You are on page 1of 75

世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2020年2月1日 第89号 第三版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路
あ 「グルジヤのブドウ酒、アルメニアのコニャック̶このコニャックは少し持
ただ を通
けの
番地
って ち帰ったが、三島(由紀夫)さんにせしめられちゃった。野性味が感じら
に届
きま れてなんともいえず、うまい。それにヒツジのアバラ肉の血のしたたるよう

なステーキ。最高の珍味でした。ヒツジの肉のうまさを再発見しました。」
〈ソ連旅行から帰った安部公房氏〉(全集第20巻、367ページ)『東京新聞』の談話記事

廃屋

安部公房の広場 | s.karma@molecom.org | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信                          ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 「安部公房文学の小説の方法」片山晴夫先生(北海道教育大学名誉教授)特別講演:
東鷹栖安部公房の会 柴田望……12
3 荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(7):バタフライ・ソング:岩田英哉…page 22
4 『周辺飛行』論(2):周辺思考:岩田英哉…page 29
5 安部公房とチョムスキー(11):13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』
(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む:今回休筆:
                             岩田英哉…page 47
6 哲学の問題101(6):唯一絶対神(Gott: God):岩田英哉…page 48
7 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(33):第2部 VII: 花々、お前た
ち、結局は秩序立てる手の親類であるものよ :岩田英哉…page 67
8  編集後記…page 71
9 次号予告…page 74

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 75
・本誌の主な献呈送付先…page75
・本誌の収蔵機関…page 75
・編集方針…page 75
・前号の訂正箇所…page75

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

尚(٥ⅴ٥)♪@gardenia0waowao 9月1日
e
en Mol
Gold 安部公房……
e
Priz

ol e シ ュ ン@sasa_738 9月1日
er M
Silv
e 安部公房の「弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている」と
Priz
いう言葉を聞いたときに思い浮かんだのは24時間テレビ

青条揚羽@czcZMch2H37yFLI 8月29日
壁 安部公房
失うことは得ることと同義で、しかし決して肯定的な意味ではない。著者はそれの是非と
言うよりはむしろ、それを超越したものが描きたかったのではないかと読みながら考えた。
非現実的な描写が脳内で具現化していくのは怖くもあり、同時に快感ですらありました。

タヌキツネ@tanukitunes 23時間
今週二度目の『好きな作家は誰』攻撃。どの作家さんにも敬意があるので困る。前回は岡
本綺堂と答えて「誰それ? 」だったので相手の方がSF好きだと言ったので学習しておいた
「レイ・ブラッドベリ! 」と答えたらまさかの「誰それ? 」安部公房とかは?と言ったら
「気持ち悪いから嫌い」と言われた…

織@k_x____x____x_k 8月30日
#あなたがいまの推しに落ち着くまで
積本に心奪われる

吉本ばなな最高!

安部公房にハートを撃ち抜かれる

川端康成のすごさを知る

安部公房は神 ←イマココ
http://appli-maker.jp/analytic_apps/66992 …
所々おかしいけど結構当たってて草
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
桐原正二@shojikiri 9月1日
サッカーがハーフタイムに入ったのでチャンネルを替えた途端、民放地上波テレビで安部公
房の事が紹介されるという今どき珍しいシーンに偶然出くわして、ちょっと「おっ!」って
なった。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 4

とらいじん⇄せふげむ@toraijin38Ra 8月30日 

安部公房は読んでると脳が酸欠になりそう


赤ちゃん(0歳)@Iam_red___ 8月30日 

安部公房のことを、親しみを込めて『べーやん』と呼ぼうかな

kid2@shimpeikase1979 9月1日
夏目漱石が100年に一人の天才?じゃあ安部公房はどうなるんだよ(笑)?

いぷかわ@kawa_eve 8月31日
安部公房読んでるんだけど全部の行から実存と左翼の匂いがする

ぜんざい@HsAugust 9月1日
安部公房ってなぜか女性だと思ってた

アイル@haiji0124 9月1日 

安部公房、大学時代メチャクチャはまって作品読みまくったなぁ!


プロ家庭教師@有水@arimizu_sensei 9月1日 

高校生のときは安部公房ばっかり読んでたな

al+alchemist@e13alchemist 9月1日
安部公房。学生時代 一時ハマり杉て流石に吐きそーになって安部公房断ちしたわwww!そー
イヤw

だらだら坂@F18j0ZpDD5xeK4N 9月1日
返信先: @yaso_thomasさん
久しぶりに安部公房の話ができて嬉しかったです。ありがとうございました。

いぬ@nagasugidog 9月1日
安部公房。東欧的だよね。悪童日記のアゴタ・クリストフとか、違うようでいて雰囲気が
近い

おつじ@bbbpants 8月30日
どんどんどんどん自分がいやに繊細になっていって辛い 安部公房になりそう

oratio@kerojura 8月29日
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
高校の時、教科書に載ってた安部公房の『鞄』。「これなんやねん…」って思ってたけど、
大学生でなんとなく、伝えたいことがわかった気がした。それ以降、安部公房にはまって
しまった。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 5

和乃@alpaca_5 9月1日 

安部公房自身がバリバリの理系だったから理論的できっちりした文章だけど、寓話的で風
刺が効いてる作風でそれが融和してて面白い


和乃@alpaca_5 9月1日 

安部公房の短編集読み終わったんだけど、水中都市がめっちゃ好き。闖入者が理不尽で一
番後味悪かった……

抹茶@ajmyjd 8月29日
砂の女だと
わたしの敬愛する安部公房先生だぞ!

今月の無名詩集
古書馬燈書房@matou_syobo 19時間
新入荷
安部公房の第一詩集
無名詩集 私家版 次回の愛書会目録
掲載します。
表紙:ホッチキスのサビによるシミが
ある以外は極美。
裏表紙:経年シミあり
背:イタミあり。

今月の初版
古書 瀧堂(たきどう)@kosyotakido 8月25日
安部公房も全て初版です。 https://ift.tt/2MM5YoC

今月の題未定
あります速報@dinahiuiu 8月29日
日時2018/8/29 10:16:51になりました。 780円∼
霊媒の話より 題未定―安部公房初期短編集 新潮社
http://dlvr.it/QhNqXZ

今月の箱男
新宿ゴールデン街『からーず。』@colors1123 9月1日
【ひろこ】
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
可愛らしいこめちゃんのイラスト展からバトンタッチ、
今宵始まるは安部公房作『箱男』の世界。
橋本恵一郎 咲塚せりず写真展
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 6

『ハコオトコ ト ハコオンナ』
9/1(土)∼9/10(月)
ぜひご覧下さいませ。
からーず。オープンしました☆

色離@namakura_tochka8月31日
今の私は安部公房の箱男を二冊携帯する変人であろう

今月の笑う月
福岡天狼院Style for Me5/17リニューアル@fukuoka_tenroin8月30日
【本日入荷】『笑う月』安部公房 ¥460+税

今月の砂の女
地獄姉de木兆月*あねまたはトーゲツ@jigokuane8月27日
「REFRAIN OF LOVE」をやった邦楽維新Co.は『砂の女』だった。https://togetter.com/
li/950103 思い出せないそんな時のまとめありがとう( 人 )
そうだよ「砂の城は何度も崩れ…」って砂が出てくる歌なのになぜ繋がらんのだ私のポン
コツ脳;
素敵な曲だよね。私も大好き。参謀の歌はどんなだったろう…

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信                           ページ 7

Yuusa.S@namidanotihare8月30日
図書館で借りてきちゃった
安部公房 『砂の女』
字めっちゃちっちゃい(>_<)全部読めるだろうか

今月の砂漠の思想とけものたちは故郷をめざす
ヤソ@yaso_thomas8月26日
書店で未読安部公房を探してみたところ、2冊を発見したので確保。どんどん読んでいきま
すよ。 #安部公房

今月の水中都市
many sox@banjo_kazui8月31日
安部公房「水中都市」安部公房で一番好きな短編。
「男だって妊娠するって話を聞いたことがないかい。女は一生に幾度も妊娠するが、男はし
ても一度だけなんだとさ。なにを産むかって、おまえ、そいつは分らない。が、きっと死
だ、死が産まれるんだよ」 #めにそおすすめ本

今月の鞄
ひじかたかた@hijikatakata21 8月28日
『絶望図書館』頭木弘樹 編
アンソロジー。落ち込んだとき、モヤモヤと
した感情を人と分かち合えないとき、物語は
その苦しみを受け止めてくれることがある。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | 本には、人を慰め 、救う力がある。収録され
www.abekobosplace.blogspot.jp
ている安部公房『鞄』とても良かった。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 8

今月のロシアでの安部公房ランキング
かしの木@kasshi_san 22時間
#地球征服 見てる
ロシアのランキング独特で興味深い!
栗原小巻さん、小島秀夫氏、安部公房先生。
安部公房作品は難しくて挫折したんだよな∼!音楽を聴くように流れ込んでくるって言っ
た若いお姉さんスゲーな

ジブリん@ghiblin114 9月1日
#安部公房 ロシアで有名な日本人7位だって嬉しい!ロシア人が理解してくれてるとは。し
かも #砂の女 が1番人気だなんてロシア行きたい

TAMO2@独立リーグのフレンズ@tamo2_1965 9月1日
安部公房の「砂の女」はモロ共産主義批判の作品だったんだよなあ。

チンピラ ごぼう@powered_by_2st 9月1日


ロシアで有名な日本人トップ10に安部公房が入っている…!

藤圭子@schopenhauer___ 9月1日
ロシアで有名な日本人の7位が安部公房なのびっくり 高校生の時トチ狂って読書感想文を
箱男で書いて、書きながら死にそうだった

スクーデロリアン@torooper 9月1日
途中からだけど小島監督がランクインされてるの見た!ひとつ上の7位には安部公房でひと
りニヤリ。

もずく@TororoUratororo 9月1日
安部公房さんが、、7位、、、すごいなロシア

ブルー@Blueblazes1108 9月1日
小島秀夫監督がロシアで有名になってるのか。嬉しい報せだ。しかも段ボールに影響を受
けた箱男の作者:安部公房も有名じゃないか

もずく@TororoUratororo 9月1日
小島監督と安部公房、、、縄でつながっている

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


たれこ@TRSKX 9月1日
村上隆と安部公房と羽生結弦でしょ、ロシア人めちゃくちゃセンス良いじゃん良いなぁ素
敵だなあ
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 9

いわこ @hyukkun44 9月1日


ロシアで安部公房有名なんだ…砂の女しか知らんけどまじで難解すぎて意味わからんかっ
たイメージ

ゆ ゆ ゆ@NasukaAnago 9月1日
安部公房ってロシアで有名なんやな
#世界征服

ふみえ@st5b2 9月1日
安部公房の砂の女ロシアで人気なのか、、、高校の数学の時間に隠れて読んでたわ。

園@amacaster 9月1日
ロシアで有名な日本人第7位!
安部公房!?すごい

$HUNT@(なんくるP)@s_3110519 9月1日
安部公房ロシアで人気なのか。
赤いまゆですよぉが有名な。

いずみ▷7/28CDJ2018◁@ruki_v_mhygkj 9月1日
陸海空をたまたま見てたら小島監督と安部公房先生が!並んでる!!
@Kojima_Hideo

安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信                           10
ページ

今月の日本での安部公房ランキング
jpnames@jpnames 14時間
2018/09/02 21:30のアクセスランキングです
宮下裕治 安部公房 小池雅代 宮元智博 佐藤清美 辰巳琢郎 小玉雄大 高藤吉郎 樋口靖洋 原
田勇雅
アクセスランキング - jpnames
アクセス数の多い名前のページです。
jpnames.com

今月の『詩人の生涯』
こーちゃん @kaho_ds 8月28日
返信先: @silver_romanticさん
私が高校生の頃、国語で安部公房の『詩人の生涯』について読書感想文を書く課題が出て、
先生からの評で「なんか良いね」を頂いた。Twitterなぞ無かった時代の人生初「いいね」
でしたが、何が良かったのか先生にも説明出来なかったため、自分に自信を持つには至らず、
自分の良さが未だに分かりません。

今月の猫
茶川@4o__o7 8月27日
これは何でしょう∼
音ゲーと数学と安部公房が好きで
マゾヒストで女体化したい猫が
タクシーのサイトを調べているところ

今月の禁煙
ありがていや @blogbungaku 13時間
「タバコをやめる方法」禁煙は安部公房『死に急ぐ鯨たち』から学べ!

今月の安部公房ばりの演劇
I元(観劇残留思念体)@i_moto_y
9月1日 名古屋学生演劇祭[B予選]観劇終了.
劇団いかづち、意外なキャスティングが終始
効果的.劇団かのこ、貫く永遠の高校生集団.
個性で魅せたラブコメ風味.でんでら、ライ
トだが安部公房ばりのダークでシニカルな風
味. ファンタジックなツッコミや良し.公募枠、
新宮さん風味で異色の攻防に展開マジすか
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
もぐら通信
もぐら通信                           11
ページ

今月の鞄
柴崎小五郎@shibas33santa 9月1日
柴崎小五郎さんがスルメロックをリツイートしました
安部公房の「鞄」を思い出しました。学校で習った時、教師は「本当に自由なのか疑え」と言っ
てましたが、私は「鞄を持つことで初めてその人は自由になれたのだ」と解釈したのをよく
覚えています。

今月の読書会
ホッタタカシ@t_hotta 8月27日
【10/27(土)安部公房読書会】東京・安部公房・パーティーの次回読書会まで残り二ヶ月。
課題本は『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)です。会場は荻窪ベルベットサン。
開場16:30、開演17:00、終演20:00。二次会あり。どうぞよろしく。#TAP_MTG

今月の安部公房論
詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 6時間
自由と反復 : 安部公房『砂の女』論 (特集 変容する欲望 : 高度経済成長期を読む) http://
ci.nii.ac.jp/naid/40019623991 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 9月1日
安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001291768 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 8月28日
所有の始原 : 安部公房「赤い繭」論 http://ci.nii.ac.jp/naid/110007506049 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 8月31日
安部公房『砂の女』研究--砂の世界への解放 http://ci.nii.ac.jp/naid/40001291768 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 9月1日
安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://ci.nii.ac.jp/
naid/40006272201 …

詩的文学論文bot @shiteki_bungaku 8月28日


安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
安部公房『第四間氷期』--水のなかの革命 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005481595 …
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

「安部公房文学の小説の方法」
片山晴夫先生(北海道教育大学名誉教授)の特別講演

柴田望

■2018年6月23日(土) 東鷹栖安部公房の会主催による、片山晴夫先生(北海道教育大学
名誉教授)の特別講演、「安部公房文学の小説の方法」が東鷹栖公民館にて行われました。
*
「安部公房文学の小説の方法」
∼既成の枠組みを破壊していく安部公房の文学・創作の独自性を明らかにする。∼
 広報や北海道新聞、地元フリーペーパー(ライナーネットワークさん☆)で知りました!
という市民の来場も見られ、公民館1階会場満席の講演会となりました。
*
・壁=練る=寝る=夢を表す
・原稿用紙に書かれている内容をぶちこわし、音楽や映像を存分に活用しながら自分の世界
を創っていった。小さな世界をぶちこわし、もっと大きな世界を創っていった・・・前衛的な
小説家であるはずの安部公房だが、伝統的な古語をよく調べて、創作に活かしていたのでは
ないか?
・安部公房が創りだした独自の世界。この色は何、この形は何・・・そういう常識の枠を破っ
てしまう。枠をこじ開けながら独自の世界を創っていった。違った面を見て知りたいという
ことです。
・それまで当たり前だった観念をぶち壊していく。「おめぇ、何しに生きでるば?」(太宰
治『魚服記』) その解答を持っている人が本物です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ13

・《反リアリズム》の手法を採った理由は、《本当のリアリズム》、本質はどうなんだ?
ということを探求するためでした。
*

講義録
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

・まず、頭をほぐしていきましょう。クイズです。

1)旭川にかかわりのある二人の作家・文学者、安部公房と井上靖ですが、二人の生涯の
送り方、生き方について、共通点は何?
 →正解:父親の家業(医業)を継がなかった。 安部公房は医学部を卒業しましたが、
インターンを振ってしまった。

2)旭川にゆかりのある安部公房と井上靖のご先祖様、そして小説家大江健三郎のご本人
とご先祖様、出身地に共通点があります。どこだと思いますか?
 →正解:四国  井上靖は一説によれば、香川県出身の一族です。江戸時代に静岡県湯ヶ
島のほうに移った。琴平神宮と関わりがあったと言われています、安部公房はお祖父ちゃん
とお祖母ちゃんが、香川県と徳島県の出身。大江健三郎はご存知の通り愛媛県です。

3)昭和52年、安部公房スタジオによる「イメージの展覧会」がヤマハホールで行われ、
渡辺三子さんによれば、500人集めてまかなわなければ赤字を被る覚悟だったそうですが、
結果は800人もの観客が集い、立ち見も出るほどの盛況でした。
 このときの一つのエピソードとして、サンロクの居酒屋大舟で打ち上げが行われ、高野
斗志美さんや佐藤喜一さん、山口果林さんも同席されていました。店主の馬場さんによる
と、そのとき安部公房が美味しい美味しいとぱくぱく食べたという食べ物は何?
 →正解:バターじゃがいもでした。そういう、人間的なところがある人でした。

 付け加えて、井上靖さんの好物は、静岡県産の椎茸の焼いたもの、山葵の茎の漬物、幼
いころから靖さんを育ててくれた祖母のかのさんの作ってくれたライスカレー。終生変わ
らなかったそうです。皆さんが想像する普通のカレーライスではなく、もっと昔の、野菜
のごった煮の中にカレーが入っているような、おばあちゃんのカレーが好きだった。カレー
ライスという言葉はもともとライスカレーでした。いつの間にやらひっくり返りました。
そのほうがモダンに響く、流行ということでしょうか。
*

井上靖さんの文章を読みますと、好きな酒は立山です。富山で出されていた詩誌『日本海詩
人』にかなりの作品を出していて、富山に親近感がありました。京都の千枚漬けも好きだっ
た。嫌いなものは、かまぼこ、ちくわ、練り物。どんな材料を使っているか分からない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ14

代々お医者さんの家でした。志賀直哉や森鴎外の記述にも、生の果物は子どもに食べさせ
なかったということが書いてあります。牛肉でも、さしの入った柔らかな牛肉は苦手で、藁
の匂いのするようなビーフステーキが好きだった。安岡章太郎とアメリカに行ったとき、日
本の牛肉は柔らかすぎる、と同意したそうです。
三浦綾子さんは、もう無くなってしまった花月会館のお寿司が好きだったそうです。
*

安部公房の作品の中では代表的な作品ですが、
「壁∼S・カルマ氏の犯罪」 = 「壁」
「箱男」= 「箱」
「壁」「箱」といったキーワードがあります。これが小説の作り方に関係します。安部さん
は日本語を細かく調べて、創作に活かしていたのではないでしょうか。
安部公房の本領はフロンティア、前衛です。古今集などは今でもその伝統が受け継がれてい
ますが、そういう伝統を胡散臭いと思っていた。Sカルマ氏の名前が逃げ出す「壁」や、
「箱男」は穴の開いた箱を被った男が実際に動き回る…こうした安部公房のユーモアと仕
掛けは決して表面だけではない、仕掛け=ストラテジーですが、それによって深いところを
つかんでいた。
*

