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紳 皇紀 自序
本紀は最く*我帝國碑代より 高世一系の皇統を継承ましましける
碑 皇 五十 一 代の史上波れ させ給ひて博らざりしものありしこと を発
見し 謹 んて共御事填を世に公にするものなり。
仰*神皇五十一代は天碑七代地祇五代の後を承けて宇家測 不二合
須世と稲し、二千七百有除年にして、人皇の世となれり。 面して、各 碑皇
天祀日子火火出見奪の談訓を長みて即位毎に御講を襲承ましまし
は即ち 第一代の碑皇より第五十一代の碑皇に至るまて試れも、御
シ不合奪と稲し奉り各碑后も 赤又談訓に則り立后毎に御誌
承して 執れも 多摩夜里里女奪と賜はりしものなり。猫に 推みる
に人*第一代碑武天皇は即ち碑皇第五十一代ェ不合奪の御子に
ましましけるに、史上碑皇第 代 刺芽暮 不合奪 の御子の 如く停はれる
自 序

自 序 二
に因り 愛に 長れ多くも全然五十有除代の碑皇の浅れさせ給ひて世に
停はらざる に 至れ り しもの なら む 参天。
*

夫れ 碑皇五十一代の御事填は誠に 長れ多き事なれど 吾家の事 適 動


機となりて発見しにき。不 明治二 十六年、甲州の 郡 内に衣食 せ むと
するや、先考 目 く、信州の 飯田 には、吾 祀先の 南朝に勤め し事 填 の あるあ
り、等しく指定地なるに、比を措きて、彼を選 み し を惜 むと。不 始めて、
共選 を過 り し を悔ゆ。 然れども 最早如何ともする能はずして遂に甲
州の郡内に衣食することとなれり。一日、大塔宮護良親王の御首 級の
比地に奉祀 しありけるを耳 にし、即ち、敢 て故國に報ず。先考 目 く、然 ら
ば信州より甲州或は可ならむかと。爾来 共旨を鶴し、公務の傍ら専ら
比が事 填調査中 曾。建武二年、共御首 級 を、富士山阿 祀谷元宮 小室浅間太
紳宮の内宮 に、隠秘 し奉り し ことありしを知る。乃ち、奮然又、共太 紳宮
の 由来を追究せ むとして、偶。多くの 古 文書を発見し、省 町以て推 要 せし
に、同 ら 登 大 神宮 は、太古 高天原 东 湖北 省 阿 祖山 太 神宮 と 称し 本0㎡ <
*速く 制 代 の 御 制 文 に 係り、天 聖天 照 大御神 の 神殿 を 受け て、地 派 第 1
代 より、神 室 第 五 十 一 代 に 至る ま て、執 れ も 共 約 前 殿 に 於 て、即位 式 を 行
は せ 結び し 所 調 前 代 の 資 所 に て まし まし き。
是 に 於 て、始めて 知る。 地底 五代 の 後、加 に、五 十 一 代 の 神 室 の 在 しま
す あり て、天下 を 知 食 しめ させ 始 か し こと を。 然 れ ども 共 約 事蹟 の 史
上 地 大 させ 始 か て、世に 使っ さり し もの あり し こと を 後見 し て、恐懼 府
す 所 を 知らず。 如 ら 是 れ、受 れ 多く も、事、 基金 に 開 し、體重 日 っ 大 なれ ば
り。 如 ら、共 設 を 頼み て、溫 に 共 知り し 事 を 奪 明 にせ ば、反 つて 敵 なら
~


す。 其 心 を 書き ず し て、漫 に 共地 れ し 所 を 後 表せ ば、神 つて 応 なら ず。
方 も、歩 しく、比 が 併 成 以 て 生命 と 残し、一片 假名 古音 さて、佐々 として 1
十有九 年 の 如 し 東 に、共 其 相 と 信 する 所 を 縮め、今や、浙 < 世に 公 に
する こと を 得る に 至 九 り 強し、 副本 の 完美 は 我國 體 の 金融 集散 を
自 文 !
»

日文
した た 光 地 あらし め、成 皇統 の 高低 % を して余剰 なら も る。
り たり な不 件 投 く離開 く文經 將 他们 にし て 敵 機機嫌味 だ 修 を加
< 3,532 顆 し。 到 江路 將 敵 を 終わ ず、敵 の ある 所 を 象 也 る 、あ

ら ば、李 世
碑 皇紀 凡例
一、本紀を分ちて、四編となす。即ち 第一編に 紳皇に闘する御事填を第
二 編 に、各 碑 皇 の 即位 式を行は せ 給
しける 者 を牧 め たり。
一、第 一編を 神皇之巻と名づけ、碑皇に闘する御事填を分ちて、四章とな
す。先づ 第 一章を総説とし、碑代より人皇 に 至れる鍵 遷 の 硬概を 第
二章を前紀とし、碑皇以前、即ち碑 よ
闘より 砕皇 に 至る ま て、所 請碑















する
祇 の 御事 填 を 第三 章を正紀とし

れる
を、第 四 章を後紀とし、碑皇 より人 事賞 及人皇十二 列聖を
稲述し奉る。
第二 編 を、碑宮之巻と名づけ、各碑皇 の即位 式を行は せ給 ひし場所、即
凡 例 一
1

シ が 反駁 回 龍山 太 師匠 の 由來 を分ら て、三帝 と なす。 伴っ 第 1 章 を
將官 とし 大 師匠 の 創立 4 0 世に 至る まで の 交通 の拠 地 をš *
を 大 師匠 の 木簡 とし、五 期 に 分ら て 送 水兵 而 來 形 變遷 を後 李 ºš
論 とし 大 師匠 の 南北朝 時代 より 近世 に 至る まで の 後 還 を築き 」発
る。
% 討 を 停刊 之 徒 と名づけ 離 に 開する古 文書を 飛 來 」來 水 *
即ち が 大 原町 制 出太 神宮 の 大宮司を分あて、赤 一 肇 * *\$
安 を 務官 とし 北大 司 の 後継 の根拠 を 述べ後 11章 を 大宮司 の 正
論 とし を 破 天空 任命 の 大宮司 家 に魔神天空 任命 の大宮司 を š *
と 敵疎 とし 北市 文書を 複数 ,し て保存 しける者 を 列記」た º ?
大 司 の 下 に 制 可·司 其 等 を も 飛龍 觀º &
第 四 聖 保祿 之 徒 と名づけ 離 に開する古 文書を 撤収 する 高
2 % 討 を から それとた す。 伴っ 第 1 章 を 上艦 とし 後劉永遠 の
*
事 成 に 子孫 及 從者 を 第 二 章 を 下層 と た し、徐福 及 其 子孫 の 教 政 し
ける 古 文書 の ぼ 日 及 硬貨 を 記 達し たり。
1、神代 は 古 文書 に 表れ は 自ら 五 期 に 分 れ ける もの , ,倉
期天 之 世 天 之 神 也 代。 第 二 期 天 之御中 代 世 大 高見 神子 五代 第 三
期高天原 世 天神 也 代。 第 四 期間 町 站 原 世 地 神 王 生” “ 南寧 安 魂
不 11合 気 世 合 氣體 光 十 一 代 是 たり。 然れ とも 本紀 は 第 一 期 第 二 類
を 共 機構 に 止め、第 三 期 以下 代 を 分 も て 許 証し 東 九 0
1、古 文書 は、奈 德爾 自ら 撤収 しける もの と 共 子孫 と 代 まで 終於 し け
* の と あり。 而 ,し て 欲しく ぼ 胴 の 総 攻 しける もの たる も、中 神话
後 周 の 日 神 及 傳 記錄 に 位 れる もの と アJ 神武 の 遠縁 の 日 談 及 系譜 に …
術 れる もの と 多少 の 試點 あり。 因 ん や、共 子孫 と 代 ま ご 教改 しける
に 於 て を や。 該 に 中 文書 のみ に 作り、散ら 安 的 事實 を 定め ら と す
る は、共 正樹 を 得 たる もの に あらす。 伴隨 たる 古 文書 全校 に 通じ て、
* & 三
-
凡 例 四
初めて共事質 の眞相 を窺知する ことを得可 し。本紀は著者 が二 十
有九年間共全般 を通謡 して、共指示 しける所に従ひ、各 古跡を質地探
査して、潮く共眞相と信ずる所を以て編 韓 し たり。
一、本紀 の引用せる古文書は言語 の通 ぜざる者 と者との間 に於 て、漢字
を以て 録取 しける こととて、讃 み 難き語句 赤勘 からず。例へば 敷き」
を「鳴佐無気、川を渡 らんとす」を川尾渡働運登須」の 如 し。故に何人に
も解し 易き貸 めに、共 眞意を害 せざる限り、努めて通俗 的に編述せり。
故に文詞の時代及文鮮の他俗を以て太古の事獣を批議せらるるこ
と なく む は 幸甚 し。
二府録系譜は、一に古文書のみに操りてNを編成せり。即ち足れ従来
の所請正史を参的すれば、一種の合作系譜の嫌あるを以てなり
一、附録園面は、太古 より博れる圓面。天平二年八月中、行基上人の模寛
しける海伊國圓面。大同元年八月中 太碑宮 祀 傘山背郡 大領 太田 伴
えここ ま 」
ここ j、*
眞 長の 模寝 しける大 噴火国 面、建 久五年九月、大
総 地頭、宮下源太夫義仁
HA の 模寛 しける富士
書の 附属園面等を基礎として、参謀本部 園 面 に準
" ものなり

好意 を多 と する もの なり。
。 大正十年四 月三 日
紀日 次
-*

第一 編
第一章
* * * * ** * * * - * * * *** * - - * * * * * * ** * - ● ● ● ● * * * * ● ● ● - -● ● - ● ● ● ● - * 』 - ● ● ●●●
第二章
****** ********** *** ・・・・・・・・・・・--** ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』 - ● ● ● ● 』
* ****** ・・・・・・・・・・・--*・・・・・・・・・・- ・・・・・・・・・・』 ・ ・・・・・
第二










臼 次
日 *
第二節 天 之 御 中世 火 高見 神 十 五 代 …:O
第一 天
~

第 ll 高安 克 郡 明神 :
________________-_ -__________________-- ------ -----
第三 字法 比古神 |
*
- -- ----- --____________ ----- --- ----- -- --- --- ---------
第四 字學 思字加 湖 比 古 神
第五
第六
第七

第八
第九
第十 之 火 明 市方 神: |
第十 天 之 水 里 制:
第十 二 天 之 金 山田方 神 :
第十三
第十四
第十五
三セ
第三節 高天原 世 天 碑 七 代 :
* - - - - - - --
三毛
第一 国 立奪 ::

第ニ 国狭 ::
- - - - - - - - - - - - - -- - - - -- -- -- -
- - -- - *- --
園三
第三 淳奪 尾茂 太 留 奪:
: 四交
第四 泥土 者 奪:
碑 四六
第五 大戸道 奪 ::
四指
第六 面 足奪:
: - -- - - - - - - - - - -
四分
第七 伊井 諸 奪 :
皇 吾三
第四節 豊阿 始原世 地 碑 五代 ::
吾三
第一 天 照大 御 碑 :
交北
第二 天 之 忍 穂 耳 奪:
紀 七一
第三 天 日子 火 々 杵奪::
八吾
第四 日子 火 火 出 見奪 : :
丸三
第五 日子 波 激 式 鶴 考 算 不合奪:
- -- --- - - -- ---- --- -- --------* -* - - * - - - - * * ** 丸毛
第三 章 正紀 碑皇

T 次
第 一節


碑 皇 第二 代
碑 皇 第四 代
碑 皇第十二 代

碑 皇 第九 代

碑皇 第六代

碑 皇 第三 代

碑 皇 第 一代
碑 皇 第 十三 代

碑皇 第八 代

碑 皇 第七 代

碑皇第五 代
碑皇第十四代

碑 皇 第 十 一代

碑 皇 第十 代
碑 皇 第十 五 代


宇 家 潤 不二 合須 世 合須 紳 五十 一代:
日子 波 激 武 言 合 奪 :
:



日野

二 :



宇摩
一 :



豊田 :



阿知

二 :






二 一
:


田彦
佐津 0

田彦


:

王 :



阿蘇

0
一 穂高

:



C

:


田彦
奈良

三 ●
●●
*****
--
--***
*
--****
****--**
--***
**
**** 天三子

:

王 ******
*
-●
******
- ****** :






一 :



武力
0

一 武二

:

王八

丸七



科 文法 + : * H な:... .… 11*
韓文 第 十 七 代 加日 H な:. 三名
韓文 第 十 八 代 都 位 老 王 李… ______ - -… 元
韓文 第 十 九 代 加 修正 な… _ … O
种方 第 二 十 代 加 作用 老 王 李 …: … 三
神仏 第 二 十 | 先代 登美 田 里 王 仲 : 1試
种方 第 二 十 二 代 等 科 里 王 李: 1
种方 第 二 十 三 代 津 家 建 王爷 : 黃
神文第 二 十 四 代 久远 在 老 王爷 …: 1試
神社 傍 1 + 王 先 宇佐 夫 王爷 …:1
种 自從 二 十 六 代 津田 修 王 李 … 関O
种方 第 二十 七代 頭 長男 王爷 : …1
神文第 二 十 八 代 足 長沙 王 李 :
神圣 彼 1 + た 代 手身成 王 李: 阿
种 文 俗 ' + 小 山守 性 主祭 : … 阿希
神社 傍 ! + ' £ 佐奈 川 方 王 弥 :1
日 *
日 *
神文 第 三 十 二 代
神仏 第 三 十 三 代
种自 第 三 十 四代
神圣 彼 + 王 先代 田 高密 王 李






-
川上 明 王佐 -------------------_-_… …

神圣




千利 式 王 弥 ----- ----- -- ---_______________________ _


五老






st

玉 縣志 王 等 ------------------------------- - - -- ---------
__________1 人












流 川弘地 王 李 ------------_-_-_____________-----------{
1





年代
國 科 長男 王 徐 - ---- - -- ---- --- -- ----- ---- --- --- - - - ---- -_ -_ -_ -_-_____








…… … … … • • • • ••• • •• • •• • ••• • •• •• • • • • • • 大
玉 珍于交





神宗
神 兵 第四 十 四 代
神圣 第 四 十 五 代
神自 第 四 十 六代
神圣 徒 四 十 七 代
第四章 後紀 人皇 -- - - - - -- -
:: 一丸丸
第一 東征 の 部署:: 一発
第二 丹

征討

0
三-



・・
第三 鬼山





・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第五 碑后登退 ・・・・・・ 。 三二四
第 ニ節 人皇 歴代 :: 三毛
第 一 代 碑 武 天皇 : 三毛
第 一 奪 都 と 即位 ・・・・・・-----
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- - 三二七
日 次 七
t ネ 八
第二 ㎞ , 访问:… 元
第三 桜 新 金 : 三文
第四 桜子: 三角
--- -- --- --
第五 致 治 人 氣旋:
第六 的 风 神社 :…:

第二 代 統 時 天空 : O
第三 代 ( 學 天空 :… 元
第四代 統 懇 天空 : 1
第五 代 楽 町 天空 : 三哥哥
第六代 率 安 大 白玉 … 元夫
第 七代 楽 祭 天空 :… 元
第八代 楽天 天空 :… 大
第九 代 别 代 天文 :· 文
第十代 % 討 天文 :· 交通
第十 一 代 派 に 天白 :· |
第十 二 代 :·|0
第三 節 鈴 説: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・. 三むへ
第 一 三 品 の 大 御 賞: 三毛へ
----------- - ---- - ---------** - -------- - -*** - *-
第一 左右 大 砕 :: 三へセ
第三 歴 書: 三 一
第二 一編碑宮之巻 紳 皇 即位所 * ---------------------------------------** **
三丸五=国三国
三丸吾
第 一 章 総説 :
第一 太 碑 宮 創立 : 三0交
第二 太碑宮 の 碑 使用 : 三0人
第三 太 碑宮と七廟ii 三二
第四 太 碑 宮 の 守護 碑 :: 三三
第五 太 碑 宮 と 紳 皇 即位 式: :: - -- -- -- - -- - - - - - --
三国
臼 次 九
-*-*-へへ-ヘへへ〜〜

。 # 。 盤 豊
太 太
岡 太 高 太 太 天 耐 耐 耐
耐 耐 昭 晃 宮 宮

;

*_-

と ?
日。分 癖 遷
御 巻


使 地

祀 本 祀 及 : ; 震
と 武
* 耐 :
豊 新 ㎞ 器
耐 耐 : の

* 盛 監 。 。
第 十八 太 宮 競 使 検察:: 三ニョ
第十九 太 碑 宮 三 分赴: 三 へ
第二十 二 所 明 碑: *
三三
第ニ 十 一 貞 観 の 大 噴火: 三交へ
-* ** ----** --
第 二十二 太 碑宮 改 稲: 三毛交
第 五期 富士十二 郷 :: 芸二
第 二十三 太 碑 宮 の 新宮 伴 ::: 三へ一
垣 ニ十四 太 碑 宮 の 新 大宮司: :: 三人交
第二十 五 太 碑 宮 の 碑 領 と 十 二 郷:: 三丸一
第 二 十六 太 碑 宮 と 都留 郡 ::: 国二0
第 二 十士 太 碑 宮 の 別 常:: 国三国
第二 十 八 太 碑 宮 と 将軍家 ::: 園二へ
第三 章 除論 : ・・・ 『三国
第三編宮司之巻 紳皇書保存
藤 者 i ・・・・・・国三 u至0言
日 次 一
第 一章
第二 章 碑皇書 保存大宮司(正篇)i ・・・・・・・・・ 四国三
第 一節 孝 霊 天皇 任命大宮司 : ●●● ● ● - ・・・・・ - -** i 四園三
第 一代
第二 代
第三 代
第四代
第五代
第六代
第 七代 顧 地 記 太夫命:: 園国吾
第八代 幅 地佐 太夫命 :: 園四吾
第二節 應碑 天皇任命大宮司 : 四
第 一期 富士 谷 保存 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四国交
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
原書 保存 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四園


大山 守 皇子: * *** ・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・、・・


国国老


宮下 源 太夫 明政:: 国吾一


宮 下記 太夫 仁忠: * *** ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 園吾三




宮下 源 太夫 政 正 : **** ・・・・・・・・・・- * *****・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。 園吾


宮 下記 太夫 政宗 : :: 園吾


宮下 源 太夫 仁 長:: 四吾園


宮 下記 太夫仁 元 ::: 園吾


宮 下記 太夫 仁 家 ::: 園吾


宮下 源 太夫 宗仁:: 園吾交



宮 下記 太夫 國仁 :: 園吾交
宮下 源 太夫 元 國 : i 園吾セ








宮 下記 太夫 仁成: - --- --- - --------- -- - -- - ---- --- - - - - -
園吾七





宮下 源 太夫 元 政 : 四六





宮 下記 太夫峰 元 : 園吾合





宮下 源 太夫 元 氏 : 四吾丸





宮下 顧 地 太夫 元治: 四交0


一三
目 次 一四
第 十 七代 宮 下記 太夫 元 照 : ・ 四交C
第十 八 代 宮下 源 太夫 元 定 : 交
-

第十九代 宮下 顧 地 太夫 國 富: 四六一
第 二 十代 宮 下記 太夫 元 長 : 四六三
第 二 十 一代 宮下源 太夫 秀 元: 四六三
第二 副書保存 時代:: 関交尋
第 二 十 二代 宮下顧 地太夫元長: 四交三
第二十 三代 宮 下記 太夫 元 頼: 四交囲
第二 十四代 宮下 源 太夫 元 道: 闘交囲
第 二十五 代 宮下顧地 記 太夫元村:: 四交吾
第二十 六代 宮下 源 太夫 元秀: 四交吾
第二期 相模國 保存時代 四交交
第 雨宮 奪 務 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四交交
第 二 十 七代 宮下記 太夫仁 元: 四交交
第二 十 八 代 宮下 顧 地太夫 元 明::: 四交分
第 二 十九代 宮 下記 太夫 明政: i 園交
第 三 + {
第 三 十 | 先代
第 三十 二 代
第 三 十三代
第三 十 四 代 西屯



fŲ 関



代 西总督


刀L.
第 三 十 七 f\, 西昌
第三 十 八 代 阿
第 三 十 九 {\ 関数

f\
第 四 + 関数


第四十
第 四 十 1 代
第四十三 代
第四十四 代
第 四十 五代
*
目 次 -
一六
第四 十六代 宮下 顧 地 太夫明 朝: 四
第四十 七 代 宮下 源 太夫 明 魔 : 四人0
第四十八 代 宮 下記 太夫 政仁 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・
圓入
第 11 里 宮 専務 時代: 国人三
里 宮 第 一代 宮 下記 太夫 國 仁 : 園入三

里宮 第 二代 宮 下記 太夫 住家 : 四人三
里宮 第三 代 宮 下記 太夫 住 國 : 四人三
里 宮 第 四代 宮下 佐 太夫 國定 : i 園入三

里宮第五代 宮下記太夫政 園i
里宮 第六代 宮下佐太夫國明i 四入
里宮第七 代 宮 下記 太夫 明吉: 四人言
第三章 碑 皇書複 寛保存大宮司(績篇): - - - - - -- - - - - -- - * *
四入四
第 一期 富士 十一郷 時代 ・・・・ 四入園
第四 十 九代 宮下 源 太夫 義仁: 園入園
第 五 十 代 富士宮 下 藤 馬 亮 義國 :: 園分毛
第 五 十 1 年代
第 五 十 二 代
第五十 三代 ++
----- | 士 佔 不 在京 克 正成 : 西へ
Ä 士 名 下 將 太夫 教 家 : 元O
富 士 名 下方 政府 將 中心 : 西元
在 土佐 下方 社 交談 高 : 西元0
第五十 七 在 土浦 东京 兆 銘 數 : 阿克
第五十 八代 $ 战 在京 兆 銘 利: 西元
第 期 大宮司 保 在 此 代: -- -- - - ________ - --- -- - --- - -- --- - - - - - - -- -
西突
第五十九代
第 六 十 :
第 六 十 1 年代
第六 十 二 代
第六十三代
第六十四代
第 六十五代
*
月 *| <
-
第七十 二代 者 不滿 大夫 教
第七 十 三代 ℃ + 小太夫 將 敵 :O
第七 十四代 府下 深水 夫 教 作 : 老
-

第七十五代 府 下放 大夫 將 光 : 翌 1
第七 十六代 c下深
第七十七代 - 大大 教 與 : ---- ------ ---- --------------------------
翌0
基 - 美憂 “ここここ ここ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二 童 男 童女
第三 絵 子孫 : ・・・・・・・・・・・・こ ここ・・・・・・・・・・・・・・・・・こ・・・・・・・ ・・・・・・・・・こここ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吾一交
第一一章 下篇 碑皇書 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾三0
第一 碑 皇 書記
第ニ 皇書 複 %: 吾三ハ
皇 附録 系譜 * * * * * * * * * * * ● ● ● ● ● ● ● ● * ● ● ● ● ● ● ● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ----●●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● * * * * * * * ● ● ● ● ● ● ● ●● ●● ● ● ●

第 一章 碑代系譜(㎞)
第一 碑 皇大 系譜 「 タ
-- - -- * * * * --- - * * *
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
碑 代 第 一期 天 之 世 天 之 碑 七 代 系譜 ::: 一
碑 代第二期 天 之 御 中世 火 高見 碑 十 五 代 系譜: : 三
碑 代第三 期 高天原 世 天 碑 七 代 系譜 :: 図
碑 代 第四期 登 阿 始原 世 地碑 五代 系譜 : ** ******** -

㎞ 代第五期 字 家 潤不 一合 世 合 須 碑 五 十 一代 系譜 ** --- ------------*** ***** - --- - -- --

臼 次
日 % 1|O
• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• • • •
第二 在右大神大系譜 …•
神代第11期 <之御中世在右大神系譜… ------------------------1名
代號加泰米爾卡在治大學系譜…
神代第四期 ㎜ ㎝砲世在右大神系譜…
11个日世在右大神系譜------------------- --------…-------|
种神代役期字家馬不
人自圣母代左右大臣
系譜----------…
第三非語等大系語:
小夜見合大系譜:••••••••••••••••••••••••••••••
皇共|
非1 &= & «系譜…
共三 ㎢位男命大系譜:
- - - - - - - • • • •• • •• • •• •• • • • • • • • ••• •• • •• • • •• •• • • • • •
起第四大后通算大系譜---
共1 < * 全大系譜: _______________西哥
共11 年四川吉命大系譜:
_第五天之松德元等大本語______________
第六 天日子大愛好等大系譜 :
共 火照和命大系譜:…
其二 % %討會大系譜….
第七日子**出金大系譜…
共 天河天之火明命大系譜• • • • • • • • • •______ *…----------------
共11 * * * * *·
神第二章 族制天皇大系譜(翻轉職).
第一 <山
第ll į側室子大系譜…:------
第三 小女人系譜…
第三章 ㎢月有關大系譜().
第四章 術館大系譜線戰
附錄國面
第一章 ㎢代全國會圖
第 桜花野剥
日 *1] ]
日 *11]
第 二圈 界 成立 体内 放 地 な 物 だ 大國 十 八 州 國
第三脚 天 照 大御神 射 定 小 國 四十八 國 圖
-
-~~

第四國 < 日子 水 或 公开 除 前 定 十 七 軍 神 廟 號 風
第 I ㎝ ॥ も 代 高天原 形 圖
第 11 ㎝ ㎞ 離 去 代 高天原 路 圖
第 三國 推廣
歷 + 大 年 縣 地 山 噴火 前 高天原 形 圖
第四國 推廣 十 九 年 古典 型 大 年 兩 大 峽 水 現 於 形 圖
第五國 +1
第三章 者同 大原 稱其 宗 本古國

----

第 一 圈 ︽ 神 上代 高天原 光景 古風
第 二國 推翻 云 代 高天原 鉄 東 方面
第 三國 推廣 大 質 炎 的 高天原 美景 古國
神室神修代表
神 室 和 日 攻略
皇 耐

園 古 頭 本

斐 書 は 目
中 古 は
耐 諸 冠天 開 別 文 獲
都 家 愛を 岡 に 書 見
賞 系 リ 耐 名 の 後 日]

録 岡 山世 代 稀 略 未

禁驚 代 き に 世
豊妥 計 も し に
髄 ろ て 公
天狭 は、引
闘器 1享
偲 用
に の

ご 稀 を
を 岡
附対 れ




* ** 『 』 - シ - } シ -**
引用 書目
一合 戦記 筑紫島二 度合戦記
碑代記残稿
天孫二 柱 奪事 填記
阿 田津 里 女 最期 記
碑 代軍師軍 碑 武家略歴 記
海 守碑記
陸守大本営ナ 本陣記
天地開闘碑 代 略記
宇 家潤不二 合須 國 五 十 一代歴世 記
宇 家潤不二 合須 世撮 政 記
答 日子大國 主雨 碑 祭 因縁 記
祀家武部茶 日子三家並皇族役人記
紳 代日 算之申 停
碑代 根創 定之 申博
人 不 大
-

器 皇


-

|1 |




員 世

目 目 記



引用 書目
徐 子系 歴 記
徐顧 来 記 秦徐 顧来 朝記)
徐 顧 系圓一 秦 徐 顧 世代 記
惣 國 碑赴御 改定記
阿 祀 記 阿 祀 山 碑 赴 由来 記
阿 祀谷 浅 日 浅問 碑 赴由来 記
りJ 口 L 口
阿祀 赴 記 阿 祀谷 碑 赴 山来 記
一大山 守 記 大山守皇子御来歴記
大山 守皇子 累代家歴巻 一乃至三
山宮浅間顧地又八長世代記 ( ㎞。)
山宮浅間宮司記
二一皇子 二皇子来歴記)
一根鳥太田記 根鳥皇子太田 歴代記
一根 鳥 記ー 根 鳥皇子世代記
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--

* |



-

世世 富宮
代 宮宮 高



リ - 露


軸 大 甲

本 國
國 八
七 代
祀 郡

之 式
宮 内

代 祀 祀
-



日 壺前
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不 II I 十 十 貞
間 九 九 葛
部 山 窓
J
ヘ 年 年
* III 顧 顧 度
。 浅 幸t口
記 地 地 大
罰 代 III 噴
明 火


事二基


器 争 I 都




七 廟中三 座 由来 書上
富士 十一郷司 沿革 史
延 暦 噴火後宮守 事
七廟 中 四座 由来書上
源 頼朝朝臣 二 所参詣 記
二 所 七座 明 碑大 赴 再建寄附 御 連名記
富士 十二郷司世代記
富士 秘密 日記
富士秘密 日記博史
富士 秘密後記博史
御 碑霊御記録
太田 和 日記
高天原諸國 遷 日記
碑木 記
富士 七 廟 碑領共 他 免 賜 状 集
島津氏 興利記
島津家 史歴博
碑官歴代誌
南朝 髪曲輪 旨集
富士本宮 小室大 赴 記
源 頼朝 公 及 政子 立願事


川]


参考書目
古事記博

古事記
績 日本 後 紀
上 記録 譚

皇 年代略記
帝王編年記
交替式

扶桑 略記
本朝 世紀

日本 書 紀
三代 洋 録

日本後 紀
参考 書目

耐 古 奪 耐 延 祀| 日 日 文 警を 奮 績
代 事 卑 皇 喜 道 本 本 徳* 事 日
文 記 分 正 式 五 逸 記 賞 日 本 本
字 別 派 統 - 部 奥 略 録 本 紀 紀
考 偉 記 書 後

参考 書目 一

績 式 耐 祀軒

耐 祀 代 代
皇 各 記 巻





正 誇 革
三三日
へ一〜〜〜〜〜〜〜*


燈 文




呈 正統 記
熱田 大明 碑 縁 記
皇朝史略
國史略 愚管砂
-へ

大臣各 鑑 官 赴 祭 碑記
群 書類従 皇朝編年史
日本 全 史
今鏡
増鏡 纂 韓御系圓
諸家 知 譜 抽記 ㎞ 御系略
大 日本 帝王系 之 圓 藤原 氏系圓
藤原 氏 略 系
帝王 略 譜
大 鏡 系国
碑 代巻
日本州各 解
古 史成文
古 史徴
皇陵
陵墓 一隅 東 鑑場 要
東 鑑 不審問答
甲斐業記
甲斐國 茶話
香取 新 誌
尾張 志
参考 書目
参考 書目
信濃地名 考 上野名跡 志
日本歴史及地理 要覧 朝鮮 史

*
*-**ヘへ〜*-*

朝鮮 古 史断 史記
出雲風土記 伊賀風土記
和泉 國風土記 伊勢國 風土記
遠江國風土記 尾張國風土記
近江 國 風土記 上 継風土記
甲斐風土記 但馬 風土記
武蔵 國 風土記 陸奥風土記
*ヘへ-*

㎞ 陸奥風土記 山城國 風土記


大 和 國 風土記 豊後風土記



言 相模國 風土記
安 風土記

風 風


中 陸
國 國

士 撮 津國 風土記




駿河國風土記
下線 園 風土記 遠江國風土記博
参考 書目
-*
- --- -
--*--*
三 論 議 羯 者
第 一 輪 動 自室 之 余 說 自室
第 1 章 統 ॥
開關 元始 の 時、初めて 成り ませる 神 の 御名 は、天 之 修 大夫 將水 に 天 之 高大 男 神。
に 天 之 高地 失神 木 に 天 之 高木 此 古 神女 に 天 之 章 界 錦衣 に 天 之 高原 里分钟 表 に 天 之
御 在 比 古 神。 此 の 七 性 の 神 を 天 之 神 とお よ。 そ 一 十 萬 日。 之 を 天 之 世 と 称し
に さ。
天 之 御 は 比 古 神 は、天 之 御社 美神 に 委ね て、生み ませる 神 の 御名 は 天 之 御中主神。
虎 の 神 天 之 御中 比 女神 に 愛 が て 生み ませる 神 の 得 名 は 高 皇 產 種 野神木 に 高中 守
第 羯 說
三 論 議 羯 者
第 一 類 動 自室 之 余 載 自室
神 第1 章 統 ॥
| ㎜ 常の 時 て成り** *の 名は 天之 書くまゆえに天 N** *
* 『天 之 高地 夫婦 女 に 天 之高本 北市 神女 に 天之 軍勢神 条 に 天 之 高原 秀麗 水 に 天 之
• #***********+= N***
*
. 之 御 は 比 古 神 は 天 之 御社美神 に 愛 が て 生み ませる 神 の 御名 は 天 之 御中主神•
長 の 神天 之 御中 此 女神 に愛 が て生みませる神 の 得 名 は高皇香 農學 講求 にあ中华
第 1 桜 說
諸家 知譜 抽 記
増鏡

今鏡
大 日本 帝王系 之 圓

碑 字 日 文博
日本 全 史

二 十二 赴 記
碑 赴 啓蒙

参考 書目
藤 正補 纂 皇 大 皇 官 愚 皇 熱 績 式 耐
耐 耐
原[御 輔 崩l 鏡 朝 祀 管 朝 田 耐 祀 代 代
氏 系 御
御 績
績 編 祭
祭 鉄 史 大 !再 各 記 奈 -

系 こ*エ
系 略 年 耐 略 明 正 誇 蓋 師
園 岡 録 奥 記 耐 統 牙 説
縁 請


氏略系 諸家 系国 集
帝王略 議 碑 代系 国 停
大 鏡 系国 碑 代正語
碑 代巻 古 史略
日本 州各 解 碑 代質器 お
古 史成文 碑 武記
古 史徴 大 日本 國 誌
皇陵 山陵集
陵墓 一隅 砂 東 鑑場 要
紀 東 鏡末記 東鑑 不審問答
甲斐 国志 甲斐業記
甲斐国 記録 甲斐 國 茶話
古跡 葬 亡要 香取 新誌
望赴略史 尾張 志
参考 書目 三
* 』 シ
参考 書目
信濃地名 考 上野名跡 志
日本 歴史及 地理 要覧 朝鮮 史


朝鮮 古 史断 史記
出雲風土記 伊賀風土記
和泉 國 風土記 伊勢國 風土記
遠江 國 風土記 尾張 國 風土記
近江 國 風土記 上継風土記
甲斐 風土記 但馬 風土記
武蔵國風土記 陸奥 風土記
㎞ 陸奥風土記 山城國 風土記
大和 國 風土記 豊後風土記
相模國 風土記
撮 津國風土記
駿河 國 風土記
下総 國 風土記 遠江國風土記博
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参考 書 日
-
神 桜
三 論 者 器 者
第 一 編 神室之余 說 自室
第 一 章 続 說
" 9*きる議 の 有名は 天 之 华 大夫 婦女 に 天 之高 水神 *
» ،«NN*****************N
w ! 之 古蹟。 その 七 任 の 呼 を 天 之 神 と & &。 そ 一 子离 日。 之 を 天 之 世 と 残し
に w"
. 之後 は 比 古詩 は 天 之 得 在 美神 に 委ね て 生み ませる 神 の 得 名 は 天 之 例 中主神。
キ の 呼'天 之 氣 中 比 女神 に 愛 り て 生み ませる 神 の 有名 は 高 皇 產 種 學 評 家 に 高中 守
乾 1 % 參
碑 皇紀 二
主碑、次 に高下守 主碑。父 大御碑の 言依し 賜 へりし命 の随 に 高皇産穂 男碑は 天 つ
日 嗣となり 高中守主碑 高 下守主碑は、左右 より天 つ 日 嗣に仕 へ 守らせ給 へり。左
右大碑愛 に始りぬ。高皇産穂 男碑より、宇津峰比古碑 宇摩 志宇 加弾 比古碑を歴て、
天之常立 比古碑 に至り、諡 の法を定め給 ひき。天之御柱 立碑 天之木作 比古碑 天之
草奈男碑天之土奈男碑天之火明男碑天之水男碑天之金山男碑天之火山男碑天之
田原男碑 を 歴 て、高皇産 霊碑 に 至り 諸、の萬 の草木を賞 め て薬種を考 へ ましき。比
の十五柱の碑を火高見碑といふ。凡そ六十 七萬五千日。之を天之御中世 と稲し

に き。

高皇産霊碑は、碑皇産 霊碑に要 ひて御子 七柱まします。第五の御子を國 常立奪


といひ第七の御子を園狭 植倉といふ。父大御碑の命以て撃難園は我が御子二柱

の碑の知さむ園と言依し賜ひき。國常立奪 先っ言依し賜へりし随に天降りまし
給ふ。然 れども、久しく復奏なかりしかは、父大御碑、いたく之を憂へ 親ら國狭 植 奪
初め諸 の伴緒を支り加へて天降りまし給ふ。乃ち 高天原の小室に天の御舎を見
立て給ひき。左れと園常立奪に相見えすして覚に碑避りましぬ。倉 園常立奪高
天原に上りませるに 園 らずも 國狭様 奪 に相見え、共に相 軟喜 ひ 又、父大御碑の事を
聞召 して共に相突悲 み 給 ひき。後二 柱は、碑議 り に議り給 ひて、比の 國 を十八洲に
分 ち 更に 又 阿 祀東 阿 祀西・阿 祀南 阿 祀 北 の 四 つ に なむ分ち給 ひぬる。故に、比 國 を
四季島といふ。園常立奪は阿祀西阿祀北を知食しめして田堺の撃伊魔にましま
し給 ふ。國 狭 植 奪は阿 祀南 阿 祀東を 知 食しめし て高天原 にまし まし 給 ふ。國常
立 奪は、碑 佐 加 比 女 奪 に要 ひ て豊樹淳 奪を生み ます。國 狭 植 奪は、白清龍 比女 奪 に
要 ひ て泥土 煮奪:大戸道奪 面 足 奪 伊井諸骨 を生み ましき。比 の 七柱 の碑を 天 碑 七

代といふ。凡そ十八萬五 千 日。之 を高天原 の 世と稲しにき。後、伊 装 諾 奪は、四方


を統一 し て高天原 に まし まして、天 の 下を 知 食しめし給 へり。


伊井諸奪は國常立奪の皇女 伊井舟奪 に要 ひて生みませる碑 の御名は天照大御


碑。比の碑高天原小室の阿田都町に宮造りましまして碑祀碑宗代々の天っ大御

碑 を 祀ら せ 給 ふ。高天原宗 腐元宮 阿 祀山 太 碑 宮 と 稲し 奉らる。曾、祀佐男 命三品


の大御質を奉る。乃ち之を太碑宮に納め鎮めまし ぬ。則ち 語りたまはく子孫代
代 天 つ 日 嗣 の 大御位 に 即きま さむ には 太碑 宮 に於 て、三品 の 大御 質を 拝 き て 之を
第 一章 継 説 三

碑 皇 紀
掛けますを以て傑典となすべしと。伊典典等の見神霊部落奪のシ
を立て、天っ日嗣となし給ふ。天之忍穂耳奪是なり。地の碑シ女*に妻。
て生みませる碑の御名は天』子火魂々杵奪。比の碑の御代西北の大陸ょ**
㎞)に攻め薬れり。乃ち奪は 元本シ
命を初め経津主命武豊鶴命玉柱屋命建御名方命 併せて諸 の伴 を支り加へて
勢一萬八千碑を駆て作田里古命を御前に立して西園に天降りまし。シ
に南島を犯しぬ。碑后 親ら元帥として味龍託彦根命興玉命を 八千

五百碑を事て赤作田彦命を御前に立して南島に向はせ給ひき。一『現々シ

后を南島に訪はせ給ふ。適 碑后今や臨月とも見るべき玉鶴にてましましょかは
奪碑后を疑ひ途に附地見島に還幸ましましぬ。碑后いとも恐し』っ備。“*。

と請り給ひて即ち高照昆女命下照昆女命を副へ給ひ高天原に還り上 ッ*。“ー

給ふ・ 乃ち㎞の無戸室に三皇子を産み書き*にシの噴火に*して
避りましぬ。天見屋根命無戸室の屋根を破りて三皇子を出し奉る。*
須勢理命 火遠理 奪是なり。
大遠 理 奪は遠 認 に因り、天 っ 日 嗣 の 大御 位 に 即 かせ 給 ふ。之 を 日子 大 々 出 見 貧
といふ。比の碑 初め海 佐知の事より 高天原 夫室刻 の湖畔 の龍宮 にましまして豊
玉里 女 命に 要 ひ て生み ませる碑 の御名は、阿 祀 男 命。一日外 歳、又 復 た、附 地見島 に
攻め来れり 方ち高天原家撃都の大御宮に天っ韓国っ碑八百萬碑を碑集ひに集へ
て碑議りに議り給ふ。即ち附地見島は歴。外意を蒙れり。如かす碑都を之に遷し
て内地を 知食 しめし つ 、外 疲 を防きまきむ にはと。是に於 て火 々 出 見 奪は、大御
位を皇子 阿 祀男命に 輝 り、遷都 の 事を行はしめ 給 ひ、諱 を 日子 波 激武言 合 奪と 改め

