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20180512

指揮者とは何か

エリアス・カネッティの有名な著作『群衆と権力』に
「指揮者」と題した項があつたので、これを読みながら
思つたことを以下に箇条書きにする。

1。指揮者といふ職業の登場は19世紀の後半、即ち近
代ヨーロッパ文明の資本主義の工業化が隆盛を迎へる時
期に当たること。
2。19世紀後半には、このことに対する反省からであ
らうと思はれるが、スエーデンに初めて神話学が生まれ
たこと。これは当然の事ながら、人類古代の神話の世界
の復活と探究の試みです。
3。といふことは、文化人類学も比較言語学も、この思
潮の中にあること。
4。指揮者はこのやうな産業上の工業化を背景に生まれ
た職業であること。平々凡々たる隠喩を使へば、時代が
要求した専門職であること。
5。カネッティのドイツ語を読んで初めて気がついた
が、指揮台はドイツ語でPult(プルト)といふこと。
6。Pultは、実は指揮台のみならず、書見台でもあるこ
と。ヴァイマールのゲーテの家の書斎にはプルトが部屋
の片隅の角に設置されてゐて、そこでゲーテは立ちなが
ら原稿を書いた。つまり、プルトは五線譜のみならず、
文字を書くために原稿を置く立ち机でもある。また読書
台でもある。
7。時代の大きな転換点には、内部と外部が交換される
といふことが、言語のみならず、思考論理の問題として
風俗に流行として現れる。現今の日本ならば、女性の下
着が表に出て来たり、女性がお化粧を外出前に密室で済
ませずに、外部に出て電車の中でお化粧したりといふ、
従来の道徳を破る行為が、これに当たる。
8。このやうに考へると、上記1から4のことから、プ
ルトが書斎の内部の空間から外部の空間へと出て行つた
ことが、指揮者の誕生と共に考へられることである。即
ち、私が公になつたといふことでる。
9。といふことは、指揮者の歴史で、それまで演奏会の
内部にあつたものが、外部に出て来たといふことでもあ
る。
10。しかし、ここでプルトの他の使用例をみると、い
つからかは知らないが、よく経験することに聴衆の前の
舞台に上がつて、講演者が聴衆に向かって(相対面し
て)話をするときに、プルトの使はれることがよくあ
る。他方、
11。講演ではなく、セミナーなどでは、プルトは催事
の空間の隅に、しかしゲーテの書斎の場合のやうに壁に
向かふのではなく、反対に振り向いて聴衆の方に向かつ
て置かれて、話者は視聴者の方を向いてゐる。
12。何故プルトと指揮者の方向と聴衆の関係をここで
いふかといへば、カネッティの指揮者論に、このことが
論ぜられてゐるからである。
13。確かにいはれてみれば、
(1)指揮者だけが立つてゐる。その他の人間たち、即
ち団員たる演奏者たちと聴衆は皆座つてゐる。
(2)指揮者は演奏者たちの方だけを見てゐる。
(3)指揮者は聴衆に背中を向けてゐて、後者は前者の
正面を、そして其の顔を正面から見ることができない。
(4)指揮者は舞台と客席の境界域に立つてゐる。
(5)指揮者は、両方の側の人間から見られてゐる。舞
台にゐる演奏者たちからは正面を、聴衆からは背面を見
られてゐる。
(6)カネッティの考へによれば、オーケストラのそれ
ぞれの楽器は人間の典型(タイプ)であり、指揮者はこ
れら全ての人間のタイプの声(ドイツ語では楽器の音と
人間の声は同じ名詞、die Stimme、ディ・シュティンメ
である)を牛耳る権力(Macht、マハト)を有してゐ
る。即ち、
(7)これは、人間と楽器の声の生殺与奪の権力であ
る。
(8)楽器の多様性は人間たちの多様性である。
(9)楽団員は最初から指揮者に従ふ用意があるといふ
ことによつて、指揮することによつて全体を一つに(ド
イツ語では単位といふ意味もある)まとめあげ、それに
よつて今度は楽団員全員に自分たちの演奏してゐる楽音
の全体を明らかに目に見えるやうに提示することが、そ
の役割である。
(10)このやうに、指揮者は、大広間にゐる背後の聴
衆にとつては、他方指揮をして演奏してゐる間は、指導
者(英語のleader)である。カネッティは、この聴衆を
Menge(群衆)と呼んでゐる。群衆にとつての指導者な
のである。
(11)指揮者は指導者として群衆(聴衆)の最先端の
先頭にゐる。
(12)従ひ、指揮者が一歩を踏み出せば、群衆はその
一歩に付き従ふのである。指揮者は立つてゐるが、しか
し此の引率(lead)の一歩を、指揮者は足によるのでは
なく、手で行ふのである。指揮者の歴史をみると、ここ
に足と手の交換が上記(1)から(4)の時期にあるだ
ろうと私は思ふ。
(13)指揮者が手を振る間、聴衆は席を立つこともで
きず、休憩を取ることもできず、座り続けて身動きする
ことができないし、してはならない。これが、指揮者の
行使する聴衆に対する権力の行使である。
(14)楽団員の演奏する楽器の声は、上記(6)から
(8)のことから、人間の数多くの意見であり確信の表
明である。指揮者はこれらの声を聞いて知つてゐる全知