「壁」という語句で普通連想するものは・・・カベ、仕切り、土、という意味合いですが、「塗
る」、「寝る」、「ぬる」…、古語では「夢」の総称でもあります。
「まどろまぬ壁にも人を見つる哉正しからなむ春の夜の夢」∼夢にも愛しい人を見て、正
夢だろう、私はなんと言う素晴らしい春の夢を見たことだろう・・・
もう一つ、「壁」という言葉には別な解釈があって、人々から軽んじられる「壁」、「愚か
者」という意味もあります。これらの解釈は安部公房の作品と非常に深い関係があります。
単なるカフカ的な変身ではなくて、もしかしたらこういう意味合いも活かされているので
はないか。創作に身にまとうことを嫌がりながら、こうした伝統を小説に活かしていたと
考えられます。
*

「箱」はBOX。「電車」も自分の「部屋」も「箱」です。
例えば自分の世界に閉じこもっている人間。インテリゲンチャ、とも言います。同じことで
す。仕掛けとして「箱男」の中に籠められている。喜劇的な面白いことがたくさん起こりま
すが隠喩として古語が使われています。小説を創るときに活かしているのではないでしょう
か。
「棒」にも別な意味合いがあって、例えば「制服を着ている巡査」という意味もあります。
制服にはある種の複雑なものがあります。僕も4年前まで、ある意味で大学の中でこき使わ
れていた。その分言いたいことを言ってきましたが(笑)。また、物を盗む人、泥棒の
「棒」、という意味合いもあります。安部公房の使う言葉は一つの意味だけではなくて、こ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

れを「棒」なり「箱」なりといったものを、今日の一つの結論ですが、多義的な、多くの
意味があるということを、小説を創るときの方法として安部公房はやっていった作家なので
はないでしょうか。主人公がどのような境遇にあるか? 狭い視点を超える意思と、思い
がけないユーモアが見られる。
*

1977年9月7日、旭川で「イメージの展覧会」が行われました。私と妻の礼子さんも見に行
きました。安部公房と思わしき人物が出てきて、壇上で「面白かったら笑ってください。」
とコメントしたのを、はっきりと覚えています。深刻で前衛的な新しい芝居というだけでは
なく、ユーモアの達人だな、という風に思いました。真面目にやればやるほど馬鹿みたい
に滑稽で、意味は何だか分からないけれど、面白い。小説から発展した劇の創り方でした。

しかし、日本語をきちんと調べて、小説の方法の中に活かしていった作家ではないかと思
います。「壁」「箱」「棒」・・・、全四巻の国語辞典で調べますと、いま僕のいったような
ことが全部書いてあります。そういう視点から安部公房のもっている世界を見つめることが
できる。ここまでが今日のお話の第一段落です。
*

2番目のポイントですが、安部公房は一応作家なので、原稿用紙に書くのが普通ですが、ワー
ドプロセッサを非常に早く取り入れた作家です。中国語でワープロのことは「語処機」と言
うそうです。安部公房は原稿用紙に書かれている内容をぶちこわし、音楽、映像を充分に活
用しながら自分の世界を創っていった。もっと大きな世界を創っていった。『緑色のストッ
キング』という作品は、小説と劇の両方があります。「イメージの展覧会」も「2」があっ
て、翌年公演されています。そういう意味で、他の分野との恐れることのないコラボレーショ
ンが行われてきました。
*

せっかく公民館の方にお願いして印刷・配布をしてもらいましたので、プリントのお話をし
ます。横書きで「小説」とはどういうものなんだ?ということですが、まずは漢語、これ
は中国から渡ってきた言葉です。中国では正統な文学は詩であると考えます。述志の文学、
志を述べた文学です。詩人たちは自分自身がまつりごとに関わっている。そういう文学が詩
である。杜甫、李白、白楽天、陶淵明…、皆官僚、役人でした。役人である間にその分野
のトップに立つと、詩で自分の意見を言わなければならない。
一方で小説は「荘子」「論語」など、元々は儒学の書であり、国のあり方を短くまとめた
ものです。小説とは、価値の無い、取るにたりない物語。「西遊記」、「水滸伝」、「金
瓶梅」など非常に面白いけれど、中国は正統の文学は詩で、小説はそれ以外の文学である。
この二つの間に大きな隔たりがありました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

日本の近代化の中で、魯迅はこの伝統を破って、近代を主張しました。魯迅の改革はある
意味では安部公房に類似したものです。小説と詩を区別するのではなくて、人間の真実の思
いを述べていく。文学の本当のあり方を述べたという意味で、二人の作家は類似しています。
日本の最初の小説は戯作、白話小説。口語体の小説です。「南総里見八犬伝」「雨月物語」
が日本で最初の小説です。江戸時代には海外のものが大量に入ってきます。イギリスのノベ
ルの翻訳としての小説。人間の世界の奥にあるものを探っていく。坪内逍遥は一〇八煩悩が
小説では最も大切なものである、そのうち情欲が最も大切であると言いました。現代文学
では「小説」と「物語」の差異は無くなってきている。「小説」は「物語」によって構成さ
れているという考え方もあります。
夏目漱石「坊ちゃん」の主人公の人生の送り方、下女のきよさんのことを坊ちゃんは可愛
がります。きよさんは武家の女でしたが明治維新で家が没落します。坊ちゃんが松山へ行っ
てしまうと、きよさんは坊ちゃんの帰りをひたすら待つ。この作品には越後の笹飴なんか
が登場します。また、官軍に強力な反対を示します。その当時の政府のあり方にコミットし
ない。一つの小説を創りあげているのに、複数の物語が構成されています。
三浦綾子さんの「氷点」もそうです。登場人物がそれぞれ一人の主人公として活躍している。
夏枝、啓造、二人の育ち方や背景、経験の仕方が「氷点」を形づくる。小説は物語として
構成されていく。
*

日本と中国の違いは、元々、物語というものは、ものを語る、言葉の組み合わせです。人々
が面白いと思うもの。人の心をひきつけるものです。語るとは、声で語る、という意味合
いがあります。ものがたりは大和言葉で、「空」「土」「雨」など、文字を持たないころか
ら伝わっていた。
「小説」とは「小」=つまらない、小さい。「説」=説話文学。「小」はあまり正統では
ない、散髪やお風呂屋さんに行けば「小人」と書いてあります。子ども料金のように呼んで
字のごとくの違いです。
ここまでがレジュメ1番目の小説の説明になります。
*

2番目、日本の戦後文学の活動ですが、枠を破っていく、伝統を否定して新しいものを創っ
ていこうという動きです。それまでの創作の中にあった枠は、しっかりと勉強すべきことは
勉強する。その上で枠を打ち破ろうとする、それまで誰も試みなかった仕事です。例えば
安部公房の「無名詩集」。そういう名前の付け方。皮肉な、苦い思い。「無名」という言
葉の使い方、既存の破壊につながります。
「終わりし道の標べに」は、もう終わってしまった道、これは一回死んだということです。
作品中、手記が続いていきます。
もぐら通信
もぐら通信                          17
ページ

そして「デンドロカカリヤ」。よく「デンドロカカリア」という記述を見ますがこれは間
違いで「ヤ」が正しい。植物に変身する物語です。植物学辞典などで調べて、小説の中心に
ドンとそなえました。佐藤春夫などにも人間が植物になる小説はありますが、もっと衝撃
的でした。「壁∼S・カルマ氏の犯罪」も、読んでみると意表を突くような標題や構成があ
ります。さらに小説の枠を超えて、演劇や映像とのコラボレーション、音響のメディアシス
テムの導入へ発展していきます。
*

細かな問題ですがレジュメの5番目、安部公房文学の「緑」の隠喩性ということが書かれて
います。「緑」は「赤」の補色で、ちょうど反対側の色です。混ぜると灰色になります。政
治的な「赤」の反対側を表します。「緑色のストッキング」の劇脚本、小説。原稿用紙を破
るように色のストッキングを切り刻む。「人魚伝」という作品が1962年6月の「文学界」
に出ます。立命館の大学院生の岩本知恵さんが「安部公房「人魚伝」論――「ぼく」と人魚
の関係」という論考を書いています。緑色過敏症が「ぼく」の存在を支える。人魚とはアン
デルセンの世界です。自分自身の人生における障害をパロディ化した。このように「赤」と
正反対の「緑」を隠喩的に使っている。効果的に使用されているので、それぞれの作品を読
み進めるにつれてわくわくどきどきが深まっていく手法です(井上靖は「白」を効果的に
使っていました。)。
*

「イメージの展覧会」は「音+映像+肉体=イメージの詩」という新しい舞台空間を創造
しました。1977年、池袋、札幌、そして旭川ヤマハホールで上演され、1978年にはパート
2を上演。これには「人さらい」というサブタイトルが付けられています。安部公房の創り
だした独自の世界です。この色は何、この形は何・・・そういう決まりきった常識の枠を破っ
てしまう。枠をこじ開けながら独自の世界を創っていった。違った面を見て知りたいとい
うことです。
*

レジュメの4番目ですが、今年は「北海道」と名づけられて150年の年です。そして今日(6
月23日)は沖縄の戦没者慰霊の日です。
幕末に函館五稜郭での戦いに敗れた榎本武揚を題材にした安部公房作品「榎本武揚」につ
いて、平岡篤頼氏(早稲田大学名誉教授)が書いた解説をここに紹介します。今から10年
ちょっと前くらいに書かれたものです。
*

【安部公房・人と作品 平岡篤頼】
*
「進歩」「革命」「反逆」などといった言葉と同じように、今日まったくはやらなくなっ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ18

た言葉のひとつに、「前衛」というのがある。
いま本を読みはじめたばかりの十六歳から十八歳の少年少女たちは、恐らくこの言葉の思
想史的・文学史的意味などまったく知らないであろう。とはいえ、安部公房という一時代
を劃した作家のことを考える場合、やはりこの「前衛」という言葉を「思い出」さずには
いられない。
「前衛」を標榜する思想家ないし作家たちの声望が地に堕ちた原因のひとつには、ロシア
革命以来のこの言葉の政治的意味づけがマルクス主義の凋落とともに色褪せたことがある
が、芸術や文学の領域でも、ドストエフスキーなりカフカなりシュールレアリズムなり、西
欧の手本を無批判に模倣し、斬新な意匠を誇示すれば新しい芸術や文学を創造し得たと錯
覚する手合の鍍金が次々に剥がれて来たことが、「前衛」総体の人気を低下させたことも
事実で、現在の時点にだけ限って言えば、「前衛」というレッテルを貼られるということは、
安部公房にとってすらマイナス効果しかもたらさないかも知れない。
 それほどまでにも今の日本文学全体が保守化しているということであって、日本全国津々
浦々の中級サラリーマンや中学教師の応接間に漱石全集や鴎外全集が常備されていた「古
き良き時代」を懐かしむ余り、やはり文学作品はその階層に属する知識人の誰にでも楽し
める、けれん味のない身近な読物でなければならず、奇を衒う「前衛」の小手先細工はまが
い物でしかないと蔑み、その一方で正統的な文学の継承者として真の国民文学を目指してい
るはずの自分たちの作品が全く売れないのを、今度は「本を読まなくなった若者たち」と
いう形で、全面的に読者に責任を押しつけ、自分たちが時代の底を流れる新しい機運から目
を背けていることは棚に上げて、仲間内だけで傷を舐め合うことで知らず知らず文学全体
の地盤沈下を促進しているというのが、今われわれの目の前で繰り拡げられている文壇の絵
図なのである。
 その意味で一読を勧めたいのが、ここに収められていないが、安部公房が珍しく実際の
歴史事件に材を取った長編「榎本武揚」であり、同題の戯曲である。とくに小説のほうは
誰にでも親しめる歴史小説といった側面があり、中心部は大政奉還後に新撰組に引きずり
こまれた新参の隊士浅井十三郎の手記が入れ子になって、彰義隊壊滅後の江戸を脱走した
佐幕派の武士たちが、榎本の海軍と合流して北海道まで逃れ、五稜郭の戦いで敗れるまで
の顛末を物語っている。近藤勇亡き後の隊長土方歳三に傾倒している浅井は、彼とともに
関東・東北の各地を転戦するうちに、いたずらに迂回しては勝機を逸したり、奥州同盟諸
藩との連絡を遅らせたりする総指揮官大島圭介の作戦意図に疑義を抱き、やがてそれが榎
本と し合わせた行動であることを知るに及んで、「この一大叙事詩が、じつは内戦早期
終結を目指した計画的敗走であり、世界の歴史にも類を見ない、大胆不敵な(……)八百
長戦争であった」ということを悟る。
 さらに、北海道でのいかがわしい作戦のために土方を失うに至った浅井は、「先生を見
殺しにした榎本は、先生と一緒に士道を殺したのである」と復讐を決意し、敗戦後榎本の
収監されていた江戸城辰の口の牢屋にみずからも収監されることに成功し、榎本の暗殺を
はかる。
 浅井の非難にたいして、榎本はあっさり事実を認め、しかし浅井らが錦の御旗のように
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

振りまわす「士道」や「武士の忠誠心」には、こう答える。「士道などというものは、言っ
てみれば、まあ、住み手がなくなった、あばら屋同然のもの。古い住人は、どんどん逃げ
出して、どこもかしこも空屋だらけだ。そこで、それまで侍でなかった者が、大手をふって
越して来て、前の住民以上に、侍面をしてみせる。しかし、あばら屋はいずれ、あばら屋。
住人が変わったところで、土台の腐れに変わりはないのさ」
 同時代の海外情勢についての豊富な知識に基づいて、感傷よりは分別、党派よりは国益を
優先させた先駆者のこの言葉を、そのまま文学の現在の局面に当て嵌めるつもりは毛頭な
いが、あばら屋と化した士道を「純文学」、そのあばら屋に住みついた俄か侍たちを上記
の「正統的な文学の継承者たち」と読み更えると、かなり興味ある戯れ文が出来上がるこ
とはたしかである。現に浅井十三郎は「士道を捨てるくらいなら、士道に死んだほうがま
しだ」と考えるのだが、その浅井にたいして、土方歳三は告白する。「あんがい僕など、誰
よりも侍を嫌っておったのかも知れぬ」――「どういう意味でしょう」――「自分の心に
聞いてみるがいい。君だって、自分以外の侍は、ぜんぶ偽物の侍に見えているのではないか
な。どうやら侍になるのがおそすぎた……」
 欧米諸国の歴史と現状に通じていた榎本武揚は、鎖国によってわずかに維持されて来た徳
川幕府の封建制度、したがってまた「士道」を支える論理が、きわめて相対的なもので、時
代の変化の前に崩壊を運命づけられていることを見てとったのであった。では、「純文学」
を支えて来た論理とは何だったのかということを、右の戯れ文の延長上で考えても差支えあ
るまい。それは、現実に起り得ないことを描いてはならないという「まことらしさ」の鉄
則であり、すべては解明可能な因果関係によって支配されているとする合理的世界認識であ
る。ダフネが月桂樹に、ナルシスが黄水仙に、アドニスが薔薇に変身させられるギリシャ
神話、竹の中からかぐや姫が現れる「竹取物語」や蛇の化身が人間の男と結ばれる「雨月
物語」を引合いに出すまでもなく、また、悲しいから悲しみの表情が現れるのではなく、
悲しみの表情が悲しさを生み出すのだという演劇や心理学の論理を持ち出すまでもなく、
また、悲しいから悲しみの表情が現れるのではなく、右の論理は近代小説の成立以後、た
かだか二百年来の一部の知識人にだけ通用したものだが、それがあたかも普遍的妥当性を
持つテーゼであるかのような拘束力を持って来た。
*

侍が大切にしていた「士道」なんていうものは、じつは自分を飾り立てる仮物でしかない。
本物ではないということです。文学者、小説家も同じようなものではないか? これが言
葉を多義的に使用するということです。私も本物の文学者ではないかもしれない…実存主
義的な言葉です。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言いました。
太宰治の「魚服記」に次のような場面が出てきます。場所は津軽。登場人物はスワ。木こり
の娘です。13∼15歳の思春期のスワは、父親の毎日毎日同じような生き方にスワは疑問を
持ちます。「おめぇ、何しに生きでるば?」まさしくそういう意味では、「魚服記」の中
で毎日毎日変わらない。なんぼ売れた?の繰り返しです。それまで当たり前だった観念をぶ
ち壊していく、「おめぇ、何しに生きでるば?」その解答を持っている人が本物です。今、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

私たちがここで勉強をする。何故安部公房が好きなのか?しっかり考えていかなければな
らない。仕事においてもそうです。「何しに生きている?」という疑問に対してもそうです。
そういうところに話をむすびつけていく。「侍であって侍ではないんだぞ」そういうこと
を安部公房は「榎本武揚」で述べている。生きていく上で求めていくこと…。
*

小説「榎本武揚」の中で「士道の魂を捨てるなら死んだほうがましだ」と浅井十三郎は言
いますが、土方歳三は告白します。「あんがい僕など、誰よりも侍を嫌っておったのかも知
れぬ」――「どういう意味でしょう」――「自分の心に聞いてみるがいい。君だって、自分
以外の侍は、ぜんぶ偽物の侍に見えているのではないかな。どうやら侍になるのがおそす
ぎた……」 あの英雄土方歳三のセリフとして、安部公房はそういう目で見ています。人々
から祭り上げられている土方歳三の《心のウラ》を表している、安部公房の問題提起です。
榎本武揚はもう一回り大きい。官軍に降伏しても腹を切ることは到底考えていない。自分の
積み重ねてきた留学体験は必ず日本に生かされると考えています。そして若い人たちを導い
ていかなければならない。佐幕派の武士を財政的に助けていました。そういう自分のやる
ことはまだまだある。武士道なんて、全然守っていない。かっこつけていないのです。世間
に何と思われても気にしない。榎本武揚釜次郎は幕臣でした。世界を動かす、歴史に名を残
すような、北海道の歴史にとって数少ない事件。問題をえぐり出して、心のウラをえがく。
多義的・多角的という意味では「壁」「棒」「箱」と同様です。侍としてかっこつけていれ
ば多くの人はごまかせます。本当は何を考えているか?それをえがくための《反リアリズム》
であると言えます。安部公房の作品は《反リアリズム》です。「砂の女」がリアリズムに
ちょっと近いですが、安部公房が《反リアリズム》の手法を採った理由は、《本当のリア
リズム》を追求する、本質はどうなんだ? ということを探求するためでした。
*

安部公房は近文第一小学校に小学2年から3年のころ通って、お父さんの実家が旭川市東鷹
栖にありました。原籍地が旭川でした。旭川に縁の深い作家、因縁があります。自慢する
ことではありませんが、色んな意味で旭川の地と縁もゆかりもある小説家安部公房という
人のことを、旭川に住む市民として、自分の中で捉えて、しっかり人に自信を持って話すこ
とができたなら、痛快ではないかなぁと思います。
*

◇質疑応答◇

質問者(柴田) : 今日はありがとうございました。前衛的な小説家であるはずの安部
公房が、伝統的な日本の古語の多義性を活かして創作を展開していったという仮説、また、
同様に一見武士道の英雄である土方歳三の心のウラをえがいたというお話、非常に興味深
く聴かせて戴きました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

 先ほど、「氷点」のお話をされていたので思い出したのですが、今年、三浦綾子記念文
学館が20周年です。ちょうど20年前、私はいちばん最初のおだまき会に参加させて戴き、
結成式で講演をして戴いたのが片山晴夫先生でした。そのとき先生は、三浦綾子さんの「氷
点」という作品が世にでたとき、ガツンと頭を殴られたような衝撃を覚えたとおっしゃっ
ていました。安部公房は私が大学に入った頃すぐに亡くなってしまったのですが、同時代
的に安部公房作品の登場で衝撃を受けたというご体験はおありでしょうか?

