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文率学
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新井自 石 目次
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青年時代 の 苦寧 ***i
明暦の大xー不思議の火見ー『折たく楽の龍』ー賞永の古武士新井勘解由
父母の教育ー一日一夜に四千字の習字ー雪の詩賦ー國語學の造詣
河村瑞賢との交遊ー常山の蛇ー堀田家出仕ー學友西山健市ー木下順庵に
従事す

臼 池中の岐龍 ・ ・ ・ ・ ・、・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・ ・・・・・・ ・ ・・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・・ ・ ・ ・ ・・・・・ ・ ・ ・ ・・・・ ・ ・ ・
二九
木下順庵の寧徳ー自石の貧困と苦寧ー臭朝倉長治の家學とその蔵書ー堀田
家を致仕すー青銅三百文と自米三斗ー隅田川の畔橋場のト居ー江戸學界の 1

こ 改新期ー木門第一の詩人ー自石と榊原算洲ー男子生れて宰相とならすば死

して闘羅王となるべしー加賀侯前田綱紀の聘に應ぜすー林家は第一の登龍門
臼 *
ー甲府城主徳川綱豊に仕ふ
、 』 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。・ ・・ ・ ・ ・ ・
: ハ四
梅咲く天爵堂


自石の甲府藩出仕と高力伊像守忠弘ーー湯島天碑嗣の香月庵下に移居すー詩経
の進講と萬葉集の研究ー賜書謝恩の宴ー自石と梅花ー菅原道眞に私淑すー
ー恩師木下順庵逝くー促講の進言ー殆ど十年を経て完成した藩輸譜ー六代
家宣将軍の就職ー五十歳の毒舞ー『本朝軍器考』成る
濃築徴査の上洛: j :一二
都々たる濃文國ー丹心許、國常懸、日ー皇族御出家停魔の進言ー近衛基熙の
東下ー奮濃古制研究の上洛ー五尺小身演是膳ー疑ふべき中井竹山の詐言ー
ー自石の究罪ー朝鮮國聘濃使應接の改革ー自石の國書復競論と林家及宗家の -
反封
* *** ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・』 、 。。。・ ・ ・・・・ ・・・ ・・ ・
日出の國源大官 一三八
朝鮮國聘濃使の入府ー客館の唱和ー英葬殿上に於ける争濃ー自石聘濃使に
構々たる吾が國鶴を説くー一塩の史劇ー自石の功績を歌うた祇園南海の詩ー
ー自石の書像に賛した深見天満の賦ー林家の反感ーー王競事件に就て自石の心
事と共の國鶴論ー皇室賞岩に就いての自石と順庵との問答ー『讃史除論』と
『保健大記』評ー紅葉山文庫ー惨火より免れた『同文通考』
四面楚歌の撃 ・ ・ ・ ・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

死を決して勘定奉行萩原近江守重秀を弾効すー短い政治的生涯に二條の光荘」ー
ー家宣将軍の夢去ー遺された徳川史編纂と書籍刊行の事業 幼主を託された
諸葛孔明の精忠を思ふー顧託不、負六尺孤ー切々たる室鳩巣の忠言ー林大
學頭と最後の激論ー苦忠を披歴して退隠の止むべからざるを建部内匠頭政字に
告げる手紙

閑居の著作 * * * * * * * * - ** * * - * * * * * 4 *
二○八 4
菅公の故事を想ふ天爵堂観梅の詩舞ー『突覧異言』ー風物皆悲しむ天貸堂仲秋
次 観月の詩舞ー十年以来世事の鍵遷と自石の功績を歌うた南部南山の詩ー『西

洋紀聞』集古圓説』『古史通』『古史通或問』ー『古史通』『古史通或問』に引かれ
た材料と自石の國語寧ー十数年来の萬葉集古事記の研究ー本朝の事は倭語に
妙所の候
八代吉宗将軍の就職と自石の退隠ー秦火に投ぜられ自石の著書ー『折たく柴
の記』 の筆を起すー似、有ニ避、秦人 ー焼亡せる紀念の梅ー某こそは比の如
くに人に儒まれ候へども見孫まで不幸に沈み候はむとも存ぜす侯ー深川一色町
の宮居と『停雲集』『東雅』ー『東雅』に現れたる自石の國語學研究。
千駄ケ谷の月影・ ・・・ ・・ ・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
二六七
小石川同心町の新居ー叙家たる天爵堂観月の詩建ー 日も除生の候間は奮寧
をも研究し候事を築事と仕り候ー菅公の志を継ぐ『経邦典例』ー『方策合篇』
『東音譜』『南島志』ー千駄ヶ谷六軒町の移居ー昔の馴染とて一人も訪れ来るも
のこれ無く候。
人空し黄鶴模:: 二八八
室鳩巣に封する自石の友情ー鳩巣の楽達と高倉屋敷の講義ー自石の『明家訓』
= 評ー晩年の三學友ー仲秋にも九月十三夜にも尋れ来り候人も之無く候ー千
石のシーシの中に大シー』 のシ
と『大日本史』評ー鳴呼享保十年五月十九日ー昔人既に去る黄鶴模ー祇園南 *

J 海の英詩。

挿 書 目録
- 』 - -
新井白石の像 * ・ ・・・ ------*・・・・・・・・・------
日槍
白石の前田加賀宰相綱紀に上れる書: : : 三六
-
白石の書: : ・ ・・・・・・・・ ・ ** - - ・・・・・・・ ・・ ・・・・・ ・ 』
四七
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次 木下順庵像 九六
朝鮮聘濃使の國書と使節: --- ・・・・・・・・・・・・・・・- ・・・・・・・・・』 - 』--
一四一
室鳩葉書の自雄帖戯: 一四九
白石自筆の東雅: 二五九
自石より小瀬復庵に送った書輸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二七五
土肥霞州像: 二九五
白石の墓: 三二五
盆田鶴模筆填: 三二七
白石の印章:: *・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三三二
新井 白石 目次 終
新井 白石
文學博士 上田 萬年 著
青年時代の苦學
明暦の大火「不思議の火の見ー『折たく柴の記』ー寛永の古武士新井勘解由 父

の教育「一日一夜に四千字の習字ー雪の詩賦ー國語學の造詣ー河村瑞賢との
交遊「常山の蛇ー堀田家出仕ー學友西山健常ー木下順庵に従事す

購 くわじ
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火事は江戸の花ミかや。まこミや、江戸時代にありては、八百八町のシに、警鐘の
ひご、き み ら よ な
あか そら み、 あかつき ひ て
なめいれき

響を耳にせぬ夜ミては無く、火の手の競き空を見ぬ聴ミては無かった。なかにも、 明暦
たいくわ *かしがたり いま ねん せいさん くわうけい ひさこ こ、ろ さむ
」 の大火ミいへば、今は三百年の普謡なれき、その凄機のシは、 そぐろに人の心を寒う

石 白 井 新

にちこ ひ せいほく かぜはけ ひさみなやす


ころだいしやうぐんいへつな よめ いれき ねんしやうぐわっ
、人皆安き
頃は四代将軍家綱の代、明暦三年 正月十八日。比の日、西北の風烈しく たち ま あい
じ す ほんがうまるやま
こ 、
ひ おこみ ころ
こ〜る な をりから
荒れ出でたる一
心も無き折柄、午後二時過ぎし頃、本郷丸山に火起るよミ見れば、怒ち すき さこころ ここ〜
お ふ ましつぶう じよう
まうくわ な キけ し みん
だん
、、過ぎ去る虜は、悪く
園の猛火は、泣き叫ぶ市民を逐うて、吹き巻くる疾風に乗じつ ふかがは

すみだ がは れいがんじまおよ

くわらん うみくわかん だ さほさは
て、深川にま
火婚の海ミ化しながら、碑田通りより、遠く霊岸島に及び、隅田川を越え
もの
で燃え延びた。 ふす き がい
ゃ、
や の・ けむり なび やト 、
焦土を吹き揚ぐる街
-
あう
氏、シト
明 くれば十九田、風はなほ息まぬ。焼け残る煙を購けて、橋ぶる

こう、2んたちま


しかはたかじやうまちへん


らん


しい

拝されて
は、うた、 漢いシ、 もや、シは小石肥鷹匠町途に翻だれ
打さ 、紅㎞ちに
兵は よ
うしこめ な 、匠浅Q Cっ g、、

千代龍 城に燃える移つた。こ、に於いて、江戸は名状もできぬ混園で
牛込を祇め霊して、千代田
*
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あらくき らうにやくだんちよ あびけうくわん
ちはやふ づちのかな
繋が監振る響き、シの阿㎞魔は、さながらの
頼の翼

地獄界を聖獣した。 1}
すぎ ちまち ひいだ
正幕れては、艦%たるシを驚して、いよ〜腕薬い七時避、魔撃町に炎を避して、
ひ く


Q
せい
かい
うなは

うつが學
ぐわい
のわく

ほおち

わり
しりみろくい

し しかしながら















教訓




寺院 火戦





き%
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な守閣
士来


壮基




す造に
禁起

千ミ

天た


かっじこ営麗民
代田 やぎう





ゆか
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れいみん

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ふきういきしm


きん

市割水正れ路街
離き
*さを



ら道廊

改擁



茶、



堀され
の かで築ら




建も

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なかっ
され

有る 寛び宅名め麗て平永ふた


い泰し
極華績
大を
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再旗下









見る あ有るぎでばにうるドなさら

失賑やか

更。
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古 遂3
あらみ しそうけ につた しょし よしの てうてい ちゆうせい つく yんしよう み ごり あらは あし
荒居氏は宗家の新田諸氏ミミもに、吉野朝廷に忠誠を霊して、寒松の縁を顕したか、足
右 白井 新

かくはくふよ およ もんこさこん、おさころ そ あさ うしな はづか あらみのしやう がは し


利幕府の世ミなるに及んで、一門悪く衰へて、共の後は失はれた。僅に荒居庄の郷士ミ
こきやう す を さうさう -
そ あひだ けいふつたは
して故郷に住んで居ったこミが想像されるのみで、共の間の系譜さへ博らない。
シ、 はんねん せんだ やんちゃら、 か ㎞うみなっ ぐわっ、、お の 、か ㎞)
白石が、晩年に千駄ヶ谷六軒町の閑居に譲書に歌った享保八年夏八月に、己が家門の
し あらみ か けい につた そく る んそせいわけ ん きだすみしんのう おこ
Bんおの
史を研究した『新非家系』には、新田族の遠祀である清和源氏の貞純親王から起して、
るいだい けいふ あきらか むろまちはくふじ だいころ はくせき そ ぶ いた けん
累代の系譜が明にしてあるが、室町幕府時代頃から白石の祀父に至るまでは、いかに
けいふか 、そ ・
きう はつけん でき いそ
究をしても発見が出来ないミ言うて、共の系譜が峡いてある。さうして、祀
じ せき およ はじ つまびらきじ ゆつ
の事跡に及んで、初めて詳かに記述されてある。
はくせき かた
こそ 」ぶ 、おょ ちょい じ、シ あお 、きに はらちゃ 、 か わびず 、
比の祀父及び父の事跡は、浅草田原町の高徳院に信任居をした老父が、自石に語った
はくせき そ ふ およ ちく がうけっ こ ぶ し あ はく
よ ごさこ ものがたり
夜毎の物語である。これによりて、白石の祀父及び父が豪傑の古武士で有ったこミ、
せき こ たふさこ ちなが -
ち〜 むかしものがたり い か はくせき かんくわい

知" は
石には比の貴い血が流れて有つたこミ、父の昔物語が 如何にに白石を感化したかミ言ふこ
ん うま ゆるん ふか きよう さう ざう
し 、シ:、


られて 白石ミこいふ 人が生れた所城を、深い興味で想像されるのである。 ㎞
はくせき かたち、むかしがり はくきき そ ふ あらみ い け ゆい そ せんいらい あら 3の
に語った父の背語によるミ、白石の祀父は新井勘解由ミ言うて、祀先以来の荒
しやうかす ば うし すか もん おさころ なけつひ が2& い
庄に、微かに郷士ミして住んでみたが、家門いよ〜衰へたのを嘆いて、遂に郷土を出
ひたちのくに きたしもつまのじやうしゆたがや しうりのたいふのぶいへ いっか てんしやうごろ こさこ

て、常陸國に来り、下妻城主多賀谷修理大夫宣家に仕へた。これは天正頃の事である。
いらいほさんこねん お ゆ いへ やしな
こO
キよ 家 こ * ェ匿
に名くの土を養 ぶ重臣ごなっ
しか は ん た が や のぶぶ いへ さよさみうち をく ため そいへ ほろ か け ゆ ふたく

るに、闘が原の園に、多賀谷宣家は豊臣氏に属した貸に、共の家は亡んだ。勘解由は再
方 属した貸
しゆくん もさこ さこ は しもつまじやう き なが かたみなかいんせいこ *ろ きこ お
び主君を求める事を恥ちて、下妻塊を去つて永く片田舎に隠棲するこミに心を決めた時、
わか あたしよし はう あそ し もさこっか
あ かぎり ざいさん こさん〜 け し が おっ
有る限の財産を悪く家士のものに領ち興へて、諸子は四方に遊んで豪傑の士を求め仕へ
よ すで たいらう よはひ ふうけつ さこも いう〜 ざんねん おく
よ、余は己に類老の齢であるから、これよりは風月の友ミなって、悠々たる残年を送ら

わかれ つきのふじやう おも からうしよく あ ひさこ いま かたむくきいのさい ㎞


學苦の代時年青

うミ別を告けて、昨日までは一城の重き家老職に在った人が、今は傾ける草の軒、破れ
しは もん ふう けつ たのしみ
たる柴の門に、風月を楽んで居る。
け し ら、おや わか おもこほさ しの あひさも はか しもつまじやうか はな
家士等は親に別れた思ひして、遠くに去るに忍びない。相共に謀って、下妻職下を離れ け、
きんろくすうちやう た もさこのうそん おこ あらた ていたく いさな あらみ もん むか
た山麓に、数町の田を求めて、こくに農村を起し、新に邸宅を営んで、新井の一門を迎
へ、相持っ手に薬を携べ、死撃っ手に盤を打って、シに拒へた
._石 自 井_新

か あき っ さこくがは さ ひ
樹の一葉に天下の秋を告けて、徳川に咲く薬の花、い
、 * は -

のち おのれ そだいへ らうあう ものがたり
後に、己を育てた家の老艦の物語によつく
き おく ち、まなこおは ひけおほおそろ き
己 あ
父は眼大きくして顎多く、恐しけな顔で有
いうじん けん さが ひさこ あな こさ いたま いち* きだんし
友人の言を答めて、人を侮づる事を言ひ給ふなミ言うたのを愛が
ひさこ あなさり う はち な たさへ
のは、人の侮を受けたほきの恥は無いものである。されば、 個令人が侮っても、おのれ
な&こ おも
なんち いま いけん みづか あなきり う いれ

は、侮られたミ思ふものでない。次が今の言は、自ら「鯨を請け入れたこミにな
いまし た あ
まわす がた ち、かたみ
㎞ 、
るではないか、ミ訓め給ふたこミが有る。 これが忘れ難い父の形見であるミ語り聴かさ
れたミ 配石は言うてみる。
けいちやう ねんなつ ぐわつ さきた ばつか け ゆ しもつまじやう つか のちむか ふ
ふじ% 、
かくて慶長九年夏五月に、夫人が先ちて没した。勘解由が下妻城に仕へて後迎へた夫
じん た が や しうりのだ いぶのぶいへ しんそめや ぼう むすめ の ちゃう しおんなっ 、ぐわっ か、少 ゆ
人で、多賀谷修理大夫宣家の臣染屋基の女である。この後慶長十四年夏八月、勘解由も
ばつ しもふさのくにをめのしやう しやうさこくじ はか あ
殴した。ミもに下纏國小目庄なる聖徳寺に墓が有る。
か け ゆ そん こ ここ おも まづ あた や わか たんせき
勘解由は、一村のものを子の如く思うて、貧しきには興へ、病みたるには領ちて、携石
たくはへ のこ ぼつかたむ おさころ か もん よし らう よ やうや ちくはじ こう
の畜も残さすして没した から、傾き衰へた家門に、余四郎ミ呼ぶ潮く竹馬の見童であっ
はくせき ちくさい さこき そ% がうのう こやしな しか
た白石の父は、九歳の時、一村の豪農に子ミして養はれねばならぬこミになつた。然る
よらう きい さこき あるひ は% 、ぶ そんいんゆから いま ふ ぼ
に、 余四郎が十三歳の時、或日、己が家はもミ一村の主家であつたこミ、今の父母 い、
_學苦の代時年青・

そころ いへ け らいき はじ おの うんめい かな


共の頃わが家の家来であつたこミを聞いて、初めて、己が運命をしみん〜ミ悲しんで、
ょん
- -
こ くろ き だんな でら をしやう あはれ
門を難さねばミ心を決めて、艦難等の親衛が鶴 んで興へた毛
- むら ぬ いら こ き
青 奪 密かに村を脱け出で、江戸に来つた。



&こき と -
sなり な た
あらぶ だう は
よナ
:、、 * 振) 、㎞ *
戸に来た余四郎は、正湾ミ名を改めて、武道を働けんだが、常時戦國の余風ミして
"
いうけふき せつ たふさ ふう かん まさなり よういしゆさり てんか る らうぶ みが
、遊狭気節を尚ぶ風が隆で、正湾も容易に主取をせす、天下を流浪して武を磨いた。さう
石 白 井 新

やうやさい さき かづさのくにくるりのじやうしゆつちや みんgのせ う_さしなほ っか

10
はじ
して、潮く三十一歳の時、上纏國久留里城主土屋民部少輔利直に初めて仕へた。
かへりさい むかし あにうね す ひそか きやうり ざ ねん ンぶ し
顧みれば、十三歳の昔、兄姉を棄て く、密に郷里を去つてから二十年ミなった。武士
-
こくろざし すで たっ ふ そいへ ふくこう おもこ さこし あき な ちく ねんき
たる 志 も既に達して、父祀の家をも復興した。思へば今年の秋は亡き父の二十五年忌
こしもふさのくにをめのしやうしようさくじ ふ ぼ ふんば お こけ はら たまあにあa あ
である。下継國小目庄聖徳寺なる父母の墳墓の苦をも掃ひ、老い給うた兄姉にも逢ひた
まさなり くわんらい ねん あき もみち にしき ききやうり かへ
いミ、正湾は寛永八年の秋、紅葉の錦を着て郷里に騎った。
きみ むかし かは さんが すがた にん あに はや こ じん さこしお
来て見るミ、昔に鍵らぬものは山河の姿のみで、三人の兄は早く故人ミなり、年老い
もん ふんば あょれ ものがたり
ひさ わびず まひ
し難のみ蹴り鶴をして、瀧しく一門の薬を弱って居た。襲は驚きぬ姉の腕霊のな
よらうき やうりさ ひさこり のこ あに き くる なけ かなし
かにも、余四郎が郷里を去つてのち、一人残つた兄は、気も狂はしきばかり嘆き悲ん
よるひる た こうれひつひ、
-
K づさ* * みお ひばっ
で、夜書その行方を尋ねたが、比 の憂遂に身の病ミなつて、秘せられたミの事である。
まさなり おも こんじやく へん あまれ もよほ た がた さしふきさ だびころも ひかさ のち &
正湾は思はぬ今昔の鍵に哀を催しながら、立ち難き年経る郷の旅衣も日を重ねて後、江
戸に騎った。
-
*さなり ょじ あしがる こがしら ちくか け ゆ がうき せい
っちや けつか
シに低へた眠湾は、初めは足轄の小頭であったが、父勘解由そのまくの剛毅の性
ます〜おも もち つひ おほめ つけ あ をり しま き
は、『ェ重く服ひられて、遂に大目付に撃けられた。『折たく柴の記』に、
おもて ょう がくじやうたか おこ まなこおほ ひけおほ たけ なち
耐は弱におはしまして、額上高ぐ起り、眼大きく、騙多く、丈は短かくおはせしかさ、 -
ほねふた たくま みたまてんせいき さ いろ み わら たま
すべて鶴太く選しく見え給ひたりき。天性喜怒の色あらはれ見えたまはす。笑ひ給ふ
たか わら たま ここ おば - 、ひさしか たま

にも 高く築はせ給ひし事は覚えす。まして、人を比り給ふにも、荒々しき事のたま
ニさここ のたま こさこここま すく たち み
ひし野は聞かす ものシも、いかにもシなくして、起居かろ〜しからす。
難き結び、麗き継び、群に紫へかね鮮ひしなさいふ薬は見しこさあらす。
ミ書うて居る。いかにも毅然たる古武士の慰が見える。
學苦の代時年青」

獣魔獣を射んで、電離が架て慰て 、もし際むならば治療が出来るが、 まぬならば


せつかいき けん -
まさなり
いす おごろ いろ な こいた
罪闘するこミは危険であるミ言うた。するミ、正湾は驚く色も無く、少しも疫まないミ
こたち れう てんめい * い しー・、っ
答へた。さらば治療 カ 獣来ぬから、あきらめて天命 を待たねばならぬミ賢師が告けた。
さい

11
いに」
これ い にはら ふ じん いつわ
者を備に聴いてるた夫人が、警師に告けるには、吾 が夫)は、いかなる場合にも、疾いミ
-

*ー
いぶ し は
ちいさい
た き〜㎞
*
言ふこミは、武士の駐ミして言はないのである。まこミは疫むミみえて、時々眉をひ
井 新

12
いたき しの すみやか せっかい ち れう
そめて獅を忍ぶやうであるミ言うたので、さらば避に探闘せねばミて、治療したこミ
が有る。

、たミへ らく〜 らうしよう こ ほう た ごさこ ひさこくなり をか がた ちから あ はく


個令ば、落々たる老松が孤峯に立てる如き人貸は、まこミに犯し難い力が有つた。白
せきり しは き
は『折たく柴の記』 に、
をし たまこさこ おほ つね おも いく だんじ ここ た
教へ給ひし事ごも多かりしうちに、毎に思ひ出でらる、こミは、男見はたぐ事に堪ふ
なら なら こさこ なにこさわがたがた おも
るこミを習ふべきなり。これを習ふべき事は、何事にもあれ、我きはめて堪へ難く思
こさこ なんじ こきこ
ふ撃より撃へはじめぬれば、欠しくては、さのみ鶴事ミ悪ふ聖はあるべからさるなり
ミ備せられき。
いみ はくせきこ ちく
ちせいっ らま か%(あ
〜 Q
ミ言うて居る。白石は比の父の血ミ性ミを享けて生れ、さうして、か、る感化を受けて
せいちやう さ
生長したのである。
はくせき は、ひたちのくに2 さじやうしゆこまきいしやうながしけ むすめ つか むすめ &こ 7こくかきまのじやうしゆあさの
龍石の獣は盤陸離江戸崎シの妃に低へて、共の が、同園籠城主浅野
にが ゆ - け い
にくみのかみながおう
内匠頭長直に嫁するに従ひ行きて、小上薦をして居たが、後には、丹羽宰相 の
しつ あま ちやうせいるん い あうしう ほんまつ すま
いせのくにまつざかのじやうしゅふるただいぜんのだいぶしけはる
伊勢國松坂城主古田大膳大夫重治の室が尼ミなつて長生院ミ言ひ、奥州二本松に住うて
み まさなり むか 、 ミ) で。
* :言、g
居たのに仕へて居た時、既に土屋家に仕へて居た正湾に迎へられて、共の夫人ミなつた
あ はくせき は、 さかみ ぼう むすめ こさこ し なにゆる
ので有る。けれさも、白石の母は、たぐ坂井某の女 ミいふ事が知られるのみで、何故か、
ふ ぼ そ ふ ば こミ はくせき かたはくせき をり しは き
共の父母や祀父母の事を白石に語らなかつた。白石は 『折たく柴の記』 に、
ひさこい か ひさこ こきだ あねいもうさふ
わ はミ
我が母にておはせし人は、如何なる人の子にておはしけるにや。定かならす。姉妹二
わ ものこくろ わきま をり ふこ まみ ひさこ おや わ
たり
おはしたりき。我が物心を解へしより、折に鍋れて問ひ参らせしかさ、人の親の吾
こ つく あ しま み ここ あらきこ はべ
が子に包むこミ有るべしやは。知らせ参らすべき事ならねばこそ顕はし聞え侍らね。
-9
學苦の代時年青

むがしここすちな はら やこ たま いにしへ いま おほ
昔のやむごミなき人も、筋無きもの、腹に宿り給ふためしは、古も今も多かるものを。
は、ふ ば おんこさこしたまなに はづ ここあさこしたま のち
母の父母の御事知り給はぬミも、何か恥かしき事有るべき。されき、年たけ給ひし後は
-

おも たま こさこ あ よしなみ まを
思ひあはせ給ふ事も有るべければ、由無き身なれきも申すなり。
*ーー
おやおはち おんこさこよ したま ひさこ あ のぶながき
みづからが親祀父の御事は、世には知り給はぬ人も有らじ。信長記ミいふものにも、
のこ にま または、かた おほちこ ある
襲もれぬ名のみ残り継へりしか。シの胆父の高魔の城を攻め取られし事をも、厳
井 新

ひさこ かた き ここ

14
あなたま ここあ
人の語りしをよそながら聞きし事もこそ有りつれミ、泣きくさき給ひし事有りき。
いみ めいもん で こ は 、
あい いら %は
ひさ かはX せい -
ミ言うて居る。さすが由緒有り *
石 白

けなる名門の出である比の母は、その人貸沈厚寡獣の性
しつきっきよ あ はくせきい はくせきち ミ
質が、父にそのまくで有つたミ自石は言うてみる。しかしながら、自石にミっては、父
たくらく、せいしつ う はくせき
〜 シ * は、 * さめつめいよ のこ
㎞ さい
からは剛毅軍落の性質を受け、母からは、自石をして不滅の名撃を始さしめた學問の才
のう う しは き をり
能を享けたのであつた。『折たく柴の記』 に、

せ 、は 。 、、、 -
たまう た ス ち つに たま
我が母にておはせし人は、ものよく書き給ひしのみにあらす、歌の道をも博へ給ひて
* } し・ふ
ものがたり るみ が 、あやか をし たま こ
、 -
さ たんのう
代々の集または物語の類なき、我が姉妹によみ教へ給ひ、園基象基なきも堪能におは
これ さこわれ をしたま かうろ はこ ここ つめ ふくろ い お
して、之らの事をも我に教へ給ひたりき。香焼箱のうちに、琴の爪を参に入れ置かれ
こさこ
しを見しこミあれば、これらの事をも好き継ひしにや
はKせい 、 がくもん ふけ み ち〜 この はけ
〜 * ㎞ 砂 か
ミある。白石がミかく寧問に歌るのを見て、父の 正湾はこれを 好まなかったが、密に
〜 -
はくせき かく
の、 ㎞
まし導いたのは 、 は、 こ
、比の母で有つた。白石は斯る父母の
ふ ば
)は づら 「シ 、 こ)
性を享けて、明暦三年二月十日
㎞のシの職に生れたのである。このシに、シの玉屋民離
がェの職シけて、親戚である右シ親の離魔の駆に移ってみたのである。
シは繊名を撃五駆ミいうたが、シ㎞は、共の名を書はす、無に火の見
ミ呼んで、その獣のシに、龍臣ェの観めての罪見であるミいふので、音
せき
こここはく あい
さい O
が子の如く白石を愛された
つきひ おくさい あるひむつのくにもりをかのじやうしゅなんぶしなのくかみさこしなほ
かうふく
「かうして、 顧なシを選って六厳ミなった厳日。陸ェ信濃ェが かた なんぶ
こ つちや さこしなほかたはら はくせき ゆびされいリ
来られるミ、土屋利直は、側の白石を指して、その拾桐なこミを語られた。するミ南部
ぶん こ なたまや よ つぎ こわれ しな
さこしなほじ ねが
ら、願はくは、この見を吾に賜へ。養ひて世嗣にしたい、
-9

き なんぶ さしなほ
學苦の代時年青

は、こうしても諸かれない。するミ、南部利
こく ちゆうしん もち
たま のち
へ。後には千石の重臣ミして用ひたい、ミ望まれたが、土

15
のそみ まか

兄ー
ぶ たいしゆ
つちや け

*ー一
みた長屋家の説は、鳴呼、不幸の なるかな。献部天空 の望に相され


ゆくする じふま、ごく じやうしゆあふ * *
こく ちゆうしん

たならば、行末は十萬石の城主ミ仰かれるか。さもなくば千石の重臣ミなるべきにミ、
井 新

ひそか
な おも

16
子うこ ト、ン、、、、、 にし) こき つちや かちゆうかうふく
密に思うたので有ったが、しかしながら、若しも比の時、土屋家中にそ

なかつたのである。
(はくせき きい しゆんけん けういく ほさこ
%
白石が九歳に な った秋、父母は、もはや厳の教塾を離して、最のシミせねばなら
おも にち ぎやうさじ やじ しふじ くけ わ ちくじ
ういく なら

ぬミ思うて、一日に行草三千字、一夜に一千字の習字を課した。父の教育は字を習はす
いな 書、 、 たんれん はくせき ひい も お つくる
* ささ いき
るのみで無い。その意志をも鍛練するにある。自石は、日の出づるミ共に駐き出でし概
むか ひ みじか あきふゆ じ
暮* 封

か をは うち ひ
出で が に

うた。しかしながら、日の短い秋冬のこミであるから、三千字を書き終らぬ内に日
- はくせき つくる ほ も だか をは まに よ ふ ひ つかれ
れる。するミ、自石は机を機に持ち出して書き継った。翠、夜愛けては、盤の癖が
ねむり もよほ
*
はくせき をけ みづ く お こほり みづつきかけ さ
*
て眠を催す。するミ、自石は二の桶に水を汲み置いて、氷のやうになった水を用 影海
てかじゃう 、めし き はけ
た ませいけふ よくねん ちく
手下 ゆ

る庭上に浴びて気を働ました。これであるから、怒ちに成業して、この翌年には父の
がみ だいしよ ●
紙を代書するやうになつた。
-
おほせ け な ぼ あ はくせきっ ち
紳童ミいふもの、多くは、やがて世間から名を没するもので有る。自石もこのま、王
や みんぶのせ う さこしなほ ちようしん おそ - しんこう な はうねん ころ さぶ、 す
屋民部少輔利直の寵臣であつたならば、恐らくは、紳童の名を幼年の頃に留むるに過ぎ
あっちいくねん はくせき ち、さも つちや け お
なかつたで有らう。しかるに、比の後幾年ならすして、白石は父ミ共に土屋家を逐はれ
らうにん ひんこん せいくわっ こく お 、 はくせき くわかんふくつ せいしつ はじ あら
て、浪人ミなつて貧困の生活をした。是に於いて、白石の果敢不屈の性質は初めて顕は
てんりん ぜ、さい れん まさき と、
れて、天高業の絶才は、いよ〜練磨される時が来るやうになったのである。
しんこう ふ し かたぎ - がう よろ こち、いにしへ ひさこ は ぶ し
この碑童も、武士気質の父からは、豪も脱ばれなかつた。父は古の人に恥ちざる武士
- はくせき しやうらい まさこくしよ ふけ ぶ けい おこた ごさち、はなはだ
ミこしてのみ白石の将来を待つたのである。譲書に歌つて武藝に怠る如きは、父の甚しく
この こころ はくせきち、 かくきうくつ しよ ひもこ がく
好まざる虜であつた。されば、白石は、父に隠れては窮屈に書を幡いた。さうして、
もん しゆみ はふ あょれ ひそか しよ あたしやうれい
苦の代時年青

問に趣味ある母がこれを隣んで、私に書を興へて奨励した。
まさなり つね はくせき がくもん ふけ ひさこ かた なけ き せきがく
常に白石の寧問に歌るのを人に語っては概いた。これを聞いて、さらば

、壺な
き。


*

17
こんきんわうこん むかしこさわざ あ
て、寧問をするには、利根気根黄金の三こんがいるミ、昔からの診が有る。天
をり ) んたいき こん かんしよじ いう
明なる利根ミ、これに忍耐不屈の気根がいるのみならす。このうへに利漢の撃を野獣に
白 井 新

もさこ いんよく けい かへり わうこん

18
いわ こり こん
求め、衣食の計を顧みないだけの黄金がいるミ言うてある。吾が子は、利根はあっても
き こん さこば き こん た わうこん ない ぐわん き
気根に乏しい。よし気根に堪へても黄金が無いミ言うて、顧ミして諸かなかった。
はくせき
『 へいわ か てい あいじ しか

せいちゃう へい
かうして、自石は、ミにもかくにも平和な家庭の愛見ミして生長した。然るに、このシ
わ やシ あらし こつぜん おこ や%は う ねんける、なっ ぐわっ ふか まさなり しんにん
和を破るシミして起った。それは、シ深く㎞を電磁せられ、
はくせさ ここさ あい つちや みんぶのせ う さこしなほ や まひ にはか せいきよ ここ
石を子の如く愛された土屋民部少輔利直が、病によって機に避去せられた事である。
い よのかみよりなほ に ぼんようこ か んじや さ はつこ はじ こ
世闘の伊シは、父に管ぬ麗の君であった。鶴ちに もち
邪の徒が践属し初めて、故
%ばゆせ ㎞ しんこ%〜
ふよ
部少輔に用ひられた忠良の臣は、悪く職を停められた。

々二の
まさなり はや
シX たいいちゆうりやう きうしん け う れい よのかみ
岡 の正湾は、早くみづから選競した。シの鶴はシの シを競ひて、伊シ
はいりつ はか はかゆきさなおよ かんたう はかりこさこ やぶ まさなり ふ ぎ
つかり
の廃立を謀ったが、謀成らざるに及んで、好賞のために 謀 を破られた。眠湾は、不熱
こ はかりこさ あづか れんざ うたがひ う つちや け おこ
ミして比の謀に興らなかったのであるが、連座の疑を受けて、上屋家を逐はれた。比の
つみゆる だいみやうはたもさこっか ゆる
* -
は 、ふ 艦い
罪の計されざるかぎり、いづこの大名旗下にも住ふるこミを許さないのが、幕府の翻度
である。
まさなり らうじん * らう やしな よはひ
されは、 瀬は七十七歳の老人であれば、いづれ世に隠れて、講 に老を養ふべき齢で )
せいねん はくせき このちなに みた ぶ し
* ㎞ うしな
あるけれきも、青年の白石は、比の後何によりて身を立つべきか。武士たる途を失うた
はくせきたくがくしや タ* みち
出* 唯

者たる途一 つがあるのみである。
薩。
家"

義。
まさな こぶ さい
は ていはつ あさくきた はらちやうはうおん じ か、さこくるも みるんしゆ
\ 正

* た

響髪して避ェ寺の高徳院に撃を寄せた。院

-
は、いもうさこ かつ まきなり やうし いま あうしう
正湾の母の妹である。かうして、曾て正湾の養子で、 今は奥州
の家来である電治眠信から選る養老の資によって、闘龍編変の
ほんちやう すまく がく はじみんはう ねん はくせき
つ た。宝石はシに狙うて苦撃を続めた。時にェ四館 、配石
學苦の代時年青_。

は十九
はくせ き にん ああ みなわかじに ひさこり いもうさこ た かん
白石には三人の姉が有つたが、皆天折して一人の妹のみ他に嫁して居たが、これも、
こ よくねん なつ さん ぼつ よくくねん なつ さい は、 かうさこくみん わび

19
比の翌年の夏、産で残した。しかるに、その翌々年の夏、六十三歳の母は、高徳院の住
*ー ずまひ ぼっ おやひさこり こ ひさり せうぜん せきらいあいよみ
住居に没せられた。そこで、いよ〜、親一人子一人が、蕭然ミして隻影相依るの身ミ
“- 石 白 新
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幻ifyび 圭士*こ f宙で ネ "マ 。 “
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リ書 恋 ー

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おにい
したので、天撃弾信篤を初め、林家の撃者は、舌を登いて驚いたミいふ事に博へられて
みか つのだ くわ きんせいそうこいひだ たミひこ や し かつた み
居る。彼の角田九華の近世業語や飯田忠彦の野史なきも、斯う博へて居る。けれきも、
これ こうねん いた はくせき はやしだいがくのかみのぶあっ かくしつ さうさうふくわい せつ
は、後年に到りての自石ミ林 大學 頭信篤ミの確執から、想像した附曾の説である。
こうねん はくせき かなざははんい を せ ふくあん あたてがみ
後年、自石が金澤藩賢の小瀬復庵に興へた手紙に、
らうせつし ゆき だい きふらふさい さき きやう れんか し しゆうくださふらふさこきかんわ わ かん
老抽詩容奇ミ題し候ものは、二十一歳の時、京の連歌師衆下られ候 時に、漢和和
れんく さふらふこさきふらふ みやみ たうせつ まを のち み こ で さふらふけいし い。しさふらふ
なきの職句し候事に候、宮州道設ミ申し、後に水戸へ出られ候京師の賢師にて候が、
じやうざんもんりう ひさこ わ じ だ ゆき いだ さふらふ やまさこ こ じ つかま さふらふそくせきさふらひ
丈山門流の人にて、倭字題に雪を出され候を、ふミ倭の故事にて仕り候即席に候き。
たうじ はくせさ うるひ はいく、 さこ 5 まじ あるひ れんか サき つらな
ミある。かうして、常時の白石は、或は俳句の友に交はり、或は連歌の席に列ったのみ
塾苦の代時年青」

すで こくぶんがく ざうけい ふか あこさここ し へん し


でなく、既に國文學の造詣に、深いものが有つた事が、比の詩肩で知られるのである。
おまめ あおこそ か
おら ㎞、 いませうじ
「い ㎞ ら。 時%
さきに一城の大目付で有つたミきには、厳かな家門であった新井正湾が、今は小寺院
わびずまひ こはくせき ろうこうかんそ たい みき さく おも すんのくられうにん

21
に信住居をして、その子白石は晒若の寒措大で居るのを、気の毒に思うた住倉了仁ミい
ひ か け
*ー
い㎞ ㎞3 、、 ㎞ % 、 、 じ ㎞、 * しか ミ
ふ正湾の老友は、ある日正湾を訪うて、吾が知人なる府下の富豪が、怒るべき武家の子
そく、むかいへ ゆづ のみみ これ はくせきつかっ
息を迎へて、家を譲りたいミ望んで居る。之に白石を遣はされないかミ告けたが、白
白 井 新

ち t こ ここ
きた くすみのくられうにん さこさこは

22
は父から比の事を聞くミそのまく、直ちに住倉了仁を訪うて、これを断つた。
く がく、つご、 はくせさ
み ひさこり 2きいう
かうして、苦撃を績けて居るミ、配石には『人の盆友ができた。それ ま ミい
ふうしやう し てい ず、けん こ ずみけん あたご した ぎいもくしやうめいれさ

ふ富商の子弟で、かの瑞賢の子である。瑞賢は、もミ愛宕下の材木商であつたが、明暦
た、くわ きよまa さこみ & れいがんじま こうきう ちゆうたく いさなす はくふこ ばくこうじ うけ
の大火に銀萬の富を得てのち、霊岸島に宏壮の住宅を営み棲んで、幕府の土木工事の請
おひ ー、
か ら ご いた かうろう あうし、)
さんいんきんやうこうかい し、)
くわいさうかうろ
負をして居る。彼の奥州から江戸に到る航路ミ、羽州から山陰山陽東海を廻遭する航路
ひら はくだい さこみ 2
を開いて、莫大の富を得た。
ずみけんし り いさなしやうにん な するり かいうん おこ
しかしながら、瑞賢はたぶ、私利を営むのみの商人では無かつた。水利海運を興して、
こくり みんぶく、はかもつ しやう じ けふ ひさこ ため ひろ さき がくしゃ まじは
國利民幅を謀るのを以て、一生の事業ミした人である。比の貸に、廣く時の學者に交つ
し なす
3り さ 〜うん けんきうま しよ
はくたい たため しよせき もさこみ
て、支那の水利遭運の書をも研究した。又これが貸に、莫大の書籍を求めて居るので、

たうじ がくしや ずるけん すくなべん
常時の學者は、瑞賢から少からぬ便利を得たのである。
べいにん きう はくせき さつ しよせき もさこちから な つうけん まじは
米麗にすら窮した白石は、ミても一冊の書籍をも求める力が無かつたが、通継ミ交る
ため
む じんざうしよせきじ いう み *
うき これ 、 ●
およ
に競んで、比のェの船を書曲に見るこミを得るやうになったのである。之シ しみ ざいし、げゅ
は 、せき しま〜かはむらてい ゆ * ● さ》 。 シ
㎞に行くやうになって、おのづから瑞賢ミも識るゃうになった。偉材の端 はくせき みいぬ
けん ばんじん
賢は、はやくも兄人ならぬ自石を見抜いた。 けつ あ 、* さこ
はくせき むか そくか いま いシ さ*
げ% * * *
*
あるミき、離競がシに耐って、足下は令までに幾度死を決したこミが有るかミ問う &ここた
ひさこ あらそ * ため し けつ
はくせきも *
に死を決したこミが二三度はあるミ答へた。す
おもいふ のち
しか そくかせいめいすで

は、然らば足下の生命 かつたものミ思うて、今より後は、
けつ したいゅふじやうじう
をし がくもん だんし
せいめい
命を惜ますして學問 は、いかなる大業ミいへきも成就せ
ち、ふ きを し やう じ けふたすきん
こさこ なっ に%ゅん
ぬ事は無いミ告けた。この訓言は、父の不 もに、一生の事業を輔けた金
學苦の代時年青」

けん こうね つは
はくせきん ひさこ かた
認であったミ、自石は後年毎に人に語ってみる。 ん
こ み きい やしな たのしみ なおもりやう ざい
ずるャん
な ば、これはきの難は無からうミ獣うて、三千 のシ
職監は、比の傑おを養すたら つうすん はくせき
つうけん あに ささ も むすあめさこ

3
を えて、獣の説であったシってはくれまいか 、襲をしてシ

QQ
* きよまん がくし た
かい ひんしよせいい てんか ふうが う ちよせい
しめた。 シのシミなって国 の撃 を撃へられるので布る。 に


g い か これ こた
石は如何に之に答へたか
、石 自_井 新

き れっ %

24
、 )祭 び)加 眠 r、シ) 、シ
にん
先に住倉了仁ミいふ父の老友の勧めの如き、祀先以来の武家を擁して、弱に及んで酸
こさこはくせき た
あみ じんずるけんし み
人ミなる事は、自石の基ふべからざるミころで有る。偉人瑞賢はこれを知って居る。さ
-
のを か、てんかみ きい や しな たのしみ
-
-
はくせき
れば、その望むミころは、斯る天下の偉才を養ぶを築ミしたいミいふのみである。シ
い か これ こたかいうめい
# りむうせん へび はなし をり しは き
は如何にNに答へたかa彼の有名な 山の蛇の謎がこれである。『折たく難の記』に、

ひさここざこ ころりやうせん ほさり あそ

取むかし。ある人の距せし事を聞きしに、髪の頃、獣脂の鍵に避びしものミもの、艦の
が 、 、5 〜
、、たほち
へび き
たい ) ) な
に足浸し居けるに、少さやかなる蛇の来りて、共の足の大指を概むるありしが、怒


* た 〜 みさいい
へび おは
に去りては、また怒に来りて祇むる。かくて見るがうちに、共の蛇より〜大きくな
ほゆび の うち そお
まさ ちいさがたな さいだ やいは 」 。。 さ、、きこし
りしにや。後には共の大指を呑んばかりになりしかば 腰より小刀を取り出して、双
うへ ま
*
、シ)
のかたを上になして、大指の上に常てく待つ。
きた おほゆび のまさこころ さき
s * き ドに * さ
また来りて、大指を呑んミする虜を、あけざまに刺し切りたれば うしろざまに飛び
しやうじ さ なにここ ほ&こ

きに、家に駆け入りて艦 を発す。さもなひしもの、艦船にやミいふ鍵こそあ
いしはし き ち ふる のち ほそめ あ
に はんき 〜 すさ * ㎞じ みき
れ。石走り木倒れて地震ふこミ牛時ばかり過ぎて、後に障子を細目に開けて見けるに
ちゃう ほり)すみ うへ し xめほりき 、、眠 しR
)、 ㎞ ㎞ ほ、、 さ *
一丈 除 の大蛇の、唇の上より頭のかたまで一尺除切られたるが、倒れ死したり、ミ
いふ事あり。
こミ あ - な - いまのた に さこころ はべ はじ
ら・
その事の有りや無しやは、いまだ知らねき、今宣まふこミに似たる所の侍るなり。
そ へびちひ ほ&こ はづか ちひさがたな き さこころ すで おほ
* * 旧リ * *
め共の蛇少さやかなりし程は、僅に小刀 をもて刺し切りし所なるが、己に大きくな
いた しゃくめほり)きず
りしに至りては、一尺 除 の庇ミはなりしなり。
け ま ひさし あ み はうけい
だ 、ピ - *
我が身貧しく窮りたれば、人知れるものも有らす。比の身のまくにて、そこの亡兄の
もしさこころ こさこ よし
あさこ
うつさ * ㎞こ * ミ
跡を承け継ぎなむに、その庇獅少しきなるべし。若のたまふ所の如く、世に知らるべ -
ほ&こ きず こさ だい やう わうこん
㎞ ほ さり
學苦の代時年青

き棋の儒生ミもなりなんには、共の庇は殊に大にこそなりぬべけれ。三千雨の黄金を
す Fほきず じゆせいこさこ はかりこさこ & たま いたさこ
ある儒シミなしたてられん事は『謀を得結びたりミも言ふべからす。個
ひき さこころ す こわれ またきずかうむ こさこ ねが
令、刺し切る所の少しきなりミも、我も又癌蒙らむ事を願はす。 ばけ

ミし しょせい きよまん さこみ かへり ひっかけ はづか べい
せい な なかい マ * い ㎞ *
市井に名も無き一介の書生は、巨萬の富を顧みもしないで、依然ミして、筆耕に僅の

な つちや け
油を買うて苦撃をした。するミ、二十三歳の愛。思ひもかけぬ 玉屋家の滅亡に因って、
井 新

はじ ひら
シ)ん てんな ねん ぐわ

26
つきが) 、注い * 』 *
白石の仕途は初めて開けた。そこで、天和三年三月二十六歳の春、大老職にある
こがのじやうしゆ ょったちくぜんのかみまささこし つか
石 白

古河城主堀田筑前守正俊に仕へるこミになった。
しか やうやうこ さこ つらうふ
みやすん 、で」 よろこ か ひな
然るに、潮くに仕途に就いて、老父の心を安ぜしめるこミが出来たミ喜んだ甲斐も無
さこし なつ ぐわつ か *つ あ
* 、 ㎞ たれ ふ ば
㎞ か むき 〜*
く、この年の夏六月九日に、父 は急に病みて没した。鳴呼、誰ミして父母の恩を蒙 らざ
イ こ ○
いま
はくせき こさき い % あ

るものは無い。 しかしながら、白石の 如きは、更に懐恩の情禁ぜられぬ ものが有る
さ〜
。剛
いてくおだ%)きにゃ の ら ) らい K)は のいく がくけふ にま は
毅果断の気象は、父の語落の教育に依る賜ものである。その不滅の寧業 、 K、 -
- ミシ
は、母の教育か

せいせにお おは だいお は〜 すで さき ばっ ち と こよ
、いま
ら受けた成績である。この大恩ある母は己に前に没せられて、今 また父も比の世に在さ
す。

完 立5

-
かへりる やま たか う
いい らい)だいシ いさけな ふり
3)
れば山よりも高く海よりも深い父の大恩のなかにも、幼きミきに父の賜ひし 〜
た ち かた
一振の
でんせっさこも
、 時g -
はくせき しやう おほいかんくわ あ
刀は、父の語つた壮快なる博説ミ共に、白石の一生に大なる感化を興へたもの
たこ
である
O
ち、これ きづ ものがたり こ たうかうづけのくに さ
父が之を授けての物語は、比の一刀は、もミは ぎゆう㎞しg う
の住人後藤基が秘蔵したもので
あに ひさこ てき かうべ よこぎり めいたう ここ あ われ
ある。その兄なる人が、敵の頭を横斬に二つにした銘刀であるミの事で有つたが、吾こ
2*Q- ㎞.、シシ * 持さ
れを得てのち、ある日、土屋家の侍長屋で、加藤基がその若賞ミ機に争ひ斬り結ぶのを
かたな さこわかたうき かた さき すち
見て、龍らにこの死を取って若鷲を斬りしに、シから艇かひに、離にあったシの銀
はな はたこさうなにか し ものがたり たがき たい めいたうおミ
をかけて斬り放した。果して後藤基が物語に違はす、稀代の銘刀であるに驚いた、ミの
ものがたり
物語であつた。
こ た ちのち だいしやうぐんしやうさくぐわんねんふゆ はくふ ぐんしん ほし こさこ つらな ふ よう まお
比の太刀こそ、後六代将軍の正徳元年冬、幕府の群臣が星の如く列る英養の間に於い
てうせんへいれいし しった ゆんで あんた し 、づく めいたう いうしよ
て、朝鮮聘濃使を比陀したミき、左手に按じて立つた獅子作りの銘刀である。由緒ある
たうだんした 、 ここ た しの ここ ないまし
比の一刀は、かの男子は唯いかなる事にも耐へ忍ぶ事に慣れねばならぬ、ミ戒められた
-9

脱 はくせきやけ 、がたち* かたみ


學苦の代時年青

* *
訓言ミミもに、白石の忘れ難い父の形見である。
こころ はくせき にしやまけんほうり
ふい ま むす けん な%


比の頃、白石は西山健南ミ深 -
園府中城主宗勤馬守義眞の藩
い か%は かに ら さ いうがく る りんけ もい この
* *
賢であつたが、家職を厩うて江戸に遊 して居るので有るが、林家の門に入るを妬ます

27
ひろ し せい まじはじ いう
して、魔く市瓶の撃群に突って、更
にまつた けしゆつ が
㎞、 しい、 だい㎞で泳 ㎞ シ %ん -
白石が堀田家に出仕した秋、五代将軍の就職を賀する朝鮮聘濃使尹跡完、楽
かうらに さこ

28
はくせき かう うち ゆつくわん は
来た
の一行が江戸に来た。そのミき、白石は一行の内の寧士製述官
こうせいたいさこう かくさくきほんぐわんじ
ん さこ し しやうわ じ
洪世泰等を客館の選ェに訪うて、詩を撃親した。髪、財
じよ


に また し ひひやう こみなけんほせうかい
の序を得たのち、又、詩の批評をも請うたこミがある。これ皆健車の紹介で
「ひが なっ きのしたじゆんなん はくふめ に さき めいせいやうや たか
然るに、この夏、木下順庵が幕府に召されて、江戸に来て、名盤潮ぐ高い。そこで、艦龍
はくせき いざな にふもん さき ちやうきやうぐわんねんはくせき さい はる
は自石を誘うて、共にこれにシした。時にシは二十八 1 の春であつた。
、、
池中の較龍
木下順庵の寧徳ー自石の貧困と苦寧ー島朝倉長治の家學とその蔵書「堀田家を致
仕すー青銅三百文と自米三斗ー隅田川の畔橋場のト居ー江戸學界の改新期ー木
門第一の詩人ー自石と榊原算州ー男子宰相の志を得すむば死して闘魔王となるべし
加賀侯前田綱紀の聘に應ぜすー林家は唯一の登龍門ー甲府城主徳川綱豊に仕ふ
じゆんなん きやう まつながせきこ もん まな けいじゆくわんぶん ねん か くのくにかなざはのじゃうんゆまへだかバのかる
順庵は京の松永尺五の門に寧んだ京儒である。 四年、加賀國金澤城主前田加賀守
っなのり つか しは〜かなざはじやうか ゆ 2 ミ れうらい めいせいやうや さ たか
綱紀に住へて、「魔 金澤城下に行き、江戸にも往来して、名盤潮く江戸に高かったので
はくふしは〜へい りんけ は 、かつね じきたきやう あ もんか やらな
幕府から魔聘せられたけれきも、林家に樺つて毎に鮮して来らす。京に在って門下を養
ッ てんな ねんなつ ぐわつ さいらう もら & き はくふ よりあひじゆしや

29
うてみたが、遂に天和二年夏七月、六十六歳の老を以つて江戸に来て、幕府の寄合儒者
がくさこく おほき むろさうさi いみ
ミなつた。その寧徳の大いこミは室鳩巣が言うて居る。
あ く せんせい たくぜつ こくけふ ぶんしやう てもりん し な
-9

-
まつた せんせい がくもん かう
鳴呼。先生の卓絶なる徳業ミ文章ミは、天票の資のみでは無く、全く先生の撃間の
白 井 新

30
であつた。
おこなひ さんこう いへ あかうてい つく しっか そうそく あひだ おんじやう いた
されば、その行の教厚なるや、家に在つては孝備を霊し、室家宗族の闘、慰情の至ら
さころくに あきみ つか ちゆう つくしゆう ままこさこ も

ざる虜なく、國に在っては君に事ふるに忠を霊し、衆を待つに誠を以つてせられた。
すこ ひさこ ぜんじ みたのし これ しよう よ きこ おそ ひさ あくじき
少しでも人の善事を見れば、築んで之を稲して世に聴えざるを恐れ、人の悪事を聞け
ふか うれしゆうしんくち だ さこくかうじっ いにしへ くんし およ
ば、深く憂ひて終身日に出されなかった。その徳行は、質に古の君子ミいへきも及ば
さこころ
ぬ所である。
しか せんせいるづか しうやう た にちや し くつさこ らんきよ&こくしよき
然も、先生は、自ら修養を足らすミして、日夜致々ミして勉められ、燕居獅魔の時に
けうけふ やめ みづか ほしいま、 こさこ なき ようけん さこく たくれい
も、決して業を積て、自ら「恐 にされるミいふ事が無かつた。この悪険の徳、卓獣の
こ*ろざし らうねん いた けつ おさころ
志 は、老年に至つても決して衰へなかつたのである。

け。
がくもん ひろ こさ


てんか しよ
更に、その撃闘の鷹い事に翻っては、天下の獣に譲まれざるもの難く、シ
てんもんれきすう れいがくさ よくはうじんぶつ
せられざるもの無く、シ雅㎞の説、職シの悲、
の 通ぜられざ
せんせい
さこころ なかさこ がくもん
る態が無かった。このうちの一を樹め御ても、 鷹の撃闘であるが、シはこれを愛
ね艦へられたのである。
も かうざん のみ
ゆみ もんじん はじ をしへ うく
これ に、門人の姫めて教を受けるものは、たミへば、雲のか、る高山を望んだゃう おの〜 ほつ
はうぜん よさこころ なじ ゆんん〜 けういく みちびつひ
なもので、シミして儒る虚が無いが、調々たる教育に導かれて、遂には各その俗す
さこころ ぬ で
る虜に抜きん出た。
いみ これ ゆる きふ お に さ きた もの やうや りんけ
きようせいせんせい まつ ぶん
ミ『シを祭る文』に言うて居る。之故に、算を負うて江戸に来る者は、潮く林院 きくたん
はなおほじ ゆんなん もん あっ まじゆんなん がくもん つこ
を離れて、多くは順庵の門に集るやうになった。順庵の寧問に就いては、子の菊薄も、 あし
せんくんし がくもん だうさこくせいめい が 、こんほん はくぶんた しき し おふ
先君子の撃闘は、道徳性命の撃を根本ミし、博聞多識を技葉ミせられたので有る。詩
ふ ぶんしやう いた たさへ ざんかうじようふくす ゆる かみ しゆし」が 、ほんけん さかのぼ
池 賦シに至っては、暇令ば、残賞剰観に過ぎぬ。これ故に、上は深測寧の淵源に遡り
かたはら てんけいち しんや くらうたけれいひくわんせつせっ ) さくは
しも れんらくせつ は らん こ

の Pは瀬落説の波闘を据り、『機に天経地志響老頼鈴碑官小説の類にいたるまで譲破せら

31
較 れざるものが無かつたのである。
龍 きんり せんせいぜんしふじよ いみ かく ここ じゆんなん がくもん へんこ
ミ 『錦シ全集』の序に言うて居る、比の如く順庵の寧問は、偏同してみなかった。
井 新

32

たものはシ州、松濃治、シでは祇艦㎞、睡眠艦語

なんぶ なんざ
三ーか

2
リクくい
*ーー

シ州、これらはシの樹である。その雌シ
騙Nの志擁、師非三省の気館、発艦艇の悪ば、またシか 、 『う そ *
らざる器である。耐して船撃の継 つ
の通艦である。
きんり ぶんしふじよ くわう ィい
いえ けいじゆう の めいか けん にうり もん
ミ『婦里文集』の序に言うた比の光景は、京儒宇野明鶴戦の、いはゆるシに満ちた
㎞KB% * 球、 らんまん けんろ いぶんがく
盛観であつて 之がすなはち欄漫たる元藤文
「はくせき つか たいらうほった ちくぜんのか
自石の住へた大老堀冊鍛ェ傑

仲恋
はくせき しゆつし

のん
正ま
よくねん

軍。
A

*夏
O)




永林
総 ー
な。

河堂 常

、見


刀C


それゆる 、自石が出仕した翌年
じゅんなんよしや はこれたりら ミく ふくき れい


順庵吉川惟足等を督して、服忌令を制定した。またその
いはみのかみまさひろ ち だじやうちゆう
Q、 * *
シ備のために、千代田城中に於い
い 術将に はシ.Cっ
は、封を出羽國山形城に移 され、
あう しうふくしまじやう うつ か しん やしな -
しん
* きか

で奥州顧島城に移されてからは、 て、家臣を養うこミもできす。家臣
かいさん ちくぜんのかみまきさこし ふ りよ
を解 するミ いふ悲惨な有様になった。 若しも、 鍛ェ候に不慮の発なく、 ま




- -
き おも もち る さい はつき
つたならば
ば、白石は重く用ひられて、その偉才を務輝し
むなさうれき あひだ ふ
らうが、 斯くの如くにして、 千里の馬は しく槽権の間に伏した。
・ さい あき ちくしふ こさそ ち やくなんしもふさのかみまきなかあそん
- * かっ さ〜
二十八歳の秋、筑州の事おはしまして、共の嫡男下纏守正仲朝臣、彼のあミを継が
ふ かう こさこう つく のち け にんら ふじよこさこ いま、
れしかご、不幸の事のみ打ち績きて、後には、家人等を扶助すべき事も意の儒ならす、
みな〜 るべきい 沈 %、、 % 浅くな
- きい・ 、
龍 岐 の中 池