全能(allwissend)の位置にゐる。そして上記(9)の
ことを行ふ。一瞬一瞬に於いて、指揮者は演奏者たる楽
団員の一挙手一投足の何が許され何が許されないかの判
断ができて、それは自ずと指揮者には知られることなの
である。
(15)完璧な総譜(Partitur)が、指揮者の頭の中か
プルト(譜面台)の上にある。その上での上記(14)
の全知全能の位置である。
(16)このやうに、その大きな空間の全ての人間たち
に目をやるといふことから、指揮者は遍在するといふ
(Allgegenwaertigkeit)名声を得ることになる。私な
らば、汎神論的に存在するといふところです。ロマン主
義の台頭と共に指揮者の登場が語られるのは、この文脈
があるからだと思はれる。即ち、
(17)指揮者の此の全知全能のGodに匹敵する、その
空間内の万能性は、上記1と2に鑑みれば、古代の神話
の世界の復活が、一種劇場(舞台である)で、しかも演
劇といふ科白といふ言葉によるのではなく、音楽といふ
楽音によつてなされる神話の世界の、この主神たる、そ
れもキリスト教の唯一絶対神ではなく、多神教の、従ひ
(近代文明をつくるに当たつて彼等が規範にした)古代
ギリシャ神話ならば、ジュピターの神が指揮者であると
いふことになり、その祭祀が演奏会であり、指揮者とい
ふ司祭の登場といふことにならう。
(18)さうであれば、指揮者は巫女でありシャーマン
である。上記(3)によれば、群衆(聴衆)は祭祀者の
面を正面から見ることは、演奏中・指揮の最中には、で
きない。として見れば、
(19)上記(2)から(5)のことから、客席の群衆
と劇場の舞台上の楽団員の演奏者は相対する関係にあつ
て、群衆の様々な人間の声を代わりに発声してくれるの
が演奏者であり、演奏者の楽器といふ媒体である。
(20)指揮者もまた、上記(4)のことからも、媒体
であり、媒介者であり、確かにシャーマンである。両方
の側を、劇場舞台の上と観客を上位接続する巫女であ
る。
(21)以上のことは全て、楽曲(作曲)といふ作品が
あつてこその、そのことを巡つての、その空間の支配者
である指揮者の話である。
14。さて、プルト(Pult)とは一体何であつたのか。
手とは何であるのか。指揮棒とは何か。
(1)プルトとは、群衆に背を向けた孤独なジュビター
の書見台であり、執筆台であり、読書台であり、総譜台
である。主神の読むための台である。日本ならば文脈は
全く日本的に異なるが、素読を教はるときの書見台であ
る。
(2)topological(位相幾何学的)にいへば、手と
は、群衆と演奏者団たる楽団の各員を等価交換して、一
次元上の次元を創造するための、それ以前には調子を整
へるための足によつてゐたものを、立つことによつて足
を固定し、下半身の動きを上半身に移動させて、手とい
ふ手相のある(足に相はない)、人間の運命を占ふため
の人体の一部であるものを、公の場で見せて使つて、と
なれば、それは主神の手であるからには、群衆の運命を
支配する、上記(2)に大いに関係のある手、天体の動
きや星座の位置に関係の深い手といふことになる。安部
公房ならば、存在の手と呼んだ、四季の移り変はりに無
縁の、即ち時間の外部にある、即ち皺のない、のつぺり
とした手である。
(3)指揮棒とは、このやうに考へて来ると、ジュピタ
ーの手に握られて、或いは軽く手の内にあつて、今度は
群衆にではなく、群衆に対しては象徴的な交換関係の立
場にゐる楽団員たる演奏者に、人間は宇宙の本質を知る
ことはできない、お前たちの知ることのできるのは方向
だけであるといふ事実に基づいて、またその事実を知ら
しめるために、知らしめて象徴的な人間たちを支配する
ために振る、楽音の方向指示器としての棒である。
(4)かうして、Pult(プルト)とHand(ハント:
手)とStab(シュタープ:指揮棒:権標)の三つが一つ
になつて理解される。Stabとは、手元にある独和辞典
(木村・相良)によれば、「司教、元帥、裁判官など
の」持つ、文字通りの権力(Macht:マハト)の標(し
るし)であり、例文によれば、den Stab über jn
brechen(デン・シュタープ・ユーバー・イェーマンデ
ン・ブレッヒェン)、和訳すれば、その棒を誰かの上で
折る、といふこと、要するに、「或人に死刑の判決を下
す」、といふことなのです。
(5)指揮棒たるシュタープは、上記(6)(7)にあ
る通りに、またこのことを通じて、指揮者たる主神の両
側の人間たちの生殺与奪の権利を有してゐる、演奏会場
といふ大きな空間の支配者である。

エリアス・カネッティは、これらの連想連語を十分承知
の上で、指揮者を論じてゐるのです。

15。聴衆は、上記1から14の経験を実際に体験する
ために演奏会といふ劇場へ足を運び、音楽家は楽団員と
して演奏家になり、音楽家のうちのあるものは指揮者と
なる。

エリアス・カネッティの全集が法政大学出版から出てゐ
ます。

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