賜ふ。所 請、日子 波 激武鶴 茨 暮 不合算、是なり。比 五 柱 の 天 つ 日 嗣 の 大御 碑 を 地碑


五代といふ。凡そ十七萬八十日。是を豊阿 始原瑞穂 國の 世と 稲し にき。


日子渡激武言合奪は、伯父碑 海 佐知 昆 古 講 火照須 命の勘気を勅 免し て西 征 の惣


元 師となし、武菱植 命 経 津 主命・建御名方 命雑武王命 の 四軍 碑 を 副 帥 と なし、二 萬 八


千除碑 の 軍勢を率て 天降らしめ 給 ふ。軍勢日 に加はり、凡そ 十高碑と 稲 す。六 百
五十日にして遂に外意を西北の方へ撃携し給ひき、則ち先っ本営を切 校正の
西方阿 倉山に置き 切枝間山を碑都と定め給 ひ 高天原 の 日向高千 火峰 の名 を襲 ひ
第 一章 総 説 五
碑 皇 紀 六
て新都 も赤、日向 高千穂峰 と名 つけ給ふ。是より、奮都 高天原を天都と いひ 新都を
碑都 といふ。乃ち、先 つ 奥山 住命等 に命して急に 宮作りましまさし む。共未た 屋
根 の葺き終ら さるに、日子波激武言 合奪 高天原 より左右 大碑初め諸役 碑を支 り加
へ て、天 降りまし まし給 ふ。則ち高天原 に復 奏 せしめ ませ は、父 大御 碑 の 命以 ちて、
奪 に、諱を鵜 芽葺不合 奪 と授け給 ひき。即ち、碑皇第 一代 競 芽葺不合奪 是なり。面
つくし しま、
して附地見島は共新に都を築きませるに因り築市島 ㎞)と改め給ひき。
父大御碑 語りたまはく紳都築 市島 代々 の碑皇は即位毎 に御祀天 照大御 碑 の儀

典 に則り て高天原 に 上り 阿 祀山 太 碑 宮 の 天 つ 大御 碑 の 御 碑託 を 受け、三品 の 大御


賓を捧け て即位式を行ふ 可 し。と面し て又、語りたまは く碑皇 の碑都


の に於 て、天 の

印 中


下を知食しめすと難とも、一に不二山 高天原の天つ 大御碑の御碑託 に合はします

べき意を採りて園名を学家測 不 1斜 須園と名っくへし。又代々の碑皇は競れも
即位毎 に諱を襲承して鶏芽葺 不合奪と稲し、代々 の碑后は 立后 毎に赤 諱を襲承し
て、多摩夜里昆女奪と 賜ふべしと。故に比即位式を世に講即位式となむ稲しける。
碑皇第一代職芽書不合奪は三百日を以て一樹と定めさせ給ふ。即ち年の始と
す。碑皇、語りたまはく皇太子は、碑皇の碑避りまし し 後 大御位 に即くべ し。碑皇
碑避りまし、と難とも 若し碑后の在はすあらは共在世中 碑后撮 政 として、天下を
知食しめすべし。と後碑后多摩夜里昆女奪の撮 政の終りますや 皇太子 不二高王
奪は高天原に上り 即位式を行はむとして第二 の皇子奈加 尾王命と共に春属三十
ハ碑を支り加 へ て海上より 渡航中番 く沈没 しましまし ぬ。尾羽張國造司 尾張彦
命 急騎 鍵を高千穂 の宮に以聞す。宮中 皆な色を失ひ恐 擢貸す所を知らす。乃ち
第三の皇子千穂高王奪を皇太子となし 汰 落斎戒すること 一百日 意 に高天原に上

り阿 祀山太碑宮に於 て講即位式を行は せ給 ふ。之を第二 代の碑皇 となす。


碑皇第三代職業書不合奪識 阿蘇豊王奪即位六十根火須勢理命の御子高天原地

司令碑稲田雄命の男大武知彦命等 本島東南の碑々を腹心となし、碑都復奮を企て

、反す。偶、祀佐男命四世の孫 建豊大勇命等 暴風雨の夜闇黒に乗し、天都高天原家


基都の宮に忍 入り、大武知彦命の 一族 一類を慶にして高天原副司令碑 阿尾弾 兵男
命に自首し出 つ。乃ち高天原諸役碑相議りて建豊大勇命等を捕 へ て伊志尾國に
碑追 ひに追ひき。是に於て阿尾弾 兵男命を高天原惣司令碑となし ぬ。
第 一章 練 説 七
碑 皇 紀 八
碑皇第四 代 鶴 芽 葺不合奪 講 不二 田彦王奪 より 第五代佐津 田彦王奪 第六 代 津禰
彦王奪 第七代阿知 奈 王奪 第八 代豊田 彦王奪 第九代 宇摩 子王奪 第十代 日野 光 王奪、
第十 一代太 武彦王奪 を歴 て、第十二 代武力男王奪 に至り、即位十 七根 西大陸 より大
軍 攻め 来る。七根 八十 五 日 にし て、潮 く 言 向和平し給 ふ。第十三代出見 彦王 奪を
歴 て第十四 代 萬天子 王奪 に 至り 即位 二 十三 根、赤 又、西大陸 より外 寝 大撃し て 来 り
攻 む。建雄 熊 命を元帥 と 鳴海婚 縫命を副 帥 として討ち て 之 を退け ぬ。第十 五代
奈良 田彦王奪 第十六 代顧佐彦王奪 を 歴 て第十 七代加 目 男王奪 に 至り 海 伊 國 の 國

造 司國谷 彦命、高天原 の 北方、底大湖 の南西を掘 撃し て流出 せしめ 給ふ。湖水一一分


通り減水 し て、定水 と なれ り。

碑皇第十八代職芽葺不合奪譲 都留彦王奪より第十九代多加彦王奪第二十代加

佐田彦王 奪 第二十 一代登美田男王奪第二十二代笠砂男 王奪 第二十三代 津 奈建王


奪を歴て第二十四代久基佐彦王奪に至り即位十三根七十四日外宮の舟師数百海
上 に見は る。乃ち四方の 州國 に勅 し、兵を 催さしめ、各要衝 の 地 に擁 り、之を防 かし
む。曾、高天原 の 方より、黒雲巻き来 り て、烈風 暴雨 と共に吹き 荒し、敵船 悪く沈没
しにき。第二十 五代宇佐彦王奪 第二十六 代津田彦王奪を歴 て第二十 七代頭長男
王奪に至り即位 十二根本島南陸 大に寛る。碑皇親 ら行きて鎮めさせ 給 ふ。第二
十八代足長彦王奪即位十七根より三根 天下鏡 る 東北観る。津守銭磨彦命を元帥
とし、太 玉 別 命を副 神 として之を鎮め させ給ふ。第二十九代手身武王 奪を歴 て第
三十代山 守雄王奪に至り 本島東南 蹴る。金建武 命に認 して之を平けし む。第三
十一代佐奈田男 王奪第三十二代弾 築作彦王奪を 歴 て第三十三代田仲 雄男王奪に
至り祀佐男命三十八世の孫武長刀 里古命に認し て尾羽張 の入演の 津島に 日本惣
皇、耐

赴を置き東南諸 國の罪悪碑の事 を治せしめ給ふ。之より、出雲の大赴を陰 大赴と


いひ 津島の日本 惣赴を陽大赴といふ。即位三十六根 股國結 辛王周の武王に 亡さ

る。第三の皇子封馬王落ちて我順撃に漂着して碑皇に殿園の暦書を奉りぬ。之

より 千支五行を 日に配し ぬ。同根 二百十六 日 月を目途に 月を定め給ふ。即ち月


の 照り初めより 月の 照り終りま てを 一月と定め、十月重ね て 一根 とし 更に 一根を
一年と改め給ひき、又大園にシを置く、封事 王を附島の初世太記頭と
なし津久島(㎞)と改め給ふ。
第 一章 総説 丸
碑 皇 紀
一O
碑皇第三十四代職*書不合奪講貞仲雄王奪より第三十五代田高彦王奪を歴て
第三十六代川上男王奪に至り即位七年西大陸の舟師数百大撃して来り攻む。三
年三月にして之を撃推しにき。第三十七代千利武王奪を歴て第三十八代玉顧彦
ェ*に至り神皇毎年親ら碑田を耕転ましまして新米を以て碑祀紳宗天っ大御碑
*らせ給 ひ。皇太子多仁彦王シ印位式の貸め高天原に上らむとして途中
**にシりましぬ。第二の皇子津加田彦王奪皇太子となり 高天原に上りシ
*式を行はせ給ふ。之を第三十九代の碑皇となす。第四十代川張雄王奪を歴て

第四十一代㎞利長男王奪に至り即位十三年南海認る。彦王雄命を元帥とし貞子

足玉 別命を副 帥 として討ちて之を平けき。 第四十二代玉長彦王奪即位十七年 本


島一圓 餓 る 盗賊蜂起す。碑 親ら之を鎮めさせ給ひき。皇太子津具男王奪講即


式の貸め高天原に上らむとして大海に於て沈没して碑避りましぬ。第三の皇
子波奈長ェ奪皇太子となり高天原に上り講即位式を行はせ給へり。之を第四十
三の 皇となす。第四十四代照日彦王奪第四十五代津気男王奪を歴て第四十六
シ彦ェ奪に至り即位十年東南諸園触う碑皇紳后と共に共地方を巡幸して之
を賑はしめ給ふ。第四十七代顧仲穂王奪に至り南国観る。碑皇七年にして親ら
言向和平し給ひき。皇太子忠長彦王奪講即位式の貸め高天原に上り青木原に於
て暴かに碑避りまし ぬ。皇弟津加彦王奪を皇太弟となし 斎戒断食し て高天原に
上り 講即位式を行はせ給ふ。之を第四十八代の碑皇となす。第四十九代眞加弾
王奪即位七年本島南地の城将 長武彦等自木人( ㎞)土蜘蛛を語ひて反す。碑
皇 親 ら元帥となり 十七年にし て 討ちて之を平け給 ひき。十九年南島 地大 に震ひ、
山岳崩れ地裂けぬ、第五十代岩仲彦王奪即位十二年より六七年天下大に戦う諸

國 初 世 太記 頭等 に勅し て之を 賑は さしむ。更に切枝間山 に、伊 装 諾 中 二 柱 を 祀り、


共麓 に、高皇産 霊碑 神皇 産 霊碑を 祀り、又 阿 曾 山 に、天 照大御碑以下十三 碑皇を 祀り、


。之

以 て 赴 機 の 安寧 天下 の 泰平を 購 祀 まし まし 給 ふ。又、豊白山 に作田 里 古 命以下 子


孫 三十碑を 祀り、諸作 の豊穂 を 轄 らしめ給 ひき。


碑皇第五十 一代 親 芽葺不合奪 諱弾 旨共都 男王奪 即位 六年六 月二 十日、全國、地大 に
震 ひ、山岳崩潰、黒泥噴出。翌年、天下大 に 戦う。碑皇諸、の 皇族を率 て、全國 を 歴 巡 し
て救位ましましき。三十六年六月 刷津亘理命は紳皇第四十六代 瀬 芽葺不合奪 講
-
第 一章 総説 一
* 』』 ""-』- - 『""
- - - - -- -
碑 皇 紀国
捧け ますを以て傑 典となすべ しと。伊 味#奪の兄 碑 豊島淳奪の嫡孫豊武 昆古 奪
を 立て \、天 つ 日 闘 と なし給 ふ。天 之 忍穂 耳 奪足なり。比 の碑 精 幡 昆女奪 に要 ひ
て生みませる碑 の御名は天 日子火環 々 杵奪。比 の碑 の御代 西北の大陸より 大軍
シ㎞に改め*れり。乃ち奪は神后本シ女 と共に大物
命を 初め 津主命武護 植命 玉柱屋命建御名方命併せて諸 の伴緒を支り加へ
編 *一 八千神を奉て作田里古命を御前に立して西園に天*りましま。』
--~~~~~~~~~〜〜〜〜〜〜エ

に南島を犯しぬ。碑后 親ら元帥として味拒託彦根命興玉命を副へ 輸

五百碑を率て赤作田彦命を御前に立して南島に向はせ給ひき。
皇 后を南島に訪はせ給 ふ。適 碑后今や臨月とも見るべき玉鶴にて
之 奪碑后を疑 ひ 達に附地見島に還幸ましまし ぬ。 碑 后、いとも撃

と ひて即ち高照里女命下照昆女命を副
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須勢理 命 火 遠理 奪足なり。
禰 ら しめ 給 ひき。
紳皇第五十 一代 親芳葺不合奪 諱弾 眞都男王奪 即位六年六月二十日、全國、地大に
震 ひ 山岳崩潰、黒泥噴出。翌年 天下大に戦う。碑皇諸。の皇族を率て、全國を歴 巡 し
て救福 ましましき。三十六年六月 蔵津亘理命は碑皇第四十六代鶴芽葺不合奪 講
第 一章 総説 一
碑 皇紀 六
て新都 も赤 日向 高千穂峰と名 つけ給ふ。是より 奮都 高天原を天都 といひ新都を
碑都といふ。乃ち 先つ奥山 住命等に命して急に宮作りましまさしむ。共未た屋
根 の葺き終ら さるに、日子波激武言合奪 高天原 より左右 大碑初め諸役碑を支 り加
へ て、天 降りまし まし給 ふ。則ち高天原 に復 奏 せしめませは、父大御碑 の 命以 ちて、
奪に譲を職業書不合奪と授け給ひき。即ち碑皇第一代 鍋業資不合奪足なり、面
して雨地見島は共新に都を築きませるに因り築市㎞)と改め給ひき。
父 大御碑 語りたまはく碑都築市島 代々 の碑皇は 即位毎 に御祀天 照大御碑 の 儀

典 に則り て高天原 に 上り 阿 祀 山 太 碑 宮 の 天 つ 大御碑 の 御碑託 を 受け、三品 の 大御


賓を捧けて即位式を行ふ可 し。と面し て 又、語りたまはく碑皇の碑都に於 て、天 の


下を知食しめすと難とも、一に不二山高天原の 天つ大御碑の御碑託 に合はします


べき意を探りて園名を学家潤不ゴシ園と名っくへし。又代々の碑皇は競れも
即位毎 に諱を襲承して鶏 芽葺不合奪と稲し、代々の碑后は 立后毎に赤 諱を襲承し
て多摩夜里昆女奪と 賜ふべしと。故に比即位式を世に講即位式となむ稲しける。
碑皇第一代職芽葺不合奪は三百日を以て一根と定めさせ給ふ。即ち年の始と
す。碑皇 認 りたまはく皇太子は 紳皇の 碑避りましし後 大御位 に即くべ し。碑皇
碑避りまし \ と難 とも、若し碑后 の在は すあらは共在世中 碑后 撮 政 として、天下 を
知食しめすべし。と後 碑后 多摩夜里昆女奪の撮 政 の 終りますや 皇太子 不二 高 王

奪は 高天原 に上り 即位式を 行はむとして、第二 の 皇子奈加 尾王命と共に巻属三十


六碑を支 り加 へ て海上 より、渡航中悪く沈没しましまし ぬ。尾羽張國造司 尾張 彦
命 急騎 鍵を 高千穂 の 宮に以聞す。宮中 皆 な色を失ひ恐 擢貸す所を 知らす。乃ち
第三の皇子 千穂高王奪を皇太子となし、汰 溶斎戒する こと 一百 日、意 に高天原 に上

り 阿 祀山太碑宮に於 て講即位式を行は せ給ふ。之を第二 代の碑皇と なす。


碑皇第三代職業資不合奪識 阿蘇豊王奪即位六十根火須勢理命の御子高天原地
-~~~~~~~~~~~~~へ

司令碑 稲田雄 命の 男、大 武知彦命等、本島東南の碑 々 を腹心となし、碑都復奮を企 て


、反す。偶、祀佐男命四世 の 孫、建豊大勇命等 暴風雨 の 夜間 黒に乗し、天都 高天原家


基都の宮に忍 入り 大武知彦命の 一族 一類を慶 にし て高天原副司令碑 阿尾弾 眞男
命に 自首し出 つ。乃ち高天原諸役 碑相議りて建 豊大勇命等を捕 へ て伊志尾國に
碑 追 ひに 追 ひき。是 に於 て阿尾弾 眞男 命を高天原 惣司令碑 と なし ぬ。
第 一章 総説 七
碑 皇 紀 八
碑皇第四代 鶴 茅葺不合奪 諱 不二 田彦王奪 より 第五代佐津 田彦王奪 第六 代 津禰
彦王奪 第七代阿知 奈 王奪 第八 代豊田 彦王 奪 第九代 宇摩 子 王奪 第十代 日野 光王奪、
第十一代太 武彦王奪を歴 て、第十二 代武力男王奪 に 至り 即位十七根 西大陸より大
軍攻め来る。七根 八 十 五 日 にし て、潮 く 言 向 和平し給 ふ。第十三代出見 彦王 奪を
歴 て第十 四 代 萬天子 王奪 に 至り 即位 二 十三根、赤 又、西 大陸 より外 冠 大撃し て 来 り
攻 む。建雄熊 命を元帥 と鳴海婚 縫 命を副 帥 として討ち て 之 を退け ぬ。第十五代
奈良 田彦王奪第十六 代顧佐彦王奪を歴 て第十七代加目男王奪 に至り海 伊國 の 國

造司國谷 彦命、高天原 の 北方 底大湖 の南西を掘撃して流出 せしめ給ふ。湖水一一分


通り減水 し て、定水 と なれり。


碑皇第十八代職芽葺不合奪講都留彦王奪より第十九代多加彦王奪第二十代加

佐田彦王奪第二十一代登美田男王奪第二十二代笠砂男王奪第二十三代津奈建王
奪を 歴 て第二 十四 代 久具佐 彦王奪 に 至り、即位 十三 根 七十 四 日、外 寝 の 舟師数 百、海
上 に見は る。乃ち 四方の 州 國 に勅 し、兵を 催さしめ、各要衝 の 地 に 擁 り、之を 防 かし
む。曾、高天原 の 方より、黒雲巻き来 りて、烈風 暴雨 と共に 吹き荒し、敵船番 く 沈没
しにき。第二十五代 宇佐彦ェ奪 第二十六 代津田彦王奪を歴て第二十七 代頭長男
王奪に至り即位十二 根本島南陸大に寛る。碑皇親 ら行きて鎮めさせ給ふ。第二
十八代足長彦王奪 即位 十七根より三根 天下 鏡 る 東北観る。津守銭磨彦命を元帥
とし、太玉 別 命を副 師 として之を鎮め させ給ふ。第二十九代 手身武王 奪を歴 て第
三十代山 守雄王奪に至り 本島東南蹴る。金建武命 に認 し て之を平けし む。第三
十一代佐奈田 男王奪 第三十二 代弾 築作彦王奪を歴 て第三十三代田仲 雄 男王奪に
至り祀佐男命三十八 世の孫武長刀里 古命に認 し て尾羽張の入演の津島 に 日本惣

赴を置き東南諸國の罪悪 碑の事を治せしめ給ふ。之より、出雲の大赴を陰大赴と

いひ 津島の日本惣赴を陽大赴 といふ。即位三十六根 股國結辛王周の武王に亡き


る。第三の皇子封馬 王落ちて我順に漂着して碑皇に股園の暦書を奉りぬ。之

より、干支五行を 日 に配し ぬ。同根 二 百十六日 月を目途に、月を定め 給 ふ。即ち月


の 照り初めより 月の 照り終りまてを 一月と定め、十月重ね て 一根とし 更に 一根を
一年と改め給ひき、又大園に都 世太記扉を置く、封出王を附島の初世太記頭と
なし津久島(㎞)と改め給ふ。
第 一章 練 説 丸
碑 皇 紀 一O
碑皇第三十四代 鶴非葺不合奪講貞仲雄王奪より第三十五代田高彦王奪を歴て
第三十六代川上 男王 奪 に 至り 即位 七 年、西 大陸 の 舟師 数 百、大學し て来 り攻 む。 三
年三 月 にし て 之 を 撃 懐し に き。第三十七 代千利 武王奪 を 歴 て第三十 八 代 玉 禰 彦
王雲 に 至り、碑 皇、毎年、親 ら碑 田 を 耕転 まし まして、新米を以て、碑祀 碑宗 天 つ 大御碑
を祭らせ給ひき。皇太子多仁彦王奪 講即位式の貸め 高天原に上らむとして途中
暴かに碑避りましぬ。第二の皇子津加田彦王奪皇太子となり 高天原に上り 識 即
位式を 行は せ 給 ふ。之 を第三十九 代 の 碑 皇 と なす。第四十代川張 雄 王奪 を 歴て、
耐。

第 四十 一代 禰利長男 王奪 に 至り 即位 十三 年南海 蹴る。彦王 雄 命を元帥 とし 眞子


足玉 別 命を 副 師 として、討ち て 之 を 平け き。第四十二 代玉 長彦王 奪即位 十七年、本


島 一圓 餓 る 盗賊蜂起 す。碑皇 親ら 之 を鎮め させ 給 ひき。皇太子 津 眞男 王奪 諱即


位式 の 貸 め、高天原 に上らむ として、大海 に於 て 沈没し て 碑 避 り まし ぬ。第三 の 皇


子波奈長 王 奪、皇太子 となり、高天原 に上り、諱即位式を行は せ給 へり。之 を 第四十
三 の碑 皇 と なす。第 四十四 代照 日 彦王奪、第四十五 代津気 男 王 奪 を 歴 て、第四十六
代種越彦王奪に至り 即位十年東南諸國餓う 碑皇 碑后 と共に 共地方を巡幸して、之
を賑はしめ給ふ。第四十七代顧仲穂王奪に至り南園乱る。碑皇七年にして親ら
言向和平し給 ひき。皇太子忠長彦王奪 講即位式の貸め高天原に上り 青木原に於
て暴かに碑避りまし ぬ。皇弟津 加彦王奪を皇太弟となし 斎戒断食して高天原に
上り 諱即位式を行はせ給ふ。之を第四十八代の碑皇となす。第四十九代具加弾
王奪即位七年本島南地の城将 長武彦等自木人( ㎞)土蜘蛛を語ひて反す。碑
皇親ら元帥 となり十七年にし て討ちて之を平け給 ひき。十九年南島 地大に震ひ、
山岳崩れ地裂けぬ、第五十代岩仲彦王奪即位十二年より六七年天下大に懐う 論

國初世太記頭等に勅して之を賑はさしむ。更に切枝間山に伊装 諾中二柱を祀り、

共麓 に、高皇産霊碑 神皇産霊碑を祀り、又阿 曾山 に 天照大御碑以下十三碑皇を 祀り、


以て赴 機の安寧 天下の泰平を 濃 祀ましまし給ふ。又 豊白山 に作田 昆古 命以下子


孫 三十碑を 祀り、諸作 の 豊種 を 轄 らしめ給 ひき。


碑皇第五十 一代 親芽葺不合奪講弾 眞都男王奪即位六年六月二十日 全園地大に
震 ひ 山岳崩潰 黒泥噴出。翌年天下大に戦う。碑皇諸。の皇族を率て、全國を歴巡し
て救 位ましましき。三十六年六月 祀津亘理命は碑皇第四十六代鶴若音 不合奪講
第 一章 総説 - 一
碑 皇 紀 一二
種越彦王奪五世の孫基佐勝彦命を奉して反す。ポ能園の初世太記頭長鶴彦を惣
司令となし自木園㎞")より多くの軍師を語ひ中園を根薬地として全園を
略取 せ む ことを 企 つ。六月十五 日 碑皇 皇族 初め諸 大碑を高千穂の宮 に集 へ て、征
討の事を議らしめ給ふ。即ち 先 つ 軍船二 百 六十般を造り皇族をし て各部署を定
め 諸 将軍兵を軍船に分乗し て、本島大陸 八方の水門より攻 入らしむ。城船長髄彦、
河内 原の高座 山 に擁る。今や天 の紳皇の 巡幸 皇族の 巡撫を聞き 大に 恐怖し 白木
人と議り兵を伏せて之を防きぬ、針美に若御ましませる皇太子海津彦五瀬王命

は城情を詞はむとして河内 川の水門 より、孔 舎衛坂 の坂本に着御ましまさむとす


るゃ伏兵戦に起る。皇太子終に痛手を負ひ給ひき。シ)に着御ましませる

四皇子 日 高 佐野王命鍵を聞き 起き援ふ。皇太子尋 て碑避りまし ぬ。乃ち海上よ


り急を東北巡幸中の父紳皇初め 各地に着御ましませる皇族諸官紳に報しにき。碑
皇大に驚き、即ち海上より伊瀬崎 の多気の宮に着御ましまし給ふ。されと城の大
軍に遮られ西園に巡幸ましますこと能はす。各地より皇族諸官紳起き援ふ。以
て碑皇を守護し奉る。乃ち、四皇子日高佐野王命を立てて皇太子となさせ給ふ。
碑皇は伊瀬日 ょり 皇太子は久眞野 日より接み撃たせ給ふ。然るに、人 共野日職
途 に利 あらす。伊 瀬 日 征討の途攻 偶、碑皇陣中に於 で暴か に碑避りまし ぬ。士気
索然として振は す。則ち皇太子、微 を四方 に飛はし以て義に 赴かしむ。是に於て、
全國 斎しく兵を催し、以 て義に 赴きぬ。
即ち 尾羽 張大主尾羽 張 明照雄 命を東海 惣 國の 元帥となし東海 日 より、譲 訪 大主
諏訪建勇命を東山 惣國の 元帥 となし、大湖 日 より 出雲大 主出雲大碑主命を北越 惣
園 の元帥 となし、丹 馬 針間の雨 日 より進軍 せしむ。賊の 雄師 潮く潰を告 け、東海 口

第 一に陥り 東山 日 第二 に陥り 針間 日 第三に陥り、丹 馬 口 第四 に陥る。明 照雄 命等、


覚に賊の総大将 興佐勝彦命 濃津 亘理命を磐し ぬ。面し て皇太子 字 陀の國見の長


髄彦を攻め させ給 ひ皇兄 稲飯王命等 卒 書要の 鬼山の白本軍 を撃たせ給ふ。皇 兄は、


白木軍と海上 に 戦ひて彼 我共に沈 滅し給 ひ 皇太子は長髄 彦を討ち平け 給 ひて、覚


に天下 を平定まし まし給ふ。是に於 て都を大和國 誠傍 山 の標 原に貧め させ給 ひ
き。是を碑 武天皇となす。
比 の 五十一柱の碑皇を合須碑といふ。碑皇在位二千 二百 八十 七年。碑后撮 政
一三
第一章 説
評 息 般 四
11+ 五 柱 加 百 五 十 四 年。 合せ て 11 千 七 百 四 十 一 年。 之 を 学 家 湖 不 二 合 得 世 と 解
し に さ。
神武 天皇 は 神 星 第 五 十 一 代 期 亦常 不合 會議 場景都 明王 等第四 の 皇子 に もしも
す。 私人 和 國 放後山 の 種 原 に都を 食 ら 結ぶ や基質 高座 日 多 金 を 新 使 として 高
天 原 に 上 才剛 剛剛 家 天 つ 大御神を 祀 れる 同 祖山 太 神宮 に 師 位 式 の 事 を 奉旨 を し
* 第 * ア も 高天原意 指令 制數都 非法 老金は 熊本 で助言を 楽し 大 神宮 の 御 神
そ が て御 神 記 を 受け 離 使 として 三品 の 大 御 資を 中 受け 之 を 維持 し て 動 使 と共に、

概況 の 街 に 天 降り ょ し まし 結ぶ。 即ち 正殿 に於 神使は 天 3 大御神 の 御 神 記 に


像 《天皇 に 三品 の 大御筆 を 掛け て 即位 式を行 は せ始 。 時に 起 北 元帝 西 年 1 月


+ * 動 使は 文 三品 の大 御 資を 維持し て高天原 に 上り せ 始 。 天皇 は ク を 以

て永く 地位 式 の復興と 定め させ ぬか *
深藍天皇 より 安事 天皇家海天 皇家 路 天皇家安大量を 備 で素養 大皇 に 至るもて
嘉 永 º機具 に則 以前位 式を 行は せ 結 < 0° 者 需 天皇 也 十 四 甲中 年 九 月落 國 金峰
老者 身 女 五 百 餘人 を 従 《高天原 に 着 し 阿 加 各 中空 に 止り 同 祖山 太 尉 の 宮寺 司
ー ー
長尾初張 田彦命初め 高天原三十六 神戸の後胤に就き共各祀先か碑代より博 へ シ
し置きませる質記録 系譜等を 録取 し て、世に博 ふ。是を碑 代 十二 史談 即ち徐 顧博
といふ。
孝元天皇開化天皇を歴 て、崇碑天皇 に至り、五 成子年三月 高天原中室麻 呂 山 より、
天 照大御碑を 高天原 小室阿 祀 山 太碑 宮 より、三品 の 大御質を大和 國笠縫 の 里 に 遷
し 奉り、天 照皇太碑 宮 と 祀ら せ 給 ふ。六 月、三品 の 大御質 に模倣し て、更に新 器を 製
作 せしめ給 ふ。碑 代博来 の大御質は皇太碑宮の御 碑 霊と鎮め まし 奉り、新器は 代

々 の 天皇 守護 の 碑 器と定め、大御 宮の奥御殿なる 眞碑殿 に 鎮め まし 奉らる。語し


て、爾後、即位式は兵碑 殿 に於 て碑祀碑宗 天 つ 大 御碑 を初め、天照大御 碑を 拝 き て、大


御位 に即かせ給 ふ こと に改め 給 ひき。爾来、天下大 に鎌 る、療 疫流行し、盗賊蜂起す。


天皇 碑威を恐れ 吉備彦命に勅して、高天原に上り阿 祀山太碑宮を祭らしめ給 ふ。


垂仁天皇二十五内辰年三月天照皇太碑宮を大和園笠縫の里より伊瀬園(㎞
㎞)度倉の里五十鈴川上なる碑武天皇の御父碑皇第五十 一代 親非葺不合奪の陵
墓の地に遷宮し奉らる。景行天皇の御宇に至り、高天原阿祀山太碑宮の副宮守司
第 章 総説 一五
韓 息 般 1な
長 時 會 產 王 は 他 の 神殿 の 後 流 等 と 神 都 後衛 を 企 てく 反 す。 身子 日本 武春 を 通 は
し'對 ら で ク を 本 サ さº 是 を 東 東 征討 と な よ。
要するに、神代 開關 大 元 を 証 を‘天 之 武 天 之 職 キ 作 とし'大 元 服 を 天 之 德 中世、火 高
第*

意識 + 五代 とし、元 磨 を 高天原 世、天神 也 代 とし、御 書 を 書 郎 兼 原 世 地 神 王 へ として


第 に宇家 馬 不 二 合 得 世、合 衆議 書 中 一代 の 御代 と なむ たり に サ る。 即 ら 離 代 は 自
ら 五 期 を 重ね て'人 堂 の 御代 と な わる もの なり。
天 照 大御神 は 高天原 の 神 都 に、大 元 を 書 4 り の 神道 神宗 天 つ 大御神 を 祀り、阿 祖

山 太 師匠 と 称し 三品 の 大 御筆を 納め 集め 本 少 部位 式 の 優賞を 定め させ ぬか さ。
*•

加地靈性 の 金大御神は 4に及 は* *% 道 不 1合後世 に 至り神都を集市


島 の 日向 の 高 千種 建 に 還 させ 結 { 0 0 %、同 作 經脈 の 後 與 を 長安 て、五 十 代 の 各
卷 *

神 星 は、執 れ も 高天原 に 上り、阿 羅 山本 神宮 に 於 近 一品 の 大 御 資 を 発 さて 即位 式 を


行 は せ 結 { 小。 人 皇 の 御代 に 至る も 神武 天皇 より 座 神 天皇 に 至る まで 帝都 は 大
和 國 に ある あり と 離 とも 三品 の 大御 資 は 命 性 高天原 の 阿 祖 出 太 體 常に集 りさ を
^。 故に 即位無 に 高天原 の 天都 より 同 祖 出 本 神宮 の 天 つ 大御殿 の 神使 三品 の 大
御資を奉 し帝都 に天降りまして即位 式を行は せ給 へり。然るに当 神天皇高天原
より、天 照大御碑を大和國笠縫の里に勤請し奉り 皇太碑宮と記り、又 高天原より三
品の大御質を奉 遷し、之に模倣して新器を製作し給 ひ 彼は皇太碑宮の御碑雲と鎮
めまし奉り、比は皇居の 眞碑殿 に奉安し以て即位式の儀典を改め給ふ。後 皇太碑
宮を伊勢に遷宮し奉りき。是より列聖の即位式は高天原の天都に祀 れる阿 祀 山
太碑宮、並 に 伊勢に轄 遷し奉れる三品の大御資に何等関係なきに至れ り。然れ と
も高天原の同組山太神宮は神代田園大元々祀よりのシ宗代々の天っ天シ
を祀りませる 所請碑代の 賢所にして我國唯一 の大廟なり。故に 共 資物も赤 我園
唯一 の太古史たる除 顧博の博れるものあり。代々の大宮司、之を保存し来 にけり。
(㎞。
常 記、皇 系 記、大 山祇 記、寒川 記、最期 記、祀 佐 記、砕 記、雨 碑記。
第 一章 総 説 一七
第 二章 蘭 和 ㎢ ㎢
第 一 節 夫 之 世 天 之 神 上代
天 之修 水夫 神(魏爾 龍頭 º) は 開關 元始 の 呼為 參 て 成り ませる大御神 に まし まし
そ 天之建 水母 神(知縣 龍 翔º) に 愛 か て 生み ませる御子 天 之 高水 里 郡。
天 之 高 水野 神(觀測 試験)は 天 之 高 次 女神(読 聯邦 聯隊)に 委ね て生み ませる御子

天 之 高地 大神 。

天之高地水體(劉禪師 號 誌 )は 天 之 高手大英 殿(韓 戰 神話 錄 ) に愛心 て 生み ませる


Ż

御子、天 之 高木 此 古 神

天之高木 北市 縣議制動 隊 )は 天之高木美麗神 廟號 學) に愛 が て生み ませる


御子 天 之 車 男 神。
“ 天 之 車 男 神(編號船 體 %)は 天 之章美神(編號 船 體。) に 愛 が て生み ませる御子 天 之
高原 里分離。
天之高原男員㎞")は天之高原美碑(㎞)に要ひて生みませる
御子、天之御柱 比古碑。
天之御柱比古神 ㎞)は天之御柱美碑(㎞) に要ひて生みませ
る御子 天之御中主碑。(㎞ g
天之世の 々は演の眞砂又は山の真砂に自きものの附着しけるを探りまして、
諸”の萬の物に っけ 焼きて食むことを創め給 ひき。
又『の高の草木の質若しくは鳥獣魚類を清き平き大石の上に載せ手頃の長き

石*てシし残山の焼火を持ち来まして養火にて之を条りて食み給ふ。又 限

。初 者しくは木の葉なとを細き藤にて結ひっけ 身に纏かせ給ふ。又界山

若しくは土山 に穴を突 ちて止りましましき。


*『の の物の形状を書き記して文字を定め給ふ。文字は木の養き遺りし炭
。の油に浸し回める石に水を入れて磨りこなし小竹の先を噂 み 之をつけ
て木の葉若しくは割れる大竹の中身にそ書き記し給ひき ㎞)
*シ“十 八千 まします。天之 七代凡モニ十g』にして%に天
第二 章 前 紀 碑 祇
一九
-- * - - -
碑 皇 紀 二○
之御中世となれり。(㎞)
第一一節 之御中世 火 高見碑十五代
㎞)は天之世第七代天之御柱比古碑の御子にまします
㎞)に要ひて生みませる御子高皇産穂男碑 次に高中守
となり高下守主碑は右守となりまして共に天っ日園を守り仕奉りにき。ェ
軍 碑
己C

大御碑は海演の真砂に自きものの附着しけるを日に管め共味を知り基土を水
にて誕 り回める土器を造り海水を入れ火を養きて眞砂を煎じ共湯固まりて望と
なれることを発見し給ひき。(㎞) *
又、天っ日嗣の大御碑の御紋章は日輪に十六筋の光明を附せるものと定 め

后の御紋章は月輪に五三模様の雲の形を附せるものと定めましき。(㎞代

記。 e)
高皇産積 男神(㎞)は天 之御武 主神の第一の御女神皇産徳美神(㎞ 見 ㎞
穂 比
㎞)に要ひて生みませる御子 字津峰比古碑。
大御碑は、父大御碑 の言依し 賜 へりし 命の随に 高中守主碑を 左守大碑 と高下守
主碑を右 守大碑と なす。高中守主碑は、一 に大玉 守主碑 と いひ高下 守主碑 は、一 に
小玉 守主碑 といふ。
宇津峰比古神㎞)は宇津穂美碑 ㎞) に要ひて生みませる御子 学摩
志宇 加弾 比古碑。

玉太男碑を左守大碑と小玉足碑を右守大碑となす。玉太男碑は、一に天之高佐

比古碑と いひ高中守主碑の御子にましまして。小玉足碑は、一に天之高守比古碑

といひ高下守主碑の御子にましましき。

宇摩志宇加瀬比古碑(㎞)は津木峰美女碑(㎞) に要ひて生みま

せる 御子、天之常立 比古碑。
大守雄碑を左守大碑と小奈雄碑を右 守大碑となす。大守雄碑は、一に天之高長
比古碑と いひ 玉太男碑の御子にまし まして小奈雄碑は、一に天 之高雄太 比古碑と
第二章 前 紀 碑 祇 - 二
碑 皇 紀 二二
いひ小玉 足碑 の 御子 に まし ましき。
天之常立比古神 ㎞)は講を碑農比古碑といふ。天之常立比女碑(㎞
㎞)講弾兵加身比女碑に要ひて生みませる御子 天之御柱立碑。
大木守碑を左守大碑 と小草角碑を右守大碑 となす。大木守碑は、一に天之高元
主碑と いひ、大守雄碑の御子 にましまして小草角碑は、一 に天之豊太比古碑といひ
小奈雄碑の御子にましましき (㎞)
比大御碑の御時 初めて説 の法を定め給ふ。又、眞土を水にて誕りて回める土器

を造り石 にて圓 く園み、一方に日を明け 土器を之に掛けて共日より火を禁き魚類


又は鳥獣の肉なとを煮臨をっけて食むことを創めましき。又 魚鳥獣の油の土器

に煮浸みて固くなれるを見て大竹を割り編み て中骨となし、眞土を水と諸肉の油

とに て 挺り 雨面より塗りつけ 日光にて乾し固め て土器を造りますこと 並に共煮


ませるものを、貝殻 にて 拘 ひ食み ますことを創め給 ひき。
又 米碑栗委 などを回める石 に入れ 木の丸太 にて掲きて皮を剥き、土器にて煮て
食むことを創めましき。面し て共物を煮置きまし、に日を経て自青に色つき、
後赤、日を経て白赤の 水 に浸し ぬ。之を飲み給 ふ に 心開き気良し。 貝殻 に抱 ひ て
飲みっ 、煮ませる島の肉と魚の肉とを食み給ふに島内いと美し。共飲み給ひし
水を酒と名っけ 共食み給ひし物を下酒業と名つけ給 ひき。(㎞
天之御柱 立碑 は諱を農立比古碑といふ。天之御柱女碑 講農里比目碑に要 ひて、
生み ませる御子、天 之木 作 比古碑。
大多木碑を左守大碑と小根比古碑を右守大碑となす。大多木碑は、一 に天之高
都主碑といひ大木守神の御子にましまして小根比古碑は、一 に天之太玉根碑とい

