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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2019年9月1日 第84号 第三版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ 絶望でも希望でもない、薄明のような灰色の認識に立っていた魯迅は、やはり生活
ただ を通
けの って 派とはまるで違った現実を見つめていたに相違ない。そう、作品には、作品だけの
番地
に届 現実があり、その枠を超えた有効性など期待してはならないということである。
きま

『消しゴムで書く』(全集第20巻、89ページ上段)

ナポレオン軍の大砲に壊されたハイデルベルク城の塔(ドイツ)

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               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 『カンガルー・ノート』論(17)最終回:5。7 再度3といふ数:3とは何か:岩
田英哉…page11
3 安部公房とチョムスキー(10):本日休載:岩田英哉…page 37
4 哲学の問題101(1):私とは何か:岩田英哉…page 38
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(28):第2部 II: (絵の名人がで
はなく逆に)しばしば、急いで傍に寄ってきた葉っぱの方が、 :岩田英哉…page 51
6 Mole Hole Letter(9):超越論(4):高天原(2)八といふ文字:岩田英哉…page
58
7 編集後記…page 108
8 次号予告…page 108

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 105
・本誌の主な献呈送付先…page105
・本誌の収蔵機関…page 105
・編集方針…page 105
・前号の訂正箇所…page105

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。
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  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

今月も不作なり
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Priz 今月も不作なり

今月の安部公房論発表
岡和田晃_7/15テーブルゲームファンフェスタ2018ゲスト参加@orionaveugle
植民地文化学会。西成彦さんが〈異邦人〉性をカミュと五木寛之をポストコロニア
ルに読み替える発表をされていたので、五木と同じくら福岡に引き揚げ、早稲田露
文から広告代理店に入った後藤明生について質問。後藤を経由すれば、続く坂堅太
さんの「終りし道の標べに」から50年代の安部公房にも通じる。

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今月の箱男
Tomoki@theSASSwear 7月9日
SASSのボックスマンステッカーは安部公房の『箱男』を読んだ後に作ったステッカー
です。

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
流動と反復--安部公房『砂の女』の時間 http://ci.nii.ac.jp/naid/40006048786 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月13日
劣性の思想--安部公房『カンガルー・ノート』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
120000980678 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku@shiteki_bungaku 7月11日
『他人の顔』--変貌する<世界> (特集 安部公房--ボ-ダ-レスの思想) -- (作品の新しい顔)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40001343312 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月10日
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・ノート』試論 http://ci.nii.ac.jp/
naid/120005851876 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月10日
仮面-コミュニケ-ションの壁--安部公房の作品から (仮面<特集>) http://ci.nii.ac.jp/
naid/40002021137 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月8日
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安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://ci.nii.ac.jp/
naid/40006272201 …
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詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月8日
〈中折れ〉してしまう記述者 : 安部公房『他人の顔』試論 http://ci.nii.ac.jp/naid/
110009432959 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月7日
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその変
容(日本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 7月7日
『方舟さくら丸』論--二つの<穴>,あるいはシミュラ-クルを超えて (特集 安部公房--ボ-
ダ-レスの思想) -- (作品の新しい顔) http://ci.nii.ac.jp/naid/120002165397 …

教科書の安部公房
イカあるぱか@ikaalpaca_3624 7月5日
「教科書に載った小説」
中学生の時だかに教科書で読んだ安部公房の「良識派」を再度読みたくて購入。大ま
かな内容は覚えているつもりだったが、驚いたことに「良識派」はたった2ページだけ
の作品だったwそれでも安部公房らしさが出ていて大変満足でした。

今月の喫茶店安部公房
hirayama Hotel@Knji366 7月9日
横溝作品が好きな店主が作った横溝ファンの
集う喫茶が浅草にあり、太宰作品が好きな
店主が作った太宰ファンの集う喫茶が三鷹に
ある。喫茶を作らざるを得なくなったら僕は
安部公房喫茶を作る。

今月の読書会
東京・安部公房・パーティーの次回読書会ですが、10月27日(土)に決定しました。
課題本は『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)。会場は荻窪ベルベットサン。
いずれ告知ページができると思いますが、みなさま、ご準備のほどよろしくお願いし
ます。 #TAP_MTG

今月の翻訳本
dzsagaimo@dzsagaimo 7月7日
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ハンガリー語で読む芥川龍之介、森鴎外、安部公房 #他の人の本棚には無い本晒せ
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今月の安部公房談義
宮台真司とジョー横溝の深堀TVch_ニコ生@MJniconama 7月11日
三島由紀夫派?安部公房派?
耽美vs社会批評

今月の初版本
玉英堂書店@gyokueido8044 7月11日
【商品紹介】
「けものたちは故郷をめざす」
安部公房 講談社 昭32
初版 装幀・安部真知 天少ヤケ少シミ カバー
少傷ミ背ヤケ・帯背ヤケ少傷ミ カバー背少欠損有

玉英堂書店@gyokueido8044 7月13日
【商品紹介】
「創作劇集 どれい狩り・快速船・制服」
安部公房 青木書店 昭30
初版 安部公房・貫井宗春装幀 三方シミ 
天少ヤケ 巻頭少シミ カバー少シミ・帯
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今月の上演
咲塚せりず@skzk__seriz 7月10日
サイトウマコトの世界・9cellsを撮影させていただきました。皆さんのダンスやこ
の作品に対しての愛、そして安部公房とサイトウマコト、二人の世界観が合わさっ
た脳を直撃する衝撃は、今でも身体に深く残っています。また次なるサイトウマコ
トの世界が、これから楽しみでです。ありがとうございました!

今月の装丁本
もりおか町家物語館@m_machiya_m
7月8日
【浜藤古本市】
おねいもとさんの古本。
オリジナルの装丁が素敵…!
坂口安吾と安部公房が…オシャレ…!

今月の人間そっくり
1111 @hazime_ichinoe7月11日
人間そっくり、ボカロで一番好き(しじまさんの)
安部公房の人間そっくりも好きだが!

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今月のカフカと安部公房
じゆう@GU_SilentDays 7月5日
カフカと安部公房

今月のサイン本
山中剛史@ymnktakeshi.
池袋三省堂古本まつりの帰りにジュンク堂に立ち寄り『大衆文化』を買う。創刊準
備号から買っているが、うっかり買い逃しポツポツ欠号がある。
ミーハーだが『安部公房とわたし』のサイン本もあったのでこれも。文庫は元版口
絵写真が一部削除されており、加筆訂正があると明記されている。

今月のカンガルー・ノート
shirayama Hotel@Knji366 7月3日
キラー君とトンボ眼鏡

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今月のSF作家安部公房
大森望@nzm 6月26日
大森望さんが藤井 太洋, Taiyo Fujiiをリツイートしました
5人の日本人SF作家:村上春樹『1Q84』『世界の終りとハードボイルド・ワン
ダーランド』、安部公房『第四間氷期』『砂の女』『密会』、藤井太洋『Gene
Mapper』『オービタル・クラウド』、伊藤計劃『虐殺器官』『ハーモニー』、円
城塔『Self-Reference ENGINE』

加藤剛さん死去
加藤さんは静岡県生まれ。中学3年の時に上京し、都立小石川高校に進学。在学中に
先輩に命じられ初めて舞台に立った。早大文学部では学内の劇団・自由舞台で活躍。
大学4年の時、20倍の難関を突破して俳優座の養成所に入った。62年にTBS系
ドラマ「人間の条件」で主役を演じ注目を集めた。64年に養成所を卒業して俳優座
の座員に。65年1月に安部公房作の「お前にも罪がある」で舞台デビューした。

トッド・シモダ小説初の日本語版∼『なぜか幽霊どもが、あらわれる。』 Kindle版
6月11日より発売開始
西暦1998年にめざましいデビューを飾ったトッド・シモダの小説がついに日
本語の世界に登場。デビュー長編『365 Views of Mt. Fuji』はサンフランシスコ・クロニクル、サンホ
セ・マーキュリー・ニューズ、アトランティック・マンスリー、ForeWord Magazine、バリー・ギフォー
ド(小説家。映画『ワイルド・アット・ハート』『ペルディータ・デュランゴ』の原作者)、パット・
ハートマン(「Salon: A Journal of Aesthetics」発行人)が絶賛。着実に堅実に長編小説を発表し六つ
の言語に翻訳されてきたシモダ作品の日本語版が初めて公刊されます。

□書籍の内容
失踪した昆虫イラストレーターの居場所の特定を依頼された調査員の行動を綴った心理小説風ミステ
リー、レイモンド・チャンドラー(The Big Sleep)、ロス・マクドナルド(The Drowning
Pool)、マリオ・バルガス・リョサ(Who Killed Palomino Molero?)、安部公房『燃えつきた地
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図』の影響を受けた国際小説、水墨画の感覚を持った淡いまたは原色が豊富なポッ プなイラストを多数含んでい
ます。
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ページ

今月の講演会
■東鷹栖安部公房の会 特別講演
「安部公房の小説の方法」
日 時 : 2018年 6月23日(土)
( 13 時 30 分 ∼ 15 時 00 分 )
場 所 : 東鷹栖公民館2F講堂 (旭川市東鷹栖4条3丁目)
参加費 : 無料
主 催 : 東鷹栖公民館 ・ 東鷹栖安部公房の会

旭川の地元フリーペーパーライナーウェブでも紹介されております。
https://www.liner.jp/event/12304/

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『カンガルー・ノート』論
    (17)
岩田英哉

目次

0。はじめに

1。結論:この小説には何が書いてあるのか
青字は前回までに
1。1 様式について
1。2 内容について て論じ終つたもの、
1。2。1 量としてある言葉の視点から見た内容 赤字は今回論ずるもの、
1。2.2 質としてある言葉の視点から見た内容
黒字はこれからのもの
2。『カンガルー・ノート』の呪文論
2。1 呪文とtopologyと変形の関係

3。『カンガルー・ノート』の記号論
3。1 章別・記号分類
3。2 記号別・記号分類

4。シャーマン安部公房の秘儀の式次第

5。シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則つて7つの章を読み解く
5。1 差異を設ける:第1章:かいわれ大根
5。1。1 存在と存在の方向への標識板と超越論の関係
5。1。2 安部公房の幾つかの文章(テキスト)を超越論で読み解く
(1)『カンガルー・ノート』
(2)『さまざまな父』
(3)再び『カンガルー・ノート』
(4)『砂の女』
(5)『魔法のチョーク』
5。1。3 如何にして主人公は存在になるか
5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論
(1)《提案箱》
(2)《カンガルー・ノート》
(3)袋
(4)《かいわれ大根》
(5)開幕のベルの音
(6)二種類の救済者
(7)片道切符
(8)手術室と手術台
(9)自走するベッド
(10)自走ベッドによる章の間の結末継承(1)
(11)何故人間は《かいわれ大根》を吐かねばならないのか
(12)人面スプリンクラー
(13)(欠番)
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もぐら通信                          12
ページ

(14)温泉療法
(15)満願駐車場の呪文
(16)風の音
(17)笛の音
(18)駐車場
(19)「進入禁止」の立て札
(20)サーカス
(20.1)サーカス(その2):『カンガルー・ノート』の象と『S・カルマ氏の犯罪』の《シロクマ》
(21)列車
(22)呪文
(22.1)呪文類の分類
(22.2)章別・呪文解説
(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切を渡るのか?
(23)尻尾
(24)『カンガルー・ノート』の中の3といふ数
(25)自走ベッドによる章の間の結末継承(2)

5。1。4。1 寓話とは何か

5。2 呪文を唱える:第2章:緑面の詩人

5。3 存在を招来する
5。3。1 存在の中の存在の中の存在の話1:第3章:火炎河原
5。3。2 存在の中の存在の中の存在の話2:第4章:ドラキュラの娘

5。4 存在への立て札を立てる:第5章:新交通体系の提唱
5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章:風の長歌:長歌(鎮魂歌)
5。6 次の存在への立て札を立てる:第7章:人さらい:反歌(鎮魂歌)
5。7 再度3といふ数:3とは何か

6。安部公房文学と大地母神崇拝∼神話論の視点からみた安部公房文学∼
 (i)『カンガルー・ノート』論の論点を整理する
 (ii)神話論
 (iii)父権宗教と大地母神崇拝
 (iv)安部公房は大地母神を選び、父権的存在を殺した
 (v)父権宗教と大地母神崇拝の差異
 (vi)言語機能論と胎内回帰
 (vii)大地母神崇拝と日本SF文学の意義
 (viii)言語の再帰性に関する安部公房の考へ:言葉は母である
 (ix)父権宗教であるユダヤ教とキリスト教の差異
 (x)大地母神崇拝と『箱男』
 (xi)大地母神崇拝と三島由紀夫

7。附録 章別詳細「函数形式と存在のプロセス形式」(v3)

*****
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ページ

5。7 再度3といふ数:3とは何か

目次

1。3といふ数字の実用性
2。3といふ数字の真理性
3。高天原0と高天原1は超越論の世界である
4。哲学と言語学の3
5。私たちは縦のものを横にする
6。存在論の3
7。論理学の3
8。現代日本文学の3の喪失

***

1。3といふ数字の実用性
私が3といふ数字が世の中との関係で持つ意味を知つたのは、高校生の時分に読んだ伊藤整
のあるエッセイに、その分野その領域で、あるいはもつと大きくいふと其の世界では、本物
の専門家はいつも3人しかゐない、あとの専門家は本物の3人の二次的の位置にあり、また
は二番煎じであつて、今卑俗な言ひ方でいへば、それで飯を食つてゐるのだ、この3人を見
つけることが大事だといふことが書いてあつたか、あなたも其の3人の一人になれと書いて
あつたかは思ひ出せませんが、いづれにせよ、これが、3といふ数字を知つた最初でした。

伊藤整は小説家であり、また英文学者でもありましたから、それぞれの世界での経験から、
また広い内外の文学と人脈に関する知見から、そのやうな結論に至つたものでありませう。
しかし、今思へば、これもまた伊藤整らしく平然と何食わぬ顔でいふ実に辛辣な言葉です。ま
あ、わたし達としては、本物と偽物を見分ける以外にはない。もつとも、本物と贋物では、
人間そつくりな火星人と同様に、見分けがつかないわけですが。といふことは、私たち安部
公房の読者はまづ、偽物と贋物の見分けをすることが肝心といふことでありませう。もつと
もそれ以前に、私たちが本物の贋物、贋物の本物になる必要があるわけですが。

その後世に出てから此れまでの間に、3といふ数字の意義を自己の職業に於いて知つてゐて
実践してゐる方に二人お会ひしました。一人は税理士の方で、講演を聴いた時に、自分の先
生からの教へであると言つて、何々君、全体をいつも3つに分けるのだよ、と、さう教はつ
たといふこと、そして自分も此の職業で身を立てて来て、確かにその通りで、これは真理だと
いふことを知るに至つたといふお話でした。税理士の方ですから、恐らくは、顧客である経
営者に3といふ数字の意義から経営と税法・税務に関する助言をしてゐるのでありませう。
もう一人は、私の職を奉じた会社の少し年下の同僚であつて、その人の部下との立ち話を聞
くともなく聞いてゐると、部下が相談をしたのでありませう、やはり問題があれば、それを
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もぐら通信                          ページ 14

いつでも3つに分けるのだといふことを強勢のある言ひ方で助言してゐました。その当時4
0代の半ばになる随分以前に、何歳のことかは知りませんが、おそらくは30代には、この
真理に至つたものと察せられました。

2。3といふ数字の真理性
この3といふ数字が真理であること、それはどのやうに真理であるかといふことは、言語論
理の問題としては、次のやうになります。

以下最初にキーワード(鍵語)、キー・フレーズ(鍵句)を列挙して、本題に入ります。あな
たがものを考へるために大事なことは、次の通りです。これらを一言で、三つに分けることと
いふことにします。

(1)分類すること(類を分けること、類に分けること)
(2)概念・定義・補足説明といふ3つの範疇(カテゴリー)に分けること
(3)『カンガルー・ノート』の構造と同じ存在の3階層に分けること
(4)安部公房の分類(v2)の3階層に分けること

上記(4)を再掲しますので、ご覧ください。これは、私の分類ではない。チョムスキーの
分類であり、その上に安部公房の分類を載せたものです。

ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/377549947/安部公房の分類-v2-赤字強調

私は『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7.2 大地母神崇拝で
ある神道のtopology」で、3といふ数字と概念の関係について、次のやうに述べました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

「シャーマン安部公房の秘儀の式次第に則り[註16]、上記の襷掛けの交差点、即ち存在
の十字路に主人公は冒頭登場し、最後にやはり存在の十字路で失踪する。上記のtopologyが、
安部公房の小説の構造である事は、既に一度『燃えつきた地図』の読書会記録として『燃えつ
きた地図の構造』(もぐら通信第7号)に残した通りです。[註17]

[註16]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号及び第33
号)、『赤い繭』論(もぐら通信第51号)及び『魔法のチョーク』論(もぐら通信第52号)で詳述しました
ので、これらをご覧ください。

[註17]
『燃えつきた地図』のネットワーク・トポロジーの、日本の天地開闢神話との関係で呼べば高天原・大八島(お
ほやしま)トポロジーの襷掛けの並行四辺形の図は省略します。『燃えつきた地図』の読書会記録として残した
『燃えつきた地図の構造』(もぐら通信第7号)または『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81
号)の「7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」をご覧ください。

上記の概念関係を示すtopologyの意味するところは、あなたがある事について説明しようと
する場合に必要とする言葉は3つである、3といふ数であるといふことを意味してゐるのです。
あなたが何かを十分に概念化し、変な言ひ方ですが具体的に実感を以つて抽象化できてゐれ
ば、あなたは何か、即ち存在につけた名前[註18]の他には3つの言葉があれば良いとい
ふことです。

これはまた別途『カンガルー・ノート』論の「5。7 再度3といふ数:3とは何か」の章
で説明をしますが、今此処で述べてゐる此のことが、実は、言語とtopologyの観点からいふ
3といふ数の持つ本質的な意義なのです。

[註18]
『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にて論じましたので、ご覧ください。」
(『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7.2 大地母神崇拝のtopology」より)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

3。高天原0と高天原1は超越論の世界である
上記2。3といふ数字の真理性の引用の文章は日本の神話の世界でいふならば高天原0[註
1]の話だといつても一向に差し支へないものですので、もう少し、ここでは言語の視点か
ら高天原0を見てみませう。さうすると、言語の世界では一体3といふ数とあの三角形はど
のやうな関係になるのか。次のやうになります。

これは、それは何かといふ問ひに対する答へるためのフォーマットですから、これは超越論
であり、概念三つで成り立つ三角形は超越論であり、従ひ高天原の三柱の神々を言語と哲学
の視点から見れば、高天原のあり方は超越論です。勿論、さうであれば高天原0の三角形を
向かふに返して成る高天原1も超越論であり、たすき掛けの交差点にゐる神④宇摩志阿斯訶
備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)も含めて、高天原1の神々は独り神であつて男女
の性別のない神々であることからneutral(中性)の、従ひ存在の神々であり、更に従ひ、こ
れらのことから高天原1は存在であるのです。私たちは、高天原0か高天原1に立つことが
できる。そこに立てば、一神教のtopologyといふ言語の再帰性を絶対否定するtopologyの中
にあつて、高天原のtopologyを希求するヨーロッパの個々の超越論的な哲学者の苦しみを理
解することができるでせう。もつとも、さうだからと言つて、彼らが高天原に至ることがで
きるかどうかは、個人個人の哲学者の努力にかかつてゐます。

それぞれの哲学者は、一神教topologyといふ中央集権独裁・万事万物独占型topologyの唯一
絶対神の膝下にある個人である以上、当然のことながら、そのtopologyから逃れようとして
考へると、個人の名前を冠してデカルトの哲学とか、カントの哲学とか、ショーペンハウアー
の哲学とかニーチェの哲学とか呼ばれることになるわけですが、対して私たちには個人名を
冠した哲学などのない理由も、topologyを比較すれば判るわけのことです[註2]。言ひ換
へれば、これがヨーロッパ文明の限界なのです。あり得べくんば、この地域で古代、大陸に
優勢を占めてゐた、あの高度な文明を持つてゐたケルト民族に復活、蘇生してもらふ以外に
はない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

[註1]
『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7.2 大地母神崇拝である神道のtopology」
をご覧ください。詳述しました。

[註2]
二つのtopologyは次のtopologyです。

4。哲学と言語学の3
前置きが長くなりましたが、言語論(言語機能論)と哲学の世界での3といふ数字の意義と
意味を明らかにするためのフォーマット『概念を定義するためのフォーマット』を再度以下
に示して説明します。
もぐら通信
もぐら通信                          18
ページ

この概念を定義するための、即ち分類するためのフォーマットは、個別言語によりませんの
で、どの言語にあつても通用します。一例を示します。言語論理からみると、世界はこのやう
にできてゐる。

この例で、三つの範疇(カテゴリー)の意味と使ひ方はお判りでせう。私たちは日常、時間
の中で補足説明のカテゴリーで暮らしてゐて、長々と補足説明的な言葉を使つて仕事をしたり、
お喋りを楽しんだりしてゐるわけです。しかし、一旦本質的に物事を考へようと決心すると、
即ち哲学の領域に入ると、概念のカテゴリーと定義のカテゴリーを使つて、概念を定義する
ことになるわけです。

私がよくいふ、

哲学は、人類最高の娯楽である

といふ一行は、哲学といふ概念を定義したものです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

これの意味するところは、定義は一つではないといふことなのです。これも、3といふことで、
私のお伝へしたいところです。即ち、一つの言葉の持つ概念には3つの定義が対応する、あ
るいは一つの概念には三つの定義が含まれてゐるといふことです。これはこのまま翻訳の要諦
です。即ち、

(1)吾輩は猫である。
(2)吾輩は犬である。
(3)吾輩は人間である。

といふやうに幾らでも変形と応用が効くといふことです。

しかし、これは少しも難しいことではなく、あなたを例につても、

(1)あなたは誰それの子供の親である。
(2)あなたは誰それの子供である。
(3)あなたは消防士である。
(4)あなたは警察官である。
(5)あなたは学校の教師である。
(6)あなたは作家である。
(7)あなたは写真家である。

等々、幾らででも、あなたは自分の定義をすることができる。この例でお気づきでせうが、
定義のカテゴリーにあなたが文字で書くことになるのは、社会的な役割、即ち社会的な機能、
即ち機能です。抽象的に見えて、目に見えなくとも、言語の場合も同じです。即ち、

言語は機能である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

といふことなのです。これが、言語機能論です。

夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭第一行を持つて来て、「吾輩は猫である」といふ文を
仮に隠喩(メタファー)だと考へても、

(1)吾輩は猫である。
(2)吾輩は犬である。
(3)吾輩は人間である。

といふ例は、いづれも文としてある述語部の「猫である」こと、「犬である」こと、「人間
であること」はみな、主語である「吾輩は」との関係では、機能なのです。

機能とは、英語でいふfunction、即ち函数、即ち何かと何かの関係、即ち媒体であり媒介者
です。目に見えれば猫と呼ばれ、目に見えなければ、安部公房の世界の遺作『さまざまな父』
の贋の父親のやうに、透明人間と、即ち存在と地の文の中で呼ばれ、初期安部公房のやうに
存在論の記号を用ゐて表せば《存在》である。かうして、 吾輩は《猫》である 。さうして、
《猫》と猫の内部と外部、即ち言語の世界でいふ意義(sense)と意味(meaning)が、論理
学の世界でいふ内包(sense)と外延(meaning)が等価交換されると、地の文の中にあつ
て、 吾輩は猫である 。これが、安部公房の独特の文体の生まれる秘密であり、勿論安部公
房のことですから、論理的な秘密であり、秘密の論理です。しかし、勿論これはtopologyで
すから、魔法ではなく、従ひ、種も仕掛けもありません。『安部公房の初期作品に頻出する
「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号∼第59号)をご覧ください。詳述しま
した。

5。私たちは縦のものを横にする
更に、日本人は生来のtopology民族ですから、上記のフォーマットは水平方向に展開してゐ
ますが、これを垂直方向に立ててみませう。横のものを縦にするのです。図を使つて後述し
ますが、当然のことながら、反対に横のものを縦にしても、ものを考へて、私たちは生活して
ゐる。即ち、私たちは無意識に、いつの間にか(これが超越論的時間)X軸とY軸をtopologial
に等価で交換してゐるのです。これが縄文時代以来の隠された私たち日本人の高度な能力であ
ることは『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7.2 大地母神崇
拝である神道のtopology」と『Mole Hole Letter(9):超越論(4):高天原(2):八
といふ文字』(もぐら通信第84号)をご覧ください。よくお解りになる筈です。

これを簡略に図示すると次のやうになります。
もぐら通信
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一神教のtopologyは、この垂直方向のピラミッド階層のみで絶対的に固定してものを考へま
すが、大地母神崇拝のtopologyである私たちにはこのピラミッドの垂直配置もあり、また並
列して上記「分類のためのフォーマット」のやうな水平配置もともに利用して考へてゐます。
勿論「分類のためのフォーマット」も垂直に立てることができる。自分の思考プロセスを自
分自身で観察し、反省(reflection:リフレクション)してみてください。反省といふ意味は
本来の意味、即ち言葉の意義、即ち反省といふ言葉の本義に於いて深く考へ直してみる、自
省する、省察するといふ意味です。私が悪うございましたといふ通俗的な誤用の意味ではな
い。それであれば、人間に脳味噌は要らない。

このやうな垂直軸と水平軸の等価交換は、日本語がtopologyの言語論理で成り立つてゐるか
ら可能だといふのが私の、超越論(汎神論的存在論)に基づく仮説です。安部公房の読者に
は、かう説明すれば容易に伝はるでせう。即ち、日本語は、名詞と動詞といふ品詞と、これ
らに附属的に接続する助詞と助動詞といふ品辞(これは私による(名付けられぬものに対す
る)命名、即ち存在即ち接続機能)からなつてゐて、隠れて主役を脇役の如くに演ずるのは(こ
れが言語の機能)、後者即ち、てにをは であるのです。即ち、日本語は接続と変形の言語
なのです。(勿論、接続と変形の言語でない言語は世界中にはありません。なぜならば、上
述の通り言語はそもそも機能であり、機能(function)といふ函数(function)は、接続関係
からなつてゐるからです。)

といふことで、この『カンガルー・ノート』論で各章ごとに詳細に3について論じて参りま
したので、その延長で、次に安部公房の3の世界に入ります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

6。存在論の3
安部公房が新象徴主義哲学[註3]と呼んだ、超越論、即ち汎神論的存在論といふ哲学の視
点からの3の話です。

[註3]
「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づけ
れば新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。
存在象徴の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ上
段)

上記に引用した手紙の段落の直ぐ後に、23歳の安部公房は次のやうに続けてゐます。

「それから、現代のいはいる実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。一口に言つてあの下劣なコッケイさが実存主義
なら僕は反実存主ギ者だと言はれてもかまはない。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそれ以上
の相違が在ると思ふ。あれは単なる流行主ギだ。」

安部公房の名付けた新象徴主義哲学といふ「この哲学とは『詩と詩人(意識と無意識)』に
拠つて簡潔に言へば、二項対立の両極端の項を否定して、自己喪失による記憶の喪失を代償
に(この否定の中に自分自身の否定を、この否定とは自己喪失と記憶喪失と意識喪失のこと
にほかなりませんが、このやうな否定を含むといふことです)、果てしない垂直方向(時間
の存在しない方向)に次元展開を繰り返した果ての究極に観る(自己の反照としての)第三の
客観、即ち存在の創造をするといふ方法論でありました。ここで

(1)観ることと
(2)自分自身が存在になることと
(3)存在自体の出現

これら三つが一つになつてゐます[註4]。ここにも3といふ数字があります。

安部公房の、これが創作の秘密であり、一生を貫く創作のための方法論です。これは、コン
ピュータの基礎であるブール代数による二進数の論理演算の論理によれば、否定論理積とい
ふ論理に当たります。これが、一生の安部公房の生きる論理であり、安部公房の「現代の実
存哲学とは一寸異つた実存哲学」であるのです。

[註4]
安部公房の新象徴主義哲学は、次の3つのことからなります:

(1)観ること
これもリルケに学んだ事です。以下中埜肇宛書簡より引用します:
もぐら通信
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「中埜君、
御變りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて參りました。永い旅でした。丁度リルケがロダンから學んだ如
く、僕もリルケから「先ず見る事」を學びました。」(『中埜肇宛書簡第5信』全集第1巻、92ページ)

安部公房の詩に『観る男』といふ詩がある。(全集第1巻、133ページ)ここには、既に「明日の新聞」が「書
き了へた」「未来の日記」とし出てくる。

また、汎神論的存在論の形象(イメージ)が、後年の海や洪水などに通ずるものとして、次のやうに歌はれてゐ
る。

「此の果てしない存在にとりかこまれて、あふれ出た透明な涙を両手に受けるのは…… ?唯一未来の日記を書
き了へた時に……。」

此の詩には、これ以外にも、転身、沈黙、「僕の中の「僕」」の話法、出発、忘却といふ、安部公房文学にとつ
て本質的な用語が書かれてゐる。

(2)自分自身が存在になること
「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐
らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な
存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言
ふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」
(『中埜肇宛書簡第8信』(1946年12月23日付)、全集第1巻 188ページ下段)」

(3)存在自体の出現
『詩と詩人(意識と無意識)』より引用します。ここでいふ第三の客観こそが、安部公房のすべての主人公の最
後に観る究極の存在のことなのです:

「 諸々の声は吾等の魂が夜の本質にふれた所から始まる。それが様々な次元に展開されて言葉となる。それは
自己否定=自己超越の形を以て意識の中に捉えられる。物それ自体、云い代えれば夜の直覚が展開する自体とし
て或種の象徴的予感を産みつける。その中にこそ実存的意義を失わない、客観なる言葉を生み出した本源的な内
面的統一に反しない、第三の客観が覗視されるのではないだろうか。
 如何なる表現も主観を通してのみなされ得ると云う事は明かである。主観的体験のみがあらゆる意識を言葉た
らしめるのである。そして当然、生存者としての人間各個の内面的展開次元の相異に従って、その言葉の重さ(含
まれている次元数)の相異が考えられる。主観はその魂の夜の本質にふれる程度によって様々な重さを持つ。
 では此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。その時人間の魂は限りない夜
への切迫を体験するのである。夜の直覚は単なる概念ではなくなり、行為・体験・方法の中に現実的な姿を表す
のである。そして、此の永遠の距離を以てはるかへだたっている究極を、吾等は第三の客観として定義する事は
出来ぬものであろうか。」
(全集第1巻、107ページ)」

安部公房は、この新象徴主義哲学を20歳の時に論文『詩と詩人(意識と無意識)』で詳細
に論じました。この論文が安部公房文学の基本ソフトウエア(operating system: OS)であ
ることは、諸処に論じた通りです。遡ると此の論文の原型は、その前に成城高校時代の校友
会誌『城』に発表された18歳の時の論文『問題下降に依る肯定の批判』にtopologyによる
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

都市と郊外を接続する道の設計の問題として典型的に描かれてゐます。これはtopologyの道で
す。後年『赤い繭』の主人公が夕暮れに「家と家との間の狭い割目をゆっくり歩きつづける」
その道です。

この哲学は諸処既述の通り、一言でいへば、一神教の世界のいつも求められる二項対立の否
定による第三の客観を、自己喪失を代償に、存在を自己の反照として観ることにほかなりま
せん。いつも時間の中で生きてゐる人間に、二項対立を提示して二者択一の選択を絶対命令
的に強ひる一神教のtopologyとは異なる、数学ならばtopology、言語学ならば言語機能論、
哲学ならば超越論(汎神論的存在論)の世界、これが安部公房の宇宙です。そして、これら3
つの体系は、体系自体としてお互ひに等価交換可能な関係にある。一つ目は数字と記号の世
界、二つ目は文字と記号の世界、三つ目は、ヴィトゲンシュタインの哲学を思へば、文字と数
字と記号の世界、といふことになりますので、安部公房の世界は、(数字、文字、記号)の
3つでできてゐることになり、実際にさうです。例へば、芥川受賞作『S・カルマ氏の犯罪』
から:

「Y子=Y子・Y子ーY子=0・Y子+Y子=2Y子・Y子 Y」(全集第2巻、425ページ)

20歳の論文の主旨は、1、2と数えた二項の対立を超えて存在する、自己の反照たる第三
の客観、即ち存在、即ち3つ目の3、3といふ数字で表される3、存在の中の存在の中の存
在のことである。これは『カンガルー・ノート』といふ小説の次のやうな構造を見て来た通
りです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 25

『詩と詩人(意識と無意識)』で論じられてあるのは、第三の客観または第三の存在、即ち
存在自体[註5]になるための、即ち3といふ存在になるための自己喪失と自己忘却のこと
である。これを「次元展開」(即ち「転身」[註6])によつて実践する。これが、安部公
房にとつて、言語によつて、さうして日本語によつて、小説を書くことであるが、しかし此の
やうに存在論として徹底的に構造化されてゐる以上、個別言語を問はず、たとへ翻訳されても、
間違ひなく世界中の読者に理解されることになる。

[註5]
自分自身が存在になるといふ願ひについて、当時親しく哲学談義を交はした友中埜肇宛の手紙に安部公房は次の
やうに書いてゐる:
「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐
らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な
存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言
ふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」
(『中埜肇宛書簡第8信』(1946年12月23日付)、全集第1巻 188ページ下段)」

[註6]
「転身」と当時訳された連続的な変身(ドイツ語でVerwandlung:フェアヴァンデルング)が如何にリルケの最
晩年の傑作『オルフェウスへのソネット』に負ひ、形象(イメージ)としてもオルフェウスそのものであるか、
さうして如何に此の詩を書いたリルケの世界をtopologyによつて内部と外部を、書き手の自分の意識、書いた文
字の意義と意味、書かれた登場人物のあり方の内部と外部を、安部公房の新象徴主義哲学といふ汎神論的そ存在
論に依る複数の独自の記号を用ゐて等価交換して、詩人から小説家に「転身」したか、その明細明瞭な過程は『安
部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号∼第59号)をご覧ください。
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(4)』(もぐら通信第59号)の「VI 「転身」
といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界での問題下降」後の小説)」より引用
します:

「中間項の作品『名もなき夜のために』の構造は『終りし道の標べに』の構造と同様二層になつてゐて、そこで
安部公房は、安部公房らしいことに、リルケに関係した言葉である〈 〉の記号で表した階層にある文と、地の
文にベタで書かれた文字そのもの、文章(text)そのものの階層のtopologicalな交換を行つてゐること、即ち『デ
ンドロカカリヤA』(雑誌「表現」版)の主人公コモン君の経験した座標の喪失、即ち内部と外部の交換を、安
部公房は『名もなき夜のために』で、自分自身の事として、そして言葉の上で文字と文章(texts)の問題として
実行したといふ、言語に関する此の全くバロック的な考へ方を思ひ出して欲しい。即ち『終りし道の標べに』な
らば《 》の、『名もなき夜のために』ならば〈 〉の記号で表現される哲学やリルケの世界の用語の数が、問
題下降によつて減少するに応じて、他方、地の文の同類の言葉が、しかし一般的な言葉である普通名詞、普通の
動詞が、反対に増加して、最後には前者が作品の中から消滅してしまひ、後者だけの言葉からなる平俗な、しか
し抽象概念を隠し持つたが故に象徴的な、文章(texts)になるといふことをです。

もう一度『名もなき夜のために』は、第一部でもなく第二部でもなく第三部を( )の中の最後の存在の中での
言葉、即ち「空白の論理」に従つて、余白と沈黙の中の言葉として表した安部公房の論理を、更に即ちAでもな
くZでもない第三の客観、即ち存在として( )の中に表した第三部を、ここでも併せて思ひ出して欲しい。こ
のことを念頭に置いた上で、ナンシー・K・シールズ著『安部公房の劇場』の次の記述を読んで欲しい。(略)」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

7。論理学の3
以上が、『カンガルー・ノート』論のまとめとしての存在論から観た安部公房の3です。これ
を別の視点、即ち論理学の視点で観ると、次のやうな安部公房文学の筋書きの論理的な特徴
が明らかになります。ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/383899582/初等
論理学の論理-v2

否定の足し算のセルの意味するところは、『赤い繭』の冒頭の情景を思ひ出して下されば、
納得がいくことでせう。あの情景描写は、否定の和算なのです。足し算とは時間の中での演
算です。以下引用します。これで、あなたは安部公房の文学と論理学の関係を理解することが
できる筈です。一言一言、人文字人文字が否定の和算である:

「日が暮れかかる。人はねぐらに急ぐときだが、おれには帰る家がない。おれは家と家との
狭い割目をゆっくり歩きつづける。街中こんなに沢山の家が並んでいるのに、おれの家が一
軒もないのは何故だろう?......と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。
(略)
「一寸うかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」
(略)
返事の代わりに、女の顔が壁に変って、窓をふさいだ。(略)」
(全集第2巻、492∼493ページ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

これで『カンガルー・ノート』もまた冒頭で、カイワレ大根が脛に生えるといふことが、否定
の足し算の端緒だといふことも理解がゆくでせう。『カンガルー・ノート』の主人公は『赤
い繭』の主人公と同じく、時間の中を、その在り方を否定され拒否されて、存在の割目を彷
徨ふことになる。さうして、最後には、上記の表の二つ目の黄色のセル、即ち否定の掛け算に
よつて、一次元上の存在へと脱出する。掛け算は時間の無い、または掛け算すると時間は消
滅しますので、主人公は一次元上の存在へと変形することになります。『赤い繭』の主人公な
らば、自分の内部と外部が等価交換されて、繭となつた自分の中に夕暮れの赤い色を抱く繭
に、『カンガルー・ノート』の主人公ならば、同様に、内部と外部を等価交換されて合はせ
鏡の世界に転じた自分が入籠構造の宇宙の中で「郵便受けほどの、切り穴」から外部を覗い
て見ると「ぼくの後ろ姿が見えた。そのぼくも、覗き穴から向こうをのぞいている」といふ
外部にゐる自分自身を箱の中からみるといふ変形した「赤い繭」と同じ何かになつてゐる。
かう考へると、上の初等論理学の論理で、安部公房の世界の入り口と出口を理解することが
できます。So What?だからなんだ!要するに私のいひたいことは、これは私たちの現実に生
きることそのものであつて、少しも理解の難しい世界では、安部公房の世界は、ない。とい
ふことが言ひたいのです。

さて、ここでやつとヘーゲルの話です。

ヘーゲルの弁証法といふ正反合と訳されてゐる論理は、時間の中での足し算の否定に過ぎませ
ん。(『赤い繭』の主人公を思ひ出して下さい。)これは時間の中での個物、個別の否定で
すから、幾らでも際限なく、あれではない、これではない、それではないといふ物の考へ方と
言ひ方に終始して、そのだらしのない、まとまりのない、その統合の意志を欠いたままに何
かをしてゐるかの如くに勘違ひをして、あなたの人生が無駄に、即ちただただ何もかも自分も
含めて否定されるやうに感じて過ぎて行く。今、あなたの身の廻りにある個物を列挙しなが
ら、それを否定して行つて御覧なさい。あなたの今手にしてゐる鉛筆ではない、あなたの今目
に入る窓ではない、今あなたの見る絵ではない、今あなたの見る壁ではない、今あなたの見
る外の建物ではない、今あなたの見る外の景色ではない……といつたやうに。時間の中での
足し算とその否定は無限に続きます。これでは、あなたは自分の人生に満足することなく、逆
に不満ばかりがつのるでありませう。

ヘーゲルは、カントが道徳の問題をキリスト教に委ねたことを良いことに、さうしてフィヒテ
の哲学がカントの物自体の外在(人の外)にあることを否定したことをいいことに、物自体
を内在(人の内)することができるとして考へて、キリスト教の教義は旧約聖書にある通りに
世界の時間に始めと終はりがあることに任せ、即ち時間、即ちヨーロッパの具体的な歴史と
いふ現実の時間の中のことは一神教に委ねて(といふよりも一切キリスト教の教義に抵触し
てローマ法王庁と対立することを避けて【A】)、他方、自分の哲学の領域では、時間である
筈の歴史の中では、足し算を否定するといふことによる、果てしのない、即ち始めも終はり
もない時間を考へた【B】といふことなのです。しかし、【A】と【B】といふことではキリ
スト教の否定と超克には全然なりません。
もぐら通信
もぐら通信                          28
ページ

ヘーゲルの主要な著作を通覧しても、時間の定義はどこにもない。即ち、時間とは何かといふ
問ひを立てて、時間の定義をしてゐない。同様に、空間の定義もしてゐない。ヘーゲルは言葉
に頼つて文章を書いた。ここが、物と物自体の関係が再帰的な真理であると直観して此れに
全幅の(といつて良いでせう)信を置いて、人間の認識と理解の全体を論じようとしたカン
トとは大きな違ひです。ヘーゲルはカントの遺産のうち、物と物自体の関係を深く考へること
なく(何故なら、時間とは何かといふ問ひに答へてゐないから)、歴史といふ時間の中での
無限際の否定の和算といふ自分の気に入つた部分論理だけを取り出して、まあ、日本語で此
の私の気持ちをいへば、弄(もてあそ)んだのです。安部公房が親しく哲学談義を交はした成
城高校時代の哲学の友中埜肇の、後年ヘーゲル学者として翻訳した『ヘーゲル伝』(K.ローゼ
ンクランツ著。みすず書房)を読めば、ヘーゲルの後継者が詩と哲学の融合を図つたことが、
「ヘーゲルの思弁とゲーテの詩とを統一することがヘーゲル学派の公式の教理であった」など
と書いてある(同書294ページ下段)のは、その現れであり、詩文と散文(哲学)とは範
疇(カテゴリー)が異なるにも拘らず、このやうな甘いことを後継者たちに考へさせたといふ
ことが、時間の中の否定的和算にある無限といふ概念に、甘いロマン主義的な、即ち散文と
は無縁な、感情の生まれを許したのです。私にはさう見える。もしヘーゲルが「おそらくは歴
史的キリスト教に対して感じていた違和は、彼がキリスト教の幻想について語り、それの伝説
を(彼がはっきり書いているのだが)ギリシャ神話と対比する場合の軽蔑的な調子の中に反
映しているのである」ことが本当であるならば(同書62ページ下段。傍線は原文傍点)、
ヘーゲルを徹底的に否定し、その主著『意志と表象としての世界』で詐欺師ヘーゲルとまで呼
んではばかることがなかつた同時代の同じベルリン大学で講壇に立つた超越論者ショーペン
ハウアーのなしたやうに、キリスト教の唯一絶対神を、古代ギリシャの神々や古代インドの
神々やその他の地球上の有色人種の地域の神々と比較をして一長一短、その得失、その優劣
を、また同一性を原理的に論ずればよかつたのである。しかし、それはしなかつた。

しかし、超越論からいつて、安部公房がこれらを見抜いてゐなかつたといふことは考へるこ
とが難しい。見抜いてゐたでせう。さうでなければ、ヨーロッパの作家たちがいづれ自分の
文学の模倣をするだらうといふ発言はあり得ないことです。

その心は、ドナルド・キーンさんが娘のねりさんに語つた、安部公房がキーンさんに云つた
といふ言葉、即ち「まあ、しかしお父さんには大変な野心がありました。というのは、長い
こと日本の現代作家は、ヨーロッパ人から学ぶということが、非常に大切だったのです。外
国文学を読んで、なにか新しい日本文学を作るという考え方がありました。お父さんはむし
ろ、先駆的なことをやってみたい、まだ西洋人が考えたこともないことをやってみたい、未来
の西洋文学者たちは、自分をまねするだろうなどと考えていました。」(全集第25巻贋月
報)とある言葉にあります。

安部公房の言葉の意味は、この、哲学的には多次元的な存在論、即ちGodもまた(言語で呼
ばれる以上)時間の断面の断層に其の複数の姿が再帰的に映る [註33]といふ、Godを超
越することを哲学的・論理的に考へた欧州の、典型的には17世紀のバロックの哲学者たち
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

の考への、他方私たち多神教の有色人種の民族である日本人にとつては当たり前の、神々は
それこそ「さまざまな父」同様「さまざまな神」であり、さまざまな神様たちの神社のお宮
は日本中に数多く身近にあるといふ事実の汎神論的存在論の、これら内外二つの対応関係を
明らかにして、それを、これは宇宙の生命に関する事柄でありますから自分みづからの命よ
りも尊く、従ひ「沈黙と余白の論理」に隠して、19歳のエッセイ『僕は今こうやって』に書
いた通りに禁忌(タブー)として空白に、即ち無名の存在の中に置いて、「未来の西洋文学者
たちは、自分をまねするだろうなどと考えて」ゐたのです。確かに、これは「まだ西洋人が考
えたこともないこと」です。

[註33]
これが『終りし道の標べに』で、言語と と《存在》と《現存在》との関係で、初期安部公房が粘り強く語つた
主題です。

欧米白人種キリスト教の文明圏にゐる人間たちが、そして明治時代以来西洋かぶれの日本人である私たちが、二
十一世紀に安部公房を読み、自分の人生を真剣に、しかも論理的に、考へることの意義は、誠にここに極まるの
です。ここに、この地点に、安部公房が願つた植民地主義に拠るではなく、反植民地主義に拠るのでもない第三
の客観、即ち第三の存在の文学が生まれます。この自らの第三の文学、即ち非植民地主義の文学、即ち欧米白人
種キリスト教徒から見ても、私たち多神教有色人種から見ても、汎神論的存在論に基づく普遍性を備へた文学
[註34]、即ち異文明間で交流し、互ひに理性で認識し悟性で理解することのできる世界文学について、資料
としてある次の発言は消極的な発言に留まつてゐますが、しかし実質的にはみづからが『カンガルー・ノート』
以下の一生涯の作品群で美事に成し遂げた自らの文学を基準にして(さうして其の根幹はニーチェとリルケに学
んだものであるのですが)、シャーマン安部公房は、次のやうに語つてゐます。

「いわゆる発展途上国に見るべき文学がないのも、けっきょくは植民地収奪の結果だと思う。発展途上国にも文
学があり、その民族のためのすぐれた文学が生まれていると主張する人もいるけど、ぼくはそう思わない。すく
なくとも世界文学、あるいは現代文学という基準では、文学と言うにたる文学はない。
 逆説的に言えば、だから現代文学は駄目なんだとも言える。西欧的な方法をよりどころにしているから駄目な
のではなく、植民地主義の土台にきずかれたものだから駄目なんだ。反植民地主義的な思想にもとづく作品でさ
え、植民地経済を基礎にしていた国からしか生まれ得ない。メフィストフェレスなしにファウストがありえない
ようなものさ。(『錨なき方舟の時代』全集第27巻、159ページ下段∼160ページ上段)(傍線筆者)

8。現代日本文学の3の喪失
そこで、3といふ数字のことから、少し横道に逸れるやうに思ふかも知れませんが、この水
平軸と垂直軸、垂直軸と水平軸の等価交換といふtopological(位相幾何学的)な能力を有し
てゐる日本人の能力あるにも拘らず、何故日本の文学は衰退したかといふ問題に関係して、3
といふ数字について思ふところがありましたので、再度ここで言及して、3といふ数字との関
係論に及びます。

安部公房の際立つた特徴は、伊藤整のいふやうには、分野別に3人に入るとか、時代別に三
人に入るとか、といふやうな通俗的な分野別何々ベスト10などといふものには全く無縁な
作家であつて、読者であるあなたがご存知の通りに、範疇を超えて、範疇横断的に創作した
言語芸術家です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

安部公房の文学をみますと、他の日本語の作家と際立つて特徴的なことは次の4つのことで
す。

(1)大和物語以来の日本文学の和歌物語を継承していゐること(小説の中に詩が挿入され
る。安部公房の小説が詩をtopologicalに内部と外部を等価交換して変形させたものであるこ
とは既述の通り。[註7])
(2)言語構造を小説の構造としたこと(言語の本質である再帰性を作品構造となした[註
8])
(3)Topology(位相幾何学)といふ接続と変形の数学によつて小説を構造化したこと
(4)みづから新象徴主義哲学と呼ぶ哲学(超越論)[註9]に基づく方法論と方法を用ゐ
てどの作品をも書いたこと

[註7]
「『カンガルー・ノート』論(4)」(もぐら通信第69号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象
論:(17)笛の音」より引用します:

「(12)詩を書く事と散文を書く事が同じ原理、外部と内部の交換というtopologicalな原理によって書かれて
ゐるからである。詩文の裏返しが散文であり、散文の裏返しが詩文である。
(これは『無名詩集』の最後にあるエッセイ「詩の運命」(全集第1巻、264ページ)とエッセイ『猛獣の心
に計算機の手を――文学とは何か』(全集第4巻、492ページ)に、双方の表現形式の裏表の関係として、実
際に書かれてゐる。)従ひ、
(13)日本の文学の伝統から見ても [註3]、(12)のやうにtopologyの視点から見ても、安部公房の小
説の中に詩が詠まれる事は必要必然のことである。
(14)上記(12)と(13)のことは、初期安部公房が詩人のままに小説家になるために確立した様式
「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」のtopologyと、旅と鎮魂といふ日本の詩の伝統と、また大和物語や伊勢
物語や源氏物語以来の歌物語の様式とを、一次元上で統一したといふ事である。

[註3]
『旅と鎮魂の安部公房文学』(もぐら通信第65号)をお読みください。詳述しました。」

[註8]
『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「4。言語論とい
ふ毒(問題下降の毒)」に、安部公房自身による言葉を幾つも引用して、詳述しました。

[註9]
重複を厭はずに再度引用します:

「僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存哲学とは一寸異つた実存哲学だつた。僕の哲学(?)を無理に名づけ
れば新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。
存在象徴の創造的解釋、それが僕の意志する所だ。」(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ
上段)

上記に引用した手紙の段落の直ぐ後に、23歳の安部公房は次のやうに続けてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          31
ページ

「それから、現代のいはいる実存主ギとは、僕はまるで無縁だ。一口に言つてあの下劣なコッケイさが実存主義
なら僕は反実存主ギ者だと言はれてもかまはない。同じく「ハナ」と言つても、花と鼻との相違、いやそれ以上
の相違が在ると思ふ。あれは単なる流行主ギだ。」

新象徴主義哲学は、安部公房20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』に詳しい。

この安部公房のやうな作家が出現するためには、その人間に次の能力が要件として必要とさ
れます。以下topologyと言語機能論と分類能力といふ言葉を全て超越論と置き換へても同じ
です。これらの用語は互いに意味の等価交換が可能です。

(1)日本語と日本の伝統や文化を外部から眺めることのできる距離を、内部(日本)や外
部(外国)に一切頼ることなく、内部(日本)にあつて有することの人間であること
(topology)。
(2)哲学とliberal arts(リベラル・アーツ)を学んでゐること(分類能力)。
(3)日本語の読み書きが優れて出来ること(言語機能論)。
(4)上記(1)から(3)のことが、自分の身体的・生理的感覚と分かち難く結びついて
ゐること、即ち、これら3つに嘘のないこと、即ち自然であること(自然であるといふ徳)。
安部公房スタジオの演技指導と演技の中核概念であるneutral(ニュートラル)を思ひ出して
下さい。(汎神論的存在論:超越論)
(5)自分自身に対して、また自分自身との関係で、常に外部と内部の識別のできる人間で
あること(安部公房固有の話法でいふ「僕の中の「僕」」に正直であること)。そして、自
分の意志で(これは苦しみにほかならないでせうが)、自分自身の内部と外部の等価交換を
行ふことのできる人間であること(topology)。『詩と詩人(意識と無意識)』参照。

高度な言語能力の涵養と教育といふ視点からは、特に上記(2)のことは、今の日本では、
特に旧制高校で此の教育を受けた安部公房や三島由紀夫のやうな世代の(当時の同年齢比率
で3%以内の若者たちである)人間が世の中の中心から少しづつ退いて行き、戦後の大衆教
育を受けた男女が社会に出て来て30代半ばで活躍し始める1980年代以降には、その中
核にあつたドイツ文学やドイツ哲学に代表されるドイツ的教養が失はれて行きます。1980
年代がバブル経済(泡沫経済、あぶく経済と日本語でいふ方が判り易い)の時代であつたと
いふことが誠に、今振り返りますと、象徴的な時代であり、また、あはれなことであります。

これを日本文学と文藝の立場から見ますと、『何故日本の文学は衰退したのか』(もぐら通
信第79号)で明らかにした通りに、再掲すれば、

「1。日本の文学の衰退は、最初に読者の劣化、次に作家の劣化、そして編集者の劣化の順
に起きたこと
 2。読者の劣化1は、ヴェトナム戦争終結とともに始まったこと(1975)
 3。作家の劣化は二度あり。劣化1は1980年(S55)、劣化2は1985(S60)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 32

であること。世界と日本の歴史上、1980年には何があり、1985年に何があつたか?」

(https://ja.scribd.com/document/373250218/何故日本文学は衰退したのか3)

1980年代とは、作家の劣化1と2の併せて起きた年代であることがわかります。となり
ますと、以上ここに書いて来たところによれば、日本史上では、1980年からは哲学と
liberal artsの教養[註10]を備へた男たちの退潮、1985年からは一層それが顕著に表
に社会現象として現れた時代だといふことになり、外国映画の題名がカタカナの題名で翻訳
されることの、全上映映画に占める比率に関する考察を次に更に再度引用すると、次のやう
になります:

「7。⑦:作家の劣化1の始まつたこの1980年からのカタカナ題名の比率は、62%で
あり、この年初めて、邦訳の比率38%を逆転した比率となつたこと。前年までの5年間の
比率は、邦訳72%、カタカナ題名46%とあつた均衡が大きく崩れたといふことである。
8。⑧:作家の劣化2/編集者の劣化1の始まつた1985年からの5年間は、ほぼ均衡して
ゐる。カタカナ題名が49.1%。
9。⑨⑩:1990年∼1999年は、カタカナ題名が優勢であり、これ以降現在までもが
さうではないかと、ここからは(論文の発表以降であり数字がないので)経験上の判断であ
るが、思はれる。優勢とは、カタカナ語の題名が50%以上を超えてゐるといふ意味であ
る。」
(『外国映画題名のカタカナ表記についてー変遷とその社会的意味ー』:https://ci.nii.ac.jp/
els/contents110004533894.pdf?id=ART0007289393)

[註10]
『安部公房と成城高等学校(連載第7回)』の「旧制高校生の読んだ書籍一覧」をご覧ください。河合栄治郎の
著作から引用した当時の高校生の推薦図書の一覧があります。学問の範疇だけの名前を列挙します。言語は日本
語、ドイツ語、英語混在です。

(1)哲学
(2)倫理学
(3)思想
(4)社会思想
(5)伝記
(6)歴史
(7)文学
(8)随筆紀行
(9)経典宗教
(10)科学
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

上記9のこの「カタカナ語の題名が50%以上を超えてゐる」時代が今も続いてゐると仮に
考へると、上述の文脈にあつては、日本史上では1980年からは哲学とliberal artsの教養
を備へた男たちの退潮が原因で、1985年からは一層それが顕著に表に社会現象として現
れたこととして説明することができます。

この失はれた哲学とliberal arts(リベラル・アーツ)に話を戻しますと、この二つの関係は
次のやうに図示することができます。

この二つの図を見て判ることは、21世紀の日本の今に一番欠けてゐるのは、さうして
globalismといふあらゆる方面での共産主義(ファシズム)と戦ふために必要とするのは、哲
学、論理学、修辞学、文法学といふ学問でありませう。国会議員の質疑やマス・メディア(2
0世紀型大量一斉同報メディア、即ち一神教のtopologyのメディア[註11]、共産主義メディ
アと呼んでも一向差し支へない)の言葉を読み聞くところを伊藤整に倣つて私流にいへば、
霞が関の国会議事堂には、政党横断的に一人二人といふ単位で数えることのできる代議士と、
一匹二匹と勘定する以外にはない代議士の二種類の国会議員がゐるといふことであり、従ひ
初等論理学の試験を選挙の立候補者に課してまづ最初に合否判定をしなければならぬといふ
ことであり、さうであれば、頭蓋骨に脳味噌の入つてゐない人間が国会議事堂で先生と呼ば
れることはなからうと思ふのであり、同時にまた一神教メディアにあつては、発信者がせめ
て旬の蟹味噌価格単価3万円以上の脳味噌の持ち主であることを証明してもらひたいといふ
ことである。魚市場であなたが3万円を手にしてゐて、旬の蟹味噌の入つた小さなタラバ蟹一
杯と、隣に並んでゐる一神教メディア情報の入つた大媒体と、どちらに其の3万円を使つて
買ふかといふことです。ちなみに、私が其のとき市場で偶々目にした旬のタラバ蟹一杯3万
円とは勿論実勢価格であり、時価であります。
もぐら通信 ページ 34
[註11]
一神教のtopologyといふ一極集中絶対命令独占独裁型topologyについては『安部公房とチョムスキー(8)』(も
ぐら通信第81号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」をご覧下さい。

もちろん上の図二つは、一神教のtopology、即ち垂直方向絶対命令服従トポロジーで描かれ
てゐますが、私たちは、しかし、日本人でありますから、縦のものを横にし、垂直のものを
水平にして等価交換を次のやうにして、このヨーロッパからの2000年の歴史を換骨奪胎し
てtopological(位相幾何学的)に自家薬籠中のものと成すことができたのですし、実際さう
したのです。さうでなければ、近代日本の成功はない。つまり、ドラえもんのどこでもドア
ではありませぬが、あなたはどこから入つてもよく、どこから学んで、どこから出ても良い
のです。どれか一つに学んだら、その知識を水平方向に展開すれば良い。そして安部公房の耽
溺したリルケの詩の詩行の雲雀(ひばり)が天を垂直に立てたやうに、これを垂直方向に立
てれば良い。これが大地母神崇拝のtopology、私たち日本人に引きつけていへば、古事記の
冒頭にある天地開闢トポロジーであり、高天原トポロジーです[註12]。実際に縦のもの
を横にしてみませう。

[註12]
『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」
よりこのtopologyを転載します:
もぐら通信
もぐら通信                          35
ページ

面白いことは、アメリカ人にこの発想があることです。アメリカ人の発明する文物は皆贋物で
あり、ヨーロッパの本物に起源を有するといふことは『アメリカは贋物の国』の連載[註1
3]で縷々述べて来た通りですが、同様に此の発想にあつても、ヨーロッパのピラミッド型
の階層を、その贋の科学であるマーケティングといふ世界でやつてゐるのをみることがありま
す。贋物の汎神論的存在論です。しかし、勿論アメリカ人はキリスト教といふ一神教topology
の国ですから、この横に並べる場合は限られてゐて、旧約聖書の天地創造の場合と同様に、時
間が開始してから終了するまでの間の時系列的な並列展開、並列進行になるところが、私た
ちの美的な幾何学的な認識に基づく並列の意味とは異なつてゐます。この比較論は面白いの
ですが、しかし此の先はマーケティングといふディズニーランドと同質の、稚気溢れる子供の
世界の話になりますので、ここまでとして、最後に安部公房の小説観を引用して、終はりにし
ます。

安部公房の超越論、即ち汎神論的存在論の作品に於ける骨格、即ち作品の構造について、安
部公房は次のやうに述べてゐます:

大江健三郎との対談『対談』(全集第29巻、72ページ)において、三島由紀夫の芝居の構造を
論じているところで(74ページ)、安部公房曰く、「彼(三島由紀夫)は古典的構造 といったもの
を信じていたらしいけど、僕は、逆に、構造が抜けた、テントみたいなものから考えるのが
すきなんです。」と述べている。このとき、1990年、安部公房66歳。

この「構造の抜けた」テントの譬喩は、全く安部公房の言語観、言語は機能 (函数)であると
考えるときの、機能についての形象(イメージ)に他なりません。

また、同じことを養老孟司との対談『文学世界にテーマはいらない』で次のやうに発言して
ゐます。

「安部 そう。構造が全部ぬけたテントの梁みたいな小説が好きなんだ。ふつうの建物は構
造と中身が対応していて、外から見ればだいたい中身が想像できるだろう。そんな小説は書
く気がしない。さまざまなイメージの断片が並んでいて、一つ一つははっきりと明瞭なんだ
が、横に並んでいるものがいつの間にか、縦に見えてくる迷路のような小説が好きなん
だ。」(『文学世界にテーマはいらない』全集第29巻、245ページ上段)(傍線引用者)

どんなに奇妙で風変はりな作品を書いても、確かに安部公房は、このやうに、縄文時代以来
の、私たち読者と同じ、超越論的にカイワレ大根を脛に生やしてゐる日本人なのです。

[註13]
このアメリカ文化贋物論には、この執筆をしてゐる時点で、次の4つがあります:

(1)『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 36

(2)『安部公房のアメリカ論(2)∼『アメリカ発見』を読み解く∼』(もぐら通信第23号)
(3)『安部公房の読者のための村上春樹論 (中):Baseballとは何か?∼Baseballは旧約聖書の創世記の贋
物である∼』(もぐら通信第50号)
(4)『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国:アメリカ∼ドーナツとは何か』(もぐら通信第80号
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

安部公房とチョムスキー
(10)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7。1 一神教のtopology
7。2 大地母神崇拝のtopology
7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争

(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式 で


   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学


   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽


10。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか
ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
11。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
12. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
12. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
12. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
12. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
13。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
もぐら通信
もぐら通信                          38
ページ

哲学の問題101
(1)
私とは何か?

0。この連載の目的
此の本の問題101について論じる目的は次の通りです。

1。ヨーロッパの人間が今日常考へる哲学の問ひとは何かを知ること
2。その問ひは彼らにとつては何なのか、何を意味するのか、何故そんな問ひを立てるのかを
知ること
3。日本人ならば、同じ問題に対してどう考へるか、考へないかを考へるといふこと
4。同時代にあつて地球の上に生きる私たち日本人として、彼らの問題を共有することと、共
有できないこと、即ち双方の限界を知ること。これが文化です。
5。今の21世紀の日本の現代文学に失はれたドイツ的教養とは何かといふことを思ひ出すと
いふこと
6。これら1乃至5のことは、安部公房文学の性格からいつても、私たち読者にとつて益する
ところがあるといふこと

本の紹介
(1)著者:Thomas va Sek
(2)本の内容:書かれてゐる哲学的問題の範疇の分類は
次の通り:

①精神と認識
②人間と関係
③倫理と道徳
④社会と政治

1。哲学の問題1:私とは何か?
最初の問ひは、私とは何か?といふ問ひです。これは①精神と認識に分類されてゐる問題です。

もしあなたが此の問ひの形式の意義と意味、即ち問ひの構造、即ち何かとは何かといふ問ひに
ついて、即ち此の再帰的な問ひに回答することができたならば、あなたは「既にして」(これ
が超越論の考へ方)、「いつの間にか」(超越論的時間)、「どこからともなく」(超越論的
空間)、問ひを問ふ「以前に」古今東西の全ての同じ形式の問ひに対して答へ終はつてゐるこ
とになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

これは、このまま、劇場の幕の上がる前に芝居の終はつてゐて永遠に始まらず永遠に終は
らぬ安部公房の世界であることは、このやうに説明すれば、お解りでせう。何かとは何か
といふ問ひは従ひ、主客等価の交換、主客の不明、あなたは安部公房の主人公と同様に迷
路を彷徨ふ無名の何か、即ち存在であるといふことを知るのです。安部公房固有の話法で
これを言へば、「僕の中の「僕」」、「私の中の「私」」の世界です。

近代ヨーロッパの哲学の世界では、カント以来これを用語としては超越論
(Transzendentaltheorie:トランツェンデンタール・テオリー)といつてゐるのです。あ
なたは安部公房の読者として既に十分すぎる位に、この論理を知つてゐます。何故ならば、
あなたは「既にして」、ほら、S・カルマ氏であり、『バベルの塔の狸』の詩人アンテン君
であり、『デンドロカカリヤ』のコモン君であり、『密会』の主人公であり、『方舟さく
ら丸』のもぐらであるからです。

哲学とは何か?と問へば、かくの如く、哲学とは、それは何かといふ問ひに答へることな
のです。実は、哲学とは何か?といふ問に対する答へは、これに尽きてゐて、これでお終
ひです。何々とは何か?といふ問ひは、ソクラテスの問答法(ソクラテスは産婆術と称し
た)以来の問ひでありますから、ソクラテスも超越論者です。何も昨日今日のデカルト以
来の数百年のことではない。

しかし、それでは連載になりませんから、上記のメビウスの環の接続を解いて、接続のあ
りやうを平たく一枚の帯に延ばして、この平面上に掲題の問ひに今のドイツ人がどのやう
に回答するのか、何をどのやうに私について考へてゐるのかを見て見ることにしませう。
目的は勿論、冒頭の五つの目的のためであり、あなたが欲張らずにどれか一つを念頭に置
いても結構です。

私について考へることは、私自身について考へることであるといふと解りやすいでせう。
さうして、さうであれば、私について考へることは、私と私自身の関係について考へるこ
とであることも自然にお解りでせう。さうであれば、この二つの文は次の二つの文に、何
かとの関係で変形することができることもまた納得でありませう。

何かについて考へることは、何か自体について考へることであるといふと解りやすいでせ
う。さうして、さうであれば、何かについて考へることは、何かと何か自体の関係につい
て考へること、またこの何かが人間であるならば、人間と人間自身の関係について考へる
ことであることも自然にお解りでせう。デカルトは、この再帰的な関係を考へることを、
我思ふ故に我ありとし、カントは同じ関係を、物と物自体の関係の上に論理展開をしたの
です。

これが、言葉と論理の方面から見た超越論です。近代ヨーロッパの哲学史では、表立つて
言はれてゐるところによればカントが18世紀に考へ、その後、ショーペンハウアーーニー
もぐら通信
もぐら通信                          ページ40

チェと(はっきりとは認識されずに)系譜として分岐したことです[註1]。安部公房の
読者であるあなたには、安部公房の作品に頻出する本物・贋物論だといへば、それで十分
理解されるでせう。即ち、何かが本物で何か自体が贋物なのか、それとも前者が贋物で、
後者が本物なのかといふ真贋の問ひです。勿論、これは、文脈により場面により局面によ
り、互ひに交代し、役割は入れ替はることは、これも安部公房の読者であるあなたには自
明です。かう書いただけで、あなたの頭の中にはもう幾つかの作品の名前が浮かぶ筈です。
曰く『赤い繭』、曰く『デンドロカカリヤ』、曰く『S・カルマ氏の犯罪』、曰く『他人の
顔』、曰く『箱男』、曰く『方舟さくら丸』、勿論これ以外の全ての作品。これが皆
topologyといふ数学の論理が根底にあることは『人間そつくり』といふ小説それ自体が語
つてゐます。[註2]即ち、topologyは超越論、超越論はtopologyなのです。どつちが本
物?ここで、価値は等価で遍在するといふ私たち日本人の島嶼哲学、縄文哲学の二つ目の
原理を想起して下さい。[註3]

[註1]
『安部公房とチョムスキー(1)』(もぐら通信第73号)の「 (1)ヨーロッパ文明の近代とは何であつ
た/あるのか/(2)西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に詳述しましたので、ご覧ください。

[註2]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「2。1 呪文とtopologyと変形の関係」
に『人間そつくり』に関する小説論を、『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58
号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」よりそのまま引用してお伝へしてゐます。『何故安部公房の猫
はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」をお読みになる
か、あるいは、いつそのこと『人間そつくり』といふ小説を読むのも一法です。

[註3]
一つ目は勿論、世界は差異であるといふ原理です。これら二つの原理は表裏一体で一つの原理を構成してゐ
る。これが、人間に対して世界の持つ(文字通りに)唯一無二の原理です。いはば、絶対分類です。私にはさ
う見えます。

最初の問ひは、私とは何か?といふ問ひでした。

何かとは何かといふ問ひに対する答へをすることで、この問ひには既に答へましたので、
ここからはドイツ人に西ヨーロッパの人間を代表させて(といひますのは、東ヨーロッパ
のスラブ民族のひとたちの考へ方は、私の知見ではまた異なるやうに思ひますので)、西
ヨーロッパの人間、即ち20世紀までの近代ヨーロッパを生んだ人間の考へ方を見てみま
せう。

2。私とは何か
私とは何かといふ問ひを巡つて此の章に名前のあがつてゐる哲学者は、次の8人です。

(1)ルネ・デカルト(フランス):1596ー1650
(2)デヴィッド・ヒューム(イギリス):1711ー1776
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

(3)イマヌエル・カント(ドイツ):1724ー1804
(4)フリードリッヒ・ニーチェ(ドイツ):1844ー1900
(5)ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(オーストリア):1889ー1951
(5)ガートルード・エリザベス・マーガレット・アンスコム (イギリス):1919ー
2001
(6)ダニエル・デネット(アメリカ):1942ー
(7)トマス・メッツィンガー(ドイツ):1958ー
(8)ヨハン・フィヒテ(ドイツ):1762ー1814

上記の青字にした名前は、既に『安部公房とチョムスキー』(もぐら通信第81号)の
「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか」と「2。西洋近世哲学史の中の安
部公房の位置」で挙げた哲学者の名前です。これ以外には(2)のヒューム以外の名前
は、私たちには知られてゐないのではないでせうか。あるいは(7)のメッツィンガーは、
哲学に関心の深い読者はひよつとしたらご存知かも知れません。私は初見です。

この列挙の順序は、本文の中に登場する順序ですが、かうしてみると歴史的な順序、即ち
時系列で近代ヨーロッパの哲学を論じて、私とは何かといふ問ひに関して其の答へをまと
めようといふ意図が、この著者にあることが判ります。最後の(8)のフィヒテだけが浮
いてゐて、といふのは、本文の外に次のやな位置に活字も大きく特別に、安部公房流に云
へば、存在への立て札を立ててゐるからです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 42

このレイアウトから見ても、活字の大きさから言つても、著者のいひたいことは、上の写
真の左上に掲げてゐる此のフィヒテの言葉にあるのです。以下に訳します。

【原文】
Das Ich setzt sich selbst, und es ist, vermöge dieses Setzen durch sich selbst Johan
Gottlieb Fichte, Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, 1794

【拙訳】
私なるものが私自身をして座らしめる、その(私が座るといふ)私が存在するのは、自分
自身によつて此の座らしめることをなすことによつてである。 (『全ての学問理論(また
は科学理論)の基礎』、1794年)

【解説】
私に関する此の説明が、私の再帰性に関する説明なのです。

私なるものが私自身をして座らしめる、その(私が座るといふ)私が存在するのは、自分
自身によつて此の座らしめることをなすことによつてである。

と訳したのは、ドイツ語本来の動詞が此の場合再帰動詞といはれる種類の動詞であつて、
常に主語の自己(自分自身)を目的語にとる動詞であることを知つてもらひたいからです。
普通、私たち日本人が日本語で、私は椅子に座ると自動詞いふところを、ドイツ語では、
私は私自身を椅子の上に座らせる、と、主語自体を目的語にして、かういふ迂遠な言ひ方
をして自動詞として使ふのです。ですから、上の訳を普通の日本語にすると、

私といふものが座る、この(私が座るといふ)私が存在するのは、私が座るといふことに
よつてである

といふ訳になつてしまつて、なんだ当たり前ではないかといふことに、私たちには思はれ
てしまつて、要するに、日本語では此れが何で哲学の問題となるのかがよくわからなくな
るのです。一般的な再帰動詞の例を挙げます。一般的にといふ意味は、普通日常によく使
はれるといふ意味です。文例中sich(ジッヒ)とあるのが、三人称の主語のとる三人称の
再帰的な目的語、即ちその人自身のことです。

    他動詞                      自動詞
setzen(ゼッツェン) 置く(据へる)    sich setzen (ジッヒ・ゼッツェン)座る(据
はる)
entfernen(エントフェルネン) 遠ざける  sich entfernen(ジッヒ・エントフェルネ
ン) 遠ざかる
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 43

bewegen(べヴェーゲン) 動かす      sich bewegen(ジッヒ・べヴェーゲン) 動



drehen(ドレーエン) 廻す        sich drehen(ジッヒ・ ドレーエン)廻る
verbergen(フェルベルゲン) 隠す     sich verbergen(ジッヒ・フェルベルゲン)
隠す
öffnen(エフネン) 開ける        sich öffnen(ジッヒ・エフネン) 開く
mitteilen(ミットタイレン) 伝へる    sich mitteilen(ジッヒ・ミットタイレン)
伝はる
gewöhnen(ゲヴェーネン) 慣らす    sich gewöhnen(ジッヒ・ゲヴェーネン) 慣
れる
vermehren(フェアメーレン) 増やす  sich vermehren(ジッヒ・フェアメーレン)
増える
verbreiten(フェアブライテン) 拡める  sich verbreiten(ジッヒ・フェアブライテ
ン) 拡がる
langweilen(ラングヴァイレン) 退屈させる sich langweilen(ジッヒ・ラングヴァイレ
ン) 退屈する
(以上、関口存男著『関口 新ドイツ語大講座』151ページ。三修社)

私たちは普通に、座る、遠ざかる、動く、廻る、隠す、開く、伝はる、慣れる、増える、
拡がる、退屈するといふところを、ドイツ人はわざわざ上の例のやうにいふわけです。俗
にいふドイツ観念論は、この言語再帰性を複雑に発達させて論をなしたもの、即ちあらゆ
ることを言語の再帰性に基づいて説明しようとした哲学思潮だといふことです。かうして
見ると、何も難しいことはない。カントの後に起きるカントーヘーゲルの共産主義の系譜
と、カントーショーペンハウアーの超越論の系譜については、『安部公房とチョムスキー』
(もぐら通信第81号)の「1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか」と
「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」で簡潔に本質的に論じましたので、これを
ご覧下さい。

この著者の引用する哲学者には、カントーショーペンハウアーの分岐に始まる超越論の系
譜のうちの後者、即ちショーペンハウアーの名前はなく、飛んでニーチェの名前がありま
すので、この著者もまた、正確には、折角フィヒテの引用を格別にして置きながら、自分
の文明の哲学的な系譜についてはよく知らないままにゐるといふことが判ります。流石に
もはやマルクスの名前はあげられてをりませんが、しかしその亡霊は相変はらず出没してゐ
て、(6)ダニエル・デネット(アメリカ)は、デカルトを否定し、チョムスキーを否定
し、ダーウィンの進化論の応用を考へてゐますので、この哲学者は明確に共産主義者の系
譜に属してゐます。共産主義の論理がアメリカにも移植されてゐる。

この著者の結論は、私は虚構(die Fiction:英語のfiction、フィクション)であるといふ
結論で、この主張に首尾一貫性を持たせるために上記の哲学者の言葉を引用してゐる。そ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 44

れ故に、最初に近代超越論の祖デカルトを出してきてをきながら、デカルトを次のやうに
否定するのです。

【原文】
Wie Deskartes zeigt, können wir uns alles wegdenken, nur eines nicht: das Denken
selbst. Das Ich ist also eine rein geistige Substanz, ein denkendes Ding (res
cogitans), das sogar ohne den Körper existieren kann.

【拙訳】
デカルトの示した通り、私たちは私たちにあつては全てを取り去つて考へることができる。
しかし、たつた一つのことを除いては。即ち、それが考へること自体である。私といふも
のは、かくして、純粋な精神的な実体(実質)[註1]であり、考へるもの(res
cogitans)であつて、おまけに体がなければ存在することができないものである。

この後、上に列挙する名前を使つて、私は虚構であるといふ結論に至る説明をするわけで
すが、上の【拙訳】で下線を施した文にあるやうな論理、即ち、AがなければBはないとい
ふ否定的な有る無しの論理が、いつも共産主義者の致命的な論理的な思考欠陥なのです。
常に否定形の中で、否定形の形でのみ解を求めようとする此の、それこそ自分自身の姿に
気づかない。これはやはり、唯一絶対神を存在しないとした上でヨーロッパ人とアメリカ
人の陥つた、無宗教から虚無主義に堕ちる一般的な例であり、さういふ意味では通俗的に
なつたマルクス主義と呼んで一向に差し支へないものです。

もし私たちが超越論で考へるならば、この論はtopologyでもありますから、

私は純粋な精神的な実体(実質)であり、考へるもの(res cogitans)であつて、おまけに、

(1)体がなければ存在することができない。と断定するのではなく、
(2)存在がなければ体はない。

といふ二つの文を生成して、考へることができます。

しかし、著者はかうは考へず、デカルトを否定し、チョムスキーを否定し、ダーウィンの
進化論の応用を考へてゐますので、明らかにヘーゲルーマルクスの系譜の唯物論者です。

私ならば、考へる事と考える事自体の関係を論じますが(安部公房のやうに上記のやうに
topologicalに)、しかし、著者は何かを絶対的に信じてゐるので、このやうな思考の柔軟
性を欠いてをります。私の観察によれば、このやうな場合には、何かを求める心が依頼心
の心であるといふ事です。ソクラテスのやうなエロス(eros)、即ちソクラテスの言ひ換へ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

でいふ憧れ、即ち私の言葉でいふ知りたいといふ思ひ、なのではなく、唯一絶対神に頼ら
ないが、しかし他に頼る絶対的な何かが欲しいといふ思考停止の状態の論理です。この論
理は必ずloop(ループ)の同じ平面上の無限循環に陥入る。つまりloopy(クルクルパー)
になる。この論理は誰かに頼つて、全体の枠を決めてもらはなかければ意味を持たず、役
に立ちません。これをもつと詳細に書くには、あなたと初等論理学の知識[註4]を共有
しなければならないので別稿とします。

[註4]
これは「『カンガルー・ノート』論(17)」(もぐら通信第84号)の「5。7 再度3といふ数:3と
は何か」で論じましたので、お読みください。

今ここに、私たちの頭の中にある思考論理の全体を簡単な図に示せば次の通りです。

あなたが、此の否定論理の一種、即ちAがなければBがないといふ基準で判断することを、
実際の生きること、例へばあなたの職場でつかふとあなたの判断は確実に誤ることになり
ます。何故ならば、否定の前提は肯定なのであつて、AとBについて、それぞれそれは何か
といふ問ひを立てて答へてから、即ちAとBの関係を考へてからでなければ、問題の問ひに
対するCといふ答へに至ることはできないからです。

これを忘れると、あなたは区々たる差異のみだけを問題にして解決ならず、ただ混迷を深
めるだけといふ状態になります。やはり、そこは安部公房のやうにtopological(位相幾何
学的)に内部と外部を交換して、AでもなくBでもない第三の客観、第三の道を求めること
が正解です。勿論、その道は千差万別、まあ、あなたである私とは何か、即ち何かとは何
かといふ存在の構造に至ることによつて様々な私となるでせう。何故ならば、あなたは安
部公房の読者ではあるが、安部公房その人ではなく、別の人格を持つた何者かであるから
です。

この著者の論は、絶えず肉体、身体、体から発想して、意識と感覚を統合する働きを虚構
であることに求めてゐます。しかし、私がかうしておもふのは、キリスト教といふ唯一絶
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

対神を捨てたと思つてゐても、死後の世界のことは一向に想像がつかず、死に関する問題
の関係がつかずに、どうして良いのか途方に暮れてゐる此の著者の姿です。

素直に考へれば、言語の再帰性に従つて、カントーショーペンハウアーーニーチェといふ
超越論の系譜を辿り、存在は幾つも有るといふ多次元的な宇宙論で有る私たち日本列島文
明の超越論即ち汎神論的存在論に至るわけですが、自分自身への死に対する恐怖から、物
質として有る肉体から感覚をもとに考へて統合的な機能を虚構(fiction)と呼ぶ以外には
ないのは、哀れである。小説が作家の書くfictionであるやうに、そしてfiction(虚構)と
いふ言葉をそのやうに使へる通りに、相変はらず唯一絶対の創造主を無意識のうちに求め
てゐるのです。

旧約聖書の天地創造の章には、Godは人間をGodの似姿、Godそつくりにつくつたとあり
ます。人間はGodそつくりである。とすれば、この宗教の人間の考へることは、Godに対
して奴隷のやうな状態でありたくないと思へば、次の二つとなる。[註5]

(1)自分はGodと同等になることができる。
(2)自分はGod同様に生命を創造することができる。

私を虚構だといふ共産主義者の考へは、この(1)と(2)を巡つての、自分自身の死か
ら目を背けるための迷妄であると私には思はれる。

[註5]
『メタSF作家A氏への五つの手紙』(もぐら通信第71号)の「4.3 何故キリスト教徒は人造人間を製造
するのか?」にて詳述しました。

もう一度、近代ヨーロッパ人が哲学の祖として選んだ古代ギリシャのソクラテスが、プラ
トンの描くところによれば、開巻の冒頭で哲学的な会話の始まる前には、古代ギリシャの
神へのお参りの帰り道であつたり(『国家』)、また道の途中で出逢ふ友人がどこからか
の帰路であつても後者のやつて来た家の近くにはオリンポスの社があつたり(『パイドロ
ス』)、歩いてゐる道の途上ヘルメス神の泉のそばを通り過ぎて来たり(『リュシス』)
といふやうに、全ての作品がすべてさうではないにせよ、神々と祭祀を背景にして、歩い
てゐる道の途上に友人知人と偶然にあつて哲学的な対話を始めることになる、このやうな
ソクラテスの対話を描く(果たして此れは偶然であらうか?といふ)プラトンの真意を再
度想ひ出してもらひたいものです。神々と其の祭祀にこそ、言語論理(logos:ロゴス)は
あるからです。八百万の神々のtopologyです。これが、私たちには余りに自明であること
は、『安部公房とチョムスキー(8):7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く』
(もぐら通信第81号)でお話しした通りです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ47

ソクラテスの例を見て、私たちの身を顧みれば、道を歩くといふ行為そのものが、神話的
な世界であるのでせう。それで、私たちは旅に憧れる。西行もさう、松尾芭蕉の『奥の細
道』もさう、華道、茶道、香道、合気道、柔道、剣道、何々道といふのは皆さうなのであ
りませう。アメリカの作家ジョン・スタインベックに『Travel with Charlie』といふ愛犬
との(アメリカ人らしい)トレーラーハウスでの旅の物語があります。私に忘れられない
のは、longing for journy(旅への憧れ)といふ言葉でした。アメリカ人が実業界を引退す
ると、キャンピングカーでアメリカ国内を旅するといふ例は、単に人生の慰労などといふ
皮相的な見方をするのではなく、何かアメリカ人の無意識にある、一連のアメリカ文化贋
物論で論じて来たやうな神話的な背景が、といふことは即ちアメリカ人に限らず、人間の
持つ神話的な根底があるのではないでせうか。日本の文学についての旅と文藝の意味は『旅
と鎮魂の安部公房文学』(もぐら通信第65号)にて詳述しましたので、お読みください。

さて、フィヒテの言葉とともに上掲したナルチスの絵では、古代ギリシャ神話では、ナル
チスは自分自身を求めて水死することになるのでした。ソクラテスは哲学は死の練習だと
いつてゐる。

死んだ後に私たちはどうなるのか?

