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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2019年8月1日 第83号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 「どんどん焼きには歴史がある。皮より餡が命だからな」
ただ を通
けの って
番地
に届 『カンガルー・ノート』第6章風の長歌(全集第29巻、166ページ上段)
きま

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もぐら通信
もぐら通信                          ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 池田龍雄展を観る::岩田英哉…page8
3 『カンガルー・ノート』論(17):5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:
人さらい:反歌(鎮魂歌):岩田英哉…page11
    5。6 反歌とは何か
    5。6。1 目次
4 安部公房とチョムスキー(9):今月は休載:岩田英哉…page 23
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む:第2部(27): 呼吸をせよ、お前、
見えない詩よ。 :岩田英哉…page 24
6 Mole Hole Letter(9):超越論(3):高天原…page 31
7 編集後記…page 43
8 次号予告…page 43

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 40
・本誌の主な献呈送付先…page44
・本誌の収蔵機関…page 44
・編集方針…page 44
・前号の訂正箇所…page44

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。
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  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

該当なし
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今月の安部公房
hayamin@hayamin_tw 5月28日
#あの人の書斎
安部公房(1954年/撮影・
土門拳)
右奥は奥さんと娘さんか

今月の池田龍雄
巖谷國士@papi188920 3時間
池田龍雄展「楕円幻想」よかった。花田清輝や岡本太郎や安部公房、そして瀧口修
造との出会いを反映していた初期の諷刺的シュルレアリスムが、「梵天」を経てふ
と甦る。立体、箱のオブジェもおもしろく、不思議なユーモアが一貫している。い
つか書こう。★ pic.twitter.com/H7qTsZF1BV

hirokd267〈禁酒・祈願中〉@hirokd267 6月5日
安部公房が好んだという武井武雄の絵であるが、一枚の絵の中にストーリー性を感
じ取れる、つまり時間の流れを二次元の中に表現している、と観ることが出来る。
池田龍雄も時間の表現を目指していたこともあるので、確かめて来たい。これにつ
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いては池田さんと以前に話し合ったことがあった。
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今月の友達
番場 寛(Hiroshi Bamba)@desirdelAutre 5月31日
今、トリコ.Aの「私の家族」を観たところだ。強制されてそこにいるわけでもない
のに逃げられない疑似家族の怖さはひしひしと伝わってくるがこの感覚は、安部公
房の「友達」を観た時に似ていた。

今月のアメリカ論
hirokd267〈禁酒・祈願中〉@hirokd267 6月5日
安部公房の未完の「アメリカ論」については「アメリカ文化はクレオール文化であ
る」という肯定的なとらえ方がある、と思っています。

今月の安部公房の対談
舩橋岬@funabasi83p 10時間
この三十年前の安部公房の予言が的中しまくってて草。
https://youtu.be/NOAiCyOCX1Q

今月の読書会
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千織@hioric_bits 13時間
本日の読書会は安部公房『けものたちは故郷をめざす』が課題図書。とにかく寒い
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し飢餓状態だし見渡す限り荒野だし孤独だし同行者のこと信用できないし、と悲惨
な話だったけど、そこはかとなく人間の悲哀というかおかしみみたいなのがあった。
読めて良かった。

今月のクレオール
hirokd267〈禁酒・祈願中〉@hirokd267 6月5日
(備忘)晩年の安部公房がピジン語やクレオールという「話し言葉」に関心を持っ
たのも、そこに原初的なコミュニケーションや文化の発生を見ているからだと思い
ます。それに対して「書き言葉」は社会的に多かれ少なかれ権力や規範が関わって
きます。

今月の箱男
書家 知島(ちとう)@Titou810 6月3日
梅田 蔦屋。スタバ一杯分で心地よいソファに座って本三冊読めるだけでなく、どん
な大阪の文化施設も凌駕する良い空間。

これ↓ さりげなく壁に飾ってあったんだけど、米田知子の作品。選び方さすが。

タイトル
安部公房の眼鏡 - 「箱男」の原稿を見る

http://shugoarts.com/old/artists/tomoko-yoneda/ …

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 6月4日
安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://
ci.nii.ac.jp/naid/40006272201 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 6月1日
自由と反復 : 安部公房『砂の女』論 (特集 変容する欲望 : 高度経済成長期を読む)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40019623991 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 5月31日
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書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/
naid/40020255668 …
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今月の贋安部公房
ディストーションbot@ihatedhisukoooo 6月1日
昔安部公房に似てるって言われたな

今月のR62号
津川智宏@Ysenpai 5月28日
安部公房

今月の桂川寛
kenjiro hosaka@kenjirohosaka 5月18日
kenjiro hosakaさんが【公式】東京国立近代美術館 広報をリツイートしました
御舟《京の家・奈良の家》 新収品の船田玉樹《花の夕》利行《タンク街道》谷中安
規の素描と版画、十亀広太郎の関東大震災直後の水彩による記録、猪熊《○○方面
鉄道建設》桂川寛による安部公房『壁』の挿絵原画、鈴木理策、Rフランクの写真、
今日18日なら無料で見られます!大観は見逃しても(後略)

(写真を)

今月の勅使河原宏
新文芸坐@shin_bungeiza 4月21日
絶賛上映中《白黒映画の美学》明日4/22(日)は、勅使河原監督の長編第1作となる
不条理劇『おとし穴』と、砂丘で昆虫採集をする教師が砂の穴の中にすむ女に捕ら
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われる『砂の女』。安部公房原作、勅使河原宏監督、そして音楽は武満徹。ちょっ
とシュールな2本立てです。
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今月の旭川東鷹栖安部公房の会
『グラフ旭川』(5月号)に同会のエンジンである柴田望さんの詩とともに、安部
公房の従姉妹であり昨年8月1日に亡くなられた渡辺三子さんの記事がに掲載されて
ゐます。

「渡辺三子さんは、1960年から2014年の長きに渡り、毎月「郷土誌あさひかわ」
を発行されていました。(略)安部公房、三浦綾子、井上靖といった旭川ゆかりの
作家論等も「郷土誌あさひかわ」には掲載されていました。連載された文芸評論家
高野斗志美先生による安部公房論は、後に一冊の本『安部公房を語る : 郷土誌「あ
さひかわ」の誌面から』にまとめられました。

1977年、安部公房スタジオの公演が4条のヤマハホールで行われ、800人もの観客
を集めたとき、旭川を案内したのは渡辺三子さんと高野斗志美先生でした。居酒屋
大舟には今もその時の写真が飾られています。

現在東鷹栖支所に常設されている「安部公房文学コーナー」にも、その時の写真や
資料が展示されています。佐藤喜一さんや、山口果林さんも写っていて、居酒屋大
舟の宴席に楽しげなご様子。安部公房が当時の松本市長訪問の様子や優佳良織の山
内綾とご一緒の写真も。
*
東鷹栖支所に展示されている膨大な安部公房資料は、渡辺三子さんが大切に所有さ
れていたもの。多くの方にご覧戴きたいとの願いを込めて展示されています。
(略)」

グラフ旭川5月号の注文先です:
(株)グラフ旭川
住所:旭川市9条通9丁目安田ビル3F
電話:0166-25-5616(代) FAX:0166-23-6500

また、東鷹栖安部公房の会の活動として、6月23日には片山晴夫教授の講演、8
月1日には近文第一小学校にて、安部公房作品のラジオドラマ脚本朗読会を計画し
てゐます。

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池田龍雄展を観る

岩田英哉

過日、池田龍雄展あるを知り、東京練馬区の練馬区立美術館に足を運んだ。

以前一度本誌にては東京竹橋の東京国立近代美術館にて開催の池田龍雄展のレポートを『国立近
代美術館「美術にぶるっ!」展を観て』と題して掲載したことがありますので(もぐら通信第5
号)、これで二度目の観覧といふことになります。

しかし前回の都心での展覧会に比べて、今回は地元にお住まひといふことと、当地の美術館とい
ふことからでせう、逆に集中的な展示会でありまして、集中的といふ意味は、この画家の初期の
画業から今日に至るまでの画家の人生と活動の全体を観ることができる有意義な展覧会なのでし
た。

池田さんのお名前は初期安部公房を論じて隣接した藝術分野に言及する際には必ずといつて良い
程に名前の挙がる方ですが、今回私が展示会の順路に従ひ観覧して行つて最後の場で驚いたこと
から話を始めて、あなたとこの驚きを共有したい。

それは、池田龍雄さんが児童書のベストセラー浜田廣介作『泣いた赤おに』の赤鬼の絵を描いた
方であつたといふことです。
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この最後の会場(二階の順路の最後の場所)には、池田龍雄さんと安部公房が二人で出版するは
ずだったものの、結局刊行できなかつた本の、当時の、そして今も名のある藝術家たちの推薦文
の校正刷りかと思はれる資料も展示されてゐて、安部公房の読者には興味深い展示になつてゐま
すが、ここでは『泣いた赤おに』に焦点を絞つてお話を致したい。

館内では写真を撮影できなかつたので、パネルの説明文などの引用も出来ず、残念ながら記憶の
中から書くことになりますが、画業の全体を展示されて観ますと、当日私の注意を一番惹いたの
は、池田さんの赤でした。