ひ 小 草 角碑 の 御子 に まし まし き。
*

天之木作比古神は講を農元比古碑といふ。天之木合比女碑 講農元比女碑に要

ひて生み ませる御子、天之草 奈男碑。


大家守碑を左守大碑と小佐比古碑を右 守大碑となす。大家守碑は、一に天之高
久 主碑と いひ 大多木碑の御子 にましまして小佐比古碑は、一 に天之 真古武碑とい
ひ、小 根 比 古 碑 の 御子 に まし まし き。
天之草奈男碑は講を農田 比古碑といふ。天之草奈女碑 講農田比女碑に要ひて、
第二 章 前 紀 碑 祇 二三
二四
碑 皇 紀
生み ませる御子、天之 土奈男碑。
大戸守碑を左 守大碑と小戸主碑を右 守大碑となす。大戸守碑は、一に天之高原
主碑といひ大家 守碑の御子にましまして小戸主碑は、一に天之高知雄 碑と いひ 小
佐比古 碑 の御子 に ましまし き。
天之土奈男碑は譲を農畑比古碑といふ。天之土奈女碑識農畑比目碑に要ひて
生み ませる御子 天之 火 明男紳。
大山主碑を左守大碑と、小谷主碑を右 守大碑となす。大山 主碑は、一に天 之座玉

主碑といひ大戸守碑の 御子にましまして小谷主碑は、一に天之天戸太碑といひ 小

戸主碑 の 御子 に ましまし き。

天之火明男碑は講を農山 比古碑といふ。天之火 明女碑 講農山比女碑に要ひて、


生み ませる御子、天之水 男碑。
大澤比古碑を右 守大碑と小坂主碑を右 守大碑となす。大澤比古碑は、一に天之
御玉主碑といひ、大山主碑の御子にましまして小坂主碑は、一に天之中原守比古 神
と いひ、小谷 主碑 の 御子 に まし まし き。
天 之 水果 顯 は 書 を 書長度 比 古 神 と いよ。 天 之 水文 轉錄 是 原 比 目 論 に 委ね て生,
ませる 御子 天 之 金山 明神。
大里 主神 を 左 字 大神 と、小高 主神 を 右 侍 大神 と なす。 大里 主神 は、1 J 大 之 高根
主神 と いび 大澤 比 古 神 の 御子 に まし まして、小高 主神 は、1 J 天 之 高木 明神 と いび
小 板 主神 の 御子 に まし まし き。
天 之 金山 明神 は 論 を 長谷 比 古 神 と いよ。 天之 金山 女神 論 是 往 比 女神 に 愛か で、
生み ませる御子 天 之 火山 明神。

大 長男神 を 左 字 大神 と、小手 主神 を 左 字 大神 と なす。 大 長男 神 は、一 に 天 之 御 神


些單

擔綱 と いび 大里 主神 の 御子 に まし まして、小手 主神 は、1 J 天 之 高 公 比 古 神 と いひ
ż

小高 主神 の 御子 に まし まし き。

天 之 火山 明神 は 論 を 長久 に 比 古 神 と いぶ。 天 之 火山 女神 論 書長久在1 比 目 神 に 愛
か て 生み ませる 御子、天 之 出 原 界 體。
大 中原神 を 左 侍 大神 と、小 体 主神 を 右 侍 大神 と なす。 大 中原 神 は、1 に 天 之 其 王
男神 と いび 大 長男 神 の 御子 に まし まし に 小 被 王 神 は、1 に 天 之 高 岳飛 腳 '%
第 1 ، 1] 王
碑 皇 紀 二六
手主碑 の御子 にまし ましき。
天之田原男碑は諱を農具比古碑 といふ。天之田原女碑 諱農具比女碑 に要 ひて、
生み ませる御子、高皇 産 霊碑。
太田 男碑を左 守大碑 と、小池雄碑を右 守大碑と なす。太田 男碑は、一 に天之高太
碑 と いひ、大中原碑 の 御子 にまし まして、小池 雄碑は、一 に 天之高山峰碑 と いひ、小
依 王碑 の御子 に まし まし き。
高皇 産 霊碑は 天之碑農氏碑 諱農作比古碑 といふ。碑皇産霊碑 に要 ひましき、比

の碑は、天 之碑農比女碑 諱農作 比女碑 といふ。


大岡主碑 を 左 守 大碑 と、小立 比古碑を 右 守大碑 と なす。大岡主碑 は、一 に 天 之 玉


親主碑 と いひ 太田 男碑 の 御子 にまし まして、小 立比 古碑は、一 に天之 月 晴比古碑 と


いひ 小池雄碑の御子にましましき。(㎞
大御碑は常に諸、の萬 の草木 の 質根 皮を常甘 め、臨を 含み て思考 まし まして、諸”の萬
の病及庇なとの薬種を定め子孫に博 へ示し給ひき。(㎞)
大御碑 に御子七柱 まし ます。第五の御子を農立比古 奪 といふ。即ち國常立 奪
j=-シ - 『 『 -
足なり。第七の御子を 農佐 比古奪といふ。即ち園狭 様 奪足なり。共に知勇卓絶
にましまし き。地碑第四代、日子 火 火出見奪の御宇 に至り、比大御碑を高皇 産 霊碑
と神后を碑皇産霊碑と諡し奉りぬ。(㎞)
天之御中世 巻属 凡そ三十五萬碑 まし まして火高見碑十五 代、凡そ六十七萬五千
日にして意に高天原の世となれり。(㎞
第三節 高天原 世 天碑 七代
第一 國 常 立 奪
國常立奪 諱を農立比古奪と いひ 天之御中世第十五代 高皇産霊碑、諱農作比古碑
の 第五 の 御子 に まし ます。
農作比 古碑は、第五 の 御子農 立 比 古 奪 第七 の 御子 農佐 比 古 奪 に 語り たまは く、日
の本なる海原に沢説世に二なき造業山のあるあり。次か命等之に天降りて撃薬
園を治せと事依し賜ひき。乃ち先っ農立比古奪は共依し賜へりし命の随に 一族
春属数多の神々を率て遂来山の煙を目標として天降りましき。然るに、一萬七千
第 二 章 前 紀 碑 祇 二七
碑 皇 紀 -
二八
五 百 日 を 経る も復 奏なかりしかは、父大御 碑、奪 の 安否 を 慮り、日夜官長 携 を そ悩し 給
ひ ぬる。則 ち、農佐 比古 奪 に 語りたまは く、吾 将 に親ら農立 比 古 奪 の後を追 ひ て 天
降る可しと。農佐比古奪 乃ち旅装を衛め、一族春属三千五百碑を率て御父母二柱
の大御碑 を 守護まし まして赤 落達薬 山 の 煙を目標として 天 降り 途 に大海原 に 天 降
つく しま ゆき しま
りましましき。共着かせませる島を附島といひ共行き過きませる島を行島とい
ひ共着かせまさむとしっるとき見えける島を順地見獣といひ南に見えける島を
酷gといひ共休みて通りませる島を偲避島といふ。黒鳥に導かれて一小島に着か

せ給ひ又導かれて大陸島に渡らせ給ふ。故に共小島を佐渡 といふ、共より恋

導かれ て原谷 を経て 一樹 に向は せ給 ふ。歩々 皆な唆しく潮く にし て 遂に絶頂 に


達します。即ち一原野あり、共登りましし上の原野なるに由り之を野発といふ。

更に 又、山 を 蹴え 大原 に出 て 、進み ませる に、糧食 潮 く 霊 き なむ と そ しける。乃ち


率て来ませる諸。の碑々をして糧食を案めしめ給ふ。日ならすして草木の質及び
鳥獣など多く獲て復奏せしかは大御碑御威 斜ならす。是に 於 て先っ天の御家を
見立て て暫く愛 に 止らせ 給 ふ。共御家 に止りませる と多くの 糧食を 獲ませる と
を祀賀して共地を家賀と名っけ給ふ。既にして赤黒鳥に導かれて発し給ふ。即
ち幾多の山川を経幾多の原野を辿りて行きませるに倉。赤顔の獣七正 来りけり。
大御碑共獣に食を興へ て吾将に糧食霊きなむとす。 次 等 草木の質の多く有りっ
る地を知れりや、と問はせ給 へは執れも首を垂れ て勅を奉しっるものの如し。乃
ち春属の碑々をして共獣の導く随に糧食を索めしめ給ふ。即ち山を監 え谷を渉
り 日夜行きませること五日にして原野に出てます。則ち一帯稲穂なりけり。是
に於て諸 の碑々多く稲穂を扱き集む。既にして又導かれて還り来ませるに共 獣
中途にして別れ去りぬ。共地を分佐といふ。後又他の七正の赤顔の鷹来りす
大御碑赤之に食を興へ春属数多の碑々をして之に導かれて又種食を案めしめ給
ふ。即ち 水に送られ山に迎へられて行きませるに遂に海演にそ出てぬる。共偲
カち 書を以て釣針となし%を釣ることを ふ。シ
りませるに多く魚類を釣り獲ましき。十五日にして乃ち還り奏し ぬ。共稲穂の
多くありし地を船撃といひ稲場へ通り行きましし地を田シといひシを
針として釣りましし地を銅業といひ共大御神の正りましし地をシといふ。
-
第二 章 前 紀 碑 祇 二九
碑 皇
紀三○
田場に止まらせ給ふこと十八日乃ち又務し給ふ。偶 前後十四正の赤顔の獣来
**す。 っ之に多くの食を興ふ。足に於て幾多の黒島と十四定の獣とに事か
れて行きませるに、一日又山を監え奪 進み奪 上りて覚に高き原野にそ出てましぬ
る。赤顔の職とも潮く来り加はり 遂に幾多の獣となれり。又導かれて共高き原
事ょり更に赤上りませるに釜 険しく左楽右廻途に共頂に達しましぬ。偶 東南幽
か にシ業山の現はる、あり。大御碑を初め諸碑慶井歌呼して覚えす着しく彼方
へ飛太伊とそのたまひっる。故に共山を飛 大胆とひい共地を飛 野といふ。足

に於て大御碑は幾多の獣と黒鳥とに食を興 へ 乃ち又発します。 赤導 かれ て 或は

シに送られ或は蜂書に迎へられて進みまししか 共達来山を見つけたりし後の

なるにょり基地方を記㎞といふ、又進みて大なる平野に出っ・ 則ち大川三
巻 シの碑々 之に打乗りて三流の大川をそ渡りましぬる。因て共地を三艦野と
*ふ。是ょり進みて潮く落 来山の麓にそ近きける。
* 諸 の神々相慶し相賀し遂に暫く愛に止らせ給ふ。然るに損食赤
*に書きなむとしたりけれは現 ち者 の 碑々 部言を定めて 之を案め給ふ 即ち 式
は木 の 果 革の 質を採り 成は魚類を、或は鳥獣を捕獲して正りましますこと三千四
『、基地をシ野といふ、共より又違みてき業山の中央に登り来ませはきに
大原野 にそ出 て ましける。
大原野には水あり火の燃ゆる所あり湯の湧く所あり。草木 大に繁茂して共質
多し。乃ち、先っ大御神は大原野の小室の 小高き丘 に、天の御合を造りて止り まし
まし給ふ。是を穴宮の大御宮といふ。爾来 常に著 来山を遥拝ましまして共状貌
世に類封く二なき山なるに由りてシの不二山と名っけ又共高き地に火の燃え
Hっ日に向へるに由り、一に『㎞ 地峡の能と名っけ 共章の冬木多き所を青木ヶ
と名っけ給ふ、大宮所在の丘を園田都山と共大原野を高天原と名っけ 出の起
山なるに由り 一に同電容又は阿祀原とそ稲しける。
大御碑は共の不二山高天原に着き止りましますに由り不二山一圓を選 大居と
名っけ東の大原野を灌人 (㎞)と共奥を撃 ェ)と名っく。又不二山百南の
地は 一 海に面し一望千里なるに由り逸人 見習 船と名っけ不二山西北即ち記和
第二 章 前 紀 碑 祇 三一
碑 皇 紀 三二
地乗太野の北方一帯は遠く産業山を案め多く山川を越えて来まししに由りせ
と 名 つけ 給 ふ。
大御碑は、碑后農作比女碑と落達薬山 に着きませるや 先 つ先 に 天降りましまし第
五 の御子 農 立比古 奪 の所在を素め させ 給 ふ。左れと、覚 に共行方を知る能は さり
しかは、日夜共に官長機を悩ましめ給 ひ 潮く精紳関 々 として気力 倶 に衰 へ まし まし
て途 に身例 ならす。高天原 に 止りますこと 一千五百日 にし て、二 柱 の 大御 紳、日並
に碑避りまし ぬ。共に阿田都山 の陵に葬る。天之碑農氏碑 天之碑農比女碑と諡
*

し後 高皇産霊碑碑皇産霊碑と諡し奉れり。(㎞
是 より先 農立比 古 奪は、父大御碑 の 依し 賜 へりし 命の 随に落 薬山 の煙を目標 と

して天降りまし まし給ふ。左れと 中途にして共山を見失ひ本島と南島との間の



小島に天降りまして共島に止りましまし給ふ (㎞。
奪は賞 て 天之常武比古 命 の御女碑佐加比女奪を立て 、碑 后 となしまし 、か、既
に伴ひて共島に止らせ給ふ、常に父大御碑の依し則へりし命の随に選業山を常
め むと ましまし つるに、一日潮く共山 を認め給 ひき。乃ち、一族春属の内諸。の碑 々
を副 へ 給 ひ、共山 を日 標 として発しまし し が、藩 くにして共山 に達し 給ふ や園 らす
も、弟神農佐 比古 奪 に 避近ましまし給 ふ。互 に、秋喜踊躍以て相慶賀し 給ふ。弟碑
は父大御神と共に奪の後を追うて天降りましまして各所に佐賀野給ひしこと並
に父母二柱の常に寝標を悩ましめ給ひしこととも相語り 共に倶に奥悲み給ひぬ。
*ょり 北地方をシとそいふ、奪告りたまはく吾西の小島に妻子春風をは止
まらせあれは将に西に還り西園を治すへし。凡そ園事は高天原に倉して議りま
さむ こと とし四方よりは不二山高地火の峰を目標 として来り曾しまさむことを
そ約 しける。
奪は弟碑と議り不二山中央高天原阿祀谷より四方を所㎞
の四っになむ分ちましsる。阿創西 北㎞)は奪之を知食しめし
阿南 阿加東 ㎞)は弟碑之を知食しめすことに定めさせ給ひき。故に
比園を 「 に四季島といふ。(㎞
又全園を分ちて十八州に定め給ふ。即ち俗 質財㎞を阿祀東となし撃%
シを同祀南となしシ
第二章 前 紀 碑 祇 三三
碑 皇 紀 三四
北となし眠㎞鮮美穴門撃賑地財離艦地見を阿祀西となし給ひき
奪は弟碑に別れて西に還幸まします。共別れに臨み彼たシとて別れまし
、に由り奪の正りませる小島を明㎞といひ弟碑の見送り給ひし地をシ
聖家といふ。又弟碑か南の海演にて伊須謎伊出佐良 とて別れ給ひしに由り共
出張島を伊須といふ。(㎞ ")
奪は阿和路島還幸の後将に皇居を北方に遷し以て阿祀北阿祀西を知食 しめさ
むとし給ふ。偶 越地に大賊起りぬ。則ち 一族春属を従 へ て先っ田場國眞伊原の

要衝に天の御舎を見立てて之 に遷り止りましまし給ふ。之を桑田の宮 といふ。


是より阿祀 北 阿祀西を巡 狩ましまして諸、の荒振碑を言向和平し給ふ。旦 っ農民


碑を慰論ましまして語りたまはく農民碑は大御園の大御質碑なりとて毎に朝タ

怠りなく身を以て農民碑の幸顧を購 祀ましまし給 ふ。面して奪は常に管肝愛勤


以て農民碑を化成胞 育ましますこと慈母の赤子に於けるが如し。共思深く諸"の
農民碑の心に論 心し 奪を飲仰 すること父母の如く、一命を捧けて奪に勤めま さむ
とする心霊石の如し。諸 の州々皆富豊にして四海浪静にそ治まりける。 (㎞。)
子孫一基五メ八本シ一o二手十八メ六本(
㎞ ㎞) のとき書十五o
六十ダ日(㎞)にして桑田宮に於て碑避りましぬ。同園の田羽山の陵に葬る。
園常立奪と諡し奉る。碑后碑佐加比女奪は夫碑より三手八十ダ 日(㎞) 後れ
て書 十五O三手八十ダ 日(㎞")にして碑避りましぬ。夫碑と同所の陵に葬
る。國常比女奪と論し奉る。一皇子・一皇女まします。皇子を阿和路比古奪と稲
す。豊関淳奪足なり。皇女を自山比女奪といふ。伊装 諾奪に配して伊 装 舟奪と

稲し奉る (㎞

第二 國 狭 樋 奪

國狭植 奪は諱を農佐 比古 奪と いひ 高皇産 霊碑の第七 の


御子にまします。自清

龍比女奪を 立て 、碑后 と なす。天之古登 太留比古命の 御女にましましき。(


㎞)
大海原命を左守大碑と御舟守命を右守大碑となす。大海原命は講を天之常武
比古命といひ 天之御中主碑第二 の御子高中守主碑十四世の 孫 大岡主碑講天之玉
第二章 前 紀 碑 祇 三五
碑 皇 紀 三六
親主命の御子にましまして高皇産霊碑の御女大海女命に要ひましき。御舟守命
は講を天之古登太留比古命といひ天之御中主碑第三の御子高下守主碑十四世の

)
孫小立比古碑講天之月晴比古命の御子にましまして高皇産霊碑の御女御舟美命
史開

に要ひましき。(㎞)

奪は黒石を火にて格き溶して繊金を製し、更に鍛ひて剣 又は諸。の物を切る器具
を製作ましますことを創め給ふ。又 諸。の春属 に勅して諸。の州々の山嶺 深谷又は
洞 原 なと より、石 剣 を 拾 ひ集めしめ以 て武器 に用ひましき。

雪溶けて曲りし竹の 跳ね起くるを見 給ひて、乃ち手頃の大竹小竹を伐り、一族 春


属ともの毛髪にて共竹を 輌の如く曲け面して又 鳥なとの羽翼にて飛べるを見給


ひて共羽根を手頃に切りし細木小竹に附して前の竹に附けて射ることを創め給

ふ。之 を弓 及び 矢と名 つけ ぬ。
大形の器は大竹にて、小形の器は小竹にて各型を編み 兵土を粉となし面して諸"
の油染みたるものの硬きを見 給 ひて之 に諸”の油を加 へ水 に て挺 り共の編みし型
に厚く塗り附け*にて焼き撃め以て大中小の諸 の器を製作ましますことを創め
まし き。
勅し て阿 田 都山 の 西南 なる金山 の 澤 々 又は河原 にて砂金銀 を 拾 ひ集め しめ 給
ふ。面して國事に功を建て碑國を守りませる碑々 に賞として之を興 へ 又碑國の
通用金と定め給ふ。故に勅命なく温に之を隠し拾ひ 又濫に使用する悪碑には死
罪又は手足の指を切り 若くは耳を切り 専 を殺ぎ 片目を扶るなどの 刑罪に虜すべ
きこと、し又 勅命に背く悪碑若くは諸、の碑々の所持物を盗み 又は承諾なくし て
使用する悪碑にも同刑に虜すべきことに定め給ひき。
大小の木を伐りて四方又は堅横の柱若くは天上なとを藤にて結びつけ外園は、
木 の皮 又は大竹 小竹 にて園 み 屋根は、木 の皮 鳥の羽根 又は菅 に て 葺きて、住居 まし
ますことを創めましき。可してシは盤にて書きっるを最も良とす。故に住居
する所を撃又は原といふ。
奪 初め御 一族 の 正りまし ます家 の 入口 には、小竹を細き藤 に て編み て、之を釣る
す \
し 垂る。出入毎 に須 々 と 鳴りぬ。故に、細き小竹 類を須々術といひ組みて垂れし
ものをシといひ奪の止りまします%に垂れ置くものを御須といふ
第二章 前 紀 碑 祇 三七
碑 皇 紀 三八
天之 世 天之御中世 より博りませる臨 並 に酒の製法、又は 天之御中世より博りま
せる農作の方法即ち稲は水田に栗碑変豆類は岡畑に作り諸 の品々を腐敗せしめ
て、肥料 と 貸すべき こと を 世に 博 へ 示し まし き。
・奪は、一族 春属等 に語りたまは く、吾 が一族 子孫 を 始め 諸”の春属 よ、比 まで 務 明 ま
しま せる諸”の食事類 又は諸”の器具武器類を起因 として更に古今希なる諸、の事物
を発明ましまさむことを故等の子孫代々に博へ示す可しと
みなみわだ しま あ わ ち しま にしわだ しま ゆき しき
奪は紳后自清龍比女奪と共に全園十八州を初め 南海島 阿和路島西瀬 行距

なきうつうさ しまえ し
シ渡島海外島の八島を巡幸ましまし日夜重ぬること三手八十八メ八日

にし て高天原 の 小室 澤 の 穴宮 に還り 上り まし まし き。

奪は藤 の 皮の 克 く打ち柔けた るもの を額 に押し常 て頂 に て結ふ ことを創め給


ふ。之 を 皮 結 又は 官 守 といふ。共 不二山 より、取り 来 ませる 藤 に て 製 し 給 ふ に由


り 基不二とも稲す。是れ冠の魔矢なり。天っ日嗣の天っ大御碑を初め一族の男
碑は、皆 な共結玉 に、小さき丸木を挿し給ふ。之 を皮挿し又は官挿といふ。共女碑
は藤 の皮を 克く打ち柔けて細く割り、毛髪を纏め、之 にて結び藤 の皮 と共に脊に垂
れ、共 結 玉 に、四季草木 の 枝 又は 花 を 挿し 給 ふ。赤 プ を成 挿し 又は 官 挿し といふ。
面して春属の男碑は藤の皮にて前より後に廻して結ぶことに定め 共女碑は赤毛
髪を纏め藤の皮にて結ひ Hっ共結玉に木の枝を挿し、少女碑は木の花を挿すこと
に定 み 給 ひき。
奪は父大御碑と共に黒島に御佐和里導かれて遂業山に来ませるに由り及結即
ち官守に黒島の大初根を押すことに定め給ふ、黒島に御修和出 ませるに由り御
佐和 里皮 結といふ。又、略して御佐官守といふ。 又 奪は黒鳥の羽根を女碑の毛髪

にて編 みつけ以 て 上衣 に召しまし ぬ。之 を御 正 束といふ。又、語 命・勅命 によりて、


奪 に事 へ ませる碑 々を官碑といふ。共官碑 にし て 功績まします碑 々は、官 守 に黒


鳥 の 小 羽根 を挿すこと に 定め給 ふ。共功績 の 等差 に 依り、一本乃至八 本 を 挿 しま


しき。
抑も比黒島は加㎞と鳴けるに由り加 良住(㎞)と名っけ後 鳥と改む。又
赤孤の獣に魔医郡聖導かれて造業山高天原に来ませるに由り佐留と名っけ 後
と改む。又角を振り立て四足にて三流の大川を泳ぎ諸。の碑々を乗せ渡しし獣を
第二章 前 紀 碑 祇 三九
碑 皇紀 四○
シっサシと改む、 三種のシは神々の使なるに依り %すことを撃く
禁止し給ふ。共他鳥獣強魚の諸。の種類は皆な暗 音又は容貌に由り 追々共名を命
じ 給 ふ。
面して四角と競ある獣とを使役ましませるに監ある獣の方最も学 兵%
使役し得らる、に由り之を宇最と名っけ後馬と改めき
奪は紳后と年老ゆるに従ひ 常に宮守川の川上なる龍ヶ河原の大松の下又は共
奥の小池の漫にて常に自の大鳥と黒赤の大虫とを愛し 之と共に遊 ひ給ふことを
築みとましましき。(㎞)

自の大島の雌雄は常にシと略き黒赤の大賞の雌雄は家明と叫びけるを以て

老夫婦の二柱は大に脱 び給 ひて我等の子孫こそ築ゆる吉兆なるらめと宣ひき。

『ち 大島をシと名っけ天皇を撃明と名っけ給ふ。後都部を細に家明を奪に

改め き。
*は比吉兆に由り共止りまします地を都と名っけ共止りまします所を家と名
っ け給ふ。爾来 都留家明を鏡愛ましますこと盆々甚しく常に約にて食を郷げ興
シ明の五に並び競ひて食しけるをモ築みとましましし、一=赤郷げ興
哈 2 充 和文明 , 亦 º , ،
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大御神 を 許し、日 っ 因 中 に 対し て 発令 它 就 會 於 李 乾 6 '
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第 11 # # {p
碑 皇 紀 四二
葬る。國狭樋奪と設し奉る (㎞ )
奪は、常に大御 心を農事に注 が せ 給 へり。常甘 て 不二山高地火峰 北方 一帯なる高
天原湖 ㎞)の排水を期させ給ひ親ら元帥となり御子五碑(㎞)に
命じ 容属八百萬碑を率みて湖の 北方なる泉仙山古峰南尾崎 の尾太濃 山の尾と、宇
宙峰 山西北大 尾崎山 の 尾と の 窪 め る 所を 切割 り、湖水 を 押流さしめ 給 ふ。則 ち、共
下 なる亀 の 湖と共に押し崩れ、泉 仙山 尾崎の 小 舟崎 の周園 に湖水残り、又御古 峠南
尾崎限り西方 一帯 に 湖水 残り、共他湖底 悪く田野 に ぞ 化し にける。共田野 を 大原

と名っけ南尾崎を太田山と稲す。共山麓より湖水流れ出て太田山の東を流れ㎞

の常にて仙泉山西大澤より流れ出っる西泉川と合し大原の田用水となれるに由

り、之を太田川 といふ。面 し て 千野 ケ 崎 より、阿 家 佐箇山 尾崎 を 廻り尾太 濃 山 の 尾


崎 に て、又 寒川・御座 野川 と 合流し て、切割 りし 所 より大瀧と なれ り。之 を 天 家 座見


*
ヶ識といふ。高さ凡そ二千二百尺。共より下 平地なく共温風を 園加とそ稲しけ
る。又、小 舟崎周園 に残れる湖水 を小舟湖と名 つけ 西 に残れる湖水を共不二山 高
天原と住留家澤との背なるに由り 勤の湖と名づけぬ。然るに南住留家澤の北原
中原南原の三原は高天原湖排水の貸め 田用水経え にき、刀ち奪又 御子五子 (シ)
に命じ巻 属八 百萬碑を率 みて不二山高地火 峰 と共西の高峰との間の浮なる 河原
の 岩石を切割り 刻 の 湖 より、赤水 を引きて田 用水 と なさしめ給ふ。愛に三原 又 良
農田 と なれ り。因 て、比 三原 を萬農原 と 名 つけ、共切り割りし所を、割石峠 と そ稲 し
ける。奪 斯く 東尾太 濃 山 を掘 割り、又、西 割 石峠を 掘割 れる二 大役 の 元帥 にまし ま
すに由り世に源水大神と稲し奉る。碑后は夫碑より三々五本 ㎞)後れ㎞十五

O三手三十メ日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所の陵に葬る。園狭

昆女 奪 と 説 し 奉る。皇子 五碑、皇女 三碑 まし ます。第 一 の 御子 を泥土 煮 奪、次 を大


戸道奪次を面足奪 次を尾茂太留奪次を伊非諾奪といふ。(㎞)

第二二 豊 -

淳 奪

附 尾茂太 留 奪 諱 農田 里 古 奪
豊樹 淳 奪は、諱を阿 和 路 比 古 奪 と いひ 國 常立 奪 の 御子 に まし ます。白瀧 比女 奪
を 立て \、碑 后 となす。天之古登太留 比古命第 一 の御子 天之 茂登 太 足 比古 命の 第
五女にまし ましき。奪は阿和路島なる父大御碑の奮宮に 止りましまして南州 を
第二章 前 紀 碑 祇 四三
科 和 四四
食 しめし 始 よ。 嘉賓 賽 爾 克 に 病 みて 高く 評選り まし む。 許 使 に 0 万平 ?
日(神職 。“)前 和 路 局 の 段 に流 る。 墨 斯 洛 佐 と 論 し本 る。 中 子* し ます。
阿 和 武功 命 と いぶ。 國 金 文 等 は 関 被 她 發 の 第 四 の 御子 繼 田北 市 等 を 迎 《神 月 日
此 女 侍 の 後 失 として、其 後 を 授 か南 州 を 知 食 しめ さ しめ 立つ 阿 和 武男 命 を 落 有
しめ 除 。 農田 北市 金 は 數 十 五 o 三平 11く 同日(編號 種 體)にし て 神經 9،
成 十 六 O 大手 + < =(朝鮮 戰勝 )にし て神通り まし g § 大師 と 同 所 の 段
ñ।

*
:

|
家 。 同 被 加茂 吉宗 李 登 し本 る。 中 子七 章中 女神 しま した 。 (戰亂 希 ॥、内 體
%
魏)

阿 和 武功 命 は 義父 兄 成太 祖神 に 養育 やられ て 生長 * し まし、張 士 系 等 の 元 女 公

北 安會 に乗じ て東州 により家傑)を証しかしむ。 本 にセo 手中


( )に在 し ます。子た し% に 語りたま はく寄予 1 歳 だ にた し子たき 者
そ º 世に 劇 和 體 なる もの は な からめ と て脱 拉 * しま しき。 故に英 上り ませる 地
«ë «。 後衛 天災 により戻 する 大殿 に s
を * きしますこと十メセ日にして 一男子“ましまし。“て 夫
共に に りましお、共に宇宙降言夫澤の自達『見の管原に葬る。夫 を
基心言 令とェを 心合比女命と言し論 ふ。天皇夫
ひて 名を日吉里吉命と弱ひ共父㎞の義㎞ち足度*っセ*** *。
をして 育さしめ給ふ。大御神経に立て、天っ日園に定めさせシ
古奪と改め弱ふ。天之忍穂耳奪足なり。
尾度大望奪第一の御子少名里古部命は大戸道奪の三女大己貴命のシ

女命に要ひて人延仁里古合 気合王命を生みましき(㎞)
同第二の御子填安昆古命は御子天之長男命と共に天照大御詩 の碑 動を受け*

器類の製作を諸碑 に教 へ ましき。
同第三の御子水通 里古命は御子水満里古命と共に赤碑効を受け# 君法をシ

に教 へましき。(㎞)
同第四の御子事代主命は大戸道奪の六女大己貴命の妹日吉里女命に妻ひて天
之手長男命天香護山各 加茂澤里女命を生みましき。
四五
第二 章 前 紀 碑 底
碑 皇 紀 四六
同第五の御子武佐太里 古命は環々杵奪の御宇 附地見島の松浦の湊裏山に於て、
外見を防ぎきに戦死し給ふ。太島座里古命と置し官赴に祀らせ給ふ。(㎞
第四 泥土 煮 奪
泥土煮奪は講を日本比古奪といひ園狭樋奪の第一 の御子にまします。大原比
女奪を立てて碑后となす。天之常武比古命の第一 の御子天之茂登太手比古命の
二 女 に まします。
奪は東州を知食しめし給ふ。性 手工に巧みにして陶挺を善くし又 者 前 の法を

案出して之を諸神に教へましき。毒十二O三手三メ日 )にして碑避り

ましぬ。泥土% 奪と諡し奉る。 高天原 小室山 の陵に葬る。碑后 毒 十五○ 一手 日


( )にして神避りましぬ。沙土%奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。
引r


子を 火之畑土命といふ。命の御 一子火之帰鉢命は後天照大御碑の碑勅を受け、
ゼ合
紳 に火 禁法を教 へ 給ふ。命の第二子火之焼玉命は赤碑勅を受け 者 前 法を諸碑
1 二日
に数へ給ふ。一女葉津里女命は月峰命に要ひましき。(㎞)
第五 大戸 道 奪
大戸道奪は講を農質比古奪といひ園狭様 奪の第二の御子にまします。字津比
女奪を立て、碑后 となす。天之茂登太手比古命の三女にまします。奪は四方諸。
の州 々の農作の事を掌りまします。後 共子孫三十八碑を四方 に遣はし、農頭とな
させ給ふ。奪 毒十五O三メ日(㎞)にして碑避りましぬ。大戸道奪と諡し奉
る。高天原宇宙峰北据 野の陵に葬る。碑后書十五O四メ日(㎞)( ㎞
") にして碑避りましぬ。大戸比女奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。第
一 の御子を大己貴命といふ。後天照大御碑の碑勅を受け四方の租税を徴牧する

ことを掌りまします。諱を大國主命と改め 賜ふ。第二の御子を作田 里 古命とい


ふ。父の後を襲ひて惣農作の頭となり農作の事を掌りましましき。(㎞

㎞)
川 記、碑 都 録。/

第六 面 足 奪
面足奪は講を穂千田比古奪といひ園狭樋奪第三の御子にまします。千早比女
奪を立て、碑后となす。天之古登太留比古命第一 の御子天之茂登太足比古命の
四女にまします。奪は、北州を知食しめし給ふ。常に鍛錬に心を用み 給 ひ 製刀 の
第二章 前 紀 碑 祇 四七
-

碑 皇
四八
を 出してシに教へましき。詩十六o三手一メ四日(㎞)(㎞ )
にして紳避りまし ぬ。面足奪と諡し奉る。北越の園の陵に葬る。 紳 后 は、毒 十六
C『手四日 ) にして碑避りましぬ。大斗野漫奪と置し奉る。夫神と同
所の陵に 葬る。第一 の御子を倉平顔昆古命といふ。後天照大御碑の碑勅に依り
*を組みて依を製し 殺物を貯蔵することを創め給ふ。第二の御子を金子甘美金
*代命といふ。赤碑勅に依り父碑と共に剣鈴を製作することを創め給ふ。
㎞)

第七 伊 非 諾 奪

は試 を田仁知比古奪といひ園狭樋奪第五の御子にまします。園常立

*に迎へられ 常時副元帥として阿祀北地方を巡狩して諸 の悪碑を鎮めましませ


。一女自山 比女奪に婚せ給ひて西州を知食しめさせ給ふ。天資卿明にましまし
てく*を愛し給ふ。世以て四季島第一の知者碑と崇め奉る。碑后自山比女奪
赤く夫㎞に事へましぬ。共に青肝愛勤以て西州を治しめすこと八O三手一メ
日(㎞、執 時 ") 又 四方 の 州 々 に 現れ 国 を 興し、四海 を平定ましましき・ 後、高砂の 不
ニ山中央高天原に還り上りましまして日向高地火峰の小室の阿田都山の次官を
改造 し て止りましまし給 ひ 以て四方を知食しめさせ給ふ。世に比の宮を、日向の
穴宮の 大御宮と ぞ 稲し奉りける。
園法を定めさせ給ふ。即ち、一洞 一澤一組に各頭を定め 一洞の頭を洞頭と、一澤
の頭を浮頭と、一組の頭を組頭と定め給ふ。又園常立奪 園狭樋奪二柱の大御神の
子孫を天っ碑と定め天之茂登太手比古命天之茂登太足比古命二柱の碑の子孫を

國っ碑 と定め給ふ。又 大政頭は天っ碑の子孫 之に任じ洞澤組の各頭は園つ碑の


子孫 之 に任することに定め 給ふ。又 天つ日嗣の天つ大御碑の左右に 守碑を置き、


茂登太手比古命の子孫の内 知碑を左頭碑と茂登太足比古命の子孫の内知碑を右

頭紳と定め給ひき。常時の左頭碑は茂登太手比古命にして諱を大玉守王命とい
ひ 園狭様 奪の第 一 の御女大玉美命を要ひまし 右頭碑は茂登太足比古命にして講
を古 宮守 命と いひ 園狭植 奪の第三の御女古竹里 女命を要 ひましき。
親子兄弟の嫌合を禁じ親子兄弟伯父母子孫の典濃を樹て、天つ大御碑を初め 天
第二章 前 紀 碑 祇 四九
碑 皇 紀 四四
知食しめし給ふ。察質麻 弱意 に病みて番 く碑避りまし ぬ。毒 僅に一 ○九手 一 ダ

日( )阿和路島の陵に葬る。豊掛溶奪と諡し奉る。一皇子まします
阿 和武男命といふ。國常立奪は 國狭植 奪の第四の御子農田比古奪を迎 へ 碑后自
瀧比女奪 の後夫として、共後を襲 ひ南州を知食しめさしめ、且つ阿和武男命を養育
せしめ給ふ。農田比古奪は毒十五O三手二メ四日(㎞)にして碑避りまし
ぬ。高天原宇宙 峰西大澤自運満尻菅原の陵に葬る。足茂太留奪と諡し奉る。碑

后 十六O六手十メ四日 )にして碑避りましぬ。後夫碑と同所の陵に
い j ・ \ *
以上、『 闘記、
葬る。阿夜加志古泥奪と諡し奉る。皇子七碑 皇女九碑ましましき。(㎞
pH、中
皇 日

都 録。 )
阿 和武男命は義父尾茂太留奪に養育せられて生長ましまし 泥土煮奪 の九女松
島北女命に要ひて東州に止り家 低質 ㎞)を治しめし給ふ。年既に七o二手十
メ『( )に在しますも子なし%に語りたまはく吾子一碑だになし子なき者
こそ世に阿 和濃なるものはなからめとて湧 泣ましましき。故に共止りませる地
を同シといふ。後高天原に正り神風神宗を祀りませる阿祀山太神宮に一命
をお ましますこと十メセ日にして、一男子 生ましまし ぬ て 夫ジ
芸 に暴 に 達すました。共に宇宙 峰百大澤の自 達違兄の菅原に葬る。夫神を
兵心 と をニ 心合 比女命 と言 し給 ふ。天 照大御神は 共生み ませる御子を
ひて、 名を 日 吉里 古 命と 賜 ひ共 父 の義妹、即ち 尾茂太 留 奪の 七女青木 里 女 命
をし て養育 せしめ 給 ふ。大御神 終 に 立て \、天 つ 日 嗣 に定め させ 給 ひ 講を 豊 武昆
古 奪と改め 賜 ふ。天之 忍 穂 耳 奪足 なり。
尾茂太 留 奪 第 一 の 御子 少名昆 古 邦 命は、大戸道 奪 の 三 女 大 己貴 命 の 妹 武瑠雄 昆

女命に要ひて久延仁昆古命 知倉王命を生みましき(㎞)

同 第二 の 御子 填 安 昆 古 命は 御子 天之長男 命と共に、天 照大御 碑 の 碑 勅を 受け、食


器 類 の 製作を諸 碑 に 教 へ まし き。
同第三の 御子 水 湧里 古 命は 御子 水 満里 古 命と共に赤碑 勅を受け 井 掘 法 を諸碑

に 教 へ まし き。 (㎞)
同第四の 御子事代主命は、大戸道奪の 六 女大 己貴命 の 妹 日吉里 女命 に要 ひて、天
之手長男命天香護山各 加茂浮里女命を生みましき
第二章 前 紀 碑 祇 四五
碑 皇 紀
四六
同第五の御子武佐太里古命は現々杵奪の御宇 府地見島の松浦の湊裏山に於て
外見を防ぎきに戦死し給ふ。太島座里古命とし官赴に祀らせ給ふ。(㎞)
第四 泥土 煮 奪
泥土者 奪は講を日本比古奪といひ園狭樋奪の第一 の御子にまします。大原比
女奪を立てて碑后となす。天之常武比古命の第一 の御子天之茂登太手比古命の
二 女にまします。
奪は東州を知食しめし給ふ。性手工に巧みにして陶 延を

*出して之を諸神に教へましき。毒十二O三手三メ日( )にして碑避り

**。 土シとし奉る。高天原小室山の陵に葬る。神后部十五o一手日

(㎞)にして碑避りましぬ。沙土密奪と諡し奉る。夫碑と

御子を火之畑土命といふ。命の御 一子火之帰鮮命は後天照大御碑の碑勅を受け、
諸紳に火禁法を教 へ給ふ。命の第二子火之焼玉命は赤碑勅を受け 者 前 法を諸碑
に教へ給ふ。一女輩津里女命は月峰命に要ひましき。(㎞)
第五 大戸 道 奪
大戸道奪は講を農質比古奪といひ 園狭様 奪の第二の御子にまします。宇津比
女奪 を立て、碑后 となす。天之茂登太手比古 命の三女にまします。奪は、四方諸。
の 州 々の農作の事を掌りまします。後共子孫三十八碑を四方に遣はし、農頭とな
させ給ふ。奪 誇十五O三メ日(㎞)にして碑避りましぬ。大戸道奪と諡し奉
る。高天原宇宙峰北福野の陵に葬る。碑后書十五O四メ日(㎞)( ㎞
") にして碑避りましぬ。大戸比女奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。第
一 の御子を大己貴命といふ。後、天照大御碑の碑勅を受け四方の租税を徴牧する

