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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2020年1月1日 第88号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路
あ 古林 安部さんが文学に関心を持つようになった動機は……。
ただ を通 安部 それは、やっぱりポーですよ。
けの って
番地
に届 古林 いつごろですか。
きま
す 安部 中学生のころです。ポーは、ぼくにとっては抜きがたい意味を持っていた。
ポーには、その因果律の合理性と超越性の両面があるわけだ。(略)

『共同体幻想を否定する文学』(全集第23巻、283ページ)[対談者]安部公房・古林尚

廃屋

安部公房の広場 | s.karma@molecom.org | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信                          ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(6):無限印刷機:岩田英哉…page 13
3 『周辺飛行』論(1):岩田英哉…page 23
4 私の本棚:安部公房の作品にみる視線と空間イメージ:大柳聡、若山滋、夏目欣昇
                                …page 28
5 安部公房とチョムスキー(10):9. ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッ
パ文明の300年間を読む:岩田英哉…page 37
6 哲学の問題101(5):戦争:岩田英哉…page 47
7 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(32):第2部 VI: 薔薇よ、お前、
君臨する女性よ、古代のひとたちにとっては :岩田英哉…page 52
8  編集後記…page 62
9 次号予告…page 62

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 59
・本誌の主な献呈送付先…page63
・本誌の収蔵機関…page 63
・編集方針…page 63
・前号の訂正箇所…page63

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

Kenji Shirayama@Knji366 8月20日


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en Mol
Gold 今は安部公房の事しか考えてない。
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Silv
e 熟睡願望@nemui_nemutai 8月16日
Priz
安部公房、kindleにないの本当に未だに解せぬ

Kenji Shirayama@Knji366 8月21日


安部公房記念館をどうにかして作れないかな…。

Kenji Shirayama@Knji366 8月21日


中原中也記念館に帽子とコートが備え付けてあって「中也になりきろうコーナー」がある
ならば、安部公房記念館にも奇妙な帽子を被って餃子作るコーナーを作ってくれよ。

Kenji Shirayama@Knji366 8月21日


記念館になる構想をされていた旭川の安部公房の自宅もとっくに売却されて取り壊されてし
まったし、好きな作家の痕跡が刻々と消えてゆくのは耐え難い。残せるだけ残しておいてい
ただきたいものだ。だから僕は壁の初版を二冊持っている。

ミッシェルガンエレファントカシマシ男@syoubaihanjyoo 8月21日
古本屋さんで、安部公房の本買ったら
そこの店主夫妻が「そういやあの人、泥棒に入られて安部公房の使ってたカメラ盗まれて。 
泥棒が捕まったあと2、3万の保証金って警察に言われて怒ってたな。安部公房の使ってた
カメラだぞって。」という思出話を始める、素敵なサービスで送り出してくれた。

藤盛槐 enju F.@enju1948 13時間


カネッティ、コルタサル、ビアス、島尾敏雄、安部公房、リービ英雄…彼らを繋ぐものは一
体なんだろう?と考えた時、やはりnation(国家、国民、民族)ではないかと思う次第。最近
の僕は恐らくnationを一つのテーマとして捉えてるんだろう、きっと。

追悼安部ねりさん
柴田望 @NOGUCHIS7 8月21日
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
■安部ねりさんが亡くなられたというお話を一昨日の朝、東鷹栖安部公房の会から連絡承
り、夕方、各誌ニュースでも報じられました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
もぐら通信
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中原くれあ@ClareNakahara 8月22日
12月海外公演『パニック』原作者安部公房の娘『安部ねり』さんがお亡くなりに。
2013年初演時に、著作権の許可に関しとてもお世話になった。
あの時に許可して頂けなければ、今のMOMENTSはないかも。
ご冥福を心からお祈りするとともに、海外公演でも安部公房さんの素晴らしさをしっかり
と伝えたい!

ホッタタカシ@t_hotta 8月21日
ブロマガを更新しました。
【追悼・安部ねり∼安部公房『(霊媒の話より)題未定』出版記念トークライブ報告(2013
年2月20日)】
ch.nicovideo.jp

盛田隆二@product1954 8月21日
安部ねりさん(安部公房の長女、産婦人科医)が16日、胸部大動脈破裂のため死去、64歳。
新潮社の「安部公房全集」(全30巻)刊行に尽力した→https://www.asahi.com/articles/
ASL8N5CM7L8NUCVL01J.html …
ねりさんの著書「安部公房伝」は拝読した。まだお若いのに。合掌

文学通信[図書出版]@BungakuReport 8月20日
作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳 - 産経ニュース

頭木弘樹@新刊『絶望名人カフカ 希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』草思社文庫


@kafka_kashiragi 8月20日
作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳 - Yahoo!ニュース https://
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180820-00000545-san-ent … @YahooNewsTopics
びっくりした!
『絶望図書館』への安部公房作品の収録をお願いしたのも、そんなに前ではない。すぐに
許可してくださって、嬉しかったものだ。
まだお若いし、医師だったのに…。

福島祥行@「仏語放談」『ふらんす』(白水社)連載中@felisnigra 8月22日
なんと。安部公房のエッセーで、うちの娘は50円玉持って歯医者にじぶんで行って治療さ
れてかへってくると書かれたあの子が、もう……★東京新聞:安部ねりさん 作家故安部公
房氏の長女:おくやみ(TOKYO Web)

Mitsuyoshi Numano@MitsuNumano 8月20日


安部公房の長女、ねりさんが8月16日に亡くなった。私と同い年で、64歳。個人的な接点
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
は公房を介してほんの少しあっただけだが、なかなか強烈な印象が残っている。あのよう
な天才の父親を持った子供は大変だろうな、と思っていた<https://drive.google.com/ …/
1ZOBueUk80z089qnjsF1gGQnSZ…/view…>
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 5

漆器屋 小谷ロ剛@kotaniguchi 8月20日
表参道で産婦人科を開業してた。滅茶苦茶評判悪くて潰れた。デンドロカカリヤ。→作家・
安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳

読売新聞 カルチャー@YOL_culture 8月20日


「安部公房伝」執筆、長女で医師・ねりさん死去
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180820-OYT1T50074.html …

朝日新聞(asahi shimbun)@asahi 8月20日


安部ねりさん死去 作家・安部公房の長女

藤井佳之 or キキ@KikinoNatasyo 8月21日


安部ねりさんの訃報の話題はオレのTLでは全然話題になってないな。夏にドイツから安部
公房を買いに来られたお客さんがいた。夏のお客さんは、一年に一度くらいしか会わない
けど末長く続く関係。になる方が他の季節よりも多い気がする。今年の夏もそんなお客さ
ん達との新しい良き出会いが多かった。 pic.twitter.com/3Cqxy4dvFw

文芸速報@bun_soku 8月21日
【訃報】作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳

JUMPILIKEYOU@jumpilikeyou 8月20日
安部公房氏の長女・安部ねり氏 胸部大動脈破裂のため64歳で死去 #ldnews

読売新聞YOL@Yomiuri_Online 8月20日
「安部公房伝」執筆、長女で医師・ねりさん死去
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180820-OYT1T50074.html …
#カルチャー

KazueTatenoi@KTnyago 8月21日
はるか昔の話ですが、卒論は「安部公房」でした。娘のねりさんが安部公房より若い年齢
で逝かれるとは…。全集の編纂、伝記の執筆と父君の仕事をきちんとした形で残すことに
尽力された方でした。ご冥福をお祈りいたします。合掌。

Nob@Nob_hsj 8月21日
【訃報】
8.16 作家安部公房の長女・医師 安部ねり 胸部大動脈破裂 64歳
8.19 日本野球機構パ・リーグ統括 仲野和男 拡張型心筋症・心臓弁膜症
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp 57歳
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 6

最新☆芸能ニュース@geinounews12 8月20日
作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳(産経新聞)

みっちゃん@tsukuyomihime 8月21日
安部ねりさん、すごい頭がよさそうな人だった。当たり前だよな安部公房と安部真知の娘
だべ。可愛い娘ちゃんがいたけどもう30歳くらいかな。あーそうか。安部公房が亡くなっ
たのがつい最近な気がしてたけど、もう25年くらい前だなぁ

小谷野敦川端康成文学賞がほしい@tonton1965 8月20日
安部ねりさん死去 作家・安部公房の長女:朝日新聞デジタル

作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳 - 産経ニュース http://


news.google.com/
newsurlsa=t&fd=R&ct2=us&usg=AFQjCNEwBL7fbrtKKKN03HcmIJaG_8ioZg&clid=c3
a7d30bb8a4878e06b80cf16b898331&cid=52781228821536&ei=wqV6W9idMoaz8wX
W3oOIBQ&url=http://www.sankei.com/life/news/180820/lif1808200023-n1.html
… 2018-08-20 18:06:53

奥村飛鳥 Asuka Okumura@askafeyokumura 8月20日


奥村飛鳥 Asuka Okumuraさんが朝日新聞社会部をリツイートしました
ご冥福をお祈りします。笛井事務所での安部公房作品上演は5回。上演許可を頂く際はお世
話になりました。

チー太郎@精神科医@n5dhBKCHJEcOAzR 8月20日
ちょうど今箱男読んでた

「安部公房伝」執筆、長女で医師・ねりさん死去(読売新聞) - Yahoo!ニュース https://


headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180820-00050074-yom-ent … @YahooNewsTopics

京都情報局@Ilias0322 8月20日
安部ねりさん死去(医師、作家・安部公房の長女) https://is.gd/t6RJz5 #kyoto

九堂夜想 yasow kudou@yasow910 8月20日


「安部公房伝」執筆、長女で医師・ねりさん死去|ニフティニュース

2018年迫り来る大地震と危機の警告!! 預言者・天瀬ひみか情報拡散@ROMANAVIOLA 8
月20日 安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
安部公房氏の長女・安部ねり氏 胸部大動脈破裂のため64歳で死去
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 7

今月の写真家安部公房
Shitara@nikocame 8月19日
写真展図録『Kobo Abe as Photographer 安部公房写真展』1996年10月26日-11月29日 ウ
イルデンスタイン東京 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w250860153 …

今月の安部公房直筆原稿流出
読む を愉しむ 〈心斎橋アセンス〉@yomutanoshimi 8月21日
【文豪の棚】
昭和43年、ある百貨店の古書市に二百点を超える作家の直筆原稿が出品された。大江健三
郎、安部公房、江戸川乱歩、川端康成…錚々たる作家の原稿が一堂に会したのはなぜか。
東京下町の古本屋店主が明かすことの顚末とは?
青木正美『文藝春秋作家原稿流出始末記』

今月のノーベル文学賞
KazueTatenoi@KTnyago 8月21日
安部公房は小説にとどまらず、演劇・映画・写真etc.幅広い活動をした人でした。個人的に
は長生きしていれば村上春樹よりずっとノーベル賞に近い作家だったはず…と思います。受
賞者発表のシーズンになると公房の作品が読みたくなるのでした。

今月の安部公房全集第9巻
hiroshi nagano@roughfractus02 8月21日
午後仕事なのに、110切ったドル円さんチャートが目覚めし時計になって起きてしまってか
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らの、、おはよー、せかい、、
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もぐら通信                           ページ 8

本の断捨離は全集捨てるのが一番、、けど安部公房全集はメタルのタイトルと箱の中に写
真があってカッコイイので保持

彼は小説で世界をリバースエンジニアリングしたハッカーかもな

今月の安部公房を巡る心配
JorgeLuisBorangutan@bigfoot_0202 8月21日
安部公房全集の造本には作家自身が撮った写真がうまいぐあいに使われていた(ブックデザ
インは近藤一弥)。あの膨大なスナップ写真も写真集としてまとめてほしいものだが、し
かし安部ねりが亡くなったあと、だれが管理することになるのだろう

今月のワープロ
AIZOKU@OKA_NO_KAIZOKU 8月18日
その作家は手書き時代→ワープロ時代にまたがって活動していて、最初からその書き方だっ
たのかはよく分かってない。画像は別の作家の話だけど、不便と言われがちなnarou執筆ペー
ジですらめちゃくちゃ便利になった文明の利器というカンジがする(画像内のページ数は「新
潮日本文学アルバム 安部公房」)

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今月の箱男
Leo Tanishige@rosenstern037 8月17日
ルームメイトが中国語版の『箱男』読んでいる。安部公房は、建築を考える人間がもつ都
市像をゆさぶるよね、普遍的に。

コンドウノリカズ@konsandesu 8月18日
今日、『こえ恋』と安部公房の『箱男』について考えてたら、また箱をかぶった人が出て
きた。面白い∼。

今月のカンガルー・ノート
推薦文 @ifFM7g3CpbwxipM 8月25日
カンガルーノート/安部公房/新潮文庫
(中田敦彦)この摩訶不思議が、学生の頃の僕を虜にしました。爆笑問題さんのラジオに
投稿するときのラジオネームにこのタイトルを使ったのもいい思い出。もしかしたらこの
本が、僕の人生を方向づけたのかもしれません。

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もぐら通信                           10
ページ

今月のピンク・フロイド
heron@weekendplanet 8月21日
安部公房がピンク・フロイドのファンだったという話。最後の長編小説「カンガルー・ノー
ト」では主人公が自走するベッドで夢うつつの旅をする。そのイメージがピンク・フロイ
ドの楽曲「On the Run」のMVと重なる。安部さんもこのMVを見ていてヒントを得たので
は?