片山先生 : やはり「壁∼S・カルマ氏の犯罪」と「砂の女」です。「デンドロカカリ
ヤ」や「赤い繭」も読んでいましたが、後々から読んでみても、「壁」と「砂の女」、こ
の二つが大きな安部公房体験でした。どうしても国文学畑でしたから、漱石、芥川、三島
という頭が僕にはあるのですけれど、それとは全く違うなあ、という衝撃を受けました。
 「壁」の中で名前に逃げられるという話。吃驚しましたが、今だってぼくたちはやってい
ます。サッカーや野球の有名な選手のことを、私たちは会ったことも話をしたこともないの
に、あたかも知人であるかのように話している。新聞やネットの情報をそのまま使って、名
刺が旭川を飛び回っています。そういうシステムと同じです。また、日本語を紐解くと「壁」
にはアホ、愚か者、そのような意味もあります。重層的な「壁」の意味合いが作品のなか
に込められています。
 「砂の女」もそうです。題名を見ただけでは何を書いているのか全くわからない、砂でで
きた女性なのか、砂のような女なのか? 読みますとしたたかな女性です。そういう意味で、
この二つが僕の安部公房体験のはじまりだということが言えます。

他にはご質問はありませんか?……。それではこのへんでけりをつけたいと思います。「け
りをつける」というのは和歌の用語なんですね。「∼∼けり」というのが一番最後に付き
ますね。だからけりをつける、というのは最後になるのだと思います。俵万智も同じよう
なことを言っています。ですから「けりをつけて」という伝統的な日本の古典終助詞を打っ
て、ここで終わりにしたいと思います。本日はありがとうございました。
*

2018-06-23.
もぐら通信
もぐら通信                          22
ページ

荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む
(7)
バタフライ・ソング
岩田英哉

バタフライ・ソング

北京(ベイジン)の空を飛ぶ一匹のバタフライが 韃靼海峡を飛ぶ一匹のてふてふよりも
凶暴であることは確かである。

無意識の帝国主義
可憐な蝶までが巨大化してモスラとなり
文明の毒蜘蛛が張り巡らせたネットワークに
無数の蝶どもがあひっかかって死骸となり
干からびて……時は空蝉……嗚呼(ああ)

新たにはじまる空無の世紀
「歴史が終わりを迎える事はない」
と、残酷な神様が高笑いして
「苦しめ」
なぜかと言えば
煉獄
シシュポスの神話
あのころ まだ青くさかったおれは 一度は悟ったはずだったのに

歴史が 歴史自身を気軽にコピーするのだ
永劫回帰などと 大それた科白は無用
輪廻などと言うまいトロンプ・ルイユ――とは騙し絵のこと
歴史そのものが もはや詐欺師
もはやトロンプ・ルイユ化した時は道化師
もはやもどり道のない時点に至りし、人類の光世紀(こうせいき)!
われら 明るみの世界の輝ける影。
影に幸あれ!

光の庭に戯れる光る影――トロンプ・ルイユ
「われらが大いなる遊戯(ゲーム)に幸あれ!」
と、嘯(うそぶ)く われ
もぐら通信
もぐら通信                          23
ページ

洞窟(グロッタ)こそが世界の本質であり、
プラトン氏の虚言(ざれごと)こそが影。

***

此の詩人のこころの奥底の無意識の問ひは、恐らくは、さう、自家の荒巻山の石
切場の空間で遊んでゐた子供の時から、時間とは何か?といふ問ひであつたのでは
ないでせうか。何故なら、詩人の処女作である小説の題名の原題は『時の波堤』と
いふからです。さうして、遊んでゐる周囲は石切場といふ空間であり、洞窟もあつ
た。

超越論によれば、時間とは差異でありました。時間的差異とは遅延の事でした。
さうであれば、バタフライ・ソングを歌ふ蝶の羽ばたきは遅延を羽ばたいてゐる。
空間とは、これもやはり差異でありますから、この詩での空間的な差異とは、隙間
(非連続量)であり、歪み(連続量)の事です。確かに、第一連で、小さな蝶は韃
靼海峡といふ差異を、また海を歪みといふならば、この水といふ連続量の上を悠々
と渡つてゐる。

安西冬衛の『春』と題した一行詩、

てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた

この韃靼海峡の海の水は、安部公房の世界ならば存在の形象です。

しかし、中国共産党の支配する中華人民共和国といふ帝国主義の北京といふ都市
の上を飛ぶ一匹の蝶は、マルクス主義の蝶であるが故に、言語の本質である再帰性
を絶対否定し、また存在といふ上位接続概念を絶対否定する怪獣モスラである。
ここでいふ帝国主義とは、単に政治の領域のみならず、否、政治の領域を敬して遠
ざけても尚、無法にも人間個人の意識と無意識の領域を侵犯して、韃靼海峡を渡る
一匹の蝶をまでも殺さうとし、殺す、そのやうな隠喩(メタファ)としても事実と
してもさうである帝国主義でもある。それ故に、

無意識の帝国主義……
可憐な蝶までが巨大化してモスラとなり
文明の毒蜘蛛が張り巡らせたネットワークに
無数の蝶どもがひっかかって死骸となり
干からびて……時は空蝉(うつせみ)……嗚呼(ああ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ24

この現実(政治)と隠喩(詩)の間に隙間があり、ここで現実はズレる。大陸と
島嶼との間に海峡といふ隙間があり、ここで現実はズレる。一匹の蝶の遅延(ズ
レ)の羽ばたきの、しかし、文明といふ帝国主義の毒蜘蛛の巣の網の目にひつか
かつた空蝉の意味するところは両義あり、一つは蝉の抜け殻を、もう一つは生きて
ゐる蝉もまた(短い命の後に迎へる死を先取りして)空蝉と呼ばれる。

地上に出て7日生きるといふ蝉の寿命の時間の単位の一週間を、一世紀と考へれば、
これもまた「新たにはじまる空無の世紀」ではないだらうか。しかも依然として、
空無であり空蝉であり、海峡を渡る一匹の小さな蝶の「歴史は終わりを迎えること
はない」。このやうに、即ち歴史に終りはないといふ類の俚諺(りげん)としてで
はなく、韃靼海峡を渡る蝶の歴史も生死を繰り返すのではないか?

これが第二連で、シシュポスの神話と呼ばれる神話のこととして生きてゐる。

しかし、海峡を渡る一匹の蝶の羽ばたきが遅延であれば、歴史もまた遅延であり、
従ひズレである。今私の生きる此の時間が歴史ならば、もう一つの歴史が模擬(シ
ミュレーション)としてある。いづれが本物の時間か贋物の現実か。時間がなけれ
ば現実が存在しないならば、時間が互ひに二つあつて、互ひが互ひを真似てゐるに
違ひない。かうして「歴史が 歴史自身を気軽にコピーするの」である以上、私は、
従ひ、二つの時間、二つの現実に存在してゐる。これがズレの現実(複数)である。
それ故に、

永劫回帰などと 大それた科白は無用
輪廻などとは言うまい

さう、複数の現実は互ひに騙し絵であり、トロンプ・ルイユであるのです。これが、
マニエリスムの世界であり、バロックの世界です。私の知つてゐるのはバロックの
庭園です。その典型的な例で、私がドイツに行くといつも訪れるトロンプ・ルイユ
(騙し絵)の庭、《世界の果て》と題されたバロック庭園の写真が次ページのも
のです。バロック様式はtopological(位相幾何学的)です。即ち、この詩の文脈で
いへば、安部公房の読者にお馴染みの、本物・贋物論です。この、次の現実へと通
ずる通路(トンネル)の向かふが本物なのか、それともあなたの立つてゐる此方(こ
ちら)側が本物なのか。トンネルの向かふに見える現実の名前は、しかし、ドイツ
語ではなくフランス語でトロンプ・ルイユと呼ばれるので、それだけ一層に贋物で
あるといふ、あるいはかういふ場合の常で美術や庭園ではフランス語を使ふこと
が優勢なのかも知れませんが、いづれにせよ現実の贋物が遥か彼方に見えます。
もぐら通信
もぐら通信                          25
ページ

トロンプ・ルイユ(騙し絵)

バロック庭園:世界の果て

このバロック感覚は『S・カルマ氏の犯罪』をお読みの読者には既知でありませう。小説最後
のところで主人公がY子に案内されて長いくねくねとした暗い廊下といふトンネルを逃走して
至つた場所で映写される映画の題名が「世界の果」といふのでした。この、主人公が遂に至
つた出口なしの閉鎖空間の部屋に入ると、

「と、防水布がむくむく起き上がり、中からせむしがひとり現れて、「切符をいただきま
す。」と「しわがれた声で、わき見したまま、手だけをぼくのほうにつきだしました。(略)
ぶつぶつ言いながら別などこかから小さくたたんだ布をとりだしました。
 しみだらけになった広い白布でした。せむしがその白い布をひろげ、ぱっとふるったの
で、ぼくは急いで息をつめました。せむしがその白い布をずるずるひきずり、舞台にはいあ
がり、正面の壁にはりつけるまえ、もうもうとほこりが立ちこめて息らしい息もできないあ
りさまでした。」(全集第2巻、431ページ)(原文傍線は傍点)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

せむしの舞台で広げる白い布が、1970年代の安部公房スタジオの後半、「安部公房スタ
ジオ会員通信」時代(1976∼1980)の舞台に現れる、存在の白い布であることは、
この演劇活動が初期安部公房に回帰するといふPHASE3(存在への回帰)の時代のことであ
れば、十分に納得することができます。安部公房スタジオの舞台の白い布が存在の布である
ならば(何故ならば、どこにも鋏の入れられてゐない一筆書きの、1であり全体である布で
ある)、S・カルマ氏の前に広げられた舞台の布もまた存在の布であるのです。さうであれば、
安部公房スタジオの舞台もまた「世界の果」であり、「世界の果」で演ぜられた劇が、安部
公房スタジオの演劇であつたといふことになります。

かうして、主人公は上の、映写されてゐる『世界の果て』といふ映画の世界の中へと「どこ
かあら現れたのか」わからない(超越論的空間)「グリーンの制服の大男たち」によつて背
中をつきとばされて映写幕(スクリーン)の中に「顔からつっこんで」、「と、ぼくは――
と言うよりはもはや彼はと言わなければならないでしょう――そのままスクリーンをつきぬ
けて画面の中にはいりこみ、部屋の中に倒れているのでした。」(全集第2巻、437ペー
ジ下段)この場面は『バベルの塔の狸』の主人公アンテン君が、とらぬ狸に「頭を壁にたた
きつけ」られて、気がついたら「いつの間にか」(超越論的時間)塔の中に倒れ伏して入つ
てゐたといふ場面と同じです。(全集第2巻、475ページ上段)

存在の中に入ると、私は彼になるのです。即ち、「僕の中の「僕」」の後者の「僕」即ち彼
になるのです。[註1]前者は意識を失つて後者になる。

[註1]
この安部公房固有の話法については『デンドロカカリヤ論(後篇)』(もぐら通信第54号)をご覧ください。

閑話休題。話を詩に戻します。

この詩人の若年時の、そして恐らくは子供の時からの疑問は、時間とは何かといふ疑問であ
つたと私は推測します。そのやうに、私には思はれるのです。時間を止めるためにはどうし
たら良いか?時間を液状化すれば良いのだ、さうすれば、時間といふ液体は遍在して、空間
的な存在になり、時間は進むことを止める、時間を存在論として、そして存在として語ること
ができる。この場合、時間を空間化する私はどこにゐるのか?プラトンのいふのとは全く正
反対に、「世界の本質」は「洞窟こそ」にあるのだ。洞窟といふ上位接続(の場所といつて
も良いし、線といつても良いが、そこ)にあるのだ、さうして、私は、(安部公房の存在論
の記号を使へば)《洞窟》にゐる。それは、凹の形象であり、山ではなく谷であり、襞の凹
であるので、トロンプ・ルイユ(騙し絵)もまた陰画の形象凹に他ならない。さう、確かに、
かうして見れば、「韃靼海峡を飛ぶ一匹のてふてふ」は、海峡といふ海のトンネル(洞窟)
を渡つてゐるのだ。その洞窟には時間といふ液体が海と呼ばれて遍在してゐる。蝶はトンネ
ルの中で遅延を羽ばたくので時間の存在しないトンネルを通つて次の現実に、たとへ其れが
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

贋の現実であると最初から知つてゐても、その現実に到達したい。さう、その通り、

輪廻などと言うまいトロンプ・ルイユ――とは騙し絵のこと
歴史そのものが もはや詐欺師
もはやトロンプ・ルイユ化した時は道化師
もはやもどり道のない時点に至りし、人類の光世紀(こうせいき)!
われら 明るみの世界の輝ける影。
影に幸あれ!

さう、その通り。「もはやもどり道」は、ない。「もはやもどり道のない時点に至りし」そ
の場所は、やはり一匹のてふてふの飛ぶ洞窟である以上、そこに時間はなく、そこは空間な
のであり、そして、その空間は太陽の照る昼間の(洞窟の)外界ではなく、月の輝く夜の世
界、夜の月照る内界、詩人のインナー・スペース(内宇宙)、詩人の愛好する用語でいへば
脳内宇宙といふ洞窟です。

それでも尚、詩人はこの洞窟を世紀と呼び、100年といふ時間を単位化して時間を空間化
し、世紀と呼ぶ。そして時間に人間の関与した歴史と呼ばれる時間を液状化し、この時間の
空間的な遍在の場所を「光の庭」と呼ぶ。従ひ、そこに「戯れる」のは、洞窟の外界の光な
のではなく、洞窟の内界である脳内宇宙の「光る影」なのです。「光る影」はトロンプ・ル
イユ(騙し絵)。騙し絵の掛かつてゐる場所は「光の庭」[註2]。

[註2]
何故「実は詩人は、古今東西、言語・民族・地域・国を問はず、時代を問はず、有名無名を問はず、庭を歌ひ、
庭を詠」むのかについては、『カンガルーノート論(5):(18)駐車場』(もぐら通信第70号)の「5。
1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:(18)駐車場」をご覧ください。安部公房を例に挙げて、言語機
能論との関係で、詳述しました。

ここまで此の詩を読んで来ますと、前回読んだ『無限印刷機』に歌はれた「光は/(略)影を
感光させる」といふ詩行をおもひだします。このやうに考へて来ますと、『無限印刷機』は
「歴史が 歴史自身を気軽にコピーする」ことのない場所としてのGodの「玉座の空位」た
る「虚無」を歌ひ、これに対して、この『バタフライ・ソング』では、「歴史が 歴史自身
を気軽にコピーする」「ロンプ・ルイユ(騙し絵)」を歌つてゐる。とすれば、ともに共通
する歌はれてゐる空間は、前者では「光は/(略)影を感光させる」といふ白い感光紙であり、
後者では「光る影」が「戯れる」「光の庭」といふことになります。正反対の性質を持つ二
つの場所。一匹の蝶はこの端境で遅延を悠々と羽ばたく。さて、この庭の色もまた、安部公
房の存在の布の色と同様に、白い色なのでありませう。さうして、ともに世紀といふ、前者
では「神去りしこの世界に満ち満ちて/影を感光させる」「光は」、「われら新世紀の至福!」
と呼ばれ、後者では「人類の光世紀!」と、ともに感嘆符を以つて呼ばれてゐる。これらの
世紀の光の色もまた白い色なのでありませう。
もぐら通信
もぐら通信                          28
ページ

かうしてわかることは、後者の「人類の光世紀!」といふ話者の感嘆の声はトンネル(洞窟)
の向かふの騙し絵の中で響き、前者の「われら新世紀の至福!」は「光の庭」で響いてゐる。
一匹の蝶はやはり韃靼海峡を渡つたのです。バロックの様式は、ライプニッツの『モナド論』
を読むまでもなく、価値は等価で遍在する世界(もう半面の原理は「世界は差異である」と
いふ原理)でありますから、騙し絵は「光の庭」であり、「光の庭」は騙し絵である。二つ
の世界の差異は、上位接続の働きをする蝶によつて、かうして等価交換される。それゆえに、

洞窟(グロッタ)こそが世界の本質であり、
プラトン氏の虚言(ざれごと)こそが影。

といふことになるわけなのです。

あなたの日常の周囲の常識は倒錯してゐて、

洞窟(グロッタ)こそが世界の影であり、
洞窟の外の明るい世界こそが本質(であるとプラトン氏のいふのは虚言(ざれごと)ではな
く真理である)

とみな思ひ込んでゐる筈です。

ヨーロッパ文明は、この勘違ひの中に2000数百年、私たちは此のトロンプ・ルイユ(騙
し絵)に騙されて150年。そろそろ、あなたも韃靼海峡を渡る一匹の蝶になつては如何か。

何故なら、あなたは生きることに苦しむ。あなたはS・カルマ氏である。あなたが倒錯してゐ
るのではなく、世界が倒錯してゐるのですから。

私たちは、「どこからともなく」(超越論的空間)無限印刷機の吐き出す真つ白な紙を荘厳
し、バタフライ・ソングを「いつの間にか」(超越論的時間)声明してゐるのではないでせ
うか。リルケのオルフェウスや、安部公房の全ての主人公たちのやうに。時間と空間の交差
点に存在は宿る。とすれば、遅ればせながら、此処に至つて、

『骸骨半島』は、存在の詩集である

といふことができるのです。

私もまた、遅延の羽ばたきをして来たのかも知れません。

願はくは、この『骸骨半島』の向かふへと《韃靼海峡》を渡りきらむことを。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

『周辺飛行』論
(2)
   周辺思考
岩田英哉

1。PHASE3の中の時代区分
第一回で整理したことに基づいて、もう少し筆を進めてみませう。

1970年以降の安部公房は人生のPHASE3に入り、存在への回帰をする時代でした。前回
整理した内容を承(う)けて、存在への回帰の1970年以降1993年没年までの安部公
房の文学的活動を区分すると、次のやうになります。