ことを掌りまします。諱を大國主命と改め賜ふ。第二 の御子を作田 里古命 とい


ふ。父の後を襲ひて惣農作の頭となり農作の事を掌りましましき。(㎞

第六 面 足 奪
面足奪は諱を穂千田比古奪といひ園狭植 奪第三の御子にまします。千早比 女
奪を立て、碑后となす。天之古登太留比古命 第一 の御子天之茂登太足比古命の
四女にまします。奪は、北州を知食しめし給ふ。常に鍛錬に心を用み 給 ひ、製刀 の
第 二章 前 紀 碑 祇 四七
碑 皇 紀 四八
法を案出して諸神に教へましき。詩十六o三手一メ四日(㎞)( 郵
にして紳避りましぬ。面足奪と諡し奉る。北越の國の陵に葬る。碑后は 毒十六
C四手四日 ) にして碑避りまし ぬ。大斗野漫奪と諡し奉る。夫碑と同
所の陵に葬る。第一 の御子を倉平顔昆古命といふ。後天照大御碑の碑勅に依り
薬を組みて依を製し殺物を貯蔵することを創め給ふ。第二の御子を金子甘美金
希代命といふ。赤碑勅に依り父碑と共に剣鈴を製作することを創め給ふ。
以上、開 闘記、國 常 記、
(㎞)

第七 伊 非 諾 奪

伊シ奪は 謎を田仁知比古奪といひ園狭趙奪第五の御子にまします。園常立

奪 に迎 へられ 常時副元帥として阿祀北地方を巡狩して諸 の悪碑を鎮めましませ


。一女自山 比女奪に婚せ給 ひて西州を知食しめさせ給ふ。天資聴明にましまし
て離く衆を愛し給ふ。世以て四季島第一 の知者碑と崇め奉る。碑后自山比女奪、
赤善く夫碑に事へまし ぬ。共に青肝愛勤以て西州を治しめすこと八O三手一メ
_-__
日 (詩歌
千 +
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,။ ス、四方 の 社 * * k, * » + && w، し ، し „• & 高砂 の 不

自由
高天原

に 達す 上り ょ しょ ,し て'日向 高地 水柱 の 小室 の 町田 郡山 の た 』。
改造 し て'上り まし まし 結び、以 て 四方 を 知 食 しめ させ 駱 %。 在 に 比 の 宮 を、日向 の
* { { { の 大佐 官 と ビ 科 し 本 リ ける。
民法 を 定め させ 駱 º ㎝ ら、一 词 桜 に 各 項 を 定め \ 额 の 頭 を 視 節 と、一邊
の 頭 を 浮现 と、一級 の 頭 を 組頭 と 定め 込 º > > ·恩 被 提琴 一 柱 の 大御神 の
子孫 を 天 つ 神 と 定め'天 之 夜校 太 手 比 古 命 天 之 夜空 太 足 比 古 金 二 社 の 神 の 子孫を、

因 っ 种 J 定め 結ぶ。 ︽大 攻讀 は 天 つ 神 の 子孫 之 に 任じ'海津 租 の 各 取 は、國 つ 神 の
些差

子孫 之 に 任 すると と に 定 ? &。 ︽天 つ 日 制 の 天 つ 大御神 の 左右 に、守護 を 置さ


龙 科 大手 比 古 金 の 子孫 の 内、知 种 を 左 眼神 と 交往 太 足 比 古 金 の 子孫 の 内 和 神 を 右
卷 頭 神 と 定め かき。 當時 の 左 眼神 は、安 格 大手 比 古 金 にし て 論 を 大王 守 王命 とい
ひ、政 被 她 後 の 第 1 の 得 女大王 兼ね を 愛 か まし、右 眼神 は、夜校 太 足 比 古 命 にし て 論
を 古 名字 命 と いか'國 放 建行 の 第 三 の 御 女 古 有些 女 命 を 愛 か まし き。
親子 日夜 の 構 分 を 禁じ‘我 子 日光 祖父母 子孫 の 典禮 を 樹 て、天 つ 大御神 を 初め 天
第 二 章 的 四九
足方り夜る山 。

御御


譲の



な月を

)

(

四見
。 皇いふ

と稲



















天 子

る としてせ方治魔

細竹
四退悪張り


こと
さする







まし け髪




)

(
O













を る くきめる 、



貫き
定しく

ひこと

。 しけ










貫き









國 く 貫き
中じくけ頭 て
掛栗

同頸









て 立き












させ










頸 て として
盤 衣初様め服 。




集天






模に



上 つきしめるけ


す葉

定て

示こと





ひ碑






又 定き









。 め
F

仏 一






まし











、 子

ひ ふさくしりちめる



定又
即こと


小給


取細き


な切り
と 柏

衣服



木商












ての葉







子 命 に 譲る。英 日子 奪 是 なり。
伊原 の 田 羽山 の 麓 に 嗣 を建て 、、國 常立 奪御 夫婦 の 碑 霊をそ 祀
といふ。尋 て 高天原 に還り上りましまして、小室の 日向

る岩長峰 に於 て、毎夜 怠りなく 火を禁 きて碑祀 碑宗 を 初め、


國常立 奪 園狭 植 奪 の 各御 夫婦 の 大御碑を祀ら せ 給 ふ。世に、之を高 澄 と ぞ稲 しけ
る。
二柱は各書十五O三千五宣日(㎞)にして高天原小室の日向の穴宮の大

御宮に於て日並に(㎞)碑避りましぬ。共に共大御宮の西尾崎なる岩長の峰の

陵 に 葬る。
二柱に伊非諸奪伊葬専務(㎞ )と諡し奉る。 後、共陵 前 に 赴 嗣

を 造営し て、高 燈大碑 と そ祀りける。


碑后自山里女奪は 初め父大御神に代り副元帥として阿祀北地方を巡狩して諸、
の悪碑を慰め鎮め、良農民碑を愛撫ましますこと 兄弟子女の如し。阿祀 北地方の
惣農碑等家賀の と 税 び祀ひき。故に 碑后 の 止りましましし地を家賀野とそ名 つ
けける。今や 共碑避りましし ことを博知するや惣農碑等撃りて奪の 止りましま
第二章 前 紀 碑 祇 五一
碑 皇 紀 五二
し、家賀野原の家賀山 の石川の漫に嗣を建て 、共碑霊を そ祀りける。
國常立奪園狭樋奪二柱の大御神の子孫一o二千一喜二十八碑( )春
属二O八千一喜八十六碑(㎞ )にして天っ碑凡そ十二O三千碑(㎞)
園っ碑凡そ二十O三千碑(㎞)合せて三十二O六千碑 ㎞)なり。高天原
世 天碑七代、兄そ十八O五千日(㎞)にして遂に豊阿始原瑞穂園の世となれり。
(㎞㎞)
系 圓 史、古 陵 記、寒川 記 篇。

第一 天 照大御碑
天照大御碑は講を初め大市里女奪といひ 後大日留女奪といふ。伊装 諾 伊装 中
二柱の奪の皇女にまします。二柱より天つ日嗣の大御位を受けさせ給 ひ四方の
惣 大御 洲 を 知 食しめし給 ふ。是 より先、二 柱 の 天 つ 日嗣を定めま さむ と せらる 、
や大市里女奪月峰命(㎞)、互に義を立て相譲りて天っ日嗣に立たせ給はす。
乃ち 月 峰命言したまはく 大市里 女奪は二 柱の初長子なり。故に奪を天っ 日 嗣 と
ー= -シ
シ『
〜(
し、以 て 四方 の 惣 大 御部 を 総 さ* 給 ふ へ し。と ー
ift
:
立て \、天 つ 日 嗣と なし 諱を大 日留女 奪 と 改め 賜 ふ。是 に至り て奪 大御 位 に即 か
せ給 ひ園を豊阿始原(㎞)瑞穂園と名つけ給ひき。
大 守男 命を 左 頭碑 と、小 守主命 を右 頭碑 と なす。大寺男 命は、天之 茂登 太 手 比古
命 の第 一 の 御子 に まし まして、尾茂太留 奪 の 二 女大仲美 命に 要 ひ ます。小 守主命
は、天之茂登太足比 古命 の第 一 の御子 にましまして尾茂太留 奪の三女小菊 昆 女命

に要ひましき。

月夜見命は、二 柱 の奪 の第 一 の皇子 に まし まして諱 を月峰 命といふ。西 古 農原

家 司県 の 里白玉 池畔 の 家 司 の 宮 に 止り まし まし 給 ふ。泥土 煮 命 の 一女月標 田 里


巻 女命に要ひて自玉彦命を生む。即ち大山祇命 ㎞)講寒川里古命足なり。後 月
夜見 命は 四方 の 惣 大御山 を司 ら せ 給 ふ や 碑都 高天原 に還り、小室 の 宮守川 の川上
に山守 の 宮 を造り て 止ら せ 給 ひ、諱 を 大 月 留 男 命 と 改め 賜 ひき。
茶 日子 命は、二 柱 の奪 の 第二 の 皇子 にましまして幼名 を 軽 子 命 を 呼 ひ 講 を 江 日
第二 章 前 紀 碑 祇 五三
碑 皇 紀 五四
住 命といふ。尾茂太留奪の二女白糸 昆女命 に要ひて四方の惣大御海を司らせ給
ふ。高天原大室の刻の湖の北 日向山麓の濱に海守の宮を造りて止まりましまし
き。世に比宮を龍王宮、又は 龍宮といふ。海 守の 職に在はします間 講 を龍王碑 と
稲し共子孫を海碑と稲しぬ。(㎞)
大御碑は二柱奪より大御位を顧受け給ふや、小室の阿田都山 に宮殿を造営まし
まして碑祀碑宗代々の天 つ大御碑を祀らせ給ふ。高天原宗腐天赴大宮阿祀山太
碑宮と稲し奉らる。大御碑の止りまします大御宮を守らせ給ふ宮なるに由り、一

に宮守の宮と稲し奉る。爾後、大御位 に即 かせまさむには比太碑宮の紳殿 に 於 て

大御位に即かせますへきことに定めさせ給ふ。 (㎞)

大御碑は大御心を諸、の萬の碑々 に注 かせましまし、事細大となく親ら身を以て

常らせ給ふ。即ち 常に藤の夢 の皮を集め、打ち柔けて 克く晒らし、之を編みて、衣類


を製することを発明ましまして、之を四方の州 々に教 へ 示 させ給 ひき。 (㎞)
即位一O五千十四日(㎞)のとき高皇産霊碑の曾孫に多加王といふものあ
り、管力他に絶く。春属千三喜除人を撃て不二山の煙を目標として『 阿始原瑞
穏 国 に 送り 高天原 に上り 大 群 を従 へ、W 残 国 を 占領 せ む ことを企 て ぬ。然るに、
大 之に 達しまさざりしかは諸事に妨害を加 へ 共暴状 至らさるなきに至れり。
乃ち、大 御言は言 に臭深き天 の石窟に意 りましましき。國内怒ち闇 黒となむなり
にし。是より先 多力 王の入り来ますや、大 己貴命は弟碑農佐里 古 命をして四方の
州 々 より春属八千除 詞 を集めしめ、以て之を園み 多加王の春属を慶 にせしむ。手
力男命王をそ捕獲ましまし ぬる。是に於て天 つ碑 園 つ碑は 各部署して四方 より、
奥深く山に押 入り八方より手を書して大御碑を捜索し奉る。潮くにして八重九
*****へへ

重奥の天の石窟に記り止りましませることを知る 乃ち、惣神大 に 脱 ひ 岩戸の 前


に於て農佐里古命残本を叩きて歌ひ天釘女命青葉の木の枝を以て祀の舞を演し、

大 に 危 ひ司 智し奉る。大御碑六 ひて出御 ましませる時 物 碑 一斉に手を拍ちて


大 に 認し奉る。手 力 命 大御 の手を奉し農佐 昆古命を御前に立して、小室の 日向


の大御宮 選*ましましみ。足より先大己貴命は多加王に逐一道理を説き念し
ましまししかは王も共理 に殿し給 ひき。一日大御碑 王を延見 ましまして認りた
まはく 次 比 より善心 に復り 吾碑園の四方四海の諸、の荒振碑等を言向和平しなは
第二章 前 紀 碑 底 五五
碑 皇 紀 五六
姉弟の 契をなし、一命を助け 置く可 しと。王答白 し つらく、恐し、比 より善心 に復り
大御碑 の 依し 賜 へ る 命 の 随 に 勤め まして むと、大御 碑 いと 脱 は せ 給 ふ。是 に於 て
大御碑は 王と 姉 弟 の 契を 結は せ まし き。王は、之 か謎 として 手 に楚 き炭 を塗り 共
手形を柏葉に押して奉る。是れ吾園契約擁印の濫篤なり。(㎞ )
大 御碑は則 ち大戸道奪 の 第 一 の 御子大 己貴 命を元帥 とし、天 之 茂登 太 手 比古 命
の御子手力男命を副師として春属二千碑を率み多加王を警護して阿祀北の山陰
の奥谷に碑追ひに追ひき。(㎞)共地は不二山の悪雲吹き

出っる方に常れるに由り 出雲國といふ。(㎞)

多加 王は、追は えて、出雲國 に 天降り ますや、大御 碑 の 碑 勅 を 思長 みて 四海 の 荒振 碑


等 を言 向 和平 さむ こと を 期 させ まし ぬ。乃ち、手 力男 命 を 招き、共言 向和平 すべき



器 を製 せ む こと を議りまし き。命は、婦碑 手 力 昆女 命 と 日夜泉水 に 溶 し 斎戒 して、
天 つ 碑 々 に 所 願まし ます こと三 七 日。二 十 一日 の 夜、天 つ 碑 の 御 碑託 に佐渡島 よ
り金銀 鐵の三種を掘り来りて製 すべ しと。乃ち、御碑託の随 に共の三種を掘り集
め来り 剣 刀知を師として之を製し給ふ。剣 刀知は多加王の従族にましまして、王
の叔父 金剣 清の御子 にまします。性 手ェ に長 し 鍛治を良く す。乃ち 手力男命夫
婦は剣 刀知と共に工夫 を凝らし、先つ繊 を焼き溶かし、大丸長金を製し金を焼き溶
かし小丸長金を製しをき更に繊 に銀三分を和合し、火 にて焼き溶かして、大石の上
に載せ て手 力 男命大丸長金を 手力里女命小丸長金を持ちて、之を打 鍛ふ こと 百日
にし て、質剣 八本 を製作 まし まし ぬ。又 銀 及 金 を同 しく打 鍛 ふ こと 二 十 一日 にし
て日輪の形に八本の御剣を加へ八太初鏡を製作ましましぬ。又金を同しく打鍛
ふ こと二十 一日 にし て落 来山高地 火の峰 の 形 を製し、且つ銀 に て同しく鍛 ひ て月

輪 の 形 を製 し共上 に金 の 落 来山 を安置 し て天 つ大御 碑の 御 紳 霊となしまし ぬ。


皇。

即ち質司 の 御霊是 なり。


多加王は諸、の天 つ碑 に所願し太 占 にト相 へ て御剣 八本の内 一本を授け賜はり、


他の 七本は高天原 に鎮 まりまします太碑宮 に奉らむ と まし まし ぬ。乃ち王は 春


属数多を従 へ 共授け 賜はりし 一本 の 御剣 と、資 司 の御霊と、八 太 羽 の 鏡 と を 奉して、
四方 諸、の州 々 を 巡行まし ます。質司 の御霊は 紳 祀 碑 宗 の 碑 霊として身 に 添 へ、堅
第 二章 前 紀 碑 祇 五七
碑 皇 紀 五八
先っ御鏡を示して 説論ましまし、若し之に服して善心に復れは再ひ鏡を示し給ふ。
若し 説 論 に服 せ されは御碑 剣 を以て 切り捨てましましき。是に於 て四方 の州 々
大 に 治まり 初めて四海浪 静 に 國 豊に治まり にけり。則ち、王は御剣を自ら奉持し、
手 力男命は質司の 御霊を奉持し、手 力昆女命は御鏡を奉持し て高天原に上り、小室
阿 田都 山 の宗魔天 赴大宮阿 祀 山太碑宮の碑殿 に於 て大御碑に三品の御碑質を
納め 奉り、共言 向 和平し ぬる状 を復 奏し給 ひき。大御 碑御 威 斜 ならす、乃ち、謹 みて
親 ら之 を 碑 殿 に 納め 奉らる。則 ち 多加 王は 吾 祀國 を佐け治め まし ますと て諱 を
祀佐男命 と 授け 賜 ふ。又、手 力男命 に講を 手名都知命と 手 力里 女命に諱を足名 都
知命と賜ふ。又剣刀知の功勢を聞召れて講を金山 昆古命と授け賜ひ 出雲より遥
か南なる大洞谷原を下し 賜ふ。之を三野園(㎞)といふ。共思ひかけなく 不破
と 賜はりし に由 り共地を 不破 野といふ。乃ち出雲より移り止まりましまし き。
共出雲より遥か南なるに由り共止ります宮を南宮と名っけ給ひき。又命は悪魔
悪碑を切り挑 ふ武器を創作しける始 祀なる に由り 武器を 剣 又は刀 といふ。後 毒
十 六○八千三喜 三十六日 にし て碑避りまし ぬ。同宮 の裏山 に葬る。妃剣 最婦は、
} =
言を全自足女 今といふ。七日後れてョ選りましぬ。同所に葬る。(㎞
夫 資司っ玉を言 雲と名っけQQを共出雲園の芸川の玉室㎞)より
出っるに由り室雲っgと名っけ 八角花形の鏡は内侍所の 銭と名っけ輸ふ、比
三品を大御神の大御質と定めましき。( 『)
高天原宗頃太神宮の御神木なる大柏木の下にぎ業山の形を作りお ひ 共左右の
枝 に、金銀 の 玉 に て 日輪 月輪の 形を 作り て 之を掛け ㎞ 祀碑宗 の 天 つ 大御 碑を初め
諸“の萬 の 天 つ 碑 園 つ 碑 を 遥拝 まし まし き。共金銀 の 玉 は、兵を示 に て 貫き て 作れる

に 由 り 旨共 加 玉 と そ 稲 しける。日輪 の 形 は、砂金を焼き 数 ひ て 小さき金 の 玉 を 数多


作り兵糸 に 貫きて日 の 形 に作れるもの にし て月輪 の 形は、砂銀を鍛 ひて 小 ささ銀


の玉を数多作り同しく貫きて月の形に作れるものなり。( *)

租 佐男 命は、出雲の 國 に騎 り まし ます や 手 名都 知命 の 一女、稲田 里 女 命 に 要 ひま
し ぬ。手 名 都 知命は、初め 講 を 手 力 昆 古 命 と いひ、又 手 力男 命 といふ。天之常 式 比
古 命第 一 の 御子 天之茂登太手比 古 命 の 御子 に ましまして足名都 知命は 天之 古 登
太留比古命第 一 の御子天之茂登太足比古命の六女にましましき。一日 祀佐男 命
第二章 前 紀 碑 祇 五九
碑 紀
六○
は 計策を設け悪大蛇を殺し 之を酒希として大に宴を張り諸碑を響し給ふ。各碑
々 は 成は歌ひ或は舞ひ等を演して大に祀しましき。命は爾後碑勅に従ひ常に四
。 々を者ましましてシょりsシに至るまで もシを加
ふる。のは皆な足を退治せむことを職とし給ふ。則ち四海浪静かに治まり、天下
*の御代となりにき、一日手名都知命は三品の大御質を打鍛ひたる賞作りの
**シりの小丸長金とを奉持して高天原に慮し。大御神は芝を大
小 植 とそ名つけ給 ひし。
大御神は大己貴命に勅して四方の州々を巡行して諸 の農民碑に諸 の職業を教
へ『 まさしめむとして大植と大熊皮の大俗とを授け賜ふ。即ち大趙を手に持ち
て根気ょく打ちて諸 の職業を勉動すへけむ意を取りて打手の根植と名っけ給ひ
大熊の皮の大俗 は毒命を永く保ち根気よく職業を勉動すへけむ意を取りてお命
シと名っけ給ひき。命乃ち 勅を奉し比の二 品を携へ諸、の州々を巡歴して諸 の
農民刺 に打手の根植 と 毒命根俗 との因縁を委しく説き諸 の職業を教訓ましまし
ふ。後各地の巡歴を終へ 高天原に騎りて復奏し給ひき。則ち大御碑は共勢を
慰 ひ、師に詳を大国 主命と期ふ。比命は諸州農民神の諸職業の師たる大祀碑なる
に 因り、諸州 に 之 を 祀り ませる所多 かりけり。
又大御碑は弟碑江日住命に勅して四方の大海の浦々島々の港々の諸 の漁民碑
に、大海 ケ 原の 上にて貸す へき諸、の職業を教訓 せしめ給 ふ。命 則ち工夫に工夫を
重ね細竹の頭に鯨の 豚を抜き取りて 結びつけ 針金を曲けて餌を附し 魚を釣る こ
-*

とを 務明し給 ひ 約 筆 約糸約 針と名 つけ給 ひき。乃ち、大較の皮 にて大俗を製し 諸。


の萬の物を長く根気よく容れなは俗満ちてお意を取りて比俗 を大園長根貸 と名

つけ給 ひ四方の大海の海漫 又は浦々島々 の海漫を巡歴して携 へ 来ませる漁道具


及 ひ大 顧長根 俗 を示して海上の諸、の漁業 を説き 又 教訓ましまし 給ふ。後 各地 の


巡歴を終 へ 高天原に騎りて復奏したまひき。則ち大御 碑は共勢を慰 ひ 江日 住命


に講 を築 日子 命と改め 賜 ふ。命は海原 の 業務の師たる大 祀碑 なるに因り 諸。の州


々初め浦々島々の漁民碑は 之を祀り給ひき。(㎞)
大國主命楽日子命は四方の州々より 牛馬鹿の十分の 一を取立て、大御碑に 貢き
奉り給ふ。乃ち月夜 見命講月峰命の第 一 の御子寒川昆古命に 勅して共三子 土平
碑 皇 紀 六二
昆 古 命をし て共 貢 き 来れる馬 に 乗り て 走ら しめ給 ふ。天覧 まし まして 認 りたま
はく宇最 人走れりと故に比獣は先に名っけし如く学撃と稲せしめ給ひき。又共
四子香山 里古命をして牛に乗り険 組なる大坂を上らしめ給ふ。語りたまはく学
シと故に比獣を宇悪と名っけ給ひき。又寒川里古命をして鹿に乗り走らしめ
給ふ。語りたまはく妙に走れとも跳ねて四加太なしと故に比の獣は先に名っけ
し四角を四加と改め給ひき。乃ち勅して牛馬は農事に使用して大に便利なるべ
しと故に 不二山の南洞の惣山を牧場として之を飼育せしめ給ひき。(㎞)


大戸道命の子孫三十八碑に勅して四方の州々島々の大原小原大洞小洞大澤


澤の農頭を命し田畑を開懇せしめらる。面して共次子農佐里古命を四方の州々


の 惣農作 の 頭 と定め、且つ 高天原 より 四方 の 諸、の州 々 に、道路 を開かしめ 給 ふ。故

に 世に道祀碑 といふ。又 諸、の 州 々 を巡行し て、農作 の 事 を教 へ しめ給 ふ。三○ 一


千五霊 日 にし て高天原に還り上りまし ます。勅 し て講 を作田 里 古 命と授け賜ふ。
共面能く葉に似たるものありとてシ以て一に発 田里古命と呼へりェ
寒川 昆古命を以て、四方の 州 々島々 の惣山 守頭と定め 共弟七碑 初め 子孫四十 一
J|

碑合せて四十八碑を四方の州々島々の大山の守護頭を命し給ふ
*日子命を以て四海の海守急頭と定め共子孫を四海の浦々演々。シ。
師頭に命し給ふ。足より楽日子命を一に大海津見命とし*。
又 川里吉命に勅して宣りたまはく方今天下四方の州々の諸。
多く穴居しにけり。吾共た足を愛ふ。故に諸 の州々の碑々をしてシ
造せしめ以て之に居住せしむべし。と命勅を奉し乃ち弟碑七柱を督して四 ヵの
州々の大山小山の木を伐り家作の事を司らしむ。足より四方の諸 の神々* く

家屋にそ居住し得るに至りぬる。即ち大御碑は大に喜はせ給ひ命に講を正裁山 住

命と鳴ひ共弟碑七柱 即ち月峰命の次子を弟山住命と三子を奥山住命と四子を倉

山住命と五子を繁山住命と 六子を葉山住命と七子を原山住命と八子を外山 住命

と 各講を授け 賜 ひき。
面足奪の第一 の御子倉平顔 昆古命に勅して殺物牧納の法を各地の農民碑に数
へしめ給ふ。足より薬にて依を作ることを始め四方の諸 の州々に教へ博へしゃ
給 ひき。
六三
第二章 前 紀 碑 祇
碑 皇 紀 六四
泥土煮奪の 第 一 の御子 火之爆土 命の 一子火之 爆鮮 命に勅し て火禁 の法を 四方
諸”の州々 に教 へ 博 へ しめ給 ふ。共次 子火之焼 玉 命に勅し て食物の 煮 煎の 法を諸、
の州 々 に 教 へ 博 へ しめ給 ひき。
尾茂太留奪 の次子植 安里古命の男天之長男 命に勅して土を以て鍋釜及日食器
類を作らしめ、且つ共 法を四方諸”の州々 に博 へ しめ給 ふ。又、尾茂太留奪 の三子水
湧 里 古 命の 男 水 満里 古 命 に勅 し て井を 掘る法を四方 の 諸”の州 々 に教 へ 博 へ しめ
-
給 ひき。

面足奪 の次 子 金子甘美金 希代命に勅 して、鐵を 焼き鍛 ひ て、剣鉢 の類を 作ること


を父 と共に 務明 せしむ。又、臼杵を製 し て米 栗変 碑を精 むるの 法を発明 せしめ ま


し、に共功順る見るべきものそ多かりし。大御碑 いと威賞ましまして之を四方
諸、の州 々 に 教 へ 博 へ しめ 給 ひき。

築日子 命の第 一 の御子 大海 昆 古 命の男海 鰭根求男 命は藤の墓 を取り集め て網


を製し海魚を捕ふる法を務明し給ふ。大御碑いと嘉賞ましまして之を四方の浦 -
々濱 々 に教 へ 博 へ しめ 給 ひき。
巻 之 皇 耐 -*

場*香> ○ 海* 賀*市地
リミ蒸宿 リミ 晃リ
幾作 ー ヌ大 現作 住す豊
リ、山*富原 ご 留*築整
田* 間*佐一 ご リお 紫築
路* 登と地作 。詳ー海
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あ ペイ 小 附マ 八
名 伊" 津や大* 名 地ち 國
作下 田* 瀬* 佐* 淡* 佐s 衛ー を
(戰線)の 二盤とす。 松本

豊 期 停靠 の 子孫 を 四方諸“の 大國 造 者 の 家 と 定め 池 士 兼容 の 子孫 を 四方 諸“の 小
國 造 者 の 家 と 定め、面 是 拿 の 子孫 を 四方 諸“の大村 司 の 家 と 定め、大 后 通算 の 子孫 を
小 村長 の 家 と 定め 治 かさ。 美 大 后 通算 の 第 1 の 御子 大巴 普 金華 大國主命 の 子孫
を 語、の州 國 の 和 我 を 吸納 する 家 と 定め'第 二 子 作出 用 古 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 農
神 の 首 司 の 家 と 定め'月経 命 の 第 1 の 御子 正成 山 在 命 の 子孫 を 話、の州 國 の 山々 を
司る家 と 定め 東 日子 命 の 子孫を 四海 の大海 を 司る家と定め 落 がき“ (朝鮮 戰線
體)
御神は 即位 四o 四 千 日(韓國 。 )の とき た 方 大 禮物 多 人 百萬 の 天 つ 神岡 3 號
を 高天原 の 大 御堂 に 食し'國 法國 政 を 議 り まし ます。 如 ら、法政 に 背く 調 ん、文 は 四

方諸"の州園を初め浦々島々の諸。の盗賊共他諸”の荒振神を 皆な出雲園に碑追ひに
追ひて同國出雲谷の里 大洞に入らしむることに定め給ふ。之を天獄といふ。面
して天獄は頑 佐男命をして之を監督せしめ且つ教碑の首頭となし香属の碑 々と
共に日々罪碑に説教説論をなさしむること、し若し罪碑の内善心に復りし碑々
は、一千日 乃至二千日見習はして全く改心せしものは免除し三千日説教説論をな
すも 書心に復らざる碑々は皆な死罪に虜することに定め給ふ。又千日毎に共末
の三十日間に四方諸"の州園より 天っ碑 園つ碑出雲國に倉して諸 の罪碑に赤説教

シの上共罪を論じ共虜罰を評決ましまさしむることに定め給ひき。是に於て

*倉しまします貸め出雲谷の里に 木及竹を用みて廣大なる大宮を造営ましまさ

ー。共木及竹にて造りませるに由り 杵筑の大宮又は大赴とそ名つけ給ひし。

(㎞)
大御神は勃命を以て出雲國杵筑宮より頑佐男命の女出雲昆女命を田場園基伊
の桑田の宮に招きて豊受大神の宮を守護ましまさしむ。命は天資敦厚神に仕
へ“すこと誠敬至らさるなく共状碑の如し。諸 の農民碑は現碑と崇め居給ひし
-* #a* ては、

第二章 前 ーー -
六七
-
碑 紀 -
六八
が 毒十六O五千十四日にして碑避りましぬ。田場山に葬る。三穂都里女命と
し奉る。後世嗣を建て、共碑霊を祀り出雲大碑とそ稲しける。(㎞)
大御碑 認 して天之御中主大御碑より代々の碑祀碑宗を経て博 へ ませる日輪に
十六筋の光明ある代々 の天つ日嗣の大御碑の御紋章 並 に同じく博 へ ませる月輸
に五三の雲の形を附しある代々の碑后の御紋章を子孫代々 の天っ 日嗣に博 へ ま
さむことを訓 へ示し給ひき。(㎞。)
大御碑は 高天原阿田都山 の大柏木の下に、宗廟天 赴大宮阿祀山大碑宮の碑殿を
改造し 之を元宮阿祀山大碑宮と改稲ましましき。尋て三品 の大御質を各箱 に納
め、之を太碑宮の御碑殿 に納め鎮め奉らる。認して、永く末代に至るまて代々 天 っ
日嗣の大御位に即きまさむと する場合には 太碑宮の平殿に於 て三品の大御賞を
拝し、之を捧けますを以て典濃と定め させ給 ひ 子孫代々堅く之を守る へきことを
示し 置かせ給ふ。又同時に落達 来山 高地 火の峰を質来山高千火の峰 と改め給ひき。
(㎞)
大御碑は、大御位を御子豊武昆 古 命 に 譲ら せ給 ふ。之 を天之 忍穂耳奪 と なす。
大御碑 書十二O三千日(㎞ 拒。)にして碑避りましぬ。高天原宇宙峰南据野の出
崎島の陵に葬る。天都大日霊碑と設す。後天照大御碑と設し奉る。鶴和㎞)
月峰命書 十二O六千日(㎞)にして高天原加茂山の山守の宮に於て碑避り
ましぬ。加茂山に葬る。月夜見命(㎞)と諡し給ふ。妃月標田昆女命書十二O
八千日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。草津昆女命とし給ふ。
記、寒川
(㎞
記、大 山祇 記。)
楽日子命 高天原大室の刻の湖畔海守の宮に於て毒十二O十四日( )にし


て碑避りまし ぬ。刻 の湖の出 崎山 に葬る。築日海男命と 諡 し 給 ふ。妃白糸里 女

命、毒十二O一千日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。静浪里

女命と諡し給ふ。(㎞)

第二 天之忍穂耳奪
天之忍穂耳奪は幼名を日吉 昆古命と いひ 講を豊武昆古奪といふ。國常立奪 の
皇子豊樹淳 奪 の嫡孫にましまして最 心武命講阿 和武男 命の御子にまし ます。阿
和武男 命 子なきを憂 ひ高天原の碑祀碑宗に所りて、一子を生み ませるや暴かに碑
第二章 前 紀 碑 祇 六九
碑 皇 紀 六四
泥土煮奪の第 一 の御子火之爆土命の 一子火之 爆鉢命に勅して火 楚の法を 四方
諸、の州々 に教 へ博 へ しめ給 ふ。共次 子 火之焼玉 命に勅し て食物の煮煎の法を諸、
の州 々 に 教 へ 博 へ しめ 給 ひき。
尾茂太留奪の次子填安 昆古命の男天之長男命に勅し て土を以て鍋釜及 日食器
類を作らしめ、且つ共法 を四方諸、の州々に博 へ しめ 給ふ。又、尾茂太留奪 の三子水
湧里 古 命の男 水 満里 古 命 に勅し て井を 掘る法 を四方の 諸、の州 々 に 教 へ 博 へ しめ
-
給 ひき。

面足奪 の 次 子金子 甘美金希代 命に勅し て、鐵を 焼き鍛 ひ て、剣鉢 の類を 作ること


を父 と共に務明 せしむ。又、白 杵を製し て米栗変 碑を精 むるの法を 発明 せしめ ま


し 、に 共功順 る見る べきものそ多かりし。大御碑 いと威賞ましまして之を四方


諸”の州 々 に 教 へ 博 へ しめ 給 ひき。

築 日子 命 の 第 一 の御子 大海里 古 命 の男 海鮮根 求男 命は藤 の 夢 を取り 集め て 網
を製し海魚を捕ふる法を務明し給ふ。大御碑いと嘉賞ましまして之を四方の浦 -
々濱 々 に教 へ 博 へ しめ 給 ひき。
巻 之 皇 耐 編 ー 第

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豊 期 停靠 の 子孫 を 四方諸、の 大國 造 者 の 家 と 定め 池 士 兼容 の 子孫 を 四方 諸“の 小
國 造 首 の 家 と 定め、面 是 等 の 子孫 を 四方 諸“の大村 司 の 家 と 定め、大 后 通算 の 子孫 を
小 村長 の 家 と 定め 始 かさ。 ︽大 后 通算 の 第 1 の 御子 大巴 普 金華 大國 主命 の 子孫
を 語、の州 國 の 祖 我 を 収納 する 家 と 定め'第 二 子 作出 用 古 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 農
神 の 首 司 の 家 と 定め'月経 命 の 第 1 の 御子 正成 山 在 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 山々 を
司る家 と 定め 後 日子 命 の 子孫を 四海 の 大海を 司る家 と定め 落 がき。 (朝鮮 戰線

體)
大御神は 即位 四 o 四 千 日(韓國 。º)の とき た 方 大 禮物 多 人 百萬 の 天 つ 神岡 3 號
を 高天原 の 大 御堂 に 食し、國 法國 政 を 議 り まし ます。 如 ら、法政 に 背く 調 を、文 は 四
「『』

方諸 の州風をおっ浦々島々の諸。の盗賊共他諸 の荒振碑を 皆な出雲園に碑追ひに


追ひて同園出雲谷の里大洞に入らしむることに定め給ふ。之を天獄といふ。面
して天気は頑 佐男命をして之を監督せしめ 且つ教碑の首頭となし容属の碑々と
共に日々罪碑に説教 説論をなさしむること、し若し罪碑の内善心に復りし碑々
は、一千日 乃至二千日見習はして全く改心せしものは免除し三千日説教説論をな
す。苦心に復らざる神々は皆な死罪に虜することに定め給ふ。又千日毎に共末
の三十日間に四方諸。の州園より 天っ碑 園っ碑出雲園に倉して諸 の罪碑に赤説教

シの上共罪を論じ共虜罰を評決ましまさしむることに定め給ひき。是に於て

*倉しまします貸め出雲谷の里に 木及竹を用みて廣大なる大宮を造営ましまさ

ー。共木及竹にて造りませるに由り 杵筑の大宮又は大赴とそ名つけ給ひし。

祀 佐 記、
㎞)
大御神は勃命を以て出雲國杵筑宮より頑佐男命の女出雲里女命を田場園基伊
の桑田の宮に招きて豊受大神の宮を守護ましまさしむ。命は天資教厚神に仕
へ“すこと誠歌至らさるなく共状碑の如し。諸 の農民碑は現神と崇め居給ひし
第二 ーー - 六七
- -
碑 紀 六八
が 毒十六O五千十四日にして碑避りましぬ。田場山に葬る。三穂都昆女命と
し奉る。後世嗣を建て、共碑霊を祀り出雲大神とそ稲しける。(㎞)
大御碑認して天之御中主大御碑より代々の碑祀碑宗を経て博 へませる日輪 に
十六筋の光明ある代々の天っ日嗣の大御碑の御紋章並に同じく博 へ ませる引シ
に五三の雲の形を附しある代々の碑后の御紋章を子孫代々の天っ日嗣 に使 へ“
さむことを訓へ示し給ひき。(㎞。)
大御碑は高天原阿田都山の大柏木の下に 宗廟天赴大宮阿祀山大碑宮の神殿を

改造し 之を元宮阿祀山大碑宮と改稲ましましき。尋て三品の大御質を各箱 に納

め 之を太碑宮の御碑殿に納め鎮め奉らる。認して永く末代に至るまて代々天っ

日嗣の大御位に即きまさむとする場合には太神宮の平殿に於て三品の大御質を
名を

拝し、之を捧けますを以て典濃と定めさせ給ひ 子孫代々堅く之を守る へきことを


示し置かせ給ふ。又同時に達来山高地火の峰を質来山高千火の峰と改め給ひ。
(㎞)
大御碑は大御位を御子豊武昆古命に譲らせ給ふ。之を天之忍穂耳奪となす。
大御神 *十二O三千日(㎞ 拒。)にして碑通りましぬ。高天原字宙修 南福野の出
崎島の陵に葬る。天都大日霊碑と諡す。後天照大御碑と諡し奉る。(㎞)
月峰命書十二O六千日(㎞ 拒。)にして高天原加茂山の山守の宮に於て碑避り
ましぬ。加茂山に葬る。月夜見命(㎞)と説し給ふ。妃月標田里女命 毒十二O
八千日(㎞ 胆。)にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。葉津里女命とし給ふ。
(㎞)
楽日子命高天原大室の刻の湖畔海守の宮に於て書十二O十四日( )にし

て碑避りまし ぬ。刻 の湖の出崎山 に葬る。築日海男命と諡し給ふ。妃


命、毒十二O一千日(㎞胆 )にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。静浪里

女命と諡し給ふ。(㎞)

第二 天之忍穂 耳奪
天之忍穂耳奪は幼名を日吉里 古命といひ 講を豊武昆古奪といふ。國常立奪の
皇子豊関淳奪の嫡孫にましまして兵心武命講阿和武男命の御子にまします。阿
和武男命 子なきを憂 ひ高天原の碑祀碑宗に所りて、一子を生みませるや暴かに碑
第二章 前 紀 碑 祇 六九
碑 皇 紀 七○
避りましs、天照大御神取って以て御子となし同和武リ命の義妹青木比女命を
して養育ましまさしめ 日吉昆古命と名っけ給ひき。大御碑十二O八喜日(㎞
*へへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

")のとき 立てて天っ日嗣となし諱を豊武里古命と改め賜ふ。是に至って阿祀山

太碑 宮なる宮守 の 宮 に於 て、三品 の 大御質 を捧げ て、大御 位 を 受けまし き。雲 津 里


女命を立て、碑后となす。祀佐男命の第 一女にまします。(㎞)
天太玉命を左守大碑と 天清住命(㎞)を右守大碑となす。天太玉命

は、大 守男 命の第 一 の御子 にましまして天 之 忍穂耳 命の第 一女太八重美 命 に要 ひ


ます。天清住 命は、小 守 主命の第 一 の御子 にましまして、天之 忍穂 耳 命 の第二 女 天


母岬昆女命に要ひましき。(㎞)