今月の取り違へ
眩暈@Memai_wo 8月22日
前に素で坂口安吾と安部公房間違えたけど、臣が
おんなじようなこと思っててうれしい。今さら気づいた。

今月の座談会
木挽堂書店@kobikidoshoten 8月25日
【新入荷紹介】『#演劇手帖』昭和31年 #淡路書房
創刊号・第2号 編集:#武智鉄二 ◆#岡本太郎、#花田清輝、#郡司正勝、#河竹登志夫、#
安藤鶴夫、#尾崎宏次、#朝倉摂 ほか ◆2号の座談会は #椎名麟三、#武田奏淳、#三島由
紀夫、#安部公房。巻頭グラビアは #岸田今日子 #歌舞伎 #kabuki #古本

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もぐら通信
もぐら通信                           11
ページ

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 6時間
物質と思考の運動 : 安部公房の「砂の女」におけるシュルレアリスム的技法とその変容(日
本語日本文学特集) http://ci.nii.ac.jp/naid/40006811906 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
所有の始原 : 安部公房「赤い繭」論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007506049 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 8月17日
流動と反復--安部公房『砂の女』の時間 http://ci.nii.ac.jp/naid/40006048786 …
メビウスの輪--安部公房「砂の女」 (特集 脇役たちの日本近代文学) -- (脇役28選) http://
ci.nii.ac.jp/naid/40005656921 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 8月20日


予言=権力 : 安部公房『第四間氷期』論 http://ci.nii.ac.jp/naid/40019842612 …

今月の絶望名人
頭木弘樹@新刊『絶望名人カフカ 希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』草思社文庫
@kafka_kashiragi 8月16日
#自分を作り上げた本4選
『二重太陽系死の呼び声』ニール・R・ジョーンズ
『箱男』安部公房
カフカの日記と手紙
『かすかな痛み』ハロルド・ピンター

今月の闖入者
Kenji Shirayama@Knji366 8月23日
『闖入者』 安部公房

今月の初版安部公房
古書 瀧堂(たきどう) @kosyotakido 8月25日
安部公房も全て初版です。 https://ift.tt/2MM5YoC

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もぐら通信
もぐら通信                           12
ページ

今月の旭川東鷹栖の会
8月1日、近文第一小学校にて、安部公房のラジオドラマ脚本「おばあさんは魔法つかい」
の朗読会を行い、おかげ様で無事終了しました。4人の読み手と映像にて、児童へ作品を
伝えることができました。 その様子が地元「あさひかわ新聞」「北海道経済」に掲載され
ました。

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もぐら通信
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ページ

荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む
(6)
無限印刷機
岩田英哉

目次

1。『無限印刷機』
2。『術の小説論』で『無限印刷機』を読む

***

1。『無限印刷機』

無限印刷機

刷りつづける……
巨大輪転機に写し取られ
吐き出される
薄っぺらな世界は
ロールに巻き取られ
繰り替えされる印刷物[註1]
飽きもせず……

かなたの無限から
あなたの無限へ
塗り重ねられる
空虚な輪廻
こんな世界をおれたち人間は
意味づけをするが
所詮 おれたち自身が 印刷された二次元の絵模様......

世界は進歩するわけではなく
ひたすら
転写されていくのだ
永劫のプリント……
もぐら通信
もぐら通信                          14
ページ

よく練り上げられた
インクの銘柄はタナトス社製
あなたの名は神と呼ばれる無限印刷機
もはや
このわれらの世紀では
あなたすらもマシンなのだ

神様!

おお!

天に御坐(おわしま)す
あなたの
言葉は
信号……
傍らのファクシミリから
突然
吐き出されるメッセージの
ノイズ混じりのあなたの言葉を……
おれたち
恭(うやうや)しく読み上げはするが
不届き千万な無信心者にも
あなたの戸惑いがわかる……

なぜなら
あなたの愛し子は あなたの
正体を 見破ってしまいました
「ごめんなさい」
けど……
あなたは
一度だって
真理を語ったことはなかったでしょ
あなたの重々しく語る
真理の言葉すらも
この 酷薄な世界では
見破られたコピーなのです

むろん、あなたは存在します
もぐら通信
もぐら通信                          15
ページ

だが――玉座は空席
あなたは
無化されている空位の王
なぜなら
無であることこそが
あなたにとって
コピーされ得ない唯一の手段だから

消える他なかったあなたは怒り 聾唖の神となる……
だが あなたの愛し子は気づきもせず……
無限印刷機の 真っ白な紙を吐き出す虚無
  虚無
  虚無
  虚無の
  居心地の悪さに

親戚は酸化して
漂白され
われら為すすべもなく

光は
神去しこの世界に満ち満ちて
影を感光させる
われら新世紀の至福!

[註1]
「繰り替えされる」は原文のママ。

以下、この詩を『術の小説論』を論ずることで併せて論じたい。

多分、この試みは、SF文学の世界にもなく、勿論非SF文学の世界にもない試みで
ありませう。それなら一層、挑戦のしがいがあるといふものです。

2。『術の小説論』で『無限印刷機』を読む
このSF小説論の目次は次の通りです。(この論の副題は「――私のハインライン
論」となつてゐますが、以後副題抜きで此の論を呼ぶことにします。)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

① I ある独白――またはまえがき
② II 術者としてのハインライン
③ では術(クンスト)とはなにか
④ IV 初期ハインライン
⑤ V 夏への扉――解決されたタブー
⑥ VI 自由未来――ファーナム氏の自由
⑦ VII 宇宙の戦士――ハインラインは有罪か
⑧ VIII 異星の客――およぶ結語

この論は表立つた見出しはSFの言葉で書かれてゐますが、その内容を見ますと、
非常に学術的に書かれてゐます。即ち、最初の3つの章である、

① I ある独白――またはまえがき
② II 術者としてのハインライン
③ III では術(クンスト)とはなにか

これらはSFの原理についての理論篇であり、残りの、

④ IV 初期ハインライン
⑤ V 夏への扉――解決されたタブー
⑥ VI 自由未来――ファーナム氏の自由
⑦ VII 宇宙の戦士――ハインラインは有罪か
⑧ VIII 異星の客――およぶ結語

といふ5つの章は原理の応用篇としてハインラインといふSF作家を規準に(やは
りcriteria:クライテリアといふべきでせう)にSFの実際的な問題が論ぜられてゐ
る実践篇であるからです。

ここで論者のいふ術とはルビによればクンストとあるので、ドイツ語のKunst(ク
ンスト)、即ち手際がいいといふ場合の日常的な術から最上位の高度な技術、即
ち藝術までをも含む高度な技術のことです。恐らく技術といふ言葉を避けたのは、
技術ではテクノロジー(technology)やテクニック(technique)その他の技術的
な用語の意味に誤解されることを避けるためでせう。著者の論はSF小説の書き方
などといふノウハウなどでは毛頭ない。あくまでも論は文学と文化の領域に止まつ
てゐて、則(のり)を超えず、従ひ、SFに適用できるのみならず、一般性のある文
学理論と実践の論述となつてゐます。

第一章の冒頭に安部公房のSF論「SF、この名づけがたきもの」から「この名づけ
もぐら通信
もぐら通信                          17
ページ

がたきもの」といふ一行を引用して、SFの概念を吟味するのです。この安部公房の
エッセイは全集第二十巻に収録されてゐます。1960年2月の発表です。この詩
人の『術の小説論』は1970年6月の発表。この間SFの世界でSFの概念を巡つ
て議論も多く、論争もあつたことにはここでは立ち入らず、本題にもどつて、この
SF小説論の特徴を次のやうに説明したい。

この小説論は、普通の文学の世界の評論家の論とは異なり、小説は技術によつて
書かれるといふことを、次の階層図を前提に論じてゐます。この図を著者は論中に
図解してゐるわけではありませんが、しかし論理の立て方は実にヨーロッパの学問
の正格を備へてゐて、これは著者が数学に長けてゐるといふことと、建築といふ物
質的な構造化を業として来たことに大いに関係のあることでせう。前者が安部公房
と全く共通してゐます。「『カンガルー・ノート』論(17)」(もぐら通信第8
4号)「5。7 再度3といふ数:3とは何か」より同じピラミッド図を引用して
説明します。

(I、II、III)

(IV, V, VI, VII, VIII)

さうして、安部公房がさうであるやうに、この垂直方向のプラミッドを水平方向に
等価交換して(topology)同じ平面に並べて見せてゐるのが、この『術の小説論』
です。ですから、この著者のSF文学論はtopologyに基づくSF文学論であり、従ひ、
接続と変形のSF文学論だと言つて良いものです。
もぐら通信
もぐら通信                          18
ページ

この垂直方向の軸を、詩人は水平方向に、それも時間の液状化といふ根源的な着想に
よつて同じ平面に、即ち「理解の地平」に展開する。それ故に、この詩人の詩の中に
は、形象(イメージ)とともに哲学の論理、即ち哲理も共に歌はれることになる。小
説についても同様です。この哲理と形象の融合した、といふよりも、二つのものでは
ない根源から生まれた形象をマニエリスムといふ藝術様式にみてゐるのだと思はれます。

意図せずして、著者の論理は、ハイデッガーの「理解の地平」図と同じ論理になつてゐ
る。何故なら著者は、具体的な日常の問題の解決の術について、そのための手立てで
ある道具のことも含めて、考へてゐるからです。「理解の地平」図を、『哲学の問題1
01(3)』(もぐら通信第86号)より引用します:

これで、この詩人が超越論者である、即ち汎神論的存在論の詩人であることがお解り
でせう。詩人が小説を書いてゐるのです。

勿論著者は、日本人の縄文時代以来の超越論に基づき、上図にある通りに縦のものを
横にして、上位概念も下位概念も同じ平面の上で論じてゐます。

この交差点にある道具が詩の主題である無限印刷機といふ名前の道具なのです。この
道具は、時間の中にありながら(現存在)、安部公房の場合(例:『詩人の生涯』の
ユーキッタン、ユーキッタンと音立てる機織機)と同様に超越論の道具として、夕方と
いふ昼と夜の時間の隙間、即ち光と陰の隙間にある、即ち存在の交差点に存在する存
在として再帰的に、また再帰的な在り様が、歌はれてゐます。

この詩人の無限印刷機といふ名前の輪転機の機織機械は、安部公房の無限印刷機とは
また違つて、虚無、虚無、虚無といふ音を立てて「薄っぺらな世界」を「吐き出」す。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

この詩中の「神」も従い、キリスト教の唯一絶対神のことではない。いや、さうだと
しても、これを変形させて(術論の通り)メタ唯一絶対神にしてしまひ、結局Godが複
数多次元的に存在することになるのです。何故なら、「無限印刷機の 真っ白な紙を
吐き出す虚無」のその「神」の白には、やはり光が射して、影が感光するからです。

この光と影が幾つでも感光する白い色を、詩人は「玉座は空席」と歌つてゐる。この
空席の玉座が、光と影を白い色に写して感光させるレンズの眼です。勿論詩人は、この
眼を通して向かふの景色を覗ゐてゐる。ここに至ると、もはや、レンズの眼である空位
たる玉座に詩人がゐるのか、それとも玉座を外して詩人が玉座の空位といふレンズ、
即ち虚無を通して虚無を見てゐるのかは、解らない。

この光と陰の交錯して何かが感光する白い色を、詩の最後の一行で、詩人は「新世紀」
と呼び、その白い色に感光して写されるわれらの抱く歓びを「われら新世紀の至福!」
と歌つてゐます。

『術の小説論』に戻りませう。

結論をいひますと、このSF小説論は、安部公房の論理と同じ二項対立の否定であり、
この対立を否定して、さうではない二つのものの隙間を接続する小説、それがSFであ
るといふ主張です。この隙間に掛ける接続の橋がSF小説といふわけです。著者はSFの
独立性をここにみてゐます。そして、この著者が詩を書くときにも同じ接続の場所で詩
を書いてゐる。

詩集第二番目に配置された『老人と飛行士』の詩中「フィーヨルドの奥深く一人の老
人が」住んでゐる北極といふ辺境の、更に陸と海の境界である其処の渚の「岸辺の住
人」として孤独に生きる其処、則ち海陸両方に跨る間の其の岸辺の領域が、SとFの接
続領域です。この術論執筆の当時、S(science:サイエンス)とF(fiction:フィクショ
ン)のいづれに力点を置いてSF文学を創造するかについて論争があつたといふ。しか
し、著者のSF文学観は既に確固としてゐる。岸辺に寄せ来る波が常に引く波であるや
うに、それは周期性といふ永遠の繰り返し、即ち互ひの二つのものへの再帰性をもつ
て動いてゐる。即ち、この動態的な接続の場所がSFなのです。

これが、SとFの上位接続、即ちメタSFの世界です。従ひ、この詩人の詩は、メタSF詩
と呼ぶことができます。

『術の小説論』の第一章から第三章の理論篇から太字で強調されてゐる箇所を、必要
に応じ其の前後も含めて、引用します。これが著者のSF文学観の根幹です。

(1)「この二十世記が、たとえば二つの世界に対極化しており、そのはざまの中の
僕たち自身が分裂している現状を、SFを手段として解決していく、即ち倫理の地平か
もぐら通信
もぐら通信                          20
ページ

ら沸き起こってくるさまざまな矛盾を、科学の論理や成果を武器として、合理的に解
決していく、この思索の過程こそSFではないのだろうか(略)」
(原文は傍線は傍点)

(2)「いったんSFの方法論を作家が体得した場合、文学のあらゆる主題すらもSFに
置いて書きかえられるのではなかろうか……。」

(以上第二章「II 術者としてのハインライン」より)

(3)「たとえば、法律家が、彼の所有する六法全書や判例の知識を、被告人といふ
事実的世界に適用するように、僕たちは、事実的問題を前にして規制の知識をいかに
適用するかを考える。」
(第三章「III では術(クンスト)とはなにか」より)

即ち、『術の小説論』で行われる変形は、上記(3)を前提にした次の二つの変形で
す。同じ変形は詩でも小説でも行はれると考へて下さい。

(1)主題そのものの変形(水平方向への変形):上記(2)が此のことを言つてゐ
る。
(2)主題の応用(垂直方向への変形):上記(1)が此のことを言つてゐる。

さうして、上記の学術的なピラミッドの最上位にある哲学のことが此の章の一番最後
になりましたが、著者は哲学的な規準としカントの哲学を援用して自説を立ててゐます。
上記太字の引用の(1)をご覧になるとお判りの通り、著者がカントに惹かれた重要
な理由の一つは、カントが道徳を『実践理性批判』で述べてゐるからです。

そして、『純粋理性批判』(これは認識の書)に加へて、『実践理性批判』とともに、
「此の二つの批判ののち、カントは人間の判断力を第一批判から分離して、第三の批
判である判断力批判を書き加えたという」「このカントが判断力をして、知性の働き
から分離させざるを得なかった事情は、今、僕がのべようとする 術 のSF論と有意な
関係があって面白いと思う。」とある通りの次第で、上のハイデッガーの「理解の地
平」図の平面上で、理性による認識ではなく、理解といふ時間の中での現存在として
の人間の在り方についての二項対立として分裂した問題の実際的な解決を図ること、
これが著者のSFの(文字通りの)存在意義であり、これはこのまま人間の道徳と倫理
の問題でもあるのです。

この存在意義の例示として、この小説論の最後に註記として、次のやうに述べてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

「本稿で私が言おうとしたのは、医者と患者の関係である。医者は自らの医学的知識
を使い患者を治療しようとする。もし戦争を世界の病気と考えるならば、世界を健康
体(平和状態)に戻すために、われわれは、医者のように振る舞わなければならない。
従って、戦争シミュレーションへの展開も[術の小説論]の適用に他ならないと私自
身は思っている。」

シミュレーションの世界は、現実と似てゐるが、しかし、現実とやはりズレてゐる世
界です。即ち、二つの対立を現実的に解決するためのSF小説が、著者の戦争シミュレー
ションものの連作であると言つてゐるのです。この註釈の背景を察するに、読者に此
の戦争シミュレーションの小説について、それ以前の著者の小説との関係が不明だと
言はれたのでせう。しかし、戦争は最悪の二項対立ですから、確かに、著者のSF小説
観の本質は変はらないのです。

さうであれば、詩人の詩観の本質も変はらない。

「かくして、僕たちはSFを読みながら、絶対的なるものの牢固とした基礎を失い、ま
た、僕たちの実存の基盤を失い、ただよいはじめるのである。(略)そのとき、おそ
ろしいことであるが、SFにとって倫理の至上命令とは、一つの問題提起であるにすぎ
ぬのかもしれない。 自由 への存在それ自体の根源的なあこがれから出発して、僕た
ちは 自然 的領域と合致する科学的知の集積から、必要な知恵を探し出す。 適用 し
解釈 する。医者は病人の病いを直すことはできても、心の病いまでは治すことはでき
ない。たとえばSFによって治すことのできぬのは、ニーチェの病いである。だが、SF
人はその虚無の病に目をつぶる。目をつぶることを 決意 する。その終局の姿こそク
ラークが想定した ダイアスパー のユートピアなのであろう。」(傍線引用者)
(第五章「V 夏への扉――解決されたタブー」)

しかし、この『無限印刷機』で、詩人は「無限印刷機」の吐き出す「虚無の病に目を
つぶる」ことなく、「目をつぶること」を全く「 決意 する」ことなく、怒れる「聾
唖の神」の「玉座の空位」をこそ眼(まなこ)と変じて、「われら新世紀の至福」を
歌ふことができてゐる。この「われら新世紀の至福!」たるユートピアは、もはや目
を瞑(つぶ)らぬものである以上、「クラークが想定した ダイアスパー のユートピア」
を超越して至つた此の詩人のユートピアなのでありませう。

『術の小説論』は1970年の、『無限印刷機』は1996年から2011年までの
間の作。とすれば、この間、41年の月日と孜々として止まぬ労苦があります。

詩集の自筆「覚え書き」に詩人は詩の本質と詩人の使命についてかう書いてゐます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ22

「『言葉は存在の住居』と言ったのはハイデガーだが、もし言葉がなければ、自然は
ただあるだけ。(略)それだけこの世界に意味を与える言葉は重要であるのに、われ
われ人間は日常の中に埋没して怠惰になり、意味なく言葉を使っている。この日常的
平凡さに飽き足らず、言葉を〈存在の秘儀〉に近づけようと努力するのが詩人だと思
う。」「詩の使命は〈存在の秘密〉に迫ることである。」

22歳の安部公房は(推定)1946年冬、『没我の地平』の最初の詩「詩人」と題
した詩の第三連に、「言葉を〈存在の秘儀〉に近づけようと努力する」詩人の一人と
して、次の三行を残してゐます。

「此の小さな言葉の窪みにも
 けれど大きな存在の空虚が
 ひそみあふれてゐはしないか」
(全集第一巻、157ページ)

[註2]
『術の小説論』は巽孝之著『日本SF論争史』(勁草書房)と『定本荒巻義雄メタSF全集第一巻』(彩流
社)に収録されてゐる。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ23

『周辺飛行』論
(1)

岩田英哉

『周辺飛行』といふ1970年から1975年までの一連のエッセイと、その後を1976
年から引き継いで安部公房スタジオの活動を伝へる「安部公房スタジオ会員通信」を後半と
して、同じ題の元に二つを一緒に読まうといふ試みです。

『周辺飛行』と題したエッセイは全部で44あります。

この題名で書き始めるのは、1970年代に入つてからです。しかし、後述する其の前の準
備期間に此の「周辺飛行」といふ着想とともに現れる詩人が、やはり、リルケなのです。安
部公房は『リルケ』と題したエッセイを1968年12月25日付で発表してゐます。さう
して、安部公房スタジオの活動が終息した1980年に『氷の壺から水を飲む』といふエッ
セイを書いてゐます。「氷の壺」といへば、リルケの『涙の壺』といふ詩を、安部公房は1
949年3月に当時主宰してゐた「世紀の会」のために『世紀の歌』と題した詩の中で書い
てゐますので、これは後述します。

安部公房スタジオの前にリルケあり、安部公房スタジオの後にリルケあり。

結論を申し上げますと、このエッセイ群は、それまでの安部公房の作家活動の総合的なまと
めの試みとなつてゐます。同じ総合藝術の試みを、安部公房は1940年代の後半に世に出
てから1950年代に於いて精力的・集中的に行つてゐました。及んだ範疇は、小説、詩、
演劇、ラジオとテレビのドラマ(シナリオ)、映像(映画)、記録藝術(ドキュメンタ
リー)、ミュージカルなどに及びます。

『周辺飛行』といふ一連のエッセイを主軸にして、小説、戯曲を藝術範疇別に時系列に整理
をして並べましたので、ご覧ください。この作品一覧を以下「年表」といひます。ページに
貼り付けても文字が薄れて読みにくいので直接ダウンロードして下さい。ダウンロードのURL
は:https://ja.scribd.com/document/387054777/周辺飛行-を理解するための作品一覧

これを見ますと、次のことがわかります。

(1)1940年代の後半に世に出てから1950年代に於いて行つてゐた総合藝術の試み
を再度行ふことを決心したこと。
(2)それが、年表の最初の頃の
  ①『どれい狩り』や『棒になった男』の再演
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

   ②『赤い繭』や『魔法のチョーク』についての覚え書

これらの資料で、それを知ることができること。

(3)「安部公房スタジオ旗あげ」(談話記事)にある通りに「「作家・安部公房氏が演劇
グループ「安部公房スタジオ」を結成。十一日午後、渋谷のけいこ場で記者会見して結成の
いきさつなどを披露した。(略)安部氏を中心に二年前からつづけていた勉強会が発展的に
名乗りをあげたもので」あるといふことから見て、最初の『周辺飛行』の発表は1971年
3月ですから、確かに1973年11月の安部公房スタジオ立ち上げの二年前からの勉強会
に関係して、安部公房スタジオのために書き始めたものです。
(4)内容は多岐にわたり、総合藝術を再度目指した意志から言つても、書かれてゐる主題
は小説、既存の戯曲の訂正、演技指導、演技概念、演技論、夢の再録等々、多岐にわたりま
す。

そして、年表を見ると、

(5)『周辺飛行』は、その全体の『周辺思考』(1967年)と『試験飛行』(1968
年)を一種の助走として、その後1970年代を通じて、1975年6月まで全部で44回
の連載ですので、1970年代前半の安部公房を知るための格好の資料といふことがいへま
す。また、
(6)その後には翌年1976年1月より『周辺飛行』と入れ替はるやうに不定期刊行物と
題して(2号以降は)『安部公房スタジオ会員通信』といふ名前で会員への通信を配信し始
めてゐる。
(7)『周辺飛行』は安部公房スタジオの内部の俳優と自分のために、『安部公房スタジオ
会員通信』は外部の安部公房の演劇ファンのためにそれぞれを発行したといふ事になります。
この切り替への時機である1975年と1976年の間には何かの理由がある筈です。
(8)『安部公房スタジオ会員通信』は、1980年12月の第11号まで配信されてゐる。
そのあとは活動はなく、
(9)1984年に長編小説『方舟さくら丸』刊行に至る。

大雑把にまとめますと、1970年の前後から1985年以前の安部公房を知るための縁(よ
すが)となる資料を吟味しようといふのです。

(10)この間、安部公房は安部公房スタジオに精力を注ぎ、戯曲上演の数は、小説の数よ
りも多くなつてゐることがわかります。
(11)小説はこの間、1973年の『箱男』と1977年の『密会』のみ、となります。

蛇足ながら、

(12)1967年の「周辺思考」、1968年の「試験飛行」のそれぞれ周辺と飛行は、
もぐら通信
もぐら通信                          25
ページ

前者後者併せて『周辺飛行』に、後者は、しかしその後1984年の『方舟さくら丸』の立
体航空写真に、また前者は、最後の長編『カンガルー・ノート』の最終第7章の、人さらい
の歌の後に来る「網膜周辺でしか見えない、数人の小さな人影」が「大型冷蔵庫でも入りそ
うな、ダンボール箱を運んでくる」ところまで生きてゐます。

年表によると、

(13)安部公房は1978年6月に(『カンガルー・ノート』の最終第7章に生かされて
ゐる)『人さらい』の詩を書いてゐて、この年の10月1日に『通信ー安部公房スタジオ会
員通信6』に「S・カルマ氏の犯罪」と題して文章を書き、また同じ月の13日には『S・カ
ルマ氏の犯罪(ガイドブックIV)』を上演してゐますので、この詩は、この二つの事に関係
して意味を持つてゐるものと思はれます。

この時系列的な事実と、安部公房が1970年前後で自分の最初のシュールレアリスムの作
品群に戻らうとし、実際に戻つたといふ事実に鑑みれば、S・カルマ氏は『カンガルー・ノー
ト』の脛にカイワレ大根の自生してゐる主人公に変形してゐるといふことができ、また『S・
カルマ氏の犯罪(ガイドブックIV)』の上演を私は当時実際に観ることはできませんでした
が、しかし同様に舞台のS・カルマ氏も『カンガルー・ノート』の主人公であるといふことが
できます。

実際に当時初演の舞台写真を見ますと、この砂漠の襞々の縞々(しましま)は、『カンガ
ルー・ノート』の主人公の脛のカイワレ大根の襞々で縞々の形象と同類です。『他人の顔』
の冒頭に主人公の妻が通り抜けてやって来る「はるかな迷路の襞」であり、襞は凹といふ存
在の形象ですから、『砂の穴』の穴であり、『箱男』の箱であり、『方舟さくら丸』の地下
洞窟の凹である、と連想は連鎖して繋がつて行きます。

『安部公房の劇場 
 七年の歩み』
(編集:安部公房スタジオ;
 発売:創林社)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

(14)1980年といふ安部公房スタジオの活動終息の年に、安部公房は『氷の壺から水
を飲む』といふエッセイを書いてゐます。壺といへば、リルケの『涙の壺』です。安部公房
は1949年3月に当時主宰してゐた「世紀の会」のために『世紀の歌』といふ詩を書いて
ゐます。この詩で次のやうにリルケの「涙の壺」を歌つてゐる。

「ぼくらの日々を乾かして
 涙の壺を蒸留しよう
 ミイラにならう
 火を消すものがやってきたら
 ぼくら自身が火となるために!」

この詩を書いた安部公房は25歳。初期安部公房が安部公房全集で表立つて発表した前期2
0年の最後の詩です。その次の詩は、後期20年の『人さらい』(1980年4月)まで待
たねばなりません。いづれにせよ、1980年の此の詩は、安部公房スタジオの活動の終息
を区切る詩であつたのではないでせうか。

安部公房スタジオの活動は「涙の壺」で始まり、「氷の壺」で終はつた。

さて、蒸留した筈の「涙の壺」の涙は、蒸留した後/にも拘らず、水を飲むための「氷の壺」
の水となつたのでせうか?「涙の壺」から「氷の壺」まで31年が閲してゐます。この時、
安部公房56歳。

再度、安部公房の藝術家人生の全体の見取り図に戻りませう。「安部公房の人生表」(もぐ
ら通信第33号)を再掲します。この表によれば、『周辺飛行』論は、PHASE3の「存在へ
の回帰」に当たり、安部公房の作家生活の後期20年を論ずるといふ事になります。

1980年に「氷の壺」を散文で書いた安部公房は、この後箱根の山荘を仕事場として籠り、
晩年のリルケと同じく孤独に徹した生活に入ります。

「安部公房の人生表」のダウンロードは:https://ja.scribd.com/doc/266694123/安部公房
の人生表-v3

また同時に「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに(藝術家集団を付記)(v8)」(もぐら
通信第56号)も再掲してURLを示します。『世紀の歌』を書いて「涙の壺」の涙を蒸留し
ようとして成功した安部公房文学史上の位置を知ることができます:
https://ja.scribd.com/document/387058309/詩人から小説家へ-v9

次章から詳細に『周辺飛行』を論じます。論じ方は次の二種類になるでせう。
もぐら通信
もぐら通信                          27
ページ

(1)『周辺飛行』毎の単体論(小説ならば作品論に当たる)
(2)『周辺飛行』群横断の主題別横断論(『周辺飛行』とは何かといふ問ひに対する答へ
を考究する)

(続く)
もぐら通信
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私の本棚
『安部公房の作品にみる視線と空間イメージ』
大柳聡、若山滋、夏目欣昇
日本建築学会計画系論文集第73巻 第627号、
岩田英哉
1119−1124、2008年5月

この安部公房論は、文学畑ではない、建築の学術的な世界の人たちによつて書かれた安部公
房論です。

従ひ、普通の安部公房の読者は文字で安部公房を論じる訳ですが、建築学の専門家ですから、
文字だけではなく数字と記号を使つて安部公房の作品を論じてゐるので、文字による論だけ
では目に見えない論理を論ずることで終始しがちなところを、はっきりと安部公房文学の基
本的な骨格をなす骨の一本二本を数字と図解で示してくれてゐて、私たち文学畑の読者には、
新しい知見を得るといふありがたい論考になつてゐます。といつても、論理で論じて来たこ
とが、やはり正しかつたといふことを、記号と数字と図解で証明してくれてゐると言つた方
が良いでせう。

論文のダウンロードのURLは:https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/73/627/
73_627_1119/_pdf

冒頭の英語によるレジュメの下に小さく挙げられてゐるレジュメの、従つて此の論文の
Keywords(キーワード)は、

文学、空間、視線、心情、安部公房、空間イメージ

といふ六つのキーワード(鍵語)です。

これを見てわかる通り、安部公房の文学の世界に描かれてゐる空間の外部と内部での視線と
心情の様子を論じ、またこれらの要素と特に心情によつて変化する空間イメージ(空間形象)
について述べられてゐます。

さて、さうだとして、これらのことを読み取る前に私の最初に思つたことは、一体建築家が
安部公房の小説を論じて一体何の得があるのだらうかといふことです。建築学会が何のため
に安部公房を論ずる必要があるのでせうか。この問ひ対しては、最初の章の「1. 背景」で
其の理由が、箇条書きにすると次のやうに述べられてゐます。

(1)「建築の意味を捉えようとするとき、その意味を表出させる、ある種の文化系を設定
することが必要である。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

表出とは難しい言葉ですが、自づと明らかになるとか、はつきりさせるためにはといふ意味
でせう。

(2)その為には「ある具体的な場を設定して空間の意味を探ることが重要であり、その先
に新たな認識が展開される可能性を考えた」からである。
その先の新たな認識とは、これまで日本の建築学の業界で流行して来た次の二つの建築思潮
の「その先の新たな認識」を得ることができるかも知れないといふ意味である。
①機能といふ近代主義的なパラダイムであつた機能優先主義
②この機能優先主義を超えるために必要として来た言語学的な意味論と構文論から建築をみ
ること。

(3)建築とは文化的な行為であり、建物は文化的な文物であるので、建築物の「文化的な
意味の本質」は、「文学という虚構の中にこそ人間の真実が現れ」、「虚構の空間だからこ
そ、そこに文化的な意味の本質が現れる」と考へたからである。

この論考によつて得られた「文化的な意味の本質」を今度は逆にどうやつて現実の空間であ
る建築物に活かすのかといふ方法論と方法についての説明は、残念ながらありません。これ
があれば、私たち安部公房の読者にとつては、虚構といふ反対側の世界に親しいものにとつ
ては、どのやうに此れを現実に活かすのかといふ実際的な、たとへ建築といふ範囲であれ、
知識に触れることができたでせうに。

さて第二章は「2. 研究の目的及び対象」とあり、最初に『箱男』の次の一行が引用されて
ゐます。

視ることには愛があるが、視られることには憎悪がある

この論考の目的はキーワードで要約した通りですが、そのための作品として論者が選んだ作
品は、次の三つです。

(1)密会
(2)箱男
(3)他人の顔

この章を読みますと、この論者たちは、ある空間の内部と外部で主人公は視線の関係に敏感
であつて、「視ることには愛があるが、視られることには憎悪がある」といふ視線の関係(以
後これを「視線関係」と呼ぶことにしますが、これ)が主人公の「心情に影響を与え、主人
公の主観的な空間イメージに」作品内の他者との視線関係の変化がその心情に現れてゐると
考へてゐる。
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とすると、この建築学者たちは、例へば住宅といふ家を立てるとして、家族の一人一人が視
線関係の変化に応じて家の中の空間イメージが変化すると言つてゐることになる。これを現
実の家の構造にどう移し替へるのかは解りませんが、しかし此れをこのままに延長して考へ
れば、この方達の建てる家では、家族で出前で握り鮨をとつて食卓でつまんでゐたら、いつ
の間にか(超越論的時間)同じ食卓で各人が便器に座つて大盛りのカレーライスを食べてゐ
たといふことになりかねない。

といふことを安部公房の読者として考へてみると、虚構の世界のプラス・マイナスを現実の
世界のマイナス・プラスに交換して、実際の建築設計を考へ、屋内文化を考へようといふこ
となのでせう。そこで、視線関係での視ると視られるの関係をプラスとマイナスで表示した
ものが次のものです。

この考へ方と組み合わせて考察するために三つの作品から抽出し、独自に一般化した「空間
構成用語」を引用します。。

①都市施設:道路・橋など公共の建物や空間、都市空間を構成する要素を表す用語。
②交通機関:車など交通機関、乗り物などを表す用語。
③建物:家など建物全体、あるいは独立的な構造を指す用語。
④部屋:寝間・奥の間など建物内の一つの空間単位を表す用語。
⑤部位:窓など位置を伴い空間を構成する物質指す用語。
⑥建具・部材:障子・襖など部屋の仕切りとなる建具、あるいは建築を構成する部分的な部
品を指す用語。
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⑦家具:枕・おわんなど家具・ちょうどるいを指す用語。
⑧小物:生活雑貨などの規模の小さいものを指す用語。
⑨自然:自然物を指す用語。
⑩その他:外・地下など建築空間、生活空間を指す用語で、上記に含まれないもの。

さうして、これら空間構成要素である要素用語と、上記のプラス・マイナスで評価された視
線関係の関係で表現された図解が次の三つの作品別の図解です。これ以外にも、作品毎の視
線関係評価による要素用語別構成比率と主人公の空間意識の図がありますが、これは結局こ
の3枚の図解に現れてゐますので、省略します。

【密会】
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【箱男】

【他人の顔】
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これらの図解で論者が「舞台のイメージ」と呼ぶことの理由は明らかにされてゐません。恐
らくは、建築学の世界で常識的に通用してゐる隠喩(メタファ)であるからでせうし、この
言葉を用ゐると建築学会の読者にはこれで過不足なく意味が通じるからでせう。

学問といふ理論の世界ではなく、応用の世界にゐて其の果実である建築の一つである住宅と
いふものの不動産広告を読みますと、よく導線といふ言葉が目につきますのは、上位の層で
使はれる舞台イメージといふ言葉が下に降りてきて具体的な屋内移動のイメージとしては導
線といふ、これは家の構造が住まふ人を快適に又無駄なく導くといふことになつたものと思
はれます。

上の三つの図解からあなたの読み取るものは色々あると思ひますが、私が気づいたことは、
安部公房の主人公はこの三作品では、といふことは間違ひなく他の作品でも、都市の内部か
ら外部へと「表現の移行」のあること、即ちたとへ都市の一部であつて街と呼ばれてゐるて
もいづれにせよ、都市の内部から外部の都市(または街)へと出て行くことです。そして、
これが、視線関係の評価表示でいへば、【+ー】から【+ +】へと「表現の移行」してゐる
といふことです。

この見方で『密会』の図解をみますと、病院はやはり街(都市の一部)を含んでゐることが
わかります。

かうして、

(1)『密会』の病院は【+ ー】の(街を含む)病院から【ー +】の(街を含む)空間へ


「表現の移行」してゐる。
(2)『箱男』の都市は【+ ー】の病院から【+ +】の病院へと「表現の移行」をしてゐ
る。
(3)『他人の顔』の都市は【+ ー】の都市から【+ +】の都市へと「表現の移行」をし
てゐる。

この場合の「表現の移行」は、都市であらうと病院であらうと、閉鎖空間からの脱出といふ
ことでは同じ価値を持つてゐるとプラス・マイナス表示から考へることができます。

『密会』だけが他の二作とプラス・マイナスの組み合わせが異なるのは、他の二作にあるマ
ンホールがないからだと判ります。つまり、地下世界へと降りて行く存在の穴(凹)の形象
がない。

これら三つの図解の座標では、主人公の心情は、[X軸(不安、安心)、Y軸(暗い、明る
い)]が座標を構成してゐます。となると、
もぐら通信
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ページ

(1)『密会』の病院は【+ ー】の(街を含む)病院から【ー +】の(街を含む)空間へ


「表現の移行」してゐる。これは、隠れ家の「表現の移行」をみると、(明るい、安心)か
ら(暗い、不安)への絶望的な「表現の移行」である。確かに最後の場面の、主人公が溶骨
症の少女を抱きしめながら世界の果ての地下室で盗聴器の向かふの馬に叫ぶ姿は、その通り
です。
(2)『箱男』の都市は【+ ー】の病院から【+ +】の病院へと「表現の移行」をしてゐ
る。これは、(明るい、安心)から(明るい、不安)への「表現の移行」と、(やや明るい、
暗い)から(暗い、不安)への「表現の移行」がある。
(3)『他人の顔』の都市は【+ ー】の都市から【+ +】の都市へと「表現の移行」をし
てゐる。これは、(明るい、安心)から(明るい、不安)への「表現の移行」がある。

加へて気がついたことは、『箱男』の解説の「6−2『箱男』(図7)」に、次の説明のあ
ることです。

「【+ ー】において、主人公は他者から視られないことで安心感を得る。その状況において、
主要な舞台である「病院」は客観的に描写されるが、【+ +】の他者から視られる状況にな
ることで、主人公の心情に不安が生じ、それに追従するように「病院」は暗く不気味な空間
へと移行する。

どこか感じの違う薄気味の悪い機械椅子。だから面白いのだ。この組み合わせには地獄絵の
ようなエロチシズムがある。

主要な舞台となる「都市」は、【+ ー】では安心感を得られる空間として描写されるが、
【+ +】においての「都市」は、他者からの視線の多さから、避けるべき対象として描写さ
れている。」

私は此の分析を読んで思ひ出したのは『R62号の発明』(1953年)でした。

このやうな残虐な論理とエロティズムは、安部公房が三島由紀夫と共有してゐた接点の一つ
だといふことができます。

最後に第三章の「既往の研究」に挙げられてゐる文学畑の参照した文献として次の論考が挙
げられてゐます。

(1)安部公房論:高野斗志美
(2)疎外の構図:ウィリアム・カリー
(3)都市への回路:安部公房

これら文学畑の論考について論者たちのいふところによれば、「ここに挙げたような文学に
もぐら通信
もぐら通信                          35
ページ

ついての研究は、執筆者や研究者らの主観を交えた論述形式で構成されるのが一般的であ
る。」といつてゐる。

文藝に関する科学(science:サイエンス)即ち文藝学または文学が科学、即ち学(サイエン
ス)であるのはどのやうな場合であるのかを、私たち安部公房の読者も考へる必要がありま
す。そのやうな貴重な提言として、私は受けとめました。

同じ章に次の文章がありました。さうして、なるほど建築の専門家が安部公房を論ずる理由
はこれか、と思ひ当りました。

「文学作品から空間を探る研究としては、「言葉」と「文脈」、さらにそれらのまとまりで
ある「作品」それぞれの有する「意味」を「空間」を指示するものとして捉え、建築の意味
を探る研究が若山らにより行われている。」

安部公房が十代に読み耽つたリルケは、言葉の意味の総体、正しくは言葉の概念を空間であ
ると認識して詩を書いた。これがまさしく安部公房に詩を書くことは数学的な構造物を構築
することができるのだと思はしめ、またリルケと共有した認識であつたからです。

最後に此の論考の視線関係の値を評価した記号による主人公の心情の「表現の移行」が、即
ち、都市の内部から外部へのまた正反対の方向の交流のことが、安部公房18歳の論文『問
題下降に依る肯定の批判』に書かれてゐることに言及して、この批評を終はりにします。

「 高等学校は思想の遊歩場でなければならぬ。真の意味に於ける高等学校は、一つの思想
上の層的社会であって、範囲的社会である事は、絶対に避けられなければならないのである。
思想の遊歩場の一区劃たる要素を備えて居ない部分は、速かに不純物として、何か改良を加
えるか、郊外地区に移す必要があるのである。では何故此の遊歩場は郊外地区に在ってはな
らないか。実は是は全く問題にならぬ事なのである。思想の遊歩場が成立した理由を考えれ
ばよい。遊歩場が始めに有ったのではなく、遊歩場は二次的に結果として生じたものなので
ある。交錯した家々、巨大な建築、奥深い工場、その間をぬって此遊歩場は無ければいけな
いのである。それは一つの必要である。そして此の道は他の道とははっきりと区別されて居
なければいけない。第一に此の遊歩場はその沿傍に総ての建物を持っていなければならぬ。
つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。それは一つの具体的な形を持つと同
時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や
湖に出る事が出来る事が必要だ。或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れ
る事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所となると同時に、或る種の交易場と
もなるのだ。(略)
 私は諸君に――諸君全てにとは云はないが――此の沿傍に居を移す様に忠告する。これは
私の強烈な犠牲心と同情心とからだ。
もぐら通信
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 さて是から、此の遊歩場の沿傍に住まう人々に向って、その住人たる可き要素――真の反
省と問題下降の絶対的肯定の理論に就いて述べよう。」(全集第一巻、12ページ下段∼1
3ページ上段)」

これは、安部公房が18歳の年に考へたtopologyによつて設計されて「二次的に結果として
生じた」都市(これはすでに後年のクレオール論です)、都市の内部が直接外部にクライン
の壺の如くに接続されてゐる上位接続そのものの、一筆書きの町です。

このtopologyでできた「此の遊歩場の沿傍に住まう人々」の一人が間違ひなく、あなたです。
なぜなら、「此の遊歩場の沿傍に住まう人」とは、箱男にほかならないからです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ37

安部公房とチョムスキー
(10)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7。1 一神教のtopology
7。2 大地母神崇拝のtopology
7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9。ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッパ文明の300年間を読む
10. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
11。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか
ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
12。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
13。 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
13. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
13. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
14。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
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もぐら通信 ページ38
小学生の頃、歴史の授業中にふと気がついて、歴史の教科書をしげしげと眺めながら、今の
時代に生まれた子供の読まねばならない教科書の厚さがこんなにあるなら、1万年後の子供
の歴史の教科書の厚さは一体どれ位の厚さになるのだらうかと想像して、自分の机の上に何
十センチメートルの背表紙の厚さの教科書がドーンと立つてしまつて、ああ、こんな厚過ぎ
る教科書などとても読めない、ああ、20世紀に生まれて本当によかつたと胸を撫で下ろし
たことがあります。

考へてみれば、これが歴史をどのやうに記述するのか、そのための工夫をどうするのか(何
しろ此の工夫がなければ教科書の厚さが永遠に厚くなり、机の上に壁のやうに聳え立つ一方
である)、そのためにどのやうに歴史といふものを考へたら良いのかといふことを考へた最
初でした。

この解決策の一つが、掲題のnetwork topology(ネットワークの位相幾何学)で歴史をまと
めるといふ着想であるわけです。

思へば、上記の子供の発想、即ち細かな事実を足してゆくことなく、教科書を薄くできる方
法はないかといふ考へそのものが、既に超越論のものの考へ方でした。即ち、リンゴ、ミカ
ン、スイカ、バナナ、サクランボといふやうに事実を足して、則ち時間の中でただ事実を列
挙して行くのではなく、これらは一言でいへば果物(くだもの)であると言ひ、一ページに
詳細を書くのではなく、詳細な個別個物の名前を一々挙げて説明するのではなく(それは後
でも良い)、一語で一挙一息に(といふ事は時間を捨象して垂直方向に)それら種概念であ
る全ての個別個物(下位概念)の意味する共通の概念(意義:sense:センス)、即ち上位
概念即ち類概念の言葉をいふこと、これは算数の計算(算術演算)でいふと掛け算、論理演
算(二進数)でいふ論理積のことです。ご自分の思考の過程(プロセス)をよく観察してご
覧なさい。私の此の結論は其の結果です。これは科学的、則ち論理学的真理です。情緒の入
る余地は全くありません。

さうすれば、教科書は永遠に分厚くなることがなくなる。時間の運行が極端に遅くなる。あ
るいは、これを形象(イメージ)の世界に相当するものを求めれば、あなたが『箱男』の世
界に迷ひ込んで貝殻草の匂ひを嗅ひで「魚になった夢を見る」途端にあなたといふ贋魚の時
間は「速度が目立って遅くなり、地上の数秒が、数日間にも、数週間にも、引延ばされて感
じられるらしいのだ。」といふことになるのです。

さう、この贋魚の章の題名は《それから何度かぼくは居眠りをした》といふ題名で、《 》と
いふ記号は、安部公房が自分の存在論の記号として存在と現存在の概念を、といふことは前
者については存在といふ概念に含まれる全ての個別個物を含み、といふ事は後者については
現存在といふ概念に含まれる全ての個別個物を含み、そのやうにある概念を示すために割り
当てた記号であるのでした。[註1]箱男が存在の歴史を書かうとすると、きつと《それか
ら何度かぼくは居眠りをした》といふ題名だけでお終ひになり、書店で其の本を手にとつて
開いてみると、きつと最初から最後まで白紙の頁(ページ)であるに違ひありません。さう、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 39

芥川龍之介ならば『杜子春』の夢生酔生、また邯鄲の夢です。

[註1]
安部公房の記号に関する簡略な結論の説明は『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第66号)の「3。『カ
ンガルー・ノート』の記号論」を、また詳細の論述については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」とい
ふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)をお読みください。論証しました。

さて、かうしてみると、もし哲学(存在論)との関係で歴史を語るとすると、

(1)《存在》と《現存在》の歴史と
(2)存在と現存在の歴史と

この二つがあることになります。

上記(1)は哲学の歴史といふことになり、上記(2)は現実に起きた出来事の歴史といふ
ことになります。前者は、その民族の精神の歴史であり、後者は、その民族の事実としての
歴史といふことになります。

歴史の見方のどちらで今回論ずるかといへばどちらも採らず、この二つの上位の(あるいは
この二つの下位に位置すると言つても垂直方向ですから同じ)言語論理(logos:ロゴス)
の観点から論じたい。歴史といふ時間の種概念は、時間といふ上位概念に最初から「既にし
て」(超越論)含まれてゐるので、これは歴史ではなく、系譜と呼ばれるべきものになるの
でせう。私が知つてゐる此の例は、道元禅師が宋で修業の後に日本にもたらした仏陀になつ
た者たちの系譜図です[註2]。即ち、毎回ご破算で願ひましてはと、白紙の上に次のやう
な階層を素描することになります。

(0)言語論理(logos:ロゴス)から観た超越論の系譜
(1)《存在》と《現存在》の歴史
(2)存在と現存在の歴史

[註2]
この系譜図を次ページに示します。(今枝愛眞著『道元 座禅ひとすじの沙門』117ページより)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ40

これは時系列の年譜ではなく、系譜ですので、この譜面には時間は存在してゐない。仏祖に戻るといふことですから、
一祖、二祖、三祖……と数へても、この数へ方は時間の中での足し算ではなく、常に仏祖の祖(そ)または祖(おや)
に再帰するといふ考へ方、即ち超越論の考へ方です。

天地初発の高天原topologyの論理からいつて、もし天孫降臨から始まり神武天皇を初代とするとしても/するならば、
同じ超越論(汎神論的存在論)、即ち価値は等価で存在するわけですから、代々の値はどの代であらうと上記の仏祖
の祖(そ)の系譜と同じで、繰り返し初代といふ祖、初代といふ代の祖に再帰することになつてゐる筈です。

この論理が、古事記の中の天皇の百歳を超える年齢の根拠になつてゐる。即ち、超越論で年齢を数へたらどうなるの
か?といふとひに答へるといふことです。超越論には時間の始めも終はりもないのでした。天地初発神話(高天原
topology)が此れです。とすれば、時間を単位化する以外にはないといふ答へになります。縄文時代の日本人は、実
に論理的にさう考へた。ただ文字で残してゐないだけです。私たちの内心を先入見を排して、それが何かを素直に思
ひ出してみれば、私たちは「既にして」「そもそも」「いつの間にか」(超越論的時間)よく知つてゐるのです。

この感覚と論理は今でも脈々と生きてゐて、歌舞伎の俳優の名前や落語の噺家の世界に受け継がれてゐます。つまり、
何代目歌右衛門とか、何代目桂何某などといふのがそれです。他に幾つも例がある筈。あなたは一体何代目山田太
郎?、何代目山田花子さん?
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

さて、(0)の超越論といふことから話を始めますと、安部公房とチョムスキー(1)、(も
ぐら通信第73号)の「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」および『安部公房とチョ
ムスキー(8)』(もぐら通信第81号)の「7.3 一神教のtopologyを大地母神崇拝の
topologyに変形する」で知るに至つた知識に戻ると、近代ヨーロッパ文明の哲学の系譜は、
言語の本質である再帰性を巡つて、次のやうにカントで二つに分岐するのでした。

(1)共産主義:言語再帰性を絶対的に否定する。キリスト教といふ宗教と何ら変はらない
一神教topology。一神教topologyは宗教の分類でいふ父権宗教のtopology。しかし共産主義
は神話を否定するので、マルクス主義を含む共産主義は擬似宗教であり、従ひカルトです。
(2)超越論:言語再帰性を絶対的に肯定する。汎神論的存在論と私たち日本人からは呼ぶ
ことのできる超越論。古事記の天地初発・国生み神話のtopology。大地母神崇拝のこころで
す。宗教の分類でいふ母権宗教。

この分岐の系譜図は次のURLから:https://ja.scribd.com/document/368975265/西洋近世
哲学史の中の安部公房の位置

そのtopologyの変形を表立つた結論のみを示して、近代ヨーロッパ文明の300年を示すと
次のやうになるのでした。

近代ヨーロッパの哲学上の努力は、キリスト教といふ一神教のトポロジーを、大地母神崇拝のtopologyへ、
具体的に例を挙げれば、私たち日本列島文明の島嶼哲学である汎神論的存在論のtopologyに変形しようとい
ふ努力であつた。近代ヨーロッパの哲学は後者を超越論と呼んだ。両者それぞれの論の使ふ用語は違つてゐ
ても、それぞれの概念で構成されるtopologyは同じものである。即ち普遍的な言語論理(logos)による論
理構造(topology)は同一である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ42

ヨーロッパの歴史を観ると、既に「8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる」(もぐら通
信第82号)で証明した通りに、キリスト教の中世スコラ哲学の論理の力が(ヘーゲルを通
じて)今に至るまで、陰に陽に、肯定するにせよ否定するにせよ、極めて大きい。といふ事
は、ヨーロッパの歴史は、宗教と政治の歴史といふことになります。さうしてこれは、宗教
と政治の相克の歴史です。

特に18世紀になつて彼ら自らが呼ぶ啓蒙主義といふ(キリスト教を無知蒙昧として対抗す
る命名の蒙を啓(ひら)く)世紀になつてから以降は、一層現代風の、現代風のといふ意味
は資本主義(経済)と民主主義(政治)と、そして宗教との相克の歴史です。1789年(本
居宣長の生きた時代)のフランス革命と呼んで、それまでの歴史的な国の権力の正統性を、
即ち自分たちの歴史と伝統を担ふ絶対的な権力を体現した自分たちの国王を暴力によつて弑
(しい)し、その権力の連続的な継承を人為的・人工的に断ち切つて、フランスの国民がフ
ランスといふ同じ名前でフランスといふ国(このフランスは人工国家、人造国家である)を
新しく立てるといふ事件(既にこれが共産主義の考へ方ですが、これ)以降は、大変大雑把
に言へば、前者即ち経済を含む政治が後者即ち宗教に勝るといふ趨勢で来たのがヨーロッパ
の、これが内部の歴史です。ヨーロッパの外部、一神教のtopologyを及ぼさうといふ外部に
あつては、政治・経済と宗教は手を結んで、各国各民族への侵略を重ねて収奪を繰り返して
来た。[註3]日本の島からユーラシア大陸の極西のヨーロッパ、それも西ヨーロッパの地
域を観ると、このやうである。

[註3]
この欧米白人種キリスト教徒の論理は『哲学の問題101(4):自然』(もぐら通信第87号)に詳述しま
したので、お読みください。

「5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ」(もぐら通信第77号)によれば、17世紀の
ローマ・カソリック教会の組織の階層と世俗権力の雄たる皇帝の権力階層は次のやうになつ
てゐるのでした。

①ローマ法王庁>大司教>司教>修道会>修道院
②ローマ教皇>大司教>司教>司祭
③ローマ・カトリック法王庁>イエズス会
④ジャンセニズム>ポールロワイヤル修道院
⑤皇帝>国王>領主

①から③は正統のカソリック、④は異端のカソリック、後者はチョムスキーが20世紀にな
つて再度取り上げて主張したデカルト哲学の同じ論理に基づく文法学と論理学を統合した実
利的な、といふ意味は、今時間の中で話をしてゐて文を生成することを大切にしたポール・
ロワイヤル文法を生んだ同じ名前の修道院の属したカソリックの改革を厳しく主張したジャ
ンセニズムです。とはいへ、①から④はカソリックに入れて良いものです。あるいは広くと
つてキリスト教といつてもよい。
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とすると、結局西ヨーロッパの政治的及び宗教的な勢力は、

①ローマ法王庁>大司教>司教>修道会>修道院
⑤皇帝>国王>領主

即ち、

①ローマ法王
⑤皇帝(神聖ローマ帝国の皇帝)

この二つが、前者は宗教の、後者は世俗政治の二大勢力といふことになります。

この後18世紀のフランス革命(1789年)といふものがやはりその後の近代ヨーロッパの
歴史の動向に大きな影響を及ぼしたといふ事は、上記二つの勢力の戦ひが、その後ナポレオン
の出現と其の勝利によつて、政治勢力の世界では、1806年神聖ローマ帝国の皇帝フランツ
2世がドイツ皇帝の退位と帝国の解散を宣言するに至るといふことをみるとよくわかります。
さうすると、この後のヨーロッパ内部での争いは、19世紀と20世紀には、

①ローマ法王(キリスト教)
⑤それぞれの近代国家(民主主義、資本主義)といふ人造国家

といふ覇権を巡る戦ひになります。

(以下、このページは余白)
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さて、このやうに整理した上で、言語といふ(概念の接続と変形、即ちtopologyの)観点から
ヨーロッパ近代300年の歴史を観るとどうなるかを図示しましたのでご覧ください。

『近代ヨーロッパ文明300年の超越論のnetwork topologyの変形の系譜』図(ダウンロード
のURLは:https://ja.scribd.com/document/386924203/近代ヨーロッハ-文明300年の
network-topologyの変形-v3[註4]

【全体図】

【部分図】
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ページ
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ページ
[註4]
この図の最後に描いた「21世紀のNetwork Hegemonie」図に関して説明する機会がありましたので、ご興味が
あれば、私が20代の後半を外国人(日本人)として生活した今は消滅したマルクス主義国家、ドイツ民主共和国
(東ドイツ)での一神教topologyの世界がどんな恐ろしい世界かの話を機会があつて「ネットワーク・ヘゲモニー
と言論弾圧」と題して話をしましたので、ご視聴下さい。恐ろしいのは今の日本にマルクス主義が姿を変へ、正体
を隠して現実に魑魅魍魎の如くに跳梁跋扈してゐることです。これは私が東ドイツで見聞し、また実際に経験した
ことの、ほんの一部分に過ぎません。

①https://broadcast.kohyu-nishimura.com/critics/ajer-2018-8-3-5
②https://broadcast.kohyu-nishimura.com/critics/ajer-2018-8-3-6
③https://broadcast.kohyu-nishimura.com/critics/ajer-2018-8-10-5
④https://broadcast.kohyu-nishimura.com/critics/ajer-2018-8-10-6

この『近代ヨーロッパ文明300年の超越論のnetwork topologyの変形の系譜』図を見ますと、
今のヨーロッパは、17世紀のデカルトとライプニッツの時代のヨーロッパに逆戻りしてゐる
と私には見えます。EUなどつくらなければ、各国が国境の警備をする訳ですから、移民や難民
の問題も起きなかつたことでせう。私はEUを第二共産主義と呼んでゐますが、マルクス主義の
失敗にも反省することなく、マルクス主義の恐ろしい本質を曖昧にしたまま、何故ヨーロッパ
の人間たちは同じ過ちを繰り返すのかといふ理由は、『哲学の問題101(4):自然』(も
ぐら通信第87号)に(God、人間、自然)の関係を以つて、この文明の最初にある偽善的な
性格に因るものであることを明解に説明したので、これをお読みください。

やはり、一神教の宗教であるキリスト教から逃れて何かを考へようとすると、無宗教になり、
一神教のtopology以外のtopologyを考へることができずに、これに頼るまいとすると虚無主義
(ニヒリズム)、即ち人道主義(-ism)といふ偽善的なイデオロギー(Ideologie)に堕ちると
いふ図式は依然として今のヨーロッパに効いてゐる。

思へば、EUの創設は、17世紀のウエストファリア条約の否定でありましたが、即ち戦争を前
提にしなければ平和はないものを、しかもドイツはあれだけ17世紀に30年戦争でドイツの
領土をヨーロッパ各国に踏みにじられた惨状あるにも拘らず、またしても17世紀バロックの
歴史的な知恵を生かすことができなかつた。今度はヨーロッパ域外からの侵入によつて内部の
秩序を壊されるといふのは、お釈迦様なら因果応報といふでせうし、安部公房ならば(資本主
義と民主主義とマルクス主義といふ)植民地主義[註5]でやつて来たからだといふことにな
りませう。資本主義と民主主義とマルクス主義はいづれも一神教のtopologyであることに異同
はないからです。

もう一度、人道主義(-ism)などといふ偽善的なイデオロギー(Ideologie)の甘い夢に耽るこ
となく、過酷な17世紀の冷徹冷厳な精神にせめて戻つてはどうか。今まで外になしたことを
内になすのです。

これ以上の余所の文明圏の悪口と誤解される言は、ここではこれ以上慎みたい。何故なら、日
本の国も人ごとではないからです。さて、私たちは、日本列島の1万5000年の歴史の上で、
一体どこに戻つて考へるのが最善か。超越論(汎神論的存在論)で、お考へ下さい。
もぐら通信
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哲学の問題101
(5)
  戦争
岩田英哉

戦争といふ主題に割いたページ数は見開き2枚。右のページ丸まる以下の写真です。

これは、第二次世界大戦でドイツのドレスデンといふ嘗(かつ)てのザクセン王国の、エルベ河
のほとりの美しい都が、連合軍による大空襲を受けてなつた無残な廃墟の姿です。爆撃は、19
45年2月13日から15日にかけて行はれた。死者は2万2700人から2万5000人とい
はれてゐる。これは無辜の民、即ち都市を無差別に爆撃して市民を殺したわけですから、依然と
して歴史家たちは、 これが軍事的に必要であつたかどうか、軍事目的に適つたものであつたか、
そしてハーグ陸戦条約(国際戦争法)違反ではないかといふ議論が今日でもなされてゐる。この
空襲はイギリスとアメリカの軍によつて行はれた。日本の場合ならば、東京大空襲、広島長崎へ
もぐら通信
もぐら通信                          48
ページ

の原子爆弾の投下が、これに当たります。日本人の歴史家は、これらの国際法違反のアメリ
カによる戦争に関する犯罪を何故糾弾しないのであらうか。私は不思議でなりません。アメ
リカにも歴史家はゐるだらう。日本に歴史家はゐないのか?

話を本文に戻します。

ここに出てくる哲学者は次の二人です。

(1)教父アウグスチヌス(西暦354年ー430年)
(2)イマヌエル・カント(西暦1724年ー1804年)

戦争とは何かといふ問ひに、4世紀前後に生きた此の人間の言説が参照されるといふことに、
やはりキリスト教のものの考へ方が重要だといふことが判ります。最初にアウグスチヌスの
考へを、次にカントの考へを見てみませう。

「アウグスチヌスは戦争は悪だと考へました。しかし、また同時に思つた事は、戦争は必要
でもあるといふ事です。この言説の最初の人間として、アウグスチヌスは 正しい戦争
(bellum iustum)のイメージ(表象、観念)を発展させ、 正しい戦争 とは、キリスト教
の道徳(モラル)に一致してゐるならば、その戦争は正しいのだとしました。アウグスチヌ
スの言ふ 正しい戦争とは次のやうな戦争です。ある民族またはある市民共同体(都市の住
民)が、それら成員の人々によつて行はれた不正を罰したり、又は不正によつて取られた物
を返したりしない場合に、不正を罰するために行ふといふ其のやうな戦争は正しい戦争であ
る といふものです。」

「言ひ方を換へれば、他の国家や邦領による正義(法律、権利)の侵犯に対して報復する(罰
する)戦争は遂行して良いのです。更にアウグスチヌスの意見によれば、最終的には平和を
目標とするならば、戦争は是認さるべきであるといふ事です。この正しい戦争といふ教義(ド
クトリン)は、道徳(モラル)のイメージとしては前近代的なものである」として、著者は
次にカントの戦争と道徳の考への説明に移ります。

それでは、カントは「キリスト教の道徳(モラル)に一致してゐるならば、その戦争は正し
い」といふ以外に、戦争の善悪に、どんな判断基準を示したのかを読んでみませう。つまり、
キリスト教の善悪の判断以外に、キリスト教といふ一神教のtopologyを離れて戦争を肯定し
又否定する基準は何かといふことを見るのです。

著者がいふには、カントは戦争に対して決然と反対したと書いてゐます。この場合のカント
の立場は、啓蒙者として最初にこれを唱へたといつてゐる。カントの著(あら)はした『良
き習俗(又は礼節)の形而上学』と題した本の中で、カント曰く 私たちの中にある道徳的
且つ実践的な理性が、その抗い難い拒否権を行使する[註1]:戦争はあつてはならない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ49

といふのは、戦争は、誰もが自分の権利(正義)を求めるための方法ではないからである。
といふのです。

[註1]
「その抗い難い拒否権を行使する」といふのは少し難しい言ひ廻しですが、要するに、理性は拒否権を行使す
る事には抵抗することができないといふ事です。

カントによれば「国家は(近代国家と考へてよいでせう)どの国家も、法律によつて保証さ
れた平和の状態を守る義務が、定言的命令によつて、義務付けられてゐる。」とあります。

この定言的命令といふのは、定言的といふとよく解りませんが、範疇(カテゴリー)のとか、
範疇的なといふ意味です。範疇(カテゴリー)といふのは、理性の行ふ分類の最上位分類の
事ですから(これ以上の分類はない)、理性を働かせてつくつた(最上位分類に基づいて立
法される)法律といふものが(この法律は複数形なのでどの国家も即ち同じ主旨の立法をす
ることをカントは考へてゐる)保証するのは、この範疇的な命令によるのであるから、この
命令をどの国家も遵守すれば(これは国家の義務である)、即ち人間が理性的にものを考へ
れば戦争はなくなり、平和な状態が維持されるとカントは言つてゐるのです。このやうな文
脈に於いて、ドイツの政治学者のマイネッケの国家論の冒頭に出てくる国家理性などといふ
言葉が成り立つのでありませう。

しかし、国家に理性があるとすれば、これは国家ではなくとも、株式会社でもNPOでも社団
法人でも何でも人間の組織であれば、集団の理性といふものを養ふための教育制度といふも
のが確立されねばならないでせう。その上で、集団の長が集団を代表して理性的な判断と行
動をとることができる。カントの教育論があるとしたら、この著者の説明を読む限り、やは
りそれは道徳論と一対になる教育論ではないかと察せられます。

さて、私の問ひは、果たして近代国家、即ち近代先進国々家に国家理性なるものがあつたの
か否か、といふ問ひです。また21世紀の現在の近代国家諸国に果たして定言的命令を提唱
して平和が世界中に訪れるのでせうか、といふ問ひです。

この問ひに答へるかのやうに、著者は自分の生まれ育つたドイツといふ国の歴史を振り返つ
て、このやうな問ひを読者に、最後に問ふてゐます。上記のカントの考へ方から 問はれるべ
きは、暴力の形態は如何なる形態であつても根本的に違法であるのだらうか?(といふ問ひ
である。)都市の住民を護(まも)る事は、戦争のどの倫理の中心にもあるものだ。たとへ
戦争が正当化される戦争であつても、戦争目的を達成するために軍人ではない人間たちを殺
す事は、決して正当化されるものではない。

この最後の言葉をいふために、著者は右側の全ページを使つて廃墟のドレスデンの市街の写
真を掲げたのです。冒頭の写真はドレスデンの市庁舎(市役所)の上から写した写真です。
もぐら通信
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ページ

私は東ドイツにゐた時に、一度ドレスデンを訪れました。1975年から1980年までの
間のことです。エルベ河の向かふにあるバロック様式のツィヴィンガー宮殿を見に行つたの
です。町は戦後の廃墟のままで、何の復興の手立てもなされてゐませんでした。マルクス主
義の共産党の国ですから、貧しく、まづこのやうな廃墟復興の予算がないのでせう。しかし、
聖母教会は廃墟のままであつても美しかつた。形骸となつて残つてゐる教会の曲線だけでも
美しかつた。行きと帰りに、エルベ河の向かふから眺めてみると、ドレスデンの町の美しさ
が判りました。エルベ河もまた美しい。こんな美しい都を廃墟にするとはと、その時さう思
ひ、思はず嘆息が漏れたのを記憶してゐます。廃墟でさへ美しいのに、そのままであつたな
らどんなにドレスデンの美しいことか。私たちには京都が廃墟になつたと思へば相当のイメー
ジ(形象)を得ることができるでせう。復興なつた今の、エルベ河向かふから振り返つた今
のドレスデンです。

感動したことは、行きと帰りに同じレンガ職人に出会つたことです。午前と夕方の二度、こ
のレンガ職人は、日本でいふネコと呼ばれる一輪の手押し車にレンガを積んで通りを黙々と
押して運んでゐた。他に人つ子一人ゐない。廃墟は静かです。私は通りかかつた聖母教会の
修復をしてゐるのかと思ひましたが、今思へばそんな高度な建物を修復する技術もお金も東
ドイツにはなかつたでありませうし、共産党の国ですから教会の修復など考へてゐなかつた
のかも知れません。生活のための優先順位のもつと高い建物の修復であつたかも知れない。
通りを歩いてゐても、道の両側にはまだ戦禍のままに瓦礫が放置されてゐる。これは東ベル
リンも中心を遠ざかると同様でしたので、他の町も、その大小を問はず、推して知るべしで
す。低地ドイツ、即ちベルリンの北、バルト海のあたりまでの広い国土には数百の村々が無
人のままに廃村として放置されてゐるのでした。次の写真、左が戦後すぐの聖母教会の写真
です。立像はマルティン・ルター。右は今の聖母教会。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

何故ドレスデンにこんなに惹かれたのかと今考へますと、この都がバロック様式でできてゐ
るからです。安部公房にとつての奉天といふ訳です。

言語から観た戦争の本質論を語らうと思つてゐたのに、何だか観光名所案内か回顧談に最後
はなつてしまつた。また連載中に他の主題のもとに戦争の本質について話すことがあるでせ
う。戦争の本質を知らねば、平和は画餅です。何故ならば、平和もまた消極的定義
(negative difinition)しかしようのない概念であつて、

平和とは、戦争のない状態である。

と否定的・消極的に定義する以外にはないからです。

自由、博愛、平等などなど、実に皮肉なことに、人間にとつて理想を求めて目を潤ませるや
うな概念は、例外なく消極的定義をするしかない概念でありませう。何故ならば、そんなも
のはこの世にはないからです。

しかし尚、解(げ)せないのは、戦争といふ項目が、依然として「社会と政治」の範疇に分
類されてゐることです。「文明と政治」とか、「文明と国家」といふ分類になるのではない
だらうか。どう考へても、社会は国家の上位概念ではない、何故ならば、交戦権を以つて戦
争を遂行するのは国家だからです。社会には交戦権はない。国家が社会を外敵から守る。

かういふところが、この著者の分類の狂つてゐるところです。このまましばらく様子を観な
がら読み進めたい。今までのところの知見によれば、あり得ないことに、社会を国家の上に
置きたいと共産主義者は考へてゐることが判ります。あり得ないとは、これでは、人間につ
いても社会についても、ましてや国家についても、論理的にものを考へることができないと
いふ意味です。
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ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(32)
   第2部 VI
       ∼安部公房をより深く理解するために∼ 岩田英哉

VI

ROSE, du thronende, denen im Altertume



warst du ein Kelch mit einfachem Rand.

Uns aber bist du die volle zahllose Blume,

der unerschöpfliche Gegenstand.

In deinem Reichtum scheinst du wie Kleidung um Kleidung



um einen Leib aus nichts als Glanz;

aber dein einzelnes Blatt ist zugleich die Vermeidur

und die Verleugnung jedes Gewands.

Seit Jahrhunderten ruft uns dein Duft



seine süßesten Namen herüber;

plötzlich liegt er wie Ruhm in der Luft.

Dennoch, wir wissen ihn nicht zu nennen, wir raten.



Und Erinnerung geht zu ihm über,

die wir von rufbaren Stunden erbaten.

【散文訳】

薔薇よ、お前、君臨する女性よ、古代のひとたちにとっては
お前は、簡素な縁を持った高脚杯(たかつきのはい)であった。
わたしたちには、しかし、お前は、全き無数の、数で表わすことのできない花であり、
汲みつくすことのできない対象である。

お前の富の中で、お前は、一枚また一枚と衣を着ているように見え、
光輝以外の何ものからなるものではない肢体に纏(まと)っているように見えるのだ。
しかし、お前のひとつひとつの葉は、同時に、どんな長衣(ガウン)を着ることの回避で
あり、そして拒否なのだ。
もぐら通信
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ページ

幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々
を呼び寄せてくれている。突然、オルフェウスは、名誉のように(誉高きひととして)、
空気の中に(空中に)横たわっている。

それでもなお、わたしたちは、オルフェウスの名を呼ぶことはできない、わたしたちは推
測して、言い当てるだけだ。そして、わたしたちが呼び出すことのできる時間から乞い求
めた思い出の方が、オルフェウスのところへと、渡って行くのだ。

【解釈と鑑賞】

第1連は、悲歌10番にもあったように、空間が異なれば、同じものを観ていても姿が異なっ
ていることを事実として歌ったもの。

die volle zahllose Blumeの形容詞、zahllos、ツァールロースは、無数のという意味であ


るが、リルケは、これに「数で表わすことのできない」と入れた意味を掛け合わせていると
思う。それは、第2部ソネットXIIIの第4連で、

Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dumpfen und stummen



Vorrat der vollen Natur, den unsäglichen Summen,

zähle dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.

【散文訳】

全き自然の、使用され、また鈍く且つ黙っている
貯蔵へと、すなわち、言葉ではいい表わせられない集算(合計)へと
お前(オルフェウス)を、歓喜を以って、算入し、そして、数(数字)を破壊せよ

と歌われているからです。これが何を意味するかは、このソネットの文脈で、またそこに
行ったときに論じたいと思います。平たくいってしまえば、豊かな自然は数字で表わすこ
とができないということを言っていると思いますが、これは一寸簡単に言い過ぎたかも知
れません。

同じことが、悲歌5番でも、無から、言葉では表わすことのできない空間が立ち上がると
歌われる連で、豊かな過小が空虚な過多に変ずるところでは、桁数の多い計算がzahlenlos、
ツァーレンロース、無限に、数字ではなく、行われると歌われていました。この解釈につ
いては、「リルケの空間論(個別論5):悲歌5番」(http://shibunraku.blogspot.com/
2009/08/5_15.html)に書いた通りです。
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ページ

第2連は、薔薇の花びらを着衣にたとえ、光輝な肢体もあり、しかし着衣を拒むという表現
で、薔薇を歌っている。これも、エロティックな表現だと思います。

そうして、薔薇がその花の中にもつ無限の宇宙を変身しながら渡り歩くオルフェウスの姿
が、第3連です。オルフェウスは、無数のよい名前で呼ばれるものに変身をしてゆく。そう
して、突然現れる。この突然、plötzlich、プレッツリッヒは、悲歌の天使のときも同じ使
い方をされていたように、神々しい存在がある空間から別の空間に、時間とは無関係に移
動して、その空間に姿を現す場合に使われる副詞です。悲歌の天使論でこの副詞を論じま
したので、興味のある方はご覧ください(「天使論」(2009年7月4日):http://
shibunraku.blogspot.com/2009/08/5_15.html)。

最後の連に、わたしたちはオルフェウスの姿を推測するだけで、何に変身してどこにいる
のかは知ることができないと歌われています。思い出と訳したErinnerung、エリンネルン
グという名詞は、erinnern、エリンネルン、思い出させるという動詞からできた名詞なの
ですが、リルケが末尾「-ung」という名詞をつくるときは、それはそのまま空間を表わして
います。わたしは、そう考えています。後で類似の例が、第2部のソネットXIIの第3連に出
てきます。それは、

Wer sich als Quelle ergießt, den erkennt die Erkennung

【散文訳】
源泉として我が身を注ぐ者、これを、認識するということは、認識するのだ。

というところと、その後の行なのですが、これを読んでも、認識することが認識するとは
理解が行きません。ドイツ語としても普通ではありません。認識するということが、空間
だと理解して意味が通るのだと思います。

オルフェウスがわたしたちの方へ来るのではなく、思い出が、オルフェウスの方へとわたっ
て行く。その思い出は、呼ぶことのできる時間から、わたしたちが乞い願って得た思い出
と言われています。第3連の、

「幾百年来、お前の香りは、わたしたちのところへと、オルフェウスの最も甘い名前の数々
を呼び寄せてくれている。」

というところと、これを併せて考えてみると、オルフェウスとは、わたしたちは呼ぶこと
を通じて、交流ができるもののようです。

考えてみれば、リルケの悲歌もそうでしたが、このソネットも、その基本は、呼びかけに
あります。呼びかけるということが、晩年のリルケの詩作の骨法だということは、興味深
いことです。
もぐら通信
もぐら通信                          55
ページ

【安部公房の読者のためのコメント】

「考えてみれば、リルケの悲歌もそうでしたが、このソネットも、その基本は、呼びかけ
にあります。呼びかけるということが、晩年のリルケの詩作の骨法だということは、興味
深いことです。」

と【解釈と鑑賞】の最後に書きましたやうに、リルケのみならず、安部公房もまた呼びか
ける人でした。それも自分自身に再帰的に呼びかけるのでした。

これが、安部公房独特の内的話法である「僕の中の「僕」」といふ独白体の話法です。

安部公房は初期安部公房論[註1]で明らかにしましたやうに、初期安部公房はリルケを
耽読し、特に此の『オルフェウスへのソネット』を親友金山時夫と密かに共有する程に読
み更けつて自分のものとしました。この次第と、如何に此の詩が二人だけの秘密の世界を
形つくつてゐたか、世間に秘されてゐるものであつたかは、第1部Vに、

【原文】
ERRICHTET keinen Denkstein. Laßt die Rose

nur jedes Jahr zu seinen Gunsten blühn.


【散文訳】
記念碑を建てることをしてはならない。薔薇には、
彼のために、ただただ毎年花を咲かせるようにしなさい。

とある最初の行が、金山時夫の訃報に接して『終りし道の標べに』の巻頭にエピグラフと
して書かれる程に、二人の共有する想ひ出となつてゐるのでした。

一言でいへば、二人は、そして安部公房はオルフェウスになり、オルフェウスのやうに「転
身」を永遠にし続けて、即ち連続的に変身しながら人生を生きようと決意したのです。こ
の世でもあの世でも変身して止むことのない人生を思つたのです。

[註1]
初期安部公房については、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』と題して全部で4
回にわたり詳細に論じましたので、これをお読みください。ご参考までに初期安部公房の定義は次の通りで
す:

「『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩
集』の関係について」(もぐら通信第56号)より:
もぐら通信
もぐら通信                          ページ56

初期安部公房の定義

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、ここでいふ安
部公房文学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者のご理解を得てから本題に入
ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)にて明らかに
致しました「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づいて定義をすると、次のやうに
なります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によつて美事に成功
する時期、即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭和21年)安部公房22歳か
ら『デンドロカカリヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭和27年)安部公房28歳までの期間を言
ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房18歳から西暦1
944年(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、西暦1945年(昭和20年)
安部公房21歳までの1年間を含んだ時期を併せた全体の時間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるも
の、 もう一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカ
リヤA』と呼び、後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安
部公房25歳の時、後者の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間
に、『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通
信第53号)」

「僕の中の「僕」」といふ安部公房の話法については「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」
(もぐら通信第54号)にて詳述しましので、これをご覧ください。この論の「2。蒸留
法」から抜粋して引用します:

「2。蒸留法
安部公房が詩人として世界を歌ふときには一つの特徴があります。それは、世界と其の中
にある諸物諸事諸人に対して、呼びかけるといふ事、そして次に自問自答するといふ事で
す。安部公房全集の中では、第1巻所収の『〈今僕はこうやつて〉』といふ19歳の時の
エッセイに其の最初の例を、私たちは見ることができます。(全集第1巻、88∼89ペー
ジ)

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出
して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとす
る努力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば
一体何うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜
もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

く可きであろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への
固定に過ぎないのではあるまいか。」 [註1]

[註1]
このエッセイの全体と上の引用の箇所の分析と解読は、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)の
[註15]に詳述しましたので、これをご覧ください。

『デンドロカカリヤA』の冒頭を引用して、その声調が同じであることをご覧ください。

「 道を歩きながら石を蹴っとばしてごらん。何を考えているの?さあ言ってごらん。何
処にいるの?季節は教えてあげてもいい。春だよ。路端の、石がころげて行った先の、黒
くしめった土くれ。みどりいろ。何が……、何が生えてくるのだろう?いや、君の心にだ
よ。何か植物みないなものが、君の心にも生えてきてるのじゃないの?空を見上げてごら
ん。眼には見えないラッパのような管が、君の眼からするすると延びて、天に向かって拡
がらなかった?そして天が一杯、君の眼に流れこみはしなかった?」

このやうに二つの引用を比較して並べて見ると、前者の、「例えば今此の庭に立つ見事な
二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出して其の樹の葉むらに泳ぎ著く。
何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努力がありありと見えて来る。」
と、後者の、「空を見上げてごらん。眼には見えないラッパのような管が、君の眼からす
るすると延びて、天に向かって拡がらなかった?そして天が一杯、君の眼に流れこみはし
なかった?」

といふ文章が、全く同じ発想で書かれてゐることがお判りでせう。

見る事によって、内部が外部と交換されるのです。既に此処に、陰圧の眼を持って全てを
眼から胸の中に吸い込む、しかし叙情を「蒸留」して生まれる前のS・カルマ氏を見ること
ができます。」

また、この詩の次の第二連、

お前の富の中で、お前は、一枚また一枚と衣を着ているように見え、
光輝以外の何ものからなるものではない肢体に纏(まと)っているよう   
に見えるのだ。
しかし、お前のひとつひとつの葉は、同時に、どんな長衣(ガウン)を着ることの回避で
あり、そして拒否なのだ。

といふ連を読みますと、リルケが薔薇を愛した理由の一つは、やはりその花弁のあり方に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ58

女性のエロス(性愛のエロス)を感じ、また同時にその薔薇の花弁の構造的な重なり合は
されてゐる姿が、オルフェウスが限りなく変身して渡り歩く場所として象徴的な場所である
からなのだと思ひます。

安部公房の小説に果たして薔薇の花は登場したでせうか?

『燃えつきた地図』に登場する喫茶店《つばき》といふ安部公房の存在論の記号を付して
呼ばれる喫茶店が、どうもそのやうです。二つの花の写真を掲げます。かうして自分の命
であり金山時夫の命であり宇宙の命であつたリルケの薔薇の花を「燃えつきた」といふ意
味は既に最初から、予(あらかじ)め失はれてゐる「記憶の地図」の世界の象徴としてあ
る上位接続点の場所の一つである《つばき》に配したといふのは、安部公房の密かな悦び
であつたことでせう。世界中の読者の誰も知らない、しかし、今や、日本の読者である私
たちだけが知つてゐる悦び。

      薔薇の花                 椿の花

やはり、どこかにも一度書きましたが、安部公房の主人公たちはみな、反劇的な[註
2]、アンチ・ヒーローである、しよぼくれたオルフェウス、ヘタレ・オルフェウスな
のです。

そして、私たちは、このオルフェウスに惹かれてやまない。

[註2]
安部公房の主人公たちの有する此の反劇的といふ言葉の意味は『反劇的人間』といふドナルド・キーンさ
んとの長い対談を読むとよく解ります。全集第24巻に収められてゐます。
もぐら通信                         

もぐら通信 59
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ60
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 61
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         

もぐら通信 編集後記 ページ 62


●記録&ニュース&掲示板:さすがにツイートは、ねりさんへの追悼多し。そのまま読者の声を
転載しました。合掌。●荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(6):無限印刷機:時間が空きま
したが再度論じました。次号以降もご期待下さい。しかし驚いたことは、この詩人の小説論の
構成が全くヨーロッパの学問の理論の秩序(階層)通りであつたことです。詩人にして数学に長
じた作家といふのは、安部公房もさうですが、やはり鍛え方が違ふ。●『周辺飛行』論(1):
PHASE3の存在へと回帰する安部公房。1970年前後からの作品年表を作りましたが、一覧
性があつて、安部公房の作家活動がよく見えます。ご活用下さい。引き続き論じたい。●私の本
棚:安部公房の作品にみる視線と空間イメージ:これは建築屋さんの安部公房論とて、最初は如
何なるものかと恐る恐る読み始めたのでしたが、面白い結果に至りました。やはり、専門家と
いふものは一藝に秀でてゐるわけですから、信頼するに足るものだと思ひました。●安部公房と
チョムスキー(10):9. ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッパ文明の300年
間を読む:今の欧州を見ると相変はらずの混乱甚だし。以つて他山の石とすべきです。一神教の
topologyは、私たちには全く馴染まぬものです。同じ宗門の宗派争ひは一神教の間でだけやつて
もらひたい。とばつちりを受けぬようにすることは、今も昔も変はらない。ローマ法王がカソ
リックの世界での少年の性的虐待に言及して正式な文書を発表しましたが、欧米白人種のカソリッ
クの信者は離れゆくのではないか。教会の少年合唱団の性的虐待の問題をドイツのネット放送
が報じてゐました。僧侶でありながらの、男同士の恋愛もあるに違ひない。日本の仏教の坊さ
んにもあることを私は知つている。ヨーロッパの教会にはカストラートといふ去勢された成人男
性がボーイソプラノで歌ふといふ歴史がある。まあ、子供の頃に去勢されるのでせうが、しかし
此のやうな歴史と伝統の上に成立してゐた、性といふ面から見た、カソリック教会であり、これ
を黙認して来たローマ法王庁であつたといふことです。ローマ法王は女性の堕胎を禁ずることと
の兼ね合いはどのやうに考へてゐるのか。●哲学の問題101(5):戦争:20世紀の戦争は
ドイツ民族の悲劇です。ドレスデンは美しい町でした。町が復興してなにより。渡独の折あらば、
一度お訪ね下さい。●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(32):書いて行つて、
まさかと思ひながら『燃えつきた地図』の存在の喫茶店《つばき》の名前の花を調べて見ると、
まあ、なんとリルケの好きな薔薇にそつくりの花弁の襞のあることよ。この小説は1967年
の刊行ですから、かうして見ると、既に此の時にはリルケと自分の詩の世界と、そして詩と存在
論といふ十代の世界へと回帰するPHASE3の、この小説は、前奏であつたのでせう。

次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
差出人: ご寄稿をお待ちしています。
贋安部公房
〒 1 8 2 -0 0 次号の予告
03東京都
調布
市若葉町「 1。『周辺飛行』論(2)
閉ざされた
無 2。荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(6)
限」
3。安部公房とチョムスキー(10)
4。哲学の問題101(6)
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(33)
6。Mole Hole Letter(12):超越論(6):安部公房の女性の読者のため
の超越論
もぐら通信
もぐら通信                          63
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第87号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後

潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓 の最新版を差し替へて置いてあります。

一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
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2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
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