笹に黄金がええ∼なり下がる会津磐梯山の麓(ふもと)に住む小原庄助さんは幾ら 朝寝朝
酒朝湯が大好きで、それで身上潰∼ぶした ところで、一神教ならば此の宇宙に始めと終は
りがありますから、小原庄助さんは生きてゐるうちに地獄に堕ちることは確かであり、死
後に地獄に堕ちることは必定ですが、しかし此の宇宙に始めも終はりもない私たちの世界
では、死後に地獄に堕ちることはなく(何しろ死後の地獄はない)、魂はあの世に行つて、
また定例的に一年に一回この世に再帰することを繰り返すのです。魂は同じ平面の上にあ
つて、そこには幽明の境はない。木霊(こだま)といふタマはヤッホーといへばヤッホー
と再帰し、御霊(みたま)もまた同様にタマである以上再帰を繰り返し、かうなれば天皇
家の三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、タマである以上は永
遠に存在に再帰するのです。何故ならば勾玉には存在の穴[註6]が空いてをり、また何
故ならば時間には始めも終はりもないからです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 48

[註6]
存在の穴については安部公房論の中で諸処言語論理とtopologyの問題として論じて来た通りですが、アメリ
カ文化との関係で、アメリカ人の発明したドーナツとの関係で存在である凹の形象を論じた『安部公房のア
メリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼:ドーナツとは何か』(もぐら通信第80号)をお読みください。

今上の写真を眺めてふと思ひましたが、これはそのドーナツ贋物通貨論に私のした分類の
五つの型のうち、(1)環穴型通貨に相当します。通貨は(安部公房の存在論の記号を使
へば)《現存在》でありますから、更に其の上位にまた根底には《存在》があることは、
アメリカといふ一神教のtopologyの中で生まれたドーナツ贋物通貨論で論じた通りですの
で、私たちの世界では尚一層に貨幣といふ又は貨幣に相当する《存在》がありませう。

「 『CuriousCurrency』に掲載の古今東西の通貨の実例の写真を基にして下記の分類を得
た。

(1)環穴型通貨:穴に紐を通して単位化できる形態
(2)半環型通貨:同書75ページ以降を参照。半分環状であるといふことは、その隙間
は上記(1)の環穴貨幣の表現形態の変型であるといふことがいへる。
(3)棒穴型通貨:棒型通貨に穴のある通貨(同書23ページ)
(4)板型通貨:棒型通貨を潰した形の平面の貨幣。動物の皮の通貨、織物の通貨などあ
り(同書29ページ以降、また98ページ以降参照。
(5)棒型通貨:棒状にして単位化された形態。
古今東西、全ての人類の歴史上の通貨は、これら5つの分類のどれかに当て嵌まります。
上の註に列挙されてゐる通貨もみな上記5つのどれかに分類される。詳細は『言語貨幣論』
にて詳述します。」

『CuriousCurrency』に、文字資料がないので証明はできないが、しかしmoney(マ
ネー)、即ち貨幣《存在》であるかもしれないとして所収の勾玉の写真は次のものです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

八尺瓊勾玉の最初にある八といふ文字が高天原を意味することについては、この形象の意
味とともに、別稿『Mole Hole Letter(9):超越論(4):高天原(2):八といふ文
字』(もぐら通信第84号)にて論じました。さてさうなれば、八咫の鏡も、八咫烏も大
八島(おほやしま)も八尋殿(やひろどの)も八雲も八重垣も、あれもこれも、といふこ
とになります。

私の結論をここで簡単にいへば、高天原といふ天(あめ)に関しては、三、五、七といふ
奇数を私たちの縄文時代の祖先は使用し[註7](和歌や俳句を御覧なさい)、他方、大
八島といふ名前が其れを示してゐるやうに、国津神や人の住む地(つち)に関しては、八
や四といふ偶数を使用したのです。大八島の島といふ上位概念の下位概念が国であり、一
つの島は四つの国、即ち4の倍数からなるのでした。といふやうにです。[註8]

[註7]
「『カンガルー・ノート』論(16)」(もぐら通信第82号)の「5。5。1 長歌とは何か」をご覧く
ださい。

[註8]
別稿『Mole Hole Letter(9):超越論(4):高天原(2):八といふ文字』(もぐら通信第84号)と
重複しますが、煩を厭はず同じ註を引用します:

「1。小林達雄著『縄文の思考』168ページ:
注連縄(しめなは)そのものと、注連縄と同様に醤油甕や巨樹などの縛り方に関して「さらに、束に奇数七
五三を用いたりするという、しめ縄を七五三と表す経歴の一端を垣間みる。」

神社の神木や海岸の岩やにぐるりを廻してある注連縄は高天原に関するものであり、縄文人の超越論に基づ
く形象である渦状紋です。今も私たちは世界をこのやうに見てゐるのです。即ち、

(1)世界は差異である
(2)価値は等価で遍在する

といふのが超越論の二面一体の原理であることは諸処既述の通りです。

差異であるとは、空間であれば、歪み(連続量)または隙間(非連続量)として世界はあるといふことであ
り、時間としては時差、即ち遅延として現実に現れます。この私たち日本人の原理がこのまま近代ヨーロッパ
の白人種キリスト教徒には17世紀のバロックの世界観であり様式であるといへば、意思疎通がお互ひにで
きることは、これも『安部公房とチョムスキー(2)』(もぐら通信第74号)の「 3。バロックとはどう
いふ時代か」で述べた通りです。

2。西尾幹二著『国民の歴史 上』の「上巻付論」489ページ:
「同じ自然、同じ岩清水、森林の文明、そしてめぐる四季。同じ意識の流れが、一つの共通のお祭りの形式
や住居のあり方を生み出す。たとえば三十五センチを単位とする縄文尺というのがすごく面白いと思います。
建物の床の高さが七十センチだとすると、板の厚さが三センチ五ミリ出るという風にして、住居のすべてが
三十五を単位とする倍数でできあがっている。東日本の縄文文化と言われる遺跡にはほとんど共通した寸法
尺度があるということは、この日本列島の中で一つの共通の文化ががあった、生活様式の統一があったとい
うことを歴然と物語っているのではないですか。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ50

この記述を読みますと、3、5、7といふ奇数の組み合はせについて「住居のすべてが三十五を単位とする
倍数でできあがっている」といふのであれば、日本人の住居は、高天原の見立てであるといふことになりま
す。縄文人の住居は、数字と数値によつて抽象化された、即ち概念化された縄文規格に拠る高天原の再現で
あるといふことになります。

さて、しかし、このやうな次第であれば、私たち日本人、日本民族は、哲学など学ばなく
とも良いのではないでせうか?

この答へには、勿論、禅の公案と同じで、肯定と否定の二つの答へがあります。

私の答へは肯定的な答へです。その理由は、諸処記述の通り、

哲学は人類最高の娯楽(エンターテインメント)である

といふべき あなたの中の私(わたくし)の 学(人類共有の体系的な財産)だからで
す。

ここまで来ると、私たちの世界は安部公房の世界ですから、肯定でもなく否定でもない第
三の道を往くといふことに、いつの間にかなつてゐるのかも知れません。何故なら、哲学
が、人類最高のといふお題目のもとであれ、娯楽であるなどといふヨーロッパ人の表立つ
た言葉に御目にかかつたことは、私たちは、ないからです。
もぐら通信
もぐら通信                          51
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(28)
   第2部 II
       ∼安部公房をより深く理解するために∼ 岩田英哉

II

So wie dem Meister manchmal das eilig



nähere Blatt den wirklichen Strich

abnimmt: so nehmen oft Spiegel das heilig

einzige Lächeln der Mädchen in sich,

wenn sie den Morgen erproben, allein, ―



oder im Glänze der dienenden Lichter.

Und in das Atmen der echten Gesichter,

später, fällt nur ein Widerschein.

Was haben Augen einst ins umrußte



lange Verglühn der Kamine geschaut:

Blicke des Lebens, für immer verlerne.

Ach, der Erde, wer kennt die Verluste?



Nur, wer mit dennoch preisendem Laut

sänge das Herz, das ins Ganze geborne.

【散文訳】

(絵の名人がではなく逆に)しばしば、急いで傍に寄ってきた葉っぱの方が、絵の名人か
ら現実的な、本物らしい一筆のタッチを奪いとるように、丁度そのように、鏡は、しばし
ば娘たちの神聖に唯一である微笑(ほほえみ)をそれ自身の内に奪い取っている。

娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に。そして、本
物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。

目は、嘗て、暖炉の(火が)煤けで長く燃えて止むことの中を観た。すなわち、これは人
生の、生の眼差しなのだが、(一度これを習得したら)永遠に忘れることだ。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ52

ああ、だれが、大地の損失を知っていようか。ただ、それでも賞賛する音を以って、心臓
を、こころを、すなわち全体の中に生まれ入るものを歌うものがいるとすれば、その者だ
けが知っているのだ。

【解釈と鑑賞】

前のソネットの最後に、Blatt、ブラット、葉っぱという言葉があるので、それから連想を
つないだ。それから、やはり前のソネットの詩想は連続している。それは、空間というこ
とである。

最初の連の一行目から2行目は、普通は画家が現実を写し、本物以上に絵を描くものだが、
そうではなく、関係が逆転していて、自然の方が、画家の方から現実的なタッチを奪いと
ると歌って、現実と鏡の関係を歌い始めている。

「娘たちが一人で、または奉仕する光の中で、朝(の効能や能力)を試す毎に」とあるのは、
朝娘たちが髪を梳いたり、化粧をしたりする朝の光景をいっているのだろう。奉仕する光
とは、光は、娘たちを美しく見せるからであろう。

最初の出だしの2行から考えると、鏡の中の娘たちの方が、時には、現実的な存在だと話者
は歌っていることになる。このことを前提に、第2連の最後の2行を解釈することになる。
すなわち、

本物の顔の呼吸をすることの中に、後で、ただ反映だけが落ちるのだ。

この「本物の顔」とあるのは、娘の顔が本物だといっているだろうか。それも、現実的な顔
を本物だといっているのか、鏡の中の娘たちの顔を本物だといっているのか。それは、上
の文脈からいって、後者だということになるだろう。

そうすると、鏡の中にある娘たちの顔が呼吸をするのだ。

わたしは、ここでも、やはり、悲歌2番の天使、鏡に変身した天使を思い出す。この地上で
は鏡という空間になっていた天使は、自らの身のうちから流れ出た美を汲み戻すのであっ
た。

鏡と現実の間の交換という主題が、このソネットにもあると考えることができる。

さて、また、悲歌4番第3連14行目にあるように、リルケは、顔の中に空間があると考え、
そのように観て、歌っている。顔というと直ぐ空間なのだ。この顔という空間が呼吸をし
もぐら通信
もぐら通信                          ページ53

ている。その顔、鏡の中の娘の顔の呼吸の中に、後で現実の反映が落ちる。逆に、現実の
娘の顔の反映が、鏡の娘の顔の呼吸の中へと落ちる。

後でとはどういうことであろうか。娘が立ち去っても、その鏡には、本当の娘が映ってい
る、現実の娘の姿が消えずに、本当の娘の姿がそこにあるということではないだろうか。

第3連で、暖炉の火が出てくる。これは、暖炉の火をみて、わたしたちは、人生と生のこと
を思う。これは、暖炉のあるひとの生活なのだろう。ここは日本で暖炉はないが、場合に
よっては、焚き火であるか、田舎へ行って囲炉裏の火をみることに、そのような契機が隠
れているかも知れない。デカルトが、オランダで冬の日に、暖炉の火を見て、ある観想を
得たことを思い出す。

リルケのおもしろいところは、この生と人生の眼差しを、覚えたら忘れろといっているこ
とです。これは、真理だと思う。あるいは、格言だと思う。あるいは、人生の、生を生き
ているひとの格律であると思う。なんという贅沢な人生、豊かな人生であろうか。

第2部ソネットVIII第4連に同じ詩想が歌われていて、リルケが人生にどのように対したの
かが窺われる箇所があります。子供たちがボール遊びをしているのですが、キャッチボー
ルをするそのボールよりも、そのボールの描く軌跡、Bogen、ボーゲンにリルケの関心は
集中するのです。詳細を論ずるのは、またそのソネットへ行ったときに。

さて、そう思って考えれば、これは、単なるボールの話しではなく、暖炉の火の話しでは
なく、リルケの詩法の骨法かも知れないと思います。リルケの詩の書き方です。表を書く
のではなく裏を書く。対象をではなく、その影を書くという方法です。そうして、それを
荘厳するということによって歌い切る。

また、第1部ソネットIV第2連でも、矢よりも、矢の描く弧を話者は褒め称えていました。
これも同じこころだと思います。

そうしてみると、やはり、この連想から、最後の連では、「それでも賞賛する音を以って」
と歌われています。Preisen、プライゼン、賞賛するとは、他にも出てきたRuehmen、リュー
メンと同じ語義の言葉ですから、わたしが荘厳と訳したいと思っていることは既に前に書
いた通りです。表と裏の関係、対象と影または蔭、こうなると、陰と陽の関係を褒め讃え、
その全体を言葉で荘厳する。これが、リルケの詩なのではないでしょうか。そう思います。

確かに、このソネットは、対象、現実と、影、鏡に映るものの関係を歌い、最後の連で荘
厳しています。あるいは、荘厳そのものを歌っている。わたしは、リルケの詩に、言葉が
本来持っている古代的なものを思います。あるいは、詩本来の姿、社会的な役割というべ
きかも知れません。
もぐら通信
もぐら通信                          54
ページ

その荘厳する者とは、歌うという動詞がドイツ語の文法でいう接続法II式であって、現実に
は存在しないと歌われているのですが、もし存在するとしたら、それは、オルフェウスで
ありますが、そのような者は、こころを歌うといっています。こころとは、「全体の中に生
まれ入るもの」と言い換えられています。

こころをそのように言い換えているということは、こころと言う言葉で、実は人間のこと
を言っていると解釈することもできます。人間とは、もともと全体の中へと生まれ出でた
ものなのだ。しかし、そのこころが第1部ソネットIIIに、また同じくソネットXIに歌われ
ているように、全体、すなわちひとつであったこころが二つに分かれているのが、普通の
人間だとソネット全体で歌っているのだと思います。こうしてみると、第1部の最後のソネッ
トXXVIで、オルフェウスがその身を引き裂かれるのも、高次の人間の象徴的な姿だと解釈
することもできると思います。

最後に、もうひとつ。第3連の「それでも」とは、忘れるということに対して発せられた言葉
です。忘れることは、第4連にある通り、「大地の損失」ですが、しかし、それにもかかわら
ず、褒め称え、賞賛し、荘厳することを、無償の人は、なすのです。あるいは、そのような
行為が無償の行為であり、その行為と引き換えに、新しい生命が生まれ、何かに宿り、樹
木のように成長し、果実をつけるとリルケは考えているのだと思います。死から生まれる
生。こうして考えると、暖炉の火を見ることを忘れよとは、生よりも死のことを考えよと
いう言葉にも解釈することできます。

【安部公房の読者のためのコメント】

この詩もまた、安部公房の世界そのものであるやうだ。

この詩に歌はれてゐる鏡を顔につけると、その顔は鏡との関係では《他人の顔》になるの
ではないだらうか。『他人の顔』(講談社版)の最後の章に主人公の妻の言葉として鏡と
いふ言葉を使つた次の言葉がある。

「あなたに必要なのは、私ではなくて、きっと鏡なのです。どんな他人も、あなたにとっ
ては、いずれ自分を映す鏡に鏡にしかすぎないのですから、そんな、鏡の沙漠なんかに、
私は二度と引き返したいとは思いません。」(全集第18巻、486ページ上段)

さうして、この小説で書かれてゐる仮面が、顔との関係では、実は超越論的な仮面であつ
て、この仮面をかぶると時間が対称的に未来と過去が等価交換されることが、同じ最後の
章の上の引用の少し先に次のやうに書かれてゐる。

「幸い、着替えの服も、空気拳銃も、そのままにして残してあった。繃帯を解き、仮面を
かぶると、覿面(てきめん)に心理のスペクトルに変化がおきる。たとえば、もう四十歳
もぐら通信
もぐら通信                          ページ55

だという素顔の気分が、まだ四十歳だという具体にだ。鏡をのぞきこみ、ぼくは旧友に出
会ったような、なつかしさをおぼえていた。」
(全集第18巻、494ページ上段)(傍線は原文傍点)

安部公房の世界は、再帰的な、従ひtopological(位相幾何学的)な、合はせ鏡の世界です。
そして、これは、読者であるあなたの日常の現実の世界でもある。そして主人公はいつも
その合はせ鏡の現実から失踪しまたは脱出を図る。

第2部ソネットVIII第4連に同じ詩想が歌われていて、子供たちがボール遊びをしているの
ですが、キャッチボールをするそのボールよりも、そのボールの描く軌跡、Bogen、ボー
ゲンにリルケの関心は集中すると註釈したところは、誠に其の通りです。安部公房を理解
することは、安部公房の耽読したリルケの詩作の骨法を知ることになるのですが、この方
法を一生安部公房は大切にして作品を書きました。影を書き、軌跡を書き、穴を書き、失
はれて忘れられたものごとを書く。この方法で、既に成城高校時代からの安部公房の詩は
書かれてゐます。「沈黙と余白の論理」と名付けた論理です。

安部公房の文章は、文字のみならず、文字通りに行間を読むことが大切です。「……」と
いふ点線で書かれた記号は、いつも此の詩にあるやうに、記憶の喪失を表してゐる。しか
し、記憶の喪失とは過去の記憶の喪失であらうか?さうではなく、未来の記憶の喪失でも
あることを、上記に引用した二つめの『他人の顔』の最後の章からの引用は語つてゐます。
リルケも同じです。何故ならば、第3連で、リルケは、

この生と人生の眼差しを、覚えたら忘れろ

といっているからです。

本当に其の通りであると、私も思ひます。

人の世は、覚えることばかりでできてゐる。言葉も文字で記号で、さう言葉の概念は数字
でさへ記(しる)されて、忘れることから人は益々毎日遠ざかる。

「目は、嘗て、暖炉の(火が)煤けで長く燃えて止むことの中を観た。すなわち、これは
人生の、生の眼差しなのだが、(一度これを習得したら)永遠に忘れることだ。」

あなたの目は、毎日一体何を見てゐるものか。

20歳の安部公房の、後に京都帝国大学へ行つてヘーゲル哲学の研究者になる、親しく哲
学談義を交はした友中埜肇宛の手紙の中の言葉:
もぐら通信
もぐら通信                          56
ページ

中埜君、 
御変りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて参りました。永い旅でした。丁度リルケ
がロダンから學んだ如く、僕もリルケから「先ず見る事」を學びました。そして旅とは、
きつとそんなものなのでせう。」
(『中埜肇宛書簡 第5信』全集第1巻、92ページ上段)

そして、24歳の安部公房は、世に出てから次のやうに、しかしやはり同じ志を、見るこ
とについて次のやうに述べるのです:

「科学的に見詰めることだ。ニーチェの言ったように、そしてドストイエフスキーやリル
ケが言ったように、先ず見ることを学ばなくてはならない。ひとまずは総ての人間が機械
工にならなくてはならぬのではあるまいか。人間への意志も、案外そんなところにあるよ
うな気がする。」
(『文芸時評』全集第2巻、53ページ)

芥川賞受賞作『S・カルマ氏の犯罪』の主人公S・カルマ氏が、目から景色をみな吸ひ込ん
でしまふ異能によつて犯罪者になるのは、やはり、

「(絵の名人がではなく逆に)しばしば、急いで傍に寄ってきた葉っぱの方が、絵の名人
から現実的な、本物らしい一筆のタッチを奪いとるように、丁度そのように、鏡は、しば
しば娘たちの神聖に唯一である微笑(ほほえみ)をそれ自身の内に奪い取っている。」

からでありませう。

S・カルマ氏といふ人間の葉っぱである名刺の方が、本人よりも「本物らしい一筆のタッチ」
であるといふこと、現実に対して鏡といふ仮面をかぶると、素顔の自分との関係では、人
生の時間がまだはもうになり、もうはまだになつて、その境界面で消失してしまふこと。
過去の記憶は未来の記憶であり、未来の既に起きた出来事は、過去のこれから起きる出来
事であること、即ちこれを文字にして発行すれば、それが「明日の新聞」といふ超越論的
な新聞であることといふやうに、安部公房の世界は、合はせ鏡になつてゐる。

さう、あなたが世界の果てに至れば、「明日の新聞」が、いつの間にか(超越論的時間)
どこからともなく(超越論的空間)あなたに配達されてゐる。

「安部公房の分類」を使つて示せば、「明日の新聞」は《存在2》で発行され、《存在1》
で記憶メディア(紙媒体)に文字で印刷されて、現実の世界の《現存在》たるあなたのも
とに、いつの間にか(超越論的時間)どこからともなく(超越論的空間)配達されるとい
ふわけです。即ち、あなたが、不図気がつくと(これが肝心)、そこにある。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 57

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もぐら通信                          58
ページ

Mole Hole Letter


(9)

超越論(4):高天原2:八といふ文字

目次

0。高天原のtopology
1。結論
2。八とは何か
3。三種の神器とは何か
(1)八咫鏡とは何か
(2)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とは何か
(3)草薙剣とは何か
4。万葉集とは何か
(1)何故富士山は記紀には書かれてゐないのか
(2)何故富士山は万葉集にしか出てこないのか
(3)何故仁徳天皇陵以下の御陵である古墳は記紀に書かれてゐないのか

***

0。高天原のtopology
「『カンガルー・ノート』論(16)」(もぐら通信第82号)の「5。5 存在を荘厳(しょ
うごん)する:第6章風の長歌:長歌(鎮魂歌)/5。5。1 長歌とは何か/5。5。2 長歌
は高天原を歌ふ/5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空間」より、このtopologyを再掲し
て、本題に入ります。

「長歌の最初の5、7、5で始まる5、7、5の繰り返しは、「3柱の神が、このネットワー
ク・トポロジーの最小単位である3角形を構成してゐること」であり、「これが厳密には最初
の最初の高天原、即ち0番目の高天原である」といふことですし、(i)にある通り「3柱の
神で構成される3角形を対称的に反対側に返せば、この最上位の最初の高天原の、他の2柱の
神々も含んだ最初の並行四辺形、最初の高天原が生まれるといふこと。そして、これがこのま
ま私たちの美意識の様式であること」です。

「かうして幾何学的に考へてみると、日本の詩歌は、3、5、7といふ数字で成り立つてゐ
る。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ59

1。結論
(1)高天原は、3、5、7といふ数字で出来てゐる。これが天津神の世界。
(2)他方、八(8)は、大八島、八尋殿などの地(つち)の階層で使はれてゐる。一つの島
は四つの国からなるのでした。さうであれば、高天原が奇数の世界、対して、大八島は偶数の
世界と、縄文人は数理的に考へたといふことになる。
(3)前者は天津神の世界の数字、後者は国津神の世界の数字ともいふことができる。

高天原が、3、5、7といふ奇数の数でできてゐて、これがそのまま和歌を始めとする日本の
詩歌の様式であり、私たちの美意識の単位であることは、既に『安部公房とチョムスキー
(8)』(もぐら通信第81号)の「7.2 大地母神崇拝である神道のtopology」で述べた
通りです。

2。八とは何か
高天原は天(あめ)と呼ばれる世界ですが、これに対して、地(つち)にあつて高天原由来の
もの、高天原起源のもの、高天原に関係したものには、八といふ数字を当ててヤと読ませて、
稗田阿礼の日本語の口承を漢字で表した太安万侶は、表してゐます。これはこのまま日本人が
漢字をどのやうに換骨奪胎して変形したかといふ話になります。近代ヨーロッパから150年
前に輸入したアルファベットといふ文字の場合にはさうではありませんが、古代に輸入をした
漢字の場合には、このやうに文字論がそのまま日本の神話を解読する鍵となり、また日本国家
論になります[註1]。この文字と国家を、言語の視点から眺めた論は別途論じたい。

[註1]
書道家石川九楊著『二重言語国家・日本』(154∼155ページ)に曰く:
「落語や漫才はこの日本語の二重言語せいに依存することによって生まれている。
むろん日本語におけるこの「洒落」の根は深い。その起源は『古事記』『万葉集』の時代、つまり、日本語の起
源にまで遡る。日本語は洒落と駄洒落を構造的に内に秘めた言語であり、日本は「駄洒落」によって生まれた国
と言っていいほどなのだ。」と言って、この後に、万葉仮名の次の用例を挙げてゐる。これは用例の一部です。

「有険→有りけむ
 別南→別れなむ」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

また同書(192ページ)に曰く:「文字は国家であり、文字論は国家論である。」

天地(あめつち)の相違を一言でいへば、天(あめ)の高天原は3、5、7の奇数でできてゐ
る[註2]のに対して、地(つち)の大八島[註3]は、4と8の偶数から成り立つてゐると
いふことになります。このやうに論理的に数字で宇宙を語つた民族がほかにゐるでせうか。こ
の天地(あめつち)の間が、縄文人の世界であり、今に至るも私たち日本人の生きてゐる世界
です。

[註2]
1。小林達雄著『縄文の思考』168ページ:
注連縄(しめなは)そのものと、注連縄と同様に醤油甕や巨樹などの縛り方に関して「さらに、束に奇数七五三
を用いたりするという、しめ縄を七五三と表す経歴の一端を垣間みる。」

神社の神木や海岸の岩やにぐるりを廻してある注連縄は高天原に関するものであり、縄文人の超越論に基づく形
象である渦状紋です。今も私たちは世界をこのやうに見てゐるのです。即ち、

(1)世界は差異である
(2)価値は等価で遍在する

といふのが超越論の二面一体の原理であることは諸処既述の通りです。

差異であるとは、空間であれば、歪み(連続量)または隙間(非連続量)として世界はあるといふことであり、
時間としては時差、即ち遅延として現実に現れます。この私たち日本人の原理がこのまま近代ヨーロッパの白人
種キリスト教徒には17世紀のバロックの世界観であり様式であるといへば、意思疎通がお互ひにできることは、
これも『安部公房とチョムスキー(2)』(もぐら通信第74号)の「 3。バロックとはどういふ時代か」で述
べた通りです。

2。西尾幹二著『国民の歴史 上』の「上巻付論」489ページ:
「同じ自然、同じ岩清水、森林の文明、そしてめぐる四季。同じ意識の流れが、一つの共通のお祭りの形式や住
居のあり方を生み出す。たとえば三十五センチを単位とする縄文尺というのがすごく面白いと思います。建物の
床の高さが七十センチだとすると、板の厚さが三センチ五ミリ出るという風にして、住居のすべてが三十五を単
位とする倍数でできあがっている。東日本の縄文文化と言われる遺跡にはほとんど共通した寸法尺度があるとい
うことは、この日本列島の中で一つの共通の文化ががあった、生活様式の統一があったということを歴然と物語っ
ているのではないですか。」

この記述を読みますと、3、5、7といふ奇数の組み合はせについて「住居のすべてが三十五を単位とする倍数
でできあがっている」、「建物の床の高さが七十センチだ」といふのであれば、日本人の住居は、高天原の見立
てであるといふことになります。縄文人の住居は、数字と数値によつて抽象化された、即ち概念化された縄文規
格に拠る高天原の再現であるといふことになります。しかしながら、センチは現代のヨーロッパから来た長さの
単位ですから、当時は何と呼ぶどのやうな長さを意味する単位であつたものか。その一つは八咫烏の尺(た)と
いふ単位でありませう。その上位単位、また下位単位もあつた筈です。その単位で換算して現代の3、5、7と
いふ奇数の値が数字として表に出るといふことから逆算すると、当時の縄文尺の意味がわかるのかも知れません。
もぐら通信
もぐら通信                          61
ページ

[註3]
古事記の国生み神話では、一つの島は四つの国から構成される行政単位となつてゐる。

八といふ文字については、古事記の国生み神話で大八島、八尋殿(やひろどの)、それに神武
東征の折に姿を現して神武天皇を恙(つつが)無く案内した八咫烏(やたがらす) [註
4]、天皇家の三種の神器のうちの二つ、即ち八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさか
にのまがたま)が、八といふいはばアングロサクソンの言語でいへば前綴(prefix)がついて
ゐる言葉として思ひ出す事ができます。また、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の倒した八岐大
蛇(やまたのおろち)と、八岐大蛇を倒すために飲ませた八塩折之酒(やしおりのさけ)。ま
だ他には、思ふままに挙げれば、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治したあとに歌ふ歌「八雲立つ 出
雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」の八雲と八重垣、「いにしへの 奈良の
都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」(伊勢大輔)と詠まれて毎年春に咲く八重桜等々。

[註4]
八咫烏は、地(つち)を治める神武天皇が東征する際に道案内として、高天原1の二柱目の高御産巣日神といふ
名前から言つて、高天原とそれ以下の階層を上位接続する神によつて派遣される使者(動物の使者であり、鳥と
しての使者である)として派遣されて登場する。

素戔嗚尊の話をしますと、乱暴狼藉のために高天原を追放された素戔嗚尊が、大八島で八岐大
蛇を退治する時に登場する言葉に、いづれも八の文字が頭についてゐることには意味のあるこ
とだと考へられます。ここに高天原といふ奇数の世界を追放された素戔嗚尊が生きて行かねば
ならない大八島の偶数の世界があります。この地(つち)の四と八の偶数の世界は、私たち日
本人の現に生きてゐる世界でもあります。八のつく語を並べますと、櫛名田比売(くしなだひ
め)を巡つては、

(1)老夫婦には八人の娘がゐたこと
(2)毎年八岐大蛇が来て一人づつ娘を食べてしまふこと(櫛名田比売が最後の一人)
(3)八岐大蛇の姿は、「頭は八つ、(略)尾が八つ、体の大きさは八つの谷、八つの峰に渡」
ること
(4)八塩折之酒は、「八度繰り返して醸造した強い酒」であること
(5)「垣根を巡らせて、そこに八つの穴をあけ」ること
(6)「素戔嗚尊と櫛名田比売が寝床で交わってお生みになった神の名は、八島士奴美神(や
しまじぬのかみ)といふ名前であること。

といふ八の文字が登場します。

[註5]
以上の(3)(4)(5)(6)の引用は竹田恒泰著『古事記 現代語訳』56ページより。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 62

さて、これらの言葉の構成をみますと、八といふ前綴は一つの単位を表す言葉に接続してゐる
ことが判ります。例へば、

島、尋、咫、尺

島は四つの国からなるといふ、国の上位概念の行政単位、尋(ひろ)は海の深さを測定する単
位、咫は手の指の幅を基準とした長さの単位、尺は土地や建物の測定に使はれる単位。八岐大
蛇に関する八の後の股、頭、尾、谷、峰(原文は尾根の尾)、それに八塩折之酒の塩(または
塩折か)、八重垣の垣、穴(原文は門(かど))も、みな数を数へる単位だといふことになり
ます。それから、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して詠む出雲八重垣の歌の直ぐ後に登場する稲田
宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)の八耳神(やつみみのかみ)の
耳といふ単位[註6]。

[註6]
稲田宮主須賀之八耳神の須は、原文では氵(さんずい)に頁。

しかし、一体、地(つち)の大八島にあつては八といふ文字が前綴として使はれるのは何故な
のでせうか?この八は一体何を意味してゐるのでせうか?

私の仮説は次のやうなものです。

この八といふ数字は、数字といふ数学的な意味も勿論古代の縄文人は知つてゐて使つてゐるこ
とですが、しかし他方もう一つの意味は、この八の数字を数字ではなく文字として富士山に見
立てたといふことです。富士山の山容を象(かたど)つた文字であり、従ひ高天原を意味する
といふことです。

それで私たちは八の字を末広がりといつて縁起を担いで愛(め)でたがるのではないでせうか。
古代の日本人はそのやうに今の言葉遊びや漫才や落語に通じてゐる文字の扱ひ方 [註7]を
して、日本語の文法体系の構造の最上位の層(表層)である文字の層に取り入れたのだと私は
考へます。またここで、安部公房とチョムスキーの力を借りませう。『安部公房とチョムスキー
(4)』論(もぐら通信第76号)の「5。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生
成文法とポール・ロワイヤル文法」で得た「安部公房の分類」図を再掲します。

ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/377549947/安部公房の分類-v2-赤字強調

[註7]
書道家石川九楊著『二重言語国家・日本』(154∼155ページ)。上記[註●]参照。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ63

私たちは、数字との関係では、形象としての漢字を此の図の表層に当たる階層で受け容れたと
いふことになります。これは、見立てによる受容です。何も深く意味を考へる必要はない、形
を見れば良いといふことです。形象(イメージ)を見て何か(この場合は富士山、即ち高天原、
即ち存在)に似ていれば、それで良いといふ考へ方です。さうして、その文字の音には、ハチ
ではなくヤの音を当てがつた。

また、かうしてある私たち日本人に固有の抜群の文字と様式の感覚と、音義と意義の論理と感
覚については、高天原の存在のtopologyに基づいて、古代の日本人が漢字を如何に変形させて
ひらかなとカタカナを生み出したかといふことに、この八の見立ては通じてゐますので、後述
します。この八の字の見立ての見立て方は、そのまま私たちの美意識の様式の一つです。

古代の日本人は、当然といへば当然ですが、漢字を輸入するに当たつて、漢字一文字一文字の
概念を吟味し、精査したに違ひない。その上で、日本語一語に相当する漢字を読みとして、即
ち漢字の解釈として和訳を当てがつた。この当てがひ方に二つあり、

(1)漢字を訓ずること(これは漢字の語義の日本語による解釈を文字で表すこと)

これとは順序を反対に入れ替へて、

(2)日本語の一語に対して当て嵌まる漢字を、日本語の一語の意義と意味に応じて複数の漢
字を当てがふこと

これは、このまま現代の外国語の翻訳といふ仕事と同じことです。稗田阿礼の口承を文字に写
すにあたつては、太安万侶の周囲に上記(1)と(2)を徹底しておこなふための文部の学者
たちがゐた筈です。それでなければ、漢字と日本語の対応関係の確定はできず、これができな
ければ、太安万侶は筆写することができないからです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ64

この同じことを、「概念を定義するためのフォーマット」と名付けて「『カンガルー・ノート』
論(17):5。7 再度3といふ数」(もぐら通信第84号)にてフォーマットを示し、説
明をしましたのでお読みください。このフォーマットにある論理は古今東西を問はぬ、人類の
頭の中の言語論理の構造(logos:ロゴス)です。言語構造は、この様式を見る通りに単純で
あり、本来は難しいものではありません。高天原0と同じく3といふ数字を用ゐるといふこと
なのです。
ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/383899926/概念を定義するフォーマット
-縦横二つ

上記(1)と(2)に加へて、漢字をtopology(一筆書き)で変形させた文字、即ちひらかな
と、内部と外部を等価交換して生み出したカタカナで構成されてゐる言葉が、書き言葉として
の日本語であるといふこと、即ち和漢混淆文です。ひらかなにあつては、文字であるに留まら
ず、書体となして、細筆による美しい、流れるやうな文字の世界である書道の一範疇を創造し
た。

3。三種の神器とは何か
三種の神器のそれぞれの意味の体系的な解読も含めて、(『安部公房とチョムスキー』論で得
もぐら通信
もぐら通信                          ページ65

た)安部公房の言語論の構造を示す「安部公房の分類」図に基づいて論じます。

天皇家の三種の神器は、次の三つです。

(1)八咫鏡(やたのかがみ)
(2)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
(3)草薙剣(くさなぎのつるぎ)別名 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

八といふ文字については上述しましたので、ここでは説明を省きます。上記の「安部公房の分
類」図では、天地といふ垂直方向の時間の存在しない方向に存在する高天原の3階層は、深層
構造2、構造(差異)、《存在2》、構造(文法)の層にあることになります。これを稗田阿
礼の口承を文字に写した太安万侶の仕事は、深層構造1、記憶(media)、《存在1》、文字
の層にあたります。稗田阿礼の誦唱の行為は、表層構造、現実、《現存在》、音声の層にあた
ります。もちろん、稗田阿礼の声は深層構造2より深く発せられたものでありませう。

しかし、実際の仕事の順序は正反対で、表層構造での稗田阿礼の誦唱、深層構造1での太安万
侶による記憶媒体への採録、それによつて、私たち日本人の太古からの差異の構造、即ち言葉
の意味の体系を文字を通じて表すといふ順序になります。

さて、さうだとして、《存在2》を《存在1》に写し移すに当たり、さうしますと、残る問ひ
は、次の4つです。

(1)八咫鏡とは何か
(2)八尺瓊勾玉とは何か
(3)草薙剣とは何か、また、
(4)何故草薙剣は、別名天叢雲剣と呼ばれるのか

これらの問ひに答へてみませう。

私の考へ方は、どの問ひにも高天原の論理(topology)で答へてみようといふものです。特に
八の文字のついてゐる最初の二つについては尚然りです。

(1)八咫鏡とは何か
鏡とは、鏡の前に立つものの姿を瓜二つに反対側に映す平面ですから、これは高天原0が反対
側へ返つて高天原1になる其のことを表した何かだといふことがいへます。その何かを鏡で表
し、鏡と呼んだ。古事記の中で此の鏡の初めて登場する箇所を現代語訳で見てみませう。あな
たは安部公房の空間を連想することでせう。『他人の顔』でも良いし、『箱男』でも良い。

あるいは『カンガルー・ノート』の第7章人さらい(といふ題の反歌)の最後に主人公が冷蔵
もぐら通信
もぐら通信                          ページ66

庫の入りさうなダンボール箱の覗き穴から外を覗いてゐる情景を思つても良いと思ひます。鏡
といふものを間に置いたら、安部公房の世界の鏡と天照大御神の見る鏡は同じものであり、同
じ意味の鏡です。違ひがあるとすれば、『カンガルー・ノート』の主人公は自分自身の後ろ姿
をみるのに対して、天照大御神は自分の正面の姿をみるといふところです。しかし、前者は汎
神論的存在論(超越論)の世界、後者はまた高天原といふ同じ汎神論的存在論の世界といふや
うに、鏡を間に置いて哲学の階層にて引き比べれば、ともに同じ世界です。さう、しかし、安
部公房の主人公が女ではなく男であるといふのでは違ひがあるではないか、さうはならないの
ではないかとあなたが反論するとすれば、しかし第7章の最後に、手鏡を持つた「垂れ目の少
女 B 」は以前は其のサーカス一座の藝人であつて、主人公がサーカスのテントに入る入り口で
客引きをしながら、一旦サーカスが始まると、存在のテントの内部では鏡の藝を見せてゐたこ
とを思ひ出して下さい。

「垂れ目の少女 B 」は、安部公房の用語でいふ未分化の実存であつて、性の分化する「以前」
のneutral(ニュートラル)な存在です。天照大御神もまた女性神のやうでありますが、しかし
夫婦として対になる男神はなく、一対としてあるとすれば、男神は、次のやうに伊耶那岐神の
右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)です。これも対称的な二つの神であると仮にし
ても、しかし後者もまた夫婦として対になる女神はない以上、天照大御神もまたneutralな神
といふことになります。月読命[註8]も然り。さて、天照大御神がneutralな女性といふこ
とであるならば、安部公房の世界であれば、未分化の実存であるとはいへ「垂れ目の少女 B 」
のやうな偏奇な少女といふよりも、大人の女性であつて、しかし主人公とはいつも性的には無
関係で永遠の距離のある少年のやうに未成熟な女性といふ未分化の実存の型(タイプ)に、い
づれの型(タイプ)かといふならば、天照大御神は属することになります。

さて、弟の須佐男命(すさのおのみこと)の乱暴狼藉に怒つて、天照大御神が天の岩戸(高天
原にある洞窟の入口を塞いでいる岩)を開けて引き籠つたあとの話です。

[註8]
天照大御神が、伊耶那岐神が黄泉の国に死んだ伊耶那美神を探して、しかし後者から逃れて黄泉の国から脱出し
た後に、穢れを払ふために禊をして身を清める際に、左目を洗つて生まれたのが「天にましまして照りたまう神
である、天照大御神。右の御目をお洗いになった時に成った時に成ったのが、月の神である、月読命(つくよみ
のみこと)。御鼻をお洗いになった時に成ったのが、嵐の神で、勇猛迅速に荒れすさぶる神である、建速須佐男
命(たけはやすさのおのみこと)です。」(竹田恒泰著『古事記 現代語訳』40ページ)

鏡を内部と外部の間に置いて、岩屋戸の隙間から覗いて外部の暗闇の中に天照大御神の見るも
のは、自分自身の光に照らされた、といふ意味では再帰的な、箱男と同様に、自分自身の姿で
す。

さて、この話の上で、少し長い次の引用をしますと、八の文字が高天原で製作された神器であ
るが故に八の文字が其の物に冠して用ゐられることが判る具体的な『古事記』の箇所を引用し
ます。
もぐら通信
もぐら通信                          67
ページ

「八百万の神(大勢の神々)は困りに困り、天の安の河原に集まって、いろいろと考えを巡ら
せましたが、良い考えは無く、結局は「知恵の神」で知られる思金神(おもいかねのかみ)に
相談することに決めました。思金神は高御産巣日神(天地初発で成った高天原の三神のうちの
一柱)の子で、思慮を兼ね備えた神です。思金神の考えた方策は「祭り」でした。さっそく神々
は祭りの準備に取り掛かります。
 まず、常世の長鳴鳥(ながなきどり。ニワトリ)が集められ、一斉に鳴かされました。ニワ
トリが鳴くと太陽が昇ることから、ニワトリを鳴かせることは太陽の出現を促す呪術だったの
です。常世とは常世国のことで、海の彼方にあると考えられた異郷です。
 次に、天(あめ)の安(やす)の河の上流にある天(あめ)の堅石(かたいし。鉄を鍛える
のに使う固い石)を取り、天(あめ)の金山(かなやま。高天原の鉱山)の鉄を取り、鍛冶屋
を探して、石斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて鏡を作らせ、また玉祖命(たま
のおやのみこと)に命じて八尺の勾玉(やさかのまがたま)の五百箇(いおつ)の御(み)す
るまの珠(たま。多くの玉を緒に通した飾り)を作らせました。これで必要な神器(しんき)
が揃いました。ちなみに、この時作られた鏡と玉(たま)が、後に天孫降臨によって高天原か
ら地上にもたらされ、やがて天皇の皇位の印である「三種の神器」のうちの二つになります。」
(同書50∼51ページ。原文は傍線が太字)そして、三つめの神器は草薙の剣です。

鏡と玉を製作することを命じたのは、此のことから、思金神(おもいかねのかみ)であること
がわかります。思金神は、高御産巣日神の子供といふことですから、高天原1どころか高天原
0に直接繋がる神であり、これがのちに瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原を降(くだ)つ
て地(つち)に、即ち大八島に降りるときに携へる神器三つのうちの二つといふわけです。こ
れが、ヤと読ませる八の文字の由来です。

このやうな次第で製作された八咫の鏡は、鏡である以上、天照大御神といへども、鏡は、自分
との関係では自分自身を映すものであり、この意味では再帰的な関係に天照大御神もゐること
になり、内部の小さな光の空間が(それは天照大御神は洞窟の中でも光り輝いてゐたでありま
せうから)、外部の大きな闇の空間と等価交換される。Topologyで考へると、この等価交換
によつて余剰としての価値が生まれます。あるいは、価値が余剰として生まれるといふ方が良
い。これが、恐らくは、須佐男命(すさのおのみこと)が高天原を追放された後に、地(つち)
の世界で、夥しいといひたくなるやうな数多く八(ヤ)の文字の頭につくものたちに出逢ふこ
とになる根拠であるのです。これはこのまま八(ヤ)といふ文字と音を繰り返す呪文であり、
それによつて須佐男命の穢れを祓ひ、高天原の神威で須佐男命の身を護(まも)るといふ成り
行きに私には見えます。さうして、この天照大御神の再帰的な等価交換に原因して遂に須佐男
命の得るに至つたのが、草薙の剣だといふことになります。このやうに草薙の剣は、
topologicalに等価交換によつて天照大御神と上位接続されてゐる。さうであればこそ、大八島
にある天皇家の皇統は、高天原に上位接続されてゐるといふことになります。

この八の説明は、安部公房の読者である私たちには理解しやすいものです。何故ならば、『カ
ンガルー・ノート』論(もぐら通信第66号∼第84号)で証明したやうに、この自然道、縄
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もぐら通信                          ページ68

文神道、即ち大地母神崇拝の論理と感覚は、安部公房の世界にも、3といふ数字が呪文として
夥(おびただ)しいほどに何度も繰り返し、表立つて文字として、また隠れた作品構造上の様
式として、安部公房が厳密にこの数字の使用を遵守して作品をつくつてゐる3といふ数字が隠
顕共に繰り返し繰り返し使はれてゐるからです。安部公房は子供時代に満年齢で1歳から16
歳まで満州の奉天で育ちましたから、そこで満州族のシャーマンの儀式を直に見聞したといふ
高い蓋然性(probability)については『カンガルー・ノート』論の連載(もぐら通信第66号
∼第84号)のうちの「『カンガルー・ノート』論(10):(22)呪文/(22.1)呪文
の分類/(22.2)章別・呪文解説(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩いて踏切
を渡るのか?」(もぐら通信第75号)でお話しした通りです。

以上を要するに、天照大御神によつて八咫の鏡と草薙剣は互ひに繋がつてゐる。さうであれば、
八尺の勾玉も高天原で製作されるのですから、八尺の勾玉と八咫の鏡と草薙剣は互ひに繋がつ
てゐる。いづれも高天原由来であり、高天原縁起であり、高天原起源である。といふことであ
れば、何故天皇家が天照大御神を皇祖神とし、三種の神器を大切に持つのかといふ理由の説明
がつきます。

更に要するに、私たち現代人が忘れてゐるのは、大地母神崇拝の心なのです。これを、20世
紀には前衛前衛といはれてゐた、そして本人は前衛といはれる呼称を嫌つてゐたことが周知で
あつたわけですが[註9]、しかしそれ以外に此の奇妙な物語を書く作家の説明ができないや
うに読者は(研究者や評論家も含めて)思ふわけですから、一番手つ取り早い言葉に当時は飛
びついたわけですが(メタSF作家と理解すれば難しいことは何もなかつたのに)、このやうな
作家に21世紀の今、20世紀に猖獗を極めたマルクス主義に対抗して逆説的な地位が文学的・
哲学的に与へられるといふことは、これもまた内部と外部の等価交換といふ天照大御神の
topologicalな鏡を使つての行為から言つても、実に縄文的・古代的な、しかし当然の論理(言
語論理:logos:ロゴス)の成り行きであると私には思はれます。

[註9]
『方舟は発進せず』と題したインタヴューに次のやりとりがある。(全集第28巻、58ページ上下段):

「斎藤 安部さんの最もおきらいな「前衛」という言葉、絶えず前衛であり続ける、ということですが、ある評
論家にいわせると、安部さんは「絶えず自分自身を超えてゆく前衛だ」と。
 安部 まあ前衛というのは、ある意味ではカッコいいから、言われても構わないけど、そんな意識よりも、い
かに現実を生きるか、その現実の規定の仕方でしょうね。だれでも現実を生きる。ぼくにとっての関心というの
は、今を見る……ということ。それはぼくにとってのメビウスの輪ですよ。それを「箱」とか「壁」とか「砂」
とかに投影する。その、いい投影体を探すということです。今、ぼくが、この見ていることの感覚、言葉ではま
だいえない感覚を、何に映すと一番よくこの感覚が映るか、というその映すものを探すのが作業で、それが小説
を書く時に一番の楽しみですよ。あと、書くことってのは、まことに、よくこんなバカなことをやるのかってく
らいにシンドイけれど、投影体をみつけるとこだけはね、自分の喜びといえるかもしれないなあ。」
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もぐら通信                          ページ69

さてそれでは、ハチとヤと読ませる八の文字では、どのやうに其の意味が異なるのかを考へて
みます。

ハチといふ音で八の文字を読みますと、この八は、ヤの音が数字でものを数えるときの、ひ、
ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、と、と数える数の系列[註10]の単位の一つになるのに
対して、ハチといふ音は、いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう、といふ
数の読み方の系列の単位の八(ハチ)だといふ違ひがあることに気づきます。

[註10]
この古代語(多分縄文語)の十進数の数の勘定の系列が如何に神道にとつて、即ち現代の我々に直接関係して大
切かといふことの意義を『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7。 一神教と大地母神
崇拝をtoplogyで読み解く:7.2 大地母神崇拝である神道のtopology:(2)国生み神話のtopology」より引
用し、再掲して伝へます:

「(l)単位化するといふことが、実は何か神聖なる物を呼び出すことであり、または逆に対象を神聖な何かにす
ることであるといふこと。祓詞(はらひことば)の中には、やまと言葉で単位だけを列挙して桁を無限に上げて
行く祓ひ言葉、一行で成る「一二三祓」と呼ばれる祓ひのコトのハがあります。[註22]『シャーマン安部公
房の神道講座』と題して別途論じます。

[註22]
「一二三祓」と呼ばれる祓ひのコトのハは次の通り:
ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそおたはくめかうをゑにさりへてのますあせえほれけ

ひふみよいむなやこと、これで1から10を数え、あとは10進数の単位を上げてゆく。これ以降は一文字一単
位です。これで10の38乗までの数を数へることになります。

これは既に何度も安部公房論の中で述べて来ましたやうに、安部公房の世界でいふ「明日の新聞」の論理、即ち
超越論の論理です。即ち、昨日今日明日といふ日にちを、時間の単位として等価交換をするわけです。次の3つ
の文を通して読んで理解できたならば、あなたは超越論を理解したことになる。これは、このまま神道でいふ中
今といふ概念です。昨日今日明日を過去現在未来としても同じです。

今日は昨日の明日、今日は明日の昨日
昨日という今日は明日という今日の昨日
明日という今日は昨日という今日の明日

昨日と明日は今日のいう一日の単位の場で交換することができる。

道元が『正法眼蔵第一』の最初にある「現成公案」で同じことを、薪(たきぎ)の発火から灰になるまでの単位
化されたプロセスと、四季の非連続性を知ることを際断と言って、安部公房の「明日の新聞」、また神道の中今
と同じ上記の概念を述べてゐる。詳述しませんが、「現成公案」をご一読ください。

この「一二三祓」の呪文を唱へると、あなたといふ器は空つぽになります。しかし、無になるのではありません。
これが一神教を離れると無宗教になり、無宗教から虚無主義(ニヒリズム)に陥るヨーロッパ人と私たち日本人
の違ひです。空と無の概念の違ひを、それぞれの定義で示します。
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時間も空間も差異であるのでした。前者は時間の隙間、後者は空間の隙間(非連続量)または歪み(連続量)で
す。さて、その上で、

空といふ概念の定義:
空とは、人が差異に函数関係を認識してゐる場合の隙間のことである。

無といふ概念の定義:
無とは、人が差異に函数関係を認識してゐない場合の隙間のことである。

上記の空といふ概念の定義を知れば、般若心経のいふところは難しくなく、論理的に理解することができます。
色即是空、空即色是。世界は差異でできてゐる。色即是無、無即色是はない。」

歴史的には、一二三祓(ひふみはらひ)の名前がさうであることからみて、八をヤと読む音の
方が、1万5千年来の言はば縄文読みで、歴史が古いものでせう。さうすると、いつの時代か
らとは知りませんが、時代が降れば、一説によればイチ・ニイ・サンの系列はシナ渡来といふ
ことですが、ハチの読みもやつて来たといふことになり、ハチと読んで、同じ高天原のヤの音
義の値を、しかし遅れた使用法である分だけ八の意味を俗化させて持たせたといふことになり
ます。その例を思ひつくままに挙げてみれば、捻(ねぢ)り八巻とか(確かにこれは縄文的で
注連縄や横綱に通ずる)、南総里見八犬伝とか、八方美人とか(何故四方美人といはないかと
いへば、なるたけ高天原の八にあやかることのできるほどに美しい、しかしそんな美人のやう
なものはこの世にはないといふ意味でせう)。しかし、それならば、石清水八幡宮はどうだと
いはれれば、返す言葉がありません。

しかし、八をヤと読む音の方が縄文読みであるならば、ハチといふ音では高天原や富士山を表
すことはできないといふことは、後者はいささか露骨に聞こえ、前者はやはり本来の日本語ら
しく優しさがあると思ふことにあると思ひますが、如何でせうか。[註11]

[註11]
日本語の五十音表は行と列からなつてゐると書けばお分かりのやうに大変論理的にできてゐて、一音一義であり、
これら音義と字義の間には体系的な、音韻を含めた意味と文字の変形の規則があります。現代仮名遣いと称する
ものが、この日本語の古来持つ体系を滅茶苦茶にしてしまひ、日本人の思考能力を甚だしく貶めてしまつてをり
ます。旧に復するべきことです。これは間違ひなく、役者の科白理解と発声能力に悪い影響を及ぼしてゐる筈です。
画家林武著『国語の建設』(103ページ)に次の、ヤ行とヤの音義に関する次の解説があります:

「「や行子音」は舌側を上顎側に打ち合せて息気をその間にさへぎりはじいて発音する。つまり、「舌側打音」
ですから、入没催眠、弥漫(びまん)的意義の本性本能をもつ語類はすべてこの「や行」の音義に蔵する。弥漫
はみちわたるの意味である。」

八をヤと読んで、これが「弥漫はみちわたるの意味である」ならば、大八島に降りてきた八の意義はよく理解す
ることができます。高天原のことが大八島に満ちわたるようにといふ願ひがヤの音に籠められてゐる。さうして
これが、入没催眠といふのであれば、これはまた興味ふかい解釈が可能でありませう。
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(2)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とは何か
瓊(に)の文字の意味は、素材の石の赤い色といふことです。八尺の勾玉ともいひますので、
八(ヤ)は単位の前につくといふ原則通りです。もし八尺の勾玉(やさかのまがたま)の発音
であれば、縄文時代以来、ヤサカは弥栄(いやさか)に言葉遊びをして、無窮の繁栄とめでた
さを祈る言葉と掛け言葉にしたといふことが十分に考へられます。

八尺の勾玉が高天原で製作された事情は上記(1)の通りですが、しかし、さて勾玉には次の
二つの働き(機能)があります。

①服飾の飾りものとしての勾玉
②祭りの用具としての勾玉

(以下このページは余白)
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勿論八の文字を冠される勾玉は後者②ですが、しかし同じ形の勾玉を服飾の飾りとして身につ
けてゐるといふことであれば、次の例は、天照大御神は樹木であり、従ひ一柱(ひとはしら)
と数へる神なのであり、また次に②の例として引用する榊(さかき)といふ神木に等しい存在
であるといふことになります。神棚に飾る榊の木の形もまた野外に生える榊の木も三角形をし
てゐて、高天原0を思はせます。

ここにある隠喩の接続関係は、次のやうに

天照大御神(神木、柱、榊、neutral)

といふことになり、勾玉は、天照大御神の此の性質を象徴してゐるといふことになります。と
すると、

八尺の勾玉(高天原、天照大御神、神木、柱、榊、neutral)......(A)

といふ意味を有するのが、八尺の勾玉といふことです。

上記①服飾の飾りものとしての勾玉の例の引用です:

「そして、今度は須佐男命が、天照大御神の左の御(み)みづら(角髪。つのかみ)に巻いて
あった勾玉を手に取り、ゆらゆらと揺らしながら天之真名井(あめのまない)の水ですすぎ、
噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は正勝吾勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつ
かちはやひ あめのおしほみみのみこと)、右の御(み)みづらに巻いてあった勾玉を、噛み
に噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(天菩比
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神(あめのほひのかみ))。御蔓(みかずら)[註12](蔓草(つるくさ)を輪にして頭に
巻き付けた飾り)に巻いてあった勾玉を、噛みに噛んで、吹き出した息の霧に成った神の名は
天津日子根命(あまつひこねのみこと)。左の御手(みて)に巻いてあった勾玉を、噛みに噛
んで、吹き出した息の霧に成った神の名は活津日子根命(いくつひこねのみこと)、このよう
に天照大御神の勾玉から五柱の神が成りました。」
(同書46ページ)(原文は傍線が太字)

[註12]
蔓の字は原文は糸偏に蔓。

上記②祭りの用具としての勾玉の例の引用です:

「そして、天児屋命(あめのこやねのみこと)と布刀玉命(ふとたまのみこと)をお召しに
なって、天の香具山の牡鹿の肩の骨を抜き取って、天の香具山の、枝ぶりよく茂った榊を(さ
かき)を根ごと掘り出して、上の枝には八尺勾玉(やさかのまがたま)の五百箇(いおつ)の
御(み)すまるの珠(たま)を取り付け、また中の枝には八咫鏡(やたのかがみ。大きな鏡)
を取り付け、下の枝に木綿と麻の布を取り垂らし、この見事な供え物を布刀玉命(ふとたまの
みこと)が取り持ち、天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝福の祝詞(のりと)を奏上しま
した。」
(同書51ページ)(原文は傍線が太字)

上記(A)の理解による八尺の勾玉に加へて、更に、たとへ小さな穴であれ穴が空いてゐる以
上、これがみづらといふ髪型に付けるための紐を通す穴だと仮定しても尚、勾玉に穴を紐を通
して、しかも単位化して、全体を1にすることができる[註13]、即ち存在を生み出すこと
のできる此れは形態ですから、高天原0と1は存在である以上、それは既に汎神論的存在であ
るのです。即ち、八尺の勾玉もタマである以上、木霊や御霊と同じく、それは永遠に存在自身
に繰り返し再帰するのです。安部公房の世界の存在と同じやうに、存在は天地といふ時間の無
い垂直方向の差異に存在し、その世界には時間は存在せず、従ひ其処では物事の始めも終はり
もないからです。今の世の女性の身につける首飾り(necklace:ネックレス)や耳飾り
(earring:イヤリング)といふものも、それが紐で通されてゐるものであれば、かうして古代
的な意匠であり、神話的な意匠であるのです。
もぐら通信
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[註13]
存在の穴については安部公房論の中で諸処言語論理とtopologyの問題として論じて来た通りですが、アメリカ文
化との関係で、アメリカ人の発明したドーナツとの関係で存在である凹の形象を論じた『安部公房のアメリカ論
(3)∼贋物の国アメリカ∼:ドーナツとは何か』(もぐら通信第80号)をお読みください。

今上の勾玉の写真を眺めてふと思ひましたが、これはそのドーナツ贋物通貨論に私のした分類の五つの型のうち、
(1)環穴型通貨に相当します。通貨は(安部公房の存在論の記号を使へば)《現存在》でありますから、更に
其の上位にまた根底には《存在》があることは、アメリカといふ一神教のtopologyの中で生まれたドーナツ贋物
通貨論で論じた通りですので、私たちの世界では尚一層に貨幣といふ又は貨幣に相当する《存在》がありませう。

「 『CuriousCurrency』に掲載の古今東西の通貨の実例の写真を基にして下記の分類を得た。
(1)環穴型通貨:穴に紐を通して単位化できる形態
(2)半環型通貨:同書75ページ以降を参照。半分環状であるといふことは、その隙間は上記(1)の環穴貨
幣の表現形態の変型であるといふことがいへる。
(3)棒穴型通貨:棒型通貨に穴のある通貨(同書23ページ)
(4)板型通貨:棒型通貨を潰した形の平面の貨幣。動物の皮の通貨、織物の通貨などあり(同書29ページ以
降、また98ページ以降参照。
(5)棒型通貨:棒状にして単位化された形態。
古今東西、全ての人類の歴史上の通貨は、これら5つの分類のどれかに当て嵌まります。上の註に列挙されてゐ
る通貨もみな上記5つのどれかに分類される。詳細は『言語貨幣論』にて詳述します。」

『CuriousCurrency』に、文字資料がないので証明はできないが、しかしmoney(マネー)、即ち貨幣《存在》
であるかもしれないとして所収の勾玉の写真は次のものです。
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存在といふ因子(element:エレメント)を入れると(A)は次のやうになります。

八尺の勾玉(高天原、天照大御神、神木、柱、榊、neutral、存在、X)......(Aー2)

これを存在を中心に考へて、内部と外部を等価交換すれば、

存在(八尺の勾玉、高天原、天照大御神、神木、柱、榊、neutral、X)......(Aー3)

となります。

②祭りの用具としての勾玉の例の引用は、天(あめ)の高天原の例でしたが、大和朝廷に国譲
りをした出雲国に③『出雲國造神賀詞』(いづもこくぞうかむよごと)[註14]といふ祝詞
があります:

「大穴持命(おほあなもちのみこと)の和魂(にぎみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に取り
託(つ)けて倭大物主櫛嚴玉命(やまとのおほものぬしくしみがたまのみこと)と御名を称へ
て大御和(おほみわ)の神奈備に坐(ま)せ、阿遅須伎高孫根命(あぢすぎたかひこねのみこ
と)の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命(ことしろぬし)の御魂を宇奈堤(うなで)
に坐せ、賀夜奈流美命(かやなるのみこと)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命(すめ
みまのみこと)の近き守神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。」

【現代語訳】
「その時大穴持命(おほあなもちのみこと)の申し上げられますには、皇御孫命(すめみまの
みこと)のお鎮まり遊ばされますこの国は大倭国でありますと申されて御自分の和魂(にぎみ
たま)を八咫鏡に御霊代とより憑かせて倭の大物主なる櫛厳玉命(くしみがたまのみこと)と
御名を唱えて大御和(おほみわ)の社に鎮め坐させ、御自分の御子、阿遅須伎高孫根命(あぢ
すぎたかひこねのみこと)の御魂を葛木の鴨の社に鎮座せしめ、事代主命(ことしろぬし)の
御魂を宇奈提(うなで)に坐させ、賀夜奈流美命(かやなるのみこと)の御魂を飛鳥の社に鎮
座せしめて皇御孫命(すめみまのみこと)の御親近の守護神と貢りおいて御自分は八百丹杵築
宮に御鎮座せられました。」
(『出雲國造神賀詞』:http://www.ookuninushiden.com/newpage22.html)

②祭りの用具としての勾玉の例と③『出雲國造神賀詞』の例を比較して勾玉だけに焦点を絞る
と、次のことが判ります。

(1)③『出雲國造神賀詞』に歌はれる祭祀では「大穴持命(おほあなもちのみこと)の和魂
(にぎみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に取り託(つ)けて」とあるので、和魂を実際に八
咫鏡に取りつけたものでせう。
もぐら通信
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しかし、②祭りの用具としての勾玉の例をみると「天の香具山の、枝ぶりよく茂った榊を(さ
かき)を根ごと掘り出して、上の枝には八尺勾玉(やさかのまがたま)の五百箇(いおつ)の
御(み)すまるの珠(たま)を取り付け、また中の枝には八咫鏡(やたのかがみ。大きな鏡)
を取り付け、下の枝に木綿と麻の布を取り垂らし」とありますから、『出雲國造神賀詞』に歌
はれる祭祀でもきつと奈良にある「天の香具山の、枝ぶりよく茂った榊を(さかき)を根ごと
掘り出し」たものに、その「中の枝には八咫鏡(やたのかがみ。大きな鏡)を取り付け」ると
ありますから、和魂とは、目に見えぬ魂などといふ物(もの)ではなく、実は具体的な物(ブ
ツ)を取り付けたのであつて、それは勾玉の別称であらうといふ事です。しかし、これは出雲
国といふ、大きな国とはいへ、高天原ではなく大八島(全体)の下位(部分)に位置する国の
勾玉ですから、類似の祭祀を執り行つても、それは勾玉ではなく、第一位の魂(たま)は和魂
(にぎみたま)と呼ばれ、それ以外の普通の魂(たま)は御魂(みたま)と呼ばれる。御魂も
また、和魂とは異なる材質と形状の勾玉であるのではないかと私は考へます。勾玉の玉であれ、
御魂の魂であれ、タマといふ日本語には相違区別はなく、しかし、互ひの国の立場の違ひを漢
字を使つて文字の上で其の立場の違ひを示し、記録として明らかにしたといふことではないで
せうか。

そして、上記(A−3)に、後述する草薙剣を加へて、あらかじめ三種の神器として因子を入
れると次のやうになります:

存在(三種の神器(八尺勾玉、八咫鏡、草薙剣)、高天原、天照大御神、神木、柱、榊、
neutral、X)......(Aー4)

言語機能論としてあるtopologyの世界では、領域が異なると概念が同じでも別の名前で呼ぶと
いふ例は「『カンガルー・ノート』論(5)」(もぐら通信第70号)の「5。1。4 『カ
ンガルー・ノート』の形象論:(18)駐車場」で、『詩人』といふ詩の冒頭一行目の庭とい
ふ名前が、同じ概念のまま最後の長編『カンガルー・ノート』では駐車場といふ名前(正確に
は「満願駐車場」)で呼ばれてゐることは詳述した通りです。……(B)

大穴持命(おほあなもちのみこと)とは、大国主命の別名です。大穴といふ文字には、凹の形
象に備わる存在といふ概念を表しますが、この形象と概念を表す名前で大国主命が呼ばれるの
は、「大穴持命(おほあなもちのみこと)の和魂(にぎみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に
取り託(つ)けて」高天原といふ存在の三階層に上位接続する場合にさう呼ばれるといふこと、
これが此の異名、別称の場合であり局面であり分脈(context)であるといふことです。安部
公房の『カンガルー・ノート』の世界であるならば、言はば、庭といふ名前で呼ばれる同じ概
念が、ここでは満願駐車場と呼ばれて次の存在へと上位接続するわけです。[註15]後述す
る古墳の石室もまた、横穴式であれ竪穴式であれ、存在の形象である凹といふ一箇所だけ開口
部のある形であれば、それは存在を示しますから、水平垂直いづれであつても、それは高天原
に存在する存在の凹といふことになります。これはtopologyですので、縦横を問いませんから、
天照大御神の隠れた岩屋戸もまた、存在の凹といふことになります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ77

[註15]
「『カンガルー・ノート』論(5)」(もぐら通信第70号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:
(18)駐車場」より引用してお伝へします:

「安部公房が最初に駐車場を詩の中で詠つた詩の第一連を引用します。あなたは、安部公房が詩の中で駐車場を
詠むなどといふことがあるのか、『没我の地平』にも『無名詩集』にも駐車場などない、大体リルケが駐車場を
歌つたなどといふ事は聞いたことがないといふでありませう。大切な事は、言葉には意味はなく、その言葉がど
んな文脈(context)でどのやうな概念が生まれ、その同じ概念に、ある文脈ではこの名前を、この文脈では此の
名前を、その文脈では其の名前をつけて呼ぶのだといふことを、あなたが思ひ出すことなのです。即ち、言葉の
意味は使ひ方によつて定まる。

これは言語機能論の視点からの説明ですが、他方、topologyで説明しても同じ事で、『スプーン曲げの少年』の
スプーンと『ひげの生えたパイプ』のパイプは、同じ形象であるのです。この形象の持つ意味(正しくは概念)
は、ある文脈、即ち『スプーン曲げの少年』ではスプーンと呼ばれ、別の文脈、即ち『ひげの生えたパイプ』では
パイプと呼ばれる。この二つに共通するのは凸凹といふ形象の共有ですし、凸は凹の陽画、凹は凸の陰画です。
凹は存在の形象である事は諸処で述べて来た通り。さうであれば、凸は時間の流れてゐる(やうに見える)陽画
としてあなたの見る現実のことです。『カンガルー・ノート』といふ作品の中に一体どれだけの凹といふ存在が
存在するかは、日常的な形象の普通の名前として一部を抜粋して「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象
論」の「(16)風の音」で、また作品全体にわたる普通名詞としての存在の名前は『附録 章別詳細「函数形
式と存在のプロセス形式」』で列挙して示した通りです。」

このやうに、日本の神話の特徴は、日本の神々が、頻度高く、場合場合、場面場面、局面局面、
分脈ごとに応じて、別の名前で呼ばれてゐることです。これは、日本民族が縄文時代以来
topologyで考へてゐることの、また言語論としては言語機能論であることの証左です。旅する
ご隠居が水戸の光圀公であつたり、いなせな江戸つ子の金さんがお白州で片肌脱いで桜吹雪を
見せると遠山の金四郎であつたりといふのと同じで、役割の二重性であり、この二重の役割の
双方は、かうしてみるとお判りの通り、等価で交換が可能である。即ちnetwork topologyとシ
ステム論の視点で眺めると、冗長性(redundancy)が確保されてゐて、常に互ひにbackup(複
製が保存)されてゐるといふことです。[註16]安部公房文学の場合には、この冗長性と複
製の問題が、言葉による命名といふ人間の行為と、存在の招来と出現の関係であることは、さ
うしてそれが『人間そっくり』といふ小説に明らかにみるやうに、安部公房が自分の世界観、
言語観、文学観をtopologyを使つて表してゐることは、読者周知の通りです。あなたは人間そ
つくりの火星人であるのか、火星人そつくりの人間であるのか。[註17]あなたは地球人な
のか、火星人なのか、大国主命なのか、大穴持命(おほあなもちのみこと)なのかは、あなた
は本物のあなたなのか、贋者のあなたなのかといふS・カルマ氏の問題と全く同じといふわけ
です。

[註16]
このことは日本語の本質に関はる、即ち日本の国家論に関わることです。詳細は『安部公房とチョムスキー
(6)』(もぐら通信第78号)の「4.1 チョムスキーの疑問に回答する」に詳述しましたのでお読みくださ
い。日本語に関するチョムスキーの疑問に回答して、日本語の冗長性の保証と保障が、五十音表にあることを指
摘しました。
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[註17]
『何故安部公房の猫はいつも殺されるのか?』(もぐら通信第58号)の「IV 安部公房の小説観と世界認識」
を、あるいは『カンガルー・ノート』論(1)(もぐら通信第66号)の「2。1 呪文とtopologyと変形の関
係」の同じ第58号からの引用をお読みください。安部公房の小説観と世界認識をよく知ることができます。

ちなみに、備忘的に追記しますと、現在の神道の魂(たま)の分類は、一霊四魂といはれてゐ
て、次のやうな分類です。これらの魂一つ一つに、それぞれの勾玉が対応してゐるのではない
かといふのが、これは仮説ではなく、私の推測です。間違つてゐるかも知れませんが、かうで
あれば具象から抽象にわたつて神道の体系性のあることの証明になりませう。

①荒魂(あらみたま):新しいものを生み出す働き
②和魂(にぎみたま):優しさや平和を生み出す働き
③幸魂(さきみたま):収穫をもたらす働き
④奇魂(くしみたま):奇蹟の様な力を発動させる働き

平安時代まで遡ると、上記四つを統合する働きをする、次の御魂があつて、一霊四魂ではなく、
五霊五魂といふ論理です。

⑤精魂(くはしみたま)

タマといふ日本語に漢字を借りて私たちは、御魂と書き、御霊と書きますが、これもまた、私
たち日本人の世界では区別をしないタマシヒを、大陸支那の漢民族は区別をするものでありま
せう。私たちが1として感じ考へるタマシヒのタマを、漢字を用ゐて漢語の概念を識別して階
層化すると、カミとの関係では次のやうになります。勿論、私たち日本人はtopologicalに縦の
ものを横にして等価交換する能力を遺伝子に生まれる「以前」に保有してをりますから、両方
でものを考へてゐる証(あかし)として二つの図を示します。かうして考へても、太安万侶に
限りませんが、古代に漢語と漢字を輸入するにあたつては、文章博士といふのでせうか、言語
に精通した博士たちが何人もゐた筈です。太安万侶は其の知識の上にあつて稗田阿礼の口承を
転記することが出来た。下図はこのまま翻訳の要諦であり、日本人が漢字漢語を輸入した時の
換骨奪胎の構造図です。
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ページ

一霊四魂の論理は、江戸時代末期から明治時代の神道家、本田親徳によって取り上げられ、大
本教の出口王仁三郎が広く広めたとされてゐるとのことです。取り上げられといふ意味は、既
に明治時代の神祇官の世界で、いはれてゐた論理が一霊四魂であるといふ意味でせう。しかし、
天地初発の高天原のtopologyの図形を眺めると、私は五霊五魂の方が、それぞれが独立した霊
と魂といふタマであつて、全体としてまとまりのあるといふ並行四辺形の意義に通じてゐるや
うに思ひますが、あなたは如何。次のやうな図になります。勿論5つの位置は、場合により局
面により文脈により、このtopologyが許す限り、相互に等価交換可能です。
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一霊四魂の論理のtopologyでは次のやうになります。これはこれで意味のあるnetwork
topology(ネットワーク・トポロジー)です。
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二つのtopologyの違ひを説明します。

上で、神、霊、魂の階層は次のやうになつてゐることを説明しました。

神>霊>魂

といふ三階層です。

さうであれば、五霊五魂の場合には、襷掛けの交差点、即ち安部公房のいふ存在の十字路にあ
る精魂は、上位接続点ですから、神>霊>魂の階層に従つて、次のやうな垂直方向のtopology
があることになります。付番の順序は、高天原1の付番の順序とします。すなわち、高天原0
の造化三神が最初の三角形を形作つて、その後に下から「葦の芽のように伸びてきた」上位接
続線から霊4が生まれ、この霊4によつて霊5が生まれて、最初の三角形が反対側に裏返る形
で二つ目の三角形がなり、双方が対称性をもつたまま全体として高天原1がなりたつといふ順
序です。この霊の階層の上の階層の並行四辺形は、霊4から上位接続線が伸びて接続してゐる
神々のtopologyの階層といふことになります。
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これに対して、一霊四魂の場合には次のtopologyになります。

かうして比較をして結論を言ひますと、二つの考へ方の違ひは、

①五霊五魂は、わかりやすい階層化に着眼したといふこと
②一霊四魂は、階層の構成要素の二重機能化と、従ひ各階層の二重機能化に着眼したといふこ

と、このやうなことになります。

一霊四魂の言語論上の意味は、上記の神・霊・魂の垂直ピラミッド階層図でいふ、霊はタマ2、
魂はタマ1といふ対応関係をみますと、本来の日本語の概念であるタマ1とタマ2はタマとし
て一つでありますから、これらを一つとみて、霊と魂の関係を考へて、それで階層の構成要素
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の二重機能化に至つたといふことになります。これはこれで、大和言葉を中心にし、大和言葉
に基礎を置いた一つのものの考へ方です。

他方、五霊五魂は、高天原のtopologyの持つ上位接続線の性格に適つてゐるやうの思ひます。
何故ならば、上位接続線とは、高天原1と2の接続は「葦の芽のように伸びてきたもの」(P
16)により、そして、高天原2と高天原3については、高天原2の交差点は男神女神と独神
二柱の交差点であつて、高天原3の交差点は天の浮橋といふ男女神一対同士の交差点であり、
この二つの交差点を接続する上位接続線には敢へて名前がなく、従ひ、発信と受信の双方の階
層の面に同じ何かの名前を共有してゐないからです。

一霊四魂の論理では、神々のtopologyの交差点に霊が入ることになります。この本田親徳とい
ふ神道家は幕末明治といふ激動の時代にあつて、近代ヨーロッパの圧倒的な物質文明に直面し
て、人間の魂を中心に、それも大和言葉といふ本来の日本人固有の日本語に戻つて此れを大切
にして、(神や霊を人に降ろす帰神法といふ方法を考へ体系化を図つたといふことですから、)
一霊四魂の論理といふ階層の構成要素の二重機能化と、従ひ各階層の二重機能化に着眼したの
ではないでせうか。私がこの一霊四魂のtopologyをみていへることは、つまり、近代ヨーロッ
パの文明の根底にある唯一絶対神の否定による個人の独立に相対するに、日本人としての個人
の独立を、日本古来の神話の中で図つたといふことです。

(2)③『出雲國造神賀詞』 [註18]に歌はれる祭祀では「八咫鏡(やたのかがみ)に取
り託(つ)けて」とあつて、託といふ字を、つけると読ませてゐるので、やはり八咫鏡に実際
にこれを取り付けると同時に、託するのですから、このまま読めば、祈る者が八咫鏡を通じて
存在である高天原に勾玉といふ(後述するやうな)半分だけの形状であるタマを送り届けて、
また再帰することによつて曲玉(まがたま)が完璧なトーラスといふtopologicalな形象にな
つて戻つて来る、即ち自分の魂の完成と其の繰り返しの永劫回帰を祈る儀式と解することがで
きるといふこと。これに対して、

(3)②祭りの用具としての勾玉の例では「枝ぶりよく茂った榊を(さかき)を根ごと掘り出
して」とあるので、神前でのやうな象徴的な榊の枝を小さく立てるのではなく、自然木をその
まま、勿論大きさに限度はありませうが、掘り出して一本の階層化された宇宙樹として、即ち
高天原のこととして見立てて、天地初発の高天原のtopologyがさうであるやうに、存在の3階
層のそれぞれに対応して「上の枝には八尺勾玉(やさかのまがたま)の五百箇(いおつ)の御
(み)すまるの珠(たま)を取り付け、また中の枝には八咫鏡(やたのかがみ。大きな鏡)を
取り付け、下の枝に木綿と麻の布を取り垂ら」すこと。即ち、言はば松竹梅の階層があつて、
上から、高天原では、
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①八尺勾玉
②八咫鏡
③木綿と麻の布

といふ上下の順序のあること。しかし、

(4)地(つち)である大八島では、しかも国譲りをした出雲国でありますから、この順序が、
「大穴持命(おほあなもちのみこと)の和魂(にぎみたま)を八咫鏡(やたのかがみ)に取り
託(つ)けて」となつてゐて、即ち

①八咫鏡
②和魂(即ち勾玉)

といふ順序になつてゐること。これは垂直方向の対称的な等価交換といふことができます。し
かし、位相を変へてありますから、また其の世界は其の世界で独立してゐるといふことを保証
した上での等価交換といふことになります。しかし、八咫鏡の名前は変はりませんから、これ
はやはり出雲国の上位者としてある大和朝廷が、出雲国に対しては、そのまま高天原に上位接
続されてゐることの権威と権力の証明となつてゐること。この等価交換による均衡(バランス)
の取り方は、こころの問題としては、双方の国と民にとつての平安と安寧を祈り、また祈るの
みならず、具体的な様式の決定にまで力を及ぼしてゐる筈です。

(5)上記の言語規則(B)に従つて、高天原に対して大八島の同じ三角形の美しい山容は、
富士山とは呼ぶことはできませんから、大和朝廷に対する国譲りによる出雲国の統治の正統性
を保証するために、類似の山が神奈備と呼ばれてゐるといふこと。この論理は、後述する
「4。万葉集とは何か(3)何故仁徳天皇陵以下の御陵である古墳は記紀に書かれてゐないの
か」を説明する論理と同じ論理です。即ち、国を譲るといふ行為は、譲られるもの(大和朝廷)
によつて、譲る側の国の正統性が譲られる側の正統性と同質であることを保証され保障される
行為であるといふことです。これは国の階層の話ですが、人の階層にあつても、この原理は変
はらないと考へることができます。電車の中であなたがお年寄りに席を譲るといふ行為の正統
性は、このやうにお年寄りによるあなたがさうして其のままゐることの正統性の保証と保障で
あるといふ意義を有するといふことになります。これはこのまま、私たちの目に見えない道徳
であり、目に見えない文化の重要な一部でありませう。

[註18]
コトバンク:https://kotobank.jp/word/出雲国造神賀詞-1145880
「世界大百科事典 第2版の解説
いずものくにのみやつこのかむよごと【出雲国造神賀詞】

出雲国造が新任の時,出雲の神々(186社)を1年間潔斎して祭り,その神々の祝いの言葉を朝廷に出て奏上すると
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ともに臣従を誓う時の祝詞(のりと)。終われば帰国し,再び1年間潔斎する。第1段は出雲での祭祀,第2段は
神賀詞奏上の起源,第3段は神宝・贄(にえ)を奉る次第を述べ,天皇の世を寿(ことほ)ぐ。天武朝の成立か。
文章は荘重古雅。《延喜式》祝詞27編中の雄編の一つである。【西宮 一民】

世界大百科事典内の出雲国造神賀詞の言及
【出雲国造】より
…しかし6世紀後半から,まず出雲西部に,ついで意宇平野の東にもヤマト朝廷の制圧が及んでくると,服属して
出雲国造とされた。服属のようすは,《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみられるように,出雲国内186社の
神々の総意を代表するかたちをとり,大穴持命(おおなもちのみこと)の和魂(にぎたま)を三輪山・葛城山・飛
鳥おのおのの神奈備と雲梯(うなて)神社の地に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として鎮座させ,
祝いの神宝の品々を献上するというかたちをとっていた。このあと,出雲氏,姓は臣を名のるようになった出雲
国造は,采女(うねめ)・トネリを都へ送り,出雲国内に屯倉(みやけ)の設置や各種の部民(べみん)の措定を
すすめ,旧領域下に評(こおり ひよう)制の施行も認めるようになった。…

【国譲り神話】より
…つまり国譲り神話は各地の首長たちが朝廷へと服属していった歴史的過程を一回的に典型化して,その由来を
語ったものなのである。そしてこの神話を儀礼として表現したものが《出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつ
このかむよごと)》の奏上であった(《延喜式》)。これは出雲国造が代替りごとに宮廷に参上して寿詞(よごと)
を述べ,諸々の国造の総代として,朝廷への服属を誓う儀式であった。…
※「出雲国造神賀詞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 」

勾玉に関する最後の問ひです。

問ひ:何故勾玉は、曲玉とも書くやうに曲がつてゐるのでせうか?
答へ:一つめの答へは、玉は高天原にあつては完璧な玉ですが、しかし時間の中に降りてくる
と、何故なら世界は差異であり、時間もまた差異でありますし、空間もまた差異でありますか
ら、時間と空間の交差した此の現実の中で空間的な差異である玉もまたものとして歪み(連続
量)を生ずるといふものです。二つ目の答へは、高天原0と高天原1の関係に倣つて、前者を
反対側に返して後者を形づくるといふ対称性の考へ方に則つて、一つの勾玉はもう片方の勾玉
と併せて穴の空いた真円を二次元ならば構成し、三次元ならばやはり同様に穴の空いた玉を構
成するといふ着想であるといふものです。即ち、勾玉は、半分だけの、変な言ひ方ですが、物
質的な言挙げであつて、残り半分は余白と沈黙の中に置くといふtopology(位相幾何学)の発
想といふわけです。『安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国アメリカ∼:ドーナツとは何か』
(もぐら通信第80号)で論じたtopologyの形象の一つである、アメリカ人ならばドーナツに
当たる形象が、これです。

「4。何故ドーナツは通貨の贋物なのか?
超越論に基づく私の仮説によれば、環穴型通貨が、超越論的な、即ち時間を超えた、時間に無
関係の、従ひ始めも終はりもない、最初の、始原の通貨の形である。超越論即ち汎神論的存在
論であるtopologyではこの形をトーラス(torus)[註8]と呼んでゐます。即ち、
もぐら通信
もぐら通信                          86
ページ

通貨の本質とは、穴である。

といふこと、即ち、

穴があるから通貨になる。

といふことなのです。

[註8]
https://ja.wikipedia.org/wiki/トーラス  より:
「最もありふれたトーラスは、円(周)の外側に回転軸を置き得られる回転体、いわゆる「ドーナツ型」であ
る。」(傍線引用者)」

これは何も特殊なことでは無く、私たち日本民族の古代の、間違ひなく縄文時代以来の論理と
感情と感性の表現です。私たちは今でもいつも半分しか言葉にせず、またものに表さない。そ
の例として中臣の祓詞(はらひことば)、通称大祓(おほはらひ)と呼ばれる祓詞の最初の段
落の後半を引用します。これは祓詞ですから、否定形のものの言ひ方になつてゐますが、これ
を肯定形で読み直して見ると、私たち自身のこころがよくわかります。わたしたちは木々が言
葉を話す声が聞こえるのですが、しかし、それは言葉といふ言の端(ハ)の半分だけ、片葉だ
けが話をするのです。

「(略)如此依(かくよさ)し奉りし國中(くになか)に 荒振る神等(かみがみ)を 神問
(かみとは)しに問(とは)し給ひ 神掃(かみはら)ひに掃(はら)ひ給ひて語問(ことと
ひ)し 磐音(いわね)樹立(こたち)艸(かや)の片葉をも語止(ことやめ)しめて 天
(あま)の磐座(いわくら)押放(おしはな)ち 天(あま)の磐戸(いわと)を押開(おし
ひら)き 天(あめ)の八重雲(やえぐも)を 伊豆の千別(ちわき)に道別(ちわき)て 
天降(あまくだ)し依(よさ)し奉りき」

上記の下線部のいふことは、古代にあつては、カヤの木(といふ宇宙樹)は葉つぱを介して人
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もぐら通信                          ページ87

に語りかけるものであるが、しかしそれは葉つぱの半分だけの葉が語るのであるといふことに、
この文はなります。これは、高天原0と高天原1の関係に同じです。また、あなたが折り紙を
半分に折つて開き、次のやうに名前を置いても良い。

これはそのまま安部公房の「沈黙と余白の論理」といふ名前をつけて、私たちの知るところ
です。安部公房は半分しか言挙げしない。安部公房はリルケにこれを学びましたが、『若き
詩人への手紙』の中でリルケ曰く、私の詩の中のGodという名前はキリスト教のGodでは無
く、アラブのGodに近いと言つてをりますので、あるいは私たちの神々に通ずるやうな、汎
神論的な側面を持つアラブのGodであるのかも知れません。アラブの、といふことは、イス
ラム教のといふことでありませう。

さて、上掲の折り紙の図に示したやうに、私たち日本人は二次元といふ平面の次元で最初も
最後もものを考へる民族なのです。即ち二次元で折り紙を折り始めて立体といふ三次元を折
りなし、思考論理上は更に高次の次元を考へて折り紙を折ることができるわけですが(これ
は安部公房の用語でいふ問題上昇[註19])、最後にはまた(安部公房の用語を用ゐれば)
問題下降[註19]して来て、二次元に収まるのです。これは文法学の世界では話法の問題
であり、何故私たちは俗称村社会を作るのかといふ論理の説明になるのですが、これは稿を
あらためて論じます。今結論をいへば、あなたは上の折り紙のやうな二次元の文が生成でき
れば、世の中の役に立ち人の役に立つて、信頼され信用を得て、安心して生きて行けるとい
ふことなのです。
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[註19]
問題下降については、成城高等学校の校友会誌に発表した安部公房18歳の論文『問題下降に依る肯定の批判
――是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である――』(全集第1巻、11ページ)に詳しい。また、同じことを、
安部公房がやはり高校生の時代に読んで、しかし公言してゐないフランスの17世紀の哲学者デカルトとの関係
で此れを論じ、解釈した『Mole Hole Letter(4):デカルト』(もぐら通信第69号)をお読みください。

(3)草薙剣とは何か
これもtopologyで解読することにします。

この基本模型(モデル)図を念頭に置きながら次のやうに考へます。

まづ思ふべきことは、この剣が、上述の通りに須佐男命が八岐大蛇を退治した際に、その尻尾か
ら出てきた太刀であるといふことから、これは八といふ文字のあることですので、高天原0に関
係の深い太刀であるといふことです。これが一つ目の理解です。

二つ目の理解は、上のtopologyの図を見ますと、草薙ぎとは、草を薙ぐといふ意味でありませう
から、天(あめ)に対するに地(つち)の草を薙いで、これを平らかにする、即ち大八島を安ら
かにするといふ意味でありませう。

三つ目の理解は、草は地(つち)のことですが、しかし上の私たちの縄文のtopologyは、垂直軸
と水平軸は等価交換が可能でありますので、草薙のつるぎは、高天原から降つて地(つち)の上
で草を薙いでナギを生み出すことのみならず、海の荒波をも薙いで凪(ナギ)を生み出す剣とい
ふ意味も、古代の人たちの言葉遊びと掛け言葉で、あるものと私は考へます。さうであれば、時
代が降つて鎌倉時代に、新田義貞が稲村ガ崎の荒海に剣(つるぎ)を投じて、海がナギになるわ
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けがないのではないでせうか。かうしてみれば、武士の佩く日本刀といふ剣には、新田義貞
の例がさうであれば、すべての日本刀には草薙の剣の神威が宿つてゐると考へることができ
ます。この刀を帯びてゐる人を侍と呼ぶのであれば、武士道といふ道も随分と解りやすいも
のになります。何しろ高天原から一直線に接続されてゐますから。さうであれば、高天原が
neturalな場所である以上、剣の極意は、安部公房スタジオのneutralといふ演技概念と同じ
だといふことになります。[註20]

[註20]
「安部公房スタジオの演技概念『ニュートラル』と森鷗外の『都甲太兵衛』」(もぐら通信第36号)と題して、
武士道と安部公房の演技論の中核概念であるneutral(ニュートラル)を同じものとして論じました。この概念
は安部公房と三島由紀夫との共有する数ある接点の一つであり、また三島由紀夫の発見者、安部公房在学当時
成城高等学校の尋常科の教授職であつた蓮田善明と共有する概念でもあります。これら3人の関係については別
途論じたい。

私の積年の疑問は、何故天皇家の歴史的な連続性(皇統)を語る時に、その連続性をいふた
めにいつも天照大御神が祖神であるからだといふのであらうかといふ事があります。これだ
けでは、天皇家の持つ三種の神器との関係の十分な説明ができない。天照大御神は、高天原
3に現れた⑬伊耶那岐神(いざなぎのかみ)の左目から、黄泉の国から逃れたあとの禊をし
た時に地(つち)1(大八島)で生まれた神ですから、やはり高天原0か又は高天原1から
の説明を、天皇家の歴史的な連続性(皇統)について語るのでなければ、天皇家が何故三種
の神器を保有するのかの説明ができないといふ事です。
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ダウンロードは:https://ja.scribd.com/document/377846038/神々のtopology-2

高天原0は、3といふ数字からなる存在の世界であることから、3つの神器があるのだとい
ふ説明は解りやすく、また基本模型図に基づく(基本模型図の3も含めて)上述の考察にも
合致してゐる。

それに、天照大御神だけを唯一の祖神だと主張することは、私たち日本人のtopological(位
相幾何学的)な対称性の論理と感覚に少しも合はない。といふのも、同じ禊に関して、⑬伊
耶那岐神(いざなぎのかみ)の右目からは、太陽に対して今度は月の神である月読命(つく
よみのみこと)が誕生してゐるからです。

言の葉(ハ)といふやうに、私たちは高天原の形象の一つである宇宙樹(高天原0の形象で
ある三角形)の形象については、言挙げせず、言挙げするとしても/したら、半分しか言挙げ
しない。残りの半分は沈黙と余白に置いて隠し、または秘することで宇宙の均衡(バランス)
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を保つ。これが、私たちの、日本語の世界の、日本人の、縄文時代以来のtopologyである。

私の疑つてゐるのは、天照大御神だけを唯一の祖神のやうに今の神道でいふのは、実は明治
になつて、近代ヨーロッパ文明に対抗して日本の国を守る必要上やむなく、即ち消極的な理
由で考へた、即ち一神教のtopologyに対抗して明治の国家が立てた一神教擬(もど)きのも
のではないのかといふ疑問です。

私たちは明治以前までは太陰暦で生活をしてゐた。高天原1の五柱の神々同様に普段は隠れ
てはゐるが、しかしそれ故に一層月読命は、私たちの此の太陰暦での生活に深い関係がある
筈です。明治政府は、唯一絶対神を戴くキリスト教の西洋暦(西暦)を採用し、近代ヨーロッ
パ文明を国家として受け容れて近代国家を構築するために太陽暦を採用したわけですから、
このこともあつて、天照大御神だけを天皇家の唯一の祖神のやうにいふことに至つたのでは
ないでせうか。

これが単なる推測ではなく、仮説としてみても十分に仮説たり得ることは、この仮説によれ
ば、 明治に至るまで伊勢神宮に天皇親拝がまったくないのはなぜか?といふ事実に関する問
ひに答へることができ、一体明治維新とは、神道の側から見れば何であつたのか、何が神道
に起きたのかを知ることができるからです。

吉野裕子著『隠された神々』の(伊勢神宮に)「明治に至るまで天皇親拝がまったくないの
はなぜか」と題した章に、この推論が推論ではなく、陰陽五行思想との関係で事実であるこ
とを示す次の指摘がある。勿論、伊勢神宮に祀られてゐるのは天照大御神です:

「伊勢神宮は大和朝廷の存在する大和から真東に当り、共に北緯三四度五分線上にあって、
東の果の国、傍国(かたくに)である。さらに擬(もど)きと連想を好む日本民族は、東の
海と空が一つになった所に理想郷=常世があると想定し、それをこの世に持ち込んだ。した
がって大和からみて東のさいはて伊勢は、この世ながらの東の神界=常世として、西の人間
界である大和に相対させられていたと思われる(この伊勢と大和の関係は、それが国土の規
模におきなおされると、東の鹿島と西の出雲関係に対応すると私は考える)。伊勢は東西と
いう横の関係においては、この現世における東常世であった。
 神界といい常世といい、名称は美しいがつまるところは彼(あ)の世、後世(ごしょう)
である。したがって現世の帝王である大和朝廷にとっては、伊勢の地を踏むことは禁忌(タ
ブー)であった(明治に至るまで天皇の伊勢神宮への行幸がなかったことは謎とされている
が、それはこのように解釈されると思う。伊勢神宮は要するに大和朝廷にとって、皇室専用
の神界であり常世だったのである。)
 こうして天武朝に至るまで、皇祖神の天照大神だけを奉斎していた伊勢神宮は、陰陽五行
が入り、それと習合することによってその性格を微妙に変える。」
(同書96∼97ページ)(傍線は引用者)
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以上のことから、この引用の事実の示すところは次のことです。

明治政府は、仏教について、飛鳥時代の552年に伝来以来1316年の折角の神仏習合の
歴史を省みずに、廃仏毀釈によつて暴力的に二つの分離を図つたのみならず、陰陽五行思想
についても、672年の天武朝以来の陰陽五行習合の1196年の歴史を省みず、これも分
離して、純粋に神道だけに拠つて近代国家の創設をすることを国家の基本設計(グランドデ
ザイン)としたといふことです。

さうすると、私たち日本人は日本の歴史上、これまでのところ、上の二つの習合も含め次の
三つの習合をしたことになります。

①神仏習合(6世紀)
②陰陽五行習合(7世紀)③
③アメリカ文化の贋の習合(20世紀)[註21]

[註21]
アメリカ文化贋物論にこれまで次のものがあります:

(1)『安部公房のアメリカ論∼贋物の国アメリカ∼』(もぐら通信第22号)
(2)『安部公房のアメリカ論(2)∼『アメリカ発見』を読み解く∼』(もぐら通信第23号)
(3)『安部公房の読者のための村上春樹論 (中):Baseballとは何か?∼Baseballは旧約聖書の創世記の贋
物である∼』(もぐら通信第50号)
(4)安部公房のアメリカ論(3)∼贋物の国:アメリカ∼ドーナツとは何か(もぐら通信第80号)

このアメリカ文化の習合は、贋と冠のあるやうに隠喩(メタファ)としての習合であり、事実ではないが、しか
し、先の戦後のアメリカ文化と文物の流入と流行は誠に凄まじきものあり、これを忘れぬために敢へて三番目に
入れたものです。次の段落の冒頭の傍線部を読みますと、アメリカ文化の贋物性は、この高天原論といふ哲学と
形而上学の方面からいへば、原理による統一的な首尾一貫を有する体系的な説明ができないといふことです。即
ち、あくまでもプラグマティズムの階層までに留まるといふことです。勿論これはこれで、如何にもアメリカ人
らしく、アメリカ文化の魅力ではあるのです。

①と②は、明治維新で壊した。③はこれから分離して壊すことになるものかどうか。しかも、
①と②の習合は、日本の縄文時代以来の神道に、宇宙の原理を言語で体系的に表現するとい
ふ、縄文神道以来日本人の文字にする世界で一番苦手とするところを私たちに代はつて補つ
てくれた習合ではないのだらうか。勿論、これら二つも私たちの古代の祖先が変形して受容
したのは、大地母神崇拝の天地初発・国生み神話のtopologyが此れを等価交換可能であるか
ら受け容れたからであるにせよ。さうして、勿論大地母神崇拝の天地初発・国生み神話の
topologyが示す通りに、私たちに原理がない訳では毛頭なかつたわけであるが、しかし、存
在については言挙げせぬ民族性・国民性である以上、また言挙げしても半分しか言葉にしな
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い私たちの民族的な性格である以上、仏教の語彙の体系と引陰陽五行の語彙の体系を神道か
ら切り離して、その上に近代国家を打ち建てて、そのやうな一国で近代ヨーロッパ文明に対
抗しようといふのは、誠に無理なことであり難儀を極めることである。そこにおまけに近代
ヨーロッパ文明からの個別各国各民族の言語と相応の文物の流入が起きたとすれば尚更であ
る。明治維新以来の150年をいろいろな方面からあれこれ眺めて思ふことは、日本人はよ
く此の150年を戦ひ、よくやつて来た、即ちよく堪えて来たものだといふ感慨です。
さて、天の原ふりさけみれば、天照大御神といふ一柱の神に頼るなどといふ一神教のもの真
似はもはや止めて、私たち本来の、初源初発の天地(あめつち)の間に戻り、何故なら其れ
が天皇といふ時間を即ち歴史を超越した存在を一部として含む宇宙の全体であるから、高天
原のtopology、即ち、汎神論的存在論(超越論)である縄文神道といふべきか、この自然の
道に戻るべきである。

銘記するために再掲すれば、縄文神道といふ自然道の哲学の原理は次の二つからなる表裏一
体、二面一体の相互に等価の原理です。これをいふならば、縄文哲学、縄文形而上学と呼ん
でも良いし、あるいは高天原哲学、高天原形而上学と呼んでも良いのです。[註22]近代
ヨーロッパのカントーショーペンハウアーで分岐して其の系譜に位置する超越論者たちは、
この縄文原理に憧れた。

①世界は差異である(認識論)
②価値は等価で遍在する(存在論)

[註22]
『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第75号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解
く」に詳述しましたので、お読みください。

ここまで近代ヨーロッパ文明に対抗するための日本の近代国家成立の経緯が哲学的な階層、
即ち文明間の階層で今の私たちが知るに至つたからには、21世紀の此の先々の相応の対処
の仕方もあるといふものです。

さて、明治維新に話を戻すと、ユダヤ人がユダヤ教とユダヤ暦を今も大切にしてゐるやうに、
信仰と暦(こよみ)といふ観点からみれば、私たちも本来は太陰暦中心の生活をするべきが
本来の姿だといふことになります。昼間は天照大御神が宰領し、夜は月読命が宰領する。と
いふ生活の方がはるかに大地母神崇拝に基づくtopologicalな対称性が日常にあつて、私たち
には自然に思はれる。私たちの生活がこのやうであれば、私たちの生活は豊かであり、心は
安定する。季節がくれば昼間は桜の花を愛で、夜は月見をする。かうしてみますと、神武天
皇以来今年で2678年の歴史を数へるのが我が国日本であるといふことになるわけですが、
この皇統の暦即ち皇紀もまた、キリスト教といふ一神教に対抗して自らを守るために意識し
てつくらねばならなかつたことですから、天照大御神だけを唯一の祖神のやうに立てること
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と、太陰暦の放棄と太陽暦の採用と、近代ヨーロッパ的な時間観の採用、即ち時間には始め
と終はりがあるといふ時間観念は、随分と私たち日本人を、そして今も尚、苦しめて来たし、
苦しめてゐることになります。縄文時代以来の日本民族(Japanese people)の大地母神崇拝
の世界は超越論であり汎神論的存在論でありますから、時間には始めも終はりもないからで
す。さうして、キリスト教の信者のやうに、生まれるときにそもそもの罪を人間として背負
つて生まれて来るわけでもない。私たちは小原庄助さんである、幾ら朝寝朝酒朝湯が大好き
で、それで身上潰して死んでも、地獄などはないので、さうなれば、全くこころは毎日平安
一路である。

このやうな道筋で考へてみても、私たちは明治時代以前に戻つて、高天原のtopologyでもの
を考へることが、とても大切ではないでせうか。まあ、高天原と敢へて名前をつけなくとも、
安部公房の読者であるあなたには安部公房の大好きだつたtopologyはtopologyでありますか
ら釈迦に説法ですが、あの高天原の並行四辺形のtopologyは普遍的(こういふときにこそ英
語のuniversalを使ひたい)な数学でありますから、近代ヨーロッパ文明の共産主義の系譜、
即ちカントーヘーゲルーマルクスにダーウィンを加へて此の一神教の系譜に対抗する、本当
は(反革命ならぬ)逆革命といひたい私たちの日本と世界の歴史上初の逆進化論は、次のや
うになります。

(1)太陰暦に復古すること。これをすると太陰暦と太陽暦との暦日・歴時間換算表が必要
になるが、しかし、これの往来がまた楽しい。金儲けに忙しく、時間のない輩は嫌ふであら
うが。iPhone用のアプリを作ればそれで解決である。私たちはタイム・トラヴェラー(時間
旅行者)となる。
(2)神武天皇からではなく、高天原の天地初発からの暦をつくること。これは汎神論的存
在論(超越論)に基づく暦でありますから、メビウスの環暦と呼ばれるべき暦になるでせう。
あるいはクラインの壷暦。安部公房の読者としては慶賀の至りであります。大地母神崇拝の
ほかの古代から/の文明に同じ例がある筈。研究すること。
(3)八尺(やさか)の勾玉がさうであるやうに、貨幣(money)即ち《存在》といふもの
の本質を知つて活かすこと。これはこのまま自然経済学、自然経済論を産み出す。
(4)八咫の鏡がさうであるやうに、即ち天の岩屋戸に籠つた天照大御神が、外の騒がしさ
に思はず岩戸を開き、闇の中にある鏡に自分自身の光る姿を見たやうに、陰陽二つながらの
内部と外部の等価交換を行ふといふ鏡を大八島に据えて、近代国家といふ国を国家経営のた
めの下位概念とし、前者を上位概念として復古すること。これはこのまま自然政治学、自然
政治論を産み出す。そして、これは、このまま幕末・明治維新以来の公武合体政策の否定で
あり解消でありますので、従ひ最も大八島といふ島の構造上大切なことは、
(5)天皇陛下が京都の御所へ遷都して、お帰りになること。これはご自身の意志の発露で
ありますから、何の問題もない。この、庶民でいふならば転居に、もつと卑俗にいへば引つ
越しに反対する勢力があれば(法律論をいふなら天皇陛下にだつて引つ越しする権利はある
だらう)、それは明治維新以来このかた150年、東京が日本の国の都であつたことに拠つ
て利権のある既成秩序(establishment:エスタブリッシュメン)の利権に対する執着心に起
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因する反対が大きい原因でありませう。東京都は東京府に格下げになる。しかしこれによつて
色々な観点から見ても関東と関西の均衡が取れる。
(6)上記(3)と(4)に草薙剣を加へて、三種の神器、即ち高天原の3といふ数字に基づ
いて、再度国家の基本設計(グランドデザイン)を根本から修理すること、古事記の国生み神話
の言葉を用ゐれば「この漂へる国を修理(をさ)め固め成せ」といふことです。

安部公房の傑作の一つ『方舟さくら丸』(かうしてみるとサクラ丸とはいい響きだ)にならつて、
サクラの国家、一神教にみせかけて世界にみせて来た贋国家のぬいぐるみ[註23]を脱ぎ捨
てて、全てをガラガラポン、ご破算で願ひましてはとやつて、再度算盤を弾くこと。安部公房と
同じくtopologyで考へれば、そのあとに透明な存在の日本が誕生することになる(といふのは
虚構のこと、生きた日本人が幽霊になつてはなりません。これはあくまでも理論篇の話です、
実践篇はまた別にあるべきですし、あります。さうでなければ、日本中存在への立て札だらけ
になつてしまふ。まあ、さうなれば、日本中に安部公房の読者が増えてめでたい事ではありま
すが)。もし経済効果をいふならば、その効果は絶大である筈。大阪府などは府のままでゐて、
望まなくても昔のやうに商都と呼ばれる商ひの都に復古するだらう。この効果をこそ専門家に
計算してもらひたい。さて、その上で、
(6)日本は島嶼(とうしょ)国家でありますので、日本列島の陸の島も海の島も、高天原由
来の3階層のnetwork topologyで大八島の島々を接続して島の網の目(ネットワーク)をつく
ること。今ならば、通信といふことであれば、インターネットも新幹線も飛行機もありませう。
そして、さうであれば、島々の、その目に見えない存在のインフラストラクチャー(文字通りに
存在の社会基盤)の上に政治、経済、文化のネットワークがあるし、これらをその上に載せる
といふ考へ方の順序になります。あと、もう一つ、文字論は国家論である。
(7)日本人が自分自身の思考力(知性)を思ひ出すために、正字正仮名に戻す事。五十音表
は実はmatrix(マトリクス)ですから、これはこのまま「奉天の窓」[註24]であり、その
ままtopologyと存在の世界に直結してゐますので。

といふことになりませう。

[註23]
特に戦後の日本国家ぬいぐるみ論は『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7。 一神教と
大地母神崇拝をtoplogyで読み解く」をお読みください。高天原のtopologyから説き起こして詳述しました。

さて、メビウス環暦を世界中で採用すると、縄文時代このかた1万5・6千年の時期がさうで
あつたやうに、地球上から戦争がなくなるのではないか?と、しかし、考へても、一神教の
topologyは、縄文神道のtopology(これをしも縄文道とやいはむや?)とは異なり、システム
論としても正反対の閉鎖系システムですから、この信徒だけは戦争を相変はらずこれからも引き
起こすでありませう。とすれば、今西錦司さんといふ著名な生物学者が唱へた如何にも日本人
の理論らしい棲み分け理論の考へで[註25]、私たち人類は、川にあつてはアユやイワナの
やうに、また陸にあつてはカゲロウやボウフラのやうに、自然の法則に逆らふことなく自然の
定めるところに従つて自由に棲み分けて各国、各民族、各人種が仲良く暮らすのがよいのだと
いふ結論に至つてみるが、至つてみても、しかし各国と呼ぶ国は近代ヨーロッパ式国家であれ
ば、資本主義と民主主義といふ共産主義、即ち安部公房のいふ植民地主義の国家であるからし
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もぐら通信 96
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て、また争ひごとが起きること必定といふことになつて、私たちの問ひと答への連関はまた
最最初に戻るのである。どう考へても、今のままでは救はれることのない、哀れな人類であ
る。来世はボウフラに生まれたい。

[註24]
「奉天の窓」といふ安部公房の数学的な変形能力の由来については『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼
安部公房の数学的能力について∼』(もぐら通信第32号及び第33号)をお読みください。詳述しました。

[註25]
https://ja.wikipedia.org/wiki/今西錦司

4。万葉集とは何か
この問ひに答へることは、同時に次の四つの問ひ[註26]に答へることになります。英語
の場合とは異なり、漢字の受容と変形にあつては、日本語の文字論は国家論なのです[註2
7]。
(1)何故富士山は記紀には書かれてゐないのか
(2)何故富士山は万葉集にしか出てこないのか
(3)何故仁徳天皇陵以下の御陵である古墳は記紀に書かれてゐないのか

[註26]
東北大学名誉教授田中英道氏の『高天原は関東にあったー鹿島神宮と建御雷神の研究』98∼99ページにあ
る問ひ(『日本國史學』第三号日本国史学会刊)

[註27]
石川九楊著『二重言語国家・日本』192ページ。NHKブックス、日本放送出版協会刊。

(1)何故富士山は記紀には書かれてゐないのか:富士山とは何か/(2)何故富士山は万葉
集にしか出てこないのか
万葉集に収録された歌は皆、歌である以上、長歌と反歌を始め和歌と其れ以降の後代の詩文
はみな、3、5、7といふ奇数の数を以つて、高天原を歌つてゐることは、「『カンガルー・
ノート』論(16)」(もぐら通信第82号)の「16):5。5 存在を荘厳(しょうごん)
する:第6章風の長歌:長歌(鎮魂歌)」の「5。5。1 長歌とは何か/5。5。2 長歌
は高天原を歌ふ/5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空間」にて既述の通りです。

さうして、天地初発に超越論的に「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからともなく」
(超越論的空間)現れ隠れ給ふ造化三神と呼ばれる三柱の神、即ち天之御中主神、高御産巣
日神、神皇産霊神は、高天原0の三角形を構成するのでした。

さうして、この三角形は言挙げしてはならない。といふのが、縄文時代以来古代の日本人の
論理と感情であつたのだといふのが、私の仮説です。即ち、もし高天原0といふ形象を、即
ち富士山を言挙げするのであれば、それは3、5、7といふ奇数によつてなる高天原と同じ
形式をもつ和歌以外の様式化された言葉以外では、富士山を歌つてはいけないといふ禁忌(タ
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ブー)です。天(あめ)にある高天原といふ存在、地(つち)にあつて富士山と呼ばれ富士
山としてある(高天原の)存在については言挙げしないのです。[註28]

[註28]
『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解
く」をお読みください。それから日本の和歌は高天原をなぞり、歌ふといふことについては、「『カンガルー・
ノート』論(16)」(もぐら通信第82号)の「16):5。5 存在を荘厳(しょうごん)する:第6章風の
長歌:長歌(鎮魂歌)」にて詳述しました。

それ故に、富士の山は万葉集にのみ現れ、日本書紀と古事記には文字で書かれることはない。
それ故に、記紀には富士山の存在する関東に関する記述は少なく、何故ならこのやうに関東
は高天原のある土地であり國であるからですが、関東についての記述がたとへ大変に少ない
ながら記述することはあつても決して富士山が文字になることはない。

この縄文人や古代人の論理と感情は、そのまま上記(3)何故仁徳天皇陵以下の御陵である
古墳は記紀に書かれてゐないのかといふ問ひに対する答へとなります。即ち、私たちの世界
は、天(あめ)と地(つち)と海(あま)といふ三つの軸からなつてゐますが、今ここで天
(あめ)と地(つち)だけをみて見ますと、高天原に対するに大八島といふ関係にあつては、
大八島では、高天原にあることは姿形を変へて別の名前で呼ばれるといふことになります。
これは、高天原のtopologyです。即ち半分だけ言ひ、半分だけ言挙げしない。高天原を言挙
げしなければ、大八島で言挙げする、または其の逆といふわけです。それぞれの場合に互ひ
に異なる呼び名を以つて同一の概念を呼ぶのです。[註29]

[註29]
言語機能論としてあるtopologyの世界では、領域が異なると概念が同じでも別の名前で呼ぶといふ例は「『カ
ンガルー・ノート』論(5)」(もぐら通信第70号)の「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:(1
8)駐車場」で、『詩人』といふ詩の冒頭一行目の庭といふ名前が、同じ概念のまま最後の長編『カンガルー・
ノート』では駐車場といふ名前(正確には「満願駐車場」)で呼ばれてゐることは詳述した通りです。

これは何も特別なことではなく、よく観察すれば、私たちは日常生活で言葉を此のやうに使つてゐる。即ち、
言葉の意味は使ひ方によつて定まるのです。同じ此の言語機能論を立ててゐるのは、ヨーロッパであれば、スイ
スの言語学者ソシュールであり、オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインです。日本であれば本居宣長が言
語機能論です

中臣の祓詞の言ひ方を借りれば、カヤの木といふ宇宙樹は葉つぱの片葉だけで人に語りかけ
る。一枚の葉の右半分と左半分は、等価交換が可能であるといふ論理なのです。さうして、
この関係は左右対称になつてゐる。私たち人に語る宇宙樹も葉も、左右対称の形象をしてゐ
る。神棚に立てられる榊のやうに。
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即ち、これらのことから、私の上記(3)に対する論理的な答へは、次のやうなものです。

(3)何故仁徳天皇陵以下の御陵である古墳は記紀に書かれてゐないのか:古墳とは何か
問ひ:何故仁徳天皇陵以下の御陵である大和朝廷の歴代の天皇の古墳のことは記紀に書かれ
てゐないのか
答へ:それは、古墳が高天原であるからだ。

天(あめ)の高天原といふ名前を、地(つち)の大八島で使用することは、和歌といふ高天
原と同じtopologyの様式を有する言の葉以外には言挙げすることができない。これができる
のは、関東の富士山を拝むことのできる国だけのことであるか、または和歌といふ高天原の
topologyを備えた様式以外には歌ふことをしてはならない。関西にある大和朝廷では文字に
することは禁忌である。それも散文で文字にすることは尚更である。それほどに、高天原は
尊く隠され、秘されるべきものである。と、このやうに考へると、関東には常陸国、今の茨
城県には三つの高天原といふ名前の土地があるといふ、これらの、それも3といふ数字の意
味が大八島の階層でよく解ります。田中英道氏の同じ論文より引用します(同論文107ペー
ジ):

「1、鹿島神宮の飛び地の境内地で、本宮から約三キロ東にいった鹿島灘に面した高台
 2、筑波山の中腹にあって、岩石が重なり合っているところで、やはり眺望の良い場所
 3、水戸市外にあり、新井白石の「古史通」に天御中主神が君として書かれている那珂国
にあたり、田畑と住居地帯の入り混じったところ、などである。

 この三ヶ所は、いずれも祖神の旧知をしのんで後世に命名されたものと考えられ、それぞ
れが多少の類似点がある。1は、周囲が丘陵であって、その中に古墳の大丘陵が存在してお
り、2は、岩山がそびえ立つ、筑波山内にある。3は、平野にあるが、さほど遠くないとこ
ろに那珂川が流れており、いずれも自然の起伏の中で、それと調和した場所であり、かつて
の高天原を想起させる場所である。いずれにせよ、そこが高天原ではなく、その情景が、近
くにあったことを思わせるものである。」
もぐら通信
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私が子供の頃初めて教科書で此の仁徳天皇陵の写真を見て以来不思議に思ふことは、何故墳
墓の周囲が水で囲まれてゐるのかといふことでした。しかし、これがその名を挙げることの
出来ぬ高天原であり、といふことは上述の論理に従ひ大八島では、垂直方向の関係で富士山
が神奈備と呼ばれるのと同様に、別の名前で呼ばれ、さうして地(つち)の階層で水平方向
を意識して同じものが移されたのではないでせうか。天(あめ)と地(つ地)は対応してゐ
るのです。関西にある大和朝廷でありますから、関東の高天原から(地(つち)にある)類
似のものを持つて来た。それは、

(1)高天原といふ名の高台があり、
(2)その高台のそばには水があり、

といふ場所の再生です。

しかし「2、筑波山の中腹にあって、岩石が重なり合っているところで、やはり眺望の良い
場所」の「岩石が重なり合っているところ」といふことはどう考へるかといふことが残りま
す。

二十代の前半に信州のどこであつたか小林一茶の居宅の跡の近くの山に登つたところ、そこ
の山上が墓場であり、今の様式の垂直に立つ暮石に混じつて奥津城(おくつき)と彫られた
墓石がありました。奥津城といふ文字は、その死者が神道によつて葬られたといふことを意
味しますが、しかし後者の墓石の形が私に与へた印象は異様なもので、今正確な形を思ひ出
すことができませんが、たとへ奥津城といふ文字が墓石に彫られてゐても、普通の墓石とは
全く異質異様でした。このことは忘れ難い。即ち、その墓石は何か岩石を使用する文明とい
ふものが日本にあることを私が意識した最初の経験だつたのです。

これを日本列島の上でtopologyで考へてみると、さうして其の意味に入らずに形式論理で考
へてみると、私たちは古代にあつて岩石文明を受け容れるに当たつては、天地(あめつち)
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の垂直軸を水平軸と等価交換して、山の中にまた山の上といふ垂直方向に岩石を置くと、地
(つち)の上で事が収まると結論したのでせう。私の諏訪での経験も其の一例といふことに
なる。ここまで思つてみると、高天原にあつては天照大御神が須佐之男命の乱暴狼藉に怒つ
て天の岩屋に姿を隠したことが想起されます。天(あま)に岩屋があれば、垂直方向の対称
性の等価交換を以つて、地(つち)にも岩屋があることでせう。その岩屋が今石室と呼ばれ
てゐる前円後方墳の後円部(地(つち)の高天原)にある理由ではないでせうか。といふこ
とは、この石室も古代にあつては、地(つち)にあつて大和言葉で呼ばれる岩屋(いわや)
とは別の名前があつたかも知れない。天の富士山が地では神奈備と呼ばれるやうに。死者が
地上の高天原である古墳の当該部に葬られて、石室が天の岩屋と地上で対称性を以つてゐれ
ば、その石でできた空間には時間は存在せず、始めも終わりもない世界にあつて死者は死ぬ
ことがない。勿論、形象からいつても石室は凹の形象であり、竪穴式か横穴式の如何を問は
ず、開口部が一つあれば、上述の如くに、それは存在の形象であり、存在である。

さて、仁徳天皇陵の話に戻りますと、「2、筑波山の中腹にあって、岩石が重なり合ってい
るところで、やはり眺望の良い場所」は、

(3)古墳に石室のある場所

といふことになつて、いづれも高天原としては納得のゆく構成になる[註30]のです。

[註30]
田中英道著『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』(勉誠出版)によれば、前円後方墳につ
き「円部が、もともと「天」を表し、方形部が「地」を表すことは、当時の人々の共通認識であったことだろ
う。円の部分が山となって、その頂に柩が置かれる。『日本書紀』に、《古(いにしえ)に天地未だ部(わか)
れず》という言葉があるが、これは「天」と「地」が分かれていない状態を前円後方墳が示していることになる。
猿田比古神の《上の高天原を光らし、下は葦原の中つ国を光らす神はここにあり》という言葉は、「天」と
「地」の間に上下の関係があることを示すが、それはこの前円部と後方部のような、山と平地のような関係にあ
ると考えられ、上下が平面化されていることになる。いずれにせよ、「天」と「地」への自然信仰にもとづき、
天の円部の頂きに棺をおくことによって、御霊信仰を形象表現していることがわかる。これは明らかに神道の原
理をしめすものである。また、仁徳天皇陵をはじめ、天皇の墳墓となっていることは、神道の根幹をなす皇祖霊
信仰を示すことに他ならないだろう。」(同書67∼68ページ)

古墳の「天」と「地」が何故平面の上に置かれ得るのかといふ理由については、上述の折り紙のtopologyを例
にとつてお話しした所と其の前後の叙述に一致してゐます。これで、考古学、神話学、哲学(超越論:汎神論的
存在論)、数学(topology:位相幾何学)、言語学(言語機能論)の五つの方面からの、事実理解の一致をみ
てゐることになります。

それでは、墳墓そのものの形式はどうかといふことになりますが、平面図をみると、墳墓は、

(1)円と
(2)三角形(この部分の形は時代による変遷があるやうですが、今は仁徳陵に注目します)
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この二つの図形からなつてゐる。

円は断面図でみると、神奈備と呼ばれる地(つち)の高天原の形を、平面図でみると、三角
形はいふまでもなく高天原0の形、即ち富士山の形をしてゐる。表にすると次のやうになる。

古墳の復元図の断面図を見ると、前円後方墳の円い丘陵部の形は、高天原といふ名前は大八
島にあつては禁句であるとしても、しかし神奈備型と呼ばれる三輪山などの山容に似てゐる
といふこと、即ち此の世での小さな象徴的な富士山であるといふことです。間違ひなく、墳
墓造成の規格と其の寸尺については、縄文以来の縄文規格があることでせう。

私がいひたいことは、要すれば、日本人は縄文神道以来1万5・6千年、日本列島の上で神
話の世界でも現実の世界でも、これら二つの世界を位相幾何学的(topological)に接続して、
天地の間にありとある物事の分類と命名を実によくして来たといふことです。感嘆、賞嘆、
賛嘆、驚嘆といふ驚きの順序は、私が安部公房の『カンガルー・ノート』を精読し解析した
時の一句一行一段落一節一章毎の感想ですが、全く同様に感嘆、賞嘆、賛嘆、驚嘆する以外
にはない。まあ、縄文時代以来、日本には安部公房級の無名の庶民が当たり前にして無数に
ゐたといふことでせう。さうしてこの民は今もゐるし、日本民族の遺伝子に超越論的に存在
する言語論理構造ですから(安部公房が自分の言語論とクレオール論を語るときに同じ超越
論者チョムスキーの生成変形文法をいつも援用したことを思ひ出してください)、間違ひな
く、これからもゐることは確実です。言語論理構造は言語論理構造である以上、民族、人種、
国、そして人工的な国である近代国家単位を超越してをりますから、日本ならば時代を超越
した此の日本人の集合があつて、その部分集合が安部公房の読者といふことなのでせうし、
海外の安部公房の読者も其の民族は民族なりに、人種は人種なりに、国は国なりに、個別言
語なりに、それぞれに実際さうなのでせう。かうして、日本列島の日本の神話の世界から地
球の上を眺めても、世界中の安部公房の読者の求めてゐるものは間違ひなく、超越論であり
(一神教の人々)、汎神論的存在論であり(大地母神崇拝の人々)、topologyであり、言語
機能論に違ひありません。

さて、この節の最後に4。万葉集とは何かと立てた問ひに答へて最初に戻り、topologyのメ
ビウスの環を一捻りして上位接続し、次の存在へと脱出することにします。

私の仮説は、万葉仮名は万葉集のため、和歌のために生まれたといふこと、その理由は、本
来文字にしてはいけない高天原を文字を使つて歌を表すためにあるといふ仮説です。
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和歌の形式で同じ形式を備へた高天原を歌ふことは良いとしても、これを文字にして時間の
中に置くことはできない。何故ならば、私たちの縄文神道、古神道、要するに神道といふ自
然道の考へかたでは、時間の中では物も人も必ず穢れるからである。穢れるとは、世界は差
異であるから(これが大地母神崇拝に生きる縄文人の超越論であり汎神論的存在論の世界認
識)、物も人も歪み(連続量)または隙間(非連続量)ができるからである。物事は流れる
やうに一筆書き(topology)[註31]であるべきであり、歪みや隙間がならないようにす
るものだ。[註32]漢字を崩して、即ち一筆書き、即ちtopologyで、ひらがなを生み出す
といふ変形を平安朝の人たちがしたやうに。

天武天皇の御製、

み吉野の 耳我の峰に 時じくそ 雪は降るといふ 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)るとい
ふ その雪の 時じきが如 その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し 
その山道を
[巻一(二十六)]

といふ和歌の「時じく」も「間なく」も、その意味であり、これは世界に歪みなく隙間なく
といふ意味であり、従ひ「隈(くま)もおち」ぬといふことになつて、これは完璧なといふ
意味でありませう。それが、み吉野の耳我の峰の姿である。きつと、地(つち)の平面にあ
る神奈備であり、高天原に垂直に立つ富士山を写したと古代の人の思ひなし、見立てた耳我
の峰の姿であつたことでせう。

[註31]
「『カンガルー・ノート』論(16)」(もぐら通信第82号)の「5。5。3 長歌の歌ふ高天原の時間と空
間」より引用します:

「話が時間論に逸れますが、しかし私たち日本人が超越論で時間と空間を考へてゐたといふ証拠になる天武天皇
(大海人皇子)の御製の長歌を万葉集から引用します。勿論天武天皇だけではない、他の歌人(うたびと)もま
た、時じく、間なく、といふ言葉は使つてゐます。要するに、私たち日本語でいふトキ(時)も間(マ)も、隙
間であり、差異といふ意味である[註4]といふこと、私たちの哲学は超越論だといふことです。以下:

み吉野の 耳我の峰に 時じくそ 雪は降るといふ 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)るといふ その雪の 時
じきが如 その雨の 間なきが如 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
[巻一(二十六)]

[註4]
三省堂 大辞林
とき・じ 【時じ】
( 形シク )
〔名詞「時」に形容詞をつくる接尾語「じ」が付いたもの〕
①その時節にはずれている。時期でない。 「川の上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子−・じけめや
もぐら通信
もぐら通信                          ページ103

も/万葉集 491」
②時を選ばない。時節にかまわない。 「 − ・じくぞ雪は降りける/万葉集 317」
(https://www.weblio.jp/content/時じ)

[現代語訳]
「吉野の耳我の山には 時知れず雪が降るという 絶え間なく雨が降るという その雪や雨の絶え間ないよう
に 道を曲がるたびに 物思いを重ねながら その山道を辿ってきたことだよ」
(http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu1-26.html)

山部赤人の歌を見、天武天皇の御製を見ますと、時(トキ)といふ時間の差異は雪に関係し、間(マ)といふ
空間(または時間も)の差異は雨に関係するやうです。私たち日本民族の古代から持つ超越論(汎神論的存在論)
については、「近代の超克」といふ明治時代以来の課題を巡り、17世紀以降の近代ヨーロッパ文明との関係で、
『安部公房とチョムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解
く」にて、安部公房の大好きなtopology(位相幾何学)といふ接続と変形の数学を使つて彼我の違ひとして詳
述しましたのでご覧下さい。」

[註32]
日本人は、漢字をtopologyで変形させて、一筆書きのひらかなを(漢字を一筆書きで書いた)、全体と部分の
内部と外部を等価交換してカタカナを、創造したといふのが、私の仮説です。一筆書きと内部と外部の等価交換
は、説明の機会はあらためますが、ともに同じことを意味してゐます。一言でいへば、topologyです。

穢れをそもそも回避し、祓ひをする「以前に」(超越論)祓ひを終えるといふ祓ひをするた
めには、勾玉のやうに半分だけ表すのがよく、カヤの木の片葉のやうに半分だけ語るのがよ
く、残りは沈黙と余白に残すことが正しいことである。それでも、和歌を文字にせよといふ
のであれば、それは和歌のためだけの仮名を用ゐることにする。これを散文で、しかも関東
の富士山に具象化されてゐる高天原を歌ふ以外の目的のために使用してはならぬといふ禁忌
があるといふのが、私の仮説です。平俗にいへば、高天原である富士の山を言挙げすること
はけしからん、といふことです。

万葉仮名の成立と万葉仮名そのものを、日本語(縄文語)との関係で吟味すると、この先の
ことを知ることができる筈ですので、これは別に機会をあらためたい。

さて、ここまで論じて参りますと、日本民族は次の四つの習合を行なつたといふことになり
ます。

①岩石文明習合(記紀万葉編纂遥か以前)[註33]
②神仏習合(6世紀)
③陰陽五行習合(7世紀)
④アメリカ文化の贋の習合(20世紀)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ104

[註33]
この岩石文明の習合は、古事記、日本書紀ともに、邇邇藝命(ににぎのみこと)が天孫降臨と呼ばれる、高天
原から大八島に降りて来る際に、邇邇藝命の出発点として出てきます。古事記では天之石位、日本書紀では天磐
座と文字で書かれて、ともにアメノイワクラと読んでゐます。それから、本論中に引用した中臣の祓詞(大祓詞)
にも「天の磐座推(おし)放ち、天の磐戸を押(おし)開き」とありますので、この天の磐座の形状は、「天の
磐戸を押(おし)開き」とあるからには、天照大御神が御隠れになつた天の岩屋戸の存在の凹の形象や、かう
なると全く同じ意味になりますが(大八島の)古墳の石室と同じ形象を備へてゐると考へられます。存在の凹の
形象は、穴、窪み、従ひ歪みや隙間として表されます。岩は確かに大事ですが、肝心なことは、岩と岩の隙間、
岩の窪みの凹、また穴の凹、その他の隙間(連続量)と歪み(非連続量)がある事です。何故なら、

(1)世界は差異であり(認識論)
(2)価値は等価で遍在する(存在論)

といふことが、私たちの縄文哲学であり、縄文形而上学であるからです。

私は岩石文明習合として挙げましたが、しかし、この岩石に関する信仰は、そもそも縄文時代以来の1万5・6
千年来この日本列島にあるのだとすれば(これが事実として証明されれば)、習合ではなく、最初から縄文文化
の一部だといふことになります。

しかし尚考へてみますと、天といふ垂直方向にはアメノイワクラ、地といふ水平方向には石造りのものといへば、
お地蔵さんが日本中にありますので(特に信州に多いといふ私の知見です)、やはり、これも、神仏習合なら
ぬ、神石習合ではありませう。しかし、お地蔵様はともかくも、イワクラは大八島の全国各地にあります。とす
れば、天(あめ)にあつてはイワクラである呼び名は、地(つち)にあつてはまた古来本来は別の名前で呼ばれ
てゐるかも知れません。
もぐら通信                         

もぐら通信 105
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ106
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 107
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ108


●『カンガルー・ノート』論(17)最終回:5。7 再度3といふ数:3とは何か:
全部で17回の連載になるとは。しかし、徹底的にこの作品を精査し、論じ尽くしまし
た。ここでの発見はほかの作品にもそのまま応用の効くものばかりではないかと思ひま
す。使えるものがあれば、ご活用下さい。著作権freeです。
●哲学の問題101(1):私とは何か:やはり、今のドイツの哲学的問題を素人にや
さしく説明しようとしても自分の国の、自分の文明の思想史の骨格を知らないといふこ
とが、問題だといふことがよくわかりました。日本人とて人事でないではないが。しか
し、ヘーゲルの罪は深い。ハイデッガーもさうですが、2人は学生の時に最初に神学部
にゐて神学を学んでゐるのが災いしてゐる。どうしても一神教のtopologyから抜けでる
ことができない。一神教のtopology自体をtopological(再帰的)に批判することができ
ない。ヘーゲルに至っては、折角カントがゐながらキリスト教との対決から逃避してし
まつた。ヨーロッパは混乱を極めるといふことになる。キリスト教の罪も深い。 
●安部公房とチョムスキー(10):ほかのものが満載で休筆です。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(28):第2部 II:これもいつも通
り、安部公房通りです。安部公房といふ奴は大した奴だなあ。リルケはもちろんですが
●Mole Hole Letter(9):超越論(4):高天原(2)八といふ文字:子供の頃から
の幾つもの疑問が氷解しました。日本人が口下手なのも、言葉の発声と文字に表すこと
の苦手なことも、私たちの世界観(時間と空間に対する考え方)から来る穢れの感覚と
topologicalな論理がさうさせてゐることが判ってよかつた。これを直す必要はない。む
しろ大切にしたらよい。あと同様の理由で私たちは外国語が苦手だといふことです。日
本に住んでゐたら語学など学習不要です。それは好きな人に任せ、また海外で仕事をす
るといふ、これまた過酷な道を選ぶ人たちに任せるといふことです。しかし、globalism
で戦ふことは実に過酷です。何故なら日本人であることを否定され続けるからです。漱
石、鴎外に始まり、今にも至るまで然り。安部公房が自分は語学が全くダメだと公言し
てゐたのも実は高等戦術であつたのかも知れない。何故なら、いよいよ西洋の作家たち
は安部公房を真似するだらうからです。もし海外で生きようとあなたが思ふならば、あ
なたは日本人ですから、日本の古典を読むことです。当たり前だといへば、当たり前で
ありますが。

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房 ご寄稿をお待ちしています。

〒 1 8 2 -0 0
03東京都
調布
市若葉町「 次号の予告
閉ざされた
無 1。火星人特派員報告
限」
2。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(29)
4。Mole Hole Letter(10):超越論(5):安部公房の女性の読者のため
の超越論
もぐら通信
もぐら通信                          109
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第83号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓 の最新版を差し替へて置いてあります。
一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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