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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2019年7月1日 第82号 第二版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 僕は図書館にすわって詩人の作品を読んでいる。広間には多くの人がすわっているが、ほ
ただ を通
けの って とんどそれを感じさせないほど静かである。だれも本に読みふけっている。ときどきここ
番地
に届 かしこでページを繰る人が、夢から夢へ移るときに寝返りをするように身動きをするの
きま
す みである。ああ、読書をしている人々にかこまれているのは、なんと快いことだろう。

安部公房が耽読し惑溺した『マルテの手記』(「国立図書館で」望月市恵訳、岩波文庫)

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(16):5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章風
の長歌:長歌(鎮魂歌):岩田英哉…page10
 5。5。1 長歌とは何か
 5。5。2 長歌は高天原を歌ふ
 5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空間
 5。5。4 安部公房の長歌
 5。6 目次
3 何故日本の文学は衰退したのか(3):高村薫「小説の現在地とこれから」を読む(月
刊新潮 2018.06;p.159-160):岩田英哉…page37
4 安部公房とチョムスキー(9):8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる:岩田英哉…
page 44
 1。アドルノとドゥンス・スコトゥス
 1。1 カントの一つ目の失敗
 2。近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数
 2。1 カントの二つ目の失敗
 2。2 マルクスのドゥンス・スコトゥス理解
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(26)∼安部公房をより深く理解する
ために∼: お前、しかし、神々しき者、お前、最後まで依然として音を響かす者よ :岩田
英哉…page 74
6 Mole Hole Letter(8):指揮者とは何か…page 80
7 編集後記…page 87
8 次号予告…page 88

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 84
・本誌の主な献呈送付先…page88
・本誌の収蔵機関…page 88
・編集方針…page 88
・前号の訂正箇所…page88

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

該当なし
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Priz 該当なし

今月の読書会
早稲田大学現代文学会@genbun_e515 5月18日
毎週水曜6限は安部公房勉強会です。今はRichard.F.Calichman『Beyond Nation』
を読んでいます。
担当者が訳出と解説を行い皆で議論する形です。今週序章が終わり、来週から『砂
の女』を扱う第一章に入ります。
新入生の方、まだまだ歓迎しておりますので興味がおありでしたら気軽にお越しく
ださい。

今月の安部公房全集
まさ♪@nuihime 5月14日
昨日、東名高速の垂れ幕?で気になっていた大和市立
図書館に行って来た。広い広い、蔵書も多い多い‼︎
学生の頃、夢中になった安部公房の全集があって歓喜乱舞。
何故かあ行の作家が好きなんだよなぁ…

今月の朗読会
カミロック(Yukinobu KAMI)@kami_rock 5月15日
明日は私のリーディングシアター春ツアー『MACHI LIVE RALLY』
第二回開催。今回は安部公房へのリスペクトを込めたツアー。
5月16日(水)19時から。会場は北浜キタリシテ。現在は文庫本を
ポケットに北浜の街を散策中。私の入魂のステージを感じたていた
だきたい!#加美幸伸リーディングシアター #安部公房
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今月の石川淳
石川淳BOT@isai_bot 5月15日
見知らぬ若い人が立つてゐた。そのひとは本が出ましたからと、たつた一言さうい
つて、わたしに一册の本を手わたすと、つい脊をむけて去らうとした。いかなるひ
とがいかなる因緣に依つてどこの天から降つて來たのか判然としない。呼びとめて
聞けば、それが著者の安部公房君であつた。「安部君の車」

今月の上演
コニエレニ ビニヰルテアタアが二人芝居の2本
立て:2018年4月25日 15:56

コニエレニ ビニヰルテアタア Vol.1短編戯曲集「ふたつの小部屋」が6月6日から10


日に東京・Gallery &Space しあんにて上演される。本作はポーランド演劇の紹介、
上演を目的とする赤松由美 (https://natalie.mu/stage/artist/47602) の個人事務
所・コニエレニと、千絵ノムラによる演劇ユニット・ビニヰルテアタアによる、二
人芝居の2本立て公演。戦中、戦後を通し、反体制を貫いたポーランドの詩人ズビ
グニェフ・ヘルベルトの没後20周年を記念した「隣の部屋」と、安部公房の戯曲
「鞄」から着想を得た、 生きている鞄 を前に迷路に入り込む男と女を描く「千絵
ノムラ版 鞄」を上演する。
出演者には元・唐組
(https://natalie.mu/stage/artist/94347) の赤松、劇団東京乾電池
(https://natalie.mu/stage/artist/94351) の西本竜樹 (https://natalie.mu/stage/
artist/47212) と吉橋航也、そして千絵ノムラが名を連ねている。チケットは5月1日
に発売。

今月のDVD
ブラジルまで転がる石のように@nanimokanimo 5月12日
#ブラジルの映画 ②
2nd垢でもtweetした、
クライテリオン版Blu-ray
『Woman In The Dunes(邦題:砂の女)』(1964年)日本ではBlu-ray化されてま
せん。DVDはあります。
あの安部公房の『砂の女』を映画化した物です。
監督は勅使河原宏。
岡田英次、岸田今日子。
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今月の桂川寛
Momo Kanazawa@momokanazawa 5月1日
おはようございます。悪夢を見ずに朝まで寝られたのは、美術館のおかげ。桂川寛、
安部公房著『壁』より

今月の文豪ナンバーワン決定戦
作者: 福田和也 日本文学に金字塔を打ち建てた、50人の文豪
たち。夏目漱石から星新一、徳田秋声、江戸
出版社/メーカー: 宝島社
川乱歩、三島由紀夫に林芙美子、松本清張や
発売日: 2018/03/05 安部公房……本書では、彼らを「美文」「思
想」「面白さ」といった5つの項目で採点・ラ
ンキング化。読者の視点と文芸評論家・福田
和也氏の視点を交えながら、各文豪の魅力を
再発掘します。
今月のtopology
Newton(ニュートン) 2018年 06 月号6月号に下記の見出しにて、安部公房の大好
きだつたtopologyの特集が組まれてゐます。

https://goo.gl/o11VFq

●Newton Special(4)
不思議な幾何学 第3回(終)
ゼロからわかるトポロジー
伸ばして縮めて形を調べる,やわらかい幾何学

店頭で手に取るのも一興。安部公房理解の一助となる
かも知れません。
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今月の大江健三郎

「安部さんは一番好きな作家で、三島さんよ
り断じて独創的な、大きい才能でした。家も
近くてドライブにもよく誘われた。でもある
時、この2人が相談して 大江も一緒に3人
で一つの意思表示を、文化的にも政治的にも
しよう、三島さんと大江はずいぶん違うから、
話し合いをする土台を作らないか と安部さ
んが電話で言ってきて、僕は断った。それき
りです。」(読売新聞2018年5月6日長
官)

今月の書き出しの一行
小説の書き出しだけを並べた「kakidashi」も
これまでも小説の書き出しを紹介する試みはあった。紀伊國屋書店では過去に「ほ
んのまくら」フェアを実施している。小説の最初の一文を印刷したカバーを被せ、
書き出しだけで本を選んでもらうというものだ。
それをウェブ上で再現した「kakidashi」というサイトもある。サイトには「これ
は箱男についての記録である」(『箱男』、安部公房)や「子供より親が大事、
と思いたい」(『桜桃』、太宰治)などを始めとしたいくつもの書き出しが並ぶ。
気に入った書き出しをクリックするとその作品のページに飛べる仕組みだ。

今月の砂の女
東直子@higashin 4月24日
昨日発売の「週間現代」5月5日·12日号で、インタビュー「わが人生最高の10冊」
が掲載されています。安部公房『砂の女』や穂村弘『シンジケート』など、これ
まで読んできた本について語っています。どうぞよろしくお願いいたします。

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今月の赤い繭
待ち雨(町田雨子)@matiame0815 4月23日
銀座モダンアート様にて、妄想装画展Ⅱが開催中です
私は安部公房の「赤い繭」の妄想装画を描きました
文学好き、あつまれ∼
http://ginzamodernart.com/?page_id=75

待ち雨(町田雨子)@matiame0815 4月22日
エロかわいい…目、鼻、前髪、手、唇…。
妄想装画展Ⅱ
銀座モダンアート
13時∼20時
4/23∼4/28
明日からです
妄想装画「安部公房/赤い繭」 pic.twitter.com/9et8iNQefC

今月の東欧を行く
さりはま@sarihama_xx 4月7日
さりはまさんが饗宴ロウドクシャをリツイートしました
茶谷ムジさんが語る「東欧を行く!安部公房ト」に行ってきた。次回の「おばけと公
房」にまで発展させての丁寧な語り、「人は貧しさのために貧しくなる」という言葉
への熱い思いに、公房の東欧エッセイが読みたくなってきた。チェコの蒸しパン、ク
ネドリーキとグラーシュも初めてだけど美味しかった。
さりはまさんが追加

饗宴ロウドクシャ@kyoen_rodokusha
【collab-A】 4/7sat は、饗宴ロウドクシャ案内人の
@chatani_muji 茶谷ムジ主催イベントです!

なおらい堂企画 『東欧を行く!安部公房ト』…

茶谷ムジ です。@chatani_muji 3月26日


4月7日(土)は川口市に新しくできた@KAF_GALLERY で、東欧と安部公房のことを
お喋りする会!3月31日(日)は蕨の@shibashibasha でロシア・東欧・コーカサスの
音楽を知る会!寒いところのもの、大人になったらおもしろくなってきた。人間がい
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るところ全部おもしろい!https://www.naorai.space/
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今月の箱男
ホッタタカシ@t_hotta 3月25日
山口果林『安部公房とわたし』によると、石井聰亙&荒戸源次郎から『箱男』映画
化の打診を受けた安部公房は、『ツィゴイネルワイゼン』や『どついたるねん』と
共に『半分人間 1/2 MENSCH』も観たという。「石井監督の感性はジム・ジャー
ムッシュに似ているね」などと話して映画化を快諾した。

今月の他人の顔
白山Kンジ@Knji366
3月7日
『他人の顔』 安部公房

今月のチェニジー
愛書家日誌@aishokyo 3月7日
安部公房は雪の多い箱根に仕事場を持っており、ジャッキを使ってタイヤチェーン
を着脱することが面倒だったので、簡易着脱型タイヤ・チェーン「チェニジー」を
自ら発明しました。
http://buff.ly/1p9PkjD

今月のワープロ
愛書家日誌@aishokyo 3月7日
安部公房は日本で最初にワープロで執筆した作家
といわれています。使用していたのはNECの
NWP-10Nと後継機種の文豪で、それらの開発
にも関わっていました。遺稿がフロッピーディスク
で発見されています。 #作家と文房具
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今月の友達
鴻巣友季子(執筆再開中)@yukikonosu
ブツァーティの傑作短編集評(週刊ポスト)抜粋:「家の中の蛆虫」。男は次第に
語り手の家庭に居着き…。闖入と乗っ取りのモチーフが安部公房の戯曲「友達」や
藤子不二雄(A)の漫画「ヤドカリ一家」を思わせる。"そろそろ来る何か"が気に
なる貴方ための一冊。
https://www.news-postseven.com/archives/20180427_667199.html …
#postseven

今月の愛の眼鏡は色ガラス
奥村飛鳥 Asuka Okumura@askafeyokumura
昨日、開場中に場内案内をしていたら、お客様から頂戴しました!
安部公房の戯曲初版版、そしてなんと安部公房スタジオの当時のチラシ!
思いがけない素敵なプレゼントで、その後、観に来てくれていた「愛の眼鏡は色ガ
ラス」組と感嘆しておりました。
ありがとうございます!

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
『方舟さくら丸』論--二つの<穴>,あるいはシミュラ-クルを超えて (特集 安部公房--
ボ-ダ-レスの思想) -- (作品の新しい顔) http://ci.nii.ac.jp/naid/120002165397 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
地図と契約--安部公房『燃えつきた地図』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40016907083 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 5月19日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://
ci.nii.ac.jp/naid/120005851876 …
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編集部より
6月はお休みします
もぐら通信
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『カンガルー・ノート』論
    (16)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
青字は前回までに
1。1 様式について
1。2 内容について て論じ終つたもの、
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容 赤字は今回論ずるもの、
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容
黒字はこれからのもの
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係

3。『カンガルー・ノート』の記号論
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
もぐら通信
もぐら通信                          11
ページ

(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。5。1 長歌とは何か
5。5。2 長歌は高天原を歌ふ
5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空間
5。5。4 安部公房の長歌
5。6 目次
5。6。1(1)冒頭共有
5。6。2(2)結末継承(大)
5。6。3(3)結末継承(小)
5。6。4(5)呪文を唱える
5。6。5(6)存在を招来する
5。6。6(7)存在への立て札を立てる
5。6。7(8)存在を荘厳(しょうごん)する
5。6。8(9)次の存在への立て札を立てる
5。6。9(10)3といふ数字
5。6。10 その他のこと
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
もぐら通信
もぐら通信                          12
ページ

 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」(v3)

*****

5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
この章の作品全体の中での位置を確認してから本題に入ります。

(全集は第29巻、ページ数のみを挙げます。)

「4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に従ひ、秘儀の式次第の6つのプロセスに即し
て、これを各章に割り当てれば、次のやうになります。

(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根
(2)呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
(3)存在を招来する:第3章:火炎河原;第4章:ドラキュラの娘
(4)存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
(5)存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:鎮魂歌
(6)次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌」

第6章風の長歌では、その題名の通り、風の音が鳴つて止みません。この風の詠む長歌は、
以下に述べるやうに、存在を荘厳するといふことから、次の存在へとこれから死にゆく人た
ちへの惜別の歌であり、従ひ、超越論的な追悼歌であり、鎮魂歌です。

5。5。1 長歌とは何か
万葉集巻三雑歌の部より、山部宿禰赤人が不盡山(ふじさん)を望んで詠んだ歌一首と反歌
を示して、長歌と反歌とは何かといふ実例をみてから、第6章風の長歌の本題に入りたい。

  天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
  駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
  渡る日の 影も隠(かく)ろひ 照る月の 光も見えず
  白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
  語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は
もぐら通信
もぐら通信                          13
ページ

反歌
  田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける

上の反歌は第7章人さらいにあたるものですが、例によつて例の如く、安部公房は「沈黙と
余白の論理」に従ひ、半分しか此の古代の歌謡の様式についての明示的な表現を文字でしてを
りません。第6章風の長歌にならつて言へば、第7章は、第7章人さらいとのみあるのでは
なく、第7章人さらいの反歌といふべきでありませう。即ち反歌こそが、安部公房には宇宙
と自分の生命に関する重要な歌であつた。即ち人さらひが。

5。5。2 長歌は高天原を歌ふ
第6章の風の長歌といふ題の意味は、風は諸処既述の通り、10代後半の安部公房がリルケ
に学んだ存在の形象です。何故存在かといへば、リルケの他の存在形象と同様に、障害があ
つてたとへ二つに別れても、その向かふでまた一つに、即ち1に、即ち全体に復するからです。
といふことを思ひ出しますと、風の長歌といふ題名の意味は次の通りになります。

(1)風の歌ふ長歌である。
(2)長歌の歌ふ風である。

といふことであれば、風は存在であるのですから、

(1)存在の歌ふ長歌である。
(2)長歌の歌ふ存在である。

といふこれら二つの組み合はせの意味がありませう。これもまた、安部公房らしい
topologicalな等価交換の題名だといふことになります。歌そのものが、かうして存在である。
第6章と第7章は、後述明細の通り、存在の歌の章であるといふことです。

上記の山部赤人の長歌は、5、7の反復によつて次の順序の繰り返しとなつてゐて、これを
どこまでも繰り返してから最後に7、7で終はるといふ形式が長歌の形式です。

5、7、5、7、5、7、5、7、5、7、5、7、5、7、5、7、5、7、7

とすれば、これも既に『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7。
一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」で明らかにしたやうに、日本の国生み神話は
topologyの論理で非常に精緻精密に描かれてをり、安部公房の存在概念と同様に3つに階層
化された、そして特に高天原1は男でもなく女でもないneutral(ニュートラル:中性)な独
り神だけから構成される、文字通りに(敢へてこの言葉を使用すれば)純粋なる、時間の存
在しない垂直方向に立つ差異の、存在の世界なのでした。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ14

そして、この高天原のネットワーク・トポロジーをなぞり、歌ひ、再生し、再現し、この今
新たに国生みするのが、日本の和歌の伝統であるといふこと、長歌に及ばず、反歌、短歌など
の和歌、更に連歌、俳諧、俳句に至るまでが、歌を歌ふといふことはさういふことであると
いふのが、この「長歌は高天原を歌ふ」でいひたいことなのです。後述するやうに、若年の
安部公房の志である古代の歌謡と(人間が生きてゐる)現代の詩文の融合と統合のことに思
ひを致すとともに(さうして、これを生前最後の作品『カンガルー・ノート』で見事に成就す
るわけですが)、安部公房が俳句を好んだといふ事も、併せて思ひ出して下さい。

このネットワーク・トポロジーの上で、5、7、5の繰り返しと、7、7で終はる其の終は
り方を考へてみませう。

Aに最初の5を置いて、時計廻りにB、C、D、E の位置に続けて5、7、5、7、7と置くと
次のやうになります。勿論、これはtopologicalな等価交換可能の平面であり二次元の空間で
ありますから、あなたが和歌を詠むとして、AからEまでのどこから始めても構ひません。
Topologyは等価交換の世界ですから、あなたの意志は自由です。

私は此ののtopologyの図形を見るといつも折り紙を思ひだす。折り紙は二次元の平面を折り
なして三次元を作る。鋏をつかひませんから、即ち、これは一筆書きですから、私たちは
topologyで紙を折つてゐるのです。折り紙はtopologyである。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

このネットワーク・トポロジーで、最初の5、7、5を繰り返すといふことは、「7。 一神教
と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」(もぐら通信第81号)で明らかにしたやうに、これは、
私がそこで呼んだ名前でいへば、この最初の三角形は高天原0です。この章から再掲します。

「(h)3柱の神が、このネットワーク・トポロジーの最小単位である3角形を構成してゐるこ
と。これが厳密には最初の最初の高天原、即ち0番目の高天原である。即ち、
(i)3柱の神で構成される3角形を対称的に反対側に返せば、この最上位の最初の高天原の、
他の2柱の神々も含んだ最初の並行四辺形、最初の高天原が生まれるといふこと。そして、こ
れがこのまま私たちの美意識の様式であること。更に、このことからわかることは、既に述べ
たやうに、
(g)「私たち日本人は、存在に関しては言挙げしない」といふこと。既述の通り、時間との関
係で現れたものは穢れるからであり、判りやすく西洋風に言へば変化するからであり(カントー
ヘーゲルの系譜の共産主義のやうな歴史といふ時間に進歩はない)、最初の形を留めなくなる
からであり、又空間との関係では、高天原といふ差異には時間は存在しないからである。だか
ら、「私たち日本人は、存在に関しては言挙げしない」。何故ならば、私たちは超越論的に「既
にして」このコトを知つてをり、また私たちには「いつの間にか」(超越論的時間)「どこか
らともなく」(超越論的空間)このコトが知られてゐるからである。」

上記(h)でお判りの通り、長歌の最初の5、7、5で始まる5、7、5の繰り返しは、「3柱の
神が、このネットワーク・トポロジーの最小単位である3角形を構成してゐること」であり、
「これが厳密には最初の最初の高天原、即ち0番目の高天原である」といふことですし、(i)
にある通り「3柱の神で構成される3角形を対称的に反対側に返せば、この最上位の最初の高
天原の、他の2柱の神々も含んだ最初の並行四辺形、最初の高天原が生まれるといふこと。そ
して、これがこのまま私たちの美意識の様式であること」ですから、最後に長歌を終へるのに
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もぐら通信                          ページ16

7、7とD、Eの位置に置くのは「最初の高天原」、即ち高天原1の創造であるといふことにな
るのです。

私たちが普通に詠む和歌は、5、7、5、7、7ですから、私たちが和歌を詠めば、これがそ
のまま高天原1の創造であり、招来であることがお判りでせう。高天原1の招来を、安部公房
文学の世界に転置して、存在1の招来といつても同じで、語彙は違ひますが、概念は変はらず
同じであることは、諸処既述の言語機能論に依る解説の通りです。[註1]

[註1]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「(15)満願駐車場の呪文」をお読み下さい。
初期安部公房の詩に歌はれてゐる駐車場と最後の作品『カンガルー・ノート』の駐車場とが同じ概念であることを
解説してあります。

このやうに考へて参りますと、連歌も同じ、松尾芭蕉が連歌から独立させて完成した俳諧[註
2]も同じ、また正岡子規が明治になつて俳諧から発句を独立させて提唱して今日普及してゐ
る俳句と呼ばれる単句の場合も同じです。

[註2]
『言葉の眼』(もぐら通信第47号)の「9。幕内弁当論と俳諧論」に俳諧の様式について詳述しましたので、こ
れをご覧ください。

俳句はA、B、Cといふ高天原0の三角形の最小単位の、対称性を潜在的に有してゐるネットワー
ク・トポロジーである5、7、5を産む文藝様式。俳諧も二句一想といふ形式に則つて、発句
は高天原0(5、7、5)を創造し、次の句は7、7と付けて、これで全体としては高天原1
の並行四辺形を産み、そのあとにまた高天原0(5、7、5)を付け、これに二句一想にて更
に7、7と付けて全く文脈の異なる高天原1を連続的且つ非連続的に産み出して行く[註3]
。これを繰り返して句数で36句、三十六歌仙に倣つて歌仙を巻くといつてゐる。時間を遡つ
て連歌もまた然り、もつと遡つて和歌も然り、更に遡つて長歌も然り、といふこと、これがネッ
トワーク・トポロジーから眺めた、私たち日本人の歌の歴史であり、本然の姿です。

[註3]
何故「高天原1を連続的且つ非連続的に産み出して行く」と書いたかは、芭蕉の俳諧は打越といつて前の句の発想
に囚はれて次の句をつくることを嫌ふからです。俳諧は二句一想で一つの世界を産みますが、しかし(前の二句の
二つ目の句を次の句の最初の句に見た立てて)次の句を詠むときに、前の世界の想が連続することを嫌ひ、別の天
地を立てねばならないといふ規則なのです。『言葉の眼』(もぐら通信第47号)の「9。幕内弁当論と俳諧論」
に俳諧の様式について詳述しましたので、これをご覧ください。

この文藝の姿は、高天原1の場合と同様に、時計・反時計廻りに句を置いて行けば、同じ接続
点が四隅で対照的に向き合つてゐる。5には5が、7には7が。そして、高天原1がさうであ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

るやうに、並行四辺形の襷掛けの交差点の7は、一つ下の階層である高天原2から垂直で伸び
た線で上位接続されてゐて、そのあとに四辺の隅にある7が現れる。後者の7は、「7。 一神
教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」(もぐら通信第81号)で既述の通り、順序からいへ
ば前者の下の階層の高天原2から上位接続される7が最初に現れるので、並行四辺形の上では
時間の順序による時系列的な配置といふことにはならず、前者の7の上位垂直接続線との交差
によつて、後者7の時間は此の平面上では消去され、捨象されて、存在しない。私たちは、こ
の時間捨象の順序を、無意識にでも承知の上で、高天原1といふ存在の歌を歌つてゐる。これ
が和歌であり、長歌です。