*
皆々その藤米を減ぜられしほごに、藤を鮮し去るものさも少からす。
つか こ ふ し し みあ
われ か
いさ 〜 - * お はそ%
我はじめ出で仕へしより、比のかた、彼の父子に知られし身にも有らねこも
じうしや か、さき いた な 、さ こさこ
- - ㎞ * ささ- *
ミなり従者ミなれるもの、、斯る時に至りて、離れ去るべき事にあらすミ思ひしかば 3
3
はづか きいさ る
うこ、ろ まぬこ、ろ あ つかへ
かがみしたいこまおほ
僅に妻撃の鏡を免かる、のみにて、心にも有らぬ仕に従ひたりけれご、暇多かる身な
こ さこ き けいし るみせふれふこここ
りしかば、比の時にこそ、経史の類をも渉猟せし事はありつれ。
井 新

おり
㎞ ほに*は%**res み

34
#) びっく
ミ 『折たく柴の記』にいうて居る。自石は堀田下継守正仲の江戸藩邸に在りて、微藤は
ひんこん くは こ ひんこん お ます〜わ かん ぐんしよ &こくは

さなきだに貧困を加へたが、けに、比の貧困のミきに於いて、盆 和漢の群書は讃磯せ
く がくじやう をり しは さ

れたのである。その苦學の状は『折たく柴の記』 に、
われかふふ は%てい つか のち いた もさこ しよせきたま こころ
我甲府藩邸に仕へまみらせし後に至りてこそ、 みづから求めし書籍も、腸はりし所も
おほ みつかへ したが しよ みい さま おは これ
-
くはありたれ。されき、身すでに仕に従ひしかば、書を見るべき暇も多からす。是
さきみ つね まづ しかしよ ひさこ かもこみ
より先には、身毎に貧しくして、然るべき書きもをば、人に借り求めて見もし、ま
しる お うつほ&こわ る しよ
て おほ
た記し置くべきものきもをば、手づから寛せし程に、我が見たりし書ミても多から
、す。
-
がくもん みち ふかう ここ おほ ここ われ しら
されは、學文の道において、不幸なる事のみ多かりし事、我に如くもの有るべからす。

〜 * さ ㎞。 こさこ まへ しる ここ ここさこ
つね た がた
* *
かも
しかるに、かほさまでにも學びなせし事は、前にも記せし事の如く、毎に堪へ難きこ
-
- -

ひミ こさこ たび こさ
さに堪ふべきをのみ悪さして、世の足の一魔しシをは十魔し、十勝しシをは
たび
百度せしによるなり。
はくせき
いぬ はにせき 、 ) 、 づ.、、 ら * * は 、駐 )ェ
ミ言うて居る。白石がこの寧問の不幸は、質に、白石をして、千載不磨の名撃をなさし
ゆる、e なが シ・、 っ %%い におねんき B き ゆう 、おべ
* ㎞し J こ
めた所以で、さすがに永く忘れるこミ能はざる追懐たらしめた。後年土肥左仲に送った
てがみ
手紙に、
がくも しき Lじ% 、 シん 硫 、蜂 。 、シ
寧文の 儀古人に於いて、萬分の一を望み申すべきにはこれ無く候へきも、貧學苦
がく こさ* お またいにしへ ひんしよせい おほ ゆづ まを -
㎞ *ト う、 、
寧の事に於いては、又 古 の貧書生に多く譲り申すまじく候。されば、寧文において
な まを きふらふ さふらふぶん まみ

説は」ゅ% 、* シ に い
険阻銀難をば、よく〜普め申し候につき。無理じひにしひ候分にて参らぬ所なさは、
ゆおこ に )。ェ、、 や まう
*
よく〜相心得申し候、唯々天下の大任に志を立て設けられ、さて勉め 候 虜は、無
みり まぬ まを さこころ こ
がっに% さぶらぶ
龍 岐 の中 池

*
理にては参らぬものミ申す虜を、ミこくミ御合獣なさるべく個。
が み さこ
、 こ みき
ト 説おい * ㎞ ㎞長 ㎞
ミ言ひ、又晩年千駄 谷の閑居から、水戸の老學安積湾泊に送った手紙に
はんがく こさこ あた きふらふくわんじ すきふらふこさこゆる
* いた。 きらさ * 、、
老朽極めて晩學の事にて、さし常り候官事に暇なく候へきも、好き候事故、除暇には あ

イ、“

候営
断盛

ひき

てフ
らこ こい ばァ
けいしよ みきふらふ れきし しよをんさふらう こ


**


経書なご見候うちに、歴史のここは、所存候て、かたはし〜を
か* 鶏 ゅ * *
あ% すち は* *る *
% * え
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㎞A も* く
) 。 -
ん は

きふら まを さふらふここ **
さふらふこさこきふらう ひさこう
に候なき申し候事も候。それは家貧に候故に、通鑑を求め候事ならす候て、人の蔵
かさふら ゆる こ きふらふ
を借り候ひし故の事に候。
らうきう がくもん こさ しやうふか ここ いま およきふらうみ かん
老朽なき撃間の事には、一生不幸の事のみにて、すでに七十の今に及び候て、遺感の
いたり さんきこさ ぜ ひ およきふらふ
至、概機の事、是非に及ばす候。
いみ はくせさほった け つかま な はんし あさくらながはる むすめ めさなかはる ぶ き
ミ言うて居る。白石堀田家に仕へて間も無く、藩士朝倉長治の女を要った。長治は武器
-
こ じっ っう がくしやこ かけひらか がく つ はくせき ぐんき かう ふ づ
の故質に通じた撃者であった。その子景衡また家寧を継いで、かの自石の軍器考の附園
くわん あらは みあ さくらけ ひじやう ざうしよか ひんこん はくせき がく
二巻をも著して居る。かうして、朝倉家は非常なる蔵書家であった。貧困なる白石の
もん これ おまい たす
龍 岐の中 池

問は、之によつて大に助けられたのである。
ー」
く がく さも む に さこもにしやまけんほ きんらう やまひ ほけんろ いぐわんねんふゆ ぐわっ
比の苦寧を共にした無二の友西山健市は、勤勢のあまり病を得て、元藤元年冬十月、
きり はお ここ はつかさいさうねん も 。 ばっ けんほやまひすで あらたま ふだ、
桐の一葉の落つるが如く、僅に三十歳の壮年を以つて没したっ 健南病己に革りて、再び
し ちんさこう はくせさかへり へいせいつく さころ し ぶんかけ や またひ

趣つべからざるを知るや。枕頭の白石を顧みて、平生作る虜の詩文稿を楚かしめ、又碑
シ 土せ
数 。 親藩
警官 驚 数
鑑s 茎。
盗。繁
á 籠
影響
し* 一吉 か るき そ
う ・日 き 豊 歴 3 。司"や 桑。 逝。 豊 早 夫ん
す じ ワ " 二 二 永。 て 『マ1.ぼ4 X 「こ ーさ な
葛 。日砦 ね 庭園 母 狐ー 索
ね ーん



;
て せん
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議 議。 還 受潔 猫鑑 設競 リ
き た ら 又にい ほ 司又ん

* 会話
八こ は " 見* *話 %で第 2キt kx筆注ー
"、自まき 獲器 経 待3 籍。 ふ 誘
涙露 宅。

常競 石書 な
時じ つ
終ぶ、熊” 湯歴
* ネリ 籠勢 餅総


* ア な° う い
の 。 2 き
ご主 よ ミ
秀 業 夢数 清流 添
北岩 両 響
豊* 翻 誌
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山 1雲

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、音 ; *
い 形営

日 感 悦 。 齢ひ ち

心基、深沈 城繋 穴ぶき *。 例ド# 塗 あ




居達
聞 * 史器
染器 悪霊我
懸か 砦、虚子* 堀 く

劉 塾響 詠滞 装党 姿勢 二感 無事
3 ?ま ヘあ い
で、磁。名* 撃 明。 兄” ミ た
証愛 豊
歳器 顧き
。豊。
数 呼

獣影 や 器『リ
甚。管。
獲 E忍 露難
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懸 窯 を " 時笠
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きん ちゆうふん し せき むなしくりよくたいのをかすあり
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うた れんめ たびちかううんりうする けい お へいぜい く が 、なぐき
ミ調うてから、四年目の旅路である。行雲流水の景を逐うて、いかに、平生の苦寧を慰
、 、いしき や しなこ あき ちやうきそ ふ か け ゆくわいき あた みちしもふきのくにを
め、はた、詩想を養うたか。比の秋は、丁度祀父勘解由の八十四回忌に常る。途下纏國小
シェ 、シ ㎞ *、
目庄聖徳寺に、祀父母の墓を用ひ、更に、ゆき〜て、奥州信夫郡馬村に軍治正信を訪
むかし ち けし うらうば ま うらう
うた。 。玉屋家を遂はれて、市非に 濃せる六鶴の闘。シにシを競った慰ある
ぎ けい ふ ぼ いま し のこ Sやうだい はくう だ ひ
義兄である。その父母は令すでに犯さす。残ったシは、籠にシを隣て、稲概うた -
いまあひたい しよく〜 ちゆうせい きかう〜 けつしよ、のを つ こんじやく かん
のである。今相勤して卿々たる霊盤を聴き、峡々たる月色を望んで、霊きざる今昔の感
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がい かた
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池* 上五磐 朱燃
光リ 故干 遠語
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39
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め、はた、詩想を養うたか。比の秋は、丁度祀父勘解由の八十四回忌に常る。途下纏國小
めのしやうしやうこくじそ ふ ば はか さこはら さら あうしうしのぶこうりうまむら ぐんじ まきのぶさこ
目庄聖徳寺に、祀父母の墓を用 び、更に、ゆき〜て、奥州信夫郡馬村に軍治正信を訪
むかし つちや け お し せん はうらうねん あひだ ふ ぼやうらうきん おくおん
うた。昔、土屋家を逐はれて、 市井に放浪せる六年の間、父母に養老金を送つた恩ある
ぎ けい ふ ぼ いま おはしま のこきやうだいつね はくうん へだ あひおも
義兄である。その父母は今すでに在さす。残つた兄弟は、毎に白雲を隔てく、相懐うた
いまあひたい しよく〜 ちゆうせい きかう〜 けつしよ 、のを つ こんじやく かん
のである。今相勤して卿々たる霊盤を聴き、岐々たる月色を望んで、霊きざる今昔の感
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龍 岐 の中 池

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はう さうのち たう た じつのくさや しやうのふうう このさきのじやう
芳触 池糖他日草 夜 林 風雨 比 時 情
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白 井 新

「 &ー んゆい * ㎞ はなはだ はくせき つひ ほつた け じ 、Q


き *
元藤四年秋ミなって、赤貧いよ〜甚しきため、自石は、遂に堀田家を翻せざるを得

こミになつた。
ひん し つね た
いわたX 3 、ドは しの しくわん み
貧は士の常ミはいへ、私の事に於いては、如何にミも堪へ忍ぶべけれきも、仕官の身に
ほさ な おほ つひざいつ ちからきはま さい はる
ミ * *
は、その程について貸すべき事も多く、遂に財霊き 力窮 りて、三十五歳ミいひし春
いたこ ミ、 か - みいさこま たまよしまを
*
に至りて、有りし事さも書きあらはして、身の暇を給はるべき由を申しきこえき。
したかおも に こさこ かたく、まい
親しかりしものさもには、かねてより、斯く思ひ立ちし事を講りけるに、藤料あれば
*}
し、 さこ たま い か
さこ - 〜 ・・、は 、注 *
磯る て死するまでの事はあらす。かくまで、思ひ立ち給ひたれば、如何にもおはすべ

如"
こさこ つまおさな ここさこう、 た まいこ さこ あ
き なれきも、若きシ率さもの撃をば、 こ
何にし給ふべきなさ、言ふ事きも有り
たの ひさこ
* *
ぶよ
㎞、 かう ここ
* され
*
いま
われい
*
う を

しかさ、頼みし人の不幸の事きもおはしまさすば、我今まで、斯くては居るべからす。
こさこしころたい」ここさこ しの がた こさこ ーの じうしや
比の年頃薬へ難き事をも撃へ、忍び難き をも怒びしは、毛ミなし競らせ、シミな
こころ おも ゆるくじき あさいき ら な〜はな ち
りし罪を思ひしが敵なりけり。けふ㎞し去りて、明日はシ等、盤%艦れ歌りなむ
をもて、我が説のはきは見ゆべきぞかし 天若もの知り継ふ撃あらむには、それまで
こさこい
の事もあらじものをミ言ひけり。
をり しはい みこ
ミ 『折たく柴の記』 に言うて居る。比の
たい りやうじやうぐわいこ い もん そん しゆかうにのをんでいちけんをおくる
大梁 城 外 夷門 樽 酒 臨、行 贈ニ一言
もし たう しよ はう くっんをさくあらは いまにいたりてなほかんずしんりようのお
若 説ニ常 初 抱 闘 者 到レ 1* 感信陵恩
い みづか はうくわんけきにくぼみ きやうぐう を
ミ 言うて、自ら抱闘撃析の 察こ 魔に比して居るのを見ても、いかに 館蔵の慰に居った かぐ *
よ』 いきや、 し したが つか こさこ
わかる。比の時シには、 個子明卿の二見が有つた。これに、強ひて従ひ仕へむ事

さず



こ ぼく ひ にづさ み が いきこ、 はくまい

*
龍 蝶 の中 池

を乞うた一僕一碑を携へて、身 に従へた
ょ〜 聡は、質に毒鱗三百 ミシ三ギミ蹴せるの る
ほった ていい
あおき つき な ふ
なほ
みで有った。されば、堀田邸を出でく、それミ落ち着く先も無い。そこで、かのピき父母
じ み よ
、シ ㎞) お㎞ * 、 、 は にしば、ほり
が伯住居をした浅草田原町報恩寺内の高徳院に、一時身を寄せて、後やがて隅田川の畔

41
はしはり もんか

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鍵の鍵に家を定めて、 下に船を購じてシミした 、
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43
石_白井 新

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だく ひ わうこんよりおもし し なりてはく へき さら
諾 比 黄金 重 詩 成 白璧鍵
ご ごう や;を さこ はし こう がん しうかうをわたる
悟桐飛夜雨 鴻雁 度ニ秋江
に〜らくまさにふするにたへたこり ひ か けうそうにむかふ
揺 落 應 挑、賦 態 歌 向ニ暁 窓
めいせい すで ぼくもん ちゆうちん をり しは き
さりながら、その名盤は既に木門の重鎮であつた。『折たく柴の記』に、
「 あき する きよしよ じやうさこう うつ きた まな ひ ぐほ ひさこ
その秋の末に、居所を城東に移したりしに、来り寧ぶもの日々に多し。しかるべき人
まなくな
も競いて撃ばれしらす。
ますた か ろう ごさこ さこきじうがくら * る ざいはくせき はた
ミある。かの盆田鶴模の如きも、比の時に、従撃したのである。鳴呼、偉材白石は、果
こうめう い
して、よく、泥瀬に国競を探りながら、弱く㎞上の 名を言ふを休めて、世撃を

嘘の継に附し去るを得るや否や。
「はりこ けんろ 、ねんじつ ら こ がくかい かくしんき さこししやうぐわつ ゆ、しまだい

顧みれば、比の元藤四年は、質に江戸學界の革新期であつた。この年 正月。湯島豪
こうし だうあらた な だいしゃうぐんっなよし しんびつ たいせいでん へんがく たまりんけじゆく たいせいでん
の孔子堂新に成りて、五代将軍綱吉は親筆の大成殿の扁額を賜うた。林家塾も大成殿の
かたはらうつ はやししゆんじやう っくはつけんみくしよたいぶ にん な だいがくのかみのぶあつ
側に移された。ついで、林春常に畜髪還俗せしめて、諸大夫に任じ、名を大學頭信篤ミ
あらた
うし こ * # ㎞ ㎞きひさ ㎞、お
改めしめられた。木下順庵、和田春堅、大河内春龍、林春盆、人見友元、坂井伯隆、伊
は、しゅんてい ふかみしゆんなんら はくふじゆくわん みなけんそ、にんくわん これ しよはん みな なら
庭春貞、深見春庵等の幕府の儒官は、皆還俗任官 された。之より諸藩も皆これに倣う
じゆしや そうけ おな さもがら あすう ねん しふくわん はじ やぶ じゆしや これ み
て、儒者は僧家ミ同し 輩 て有つた数十年の習慣が初めて破られた。 は之を見て、
じ おうか しよつくわう
㎞いび が ほらに 眠
龍 岐の中 池

*

聖代の美事ミ謳歌し、寧問興隆の賭光ミ数び迎へた
しやうぐんつなよしだいがくのかみはやしのぶあつ きのしだじゅんなん ひさこ しよ しんかう また
将軍継語は、大㎞信 シ順 魔シを召して経撃を避講せしめ、髪
はくふ しよやくにん ちやうもん つ しやうぐんつなよし けいしよ かうしよ
ポ こま
幕府の諸役人に聴聞せしめた。比の年九月には、将軍綱吉は、みづから経書を講じて、諸
やくにん ちやうもん れい まじ
また いっ% だいがくのかははやしのぶあっきのしたじゅんな殆をぎふ そらいい は 、しゆんてい
役人に聴聞せしめる例を初めた。又、毎に大學頭林信篤、木下順庵、荻生狙徳、伊庭春貞
_石 白 井 新_。
是香 漢数 、 首。 し 振。 て を、怠豊 癖。 大韓
に、の。比干 唱き て、う こ し)。見* つ* 冥 河。
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予が年十六七。丁度元藤四五年の頃であつた。 生の門には、湾々たる才子が星の
ここ をかじませきりやうたはむい けつたん ばくもん Qよしみな すで だう
如くそろうてみた。岡島石梁がよく戯れて言うた月旦に、木門の諸子は、髭、国に響
のば しつい がくきこく あいぜん みた うし あら
に登り室に入りて、寧徳ミもに調然ミして見るに足るものが有る。すなはち、詩は新
* はくせきい ぶん あめのもゆはうしう しょ ぎ」をんなんかいきかきはらくわうしう ぎぎやく よ ぎやく なんぶ なん
井自石、文は雨森芳州、書は祇園南海。榊原纂州は戯講を善くして虐ならす。酷部蔵
さん きけ この する いたいしはらていあん し%ろう のぼや 、 さんせん よ
は酒を好んで酔に至らす。石原開庵は酒模に登つて動もすれば参碑をしてみる。予
ひんきうへいい まさこ さこく や うれい
はシ衣を纏うて、徳の能れたるを悪びるミ言うた
-
いる せい〜 た し はくせきくもん ばくもん きよはく
ここ
ミ言うて居るこミがある。比の湾々たる多士のなかに、
そ けうきよ ぐんさい あひたづき た。

たのである。さうして、隅田川離の基の衛屋は、シの襲が、艦艦べて絶えす鴨を
いた
んしようかすか かう わた せきやうさこほ はん ゆ ふべ 3んはるか なみ かうがんつき
盆龍曲の晩電戦に混を濃って、ダ麗く㎞を選るダ㎞に搬をこめて、宿艦脂
らくくわせき〜 あう いや う 磐せい いく。
ひこみづ わた はんしゆん
を過ぐる夜。あるひは、シミしてシ老い、 々
柳青々ミして人水を渡る晩春、あ
常 共。 連器 金。 武* 議\

娘" 歌魔 ア
城零 井競 江。
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不、見 鶏名 天明 月 色
井 新

そころ はくせきさくし こうねん しはら ふかがは ぐうきよみ さこき がくいう し

50
-
らら てい
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共の頃、自石の作詩である。後年、暫く深川の富居に居る時、寧友の詩を選んだ 『停
うんしふじ よ ょくせきここころ くわうけい じよ

雲集』の序に、白石は、比の頃の光景を叙して、
われ せんし きのしたじゆんなんせんせい したか まなかういうさこを たうじ かう

吾、むかし。先師木下順庵先生に従うて學びしミき、その交遊せし友は、みな常時高
めい しゆんけつ あひさこも し しよ かう れいがく ろん し しかしよ だん
名の備傑であった。さうして、相共に詩書を講し、濃楽を論し、子史百家の書を説す
かたはら さけ めいし ふたがひ さな たかひ わ 、へん つら さこく かき かんさこ する
る 傍 には、酒を命じて詩を賦し、送に唱へ送に和し、扁を連ね順を累ね、輸飛び霊
お かせしやう あめきた じやうきよう
落ち、風生し雨来るの状況であつた。
いみ ぎをんなんかいそ ちよ しやううんさんこ たうねん つうきう
ミ言うて居る。祇園南海も、共の著の湘雲環語に常年を追想して。
おの〜しよく こく し ふ たちま ひつぼくりんり きんしう ざ てら
各 畑を刻して詩を賦した。怒ちにして、筆墨洪湾ミして、錦織座を照すのである。
さこな はくせきわ
* シげ 、 、 長㎞注り イ なェんはく㎞う比
するミ、南山が唱へて、自石題、詩自雪霊非、ミいふミ、自石これに和して、「南山 奏、曲
なんふうきそふ いふうり しゆあいぜん
魔属競。ミ言ふ。鳴噂、その魔瀬雅離は、慰たるもので有った。
ミ言うて居る。 シ

令 州




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目 温ミ


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れい ほう かうほうはしたひみ けん せ しゆはうれふ
令 望 交 朋 慕、 遺 賢 世 主 秋偲
白 井 新

あき きたつてふう けつ よし なんでさもにろうにのぼらざらん

53
秋風 月 何 常 ニ共 室を模
-
はくせき し めい も また ぼくもんだい お

、 あ
ミいふのがある。かうして、 白石は詩名を以っても、又、 木 門第一に推されたので有る
こさこ

はくせ
さ、 * 〜 ㎞ きこ㎞んさ〜 * ㎞のシ *
あるこき じゆん
が、しかしながら、風流韻事の如きは、豪も白石の志 では無かったのである。惑時、
J なん はくせき さかきはらくわうしうむか そこ、ろざし こさこき ふた ひさこ てんか いうよう がく
庵が白石ミ神原算州ミに向つて、共の 志 を問うた時、二人は 人 等しく、天下に有用の
もん ふたり に八るさん かく おな こた
みち むか ここ る
問をしたいミ答へた。二人の志は、比の如く同じ途に向うて居たのであつたけれこも - - -
BB 、、、 )、
㎞ だい をは
・試 シ )説料 、 *
算州は、みづから寧者ミして、幸幅なる一代を終つて、その律學の研鎖は、 後世に不滅の
こう のこ つねだんし
、「シ *
こく きいしやう
㎞、、 、、 や
功を残し、白石は毎に、男子たるものは、一國の宰相たるこミ能はすば、死して閣羅
が のに 、シ う、

y:、シ・ 、シ) 心
たるべしミ倣語して、遂に みづから進んで、廟堂に立つて、國政の改革を企つるに到つ
起ド、 はくせき しんじ お が 、しゃいたふミ
、 ㎞、
た。個令、これ、白石の心事に於いて、寧者の奪しミ する天爵を棄て、、人爵に憧惧 れた
な ゅふ す
㎞ ほ㎞の くわうき みじか せいち か

、シ 〜
) - *
ものでは無かつたにせよ、寧者の本領たる不滅の業を棄て、、光輝の短き政治家の業を
こくろよ つひ う
認ェ シ お はく
ェ 、、」 *
快しミしたものである。されば、遂に悲惨なる排撃を受けて。廟堂を逐はれたのは
*
石に於いて、 撃しろ撃も怨むるミころは無い
はくせき かぶんち り きう
さもあらばあれ、シが斯く説駆治に搬 すして、シの理想に儒れたこミは、
うつさこき ぼくきよそ さんたん の る
すみだ か はん ぐうきよ
ここ
めざし
眠の鴨世川畔に鶴屋を移した時のド居の詩にも、共の惨湾たる 志 を運べて居る。さうし ふ
へうだう ひさこ くれれい ぶん
れいぶし へん つね
て 、いよ〜廟堂の人ミなつて、華麗なる濃文の政治を興すに到つては、その詩雇は、毎
おそ
だう〜 は きる はいち まみ じやうせい りんせん いんいつ ひさこ
に聖々たる覇気に充ちたが、さてのち一敗地に塗れて、城西の林泉に、隠逸の人ミなる
し っね わうじ わいさう いた たうだい にんさこる み
や、その詩には、毎に往事の回想に悩みて、おのづから常代を怨勝する撃に充ちた &こうもん ぎ をんなん
かご きこはくせき むなる し いだきうこう ふみ
さて斯くの姫く、白石の空しく偉志を抱いて、窮養に駄せるのを見て、同門の祇園南
かい べん ちやうし うたいよなくさ
海が、一扇の長詩を賦うて、これを慰めた。
ー"

てん もん せい ほくのきよく ち ちく かい きこうのぐう
龍 岐の中池

文 星 北極 地軸 海東
きう れつ れいしよをた、し ひ しよう てんばにかなふ
休烈 撃察庶 尖 承 協ニ典 謀
し がく ゆうさをさづく
、やくせん き かいに *し

53
百川 騎ニ左 四 岳 授雄 園
もさこ ひ ゆう のし あり すでにりようこのみやこをなす
本 有ニ羅 熊士成 龍虎 都
* 白_井 新」

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己器 懸 買* 甲艦雨。
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冊g 銭 商* 第 観。
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56
龍 岐の中池
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石 白 井 新

58

しのびすこもに らんにはる
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かう ろう り しゆ のいん
江 懐離 酒飲 不、忍 共 憑、欄
すでにぐけいのたまはのにかんじ まさにはんしゆくのかんをあはれむ
感ニ虜 卿 賜 應 隣ニ薄叔寒
だん ほう せん り さほくせっ りう きけ しうのにる
断 達 千里 遠 折 柳九秋 残 鍵
うらみずくわんじつのへだ、るを あひおもひてむ りに みる
不、恨 闘 日 隔 相思 夢 裏 看
たうじ めいくん うむな たいへい ひかり
きうさう つかみ、まへだか くさいしゃ うっなのり
鶴撃の信へて居る離世加賀索稲継紀は、常時の明君であった。彼の空しく泰平の光に ニうはくむ
おほじんくん いま てんか
よく たうぜん ㎞ に すみせいむ し
溶して、㎞ミして酸雲夢死する多くの人君ミは選を異にした。今や天下の侯伯は、無
かみ けうくわな もも
いくわ おこし みん こ ふく たのしみ あ -
愛%
に道義無く、駿々
貸の俗に艦り、士民は鼓腹の築に飽くミいへきも、上に教化無く、
し ふうひ お みんそくつき くだる みがいぜんじんくん はち
ミして十風Hに墜ち、民俗月に降るを見て、概然ミして人君の恥ミした。
ぶんかく す、 ほくろく めいふ かなざはじや うか お うつぜん
こ、おお ほい けういく おこ
慰に於いて、対に数議を興し、交撃を翻めて、北陸の名府金澤城下に於いて、鶴然ミ
はじ つなのり まねけうくわ にん あた
けうがく おこみ **
して熱撃の難るを見るに至らしめた。さうして、始めて綱紀に招かれて、教化の任に常 はくふ
ねん のち つなのり
きのしたじゆんなん すゞめ じゆんなんしよく あ
つたのは、シ順魔であった。順庵職に在るこミ二十三年の後、綱紀の によつて幕府
っか つなのり こ きくたん もんかきう さうかは
㎞ - ㎞ つかさ
に仕ふるに及び 紀は順庵の子菊澤ミ門下の鳩巣ミを代り仕へしめたのである。
つなのり わ かんしよ しうしふ いつまう ふせ -
こうがく し
綱紀はまた和漢の圓書を菓集して、一には逸亡を防き、一には興寧に資せむミ して、
し な ミ しよ ながさきぶぎやう たく こうせん もミ てうせん さこ しよ つしまのくにふちゆうのじやうしゆそうし しよく
支那の圓書は長崎奉行に託して唐船に求め、朝鮮の圓書は勤馬國府中城主宗氏に嘱して
これ もさこ 二くしよ はんしんきやうな ら かまくら しんしんが こ しゃじ あまね ぜんこくじゆんはう
之を求め、國書は藩臣を京、奈良、鎌倉の紳緒家、古赴寺から、普く全國を巡訪せしめて、
これ もさ こく お わ かん ちんせきき しよ おびたくし かなざはじやう しうざう きのしたじゆんなん
之を求めしめた。是に於いて、和漢の珍群奇書は、膨く金澤城に菓蔵された。木下順
か にKにLが 、) 社い きちようさこ しよ
B、 G よねん なが あひだ じ いう
の彼の國語學の知識は、この無霊蔵にして貴重なる圓書を、二十除年の永き間、自由に
すんきうらやうせい
研究するこミを得たによって、養成されたミこころである。
もろき さう むに ミもはくせきき せい み き いだ ひさ はうらうっね ひんき)
室鳩巣は無二の友白石が、稀世の偉器を抱きながら、久しく放浪して、毎に貧窮にあ
一ー?

*る区る ㎞ は ゆ%なん はくせき むか か がの



龍 較の 中 池

るのを心苦しく思うて、この元藤五年、順庵に諮つたのち、白石に向つて、ミもに加賀
すく
樹出龍 っか ㎞、、 ㎞ シいざ - 〜 さ〜 、シ)
辛相綱紀に仕へむとを勧めた。しかしながら、白石の窃に期する虜は、幕府の武断政治
くつが れいぶん せいちら、こ かいだい めいけう し あむろきうさう
を覆へして、濃又の政治を興し、海内に名教を布かんミするに有るから、この室鳩巣の

59
すく おう
勧めには應じなかつた。
ひんか さこり
*
あたか ぼくもん い、 が る カ
がのにKじ㎞い * ㎞ ㎞
比のミき、鶴 も、シに遊撃して居る加賀園人闘島石梁が、郷里の貧家に老母一人を

60
石 白井 新

かへ はふ
のこ あめ よ かぜ あした っね % *
にち はやきやうり * ㎞
*
残して、耐の夜風の朝につけて、毎にこれを案じて、一日も く郷里に騎りて、母に奉
じき やうり まへだ こ、? ょろたい あつねい つか はふ * か
得かしたい。それには郷里の前田侯に仕へたならば、 も如何に悦ぶで有らうミ、毎に言
ぶん かょ か がのさいしやうっなのり すはじゆんなん こ
る -

はくせきじ 、将㎞
うて居るので、シは自分の代りに、岡島石梁を加賀宰相綱紀に薦めむとを順庵に乞ひ、 あつかうハ
きうさう はか ㎞
せきりやう こ せき こうじやう またはくせき シソ *
また鳩巣に謎った。順庵はつく〜石梁の孤叙に同情し、 の交情の厚きに感じて
せきりやう か すく つか ひ
こひこさ
* パS㎞ ○
その乞の如く、石梁を加賀宰相綱紀に薦めて仕へしめた。 これ め
、お 騎、
ゆ%% 穏、シト )
順庵がまだ京に居つた時、綱紀は共の英名を聴いて 幣を厚うして之を召され た ひんきう チメ
まつ ながせきこ らいざう しくわん みち
じゆんなん じ ぶんいせ% &**
に苦しん ) *
順顧は、自分の射師松永尺五の子の永三が、いまに仕官の途を得ないで つなのり あし
みねが こ すむ、 3いざう め -
で居るので、離はくは永三を召されたいミ答へた。之を聴いて綱紀は、鳴呼、交情は手足
こさこ した
ぎし% きんせき こ
㎞ ㎞ い、 がうまつ
シ ㎞ いだ。 、 ま シ
の如く親しく、譲心は金石の如く堅き者も
*
も利害の係る虜あれば、怒ち断崖相向
こ じん あい
ひさこ たうせい お
*
じゆんなん こさこ * ら は * ㎞、 *
ふの娘ミなる霊獣に於いて、順庵の姫きは、質に古人に恥ちざる節操が有るミ言うて はなし さも つみ
あ みづか じ ㎞
『うす
これかれ
た 玩、 ㎞、 * *
*
㎞せられた野が有る。シが、自ら酔して、岡島石梁を薦めた誤ミ共に、是彼 一勤
び だん
の業譲ミして僅はって居る。けれきも、質は、自右の大志は、北順の一候伯に住へるこ
ミを容れなかったのである
“き あた ぼくもん Gいしゆんこも〜あつ まあたか せんりょうくつ くわん
比の時に常つて、木門は、英俊交々集つて、拾も潜龍窟の観があり。林家は、
よ せん たも す もんち もみ ろ い き、い
閥の除端を保つに過ぎなかった。けれきも、門地を以って位藤
- *
はや杉 ふけうがく つかささき たりんけ もんか
ては、林道春以来、幕府の教學を掌り来つた林家の門下でなけ
い * *
よく いけう つか でき たうじ はくふさ *
職に列して、海内の政教を掌るこミが出来なかった。常時幕府の儒職に
だ のかこし けうがく そうらん しも わ だしゆんけん おまかうちし
大學頭林信篤が、天下の教學を纏擁し、その下にある和田春堅、
う うふかみしゅんなんさこうこさ〜 りんもん ひょこ
堀群作際 深ェぐ樹門の人であった。
-9

のち はくせきだいしゃうぐんいへのぶしゆぐう B だいせい さんよ およばくもん さこ おほ


龍 岐の中 池

後、白石が六代将軍家宣の殊遇を得て、大政に参興するに及んでこそ、木門の徒は多
はくせき ひさころ はくふい りんけ いきほひたちま てうらく -

く白石の援く虜ミなつて、幕府に入り、林家の勢は怒ちに潤落したけれさも、共の時ま
りんけ せいりよく はんこん もんこ
うこ あり % ) ゆ没 く、初ば ゆか
での林家の勢力は、盤根して動かざるものが有り。林門は幕府の儒職に登る唯一の門戸 1
6
ミこし 、 シ Fこらざるものま、 劉こ旨シシミ
ミして、荷も林門の出に有らざるものは、遂に市井の寧者ミして、一生を不遇に終らね し -
長を不獣こ警らね
井。新

62
せきりんもん ひさこ あ
石にして、もしも林門の人で有ったならば、既

らうく しよしみ 、ぼくもん


し に 浪々の虜士で居るのは、木門の

たにな がし しは〜はくせき むか すみやか ぼくもん さ う
る谷基は、属白石に向つて、速に木門を去つて林
j 、ノ、、 、 、シ 、せ 、シ *

提径であるミ勧めた。しかしながら、白石には、我が利害の貸 に
した
おん すく
おけい は
いも さこ でき たになに し
師恩を棄てるミいふ軽薄のこミは元より出来ない。このミき、谷基に向
柴。
橋経


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魏 あ
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そこもさ たうじ おんな ほへ ひさこいへ
人 の中せしは、共計は、常時御覚もよらかぬ人の家より出で、しか
ひさこ たこへ がくいうみ
たまたま おこ

ぬ人に、もの撃ひ結びぬれは、暇令撃優なりミいふミも、撃を起し給
こう &いき
なさ ころ あらた たま


* *
し 熱
。あはれ、その寧ぶ所を改めて、後楽をも期し給へかし ミ いふ。

**




&に こ いたい やわ ため






*


美ひてのみ有りしを、二度三度に 主りて言ふこミ止ます。我が貸
しか のたま のにま さころ ここ しんじつ ここ
- * * * 〜
悪からじミて、斯くは宣ふなれ。されき、宣ふ所の如きは、眞質は我が貸よからむ事
の如
こうもん ひさこん〜 き たまそ しさこき あ
*
㎞、
にもあらす。むかし孔門の人々のこミは、聞きも及び給ふらめ、もし共の師の時に逢
ため わ まなさこころ あらた みち か ひさこん〜 なに る
はざるが穏に、我が撃べる所を改むべき道あらむには、彼の人々、備を誇しみてか、
ちんさい あいだ あひしたがきふら
* 「
陳禁の間にも相従ふこミの候ふべき。
おほよそ ひさこ じやうさこころ むく し もち、しきみ
凡は、人の生する虜に、報ゆるに死を以つてすべきもの三つ、いはゆる父ミ師ミ君ミ
こころ し いた われいま ち、すで し つかさこころ きょひ
に、ある所のま、にて死を致すこれなり。我今、父既に死して、また仕ふる虜の君も
眠し。こドシを すべき始ま、耐こにシり 一人さぶらふなりミ答へければ、そ
無し。たゞ我が死を致すべき所は、師にて候もの 、さぶらふょうミシミナsま、
のち い こさ な
の後は言ふ事も無かりき。
㎞) 、沈% 、 ㎞% 、シ
龍 岐の中 池

O い
ミ言うて居る かうして三年の虜士生活を績けるうち 元藤六年冬、 偶然にも 甲府
しやうさくがはっなさよ つか
日治B口岡用 え *
相徳川綱豊に仕へるやうになつた。

63
井 新

64
梅咲く 大爵堂

自石の甲府藩出仕と高力伊醸守忠弘 湯島天碑嗣の香月庵下に移居すー詩経の進講
石 *ーー

と萬葉集の研究ー賜書謝恩の宴ー自石と梅花ー菅原道眞に私淑すー恩師木下順
庵逝くー促設の進言ー殆十年を経て完成した藩輸譜ー六代家宣将軍の就職ー五
十歳の毒籍 ー本朝軍器考成る
ェは、シのシかれて、者を 用せむミ継せられたので
ったが 樹にもシに於いて、儒臣を盤するのに、規家の門人を艦かすして、シの
尺を開ふるこミは、幕府に難しても構るべきこミである。林家に師っても艦突くこさに

いb 、 お けんでん
〜* *L- * ト、 に はしんやめぐん か ふぶ
なる。しかのみならす、比の時、世上に於いても喧博された一事が、綱吉将軍ミ甲府宰 -

里な



や こう ん うはき らゆだ、ょ には

十小 この闘に 艦"って、二公はシれざる噂がある。
ふ 嗣* 綱窓 癖霧 貞澄
せいし うしな し し ひそか
転 し みさき
㎞ほ&っ - ** “ - * * -
それは、綱吉将軍は先に世嗣を失うて、嗣子が無いので、窃に、和歌山城主 徳川光
しやうぐん ちよせい さくがはっなのり しやうぐんしょく ゆづ こうろざし いしやう
の獣子で、将軍の 艦たる徳鷹縄教に将軍職を譲る 志 がある。しかしながら、五代
ぐん せいし -
シ、 、ばいこ シ%
貸ミ、 て、
ょ、
軍の世子ミしては、徳川綱教よりも甲府宰相綱 豊が正しい血統である。是に於い
よししやうぐん なが せいし きだ ちうちよ こ みん しやうぐん せい
はシ - -
吉将軍は永く世嗣を定めすして購踏して居る。世上では、護持院の僧隆光が将軍の世

たがじゃう かの ひ、はふ をき あやま シか さ *
の誕生を斬る秘法の護摩を修めたのを誤りて、密に綱豊を呪阻せしめたのであるミい
ぶうせつつた
風説さへ博へた。

かふふ はょん あひだ かふふ はん お
かく、 シ
かく、将軍家ミ甲府藩ミの 目 ここふよ、 爵、シ
間には、暗い溝堅があった 1_j
ギま、日ー庁指こみ、
。されば、甲府藩に於 キよ、
いては
こQ

はくふじ ゆしよくりん
-
けし せい はくせき さうよう はくせきへいよう
府の儒職林家を
職 さしおいて、市井の白石を登用するこミはできぬ。そこで、白石聘用
-9


ここ ひ みつ りんけ つじゆせい もこ だいがくのかみはやしのぶあっ
堂爵天 く 咲 梅

の事は秘密にして、まづ林家に就いて儒生を求められたが、大學頭林信篤は、もミより、
これ こさこは すく た もんじん なこは こた -
かふふ はん お
を断つて、鷹むるに足る門人が無いミ拒み答へた。ミいうて、甲府藩に於いては、こ
たくち はくせき さこう よう しやうぐんけ りんけたい きら ゆうわ うこさこ
のまく、直に白石を登用しては、将軍家ミ林家に勤して、更に融和を峡く事 になるの
ろく おか 、 じゆしんふなはしまれかた あらた にふもん
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ここ がく いうれつっこ よ こさ よ ひこ

シ ミ ほ% -
ミの事なりしかば、學の優劣は、藤の厚薄に依らざる事初論なり。されき、世の大
ろくあつ がくいう おもろくうす がく おさこ おも わ
巨、 % さ〜
は、砕厚ければ學優なりミ思ひ、藤薄ければ寧も劣れりミ思ふ事、よの常なり。我が
もん うち かれ し なほ び ろく かれ
- あこ ㎞、
門にさぶらふもの、中、彼に若かざるも、尚さほきの微藤のものは有らす。彼も又、も
じゆけふ あ いま つかへ したが
-
る 、 いあ
ミより儒をもて業ミせしものに有らす。今まで仕に従びし藤米のほきも有るものを。
のたま さこころ こさこ まいこさこ かな のたま
宣ふ所の如くにては、参らせん事えこそ叶ふまじけれミ宣ぶ。
そ 。 また の
㎞、しけた たまにみ ろくまいいにん
* * 、、 * 。 、詩
共の後又、像州来りて、宣ふ所いはれなきに有らす。さらば、藤米四十人を抜持す
ここ まを かな
こさ われい ミ)、か )のたま、 にろ、はか まみ
べきほこの事は、我如何にも申し叶ふべし。まづ、彼の宣ふ所に任せて、参らせられ
そ Q) 、、ドは 、 さ
ここあ
* で、シ
んには。共の後の事は、如何にも望に任かせらるべき事にやミ有りしを、共の夜、我
-9

め またか い おも さころ こい か かの
堂爵天く「咲 梅

* 、B * * カ% さ
ここ
を召して、又斯くまで像州の言ひしかさ、我なほ思ふ所あれば、比の事如何にも吐ふ
のたま
べからすミ宣ふ。
はんてい た け こさこ
に 、 ㎞が さ 〜 、 * 校) 浅 収 、 はき
常時彼の藩邸の事、他家の事に准すべからす。もし、藤の多少を論じて、共の招に應
これ のち た け ひさこん〜 あ あ
* * ㎞、 - * のべ * り
せざらむには、之より後、他家の人々の招かる、こミ有りミも、藤厚きに有らすば
それ おうさたくし さこころ こご わがめいこうはくい かさふら おな
)
夫に應すべからす。唯知るべからざる所の事は、我命の厚薄如何にや候ふべき。同じ
井 新

68
よ しう はから まさふらふ まを こた まを こさおそおも はか
くは、像州の計ひに任かせらるべくや候ミ申す。答へ申さむ事遅からす。よく思ひ計
あ われ 「 まを ここあ -
こう へ つひ よ
# もさこ ふみつか
*
る べしミ有りしを、我なほ申す事有りしかば、比の上はミて、遂に、醸州の許に 遣

たま

C
はし給ひき
*ー

-
み じりんなん いたづち ため
さ べいき せつ くつめ
せつ もんせいはくせき た あつ
ミ言うて居る「 順庵が、徒に五斗米の貸に節を屈せざる気節ミ、門生白石の貸に厚く謀
をんじやう れきノ〜 み
る恩情ミが、歴々ミこして見えるやうで あ る。
に T、 ) びよ、 すっお 、こ3 シ
是を博へ聞いて、諸國に在る木門の寧友は、詩を贈つてこれを賀した 中國富山
こ い
じやうしゆまへだおほくらだいふ まきさし つか ざん
城主前田大蔵大輔正市に仕へて居ろ南部南山は、
めい しゅぶ% をきめてに がんをまなほてん ふん きみはやくじゆくわんにさほる
明 主 修、文學ニ孔顔典 墳 君 透ニ
しやうちゆうかつてうく せい せんのせん もん かあらたにはいすぎ よくじゆんのはん
省中 曾受青銭選 門下 新 階 玉 第 斑
うろ のおんはふいしすべらくうみににたるべし ほうらいあゆみおだやかにしておそらくはやまにあらざらむ
雨露 恩 深 須 似レ海 運 源 歩 穏 恐 非、山
てん がいいまだし しんせんのぶ かうべをめぐらしてはるかこのそむうんきのあひだ
天涯 未レ識 碑 仙 府 回、首 通 望 雲 気 間
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子響 心残
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72
さこしあらた けんろ 、ねん はる さよねん ふゆ しゆつし きだ
年改まりて、元藤七年の春ミなつた。去年の冬、出仕のこミ定まつて、 石は、隠世
か はん きうろ ゆ しまかうけつあんか ひ ぐさくらだもんぐわい はんてい

冊離の慰魔から、湖シドに居を移した。さうして、正ェの罪府瀬邸に眠
しかう よ す* み をり しば き
仕して、講書を進めて居る。『折たく柴の記』に
あかのら いぬ しやうぐわっ はじめ おほ くだききしよ かう
明くれば、『甲成の正月の初、仰せ下されしは、これより先、四書を講ぜしめられしこ
おほはそ べん せうがく きんしろくさう しよ かく べんせいじん みらい かこさこ
ミ、凡三遍、小學、近思録等の書、各一遍、されさ、いまだ、聖人の道如何にミいふ事
あきらか のち たま はか *を おんここ
ミ い **
を明にせす。これより後、いかに寧び給ふべきか。計らひ中すべしミの御事なり。
せいじん 、おのれ をき ひさこ をさ
その駐へ眠せしこミ、も、その大要は、いにしへのシを陥め人を治むるの道、四
し し なみ おこな くろ うたこもさこ
子の に艦はれり。これを射に行び、心に得べきこミ、他に求むべからす。しかれき
*** たいけいたいはふ つまびらか ここ
* シ ㎞ か はな たま
も、聖人の大経大法、その詳なる事をしろしめされむには、五経の書を審ね學ばせ給
しゆんしうなまさこ たまこきこ た こう
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* ㎞た まい シ、、 、に ㎞ に、
ふべきか。春秋獅富み給ふ事なれば、怠らせ給ふ事無からむこは、共の功の終らむ事
。堂崎大く 吹梅」
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又一方の寧に候へこも、大人君子は、それらの末々の事を、儒生なさの如くになされ
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㎞ たさこへ かお さふらふ はんにち
むき まさ に “* * ●
候は、先務を急にするの道に無く候。個令、それらの事きも講し候ミも、牛日ほさつ
ひつひや ニここ かたはなし ここ きふらう こさこ きふらふ
さ㎞ふェ - *
つの日を費し 候 事にて、事により片話のやうの事になり候ては、いやしき事に候ゆ
のを まを さふらう る づ かけじっ まへ だん〜 さあ こないけん
- - した *
る に、望み申し候て、槍園を仕立て、講日の前に段々に差し上け、ミくミ御内見のう
かうじつじ めん まを さふらう し いか めきふらふっかまっ
* 〜 ㎞〜 - やは
へにて、講日には、字面ばかり荒々ミ申し候て、専らに詩意を講し候やうに 仕りた
さふらぶ これ
、シ) =PrP 比 らうう おんっ きょら
るに候。是により、藩邸の書師狩野春湖を老朽へ御附け候ひき。
そころ せんし
て 、 いき っ y、) シ ほんはっ 、これ さ㎞ * さ㎞
さて、鳥獣草木の類は、本邦に之有り候だけは、共の頃には、先師いまだ現存も候。
長 ・、 ーザ いー ノ ㎞㎞B 、
殊に、加賀へ出で候て、千巻の書を撰し立て候稲生奮識に候故、これへ相談し候 て
さうも もさこい だ きふらう うつ た おな ほん
くに やぶ * い お ておい
梅 草木の根葉そのまくに求め出し候て、生寛しに寛し立て、鳥獣またこれに同じく、本
咲 はう な ながさき たの こ
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たうさん さこ よさ ふらふさこ は 、7づ た
く 邦に無きものは長崎へ頼み越し、唐山より取り寄せられ候ものは取り寄せ寛し立て、
天 き ぶつ はくぶつづ はじ
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うつ た しうらいづ -
こ そ
)持
爵 器物は博物園より始めて、古きものをそのまくに寛し立て、周濃圓なさ殊に共の料に
堂 き 、おほ ㎞にみ B 、蜂(㎞、群か ㎞
たて候き、凡、園出来たち候魔、三百七八十品、獅々老抽隙次第に、今一往再校し候
じやうしゃ きふらふ 遠ん ミ っんた かい *
ゆめ さふらふこさこ
さ㎞3
て、浮寛し候やうにミこの御事のうちに御他界にて、それも夢になり候事に 候 き。
井 新

76

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シシ 9 シー い)"> *
詩経は我が國での萬葉集である。吾が國古代の人情風俗を知るには、最古の歌集であ
まん にふしふ よ はくせき しきやう しんかう 、シ
る萬葉集に依らねばならぬ。白石はこの詩経を進講するうちに、初めて萬葉集を研究し

さ く
、Kに 」だい)に こみさ、 きゃQ強う、ねんあい ㎞っ

て、吾が國古代の人情風俗を知らむミする 志 を起した。これも享保九年秋九月、佐
時ま
し さ、
むかし し しよしんかう ころ
常、詩書進講の時に、なにミぞ、詩はこなたの歌のてにをはのやうにミ心づき候て、
まんらはふしふ がく、 *
それより翼葉集の撃に志した る



(よ


いえQ しきやう しんかうさこ ふゆ をは よくけんろく

ミ言うて居る。詩経の進講は、この年の冬に終つた。さうして、翌元藤八年春に書経を
はじ ふゆ をは よくけんろく ねんはる しゆんしう はじけんろく ねんふゆ をは しよきやう
始めて、冬に終り。その翌元藤九年春には、春秋を始めて、元藤十四年冬に終つた。書経
おな はじ つ かんかうもくねんかんしんかう うち つなさこよ すで だいしやうぐん
ミ同しく始めた通鑑綱目は、十八年間進講して、その内に、綱豊は己に六代将軍ミなられ
やうや そ ぜん べん をは しゃうぐん かうきよ た ふなはしまれかた
たが、潮く共の前編を終つたミき、将軍は夢去されたのであった。この他、舟橋希賢ミ、こ
けん ろく、ねん つか ぼくもん いたくらふくけん はつこりやすなリ にん じゆしん はくせきらいきしよ
の元藤七年に 木門の板倉復軒、服部保考の三人の儒臣は、白石ミミもに濃記、四書、
こノ じやう をみり しま き
ょ7 受けた状は、『折たく柴の記』に、
*
よ したま のち いた さこ しのはじめ か、にん
はじめ、藩邸におはしませしより、御代を知ろしめし給ふ後に至りて、歳初に講鍵
-
のち つき にち す にちかうはじま
に ぐわつ するこ、? いた たいこ
ミ **
開かれし後に、月の十五日を過ぎて、日講初り、十二月の末に到るまで、大故おはし
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さい
ま ほ ㎞、 詳 )。**、“㎞
ます事の外は、 明望は言ふに及ばす。四時住節の日ミいへこも、日講を停められし事
はあらす。
ここ あつ さこ
浅い、 ゃなひおほ 、 き
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我が身の病多くなりて、大暑大寒に堪へざる事をしろしめされしより後は、暑 基 し
べき ひ いのち まみ おほ くだ ミ
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き時には、日没りて後に参るべしミ仰せ下されて、進講は夜に及ぶ。天寒き日には、
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㎞ 、Q&)はBだ は、ざ それがし あひだ だいくわろ 、 かんなほはなはだ 、た


堂骨天く 吹 梅

進講は書の間にして、御座ミ某ミの間に、大火艦を一 つ設け置かる。寒獅甚しきに至
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、、くわ め 、そ㎞& L、 球て、㎞

雨] * 特
りては、特に火艦一 つを召されて、某が座のうしろに置かしめらる。我が進講に常り

下77下
はっ ット、ば 、
し日に、雨 当あれば、必す御使を験せられて、出仕の事を停められき○

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す おんかたぎぬ
ぎ ひさこへ おんはかまっ ス さくだ たま
る御 シに、麗の観 獅をめされて、常におはします御座をは下り継ひ、


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父の恩に績くミ言へきも、自石にありては、順庵の恩情は、質に、父母の慰愛に優るも
い くんいく かへり はくせき こんにち
さい O ㎞ ド、ぷ・ ㎞、 ゞト り
のがある。木門に入って以来、こくに十有年、慈々たる薫育を顧みれば、白石の今日あ
まつた じゆんなん たま じゆんなん おほ もんじん はくせき
* * * ㎞、 * さ㎞ 、BBにう
るのは、全く順庵の賜ものである。順庵も、又、多くの門人のうち、白石ミ樹原算州ミ
もっさもあい ふたり みこん ひ びっぎ おく いけがみ ほんもんじ
* き つぎ かほさ *
を犬愛して、二人に遺言して葬儀を司らしめた。その日、枢を送りて、池上の本門寺に
をり をかべき * の みら むらさめ
* * マ ㎞く、っ へ * ㎞戦㎞2 、 * *
ら、岡漫の樹々は、みな黄落し霊して、寒畑荒草の野道を、定めなき村雨は
は せうノ 〜さしてきうしやをおくる こ_け沈んもおほては 、ゃうははららなゆ
馬 薫 々 送ニ葬 車 古原 電想 落 白楊 疎
堂 岡 天く 吹梅 ー9

たい めい じ ぎす」もんじんのおくりな こう さくまさにつだふべしこく〜の しよ
大名 私 議 門人 論 厚徳 應、博 國史、書
しを われ きく きんだいのしよく じやうをきづきてたれかむすぶろくねんのろ

貸レ志 我聞 三代 飾 築、場 誰 結 六 年 魔
いま より てい し ほしのここくきんじ さこもにこれぐんをはなれてきくきよをなけかん
自レ今 弟子 如レ星散 共 是 離、群 嘆 索 居

89
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えつ し は をんこう し そメ しゆくわいらん

たのは、通艦継目の講義であった。通鑑綱目は、司馬温公の資群通艦を、葉のシ職魔ご
もんじんてうし る ん ちゆうこうしう
う しう Q
せいそう ねんかん れきし
し 、 * こ - 心 さ
その門人趙師淵 の誌したもので、周の威烈王より後周の世宗に到る千三百年間の歴史で
ょくせき これ よ し な れきてうち ち こくさく しんけん
○ * * %*
ある。自石は、之に依って、支那歴朝の治闘興亡を論じて、治國の策を進言した 。
に ソ〜こお し い い) ふで つ こさこ
は ) 、
抑、孔子春秋を作り給ひしより、後代の儒者、その筆を継きて、史鑑の書を作れる事


いば ) ほ い い) %め ミト 、誌
知" は

* ェ” 、、いい れ
前世の事を以つて、後代の戒ミなすべきが貸にあらすミいふ事なし。されば、「古を
・ 〜、3。平 ー・ 、 *バ,
るミいへこも、今を知らざれば、所請春秋の寧にあらす。凡て史鑑を進講せんもの
すべかい 3 いま ろん ぜ いま
臣媛 論競 非” は

* い い」 。 * さ * おせい * 、い毛 比へ
須らく古を探て今を論すべかりしミいへきも、後世にいたりて、「古を是ミし今を
も そっみ うおほ ゆる - よ * かうくわん おほ いにしへ
ミすミいふを以って、共の罪を得るもの多きが故に、世々の講官、多くは古をのみ
、 しゆんしう つく
正 、 %・、シ こめざ ル の な
堂爵天 く 吹 梅

て、共の詞今に及ばす。途に、仲尼の春秋を作るの 志 を失ひぬ。




故á



㎞) 花 ね% %かQ いひ おょ う ご みゆ
、、かっ
、添く講譲の職を助りにするこミ十四年、進講の日に及んで、いまだ倉て、身の
そ こくるさし けうしゆん きみ このたみ
を以って、その毒を隠さす。シびミへに戦が君をしてシミなしてシ いまてい さこころ
をして競 の民たら しめむミ獣ひむにあり。髪を以って、シする癖。厳へてシ
ここ てんちりやう きやうちよく つみ ゆる じっけつ
こさは さ も
の議を避けす。唯離はくは、天地の避を以って、シの罪を 犯され、正用の雌を以っ

98
そ ぐまこさこ てらし%、さいはひ てんが いうじん
て、疎愚の誠を照し給はむこミを。ひミり臣が幸のみにあす。天下の幸甚たるべし。
井 のち つ かんかうもく のうがくすく ほうじ う ち
このたけきのシ から
自 これは、この後、通鑑綱目の後唐荘宗紀を講してのち、能楽について進めた封事の内
いさこころ これ みかんくがくん〜 せつ 、す、 Q)、 かうらん
石 に言ふ虜である。之を見ても、いかに促々講々の説を進めたかぐわかる。されば、講鍵
こくし
と のち はくせき かな、っね めいんゆ%ぐん)じ、せ。、 なかんづK Kがはサ
の後、白石は、必す常に我が國史について、明主賢君の事跡を説いた。就中、徳川家の
れきし もつきこもせいみつ かたつなさよ まだ こくろ、ひそ ㎞、
歴史は、犬精密に語り、綱豊も又、心を潜めて聴かれたのである
つなさよ はくせき しよく ほくふ きうけふいらい こくいじやう しよこう じせき ろく たてまつ
そこで、綱豊は白石に嘱して、幕府創業以来の萬石以上の諸侯の事跡を録して奉るこ
めい はじ こないめい う けんろく ねんはる ぐわつ おほやけ めい
ミを命ぜられた。初めて比の内命を受けたのが、元藤十三年春二月で、ついで、公に命
くだ よくけんろく は%は%もゃ ぐわっ ぐわつ ふで、 だ
の下つたのが、その翌元藤十四年春正月であつた。さうして、七月いよ〜筆を取つて、
ぐわっ いた かう だつつなさよ すくいた よくけんろく ねん ぐわつ
十月に到つて稿を脱した。綱豊に進むるに到つたのが、翌元藤十五年二月であつた。
こ ちやう ね らんをささこくがはけ :せ:、 きだ さこき おこ だいしやう
* ㎞






