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赤尾晃一

インターネット
前夜
1979年暮れ,デューク大学とノースカ
ロライナ大学がUUCPで接続。ARPANETと
は異なり,利用者の中心は民間人で,
UNIXユーザなら誰でも接続できるとい
う“草の根性”を有していた。USENET
はネットニューズの原形である。
UUCP:隣接するホストが一般電話回線のダイヤル
アップ接続(2400bps)で,一日に何度かまとめて
(差分)データを転送して,サーバーの情報を同
一に保つ。遠距離の通信では,間にいくつもの
中継ホストが入るため,データが転送されるま
で時間を要した。電子メール,ファイル転送,
ネットニューズ。Unix to Unix Copy Protocol
80年1月,ウィスコンシン大学を中心に,
全米科学基金(NSF)の資金援助で立ち上
げた学術(情報科学)目的のネットワー
ク。情報科学技術者の情報交換を密に
し,研究を活性化させることが狙いで,
電子メールの利用を前提に構築されて
いった
81年3月,IBMがサポートし,ニュー
ヨーク州立大学とエール大学を専用線
で結んだのを皮切りに,81年末までに
25の大学が接続された。DECのミニコン
「VAX」(UNIX)がIBM機エミュレータと
して使われた。IBMはコンピュータも寄
附する活動も展開していたため,一時
期には世界最大規模のネットワークに
成長
83年1月1日,ARPANETのプロトコルが
TCP/IPに切り替わった。MILNET(軍事部
門)は分離し,CSNETとの相互接続を果
たした。これが最初の大規模ネット
ワーク間相互接続であり,インター
ネットの誕生だといわれる瞬間だった

Transmission Control Protocol/Internet


Protocol
NSFは自らもネットの運用を始めた。87
年にはMerit Network社と協調し,高速
なバックボーンを整備し,利用する研
究機関は増えたが民間企業は接続でき
ず,商用プロバイダの登場が渇望され
た。87年にはUUNETが設立されている。
90年には完全にIP接続のプロバイダも
登場し,インターネット接続は商用プ
ロバイダで,という時代が訪れる
88年にBITNETとCSNETは統合し,CRENと
いう組織に生まれ変わった
90年,ARPANETは終了。NSFNETが巨大化
91年,CERNでWWWやHTMLが開発
93年,Mosaic登場
CERN:欧州合同素粒子原子核研究機構。19カ国による
高エネルギー物理学の研究拠点。研究論文閲覧用ハ
イパーテキストシステムとしてティム・バーナーズ-
リーが立ち上げたプロジェクトからWWWは始まった。
WWWは当初,ブラウザの名称だった
米国イリノイ大学スー
パーコンピュータ応用
研究所(NCSA)のマーク・アンドリーセン
らが開発した,マルチメディア対応のブ
ラウザ。
1993年にインターネット
の商用利用が解禁される
と,マーク・アンドリー
センらはNetscape Commu-
nications社を起業し,Mosaicをベースに
したブラウザ「Netscape Navigator」を
開発,限定版の無償提供と製品版の販売
を開始する
日本の
インターネット
1984年9月,東京工業大学と慶應義塾大
学をUUCPで結んだ学術ネット。翌10月
に東京大学大型計算機センターを加え,
Japan University Networkと命名され
た。お手本としたのは,アメリカの
USENET
大学・民間企業の接続数は増え,KDD研
究所がUSENET(85/1),東大計算機セン
ターがCSNET(86/1)につながり,国際接
続も可能になった。同時期に電子メー
ルやネットニューズで日本語が使える
ようになり,JUNET参加機関数が飛躍的
に伸びることになる
KDD研究所の好意でやりくりされていた
国際接続の経費が,年間で1000万円を
超えるほどの額になってくると,KDD研
究所もさすがに負担しきれなくなる。
このため,民間企業からは利用料を徴
収しようとする組織「InetClub」(国際
科学技術通信網利用クラブ)が87年5月
に発足した
87年に東工大と東大は専用線で接続さ
れ,TCP/IPでネットワークを構築。そ
こに慶應大学と岩波書店が参加し,
「専用線」で「TCP/IP」を用いた「イ
ンターネット」の原形が形成された
アスキー,岩波書店,ソニー,松下電
器産業などの企業から出資を受け,本
格的ネットワーク構築のための研究組
織「WIDEプロジェクト」が88年にス
タート。このプロジェクトが日本の広
域ネットワークの原点だと考える人は
多い
89年4月に,ドメイン表記を「.junet」
から「.jp」に移行
DNSの運用も開始
91年12月には正式なドメイン登録管理
のための「JNIC」(93/3にJPNICへ改組)