かうして幾何学的に考へてみると、日本の詩歌は、3、5、7といふ数字で成り立つてゐる。

5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空間
話が時間論に逸れますが、しかし私たち日本人が超越論で時間と空間を考へてゐたといふ証拠
になる天武天皇(大海人皇子)の御製の長歌を万葉集から引用します。勿論天武天皇だけでは
ない、他の歌人(うたびと)もまた、時じく、間なく、といふ言葉は使つてゐます。要するに、
私たち日本語でいふトキ(時)も間(マ)も、隙間であり、差異といふ意味である[註4]と
いふこと、私たちの哲学は超越論だといふことです。以下:

み吉野の 耳我の峰に 時じくそ 雪は降るといふ 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)るといふ 
その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その
山道を
[巻一(二十六)]

[註4]
三省堂 大辞林

とき・じ 【時じ】
( 形シク )
〔名詞「時」に形容詞をつくる接尾語「じ」が付いたもの〕
①その時節にはずれている。時期でない。 「川の上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子−・じけめやも
/万葉集 491」
②時を選ばない。時節にかまわない。 「 − ・じくぞ雪は降りける/万葉集 317」
(https://www.weblio.jp/content/時じ)

[現代語訳]
「吉野の耳我の山には 時知れず雪が降るという 絶え間なく雨が降るという その雪や雨の
絶え間ないように 道を曲がるたびに 物思いを重ねながら その山道を辿ってきたことだよ」
(http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu1-26.html)
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山部赤人の歌を見、天武天皇の御製を見ますと、時(トキ)といふ時間の差異は雪に関係し、
間(マ)といふ空間(または時間も)の差異は雨に関係するやうです。私たち日本民族の古代
から持つ超越論(汎神論的存在論)については、「近代の超克」といふ明治時代以来の課題を
巡り、17世紀以降の近代ヨーロッパ文明との関係で、『安部公房とチョムスキー(8)』(も
ぐら通信第81号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」にて、安部公房の大
好きなtopology(位相幾何学)といふ接続と変形の数学を使つて彼我の違ひとして詳述しまし
たのでご覧下さい。

5。5。4 安部公房の長歌
さて、安部公房の第6章風の長歌と題した長歌の文脈を見て見ませう。「『カンガルー・ノー
ト』論(1)」(もぐら通信第66号)の「(15)満願駐車場の呪文」より引用します:

「さて、このやうに、満願駐車場といふ、この駐車場に駐車すれば、次の存在へ参りたい、必
ず行けますやうにといふ願ひが満たされて満願するといふ名前の駐車場は、まさしく呪文を唱
へる上位接続の場所にふさはしいのです。安部公房は、第5章の新交通体系の提唱の章で「通
りゃんせ 通りゃんせ」と最初の二行だけ此の歌の引用を2回してゐます。(154ページ下
段;155ページ下段)しかし、改めてこの歌謡の全文を読んでみますと、全く此れが存在の
神社へと主人公がお札を納めに、即ち[NO1]といふお札を納めに参詣する古謡なのであり、
「行きは良い良い 帰りは怖い」とあるやうに、お札を納めたら最早帰えることはできない恐
ろしい片道切符を手にして、細いtopologicalの道を『赤い繭』の主人公の如くに参るのです。
天神様を存在と読み替へて、お読み下さい。

「通りやんせ 通りやんせ、ここはどこの細道ぢや 天神様の細道ぢや 一寸通してくだしやん
せ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きは良い良い 帰りは怖い 怖いな
がらも 通りやんせ 通りやんせ」

「この子の七つのお祝い」を主人公がする「七つの」「この子」とは、「垂れ目の少女」には
相違なく、さうであれば、ここでも安部公房の意識の中では、主人公と此の知恵遅れと見える
幼女は、疑似家族なのです。さうして、この少女と等価で交換可能な「トンボ眼鏡の看護婦」
は、これもまた疑似家族の一員としては妻の立場にあり得る可能性を有した大人の姿をした未
分化の実存の女性といふことになります。従ひ、主人公・「垂れ目の少女」・「トンボ眼鏡の
看護婦」は、等価で互ひに交換可能なる疑似家族なのです。、家族関係そのものが汎神論的存
在論である家族です。(そしてこんな家族はどこにも存在しない。)但し、この場合、主人公
は男ですから、後二者ともし性的な等価交換をされると、主人公の死を意味することは、上記
「(12)人面スプリンクラー」でお話しした通りです。主人公は、二人とは性的な等価交換
をされることなく、次の存在へと消えて行きますから、従ひ死ぬことはなく、即ち生きたまま
(この世の尺度では)死んでゐるといふことになりながら、次の存在の中での奇妙な人生を送
るのです。生でもなく死でもない、第三の客観を求める主人公の奇妙なる人生です。生きなが
ら死に、死にながら生きる奇妙な人生です。安部公房の読者であるあなたの人生や如何に。
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このやうな満願駐車場のある最後の章で、十代以来の詩の世界から持ち来たつた「空白の論理」
を以って、消しゴムで書いて、多次元的な存在(無時間の断面と断層に存在は無数にある)の
天神様のお宮の中で、また多次元的な天神様のお宮(天神様は実際日本中にある)といふ存在
の中で、見事に汎神論的存在論、即ち安部公房の「新象徴主義哲学」を成就させてゐるのです。

安部公房は明らかに最後の二つの章では、この二つのこと、即ち汎神論的存在概念と古代の感
覚と論理の結合を意図してゐることを示してゐます。

それは、第6章:風の長歌と題してある以上、この長歌は万葉時代以来の古代からの歌謡であ
ること、さうして長歌には反歌が続き、従ひ第7章は人さらいと題した反歌であること、しか
し、反歌といふ文字は「空白の論理」によつて文字にはせずに、それだけ一層本質的な章とな
してゐること、このことです。このことは、第6章に登場する「縄文人」と呼ばれる登場人物
が「万葉集にも出てくる、毛人ってやつさ、大和民族なんかよりもずっと古くから日本に住み
ついている、名門の出」の臑毛の毛深い登場人物であることが、このことを暗示してゐます。
安部公房は『鉛の卵』といひ、『カンガルー・ノート』の主人公といひ、脛に深い毛を持つ脛
の形象が好みなのでせう [註B]。この形象は、縄文人が主人公と同類であることを示してゐ
ます。といふことは、主人公もまた縄文人と同類であるといふ事になります。しかし、血縁に
よる時系列的な継承なのではなく、超越論的に或る日突然に「いつの間にか」「万葉集にも出
てくる、毛人ってやつさ、大和民族なんかよりもずっと古くから日本に住みついている、名門
の出」の脛毛が脛に生えてきたのです。安部公房が十代の詩人の時代から、万葉集に、また万
葉時代の古語に関心のあつたことは『没我の地平』の「主観と客観」をお読みになると解りま
す。 [註32]ここでの安部公房の試みは、存在論的な哲学の概念を万葉集の時代の古語で表
すといふことなのです。爾来、この最晩年に至つても、安部公房の挑戦は変はらない。冒頭の
安部公房の言葉、「五十年もかかって歩き続け」たといふ言葉」は、この意味であつたのです。

偉大なるかな、安部公房……」

初期安部公房の時代の詩人安部公房が一体具体的にはどんな詩を書いて上記の志を果たさうと
したのか、その実例を上記引用文[註32]より更に引用してお伝へします:

「[註32]
もぐら通信第44号:『第4回 CAKE読書会報告』より引用します。第2連と第3連に万葉時
代からの言葉が使はれてゐます。その第2連と第3連を赤字にしました。詩の全体がわかるや
うに、報告書の全文を引用してあります。

「(5)③『主観と客観』(『没我の地平』収録の詩。全集第1巻、165ページ)1946
年冬頃、安部公房22歳の作品。
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この詩は次のような詩です。

「主観と客観
しぐれ行く黄昏の鈍色(にぶいろ)よ
木の間木の間に
よび返し ものおじしつゝ
泣くのは誰ぞ?
闇と嘆きと…………蹲る影
おゝ悲しき現在(いま)よ つれなしの
吾が在り様のことはりよ
されど物問ふ唇に
黙して傾ぐ愛の眼に
返り叫ぶ君がさゝやき
姿見の照り返し
夕辺に満てるあらけな の
吾が在り様の夢と夢
あはれ此処には吾れも無し
大地は天に駆け消えて
ゆくさもくさも 雨のそぼふり
蹲る影 おゝ血と涙
さすらひの初め
ひそけさよ
おゝかの言葉 吾が胸に
帰れと叫ぶ かの言葉!
己が心の木の間 木の間に
誰かこゞみてすゝり泣く」

以下、備忘のように参加者の知ったことを箇条書きにする。

第1連:
  ①第一連の「木の間木の間」とあるように、安部公房は木の間という空間的な隙間(差異)
を歌い、しかし他
方同時に、その連の第一行では「しぐれ行く黄昏の鈍色よ」とあるように、時間を歌っている。
この時間は、昼と
夜の、やはり境目であり差異であり、時間の隙間というべき黄昏なのであり、時間の其の境界
域の色は鈍色なので
ある。
  ②その存在の存在する隙間に「蹲る影」として、未分化の実存たる誰かがいる。これが今
現在という此の瞬間の時間に生きる、「つれなしの」であるから孤独で一人でいる「吾が在り
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様の」道理であり、ことはり」である。

当時旧制高校生であった安部公房ならば、このような人間の「吾が在り様」を、現存在(das
Dasein:ダス・ダーザイン)とドイツ語いうことを十二分に知っていました。

第2連:
  ①しかし、第1連のそのような自己のあり方にもかかわらず、それに抗して、「君がささ
やき」を返してくれる。これは、「姿見の照り返し」なのである。
  ②この「姿見の照り返し」とは、「返り叫ぶ君がささやき」である。
  ③この「姿見の照り返し」とは、それが姿見という鏡である以上、そこに映じているのは、
「されば物問う」「吾」の姿である。
  ④これは、私が諸処でいうように、再帰的な人間の姿である。
  ⑤この「吾」は、「されば物問う唇」を持っているのみならず、「黙して傾く愛の眼」も
持っている。
  ⑥これらの沈黙の唇と愛の眼に、そのもう一人の自分自身が「返り叫ぶ」のである。
  ⑧この「返り叫ぶ」とあるのにもかかわらず、それは全く正反対に「ささやき」と言われ
ている。ここにも安部公房は極端な差異を設けている。それは、その差異に存在を招来するた
めである。叫ぶようなささやきは、またささやくような叫びは、普通は此の世には存在しない
声のあり方である。
  ⑨このように自己が時間の隙間に鏡に映じているさまは、互いに反照であることから言っ
ても、それは夢と夢の関係なのだ。それが、「吾が在り様の夢と夢」という意味である。
  ⑩しかも、その夢は、第1連にも歌った通りに、「夕辺に満てる」境目の時間の「夢と夢」
の関係にある、従い時差の中の再帰的な関係なのであり、この関係は「あらけな 」の関係なの
である。 「あらけな 」とは、これを「散(あら)ける 」という動詞に由来する形容詞なので
あれば、その言葉と意味は、日本書紀にまで溯る事の出来る古語である。

「あら・ける [3] 【散らける・粗ける】


( 動カ下一 ) [文] カ下二 あら・く

①離れ離れになる。散り散りになる。 「あやしき少女の去りてより,程なく人々−・けぬ/う
たかたの記 鷗外」 「是に−・けたる卒(いくさ)更に聚る/日本書紀 舒明訓」
②道や場所をあける。また,間をあける。 〔日葡〕
③火や灰などをかきひろげる。 「馳走ぶりに火を−・ける/多情多恨 紅葉」」
(Weblio辞書:http://www.weblio.jp/content/粗ける )

従い、この第1連、第2連の趣旨に沿って考えれば、「あらけな」とは、「①離れ離れになる。
散り散りになる。 」という意味でもあり、また「②道や場所をあける。また,間をあける。」
という、全く差異に、そうして差異に存在する存在に命を懸けて生きようとする22歳の安部
公房のこころを其のままに表しているのです。
もぐら通信
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第3連:
  ①以上の第1連第2連の事から、「あはれ此処には吾も無し」という事になりましょう。
何故ならば、「木の間木の間」という空間の差異に棲む吾も、「黄昏」や「夕辺」と呼ばれる
時間の差異に棲む吾も、それは「夢と夢」の関係にあり、従い再帰的な関係にある「あらけ
な 」の関係なのであるから。散り散りバラバラの吾であり、散り散りバラバラになったものの
差異に棲む吾であってみれば、そうであるからなのである。
  ②従い、そのような未分化の実存たる存在(das Dasein:ダス・ダーザイン)と化した吾
には、「大地は天に駆け消えて」しまう。自分自身は再帰的な「夢と夢」の関係、鏡に映る鏡
像関係にあって自己を喪失するが、このことによって同時に、他方、天地という最大の距離は
一挙にゼロになるのだ。天が地に墜ちるのではなく、大地が天に「駆け消える」という形で、
即ち垂直方向の、従い時差の存在しない方向を以って、最大の差異が消失するのだ。ここに、
安部公房の読者は、既に『S・カルマ氏の犯罪』で、主人公が最後に何故砂漠の中で壁になって
垂直方向に果てしなく成長を続けるかの答えを予め得るでありましょう。
  ③この天地の差異がゼロになるところでは、やはり其れは晴天ではなく、「ゆくさもくさ
も 雨のそぼふ」る雨天なのである。「ゆくさもくさも 」という言葉もまた、古語であり、万
葉集の第1784番目の歌に、次の歌があります。傍線筆者。

「1784 相聞,遣唐使,餞別,送別,無事
[題詞]贈入唐使歌一首
海若之  何神乎  齊祈者歟  徃方毛来方毛  <船>之早兼

海神の いづれの神を 祈らばか 行くさも来さも 船の早けむ 
わたつみの いづれのかみを いのらばか ゆくさもくさも ふねのはやけむ
・・・・・・・・・
海神のどの神様にお祈りしたら、行きも帰りもお船が早いだろうか
・・・・・・・・・
*「海のどの神様に」とも、また古事記に出ているように海の神は底津綿津見神、中津綿津見
神などわたつみのかみにも色々あるので、その中のどの海の神に、ともとれる。 」
(ブログ『ニキタマの万葉集』:http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/24966104.html)

22歳の安部公房の詩人としての努力は、このような古代の日本書紀や万葉集以来の古語を用
いて、時間と空間の差異と存在を歌うことにあったということがわかります。 さて、そうする
と、 この「ゆくさもくさも雨のそぼふり」とは、行きも帰りもそぼ降る雨であったという意味
になります。

  ④大地の差異がゼロになったのである以上、既に棲家はなく、それは否が応でも「蹲る影」
である吾は、「おゝ血と涙」とある通りに、自らの血を以って、また其の苦しみに堪えるため
に流す涙を以って、旅に出なければなりません。
  ⑤それが、「さすらいの初め」ということなのです。
もぐら通信
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  ⑥そして、その漂泊の旅立ちは、「ひそけさ」がなければならない。即ち、誰にも知られ
ることなく、ひっそりと、隠れるように、世の人の目から消えなければならない。
  ⑧そうして、第2連で歌われた「姿見の照り返し」であるもう一人の自分自身、否それが
自分であるならば、その照り返しを見る吾こそが影という「夢と夢」の関係にある吾と吾、そ
の前者の吾か、後者の吾かはわからない が、その吾が「帰れと叫ぶ」のである、「おゝかの言
葉」を「吾が胸に」叫ぶのである。
「かの言葉」とは、上で述べたように、第2連で歌われた「姿見の照り返し」であるもう一人
の自分自身、否それが自分であるならば、その照り返しを見る吾こそが影という「夢と夢」の
関係にある吾と吾、その前者の吾か、後者の吾かはわからないが、その吾の叫ぶ「帰れと叫ぶ」
「かの言葉」なのである。

以上のような書き方そのものが既に、再帰的な言語表現になっている。そうして、出発が最初
から帰還であると歌われている。「さすらひの初め」に、「木の間木の間」に「蹲る影」たる
自分が、「帰れと叫ぶ」のである。どこに帰るのか。存在の凹み、空間と時間の二つながらあ
る差異に、その空間と時間の交差する十字路にまた戻るのである。これが、安部公房の世界で
ある。奉天の窓は無数にあることは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数
学的能力について∼』(もぐら通信第32号と第33号)で詳述した通りです。

 ⑧さて、この詩の最後がまた安部公房らしい。何故ならば、世に出てからの小説と同様に、
その最後は最初になり、最初は上に此の詩で見たように最後になるのであるが、この出立のた
めの最後に、安部公房はメビウスの環を形成して、内部と外部の交換の永遠の循環の構造を成
すのだ。

それは、第1連では「木の間木の間」の差異に吾が存在していたものを、この最後の連では、
勿論topology(位相幾何学)という数学の論理の世界では数字と記号で描かれるべきところを、
文学の世界、生きた人間の文字の世界では、リルケに教わった通りに、しかし論理として
topologyのままに、内部と外部を入れ替えて言語表現と化さしめているのである。即ち、「己
が心の木の間 木の間」の差異「に」、吾は帰るのである。「木の間木の間」が、「己が心の
木の間 木の間」となっていることに、読者は注意されたい。

前者の木の間は、吾の存在する(外部の)木の間であり、後者の木の間は、吾の中にある、そ
れも吾の心の中に存在する木の間である。それ故に、安部公房は、奉天の小学生の「クリヌク
イ クリヌクイ」の詩以来変わることのない安部公房の詩の作法の通りに、木の間と木の間に
一文字分の空白を設けて、そのことを示したのである。この安部公房の詩の作法についても、
やはり『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら
通信第32号と第33号)で詳述した通りですので、これをご覧ください。

誠に、「さすらひの初め」にある「ひそけさ」の中で、誰にも知られることなく、リルケに教
わった通りに、静かに存在を褒め称え、荘厳する安部公房の姿があります。」(『第4回 CAKE
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

読書会報告』もぐら通信第44号)

[註B]
この脛の深い体毛の形象については、『もぐら感覚10:カイワレ大根』(もぐら通信第8号)にで論じましたの
で、お読み下さい。

その心は、ドナルド・キーンさんが娘のねりさんに語つた、安部公房がキーンさんに云つたと
いふ言葉、即ち「まあ、しかしお父さんには大変な野心がありました。というのは、長いこと
日本の現代作家は、ヨーロッパ人から学ぶということが、非常に大切だったのです。外国文学
を読んで、なにか新しい日本文学を作るという考え方がありました。お父さんはむしろ、先駆
的なことをやってみたい、まだ西洋人が考えたこともないことをやってみたい、未来の西洋文
学者たちは、自分をまねするだろうなどと考えていました。」(全集第25巻贋月報)とある
言葉にあります。

安部公房の言葉の意味は、この、哲学的には多次元的な存在論、即ちGodもまた(言語で呼ば
れる以上)時間の断面の断層に其の複数の姿が再帰的に映る [註33]といふ、Godを超越す
ることを哲学的・論理的に考へた欧州の、典型的には17世紀のバロックの哲学者たちの考へ
の、他方私たち多神教の有色人種の民族である日本人にとつては当たり前の、神々はそれこそ
「さまざまな父」同様「さまざまな神」であり、さまざまな神様たちの神社のお宮は日本中に
数多く身近にあるといふ事実の汎神論的存在論の、これら二つの対応関係を明らかにして、そ
れを、これは宇宙の生命に関する事柄でありますから自分みづからの命よりも尊く、従ひ「空
白の論理」に隠して、19歳のエッセイ『僕は今こうやって』に書いた通りに禁忌(タブー)
として空白に、即ち無名の存在の中に置いて、「未来の西洋文学者たちは、自分をまねするだ
ろうなどと考えて」ゐたのです。確かに、これは「まだ西洋人が考えたこともないこと」です。

[註33]
これが『終りし道の標べに』で、言語と《存在》と《現存在》との関係で、初期安部公房が粘り強く語つた主題で
す。

(略)

更に、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第42号)から引用して解説します。

この「安部公房の自負の念は、上述の言語と世界の差異に関する認識に基づいていて、それは、
既に述べてきたように、十分な理由が、あり過ぎる位にあるのです。 安部公房の先駆性は、従
い、

1。人間の言語(言葉)には、本来再帰性が宿っていること
2。この再帰性が、人間と言語の構造の在り方であること、従い、
もぐら通信
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3。この構造をそのまま物語に仕立てて、多次元的な宇宙を表すこと
4。上記1から3のことを実現すれば、唯一絶対の神による(言語の)再帰性の否定によって成り立っ
ている近代ヨー ロッパの文明(資本主義と民主主義とマルクス主義)を超えて、再帰性の肯定を
超越論的に求めて汎神論的存在論へ と向かうことになる「未来の西洋文学者たちは、自分をま
ねするだろう」

と考えたところにあるということなのです。」

ここで再度「五十年もかかって歩き続け」たといふ言葉」の意味を同じく「『カンガルー・ノー
ト』論(1)」(もぐら通信第66号)の「(15)満願駐車場の呪文」より引用しますので、
安部公房の述懐の言葉を熟読翫味下さい。全集をお持ちの方は(全集第29巻、227ページ
下段)をご覧下さい。いよいよ此の『カンガルー・ノート』論も、メビウスの環の一捻りの終
盤に来たといふ思ひがします。といふことで、この論の最初に戻ります:

「0。はじめに
『自作再見――『密会』』といふ、これは多分出版社の、作家による自作再見といつた連載物
の問ひに答へた短文ではないかと思はれますが、この文章の最後に次の言葉があります。(全
集第29巻、227ページ下段)

『密会』の最後で作者は虚構の世界で「ぼくはその幻影の愛玩動物みたいな少女を抱きしめて、
ただやみくもに病院の地下の迷路を彷徨し続けた。」と書いた後に続けて、

「その迷路の床に、「明日の新聞」が落ちていた。
 電池の切れたマイクに向かって、鼻水まじりに訴え続ける。「助けて下さい、絶対にいい患
者になることを誓いますから」
 そしてどうやら『カンガルー・ノート』は、その「明日の新聞」の内容ということになるの
だろうか。五十年もかかって歩き続け、まだ迷路からの出口の予感さえない。」

この文章の書かれたのは、1991年12月15日、生年1924年を単純に引き算すれば、
安部公房67歳といふことになります。この歳から50年を此れも単純に差し引くと、194
1年、安部公房17歳といふことになります。全集第1巻の最初の作品が『問題下降に依る肯
定の批判』が1942年12月9日付ですから、この「五十年もかかって歩き続け」といふ言
葉は、安部公房が遅くとも十代の後半、成城高校時代に文学に志してからの50年といふ意味
になります。

「明日の新聞」 [註1]の内容とは何か、それは一体どのやうなものなのか。このことを論ず
るのが、この『カンガルー・ノート』論といふことになります。

[註1]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

「明日の新聞」といふ超越論の、主人公が世界の果てに至ると配達される新聞については、『安部公房の奉天の窓
の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号及び第33号)、「『赤い繭』論」
(もぐら通信第51号)、「『魔法のチョーク』論」(もぐら通信第52号)をお読みください。この論考でも
「5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く」でお話ししました。

この章が何故風の長歌と題されてゐるかといへば、後述するやうに、「自己喪失(意識・無意
識の境界が曖昧になる)」といふ出だしで章が始まつた直後に、安部公房の世界では(リルケ
の詩の中を吹く風がさうであるやうに)風は存在であり、存在の風でありますから、その直後
に風が吹き、また章の最後にも存在の風が吹くからです。

①章の最初の風:(160ページ上段)
「はい、体温計……顎の氷嚢、替えませうね」
「すごい風ですね」
「風?」ちょっと小生意気な印象は、ピーナッツみたいな小鼻のせいだろう。「あれは屋上の
冷房タンクの音よ、いかれかけているんだ……」
「そういう音じゃなくて、空いちめんに……たとえば、何百個ものハーモニカを撒きちらして、
肺が焼けるほど力一杯吹き鳴らしているみたいな……」
「キザなこと謂うじゃない」
「ぼく、草笛がふけるから……」
「そんなにおしゃべりして、痛くないの?」

②章の結末の最後の一行の風:(174ページ下段)
「吹きすさぶ風、風の中の風の音、あれはまぎれもなく祭りの賑わいだ。」

前者の風は会話の中の、即ちシナリオの中の風、後者の風は地の文の風です。これで文章(テ
キスト)の内部と外部の等価交換[註5]が完了し、いよいよ第7章人さらいの反歌の章で、
存在そのものが人さらいの歌とともに歌われて、その歌といふ追悼と鎮魂の歌謡といふ呪文と
ともに、主人公は次の存在へと失踪する。

[註5]
文章(テキスト)ごとの内部と外部の等価交換と記号化された言葉の意味の内部と外部の交換と主人公の内部と外
部の等価交換による変形については、初期安部公房論(『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語につい
て』(もぐら通信第56号から第59号)をお読みください。特に最後の第59号にて要約的に詳細に証明しまし
た。

「3。『カンガルー・ノート』の記号論」の章(第66号)によれば、「 」といふ記号は、地
の文にある立て札を意味しますから、これを単なる普通の科白のための一重鉤括弧ではなく、
安部公房の存在に関する記号の一つだと解釈すれば、この会話のやりとりが、存在の方向への
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

立て札であるといふ理解も成立します。安部公房にとつてシナリオを書くといふことが、小説
と並んで、即ち戯曲を書くといふことが、安部公房の文学の重要な柱の一つだといひましたが
[註6]、この最後の作品の此の章にあつても、さうだとすれば、そのことが解ります。

[註6]
安部公房にとつては戯曲やテレビ・ラジオのシナリオを書くといふことがどんな大事な自分の文学に関わる小説と
並ぶ柱であつたかは『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)を参照下さい。

以上長い前置きになりましたが、作品論の本題に入ります。

5。6 目次
第2章緑面の詩人以降の目次を受け継いで、第5章ドラキュラの娘同様、次の目次を採用して
話を進めます。

(1)冒頭共有
(2)結末継承(大)
(3)結末継承(小)
(4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。
(5)呪文を唱える
  (A)地の文の呪文
  (B)呪文らしい呪文
  (C)3回の呪文の後に登場する者
(6)存在を招来する
  (A)3回鳴る甲高い音
  (B)存在の始め
  (C)存在の終はり
(7)存在への立て札を立てる
(8)存在を荘厳(しょうごん)する
(9)次の存在への立て札を立てる
  (A)最初の立て札
  (B)最後の立て札
(10)3といふ数字

5。6。1(1)冒頭共有
この第6章風の長歌と第7章人さらい(の反歌)の冒頭は、これまでの時間と空間の差異を設
けるといふ規則を離れて、ここからは差異の境目、隙間が曖昧になるといふ出だしで始まつて
ゐます。これは、この二章が存在の十字路にあるので、時間と空間の差異の交差した場所、差
異の無い場所、即ち存在で話が始まり、存在で話が終はるといふことを示してゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          28
ページ

①冒頭最初の段落の最初の一行:「眠りながら聞いたテレビ、とぎれとぎれの記憶。」(15
9ページ)
②二つめの段落の最初の一行:「もう一度眠りに落ち、もう一度夢を見た。」

これは、「1。函数形式・一般式」でみると、

①1。函数形式・一般式
存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]

といふ式でありますから、この出だしの意味するところは、青字にした要素については既にこ
れまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「窓(脱出口)」が主題であるといふことになり
ます。もつとも、案内人は「トンボ眼鏡の看護婦」から「垂れ目の少女」に前章で役割交代を
して、更に後者は此の章では時間の断層で複数人になつて現れて「垂れ目の少女B」になつて、
最後まで登場するわけですが。

「2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖」でみると、

②2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始を告
げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙の空間
の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)→
存在の出現ー閉鎖空間からの脱出

やはり、青字の要素については既にこれまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「自己喪失
(意識・無意識の境界が曖昧になる)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出」が主題であるとい
ふことになります。実際、この出だしは「自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)」と
いふ出だしになつてゐる。

また、「3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖」
で見ると、

③3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖
ー「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひー硫黄泉の露天風呂ー存在の凹ー賽の河原ー呪文類ー満願
駐車場ー未分化の実存の子供達(「垂れ目の少女」「トンボ眼鏡の看護婦」)ー窓ーサーカスー
人さらいー列車ー駅ー交通体系ーポイントの切り替え(支線から本線へ)ー笛の音(警笛の
音)ー(時間の断面の複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー人さら
い)ー
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 29

青字の要素については既にこれまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「(時間の断面の複
数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー人さらい)」が主題であるとい
ふことになります。此の場合の「「私」の自己増殖」は「垂れ目の少女」の自己増殖であるこ
とはいふまでもありません。

それでも尚、時間と空間の差異がないといふことを形式的にでも書いてをきます。

①時間の差異:なし
②空間の差異:なし

5。6。2 (2)結末継承(大)
第5章新交通体系の提唱と第6章風の長歌の接続:氷嚢といふ袋(凹の存在の形象):その前
の第4章と第5章の《かいわれ大根》入りの味噌汁による暖かい接続に対して、氷嚢なので冷
たい凹の、存在の形象たる袋の凹の形象による冷たい接続としてゐる。第4章と第5章の結末
継承と同じ、《かいわれ大根》入りの味噌汁の入つたお椀といふ凹と凹の再帰的な接続、存在
へと存在自体が回帰するための接続。このことと同じ理由で、この章の冒頭の結末継承も、味
噌汁の冷暖の差異のない、存在へと存在自体が回帰するための接続といふ訳です。それ故に、
冒頭は「自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧になる)」で始まる。

5。6。3(3)結末継承(小)
第5章新交通体系の提唱から第6章風の長歌への結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

   第5章新交通体系の提唱の終はり       第6章風の長歌の始め
(A)沈黙と余白の一行にある意識の喪失:  「長い針で局所麻酔を打たれた」        
(B)「気合いとともに、後頭部に肘打ちを: 「ゴムの大型ハンマーで、こめかみの辺りを強
   くわされた」其の肘打ちと「鼻をひねり 打される」其の強打
   あげられた」と「往復ビンタ」 
(C)「顎をくるんだ氷嚢」の中で「触れ:  「ガラス板に顔を押しつけられた」其のガラス  
    合っている氷」(透明感覚):    板(透明感覚)
(D)「顎をくるんだ氷嚢」:        「顎をくるんだ氷嚢」

5。6。4(4)差異を設ける
冒頭共有の通り。差異は、存在の十字路にあつては存在しない。

5。6。5(5)呪文を唱える
(A)地の文の呪文
①「看護婦が毛布の上からぼくの股間をはじいた。つづけさまに三回もだ。(略)」(160
ページ下段)
これは、3といふ数字として見ることもできますが、繰り返しといふことから最初の地の文の
呪文として採りました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

②「夜空がはためいた。なん匹かの蝙蝠が叩き落とされたにちがいない。(略)」(162
ページ上段)
蝙蝠はバタバタ、ハタハタと飛ぶでありませう。
③「風がまた蝙蝠を二、三匹叩き落とした。だれかの甲高い呻き声。」(163ページ下段)
④「まず長い隙間風がふき、つづけてゴボゴボと詰まりかけた排水孔の音がする。」(164
ページ上段)
⑤「満願駐車場カラノオ知ラセデス。アナコンダ地蔵尊ノオ告ゲニヨッテ、タダイマ閉門サセテ
イタダキマス。満願駐車場カラノオ知ラセデス。アナコンダ地蔵尊ノオ告ゲニヨッテ、タダイマ
閉門サセテイタダキマス。」(164ページ上段)[註7]

[註7]
満願駐車場の呪文の解読については「(15)満願駐車場の呪文」(もぐら通信第66号)をご覧下さい。

⑥「ドンドン焼きさ」(165ページ下段)
ドンドン焼きは、これはこれで一つの役割を果たす名前ですが、ドンドンといふのは繰り返し
なので呪文であるともして、ここに挙げました。
⑦「――消灯の時間です。みなさん、ご協力ください。消灯の時間です……」(166ページ
下段)[註8]

[註8]
呪文存在化記号規則について「『カンガルー・ノート』論(3):(16)風の音」(もぐら通信第68号)を参
照下さい。

⑧「大丈夫、だれも怒ってなんかいない、みんな、ニコニコしてるじゃない」(168ページ
上段)
⑨「すすり泣きを続けるばかりだ。」(174ページ下段)

(B)呪文らしい呪文
①「「オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ」」(161ページ下
段)
この呪文は、一重鉤括弧の中に科白として、科白の間に挟まれて置かれてゐます。
②「満願駐車場カラノオ知ラセデス。アナコンダ地蔵尊ノオ告ゲニヨッテ、タダイマ閉門サセテ
イタダキマス。満願駐車場カラノオ知ラセデス。アナコンダ地蔵尊ノオ告ゲニヨッテ、タダイマ
閉門サセテイタダキマス。」」(164ページ上段)
③「「――トントコ トントコ トントン トントコ……」」(167ページ下段)[註9]

[註9]
呪文存在化記号規則について「『カンガルー・ノート』論(3):(16)風の音」(もぐら通信第68号)より
引用します:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

「xx 呪文(167ページ下段):ここで呪文が唱へられる。この呪文の両端に、それぞれ「――」と「……」が
置かれてゐることに注意しませう。

「――トントコ トントコ トントン トントコ……」

この呪文の音がトンで成つてゐるのは、第1章の最後に出てきた尻尾のない豚がトンだからであらう。豚の呪文、
トンの呪文である。何故なら、ここには、

尻尾のない豚ー尻尾のない鯛焼きー開口部ー閉鎖空間からの脱出

といふ概念連鎖があるからです。

しかも、この音を「車椅子」の男が「ステッキで、小太鼓のリズムを刻みはじめる」とあつて、ステッキは戯曲
『棒』に代表的なやうに、安部公房が概念化した存在の棒である。更に、ここでは小太鼓になつてゐるのは、
topologicalに考へて、第5章新交通体系の提唱の駅の近くの存在の踏切の十字路でオートバイ族が「太鼓に仕立て
た象の剥製を、全員が乱れ打ちしながら通過してしまった」とある此の形象の大きな象の剥製の太鼓に対照して、
小太鼓と云つてゐる訳です。

この両端の記号については「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(15)満願駐車場の呪文」よ
り再度引用して考察を加へると、次のやうな安部公房の記号使用の規則が明らかになります。

「②第7章 人さらい
「満願駐車場カラノオ知ラセシマス。駐車場ハ閉鎖シマシタ。アナコンダ地蔵尊ノ寄付ノ受ケ付ケモ間モナク締メ
切ラセテイタダキマス。オ急ギクダサイ、オ急ギクダサイ。」(175ページ
下段)

しかし、第7章では、第6章とは異なり、このお知らせの直ぐ次の行に、次のもう一つの呪文が
続きます。

「――オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ――」

これは、まだ最後の結末部でのやうに、存在の記号( )で呪文が括られてをりませんから、次の存在へ行くこと
の願文にはなつてをらず、存在を予兆する( )の中で唱へられるる呪文ではなく、この人さらいの章の中での、
地の文の呪文になつてゐます。それを示すのが、この呪文の両端にある「――」の意味でありませう。」

このことから見ると、安部公房の呪文の使ひ方による存在の物語の存在化の深まりの度合ひは、次のやうになつて
ゐる。呪文に関する存在化深化の記号を使つた表記規則です(以下必要に応じて「呪文存在化記号規則」と呼ぶ事
にします)。

①呪文を地の文にベタで書く
②呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「――」と「――」
③呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「――」と「……」
④呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「――」と空白:最後の端には記号を置かずに余白(と沈黙)とする。
⑤呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「(」と「)」:存在の記号( )を使ふ。

安部公房の呪文は、この5つの順序を踏んでゐる。

この「――トントコ トントコ トントン トントコ……」は、③のステップの呪文であることになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ32

この呪文の本体の末尾の記号が段々と実線から点線になり、点線が空白になるのは、存在になつてゆき、呪文のあ
り方が深化して存在の存在の存在に達する事によつて透明になつてゆき(透明感覚)、最後には( )に記号化さ
れて存在になるからです。」

上記地の文の呪文(A)の⑦「――消灯の時間です。みなさん、ご協力ください。消灯の時間で
す……」(166ページ下段)を入れると、4つの呪文らしい呪文といふことになります。呪
文存在化記号規則によつて、安部公房がこれを呪文と考へてゐることは明らかです。この毎日
定例的に繰り返される呪文は③のステップの呪文であることになります。

(C)3回(または4回)の呪文の後に登場する者(モノ)
《日本安楽死クラブ設立準備会》といふモノの設立といふことになる。この会が設立されて、
実際に老人を安楽死させるといふことになる。

5。6。6(6)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
①「クーラーなんてあるもんか、風だよ、あんたの言う通りさ。入院してかれこれ半月になる
けど、こんな遠吠えみたいなの、はじめてだね。(略)」(161ページ上段)
②「風がまた蝙蝠を二、三匹叩き落とした。だれかの甲高い呻き声。」(163ページ下段)
③(老人の呻き声が)「まるで外の風の悲鳴と競争しているみたいだ。」(164ページ上段)

④「三度目のベルで応答があった。」(172ページ上段)

②と③は、同じ老人の甲高い呻き声であるので一つと数えると、全部でやはり3つ種類の甲高
い音が鳴つてゐます。

(B)存在の始め
上記「5。4。2(1)冒頭共有」で述べた通り、この第6章風の長歌と第7章人さらい(の
反歌)の冒頭は、これまでの時間と空間の差異を設けるといふ規則を離れて、ここからは差異
の境目、隙間が曖昧になるといふ出だしで始まつてゐます。これは、この二章が存在の十字路
にあるので、時間と空間の差異の交差した場所、差異の無い場所、即ち存在で話が始まり、存
在で話が終はるといふことを示してゐます。従ひ、

①冒頭最初の段落の最初の一行:「眠りながら聞いたテレビ、とぎれとぎれの記憶。」(15
9ページ)

となつてゐるわけですから、存在の始めは存在せず、といふことになります。始めも終はりも
ない「終りし道の標べに」の超越論の世界、文字通りに安部公房の書くノート・ブックの世界、
「カンガルー・ノート」ブックの世界です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

(C)存在の終はり
始めが存在しなければ、終はりもありません。これが存在であり、超越論の世界です。従ひ、
風が最初から吹いてゐる。この風は再帰的な風であり、「風の中の風の音」を立ててゐる風で
ある。これは既に幕の上がる前に終はつてゐる「祭りの賑わい」である風の音である。[註1
0]
この存在の再帰的な風の中の風の音が聞こえるのは、《日本安楽死クラブ設立準備会》の賛助
会員の一人である学生が甲高い風の音と競争するかのやうな声を出して呻いてゐる老人を安楽
死させた後である。それ故に「風の中の風の音」といふことでありませう。

[註10]
風の音については「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:(16)風の音」をお読みください。詳述し
ました。

5。6。7(7)存在への立て札を立てる
立て札といふことから言へば、前章新交通体系の提唱に立つた6つの立て札の一つである《日
本安楽死クラブ設立準備会》の立て札を継承して、この章の最後のところで結成される《日本
安楽死クラブ設立準備会》といふ存在の記号で表された安楽死クラブの方向への準備会の名前
が、存在の立て札といふことになります。

5。6。8(8)存在を荘厳(しょうごん)する
安部公房の存在の荘厳は、透明感覚をともなふのでした。「5。4 存在への立て札を立てる:
第5章:新交通体系の提唱」(もぐら通信第81号)の「5。4。9 (8)存在を荘厳(しょ
うごん)する」を参照ください。

これに従へば、老人を安楽死させるために取り寄せた、毒薬の入つてゐるガラスの「小瓶」が、
小説の最後にいつも登場する透明感覚であり、存在への荘厳をする薬だといふことになります。

この小瓶は、患者たちの屯(たむろ)する、いつもの安部公房の病院の待合室に相当する喫煙
室でやりとりされる。待合室はいつも存在への入り口の場所ですから、喫煙所もまた、存在の
場所としていつもながらテーブルと椅子と定期刊行物からなる閑散たる次の風景の場所として
描かれてゐます。週刊誌類は、これもいつも病院の待合室に置いてある「明日の新聞」である
ことはいふまでもありません。[註11]

「喫煙所はドアのほぼ正面だった。そこだけ奥行き四メートル、幅五メートルほどの小部屋に
なっていて、焼け焦げだらけのテーブル、薄いスポンジ入りのベンチが二脚、鉄パイプの折り
畳み椅子が五脚、週刊誌類であふれたマガジンラック、そして四隅に真鍮の脚つきの灰皿」(1
65ページ上段)

[註11]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ34

同じ待合室の風景は、『S・カルマ氏の犯罪』『魔法のチョーク』にも登場します。その他安部公房全集を読めば
まだまだ発見できるでせう。このお馴染みの待合室の空間については『魔法のチョーク』論(もぐら通信52号)
をご覧ください。

5。6。9(9)次の存在への立て札を立てる
(A)最初の立て札
「隣の縄文人の」ひろげてゐた「ポルノ写真」が最初の立て札。(163ページ下段)

これも往きて帰らぬ、存在への片道切符です。「ポルノ写真」といふことから『燃えつきた地
図』の田代君と駅の改札口といふ外部への接続点で待ち合はせをして、連れて行かれた先のバー
で主人公の探偵の見るポルノ写真を思ひ出す読者もゐるでせう。『カンガルー・ノート』のポ
ルノ写真が存在への片道切符ならば、『燃えつきた地図』のポルノ写真もまた同じ役目を果たし
てゐて、主人公を存在の方向へと案内して行くのではないでせうか。

(B)最後の立て札
第5章新交通体系の提唱に登場したハンマー・キラーを呼び出すために電話を掛けるための「電
話のカード」といふ片道切符。

キラー君の住まふ「トンボ眼鏡の看護婦」の実家の店のガラス戸に貼つてあつた安楽死クラブ
設立準備会の立て札についての問ひ合はせをするために主人公は電話をする。キラー君の答へ
は電話越しに答へて、「立ち入つた話はけっこう、共犯者にはなりたくないからね、ぼくはた
だ情況に応じて、完全犯罪を成立させるテクニックを指導するだけです。条件はただ一つ、犠
牲者が生に執着していないこと……」といふところから、主人公は安楽死をさせるための助言
をもらふための電話を掛けるといふ其のための電話カードのことです。

5。6。10 (10)3といふ数字
この章には次の3といふ数字があります。

①「看護婦が毛布の上からぼくの股間をはじいた。つづけさまに三回もだ。(略)」(160
ページ下段)
②「ただし運よく患者仲間に、前科三犯の抜け師がいてね、守衛も知らないような出入り口を、
ばっちり発見済みなのだ。(略)」(162ページ下段)
③「縄文人が三本目のタバコに火をつけた。」(170ページ上段)
④「老人が眠りに落ち、看護婦が詰め所に引き返すのを確認して、一気にボタンを押した。呼
び出しのベルが鳴りはじめる。三度目のベルで応答があった。(略)」(172ページ上段)
⑤「学生が壁からカレンダーをめくり(あと三日で月替りだ)、テーブルにひろげてアミダ籤
の作成をはじめた。」(173ページ下段∼174ページ上段)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

5。6。11 その他のこと
①バナナの皮の脱皮の呪文が、この章の冒頭まで効いてゐて、この存在の章でいよいよ主人公
の脱皮が完成して、存在の中へと抜け出ることが示されてゐます:

「ふいにセミが脱皮。それとも、蛇の脱皮かな。いや、もっと厚みのある、衣替えの膚ざわり。
蝦か蟹の脱皮に似ているような気もする。くるりと麻酔の皮がめくれ、軽くなった。どうやら
局所だけでなく、言葉にはならないイメージで溢れかえる。多幸感?それからゆっくり、しび
れに追い立てられる不快感。皮膚一面に産み付けられた魚の卵。」(159ページ下段)

②(B)呪文らしい呪文に満願駐車場の呪文が響いてゐるといふことは、この章にまで地獄谷の
硫黄の臭ひが、ここまで臭つてゐるといふことです。

③喫煙室で車椅子の男が(小説中では安部公房には珍しく「車椅子」と最初から換喩で呼ばれ
てゐる)縄文人(これも同様に換喩である)に対して「ステッキで、小太鼓のリズムを刻みは
じめ」て、「――トントコ トントコ トントン トントコ……」と呪文を唱へるのですが、
このステッキは、安部公房の読者にはいふまでもなく、小説と戯曲の『棒』その他に登場する
棒と同じ棒です。『魔法のチョーク論』(もぐら通信第52号)より以下に、棒と縄といふ
topologicalには同じ形象についての解説を引用します:

「「赤いチョーク」が、「何か棒切れ」であるのは、チョークもまた、安部公房にとつては棒
の一種であり、小説と戯曲の『棒』に登場する棒と同様に、謂はば「存在の棒」であるからで
す。としてみれば、前の号の「『赤い繭』論」でみたやうに、縄もまた「存在の縄」と云へま
せう。何故ならば、位相幾何学的に見れば、相違は硬いか柔らかいかの違ひだけで、棒も縄も
同じ形、同じ性質のものであるからです。短編小説『なわ』の最後にあるやうに、「「なわ」
は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」 の一つだった」のであり、「「棒」は、
悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最
初の友達だった。「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもい」るからなの
です。(全集第12巻、253ページ)

悪い空間を遠ざけるために棒を使ふと、小説と戯曲の『棒』がさうであるやうに、自分自身が
棒になり、善い空間を引きよせるために縄を使ふと、『赤い繭』がさうであるやうに、内部と
外部が交換されて、自分自身が繭になる。チョークといふ棒を使つて、アルゴン君が結局壁に
なるやうに、さうして壁が上に述べたやうに超越論的な空間を創造する素材であるのであれば、
それを食べたアルゴン君は当然に壁といふ存在になり、また『赤い繭』の主人公も、位相幾何
学的に見れば縄は繭の糸も同然であれば、当然に存在の繭になるといふ訳です。」

④直喩の安部公房には珍しく、この章では換喩が多用されてゐる。車椅子、縄文人、赤いベレー
またはベレー帽、末端肥大のギブス男(これは何度も登場してギブス男で通用すれば換喩にな
ります)といふやうに。
もぐら通信
もぐら通信                          36
ページ

⑤完熟トマトが此の章の最後に、主人公が「六本目の鯛焼きをゆっくり噛みしめる」と「完熟
トマトが食べたくなった」とあつて再度登場する。最初にトマトが登場するのは第1章の冒頭
の第一段落の最後の文として、主人公が朝食を摂る場面です。後者では「健康のために、小粒
のトマトを三個まとめてかみ潰す」とあるので(この数字もまた3です)、ここでは俗称プチ
トマトでありませう。《提案箱》が最後には「大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」に
変形してゐるのと同様に、プチトマトの3個も存在の章である此の章では1になつて、しかも
完熟してゐるといふことになつてゐて、数字からいつても1といふ姿からいつても存在の形象
を備へてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

何故日本の文学は衰退したのか
(3)
高村薫「小説の現在地とこれから」を読む
(月刊文藝誌新潮2018年6月号)

岩田英哉

今月号の月刊新潮に高村薫さんといふ作家の講演録が掲載されてゐます。これは、同氏が「3
月17日、横浜市開港記念館でおこなわれた大佛次郎賞受賞記念講演会の講演原稿」とのこ
とで、聴衆に話しかける形で書かれてゐる文章ですから、その分平易でわかりやすい文章で「小
説の現在地とこれから」の小説のあり方について語られてゐる。

結論から言へば、同氏の観察によれば、現代の日本文学は、かつてのやうに純文学と通俗文
学または娯楽小説との境目について「一昔前まで一般に了解されて純文学とエンターテインメ
ントの境界が、いよイヨ溶け出してしまった」といふこと、「「溶け出している」ではなく「溶
け出してしまった」という、まさに完了形の話で」」あるといふこと、これが此の作家の現状
認識、即ち2018年時点での「小説の現在地」なのです。さうして、この「小説の現在地」
にあつての境界の溶解は、純文学が娯楽小説の方に「吸収されつつある、というのが真相で
す。」

これを高村さんは「書き手や読み手が小説に求めるものが変わった、すなわち小説の姿が変
わったということなのです」と見てゐる。これを、同氏が「認識しているのは、何が純文学で、
何がエンターテインメントであるかといった色分けではなく、小説の書かれ方・読まれ方の差
異であり、小説に求めるものの差異です。極言すれば、小説を書くということは、この差異に
こだわることだと個人的には考えて」ゐるといふ。差異といふ言葉から、この作家が最後にい
ふ文体と身体性の問題は、私の結論をいへば、安部公房の読者にはおなじみの言葉で言ひ換
へれば実存主義(existentialism)であり、差異といふことから此の作家の認識は明らかにバ
ロックなのであり、文体と身体性の問題を超越論で、または汎神論的存在論で、安部公房と同
様に、考へてゐることが文面から解ります。私たち安部公房の読者にとつては、全く同じこと
については、安部公房が一番旗幟鮮明に此の文体と身体性の問題を論じ描いた『終りし道の
標べに』といふ処女作の名前を挙げれば、それだけで十分に通じることでせう。さう、高村
さんといふ小説家の論じてゐるのは、範疇横断的な、作家越境論、即ちバロック小説家論な
のです。何故ならば、バロックの世界認識は、世界は差異であるといふ認識論であり、存在論
は、価値は等価で遍在するといふ存在論であるからです。これを西洋哲学用語で超越論、私た
ちの縄文以来の大地母神崇拝の島嶼哲学用語でいふならば、汎神論的存在論といふのでした。

このことに関して、作家が差異に生きることを文体と身体性の問題として述べてゐるのです。
もぐら通信
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かうしてまた、先の戦争の終はつた後に70余年を閲(けみ)して、日本文学は再び、今度は
実存主義などといふ言葉を意味不明に言ひ立てて馬鹿騒ぎを起こすことなく、静かに文体と
身体性といふ言葉に言へ換へられて、安部公房のいふ新象徴主義哲学に、日本文学は回帰した、
即ち大地母神崇拝を根底にした日本古来の文学が、「溶け出してしまった」とふ表現にあるや
うに、これまでの範疇的な関係の相互の内部と外部がtopologicalに交換されて、日本文学の
恢復がなされてゐるといふことが、この講演でいはれてゐると、私は読みました。言語の観点
からみると、時代の根本的・本質的な転換は、繰り返し掲示しますが、次のやうな外部と内
部の、全体と部分の交換がなされてゐるのでした。『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら
通信第62号)より再掲します。

同氏は、この転換点は1980年代半ばであると言つてゐます。これまでの連載の中に示した
資料を思ひ出して下さい。この1980年代の半ばを正確に1985年とすると、この年は小
説家の劣化2と編集者の劣化1の顕著になつた年です。その年表を再掲します(もぐら通信第
79号より)。
もぐら通信
もぐら通信                          39
ページ

https://ja.scribd.com/document/373250218/何故日本文学は衰退したのか3

また、映画の題名の日本語訳が顕著に減少し、カタカナ語だけの安易な変換だけに頼つた映画の
題名の数が顕著に増加したのも、1980年から1984年でありました。再度引用すると、

「7。⑦:作家の劣化1の始まつたこの1980年からのカタカナ題名の比率は、62%であり、
この年初めて、邦訳の比率38%を逆転した比率となつたこと。前年までの5年間の比率は、邦
訳72%、カタカナ題名46%とあつた均衡が大きく崩れたといふことである。

8。⑧:作家の劣化2/編集者の劣化1の始まつた1985年からの5年間は、ほぼ均衡してゐる。
カタカナ題名が49.1%。」

https://ja.scribd.com/document/378927558/外国映画題名-英語原題-の-邦訳に占めるカタカナ
題名の-割合2
(もぐら通信第79号より:論文:山田雄一郎『外国映画題名のカタカナ表記についてー変遷とそ
の社会的意味ー』)
もぐら通信
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1985年前後の此の出版業界での事実を、高村さんは読者の立場であつた当時の実感として次
のやうに述べてゐます。

「1990年ごろ、世はエンターテインメントの全盛を迎えておりました。正確にはこれも一方
には純文学の後退があったのですが、会社の帰りに書店を覗いて、中上健次や古井由吉や日野
啓三、大庭みな子などの新刊が出ると買っていた私が、「読みたい小説がだんだん少なくなって
きた」と感じたのが80年代半ばのことでした。村上春樹の愛読者であればそんなことはなかっ
たかもしれませんが、好きな小説がわりに限られている私のような偏屈な読者でも、60年代、
70年代に「読みたい小説が少ない」と感じたことはありませんでした。80年代以降の純文
学の交代は、一読者の実感だったということでございます。」

しかし、同氏は此の変化の背景にある書き手・読み手の意識の変化に原因を求め、「書き手や
読み手が小説に求めるものが変わった、すなわち小説の姿が変わったということ」だとしてをり
ますが、その原因に次のものを挙げてゐます。
もぐら通信
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(1)「人間の価値観を大きく変え」た「時代の変化を加速させる技術革新」。その最たるも
のである「WINDOWS95に始まった情報通信の革命」。何故なら「子どもから大人まで誰でも
発信者になれる時代を誕生させ、それによってものを書く行為のハードルが一気に下が」つたか
ら。具体的には、「インターネットという場と、パソコンやスマートフォンというツールを得た」
私たちであるといふこと。これによつて、
(2)要求されるものは、「面白い」「楽しい」「刺激的」「感動する」「ためになる」こと。
そして要求されるのは「すぐに分かる」「すぐに得られる」「すぐに解決する」などの「即時性」
であり、「リアルタイム」であり、「共有」であること。従つて「ここにはもはや、従来のしか
めっ面をした思弁的な小説が入る余地は」なく、「さまざまな技法を駆使して新しい表現に挑
戦する実験的な小説も、もちろん入る余地は」ないといふこと。
(3)「こうして一篇の小説に一人で向き合う静粛な時間は消え」た。

最後に「さて、それでは、先ほどから繰り返し申し上げている純文学の書かれ方・読まれ方とは、
そもそもどういうものかについて話を進め」て、同氏は次のことを言つてゐます。

(1)日本語は和漢混淆文であること。
(2)この「漢字と平仮名を連ねてゆくなかで立ち上がってくるのは」次の3つの要素であるこ
と。

①意味
②音
③形態

形態とは、文字の与へる余白と視覚的濃度の関係の模様の創造を形態と言つてゐて、ここは何か
書道と同様の視覚的な感性の有り方を唱へてゐます。さうして、この三要素が日本語の文体をつ
くり、このことに於いては、「明治・大正期の書き手たちも同じだったはず」だと、この文体
は近代日本文学を通じてゐるものだと述べた後で、それぞれの作家が、「それぞれ流儀は異なっ
ても、日本語を紡いで」一つの「文章空間」または「小説空間」を「編み上げる」のだと述べ
てゐる。空間といふ言葉の選択は、安部公房に通じてゐて、時代に流されたり時代に棹さしてう
まくやつてゆくなどといふことではなく、時代に抗して独特の文体の創造をするのだといふこと、
これが作家の営為であるといふのです。これが言語藝術家の姿勢であることに、私は全く異論が
ありません。

上述した文体と身体性の問題を次のやうに具体的に述べてゐます。

「文体とは日本語の意味と音と携帯の響き合いであり、つまるところ日本語の単語の並べ方で
はあるけれども、その並べ方がつくりだす文体の差は、たとえば語尾一つ、句読点一つの差か
ら生まれてくるような微妙、かつ絶対的なものです。そして、その語尾一つ、句読点一つを選び
もぐら通信
もぐら通信                          ページ42

取るのは、個々の書き手のまさに身体性というものなのです。身体性であるがゆに個別的であり、
絶対的であり、けっして方法論に落とし込むことができない、そういう身体性の賜物として、日本
語の文体はある。」高村さんは身体が文体をつくる例として野間宏、大岡昇平、武田泰淳の小説
群を挙げてをります。

この方は、上記文体3要素のうちの、特に二つめの音に着眼して、「古来からの語りの伝統を取
り入れた文学作品」として、石牟礼道子の『苦海浄土』と『古事記』の国生み神話のイザナギ・イ
ザナミの神が天浮橋から「天沼矛を天から下ろしてかき混ぜ」て立てる「コヲロコヲロに搔き鳴
し」た音と「神武天皇が八咫烏(やたがらす)に導かれて吉野川上流の宇陀に入る段では、「エ
エしやごしや、アアしやごしや」という印象的な掛け声が出て」来ることをこれも例として、挙げ
てゐます。

この方の小説は、このやうな世界へと転換するのでは、これから、ないでせうか。

以上が日本文学のゐる「2018年の小説の現在地」です。これに対して、講演の、さうして最後
の最後に「旧来の純文学に、はたして未来はあるのでしょうか」と問ひを立てます。

以下この作家の4つの回答を引用して、この方の意志を、安部公房の読者のあなたに伝へて、日本
文学のこれからを考へてもらひたい。

(1)「インターネットが先進国の人間にもたらした変化の一つは、身体性の希薄化というもの
でしたが、身体性が失われた地平に、身体性としての文体はもはや生まれてくることはありません。
文体への固執が消え、文体が消えたところで純文学は基本的に成立しようがないのです。201
8年のいまはまだ過渡期にありますけれども、純文学の後退とエンターテインメントの拡大は、
人類史的な規模で人間の身体性の希薄化が進んでいることとつながっている、というのが私の見
方でございます。」
(2)「日本の近代文学の歴史が育んだ文体という意匠は交代しても、古代から続く語りの伝統
は消えないでしょうし、映像やゲームのなかで生き残る可能性はあります。人間の物語も、純文学
が描いてきたような複雑な内面が消えてゆくのは、生き残る必要がないから消えてゆくのだと考え
ることができますし、ドラマや映画で描かれるような分かりやすい人間観が標準となっていって
も、それはそれで私たち人類がそういう方向を選んだのだと思えばいいことでございましょう。」

(3)「一つの時代が終わらなければたらしい時代は始まらないという意味では、今日私たちが
目の当たりにしている純文学の交代は、新しくやって来る何者かの予感とともにあるのだと言って
も良い。(略)また、エンターテインメントの隆盛も、純文学の後退とセットになっている以上、
それほど長続きするはずもないと私は考えております。要は、刻々と様変わりしてゆく世界で、人
間が小説に求めるものが変わってゆくのであり、紙媒体でも電子書籍でもない、まったく新しい
言語体験というのが起こるかもしれない。現役の小説家の私が、真面目にそんな想像をする今日
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この頃でございます。」
(4)「そして、そんな雲をつかむような夢を見ながら、私自身はどうするのかと申しますと、
やはりこの古い身体に最後までしがみつきながら、この身体に響く言葉をあさり、むしり取り、
執拗に並べ続けて、日本語の愉楽に溺れるような小説を書きたいと思うのでございます。」

安部公房の考へ方は、かうでした。

写真が出てきて絵画が廃れたか。さうではなく、絵画の固有の領域といふものが明らかになつて、
その本来の面目に戻つて画家は仕事をすればいいではないか、そして実際にさうなる。映画が出
てきて芝居が廃れたか。さうではなく、映画といふ藝術の固有の領域といふものが明らかになつ
て、その本来の面目に戻つて演劇人は仕事をすればいいではないか。エンターテインメントに属す
るマルチメディアの作品が出てきて小説が廃れたか。廃れるものは廃れたらいい。しかし、小説に
固有の領分がある筈だ。そこで勝負をすれば良いではないか。

このことを、高村薫さんといふ小説家は、文体と身体性の問題として述べたといふ理解で、私は間
違つてゐないと思ふ。

ここまで考へて来ると、小説とは、政治でも経済でもなく、文化の領域に属してゐて、それも言語
藝術のうちの散文といふ藝術であり、詩文ではないこと、そして小説が言語藝術である以上、『終
りし道の標べに』を思つて見れば、言語と書き手が「今此処にかうしてゐること」(現存在:ダー
ザイン)と本来物事のあるべき・ある筈の姿(存在:ザイン)との関係を言語自体によつて再帰
的に書き表す、しかし散文である以上読者に理解されることを前提にして書き表す高度な、言葉と
概念と文字を使つた意思疎通の技術、即ち藝術である。といふことになるでせうか。但し、安部
公房の場合のやうに(三島由紀夫も安部公房の発見者埴谷雄高もさうですが)、その世界観、宇
宙観が日常生活の次元に比して高度であるために、読者を惹きつけはするものの(つまり読者は
無意識裡にでも其の文学世界を理解してゐる)、即座には(意識の上で)理解されて其れが読者の
日常になることがないといふことを、作者読者ともに、前提にした上で。

文学(学問としての文学ではなくliterature、リテラチャー、文藝)とは何かを、徒然なるままに、
お考へ下さい。
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もぐら通信                          ページ44

安部公房とチョムスキー
(9)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7。1 一神教のtopology
7。2 大地母神崇拝のtopology
7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
 1。アドルノとドゥンス・スコトゥス
 1.1 カントの一つ目の失敗
 2。近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数
 2.1 カントの二つ目の失敗
 2.2 マルクスのドゥンス・スコトゥス理解
9. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
10。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか
ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
11。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
12. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
12. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
12. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
12. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
13。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
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8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
 1。アドルノとドゥンス・スコトゥス
 1.1 カントの一つ目の失敗
 2。近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数
 2.1 カントの二つ目の失敗
 2.2 マルクスのドゥンス・スコトゥス理解

***
1。アドルノとドゥンス・スコトゥス
安部公房とチョムスキーといふ二人の超越論者を論じてきて得た視点から、21世紀にも依
然としてGlobalismといふ名前の共産主義の系譜の中にヨーロッパ中世キリスト教神学とス
コラ哲学が生きてゐるといふことについて話したい。

後掲する「近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数」表を見ると一目瞭然です
が、21世紀の今もなほ、カントーヘーゲルーマルクス、そして上で見たやうなアドルノ(フ
ランクフルト学派)の系譜の中に、これら二つの用語が生きてゐる、といふことは、その用
語の概念の検討を依然として要してゐて、キリスト教教義(ドグマ)に囚はれてゐるといふ
ことになります。

しかし、他方、カントーショーペンハウアーーニーチェの超越論の系譜は、これを脱して言
語の再帰性に基づく汎神論的存在論の思考を自由にしてゐて、これを脱してゐるといふこと
は、これまでの論旨の道筋に適つてゐて、別にこの結果を意図したわけではありませんが、
そのやうな結果に、表を作成してみると、なりました。

唯一絶対神の宗教を否定した共産主義または其の先にある虚無主義(ニヒリズム)がキリス
ト教といふ一神教の教義と其のtopologyに囚はれてゐる。

マルクスの後の後継であるアドルノといふフランクフルト学派と呼ばれる学派の中心人物の
一人であるアドルノの全集は今でもドイツで売られてをり、その広告の文句を読むと、19
68年のドイツの学生運動をした世代、即ち日本でいふ団塊の世代といはれる今70前後か
ら以降のうちマルクス主義を含む共産主義に共感した年代の、当時所謂左翼と言はれた人間
たちに今でも読まれてゐるといふことがわかります。

その本の謳ひ文句は次のやうなものです。

【拙訳】[註1]
テオドア・W・アドルノは、20世紀の最も影響力豊かな哲学者の一人であつた。アドルノ
によつて共に基礎付けられた批判的な理論の思考の方向は、今日に至るまで、広く世界中に、
哲学的なまた政治的な談論・論議・講義に印(しる)されてゐて、アドルノは1968年の
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もぐら通信                          ページ 46

ドイツでの学生運動の先駆的な思想家となつてゐる。アドルノの哲学的著作のほかに、その
社会学と音楽理論の著作もまた、大きな影響を広げてゐる。

[註1]
【原文】
Theodor W. Adorno war einer der einflussreichsten Philosophen des 20. Jahrhunderts. Die von ihm
mitbegründete Denkrichtung der Kritischen Theorie prägt bis heute den philosophischen wie politischen
Diskurs weltweit und machte ihn zum Vordenker der 68er-Studentenbewegung in Deutschland. Neben
seinen philosophischen Schriften entfalteten auch seine Schriften zur Soziologie und Musiktheorie eine
große Wirkung.

アドルノは、生年1903年9月11日 、没年1969年8月6日。Widipediaによれば、ドイツの哲
学者、社会学者、音楽評論家、作曲家とあります。(https://ja.wikipedia.org/wiki/テオドー
ル・アドルノ)

さて、この人物の選集のほかに発行されたアドルノ全集といふべき一連の著作集に次の内容
の巻あり、これも此の巻の要約と題した文面を翻訳して、まとめると次のやうなものになり
ます。

【拙訳】[註2]
要約

アドルノ全集第12巻61
スコラ哲学/ヨハンネス・ドゥンス・スコトゥス/アドルノ:精妙博士(と呼ばれるドゥンス・
スコトゥス)にあつては、明確な区別をすることの精妙さ(または洗練)と自由があるとい
ふことが多く言はれることであるが、これは何よりも専ら、次の試みがなされることによつ
て、さう言はれるのである。即ち、その試みとは、専門用語の網の目を(蜘蛛のやうに)紡
ぐことを意味してをり、この網の目はかくも精妙であるので、この網の目の中には、主観的
な思考がそもそも既に成し遂げてゐる数々の契機までもが、存在自体の差異化の数々の事例
として現れてゐる。これこそが、益々差異化することを学習することの無限の意味であり、
次の第12巻62で述べられてゐる思考が、区別(差異化)が根元的にそもそも感覚的な対
象に拠つてのみ可能であつたことから、益々精妙に数多くの区別(差異化)が強力になつた
といふことの無限の意味なのである。

[註2]
【原文】
Zusammenfassung

Adorno XII 61
Scholastik/Johannes Duns Scotus/Adorno: Die viel berufene Subtilität und Feinheit der Distinktion bei
dem Doctor Subtilis (Duns Scotus) besteht vor allem in dem Versuch, ein terminologisches Netz zu
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もぐら通信                          ページ 47

dem Doctor Subtilis (Duns Scotus) besteht vor allem in dem Versuch, ein terminologisches Netz zu
spinnen, das so fein ist, dass in ihm auch noch Momente, die eigentlich bereits Leistungen des
subjektiven Gedankens sind, als Differenzierungen des Seins selber erscheinen. . Das hat eine unendliche
Bedeutung dafür, dass der Gedanke immer mehr lernte zu differenzieren, dass Denken XII 62 immer
feinerer Unterscheidungen mächtig wurde, wie sie ursprünglich nur an den sinnlichen Gegenständen
möglich waren.

この要約の文章からわかることは次のことです。

(1)ドゥンス・スコトゥスといふ中世スコラ哲学の世界で著名な博士は、その論理展開が
余りに精妙なので精妙博士と呼ばれてゐること。ドゥンス・スコトゥスは、1266年頃 ∼
1308年11月8日を生きた人で、13世紀といへば、キリスト教の成熟した最盛期の世
紀です。また、ドゥンス・スコトゥスは古代ケルト民族の裔であるスコットランド人であると
いふことが誠に興味深い。何故なら、この古代的な民族は私たち日本民族と同様に縄文時代
からの大地母神崇拝であり、汎神論的存在論、西洋哲学用語でいふ超越論の民族であるから
です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス)
(2)ドゥンス・スコトゥスは、概念を定義をし、自分の用語を用ゐて専門的な語彙の体系
を創造した人間であること。
(3)この人の著した著作の標題を見ると、関心の対象は、唯一絶対神、論理学、アリスト
テレス、認識論(Godを認識できるかどうか)、感情の変形といつたやうに、論理的にこれ
らのことを体系的に叙述する学問であつたといふことが解ります。
(4)今これらの主要な著作を通覧することができませんので、上記要約にある存在(das
Sein:ダス・ザイン)を直接論じたかどうかを知ることができませんが、しかし、ドゥンス・
スコトゥスの主要な著作の標題から言つて、論じてはゐないものと思はれます。従ひ、その語
の使用があつても、一般的な「在る」といふ使用法に留まつてゐたことでせう。これも後日
の課題とします。
(5)しかし、これに対して、アドルノといふ人間(1903年9月11日 - 1969年8月
6日)は、20世紀の同時代を生きたハイデッガー(1889年9月26日∼1976年5
月26日)が問題にして其の概念を探究した存在といふ言葉を以つて、この中世スコラ哲学
者の哲学を論じたといふことがわかります。何とまあ、20世紀に至るまでスコラ哲学は、
カントーヘーゲルーマルクスーフランクフルト学派の中に生きてゐたのであります。
わたしが契約してゐるドイツの本屋のカタログにはアドルノの選集が掲載されてゐますので、
21世紀のこの時只今もまだヘーゲルに端を発するあの否定論理和の消極的(negative)な
だけの部分論理を採用した無責任な(と私は断言しますが)弁証法は生きてゐるのです。驚く
べし、キリスト教の神学のスコラ哲学の13世紀といふキリスト教最盛期の神学に等しい中
世の哲学が、アドルノの解釈として今でも生きてゐる。
これまで私が此の安部公房とチョムスキー論で述べて来た、マルクス主義はルネサンス以前
の中世への回帰の運動だといふ理解は間違つてゐなかつた。この章の最後に日本人のスコラ
哲学研究者、八木雄二さんといふ方の此の問題に関係した言及を幾つか引用してまとめます。
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(6)ドゥンス・スコトゥスの哲学の専門用語の精妙なる網の目の中には、「主観的な思考
がそもそも既に成し遂げてゐる数々の契機までもが、存在自体の差異化の数々の事例として
現れてゐる」とあるところを見ると、アドルノの考へてゐることは、存在自体は(自己を主観
と考へて此れを離れた意味での)客観的なものであり(客観とは何かといふ論議は別にし
て)、これに対して主観的な思考から生まれて成果を上げてゐる思考論理の産物もまた、この
存在自体の客観性から説明がつき、その一部であるといふ考へ方であること。どうもアドル
ノはドゥンス・スコトゥスの哲学を此のやうに理解したこと、といふことは此のことからドゥ
ンス・スコトゥスの哲学は、アドルノにとつて、主観に重きを置いた哲学と理解したやうであ
ること。これも含めて、全てを客観としてある存在に収斂させ帰結させ始まりとする一神教の
topologyで論じ、ドゥンス・スコトゥスの哲学も此の考へ方で理解したのではないかといふ
ことは、前章のtopologyの図形でお解りの通りです。アドルノの思考論理は変形1から変形6
までのいづれに当てはまるものか。これも継続課題です。
(7)アドルノの考へは、ヘーゲルの存在といふ考へ方から言つて、何か否定的な契機に存在
する絶対的な、従ひ此の意義に於いてのみ客観的なものであり、更に従ひ、ヘーゲルがある文
脈に於いては存在を唯一絶対神と呼んでゐるのと同様に、Godといふ名前を隠してはゐるが、
アドルノは存在自体を、Godを否定しながら否定的にGodに比定してゐるのではないだらうか
といふこと。これは全集を読めばわかることなので、後日の課題としたい。
(8)アドルノの弁証法は、相変はらずヘーゲルの否定的な論理和の、時間の中での消極的
(negative)な弁証法であるといふこと。
(9)恐らくは、アドルノの弁証法と論理展開の欠陥は、時間の中で展開するヘーゲルの否定
的・消極的弁証法の使用と、存在自体といふ時間の外の(本人が客観と呼ぶ)存在との関係
をどのやうに説明するかといふ説明の論理矛盾にあるといふこと。ここにアドルノの論理上の
工夫と苦心のあること。これも全集を読めばわかることなので、後日の課題としたい。
(10)「主観的な思考がそもそも既に成し遂げてゐる数々の契機までもが、存在自体の差
異化の数々の事例として現れてゐる」とあることから更に解ることは、アドルノは、やはりヘー
ゲルの否定論理和といふ論理学上特殊部分的な論理によつて、存在自体を根拠に(アドルノが
存在自体をどのやうに定義するかは誠に見物であるがーこれは既にドイツの本屋にアドルノの
著した哲学用語集を発註済みですので、後日判明しますー)、時間の中で差異化を専らに行
ふことをのみを考へてゐる人間であること。
(11)ドゥンス・スコトゥスの哲学を、上記(10)の立場から読み、自分の説の補強に使
つてゐること。または、ドゥンス・スコトゥスの哲学を借用して、自分の考へを述べてゐると
いふこと。いづれにせよ、20世紀に至つて尚、キリスト教の中世13世紀の(大地母神崇
拝の血脈を引くスコットランド人の)スコラ哲学を必要として論じてゐるアドルノであるとい
ふこと。これを考へると、1968年前後のドイツの学生運動と当時の日本の学生運動の動
機と質と差異が歴然とするでせう。
(12)この「存在自体の差異化の数々の事例として現れてゐる」ものの一つが、昨今の
polotical correctnessであり、フェミニズムであり、その他多様化(diversity)や人権や(最
近では犬や猫にも権利があり、また鯨にも権利があるやうでありますが)、このやうな欧米
白人種キリスト教徒といふ特にキリスト教といふ衣は表には出てきませんが、実態は以上の
やうに、欧米白人種が其の衣を隠してゐるとすら意識せずに、無意識に同じ否定的な差異化
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もぐら通信                          ページ 49

の論理(歴史といふ時間の中での否定論理和の適用)が「存在自体の差異化の数々の事例と
して現れてゐる」のであるということ。この原因が、以上のアドルノの要約を読むとわかりま
す。
(13)アドルノがマルクス主義をどのやうに克服したかは、アドルノの貨幣論を読むとわか
ります。何故ならば、前章で至つた結論は、資本主義とマルクス主義の経済理論の違ひは、貨
幣を肯定するか否定するかによつて線引きができるからでした。肯定するのは勿論資本主義
であり、否定するのはマルクス主義である。果たしてアドルノは貨幣論を書いてゐるのだらう
か。主要な著作名を眺めると貨幣論はない様子です。それでは経済の領域で、例へ市場を論じ
ても、その論理は通用することはできない筈です。継続課題とします。
(14)「益々差異化することを学習することの無限の意味であり」とありますので、あな
たは此の理屈を信じて一生懸命勉強すればするほど、益々共産主義の、即ち今では言葉を替
へてglobalsm(無国籍企業主義、無国籍金融資本主義)と呼ばれる、しかし実態は以上の如
く共産主義の、もつと言へば悪用された(といふべきでありませう、何故ならドゥンス・ス
コトゥスはGodへの信仰心はあるといへども、そのやうに悪をなすた目に利用されるつもり
はないから)ヨーロッパ中世スコラ哲学を盲目的に信じて、チョムスキーの激しく主張して反
対するやうな「グローバリズムが世界を破壊する」ことに益々手を貸すことになるといふ訳
です。即ち、地球上での富の収奪と貧富の差異の増大といふ(安部公房のいふ)植民地主義
に、直接間接に手を貸すことになる。あなたはこれで枕を高くして眠られるか?
(15)最後の「第12巻62で述べられてゐる思考が、区別(差異化)が根元的にそもそ
も感覚的な対象に拠つてのみ可能であつたことから、益々精妙に数多くの区別(差異化)が
強力になつたといふことの無限の意味なのである」といふ文からわかることは、以上のアド
ルノの思考、即ち時間の中で数多くの差異を果てしなく作つてゆくこと、これは「根元的に
そもそも感覚的な対象に拠つてのみ可能であつた」と考へてゐることから、これは経験論で
あり経験主義であるといふことがわかる。即ち、意識の上での表層的な思考論理であり、無
意識下の汎神論的な思考論理である超越論とは真つ向から対立し、これを否定するものの考
へ方だといふことです。「安部公房の分類」といふ存在と意識・無意識の階層図を再掲しま
すので、ここでも吟味を願ひます。URL:https://ja.scribd.com/document/377549947/安部
公房の分類-v2-赤字強調
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 50

これで何故私が共産主義には超越論は理解できず、超越論は共産主義を理解できるといふ意味
がお分かりでせう。[註3]安部公房20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』を例に挙
げるまでもなく、超越論は無意識の上に意識があるが、しかし此の境界は実は時間の中にあ
つて曖昧だといふ考へ方であるからです。即ち生と死は連続してゐる、或いは同じ平面にある
といふ考へ方です。これは私たち日本人の考へ方でもある。お盆には死者が祖霊が帰つて来
ます。これに対して共産主義は、マルクス主義がさうであるやうに唯物論一辺倒であり、人間
は死ななくても物質であるといふ考へであることを言へば、これで十分に双方の理解の埋め
やうのない隔たりと、前者が後者を理解できない理由は明白でありませう。

[註3]
同じ論旨を別の貨幣論の観点から論じた『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼ドーナツとは何か』
(もぐら通信第80号)より引用し再掲します:

「超越論の論理と共産主義の論理が相容れることはありません。前者は後者を理解することができますが、後者
は前者を理解することはできません[註4]。

[註4]
これが何故かも、西洋論理学の用語と概念で説明が簡単にできますが、これは稿を改めます。今備忘のために
記すれば、前者は全体を考へた上での論理積(conjunction:AND)であるのに対して、後者のヘーゲルの弁証
法は否定論理(non-disjunction:NOR)のみでものを、しかも時間の中でのみ(即ち歴史の中でのみ)考へる
だけだからです。後者の論理がどれほど歪(いびつ)であるかは、後日初等数学で教はつた集合論のベン図を用
ゐて詳細に、しかし簡単明瞭に論じます。」

(15)上記(14)にある差異化を無限になして「益々精妙に数多くの区別(差異化)が
強力になつたといふことの無限の意味なのである」と言はれては、その人のなすことは、細
かな区別を立てて全体を無限に解体し破壊することのみといふことになりませう。これは、
やはり、ニーチェの激しく非難し、否定した虚無主義(ニヒリズム)です。(その根底にある
感情は憎しみです。どんな美辞麗句で飾つてもさうである。)何故なら、そこには目的はな
く、従ひ道徳が欠落してゐるからです。即ち、キリスト教の否定から無宗教になり、無宗教か
ら虚無主義に堕ちるとこれまで私が言つて来た、カントーヘーゲルーマルクスの系譜の末路
ではないかと思ひます。知的な衣装をまとつた虚無主義をこそ、私たちは疑はねばなりません。
アドルノが音楽評論家であり作曲家だといふのが気になります。果たしてどんな音楽をつくつ
たものか。YouTubeにアドルノの作曲した曲が幾つかありますので、そのうち3つのURLを
示します。お聞きください:

Six Studies for String Quartet (1920):https://www.youtube.com/watch?


v=GC1Nh77ZP2M
Piano Piece (1921):https://www.youtube.com/watch?v=Y9vU36JCbIM
String Quartet (1921) :https://www.youtube.com/watch?v=v5Tc4mXodrI
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もぐら通信                          ページ 51

私の感じでは一見静かさうな音調ですが、しかし人を不安にさせ、慰めを与へるやうな曲で
はないと聞こえます。あなたが聞いてどうでせうか。しかし、何か静寂を求める心も、音と
音の間にある沈黙の隙間にはあることは確かです。しかし鍵盤の鍵(キー)を叩くと、不安
定な音に聞こえる。この音調は、上記(8)と(9)に抽象した次の論理的理解の音楽的表
現になつてゐることに気づきます。

「(8)アドルノの弁証法は、相変はらずヘーゲルの否定的な論理和の、時間の中での消極的
(negative)な弁証法であるといふこと。
(9)恐らくは、アドルノの弁証法と論理展開の欠陥は、時間の中で展開するヘーゲルの否定
的・消極的弁証法の使用と、存在自体といふ時間の外の(本人が客観と呼ぶ)存在との関係
をどのやうに説明するかといふ説明の論理矛盾にあるといふこと。ここにアドルノの論理上の
工夫と苦心のあること。」

まあ、これらのことも、音楽に不安ないな私の感想ですから、あなたが自分の耳で聴いて判
断して下さい。

それからYouTubeに「アドルノと美学」と題した7回に分けての講演が上掲されてゐます。[註
4]1/7の最初の講演者Martin Hielscher(マルティン・ヒールシャー)の言葉を聴くと、や
はりアドルノは、上記(6)と(15)で抽象したのと同じことをアドルノの美学の要点とし
て述べてをりますので、この(6)と(15)の理解もまた正しい。再掲します。

「(6)ドゥンス・スコトゥスの哲学の専門用語の精妙なる網の目の中には、「主観的な思
考がそもそも既に成し遂げてゐる数々の契機までもが、存在自体の差異化の数々の事例とし
て現れてゐる」とあるところを見ると、アドルノの考へてゐることは、存在自体は(自己を離
れた意味での)客観的なものであり(客観とは何かといふ論議は別にして)、これに対して主
観的な思考から生まれて成果を上げてゐる思考論理の産物もまた、この存在自体の客観性か
ら説明がつき、その一部であるといふ考へ方であること。

(15)最後の「第12巻62で述べられてゐる思考が、区別(差異化)が根元的にそもそ
も感覚的な対象に拠つてのみ可能であつたことから、益々精妙に数多くの区別(差異化)が
強力になつたといふことの無限の意味なのである」といふ文からわかることは、以上のアド
ルノの思考、即ち時間の中で数多くの差異を果てしなく作つてゆくこと、これは「根元的に
そもそも感覚的な対象に拠つてのみ可能であつた」と考へてゐることから、これは経験論で
あり経験主義であるといふことがわかる。即ち、意識の上での表層的な思考論理であり、無
意識下の汎神論的な思考論理である超越論とは真つ向から対立し、これを否定するものの考
へ方だといふことです。」

(16)「アドルノと美学理論 2009」(Martin Hielscher. Adorno and Aesthetic Theory.


2009)と題した講演のURLは次の通り。英語による講演は一回10分計7本の講演です:
もぐら通信
もぐら通信                          52
ページ

https://www.youtube.com/watch?v=O4U2G8Jr29M
https://www.youtube.com/watch?v=xSWSX9uE4hA
https://www.youtube.com/watch?v=XOeQFXJpOwc
https://www.youtube.com/watch?v=vUjoh2TNR60
https://www.youtube.com/watch?v=he1jzXz9Ckk
https://www.youtube.com/watch?v=1QpCFFF6YvM

このアドルノの解説者の冒頭を聴いて講演者のいふアドルノを今読む意義とは、アドルノの論
理は、本文上記の通り1960年代の社会学の出現との、といふことはやはり1968年の
学生運動との関係で引き続き、その後の今の現実の問題の解決のために読まれてゐること、
自分たちはもつと強くならねばならないのだといつてゐることから、アドルノはそのための理
論の「前駆的な思想家」であり手段であることがわかります。
この話者の説明では明らかに客観とは物質のことです。さういつてゐるる。物質といふこと
から市場といふ経済の領域の話に飛び、新規なものに常に価値を見出すといふものの考へ方
が語られてゐる。私たちが感じることを主観的なものであり客観的な(つまり物質的な)も
のではないと主張して、このやうな主観の在り方は相対主義だと断言して、恐ろしいことです
が、このやうなものの考へ方は敵だと、これも断言してゐます。敵味方といふ区別は、これは
政治の領域の区別です。
このやうなこの講演者の論理展開を見ても、カントーヘーゲルーマルクスーフランクフルト学
派といふ共産主義の系譜の考へ方は、イデオロギーであり、イデオロギーとは個別民族個別
国民の、といふよりも主観といふことから個人の、文化破壊を、即ち人間を殺すことを悪と
は思はぬ偏執狂的な考へがイデオロギーであることがわかります。しかし、これは欧米の政
治家やマスメディアが名付けてイスラム教徒に対していふ原理主義と同じではないのか。元祖
一神教、本家一神教、総本家一神教の宗教戦争が、フランクフルト学派とか審美学とか、哲
学や美学の偽名の元に、政治と経済の領域で、globalismの名の下に戦はれてゐるといふこと
になります。この講演者のいふことがアドルノの考へだとしたら、私にはとても正気の沙汰と
は思へない。地獄の沙汰も金次第といひますが、アドルノは死後に三途の川を渡る時に、こ
の世での狂気の沙汰をどうやつて釈明したのだらうか。この問ひに答へるには著作を読む以
外にはない。

ここまで書く間に講演の第1回目の動画を同時に視聴して来て、ある学生の質問に対して自然
と人間の関係を回答として講演者は述べてゐるのですが、例へば山といふ自然を理解するこ
とは、主観的なものであつてはならず(これは既に命令です)、人間性(humanity:ヒュー
マニティ)を媒介として論理を通じて論理的に行はれるといつてをりますから、相変はらず人
間は自然の上位者であり、即ち唯一絶対神の位置にゐて一神教のtopologyの支配者であるの
です。
しかし、人間とはいはずに人間性といつてゐることが癖者で、人間性は性質を意味する何々
性といふ言葉でありますから、これは抽象名詞であつて、ここで人間の何々性を認識する能
力が問題になり、さうするとまたカントに戻って人間能力の分類の最上位概念である理性に
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もぐら通信                          ページ53

戻り、それからまた共産主義の系譜のヘーゲルに戻つて来てヘーゲルを理論の根拠とするので
ありませう。

この動画が私たちに教へてくれるのは、あなたが共産主義者かどうかといふことを試すため
の試金石は、次の問ひに答へる事だといふことが判つたことす。

問ひ:あなたは山や海や花やその他の自然を見て、自分の感じた美しさや素晴らしさを否定
して、(自分も含む)人間の考へた論理を通じて考へねば、自然を知り、理解したことには
ならないと考へるかどうか?

答へ:
①はい、さう考へます:
あなたは、共産主義者、唯物論者である。あなたの思考のtopologyは一神教のtopologyであ
る。あなたは生きてゐる自分の体を物質であり、無機物であり、死体であると考へてゐる、
あるいは考へることができてゐる。あなたは社会や国家を命のない物質だけを元にして命の
ある筈の人間の社会のことを考へてゐる。

②いいへ、さうは考へません:
あなたは、普通の人間、普通の日本人です。あなたは、目に青葉とみれば直観的に自然の生
きてゐることを知ることができる人間です。大地母神崇拝のこころあり。自然は理屈抜きに生
きてゐる。あなたの思考のtopologyは柔軟な並行四辺形の襷(たすき)掛けしたtopologyで
ある。あなたは自分の体を有機物であると考へるまでなく、人間が生きることを大切にして
ゐる。あなたにとつては物質といふ無機物もまた生きてゐる。仮に生きてゐる無機物が物質
と呼ばれたとしても。

なんだか神社の御神籤のやうになつてしまつた。

しかし更に、あなたが普通の日本人ならば、こんな分裂した世の中があつていいのか?こん
な分裂した人生を送つてゐていいのか?と疑問に思ふでせう。しかし、topologicalに物を考
へてみると、外部にあるものは既に内部にあるのです。これを日本の国の内部だと考へても良
いし、あなたの心と意識の内部だと考へても一向に差し支へありません。これが内外と言ひ
得る外内の現実でありますから、そしてあなたは安部公房文学世界に生きてゐる読者であり
ますから、自ら勇を鼓して、現実を変形して、二項対立のいづれの項をも否定して、自己を代
償にその否定した対立の向かふへとtopologicalに内部と外部を等価交換することによつて第
三の道を求めて、現実を超越して生き抜く以外にはありません。あなたの心の安定のために、
第三の道への、即ち第三の客観、即ち存在の方向への立て札を立てませう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 54

1.1 カントの一つ目の失敗
かうしてみますと、カントの失敗は、物自体を考へ、物を論じたが、事自体を考へ事を論じ
ずに終はつてしまつたといふことにあります。物自体とは何かといふ問ひを立てて論じてゐ
たら、その後のヘーゲル以降の弊害はなかつたかも知れません。何故なら、事とは、物と物
の関係のことだからです。あるいは、物と事の、事と物の、事と事の関係の事だからです。

ここまで書くのに視聴してきて、マルティン・ヒールシャーといふ講演者は唯一物論ですか
ら、 we are bodies などと平気でいつてゐる。私たちは肉体であるとも訳せるものの、この
文を読んだらまづ 私たちは死体である と言つてゐると思ふだらう。まあ、恐ろしい講演で
ある。しかし、ここのところでの学生たちの反応は明るい笑ひ声なのである。ヨーロッパは
狂つてゐやしないか。さうして、この講演者が we are bodies の前後に頻りに使ふcollective
(コレクティヴ)といふ用語は、マルクス主義の共産党用語です。マルクス主義が実は今のヨー
ロッパに、共産党宣言にある亡霊としてではなく、学生の笑声とともに明るく現実に生きて
ゐる。私が共産主義ドイツ(東ドイツ:ドイツ民主共和国;共産主義がなぜ民主などといふ
言葉をつかふのかといふ不思議の中)で通訳をしてゐたときに、会議の席でドイツ人の技術
者がよく使つてゐた言葉です。煎じ詰めれば、共産党のいふことに服従してといふ意味であり、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ55

その支配下にある俺のいふことをきけといふ意味だつたといふことに、今思ふと、なります。
当時は訳しやうがなかつた。仕方がないので、一緒に力を合わせてといつた程度の訳をした
のではなかつたかと思ひます。私も無知な若造であつた。

安部公房全集第2巻に『二十代座談会 世紀の問題について』(同書59ページ以降)と題
した座談会で、安部公房20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』で確立した二項対立を
否定して、個人でもなく集団でもなく第三の客観を求める認識の方法を、これを満州帝国の
崩壊した奉天で体験し、この方法による創造はその時も失はれなかつたといふ体験を実証的
にいつてゐることに対して、詩人関根弘が発言するコレクティヴといふ言葉が、これです:

「関根 だから、安部氏のは個人的な創造になるわけだね。
 安部 個人的であるかどうかは第二の問題になる。認識方法を混乱しないようにすれば、
それは別な問題になるでしょう。
 関根 そうでしょうか。つまり個人的な創造行為がそれほど尊いものであるか、コレク
ティヴな創造というものが素晴らしものであるかという比較、コレクティヴというものが、
個人が逆立ちしてもおよびもつかないものを悠々とやってのける。例えば、研究という面にお
いても、つまり研究の組織を有つということが大きな創造行為をやってゆく場合に必要だ。
そういうことが痛感されてきているという要請ね。集団に頼るというのでなく、集団的創造
の場をみいだすことが、大切であると思うんです。
 安部 それはあるかも知れませんね。ぼくにとってどちらを選ぶかは問題にならない。次
元が異うのです。とにかくぼくは仕事をするということ……。」
(同書74ページ上下段)(傍線引用者)

私の手元に『東ドイツの新語』(根本道也著。同学社)といふ当時の共産主義ドイツ国家の
新造語の辞書があり、その中にコレクティヴも関連用が幾つか収録されてゐて、1981年2
月20日初版の時点で(西ドイツ人にとつても既にこの時)意味不明である共産主義ドイツ
用語の解説の対象となつてゐますので、引用します:

「Arbeitskollektiv(アルバイト・コレクティーフ)「作業(労働)集団、研究集団」
 共通の目的と信念をもって共同で仕事をする人々の集団。簡単にKollektivということも多
い。Kollektivはロシア語のkollektivを借用してできた新語。現在西ドイツでも「共同で生活
または仕事をする人々の集団」というていどの意味では使われているが、東ドイツでの用途の
方がはるかに積極的で、しかも肯定的内容を含んでいる。」

関根弘のいふ「コレクティヴな創造というもの」が、これです。

話が逸れますが、もう一つ面白い言葉を見つけたので以下に引用します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 56

「Subbotnik(男性名詞)「自発的奉仕作業」
 仕事日でない土曜日に、あるいは平日の仕事時間以外に自由意志により、無報酬で集団作
業をすること。ロシア語subbotnik(< subbota=Sonnabendー[引用者註]ゾンアーベント
はドイツ語で土曜日の意味ーの借用語)」

これは昨今の日本でいふサービス残業といふのでありませう。

今21世紀の世にいふ、アドルノなどのフランクフルト学派の後継に当たる、経済と政治の領
域でのglobalism(グローバリズム)といふ(私がマルクス主義もフランクフルト学派も含め
て一括して呼ぶ)共産主義、安部公房の言葉でいふ植民地主義が、依然としてこれです。しか
し、これが文化の領域にまで猛威をふるつてゐるのが恐ろしいことは、『言葉の眼(12):
スイスのアルプス貫通世界最長トンネル開通式典の異様∼大地母神崇拝の復活とキリスト教
(父権宗教)の衰退∼』(もぐら通信第74号)で詳述し、その最後に次の一行を引用した
通りです。曰く「Opera Carmen: Cultural Marxism Destroys Culture」(オペラ「カルメン」
上演:文化的マルクス主義が文化を破壊する)

ヨーロッパ各国民各民族が、globalismに反対して、即ち宗教にあつてはキリスト教に反対し
て大地母神崇拝の復活を意図しゐる姿を映したのが、スイスでのアルプス山脈のトンネル開
通式の此の現実の醜怪な祭典の姿です。しかし、この祭典の目的は統一EU促進の祭典、即ち
イタリア半島と中央ヨーロッパを接続する列車のglobalsmの祭典であるといふ自己撞着、こ
れが今のヨーロッパの混乱した姿です。ヨーロッパ各国民各民族を、20世紀型の一斉同報マ
スメディアは20世紀にはプロレタリアートと呼び、21世紀には極右と呼んでゐる。

(16)ドゥンス・スコトゥスはスコットランド人であつて古代ケルト民族の裔であります
から、そしてしかもブリテン島といふ大陸ヨーロッパではない島国の人間でありますから、
本来キリスト教といふ一神教ではない、といふことは大地母神崇拝の血脈の流れてゐる人間
です。

八木雄二著『中世哲学への招待』(平凡社新書)を読みますと、この方はドゥンス・スコトゥ
スに惹かれて此のスコラ哲学者を長年専門として来た研究者で、同書「その六 時間と宇宙」
(197ページ以降最後まで)で、私が此の章の文脈で要約すると次のやうにいつてゐます。

古代ギリシャからキリスト教の神学を始め中世スコラ哲学に至るまでは、普遍的であつて(時
間の中でも)不変である存在または唯一絶対神の存在の証明を空間論として、即ち存在論とし
ておこなつてきたのが、その歴史である。しかし、ドゥンス・スコトゥスは、これを時間論
として、即ち一瞬一瞬に普遍・不変なるもの、即ち永遠としてある何かとして考へた。また唯
一絶対神は宇宙の創造者であるから、時間の軸の天地創造の始まりの過去から、現在、それ
から未来の最後の終はりまで、全てを予知してゐると、それまでの議論は神学者やスコラ哲
もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

学者の間で行はれて来たが、これを引つくり返して時間を取り上げて論じ、唯一絶対神は一
瞬一瞬に宇宙を創造するのであるから、予知できるのは此の非連続的に連続する一瞬といふ
時間に関する直前に予知するのだといふ。これらの因子の他に、必然と偶然といふ、これも
初期安部公房が思考を重ねて考へ抜いた対概念ですが、ここで論ぜられてゐるドゥンス・スコ
トゥスの文脈では、唯一絶対神は人格神でありますから意志を有し、意志を発動すれば、こ
こで結果として必然になるか偶然になるかの分岐が結果の判断から其の意志を規準に判別さ
れるといふ。著者は、このやうに論じてきて、ドゥンス・スコトゥスの連続・非連続的な謂
はば粒子の時間論と普遍的に潜在する唯一絶対神の意志のあり方を考察して、17世紀のバ
ロックの二人の数学者、ニュートンとライプニッツの微分・積分学に言及してゐることは、誠
に私たち安部公房の読者の目から見ますと興味深いものがあります。

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス以前の「とにかく当時の知的エリートの間にほとんど普遍
的に行きわたっている時間理解は、決して一瞬や一点で理解されるものではなかった。運動
も時間も、ある程度の量においてはじめて把握されるものであ」って、「いずれにしろ当時の
時間についての理解は、ほぼトマス(引用者註:トマス・アクィナスの事)に主張されるよう
に、全時間を円という曲線で表現することで一致していたので、ヨハネスの主張はきわめて
『新奇なもの』」であつた(同書231ページ)。

この八木さんといふ方の解説を読む限り、ドゥンス・スコトゥスは13世紀の人間でありな
がら、論理を見ますと、17世紀のバロックの論理に足を入れてゐるといふことがいへます。

このあとの著者の説明を読みますと、ドゥンス・スコトゥスは唯一絶対神の存在の同一性、
即ち再帰性についての議論を展開してをりますので、再帰性といふ言葉は用ゐてはいないもの
の、即ちドゥンス・スコトゥスはGodの絶対的な自己同一性を主張してをりますので、上述引
用の論理展開から言つて、唯一絶対神の存在の絶対再帰性を主張するに等しいと私には思は
れます。ここまで来れば、連続的・非連続的な時間の粒子たる点をtopological(位相幾何学
的)に接続してentity(実在、存在)を創造することのできる汎神論的存在論、即ち近代哲学
用語でいふ超越論(例えば、ライプニッツのモナド論)まであと一歩といふ所に来てゐたの
です。

これが何故「(16)ドゥンス・スコトゥスはスコットランド人であつて古代ケルト民族の
裔でありますから、そしてしかもブリテン島といふ大陸ヨーロッパではない島国の人間であ
りますから、本来キリスト教といふ一神教ではない、といふことは大地母神崇拝の血脈の流
れてゐる人間」であるといふ理由で、次の節に掲示する「近代哲学に於けるスコラ哲学・神
学関係用語頻出回数」表の中にドゥンス・スコトゥスの名前を入れ、また対してシチリア生ま
れのイタリア人のスコラ哲学者トマス・アクィナスの名前を、二つの系譜の評価の試金石とし
て置いたかの理由なのです。この二人はヨーロッパ中世最大のスコラ哲学者です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ58

古代ケルト人の文化と私たち日本人の縄文文化との共通性については別稿にて論じたいが、ドゥ
ンス・スコトゥスに関連して、ここに大地母神崇拝の、汎神論的存在論の人間が、人種、民族、
国家を超えて一体どのやうな意匠(デザイン)を設計し創造するものか、その例を幾つか掲げて
ご覧戴き、暗黙のうちに此の節の終はりとしたい。これらの意匠に共通することは、次の事です。

(1)一筆書き(topology:位相幾何学:内部と外部の等価交換)
(2)対称性(と対称性のほつれ/破れ)
(3)渦状紋(西洋哲学の超越論:我が国島嶼哲学の汎神論的存在論)

葛飾北斎の富獄三六景
神奈川沖浪裏

葛飾北斎の信州小布施の
祭りの神輿の天井絵から二つ
ケルト民族 アイヌ民族

アイヌ民族の
衣装の模様

古代ギリシャ人

縄文人の土器 日本人の水引
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もぐら通信                          ページ59

追記:
このやうに考へて参りますと、アドルノにキリスト教を否定する白人種としての誠実があると
したら、近代ヨーロッパ中産階級(ブルジョワジー)の捏造した、キリスト教の中世が暗黒
時代だなどといふ歴史認識に関する偽善と欺瞞を否定して、一神教のtopologyの中で首尾一
貫した歴史を求めたのであるのかも知れないといふことになります。しかし、これはヨーロッ
パ内部の問題です。ヨーロッパ外部の問題として問題を眺めると、一神教のtopologyは恐ろし
い。内部の問題としては大航海時代の500年、外部の問題としては、私たち有色人種にとつ
ては大虐殺の500年、収奪と略奪と文化破壊・文明破壊のの500年であるからです。

2。近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数
「近代哲学に於けるスコラ哲学・神学関係用語頻出回数」表をご覧ください。pdfは次のURL
でダウンロードができます:https://ja.scribd.com/document/379661286/近代哲学に於け
るスコラ哲学-神学関係用語頻出回数-v2
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

これを見てわかることを以下に列挙します。まづ用語の簡単な説明をしてから本題に入ります。

(1)スコラ哲学関係語数:スコラ哲学に関係した次の用語の頻出回数を言ひます。
   ①スコラ哲学(名詞)
   ②スコラ哲学者(名詞)
   ③スコラ哲学の(形容詞)

(2)神学関係語数:キリスト教の神学に関係した次の用語の頻出回数を言ひます。
   ①神学(名詞)
   ②神学者(名詞)
   ③神学の(形容詞)

(3)トマス・アクィナス:キリスト教最盛期である13世紀のスコラ哲学者の代表。イタリ
ア人:https://ja.wikipedia.org/wiki/トマス・アクィナス
(4)ドゥンス・スコトゥス:キリスト教の同じ最盛期13世紀のスコラ哲学者の代表。大
陸にではなく、ブリテン島のスコットランドに生まれたスコットランド人、即ち、ローマ帝
国に大陸ヨーロッパを追はれた古代ケルト人、即ち大地母神崇拝の民族の裔:
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

この二人の神学者の名前は、唯一絶対神を奉じるイタリア人のスコラ哲学者と大地母神崇拝
の血脈を引くケルト人のスコラ哲学者の二人を対比として考へるために名前を挙げて、カン
ト以降の分岐の二つの系譜にどのやうに引用されるかを知るために、謂はば医者ならば系譜
の脈をとるために、挙げたものです。

(5)カントーヘーゲルの共産主義の系譜(以下「共産主義の系譜」といひます)で、系譜
の分岐点であるカントの名前、その次のヘーゲルの名前、またマルクスの引用するカントとヘー
ゲルの名前を指標として挙げました。
(6)カントーショーペンハウアーの超越論の系譜(以下「超越論の系譜」といひます)で、
系譜の分岐点であるカントの名前、その次のショーペンハウアーの名前、またニーチェの引
用するカントとショーペンハウアーの名前を指標として挙げました。
(7)その他、二つの相反する系譜の人間たちが、反対側の思想の人間たちの名前をどの頻
度で挙げてゐるのかを、この表で知ることができます。
(8)日本語のどの西洋哲学史を見ても、フィヒテとシェリングの二人はドイツ観念論といふ
名前の元に登場しますが、フィヒテとシェリングの扱ひがいつも曖昧です。恐らく日本の哲学
研究者または哲学史家の書くものはドイツの同類の学者たちの引き写しでせうから、この曖
昧さはドイツ本国での理解の曖昧さと考へても良いものです。
しかし、この表の数字を見ると、何故ヘーゲルがフィヒテの哲学に頼つたのかが一目瞭然です。
また、この表から、何故ショーペンハウアーがシェリングを批判しながらも評価したのかの理
由も判ります。これらについては後述します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ61

さて、本題に入ります。

ここで「西洋近世哲学史の中の安部公房の位置2(神学・スコラ哲学用語との関係)」図を
ご覧ください。これは、「西洋近世哲学史の中の安部公房の位置(カント以後の哲学の系
譜)」(『安部公房とチョムスキー(1)』もぐら通信第73号)で示した図に、上記スコ
ラ哲学関係語数と神学関係語数を赤字で追記したものです。ダウンロードのURLは:
https://ja.scribd.com/document/379559376/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置2

この数字を見て分かることは、次の通りです。

(1)共産主義の系譜(カントーヘーゲルの系譜)の方が、超越論の系譜(カントーショーペン
ハウアーの系譜)よりも、より多く、従ひより強く、キリスト教神学とスコラ哲学を意識し、
これとの関係で自分の考へを論じてゐること。共産主義の系譜は、超越論の系譜の3倍多くス
コラ哲学に言及してゐ、神学についてもやはり同様に3倍多く、キリスト教神学について言及し
てゐること。
(2)上記(1)の数字から見ると(勿論中身を読んでも同様と思はれる)、共産主義の系譜
の方にキリスト教の論理は残り、継承されてゐて、他方、超越論の系譜には、キリスト教の論理
は影薄くなつてをり、17世紀のデカルトとライプニッツ以来の超越論がそのまま継承されてゐ
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

るといふこと。後述するが、ショーペンハウアーの意志と表象の再帰哲学には、後述する13
世紀のドゥンス・スコトゥスの意志が継承されて超越論となつて統合されてゐると思はれる。
(3)カントの語数と比較すると、
   ①ヘーゲルにあつては、スコラ哲学関係語数はカントの語数の3.2倍に増え、神学関係
語数はカントの語数の44%に減少してゐる。
   ②ショーペンハウアーにあつては、スコラ哲学関係語数はカントの語数の1.2倍に増え、
神学関係語数はカントの語数の10%に減少してゐる。

この二つの結果からも、上記(2)の推論は正しいと考へられる。

(4)実に皮肉なことであるが、宗教を否定したマルクスの考へにこそ、キリスト教の論理が継
承されてゐるといふこと。マルクスにあつては、スコラ哲学関係語数はヘーゲルの語数に対する
に9%に減少してゐるが、しかし反対に神学関係語数はヘーゲルの語数の1.6倍に増加してゐ
る。
(5)フランクフルト学派の主要人物の一人であるアドルノの著作に依然としてスコラ哲学者で
あるドゥンス・スコトゥスを論じ、存在といふ概念を此の文脈で論じてゐるといふことは、上記
(1)から(4)の歴史的なキリスト教論理に関する脈絡の中に依然として共産主義はあるとい
ふことである。この後継であるglobalism(無国籍企業主義、金融無国籍主義)もまた同様であ
るに違ひない。
(6)このやうな視点で今世界を眺めると、相変はらず13世紀の盛期キリスト教の中世以来
の同じ論理が、金融と資本の力によつて世界を席捲してゐること、これに対して同じ一神教であ
るイスラム教が対抗してゐるとふ模様を知ることができる。
(7)二つの系譜の分岐点に立つカントの名前を、ヘーゲルは257回、マルクスは14回引用
してゐる。これに対して、超越論の系譜のショーペンハウアーはカントの名前を500回、ニー
チェは108回挙げてゐる。数の多さといふ視点から見れば、カントの超越論はショーペンハ
ウアーが継いだといふことがいへ、下記(9)の数字を見れば、ショーペンハウアーの超越論は
ニーチェに正当に受け継がれたといふことができる。
また、マルクスはヘーゲルの名前を500回挙げてゐるが、これはショーペンハウアーがカント
の名前を500回挙げてゐることに匹敵する。マルクスはヘーゲルを継ぎ、対してショーペンハ
ウアーはカントを継いだといふことが、量的な挙名の視点からは、かうして言へることになる。
前者即ちマルクスは物(ブツ)ー唯物論ーをヘーゲルを介して継ぎ、後者即ちショーペンハウアー
は物自体ー超越論ーをカントから意志として継いだといふことである。
(8)二つの系譜は、お互ひに相手方の系譜の名前をあげることは、ヘーゲルーマルクスには全
くなく、対してショーペンハウアーにはヘーゲルの名前が11回、ニーチェにはヘーゲルの名前
が34回挙げられてゐる。超越論の系譜の二人は、勿論ヘーゲルの激しい否定者です。ショーペ
ンハウアーの場合には、罵倒といつて良いもので、詐欺師ヘーゲルとまで言つてゐる。ニーチェ
の場合には、ヘラクレイトスやプラトンから始まり、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カン
ト、ショーペンハウアー等の名前を列挙して、哲学者は自分も含めて皆独身である、ヘーゲルの
やうな一体哲学者で結婚して幸せになつた奴などがまともな哲学者か、喜劇ではないかなどと、
これもヘーゲルを愚弄してゐる。ソクラテスは結婚してをりましたが、この開祖は女と結婚した
もぐら通信
もぐら通信                          ページ63

のではない、辛辣なるソクラテスは哲学的アイロニー(逆説)と結婚したのだとまでいつて、ま
あ、これも結局罵倒してゐるのです。
(9)ニーチェは、ショーペンハウアーの名前を278回言及し論じてゐる。

さて、いよいよ通称ドイツ観念論にあつて曖昧な位置にゐるフィヒテとシェリングについてです。

(10)フィヒテは、スコラ哲学関係用語も神学関係用語も、二人の13世紀の最大のスコラ
哲学者の名前も、カントの名前も挙げてゐない。これに対して、
(11)シェリングは、カントの名前を10回挙げてゐる。その他スコラ哲学関係用語は2回、
神学関係用語は18回となつてゐる。二人の13世紀の最大のスコラ哲学者の名前は挙げてゐ
ない。
(12)上記(10)と(11)の数字を見ると、「西洋近世哲学史の中の安部公房の位置(カ
ント以後の哲学の系譜)」(『安部公房とチョムスキー(1)』もぐら通信第73号)で示し
た図に於いて、フィヒテをヘーゲルの側に、シェリングをショーペンハウアーの側に配置したこ
とは正しいと思はれる。ダウンロードのURLは:https://ja.scribd.com/document/
379559800/西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 64

(13)『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)より上記(12)に関す
る文章を以下に引用します:

「物自体(das Ding an sich:ディング・アン・ジッヒ)を、自己との関係で、それが現象の世


界の外部にあることを全く否定したのがフィヒテであり、そのフィヒテの此の論理を採用して、
自己の哲学を打ち立てたのがヘーゲルです [註2]。ヘーゲルは、人間個人の持つ再帰性を他
者に及ぼすのではなく、自己の内部に及ぼすことで、キリスト教の教義の根底にある言語の持つ
再帰性の絶対的否定に抵触しない論理を展開することができました[註3]。このフィヒテの
論理はヘーゲル哲学の要の論理であつた。それが何故自分夫婦の墓を死後フィヒテ夫妻の墓の隣
にまでして永眠したかつたかといふヘーゲルの思ひであつたのです。これがヘーゲルの『大論理
学』(『Die Wissenschaft der Logik』:直訳は『論理学の科学』『論理学といふ学問』)です。

[註2]
ヘーゲルの『大論理学』を読みますと、ヘーゲルの論の立て方は、古代ギリシャのプラトンの書いた『パルメニデ
ス』中の基本的な三つの単位化された比較論理の使用と応用を、そのまま引き継いで展開してゐます。即ち、やは
りヘーゲルは中世のスコア哲学が立てた此の論理の論じ方を基本として、体系的な叙述であるようにして書かれて
ゐるのです。18世紀、19世紀までにも中世のスコラ哲学は生きてゐた。
私が当時1970年代後半の東ドイツに住んで直観した、マルクス主義の運動はヨーロッパのルネサンス以前に戻
ることだといふ直観は正しかつたといふことが云へます。即ち、マルクス主義といふ擬似一神教、擬似キリスト教
の元での時間の停止です。このことの詳細は 「カンガルーノート論(2):6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神
話論の視点からみた安部公房文学∼」(もぐら通信第67号)で論じましたので、これをご覧ください。

[註3]
この私の理解は次に引用する『大論理学』(Kindle版)のドイツ語原著の序文を書いてゐるドイツ人の理解に一致
してゐます。

【原文】
Mit Kant bestimmt er die Aussenwelt als solche, die Welt der Raumdinge als phänomenal, als Erscheinung
eines Dinges an sich. Zugleich aber hält er, im Gegensatz zu Kant, eine Metaphysik für möglich, die - auf
Grund der innern Erfahrung - das Wesen des Ding an sich selbst zu bestimmen vermag.

【拙訳】
カントを使つて、彼(訳者註:ヘーゲル)は外界を次のやうなものと規定した、即ち外界とは現象的である空間諸
物の世界であり、物自体の現れである。同時にしかしヘーゲルは、カントとは正反対に、内的経験を根拠にして、
物自体の本質を規定することのできる形而上学が可能だと考へた。

この論理の危険性は、その論者が自己中心的な独善的な人間になるといふ危険性です。

これに対して、カントの物自体を批判的に、しかしそのまま正当に受け容れて此れを意志と呼び、生命に溢れる哲
学を打ち立てたのがショーペンハウアーです。これがカントの後の超越論の系譜です。ほら、この文章を読んでゐ
るあたな、既にして身内に意志を覚えてゐるだらう?理屈抜きに、因果関係を離れて。さうして其のままで世界が
目の前にあるだらう?といふわけです。」
もぐら通信
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(14)フィヒテのカントへの言及は0回といふのは、誠に異様な感じがする。フィヒテはカン
トを否定した、といふよりは0回といふ回数からは拒絶したのであるといふべきでありませう。
そして、このフィヒテの考へ方を利用して、ヘーゲルは其の延長に自分の哲学を構想したといふ
ことになります。
さうして、上記(13)に述べたやうに、同時にキリスト教の教義、即ち言語の再帰性の絶対否
定の教義に一切抵触することなく、カントに学んだ言語の再帰性に基づき、時間の中での否定
論理和に基づく否定的な再帰論理を多用して此れを弁証法と称し、自分の外部に物自体を置かず
に自分の内部に物自体を考へて自分の論理を展開することができたといふことです。

2.1 カントの二つ目の失敗
上記(1)から(14)を通して大局を観ますと、カントの哲学の失敗は、事自体を論じずに
終はつてしまつたといふことに加へて、道徳の問題をキリスト教に預けてしまつて、哲学の直接
の問題とはしなかつたことです。

詳述はしませんが、カントが道徳を論ずる際にはキリスト教の教義に役割を預けてしまつて一
神教であるキリスト教との関係で道徳の問題を語るので、折角自分で図つた人間の能力の分類
の最上位にある理性といふ能力の分類が歪み、道徳を論じる中にあつて、狂いが生じてゐるの
です。

このカントの弱点をヘーゲルに突かれた。或いはヘーゲルは此のカントの弱点を突いた。さうし
て、共産主義の系譜には道徳が失はれてしまつて、今のglobalismに至つてゐるといふわけです。
上記アドルノの考へを分析した「1。アドルノとドゥンス・スコトゥス」の(15)を再掲しま
すので、お読みください:

「(15)上記(14)にある差異化を無限になして「益々精妙に数多くの区別(差異化)が
強力になつたといふことの無限の意味なのである」と言はれては、その人のなすことは、細か
な区別を立てて全体を無限に解体し破壊することのみといふことになりませう。これは、やは
り、ニーチェの激しく非難し、否定した虚無主義(ニヒリズム)です。(その根底にある感情は
憎しみです。どんな美辞麗句で飾つてもさうである。)何故なら、そこには目的はなく、従ひ道
徳が欠落してゐるからです。即ち、キリスト教の否定から無宗教になり、無宗教から虚無主義に
堕ちるとこれまで私が言つて来た、カントーヘーゲルーマルクスの系譜の末路ではないかと思ひ
ます。知的な衣装をまとつた虚無主義をこそ、私たちは疑はねばなりません。」

そして、上記でのYouTubeの動画で講演をしてゐる講演者が冒頭のところで「自分たちはもつと
強くならねばならないのだ」といふ言葉に、「上記(14)にある差異化を無限になして「益々
精妙に数多くの区別(差異化)が強力になつたといふことの無限の意味なのである」」といふ
アドルノの論理を要約した言葉は一致してゐる。

勿論、カントの其の心は、馬具職人の息子として生まれた庶民の一人として、庶民の信仰心と道
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ66
徳心を大切しようといふことにあることは、その道徳論を読むとカントの誠実な心として伝は
つて来るのです。そして、その庶民の心を基礎にして、自分の哲学を打ち建てようとした心も十
分に伝はつて来るのです。しかしそれはそれとしても、歴史といふものはどうにも人間の思ふや
うにはうまく行かぬものです。このために、共産主義の系譜の唯物論の人間たちによつて、地球
上で数へきれぬ人たちが殺されて命を失ふことになつた。

かうして考へて参りますと、私たち日本人のなすべきこと、できることは、欧米の白人種に対し
て、論理によつて頭で理解して自然を知るのではないと言ひ、それを知らしめるためには私たち
の縄文以来の自然を理解するための様式と歴史的事実を伝達することではないだらうか。何故
ならば、人間は自然の一部であるからだと言つて。曰く、自然哲学、曰く自然政治学、曰く自
然経済学等々。唯一絶対神の外部にある自然を想起させるのです。

2.2 マルクスのドゥンス・スコトゥス理解
この章の最後に、マルクスのドゥンス・スコトゥス理解をマルクス全集の中から拾つて挙げて見
ませう。一体上述のやうなドゥンス・スコトゥスを、マルクスはどう理解したのものか。

同じ一神教のtopologyの中で考へた二人とはいへ、ドゥンス・スコトゥスは17世紀のバロッ
クの論理によく接近した、それこそ「前駆的思想家」ですから、この視点でマルクスの言葉を
読めば、ドゥンス・スコトゥスといふ試金石によつて、マルクスの理解の限界もまた露呈するで
せう。ドゥンス・スコトゥスの正反対の立場がマルクスですから、恐らくそれは唯物論の一神教
topologyとしてドゥンス・スコトゥスを理解するといふことになつてゐる筈です。フランクフル
ト学派の主要人物の一人であるアドルノの著作に依然としてスコラ哲学者であるドゥンス・スコ
トゥスを論じ、その前のマルクスがトマス・アクィナスを論ずることなく、やはりドゥンス・ス
コトゥスを論ずるといふのは、誠に興味深い歴史的事実です。

マルクス全集の中に次の二つの例があります。当時の時代背景や風潮もわかつて興味深いものが
あります。(ショーペンハウアーにも二例の言及がありますが、これはマルクスとは異なり、ス
ピノザ、ライプニッツ、カントと比較をした上でのきちんとした形而上学上または哲学上での論
をなしてゐます。)

①神学と形而上学の17世紀と18世紀を論じながら次の文章があります。スピノザは17世紀
のオランダに住んだ、デカルトと同じ時代の哲学者です。イギリスの哲学者ロックもまた然り。
一言でいへば、スピノザは唯一絶対神といふ絶対枠の中での汎神論的存在論者であると私には
見えます。この点で、スピノザはドウンス・スコトゥスに通じてゐる。さて、これをマルクスは
どう論じたか。Materialismus(マテリアリスムス)は、唯物主義または物質主義といふ訳にな
りませう。あるいは唯物論、専一物質論とふ訳になります。一般的に通用してゐる唯物論といふ
訳語をここでは採ります。

【拙訳】[註5]
かういふ問ひがある: ロックは、いつてみればスピノザの弟子なのだらうか?
深淵なる 歴史はかく宣(のた)まふであらう:唯物論こそが、大ブリテン島土着の息子(訳者
註:ロックのことであるが同時に唯物論が男性名詞であるので言葉を二つ掛け合はせてゐる)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 67

である。既に唯物論またはロックお抱(かか)へののスコラ哲学者であるドゥンス・スコトゥ
スがかう自問してゐる: 物質は考へることができないのであらうか
この奇蹟を現実のものにするために、ドゥンス・スコトゥスは唯一絶対神に逃げ場を求めた、
即ち、神学自体に無理矢理、唯物論を説教させたのである。おまけに、ドゥンス・スコトゥス
は唯名論者(nominalist:ノミナリスト)[註6]であつた。唯名論は、イギリスの唯物論者た
ちにあつては(思考と議論のための)主たる要素であつて、この唯名論がそもそも唯物論の最
初の表現である所以なのである。

[註5]
【原文】
Es fragt sich: Ist Locke etwa ein Schüler des Spinoza?
Es fragt sich: Ist Locke etwa ein Schüler des Spinoza?
Die profane Geschichte mag antworten:
Der Materialismus ist der engeborne Sohn Großbritaniens. Schon sein Scholastiker Duns Scotus fragte sich,
ob die Materie nich denken könne .
Um dies Wunder zu bewerkstelligen, nahm er zu Gottes Allmacht seine Zuflucht, d.h. er zwang die
Theologie selbst, den Materialismus zu predigen. Er war überdem Nominalist. Der Nominalismus findet sich
als ein Hauptelement bei den englischen Materialisten, wie er überhaupt der erste Ausdruck des
Materialismus ist.