*
剣治まつて、徳川家の基礎が定まつた時に起して、四代将
いた まんこくいじゃう しょこうけ れきし かうむい らい
㎞眠、シの議候三百三十七家の脳史である。船を撃って以来二
せいへん くわんふゃべ くわんはんれいもくろく
ろ くわん くわん わかさきつ
つ なさよ
年にして、正態十巻附録二巻凡例目録1巻すべて十三巻、発ちて二十眠ができた。離撃
ょんいんこ な
-
をり しは き
は これにェさ各っけられた、ミ 新たく難の記 にいうてるる
こしよこさこき た 、ちせ けん はつべうつなさこよ ふた、はくせき
しかしながら、比の書は、比の時、直に、世間に発表さすして、 は、再ひ白石に
かう〜 ら また すうねん のち はくふ へい よ & さ きた
校考せしめられるミころが有り。又、これより数年の後、撃所の に依つて江戸に来ら
ぜんくわんはくこのる もさひろ し めい けん ちよう
くわんせい ほさんさ ねん っひゃ
れた前闘自丸衛基熙に示して、その意見をも徴せられて、その完成には 『獅ド鍵を し
みあ
は 、せき 、はじ に %てい し、 ねん のち けんろく ねん ふゆ さ ひ
て居るので有る。自石が初めて綱豊に進呈した年から一年の機、 顧十六鶴 の 、七肥
さいちゆうきうかけ おく
、シハっ シ * 、
左仲に草稿を送って、校考を依嘱した手紙に
はんかんふさうかけす、さふらふ
第一 シマ 料 いさ らし か 〜
うつ
藩輸譜の草稿進め候。 、兄例も添へ候て進め候 若き繋いそがしきまぎれに窮さ
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きふらふゆる かな おほ
堂露天く 吹 梅

きふらふこ にんりよ おんなほ あさふらふ


れ候
、個名ちがひ多くこれあるべく候。それは御選慮なく観酷しこれ材るべく 候
㎞)電ェ“、ト に 、 ㎞
事の相違疑しき所は、落ち候はぬやうに 、シ しシ こふ ㎞
御付紙なされ御返しくださるべく候
こ しよせじやうひ ろう おぼしめし おんこささふらふ あひる おんゆるさふら けん
比の書世上被露のこミは、思召の御 事 候ミ抽見え、いまだ観 記しなく候ペば、 四

99
ほか まを な さふらん
な ひさこ し
さふらふもっこもわたくしかた
"
-
*
ょり外へは、申すまで無く候へきも、名も人に御知らせくだされまじC瞬 私方
まを ここ おんめ
や き さ
ーラ

き や、 さ おほやけ はかり すくな


)
て選び候事も秘し申す事にて、貴様ミても、御目に懸け候事は、公へは構少からす
右 白井 新

100
かう〜 ふら つみ おも さふらふきふらふ だんん〜つかは まを
候 べきも、校教のため
た 候はむに は、罪のがるべくやミ思ひ候のみに候。段々遣し申

さふらふ まづ さつし ん さふう じ


すべ く候。先四冊進し
㎞っ か
十二月十日
な ょ〜 しゆくぐわん いた おきさふらふこさこ いま いた さふらうしう だいう ろ まを さふらうてん
尚々、尻願にて致し置候事、今に至り候て、六十四州の大雨露ミなり申し候て、天
かじん まんぶん まを きふらふ -
&こくしよ こう せいじん こ おんはう
下の仁の萬分一にもなり申すべく候。しかれば、讃書の功、聖人の御恩報し、これ
せう く

逸ミ存し候までに候。一笑々々。
はんれい おこくろg きふち ふ しん さふらふこ らん さふらふ いじやう
凡例、ミくミ御心得候はねば、御不審にて候。よく御覧くださるべく候。以上。
このる もミひろ はくふ へい さら すうねん のち はう&い ねんなつ ぐわっ&き
ミある。近衛基熙は幕府の聘によつて、これより更に数年の後、賞永七年夏四月江戸に
き しやうさく ねんなつ ぐわつ たいりう たいふ ちゆう * ろく にっき み
来て、正徳二年夏四月まで滞留された。その滞府中、みづから記録された日記を見るミ、
しやうぐん いしよく はんかんふ ふで くは でうん〜 もさこひろ & &こくだ
将軍の依嘱によって、『藩輸譜』に筆を加へられた條々がある。基熙が江戸に下られてか
ねん のち しやうさくぐわんねん ぐわつ につき
ら一館の後、正徳元鮮 む用三十出の臣記に、
*
さくらだてい しふ
はんかんふしやうぐん
シりさる。眠の は、麗に於いて、シされたもので -

-
有る。 また さう ぐわっ か でう
ゆうじつはんかんふ み でうし
- ぼけ ぐわっ .か
ミあり。調八尾元田の篠には、終日藩輸譜を見るミあり。又、同九月六日の修には、 やうくわうみん
はんかんふさ つ さくじっみ 」をは こんにちへんじやう は 、
㎞三冊、昨日見終りしにより今日返上す。又 信長公生涯のミきのこミ、陽光院
ご -
、 3砂 くわん ぎよさ みのを 、てんのQ) ) 託ら
ェ パ
二㎞に御盤のミきのこミ、天理へ還御のミきのこミ、後水尾天皇の仰言等の事質を
ちゆうすく
誌して進む。
こうか g・ 、
同十四日の條に
* こころ
ぶん ゆQ きりかみ
しゆうじつはんかんふ み 峠 こさこ
、 なび ㎞
誌の切紙を
㎞を見る。例の如く、所々てにをは井にょみくせの違ふ所へ、
堂骨天く 吹 梅」

する。
さうにち でう こんにちはん
また “) 、㎞ョ *
今日藩
ミあり。髪、請十尾平五出の篠に、藩輸譜を見る、ミあり。同十八日の修には、 へんしん こう
かんふ ひ
や し ) 総こ、 #院ゆ%は B、ピ ㎞

101
㎞を見て意味を加ふ。同十九日の修に、藩輸譜一冊 終りしにより返進す。同十二
なくわつ こん ちはんかんふ
でうに る


O)
尾 二十二出 に、今日藩輸譜を見るミ、ある。
しやうさくねん ん わっ にち でう はんかんこる をは
右図 へんじやう &こう
月二十一日の修には、藩離語一冊、足終りしにより返民ず。ミありて、園四
井 新

103
シ ぐ%け くだ
じゃっきや 、の
滞輸譜十冊除、将軍家より下さる。「E京の後に 、こさ心静に讃みて、所々へ先例の如く加
㎞かよ 、 にろく 峠 こさこ か

-
ひつ こさこ

筆せよミの事なり。

あこ かもこひろきやう かへ
そぐわつ か につき
*
ミ有って、比の二十四日、基鷹は京に騎られた。さうして、共の五用人町の距記に
はんかん み
* くだ きんじついはみのかは いし やうらく かんたん
㎞・ %、○ まい ○ 、れ
かん
見る。近日石見守を江戸へ差し下すが鍋なり。民盗の際 間断なく、如何ミ
きこう でう はんかんふ みさう か でう はんかんふ み &こう にち でう
ミあり。同九
の修には、藩輸譜を見る、同十日の篠に、藩輸譜を見る。園十六眠の篠 しる
Q る )ひ

らつ
に、日々 *
らん
輸譜を見る。ミ記して居られて、岩見審下向の甲が近づいたので、霊いで離

、ス ゃはるのかな 、や しゅっ㎞っ、 は、じ 〜 * こ こ
覧して居られる様子が見える。しかしながら、シが混戸へ獣 した記事は、比の後に

㎞か%ぶ かうていき じ こ 、のち *む
もきひろ & き み
無い。『藩
のこ はんかんふ
語』を校訂される記事も、比の後には絶えてみる。されば、慰が濃厚で慰
きやう み をは
ほら、 に & かへ ひ あし
残された『藩輸譜』十冊 を、京で見終られて、江戸へ返された日が、いつで有るかは知
こさし ぐわつ いへのぶしやうぐんこうきよ ぜんぶ かう 2つ
られぬけれきも。恐らく眠の蹴十用に、家電将軍が夢去されるまでには、全部の校闘を
終へて、池戸へ選られたもので有らう。
はんかんふかく きさこぶ のぶん *
・ ミにもかくにも、『藩輸譜』は、比の如くにして、家宣将軍の熱心によって、殆十鶴
さ こうねんはくせき せんだ
、謎お、 既お)%・ 1) 。、 ***
が千駄
して、綿密な研究の後に成されて居るので有る。さうして、更 に、後
いんせい きいこんうせい
に隠模したミき、みづから厳後の修
か を加へて居る。 はんかん。ふ ひひやう
ふ お ミ だ うちのりら
** ミ*
へんさん き ろくけ
少 だい
だいい ー

幕府に於いて、戸田氏徳等が編纂した記録解題に『藩輸譜』を批評
つ かう おこ ぐわっ だつかけ はんれい いみ はづか

したミ凡例に言うて居るが、僅
は、 さき
る しい。これより先に、
ていさい はんかんふ
*
堂岡 天く 吹 梅

るが、その鶴裁は『藩輸譜』ミよ

103
め がく をささこく みが つささこき つなよししやうぐんし
*
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㎞はシ在を召して、ひたすら撃を修め、徳を研くに勉められた時、綱吉将軍は、強
ぐわんねん
うい
は に
な ニよい
けいし た ほつみ しかつな
さくがはつなのり
ひて徳川綱教を継嗣に立てむこミを欲して居る。然るに、賞永元年夏四月、綱教は個 に

104
つなさよ せいしさ ちゆうちよこ だ
新 こうきよ こう、 お つなよししやうぐん さ
夢去した。是に於いて、綱吉将軍も、もはや騎踏 するこミできす。綱豊を世子ミ定め、
井 ふゆ い せいじやう うつ はくせき ふなはしまれかた はつ
ぐわっ 、、 、シ院ぐわい、 かふぶ_ ㎞てい
自| その冬十二月、綱豊は標田門外の甲府藩邸を出でく、西城に移った。自石は舟橋希賢、 服 -
さこりやすなり しくわんさし、ねんなつ ぐわっ き
こ ひがしう せいじやうしゆつし めい
石| 部保考その子寛獅、土肥霞州ミミもに、西城出仕を命せられた。ついで、四年夏七月、雄
J じ はしそミ ていたく たまゆ しまかうけつあんか ぐうきよ これ うつ
子橋外に邸宅を賜うて、湯島香月庵下の高居から之に移つた。
こうきよ つなさこよ せいじやう ほんじやう
はう&い ねんはるしやうぐわつつなよししやうぐんにはか
するミ、賞永六年春正月、綱吉将軍 供 に夢去して。綱豊はいよ〜西城より本城に

うつ な あらた はKシ
獣ご
六㎞の職に就いて、名
*
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こ○ 比 こ *
移り、六代将軍 を家宣ミ改めた 。天下の宰相たる べき白石の素志は
こく たつき き ああ 〜 さんあが なにゆる さん そんするくわく ゃ しゅ かううんりうすみ しぜん
来たので有る。鳴呼、山驚は何故に山村水廊の野趣ミ、行雲流水の自然
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禁苑

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さお はうらい ねんうめき はる はくせきじ ゆ3ん かうけつあんか
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これより先、賞永三 く春、白石は、五十の毒籍を香月庵下の天爵堂に開い た。
& こ がくいう みなきた くわい さかづき あじ ゆし うたち はうさ ほ が し
江戸の學友は皆来り曾して、歪を撃けて毒詩を賦うた。地方にあるものは、遠く賀詩を
を寄せて、また、これを祀した。
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下107
さこう かうはじめてわたるひしゆんしや あめ ひ びたり
東郊 口 春 赴 雨 霊非 温
._石 自 井 新

108
強 じ おく呼 のおる 時かへ 惑
見方 樹 迎 驚 出 衡 茅 待ニ燕 騎
たう ねんむしろ はきをまなぶ ぜんじ た %る
常年 寧 寧レ易 前 事 赤 知、非
これによる ち ろうのさけ へん 〜さこしてさいいをまふ
頼、比 治 襲 酒 刷 刷 舞ニ総 衣
うた また * しゆ ぶ わ ため がくいう こぶ うた みん わ う き
ミ賦うて、のち、又二十六首を賦して、我が貸に寧友の毒き歌うた韻に和した。けに浮
よし もん へだ てんしやくだう なんそう はくもん にいしゆんあひよ め し やう し ぎん しゆじん
世を柴門に隔つる天爵堂の南窓に、木門の英俊相寄って、梅を賞し、詩を玲して、主人
ら めい ここぶき しゆく こ くわい てんしやくだう お さいこ せいいう あ これ
のために知命の毒を祀した比の曾は、天爵堂に於ける最後の清遊で有った。之よりは、
らくくわひんぶ ふうう おほ
落花績紛ミして風雨多からむミする。
(きら こじ だい き ねん のこ ほんてうぐんき かうくわん ちよ
更にまた、比の時代の紀念ミして残されたものは、『本朝軍器考』十二巻の著である。
なんぶ なんざん はうらい ねん ぐわつ じよ か みみ で で きみ
南部南山が、この賞永六年二月に序を書いて居るのを見るミ、このミき、己に出来て居
こうねん いた ふた 、ふで くは ある はくせきこしよく じ
て、後年に至つて、再び筆を加へたもので有る。これを見るミ、白石は、比の書に奮事
きこ じ き こくし ふ ご き にんき しき はじ 、ぶこく しよじ が あゆ の送 まうしちゆう
記、古事記、六國史、風土記、延喜式を始めミして、百四十除部の國書ミ、爾雅誌跡、毛詩誌
しらいらゆうそしッ ゆん うきし でん まじ かんせき いんよう うご あき 、
鎌、殿濃㎞、春秋左民僅を始めミして、六十除部の瀬群を蹴用して居るシは厳
ぶん
文二
はくせきせんrい がいぜん こ* こ:ろざしあけうじゆいこま せいさかうきミ ひんみろんれつよ
白石先生概然ミこして、斯に 志 有り。教授の暇、制度を考究し、品賞を論列して、除
りょく のこ かなら これ じやうせい もさこ きんこ * じ こんこち つうかうさころ、およ も
力を遺さす。必す之を上世に本づけ、近古に参へ、今日の通行する所に及ほして、以
り;をく くらびう たく &んかく けんし かんが おほよそ こ きじつろく、かじやう や しさうやうせんさい
つて、流俗の訛認を正し、沿革の原始を悪数へ、凡、古記、質録、家乗、野史、捜揚前労裁、
ら らく ょう 、 さころなじん
ふき し ぶつう をよき う いへ さう さこころ こ ぶつ いた ちからあた
羅絡労午せざる虚無く、紳嗣備宇、覧び、著書の家に蔵する虜の古物に至つても、力能ふ
かなら したし そせい も 〜か これ さいせ き が せ うたう

かぎり、腕 す親ぐ共の敷を見て、これを換し、耐してのち、者を載群
載群に考へ、折表討
ろん あふ さこころ な
論して除す虜が無い。
_*

い を み はくせき
、、 ・下P、、、下試 )
堂園天く映 梅

-
ミ言うて居る。これを見ても、白石が、己に如何なる和漢の群


し ああ く がくかいる い あやま こつ て

知られるので有る。鳴呼、この奥界の偉材をして、過つて、、究を手にせしめ、
がくろい べうだう たま なくんれうつ せんだ
撃魔を出て、魔響に 立たしめたが獅、幕府の群像に撃さ隠れ、遂に逐はれて千駄
やら いく かへり ゆめみきら -
こ ころ いこ
谷のシに隠れ、顧れば競のやうであるミ、魔
ば基 追想せざるを得なかった魔の質に基石
* 110
濃楽徴査の上洛
都々たる濃文國ー丹心許、國常懸、日ー皇族御出家御停廃の進言ー近衛基熙の東下
ー落議古制研究の上洛ー五尺小身連足蹴ー疑ふべき中井竹山の許言ー自石の変 -
罪朝鮮國聘濃使應接の改革ー自石の國書復競論と林家及び宗家の反封
「 くせい した 、ま きんらん
てんなほ gきゃけい 、きた けん%ぶんぷわいせいK かん もくに
白石は、親しく、天和貞享以来務展し来つて、今や警備たる元藤文華の盛観を目観し
る がくもん さかんかく こさこ あり ●
てんか たみ をき はくふせいち れいぶん
て居る。寧問の盛なるこミ斯の如く有りながら、天下の民を治むる幕府の政治は、濃文
-9

教響

う がく み ないはゆるけんろくじ だい にんじやうふうそくし みんさも ひ を けい


洛上の査徴楽碑

い㎞
學の観るべきもの無く、所請元藤時代の人情風俗は、士民共に、日を逐うて軽
み けうがく をこ いく〜 れいぶん くに くわ こざ
こtろざし
王 門説 な
羅* 木繋 に るのを見て、いでや、教學を興し、部々たる濃文の邦ミ化せしめばやミいふ 志 は、

寒A
か %そ だい み さこき だんし うま こうはくらん
でき
-
しさ
の 搭大で居る時から、男子生れて候伯ミなるこミが出来なければ、死して鷹に蹴

111
-
い は; ふさ
さこころ つなさよせいじやう い
** はく
に * ゃ
% 、
●ー
ミならねばならぬミ言うて、抱負した虜である。されば、綱豊西城に人つて後、自
せき しんけん
石の進言に、
うつ をく か がく し な かみ やすん たみ をされい B
こうこ いふう
右 白井・

振子団はく、風を移し俗を易ふるは、築に如くは莫く、上を安じ民を治むるは、濃に
てんか ふうくわ ゆ にん
叶 な 望% 、㎞
如くは襲しミ。蓋、濃築は先聖の天下を風化した所以のもので有る。
寿、 地に於いて、人を「最「ミすミは言へきも、しかも、血気心知の性には、その偏な これ せつ な
ね た
あいらくき が主 さ じやうっ ゆる れい も
ちた
き腕はす。ェ怒の情には、その常を保ち難い。故に、濃を以って之か節を貸し、
これ は な たみかうあく たひらか じんだう せい かへ
がく も
繋を以って Nが和を貸し、民をして、好悪を平にし、人道の に反らしむるのである。
いまた さいし ふうじ たてま
ミ言うたこミがある。又、祭祀の封事を奉って、 いく
はんぶつも てみらべらみ はんぶつも
いんやらわ - * -
-
それ、陰陽郡せざれば、襲物以って生すべからす。天地位せざれば、萬物以って育す
く、
てんたか ち いや れい おこ さころ やうさこな いんわが ませ め ら
べからす。天高く しきは、濃の艦る虜なり。陽唱へ陰和するは、楽の依って生す
ぐも
さこころ れいがく 、せんわう ひさ をし ひさ くわ 、た は
る所なり。されば、濃築は、たゞ に、先王の人を教へ 人を化し給ふ具のみにあらす。以
てんち くらみ さだ も いんやう き わ たま
つて天地の僚を定め、以つて陰陽の気を和し給ふミころなり。 てんち き わ
こ 、 も なく うたが もし いまれいがくをさま
是を以つて、愚ひそかに ぶミころは、若くは、今濃築修らすして、天地の気和せざ
さこころ き しんこ
た - わ ひ
B4 いく
*
る所あらば、鬼碑その他の助くべき所無くして和せす。生育の理或は達せざるべきか。
せんわう はふよ めい けうくわ おこ いう き しん
* シ * シ をき
さらば先王の法に依りて、明にしては濃楽の教化を興し、幽にしては鬼碑の祭祀を修
た し
、球 % 、こ シ) ほ、 、
め、彼の多子の詳を招き、比の群姓の望に副ふべし。
いみ " れいがく も せいち たいかう こ
長㎞) ㎞
ミ言うて居る。之が、濃築を以って政治の大綱ミする自石の理想である。比の濃築王道
うんこふふ ょん つか はご か〜がくつなさこよ すく あい よくつな
論は、甲府藩に仕へた初めから、 偏講ミして綱豊に薦めたミころで有る。 されば、念
㎞ 、 しやうぐん せいし はくせき
あらた うしゅっし めい ㎞、 こいでさこ ㎞ 、 *
*
豊が将軍の世嗣ミなって、自石は、新に西城出仕を命ぜられた時、小出土佐守有雪
はくせき むか
白石に向つて、
のち おんここ てんか あんき たま さこころ こさこ しィ
* * 浅g 、、 * 〜
これより後の御事ごもは、天下の安危にかくらせ給ふ所なり。我々が事は、かねて知
ー●

たまこさ ここ -
ふ *くむじゆっ はい さこころ
洛上の査徴楽祀。

り給ひし事の如く、もミより不學無術の輩なり。たのむ所は、そこのおはしますのみ
なり。
い をり しは き
みい か * --

113
*ー
ミ言うたミ 『折たく柴の記』にある。これを見ても、如何に深く甲府藩の に信服せ
られたかぐ、わかるのである。
(こ はうおい ねんはるい はくせき ぶうい ふらじ らなに てい しやうぐんおは せい に
、比のシ三年春、自右は一封の封事を綱豊に呈した。それは、将軍及び世嗣が、ミも

114
のうがく も はうこく いんがく
新 * の はく おしきがくつね そう

に く妬み、鍵所に於いては、武築ミして、毎に奏せられる能楽を以って、亡園の浮築
い これ しりそ すく あか
自 ミ言うて、 を庁けられむこミを勧めたもので有る。彼の、
およ みゆる
しんうやく かうさく しょく はだり ぬん %かQ) ひ "* かっ
石 監悪しく講識の職を吸にするこミ十四年、進講の日に及んで、いまだ令て、身の故を
とも あへ そ けん そ.)こ、Sざ% わ 、きは、
環って、敢て共の割を隠さす。共の 志、ひミへに、我が君をして発弾の君ミなして、 こ ふ、も いまてい こころ
こ たみ : けうしゆん たみ 、 のを
眠の民をして、㎞の民たらしめむミ望むにあり。愛を以って、今呈する虜、あへて
A、輸 ) が 、シ) 、、 誌 、はB)ポ
忌講の謁を避けす。具艦はくは、天地の量を以って、狂直の罪を有され、日月の明を

* -
くい、) に ェ *
以つて、疎愚の誠を照し給はむ事を
ゃ の が 、)がいたる ふうをく やぶ *
くに くわざい つく *
ミ言うて、能繋の霊、一には民の風俗を破るこミ、二には國の貨財を弱すこミ、三には はうこく
。 gト・
いた せっけん 、比い㎞)は * に せき)
Fピを敬せざるに至るこミを切言して、獄害の到るは、一朝一夕の故ではない。亡國に
-
けんびよう
あた に透
*
ぼく さ 〜 な
*
すで しも
メ、、 ㎞ ド ㎞
常つては、一 木のよく支ふる所で無い。己に婚を履めは 躍然ミして堅氷の到れるを恐 なさよさこさこころ こた
しんていの あん あ
れねはならぬミ言うたシ』が老で有る。ついで突、縄豊の諸ふ虜に勤へて、三
がくたい は いいうかう あ
たびのうがつうろん
度能楽の害を痛論した。『楽封』『俳優考』がそれで有る。
あき いた * タ、 ん くわん たてま のうがく
、、きが しやうぐんおょ せいし ふか、 ご
その樹に って、
つ 元眠選 五十六 を襲った。 薬は船軍及び眠嗣の深く好むミころ 』

あ は 、か むだうはうこく じんくん たのし * あい
で有る。これを構 らすして、無道亡國の人君が築むもので有るミ言うたので有るから、
じ っなこよ かほ ちょくけん かなふ
くもちゆうしん いろ うしなつなこよ たご、ち
一時は縄豊の顔も曇り、重臣も色を失うたが、さすがに綱豊は、直にその直言を嘉納した
こうねんはくせさ なおし 、、 ㎞ 2 %いものかにり ㎞、 いうじんなにがし あた て が3 **
復年自石ミ 基「ミが、比の常時を追懐した物語を、室鳩巣が友人 某 に興へた手紙に書
いて居る。
それかし さあ たきぶらぶぎ まを 、 あさふさに% しうし ここんい
は いき 、お、 がいしはくい たか 、さぶ うお
襲「は、毎度御顔色を犯し、候 て、御気に常り候儀を申し上け 候 虜、始終御懇意に
め つかさふらふここ む るみこ おん まを も さ さふらふ
召し任はれ 候 事は、無類の御恩ミ中す物に御座 候。
-9

そ ひこまを さふらふけんきよくせん さきい か きまあやう ぎさふらふさこころ あひがは こ こんい


洛上の査徴築耐豊

共の人申し 候 は、元曲選の時なさは、如何様危き儀にて 候 虜、相替らざる御懇意


きう おば め さふらふ
* ㎞ はい 、 、㎞ふさ ぶんェ 透ん 、たっ
は、結局前より倍し申し候。更角御自分事は、条ミ思し召さ れしミ 有し 奉り 候。
あつい やッ おば めきふら おん み にき なさふらふこさ こそん さふらふゆる

115
盤くて嫌なものミは悪し召し候へきも、御身の盆に成り 候 事を御行しなされ 候 故、
おんすさふらふ
御捨てなされざりしにて 候。

窓 飛
ささ 志な 酔類 現状。 慮 奮

*
ル」)


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中学か 履?や 春。A・ 事態


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盤 釜 客議窓 風。
の 似羅 留城 値識 流磐

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李” 山。 * 舞認 論姦 必艦
ョ空 事。 盤 解
昔ま 毒豊 入Eれ レ 競 設 二
露 テ、翌 %、ミ
習。 杯鑑 馬誌 人
除器 我器
# 光講解。
- か
池* 遅 時ま 願
つ。

116
うこくろざしれいぶんこく けんせつう ちくわうしつ お よ はくふ へ そこ てうせんりうきうくかう
白石の 志 ば、濃文國の建設にある。内は皇室及び幕府の上に、外は朝鮮琉球の國交
お てんれい た、 れいせつ た も ぼく〜 はいぶんし にくくわう かいぐわいかばか、い ひゃべだい
に於いて、典例を正し、濃節を立て、以つて、稼々たる濃文の國光を海外に輝し、百代の
こうせい のこまつ
後世に残さむミ欲したのである。
くもみ そら はくせき び ちゆう たつ わう し わうちよ ごしゆつけ ちゆうせいいらい へいふう
雲井の空に白石の微裏が達して、かの皇子皇女が御出家あらせられる中世以来の勢風
はいてい いた じついへのぶしやうぐんあらた た はう&い ねんしゃうぐわっ はくせき
を魔停せられたるに到つたのは、質に、家宣将軍 新に立つた賞永六年 正月に、白石
はつ
けんけん さに め - にKにいい、そんけ み% くわQっ、比% ェろ * ㎞ にL
の建言した虜である。さすがに、國鶴の奪厳を論じ、皇室の碑聖を説く虜に、確固不
たくしき あ を こ けんけん いつはう いま つたは はづか をり しは
の卓識が有るが、惜しいかな、比の建言は、逸亡して、今は博らない。僅に『折たく砦
きか うがい か
の記』に、その綱概が書いてある。
けんかうけんぶ あひだ くわうさこう なんほく わか なんてうほさ た たまほくてう もさこ
洛上の査徴楽耐豊

元亭建武の間、皇統すでに南北に別れ、南朝はいく程なく絶えさせ給ひぬ。北朝は元
ぶ け ため た たま にまおん
ぶ )ょ、 お Sへ
これ武家の貸に立てられ給ひぬれば、武家の代ミ愛をも裏をも共にせさせ給ふべき御 -
つく おさころ たま てうけ おんこさこ
、 、シ 3、P は能れ 、遠い さ 3 、

117
事なるに、應仁の後、世の蹴うち績きて、武家すでに衰へ給ひし上は、朝家の御事は * 参
まを てうけ た
お ) ) てんか ) 、砂 およ
申すに及ばす。常家の紳祀天下の事を知し召されしに及びてこそ、朝家にも絶えたる
井 新

118
おころ よ 事 かは
しわうちよこしゆっけ こさこ いま
子撃女みな〜御出家の事においては、今もなほ衰へし代のさまに鍵り給はす。
いや ここ うか なら そしつか ここ おも 。てん
おほよそ ひつふ ひつぶ
肥 、四 天匹婦の隠しきも、子を生みては、必す共の室家あらむ事を思ふ。これ、天

いまのうこうしやう るる をさここそ し ざい わか をみな そ


か ここん ひさ じやう

下吉令の辰の情なり。また、今農工商の類だにも、男には共の資財を別ち、女には共

こんかも さこ しい じやう しかな
の婚嫁を撃む。ましてや、士より以上みな然らざるは無し。かくる世のならはしミなり たま
さこししさてうけ いま まを たまおんここ な これら おんこさこねが
シしければ、朝家には令 まで申させ給ふ御事こそ無からめ。比等の御事願はせ給
てうけ まを たまおんここ な これら おん
さこころ おも たこへ また
ふべき駆 きも慰はれす。暇令、又、朝家には中させ給ふ御事こそ無からめ。之等の御
さ た な ここ かみ つか - たま にころ っくまを
沙汰無からむ事、上に住ふまつらせ給ふ所を蓋されしミも申すべからす。
あわうし りつしんわう ここ い か
にうじ くけ ひさ・な〜 かりおう
常時公家の 人々、家領のほきも有るなれば、皇子立親王の事おはしまさむにも、如何
い か くざい
程悪 ここ
&こ さこ いま み
ち わうちよこ かうか


C)


地を参らせらるべき。皇女御下嫁の事おはしまさむにも、如何ほさの國財をか し
かく たここ %ほ -
や たき。 くにてんそ おんのち *

費じ継ふべき。比の國天祀の御後の、斯くのみおはしまさむに、常家碑祀の御末は、
こさこい かさふらふ
シに変えおはしまさむ癖を望まむは、如何にや候ぶべき。
**「** 『ー 3 * ・?、『ご* 3 シー シ 、、? ***、

けんけん か なふ あたかこ よくねん
、時
シに廃きェは、龍にこのシを嘉継した。然るに、俗世のシの
さん 地%はバ
なっしぐっ ㎞ ㎞よ、 &㎞)シ 、K㎞2
夏四用、江戸に来られた近衛基熙は、家宣将軍の機務に参して、皇室奪宗のこミに講力 はうもん あひだ
につき 、、、シ ま
区、、 長㎞い この
、、 *
せられたが、その日記によれば、着府されるミ間も無く、白石が訪問して、公武の間の
こさこ だん もこひろ さじやう しやうぐん &つ せんていひがしやまてんのう み ちよく
転を課して居る。それから、慰は登城して将軍に講し、シ曲天皇の御遺勅には、
みやけ おこ こさこ いる


すうじつこ
っ\の がい㎞。 * *
六宮直仁王を宮家に興されたい鶴慮であった事を言うて居る。さうして、数日後に
しやうぐん こさこ うけたまは し まを あ
よしい 、 に * % つい
将事は、この事を 承 つて、諸司代から朝廷に申し上けるこミにするミ基熙に告けたの
、、 、㎞よ㎞ 、シ
で、基臓は非常に喜んだ。さうして、念八月に、直仁親王は閑仁宮を立てられて、幕府
これ #:
㎞ 、K ) さ * Qみの いっのz あさ* *
は家領一千石を進め奉つた。之までは、伏見宮、京極宮、高松宮の三家で有ったが、比に
_勢

いた しんわうけ
洛上の査徴楽祀。


到って、四親王家ミなったのである。
ふうじ こくかれいてん、をき、 あた ふくこ
B ) そ * さ K はシ
自石の比の封事は、國家の濃典を陥めむミするに常って、まづ皇室の制度を復古せむ
、、 ひそか はくせき こ* 、、 、㎞

119
ミしたので有るが、貧て窃に自石の心を動かしたこミは、昔、木門に學んだ頃、寧友樹
はらくわうしうしがしやまてんわう ちえかされいけんてんわうこのみゃ いよ〜ちよくん
原算州から、かの東山天皇が、父帝難元天皇の五宮にみらせられて、途備君にならせら
いちのみやなりざねしんわう しゅつけ だいかくじ いきだいちのみや はふ
れたミき、一宮湾眞親王は、出家して大豊寺に入らせられるに定まつた。一宮には、母
._石 自_井 新

120
こ くらたいな こんてい せいちやう てうてい お むかへ くきやう ゆ さい
の小倉大納言邸に生長せられてみた。そこで、朝廷から御迎の公卿が行くミ、十一歳
いちのみや てら い 〜この こやしき みい しやうじ

一宮は、寺に入るのを好ませられないで、いつまでも比の邸に居るミ言はれて、障子に
む りおんて はな たてま てま
、ド れ 、。
執りついて動かれ ない を無理に御手を離し奉つて、御興へ入れ奉つたので有つた
*
ミ言ふ機ましい談を聞いて、者を『継書』に書いて居る。
これ み はくせきまや くわうそく にしsつけ も くわうしつ すみび

之で見るミ、白石は、早くから、皇族の御出家を以つて、皇室の衰微であるミして悲
を あ はくせき はくふ びに しん す、 Bぶ)峠かB・ ふうじ
んで居ったので有る。白石は幕府の一微臣に過ぎぬ。されば朝廷の濃典に就いて、封事
たてま はくせきちゆうせいいらい 、わうしっしきび れいてん はい
を奉ったのは、これのみであるが、しかし、白石が、中世以来皇室式微して、濃典の魔
絶したのを嘆撃する 説 は、シのうへに難々ざして燃えてるる。
& せいち たい く
㎞、& ㎞ さ* 、 っ ん
翌 ㎞ よろこ
近衛基熙が江戸滞留中、幕府の政治が、追々皇室に勤して奪 は るのを非常に検ん
み しはくしる
ェ 、、 ちぜ
まなべる ちぜんのかみ さうだん
* 、シ
で居る事が、その日記に雇記されてある。それには、いつも、間部越前守 ミ相談をして
いへのぶしやうぐ はくせきき あん らうちゆう まなべる ちぜん や しやうぐん
居る。家宣将軍の政群は、シが起案して、シの眼㎞ の 奉行によって、将軍の
きいか のら はつぶ もさこひろ まなべる らぜんのかみ さうだん み
いづ っ にい ドト * r 旧い -
翼可の後、発布されたもので有る。されば、基熙ミ間部越前守ミ相談して居る皇室に勤
き む はくせき さんよ
* かな に%
する機務は、必す白石の参異した虜である。
くわうしつてんれい こい
「以 - 』 ** 〜 ㎞ い」 さこころ
-
はくふ
しかしながら、皇室の典濃に勤しては、いかに忠誠より出づる虜ミいへきも、幕府よ
に っ ㎞ 、 ド、シシ が3㎞、・駐 *
り興魔し奉るべき虜ではない 府に於ける儀制の改革に到つては、これ、すなはち
- - *
はくせき こくろさし ひ
シ * 、 はぐ、シ%る、シ
つた理想である。これより、間部越前守を輔け、
ぼく〜 こ せいこく ふうけう
家電盤を禁じて、シ家の翻度を修め、騙濃を撃け、継% たる古撃獣の魔教を布い
た。
はくせきすで れいてんぎ せい がく ふかい いま せいちほここ
さりながら、白石は己に濃典儀制の寧に深いミは言ふもの、、今これを政治に施すに
浄上の査徴楽書_。

あた つまび てん すく きやう くぎやう


* まね まな
は な な ばね
& きた
が江戸に来られるこミになつたのである。
おき くわい も はくふくわうしつそんそう こうせき まつ
しかし、また、基熙に於いては、比の
に於いて 機曾を以つて、幕府をして皇室奪宗の功績を 全

121
*ー こ ひそか
てい さい
きも らうく はる〜ら ご くだ ねん
からしめんミ、心私に期せられた。六十三歳の老騙を以
歳 つて、遥々江戸に下られ、三年
ここ つね いう しう
う くわうしつ おんため おも
なが あひだ たび くら
ば、
-9

㎞い闘 艦に幕された撃は、毎に愛想ミせられたが、これも、皇室の御貸ミ思へ

122
白 井 新

しま 〜につき い
すみざん こ たこへ つちいこ
砂㎞ K *
襲残の比の艦は、個令闘東の王ミなっても厩ひはせぬミ 属日記に言うてみられる。き
*
-

、区㎞ い g・:L が、

は千五百鮮のシド
A *
競 都である、武政を執って、皇威の式微するこミ弦に五百年、艦 いま み
あらしやま はる
シ おェひさ 、 認 、シれ) ㎞ト、
りき
今は見るよしも

嵐山の春は昔にかはらねきも、 天常人が標かざして遊びし古の手振は つき
あき むかし はくは きんあん き こうし さい 〜 あ
ひがシほ浅 ミ
*
なく、東山鴨川の秋は昔のまくなれきも、 ㎞の貴公子が月にうかれし在りしすさ
こ しんしんか まさ
もさこ * 、。 比㎞ * 退ろ
びは、今いづこにか 熱めむ。ミはいへ、さすがに、門端傾ける古納結家に、将に亡びんミ
はくせき ほん のこ
こ つた す こいみん た ふさこ ㎞か 、
㎞ にいゅ *
する古濃楽を博へ
*
鍵盤しく標む古詞魔院に、奪き古典濃が残されてある。 白石は『本
てうぐんき かうしふこ づ せっ じよ
朝軍器考集古圓説』 の序に、 しや
めいさく ばけしよう
なく か しやうしう せい てんしそうきしよこう シぶんきも
魔愛翻属の翻、天子に宗器あり。諸侯に分器あり。これを以って、 明徳を継昭し、赴 こうし
わ きう すみしか か こ だいかみ くろ
し*
しよく ちんぶ
しけ ㎞ほいだい%)
鍵を鑑艦す。麗に赤刀、天訓、天球、河園、免文、和弓、垂矢の属あり。 魯に夏后氏 しゆくしん だくし せきさ
くわう ほうふ はんじゃくしん みつすう こ けつはやう かふちん
の薬 群父のェあり。晋には霊須の鼓 闘塾の罪あり。陳には粛慎の措矢、石努あり。 さこころ
ぜんだいれきせいつた たから
みなこれ、前代のものにして、歴世 へ 賞ミする虜なり。
ト、 Cド、 、、 せい *
天下を併せ、諸侯を減するに及び、詩書を焼し、濃築を境ひ、シの航ミその群ミ
あこも ほろ かんい らい せんしんい き う
あき
活す ほ

撃けて に亡ほしたり。漢以来、先秦の鼻器を獲るこミ有りミいへさも、たゞ育
過" に
のん

こ はうぐわん めい しよう しやしょく ちんぶ



ぐさ
く つ


C)


徳を慰解しェを鎮撫するものならむや。


然りミいへきも、後世の君子者に因りて以って共の銀を戦、以って共の翻を考べ、 -
も わうい ちよう -
以って競王の濃を欲する )
**
さうはう くわうてんけんいうしん き おほい れいれきふく せい
巨、 浅 さい 二ョ/ Rp、す三 * ㎞ うむ
うつさ * シ
維、我が東邦、皇天巻話、紳聖統を承けて無麗に嗣ぎ、大に郊赴宗廟の濃を歴服す。生
-
みん -
くだい らい いま かつてん おさこ てんぶ つかささこ さこころ いた
民すでに降りて以来、未だ曾てその典を堕さす。すなはち、天府の掌る所に至つては、
ぎよくちんはうきしんべう
あな ふつきう せ しんこ をく いへ さうさここ
*将に
國の玉鎮賞器みな有らざる無し。 の
㎞、㎞〜 せいしゅうしなg これじっ
洛上の査徴楽耐製

加、各、その世宅を襲 す。悪鶴に、天地
み じっ に ほんていこく ほこり なが か
* はくせき

123
ミ論じて居る。これ質に、日本帝國の誇である。されば白石は、永く曾
いさい れいがくせいざ たびした そ

がれたが、令や濃撃政治を離さむミするに盤って、一魔難しく基の 地
ここ てうてい 一 はうらい ねん なくわつ なかみ かごてんのう そくる
ちよう
を徴せむミするのである。殊に朝廷では、比の賞永七年十一月に、中御門天皇の御即位
はくせき このる もきひろ ちから また いれい はいくわん たふさ 3%
ん 、
式がある。自石は近衛基熙の力によつて、目のあたり大濃を拝観して、奪い古儀式を見
でき ぐわ お しやう 3つ
長、BR説

ミが出来るやうになつた。九月 小
し めい う このる もさひろ につき ぐわつ か でう
の使命を受けた 近衛基熙の日記を見るミ、十月七日の修に、 てうてい そくQ しき はい ため だいじり
あらみ か け ゆ きた き、た にちじやうきやう
新井戦解由来る。来る十二日「上京。これ朝廷の即位式を拝せむが貸である。大樹の
ないいよ
内意に依るミぞ。
ため もさこひろ よく かきやう せつしやういへひろたいしやういへひきこう すらっけい て
ミある。さうして、それが穏、基熙は、翌八日に、京の撮政家熙、大将家久等へ敷通の手
る * はくせき にち きこし ゆつはつ
がみ だ さくせき じやうきやう し
艦を出して、自右の上京 を知らせて居る。自石は、その十二日に江戸を出務した。
あきたけなは てんすう まこ ゆうしんらく〜 にし むか はくせきる が
秋闘 して、天澄み馬肥えたるミき、雄心落々ミして西に向うた。自石は、みづから書
じさう
さう がん つき くびん ぎんのここし し せき りよう〜 でん ひさをいる
墓 顔 如、鐵 髪 如レ 紫石 々 電 射レ
こ しやくのせう しん すべてこれ たん めいじなんをもちひん きりんを& がくを
五 尺、小 身 漢 是 脆 明 時 何 用書 轄 隣
だいまたら こしよいう
ミ題した。又江戸の諸友に、
てつ さう じやうはち こ くじや のみほお は おけ かうたてはひさのきさん
鐵鈴 丈 八照蛇 ㎞ 馬 騎行 立 若レ人
をるをやめよぶ しやうもんがいのやなぎ しゆおんすべからくぎよくきりんをたまふべし
休レ折 武昌 門外 柳 主 恩 須、賜 玉 獣 隣
し のこぎ」をムなんかいせんし
ミいふ一詩を残した。祇園南海は、銭詩、
や のかの たう ひかりぎんをはべきようちゆうのはんくわんめ、ひさこなし ●
腰 下 刀 レ 胸中 巻 目 無、人
きたるさきてあひ み さる さきはのをむしら ず にん けん はう りん あり
来 時 相 観 去時 望 不レ知 人間 有ニ鳳 麟
お、くさこうかいだう 、おき たびち にんじやうふうをく み さんくわうすみたい し さう
ミいふを贈った。かくて、東海道五十三購の旅路に、 風俗を観、山光水態に詩想を
やしなきやう い よくしやうさくぐわんねん ぐわつらさ へ しょもにち たいきゃう お
養びつく、京に入って、翌 正徳元年 二月江戸に騎るまで、百除田の滞京に於いて、十
#*わっ なかス かさてんのう」こそくみ しき しに はいくわん らしやうさくぐわんねん しやうぐわつ
洛上の査徴楽耐豊

一月に中御門天皇の御即位式を親しく拝観するこミを得た。正徳元 年の正月 には、


てんわう こ かくわんしき はいくわん ゆる をり しは き ひ -
りようがん
皇の御加冠式をも拝観するこミを許された。『折たく柴の記』に、この日まちかく龍顔を
はい あ がたこ さこい みみ はくせき このる もこひろ じんりよく

125
拝しけるこそ有り難き事なれミ言うて居るのを見るミ、白石は近衛基熙の霊力によつて、
し こう こ だいれいてん はいくわん
おェ 、隠ー き
㎞ ㎞ 、シ
死深く何候するこミが出来たのである。禁中に於ける比の二大濃典を拝観して、親し
よう ここく
しきふじ け け さこ
ひー こ ひら
く古博の濃築を徴した他、また古嗣、奮寺、公卿家を訪うて、あまねく、秘庫を開いて
井 新

126
き てうせんこくへいれいし こじやう はくふ はる おほびろ

口 記によ 、朝㎞使登城のために、難所では、比の春から大魔間を修

ふすまさはりかべしろ しやう ぐん しさねこう ちうもん も



シ、 ㎞


復して居るが、その袋、幅、壁代、将軍の菌等は、白石が京で注文した。それには、基
* -
こ じ ちゆうい はくせき あた - ののみやちゆうなこんきだもさ にっき み
息家熙が、故質の注意を白石に興へられてみる。野宮中納言定基の日記を見るミ、十一月
*
あるひ はくせき さだもさ こそ いへ つた じふき き ろく - みた
の惑日、自石は定基を訪うて、共の家に博はる仕器記録を観てみる。さうして、又、有
そくこ じつ ふ しん さこ きだもさこ しは〜もんじん まつだ みちのり
識古質について、かねての不審をも問うた。これによって、定基は、雇 門人の松田道格
まね は くせき *ん さう -3 きだもこ につき しゃうぎマぐんねんしゃ ぐわっ か
を招いて、白石への答案を草せしめて居る。定基の日記正徳元 年 正月十日の條に
いんにち に ちあひだ らいきやく ち は 下 もつは た じ はい あらる か、ゅ , ゆ
今日から十五日にいたる間、来客を鮮し、門を閉ち、専ら他事を廃して、新井勘解由
へんたふ
への返答を書く。
まいき は くせき はくせき またこの

ミあって、十八臣に、いよ〜、八十除際の一冊を配石の説に選ったミある。自石は又近
こ き きうき たかくらなが やましなもちさき また よしだ
る いへひろ
衛家撃をも訪うてシ記を戦た。シをも訪うた。愛、シを訪
もんか *} jしんだうーでんじゆーー -
s ーこうねん き くま さらが おく てがみ
うて、その 下gなって、講道を僅授されて居る。後年、佐久間洞厳に選つた手紙に、
よしだ こさこ ぜんたい おはせ きょう このまぜんせらん ばんか情 らうせつか いへ もんてい
日田の事は、前代の仰も 候 て、 近衛前撮政殿下御ミりもちにて、老抽彼の家の門弟
きふらう いつし きうでん ひ けっ まか お 、か あさく うこさこきふらふ
になり候て、一子相博の秘訳の外に於いては、彼の家の奥儀日授を受けたる事にて 候。
いま み きの こさ ちやうじや に、うじ むかし つね しよそ わうらいさふらふ
「の二位殿、殊に長者にて、常時も昔にかはらす、常に書素も往来いたし候。
いた また うふくじ なんめいなん いへやす ふ じん ざう みくらま でら よし
ミ言うてみる、この他、又、東顧寺の南明院に、家康ミ夫人の像を見た。鞍馬寺に、義

つね かつちう み なんさこ しやうきうみん はうもつ はじめい%
㎞ * さ
経の甲冑ミいふものを見た。南都に於いては、正倉院の賞物を始め、名所奮填を訪づね
あ〜 ちやうきこうふくじ だいじようみん じようるん そ しよう みこき はく
るつもりで有つたが、丁度興顧寺の大乗院ミ一乗院ミが訴訟をして居る時であって、白
せき りよくわん りようるん そう こも〜べんそく はづらはし さくま ここはづか かきやう*かへ をり
石の旅館に、雨院の僧が交々精琉に来る 煩 さに、留る事僅に三日で、京に騎ったミ『折
洛上の査徴楽豊」

#)
たく柴の記』 にある。
らん たいまきこ お はくせき ほ% てう れいがく きこ
㎞くん㎞、 肝シ
正徳 元 年秋、朝鮮國聘濃使に宴を賜うた席上に於いて、白石は本 朝 の濃築を説い
なんさこ
いひ かく こ ちゆう ざうるなしやうむてんのう きよぶつ
さよ よ きよ
す る もの、皆聖武天皇のである。余は去
御物 で

127
言ふには、南都に三秘閣ありて、庫中に
-
ねん か ち * こ これ み にいきうこ
だいきうこき」ぜん ん うら
鶴、彼の地に行って斉を見しに、三シ庫は魏然ミして宿して居った。根むらくは、そ
●ー
さこき はうもつ み ら かへ かた 心 はづか
の時、余はその蔵する質 を見るこミを得すして騎つたミ語って居る。かうして、僅に
井 新

128
くわっじはん だいざうきやう み
東大寺の瀬派院で、家魔の密避した悪魔のシ継を戦て蹴ったのである。
かく こさこ りよかう
これ もくてき いぶん けんきう
いい *
ぼくもん きよ
*

斯の如く、比の旅行の目的は、帝都の濃文を研究するにあつたが、さすがに、木門の 正川
ひがし きた こ
い し だん いろ き

㎞、
撃が、シり薬ったのであるから。獣 の詩壇は、これが貸に色めいた。鳩巣が、はじ * さい *


-
はくせきじやうらく めい き をん んかい さこもっ さ ここれ
め、配石の上洛の命を受けた時、詩職の奇お祇 海を伴はむこミを勧めたのも、之が *
はくせきら き こりなんかく
㎞・・) ギ・試) 、
貸である。白石江戸に騎つて、服 部南郭は、
ひきこたびかうくわんにあいてためにさかづきをつくす かっきくじやうこくくわんゆうよりかへるこ
一 遇ニ交 離 残 霊、杯 且 聞 上國 官遊回
かぶ をやめよぎらき うらやむにたへたりさんさふをつくるのさい
シ、い㎞な㎞ A
休レ言 祇 役 無 密学 虜 堪レ義 三 都 作、賦「才
しう よ あめのもりはうしう
の一首を寄せ、雨森芳州は
せいせうきくならくけいおうに さこ、まるこ
星 轄 聞 説 駐 京 陽三
こ じ はな ふかう くかくにのほり
古寺 -獅 三白 閣二
るち うけつをたづねて
路 尋ニ 鍵設篇霊
しはん ほっは記ゃだへんた、 か のおシシ 打
㎞ 城 多客悪 黒 紹 牛 破 髪 貸、電想
へん おく
の一篇を送った。
のち はくせき くわんれき タ* むろきうさう
これより後、白石の たミき、室鳩巣は、

観露 使混


ニ士量二せ

*a

年学

Sい



日き



ひがしょりきたりてくわんりむかふ

ぶん ふつゆいて さい のれい ふう にう かへりはうず しはうのじ


文物 往 観 三代 濃 風 諸 騎 報 四方 情
たれかしらむ いうこく せいぎうのき もこ これ 、かん か はく はの せい
誰 知 幽谷俗 ㎞、窓 鶴 家
こんにちのしゆんきさもにをしむにたへたり さらにきみによってじつにしよう へいにこたへん
今日 春輝 排 ニ共 惜 憑、君 質 答ニ昇平
、たみこ じやうらくもんじん ご ひか うほ Aてうぐんき かうしふこ づ せつ
ミ賦うて居る。かうして、比の上洛は、門人の土肥霞州が 『木朝軍器考集古園説』に、
-9

しうせん あた き ひ
AQ。 試 ㎞ ㎞ 、り ㎞ いい T、 シ
洛上の査徴楽祀。

* *
その恭しく使命を奉して、雨京の間を周旋するに方つてや 代の葬器、秘庫、奮物
あさこころ さうさくひんだい ざんろう けだ すくな な
の在る所は、あまねく捜索品題して、残漏したものは、蓋し鮮く無い。
いみふ る *やこ れいぶんし ちようかへ あしか こうせい おほさか なか
ミ言うて居るミほり、奮き都の濃文を徴して騎つたので有る。然るに、後世、大坂の中 g
み ちくさん しやうさこくぐわんねんあきてう 、へいれいし あ だしやうぐん こくしよし くせき B
し%
非俗曲は、かの正徳元年㎞使に撃へた将軍の國書について、強ひて『石の心
そく ひそか ふ ぎ はうざう りよかう もしやうぐん てうせんこく


朝が
國 の



将っ


旅蔵、





す抱
なもの
ミ不 しる義
鮮軍行

130

が もち
けん
かしこ
たま



やき
*せいじ
らく
やう
よう
強ミ

する
上ため
、に 衰




ら服
こ賜 引

ふ見


ため
こ、
長洛請むくる


)

*
居て
。 渋、

つ大

に室
言手紙 を
ミるうた井戸ふ
いる
江こ

チ年

17
これ
ここち
くさん

い なA

、うこい

さび


-J



つに
向 しかしながら

常は
尾、 山くて藤時




の如責め
竹た

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こ-
だい
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んけ、 け ん

ちく
ねん
ざん ひ
ここ
さを

せん
き うさこ


先た

秘比
の室

手興
へ悪い

竹事紙井山
渋は

無 先年竹山の弟 履
く、け あ -
び し みん てがみ ねんぜん
が、京のある公卿から博聞したミころで有るミ言ひ、尾藤志尹への手紙には、三十年前にに
も けんもんかく
たかつじけ く -
- せん 獄
P、 、 あ 、は、 -
層軒が高辻家の門客であつたミき、ある公卿から聴いたミころで有るミ言ひ、又 先年
なかみ & "

しざん
ちく きん


&
あみん


くわ
やけ

みさ
あさ

ここ
*-い





時中井


竹山
江警

庵宅戸

}
観満から聴いた事も有るミ言うて居るが 履

けん はた たかつじけ き これ かた ぼうく け きは かたい


が果して高辻家で聴いたものミすれば、之を語った基公卿が虚誕を語ったものミ言は
しうあん くざん これ しうあん わんらん だん はたち つ さたく
ねばならぬ。また競庵が果して竹山に告けたものミすれば、之を禁施に語った観潤の談
は ひつきやうちくざん けん おほいう シび
㎞お さ 、あ にェい) 、、、、
話を虚構ミいはねばならぬ。軍意は、竹山の言に大なる 疑 が有る。後世の寧者は、竹
ざんけん はくせき じやうきやう も あやぶ もの すくな しんじ さう あやま
山の言によつて、白石の上京を以つて、危むべき心事を蔵したものミ、誤られた者も少
しんしよく、 わす しやうぐん こさ〜 この
る に寝食を忘れた。将軍は 悪くこれを近
ごさなかみ ちくさん は くすき だいり
る もこっろ はかさたくふちゆうもん

麗に謎られてのち慰められた。かの幕府の中門の如きも、中井竹山は、自石が内神 もさこひろ
こうけきもさひろ にっき
の選熱に拠して造ったものであるミ 居るけれきも、慰の距記を見るミ、
して居 るけ 鷹 /
けんけん



、ぐん ん こただいじんた、しやう いへ かなら くわいもん な
の諮調に答へて、大臣大将の家には必す棟門が無くてはならぬ、ミ建言されたに
さうら いさこころ あ
営した虚で有る。 -
さだ あ
てうせんし せつ あた こくしよしやうぐん ひそか 。もさひろし の
㎞使館に興へた國書も、将軍は密に基熙に示されてから定まったので有る。
せいち
ひだ はうcいれんなっ ぐわっゅ う
き みつり
艦に蹴治の機密にあづかられた。さうして、その間は、賞永七年夏四月下向され
_勢

やうぐんしうしよく
あく よ はる こうさよ
うさんたつ ぐわつ ふ
ざいし
襲四用まで在府されたので有るから、将軍 就職の翌春から、夢去される
洛上の査徴楽潤

はる さんふ
*


うし
春まで参興 、アイ
んこくか い いうこ
獣だし 戦 武 2
* *
か * い人い こ

131
*
かうして、配石は、爆然たる濃文の新國家を建設して、以って、海外の友
てうせんこくへい らいてう これ
はり 慰、朝
ち、朝㎞使の来朝である。者よ
きたし させんらん へ れいがく かそなは はくふれいぶん も まこ いうこく し
来るや。久しき戦園を経て、濃楽の峡けて備らざる幕府は、濃文を以って誇る友國の使
石 白井 新

132
せつくつじゆうこさここさこ たい はづか ・ すくな なあ はくせきも
節に屈従して、事毎に國鶴を辱しむるものが少く無かつたので有る。白石は、これを以
た こう、かちじよく かいかく くはだ
つて、堪へがたき國家の恥辱ミこして、改革を企てたので有る。
ーしやうぐみ さくらだもんぐわい かふふ はんてい みてうせんへいれいっ ぐんれういまし
将軍がまだ標田門外の甲府藩邸に居られたミき、朝鮮聘濃に就いて、群僚を戒めて、
むかし ていこくせうこく も たいこく あひだ かいざい よこくじ やぶ しゆうけん
昔、鄭國が一小國を以つて、大國の間に介在し、能く國事を敗らなかつたのは、衆賢が
おのノ〜ちゆう も くに つく あかた あしやうぐんしよく つ
各 忠 を以って國に霊したからで有る、ミ語られたこミが有る。さうして、将軍職に就く
ょ7
てうせんへ いれい い ふうじ いうし もここ はくせき でう
く、朝鮮聘濃に係る封事を有司に求められた。そこで、白石は、十條の

こくしよふくがうきい
よふくが しば
を りき はうにい
つたミ 『國書復跳紀事』 に言うてみる。これは、『折たく柴の記』 にある賞永六
ぶう しよ たてまつ い けんしよ のこ
を受けて、十用に難って一封のシったミあるのが共で有らう。比の意 見書は残つて
じ てうせんこく しさ こさこ だい でう おい
さ〜 * にK % 、、」 * さ * *
居らぬが、『國書復跳紀事』 や 『朝鮮國信書の式の事』によれば、いづれも、第一條に於い
、か わうがうろん
て、彼の王跳のこミを論じてみる。
こ 、 、なか㎞ * ばト なき
-
めいぶん い
孔子が、名は必す正さねばならぬミ言はれた。その名ミは、君臣父子の名分を言ふの

しよこう いた くるめいがう これ あ ゆき
てもし
位名跳みな是 で有る。これ艇に、その名に
*
みで く シ卿シ
)
*
じつ らん あ せんこうし
して上を犯すあらは個で 有 る。突鶴をシな らば園で 有 る。潜ミ園ミは、ミもに孔子

の言ふ記しいものでは無い。
戦が難ミ㎞ミの顕盤に、戦が盤を以って、シうてあるのは、 しい てん しよう ぐ しょ

よし たいくん だい いにしへ
なし
天鷹 名

では難い。シミは、髪那三偲の話に於いては、天子の稲である。それは、脳書に



-
し こさこ けんこう こく
かんこう ちんこ い区 こさ
て -

子の撃を就后ミいうてある。それを漢の孔安國は、元后は大君ミいふ語であるミ言

類た

い2
てんし かいしやく


た、) こう、 う *


これ
またしういき たいくん


* * ご
うてみる。シに大君ミいふ語がある。之を唐の孔類達が、天子のこミミ解響した。


ない
いい にしへ
だい いにしへ たいくん てんしい 1
されば、支那三代の古では、大君は天子のこミを言ふ語である。
-勢

わうしつ しよわうじ ちおーくし しよう これ こうま し はじめ お


*うたい くん
さて、朝鮮で大群ミいふのは、王室の諸王子の嫡子を網する。之は高麗氏の初に於い
洛上の査徴楽祀豊


A につ はじ あ

粛* 代器だ
もち

煙 那*

せい しうまつ こく ぎ せい きん -

徳を 支"
** *
有* 我" て
*
三偲の古制ではなく、周末七國の偽制を倣うて用ひ初めたもので有る。
に ほんこくわうい

に"
創 (は
さこじ てうせんこくしよしやうなくん も

㎞に、戦が盤を以って、シミ言うて来たので

133
我が徳 者
-
の創には、
あ いたいくん あらた
こくわう
うこんて し しよう をか 〜


*
*

が、隣記ミは天子の稲を犯すもので有るミ言うので、大君ミ改まった。しかし



*
ここ まここ くわうてんしい しよう
ながら、大君ミいふこミは、己に正しくない。又、國王ミは天子を言う稲ではない。
井 新

134



いい つぎ てい しうおさころ およ
* \
元 は天子を皇ミいうた。次に帝ミいうた。次に王ミいうた。周の衰べるに及ん
はじ しよこう せん わう しよう
、 * 世転 脱 秋長 、 てんか うは
* * B *

