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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

刊もぐら通信    Mole Communication Monthly Magazine


2020年3月1日 第90号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
ない 顔というやつは玄関のドアみたいなものだ。人は顔をとおして他人の訪問

あな 迷路
ただ を通 をうけ、顔をとおして他人を訪れる。顔はその所有者の生活を外部とむすぶ
けの って
番地
に届 通路なのである。だから誰の顔でも、先天的な下地のうえにその生活がつ
きま

くりだした後天的な加工がくわわってくる。それがいわゆる個性というや
つらしい。
『私の顔』(全集第30巻、50ページ)1955.12.1

安部公房の広場 | s.karma@molecom.org | www.abekobosplace.blogspot.jp


もぐら通信
もぐら通信                          ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(8):上昇通路:岩田英哉…page 9
3 『周辺飛行』論(3):周辺思考 II:岩田英哉…page 15
4 『こんばんは21世紀』(テレビドラマ)誕生秘話:岩田英哉…page 37
5 奉天の町の様子:岩田英哉…page 41
6 安部公房とチョムスキー(11):13. 1 座談会『近代の超克』を読む:休筆御免:
岩田英哉…page 43
7 哲学の問題101(7):自由:岩田英哉…page 44
8 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(34):第2部 VII: 数少ない者た
ちよ、嘗ての子供時代の仲間よ :岩田英哉…page 62
9  編集後記…page 72
10 次号予告…page 72

・連載物・単発物次回以降予定一覧…page 69
・本誌の主な献呈送付先…page73
・本誌の収蔵機関…page 73
・編集方針…page 73
・前号の訂正箇所…page73

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプします。
そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

該当なし
e
en Mol
Gold
e
Priz

ol e 三丁目某@3chomenanigashi 9月14日
er M
Silv
e 返信先: @Yuichiro_Juniorさん
Priz
正直、三島由紀夫安部公房筒井康隆で戦後日本文学総括してもいいと思うの(いいすぎ)

+@ricotie 9月6日
安部公房の読点の打ち方が時々数学者っぽい

oichiro Sukegawa@Teika27 10分 10分前


それにしても、大江がノーベル賞をとったとき、安部公房が生きていればそっちに賞が行っ
ていた説がある。私から見ると、大江は安部よりだいぶ凄い作家なのだが。安部はどうし
てそこまで海外で評価されたのか。

今月の読書会
トマス@yaso_thomas 9月9日
【告知】ツイキャス読書会の公開放送を行います。ご興味あればお聞きください。
日時:9月29日(土)22:00-23:00/対象作品:安部公房『砂の女』/安部公房が大好きな5人の
読書家が集い、世界的名作『砂の女』について掘り下げます。読了を前提に語りますので、
初読の楽しみを大事にしたい方はご注意を。

笑福亭智丸@chimaru_s 17時間前
予約はcuclz708@gmail.comまで
もともと勉強会多めの噺家と思いますが、
これは文字通りの勉強会(半分趣味)になり
そうです。第一回はサンテグジュペリ「星の
王子さま」、次回は安部公房「友達」の予定
です。落語会、読書会どちらかのみの参加も
していただけます。

今月の武装安部公房
ねこ@nekoneko4201
安部公房の広場9月11日
| eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
戦う安部公房
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 4

今月の若き安部公房
三丁目某@3chomenanigashi
【夫婦の風景】1枚目は安部公房・眞知子夫妻、2枚目はイサム野口・山口淑子(李香蘭)
夫妻。そんなそれいゆ臨時増刊「生活の絵本」は金曜からのTOKYO BOOK PARK 吉祥寺
に持ってきます!

今月の他人の顔
ひつじ(北海道産)@s_hituji 9月10日
#モノクロ写真の良さを伝えたい
映画『他人の顔』より。原作脚本:安部公房、監督:勅使河原宏、音楽:武満徹、主演:
仲代達矢、共演:平幹二朗、入江美樹という、夢のオールスターチーム。

今月の箱男
杉浦恭介@annabel_lee_236 9月10日
『箱男』安部公房
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp
不条理小説。
一度読んだだけでは、まともなレビューはまず難しい。見られることを拒否した箱男の「見
る」ことと「見られる」ことの描写が実験的。箱男となる「ぼく」が本物なのか贋箱男な
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 5

のかも分からないように描かれて正にカオス。時間を空けて再度読んでみよう。

今月の赤い繭
あべぼうこう@AbeKobo187 9月14日
安部公房 赤い繭

今月の人間そっくり
YUTA@hmt_yy31 9月14日
安部公房「人間そっくり」を読了。
相変わらず小難しい。読み進めていくうちに、
事実と虚構との境界が曖昧になって混乱して
くる。面白い。

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もぐら通信
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今月の安部公房戯曲演習
古書明日@tanakadaishi 9月13日
古書明日、開店しております。安部公房戯曲集、椎名麟三戯曲集などございます。

今月の反文化大革命宣言
馬場正博 @realwavebaba 9月17日
ベトナム戦争と同じ頃の起きた中国の文化大革命に左翼勢力は沈黙していた。安部公房な
ど文化人が文化大革命の非難声明を出した時には「右翼」と非難されさえした。文化大革
命の犠牲者は40万人とも1千万人とも言われている。あの国で人命はその程度の不正確
さでしか把握する価値がなかった。

今月の読書会
トマス@yaso_thomas 9月9日
【告知】ツイキャス読書会の公開放送を行います。ご興味あればお聞きください。
日時:9月29日(土)22:00-23:00
対象作品:安部公房『砂の女』
安部公房が大好きな5人の読書家が集い、世界的名作『砂の女』について掘り下げます。読
了を前提に語りますので、初読の楽しみを大事にしたい方はご注意を。

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もぐら通信
もぐら通信                           ページ 7

今月の仲代達矢:愛の眼鏡は色ガラス
役者40年写真集に載ってた安部公房作の舞台がめちゃ観たかった…

今月の鞄
陽ノ将。@bluefloydRED 9月7日
安部公房の鞄、読了。私はこの物語を比喩として読んだ。
重くて大きい鞄は、存在感があるからこそ様々なことに
気づかせてくれる。鞄のない自由、鞄があるからこその
自由。その比較がなんとも秀逸だ。

今月の安部公房論仮説
柴田望@NOGUCHIS7 10時間前
■常識の枠を破り、独自の世界を拓いていった安部公房ですが、日本の伝統的な古語をよ
く調べて、小説の手法に活かしていたのではないか、という新たな仮説。ご興味をお持ち
戴けた方はぜひ、下記リンクよりご覧戴けましたら幸いです。https://ja.scribd.com/
document/388062292/ …第89号-第三版

柴田望@NOGUCHIS7 10時間前
https://ja.scribd.com/document/388062292/ …第89号-第三版

柴田望@NOGUCHIS7 10時間前
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 「安部公房文学の小説の方法」片山晴夫先生(北海道教育大学名誉教授)特別講演:
東鷹栖安部公房の会 柴田望……12
3 荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(7):バタフライ・ソング:岩田英哉…page 22

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2時間前
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鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・
ノート』試論
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005851876 …
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 8

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 2時間前
鳴り響き続ける「ぼく」 : 安部公房『カンガルー・
ノート』試論
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005851876 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 8時間前
狂気の躍動--安部公房『密会』 (特集 〈精神病院〉の文学) http://ci.nii.ac.jp/naid/
40019027292 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 14時間前
書物の「帰属」を変える(3)安部公房『箱男』と虚構の移動性 http://ci.nii.ac.jp/naid/
40020255668…

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 9月13日
流動と反復--安部公房『砂の女』の時間 http://ci.nii.ac.jp/naid/40006048786 …

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もぐら通信
もぐら通信                          ページ 9

荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む
(8)
上昇通路
岩田英哉

上昇通路

旅の目的はわかっていた。
魂の履歴を探して列車は 大河を渡り山間(やまあい)の清流を遡る。
河川林の色づく黄金の光の中を あたかも前世の川を辿るように
鉄路は縫い やがて 日輪は西界に沈み
深い闇の中を おれは最果ての町に誘われた……

地の果て 終点駅
うらぶれた駅舎を出たとき……
思わず……
「ああ……」
この奇妙な懐かしさはなんだろうか。
おれの魂は 此の土地を記憶していて……

実は 何年か前に おれはあの川の辺りで
あの声を聞いたのだった……
眠り込んだ脳の中から、突然、響きわたった鮮明な啓示
̶̶お前は、この場所で河を渡ったのだ。
あの声の主は何者だったのだ?

独り 異境の安宿
粗末な堅いベッドで
ふと
この世にいるおれ自身が
奇妙に思われ
なぜかと言えば次元を超える遍路道(へんろみち)
おれに宿る魂は
転生の旅路を厭いもせず
もぐら通信
もぐら通信                          10
ページ

翌朝 朝靄の立ちこめた 辺境の町を出で
ふたたび 川を遡り 樹木途絶え……
ついに たどり着いた大高原の名は……
土の道は
枯野を辿り
折り伏す丘の果てに消え
眼前に立ちはだかる白銀の岩峰
寒風強く
冠雪を巻き上げ
白雲かかる。
天̶̶抜けるほど高く 邪気なし
路傍の石積みは異教徒の道標(みちしるべ) 白布のはためき……

おれにはわかっていたのだ……
前世の記憶
秘密の上昇通路
霊どもが ここより還っていくのだ、と。

だが̶̶
この話をおれは
だれにも言うまい
だれにも……
***

第一級の詩人はvision(ヴィジョン)を提示する。あるいは、ヴィジョンを歌ふ。今、私が
念頭に置いてかう書くのは、リルケであり、ヘルダーリンであり、ゲーテですが、更に日
本語の詩人の世界を思ふと、やはり柿本人麻呂であり、萩原朔太郎であり、宮澤賢治です。

勿論、小説家にもヴィジョンを以つて物語る作家がゐて、やはりさうであれば、その作家
は第一級の作家です。ゲーテ、トーマス・マン、安部公房、三島由紀夫といふ四人の名前を
挙げます。これらの作家を理解するといふことは、これらの作家のヴィジョンを、あなた
が読者として共有するといふことです。詩人の場合も同様です。

この詩人の詩をこれまで7編読んできて、やはりここに至つて、この詩人は繰り返し同じ
ヴィジョンを歌つてゐるといふことを書かざるを得ないと気づきました。ヴィジョンがあ
るといふことは、詩文散文の別を問はず、その言語藝術家に体系的な語彙又は語彙の体系
が備はつてゐるといふことです。さうでなければ、ヴィジョンはなく、ヴィジョンがなけ
れば、語彙の体系はない。語彙の体系の創造者、これがヴィジョンの創造者です。語彙を
概念と読み換へると一層わかるのではないでせうか。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ11

言語の本質を思ひ出して下さい。言葉の意味は使ひ方によつて定まる。概念は変はらない
が、しかし同じ言葉の意味は、その概念の置かれた場所、即ち文脈によつて異なるといふ
こと、即ち別の文脈では同じ概念が別の言葉で呼ばれるといふことです。典型的な例は『カ
ンガルー・ノート』論で示したやうに、庭と駐車場といふ概念が、前者では22歳の『詩
人』といふ詩文と、後者では「満願駐車場」といふ散文で、同じ概念が別の言葉でそれぞ
れ呼ばれてゐて、しかし語られることの構造は同じであり、そして語られることは異なる
のでした。前者を安部公房は文体と呼び、後者を文章と呼んだことは、「『周辺飛行』論
(2):周辺思考」(もぐら通信第89号)でお話しした通りです。そして、これを言語
機能論といふのでありました。

さて、それでは、この詩人のvisionは何かといひますと、それはやはり、時間の液状化で
ある、といふことになります。これは今までにも言及した通りです。この卓抜な着想が
visionであれば、これもまた安部公房と同様に、姿を変へ形を変へて異なる文脈で同じ
visionが繰り返し歌はれる筈です。この詩人はマニエリスムへの、一種の偏愛を隠さないの
は、この理由によると私は思つてゐます。さうして、液状化した時間には母性がある。

安部公房言ひ方では、時間の空間化といふことで、非常に散文的で面白くも何ともないの
ですが、他方、この詩人は形象(イメージ)として、上記二つの傍線を引いた空間化、と
いふよりもむしろ形象化といふ方が、同じ空間化でも安部公房のものとは異なつてゐて、
ここでは、説明と理解を得るためには、良いと思ひます。

時間にも位相があります。それは、過去、現在、未来といふ位相で、これは理屈として私
たちが学校でならふアングロサクソン語などの文法でいふ時間の位相です。しかし、これ
だけでは、時間の位相の全てを言つたことにはなりません。何故ならば、この一次元の時
間には外部があり、その外部に出て外部から、過ぎて行くやうに見える仮象の(と敢へて
言ひませう)時間に名前を付けなければならないからです。これで時間の全て、すべての
時間を知つたことになります。最後の時間は、実に奇妙に見えるかも知れませんが、時間
の無い時間です。初期安部公房の耽読したリルケは、これを純粋空間と呼びました。安部
公房の文学空間も純粋空間です。もつといへば、積算値の垂直方向の世界です。

この詩の話者も、やはり旅をして世界の果てに辿り着きます。安部公房ならば存在の方向
への立て札の立つてゐる地点にゐて、この詩人の場合には「奇妙な懐かしさ」といふ感情
と、懐かしさといふことから話者の(行き着いた此の最果ての土地の)記憶を思ひ出すの
です。

さうして、安部公房と同じく「沈黙と余白の論理」に従ひ、しかし丁度安部公房とは正反
対に、安部公房ならば自己忘却をし自己喪失をするところを、この詩人の詩の話者は、「終
りし道の標べに」立つた此の最果ての地点で、記憶を恢復し、自己を恢復するのです。方
向は正反対とはいへ、従ひ、この地点に話者が立つ時には、「……」といふ沈黙と余白の
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

記号でそれが表現されてゐます。列挙しますと、

第一連:
①「深い闇の中を おれは最果ての町に誘われた……」

第二連:
②「地の果て 終着駅/うらぶれた駅舎を出たとき……」
③「ああ……」
④「おれの魂は この土地を記憶していて……」
⑤「実は 何年か前に おれはあの河の辺りで/あの声を聞いたのだった……」

第三連:記号なし

第四連:
⑥「翌朝 朝靄の立ちこめた 辺境の町を出で/ふたたび 川を遡り 樹木途絶え……/つ
いに たどり着いた大草原の名は……」
⑦「路傍の石積みは異教徒の道標 白布のはためき……」

第五連:
⑧「おれにはわかっていたのだ……」
⑨「この話をおれは/だれにも言うまい/だれにも……」

安部公房と共有する形象(イメージ)は、このやうにして見ますと、これまでの他の詩に
も出て参りましたが、白い布の形象(イメージ)といふことになります。さうしてこの白
い布形象のあるところで、この旅の目的は、話者の「魂の履歴を探」すことだと第一連に
書かれてゐます。この目的を達成するために、話者の乗る列車は「大河を渡り山間の清流
を遡る」のです。この列車の旅を「あたかも前世の川を辿るよう」だと書いてゐます。

上で述べたやうに、時間の三つの位相を一本の川の線に譬(たと)へて、それが前世の川
のやうであるといふのは、川を下るのではなく、源流へと遡るからです。さうして①「深
い闇の中を おれは最果ての町に誘われた……」。さうして、白い布の形象(イメージ)
のはためく此処で「前世の記憶/秘密の上昇通路」とある通りに、純粋空間といふ積算値の
世界へと、即ち高さだけがあり従ひ時間の無い世界へと、話者は「ここより還っていく」。
しかし、「ここより還っていく」主語は、話者の霊のみならず、「霊ども」でありますか
ら、これは汎神論的に存在する霊なのです。さうして、リルケの『ドゥイーノの悲歌』の天
使たちのやうに一斉に天に向かつて上昇して還つてゆく。この「前世の記憶」が「霊ども」
の帰還の上昇の「秘密の通路」であるのです。平面を流れる川の時間が、世界の果ての「白
布のはためき」とともに垂直に立つて、即ち時間を捨象した通路になる。安部公房の詩と
同様に全く数理的な世界です。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ13
さて、何故第三連に「……」の記号がないのか。それは、「なぜかと言えば」、この連で詩人
は話者に身を変じていふところによれば、既に両側の二つの連を上位接続(二進数ならば論理
積:conjunction;算術演算ならば積算/掛け算)するために、

「次元を超える遍路道
 おれに宿る魂は
 転生の旅路を厭いもせず」

とあるやうに、既に「上昇通路」といふ垂直方向の通路(トンネル)のことを歌つてゐるから
です。この連の「異郷の宿」に「粗末なベッドで」ゐる話者自身が「既にして」(超越論的時
間)時間の外に出てゐるので「この世にいるおれ自身が/奇妙に思われ」てゐるからです。これ
が「次元を超える遍路道」といふ言葉の意味です。

さうして最後には「おれに宿る魂は/転生の旅路を厭いもせず」に、他の「霊ども」と一緒にな
つて、既に此処では未来の記憶、即ち安部公房ならば「明日の新聞」の配達されるといふとこ
ろを、「前世の記憶/秘密の上昇通路」を通つて「ここより還っていくの」です。ここでも、安
部公房とは正反対の方向です。この詩人の場合には、世界の果ての空間を外部へと「上昇通路」
といふ上位接続のトンネルを次の次元へと出てゆくのに対して、安部公房の場合は、向かふか
ら、即ち次の次元から「明日の新聞」が「いつの間にか」(超越論的時間)「どこからともな
く」(超越論的空間)配達されるのです。あるいは『カンガルー・ノート』の最後のやうに主
人公がダンボール箱の窓から次の次元を覗いて自分の後ろ姿をみる。

何故、

「だが……
この話をおれは
 だれにも言うまい
 だれにも……」

と最後に思ひ、決心するかといふと、この沈黙が『S・カルマ氏の犯罪』の最後の★印にあた
り、それまでの一人称が三人称に話法が転じるからです。それ故に、時間が遡つて逆流して、
時間が無時間の時間になつて純粋空間が生まれる当のこととして、時間の存在しない上位接続
(積算値)を歌つた第三連では「おれ」は彼になつてゐるので、話者は「この世にいるおれ自
身が/奇妙に思われ」るのです。(この★印の「僕の中の「僕」」といふ内省的話法によつて、
あなたは四次元小説『箱男』の主人公の記録するノートの暗号を解読することができます。)

「なぜかと言えば
 次元を超える遍路道
 おれに宿る魂は
 転生の旅路を厭いもせず」に、
もぐら通信                         

もぐら通信 14
ページ

第四連の白い色の幾つも強調される世界の果てへと旅するからです。そこでは、

①「眼前に立ちはだかる白銀の岩峰」
②「寒風強く/冠雪を巻き上げ」
③「白雲かかる。」
④「路傍の石積みは異教徒の道標 白布のはためき……」

とあるやうに、白い色のはためきに触れて、その中で、話者は境界を超えて越境者となり、私を
捨てて、彼といふ異教徒になるのです。「路傍の石積み」は明らかに、安部公房ならば賽の河原
の石積みであり、この詩人の場合にもまた、卑俗にいふならあの世とこの世の境目に積まれた石
でありませう。