(1)1970∼1975:「周辺飛行」時代(以後「周辺飛行時代」と一語で呼びます):
5年
(2)1976∼1980:「安部公房スタジオ会員通信」時代(「安部公房スタジオ会員
通信時代」と一語で呼びます):5年
(3)1981∼1993:箱根隠棲時代:12年

さて、安部公房スタジオは『リルケ』(といへば『涙の壺』)で始まり、最後は『氷の壺』
で終はるのでした。これらを節目として整理のために再度挙げると次のやうになります。

(0)準備の時代
①『周辺思考』(1967.11.1)
②『リルケ』(1967.12.25)[註1]
③『試験飛行』(1968.4.3)

[註1]
①と③の間に『リルケ』といふエッセイを、数年前の六本木のレストラン(CHIANTI[註A])での思い出と
して書いてゐて、成城高校時代の軍事教練とリルケを読むこととの関係、即ち戦時中にリルケといふ詩人が自分
にとつて一体何であつたかをおもひだして書いてゐます。

[註A]
『レストランキャンティ(CHIANTI)と安部公房』(もぐら通信第28号)をご覧ください。安部公房がリル
ケの息子と噂される男をレストランで見かけた話を書いてゐます。

(1)1970∼1975:周辺飛行時代:5年
①『周辺飛行』開始(1971.3.1)
②『周辺飛行』終了(1975.6.1)
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 30
(2)1976∼1980:安部公房スタジオ会員通信時代:5年
①『安部公房スタジオ会員通信』開始(1976.5)
②『氷の壺から水を飲む』(1980.4.30)
③『安部公房スタジオ会員通信』終了(1980.11.1)

(3)1981∼1993:箱根隠棲時代:12年

『周辺飛行』と『安部公房スタジオ会員通信』を通読してみると、それぞれの二つの通信の
性格について、次のことがわかります。図示してお伝へします。ダウンロードのURLは:
https://ja.scribd.com/document/387474521/周辺飛行と安部スタ通信の時期区分
もぐら通信                         

もぐら通信 31
ページ

なぜ、1976年5月で通信を切り替へたかといひますと、準備期間から5年、正式に安部
公房スタジオを立ち上げて2年、『ウェー(新どれい狩り)』(1975年5月11日初演、
西武劇場)を上演した時点で、安部公房には此の上演には自分の意図したところに十分な成
算があり、これで安定して劇団の運営ができると考へたからではないかと思はれます。これ
によつて、一層の安部公房スタジオの芝居の充実を図り、団体客を相手にするのではなく、
会員を相手にして、新劇とは異なる仕組み(システム)で集客をして、自分の作品を自作自
演で公演する基礎ができたと考へたのでせう。自信と自負に満ちた、安部公房の次の言葉が
あります。『自作を語る―「ウエー」』(全集第25巻、347ページ)より:

「 前はやはり、台本ってのは非常に微妙なもんで、こういう書き方をしたんじゃとても演
出家は読みとれないだろうとか、俳優が演ってくれないだろうっていうんで、何となく向こ
うに合わせるっていうか、妥協するところがあるんだな。非常に良くないことなんだけれど
も、今回はそれは一切なしでやれるっていうことね。特に若手だけ、僕の所で完全に育った
俳優でやるから、思いきった構造、主役でも何でも思いきってできたということで、やっぱ
り書き替えてそれなりの効果はあったと思う。それに前にもある程度構造としてしっかりし
ていただけに、今度の改作というか変更によって、今までに僕の書いた芝居の中でも相当い
い線にいってるんじゃないかという気が自分ではしてる。それから舞台としても、かなり成
功しそうな感じがね、今の稽古の段階ではしてるわけ。[1975.5.5-14]」
もぐら通信                         

もぐら通信 32
ページ

2。『周辺思考』と『試験飛行』について
安部公房スタジオを正式に立ち上げるための準備期間に「周辺飛行」に類似の名前の標題を
持つ『周辺思考』(1967.11.1)と『試験飛行』(1968.4.3)について、これら
の周辺と飛行と思考について、安部公房は何を書いてゐるのかを見てみませう。即ち、安部
公房スタジオに何を期待し、何を意図したのかを読むのです。

2.1『周辺思考』について(全集第21巻、336ページ)
全部で六つある章に見出しをつけて目次とすると、次のやうな章立てになります。みなどの
言葉も、安部公房の読者にはお馴染みの言葉ばかりです。既に同じ主題につき論じたものに
ついては、論考の題名と号数を挙げます。

(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録): ―世間をお騒がせして申しわけありません。

「沈黙と余白の論理」:『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
(1)』(もぐら通信第1号)の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」
および『安部公房文学の毒について』(もぐら通信第55号)の「2。空白の論理といふ毒
(詩の毒)」を参照。
(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)
『詩人たちの論じた安部公房論(1):飯島耕一の『安部公房―あるいは無罪の文学』』
(もぐら通信第27号)を参照。
(3)「僕の中の「僕」」
安部公房固有の話法:「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号))を参
照。
(4)特殊の中の普遍
『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら通信第62号)を参照。
(5)周辺思考は方法である
(6) ―世間をお騒がせして申しわけありません。…… (周辺思考の排除)

以下、一つ一つみて参ります。

(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録): ―世間をお騒がせして申しわけありません。

この章の論点は次の「(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)」に連絡してゐます。端と周
辺といふ言葉の上から言つてもお互ひが同じことの表現であることは判ります。

見出しだけで考へますと、安部公房の論理は、昼は中心、夜の闇は周辺であり端つこである
といふことでありませう。これが、物を見ることとであり、物を書くことである。下記(2)
に引用する1950年代の安部公房の記録藝術またはドキュメンタリーに関する発言を引用
して、あらためて読みますと、これがそのまま周辺飛行であり、安部公房スタジオの役者に
説いた演技論であること、もつといへば演技論の中核概念であるニュートラルであること、
即ち、安部公房スタジオの演技論が超越論であることが解ります。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ33
もつと言つてしまへば、18歳の時の論文『問題下降に依る肯定の批判』以来、安部公房の
論理の骨格は全然変はつてゐない。結局、1950年代のドキュメンタリーの活動にあつて
も、1970年代の安部公房スタジオの活動にあつても、「私は諸君に――諸君全てにとは
云はないが――此の沿傍に居を移す様に忠告する。これは私の強烈な犠牲心と同情心とから
だ。」と書いた18歳の安部公房と同様に、安部公房スタジオの俳優たちに「私の強烈な犠
牲心と同情心とから」「此の沿傍に居を移す様に忠告」してゐるのです。「此の沿傍」とは
即ち「遊歩場」といふ道(といふ接続線)の周辺(沿傍)のことであり、従ひ其処では「第
一に此の遊歩場はその沿傍に総ての建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、
長さ等があってはいけない」のであり、「それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌
たる抽象概念でなければならぬ」のであり、何故ならば此の場所、即ち安部公房スタジオの
総合藝術の舞台は、役者たちが「第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が
出来る事が必要だ」からであり、また反対に観客といふ都市の郊外にゐて「森や湖の畔に住
まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所となると
同時に、或る種の交易場ともなる」からである。 [註2]

かうしてみると、安部公房スタジオの舞台は、18歳の安部公房のいふ「遊歩場」といふ
topologyで接続された「一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念」であり、
役者と観客の「休息所となると同時に、或る種の交易場ともなる」場所であること、安部公
房はこれを目指したといふことになります。これが、「此の沿傍」である「或る混沌たる抽
象概念」の舞台であり、演技論としてはニュートラルといふ概念の実践であり、また安部公
房スタジオの舞台は、国境を超えた/とは無関係にある(18歳で設計した此の)安部公房の
文字通りにtopologyといふ道理で構築した想ひの深い、即ち理想の都市なのです。

1973年の小説『箱男』は、かうして、都市の中で生きる箱男の話なのであり、これが何
故「乞食とチェ・ゲバラ」の話であるのかといふ理由なのです。さうであれば、同じ年に上
演した安部公房スタジオの初演の戯曲『愛の眼鏡は色ガラス』は同じ「失踪の向うにある世
界」の話だといふ事になります。チェ・ゲバラの持つ、他の革命家たちとの決定的な相違に
ついて、1968年4月10日付『予感』といふエッセイで次のやうに述べてゐます。「次
の小説」とは『箱男』です。:

「 最近ぼくは、ゲバラのことを調べている。(略)
  これはあくまでもぼくの想像だが――そして次の小説のテーマでもあるわけだが――ゲ
バラを他の革命家たちと区別する、大きな魅力の一つは、彼が祖国を捨てた革命家だったと
いう点にあったように思うのだ。スペイン戦争をのぞけば、これまでのほとんどの革命で主
役を演じたのは、おおむね愛国者としての革命家だった。しかし、アルゼンチン人であるゲ
バラは、異国のために闘い、そして異国のために死んでいったのだ。言ってみれば、ある特
定の国家に対してではなく、国家一般に対する挑戦者だったのである。」(『予感』。全集
第22巻、101ページ)[註X:P39]

この発言を読むと、安部公房の祖国はやはり日本ではなく、満州帝国なのであり、否、満州
帝国といふ国家ではなく、奉天といふ都市、これが安部公房の故郷(ふるさと)であること
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ34
を強く感じます。論理の問題としても(topology)、同時に感情の問題としても。安部公房
は異国である日本の国のために革命を、言語の観点から起こさうと命を懸けたといふことで
す。

ですから、実は、日本人の読者はほとんど例外なく、安部公房といふ人間と安部公房の文学
をすつかり誤解して来たのではないでせうか?安部公房が動物の名前をいふ時には、それが
豚であれ緬羊であれ、註釈抜きで、安部公房は何もいはずに、満州の大陸の奉天の生活の中
に見た豚や緬羊であつたやうに、ここで祖国といふ言葉とゲバラとの関係を読みますと、祖
国を日本とみると日本を捨てたら他の国のことに、異国を日本と見たら祖国とは満州といふ
大陸の国といふやうに、即ち前者の場合ならば、安部公房は満州帝国といふ他の国にゐる事
になり、後者の場合ならば、異国とは日本の国であるといふ事になつて、安部公房の使用す
る祖国と異国といふ言葉は、やはりこの1970年代前後のテキストを読んでも、ともに意
味の等価交換の二重性が宿つてゐます。同じ論理的な事実の指摘を「『カンガルー・ノート』
論(10)」(もぐら通信第75号)の「(22.3)何故ローリング族は象の皮の太鼓を叩
いて踏切を渡るのか?」で行ひ、シャーマン安部公房の問題として、同じ問題を論じました
のでご覧ください。

実は、日本人の読者はほとんど例外なく、安部公房といふ人間と安部公房の文学をすつかり
誤解して来たのではないでせうか?何故ならば、日本人は島国の人間だからです。安部公房
が都市といつたら、奉天であり、または奉天のやうな(直喩の)都市です。即ち、安部公房
の存在論の記号を使へば、《奉天》であり、《都市》なのです。ここでは論じませんが、1
973年からの周辺飛行時代には『箱男』の写真が、1976年からの安部スタジオ会員通
信時代には、安部公房スタジオの活動と並行して、写真と都市に関する作品が以下のやうに
現れることが特徴的です。

(1)『箱男』(1973.3.30)
(2)『写真のぞき―周辺飛行20』(1973.6.1)
(3)『アリスのカメラ―周辺飛行37』(1974.11.1)
(3)『カメラによる創作』(1978.4.1)
(4)『都市への回路』(1978.4.1):これは安部公房を理解するために重要なインタヴュー
です。
(6)『われらコンタックス仲間 林忠彦』(1979.4.1)
(5)『都市を盗る』(1980.1.1)

実は、日本人の読者はほとんど例外なく、安部公房といふ人間と安部公房の文学をすつかり
誤解して来たのではないでせうか?といふ上の一行の疑問文に戻れば、即ち大陸の読者たち
の方が、即ちユーラシア大陸の、アフリカ大陸の、南北大陸の読者たちの方が、私たち日本
人よりももつと生理的に直かに安部公房の文学を理解してゐるのではないでせうか?何故な
らば、日本人の読者は、安部公房の作品の構造を読むことをせずに、文章を読んでゐるから
であり、対して上記の《都市》は大陸の都市である以上、その内部と外部の関係の明瞭な境
界に関する構造については、大陸の読者が生活の中にあつて現実の問題として詳しい。安部
公房は、この『周辺飛行』論の中でいづれ論じますが、作品の構造を文体といひ、文章とは
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ35
わけて論じてゐる。前者こそが、安部公房の舞台には必要なものであり、それ以前のまた以
降の小説にも備はつてゐる結構であり、構造である以上、それは単なる文章ではないと主張
してゐます。さうして、安部公房の場合には、この文体といふ構造は、そのまま言語構造で
あることは、諸処既述して来たところです。

率直に申し上げて、日本に市民はをりません。何故なら、日本の都市には城壁がないからで
す。この都市の城壁の中に住む権利を有するのが市民です。城壁の外部には農民が住むので
す。これが、安部公房の都市と農村論、異端(都市)と正統(農村)論、都市(異端)と国
家(正統)論の骨子なのです。この都市は《奉天》なのです。これが、1970年以前まで
に呼ばれた「内なる辺境」であり、1970年以降に呼ばれる「周辺飛行」なのです。二つ
は同じものです。安部公房スタジオの設立に際して「周辺飛行」と「飛行」の文字を取り入
れたのは、役者は舞台で動くからでありませうし、舞台も動くからでありませう。確かに舞
台はアメリカまで/の中をも、巡業した。かうして考へてみれば、この論考のどこかで後述し
ますが、周辺とはニュートラルな場所なのであり、ここにゐ続ける心理と生理の訓練が演技
論の中核概念のニュートラル[註2]であるのです。

[註2]
次の二つのエッセイを読むと、安部公房が舞台と小説に求めるもの、あるいは逆に二つの藝術範疇の根底をな
すものが同じニュートラルといふ概念であることが解ります。

(1)『再び肉体表現における、ニュートラルなものについて。̶周辺飛行18』(全集第24巻、146ペー
ジ)
(2)『言葉によって言葉に逆らう』(全集第25巻、495ページ)

上記(1)は、いつてみれば「演技以前の演技」について、(2)は冒頭安部公房自身の言葉で「意味以前の
意味」について書いてあるのです。既に、安部公房の読者には「∼以前」とあらば、これは安部公房の超越論で
あることは自明でありませう。

この二つのエッセイを読み比べてみると、安部公房が二つの藝術範疇で求めたものが解ります。この「∼以前」
といふ時間を捨象した、時間の存在しない存在論である超越論は、かうして、お読みになれば、他の写真やド
キュメンタリーやTV・ラジオのシナリオや映画や、そして音楽についても、同様であることに気づくでせう。

このやうな註釈をわたしが書くことになるといふことは、やはり、安部公房スタジオの活動は総合藝術の活動
であり、自分の年齢と体力を考へた場合に、それまでの作家活動の総仕上げだと考へてゐたのかも知れません。

大阪城に城壁があるか?江戸城に、皇居に城壁があるか?名古屋城は、姫路城は、松本城は、
熊本城は、弘前城は、城壁を有するか?答へは、否。とすれば、あなたの思ふ安部公房像と
安部公房論をもう一度、この観点から見直しては如何でせうか。日本人の読者は実は、内部
といひ外部と安部公房が文字で書いても何か漠然と理屈として頭で理解をしてゐるだけで、
自分自身の生活の問題として、自分自身の人生の問題として、本当は理解することができて
ゐなかつた/ゐないのではないでせうか?しかし、あなたは果てし無く此の虚構の中の事実に
憧れてゐて、S・カルマ氏のやうに、現実を全て陰圧で胸の中に眼から吸ひ込みたいと思つて
日々暮らしてゐる。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ36
この文章を書き始めた時には、このやうな、日本の読者に対して反語的な、激しく逆説的な、
極めて挑発的なことを書く事になるとは思つてもゐませんでした。何故激しく、極めてなの
か?何故なら、安部公房は日本語で書いてゐるからです。さうして、あなたは日本人である
から日本語が読めると思つてゐる、日本語が読めるのだから安部公房の文章も読めてゐると
思つてゐるからです。きつとさうに違ひない。しかし安部公房は、文章を読むな、文体を読
んでくれと言つてゐる。後述します。

英語で土木作業または土木工事のことをcivil work(シヴィル・ワーク)といひますが、こ
れは都市の城壁の内部に下水道の溝を掘つたり、水道管を通したり、電気の線を通したりと
いふ都市の住民が快適に暮らすための工事のことです。Civil(シヴィル)とは市民のといふ
意味の形容詞ですから、これらの都市の社会基盤の工事のことをcivil work(シヴィル・ワー
ク)といふのです。しかし、これはあくまでも都市の内部のことです。その意味は都市の外
部には及びません。

さて、奉天の地図を見てみませう。

(以下このページは余白です)
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ37

この地図を見ますと、左の破線で囲まれた、城壁の無い都市が新市街(日本人の建設し居住
した都市)であり、左の城壁のある都市が旧市街といふよりも本来の奉天といふ都市である
ことが判ります。安部公房の思ひ描いて、日本の読者に一切の註釈を付けずに語つたのは、
城壁のある奉天であり、安部公房の思考論理上の都市は《奉天》であるといふ事になります。
何故処女作『終りし道の標べに』の舞台である村が粘土塀といふ壁に取り囲まれてゐるのか
を思ひ出して下さい。あの舞台は、地質学上もさうでしたが(奉天の土壌は粘土質の土地で
はない)、奉天ではなく、《奉天》なのです。

今、改めて新しい日本人の作つた新市街の奉天の地図を見て、ここに城壁の無いといふこと
を知ると、余りにも日本人は大陸にあつて、私の西ヨーロッパの、それもマルクス主義とい
ふ共産主義圏の東ドイツに住んだ経験に徴しても、誠に無防備であつたといはざるを得ませ
ん。恐らく、日本人は、古代から、そして近くは集中的には江戸時代には、儒学を探究し考
究して来たものの、かうして21世紀の今この地図を見て、日本人の都市に内地のまま、日
本列島の町のままに城壁がないといふ此の町の作り方をみれば、日本人は隣の大陸の人間た
ちと其の文明・文化を全く誤解して来たのだ、外敵の常にあることと其の襲撃のある場合の
残虐性については、全く理解してゐなかつたのだといふ以外には私はありません。何故なら
ば、日本人は島国の人間だからです。日本の町には内部も外部もない、あるいは共に連続し
てゐる。都市は自然の中にある。日本の家屋の構造と同じです。縁側で内部と外部は解放的
に接続されてゐる。大広間は襖(ふすま)で仕切られてゐるだけで、これを取り払へば元に
戻つて1になり、全体になり、即ち存在になる。といふ構造は都市のホテルの会議室の空間
や宴会場でさへも同じです。論ここに至ると、初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』の
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ38
結末で、主人公が壁になるといふ最後は、大陸と島国の境界域(といふ二重性)にゐる安部公
房の創造した誠に象徴的な主人公の最後だといふ事になります。境界域に存在は存在するのです。
即ち、周辺に存在は存在する。「内なる辺境」が周辺ならば、「周辺」もまた「内なる辺境」
ではないでせうか。「周辺飛行」は「内なる辺境」を駱駝で行く旅であるといふ事になり、こ
こに安部公房スタジオ公演の一つが『S・カルマ氏の犯罪(ガイドブック IV)』(1978年
10月13日初演、西武劇場)である理由があるのです。