で、初めて、列國の諸侯みな借して、王ミ稲するに到つた。秦國が天下を併せ有し、み
くっ てい かそな 、る あらた くわうてい しよう し、うまつ
-石

さ〜タ * * * * 世y
っから三皇五帝を筆ね具へた意味で、新に皇帝ミ稲した。さうして、列侯には周末の
こさ わうい かんき」しんい これきだい これ なら みゆる わう
如く王ミ言はしめた。それより漢魏晋以後の歴代みな之に倣うて居る。故に王ミいふ
しう てんし しうまつれつこ
* だいさ いあ *
のは、周代までは天子のこミを言うたので有るが、周末から列侯の稲ミなつた。
わ しんわう しゆうし しよわう しよう たてままた
さい 経 *
ぐわいは
我が國では、親王の衆子を諸王ミ稲し奉つてみる。又、外
ら こく こくわう しよう
に収% さ*
あゆる こくわこ
羅國の國主にも國王ミ稲せしめられたこミが有る。故に園 出%
な しやうぐん しよう

* O メ、、シk㎞・ 、 さ〜 もい に ほ% ㎞は
い。すれば、朝鮮國書に於いて、我が将軍を以つて、日本國王ミ稲しても個働ミは
たいくん しよう
* さ} ㎞は
いへぬ。大君ミ稲するのが借園である。
いみ
㎞ 、、 、 3㎞ っかささ いにしへ りんけ
ミ言うて居る。元来、幕府に於いて、文書のこミを撃るのは、古より林家
じゆうらいしやうきた に ほんこくわう しよう あらただいいへみつしやうぐん いた に
従来稲し来った日本國王の稲を改めて、三代家光将軍のミきに到って、 日
たのも、林道 春の
りんけ るみだい せいしよ
林家累代の世職たる文
しやう はや はんたいら
勤せざるを得ぬ。
ほんこくわう しよう
國王ミ稲せられたならば、そ
ろん たてまつ たい ふだ、こくわうんしよう な
㎞は ㎞
*
れは個闘であるミ論じた上書を 奉った。白石は に難して、聖び國王の個稲で無いこ
て、せん くつ ろん
かへ ㎞ 注い Q・KB。
*K 、
* *
ミ、大君が却つて鶴稲でもあり、又、朝鮮に向って卑屈であるこミを論じて。
お に ほんたいくん い てうせんせいし
ぬ ㎞ さい摂㎞ い * * * * * } *
親が将軍が、朝鮮國書に於いて、日本大君ミ言はれるのは、これ、みづから朝鮮世子の
くらみ くだ てうせんこくわう しょ たてまっ だ
子の値に下って、朝鮮國 王 にシるこミになる。みっから撃しむの しいもので は
-9
洛上の査徴衆祀豊

- いこう、 ふい すぎ しん たみ は いかだ
傭選は奮園の一布衣に過ぎないけれきも、義ミして秦の民たるを吐ち、後を路
しやうぐん こくわう しよう てんし み をか だう〜
かい ばつい

135
んで悪瀬に漫せんミ言うた。もし将軍が國王ミ稲して、天子の威を犯すならば、堂々
-
てうてんし くにはんわう くらみ おなじ こさこ
たる説が天朝の天子が、彼の國藩王ミ位を同うする事になるではないか。
この 。








シ 友でる管鮮浦人#
あの
松で
朝雨森





主霞


居聘





芳 、


ら れ



書 あしよ





● しれが

駿
こミ














正月






た た、




っシ
無ふ






浅ましい
い ん

たい


てん


てんし

大一になるう王ひ臣なたいしやうだいつこくわうおこなるくそしやくじんじろ もの
い名
國大将

行質


み居こ


遂。






共 てい


あれる
やう

空。




ら虚




のみ




兵馬
、しく
子 綾


る 源こ














以来







絶え平ひそかけんべい?わういさこゆけんらいかる


て そ

あら
あた

やうい

らいく


ぐわつ





は せ
くいう
はあせめ
じん
もみ

居しめ家のる


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こ勤


宗なかっ









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白石




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なが







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居にがらしるれて心ジ、
うて
さ詩
}くさく
*
* し
つた
み ここ


ようじ

しん
せき
ゆん
かん

てんし




、へよう

ほけい
きよき
みよ

ぜみん
ぎうんし





う や
がくし
もん
ぼく
に しせん



うせ
いて

んじ
こそ
よろ
うけ


なつ

ゆう

わん
うくし

- し
ここ

136
普上の査徴楽書_。
顧* 馬誌
携 み" 國経
な に
か 在*
つ り
こ つ


" る
生鑑
學。
;影も 世。

#

等認


*

か\

137
-9

138
井 新

日出の國源大官
朝鮮園㎞使の入府ー客館の唱和ー業務最上に於ける争置ー自石シ

郡たる吾が園鶴を説くー一場の 劇ー自石の功績を歌うシの書ー自 の

書像に賛した深見天満の賦ー林家の反感ー王競事件に就いて自石の心事とその國鶴
論ー皇室奪宗に就いての自石と順庵との問答ー『譲史除論』と『保健大記』評「紅葉
山文庫ー惨火より免れた『同文通考』
ふかみい
てん みやけくわんら ん むろ き、うきう す〜 め ふ
しやうさくぐわ々ねん ぐわっ はくせき
眠 徳元 年三用、自石は、深見天満、三宅観潤 室鳩巣を薦め 府の儒官に列した。
ぼくもん なんぶ なんざん
ぼくもん きよはくるっちゆうのくにさやまのじやうしゅまへだながこのかみにこしをは っ かみ
みな㎞の国撃である。越 中國富山城主前田長門守利興に仕へて居る木門の南部南山
きうさう しよ おく しくわん がきうきう へんじ
が鳩巣に書を送つて、仕官を賀したミき、鳩巣の返事に、
ひ あらみ こう かいこうたうだい し じん ひやう こき ふか ぎ」をんなんかい き ざい た%しゃう
*
評した時、深く祇園南海の奇材を嘆賞し
過ぎし 出、シに難造して、常代の詩人を評
いま ひさこ は ご あ
ょろこさ そつか ここ およ
* こうらいそ
て、今その人の江戸に在るこミを喜んだ。つぎには、足下の事に及んで、東来の晩き
うら ちらん こう %、く たくし そっかよ こうらい もよほ
を恨みミこした。そこで、新井公は、僕に託して、書を足下に寄せて、東来を催さしめ
てうや せつ ぐわついこ らいへ いさ さこさ
下 、誌 に、、
られた。朝野の説を聞くに、韓客は、常に八月以後に来聘するさうである。その時に
そくか おも かん いく てんさい きやうこん
に シ かこ * さ * * * くん *
常つて、南海ミ足下は峡くこミができぬ。請ふに、韓客は、二君の天材に驚嘆するで
も じんはう ぼくうそか
の がは 、す㎞かさうらい * も 『 ㎞ ら こう
有らう。庶幾くは、速に東来して、以つて、人望に副はれよ。僕窃に思ふに、新井公
ドー、試 く、また
“・ ○
の意も、蓋し、又、こくに有らう
*3 なんざん もち いた なんかいこ のち いではくふ つか
ミいうて居る。南山は用ひらる、に至らなかつたが、南海は、比の後、出てく幕府に仕
はくせきまた こそうけ あめのも〜はうしうさこうようこくろざし あ そうけ めいわく さつ
へた。白石は、又、宗家の雨森芳州をも登用する 志 が有つたが、宗家の迷惑を察して
_勢

紙数
むろきうさう
官大源國出目

やめたこミが、室鳩巣の手紙にある。
もくもん さい てうけんこく しやうこくぐわんねん
かうして、皇石は、本門のおを離致して、朝鮮獣の大府を得って居るミ、正徳元 年
なつ ぐわっ せい たいおKいはに じんんゆか% はらけんさ つ つしまのくにふちゆうじやう
は 、にん

139
夏七月、いよ〜正使趙泰億、副使任守幹、従事李邦彦等三百六十除人は、封馬國府中城
か しんし くわん い ふちゆうはん あめのもりはうしうまつうらかせう てうせんこくしさこし ぶん しやうわ
下の信使館に入った。府中藩の雨森芳州、松浦霞沼は、朝鮮國使を訪うて詩文を唱和し、
ち おほさか か これ
**た はくせきし きう せいし ち いしめじよ もさこ し せっ *
この
シん いざいちう
、自右調草を正使等に示して序を求めた。使節は、比の後、大坂の客館に滞在中、之
石 白井 新

140
じよはつか おく み ・)わくに ぶんくわ ほこ しめこ もじゆうらい くっ
に序㎞を書いて贈って居る。かうして、まづ我が國の文華を誇り示すミ共に、従来の屈
きようせい
じまいてき㎞っ
辱的應接を業正した。
お しきれい かいせい はや は 、ふ しささこ さこころ
これ きき おまさか きやうすんぶ かくくわん
悪より先、大坂、京、駿府の客 館に於ける式濃の改正を、尻く幕府より宗氏に論す虜あ
てうせ。こくし ふちゆうじやうかつ す なく そうし かれら っうこく。 にけせんにK%
りて、朝鮮國使が府中城下に着くミ直に、宗氏はこれを彼等に通告したが、朝鮮國使は
きうくわん さこ よう に っひけつ おほさか かくくわん お さう
き、
奮慣を執って、容易に聴かない。途に、決せすして大坂の客 館に於いて、ふたミび争
氏㎞ 、長だ㎞) べん
ろん
やや )ェ シ か KB
論して、潮ぐ幕府の強硬なる態度によって、彼を屈せしめた。白石は國威発揚の第一

を撃けた。
あき ぐわっ はくせきじゆ みのけ ちくごのかみ じょ さく いさこまきこがねづくり する つぐ
1
この秋十用、自石は従五位下筑後守に叙せられた。さうして、特に締巻資金作の末次
た ち お よみ はうかりぎぬさこう たま てうせんこくしさこうかいだう くだ はくせき しようぐん めい かうむ
の太刀、及び、位砲狩衣等を賜うた。朝鮮國使は東海道を下った。自石は将軍の命を
ふちぬり は ま し トうくらんち すみかん つ こがねづくり の だ ち は むさしのくにかはさきしゆく
つて、縁塗の鳥帽子に、木蘭地の水干を着け、黄金作の野太刀を偏いて、武蔵國川崎宿
むか に さ かくくわんさこもな てうせんこくし ほんぐらんじ い
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* *
に迎へて、江戸に大り、浅草本願寺の客 館に伴うた。朝鮮國使が本願寺に入るミ、す
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142
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ひん しやうぐん むね った はくせき な もっ
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* ここ さこきこ
河な
常代のばじめ、百除年の兵園の後を受けしかば、何事も暗闇の如くなる時なれば、比

だい
『、こききふむ かん こさすく *

〜*
さこ おこなこさこ
少時

やぐ

賓場
急すく、











執り
なく主務

ひんしゆ


*-
れい かけ こここあ そのち あるひ わ
* 、長は 峠 したが
の濃なさは、こくかしこ闘たる事きも有り。共の後、或は、我が國初の例により従び
りやく にき
かみ おんむね
記 * き 、 〜 が * *
て、略しっ盆しつせられし事きも、みな〜、共の時々に随び、上の御旨を偏 びて -
さこ おこな
-
きだま べっ れいしき ここ
)に いま な
き 〜
執り行ひしほごに、しかミ定りたる別の例式ミいふ事、まづ只今までは無かりしなり。
ま あた
**
シに染 X の やすで ねんねん
㎞ ) 積に &注
今に常りて、我前人の徳を承け継ぐこミ己に百年なり。 百年にて濃築の興る時至るも



B
) ミシ
まを 、った をき
なしり
申の


あきこさこ

*
-


へたれば、すべて國を経るの典濃 は 、そろ〜修め明らめしむべき事
なり。
めい ひんれい ぎ てい
だ ro ㎞、) 、*
荻に役人さもに命じて、密蔵ル議定せしむ。まづ将軍家代々の古滋を熱し承けて、さ
だいこ
かい れがぎ 、 に ほん てうせん はか
*
て三代より比の方、大明までの濃義を考へ さて日本ミ朝鮮ミの入りあびを語りて
こうけ このたびしん
しさ
ミ れいすうあふ そん
*
ここ しん こさ
高下なきやうにす。今度信使きも、前より異なる濃数有るを、不審に存する事もある
ゆるりやうかくしきこうしんしきさこら さこ あひはか いま か
べきか。かるが故に、領客使等をして、信使さもに暁しめて、事を相謀り、今まで闘
こさこ おぎなこ たび ぎおこなれいも
けたる事を補ひ、比の度の議を行ふに濃を以ってせしめよ。
らいき てんれい い ぶ しつ よろしっ
* れか み ? * *
濃記の典濃に言はすや。濃は文に宜しかるべきは文に、質に宜しかるべきは質にすべ
ひさこ くに つかひ ゆ そくに い そくに ふうをく したが
し。また、人の國へ使に行くものは、共の國に入りては、共の國の風俗に従ふものな
おも これら こさここ&こん〜 し あき
りミ思ふ。之等の事よろしく霊く知り明らめらるべし。
つ けん ぎつ あらた さこころ つ わ
じゃづい さ * 詠 、 * *い
ミいふ上意を告けて、進見、賜響、鮮見の三儀に就いて、改むる虚を告けた。みな、我が
くに せ あ かれら
% らい、 いら㎞っ、 あ た *
接を改めたもので有る。しかしながら、彼等にありて
國にミりては、従来の屈辱的應接を
-9


じゆ うらいはくふ つ、
しよだいたい やぶ
〜 シめん
官大源國の出日

は 、従来幕府の初代から績いた鶴面を破られるこミになる。

こ つき にち しやうぐん めい はやしだいがくのかみのぶあつ はやしのぶみつはやしのぶさも もんもんてい

比の月二十七日、将軍の命によつて、林 大學 頭信篤、林信光、林信智の一門は、門弟
ひき てうせんこくしかくくわんさこし ぶん そうたうか をかじまくわんざん わくにふうがく
を率みて、朝鮮國使を客 館 に訪うて、詩文を贈答した。彼の岡島冠山が、我か邦富獄
き くわん けきしやうか せいししょ。 こうしゆんる ん ふくし しよき けんかんちゆう にん かくにに こんがうざん
の奇観を激賞し、彼の正使書記の洪難行ミ副使書記の厳漢重の二人が、彼の國の金剛山
-

うさん ** * えき。
の絶景を賞揚して争うたが、遂に、冠山の文二人を屈して、獣せしめたのは、比の時で有
石 白井 新

144
*
ぼくもん こ てく にち ぐわつ か はくせき きのしたきくたん むろきうさう ぎ をんなんかい み
日ミこ十 一月五日 ミに、 菊漂、室鳩巣、祇園南海、三
こ てんりよくらしやうぐん めい
天防等が、将軍の命によつ
日刀
てんい
し たなかにも、天満の三百
せん 、くくわん〜ぶんかけ くわんらん し きくわんだん く㎞い
集 同文稿、観潤の支機間談、寛斎
てん さくわかんしふ なんかい ひんくわん かうちよしふ あは
天 南海の賓館縞結集、これを合せ
か しやうわしふ よくねんらふけっ * ん しやうわ
て七家唱和集ミいうて、この翌年臓月 された。この唱和によ つて、
-
かつみ けい かれ に あ しよう
㎞ *
難って我
曾ては長敬した彼の文華も、却 我が國に及ばざる遠きに有るこミが誇せられた。
はくふ まなべる ちぜんのかみ このる もさひろ は
はく にん ぐん たすじゆんび
船では、㎞シミの三 が、盤 を 離けて、㎞の 鶴をし
*
ある 残ミ てうせんこくし さ じゃう ひ ..き
る 、 は
しんすいい さだ さ 〜 ・・う *
て居る。新制を定めるので有るから、容易に渉らないで 朝鮮國使登城の日も、まだ定 ここ
あんたん りようこく あひだ よこだは あ ㎞ *
あ的 浅 ふい % 、 *
らない稲橋である。世闘では、暗湾たる風雲が、雨國の間に横って有るが如くに思うて
った につき かみ

KほK
まお いや 、 『 BS、 *
魔㎞のいろ〜の風説が僅へられたミ、基熙が日記に書いて居られる。 ほうてい か
ー ぐわつ じっ お銭 長科 さこ じやう
* 近討 * にお銭院にK誌
十一用 一眼に、いよ〜、朝鮮國使は登城して、國書を捧呈した。三日 朝鮮國使は
い ぜ化
お 、い㎞ % て 、比
再び登城して、大廣間前殿に於いて 響宴を賜うた。然るに、己前は三家が相伴したの
ここ たび こうけら しやうは ん これ てうせんこくし あらそ き
い *
しシ

を、批の度は 高家等に 伴せしめた。之を朝鮮國使は争うて聴かぬ。す くわん いろ か 2
つざ 、} = かんし なほぐわん -
は毅然
が眠藤した。韓使は獅顧ミして聴かぬ。列み居る幕府の百官は色を鍵へた。
出 17
にBせ %にに むか
ミこして、朝鮮國使に向ひ、
官大源國の出日_。

お こんにち きやうらん さこ 、 か%
し -
** に
若しも さやうに離ひて掴まるくに於いては、令日の響%は、まっ停められて、韓使
す㎞か 時N このシ たいじ やうそ きうは めらに * ㎞か 注に *
には『速"に退城せられたい。抑、今度聘濃の奮法を改めて 新濃を立てられたのは

145 '
お これ しりそ
さった ㎞, % ㎞ シ さ* * *
撃競隣好を全がらしめむが貸である。然るに、韓使に於いて 之を拒み庁けられるに
お こくかう だんぜつ ほか な
於いては、もはや國交を断絶するより他は無い。
*ー
つ こる こきこ がんくわう らんらん かんし う る
O 封 *
うか
ミ告けた。その盤は雷震の如く、眼光 は欄々ミして、韓使の一行を射た。
井 新

146
{うせんに ヘしきょられよう つひみ
は ふく ひ はくせき せきはうこくわん つ
朝鮮國使は恐棟して、遂に自石の議に長服した。比の日、自石は、赤砲悪冠を着けて、
ち、 ふ ねんじやうらく さき このる
父 一振で、かのシ七シの時、源衛
石 白

きよねん ぐわっ きや くだ あらた くはだ さころ


むミして、去年十二月、狙近家宿禰を京から し下して、新に企てた虜である。や
んながく、たいへいがくりようわうがくさう こ がくきやう こ がくかつじ さうぎ おほさう よ かんしまへ そう
楽、太平楽陵王築等の古築が、京の古楽家辻、東儀、多等に依って、韓使の前に奏
はくせき ふで さこ てうせんこくし ため ぜ つめいらうさこ りょうわ うがく まいた
された。自石は筆を執って、朝鮮國使の貸に説明の勢を執つた。陵王築を舞ふに到つて、
せいひさらんりやうわうちやらきやう しうし きんはうじやうか やぶ 。かたミ あい ふく

は、これ湾人蘭陵王長恭が、周師を金擁城下に破るに象つたもので有るミ言ふミ、副
しゆか
かん せい がくみこ
なにゆる き はうつた さ ) はくせきこれ こた てん て う
守幹が、着の楽が、何故に貴邦に博はって居るのかミ間ふ。自石之に答へて、天朝
ずみさこうかうつうさこ き でんらい あい せいし て のだいおく ここ がく

随唐に交通した時、博来したもので有るミ言ふミ、正使の趙泰億は、比の古築す
** ょ〜
き はうひさこ つたまこさ たふさこ ち たんしよう
%
でに天下にDぶ。然るに 書㎞りこれを備ふるは誠に髭むべきで有るミ嘆 した。す
は、くせき
るミ、白石は、
てんてう てん はじめてんそう てん さも を こ〜 お てんわう すなは し てんし
-
天朝は天を始ミなし、天宗は天ミ共に墜ちす。是に於いて、天皇は乃ちこれ旨県の天子
あわ に ほん こくたい せいき れきてう きみ ひさこ も ひこ つ せい
で有る。これ我が日本の國鶴にして、かの西士歴朝の君が、人を以って人に継き、姓
か かは た ごさこ な これゆる てんてう れいがくてんしやう はんせい せい
を易へて代り立つが如きものでは無い。是故に、天朝の濃築典章は、萬世一制にし
だい れいがく ごさちよう ずるこう がく な
て、かの三代の濃楽の如きものも、徴するこミができる。たぐに随唐の楽のみでは無
* 3
しy
い ねん いにしへ れいがくった わ こくにい さこ たいへいがく そう
ミ言うて、三千年の「古 より、濃築を博ふる我が國鶴を説いた。また、太平楽を奏する
さき はくせき めい せうは ちんがく かた
時、白石が、これ 築ミいふミ語って、
-勢

農? 風誉
そう お のう こう また たう たい ゆる けきけん ぎ
*
官大源國の出日

鍵刀を偏び、農工も又。一刀を帯する。これ故に、撃剣の技有



士し
きよ ぎふ ゆはつか
しんきしゆつばつ へんこうか





に之を練磨する。この技たるや、碑機出没、鍵動不測、隻手纏に刀
そく きり は はう じん


さこう と ま でんひ かぜおきろ ち 心 .にらら ㎞
頭に及べば、怒ちにして、電製き、風驚き、血を濃ぎ、霧を吐く。鋒刃 朋
かうぐ
かうべ うしなかた なら ん
- --
さらえ ェ * 祭
る に、践歩の間、己にその首を喪うて、肩を跳へて座す。比の小技は、國人の皆
d

能くする虜である。
._石 白井 新

いわ こくじん ゆうきうか
き しやう さこ よく〜 はくせききのしたさ
ミ言うて、我が國人の勇壮なる気象を説いた。この翌々五日、白石は
もん しゆんさい ひき て、せんこくしさ やう
きか %ん ㎞、 ぶK% ㎞) さき K花
門の俊才を率ひて、客館に朝鮮國使を訪うた時、副使任守幹の我が邦撃剣の術を賞する
こた
に答へて、
こうら わくに もしやー ぷくさかん なか なく しよ けう さん すなは
公等我が邦を以って、ひミり尚武の俗隆なりミする%れ。魔獣に、撃を賛して、魔
い すなは しん すなは ぶ すなは ぶん あぶんぶ なら さかん こさこ
聖、乃ち碑、乃ち武、即ち文、ミ有つて、文武の並び隆ならざるべからざる事は、すで
ひき をしへ わくにかいびやくらい しんせいあひつ さく へう かう むるんじ
に久しい教である。されば、我が國開闘以来、碑聖相績ぎて、徳は四表に被り、遠週
りつふく きた わ およぶ も
きくがは改くふ らん さく ぶん もち おこ
卒服し来って、吾が徳川幕府に及んでは、武を以つて園を過め、文を以つて治を興し
けふ つ
山シ 、
列世その業を績いて、今百年に及んでみる。
いぶんしつひん〜 わ こくふう

-

ミ言うて、文質杉々たる我が國風を説いた。

朝藩

使*
うせんこじ けん きこじやう しやうぐん てうせんこくわうごくしよおよ そうひん

受* か

び 露群
た。 て

ー は

・い

零 見




{
け く
をして、将軍より朝鮮國王への國書及び贈品
また r く はつき


こく

-


十愛の扉風が有った。これ愛、園艦の撃を 撃する盤に、犠
、ッ ry、こ ー 「 〜 *く 3 リ 、もく 〜 ミ *
室鳩巣書 の 自 雄 峠 豚
saまゆ科*g。 刃 -
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おそ*シg%*シ・ -*
く 物史* 川にも**注 お補 れ**
***シー ぶぶ * パ *} 止 *そん * ら * 職後
こ 淡水様を持北* 長そ也シ 基必 るず 本と を け遠様
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(加賀 松 雲 公 に 擁 る)
はくせき いもち あ ころ ぐわはく か の たんしん やうぼく、しゆんこら
に白石の意を川ひたもので有る。それは、この頃の書伯である狩野探信、養朴、春湖等を
右 白井 新

150
わくにこらい せいてい けんしん りようしやうさいちよ めいさん たいせん きうけつ がくぶ さう が
して、我が邦古来の聖帝、賢臣、良将、才女、また、名山、大川、宮闘、築舞等を書かしめて、
ふかみ てんいき じ だい びやうン も わこ くんしん せいこくみ けふ ねん いにしへ
深見天満が記事を難した解風である。以って戦が苦シのシ業や、三千館の 話 よ
つたら くに れいがく、あら あのち てんい こはくまう こぶんしやう やっ
り博ふる我が邦の濃築を現はしたもので有る。後、天満の子の白鳳が比の文章を集めて、

シ: ㎞ん、 ㎞い
白雑帖ミ名づけて出版した。白石が序文を書いて居る。
「ひか にB ににし しやうぐん うこ ・、しよ けいしきせんれい こさなみ また て;せんこく
然るに、朝鮮國使は将軍から受けた國書の形式が、先例に異つて居る。又、朝鮮國七
だい そ いるな をかもんじ あ そうつしまのかみ も まを いで てうせんこくし 、 すで はくせき
代の祀の諱を犯した文字が有るミ、宗封馬守を以つて申し出た。朝鮮國使は、既に白石
しは〜 かうぐわん くち あ このる もさひろこ つさ にち につき
のために、雇その倣頑を挫かれたので有つた。近衛基熙は、比の月十三日の日記に、
しゃうぐん あらる ちくこのかえ かくくうん ゆ し しつだん し ちくこのかみ がくもん
将軍には、新井筑後守が、客館に往きて三使ミ筆談したミころ、三使は筑後守の寧問、 -
ぶんしやう きや〜たん しつせいなが こさ ち べんうみ こさ しやうたん あい
章に驚嘆して、筆勢流る くが如く智精海の如し、ミ賞嘆したさうで有る、ミ言うて
よろ こじ ぶん いに ほん こくみ かくに あつ ゆるん よし まを
恨んでみられた。そこで、自分は、これ、日本の國威が彼の國を歴する以所の由を申
し上けた。
いまた ぐわつ にち
託E *
ミ言うて居る。又十二月十一日の日記に


しやうぐん ものがた かんこくじん こ ぜつがう ぶんしやう くに に じゆし
将軍の物語に、離獣人の粗野無融なる聖 語に絶して、豪も文章の國に似ない。儒





-

%っだ%消沈 しう

こっ あひだ
* ェ に 、 ート 、 3 、ミシ うo こo
等も筆談 酬の間、その無濃放持なる事、以ての外であるミ言うて居る、ミ語られた

聘。
くに
は 、 が ぜ沈 さ)、 〜 ぶんぎゃ 、 こざきべ や さ〜 ㎞ こ将
ミの記事がある。微然ミしてみづから文華を負うて、事毎に我が國を侮辱した朝

を*
れいし -
いま はくせき ため くつ かき しやうぐん こくしよそ
に いみ
、せく


- -
濃使が、今や白石の貸に屈 ねたのである。将軍の國書に、彼の國七祀の講

日、さ
も じ *2
い だ じ もさ ご
科B こい シ



文字が有るミ言ひ出したのは、強ひて一事の勝利を求めむミする最後の反抗で イル

白繋

あらた こくしよ うく いいん つし しめ
うして、改めて國書を受 け 國の途に就かぬミ言うて、陰に決死を示して
せじやう りょうさく へいわ つひ た
世上では、雨國の平和は、遂に破れたミさへ博へられた。
-9


くせ きいみ ねぐ しよくしやう
悪に於いて、かねてシの勢厳を艦む鍵府の群磁や、愛、かねて自家の職盤である
目“大源國の出日

せんへいじ はくせき せんだんこ くろ よろこそうつしまのかみ くんしんら はくせき も


鮮聘事を白石に専断されるのを、心に悦ばざる宗勤馬守の君臣等は、白石を以って、好
へいわ はくわい ひ なん はくせき はや かれ しゆくはう きさこ

151
で平和を破壊するものミして非 難した。しかしながら、白石は、尻くも彼の宿謀を 覚つ
*場
かんし ぐわんきよう たい&こはくせき ま ま さこころ あ ふうせつ
たので、韓使の頑強な態度も、白石には、待ち設 ナ
けた虜で有つたから、風説の賞 々たる
*
* 、ポ㎞ *
にかくはらす、冷然ミして
石 白井 新

152
こくしよやうしきこた ないみなせいい てんか つうはふ
國書様式のこミは、答へるかぎりで無い。諱ば五世までを講むのが、天下の通法であ
さかのほ
○ シ シ、 ○ い 、シ) 、㎞)H) O
る。七世に 遡るこミは無い。かつ、貴國の書に、己に我が三代の祀の講を犯してある
しわ こくしよ あらた き くしよ あらた
されば、強ひて吾が國書を改めよミならば、貴國の書もまた改めねはならぬ。
●ー

いつか てうせんこくし つひ くに ほんこくしよ こうき こく てうせんこくしよ


ミ言ひ遣はした。朝鮮國使は、遂に屈して、日本國書は比のまく受けて騎國し、朝鮮國書
たびくに も かへ はんる あらた のち そうつしまのかみ おく きこき に ほんこくしよ はん
は一度國に持ち還つて、犯講を改めて後、宗勤馬守にまで送り、その時に、日本國書も犯
み あらた うさだ つひ は さ しつはつ
諱を改めたものを受けるこミ、定めて、遂に江戸を出発した。
かへりみこくらくわん いただ せきはらし に つめ いたうし く よこた はくせき ぐんれうほし
顧 れば、黒羅冠を頂き、赤砲紫椅を着けて、銘刀 『獅子』 を横へた白石が、群僚星
ごさこ なら しやうぐん まへ お てうせいこくへいれいし しつたこくみ はんきん おも くは
の如く並ぶ将軍の前に於いて、朝鮮國聘濃使を比陀して、國威に萬庁の重きを加へしめ
はくせき さい
こ㎞ 、時 ㎞) ド・ * %、き㎞ 〜 昭 ェ 、シ
た光景は、質に一場の史劇であった この後、享保元年、自石六十歳を迎へた時、祇園南
かいじゆし おく はな ごさこ まく うた
海は、毒詩を送つて、比の花の如き一幕を賦うてみる。
はくせき せん せい てん じやうのせん みはきりんにのりてきうてんよりくだる
生天 仙 ㎞
_官大源國の出日 -9

韓。 金な文続夜 我器 清器鬼常 紙装 破 往 タリ 三。 フ e - -

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153
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よくしゃうさくいねんし はるい てんれゃくだう お ぼくもん きうさうしんねん



る。





*
また、この翌正徳二年の春、天爵堂に於
むろきうさう
かうだうかくをむかへてさこしのゆたかなるをたのしむ を うたにたい
高堂 迎レ客 楽ニ年 豊
りやうこく のわへいは たん きのちから
雨 國 和平 軍 騎 力
なほ さこふくに は
獅 勢ニ吐 主
ひさこりしもんくんけふのおこるをよろこぶ
濁 喜三師 門 動 著 起
うた たうじ い らに よくしやうさくねんしやうぐわつ
2・ *
ミ賦うて、そぐろに常時の快事を回想せざるを得なか づた。また、この翌正徳三年正月に -
- -
っく ふかみ てんい はくせき
はくせ ぐわざ、 う さん ふ か 浅っれは 、 にっ ろ くみ
作つた深見天満が、白石の書像に賛した賦にも、この韓
官國大源出の目_。

。たれかいふこれはくせき りんノ〜こし てますべからず たれかいふこれはくせきにあらずさらく〜さしててんずべからずび けんのくわじ じ へんのはくが


誰道是白石。隣々不レ可、磨。誰道是非ニ白石 語々不レ可、韓。眉間火字。耳漫自豪
りやうもくのりうくわう せんでんいつき おうへんしゆうわう しからずんは か かくでんじやうに なんそかれをして しやうらうさこしててにけんして
雨 目 流光。殲譚一機。應鍵縦横。不レ然、 得下使、涙業、従容剣レ手、
略 ズ常
しらをはし らにくだかさるをいしめんやしかしてすなはち そのひさこのけんにいはくにつしゆつ のくにけんたいくわんはうきょくきがうにみかん〜きようちゆうのさう

155
上、砕頭 柱一平。面乃 共 人之 言 日。日 邦源大官。吐清気豪身 恒々。胸中壮




り くりようこ ひす 、ふでをくだ ほふんしやうせいさわだかまる いふ か の さうが はんり せつしようのしんさ
㎞家之厩ザ。鶴撃折鶴之照突
*ー
龍虎 秘。
にき
㎞㎞ "ェo 感
腰下秋水 端 従、上 賜。身上 水干 撮 鐘 所レ贈。躍 平皇比
石 白井 新

156
まこさこをなしてものにおよぼしのちのはんにんをすくこ

㎞べs ㎞のェ%、 湖*シ% の旗 い %、 正 3

O
津々腹便々。天下編機、参 平共間 推、誠 及、物、採 後萬 人。神化丹青 運成、
あらはしらたりれきせいにしてしんきいけんぜん はづかしめきるべきものか
㎞、眠耐ェ・シ にく
さく〜
「リェ さい 球式)炉㎞ ㎞ こ *
慰 シ こ9
かく木門派が噴々 ミして白石の功業を賛するだけ、林家では之を憎むの心が深かっ た きま
ぐわんらい りんけ ぶんけう はくせき そ
これ こさん〜 はくせき こうけき はじ 博 ㎞&。
之がため、事毎に自石を攻撃し初めた。元来、林家では、自石が共の世職である文教の
すうき にぎる ふ くわい おも る しか はくせき ほくもん
編機を握って居るのを、不快に思うて居る。然るに、それのみならす。自石が、木門の
にう まく・ たりんけ いきほひもつこもこ、 おも
勢 を発つのをシ機がらす思うた。
賞を 履に樹て く、林家ミ
はくせきのうがく せつ す -
さき はやしだいがくのかみのぶあっこ がく
はや せいじやうしゅつしじだい
早く西城出住時代に、自石が、かの能楽の説を進めた時、林大學 頭信篤は、比の撤
これ も はうこく こる そ そう れい たい ふ けい
さくがはけしきがつ
は徳川家の武築である。之を以って、亡國の盤ミなすは、祀宗の霊に勤して不敬である
せつ たてまつ はくせき ろん はんたい はやしだいがくのかみのぶあつ はくせき せいち じやう
ミいふ説を奉って、自石の論に反勤した。これが林大學 頭信篤ミ自石ミが、政治上に

ミミ

*7 * ㎞シ いしよく うは ミ *
に眠の鉱を軽されて、樹撃が隠シへ薬った家職を奪はれたのみならす
*
のぶあつ めい か けた
よくせき ん い
シの 避した銘を、信館に命じて書かしめられた。之質に、林家には堪へがたき不
『、 ノト・ い)・
目を忍んだもので有る。
ゆ*
ねん
はx㎞ &いい へのぶ) 」、 っ ほ た、 シ き
次で、翌賞永七年、家宣の将軍
年、 職に就かれたに就いて、新に領布すべき武家法度の
せんてい はじ のぶあつ しんかうら うちゅう しゅさっちゃき%はのがるまさなほ.、遠 ざゃ の めい
撰震も、初めは信篤ミ深交ある老中の首座土屋相模守正直が奉行を命ぜられたによって、
りんけ だいん〜 かくしき ものぶあつ めい たてまつ さころ しやうぐん いかな
林家代々の格式を以って、信篤に命ぜられたが、その 奉る虜、将軍の意に叶はぬミい
はくせき キんてい も「ち りんけ ふたくび はなはだ か もん めんもく きずつ
ふので、自石の撰定したものが用ひられた。林家は、再び甚しく、家門の面目を設けら

れたもので有る。
こさ こしなつ ぐわつ いへのぶしやうぐん はじたいせいでん きんゅい はくせき このる もこひろ はか
比の年夏八月、家宣将軍が初めて大成殿に参詣するについて、自石は近衛基熙ミ謀っ
りんけ せいてい ぎ れい あらた しんせい &ら もち かさ りんけ めいよ いろん
官大源國の出日

て、林家の制定した儀濃を改めて、新制を撰み用ひた。これ重ねて林家の名撃を軽したも
ち てうせんこくへいれいし おう、せつ いた なかんづく りんけ おもっこもちゆう 、いし きじ あ
ので有る。朝鮮國聘濃使の應接に到つては、就中、林家に於ける光重大なる職事で有っ
しか これ こさここさこ はくせき けん きりんけ けんせい まった さうたう

157
たのである。然るに、之も悪く自石の権に騎した。かうして、林家の権勢は、全く掃薄
さ はうらい ねん ぐわつ のぶあつ しやうぐん ち し こ いくたび た がた ちじよく た
使ー
し去つた。質永七年六月、信篤の将軍に致仕を請うたのは、幾度か堪へ難き駐辱を堪へ
こさこ はくせきり き
- %
事を、白石は 『折たく柴の記』に、

158
まを それがし おほせ こ
焉 O)

-
事を申す。某 そのよしを仰かうぶりしかば、比の 人
うやま つかさこころ さこし
-
みき
の敬ひ仕へし所なり。年いまだ七十にも満たた へ
*
まを だい
には、世の ひさい、ゆ ほを -
人如何にや申すべきミ申したりければ、前代に、美濃守に
こ はん
Cうわ だいがくのかみ きう *



のをみ まか こさこきふらふ こたまを これら こさこ
臣が望に任せざる事の 候 べきミ答へ申しき。之等の事に
そ し ひさこ ひさこ をしみちび しよく
よりても、共 知りぬべし。かくる人して、人を教へ導くべき職にあらし
いま よ ひさこおも さこころ *を こき ここ
らす。されき、今の世の人思ひなむ所は、申す事の如くにこそ
あっれ おほ くだ こさこころ ゆる たま
有らめミ、我もま なりミ仰せ下されしが、かの請ふ虜をば許し給はざりけり。
いみ はやしだいがくのがみのぶあつ はくせき ひようたん あひい あ


言うて居る。かく
"
得意の白石に、林 家
*んけ
、 「シ しか は・、、
が有つた。然るに、白石の敵は ひミり、林家のみでなかった。 撃
れいぶん せいちあ くはだ はくふちゆうしん ここさこ
虎 )、
初め 家宣将軍が、いよ〜濃文 の政治を撃けむミ企てられたミき、幕府の重臣は、悪
か もんな ひ せんし なべる ちぜんのかみあきふさ
しりそけ ちかづ もち
く庁けて近け用ひられなかった。 さうして家㎞き㎞の士に過ぎぬ龍部越前シミ
きなべ る ちぜんのかみ きるがうし
しゆぜいはくせき ・ にん はってき かいしん
儒シミの二人を擁して、蹴新を講られたのである。間部越前守は、もミ、猿楽師の
ここあ はくせき ぼくもん しよせい す
、子で有る。白石は木門の一書生に過ぎぬ。
こ 、お はくふ ぐんれう め そはた お さろ まうけんせいき よ へい はくふ もんはっせいち 、
悪に於いて、 町の群僚は、目を側てく驚いた。封建制度の除弊ミして、幕府は門閥政治 これら はいいへのぶ
ちいじんしん いん じゆんこそくきうかく しゆし ゆ ふう かた
に陥ってみた。人心は因順固息ミなって、奮格を株守する風に堅い。之等の輩は、家宣
これ も ほうけんせいさき き
しやうぐん きうしふだ は みお &ころ 2
鶴の奮習押破を見て、驚かざるを得ざるのみならす。之を以って、封建制度の危機ミ
官大源國の出旦」

おも こく お しやうぐん ほ さまなべ あミふさ はくせきじやうちゆうぐんれう はんくらん け


眠うた。足に於いて、将軍を輔佐する間部設房ミ自石ミは、城中群僚の反感を受けっ、
ああ はんくはん たがい きみ はつみ
有つたので有る。これらの反感は、互に機を見て務せんミして居る。
きさ こくしよ ふくがうじ けん はんたい こる じ あが はくせき ち べん けんりよく あっ
シに噛書の復㎞事件にあたり、反獣の盤は一時に揚ったが、自石の智籍ミ権力に厩し
をさ しか はくせき てうせんこくへいれいし おうせっしはくしようさつ かさ この
。きこさこ
お られて事は群まった。然るに、『石の朝鮮國㎞使鷹接は、展衝突を重ねて、好んで
●ー
* “


こィ た


あい これ ひ 、ん こも さき )じ は
ふくがうじ
を蹴すもので有るミ言うて、之を非難するミ共に、先の復跳事件をも、ふた
._石 自 井 新

160
砂㎞) こうけき だ はくせさ つひじ まなべ あきふ て
* さき いい
たび激烈に攻撃し出した。 白石は、遂に、 鮮表を間越誇房にまで呈するに到つた。
こ K) わい #ト * せかじ%)お 、、 げ 、 ろ
㎞)お
孔子火谷の曾を相け給ひしは、もミより聖人の衛事なれば、言ふに及ばす。魯の曹深趙
るみ
㎞ 、、ゃ ド: さこころあ
に ) は、い。, ろ ~
の毛 なこ言ふもの 、
く類にも似ざる所有らむこミは、 之等の事さも何の申す虜あるべ
い か かわくに はちこさこ し ひさこな よ いにしへ よき
き。如何に斯くまで、我か國の吐ある事を知れる人無き世ミはなりぬらむ。「古に世を避
ひさこ こさこ あ
あき 、K院 ひを へず ㎞ 、 、、、こんにも
けし人も有りしぞかし。また、君子不レ終、日ミいふ事こそ有れミ思ひしかば、令田より
* みち おも
して出で仕ふる道は思ひミぐまりぬ。
をり き
し しやうぐん
かき かへ いうあく
、た た
*
ミこ 『折たく の記』 にある。然れごも、将軍は、却つて、優握なる沙汰を博へて、自石
こひ ゆる
の請を許されなかつた。
「 くがうじ けん はくせき しつせい い はくせき しゆがうじりやく あらは
復跳事件は、つまりは、自石の失政ミ言はねばならぬ。自右は『殊競事略』を著 して、
せ けん こうけさ こた み ゆうわう ろんは
、P ) 。 さじ
こころ
間の攻撃に答へた。それを見るミ、和漢の書に誇擁を撃けて、縦横に論破する虜、さ
せきがくもゆくじゆ けん はくせさい
すがに、領學宿儒の言である、けれきも、自石の言ふ、
.官大源國の出日 。
* な あ 。 ち
ら ふ、爵磐 世* 攻* る
に 浅盤 祀隊鏡 々* め 之。 勝 く
停g ま 皆録 兵、 て 窓 ら
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が - い て 書 響 憲 焉 忘
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い はく せき くいんすみしよう
はくいんすみや たうくすうまんけん つひ ぎ ろん ん かっ
ミ言うたのは、白石が博引遼誇して、沼々敷萬言を費した議論を、一言にして喝破した

162

ものミ言へる。

白 しかしながら、比の撃を以ってシが、シの名質を乗に 繋府に喉めむミ鉛でた政
石 策の離であったミするのは、 しい㎞である。これから極魔して、かのシ七館の上
盗を以って、衰龍の御衣を撃講に行ったもので有るミ言ひ 突 近衛基熙の意思に依って
態てられた電門を、配石が皇居が選盤に模して造ったものであるミ言うたシの儒シ
か ちくざんさ けん つた
井竹山の詐言も、 まこミしやかに僅へられたので有る。
はく れいん) せい め、 あた あらた そさこ てうせんこくへいじ かいか 、
、 ㎞い 、長
白石は濃文の新政を撃ぐるに常り、内は庶政を改め、外は朝鮮國聘事を改革して、國
に はんこくわう しよう はくせき
艦を配さむさしたのである。シ王の稲も、これが働に他ならぬ。されば、配石は、
じゆうらい わ こくしよ もち きた たいくん しよう しよわうし ちやく あた これ
* き お㎞ ミ ㎞。
従来の吾が國書に用ひ来つた大君の稲は、朝鮮で諸王子の嫡子に興ふる奪跳である。之
-
こくしよ しよう くに も かれ し う あい
を蹴撃に禰せられるのは、吾が闘を以って、彼の監要ミするもので有るミ言うて、
もし しか ここ か きん くにほんだいちじよく まを
若 然らば、比の事はひミり密家の暇電のみにあらす。我が闘賞代の職撃さこそ明
こ たいくん か はんじやう をか たま
ミ ○ * おこ 、 、 、 ェい
へけれ。されば、比の大君の嘘の如きは、比の國にては、我が朝家萬乗の奪跳を犯し給
かくに そわうちょくし ぎ がう うたまおんこさこ かれこれ その
* *
彼の國にては、共の王嫡子の偽跳を受け給ひし御事なれば、彼ミいひ是ミいひ
おん すこまを
御あやまち少しきなりミは申すべからす。
い を また をり しは き
ミ言うて居る。又 『折たく柴の記』 に、
この ぎまを こきこ おほ こさここ
ここ
沈、 * き
- *
我、もし、比たび議し申せし事の一つも、仰せくだされし事の如くならざらむには
まみ まみ
に3」、 おんこさこ シは% めんもく
- ㎞3 、な
〜 *

個令、仰せくださるく御事こそ無からめ。我何の面目ありてか、再び見え参らする
〜 9
こ ざこ こ はじめ な
㎞、
- Q 階述 * 、球 、ピ
事のあるべき。されば、比の事仰がうぶりし始より、我が身は亡きものミこそ思ひ定
おも さだ わこくちゆう いか ここ さ
めたれ。かく思ひ定めたりつるは、我が國中のこミは如何にもありなむ。比の事もし
ー"

あやま さこころ くに はち のこ ゆる
* やさい ㎞ さ〜
官大源國の出日

誤つ所あらむには、我が國の吐を残すべきなりミ思ひしが故なり。
い びう 、詳し・長% せうちや、くわん
、 シ、、 ㎞い 。に%)%㎞ 、 *
ミ言うて、比の問題が、砂たる白石一人の楽辱にあらすして、質に國威の消長に闘する
あ せ じん なけ み らうちゆう たてま
㎞ ㎞ ドに ㎞、

16s
*
重大な事で有るこミを、世人の思ひ到らぬのを概いて居る。正徳五年の春、老中に奉っ
あた こ せいじ かんい 2う
ぷちゃの 秘なあひだ そ おんさき
、シ
-9

*
長元和の間、祀宗創業の御時に常りて、國家の御政事、つミめて簡易を要ミせられけ
井 新

164
かくに しんし きたさこき そ へいれい かう あき か
おま - %
れば、彼の國の信使来れる時、共の聘濃を講し明らめらるくにも及ばす。然るに、彼
しんしぶ じ そくに てき がた は -
い か
の信使、もミより武事においては、共の國の敵し難きこミを駐ちぬれば、如何にもし

ぶんじ も わくに ちやう ここ あらそ かつ かひ む


*

〜 >*
て、文事を以つて我が國の長たらむ事を争ひしかさも、彼の使を迎へらる、こミ は
りや、こくわかう さこ そ こさこさ が
- さも ㎞ *
もミより雨國和好の事によりければ、共の不恭の事をも答めらるくに及ばす。
み がう ぐわん か わ くに ぶ じよく *んき はく
k :、 さ* 〜 さい
ミあるのを見ても、微頑なる彼の國使が、いかに我が國を侮辱したか。文盲なる我が幕
か し せつ くつぶく
ド、 * 〜 〜 し・・、シ、シ)
府が、いかに彼の使節に屈伏したかぐわかる。これ質に、白石が濃文の新政を撃ぐるに
あた かいか 、 も だい ちゆうじ せいしん も あた
シ ● 、も *
常り、朝鮮聘事を改革するを以つて第一の重事ミこし、決死の精紳を以って、これに常つた
ゆ らん こさここくたい お すく こくる かいぐわい かくやか はくせき こう
所以である。かくの如くして、國鶴の墜ちたるを擁ひ、國威を海外に輝した白石の功は、
る だ、 い -
はくせきこも した こ てうせんへい ご このる もさひろ
偉大ミ言はねばならぬ。白石ミ共に、親しく比の朝鮮聘事にあたられた近衛基熙は、その
につき
はドド)g・:、
日記十 一月四日の條に
こんきこ い あらたか 長 、シ、長 ぐっぶく
㎞C、、、き (討状 こo
金度の艦艇は、シ備の弊を蹴 のられて、彼の戦使等も、順 説が國威に歴伏した
じつに ほん くわうめい きかん てうてい およ
これ質に、日本の光明を盛にして、朝廷に及ぶものである。
にち でう
二十三日の條に
あらみ ちくこのかみきた こんき てうせん ひさこ も
○ ㎞、 たび〜しつだん
、穏
新井筑後守来る。今度朝鮮三使来着以来、この人を以って慶々筆談せしめられて、無
かしくつぶく あわ・かん きいがく たうだい ひさこ ひさ な
に彼の使を屈伏せしめられたので有る。和漢の才寧、常代この人に比すべきものは無
はくふ お もつさもたいこう ひさ も
このたび こ ひさこ な はん
からう。幕府に於いて、犬 大功の人てある。若し、今度、比の人が無かつたならば、群
かく きだ に ほん あざけ わら かへ ねんらい
いあ みさ* なきいじ
は定めて日本を噛り笑うて騎つたで有らう。五十年来見たこミが無いお人である。
はKシ Bゃうみ ㎞ー ) 長㎞ 、:、封時 か し せつ
ミ白石を評して居る。慶長以来百年の間「 蒙り来つた國撃を雪いで、顧慢なる彼の使範

萬燈
こくみく ほうこう せいかん まんま こくみん





をして、吾が闘魔に騙せしめた比の班は、獣公が艦離百獣の霊を翻かし、数
-9

ぎ。せい から こうらうまきみ かく ごさ はくせき ふくがうもんだい こく み かい


官大源國の出日

犠牲にして、嵐ち得たる功勢にも優って居る。斯の如く、自右の復競闘題は、國威を漏
やわい はつやう ため
あそこ に まいこくたい れい たく ため し
外に発揚する貸で有った。しかるに、外朝鮮に勤して國鶴の濃を正さむか穏に、識らす
し うちくわうしつ そんけん ふた てまみ 、くわん い
知らす、内皇室の奪厳に鍋れ奉つたのは遺感ミ言はねばならぬ。

165
これョ も はくせき しんじゆつ うたが くわうしつ めいじつはくふ をさ
けれきも、之を以つて、 の心術を疑うて、皇室の名質を、ミもに幕府に牧めむミ
あい はなはだ さんぶ めいぶんせいめい じつはくせきり きれい ぶん
したので有るミ言ふのは 甚 しい議評である。名分正名は、賞に、白石が理想ミする濃

せいち せいしんわ くに れいてん じつ


備 はくせき しやう けんきうさこころ
政治の精紳であつた。吾が邦の濃典は、質に白石が一 研究ミこした虜である。されば、

&

)




にし

たうまつよ わすまん &ふしふ こ じん は















識見
なる





ある
ので




正 %
)



る㎞


徳 さえ

たく
あすみ
世事記


萬集














られ
古忘れ


典 葉



くもん
うわ


著 た『古史通或問』には、


韓我



如國き

くに こさ はんこく 、うち しんわう だいたう てんち いうき



、ひミり、離皇の天続、天地ミ共に燃父におはしまし、


%
祀の


*
かむ




)

%


㎞ まさ
たこころ


宗 群碑の祀典の如き、碑皇祀紳の言よざし給びしまくに、共の職を奉ぜし所の紳胤
いま た ひさこ そんそこ
* 、、シー誌 ) ) * さ * シ、
今に絶えせす。されば、警祀所轄の方の如き、その人にあらすして、誰かは樽狙を越
えて、その撃を撃るべき
はうらい ねん せいじやう た
ミ言ひ、 者より射、 賞永三年、 城に撃った耕事に、 1
こ* も たまこ かわう *
てんそん しょしん したがく だ
題を以って、はじめシの諸離を従べ隆り給ひしより比の左、百王の今にいたるまで、
たまっんこさ およこ ひさ〜 みな しよ
てんそ た 、か
カ ㎞
天詐絶えさせ給はぬ 観北は言ふに及はすす。凡そ、朝家の人々、皆ここム〜く、彼の諸
しん のちこさこ * わくに ひさここょろた 、
碑の後にあらすミいふ事無し。よりて、吾が國は、人の心正しくして、

くにおこ ここよいんこさこ ひさこ
てうに まを きふこ つ -

國ミこそ見えたれ、比の事世にためしなき御事なりミ、異朝の人も申し候ひき。
い はくせき
みろ ここくた ん はやほくもん いうがく せん し き じん
ミも言うて居る。白石の比の國鶴論は、風く木門に遊學したミきに、先師木下順庵から
けいしよう し きう は ゆんなん
継撃した思想である。あるミき、順庵は、 し しよじん かつ

は は、 、、 Bい、、 )シよ心B * *
ある古き職原抄を見はべるに、「古は、天下の濃儀は朝廷にのみ有りて、士庶人は曾て
しほ さてうてい おくふか おそ ここ おも おそ たふさこ
知らざりし程に、おのづから朝廷を奥深く恐ろしき事に思ひて、恐れ倉みしほ きに、
し じん し
わうだうさか リ、 のち ぶ けれいぎ うつ 、
燃きに、
王道楽へたり。共の後には、武家に濃義移りて、士庶 人までよく知り競ふるほ
* *
くだ
朝霧

おく おもこさこ なさ わうだう それ
うてい -
-
朝廷を奥ゆかしく思ふ事も無くなりたり。然るほさに、王道もまた夫につれて降れる

官大源國の出日

り。
はくせき
、いこ た
ミ言ふ。白石これに答へて、

法。

-
むかし わうてう れい だにいあうよ もち すぐ およ そん、Qき だい
昔は、王朝の濃、三代相因り用ひられて、過るミ及はざるミを損益して、・一代の
さだ しんき さこも あひつたは しかし
カ うおさころ れい や もさこ



を定められて、紳器ミ共に相博りたり。然るに周の衰へしより、濃を野に求 むる

)、㎞ いせんわ れい
に成りしほこに 孤おのづから軽くなり、秦に至つては、先王の濃を用ひすして、一
だい れいがく つく いだ ひさこ

168
たふさ し
代の濃築を作り出せしかば、人これを奪むを知らす

% &、シよ㎞)球登 詳 。ト・ ひつぶ おこ
、: は
して後、漢高は唐亮の遠孫ミは申せきも、匹夫より起りて、三尺の剣を提けて、馬
じやう てんか c たま
、 、 シ はいしこさこ な きた
上に天下を得給ひしより、天子には庶人も成ればなれる事のやうに成り来りて、代


㎞ だ 、シ) ェ、、は
㎞:、

代の逆蹴止むミき無く、甚しくては、春秋の天下を知るこミ幾度ミいふこミを知らす
ドの
ほんてうかみよ の れい
お % こい さこつた ゆる
本朝には碑代の遺風なほ残れるも、王朝の濃を取り博へたる故にこそ。
いじゆんなん
ミ言へば、順庵は、
ちか ころみしよ は せいきやう くかんちゆううつ るなみきやうご ないら
さればよ、近き頃見たりし書に、馬㎞ 、 %、
*
-
差を闘中に遷し、その後、南匈奴を内地へ
うつ ニ おこ くわい へだて さこき しうるみ
ミ 。 *
い てき
移されしよりぞ、五胡の働は起れる。いにしへ、華夷の隔ありし時には、夷狭の醜類 *
ちゆうこく おく おそ せいいくわんちう い きようこ ないち
㎞ * 〜
きた
中國を奥ゆかしく恐ろしきこミに思ひしに、かの西夷の闘中に入り、匈奴の内地に来 *
ちゆうこく こさこし た
㎞ ㎞ 、 *
-
りて、中國の事をよく知りて、恐るくに足らすミ思ひしより、中華を軽んするこミの
はしけん きんせんきうりよう ひさこ
離にはなれるなり。髪の蹴は獅るべからざるにあり。地の険は典丘陵なり。さて大
けん れい まを ミ うシ
の険ミは濃を中すミぞ 承はる。
あはだくわんはく もん
〜 * は 3) % 、持誌rい 比 ㎞ こ *
むかしは、飛幡殿の武勇功動ありて、常時鬼碑のやうに思ひしだにも、栗田闘白の門

しかれい たびみんかん
ァ お れい
まも こさ こ じ だん そくこ じ、 だん み
を守 られし事、古事談か績古事談に見へたり。然るに、比の濃一度民間に落ちて、濃
を野に繋めて、戦ドより封㎞の濃を沙汰するやうになりて、『三毛、シ、シの
そく
またこうねんぜんだ やけんちやう いんせい み さこ はん
いみしんしよ
ミ言うて居るこミが『紳書』にある。又後年、千駄 谷六軒町に
らうがくあ さかたんはく あら せうひつ わ うせい *
老寧安積湾泊の著はした渉筆に、吾
い みみ たんはく
ミ言うて居るのを見て、湾泊に
官大源國の出日」

くわうしつしきび つひじん だいみや


ェして、鑑に設人の大名さなり
てうてい これ たいへい な ふくせい
みき ぶら
へきも、朝癒より慰候へば、者はきの大弊は無き観撃に候が。然るを百世 ここ
お さふらうかなら ここはずらは ひゃうろんし

169

し置かれ候ては、必す、事煩しき評論出


かまくら よ のち お
シの代ミても、三代の後には、君を置き候
●ー
きみ み きふらふ へんもう こさこさふらふ てうてい おん こ さこ しつけん
を祀 候 こミは鍵撃の如くにて候。それのみならす、朝廷の御事も、執権のはか