[註6]
例によつて例の如くWebster Onlineにお伺ひを立てると次の如し。結論をいひますと、

1。下記の1の語釈からは、現実の中には本質など存在しないといふ考へが唯名論。普遍的なまた一般的な用語に
対応するやうな概念も形象も一つもないといふ論です。このことから、マルクスによれば現実に存在するのは物質
だけといふ考へになるのでせう。また、
2。下記2の語釈からは、個別のものだけが存在する、抽象的な実在や存在(ともに英語ではentities:エンティ
ティーズ)は存在しない。例へば、本質、階層、命題といつたやうなものは存在しないといふ考へ方です。

初出は1830年、マルクスが12歳の時です。

Definition of nominalism
1
: a theory that there are no universal essences in reality and that the mind can frame no single concept or
image corresponding to any universal or general term
2
: the theory that only individuals and no abstract entities (such as essences, classes, or propositions) exist ―
compare essentialism, realism

First Known Use of nominalism


1830
in the meaning defined at sense 1
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 68

②ここでのマルクスのドイツの若い世代への演説は、ドイツといふ領邦の集まりであつたドイツ
を一つにまとめたプロイセンといふ近代国家の成立を、歴史的な継続として捉へて(これは当た
り前のことであるが)、若者たちに、もう分厚い本を読んで、中世の神学やスコラ哲学やら歴史
やらを読むのは止めろと言つてゐて、もはや中世のキリスト教の最盛期のあの巨人ドゥンス・ス
コトゥスの書いたやうな形而上学の世界の有する唯一絶対神の偉大な時代は終はつたのだとい
ふことを言つてゐます。これはむしろ共産党宣言と同じで、願望の表現に過ぎません。何故なら
ば、上述の通りに、マルクスこそが一神教のtopologyに最も(唯一絶対神としてではなく)人間
として囚はれてゐたからです。しかし、他方、それほどにキリスト教の教義の束縛は強力であつ
たといふ事になります。

【拙訳】[註7]
善良なる子供達よ、よく考へてご覧、ここで問題なのは、学識豊かな数多くの物ではないので
ある、学校へ行つて分厚い書物ばかりを一杯読んでみるがいい、となると、我々の吹けば飛ぶ
やうな紙型(フォーマット)や、我々の世俗的には軽薄な、さう読めば本当に鋭気を養ふ軽薄
さが気に入つて、分厚い本をたくさん読んだ日には、我々の出してゐる新聞が欲しくならうとい
ふものだ。
 しかし!、しかし!、だ。我々の時代には、もはや偉大といふことのあの意義などありはし
ない、我々が中世といふ時代に触れるて驚くあの偉大さのことである。我々のちつぽけな敬虔
主義的な(ピエティスムスの)論文を見るがいい、小さな音階(オクターヴ)で書かれた我々の
哲学的な数々のシステムをみるがいい、そして、さて、君たちの眼をドゥンス・スコトゥスの2
0の巨人のやうに巨大な紙型(フォーリエ)にやるがいい。君たちは、たくさんの本を読む必
要はないのだ。といふのも、既に君たちの冒険的な眼に映るものが、君たちの心臓に触れて感
動させ、君たちの五感を打ち、それはさながら、ゴート式の建築のやうにである。これらの自
然に繁茂した巨人の著作は、物質的に精神に働き掛ける。といふのは、精神は群衆に気押され、
気押された感情は、畏怖の始めであるからだ。君たちに書物は要らない、書物が君たちを必要
とするのだ。君たちは、書物にあつては片手間仕事なのだ(君たちは読書とは書物にとつては
さういふ程度のことなのだ)、だから、さう、 プロイセン国家新聞 によれば、ドイツ民族は
(あるいはドイツ国民は)プロイセン国家の政治的な文献にあつては片手間仕事なのだ(国民
とは国家にとつてはさういふ程度のことなのだ)。
 といふわけで、もし プロイセン国家新聞 がたとへ全く近代的に雄弁を振るつたとしても、
プロイセン国家新聞 は、中世の繁栄した時代に帰属する数多くの歴史的な根拠もないままでゐ
るのである。

[註7]
【原文】
Bedenkt, ihr guten Kinder, dass es sich hier um gelehrte Dinge handelt, geht in die Schule der dicken
Bücher, und ihr werdet uns Zeitungen schon liebgewinnen wegen unseres luftigen Formats, wegen unserer
weltmänischen Leichtigkeit, die wahrhaft erquickend sind, nach den dicken Büchern.
Allerdings! Allerdings! Unsere Zeit hat nicht mehr jenen realen Sinn für Größe, den wir am Mittelalter
bewundern. Seht unsere winzigen pietistischen Traktätlein, seht unsere philosophischen Systeme in kleinem
Oktav, und nun wendet euren Blick auf die 20 Riesenfolianten des Duns Scotts. Ihre braucht die Bücher
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 69

nicht zu lesen; schon ihr abenteuerlicher Anblick rührt euer Herz, schlägt eure Sinne, wie etwa ein
gotisches Gebäude. Diese naturwüchsigen Riesenwerke wirken materiell auf den Geist; er fühlt sich erdrückt
unter der Masse, und das Gefühl der Gedrücktheit ist der Anfang der Ehrfurcht. Ihr habt die Bücher nicht,
sie haben euch. Ihr seid ein Akzidenz zu ihnen, und so, meint die Preussische Staats-Zeitung , solle das
Volk ein Akzidenz zu seiner politischen Literatur sin.
So ist die Staats-Zeitung nich ohne historische, der gediegenen Zeit des Mittelalters angehörige
Grundlagen, wenn sie auch ganz modern redet.

マルクスが経済学に於いて、貨幣の本質を金銀といふ物資的素材だと誤解して、自らの理論の屋
台骨である経済学を台無しにしたのと同様に、このスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスの理解
についても、余りにも物質に偏つて理解してゐる。

八木雄二氏は次のやうに述べて「あとがき」で近世の500年、近代の300年を嘆いてゐる。

「この本を読まれた読者には、近代ヨーロッパが十分な根拠もなしに中世の精神的仕事を闇に
葬ってきたことを了解してもらえるだろう。実際には、古代から中世、そして近代へと、ヨーロッ
パの精神的伝統は途切れることなく連なっているのである。ところが、近代以降の人間は、中
世を闇に葬ってしまった人々の言葉を信じてしまった。(略)古代は、哲学の初々しさや、起源
性ゆえに注目され、近代は現代の礎として注目されるが、中世は価値を見出されないままに過
ぎているように見える。(略)過去の哲学者の仕事を敬愛していた人々がなした誠実な仕事が後
世の人々によって「捨てられた」という事実は、何を意味するのだろうか。それを今、拾い直す
としても、捨ててきた側の思惑がこれまでの歴史を作ってきたのである。そして今のわたしたち
がある。
 今世紀最後となったオリンピックが先頃オーストラリアで開催された。聖火の点火ランナーは
オーストラリアの先住民アポリジニだった。オーストラリアでは、アポリジニたちが、子どもの
頃に親から引き離され、自分たちのことばも学ぶことができず、文化の継承を不可能にされてき
た。この悲劇は遠い過去のことではない。今世紀のことだ。後悔することはできる。しかし断
絶の影響は永久に残るだろう。断絶されなければあったはずのものは決して回復しないのだ。そ
の時間はもう過ぎてしまっているのである。
(略)
 わたしに言えることは、文化のともづなが切られてしまったその切断面を見ることは、それが
何であるにしても、言いようもなく悲しい、ということだけである。ヨーロッパのことだから他
人事にしておけることではない。綱のより糸になっていた一本でも、せめてわたしたちの伝統に
つなぐことができればと思ってしまう。そして、それはできないことではないのかもしれない。
(略)
  二〇〇〇年一〇月      八木雄二」

50年間切れることのなかつた安部公房の初心の艫綱(ともづな)が、この『安部公房とチョ
ムスキー』論によつて、明治維新と先の戦争あるにも拘らず、「せめて」とはいはず、真つ直ぐ
に東西「わたしたちの伝統につな」がることを願ふ。
もぐら通信
もぐら通信                          70
ページ

追記:余計な1ページを割いての余計な一言

まさか、ここまで書いてみるとは思ひがけないことでした。ショーペンハウアーに比較をすると、
マルクスのドゥンス・スコトゥス理解は哲学者のものではありません。しかし、何故ここまで物
質に拘(こだ)はるものなのか?何でも物質で説明しようといふことになれば物理学といふ科
学を学ぶ以外にはない。

わたしの若年の時からの疑問は、何故マルクス主義に心酔し又は共感した特に団塊の世代の今
の70歳前後からの人間たちは(勿論上掲のYouTubeにあつたやうに若い学生でもよく講演者
の年齢でも良いが、この種の人間は)、自分自身をそのやうに憎むのかといふ疑問です。そして
その憎悪を自分では感じてゐないし知らないといふ矛盾と、その憎悪を外部へと向けて恥じな
いといふ道徳を失つた幼児性。やはりその人間の持つ死に対する恐怖心を煽情され利用されて
さうなつたといふのが私の結論です。

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、マルクスは長兄の夭折により長男の地位を占めてゐた
ことが関係するのかも知れない。しかし尚、このやうに偏執的に物質だけで考へるマルクス個
人に固有の何らかの契機がある筈。と考へて来ると、マルクス主義のヨーロッパでの運動は、ユ
ダヤ教とキリスト教の戦争であつたといふことになる。この物質に対する偏執性は、ヘーゲルの
否定論理和に対する偏執性に通じてゐます。YouTubeのアドルノの講演者の言葉を聴いて知るに
至つた狂気にこの偏執性は生きてゐると感じる。きつとあの中年の講演者の男も、笑ひ声をあ
げた学生達も、想像するだに恐ろしいことであるが、機会と場所と社会的な地位が与へられた
ら、きつと笑ひながら、あるいは嗤いながら、人を平気で殺すことのできる人間なのではない
だらうか。何故なら、脳味噌で考へる論理を他の人間たちと共有しなければ、人間は自然を理
解できないと公言して憚らないのであるから。

何故、共産主義者は人間をこれほどまでに憎むのだらうか。

八木さんの言葉でいへば、マルクスのドウンス・スコトゥス理解が偏頗で浅薄であることから判
明したやうに「近代ヨーロッパが十分な根拠もなしに中世の精神的仕事を闇に葬ってきたこ
と」、ヨーロッパ地域の歴史と文化と伝統のの継続性をないがしろにしたこと、これがその大
きな原因の一つです。もう一つの大きな原因は、アラビアの世界、イスラム教徒から古代ギリシャ
とローマの遺産を教へてもらひながら、それに感謝の意を表することなく、この中世最後期の
歴史を捏造して、自分たちが歴史的事実とは無関係に、イスラム教文明の力を借りることなく独
自に近代文明を創造したといふ嘘を信じこまうとした中産階級(ブルジョワジー)の富裕な(資
本家を含む)商人たち、政治家たち、文化の領域の人間たちの捏造した歴史に対する偽善と欺
瞞が、この憎悪の原因です。もし中世のスコラ哲学を学んだことを、八木さんといふ方のいふや
にこれらの人間たちが大切にしてゐたら、ヨーロッパの人間たちはもつと少しは謙虚でゐられた
かも知れない。これについては『メタSF作家A氏への五つの手紙』(もぐら通信第71号)で論
じましたので、お読みください。
もぐら通信                         
もぐら通信 71
ページ

これが私の原因の説明ですが、これに対して八木さんは次のやうに書いてゐます:

「しかし、なぜ近代が中世を無価値な時代として葬ったのか、ということは、おそらく簡単に
は答えられない疑問だろう。デカルトが自分の能力に自身があったためにいくらか傲慢だった
せいなのか、と思ってかれの著作を読み直しても、かれの言葉は以外に謙虚であったりする。結
局、人間がいつのまにかもってしまったイメージが中世を葬ってしまった、としか言いようのな
いことなのかもしれない。」(同書「あとがき」242ページ)

デカルトの『方法叙説』を読むと、本当に大変な人物だと私は思ひます。スコラ哲学を修め、そ
の後世間といふ書物を読むためにフランス軍に従軍して30年戦争を直に見聞してから、我思ふ
故に我ありといふ、言語の再帰性の真理に則つて自分の再帰哲学を打ち建てる。しかし、後世
のヨーロッパ人は、デカルトを近代哲学の祖と褒めて置きながら(その事実を認めざるを得ま
せんから)、他方、デカルトが精神と肉体を分離したなどといつて相反した否定をする。これ
は、近代ヨーロッパ文明の犯した過ちを、みなデカルトのせいにして、自分を免罪にしようとす
る心理的な欺瞞である。人間個人も集団としての、最大のものは国家としても、人間は嘘をつい
て、デカルトを生贄(スケープゴート)にして、自らの悪事には頰被りして来た。これが哲学史
上デカルト以降の近代の300年です。『方法叙説』を読むと、デカルトは超越論者であり、比
率を大切にして変形を考へてゐることから、その着想にはtopologyの変形が含まれてゐる。この
デカルトを言語機能論との関係で、20世紀に蘇らせたのが(安部公房がクレオール語を論じる
時にいつも引用する)チョムスキーであり、その生成変形文法であることは、この論の『安部
公房とチョムスキー(4):5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語』で詳述した通り
です。

『方法叙説』を読むと、デカルトは肉体と精神の差異をみて、これが事実であり現実認識であ
るので、この差異を統合しようとしたバロックの哲学者であるのです。この統合的な器官を、当
時の最新の医学の知識を元に松果体とした。大切なことは松果体がその機能を実際に果たしえ
ゐるかどうかの議論なのではなく、デカルトが差異の統合をして人間の差異を一次元上で統合
しようとしたことなのです。近代以降の共産主義の系譜は、この統合を怠り、アドルノにはつき
りと見たやうに逆に区々たる差異だけを求めて、物事を一つにまとめる意志を放棄して、デカル
トを否定してきたのです。再度いひますが、デカルトは超越論者です。これを100年後にカン
トが取り上げたところまではよかったが、しかしヘーゲルが軌道を捻ぢ曲げ、マルクスがこの章
で見たやうなことを言つて人々を煽動した。今このことを書きながら思ひ出しましたが、旧約
聖書でシナイ山上でユダヤ人の唯一絶対神である再帰的な絶対自己同一性を有する神がモーゼ
にユダヤの民をエジプトから救ひだせと命じる時に、この神はユダヤの民を私の子供達と呼ん
でゐるのである[註8]。マルクスもドゥンス・スコトゥスを論じるところで、呼びかける相手
は子供達よであつた。だからといつて、若い人たちといふ意味とは限らない。マルクスは明ら
かに旧約聖書にならつてゐる。ユダヤ人であれば、旧約聖書を踏まえぬ発想と言葉のない筈が
ない。マルクスは、全てを物質だと考へる世界の内部でだけは、自分が一体唯一絶対神である
といふおもひがなかつたか。言葉の眼でみると、あるのだといふことになります。これは、旧約
聖書の創世記のGodの姿と同じです。それとも、その唯一絶対神に命ぜられてユダヤ人を救出す
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 72

るモーゼのつもりになつたのか。自分はモーゼであり、ユダヤの民を世界中の労働者(プロレ
タリアート)だと思ひなしたのか。そして、これにヘーゲルのいふ「絶対精神の自然」[註9]
などといふものが結びついたらどうなるか?それが、今の21世紀のglobalismといふ名前に名
前を変へたマルクス主義といふこと、共産主義といふことです。上述のアドルノの講演者の説明
に此のヘーゲルの理屈が相変はらず生きてゐるのです。

[註8]
『安部公房とチョムスキー(6)』(もぐら通信第78号)の「4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の
持つ冗長性とは何か」より引用します:

「9。さてかうして、イスラエルの子供達の叫び声が私の所にまでやつて来るので、そして、おまけにエジプト人
たちが子供達を不安にさせると子供達の不安を目の当たりにするので、10。行け、お前をファラオに送らう。我
が民族、イスラエルの子供達をエジプトから連れ出しなさい。

11。モーゼはGodに言つた:ファラオの所に行き、イスラエルの子供達をエジプトから連れ出す此のわたくしと
は一体誰なのでせうか?12。Godは言つた:私はお前と一緒にゐる。そして、これが、私がお前を遣はしたとい
ふことの、お前の印である:我が民をエジプトから連れ出したならば、お前達は、Godに生贄を捧げなさい、この
山の上で。
13。モーゼはGodに言つた:もし私がイスラエルの子供達のところに行き、かう話をする:お前達のGodが私を
遣はしたのだ、とすると子供達は私にいふことになる:Godの名前はなんといふのか?と、さうすると私はなんと
子供達に言へば良いのですか?
14。Godはモーゼに言つた:私だ、(今もこれからも)私である私だ。と言ひなさい。そして言つた:さうであ
れば、お前はイスラエルの子供達に:(今もこれからも)私であること(である私)が、私をお前達のところに遣
はしたのだ、と。」

[註9]
『哲学の歴史』(全集第1巻から第3巻)第3章「プラトンとアリストテレス」の「B. アリストテレスの哲学」の
「3. 精神の哲学」の「a. 心理学」(Kindle版引用位置10642/22013):原典『Die Geschichte der
Philosophie(Gesammelte Ausgabe Band 1 bis 3) >Drittes Kapitel Platon und Aristoteles>B. Philosophie des
Aristoteles>3. Philosophie des Geistes>a. Psychologie(Kindle版引用位置:10642/22013)

これで、ヘーゲルーマルクスーアドルノといふ共産主義といふ名前の唯物論の系譜の連鎖の具体
的な意味がよくお分りでせう。共産主義もまた歴史の継続性と連続性を大切にしてゐるのです。
しかし、この自分自身に関する自己撞着を知ることができないほどに無知であり、無知の知を
知らぬほどに愚かである。何故これほどまでに時間を憎むのであらうか?時間を否定したら、
ものを考へることは空間のみに留まり、物事を均衡(バランス)よく考へることができず、変化
を嫌いまたは憎み、人間が生きてゐることを否定して、これを殺すに至ることは必定である。さ
うであれば、「2.1 カントの二つ目の失敗」に述べた「これは、やはり、ニーチェの激しく
非難し、否定した虚無主義(ニヒリズム)です。(その根底にある感情は憎しみです。どんな美
辞麗句で飾つてもさうである。)何故なら、そこには目的はなく、従ひ道徳が欠落してゐるから
です」といふ私の理解に戻るのである。「即ち、キリスト教の否定から無宗教になり、無宗教
から虚無主義に堕ちるとこれまで私が言つて来た、カントーヘーゲルーマルクスの系譜の末路で
もぐら通信
もぐら通信                          73
ページ

はないかと思ひます。知的な衣装をまとつた虚無主義をこそ、私たちは疑はねばなりません。」

かうして考へて参りますと、1969年5月13日に東京大学900番教室で行はれた三島由紀
夫と学生芥(あくた)何某の講壇上での対話での、後者の自分の、マルクスやアドルノと同じ論
理の自己矛盾、自己撞着に関する無知と無恥を知らぬままの、三島由紀に対する反論について
の理解を、21世紀の今、私は得ることができる。

三島由紀夫が学生芥(あくた)何某に向かつて、君たちマルクス主義を奉じる左翼の学生諸君
は、歴史の連続といふことを否定してゐるが、しかし人間の生命は連続してゐるではないか、こ
れは人間にとつて大切なことではないかといふのに対して、学生芥(あくた)何某は、自分たち
の不法に暴力で占拠した東京大学の構内は「神聖な空間」であつて、時間の連続などないのだ
と反論するのです。しかし、嗤ふべし、嗤ふべし、その回答の直後に学生芥(あくた)何某が舞
台裏からその証明として両手に抱へて持つて来たのが、生まれたばかりの自分の赤ん坊なのです。
この赤ん坊を示して、これが此の場の空間の神聖性の物質的な証明だといふのである。しかし、
自分の生んだ赤ん坊こそは、自分の人生といふ個人の歴史の連続性を意味してゐることに全く気
づかないほどに無知であり無恥である。私は、この動画をみてこの赤ん坊の未来を案じたが(何
故なら親からは物質だと思はれてゐるのだから)、芥(あくた)何某は今も生きてゐるので、自
分の子供に殺されることはなく、成長する子供の神聖性を維持し連続させるために(何故なら
物質は成長しないが、しかし生命ある人間は成長するから)、自分の赤ん坊を殺すこともなか
つたのであらうと察するものの、私は暗澹たる思ひがする。これが最高学府たる東京大学の学
生の頭の中かと思ふからです。この歴史的な対話のURLをご覧ください。老いたる身には老いた
る思ひが、若き美空には若き美空の思ひを思ふことでありませう。安部公房の読者には、安部
公房が最後まで生き抜いたやうに、自分の命を大切にしてもらひたい:

https://www.youtube.com/watch?v=5wLaND09VF8
もぐら通信
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ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(26)
   ∼安部公房をより深く理解するために∼
岩田英哉

XXVI

Du aber, Göttlicher, du, bis zuletzt noch Ertöner,



da ihn der Schwarm der verschmähten Mänaden befiel,

hast ihr Geschrei übertönt mit Ordnung, du Schöner,

aus den Zerstörenden stieg dein erbauendes Spiel.