この詩人もまた、安部公房と同じ話法「僕の中の「僕」」といふ内省的話法を使つて、前者の私
といふ一人称が後者の私即ち彼といふ三人称に変形するといふ、詩人の用語でいふ脳内宇宙(イ
ンナー・スペース)に生きてゐる。これほど、安部公房文学に親和性の高い文学があらうとは。
前回この『骸骨半島』といふ詩集を存在の詩集と呼ぶことに至りましたが、今回は、このやうで
あれば、『骸骨半島』をメタSF詩集と呼ぶことができます。あるいは、メタSF文学ニューウエー
ブ詩集です。とすれば、翻つて、安部公房の『没我の地平』と『無名詩集』を同じ名前で呼ぶこ
ともできるといふことになります。何故なら、作品の構造が同じだからです。

そして、安部公房の読者であるあなたが無意識の、こころの底で願つてゐるのも同じ構造である
筈です。人からの借り物ではない、あなたの言葉で語つて欲しい。この場合、かうして二人の典
型的な詩人としての姿を見ると、一つは、記憶を喪失し、自己を喪失するか(安部公房)、二つ
目は、記憶を恢復し、自己を恢復するか(荒巻義雄)。

前者でもなく後者でもない、第三の道のあることを、安部公房の読者であるあなたは「既に」(超
越論的時間)知つてゐる。

あなたは間違ひなく、日常の生活の時間の中で、二つの間の境を生きてゐる。あなたは一次元で
は線(境界線)である。二次元では面(境界域)である。三次元では立体であり、あなたは壁と
呼ばれる何かである。この詩では、「静かに果てしなく成長してゆく」壁は空虚である上位接続
体、即ち上昇通路(トンネル)と呼ばれてゐる。言語の構造です。言葉といふトンネルの穴とい
ふ空に意味はない。あなたは意味の運搬人になつてはいけない。あなたは「いつのまにか」(超
越論的時間)ニュートラルになつて生きてゐる。自己を喪失し、記憶を恢復する。記憶を喪失し、
自己を恢復する。だから、「最果ての町」で「地の果て 終着駅」で「うらぶれた駅舎を出たと
き……」「眠り込んだ脳の中から、突然、響きわたった鮮明な啓示」、

「̶̶お前は、この場所で河を渡ったのだ。」(『S・カルマ氏の犯罪』の★印)

と言つた「あの声の主は何者だったのだ?」と、この詩を読みながら、あなたは「いつの間にか」
一人称の私ではなく、三人称の異教徒の彼として問ふてゐるのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ15

『周辺飛行』論
(3)
   周辺思考 II
岩田英哉

目次

2。『周辺思考』と『試験飛行』について
2.1『周辺思考』について
(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録): ―世間をお騒がせして申しわけありません。
(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)
(3)「僕の中の「僕」」 青字は既に論じたもの、赤字は今回
(4)特殊の中の普遍
論じるものです。
(5)周辺思考は方法である
(6) ―世間をお騒がせして申しわけありません。…… (周辺思考の排除)

***

2.1『周辺思考』について
(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)
この第二章の最初の一行は次のやうに書かれてゐます。

「 闇の中に眼をこらしていると、視野の外れのあたりに、星が見える。つられて視線を、
そちらに向けると、星はたちまち消え失せる。(略)
 いわゆる、文学的発想というやつにも、この周辺視野的な性質があるらしい。(略)記録
すると言うことは、その種子を、思考の周辺から中心部に移植することだ。たちまち、無力
な灰の言葉に変わったとして、むしろ当然のことではあるまいか。」

この短い章で安部公房が語つてゐるのは、略した箇所の説明を省けば、上に引用したことで
あり、一言でいふと次の二つのことです。これが「周辺思考」といふものである。即ち、第
一章の「ノートの端に、(略)書き込んである」「――世間をお騒がして申しわけありませ
ん。」といふ周辺に書かれた備忘の言葉のことを、今度は視覚のこととして、そして闇と視
覚のことである以上言葉と闇を見る問題として、語つてゐる。

(1)闇の中で視野の周辺にある星を意識し、星に眼をやると星はたちまち消失する。
(2)記録するといふことは、闇の中で視野の周辺にみる星といふ「その種子を志向の周辺
から中心部に移植することだ。」だから、その種子または星が、それによつて「無力な灰の
言葉に変わったとしても、むしろ当然のこと」である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ16

(1)については、『詩人たちの論じた安部公房論(1):飯島耕一の『安部公房―あるい
は無罪の文学』』(もぐら通信第27号)を参照のために引用します。詩人は詩人を知る好
例です。

「そして、やはりさすがに詩人であると言う以外にはない、この章の最後の指摘は、安部公
房の小説の文体の特徴と性質を、次のように明確に言い当てていることです。

「ともかく安部のこれまでの小説の文体は描く(原文傍点)ようにはできていなかった。肉
眼でみる現実を浮彫りにするようには描か(原文傍点)なかった。三島や吉行ほどにも、彼
は描かない。彼のスタイルは夜闇のカンバスに光で描くふしぎな線の運動に、より近かった
(下線部筆者)。」......【結論4】

この指摘は、わたしのいつもの言葉を使えば、安部公房は対象を直視せず、対象以外のもの
を見てそれらを否定することによって対象をいつも陰画として言語に変換するということ
を、即ち安部公房はいつも夜の中で書いていることを、「消しゴムで書く」ことの本質を、
直截に、直観的に、詩人らしく隠喩(metaphor)によって、言い当てています。」

(2)の記録については、安部公房全集には次の二つの題名の文章があります。この二つで
安部公房の主張してゐることは、「(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)」と同じことを
次のやうにそれぞれ述べてゐる。

①記録と写実(1957.4.21)
②記録精神について(1958.5.19)

①とは写実と虚構の間に掛けた「非ユークリッド空間」の現実の創造、即ち「一見無意味な、
偶発的ともみえるものから、積極的なリアリティをつかみだそうとする立場」なのであり、
②の記録精神とは「フィクションはいわば科学における仮説に相当するものであり、方法を
一般的なものから具体的なものにする転換点なのだから、フィクションから切り離された記
録など、ハンドルをもたない、あるいは動かせない、自動車に過ぎないのである。(略)必
要なのはまず方法の自覚なのである。そして、方法への関心とは、そのまま作家としての現
実への関心であるはずであり、私たちはこのもっとも端的な表現を、「記録精神」とよんで
いる」。

これを①の『記録と写実』の中の言葉で説明すると、「いかに異常事態をとらえたルポター
ジュであっても、作者が事前に用意した現実解釈によって整理されてしまったようなものは、
意識をふみ破って人間内部にふみこんだシュールレアリズムよりも、まだ記録性にとぼしい
ものと言わなければならない」のです。即ち、「一見無意味な、偶発的ともみえるものから、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ17

積極的なリアリティをつかみだそうとする立場」、即ち仮説設定の文学[註1]といふわけ
です。

[註1]
仮説設定の文学についての安部公房の考へ方は『安部公房の小説論総覧:安部公房全集より』
をご覧ください:https://abekobosplace.blogspot.com/2017/06/blog-post.html

ここには引用しませんが、『ドキュメンタリー』と題した座談会があります(全集第7巻、
111ページ)。これは1957年の安部公房の考へを知ることができる座談会ですが、し
かし1967年の『周辺思考』に書いてあることと同じです。全集を開いてお確かめになる
と、安部公房の考へがよくわかります。

また、上記飯島耕一による安部公房論に引用した【結論4】を解説した陰画の論理は、既に、

「『僕は今こうやつて』といふやはり19歳のエッセイがあります(全集第1巻、88ペー
ジ)。そこに次の文章があります。この、言語表現することとの関係に在る禁忌(タブー)
の意識が、この物事の半面しか言葉で表さないといふ安部公房の表現に対する考へかたの根
底にある理由なのです。

『もぐら感覚20:窪み』(もぐら通信第18号)から、安部公房の言語と言語表現に関す
る内面の禁忌(タブー)の意識と論理を再掲致します。

「安部公房は、その幾何数学的な能力を駆使して、リルケの詩『秋』に歌われた唯一者(神)
の両手の窪みを徹底的に独自に概念化して、自家薬籠中のものとなし、変形させて、これを
自分の思考の中心の座としたのです。
(略)
さて最後に、また再び、『〈僕は今こうやって〉』に展開される安部公房の論理を、全く純
粋に論理の問題として論じて、この考察の掉尾を飾ることに致しましょう。

純粋に論理の問題としてとは、経験や知識に一切拠る事無く、言語と思考の問題として、10
代の安部公房の論理と心理(こころの内)を解析するということです。

冒頭引用した『〈僕は今こうやつて〉』の文章に戻ります。これを読むと、安部公房の展開
する論理は、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ18

「「僕が其の内面について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事な
のだ。努力して外面を見詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として
行く事なのだ。そして特に、僕達が為し得る事は、そして為さねばならぬ事は、その外面を
区別し見る事を学ぶと云う事ではないだろうか。」

とある通りですが、この箇所を読むと、これは本当に安部公房らしい。何故ならば、普通の
人間とは思考が全く倒立しているからです。

普通の人間ならば、内面を論じているのですから、内面を外面と区別すると考え、そう書く
でしょう。しかし、安部公房は、内面をではなく、外面を区別すると考え、そう書くのです。

(意識する対象、問題とする対象を動詞の目的語にするのではなく、そうではない、それでは
ない物事を目的語にして、当の物事について考えようというのです。この思考の形式、この
思考の方法は、10代から晩年に至る迄、安部公房に特徴的なものです。)

そうして区別された筈の内面については、一切触れないという態度を堅持します。

この論理からわかることは、安部公房の言う内部とは、外部ではないという否定(negation)
でいわれる外部で すから、それは、裏返された内部だとわかります。そうして、すなわち、
それは、そのまま、裏返された外部で あることになることも、おわかりでしょう。

これが、いつもの、最晩年に至るまでの、安部公房の論理展開の骨格なのです。小説の地の
文章でも、その中の会話でも、戯曲の科白でも、エッセイの論旨の展開でも、対談でも、座
談でもどのような文章においてでも、です。

さて、こうして、生の本質、生の秘密は、言葉にされることがなく、言葉によって表現され
ないことによつて、 否定の論理(negation)、陰画の論理によって護られるというのが、安部
公房の論理です。

しかし、他方、安部公房は生の窪みを削りとる行為によって、その行為を言葉に変換するわ
けですから、言葉で表すわけですが、それは否定的な言語表現によって表される(negation)
ということにより、肯定的に表すとい うことをしないという状態を維持することができると
いうわけなのです。

この窪みにある秘密は、

「では内面は?そうだ、それが問題なのだ。だが一体言葉がその内面に直接触れる等と言う
事があって良いものだろうか。勿論それはいけない事だし、それに第一あり得可からざる事
ではないだろうか。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

と考えているように、言葉にしてはならないという禁忌意識と分かちがたく結び付いていま
す。

それは何故かというと、

「例えば今此の庭に立つ見事な二本の樹を見給え。見る見る内に生が僕の全身から流れ出し
て其の樹の葉むらに泳ぎ著く。何と云うゆらめきが拡る事だろう。僕の心に繋ろうとする努
力がありありと見えて来る。さあ、此処で僕達が若し最善を発揮しようとしたならば一体何
うすべきなのだろうか。こんなに僕を感じさせる或るもの、そこにある秘密を見抜く可きで
あろうか。いやいやそんな事ではあるまい。それは限りある行為であり外面への固定に過ぎ
ないのではあるまいか。」

とあるように、外面が固定されるからであるということが判ります。このことを、安部公房
は嫌ったからです。 それは、生、生命、das Leben、ダス•レーベン、生きることを、そのま
ま生きている生命のまま捉えたいと考えていたからです。そうでなければ、このようには考
えないし、考えることができないものです。それが、安部公房の次元展開という、20歳の時
の『詩と詩人(意識と無意識)』で理論化した、詩の創作のための方法論的な自己放棄、自己
喪失のこころなのです。

このこころ、この思い、この感情のありかた、この論理に、わたしは10代の、そして最晩年
までに至る、安部公房の純潔、純粋を、安部公房のこころの戦慄、戦(おのの)き、震えを覚
えます。果肉のように柔らかな、柔らかに震える安部公房の内面の姿です。

それほどに自己の内面と分ち難く、宇宙の神秘は、言葉によって表してはいけなかった。

また、更に更に、もっと別の視点、即ち文法の視点から、安部公房の窪みと、その禁忌(タ
ブー)の意識をみてみましょう。

そうしてみると、再び三度(みたび)、安部公房の認識した実存の概念に戻ることになります。

もし、これが外面であると考えたり、これが内面であり、内面とはかくかくしかじかのもの
であると、言葉によっ て定義すると、外面も、そして尚更内面、生の本質、生の秘密も、主
語と述語に分裂して、それは、未分化の状 態ではなくなるからであり、即ち、実存の状態で
はなくなるからです。この場合、こうして考えて参りますと、 安部公房は、この未分化の状
態、実存、即ち生の本質に帰属しているし、そこに棲んでいる、生きていると考えていたこ
とがわかります。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

リルケを読み耽った安部公房は、間違いなく、そう考えたのです。

こうして考えて見ると、安部公房は、自分の認識した実存をかく在らしめるために、このよ
うな論理を選択したということがわかります。それが、生命を活かす道だと、ここでも否定
的な論理(negation)によって、安部公房は、考えたのです。

この窪みは、平たくいへば、死と生の在る宇宙の中心のことです。宇宙の中心を窪み(凹)と
陰画として言ったことが、安部公房に実に特徴的で、独創的なことです。これは、譬喩(ひゆ)
ではなく、安部公房にとっては、事実であり、物事の本質でした。

「註15への註」
両手の窪みは、全集第1巻の詩を読みますと、両手の窪み―両手で掬う水―透明感覚―死という連鎖と、両手の
窪 み―(『リンゴの実ー真知の為にー』という詩にある)生命の充実―生命―生―歴史という連鎖の両方方向に
連なっ ていて、死と歴史の両端で一つになっています。まさしく、死と生のある宇宙の中心という形象(イメー
ジ)となっ ています。安部公房の透明感覚については、もぐら通信第5号『もぐら感覚7:透明感覚』をご覧下さ
い。また、 安部公房の窪みについては、『もぐら感覚20:窪み』(もぐら通信第18号)をご覧ください。 」

上の[註5]に引用した『詩と詩人(意識と無意識)』といふ安部公房20歳の論文があり
ます。これは、安部公房一生を貫く理論篇で、私は安部公房のOS(Operating System)と
呼んでゐますが、ここにも同じ論理が、部立てといふ文章の形式の、即ち構造の問題として
現れてゐます。

全体が第一部と第二部になつてゐるのですが、第一部は文字で書かれ、表立つた安部公房の
主張が述べられてゐますが、第二部は全くの白紙であり、空白です。 [註8]文字の部は、
その均斉を、この空白の部があつて初めて成り立つてゐるのですし、成り立たしめてゐるの
です。安部公房は、このことをさへ、文字の部で明白に述べてゐます。 [註9]

[註8]
全集第1巻、後ろから6ページには、この原稿の第二部について、編集部は、次のやうに註してゐる。

「*第二章は「二」と書かれた後、空白となっている。」

そして、本文には、この「二」といふ文字が印されてゐない(第1巻、117ページ下段)。編集部も、この数
字「二」とそのあとの余白の意味は理解できなかつた。これは印字されるべき「二」であつた。せめて其の後
に置かれるべき空白の1ページ分と共に。

[註9]
[註8]にも拘らず、安部公房は、空白の第二部の意義を、第一部で、次のやうに説明してをります。

「解釈学的体験、― 次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に
此の余白を用意したのだ)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ21

 ………………………………………………       
     ………………………………………………
         …………………………………………
 そして人間の在り方は正に此の数行の余白によって明確に示されるのだ。夜はかくあらしめるものであっ
た。」
(全集第1巻、112ページ下段)

そうして此の5ページ後に、単に第二章第二節に「二」とだけ次節の数字の文字を書き付けて、さあ、あとは
君たちが自分の言葉で、自分の人生をどう生きるつもりなのか、この先を書いてくれと、そうその思ひを伝へて
ゐるのです。当然のことながら、第一部の最後は第二部への接続のために、次の一行で終はってゐる。これは後
年の、安部公房の書いた最も複雑な四次元小説『箱男』の章と章の接続と同じ《……》の接続を意味してゐます。

「悲しき反照の対立は消え去って、言葉無き夜が身近にせまり、肉体を押し包む永遠の一瞬なのだ……。」
(全集第1巻、117ページ下段)」

さて、以上の此れら「(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)」の内容を、安部公房スタジ
オの理論体系として示すと次の図になります。確かに安部公房が記録藝術についていふ通り、
1950年代後半のドキュメンタリー(記録藝術)は「周辺思考」を方法としてゐるのです。
これが「記録藝術の会」での、そして1970年代以降も変はらぬ安部公房の、ルポタージュ
や小説に留まらぬ広く一般的な藝術観なのです。「記録藝術の会」の元に活動してゐた安部
公房の記録(ドキュメンタリー)の概念は、方法としてニュートラルであつたといふことな
のです。これは、前章「(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録)」で論じた《大日本帝
国》と《満州帝国》、《祖国》と《他の国》《奉天》と《都市》の構造的な、安部公房文学
の存在論的な二重性の問題となんら変はることがありません。これが安部公房のいふ、自分
の日本語の文章をではなく、文体といふ構造を読んでくれといふことにほかなりません。か
うしてここまで書いて来ますと、これがこのまま小説『人間そっくり』の本物・贋物論であ
ることがお解りでせう。安部公房スタジオの理論体系は次の通りです。
もぐら通信
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ページ

この「安部公房スタジオの理論体系」図のダウンロードは次のURLへ:
https://ja.scribd.com/document/387932083/安部公房スタシ-オの理論体系

以下「安部公房スタジオの理論体系」図中の註への註解です。

[註1]
安部公房の名付けた新象徴主義哲学といふ「この哲学とは『詩と詩人(意識と無意識)』に
拠つて簡潔に言へば、二項対立の両極端の項を否定して、自己喪失による記憶の喪失を代償
に(この否定の中に自分自身の否定を、この否定とは自己喪失と記憶喪失と意識喪失のこと
にほかなりませんが、このやうな否定を含むといふことです)、果てしない垂直方向(時間
の存在しない方向)に次元展開を繰り返した果ての究極に観る(自己の反照としての)第三
の客観、即ち存在の創造をするといふ方法論でありました。ここで