170
けんぶ きら かも きふらふ またが
い さふらふゆる だっみやうたいかく りやうは わか きふらうつひ
ひに出で候故に、持明大覧の雨派に別れ 候て、終に建武の園をも醸し 候。これ又牙 ●
へい おこり なほも はなはだ ここ まを
の顧よりは、獅以つて甚しき事ミも申すべきか。
よしざこき に ちくわう なが たてまつ さふらふまを およき ふ ふ あしかがけいた さふらうかう
時一日に三皇を流し 奉り 候こミは申すに及ばす候。さて足利家に至り候ても、高
ほそかはやまな
砂 ㎞ シん あひだ つひ みだ さふらふ の み)
直が顧著故に、奪氏兄弟父子の間も、終に蹴れ候。その後、應仁の園も、細川山名
ゆる きふらふ そのちりやうほそかは らんゆる あしかがけ ほろ さふらぶ じん いへ おさころ
*
が故にて候。共の後また、雨細川の園故に、足利家も亡びはて候へば、武人の家の衰
さふらふこさいなまを さふらふ
候 群も、繁無かりしミは眠すべからす 候が。
ひやう しかもかれりをもって さこころ い か かいさん いみ これ も たい
ミ評し、然彼以 利ミいふ虜より以下を改刷せられたいミ言うて居る。之を以っても、大
ぎ がくもん けん も 、シ ん% ら
㎞ 、 う㎞ 試財 に、 〜 さ 、は砂い誌
義名分が、白石の寧問の精碑である事がわかる。されば、復跳事件を以って、白石の心術
はなはだ こくしよ
うたが せんけんびうだん はKせは に) 、な
を疑ぶのは、「基しい浅見課断である。しかのみならす、かの國書は、自石一人の筆に成
なし やうぐんしはくこのる もミひろしじゅん きだ

つたものでは無い。将軍から属近衛基熙に諮詞されて定まつたものである。
こくわう しよう わくに これ ほくふ

おれ% -
さもあらばあれ、國王の稲は、吾が國に於いて、碑聖奪厳のものでめる。之を幕府の
はくせき おに いしったい これ ため つひ じ へ たてま
こくしよ も
國書に用ひたのは、 の大なる失鶴ミ言はねばならぬ。之が貸に、遂に酷表を上っる
せいち おこ おほい ょうふ けつ
いたしやうぐん おれいぶん **
に翻ったのであるが、将軍に於いては、濃文の政治を興さむがために、大なる抱負ミ決 -
しん もつ おこはくせき しりそ ゆる いこの
心を以つて 退くのを許されないのみならす、比
みおばたにむら こい
く し
かま た
さこ き さら くら・ ほりうる きむらじやうかいむらおよ かうざこほ
の時、更に、糖模國鎌倉郡植木村城廻村及び高座郡上大谷村の五百石を加賜せられ、又
きいたまこほりのたひらむら か あは *こく
-
む さしのくにひきこほり ち
これまでの武蔵國比企郡の地を輸玉郡野平村に換へられ、合せて一千石ミせられた。
ここさこ かくにし せつじやうふらんだう あたしよ こうじん
はくせき ふか てうせんへいじ こんなん かん
シは深く㎞撃の園艦を感じた。殊に、彼の國使節が、上府の沿道に常る諸侯や人 たんぜん はい
みん わづらひはなはだ はくふ おこくさ つひや おびたくみ
民の「素㎞しく、幕府に於ける國努を費すこミ、たま膨 しいのを見て、断然これを廃し
こんこ っしまのくに おおうせつ さだ しようぐん じやうしょ
て、今後は封馬國に於いて應接するこミに定めむこミを将軍に上 書 した。
上9

よういわ
てうせんにくし らいへいう こくしうかうしかかくにし せつがうぐわん
使の恋購は、雨國修交のためである。然るに、彼の國使節倣頑にして、容易に我
官大源國の出日

たかし せつ あらそ かく こさこ かくに


れいてん ひたが われ こくたい c
が濃撃に従はす。我は國鶴を得むが穏に、彼の使節ミ争ふ。比の如くにして、彼の國
し せつらいてう たびこさこ かうさう やつひりやうこくさうけき もぎこひ

171
使館来朝の度毎に、抗争して止まなかったならば。遂には、雨國争隙の基ミなる。
しも こくれいてんこ つうしん はじか くにし せつ
おも かみ がうだん いいしゅ
慰ふに、Bに闘断の英主あり。下に國濃典故に通する臣あって、初めて、彼の國使節
●ー


白に

戯文

した
進論
を』






石の講 。
らせ
た嘉を
こ将た
は あで
。年二
正は

こ。
し上


れ納軍つ春徳れた
軍徳でく石で典ぐんしやあひ*


ぶん
せはい
くわ
がく
もかう
おしん
つるん
さくし
せい
つじ
よく
ぐんし
んし
やう



、て

右 れ
に た

将軍 。
なかつ






へミ

も季

大日
厳、
如闘
1




りき暑寒く はい
おこた
かつ
さよ
だん

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ひねん


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きぎだ て


られ
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に臣
かミ
らた
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標しめじられめしか
初将軍
の う
けい
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じ だ
はじ
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、た


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は んが

大濃


朝鮮 こし さく
やう
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かん

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いへ

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ぐん
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やし
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おい
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この


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いにまこ

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使國
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かくはなはだ
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かく
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し使節くる伏節へいかくこさかうよくくこくわくつうぐがせつくにこわんむじぶし の
屈頑


の つらい
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ざ。
ら然
ある
出ミ
ので

保を
こ國

接ミ
て應
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なしか

こで

こう
,
こさも


らせつこ
さくみおう
つき

かう
しよろ

はん
さくし
ぶん
せん






こうき


あん
ちな



もん






至要
は来

曲治

シ観




しってるっれた から
ェ は







らを
が慰







深、
時政
れく

172
つこ いつく あ
を霊したけれこも、語意いまだ霊さぐるものが有つた。
ひそか おも くわぶんようせん いま こくたい よら しんたい あひだけんてんせき そむむ
窃に思ふには、寡聞庸浅にして、未だ國鶴に習はす。進封の間、その言典積に乗き、理
うしな ため か もん せいい そこさこ おそこ 〜 おか じついへ あ
を失うて、貸に、下問の聖意に副はざらむ事を恐れた。是に於いて、暇日家に在れば、
かなら けいしける こ ぎたづ じ じ およ ほんてう きんだい てんこ まじ しる
必す経史を閲して古義を尋ね、これに、時事及び本朝近代の典故を交へ記した。これが
さくし よろん
譲史除論である。
み ふで じやうだい せいはつ けんてんしい ここ おこじんむ てんわう おほや しまぐに
ミいうて居る。筆を上代は征伐の権天子より出でた事に起して、碑武天皇が大八州國を
さこう ていさこ やまさこのくに あ ねんくわん せいはつ けん てんしい ㎞
統一せられてから、帝都大和國に在る一千年間は、征伐の権も天子より出でたが、藤原
し ぐわせき くらみ ら せいけんか をさ へいは う
っ説 けんべい つく g
氏外戚の位を得て、政権を一家に牧めてより、兵馬の質権は源平二家に移つて、皇威は
ー"

はじ おさころ こさ じよ
わくにはい だい
官大源國の出日

初めて衰へた。これが、吾が國政鍵の第一である事を叙して、
のち わうかうち う ここ へいしんけん もつは しやうすみ にんここここ いる けい
これより後、王綱紐を解き、柄臣権を専らにせしより、将帥の任 悪く軽くして、馴
いこ ひさこな かつ % くせくわみせ透K てうてい み ひび おさころ
出y * ㎞ ミ* a-へ * *
相の官に至れる人無く、日は文武の職世官世族ミなりしがば、朝廷の威日々に衰 へ
こうしん つね へいは けん つかさ&こ てんか たいせいひさこたびへん いにしへ かう


、"
功臣常に兵馬の権を 司り、天下の大勢一度鍵じて、古に復へるこミを得べからざ

代ミはなりしなり。
._石 自_井 新

これ せいたいしは〜へん よこさこ じ
* ㎞ よび ぜM
ミいひ、之より政鶴 属 鍵じて、鎌倉幕府の代ミなる事を叙して、概然ミして。
よりさこも いくさおこわう つこ たみ すく こ くろ
、いへい ばい 場べ区やんgい
頼朝のはじめ軍起せしこミ、王に勤め民を救はむミの心にあらす。平氏の罪悪貫残し、
てんか がうけつあらそ おこ あた ・ひ そ しか お
* シ、
天下の豪傑争ひ起りしに常りて、高材逸足、終に共の鹿を得たりしなり。
はじ へい おこ よしなか うおよ すうねん き はつ にし
* * * ㎞Bだ 、 *
初め兵を起せしより、義仲を撃ちしに及んで、数年の間、いまだ、一騎を務して、西
むか つみ さあ みこ ふ てん しもしゆつき ひん たれびさ わうしん
*
に向ひ、罪を問ひしこミ有りしミも見えす。かつは、晋天の下率土の濱、誰人か王臣に
わうき よりさこもう ほろ さこ そも〜
あらさ 〜 さ 、 に8 * ㎞) に済
、非す、いづくか王土にあらざる。頼朝の打ち滅ほせし所、おし取りて領せし所、抑


たれ しん たれ つち よしなか う ぼうらん ひ
これ誰が臣にして、誰が土なりしぞや。義仲を打ちしこミ、たま〜共の暴園の日に
あ へいし ほろ そ へいみくに こき あ し な に
* *
逢ひ、平氏を亡ほせしこミ、たま〜共の兵威の擁けし時に遭ひ、その師名あるに似
こう な ここ すみやか に
て、その功を成す事も 速 かなるに似たるなり。
へいし みやこ お 、 は ゆきさ、 に 、いら% おなみ ゆき よしなか
*
平氏都を落ちしミき、もし、共の 謀 の如く、一院をも同じく御幸なしまみらせ、義仲
よりさも いくきおここさ *
いちみん さこ きいかい おも む
が頼朝ミシけし日に、また基のェの姫く、 腕を取り参らせて、眠 眠に赴 なば、
よりさこも おこ たくかひよしなか - う
頼朝の起せる戦。いかなる名を以って義偲をも撃ち、いかなる鮮を以って平家を打っ
こる
んけう みやこ のこ たま へいし し、みや みやこ のこ お み も
べき。一院希有にして都に残らせ給ひ、平氏四宮を都に残し置きまみらせし ま、 御堂
すそかは ながれ た たまおんこさこ -
、 )院はか。 ミ
濯川の流もミより絶えさせ給ふまじき御事なれば、しかるべき天の御計ひなるべし。
しい よりさもつね くんらう てうけ おびやか せい まこさこ てん
然るに、頼朝常にみづから基の獣勢に募りて、朝家を 務 し翻しまみらす。誠に天の

班を擁めりミやいふべき
み あしかがはくふ よせ いけん つひ ぶ もん お なが くわうしつ かへ
ミいうて居る。足利幕府の世ミなつて、政権は遂に武門に墜ちて、永く皇室に騎らなくな
はじくわうみおさころ せいけんふちはらしき こ、 いた -
てんか たいせい へん ぶ もん
つた。始め皇威衰へ、政権藤原氏に騎してより弦に到るまで、天下の大勢九鍵して、武門
せいちかくりつ あしかがはくふ また へん つひさくがははくふ なっ ころん、
政治を確立した。さうして、足利幕府から又五鍵して、遂に徳川幕府ミ成た事を論じた。
官大源図の出日.

A のち お
〜 しろん はくせき まへ かつこ くろ また はくせき ようい
か、る史論は白石の前に於いて、曾て試みたもの無く、又、白石の後に於いて、容易
これ およ な ** こくぶんがくし お ほこみ ぶんめいし こう
に之に及ぶものが無かつた。我が國文學史に於いて、誇るべき唯一の文明史である。後
ねん せんだ やかんきよ ころ み はん くりやませんほう あらは ほうけんたいき ひおう せんだいはん さ

175
年、かの千駄 谷に閑居の頃、水戸藩の栗山潜鋒の著した保建大記を評して、仙豪藩の佐
く ま さこうがん おく てがみ
*ー
久間洞厳に送つた手紙に、
たいき はつらうきうこ、ろやす さふらふあさかかくべる きふらふ をば さふらふこ ここ ひさこん〜ぎさふらふこミ
記の戯は、老朽に心安く候安積豊兵衛めされ 候ミ豊え候。比の事は人々議し候
ふしみ

176
なかむらてきさいもんじん わ かくこ たらう まを ひこ ろん からうきう み 、きぶら
にて、伏見の中村楊斎門人にて和角小太郎ミ申す人、論を書き、老朽へ見てくれ候へ
ニ さふらひもつこも おば さふらふ へんたう きらふこさ さふらふ
ミて越され候き。いかにも犬に豊え候ミ返答し候事に候。

くりやま わか ひこ ふしみ この こ た がくしや だうじやう ひいき


、石

栗山も若き人にて、伏見殿やらむの取り立ての寧者ゆる に、ひたミ堂上の最負のみに
へきろんおほ み きふら らうさこころ くんし ちゆうよう ろん -
きふらふ あ さか
て、瞬論多く見え候ひき。要する所は、君子中庸の論にてはこれ無く候。それに安積
はつめ さふらふぎ さふらふひさこ あさふらふらうきう あさか こくろやす きふらき
も践召され候ミて、それをも議し候人これ有り候。老朽は安積へ心安く 候へば、気の
きく そん さふらふこさ さふらふ
に存じ候事に候。
ぜんだい にちやこ かうきょう こさこらうきうをまわがき さふらう くわいちゆう さらふこ ひ ならび はうそく
前代に日夜に御講究の事にて、老朽豊書し 候 て懐中し 候ものを、土肥井に亡息な
うつ た きふらふくわん し すうらふ あ きふらふ お めか ここ
き寛し立て候もの、三巻にて紙数三四百葉のものこれ有り候を、御目に掛けたき事ミ
こふらふこここふらこ
鶴ら艦撃に 際
みい か はくせき しきけん たかい これ さき はくふちか
これを見ても如何に、白石の識見の高いかミ言ふこミがわかる。是より先、幕府では、近
いへつなしやうぐん くわんぶん ねんほんて つ かん けんき い こ へんしふ はやししゆんさい はやしのぶあつ ひさみ いうけん さかみ はく
く家綱将軍の寛文四年本朝通鑑の延喜以後の編韓を、林春斎、林信篤、人見友元、坂井伯
ゅん うめい 、 Q *
しよこく しやじ らんぎい こく け ぶ け きうき
元等に命した。これが貸に、その年冬、諸國の赴寺をして、 延喜以後の公家武家の奮記
たてまつ また きやう く け ざうさこる きうき たてまつ はくふ だいみやうはたもさ
を上らしめ、又、京の公家をして、蔵する所の奮記をHらしめ 撃附のシをして、
しよち わ 〜よもくろく さだ
*
こくしくわん 、しのぶがをか た へんさん じゆう
所持の和書目録を差し出さしめた。さうして、國撃館を「忍
くわんぶん ねん くわんせい
順に建て、、この艦㎞
事せしめ、六館を経て、シにェびた。
こ へんさん あつ ち せき はくふもみち やまぶんこ をさる
比の編纂のため、集められた貴重なる書籍が、幕府の紅葉正㎞に継められて居る。
はくせき ほくぶ
-
い い らい つね こ がくもん はうこ もみち やまぶんこきちやう しよせき じ いう
自石は幕府に入って以来、毎に比の寧問の賞庫たる組葉山察庫のシなるシを審眠に
たん&こく けんきう
れう うへ きくし よろん る くわん あつし
歌譲して、研究したのである。かうじて 『譲史除論』は 遺感なく集められた史料の上に
ろんだん さくし よろん はくせきかうだんせう さいきうきじふついせう かうじ
論断されたものである。されば『讃史除論』に、自石は、江誤挑、西館記、シ、シ
だいれんせ う おほか 、みこ じ だん KL 浅 、あづはゆがるぎはくかい ぐくおんせ う る んだいれき はいしようろん
._官大源國の出日

第、百練抄、大鏡、古事談、績古事談、職扇抄、東艦。ェ、闘㎞
あううんき なんたいへいき
しやうきうき なんはうき でんきう ひみ す
標雲記、翻太平記、承久記、南方記博等を弾いて居るに過ぎぬけれきも、これだけで、
はくけ、
きい んきら で、き
白石の研究を想定するこミは出来ぬ。

177

てうせんへいじ せうかん &こくし よろん しんかう
*
印石は、シの 、小離を得て、この ェ を襲撃したのである。しかし
*
、、L) ・・だ、恥 、、
ながら、百般の政務を闘部越前守ぎ二人のみで取り拠くので有るから、絶えす勾忙ミし

178
石 白 井 新

こし やうさく ねんはる ぐわつ むろきけさ の なににか し おく て


て幕して居る有機は、比の正徳二年春二月、室鳩巣が基に送った手紙に、 つ
にちよ き ふらふさころ きいはひざいしゆく
あらみ した せいだんつかまつ さふらふわたくんまを さこき
きく
暇十一氏、新井氏へ 立ち寄い候 魔、幸、在宿にて、一時ばかり清談 仕り候。私申 けんご な
さふらふけんこみ う きふらうちんちよう をん さふらふまを さふら かつ
し候には、御撃画に見請は篠で、珍重に存じ候、ミ申し候へば、倉て堅固にもこれ無
さふらふこ あひだ き ぶんさいこほ さぶらくわきう つかまつ ふくや くさふらう つぐ まを
く候 距の闘も、気分 滞り候へきも、四華炎なき仕り、服薬もいたし候て、績け申し
かしらおもき はいうつきくつかまっ きふらふ *を きふらふ
ぶらふたいま ひつかまっ
候 四鶴麻痺供り、頭重く、気配鶴 塞 仕り候、ミ申され候。 きう
わたくしまを さららふ それ こくろもさな ぎきふらふ ま ひまを ぎあ ま きんらうお
㎞ し 際には、実はシに ェなさ眠す催、艦り御載勢にてシ をん さふらふ まを
ため をん きふらふ お ひこみこ ほうやうきふらふ
の騎かミ宿せられ 候 ちミ御 引き込にて、御保養なされ 候 やうにミ存じ候、ミ申し きふらふぎ
やうまなべる らぜんのかみ だの
つかまつ がた さふらふゆる わなくしきけだん
きふらふさ
ば、左機にも住g難く候 その敵は、闘部越前守殿より私へ相談せられ候儀さも いさうら
いさふら じ ひついちくしら こきふらふ わたくし
わたくし
を、「慰 まかり出です候 べば、自筆にて一々調べ越され候なり。私まかり出で候 へば、
じ だん あひすまを さふらふ それ つかまつ
やさあ ぎ つかまつ がた きふら な
きうらう しょつう
示㎞にて構湾み眠し候。天を宿にまかり在り候て、書通にて 仕 る儀も仕り難く候。 あさふらふ
にちほんきまを さこほしよこくき むこ らい れいごも わたくしかんがへいちくまを
慰ミ眠す麗りにて、議議への機粉、古来の例共より 私 考 一々 申し上け 候。
こさこ ひらうお しつし を ぐわつ か
*
さい * 心に 、シ 『 ふ
ミある如く、疲勢を押して出仕して居つたが、三月二十日に到つて、遂に病みて駄した。
しやうぐん こしや のむらかみいちのしやうまきなを つかひ ド、長 か
、お さ〜 * ㎞、 へび おじい
将軍は小性村上市 正 正直を使さして、特に慰問せしめられたが、正配が騎つて 病状
ふくめい しや、ぐん くんび いう
* * ㎞ せいら シK *

を復命するミ、将軍は、君美の病は愛世の勢であるミ嘆息せられた、ミいうこミで有る。
ぐわつ にち いた やうや しゆつしかく ここ せは
* * なかいへ かへ さこう
かくて、四月二十六日に到り、潮く出仕した。斯の如く忙しい再に、家に騎つては、
しよ ひもさ ふで さち きやうはう ねん あき か はう
下に を愛かして、獣をェを襲ったのである 者よりシ
きくがふ へんじよぶん
策合編』 の序文に、
むかし くんびぜんだい つか およ さいはひ せいせい あ かたじけな ていだい かうむ っね こもん
昔は、君美、前代に事ふるに逮びて、率に盛世に遭ひ「墜く廷獣を蒙って、無に順闘
あづか しりそ はうか てんこしうしふじ じ まじ もこ ひねがは
に預った。退いては、邦家の典故を菓轄して、これに時事を参へて、以つて、艦。
-勢

ろんし おぎな さこころ こひねが さこうざい じ れい こさ も や はう きん


_官大源國の出日

ば、論思を補ふ所あらむこミを希うた。かつ、東西の鮮気の如きは、以つて野謀を賛
これ あはべん つく
すべきものであるから、之を合せて一編を作つた。
みい で しゆうじつはんき さんよしりそ ト
ふけんきう じゆうじ
ミあるのを見ても、出ては、終日萬機に参興し、退いては、夜を更かして研究に従事し

179
2 ぶんっ かう しぶ 〜けくわんめしゃいそくかう じんめいかう じゆきうがう さかう
たこミがわかるので有る。かの 同シ


こは


い せお
くき、

はみよし

みつむ
しやぐん

ぬた
こさ
ここ
うい
のせい
へせいさく
つうぶ くに
かな
けあきらか
じ わく

ぶやう
けん
くもつ
がさも
ちよ
よう
きち
ゆんうねん
じ やんつこ
し じう みな



ひふ
あで
こへ
さぶぐん

やう
せんし
んだいし

難しく した
つ令
た た
もの

で の幸
、に
後残事



の。
有る
村の
正方
秘て
しみは
白の
、寛

で世るで上蔵た石 で
つが
有、
常小
納役

つ村上
在正方



取牧
にめ



秘し
家居
た時戸た、
*

一-を
* さ
り時
そい

蔵シ


あ、
さQ
ばへ

やく

ひそ
が こけ ぶん
こう
ううわ
つ、

もき
じそ
なかけお
2

かし
んうもつ
やかわ
んろん
んく

多忙




つ、
取家
将撰
宣しもの
進有。
でて軍たる

いくぐん
うこ
うか
こうち
めい


めい
りや
ぎよく
かう
よう
つう
かう



しょ
しよ

うざんか


かく


貴なる
の著述




残て
を、
永後





まミ
むし重し久れた


字を

しもの
に吾




文學
の上
貴なる
光著述

あ後
。年


源た献重る に

同通
『考



和の
文につき




及を
沿革
詳し





文漢字び論 考




地河



通シ等

うて

、名用ェし
変っ













もを
へ加候







の賀

おじ
%
つい


ため


うに
〜*-こ
ちなの
*いよき


白の
、勢暴

失し
吉将軍
立に
のんや
及、




政を
の石威墜宗つで策

*
**
ご ませ
やる



はふ
こう
うう

ぶん
むまさか

いうらかみ









世に
流て
しみ『
同通


村正方

はミ上布る文上
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ざい
まさか
むらかみ

ひ う
座に
のシ
し著

悪魔
はせる
棄、


う。
に右たくらた
いさん
じゆざ
うやく

〜っこき
ちよ

しん
じゅ



あら



180
四面楚歌の警
死を決して勘定頭萩原近江守重秀を弾効すー短い政治的生涯に二條の光菩」ー家宣将
軍の薬去ー遺された徳川史編纂と書籍刊行の事業ー幼主を託された諸葛孔明の精忠
を想ふー顧託不、負六尺孤ー切々たる室鳩巣の忠言ー林大學頭と 最後の激論ー
苦忠を披擁して退隠の止むべからざるを建部内匠頭政字に告げる手紙
しやうさく ねんなつつ はくせき ひさ つはしもんぐ
記徳三年髪五用。自石は一橋門外に駆撃を賜うて、難シから移り住ん
撃の歌差面四.

なつ す あさ ざいせいかいかく くはた
の駆
だ。やがて、夏も過ぎ、秋ミなつて、かの財政改革を企てた。
「お、 そぎ ながさきかう しんらんはうらきせん にふしんせんすう およしゆにふくわぶつ
すう お ひんりやう せんけん くは もつ
先づ、外、長崎港の清蘭貿易船の入津船数、及び、輸入貨物の品量に制限を加へて、以つ
*ー一

わきんぎんきう かいぐわいりうしゆっ ふせ こ たいぐわいけいざい かいく おほい こうくわ み

181
て、我が金銀銅の海外流出を防がむミした。比の勤外経湾の改革も、大に功果の見るべき
あ これ さら はくせき けつし ゆう も あた うち こく
ものが有ったが、之よりも更に、白石をして、決死の勇を以つて鷹らしめたのは、内、

井 新

おこ あた はた こんなん かん
さむミするに常り、艦ミ困難を感じ
じ だい がうしや はくふ ざい
の楽著の後を受けて、撃府の





*
いよ〜 尉に盤った馳シ
しけびで せいきくしはく じ
シの政策は、魔 貨幣を歌鏡して、その魔に、貨幣の鍵を継
ほう ため こくかいざいふんらん はざはらかんちやうぶぎやう なが はくふ ざい
縫した貸に、國家の経湾はいよ〜紛蹴した。けれきも、萩原勘定奉行は、永く幕府財
せい きよく あかみ らうちゆう ちゆうしんしも かんぎんざ せうり *

政の局に在りて、上は老中の重臣より、下は金銀座の小吏に到るものミ結託して居つた
せいりよく ぐわん うこ あ
* **
から、その勢力は頑ミして動かすべからざるものが有つた。
てうせんへいれい たいれい をは こくきまんりやうつひや だいしやうぐん さき
朝鮮藤蔵の大蔵を撃るに及んで、蹴警は六十㎞を監されてるた。五偲㎞の時まで
つまんりやう よう -
あ はくせき かいかく ほさんこ なかは けん
は、無に百㎞を開したもので有るが、シの歌撃によって、 獅ぞの鮮を滅じて、六十
㎞の あ 、 はくふ しゅくらうら おさころ この会 もさひろ にっ 、
萬雨で有ったのには、宿%に少額で有ったのに、撃府の宿老等も継いたミ、遊衛撃艦の距
きか ざいせいきうはふこ けつそん すくなく つう こ
記に書いてある。けれきも、駆政窮乏の幕府には、比の鍵撮は、なほ
には、 がらぬ苦艦を鍵

したので有つた。
やうおきゃうは
はくせきいよくかんちゃう*き は - お ざいせい かいかく くはた はじいへのぶしゃ 、ぐん
*
そこで、白石は、命悪 勘定奉行 原重秀を逐うて、財政の改革を企て初め、家宣将軍
じゆうしよくはうらい ねんはる はざはらかんち へいせいきく こ、けき ふうじ たてまつ しやうさく
就職の資永六年春二月に、萩原勘定 事を奉つたが、正徳二
おん はる あき たびふ、 がい つひし よく あらた
年の春から秋にいたる間に、三度封 シづて、 しく彼を職響 し 途に、基の職を率 め
いた をり しは き
しむるに到つた。『折たく楽の記』に、
こ ひさこ しりを いくほこみ し そよ さくてんかなが およ
比の人すでに馴けられ、幾程なく身もまた死したりけれき、共の除毒天下に流れ及び
こさこよ のを タく おほなかなくん く まうけ そなへた ざいくわ
し事、いづれの世に除き霊すべしミも豊えす。中にも、軍國の儲その備足らす。財貨
ら ようおこな こさここうし へいがいてんち かいびやく
の利その用行はれざる事のごミき、公私の弊害いかにミもすべからす。天地開闘せし
こ かた かんじや せうじん き* およ
摩の歌発面四

より比の方、これら姦邪の小人、いまだ聞も及ばす。 \
これら こざこ よねん あひ たよ しう うち し ひさこ あ りようだい
之等の事きも、三十除年の間、六十除州の中、知らざる人も有らす。されき、雨代の
さい たうけ ふ だい こ け にん きこ ひさこく おほかみ おんためみいだろん まを

183
際、常家譜代の御家人なさ聞えし人々も多かれき、上の御貸身を出して論じ申されし
ひさこりくわん ひっき たてまつ
は 人も有らす。戦はづかに一腎をふるひ、数ポの艦を擁けて封事を撃を事やます。
すで たび いた さい さこころ これ けつ さ たま
既に三度に至りぬる際に、たち所に之を決し去り給ひき。
「むろ、 さうか

184
● なざははん なにがし おく てがみ はくせきしも はぎはらしけひで たんがい
ミある。室鳩巣から金澤藩の基に送った手紙には、自右が、死を以って繋願撃を殲
こ さき じやうきやう か
自 した比の時の状況が書いてある。
らうちゆう &こう ほ まを きふらうこ ひさなあひなこざきふらふさころ
老中なきも一同に撃め申され 候 て、比の人無くては棚成らざるやうに御廟候魔に、
あら み し ひっきやうこ ひさおんもち きふらうてんか あやう みん たてまつ さふらふむね みきいまを あ
新井氏は、軍意比の人御用ひなされ候ては、天下危く存じ奉り 候 ェ、委継に眠しピ
ひっきやうこ ひさおんしり を あそぎ きふらしやしよく めつまを きふらふ
けられ、さて異意比の人御退け遊ばされざる儀に候はや、祀機を破し眠すべく候。さ
きふら わたくしぎこうおん かうむきふらふうへ くんふ
あだ をん たてまつ きふらふく んふ
候へば、私儀御厚恩を蒙りまかりあり候上にては、君父の促ミ宿じェり、瞬 シの
あだ てん いたミ はふ ごば、さふらふきふら らうすみ やせミ でき ふら かもの き
仇には天を戴かざる法にて御座候。さ候へば、老衰の療腕にて候 べきも、彼の者を刺
ころ まを マ つかまつ まを さふらふあ、だ う はた まを そん たてまつ きふらふ
し殺し申すほきの儀は仕りかね申すまじく 候『闘、打ち撃し眠すべくミシ"候
し、
じやくはい せいけん しよ よ きふらう しゅんしう たいぎ うけたまは きふらふゆる くん
然れさも、なまじひ若輩より聖賢の書を讃み候て、春秋の天儀をも 弱『g候説に、郡
めい なじんしん くんそ K あくにん ころ まを ぎ
ぎゃくきいきうじ きふらふよし きつき せい
命もこれ無きに、人臣ミして、君側の悪人を殺し申す儀は、避罪園事に候能、急撃撃
さふらふぎ そん たてきつ きふらふ
誠これ有い候艦、犯し難くシ

り窯

幾。
度勝
選、上 。
それがししんたいこく きはま まを さふら れ う はた まを いのち かみ

諫。


㎞避愛に窮い眠し候 駆論彼ミ打ち撃し眠す命を
はくはつ かしら はね まを ほか な みん たて つ さふらふ
外は
し、白髪の頭を刻られ申す外はこれ無くミ存じ 奉 たり 候。
こ な さふらふ こ ものもち さふら わたくしぎこ ほうこう
悟にてはこれ無く候。比の者用ひられ候はぐ、私儀は御奉公こ
むね おんしよ きつそくまなべ &この こ らん きふらふさこころ そくじ はぎ
す望の観㎞、 選闘部殿より御覧に大れられ 候 魔。戦時に悲魔獣魔
きふらふ
候。
あ * こく あんき にん こくし すく ふようでんじやう てうせんへいれい
鳴呼。一國の安危は一人の國士によつて救はれた。かの美基殿上に朝鮮聘識
こくみ ばんきん おもくは こ はぎはらあふみのがみしけひで つみ な だんがい
して、國威に萬庁の重きを加へしめたのミ、比の萩原近江守重秀の罪を鳴らした弾効ミ
はくせき みちか せいちじやう しやうがい お でう くわうきいくわうはうき
は、自石の短い政治上の生涯に於いて、二條の光彩であった。その爆苦いまだ消えざる
一ー"

よく ぐわつ いへのぶしやうぐんにはか はくせき せいはう たちまお ひ



整の歌楚 面 四

翌十用に、家㎞に菱ぜられて、国石の勢望はシち、そのェば、悲
樹なる終を告けるのである。
「 さし なっ ㎞、 かへのぶれ㎞ゃん あきほt〜 さ
比の年の夏の初から、家宣将軍は病を得られた。秋ミなつて、みづから起つべからざ

ぐにち はくせき -
かたこ*
るを知られたものか。九足二十五シを召されて、二十一撃を賜うたのは腕足の
ろもち あ
持で有つたらしい。

はくせきい けん ちよう
国際て、二十七 武、鴨部㎞を以って鍵に離獣に襲いて、居の賞を懲せ

さき はくせ
きい
、あ 」。 &や終

*㎞
られた時、白石は、世子家継を立てられるのが、常道であるこミ を申し上けて、さて *
㎞がしい をしころ かみ おんため およ ***

こ つく いた
# 時* ●
* け ふ
基が、この年頃、上の御貸、及はざる心をも蓋し、到らざる九をも致せ し事きも、今日 *
かぎ
おもい な な をり しは き
を限りミなりぬべしミは思ひかけすミ言うて、泣きに泣いたミ 『折たく紫の記』にある。

*
しやうぐん ぐわつ か こうき ぐわつ むろきうきう おく てがみ
かくて、将軍は十用十四日義 に夢去された。比の十一 駆にシに選った毛
こ きみ
シ 紙に、
ぜつしゆつ こ ひさ しゆ
ぜつつ しん きふらひ
%、
㎞も、 、はシミ㎞も 〜
こさこ

比の君も絶出の主、比の人もの臣に候き。かくの如く、
絶出 言聴かれ、「計 用 ひられ
まを ぎ * ここん これあそん
- きふらふ だい お きふらう しんかんいこ
申す儀は、古今にあまり之有るまじく存ぜられ候。三代はさし置き候て、菊潮以後に
せいのくわんこう くわんちゆう お こらんのぜうわう がくき おかんのせうれつ しょかつりやう おしんけ
は、警恒公の管仲 に於ける、燕昭毛の製殺に於ける、瀬昭烈の議㎞に於ける、熱
-
わうまう たうのたいそうう きちよう お これら ここんくんしん ち ぐう まを きふらふ
の王猛に於ける、魔天気の魏徴に於ける、者等をシの知題ミ眠し鶴 しかしな
あらみ し
* きい がくき わうまう ひきふらし がくじゅつたききふらふこさ がく
がら、新井氏の才は、楽毅王猛に比すべく候へきも、然かも、寧術正しく候事は、築 *
き をよさこころ
きふらぶ
毅の及ぶ虜にあらす候。
みあ * にっさこうていこく ぶんしつひんびん しんこうこく こ*ろさし
ミいうて居る。
なかは
鳴呼、日東帝國をして、文質概々たる新興國たらしめむミのシ、その
につ
cいしゅ さこうか はくせき ニ
せすして、このシの 毛はェしたシ、シはそドろに監継の競しみ
るん ざう ほんくわうこくしにつき はっけん さKがはし れきだい
の春、自右は京の蘭蘭シ院に蔵されたェ記を慰して、龍慰の
シする館を て、すでにシするまで になって居た。そのミき、眠㎞ まなべる ちぜんのかみ
の#記の末に、シきも観撃めのシ距の購の御離獣の襲セ十に競はせら
ちち ん ふ
おんため あ
され候離慮は、そも〜臓の観艦に

恐数 こ
なれ有
撃 の歌 楚面四

おんつ さふら
時、かの碑慮を御継ぎなされす候はむこミ、恐れな

187
それがしぎ
たうねん こく た さふらうおんき
某儀も五十六歳にな 非ミもに、シ一難もはやく し ち艦で、観㎞の ろくさこう
はしらだてつかまつ お そん たてまつきふらふ

柱立を仕り置きたく存じ奉り候。
新 いくはたて すみはう はくせ き てんか しよせき すく
井 ミ言うて居るが、この企も水泡ミなつたのである。白石は、また、天下に書籍の少ない *
うれ くわんはん おこ あまね かいだい る ふ これ ほシごんきちっくしゆ
白 のを憂ひて、官版を起して、普く海内に流布せしめむミして、之も殆 着手 するまでに
を こうねんせんだ や てんしやくだう あき かたんはく おく てがみ
石 なって居つた。後年千駄ヶ谷の天爵堂から、安積湾泊に送つた手紙に、
けんない らいほんてうぶ じ こ しよさこう いんかう おほ さふら
元和以来シ朝無事に魔し、古書等の郎行も多く候べきも、一部ミして、文学等も耐し
み さふらふ 、な さふらふ ぜんげ い まを きうじ ちノ
* 、あきぶっ 、びに *
いき
く見え候もの、これ無く候について、前代に申し上け候て、何ミぞ銅字を鏡なされ候
はじめ きやう こく ぶ きふらふ つもり はんかうつぎ
て、まづ初に十三経を一國に二三十部づくに候ほきの積をもつて板行せられ、次に二
しそ さほり ああひだ〜 ほんふう こくし よ おこな
十一史をも共の通にこれ有り、その間々には、本朝の國史をはじめ、世に行はれたき
ものとも はんかうきふら こさ』 ひさこ たうじ らき きふら じゆうらい がくしや ため
物共を板行せられ候はむ事は、濁り常時に盆あるのみに候はす。従来の寧者の貸にも
し こさこ キふらふ
かるべき事に候。
こさこ そ けふ
* シやきふらふ あさき
ふらふ にゆる
*
しんべう おんさき
*
くわ
この事は、祀業を讃述せられ候一 つにこれ有るべく候。その故は、碑廟の御時に、活
つじはんお ほ きふら あ さふらふてんかきこう
ふさ のた
字板仰せつけられ候ものきも、京の圓光寺に萬余字残りこれ有り候。天下いまだ一統
うき
御鷹野にも、古書きもの事を舞換索候
いし しんそ 、ム
に、強うKB をん たてら こ
たてまつきふらふ
かしながら、聖子碑孫への御賞訓ミ存じ奉り候。
てうせん た ひ ふら せいそ さこき さうじ はん ここもよほ さふらふ
、せらにに き ふか
は比方に比し候へば、殊に小國に候だに、彼の世祀の時に、銅字板の事催され候
さこころ はんこし うち よ ほ&こ こうな さふらふこさこくに み まをしきふらふ
に、牛年ばかりの内に、もはや除程の功成り候事、その國のものにも見え申候。い
じんしや ぶつかく、こんりうしうざう さぶら ひ よう まんぶん てんか こうせい
かなる碑赴備閣を建立修造し候はむよりは、費用は萬分の一ならすして、天下後世の
たまものなが いきふらふよしまを きふら こざこ ほか こ きしよく -
そこさこ もよほ
賜は長く大なるべく候由申し候へば、殊の外に御喜色にて、すでに共の事を催さるべ
そ やくしよさこう こさやくにんらし だい -
らうせっおほせ
おじき、らう みかんが
きにて、共の役所等の事役人等の次第まで、 仰 を蒙り 候 て、見つくろひ考へ
き ふらふ に、 れいん、だい おも たま つひ おんこさ きき ふらふ
*
候うちに、御不例次第に重らせ給ひ、終に御事も切れ候。
* )、シ
撃の歌 類登面四

ミこある、かくて、比の企
「ばくせき まなべる ちぜんのかみ 2うしゆいへつぐしやうぐん ほう ぜんしや、ぐん み し
白石は間部越前守ミミ に、 主家継将軍を撃じて、敵将軍の遺志を継かんさした。
こう ごく しなかは こ -
つこうめ い ら うこうしゅ
あたか し よく は にはか はう
シ、 こめさか ㎞


* 牛

-C
* * - * ** *

189
拾もこれ、蜀の昭烈帝が、興志
の 葛孔
し、誠忠の諸葛孔明が、幼後主
ぶ こう ・ し キノプ くちゆう しよかっ
ほう ・ くな * あた) ひさこはく
C

を奉じて、國難に常つたのに等しい。白石の彼の諸葛武侯の詩は、蓋み づから苦忠を諸葛
料 け
*


こ の


;
-




; あ



歌”
家次 の
宣盤整姦
整響を
軍る 最悪*
の” い
遺* た
命燃 ?



天忘

190
はくせきじつ わす あた さころ あしか さこしあらた
か れいみん くすく じんせい
ド蘇民の苦を数ふ信政ミして、自石の一日も忘るく能はざる虜で有る。然るに、年改ま
はくふ また ここさこ ぎな はくせき けつぜん
しやうさくねん およ
りて、耐徳三年に及んでも、幕府には、又比の事を議するものが無い。自石は、決然ミし
こぐれつ かいくわぎ さつまな べ ん
る ちぜんのかみあきふさ たてま つ さ をリ しは き
て、比の六月、『改貨議』三冊を間部越前守設房によつて奉つた。『折たく柴の記』
診 に
わしろ め おんこさこ たま さこ おこなきよねん

我がよく知し召されし御事の、 なくなり給は く は、弱毒
、我言の行はれざらむは、去年
ぐわつ にち おもう
の九月二十七日より思ひ設けぬ。
こ さんぎん こさこ かぎ てんか うれひこれ だい な たうじ おんまつりこさ
されき比の金銀の事に限りては、天下の患是より大なるもの無けれき、常時の御 政
ひさこ〜 うち ひさこりか、 こさぎまを はる
き これ きよねん わ
たすまを

を輔け眠 されし人々の中、一人も斯る事議し申さる、ミも聞えねば、去年の春、我ひ
みいに ふうじ まみ こさこ たび いた さこさすで こ ふ れい もなか
ミり撃を出して、封事を参らする事三度に到りぬる時は、既に御不例の最中なりしが、
撃の歌楚面四」

おんこくろざしけつ たまぎんつく あふみのかみしけひで しよく、


観ェじ総び、霊るこミを停められ、シが職 はれたりけり。

おば め はか かく たま
そのちい か 十 きん 、、 いい
共の後は、如何にもして、金銀の制古に復されむこミを思し召し計られ、隠れさせ給 三日

「191下
おんきは いま おんまつりごさこ たす ひさこ〜
ふべき観際までも、比の撃に及ばれしは、全の観 数 を輔けられし人々の、よく知り
結びぬる事ぞかし
ので


て獣
っ区
るし感に
て知家
の将は
宣僅

白。
ばさつので激遇軍石れた の
えなる
有覧

冷やか ㎞

-
-
-

秋そ


ぐせい
_

ぐん
ぶき



やう


む有

ばミ


撃け



づくひ
はや







かなり
風れて ば
いしかせ



顧に
て枕の

侍将駄
宣家

白二

は日

十みれ頭軍石年、
去鳴

九、
呼 -ぐ
*
、 な
はに

よふ

へん

くあ

きく
じりね
わつ


されきも、又、隠れさせ給ひし御跡よりも、

思せ


、参に
て朝記貨

設 を




月ぎ
くわ
かい
ぐわっ
いまみ
ふら臣し

1
*
- き
こし
さる
こつ






申比

行ば



もも
に し何なたまをおめこ 、
如貸
吾 こく









べ救

事る

大、
後世
を天ましてや
是 れき患下 なり
は孝
。ミ
ぶ事

を善志
、き


けれ
いふ
るく 思なべ




こ、
共を


世人

も ふりそか㎞
しさせ

はひ

隠れ
にも ひ、
)
、いそよ
ミたここ
ま 、

よさま
のち
あやまり
ば行


ふ鮮


世、

訳観


まも
ゃ。



さ群




して
すにる ほ
か、

を患


上封

し事
はも
我ば



なさい
牧N
能島
じめ
むり之
されん
わを

くな

ざし

おこさ
ろこ
こおん きわれ
をむ
これ
よく



われ
ここ
さこ
てろ

のか

ざし
くろ
よこ
ここ-

また



けい


さため
おん
すく
こうせい
だい
ぜん
* これ
--


くわ
せい
せいち

か、
ふうじ

ここあ



こうつ 散



聞え

たまおんあこ
あそん
ふさ
あき

ここ


人し
もら比
せ議



々れ

これ
われ
きこ

ひさ









ふう

192
「 はじかいくわぎたてままへ はくせき これ しに きうさう しめ ・ "らうちゆう
初め『改貨議』 を奉つる前に、白石は、之を親しき鳩巣に示して、いづれは、老中の
もち さころ あきらか こさ つ 、みきう さう 二 さしうるふぐわつか こ
用ふる虜ミならざるは 、明である事を告けて居る。鳩巣は、比の年閏五月二十四日、比
ここ かなざははん なにがし つ
の事を金澤藩の某に告けて、
きんぎんふきかへ こさこみ さいおほ くだ きらふおもむきしょうちいた きふらふ あらみ し けいじっかいくわぎまを
金銀吹替の事につき、委細仰せ下され候 趣 承知 致し候。新井氏頃日改貨議ミ申す
もの いし た まを きふらう わたくし きうかげ ないけんつかまっ さふら こまを きふらふ さ しやうさい
物を仕立て申し候て、私に草稿を内 り候へミて、越し申され候。扱て詳細なる
おさろ まを きふらふ じゃうかくわんふろく くわん あ さふらふ もちろん か な がききふら
もの、驚き申し候。上下二巻附録一巻これ有り候。初論、個名書のものに候へきも、
ぶんしよう めいはくぎ じじやうじゆくせいちゆうかう いうしな さふらうたうのりくせんこうそうぎ
文章の明白なる儀、事情熱成にて、しかも、忠孝の意を失はす候て、唐陸宣公奏議の
ほか み まを さふらふ まこさ も けいざい ざい をん さふらふ
外は、見申さす候。誠に以つて、経湾の材ミ存じ候 *
なかくおこな まを さふら ぶんせうるんさまこぎ こ くらう おば めき 、、ら 、 ふら
撃 の歌 楚面四

\。
中々行はれ申すまじく候へきも、文昭院様比の儀は御苦勢に思し召され候儀に候へば
こをつ おこな きふらふ こなた まを い きふらうそ 、 、 ようしや し だい よし
撃て行はれ候やうに、比方より申し入れ候て、共の上にての用捨は、あなた次第の由
まを さふらふもつさも そん さふらふこ ほうこう これ をみ きふらふよし さふらふ

193
申され候。犬に存じ候。御奉公も是までミ存じ候由に候。
いこ なにさこそうつ おまを こうせいこくし しつたいきふら これら へいじゆんきんくわ けつ おぎな まを しま
以後、何卒寛し置き申し、後世國史出来候はゞ、是等平準金貨の闘を補び申すべき書
そん さふらふ
ミ存じ候。
バもち
せい

・・いく だ
ざいだいた、せ、 けいこくさいみん こ、ろざし

むな
*
*-

言うて居る。鳴呼、林天にして常眠に用ひられす。経園湾民の 志 は、警しく百鮮の 脱

のち しか を はくせき すで しつい いた
、シ
-

さ 〜 * *
*
後、史家の惜しむを待たねばならぬミ、白石は既にみづから、寂しい失意を抱いて居る。
がうぐわんてつ ごさ し き ねつ ささ かれ もんノ〜 ふ へいおさ
さうして、さすがに剛頑鐵の如く、志気熱の如き彼をして、闘々たる不平抑へ がたく、
あう〜 こくろ たの さこころみ
㎞ひもおば こき うきう て
快々ミして心に楽しむ虜なく、身に病あるをさへ豊えしめた。比の鳩巣の手
きくじつあらみ し かだ まかこ ミうまみ を きふらふゆる きんぎんさこうこ よう あ
一 曜臣難群民族へ龍り趣し候 魔。後藤鍵り居心候艇。金銀等の儀につき御
たいだん た
みん さふらうこさこ ひか さこうかへ よ
きふらうさこき はな かへ

り、獣説ミ存じ候て、他の座に差し控え、後藤騎い候て、夜四時まで鷹し居り蹴り
"艦
こ さふらふよし
B Fお)ェ 、㎞) 。
比の間、御用の儀差し支へ候て、気分の養生も龍り成らす候故、気分も悪しく 候 由
*を きふらふ ねんい ぜん さふらふ わたし しだい せいりよくおさころ
*
申 され候。それは、五七年以前ミは格那に参有るべく候。私なきも、次第に精充義
きふらう おぼら あ らうたりみ これな さふらふ
、 、、ドゅ
へ候て、年々共の覚これ有る由申し候へば。老衰にては之無く候。五七年前は、如何
ほさちうやせいりよく つく さふらうこくろよきふらう あひつさ さふらふゆへ つかれ おぼ まを か
き たいまい
程書夜精力を蓋し候ても、快ぐ 候 て相勤め候故、疲も覧え弱さす候 灰令 は、如何
。撃の歌 楚面四」
緩* ミ み も*
万* い ば 宰還
一 う さ 想勝

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切学 ・ 由 駕" り 競

急く 阜照 。劉。 -

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その善を有せす、その功を給らざらむ事を。子血之反が共の馬に策打って、聖人に稲せ
さこ こん だん これわ けい のっさ こころ せい
㎞うい 、比ゆか >
られ、憑異が樹下に避くるこミ、古今の美談ミせり。之吾が兄の法るべき所なり。正
かなへ めい ひさたびめいせられてがくまりふたくびめいせられてせぐくまりみたびめいぜられて しか をめぐりてわり またわれ あへ
磐父が離の銘に団はく。範耐艦「㎞個。デ命 耐 他、衛 職面走、弱翼 発
あなさこるこさなし けだしそ くらみのぼ つく かみ しやく たか
登る















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-
い ころェノさくだ * 、 *

作るに、上一尺の高
しも しやく もさこ ひ まこさこ しか かなら けいふく、わざはい
きを ふれば、 一民の撃を増すが難し。燃らざれば、シの顧あり。
のを さんき うれひか おんきき ひきこ むい X
せうこんせいめいか 〜 *
方令聖明王に臨みて議段の患なく、彼の延喜の時ミ比しからすミい へきも、残盤を悪
け よ てんか ふ &き じやうりくしほくこひねが
み撃を始みするは、シの 聖なり。慣 すんは有るべからす。鶴 艦 は、
がェダの総を垂れてシの避に唯ひ、よく基の撃を修めて、シがさらむ事を。
いまわ けい ちはうし あらた お、 い -、 ㎞し、球 、
令習が兄、鶴の新なるを聴いて、祀を以ってせすして、規を以ってす。唯吾が見
その意を競んで、者をェせよ。
「☆ しよ じつ ぜんしようぐん れいきう - そうじやうじ おく い べいかは ふゆ ぐわつ
比の書、質に、前将軍の霊枢を増上寺に送つて、衣快いまた乾かざる冬十一月のこミ
はくせききら はやしのぶあっ おほいきうろん、 おこ
7、 下 *

である。しかるに、白石は、更に 又、林信篤ミ大なる争論を引き起した。それは、比の
っき はやしのぶ あつ かい 、 浅いは 、・にお
*、3%)
シt、シBiシ〜B
月、林信篤は、改元の議を政局に呈した。その意見は、蜀都雑抄、極競、千百年戦等の書
よしやうさこく は ふしやう じ はくせき だい
に喋って、 徳の字は希群のである。ミ論じたものである。シはこれに難して、
くんしろん
㎞、 てんかち ちやうたん ごさ てんうん
-
はじ%㎞ * 〜 *
皆之、君子の論にはあらす。天下の治蹴人議の長短の如き、あるひは、天選にかくり
じんじねんこうじ -
しやう ふしやう
あるひは人事によれり。いかんぞ、シの字によって、群ミシミあるべき。
わ かんやう れい ひ のぶあつ せつ べんはく はくせきわ かんがく のぶあつ およ
ミ言うて、和漢洋の例を引いて、信篤の説を籍験した。国石の和漢撃は、信震の娘ばさ
さこころ せいやうがく はくせき **りしさこころ はくせきじ ゆうわう は
る虜である。西洋撃にいたっては、国石の鍵知る魔である。さればシは艦艦に識厳


じやち



ふた、こき あ

W
隣の曲寧
したのち、これ、例の 世の郡管によりて、転び順に選ぶべきシ
ひやう ぎ い だ
摩の歌楚面 四

のぶあっ しんじゆっ をり しはご


たものであるミ評して、 E
改一 の議を言ひ出した信篇の心術を『折たく柴の記

て居る。
かいけん ぎ
「* ささド、やツ 、 つき
㎞、 んんしようぐん き ふく はく
かくて、改元の議は止められたが、然るに、比の月、 利将軍の忌服に
せき のぶあっ あひだ はけ
のぶあつ さ -
い よ にい
さ*

ミ信第馬の間に、しいシ
し、守詳カ つた。言空馬
ん# カよれ (D 日け
、 ょ7 - よ、 * も*
*
ぐん ちえ、 こしやうぐん たいき・ ふく ない だ はくせき ちゆうかう い
軍には、父の故将軍に勤する忌服が無いミ言ひ出した。白石は、これ忠孝の大倫を破る

-



将軍無服のこミに定
ミ* *、 なおし 、
つたが、すでに勢望を失うたこミを顧れば、進
うきう もら なな、さ これ き
鳩巣に浅して、みづから慰めてみたが、之を聞いた鳩巣
じんりん たいせつ もく な すく はけ
即である。獣すべきこミで無いミ
らそ ** あこ さき きうさう なにがし
*

詳ふに到つたので有るミ、比の時、鳩巣が 基
こ ろんきうな さふらう こうせい
、 か 、
御論評これ無く候ては、天下後世の人も、之を罪し申すべく候。設撃得喪は
さふらうかなら おほ た まを さふら あら み し けつ
心に懸けられまじく候で、 ず備せ てられ やうにミ眠し候ペば、船井氏も
しん きふらういち〜か *
あいだ まを 『ふらふ
心これ有り候て、一々書きつけ出し門され候
せいきよく ぎ ひるが あま はくせき せいる さは
まなべき
けれきも、政局の議を翻べすには、 除りに自石の熱威が乏しくなってみた。そこで ㎞
ちせんのかみ ぜんしゃ うぐん、 ふじんてんらいゅん およ %ん うぐんせいば*つくわうみん うつた しんさう
越前守は、前将軍のに人天英 、及び、新将軍の生母月光院に訴べて、やうやく、 獣

ここあ
きらきら こ なにがし おく てがみ をはり
ミいふ事になったので有った 鳩巣は比の薬に選った事態の総 に、
あら み し いた
-
さふら なん こくろざしたつ いきほひ あひみ まを きふらふ
非氏 、これまでに致され候へきも、何ミもェじがたむ に継 え戦しェ さ
た、いま まなべ きのさいだんりすて わ、しゆくぶん たうる
みこくろ
れば、唯今、間部殿相認相手にて、シが驚の にもなさるべくやミ 快よから
き ふあ だ しんたいしゆっしよ あひだ こされうけ かまつ きふらうさふらさこころ ひきこ
㎞の雌の事、ミくミシでくれ魔 。かやうのシ
おほすらめ きふらふあひだかうしよぎ せんやまを
きふらふたミいま
の大筋目に候間、荷旦になすべ からざる義ミ先夜も申され候 いきほひ **
あらみ しのまを さこころ
曜令までの勢を 慰 艦
壁の歌発面 四

りあ きふらふ
に、新井氏申さるく所、理もこれ有り候
わたくしまを ぎ に、じ ぶん ここ せんだい こ おん ょ
うきふらふこさ たううへきま ミ、 ほうこうしよじこくろ つく
私 申 「儀は、御自分事御先代の御慰を報ぜられ㎞ 常上様へ御奉公諸事心を霊さ
ほか きふらふ いま なに ひ しりを
きふらふいますこ おんみ ぎみ まを
るべきの外これなく候。たぐ令、便も押き避がるべき義も見え申さす候。今変し観見 g
あは きふら もっ さ*を々 きふらふらき へんらき る、やうにち こさこ しまを 2
きふらふ しり そぎ さふら
シへは入に存じ候。易はシなり。明品の群は難れ眠さお候 群ぐべきのェ
こtろえきもっさも よし まを さふらふ
ば、日の総るを候たざるの御シの曲、眠し入れ置き候

202
井 新

ひさこか いた
P を まを きふらふうち きふらふ みやうにち し%そ
* 、帰
比の長期やうに難し居り眠され候 は、たのもしく候 眠里にも引き過ぎ健ペば、最
おほかためいてつみたも はかりこさあ ぎ きふらふ
はゃ さ シ りきふらふ * 〜 〜
早これまでミ存じ奉り 候。大方明哲身を保つの 謀 これ有るべき義に候。うかうか

い だん わざはひ あまを さふらふここ ち しや さこころ


ミ池断して難 に避ひ眠し候撃。智義のなさざる所に候
み ぐわつ した はりまのくにはやし おく
* 』 、 Kシ
ミ言うて居る、比の十二月に、白石は親しくする播脳國林田領主建部内匠頭政宇に送った
てがみ まった せいち たい 、 じ てき ひ おく
* 〜 ら7、 け )し%
手紙のなかにも、もはや全く政治から退隠して、悠々ミして自適の日を送るに決心した
こミを告けてみる。 *
まを ちゆういん
うい め

ひけ、 さぶ -
ミかく中すうちに御中薩の日数も過ぎ候。この上は、ほきなく常年中に御代始の御濃
お たつしや ご せいじん おんこさ しゅく、たて まつ いの
* ㎞ ) 、、
なき申す御事ミ存せられ候。比の上は、たぐ〜御達者に御成人の御事を祀し奉り
たてまつ さふらふ それがし ぎ やうや ほ&こ な
* * 、 、シ ㎞ ) *
り奉るのみにて候。某 なき儀も、潮く、比の程は、酒の酔ざめのやうにまかり成り
こくろ おば さふらふ な さふらふ なにこさこ のこ おほ ここ
* 院 すべ *
もの、心も覧え候やうにまかり成り候につき、次第々々に何事も残り多き事のみにて
あいせき ひじやう ひつし *を つう
〜 つ 、、が注 き㎞ぶ けん 、、 、じっ いな
哀情の部情なか〜筆紙に霊し難く候。もはや常年は除日も無く、しみ〜ミ中し通
*
-
-
*㎞ふ㎞gだ さ㎞ふ あさ さきまを 、 い きふらふこミ きふらふ
すまじきにて 候 間、存じ寄り候こミきもは、シし入れ候撃にて候
おほ くだ “ふらふここ る らぜんのかみきのおんこさ ねん にちゃ さ じっきん こさ
㎞、 * せんだい