しかして、安部公房の全ての作品の最後は、範疇横断的に、topologicalに
メビウスの環に、またクラインの壷になつてゐて、連続の非連続・非連続の
連続となつてゐることは、あなたといふ読者ご存知の通りです。即ち、

安部公房スタジオの舞台は、《奉天》といふ《都市》 [註3]なのです。

そしてそこで演ぜられる劇は、安部公房が幼時奉天で観たサーカス一座(少な
くとも矢野サーカス団)の藝であることは既に「『カンガルー・ノート』論
(7):(20)サーカス」(もぐら通信第72号)でお話ししました。さう
すると、

安部公房スタジオの劇は、《奉天》といふ《都市》の舞台で演ぜられる《存在》のサーカスだ
といふことになります。

「『カンガルー・ノート』論(7):(20)サーカス」(もぐら通信第72号)より存在の
サーカスの記述を引用します:

「安部公房は、安部公房スタジオを立ち上げて、1978(昭和53)年6月3日ー7日 池
袋・西武美術館にて第10回安部公房スタジオ本公演として『人さらい(イメージの展覧会
PART II)』を上演。(桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻同窓会
1977年6月、「人さらい(イメージの展覧会PartⅡ)を安部公房スタジオで演出、作曲、上演(西武
美術館、三-七日:https://ameblo.jp/tomogeki/entry-10050220578.html)

この配役の中に、サーカス一座が登場します。配役に、人さらい、サーカス一座、オートバイ乗
り、とあり、次の写真をみると、前景にゐるのは道化師、後景にゐるのは、強力(ごうりき)
といふ力持ちの藝を披露するサーカス一座の藝人であることが判ります。」
もぐら通信                         

もぐら通信 39
ページ

[註3]
Topologyに依つて設計された都市について、18歳の安部公房は次のやうに書いてゐる:

「 高等学校は思想の遊歩場でなければならぬ。真の意味に於ける高等学校は、一つの思想上の層的社会であっ
て、範囲的社会である事は、絶対に避けられなければならないのである。思想の遊歩場の一区劃たる要素を備
えて居ない部分は、速かに不純物として、何か改良を加えるか、郊外地区に移す必要があるのである。では何故
此の遊歩場は郊外地区に在ってはならないか。実は是は全く問題にならぬ事なのである。思想の遊歩場が成立
した理由を考えればよい。遊歩場が始めに有ったのではなく、遊歩場は二次的に結果として生じたものなので
ある。交錯した家々、巨大な建築、奥深い工場、その間をぬって此遊歩場は無ければいけないのである。それ
は一つの必要である。そして此の道は他の道とははっきりと区別されて居なければいけない。第一に此の遊歩
場はその沿傍に総ての建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。
それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外地区を通らず
に直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れ
る事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所となると同時に、或る種の交易場ともなるのだ。(略)

 私は諸君に――諸君全てにとは云はないが――此の沿傍に居を移す様に忠告する。これは私の強烈な犠牲心
と同情心とからだ。
 さて是から、此の遊歩場の沿傍に住まう人々に向って、その住人たる可き要素――真の反省と問題下降の絶
対的肯定の理論に就いて述べよう。」
(『問題下降に依る肯定の批判』全集第一巻、12ページ下段∼13ページ上段)

[註X:P33]
1968年3月1日付の秋山駿による三田文学誌上のインタヴューで安部公房は次のやうに語つてゐる:

「失踪に対して、すぐに回復ということを持出すことに、非常に疑念があるのです。一応三部作という形で、失
踪前駆症状にある現代を書いてみましたが、この次は、すでに失踪してしまった状況で、失踪の向うにある世界
を書いてみたい。乞食とチェ・ゲバラの話です。僕はふり向くことがいやなんだ。」

最後の「僕はふり向くことがいやなんだ。」といふ言葉には、リルケのオルフェウスが生きてゐます。[註A]

[註A]
(もぐら通信第88号)の【安部公房の読者へのコメント】を参照ください。リルケの薔薇と『燃えつきた地
図』の存在の喫茶店《つばき》の花弁の比較をして、探偵の主人公(に限りませんが、安部公房の主人公)と
オルフェウスの関係について説明をしました。オルフェウスは絶えず変身を繰り返し、二度と同じものになるこ
とはない。オルフェウスは振り向かない。

安部公房は『創造の哀しみ(周辺飛行38)』(第25巻、223ページ)と題した文章の
一番最後のところで(225ページ)、『周辺思考』の「(4)特殊の中の普遍」で後述す
る論理を使つて演劇評論家たちの安部公房スタジオ上演に関する理解のなさを嘆いて、次の
やうに書いてゐます。ここに「(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録)」の「沈黙と余
白の論理」が現れる。この沈黙の、次の8つの点線の意味は、これら己の無知無能を知らぬ
(知つてゐればそんな劇評にはならない)といふ評論家たちへの怒りの、余白に書かれた沈
黙です。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 40
「「どのみち創造の喜び」などありはしない。(略)「創造の喜び」という表現はあきらか
に錯誤なのだ。あくまでも、「創造の哀しみ」でなければならないのである。ちょうど今の
ぼくのように、すベての言葉がただ歯ぎしりの中に消えていく……
 むろんこんな事は、あらためて言葉にしたり、書いたりする必要もないことだ。石も語る
ことがあるらしいが、べつに驚くことはない。死体よりは、石のほうが、はるかによく語る
からこそ、人は死の上に墓石を建てるのだ。死体にはやはり、沈黙がふさわしい。創造が喜
びであろうと、哀しみであろうと、本当のところはどうでもいい事なのだ。読者にも、観客
にも、まったく関係のない事である。創造の哀しみなど、作者や俳優たちが、勝手に哀しん
でいればいいことだ。

 …………………………
 …………………………
 …………………………
 …………………………
 …………………………
 …………………………
 …………………………
 …………………………
それでも墓荒らしの批評家たちがやってくる。なんという鈍感さ。もう沢山だよ!」

良い機会ですから、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1)』(も
ぐら通信第57号)の「I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」より、この
沈黙と余白の記号についての詳しい説明をリルケとの関係、また安部公房独自の詩の世界と
の関係で、引用します。初期安部公房が後期20年のPHASE3に如何に生きてゐることか:

「本題からは逸脱しますが、上記の「(6)『室内インテリア』」の最終章XXIは、安部公
房の「空白の論理」によるいつもの構成と同じ構成になつてゐて、これは、安部公房が此の
作品を読んだかどうかは別にしてさへも、安部公房が相当広範囲にわたつて、安部公房全集
に採録されて読者の知ることのできる作品の数以上にリルケの作品を渉猟してゐたことを示
してゐます。あるいはさうでないとしたら、または、さうでないとしても、数少ないリルケ
の「空白の論理」の余白と沈黙の表現に接して、安部公房はリルケの此の「空白の論理」を
本当に深く理解をした。即ち、この作品の最終章XXIに、『詩と詩人(意識と無意識)』に
あるのと同じ「空白の論理」に従つた章があるのです。

リルケの「(6)『室内インテリア』」の最終章:

「XX Wenn meine Mädchen wandern und sich bewegen, schwanken ihre Seelen
langsam wie Kähne, die an ein unruhiges Ufer gebunden sind.− Denn ihre Seelen
sind Gondeln von Gold und voller Ungeduld. (略)Und sie heben die Furcht vor
diesen vielen Dingen in das seidene Dunkel ihres Lebens hinein und falten die Hände
davor. So sind ihre Gebete..
もぐら通信                         

もぐら通信 41
ページ

diesen vielen Dingen in das seidene Dunkel ihres Lebens hinein und falten die Hände
davor. So sind ihre Gebete..

XXI..................................................................
..............................................................
..............................................................」

[拙訳]
「第XX章 私の処女(をとめ)たちが逍遥し、あちらこちらへ動く場合にはいつも、その
魂はゆつくりと、不安で定まらぬ岸辺に係留される筏のやうに上下に揺れる。ーといふのは、

乙女たちの魂は、黄金のゴンドラなのであり、だから我慢できないといふ性急な思ひで一杯
のゴンドラなのだから。(略)そして、私の乙女たちは、これらの数多くの物に恐れを抱き、

その恐れを、乙女たちが自分たちの命の、絹の暗黒の中へと持ち上げて入れ、両手を其の物
たちの前で重ねて折畳む。と、私の乙女たちの祈りは..

第XXI章..................................................................
..............................................................
..............................................................」

『詩と詩人(意識と無意識)』の中の第1部第1章「四、人間の在り方」の半ばに置かれた
次の余白と沈黙をご覧ください。:

「総てをかくあらしめるもの、それが夜である。此の吾等の判断も、表現も、生も、行為も、
幻想も、総て其れがある如くあらしめるもの、それが夜なのである。解釈学的体験、― 次
の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に此の
余白を用意したのだ)
       ...............................................
...................................................
...................................................

そして人間の在り方は正に此の数行の余白によつて明確に示されるのだ。夜はかくあらしめ
るものであった。 」
(全集第1巻、112ページ下段)

また、中埜肇宛て書簡第2信にも、この沈黙の「……」がある。作品を書く場合のみならず、
日常の親しくゐるものたちにも、手紙の中で此の空白と沈黙を文字の間に挟んでゐる。此の
「……」をテキスト(文字)の間に挟むと、この「……」の両側の文字の間に隙間、即ち差
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 42
異の生まれる効果があり、また逆に、この空白と沈黙といふ差異の間にテキスト(文字)が
あるといふ、関係が反転して、一種メビウスの環になるといふ効果がある。安部公房好みの
体裁に、文章がなるわけです。

「どうか君の現実に対する無理解をとがめないで下さい。
 …………
 …………
 人々は魂を求め合つて居ます。僕流に云へば、人々は、自分自身に云ひきかせたがつて居
ます。……愛。
 …………
 …………
 僕はもつとよく君を知りたかつた。(略)一人は僕の知つて居る人で、も一人は見知らぬ
人です。
 …………
 …………
 君の云ふ愛について、どうか、何から何迄、具体的に知らせて下さい。絶対にかくさない
で。僕には思ひあたる様な所があるのです。それとも僕にはそれを聞く丈の値打が無いでせ
うか。
 …………
 …………
 僕はあの会を創め、今それから遠ざかつて見て、如何に生命を持つた人間が少いかを、つ
くづく知りました。(略)」(全集第1巻、70ー71ページにある)

かうして見ると、安部公房の余白と沈黙の表し方は、上に引いた例のやうに、

(1)点線といふ記号によつて余白と沈黙を示すか、また、
(2)『名もなき夜のために』の最後のやうに( )といふ記号によつて存在を示し、その
中に文字を書いて、これを話者や登場人物の語る、存在の中にある存在の文字とするか(例
へば、最初の小説の題名の『(霊媒の話より)題未定』や、最後の小説『カンガルー・ノー
ト』の最後の呪文「(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテ
ヨ)」、あるいは、
(3)『詩と詩人(意識と無意識)』の最後に第二部の印を漢用数字で示して、そのあとを
空白にして置くか、

この三通りがあることになります。

『名もなき夜のために』に次の箇所があります。:

「特にマルテの手記が二部に分かれていることを忘れてはならぬ。一部から二部へ移ってい
くものの意味は、夜を支点として人間が如何に転身するかの記録でなければならぬだろう。
もぐら通信                         

もぐら通信 43
ページ

更にその総ての意味が僕自身の夜でなければならぬ。夜が如何にして一切を奪って行った
か……それからそれをどんな仕方でもと通り、いや場合によっては一そう満ち足りたものと
して返えしてくれたか……しかもその後、仕事をし了えて放心したリルケの呟きの中で、も
う書き得ないものとして待っていた無言の第三部、その空白を流れる限りない日常の悲しみ
や悦びをふと想い浮べることがあったら、僕たちも転身の意味を本当に悟ることが出来るか
もしれない。その空白が既にオルフォイスのソネットやドイノの悲歌を生む約束になってい
たなどと考えることで、それを単なる変化や移行にしてしまうのは容易だが一そう恐ろしい
ことではなかろうか。僕たちに残された一番確実な遺産は、決してリルケの神のような死で
もなく、飛翔にも似た転身でもなく、実にあの侘しい空白であったということ……それから
後何んな鎖があると云うのだろう。(略)」(全集第1巻、519ページ上段)(傍線筆者)

『マルテの手記』が文字で、これは第一部、ここからは第二部と明示されてゐる訳ではあり
ません。安部公房が第一部第二部と呼んだ前後は、形式上または体裁上は、「アペローネ、
僕は君もここにいるように考える。君にはそれがわかるかね、アペローネ?君にはそれがわ
かるにちがいないと僕は考える。」と終わる箇所が第一部の終わり、そして、余白を残して
新たにページを立てて、「今では、女と一角獣の壁掛けはブサックの古城にはない。」で始
まるのが第二部といふことになります。

今私の手元にあるドイツ語のインゼル版のペーパーバックスの『マルテの手記』はさうなつ
てをり、岩波文庫で出てゐる望月市恵訳でも、ページを改めての、更に最初に数行の余白を
置いての、第二部を始めてゐます。当然のことながらドイツ文学の専門家である訳者は、こ
のリルケの意図を十分に知つてゐた。

上の引用で「一部から二部へ移っていくものの意味は、夜を支点として人間が如何に転身す
るかの記録でなければならぬだろう。」とありますから、安部公房の夜は此の第一部と第二
部の間の余白に存在するのです。そこには夜があり、他の両側の二つの部立てに対しては、
その夜は支点である。二つの部門は、この余白、空白、沈黙があつて初めて均衡を全体とし
て保つて表に、さういふ意味では昼間に、成り立つといふのが、安部公房の論理であり、思
想です。しかし、これはまたリルケの論理であり、思想です。

そして、引用中の二つ目の「……」といふ文中の余白の後にいふ、「しかもその後、仕事を
し了えて放心したリルケの呟きの中で、もう書き得ないものとして待っていた無言の第三部、
その空白を流れる限りない日常の悲しみや悦び」とある此の第三部は、もともと本来の『マ
ルテの手記』にはない部門です。これは『詩と詩人(意識と無意識)』に繰り返し論ぜられ
た、哲学談義を親しく交わした友中埜肇と議論したあの論理、即ちAでもなくZでもない、即
ち両極端を排して、第三の客観または第三の道を求める論理なのです。右でもなく左でもな
く、上でもなく下でもなく、生でもなく死でもない、第三の客観、即ち(詩人が自己を捨
て、自己喪失をし、自己の記憶を忘却して次元転換を果てしなく続けて至る、自己の最高度
の、極限の反照としてある)存在、です。 [註9]
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ44
[註9]
この、安部公房独自の論理については、『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)をお読
み下さい。

このやうに、安部公房十代からの此の論理の上に、安部公房は新たに『マルテの手記』の解
釈を加へて、詩人から小説家になる為に、『マルテの手記』を自分自身のものとする為に、
あるいは『マルテの手記』を超越するために、「空白の論理」の中に第一部でもなく第二部
でもない第三部、即ち第三の客観、即ち存在を仮構して、この作品をまとめたのです。

第一部でもなく第二部でもない、第三部。それが、最後に安部公房が『名もなき夜のために』
の付け加へた存在を示す( )の中に敢へて書いたテキスト(文字)なのです。[註4]

「(此処に空白がある。空白の告白がある。これが恐怖なのだろうか。僕は欺瞞が苦しかっ
た。まだとどまっていると思わせる駆け引きいやだった。僕ら人間を物への供物としよう。
名もなき夜に生きて昼を織り出すものとなろう。
 ある日…………。)」(全集第1巻、558ページ下段)

ここまで考へてみれば、この最後の、( )で象徴される存在の中の文字を読むと、安部公
房が何を考へてゐるかは、よくわかります。「ある日」もまた空白と沈黙の中にある。「あ
る日」の物語もまた空白と沈黙の中にある。何故なら其れは特定の日ではなく、「ある日」
だからです。

そして、「転身」は、この( )の中や「……」や(文字通りの物質的な)余白の中、即ち
夜の支点の余白と沈黙の中で、人知れず、誰とも名前を言はれずに、おこなはれるのです。
安部公房の意識と無意識の入籠構造であり、螺旋構造です。

そして、このやうな( )と「……」と(文字通りの物質的な)余白の使ひ方は、このまま、
領域を問はぬ、安部公房の作品の入籠構造または螺旋構造をなす話中話、劇中劇の構造にな
つてゐます。」

さて、安部公房が「ノートの端に」メモしたのは次の言葉です:

「―世間をお騒がせして申しわけありません。」(某月某日、X X新聞より、ある重罪犯人
の言葉)」

ノートの端にメモした言葉であれば、本文中に作家がいふやうに「多少おどけた言葉が種子
になり、そこからみるみる根が生え、茎がのび、見事な草花に生いしげっていくまでの過程
が、ありありと眼前に浮かんでいたにそういないのである。」
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ45
これが「闇の中に眼をこらす」といふ事、即ち周辺飛行に繋がるといふ事が、かうして備忘
であれ記録するといふこととの関係で次の「(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)」で説
明されてゐる。この発想がこのまま1950年代の記録藝術とドキュメンタリーに関する安
部公房の超越論(汎神論的存在論)の考へ方であるのです。

また、「―世間をお騒がせして申しわけありません。」といふ言葉の宿す/言葉に宿る悪につ
いては、最後の「(6) ―世間をお騒がせして申しわけありません。…… (周辺思考の排
除)」で再度「―世間をお騒がせして申しわけありません。……」と「……」の記号[註5]
が付記されて、取り上げて論じられてゐます。従ひ、このエッセイは第1章から第6章を通
じて、ノートの余白に書かれた此の一行の備忘を巡つて周辺思考が論じられてゐるといふ事
になります。

[註4]
「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「1。2。1 量としてある言葉の視点から
見た内容」 より以下に記号の意味を引用します:

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号∼第59号)で使つた方
法を『カンガルー・ノート』でも使つて、この作品には一体何が書いてあるのかをみてみたのが「3。『カンガ
ルー・ノート』の記号論」 [註7]です。この章の結論を先取りして、最初にお伝へすれば、安部公房の使用
する記号に着目すれば、結局この作品は、次の5つのことについて書いてあるのです。

(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味する。
(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語についてのものである
ことを意味する。
(3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。
(4)「 」:地の文にある立て札を意味する。
(5)( ):存在の中に存在することを意味する。

この第2章緑面の詩人を通じて明らかになつたことは、《 》といふ記号は最初は主、[ ]といふ記号は最
初は従、前者は本体、後者は附属といふ関係にあるといふことです。勿論安部公房の世界ですから、後々等価
交換可能の関係です。」

[註5]
この文の両端に付ける記号の意味については「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第68号)の
「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:(16)風の音」より引用してお伝へします:

「このことから見ると、安部公房の呪文の使ひ方による存在の物語の存在化の深まりの度合ひは、次のやうに
なつてゐる。呪文に関する存在化深化の記号を使つた表記規則です(以下必要に応じて「呪文存在化記号規則」
と呼ぶ事にします)。

①呪文を地の文にベタで書く
②呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶」と「̶」
③呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶」と「……」
④呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「̶」と空白:最後の端には記号を置かずに余白(と沈黙)とする
⑤呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「(」と「)」:存在の記号( )を使ふ。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ46
安部公房の呪文は、この5つの順序を踏んでゐる。

この「̶トントコ トントコ トントン トントコ……」は、③のステップの呪文であることになります。

この呪文の本体の末尾の記号が段々と実線から点線になり、点線が空白になるのは、存在になつてゆき、呪文
のあり方が深化して存在の存在の存在に達する事によつて透明になつてゆき(透明感覚)、最後には( )に記
号化されて存在になるからです。」

従ひ、 ―世間をお騒がせして申しわけありません。…… といふ通俗的な呪文のやうに繰り返される日常的な


慣用句といふ此れはやはり呪文であると安部公房は考へてゐて、この一行は、「̶トントコ トントコ トン
トン トントコ……」と同じく、安部公房の分類によれば、③のステップの呪文であることになります。そして
「(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録)」の冒頭の同じ一行は④の地の文のステップにあるといふこと
です。

従ひ、『周辺思考』の冒頭にメモした「―世間をお騒がせして申しわけありません。」は「……」を欠いてゐ
るので、④の場合の一行といふことになり、安部公房の考へでは、この冒頭のメモは存在の中に(世間をお騒
がせして申しわけありません。)として書き得る直前の段階の文だと意識したといふことになります。さう、確
かに此の文は、それ故に、存在の「沈黙と余白の論理」に従つて余白に、箱男のいふやうに言はば落書きされ
てゐる。

もぐら通信第63号、64号、65号に連載の「『密会』の書き捨て原稿に描いた安部公房の落書き」を前提
に、次の引用をします。『箱男』の最後のところでの箱男の独白です:

「 そうだ、忘れないうちに、大事な補足をもう一つだけ。箱を加工するうえで、いちばん重要なことは、とに
かく落書のための余白をじゅうぶんに確保しておくことである。
 いや、余白はいつだってじゅうぶんに決まっている。いくら落書にはげんでみたところで、余白を埋めつくし
たり出来っこない。いつも驚くことだが、ある種の落書は余白そのものなのだ。すくなくも自分の署名に必要
な空白だけは、いつまでも残っていてくれる。しかし、それだって君が信じたくなければ、信じなくてもいっこ
うに構わない。
 じっさい箱というやつは、見掛けはまったく単純なただの直方体にすぎないが、いったん内側から眺める
と、百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路なのだ。もがけば、もがくほど、箱は体から生え出たもう一枚の
外皮のように、その迷路に新しい節をつくって、ますます中の仕組みをもつれさせてしまう。
(略)
 救急車のサイレンが聞こえてきた。」
(全集第24巻、140∼141ページ)(傍線引用者)

上記傍線部を安部公房が実際に作つたものが、トイレットペーパーの芯で
作つた「つなぎ合せたような迷路」であり「もがけば、もがくほど、箱は
体から生え出たもう一枚の外皮のように、その迷路に新しい節をつくって、
ますます中の仕組みをもつれさせてしまう」右のオブジェ(物体)です。
『編集者通信:梨という名前の天国への階段、天国への階段といふ名前の
梨』(もぐら通信第27号)より写真のみを再掲します。

『安部公房とわたし』(山口果林著)より
「安部公房がトイレットペーパーで作ったオブジェ」

(続く)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ47

安部公房とチョムスキー
(10)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7。1 一神教のtopology
7。2 大地母神崇拝のtopology
7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9。ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッパ文明の300年間を読む
10. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学

休載
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽

11。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか

ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
12。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
13。 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
13. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
13. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
14。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 48

哲学の問題101
(6)
  唯一絶対神(Gott: God)
岩田英哉

言語機能論の基本に戻りませう。即ち、安部公房の『無名詩集』のエピグラフ、

私の真理を害ふのは常に名前だつた ー読人不知ー

といふ此の一行と、それから初期安部公房の傑作『S・カルマ氏の犯罪』といふ、ある朝目が
覚めたら名前を喪失して「いつの間にか」(超越論)存在になつてしまつてゐた主人公S・カ
ルマ氏の話に戻つて、私たちは考へませう。

ともに、存在と命名の問題、あるいは存在と呼び名の問題といへば、安部公房の読者たるあ
なたには十分に伝はる筈です。

これが唯一絶対神を信ずるといふ一神教徒が、私たちと論理的に意思疎通をすることのでき
る唯一の(といつてよいでせう)、安部公房の言葉を借用すれば他者との、そして他民族と
の、私たち日本民族との、その他の有色人種の民族との、汎神論的存在論との/といふ通路で
す。

結論をいへば、

もし一神教topologyの世界に生きる人間たちが、唯一絶対神の名前、即ちGottとかGodとか
ヤハウェとか呼ばなければ、これらの無名の何かは、そのままで存在に、即ち汎神論的存在
になるのです。何故ならば、さうすれば/なれば、これらの何かたちもまた S・カルマ氏と同
じ平面の上で(何故なら無名の存在ですから/存在とは無名の何かですから)、それまでの垂
直方向の絶対命令の構造の、そして言語再帰性を絶対否定する論理に生きるのではなく、私
たち日本人と同じ汎神論的存在論の平面の上で、さう、自然に縦のものが横になつてしまつ
て、あの高天原と大八島の並行四辺形に襷掛けの平面の上で、もつと小さくいへば折り紙の
上で[註1]、神と人とは一緒に暮らして行けるからです。さうして、初めて此の時一神教の
人間たちは、自然が唯一絶対神の外部にあることを考へ始めることになるのです。

[註1]
このtopologicalな日本人の折り紙については、『Mole Hole Letter(9):超越論(3):高天原』(もぐら通
信第83号)および『Mole Hole Letter(10):超越論(5):勾玉』(もぐら通信第85号)をお読みくだ
さい。詳述しました。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 49

さて、この結論に基づいて、これまで論じて来た次の5つの問題を最初に取りまとめて、掲
題の哲学的問題に対する回答のための準備とします。この著者は、これらの問題に亘つて論
をなす必要があるからです。

1。汎神論的存在論(超越論)
2。文明・文化と自然の関係
3。言語と存在論と意識・無意識に関する言語学的階層分類
4。一神教のtopologyと大地母神崇拝のtopology
5。存在と、唯一絶対神の二つの名前の関係

しかし、考へてみれば、これらの項目は、私たち日本人がヨーロッパの人間ではないからと
いふ理由で彼我の違ひを理解するために必要としてゐるだけであつて、もし著者がヨーロッ
パ域内でしかものを考へてゐなければ、あるいは不要の項目であるかも知れない。その場合
は、一体どのやうにものを考へるものか、これはこれで、丁度歴史的に日本人がさうである
やうに、大陸と島嶼といふ決定的な相違はあるにせよ、ヨーロッパの人間が外部を排した時
にどのやうにものを考へるものか、またどのやうな形象(イメージ)を自分の文明圏につい
て有するものかを、私たちは知ることができます。これは、良し悪しをいつてゐるのではあ
りません。

1。汎神論的存在論:天地初発のtopology(高天原topology)
まづ、天地初発のtopology(高天原topology)を掲げ、次に、文明と文化を論ずるといふ実
用のために作成した「政治と経済の内部から外部の自然まで」を掲げます。

天地初発のtopology(高天原topology):https://ja.scribd.com/document/387477318/
神々のtopology-2-版
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 50

2。文明・文化と自然の関係:「政治と経済の内部から外部の自然まで」
「政治と経済の内部から外部の自然まで」:https://ja.scribd.com/document/387476672/
政治と経済の内部から外部の自然まて

3。言語と存在論と意識・無意識に関する言語学的階層分類:「チョムスキーと安部公房文
学の言語学的階層分類(v2)」
もう一つ、『安部公房とチョムスキー(4)』(第76号)の「5。チョムスキーの統辞理
論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法/(1)チョムスキーの統辞理論
とは何か」から、言語と存在論と意識・無意識に関する「チョムスキーと安部公房文学の言
語学的階層分類(v2)」を掲げて、必要に応じて参照しませう。(この図の名前を「安部公房の
分類」から意味の分かりやすい名前に変更しました。)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

ダウンロードのURLは:https://ja.scribd.com/document/387480739/チョムスキーと安部
公房文学の言語学的階層分類-v2-掲載版

4。一神教のtopologyと大地母神崇拝のtopology:一神教のtopologyを大地母神崇拝の
topologyに変形する
本題に入る前にもう一つだけ、おさらひをしてをきます。『安部公房とチョムスキー(8)』
(もぐら通信第81号)の「7. 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く/7.3 一神教の
topologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する」より、その成果を再掲します。これを念頭
に置いて、本題に入りませう。

「7.3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
近代ヨーロッパ文明の苦労は、一神教の「一人勝ち独占」の絶対的中央集権型のトポロジー
を大地母神崇拝のtopologyである並行四辺形に変形することだといひました。図示すると次
のやうになります。この矢印の変形に、近代ヨーロッパ文明は、17世紀のデカルト以来、
途中共産主義(カントーヘーゲルの系譜)に逸脱して、結局超越論(カントーショーペンハウ
アー)に戻るまでに300年を要したといふことです。この碌でもない18世紀ヘーゲル以降
の200年を、ショーペンハウアーの伝記作者リュディガー・サフランスキーは其の伝記の題
名である此の哲学者名の副題として「哲学の野蛮な時代」、即ち野蛮な哲学などある筈のな
いものが跳梁跋扈した似非哲学の時代と呼んでゐます。勿論、カントーヘーゲルに始まるヘー
ゲルーマルクスの系譜の、途中で哲学の本来のあり方から大きく逸脱したマルクス主義または
共産主義の時代のことです。近代ヨーロッパの超越論は、ユーラシア大陸の極西から極東の日
本の大八島に、イタリア人のマルコ・ポーロの呼んだ黄金の国ジパングに至るまでに300年
を要した。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 52

ここでは、大地母神崇拝との関係で、超越論に話を絞ります。ヘーゲルーマルクスの系譜の
topologyは、いふまでもなく一神教のtopologyです。」

ダウンロードのURLは:https://ja.scribd.com/document/387478735/概念同士のtopology-
一神教topology-概念同士のtopology

5。存在と、唯一絶対神の二つの名前の関係:LordとGodの上位接続者を存在(das Sein:
ダス・ザイン)と呼びますか?呼びませんか?
もう一つ、存在と唯一絶対神の二つの名前の関係といふ問題があります。『哲学の問題101
(4):自然』(もぐら通信第87号)から引用します:

「次に掲げた「環境保護運動のtopologyなど」図の横に註記したGodとLordといふ名前と概
念の関係、即ち時間の中にゐるLordをGodと呼び、時間の外にゐるLordを時間の中でGodと
呼ぶ此の旧約聖書(とキリスト教の呼ぶ)ユダヤ教の聖典に現れる唯一絶対神[註7]の、
言語機能論の観点でみると、この二重性・二層性のあり方をキリスト教の僧侶も神学者も此
のやうに考へることができなかったのです。この二つの、時間との関係で存在する唯一絶対
神の二つ名前で呼ばれるものを、存在概念を集中的に論じたハイデッガーを含み其れ以降の
ヨーロッパの超越論者はみなすべて、これを存在と呼んだのだ。これが、私の、仮説です。こ
れがヨーロッパの超越論の存在と存在論に関する理解であり見解です。従ひ、ヨーロッパ人
の超越論は、言語論になり、別名言語哲学の論といはれることに其の後なるのです。例へば、
ソシュール、例へば、ヴィトゲンシュタインです。これ以降の言語哲学論者は、自称他称みな
同類です。どうか、私の仮説を批評し、全体であれ部分であれ、大いに反論してもらひたい。
即ち、
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ53
[(Lord、God)、(存在、現存在)、(時間、空間)]を考へることが、ヨーロッパの超越
論者の頭痛の種、即ち、これらの概念の関係を体系的に説明することができない、即ち、体系
的に説明できる文明論的な水準の視点を、また文明論的な視点であれば其の文明圏にとつては
不動な観点といつても良いでせうが、この観点を持つに至つてゐないといふことなのです。こ
の著者の通俗的な哲学的解説書の文章の水準がこのことを物語つてゐます。即ち、LordとGod
の上位接続者を存在(das Sein:ダス・ザイン)と呼びますか?呼びませんか?といふ問題な
のです。」

さて、この本の著者たる共産主義者、即ち一神教のtopologyに隠れたマルクス主義者としてゐ
る著者が、どこまで4の図右にある汎神論的存在論、即ち近代ヨーロッパ哲学の用語でいふ超
越論に言葉の概念によつて近づくことができるかを見てみることにしませう。それによつて結
果として知ることのできる知的水準(レヴェル)が、今のヨーロッパの通俗的な哲学的理解の
レヴェルであることになります。

しかし、ページを開くと、何故か本件唯一絶対神に関する記述の量は誠に少ない。そして、驚
くべきことに、著者はキリスト教の唯一絶対神の形象を持ち出すのではなく(キリスト教とい
ふ宗教の歴史があるだらうに)、イスラム教の何かの図柄を持ち出して右のページのほとんど
を使ひ掲げて、これを英語でいふcalligraphy(カリグラフィー)と呼んで読者に紹介し、ここ
には アッラー と書かれてゐるのだと言ひ、同じ一神教が全てさうであるやうに、このGodを
戴いてゐるのはイスラム教徒もさうである、このGodが世界と人間を創造したのだと説明して
ゐる。

これによつていひたいことは、キリスト教徒も、この文字
としてあるイスラム教の唯一絶対神をともに信じてゐると
いふことなのでせう。しかし、この天地創造の話は、ユダヤ
教の旧約聖書に書いてあることです。それこそ、これが三つの
全ての一神教 に共通の神話的事実でありませう。もし天地
創造をいふならば、何故ユダヤ教の図柄を引用しないのでせう
か。それとも喫緊のドイツの問題として、イスラム教徒の不法
流入が問題だからでせうか。

更に次のやうな問題が、この図柄の引用にはあります。

著者が、この図柄をcalligraphy(カリグラフィー)と呼んでゐて、これが何かといふ問ひに答
へてゐないこと。カリグラフィーといふのは、日本語でいへば、日本語の書道の英訳がこれで
す。独和辞典にKalligraphieを尋ねると、訳は、[能書、美筆;筆蹟、筆法]とあります。

ドイツ人にとつて宗教といへばキリスト教でありませうに、前回自然といふ項目で見たやうに、
(God、人間、自然)といふ三つのことを思ふと、感情の問題として排除律が働いて[註2]、
キリスト教ではない(しかし)同じ一神教の宗教を持ち出してGodの説明を、こともあらうに
現下の敵であるイスラム教を持ち出すとは。これは人間の問題としては自由、平等、博愛の精
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 54
神からなのか、それとも宗教の問題としてはイスラム教もキリスト教も同じ 全知全能 のGod
を信仰するのであるから、二つの一神教がGodを共有してゐるからGodは存在してゐるといひ
たいのか。

[註2]
『哲学の問題101(4):自然』(もぐら通信第87号)をご覧ください。私が排除律と名付けた欧米白人種
キリスト教徒の、自然との関係での理屈は次の通りです:

「やはり、キリスト教といふ一神教の弊を思はずにはゐられない。即ち、自然、God、人間の関係を、(A、B)
としてAを支配者、 Bを被支配者とすると、

(1)(God、人間)
(2)(自然、人間)
(3)(人間、自然)

という関係で二重に考へてゐて、1900年に没したニーチェのツァラトゥストゥラがGodは死んだといふ一行
を隠喩(メタファ)ではなく事実として市中を触れ廻つたにも拘らず、さてそのあとにGodといふ唯一絶対神の
空位を埋める何かが見つからずにゐて、これを自然にしようか、それとも教義(ドグマ、イデオロギー)といふ
論理にしようか(例:マルクス主義、金融資本globalism)、それとも人間にしようかと迷つてゐるのが今のド
イツ人の著者の、といふことはヨーロッパの現状であるといふことなのでせう。

唯一絶対のGodを離れて生きようとすると、まづ無宗教になり、次に虚無主義(ニヒリズム)に堕ちる。かうし
て考へて来ますと、20世紀後半より世界的に、いやハンス・ヨナスにならへば地球といふ惑星の環境保護は、
典型的なニヒリズム(虚無主義)であることになります。

何故ならば、ハンス・ヨナスのいふ「人間は、自然を人間に従属させ(または屈服させ、隷属させ)る事ができ
るのである以上、ただそれだけの理由で、それ故に、人間はさうしていいのではないだらうか?/さうすべきな
のだらうか?」などといふ問ひの中の最初の言葉「人間は自然に従属(または屈服し、隷属)する事ができる」
といふ言葉が、ヨーロッパの人間の、自然に対する高慢と屈辱の感情を表してゐるからです。

何故、こんなに自然を、いやNatur(英語ならばネイチャー)を憎むのでせうか?自然を普段の生活、即ち自分
たちの文化の中に受け入れることに何故憎悪と屈辱の感情を持つのでせうか?何故こんなに自然を征服し屈服さ
せたいと心の底では思つてゐるのでせうか?