碑 后は、大 に大御 心 を 民事 に用 ひまし まして、常に藤 を打ち柔らけ て、運 の 糸 又は


諸 の獣毛を集め機将にて之を織ることを創め給ひ四方の州園に博へ示しましま

す。是 より諱 を 拷 幡里 女 奪 と稲 し奉り き。


御子武雄 昆 古 命は 天資勇武にまし まして心荒く疎豪に ましまして 倉 て徳を修
めまさす。天照大御 碑之を憂 へ、共父碑をして命を出雲に遣は きしめ 外祀祀佐 男
命 に託し て 資養 まし まさし まし、命、大 に 徳 を修め、知勇 他 に 絶き に き。 偶“祀佐 男 命
言 Nりましお、同国大赴の裏なる島上山に葬る。毒十五O八千十八日(㎞ )
八 佐 加里 古 命と 言 し給 ふ。妃 稲田 里 女 命、夫 碑 より日夜重ね ませる こと、五十八 日
後れて碑 送りましぬ。毒十二O五千日( )夫碑と同所に葬る。八佐加里女
武雄 昆 古 命の 祀 佐男 命 に託しませるより、既に 一 ○ 一千日ましまして高天原 小
室浮なる熱田都山の日向の宮に還り上りましき。(㎞)
奪は、碑 后 と同日 に碑 避りまし ぬ。共に、高天原の御座 山 の峰 の陵 に葬る。毒各
十O二千三十六日( 、 『) 奪を天之忍穂耳奪と神后を萬機秋津昆女奪と諡し
奉る。皇子 五碑 皇女三碑まし ます。御子武雄里 古 命立つ 之 を天 日子 火環 々 杵 奪
と なす。第二 の皇子太 具祀 命は正 裁 山 住 命の第 一女岩長 昆 女命に要 ひて伊須國
を賜はり伊東阿田見原日金の宮に止りましましき。(㎞)
第三 天日子火 環 々 杵奪
天日子火 々杵sはシを式シ古命といひ天之忍穂耳奪の第一の御子にまし
第 二 章 前 紀 碑 祇 。 七一

**
『 撃 シ

耐 皇 紀 七二
ます。天 つ 日 嗣 の大御位を受け させませる や 講を仁人木 奪と 改め 給 ひき。菊里
昆女奪を立て、碑后となす。正裁山住命の第二女にましまして岩長昆女命の妹
にまします。諱を阿田都里女奪と改め給ふ。仁人木奪認りたまはく長日向の大
御宮は家の基なるに因り家佐座の宮と改め碑都を家基都と稲す可しと。(㎞
天太種王命を左 守大 碑と、大政 守命を右 守大碑と なす。天太種王命は、天太玉命
の第一 の御子にましまして大政守命は天清住命(㎞)の第一 の御子にましま
一日、西 國より豊玉武昆 古命腕 せ来り奏すらく西北の大陸より、大軍附地見島に攻
め来れ りと。乃ち 奪は高天原の大御宮 に碑 后 初め諸、の天 つ碑 國 つ碑、八 百 萬碑を
碑集に集 へ て、言向けまさむ こと を議り給 ひき。即ち、奪は碑后 と 親ら言向けまさ
むことに決しぬ。乃ち武知男命を物 軍司令頭長となし経津主命武響 植 奪玉柱屋
命 建御名 方 命の 四軍碑を 軍大将となす。面して奪は、碑 霊の御玉 を玉鶴に副 へ、室
雲の質剣を奉持し碑后は内持所の御鏡を玉鶴に副へ軍勢一o八千碑を率て作田
昆古命を御前に立して遂に天降り給ひき。日夜重ぬること五十三日 にして百日
に着き まし ぬ。先 つ 闘を 立て 、附 地見島 の 城 の 大軍 を防 きましき。共地 を住 防
といふ。奪は惣軍司令頭長武知男命 並に知略に富める少名昆古那命事代主命の
兄弟と等 を陣中に運らしめ給ふ。一日 賊将軍勢を更に南島に移さ むとす、と告く
るものあり。乃ち碑 后は、親ら将とましまし 味 拒託彦根 命 興玉 命を副将として軍
勢八千五基碑を率て赤作田里古命を御前に立して軍船にて南島に渡り賊軍と戦

ひまします。或は剣を 振 ひ、或は 強弓 大 弓・小弓 を射、或は 石 又は 木 を 拠 け、以 て 奮撃


轄闘 吾 軍大 に利 ありき。

奪は先つ事代主命の長子天之手長男命婦碑手長比女命をして附島(㎞)及ひ

行島(㎞)の雨島を防き守らしめ給ひき。外宮 日夜大學して来り攻む。命防備

を悪くして迎 へ 戦ふ。左れと、衆寡敵せず。行島の石田の原に於て覚に二柱共に
戦死ましましき。夫碑は石田南山の峰に葬る。毒十O二千三十日(㎞)。手長
雄 王命と 諡し 給ふ。婦碑は同北山 の峰 に葬る。命に三子 まします。長子を事武
男 命と 次 子を事勇男命と、三子 を事力男 命といふ。共に、父 に劣ら ぬ 聴 勇にましまし
第二 章 前 紀 碑 祇 七三
碑 紀
七四
て善く闘ひましぬ。乃ち又三柱に語して父碑に継き雨島の外

東北を廻り北方より上陸し賊の大軍と弓又は石・本棒 禁 火等に

と 一千二喜十日( )に及ひましき。
事勇男命は事力男命と 又軍兵を率み、軍船にて東より北に

て賊の大軍と戦ふこと一千一宣日( ) 事勇男命阿加見田原南山に於て造に戦
死ましましき。南山の率に葬る。 六O三日(㎞) 高御魂男命と諡す。弟碑事
力男命は五十四日後れて同所北大山に於て赤戦死ましましき。同山の峰に葬る。
書五C八千八日(㎞ ) 太祀詞雄命と諡す。面して行島の兄碑事武男命は共よ
り又 七十五日後れて伊岐原山 に於て戦死ましましき。同山の峰に葬る。毒六O
一千二吉 五日(㎞ 版 『)。兵主雄命と諡 す。
附地見島 ㎞)にては足茂太留奪の五子武佐太里古命は軍勢を率みて松浦の
漢に於て城の大軍と戦ふ。八百萬の碑々奮激先を争うて闘ひまします。左れど
衆寡敵せず。吾軍属。利あらず。命途に戦死ましましき。 同 裏山 の峰 に 葬る。毒
『-』 -
十 一 ○ 五千三十五日( )。太 島 里 古 命と言し 給 ふ。
是 に於 て 仁人 木 奪は 四方諸”の州園 に 認 し て軍兵を催さしめ給 ひき。義 に 赴き
ませる碑 々 赤多く我軍 大に振 ふ。乃ち奪は諸“大将 に 命じ部署を定め 先づ 賊 大農
第 して 数萬の軍船にて攻め来れる湊 々に進軍せしむ 即ち諸”の樹木を伐り積み重ね
て火を放ち各一斉に燃え木を以て敵船を目掛けて損けっけしめ以て敵船を焼き
# 挑はしめ給ふ、焼け残れる敵船類 狙して達げ去りぬ。上陸しける敵軍は弓攻め
石攻め棒攻めにて成 は射殺され 或は打 殺され 或は焼き 殺されて、一 の生還 するも
のなく悪く誌に伏しき。是に於 て積日の兵乱初めて言向和平しにき。三十六 日
* 後れ て南島 の 賊軍赤 打 殺 され焼き 殺 され て悪く言向 和平し ぬ。
之 是より先 碑后 の御父母二柱碑 大に共遠征を憂 ひ 後を追 ひて伊豆演に至ります
* や母加茂澤里女命身例ならず。途に神避りましぬ。お八o八千九三日(㎞)
伊須演に葬る。諱を寒川 昆女命といふ。後 別雷命と諡 し給ふ。比演は御 送り澤
と伊須海と、住留家海との三出張 崎 の演なるに由りて三島演と そ稲 しける。父碑
正裁山住命は進み て西 に向 ひ 尋ねて南島に至り、意 に碑后 に選 近ましまして、大 に
第二章 前 紀 碑 祇 七五
碑 皇 紀 七六
喜はせ給ひき。乃ち 晋婦碑の碑避りまし、次第を語り泣湯ましますこと良、久し
くシ 来 碑を追悼ましまし 惚として設る、能はず。途に疾に羅り幾もなくして
は三 へ伊久世と遺言して碑避りましぬ。故に比地を伊世といふ。 九o十

四日。共地に葬る。諱を寒川里古命といふ。後大山祇命と諡し給ふ。
一日 奪は 断地見島の荒振碑等を悪く言向和平しませるを以て更に南島に渡幸
“しまして 店とし給ひ。適用今ゃ 月とも見るべき玉gにましまし、
**之をシ居を根みて再び附地見島に遠幸ましましき、碑后 いとも恐し
ョっ しきか。と調り給ひて即時旅装を整へ高照里女命下照里女命を従へ 高天

シり上りましましき。作田里古命見長みて天清住命(㎞)に告ぐ命赤展

みて共に後を追うて、赤高天原に還り上りましぬ。

*ょり先神后高天原に還り上りましますや語りたまはく吾天の下に一碑と崇
*“せる奪に疑はれ何の面目ありて生き長らへむや吾腹中の御子生あらば能く
『せょ改は天の下に一碑なる奪の嵐なるぞ吾火中に投ずるも生を保ちて奪の疑
* へ、と乃ち小室なる宮守川と御座野川との合の眞砂の小島に無戸室を
造り共室内に入りまして三皇子を産み aき四方より土以て堅く塗塞きて頼む現
む 頼む。と三度請 ひ遺し給 ひ、大鹿 に鞭打ち て高 千 火 峰 中央 青木 ケ 原 に登り、火 の
噴き焼くる岩穴に 飛入りて碑 避りまし ぬ。大鹿は 悲鳴を撃げて 暗き狂 ひ 追尾し
させる得女**入りて 死しょ、天シの後を追うて
天原 に騙 附け見れば、則ち既に碑避 りましてそあり にける。然るに無戸室 に産 れ
見の泣 音 の すなれば御 見のみをも助けまさむとて報ち天清住命は共屋根を破り
て中に入り 御見を抱き奉り 高照昆女 命下照昆 女命に共養育をそ託し ましける。
作田 昆古命は、常に猿 に馴れまし 、かば 猿乳を擁り取りて御見を養育し奉りき。

天清住命は共屋根を破り御見を抱き出しませるに由り。是より天見屋根命とい

ふ。

初め 神后の飛入りて碑避りますや岩穴の噴火は 一時消火となりぬれども 不二
山高千火峰 *かに黒煙劇しく噴出して、遂に共峰を見る能はざるに 至りぬ。同時
に溶岩熱泥南澤に押出し合高山 と神座峠(㎞)との間は平地と化し流れて伊須
濱なる碑后 の御母碑加茂澤比女命の山陵に押被りて止まる。面して共熱泥満流
第二章 前記 碑 祇 七七
碑 皇 紀 七八
尾の下より怒ち泉水沿々湧出しけり、世に母子の基心の身に悪三留の意を取り
て三設撃野の陵墓とそ稲しける。共満流尾と初古 根山との間を大泉澤川といひ
南伊 須崎 の山 合 の 入海 に入り、同満 流尾と 合高山 と の間を、小泉 澤川といふ。南海
に そ 入り にける。
天 太 玉 命 天 見 屋根 命 作田 里 古 命は 種々工夫を以て、碑 后 の 御遺骨 を岩穴 より 撮
り集め、之を捧持し て、宮守 の 宮 に そ納め鎮め奉る。爾後煙 畑高 千火峰 を 厳 ひ見る
能は さる に由り、四方の州國 より 高天原 へ 上り来 ま さむ目標を失ひ、天下 潮 く 騒き

けり。則 ち、天 見屋根 命 事代主命 と共に 鹿 に打ち乗り て 西 國に下り、事 の 由 を 奏し

ければ、奪い とも驚き、乃ち附地見島を臨 土老翁 命 豊玉 武昆古 命に守ら せ、南島を興
玉 命 味拒託彦根命に守らせ 住防 下の闘を玉柱屋命に守らしめ共他の諸将初め軍
勢 を 従 へ、高天原 に還り上りましまし き。乃ち、太 力男 命 に勅 し て碑 后 の 飛入りま
し 、岩穴より砕 后 の身鶴の焼け煮浸みて共魂塊 の 止りましましける御霊石 を掘
り出さしめ給 ひき。命乃ち、種々工夫を凝し て共御霊石 を捧持ましまして、宮守 の
宮に至り御遺骨と合せて御座野原南なる金山の峰の陵に葬る。毒一○二千六百
』i
日。木花咲夜昆女奪と 諡 し奉る。是より奪 詳を金山 男奪と改め給ふ。守 て三良
子 の御名 を 命しま しき。先づ 碑 后 の 噴火 に 投じ、共 火熱 に て焼け ませる状 に 由り、
名 つけ給 ふ。即ち 最初に生れませる皇子は碑后の身鶴織 に焼けませる状に 由り、
火照須命と攻を共身鶴焼け終りませる状に由り火須勢理命と攻を身鶴焼け終り
まして火の遠かる状 に由り火遠理命と名つけ給 ひき。共御霊石を噴火 の岩穴ょ
り堀出しませる太力男命に講を石堀留日命(㎞)と下し賜ふ。(㎞、
奪は碑后か西 國より還り上りまして宮守の宮の碑殿に納め置きませる御 鏡と
自ら 斎 らして還り上りませる御霊玉と 質剣とを併せて碑祀碑宗天っ大御碑を祀
りませる阿祀 山太碑宮に納め奉り 神軍勝利の天拝 を奉り給 ひき。
奪は外寝を言向和平しぬる功を論じ共賞をそ定め給ひける。即ち天太玉命の
子孫一族を祀 家と名っけ 吾祀園に於ける天下の大政を司る家と定め給 ひ天見屋
根命の子孫一族を武部と名っけ武士軍事を司る家と定め給ひき。
惣軍司令頭長武知男命に特に語りこちて講を大物主命と闘 ひ 子孫 一族を興 阿
第 二章 前 紀 碑 祇 七九
魏 息 献 八O
始原 諸 郡 國 の 中央 に於 ける 東西南北 の 海 を に 至る まで の 物 可令 原長 の 家 と 定め
魯4 象は定繼田の 品質 の世に金を建て 正すまし** Nた武器 の º
よº 小 名馬 吉 那 命 派 大物主命 と 軍機 に 参 與 * し まし ) に因り 子孫 1 族を 南西 園
に於 ける 海 を まで の 物 司令 原 長 の 家 と 定め 始 よ。 金 は 赤 是 治田 の 中島 の 里 に 宮
を 建て 正すまし* * Nた敵 の と いよ。 李代 主命。 神と等しく平 に
參與 * し まし ) に 因り 子孫 1 族 を東北 國 に 於 ける海 ク まで の 物 同个 原 長 の 家 と
ため為本。 金は 農地後の直後の 世に金を建て 正すまし** Nた伊洛( 詳)
の 宮 と いよ。 此 三 神 は 常時 中日 个 称 なる 知行1 用 の 資 神 とい ヘク。
式 命 の長子儀式 主命及 同 于建有名 方命の子孫策を 北中國 寺建 高原長 の
家 と 定め 始 か'同一 子 經常 主命 及 同 四 子 武神 龍介 の 子孫 1 枚 を 東 國 1 番号 機 同班
長 の 家 と定め 始 。 永 に武功 命 の 弟 神魔王 老翁 命及 其 長子島 王 武 里吉 命 の 子孫
1 族 を 始 地 月島 1 回す 機 同 班長 の 家 と 定め 始 か'同 11 了 興 王命 同一 子 陈新能 修 根
命 の 子孫 1 族を 南島 1 面 等 議 同班長 の 家 と 定め 能 かさ。 文大 物主命 の 1 了 王在
屋 命及 同一 子 顯 國王 命 の 子孫 1 族を 西 中國 寺 機 同 原長 の 家 と 定め 能 が 同 三 子 春
城入里古命( ㎞)同四子前玉命を東大原野守護司頭長の家と を
め給 ひ同五子五十猛命を津久島行島 佐渡島守護司頭長の家と定め給ひき。大物
主倉のシ石シ日倉㎞ は手ェに巧なれば子孫一族を軍用武器製作の案と
定め給 ひき。大物主命以下十七軍碑の子孫を軍事司令頭長の家と定め給ふ。之
を武碑家と ぞ稲しける。又 大國主命の子孫 一族を北國 守護司頭長 の家と 定め
ひき。面し て建御名方命の子孫 一族は 常に鹿に乗りて四方 語、の州國 を駆け 廻り、
戦頭に進む軍大将の家と定め給 ひ 又 稚武王命の子孫 一族は常に馬に乗りて四方

諸 の州園を駆廻り戦頭に先立っ大将の家と定め給ひき。(㎞)

又諸 の事物の数へ方を改め、一 一二 一二 二十を廃し、一二三四五六七八九
、之

十と改め 又、一十喜千Oを魔して一十百千万と改め給ひ比数へ 方の器として小木


丸太を短く伐り 之を数取りに使用せしめ給ひき。後世 之を算木と そ稲しける。


(㎞
奪は碑后の産み遺しませる三皇子の生長ましませるに 連れ、共容貌の いと己に
酷似ましましけるものあるを見て 盆々共の疑ひまし、ことの非なるを悟り 常に
第二章 前 紀 碑 祇 八一
碑 皇 紀 八二
碑后を追慕ましまして止まず、一日 宮守川の眞砂の小島の無戸室に行幸ましまし
て赤威概措く能はず。共屋根の大笠の如くなれるに縁り共上なる阿田都山の西
か きい のみ さき
尾崎を 砂の耐と名っけ大御宮なる家佐座の宮を笠砂の宮と改め給ふ。されと
居常快々として楽しみましまさす。終に身例ならず。天太玉命天見屋根命は老
碑作田 昆古命を招き奪の身例ならさるを語けぬ。老紳言したまはく奪の病は 資
し気病にましまさむ。吾にエ夫あり、と乃ち天御女命石堀留目命㎞)を招き
て共に奪の御前に参候す。奪の左右に高照昆女命 下照昆女命三皇子を守護まし
祀神

まして待 べりましぬ。作田昆古命御前にて二 匹の猿をして仕方をなし て踊らし


め、且つ自らも天鋼女命と共に 自髪頭を打振りて戯れ 且っ歌ひ旦っ踊りっれば 石


堀留目命は飯 楚器を棒にて打ち日夜を重ねませるも共効なく途に紳避りましぬ。

義一萬五千八百十五日。碑后と同所の陵に葬る。天日子火現々杵
と 諡し 奉る。
事代主命は婦碑高照昆女命と共に環々杵奪の碑避りますゃ列死して紳避りま
しぬ。奪の陵の下 左右に葬る。夫碑を天之古登代主命と諡し給ふ。婦碑は幼名
を日吉 昆 女命と いひ 講 を高照昆 女 命といふ。大戸道命の 六女 にましまして、大國
主命の妹なり。古登合昆女命と諡 し給 ふ。嫡子天之手長男命 並 に共子事武男命・
事勇男命 事力男命は、共に外 寂 親征の役 に戦死ましましき。故に事代主命は嫡孫
事武男命の御子武長雄命を養育ましまし \ が 性麻 弱にし て鶴に毒四千五百十五
日 にして、病みて碑避りまし ぬ。武若雄命と諡 す。今や 事代主命夫婦碑の殉死ま
しませるに由り 愛に共宗家の血族ぞ絶えにける。(㎞ 『、 #
少名 昆古那命は事代主命の同 母 兄にして身媛小にましませとも天資聴 明知略

古今に絶 し給ふ。諸。の州園を治しめし常世の園に渡り大功を現はし、且つ外 窟親

征 の 役に現 々 杵奪に従ひ、大物主命事代主命と共に軍議に参興ましまして大功を

建て給 ひしに依り南西園に於ける惣司令頭長の家と定め賜 ふ。命は尾治田 の中


島の里隊府の言に正り南西の軍事を撃りましまし、か 覚に 三萬五百日にして
紳避りましぬ。同國中島の里に葬る。大國御魂命と諡し給ふ。婦碑武弾雄里女
命は伊瀬の度倉原に於 て、毒三萬五千除日にして碑避りましぬ。同園度曾原に葬
る。大國御魂 里女命と諡 し給ふ。御子久延仁 昆古命は 赤中島の里 國府の宮に於
第 二章 前 紀 碑 祇 八三
八四
碑 皇 紀 -
て、毒三萬四千四百除日 にして碑避りまし ぬ。同所に葬る。大御魂命と諡 し給ふ。
婦碑下照昆女命は碑皇に大功を建て給 ひしか足治田の海龍の里に於て毒四萬 一
千除日にして碑避りまし ぬ。同所に葬る。園御魂昆女命と諡し給ふ。御子阿 曾
武命は豊玉彦命の三女海那昆女命に要ひしか後 日子波激武鶏茨許不合奪 遷都の
御時 海軍 惣大将となり戦ひて碑避りまし ぬ。是に於 て少名昆古那 命の次子 知倉
王命及共男玉屋命は父祀の職を襲ぎ 南西の軍事を掌り給ふ。子孫之を承継 まし

o 尖 記、合
ましき。(㎞。

皇子三柱の内 火照須命は海狩を好み給 ひ海佐知昆古と稲 へ 火須勢理命は農作


を好み給ひ農佐知昆古と稲 へ、火遠理命は、山狩を好み給 ひ山佐知里古 と稲 へ にき。


一=大道理命見碑火照類命と約しませるに試に相互に 基を場へて独せむこと

を以てせらる。則ち火遠理命は兄碑より借受けませる獅 具を持して高天原の北、
大谷なる底大湖にて終日釣りませとも、一魚たに釣りまさきるのみならず。覚に
共釣をも失ひ給ひにき。還りて兄碑に謝しませとも免されず。乃ち剣を以て釣
千本 を造りて之を償 ひ給ふ。兄碑肯 じまさず、盆、原釣を責め給 ひき。弟碑大に
』_—」→__
受 政 * しょ し て 封 の 湖 の 法 の 祖名 に 到 小海神 の 司 首府 于 海鲜 民 * *。
~ *~ *~ &。 海 號 飛来 命 は% 日子 命 の 姉妹 に ましょ し て 海 金明 命 の 母 チ に
* * す。 カら 川 日 より小船 に て説 も させ ば 良 義 に 1 美女 の 物 使 いるあ 2
* * * は く北宮 は、書 後 海神 の 司 首 の 記憶 に まし ます。 と 作れ て 海神 に関し
! Q 中 を 告げ てク を 譲ら せ 結び 名 。 海神、いとも 長 安田 っ 將 永 ، し もし て非 に
編 に 書 に成 しさせる と ' + 1 日 日 に 及び g Nş し ، さき る 。
** * * ** * ** * *に攻め かし ،232 %
* 『あて高 天災 の 人 百 鬼神 兵を 走し て の 大半 を 襲撃 ち て大 にク を 使 。
" ! R 璃を 派 大湖 の 西北 の 大山 の 原野 に 神道 か に追い しゃ = 2 « か㎜ «
* 全 に 師* * Nた 日子永出 な たす。 國 總體總體 總體

第四 → 大火 出 民俗
日子 水火 出 具体 は詩 を 火 道理 教 と いび 大 日子 失敗 を 特徴 の 第 一 の 中 子 に もし
* す。 至 民 女 命 を 立て 制 后 と た す。 海 號 飛 來 命 の第 安 に よし も すº ş
第 1 ، 八五
碑 皇 紀 八六
め海佐知 の こと より海 緒根求男命の龍王宮 に 止りませること 一 千三百十四 日。
途に豊玉 里女命に要 ひて 止りまししに父大御碑の遺語に依り、左右大碑相議り給
ひて、天見屋根命を使とし作田 昆古 命を御前に立して、西刻 の湖の北、日 向山 の裾 の
龍宮に 火遠理命を迎 ひ給 ひき。乃ち命は婦碑を従 へ、小室 の宮に還りましまして
宮守の宮 の御碑殿 に於 て三品の大御質を奉じ て大御位 に即きましき。婦碑は天
見 屋根 命 の獅子 として是に 至 つて碑 后 に立たせ 給 ふ。
碑 后、一日 姿 将に産みなむ時 こそ近 つきぬれ と白 した ま ひき。奪 驚き て即ち月

夜見命の四子 大山祇命の弟倉山 住命に勅して南宇宙湖の出崎 島の海 漫 に 産殿 を


造営せしめ、之 を宇演宮と名 つけ 共 屋根の未だ葺き終らさるに皇子既に産れまし


ま。奪、いと 脱 ひましまして、御名 を阿祀男命と名 つけ給 ひ 外祀海緒根 求 男 命に、


諱を豊玉 男命 と 授け 賜 ひき。
然るに碑后は奪の出産中に訪れ給 ひしことを、いと心恥しと以貸して密に産殿
を 去 つて加茂山 の岩穴に入り て 暴に碑避りまし ぬ。後、家基都 昆女 命を 立て 、碑
后 となす。天 見屋根命の一女にまします。諱を石割里女奪と改め賜ふ。(㎞
や、記、海 伊
㎞)
都 録、皇 系 記て
天大食雄命を左守大碑と武頭守主命を右守大碑となす。天大食雄命は諱を武
勇命といひ、天太種王命の第二の御子 にましまして武頭守主命は諱を太武身強男
命といひ大政守命の第一 の御子にましましき。(㎞)
大國主命を遠久見の國造となす命は、高天原より同國佐野原に移り 宮を造営し
て止りましき。之を佐野宮といふ。(㎞ )
作田 里 古命は 高天原大室の御舟湖畔なる御舟山 の宮に於て碑避りましぬ。毒

十六萬三千日。宮の裏山なる泉仙山古峰に葬る。天照大御碑天之忍穂耳奪 天日

子火環 々 杵奪 日子 火 々 出見 奪 の 四代に仕 へ まして、殊 功 あるを以て特に 嗣を建て


て之を祀らせ給ひき。古峰の根元に祀れるに由り根元の大碑とぞ稲しける。(職

㎞』
奪は、園狭植 奪の賞て標山 宇宙峰 に祀りませる共御父母天之碑農氏碑 天之碑農
比女碑を祭りまして更に高皇産霊碑 碑皇産霊碑と諡し奉り、共山を高座山 と名つ
け給ふ。又園狭樋奪 園狭比女奪の鎮ります寒川の菅原を初め各大御碑を祭りま
第二章 前 紀 碑 祇 八七
碑 皇 継 八八
して大に祭典式を行はせ給ひき。(㎞ )
奪は、父 環 々 杵奪の御宇 外 寂 親征 の役 事代主命の 子孫五柱 の 戦 残 ましまして共
血族の絶 へ ませるを欄然に食召され 命の御子天之手長男命婦碑手長昆女命 並に
共長子事武男命診 兵主雄命の三柱を行島(㎞) に官赴として祀り給ふ。又天
之 手長男命の 次 子事勇男命 論高御國 魂命、三子 事 力男 命 論太 祀詞 雄 命の二 柱 を 附
島 (㎞) に官赴として祀り給 ひき。又 同役に戦没ましませる尾茂太留奪の五
子武佐太里古命 太島座里古命を附地見島の松浦の淡の裏山に官赴として祀り

給ひき。(㎞

南海西海の諸。の州國大に蹴る。乃ち 天太眞祀命を元帥に石堀留目命(㎞)を

副 帥 に拝し、雨帥 の 一族春属三千除碑を率 みて、言向和平し給ふ。夫 れ、天太兵祀 命


(㎞")は天之忍穂耳奪の第二の皇子にまします。伊須國を賜はり大山祇命の 一
女岩長 昆女命に要ひて伊東阿田見原の日金の宮に止りましましき。岩長 昆女命
病 みて碑避 り まし ぬ。伊豆 山 に葬る。後、之を伊 須大碑 と ぞ祀りける。是より伊
須山峠を日 金峠といふ。御子宇佐見 命は、上 の大原 に 止りましまし き。比 の宮を
伊東 の 宮といふ。天 太 玉 命 の 四 女 小幡 昆 女 命 に 要 ひ ましし が、足 に至りて、父 元帥
天 太 旨共祀 命 に 従 ひ、西 征 に 就 かせ 給 ひき。
遺みて"高野 の川上に本* ***
しき。元帥 の 住み 居 ませる所 を 住居國 といふ。共水戸より、舟 に て 軍勢を 西島南
島 へ 渡すに由 り、共所を 小 名 佐波 國 といふ。偶、元帥、軍 中 に於 て碑 避り まし ぬ。同
園に葬る。共止りまし、宮を穴門の宮といふ。事 高天原に聞ゆるや奪親ら 行き
て言向和平しましき、共駒を駐めませる原野を 太多瀬㎞といひ共地をシ
里といふ。共止りませる宮を 脱の といふ。之に大本営を置き 一千五百除日

にして西南地方の諸、の州國を言向和平し給 ひき。乃ち、穴門の宮を宇都 志 日金命


に守らしめ、日高野原の川上 の木立 の 中の 長久 佐宮を宇佐 見命石堀留 目 命に守ら


しめ 奪は 諸軍勢を従 へ て高天原 に還り上りましまし き。後 宇佐見命は西方の諸。


の州園欠撃なく治まりたるに由り共繁茂しける木立の大山を欠撃野山と名っけ

共麓に宮を造営し て止りましましき。之を久兵 野 の宮といふ。共地に天祀伊


諾 中 二柱の大御碑を初め 天照大御碑 天之忍穂耳奪 の 御神霊を 高天原より分ち移
し 祀り 之 に父天 太 眞 祀命を合祀ましまして、久兵野山 赴 大 碑と稲し奉らる。共木
第 二章 前 紀 碑 祇 八九
碑 皇 紀 九○
の繁茂しけるに由 り、木野國 と 名 つけ 御子 久賞野 久住里 古 命をし て共 宮守をなさ
しむ。又 石 堀留目 命は 長久佐宮を 守りませるより 一千十二 日 にし て碑避りまし
ぬ。小名久佐奈 國日高見 の岡 に葬る。共御子大力雄 命は天太 賞祀命の三女 國 玉
昆 女命に要 ひて父碑 の職務を襲ぎ、父碑 の御霊宮を共墓前に造営ましまして、母碑
の御碑 霊を合祀し 共父母二柱碑 の墓前の宮 なるに由り、之を日野 前宮 と稲し、久佐
奈の宮に止りまして之を守護し奉りき。(㎞)
奪は第二の皇子天別天之火明命を尾治田(シ)の國造となす。命は母碑佐奈

木 里 女 命 と共に 高天原 より 同國田原の中島の 大物 主命の 止りまし 、眞清田 の 宮


に移り止りましき。佐奈木里女命は作田里古命の玄孫沖津波根彦命の一女にま

しまして第碑言勝彦命と共に火明命を守護し奉らる。言慶彦命の能く命を守護

しませる 功 に 由 り 諱 を 尾 初 張 田 彦命 と 賜 ふ。後 尾羽 張 田 彦命は、南島 を 守り ませ


る興玉命の長子田村彦命の三女阿波田昆女命に要ひて途に南島の居太野原(㎞
『)の大麻宮に移り止りましき。火明命は天見屋根命の第一 の御子天政治彦命(㎞
㎞) の三女富身美昆女命に要ひて御子七碑まします。常國七箇所に分れ止り
まし き。 (㎞
作 田 記、火 明記。 )
即位より二萬五千六百十三日の夜 韓 男命附地見島より 早馬 にて来り奏すらく
西大陸より大軍攻め来れり。と則ち 諸、の天つ碑園つ碑八百萬碑を高天原家基都
の宮に集へ て之を議りましき。即ち附地見島は西大陸に近きに因り属、外見を蒙
れり。如かず碑都を附地見島に遷して内地を知食しめしつ 、外窓を防きまさむ
には、と議 愛に決し ぬ。乃ち奪は宮守の宮の御碑殿 に於 て大御位を皇子阿祀男 命
に顧 り 諱を 日子波激武言合奪と改め 賜 ひ以 て碑都を附 地見島に遷 させ 和 ひき。

之を 日子 波 激 武韓芽 葺 不合 奪 と なす。

父大御碑は 奮都高天原小室の家基都の宮 に 止り ましまし給 ふ。建御名方 命の


御子譲 訪彦命 阿 曾 比咲 命 稚武王命石 作器命 沖津波 根 彦命 大山彦命海津古玉 彦命


鳴 澤男 命等高天原 に 止り て大御碑 を 守護し奉りき。


父 大御碑 は後 高天原家 基都 の 宮 に於 て碑 避り まし ぬ。毒 十五 萬六 千日。高 天
原大室の碑 山 の陵 に葬る。時に、四海諸、の州國 執 れも豊作なりし に由り、天 つ 日子
穂 々出見奪と設し奉る。碑 后石割 昆女奪は春日後れ て同宮 に於 て碑 避 りましぬ。
第二章 前 紀 碑 祇 九一
碑 皇 紀 九二
毒十六萬三千百十四日。夫大御碑と同所の陵に葬る。
第三の皇子 若武昆古命をして、北越山陽山陰を防御 すべき大将となし三道分岐
*

の地に本営を置かしめ以て西大陸の大軍を撃推せしめ五っ州園の競張碑等を言

向和平さしめ給 ひき。命は後 途に共地に止りまして共國を治めましき、父大御神


の碑避りますや高天原より御碑霊をそ共地に分ち移し 祀りましける、共遠く崇

め宿し祀りませる意を採りて遠宿住大碑と名つけ奉りき。命は日夜怠りなく父
大御碑を崇敬ましまし、且つ 國を治めませること 十二萬五千八百十三日 にし て 紳

避りまし ぬ。毒十三萬三千七百十日。和家佐濃山の麓に葬る。三穂武男命と説

し給ふ。婦碑眞留里女命は祀佐男命五世の孫出雲國造祀仲男命の女にましまし

て基調に三日後れて碑通りましぬ。夫碑と同所に葬る。基美里女倉

*** -
り、 * -
さ o へ いと 上、合 戦記、國
後 語を以て三穂武男命夫婦の御神霊を遠宿住大碑に合祀し奉らる。(㎞
㎞)
豊 受 記、支那 皇 記。
第五 日子波激 武鶴 茅葺不合奪
日子波激武頼芽葺不合奪は幼名を阿祀男命又は家基都王命といひ講を日子波激
武言 合奪といふ。日子 火 々出見 奪 の第 一 の皇子 にまし ます。玉依 昆女 命を 立て
\、碑 后 と なす。海 館根 求 男 命諱 豊玉 男 命 の 第 一 の 御子海津 古 玉 彦命 諱 豊玉 彦命
の第一女にましまして豊玉里女奪の姪にまします。(㎞。
今や、天 つ 碑・國 つ 碑八 百萬碑 の 決議 に 基き、将 に碑 都 を附地見島 に 遷 さむ とし 給
ふ。発する に 臨み 伯父 碑 海 佐知 昆 古、諱 火照須 命 の 勘気 を 勅 免 まし まして、海 伊 國
の國造となし、且つ西 征の惣元帥と なし 給ふ。又、武 響 植 命 経津主命 建御名方命稚
武王命の四軍碑を副 帥となし、二萬八千除碑の軍勢を率みて天 降らしめ給ひき。
三十六 日 にし て穴門 の 住防 の 宮 に着 し給 ふ。時に 軍勢 日 に 加 はり、凡そ十 萬 除碑
と稲す。吾軍大に振 ふ。即ち軍勢を二手に分ち附地見島東 の水門より攻むる大
将は、元帥 火照須 命、副 帥 武 響 植 命・稚 武王命、軍勢五 萬除碑 とし 他 の 一軍は、附 也見
附 地見島、
の門
水南
より
攻むる大将は元帥火須勢理命 副帥経津主命建御名方命 軍勢五萬除
碑 と す。是 に於 て、各 軍とも共部署 する所 に 従 ひ て 進軍 まし ましけり。即ち、南 軍
は南水門 より上陸し 賊 の 大軍と 戦ひ、奮撃轄 闘六 百 五十 日 にし て、遂に 賊軍を西北
方面 に 撃 懐し ぬ。是 より先 別に阿 曾 武 命を海軍 惣大将として賊の 軍船 を攻め し
第二章 前 紀 碑 祇 九三
碑 皇 紀 九四
め 給 ふ。命は、婦碑 海那里 女 命と共に、我軍勢を率 みて大賊数萬 の 軍船 と戦ひ、巧 に
我 軍船を 騙 つて斉しく焼木 を 拠 ち て 敵 船を 火 き霊 くさ しむ。命、更に 敵の 大将を
目 掛け て共船に飛び移り、縦横 奮 ひ戦ひ て 意 に 戦死 まし ますや 彼 我 の軍船 悪く消
滅に騎しぬ。乃ち海軍惣大将阿倉武命 海那昆女命二柱の神を切枝間山の西の大
山に葬る。共謀に縁みて山を同行北とそ名っけける。面して夫碑を健磐記命と
説 す。毒 一萬二 千二 百 五 十日。婦碑 を阿蘇里 女 命と 説 す。毒 一萬 一 千八百十三
日。柳、阿 曾武命は少名昆古 那 命 の嫡孫 に まします。少名 昆古 那 命は大戸道命 の

三女、大國主命 の妹武弾 雄 昆女 命に要 ひ て久延 仁 里古 命を生みます。久延仁里 古


命は大國主命の二女下照 昆女命に要ひて阿 曾武命を生みます。阿曾武命は豊玉


彦命 の三女海 那 昆 女 命 に 要 ひまししか、今や共に、戦死 まし まし に き。

是に於 て、本営を 切 枝 間山 の 西方 なる阿 曾 山 に 遷し 奉る。面し て 切 枝間 山 を碑


都 と定め 共不二山 の世界第 一 の名山 にし て、日向 高千火峰 なる に由り 共地名を襲
ひて新都も赤田師高千㎞と名っけ給ふ。足より奮都高天原を天都といひ新都
を碑都 といふ。
「--

則ち、奥山 住 命 倉山 住命 繁山 住命葉山 住命原山 住 命外山 住命の 六神に勅して急


に宮殿を造営ましまさしむ。乃ち碑皇は左右大碑初め、天っ碑 園 っ碑 の諸役碑を
支り加 へ て高天原より附地見島の新宮に天降りましまし給ふ。然るに宮殿 の屋
根 獅ほ未だ鶴芽にて書き終らさりしも、遂に入御ましましき。事 高天原に復奏せ
しめませば父大御碑の命以ちて碑皇に譲をシと授け則ふ。面して共
新に都を築きしに因り附地見島を築市島 ㎞)と改め給ひ共御舟の初めて着き
ましし水門を準欠 始 吉崎とそ名っけける。

父大 御碑 は 築市 島 の 代々 の 碑 皇は 御祀 天 照大御碑 の 定め ませる儀典 に 違 ひて、


即位毎に高天原に参上りて先づ阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑託を受け三品

の大 御質を捧け て、大御位を 授け 賜はり、以 て 天 の 下 に 君臨 し て、四方諸”の州國 を治


しめすことに定め給ひき。(㎞ 口」○
三れ


又 父 大 御 碑は築市 島 の碑 皇 の 諱・論 の 方法、及び 國 名 を定め 給 ふ。即ち碑 皇 の 新


天 の 下 に 君臨 し て、四方諸、の州國 を 知 食しめすと難 とも、一 に 不二山 高 天


宗代々の天っ大御碑の御碑託に合はしまさむとの意を採りて園名を学


前 紀 碑 祇 九五
九六
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A * * * *は すQ <に o -
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家 馬 不 二 合 得 國人 定め 結び き。 美神 室代々 の 論 を 期 券 等 不合 等 人 制 后 代々 の 論
た * 4 5 6 %のみとと
を 多摩 洛 里 里 女 發 2 %'共 神 室 代々 の 論 を 学 家 制 不 二 合 氣質 と 神 后 代々 の 論 を
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不1 女 等 と 定め 始さ (關 戰線 。
富岡 始原郡 郡 國 世 地 神 王 代用 で十 七 萬 人 手術 日 にし て 述 に 学 家 制 不 11 合 得 世
• Y部 作 記、神代 幣 、五 十 1 年代
~たも す。(國際 體報 源 頼朝 康熙)


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巻 皇 耐

の 高倉

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命 よ天原玉て依り
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彦命 不いふ原子合





日皇


とは





始波






正● 紀






九 まし

御子
)

(

ます
正紀






















日子









碑 皇 紀 九八
和平し 給 ひき。
外 疲 を言向和平しぬる功を論し賞を行 ひ まします。即ち、大國 玉 命及御子 稲 蒼
魂命(㎞ )をして父祀大物主命の後を嗣き本州中央に於て東西南北総司令頭
長の職を行はしめ知倉王命及御子玉屋命をして父祀 少名 昆古那命の後を嗣き、本
州南西に於て惣司令頭長の職を行はしめ天香護山命をして父事代主命の後を嗣
き本州東北に於て惣司令頭長の職を行はしめ給 ひき。稚主王命及御子武知王命
をし て、父 祀 稚武王命の 後を嗣き、並 に、建御玉 命及御子 建勇王命をし て、父 祀建御名

方命の後を嗣き雨家共に本州北中園守護司頭長の職を行はしめ給ひき。経武里

古 命をし て、父 経 津 主命の 後 を 嗣 き、並 に、武 強 王命をし て、父 武響 植 命 の 後を嗣 き 雨


家 共に、本州東國 一帯 守護司 頭長 の職を 行はしめ 給 ひき。醜男命をして、父 臨 土老


翁 命の 後を嗣 き、並 に 豊國王命及御子 醜佐 男 命をし て、父 祀豊玉武 昆 古 命 の後を 嗣


き、雨家共に、築市島 一圓 守護司頭長の 職を行はしめ 給 ひき。興武男 命及 御子 武知
王命をして父祀興玉命の後を嗣き並に高加茂王命をして父味拒託彦根命の後を
嗣き雨家共に南島一圓守護司頭長の職を行はしめ給ひき。玉武男命及御子玉祀
男命をして父祀玉柱屋命 の後を嗣 き並に園祀男命及御子中山 昆古命をして父 祀
顕園玉命の後を 嗣き雨家共に本州西中園守護司頭長の職を行はしめ給ひき、豊
武主命及御子二荒男命をして父祀豊城入 昆古命の後を嗣き並に玉前男碑をして、
父前玉命の後を嗣き雨家共に東大原野守護司頭長の職を行はしめ給ひき。伊八
彦命をして父五十猛命の後を嗣き附島 ㎞)行島(㎞)、佐渡島守護司頭長の
職を行はしめ給ひき。武器主命及御子日前玉命をして父祀石堀留目命 )
の後を嗣き軍用武器製作の職を行はしめ給ひき。以上 十七軍碑家をして子孫世

共職を承継しましま さしめき。

更に西大山なる阿倉山(㎞ ")に陸守の大本営大本陣を設け阿曾武男命を陸守

惣元帥 と なし て各十七軍碑 に 軍令をなさしめ給 ひし。共大本営を 日原野 の里



以上、合 戦記、軍神 記、開


阿倉山の宮といふ (㎞
又 海守の大本営を築市島東岸 要衝 の 水門 に設け、豊玉 彦命を海守 惣元帥となし
て諸。の津々浦々を 守護せしめ 和ひき。豊玉 彦命は諱を海津古 玉彦命といふ。築日
子奪の嫡孫 豊玉男命講海鰭根求男命の長子にましまして碑后多摩夜里里女奪の
第三章 正紀 碑 皇 九九
碑 皇 紀 一○○
御父にまします。世々 高天原不二山高千火峰の北方刻の湖(㎞。)時なる海守
の宮 即ち龍宮に止りましまししか今や海守の惣元帥となりて、大本営に移り止り
ましまし ぬ。共地を豊野の里 といひ、大本営を宇佐の宮 といふ。命に御子八柱ま
します。第 この御子宇佐豊武命 に、惣元帥 を嗣かしめ 他の七柱の御子を副元帥 と
なし て、七箇所に副本営副本陣を設け、津々浦々 を匿 分し て守護 せしめましき。即
ち第二の御子佐津眞男命をして家古島の水門を守護せしめましき。共止りませ
る地を佐津眞原といひ共副本営を家古島の宮といふ。第三の御子日野前佐武命

をして長崎の水門を守護せしめましき。共止りませる地を日住野原といひシ

本営を長崎の宮といふ。第四の御子大阿佐彦命をして南島の作田 里 古 命の奮 宮

なる阿波の水門を守護せしめましき。共止りませる地は作田里 古命の居太給 ひ

しに因り居シ野(㎞)の里といひ共副本営を阿波の宮といふ。第五の御子那珂
三井男命をし て、津久 始野 の 里初古崎 の 水門を 守護 せしめ ましき。共止り ませる
地を津久始野原といひ共副本営を 初 古船の宮といふ。第六の御子玉懸彦命 第七
の御子石田 明男命、第八の御子 羽茂猛 命は三つ子にまします。玉懸 彦命をして、附
㎞。 )に渡らしめ 大海を守護せしめましき。共止りませる地を何
㎞ )原といひ 共副本営を天渡都見の宮といふ。石田明男命をして行島(㎞
世 ㎞) に渡らしめ大海を守護せしめましき。共止りませる地を石田野原
と いひ共副本営を天渡都手配の宮といふ。羽茂猛命 をして佐渡島に渡らしめ、北
大海を守護せしめましき。共止りませる地を 羽茂野里と いひ 共副本営を天渡都
見の宮といふ。比三柱は、三島に渡り て大海を 守護ましませるに因り、渡住三家と
そ稲 しける。

豊玉彦命は 目印として浪に日月を書ける幡八旋を作り給 ひて八柱の御子に 一


施 つ 、を授けて 宣りたまはく、比 幡印 を目印として海賊 を 防ぎま さむ ことを示し


置く可 しと。面し て豊野里宇佐の 宮なる大本営の 傍 小高き丘上 に 嗣 を建て 、八


っ幡大神宮と祀りましき。(㎞。『)
陸軍惣戦死者の碑霊を切枝間山 (㎞) に祀り切枝間碑赴と稲しましき。阿
曾山 に海軍惣大将健磐龍命諱阿曾武命の碑霊を祀り健磐龍命碑赴と 婦碑阿蘇里
女命講海那昆女命の碑霊を祀り阿蘇 昆女碑赴と稲しましき。又同山 に海軍惣戦
第三章 正紀 碑 皇 ○一
脚 和
-
101
死者 の 神靈を 記り 国道 神社 と 称し まし き。 (學觀經驗。
國 法 を 定め 始 。 即ち、神代 は 諸事 日 を以て歌 《 家 れ り し が 是 上り 指 1 本 を
日 とし、兩手 を 合掌 し て 十 日 とし、合 學 主3 る と と 十 度 っ ) 一同知ら 一 百 日 を 1 和 U
定め ます。 美、左右 大神 の 外 中 神 1 號、小調 回 神 を 置 さ'日 っ'四方 の 州 國 に 大 軍師 四
神 を 置 さ'路”の州 國 を 守護 や しめ まし さ。
石作監 會 は、丸 方 文 は 角 方 を 本 に 選 さ'大政 に 使用 さ しま せる 文字 を 形 り 列 入 で、
神 室 に 献上 まし まし 込。 此 文字 は、天 之 御 中世 第 十 五 代、高 皇族 建制 が、語、の物 の 形
を 書き 始 か て 文字 と なし、之 を 石 に 影 0 '國 常 立 等國 被 她 寫 和沙 子孫 一般に 数 { }
しましま し し 文字 なり と いぶ。
神 室、四方 の諸“の 州 國 に 動 し て、1 枚 硬 每 に 1 名字 を 造紙 や しめ'五 根 每 に 行幸 *
し ます と と に 定め 於船 かさº
火 原始 命 は 詩 を 何 香 武明 命 と いよ。 阿 太 野原 の 阿 多 官 に 止り まし まし しか 院
守 の 欧元 帥 となり、四方 諸“の州 國 の 敵 軍 司令 制 となり ませる や陸 字 の 大 本格 たる
日 原野 の 里 阿 鲁 山 の 宮 に 移り 止 うま しさ。 金 は 道 を 走り ます と と、いと 早く 日本
■-"
希なる に 因り、一 に 詳を年人彦命といふ。
火須勢理命は本島諸。の萬の諸務惣司令碑となりませるや不二山高天原に騎り
小室の家基都の宮に止りましまして元宮阿祀山太碑宮なる宮守の宮に於 て碑祀
碑宗を初め八百萬の大御碑を守護し 奉りき。
碑皇は御父母の遺髪及碑霊を高天原より遷し日向奇日の高千穂峰の上の大宮
に 祀り奉りき。後 更に共遺髪に剣霊 格扇を副 へ まして始羅山の上 の陵 に葬りぬ。
火照須奪は高天原の金山の陵より吾父母即ち天孫二柱の御霊剣気を日向の可

愛山裾の長井宮に遷し 祀り奉りき。後 霊剣 録を共宮の西可愛山の陵に葬りぬ。


碑皇認りたまはく皇太子は碑皇の碑避りましし後大御位に即く可し。碑皇碑
-之

避りまし しと離とも若し碑后の在すあらむには共在世中 碑后撮政として碑皇に


代りて天下を知食しめすべしと。永く之を園法となし給 ひき。 又、紳 皇 より 別れ


て五代まては皇族とし、五代以降は平農碑と定め給 ひき。
紳皇天下を知食しめすこと二百七十七根。毒四百五十根 お ましまして碑避り
まし ぬ。日向の高千穂峰の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。碑后撮政
第三章 正紀 碑 皇 一○三

紳 皇 紀 -
一○
二十根。毒 四百七十 一根 おましまして碑避りまし ぬ。碑皇と同所 の陵に葬る。
宇 家潤不二 合 昆女奪と 説し 奉る。碑后 の 産殿は、日向 の 白 杵佐野 の 小濱 にあり て
白 杵の宮と稲しぬ。第三の皇子千穂高王奪立ち給ふ。之を第二代の碑 皇となす。
火照須命は 日向の阿多宮に於て火火出見奪より三根後れ て碑避りましぬ。毒
五百二十三根。長井宮に遷し祭り式を終りて可愛山の中腹に葬る。天下武男命
と 説 し 奉る。妃 瀬 胡津里 女命は 天 太 玉 命 の 第三女。毒 五 百 二十五 根 まし まして
碑 避 り まし ぬ。夫 命と同 所 に 葬る。大住 玉里女 命と 説 し 奉る。第 一 の 御子 佐津

眞 武命 父 の職務を嗣きまし第二 の御子 高原男 命 海伊 國 造司 の職 を襲 きましき。


是 より先 海 佐知 の 事 に て 父 命 の 高天原 底 大湖 の 西北 の 原野 に 碑 追は え まし ます

や国苦ましまして共地を開撃し古間留園と名っけ宮を高原宮と稲しぬ。世に共

命を流 王又は龍王といふ。共勅免せ られ 海伊國造司となりますや、古間留 國 を古


間園と宮を鍵見宮と改め給ひき。今や碑避りましまししに因り 高原男命共後を
襲 ぎ て、海 伊 の 國造 司 となり まし き。
火須勢理 命は高天原小室の家基都の宮に於て火火出見奪より七根後れて碑避
巻 之 皇 耐 高り













山峰





知徳
天原


たり











むる




乃ち
なし
むと



第 る 足


相 源天原
と諱


聞宮記
貸鍵

知標

即所
高。

いふちすき中太 まして
らず 聞





















、 羽 急


し 御命










沈没











騎 舟 巻き



羽 渡雲





しき
しましま





起り
烈しく


より
不二山
航 と


つ 皇二山標舟命子 として
王の

御奈加











不と共に


目に
を 高天原




















第 り は


む 皇す命子めし


初に

太ます
王皇


ま不







母 職ま














(
しき務 葬子





まし

















稲田田 まして
る 屋し根








ま奉る
















不いふ

















と講



。合






正紀




穂高





"-』■
碑 皇 紀 - 一○六
の 皇子 千穂高 王命を 皇太子 と なし まし ぬ。則ち 皇太子は、百 日 汰 沿 斎戒し て、身を
清め心を誠になしまして更に赤春属を従へ 御舟に乗して不二山を目標として大
海 を航 しませる に、四海 波 静 にし て、事なく 高天原 に上り ましき。乃ち 阿祀 山太 碑
宮の天っ大御碑の御碑殿に於て職芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原
惣司令碑稲田雄命は三品の大御賞を 奪の天窓 に捧げ奉る。命は、火須勢里命の御
子 に まし まし き。
碑皇高天原より天降りましますや 語りたまはく常に高天原の大御碑の威霊を
長 み、心身を清浮 に なす可 し特に 皇太子は降誕 より大御位を受け させ給 ふまて、日
に 不 浮 の 物を食 ます身 に不浮 の物 に鋼れしめす 常に心身を清浄にし、戦々恐々 と
し て身 を慣 むべ し、と 宣りた まひ て、之 を子孫 に示し 博 へ しめ 給 ひき。
阿祀 昆 女命を立て \、碑后 と す。阿 志 加 命の御 女にまします。諱を多摩 夜里 昆
女奪 と 授け 賜 ふ、
天生玉男命を左大碑と、高彦根命を右大碑となす。天生玉男命は前左大碑天津伊建
玉 命の第 一 の御子 にましまして高彦根命は 前右大碑天野見屋建命の第三の 御子
に まし まし き。
碑皇は常に父 碑皇の譲訓を守りて、天下を 知 食 しめ 給 ひしかは、天下 四方の諸、の
州 國 何れも豊 にそ 治まりける。
和 加 彦命 を、田場 國眞井原 の 豊受 太碑 宮 の 宮守 司 と なし給 ひき。命は、火 火出 見
奪 の 第三 の御子、若 武里 古 奪 の 御子 に まし まして、子孫 世々 共職 を承継 せしめ給ふ。
紳 皇、天下 を 知 食 しめす こと 一百三十 一根。毒 三 百 七十 一根 お まし まして、高 千
穂 宮 に於 て 碑避 り まし ぬ。日向 の 奥 療 山 の峰 の 陵 に葬る。宇 家 測 不 二 合 須 奪 と

設し奉る。碑后 書三百五十根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同


所 の陵 に葬る。宇 家 潤 不二 合里 女 奪 と 諡 し 奉る。産殿は、日向 の 佐野 小濱 の 臼杵

宮にして皇子四碑 皇女十二碑ましましき。皇太子阿蘇豊王命 立ち給 ふ。之を第

耐代
ji 巴祀

三代の碑皇となす。(㎞。『)

-*
第三代 阿蘇豊王奪
碑皇第三代料非葺不合奪は幼名を阿田津男といひ 講を阿蘇豊王奪といふ。前
碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り、阿 祀山太碑宮 の 天 つ大御碑の御 碑殿
第三 章 正紀 碑 皇 一O七
碑 皇 紀 一○八
に於て親芽葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑田知方命は三品
の大御質を奪 の 天窓に捧け奉る。命は、稲田 雄 命の第 一 の御子 にましましき。
佐登鈴里 女 命を 立て 、碑后と す。天 別天之 火明 命 の御女 にまします。諱 を多
摩 夜里 里 女 奪 と 授け 賜 ふ。
明 津頭命を左大碑と、清 根 頭命を右大碑となす。明津頭命は前左大碑 天生玉男命
の第一 の御子にましまして清根頭命は前右大碑高彦根命の第四の御子にましま
しき

即位六十五根 の時、火須勢理 命の御子 稲田 雄 命 の二子、大武知彦命・強力武 命 兄弟
は本島東南中央の諸 の天っ碑園っ碑を語ひて腹心となし高天原に於て碑都復奮
を 企 て 、反し ぬ。荒 振 碑等景附 し て國 の 内 甚 く援 ぎ て ありけり。偶。祀佐 男 命 の
御子 建 知 速 日 命の 孫 に まし まして、建御 日 受命 の 御子 にまし ます建豊大勇 命は、暁
勇 なる大力雄強力 雄 手 力雄 足力雄 の 四碑 を従 へ、暴風雨の 夜 闇黒に乗 し 高天原天
都 小室の家基都宮に忍入り、大武知彦命 強力武命兄弟を初め 一族 一類を皆な打 殺
しぬ、面して建豊大勇命は直に高天原副司令碑阿尾瀬最 男命(㎞。『)の山守
3: 2た ،く4 * * 和 彦命 形を 初め、 張 湯 を 守成 “ 毛 。
大事 者 たか は 逆 に 相應 しき 返 分 を た も 受け まさ むとて 自首 し 出 て * * * *
原 の 誘 使 神 和義 り 結び て 建興 大 金分布 蘭 西魏 德 士 四十八 神を 捕 《朝永 。伊達
尼 恩 尼 治山 の 半島 に 神道 か に 迫 が 結び き。 是 に於 て 天 の 下 回 カ の 諸“の州 國 初め
で法論 に そ 治 ،り ける。 然るに 天 火药 物理 會 の 子孫 經 た ませる に 由于 高天原 國
司令 官 たる 大 山脈 命 五 世 の 孫 同 是 隨其 明命 政 司令 神 に 天河 天 之 火 加 金 の 孫 吳 王
明 命前 同 企 神 に 定め 始 かき。 是 上り開 家 の 子孫世 を 共識を 承繼 *~ *~ &。 而
和神

レ で 呼叫 神宗 に タ の 大御神 の 御 神靈並 に 三品 の 大御坂 の 守護 職 を 制定 將 其 命


些單

子孫 之 を 承繼 まし ます と と に 定め 彼 かき。
ż

阿 修正 字國 被 她 第 二 社 の 定め させる大國 十 八 州 に 守護 國 同 を 認 さ 天 照 大御神
の ため ませる 小 國 四十八 國 に 守 同 を 置く と と に なめ 除 かき。

神 天下 を 知食 しめす と と 古西十 五 根。 唯一 百 五 根 か ましょ し て高千禧


於 神通り もし g。 如 ︽ 山 の 降 の 後に排 る。 李家 馬 不 11合 衆 * * * *
后裔 二 百 九 十 六根 か まし まして 同 党 に 於 て神通り まし み。 劇 中間 所 の 彼 を 議
* Oカ
第 三章

-
碑 皇 紀 *
一 一○
る。宇 家潤 不二 合 昆女奪と 諡し奉る。 産殿は目杵野大島の八間戸宮にして皇子
十碑皇女七碑ましましき。皇太子不二田彦王奪立ち給ふ。之を第四代の碑皇と
火 開

8/以上、開 闘記、碑 代 記、 一代記、


多 祇 記、系 圓 出 。
第四代 不二 田彦王奪
紳皇第四代 親非葺不合奪は幼名を不二田彦といひ講を不二田彦王奪といふ。
前碑皇第一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿に於て刺非葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑山主男命は三

品の大御資を奪の天窓に捧け奉る。命は大山祇命七世の孫にましまして前惣司

令碑阿尾弾 眞男命の男久仁佐多男命の御子にましましき。

佐田 里女命を立て、碑后とす。佐気玉命の御女にまします。諱を多摩夜里昆

女奪と授け 賜ふ。
碑建彦命を左大碑と多根彦命を右大碑となす。碑建彦命は前左大碑明津頭命
の第一 の御子にましまして多根彦命は前右大碑清根頭命の第一 の御子にましま
す。
即位三十八根 の時海賊大 に織 んとなり ぬれは行島附島 休 通島 佐渡島 江外島上面
海島・西海 島 の 七島 に 島 長 を 置き まして 言 向 和平 さしめ 給 ひき。
十八大州 に、各 行宮 を 造営 せしめ、常に 四方諸、の州 國を 巡幸 まし ます こと に定め
まし き。
碑皇 天下を知食しめすこと 五十根。毒 百四十根 お ましまして、高千穂宮 に於 て
碑避り まし ぬ。日向山 の 陵 に 葬る。宇 家 潤 不二 合須 奪 と 諡 し奉る。碑 后 撮 政三
十 根。毒 百 七十根 お まし まして同 宮 に於 て 碑避 り まし ぬ。碑皇 と同 所 の 陵 に 葬

る。宇 家 潤 不二 合里 女奪と 諡し 奉る。産 殿は、速瀬 の 小濱 に造営ましまして築 玉


宮と稲 し ぬ。皇子 五 碑 皇女七碑 まし まし き。皇太子佐津 田彦王 奪 立ち 給 ふ。之


を第五代の碑皇となす (㎞f )

第五代 佐津 田彦 王奪
碑皇第五 代 親 芽葺不合奪は 幼名 を佐津田彦と いひ 諱を佐津田 王 奪といふ。前
碑皇第 一 の皇子 にまし ます。高天原に上り、阿 祀山太碑 宮の 天 つ大御宮 の御 碑 殿
に於 て韓 芽葺不合奪 の諱即位 式を行は せ 給ふ。高天原惣司令 碑野見山 男 命は三
第三章 正紀 碑 皇 二一
碑 紀 、 一 一二
品の大御賞を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑山 主男命の御子にましまし
き。
夜佐昆女命を立て、碑后とす。筑男玉命(㎞ )の御女にまします。諱を多
摩夜里 里 女 奪 と 授け 給 ふ。
太玉奇命を左大碑と 見玉 策命を右大碑となす。太玉 奇命は前左大碑碑建彦命
の第一の御子にましまして見玉衆命は前右大碑多根彦命の第一 の御子にましま
しき。
皇 ”耐

碑皇天下を 知食しめすこと五十五根。毒二百三根 お ましまして高千穂宮に於


て碑避りましぬ。大分野御質山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。碑

后 毒百八十八根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。

宇 家測 不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は石門の小演に造営して白波宮と稲しぬ。
皇子八碑皇女六碑ましましき。皇太子津禰彦王奪立ち給ふ。之を第六代の碑皇
以上、開 闘記、碑 代 記、五 十 一
となす (㎞f )
第六代 津禰彦王奪
碑皇第六 代瀬芳書 不合奪は 幼名を津 禰彦と いひ 謀 を津禰彦王奪 といふ。前碑
皇第 一 の皇子 にまし ます。高天原に 上り阿 祀山太 碑宮の天 つ大御碑 の御碑 殿 に
於て、鵜芽葺不合奪の諱 即位式を行はせ給 ふ。高天原惣司令碑 羽山男命は三品の
大御賞を奪の天窓に捧け奉る。命は 前惣司令碑野見山命の御子にましましき
橋豊昆女命を立て、碑后 とす。奈坂男命の御女にまします。諱を多摩夜里里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
日高雄 命を左 大碑と、千穂玉 命を右大 碑となす。日高雄 命は前 左大碑太 玉 奇命

の 第一 の御子 にまし まして、千穂玉 命は前 右大碑見 玉 乗命 の第二 の御子 に まし ま


しき。

碑 皇、天下を 知食しめすこと 四十根。毒二 百 五十 一根 お まし まして


高千穂宮 に
於 て碑避り まし ぬ。片 原山 の陵 に葬る。宇 家測 不二合須 奪 と 説し奉る。碑

后撮
政二十二根。毒 二百七十三根 おましまして同宮に於て碑避 りましぬ。碑皇と同
所 の 陵 に 葬る。宇 家 潤 不二 合 昆 女奪 と 諡 し奉る。産殿は、黒澤 の 小濱 に造営
して、
玉光宮 と稲 しぬ。皇子 七碑 皇女八碑 まし まし き。皇太子阿知 奈 王奪立 ら給
ふ。
第三章 正紀 碑 皇 一 二三
碑 皇 紀 一 一四
之を碑皇第七代となす。(㎞f )
第七代 阿知奈 王 奪
碑皇第七代 競 茨 葺不合奪は幼名を阿知奈男といひ 諱を阿知奈王奪といふ。前
碑皇の第一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿に於 て韓非葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑西瀬基男命は三
品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑東弾 基男命の御子にましま
し て、羽山 男 命 の嫡孫 に ましまし き。

登目 昆女命を立て 、碑后 とす。土根王碑の御女にまします。諱を多摩夜里昆


女奪 と 授け 給 ふ。

玉魂結命を左大碑と 建豊玉命を右大碑となす。玉 魂結命は前左大碑日高雄命


の第 一 の御子 にましまして建豊玉命は前右大碑千穂玉命の第一 の御子にましま


-
しき。
碑皇 天下を知食しめすこと五十八根。毒百九十八根 おましまして高千穂 宮に
於て碑避りまし ぬ。相良 野五平山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と説し奉る。
碑后 書百八十六根 お ましまして同宮 に於 て碑避 りまし ぬ。碑皇と同所の陵に葬
る。宇 洞 不二 合 昆 女奪 と 諡 し 奉る。産殿 は浦部 演 に造営 し て、浦里 宮 と稲 し ぬ。
皇子 四碑 皇女 八碑 まし ます。皇太子豊田 彦王奪 立ち 給 ふ。之を碑 皇第八代と な
。(以上、開 闘記、碑 代 記、五 十 一
す。(㎞ 「 )
第八代 豊田 彦 王 奪
碑皇第八 代、鶏 芽葺 不合奪は幼名 豊田 彦と いひ、諱を豊田 彦王奪といふ。前碑皇
第 一 の皇子 に まします。高天原 に上り、阿祀山太 碑宮 の 天 つ 大御 碑 の御 碑 殿 に於
て 親 芽 葺不合奪 の諱即位式を行は せ給 ふ。高天原惣司令碑南山 男命は三品 の大
御質を 奪 の 天窓 に 捧け奉る。命は前惣司令 碑西弾 眞男 命 の 御子 にまし まし き。
根 志里 女命を 立て 、碑后と す。玉 知男 命の御女にまします。諱を多摩 夜皇里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
香山 武命を左大碑と、八重玉彦命を右大碑となす。香山 武命は、前左大碑玉 魂結
命の第一 の御子にましまして八重玉彦命は前右大碑建豊玉命の第一 の御子にま
しま しき。
第三章 正紀 碑 皇 一 一五
碑 皇 紀 一 一プ
碑皇 天下を知食しめすこと四十二 根。毒 百四十三根 お ましまして、高千穂 宮 に
於 て碑 避 りまし ぬ。阿 屋 野木原山 の 陵 に葬る。宇 家潤 不 二 合須 奪 と 諡 し 奉る。
碑后 毒 百十四根 お ましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と同所 の陵 に葬る。

へヘヘヘヘヘへん

宇 家 潤 不二 合 昆女 奪 と 諡し奉る。産殿は鳴 澤に造営し て、雲晴宮 と稲しぬ。皇子


五碑 皇女七碑 まします。皇太子宇摩子王奪 立ち給ふ。之を第九代の碑皇となす。
代以

(㎞f)

第九代 宇摩子 王 奪

碑皇第九代 親 芽葺不合奪は、幼名 を宇摩 子と いひ、諱を宇摩 子王奪といふ。前碑



*ヘへへヘヘヘヘヘヘヘへへーへへ一

皇第 一 の皇子 にましまします。高天原 に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑


殿 に於 て競 芽葺不合奪 の 講即位式を行はせ 給ふ。高天原惣司令碑北山男命は、三


品の 大御質を 奪 の 天窓 に 捧け奉る。命は前惣司令碑南山 男命の御子にましましき。


都根 里 女命を 立て \、紳 后と す。島 古崎 男命の御女 にまします。諱を多摩 夜里
昆女奪 と授け 賜ふ。
太田別命を左大碑と古玉別命を右大碑となす。太田別命は前左大碑香山武命
の第 一 の 御子 に まし まして、古 玉 別 命は 前 右 大 碑 八重 玉 彦命 の 第 一 の 御子 にまし
まし き。
碑皇天下を知食しめすこと六 丁三根。毒二百十八根 お ましまして高千穂宮 に
於 て碑避りまし ぬ。玉 足山峰 の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と 諡し奉る。碑后
毒 百九十九根 お ましまして同宮に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と同所の陵 に 葬る。
宇 家 潤 不二 合 昆女 奪 と 諡し奉る。産 殿は、大 分野 小濱 の 玉光 宮 にし て、皇子八 碑、皇
女三碑まします。皇太子日野光王奪立ち給ふ。之を第十代の碑皇となす(㎞

第十代 日野光 王奪

碑皇第十代職業資 不合奪は幼名を日野男といひ識を日野光王奪といふ。前碑

皇第 一 の 皇子 に まし ます。高天原 に 上り、阿 祀 山太 碑宮 の 天 つ 大御 碑 の 御 碑 殿 に
於 て、鵜 芽葺 不合 奪 の講即位 式を 行は せ給 ふ。高天原 惣司令 碑余 千山男 命は、三品
の 大 御 質を 奪 の 天窓 に 捧げ奉る。命は、前惣 司令 碑 北山男命 の 御子 に ましましき。
佐瀬里 女 命を 立て \、碑 后 と す。登 旨共男 命 の 御女 に まし ます。諱を多摩夜里 里

第三章 正紀 碑 皇 一 一七
職 皇 紀 一 一八
女奪 と 授け 給 ふ。
倉建男命を左大碑と大笠山命を右大碑となす。倉建男命は前左大碑太田別命
の第 一 の御子にましまして大笠山命は前右大碑古玉別命の第 一 の御子にましま
しき。
『皇動して高千穂修の中腹に宮を造営ましまさしめ親ら大園主命の碑霊を祀
りまし ぬ。之を大國碑赴 と名づけ給 ひき。
紳皇天下を知食しますこと四十七根。毒百六十三根おましまして高千穂宮に

於て碑避りましぬ。御質山峰の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。碑后、

揺政二十三根。毒百八十八根 おましまして御質山の仙洞に於て碑避りましぬ。

紳皇と同所の陵に葬る。宇家測不二合昆女奪と説し奉る。産殿は大分野小演の

玉光宮にして皇子八碑皇女四碑まします。皇太子太武王奪立ち給ふ。之を第十
一代の碑皇となす。(㎞f )
第十 一代 太武王奪
碑皇第十一代 親茨書不合奪は幼名を多武男といひ講を太武王奪といふ。前碑
皇 第 三 の 皇子 に まし ます。 高天原 に 上り、阿蘇 山大 神宮 の 天 っ 大御神 の 御 神殿 に
於 で 親李 春 不合 等 の 講師 位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原敬 司令 制 君山 明 命 は 三品 の
大 師資 を 尊 の 天意 に掛け 本 る。 命 は 前 總 司令 制 本 千 山 明 命 の 御子 に まし ましさ。
太 加里 安 金 を 立て 神 后 と す。 宮古 志 男 命 の 御 女 に まし ます。 武 を 多摩 洛 里
里 女 等 と 接 け 期 よ。
真 王維 金 を 左 大神 と、古 流浪 命 を 右大神 と なす。 其 王維 命 は前 左 大 轉 會 建明 命
の 第 1 の 御子 に まし まして 古流浪 命 は 前方 大神 大 等 山 命 の 第 1 の 御子 に まし *
#

しき。

四方 の 諸“の州 國 に 張遼 號大 に 降 起 しむ。 即ち、天 照 大御神 の 定め ませる 四十八


Ż

國 の 関す 神 の 下 に 全長 1 名 を 置き、四方 の 諸“の神 タ の 十分 の 1 つく 振興 を 選 みて
令 長 の 意 下 と た し、英 指揮 に 従 か て 脱落 城 を 言 向 和 本 ご した る と と を 定め 彼がき。

神 室 天下 を 知 食 しめす と と 二 十 五 根。 義人 十 九 根 お まし まして 高 千種 の 宮 を
於 神 通り まし gº ㏊ 瘤 次 近 の 富山 の 陸 に 排 る。 李 家 馬 不 11合 氣 發 酵素る。
神戶幕政 二 十張。 義 者十 七 根 か まし まして 同省 に於 て神 通りまし &。 劇情
第 三 章 ॥ 1 1も
碑 皇 紀 一 一四
之を碑皇第七代となす。(㎞f )
第七代 阿知奈 王奪
碑皇第七代、鴨 芽葺不合奪は幼名を阿知奈男と いひ 諱 を阿知奈王奪といふ。前
碑皇 の 第 一 の 皇子 にまし ます。高天原 に上り 阿 祀 山 太碑 宮 の 天 つ大御碑 の 御碑
殿 に於 て 鵜 茅葺不合奪の諱即位式を行は せ給ふ。高天原惣司令碑西弾 眞男命は、三
品 の 大御 質を 奪 の 天窓 に捧け奉る。命は、前惣 司令 碑東 弾 旨共男 命の御子 にまし ま
し て、羽山男命 の嫡孫 に まし まし き。

登目 昆 女命を 立て \、碑 后 と す。土根 王碑 の 御女に まし ます。諱 を多摩夜里 里


女奪 と 授け 給 ふ。

玉魂結命を左大碑と建豊玉命を右大碑となす。玉魂結命は前左大碑日高雄命

の第一の御子にましまして建豊玉命は前右大碑千穂玉命の第一の御子にましま
しき。
碑皇、天下 を 知食しめすこと 五十八根。毒 百九十八根 お まし まして、高千穂 宮 に
於て碑避りましぬ。相良野五平山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と設し奉る。
-■--
碑后 書百 八十六根 おましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と同所の 陵に葬
る。宇潤不二 合昆女奪と諡し奉る。産殿は浦部演 に造営して浦里宮と稲しぬ。
皇子四碑 皇女八碑まします。皇太子豊田彦王奪立ち給ふ。之を碑皇第八代とな
す。(㎞「 )
第八代 豊田彦 王奪
碑皇第八代鶴茅葺不合奪は幼名豊田彦といひ講を豊田彦王奪といふ。前碑皇
第 一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮 の天つ大御碑の御碑 殿 に於

て親 芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑南山男命は三品 の大

御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑西弾 眞男命の御子 にましましき。


之 根 志里女命を立て、碑后とす。玉 知男命の御女にまします。諱を多摩 夜皇里
ヘヘヘヘ



女 奪 と 授け 賜 ふ。
ヘヘヘ〜〜〜


*

香山武命を左大碑と、八重玉彦命を右大碑となす。香山武命は前左大碑玉魂結


-
命の第一 の御子にましまして八重玉彦命は前右大碑建豊玉命の第一 の御子にま
しましき。
第三章 正紀 碑 皇 一 一五
碑 皇 紀 一 一*
碑皇 天下を 知食しめすこと四十二根。毒百四十三根 お ましまして、高千穂 宮 に
於 て碑 避りまし ぬ。阿 屋 野木 原山 の 陵 に 葬る。宇 家潤 不二 合須 奪 と 説 し奉る。
碑 后 毒百十四 根 お ましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と 同所の陵 に葬る。
宇 家潤不二合 昆女 奪と 諡し奉る。産殿は鳴 澤に造営し て、雲晴宮と稲しぬ。皇子
五 碑 皇女七碑 まします。皇太子 宇摩子 王奪 立ち給 ふ。之を第九代の碑皇となす。
(㎞f)

代 記、大 山祇 記、系 圓 史。
第九代 宇摩 子王 奪

碑皇第九代 鶴芽葺不合奪は、幼名 を宇摩子 と いひ、諱を宇摩 子王奪といふ。前碑


皇第 一 の皇子 にましまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑

殿に於て鶏 芽葺不合奪 の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑北山 男命は、三



品の 大御質を 奪 の天窓 に捧け奉る。命は前惣司令碑南山 男命の御子にましましき。
都 根 里 女命を 立て \、紳 后と す。島古崎男命の御女 にまします。諱を多摩 夜里
昆女奪 と授け 賜ふ。
太田別命を左大碑と古玉別命を右大碑となす。太田別命は前左大碑香山武命
釜 之 皇 史耐



記 まる




























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㎞)
即天原品男令位


高奪






司式
山惣


三碑



日野





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韓 皇 紀 一 一八
女奪 と 授け 給 ふ。
倉 建男命を左大碑 と、大笠山 命を右大碑 となす。倉 建男命は、前 左大碑 太田別 命
の第 一 の 御子 にまし まして、大 笠山 命は前右大 碑古 玉 別 命 の第 一 の 御子 にまし ま
しき。
碑 皇勅 し て、高千穂 峰 の中腹 に宮 を造営まし まさし め、親 ら大國 主命 の碑 霊を 祀
り まし ぬ。之を大國 碑 赴 と名づけ給 ひき。
碑皇 天下を知食し ますこと四十 七根。毒 百六十三根 お まし まして高千穂 宮 に

於 て碑 避り まし ぬ。御質山峰 の陵 に葬る。宇 家潤 不二 合須 奪 と 諡し 奉る。碑后、


撮政二十三根。毒百八十八根 お ましまして御質山の仙洞に於て碑避りましぬ。

碑 皇と 同所 の陵 に葬る。宇 家潤 不二 合 昆女奪 と 説 し 奉る。産 殿は、大 分野 小 演の


玉光宮 にし て、皇子八碑 皇女 四碑まし ます。皇太子太 武王奪 立ち給 ふ。之を第十


一代の碑皇となす。(以上、
㎞f )
記、碑 代 記、
第十 一代 太 武王奪
碑皇第十一代 鶴芽葺不合奪は幼名を多武男といひ講を太 武王奪といふ。前碑
_—_
皇 第 三 の 皇子 に まし ます。 為 天 原 に 上り、阿蘇 山大 神宮 の 天 つ 大御神 の 御 神殿 と
於 て、魏无君 不 合算 の 講師 位 式 を 行 は せ 結 &。 高天原 物 可 令 制 出石山 明 命 は、三品 の
大 御 資 を 容 の 天空 に 掛け 本 る。 本 は 前 數 可 令 种 金 手 山 明 命 の 御子 に まし ましさ。
太 加里 女 命 を 立て 農 后 と す。 當 古志 男 命 の 御 女 に まし ます。 韓 を 多摩 洛 里
里 女聲 U Ř け 期 よ。
其 王維 命を 左 大神 と古 流浪 命を有 大神 と た す。 其 王維 命 は前 在 大 轉會 建明命
の 第 1 の 御子 に まし まして 古 流浪 命 は 前方 大神 大 等 山 金 の 第 1 の 御子 に まし ま
ºst
しき。

四方 の 諸“の州 國 に、張 松城 大 に 降 起 しむ。 即ち、天 照 大御神 の 定め ませる 四十八


Ż

國 の 図 字體 の 下 に、令 長 1 名 を 置き、四方 の 諸“の神々 の 十分 の 1 つく 短調 を 選 みて、


卷 令 長 の 窓 下 と なし、其 指揮 に 従 か て、張 松城 を 言 向 和 本 ご した る と と を 定め 後期かき。
神 室 天下 を 知 食 しめす と と 二 十 五 根。 義人 十 九 郎 や まし まして 高 千種 の 宮 に
於 て 神 通り まし む。 阿蘇 次 近 の 富山 の 陸 に 非 る。 字 家 制 不 11合 氣 發 人 說 ,し素る。
神 后援 政 二 十 根。 義 者 十 七 根 お まし まして 同 党 に 於 て 制 通り まし 込。 體 呈 入 同
第 三 章 桜 羯 1 1た
-
碑 皇 紀 一二○
所 の陵 に葬る。宇 家 潤 不二 合 昆 女奪 と 諡 し 奉る。産殿 は、大 分野 小濱 の 玉 光宮 に
し て、皇子 六 碑 皇女 七 碑 まします。皇太子 武力 男 王 奪 立ち給 ふ。之 を 碑皇第十 二
。(以上、開 闘記、碑 代 記、五 十 一
代となす。(㎞f )
第十二代 武力男王奪
碑皇第十二代 競 芽葺不合奪は幼名を武力男と いひ、諱を武力男王奪といふ。前
碑皇 の第 一 の皇子 にまします。高天原 に上り、阿 祀 山太碑 宮 の天 つ大御碑の御碑
殿 に於 て 親 芽葺不合奪 の諱即位式を行は せ給 ふ。高天原 惣司令碑阿多志男 命は三

品 の 大 御質 を 奪 の 天窓 に 捧 け奉る。命は前 惣司令 碑岩山 男 命 の 御子 に まし ましき。


太仁里女命を立て 、碑后 とす。長田男命の御女にまします。諱を多摩夜里里


女 奪 と 授け 賜ふ。

魂幸見命を 左大碑 と 豊彦玉 命を右大 碑と なす、魂幸見 命は 前左 大碑 賞玉 雄 命
の第一 の御子にましまして豊彦玉命は前右大碑古海根命の第一 の御子にましま
しき。
即位 十 七根 の時 西 大陸 より大軍攻め 来 り ぬ。吾 軍七根 百八 十五 日 にし て、潮 く
之 を 向 言 和平 し に き。
碑皇、天下を知食しめす こと 四十三根。 毒二 百 五十九根 お ましまして碑 避 りま
しぬ。梅田御同の陵に葬る。字家測不二合須奪と諡し奉る。碑后誌二百四十九
根 おましまして同宮に於て碑 避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。宇家潤不二
合里女奪と諡し奉る。産殿は、大分野小濱の玉光宮にして皇子七碑 皇女四碑まし