(1)観ることと
(2)自分自身が存在になることと
(3)存在自体の出現

これら三つが一つになつてゐます[註A]。ここにも3といふ数字があります。

安部公房の、これが創作の秘密であり、一生を貫く創作のための方法論です。これは、コン
ピュータの基礎であるブール代数による二進数の論理演算の論理によれば、否定論理積とい
ふ論理に当たります。これが、一生の安部公房の生きる論理であり、安部公房の「現代の実
存哲学とは一寸異つた実存哲学」であるのです。

[註A]
(1)観ること
これもリルケに学んだ事です。以下中埜肇宛書簡より引用します:

「中埜君、
御變りありませんか。昨日やつと旅行から歸つて參りました。永い旅でした。丁度リルケが
ロダンから學んだ如く、僕もリルケから「先ず見る事」を學びました。」(『中埜肇宛書簡
第5信』全集第1巻、92ページ)

安部公房の詩に『観る男』といふ詩がある。(全集第1巻、133ページ)ここには、既に
「明日の新聞」が「書き了へた」「未来の日記」とし出てくる。

また、汎神論的存在論の形象(イメージ)が、後年の海や洪水などに通ずるものとして、次
のやうに歌はれてゐる。
もぐら通信
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「此の果てしない存在にとりかこまれて、あふれ出た透明な涙を両手に受けるのは…… ?唯
一未来の日記を書き了へた時に……。」

此の詩には、これ以外にも、転身、沈黙、「僕の中の「僕」」の話法、出発、忘却といふ、
安部公房文学にとつて本質的な用語が書かれてゐる。

(2)自分自身が存在になること
「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生
きるという事は、恐らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身と
しては、どんな生き方をしても、完全な存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよ
いのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言ふ事が必要なのです。これが僕
の仕事であり、労働です。」
(『中埜肇宛書簡第8信』(1946年12月23日付)、全集第1巻 188ページ下段)」

(3)存在自体の出現
『詩と詩人(意識と無意識)』より引用します。ここでいふ第三の客観こそが、安部公房の
すべての主人公の最後に観る究極の存在のことなのです:

「 諸々の声は吾等の魂が夜の本質にふれた所から始まる。それが様々な次元に展開されて
言葉となる。それは自己否定=自己超越の形を以て意識の中に捉えられる。物それ自体、云
い代えれば夜の直覚が展開する自体として或種の象徴的予感を産みつける。その中にこそ実
存的意義を失わない、客観なる言葉を生み出した本源的な内面的統一に反しない、第三の客
観が覗視されるのではないだろうか。
 如何なる表現も主観を通してのみなされ得ると云う事は明かである。主観的体験のみがあ
らゆる意識を言葉たらしめるのである。そして当然、生存者としての人間各個の内面的展開
次元の相異に従って、その言葉の重さ(含まれている次元数)の相異が考えられる。主観は
その魂の夜の本質にふれる程度によって様々な重さを持つ。
 では此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。その時人
間の魂は限りない夜への切迫を体験するのである。夜の直覚は単なる概念ではなくなり、行
為・体験・方法の中に現実的な姿を表すのである。そして、此の永遠の距離を以てはるかへ
だたっている究極を、吾等は第三の客観として定義する事は出来ぬものであろうか。」
(全集第1巻、107ページ)」

[註2]
『詩と詩人(意識と無意識』が、安部公房の新象徴主義哲学を著したものです。(全集第1
巻、104ページ)

[註3]
『詩と詩人(意識と無意識』は価値体系論です。『中埜肇宛書簡第1信』に次の言葉があり
もぐら通信
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ます。(全集第1巻、68ページ)

「 僕は今、受動的自己証認に於ける、而してそれにより開示される所の人間の(主觀的ー
觀念以前)特殊性について、又その立場より考査される所の人間の新價値論とも云ふ可きも
のの体系、若しくは方法に思考を集中して居ます。そして晩秋、濡れた地面に降る雪の様に、
後から後からと消えて行く思想を、愁しい気持ちで眺めやつて居ます。」

ここにいふ「新價値論」とあるこれが、『詩と詩人(意識と無意識』です。また、「受動的
自己証認に於ける、而してそれにより開示される所の人間の(主觀的ー觀念以前)特殊性」
といふのが、安部公房独自の論理である「特殊の中の普遍」を求める論理であり、この場合、
この普遍は「その立場より考査される所の人間の新價値論とも云ふ可きものの体系」と語ら
れてゐます。体系ですから、普遍性を備へてゐる。

この「特殊の中の普遍」論は『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら通信第62号)でも
現実的な札幌文学といふ文藝誌への批判として書かれた通りです。

[註4]
言語機能論の本質は、詩集『無名詩集』の上記引用のエピグラフに示されてゐる通りです。
小説としては、芥川受賞作『S・カルマ氏の犯罪』に描かれてゐる通りです。

処女作『終りし道の標べに』は、言語機能論の観点から、[(存在、現存在)、(モノ、呼
名)、神といふ概念)、(時間、空間)、(記憶、忘却)]の関係を、『詩と詩人(意識と
無意識』即ち安部公房独自の価値体系論に基づいて著したものです。

[註5]
ニュートラルといふ概念は、以上[註1]から[註4]を基礎にして、安部公房が安部公房
スタジオの演技論として概念化したものです。

上図は、論考の中で必要に応じて使ひます。

(3)「僕の中の「僕」」
これまでは、ノートの端といふ周辺と、視野の周辺の話でしたが、第三章では同じ周辺なが
ら、やつと本命である「周辺思考」の話になります。冒頭の一段落を引用します。

「この周辺思考を裏付けてくれるもう一つの体験。これまで、どんな作品の構想も、けっし
て休息の時期にやって来てくれたりしたためしがない。」即ち、

「なぜか、ほとんどの場合、なにか別の仕事に没頭して、すっぽり目隠しされているような
もぐら通信
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ページ

状態のとき、他のことを考えたりする余裕などあるはずがないのに、自分の中にもう一人、
別の自分がいるように、意志とはまったく無関係に、べつの作品の種子が芽をふき、ときに
は微妙な細部の表現までが、ありありと文字になって浮んで来てくれたりする。」(傍線引
用者)

上記二つ目の引用中傍線部は、安部公房の読者既にお馴染みの通り「僕の中の「僕」」とい
ふ安部公房固有の話法(mode:モード)のことを安部公房は語つてゐます。これは初期安部
公房の時代から全く変はらぬ意識・無意識と思考と創作の関係を話法の問題として語つてゐ
るのです。勿論現実の時間の中でS・カルマ氏である安部公房は、後者の「僕」として無意識
の「別の自分がいるように、意志とは全く無関係に」「芽をふ」く作品の種子である其れは
意識の「周辺」の境界線、即ちS・カルマ氏が禁忌(タブー)を犯して飛び越える意識の柵で
ある★印のこちら側では一人称であるものを、柵を超えて無意識の向かふ側の砂漠に入ると
三人称になるといふ、安部公房の読者周知の話法のことです。以下、初期安部公房と前期2
0年の安部公房の文学世界のおさらひを、話法(mode:モード)の視点から、してみませう。

この話法は、「(2)闇の中に眼をこらす(周辺思考)」で引用した「『僕は今こうやつ
て』といふやはり19歳のエッセイ」に大変深い関係があります。

(1)安部公房固有の話法(mode:モード)「僕の中の「僕」」
『デンドロカカリヤ』論(後篇)』(もぐら通信第56号)より:

「2。1 話法の問題(一般)
文法学の視点から結論を云へば、ここにある文法上の問題は、話法の問題です。そして、更
に話法を敢へて次の3つに分けます。

(1)人称:一人称、二人称、三人称とそれぞれの単数・複数
(2)話法:誰が話してゐるのか。直接話法と間接話法。
(3)時制:その文が含む時間、即ち過去、現在、未来、そして時間のない文(非現実話法
の文)

人称の問題も時制の問題も、話法の問題に含まれ、実際には話法一つの問題なのですが、こ
こでは、ここにある呼びかけが一体何を意味してゐるのかをより深く考へるために、人称と
時制を其の外に出して三つに分けて論じます。

さて、上の3つを念頭に置いた上で、個別言語に関係なく、作家が小説を書くと其の構造は
次のやうになつてゐます。

作家>話者>登場人物
もぐら通信
もぐら通信                          ページ26

注意すべきは、作家と話者は同一の者ではないといふことです。其の上で、この構図に従へ
ば、

安部公房>相手に呼びかける話者>コモン君

といふ事になります。

この小説の話者は、コモン君に二人称で呼びかけてゐるといふ事になります。そして、安部
公房といふ作者が、作品の世界に其のやうな構造を用意したといふ事です。 [註2]

[註2]
この小説構造の最も複雑な小説が『箱男』です。この作者と話法の構造については、「『箱男』論∼奉天の窓
から8枚の写真を読み解く∼」(もぐら通信第34号)で詳述しましたので、これをご覧下さい。

2。2 安部公房独自の話法(個別)
さて、それでは更に考へを進めて、この話者と話者に呼びかけられるコモン君の関係は、ど
のやうな関係なのでせうか?この答へがもう少し先の段落に書かれてゐます。

「ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくが入れちがいになって、顔はあべこべ
の裏返しになり、意識が絶えず顔の内側へおっこちてしまう……、それが植物になること
さ。」(全集第1巻、235ページ上段)

これは、「ぼく」といふ一人称の中に、もう一人「ぼく」といふ一人称がゐるといふことを
言つてゐるのです。安部公房の話法は内省的であり、普通の話法とは違つて、この分複雑で
す。そして、これは其のまま、安部公房の終生変はらぬ作者・読者論であり、主観・客観論
であり、主語・述語論であり続けました。

例へば、論ずる対象を問はず、政治的な社会現象を論ずる場合でも、同じ全集第2巻にある
エッセイ、『デンドロカカリヤA』の前年に書かれた1948年の『平和について』に於い
ても、「僕の中の「僕」」に向かつて、話者(この場合の話者は、小説ではなくエッセイで
あるので安部公房自身)が話かけ、語りかけてゐます。(同巻、57ページ)

『終わりし道の標べ』では、同じ論理が感覚の問題としては、「二重感覚」と呼ばれてゐま
す。(「第三のノートー知られざる神ー」、全集第1巻、363∼369ページ)合わせ鏡
の世界にゐる再帰的な自己のことです。[註3]
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

[註3]
安部公房の此の再帰的な自己については、『安部公房の変形能力17:まとめ∼安部公房の
人生の見取り図と再帰的人間像∼』(もぐら通信第17号)に詳述しましたので、これをご
覧下さい。この論考から以下に一部の引用をします。:

「安部公房は、この再帰的な人間の持つ二重感覚を『終りし道の標べに』の「第三のノート
―知られざる神―」の中で、高という登場人物の口を借りて、「二重感覚」とか、「二重の
判断や意志」とか、また「二重の意識」とか、そして「あの感覚」と言わせております。」

これは、私の中の私、一人称の中の一人称、自己の中の(もう一つの)自己といふことであ
り、後者の私、後者の一人称、後者の自己は、実は前者の私、前者の一人称、前者の自己か
ら見れば、実は三人称の役割を演じてゐるのです。

上記の『平和について』では、このことを次のやうに言つてゐます。前後の脈絡がわかると
一層よく理解ができますが、引用の量と解説が多くなりますので、最小限の量に留めて引用
します。

「そして実用主義的にその人間学が「君」の(僕の中の)平和を創り出すだろう。(略)
「彼」のということさえ危険だ。平和はあくまでも「君」の、そして其処に於けるものだか
ら。」

「僕の中の「僕」」を巡つて、僕と君と彼が登場するのです。これらは皆、安部公房の意識
の内部の一人称、二人称、三人称でありますから、それを示すために「僕の中の「僕」」と、
後者の僕には一重鉤括弧が付されてをります。この「僕」が、「君」であり、「彼」なので
す。そして、これらの人称が、そのまま安部公房の小説の登場人物たちの関係であるといふ
ことなのです。

そして、上記の3つの人称の関係は、安部公房の世界を理解するためのキーワードである存
在、象徴、部屋、窓、反照、自己承認の関係と繋がつてをり、これらの用語と一緒に論ぜら
れてゐて、23歳の安部公房が哲学談義を交した親しき友、中埜肇宛の手紙に書いてゐる「新
象徴主義哲学(存在象徴主ギ)」(『中埜肇宛第10信』全集第1巻、270ページ)とい
ふ安部公房独自の哲学の骨格をなしてゐるのです。

エッセイ『平和について』は、謂はば(同じ年に書かれた)『終りし道の標べに』の理論篇
といふことができ、ここに書かれてゐる論理を以って、そのまま『終りし道の標べに』とい
ふ実践篇を、それも上記に引用した「二重感覚」は勿論のこと此れも合わせて、理解するこ
とができます。安部公房独自の哲学については、『安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」
入門』と題して稿を改めて論じます。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ28

(2)初期安部公房の定義
「『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』の中の「I 安部公房の自筆
年譜と『形象詩集』の関係について」(もぐら通信第56号)より初期安部公房の定義を再
度確認してから次へ進みたい:

初期安部公房の定義:
『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』といふ題でお話を致しますが、
ここでいふ安部公房文学の「初期」といふ言葉の定義について最初に簡単に説明をして読者
のご理解を得てから本題に入ります。

この場合の「初期」とは、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)
にて明らかに致しました「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図に基づい
て定義をすると、次のやうになります。

1。狭義には、3つの問題下降の時期、即ち詩人から小説家への変身に3回の問題下降によ
つて美事に成功する時期、即ち全集によれば詩集『没我の地平』を著した西暦1946年(昭
和21年)安部公房22歳から『デンドロカカリヤB』 [註1]を著した西暦1952年(昭
和27年)安部公房28歳までの期間を言ひ、

2。広義には、3つの問題下降以前の時期、即ち西暦1942年(昭和17年)安部公房1
8歳から西暦1944年(昭和19年)安部公房20歳までの問題下降論確立の時期及び、
西暦1945年(昭和20年)安部公房21歳までの1年間を含んだ時期を併せた全体の時
間を言ひます。

[註1]
「『デンドロカカリヤ』には二種類あります。一つは、全集によれば「雑誌「表現」版」と呼ばれてゐるもの、
もう一つは、「書肆ユリイカ版」と呼ばれてゐるもの、この二つです。便宜上、前者を『デンドロカカリヤA』
と呼び、後者を『デンドロカカリヤB』と呼ぶことにします。前者の発行は1948年8月1日、安部公房25
歳の時、後者の発行は1952年12月31日、安部公房28歳の時です。この二つの作品の間に、『S・カル
マ氏の犯罪』で芥川賞を受賞してゐます。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」もぐら通信第53号)」

大事なことは「べつの作品の種子が芽をふき、ときには微妙な細部の表現までが、ありあり
と文字になって浮んで来てくれたりする」といふ其の細部は「別の自分がいるように、意志
とはまったく無関係に」生きる別の生き物であり、その自分で制御できるやうなものではな
いといふことです。その「ありありと文字になって浮んで来てくれたりする」形象(イメー
ジ)は制御不能であるといふこと、これが「周辺飛行」にとつて大事なことなのです。安部
公房は形象(イメージ)を所有してゐない[註2]。このことに、詩人安部公房が生きてゐ
ます。存在への回帰をするといふPHASE3の意義は、ここにあります。安部公房スタジオの
舞台は、安部公房の、存在論の詩の世界なのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ29

[註2]
『夏目漱石と安部公房∼日本文学史上の安部公房の位置について∼』(もぐら通信第31号)より:

「このように夏目漱石と安部公房を比較してみますと、日本の近代文学は、二度大きな歪みを
経験したことが判ります。

最初は、夏目漱石の生きた明治時代の小説(散文)の世界での私小説という歪みの発生、即
ちそれまでの日本の文藝の歴史と伝統を等閑にふして、私事のみを書くことで文学(literature)になると思っ
て書かれた私小説と呼ばれる小説が書かれたこと。

もうひとつは、大東亜戦争敗北後の昭和の時代に、今度は小説ではなく、詩文の世界で、日本の文藝の歴史と
伝統を閑却した「戦後詩」と呼ばれる謂わば私詩というべき歪みが発生したこと。

この二つです。

さて、前者について言えば、安部公房の日本文学史上に占める位置は、誠に明らかです。それは、私小説の徹底
的な否定であり、私小説を足し算の文学として此れを退け、求める自分の文学を仮説設定の文学、即ち積算の
文学として位置付けております。 [註2]

[註2]
(略)

しかし、この三木卓の上の言葉、即ち黒田喜夫という、これも日本の詩の歴史に名を残している詩人の私的な
イメージの所有ということは、リルケに、そうしてリルケの『マルテの手記』に詩人としての生き方と日常の態
度を深く学んだ安部公房が一体それをどれくらいの時間の長さの間そのこころの中にリルケに学び自分の独創
とした形象(イメージ)に変形させて大切に抱き続けてそれが発酵するのを待ち、そうして誰にも知られぬよ
うに、それは従い私のものではないものとして恰も隠しているかのように表現して来たことを、もぐら感覚シリー
ズの読者であるあなたには十分お判りのことと思います。

そうして、安部公房の場合、とても大切なことは、安部公房という人間は、その形象(イメージ)を自分の所
有するものとは決して一度も考えたことすらなかったということなのです。これは、詩人以上の詩人、或 いは
安部公房の筆法を借りれば、詩人以前の詩人の在り方であるというべきだと、わたしは思います。安部公房に
とっては、形象(イメージ)の方こそ生命であったのです。そんな生き物を所有したり、制御したりすることな
どできる筈はありません。安部公房は、そもそも形象(イメージ)を私的に所有するなどという、そんなこと
を考えることを一切しませんでしたし、そのような考えとは全く無縁でした。10代でリルケに、特に『マル
テの手記』学んで既に至っていた「存在象徴」という言葉が、このことを意味しております。中埜肇宛書簡第1
0信(全集第1巻、269ページ)及び『終りし道の標べに』(全集第1巻、271ページ)をご覧ください。

このように考えてきますと、この安部公房が戦前リルケに10代で学んだ詩人のあり方は、大東亜戦争敗北後
の戦後の言語空間の中で、日本語の詩人と詩作に焦点を合わせますと、三木卓が称揚しているような戦後の詩
人の在り方に対する猛烈、痛烈な、徹底的な批判になっていることに気がつきます。それ故に、このことを知っ
ていた安部公房は柾木恭介との対談『詩人には義務教育が必要である』の場で、「詩というジャンルはすでに
破滅したジャンルだね。」と1958年の時点で断言しているのです。詩という藝術領域にある此の詩に対する
安部公房の規準(基準ではない)は、徹頭徹尾リルケだからです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

このように考えて参りますと、安部公房は、日本文学の二度にわたる歪みの徹底的な否定者であり、矯正者で
あるということなります。そうして、この意義に於いて、安部公房は其れ以前の江戸文学に連なる作家だという
ことになるでしょう。」

(4)特殊の中の普遍
安部公房の説によれば、「作家と評論家をへだてる、本質的な区別」は「こうした周辺思考
の大小」であるといふのです。

評論家の思考の中心部に、作家が周辺で育てた果実を「ひきすえようとするのは、評論家と
して当然の行為で」あるが、しかし、「ただ、中心部の照明にさらした、その作品が、じつ
は思考の周辺で生まれた育ったものであるという、その生い立ちまでを無視されたのでは、
やはり一矢を報いる気持にならざるを得ないのである。」といふのです。即ち、

思考[(作家、評論家)、(周辺、中心)、(創作、評論)]の関係を、「周辺思考の大小」
でみる

といふことなのです。

この後に、見出しとしてまとめた、安部公房の「特殊の中の普遍」論が書かれてゐます。そ
れといふのも、安部公房曰く「たしかにに、周辺思考には、どこか全的なものを欠いた、片
輪的なところがある。しかし、(略)周辺飛行の特殊性は、あくまでも普遍的な特殊性であ
つて、誰もこの灰色から無縁になるわけにはいかないのである。」このことの自覚のない評
論家といふものは「それこそ普遍という名の特殊に落ち込んだ、文学とはまったく無縁な存
在」である。

「誰もこの灰色から無縁になるわけにはいかない」「周辺飛行の特殊性」である「あくまで
も普遍的な特殊性」は、問題上昇(デジタル変換)によつて現実(灰色の現実)を虚構に一
度抽象的な概念の世界に変形し、その後に問題下降(アナログ変換)によつて再度虚構化さ
れた灰色の現実を、即ちアナログの現実を言語によつて創造するといふことの過程(プロセ
ス)のことでいへば、後者の現実を灰色の現実といつてゐると解釈することができます。

『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら通信第62号)を参照ください。

また、安部公房は後年1985年、61歳になつても首尾一貫して『子午線上の綱渡り』と
題したコリーヌ・プレのインタビューで次のように、同じ文学観を日本文学と世界文学に関
する自分自身の位置として語っています。(全集第28巻、104∼105ページ)。

「―― 安部さんは処女作『終りし道の標べに』から、すでに日本の伝統を拒絶しているよ
うに見えます。日本、もしくは世界文学の流れのなかで、自作をどのように位置づけている
のですか?
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 31

 安部 その返事も誰か他人に任せましょう。僕も解答をぜひ聞かせてほしい。ただ言える
ことは、僕は日本語でしか考えることが出来ないということ。日本のなかで、日本語で考え、
日本語で書いている。しかし日本以外にも読者がいるということは、現代が地域性を超えて、
同時代化しているせいではないか。その点、言語の特殊性と普遍性についてのチョムスキー
の考え方に同意せざるを得ません。すべての個別文法の底に、遺伝子レベルの深さで地下水
のように普遍文法が流れているという考え方です。僕が拒絶したのは日本の伝統ではなく、
あらゆる地域主義的な思想の現象に対してなのです。」
(全集第28巻、104∼105ページ)。

安部公房の「特殊の中の普遍」論は、かうして、単に作品のみならず、世界文学の水準(レ
ヴェル)で考へてゐることが判ります。といふことは、安部公房スタジオについても同様の
考へであつたといふことです。それが、後で『安部公房スタジオ会員通信7ー通信』(全集
第26巻、351ページ)で「「イメージの展覧会をもって、アメリカを巡業することになっ
た。」と書き、アメリカで成功を収めて帰国後、『安部公房スタジオ会員通信8ーアメリカ
公演を終えて』(全集第26巻、401ページ)に安部公房は其の成果を「初めてのアメリ
カ公演は、予想をはるかに上回る成果をあげることができた。」と会員に報告することがで
きた成果に結実したのです。

後者の通信の最後で、「特殊の中の普遍」論の成功を次のやうに書いてゐます。

「 気風のちがうアメリカ各地で同じような評価を受けた、ということは、アメリカのみで
はなく、ヨーロッパでも同じような評価を受けるのではないか、という自信と期待を抱かせ
る。文化の独自性よりも、普遍性の方が現代において要請されているのだ、ということを体
験できたということは、大きなことだった。」

(5)周辺思考は方法である
さて、以上のやうな周辺思考の無視または黙殺するやうな評論家の例として、安部公房は「ロ
ブ=グリエを平気で無視できるような評論家」に言及してゐる。何故ならば「周辺思考を、
受け身にではなく、積極的に方法として取り上げた作家」がロブ=グリエであるからです。

ロブ=グリエの特徴は「徹底的に、周辺思考以外の要素を排除しようと努めている」ことに
あります。

初期安部公房の短編『赤い繭』が学校の教科書に掲載されて、その最後に此の小説の大意を
述べよといふ設問があることに、安部公房は不満と批判を持つてゐて、これを「周辺思考を
黙殺して疑おうともしない、学校教育的発想」と呼んでゐます。これに正面から対峙するの
がロブ=グリエの作品であるといふ訳です。勿論、安部公房も其の一人です。

上記の「安部公房スタジオの理論体系」図によつても、間違ひなく、周辺飛行は方法なので
す。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ32

(6) 世間をお騒がせして申しわけありません (周辺思考の排除)


さて、この周辺思考の黙殺の例として、続けて話をするのが、第一章の冒頭に書いた、

――世間をお騒がせして申しわけありません。

といふステップ④の文を[註3]、

――世間をお騒がせして申しわけありません。……

といふ記号による表記にして、存在へのステップ③の一文へと通俗の方へステップを一つ戻
した、冒頭の文なのです。

[註3]
前回、これを「(1)ノートの端に書く(周辺思考の採録」にて③のステップと書きましたが、これは④のス
テップの誤りでしたので、ここで訂正をします。これを訂正した第89号(第二版)はGoogleドライブに置い
てあります。

何故、ステップを一つ戻したのかは、この章の内容を見ればわかるでせう。それと同時に安
部公房の此の「呪文存在化記号規則」[註4]と名付けた記号を使ふ基準も明らかになるで
せう。

この「呪文存在化記号規則」と此のエッセイとを比較して見ますと、解ることは、第一章で
は「④呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「ー」と空白:最後の端には記号を置かずに
余白(と沈黙)とする」記号を使用して、「――世間をお騒がせして申しわけありません。」
と文の最後に記号がなく、余白を残した形にしてゐるので、ステップ④とした理由は、この
文の意図が明白で、安部公房が論理的に説明できると確信したからだといふことが、最後の
此の章の書き出しと比較をすると判ります。この最後の章の書き出しは次のやうになつてゐ
ます。

「――世間をお騒がせして申しわけありません。……
 じつを言うと、ノートの端にこの文句を見つけたときに、メモした理由は忘れてしまった
が、なにか言いようのない不快感に襲われ、ともかくその不快感を周辺思考的にさぐってい
けば、いずれは忘れた動機にもたどり着けるだろう、とたかをく食って始めてみたのだが、
けっきょく評論家風に周辺思考を論じているうちに、どうやら紙数もつきてしまったようだ。

 せっかく羊頭をかかげながら、狗肉を売らずに店じまいということになりそうだ。(略)」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ33

とあるところを見ますと、結論を言語化できなかつた、それが中途半端で終はつてしまつた
といふ理由が、ステップを一つ前に戻した理由であるのです。

これが、もし「その不快感を周辺思考的にさぐって」、情緒的なものを捨てて、結論を言語
化できて、文字で書くことができて、その文を存在と化することができてゐれば、ステップ
を一つ先へと進めてステップ⑤として、

(世間をお騒がせして申しわけありません。)

といふ風に、『名もなき夜のために』の最後に自分で付加した第3部[註5]のやうに、存
在の記号である( )といふ沈黙と余白の中に書いたことでせう。

[註4]
この文の両端に付ける記号の意味については「『カンガルー・ノート』論(1)」(もぐら通信第68号)の
「5。1。4 『カンガルー・ノート』の形象論:(16)風の音」より引用してお伝へします:

「 このことから見ると、安部公房の呪文の使ひ方による存在の物語の存在化の深まりの度合ひは、次のやうに
なつてゐる。呪文に関する存在化深化の記号を使つた表記規則です(以下必要に応じて「呪文存在化記号規則」
と呼ぶ事にします)。

①呪文を地の文にベタで書く
②呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「ー」と「ー」
③呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「ー」と「……」
④呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「ー」と空白:最後の端には記号を置かずに余白(と沈黙)とする
⑤呪文の両端に記号を置く。組み合わせは「(」と「)」:存在の記号( )を使ふ。

安部公房の呪文は、この5つの順序を踏んでゐる。
この「トントコ トントコ トントン トントコ……」は、③のステップの呪文であることになります。

この呪文の本体の末尾の記号が段々と実線から点線になり、点線が空白になるのは、存在になつてゆき、呪文
のあり方が深化して存在の存在の存在に達する事によつて透明になつてゆき(透明感覚)、最後には( )に記
号化されて存在になるからです。 」

更に、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1)』(もぐら通信第57号)の「I 安
部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」より、この沈黙と余白の記号についての詳しい説明をリル
ケとの関係、また安部公房独自の詩の世界と
の関係で、引用します。

「かうして見ると、安部公房の余白と沈黙の表し方は、上に引いた例のやうに、

(1)点線といふ記号によつて余白と沈黙を示すか、また、
(2)『名もなき夜のために』の最後のやうに( )といふ記号によつて存在を示し、その中に文字を書いて、
これを話者や登場人物の語る、存在の中にある存在の文字とするか(例へば、最初の小説の題名の『(霊媒の
もぐら通信
もぐら通信                          ページ34

話より)題未定』や、最後の小説『カンガルー・ノート』の最後の呪文「(オタスケ オタスケ オタスケヨ 
オネガイダカラ タスケテ
ヨ)」、あるいは、
(3)『詩と詩人(意識と無意識)』の最後に第二部の印を漢用数字で示して、そのあとを空白にして置くか、

この三通りがあることになります。」

[註5]
再度『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(1)』(もぐら通信第57号)の「I 安部
公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について」より、この沈黙と余白の記号についての詳しい説明をリルケ
との関係、また安部公房独自の詩の世界との関係で、引用します。

「このやうに、安部公房十代からの此の論理の上に、安部公房は新たに『マルテの手記』の解釈を加へて、詩
人から小説家になる為に、『マルテの手記』を自分自身のものとする為に、あるいは『マルテの手記』を超越
するために、「空白の論理」の中に第一部でもなく第二部でもない第三部、即ち第三の客観、即ち存在を仮構
して、この作品をまとめたのです。

第一部でもなく第二部でもない、第三部。それが、最後に安部公房が『名もなき夜のために』の付け加へた存
在を示す( )の中に敢へて書いたテキスト(文字)なのです。[註4]

「(此処に空白がある。空白の告白がある。これが恐怖なのだろうか。僕は欺瞞が苦しかった。まだとどまっ
ていると思わせる駆け引きいやだった。僕ら人間を物への供物としよう。名もなき夜に生きて昼を織り出すも
のとなろう。
 ある日…………。)」(全集第1巻、558ページ下段)

ここまで考へてみれば、この最後の、( )で象徴される存在の中の文字を読むと、安部公房が何を考へてゐ
るかは、よくわかります。「ある日」もまた空白と沈黙の中にある。「ある日」の物語もまた空白と沈黙の中
にある。何故なら其れは特定の日ではなく、「ある日」だからです。」

安部公房が不快に思つたのは、直感的に、この文が「じつはロブ=グリエとは正反対の、し
かし同じくらい徹底的に、周辺思考を排除しきった世界の表現であるといふ」ことだからで
あり、この「点では、多少本文と結びついてくれる所がありそうにも思われる。」からなの
です。ただ、まだ此の文章を書いてゐる時点では、この一行の日常の慣用句であり常套句で
ある、さういふ意味では堕落し切つた呪文の意義と意味を徹底的に解明することができずに、
即ち存在と化さしめることができないままであるといふことなのです。それが「せっかく羊
頭をかかげながら、狗肉を売らずに店じまい」の意味なのです。

さうして、辛辣なる安部公房は、これが「学校教育風にいえば、この常套句こそ、犯罪とい
う行為の大意であり、悪を悪たらしめる根拠なのだろう」と言ひ、そして、この、周辺思考
を排除して常套句を世間に通じるといふ理由から口にする悪は世の中にのみあるのではなく、
「率直に言わせてもらえば、この犯罪者の常套句で代表されるような、周辺思考不在の発想
は、文学の世界においても、けっこう大手を振って歩いているわけだし、ほとんどの批評家
もぐら通信
もぐら通信                          ページ35

が、周辺思考をどう扱ったらいいのか、まだその手順の初歩さえ心得ていないというのが、
現状なのである」といふのです。これが、何故安部公房が学校教育式の「大意を示せ式の国
語教育」を嫌ふ理由なのです(傍線は原文傍点)。

この「2.1『周辺思考』について」の章の最後に私事を少しだけ述べれば、実は私は今年の
元旦に一年の計を立てたのです。それは「よろしくお願ひします。」といふ常套句を一切使
はずに一年を生きようといふ計です。別に『周辺思考』を読んだからではありません[註
6]。しかし、6月の時点で26回思はず口にしてしまつてゐて、反省しきりです。それ以
降は口にしてゐません。しかし、これがまた実に難しいことです。あなたも、安部公房の読
者として試してご覧なさい。

[註6]
これは私が二十代後半にドイツ語の通訳をしてゐた経験から、この常套句の1:1での異言語間の翻訳は不可
能であることに苦しめられたことによるのです。言葉の意義と意味は、個別に場合場合に、その場の文脈に応
じて(文脈は時間の中であの人この人の発声する文章によつて)動態的に激しくまた限りなく変化します。こ
こにチョムスキーも安部公房も着眼したといふことなのです。このやうにお考へになると、何故安部公房が周
辺飛行といふのか、その言語本質的な論理が、また別の視点から、お解りになるのではないでせうか。例を挙
げれば、次のやうな「よろしくお願ひします。」があるのです。この常套句を一々言ひ換へなければならないの
です:

①会議の最後に:いや、今日のミーティングは実にいいミーティングでした。よく準備をなさつてくださつてあ
りがたうございます。次回もまたかくありたいよう私たちも最善を尽くします。では、また。
②会食の最後に:とても素晴らしい晩餐でした。楽しい時間でしたね。食事も美味しかつたし、貴方のお話も
傾聴にあたいするもので、感銘を受けました。この良い出会ひをこれからの一緒に仕事にも活かして、またこの
やうな会食をしませう。
③郵便局で:日本までの郵便物です。ドイツから遠いけれど/なので、間違ひなく処理して下さいね。信頼して
ゐますよ。

後述する安部公房の存在の記号を使へば、

(ええい、こんなこと一々やつてゐられるか!)

一番この常套句を口にしてしまふ場所は、郵便局です。郵便物の発送を依頼するときに、こ
の「周辺思考を排除する」文句を口にするといふ傾向があります。といふことは、これを一
般化すると人に何かを依頼するときに頻度高く「よろしくお願ひします」と思はずいつてし
まふといふことです。酷い時などは明日のことなど解りもしないのに「今後ともよろしくお
願ひします」などといふのである。さうすると、私が完璧に周辺思考を実践しようとすれば、
人にものを頼まないといふ生活をする、即ち自給自足の生活、即ちユープケッチャの閉鎖生
態系に生きる生活を営めばよいといふことで、この周辺飛行は此のまま一直線に『箱男』を
貫き『方舟さくら丸』までに達してゐるのです。しかし他方、自分の糞を食らいながら生き
ることもまた難しいものがある。糞と常套句の間に生きるといふこと、周辺飛行と「学校教
育式大意を示せ」の間を生きること、周辺飛行と定住の間を生きてゐること、周辺と中心の
もぐら通信
もぐら通信                          36
ページ

間に生きることが、私たち安部公房の読者の人生といふことである。誠に御苦労な人生であ
る。

このやうに考へて来ますと、それでは『密会』と『カンガルー・ノート』といふ作品はどこ
に位置するのかと問ふて見ますと、後者は確かにベッドの上で走り続ける、言つてみれば地
上を滑空してゐる、また前者は迷路の中をさ迷い続けてゐて、主人公は常に周辺飛行を続け
て止まず遂には世界の果てに至つて、溶骨症の少女を抱きしめることになる。さて、さうな
ると、そこで「明日の新聞」が配達されると、ユープケッチャであるあなたは此の糞と周辺
飛行の間をさ迷ふ閉鎖空間からの脱出が可能となる。やはり、安部公房の読者に必要なこと
は、この超越論的な新聞をご自分で原稿を書いて、自ら発行して世に配る、即ち「世間を騒
がせて申しわけありません。」とか「よろしくお願ひします。」といふやうな犯罪者の言葉、
または中心定住の常套句を使用しないといふことになります。あなたが口にすべきは( )
の中に入れて沈黙の中に発声する存在の言葉だといふことになります。実際にやつて見ると
なかなか大変なのですが、あたなの健闘を祈ります。といふわけで、このやうに、

(読者のみなさまをお騒がせして申しわけありません。)

2.2『試験飛行』について(全集第22巻、100ページ)
これは全集1ページの短文で、一言でいへば、世間一般の教育と特殊な俳優の教育について、
また教育の用無用を巡つて、そして近い将来立ち上げると中心を担ふことになる桐朋学園大
学の若い俳優の卵たちへの教育のために演ずる、戯曲家にして演出家安部公房の役割につい
て書いてゐます。

「試験飛行」も終はり、いよいよ「周辺飛行」をする機が熟したのです。

といふことで、次は、

3。『周辺飛行』について

(つづく)
もぐら通信
もぐら通信                          37
ページ

『こんばんは21世紀』誕生秘話

岩田英哉

『こんばんは21世紀』といふ、安部公房が1964年4月12日に発表したテレビ・ドラマ
の台本(脚本、シナリオ)があります(全集第18巻、285ページ)。これは同日の午後
8:30から9:30の時間帯に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で放送されたも
のです。番組に携はつた関係者は次の通りです(同巻5ページ「作品ノート」より)

作・構成:安部公房
脚本:柾木恭介
演出:若林一郎、田原総一朗
音楽:別宮貞雄
影絵:かかし座
出演:フランキー堺、水島弘、観世栄夫、永田靖、岡本太郎、鳳八千代、田中明夫、加賀ま
りこ、他

このシナリオを読みますと、この話は、人工知能(作中では人工頭脳と呼ばれてゐる)と人
間の主人・奴隷関係を巡つての、検事(これが人工頭脳)、弁護人(人間)、証人(人間)ー
弁護人と主要な証人と話者(ナレーター)はフランキー堺の一人三役の早変はり)の間の議
論がシナリオになつてゐます。検事の主張するのは、棒が人工知能のご先祖さまであるとい
ふ、そして人工知能こそが人間の主人であり、人間は人工知能の奴隷であると主張して訴訟
を起こすといふ話です。

これは下記の作品の発表年次を考へると、安部公房のシナリオといふものの、安部公房文学
史上での位置と価値を知ることができます。次の安部公房の作品の名前そのものかまたはそ
つくりの発想が、登場人物の口から発せられるからです。以下、台本を読みながら連想の赴
くままに挙げますと、

(1)第四間氷期(小説):1958年
(2)第四間氷期(シナリオ):1966年
(3)棒(小説):1955年
(4)棒になった男(ラジオドラマ):1957年
(5)棒になった男(戯曲):1969年
(6)1日240時間(映画のシナリオ):1970年
(7)幽霊はここにいる(戯曲):1958年
(8)人間そっくり(小説):1966年
(9)人間そっくり(テレビドラマ):1959年
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ38

これを年代順に並べ、その間に1960年代の失踪3部作を里程標(マイルストーン)とし
て置いて、安部公房文学史の前期20年の後半10年を眺めてみませう。

(3)棒(小説):1955年
(4)棒になった男(ラジオドラマ):1957年
(7)幽霊はここにいる(戯曲):1958年
(1)第四間氷期(小説):1958年
(9)人間そっくり(テレビドラマ):1959年

(A)砂の女:1962年
(0)こんばんは21世紀:1964年4月12日
(B)他人の顔:1964年9月25日
(2)第四間氷期(シナリオ):1966年4月1日
(8)人間そっくり(小説):1966年9月1日
(C)燃えつきた地図:1967年
(5)棒になった男(戯曲):1969年
(6)1日240時間(映画のシナリオ):1970年

勿論、安部公房はこれ以外にもそれぞれのジャンルで作品をものしてゐますので、これらを
全体の視野に入れて論じたいところですが、これは本題を外れますので、再度掲題の誕生秘
話に戻ります。

「「電波少年」が日テレ社長をアポなし取材した理由」(2018年9月5日付)と題した
ネット上の記事の中の一連の話の一つで「田原総一朗が探るテレビの最前線∼日本テレビ・
土屋敏男氏インタビュー(その1)」といふ回からの引用です。

話をしてゐるのは、上記に演出家として名前の挙がつてゐる田原総一朗です。安部公房の読
者の初めて知る、このテレビドラマ誕生の舞台裏ではないでせうか(http://
jbpress.ismedia.jp/articles/-/54010):

対談者:
(1)田原総一朗:「東京12チャンネル(現テレビ東京)を経てジャーナリストに。『朝ま
で生テレビ』(テレビ朝日)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)などに出演する傍ら、活
字媒体での連載も多数。近著に『AIで私の仕事はなくなりますか?』 (講談社+α新書) な
ど。」
(2)土屋敏男:「日本テレビ放送網 日テレラボ シニアクリエイター、一般社団法人1964
TOKYO VR代表理事。『進め!電波少年』や『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』など多く
の人気番組を手掛ける。昨年、萩本欽一を主演に据えた初監督映画『We Love Television?』
を公開した。」
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ39
対談本文:
「 テレビの視聴習慣が変わり、かつてのような「大ヒット番組」は生まれにくくなった。
そんな中でも「面白い番組」にこだわり続けているのがジャーナリストの田原総一朗氏と日
本テレビで数多くの人気バラエティ番組を手掛けてきた土屋敏男氏だ。一見違う土俵で活躍
する2人だが、番組作りに対するスタンスは「同じ系譜」と互いに認めるほど共通項は多い。
「面白い番組作り」について語り合ってもらった。(構成:阿部 崇、撮影:NOJYO<高木
俊幸写真事務所> )

安部公房の自宅をアポなしで訪問
土屋敏男氏 最近、バーチャルリアリティの仕事に力を入れているんです。フォトグラメト
リーという写真から立体を作る技術を使って、1964年の東京オリンピック開催当時の東京を
再現しようというプロジェクトなんです。機器を装着すれば、64年当時の渋谷から国立競技
場前を通って東京駅までを歩いて体験することができるようになります。
 かなり面白いものができているんですが、まだお金を儲ける方法が分かっていない。
田原総一朗氏 土屋さんらしいね(笑)。お金のことよりも面白いかどうかを優先させて行
動しちゃうところが。
土屋 そこはテレビマンの先輩としての田原さんの精神を受け継いでいるつもりですので、
今日は田原さんのテレビの仕事の原点を聞かせてもらいたいなと思っているんです。
田原 僕は大学を出て最初に入った岩波映画を3年半で辞めて、開局直前の東京12チャンネ
ル、今のテレビ東京に入ったわけです。
 で、実は僕、開局記念番組を作ったんですよ。
土屋 入っていきなり?
田原 そう(笑)。新しい局ができるというんで、あちこちから社員が集まってきたわけだ
けど、だいたいテレビ番組を作った経験なんてない人ばかりだから、開局記念番組の企画を
募集するなんていうと、よく分からないくせにみんな企画を出すんだよね。
土屋 で、田原さんも出してみたと。どんな企画だったんですか。
田原 SFドラマ。それもはったりで、安部公房作ということにして。安部公房は当時、日本
でノーベル文学賞に一番近い作家だった。絶対引き受けてくれるはずがないんだけど、はっ
たりでそう書いた。そうしたら会社は、「安部公房がやってくれるならOKだ」と。
土屋 企画が通っちゃったわけですね。
田原 そう。それで安部公房に電話したらけんもほろろでね。しょうがないから、安部公房
の自宅へ20日間ぐらい通ってみようかと。それで、朝8時頃から夜6時過ぎまで、玄関の前に
立ってたの。
土屋 アポなしの直撃取材ですね(笑)。
田原 そうしたら4日目に、なんと安部公房が出てきて、「中に入んなさい」と。
土屋 ついに会えた。
田原 うん。で、僕が「開局記念番組をやりたいので協力してほしい」と切り出したら、「何
やるんだ」って言うから、「コンピューターと人間の戦いやりたい」って説明したの。
「どういう戦いだ」って言うから、「裁判劇にしたい。コンピューターが、人間はもう要ら
ないと言い出す裁判だ」と。
土屋 もしかして「安部公房の小説を原作にして番組を作りたい」というんじゃなくて、「今
もぐら通信                         
もぐら通信 40
ページ

から原作を書いてくれ」っていうことですか・・・。
田原 そう、そういうずうずうしいお願いだった(笑)。コンピューターが「人間は要らな
いと言い出して、人間が裁判に訴える。そういうコンピューター対人間の戦いだ。安部さん、
書いてくださいよ」と頼んだら「面白い!」と。
土屋 書いてくれたんすか。
田原 書いてくれた。ただ今度は安部公房から条件が出た。「主演はフランキー堺。それか
ら加賀まりこにも出てほしい。それならばOKだ」と。
 それで芸能界のプロデューサーに「2人を紹介してほしい」と頼んで、フランキー堺と加賀
まりこに会いに行った。そしたら2人とも、「安部公房が書くなら」っていうんでOKしてく
れたんです。
土屋 実際にオンエアされた?
田原 うん。『こんばんは21世紀』という1時間半のドラマでした。
土屋 入社当初からメチャクチャ過激だったんですね。」

さて、かうして完成したテレビドラマの最後にフランキー堺は次のやうに視聴者に向かつて
語りかけます。

「かつて人間が幾度か訪れた危機を、みずから変えることによって、乗りこえてきたように、
現在の電子計算機時代、コンピューター時代という危機をくぐり抜けるためには、新しい価
値基準をつくりあげる以外に道はありません。それができない人間は、物語としてではなく、
現実に機会の裁判を受け、有罪を宣告されるでありましょう……そして、それは、決して遠
い未来のことなのではありません……」

「決して遠い未来のこと」ではなくなつた21世紀に、20世紀といふ未来からやつて来た
人工知能が此の未来である過去に、過去である未来の現在に(以上超越論の論理)、あなた
に「こんばんわ」と言つてゐる今、即ち『赤い繭』の主人公の歩く夕方といふ隙間の時間が、
あなたがかうして読んでゐる今だといふわけです。21世紀は黄昏の世紀であるか?

最初にフランキー堺は次のやうに視聴者に向かつて語り始めます。

「みなさん、こんな話を、ごぞんじでしょうか?むかし、一頭のロバがいました。目の前に、
まぐさおけと水おけを置かれたロバははたとこまりました。まぐさを食べて水を飲んだらよ
いものか、水を飲んでから、まぐさを食べたらよいものか……かわいそうに、このロバは、
判断がつきかね、考えあぐんでいるうちに、とうとう飢え死にしてしまいました……
え?馬鹿々々しい?
いや、ごもっとも……」(原文傍線は傍点)

「一寸うかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」
(『赤い繭』全集第2巻、492ページ上段)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 41

奉天の町の様子

岩田英哉

YouTubeに奉天の旧市街と新市街をよく撮影した『満州国・奉天《前編》The largest
city in Manchukuo 1/2』と『満州国・奉天《後編》The largest city in Manchukuo 2/2』
と題した映像を見つけましたので、紹介します。前編と後編との二つからなります。

1。前編:https://www.youtube.com/watch?v=xg7ssIBDiew
2。後編:https://www.youtube.com/watch?v=9x-ihDTZpBI

冒頭に、『カンガルー・ノート』の最後第7章に陰画で描かれてゐる奉天の駅に列車の実
際に入る様子を見ることができます。

奉天駅:

奉天駅から三本放射状に走る浪速通り、千代田通り、平安通りと、浪速通りを真つ直ぐに
行くと突き当たる奉天大広場、この直径90メートルの円形広場の周囲に立つ、奉天ヤマ
トホテル、奉天警察署、奉天三井ビル、東洋拓殖奉天支社、安部公房の父、安部淺吉の務
めてゐた満州医科大学21万坪の敷地内の施設の映像も見ることができます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 42

満州医科大学の門の中の映像ですが、やはり馬に乗る、これは軍人であるのかどうか私に
は不明ですが、安部公房は間違ひなく、これ以外の動画の部分を見ましても、馬をよく奉
天の両方の市街で見てゐたことは間違ひありません。

満州医科大学の門前を走る馬

旧市街の荷馬車を引く馬
もぐら通信
もぐら通信                          ページ43

安部公房とチョムスキー
(10)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置
3。バロックとはどういふ時代か
3.1 バロックとは何か
3.2 バロック建築:差異の建築 青字は前回までに
論じ終つたもの、
3.3 バロック文学:差異の文学
赤字は今回論ずるもの、
3.4 バロック哲学:差異の哲学
黒字はこれからのもの
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイ
ヤル文法
(1)チョムスキーの統辞理論とは何か
(2)ポール・ロワイヤル文法とは何か
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
(1)再度バロックとは何か:バロックの概念ー歪な真珠とは何かー:真珠の分類と存在の凹の形象の一致
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
7。1 一神教のtopology
7。2 大地母神崇拝のtopology
7。3 一神教のtopologyを大地母神崇拝のtopologyに変形する
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9。ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッパ文明の300年間を読む
10. 近代ヨーロッパの17世紀に何があつたか
(1)宗教:キリスト教(カトリック、プロテスタント)の内部の宗教戦争
載 御免
(2)政治:ウエストファリア条約:近代国家同士のヨーロッパ内部の政治戦争
本 号休
(3)経済:株式会社と中央銀行の成立:近代国家同士のヨーロッパ外部の経済戦争
(4)文化:超越論に依るバロックといふ差異の様式
   ①目に見えるバロック様式:都市設計、建築、庭園、美術、天文学
   ②目に見えないバロック様式:文学、哲学、論理学、修辞学、文法学、数学(幾何学)、音楽
11。イスラム文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:イスラムから見た近代史:『イスラームか
ら見た「世界史」』(タミム・アンサーリー著。小沢千重子訳)を読む:一神教内部の宗教と文明の戦争
12。アフリカ大陸文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:『新書アフリカ史』を読む
13。 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭和17年)9月及び10月号))を読む
13. 2 座談会『世界史的立場と日本』(1943年(昭和18年)中央公論社)を読む
13. 3 二つの座談会で指摘された問題の列挙と解決方法について
14。Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(1)日本の世界史的立場:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(2)世界の日本史的立場:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
もぐら通信
もぐら通信                          ページ44

哲学の問題101
(7)
  自由
岩田英哉

自由とは何か?といふ問ひに著者は答へてゐるでせうか?それを見てみませう。さて、書いて
あつたとして、その答へが正しいものかどうかは、属する文明圏と個別言語と国情が異なり
ますから、私たちは自分で吟味しなければなりませんので、これも併せていつもながらやつ
て見ませう。

自由とは何か?

この間(かん)私の好きな作家であるトーマス・マンのエッセイ集『ある非政治的な人間の
観察』(原題『Betrachtungen eines Unpolitischen』:ベトラハトゥンゲン・アイネス・ウ
ンポリーティッシェン)を読み始めて下記に拙訳する序文の箇所に至つて、マンの書いてゐる
ことが何ら変はらぬどころか、そのまま日本の現状に通じてゐることを知つて、人間の性は
変はらぬものだと、まあ、うまい言葉が見つかりませんが、慨嘆といふもよし、嘆息すると
いふもよし、呆れ果てるといふもよし、要するにここでマンが書いてゐるのは、1875年
生まれのマンが当時1914年に勃発した第一次世界大戦を挟んで其の前後に長編『魔の山』
を書き継いだ期間に、当時の世相を観察しながら、混乱を極めた自国にあつて自分の藝術と
人生のあり方を考察した作品なのです。私の手元にあるフィッシャー版のペーパーバックスで
591ページあります。其の42ページまで来たところで次の文章がありました。勿論、書
かれてゐるのは当時のドイツであつて、21世紀の今の日本の世相ではありません。

しかし、ここでは、自由といふ言葉が、日本語でいふならば、厚顔無恥といふ意味で正しく
使はれてゐて、現今の日本語でいふ自由といふ跳梁跋扈してゐる文字面(もじづら)だけの文
字の意味に誠にふさはしい。これはドイツ語のFreiheit(フライハイト)の本来の意味の一つ
です。手元にある木村・相良の和独辞典を引くと、このドイツ語の意味は、次の通りです。例
文は省略します。

「①自由、自主、独立、不覊(フキ)、無拘束;(活動の)余地;解放;免除 ②(a)特権;
勝手なふるまい、奔放、放恣;無遠慮(b)(特権を有する場所:)構内、域内(城・寺院)
などの;避難所」

さて、トーマス・マンの本文です。

「もし作家であるといふことが、問題になつてゐる当の私といふものを巡つて精神的・道徳
もぐら通信
もぐら通信                          ページ45

的に努力することではないとしたら、そもそも作家といふものは、何のために、どういふ理
由で、作家であるのだらうか?その通りだ、率直にいへば、私は時代の騎士ではないし、》
指導者《でもないし、また例へば》民主主義の教師《などといふものを愛してゐるわけでも
ない。しかし、私が最も愛さず、敬意を払はぬ者たちはどのやうな人間たちかと言へば、それ
は、実情に通じてゐて、自分の足跡を残すことを生活の糧にして生きてゐる小人たち、根拠薄
弱のことを言ふどうでもいい輩、目先の鼻の効く者ども、時代といふご奉仕申し上げるご主
人さまの糞と、走りながら糞する時代といふ馬の糞であり[註1]、これは何かといへば、
これこれの基準より敏捷ではなく活発ではない総ての者達たちに対しては低い評価をするぞ
といふ御触れを絶えず出して新しい物の傍(そば)を速歩で走る馬の糞どもである。あるいは
また、私の最も愛さず敬意を払はぬのは、(無精髭や出過ぎた枝葉の)刈り込みの好きな洒
落者と時代の改良者であつて、彼奴等は最近流行りの理念や言葉を、お高くとまつた片眼鏡
(モノーケル)を鼻に掛けて(訳者註:日本語でいふ、命令者といふ楽な地位にゐて上から
目線でといふ意味)、例へば》精神《とか、》愛《とか、》民主主義《とかいふやうな最新
流行の理念や言葉を外国から運搬してゐる(ドイツ語には此れに相応しい言葉は本来ないの
で英語といふ外国語で呼ぶ以外にはない)精神的なSwells:(スゥエルズ:名士)やElegants
(エレガンツ:伊達者)達である。といふわけで、今では、かう言つた仲間内だけて通用す
る隠語(ジャルゴン)は、吐き気なしには聞くことができない物にもうなつてしまつてゐる
ほど酷いのである。かういつた輩がみな、即ち喧(やかま)しく吠え立てる者どもや俗物ど
もが、根拠薄弱のことを言ふどうでもいい輩の厚顔無恥(の自由)を享受してゐるのであ
る。私が本文で言つてゐるやうに、彼奴等は無であり、従ひ、全く厚顔無恥に物を言ひ、そ
して判断し、しかもいつも一番新しい仕立てで且つ今流行りの(a la mode)衣装を着てゐる
のである。私は、かういふ輩(やから)を実直に誠実に[註2]軽蔑した。――それとも、
私が彼奴等の風まかせの自由(厚顔無恥)に加担しないからと云ふ理由で、私の軽蔑が単な
る偽装した妬(ねた)みだとでもいふのか?」

[註1]
島国に住む日本人には理解できないことですが、大陸の人間にとつて、人間を馬に譬(たと)へることは、人間
に対する最大の侮辱的な譬喩(ひゆ)の一つです。

私の知つてゐる最も古い例は、古代ギリシャのソクラテスが、哲学すること、即ち智を愛することは教へること
ができないといひ、馬を水飲み場に無理やり連れて来たとしても、水を飲みたくない(即ち、自分の頭で物を考
へず、真の知識(真理)を愛することない人間といふ)馬には水を飲ませることはできないといつてゐる例です。

そして、ソクラテスは、これと反対のことを、今度は哲学者(愛智者)の側から説明して、愛智者(哲学者)と
いふ真理(真の知識)を求める者は、馬の尻に煩(うるさ)く集(たか)るアブか蝿のやうな者だと言つてゐま
す。これも、上の反対側からのものの言ひ様といふことでは、同じ位の強烈な皮肉と辛辣の言葉です。

かういふことがなかなか日本人には通じないのです。

蠅やアブが馬の尻にたかるのは、尻の穴に糞がこびりついてゐるからでせうし、それをまた馬は尻の穴を見るこ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

とは出来ませんから、何がどうなつてゐるのか分からず、五月蝿(うるさ)いので(本当に五月蠅である)、尻
尾を振つて追ひ払ふわけです。これが智を愛するもの(哲学者)と浮世の人間の関係であるとソクラテスは言つ
てゐる。馬糞のこびりついてゐる尻の穴とは、人間の恥部のことです。人間の恥部を正視する事、これ哲学也。

時代を下つて近世になり、17世紀のヨーロッパ地域ではバロック時代と呼ばれる時代に(西暦1600年は日
本は関ヶ原の戦ひ)、オランダが貿易で覇を唱へてゐるところへ後発のイギリスが同じ東インド会社を東南アジ
アに設立して、オランダ船の赴くところには金儲けの口があるといふことで、「さて、イギリス船はオランダ船
のおもむく所にはどこまでもついていって分け前にあずかろうとし、オランダ人は「まるで馬あぶのようだ」と
いって、これを嫌っている。」といふわけです。(永積昭著『オランダ東インド会社』81ページ)恐らくは、
この慣用句を使つて本国に報告書を書いて送つたのでありませう。

間違ひなく21世紀の現代にゐたるまで、この譬喩(ひゆ)は受け継がれてゐる筈です。

日本人の私は、アブよりも蠅のたかる姿の方が強烈ですから、後者を場合に応じて採つてゐます。蠅がたかると
いふのは、まあ不衛生な形象(イメージ)がありますから、智を愛するものが不衛生で汚らしいといふのもどう
かと思ひますけれども、しかし世の中からみればさうみえるので、それはそれで良いでせうし、智を愛するもの
を世間がこれほどまでに排斥するのかといふことを強烈に伝へるときには(ソクラテスは冤罪で死刑になりまし
た)、それで良いと思ひますが、しかし普通にソクラテスの言葉を引用するには、やはり、馬アブかアブが良い
かも知れません。何しろ、どうしやうもないのは、街の中を馬車や荷馬車を引きながら糞を垂れる馬に罪はない
ので、引かせる人間が悪いといふことです。と、かういふわけで、これが人間が馬だといふ譬喩の話です。です
から、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の中の「馬の国」などといふのは実に辛辣な人間批判で
あることがわかるでせう。

トーマス・マンもこのやうなヨーロッパの言葉の歴史と伝統の上に立つて、謂はば変奏して、このやうな辛辣極
まりない皮肉と反語(逆説)を述べてゐるわけです。上記翻訳中の「自分の足跡を残すことを生活の糧にして生
きてゐる小人たち」と訳したところは、もう少し其の意図をはつきり訳出すれば、「馬として時代とともに(時
代も馬である)走つてゐる其の足跡に何か重大な意味があると勘違ひして自分(といふ)の馬の蹄(ひづめ)の
跡を残すことを日常生活の金儲けの糧にしてゐる輩(やから)」といふ意味です。まあ、これ位に訳してをけば、
トーマス・マンの辛辣なる筆使ひが、あなたに伝はることでせう。

あなたの周りに誰かこんな輩はゐないか。ゐるのではありませんか?そして、誰か日本人の作家で、これ位に高
級で高度に辛辣で、日本人の肺腑を抉(えぐ)る文章を書いてみせる一級の作家はゐないのか。出てをくれ。

話を安部公房の読者のために転換して説明しますと、大陸で多感な子供時代を過ごした安部公房は、大陸の人間
が持つてゐる此の馬の形象(イメージ)をよく知つてゐたに違ひないのです。これが、豚や緬羊と共に、安部公
房の世界に馬が最初期の『天使』から『密会』に至るまで何故馬が登場するかといふことの理由です。ですから
『箱男』の中のショパンの挿入の章で、この章の話者でもある主人公の父親に、結婚式に馬になつて馬車を引か
せるといふ場面が如何に父親といふものを侮蔑し罵倒してゐることになつてゐるかを、作家はよく知つてゐるの
です。最も愛するものを最も冒瀆する。これが大陸のバロックの精神です[註A]。安部公房がどれほど自分
の父親と父親の働く病院といふ場所を愛してゐたことか。

しかし、日本は島国ですから、日本の読者には通じないのです。大陸の読者の方が、この意味は生活感覚として
自明に理解して小説を読んでゐるでせう。『箱男』が大陸で読まれてゐるといふのは、かういふことに理由の一
端が大いにあると思ひます。

私の故郷の北海道の港町では、大通りを秋から冬に掛けて歩く石炭を積む荷馬車の馬が垂れる糞が冬中に凍つて
春になると雪が溶け馬糞も溶けて緩み、4月には海からの風に舞つて臭ひを町中に拡散するのです。(前の年に
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 47

サイロの干し草を食べて垂れた)馬糞の繊維も風に乗つて、年が開けると眼の前に浮かんで飛んでゐるといふと
実感が伝はると思ひます。これを町の人は馬糞風と呼んでゐました。しかし、まあ、今の日本にも馬糞風が吹い
てゐて、誠に臭く、懐かしい気持ちのする今日この頃です。日本の国にはもつと臭くなつてもらひたい。さて、
消臭剤は何にする?勿論、安部公房の文学です。しかし腐臭は消せるが、腐肉の始末は如何にせんや?やはり、
蠅であらうか?それとも「どこからともなく」(超越論的空間)「いつの間にか」(超越論的時間)現れる、ボ
ルヘスの世界の幻獣であらうか?

また、「彼奴等は無で」あると訳した無といふドイツ語の意味合ひは、上から読み下して来ると、ゴミとかクズ
とかカスだと言つてゐるのですが、原語の無(nichts:ニヒツ)の意味の範囲はもつと広いので(何しろ無です
から)、生地のままの無の字をあてました。

[註A]
バロックの精神については『安部公房とチョムスキー(2)』(もぐら通信第74号)の「(3)バロックとは
どういふ時代か」および『安部公房とチョムスキー(3)』(もぐら通信第75号)の「3.3 バロック文学:
差異の文学/3.4バロック哲学:差異の哲学」をお読み下さい。これも図を入れて解り易く解説しました。

[註2]
実直に誠実にと、言葉を重ねて訳したredlich(レートリッヒ)といふ副詞は、日本語で別様にいへば、嘘偽り
のない心でとか、赤心を以てといふ意味で、本当はこれらの日本語の訳語の方が良いかも知れません。迷いまし
たが、上の訳ととしました。

ここまで書き進めながら、同時にトーマス・マンの同じエッセイを読み進めてゐると、次の
自由(Freiheit:フライハイト)の使用例が出てきました。これは、また別の文脈での使ひ方
ですから、言語機能論の説明でいつもいひますやうに、言葉は用ゐ方で意味が異なる訳です
から、ここでは先に意味をいへば、苦しみのないこと、といふ意味で自由といふドイツ語を
マンは使つてゐることが解ります。一寸短く引用します。

【原文】
ein Stillstehen des Ixion-Rades, ein Loskommen vom Willen, Freiheit im Sinn der
Erlösung und in keinem andern Sinne war.

【拙訳】
イクシオンの車輪[註3]を静止させること、意志を捨てること、救済といふ意義であつて
且つそれ以外の意義ではないFreiheit(フライハイト:自由;苦しみからの解放/無罪放免)。

[註3]
古代ギリシャ神話の登場人物で、その罪によつて
ゼウスが永遠に燃えながら回転する車輪に縛り付け
られる刑罰を受ける。:
https://en.wikipedia.org/wiki/Ixion
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

さて、『ある非政治的な人間の観察』の序文で使はれてゐる厚顔無恥といふ意味の自由と、
それとはまた別の、苦しみからの解放/放免といふ意味の自由の話はこれ位にして、しかし以
上を下敷きにして、本題に入ります。しかし、上の二例を改めて眺めますと、この自由といふ
ヨーロッパ人の言葉の意味は、人間には罪があるといふ考へ、何か悪事をなしたといふこと
が牢固たる先入観としてあると思はれます。この罰を受けたといふ状態からの解放または無罪
放免が自由といふことではないのでせうか。

ですから、ここでも、私たちが思つてゐる自由(といふ明治時代に翻訳された外来語に好き
勝手に思い入れがちな自由)といふ翻訳語とは異質であるといふことを念頭に置いて読み進
めます。ここにも一神教のキリスト教の教義が生きてゐるといふことです。さうして、一神教
のtopology(中央集権絶対独裁独占絶対命令型トポロジー)は、私たちとの汎神論的存在論
の高天原toplogyとは、ネットワーク・トポロジー(network topology)が異なつてゐる。

といふことは、次のnetwork topologyを見ても自明の通り、やはり唯一絶対神が人間を一方
的に自由にする(これも命令である)のであつて、人間が自由を主張することは、唯一絶対
神との関係では本来悪なのではないだらうか。唯一絶対神が死ぬか(ニーチェのいふやう
に)、または不在であつたり其の位が空位であつたりすれば、一体どのやうな規準(criteria:
クライテリア:適用範囲の許す限りでの絶対的な基準)で物事を判断することが、ヨーロッ
パの人間たちは、できるのであらうか。恐らく、そんな議論が書かれてゐるのではないでせ
うか。二つのtopologyを再掲します。

この図のダウンロードは次のURLへ:https://ja.scribd.com/document/387478735
もぐら通信
もぐら通信                          49
ページ

この主題の元に名前の出てくる哲学者は次の6人です。

(1)Thomas Hobbs(1588ー1679):イギリス人
(2)John Stuart Mill(1806ー1873):イギリス人
(3)Bernard Williams(1929ー2003):ブリテン人(イギリス人)
(4)Isaiah Berlin(1909ー1997):ブリテン人(イギリス人)
(5)Hegel(1770ー1831):ドイツ人
(6)Philip Pettit(1945ー):アイルランド人

この自由といふ主題の分類の範疇は、「社会と政治」です。さうして、関連する用語が次のア
メリカの自由の女神像の写真の下に三つ並んでゐます。

①不安(Angst:アングスト)
②意志(Wille:ヴィレ)
③自律(Autonomie:アウトノミー)

このやうに見て参りますと、既に見たやうに此の著者はマルクス主義者(共産主義者または
今流行りの言葉でいへばグローバリスト)ですから、唯一絶対神を除いて考へれば、人間だ
けで作られ人間だけで構成される社会と政治、あるいは其のやうな社会の統制をとり支配を
する政治といふことを考へる事になるのでせう。

そして、さうなると、人間は不安になり、しかし他方意志が大切になつて、自律的に自立し
た人生を送ることを考へなければならず、不安に打ち勝つには意志と自律性が必要である。し
かし、これは一体どのやうな性質の不安であるのか、意志とは何なのか、自律といふが、こ
れは人に頼らないといふ意味ならば、人との関係でお互ひに依頼し合ひ助け合はねば、社会
と政治も(この二つの互ひの関係も)、社会も政治も(この二つが一緒になつて又はそれぞ
れが別個に外部ーの社会と政治ーに対しても)、機能しないのではないでせうか。この問題
を著者はどのやうに考へてゐるものか。以下、上記6人の言葉の引用が文章の最初から最後
に近いところまで並べられてゐますので、それぞれの自由の定義を引いて、比較をして、もし
著者の定義があればそれも考察して、この章の全体をまとめたいと思ひます。また定義に至ら
ぬ引用である場合には、その行間を読みながら読み進めたい。哲学者の名前を時系列に配列
し直して哲学史を眺めると次のやうになります:

(1)Thomas Hobbs(1588ー1679):16世紀ー17世紀
(5)Hegel(1770ー1831):18世紀ー19世紀初
(2)John Stuart Mill(1806ー1873):19世紀
(4)Isaiah Berlin(1909ー1997):20世紀
(3)Bernard Williams(1929ー2003):20世紀
(6)Philip Pettit(1945ー):20世紀ー21世紀
もぐら通信
もぐら通信                          50
ページ

(1)Thomas Hobbs(1588ー1679)
「ホッブスによる自由の定義は、 外部に障害のないこと である。」

様式化すれば、ホッブスの自由の定義は、

自由とは、外部に障害のないことである。

といふ事になります。上の一行に続けて曰く、

「この場合、ホッブスが当然のことながら考へたのは、移動の自由、動く自由、運動の自由
であつた。」

この訳文で「当然のことながら」と訳したドイツ語はnatürlich(ナチューアリッヒ)で、英
語ならばnaturally(ナチュラリー)ですが、しかし、自然に考へつくことが「移動の自由、
動く自由、運動の自由」といふことであれば、その前提がやはり束縛されてゐるといふこと
であり、その内部から、「障害のない外部」へと出ることが自然に思はれるといふこと、こ
れが自由に纏(まつ)はるホッブズの思ひであつたといふ事になります。即ち、ホッブズの
いふ自由の定義を言ひ換へると、

自由とは、不自由ではないことである。

といふ消極的な定義の、その一種であることが判ります。

さうすると、問題は、一体何である「外部の障害」といふ不自由から自由でありたいのか?
といふことが解くべき問題であるといふことになります。

外部といふならば内部がある筈で、外部に出たら、また其処は何かの内部でありませうから、
安部公房の読者としては、その内部である外部が何であるかを問ひ、その名前をつけなけれ
ばなりません。即ち、それは何か?といふ問ひに答へるのです。この問ひと答へ、内部と外
部の入れ替へは、そのまま入籠構造であり、ネスト構造であり、従ひ、言語構造であること
はお気づきでせう。さう、ロシア人形のマトリョーシュカのやうに、この構造はなつてゐる。
と果たして、ホッブズが考へたかどうか。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ51

(2)John Stuart Mill(1806ー1873)


ミルは「政治哲学の中心に自由といふ概念を据ゑた最初の人である。ミルにとつて自由と
は、 人間的な自然の最初で最強の願望である。 ミルによれば、私たちは、私たち人間の諸
能力を開花させるために必要なのである。議論の自由と意見主張の自由などは、次の認識を
前提にしてゐる。即ち、もし他の様々な意見が抑圧されることがあるならば、私たちは先入
見やドグマティズム(教条主義)に引き渡されて、その掌(て)の内にゐることになる。意見
主張の自由がなければ、私たちが本当に重要なことを表現することによつて、私たちが個人
であること(英語ならばindividuality)を社会的に通用させることができない。全ての国家
的な行為は、それ故に、個人(英語と同じindividium)の自由を促進し保護する方向に行は
れるべきである。ミルによれば、国家のして良いことは、個人の自由に介入するのは、国家
自体を保護し、または他の国家からの損害を防ぐ場合にあつてのみである。」

ここでは教条主義と訳しましたが、独和辞典にある訳は、独断論といふ一語です。しかし元
はDogma(ドグマ)といふ言葉から出来た言葉ですから、Dogmaの訳には、教義、教条、信
条とあり、これら後二者の言葉にある条は、一条、二条、三条といふやうに、文字で書かれ
てゐる条文を金科玉条の如くに盲信して、その言葉の意味を考へることなく、これを絶対的
な権威として自らの権力の拠るところとなすといふのが、教条主義であり、信条主義(とい
ふ言葉を作れば、さう)でありますから、またさうであれば、場合や分脈を弁へずに、その
やうな教条は常に正義であると主張すれば、それは教義を主張することになつて、本来教義
とはそのやうなものとは思はれませんが、しかし「ー主義」といふことになれば本末転倒の
次第となつて、Dogmatism(ドグマティズム)と呼ばれるやうになるのでせう。独断論では、
かのやうな意味が通りにくいので、教条主義と訳します。

それから「引き渡される」と訳した動詞は、商品や物品を対価を支払つた代はりに納品する
といふ意味の、配達者側から見た用語です(今でも普段使用する、いはばビジネス用語 )で
すから、この著者の思ひ描く自由を失ふといふこと、即ち不自由に対する嫌悪感は、何か人
間を物質のものと考へてゐるといふ感じがあります。著者は唯物論者であるといふことからの
用語であることと、それから、やはり何かの対価として自由が人間のものになるのだといふ
理屈が、ここで働いてゐます。従ひ、欧米白人種キリスト教徒のいふ自由には、どんなにキリ
スト教色を薄めた姿をしてゐても、論理としては絶えず、次の三つのことが其の自由を求める
主張の根底にあることが判ります。

(1)対価を支払ふこと
(2)不自由であることは、自分が物としてある状態であること、即ち、
(3)他人の間で好き勝手に売り買ひされること、これは不自由であること。

従ひ、上で訳した「その掌(て)の内にゐる」とは、他人の所有物になることといふ意識を
表してゐます。即ち、人間の売買市場が生まれるといふことです。ここから、主人と奴隷とい
ふヨーロッパ古代からの奴隷制度の話まであと半歩です。奴隷とは人間を物として扱ふことで
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もぐら通信                          ページ52

あり、従ひ、財産として売買が出来、奴隷市場のあることは当然である。といふ順序で理解
することができます。英語で、slave(奴隷)といふ語を引くと、property(財産)と書いて
あります。私たちにはこれが理解できないことの一つです。

(3)Bernard Williams(1929ー203)
「自由とは、他の人間の意志に服従し、隷属しないことである。」

これは文字通りの理解で良いでせう。となると、次は、

① 人間とは何か?
② 意志とは何か?

といふ問ひに答へる事になります。

この二つの問ひに答へることができたならば、「他の人間の意志に服従し、隷属しないこと」
がどのやうなことかを理解することができます。

(4)Isaiah Berlin(1909ー1997)
この哲学者は「 積極的な 自由と 消極的な 自由を区別する。消極的な自由とは、様々な行
為の選択肢を有し、外部からの制限に従はないことを意味する。 積極的な 自由とは、これ
に対して、私たちが、自分の能力を事実として発揮して目標を実現できることを意味する。」

消極的な定義とは、「∼しない」といふ定義であり、積極的な定義とは「∼する」といふ定
義の、それぞれの違ひと対照であることが、ここでも判ります。これは、ヨーロッパの人間
が定義といふものを考へるときには、いつもある二分法であり、かういふ訓練を教育制度の
中で、また社会の中で受けることのない私たち日本人は、翻訳物の文章を読むときには、い
つも記憶してをき思ひ出すべきことの一つです。

積極的な定義について、著者は、貧乏な場合と教養のない場合には、たとへ、その人に上の
定義の通りの自由があつたとしても、自由ではないと書いてゐます。このバーリンさんといふ
哲学者の考へでは、自由であるためには、お金と教養が要ると言つてゐる。

しかし、本当でせうか?お金があれば益々不自由になり、教養があれば益々頭が既存の知識
で一杯になつて不自由になるのではないでせうか?自由になるならば、安部公房の主人公た
ちのやうに、綺麗さつぱり、はい、ご破算で願ひましては、と、算盤の玉の値を一度0にし
てしまふのが最善の方法であると、私は思ひますが、あなたは如何。さう、方舟さくら丸に
乗船するとか、箱男になるとか、壁になるとか、デンドロカカリヤになるとか、赤い繭にな
るとか、燃え尽きた地図を頼りにするとか、脛にカイワレ大根の生えて来るのをお祈りする
とか、等々等々。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ53

(5)Hegel(1770ー1831)
著者曰く、何人かの哲学者は、消極的な自由の定義は耐え難いと考へてゐて、ヘーゲルもまた
其の一人である。ヘーゲルの自由の定義は、消極的な定義を否定し、積極的な定義を採用し
た物で、ヘーゲルによれば(以下ヘーゲルの言葉の直接引用ではなく、著者の言葉での説明で
すが)「私たち人間の自由は、空気のやうな空虚な空間で実現する物ではなく、社会的な現
実の中で実現すべき物である。」

著者曰く、それ故に、私たちはいつも多くの制限に身を晒してゐて、愛や友情にあつてさへも、
自分独自の願ひを、相手の願ひを優先させて、引つ込めなければならないし、またさうした
いと思ふのだ。

かうしてみてくると、私の考へでは、愛や友情から自由になるために、即ちこれらの内部から
外部への逃れると自由になるわけでせうから、さうしますと、自由になることができる。と
いふことをしないで、それらの内部にとどまることを選択すると、この選択するといふこと
が、自由の選択ではなく不自由の選択といふことになつて、悩みは尽きないことになります。

(6)Philip Pettit(1945ー)
このなんとお呼びするのかPettit(ペティットと呼ぶ事にします)さんといふ哲学者の自由の
定義は、大陸の人たちの定義とも、またブリテン島南部のイギリス人の定義とも異なり、アイ
ルランド人らしい定義です。このアイルランド人らしいといふ私の言ひかたと此の定義の関係
を連想できるためには、アイルランド民謡を思ひ出してみてください。日本人の情調に通ふ物
があります。庭の千草とか、ロンドンデリーの歌(ダニー・ボーイ)といつた歌です。やはり、
アイルランド人は古代ケルト民族の裔であるからでせう。汎神論的な縄文人の感覚と論理を
持つてゐるのです。

この哲学者の定義によれば、

「自由とは、承認の姿(様式)である。」

といふのです。

かうなると、いよいよ安部公房の汎神論的存在論の自由に近づいて来ました。安部公房が1
0代で概念化した四つの概念の関係は、(部屋、窓、反照、自己証認)の四つの概念同士の
関係にあるのでした。これが、安部公房の宇宙です。安部公房は自己証認と自己承認の二つ
の文字を使つてゐます。この四つの概念の関係の中に、安部公房の自由は存在する。そして、
その関係を誰が/何が承認するのか?
もぐら通信
もぐら通信                          ページ54

さて、このアイルランド人の哲学者の視点でみる自由とは、「人が行為をすることに対する
責任があること又はそのやうな責任があるやうにできること、これが自由である。」といふ
のです。「このことの前提は、合理的に自己を操縦(制禦)する能力が自由なのではなく、
他の人たちと談話・談論・討議(discourse:ディスコース)することのできる能力が、その
人にあることだ」といふ、このやうな自由です。

これは、安部公房の自由と同じ自由です。安部公房が論理の方向は全く正反対であつた三島
由紀夫を死後も尚、この能力の持ち主として高く評価してゐるのは、三島由紀夫が此の能力を
有してゐたからだと語つてゐます。[註4]

[註4]
安部公房全集第24巻176∼177ページの「周辺飛行19」の「前回の最後にかかげておいた応用問題」を
参照下さい。このやうなことの貧しい昨今の日本語の世界で、これが如何なることかを知ることができます。

思へば、この「他の人たちと談話・談論・討議(discourse:ディスコース)することのでき
る能力」とは、ソクラテスの能力に他なりません。ペティットはこのやうな関係を「独立し
た関係」と呼び、「この独立した関係は市民と国家の間のみにあるのではなく、個人的な関
係や職業的な関係にあつてもまたあるのだ」といふことです。

最後に著者が付け加へてゐるのは、ヨーロッパの哲学者の傾向として、自由の問題と公平・公
正の問題を結びつけて考へることがあるとしてゐます。これははつきりいへば、貧富の差のこ
とです。この差は公平でなく、公正ではないといふのです。これ以外にも格差はあるでせうが、
特にこの持てる者と持たざる者の格差を問題にしてゐるのがヨーロッパの哲学者たちである
といふ。確かに、いづれ取り上げる主題である「公平・公正」の写真は次のやうなものです。
貧しい男と金持ちの女といふ対比でせうか。
もぐら通信
もぐら通信                          55
ページ

いつもの通りに、この主題の下に掲げられてゐる写真を、この主題では二枚ありますので、そ
れを示します。これは一体何を意味するのか?
もぐら通信
もぐら通信                          56
ページ

上左の方は、南アフリカの人種差別に反対して牢獄に長い年月入つてゐて弾圧を受けたマンデ
ラ氏の写真、下右の方は、言はずと知れた、宗教上の理由でヨーロッパで弾圧されてアメリ
カ大陸に逃げて来た人間たちの国アメリカに、フランス人がアメリカ合衆国独立100年を
祝つて贈呈した自由の女神像です。

しかし、かうして此の二枚の写真の背景を考へてみますと、このヨーロッパとアメリカの白人
種たちにとつては、自由とはまづ、人種差別を巡る自由であり、宗教を巡る自由であり、こ
れと深い関係がありませうが同時に、政治を巡る自由であるといふことです。

(1)人種
(2)宗教(一神教)
(3)政治

安部公房の自由に関する二項対立の問ひは、食べ物も金もあつて不自由であるのが良いか、
それとも食べ物も金もないが自由であるのが良いか、といふものです。安部公房の論理です
から、どちらかを選ぶのではなく、二項対立を否定して、榎本武揚の如くに第三の道を求め
るといふのが、安部公房の流儀ですから、

A(豊かさ、不自由)、Z(貧しい、自由)

といふ二つの選択肢にあつて、

Aでもなく、Zでもない、第三の道としてある自由とは何か、それはどのやうに実現できるの
か、といふ問ひに答へるために/前に、この主題の下にある副題と、それから参照するように
指示ある三つの主題、即ち不安、意志、自立のうちの意志の項に、ショーペンハウアーの意
志の定義が引用してあるので、これと引き比べて考へてみることにしませう。何が得られるか。

著者の副題:私たちのしたいこと(意志すること)を、わたしたちは、したりしなかつたり
することができるのだらうか?
ショーペンハウアー:人間は、したいこと(意志すること)を成程することはできるが、し
かし、人間は何がしたいのかといふこと(何を意志するのかといふこと)を、したいと思ふ
(意志する)ことはできない。(『意志と表象としての世界』1819年)

ショーペンハウアーの論理によれば、著者の副題の問題に対する回答は肯定ですが、しかし、
何をしたいのか(意志するのか)といふ、その人間の行為の根底にある動機を、人間は選ぶ
ことも知ることもできないといふことになります。といふことは、ショーペンハウアーの視点
からみると、以上の哲学者たちの論は皆、意識の表層での論であり、無意識の深層での論で
はないといふこと、即ち社会と政治の範疇に此の主題が分類されてゐる由縁なのであり、人
間の最大の組織である国家と個人としての人間の関係の範囲に考察が留まつてゐる限り、第
もぐら通信
もぐら通信                          ページ57

三の道は見つからないのではないでせうか。やはり、あなたも越境者たらむと欲すれば(こ
れが既に意志の問題ですが)、「内なる辺境」に向かつて出発するか(アメリカの羊飼ひで
あるカウボーイといふ牛飼ひのやうに)または「周辺飛行」をするために存在、即ちニュー
トラルといふ存在概念に搭乗する以外には、安部公房の読者としては、ないのではないでせ
うか。即ち、

「僕の中の「僕」」、「私の中の「私」」といふ話法(mode)を使つて考へる。さうして、
世界の果てに行き着いて其の辺境に立つ「終りし道の標べ」を超えて越境して、私が彼/彼女
になるといふ経験を、自分の論理を尽くし、生理と心理の変化を考量しながら、するといふ
ことなのではないでせうか。

さて、いつもながら冒頭に戻つて、これまでの考察の検証をしてみませう。

「自由とは何か?といふ問ひに著者は答へてゐるでせうか?それを見てみませう。さて、書い
てあつたとして、その答へが正しいものかどうかは、属する文明圏と個別言語と国情が異な
りますから、私たちは自分で吟味しなければなりませんので、これも併せていつもながらや
つて見ませう。」

と、このやうにして考察を始めたわけですが、上記の通りに著者は思ひを巡らせて、自分の
文明圏にある自由の問題を一通り、6人の哲学者の説を列挙して、整理したのではないでせ
うか。これを更にmatrix(マトリクス)にしたものが、これです。これでこの章の、ひいては
現下のヨーロッパの、自由を巡つて人々は何を考へ、何を議論してゐるのかが一望できます。
今ヨーロッパで起きてゐる異人種・異民族流入が原因で起きてゐる混乱も(元はといへば自
らの植民地主義の播いた種ですから自業自得なわけですが)、この二つのmatrix(マトリク
ス)の上で俯瞰することができます。ダウンロードのURLは:https://ja.scribd.com/
document/388165273/欧米人-キリスト教徒-はと-こて-と-のセルて-自由を考へてゐるのか
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ58
この論考の最後に7番目の哲学者の名前を挙げませう。それは、上掲の自由の女神の横
にいつもながら引用されてゐる哲学者の言葉です。この哲学者の名前は、John Rawls
(ジョン・ロールズ)。典拠は『Theorie der Gerechtigkeit』(1971年)、カタカ
ナで書けば『テオリー・デア・ゲレヒティヒカイト』、和訳すれば『公平・公正の理
論』:

自由の価値は、どの人にとっても同じではない。

となると、まあ、あんた好き勝手にやりなさいとも聞こえますし、第3回の「何が在る
のか」といふ存在論の話に戻つて、あの全員が首だけで皆同じ方向を空虚に見つめてゐ
る像の群を思ひ出します。自由の女神が、まあ、あんた好き勝手にやりなはれと言つて
ゐるとはとても思へません。この写真の女神が左腕に抱へてゐる本に彫られてゐる年月
日とともに示してゐる意図は、ヨーロッパの伝統に則つて、世界といふ書物を読みなさ
いといふことではないのでせうか。(この年月日の意味するものが私には無学で不明で
す。)そこに自由があり、自由の松明(たいまつ)が、人間の道を明るくしてくれる。

さて、世界といふ書物を読むために、さうしてあなた自身も其の一部でありますから自
分自身を読むために、ここまで書いてきて、次の否定的な論理三つを明らかにして整理
しましたので、この論理で物を考へては決して正解には至らないといふこと、即ち、あ
なたが悪路を回避して第三の道を見つけて歩むための論理を掲げますので、実際の生活
で活用してください。これは、これまで日頃私が文字で読み、またネットの動画での発
言やその他日常の中で見聞きする日本人の主張や発言が如何にも狂つてゐるので、それ
がなぜかといふことを論理学的に解明した物です。まあ、解明といふのは少し大袈裟な
のですが、漢語を使へば強烈に伝はるかと思ふのです。大和言葉で柔らかにいへば、明
らかにした/あきらめたといふことでありませう。これは繰り返して活用する予定です。
この著者もまた同じ思考論理の陥穽に落ちてゐるのです。これはモラル・ハザードとい
ふ陥穽です。道徳の問題です。ゴルフでいふならばウオーター・ハザードやバンカーと
いふ砂の穴(といふといよいよ安部公房であるの)です。それ故にいつも問題を明らか
にすることができず、曖昧のままに放置して、自由ではないことに甘んじて、人の不満
を煽つてばかりゐて、数を頼みに徒党を組んで私利私欲を遂げようといふわけです。あ
るいは逆に、人の其のそそのかしにうかうかと乗せられてしまふ。

などといふ、こんな卑しい人間になることなくあなたが自由になるための、題して『ク
ルクルパー3否定型(否定の3タイプ)』です。これを含め、論理学については、難し
くないので、またこの連載の中で全体をお話しできると思ひます。ここでまづ掲示して
ゐるのは、論理の組み合わせのうちの、こんな否定的な屁理屈でものを考へる(ことが
思考することだなどと誤解されると、その人の人生は滅茶苦茶になり、その人も)クル
クルパー(狂つてゐること)になるので、まづ答へのでないものの考へ方(いづれも否
定形)を挙げて、後日の備へとしてをきます。名前をクルクルパーとしたのは、その方
が覚えやすいからですし、如何にもその通りだからです。理由は読めばお解りになる筈
です。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ59

ダウンロードは次のURLへ:https://ja.scribd.com/document/388947963/クルクルハ
-ー3否定型-否定の3タイフ-b

さう、この図と解説は、あなたが近代ヨーロッパ文明と共産主義(勿論マルクス主義を
含みグローバリズム即ち金融資本マルクス主義を含む)に毒されて道徳を失ひ、金さへ
儲かれば良いのだと思ひこんで虚無主義(ニヒリズム)に堕ちないための処方箋であり、
あなたが右へフラフラ左へフラフラ上へフラフラ下へフラフラと鳥ゐぬ里の蝙蝠になら
ぬようにと願ふからですし、あなたが超越論で物を考へることができるようにといふ(禅
語でいふなら)老婆深切からです。18歳の安部公房ならば「私は諸君に――諸君全て
にとは云はないが――此の沿傍に居を移す様に忠告する。これは私の強烈な犠牲心と同
情心とからだ。」といふことになりませう。ですから、お代は要りません。その代はり、
あなた、

さあ、箱男になりませう!

[最後の註]
これで、この連載の7番目のラッキー・セブンに至つて、地球上での、今の人類の生ま
れて以来の論理学の全体が明らかになりました。これを、もぐら論理学と名付けます。
もぐら通信                         

もぐら通信
この論理学は次の3つの論理の学からなります。まあ、三つ目は、クルクルパーですから、本当は
ページ 60
学問(science:サイエンス:科学)ではないのですが、この愚かさと馬鹿馬鹿しさと愚劣と卑劣
と陋劣と下劣を笑ふために学の文字をつけ皮肉を以つてさう呼ぶことにしませう。

このクルクルパー論理学を使つて飯を食ってゐる大学教授や国会議員や評論家どもが、うぢやうぢ
やとTVその他のメディアに登場して、したり顔で日本語を発する様はまるで馬が糞を垂れながら大
通りを荷馬車を引いて歩くやうである。これを私は痴識人と呼んで軽蔑してゐる。私はトーマス・
マンの愛読者であつたことを、やはり哲学の問題を連載し始めてから、ここに至つて卒然と思ひ
出したのである。これからはマンに倣つて、大いに時代の馬の糞の話をし、馬人間どもを辛辣に、
皮肉の胡椒をふんだんにまぶして、反語を以つて、反時代的且つ非時代的な批評をすることにし
よう。そのための参考書として、筒井康隆には21世紀版の『俗物図鑑』を20世紀版の続編とし
て是非書いてもらひたい。筒井康隆は電波芸者と呼んでゐたが、今思へば、毎日日舞や三味線の
稽古に精進する芸者さんたちを、痴識人にあてがふなどといふのは、お門違ひであつた。電波乞
食といふのはどうであらうか。さうなると地上波の放送局の経営者から社員まで皆入つてしまふ
かもしれない。まあ、確かに乞食は自由である。これを報道の自由といふのであらう。

この論理学は次の3つの論理の学からなります。( )の中は模範とすべき神々と人物の名前です。

(1)ヨーロッパ論理学(古代ギリシャの神々とソクラテスとプラトン)[註5]
(2)秋津島論理学(八百万の神々と稗田阿礼と太安万侶)[註5]
(3)クルクルパー否定論理学:これを馬糞論理学とも呼ぶことにしませう。馬頭観音といふの
はあるが、流石に馬糞観音はないだらう。しかしもし馬糞の神様がゐたら、私は大切にゐたします。
そして、馬糞評論家を名乗らう。勿論信心するかどうかはまた別の話です。

[註5]
(1)と(1)については『Mole Hole Letter(10):超越論(5)勾玉』(もぐら通信第85号)の[註2]を
参照ください。詳述しました。また、ヨーロッパ論理学と秋津島論理学の比較表のダウンロードは:
https://ja.scribd.com/document/384867977/ヨーロッハ-論理学と秋津島論理学
(ソクラテス、プラトン)と(稗田阿礼、太安万侶)の関係は、無文字思考と有文字思考の関係です。

この後、他の大陸から又島々から新たな論理が出てきたら、これらと比較照合して更新してゆく
所存です。しかし、基本は変はらないと、私は確信してゐます。もし海外旅行などをなされて、ま
た書物を読んで、新しい論理を発見したらどうぞお知らせ下さい。もぐら通信誌上で吟味したい
と思ひます。しかし、何しろ、私たち人類の思考形式は、有史以来、

似たもの同士を集める

ただこれだけなのです。これを二つに分けてもう少し分解すると言つても、

(1)類にする(homogeneity:ホモジェナイアティ)
(2)種にする(specification:スペシフィケーション)

せいぜいこれだけです。ですから、私はこれを分類とよんでゐます。考へる事は分類する事なので
す。レ点を打つて訓ずれば、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ61

す。レ点を打つて訓ずれば、

(1)分類:類に分ける(homogeneity)
(2)分類:類を分ける(specification)

といふ事です。この二つを一つに漢語を使つて表して言ひ、分類と呼ぶわけです。

似たもの同士を集めるといふ言ひ方がピンと来なければ、連想といふことです。私が連想連
語とか、概念連鎖といふのが、これです。お忘れでせうが、一度安部公房文学の概念連鎖図
を作成して掲載したことがあります。再掲します。「安部公房の概念連鎖図」(『安部公房
の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』もぐら通信第3

古代ギリシャのアリストテレスといふ哲学者は、連想(association:アソシエーション)
は人間の最高度の能力である、と言つてゐます。古今東西を、このあなたの能力は、全く
問ひません。即ち個別言語、人種、民族、地域を問ひません。我が国の伝統的な文藝で
いへば、川柳、俳句、俳諧、連歌、和歌が、これです。掛け言葉やら、言葉遊びやら、駄
洒落やら、本歌取りやら、近代ヨーロッパの文学用語でいへば、Parodie(パロディー)
やparaphrase(パラフレーズ)や、要するに、なぞること(なぞり)、もぢり、くすぐ
り、言葉に/をコチョコチョするといふこと、即ちズレを生むこと、ズラすこと、即ち差
異を設けること、即ち超越論(汎神論的存在論)で考へることです。言葉に意味などはな
く、何故なら言葉の意味とは差異(ズレ)だからです。これが言語機能論です。この論を
哲学からみれば超越論といひます。則ち、世界は差異である。そして、意味といふ価値は
等価で遍在する。即ち、安部公房の大好きな接続と変形の数学、topology。
もぐら通信
もぐら通信                          62
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(34)
   第2部 VIII
       ∼安部公房をより深く理解するために∼ 岩田英哉

VIII

WENIGE ihr, der einstigen Kindheit Gespielen



in den zerstreuten Gärten der Stadt:

wie wir uns fanden und uns zögernd gefielen

und, wie das Lamm mit dem redenden Blatt,

sprachen als Schweigende. Wenn wir uns einmal freuten,



keinem gehörte es. Wessen wars?

Und wie zergings unter allen den gehenden Leuten

und im Bangen des langen Jahrs.

Wagen umrollten uns fremd, vorübergezogen,



Häuser umstanden uns stark, aber unwahr, ― und keines

kannte uns je. Was war wirklich im All?

Nichts. Nur die Bälle. Ihre herrlichen Bogen.



Auch nicht die Kinder... Aber manchmal trat eines,

ach ein vergehendes, unter den fallenden Ball.
(In memoriam Egon von Rilke)

【散文訳】

数少ない者たちよ、嘗ての子供時代の仲間よ
都会の、散在する公園の中で
どのようにわたしたちはお互いに発見し合い、そして、ぎこちなく、
お互いを気にいったか、
そして、話しをする葉っぱを持った子羊のように、わたしたちが

どのように沈黙する者たちとして話しをしたのかということ。わたしたちが
嘗てよろこび、楽しむたび毎に、いつも、それは誰にも帰属しなかった。それは、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 63

誰のものだったのだ?そうして、どのようにそれは、すべての通り行く人々の中で、
そして、長年の不安の中で、壊れていったか。

馬車や車は、わたしたちの廻りを見知らぬもの(無縁のもの)として走り、通り過ぎていっ
たし、家々は、わたしたちの廻りに強く立っていたが、しかし、真実のものではなかった
し、そして、どの家もわたしたちをいつも知るものではなかった。何が実際に、現実とし
て、宇宙の中、万有の中にあったのだろうか?

無が。何もなかったのだ。数々のボールだけがあったのだ。それらの素晴らしい軌跡があっ
たのだ。子供たちもいなかった。しかし、時々、ひとりの子供が、ああ、過ぎ行く子供が、
落ちてくるボールの下へと歩み入ったのだ。

(エーゴン・フォン・リルケの思い出の中で)

【解釈と鑑賞】

前の幾つかのソネットは、花と女性を歌っていますので、このソネットでは、男性を、そ
うして子供時代のことを思い出して、リルケは歌っています。小さいころ、きっと一緒にボー
ル投げをして遊んだ親類の子供のことを思い出しながら、このソネットを書いたのでしょ
う。

「散在する公園」と訳したところは、直訳すると、撒き散らされた公園、庭園という意味
になります。いかにも都会の中にある公園という感じがします。そうして、そこで知り合う
子供たちの、ためらい勝ちな、ぎこちない挨拶。そうして、一緒に遊んだこと。

遊ぶこと、それは、誰にも帰属しない、だれの所有でもない、いつも喜びであったと歌わ
れています。リルケが、子供というもの、それから子供時代というものを、特別に大切に
考えていることは、悲歌でも充分歌われておりましたが、ソネットでも同様に、子供を主
題にひとつのソネットを書いたということなのでしょう。

子供時代には、何が一体宇宙の中に実際に存在していたのかと問う問いの前では、車も家
も真実のものではありません。何歳になっても、この問いを問うリルケがいるのだと思い
ます。芸術とは、そのようなものではないでしょうか。あるいは、芸術家とは、そのよう
な人間ではないでしょうか。

興味深いことは、第1部IV第2連第3行で飛び行く矢そのものを褒め称え、歌うのではなく、
矢の軌跡を歌ったように、最後の連で、投げ上げられるボールそのものではなく、そのボー
ルの描く軌跡が歌われていることです。その軌跡が素晴らしいといわれています。
もぐら通信
もぐら通信                          64
ページ

この素晴らしいと訳したドイツ語は、herrlich、ヘルリッヒというのですが、これは名詞、
Herr、主人、支配者、神という意味の言葉からできた形容詞で、従い主人であることの性
質、支配者であることの性質、神であることの性質を意味しています。素晴らしいという
訳語がもし誤解を与えるのであれば、主題が子供でないのなら、荘厳なと、場合によって
は訳することができる言葉です。子供時代の遊んだボールの描く軌跡、それは荘厳なるも
のなのです。

この対象を歌わず、その、言ってみれば陰や影や痕跡を歌うというリルケの思考と感覚は、
第2部ソネットIIの第3連にも明確に歌われていて、そこでは暖炉に燃える火、炎を見て、
生の眼差し、生の視線を忘れろと歌われておりました。それならば、わたしたちは何をし
たらよいのか、どのような人間であるべきなのかといえば、忘れ、喪うことを大地の喪失
と捉え、理解することができること、そうして、そうであるにもかかわらず、こころを褒
め称えることのできる人間であるべきだというのが、リルケの思想です。こころとは、そ
の第3連では、全体に、すなわち万有、宇宙の中に生まれ出でるものと呼び換えられており
ました。

このソネットVIIIの「話しをする葉っぱを持った子羊」については、リルケの短い自註が
あります。絵本の中なのか、あるいはそういう羊の絵が幾つも描かれているのでしょう。

Das Lamm (auf Bildern), das nur mittels des Spruchbandes spricht.

手元の辞書をひきながら訳すとこのようになります。

【訳】

銘帯(中世の絵画に対して絵の内容を説明する言葉の帯)を使ってのみ話しをする(絵の
中の)子羊。

都会の子供たちは、はにかみ屋で、直接言葉を交わすことができずに、何か他のものをつ
かって −それは多分何かの遊具― 一緒に意思疎通をして遊んだのでしょう。ボールは
その遊具の典型的なものだったのでしょう。あるいは、都会の子供たちでなくとも、初め
て会う子供同士というのは、そのようなものであったし、これからもそうでしょう。誰の
経験にもあることだと思います。

「しかし、時々、ひとりの子供が、ああ、過ぎ行く子供が、落ちてくるボールの下へと歩
み入ったのだ。」

この子供は、エーゴン・フォン・リルケなのでしょう、いや永遠の子供というべきかも知
れません。
もぐら通信
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【安部公房の読者のためのコメント】

このリルケの詩を読んで、さて読者に伝へようとして最初に思つたことは、やはり未分化
の実存と安部公房の呼んだ、人間の本来のあり方です。『カンガルー・ノート』ならば「垂
れ目の少女」であり「トンボ眼鏡の看護婦」です。『S・カルマ氏の犯罪』ならば「マネキ
ンのY子」といふ、やはり同様にニュートラル(neutral)な女性、即ち存在として時間の
中を生きる即ち現存在です。安部公房の存在論の記号を使へば、《存在》として時間の中
を生きる即ち《現存在》です。

話が変はるやうですが、同じ話です。

最近改めて『終りし道の標べに』の最初の版(1948年:真善美社版)と二番めの版(1
965年:冬樹社版)のエピグラフを比較をして、誠にお恥ずかしいことに遅ればせなが
ら気づいたことがあります。安部公房の存在論の記号《 》に注意してお読み下さい[註
1]。

1948年:真善美社版:
「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
 そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
 記念碑を建てるようとすることはそれ自身君を殺した理由につな
 がるのかも知れぬが……。」

1965年:冬樹社版:
「《亡き友に》

 記念碑を建てよう。
 何度でも、繰り返し、
 故郷の友を殺しつづけるために……。」

[註1]
安部公房の存在論の記号に関する簡略な結論の説明は『カンガルー・ノート』論(もぐら通信第66号)の
「3。『カンガルー・ノート』の記号論」を、また詳細の論述については『安部公房の初期作品に頻出する
「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)をお読みください。論証しました。

『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)』(もぐら通信第58号)の「IV 「転
身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)」中の「1。「②詩と散文
統合の為の問題下降」の時期:(2)詩と散文の統合:詩形式による「今後の問題の定立」(『無名詩
もぐら通信
もぐら通信                          ページ66

集』):1946年∼1949年:22歳∼25歳」より引用して概要を説明します:

「【散文に関する結論】
『終りし道の標べに』では、

(1)安部公房独自の話法、即ち内省的な記憶の中での「僕の中の「僕」」に呼びかける話
法にあつては、会話は《 》でやりとりされてゐる。それから、
(2)此の意識に連なる場合の哲学用語についても、《 》で書かれてゐる。これに対して、
(3)呼びかけない話法、即ち形式上普通の話法にあつては地の文の中で「 」で語られて
ゐる。
(4)『終りし道の標べに』は、このやうな二層の構成をとつてゐる。そして、

『名もなき夜のために』では、

(1)《 》の使ひわけはそのまま〈 〉といふ記号として『名もなき夜のために』に受け継がれてゐる。
しかし、この使ひわけはもつとよく整理されてゐて、
(2)安部公房独自の話法の内にある詩の世界の言葉だけが〈 〉といふ記号で識別されてゐる。一言でい
へば、リルケの世界に関する用語だけが〈 〉の中にある。勿論哲学用語と重なる同じ言葉はあるが、それ
は哲学用語ではなく、リルケと自分の詩の世界の言葉である。哲学用語が〈 〉の中にあることはない。即
ち哲学用語は地の文の中に問題下降されてゐて、
普通の言葉になつてゐる。
(3)『終りし道の標べに』を問題下降して『魔法のチョーク』を書くために、『無名詩集』をも併せて問
題下降した数学的中間項である詩的・散文的作品『名もなき夜のために』は、『終りし道の標べに』を踏襲
して、このやうな二層の構成をとつてゐる。
(4)『名もなき夜のために』では、後述する安部公房の問題下降の努力によつて、安部公房らしいことに、
《 》や〈 〉の記号の階層にある文と地の文に書かれた文字そのもの、文章(text)そのもののtopological
な交換、即ち『デンドロカカリヤA』(雑誌「表現」版)の主人公コモン君の経験した座標の喪失、即ち内
部と外部の交換を、安部公房は『名もなき夜のために』で、自分自身の事として、そして文章(texts)の問
題として実行した。これは、全くバロック的な試みであるといふ事ができる。

このやうに意図して、また同時にtopological(位相幾何学的)な方法で、安部公房は詩人から小説家になつ
たのである。この論理的な、問題下降による変身または「転身」は、誠に安部公房らしい。」

問題下降完成前の1948年の作品では、まだ金山時夫といふ固有名詞であり、リルケの
『オルフェウスへのソネット』を共有した最も親しい詩の世界の友人であつたものが、問
題下降完成後には存在論の記号の中に入れられてゐて《亡き友に》とあつて、この友が存
在に生きる普遍的な友であることを文字と記号で書き表すことができてゐます。

リルケの『オルフェウスへのソネット』の第一部Vの詩は次のやうに記念碑で始まります(も
ぐら通信第60号):

「記念碑を建てることをしてはならない。薔薇には、
 彼のために、ただただ毎年花を咲かせるようにしなさい。
 何故なら、オルフェウスが薔薇だからだ。オルフェウスは変身して、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ67

 これにも、あれにも、なっている。わたしたちは、オルフェウスという

以外の名前を思い煩うには及ばない。歌声があれば、いつも、(以下略)」

ですから、冬樹社版の「記念碑を建てよう。」といふ最初の一行の言葉は、この友人の霊
を弔ふために存在の記念碑を建てようといふ意味であるものの、その霊を慰める慰め方は、
日本人の世間の例とは全く異質であつて汎神論的存在論に基づく哲学的な存在の慰霊祭な
のであり、それ故に「何度でも、繰り返し、/故郷の友を殺しつづけるために……。」とあ
るやうに此の故郷の友が、その後の安部公房の主人公が皆最後に失踪し、または死の理由
の如何を問はず、安部公房によつて殺されて死ぬ、存在の故郷の友なのです。

この安部公房の、現世にあつて普通の人には残酷で異常な論理は、三島由紀夫の創作論理、
即ち、親しく敬愛した知友を虚構の中で殺人するといふ此の作家の礼儀作法[註2]に通
じてゐます。勿論、方向は正反対を向いてゐて[註3]、現に生きてゐる友を虚構の中で
殺す三島由紀夫に対して、安部公房は、死んだ最も親しい友を虚構の中に《存在》として
生かすからです。しかし、後者については、やはり三島由紀夫の礼儀作法の場合同様、現
世にあつて普通の人には残酷で異常な論理と言はれるでせう。

この二人の共有する接点と、ここでも正反対の方向を持つてゐる二人の言語藝術家が日本
の明治時代以降の日本の文学史上有する意義については、考察に値すると私は思つてゐま
す。如何に二人の藝術上の関係と其のあり方が、特に先の戦争後の日本の国と日本人に対
する徹底的且つ苛烈なる批判そのものであるかは、二人の藝術観の対照も含めて、言語の
観点から、稿を改めて論じます。

[註2]
「『月澹荘奇譚』論」(もぐら通信第87号)に詳述しましたので、ご覧ください。

[註3]
安部公房の言によれば、二人はあらゆる接点を共有していながら互いにすべての接点で正反対の方向、或い
は接点そのものの陰陽が裏返っている(「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」:「『対談』[対
談者]大江健三郎・安部公房」全集第29巻、73ページ下段)。

この安部公房自身に対する残虐な論理の適用は、即ち自分の手で自分の肺腑を抉(えぐ)
ることによる理論篇『詩と詩人(意識と無意識)』の実践論理を、詩人から小説家に「転
身」する過程で安部公房は『牧神の笛』(1950年)に次のやうに其の最後の一行を書
いてゐます。これはリルケ論に他なりません。しかし、真善美社版(1948年)のエピ
グラフのやうな(世間の人間たちにとつては)肯定的な記念碑の建設ではなく、このエッ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ68

セイでの牧神は人間と獣を併せた姿をした半獣半人ですから、その論理は(世間の普通の
人間たちにとつては)否定的な記念碑の建設といふことになつてゐる筈です。それが冬樹
社版(1965年)のエピグラフといふことになるわけです。さて、『牧神の笛』の最後
の段落です。

「結局、ぼくの(引用者註:リルケに対する)いきどおりも、その凍りはて裏がえった
フォーンの快活さにたいしてであり、それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼ
くの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろ
うか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹かねばならぬのだ。」(全集第2巻、202ページ)
(傍線は原文傍点)

この1950年、安部公房26歳のエッセイの末尾の引用は、自己の再帰的なあり方の自
己否定であり、否定的な自己再帰性であり、これが冬樹社版のエピグラフに《亡き友に》
と書けるやうになつた理由です。詳細は上記[註1]の初期安部公房論をお読み下さい。

安部公房は安部公房スタジオの若い俳優たちに、三島由紀夫とは正反対の残虐・冷酷な自
己再帰性の否定を、自分の墓を暴(あば)け、と教へたさうです。さもありなむ。

私は、この論理にニーチェを読むことができます。しかし、すつかりリルケを自分のもの
にしたニーチェです。さうおもつてみれば、安部公房の主人公は、山を降りてきて常に問
題下降するヘタレ・ツァラトゥストラであるといへば、誠にヘタレ・オルフェウスである
とともに、そんな面影も備はつてゐます。

安部公房は、この否定的自己再帰性を、数学的には、否定論理和(否定の足し算)で話を
始め、最後には否定論理積(否定の積算)として話の結末に表し続けたのです。典型的に
は『赤い繭』を、また『S・カルマ氏の犯罪』を思ひ出して下さい。最初が何で始まり、最
後が何で終はつたか。
もぐら通信                         

もぐら通信 69
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ70
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
もぐら通信                         

もぐら通信 71
ページ
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少
年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
もぐら通信                         
編集後記
もぐら通信 ページ72
●荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(8):上昇通路:全く安部公房の文学によく通ふ荒巻さ
んのメタSF詩です。『現代詩手帖』7月号にご投稿の詩を拝読しましたが、やはり他の詩人たちと
は言葉の深さが違ふと感じました。有名な詩人同士の対談も目を通しましたが、一体何を言つてゐ
るのか理解ができない。抽象的な議論をしてゐるといふよりも、何か其のやうな言葉をただ知つて
ゐて共有してゐることと、その言葉に関しての自分の感想や思ひを述べ合つてゐるだけで、さうし
て共にうなづいてゐるだけで、意思疎通ができてゐないのではないかと思ひました。即ち、世間が
恐ろしく狭いのです。トーマス・マンのいふ仲間内の隠語(ジャルゴン)を確かに外国語で話して
ゐて、英語、フランス語が、私にはわかりかねる隠語になつてゐた。ドイツ語を隠語でやつてをく
れ。●『周辺飛行』論(3):周辺思考 II:段々と安部公房の考へが整理されてきました。今はま
あ理論編といふ事になりますが、私は俳優ではないので、細かな生理的・心理的な均衡のとり方に
ついてはシナリオとの関係で説明することができません。自づと限界はありますが、できるところ
まで行つてみませう。シナリオそのものを俎上に載せて論ずる事もしてみませう。芝居を見るのは
苦手ですが、レーゼ・ドラマ(読む戯曲)としてなら何とかなるかも知れません。●『こんばんは
21世紀』(テレビドラマ)誕生秘話:思ひもかけぬ誕生秘話がネットに出てゐて、これは拾ひ物で
した。安部公房のドラマの好きな読者には、新発見の読み物だつたのではないでせうか。●安部公
房とチョムスキー(11):13. 1 座談会『近代の超克』(文芸誌『文学界』(1942年(昭
和17年)9月及び10月号))を読む:今回も休筆御免。額に三日月型の刀傷といへば、天下御
免の旗本退屈男。私は天下御免のもぐら男。あなたも、さう。多分間違ひなく。但し、どんな退屈
かは人それぞれ。これも間違ひなく。●奉天の町の様子:これも以前は探してゐた時には見つから
ぬものでしたが、何が偶然なのかはわかりません。見つけましたので、お知らせしました。よくま
とまつてゐて、少年時代の安部公房の生活環境が視覚的に理解できます。これぢやあ、全然内地と
生活が異なるわけです。日本語だからといつて安部公房の文章を理解することは油断禁物。●哲学
の問題101(7):自由:これもまた、私たちに日常的に安易に使用する自由といふものとは、
大いに大違ひ。なるほど、キリスト教からの自由、政治からの自由など、島国の呑気な我らにはご
縁がなかなかなかつたものぢや。といふのんびりしたことがいへなくなつてしまつた今日この頃で
す。やはり、辞書を引きませう。そして読書に励みませう。安部公房を読みませう。そして、自分
の脳味噌で考へませう。●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(34):第2部 VII:
数少ない者たちよ、嘗ての子供時代の仲間よ :遅まきながら『終りし道の標べに』のエピグラフ
の解説をしました。これですつきりしました。また同じことを他の論題で引用することになると思
ひます。●ではまた次号

次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
差出人: ご寄稿をお待ちしています。
贋安部公房
〒 1 8 2 -0 0 次号の予告
03東京都
調布
1。『周辺飛行』論(4):『周辺飛行』について
市若葉町「
閉ざされた 2。荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(8)

限」 3。安部公房とチョムスキー(10)
4。私の本棚:柳瀬尚紀著『日本語は天才である』
5。哲学の問題101(8)
6。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(5)
7。Mole Hole Letter(12):超越論(6):安部公房の女性の読者のための超越論
もぐら通信
もぐら通信                          73
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第88号訂正箇所】

安部ねり様、近藤一弥様、池田龍雄様、ド なし
ナルド・キーン様、中田耕治様、宮西忠正
様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後

潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓 の最新版を差し替へて置いてあります。

一郎様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行
様、内藤由直様、番場寛様、田中裕之様、
中野和典様、坂堅太様、ヤマザキマリ様、
小島秀夫様、頭木弘樹様、 高旗浩志様、島
田雅彦様、円城塔様、藤沢美由紀様(毎日
新聞社)、赤田康和様(朝日新聞社)、富
田武子様(岩波書店)、待田晋哉様(読売
新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。
安部公房の広場 | eiya.iwata@gmail.com | www.abekobosplace.blogspot.jp

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