このことはつまり、自然を創造したGodの存在を憎んでゐるといふことです。何故憎むのかといふことを思つて
見ると、考へてみれば、キリスト教はユダヤ人の宗教であつて(イエス・キリストはユダヤ人である)、
ヨーロッパ白人種の宗教ではないからです。つまり、異民族の宗教を強制されて改宗させられ
たといふ感情が、そのまま今だに唯一絶対のGodに対する憎悪の原因になつてゐるのではな
いでせうか。即ち、キリスト教とは深層心理に於いてはキリスト教を信じてはゐないといふ
ことです。」

ドイツ文学にゲーテといふ文豪がをります。文学以外にも、ワイマール王国の政治家であり、
科学者である人間ですが、このゲーテが最晩年70歳を過ぎて20歳に満たない乙女に恋を
して、二人の恋の書簡も詩の中に引用して、恋する男女を、自らを十四世紀のペルシャの詩人
ハーフィスに、乙女をハーフィスの恋人ズーライカになぞらへてペルシャを舞台に歌つた『西
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 55

東詩集』といふ素晴らしい詩集があります。私はゲーテの詩の中で最も素晴らしい詩の収め
られてゐる詩集だと思ひます。70を超えて益々優れた仕事をする。日本ならば葛飾北斎のや
うな人間です。天才ですから世間の常識を超えてゐます。これは本当に優れた詩集で、ゲーテ
のドイツ語の詩を通じて、私は当時のイスラム文明圏にあるペルシャが高度な文化と文明を
有した、王侯貴族から庶民に至るまで実に豊かな国であることを知つてゐます。ゲーテは科学
者ですから、詩集の理解のための註釈と解説は研究論文であり、それは詩集の後に置かれて
をり、その量はインゼル版の詩集全体385ページの71%を占めてゐます。

ハーフィス像(18世紀) ハーフィスの廟

詩を読みながら、当時のキリスト教のヨーロッパは足元にも及ばぬと私は思ひました。この
詩集は20歳の時にその中の幾つかの詩に触れて強く惹かれてから、今に至るまで座右の書
としていつも手元に置いてゐるものの一つです。病膏肓に入る。馬齢を重ねてから、遂には自
分で凡そ121篇の全ての詩を訳してしまふに至りました。私の最も好きな詩の一つは【西
東詩集58】Der Winter und Timur (冬とチムール大帝)です。悪事をなさぬ詩人は優れた
詩を書くことができない:https://shibunraku.blogspot.com/2014/02/58der-winter-und-
timur.html

さて、私の手元にあるのは、インゼル出版のペーパーバックスの詩集ですが、この表紙に次
の図柄が印刷されてゐます。これは、ゲーテが『お守り』または『護符』と訳される詩で歌つ
てゐるイスラム教の、少なくともペルシャの、今のイランの国の、お守りです。

タリスマン(お守り)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ56

この優れた意匠の護符と、著者が示す図柄とでは、余りに出来が違ひ過ぎる。著者の示す図
柄は、どこかの観光土産の店で買つた安物の(もしそんなものがあれば、そのやうな、しか
し護符とさへ言ひたくないやうな、それでも護符といへといふならば)いやいや護符に見え
る此の図柄の下に、いつもの体裁ながら著者の選んだキリスト教圏の司教(Bischof:ビショー
フ;英語ならビショップ)であつた11世紀のカンタベリーのアンセルムスといふ神学者の
次の言葉が引用されてゐます。

「私は、何故信仰するかを理解しようとするのではない、理解するために信仰するのだ。」
(『プロスロギオン』1077∼1078ページ)

『プロスロギオン』の中で書かれてゐる此の一行の文脈が不明ですから、何を理解するのか
が不分明です。従ひ、ここでは、 Godを、と目的語だととつても良いし、現実にある諸事万
端、諸物万事を理解するととつても良いでせう。

ここで登場する哲学者は、次の3名です。

(1)カンタベリーのアンセルムス(約1033ー1109)
(2)イマニュエル・カント(1724ー1804)
(3)ゴットロープ・フレーゲ(1848ー1925)

キリスト教徒がGodの存在を証明しようとして始めたのは11世紀といふことになります。こ
のアンセルムスといふ僧正の試みた証明法は「存在論的なGodの証明」と呼ばれてゐる。こ
の僧侶の証明法は、哲学でいふ存在論に基づく証明であつたのでせう。そして、この存在証
明法を巡つて今日に至るまで多くの哲学者たちが議論を重ねたが、結論をいへば、証明に至
もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

つてゐないといふ。この著者の記述が正しければ、アンセルムスの考へ論じたのはGodの存
在といふよりも、Godの存在を証明するためにGodといふ概念を考へたといふことになります。
このGodといふ概念またはGodの概念といふドイツ語は、Gottesbegriff(ゴッテス・べグリフ)
といふのですが、英語でいへば、God s concept(ゴッズ・コンセプト)といふ意味です。

しかし、ここまで読んできて私のおもふことは、信仰心といふものは、何も神の存在を証明
する必要はない心のことではないのか。あれば、それでよい。といふのが、私たち日本人の
心で、これを自然を/自然に信心してゐるとは普通は私達はいひませんが、心としてはさうい
ふ心でありませう。それ故に、ことさら宗教(religion)などと私たちはいふ必要がない。そ
れに、開祖もゐなければ、文字で書かれた聖典もない。縄文時代からこれでやつてきたとい
ふことは、私たちは既に古事記の天地初発topologyの解読[註3]で、古事記の冒頭の論理
が自然の中にあつて如何に数学的か、従ひ科学的かを知つてをりますので、キリスト教徒が
唯一絶対神と呼ぶ神の存在を証明しようと思ふことが、そもそも不信心である、信心してゐ
れば、そんな疑ひは不要ではないか。と、おもふのです。同じ一神教だと著者は言つて置き
ながら、それではイスラム教ではGodの存在を証明するのが神学者たちの仕事の一つなので
せうか。知りたいところです。それから、ユダヤ教の神学者たちにもお尋ね致したい。これ
まで『安部公房とチョムスキー』を書くために読んだ資料の中には、イスラム教とユダヤ教
には、唯一絶対神の証明問題は、ない。唯一絶対神の言葉に関する解釈といふことはありま
す。と、このやうに考へてくると、キリスト教の神学の試みは、何かキリスト教に特殊なもの
ではないかと疑ふことができます。安部公房ならば、この特殊の中に普遍があるのかどうか
[註4]といふ此の視点で、キリスト教の神学のGod存在証明論を吟味することになります。
即ち、God s concept(ゴッズ・コンセプト)などといふと、既にやはり、これは、信仰や信
心を離れるものではないのだらうか。

[註3]
古事記の天地初発topologyの解読については、『安部公房とチョムスキー(8):7. 一神教と大地母神崇拝を
toplogyで読み解く』(もぐら通信第81号)をお読みください。詳述しました。

[註4]
『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら通信第62号)をお読みください、安部公房の論理を詳述しました。

このやうに考へて来ると、遥かにユーラシア大陸の更にそのさきの海上にある島国の日本か
ら極西を眺め遣ると、前回自然といふ項目で見たやうに、(God、人間、自然)といふ三つ
のことを思ふと、感情の問題として排除律の働く原因が、ここでも同じ原因として神学成立の
事情に働いてゐるのではないかと推理することができます。勿論、キリスト教の世界で「キリ
スト教神学成立史」といふ歴史書があるのであれば、是非読んで見たいものですし、同時に
アンセルムスがさうしたやうに、純粋に論理の問題として存在論の視点からGodの存在の有
無を、もし存在するのであればそれはどのやうな場合に於いてなのかを論じた其の存在論の
もぐら通信
もぐら通信                          ページ58

系譜もまた資料としてあれば読んで見たいものです。私が『安部公房とチョムスキー』で整理
した(スコラ哲学を含む)系譜は、17世紀のデカルトとライプニッツの世紀からのたかだ
か300年に過ぎません。これ以前の神学の様子を知るために、八木雄二著『中世哲学への
招待』(平凡社)から二つの短い節をそのまま引用して、以上の私たちの疑問に答へたい。

「教会は社会制度

 たしかに信じるか否かは、個人の問題である。しかし当時のヨーロッパでは、キリスト教
信仰は単純に個人の問題ではなかった。というのも、教会が事実上ヨーロッパの支配者だっ
たからである。国王といえども封建領主の一人にすぎなかった。そういうキリスト教社会制
度のなかでは、信仰は、個人が社会との間にもつ紐帯であり、それをもつかどうかは、個人
の問題ではなく、すぐれて社会的問題であった。つまり信仰をもたない個人は、現代で言え
ば戸籍をもたない人のように、社会から完全に切り離された存在になり、統制の効かない存
在になったのである。そのような存在は、社会にとって、そしてその統制を受けもったキリス
ト教会にとって、容認することができなかた。
 これは江戸時代の寺社制度とは根本的に異なっている。なぜなら仏教は思想的に幕藩体制
を支える屋台骨ではなかったからである。幕藩体制を支えたのは、おもに儒教道徳、あるい
は神道であった。日本は仏教国であるといわれ、さらに集団的心性をもつということから、
仏教が集団的であると理解されるとすれば、それはまったくの誤解だろう。仏教はむしろき
わめて個人的なもので、仏教思想が一つになって集団を組織的に支えることは、実は不可能
なのである。仏教が多くの宗派をつくってきた歴史がそれを証明している。たしかに仏教宗派
のなかには信徒を組織化することに長けている宗派がある。しかしその宗派でも、どんなに
多くの信徒を得ていても、仏教界のなかの一部にしかなりえていないことを客観的に見る必
要がある。これに反して当時のカトリック教会は、独占的状態なのである。他の宗派があっ
ても、それは異端でしかなかった。

神の存在証明がつくられた理由

 実際、もしも信仰が純粋に個人の問題であったなら、神の存在証明をつくることよりも、
むしろ信仰がさまざまな苦しみのなかにいる人間の救いになることを、現実に示すことが追
求されたことだろう。なぜなら信じることの褒美は、ただ悪や悪によって生じる困難からの
現実の救いにこそあるはずであって、学者や国王になることではないからである。苦悩から
の救いがほんとうに実現することが明らかになれば、苦悩を背負った人々はみな信じるに違
いない。なぜなら信じるだけのことはあるからである。そしてもしも信仰が救いになること
を示す証明を、神の存在証明とは別にヨーロッパがもっていたら、近代はまったく違ったも
のになっていただろう。
 しかし実際には、神学者たちはこぞって「神の存在証明」に傾倒した。それは「神の存在」
が、社会を支えるために「客観的でなければならなかった」からである。つまりスコラ哲学
における神の存在証明は、決して個人の信仰の拠り所として追求されたものではない。むし
もぐら通信
もぐら通信                          ページ59

しろ、個々人の間の社会的紐帯の拠り所(教会)を権威づけるものとして、追求されたので
ある。つまり少々うがった見方をするならば、教会支配の客観的拠り所として追求されたの
である。
 したがって、神学者の示す「神の存在証明」は、決して個人の信仰心に訴えるものではなく、
むしろまったくその反対に、客観的科学であろうとしたものである。このことは、道元や親
鸞の鎌倉仏教を通じて、信心についてはすっかり個人的になっている日本人には理解しがた
いものである。しかし社会的権力をもったキリスト教会が、神学を、客観性をもった科学と
しようとしたことは事実なのであって、だからこそ、いまだにダーウィンの進化説がキリスト
教信仰と矛盾すると、アメリカなどで問題になっているのである。
 つまり宗教と科学の対立という現象は、キリスト教が個人の信仰ではなく、一般社会の宗
教であることを実は端的に示している。言い換えると、ちょうど、現代社会の科学技術(ある
いは科学信仰)によって支えられているように、当時はキリスト教がヨーロッパ社会の屋台骨
となっていたのである。つまり近代のヨーロッパで見られた宗教と科学の対立という現象は、
社会制度をになう精神的支柱がキリスト教から科学に移行する際に起きた特異な現象であっ
て、宗教は普遍的に科学とぶつかるという説は、実はヨーロッパの偏見にすぎない。だから、
日本人にはよく理解できないのである。 」
(同書59∼61ページ)

この本にはこの先に「三基準同時不定立論理」[註5]と私の名付けたスコラ哲学のGodの
存在証明のための三つの規準を使つたアンセルムスの「大胆な」「日本人にはとてもついて
いけないほど」の証明法があるのですが、それには深入りしません。ご興味のある方は、良
書です、読むと楽しいと思ふ。アンセルムスの、Godは存在するといふ結論に至る証明は、そ
の後これを肯定する側に立つのがヨハネス・ドゥンス・スコトゥスとデカルトであり、否定
する側に立つのがトマス・アクィナスとカントである(同書85ページ)。

[註5]
『哲学の問題101(4):自然』(もぐら通信第87号)より引用します:

「[註A]
スコラ哲学の唯一絶対神存在証明三基準について、八木雄二著『神を哲学した中世ーヨーロッパ精神の源流ー』
より以下の箇所を引用します。良書です。

「中世の議論をより深く理解してもらうために、もう少しギリシャ哲学の本質について述べておきたい。(略)
こうした哲学用語を学ぶことは、いわば子供が自転車に乗る練習をするときに補助輪をつけるようなもので、そ
れに頼っていると、むしろいつまでたっても自転車に乗れるようにならない。補助輪を捨てて、自転車の両輪だ
けで乗る練習をする必要がある。
 では、哲学において、その両輪に当たるものは何かと言えば、それは「より大とより小」、「全体と部分」、
「一と多」という三つの対である。この三対を使いこなすことができるようになれば、哲学はむずかしくない。
(略)じつのところ普遍論争は「全体と部分」及び「一と多」の論であり、後に説明するアンセルム巣の神の存
在証明には、「良い大とより小」の論理が使われている。また神と被造物の関係は、「一と多」の関係なのであ
る。むずかしい言い方をすれば、たしかにこれらの対は「超越論」的に用いられる。超越論的に用いられて、じ
つは形而上学を可能にする。(略)基本をみて見よう。そのためには、三つの対同士をぶつける。(略)なん
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

だか三すくみのようで頭が混乱するかもしれないが、ようするに三つの対はうまく整合しない。「多」は「一」
と比べて「より大」であるにもかかわらず、「多」は「部分」と一致するのだから「全体」たる「一」と比べて
「より小」でもある。
 ここに紹介した三つの対は、プラトンが『パルメニデス』で示した哲学分析の道具である。哲学するためには
この道具を使いこなす必要がある。」
(同書「ギリシャ哲学という道具」より)」

さて、このやうに、ここまで来ますと、何故ドイツ人の著者が此の章の冒頭に「信仰の問題
は、学問的な(科学的な)認識とは原則的に別物である」と書いてある理由がよくわかります。
やはり、キリスト教の神学と哲学の歴史を知らなければ、この著者の書く現代文の一行をも
また理解することが難しい。

ここでわかることは、この著者がアンセルムスの名前の次にカントを持つて来たのは、この
スコラ哲学の、アンセルムスの結論と証明方法に関する肯定と否定の歴史があるからだとい
ふことです。そしてまた、著者は、アンセルムスを否定する立場のカントの『純粋理性批判』
の名前を挙げて、下図に示すやうに、理性で認識する対象としてある物を巡つて物といふ物
質の本質、即ち(カントのいふ)物自体を認識するといふ説明を回避して(といふよりも忌
避してゐるかの如くに見えるのですが)、理解の階層で、即ち時間の中で、Godの存在を知る
ことができるのだといふのです。ここは、図をみるとわかりますが、認識の階層での説明の
言葉が足りず、また唯物論としての論理も尽くしてゐません。

何故論理展開がかのやうに破綻するかといふと(つまり、カントの『純粋理性批判』が右の
精神科学の側にではなく、左の物質科学の側に置いて論じてゐることになるかといふと)、

(1)物質としての唯一絶対神をいふことが憚られるから。あるいは、物質としての唯一絶対
神の存在は、唯物論では有り得ないから、これが一つの理由、従ひ、もう一つの理由は、
(2)アンセルムスの唯一絶対神肯定論を否定したカントを持つて来ざるを得なかつたが、
もぐら通信
もぐら通信                          61
ページ

しかしカントは理性を論じた哲学者であつて、唯物論者であるマルクス主義者の著者は、こ
れを物と物自体といふ言語再帰性の論として論ずることが(多分、理解することが)できず
に、従ひ、認識といふ理性による物の本質を知ることの階層に対する言及を回避しあるいは
此のやうに忌避して、その下の時間の中での知識・知見の人間の能力である理解といふ能力
以下の能力を範囲として、この二つの階層で唯一絶対神を理解することができるといふ論の
運びにしたからです。

そして、ここで上の(2)のことを証明するために利用する論理が、中世スコラ哲学の「三
基準同時不定立論理」の一つである「より大か、より小か」といふ論理基準なのです。中世
スコラ哲学の論理が、カントーヘーゲルに其のまま継承されたといふ事実は、既に『安部公
房とチョムスキー(9)』(もぐら通信第82号)の「8。スコラ哲学は21世紀にも生き
てゐる」で証明した通りですが、確かに21世紀の今も、この共産主義者の著者によつて同
じことが示されてゐます。

次に、カントが何を言つたか。

著者曰く、Godは述語部がない。即ち、カントはGodは存在あるのみだ。といふことを言つ
たといふ。それ故に、

物は存在する

といふ文は、これ以外には、物の概念に何も追加することができない、何故ならば述語部が
ないのだから。といふのが其の理屈です。

Godは緑である。とか、
Godは赤である。とか、

そのやうなGodは其の特性を述語に持たずに、ただ存在する、即ち

God exists(唯一絶対神は、存在する/在る)

といへるのだ、といふのです。

この間、奇妙なことに、物がGodであるといふ言葉は一行も書かれてゐません。しかし、こ
のやうな著者の順序を読んで来ると、物が唯一絶対神だと著者は言つてゐます。そして、この
自分の考へを隠してゐる。

次に論理学者のフレーゲの言葉が来ます。
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

文章を読みますと、フレーゲといふ人は、アンセルムスの唯一絶対神の存在証明を、God其
のものの存在証明ではなく、Godといふ概念の存在証明をしたのだと考へて、アンセルムス
の証明の肯定論と否定論を上手く両立できるやうに考へた人です。

著者によれば、アンセルムスの存在論的唯一絶対神の証明は、同じ二つのものを取り違へた
のだといふのです。同じ二つのものとは、

(1)Godは存在する。Godは述語部を持たないといふ考へ方。もう一つは、
(2)現実の中では、 God といふ概念は、一つの物に対応する。

といふ考へ方の二つです。

これは何を言つてゐるかといひますと、上図を参照すれば、

(1)Godは認識の階層では存在する。が、しかしまた、
(2)現実1と2の階層、即ち理解と感覚/知覚の階層では、一つの物に対応する God の概
念が存在してゐるのだ。

といふ考へ方なのです。

ここまで来れば、フレーゲの論理学は、哲学の世界でいふ汎神論的存在論(超越論)と呼ん
で良いものです。即ち、ヨーロッパの学でいふ言語哲学と同じことを共有してゐます。縦のも
のを横にして、同じ平面に、垂直関係にあつたGodの概念を、人間の能力と共に等価で並べた
といふことです。

このtopologyは、同じ時代を生きたハイデッガーのtopologyによく似てゐます。ハイデッガー
の場合には、交差点に在る物の名前が、道具でありました。[註6]フレーゲの考へでは、
Godといふ概念は道具といふ名前(の概念)に、それも時間と経験の中に宿つてゐるのだと
いふことになります。

[註6]
『哲学の問題101(3):何が在るのか?』(もぐら通信第86号)をお読みください。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ63

さて、かうして、近代ヨーロッパの超越論者たちは、数学や論理学や哲学の領域に個々に、し
かしヨーロッパの同時代人として各国横断的に、汎神論的存在論へと近づく努力をして来たの
です。他方、私たち日本人は、このことに明治維新以来150年間気づかなかつた。何故な
ら、これらの学問を個別バラバラに輸入して、学問相互の関係を考へて、これらを接続して一
つにまとめることがなかつたからです。そして、何よりも、日本人が日本の国と日本人の本質
を自分の言葉である日本語で日本人である自分自身に説明することができてゐなかつたから
です。日本は古来言挙げせぬ国だからといふのは理由になりません。それとこれとは話が別
です。

この後『安部公房とチョムスキー』で『近代の超克』と題した座談会(富山房百科文庫)を
取り上げて内容の吟味を致しますが、そこで引用する小林秀雄の急所を突いた発言に対する
哲学者やキリスト教神学者の回答を読むとよくわかりますが、これらの人々は日本の歴史の
中に哲学者がゐるなどとは露思はず、哲学といへばヨーロッパの物だとだけ考へてゐるのです。
即ち、哲学とは何か、といふ問ひを立てて、自分の人生との関係を少しも考へてゐなかつた
といふことです。それは学ぶことに忙しかつたことは事実でせう。しかし、もつと辛辣ない
ひ方をすれば、哲学も何も近代ヨーロッパのものは、これらの学問領域から単に借りて来た
借着であつたのです。自分の身丈に合はなければ、また流行(ファッション)があれば此れ
に遅れまいとして、否、自分自身の誠実な関心と興味に忠実に生きてゐたとしても、いつでも
といふのが酷だとしても(何故なら座談の出席者たちは皆志操の高い立派な学者たちである
ことは言葉でよく判りますから、しかし)着替へることができた。また、小林秀雄はここま
で辛辣にはいつてをりませんが、しかし、その問ひの問ふてゐることは、私と同じです。

本来の学者の使命は、真理の探究ではなかつたでせうか。

真理とは何か?