JPNIC:Japan Network Information Center


インターネット・プロバイダ「IIJ」が
92年12月3日に誕生。93/11から専用線
接続サービスを開始。94/5からダイア
ルアップIP接続サービス。月額2000円+
通信料1分30円
NIFTY-Serve,PC-VANなどパソコン通信
サービス会社がインターネットとの電
子メール相互接続実験を開始。TELNET
接続も可能に
日本イーエヌエス・エイティアンドティ
(AT&T Jens)が日本初の商用インター
ネット接続サービス「Spin」。UUCP接続
である。IP接続サービス「InterSpin」
は93年7月に開始。
93年10月,日本初の個人向けインター
ネット・フル接続サービス「TWICS」が
開始。前身は草の根BBS「TWICS Bee-
LINE」
WIDEプロジェクト,プロバイダの登場
などで初期の目的を達成したとして,
94年10月にJUNETが正式に解散した。日
本の商業インターネットが軌道に乗っ
た瞬間である。
fj.compなどfj(from japan)はネット
ニューズのトップカテゴリで,ニュー
ズグループ(NG)の総称でもある。管理
者がいる,ネット会議室(投稿を記事と
してカウントしていた)
利用者はNGサーバにアクセスするため
のソフト(ニューズリーダー)を用いて
記事を閲覧する。ブラウザとは別の
ツールが必要になることが,初心者へ
のハードルを上げていた
つくば市の文部省高エネルギー加速器
研究機構計算科学センターの森田洋平
博士。KFK Entory Point(92/9/30)
1993/12/1開始。時系列でまとめられた
新着webページ・リスト。94年にはディ
レクトリ型検索サービスも。
1994/01/20の時点で日本国内のWWWサー
バー数は14機関にすぎなかったが,94
年末にはドメイン数2200を超えた(95年
はさらに4800,96年には15000)
95年が大爆発の年だが,WWWサーバー的
には94年がその準備期となったと言え
る(とくに個人のCGM:web-gineやweb日
記など)
1994年2月:NIFTY-Serve
1994年6月:InfoWeb(富士通),ASAHIネット(朝日ネット)
1994年9月:ベッコアメ
1994年10月:リムネット(ラピドシステムズ)
1995年2月:mesh(NEC)
1995年11月:SANNET(三洋電機)
1995年11月:インターキュー(ボイスメディア)
1995年12月:hi-ho(松下電器)
1996年1月:So-net(ソニー)
1996年4月:ドリーム・トレイン・インターネット(三菱電機)
1996年12月:OCN(NTT)
1997年1月:ODN(日本テレコム)
1997年7月:DION(DDI)
慶應SFC内サーバー「beatbox」が
94/1/17に立ち上げられ,竹中直純氏の
日記(95/4/26~)が人気を博した。理系
色が強いインターネットで,美系の竹
中の文章が印象的だった(竹中はSFCの
学生ではない)。日記というコンテンツ
がwebとの相性が高いことを示した出来
事だった
8/9。九州工業大学の広告企画研究会の
学生3人(一瀬大志・児玉修一・堀江信
助)が同大学制御システム工学科のサー
バ内に作った,日本の先端文化を紹介
するページ。 音
楽,ファッション,
ストリートの情報
を届けた。
94/9/1,埼玉大学知識工学研究室サー
バで黒田昌利がweb日記「週間黒田」を
始める。同人誌「月間黒田」の電子版。
おたく的日常について,飾らない言葉
で描いた。Hyperdiaryの語を生む大森
英司(をたく日記),津田優(後述)ら,
多くのネット空間のおたくユーザーに
影響を与えた
ホームページ開設(94/8/9)
94/10/1,伊藤ジョーイ(伊藤穣一)の個
人サイト「富ヶ谷」が正式開設。日本
語版は10/27から。
94/11。早稲田大学の田村健人が.jpド
メインのデータ収集,そのデータを利
用したWWW検索システムを始める。 日
本初のロボット型検索エンジン。後に
『千里眼』と命
名された。
ウェブ日記
94/11/26。豊橋技術科学大学大学院生
の津田優が,ホームページとともに
「堕落日記」を開始。翌95/5/18には
「日記なページのリスト(通称:津田日
記リンクス)」を開始した。理系学生や
文化人を中心として,「Web日記」をバ
ラバラに公開していたわけだが,日記
リンクス以降は可視的コミュニティ化
という第二フェーズに突入する
日付と内容をセットで更新すること
文章はもちろん,絵でも写真でも音楽
でもいい
とにかく継続すること
他の日記への言及(ハイパーリンク)が
あることもある
読者を飽きさせないように,単調さを
嫌って日々新しい“出会い”を求め,
普段なら見逃すような小さな出来事を
発見できる感受性の鋭さが増していく。
何か有益なことを書くために新しい視
点を探し始める。Web日記を書くことは
大なり小なり生活に影響を与える。新
しい自己を発見する手段たり得る
毎日読み続けることで,断片的な情報
からその人自身を想像することや覗き
見をしている気分が楽しかったりする
自分のアンテナにひっかかる別の日記
を探すことで,予期せぬ面白さに辿り
つく
日記を読むことも自己を再発見する行
為なのである
更新履歴(新着情報)の記録
大半は「◯◯を更新」などり一行情報
だが,そのうち更新コンテンツについ
ての説明が一言二言付言されるように
なり,さらに近況が付け加えられ,更
新情報と一緒にサイト管理者の日々の
出来事が記録されていき,更新履歴そ
のものが立派な一コンテンツへと成長
していくことになる
「ではただの日記とハイパー日記とはど
う違うのか。ハイパーテキストマーク
アップランゲージ(html)で書かれた日
記はすべてHyperDiaryであるという身も
蓋もない定義も可能なんだけど、基本的
にはやはり、日記間のinterconnected-
ness、つまりhtmlの利点を生かした相互
リンクと他人の日記についての言及から
生じる日記のnetworkってことですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~kx3m-ab/h_diary02.html
活字メディアでも昔から日記文化は存
在する。しかし、実生活における「日
記」がきわめてパーソナルなものとし
て位置づけられている関係上、活字の
日記はつねにスタンドアロンな存在
だった。山田風太郎の日記は永井荷風
についてなにも語らない(当たり前
だって)。活字の世界でHyperDiaryの
名に値するものといえば、たとえば宅
八郎「業界恐怖新聞」が連載されてい
た当時の雑誌『噂の真相』の田中康夫
「東京ペログリ日記」などがそれに該
当すると思われるが、まあこれは数少
ない例外でしょ。
『インターネットとんでも活用マニュアル』(徳間書店),1995/12
ところがWWW上では他人が毎日書く日記
を毎日読み、それに対する感想/いちゃも
んを毎日書くことができ、読者はクリック
一発でその元発言を参照できる。テッド・
ネルソンの理想がパーソナルメディアに結
実したのがHyperDiaryなのである。
さて、現実にどんな日記が書かれているの
か。とりあえずは、WWW日記コレクター
の津田優が蒐集する日記リンクからhyper-
Diaringをスタートするのがてっとりばや
い。ぼくの知るかぎりでは、HyperDiaryと
いう言葉を最初に使ったのは早稲田大学の
大森英司だが、それが明確な実体を備えは
じめたのは、この「日記なページリスト」
と、日記ランキングの登場による。
だいたいこういうものを書いてWWW上に置く
からには、ひとりでも多くの人に読んでも
らいたいとみんな思っているわけで、アク
セスランキングが発表されはじめたとたん、
日記者たち全員が燃え燃え状態に突入。更
新頻度が光速化し、日記の域を超えた大量
の文書ファイルがあちこちに出現しはじめ
る。
もっともこのリンクにリストアップされて
いる100人以上の人々全員がハイパーダイア
リーを意識しているかどうかはよくわから
ない。たとえば大原まり子の物書き日記は
ほとんどスタンドアロン(他日記への言及
がない)だし、ここにリンクされている事
実そのものを知らない人だっていないとは
かぎらない
それでも、このファジーな日記ネットワークの中
核をなんとなく構成するheavy HyperDiaristたち
は毎日マメに他人のページの更新状況をチェック
して自分の日記に反映させる。最近では合従連衡
によるチームづくりとか、日記間論争などの動き
も浮上。IRC(インターネット上のチャット)
の#にっきチャンネルでは専用線接続者を中心に
日夜日記者が集まり、ほとんどパソコン通信の
フォーラム的な盛り上がりを見せている。
なんだそれじゃBBSといっしょじゃんといえば
その通りで、人間と人間のコミュニケーションで
あることに変わりはないのだから、それぞれが独
立に運営されている個人ページではあっても、相
互接続によってネットワーク化されれば、そこに
一種のヴァーチャル・コミュニティが発生してく
るのは当然のなりゆきというべきだろう。
ヴァーチャル・コミュニティ的にいえば、日
記ページのネットワークは一種のご町内的な
内輪社会を形成する。ただし閉鎖的なムラ社
会とは正反対に、物理的距離を超越して(原
理的には)全世界に向かって開かれている。
会ったこともない九州大学の学生が誕生日に
なにを食ったかまで知っているという奇妙な
逆転も生じるわけだけれど、このようなコ
ミュニケーションのありようそのものが、お
そらくWWWの未来を示している。自然発生
的に誕生した日記のネットワークがやがてそ
れ自体のダイナミズムを獲得し、だれがリー
ダーシップをとることもなく、インタラク
ティヴな相互運動によって日々変貌し流動し
ながら拡大をつづけていく。個人メディアの
集大成ともいうべきHyperDiaryは、それ自体、
インターネットの縮図なのである。
1995/07/11 「今日の日記リンクス こっ
そりと日記ランキングを始める。ランキン
グは理系のギムですので」とCGIによる投
票システムを実装した
ランキングシステムによって競争心を煽ら
れた日記サイト達は更新に力をいれ,日記
サイト界隈は活性化した。多大な影響力を
持つようになった日記リンクスだが、競争
心から生まれる力には常に「負」の側面が
ある
CGIで,他の日記サイト管理人が,自分
で自分のサイトをリンク集に登録できる
システム
ランキングも「一人一日に何回でも投票
できる」というもの。「なんでもランキ
ング」という,当時に流行していたサイ
トの投票システムに津田が影響を受けて
いて,投票行為そのものをゲーム化する
意味を込めた

Common Gateway Interface


95年頃までは大学・研究者(+おたく)界
隈の内輪のコミュニティとしてweb日記
(日記リンクス)が機能していたが,96
年になると民間人が相次いで参入し,
日記リンクスも“公共財”的性格を帯
びるようになった。また,「日記読み
日記(日記批評)」を手掛ける人たちも
多く出てきた
「とほほ日記」筆者のばうわう(予備校
職員)から,ランキング操作疑惑につい
て度重なる罵言を浴びた津田は96/6/30
に「日記リンクス」を停止してしまう
津田は「NEO日記リンクス」を(97/3ま
で),ばうわうは「日記猿人」を開始す
る。しかし,ばうわうは日記削除問題を
起こし,管理者の座を追われてしまう
(後継の日記才人は2007/7/14稼働停止)
日記の更新時刻を取得するアンテナと
コミュニティサイト
北海道大学の理系日記者達が中核
日記レンタルサービス「日記鯖」とア
ンテナ(hauN.org)が「千里眼」チーム
(早稲田大)によって継承される
WWW上の情報の更新時刻情報取得エー
ジェント
日記リンクの分散傾向を決定づける
96/9/1に「朝日奈アンテナ」が公開さ
れ,プログラムが分からない人間でも,
自分用のアンテナを設置できるように
なった
02/5/18に「はてなアンテナ」が登場し
て,さらに一般化
96/8/2に,日記に加え,雑文系創作系
サイトも包含する広い分野をカバーす
る(=テキストサイト)ランキング・コ
ミュニティサイトに「ReadMe! JAPAN」
が運営を開始した

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