せ下され 難く、シ、三十鮮に及び、シの癖にて、航艦の撃し
* ド。 ゆる おん おんこさ

*
* おほ お
召しは、よく御存知のこミにて 、
きふらう よし らうちゆう
それ故に、御あミ〜の御事をも側せ置かれ候撃ぎ
おほ お なにここ
*

個事も〜 、院 %)に 〜 ここ
も候て、その由老中へも仰せ置かれ候3 いさ * * *
御代の如くかはらす、大小の事
き、 た * * ににくくわい うけたまは さふらふ おんたかいのち こんにち いた これ やう
を沙汰あるべし、ミの御告戒ミ飛" り 候
Qか* みさふらふらうちゆう はじ
手を偏び慰候に、シを難め、耐き観
* 〜 %に こるな Bんこさ うけたまは きふら ふみなぜんだい
べわ はな そん
にて、いかにも〜残る所無き御事ミ 翼 g候3これ㎞の御除
きふらふ あ
こ中すものミ存
* がた おんこさ さふらふ
じ候。まづは有り難き御事に候 警
のち こさ
、“ こさ * ㎞ ひさこ〜
きたっゆまっ きふら しゆ〜 だう
りあ *
さて、比の後の事なさ、知慮ある人々に湾法住らせ候はド 種々の道理も有るべくミ
㎞ てんか へん
脱ぶ がた こさいこんにち)に *おんこさ さふら のち
*、、
存じ候へきも、天下の鍵は測り難き事に 「日の如くなる御事も候へば、比の後の
こさこ はんしやうふね たいふうは なか
*
B、 ゆ し だい ゆ ほか こさこ な
事は *
きふら
なき船を大風波の中に浮かめ候心にて、行き次第に行くより外の
ぜ ひひやうろん
も無く
ミ 、それがもん およ
* * き㎞ ふ
) : さこころ
よさいよ
へは、基式の足非の評論にも及ぶべからす隊。まづ差しあたりたる庭の良きが襲
み さふらふ ほかなさふらふこ v むき ここ きふらふ
きミ見え候より外無く候。これは公儀向の事にて候。
それがし しん うへ こさこ たてまつ のこ
-
㎞ ㎞ ㎞ * 、ミ、 * 暁
さて、基「一身の上の事は、恐れながら、御心安く存じ「奉り候故、存念をも残さす
まを い さふら しようちさふら おんもささま まを あ
- ㎞ そん、、きらふらBに
申し入れ、思しめしも候はぐ、承知候はむも、御許様ばかりミ存じ候 間、申し上け
さふらふ
候。
さふらふ もっ
) 、シ) し ㎞に い 、
士君子の大節ミ申す ものは、周捨行蔵の間ミ 承り及び候。用ひらるれば行ひ、捨て
から、 いにしへ こさこ あきふらふ くに みちあさこきち みちな
い㎞ さ ( \ -
らるれば蔵れ候事g 「古 の聖賢皆々期の如くにこれ有り候。國に道有る時は智、道無
さこき ぐ なく
㎞、 * う だまはお さミき㎞
き時は愚、その愚には及ぶべからす、ミ承り及び候。
みちなきふら みちないはれ
か 、ド
常時天下に道無きにはあらす候へきも、御幼主 のほごは、おのづから道無きの請たる
きふらふ それがしこさこ せんだいご いちにん お_ めがね こ さま かくしき ひ ぐ きんじ
-
にて候3 しかるに、基事は、前代御一人の御団鍵にて、外様の格式にて、日々に近侍
“V、 )シ もん。こミ ま々 陸 、、、 ㎞ 、
仕り、天下大小の政事御顧問の事は申すに及ばす。基が存じ寄り候 し上
きふら ここ それがし こくろ お㎞
な のこ さふらふさこころ な
*を こ」
㎞ - あき
け候はぬ事も無く、申し上け候ほきの事は、基 が心の及び候だけを、残し も無
おはかた それがし まを むねこ もち きふらふおんこさあ
天方ならす基が車す旨をも執り用ひられ候御事もこれ有
きふらひか あかつき おんたかいさふらふ はち はんこ ぜん め
)
り 候 き。十四日の暁に御他界候に、十三日の晩まで、御前に召されて、


-
あひ Bがったい㎞うおぼ きふら か

さも相かはらす御勤め候様にミの思しめしにて候へきも、 民の観人り無く候 へば、基
さふらう なに を さふら
)かに も
いづ方へミりつき候て、何を申すべく候はむや。

きた 7〜★ くんゃう またなに つこ まを なこさこ
び、
もミより定まりたる職掌 も無き事に候へば、又何を勤め申すべき やうも無き事に
きふらふ &ちぜんりかみきの いだきふらう かた ねん にちや かみ おん
送れ がしめ 、 嘘こ す *
候。越前守殿には、基 召し出され候てより、比の方二十年、日夜御心安く、上の御
だいせう こさ それがしぐをん
こみ に ェ、 に ㎞。 、、 *
心をよく〜御存知の事、前々中す如くに候へば、今に至りて、大小の事、某愚存を
おんたつ きふらふこさ さふらふ こおんひさこ あ おほ お
かな それがVQ 、 、 * 〜
も必す御尋ね候事にて候。比の御人へ基の存じ寄を申す事も、ミり敢へす、仰せ置か
かわっさこめん、 いまも よ の
シふい。 ㎞ら * ㎞ こき㎞ 、詩
れ候までに鍵らぬ勤ミ存じ候へ ば、今以つて、某存じ寄りは残さす候。これは、尋ねら
-9

きふらふまを ㎞、 さふらふ たきこへ は注、そシ


㎞ら さ 〜 *
整の歌発 面 四

れ候へば申すにて候。こなたより申すまでには及ぶべからす候。個令、又、某申すこ
きふらふ おんひさこ いま いた さふらう おん
、 嘘ひ ㎞ 、 *
ミ、比の御人光に思しめし候ミても、比の御人ミても、今に至り候ては、なにミも御
-
まを は きふらふ ここ きふらふたさこへきふらふ ここ ふ わ もさこ もちろん
申し張り候こミはならぬ事に候。個令なり候ミても、事の不和の本たるべきは初論に
きふらふ

て候。
こま こさこき ふらふ にちい ぜん ニこさ ふらひ それがしまを こころ かみ まつすぐ きこ
遠からぬ事にて候。五六十日以前までの事にて候き。基申す所、上に最直に聞しめし 」
新 さふらうかみ しも かうたいし こく きふらうそん さふらふきよ ここ さふらひ

候て、上より下へ向勤至極し候ても、十に一二も、存じ候ほさに参みら ぬ 事にて候。 ㎞
のち それがし る「ちぜんのかみごの まを る、ちせんのかみさ の らうち aう を
自 き。ましてや、これより後に、基やうやく越前守殿へ申し、越前守殿また老中 へ距 さ
きふらちゆう へた さふらう ひやうはん てい
石 れ やうに、蹴をミり、恥を隔て候ては、離にシの胆す搬の の 評判のやうの鶴に
*
な にの國家の利たる事も出来眠すべく候はむや。
しかれば、比の時に盤りては、 賢をして料が庭に置き候ても慰なるべく、愛、鍵き

て懐にせらるべき時ミ存じ 奉り候 者によりて、もはや眠の玉は、下の愛楽葉にさ t*
きだちおくれ候 悪 をば、ふっミ魔め候で今日を繋し 明日を選か候て、若しシ

ここ

らきなた それがしみん よ ㎞ いさ みり まを た
も候はく、基 存じ寄りをば残さすして、比方より差し出で候て、存じ寄を崩し立て
きふらふこさ やまを い 、こさふらふ
候 事は、ひしミ魔め申す豊悟にて候。
さふらうだん〜 つかまつ つこ きふらうたていま つかまつ さふらふこさこ
それにつき候ては、段々に 仕り勤め候て、唯今までに仕りなし候事きも、いくらも
みな〜みづさふらふこさこ あ さふらふ なさふらふこさこ それ

いくらも皆々水になり候事きもこれ有り候。さて、基 志 の空しくなり候 事 は、夫ま
でにて、その 艦の不幸の次菊、さても〜髪罪に髪はも候 まづ比のシにて
こ さこし タ〜とつき ふらふ
今年をも暮すべく候。
はくせき せいち てき だい こ、をは はじめ くわれ* をはり
* %、シ き
白石の政治的一代は慈に終った。その初の華麗なるに較べ て、 その終の悲惨なるは
さこ もて そ ここ が はくせき きやうきん
そゃろに 人をして耐を書かしめる。されば、さすがに、比の盤は弱く居の艦船を
き し ふうしうう うじ みくわい にもさこ うるしふじつさく
去らすして、春風秋雨に街事を道徳じては、継を避けたので着る。これよりは、総胆瀬
に除念なく、燃%さして罪を選った。
整の 歌楚面一ー"

*ーー

207
208
閑居の著作
菅公の故事を想ふ天爵堂観梅の詩舞ー『乗覧異言』ー風物みな悲しむ天爵堂仲秋観月
の詩籍 ー十年以来世事の鍵遷と自石の功績を歌うた南部南山の詩ー『西洋紀聞』『集
古圓説』『古史通』『古史通或問』ー『古史通』『古史通或問』 に引かれた材料と自石の國語
寧ー十数年来の萬葉集古事記の研究ー本朝の事は倭語に妙所の候

しゃうさくねんしゃうぐわっ しんしゃうぐんきいづる のうせいぜんしよ こ いんふたま
-
明くれば正徳三年 正月、新将軍から、三才闘給、農政全書、古印譜を賜うた。これ
ぜんしようぐん はくせき だま ながさきぶぎやう めいし なさこよ
は、前将軍が白石に賜はむミて、長崎奉行に命じて、支那から取り寄せられたものが、
しやうぐんこう きよこ き ぐわつ います ひさこつはしもんぐわん を がはまち やしき ち
将軍薬去後に来たので有る。その五シ ㎞のが雌順の職に地を増し臓うた
これも航盤の遺命である、国石は更に悪隣の を めあへぬ。
比の春、備に依って、天ェに翻編の議奪が鶴された。誰 も彼のシの設撃を
作 著 居開

青盤 鞭 幸。 現 鷹 リリ 含流 難 )

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菱 同浜 龍 綾 佳* 枝* 移 遺* 一 地。逸
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209
210下
井 新

めは まよふぶん きい くわの
H迷 交彩 艦
しゆ 磐
ミいふ 一首ができた。

「はくせき 、シ)は B 、“・) 、シ さい・っくい けんじよ か


* s さい
自石は、かうして、閑居の風月を友ミしながら、比の春、初めて『系覧異言』の序を書
これ きき はうらい ねんあき ぐわっ そう
来" 資磐 大諸 い

た。之より先、質永五年秋八月、ョハン、バッチステ、シドツチミいふイタリャ僧が、
すみのくにやくしまじやうりくさこら ながさきぶぎやう こくしや ねん のちよ タ・
だっ
隅國屋久島に上陸して、捕へられて、長崎奉行の獄舎に投ぜられるこミ 一年の後、翌
ら ねんふゆ なくわつ に & はくせきじももん はくせき ながききつ
シ六シ十一シ
㎞ 渡戸に選られて、 自石の訳間を受けた。国有は、長崎から附き添うて

た和離通事を余して蘇闘した。ョ ン、パッ浮ステ、シドッチは、翻離数のシ
ミ離書を披いて、者に奪へたのである。配石は、かの明の慰のシの駆
地闘ミ、ョァン、フラァの稲離厩の撃離 継いて、世界察園の人文地理を問う こo
かうして、調べた一服を、シに したのが、彼の『画群紀眠』のシある。

しゃうさくねんはる ながききかうざいはく らんしやうか しんこう & & き はくせき
基の後、シ、慰瀬の蘭酷加ェが、避書のため混声に変たミき、シ
---
ふたくりよくわん つ たつ こさこころ あこ さき おらんだじん おらんだはん
は、再び、その旅館に就いて、尋ね問ふ虜が有つた。比の時、細蘭人から稲職版の、ア
しめそ せつめい き これ みん さうざいやうかう せいやうてうこうろく
ルハべットを示されて、共の説明を聴いた。さうして、乙に、明の東西洋勢、西洋朝貢 録
けんし みんし なんやうしよこく さ しよへん
き じ
Bいが か けらん は_し しょけらん eくぶんけんっうかう
や、元史、明史にある南洋諸國の記事、または、濃涯勝覧、馬氏勝覧。績文献通券、闘書編 、
びんしよ いら々い けん
まさこ くわん こき うさくねんはる ぐわっ じよしや
間書なさを参じへ探って、比の『番覧異言』五巻ができた 、序はこの正徳三シ三尾)
いはつ あきこうねん、 が しう て が、 &こ あさか たんはく あた
あり。戯はその秋ミある。しかしながら 、後年、土肥霞州が安積湾泊に興へた手紙に、
くわんす、お きふら
“Kごのか みせいぜんあらは、まを きふちふきいらんいけん さふらふよし わたしさも まを うじょぶんおんたの まを
筑後守生前著し申し候乗覧異言一巻進め置き候て、序交御頼み眠し候眠、私基ペ 眠し
お さふらふ これ まこミ ぜつひっき ぼつぜん にち ほき こう をは
く まを きふらふみこんはう
置き候。是は誠に絶筆の作にて、獲前五六日の程に功を撃り眠し候。その身も懸 ミ
まを みぎ おもむき かくべつ こさこ さきふらふあひたちかころこ はんらうたいひつ ふる じよけん
申し、また右の趣、格別の事に御座候間、近頃御鋼勢なから、 を揮はれ、序言を
作著の居 閉

さふらせつしや かたじけさふらふ
くだされ候はぐ、抽者も添なかるべく候。
も ねんなつ ぐわつ あをは かこ せんだ や てんしやくだう をう
みきやうはう
ミあるを以って見れば、享保十年夏五用、青葉に園まる、千駄 谷のシェに、六十九翁

211
らうがくし “
さら これ ていせい ああ じゆんじつ
の老學は、政々ミして更に之を訂正しつく有つたので有る。さうして、シならざるに、
これ み じん き ねん ぜつひつ ようろつは くわん り び あ そくわん
之が、比の偉人の紀念の絶筆ミなったのである。共の巻の一は欧羅巴、盤の二は利夫亜、
あ じ あくわん なんぼくあめ り かき じ なかんつ
㎞の三はシ、熱の四五は聴亜米利加の記事であるが、 中
井 新

212
き じ もつさこもしやう きい しよ ざいれう はうめん くは さこ
獣の記事に最 語細であるのは、比の書の耕料が、この方面に詳しいものから取られたか
らである。

はくせき さんかうしよ ほか みん しよくはうぐわいき せいはうき Bうたうじ すで


さりながら、白石の参考したこれらの書の他に、明の職方外記、西方紀要が、常時己
わく はうじん
に ちよ にしかはちょけん
おこな くわいつうしゃうかうこ はうらい
に戦が園にも存はれ、また、邦人の著ミしては、かの西川如見の華夷通商考が、比の資永
ねん こく これら せ かいち り しょ きいらんい けん きさ し
五鮮 に魏されて、N等の世界地理書が『栄覧異言』の先にあったこミを知らねばならぬ。
きいらんい けんめいよしふせいらんがく しよくわう はな
『シ覧異言』の名撃は、これらを集成して、蘭學の晴光を放ったにある。
- こ さこし、あお きちゆうせいかなこ けつしよくうれ ぐわっ はくせき さこ に よ
やがて、今年の秋は来た。霊撃悲しむが如く、月色慈ふるに似たる八月十五夜、自石
てんしゃくだうさこも くわいくわんけつ しくわい もよほ はる てんしやくだう うめ しやう
は天ェに友を奪して、観月の詩曾を催した。これよりさき、春は天爵堂に梅を賞し、
あき あケやま ますだ かくろう かうがくろうじやう つき み ねんらい れい あきよねん
秋は青山なる銀田鶴標の黄鶴標上に月を観るのが、二十年来の例で有ったが、去年から
てんしやくだう ちうしう つき しやうきうきう なにがし おく てがる
天爵堂に仲秋の月を賞するこミになった。鳩巣の基に送った手紙に、
ますだ すける も ん まを きふらう ほんちゃう れいかう しゆじん ふういう ねんらい まいさしちゆう
盆田助右衛門ミ申し候て、本町五霊賞の主人、富有なるものにて、二十年来、毎歳中

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㎞、シいた。をりから、本の薬ふり撃して、シの十四せ、船
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シの涙を通いだ。かくて、痛艦の年も薬れむミする。献㎞の子の賑
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はくせき こうけふうた
は 長講一篇に、十シの胆撃の 競ミ がであった居の所業ミを撃うて、せめ
ても、国石の煩闘を慰めた。
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堂堂 経 國 器 第 第 湾川ぼ

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こじ ぐわつ しふこ づ せつくわん しうそ さき

ついで

又、比の年春三月『集古園説』 一巻を修して、共の序を書いて居る。先に質永
れんはる ほんてうぐんさかう あらは ふ づ なんざん じよこ
六年春『本朝軍器考』 を著したミき、附園の有つたこミは、南山の序にいうてある。比
しふこ づ せつ きら しうていき ひか しふしふこ づ
の『集古園説』 は、それを更に修訂したのである。しかしながら、土肥霞州の『集古圓
せつ はつぶん み はうらい ねん はくせき じやう らく な ら じんしゃ じ みん きうかつ
説』の蹴文を見るミ、賞永七年、白石の上洛のミき、奈良の碑赴、寺院、奮家に就い
きいろく おほしかくわんせい はくせき ぼつこ
搬録したものが、その多くであった、然るに、これもまた完成されないで、配石の獲後、
あさくらかけひらのぶゆき る あらは しふこ づ せつ
ここ
かしめて著 したものが、令の『集苦断説』である。
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てい いくわ し うこくま〜よろこぶはるにおよぶを&たり
庭 際 花枝 動 偶 娯 得、及、春 ざ
ュ びやうじいきてわざはひをなし らう けうしくてはりんをなす
関 病 時 生 作レ累 老境 レ都
居 きよしつかにしてつねにきやくをじし
㎞ て たひェなゃいす

居 静 常 ㎞、客 書 来 赤 悩レ
きみをはづらはしてかへっておくるあり た、これ じやうしんをなす

227
著 煩、君 還 有、贈 只是 貸ニ情 親
作 てん おく し こ さくしよ あり さま
った詩である。世を隠て、議書に酷ってるる有様がわかる。
P うめさ
しぶ㎞事㎞ ㎞ し ゆく し Cん
-
もよほ -
明くれは享保元年閏春二月、梅 咲 六 十の毒を祀する詩鍵を催
自_井 新

むろ き、うさうこ

228
いうじんら
した。シを難め、江戸のシ等は、多く薬り密びた。戦方のシ等は、詩を密せて
しゆく こ
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くか ひさ
ひさ
こO %、 い %〜シ 残 うし 、 こい、 *
ぼくもん きういう きた さこ
祀した。比の後、「念 幕府を逐はれて、世を構り人に忌まれて、木門の奮競すら撃り訪
さこき かへりみ こく し らん てんしや だう お さい
さい 。こ にぎもよほし

はなかった時から、「顧 れば、比の詳電そ、シに於ける厳後の瞬やかなる 艦 であ
つた。
せん ねん か れいのち し かい たい へいのさき
千年 佳麗 地 四海 泰平 時
はるははうかうにいつてうつり さんはじゆ みき はゆ おす
春 入ニ芳 郊 歳 従 毒 推
み ざい いうようにくだり たい ざう むし を に な ふ
偉 材 降 有用 大 象 衛 無私
よをやすんずるはまさにぶんくわ
シに こぎくき
間、世 方 文化 経、邦 足 徳 基
ち れいにしてしうきあつまり てんずるにしてしやうきにおうず
地 霊 鐘ニ秀 気 天 瑞 應 目昌 期
がく にん けんのこさをすべ ぶん てんかのしきしようす
學 継ニ人間 事 文 稲 天下 師
かん せい けいかうにそくす せん む ゆう ひにかなふ
感 精 属三李 昆 占 夢 協 熊 羅態
作著の居 閉
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続。又を 克き 朝器 帝定 清楚 像* 前翅 駿燃 先与 子? 面も
弓。 宇号 ㎝ ・あ 司a; キム差 et * ョ* ミ* 幸営 *じ
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作著の居 閉
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234
こさこ きふらふ たうじ いし いだ ふち いたミへ さふら す きふらひさふらふ
*
事に候。常時は、石を抱き淵に入るの警に候へば、楚き棄て候し事に候。そのミきに、
しんてい きふらふおんこさこ ここ さふらひ おんこさ や さふらふうけ㎞は
ド 偲ー S * %、 〜
進呈し候御事も に御秘蔵の一 つに候しかば、御事の後、これも禁かれ候ミか 承
お き ふ
り及び候
-
けふてい なが よい だ ひさこ しめ あ
ぶかざQ
ミある。かうして筐底に深く職して、永く世に出し人に示すこミをしなかったので有る。
きやうはう ねんなつ てがみ
の 、 ぐぬいない を は、ぶふ あん おべ
後、享保六年夏六月、又、小瀬復庵に送つた手紙にも、
-
こ し つう いだきふらふゆる きつしん さふらふ まを き はん
* あお -
ふらさ 、 シ、
古史通ミり出させ候故に、二冊進し候。申し上ぐるには及ばす候へきも、比の書、貴藩
き さ㎞ひ 、 * .に %) 、ミ * ㎞%、、
へ差し上け 候 しまでにて、いまだ人間の見聞に渉り候はす。そのうへ、また去年か
ふ かた たづ きた さふらひ せんねん くわじ せつしっ ふ たぶ き㎞ひ
B、 ○ ミ *
不思議の方より尋ね来り 候 しに、先年の火事に焼失し候ミ返答し候き。すべて、こ
)は、 )お にんけん お ら 、 、 き㎞
作 著の 居 開

れらの書は、存生の内に、人間に落ち候はむも、然るべからす候。
はごのうは し
る はくせき こここ しやう ちから そ、 わ じやうだいし けんきう じゆうじ
-
ら、じゃ * 〜
ミいうて居る。白石は、比の後、一生の力を濃いで、吾が上代史の研究に従事して、かの『史
*一ー一

-
ぎ あら これ さき - けんき、 ほら
*

235
疑』を著はすこミになる。けれさも、之より
ふい これ ざ く ま
ソミ こ こさ ○ * 、 シ
既つたミろで有つたのである。之も、後年、佐久間洞厳に送った手紙に
らうきうじゆつきく こミい 、 さふらふい らいけんぶん およ さふらふこさこ よるみれい
老朽述作のもの、事、御たづねに候。むかし己来見聞に及び候ほこの事、世に類例も
きふら ふこさおよ かんご ほご よ ぶんけん あこさこそ しよ すくな

236
候事、及び、漢土のものは、いか程も〜世に文賢の有る事にて、共の書も少からす
きふらふ すこしよせうれふ さふらふかひ ほんてう こさこ ここん ひさこん〜て くだ
候 か。少しく書をも渉猟し候甲斐には、なにミぞ、本朝の事、古今の人々手をも下さ
。 あつ お さふら
、 ㎞ -
㎞、残㎞ っ 、硫に
れす候事きもを、ミり集め置き候はぐに生れ候恩を報じ候ためミ存じ候て、何
せんじゆつさふらふ
かミ 撰述 候。
せんじゆつきふらふうへ またなに よ のこ きふら みん きふらふこさ もちろん きふらふ
さて撰述をもし候上は、又何ミぞ世にも残り候へかしミ存じ候事も初論に候。さりな
たうじ よ はくか きふらふきふらふゆるまを い きふらふこさ ぐわいじん めき
がら、需時は、世に鶴が、候 こミきも候艇に、いつも眠し入れ候艇ぐ、シの目に魔れ
きふら こう、ろ き ふらふこさこ きふらふ
候はぬやうに、心がけ候事に 候。
か も ま ぶっ もんてい もさをりのりながいまし かんがくすで
つく せんけん *な
ミある。かの賀茂量淵が、門弟の本居宣長を誠めて、漢撃は、誤に先賢が撃び憲して、
、つめい よ ちな しか こくこ がく いま なが よ わす ひさこ かへりみ
もはや、発明の除地が無い。然るに、國語學は、今まで永く世に遺れられて、人に顧られ

〜 ㎞ %8 〜 - * はか k き

*
せいけふ
*
な こうせい
なかつた寧問で有るから、なほ開拓すべきミころが廣い。 若し、成業して、名を後世に
のこ ほつかなら こくこ がく けんきうつ おな おもむき
始さむミ欲せば、必すや、國語學を研究せられよ、ミ告けたのミ同じ趣である。
こさ
述のるるよじ


うほか


しんこ
せん
ちい さこ
つここ
しう




返し
う古撃
は紀



いで

、毛む。
居う
愛て
かさま
事記
かし
ち細る ミ

「 ミ


むる 究
尋限り


及において

心もし





言吾
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が ねぶの語人 つ
古いて

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こ事

他あミ
でき











あ言う
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かや
手年集
萬手紙

はに
つ復
送小後

庵年


く頃葉た瀬 。

引氏

て等


秘抄

、宮

揚列
漢語

文、
史漢秋

濃 書 こう
るい文子嘉記 ひ
こりう

しぶき
うせこ
せやで

しつ
かれ

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ふが



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うんうんん







漢抄
では


日宣


紀の

清集
、 籍本原葉しゆれうきじ
萬仙





皇 がかだいせ
うさ
ほのぶ

きに


きまん

ふせ
はら
ふんせ
&せひい
かくし
きの

せんいんよしん
順職
天、


北紀

親房
日ト
響賢





一後ら


衆 、
徳畠本條世 賀か
出抄


國倭式
、延録
格三集
姓萬、
風拾遺
古史
土記 ふし
ふん
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やく
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くこ
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もつ
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237
はくせきけんき う こくし よ に ほんしよき きんそし やくにほんき にほんき しんだいせミ

258了
かうして、 の研究した國書のなかで、日本書紀纂硫、響日本紀、日本紀碑代抄の
石 白井 新

こさこりやうぶおよ だうか せつぶくわい かいしやく さこ た せつ


如きは、いづれも雨部及び道家の説に附曾した解響で、探るに足らぬ説であるが、しかし
に ほんしよき かんぶん か ため すくな じやうだい こくご いんめつ こ
ながら、日本書紀は、もミ漢文に書かれた貸に、少からす上代の國語が された。古
じ き きちよう こくこ ほ ぜん トゲ ゆる わこ ぶんけん けんきう
事記は、この貴重なる國語を保全して書いてある。それ故、吾が古文獣を研究するには、
に ほんしよきこ じ き はうたふさここ らい にほんしよき てうてい お
日本書紀よりも古事記の方が、よほご奪いにもかくはらす、古来、日本書紀は朝廷に於い
そんちよう つね かうきめ こ じ きまつた かへりみ な なが よ まいばつ
て奪重されて、毎に講義をも召されたが、古事記は全く顧られ無いで、永く世に埋没し
を あ
て居つたので有る。 く
はじ こくこ がくしんけん きうたいせい
-
かもさをりのりなが こ じ き」でん

しかるに、初めて國語寧から 研究をして大成したのが、彼の本居宣長の古事記博で
はくせき て お を し
* き 、 、戦ん お O
あるが、それよりも先に、白石の手に於いて、研究されて居つたこミを知らねばならぬ
き くま ごうがん お てがみ
はKシ、 、シ、
が、後年、また、佐久間洞魔に送った手紙に、
㎞) 、止 ㎞ をん さふら
ふそ ェん ほおん
電解の事々、御不審のみミ存じ候。あはれ〜、某 撰述候古史通ミ申すものを御
甲にかけたき は瞬
そくせいじんだうまを むかし な せっ いま よ
俗世の碑道ミか申す、昔は無き説きも、今に世に行はれ
はじま さふらふち こさこめ ここ よそ ここ ここ
の始り候地なきの事も、目のあたりの事を除所の事の如くに存じた
このたいはく かのせうかう じよふく のち まを な こせ
呉太伯、夏少康、徐幅が後なき中すごミき、わけも無き事のみ千古申
**
こ%ら がく まを こくろい さふらふゆるせつじやう し
寧ミ中すもの、心得なく候故に、雪 さ
*
よそ ・ こさこさ
に除所の事のやうになりたるにて
んらふしふこ、ろ ぬ
-
ほんてこう
さふ ひ」 きふらう な
し候へば、なにも〜目前にある事に候。古人事を秘し候て、名を立てたるにては、
これな さふらふ
め之無く候。
じ かみ さふらふこさ ここは こ けん こん けん か けん そくけん はうけん まを むかし ささこ
作著の居 閉

爾雅に見え候如く、言には、古言、今言、雅言、俗言、方言なさ申して、習のこミばを豊り
らさふら こ じみ さふらふいはん おおじ%い、さかん ご も じ うへぎ りきふらふここ
得候へば、古事はそのまく見え候。況や、應紳己後の漢土の文字の上にて、義理つけ候事
な ここ かんじ か よう さふらふし さいこさながきふら
ゆめ〜無き事、漢字はたぐ暇用のものにて候。これらの仔細、いくらも〜事長く候

下239
しょがまかちゆう さふらふさここ ご ふ しん ら もら さふらふこ し つう
へきも、麗考に記し 候 所の御不審を噛し候はむため、鶴分が一を漏ら候 古史通

*
り 要魔 は
来将
語。塩 く*
劉3 讐 。
も" 詳害
細総
王s
然。


240
幡書の 惨火
八代吉宗将軍の就職と自石の退隠ー秦火に投ぜられた自石の著書ー『折たく柴の記』
の筆を起すー似、有ニ避、秦人 ー焼亡せる紀念の梅ー某こそは比の如くに人に慣ら
れ候へども見孫まで不幸に沈み候はむとも存せず候ー深川一色町の高居と 『停雲集』
『東雅』ー『東雅』にあらはれた白石の國語寧研究
)
は くせき -
せいきよく しりを いま よ た もん こ さくしよじ ゆうじ み
*
白石はすでに政局より退いて、今は世ミ絶ち門を閉ちて、譲書に従事して居る。けれ
かさこも ぜんしやうぐんここう 社 。 まなべる ちぜんのかみあきふさ らうちゆう
火 惨 の 書 煙。

* * * *
きも、なほ、彼の、倶にミもに、前将軍股版の臣であつた間部越前守診房は、老中ミし
2うしやうぐんいへつなつか こくせい さ み
* * 、シンぶんせうるん %
て、幼将軍家綱に仕へて、國政を執って居る。それ故、自石は、先に文昭院の三周忌に
しやうさこく、ねん 、ゆ
- ち し こ なべる ちぜんのかみ
まなべ ん さこ* ゆ*る
ぐっ

241
うた=徳四年冬十月、致仕を乞うたけれきも、間部越前守は、これを止めて許さなかつ

たのである。
あきふさ
㎞の群である。それ故、甲府藩の家宣が、綱吉の意に反して 軍職を継き、間部越前守
のり おさうこ

ミなった。シは、慰に、離ェの殊龍を得て、一たびは共の継嗣に擬せられた彼の綱
かし
ぎぬ
より 参。





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天城賀る













籠っ て 人全









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上々りでしらひさこん〜さもじたい
政治

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きかん つなよし

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のを見て、深く快からす思うて居

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なここ
みさいこ

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すつちはくわい。

ので

*
、ドに


こかに

いる





磯城
悩まし

せい
-

43
*
**

**
*

{は

243
こくしよふくがうじ けん はくせきわ こくいい ふうかくみ
あきらか
を明にした。 は た國書復跳事件は、白石が我が國鶴をして、富岳の威に
井 新

あ よ ちこうけき かへりみくはだら けんめい いへのぶ 姓


在らしめ、世を撃けての攻撃を も顧すして企てたので有 つ たこ ミ、その賢明の家宣は、 。
こう きよ せいきよくへんてん はくせき し せつ りんけ ため こさこ、はいせき
こくろざしなかは
志 牛 にして夢去せられた後 政局鍵韓して、白石の施設は、林家の貸に、事毎に排庁せ

の はくせき くわこ はんせい じ じょでん いた くわいころく


られたこミを述べた。これぞ、 白石が過去牛生の自叙博である。惨ましい回顧録である。

時 、 まなべきちぜんのかみあきふざら
こ さこしなつ ぐわっ さも しよく さこ
*
さうして、今年夏五月十六日 間部越前守誇房等ミ共に、職を停められたこミを以って
さこく
ぶ 上 こ○
筆を止めた
ほん はくせき
に、白石は、 こ
くけい き よるちん〜たり はん りの かう ふう かいきんにたいけ
㎞ 気管 流、流 萬里 江風勤ニ デ名ル
、たん けい ながくきくむめい けっsいら さう こいたづらによすはくうんのこtろ

丹 桂 長 留 明月 色 蒼 悟 徒 白 心
きん は うこかず ぶ よう おゆ ぎよくろ こる なくしてしつしゆつぎんず
金波 不レ動 英 薬 玉露 無レ撃 幡 崎 玲
うらむなかれミうろうきようまさにあききを しよくんなほおのづからきうじやうふかし
莫、恨 登 諸君 獅 自 奮 情 深
*


にち め
㎞ * 、ひさ っシぐわいやしき あ 」。 * 記 はら ぶかはは う
翌享保二年正月十二日にいたり、一橋門外の邸を召し上けられて、暫く深川一色町に
けうきよ にち こいしかは ひしつ
* たちま、いかんに いきゃ はんにほんせれ
橋居した。しかるに、その二十二日に、小石川に火を失して、怒ち、紳田、京橋、日本橋よ
つきち ひさこつはしもんぐわい やしき や ぐわつ ないさこうしんじゆく せん
㎞ 、 過ろ 、

り築地に及ぶ大火ミなって、一橋門外の邸も焼け亡んだ。二月にいたり、内藤新宿の
や だこ のち * むろきうさう おく て

B・・、
た。
町に代地を賜うた。比の後、室鳩巣へ送つた手紙に
なぐわつ にち ないさこ うじ ゆく や しきち お わた こ きふらふ さこう
* 下 〜 それが%はいゆゃ ゃん
二月二十五日に、内藤宿の屋敷地御引き渡しにて、まかり越し候。某拝領屋敷の東

ざいなんばく みなひきこん〜 ふらふやしき み ちやうぐい いち〜 ひさこ
こぎ%〜 さき あきふら -
西南北は、番く皆人々にくだされ候屋敷ミ見え、定抗は一々これ有り候へきも、人ミ
すさこころ きふらひ むきはたけ つかまつ お さふらひ
-
BL 、) くに ㎞ふ
ては住まぬ所に候き。みな〜変畑に仕り置き候き。引き渡しの御役人を相待ち候う
そん さふら
ち、ふミ存じ候ひしは、
せいはくせん〜さこしてひいづ こう じゆ 〜のはる

火惨の書煙

変 肝 々 秀 紅 秋 植 々
でん ちゆう ひさこ
べ いをきぶしんをさくるひさこあるににたり
概 ㎞
㎞がい お ざふらふ
* ㎞ 毛地
これにて、その境涯は御察しなさるべく候。中々仙骨無きものく、住すべき事及びな g Q、
●ー おば きふらひ
く豊え候き。
ぐわつ みなくさま しやうたてまつ はいくは しやう き、 ミ さふらふ むすめ
いつも二月には、皆々様を請じ奉り、梅花を賞し候に、これも焼け失せ候。娘 さも、
井 新

246
うめ &だ もさこ きふらうきやうだいそは き お きふらふ み さふらう かんがいしやう きふらう
いづかたよりか梅の枝を求め候て、鏡豪の傍に挿し置き候を見 候て、感概生し候て、
ほか つかさふらふ
もの、別にうつし遣はし候。

日万
ゆ しまてんじんし かうけつ あんかか てんし
みか すみだ が はん
** けうきよ - てん㎞、う うつ う

ミ言うて居る。彼の隅田川畔の橋居より、湯島天紳嗣香月庵下の天爵堂
ぐわつ し いう ** むかくわんはい くわい もよほ き ねん うめ やう
っね はなさ
毎に花咲く二月には、詩友を迎へて、観梅の曾を催した紀念の梅も焼け失せたのである。
ひそか くわんこう こくろざし ししゅくそ せつさう あい うめ をり たつくわんはうざん わざはひ あこき
に菅公の 志 に私淑し、共の節操を愛した梅が、折から、奪官放賞の 祀 に遇うた時も
) し むぎあを も、あか けいけん
こき さんくわ か ;
き %
時に、惨火に枯れ失せたのも奇縁であつた。かうして、比の詩は、変青く桃紅く、鶏犬
こる の s せんだ や せんきやう ひ し・少 さ のが ひさこ
、㎞説 、 ドば、、、
の撃長閑けき千駄 谷を、武陵桃源の仙境に比し、自分は、かの秦の側を避けて逃れし人
に み いだいよしむねしやうぐん しんせいふ はうぎやく しんしくわうてい たこ * こ
に似て居るミ言うて、八代吉宗将軍の新政府を暴逆の秦始皇帝に喩へた意である。比の
こ) ごき を すべん し まつ しる しん さふらふ なく、いば
比の程申し棄ての一篇、紙末に記し進し候。これは、外人
こぶ らふ きう〜 お やぶ す きふっふ
の に候。早々、御破り棄てくださるべく候。
刺書 龍 泳盤 楚*
々く文 寝 帝恋
慈 猫鑑 之” 何懲ミ \篤
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袖器 説き 県鞍 駅。
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機器 安器ま経; キa
誰誌 人蹴 金蔵 中。王敦
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247
人 型:紅読 青が 焼* 楚* 繋 穀。
歳恋 露 磐獄王 姫 露 城砦前 家。

選器 露夜。 歌。 悪戯* 器 何盤篤器 四・
盤 蓋 暗器 凝 嘘 舞誌 美”露見。 薄 館。
盤 露窒 鞍 愛* 楚人。 影黄。 各競龍。
目 議麗麗盤蓋 豊艦 リ様盤
リ色。 リ 行き盤 公 容 客
愛 艦 響、 斑 帳器 城 * 忍 \
叔# 商帯能ま年。
歌常 甥葉 斑議下。 下。 ・放。 縦 教。 皆。
封 従 風雲き 堤* 楚* 漢

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義 獣 舞竹堂人。 軍繋 鬼。 致器 壁 十リ
能。 豊 豊豊 灘 楚
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甚 死斐 愛羅江読 激磐 人。 不お 芝* 羽線 盾*
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鍛 翁麗 田島 白 し。

248
老 籍。 西 明 素で リ 千な 然 封 意 整
* 葉。 風 、風井 冠リ 金:期装 魔 気 豪
嫌 翼機秋:老 薫; 来露光器 盛講義 供。一躍 刑。
擬; 豊器 老。 少す 薦く逸盤 溶 得 後継 構 過響 卿。
妙;三器 老年 易 戚愛藩函盤 暗 志護大き悲
露月 磐 行。 水器 闘 蛇途中露光露 何発 子*歌。
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雲 白。 行 繋 秦。 十リ 那 観"精さ 説盤
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錦 艦 人。 筑器王。 三 卿く虎 誠さ鋳


新愛 来愛 、 歌説 命盤 殺g 有発 常 貫姿 争選
誌 名話 リ ュ* リe " き 狂e 。 ロ露店学
騙後響 顧。 急器 盤 入器 待盤 踪 日悪 停。
リ艇 事盤東温熱器 翼経 客説 肉 鰭人選
業雰 娼。 盤 方誘 使踪 黄 鰭。 可警 彩。 不沈
技 騰競* 娼く
放呂バ s *索
小流 吉談 千鼻
手。 ロ李
口秀 sa雲
遅流 魔㎞ 白巻し 経。
|日

249了
せん こ キう くわん うこの こさこし つき きん せう これ けい ひ
仙始 髪 如ニ鳥 爪 妖姫 三 少 是 鶏 皮
白 井 新

はく さう ぎん っんでひさこ しうぜつす やう くわ いたづらにおもふやうはんじ


おう さこし しちじふ や らい いち に
いはずゃさかの むかっ てや砂 をェ
尖レ見東家阿幅年七十 夜来 向、市 買ニ燕 脂
ますだ がくろう この し をはり ふ きこ へん きやうはうひのさこり はるきみしよ

盆田鶴種は、比の詩の終に附記して、比の四篇は、享保丁西の春、公みづから書して
しめし さき ひそか つ はくが こ*ろざし し き
*
示された詩である。その時、窃に告けられるには、この伯牙の 志 は、子期にあらざれ
しめ あい
ば、示すべからざるもので有る、ミ言はれたミいうてみる。
/あ 、だんしい ょうこう さし み
こくろさし し 2んら わう がうこ
鳴呼。男子たるもの、生きて封侯の 志 を得すむば、死して閣羅王たるべしミ倣語し
はくせき
、シ・、、 さ 、シ 、 シ・、 い、 O し・・、
た自石をして、何故に、かくまでも、怨勝類問を禁する能はざらしめたか。質に、これ、ひ
はくせき こくろざし お ゆるし んしやうぐん い りんけ
ミり、配石の志をして、老い、かつ襲べしめた敵のみで無く彼が難㎞軍に恐まれ、栽家に
シ ひやくくわんぐんれう は、 きういう やうや うさこ
荘べ * あい 、だ ㎞、 かい *
悪まれ、幕府の百官群僚を撃けて、彼に近づくを樺り、木門の奮友すら、潮く疎んするに
いにー ありさま おに い がう けつ あまごひや くせたいにんじや、 いか む
定ん㎞の 、いか
至つた有様は、さすがに、鬼ミ言はれた豪傑も、除りに冷かなる世態人情に悩らざるを得
なかったので有る。
比方心を残し候ては、底湾みの仕らぬ事、況んや、また、忠信の事にはこれ無く候故
さてまた、序に 候 間、心底を残さす申し入れ候は、惣じて、打ちわたり相談候こミに
こなせ、こみ
基『娘 の事、さて〜不幸なるものミ不便には存じ候。その故は
それがしむすめ
もら

思し召しを顧す、愚存も申し上ぐるにて候。
おほ
は 春




御こまもおうさふしら 候
-

仰れられせ







たき
こなされ




らくだされ





。 な俗





















を き魔
に ミ
たやけ

















み有




かき

す 中 う
もの


ふら

か 結た

長女


について



手紙婚
巣 白石

しかも






みづか
承く

本旨
















過ぎ
打ち知 もの申す












-*
めかへ船 %

さし


おやすう
ふこうう


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のこ さふらう
くよ
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きき
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はやり もの

うさ
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こさこ

ぶんべうこ ざいせい

うだんさふらふ
御在世の内は

峰 、 さ㎞
うち



*
*

QQ
しやうべうみよ た きふらう それがししよそんなほまた さほさふら そこさなかな
*
ァー rg さ、ト **
章席御代に到り候ても 有 獅 又その通りに候へば、ミこかく共の事無くては叶ひ
井 新

252
きふら よし う ぶらふ あさくちまを さふらふさこ あ きまを
石 白

きふらふ あるひ ねん
あり候。或は三年五
-
なさふらふでうまかなひ れい ここ た
は、まかり成るまじく候條、かの賄の例の如くに、三五年も比方よりまかなひ申すべく
-
きふらふまかなひじ ほ -
まを ら かまつ ざふらふ まを ふらふ
きふ
候。その賄を一時に欲しくミ申し候はぐ、それは望に任せも仕るべく候ミ申す事に候。


てう ば こさこ。 あさくらこくろ らふこ
朝三暮四の事ながら、ミもかくもミ、朝倉の心に任か
まを きた たびん〜 あ きふらふうけたまは あ は みな〜こ こさここさこ
。、 ㎞
に、あなたより申し来るも度々これ有り候。承り合 候に、皆々御隣家の如くの事

もつさも まを あひて こなた うけたまはいだしかほ& あびて そん


申誌 に
にて、犬ミ申されぬ相手にて、さて〜比方より承り出し、然るべき程の相手ミ存じ、
つか きふら
シ ようけたま
な もんちゆうふさうしんこさわ
に まを

き し進はし候 へば、慰が名を撃はられ、一門#不園心ミて、もはや三四人も離 り眠し
きふら *を さふらふ こなた たいにん つかまっ そん きふらふ あるひむこ
3
んり 候。あなたたより中す は、比 にていやに候 距 分よりシ低るミ稽ら候は 撃は撃
*

殿の
こ &こうしんしんるみ たうじ お やくら こ
ふらふひさまじさふらふぶん それがしこさ うけたまは した ふる
園心にても、親類に盤時御役を低 られ候シ候究は、 撃を 撃" 、酷を艦ひ

さふらふ つ こっち あ こさこ さいちよく
さs * 、武 〜 * ㎞、
て、いやがられ候にて、それにては、何時までも埼も明かぬ事ミ、妻女なさ苦勢がり
きふらふこさお さつこ ミ
きふらふ
、御察しくださるべく候。 ●
よつ こんにちめさき こき ふらふ ㎞ じんぶつ タミる まを さふら こく
〜 - *
例て、今日著に問ひ候は さき様の人物も苦しからぬミ申し候へきも、五百石にて、
ほか やくかいな きふらふもつこものを きふらふ なかうこ りやうは
うこ % すこ
外に厄介はこれ無く候。犬あなたよりも望まれ候にや。媒は雨方へ心安きものにて御
こくりや うこはんごほ ひさこ
㎞ がし%ん い 、、シ)は 、、、
座候。某 心底に存じ候は 昔 の身を存じ候へば、五百石にて雨御番通りの人に
-
さふらふうへ こさこきふらふ いま ぶんべうこ ごくりやう をんな
㎞ ㎞
て候上は、いかにも〜相應の事にて候。今は、文席御恩にて千石をも領し、女ながら
ちやうちよさふら み ふかう こま きふらう はんぶん しんしやう ひさこ つかさふら
ふい ェ い。 *
も、長女にて候ものを、唯今の身の不幸に困り候て、牛分の身上の人に遣はし候はぐ、い
*二
をんなさふらさ こょろ なか ぷこさこ さき㎞ふ 透 る ミ な
かに女にこそは候へこも、心の中に悔しき事にも御座候ミ存すまじきものにもこれ無
さふらふきふらう し やう こささふら ふうふ あひだ こさこ で き さふら けつ
* や * 〜 *
く候。さも候ては、一生の事に候へば、夫婦の間に、いかなる事も出来候はむか。月
か せきじやう こ じ あ ちさふらふいますこ み あは
㎞。、、 、、、
下赤縄の故事も有り候へば、縁は、むまれつきても、これ有るべく候。今少し見合せも
しかきふらふ

253
mる べく候か。
-
さふら こさこ し さいまを き
、* ㎞。 *
女ながらも、うつけ候はぬうまれつきにて候へば、事の仔細をミくミ申し聞かせ
する ふらぶ はんじやう
しあはせん、だい 〜

-
ゆい に
これょり末は、夫婦の仕合次第にて、いかにも繁昌もこれ有るべくミ申す虜を覚悟せ
井 新

254
きふらう めさき さこ
* だQ区 っかまっ さ㎞ みん
* ㎞にろ、 こさこけ さふらふこんのきう
させ候て、取組も仕るべく候かミ存じ、著に問ひ候虜、 かくの如くの封にて候 民売
さこ 科 をくんすまを 、 ゆゆおお さふらふ のち
、 \㎞して な% *を
*

三 薫レ心ミ申すも、先以って相應し候。さて後の事は、六四良 共身 無 答ミ悪すを、一
しやう さいはひ つかまつ こさこ
ほ㎞ かっ)ぎ Bか%がへ さ』 *く

さ * * し
生の幸 ミ仕るべき事にも候か。二変の義、ミくミ御考ぐだされ、これにても取り組
きふら うん てん ま
㎞ 残㎞ 〜 *
こら こら きふら おぼ
残㎞ 注
み候へミ思しめし候か。運を天に任かせ、ひミ泳へ泳へ候へミ悪しめし候か。歴 しも
すここ る んりよ
ぶん)お 院はを 、にた さふらふ 強が、たてまっ さぶまを *
少しも御遠慮なく、十分の思しめしを御申し答へられ候やうに願ひ奉り候。中すにいか

○ふ
きふら ぐわいじん


さふらふゆる これ こくろ みん rふらふこさ のこさふ
がしく候へきも、外人ならす候故、之も心に存じ候事を残さす
せきせんよ けい まを さふらふ それがしせんじん しやう あうだ き くるみ ぐる けんかうな さふらう



積善除慶ミ申すべく候か。基先人一生の間、聴き苦しく見苦しき言行もこれ無く 候
いま こ しゅ いへ まを お ふらふこさこ て、 ほん つかまつ きふらふこさ さふらふ まを さふらふ

行零 て
て、今も故主の家にては 申し置き候撃をも、手㎞に焦り 候 群も候ご眠し候 。 シ
み ふ せうけん%か
かぶら
さ・
ぜんだい てう あひだ しんめい かへり てんかひさこ

も、身は不省に、言行暇派のみに候へきも、前代二朝の間「身命を顧みす、天下の人
こさこ なにミをたいへい ひさこ そん さふらふこくろ かたさき わす きふらふこさここさこ てんか
の事を、何卒太平の人になしたく存じ 候 心、片時も忘れ候事なく、一二事の天下の
ため きふらふこさこ ぶんべう こ おんゆる つかまつ さふらふここあ さふらふ しか それがしみ
貸にもなり候事を、文席の御恩故に、仕り 候 事もこれ有り候。然らば、基身こそは、
たうじ かく こさこ ひさこ〜 いか きふら じ そん ふかう しづ さふら そん ㎞。
常時比の如くに人々に艦られ候へきも、見孫まで不幸に沈み候はむミも存ぜす候へミ
こうん きふらふう へ それがし しあはせ
また ぶんべう
も、それも、又、文席すでにこれまでの御運に候上は、某これほきの仕合も、すなは
よけい さふらふ をん ここ きふらふ
ち、除慶に候も存ぜられぬ事に候。 けつ
あきふら た ひやう
さう ここ しんこさこ ひいき
纏じて、これらの事、一身の事は、最負もこれ有るものに候へば、他の評にて決した
たきふらふゆる き けい けつ さふら
きふらしゆうぐ こころん
く候へ ども、衆愚の如きは論するに足らす候故。ひミへに、貴兄にて決し候 はむミ、
はくせき さこ ぼく つま くわんていせん

、 れ、づ かっけつ * で」き、 シ、 -
ミ言うて、左思右考して決するこミが出来す。白石は第竹を執つてトし、妻は闘帝占に
さいこ はくぎき きうさう はか
うらなあ さくら らうこ けんさんだいしま はKじ さ - -*
トひ、朝倉の老始は元三大師に詣うでく闘を探り、さうして、最後に白石は鳩巣に謀
から く むかし かは
けゃ ちょい、、 - K) ゆゆ *
火 惨の書燃

)㎞)* 、
て、潮くにして之を決して、かの女は、五百石の旗下市岡正軌に嫁した。鳴呼、昔は河
*
きん ここ かへりみ がら㎞ はくせき ㎞
鞍 めたか *討 〜 *
㎞ を鮮するこミ、船も繁履の如くに顧なかつた剛毅の白石をして、冷かな
-
村瑞賢の三千金

255
せじやう はんもん
る世情は、かくまでに煩問せしめたのである。
かつ いう おく きた
ふかがは しきちやう ぐうきよ なつつ れ〜
かうして、深冊一色眠の質屋に鍵を避へて、シのあまり、 て撃族の選り襲った詩
へん けふてい あつ ていうんしふじよぶん

篇を、僕底より集めて『停雲集』ができた。序文に、 ●
井 新

けうきょ すみだ がは か こう

256
ちんせき もさ てんするあひせっ うんはんしゆつばつ おんてき
橋居は隅田川の河口である。されば、枕席の下、天沢継接し、電ェ漫して、㎞
ょう おこ ふうけい ひ さこころ さかん を をり たま〜 いうじん し およ
石 白

四方に起る風景である。火を比の虜に避けて、闘に魔る折から、偶、シの詩二百除
へん けふてい お さき〜 かん よ せつ うこる さ〜の これ うた は らん ため きよう
篇を策 に得た。時々、艦に侍って節を撃ち、撃を商べて老を歌うミ、渡瀬は鍋に溺
ゆうきよりよう ため ひ せ うおもせきじつ いうじ つるさう くわうぜん
湧し、魚龍も貸に悲嘘するやうに思はれる。かくて普臣の遊事を追想するミ、艦然
しんもく
-
し のこ がくいうら おほな ひさこ
して心目にある。さうして、詩を残した撃友等は、多くは、亡き人ミなつてみる。た
のここも たがひ りうりけいくわつらく〜 しんせい ささこ
ま〜残ってみる友は、互に流離契観して、落ダミして慰の姫くである。
むろぎうさう にし やょけんほ さかきはらくわ なんぷいんざん」あめのはゆはうしうき しをんなんかい まつうらが せういしはらてい
さ言うてシェ州ェ
あん をかじませきりゃうるんだし い をかだ ちくょ ほりやまじゆんし ふか*いてんい みやけくわんらん」はつさりくわんさい はつさりきっしう &こ
庵 岡島石梁、圓田子葬、岡田竹園、堀山順之、深見天満、三宅観闘、服部霊鷲、服㎞、ゼ
ひがしうなんぶこくくわ まなべ し めい つづきれいこ やなだ せいがん ますだ かくろう ㎞ほ%こK%くじゃべめん にん
肥置州 南部 園載、最部子明、都繁ェの二十四足二
し をさ ひつきやうわうじ つるさうこ せき なぐさ あのちきやうはうねんあき ぐわっ
百六十詩を救めた。必意往事を追想して、無敷を慰めたもので有る。シ、
あ さかこんはく おく てがみ
安積携泊に送つた手紙に、
むかし ねん まへ や しきめ あさふらう みやうに ったてまけ ふ たいくわいへや
昔十年はかり前に、屋敷召し上けられ候て、明日上つる今日、大火にて、その家競け
う さ・いらう くわいき も さあ さふらふこさこ さふらふ ふかがは か るるひ うつ さふらう
亡せ候て、双土を以って差し上け 候 事に候。そのミきに、深川へ家累拝き移し候で
あ きふらふうち ういう お々しさこ あっ きふらう ていうんしふ だいくわん つかまつ きふらふ
まかり在り候内、奮友たちの御詩きも取り集め候て、停雲集ミ題し二巻に 出 g候 あ
ひさこいんかうさふら まを さふらふ いま なにこさこ すまさふら てい きふらふ
る人印行候へなさ申し候か。今に何事も湾し候はぬ鶴に候か。
のち また ねん な さふらふ へんしふかうさく 2 き、ら こさこ な さらひ
その後、又十年ばかりに成り候。かの編集のミきには、高作なさ得候はん事も無く候 き。
のち おんさく さこき〜おんみきふらふこさこ きふら こ あひだ た、しふこくろざしあひもよほさ 、らふ
その後、御作なさ時々御見せくだされ候事に候へば、比の闘ぶミ績集の志 郡 鶴 じ候3
お さくい おんさく かくたいせう〜うつきふら そん たてまつ さふらふ
あはれ、御得意の御作、各鶴少々寛しくだされ候へかしミ存じ奉り候。
きよねん きふらふちうちやう おんさく かな せ% 、い 残 さ たうしゅん こん けい
くだされ候 欄 根の御作は、必す撰し入れ候べく候。常春やらむの五言の八景の
おんさく さふら をん たてまつ さふらふ た、
火惨の書婚

さ お み
御作も、くだされ候へかしミ存じ 奉り候。但し、 いづれなりミも、御見せくだされ
きふら おぼさふらふ またてまつ さふらふらんだ こさこきふまを ここ なさふらふでう
候はむミ思しめし候を待ち 奉り候。欄楕の事、急にミ明す事にもこれ無く候篠、い
おこ、ろ きふらふかなら たの たてまつ きふらふ
っなりミも、御心のむかれ候ミきに、必す頼み 奉り候。

257
ていうんしふ &ら ころ あ さかたんはくまじは し
ミいうてみる。『停雲集』を撰んだ頃には、まだ安積湾泊ミ交り知らなかった。それゆる 、
たんはくし さいろく そくしふせんしふくはだ たんはく し もさこ
湾泊の詩は探録してない。そこで、績集撰韓のこミを企で、、湾泊の詩を求めたのであ
、石 白井 新

こ をくしふ くわんせい いたこ よくくきおうはうねんなつ はくせき ぼっ あ %


るが、比の績集は完成に至らすして、 比の翌々享保十一年夏、白石は残したので有つた。
てい うんし でき こ二 なつ また ふかがは ぐうきよ お さこうが かう おこさこうが
『停雲集』の出来た比の夏、又、深川の高居に於いて、『東雅』の稿を起した。『東雅』ミは、
にっミのにに いじ_ がい こくこめいし このねんあきかんはに て
% - が3
日東國の爾雅ミいふ意で、威語の名詞を響義したものである。後年安積湾泊への手紙に、
きうさうおうきふらふじよさふらふなさこ
み さ さく せんねんそれがしやしきごようさふらう おく ぜんだい つさ
鳩巣翁めされ候序にも見え候如く、比の作は、先年基屋敷御用候て、奥にて前代に
さふらふしゆうちゆう ごう を がは さふらうたいちこさ うけさこり つかまつ
つかま
リ ら
められ候衆中ミ一同に、小川町の屋敷めし上けられ候て、いまだ代地の事も受取も仕
きふらうすこ はや ひら
は * ふらさう もく せき ちやう し たてきふら まを こさこ
らす候て、少しも早く引き挑ひ候へ。一草一木一石も帳に仕立候へ、なさ申す事にて、
こさこ ほか さここ か さいこうかたづさふら な さふらふゆる ふかがはかりぐまを か
殊の外に取り込み、家財等片付け候はむすべも無く候故、深川に借蔵ミか申すを借り
いだ や しき した ふね さこの さふらう つかさふらふゆる そくじ こさ すまを きふらふ
出し、屋敷の下より舟こもに取り載せ候て遣はし候故、即時に事も湾み申し候。その
かりぐら きんじよ かりざしき さふらふちやうか けんか そ さふらうか るいこさこん〜 さ つか
借蔵の近虜に借座敷も候に、町家四五間借り添へ候て、家累 悪く差し遣はし、さて
みやうにちやくにんしゆううけさこ さふら まを ひいた たいくわ それがしやしき お こじやうない
明日役人衆請取られ候はむミ申す日に至りて、大火にて、某屋敷はさて置き、御城内
2んせうさふらふこさこ や しき む せきさ くわいじん さうちさふらう き あ さふらひ
までも炎焼 候 事にて、屋敷は空しく赤土板焼を掃除候て差し上け候き。
*ん ィ *

シ ㎞
係込海

えもくる A 公*り「とち介
*る*りーる*え 〜ッ〜*う
** A*ーりんきょり してるて s<< 、
* メん今*〜今てくシん%み。
く2 化う々 〜 〜rみう*な ** *
いァ〜7ー
えシず多等ん りんくるえ ?らく〜 約して のく 〜
ちと?〜、ァ**あ *れ ッ/* も〜A
偽り〜?)な や〜体*< りッ代 がうか、 ? ーき
(新井自 石 全集 に拠る)

し ざいじうき さ いづ ㎞ さふらふ よき ㎞
*㎞ はじ ぶ いがは *
㎞、 き だっ
比の時、先達て書籍を始め、
*
シ深艦へ 差し越し、何れも焼き候には及ばす

260

ょんさこし
井 新

さこ きふらう る せき きふらふここゆる かぼ -
㎞ *
● “い 、 *
候うち、見た
へきも、慰がしく取り選び候て、委積し候事故、深川に牛年シ
あか くら きふらふゆる きび ㎞%そい