私は、これをドイツ人の著者に問ふとともに、安部公房の読者であり且つ日本人であるあな
たに問ひたい。私は学者では無いといふ言ひ訳は通用しない。安部公房は真理の探究者です。

最後に、最初に戻りませう。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ64
冒頭挙げた5つの結論に亘つて論がなされたかどうか、検証してみませう。

1。汎神論的存在論(超越論)
2。文明・文化と自然の関係
3。言語と存在論と意識・無意識に関する言語学的階層分類
4。一神教のtopologyと大地母神崇拝のtopology
5。存在と、唯一絶対神の二つの名前の関係

この5つを眺めると、著者の使つた言葉は、わづかに存在論と唯一絶対神(God)に留まり
ます。とすれば、上記5について集中的に論考を展開すべきでしたが、ご覧の通り、キリスト
教に触れることを避け(これはヘーゲルと全く同じ態度です。わたしはこの態度は自分の文化・
文明に対して不誠実であり卑怯だと思ふ)、さうは一切せずに、哲学の世界で(とはいへ、
やはり中世スコラ哲学者の、それも11世紀のアンセルムスの名前を挙げざるを得ないにも
拘らず)、認識といふ語を避けて、即ち形而上学の領域に触れずに、理性の下の階層である
悟性(理解)と現実といふ時間の存在する中での、人間の経験の中で知る感覚と知覚の能力
に話を限定して論じた著者でありました。

もしマルクス主義者が、フレーゲの論理学の上図のtopologyを使つて、物質の中にGodの概
念が、いや、口が避けてもさういへないのでせうから、物といふ概念が遍在するといふ超越
論(汎神論的存在論)を主張したら素晴らしいが、しかしさうは、これも口が裂けてもいへ
ないことでせう。何故ならば、それをいふと、革命などは不要になるからです。価値が等価
で遍在するとは、共産主義者のおもふ差異の消滅ですから、貧富の差もなくなるのです。超
越論で経済学を考へたら、貧富の差はなくなるのです。その事態の出来(しゆつたい)に恐
怖の心が起きて、できないでせう。もしさうならば、それほどに、共産主義者とは一神教の
topologyを盲目的に信じてゐるといふことになります。即ち、自分で自分自身を最も憎んで
ゐるといふことになります。さういふ業の深い(とお釈迦様ならおつしやるでせうが、そんな)
人間を、唯一絶対神が天国へ行けと命ずることは決してないでありませう。地獄へ行く定め
を最初からご存知ならば、人を道連れにせずに、どうか一人で行つてをくれ。あたしあ御免
蒙るね。同じ地獄巡りならば、安部公房の世界の中で、エロティックで脚の綺麗なミニスカー
トの看護婦が同道してくれて、栄養剤を注射してくれたりあれこれと世話を焼いてくれて、勃
起しさうな奴を指で弾いてくれたり、また世界の果てに行き着いたら溶骨症の少女を抱きし
めることのできる、そんな地獄旅の方が遥かに上々である。

このGodを探究する章の最後に、これまでの論自体を全てご破算にする素晴らしい問ひを、
この章の副題から引用します。著者自らが、自らの母国語であるドイツ語を裏切りつつ、次の
一行を副題としてゐるのです。

Gibt es ihn wirklich?(Godは本当に存在するのだらうか?)(ギープト・エス・イーン・ヴィ


ルクリッヒ?)

これを平叙文にすれば次の通りとなります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ65

Es gibt Gott(エス・ギープト・ゴット)(Godは存在する;直訳:それはGodを与へる)

この文の主語はEs(エス:それは)であり、Gott(英語のGod)である唯一絶対神は述語部
に「Godを」としてあるのです。アンセルムスの生まれ育つたイタリア語やラテン語の世界で
はGodは述語部にはひよつとしたらないのかも知れないが、しかしドイツ語の世界では、God
すらさへも、述語部に収まる以外の道はないのです。何かがGodを産み出すのです。

借り物の知識でいへば、フロイトがEsを問題にしたといふことは、文法学の視点からも意味
のあることでした。フロイトはオーストリア人で、ドイツ語圏の人です。このEsは英語ではIt
(イット)ですが、上の一文を英語では、

There is God(ゼア・イズ・ゴッド)

といふのでせう。

これをまたドイツ語に訳し返せば、

Gott ist da(ゴット・イスト・ダー)

といふことになつて、英語のthere(ゼアー)がドイツ語ではda(ダー)になつて、da(ダー)
は現存在と訳されてゐるDasein(ダーザイン)のda(ダー)ですから、Godは時間の中にゐて、
現在此処に此のやうに現存在として存在してゐるといふことになる。キリスト教のGodは人格
神であるさうですから、さうであればGodもまた現存在として時間の中で苦しむ/苦しんでゐ
ることになります。これは果たして全知全能のGodの姿なのでせうか。

もしGodが時間の外にゐるならば、そのGodの別名はLordといふのでした。さうであれば、

Lord ist

といふ文をいふことができます。しかし、これは英語では如何にもおかしいので、

There is Lord

と、やはりいふことになるのでせう。

GodもLordもまた、文法に従つてゐる。それならば、キリスト教の神学者や哲学者たちの次
のなすべき証明は、

EsはGod/Lordである
もぐら通信                         

もぐら通信
といふ証明です。 ページ66
さうなると、言語の再帰性を絶対的に否定してきた自分たちの宗教の教義の2000年余の
歴史を全て絶対的に否定する以外には道はないでせう。なぜならば、

(1)EsはGod/Lordである
(2)God/LordはEsである

といふ二つのtopologicalな等価交換の文を認め、受け容れることになるからです。即ち、言
語の再帰性を認め、受け容れることになるからです。

さうすれば、ローマ法王庁は、ようやつと科学に追いつくことができて、これは超越論(言
語再帰性絶対肯定論)ですから、

ダーウィンの進化論は間違ひである

と断言することができ、また更に、

人間は逆進化するのだ

と、安部公房の論を、教義(ドグマ)としてではなく、開かれたシステムとしてある宗教とし
て世界中の信徒たちに宣言することができるでせう。しかし、この宣言は、一神教のtopology
といふ閉鎖系システムの否定ですから(彼らの論理学ではさう、しかし、私達日本人の秋津
島論理学[註7]では否定にはならない)、汎神論的存在論(高天原topology)で考へない
限り、キリスト教会は衰退するでせう。

[註7]
秋津島論理学については『Mole Hole Letter(10):超越論(5)勾玉』(もぐら通信第85号)の[註2]
を参照ください。詳述しました。

問ひ:果たして、さうなれば、地球といふ惑星の上にカントが願つた恒久平和が実現するで
せうか?
答へ:God knows(ゴッド・ノウズ). Gott weiss(ゴット・ヴァイス). 唯一絶対神ぞ知る。

問ひ:何を知るといふのか?
答へ:それを。It(イット)を。Es(エス)を。

となつて、言語再帰性の通りに、私たちはメビウスの環の上位接続に捻られて、次の次元へ
と失踪することになるのです。

この「それ」を教へてくれるのは、安部公房の世界でいふならば案内人、例えば鞄やニワハ
ンミョウなのではないでせうか?あるいは安部公房の作品(書物)といふ存在へのガイドブッ
ク(案内書)。
もぐら通信
もぐら通信                          67
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)
   第2部 VII
       ∼安部公房をより深く理解するために∼ 岩田英哉

VII

BLUMEN, ihr schließlich den ordnenden Händen verwandte,



(Händen der Mädchen von einst und jetzt),

die auf dem Gartentisch oft von Kante zu Kante

lagen, ermattet und sanft verletzt,

wartend des Wassers, das sie noch einmal erhole



aus dem begonnenen Tod ―, und nun

wieder erhobene zwischen die strömenden Pole

fühlender Finger, die wohlzutun

mehr noch vermögen, als ihr ahntet, ihr leichten,



wenn ihr euch wiederfandet im Krug,

langsam erkühlend und Warmes der Mädchen, wie Beichten,

von euch gebend, wie trübe ermüdende Sünden,



die das Gepflücktsein beging, als Bezug

wieder zu ihnen, die sich euch blühend verbünden.

【散文訳】

花々、お前たち、結局は秩序立てる手の親類であるものよ
(今も昔も変わらぬ娘たちの手)
庭のテーブルの上で、しばしば角から角へと、疲れて、そして柔らかく
横たわっていたものたち

水を待ちながら、水よ、始まった死の中からもう一度花々を生き返らせよ。
そうして、今や、感じる指の、滔々と流れる両極の間へと、再び高められて
入るものたちよ、その指は、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ68

お前たちが自分自身を壺の中で再び発見したときにはいつも、
お前たち軽きものよ、お前たちが予期した以上にもっと恩恵を施こすことができるのだが、

お前たちは、壺の中にいて、ゆっくりと周囲を冷やしているし、そうして、娘たちの暖か
さを、懺悔のように、

自分の身から与えているし、それは、曇って疲れさせる数々の罪のように与えているし、
その罪は、摘み採られてあるということに関係していていたのであり、それは、咲きほこ
りながら(自分自身のために)お前たちを結びつける娘たちに対する関係なのだ。

【解釈と鑑賞】

性愛を歌うリルケの詩文の特徴がそうであるように、このソネットでも歌われているのは、
冒頭の「花々」と、第2連に出てくる、花々の言い換えである「再び高められて入るものたち」
のふたつです。

あとの言葉は、それぞれの名詞に掛かる従属節、従属句で、恰も花弁が重層的に包み包ま
れてあるように、次から次への従属節、従属句は、そのふたつの言葉を中心にして掛かっ
ているのです。こうして、恰もひとつの花を言葉によって構成しているかのようです。

最初の一行、「花々、お前たち、結局は秩序立てる手の親類であるものよ」を読んで、何故
か、リルケは一生を一日で考えたひとだという思いが浮かんだ。人生を一日で考えるとは、
一生を一日のこととしてという意味でもあれば、一日の時間の中で人生を知った、その本
質を理解したひとという意味でもあるだろう。後者だという思いがする。それは、リルケ
に固有の、個人的な経験のせいではないかと思う。特に、若さと青春に関する経験の。そ
れは、リルケにとっては、いつも喪われたものだ。そのように思います。その思いが、5
0を過ぎてもなお、このようなソネットを書かせるのだ。

第3連で、娘たちの暖かさが歌われている。娘たちは暖かさを放出する。このリルケの考え
は、第1部XV第1連でも歌われているし、第2部XVIII第2連でも歌われている。

興味深いことは、この娘たちの暖かさが、懺悔や告解をするように、娘たちが与えている
と歌っていることです。それは、懺悔としては、わたしは摘み取られてしまいましたとい
う罪を告白することでしょう。この「摘み採られてある」という罪は、ひとを疲れさせる罪
だといっている。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ69

第2部ソネットVの第4連で、アネモネの花を歌っている中で、

いつ、すべての生活のどの生活において、わたしたちは、ついに、開いており、且つ受け
容れるものであるか?

と歌われているように、花は結局は開くもの、受け容れるものだということに、この罪は
関係しているでしょう。そうであれば、花であるということそのものが、最初からそのよ
うなものであれば、罪のあるものだということになります。しかし、その罪は、娘たちが
再び花々を「結びつける」ことがあれば、それによって、浄化されると歌っているのだと思
います。この「結びつける」という動詞は、接続法II式、英語の文法でいう非現実話法になっ
ています。つまり、現実にはあり得ないことを、あり得ないこととして歌っている。しか
し、それは歌われている以上、現実であり得るという、言葉を超えた言葉の不思議よ。

このソネットもそうですが、ここ少し連続している花についてのソネットでは、明らかに
花は女性のことなのですが、男性という性が表には出てきません。このソネットでも、女
性である花を、娘たちが救済するソネットになっています。

この娘たちですが、ドイツ語でMädchen、メートヒェンといわれている娘たちの年齢はど
れ位かと考えると、十代の女性もメートヒェンであれば、十代未満の子供の娘もメートヒェ
ンということができますから、どうでしょうか、子供である娘ととると合点が行くかも知
れません。(その傍証になるかも知れませんが、続くソネットは子供が歌われています。)
むしろ性的なものから離れている詩。とはいえ、詩人は充分に性を意識していると思うの
ですが。第1部ソネットII第1連第1行にある「fast noch ein Maedchen」、ほとんどまだ娘
である女性、このほとんどまだ娘である女性とは何かですが、この眠れる女性であるよう
な性質と力を、リルケは、このMädchen、メートヒェンという言葉に籠めているのでしょ
う。この娘たちは、それ自身が花のように「咲き誇」っているという意味で、花に通ずるも
のがある。

リルケは、このソネットに歌ったことは、基本はすべて過去形を使って歌っているので、
過去に起きた事実を歌っているということになる。その過去という時間の中に、現在形や
接続法II式が、従属節、従属句の形で接続している、時制、時間という観点から見ると、
そのような複雑な文、時間を往来する複雑な文に、このソネットはなっています。それが、
このソネットを読むよろこびのひとつなのですが。

【安部公房の読者のためのコメント】

この詩の構造が、そのまま安部公房の作品群の構造であり、一つの作品の文体の構造の説
もぐら通信
もぐら通信                          ページ70

明をしてゐると、読まうと思へば、読むことができる。

安部公房の作品に顕著な、「僕の中の「僕」」といふ話法を使つた、また此の論理に相応
な、劇の中の劇、小説の中の小説、ノートの中のノート、話の中の話といつたやうに。そ
して、これらの話に「現実と非現実」が、過去と「明日の新聞」がやつて来、また配達さ
れ、主人公は「二種類の救済者」[註]に助けられながら、それらの境界域を超えて行く。

[註]
「二種類の救済者」については、「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第66号)の「(6)
二種類の救済者」をお読みください。詳述しました
もぐら通信                         

もぐら通信 71
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ72
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 73
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         
編集後記

もぐら通信 ページ 74
●こんなに間を詰めて配信すると、生前安部ねりさんに、消化不良を起こすぢやないの!と、叱られたこと
があります。しかし、できてしまふものだから、これは致し方無い。次の存在の中で安部公房に文句を言つ
て下さい、ねりさん。この思ひでを語りながら、これを供養の言葉と致します。8月9月と3つも出したの
で、10月は休むかもしれません。●「安部公房文学の小説の方法」片山晴夫先生(北海道教育大学名誉教
授)特別講演:掲載をご了承くださつた片山先生にお礼を申し上げます。また仲介の労を執つてくださつた
東鷹栖安部公房の会の柴田さんにも。●荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(7):バタフライ・ソング:こ
の詩人の詩を段々と読むにつけ思ふことは、安部公房文学との親和性の高さ深さです。荒巻さんもやはりニー
チェを読み、そして安部公房もまたニーチェを成城高校の時代にリルケと共に読みふけりました。唯一絶対
神の存在証明と虚無主義(ニヒリズム)の、二つのものの克服と超越が共通してゐます。これを論理で詩に
することは大層難しいことですが、それを此の詩人は其の論理を形象(イメージ)に変形させて私たちに見
せてくれる。●『周辺飛行』論(2):周辺思考:やはり、安部公房スタジオの1970年代は、安部公房
の人生にとつて大事な10年だといふ思ひがします。目を通して引用する範囲が全集30巻全巻に及びます。
長い連載になります。一回の長さも長短様々になることでせう。安部公房の引用を大切にしたい。●安部公
房とチョムスキー(11):13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17
年)9月及び10月号))を読む:今回休筆。●哲学の問題101(6):唯一絶対神(Gott: God):到
頭Godが登場しました。結論をいへば、結局唯一絶対神の論理を正面から論ずることを避けてゐる。ヘーゲ
ルの態度と同じです。そして様々な哲学者や神学者の説を引用しても、結局キリスト教の教義と同じ一神教
のtopologyを用ゐてゐるのであれば、擬似宗教を説教するのと変はらない。著者がいつも物事を曖昧にしよ
うとする態度には、何か非常に怠惰な物を感じます。つまり、読者を此の怠惰に招いて、あれもこれもと知
識の断片は知つてゐて語るが、実は何も知らないといふ状態に、まあ、揺り籠に揺られるやうに心地よくさ
せて、それで自分は責任をとらないといふ無責任。/先ほど英語圏のネットTVを見てゐたら、ローマ法王が
アイルランドをキリスト教の歴史上初めて訪問して、アイルランドのカソリック教会の幼児介護施設で僧侶
などによる幼児の虐待が明るみに出て、そこには映像を見ますと、確かに子供達の墓まであるのです。親の
インタヴューの映像もあつて、アイルランドの英語でよく聞き取れなかつたのですが、親に事情があつて子
供を介護施設に養育をお願ひしたら、その子が死んだといふことを、いまになつて真相を知り、心情を語つ
てゐました。ローマ法王は、今世界中で批判に晒されてゐる此の問題についてアイルランドのカソリック教
徒に謝罪するために来たのです。此の放送によれば1990年代の教会の信者は90%を超えてゐましたが、
今では70%台に落ちてゐます。今回のアイルランドでの児童虐待事件が明るみに出て、アイルランドの信
者の数はもつと落ちて行くだろうと放送されてゐました。ヨーロッパはまだまだ益々混乱を極めるでせう。
●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(33):第2部 VII: 花々、お前たち、結局は秩序立て
る手の親類である…… :典型的な、花と女性を歌つたリルケの詩です。たつた二つの名詞に、そのほかの全
ての従属文と従属句が掛かつてゐるとは。女性と花を歌ふ時には、リルケは時間を捨象する典型です。これ
は、このまま安部公房の世界に通じてゐるのではありませんか?前期20年の後半の『砂の女』『他人の顔』
『燃えつきた地図』、後期20年の『箱男』『密会』『方舟さ
くら丸』『カンガルー・ノート』。

次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
差出人: ご寄稿をお待ちしています。
贋安部公房
〒 1 8 2 -0 0 次号の予告
03東京都
調布
市若葉町「 1。『周辺飛行』論(3)
閉ざされた
無 2。荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(7)
限」
3。安部公房とチョムスキー(10)
4。哲学の問題101(7)
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(4)
6。Mole Hole Letter(12):超越論(6):安部公房の女性の読者のため
の超越論
もぐら通信
もぐら通信                          75
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第88号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後

潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓 の最新版を差し替へて置いてあります。

一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp