小説も、その最後に(リルケに学んだ)透明感覚が出てきます。この透明感覚が現れると、主人公
は現実の世界での死または失踪を迎えることになります。例を挙げれば、『砂の女』の最後の濾過装置の水の透明
感覚、『他人の顔』の最後の電話ボックス(のガラス)、即ち透明な箱、『燃えつきた地図』の最後の電話ボック
ス(のガラス)である透明な箱、『箱男』の最後の「じゅうぶんに確保」されてゐる余白と沈黙の「……」のある
「落書きのための」透明な箱、『密会』の最後の(『砂の女』の最後と同じ)「コンクリートの壁から滲み出し
た水滴」(と「明日の新聞」)、『方舟さくら丸』の最後の手が透けて見え、景色も透けて見える透明感覚、『カ
ンガルー・ノート』の最後の透明感覚を巡る会話(「君には見えているの?」/「見えていないと思う?」) [註
1]

[註1]
安部公房の透明感覚については、『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)にて詳細に論じてをります
ので、これをお読みください。

この章内最後の立て札と透明感覚の出て来たあとに、主人公は気絶をして、記憶を失ひ、自己
喪失して、次の存在、即ち第6章風の長歌に目を覚ますので、次の「2。概念連鎖・一般式」
の通りの順序になつてゐることがわかります。

「2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を告
げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の空間
の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)→
存在の出現ー閉鎖空間からの脱出」

5。4。10 (9)次の存在への立て札を立てる
(A)最初の立て札
「支払いは暗黙のうちに、彼女(引用者:「トンボ眼鏡の看護婦」)におんぶしてしまった」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 14

ことの原因である「診療所の脱衣カゴに忘れっぱなしであることは、彼女も承知しているはず」
の「札入れ」(145ページ上段)

上の引用のもう少し先に「勃起中枢が活動の準備にかかっている。色情狂になってしまったの
だろうか?」とあるが(147ページ下段)、このまま最後まで勃起中枢の力が表立つて発動
することはなく、ここで前章からの立て札は、立て札の役割を終えてゐる。

(B)最後の立て札
既に次の存在である「別の病院」を先取りして、この章の最後に書かれてゐる病院、即ち「気
が付いたのは、別の病院だった。かなりの大病院らしい。同室者が八人。枕元に「八階A・整
形外科・軽症」と札が下がっている」といふ此の札「八階A・整形外科・軽症」が、次の存在
への立て札といふことになります。ここで既に、この一つ前の章の最後で、上の「2。概念連
鎖・一般式」でいふ、閉鎖空間からの脱出が行はれてゐることが判ります。

5。4。11 (10)3といふ数字
この章では、呪文と甲高い音のほかには、次のやうに3といふ数字が出て来ます。

①「トンボ眼鏡が皮肉っぽく小首をかしげ、ぼくを見上げる。(略)案の定下がり目だ。ベッ
ドの旅に出てから三人目、まず地下道ですれちがった遊園地めぐりの電車の少女、次に賽の河
原の知恵遅れの小鬼、そして最後が自称ミス採血のトンボ眼鏡。」(146ページ下段)
②「ベッドのやつ、のろのろと子供の三輪車なみだったのに、いきなりスピードをあげ、等間
隔を維持し続けるのだ。」(147ページ上段)
③「駅は木造で、懐かしさいっぱいの三角屋根」(147ページ上段)
④「一羽のかもめが歩道橋の下をくぐり、三羽の烏がその後を追って飛んだ。」(147ペー
ジ下段)
⑤「断続するベルの音が三回。二番目の電車がホームに入ってくる合図だろう。」(150ペー
ジ上段)
⑥「賽の河原って、三途の川の入口でしょう?」(150ページ下段)
⑦「みっつ積むのは、誰のためか知ってる?」(151ページ上段)
⑧「そうだね、あんな後ろ姿を目にするのは、精神衛生上有害だよね……くそ、三味線を弾い
たりするからいけないんだ。」(151ページ下段)
⑨「それに交差角度が三十度にも満たない鋭角だ。」(151ページ下段)
⑩「でも、ぼくは好きだな、三人とも好きだよ。」(153ページ上段)
⑪6つの立て札、即ち3の倍数(153ページ上下段)
⑫「ニュース、ニュース、すごいニュース」(155ページ上段):ハンマー・キラー君の繰
り返しの声
⑬「「ミスター、ハンマー キラー」」(155ページ上段):「トンボ眼鏡の看護婦」によ
る(主人公に対しての)ハンマー・キラー君の紹介。
⑭「三軒の商店と契約して、情報の提供を受けているの。この上の山道に、ローリング族の溜
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

溜り場があって、一網打尽を狙っているんだけど……」(155ページ上下段)
⑮「「八階A・整形外科・軽傷」(158ページ下段):安部公房の常で、立て札の文字に三
つの要素あり。[註6]

[註6]
『カンガルー・ノート』論(5)(もぐら通信第70号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の
「(18)駐車場」をお読みください。『燃えつきた地図』の存在の喫茶店《つばき》の附設の駐車場に立つ3
つの立て札の3つの構成要素について詳述しました。

あなたも、3といふ数字も焦点を当てて、あなたの一番好きな作品を読んでみると面白いので
はないかと思ひます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 16

何故日本の文学は衰退したのか
(2)

岩田英哉

 前回の文章に対して読者である或る編集者の方よりご感想あり。これは長年現場にゐる方の
貴重な証言ですので、ここに引用して文学的な現場の記録として残したい。

 日本の文学が此のやうに衰退して行く此の間、私は文学の世界の外にをりましたから、実業
の経済の世界から思ひだして見ますと、かへつてよくわかるやうな気がします。

 商売の世界でも同じことが起きてゐる。つまり、今の50代以降の人には、祝ひ事の言葉
を聞いても語彙の選択にまだ何とか古典的教養がありますが(例へば、にぎにぎしく)、40
代には此のやうな言葉使ひは、狭い知見の範囲であるかもしれませんが、またさうであつて
も以前にはよく聞かれた伝統的な慶事の言葉があつたと記憶しますが、見聞しませんでした。
今の40代は語彙が少ないのです。ここに文化の連続性の断絶があるとおもふ。といふことは、
50代が60歳になつて引退するまでの10年、40代が50代になるまでのこの10年が、
といふよりも私の実感では此の5、6年が日本文学の劣化に関する転機として一つの目安だと
いふことです。

今年が2018年ですから、5、6年後といふと、2023年から2014年といふことに
なります。いづれにせよ2020年の東京オリンピック後といふことです。

 また、以前論じたゲームの視点で文学をみてみます。ゲームソフトについて、ネットで検索
すると、インベーダーゲームの発売が1978年、ドンキーコングが1981年、任天堂のファ
ミコンが1983年とあつて、この頃に子供だつた日本人が、まあ20年を加へて、1998
年、2001年、2003年と計算すれば、大体、こんな感じで、21世紀の日本文学の衰
退が実感できるかといふ感じがしないでもありません。何しろ友人同士が、男女であれなんで
あれ、喫茶店にゐてゲームをやつてゐましたから、あの時代は。今ならカフェで男女がスマホ
を見てゐるだけといふのと同じです。

 今は2001年に小学生だつた子供達が(1998年に単純に20を足して)2018年に
40歳であれば、今のやうな様子かも知れないと思ひます。私の文学界の外での実感と一致し
ていゐます。

 さて、私感は以上として、この編集者の方の証言を以下に要約します。

[証言:宮西]

 1.「教養」というより「生きる言葉」を探し求めていた時代

 森内俊雄の新刊『道の向こうの道』は、昭和30年代の早稲田露文科の青年像を描いたもの
もぐら通信
もぐら通信                          17
ページ

です。ドストエフスキーによって露文科へ入り、李恢成などのクラスメートと競ってチェホ
フからプルーストまで本を貪り読む姿があります。「教養」というより「生きる言葉」を探
し求めていた時代だという印象があります。

 2.出版業界の現状

 小生が大学へ入った昭和40年代は学園紛争の時代でした。「産学共同粉砕」「学問の自由
を守れ」などと叫んでいた訳ですが、あれから40年、現在はどこもかしこも「産学共同」の
経済至上主義。文学、出版の世界でも同様で、軽い本が軽々とベルトコンベアで運ばれるよ
うに作られて、書店へばらまかれて、そして軽々と返品されて、断裁されて、トイレットペー
パーになって……、とチャップリンの映画『モダン・タイムス』のような惨状を見ることが
できます。文庫も新書も、出版社の当座の資金繰りのためと同時に、書店での平積みのスペー
スを確保するために毎月4点なり8点なりの新刊をつくるという本末転倒の状況で、本の中
身も寿命もますます軽く短くなっています。文学も出版も、熱量と密度が薄くなれば、衰退
は必然のことでしょう。

 3.編集者と作家の変質

「何故日本文学は衰退したのか?」といふ問ひに対して、衰退の時期が1975年以降とすれば、
それ以降の現場での変質を思いつくまま挙げてみると、

(1)経済高度成長:編集者が金を持つやうになつた/金廻りがよくなつたこと。

 高度成長下、出版社が儲かりすぎ編集者の金回りが良くなって、作家たちが編集者にご馳
走になって編集者にへつらうようになり、編集者が作家たちを敬愛しなくなったと言われま
した(かつては作家たちが世話になった編集者たちにご馳走していたものです。小生でさえ、
安部公房に、新宿京王プラザ・ホテルや渋谷のスペイン坂でご馳走になっています)。

(2)インターネットの普及:作家と編集者が対面で会はぬこと。

 そもそも作家が作品を生み出す作業は、芥川龍之介や川端康成の死に見られるように孤独
で不安な営みです。その時に「最初の読者」である編集者の感想や助言にどんなに勇気づけ
られ安心させられたか、と多くの作家が書き記しています。作家と編集者との信頼関係、一
種の共同作業のなかで生み出されてきた作品が多いのです。
 しかし、パソコンのメールで原稿を送信するようになると、編集者が作家の玄関先に原稿
取りに行ったり、原稿あがりに文壇酒場などで交友を深める機会が激減してきました。担当
編集者は電話やメールで原稿依頼から原稿受けまで完了させ、連載だったり単行本出版に際
しても最初の打ち合わせ以外に作家と会うことも少なくなっています(実際、見本の本がで
きても、手づから届けるのではなく、Uパックや宅急便で送付するだけ、という光景を実見
しています。昔は地方在住であれ、作家も上京しましたし、編集者もこれ幸いと地方酒場で
の一夜を楽しみにしたものでしたが)。
もぐら通信
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ページ

(3)鑑識眼のある畏るべき批評家の欠如。

 三島由紀夫は鋭い鑑識眼をもった作家でしたから、三島由紀夫没後、作家たちは、畏れる
人間がいなくなった、とも言われていました。
 実際、辛口の文芸時評も少なくなり、各紙誌の書評も広告宣伝的な紹介文という印象を感
じることが多くないですか?

(4)文学賞も業界盥廻しの本末転倒になつたこと。

 1990年から8年間、ドナルド・キーン氏は読売文学賞の選考委員になっていますが、いい
作品に巡り会うことがなく、ガッカリされたとのこと。文学賞受賞作も、作品に対してとい
うより、作家の持ち回り、出版社の持ち回りのような「忖度」だらけのように見えます(「受
賞作なし」は困ったことなのです、主催者or出版社にとって。読者にとっては、受賞作を読
んで首をかしげるよりいいのですが)。
 1964年、サルトル:ノーベル文学賞を拒否、1969年、武田泰淳:芸術選奨文部大臣賞を
辞退、1971年:大岡昇平:芸術院会員を辞退、1994年、大江健三郎:文化勲章を辞退。そ
んな強者もいなくなりました。

(5)小説を金儲けと考へてゐる若者たち

 三島由紀夫が作家入門のようなエッセイのなかで、小説家になりたい若い人の動機が、「金
を稼ぎたいから」というのを聞いて、冷笑していたのを思い出しました。

『決定版 三島由紀夫全集』を引っ張り出してみたところ、こんな「芥川賞選評」の文章があ
りました。

 「今度の予選作品を通読してみて、その文学精神の低さにおどろいた。大学も荒廃してゐ
いるが、文学も荒廃してゐる、という感を禁じえなかつた。いかに短篇であつても、ひらめ
くものはひらめき、かがやくものはかがやくのが文学である。その精神は、現実を転覆させ
ようといふ意欲において、言葉の力に何ものかを賭けてゐなければならない。こんな時代だ
からこそ、ますますそれが求められる。こんなことではバス一台はおろか、三輪車を転覆さ
せることも覚束ない。」(三島由紀夫「文学精神の低さ:芥川賞選評」、文藝春秋・昭和44
年3月/『決定版 三島由紀夫全集35』418頁)

 ちなみに、この回の芥川賞は「受賞作なし」であった。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

安部公房とチョムスキー
(8)

      目次
1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
青字は前回までに
3.2 バロック建築:差異の建築 論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学 赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学 黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7.1 一神教のtopology
7.2 大地母神崇拝のtopology
7.3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8.近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
9。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームから
見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
10。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
11. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
11. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
11. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
11. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
12。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)ヨーロッパ中世スコラ哲学の論理を論破し、topologyで変形させる
   ①カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学とカントーショーペンハウアー(超越論)の
    系譜に内在するスコラ哲学を比較して継承と消滅と残存をみる
   ②カントーヘーゲル(共産主義)の系譜に内在するスコラ哲学の論理を論破し、これを変形して超越する
(2)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(3)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を

***
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
安部公房の大好きであつた数学、topology(位相幾何学)といふ接続と変形の数学[註
1]を用ゐて一神教と大地母神崇拝の相違を示すために、この一章を設けました。

この章を此処に入れたのは、あとで論ずる「10. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨー
ロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争」と「11。Topological(位
相幾何学的)な「近代の超克」」で説明をする際に、読者の理解が容易になるだらうと思
つたからです。

この二つのtopologyの違ひを見れば、海外から入つて来るのものうち、例へばキリスト教
が何故日本の国に広まらなかつたのか、信徒の人口数が、この原稿を書いてゐる時点での
知見によれば、1%以下に留まつてゐるのかといふ理由が、視覚的に一目でわかります。
一神教のtopologyと、私たち日本人持つてゐるtopologyが全く異なるからです。

[註1]
『存在とは何か』(もぐら通信第41号)から引用します:

ネットワークのトポロジーの此の説明を読んで解る大切なことは、node(結節点)、即ち接続点に着目する
ことなのです。安部公房の世界です。接続点に着目すれば良いのです。基本的なネットワーク・トポロジーの
絵を、そのまま引用して掲げます。私たちの意思疎通(コミュニケーション)と宇宙の話です。この宇宙には
勿論、宇宙である以上、人間の社会、18歳の安部公房が閉鎖空間と呼んだ社会も最初から含まれておりま
す。安部公房の読者が求めているのは、このような自由自在の、変形の、接続関係なのです。ご自分の人生
を振り返ってご覧なさい。あなたが何を願って生きてきたか、何を求めて安部公房を読むのかを。その基本
的なトポロジーの接続の図形です。あなたは人間と社会に対して一体どのようなトポロジー、即ち接続関係
の実現を願っているのか?:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

最初に一神教のtopologyを、次に大地母神崇拝に属する私たちの神道のtopologyを示します。

あらかじめ、これによつて解つた主要なことを挙げれば、次の通りです。

(1)縄文時代以来の日本列島文明の神道の根源的なあり方と其の用語と概念が、topology
(位相幾何学)といふ数学で説明が大変よくできること、といふよりも、
(2)実は日本人はtopologyで考へてゐること(例:注連縄、折り紙、風呂敷、幕の内弁当、
組紐等々枚挙に暇なし)
(2)この神道の論理は、西洋哲学用語を用ゐていへば超越論であり、私たちの島嶼(とう
しょ)哲学でいふ汎神論的存在論であること、
(3)この存在論は、もし宗教を意識すれば、一神教の父権宗教に対して、大地母神崇拝の
哲理、母権宗教の哲理であること
(4)大陸国家と島嶼(とうしょ)国家をはつきり区別して後者に生きる私たちはものを考
へることが、政治的にも、経済的にも、文化的にも、とても大事だといふこと

さて、安部公房やチョムスキーの論理は超越論であり、既述の通り、カント以降の哲学の分
岐の系譜にあつては、カントーヘーゲルに始まる共産主義の系譜を全面的に否定する論理の
系譜です。後者にあつては、ヘーゲルの哲学は、キリスト教との対決対立を避けて、キリス
ト教の神学とスコラ哲学の問題はそのままとして等閑に付し、カントの物自体を人間個人の
内部の再帰的な言語の問題として取扱ひ、しかもヘーゲルの説く弁証法は実はキリスト教の
スコラ哲学の唯一絶対神の存在証明の方法の否定的な焼き直し(二番煎じ)に過ぎませんか
ら、今ヘーゲルの擬似哲学を仮にも哲学と呼ぶことにすると、キリスト教にあつても哲学に
あつても、ともにスコラ哲学の論理がヨーロッパ近代の300年を領して来たといふことに
なり、いづれにせよキリスト教の論理が政治と経済と宗教の領域で、白人種の近代国家が地
球上の地域を植民地化することによつて有色人種の富の収奪と搾取と奴隷化と文化の破壊を
行つて来たといふことになります。(スコラ哲学とヘーゲルの其の否定的な特殊な弁証法の
全体の論理のうちの部分論理の継承関係は稿を改めて詳述します。)

キリスト教の論理がどのやうなtopologyに基づくものかを以下の章でお話しします。これを
見れば、視覚的に、私たちの八百万の神々のtopologyとは全く異なることが一目瞭然であり、
余計な難しい議論は不要となるでせう。一神教といふ宗門には三つの宗派があつて、ユダヤ
教、キリスト教、イスラム教といふ名前で呼ばれてゐるわけですが、これらの宗派の
topologyの形は同一です。私たちの目で見れば、一神教の御寺の門前の門前町の通りに並ん
でゐる御土産屋の看板に、日本の菓子屋の看板にもあるやうに、元祖綿飴、本家綿飴、総本
家綿飴と並んでゐるやうなものです。

この『安部公房とチョムスキー』といふ論考を此処まで書いてゐるうちに、当たり前といへ
ば当たり前のことですが、改めて地球上の其れぞれの国と民族の成り立ちを理解することが
大切であるといふ考へに到りました。国の成り立ちとは、その国を立て国を治める民族の、
もぐら通信
もぐら通信                          22
ページ

古代からの神話の創成がどのやうになされたかを知ることにほかなりません。結局、その国
がどのやうな国であり(国の性格)、どのやうな民族であるか(民族の性格)は、その国や
民族の持つ古代からの神話の最初に、一体どのやうに国が生まれて成り立つたのか(国柄ま
たは国体)で決まるといふことです。