代 巴
巴耐

ます。皇太子出見彦王奪立ち給ふ。之を碑皇第十三代となす。 ㎞ 、大


㎞)
史、碑 都 録。

第十三代 出見彦 王 奪

碑皇第十三代 親芽葺不合奪は幼名を出見彦と いひ講を出見彦王奪といふ。前


碑皇第 一 の皇子 にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑


に於て瀬 芽葺 不合奪の諱即位式を行はせ給 ふ。高天原惣司令碑宇津山男命は三


品の 大御資を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑自山男命の御子にましまし
て、阿 多 志 男 命 の嫡孫に まし まし き。
茂瀬里女 命を立て 、碑后とす。種穂見命の御女にまします。諱を多摩夜里昆
第三章 正紀 碑 皇 一二一
轉 息 和 11111
女 等 と 投 け 期 よ。
規律 王命 を 左 大神 と 見 星 手 命 を 右 大神 と なす。 規律 王命 は 前 左 大神 速率 見 命
の 第一 の 御子 に ましょ し て 見 是 手 命 は 前 左 大 調 景泰 王命 の 第 1 の 御子 に まし ま
しさ。
即位 11+ 人根 の 時天 の 下 不作 にし て五級 ならす 四方語 の州國 に内就是 少 g
神 室 氣 ら 四方 の 州 國 を 巡 率 よし まして 内 湖 を 辞め させ 始 か に さ。
神 室 天下 を 知 食 しめす と と 四十八 張。 義 百 二 十 八 張 お まし まして 高 千種 の 宮
に 於 て 神 通り まし お。 蘇公 の 大島 山 の 陸 に 非 る。 字 家 拥 不 1 合 得 第 に 設 し率る。
神 兵器攻 1+ 五根。 雍正 五十六 根 かまし まして 同名 に於 て神通りまし む。 神
と 同 所 の 陸 に 乗る。 字 家 湖 不 11 合用 女 等 と 論 し 率 る。 泰 殿 は 大 分野 小浪 の 玉 光
官 にし て、皇子 十 七 种 自室 女 十 二 种 * し ます。 自室 大 子 离 天子 王 等 文 ら 始 よ。 之 を 第
+四 代 の 神室 となす。(趙 紫陽 縣縣 縣轄縣 級 )
第十 四代 爾 天子 王 曾
朝 皇 第 十 四 代為 李書 不 合金 は 幼名 を武 天子 と いび 家 を 武 天子 王 李, … -
种 自軍 第 四 の 皇子 に まし ます。 同 天 原 に 上り、阿 祖山 太 尉 名 の 天 つ 大御神 の 御 神殿
に 於 て 親 李 書 不 合算 の 講師 位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 可 令 种 同 加山 明 命 は 三
品 の 大 御 資 を 尊 の 天 德 に 掛け 率 る。 命 は 前 政 司令 體 字 海山 明 命 の 御子にまします。
太湖 里 女 命 を 立て 農 后 と す。 多 宗川 男 命 の 御 女 に まし ます。 韓 を 多摩 安里
里 安 基 と 接 け 期 よ。
玉 光王命 を 左 大神 と 後 王 在 命 を 右 大神 と た す。 玉 光 王命 は 前 左 大神 與 德 王命
爾弗

の 第 1 の 御子 に まして 後 王 在 命 は 前方 大神 鬼屋 手 命 の 第 1 の 御子 に まし ましさ。
些單

部位 二 十 一 根 の 時 西 大陸 より 外 放大 舉 し て 来 0 政 ち。 此 に 防 局 行 局 を 占領し、

音 员 是 神 に 防 省 を 貸す と 告 くる もの あり。 另 ら 建 建 德 命 を 元帥 と'時 海 艦艇 命 を

副 師 と なし、敵 ら て 之 を 退け さ。
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 三 十 六 根。 義 自力 十 一 根 お まし まして 高千穂 の 宮
にめ て神 通りまし む。 地 の職 の 後に張る。 李 家 制 不合衆 とし本 る。
農曆十五 歲。 雍正十七張 し まして間 にめ て神道 5* * *
第 一 章 正 料 評 111]
碑 皇 紀 一二四
同所 の陵 に葬る。宇 家潤 不二合 昆女奪と諡し奉る。産殿は宮島の小濱に造営し
て、眞幸宮 と 稲し ぬ 皇子 十碑 皇女十二 碑 まし ます。皇太子奈良 田彦王奪 立ち給
ふ。之を第十五代の碑皇となす。(㎞「 )
第十 五代 奈良 田彦王奪
碑皇 第十五 代 鶴 芽葺不合 奪は幼名 を奈良 田彦 と いひ 講を奈良田彦王奪といふ。
前碑皇第三の皇子 にまします。高天原 に上り、阿 祀 山太碑宮 の 天つ大御碑 の 御 碑
殿に於 て競芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑津久山 男命は、

三品 の 大御 資 を奪 の 天窓 に 捧け 奉る。命 は 前 惣司令碑阿 加山男 命 の 御子 に まし


まし き。

屋根 里 女 命 を立て \、碑 后 と す。手玉 男 命 の 御 女 に まし ます。諱 を多摩 夜里里


女奪 と 授け 賜 ふ。
高 照男 命を 左 大碑 と、豊武雄 命を 右 大 碑と なす。高照男 命は前 左 大 碑 玉 光 王命
の第 一 の御子 に まし まして豊武雄 命は前右 大碑 築 玉 柱 命 の 第 一 の御子 にまし ま
しき。
巻 之 皇 耐 まる











御岳














。 し まして
野 天一

し碑













こと



高千穂
めす

し 四り




即位
















まし方

不天原









高奪
















碑 合阿

令 皇天原りし子



高ま紳

上ます

殿









祀 なす 給











)
f

(
。 玉ち子し女宮 に





皇と

ま十

太五


立ます


顧佐彦 葬営























殿


造 る ぬ
濱 おし宮野








分撮

山まして

ま御






。 天し地



ま*











まし し幸














の め の
高千穂

四方
まして
ましつ
々 いまし


悩ぬ



















碑 と


不いふ








幼碑
いは
顧と

と講




佐彦ひ名合

正一




碑五紀

顧佐彦





"i
碑 皇 紀 一二六
品の 大御 賞を奪 の 天窓 に 捧 け奉る。命は 前惣 司令碑 津 久山 男 命 の御子 にまし ま

しき。
戸志 里 女命を 立て \、紳 后 と す。根 佐男 命 の御 女 にまし ます。諱 を多摩 夜里 里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
赤 長 彦命を左大 碑 と、山 仲雄 命を右 大碑と なす。赤長 彦命は、前左 大碑高 照男 命
の第 一 の 御子 に まし まして山仲雄命は前右 大 碑豊武雄 命の第二 の 御子 に ましま
-
しき。
即位十根 の時 益碑 の法を改正ましまして大に之を起 させまし ぬ。諸”の碑 々 繁
築 し 給 ひき。
碑皇 天下を知食しめす こと 四十 一根。毒 二 百二十八根 お まし まして高千穂 宮
に於て碑避りましぬ。大分野御鏡山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪にと設し奉
る。碑 后 撮 政二 十二 根。毒 二 百三十九根 お まし まして、大分野御質山宮 に於 て碑
避りましぬ。碑皇と同所の陵 に葬る。宇 家潤不二合 昆 女 奪と諡し奉る。産殿は、
黒 小濱の照玉宮 にし て皇子 不詳、皇女八碑まし ます。皇太子加 目男 王奪 立ち給ふ。
『』i
之を第十七代の碑皇となす。(㎞)
第十七代 加目男王奪
碑皇第十七代韓非葺不合奪は幼名を加目男といひ譲を加目男王奪といふ。前
紳皇第 一皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑殿 に
於て刺芽葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原 惣司命碑中山男命は三品の
大御 資を奪の天窓に捧け奉る。奪は前惣司令碑上 瀬基男命の御子にましましき。
志モ里女命(㎞)を立て、碑后とす。霧坂男命(㎞ )の御女にまします。
諱を 多摩夜里里女奪と授け賜ふ。
武 魂男命を左大碑と家重建主命を右大碑となす。武魂男命は前左大碑赤長彦
倉の第一の御子にましまして家重建主命は前右大碑山仲雄命の第一の御子にま
しま しき。
海伊 の園造司園谷彦命は高天原の北方なる底大湖の南西の山澤を掘盤ましま
して湖水を流下せしめ給ふ。則ち大湖二分通り減水して定水となりぬれは暴風
-
第三章 正紀 紳 皇 一二七
碑 皇 紀 一二八
雨 にも湖水横溢せさりき。農民碑大に脱ふ。是より先 比大湖は暴風雨毎 に湖水
横溢して山澤 一帯満水 となり農民碑の困苦甚しかりしか 是に至つて常に大湖二
分通り減水して、定水を保ちぬるに至れり。今や農民碑大に共徳を頭し龍王水碑
とそ崇めける。命は共居を南湖漫に遷させ給ふ。共地を龍王の里といひ宮を龍
王宮といふ。奮宮地を世に長者家原といふ。命は天火照須命第二の御子 高原男
命十六世 の孫にましまして前國造司國岡彦命の第二 の御子にまします。
碑皇天下を知食しめすこと在位三十六根 毒百三十七根 お ましまして高千穂宮

に於て碑避りまし ぬ。大分野御質山峰 の陵 に葬る。宇家潤不二 合須 奪と諡し奉


る。紳 后撮 政二十二根。毒百五十 一根 お ましまして大分野御質山宮に於 て碑避


りまし ぬ。紳皇と同所の陵 に葬る。宇家潤不二 合昆女奪と 諡し奉る。産殿は、黒


小濱の照玉宮にして皇子七碑 皇女八碑まします。皇太子都留彦王奪立ち給ふ。
之を第十八代の碑皇となす。(㎞)
第十八代 都留彦王奪
碑皇第十八代職芽葺不合奪は幼名を都留彦といひ識 を都留彦王奪といふ。
『"

前神皇第一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ大御神の御碑
殿に於て、鶏芽葺 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑久保弾 兵男命
は、三品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑中山男命の御子にまし

まし き。
摩津 里女命を立て 、碑后 とす。佐和田彦王命の御女にまします。諱を多摩夜
里 里 女奪 と 授け 賜 ふ。

剣若武命を左大碑と群 楽男命を右大碑となす。剣若武命は前左大碑武魂男命

の第 一 の御子にましまして群 楽男命は前右大碑家重建主命の第一 の御子にまし


まし き。

即位八根の時碑皇は神后と共に四方の諸 の州園を巡幸ましまして七根八十四
*色さ

日 にし て 高千穂 宮 に還幸 まし まし き。
碑皇天下を知食しめすこと二十七根。毒百三十七根 おましまして高千穂 宮に
於て碑避りましぬ。大崎野直入山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。
紳 居振 政二十根。毒百五十二根 おましまして大崎野直入宮に於て碑避りましぬ。
第 三章 正紀 皇 1 二九
、神 皇 紀 一三○
碑皇と同所の陵に葬る。宇家潤不二合昆女奪と諡し奉る産殿は黒小濱の照玉宮
にして皇子十一碑 皇女十碑まします。皇太子多加彦王奪立ち給 ふ。之を第十九
以上、 記、神代 記、
代の碑皇となす。(㎞「一
第十九代 多加彦王奪
碑皇第十九代鶴芽葺不合奪は幼名を多加彦といひ 講を多加彦王奪といふ。前
碑皇第 一 の皇子 にまします。 高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑殿
に於て韓芽葺不合奪 の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑興古山 男命は三

品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑久保瑠 眞男命の御子 にまし


まし き。

波奈 昆女命を立て、碑后 とす。深長田雄命の御女にまします。諱を多摩 夜里

昆 女奪 と 授け 賜 ふ。
若熊武命を左大碑と強兵男命を右大碑となす。若熊武命は前左大碑剣若武命
の第 一 の御子にましまして強兵男命は前右 大碑群築男命の第 一 の御子 にまし ま
す。
巻 之 皇 耐 編 通る山能り まして
伊一

笠まし

葬原野


奉の













。 天めす第

し紳


まを








こと





高千穂
し下

不天原








高奪















男 合阿


山 皇天原りし子



高ま前

上ます










祀 なす 給











( 玉ち












ます



田彦
加佐

ふ 宮し


子 葬営




















殿




て るぬ
濱 お















笹原
まして




。 し にり



西






ましし
園 代しく
大宗

親天





祭の
ま大








こと
ます
御神し典々
天し子山令る窓





奉『

司捧



古。

御碑


ま男

ま 不いふ佐ひ名合








幼碑
いは

加加佐

と講


田彦
。 と共にるり





#

上即位




な高天原


まして


正紀






j

加佐






田彦



静 員 羯 | 1
しき。
保 加盟 友 金 を 立て 、神 后 と す。 作 民明命 の 御 女 に まし ます。 韓 を多摩 洛 里 里
女 等 と 疑 け 開 よ。
明 帝王 命 を 左 大神 と武鐵 字 命 を 右 大神 と なす。 明 洪 た 大 神武 德 式 命
命 は前左
の 第 1 の 御子 に まし まして 武 鐵 字 命 は 前方 大 禮服 兵 防 命 の 第 二 の 御子 に
--~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

-
しさ。

即位 也 想 の 時、四方諸“の 州 國 に 親 し て 山野 を 開発 や しめ 結ぶ。 廣 く 之 を 公布 や

しめ まし き。

部位 十 七 根 の 時轉身 は 神 后 と共に、四方 の 諸“の州 國 を 巡業 まし まし 同 十 八 根 十


五 日常 に 高天原 の 天 都 に 上り まして 神聖 神宗 の 天 つ 大御神 秘め 前“の神 タ の 大 廣


前 に 於 て 神聖 殿后 殿 ら 認“の山海 原野 に あらゆる 種々 の 色 物 を 置き 高 成 し て 栄 し
く、脱 制 を 奉 0 人 祭典 式 を 行 は せ 給水。 昭 し て 永 式 と なし み。 更に 各地 を 巡 車 ま
し まして、三根 四十八 日 にし て 高 千種 字 に 還 車 よし まし き。
神聖天下 を 食 しめす と と 二 十 張。 義 者 四 十 三 根 か まし まして 高 千種 常に
卷 之 和 辞4%………


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「計j員 「シ口 -
碑 皇 紀 一 三四
の 第三 の 御子 にましまして古岩 勇 命は前 右 大碑 萬鎮守 男 命 の 第 一 の 御子 に まし
まし き。
即位十二 根 の 時、碑皇 は、碑 后 と共に、四方 の 諸、の州 國 を巡幸 まし まし き。
碑 皇 天下 を 知 食 しめすこと三十五 根。毒 百 八根 お まし まして高千穂 の 宮 に於
て碑避りまし ぬ。黒谷 野大見山 の陵に 葬る。宇家 潤不二 合須 奪と 諡し 奉る。碑
后撮 政十三根。誇百十七根おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所
の陵 に葬る。宇家 潤 不二 合 昆女奪と 諡し奉る。産殿は、臼杵野 大濱の 朝 玉宮にし
て皇子八 碑 皇女 五 碑 まします。皇太子 笠 砂男王 奪 立ち給 ふ。之 を第 二 十 二 代の

碑皇となす。(㎞f 石ー 司 Jノ n

-
第二十二代 笠 砂男 王奪

碑皇第二十二代料非葺不合奪は幼名を笠砂男といひ講を笠砂男王奪といふ。
前碑皇第 一 の皇子にまします。高天原に上り 阿祀山太碑宮の天 つ太御碑の御碑
殿に於て競 芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑大坂山男命は
三品の大物資を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑小坂山男命の御子にまし
を注気 里女を立て 、科后とす。自玉雄命の御女にまします。諱を多慮夜里里
女奪 と 授け 賜 ふ。
立着彦命を左大碑と大住主命を右大碑となす。立磐彦命は前左大碑道明主命
の第 一 の御子 にましまして大住主命は前右大碑古岩勇命の第一 の御子にましま
しき。
碑皇の在位中根(㎞)にまして四方諸、の州園静に治まり 天の下泰平なりにき

碑皇天下を知食しめすこと四十根。毒二百六十根 おましまして高千穂宮に於

て碑避りましぬ。大立山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と設し奉る。碑后誇二

百十七根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。字家

潤不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は黒演野御崎に造営して自浪宮と稲しぬ。皇
子八碑皇女十碑まします。皇太子津奈建王奪立ち給ふ。之を第二十三代の碑皇
と なす 。(以上、開
(㎞ 闘記、碑 代 記、五 十 一
)
第二十三代 津奈建王奪
第三章 正紀 碑 皇 r 三五
碑 皇 紀 一三六
碑皇第二十三代 韓 芽葺不合奪は 幼名を津奈男と いひ 講を津奈建王奪 といふ。
前碑皇第 一 の 皇子 にまし ます。高天原に上り阿 祀山大碑宮 の 天 つ大御 碑 の 御 碑
*

殿 に於 て競 芽葺 不合奪 の 諱 即位 式を 行は せ 給 ふ。高天原 惣司令 碑 向山 男 命は、三


品の 大御資を 奪 の 天窓 に捧け 奉る。命は、前惣司令碑大山 男 命 の 御子 にまし まし
-
き。
無羅里 女 命を 立て \、碑 后 と す。茂永彦命の 御 女 にまし ます。諱 を多摩 夜里 里
女奪 と 授け 賜 ふ。

玉 柱 王命を左 大 碑と、玉 頭男 命を 右 大 碑 と なす。玉 頭 王命は前 左 大碑 立 磐 彦命


の 第 一 の 御子 にまし まして、玉 頭男 命は、前 右大 碑大 住主命の 第 一 の御子 にまし ま


しき。

即位十 一根 より三根 無 作にし て 五穀登らす。則 ち 碑皇 四方 諸”の州國 に 勅して、


高天原碑祀 碑 宗 諸、の大御碑 に 騎 祀 せしめ給 ひき。
碑皇、天下を知食しめすこと十七根。毒百四十三根 おましまして高千穂宮に於
て碑避りまし ぬ。日向野 棚 敷山 の陵 に葬る。宇家 潤不二合須奪と 諡し奉る。碑
后、書百十根 お ましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と同所の陵に葬る。字
家潤不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は黒演野御崎の自浪宮にして皇子八碑皇女
十二 碑まします。皇太子 久具佐彦王奪立ち給ふ。之を第二十四代の 碑皇と なす
記、碑 代 記、五 十
(㎞
代 記、大 山祇 記、系 圓 史。 )
第二十四代 久 員佐 彦 王 奪
碑 皇第二 十 四代、鵜 芽 葺不合奪 は、幼名 を 久 旨共佐 彦と いひ 諱 を久 旨共佐 彦 王奪 とい
ふ。前 碑皇第二 の 皇子 に まします。高天原に 上り 阿 祀 山 太 碑宮 の 天 つ 大御 碑 の

御 碑 殿 に於 て韓 芽葺 不合奪の諱即位式を行は せ給 ふ。高天原 惣司令 碑鳥山 男命


は、三品 の 大御賞 を 奪 の 天窓 に 捧け奉る。命は前 惣 司令 碑 向山 男 命 の 御子 に まし


まし き。

時依 昆女命を立て 、碑后 と す。登富 知男命の御女 にまします。諱を多摩 夜里


昆 女奪 と授け 賜 ふ。
玉 織男命を左 大碑と 古高根 命を 右大碑となす。玉 織男命は前左 大碑 玉柱 王命
の第 一 の御子 にましまして、古高根 命は前 右大碑玉頭男命の 第 一 の 御子 にましま
第三章 正 紀 碑 皇 一三七
「"シ- 口
碑 皇 紀 一三八
しき

即位十三根 七十四日の時 外 寂 の舟師数百般海上に見附けたり、と告けませるも
のあり。碑皇いと寝標を悩ましめ給ひて四方の州園に軍令を務し兵を催さしめ
給ふ。更に高天原太碑宮の各宮守に勅して碑祀碑宗天つ大御碑を初め 諸 の神々
の各碑殿に於て所願ましまさむことを事依し賜ひき。則ち吾軍勢 勅に應し大に
義に赴きぬ。乃ち語りたまはく戦の勝敗は一に天にあり 次等 先つ部署して各要
衝 の地 に擁り防御 すべ しと。 偶。高天原の 方面より黒雲漢 々 渦を巻き来り、烈風暴

雨と共に吹き荒し、激数百般悪く沈没し終りにき

碑皇天下を知食しめすこと二十三根。毒百二十八根 おましまして高千穂の宮

に於 て碑避りまし ぬ。平戸笹子山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。

紳 八十三根 お ましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。
宇 家測不二合里女奪と諡し奉る。産殿は黒演野御崎の自浪宮にして皇子八碑皇
女五碑まします。皇太子宇佐彦王奪立ち給ふ。之を第二十五代の碑皇となす。
『-』i-i
第二十五代 宇佐 彦 王 奪
碑皇第二十五代料芽葺葺不合奪は幼名を宇佐彦といひ譲を宇佐彦王奪といふ
前碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り阿 祀 山 太碑宮の 天 つ大御碑の御 碑
* 設に於て科 *#不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原急司令碑摩留山男命は
一 三品の 大御 資を奪の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑鳥山 男命の御子 にましま
しき。
身奈 昆女 命を立て 、碑后 と す。浪和 王命の御女 にまします。諱を多摩夜里 昆
授け





















な太す古







御まして



ま命
高二し子根
太古に

しき

巻 本なり
暴風雨






作を
と、
即位
荒南北
稲穂
白らし
悪く
登ら
五穀



南東







國 蹴 起り ぬ。碑 皇 親 ら巡幸まし まして之 を鎮め 給 ひき。
碑 皇天下を知食しめすこと十根。毒九十三根 おましまして高千穂宮に於て碑
第三章 正 紀 碑 皇 一三九
碑 皇 紀 一四○
避りましぬ。真崎山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。碑后撮政三十
根。毒百三十根おましまして碑皇の陵側の眞崎宮に於て碑避りましぬ。碑皇と
同所の陵に葬る。宇家潤不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は兵崎山の尾崎の砂原
に造営し て兵 砂宮 と稲し ぬ。皇子八碑 皇女十碑 まします。皇太子津田 彦王奪立
ち給ふ。之を第二十六代の碑皇となす。(㎞)
第二十六代 津田 彦 王奪
碑皇第二十六代 競 芽葺 不合奪は幼名を津田 彦と いひ、諱を津田 彦王奪といふ。

前碑皇第 一 の皇子 にまします。高天原 に上り阿 祀山太 碑宮 の 天 つ大御碑 の 御碑


殿に於て鶴 芽葺不合奪の諱即位式を行は せ給ふ。高天原惣司令碑水山男命は三


品 の 大御質 を奪 の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑摩留山男命 の 御子にましま



、しき。
多良 里女命を 立て 、碑后 と す。濃佐彦命 の 御女にまします。諱を多摩夜里 昆
女奪 と授け 賜 ふ。
『 仁作命を左大紳と園玉光命を右大碑となす。眞仁作命は前左大碑玉作男命
_—」__
3 16 月 にましょ し て 王 光 命 前方 大 神木 吉普 金 の第 13 , , ,
す。
神 室 天下 を 知 食 しめす こと 二 十 張。 蘇 省十 四 根 お まし まして 高 千種 の 宮 に 於
で 神經 り まし む。 西南 縣 大 角山 の 陸 に 非 る。 李家通 不 二 合资 金 と 論 し 本 る。 神
月改正十張 し،し て同体 に於 神道 5* * * * *
家 制 不 二 合用 女神 と 論 し 本 る。 希 設 は、大分 の 黒野 小松 の 宮 にし て、皇子 大神 室 女
八神 * し ます。 皇太子頭 長男 王 李立ち 始 。 之 を第 二 十 七 代 の 神 と た す。(
記、大 山脈 站、系 國史º 體 。
第二十七代碼 長男 王 德








之 ,と いび 登 を 頭 長男 王命 と いぶ。
地方式 不 合弁 は 幼名 を 頭 長男 と
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皇御神
1


高ま前
。祖に

神、
上ます大太





天原宮山りし子


*
て 親 李 書 不 合弁 の 諸 部位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 政司 令 牌 大 出 月 山 明 命
は、三品 の 大 御 家長 を 尊 の 天 德 に 掛け 本 る。 除 は 前 約 公司 制 水 山 明 命 の 御子 に まし
まし さ。
參 三書 ، 1四
…* ----_، ، __،-¦
-
藏 息 和 1 四1
多 美里 女 命 を 立て 農 后 と す。 角田 雄 命 の 御 女 に まし ます。 韓 を 多摩 洛 里根
女 等 と 接 け 關 &。


武建維 金 を 左 大神 と 闘 す 主命 を 右 大神 と なす。 此 建 德 金 は 前 左 大神 其 に 作

-
の 第 一 の 御子 に まし まして'國 寺 主命 は 前方 大神 武王 光 命 の 第 1 の 御子 に まし

加曲
す。而し て。 而死に 前 左 大神 翼 に 作 命 の 第 11 の 御子、足 明 命 を 右 大神 と なし、右 大
家 の 事 を 行 はしめ まし き。
部位 十 二 張 三 十 八 日本 島 南 院 大城 城 に 起り、英 學 亦 親族 なり し と そ。 例 も 神室
新曲

親 ら 行幸 ましょ し て' N & 羯 め させ 始 かさ。


些單

神 星 天下 を 知 食 しめす と と 二 十 根。 蘇 省 十 張 お まし まして 高 千種 常に 於 て 神
ż

遊 り まし お。 長 濱野 大 兒 山 の 陸 に 非 る。 字 來 測 不 二 合 氣質 と 論 し 本 る。 神 后援

該 1+ 1 歳。 縣 市 三十 張 á *し まして長 將 金 に於 て神通り まし む。 神 と 同步
の 陸 に 非 る。 在于 家 制 不 一人合用 女 侍 J 政 し 來 る。 她 發 は、大分 の 黒野 小路 の 宮 にし
て 皇子 五 种 自圣 女 也 顯 まし ます。 至 太子 足 長沙 王孙 立ち 始 よ。 之 を 第 二 十 八 代 の
神 室 と なす。(戰 戰神 學 副秘書誌 『 )
-i-i"
第二十八代 足 長彦 王 奪
碑皇第二十八代競 芽葺不合奪は幼名 を足長男と いひ 講 を足長彦王奪といふ。
前碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り阿 祀 山 太碑宮の 天 つ 大御 碑の 御碑
殿 に於 て鶴 芽葺不合奪の諱即位式を行は せ給 ふ。高天原 惣司令碑津地山男命は、
三品の 大御 質を 奪 の 天窓 に 捧 け奉る。命は、前 惣司令 碑 火出見山 男 命 の 御子 にま
しま しき。
多 旨共明里女 命を 立て \、碑 后 と す。須種 手 彦命 の 御女 にまし ます。諱 を多摩 夜

里 昆女 奪 を 授け 賜ふ。

早馬太命を左大碑と古基武男命を右大碑となす。早馬太 命は前左大碑武建雄
之 命 の 第 一 の 御子 に まし まして、古 旨共武男 命は、次 の 前右 大碑足早男 命の 第 一 の 御子
に まし まし き。
即位十七根より三根天災地妖若りに珠り、運根(㎞) 五穀登らす戦争相績き東
北 の 國 々 盗賊 蜂起 し 勢狙 概 を 極め ぬ。勅 し て 津守 銭磨 彦命を元帥 と なし、太玉 別
命を副 帥と なし て東北の 大賊 を言向 和平 さしめ給 ひき。
第 三章 正紀 碑 皇 一四三
碑 皇 紀 一四四
碑皇天下を知食しめすこと三十五根。毒百二十 一根 おましまして高千穂に於
て碑避りましぬ。梅田野筑部山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。碑
后撮政二十二根。毒百三十四根 お ましまして 梅田宮に於 て碑避りましぬ。碑皇
と同所の陵に葬る。宇家測不二合昆女奪と 諡し奉る。産殿は大分の黒野小濱に
造営して小濱宮と稲しぬ。皇子三碑 皇女七碑まします。皇太子手身武王奪立ち
給ふ。之を第二十九代の碑皇となす。(㎞f
第二十九代 手身 武王奪
碑皇第二十九代 親芽葺不合奪は幼名を手身男といひ 講を手身武王奪といふ。
前碑皇第三の皇子 にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿に於て職募書 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原の惣司令碑天山男命は、
三品の大御質を奪の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑津地山男命の御子にまし
まし き。
明知標里女命(㎞)を立て、碑后とす。津加雄男命の御女にまします。韓
を多摩夜里 里 女奪 と授け 賜ふ。
__—
太宗 命 を 左 大神 “太 祖% 命 を カ大韓 た す。 太 康明命 に 前左 大亨。
の 第 1 の 御子 に ましょ し て 太极 參 命は前方 大神中 其 武 界 金 の 第 1 の 御子 に もし
まし さ。
即位 + 1 和平 國 に 大城 是 少佐。 カ ち 事 會 離 命 に 動 し て、N を 征 を しめ 始 かさº
神圣 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 張。義者十七 根 お ましょ し て 高 千種 常に 於 て 神
通り まし 込。 白井野大浪 の 日 向山 に 排 る。 李家 制 不 二 合氣象 と 論 し 本 º 羯庁
無 政 11 十 張。 義 自 四 十 張 お まし まして 大浪 の 日向 客 に 於 て 神 通り まし gº ॥
新特

入 同 所 の 後に 非 る。 李 家 馬 不 11 合用女神 と 論 し 來 る。 希 政 は 白井 野 大 將 の 仲 に
些單

し て 良子 玉 縣中 女 也 轉 まし ます。 皇 太子 山守 維 王孙 立ち 始 º N た 第三 十 代 の
ż

第三十代 E字排 上停
神 室第 三 十 代辦事非 不 合金 は 幼名 を 山 守男 と いか 書 を 山守 維 王佐 と g º ॥
神圣 彼 の 皇子 に まし ます。 高天原 に 上り 同 祖山 太 師匠 の 天 つ 大仰 神 の 御 神
に 於 て親 家莊 不 合弁 の 講師 位 式を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 中山 明 命 は 三品


第 三 章 桜 ㎢ ㎏ 五
神 和 阿大
り 大師資 を 尊 の 天然 に 掛け 本 る。 命 は 前 總 司令 制 天山 明命 の 御子 に まし ます。
秀 作品 安 會 た 立て 、神 后 と す。 時 利息 命 の 御 女 に まし ます。 武 を 多摩 洛 里 里
女神 と 疑 け 期 よ。
武王金を 左 大師 と海與 主命を布 大神 とた す。 武王 命は前东 大 神木 雕像
の 第 1 の 御子 に もし まして 海 权 主命 は 前方 大神大根 絶命 の 第 1 の 御子 に ましょ
しさ。
克 南 語 の関 ヶ 浦 タ に 海峰山峰海 號將 超 しむ。 即ち 金建武 命 に 認 し てク を 征
レら 約 , 金 は金山 尼古 命中 五 世 の 孫 に まし ます。 カ ち 行き て 悪く N を言 而
和平 し g 些 功 に 依り 南國 の 造 司原金 と なす。 是 に 於 て 加生 金山 里吉 命 の 飲ま
ります 南宮 大神 を 分ら 合 は せ ねる意 を 取り て、其 正 り ませる 地 を 同 部 野生 いぶ。
北 愛し 戻り ける 宮 たる に 由 少 其 党 を 愛國 大神 と 名 つけ 結ぶ。 命或者 五 十 張 にし
て 神 通り まし み。 伊賀山峰 に 非 る。
神聖 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 二 張。 蘇 省 三 十 11 根 お まし まして 高 于 神宮 に
於 神經 9،レ gº E の 岡 の 後に張る。 李家 馬 不 11合氣象 と 設 し 来る。 神宗
*百十七# おましまして同宮に於て碑 造りましぬ。碑皇と同所の段 に葬る。字
家『不二合里女奪と言 し奉る。産殿は大分野黒の小濱の宮にして皇子八碑 皇女
十肩 まします。皇太子佐奈田男奪立ち給ふ。之を第三十一代の碑皇となす。(
言 国 記、韓代記、五 十 一
大山 、系 史、碑 ㎞)
第三十一代 佐奈田男王奪
碑皇第三十 一代競 芽葺不合奪は幼名を佐奈男といひ 講を佐奈田男王奪といふ
削碑皇第 一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御神の御碑

殿 に於 て競 芽葺不合奪の諱即位式を行はせ給 ふ。高天原惣司令碑山守 別命は三


品 の 大御 資を 奪 の 天窓 に捧け奉る。命は前惣司令碑中山男命 の 御子 に ましましき。

伊毛里女命を立て 、碑后とす。碑仁大彦王命の御女にまします。諱を多摩夜

里里女奪 と 授け 賜 ふ。
高身太命を左大碑と岩城主命を右 大碑となす。高身太合 は前左大碑武勇王命
の第 一 の 御子にましまして岩城主命は前右 大碑海 根主命の第 一 の御子にましま
しき。
第三章 正紀 碑 皇 一日七
碑 皇 紀 四八
即位十五根四方諸 の州園大に不作にして餓争相龍み上下相苦しみぬ。明根 ㎞
年 ) 赤不作なりぬれは則ち諸 の大国守護司小園守司に勅して救荒策を設けて農
民碑を賑はさしめ諸、の八百萬の碑 々 を総 祀ましまさしむ。且っ原野には笹種を
水澤には碑を時かしめ以て共餓争を免からしめ給ふ。面して神皇街所愛㎞ の
州園を巡祀ましまして百般の種子を時かしめまししに共根 ㎞)赤五穀登らす。
足を以て廣く山野より碑及 ひ笹の質並に草木の質を採取せしめ 以て共飢餓を救
は せ給 ひき。

碑皇天下を知食しめすこと五十根。毒百七十三根 おましまして高千穂の宮 に

於て碑避りましぬ。大深谷野篤志山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。

碑后 毒百四十五根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬

る。宇家潤不二合 昆女奪と諡し奉る。産殿は、大濱野小 砂原に造営して清原宮 と


稲しぬ。皇子十一碑皇女六碑ましきす。皇太子弾楽作王奪立ち給ふ。之を第三
十二代の碑皇となす。(㎞「 )
第三十二代 鋼 基作 彦王奪
巻 之 の皇 耐 編 一

しき
しま
-

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葬し

















殿








て る

濱 お
















まして








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河原
















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瀬 授け






賜 三子
*





















に 品



守 不天原男令位合 の






殿
即御


高奪







司式
山惣


碑 皇御神





高ま

ます

大に








天原



天めす

し碑













こと


高千穂
まして

し 庶り業



にし
静粛
海内
以来
な即位


)







に 津し子城瀬 。

岩まして





御命



ま主命


まし 津す瀬
な古














泰 立摩
宮里
清瀧






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ます
夜 て

し 不い























譲 合



正紀







プし
碑 皇 紀 一五 ○
子十碑皇女七碑まします。 皇太子田仲雄男王奪 立ち給ふ。之を第三十三代の 碑
皇となす。(㎞「 )
第三十三代 田仲雄 男 王奪
碑皇第三十三代 頼芽葺不合奪は幼名を田仲男といひ 講を田仲雄男王奪といふ。
前碑皇第 一 の皇子にまします。高天原 に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑
殿に於て職非書不合奪の識 即位式を行はせ給ふ。高天原抱司令碑多仁山明命は
三品 の 大御賞を奪 の 天窓に捧け奉る。命は前 惣司令 碑出 比 山男 命 の 御子 にまし

まし き。

炊照昆女命を立て、碑后とす。高根魂開命の御女にまします。諱を多摩夜里

昆 女奪 と 授け 賜 ふ。

泰玉 親命を左大碑と太顔赤命を右 大碑となす。泰玉親命は前左大碑泰岳作命の
第一 の 御子にましまして太顔赤命は前右 大碑古 津瀬 命の第二の御子 にましましき。
碑皇武長刀昆古命に語して尾羽張國入濱の出張島の津島に宮殿を造営して祀
佐男命の御霊を祀り津島午頭天王碑赴と稲せしめ 共廣前に於て、東南の諸"の州國
の法政 に背ける罪悪碑を集め、説教説論を貸さしめ給 ふ。之を日本惣天 g といひ
碑赴を日本惣赴といふ。是ょり先大日留霊奪の御宇 組佐男命に認して出雲園出
雲谷の里大洞穴の天 獄に四方諸、の罪悪碑を集め 之を監督して説教説論をなさし
め㎞に復るものは免除し復らさるものは千日目毎に共末三十日間に四方の天
紳 園 っ碑の出雲の大赴に集りませるを俊ち て共 虜 分を評決ましまさしむるこ
とに定め給 ひ 術来 刑 佐男命より子孫三十八代承継して出雲祀海男命に至りにき
然るに今ゃ命の長子祀出國男命をして父祀の職務を承継せしめ、次子武長刀里古
命をして足初張國なる日本惣天獄の官長となし東南の諸 の州園を分携 して共罪
紳に説教説論をなさしめ給 ひき。足より出雲の大赴を陰大赴といひ津島の日本
惣祀を陽物 耐 と稲しぬ。面して比陽惣赴に於て説教説論をなすも善碑に復らき
る 碑は毎 未の三十日前官長之を率みて出雲に出向ましまし十五日日に
陰大赴に着しまして四方より集りませる天つ碑 園つ碑の評決に附して虜断まし
* さしむ。又津島の 陽惣赴の官長は武長刀 昆古命子孫之を承継ましますことに
定め 給 ひき。
第三章 正紀 碑 皇
一五一
碑 皇 紀 一五二
即位三十 六根 の 時、股國村辛王、周の 武王の 貸め に亡 され給 ふ。約 辛 王の第三の
御子に封馬王なるものまします。臣武丁に守護せられ 逃れて築市島の西北なる
はす 吊
附 島 に漂着 まし まし き。足より先、武丁 の 一族 に農 強 紳 なる も

山T
して 附島 に止りぬ。今や武丁は封馬 王を 守護し、落ち て農強 碑の後を追 ひ て之 に
頼りましき。後 共王に添 へ 来りませる般園 の暦書を碑皇に奉りぬ。乃ち 紳皇は
共島を津久島と改め 後封 馬 王を以て共島 の 初世太 記頭となし 給 ひき。是 に於て、

碑皇は股園の暦書によりて甲乙内丁成己康 辛千 発 の十干。子五 賞卵辰己年未中


西成玄の十二支。並に木火土金水の五行を採り之を上に配して巡行きしめます

ことを定め給 ふ。又、日夜 を十二時間 に分ち、子 を夜中とし、五宣 卵 辰巳 を経て、年を


日 中 とし、未 中西 成玄 の 十一一時 と 定め 給 ひき。


又、國中の 役碑を定め 給 ふ。即ち 碑都 に大臣 一碑 中臣四碑 大使 一碑、中使十二碑


**
oi} 、た 注、 せ からし
大将 一碑、中将四碑 を 置く。又、諸 大國 に、初 世 太 記 頭各 一碑を置き、諸 匿國 に各 令 一
碑 を、一郷 に郷長 一碑、一村 に 戸長 一碑を置きましき。
即位三十六根二百十六日の時月を目途に月を定め給ふ。即ち月の照り初めょ
《月 の 路 」 終り まで を、 1 月 と 定め、月 に も 十 于十 11 支“五行 を 配 ,しめ、十 月 を 重ね
そ 1 枚 と 改め、日 っ 桜 を 1 年 と 改め 始 かさ。
神圣 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 三 年。 義 自 三 十 八 年 ぶ ましょ し て 高 千種 の 宮
に於 て 神 通り ょ し gº E 荡 商 本山 の 陸 に非る。 李 家 馬 不 11合氣象 と 設 し 本る。
神戶 時 正 二 十 九 年 か まし まして 同 党 に於 て神通り まし み。 制 空 人 同 所 の 陸 に 非
8 % 前 不 二 公里 安 等 と 設 し本 る。 希 政 は 大 分野 県 の 小 松宮 にし て中 子玉縣
立 女人 神 た し ます。 皇 太子 兵作 推 土 金 文 ら 結ぶ。 之 を 第 三 十 四 代 の 制 空 をす。
r 作
神 榜 三 十 四 代就 非常 不 合金 は 幼名 を 見 他 修 と いひ 路 を 他 離 王命 さい ぶ。
前 神圣 彼 の 中 子 に よし ます。 高天原 に 上り 前 加山 大 神宮 の 天 っ 大御神 の 御 神
彼 1万
碑 皇 記 一五四
仲津里女を立て \、碑后 と す。御草男命の御女にまします。諱を多摩 夜里女奪
と 授け 賜 ふ。
政 方彦命を左大碑と 太長身命を右大碑 となす。政 方 彦碑は前左大碑泰 玉 親碑
の 第 一 の 御子 にましまして太長身命は前右 大紳太顔赤 命 の 第 一 の 御子 に ましま
しき。
即位の初より在位中四方諸 の州園豊に治まりにき。
碑 皇 天下を 知食 しめす こと 四十五年。毒 百三 十八 年 お ましまして、高千穂 の 宮
に於 て 碑避 り まし ぬ。大分野 御 資山峰 の 陵に 葬る。宇 家 測 不二 合須 奪 と 諡 し奉
る。碑 后、毒 百二 十七年 お まし まして同 宮 に於 て碑 避りまし ぬ。碑 皇 と同 所 の 陵
に葬る。宇 家 潤不二 合 昆女 奪 と 諡 し奉る。産 殿は、臼杵 野大濱 の 宮 にし て皇子十
碑 皇女 三 碑 まし ます。皇太子田 高彦王奪 立ち 給 ふ。之を第三十五 代の 碑 皇 と な
す。(㎞f )
第三十五代田 高彦王奪
碑皇第三十五代 頼 茅葺不合奪は幼名を田高彦といひ 講を田高彦王奪といふ。