1950年代には姿を現してゐなかつたと思ひますが、そのあと1960年代以降に、さうして
この高度経済成長の10年間は池田さんがとても難儀を覚えた時代だと思はれましが、この時期
以降に連続的にまた非連続的に絵の中に現れては消え、消えては現れる赤い色が誠に印象が深く、
これはきつと池田さんといふ方の見えない脈となつてゐて画業を支えてゐる色彩だと私は思ひま
した。

さうして、ご経歴を調べて見ますと、池田さんは佐賀県伊万里の産とある。私はきつと伊万里と
いふ町は海のそばに違ひないと確信して、地図を広げると、果たしてさうでした。

といひますのも、私が30代の初めに、当時の共産主義のドイツである東ドイツの技術者と一緒
に通訳をして全国の土地土地の大きな鉄鋼会社や造船会社を巡つてゐた時に、山口県長州のどの
町であつたか、海辺の町で夕暮れ時に海の向かふに夕陽の落ちるのを観ることがありました。さ
うして、その色が萩焼の色と同じ優しい赤であることに驚きました。ああ、これが萩焼の色かと
思つたのです。

私の親しい故郷の海の夕陽は瀬戸内海のやうな内海ではなく、波の荒々しい太平洋の外海であり、
水平線の果てに沈む夕陽の赤は無残な赤であり、凄いといふ文字通りの、それも巨大な太陽の落
日でありますので、そのやうな内海の優しい小さな落日の色は生まれて初めて見たのでした。

この経験から、池田さんの赤を見て、ひよつとしたら伊万里の海に沈む夕陽の赤ではないかと思
つたのです。

伊万里焼きの赤は、かうしてみると、池田さんの絵の赤ではないか、どんなにその赤の周囲の色
が黒く暗くても、これはふるさとの赤ではないかと、このやうな写真で伊万里焼きを見ますと、
さう思ふのです。

『泣いた赤おに』の赤もまた、伊万里の海の落日の赤、伊万里焼きの赤ではないでせうか。
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もぐら通信                          10
ページ

まだ会期がありますので、あなたも練馬区立美術館を尋ねては如何でせうか。

https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=201802151518677542

展示会の名前:戦後美術の現在形 池田龍雄展−楕円幻想
会期:2018年4月26日(木)∼6月17日(日)
休館日:月曜日 *ただし、4月30日(月・休)は開館、翌5月1日(火)は休館。
開館時間:午前10時∼午後6時 *入館は午後5時30分まで
観覧料:一般800円、高校、大学生および65∼74歳600円
     中学生以下および75歳以上無料、
     障害者(一般)400円、障害者(高校、大学生)300円
     団体(一般)600円、団体(高校、大学生)500円

https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=201802151518677542
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『カンガルー・ノート』論
    (17)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
青字は前回までに
1。1 様式について
1。2 内容について て論じ終つたもの、
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容 赤字は今回論ずるもの、
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容
黒字はこれからのもの
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係

3。『カンガルー・ノート』の記号論
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
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(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」(v3)

*****
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5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
いよいよ最後の章です。淡々と、これまで同様、この章の作品全体の中での位置を確認してか
ら本題に入ります。

(全集は第29巻、ページ数のみを挙げます。)

「4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に従ひ、秘儀の式次第の6つのプロセスに即し
て、これを各章に割り当てれば、次のやうになります。

(1)差異を設ける:第1章:かいわれ大根
(2)呪文を唱える:第2章:緑面の詩人
(3)存在を招来する:第3章:火炎河原;第4章:ドラキュラの娘
(4)存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
(5)存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:鎮魂歌
(6)次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌」

5。6。1 反歌とは何か
「5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)」の「5。5。
1 長歌とは何か」にて既述の通り、第7章は「人さらい」と題されてゐますが、例によつ
て例の如く、安部公房は「沈黙と余白の論理」に従ひ、半分しか此の古代の歌謡の様式につ
いての明示的な表現を文字でしてをりませんので、敢へて無粋を承知で言挙げして文字で表せ
ば、第7章は、第7章人さらいの反歌といふべきでありませう。

前章の「5。5。2 長歌は高天原を歌ふ」の並行四辺形の図形から見ますと、反歌の役割
は、高天原1をなぞつて、長歌に対して此れを収めまた納めること、高天原の神々に和歌を
納めて詩歌の全体を締める(収める)といふこと、時間のない垂直方向の差異である高天原
1の並行四辺形の面(二次元)を構成する独り神でありneutral(ニュートラル:中性)であ
る(ニュートラルでありますから安部公房ならばいふ所の存在の)神々に、これを奉納する
といふことになります。

安部公房の場合には、主人公を通じて現前するあなたの意識して今ある存在への反歌であり、
また次の存在へとあたなが主人公と一緒に失踪する立て札が、第7章人さらいといふ二重二
層の反歌です。

5。6。2 目次
第2章緑面の詩人以降の目次を受け継いで、第6章風の長歌同様、次の目次を採用して話を
進めます。

(1)冒頭共有
(2)結末継承(大)
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もぐら通信                          ページ14

(3)結末継承(小)
(4)差異を設ける
  (1)冒頭共有の通り。
(5)呪文を唱える
  (A)地の文の呪文
  (B)呪文らしい呪文
  (C)3回の呪文の後に登場する者
(6)存在を招来する
  (A)3回鳴る甲高い音
  (B)存在の始め
  (C)存在の終はり
(7)存在への立て札を立てる
(8)存在を荘厳(しょうごん)する
(9)次の存在への立て札を立てる
  (A)最初の立て札
  (B)最後の立て札
(10)3といふ数字

5。6。3(1)冒頭共有
第6章風の長歌の冒頭は、これまでの時間と空間の差異を設けるといふ規則を離れて、ここ
からは差異の境目、隙間が曖昧になるといふ出だしで始まる次の自己喪失の二行で始まつて
ゐました。

①冒頭最初の段落の最初の一行:「眠りながら聞いたテレビ、とぎれとぎれの記憶。」(1
59ページ)
②二つめの段落の最初の一行:「もう一度眠りに落ち、もう一度夢を見た。」

そして、この第7章人さらい(反歌)の冒頭は、上記①②の夢か現(うつつ)か曖昧の境域で、
いきなり前節で述べた性格を備へる反歌としての人さらいの歌から始まります。これは、存在
の並行四辺形である高天原1をなぞつて、長歌である前章第6章風の長歌に対して此れを収
めまた納めること、存在に和歌を納めて詩歌の全体を締める(収める)といふこと、時間の
ない垂直方向の差異である高天原1の並行四辺形の面(二次元)を構成する独り神であり
neutral(ニュートラル:中性)である神々に、といふことは、初期安部公房からの全ての主
人公たちに此れを奉納するといふことになります。ここまで参りますと、安部公房の処女作
『終りし道の標べに』を読み直して、これまでに無い読み方ができるのではないでせうか。

さて、この第7章人さらい(反歌)の冒頭は、前章から続いてゐるこれら二章が存在の十字
路にあるので、時間と空間の差異の交差した場所、差異の無い場所、即ち存在で話が始まり、
存在で話が終はるといふことを示してゐます。第6章は存在で話しが始まり、第7章は存在で
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もぐら通信                          ページ15

話が終はる。さうして、後者の存在の話の終はりは「終りし道の標べに」の地点、即ち世界
の果てで終はりますので、同名の処女作がさうであるやうに、これはメビウスの環の一捻り
であつて、そのまま次の存在の話へと上位接続(論理積:conjunction)してゐること、この
章がこの物語の最後の立て札であることは、これまでの論述からも、読者には周知の通りで
す。

さて、この第7章に結末継承の接続として冒頭歌はれてゐる人さらひの次の四行詩は、安部公
房の口語自由詩による人さらいの呪文の詩、人さらいに来て欲しいといふ祈願と、人さらい
に攫(さら)はれた子供達、即ち存在として時間の中を生きる現存在、即ち未分化の実存と
いふ男性でも女性でもない(二項対立の否定の向かふにある)第三の存在としてある人間た
ちのための鎮魂の歌です。「『カンガルー・ノート』論(3)」(もぐら通信第68号)の
「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論」の「(16)風の音」より引用します:

「「むかし人さらいは
  子供たちを探したが
  いまは子供たちが
  人さらいを探している」

上の冒頭の詩の最初の二行と後半の二行にある詩行は、第7章の最後に其の全体が唱へられ
るる安部公房の詩の一部である最初の二行と後半の二行です。この章の冒頭では、大切な詩
行である呪文の本体は「沈黙と余白の論理」に則り、沈黙と余白の中に置かれてゐるのです。
詩行の全体は次の通りです。隠されてゐる詩行を青字にしました。

「むかし人さらいは
 子供たちを探したが
 すべての迷路に番号がふられ
 子供の隠し場所がなくなったので
 いま人さらいは引退し
 子供たちが人さらいを探して歩く
 いまは子供たちが
 人さらいを探している」

これと同じ詩を私たちは『燃えつきた地図』(1967年)のエピグラフにあるのを知つて
ゐます。

「 都会――閉ざされた無限。けっして
 迷うことのない迷路。すべての区画に、
 そっくり同じ番地がふられた、君だけ
 の地図。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

  だから君は、道を失っても、迷う
 ことは出来ないのだ。」
(全集第21巻、114ページ)

この小説の主人公の探偵は、人さらいにあつた依頼人の夫を探してゐるが、人さらいに攫(さ
ら)はれたのは今は昔、「いまは」探偵が人さらひを探してゐる物語、これが『カンガルー・
ノート』からみた『燃えつきた地図』の話だといふことになります。勿論、この逆もまた等価
交換であり得る。『カンガルー・ノート』の主人公は、存在といふ等価交換可能な地獄巡り
をするわけですから、

「 存在――閉ざされた無限。けっして
 迷うことのない迷路。すべての地獄に、
 そっくり同じ番地がふられた、君だけ
 の地図。
  だから君は、道を失っても、迷う
 ことは出来ないのだ。」

といふことでありませうし、迷路とは実は箱にほかならないこと、箱は迷路であること [註
9]は、概念連鎖から明らかですから、存在を箱と置き換へてもよく、迷路を存在と置き換へ
てもよく、迷路を箱と置き換へても良い。超越論と、即ち汎神論的存在論の安部公房の世界
です。

[註9]
安部公房が奉天の幼稚園で、もつと大きい積み木を調達してもらつたことのエピソードを『安部公房伝』(安部
ねり著)より引用します。

「幼稚園のころからすでにある種の特異性を発揮していたのか、担任の先生は、ふつうの積み木は公房には小さ
すぎるからと、大きな積み木を特注した。」(『安部公房伝』21ページ)

安部公房は積み木で家を作つて、その中に潜り混んだのに違ひありません。この郷愁は、大人にもある。子供な
ら庭にある小さな家だとか、あるいは樹上のツリーハウスだとか、あるいは、茶室だとか、幼稚園の頃からの安
部公房の嗜好である段ボール箱であるとか、あるいは洞窟探検とか、従ひ迷路だとか(かうしてみると、迷路は
箱の一種です)、もつと連想のままに挙げると、オルゴール箱だとか、宝石箱だとか、浦島太郎の玉手箱だとか、
何か小さな箱は貴重なものである、確かに小さな箱には(例え菓子箱であるにせよ)捨て難たい魅力がある、
等々。かうして見ると、安部公房の世界といふのは、幼稚園の逸話も考慮に入れると、思考のブロツクで積み上
げた積み木の世界なのかも知れません。さうして、いつも御破算にして、新たな積み木を積み上げ、無意識の世
界の中の思考の子宮の中に潜り込む。存在の中の存在の中の存在の中の物語が、安部公房の小説世界である。存
在の差異の差異の差異の中に潜り込む。そして、この構造は、この論考で証明してゐるやうに、実際その通りで
す。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

これは、「1。函数形式・一般式」でみると、

①1。函数形式・一般式
存在[(始め、終り)、差異(時間、空間)、(存在の形象、甲高い音、呪文類)、案内人
(立て札)、窓(脱出口)]

といふ式でありますから、この出だしの意味するところは、青字にした要素については既に
これまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「窓(脱出口)」が主題であるといふことに
なります。もつとも、案内人は「トンボ眼鏡の看護婦」から「垂れ目の少女」に前章で役割
交代をして、更に後者は此の章では時間の断層で複数人になつて現れて「垂れ目の少女B」に
なつて、最後まで登場するわけですが。

「2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖」でみると、

②2。概念連鎖・一般式:どの作品にも通用する一般的な概念連鎖
ー座標の喪失ー愛ー存在(凹の形象)ー(永遠の)別離ー愛の真実性の証明ー(何かの開始
を告げる)甲高い音ー存在の十字路ー案内人の交換ー詩文・散文のtopologicalな交換ー沈黙
の空間の誕生ー(詩文も含む)呪文類による唱導ー自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧に
なる)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出

やはり、青字の要素については既にこれまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「自己喪
失(意識・無意識の境界が曖昧になる)→存在の出現ー閉鎖空間からの脱出」が主題である
といふことになります。実際、この出だしは「自己喪失(意識・無意識の境界が曖昧にな
る)」といふ出だしになつてゐる。

また、「3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖」
で見ると、

③3。概念連鎖・個別式:『カンガルー・ノート』に通用してゐる個別的な概念連鎖
ー「地獄谷みたいな硫黄泉」の臭ひー硫黄泉の露天風呂ー存在の凹ー賽の河原ー呪文類ー満
願駐車場ー未分化の実存の子供達(「垂れ目の少女」「トンボ眼鏡の看護婦」)ー窓ーサー
カスー人さらいー列車ー駅ー交通体系ーポイントの切り替え(支線から本線へ)ー笛の音(警
笛の音)ー(時間の断面の複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー
人さらい)ー

青字の要素については既にこれまでの章で全て終つてゐて、ここから先は「(時間の断面の
複数の断層ー「私」の自己増殖ー)風の音ー祭り(ーサーカスー人さらい)」が主題である
といふことになります。此の場合の「「私」の自己増殖」は「垂れ目の少女」の自己増殖で
あることはいふまでもありません。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 18

それでも尚、時間と空間の差異がないといふことを形式的にでも書いてを来ます。

①時間の差異:なし
②空間の差異:なし

5。6。4(2)結末継承(大)
一言でいへば、存在同士の存在の接続である。存在の接続であるから互ひに再帰的である。
第6章風の長歌の終はりは、次のやうな存在の風と、その風の中で吹く「祭りの賑わい」で
ある。この最後の章は、次の「5.4。3(3)結末継承(小)」とほとんど重なつて同じ
である。

(1)「吹きすさぶ風。風の中の風の音」(174ページ)
(2)「祭りの賑わい」(174ページ)

この二つの、即ち存在の風の中に存在する祭りの賑はひが、第7章人さらいの冒頭に歌はれ
る次の詩であり、この詩は前章の長歌に対する反歌となつてゐる。

「むかし人さらいは
 子供たちを探したが
 いまは子供たちが
 人さらいを探している」

「祭りの賑わい」とは、勿論この反歌の中でやつて来るサーカスの興業の賑はいのことであ
る。即ち「結末継承(大)」とは、長歌と反歌の継承関係(接続関係)のことにほかなりま
せん。

5。6。5(3)結末継承(小)
第6章風の長歌から第7章人さらいへの結末継承の接続をまとめると次のやうになる。

   第6章風の長歌の終はり        第7章人さらいの始め
(A)風の長歌(鎮魂歌):      (風の反歌(鎮魂歌)):この題は沈黙と余
                    白に置かれてゐる
(B)「吹きすさぶ風。風の中の風の音」:「吹きすさぶ風」:存在の中の存在の中で
                    吹く激しい風
(C)「祭りの賑わい」:        人さらい:人さらいの四行詩:これが(風
                    の反歌)である:「祭りーサーカスー人さ
                    らい」の概念連鎖
(D)「吹きすさぶ風。風の中の風の音」:「速度の違う大気の流れが、上空で摩擦し
                    合う音」:超越論的な遅延の発生:第7章
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

                    での次の存在の世界の誕生のための二つの
                    気流の速度の遅延

5。6。6(4)差異を設ける
冒頭共有の通り。差異は、存在の十字路にあつては存在しない。

5。6。7(5)呪文を唱える
(A)地の文の呪文
①「むかし人さらいは/子供たちを探したが/いまは子供たちが/人さらいを探している」(1
75ページ上段)
②「むかし人さらいは/子供たちを探したが/すべての迷路に番号がふられ/子供の隠し場所が
なくなったので/いま人さらいは引退し/子供たちが人さらいを探して歩く/いまは子供たちが/
人さらいを探している(一行空き)だれも人生のはじまりを憶えていない/だれも人生の終わ
りに/気付くことは出来ない/でも祭りははじまり/祭りは終わる/祭りは人生ではないし/人生
は祭りではない/だから人さらいがやってくる/祭りがはじまるのその日暮れ/人さらいがやっ
てくる」(187ページ下段∼188ページ上段)
③「北向きの小窓の下で/橋のふもとで/峠の下で/その後/遅れてやってきた人さらい/会えなかっ
た人さらい/わたしが愛した人さらい(一行空き、一文字下げ)遅れてやつてきた人さらい/会
えなかった人さらい/わたしが愛した人さらい(一行空き)(オタスケ オタスケ オタスケ
ヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」(188ページ下段)

(B)呪文らしい呪文
この章では、安部公房の存在論の記号[註1]で記号化されてゐる呪文を挙げました。

[註1]
呪文存在化 記号規則について「『カンガルー・ノート』論(3):(16)風の音」(もぐら通信第68号)
を参照下さい。

①「̶̶満願駐車場カラノオ知ラセシマス。駐車場ハ閉鎖シマシタ。アナコンダ地蔵尊ノ寄付
ノ受ケ付ケモ間モナク締メ切ラセテイタダキマス。オ急ギクダサイ、オ急ギクダサイ。」(1
75ページ下段)[註2]

[註2]
満願駐車場の呪文の解読については「(15)満願駐車場の呪文」(もぐら通信第66号)をご覧下さい。

②「̶̶オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ……」(175ペー
ジ下段)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

③「̶̶満願駐車場カラノオ知ラセシマス。アナコンダ地蔵尊ノ寄付ノ受ケ付ケモ間モナク締
メ切ラセテイタダキマス。オ急ギクダサイ、オ急ギクダサイ。」(179ページ下段)
④「̶̶ただいま下り最終電車の到着です、みなさん、白線まで下がってお待ち下さい。危険
ですから、白線まで下がってお待ち下さい。」(183ページ上段)
⑤「(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)」(188ページ上
段)

(C)3回(または4回)の呪文の後に登場する者(モノ)
(B)呪文らしい呪文のうち①と③を満貫駐車場の呪文として一つと数へ、②と⑤のオタスケ
呪文を一つと数へると、総体としては3つといふことになります。

3回の呪文の後に登場するモノは、「大型冷蔵庫でも入りそうな、ダンボール箱」です。この
「箱はただのダンボールではなかった。硬化プラスチックなみの粘りと堅さ」のある、そして
「正面に覗き穴」のある箱です。勿論主人公は、箱男の場合と同様に、この覗き穴から脱出
するのです。さうしてtopologicalなことには、覗いてみると「ぼくの後ろ姿が見えた」ので
すし、逆に「そのぼくも、覗き穴から向こうを覗いている」といふわけです。入籠構造の、合
せ鏡の、安部公房の世界です。

5。6。8(6)存在を招来する
(A)3回鳴る甲高い音
①「すぐ近くで、風に煽られた蝶番のきしみ。」(181ページ下段)
②「鋭い呼子の音。つづいて車輪がきしみ、ベッドが停止した。」(183ページ上段)
③「とつぜん警笛が響きわたり、ホームに二両編成の電車がすべりこんできた。」(186
ページ上段)

(B)存在の始め
上記「5。6。3(1)冒頭共有」で述べた通り、第7章人さらい(の反歌)の冒頭は、前
章を受けて時間と空間の差異を設けるといふ規則を離れて、ここからは差異の境目、隙間が
曖昧になつてゐて、言はば存在の中で、人さらいの歌といふ四行詩の呪文が始まつてゐる。

この冒頭の反歌が「沈黙と余白の論理」によつて隠されてゐる全文が後で歌はれるわけです
が、この歌が存在の歌であり、存在といふことからお読みになつてお解りの通り、始めと終
はりのない存在の歌、即ち超越論の歌であり、この反歌の全体が存在なのです。

(C)存在の終はり
最後に歌はれる「遅れてやってきた人さらい」の歌が、同様に遅延といふことから、これは存
在に関する超越論の歌なのであり、この次の存在への上位接続の反歌の全体が存在なのであ
り、それまでの存在の終はりなのです。
もぐら通信
もぐら通信                          21
ページ

これら(B)存在の始めと(C)存在の終はりの二種類の人さらひの歌が同じ存在の超越論の
歌であることを示すために、安部公房は二つの歌の最後に存在の記号を用ゐて、

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)

といふ呪文を共有させてゐるのです。

(B)存在の始めと(C)存在の終はりの歌は、呪文を主体に考へると二重二層構造の同じ歌
です。

5。6。9(7)存在への立て札を立てる
①「縄文人が十数枚のポラロイド写真を重ねたまま、花札を扱う手つきでぼくの前に滑られ
てよこした」そのポラロイド写真)(177ページ上段)
②「Bが手鏡を持ち替えた。裏に白抜きでJALとプリントしてある」その手鏡(184ページ
上段)

5。6。10(8)存在を荘厳(しょうごん)する
安部公房の存在の荘厳は、透明感覚をともなふのでした。これは主人公と「垂れ目の少女B」
の次の、何度読んでも実に哀切で安部公房らしい会話に表されてゐます。

「「君には見えているの?」
 「見えていないと思う?」
 「暗すぎるじゃないか」
 「わたしは見える」
 言い返してはみるものの、確信はなさそうだ。
 「そうだね、よく見れば見えるような気もする」
 「本当?」
 Bがビールに缶ごしに、深々とぼくの目を覗き込む。ぼくとの距離をさらに縮め、 
 同意を迫ろうとしているようだ。」
(187ページ上段)

5。6。11(9)次の存在への立て札を立てる
次の二つの存在への立て札、即ち(A)最初の立て札と(B)最後の立て札は、この最終章自
体が存在である章であることを考へると、上記「5.4。6(6)存在を招来する」の節に
既述の通り、始めと終はりのない超越論による存在そのものでありますから、その節と同じ
く二重二層構造としてある、即ち始めも終はりもない、最初も最後もない、同じ一枚の立て
札です。

読者にはおなじみの、最後に立てられる(A)最初の立て札と(B)最後の立て札の両方を兼
ねる次の存在の方向への立て札が、これです。
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もぐら通信                          ページ22

5。6。12 (10)3といふ数字
以上これまで第7章について述べてきた甲高い音などの3といふ数字のほかに、第7章には、
次の3といふ数字があります。

①「昔は海水浴なんかも出来て、単線の電車が日に三度も往復していたらしいですね」(1
82ページ下段)
②「垂れ目A……垂れ目B……垂れ目C……」(183ページ上段)
③3回名前の出て来るピンク・フロイドの『エコーズ』:2回(186ページ上段)、1回
(187ページ上段)

次の章では、これまでの7章を通じて知ることのできた、安部公房の世界の3といふ数字の
意味について論じます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ23

安部公房とチョムスキー
(9)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致

7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く で

7。1 一神教のtopology 休

7。2 大地母神崇拝のtopology 号


7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
10。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか
ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
11。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
12. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
12. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
12. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
12. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
13。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
もぐら通信
もぐら通信                          24
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
第2部
    (27)
岩田英哉

第2部

ATMEN, du unsichtbares Gedicht!



Immerfort um das eigne

Sein rein eingetauschter Weltraum. Gegengewicht,

in dem ich mich rhythmisch ereigne.

Einzige Welle, deren



allmähliches Meer ich bin;

sparsamstes du von allen möglichen Meeren, ―

Raumgewinn.

Wieviele von diesen Stellen der Räume waren schon



innen in mir. Manche Winde

sind wie mein Sohn.

Erkennst du mich, Luft, du, voll noch einst meiniger Orte?



Du, einmal glatte Rinde,

Rundung und Blatt meiner Worte.

【散文訳】

呼吸をせよ、お前、見えない詩よ。
いつも持続的に、独自のものを求めて、それと交換して息をするのだ。
その純粋な交換された世界空間。私が、韻律を以ってその中で生起する、
カウンターバランス。

唯一の波、その次第に波する海が、私である、そのような波。
お前は、あらゆる可能な海という海から、空間を獲得するために節約をし、空間を獲得し
たのだ。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ25

数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所が、既に、私の内部にあった(存在した)
ことか。幾多の風は、わが息子のように、ある(存在している)。

お前は、私を認識するのか、お前、空気よ、まだ嘗(かつ)ての、私の数ある場所で一杯
の私を。お前、嘗てはすべらかだった、私の言葉の樹皮よ、私の言葉の円み、円熟と木の
葉よ。

【解釈と鑑賞】

最初の一行に続く、2行目と3行目のつながりが、多分原文のテキストがそうなっている
のだろうと思うけれども、少しドイツ語の正書法としておかしい。2行目の最後に文の終
結を意味する点、句点がついていない。それから、正書法でゆくと「das Eigne」とEが大
文字になると思われるのに、それがそうなっていない。

しかし、そうなっていると考えて、上のように訳しました。

呼吸をすることをリルケは、ここで歌ったように考えている。呼吸することは、何かとの
交換であり、そのものが交換されて、呼吸するものの内部に入ってくるという考えです。こ
の場合、その何かとは、ひとつの空間です。その空間が、私の内部に空間として存在する。
リルケは、この空間の中で、リズミカルに、韻律を以って、詩を書き、歌うのだといって
います。この空間は、カウンターバランスだと言っていますので、交換されて外へ出た、そ
れまで内にあったものとバランスしているのだという考えです。交換されて外へ出るもの
は、呼吸の気、呼気なのだと思います。

悲歌8番の第3連に次の言葉があります。

Hier ist alles Abstand,



und dort wars Atem.

【散文訳】

ここでは、すべてが距離だ、
そして、あそこには呼吸があった。
(あるいは、あそこでは、すべてが呼吸だった。)

この言葉から理解すると、呼吸とは親密な関係をつくっている行為だということがわかり
ます。隣あっているものほど遠いということは、リルケが、悲歌とソネットのあちこちで
歌っている通りですが、呼吸によって外のものと中のものを交換して、そとから独自のも
もぐら通信
もぐら通信                          26
ページ

の、独自の空間を内部に呼吸して入れるということは、距離をなくし、本質的に親密な関
係を得ることなのです。

そばにいるひとと呼吸を交換すると親しくなる、距離がなくなるのに、わたしたちはそれ
をしていないのでしょうか。隣のひと、最もそばにいる人と呼吸を通じて何かを交換する
というイメージは、こうして理解してみると、随分と生々しく、そのひとの呼気までも感
じるように思います。これは、リルケの現実感覚なのでしょう。あるいは、現実感覚を得
る考え方なのでしょう。これが恋人通しであれば、どうでしょうか。恋人同士は、お互い
に呼吸を交換して親密になり、真の意思疎通をしているのでしょうか。悲歌では、それで
も足りないと詩人は言っていましたが。これは、また別に稿を改めて論じなければなりま
せん。悲歌を論じた最後に言いましたように、これは悲歌の登場人物関係論になるからで
す(「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(2009年8月15日:http://
shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。しかし、そのためのヒントを、わたし
たちは、ここで掴んだようです。

また、同じ悲歌7番第8連に、呼吸ということから、次の言葉があります。ここにも、ソ
ネットの第1部に何度も出てきた、ruehmen、リューメン、褒め称えるという言葉が使われ
ています。詩人の仕事は、事物を、物事を荘厳することなのだとリルケは考えていたのだ
と思います。この言葉をここまでも熱心に概念化すると、日本語でいう荘厳するという概
念と変わらないのではないかと思います。今までのソネットで褒め称えるとか、讃嘆する
と訳してきた箇所も、荘厳すると訳し変えてもよいかも知れません。

mein Atem

reicht für die Rühmung nicht aus. So haben wir dem noch

nicht die Räume versäumt, diese gewährenden, diese

unseren Räume.

【散文訳】

わたしの呼吸は、褒め称えるためには、充分ではない。だからといって、わたしたちは、
呼吸に対して、まだ空間を疎かにしているわけではない。これらの与え、授ける空間を、
これらの私達の数々の空間を。

この箇所は、前の連を受けて、天使に対して、人間の文明の偉業を述べて、人間の偉大を
天使に肯(うべな)うように、求めるところなのですが、ここで、やはり呼吸が出てくる
のです。そのような文明の偉業を、数々の高い列柱、スフィンクスといった人類の偉業を
褒め称えるには、まだ内部の空間が足りないといっているのだということが、これでわか
ります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

上の引用のあとには、シャルトルの大聖堂だとか音楽のことが歌われていて、これらが私
達を(わたしたちの境界を)踏み越えて行くと歌われているのは、ソネットと同じ主題、
主調が、ここに流れているからでしょう。上で連想したように、呼吸を通じて中に入って
くる空間(空間の交換)と身近な呼吸ということから、愛する女性のことが、その次に、
歌われています。これも興味深いことですが、後日の登場人物関係論に場所を譲りましょ
う。

さて、交換された世界空間を我が身のうちに収めて、オルフェウスは、その中でリズミカ
ルに歌を歌い、竪琴を弾き、音楽を奏でる。第2連を読むと、リズムということ、韻律とい
うことから、オルフェウスは、自らを海の波、それも唯一の波に譬えています。お前と呼
びかけられているのは、第1連と同じ、目に見えない詩です。詩が生きていて、いや悲歌で
見たように、正確に言えば、詩という空間が生きていて、やはりこうなると詩も呼吸をす
るのでしょう、可能な、あり得るすべての海という海から、節約をして空間を獲得すると
いっています。

第3連で、「数ある空間のこれらの場所のどれだけ多くの場所」とオルフェウスは歌ってい
ますが、空間も、場所も、リルケの類義語です。このリルケの表現が奇妙だと思われる方
がいるかも知れませんが、これがリルケの世界です。リルケの空間論の一般論については、
「リルケの空間論(一般論)」(2009年7月18日:http://shibunraku.blogspot.com/
2009/07/blog-post_3081.html)で論じましたので、興味のある方は、ご覧戴けると、う
れしく存じます。

何か、リルケは、この第2部の最初のソネットでは、自分の詩論の元へともう一度立ち戻っ
たような感じがあります。

風は、空気、空間、呼吸の類義語ですから、これもリルケの世界にはなじみの言葉です。
風はわが息子のようだと歌っている。息子のようにいとおしみ、息子は成長するからなの
でしょう。空間との関係もまた同様なのだと考えることができます。

最後の連は、空気に呼びかけていますが、これは、前の連の風からの連想です。あるいは、
この空気を、第1連の、見えない詩の言い換えと理解することもできます。この最後の連の
第1行の解釈には、論理的には、次のふたつがあります。

1.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「私を」に掛ける解釈
2.「まだ嘗(かつ)ての私の数ある場所で一杯の」を、「空気」に掛ける解釈

このふたつです。

しかし形式ではなく、その意味を考えると、前者の解釈になると思います。「まだ嘗(か
もぐら通信
もぐら通信                          28
ページ

つ)ての私の数ある場所で一杯の」私を、お前、空気は、認識しているか?という解釈で
す。

リルケは、珍しいことに、ここで認識という言葉を使っています。悲歌では2度、最初は悲
歌3番第1連第3行に、次に悲歌7番第5連最後の行に。

空気は、かつては滑らかな樹皮だった。何だか宮沢賢治の春と修羅の序文の詩を連想しま
す。リルケも同じ感覚を持っているのでしょう。他のところでも、この感覚を、リルケは
歌っています。しかし、上で空間との関係で見てきたように、リルケはリルケの感じ方と
考え方があって、このように書くには独自の首尾一貫性があります。空気、すなわち空間
は、かつてはすべらかな、オルフェウスの言葉の樹皮であり、その円みであり(これに円
熟という意味もリルケは掛けているとも思います)、またその葉っぱである。

樹皮も、円みも、葉っぱも、いづれも「わたしの言葉の」が掛かっていると解釈すること
ができるので、そう解釈すると、この「わたしの言葉の」ということから、言葉で歌を歌
いながら変身を続けるオルフェウスのこころが伝わって来るようです。

これは、リルケの詩心でもあるのでしょう。リルケにとっては、言葉もまた空間であるか
らです。もっと正確に言えば、リルケにとっては、言葉の概念もまた空間であるからです。

【安部公房の読者のためのコメント】

上記【解釈と鑑賞】に論じたやうに、この詩に安部公房の世界の大切な次の要素を見るこ
とができます。

1。褒め称へる、荘厳する
呼吸ということから、ソネットの第1部に何度も出てきた、ruehmen、リューメン、褒め称
えるという言葉が使われています。詩人の仕事は、事物を、物事を荘厳することなのだと
リルケは考えていたのだと思います。

ですから、自分の小説を構造化することを考へた初期安部公房は、存在の荘厳を、褒め称
へることを、即ちかうしてみれば、リルケの精神を生かして小説を構造化することを考へ
た。

リルケの世界では、呼吸は風の類義語でありますから、安部公房の世界には風が大切な役
割を演じてゐます。演じてゐるといふよりも、本質的な形象であつて、存在そのものであ
る象徴の名前です。名前ですが、もはや再帰的な名前であつて、従ひ、やはり存在自体で
あるのです。
もぐら通信
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ですから、『カンガルー・ノート』の第6章風の長歌で、老人の呼気を若い学生が濡れタ
オルで口を塞いで、外部と内部の交換ができなくするといふ安楽死の場面は、誠に凄惨な、
しかし省略されてゐて読者にはその酷(むご)さは剥き出しにはなつてをりませんが、し
かしまた、これは若い10代の安部公房が文学を志した時にリルケを耽読して自家薬籠中
のものとなした形象なのです。

『カンガルー・ノート』の第7章ひとさらいで、風の一つは次のやうに、次元転換の場面
で、即ち交通体系の交換によつて内部と外部の交換がなされるところで、現実の断崖の時
間の層が幾つも現れて、『赤い繭』の主人公や『デンドロカカリヤ』のコモン君がさうで
あるやうに、垂れ目の少女が何人にも分裂するところで次のやうに吹くのです。この風も、
リルケの此の詩のオルフェウスの歌声のやうに、波打つてゐる。

「風はうねり、波打ち、タオルケットで顔をくるまないと、息ができない。(略)
 スピード感はないが、なんとなくレールに乗って揺られている感じがする。運河めざし
て地下の坑道を疾走しているときの感覚だ。待避線があって、すれちがった遊園地の周遊
電車に垂れ目の少女が乗っていたっけ。もしかするとこの風に乗ってぼくを呼んでいるの
は、彼女じゃないかな。
 垂れ目A……垂れ目B……垂れ目C……」
(全集第29巻、183ページ上段)

2。海
交換された世界空間を我が身のうちに収めて、オルフェウスは、その中でリズミカルに歌
を歌い、竪琴を弾き、音楽を奏でる。第2連を読むと、リズムということ、韻律というこ
とから、オルフェウスは、自らを海の波、それも唯一の波に譬えています。

安部公房の世界では、海もまた存在の形象です。

『方舟さくら丸』の、あの何でも嚥下咀嚼する万能便器の密かに繋がつてゐる海ですし、
『第四間氷期』のあの海ですし、もつと初期に遡つてみれば、『洪水』の海でありませう。

この海は、他の作品にも多々出てきてゐるはずです。

3。風
風は、空気、空間、呼吸の類義語ですから、これも上記1にてみたやうに、リルケの世界
にはなじみの言葉です。

そして、風は空間の中で吹く存在なのであれば、空間との関係でもまた、風は内部と外部
を等価交換されて、存在なのだと考えることができます。
もぐら通信
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最後の連は、空気に呼びかけていますが、これは、前の連の風からの連想です。あるいは、
この空気を、第1連の、見えない詩の言い換えと理解することもできます。

見えない詩といふ言葉から、あなたは存在となつて姿が透明になつた安部公房の主人公た
ちの姿と物語を思ひ出すでせう。

さうして、これらの本質的な、といふ意味は再帰的な、存在の形象は、次のやうに言葉も
また空間であるといふことになるのですし、安部公房が1968年の三田文学誌上で秋山
駿によるインタヴューで、自分はリルケを論理的に読んだといふ発言の意味なのです。何
故ならば、言葉の意味が空間であり、空間は安部公房の大好きなtopologyやその他の数学
の分野の概念で幾らでも変形できる、時間を捨象した対象であるからです。

4。空間と言葉
リルケにとっては、言葉もまた空間です。もっと正確に言えば、リルケにとっては、言葉
の概念もまた空間である以上、風、海、波、存在、次元転換、内部と外部の交換、topology
等々は皆、安部公房にとつても小説を構造化するための本質的な論理的な形象であつたの
です。
もぐら通信
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Mole Hole Letter


(8)

超越論(3):高天原

これからする話は、あなたには不思議な話に聞こえるかも知れない。

何故私は『安部公房とチョムスキ(1)』(もぐら通信第73号)の「 (1)ヨーロッパ文
明の近代とは何であつた/あるのか/(2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」と題した近
代ヨーロッパ文明に関する哲学的論理の本質論を1時間に満たない時間の内に知ることができ
たのか。カントから共産主義と超越論の系譜に分岐するといふ事実を何故簡単に知ることがで
きたのか。

これを知るにはカント、ヘーゲル、シェリング、フィヒテ、ショーペンハウアーのドイツ語を
全集があれば全集を、なければ主要な著作を、それも初めて読む必要があつた。私はこれらの
著作をKindleで読んだ。全体のページ数は、紙の媒体である本として数へれば、恐らくは何千
ページではなく、何万ページといふページ数ではないかと思ふ。上に1時間と書いたが、実は
30分と言へば30分、15分といへば15分といふことのできる時間ではなかつたかと、後
で憶ひ出すと、さう言へるのである。この後、日本語の文字で表して書くのに要した時間は、
およそ最長2時間であたつたらうと思ふ。書く方に時間を要した。それ故に、後で憶ひ出して、
上記の近代ヨーロッパ文明の哲学的系譜の分岐を知るに至つた時間は1時間位だらうと思つた
といふ順序なのです。

私が専らにして来た文学と言語の領域の本一ページの文章(テキスト)を読む速度は、ある時
友人に此の種のテキストの一ページのコピーを見せられて、私が文学の人間であることを知つ
てゐますから私の興味を惹く文章を親切心から示してくれたのでせう、それを手にとつて一瞥
して即座に感想を述べたことに友人がもう読んだのかと驚きの声を発したので、この時私は私
の読書の速度を初めて知つて驚いたのである。もう随分と前のことです。しかし、これは私の
全力を傾注して精進して来た領域の文章を読む速度の話のことです。確かに私は或る目的をも
つて人知れず努力をして来たが、しかしこれは一人の人間の能力と技(わざ)の修練の事であ
る。

『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)を出したのが今年西暦2018年
1月13日、和暦平成30年1月13日、平成の御世の最後の歳のことです。冒頭に言及した
時間のことは、どう考へても尋常ではなく、人智を超えてゐると、この時読者にもぐら通信を
配信した後に思つた。さうして、去年の師走の下旬、クリスマスの後の、大晦日に近い或る夜
のことを思ひ出して、今までいつの頃からか、何度かと言へば何度か、何度もと言へば何度も、
もぐら通信
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経験して来た此の経験が一体何であるのかについて初めて知りたいと思つた。それは次のやう
な経験である。

古来世にいふ丑三つ時(うしみつどき)であると思はれる。私は寝入つてゐるが、しかし既に
此の時目覚めてゐると知るのは、闇の中、遥か遠くにズシーンといふ音が聞こえたからである。
私は、ああ、またあの音だと思ふ。この音はズシーンと音としての隠喩(メタファ)以外には、
即ち擬音語以外には、言葉で言ひやうがない。これでも未だ言へ得ない。それは太く深い低い
音であり、何かの根源から響いて来る波動の音であり、振動音である。太く深く低い振動音で
ある。あなたにわかりやすくいへば、神事としてある相撲の土俵の上で、横綱といふ綱を締め
た位の力士が、即ち横綱が、土俵入りをする際に足を大きく上げて土俵にゆつくりと置いた際
の音を集音器(マイクロフォン)で拾つて増幅すると、このやうな音になるかも知れないとい
ふ音である。それは、ドシーンではない、ドの音では何かにぶつかった音である、この音は何
かがぶつかつて生まれた音ではない、何かそれ自体から発した何かの音だといふよりほかない、
今かうして書きながら思へば、再帰的な音である。ズシーンとは太く深く低い音であるが、し
かしシーンと表した音がやはり依然としてさういふシーンといふ音でありながら、更にしかし、
私に響いて来る内に其のシーンといふ音の響きの振動の波の先端は細かな振動音になつてゐて、
繊細な小さな鈴の音色のやうにシャープ(sharp)な漣(さざなみ)のやうな細やかな振動に
なつて際立つてゐるのが目に見えるのである。

この最初のズシーンといふ振動音が遥か彼方で小さく響いた後に、次に何が起きるのかを私は
既に知つてゐる。かうして横になつて眠つてゐる私の体と其の最初の振動音の響いた丁度中間
地点で、もつと大きく、一層私に近づいて二度目の音が一層大きな音で響くのである。このよ
り私に近づいて暗闇に発する音は、一層大きな音であるだけに、私には少し爆発的な音に聞こ
え、何かが一気に、私の予測のできない速さで、距離に無関係に、ああ、やつて来る、ああ、
来るだらう、来るだらうと思つてゐると、中間点の闇の中で一層大きな振動音が発し響くので
ある。

私は闇の中で横になつてゐる。三つ目がどこで響くのかを私は既に知つてゐる。それは私の体
の皮一枚、紙一枚の距離で大音響で炸裂するのである。或いは二度目の音に比すれば大音響で
爆裂するといつても良い。私はいつ来るかいつ来るかと思ひ、今回は少し恐れを感じたが、そ
れは必ず来るのである以上、私は逆らふことはできないので、全身の力を抜いて、待つた。そ
して、不意にズシーンとはもはやとても言葉で言ひ表す事のできない大音響が私の体の紙一重
皮一枚のところで炸裂する。さうして、この炸裂した大音響が私の全身を打つ、打つて私の全
身を貫くのである。貫いて、そのまま私の全身は大音響に包まれてゐる。私の全身は私の意識
も含めて大音響の中に包まれ浸かつてゐて何かの、言葉ではとても其の程度を言ひ表すことの
出来ない、言語を絶した激しい波動と振動音の中にゐる。この音は私の体の隅々まで響き亘(わ
た)り、貫きわたる。大音響に包まれたまま私は凝(ぢ)つとしてゐる。私は両目を瞑つてゐ
るのに、不思議なことに大音響を目にみることができる、大音響が私の全身を貫き、響いた後
もぐら通信
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ページ

に、いつの間にか私の前で大音響は白い絹糸のやうな細かな光の波動に次第に成つてゆくのが
見える、私は横になつてゐて繭のやうであると言へば其の形象(イメージ)が理解されるだら
うか。私は言語を絶した振動音がいつの間にか変じた此の波動であり振動である細かな波の光
に包まれてゐる、私の体の前で音響の細やかな光の白い絹糸の波は、私の体を包み終えるやう
にしてゆつくりと閉ぢてゆき、閉ぢ終えて消えるところは私には見えないのは、その先後を知
らず、私はいつの間にか眠つてゐるからであり、眠つてゐるとすら意識しないからであり、そ
れを知るのは目が覚めると朝になつてゐるからである。

さうして、この闇の中の深く低い振動音と、この音が変じて成り私の全身を包んで漣(さざな
み)立つ繊細な白い絹糸で編まれたやうな光の記憶だけが残つてゐる。

かう書いたことは皆事実であり、私が目にし身に覚ゑた事であるが、本当には言葉で全てを表
す事ができない。これは、時間も空間も超えた出来事である。さういふ意味では、この世のこ
とではない。

この不思議な夜の経験を私は幾たび、いつから経験して来たのであらうかと自問自答したが、
始めを思ひ出すことができなかつた。多分小さな子供の頃からではないだらうかと思ふが、し
かし、確信はない。さうであれば終はりもない。超越論(汎神論的存在論)の世界である。

私はこの出来事が一体何であるのか、一体誰が、何が深更私のところにやつて来るのか、その
何かの名前を、それに名前があるのであれば、その名前を知りたいと初めて思つた。(安部公
房の読者ならば、名前との関係での何かでありますから、これを日本語で存在(das Sein:ダ
ス・ザイン)と呼ぶことはいふまでもなくご存じのでありませう。)この経験は今まで誰にも
話したことはない。何故ならば、この不思議は言葉にならないことと、言葉にして人に伝へよ
うといふ気が、これも不思議なことに、一度も起きなかつたからです。さうして、たとへ人に
話しても、誰も信じないだらうし、信じなければ理解もできないだらうからです。

神道関係の資料を調べてみると直ぐに、そのものの名前が自然に私に知られた。私のところに
やつて来たのは、天之御中主神である。かうして、神の名前を文字にし言挙げしたからには、
この世での私の死は確定したのである。