ものさふらう さこい だ まを ここ なきふら
き瞬"候 ても、取り出し申す事も成り候はす。 継しく明し幕し候故に、践息さもへ書
*

のち
ジ お 、 いればい ほこ しるきふらふさ
つきこきふら透ん
き術け取らせ候はむミ存じ、反古に一條二 ミ謎し候撃さもを、その後に、小石川へ移

はや
、 )録 * *
*ー

みなも のじゆがわ ん、花% 、"㎞っ.、シ


㎞ い㎞ 最早その後は、ミても
㎞、シ 順観名城の次第を追ひ候て、草稿をたて

*
ゞ*
ふらふみぎまを きふちふに きうほん き お きふらふき
もの な さふらふゆる
いへ いだ 貸㎞ ものに候。右申し候如
獄を齢し艦 べき備にも無く候故に、草本のまミにて差し置き


けうがふつかま
きうやく おく きふらふれうっかまっりきふらふし ゆい%ほ
きい ひ ㎞、 * * 3
き鶴の際の正を選g候程に 低「候もの故に、引用の書なさ* はかん〜しく校合仕 そん さふらふ
きふらふ て
およきふら きだ
A候にも競ばす候 ペば、定めて抵悟重複初論に存じ候。
-
はんれい
ミある。また凡例に、 てっしふ
なつ さこき かいじやう ぐう さこも いた * き O ㎞
]
討)試、 の琵沙 なし。奮聞を綴集 *
比の書の作 ㎞の髪にあり。時に海上に萬して、興に語るべき
ったが 、シへん なしつかん けふ しよあ き
いま
、騎
し、筆に随びて編を成す。室間たゞ一の撃 有るのみにして、校訂に便りすべきもの無
みやうねん なつ びやうたけ
しうこ きよくわくもんぐわい ばく いたしやうがい くは
し。秋後、 シするに至りて群説を加ふるに及ばす。 明年の夏、「病楊暇
こころ うしな すくな すでき
に、
を失へるこミ少からす。業に己に気 -
*
はなはだ
)
競れぬ。たド基のェしき者を馳り ひ
川澄

みこ なつ ふか
ミあるのを見るミ、比の夏、深
深川の
けうきよ つ ほx P ん、 、ぐわっ,いたくわんせい
おび ㎞ゅ う、 お *
の橋居に於いて、病中に稿を継け その翌享保四年二月に至
さうが こ じ き に ほんしよき
き く
&、いぶいき りゃ%
『東雅』には、古事記、日本書紀、奮 事紀、萬葉集、姓氏録、風土記、古語拾遺、令義解、
おほ いんしよう しよ こ し つう あらはおなおも
式を多く㎞してある。これらの 書 は、先に、『古史通』を著したミき、同じく重な る
すですうねんらいこく ろ ひそ けんさん あ ほか
き き
、球
にされてみるので、己に十数年来心 を潜めて研鎖してみるもので有る。この他には、倭
う だんせう あいなうほ
にほんしゃくみやうか がくしふ しうちゆうせうに ほんき し き しやくに ほ
みやうせう けんじものがたりあうぎ、せいかう なめ 、
B」
名抄、源氏物語奥儀抄、江 談抄、竣嚢抄、日本響名、下寧集、袖中抄、日本紀私記、響日本紀
三、上日 1 、トバ、 ハー「

た結
一 シイ*
じん だいき も しほぐさ まんおふしふせんが く う に き
*) ) ○㎞、 戒
火惨の書煙

紳代紀藻臨草、萬葉集仙豊 抄 、日 紀 かれてある。漢籍では、説文、毛詩、准南
梁 子ル
㎞しょいたいしょいじ_が .いしうれいいほ%、 はうけん やうし かんごせう そ じ そうみん きんさ れきき

、随書、唐書、爾雅、周濃、 譚名義集、集韻、揚氏方言、揚子漢語抄、楚鮮、増韻、三五歴記、

りやうしよたうるん き やうざっ べん ぶん
ぶんしやう はくぶし
* *
3、 と * ふこ * * * ㎞ や払い い めい 、玩 B い、

261
書、唐韻、社陽雑編、文昌雑記、正字通、博物志、四盤字苑、本草園経、海物異名記、昆山志


かういん
シ P、
江陰懸志、霊鬼志、紹興府志、逝江通志、関書、嘉泰志等を引いて居る。
は、くせき こしよ そうろん お にもへ し あら そ かい
* - * さく、 } *
白石は比の書の纏論に於いて、古を師ミするに非らすして、みづから共の意解をもて
井 新

そぎ %く ぬ 」、 、 さこころ - いこ %〜 わ かんしよ しよう %


共の義を響しなむこミは、我が信する虜にあらす。ミ言うて、悪くこれらの和漢書に謎 %
こ さこ がうさ
&こくだん こうが -
がくせ つ かく ごさこ
かぎっ さ
*
操を探つて、豪も濁断をしなかつた。『東雅』の寧説は、比の如く確質であるのみならす。

そうろん く くじやう けんしき いう たくけん


その継論に述べてある國語撃上の見識は、優に一眠を携んでたる競である。これに依
み はくせき けんこじ ち は、うてき さ
だいになへんくわし

|雰 代
*
りて見るミこ、白石は、言語に時代的鍵化あるを知 つた。ま た、地方的差避あるを知った。
せいくわい
さうして、また。それに正説の別あるこミを言うてみる。
てんか けん こ けん こんけん そこ こん あひだ お そ はうけん
* *
天下の言には、古言あり、今言あり。共の古今の間に於いて、また、共の方言あり。
はうけん おの〜 が けん みくけん
方言のうちに、また、各、雅言あり、俗言あり。
こ けんたいこ きんこ いた そよ 、 ひこ いさころ けん こんけん
古言ミは、太古より近古に至るまで、共の世々の人の言ひし所の語言なり。今言ミは、
きんせい ひ: いきころ こ けん いま はう ひさこ ご けん おの〜おなさころ
-

今世の人の言ふ所の語言なり。たぐ、 令 、五方の人の語試、各 園じからざる所あるの


いにしへ さき またおのノ〜 よ はう こ けんおな
みにはあらす。「古の時ミいへごも、赤、各、その世にありて、五方の語言同じからざり
*
なほいま 『 さこ いにしへ ち ゆう&こう ここ ひさこ
しこミ、獅今の如し。「古も、また、 一 シの人の姫き、その には雅なるあり。
みく
俗なるあり。
こ さら
-
にK ㎞yg㎞ 、競 らい
ミある。さうして、比の國語には、更に、海外の朝鮮語、南北支那語、楚語、 語の影
きやう いこ
へんくわり は ふろ ん
-
㎞に *
響あるこミを言うてみる。また、比の言語の鍵化する理法を論じて
わい、Kに 「こん シ、 けいおん い。 ・さこ
へん あ
㎞、 つぶ 、こ %〜 ミ さ *
我が國古今の言、その盤音の韓せし殊に多かり。その鍵を霊さむには、悪く撃ぐべか
そ たいりやく ごさ #う
* ㎞、 〜 さ 科 みおん
らす。共の大略の如きは、五方の音同じからざるによりて韓ぜしミ見えしあり。五音
ぶん あひまじ み
の文、相雑れるによりて韓ぜしミ見えしあり。
シはそし ) 、 、武 、長 *㎞か㎞ ぷ
、五方の音、軽あり、重あり、清あり、濁あり。清濁軽重相牛せるあり。共の俗の

** ん よ くわん

愛念 れ 緩

* *、に ききよ あが
*
に 。
なる急なるにより、その呼ぶ事に緩なるあり、急なるあり。その清めるは上り、濁
くだ かる ひら
シ ㎞ んや % &%、
火惨の書爆

* * さ* 、 * き さ}
るは下り、軽きは浮み、重きは沈む。緩なるが鍵ぜしは、呼ぶこミ開き、急なるが
ん よ あ
ぜしは、呼ぶこミ合ふ3
-
、科 ㎞)銭)長 r、 * ゃ」、B ート r

263
また、唇舌牙歯喉の音の如き、彼をばよく言ひ得ぬれき、是をばよく言ひ得ざるあり。
これ いい う かれ
* * さ ート r だ、 F おん こぎいてん
*
足をばよく言ひ得れき、彼をばよく言ひ得ざるあり。その呼び得ざる音の如きは、韓
た おん ゆ ドミ
じて他音に行かざるこミを得す。

264
誌 、、 う没 * ㎞) だ や、 ば) ば)読
これらの類は、共の方俗によりて、その音の韓するなり。或は、二合の音、三合の音の
*こ に
か に ) お 、シ ㎞ *
如きは、彼是の音相合ふによりて、韓じて他音ミなれるなり。
み なら せいおん 杯%、 )) おん
お はそる * びき * ● ミノ 〜 * *
兄、これらの類は、並に、これ、その盤音のおのづから韓ぜしなり。また、比の音を
ば おん には ㎞、 シ・ 、 長い くな
、 、 、
韓じて、彼の音ミなり、彼の詞を轄じて、比の詞ミなりしが如きも、又少からす。
いけん
#・ いろん *
ミ言うてみる。また、言ミ詞ミの別を論じて
けんし きこさ おんはつしてけんさなりけんのぶんをなすをこさはさなす
言 ミ いひ詞ミいふ義をも、よくわきまふべき事なり。音務貸レ言、言之成、文貸レ詞ミ
みせんだつ せつ はつこ しい し、じよい みなし
も見えたり。先達の説に、発語の詞なりミ言ひ、詞助なりなさ言ひしは、皆これ詞な
たいこ けん さざこ おんたんしゆつけん おほ あるひい
り。太古の言の如きは、その音単出して、すなはち、言ミなりし多かり。或は、これを言
おこ これ はつこ し
こる はつこ ご
はむミして、まづその撃の務して、比の語を起しぬるあり。之を務語の詞ミいひ、ま
かみ し じよい あるひ けん よ おん し じよじよし
た、上の詞助なりなき言ひけり。或は、その言の除音ある、これを詞助ミも助詞ミも
はじめ か けん
うれ こ けん で き ここ し ら か
いひ、また、その初に、彼の言あるによりて、比の言も出来しが如く、その詞を得て、彼
けん あは そ けん
ゅんし 、 すくな き %、、
の言の轄ぜしあるも少からす。或は、彼ミ比ミの言を合せて、共の言ミなれるには、
じ い
かれこれ )謀 )財 拡 には 、シ)#居 、 ミ
彼比一 つの言の相合ふ所を助けし詞あるを、中の詞助ミも、又、やすめ字なさも言ひ
これら ここ なが
しなり。すべてシの群によりて、おのづからその も長く、その語も多くなりしミ

見えたり。
はくせ きこびく 。
せつみく わんねん あ さいさ 2
*
尾語、接績語なさの観念が有つた、最後に
*
つうこん
37
こ ぶんはいよ おは
れ は れて、古文廃せしに因れる多しミこそ
こまか これ ろん こ か じ 、しゆかく ぶんな ここ わ
にれ。細に之を論 じなむには、比の語ミ彼の字ミ、主客の分無き事あたはす。我

如ミ

彼 れ 海*
* しゆかいぐわい けん こさ
、Kに)サ )はめ、




火惨の書燃

が國の言、太古の初より言ひ嗣 な はち主なり。海外の言の如きは、すな

したがい あ


きやく かんじさかん おこないた ぎあ は
はち客なり。漢字盛に行はれしに至りては、その義を井せて彼 に随はすミ言ふもの有
のち きやくしゆ しゆきやく こ けん ぎ
らす。これよりして後、客つひに主ミなりて、主はまた客ミなりたりけり。古言の義、
なほいま のこ あ そさいはひ
獅 も選れるもの有るは、また基の にぞ有りける。
ろん た、うじ
おじつ だうん〜 しき けん こうせい か も のますら も をりのりなが
ミ論じてみる。常時に 於いては、質に堂々 た こ
石 白 井 新

こくこそんs
しゆ しやミー
る識見である。後世、賀茂最淵、本居宣長
はくせき あ

266
等出でく、 國語の 魔を絶戦叫したが、その ジ自唱は 白石で有つた ので有る。

千駄ケ谷の月影
*
小石川同心町の新居ー叙家たる天爵堂観月の詩競ー一日も除生の候間は奮寧をも研
究し候を楽事と仕り候ー菅公の志を継ぐ『経邦典例』ー『方策合編』『東音譜』『南島志』
千駄ヶ谷六軒町の移居ー昔の馴染とて一人も訪れ来るものこれ無く候
たうせいたうか しゆうじつこくろ なぐきちよさく ひ おく み ふかがはいつしきちやう けうきよ やさか たん
講撃曜歌に終日心を慰めて、著作に日を送って居る深川一色町の橋居は、かの安積流
ごさこ すしやうぐわつかんだひさつはしもんぐわい やしき め あさこき さうくわう
はく おく てがみ
に選つた手紙にある如く、過ぎし正月碑田 一橋門外の邸を召し上けられた時、蒼皇
きた ちゆうけうきよ ぐわっせんだ や かは ち たまこくわうり おう
千| ミして来り住した儒居である。二月千駄ヶ谷に代り地を賜うたけれきも、四顧荒涼ミして
駄 こ あき こいしかは ミうしんちやうち もさこい へ た でん
じんかみ
人家を見ぬ魔野である。そこで、比の秋、小石川の同心町に地を求め、家を建てた。博
や つうみん あた
㎞) ㎞
おく
こ話
がみ
*
の ェ こぐら

267
* こO
一通院の裏門に常って、毒経寺の崖下であった。比の三月、室鳩巣に送った手紙に あ さふら いへ
影 それがしきよしよ こさ こ すちほ 沈%う
J 居所の事、比の筋にも、本庄にも、いくらも、これ有り候 へきも、家のそば地
シ ㎞、、 らかっ、 、 子ーぐ きふらふころ 、こん
く、地廣ければ債貴く、末々特ち重り仕るべき事にて、有り次第ミ存じ候 虜に、今

268
こいしかょでんつう3んうらもん ち つば
用十四日に、あるものふミ出て薬り、小石川鷹通院裏門の途に、地 三百四五十 に
自_井

りよう ふら
*
うさ あ きふらふまを きた きふらふ
て、七八十雨に賞り候はむもの、これ有り候よし申し来り候。
それがしうちゆう しの まみ みさふらふしんりん した きやうち ごくいういん きふらふさこころ

基 雨中に忍び参り見候に、深極の にて、撃盤は至極職蘭にて、慰晴らし 際 魔 も
あ きふらふ まち や &こうしんちやう かたはし なかノ〜ひさこ め をこころ
これ有り候。しかも、町屋のうち、同心町の片端にて、中々人の目にもかくらぬ所に
あ さふらふわりあまち ゆる ち けいなくめ さふらう はうさこころ よ つほ あ
これ有り候。割除しの地故、地形斜に 候 て、方なる所ばかり、二百除坪これ有り
きふらふそう よつばさこころ ゆるみ きふら あまりんか しつき
候。惣じては五百除坪の所にて、緩りミは見え候 へき も、除りに林下にて、温気
い かち けいいへ た さふらふさころ つた きふら かな さこころ さふらふあひだ
如何が。または、地形をも、家をも建て 候 虜は、築き建て候はで叶はぬ所も 候 間、
つもり い かこうしや もの きうだんいた てんき ひひ ちし み は かきふらふ
それらの積も如何がミ、功者の者に相談致し、天気よき日に、日脚を見せ計らはせ候に、
しつき つた ふらふものいき*

さのみ濃気も有るまじき艦にて、地を築き建て候 人も、さのみ有るまじきに極い修
きくじつこくの きふら まを きふらふ たん〜だいくわん
に、S㎞ *
これにより、贈正調べ候はむミ眠し避はし、あな たも心得候ミ申し候。但々代官なき
てがたつかまつ きふらふここ
ここは ま そん さふらふ こうへ る へん おほ
へも駆り、毛形出 り、候 群 、五六 出も聞これ有るべく候ご宿し候 眠の上避競も、美か
をつ さふらふ
たは有るまじく候。
よ ちやう お しろ ちやう さふらふ ふか
たく
いよ〜こここさ、の きふらき
麗、比の事調び候へば、貴宅へも十二三除町、御城 も二十四五町のつもりに候。深
すみよし まきこ
はつきこり またはぎはら ながさき さくべ
み この しゆつし みち さふらふ き ひ
殿なきは出仕の道に候。土肥 も艦部へも、愛は、萩原、長崎、雀部、住吉なさへも程
さふらふでんつうみん ち ここ
こほさふらふか ひさふら かせいやうる%きま
遠からす候敷。日こそ へ。十四田に、しかも、満場院機しづまらせ候博通院の地の事
まを きた さふらふ はん きふらふたいかう をん さふらふこさきふらは ゆたひ 、
貼し来り候も、いかさま縁も候かミ、 には存じ候事に 候。慣も論じ定め、七十
つばより やう くる そん さふらふ
りやう あひさたま さふら
眠に継競 五百㎞の地七十雨も苦しからぬものミは存じ候。 さこ たこ ふうへ
さふらふう ひ
* うつ さふらふ
しいち
か ぎやうしよ ざいもく きた
然れきも、知行 より樹栽もシり、いかやうにも取り建て候 上に、引き移り候ミき あ さふらふ
きよたくふ かつて ゆる ひきこ *
ご し はい たうぶんた、いま さ 〜
*
*
に、御支配へは 電分離令 までの居宅不勝手故に、かしこへ引越しまかり在り候ミ
*
はつさりさ まを
には 貸㎞ P
かろ〜 っ さ㎞ふい。 さふらふそん
*
いかにも轄ダミ離 り眠すべく候ご存じ候故、引き移り候までは、服部なさへも申すま
影月の谷ク駄千


けっ%ほさ きっ 長さ
*を %のこさこさふらふ な
こい * こ
**
じきミ、いづかたへも眠さぬ事にて候。これは御右筆所なきょり、早速沙汰成くな
きふらふゆる さふらふ 吹こ㎞ 、シん *っ) 、、財試 -

269
**
り、やかましく候艇に候 その御心得なされくだされ、常分二三月の間は、御聞きなさ
-
を きふら
ぶ かみ いちにん
はじま

さふら おつもり おぼさ・
れ艦はぬ観樹ミ慰しめしくださるべく候。深見なさを始め、一人にも申さす候へきも、
語面 し、賞撃

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270
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星焼 高は だ
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動器 堂 。 棲? 後ー 宮翔 北機
門。 新鮮 鶴 き 投ろ


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271
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開き 催器を
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』|*
-


*/* 数
きふらふここ きふらふしよせい しふきまを さふら いま の ちよ せい きふら
事 に候。しかれきも、書生の習気ミやらむ申し候へば、今より後に、除生も候は
ここさこ つきひ おく きふら こさこ な さふらふしゆくし つくなきふらふ
むほき、比の事ならでは、月日を送り候はむ事も無く候。しからば、尻志を償ひ 候
まを こさ こさむかしこ、ろざし きふら じ かうきう さふら らうこ たのしみ
ミやらむ眠す事の如く、「昔、志 の候ひし一二事をも講究し候はむは、老後の築ミも
まを きふらふ
申すべく候か。
しか いてうこさな&こ ぐ せんだっ はつめいきふらふここおほ さふら
然るに、異朝の事等は、あなたに、代々の先達うちつぐき務明せられ候事多く候へば、
そしよ ひろ み さふら あさふらふほんてう こさ お せんだつ
たぐ基の書を博く覧候はむまでにも、これ有るべく候。本朝の事に於いては、先達に、そ
いへノ〜 “お」、
し ㎞っ キ㎞ふ3ミいお 、 きふ ふう 注さは 、 さ㎞
れらの撰述これ有り候人も多からす候にや。承りも候はす候。あるひは家々 の日記
きんせい くじ さ た せいれん しゆうちゆう いま たら さふらふ
あるひは近世の公事の沙汰なさには、精練の衆中、今ミても絶えすこれ有るべく候。こ
影月の谷少量子」

なかなきふら
ここ
だうじやう 、れ㎞ 、
し 残パ - *
れらは、堂上の方々には、習塾も無くして叶ふまじく候へさも、基式の如き、それらの
ここしふじゆく きふら いはゆるさ りよう ぎ なら るる さふらふこ くろ つひや きふらふ およ
事習熟し候はむは、所請層龍の技を習ふの類に候。さのみ、心を費し 候 に及ぶべから

273
そん きふらふここ んこさふらふ ほんてう り つりやうきやくしき るる
たゞ願はしく存じ候事は、経國の典故にて候。それらに就きては、本朝の律令格式、類
●ー
しうこく、し き き こう るみ さんへん さふらふ み
石 白井 |新ー-3

、は * * おはこさこ たん し と
楽國史、風土記等の類は、たミひ残篇に候ミも、見及びたき事に多年尻志候 べきも、か

274
㎞ほミ 、シ) ならう
ねても申し上け候如くの基等の事に候へば、その尻志を償ひ申すべきやうも無く、老
ご こんにち いた さふらふこ よ きよ
3、 い㎞2 、球㎞ %は%ほく かきふらふここ しるさふらふぶん
後の今日に至り候。比の除は、鎌倉京の代々に、奉行の所職に係り候事を記され候交の
-
るみ そん さふらふここ さふらふ
み、おは
類、これまた見及びたくは存じ候事に候。
も ゆる さふら
ードドび 、シ 、残お ㎞。 、十 B
もし貴府御蔵本のうち、別義を以つて、傍観をも許され候御事も候はむには、如何な
こ おんけんか おんこさこ まを いだ さふらふ
* あこ さ㎞ ェ、
る御恩巻にも換ふべからざる御事にこれ有るべく候。これらの事、申し出し候も、そ
は、かりすくな をん さふら そこ せいひ てん さふらふこさ さいだい おな こきこ
の 慣 少からすは存じ候へきも、共の事の成否は天にかくり候事、細大ミもに同じ事
さふらさほ
ふ なくぐわん き さままを い ふら み こん

に候 ㎞のほき、ひミ通り習機までも申し入れす候はむも、遺恨に存じ候 につき
ビ しさ *
じやうぐわん さこ ろさふらふきふらふ
まづ情願を吐露候までに候。
シづて%はい ちょ 毛ゆっ、こるさん っ, まへた か がのかみつなのり あつ か そん
ミいうて、かの『経邦典例』著述の 志 を告けて、前田加賀守綱紀の集められた彼の奪
復を 経搬
かく ざうしよしやくらん こみ こさこし と、 よくきやうはう ねんはる ぐわつ を せ
閣の蔵書の借覧を請うて居る。かくて比の年も暮れて、翌享保三年春二用、また小瀬
* 、 あん おく やうさいい をくしつい
てがみ
メ 庵 に選った手紙に、シの継眠するこミを言うて、 *
(め* 蹴 f 論 ラ・9 蝶 総)
「一 に ー -

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宝栄。 *つヘーベ>*ーさー"・ヘー●*
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石 白 井 新 ー●
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。 秋盤 編議言 威益 足ー
談露 露。
口 例設 け
いま むかし ふうりうるんじ さかん ゆめ こさ かへりみ あこ きやうはう
して、今や昔の風流韻事の盛であつたこミが、夢の如く顧らるくので有る。比の享保五 -
ねん ぐわつ はくせきき く ま さこうがん おく てがみ ●
年十月、白石は、佐久間洞厳に送つた手紙に、
なかんづく すうねんいらい し いう みな〜せいさんれいらく おうしう ここ
就中、数年以来は、詩友なさ、皆々星散零落、つねに應酬なこの事もなく、それに、ま
そ らん そ さふらうし へん な さふらふ
た、疎瀬うち添ひ候て、ふつミ、詩扇なさもこれ無く候。
ぼくもん しよせい あ ころ きうさ ) きうもん はいしゆんさも きみ お
ミいふてみる。かつて木門の一書生で有つた頃、鳩巣をして、同門の英俊共に君を推す
いし じん なが し なう うつはり ざう むなしゆんくわしうけつ そむ ちよじゆつ そう
ミ言はれた詩人は、永く詩震を梁に蔵して、空しく春花秋月に背き、ひたすら著述に風
うみ
柏ミこして居る。
-
しんいん し めい は し じん きやうはう ねんあき か
しかしながら、さすがに清韓にまで詩名を馳せた詩人である。この享保五年秋には、彼
しんじもぎ み たく るん わき よ し つく きうさう はじ いうじん きく こ
影月の谷ケ駄千

の清人魏惟度の韻に和して、八居の詩を作つて、鳩巣を始め、友人の作をも請うた。す
きやう し じん これ なら すう にん およ ここ せい ふうりう
るミ、京の詩人が、また、之に倣ふもの数十人に及んだ。比の事一世の風流ミして、噴
〜 せじやう でんしよう あ
*

277
々ミこして、世上に博稲せられたこミが有る。
よくきゃうはうねんふゆ ぐわつ はうさくがふへんじよぶん
と この翌享保四年冬十月 『方策合編』ができた。序交に、
もん あづか
ぜんだい つかさいはび せいせい あ 、か㎞ おにい む
シ% 、
㎞、群美、前代に住ふるや。幸に盛世に遇ひて、唇 なく廷勤を蒙り、毎に顧問に預っ

278
井 新

てんこしうしふさ ひねがはろん
- )う、 おしり


**
庶くは、論

も あじ さ あつ

るで有らうミ悪うた。鍵故以来、閑散に在って、無事に居るま、に、響に韓めたミこ
すこぶるそろう し
こしよ ひらふた 、これ み
ろの比の書を披いて、再び之を閲るに、順粗漏のあるこミを知った。
こしよ もさ いにしへ し もさこ でき
ぜんだいぶん うし*

しかしながら、比の書は、もミ、前代が、聞を求め古を飾ミせられる
、こ
きいせき きは
載群を極め、 ます〜探録を へ て、肥
こ こん し しゆくは すべ くわん
古令の詩二百七十七首を加へて、継て十巻ミなった。
ぐわつ さ うおんぶ はくせき かつ はうらい ねんあき じん
また こ
ミある。弱、比の十一用には『東晋譜』ができた。自石は、曾て資永五年秋、ィタリャ人
じんもん はじ せいやうかくこく ち り あきらか ご しやう
ヨハン、パッチステ、シドッチを訓問して、初めて西洋各國の地理を明にした。その後、正

さく ねんはる しやうぐんほっけん き ながさきざいりう
か び たん つ ふたく さこ
-*B
に ㎞)ば BL 、 、tt、2
徳二年春、将軍調見のために江戸に来た長崎在留の加比丹に就いて、再びこれを問うた。
こうおんぶ はんれい むかしおらんだじん あ
みらい
『東音譜』の凡例に、昔和蘭人に逢うて、そのアルハべットを見るこミを得たミ言うて
みこ さこきこさ
おらんだ。 けんきう あた
、 K は、、、にKF え は
居るのは、比の時の事である。かうして、和 語を研究するに常つて、自右は、國語ミ 南

ない にL に あひだ おほい おんるん あし こく 、こも


*
支那語ミ和蘭語ミの間に、大なる音韻の 差が有るこミを知つた。さうして、國語を以
「らんだこ々なみし な

ほ「 難。
、こ か あら こん 『A し
しき
て和蘭語南支那語を書き表はすこミの困 な る こミを知つた。

こくご も おらもだこ みなみしな さ から
國語を以つて和蘭語や南支那語を書き 表 すべきか、ミいふ方 を研究したのが、この
さうおんぷ そう ろん
『東音譜』である。練論に、
し な 、こすいしやう もきこ いふ あ もんじ し% あ せい
支那語は、形象を本にして成り立ったもので有る。すなはち、効学が毛で行って、
きやく ゆ もんじ *}
㎞) 、注くな ぐわいこくこ せいおん

王。 愛
音が客である。敵に、 学の数が多くして、シの競低
*
もさ

が少ない。外國語は、盤音を -
影月の谷ヶ駄千

こなた せ
㎞、 もんじ ゆる
さ * きゃ%
本にして成り立ったものである。すなはち、盤音が主であって、 学が客である。
せいおん


総%べや、お * シ g、 すくな あい 、に * 、こ か
に、盤音の鍵化が多くして、文字の数が少い。吾が日本語は、すなはち、比の二を奪
ね有してみる。

279
はくせきすで おんべうもんじい へうもんじ
*→
ミいうてみる。これで見るミシはBにシミを発して居ったので
しよ せつめい し おん * そうせい ちやうばおん

石_自_井_新__。

有る。愛、比の書の説明する発盤ミいふのは子音のこミで有る。送盤は長母音のこミで
㎞、 い 、、は ん隠」ェん さ
しうせい
g)競
じゆつせい おん %
ある。除㎞はシのこミであるらしい。牧盤はNM\の音である。入盤は『『ょの音 。
) はくせき
*
ぷちゅうおん
せいだくせい
おん 、 おん 。
である。ェはezDBの音である。軽重音は『音である。自石は、之等の精密なる
かんきうさこ
研究をも遂けてみる。
す、 けんきうな こ
こしよ
これ さき
お *
r - *
眠の書は、小冊子に過ぎぬけれきも、之より先に、これまで進んだ研究無く、この後 る
しはら じ だいうへ たくぜつけんしき も
* ㎞、B * きのおん *
もや、軽く、これに及ぶ研究無く、『東音譜』は、時代の上に卓絶した見識を持って居る
のである。
し もん こた
㎞、 ふゆ ぐわつ 、 ミ* さ
これ
㎞、 シは
髪、この名十二用に 『南島志』ができた。之より先、文昭院布世のミき、諸問に答へて、 ち り
りうきうこくじりやく てい 、 あ せいい しうてい さ *
さい
シ事略を望したこミが有る。『南島志』は これを修訂したもので、琉球の地理 世系
くわんしよく きうしっ に、わんぶ 、れい 、ふうをく しょくくわ さんぶっ
けい ぶんけ のみ
㎞ 憲厩、濃㎞、変襲、風俗、食貨、産物を述べたものである。これを見るミ、 ねんふゆ
ほか お い K
BLa) 、 Bはら * 、 *
㎞の撃を弾開してみる他に、かつて、記徳元年春正月、伏見に於いて、また、正徳四年冬

し さこ ものがたり し にすい
ぐわつ き おりうき うニくせつ -
-
この獣を跳けたこミは、 言
十二足、江戸に於いて、琉球國使節を訪うて物語したそれが、

** O
これ よくきやう はう ねんはるしやうぐわつ & を し いま ほくかい
者についで、シには『戦撃志 ができた。翁のェの地理、
じよ き かう はじ せん
浸 参 * O * * * 、B か し㎞ 、シ BB
俗、産業を叙したものである。ついで、又、田賦考、職官考の起稿を初め、翌年秋九月
Jノ
だ や しんきよ おでんふかう はじ くわんしよくかう くわへいかう しやふくかう くわんふくかう がくかうかん
駅 容の親属に於いて、服獣勢を難め ェシ、撃艦勢、 脳勢、製勢の十二盤
くわんせい けいはうてんれいきやうはう ねんあき ぐわつ き く ま ごうがん てがみ
を完成した。これが『経邦典例』である。享保六年秋九月、佐久間洞魔への手紙に、
おんき およ ござこはる こ にち しづか こさこち んざつ うち こさこし
御聞き及びの如く、春より比のかた、一日も静なる事なく、塵雑の中に、比の年も、
ふゆ およきふらふたうねん い かさこし きふらふさこしごろした まを つえ きふらふひさ
はや冬に及び候。なかんづく、常年は如何なる年に候か。年頃親しく申し通じ 候
びさ にん つ、 きせんきふらふ ちやうせい かへり きふらふ ひさこおほ こうせい しゆう
人、十四五人まで、うち績き騎泉候。長生を顧み 候 に、その人多くは、後世の衆にこ

何院 に
きふら こみ よいせいだいかたはか いた かく きふらふ
影月の谷ヶ駄千

れ有り候 へば、比の撃除生のほきも、シ請られ、 かミ致し懸り候ものさも、いま


ら 、求らKG 、㎞ら こさこまを きふらふいさま
巨、 さ さい 、こ 、㎞
だ結課し候はぬ事、それまでの事ミは申しながら、心に懸り思ひ候に、静居し候暇も
むなじつけつ 浅 の き なふ ふしんぐわい いたり きふらふ
は、 ●
無く、空しく日月を消歴し候こミ心外の至に 候。

281
こ ほ&こ さら
たうはるき ふらふ やうや い、
かうだつ き ふらふ
** * * 、キ 〜 *
*ー
さりながら 比の程までに、常春より取りかくり候もの、潮くに稿を脱し候。それ
こさ に
、ほんにお 、シ残、 封転 さ ) こん 院 * べ いに 戸にい シ に% *
は、本朝に、文献通考、通典なきの如きものこれ無く、菅大相國の類緊國史、それに似
石 白井 新

282
もの こみ さんはうきふらふいはん ほんきい こ
㎞らぶ A」 、 * %% % ミ ェ
候ものながら、それも二百巻の物百巻にも満たぬほこに散亡し候。況や延喜以後の事
きふらふ ここ も さうけふ
び、 、 、 V 、つくん
はこれ無く候。たぐし、比の事を以つて、菅公の相業はおもひやられ候事ミ、常々存しな
てんか たいせい あ
残㎞ 院こ %ざんきふらき * * し

㎞っ ミ
し候き。天下の大政に御 志 なく候はむには、いかで、これ程の事を撰述これ有るべく
きふら ひさこさうし こさこ よ き*
○ 行 *ト 〜 * ㎞ ミ) 、「 し ㎞、*〜**
候はむや。比の人藤氏なごの如く、世々政事にあづかられ候家にても無く、はづかに
さぬきのすけ * おこ さふらふ はんだつ
、シ )さ) ) 、
讃岐介より身を起され、政事にあづかられ候も晩達の事にて、その時に至りては、萬
きつ さこめ くわん きふらさふらふ みおんい
* 〜 ㎞っ 、呪 -

機の務のうち、なか〜二百巻の撰述は、御なり候はぬものに候。さだめて、下位に御入
みさふら
『㎞きすで そこ めざし こさ
り候時より、既に共の志こそおはしまし候ミ見へ候へば、誠に〜、よのつねならぬ事
そん きふらふ
ミ存じたるにて候。
たうじ こさ らうせつ ざけしよ すく こし かたむきふらう
ぶんせ あほか きら、
常時、文献も徴になり候はす。殊に老抽なご、蔵書も少なく、年もすでに傾き候て、
せいりよく なきふら こさこ こさん〜 かんがへ っ こさこい な
* っおば *
精力も無く候へば、通典通考の如く、事々に考をもし霊くし候はむ事、叶ふまじきは
もちろん さふらふ 主 こまを きふらふ だい れいがく しんしやく
くに残き gこミ 、に 、シ
初論に候。昔、顔子の 貸、邦 を問ひ中され 候に、孔子四代の濃楽を料 的なされ、萬世
㎞* 転 シ 、シ * * さ
お さふら
* B
の大法を立てられ候 事 候へば、せめて、それらの事をば考 べ置き候はむミ、冊賊、貨
しやふく くわんふく がくぶ しよくくわんきこうじ はじめ だい〜 てうせい けいちやう はじめ ここ
幣、聖服、憲撃、撃舞、職ェの六事の難より、偲%の翻、㎞の裾までの を
ぶ け よさ ふらうこ ざこ ふかう くわん ここ しる をは さふらふ
め、そのうち、武家の代ミなり候ての事は、附考ミなし、十二巻に事を記し乾り候。まづ、
こくか 仁にいけいたいはふらうせつけんぶつ およ きふらふ ここ ち りよ およきふらふ ここ
これにて、國家の大経大法、老抽が見聞の及び候ほさの事、智慮の及び候ほこの事は、
たん み ここ そん さぶらふ
一端を見つべき事にやミ存じ候。
み さかな
でう おの〜せうしよな がた そうじよ な かな た 、いま
㎞ら

化廃

和の六條、各小序無くして叶ひ難く、練序もなほ無くて叶ふまじく候へば、唯今その
忘 * ㎞っ 〜 * ㎞ きふ㎞ き よ ここ
、 い 、

事にうちかくり候てまかり在り候。さしあたり候住居の事 なさ第二ミこなし、比の一事
むね きふらふさ、ころ きし よせいりよく な た じ およ がた かんちゆう はう そ
を旨ミし候虜 に、年も寄り、精力も無く、なか 〜他事に及び難く、関中に忙を添
-9

さふらふ
._影月の谷を駅千

へ候。
はc せき うめ あいこ、ろさしくわんこう み くん けいぼくわんこう
白石の梅を愛するのは、その 志 ひそかに菅公の遺薫を景慕するのであつた。菅公が、
び せん ぶんがく い、 み おこ たちま じようしやう くらみ のぼ おほい しんせい おこ
微践なる の家より身を起して、怒ち丞相の位に上り、大に新政を興さむミしたが、

283
きうもん ひさこ よろこつひ つくし へん のち もん さこ さこく
門の人に脱ばれすして、遂に、筑紫のはてに財せられて後は、ひたすら門を閉ちて、譲

改いん
篠*




たのは
盤 う愛 {
石 白 井 新

284
こ ちよじゆつ
掌忘

ちる - う う りんせん 下 、
は % * 4ーニしょ

*
地に委して、今は、小石川同心町の林泉の間に、門を閉ちて、著述に除
ヘ**a
4じいん

- -
ごさ -
くわんこう るろしうこくし
あの ち 『うち よ
-
邦 懸』は、かくの姫き精紳で著はされたので有る。管公の類緊國史の後を承けて著
*ー

を いま さんいつ つたは そうじよ つたは


- さいはひ
- かく
きく
されたのであるが、惜しいかな。今は散逸して博らぬ。纏序も博らない。幸に、たぐ各
-

1}
せいりよく かたむち よさくわづかいしの これ
じよ くわん
わた ふくかう ざんけつ つには
序ミ冠服考の残峡が博つて、いかに精力を傾けた著作であったかゞ、僅に忍ばれる。之を

よけい はうてんtいくわうきかん れいがく、まつりこさにあが わ よ う、 せいさじよ こう
讃むミ 『経郡典例』は、皇紀隆に濃築の政 撃つた吾が代々の制度を叙して、以って、後
せいてうせい はんれい あきやうはう ねん ふゆ なくわつ さ く ま こうがん あたてがみ
朝政の範例ミしたもので有る。この享保五年冬十一月、佐久間洞厳に興へ た手紙に、
いにしへ こ せんだつ ひさん〜 おほしよ あお まこさこ こうせい き かん
より比のかた、先達の人々、多くの書を編み置かれ、誠に後世の亀鑑ミもなるべく
さふらふ いま ざんかんだつへん はづか のこきぶらふ あおほ
きふらふ おも
ものミ。思ひやられ候ものさも、今は残簡脱篇の僅に残り候もこれ有り。多くはま
おも さふらふらうキ つかく こょこ およ さふら
なのこ さふらふきふらふ これ いま
た、名のみ残り候ものさも候。之をもて今を思ひ候に、老抽なさ、比の如くに、及び候
ふううまへ く も あみ むす さふらふ に さ ここ はかな
・いで しる さふらふこさこ
はぬ筆にて書し候事は、たミへば、風雨の前に、蜘蛛の網を結び候事の如く、あはれ、停
*
ここ さふら はくにき
残る - やまさ さふらふうけたまは さふら
き事にもミ存じ候へきも、博突ミいふものも止むには優り候ミか 承"g候へば、これ
ながきふらふ さふらふこさ さ ぶらふ
、 そん
も、世に永らへ候一 つの役ミ存じなし候事に 候。
お、 ハ も ふうぜん ちゆまうだんしいやしく、ほう
ミいうて比の業を以って魔龍の態細に比して居るのであるか、さりながらシ
あた
3 、 まさ らんら わう がうこ せい
** ミ
* * 、シ うんこ いざしたつ
侯たるこミ能はすんば、死して将に閣羅王ミなるべしミ倣語して、遂に青雲の 悪 を達し *
はくせき せいち てきじ け ふ さて てう はくわい さ あさこ
た自石の政治的事業は、あはれ、八代将軍の手によって、一朝にして破壊し去られて、跳
かた な ださ ふううまへ タ、も あみ むすらは こさい
形も無い。さうして、豊へば、風雨の前に蜘蛛の網を結ぶごミく、哀れはかなき事 ミ言
がくもん じ けふかへ せんざい のち つたは くわうき はなあ
うたその寧問の事業は、却って千歳の後に博つて、その光輝を放つてみるので有る。
きゃ ねんはる ぐわつじやうみ あさこ いしかはさうしんちやう いへ るみくわ
やき う ぶたシのに
この享保六年春三月上己の朝、小石川同心町の家は類火に焼けた。倉庫二棟残つて、
影月の谷ケ駄千 ー●

しよせきじゆう き まつたか ていたく こさん〜 せうはうせんだ や はいりやうち いへ いさな


書籍戒器は全ったが、邸宅は悪く焼亡した。そこで、かの千駄ヶ谷の拝領地に家を営んで、
あき ぐ うつ
秋七用ぞこに移 た。
浅い 偲 ぼく ちく 設 残いをェ いは やし

西 郊 ト 築 賀新成 況

285
ァ引
*ーー
し や
長 。シ のいう う せう


四野 月 開 模 外 ナ
B さ・ノ
注にち ほ㎞っ たく B シシ
蘭 業最 谷 近 香 先 動 桂 樹林 高 影 赤 清

286
石 白 井 新

このくわい いまにいたるさん じふさい ま きすそんしゆいくくわいをかかたむけん


比 曾 到レ今 三 十 歳 獅 期 奪酒幾回傾 撃
ちゆうしうくわんけつ し ち じやうせい
あらた な てんしやくだう お ますだ かくろう よ
縮に成った天爵常に於いて、盆田鶴模が詠んだ中秋観月の詩である。この地は、城
む へた みなかよ ゞ、か さこ きた さこも な はくせき しふじつせんせいてうこ
二里を隔てた田舎である。世を樺りて、訪ひ来る友も無ければ、自石は、終日泉盤鳥語
ここもちよさく よねん 、つ 定 せ ふくあん あたてがみ
を友ミして、たやすら著作に除念か無い。この夏、小瀬復庵に興へた手紙に、
ここ むかし な ここ さ ぶらふゆる あま べんぎきふらふさこころ き
らうせつきよたく
老ェの事 、常は、いづこにてもかまひ無き事に候故、除りに便宜なく 候 所も気
さこころ けうきよ さふらひすで ここ さ・ こさこん
&こく た、いま
の毒にて、唯今の所に橋居し候き。それも既に事なく それまでの事ミ裕じ
すさふらふさこころ こ たび けうきよ おんせういた さふらふ
さふらう 、きょねんいらいしょじんいきょ てい さぶらふみ
候で、若年己来、諸人移居の鶴に候をも見棄て 候 虚に、比の度、橋店も延焼致し 候。
こう また けうきよ か さく きふらさこき しか こさこ きふらふでう にん
さて比の上に、又、橋居に家作し候はむは、時において然るべからざる事に候條、人
けん ここ これ そん さふらうほいりやうやしき か さくまを さふらふ
間の事も是までミ存じ候て、拝領屋敷に家作中しっけ候。
ないさうしゆく まを さふらう よつや おほき さ ひだり かたちや い ふらふさこころ さふら
こさころ
比の虜は、内藤宿ミ申し候て、四谷大城戸より左の方へ十 虜に 候
じん かま さこは ここ そ か


-ſへ
、あたりに人家ミても間遠き事にて、なか〜共の筋よりは、御使に

影月の谷ケ 駄千
*ーーーや


**

芳学
ーマ


駅側


287丁
井 新

人空 し黄鶴楼

288

室鳩巣に勤する自石の友情ー鳩集の楽達と高倉屋敷の講義ー自石の温情に泣く土肥

父子「自石の『明君家訓』評ー晩年の三事友ー中秋にも九月十三日夜にも尋れ来り
候人*これ無く候ー千石の領地と質素の寧者生活ー百愛期集のなかに大著作『史疑』
成る「自石の史眼と『大日本史』評ー鳴呼享保十年五月十九日ー昔人既に去る黄鶴
模ー祇園南海の英詩
さき きやうはうねんしやうぐわっ くわじ むろきおさの するが だい やしき せうはうしよせきか じふこさん〜
これょり先、享保二年正月の火事に、室鳩巣の駿河薬の邸 も焼 」して、㎞家世ェ
うう び ろく き; さう はくふしゆつしきしつか こんなん み これ み
く鳥有ミなった。微藤の鳩巣は、幕府の出仕にさへ着薬へて、魔㎞をして居る。者を見
はくせき てがる つか
て、白石は、手紙を遣はして、
さき ここ かなら てんぶん お まさ し すみ およこさこ
これょり先の事は、必す〜天分に御任かせなされ、ミかくの御悪龍に及ぶまじき事
りうし かうざう き ここ
㎞3 さい こ ㎞
に候。流止行蔵もミより期しがたき事のみに候
・ たく〜を さ
こさこ た ねんご きつきよ おんもさこ さふらふおんしよせき おんしゆろく こさこ
只々惜しむべき事は、多年御枯据にて御求められ候御書籍ミ、御手録のもの、事は、
うけたまはおよきふらふこ 、ろ くる きふらふみ ほか、もの ぜ ひ およ
承り及び候だに、心を苦しめ候。たぐし、これも、身より外の物なれば、是非に及ばす
きふらふ き けいこ がくけふじやうじゅうさふらの ち しよぜき たの たのこさこきふらふ れい
候。貴兄すでに御寧業も成就候へは、これより後、書籍を頼みて頼まぬ事にて候。令
らうさ 」 がくもんみ せいけふ おんこさきふらしよせき お」 のこ さふらふおんはかりささこさ
郎は、いまだ御撃文未成業の御事にて候へば、せめて、書籍をば御残し候 御 謀の事、あ
をくはいにをかひい へをさこいふなき こさ ひきふらふ
ながちに、俗輩買レ田問レ舎等の事に比すべからす候。
それがしかざう しよ おほ きふらちゆう さふ・ ふせう〜 あ さふらふ しよもく
某家蔵の書、もミより多からす候へきも、二重になり候もの、少々これ有り候。書目
ぼ なか いきふらふゆる きくや きふらしさふら おぼ きふらふさこころ
の簿も、なにの中にやらむ入れ候故、昨夜たづね候へこも知れす候へきも、豊え 候 虜
模鶴黄し空人」

かんほん しよ ほうろくもん し き かんしよ あ さふらふれいらうす〜


は、監本四書、茅鹿門、史記、漢書なさ、これ有り候。すなはち、令郎 へ 進むべく
きふらふ こ * もの ほか なに
はを さ
〜 、ドB %、シ
。比のほかの書、恩賜の物の外は、何にても、御用次第御貸し申すべく候。御事も
かまを きふらふ
峡かせ申すまじく候。
*ーー
こ》
逃ら て まへ ここ おんものがたりまを さふらふささこ はづか こ よう たきふら こさこ くちを きふら
比の節、手前の事、御物語中し候如くにて、僅の御用にも立ち候はぬ事、日惜しく
きふら だん おんし なほ あ
さ 、は 誌 〜
へきさ㎞、かな なくシえ無く候はむか その段は、シのもの、獅これ有る 」一%
石 白 井 新

に おほさふらふ
べく候。必す、御心置なく仰せくださるべく候。
れんけつ た きふらふ こさあ3て さふらふ ぷこうもん けいてい しん おな
廉潔を立て候も、事にもより、相手にもより候。よのつねの同門も、兄弟の親に同じく
きふらふいはんさうもん まを これなしんぶうしこはうをおなじうすまを ここさこ さふらふ
候。況や、たぐに同門ミ申すばかりにも之無く、秦風興、子同、砲ミ申すは、比の事に候。
ヒ おこ はづこさこ な で ふらふ かなら けせうがっ紀ーう
仰せくだされて、愛しも〜御聴かしかるべき事にも無く候 ず〜毛%たるシ
こさこ わ
、 正 * シ ミ * 、ミ㎞ - ㎞
夫の如く、又、匹夫匹婦溝漬に経れ候如きの事は、吾が債にあるまじき事に候。
、せっく じゃう ミ ろ きうさう なぐさ み また かなざははん を せ ふくあん い
ミ切々の情を吐露して、鳩巣を慰めて居る。のみならす、又、全 の小瀬復庵に言ひ
おく きうさう ため こ は きふなん すく はかみ
送って、鳩巣の貸に、比の場の急難を救ふこミを謀つて居る。 -
こ あひだ さいくわぜ ひ およ きふらふ きうさうけいひ はつ さふらふ
比の間の災火是非に及ばす候。なかんづく、鳩巣兄こミは、火務し候ミ、そのまく、
りんか またひ は
き あなぐら ひ い ねんらい しよせきならび い ふく
つた
隣家より又火務し、怒に延焼のこミにて、土蔵穴倉へも火入り、年来の書籍井に衣服
さこう ここん〜 くわいじん き さふらふよし きふらふ それがしちき これ にさふらふ おほ さふら るな
等までも、悪く死焼に騎し 候 由に候。某知己のうち、是に似候も多く候へきも、皆
みなたうしよ ゆかり おほ し違うちゆう さふら そく をさむし たふこさこ ここあ
皆常所に由縁も多き衆中に候へば、百足の馬舷の優れざるが如きの事もこれ有るべく
-* -
*
まを さふら ろ
ここ% つこぶ - う ここ おも食し おぼつかこし だい さ ふ・ふち

瞬 距の兵の撃、 酸〜撃なき次第に候。いまだ達ひ申さす候へば、いかぐ心得 な ほこ
きふらふ はか がた きふらしよせきさう ここ だい きい ・ほ %
られ候 らむも計り難く候べきも、書籍等の事は第二義にて、衣服だにこれ無き程の
-
こさこ きふらふ こうへんしゆつこう はかりさミ だんせつ さつい きふらふ
事に候うへは、公湾出頭の 謀 も、断絶ミ察し入り候。
るきよくこそん まへ こさこまを ちさふらふ ぶ てうはふさふら つねん〜うけたまはおよきふらふさころきたいんゆら

委 眠御宿じの龍の事、眠し上け候も不調法に候へきも、常々承り及び候虜、貴太守卵 だいてき
く こ こうおん はうし かた
3**-
うじ せじやう
ぶらうめい
、が くけふじやうじうきた よ ふらふゆる
㎞ * 『ん〜
悪に、亡闘 方にて寧業も成就 候て、常時世上に名撃も候故に、前々
ふ た 、いまらうこ かく こさ
こぶさふらふここ ちかごろざんねんせんはん
* メ
n

り、比の如 候事、近頃残念千萬、さて〜
抜の事も候に、只今老後にいたく 不
みさふらふさうしや もこ み かくい
みさふらふ *

* だ㎞ 、
ミ宿じ候 さしあたり、一家身をよせられ候草舎をも求めて、身を隠し、衣服等無く
かな いへ じ さ *
な にち おく がた さふら
ても叶ふまじく、家の仕器も無くては、一日も送られ難く候はむか。
きうしききうさうい ふくさこくの ていたく いこな
いかなざははん
模 鶴黄 し空人

ミ言うて、斜澤藩の奮識が、鳩集のために、衣服をも調へ、邸宅をも営んで、
じゆんりよく いみ けんじ そく〜
はくふしゆつし
)
に、鍵 府へ獣化のできるやうに霊力せられたいミ言うて居る。その言鮮に、側々ミして
へ -
-*
いにこ
これ かなざは はんきうち * きうさ、
&こうじや、 う つひ
す譲情がある。途に、Nによって、金澤藩の奮知が相謀って、鳩巣のため、再

はくせき きうさう たいいうじやう すで かく ここ きうさう
- はくせき けいじ お、こた
白石の鳩巣に勤する友情、己に比の如くなれば、鳩巣もまた、自石に兄事するを怠ら
井 新

292
てんしやくだう おちゆうしうくわんけつ 8ん こさこつね かなら ゆ さも さも るん わか
すして、かの天爵堂に於ける中秋観月の宴の如きも、毎に必す往いて、友ミシに獣を
し ふみ
*
ち、詩を賦して居る。

かへりみ ふたり じつ 。ねんらいにのしみ さも さうはうきこも


はくせきたいいん
順れば、二人は質に、二十年来襲を基にし獅を発ち薬った哺㎞のである。居の継
ぼくもん いま ひき あきうきう ふ ぐう しの むな
によって、木門は、今や火の消えたやうな有様である。 は不遇を忍びながら、空しく
ペう は るべ〜 っかみ
ミ * % * い㎞むねん㎞ん *
いへのぶしやうぐん たい
二百俵を食んで、徳々ミして仕へて居る。然るに、八代吉射将軍は、家電将軍に獣する
しいが% *
れいぶん せいち も け
いき お さころ
* ㎞だ さ たミ%
私怨あるうへに、濃文の政治を以って、武家の志気を襲べしめるものミして焼はす㎞
これ はくわい はくせき ため しりを よしむねしやうぐん ぶんけう
く芝を破 し去って、シに蹴 られたのであるけれきも、シても、シ
しんこう ふうそく きやうせい またおはい ちから つく あ
を振興し、風俗を匿正するこミには、又大に力を霊されたので有る。
-
さき きやうはうねんあさ ぐわつ りんけ せいだう お ひ 、かうぎこうかい
そこで、前に享保二年秋七月、林家をして聖堂に於いて、日々講義を公開せしめられ
* きゃ %なっ ,いぐわっ きのしたきくたん めい ぼくもん ひさこ まいにち たかくらや しき
たが、享保四年夏六月にいたり、木下菊遭に命じて、木門の人をして、無罪、鶴 屋敷
せいだう たかくらや しき はたもきはいしんおよ ちやうにん
にシのシめしめられた。鷲もェも、ミもにェをして、
きのしたきくたん 『さうさう
-
たうじ ぼくもん がくしや は &こ あ すくな
- めい 7
る。比の命を受けた木下菊澤は、鳩巣ミ謀つて、常時木門の寧者の江戸に在るものが少
じんせん くるし *うきう てがみ
いので、その人選に苦んでみるこミが、鳩巣の手紙にある。
たかくらやしきかうだん ここあひきま *を さふらふ きのしたけ もんじん かう さふらふ
高倉屋敷にて講談の事、いまだ相極り申さす候。木下家門人ばかりにて講じ候やうに
おほ わに きふらふ さふらふか* い へい% か
シゆかなあ へい,
仰せ渡され候よし。石川近江守殿より平三郎まで仰せ渡され候。上には、平之丞門下
あめ こ ちきさん
だいぶ ない〜きこそん たてまつ

これ有るやうに、内々開し召されたるこミ、宿じ 奉り候 -
-
はつさりさこう
うふふ た
らうふたり はいしん たくいま こらうみなきぜんきふ
、老夫ミ服部藤九郎二人ばかり、倍臣にても、唯今、故老皆騎泉候故、誰もこれ無く
きふらふ あめのもり るるせう〜きふら ざいこく おほ たうちわ あは きふらふこ じま
。雨森なさの類少々候へきも、これも在國のもの多く、常地に在り合せ候は、見島
へいべ る ほか きいのくに をかだ ぶんざう ふたり ほか な きふらふゆる へいざらうふ
模鶴黄し空人

平兵衛の外、紀伊國に岡田文蔵、この雨人の外これ無く候。それ故、平三はじめ老夫
さこうらうみ ぎりやうにん あは きふらうにん あきふらふ あらみ し よりあひ ぐみ じsくわん これ
藤九郎に、右の雨人を合せ候て、五人これ有り候。新井氏は、寄合組にて儒官にて之
な きふら なきふらふ

293
無く候へば成るまじく候。 はくふ *)ゆくわんこ
は、すでに幕府の儒官であるから、比
庵盤 共流
に に に、 渋 じゆくわん れ つみ &
劉 は

さ、 *
、もミよりの事であるが、三人ミ共に同じく幕府の儒官に列して居る土
._石 自 井 新

294
ひ み
** * * に 、 梁 した かさ 、、き*・、、ぜ い)#
肥 除かれて居る。これ、三人は木下順庵の門下であるが、霞州は、白石の門
じん ため い は 、か
人ミいふこミの貸に、忌み揮られたのである。
*
B# :、、シ 既㎞ :、、お 、シ へのぶ㎞%、っか しやう
土肥霞州は、白石門下の碑童ミいふので、十歳のミき、初めて、家宣将軍に仕へた。将
き さいく
ぐい さ ひつ かけういく
した はくせき めい
*
軍は、そのシを愛せられて、特に、膝下に置いて親しく㎞せよミ、シにェせれら
はくせきわ ていない ひさこ わこ おなけういく か しう さい
れた。白石は、吾が邸内に引き取りて、吾が子ミ同じく教育した。これが、霞州十三歳
さ・き が しう はじ だいいへのぶしやうぐんしゆつし よくねんしやうぐわっはくせきか しう ちくさちゆう
の時であった。霞州が、初めて六代家宣将軍に出仕した翌年正月、白石が、霞州の父左仲
お、 てがみ ごさこ あぶ
、シ * 、はい はら さ*
に送った手紙の如きは、賞に、師弟の熱情の溢れたものがある。
ひ% らうがくもん こさこ おほ *
きふらふるい 、こ もつさも さふらふ さるふゆ ぎ けん ごさこまを
源四郎學文の事につき仰せくだされ候こミ、継々御 光 に候。去冬も戯言の如く申
い さふらふさほ いそこさ さふらふ たくいま さこほこ よう い か あひ すまを
入れ候通り、もはや急がぬ事に候。唯今の通りにて、御用は如何やうにも相湾み申す
きふらふ こうへ てんか た、う ぐおん きふらふいなあひだ こさきふらふ
べく候。比の上は、天下の道具に御なり候か否やの間の事にて候。
&うせうめ - さふらふこさ まを " らうせう ひさこ なし きふらふひさこ まを
幼少ょり召し出され候事ミ申し、かつは、幼少より人に名をも知られ候人ミ申し、い
---
-
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器 露も
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後ち

|


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は -

* 砦

296
きぶら ふ はづか みをかは わた きふらふちやぶ ねこ㎞ あ せい
シ) ・ き㎞
候。僅の清河を渡し候茶舟の心得にては、傾覆の事怒にこれ有るべく候。たぐ〜継
き こ そん たてまつ きふらふ
に候やうに ミ、存じ 奉り候。
* **
じやう しゆんぶう ごさ けんかい しうきう きさ けういく もさ こうがく かたはら いきこ
* * * まゆ
かうして、温情は春風の如く、厳戒は秋電の如き教育の下に、攻撃する傍に、暇あれば
はくせき ちょきく ほていじやうしや たす を
、シ)持説 、き比 *
自石の著作の補綴浮寛を補けて居つた。されば、自石の退隠 ミミもに、霞州も、また
よ はうむ はくせき もつさもこくろいた あ はた たかくらや しき
世に葬らる、に到り
到りはせぬか ミ、白石は、犬 心を痛めたので有る。果して、高倉屋敷の
かうぎ はじか しうひさこそぐわい -
きやうはう ねん はるしやうぐわっ やうや
講義が始まっても、霞州一人は、ミかく疎外されてみたが、享保六年春記用にいたり、 瀬
もち
* はっさりくさいさも さ ひか しうたかくらや しき しゆつし めい
く用ひられて、木下菊漂、室鳩巣、服部寛斎ミ倶に、土肥置州にも、高倉屋敷の侶眠を館
ぜられたのである。
-9

はくせきか しうち、さら ゆう むかかしう はくせき もんかよ


模鶴黄し 空人

そのミき、自石は、霞州ミその父左仲に向って、霞州が自右の門下ミいふばかりで、世
なくう お くさく
き おも かた みあ きやうはう ね *
*
いか にも気の毒に思うミ語つて居るこミが有る。享保七年冬


き く * &ここ てがみ こさこい み
佐久間洞魔に送った手紙に、この事を言うて居る。 -
け ぜんだいお あづき
ひさこ


ふら
ふら



ミきより、前代御預けの人に候へば、
やすく



ぎふらふ 〜 さふらふ たかくらや しきじ きふらふ あるひさこ
初論に 候。去々年にて候か。高倉屋敷の儒者たち少く 候 ミて、或

298
さも もんりう き ふ よしき
らうせつこ きた さふらふこさこ あ さふらふらうせつまを
源四郎事は、木下の門流に候由にて、老抽へ問ひ来り候事これ有り候にっき、老抽申し
- - だ * しよそだ
けな ㎞ せら ㎞
へ 目し出され、老抽子供ミ 一所にミり育て

こく
&
いら おほせ む いら - A じ をし さふらふここ な ふこ ひさこ











候へミ、仰を蒙り候へきも、老抽何を一事教へ 候 事も無


へい



りよく まなら ひさこ さふら らうせつで し あさ じやう
力にて寧び得し人に候へば、老抽弟子に有る 。しかれば、平之丞
もんかまを さだ がたきふら *を き
門下ミも申し定め難くもや候はむミ、申し切り候ひき。 ●
ここは ここつ y きふらふ あるひさこ せつ ぜんだい このかさふらふうへ
たうぶん こ
常分は比の言葉にて事闘へ 候 ミき、或人の説に、前代筑後守へ預けられ 候 上は、
で し ゆかり きふらふ まを けつ きふらうたかくらや しき しゆっきんきふら
弟子になくミも、由縁は 候 ミ申すこミにて、一決し 候
ここ きるはる らうしんすけけん らう にん
の 薬にて、シに至りて、平三郎㎞四郎三人の
-

きふらふこさ さふらひ
ほep ㎞かまを
中の評に、講説第一なき申され 候 ミの事に 候 き。
こ それがしけん らうならび か をうまを きふらふよ よさ ふら ぜん いお あづうへ
比のミき、基源四郎罪に家翁 へ 申し候には、世も世に候はぐ、前代御預けの上は、
らうせつまを ここは あきふら たう じ ここらうせつもこしゆつしんきふらこ %
老挑戦す言葉も有るべく候べきも、常時の事にて、老抽下より出身めされ候衆中、皆
。模鶴黄し空人
世* ぬ す 比*

を、剛 。 の。 携 ノ \。 も
果* 毅*
け な
高劉 如き に 器歴
てこ る 義ぎ #き
恋競 白。 理り 白
* に 総
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下函95下

たので有る。

300
新 きうさう だいしやうぐん 〜んにん B ちょい めい へんかぶ%」 た うぐん んゃいさこころ

鳩集は、おひ〜八代将軍の信任を得た。その著の明君家訓が、一度将軍の賞する虜ミ
らくやう しかた ド たちまきうさうめいせい
りうかうしん
白 なってより、その流行は、眞に洛陽の紙債を臓からしめたのである。怒ちに鳩巣の名盤は、
はうさこ 、ろ はくせき さきき くま ふうがん おく てがみ
石 四方に轟いた。白石はこの時、佐久間洞厳に送った手紙に、
こ ひさこ ここ じ せい ひさふら ひミ な さふらふこさこ よ
比の人は、よのつねの如く時勢に引かされ候はむ人にも無く候。たしかなる事は、世の
ひさこし な もちろん きふらふ たうじ きうぐら ここ かさせいし さあ
人知るべきやうも無き初論に候か。常時遭遇の事にて、重ねて誓紙なき差し上けられ、
き みつ さこうづか さふらふまを ここ きふらふ
機密の事にも預られ候なさ申す事に候。
ここ らうせつ あきふらふまを まを ここ きふらしゆつくわい
これらの事、老抽へ逢はれ候にては、中すも中さぬも、むつかしき事に候へば、出 曾
さふら もつまを きふらふこ ひさこ めいくんか くん お さつ きふらふきふらふ
せられ候はぬは、光ミも申すべく候。比の人ゆきかた、明君家訓にて御察し候べく候。
着む
















やうき
噌 17
さふらふみそ だいじる 、 うすま さふら こょ、ろ) すち
かはらけっ





シ、きBQミ


ゆ至り ここ

こき

ゆく

*Q
みち

2いぐう











づれの
繋 倭ー

さ、き
、お ド、、 これ れいは み
ミ、鳩巣を以って時に伝び、吉宗将軍に阿るものミして、之を沿属して居る。しかしな
せき かい そし
せらしェ
がら、鳩撃も、また、 石の小心狙介を護りて、
膜髪 恨 ら

理"

-
うらむ

ぎ せ *
円 や 注いに沈) にほ い へいぜい 、さ㎞ ゆる せいじん
恨らくは、 義 の精潔なるミころ、鶴認の功、平生 悪く候。それ故、聖人の寧ミは、一
くへだく おぼ さ


膜隔りたるかミ覧 え 候

ミ言ひ、また、
しこうがなくおのれをすてくひそん
* ・ タg 毛したが * * & あこ さふらこふ
至公無レ我棄、己従レ人の 志は、いかぐこれ有るべきかミ存じ候
あるけさこ てがみ い み かつら 3 こ このる もさこひろ につき

ミ或人への手紙に言うて居る。曾て、江戸に来られた近衛基熙も、その田記のうちに、
はくせ き ひやう をしむけいかく ん おも あは
**
* * 4 さ、あい はく
自石を評して、惜らくは、主角が有る、ミ言うて居られるのを思ひ合せるミ、いかに
せき
模鶴黄し 空人


はシ、 * 訳は 、お * 〜 * 〜 さ
石の性格が、狙介不覇で有つたかく、わかるのである。 A〜
き ひか かは ちよさく み
かのビシ世ま、 らすシこ耐
石 て、 )峠シ
かの土肥震州は、漁らす自石に師事して、著作の補綴浮書をして居る。しかしながら、
くせきかしうふ ぐ たかくらや しき し ゆつし よろこ


自石は、霞州の不遇に同情して、その鶴亀屋敷の出化を焼びながら、やはり、総びそか

301
た あ

し ぎ %% で き し だいさ ひ けん らうすき 〜 かいしょうつきふら やく

302了
*
史疑は、一巻づくも出来次第、土肥源四郎に、隙々に措書に寛しミめられ候へミ約し
井 新

まを む ようこさこ ひま
*㎞* %) ㎞ぎ * ト 、 ほた * 、 〜
候。これも、高倉屋敷の講義なき申す無用の事に隙を妨けられ、さやうの事、はかゆ
きふらふ
きかね候。

おく てがみ はくせき かけぎも


さく まさの やみ * % * 時、将

*
ミ、佐久間洞厳に送つた手紙に言うて居る。白石は、高倉屋敷の講義を以って、無用の
み 「 さよく
ここ きうさうか
B、 だいしやうぐん めいだ 、 かめや% しゆっん
事ミなし、鳩集や霞州が、八代将軍に召し出されて、比の講鍵に出仕して居るのを、曲
さく ま ごうがん あた
が 、め 、せい)%Qじ きゃらぬうねんはる ぐら *
、寧阿世の晒事ミしたのである。享保八年春二月、佐久間洞魔に興へた手紙に
ねんおんいきふらふ こうし くん
だいさこき しうこう
、 B 、シ 、 ㎞バ
三代の時に、周公さへ、東山に三年御入り候。孔子七十二君も、栖々ミして東西南北の
おんひさこ つひろ らうしきふ さこき もち きふら 、こ、
ふさ
御人にて、遂に、魯にて老死なされ候。しかれば、時に用ひられ候はむなさ心得候はむ
ミ* 、さうてんめい〜 かみ
かな ひゆ、、 ㎞)。 き㎞ 〜
は、必す曲寧阿世の人か、斗管の人たるべく候。ミにもかくにも、蒼天明々ミして、上 て
ふここ
てらき ふらふこさ さふら ふぎやうは
ふらふ ふぎや さこ ろ も しんだんしまを さふらふ
- さ ミ 〜
に れ 候 事に候。備仰棟づる虜なきを以つて、眞男子なさは申すべく候か。
よ ひ
はい 江し、シには 区% )、B試


き し。
偲 て、風系れ、道行はれざる股末、周季の代に比して居る。
こうがん てがみ

*ヘ
た。


の手紙に、
しんすけ&このここ おたづね さふらふさころ また てんいこうじ ら 、ゆおる これな さふらふ
㎞ 、、、
新助殿事も御尋に候虜、これ又、天満ミ同事にて、常年は、いまだ相見えも之無く候。
、、」) ” シらし 、ひ> 北院 、Nお 、ド
先は、比の衆中は、我等下より出身の人々故、我等へ親しきやうにては、公漫いかぶ、ミ
そんりよきふらふけしき さふらふ ひか
㎞お、、、
遠慮めされ に候ゆる 、こなたよりは、なほ〜さし控へをり候。書通は、をり
てんきう さう だいしやうぐん しんにん に み

ミある。深見天満も鳩巣ミこおなじく、八代将軍の信任を得て居るので有る。かうして、
ぼくもん さこん〜
こす きよ おん はくせき そむ さ はくせきまじは せき
㎞ * ミ* * さ 、 シ、 *
門の奮友は、悪く推撃の恩ある白石を背き去った。されば
推 37 比の頃、白石の交りて、寂
れう なぐさ さこも はん あ さかたんはく せ 、 さ
せ んだいはんこ く こうが
まん
3㎞)
**
に沈。
撃を慰める友は、水戸瀬の要㎞、盆㎞ 小瀬復庵、仙豪藩の佐久間洞厳の三人で 0
あ はん ねん まじはり
有つた。みな晩年の交である。
たんはく すきやうはう ねんあきばつ みやけくわんらん さこも はくせき
、 ㎞)母ェa
模鶴黄 し空人

湾泊は、過ぎし享保三年秋残した三宅観潤ミ共に、水戸藩の史館継裁である。白石は、
きやうはう ねんあき ぐわつ ほんてうぐんき かう はに、、 お べ たいしゆひつ らう
)
この享保七年秋九月、かの『本朝軍器考』を湾泊に送つて、いかやうにも大手筆を勢せら
じよはつた まい おく たんはに ふゆ ぐわつ はつぶん べん おく

303
れたく、また序戯をも賜はりたいミ言ひ送るミ、湾泊は、その冬十一月、戯文一雇を送
かうほん い けん ちが さこころ いんようぶん ご だつ あ だろ せ% かへ はくせき
り、かつ、稿本に意見の違ふ虜や、引用文の誤脱の有る虜に附筆 して返してみる。白石

#悲

きよねんきやうはう ねんあき な
*
は、去年享保六 年秋八月、湾
井 新

304
きふら みい ここ うけたまは み つかまつさふらふ これ すさ さふらふたのしみな

事を 承りも見も仕り候は、是に過ぎ候 楽 無
こさ きふらふ しか **い
い〜お ひいん ぐしや さく あ きふらふこさんや つく がた しあはせきふらふ

き事に候。然 るに、毎々御庇陰にて、愚者の得これ有り候事、謝し悪し難き仕合にて候
もさこ せんろう しつ はんがく こさこ こさこきうねん

ひくわんいうさうざいこくろ
固より浅晒の 質、しかのみならす、 の事、殊には、壮年の日まで、官遊東西に心
もち きふらう せふれう ひま み に、ざきふらふさころ そん から こざこ せんだいさうぐう のち
渉猟の暇なき身に御座 、存じ懸らざる事により、前代遭遇の後に
きふらふここ しづか こさこ あきふらひ
っき候事にて、静ならぬ事のみにこれ有り候き。
せい かう そ じんじ しやきうゅふ しう きふらふ たのしきふら じつ

の華さ在じ、人事を離継し、シを樹し 候 を襲が候 きも、鶴
さぼ もくぜん こさ さふらしさふら こさことも た *
に、獅撃固園、その上、家書も乏しく、昆敵の撃に候はむも、難れ候はぬシ、勢々
のちまいじ せいもん ここさふら こ ほんききふら ここあふい さ ころきふらふ
のみに こ
の後ミても、毎事請問の事候はむに、御厩棄なく候はむ事仰ぐ所に候3
しつや いよノ〜 しやう し ぎけん き
きゃQ%うねん シ、 だい㎞っ うう

ミ謝してみる。 享保八年、自石が、念一生の大著述である『史疑』の研究にかくるミ、水
きこ こ じ けふ たすかうせふ う
㎞、 * はくせき これ こさこは あ
戸藩から、比 事業を助けたいミの交渉を受けたが、自石は之を断つたこミが有る。お
これ たんはく かういあ
もふに、 者も、 瀧の好意で有ったので有らう。
-
を せ ふくあん かなざはは ん はん
いきまんねふしふ はくせき しはくしつもん
小瀬復庵は金澤藩の藩賢である。萬葉集について、白石は属質問をしてみる。また、
響 し ち れう
ふくあん かい いうやき こくこがくじやう をしへ う はくせき かなざははん そん
復庵を介して、その師標寮からも、有益な國語學上の教を受けた。白石が、金澤藩の奪
けいかくぶんこ ざうしよ み ふくあん じゆんりよく ため よ ひみ
経閣文庫の蔵書を見るこミのできたのも、復庵の霊力である。これが貸、世に秘して居
じ ぶん ちよしよ ふくあん そんけいかくぶ こ をさ み
きゃらはら ねんはる ぐわつ ふくあん
る自分のシをも、復魔を発して、 経閣文庫に継 めて居る。享保六年春四月、復庵の
もさこめ せいやうき ぶん きつ をささこき はくせき てがみ

求にて、『西洋紀聞』三冊を納める時、白石の手紙に、
いま いた すみびやうこんがんそれがし ちから ふくほんさうつく お きふらふごさ のをみた きふらふ
「に至りては、衰病音眼、某の力にて、副本等作り置き候事は、その望も断え候。し
こ たび しゆくゆう わざはひさこう それがしかざう こ ほ ぐ さこうまぬ さふらふこさまこさこ き きく
かるに、比の度なごの祀 ㎞の災 等 に、某 家職の古反古等免がれ傑事は、誠に奇特の
こさこ きふらふ こうへ こさこ なほまた がた きふらふ けんは ぶんこきふら こさこめいざん さう
事に候。比の上の事、獅又はかり難く候。賢藩なきの文庫にも候はむ事は、名山の蔵
-9

ひさこ にんけん さんらくつかまつ こさこ なきふら みこく ろ おう うつ もぎこきふら


模鶴黄 し 空人

に比しく、人間に散落仕るべき事にも無く候へば、御心にも應じ、寛し求められ候は
ほんまうこさ さらふいは はうし こさここ おん もさこ かく こさこ あきふら
むは、本望の事に候。況んや、亡師事は御恩の下より、比の如きにもまかり在り候へば、
Qン
* * -
これ けん、い こさこ
こ はうしまうきよくん
お ま、ひく さふら

より潤城の事も、いかさま、亡師闘極の慰の鶴一をも報ひ
すきやうはうねんなつ ふくあん きやう かへき だいじん でうつなひら ここは つたい
ミある。過ぎし享保四年夏、復庵は京から騎つて、左大臣二條綱平の言葉を博へて言ふに -

306
新 はくせき じつ こくか たから みちよ ひさこ -
こひねが じ あい

は、白石は質に國家の質である。道のため世のため人のため、希はくは自愛せられよ。
いつた これ も ふくあん かうじやう みつ し あ
白 ミ言はれたミ博へてみる。之を以つても、復庵ミの交情の密なるこミが知られるので有
石 る。
き 、ドド はくせ き もつこもしんみつ かうさいたがひ さこうさい
佐久間洞厳は仙豪藩士である。自石は、これミ犬親密な交際をしたけれきも、互に東西
みり へだ すっ ね しんみっ て がん わうふくつひ &こめんくわいき、 な
百里を隔て住んで、毎に親密な手紙を往復するのみで、遂に一度も面曾する機が無くし
-
はくせき さき& ばつ はくせきこうがん
&)、 おく て かるう これ
-
かけら つら いま のに みみ
て、白石が先に没した。白石から洞厳に送った手紙は、数十通も今に残つて居る。之を見
、・・シ。) おく、てがみ
* 〜、 ㎞、へ* 、pるら
るミ、さすがに剛毅狙介の自石も、洞厳に贈る手紙には、不平も、煩闘も「楽も、喜「も、破密 **
せっかく さころ
ないシ ト 長㎞)。シ、説 に 〜 きい
も、一切隠す虜無くして、飾るミころなき自石の人格が顕れてみる。なかには纏々数千言
つく
、ほらノ 、) う
3 、 、こ Bシンこ )、 こい

を霊して、切々の情を傾けてみるものが有る。いかに肝臓相照した友で有つたかぐ想像 シ
〜 い。っ㎞た、、 さうがん 、た ひみき な
される。かうして、犬親しかつた洞厳ミは、遂に相見る期が無か
カ*
つたのて
ふくあんたんはく ふたり こさ でんしゃくだう し もん き*
こ が しうますだ かくろう ふた
て、比の低魔㎞の三人が、時にシの柴門を購く艦には、主肥質州ェの
盆 人 巴
**
- 「㎞
* -
シー 『 撃
き - ば


シ *、
* * *
が、慰離を撃うて、鯨に訪ひ弱るので有った。 ・
ぐわつ そんし
はくせき きやうはうねんはるしゃうぐわら なひ ふ 、ぐわっ いた やうや くわいゆ ●
国宿は事保 年春正用、病に駄して、三月に到って潮く快癒した。そこで、四月、孫子
へん またふで さこ これ こく
ちゆうしゃく なつ ぐわつ そんぶ」へいはふた、
の書 響にかくつて、夏五用、『孫武兵法撰』十三篇ができた。すぐに、又筆を執って、之を國
き ぐわつ だつかQ そん* へいはふたくふくけん こ* * ぐら さ s ?g
語に書いて、七月に脱稿した。『孫武共法揮副言」が之で有る。 この八月、土肥霞州への
てがみ -*
*
-
手紙に、
ぶん ぎ、、、きを およ
㎞おき㎞ふ はんめ か、 さ㎞ はB)に
獅子撰序をようやく脱稿 候 まく、御目に懸け候。例の如く、文義は中すに及ばす。
お ころ ここ きふら かく ごさ
じ はふく はふ かお さふやぶこに浅ほ さい き *っ に いそ
学 付法なき、御心に懸り候事、備せくださるべく候。犬、急ぎ候はぬ事に候。比の如
、するはいきふらう 、なが な さふらふ すこ いき、 さふらう
くに衰鷹 候ては、ミても、長もちなすべきやうも無く候。少しも息のか、り候うちに、 撃
-9


こさ りこ さふら。 * をん きふらふゆる かく ごさきふらふ
模鶴黄し空人

事を残し候はぬやうにミ存じ候故、比の如くに候。
た。
びやうこみじやく おちま さく よねん くらみ あ
あみ
ミ有るのを見るミ、病後の六 競弱を押して、著作に余念なく暮して居るので有る。また、
ぐわつ ごうがん あた がみそん はふ

307
この六尾 ㎞に撃へた手紙に、このシ』の魔れるこミを告けて、
の こ、
-

いグ
さ いつは あざむ
こんにちたいへい
たい よいじ%
ミかく、 シの世の 事をも、 子 のェにて、人をシ、みづからの私智

も せいみん ぐ シふ け めんもくきふらふきく
残㎞ふし ゆつ
井 新」

* 貸㎞ * * かな
を以つて、生民を愚にし候が、武家の面目ミなり候やうの毒を、天下に流し候こミ出

308
㎞らふ
来候か。
は だきは やうぼく がく ひら きふらふ まを さふらふこ かけん ひら
〜 * 〜 、シ

むかし、子血子鮮せられて、揚墨の學も開け候ミか申し候。その後、董仲鮮百家の言を開
ーーー

、 は え かな
、い がい ㎞ 、

こい
かれ候ミも申し候。必定、比の後、孫子にて、世の害出来候はでは叶はぬ勢ミ、たし
みきふらふ

かに見つけ候。
いみ みこ
㎞、ト、評 ば ) び
ミ言うて居るのを見るミ、比の著作は、時世の弊を救ふにある。
かへりる たびよ た もん ちよさく じゆうじ やない せ%る 、
、 - * ド * *
顧 れは、一度世ミ絶ち、門を閉ちて、著作に従事してより、七年以来の撰録のもの
** やなお な 、 K 、F ㎞・BL 。 * *にさ* *
きも、六十除巻十除部に及んだミ、この六月、佐久間洞厳に告けて居る。しかしながら
-
はくせき な はんしよ いた
、 まお 、球 、 さ ㎞、、、、 ㎞
白石には、彼のいはれ無き幡書の惨しい記臆がある。されば、これらの著作は、深く筐
てい ひ きやうはう ね あき ぐわつ ごうがん あたてがみ
、はしめ 〜
底に秘して、世に示さなかった。比の享保七年秋九月、洞厳に興へた手紙に、
それがした、いまみ よ ひさこ いか きふらふこ さき あた それがし い か
* * こ
基唯今の身のほき、世の人は如何に心得居られ候やらむ。比の時に常りて、基は如何
り せ せ こもつミも きふら
い、 ㎞ いき ㎞ シに に、そん
なるが常然の理勢に候か。世態人情、それにては、ミくミ御存知無きは、御光に候へ
てんいさうらうじ おきっ きふらふさふらふ ぬすびミ しゅじん にくまを ここ きふらふ

比干す
ーさも、天満槍浪の一二事にても御察し候べく候。盗は主人を憎むミか申す事も候。
それがしら もんじ こち がく すち いろ こさは いきふら もつて ほか こさ さふらふ
べて、某等、文字の道、寧の筋、色にも言にも出で候はむこミ、以の外の事に候。
こくろ それがし しん ためし そん はかりこさこ きを これな さふらふ
の心あつかひ、基一身の貸、子孫の謀ミ申すこミには之無く候か。


きよめい も ぶんべうおんし せき けが
- てうせん つね かんは まを きふらふ
〜 ミこ中し やう
慮名を以って、文廟御師席をも汚し、朝鮮のものきもく、毎に につ
こさこのち しんしたいしう い きふらふ それがし 、いあん だつ き ふらふ まを

の 候露 京* し
及翌 本脱 しき 北雲 か
の事、その後の信使も、勤州へ入り候ミいなや、某の平安を尋ね 候なさ申し、こ、
しつだんぶんしやう せ きまを さふらふうけたまはおよ さふらふ
この筆談文章の席にも、なにやかや申し候ミか 承り及び候。それのみならす、
かんりん まを きた きふらふぶんしやう 、 あ きふらふ しか それがしをは
の輸林までも、ミやかく中し来り候 文章もこれ有り候。然らば、基終りをよく
てんい なん ここ き くわ さふら ふんべう おんめがね うしな に
はぬこミ、天満二男のやうの事の奇禰も候はむには、文廟の御目鏡をも失ひ、日

ちじよく はんり そさこのこきふら ふ ちゆう だい ふかうふじつみ まを
模鶴黄 し空人

吐辱を萬里の外に残し候はむは、不忠の大なるもの、不孝不慈の罪は、申すに ば
さふらふ
ミノ〜、 ほ
々、おもはぬ外の
*-ー
う づのみや あうづ

門の宇都宮、倉津にて
初焼 川 は

か がふかう さくしゆ
-勢

-
・ ・ 、、 にか # あらは さふらふひさこ
*
ちか ころ
*

こむ *
四家合考の作手、柳川にて九州電記を著し 候 人、通き順も、肥後の艦龍 、鶴% -*
。石 白井 新

せんじゆつ しよ ここ じめさふら

310
ミニし - * Q- てんし ち し なん
撰述の書の事にて さ
はさこそ秘しもこそ候はむすれ。 天知る地知る次知るにて。 世
4
* 、さ、た ㎞ や か ㎞ 、シ い、 さぶ ぜんしゃ ふくてら
の申し沙汰し候事、次第〜に魔がり候て、皆々、終をよくせられお候 龍撃の瞬職
ここら ふ
比の事に候

それが しせんじ つ これ あこ ここ &


&こ ひ
これにより、基 操 述のものく之有る事は、土肥なきは大かた存ぜられ候はむ。その
は、 *
なき
およさふらふここあきふらふ きんきんいらいか てんし ち
除は、なか〜名も聞き及ばれ候事有るまじく候。近年以来、それら、彼の競知る地
し なんちしき
おは さふらふちゆう ちゆう もし ゆ
知る波知るにて、こくかしこより、聞き及ばれ候ごて、 二重三重のつてを以つて、種
じゆち けい みか まを きたさふらふ あ さふらふ *きたな *を
種の智計にて、見たき借りたきミ申し来り候も、 これ有り候に、跡形も無きこミ く申
こた うす きふらふ
し答へ、打ち過ぎ候。
〜 * い%ゃうぐ% な はくがい
㎞ 〜 〜 きり
か はくせき

いかに、八代将軍のいはれ無き追害を恐れたかぐわかる。しかしながら、斯くまでシを

こしゃ ぐ%ょ%やねむろきうきうっかひ はくせき &つけん し もん こた もさこ
悪んだ将軍吉宗は、かつて室鳩巣を使 こして、 白石の調見して諸問に答へむこミを求め
っよじゆつ じやう はくせき これ こたらうすみ じ
シの上競をも望まれたが、シは芝に奪ふるに、壁にシして、一撃の記
おく な ●ちよ さく たびん〜 くわさいや せうほう い のが あ さかたんはく のをみ よ
*
も無い。著作は、魔々の火災に悪く焼亡したミ言ひ通れながら、安積湾泊の望に依っ
を せ ふくあん よ ぶ をさ み
み かなシ% ,
て水戸藩へミ、小瀬復庵に依つて金澤藩へ、二三部を納めて居るので有る。
よく きやうはうねんなつ ぐわつ じ なん よしのり やまひ ぼつ よしのり &こ ひ」か しう
、享保八年夏五用、次男の宜卿は病によって没した。宜卿は土肥置州ミミもに、
せき じ ちよさく たすきよねん ふゆ ぐわつ する かりそめ やまひ ふ
毎に、自右に侍して著作を輔けてみたが、去年の冬十一月の末に、個初の病に駄してより、
やく さい らうふ
ね を は、
*
、% 、㎞、 さ 、
けたけれきも、遂に、再び起たすして、憂に沈む六十七歳の老父
Qs い さかり
さ むかし おに
ゆい はくせき
に先ちて、年は二十五歳の盛を、逝いたのである。昔は鬼ミ言はれた白石も、さすがに、

疎襲こ


照。 盤




らく けつ かいちよをくだる

鑑 飛

繋赤
落 月 下ニ階 除
ー●



そ ず をて す
* ひさを 、
模鶴黄し空人

窓 HT 不レ見 二 譲 書
か ぶ、 な てら
s ほたる さむら へんしき
㎞、 * たまに 達
これは、加賀の奮識から、亡き魂の行衛照らせよ飛ぶ営、ミ用うてきた返詩である。
ぐわつ か きせんさふらふか いま
㎞%そKB % き 、
息こミ御たづねに候。遂に療養叶はす。五月十四日騎泉候。これにつき、一家今に H
3
呪も 、“㎞ 、㎞ 『 ド)は、
魏徳 御察しくださるべく候。老後是非に及ばす候。それにつき、老母の母 ミし八
およ さふらふ これあ きふらふしうしやう
-9

たいびやう いま ちうやこくろ な きふらふ


十に及び候が、之有り候。これまた、慈傷にて大病、今に書夜心のいミま無く候。よき
._石 自_井 新

312
た きふらふ
方にはまかりなり候。
きるふゆ いま たいびやうにんに きふらう それがしまたこ しよちゆうきん〜 し はせ あひわづら さふらふ
去冬より、今に大病人絶えす候て、基又、比の暑中には、散々の仕合に相類ひ 候。いま
こんかきふら むすめひさこりさふらふ これ かたきふらふ しさ ふらふ ここ やくち つこ
だ婚嫁し候はぬ女一人 候。之を片つけ候までは、死し候もいらぬ事かミ、薬治も勉
さふらふ 、 つ〜つかまつ ひ おく さふらふこさ きふらふ
め候。なにか露々 仕りて、日を送り 候 事に候。
こ ぐわっ き くま さこうが ん おく てがみ &いゆう じやうちよ めん
これは、比の七月、佐久間洞厳に送つた手紙である。さすがに、 の情緒をして、綿
めん いさ ここ

綿ミこして締の如く園れしめた。
儒図
きむ きしの せんだか
%だ やかうぐわい てんしやくだうかんしや
んしやくさうがん おく
は来た。武蔵 野のはて、千駄 谷郊外の天爵堂は、さらに関寂である。洞厳から送り
きた みやぎ の はぎまいくわいくわ ていじやう きみだ ちゆうしう むか よ
来 は
野の萩は、増魂花ミミもに、庭上に咲き蹴れて、仲秋を迎へた。比の夜、そこ
むし ねこきよ
あめせう〜 ふ そく つき な ため ひさこりさこも さ
-
こ、に、霊の音は清いけれきも、雨粛々ミ降り濃いで、月は無かつた穏、一人の友も訪ひ
きた なあまたれ おさこ や むなし もん たく あ 〜 ねんらいちゆうしうここ

来るものが無かった。雨垂の音が、一夜空しく柴門を 叩 いた。鳴呼。三十年来仲秋毎に、 *V
きういうあひくわい てんしやう おちゆうしうくわんけつ くわい さこし
詩を賦し用を観て、シするを撃しみ薬ったシ に 八
る 仲秋観月の曾は、今年



あ去














すれる
座 言紙積たるう
居ミ
まて
手安。





に 一かっ
始めて


無訪

もの





ある







に 人






-さ

ちゅ
るものミ、萬感群集のみに候

中秋にも、九月十三夜にも、尋ね来り候人も無く、十三夜は月もすこし色動き候 べき



すむ 仲
に 【ゆ

、 『㎞)
中秋*
ほに






にしなじくく
うか 注

産巨さん
・う


う せよ
なかう


いすみ



むなしく
いう
いほ は
おひさ せせき

ねん

にけこ
のへいいん


なん 予。 う
シuて、シの如くに*ればな 生


少態

空老 同
衰交遊 人








」 候ら
*
秋 し

み 如て
雨 り
ひさ
きたな
*
殊装 )

*
ひこ
カに
うり *
はんかんみ しふさふらふ

TA 無


事エきよ

雨中にて、三十年来一年も 続け候はで、共に居を賞し 艦
る *

ぐわつ が
興器

ち ゆう


ここ
レ 「す
けっしょく たい

が の
てたん
さがみか


は し
去景




晴年
--


*
て、ぎふ


*

ねんらい
亡っ し きた さふらふ ミ な
こつざか

い。

ねん
*

あきら


かなり

かさふらさも
こ さんじふねんらい

年りに来

時三





集の

心頭
*
あか
きふらう

つき

うき
*





やう
き おく

つき

しよう きふらふ
かく
こさ
じしん


いろうさ
さふら
あっま


きた われ ゆめ ここ じんじ へん・くわせいすみ おさ いまさら ひるがへ も、 め
-
み 、3"㎞ 、 、 、、
来つて、吾ながら、夢の如き人事の鍵化盛衰に驚かされ、今更ながら、手を翻せば雨ミ
白 井 新

314
* 、 駐 ミrぎ :

シに 、*} }
なり、手を覆へば雲ミなる世態人情に、うなづかれるのである。
ひやくかせ たいにんじやう いま はくぐわん み おく これら んつ

けつ
さい * *
さりながら、かくる冷なる世態人情も、今は白眼に見送つて、之を縁付けるまでは決
*一ー

し いちよ ふゆ なぐわつ はんいしや か ふたり


㎞ い % 。

して死なれぬ。ミ言うた季女も、この冬十二月、書院番石谷清資に嫁した。これで二人
、 ちゃうなんはきらり、 つは むか なん くらう な
やすめ」、 - 〜
の女もかたつけた。長男明卿の妻もすでに迎へた。もはや、何の苦勢も無い。いかにも
* い 、許 う 、、、シ 。っ 眼 いこ 、ろいの 心 、B しば、㎞ じシ
いかにも、賑やかな新年を迎へて、心も伸び〜するミ、明くれば、享保九年 正月二
か ト がみい み
お㎞
日の洞厳への手紙に言うて居る。
はくせき にく げやうち め
㎞ シ、、
* * き 、 巨、 、 コへ ミ き あ さ
八代将軍の君臣いかに白石を悪んでも、罪無くしては、共の領地までを召し上けるこ
むさしのくにきいたまこほりのだひらむら きがみのくにかまくらこほりうる
みの きむらしやうくわいむら かう
> 日
ミはできぬ。それ厳、かうして 誤ェミ相模國シ植木 村 城㎞、高

き ほりか㎞ 長)科 B 〜 せ シ、いこ、S
郡上大谷村ミに於ける千石の領地は、つぶ、まやかなる生活を苦しめるこミも無く、心
かたるなか おくる
㎞、 、 、 、 Q
かに、静かなる片田舎に、著作に日を送つて居る。
かへりみ ここ撃うじつ おも まうか てい ふかう かきな はくせき
、顧 れば、過ぎし比の 個人館 こそ、鶴に、慰ひ設けぬ家題の不 が撃て、シは、
い しらうく あきよねん ふゆ
。 ぐわっ 〜 おK てい 、こ
言ひ知れぬ勢苦をした年で有つた。去年の冬十一月、かの 『讃史除論』 を訂正して、今
ぐら はくせき はつぶん か をはり
*
年春二月、白石は戯文を書いてみる。その終に
す %) ・B」? B むかし かた あ
ひさ 、
過ぎし享保七年の春、ある日、土肥霞州ミ共に、有りし昔を語り合はしたミき、比の
しよ およ これ せいしよ お
- なんはんのりこ はKは沙
書のこミにも及んで、之を清書して置いた。するミ二男宜卿か、また、比の副本をこし
おい ぷにちいせいしょう* つひ や ぼつ はんのゆ)おゆき らかけ%ら
らへて置くミ言うて、毎日、清書してみる内に、遂に病みて残した。宜卿の房朝倉景衡
、めい これ くわんせい
・・・し ㎞、 * い、同
は、これを不感に思うて、門人に命して、之を完成せしめられたのである。自分も、己に
たいれい ぶんせうみん ち ぐう ほうしさこうせい いうあつ
七十ミいふ㎞である。忘れ難き交昭随の知遇、 子のシ 百シまって、比の一撃
な たいれい たも
、、 、お・・ ・・シ ㎞、、
模鶴黄 し空人


は成ったので有るが、空しく類齢を保つて、遂に比に到る。その感艦は、また、言ふ
しの
に忍びぬ。
み か お し ぎ
) さ〜 、 、み)時3 い㎞っ

315
ミいうて居る。しかしながら、比の難難の年に於いて、彼の最後の大著述たる『史疑』
ちうや ふで すくもさこをりのりなが こ じ き でん
」 は 織を起してシを進めっ、有ったのである。かのシの苦撃記僅も、また、

か けい くる ふで さ あ み じん
㎞、
_勢


の家計に苦しめられつ、、筆を執ったので有つた。古来、偉人の

316
石 白 井 新

ふ きうまい ふ い、 じ だい な ふかんなんなんち たま
に、その不朽の事業は、多くは、不幸の時代に成つて居る。親難波を玉に
いまさら せんこ きんけん
、今更ならぬ千古の金言である。

一つ
しやうさくねん ぐわ
おもへば足はてぬ勢ミは、 徳 館 九用


17 の
ざんはう はくがいつみな はいしよ つき
艦き撃 ミ態ミを受けて、罪無くして配艦の用を戦るが如く、世に橋
ミ絶って、名を隠し撃を潜むるに翻ったので有った。
しや、
㎞にHって、紫陽太 の戦艦を
若しも、シ離にあこがれすして、シに不朽の事業に戦ったならば、共の
めいよ こら 、 い、 あ ぶ
ミ名撃ミは、更に、偉大に、毛競不滅に残ったので有るミ豊れギま
齢よ

すで らうすみ なけ
よはびあ
に、老衰の輸を嘆かれるので有る
むかしは、なにミか、シのシのゃうにミ、ならぬまでも、たしなみ候。
知し

なに め

にミこぞ、何も らぬシに比え候へかしミ、たしな 候 群

ふ*

Oぶ


ぼささ ふら
つ〜ミ飽き果て 候 たく〜、比の上は、百千鶴 後の競のみに候へば、いらざる事
たジ
ていたい きふらふ きふらふ
に底滞し 候 ミ、 思 しめしくだされまじく候。
だいちよきくきやうはう ねんはるしや
ミは『愛疑』のシにか、って居る比のシ九シ 足、洞厳に言ひ送った手紙で さ

17
こ くろざし も たいるんいらい ねん %うじっ㎞ 染
& 、肥Bこ除
あるが、この 志 を以つて、退隠以来こくに十年、終日霊書堆裸に座して、研究に除念
なあ
-
に がくもん みち
くもん こく
長ば
模鶴黄し空人

をすれば、比の國の寧問をこそせねばならぬ。これ國恩に報する道
し きのしたば
たじ なん がんくわ はくせき こ、ろ さし
く先師木下順庵から、感化された自石の 志 である。これによって、
ちよじゆつ ここ〜 こくご こくし こ し つう
す B ) 、 ㎞

317
著述は、悪く國語國史の研究で有る。かうして、曾て『古史通』 をも著し
いわ じやうだいし けんき3う じゆうじ

まへ
-
て かみ
かなか *
*』
たが、今や、更に精密なる吾が上代史の研究に従事したのである。前の手紙の中に
* ア
井 新ー-3

候で、本朝の欧史きもに疑じき事きも候を、あるひは織し、あ

318
さひまう さふら かたかく さふらう さるふゆはじめ ほん き
* 、D
るひは問を設け て
いたし方にて、ミり掛り候て、去冬初までに、日本紀にては
眠 時s) ジ ㎞ 、、)

紳代の巻上下の分、奮事紀古事記なきの諸説異同を論獄 候 虚、三巻に出来候。これ
かる おも
こさす ここ
㎞っ しる みぎくわん ぐわん く

あき
〜 * * 、 *
は、軽き事は棄て、重き事ばかりを撃け候て記し、右三巻のうち、一巻は奮事、古事
にほんき そうろん くわんでは さふらふ これ
、シ 、 YB * じんだいKわ%、 ぎな% 、
日本紀、並に、六國史の継論にて、碑代巻の疑難は、たぐ二巻にて終り候。是にて
し つう ぜんぶ たすい き㎞
〜 ○
史通の 郡ゆきかたも湾むべく
さこうがん い おく るー みきやうはう ねんしよさこう し ぎ

ミ洞魔に言ひ送って居るのを見るミ、この享保八年初冬に『史疑』の碑代巻三巻が出来
さ ㎞の ねんあき また こうがん おく てがみ
* *
たのである。翌享保九年秋にいたり、又、洞厳に送つた手紙に
まを いきふらふさこ そん よ さふらう し ぎ ここをん きふらう
* 〜
かねても申し入れ候如くに、ふミ存じ寄り候て、史疑の事存じたち候て、ミやかくミ
っかまつ きふらふ &んけん ここ きふらふ をんじやうさふらふ
*
、 X 〜長 、㎞
仕り 候 うちに、よほさ厩俺の事に候。なか〜 候うちに、六部國史皆々事湾
-
さふらふさいけつ なさふらふこさす さふらふた じ なげう きふらう ここ か、
ミ ●
むべく候歳月も無く候。たミへ事湾むべく候ミも、他事を郷ち候て、比の事にミり掛
さふらふこさこ こさこ

*

なり候事も、軍意 飯 物のやうの事に候
さふらふこさ』 さ さ じ にほんき ぶ ここ
㎞)、 m *
せめて、しかくり候事 候 條、奮 古事、 ここ
-*
き・%らう に さふらく じ こ こさこす に き
はんじ まうてき じき *
候 で、撃擁、出夜ミりかくり 候 て、まづは、 奮事古事は、すきミ事湾み、日本紀
くわん のこ きふら ふ くわん きふら こんねん
、上 * * さ} * で
も、やうやく二十四 まで悪演み、 残り候ミころ、はづかに六巻に候へば、何ミぞ、今年
あらそ きふらう た きふらふ し は をんこうつ かん
ちゆう 、試r販 、 ん
眠に、せめて撃艦をは世立て置きたたく、暑刻を争ひ 候 て、仕立て候。司馬温公通鑑
ふら

きふらふさこき こさこそん あは
に 艦 まづ 織を瀬し候で、もしも、 天華に
を継がれ候時の群、宿じ盆せられ候供館に
らいしゆん そんめいき ふら につ くわ
、 ㎞、
て、来春も存命候は、、それよりは 、日課になりミも、潮々に浄寛をもし候て、人も
-
* よ きふらふ さふらふ
譲めよく候ほきに、いたしたき事 に候。
さこし ぐわつ ほんしよくわん 比 う 、
● いた *
これで見るミ、比の 年十二月に到つて、本書二十巻 例一巻が、でき上って居るのは、奮
こ じ き に ほんしよきけんきう を いよ〜くわんせい
模鶴黄 し 空人

事紀、古事記、シ紀の研究を寛へた で有る。 さうして、念 完成したのは、その


なん よしのり ひしゆ〜 か てい ふかう
きらう み
極用二十九臣であ つた。享保八年、二男宜 卿の死に引き績いての種々の家庭の不幸は、
にはか すみじやく ふゆ ぐわっあまひ おぼ よく、ねんしやうぐわっすこ

319
*
㎞の望石をして、 餓に衰弱せしめて、その冬十二 月、病を覚えて、翌九年正月、少しく
おさころ はる ぐわつ
く は や い なつ あき あひだ ㎞ひ
衰へたけれさも、春三月にいたり、歯を病みて 、容易 に癒えざるうち、夏秋の間また病を
-
こ ゆ すこ くわい、 けんきっひ はなはだ おさころ し ぎ こ
、詳
得、冬になって愛しく画艦したけれきも、シは遂に しく鍵ペた。『史疑』は、質に比
石 白 井 新

あひだ で き しつかう たすけ こつノ〜 じやうしや


の間に出来たのである。しかも筆耕の助なく、みづから、凡々ミして浮寛をもした。
し ぎ じつはくせき だい しんけつ そく だいちよじ@ つ あ を こうせい つたは
『史疑』は、質に、白石か一代の心血を濡いた大著述で有つたが、惜しいかな、後世に博 ら
-
こうねん はくせき いへしはくくわさい あおほしょせき うしな けいはうてんれい
ない。おもふに、後年、自石の家展火災に逢うて、多くの書籍を失うた。かの『経邦典例』
-
し ぎこ せうはう あ さこ
ゆるし ぎない
や、この『史疑』の如きも、そのミきに、焼亡したもので有らう。これ故に、『史疑』の函
-
よう し
はくせき わこ だいしたい ひ ばん たくしき
㎞るこ かできぬ。けれき 、自右の が古代史に獣する非凡なるェは、すでに、
こ し つう し こ し つう こ じ きく じ さ に ほん き ここ じ ぶみ さこう
『古史通』 に知られるが、 『古史通』は、まづ、古事記、奮事紀、日本 喜紀、古語拾遺等
けづ あやまり たく じんだいし し ぎ いた
に操って、個を離り誤を眠して、翌 が紳代史の本文を擁んだに過ぎ ぬ ミ、

、シリ㎞ 歴
は、縦横の評論を加へた もの で有る。
こ らい こ だいしけん きう よしだ じん だう ひさこ〜 がくもん
古来、習が苦根愛の研究は、龍離 進派 の人々になされた。さうして、他の撃闘ミ蹴じ こ
これ よしだ けせんけふ ん び さこ
こ * い ) にな けんきう ゆる
く、之が吉田家の専業ミなつた か ら 何 人 も、吉田紳道の寧説ミ異つた 研究を許されなか
よしだ しんだう く せつ いんし・
しふ しんほ よしだ け れき
った。それ敵、語離避 の撃説 は 代 々 襲して、すこしも進歩しない 。吉田家では、歴
-
だい てうてい そんそう さこほ に ほんしょき そんそう
代の朝廷で奪宗された通り、 日本書紀を奪宗して、これに、 ばらかいおんやうけ しきう まじ
せつめい 備家陰陽家の思想を混へて
しにしんだお は うら ねん じやうらく はくせき ぶん せけるん めい も
説明した。所請吉田剛道である。鍛ポ七鮮の民%のミき㎞は、
よしだ け にふもん
文昭院の命を以つて、
ょしだ かねよん をんへ み はくせ ご
きしんだうせっ ひくやう
吉田家に入門して、吉田楽敬の教をうけて居る。 自石は、この吉田紳道説を批評して、
くじ きこ じ き
ひ」 せつ あ
、まを さふ
られうけんっかまっ み まを
㎞、古㎞なきも、認これ有るやうに眠し候べきも、よェすべく
㎞。 か%しょさうかく し ひっ に、 ざさふらふし ぶん まを
この二書なさは、 記、シ継の慰にてシ その史文ミ明すものに、艦
るひ はらへ のりさまを
ふらふじやうこ ちゆう
しんだうく けつ さ た あさ
或は、裁、または、祀交なき申すは、 紳道日談の沙汰もこれ有るべく候 よく上古、中
こ きんこ だいしが、けん そくけん はう はミ けん
わ きま きふらふ ぶんめいきふらふ
古、今古三代の雅言、俗言、 五方の方言をよく解べ『候
じゃうこ けんこ かくるみ ミきは、分明にまかりなり候。
も を












言し
上古語
人 謎)ェ 。 、、、に は ぶんだん くだりさかたま さミ
古事記
あひす

空 の文段も、下坂の丸の姫くに継潜み
ざま

にを
けん
ふこ
ぶら

らい
くき、 さ
せさつま

















察らし

ろく
つい


し まを きふらう みなさこうしな



黄 まを こき、 に、 ざふらふ
鶴 申す事に御座候。
模 はくせき はなし しる %
*うて居る。これはシの態を記したシの 紙である。これ、龍に、加茂㎞が、 3
うこ がく はくせき しやうだう
らしやうだうさ
撃 唱道して、本居宣長が継承した復古 は、既に、白石によつて唱道されたのである。
白 井 新

ゆる
もさをり ふくこ がく けんきう
じゃらだい、に )ノ * らい 、 長㎞
がシ 、シ
加芸 のシ撃は、顕語によって上代の人情風俗を研究するので有る。それ故に、自石 じ
しる に ほんしよき はい こくご も しるこ きた ふさ、、
かんぶん
もまた、漢文にて記された日本書紀を排して、 國語を以つて記された古事記を奪んだ。


たこへ い』 、 まを さふら

じ き
、いまを ~ * *
、ほほや
まかり成り
暇谷ば、シ紀出で眠し候へば、奮事紀、古事記は、入り申さぐるゃうに きうみ ろ けん こここざ
きふら ぎんみつかまつ きふ ほん
候へきも、よく 7 には、はや三ヶ所も 相違露顕の事御座
こ ささふらふこ じ き
鶴 この三愛の罪にては、古事記は、シしきものに御座候。いまだ、古事記なき、* き さ
世に断ち申さす候は、一幸の儀かミ存じ候。
てがみ なか に ほんき はるのち
また きゃうはうねんなっ ぐわらき くま にらが%
ェ四シ欠獣㎞厳への手紙の中に、日本紀なきは、遥かに後にこしらへたも また く じ き ひやう
ゆる おほじ もつこもこさこ なこさこ きふらふい
の鍵に、競かた一撃もシらしき事は無き事に候。ミ言ひ、又、奮事紀を評して、
もの こくろむきふら さ・ふら ふく じ き う うそ *
うそ
はるか まっせい もい じやうぐうたいしだだ
遥の末世 にシのこしらへ出され候奮事紀を、まこミの物ミ心得候て、嘘に嘘を
かき う これ くに みち まを きふらふこさこ きふら ふ にほんきじ * *
こそ
重 で、参が闘の避ミ眠し候。あはれなる事に候。日本紀は、古事記にょらす
てんむ みこさのり じやうぐうだいし たふさ ここ
*に奮事組を取られ候
候 撃に 候 これらも、シりは、シがシの葉
ひつきやうぶつはふ
きやうぶろ さこころ み さふらふ

軍意備法のいたす所ミ見え候。
いこ し つう ちよさく さこきく、じ き こ じ きすう さか る
ミ言うて、さうして、『古史通』著作の時に、 奮事紀 古事記は、数十度もうち返し見たミ
い じつ もさをりのりなが
* *
こ じ き けんきうねん きき だ しきけん しき
言うてみる。これ、質に、本居宣長の古事記研究より五十年を先つ識見である。この識
けん も - る さ はん だいにほんし
%だいし
* -
はぶ じやうだいし そ はく
見を以っては、かの水戸藩の大日本史が、紳代史を 省き、上代史に粗であつたのは、自
せき にS きゃらぶう、ねんしゃうぐわっ きく は
にけが てがみ なか
石の満足せざる所であつた。享保九年正月、佐久間洞 厳への手紙の中に、
み さこ でききふらふほんてうし きた こくし
& くわ おんた 、さふらふこさ たのも みん きふらふ
水戸にて出来候本朝史なきは、定めて國史の説を御正し候事ミこそ、頼しく存じ候に、
こ8 さこ しくわんしゆう わうらい きふらう み さふら むかし ここ に “、んき しよくにほんき さこう まかさふらふてい
水戸史館衆ミ往来し候て見候へば、昔の事は日本紀、績日本紀等にうち任せられ候鶴
きふらう ほんてう じつじ
模鶴黄 し空人

すこさこ へきけん さふらふらうきう


に候。それにては、なか〜、本朝の質事は、ふつミ済まぬ事ミ鮮見に候やらむ老朽
そん きふらふ
なきは存じ候。
ほんてうしよ すくな さふら こ かんしよい らいい てう しよ ほんてう こさこさふらふここ
本朝にこそ書も少く候へきも、後漢書以来異朝の書に、
じつじ おほ きふらふ ミぶ ぎんみ
の事しるし候事きも、いか 」
*ー - いてう しょ けんぶん くわ まを 一。
にも〜質事多く候。それをば、こなたにて不玲味にて、たぐ異朝の書の懸聞の説ミ申
よねんほんてう ぐわいはん み さふらふこさこみ あは きふらふ
し破り、又は、 三韓は四百除年本朝の外藩にて、それに見え候事にも、よき見合せ候を
白 井 新

みぎ ごさこ やぶ す きふらう ほんてうこくしま こさこ きふらうほ 沈にけいししきっおほかた 一%


3
も、右の如くに破り棄て候て、本朝國史〜ミのみ申す事に候ては、 の始末大
むちゆう ゆめ さ さふらふこさ きふっふ
夢中に夢を説き候やうの事に候。
し なし てうせんし ひ かくけんきう ひつらうろん み し ぎ

ミいうて、支那史朝鮮史ミの比較研究の必要あるこミを論じて居る。おもふに、『史疑』も
こうせい つたこ じ き でん さくがはじ だい お は てんくわう だいちよじゆつ あ
し後世に博はつたならば、古事記博ミミもに、徳川時代に於ける破天荒の二大著述で有
』 しよ きんいつ わくに * ㎞っに も な 忘
つた。比の書の散逸は、吾が國の文献史上、犬 悲しむべき事である。
み さ はん たちはらすみけん あつ はくせきみ ぶん し ろん ちやう ご し
しかしながら、水戸藩の立原翠軒の韓めた白石遺文のなかにある『史論』は、丁度『史
ざこ ちよじゆつ しんだい をは にんのうきやうはう ねん ふゆ わた ふで さこ
る、 *
疑』の著述が、碑代を終つて、人皇にかくつた享保九年の春から冬に亘つて、筆を執つて
みりつろんだう〜 ひ はんがいせつ きは み けだし これ もし ぎ
居る。いかにも、その立論堂々ミして、批判割切を極めて居る。蓋、之を以って『史疑』
し ろん たん し し ぎら %) 、つ
*
の史論の一端を知るこミができる。かうして『史疑』は、質に、享保王年の冬将に霊き
ぐわつ にち くわんせい
むミする十二足 二十九正に完魔びた。
おきやうはう ねん はる むからうすみ はくせき しやうぐ か ころやまこら じこ*ろよ
明くればシの墓を避へたが、老襲した国石は、シを得て、一購艇や
・・-1
-- - - - --- - ? -

*翌4勝曾リモ辺連昧 リ 嶺>*
* 率調 a">+卒累モ選遍\博嗣-ſ至鴻減
ぐわ つふたく
井 新*

、 、お 店 ・・・ ぐわっ
峠い
なつたけれきも、二月、再 び病みて、遂にまた起たす。 五月十九日
こつぜん はくぎよくろうちゆう ひさこ あ ミ が ねむり
ミして、 シミし ェの娘ミなった。 鳴呼。その永
あ きいらんい ゅん じっ cきさく
易賞の 毛航まで、下

さなかつたので有る。かの『 乗覧異言』 は、 質に、 日前まで、訂



つ有った 詩紀念の著述
)シ や

いプ 3はこ
有る。
せんこみ じん な むくろ だんあきのり はじ しんせき こ き、もんじん
鳴噂。 香のシ は 、亡き骸ミなって、男明卿を初め、親戚故奮門 人 人
あさくきた はらまち かうりゆうざんはうおんじ かうこくじ もん やす
て、かの選墓世願眠の高㎞なる高等の関 を入って、亡き父 母が 安

け・


天逐 尉要 百科く


*
善 遺書 章 廊
議 慈 其議 厳
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晩節

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これが、室鳩巣の作つた銘である。
しゆんふうしうういく ねん きうでんへきかい ゆめ よみ じん はか いま さこうきやう ふか さよた まこほりなかの

春風秋雨幾百年。桑田親海も夢の世や。この偉人の墓は、今、東京府下豊多摩郡中野
まち かうこくじ せきひ たかしやくずんよ はう しやく しやうめん あらみ けんこうの はか そくめん ちく

町の高徳寺にある。石碑の高さ一尺三寸余、方一尺。正面には、新非源公之墓 側面に筑
このかみじゆこ みのけ いみなくんび さこしきやうはう ねん ぐわつ にちしゆつす こくだん いし うへ
後守従五位下、講君美、年六十九。享保十年五月十九日卒。ミ刻して、二段の石の上にある。
み しつそこ おいきう いへ み じん しんめんぼく しの たふさこ あふ つき
見るから質素なる比の永久の家は、さすがに偉人の眞面目を忍ばしめて奪い。仰けば、月
じやうちゆう さもしびてら かすみ ふだん かう た ふ め &いこん さむら み
は常住の燈を照し、霞は不断の香を焼いて、不滅の英魂を帯うて居る。
あさあは ますだ かくろうあ ふ
はくせさ はじ すみだ か はん おろ けうじゆ さこき
跡に哀れなるは益田鶴模で有つた。白石が、初めて隅田川畔に唯を下して教授した時、
そくしう さここのかた かへり ねん しおんわす がた つるたう なみだかは ひま な あかし
陥を執った以来を顧みて、三十年の師慰忘れ難く、遮構の涙 ぐ暇も無く、有りし
かた いるいていを 2つ ひさこ たもこ ああ * おも
を語り出でくは、涙湧鳴明して、人をして、又、快をしほらしむるので有つた。鳴呼。悪
で ふか ちゆうしう つき よ あき めぐ く たび がくろう たうじ おも いきら た
ひ出深き仲秋の月の夜。共の秋の巡り来る度に、鶴模は、常時を想ひ出でくは、更に堪
がた あめいけつ よんりんりくわんしやう せうせいいづこ な
へ難きものが有る。もし、それ、明月の夜なれば、隣里には、歓賞の笑撃が、何虜ミも無
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へん こくし ぎん み じんはくせき きいこ かた * あ
ミ三篇の奥詩を玲じた。これぞ、偉人白石の最後を語るもので有つた。
じっけつそうく かれゆ ほさんご ねん のち けんこん てき めいち せいせい むか
かく
日月勾々、彼逝いて、殆百五十年の後にして、乾地一郷、明治の聖世を迎へ、彼が理想
れつぶんしゆんぶ こくだい はんせいふ わき こけ した かれ うやうやこ おほる よ
ミした烈文常武の國鶴は、萬世不易のものミなつた。苦のFなる彼も、恭しく比の大御代
しゆく あ あきらか をさま み よ めぐみ つゆ くさは かけ ここつ およかれ

を祀したで有らう。かくて、明に治る御代の恵の露は、草葉の薩の枯管にも及んで、彼は、
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模鶴黄し 空人

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白石 の 印章
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(る擦に集委石白井新)
比の書執筆中、毎に、吾が東京帝國大學文科大學史料編纂官補柄原昌三君の助力
を得た。既に稿成り、将に上枠せむとするに常り、たま〜、余の支那漫遊の日が
近づいたので、校正のことをも、赤、君に託した。慈に、巻末に於いて、謝意を表す。
著者識す
新井 白石 終
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年 一 月 五 日 印刷
新井 白石
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年 一 月 九 日 発行
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著 者 上 田 萬 年
東京 市 京橋 匿 南 横町 十八番 地
作 務 行者 大 倉 廣 三郎 た
樺 東原市日本橋

区 兜 町 二 番地
で所 印刷 者 三川 谷 岩 次郎
東京 市 日本橋 匿 兜 町 二 番地
有 印刷所 東京 印刷 株式 曾 赴

東京 市 京 橋区南構可十八番地
行 所 廣 文 堂 書店
振替 東京 四 六 八 四
電話 京橋 二 四 六 三
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