といふことから、これからお見せする一神教のtopologyは、一神教三派の共有する旧約聖書
の創世記を読んで描いたものです。また此れに反対する多神教である大地母神崇拝からは私
たちの縄文時代以来の神道を例にして、古事記を読んで国生み神話のtopologyを描きました。
これによつて、旧約聖書の創世記に対して、私たち自身の島嶼(とうしょ)文明と文化[註
2]を私たちの生きる日々の生活の問題として考へるために、この対極的な二つのtopology
を示し、お互ひに理解し合はうことが如何に不可能か、一体どれ位異質なものであるかを、
あなたにも知つてもらひたいのです。一神教であるキリスト教のtopologyをご覧になれば、
これが宗教のtopologyであるのみならず、ヨーロッパ近代国家構造のtopologyであり(一国
一首都集中)、近代政治構造のtopologyであり(民主主義)、近代経済構造のtopologyであ
る(資本主義)ことがわかるでせう。これは、真ん中に座るものに富と権力の集中する絶対
的中央集権型のtopologyです。マルクス主義といふ共産主義についてはいふまでもありませ
ん。私たちのtopologyから見れば、近代ヨーロッパ文明の政治・経済・国家の構造は、一神
教のtopologyであるといふことなのです。政治の場合には唯一絶対神の代わりに三権分立を
置き、経済の場合には中央銀行をおき、国家の場合には首都を置けば、そしてマルクス主義
の場合には共産党を置けば、皆同じtopologyの構造をしてゐることが判ります。

[註2]
文明と文化の定義を「6。『安部公房文学と大地母神崇拝』∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」(もぐ
ら通信第67号)から引用します:

「(ii)神話論
さらに、本質的なこととして、文明と文明「以前」の観点から、次の論点を追加したい。

(8)神話論

文明とは何かと云へば、次の3つの構成要素から成り立つてゐる文化のことです。これは、私の分類です。

(1)文字
(2)数字
(3)記号

あなたの周囲の日常の世界を見廻してご覧なさい。物を除けば、この3つしかない筈です。それが単なる物だ
としても、あなたがこれら3つの印(しるし)を印すれば、それは単なる物ではなくなる。文学も例外ではあ
りません。(また、絵画や写真もまた、これら三つに還元され、または(還元と考へないのであれば反対方向
に)抽象化されます。音楽は五線譜で楽の音色が譜面に写されてゐる限り、これら三つに還元されます。しか
し、楽の音色そのものは、これは例外であり、別格の何かです。)
もぐら通信
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極端に云へば此の3つの構成要素のない、即ち所謂「無文字社会」からなる文明は、文明「以前」の文明とい
ふことになります。これは、安部公房文学の世界では、余白と沈黙の世界、即ち「空白の論理」に依る世界で
す。(この場合も、両極端の間に、文明から文明「以前」に亘る階調(スペクトラム)があると考へて下さ
い。」

とすれば、文化の構造といふ、文字に書くことのできない目に見えないものがあるとして、
文化構造もまた同様に、これら二つの領域の構造と同様にキリスト教といふ一神教の論理を
体したtoplogyであるのでせうか?

いいえ、しかし、さうはならなかつたのです。

それが、カントーショーペンハウアー以降の超越論と呼ばれる再帰哲学の系譜の持つ、キリ
スト教といふ唯一神の絶対命令下にある宗教を否定し、この宗教から逃れ此れを超越するた
めに、近代ヨーロッパ文明が自分自身に対して持つ価値であり意義であつたのです。

しかし、私たち日本人は明治維新このかた150年、このことに全く気付かなかつた。何故
なら、それは、私たちにとつては余りに当たり前の自明なる、日常の思考論理であつたから
です。[註3]論理としては日本人である自分に余りにも親しいものを日本語で自分自身に
説明することは難しい。そして加へて、後述するやうに、私たちは言挙げしない文化に生き
て来た。しかも、他方、哲学といふ学問(と、それら生まれた科学ーこの論考で以前称した
やうに物質科学といふべきでせうー)が、個別言語、人種、民族の全く異質である、これま
での日本の歴史に縁のなかつた地域の文明であり文化であるからには、一層理解が難しいと
私たちの先人たちは思つた。

[註3]
「6。『安部公房文学と大地母神崇拝』∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」(もぐら通信第67号)に
て詳述しましたので、これをご覧ください。

しかし、17世紀のバロック・ドイツのライプニッツに淵源し、19世紀の「ケーニヒスベ
ルクの7つの橋の問題」を提示した数学者オイラーを経て、20世紀初頭に其の概念の確立
したといふtopologyといふ(近代ヨーロッパ発の)数学の概念を用ゐて、(しかし既に古代
ギリシャのソクラテスの対話による弁証法(ディアレクティケー)が自然言語による
topologyなのですが)、これらの異質な物事を一筆書きで範疇横断的に横断し、安部公房が
なしたやうに、一本の糸や紐で最後に結ぶやうにして結ぶことをしてみませう。topologyの
特性である接続と変形といふことに、一神教に生まれたこれらの文物と、神道との結びがあ
るのです。神道ならば、産霊(むすひ)といふでせう。そして、その接続点が上位接続点(論
理積:conjunction)である場合に、一神教と大地母神崇拝の統合を、安部公房のいふ第三
の客観又は第三の道[註4]として、実現することができるといふわけです。この努力をし
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

たのが、カントーショーペンハウアーの超越論の系譜です。

[註4]
『詩と詩人(意識と無意識)』を参照ください。(全集第1巻104ページ)

以後、神々と人間に関係する意思疎通(コミュニケーション)を意識した時には、ネットワー
ク・トポロジーまたはnetwork topologyと呼ぶことにします。この説明は、上記[註1]に
ある通りです。

7.1 一神教のtopology

これは、ネットワーク・トポロジーの中心にゐる唯一絶対神が一方的に末端にゐる人間たち
に絶対命令を下し、中央集権的に支配するtopologyです。人間同士が直接意思疎通は許され
ず、常に真ん中のGodといふ媒介を通じて人間同士が意思疎通することのできるモデルで
す。あるいは、常に真ん中のGodといふ媒介を通じてしか人間同士が意思疎通することので
きないモデルです。隣にゐる人間同士の直接的な隣人愛などはない。信じがたい話ですが、
このtopologyでは、常に、唯一絶対神が、人間同士の意思疎通を媒介するのです。これが一
神教である。Godを介して隣人愛が存在する。
もぐら通信
もぐら通信                          25
ページ

これが宗教のtopologyであるのみならず、ヨーロッパ近代国家構造のtopologyであり(一国
一首都集中)、近代政治構造のtopologyであり(民主主義)、近代経済構造のtopologyであ
る(資本主義)ことがわかるでせう。[註5]これは、真ん中に座るものに富と権力の集中
する「一人勝ち独占」ネットワークです。

①近代国家構造のtopology:一国一首都集中。一国に首都を定めて人材を全国津々浦々から
集める。Godの位置に首都がある。
②近代政治構造のtopology:民主主義。首都に司法、立法、行政の権力を集中させる。God
の位置に政治権力の三権分立といふ中枢がある。
③近代経済構造のtopology:資本主義。Godの位置に中央銀行がある

マルクス主義も同じtopologyです。上記3つの場合に皆、共産党がGodの位置を独占してゐ
る。

従つて、topologyといふ接続と変形の数学の視点でヨーロッパ近代文明を観れば、一神教の
topologyと何ら変はらないのです。

このtopologyの典型的なコミュニケーションの例は、20世紀後半にコンピュータが日本の
国に導入された最初期に、IBMといふアメリカの企業のコンピュータによつて設計され構築
された次のやうな電気通信技術によるネットワークと同じものです。『存在とは何か』(も
ぐら通信第41号)より以下に引用します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

[註5]
この様々な端末(PC: Personal Computers)は、常に中央に蟠踞する演算処理装置であるコンピュータを媒介者
としてのみ意思疎通をすることができる。といふ、システム設計だといふことです。旧約聖書の唯一絶対神の設計
し、創造した宇宙は、システム論として此れを眺めれば、宗教の領域では閉鎖系の「スター型ネットワーク」です。
「一点集中型のネットワークでは、たったひとつの中核ノードが破壊されればシステム全体が機能しなくなるため、
脆弱になるのは当然である」(『新ネットワーク思考∼世界のしくみを読み解く∼』)アルバート=ラズロ・バラ
バシ著。青木薫訳。NHK出版。207ページ)

思考論理の世界では、一神教の絶対的中央集権型トポロジーは、唯一絶対神といふ中核ノードが不在になれば「シ
ステム全体が機能しなく」なり、ヨーロッパの人間は無宗教といふことから虚無主義(ニヒリズム)に落ちると
いふことです。

これが欧米白人種キリスト教徒のtopologyの失敗例であれば(確かにさうである)、これ以外
のtopologyを探せば、もつと良い政治形態、経済形態を創造することができるかもしれないと
考へることができるます。

既に『Mole Hole Letter(4):デカルト』(もぐら通信第69号)でお話ししたやうに、ス


コラ哲学を離れて此の媒介者の代はりに存在といふ概念を置き換へたのが、デカルト以降の哲
学でした。[註6]しかし、カントーショーペンハウアーーニーチェまでは、これら哲学者の
全集を通覧すれば、存在といふ概念は表立つては議論の対象として現れることはなく、存在と
いふ言葉は一般的な使ひ方に留まり、その後ハイデッガーが専らにするに至つて西洋哲学の俎
上に載せられて、Godに代置される(人間同士の意思疎通のための)媒介概念、即ち函数概念
として議論されるに至つたといふわけです。しかし、この存在(das Sein:ダス・ザイン)と
いふ概念は、唯一絶対神を奉戴せぬ私たちにとつては何も難しい概念なのでは一向にないこと、
特に安部公房の読者にはさうであるわけですが、しかし其れ位に楽々と理解できるといふこと
は、『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤』(もぐら通信第55号)
の各章を通じてお伝へした通りです。

[註6]
「デカルトは、神(God)について次のやうに書いてゐます。

「神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由
来しているということ、のゆえにのみ、確実なのである。」(同書193ページ上段)

ここで判ることは、一言でいへば、既にデカルトにあつては、神も現存(即ち現存在)と存在といふ概念がなけ
れば有り得ないといふことです。「われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ」で有り、この事
実は、神が現存在であり且つ存在することによつ
て、その由来があることです。この文章の前に、次の文章があります。これは、人間の自己の再帰性、もつと正確
に云へば、人間の言語の再帰性との関係で存在とは何かを述べてゐるに等しい。ここは、全く安部公房の世界と
同一同質ですので、少し長いやうですが、そのまま引用します。
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「そして最後に、われわれが目ざめている時にもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまた
われわれに現れうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれない(夢の思想には
存在が対応しない)ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてのものは、私の夢の幻
想と同様に真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、
私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければなら
ぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある(存在する)」Je Pense, donc je suis.というこの真理は、懐疑論
者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私
はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。
(略)
私は、私が身体をもたず、世界というものも存在せず、私のいる場所というものもない、と仮想することはできる
が、しかし、だからといって、私が存在せぬ、とは仮想することができず、それどころか反対に、私が他のものの
真理性を疑おうと考えること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、私があるということが帰結する、と
いうこと。逆にまた(略)」(同書188ページ)(傍線筆者)

「私は考える、ゆえに私はある(存在する)」といふ一行の根拠は、私は「必然的に何ものか」であるといふこ
と、即ち存在であるといふことに依拠してゐるのです。他方、Godもまた同様である。Godもまた何ものかである
ことが明らかである。

安部公房は此のことを『終りし道の標べに』で書いた。

このことが、この著作の冒頭最初の次の一行の展開された結論の一つなのです。

「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。」

欧州白人種キリスト教徒同士が理解しあふのにGodを媒介とする必要はもはやなく、存在を媒介として新しい世の
中を創ることができるといふものの考へかたです。如何にデカルトがGodの存在の真実性を証明しようとも、デカ
ルトは存在といふ概念を媒介にしてGodの存在を証明したといふことになります。

この上に、歴史的には、欧米白人種キリスト教徒の打ち立てた近代の哲学があるといふわけです。

上の一行は、欧米白人種キリスト教徒には必要な一行ですし、これはこのまま超越論になるわけですが、しかし、
私たち有色人種多神教の民族には不要なことです。何故ならば、私たちの世界は最初からGodという媒介を必要と
はしない汎神論的存在論の世界、即ちほかの有色民族と同様の八百万の神々の世界だからです。

デカルトの此の冒頭の一行は、あと100年後に彼らが絶対王政を倒して打ち立てた民主主義といふ名前の政治
形態の原理です。あなたの一票も私の一票も誰彼の一票も、等価で交換可能であるといふ原理です。政治的にはど
の人間の個人の値も等価であるといふことです。しかし、他方、経済形態としては、裏表になつて、欧州の中産階
級が興隆して創りあげた資本主義の反面ではさうは行かず、貧富の差が激しくなり(何しろ此の制度は弱者・無知
の者からの徹底的な収奪の制度です、自国の民をも収奪する)、両面の均衡も崩れて、後者の理由からマルクスが
共産主義を考へて、政治にまで手を伸ばした。しかし、これがどんなに間違つた考へであつたのか、千万単位で数
へる何億人の人間を殺したかは、歴史の示す通りです。

かうなると、何事も初心に戻らねばならない。初心に戻れば天才の言葉も理解できよう。

あなたがもし、今の世の中は、日本もほかの国々も、いや地球上の国々が皆おかしいといふのであれば、民主主
義と資本主義といふglobalismの貨幣の表裏のあり方がおかしいのです。あるいは素材も、鋳造の仕方も、おかし
いのでありませう。民族によつて歴史も文化も伝統も異なるわけですから、個別地域別の、個別民族別の、また
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個別国別の、政治と経済の形態があつて然るべきです。私たちは、銭金や収奪略奪のために生きてゐるわけではな
い。」

一神教といふ宗門の三宗派についての個別の、もう少し細部を書き込んで説明書きを入れた其
れぞれのネットワーク・トポロジーを描きましたので、以下に示します。pdfは次のところでダ
ウンロードできます。真ん中の青い色の円はGod、末端にある紫色の円は人間です:https://
ja.scribd.com/document/377776519/一神教三派topology

三宗派間の細かな相違については、図中に註記しました。しかし、共通してゐるのは、この一
神教といふ宗門の特徴は、日本人の私たちから非常に奇異に、また残酷に見えることです。

(1)宗門内にあつてはGodといふ唯一絶対神に服従し、Godの命令をそのまま実行すること、
そして、
(2)この宗教以外の人間を改宗させること、
(3)その人間が改宗しなければ其の人間を殺し、または奴隷にすること、そして、
(4)これら(1)から(3)を行ふことは、唯一絶対神の命令によつて、此の宗門の善であ
り、正義であるといふことです。

実際に近代ヨーロッパの欧米白人種キリスト教徒はさうして来た。イスラム教は、そのキリス
ト教に対抗し、とはいへtopologyは同じであるので、キリスト教の政治と経済と文化を否定し
て、同じtopologyを以つて世界中のあちこちでテロを起こして同じことをしてゐる。またユダ
ヤ教を信仰するユダヤ人は、金融資本による国民国家の国境を超えた金融支配を通じて、直接
の殺戮ではないが、しかし貧富の差を極端に大きくして富の収奪をし、トランプ大統領が就任
演説の中で「アメリカ国民の殺戮」(『言葉の眼 11:安部公房の世界からトランプ大統領の
就任演説を読む』(もぐら通信第54号)と言つてゐるやうに隠喩としての殺戮を、アメリカ
国内のみならず、世界中で経済的には同じことをしてゐる。

更に、

(5)この宗門の教義では、宇宙には始まりと終はりがあり、
(6)人間の前世での行ひの善悪の帳尻は、来世で全知全能のGodが審判するといふこと。人
間自身はそれを生きてゐる間には自分で判定することができないこと、そして、
(7)Godの審判によつて、善人は天国へ行き、悪人は地獄へ行くといふこと

上記(6)と(7)については、Godを閻魔大王に置き換へれば、私たちにも馴染みのある考
へ方ですが、しかし(1)から(4)は、どうも理解することが難しい。明治維新以来の15
0年は、宗教といふことからいへば、ユダヤ教やイスラム教は別にして、かういふ特徴を有す
るキリスト教と其の上に成立した政治と経済の仕組みを輸入して受け容れて近代国家を形成し
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なければならなかつた。加へて、この宗教の教義(ドグマ)を離れて、これを超えてものを自
由に考へる哲学といふ学問または科学を学ばなければいけなかつた。といふ、このやうなこと
が、私たち日本人の150年間の難儀であり苦労であつたといふことになります。彼我で異な
るのは、

(1)自然観
(2)宇宙観(または世界観)
(3)人間観
(4)社会観
(5)宗教観

これらを要するに、観(かん)、即ち私たち日本人とは物事の観かたが異質である文明文化を
理解する難儀であり苦労だといふことになります。

以下のtopologyが、これら(1)から(5)である観(かん)に共通する、一神教のtopology
の個別宗派篇です。これらは、キリスト教とユダヤ教については旧約聖書の創世記を、イスラ
ム教については、アラビア語に通じコーランとイスラム法の原典の読解を基にお書きになつた
方の著作[註7]に基づいて描きました。宗派の生まれた(結果としての)時間順に、即ちユ
ダヤ教、キリスト教、イスラム教の順に並べました。

[註7]
この著作は、飯山陽著『イスラム教の論理』(新潮社新書)。曖昧な記述がなく、常に典拠をコーランとイスラ
ム法から引用して示してゐる良書です。
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7.2 大地母神崇拝である神道のtopology
私たち日本人、日本民族の、即ち日本語の有するトポロジーは、次の通りであり、又これが其
のまま、汎神論の世界ですので、単位となつて、幾つもの同じ単位が垂直・水平方向に接続さ
れて、硬直性の高い融通の効かない一神教のtopologyとは正反対に、限界のない非常に柔軟な
ネットワーク・トポロジーを形成してゐます。

日本列島にゐまします八百万の神々のトポロジーが、これです。これは実は、あなたの目に見
える現実の世界では、いつも携帯してゐるスマホ(mobile phone)の通信ができてゐる目に見
えない社会基盤である光ファイバーと電気・電子通信技術によるコミュニケーション・ネット
ワークのトポロジーが、これです。あなたが日常友人や家族や恋人とスマホで話をし、ライン
といふサービスでチャット(文字によるお喋り)をしてゐるネットワーク・トポロジーと八百
万の神々のトポロジーは、全く同じネットワーク・トポロジーで、この襷掛けの並行四辺形を
してゐるのです。

結局、物質科学の世界では、近代文明は、私たち日本人の神話の持つtopologyと同じtopology
を使つてゐる。そして、例によつて日本人は、余りに当たり前なので、それに気付かない。ス
ティーヴ・ジョブズの生み出したiPhoneと呼ばれるモバイル(mobile phone)が、その名の
通り、さうしてアメリカ文化の生み出す文物の特徴を備へてゐて「いつでも、どこでも、誰に
でも」連絡がつき、相手と意思疎通ができるといふ、瓶詰めの神聖なる泉の水であるコカ・コー
ラと同じく移動可搬性(mobility)、携帯性にあることはいふまでもありません。[註8]

アメリカ文化の生み出したtopologyは、ヨーロッパの一神教のtopologyとは全く異なり、汎神
論のtopologyであつた。アメリカの文物が汎神論的存在に見え、安部公房が若い頃から最晩年
に至るまで、アメリカ文化に強く惹かれた理由です。さうして、考へて見れば、これが何故ヨー
ロッパのジャック・デリダといふ超越論者が、ポール・ド・マンに招聘されてアメリカのイェー
ル大学でセッションを連続的に頻度高く行つたのかといふ理由でもあり、ヨーロッパの哲学の
うちで、アメリカ人が超越論を受け容れた理由であると私は思ひます。

[註8]
アメリカ文化贋物論には次のものがあります。

『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)
『安部公房のアメリカ論(2)∼『アメリカ発見』を読み解く∼』(もぐら通信第23号)
『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼ドーナツとは何か』(もぐら通信第81号)

これらに加へて、アメリカ人の野球(baseball)が旧約聖書の創世記(Genesis)の焼き直しの贋物であることを
論じた『安部公房の読者のための村上春樹論 (中):Baseballとは何か?∼Baseballは旧約聖書の創世記の贋物
である∼』(もぐら通信第50号)を書きましたので、アメリカ贋物論は4つあります。

最初のアメリカ贋物論に詳述したアメリカ文化の贋物性の起源論に基づいて書かれてゐますので、この起源論の詳
細は最初の論である『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)をご覧ください。
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前置きが長くなりましたが、私たち日本民族の古来有する神々のtopologyは、次の通りです。

これは、単位としてのネットワーク或いはネットワークの単位です。この単位を接続して、私た
ちの国が成り立つてゐる。即ち、日本人の頭の中は、無意識にでも、このやうに出来てゐるとい
ふ事です。或いは、これはこのまま、個別言語を問はぬ普遍的な言語構造だと言つても良いので
す。何故なら、言語の本来の性質、即ち本質は次の二つであるからです。

①再帰性:recursiveness(例:カントのいふ物自体、あなた自身等々といふ何々自体、何々自身
といふ構造的な不変の関係)
②冗長性:redundancy(例:複製を別に用意する安全性、保証性、保障性、又は補償性、或い
は人間の遺伝子の二重螺旋構造等々)

Topologyとは一筆書きのことですから、範疇、領域、分野その他の場所を問はず、その際(き
わ)、縁(へり)、辺をなぞつて一筆書きをすることができれば(安部公房ならば「周辺飛行」
といふでせう)、これらの全ての範疇、領域、分野その他の場所といふ場所を一つに一次元上の
次元で統合し、まとめることができる。このことを、①再帰性と②冗長性について、上図を使つ
て説明すると次のやうになります。

あなたが上のネットワーク・トポロジーのAに立つてゐるとします。さうして、私はCに立つてゐ
る。私たちにとつて一番効率的な会話はA-E-Cといふ接続線を共有して最短時間・最短距離の会
話のやりとりをすることです。しかし、何か事故が起きて、この線が破断したとします。しかし、
さうなつても、私たちには他の複数の選択肢がある。これが冗長性です。即ち、

①A-B-C
②A-D-C
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③A-B-D-C
④A-D-B-C

この代替回線の4つの場合は、あなたAの立場にゐる場合の代替回線の場合を尽くしたものです
が、しかし私の立場であるCの立場から見ると、同じ数だけの別のアルファベットの順序のコミュ
ニケーション(会話)の選択肢があるといふ事になります。これが冗長性です。あなたのパソコ
ンならば、バックアップの仕組み、fail safe(失敗救済)の仕組みがあるといふ事です。

再帰性については、カント風にいふならば、物が物自体に回帰することを繰り返すといふことで
すから、あなたや私や第三者がAからEのどこに立たうが、いつでも自由に、しかも上述の冗長性
に意思疎通の安全性を保障されてやりとりすることができるといふ事もお判りでせう。これが、
並行四辺形のネットワーク・トポロジーの持つ優れた特性、即ち言語の特性であり、言語論理
(logos:ロゴス)の性質なのです。[註9]

[註9]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「4。言語論といふ毒
(問題下降の毒)」から引用します:

「この、世界の果てから聞こえて来る呪文についての安部公房の言葉です。これらの言葉は全て、言語は再帰的
(recursive)であるといふ事実に拠ってゐます。即ち、言語は繰り返し自分自身に帰つて来るのです。

「―― 散文が儀式化なしに対抗できる理由はなんでしょうか。
 安部 儀式化そのものが強力な言語機能なんだよ。言語に対する有効な解毒剤はやはり言語以外にはありえない。
そういう言語を散文精神と命名したまでのことさ。でもこの規定は、今後批評の基準として利用できそうだね。けっ
きょくテレビ攻撃より、散文精神の確立のほうが、僕らにとっては急務だろう。」(『破滅と再生2』全集第28巻、
266ページ)

「まったく奇妙な動物さ、人間ってやつは、遺伝子から這い出して、とうとう遺伝子が遺伝子自身を認識してしまっ
たんだよ。「言語」によって遺伝子が遺伝子自身を認識してしまったんだよ。
 だから「言語」とは何かを考えるにしても、言語で考えるしかない。言語の限界という表現でさえ言語表現の枠を
出られない。井戸の中を見おろすように、言語で言語の中を覗き込んでいるのが人間なんだな。
―― つまり認識の限界、すなわち言語の限界だということですね。
 安部 限界というより、構造と考えるべきだろうな。(略)」(『破滅と再生2』全集第28巻、254ページ)

「安部 (略)いまぼくに興味があるのは、むしろ超能力にあこがれる気持の裏にある心理の
謎なんだ。一種の「認識限界論」だね。人間の認識にはしょせん限界があり、当然それを超え
たものがあるはずだという……
 ―― つまり認識の限界の可能性を超能力に託しているわけですね。
 安部 そうなんだ。でも認識に限界があるという認識は何によって認識されるかというと言語以外にはありえない。
だいたい認識は言語の構造そのものなんだよ。」(『破滅と再生2』全集第28巻、253ページ)

「スプーン曲げを信じないことと、作品の中で登場人物に空中遊泳させることは、僕のなかでなんら矛盾するもので
はないんだ。小説の場合、言語の構造として確かな手触りが成り立てば、それは現実と等価なんじゃないか。言葉で
しか創れない世界……なぜ飛んだか、なぜ飛べたかの説明を、小説以外の外の世界から借りてくる必要なんかぜんぜ
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んないと思う。」(『破滅と再生2』全集第28巻、258∼259ページ)

「大事なのは多分、技術が内包している自己投影と自己発見の問題でしょう。あるときぼくはカメラのちょっとした
故障を修繕しながら、うまくいきそうになった時、無意識のうちに「人間は猿ではない、人間は猿ではない」と呪文
のように繰り返しているのに気付きました。(略)ぼくの呪文は、単に作業をプログラム化できたことの喜びを表現
しようとしただけのことです。ところがこの「作業のプログラム化」とは、いったい何でしょう?試行錯誤もあるで
しょうし、イメージのなかでの座標転換作業もあるでしょう。しかしけっきょくは時間軸に沿った手順の見通しです。
自分の行動と対象の変化を、因果関係として総体的に掌握することです。《ことば》の力を借りなければ出来ること
ではありません。もともと自己投影とは《ことば》の構造そのものなのですから。」(『シャーマンは祖国を歌う―
儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、231ページ)

以上の晩年の論理と同じ論理を実作として既に表してゐる19歳の小説の処女作『(霊媒の話より)題未定』の冒頭
最初の段落をご覧ください。

「 そう、もう十年以上も昔になるかね。今と異(ちが)って失業者とか乞食とか云う結構な連中がぞろぞろして居
た頃さ。其頃と言えば全く、今の様にこう戦争が始まって皆の心持ちが引きしまって居る状態から見れば、全くの所
お話にならぬ程馬鹿馬鹿しい事も多かったね。今から話そうって言う事もまあ其の一つかも知れないね。だがまあそ
れにしてもなかなか面白い事なんだ。」(傍線筆者)

(以下省略)」

また、再帰性と冗長性といふ此の言語の二つの本質的な特性を見ますと、topologicalには此れが
そのまま本物贋物論になるといふことが自然と判ります。これがこのまま、私たちの社会構造で
あり、組織構造であり、さうであれば、政治と経済の形態の中核にある性質であり構造であると
いふ事になります。このやうな政治と経済の構造を備へた社会を創造すれば、私たちは幸せに暮
らすことができる。何故なら、これが私たちの思考論理構造であり、文字で書かれる文章構造で
あるからです。後者の文章構造を備へてゐるのが、有文字文明、前者だけで文字にしないのが、
無文字文明だといふことは「『カンガルー・ノート論(2)』」(もぐら通信第67号)の「6。
安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」で論じた通りです。日本
列島にゐる私たちには、この有文字文明・無文字文明の両方があります。それが、音読みと訓読
みの混交した私たちの和漢混淆文です。音(おん)は漢字の音(おと)を写し、訓はやまと言葉
による、私たちの語義に関する解釈を示す。猫も杓子も草木も靡(なび)くアメリカ英語につい
ても、私たちは同じことをしてゐるのではないでせうか。この二重構造は「(1)私たちの神話
と思考論理の基本形の模型(モデル)」[註10]で説明します。

[註10]
同じ問題を書道家の立場から詳しく論じた石川九楊氏による『二重言語国家・日本』といふ日本列島文明論の良書が
あります。
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もう少し説明を進めますと、前者、即ち無文字文明にあつては、文字にするしないといふ事以前
に、言葉にするしないといふ発語に、従ひ沈黙に関する規準(criteria:クライテリア)がありま
す。基準ではありません、絶対的な基準、即ち規準です。安部公房の読者である私たちには、こ
れが「沈黙と余白の論理」だと理解すればそれで十分です[註11]。安部公房が如何にシャー
マンであり、古代的であるかがお判りでせう。しかも次に示すやうにtopologicalに古代的である。
いや、むしろ大地母神崇拝の心がtopologyといふ永劫回帰の心であるといふべきでありませう。
この一例は『安部公房のアメリカ論(3)∼アメリカは贋物の国∼:ドーナツとは何か』(もぐ
ら通信第80号)でお伝へした通りです。穴がなければドーナツは生まれない。沈黙と余白がな
ければ、言葉も音も生まれない。影がなければアンテン君は透明になつてしまつてゐないことに
なり、名刺がなければ、S・カルマ氏は同様に社会的に存在しないことになる。安部公房の作品の
topologicalな本物贋物論は、再帰性と冗長性といふ此の言語の二つの本質的な特性を表してゐる
と言ひ換へこともできるといふことになります。

[註11]
「沈黙と余白の論理」については『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第
55号)の「2。空白の論理といふ毒(詩の毒)」をご覧ください。

本居宣長の『玉鉾百首』に次の歌があります。

言挙げせぬ国にはあれども枉説(まがごと)の言挙げこちたみ言挙げす吾(あ)は[註12]

[註12]
こちたみとは、言痛み。日本の国は言挙げしない国であるが、しかし曲がつた教説が余りに多いので、止むを得ず(こ
れが言痛み(こちたみ)といふことでありませう)言挙げする私である。といふ意味でありませう。安部公房ならば
「沈黙と余白の論理」、超越論の差異の透明で目には見えない論理です。さういへば、秋来ぬと目にはさやかに見え
ねども 風の音にぞおどろかれぬる といふ歌がありました(『古今和歌集』藤原敏行朝臣)。超越論で和歌を読む
と、情緒的な解釈とはまた異なる歌の姿が目に見えるようになるのではないでせうか。

私たち日本人は言挙げしないことを以つて尊しとなす。これが私たちの縄文以来の文化です。何
故言挙げしないか。時間の中に現れる物・事は、人も含め、人である自分自身も含めて、必ず穢
(けが)れると私たちは無意識に思つてゐるからです。(これは別途『シャーマン安部公房の神
道講座:topologyで読み解く日本人の世界観』と題してお話ししたい。[註13])だから、私
たちは神社に参詣してお祓ひをする。

また、高天原に最初に立ち現れる天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)以下、高御産巣日神
(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の最初の三柱の神々が、何故一度現
れて、その後には御隠れになり登場しないかといふことの理由が、時間のこととともに、言挙げ
しないといふことの本質的な理由によるものだと私は思ひます。即ち、安部公房の読者には周知
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のことが、このまま日本の古代の国生み神話に通用する。何故最初の神々はお隠れになつたか。
名付けると有名になつてしまひ、無名のままに隠れてゐれば、それは存在であり、存在として永
久永遠不滅、即ち永久(時間)永遠(空間)不滅(始めも終はりもないといふこと)であるから
です。このことから、

私たち日本人は、存在に関しては言挙げしない

といふことが判ります。

安部公房だけが「沈黙と余白の論理」[註14]に生きたのではなかつた。私たちが、さうであ
り、歴史的に、伝統的に、文化的に、日本人がさうであつた。

[註13]
[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:神道の世界観

[註14]
『安部公房文学の毒について∼安部公房文学の解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論理といふ毒(詩
の毒)」をご覧ください。詳述しました。また『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力につ
いて∼』(もぐら通信第32号及び第33号)にても、安部公房の小学生の時の「クリヌクイ」の詩から説き起こし
て、安部公房文学全体との関係でも「沈黙と余白の論理」を詳細に論じました。

閑話休題。

初期安部公房の例を用ゐて、並行四辺形のネットワーク・トポロジーが政治や経済ではなく、文
学といふ文化の領域ではどのやうになつてゐるものかをみてみませう。初期安部公房は次の四つ
の用語と概念で自分の宇宙を創造したのでした[註15]。

①部屋
②窓
③反照
④自己証認
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

[註15]
『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にて論じましたので、ご覧ください。

最後の④の自己証認、即ち「私は私である」といふ文で示される私の再帰性を証明し、承認され
ることを、安部公房は自己証認と呼んだ。さうして、一体誰が此の自己の存在を証明し承認する
のだ?といふ問ひに対しては、残りの三つの(自分の宇宙を形作る)構成要素、①部屋②窓③反
照を以つて答へた。即ち、読者ご存知の名前で言ひ換へれば、

①部屋:閉鎖空間(例:砂の穴、欠損した凹の顔、迷路としての地図、箱等々)
②窓:脱出のための出入り口(例:『箱男』や『カンガルー・ノート』などの主人公の覗きみる
窓や覗き穴)
③反照:入籠構造でできてゐる世界に映る自分の姿
④自己証認:安部公房固有の「僕の中の「僕」」といふ話法の構造、やはり言語の構造である入
籠構造(反照)による、鏡に映る自分の姿が自分の目に見えるといふこと、または反対に鏡に映
る自分に自分が見られるといふこと。即ち、「僕の中の「僕」」の前者の僕と後者の僕の等価交
換の関係

さて、この四つをかうして見てみると、これら四つは次のやうに等価交換関係にあることがわか
ります。即ち、お互ひがお互ひを説明するために必要としてゐる、無駄のない緊密な概念同士の
関係であることがわかります。

①部屋(窓、反照、自己証認)
②窓(部屋、反照、自己証認)
③反照(部屋、窓、自己証認)
④自己証認(部屋、反照、窓)

この四つの用語を、この概念同士の関係のままに並行四辺形のtopology、即ち神々のtopologyに
載せて見ると、次のやうになります。これら四つの言葉は等価で交換が可能であり、どの位置に
ゐても構ひません。それは、あなたが決めるべきことであり、決めることができます。日本の神々
も同じ性質を有してゐます。
もぐら通信
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シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則り[註16]、上記の襷掛けの交差点、即ち存在の十字
路に主人公は冒頭登場し、最後にやはり存在の十字路で失踪する。上記のtopologyが、安部公房
の小説の構造である事は、既に一度『燃えつきた地図』の読書会記録として『燃えつきた地図の
構造』(もぐら通信第7号)に残した通りです。[註17]

[註16]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号及び第33号)、
『赤い繭』論(もぐら通信第51号)及び『魔法のチョーク』論(もぐら通信第52号)で詳述しましたので、これ
らをご覧ください。

[註17]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

上記の概念関係を示すtopologyの意味するところは、あなたがある事について説明しようとする
場合に必要とする言葉は3つである、3といふ数であるといふことを意味してゐるのです。あな
たが何かを十分に概念化し、変な言ひ方ですが具体的に実感を以つて抽象化できてゐれば、あな
たは何か、即ち存在につけた名前[註18]の他には3つの言葉があれば良いといふことです。
これはまた別途『カンガルー・ノート』論の「5。7 再度3といふ数:3とは何か」の章で説
明をしますが、今此処で述べてゐる此のことが、実は、言語とtopologyの観点からいふ3といふ
数の持つ本質的な意義なのです。

[註18]
『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にて論じましたので、ご覧ください。

以上が存在論の話、即ち、価値は等価で存在するといふ汎神論的存在論の話です。さて、今度は
方向の話、即ち認識論の話、即ち、世界は差異であるといふ話です。

人間の知ることのできる方向は二つであり、二つしかないのでした。一つは垂直方向といふ時間
の存在しない空間の方向[註19]、もう一つは水平方向といふ方向です。後者は、これを時間
軸と見立てると時間の進む方向として考へることができ、幾何学的な線として考へれば、そのや
うに考えることのできる、時間のない単なる図形としての方向です。空間は差異、時間も差異で
ある。といふことを思ひ出しませう。何度もくどいやうですが、前者は隙間(非連続量)であり、
歪み(連続量)である。後者は時差といふ時(トキ)の隙間、これが時間である。ともに実体な
どあるものではない。ともに差異である。時間と空間といふ差異の交差点、実体のない其の十字
路に私たちは生きてゐる。

[註19]
「『カンガルー・ノート』論(2):6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼」(も
ぐら通信第67号)神話論との関係で、この存在論の方向を、高天原のこととして論じましたので、ご覧ください。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ40

最初に、上記のネットワーク単位を垂直と水平方向に接続した「私たちの神話と思考論理の基本
形の模型(モデル)」を提示して、これを国生み神話に適用する、否、成立の事情は全く逆であ
つて、国生み神話が此のネットワーク・トポロジーですので、これを実際に示すために、神々の
立ち現れる順番に付番をして「国生み神話のtopology」と題して以下に図を示します。

(1)私たちの神話と思考論理の基本形の模型(モデル)

上図について、以下簡略に要点のみを記(しる)します。

①私たちは、天(あめ)と海(あま)を等価であると考へてゐる。水平と垂直の方向は等価で
交換可能である。従ひ、
②天(あめ)と海(あま)といふ二つの方向は、その発音の類似性・同義性からも判る通りに、
垂直方向と水平方向は、私たちの思考論理の中では等価交換することができる。
③これが、仏教が伝来して何故神仏習合ができたかといふことのtopologicalな説明である。明
治政府が行つた廃仏毀釈は、この日本人の能力を否定するものであつたといふことがわかります。
近代国家150年の日本の歴史は、日本の庶民・国民にとつて、太陽暦の採用も含めて、誠に過
酷なものであつたのではないか。この庶民・国民の苦しみは今も続いてゐる。
④海の彼方から来た舶来の文物が日本の文化の中に受容されるか否かは、この二つの方向(或
いは垂直軸、水平軸と呼んでも良い)が、等価交換できるか否かに拠つてゐる。できるものは
日本文化の一部となり、できないものは日本文化の一部とならなかつた。一神教であるキリス
ト教は、その代表例です。
⑤古代に到来した陰陽五行説も同様に、上記①の天(あめ)と海(あま)の等価交換によつて
容易に私たちの神話の世界の構造の中に取り入れることができた。[註20]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

[註20]
吉野裕子著『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』の「はじめに」に、この著者による簡潔な説明があり、これは
私の上述のtopologyの説明と同じです。以下に全文を引用します。

「古代の日本の行事は国家的のものから村の祭りに至るまで、ある一つの原理によっていたと思われる。その原理
とは、太陽の運行から類推された、神は東からきて西の人間界に迎えられるという、東西軸を神聖視する思考であっ
た。
 ところがその神聖視されてきた東西軸は、ある時期に至って突然南北軸にとってかわられる。それは大和朝廷の
首長の名称に、中国思想所産の天皇大帝の呼称がえらばれた時点から徐々にはじまったがその機が真に熟したのは、
天照大御神に中国の宇宙神「太一(たいいつ)」が習合された白鳳期と私は推測する。「太一」は北極星の神霊化
であるが、天文学と結びついている中国哲学は、その「太一」を一年の周期でめぐる北斗七星をも重視した。
 北斗七星は天帝「太一」を輔(たす)ける宰相の星であって、占星台がはじめておかれた天武朝には、その北斗
七星の動きは正確に捉え計算され、その星座が伊勢神宮の祭りにとりこまれ、左右するようになったと思われる。
 伊勢神宮の祭りと星座の関係をみれば、そこに南北軸、つまり子午線軸が明確に意識され、把握されている事実
は疑う余地がない。こうして把握された子午線軸は国家・個人・穀物など、ありとあらゆるものの生命の永遠性を
保証する軸として、東西軸にかわって神事・行事に徹底的に実践された。たとえば天武てい(大海人皇子)の午日
に置ける午方への出奔(大津から吉野へ)、天智天皇の近江遷都にはじまる一連の藤原京、平城京、平安京などの
北方遷都、持統天皇の三十回をこえる南の吉野出遊、藤原京南方営陵、子(ね)の月中卯日(つきなかうのひ)に
はじまり午(うま)の日に終る大嘗祭など、その例は数えきれない。
 これらは子午軸上の事象として捉えられ、関連づけられなければならないと思われるが、今日までその視点は日
本史・民俗学などの諸学において欠落し、それらは別々の事象として考究されて来た。
 そういう流れに対し、この小論が一石を投じたことになれば幸いと思う。」

⑥このtopologyは、一神教の絶対中央集権的な、言語再帰性の絶対否定によるtopologyではな
く、大地母神崇拝の持つ言語再帰性の絶対肯定によるtopologyであるので、キリスト教は此の
国では受け容れられる事はなく、従ひ、根付かなかつた。後述することを先走つていへば、近
代ヨーロッパの哲学に於ける超越論の系譜とは、一神教のtopologyを此の並行四辺形の神々の
topologyに変形させようといふ、欧米白人種キリスト教徒の苦労の歴史であつたといふことで
ある。ヨーロッパの近代史は、この二つの相反する勢力(force)の戦ひであつたといふことが
できる。この連続的な変形(transformation)をあとでtopologyを使つてお見せします。この地
域の近代史は、一神教の絶対的中央集権型ネットワーク・トポロジーを、大地母神崇拝の並行
四辺形のネットワーク・トポロジーに変形して至ることであつた。
⑦これも後述するが、天地開闢が超越論的に「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからと
もなく」(超越論的空間)最初から既に始まりも終はりもなく其処に在るといふ、即ち垂直方
向といふ(時間の存在しない)差異に名付けられた高天原といふ、日本の神々の第一番目の差
異の世界は、安部公房の小説の構造と同じく三階層になつてゐる。高天原も、上記ネットワー
ク・トポロジーの並行四辺形の単位の垂直接続によつて、上から高天原1、高天原2、高天原
3があるといふことです。これによつて、私たち安部公房の日本の読者は、日本の神話を超越論、
即ち汎神論的存在論によつて、哲学(Philosophie)の問題として論ずることができることにな
る。といふことは、このことから、私たち読者は日本とは何かといふ古来の難問に正面から臆
することなく答へることができる。といふことになります。
もぐら通信
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(2)国生み神話のtopology
神々の前にある番号は、国生み神話で神様の登場する順番です。このtopologyを読み解くため
に『現代語 古事記』(竹田恒泰著)を使用しました。良書です。この国生みのtopologyのpdfの
ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/377846038/神々のtopology-2
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以下に、上図のtopologyから知ることのできることと、その解釈を、即物的・散文的に列挙
する。

A 高天原1
(a)高天原は垂直方向にある、従ひ時間の存在しない空間的な差異である。
(b)高天原は三階層になつてゐる。(安部公房の作品構造と同じである。)
(c)この三階層の最上位の差異に立ち現れた神は、①天之御中主神(あめのみなかぬしのか
み)、②高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、③神皇産霊神(かみむすびのかみ)の三神
である。(安部公房の読者ならば、3といふ数字に着目すること。)
(d)この最初の三柱の神は、いづれも独り神である。独り神とは、男性でも女性でもない。
従ひ、中性の神である。(安部公房の世界でいふneutral(ニュートラル)といふ概念に当た
る。)日本の国の宇宙の初発(天地開闢)に立ち現れる三柱の神々がいづれも(安部公房の
もぐら通信
もぐら通信                          44
ページ

用語と概念を使へば)未分化の実存であること、否、高天原には時間が存在しないので実存
(現存在)ではなく、未分化の存在、即ち(無時間の)存在に未分化は贅語である以上、一
柱一柱が、存在であること。従ひ、
(e)この3神は、時間の始めも終はりもなく、即ち超越論的に「いつの間にか」(超越論的
時間)「どこからともなく」(超越論的空間)立ち現れ、「いつの間にか」(超越論的時間)
「どこからともなく」(超越論的空間)姿が見えなくなり、即ち御隠れになり、存在として存
在の中に存在し続ける。即ち、再帰的な存在であるといふこと。かうしてみると、
(f)御隠れになるといふことと、私たちの子供時代の遊戯である隠れん坊とは、未分化の実
存である子供(といふ人間)が「存在として存在の中に存在し続ける」再帰的な遊びである
といふことがわかる。フランスにも子供の同じ隠れん坊遊びがあつて、cache-chace(カシュ、
カシュ)といひます。[註21]

[註21]
平凡社の世界大百科事典より:https://kotobank.jp/word/cache-cache-1224304:

「[外国の類例]
 日本では1人の鬼と数人のかくれる者とで遊ぶのが普通であるのに対して,欧米では多数が追いかけ,1人ない
し少数の人間がかくれ,追手につかまらぬようにホームにかえる形式が一般に行われている。イギリスではハイ
ド・アンド・シークhide-and-seek,フランスではカーシュ・カーシュcache-cache,ドイツではフェルシュテッケ
ンVersteckenとよばれる,かくれんぼに類する遊びがあり,それぞれ多くの変形がある。イギリスのホー・スパ
イho-spyは,鬼をスパイとよぶのでその名があり,マーダーmurder(殺人者)は現代のかくれんぼで,探偵小説か
ら形をかりた尋問形式をとりいれて遊んでいる。…」

(g)このやうに、私たち日本人の思考論理は既に此の世に生まれたときから、否、安部公房
の用語を使へば誕生「以前」から超越論であり、このやうに汎神論的存在論である。西洋哲
学用語で説明すれば、このやうに、高天原は超越論的な空間である。
(h)3柱の神が、このネットワーク・トポロジーの最小単位である3角形を構成してゐるこ
と。これが厳密には最初の最初の高天原、即ち0番目の高天原である。即ち、
(i)3柱の神で構成される3角形を対称的に反対側に返せば、この最上位の最初の高天原の、
他の2柱の神々も含んだ最初の並行四辺形、最初の高天原が生まれるといふこと。そして、こ
れがこのまま私たちの美意識の様式であること。更に、このことからわかることは、既に述
べたやうに、
(g)「私たち日本人は、存在に関しては言挙げしない」といふこと。既述の通り、時間との
関係で現れたものは穢れるからであり、判りやすく西洋風に言へば変化するからであり(カ
ントーヘーゲルの系譜の共産主義のやうな進歩はない)、最初の形を留めなくなるからであり、
又空間との関係では、高天原といふ差異には時間は存在しないからである。だから、「私た
ち日本人は、存在に関しては言挙げしない」。何故ならば、私たちは超越論的に「既にして」
このコトを知つてをり、また私たちには「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからとも
なく」(超越論的空間)このコトが知られてゐるからである。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

(h)言挙げのコトとは、言葉のコト、即ちコトの葉、コトの端といふコトであるが、私たち
が常に端(ハ)をいひ、本(モト)を言はずに沈黙してコト挙げしないのは、モトが樹木と
いふ垂直方向の無時間に立つ(従ひ)始めも終はりもない超越論的な永遠の命だからであり、
これは宇宙の構造そのものである入籠構造であるからであり、言語構造そのものであるから
だ。柱は宇宙樹木である。即ち、
(i)コトは、樹木のモトの構造を意味する。コトとは、天地の間に立つモトとしてある樹木
の幹・大枝・中枝・小枝の入籠構造を意味する。それ故に、コトの端(ハ)といふ。私たち
が四季を愛で、木々の景色の変化を愛するのは、木々の幹・大枝・中枝・小枝の構造が言語
宇宙の構造であることを無意識に知つてゐるからであり、ハはモトを隠し、私たちの鑑賞眼
はハに注意を向ける。それ故に季節の変化点で、春ならば桜のハを、秋ならば紅葉のハを愛
でる。ハが散ると、私たちはモトをもはや忘れてしまふ。コト挙げしない。私たちは宙樹木
の形象を言挙げしない。恐らくは、このモトとハの再帰的関係に言霊(ことだま)は宿る。
即ち言霊は再帰的である。それは言語の再帰性から言つても当然のことである。話を神を数
へる単位に進めると、
(j)神を数へる単位が柱であるとは、この垂直方向の高天原を意味してゐること。即ち
(k)私たちが樹木を神聖だと思ふのは、又実際神社に御神木として注連縄を締めるのは、樹
木に垂直方向に立つ時間の存在しない神聖なる存在、即ち柱を見てゐるからであり、高天原
といふneutral(ニュートラル)な場所を見てゐるのだといふこと。
(l)単位化するといふことが、実は何か神聖なる物を呼び出すことであり、または逆に対象
を神聖な何かにすることであるといふこと。祓詞(はらひことば)の中には、やまと言葉で
単位だけを列挙して桁を無限に上げて行く祓ひ言葉、一行で成る「一二三祓」と呼ばれる祓
ひのコトのハがあります。[註22]『シャーマン安部公房の神道講座』と題して別途論じま
す。
[註22]
「一二三祓」と呼ばれる祓ひのコトのハは次の通り:

ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそおたはくめかうをゑにさりへてのますあせえほれけ

ひふみよいむなやこと、これで1から10を数え、あとは10進数の単位を上げてゆく。これ以降は一文字一単
位です。これで10の38乗までの数を数へることになります。

これは既に何度も安部公房論の中で述べて来ましたやうに、安部公房の世界でいふ「明日の新聞」の論理、即ち
超越論の論理です。即ち、昨日今日明日といふ日にちを、時間の単位として等価交換をするわけです。次の3つ
の文を通して読んで理解できたならば、あなたは超越論を理解したことになる。これは、このまま神道でいふ中
今といふ概念です。昨日今日明日を過去現在未来としても同じです。

今日は昨日の明日、今日は明日の昨日
昨日という今日は明日という今日の昨日
明日という今日は昨日という今日の明日

昨日と明日は今日のいう一日の単位の場で交換することができる。

道元が『正法眼蔵第一』の最初にある「現成公案」で同じことを、薪(たきぎ)の発火から灰になるまでの単位
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

化されたプロセスと、四季の非連続性を知ることを際断と言って、安部公房の「明日の新聞」、また神道の今中
と同じ上記の概念を述べてゐる。詳述しませんが、「現成公案」をご一読ください。

この「一二三祓」の呪文を唱へると、あなたといふ器は空つぽになります。しかし、無になるのではありません。
これが一神教を離れると無宗教になり、無宗教から虚無主義(ニヒリズム)に陥るヨーロッパ人と私たち日本人
の違ひです。空と無の概念の違ひを、それぞれの定義で示します。

時間も空間も差異であるのでした。前者は時間の隙間、後者は空間の隙間(非連続量)または歪み(連続量)で
す。さて、その上で、

空といふ概念の定義:
空とは、人が差異に函数関係を認識してゐる場合の隙間のことである。

無といふ概念の定義:
無とは、人が差異に函数関係を認識してゐない場合の隙間のことである。

上記の空といふ概念の定義を知れば、般若心経のいふところは難しくなく、論理的に理解することができます。
色即是空、空即色是。世界は差異でできてゐる。色即是無、無即色是はない。

(m)最初の3柱の神々に次いで、最初の高天原の並行四辺形の残り半分を構成するための1
柱の神が登場する。これが⑤天之常立神(アメノトコタチノカミ)です。私は今出来上がつた
topologyの説明をしてゐる関係上、形式を説明するための順序で説明をしてゐますが、しかし、
物事の成る順序と、成つた物事を人に説明する順序は異なります。(恐らくあなたは、これを
意識せずに仕事をしてゐて、日常にあつて難儀を覚えることが多々ある筈です。あなたがより
良く生きるためには、この二つを意識して分けて、順序を考へることです。)
(n)実は⑤天之常立神(アメノトコタチノカミ)が現れる前に④宇摩志阿斯訶備比古遅神
(ウマシアシカビヒコヂノカミ)が現れるのです。その次第は、実は「この時、大地はまだ若
く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっ
ていませんでした。ところが、葦の芽のように伸びてきたものから、宇摩志阿斯訶備比古遅
神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)が成り、続けて天之常立神(アメノトコタチノカミ)が成
りました。」(『現代語 古事記』16ページ)といふ次第であるからです。

ここで注目すべきことは、④宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)が、最
初の並行四辺形が成り立つための時間の順序に国生み神話が語られてゐるのではなく、構造
的には「しっかりと固まってい」なかつた下位の階層との接続点(「大地はまだ若かった」
といふ其の大地から上を見上げれば上位接続点(論理積:conjunction)が最初に垂直方向に
(最初の単位としての3柱の神の間ー関係ーに)現れてから、4つ目の同じ最初の高天原の平
面での⑤天之常立神(アメノトコタチノカミ)が現れたといふことです。従ひ、この⑤天之常
立神(アメノトコタチノカミ)の登場にも時間は存在しない。誠に論理的に首尾一貫してゐま
す。
(o)いふまでもないことですが、この後から無時間で登場する2柱の神々もまた独り神であ
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もぐら通信                          ページ47

り、即ちneutral(ニュートラル)な神々です。後述しますが、国生み神話をこのやうに言語
構造的に読んで参りますと、二層目の高天原の神々のtopologyの4点の構成は、男神が2柱、
女神が2柱と数が半々になつてをり、次の三層目のtopologyの構成の4点は、男神と女神の、
それも女神男神を一対として数え(「男神女神の二柱は一対で一代(ひとよ)と数えます」同
書17ページ)、これら4組の男女の神々といふ正反対の性から成る一対だけからの構成と
なつてゐて、次第に対照的な単位と其の種類の数を大きくしながら神々の単位を降ろして来て
ゐて、古事記の国生み神話が実にtopologicalに論理的に首尾一貫して語られてゐることがわか
ります。

私たちの社会は、一神教のキリスト教の世界とは全く異質であり(有り難いことに私にはこ
の異質の世の中の方が男女平等の本当の世の中だと思ひますが)、女は男の奴隷ではない。
もし俗にいふフェミニズムといふ女権拡張論を日本の国で主張するならば、それはお門違ひで
あり、文字通りに門違ひ、宗門違ひであつて、文句をいふ相手を間違へてゐるでせう。つまり、
やまとなでしこであるフェミニストのあなた、ローマ法王に文句を言ひなさい。といふこと
です。話が逸脱しました。さて、更に、高天原1の神々の名前のことですが、
(p)高天原1の最初の3柱の神々は、①天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は其の名
前の通りで良いでせう。高天原1の真ん中に位する神といふことでせう。②高御産巣日神
(タカミムスビノカミ)とは、タカミ(高見)といふことから、高天原1といふ一番高い所
にあるtopologyの平面にゐて、この平面上での神々の接続(ムスビ:産霊)を司る神といふ
意味と、これから先国生みの神々を産み出すことに、神の産霊(ムスヒ:結び)といふ接続
に携はる神といふ意味ではないでせうか。また③神皇産霊神(カミムスビノカミ)とは、高
天原2以下の階層にあつて、天地の間、地に至るまでの神々を接続する(結ぶ)、産霊(ム
スヒ:結び)の神といふ意味ではないでせうか。即ち、高天原の最初の単位である3柱の神々
のうち二つめと三つ目の②高御産巣日神(タカミムスビノカミ)と③神皇産霊神(カミムス
ビノカミ)は、topologicalな神、topologyの神、結びの神、産霊の神、接続と変形の縁結び
の神である。といふことなのです。即ち、あなたは、自分自身(といふ再帰的な本来の自己、
安部公房の話法でいふ「私の中の「私」」)を思ひ出せば、安部公房の世界と古代神話の国
生みの話を当たり前のやうに我が事として理解することができるといふことなのです。何故な
ら、あなたも日本語で生きてゐる日本人である以上、topologyで実は物を考へてゐるからです。
あなたと同様に、かういふわけで、安部公房ほど日本的な作家はをりません。さう思ひませ
んか?
(q)高天原1に現れた五柱の神を別天神(ことあまつかみ)と総称します。このtopologyの
平面を一つの単位となす神々の総称です。単位である以上、いふまでもなく、シャーマン安部
公房の呪文は有効です。まあ、半ば冗談でいへば、(といふことは半分本気でいへば)神職の
方々はみな安部公房である。
(r)高天原1に現れた五柱の神、即ち別天神(ことあまつかみ)は、図中に示したやうに皆
独り神であり、netural(ニュートラル)な神々です。即ち高天原1はneutral(ニュートラル)
な場所であり、存在(das Sein:ダス・ザイン)の場所であるといふことです。ハイデッガー
も古事記を読めばよかつたのである。さうすれば、古代ゲルマン神話の神々と超越論を上位
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

接続(産霊)して一つのもの、即ちdas Sein(ダス・ザイン:存在)となすことができた筈で
す。かうして考へてみると、これは私の仮説ですが、地球上の大地母神崇拝の根底には
topologyが隠れてゐる。父権宗教である一神教といふ唯一絶対全知全能神を戴く宗教には、
これが欠落してゐる。といふことは、結局近代ヨーロッパの哲学者たちの求めて来た超越論と
は、topologyといふ数学の論理を自然言語で考へ、表はさうといふことであつた。といふこ
とになります。

B 高天原2
(a)高天原1と高天原2を上位接続するものは、「A 高天原1」(n)で述べたやうに「大
地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっか
りと固まってい」なかつた所へ、「ところが、葦の芽のように伸びてきたもの」であり、こ
れから成つた④宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)です。(同書16
ページ)これは、下から上へと垂直方向に伸びる「葦の芽のよう」な何か、即ち形象としては、
やはり柱です。それも、芽でありますから、これから大きく成る、天地の間に立つて接続する
高天原1と高天原2を上位接続する柱である樹木の芽といふことでありませう。
(b)この芽の伸び立つ高天原2のtopologyは、「A 高天原1」(o)で既述の通り、独り神
といふneutral(ニュートラル)な神々の2柱と、男女の神2柱の計4柱の神々からなつてゐ
ます。その配置は、「A 高天原1」(i)で既述の通り、対称性を大切にしたtopologyとなつ
てゐる。(実は順序は逆で、topologyとはそのやうな数理なのですが。)
(c)独り神は⑥国之常立神(クニノトコタチノカミ)と⑦豊雲野神(トヨクモノカミ)で
す。この神々が相対して一対になつて配置されてゐる。これに対して、

(d)男神は⑧宇比地邇神(ウヒジニノカミ)、女神は⑨須比智邇神(スヒチニノカミ)です。
この神々の名前の意味は、この原稿を書いてゐる時点で私には不詳です。江戸時代の本居宣長
を始めとしてとして其れ以降現代に至る学者達が明らかにしてゐる筈です。

ここで言葉の上から判ることは、これは男女一対でありますから、その名前は対比的な一対
になつてゐて、神々の名前が構造化されてゐるといふことです。⑧宇比地邇神(ウヒジニノカ
ミ)の⑧宇比(ウヒ)と⑨須比智邇神(スヒチニノカミ)の須比(スヒ)、前者の宇比(ウ
ヒ)のウと後者の須比(スヒ)のス、また前者の地(ジ:正しくは正仮名で書くべきであり、
ヂ)と後者の智(チ)は、音の本義即ち音義から見れば二つは同じ意味を表はし、文字の本
義即ち字義から見れば同じ意義(sense:内包)から二つの別の意味(meaning:外延)が、
地と智に分かれてゐるといふことが判ります。また、順序が前後しますが、宇比(ウヒ)と須
比(スヒ)の共有する比(ヒ)の音義と字義も考察に値します。私たちの古代の祖先は、この
やうに漢字とやまと言葉を二重構造にして使い分け、受け入れた。

この解析の仕方は、既に「『カンガルー・ノート』論(10)」(もぐら通信第75号)の
「(22)呪文/(22.1)呪文類の分類/(22.2)章別・呪文解説」にて適用した、カイ
ワレ大根が脛に生えて地獄巡りをする主人公にまつはる呪文類の解析の仕方と同じです。結局、
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安部公房といふ言語藝術家は、古事記と同じく音義と字義にまで詳細に及んで呪文類を創造
したといふことが判ります。その一例が「仔象」といふ、「子」ではなく「仔」といふ文字の
使用でありました。かうして思へば、安部公房が奉天で観たサーカス団のあの擂鉢(すりばち)
の底(といふ存在の凹の穴の底)で曲藝をする幼気(いたいけ)な子供の象といふ超越論的
に定時定刻に対して遅延を生ぜしむるがために鞭打たれてゐたあの小さな動物は動物ではない、
小学生である自分自身と心の通ふ同じ超越論に生きてゐる、さういふ意味では人間だ動物だ
といふ分け隔てのない同じ人間なのだと思つたので、『仔象は死んだ』といふ戯曲の題名の
やうに、安部公房は人偏の付いた「仔」といふ文字を使つたのではないでせうか。

しかしまた、このやうに考へて参りますと、この古代の日本人の字義と音義の識別と区別と
弁別は、このまま安部公房スタジオのニュートラル(neutral)といふ演技論の中核概念の説
明でもあることに気づきます。安部公房の演技論は、21世紀の今こそ、外国人によるのでは
なく、日本人自身によつて再度評価されるべきものです。先の戦後、日本人はこの本質的なこ
とを忘れ呆けてゐたといふのは言ひ過ぎでせうか。

(e)⑧宇比地邇神(ウヒジニノカミ)といふ男神と⑨須比智邇神(スヒチニノカミ)といふ
女神は、兄妹(あにいもうと)の兄妹神です。古代にあつては近親婚は禁忌(タブー)とされ
てゐなかつたのでせう。私の知るところでは、中臣氏の祓詞(はらひことば)に近親婚の穢
れを祓ふ箇所が出て来ますので、遅くともこの祓詞の書かれる時までは、これが禁忌(タブー)
であるといふことになつたのでありませう。このことに関係して、高天原2のtopologyでは、
二人の性愛を交換する場所が(安部公房の用語でいへば)存在の十字路となつてゐます。

安部公房の登場人物のうちの男女がいつも性愛を交はすことなく永遠に別離するといふ論理
は、確かにリルケに学んだ存在と詩の論理であるとはいへ、ここまで論じて参りますと、近
親婚の禁忌に触れることを恐れて此れを回避してゐるのかも知れません。即ち男性の主人公に
対するに、女性登場人物が、子供であれ成熟した大人であれ、前者は性的未分化の実存として、
後者は性的な成熟にも拘らず少年らしい体つきの未分化の女性、即ち実存としていつも描かれ
ること、また安部公房の描く家族はいつも血縁とは無縁の擬似家族であることは諸処で論じ
た通りです。

また近親相姦といふことで云へば、中臣氏の祓詞は、存在の十字路で唱へられるといふこと
になります。中臣氏の祓詞がいつできたものか。中臣氏の祓詞がさうであるならば、これ以下
の階層で唱へられる神道の祓詞はみな、同じ入籠構造で接続されてゐるわけですから、存在
の十字路で唱へられてゐるといふことになります。かうして考へて来ますと、多分、全国の神
社は、どの土地土地でも存在の十字路に立つてゐるのではないでせうか。

(f)⑧宇比地邇神(ウヒジニノカミ)といふ男神と⑨須比智邇神(スヒチニノカミ)といふ
女神の近親婚は、次の高天原3の階層でまぐはひ(性交)をなさる⑬伊耶那岐神(いざなぎ
のかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が、最初は婚姻を求める順序を間違へたために蛭
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子(ひるこ:奇形児)を産んでしまひます。これは、前者の一対の男神女神は上位階層の高天
原2にゐるわけですから、下位階層の高天原3にゐる後者の一対の神々の蛭子を産むことに
通じてゐるものと思はれます。

C 高天原3
(a)高天原3のtopologyでは、高天原2を受けて、後者では男女半々の比率であつた神々の
関係が、前者では男女一対として対概念として4つの位置を占める配置になつてゐます。
(b)この高天原3のtopologyに初めて国生みを実際に行ふ⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)
と伊耶那美神(いざなみのかみ)が登場します。
(c)この一対の神は、自分たち以外の3対の神々を構成する存在の十字路たる交差点が天(あ
め)の浮橋と名付けられて、この浮橋から天沼矛(あめのぬぼこ)を降ろし実際に日本の国を
生み出します。「天空にかかる天の浮橋にお立ちになって、海に矛を下ろし、海水を「こおろ、
こおろ」と掻き鳴らして矛を引き上げました。すると、その先から海水がしたたり落ち、塩
が固まって島ができました。これが淤能碁呂島(おのごろじま)です。」(同書20ページ)
(d)ここで、⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)以外の3対
の夫婦の神の名前を挙げてをきます。⑩角杙神(つのぐいのかみ)と活杙神(いくぐいのか
み)、⑪意富斗能地神(おおとのじのかみ)と大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、⑫於母陀
流神(おもだるのかみ)と阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)です。上記同様に音義と字
義の解析をすれば、これらの神々の本義に至ることができます。
(e)高天原3では、上から下へと、天から地へと天沼矛(あめのぬぼこ)を降ろしたわけで
すが、いよいよ地上である次の下位の階層「地1」のtopologyでは方向が逆に、下から上へ
と、地から天へと、即ち地から高天原へと、即ち淤能碁呂島(おのごろじま)から存在の十
字路たる天(あめ)の浮橋へと神聖な柱が上位接続されて、この御柱(みはしら)が、国生み
に深く関係して、行はれます。かうして、
(f)御柱(みはしら)は、淤能碁呂島(おのごろじま)から存在の十字路たる天(あめ)の
浮橋を上位接続し(論理積:conjunction)、高天原と地を接続する上位接続であることが判
ります。この場合、高天原3は高天原2と、高天原2は高天原1と上位接続されてゐることは
上述の通りですので、この御柱(みはしら)は、高天原の3階層のtopology全体に接続されて
ゐることが判ります。これは、私たち日本人が柱と呼ぶ柱全てに及ぶ、柱の概念であると思は
れる。家の柱、そのうちの大黒柱、柱時計、柱礎、柱石、支柱、円柱、石柱、鉄柱、氷柱、
火柱、電柱、門柱、いづれも柱と呼べば、それは高天原のことであり、柱は上位接続である
といふことです。このやうな柱はみな、私たちにとつては生きてゐる神話的な垂直方向の、素
材によらぬ(何故ならばこれはtopologyの世界であるから[註23])、神聖な樹木である。
実際にさうだと、あなたは考へても良いし、隠喩(metaphor:メタファー)だと考へても良
い。後者であれば、私たちは「いつでも、どこでも、誰にでも」[註24]、世界を隠喩で
解釈しまたは見立てて、受け容れてゐるといふことになり、私たち日本人にとつては、世界は
何かの象徴として立ち現れてゐるといふことになります。

ここまで論じて来ると、何故先の戦争後に、私たちはアメリカの、といふ意味はその国の成
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り立ちから言つて汎神論的にある贋物の文物[註24]を容易に受け容れたのか、受け容れ
ることができたのかといふ説明がつきます。

アメリカといふ国の成り立ちに起源する贋物としての文物は、東の海の彼方からやつて来た。
私たちは無意識の階層で、即ち天なる高天原から地の階層のtopologyに照らして、東の海の彼
方からやつて来たといふ此の水平軸と、それから垂直軸の等価交換を行つてみた。すると、
アメリカの文物は汎神論的な衣装をまとつた贋物であつたが(何故ならアメリカン・ドリー
ムといふ贋の神話はあるが、しかし本物の神話がない国だから)、しかし、汎神論的な文物
ではある。アメリカの都市もディズニーランドもコカコーラもジーンズもハンバーガーもカウ
ボーイもスーパーマンもジャズもインターネットもドーナツも、どれもこれも贋の商品であり、
贋の現実である。さて、さうだとして、国の成り立ちの起源は全く正反対に違ふが、見かけ上
汎神論的な商品であるので、同じ平面の上でtopologicalに等価交換可能な、superflatな平面
を構成することができる。といふわけで、私たち日本人は、アメリカ文化と日本の文化の贋
の習合を行なつた。即ち、「安部公房の分類」でいふ表層でアメリカ文化を受け入れた。

https://ja.scribd.com/document/377549947/安部公房の分類-v2-赤字強調

[註23]
『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼ドーナツとは何か』(もぐら通信第81号)をご覧くださ
い。貨幣と通貨を論じて、topologyが金や銀やの素材によらぬことが判ります。

[註24]
アメリカ文化贋物論には次のものがあります。

『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)
『安部公房のアメリカ論(2)∼『アメリカ発見』を読み解く∼』(もぐら通信第23号)
『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼ドーナツとは何か』(もぐら通信第81号)

これらに加へて、アメリカ人の野球(baseball)が旧約聖書の創世記(Genesis)の焼き直しの贋物であること
を論じた『安部公房の読者のための村上春樹論 (中):Baseballとは何か?∼Baseballは旧約聖書の創世記の贋
物である∼』(もぐら通信第50号)を書きましたので、アメリカ贋物論は4つあります。
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最初のアメリカ贋物論に詳述したアメリカ文化の贋物性の起源論に基づいて書かれてゐますので、この起源論の
詳細は最初の論である『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)をご覧ください。

敗戦直後に流入して来た、さうして今や表層的な贋の文化としてあるクリスマスと(これは古
臭くなつたとはいへ、今様に言へばCool Japanの一部である)附随するクリスマス・ケーキ
の製造と販売をした不二家は、ペコちゃんとポコちゃんといふマスコット人形を発明して店頭
に置いて、大当たりをとつた。新しい舶来品であるからといふ事もありませうが、実体は、
ペコちゃんとポコちゃんといふ名前の示す通りに、これは凸凹であり、後述する国生み神話
でまぐはひ(性交)をして国生みする⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざな
みのかみ)が子供の姿に身をやつした姿である。後者は「私の体もすでに出来上がっているの
だが、一ヶ所だけ何か足りずにくぼんでいる所」があり、前者は「それでは、私のでぱってい
る物を、あなたのくぼんでいる穴に挿し入れて、塞いで、国を産もうと思うが、どうだろう」
(同書20ページ)といふ夫婦神の姿である。日本人は、あらたに古代の神話の再生と復活
を図つたといふことになります。不二家の経営者が、これを意識的におこなつたのか、それと
も無意識であつたのか。

敗戦直後の当時に、日本人が、若者たちも含めて、如何に子供であることに純真、純潔、無
垢の人間の姿を、即ち敗戦の罪も穢れもない 人間の姿として思つたかは、『詩人たちの論じ
た安部公房(1)』(もぐら通信第27号)の「飯島耕一『安部公房ーあるいは無罪の文学』
で詳細に論じた通りです。安部公房の少年冒険小説『けものたちは故郷をめざす』もまた同じ
文脈の中で読まれたことは、論考中に引用した詩人飯島耕一の安部公房論[註25]に書い
てある通りです。日本人が、今に至るまで、アメリカ文化を受容して来た理由は、子供の穢れ
のなさといふこと、子供はinnocent(純粋、純潔、無垢)であるといふ此のことにあり、ま
たこれが古代からの神話に淵源する歴史を欠いたといふ国の成り立ち上の理由から其の文物
はみな(ヨーロッパの中世と神話と貴族社会に対する憧れに発した)贋物であることに気付
かぬ日本人は、時間とともに、このことを生活感覚から忘れてしまひ、子供を理由すること
が如何に大人としての人間の偽善であるかといふことに鈍感になり、これが戦後の日本人の偽
善の原因だといふことに(アメリカ文化のせいでは全然ない)、日本人の心と意識と道徳と
倫理の問題である事も考へることを忘れて呆けて今日に至つてゐる。曰く、毎年8月15日に
執り行はれる原爆慰霊祭に必ず子供を利用すること。曰く、どの場合とは言はぬが、子供と
大人の境界を曖昧にしてしまつて恥じないこと。曰く、物事の規範を曖昧にして道徳を忘れて
恥じないこと等々、身近な例を挙げることが幾つもできるでせう。いつそのこと、ペコちゃ
んポコちゃんの人形をAIロボットに仕立てて、広島の慰霊祭で鎮魂の言葉を死者のために上
奏した方が良いのではないか?AIロボットの子供には、恥の感情はないであらうから。しか
しまた、恥を知らぬ大人とは、人間ロボットかロボット人間であらう。

[註25]
『詩人たちの論じた安部公房論(連載第1回)飯島耕一の『安部公房―あるいは無罪の文学―』(もぐら通信第
27号)より引用します:
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「著者は、この章で、これほど惹かれる『けものたちは故郷をめざす』を、前の章で結論した文体論の観点から、
『S•カルマ氏の犯罪』と比較をして、またその比較をするために、まづ『けものたちは故郷をめざす』の主人公、
久木九三少年がロシア人の許から夜明け前に脱出する箇所を引用して、こう言います。

「『けものたち』にあっては肉眼が復活している。ここには『S•カルマ氏の犯罪』における変てこな感覚、眼に
見える現実の瞼をひっくりかえしたような現実はなくなっており、高石塔の傷ついた指を切り落とす痛みは、現
実の痛みそのままに描き出されようとする。」

と言い、「作者は無遠慮なほど、ぼくらを主人公の少年の、生き生きした荒い呼吸そのもののなかに、高石塔と
の対立のうちに拉し去ろうとする。この短い切れ目をもつ乾いた文章は、いわゆるヨーロッパの現代小説のそれ
に急激に近づいている。あるときは、マルローを思わせるが、あるときはマルタン•デュ•ガールでさえある。」

と言うこの引用を見ると、実に明瞭に判ることは、この詩人は、この作品の主人公が少年であることに強く惹か
れているのです。

このことを、カミュの『追放と王国』の主人公の二者択一の問い、即ち「solitaire(孤独)かsolidaire(連帯)
か」という問いから生まれたこの小説の主人公の悲劇を、安部公房は拒否しているのだと明言していて、これは、
全く安部公房という人間の思考論理を、ここでも正確に言い当てています。このAでもなくBでもないという思考
論理は、AとBを果てしなく交換をして次元展開を繰り返し、終にAでもBでも無い第三の客観に至るという『詩
と詩人(意識と無意識)』という詩人としての理論篇を書いた20歳の安部公房の、そしてそれ以来の、生涯の
思考論理であったからです。

この安部公房の思考論理の体現者、そして自分の求めるこのような思考論理の体現者が、この詩人にとっては、
『けものたちは故郷をめざす』の主人公の少年、久木九三であったのです。……【結論5】

この詩人が、何故これほどこの主人公に惹かれるのか、それには、次の二つの理由のあることが判ります。

1。この主人公が少年であり、子供であること。
2。当時の戦後の現実の日本を、このAかBかという二者択一しか選択せざるを得ない日本の現実だと考えてい
たこと。

この二つです。

それが、最後の段落の初めに、実に唐突に書かれる言葉、「久木少年は無罪なのだ。彼は無罪の囚人なのだ。」
と、この詩人に書かせるのです。

この最後の段落の、その前までの段落との落差を飛んで見せる、今度はこの詩人の「かなりな飛躍」は、読者を
驚かせます。

そして、この論考を、このように結論するのです。

「彼(筆者註:久木少年とも読め安部公房とも読める)には原罪がない。安部の「自律性を具えた想像力」も、
彼が無罪であるところに、その自由の軌跡があったのではないか。あるいはぼくら戦後の日本人の「生活のはじ
まるところ」はそこにしかないのではないか?そしてこの少年のあたえるイメージは、思想的結論は何一つもっ
ていないにもかかわらず、はや一箇の思想ではあるまいか。」
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この最後の箇所を読むと、大東亜戦争に敗北し、敗戦という戦後の現実を正面から受け止めなければならなかっ
たこの昭和5年生まれの、文中の言葉を引けば「大方軍国少年であったぼくら」の一人であったこの詩人にとっ
ては、この小説は、戦後を生きて行くために必要なことを示唆する小説であったのです。

「彼は無罪なのだ」という最後の段落の突然の断定は、戦後の日本人が敗戦という現実に苦しんでいたことへの、
この詩人の明確な解決の宣言なのです。

この「彼は無罪なのだ」という言葉の奥深くには、日本が戦争を戦ったこと、そして敗北したことは間違っては
いなかった、罪はなかったという意味を、詩人らしく、国家の階層においてではなく、個人の階層において、反
省しようとする気持ちから発した、止むに止まれぬ言葉の発露なのです。……【結論6】

【結論5】を言い換えれば、【結論6】になるでしょう。これはふたつながら表裏一体です。

これが、この論考の最初の問うたわたしの問い、「何故飯島耕一という詩人は、安部公房の小説を論じたいと思っ
たのでしょうか」と言う問いに対する、詩人自身による回答です。

何故アメリカという国の風俗や文物が、こんなに日本や世界に流行したかという理由を、安部公房の思考論理と
その贋物という視点から、アメリカ人の無条件で憧憬するその無垢な幼児性とその起源については、『安部公房
のアメリカ論』(もぐら通信第22号)で既に論じた通りです。

飯島耕一という一級の詩人のこのような1950年代の発言と安部公房の読み方を、こうしてみますと、確かに
戦後アメリカの風俗と文物が急速に日本の中に広まり、流行したのかの、日本独自の理由が明らかです。

さて、そうであればまた、安部公房が最晩年に至るまで書きたいと願っていたアメリカ論は、この飯島耕一と同
じこころと考えを以て書かれたことでしょう。この書かれるべきであったアメリカ論は、間違いなく、敗戦後の
日本人のこのような当時のこころを明らかにし、それを克服する方途を論じた筈です。とはいへ、それは、やは
りAではなくBでもない、第三の客観、第三の道を求める、いつもの安部公房流のアメリカ論の結論になったこ
とでしょうけれども。

最後に、もうひとつ。

文藝批評家、佐伯彰一が、『安部公房•その想像力の原質』(『國文學 解釋と鑑賞』70年代の前衛•安部公房」
1971年1月号)という安部公房論の中で、何故安部公房の『けものたちは故郷をめざす』に魅了されるのか
というその理由として、飯島耕一と全く結果として同じ理由を挙げております。

後者と同様に、とはいへ、前者は、安部公房のこの作品を少年のピカレスク•ロマンと見ているのです。そして、
そのようにこの小説を読む根底にある論理と感情は、前者、即ち飯島耕一と全く同じなのです。

「当時のぼくには、坂口安吾のいかにもざつくばらんの八方破れの肉声を別にすると、いわゆる戦後文学の、妙
に重々しく熱っぽい、観念的な語り口が、どうにも受け入れがたかった。一方では、一テンポずれているという
気がしたし、他方では、漠たる「解放」や「民主革命」の気分に寄りかかりすぎている安易さを嗅ぎとらざるを
得なかった。
少しきつい言葉でいえば、季節はずれの「レジスタンス」文学、遅くやって来すぎた「抵抗」派という気がして
ならなかった。そして同時に、敗戦と軍事占領という客観的な事態に対する眼が、まるですっぽ抜けていること
に焦ら立たさるを得なかった。(略)とにかく、軍事占領という条件を素通りした楽天的な民主主義賛美の横行
に、やり切れないものを感じていた。」
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「のみならず、ここにはまぎれもない敗戦があった。久木少年の身体と心は、じかに外界に、また異国人たちの
前にさらされている。その間をへだてる、なま暖かい中間物は、いつさい取っぱらわれている。すがすがしいば
かりの、さらされぶりなのだ。わが国の戦後とは、まさしくこういう時代であり、状況であったはずなのに、今
まで誰ひとりこういう眼で描いてはくれなかった。さらけ出されながら、「終戦」だの「文化国家」だの「民主
革命」だの、いろんなクッションを間におこうとばかり努めた。当時のぼくのピカレスク小説への熱中も、今か
らふり返ると、そうした中間的な曖昧なクッションへの嫌悪であり、率直に見とおす裸の眼への欲求であったに
違いない。敗戦によつて、異国人の眼の前に、また世界の前に、さらされているのに、肝心のご当人だけはその
ことには一向気づかず、仲間同士のおしやべりに夢中になって、絶叫したり詠嘆したりしている。それこそ、と
んだ裸の王様―いや、王様らしさは毛ほどもないけれど、裸でありながら、妙に恰好ばかりつけたがる滑稽さを、
この少年主人公の「裸の眼」が鮮やかに突き刺している。」

この佐伯彰一の言葉は、21世紀の今に至るまで、実に先鋭であり、痛烈な日本の国と日本人への、今でも実に
有効な批判となっていることに驚きます。

これ以外にも、この安部公房論から引用したい箇所は多々ありますが、ここまでと致しましょう。

このような文脈で、当時、安部公房の『けものたちは故郷をめざす』が読まれたことは、誠に注目に値し、ここ
ろに銘記するに値することだと思います。

21世紀の今、新しい安部公房読みたちは、一体どのようにこの作品を読むものでしょうか? 誠に、興味津々
たるものがあります。」

さて、しかし、「地1」と「地1.1」にある八百万の神々は、ペコちゃんポコちゃんのほか
に何に身をやつし、変身して姿を隠しながら復活したか。私の思ひつくままに挙げれば、曰
くポケモン。今では地球上で売れてゐて、日本列島のみならず世界中の様々な人種と民族の国々
の国津神といふべき地霊、genius loci(ゲニウス・ロキ)となつて、汎神論的存在論の子供の
姿をした可愛らしい神々として、隠してゐた姿が立ち現れて、俗にいふ「ゲット」(get)さ
れてゐる。戦前ならば大東亜共栄圏であつたものを、今では大東亜のみならず、ヨーロッパや
アメリカを始め、大東西世界中に存在してゐるといふわけです。

さうして同様に国内では、地方自治体を護る神々となつて、やはり縫いぐるみを着た神々とし
て、くまモンであれなんであれ、ポケモン同様のモンスターとして、しかし可愛らしい怪獣と
して登場してゐる。これらのモンスターもまた、八百万の神々の姿をやつした、着ぐるみの、
「地1」と「地1.1」にあるのtopologyで変身し、変形(transform)した姿です。と、この
やうにして考へ来ますと、戦後の一連の怪獣映画のゴジラを始めとする怪獣達の姿は、大から
小に至るまで、国津神(くにつかみ)が着ぐるみ縫いぐるみを被つた姿ではないのではない
だらうか。
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あなたもまた、いつの間にか道徳を忘れて(繰り返しますが、これはアメリカ文化のせいでは
全然ない)、怪獣の、モンスターの縫いぐるみを、着て生きてゐるのではないだらうか。例
へば、道徳を失つた幼稚な屁理屈であるpolitical correctnessなどといふ縫いぐるみを。道徳
を忘れた人間は、必ず数を頼みにし、大声を張り上げて威嚇をしながら、徒党を組む。独り
で物をいふことができないほどに臆病である。あなたの身の周りを見廻してご覧なさい。こ
れこそが、人間の着ぐるみぬいぐるみを着た本物の怪獣である。それが今、ペモンスター・
アレントだとか、モンスター・クレーマーだとか言はれて嫌われてゐる。無意識の命名の意味
するところは正しい。

かうしてみると、Cool Japanは、アニメであれ漫画であれ、変身と変形の文化であるといふ、
私たち日本人の(有文字文明としては)古事記以来の、無文字文明としてはそれ以前の縄文時
代以来からのtopologyから生まれたtopologicalな文化であるといふことになります。

敗戦後、これも不二家同様に急成長したSonyといふ会社もまた、その名前はSonに子供とい
ふ可愛らしさと小ささを示す後綴の縮小辞yの文字を付けた坊やといふ意味であつたことを思
ひ出します。最初のキャラクターは、当時有名であつた漫画家岡部冬彦の描いた坊やであつた。
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ページ

日本人のアメリカ文化受容論は、もつと詳細には稿をあらためて論じます。

閑話休題。高天原3の題目に戻ります。

(g)⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は、淤能碁呂島(オ
ノゴロジマ)に天の御柱(みはしら)を、昇る方向に立てますが、これによつて、淤能碁呂
島から垂直方向に立てる柱は、高天原全体と地上(の国)全体とが意思疎通を図り、交流す
ることができる。これは、天沼矛が天の浮橋から国生みのために降りるからですが、私たち
の持つてゐる思考論理が対称性といふ均衡の取り方に重きを置いてゐるからです。もう一つの
私たちの思考論理は、これも私たちの美意識に深く根ざしてゐますが、対称性といふ均衡を敢
へて破るといふことです。これは別に機会をあらためて論じます。
(h)天の御柱(みはしら)の目的と用途は次の二つです。(同書20∼21ページ)

  ①「高天原の神々と心を通じ合わせるために」
  ②「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)をあそばされ」るために。「まぐわい」とは夫
婦の交わりのことです。また「みと」とは成功をする場所を意味しています。」

さて、ここからが、⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が地
上に降り立つて、いよいよ実際に国生みをする話です。しかし、天の御柱をそれぞれが左と右
から廻つて出逢つたところで「美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)をあそばされ」たところ
が、うまく行かずに、手足のない蛭子(ひるこ:奇形児)が生まれます。婚姻ですから相手に
お互ひに褒め言葉を掛けるわけですが、最初に伊耶那美神(いざなみのかみ)が声を掛けて
「あなにやし、えおとこを」(あなたは、なんでいい男なんでしょう!)、続けて伊耶那岐神
(いざなぎのかみ)が「あなにやし、えおとめを」(あなたは、なんていい女なんだろう!)
と仰(おっしゃ)」つて性交した。

しかし、この順序は反対の順序でした。二柱の神は天の御柱を伝つて高天原にお帰りになつ
て、天津神(あまつかみ)の指示を求め、「神の命令にしたがって太占(ふとまに)で占っ
たところ、「女神から先に声をかけたのが原因だったことが分かりました。」そこで「さっ
そく二柱の神は淤能碁呂島(オノゴロジマ)にお戻りになり、再び天の御柱を回って、今度は
伊耶那岐神(いざなぎのかみ)が「あなたは、なんていい女なんだろう!」、伊耶那美神(い
ざなみのかみ)が続けて「ああなたは、なんでいい男なんでしょう!」と仰せになって、再び
交わ」ると、「次々と立派な国が生まれました。」それが、「地1」と「地1.1」の島々で
あり国々です。

余談ながら、この著者の註釈から引用して、安部公房の女性の読者に申し上げれば、この国生
み神話の教訓は、女から男に求婚してはうまく行かず、女性であるあなたは男に求婚するよう
に仕向けることが求愛成功の秘訣といふことです。さて、一体これはどのやうにすれば良いの
かといふことは、勿論神話の論理は時間を超えて依然として現代にも生きてをりますので、別
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途『安部公房の女性の読者のための超越論』と題してお話しします。これをやられると、男は
女性の魔手から、ある一つの方法を除いては、逃れることができないといふ結論に至りまし
た。しかし、この方法とて覚束ないのです。あはれな男(をのこ)である。

また話しが逸脱してしまつた。閑話休題。

D 地1
(a)⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は、「高天原の神々
と心を通じ合わせるために」天の御柱をたてたあと、国生みのために八尋殿(ヤヒロドノ)と
いふ建物を立てます。この名前は、このまま、国生みを終はつた後の国の総称である大八洲(お
ほやしま)の八といふ数字に通じてゐるのでせう。

(b)地にあつて、この夫婦の神が産んだ島々は、次の四つです。この4つの島々で「地1」
の階層のtopologyを構成してゐる。
   ①淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)(淡路島)(P22)
   ②伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)(P22):一つの胴に四つの顔
   ③隠岐之三子島(おきのみつごのしま)(隠岐諸島)(P22)
   ④筑紫之島(つくしのしま)(九州)(P22):一つの胴に四つの顔

この島の命名と其の順序を見ますと、①淡道之穂之狭別島は一つ目の島だとして、②伊予之二
名島(四国)は其の名の通り二番目の島であり、③隠岐之三子島(隠岐諸島)は、これも其
の名の通り三番目の島ですから、④筑紫之島(九州)にもまた4といふ数字が意味されてゐ
るのではないかと思ひますが、如何か。①淡道之穂之狭別島が一番目の島であることの意味
は、狭別(さわけ)といふ地にあつて細かく別れることを意味するのではないでせうか。そ
れといふのも、中臣氏の祓詞に、天に関する分岐のことは「高天の原に神留座(かむづまり
ま)す 皇親神漏岐(すめむつかむろぎ)漏岐美(かむろみ)の命(みこと)をもて」とあ
つて、⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)の分岐の岐の字が当てられてをり、この文字が天に関
係して分かれ/分けられる文字であるのに対して(⑬伊耶那岐神は国を生みわけるので、それ
故のこの名前であるのでせう)、他方同じ祓詞に、地に関する分岐のことは、分岐の岐では
なく、別(ベツ)の文字を用ゐて「伊豆の千別(ちわき)に道別(ちわき)て」とあるから
です。これはこのまま伊豆の地形のことを表してゐるのだと思はれる。(以下の②伊予之二名
島(四国)と④筑紫之島(九州)の古名についても同じです。)

また、②伊予之二名島(四国)と④筑紫之島(九州)に、一つの胴に四つの顔とあるのは、
島が実は上位概念であり、国が下位概念であつて、きちんと島と国の関係の分類が、既に古
代で行政区画の名前として此の時にできてゐたことを示してゐます。文字通りに日本は島国で
あること。これは地政学的にも忘れてはならないことです。さて、②伊予之二名島(四国)は、
次の四つの国から構成されてゐる。
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もぐら通信                          ページ59

  (A)伊予国(いよのくに)(愛媛県)を愛比売(えひめ)
  (B)讃岐国(さぬきのくに)(香川県)を飯依比古(いいよりひこ)
  (C)粟国(あわのくに)(阿波国、徳島県)を大宣都比売(おほげつひめ)
  (D)土左国(とさのくに)(土佐国、高知県)を建依別(たけよりわけ)

④筑紫之島(九州)は、次の四つの国から構成されてゐる。

  (A)筑紫国(つくしのくに)(福岡県)を白日別(しらひわけ)
  (B)豊国(とよのくに)(大分県と福岡県の一部)を豊日別(とよひわけ)
  (C)肥国(ひのくに)(熊本県・佐賀県・長崎県)を建日向日豊久士比泥別(たけひむ
かひとよくじひねわけ)
  (D)熊曾国(くまそのくに)(南九州)を建日別(たけひわけ)

この命名からわかることは次の通りです。

(a)一つの島は四つの国からなる。
(b)国の名前をみると、自然の地形を表すか(例:別(わけ)、男女の神の、しかし人の名
前としても呼び得る名前をつけてゐる(比売(ひめ)、比古(ひこ))。即ち、
(c)この、国に対して顔と胴といふやうな人の体の部分の名前を名付けるといふことは、大
地母神崇拝の論理と感情を表してゐると思はれる。何故ならば、ずつと時代を下つた西暦50
0年前の古代ギリシャの多神教の世界に生きるソクラテスが、プラトンの『国家篇』の中で
国家とは何かを対話しながら最後に、何故国のことを人間の体の隠喩を用ゐて考へるとこん
なに上手に国といふものを論じ理解することができるのだらうかと感嘆してゐるからです。自
然といふものを顧慮せずに論ぜられる近代ヨーロッパの近代国家に関する政治学は、どこか
に致命的な欠陥を抱へてゐると思はれる。何故ならば、その政治学は自然のことを放つてをい
て、人間と法律ばかりを論ずるものだと思はれるからです。政治の外部は自然だといふことを
前提にして考へられるのが、21世紀の超越論に基づく政治学であり政治論であるといふこ
とになります。経済についても同様です。経済の本質が貨幣にあるならば、存在を上述のやう
に大地母神崇拝の自然の道のこととして考へることがなければ、本当に人間の幸せのために
なる経済学、即ち経世済民[註26]の学にはならないといふことです。

[註26]
「經世濟民(けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世を經(おさ)
め、民を濟(すく)う」の意。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/経世済民)

E 地1.1
(a)⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は淤能碁呂島(オノ
ゴロジマ)に立つて、もう一つ下位の階層に島のネットワーク・トポロジーを国生みします。
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もぐら通信                          ページ60

これが次の四つの島々です。(同書22∼23ページ)

⑤伊岐島(長崎県の壱岐の島)またの名を天比登都柱(あまひとつはしら)
⑥津島(長崎県の対馬)またの名を天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
⑧佐度島(さどのしま)(新潟県の佐渡島)またの名は無し
⑦大倭秋津島(おほやまととよあきつしま)(機内を中心とする地域)またの名を天御虚空豊
秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)

以上「地1」と「地1.1」の8つの島々を総称して、八島と言ひ、日本の国全体の名前として
は大八島といふわけです。

此の八島の国生みが往路の話です。私たちは、ここでも対称性を大切にしてゐることがわかり
ます。これは丁度天沼矛と天の御柱の場合と同じで、往(ゆ)けば復(か)へるやうに、国生
みにあつても、大八島の国が往路で生まれたとすれば、今度は復路で「二柱の神はお帰りにな
る時に」次の6つの島を産みます。(同書23ページ)

(A)吉備児島(きびのこしま)(岡山県の児島半島)またの名を建日方別(たけひかたわけ)

(B)小豆島(あずきしま)(淡路島の西にある小豆島)またの名を大野手比売
(C)大島(おほしま)(山口県の周防大島、正式名屋代島(やしろじま)か)またの名を大
多麻流別(おほたまるわけ)
(D)女島(おみなしま)(大分県国東半島の東北にある姫島)またの名を天一根(あまどこ
ろかひとつね)
(E)知訶島(ちかのしま)(長崎県の五島列島)またの名を天之男(あめのをしを)
(F)両児島(ふたごのしま)(五島列島南の男女群島の男島(をしま)・女島(めしま)か)

この六つの島を産んで、国生みは終はります。

この後は、大八島といふ国の上に、二柱の神は次々と神生みをしますが、これは省略します。

7.3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
近代ヨーロッパ文明の苦労は、一神教の「一人勝ち独占」の絶対的中央集権型のトポロジーを
大地母神崇拝のtopologyである並行四辺形に変形することだといひました。図示すると次のや
うになります。この矢印の変形に、近代ヨーロッパ文明は、17世紀のデカルト以来、途中共
産主義(カントーヘーゲルの系譜)に逸脱して、結局超越論(カントーショーペンハウアー)
に戻るまでに300年を要したといふことです。この碌でもない18世紀ヘーゲル以降の20
0年を、ショーペンハウアーの伝記作者リュディガー・サフランスキーは其の伝記の題名であ
る此の哲学者名の副題として「哲学の野蛮な時代」、即ち野蛮な哲学などある筈のないものが
もぐら通信
もぐら通信                          ページ61

跳梁跋扈した似非哲学の時代と呼んでゐます。勿論、カントーヘーゲルに始まるヘーゲルーマ
ルクスの系譜の、途中で哲学の本来のあり方から大きく逸脱したマルクス主義または共産主義
の時代のことです。近代ヨーロッパの超越論は、ユーラシア大陸の極西から極東の日本の大八
島に、イタリア人のマルコ・ポーロの呼んだ黄金の国ジパングに至るまでに300年を要した。

ここでは、大地母神崇拝との関係で、超越論に話を絞ります。ヘーゲルーマルクスの系譜の
topologyは、いふまでもなく一神教のtopologyです。

言語の再帰性、従ひ思考の再帰性、従ひ人間の存在することの再帰性といふやうに、言語の再
帰性を中心に以下の変形が一連のものとしてあることが、上記の二つのtopologyの間の変形の
ための接続を考へると解る。といふことが、判ります。

(1)変形1:17世紀:デカルト
我思ふ、故に我ありといふ、私の思考と存在の再帰哲学。唯一絶対神を存在に置き換へること
によつて唯一絶対神の存在証明をしようとした嚆矢である再帰哲学です。

スコラ哲学を離れて此の媒介者の代はりに存在といふ概念を置き換へたのが、デカルト以降の
哲学でした。

『方法序説』にあるやうに、Godではなく、Godといふ存在について私が思惟するといふこと
になり、我思ふ、故に我ありといふ結論に至つた。[註6]に引用し解説した通りです。
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

(2)変形2:18世紀:カント

変形1の内部と外部を等価交換し、物(ブツ)の及ぶ範囲で考へる。物についての再帰性を考
へ、事については考へてゐない。物と認識の再帰哲学。カント全集を通覧すると、物自体とい
ふ言葉は全部で7回しか出てこない。この事実の意味するところは次の三つです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ63

①カントは物自体については論じなかつた事。
②カントは、物自体といふ、物と物自体といふ言葉の再帰的な関係について、これが真理であ
ることを確信してゐて疑はなかつたこと。
③多分、カントは自分の哲学の計画を二段階か三段階に分けて計画してゐて、最初の段階で理
性や悟性に関する人間の能力の分類をした後は、第二段階で物と物自体といふ言葉の持つ再帰
性について論じることを考へてゐたのではないかといふこと。あるいは、事と事自体の関係も
また第三段階で論じないとしたら、言語論理の必然的な理由から、第二段階で、物と物自体の
再帰性のみならず、事と事自体の再帰性を併せて論ずるつもりであつたのではないかといふ事。
さうでなければ、哲学者としては全ての場合を尽くした事にならないから。物自体がdas Ding
an sich(ダス・ディング・アン・ジッヒ)ならば、事自体はdie Sache an sich(ディ・ザッ
へ・アン・ジッヒ)である。die Sache an sich(ディ・ザッへ・アン・ジッヒ)は、カント
の全著作中4回出て来ます。しかし、これも一般的な言葉として使はれてゐるだけで、それ以
上の詮索は何もないのは、物自体と同じです。ともに、どのやうな文脈で使はれてゐるかとい
へば、表には出てこない何か、認識できない何かとして書かれてゐます。即ち、何かは目に見
え、またはその他知覚できるとしても、何か自体は認識することが、人間はできないといふわ
けです。

(3)変形3:19世紀前半:ショーペンハウアー
もぐら通信
もぐら通信                          ページ64

変形2の物自体は物ではなく、物自体と人間の関係にあつてこれら二つの内部と外部を等価交
換すると、超越論的に物自体とは人間内部に最初から存在するモノであつて、それは実は意志
である、意志といふモノである。意志は遍在する目的を欠いた盲目の意志であり、これが宇宙
の生命の姿である。意志の根底は、意志には目的がないので、従ひ、この宇宙の根底、この世
界の根底は、無である。何も無い。無から宇宙が生まれ、世界が生まれる。目的がないので、
目的が生まれる。唯一絶対神も神々も、この論理で森羅万象の一部のこととして、従ひキリス
ト教の唯一絶対神も、インドの神々と同列に置いて、神々の一つとして説明し、キリスト教の
神の恩寵も此の文脈によつて説明する。物自体が意志であるとした、意志の再帰哲学。

(4)変形4:19世紀後半:ニーチェ

唯一絶対神が最早存在しないのである以上(人間による唯一絶対神の死の宣言)、変形3の意
志を以つて私といふ存在がそれ自体を再帰的に超越する事を永遠に繰り返すことが、人間とし
て普遍的に生きる道である(超人論)。意志と存在の再帰哲学。

(5)変形5:20世紀:ハイデッガー
変形3の意志と変形4の人間存在の再帰性を併せて考へると、一つの人間存在に対して複数の
名づけられない(無名の)汎神的存在が、連続量又は非連続量として対応する。しかし、人間
存在と汎神的存在は、内部と外部の等価交換はされない。時間との関係では、人間存在は現存
在と呼ばれ、汎神的存在は存在と呼ばれてゐる。存在と時間の再帰哲学。何故ならば、存在と
いふ無時間の差異(函数関係)は、時間の中では繰り返しとして現れるから。汎神的存在は時
間の中では繰り返しとして人間存在(現存在)に対して現れるから。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ65

ハイデッガーと同時代の政治勢力であつたナチズムは、反マルクス主義(狭義の共産主義)、
反キリスト教、反ユダヤ教であるといふ反一神教であつたといふことから、他方大地母神崇拝
の運動がナチズムであつたといふことができる[註27]。即ち、古代ヨーロッパのゲルマン
民族の神々の世界の復活と、それから当時のドイツを第三帝国と呼んだやうに、このやうな帝
国が神聖ローマ帝国の復活でもあるといふこと、即ちかうして見ると、やはりナチズムは、ル
ネサンス以前のヨーロッパ中世へ、そしてドイツ民族の古代へと更に、戻らうとする運動であ
つたといふことなり、ここに於いて、ナチズムとマルクス主義は、近代ヨーロッパにあつては、
互ひに否定しあつたとしても、民主主義と資本主義を否定する同じ運動の二つの側面であつた
といふことになります。

[註27]
この同じ反キリスト教的なヨーロッパの動きの一つが、現代にも現れてゐます。『5 言葉の眼12:スイスの世界
最長トンネル開通式典の異様:大地母神崇拝の復活とキリスト教の衰退』(もぐら通信第74号)をご覧くださ
い。

ヨーロッパ地域の人間たちは、ナチズムが、自分たちの宗教(キリスト教)と政治(民主主義)
と経済(資本主義)から生まれるべくして生まれた同じ「一人勝ち独占型」トポロジーの絶対
中央集権的な主義(イズム)であり教義(ドグマ)であることを反省しない限り(反省といふ
意味はナチズムが悪であるとだけ決めつけて考へる事ではなく、自分たちの歴史的事実の問題
として、ナチズムが悪だと思ふならば、ナチズムとは何かを問ひ答へることである)、即ち自
分たちの宗教(キリスト教)と政治(民主主義)と経済(資本主義)が此の一神教的なトポロ
ジーを三つの領域で常に共有して来たし、現にしてゐるといふ事を反省しない限り、今も同じ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ66

ことを繰り返してゐる筈であるし、これからも同じ事を繰り返す事になるといふ事である。上
記三つのtopologyは絶対的中央集権のtopologyですから、これを離れて、超越論の系譜を意識
して選択することが、この地域の人間達の向かふべき道になるでせう。

ことここに至ると、資本主義とマルクス主義の相違は、同じ広義の共産主義であるとしても、
貨幣を何だと考へるか[註28]といふ点にあるといふことになります。貨幣は言語であり存
在ですから、貨幣を否定する経済主義は、人間を当然のことながら殺戮して止まないことは、
マルクス主義の歴史の示すところです。それでは資本主義はどうかといへば、ヨーロッパ地域
の(またアメリカの)経済学者達は貨幣とは何かといふ問ひに答へることができてゐないまま
に今日に到り、このままに政治家は政治を行ひ、経済の国家的な運営を行つてゐる。しかし、
これも大局を観れば、超越論の系譜(汎神論的存在論の系譜)の意識的選択に向かふことにな
るでせう。

[註28]
貨幣とは何かについては『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼ドーナツとは何か』(もぐら通信
第81号)で論じましたので、ご覧ください。

何故ならば、人間は人間の言ふ事を聞かない。人間は人間に絶対的には服従しない。これが一
神教のtopologyを人間社会や国家経営や経済と政治に適用した場合の限界です。18世紀のフ
ランス革命の理念であるとして私たちが学校で教はつた自由、平等、博愛といふ人間の発明し
た理念に従ふこと、それから此の理念の実現は、人間は遂になかつたのではありませんか?何
故ならば、これらの言葉の持つ意味の総体、即ち概念は、否定的な定義による以外には定義で
きない概念であるからです。

人間が人間のいふことを聞くには、その背後にまたは其の上位に、またその根底に、人間を超
える何者かが存在することを必要とする。或いは、その時その場所で、人間が人間以上の存在
であることを必要とする。存在、即ち、神聖なる何かであり、媒介者であり、媒体です。ここ
は、さうなると、象徴の世界のことである。それが今や時代は、一神教のtopologyではなく、
神々のtopologyであるといふことです。後者については、もしこれを神道だといふのであれば、
その世界では人間も自然の一部でありますから、自然に八百万の神々が宿つてゐる以上、あな
たもまた其処此処で其の自然を目の当たりにして美しさを感ずれば神である。といふことにな
ります。そして、重要なことは、私たちの日本語は自他を識別し区別してゐないといふことで
す。我(われ)や吾(あ)といふ一人称は、二人称としても使用することができ、即ち私とあ
なたは等価交換が可能である。このやうに、私たちの本来の世界には三人称がなく、私たちは、
一神教のやうに第三者としての絶対的中央集権的な媒介を必要としない。Topologyが異なる。

あなたは「(2)国生み神話のtopology」の天地(あめつち)の差異に暮らしてゐるので、さ
う普段は「地(つち)1」か「地(つち)1.1」の階層で、島々の上で国津神(くにつかみ)
とともに、さう、ヨーロッパの人間ならばgenius loci(ゲニウス・ロキ)、地霊とともに、生
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 67

活してゐるので、汎神論的な並行四辺形のネットワークの上で、意識しようが無意識であらう
が、この神々と一緒に(安部公房の世界の登場人物達と同様に)superflatの位置を占めること
ができてゐて、神々と等価交換可能な場所にゐる。そして、時間の中で生きるあなたは人であ
る以上必ず穢(けが)れるので、穢れを祓ふために(本当は祓詞(はらひことば)を知つてゐ
れば良いのですが、知らなくても同じ心で)、近所のまたは道を歩いてゐて通りがかりの神社
であれ、お地蔵さまであれ、祠(ほこら)であれ、小さなお社(やしろ)であれ、手を合わせ
る。あるいは、これもまた意識、無意識にかかはりなく、あなたはいつの間にか何か誰かの鎮
魂をしてゐる。縄文時代以来、私達の自然道、即ち神道の一次分類は、祓(はらひ)と鎮魂で
す。これが、私たち日本人の祈りの根幹です。

さて、フランス革命の理念といふことについての否定的な定義(negative definition)とは、
何々ではない、といふ以外には定義しようのない概念とそれをいふ言葉に適用される。即ち、
自由とは不自由ではないこと、平等とは不平等ではないこと、博愛とは自分だけを愛さないこ
と、といつたやうに。これ以外にも、平和、平和とは戦争をしてゐないこと、幸福、幸福とは
不幸ではないこと、希望、希望とは絶望ではないこと等々、お判りのやうに、平和ではないこ
と即ち戦争、不自由なこと、不平等なこと、自分勝手な博愛ではないこと、不幸なこと、絶望
するやうなことは世の中に満ちてゐて、幾らでも具体的に列挙することができる。人間といふ
生き物にとつて大変皮肉なことに、聞いて耳に心地よい言葉、あなたを感涙させる言葉、即ち
世に流布する扇動と情動の言葉はみなこれだと、思つた方が良い。「人間を信じるのは、疑う
のと同じくらいいけないことだ」とは安部公房の言葉です(『反劇的人間』全集第24巻、3
27ページ)。

これに対して、肯定的な定義とは、AはBであるといふ形式の定義のできる言葉の定義のこと
であり、再度反対に、否定的な定義とは、上記の通り、AはBではないといふ形式でしか定義
できない言葉のことです。この定義の分類は、超越論者ショーペンハウアーの分類です。対し
て、カントーヘーゲルの系譜に属する共産主義者達がどんな甘い言葉の扇動をしてあなたを共
感させ、扇動し又は情動し、憎しみをあなたの心に植ゑつけたかたかを反省してみることは、
21世紀の初頭といふ時代の激しい転換点にあつて意義のあることだと私には思はれます。

閑話休題。

ハイデッガーが巷間ナチズムに一時的であるにせよ協力したとして非難されることになつてゐ
るのは、ハイデッガーの超越論に弱点があるからです。Topologyの眼で見れば、この弱点と
は「世界内ー存在」(das-in-der-Welt-Sein:ダス・イン・デア・ヴェルト・ザイン)といふ
際に、世界と人間の関係を固定化してしまひ(これでは一神教の教義とtopologyの形式上は変
はらない)、他方多神的なゲルマン民族の神話を一神教のtopologyのままに肯定することにな
つてゐるといふ、大地母神崇拝との矛盾に気付かない。人間は世界の内部に存在するとしてし
まつてゐて、安部公房が20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』でtopologicalに等価交換
したやうなもう一方の反対の極の論理、即ち「世界ー内存在」、こんなドイツ語があるかだう
か、ドイツ語でいふとすれば、das-in-dem-die-Welt-seiende-Sein(ダス・イン・デム・ディ・
もぐら通信
もぐら通信                          ページ68

ヴェルト・ザイエンデ・ザイン)、直訳すれば人間存在も含めた(変形3の意志と変形4の人
間存在の再帰性参照)「存在の中に世界が存在するといふ存在」を考へることがなかつたから
である。[註29]このtopologicalな内部と外部の等価交換が、存在概念との関係で、リル
ケの詩には明瞭にあつた。これが、安部公房がリルケの詩を耽読した理由であることは、あち
こちで既述の通りです。

[註29]
即ち、安部公房独自の話法「僕の中の「僕」」が、これです。即ち、前者の僕といふ人間存在(時間の中では現
存在と呼ばれる存在)の中に存在してゐる無名の「僕」といふ等価交換の可能な存在の世界。これが、安部公房
文学の世界です。ハイデッガーにはこの論理が欠けてゐた。この問題は『安部公房の変形能力(9):ハイデッ
ガー』(もぐら通信第11号)にて簡潔に論じましたので、ご覧下さい。

変形3の意志と変形4の人間存在の再帰性を併せて考へると、一つの人間存在に対して複数の
名づけられない(無名の)汎神的存在が、連続量又は非連続量として対応する。しかし、人間
存在と汎神的存在は、内部と外部の等価交換はされない。存在と時間の再帰哲学。何故なら
ば、存在といふ無時間の差異(函数関係)は、時間の中では繰り返しとして現れるから。安部
公房の読者におなじみの安部公房の存在論の記号を使つて繰り返せば、汎神的存在(《存在》)
は時間の中では繰り返しとして人間存在(《現存在》)に対して現れるから、といふことにな
ります。

(6)変形6:20世紀:安部公房、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ソシュール、ヴィ
トゲンシュタイン、チョムスキー等の人種、民族、個別言語、個別専門領域を問はぬ範疇横断
的な、即ちバロック的である超越論者(汎神論的存在論者)達
変形5の人間存在と汎神的存在は、存在といふ事に於いては等価であり、従ひ交換可能である。
存在概念の再帰性に依る再帰哲学。再帰性を備へた存在概念とは、私たち日本人の古来いふ言
霊(ことだま)のことである。言霊は存在概念であるので、自然のままに常に言霊自身に再帰
を繰り返す。[註30]この言霊の冗長性を保証し保障するのが五十音表です。[註31]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 69

[註30]
[註9]の『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「4。
言語論といふ毒(問題下降の毒)」からの引用をお読みください。

[註31]
『安部公房とチョムスキー(6)』の「4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か」
をご覧ください。生成変形文法の論理を借りて、また安部公房の世界の存在のこととしても、五十音表の重要性
について詳述しました。

超越論は、言語論としては、言語機能論(または意味形態論)である。言語機能論といふ事で
あれば、このtopologyには18世紀後半の本居宣長も同列に入る[註32]。有機物も無機物
も存在にあつては等価であるといふ思想。従ひ、自然を思ひ、自然の中では石も岩も山も生き
てゐるといふ生命の哲学の思想。これはこのまま古代からの自然神崇拝と言つていいものです。
原始信仰とかアミニズムとかシャーマニズムとか、色々な言ひ方があるでせう。近代ヨーロッ
パでは、この考へはショーペンハウアーから始まつてゐます。ショーペンハウアー流に言へば、
石にも岩にも山にも意志があり、意志が遍在してゐるといふことになります。一個の石が落ち
るのも、ニュートンの物理的な力学によるのではなく、石が落ちたいと思つたから(意志した
から)落ちるのだといふのが、この哲学者の説明です。自然は生命であり、私たち人間も一人
一人その自然の一部であるといふ思想です。たとへ、その体系的叙述が、その人間洞察の深さ
から如何に辛辣であるとしても、しかし、この超越論の哲学者の思想は、私たち日本人の世界
に十分に通じてゐます。しかも、森羅万象を次の二つの原理によつて説明できてゐます。

①世界は私の表象である(認識論)
②世界の本質は意志である(存在論)

私たち日本人の欠点は、私たちの神道の世界観の説明を、このやうな原理に拠つて言葉による
説明をすることができないことでした。何故ならば、上述既論の通り、私たち日本人は存在に
関しては言挙げしないことを大切にして、最後の氷河期の終はつた1万5000年前から始ま
る縄文時代以来今日まで此の日本列島で生活して来たからです。これが、私たちの間(マ)の
文化であり、沈黙の文化であり、余白の文化です。これがこのまま、安部公房の存在の文学で
あることは、読者であるあなたのご存知の通りです。この意義に於いて、安部公房文学は、植
民地主義に基づかない[註32]、即ち超越論(汎神論的存在論)に基づく大地母神崇拝の文
学[註33]として、この『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)で示し
た通りの、ヨーロッパ近代哲学史と文学史上の位置にゐるといふことが、即ち哲学史上も文学
史上も文明間の階層で其のやうな位置にゐるといふことが、ユーラシア大陸の東の端の島国で
ある日本列島から眺めると、よくわかることもお判りでありませう。

[註32]
『安部公房文学の毒について∼安部公房文学の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ70

「この前もテレビで大航海時代なんでロマンチックな特集番組をやっていたけど、要するにあれは略奪農耕なみ
の乱暴な植民地収奪じゃないか。血も凍るほどの第一期の植民地時代、皆殺し政策だからね、やるほうはテレビ
ゲームはだしの面白さだろうけど、やられる側はロマンチックどころの話じゃないよ。」(『錨なき方舟の時代』
全集第27巻、159ページ上段)

「けっきょく世界は植民地支配国と、被支配国の二つに分けられる。(略)ところがなぜか日本は植民地化され
なかった。地政学的には当然侵略の対象になってしかるべきアジアの一角にありながら、なぜか支配をまぬかれ
た。偶然か必然かはさておいて、おそらくアジアでは唯一の植民地化されなかった国だろう。だからもし日本の
特殊性を言うなら、文化だとか風土だとか伝統なんかではなく、きわどいところで植民地化をまぬかれたという
点……[註A]
―――要するに偶然の結果だということですか。
安部 必然が意識された偶然だとすれば、やはり偶然と言ってもいいでしょう。要するにどこの国でも、植民地
化の運命さえまぬかれていたら、日本と同じようなコースをたどれたかもしれないということが言いたかった。
この問題に対する日本人の鈍感さはまさに西洋人なみだ。だか
ら日本のテレビがポルトガルの大航海時代を祝う式典を中継して、ひどくロマンチックな解説をつけて、西と東
の文化の交流の記念だとかなんとか一緒になって手をたたいてみせたりする。文化の交流どころか、一つ間違っ
たら植民地化の先兵になりかねない連中だったんだ。裸の子供のところにライオンが入ってくるようなものさ。
 そして運よく食用にならずにすんだ日本という子供は、遅ればせながらローロッパ式の近代化をとげ、遅れば
せながら植民地支配の仲間入りをしてしまう。ところが先輩たちにさんざんうまい汁を吸われてしまった後だっ
たから、戦火による略奪というひどく不器用な手段にたよるしかなかった。
 いわゆる発展途上国に見るべき文学がないのも、けっきょくは植民地収奪の結果だと思う。
発展途上国にも文学があり、その民族のためのすぐれた文学が生まれていると主張する人もいるけど、ぼくはそ
う思わない。すくなくとも世界文学、あるいは現代文学という基準では、文学と言うにたる文学はない。
 逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも言える。西欧的な方法をよりどころにしているから駄目な
のではなく、植民地主義の土台にきずかれたものだから駄目なんだ。反植民地主義的な思想にもとづく作品でさ
え、植民地経済を基礎にしていた国からしか生まれ得ない。
メフィストフェレスなしにファウストがありえないようなものさ。(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、15
9ページ下段∼160ページ上段)(傍線筆者)

[註A]
アジアの中で、欧米白人種(キリスト教徒)諸国の植民地化による収奪を免れて、国家としての独立を維持した
のは、我が日本国の他には、タイ王国だけです。」

[註33]
「『カンガルーノート』論(2)」(もぐら通信第67号)の「6。『安部公房文学と大地母神崇拝』∼神話論
の視点からみた安部公房文学∼」をご覧ください。詳述しました。

以上の変形1から変形6までで、topologyといふ接続と変形の言語論理を使つて、17世紀か
ら21世紀初頭までのヨーロッパ近代哲学のうちの超越論の系譜についての大摑みの説明をし
ました。ここに名前を挙げなかつた哲学者や思想家達も、キリスト教といふ一神教のtopology
と戦ふ限り、これら6つの変形のどれかに入る筈です。この系譜は「いわゆる生の哲学ですが、
ここ[引用者註:ショーペンハウアー]から派生するニーチェ以下の人々、ワグナー、ベルグ
ソン、ウィトゲンシュタイン、フロイト、ユング、ジッド、ヘッセ、アインシュタイン、トルス
トイ、マン、ボルヘス、フーコーに至るまで」[註34]、またこれ以外の相当するショーペ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ71

以降の超越論の藝術家や哲学者もまた、そのあり方に応じて、これら6つの変形のどれかに入る筈です。

[註34]
メタSF作家荒巻義雄氏の言。

ここまで考察して来て、また六つのネットワーク・トポロジーの図形を描いてみて、近代ヨー
ロッパの人たちは本当にご苦労なことであり、御気の毒であるといふ思ひがしました。何故な
ら、私たち日本人には、こんな苦労には最初から縁がないからです。結局、日本人は、明治維
新以来の150年は欧米の植民地化による収奪と搾取、日本人の奴隷化と文化破壊から日本の
国を護るといふ、即ち消極的な理由で国を防衛するために已む無くヨーロッパの文物を輸入し、
これを理解しようと努めたといふことになります。もし此の輸入に積極性があつたとしたら、
私たち日本人の、海の彼方から到来する舶来品といふ珍奇新奇な文物に対する好奇心と、人間
としての向上心に拠るものでせう。さうして、神々のtopologyに則つて、垂直軸と水平軸の等
価交換を行つてみて、等価交換ができて受容できるものは受容し(陰陽五行習合、神仏習合)、
等価交換ができないので受容できないものは受容しなかつた。何故なら、それは私たちの
topologyではないから。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 72

最後にもう一つ、欧米白人種キリスト教との唯一絶対神のtopologyと私たち日本人のtopology
が、どんなに現実の日常の生活の中で異なるかについて経験的な説明をして終はりにします。
一つは経済の領域のこと、もう一つは文化の領域のことです。この場合宗教は後者の一部とし
て、後者に含めます。私たちの生活の全体像がよくわかるように、これまでの『安部公房とチョ
ムスキー』論に基づいて、政治・経済・文化・伝統・歴史・神話・自然、そしてこれらと私た
ち人間の関係が一目で判る図を作成しましたので、ご覧ください。題して「政治と経済の内部
から外部の自然まで」。これで地球上の古今東西の文明の概観を得ることができる筈です。
URLは次の所です:https://ja.scribd.com/document/377551236/政治と経済の内部から外部
の自然まて

これを見ると、唯一絶対神を奉じる一神教は、神話はありますが、其の外部の自然を欠いてゐ
ることがわかります。何故なら旧約聖書の創世記では、唯一絶対神が創造した世界の内部にの
み自然はあるからです。そして唯一絶対神のみが常に世界と其の中に生きる人間の外部であ
る。唯一絶対神のの外部は存在しない。この外部に出ること、安部公房の読者に親しい言葉で
いへば、この閉鎖空間から脱出すること、これが近代ヨーロッパの超越論者の努力であつた。
さてしかし/そして/従ひ、この神話の話はいつも、一神教の唯一絶対神と人間の話に終始して
ゐる。上述の通り、21世紀の経済と政治の学は、次のやうであるべきではないでせうか:

「(c)この、国に対して顔と胴といふやうな人の体の部分の名前を名付けるといふことは、
大地母神崇拝の論理と感情を表してゐるのではないだらうか。何故ならば、ずつと時代を下つ
た西暦500年前の古代ギリシャの多神教の世界に生きるソクラテスが、プラトンの『国家篇』
の中で国家とは何かを対話しながら最後に、何故国のことを人間の体の隠喩を用ゐて考へると
こんなに上手に国といふものを論じ理解することができるのだらうかと感嘆してゐるからです。
自然といふものを顧慮せずに論ぜられる近代ヨーロッパの近代国家に関する政治学は、どこか
に致命的な欠陥を抱へてゐると思はれる。何故ならば、その政治学は自然のことを放つてをい
て、人間と法律ばかりを論ずるものではないかと思はれるからです。政治の外部は自然だとい
ふことを前提にして考へられるのが、21世紀の超越論に基づく政治学であり政治論であると
いふことになります。経済についても同様です。」
(「7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」の「D 地1」)

このことの鍵語(キーワード)は、大地母神崇拝、古代ギリシャ(欧米の人間にとつては)、
多神教、ソクラテスの弁証法(ヘーゲルの一般的な論理から言つて特殊な部分的否定論理に執
着するのではなく)、国と人体の隠喩関係(20世紀までの近代国家の国と人体の関係は一神
教のtopologyに依る換喩関係[註●]でありました)、そして自然、です。これらのことが、
これから超越論で物事を考へるための大切な思考の構成要素になるといふことです。

[註●]
一神教のtopologyにあつて、人と人の意思疎通(コミュニケーション)の関係は隣接してゐるだけであるといふ
ことは、そのtopologyをみてお判りでせう。この関係を、修辞学で、換喩の関係と言ひます。換喩といふ譬喩(ひ
ゆ)の一種は、隣接してゐるだけで、直接交はることがない。例を挙げれば、銭形平次と名前を呼ばずに、八丁堀
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もぐら通信                          ページ73

といふやうな場合です。夏目漱石の『坊ちゃん』に登場する高等学校の教頭を赤シャツといふのも、これです。
また文藝春秋社と呼ばずに紀尾井町といひ、国会と言はずに永田町といひ、行政府の名前をいはずに霞が関とい
ふのも同様です。即ち其の業界なり場所なりの枠組みの中で通用する譬喩です。部外者には理解ができません。
これに対して、隠喩(メタファ)は、直接交はる関係を言ひます。あいつは豚であるといへば、あの人は豚にな
りでせう。また、あの女性はお姫様だといへば、その女性はお姫様になるでせう。言語と譬喩については『言語
とは何か』(もぐら通信第39号)で、集合論のベン図を用ゐて説明しましたので、これをお読みください。

この章で描いたネットワーク・トポロジーの図は、これからも必要な都度引用します。

追記:
この章を書いてみて思つたことは、私たち日本人の資本主義は江戸時代の18世紀、即ちゲー
テやカントやルソーやヘルダーやらの時代の、特に18世紀の後半、大阪に米相場といふ相場
が立つた時に成熟してゐて、出来上がつてゐたといふことです。それで日本は、例外的にアジ
アの諸国の中で唯一近代ヨーロッパ式の近代化を、恐るべき短期間で成し遂げることができた。

その証拠を見せろと言はれたら、はい、お見せします、この時代に山形は酒田に本間宗久さん
といふ「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌はれた程の素封家であつた本
間家の出の相場師、米相場で今なら超のつく大金持ちになつた此の知性豊かな人間が、ローソ
ク足といふ相場を読むための道理にかなつた指標を発明したからです。此のローソク足を一度
ネットで検索して、見てください。これは今に伝はり、アマゾンでも依然として21世紀の現
在も原著が発売されてをります(https://www.amazon.co.jp/本間宗久相場三昧伝−相場道の
極意−-本間-宗久/dp/4925152092)。

今では、このローソク足はcandle stick(キャンドル・スティック)と呼ばれて英語圏はもと
より海外の相場で一般的に相場を読むために使はれてゐる。このやうな相場に関する知的発明
が現れなくて、何の資本主義でありませうか。何故ならば、安部公房が20歳の時に『詩と詩
人(意識と無意識)』に書いた通り、世界に座標などはなく、世界の根底は無であり、世界の
底は抜けてゐるからです。世界はスカスカ。世界は差異の集合である。即ち、経済もまた例外
ではなく、あるいは利害得失の経済の世界であればこそ尚一層、人間の経済行為の根底にある
のは投機と訳されるspeculation、しかし即ち思弁であり、この思弁といふ投機(speculation)
の上に投資(investment)といふ法律に基づいた座標のある経済行為が存在してゐるからです。
即ち、法律の底も、投資の底も本来は抜けてゐる。何故ならば、前者は言語論理といふスカス
カの差異を文字にして成り立つものであり、後者は投機(speculation)といふ思弁
(speculation)の上に成り立つてゐるからです。後者もまた言語論理によつてゐる。時間が
単位化されて絶えず垂直方向に上下して動いて止まぬ水平方向に日連続に単位化されて移動し
て行く此のローソク足は、外国為替であれ、株式であれ、貴金属その他の先物相場であれ、今
も世界中の相場で使はれて威力を発揮してゐます。

勿論資本主義の成熟は、これは経済のことだとして、政治的には江戸時代の幕藩体制の成熟、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ74

(何しろ参勤交代制度によつて江戸の文化が全国津々浦々に及び、平準的に同じ文化の共有が
あつたといふことは元禄時代17世紀後半の芭蕉の俳諧の世界の文化程度の高さを見ると一目
瞭然であるー今よりも文化程度が遥かに高かつた、漢籍と日本の古典文学の教養を全国の俳諧
師と高弟達が共有してゐたといふことですー)、それから文化の領域では更にこれと裏腹の関
係にあることですが、江戸時代の読書人口の多さ、識字率の高さ、即ち武士は藩校での四書五
経、庶民は寺子屋や塾での読書(伊藤仁斎の古義堂や荻生徂徠の 園堂(けんえんどう))と
いふやうに、総体的な国としての成熟があつての明治維新であり、近代の日本の国であつたと
いふことです。藩校は帝国大学から国立大学へ、寺子屋は私塾から私立大学へ又私塾へと継承
されて今日に至つてゐる。もつとも、日本の文化の知的劣化は激しくなる一方であると私には
見えるが。さて、どうしたものであらうか。義務教育の間に古事記を読んで、言語と神話と存
在とtopologyのことを学んでは如何か。
もぐら通信
もぐら通信                          75
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(26)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXVI

Du aber, Göttlicher, du, bis zuletzt noch Ertöner,



da ihn der Schwarm der verschmähten Mänaden befiel,

hast ihr Geschrei übertönt mit Ordnung, du Schöner,

aus den Zerstörenden stieg dein erbauendes Spiel.

Keine war da, daß sie Haupt dir und Leier zerstör.

Wie sie auch rangen und rasten, und alle die scharfen
 載
Steine, die sie nach deinem Herzen warfen,



wurden zu Sanftem an dir und begabt mit Gehör.



Schließlich zerschlugen sie dich, von der Rache gehetzt,


während dein Klang noch in Löwen und Felsen verweilte


und in den Bäumen und Vögeln. Dort singst du noch jetzt.



O du verlorener Gott! Du unendliche Spur!


Nur weil dich reißend zuletzt die Feindschaft verteilte,


sind wir die Hörenden jetzt und ein Mund der Natur.



【散文訳】

お前、しかし、神々しき者、お前、最後まで依然として音を響かす者よ、
拒絶されたバッカスの巫女の群れと熱狂が、お前を襲撃したので、
巫女たちの叫び声は、秩序を以って、耳を聾するばかりに聞こえた、お前、美しき者よ、
破壊する者たちの中から、お前の慰め建立する演奏が、立ち昇った。

お前の頭(こうべ)と竪琴を破壊することのできるバッカスの巫女は誰もいなかった。
巫女たちが、どんなに激しく戦い、怒り狂って暴れ廻ったか、そして、お前の心臓に投げ
つけた石が、お前のところに来ると柔らかなものになり、そうして、聴覚が授けられた。
もぐら通信                         

もぐら通信 76
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ77
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 78
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 79
編集後記

●ニュース&記録&掲示板:お休みしました。『カンガルー・ノート』論と安部公房
とチョムスキーで紙面なし。●『カンガルー・ノート』論(15):5.4 第5章新
交通体系の提唱:これはもう今までの章で論じて来たものをまとめることと、新たな
知見を追加することで仕上がりました。あと二つの章を論じて終はります。そして最
後に3といふ数字を再度論じます。安部公房とチョムスキーで論じたやうに、高天原
も存在の3階層、安部公房の世界も存在の3階層。いづれも存在論です。まあ、哲学
で日本の神話を論じたのは、私が初めてかも。つまり、哲学ですから、このまま外国
語に翻訳すれば、そのままヨーロッパの人間にも通ずる筈です。まあ、彼奴等もびっ
くらこくであらう。と、こころのどこかで思ひながら、楽しみながら、書きました。。
でも、まづ何よりも、日本人の読者であるあなたに理解してもらひたいと思つて書き
ました。それから幕末明治維新以来150有余年近代国家日本の建設と保持に身命を
賭して亡くなつた方達、死者たち、100年後の安部公房の読者たち、これから生ま
れてくる子供たち若者たちのために書きました。安部公房とチョムスキーを論じて事
が成つたことを/に、報告と感謝の意を伝へるために飯田橋の東京大神宮、徒歩で南下
して靖国神社、そして明治神宮に参詣しました。●何故日本の文学は衰退したのか
(2):新潮社の安部公房全集のご担当であつた宮西さんのお力を拝借しました。あ
りがたうございました。しかし、社会的事象を時系列に並列してみると項目ごと事件
ごとに相関を読むことができて、時代の網目を読むことができます。時代といふのは
過去と現在の時代のことです。文体にスリルとサスペンスのある小説が読みたいなあ。
面白い小説があればお教へください。ジャンルを問ひません。●安部公房とチョムス
キー(8):7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く:この章でほとんど「近
代の超克」についての回答をしたと思ひます。さて、これからどうなるか。一つは日
本のこと、一つは世界のこと、もう一つは安部公房の読者のこと、あなたの生き方の
ことです。55ページ分の文章を書くのは流石に疲れた。といつて、その分だけ美味
い酒がこの後飲めるのであるが。●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(2
6):今月は休載。『カンガルー・ノート』論と安部公房とチョムスキーで紙幅が尽
きた。こんなこともあらあな。●ではまた、次号

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(17):5。5 存在を荘厳(しょうごん)す
限」
る:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
2。火星人特派員日誌
3。。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(26)
4。Mole Hole Letter(7):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          80
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【前号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
訂正の場合には、Googleドライブには訂正後
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
の最新版を差し替へて置いてあります。
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
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