さて、私が今この話を文字にしてお話できるのは、既に此の話を、田舎にゐる母に語つたから
であり、次に述べる釧路神社での不思議な出来事を、これも母に語つた後であるからです。

『安部公房とチョムスキ(8):7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く』(もぐら通
信第81号)にて用ゐた竹田恒泰著『古事記 現代語訳』によれば(同書18ページ)、天之
御中主神を唯一の祭神とする神社は全国に幾つかあり、その一つが、私の故郷の北海道の東、
根釧原野の奥にある釧路神社であることを、この註記によつて知りました。釧路神社は、唯一
の祭神が天之御中主神です。
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Googleで調べると、釧路神社は、以前私の家のあつた(湖と太平洋に面した)場所から11
キロメートル(自動車で25分)、また今の家のある少し原野の奥に入つたところから10キ
ロメートル(自動車で20分)のところ、一両編成の電車で行けば釧路駅から二駅目の16分
で遠矢駅下車徒歩7分のところにある。前者の家は私が子供の頃から東京に出る18歳まで住
んだところ、後者の家は今此の原稿を書いてゐるところです。いづれにせよ、余りにも私に至
近である。母はさすがに知つてゐたが、しかし、私は此の神社のあることを知らなかつた。

5月29日、釧路神社に参詣し、天之御中主神に参拝した。ここでも、私は不思議な経験をし
たのである。

遠矢駅といふ小さな無人の駅の外へ出て、地元の案内板をみると、釧路神社の名前はない。駅
の前の道を左に折れて国道391号線沿ひに歩いて少しのところに釧路神社は
あつた。白いコンクリートの鳥居を潜つて、少し歩いた先から急坂の参道の、石のではなく、
段の縁を丸木で横に押さえへただけの稚拙な土の階段が上にまで続いてゐる。急であり、不揃
いの階段であり、登りにくいので、休み休み登つた。

やつと、階段を登り終え、境内に足を踏み入れて不図みると、私の左下の地面直ぐ其処に大き
なカラスが凝つとしてゐた。彫像のやうだと私は思つた。母の経験ではカラスは吉兆の象徴(し
るし)である。私が母のカラスについての経験を聞いて知るところによれば、カラスは神の遣
(つか)ひである。そんなことを憶ひ出しながら、私はカラスの横を通つて左に廻ると、今登
つて来た階段を受ける地面の様子とは異なるもう一色の敷地の少し奥に社殿がある。私は左に
廻りながら途中で立ち止まり、カラスにオイと声をかけたがカラスは動かない。そのまま見て
ゐると、少ししてから小さく飛び上がり、右に急旋回して、私の今来た参道の階段の急坂の傾
斜と高さに合はせて階段すれすれに低空飛行で滑空して降りて行くのが途中まで見えた。

社殿で大柄な鈴を鳴らした後二礼二拍一礼をし、事の成つたことの報告と感謝の意を伝へ、社
殿を下がつて戻らうと歩き始めて小さな境内と其の外の(私の登つて来た)参道を受けてゐる
土地の境目に足を踏み入れると、音も立てずに私の背後からあのカラスが私の目の前右手上方
の至近距離をスーッと私に見えるやうに飛んで向かふの高い木の高い枝にとまつて、これも動
かない。今度は声もかけずにしばらく眺めてゐたが、カラスが動かないので、私は右に体を巡
らせて参道を降り始めるや否や、カラスが今度は羽音を立てて、私の右手の(参道に沿つて並
び降りてゐる)最初の木の高みにやつて来て止まつた。階段を3段4段降りると大体枝を伸ば
してゐる一つの木の幅にならうか、私が参道を降りるに連れ、カラスは次の木に、これも再た
羽音を立てて止まるのである。私は足を止め、思はず再た目を遣つて見上げる。三度目に同じ
ことが起きたときに、私はカラスが私と一緒に参道を降りてゐるのだと確信した。

四本目の木にならうかといふところで階段を降りようとすると、不意にカラスは私の目の前の
少し高みに舞い降りて来て、尻へをこちらに向けて、これもまた来た時と同じやうにサーっと
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もぐら通信                          ページ35

参道の階段の急坂の傾斜と高さに合わせて階段すれすれに低空飛行で一直線に滑空して行つて、
みてゐると、階段の最初の登りの段のある辺りで左に急旋回して木々の葉群れの中にあつとい
ふ間に隠れた。それは、恰も此のカラスが私を先導し、道案内をしてゐるやうに思はれた。さ
うして、下に降りて鳥居を潜つて、目を上げると、私はそれがその通りであつたことを知るの
である。国道の直ぐ向かふは原野である。原野の遥か彼方、天地の間に、雲を透かして白い影
の阿寒山が立つてゐたからです。

阿寒山は連山であつて、次の三つの山からなります。

(1)雌阿寒岳
(2)雄阿寒岳
(3)阿寒富士

阿寒の山々の写真を示します。真ん中の山が阿寒富士です。

あのカラスは、私に此のうちの阿寒富士を教へたかつたに違ひない。それ故に、日本列島の最
果ての、更に原野の果てに天之御中主神を唯一の祭神と知る社(やしろ)を立てて其処に在る、
まさしく万葉の歌人山部赤人が長歌に詠んだやうに「天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さ
びて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば」そこに立つ、その
歌の通りの、蝦夷の地の高天原である。

さうであれば、駿河の国の富士山といふ、同じ(考古学者の分類による命名によれば)神奈備
型のあの山容は、そのまま国生み神話の高天原に違ひない。さうであれば、日本全国にある富
士といふ名前を頂いた土地土地の、また国々の富士山は、みな高天原であるに相違ない。さう
であれば、江戸時代に大江戸八百八町のあちこちに江戸の人たちの立てた(今も東京に残る)
多くの富士塚(小さな象徴的な富士山)も高天原であつたに違ひないし、今もさうでありませ
う。
もぐら通信
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昨年師走の下旬に天之御中主神が現れ隠れたあとの、私の事の次第を振り返れば、次のやうに
なる。

3月13日:事の成就を報告するために、一番近い東京は町田市にある天神様にお参りした。
これも私が今『カンガルー・ノート』論を書いてゐる最中のことであり、主人公が通りやんせ
通りやんせの歌と共に「トンボ眼鏡の看護婦」や「垂れ目の少女」と手を繋いでお参りした天
神様でありますから、何かのご縁があるでせう。私は疾走することなく無事存在のお宮参りか
ら帰つて来ることができた。

3月15日:この一日の日の午後に、飯田橋の東京大神宮、九段の靖国神社、表参道(原宿)
の明治神宮にお参りをした。

東京大神宮は、私が高天原0と呼んだ最初の高天原の三角形(神奈備型の山容)を構成する三
柱の神、即ち天御中主神、高御産巣日神、神皇産霊神の造化三神を祀つてゐる社(やしろ)で
あり、靖国神社は幕末明治維新以来近代国家としての日本の建国以来国のために身命を賭して
生き亡くなつた方達を祀つた社であり、明治神宮はいふまでもなく、明治の御代の天皇(すめ
らみこと)を祀る社です。

ここでも私は不思議な経験をした。

東京大神宮の本殿の前には既に人が4人ゐて列をなしてゐたところへ、私は最後尾に付いて順
番を待つた。最前の人が参拝を終えて左へ本殿の前を横に去ると私が三人目になつた、とその
時、本殿の中で大太鼓の音が突然鳴り響いたのです。私は茫然として立ち尽くした。何故なら、
この大太鼓の音が、あの夜の深く太い大きな振動音に大変似てゐたからです。全く同じでは勿
論ないが、しかし此の世で、即ち時間の中で有り得る一番そつくりの音であつた。それも、或
る規則正しい拍子からなる一つの拍子の単位を三度繰り返して大太鼓の音が鳴り響いた。気の
遠くなりさうな意識の中で、私はなんとか此の3といふ数を数えた。此の時初めて、太鼓とは、
神々が其の意志を人に伝へるための楽器であり、意思疎通のための媒体であることに気づいた。

その足で南へ徒歩で九段の靖国神社へ参り、御霊となつた死者たちに報告とお礼の言葉を奉じ、
死者の力を貸して戴いたことに感謝した。更に転じて明治神宮にお参りをした。途中道に迷い、
広い境内の中を行きつ戻りつしてから参道を見つけて(私はいつも「燃えつきた地図」の中を
彷徨つてゐる)、道の角を右に曲がつて参道に足を踏み入れて、体を正面の門に向けて歩き始
めるや、また不意に本殿から大太鼓の音が聞こえた。私は驚いて、しかし今度は注意深く、太
鼓の音を聞いた。今度は、東京大神宮の大太鼓の音とは異なり、対照的に不規則の、不定型に
打たれて聞こえる太鼓であつたが、勿論音の崩し方といふものがありませう。時計を見れば丁
度14:00。私は意図して太鼓を打つ時刻に合わせてわざわざ道に迷つたのではない。
もぐら通信
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私は本殿の列に並び、順番が来て、二礼二拍一礼をし、事と次第の成つたことの報告と感謝の
意を伝へ、また私の母方の祖父石井千蔵が神職としてまた雅楽奏者としてお仕へ申し上げた明
治天皇に事の成就した御礼を謹みながら申し上げた。