Keine war da, daß sie Haupt dir und Leier zerstör.

Wie sie auch rangen und rasten, und alle die scharfen

Steine, die sie nach deinem Herzen warfen,

wurden zu Sanftem an dir und begabt mit Gehör.

Schließlich zerschlugen sie dich, von der Rache gehetzt,



während dein Klang noch in Löwen und Felsen verweilte

und in den Bäumen und Vögeln. Dort singst du noch jetzt.

O du verlorener Gott! Du unendliche Spur!



Nur weil dich reißend zuletzt die Feindschaft verteilte,

sind wir die Hörenden jetzt und ein Mund der Natur.

【散文訳】

お前、しかし、神々しき者、お前、最後まで依然として音を響かす者よ、
拒絶されたバッカスの巫女の群れと熱狂が、お前を襲撃したので、
巫女たちの叫び声は、秩序を以って、耳を聾するばかりに聞こえた、お前、美しき者よ、
破壊する者たちの中から、お前の慰め建立する演奏が、立ち昇った。

お前の頭(こうべ)と竪琴を破壊することのできるバッカスの巫女は誰もいなかった。
巫女たちが、どんなに激しく戦い、怒り狂って暴れ廻ったか、そして、お前の心臓に投げ
つけた石が、お前のところに来ると柔らかなものになり、そうして、聴覚が授けられた。
もぐら通信
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ついに、巫女たちはお前を叩き壊してしまった、復讐心に駆られて、その間、お前の響き
は、獅子の中、巌の中に、まだ留まっていたし、木々や鳥たちの中にも、鳴り響いていた。
そこで、お前はまだ今も歌っている。

ああ、お前、喪われた神よ。お前、果てしない痕跡よ。
ついには敵意がお前を引き裂いて分割したという、ただそれだけの理由で、わたしたちは、
今や聴く者であり、そして自然の口であるのだ。

【解釈と鑑賞】

オルフェウスが殺される場面を歌ったソネット。第1部の最後のソネットです。第2部は、
死んだ後のオルフェウスが登場します。

さて、「巫女たちの叫び声は、秩序を以って、耳を聾するばかりに聞こえた」の「秩序を
以って」というのは、殺されるのがオルフェウスだから。オルフェウスは、このようなと
きにあっても、その本性から美しい秩序を生み出す。

神的な若者が、自らの死を犠牲にして、その無私の行為から、全くあらたな世界の生命と
なるという主題、主調は、『ドゥイーノの悲歌』と同じ(特に1番の最後の連)であり、
オルフェウスへのソネットでも同じです。これは、すでにこれまで論じて来た通りです。

「お前の頭(こうべ)と竪琴を破壊することのできるバッカスの巫女は誰もいなかった。」
とあるので、オルフェウスの首と竪琴は、破壊されずに、残ったのでしょう。残酷な形象
でもありますが、またそれゆえの美的な感覚がないとは言えません。

このソネットを読んで、呼びかける言葉に、わたしはリルケの感情が相当入っているよう
に感じます。恰もオルフェウスがリルケ自身であるかのように感じます。そうだとすると、
リルケは詩人で、読者たるわたしたちは、「聴く者であり、自然の口」だという関係にな
るでしょう。

口ということから、わたしは、第2部XVの泉の口を歌ったソネットを連想しますが、それ
は、オルフェウスの死後のソネットの展開となるのでしょう。

第2部では、どのような展開のソネットが待っているのでしょうか。
もぐら通信
もぐら通信                          76
ページ

【安部公房の読者のためのコメント】

神的な若者が、自らの死を犠牲にして、その無私の行為から、全くあらたな世界の生命と
なるという主題、主調は、『ドゥイーノの悲歌』と同じ(特に1番の最後の連)であり、
オルフェウスへのソネットでも同じです。これは、すでにこれまで論じて来た通りです。

と書きましが、これはこのまま初期安部公房の時代に書かれた詩文から始まつて生前最後
の『カンガルー・ノート』、そして遺作としてフロッピー・ディスクの中に残された『飛ぶ
男』と『さまざまな父』に至るまで、安部公房の世界の地下に水脈として人知れず音も立
てずに流れてゐる主題です。これは、すでにこれまで論じて来た通りです。

この主題を、安部公房は金山時夫と二人だけで密かに共有した、さうして、僕たちは無償
の生を生きようと近いあつた。それが、『終りし道の標べに』の冒頭のエピグラフにある
最後の一行、

記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……

といふ言葉の意味なのでした。

無償の生に記念碑は無用である。無名のまま生き、無名のまま死ぬこと。同じことが、同
じ記念碑といふ言葉を使つて第1部Vの詩の冒頭に歌はれてゐたことを私たちは知つてゐま
す。原文と拙訳を再掲します。熟読玩味下さい。ここまで来ると、この詩の言はむとする
ところはより良く、より易しくお解りでありませう:

【原文】

ERRICHTET keinen Denkstein. Laßt die Rose



nur jedes Jahr zu seinen Gunsten blühn.

Denn Orpheus ists. Seine Metamorphose

in dem und dem. Wir sollen uns nicht mühn

um andre Namen. Ein für alle Male



ists Orpheus, wenn es singt. Er kommt und geht.

Ists nicht schon viel, wenn er die Rosenschale

um ein paar Tage manchmal übersteht?
もぐら通信
もぐら通信                          77
ページ

O wie er schwinden muß, daß ihrs begrifft!



Und wenn ihm selbst auch bangte, daß er schwände

Indem sein Wort das Hiersein übertrifft,

ist er schon dort, wohin ihrs nicht begleitet.



Der Leier Gitter zwängt ihm nicht die Hände.

Und er gehorcht, indem er überschreitet.

【散文訳】

記念碑を建てることをしてはならない。薔薇には、
彼のために、ただただ毎年花を咲かせるようにしなさい。
何故なら、オルフェウスが薔薇だからだ。オルフェウスは変身して、
これにも、あれにも、なっている。わたしたちは、オルフェウスという

以外の名前を思い煩うには及ばない。歌声があれば、いつも、
オルフェウスなのだ。オルフェウスは、来たり、そして、去る。
もしオルフェウスが、薔薇の花弁の姿に、数日の間留まることに堪えるならば、
それだけで、大変なことではないだろうか。

ああ、お前たちが理解したと思ったら、オルフェウスは消えなければならないのだ。
そして、オルフェウスの言葉が、ここにあるということを超えてしまうことによって、
オルフェウスが消えるということが、オルフェウス自身をまた不安にするのだが、

そのときには、もうあそこにいて、お前たちはついてゆくことができないのだ。
竪琴の弦が、オルフェウスの両手に何かを強いることはない。そして、オルフェウスは
限界を踏み超えてゆくことによって、(何ものかの意志や命令に)従っているのだ。

また、読者たるわたしたちは、「聴く者であり、自然の口」であるとすれば、さうして実
際にさうでありませうが、第2部XVの泉の口を歌ったソネットを先取りしてお伝へします
ので、お読み下さい:

XV

O BRUNNEN-MUND, du gebender, du Mund,



der unerschöpflich Eines, Reines, spricht, ―

もぐら通信
もぐら通信                          78
ページ

du, vor des Wassers fließendem Gesicht,



marmorne Maske. Und im Hintergrund

der Aquädukte Herkunft. Weither an



Gräbern vorbei, vom Hang des Apennins

tragen sie dir dein Sagen zu, das dann

am schwarzen Altern deines Kinns

vorüberfällt in das Gefäß davor.



Dies ist das schlafend hingelegte Ohr,

das Marmorohr, in das du immer sprichst.

Ein Ohr der Erde. Nur mit sich allein



redet sie also. Schiebt ein Krug sich ein,

so scheint es ihr, daß du sie unterbrichst.

【散文訳】

おお、泉の口よ、お前与える者よ、お前、尽きることなく
一つのもの、純粋なものを話す者よ―
お前、水の、流れる顔の前の、大理石の仮面よ。そして、背景には

水道橋からの由来、由緒がある。ずっと遠くから来て墓場の傍らを過ぎ、
アペニン山脈の崖から、水道橋は、お前に、お前の伝説を運んで来るのだが、

その伝説は、次に、お前の顎の黒く歳をとることの傍を通り過ぎて、顎の前の
器の中へと落ちるのだ。これは、眠りながら差し出された耳、お前がいつも
話しをその中にする大理石の耳だ。

大地の耳。かくして、ただ自分自身とだけ、耳は話をする。もし壺が押し入れられたら、
お前が耳のしていることを中断したと、耳には見えることだろう。

【解釈と鑑賞】

前のソネットの後半、即ち第3連と第4連の詩想を受け継いでいるのでしょう。これは、噴
水の水流れ出る泉の口を巡るソネットです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ79

アペニン山脈から流れてくる水もオルフェウス、写真などでみるとよくイタリアなどの市場
にある噴水などの水の装置についている、水の流れ出る口もオルフェウス、そして、その
水を受ける器もオルフェウス。

この詩想は、次のソネットにQuelle、クヴェレ、源泉、泉として、やはり、受け継がれて
います。

この詩は、第1部Vの記念碑建立せずの歌を持つて来て、薔薇を水に変へて変形すれば、次
のやうに歌ふのと同じことです。

記念碑を建てることをしてはならない。水には、
彼のために、ただただ毎年大理石の泉の仮面の口から流れ出るようにしなさい。
何故なら、オルフェウスが水だからだ。オルフェウスは変身して、
これにも、あれにも、なっている。わたしたちは、オルフェウスという

以外の名前を思い煩うには及ばない。(略)

かうしてみると、薔薇は水であり、水はまた薔薇である。そして、私たちは、器を差し出
して水を汲み、薔薇を愛(め)でるものである。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ80

Mole Hole Letter


(7)

指揮者とは何か

今日たまたま手にとつて開いたエリアス・カネッティの有名な著作『群衆と権力』のページに
「指揮者」と題した項があつたので、これを読みながら思つたことを、思つた順序で、散文的・
即物的に、以下に箇条書きにします。

1。指揮者といふ職業の登場は19世紀の後半、即ち近代ヨーロッパ文明の資本主義の工業化
が隆盛を迎へる時期に当たること。
2。19世紀後半には、このことに対する反省からであらうと思はれるが、スエーデンに初め
て神話学が生まれたこと。これは当然の事ながら、人類古代の神話の世界の復活と探究の試み
です。
3。といふことは、文化人類学も比較言語学も、この思潮の中にあること。
4。指揮者はこのやうな産業上の工業化を背景に生まれた職業であること。平々凡々たる隠喩
を使へば、時代が要求した専門職であること。
5。カネッティのドイツ語を読んで初めて気がついたが、指揮台はドイツ語でPult(プルト)
といふこと。
6。Pultは、実は指揮台のみならず、書見台でもあること。ヴァイマールのゲーテの家の書斎
にはプルトが部屋の片隅の角に設置されてゐて、そこでゲーテは立ちながら原稿を書いた。つ
まり、プルトは五線譜のみならず、文字を書くために原稿を置く立ち机でもある。また読書台
でもある。
7。時代の大きな転換点には、内部と外部が交換されるといふことが、言語のみならず、思考
論理の問題として風俗に流行として現れる。現今の日本ならば、女性の下着が表に出て来たり、
女性がお化粧を外出前に密室で済ませずに、外部に出て電車の中でお化粧したりといふ、従来
の道徳を破る行為が、これに当たる。
8。このやうに考へると、上記1から4のことから、プルトが書斎の内部の空間から外部の空
間へと出て行つたことが、指揮者の誕生と共に考へられることである。即ち、私が公になつた
といふことである。
9。といふことは、指揮者の歴史で、それまで演奏会の内部にあつたものが、外部に出て来た
といふことでもある。
10。しかし、ここでプルトの他の使用例をみると、いつからかは知らないが、よく経験する
ことに聴衆の前の舞台に上がつて、講演者が聴衆に向かって(相対面して)話をするときに、
プルトの使はれることがよくある。他方、
11。講演ではなく、セミナーなどでは、プルトは催事の空間の隅に、しかしゲーテの書斎の
場合のやうに壁に向かふのではなく、反対に振り向いて聴衆の方に向かつて置かれて、話者は
視聴者の方を向いてゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ81

12。何故プルトと指揮者の方向と聴衆の関係をここでいふかといへば、カネッティの指揮者
論に、このことが論ぜられてゐるからである。
13。確かにいはれてみれば、
(1)指揮者だけが立つてゐる。その他の人間たち、即ち団員たる演奏者たちと聴衆は皆座つ
てゐる。
(2)指揮者は演奏者たちの方だけを見てゐる。
(3)指揮者は聴衆に背中を向けてゐて、後者は前者の正面を、そして其の顔を正面から見る
ことができない。
(4)指揮者は舞台と客席の境界域に立つてゐる。
(5)指揮者は、両方の側の人間から見られてゐる。舞台にゐる演奏者たちからは正面を、聴
衆からは背面を見られてゐる。
(6)カネッティの考へによれば、オーケストラのそれぞれの楽器は人間の典型(タイプ)で
あり、指揮者はこれら全ての人間のタイプの声(ドイツ語では楽器の音と人間の声は同じ名詞、
die Stimme、ディ・シュティンメである)を牛耳る権力(Macht、マハト)を有してゐる。即
ち、
(7)これは、人間と楽器の声の生殺与奪の権力である。
(8)楽器の多様性は人間たちの多様性である。
(9)楽団員は最初から指揮者に従ふ用意があるといふことによつて、指揮することによつて
全体を一つに(ドイツ語では単位といふ意味もある)まとめあげ、それによつて今度は楽団員
全員に自分たちの演奏してゐる楽音の全体を明らかに目に見えるやうに提示することが、その
役割である。
(10)このやうに、指揮者は、大広間にゐる背後の聴衆にとつては、他方指揮をして演奏し
てゐる間は、指導者(英語のleader)である。カネッティは、この聴衆をMenge(群衆)と呼
んでゐる。群衆にとつての指導者なのである。
(11)指揮者は指導者として群衆(聴衆)の最先端の先頭にゐる。
(12)従ひ、指揮者が一歩を踏み出せば、群衆はその一歩に付き従ふのである。指揮者は立
つてゐるが、しかし此の引率(lead)の一歩を、指揮者は足によるのではなく、手で行ふので
ある。指揮者の歴史をみると、ここに足と手の交換が上記(1)から(4)の時期にあるだろ
うと私は思ふ。
(13)指揮者が手を振る間、聴衆は席を立つこともできず、休憩を取ることもできず、座り
続けて身動きすることができないし、してはならない。これが、指揮者の行使する聴衆に対す
る権力の行使である。
(14)楽団員の演奏する楽器の声は、上記(6)から(8)のことから、人間の数多くの意
見であり確信の表明である。指揮者はこれらの声を聞いて知つてゐる全知全能(allwissend)
の位置にゐる。そして上記(9)のことを行ふ。一瞬一瞬に於いて、指揮者は演奏者たる楽団
員の一挙手一投足の何が許され何が許されないかの判断ができて、それは自ずと指揮者には知
られることなのである。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ82

(15)完璧な総譜(Partitur)が、指揮者の頭の中かプルト(譜面台)の上にある。その上
での上記(14)の全知全能の位置である。
(16)このやうに、その大きな空間の全ての人間たちに目をやるといふことから、指揮者は
遍在するといふ(Allgegenwaertigkeit)名声を得ることになる。私ならば、汎神論的に存在
するといふところです。ロマン主義の台頭と共に指揮者の登場が語られるのは、この文脈があ
るからだと思はれる。即ち、
(17)指揮者の此の全知全能のGodに匹敵する、その空間内の万能性は、上記1と2に鑑み
れば、古代の神話の世界の復活が、一種劇場(舞台である)で、しかも演劇といふ科白といふ
言葉によるのではなく、音楽といふ楽音によつてなされる神話の世界の、この主神たる、それ
もキリスト教の唯一絶対神ではなく、多神教の、従ひ(近代文明をつくるに当たつて彼等が規
範にした古代ギリシャ同様に)古代北欧神話ならば、ジュピターの神が指揮者であるといふこ
とになり、その祭祀が演奏会であり、指揮者といふ司祭の登場といふことにならう。
(18)さうであれば、指揮者は巫女でありシャーマンである。上記(3)によれば、群衆(聴
衆)は祭祀者の面を正面から見ることは、演奏中・指揮の最中には、できない。として見れば、
(19)上記(2)から(5)のことから、客席の群衆と劇場の舞台上の楽団員の演奏者は相
対する関係にあつて、群衆の様々な人間の声を代わりに発声してくれるのが演奏者であり、演
奏者の楽器といふ媒体である。
(20)指揮者もまた、上記(4)のことからも、媒体であり、媒介者であり、確かにシャー
マンである。両方の側を、劇場舞台の上と観客を上位接続する巫女である。
(21)以上のことは全て、楽曲(作曲)といふ作品があつてこその、そのことを巡つての、
その空間の支配者である指揮者の話である。

14。さて、プルト(Pult)とは一体何であつたのか。手とは何であるのか。指揮棒とは何か
(1)プルトとは、群衆に背を向けた孤独なジュビターの書見台であり、執筆台であり、読書
台であり、総譜台である。主神の読むための台である。日本ならば文脈は全く日本的に異なる
が、素読を教はるときの書見台である。
(2)topological(位相幾何学的)にいへば、手とは、群衆と演奏者団たる楽団の各員を等
価交換して、一次元上の次元を創造するための、それ以前には調子を整へるための足によつて
ゐたものを、立つことによつて足を固定し、下半身の動きを上半身に移動させて、手といふ手
相のある(足に相はない)、人間の運命を占ふための人体の一部であるものを、公の場で見せ
て使つて、となれば、それは主神の手であるからには、群衆の運命を支配する、上記(2)に
大いに関係のある手、天体の動きや星座の位置に関係の深い手といふことになる。安部公房な
らば、存在の手と呼んだ、四季の移り変はりに無縁の、即ち時間の外部にある、即ち皺のない、
のつぺりとした手である。
(3)指揮棒とは、このやうに考へて来ると、ジュピターの手に握られて、或いは軽く手の内
にあつて、今度は群衆にではなく、群衆に対しては象徴的な交換関係の立場にゐる楽団員たる
演奏者に、人間は宇宙の本質を知ることはできない、お前たちの知ることのできるのは方向だ
けであるといふ事実に基づいて、またその事実を知らしめるために、知らしめて象徴的な交換
関係の立場にゐる人間たちを支配するために振る、楽音の方向指示器としての棒である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 83

(4)かうして、Pult(プルト:指揮台)とHand(ハント:手)とStab(シュタープ:指揮
棒:権標)の三つが一つになつて理解される。Stab(シュタープ)とは、手元にある独和辞典
(木村・相良)によれば、「司教、元帥、裁判官などの」持つ、文字通りの権力(Macht:マ
ハト)の標(しるし)であり、例文によれば、den Stab über jn brechen(デン・シュタープ・
ユーバー・イェーマンデン・ブレッヒェン)、和訳すれば、その棒を誰かの上で折る、といふ
こと、要するに、「或人に死刑の判決を下す」、といふことなのです。
(5)指揮棒たるシュタープは、上記13の(6)(7)にある通りに、またこのことを通じ
て、指揮者たる主神の両側の人間たちの生殺与奪の権利を有してゐる、演奏会場といふ大きな
空間の支配者である。

エリアス・カネッティは、これらの連想連語を十分承知の上で、指揮者を論じてゐるのです。

15。聴衆は、上記1から14の経験を実際に体験するために演奏会といふ劇場へ足を運び、
音楽家は楽団員として演奏家になり、音楽家のうちのあるものは指揮者となる。

エリアス・カネッティの全集が法政大学出版から出てゐます。

追記:もし演劇の世界に此のやうな指揮者がゐるとしたら、舞台と観客の間に立つてゐる、そ
れは透明なる存在の指揮者、既に幕の上がる前に上演を終えてゐる超越論の演出家、舞台監督
といふことになりませう。安部公房スタジオの舞台は総合藝術でありますから、あるいは、こ
のやうな試みであつたのではないでせうか。戯曲『友達』の初演で、女管理人役の女優が舞台
から客席に降りて行つてビラを手渡して廻つたといふのは、この一例かも知れません。
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もぐら通信 84
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ85
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 86
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ 87


● 『カンガルー・ノート』論(16):5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章風の長
歌:長歌に限らず、連歌や俳諧や俳句(単句)が皆高天原のネットワーク・トポロジーを様式に
して歌つてゐる事を知つて驚きました。万葉びとの長歌の歌ふ高天原の時間と空間の超越論もま
た新しいものです。かねて気になってゐたことを文字にしました。安部公房の長歌は、この歴史
と伝統の上にあります。●何故日本の文学は衰退したのか(3):高村薫「小説の現在地とこれ
から」を読む:この作家のいつてゐる現状認識は正しい。差異について明言するとは、これも正
しい現状認識です。私の言葉でいへば、1951年遺伝子の二重螺旋構造の発見以来全地球的に
バロック紀元であるから。この作家の、劣勢著しい純文学での活躍を祈る。実は私は、勤勉で
はないが、しかしこの作家のファンの一人です。●安部公房とチョムスキー(9):まさか、こ
こまで書いてみるとは思ひがけないことでした。ショーペンハウアーに比較をすると、マルクス
のドゥンス・スコトゥス理解は哲学者のものではありません。しかし、何故ここまで物質に拘
(こだ)はるものなのか?何でも物質で説明しようといふことになれば物理学といふ科学を学
ぶ以外にはない。わたしの若年の時からの疑問は、何故マルクス主義に心酔し又は共感した特
に団塊の世代の今の70前後からの人間たちは、自分自身をそのやうに憎むのかといふ疑問です。
そしてその憎悪を自分では感じてゐないし知らないといふ矛盾と、その憎悪を外部へと向けて恥
じないといふ道徳を失つた幼児性。やはりその人間の持つ死に対する恐怖心を煽情され利用さ
れてさうなつたといふのが私の結論です。マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、マルクスは
長兄の夭折により長男の地位を占めてゐたことが関係するのかも知れない。しかし尚、このや
うに偏執的に物質だけで考へるマルクス個人に固有の何らかの契機がある筈。と考へて来ると、
マルクス主義のヨーロッパでの運動は、ユダヤ教とキリスト教の戦争であつたといふことになる。
21世紀の今も姿を変へ呼び名を変へての七変化、世界中でドンパチやつてゐるとは、もういい
加減にしてくれと言ひたい。おめえさん達、一体何億人人間を殺せばいいのだい?ある公式の報
告書には明細を挙げて1億人とあるが、もつと多い筈。いづれ論じます。●リルケの『オルフェ
ウスへのソネット』を読む(25):三島由紀夫はその『文化防衛論』で明治維新と先の敗戦
を二度の日本文化の「断絃」の時と呼んでゐる。三島由紀夫の琴の弦はヘルダーリンから学んだ
ものです。しかし安部公房の耽読したリルケのオルフェウスの琴の糸は死んでも断たれることは
ない。『カンガルー・ノート』に至つた安部公房の50年といふ忍耐と刻苦勉励の時間に頭(こ
うべ)を垂れる以外にはありません。●ではまた、次号

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(17):第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
限」
2。火星人特派員報告
3。。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(27)
4。Mole Hole Letter(8):超越論(3):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          88
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第81号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
訂正の場合には、Googleドライブには訂正後
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新
の最新版を差し替へて置いてあります。
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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