ここから先は、私のこころに自然に思はれたことである。

古事記の国生み神話で私たちが見たやうに(『安部公房とチョムスキ(8):7. 一神教と大
地母神崇拝をtoplogyで読み解く』(もぐら通信第81号)参照)、大八島といふ島の概念が
上位概念であり、近代国家としてであれ国(くに)が下位概念であることが本来の日本の国の
姿であるにも拘はらず、これの上下の順序を逆にして、近代国家といふ国(くに)を上位概念
とし、大八島といふ島であることを下位概念としなければならなかつたこと、これが、明治維
新以来の(今年西暦2018年までの)150年でした。

島(しま)とは、海に浮かぶ島であるのみならず、『安部公房とチョムスキ(8):7. 一神
教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く』で読み解きながら知つたやうに、私たち縄文時代以
来の古代からの汎神論的存在論、即ち近代ヨーロッパ文明の数学ならば20世紀初頭に其の概
念の確立したといはれる(しかし私見によれば17世紀のデカルトとライプニッツといふバロッ
クの哲学者にして数学者である二人によつて既に考へられてゐた超越論、即ち数学でいふ)
topologyと同じ接続と変形の論理に依つて天(あめ)の垂直軸と海(あま)の水平軸は地(つ
ち)を中心にして又其の上で二つの軸の内部と外部は等価交換されますから、大倭秋津島(お
おやまとあきつしま:機内を中心とする地域)[註1]といふ名前がさうであるやうに、島と
呼ばれるからといつて、海の上の島であるとは限りません。

[註1]
竹田恒泰著『古事記 現代語訳』23ページ参照。

今、topologyでここまで私たちの日本の国の成り立ちを明らかにした以上、さうして、このこ
とから私の考へでは先の戦争の終結で、近代国家を立てるために野蛮な近代ヨーロッパ文明か
ら身を護るといふ消極的な理由から已を得ず講じた公武合体政策が今年150年で役割を終え
たと言ひ得るのである以上、天皇陛下は京の御所にお帰りになることが自然の成り行きである
と、僭越ながら私には思はれる。二度目の平安遷都である。あるいは、日本の歴史上最初の逆
王政復古である。といふと、余りに逆進化論に合致してゐて、安部公房のお株を奪ふことにな
らうか。しかし、私は安部公房と同じ超越論、即ち汎神論的存在論に基づいて、逆進化を唱へ
たい。歴史は、カントーヘーゲルに始まる系譜の共産主義の主張するやうには進歩するのでは
ない。歴史の進歩は、有限の能力を持つ人間の無知と無能の期待に過ぎず、さうではなくて、
歴史は、言語論理(logos:ロゴス)本来の宇宙的な性格に依つてさうあるやうに常に自分自
身(自己)に再帰し、一次元上の位相で統合されて別様に、しかし同じ質(quality)のことを、
繰り返す。
もぐら通信
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もし時間を超越し、従ひ歴史を超越した天皇といふ存在(das Sein:ダス・ザイン)が京都の
御所へ遷都するならば、これも自然に、島が上位概念、国が下位概念となつて、国生み神話と
同じ私たちの縄文時代以来の国柄(二次元)または国体(三次元)に戻ることになり、この1
50年の間の近代化といふ無理から来る、私たちの無意識の苦しみ、即ち私たちの名付けられ
ぬ生活の苦しみが、黙つてゐても雲散霧消するでせう。

縄文時代の文化に関する或る本を読むと[註2]、左廻り右廻りなどの(私の言葉でいふ渦状
紋に関する)対称性といふ主題[註3]と共に、それがたとへ普通の縄の綯(な)ひ方であれ、
また注連縄(しめなは)であれ、「そして奇数、とりわけ三をはじめ五、七に対する強いこだ
わりは縄文によく見られ、興味深い」のである。

[註2]
『縄文の思考』(小林達雄著。ちくま新書。168ページ)

[註3]
『安部公房とチョムスキー(9)』(もぐら通信第82号)の「8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる」の
「1.1 カントの一つ目の失敗」をご覧ください。渦状紋の古今東西の実例を列挙しました。「これらの実例の
意匠に共通することは、次の事です。

(1)一筆書き(topology:位相幾何学:内部と外部の等価交換)
(2)対称性(と対称性のほつれ/破れ)
(3)渦状紋(西洋哲学の超越論:我が国島嶼哲学の汎神論的存在論)」

この3、5、7といふ数字は、既に『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)
の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」と『『カンガルー・ノート』論(16)』
(もぐら通信第82号)の「5。5。2 長歌は高天原を歌ふ」で解き明かした如く、これは
もともと大地母神崇拝に拠る高天原の様式であり、また有文字文明としてある万葉時代以来の
(といふことは無文字文明である縄文時代以来の)長歌の様式であり、和歌の、連歌の、俳諧
の、俳句(単句)の様式であり、私たちの美意識の単位です。

あるいは、七五三といふ子供である未分化の実存(と安部公房ならばいふでせう)といふ
neutral(ニュートラル:中性)の《存在》のためのお祝ひの様式を、また時間の中で《存在》
の着る和服の姿を思ひ出せば、十分ではないでせうか。(安部公房の存在論の記号を用ゐれば、
このやうな説明になりませう。)まだまだ、この縄文の数字は、私たちの日常に隠れてゐる筈
です。何故隠れてゐるか?それは、男でもなく女でもない、(あなた自身を滅却して生まれて
在る)第三の存在[註4]であり、それを知りたいと思へば、それがあなた自身の姿であるか
らです。

[註4]
この論理と理論は、安部公房20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻104ページ)に詳しい。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

既に遺伝子学、言語学、考古学(植物、動物の生態学を含む)、人類学で、縄文時代の本当の
姿が相当に明らかになつてゐるところへ、今の呼び方でいふtopology(位相幾何学)と超越論
(汎神論的存在論)といふ縄文時代の精神と魂である数学と哲学を以つて更にこれらの学に加
へてみれば、一層文字通りにこれらの学の精華を重ね合わせて重畳するところに(これが
topologyの考へ方、即ち学問ならば学際の考へ方です)、縄文の凝縮(essence:エッセンス)
が歴然と現れる筈です。

釧路神社の鳥居を背にして、原野の彼方、天地の間に立つ白い高天原を観てのあと遠矢駅まで
の帰り道に、私のほかに少なくともあと二人はゐる筈の(何故なら3の数で高天原0が構成さ
れるから)、天御中主神を唯一の祭神として祀る神社の近傍に生まれ育ち、私と同じく忘却の
中を生きて来た他(ほか)の島の子供達に、一瞬だけ、会ひたいと思つた。

最後に附言すれば、天之御中主神のなさつたことは次の三つのことです。

1。20世紀までの近代の歴史の幕を閉ぢたこと
2。明治維新以来150年の歴史の幕を閉ぢたこと
3。先の戦争終結後70有余年の時代の幕を閉ぢたこと

天の原ふりさけみれば阿寒なる富士の高嶺に雪ぞふりける
もぐら通信                         

もぐら通信 40
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ41
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 42
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ 43


●池田龍雄展を観る:本文では語りませんでしたが、池田さんのお描きになつた
BRAHMANの連作は素晴らしかつた。他にも言ひたきことあれど、読者はどうか残りの
会期に足をお運びください。池田さんの人生の全貌をみはらかすことのできる集中的な
素晴らしい展示会です。
● 『カンガルー・ノート』論(17):5。6 次の存在への立て札を立てる:第7
章:人さらい:反歌(鎮魂歌):到頭最終章を論じ終はりました。 始まりも淡々と始ま
りましたが、終はりもまた淡々と書き終えました。何もいふことはありません。ただた
だ、よくもこんな小説を書いたなあと、読みながら思ふばかりなりけり。あとは3とい
ふ数字について論ずるのみ。
●安部公房とチョムスキー(9):今イギリス人の書いた『三十年戦争』といふ本を読
まうとしてゐるところ。本文だけで1000ページ。残りの110ページは索引と註釈
です。しかし、イギリス人があのブリテン島から眺めて、当時のヨーロッパ大陸の白人
種同士のキリスト教徒の戦争を歴史書として書いたといふことが、イギリス人の大陸ヨー
ロッパに対する歴史的立場を示してゐるのではないかとおもふ。ドイツやフランスやそ
の他の大陸の国々を互ひに戦争させ争はせておけば、彼奴等は連合軍を組んでイギリス
を攻めることはないのである。これで植民地支配をやられてdive and rule(分断と統治)
といはれては、やられた方は堪らない。しかし、これが彼奴等の卑劣なやり方である。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(26):リルケの存在の形象を、安
部公房は皆自分の世界の形象となしたことがわかります。あなたにとつてこれほどまで
人生に影響を深く及ぼした作家や詩人はゐるでせうか?さう、答へはきつと、安部公房
といふのでせうね。●ではまた、次号

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。『カンガルー・ノート』論(18):再び3といふ数字
限」
2。火星人特派員報告
3。。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(28)
4。Mole Hole Letter(8):超越論(4):安部公房の女性の読者のための
超越論
もぐら通信
もぐら通信                          44
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第82号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド 69ページ:最後の段落の一行目:
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正 訂正前:友綱
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正後:艫綱(ともづな)
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、 の最新版を差し替へて置いてあります。
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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