まして











ぬ 野
し 通し






まし













姿



* り


る 。
ひき 。
しき 玉し

まして















ま 屋

子 授け






賜 。
き - 天し






















まし窓 男



子 不天原山令位合 の






即殿


高奪






司式
長惣



命 皇御神




高ま

ます

大に









天原



天めすし下

し碑


まを








こと



高千穂
まして 南





即位 政命政す屋彦
な玉太





大策
彦。







彦命 留摩し男て美
立太
良昆





ま、




多命



ます
夜里










蹴平幸れ

行大





和ぬ




まして
まし


碑 皇 紀 一五六
碑皇と同所の陵に葬る。宇家測 不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は目杵野大濱の
宮にして皇子七碑皇女三碑まします。皇太子川上男王奪立ち給ふ。之を第三十
六代の碑皇となす。(㎞)
第三十六代 川上男王奪
碑皇第三十六代親芽葺不合奪は幼名を川上男といひ講を川上男王奪といふ。
前碑皇第二の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿 に於て競 茨書 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑手足長男命は、

三品の大御資を奪の天窓に挑け奉る。命は前惣司令碑長山明命の御子にましま

しき。

和仁 里女命を立て 、碑后 とす。奈仁穂命の御女にまします。諱を多摩夜里里


女奪 と授け 賜ふ。
政瀬王命を左大碑と大國田命を右大碑となす。政瀬王命は前左大碑太政彦命
の第 一 の御子にまして大國田命は前右大碑玉屋策命の第一 の御命にましましき
即位 七年西大陸の舟師数百般大撃して来り攻む。三年三月にして潮く之を撃
携 しにき。同十三年東園大に鶴 う。上下墓ラ 触争相落む。 皇親ら南北の州園
に 臨幸 まし まして諸”の穀物 を徴発 し て以 て東 國 を 賑は し 給 ひき。
碑 皇 天下を 知 食 しめすこと二 十五 年。毒 百 四十六 年 お ましまして、高千穂 の 宮に
於 て碑 避 り まし ぬ。阿蘇 原山 の 陵 に葬る。宇 家潤 不二 合須 奪 と 諡 し奉る。碑后、
撮 政三年。毒 百四十八年 お ましまして阿蘇宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑 皇と同所
の 陵 に葬る。宇 家 潤 不二 合里 女 奪 と 諡 し 奉る。産 殿 は、大分野 黒 の 小演 の 宮 にし
て、皇子八 碑 皇女 十 一碑 まします。皇太子千利武王奪立ち給 ふ。之 を第三十七代

の碑皇となす。(㎞) 日 、\
司 プ

第三十七代 千利 武王 奪

碑皇第三十七代、鵜 芽 葺不合奪は幼名を千利男と いひ 講 を千利武王奪 といふ。


前碑皇第 一 の皇子にまします。高天原 に上り 阿祀山 太碑宮の天っ大御碑の御碑


に於て職非書不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑手長男命は三品
の 大御質を奪 の 天窓 に 捧け奉る。命は前惣司令碑手足長男命 の御子に ましましき。
眞佐昆女命( ㎞)を立て、碑后とす。津長男命の御女にまします。諱を多摩
第 三 章 正 紀 碑 皇 一五七
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碑 皇紀 一五八
夜里里 女 奪 と授け 賜 ふ。
大道別命を左大碑と玉興主命を右大碑となす。大道別命は前左大碑政瀬王命
の第 一 の御子 にましまして、玉興主命は前右 大碑大國田命の第二の御子にましま
しき。
即位十二年ょり 皇は 盾と共に四方諸 の州園を選挙ましまして三年八月に
し て 高千穂 の 宮 に還幸 まし ましき。
碑皇天下を知食しめすこと二十五年。毒百十七年お ましまして高千穂の宮に

於て碑避りましぬ。大分野御質山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。

碑 后 撮 政四年。毒百二十年 おましまして御質山の宮に於て碑避りましぬ。碑皇

と同所の陵 に葬る。宇家潤不二合 昆女奪と諡し奉る。産殿は臼杵野大濱の宮に


して皇子八碑 皇女七碑まします。皇太弟玉禰彦王奪立ち給ふ。之を第三十八代
の碑皇となす。(㎞f )
第三十八代 玉 禰彦王奪
皇第三十八代神*書不合奪は幼名を玉根彦といひ譲を玉顧彦王奪といふ。
割神皇の同母弟にましまして第三十六代神皇の第二の皇子にまします。高天原
に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑殿に於て韓 茨書 不合奪の諱即位式を行
は せ 給 ふ。高天原 惣司令碑被 長富登男命は三品の 大御質を奪 の 天窓 に捧け奉る。
命は 前惣司令碑 手長男 命の 御子 にましまし き。
和加竹里女命を立て、碑后とす。多奈照彦命の御女にまします。講を多摩夜
里 里 女 奪 と 授け 賜 ふ。
大海原命を左大碑と根元守命を右 大碑となす。大海原命は前左大碑大道別命の

第二の御子にましまして根元守命は前右大碑玉興主命の第一 の御子にましましき。

碑 皇 人 と 貸り 至仁 至孝 毎年親 ら碑 田 を 耕転 まし まして新米 を以て、紳祀碑 宗 の


-

天 つ 大御碑 を 祀ら せ 給 ひき。

碑 皇 天下を 知食 しめす こと 八 年。毒 百 四十七年 お ましまして 高千穂 の 宮 に於て


碑 避り まし ぬ。千草野御 賞山 の 陵 に 葬る。宇 家 潤不二 合須 奪 と諡 し 奉る。碑后、
毒 百 四十三 年 お ましまして同 宮 に於 て 碑 避 りまし ぬ。碑 皇 と同 所 の 陵 に 葬る。
宇家測不二合里女奪と諡し奉る。産殿は目杵野大濱の宮にして皇子七碑皇女八
第 三章 正紀 碑 一五九
一六C
します。皇太子津加田彦王奪立ち給ふ。之を第三十九代の碑皇となす。(


第三十九代 津 加 田彦 王奪
碑皇第三十九 代、鵜 芽葺不合 奪 は幼名 を 津田 加 彦 と いひ、諱 を津 加田彦王奪 とい
ふ。前碑 皇第二 の 皇子 に まし ます。初め、皇太子多仁彦 王奪 講 即位式 の 貸 め 高天
原 に上 らむ とまし まして、途中暴 かに碑避り まし ぬ。是 に於 て、共弟 津 加田彦王奪、
代り て 皇太子 となり 復た 高天原 に上り阿 祀 山 太 碑 宮 の 天 つ 大御碑 の 御碑 殿 に 於

て 鵜 茅葺 不合奪 の諱即位 式を行は せ給 ふ。高天原 惣 司令碑見旨具彦命は、三品の大


御 資を奪 の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑被良富登男命の御子 にましましき。


眞江里 女 命 を立て 、碑 后 と す。金田 彦命 の 御女 にまします。諱 を多摩 夜里 里


女奪 と 授け 賜 ふ。
國太玉 命を左 大碑と國根 主命を右大碑となす。國太玉 命は前左大碑大海原命
の第 一 の御子 にましまして國 根主命は 前右大碑根元 守命の第 一 の御子 にましま
しき。
巻 之 皇 奪祀神








授け





賜 天し
























まし 不合 阿
窓 奪



子 葺





の 皇天原りし子


高ま皇

上ます

殿









祀 太す





















(
。 子
ち 奉し女子濱野る 。






分合



殿

小。

に黒

皇て
ま五


ま 分るし宮野


山し

ま御



葬於













宇 奉しる










ま葬る













ま 御野


























御 座


立摩し佐て

阿奈津




ま、






多加



ます
夜里 不いふひ尻名合








幼碑
い川は

と男








。 天御神
し皇


高を







こと


大碑



めす
天原




正紀




碑 ㎞)●

即天原品男令位
高諱






司式
長惣

三碑



|
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"
神 * 初 一大二
大 日 租金 を 左 大神 と'國 字 式 命 を 右 大神 と た す。 大 日 租金 は 前 左 大神 國 太 王命
の 第 1 の 御子 に ま,し まして 周 文武 命 は 前方 大神 國 飛 主命 の 第 1 の 御子 に まし も
す。
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 三 十 三 年。 義 自 四 十 七 年 お まし まして 高 千種 常に
於 て 神 通り まし み。 < 重要 對 海地 對 阿 の 陸 に 非 る。 字 本 制 不 二 合 得 金 と 論 し 來
る。 神 后裔 百 四 十 三 年 お まし まして 同 党 に 於 て神 通り まし み。 神 室 と 同 所 の 破
に 葬る。 李 家 馬 不 11合 配 女神 と 論 し 本 る。 海 教 は 八 重 返 新約 他 部 に 造営 し て 知
和神

池 の 宮 と 称し み。 皇子 入神 室 女 也 顯 よし ます。 皇 太子 職 利 長男 王孙 立ち 続 º
些德

之を第 四+ 1 代 の神 室 とた す。 (韓 戰機關 戰號 線 體, )
ż

第四十 一 代 羯 利曼 男 王 德

神 星第 四 十 1 代 辦事 高 不 合算 は 幼名 を 根 利明 と いび 戦 を 勝利 曼 丹 王 金 といふº
前神聖彼 の 中 子 に*し ます。 高天魔 師 和山本 神宮 の 天 つ 大御神 の 御 神殿 に於
て 勤労者 不 介質 の 韓部位 式 を 行 は せ 始 。 高天原 物 可 令 制 日 晚 明 命 は、三品 の 大
御 資 を 飲 の 天然 に 掛け 本 る。 金 は 前 政 司令 制 足 長男 命 の 御子 に まし まし さ。
卷 ż 皇 神 第 東**し事て北
立湖

人文





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生 根左金神根す治

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神 和 大四
第四十 二代 H 長老 王 傳
神島 第 四 十 二 代號 非営 不 合算 は 幼名 を 正 反応 と いび 戦 を 王景秀 主祭 と いぶ。
前神學 第 一 の 皇子 に まし ます。高天原 に上り 前 加 北 太 神宮 の 天 つ大御神 の 御 神殿
に於 で 輸 業 高 不合 等 の 論 部位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 大班 牙 命 は 三品
の 大師資を 尊 の 天然 に挙げ本 。 命 は 前 政 司令 制 日 晚 明 命 の御子 に まし ましき。
不 加里 女 命 を 立て 、神 后 と す。 宗神明命 の 御女 に まし ます。 韓 を 多摩 洛 里 里
女 等 と 接 け 期 よ。 -
-
國 鐵 離 命 を 左 大神 と 再 作 與 金 を右大神 と なす。 國 鐵 離 命 は前在 大神 大 山根 命
の 第 1 の 御子 に まし まして有 作用 命 は前方 大神 大 根治 命 の 後 の 御子 に ましょ
しさ。
部位 十 七 年本島 1 ㎞ 大 不作 にし て、張 松城 路 起 し て 大 に 農民 議 を 苦しむ。 及 多
神 室 四方 を 巡 車 ましょ し て 語”の州 國 の 初 世 太 祖師 區 國企 に 動 し て 討ち て N た 言
向 和 不 vしめ にさ。
神官至 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 五 年。
* + * * * ,しょ し て 高 千鶴 …
て 神 通り まし む。 日 向島 見山 の 陸 に乗る。 李 家 馬 不 11合资 金 とし %, ㎏
百 三 十 四 年 お まし まして 同名 に 於 て 神道 04 , gº ㎜ J 同 所 の 陸 に 非 るº 小
家 馬 不11 合 配女 等 と 論 し 本 る。 希 政 は 大 分野 県 の 小松宮 にし て、皇子 入神 室 女 大
柳 * し ます。 皇太子 波 家長 王金文 ら 結ぶ。 之を 第 四 十 三 代 の 神室 とた す。 (觀點
戰艦體 對 球 )
第 四 十 三代 族 女巫 王 曾
和神

劇 中 第 四 十 三 代將李群 不 合金 は 幼名 を 返 家 長男 とい ひねを 送 來 長 王佐 とgº


些單

前 神 星第 三 の 皇子 に まし ます。 初め 同 母 兄 皇 太子 张 其 明王 命 體 部位 式 の 傍ら 高
ż

天 原 に 上り も として 進 中 大海 に 於 て 沈没 し て 神 通り まし gº 2 充て 彼 の立

子 波 家長 王金代~ て自 太子 と たり高天原 に 上り 同 祖山 太 神宮 の 天 つ 大神 神 の 師


神殿 に於 て親 李 群 不合 称 の 講師 位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 小 に 明 命 は、
1 品 の 大 御家 を 彼 の 天然 に 掛け 本 る。 命 は前 總 司令 制 大 師兄 金 の 御子 に よし も
しき。



第 三 章 桜 1 大五

韓 桜 1 大六
波字 些 民 女 命 を 立て 農 后 と す。 法語 國 明 命 の 御 女 に まし ます。 建 を 多摩
夜里 里 女 等 と 怒り 開 よ。
大王 思部 命 を 左 大神 と 思 府 縣 命 を 右 大神 と なす。 大王 忠 部 命 は 前 左 大神 明細
雄介 の 第 1 の 御子 に まし まして、川 府 網 命 は 前方 大神 界 作用 金 の 第 1 の 御子 に ま
しま しさ。
部位 十 年 より、神 星 码 方 諸“の州 國 に 逃 事 を し ます と と セ 年還 者 の 翌日 高 千種 の
~~~~~~~~~~~

降 に 登 車 まし まして 高天原 の 神聖 神宗 代々 の 天 つ 大御神 に 向 つて 勝 記 まし まし


給水。 終り て 後四方 に 向 つて 神殿 まし まし き。

朝 皇 天下 を 知 食 しめす と と 十 八 年。 義 自 三 十 八 年 お まし まして 高 千種 常に 於

て書か し « = = = & に乗る。 李俊輔不合衆 とし* *


后裔 百 三 十 一 年 お まし まして、大 分野 狗 資 山 の 宮 に 於 て 神 通り まし む。 神 室 と 同
所 の 陸 に 非 る。 本家 制 不 二 合 配 女神 と 論 し 本 る。 這 段 は 大 分野 県 の 小浪 の 宮 に
し て 自重 子 三 神 室 女 也 轉 * し ます。 皇太原 日產 王偉文 ら 結ぶ。 之 を 第 四 十 四 代
の 豊臣 と たす。(戰 戰線 編製鐵線 戰雙 )
第 四十 四 代 照 日彦王奪
神皇第四十 四代 競 芽葺 不合 奪 は幼名 を 照 日彦 と いひ講 を照 日 彦 王 奪 と 稲 し、前
碑皇第 一 の皇子にまします。高天原 に上り阿祀山太碑宮 の 天 つ 大御神の 御 碑
に於て鶴芽葺不合奪の諱 即位式を行はせ給ふ。高天原 惣司令碑加多目 男命は三
品の 大御質を奪の 天窓に捧け奉る。命は 前惣司令碑小仁男命の 御子 に まし まし
き。
津波 気昆女命を立て 、碑后 と す。顧越男命の 御女 にまします。諱を 多摩 夜里

女奪 と 授け 賜 ふ。
*

高津奇多命を左大碑と 守山主命を右大碑となす。高津奇多命は前左大神大玉

忌部命の第一の御子にましまして守山主命は前右大碑思宿禰命の第一の御子に

まし まし き。
即位七年四方諸 の州園の初世太記頭匿園令に勅して道路の開設をなさしめ給
ひき。

西|
同十二 年 より、碑皇 東西南北の 園 に巡幸ましますこと 五年。後又 西大陸の大
第三章 正 紀 碑 皇 一六七
碑 皇 紀 一六八
軍攻め 来 り ぬ。十二 年を 経て、之を撃懐 まし まし き。
碑皇 天下を 知食しめすこと四 十五 年。毒百三十八年 お ましまして高千穂 の 宮
に於 て碑避 りましぬ。木原野江尻山 の陵 に葬る。宇家 潤不二 合須奪と諡 し奉る。
碑 后 撮 政 五年。毒百四十 一年 お ましまして、木原野江尻宮 に於 て 碑避 りまし ぬ。
碑皇と同 所の 陵 に葬る。宇 家測 不二 合 昆女奪 と 諡 し奉る。産殿は、臼杵 野大濱 に
再造営して自砂宮と稲しぬ。皇子七碑皇女八碑まします。皇太子津気男王奪立
ち給ふ。之を第四十五代の碑皇となす。(㎞)

第四十五代 津気男 王 奪

碑皇第四十五代、鴨芽葺不合奪は幼名を津気男といひ 講を津気男王奪 といふ。


前碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ大御神の御神

殿 に於 て、鴨芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑小被奈男命は
三品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑加多目男命の御子にまし
まし き。
津 羅 里 女 命を 立て 、碑 后 と す。船 子男命 の 御女 にまします。諱 を 多摩 夜里 里
女奪と授け賜ふ。
と、立剣 太 命を右 大紳 となす。 雲季 基命は前奏奏碑 ㎞務多
長年主命を左*
命の第一 の御子にましまして立剣太命は前右大碑守山主命の第一 の御子にまし -
まし き。
即位 七年より神皇四方諸。の州園 に巡幸ましまして農民碑の田畑の耕地を巡問
ましますと十三年。乃ち、諸、の萬の 作物を上中下に定め給 ひ各等級に従ひて裏賞
を 賜 ひに き。

碑皇天下を知食めすこと四十年。毒百十六年 お ましまして高千穂の宮に於 て

紳避りまし ぬ。豊津碑原の岡の陵に葬る。宇家潤不二須奪と諡し奉る。碑后 毒

百十年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。宇家測

代開 耐


不二 合 里女奪と諡し奉る。産殿は大分野黒の小演宮にして皇子八碑皇女十碑

巴闘
します。皇太子種越彦王奪立ち給ふ。之を第四十六代の碑皇となす。(㎞
五 十 一代 記、 、
㎞)
第四十六代 種越彦王奪
第 三 章 正 紀 碑 皇 一六九
北千穂
巡り





高の

還まして






まし
幸國 まして

豪農

















碑 りま

民 窮幸

農民
多く
もの
する
餓死











なら
一方

を 乏
方 。
き 主命


















にし


まし子
し 授け





賜 。
しき
-- 天し












奉る










ま 窓碑


子 不天原






殿



高奪














日 合 阿

令 皇天原りし子



高ま前

上ます











東なりらて風南


暴即位

みの

と吹き








登諸




ず なす


















。 佐摩して里
ま立天











多、



ます
=
夜 不いふひ彦名合









幼碑
い武は
とと













に 其

高 よ
■"』1-"
千 # *** し まして、高天原 に向 ひ、神祇 神宗代々 の 天 っ大御神を 初め、四方
の八 百 萬 の 碑 々 に、百 殻 の 豊穂 を 蔵 祀 まし まし 給 ひき。
神皇天下を知食しめすこと四十年、 百十八年おましまして高千穂宮に於て
* 碑避りましぬ。豊野直人の松島山の陵に葬る。宇家測不二合須奪と諡し奉る。
碑后撮政七年。お百二十五年おましまして豊野直入の松島宮に於て神避りまし
編 ぬ、字家測不二合里女奪とし*る。産殿は大分野黒の小濱の宮にして皇子十
一碑 皇女三碑まします。皇太子㎞仲穂王奪立ち給ふ。之を第四十七代の碑皇と
* なす。(㎞f )
・ 第四十七代 禰仲穂 王奪
之 碑皇第四十七代 鶴茅葺不合奪は幼名を根 仲穂と いひ 講を顧仲穂王奪といふ。

* 碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太神宮の天っ大御神の御神殿 の
に 於て、鶏 *普不合 奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原 抱司令碑立山男命は三
品の大御質を奪 の 天窓 に捧け奉る。命は前 惣司令碑目大男命 の 御子 にましま
き。
第三章 正紀 碑 皇 一七二
-
韓 息 和 1 を1
美 海里 安 命を 立て 神后 と す。 其作 非 金 の 御女 にまし ます。 書を 多摩 洛 里 里
女 等 と 松竹 開 。
太王弥山金 をな 大神 と 見栄=命を布 大神 となす。 太 王 將山 金は前在 大綱
玉 主 王命 の 第 三 の 御子 に まし まして 見 星象 山川 金 は 前 在 大神 宗教 界 衛 の 第 一 の 御
子 に まし まし さ。
地位 元 年より神 は神 と共に 東西南北 の書 の州 に離棄 しますこと+1
年 八 月。 其 上り 南國 の 大城 を 言 向 和平 し ます と と セ 年 にし て、荒 に 還 未 * し まし

さ。 每 月 1 日・十 五 日・三 十 日 に 高 千種 に 登 車 まし まして 高天原 初め 四方 に 向 か'て


些過

藤 組 まし ます と と 各自 なり に さ。
Ż

神 星 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 七 年。 府 再 三 十 一 年 お まし まして、高 千種 常に

於 て 神 通り まし 於。 無法 醫師 立山 の 陸 に 非 る。 字 家 制 不 二 合 氣質 と 論 し 本 る。
制 后裔 西 二 十 六 年 お まし まして 同 党 に 於 神 通り まし む。 神 室 と 同 所 の 陸 に 葬
る。 李 家 制 不 11合 平 安徽 省 し 本 る。 張 政 は 大 分野 馬 の 小浪底 にし て 空子 人神
******* 大 佛法 加 修 王李 立ち 始 … 之 を 第 四 十 八 代 の 書 は た 。
(㎞ 第四十 八代 津加彦 王 奪
碑皇第四子へ袋 ㎞名を津加彦といひ譲を津加彦手務といふ 前
碑皇の 同 母 弟にましまして第四十六代碑皇の第七の皇子にまします。初め 前碑
皇の皇太子忠長彦王命は諱即位式の貸め高天原に上りましまししに 青木原 に於
て暴 かに碑避りましぬ。是れ 碑祀碑宗代々 の天 つ大御碑を初め四方の天 つ碑 園
碑 八百萬の碑の威霊の然らしむる所となし、人心競 々、戦標以 て之を子孫に博へ、
諸。の天っ碑 園 っ碑に封し度潔斉敬以て 功徳 に報いまさむことを誓はしめ給 ふ。

是に於て皇弟津加彦王命を皇太弟とし三七二十 一日の間斎戒断食 して身心を清


浮にし赤高天原 に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑殿に於て鶴 芽昔不合奪


の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑夜佐男命は三品の大御質を奪の天窓
に捧け奉る。命は前惣司令碑 立山 男命 の御子にましましき。
興顧 昆女命を立て 、碑后 とす。太立男命の御女にまします。諱を多摩夜里里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
第三 章 正紀 碑 皇 一七三
碑 皇 紀 一七四
演歌主命を左大碑と長津玉垣命を右大碑となす、演次主命は前左大碑太玉繁
山命の第 一子の御子にましまして長津玉垣命は前右大碑見屋寒川命の第一 の御
子 にましまし き。
即位 十五年東國に内観起りぬ。乃ち碑皇は碑后と共に共地に巡幸ましまして
鎮めさせ給 ふ。南海道を廻り三年三月にして還幸ましましき。爾後雌 高千穂の
峰 に登幸ましまして高天原の碑祀碑宗代々の天つ大御碑を蔵祀して耳 濃ましま
す こと二 十 一年 なり し とそ。
碑皇天下を知食しめすこと四十五年。毒百五十八年おましまして高千穂の宮
に於て碑避りましぬ。八重雲野鷹林山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉
る。碑后 書 百四十六年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵
に葬る。字家測不二合里女奪と諡し奉る。産殿は大分野 黒の小濱宮にして皇子
十二神皇女八碑まします。皇太子最 加解王奪立ち給ふ。之を碑皇第四十九代の
碑皇となす。(㎞t )
第四十九代 眞加弾 王奪
『-シ 『-』
と いひ、諱 を 旨パ 加 弾 千r と いふ。
神皇第四十九代*** *****んをま***
*



***。チェ**ォ によりシ%の っシ
Bに於て撃管石倉修の修ロに定を行はセ給ふ。高原寝司令神加誰山男命は
三品 の大 御質を奪 の 天窓 に 捧 け 奉る。命は前惣司令 碑 夜 佐男命 の 御子 に ましま
一 す。
立摩
ます
夜里

















白太仁

多 て


授け









な質














主す命

まして

















まし 玉垣



長*子







まし
巻 年
七)

(





起南






乃等


本蜘蛛ちり島
土即位
蹴 。

比 まして





















本き



ひ 州


を起 し し 賊 の 惣 大将 は 長武彦 にし て、副将 は阿 和 田彦 長門 彦・山中 彦・伊 眞男・
(㎞)久草原男 北濱彦日多尾彦越足彦頭長男足長男角田彦高津 漫男土佐防男楽
第三章 正紀 紳 皇 一七五
碑 自 紀 一七六
長男(㎞)鳥羽身彦永久羅男身長彦 の十七将なりき。
同十九年、本州南島 地大に震ふ。即ち山岳崩れ地裂け て諸碑多く碑避りましぬ。
乃ち四方の諸 國の初世太記頭 区園令に勅し て、高天原 の碑祀碑宗天 つ大御碑初め
諸”の碑 々 を 濃 り祀らしめ 給 ふ。面し て碑皇 親しく高千穂 の峰に日々 登幸 ましま
し て、高天原 に 向 ひ 念 り なく轄 祀 まし まし給 ひき。
碑皇 天下を知食 しめすこと三十三年。毒百 三十 一年 お ましまして高千穂の宮
に於 て 碑 避りまし ぬ。梅原野宮所 の穂積山 の 陵 に葬る。宇 家潤不合須 奪 と 諡し

奉る。碑后、毒百 二 十二年 お ましまして同宮 に於 て 碑避 りまし ぬ。碑皇と同所の


陵 に葬る。宇家測 不二 合 昆女奪 と 諡し奉る。産殿は、白 杵野大濱の宮を再造営し


て産宮 となしましき。皇子十碑皇女八碑まします。皇太子岩仲彦王奪 立ち給ふ。


之を第五十代の碑皇となす。(㎞f )
第五十代 岩仲彦王奪
碑皇第五十代 鶴芽葺不合奪は幼名を岩仲彦 といひ講を岩仲彦王奪といふ。前
紳皇第一 の皇子にまします。高天原に上り 阿祀山太紳宮の天つ大御碑の御碑殿
高 千人 原 物a 司令 神山 成田刀 命 は、v 日叫 の
に於てシと
命は前惣司令碑加羅山男 命 の 御子 に まし ましきっ
㎞を奪のシ。
大空
豊尾尾安命をNU 庫信と 旧男年の御姿まします。議を多摩夜長尾 女
奪 と 授け 賜 ふ。
雲根 手長 王命を 左大碑 と 見 屋磯部命を右 大碑 と なす。雲根手長 王命は、前左大
碑 大 土國 崎 命 の第三 の 御子 に ましまして見 屋磯部命は 前 右大碑質毒 来 主命の 第
一 の 御子 にまし まし き。

即位 十二年四方の 諸、の州國 六 七年打 績き 不作にて発荒なりしかは諸、の碑 々 多


く飢えて碑避りましぬ。乃ち碑皇大園初 世太記頭 小園令 部長 戸長に勅して大農


碑 より諸”の 穀物 を徴発 し て貧農碑 に賑は さしめ給 ひき。


一日碑皇以 貸らく、既往の 事填を見るに、六十年毎 又は 六十五年毎 に大飢僅 循環


し 来 にし ものの 如 し と。則ち、爾後 赴 機 の 安寧、天下 の 泰平 をそ期 させ まさ むとし
給ひける。乃ち切枝間山に伊 非諾中二柱碑の碑霊を祀り 又盤に高皇産霊碑 神皇
産 霊碑 を 祀ら せ給 ひ、比山 を 高天原 の 宇津峰 に準う て宇津峰 赤 の 名 を 高天原 宇津
第三章 正紀 碑 皇 一七七
碑 皇 紀 一七八
峰赤の名を高座山と名っけ給ふ。又天照大御碑以下十三碑皇(㎞
見 奪、日子 波 激 鶴 芽 葺 不合 奪・千 穂高 王 奪・阿蘇 豊 王 奪・不 二 田彦 王
㎞)の碑霊を祀らせ給ふ。
共祀らせませる山を高天原の阿祀谷より遷し祀りませるに由り阿蘇山と名っけ
給 ひき。又 諸、の作物の豊穂 ならむことを轄りまさむ として更に、作田 里 古 命初め、
御子鳴澤男命以下子孫二十九碑(㎞
㎞)
の碑霊を祀らせ給ふ。共祀らせませる山を豊自山 と名つけ給 ふ。旦タ碑皇解怠

なく碑 殿 に於 て親 ら藤 祀 ましまし き。

碑皇天下を知食しめすこと五十年。毒百四十二 年 お ましまして、高千穂宮 に於

て碑避りましぬ。直入野吾平山の陵に葬る。字家測 不二合須奪と諡し奉る。碑

后毒八十八年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。
宇家潤不二合 昆女奪と諡 し奉る。産殿は、大分野 黒の 小演宮 にし て皇子十碑 皇女
八碑まします。皇太子弾基都男王奪立ち給ふ。之を第五十一代の碑皇となす (㎞
開 闘記、碑 代 記、五 十 一代」記、
㎞)
第 五 十 一代 禰 県 都 田力 王 彼号
**ェキシ都リといシ
ふ。前碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ夫碑御の

御 碑 殿 に於 て、親 芽葺 不合奪 の 諱即位 式 を行は せ給 ふ。高天原 惣司令 碑 阿 津山 男


命は三品の 大御質を奪 の 天窓 に捧け奉る。命は前惣司令碑山茂男命 の 御子 にま
し ます。
照玉 昆女 命を立て 、碑后 と す。海部雄 命 の御 女 にまします。諱を多摩 夜里里

女 奪 と 授け 給 ふ。

穂明 魂命を左大碑と、道博主命を右大碑 となす。穂明 魂命は前左 大 碑雲根手長


王命 の 第 一 の 御子 にましまして 講 を 水門 足命 と いひ 道博主命は前 右大 碑 見 屋 磯

部 命 の 第 一 の 御子 にまし まして、諱を 見玉田 土命 といふ。


き かしら
即位の元年大園十八州に初 世太記頭を中小園四十八園に園守令を小小園に郡
司令 を、大村 に 郷司令 を、小村 に長 庄 を 置き ぬ。
又、碑皇を元帥とし東西南北の國に副 帥を置く。二十五歳より四十五歳まての

年三章 正紀 碑 皇 一七九

皇 紀 一八○
男子中師替・診 破 共他の 不具 者及び病碑を除き、皆な軍碑 兵士 と定む。一萬碑 の頭
を大師 と定め、千碑 頭を 中師 と定め 百 碑頭 を 小 師 と定め、五 十碑 頭 を 五長 と定め 給
ひき。又、諸、の穀物 を初め、草木 の 質 鳥獣魚類等 にし て、各所有 高 の 十分の 一を軍資
として之を牧めしめ以て不時に備へしめ給ひき
同 六年六 月二 十 日、全國 地大 に震 ひ、山岳崩潰し、或は 地裂け て、黒泥 噴出 しぬ。又、
八 月初旬、烈 しき暴風吹き 荒み、稲作初め諸 作番 く白 穂 となり て 登ら す、翌年、霊森雨打
ち 績き、変 作皆 な黒穂 となりて 不作 なり き。是に於 て、天下騒然 として執 れも大 に

磯 る ぬ。則 ち碑皇は、全國 農民 碑 の 餓 学 を救 はむ と ましまして身を以て、天 つ 碑を


祭 ら せ給 ひ 更に数 多 の 皇族を従 へ、四方の 國中を 巡幸まし まして泰 強農碑 の 米栗


碑変 を徴発 し て貧農 碑 に救 施し給 ふ。且つ、貧農碑 に草木 の 質及 根、並 に木皮 を製


し て 食 に充 つる方法を 教 へ 以 て 比 難を 免 かれ しめ 給 ふ。三年三月十三 日 にして、
意 に高千穂宮 に還幸 まし まし き。
即位 三十六年六 月 顧 津 亘理命は碑皇第四十六 代 鶴 茅葺 不合奪 講種越彦王奪の
皇子、天之明 立農 勘 命 の 玄孫 兵佐勝彦命を奉して反し ぬ。顧津 亘理 命は祀津空 張
命二十 一世の子にまします。稿に日木園(シ)より多くの軍師を語ひ 木山の
初世太記頭長髄彦を惣 司令となし伊長彦 泉田男 磨佐彦國見男山背彦山 表彦 初鳥
彦経長彦鶴島男火高男 坂田男・伊奈彦 木曾谷男 長野彦身倉彦足早彦手長男 平山男
坂見彦石原男山勝男田島 男河宇知彦鹿谷男 稲 羽男 阿 知彦越知男 穂田男海漫彦吉
野彦加佐彦 三原彦尾久原男 竹田男 木登彦 草奈彦岩戸男・穴門彦 穴住彦原住彦山 住
彦 穴住男 原住男 道早彦田 作男 平田 彦 米田彦栗畑男 屋古彦 元山男 田川男 日向彦 加
仁彦波度彦瀬身男 多津男加目彦 津留彦 津知伊 毛佐男最 呂山男 身長彦を賊将とな

し ぬ。更に、本島四方 の諸。の州 國 の 強農碑 を語 ひ、中國を根擁地と定め、諸”の州 國 よ


り農強賊を騙り集め以 て碑皇を攻め亡し、全國を略取 せむことをそ企 てける。


一日、耐津 亘理命 皇胤旨共佐勝彦命を奉し て反 せりと告けませるものあり。撃朝


標 然碑皇乃ち六月十五日 高千穂の宮に皇族初め諸 大碑を集 へ て、元振碑等を言向


け まさむ事を議らしめ給 ふ。即ち、碑議 りに議 り給ふ こと二十 一日、遂に、遺 はして
む諸碑の部署、並に言向け まさむ方法を定め給 ひき。時に、集 へましましし紳 々は
皇子にては皇太子海津 彦五瀬王命、二皇子天津稲飯 王命、三皇子三毛野入野王命 四
第三 章 正 紀 碑 皇 一八一
碑 皇 紀 一八二
皇子日高佐野王命五皇子阿田美椎津彦王命 六皇子高倉 日本王命 七皇子軽身大久
保王命皇弟高見香具山王命 皇族にては高知雄命由右高彦命 倉足彦命 熊山彦命大河
彦命 東鎮彦命南鎮彦命西鎮彦命北鎮彦命中鎮彦命屋座男命國鎮男命 互太彦命宮
谷彦命大原産命太田彦命中臣道足男命等。諸大碑にては触部水門足命見玉田土
命 太玉瀬波主命速玉之緒命中臣道臣命太玉七峡谷命大臣表春概男玉命中臣政屋
多知玉命中臣天目賢知王明命物悪頭碑司太玉部命の諸碑にましましき。
即ち 本島の 大陸一帯は読れも賊地となりぬれは四方八方の水門より攻入りま

さむょり外 方法なかるべしと。則ち軍船二百六十般を造り各共定めませる部署

に 就 かしめ給 ふ。

惣頭碑司太玉部命中臣政屋多知玉命は築市島の諸。の匿國の諸令令に勅を博へ

全島を 守護せしめ まし き。
大臣表春機男玉命は副司永島男 興 原彦 右手彦 津身雄彦鹿根彦海足男事水男大
沖津彦手カ彦達立男顧島彦等の諸将を従へ 軍兵三千碑を率み軍船十二般に分乗
して海上ょり六 津の水門 に上陸ましまして常國の初世太記頭柿崎彦命の和羅加
の宮 に入り給ふ。乃ち、奥波 の 諸 匿國の諸 令令を初め 江 外 令外、小島 山島の 令令 に
勅 を博 へ 賊を言向け 和平さしむ。曾 するもの、江外 令手長男 命 奥波令浅水 命 北越
令奈 飛 命 佐渡島 命棚 雲命 に て あり き。
皇弟高見香具山王命は中臣道之足男命を初め盛雄彦田 房産 三笠彦 笠座彦久羅
田彦 住留 家 彦・伊 須 彦 阿部 彦 倉見彦等 の 諸将を従 へ 軍兵三 千五 百 碑を 率 み 軍船十
五般に分乗し て南海 上 より佐賀見の除 綾 の 水門に着 御ましまして常 國 の 初世 太
記 頭 足柄 彦命の 八 間 室 屋 の宮 に入ら せ 給 ふ。乃ち東大原 令 雀雄 命 高 主命 友 別命

草 別 命 を召して勅 を博 へ、農賊を言 向け 和平 さしめ 給 ふ。又、高見 香具 山 命は、中臣


道之足男命を従へて高天原に上り阿祀山太碑宮に於て諸 の宮守をして天っ大御

碑 に大賊を 言向 和平 さむ ことを祀願 ましまさしめ、尋 て東國 の 軍勢を 催し中國 に


攻め 向はしめ 給 ひき。
*へ

皇弟大久米 王命は能登部水間足命を初め 遠見彦 奈草彦 験 見田彦 伊島彦大島彦


三河 彦・小 田彦・小 照男・阿 姉 彦 小樽 彦の 諸将 を 従 へ、軍兵三 千 碑 を率 み 軍船 十二 般 に
分乗 し て南海 の 海上 より遠久見の 荒井 の 水門 に着御 まし まして常 國 の 初世太記
第三章 正紀 碑 皇 一八三
碑 皇 紀 一八四
頭新玉 彦命の 田眞里の宮 に入らせ 給 ふ。乃ち各 匿國の 伊志島令伊賀命 尾羽 張 田
令濃田男命 遠久見令夜木足命 住留家令鳥田命 大淡海令香山明命四長野令狭霧鳥
飼 命 海伊 令山 合男 命等を召して勅を博 へ 各匿國をし て軍兵を催し、大 賊を攻め向
はしめ 給 ひき。
二 皇子天津稲飯 王命は、太玉 七峡谷 命 を初め、山岡男 映 谷 彦土黒 彦 亀田 彦鶴田彦
箱崎男 佐津間男 日向男 摩彦豊田彦水門彦決風彦大波彦小波彦等の諸将を従へ
筑崎(㎞)の岡田の水門に着御ましまして早良津彦命の岡田の宮に入らせ給ふ。

乃ち 各匿國の 日向令鳥 守命 豊地令 種質見命 肥地令清田彦命 筑地令高津根 別命を


召して勅を博 へ、各 匿國より追々 兵を騙り催し 之を船にて本島に輸送せしめ給ひ


且つ、比 の 地を以て出 師の 地と そ定め 給 ふ。又、筑地令高津根 別命 より 更に津久島



令剣繊 知命 行島 令足 多気 命 に勅 を博 へ て、各 島を堅く守らしめ 給 ひき。
三皇子三毛野入野王命は、見玉田土命を初め 演名彦沼田彦岡田彦栗田 彦王集彦
玉巻彦摩 知男兵坂彦量 佐木男 奈良彦等の諸将を従 へ 軍兵三千碑を率み 軍船十四
に分乗して海上ょり南島なる伊世の宇摩川の水門に着御ましまして常園初世
太記 頭和 気彦命の 字 度 の宮 に 入らせ 給 ふ。乃ち各 匿 國 の 伊世令 高田 命、阿 初 令手芸
剣 命、自 岐 令押 柄耳 命 土 座 令 庭足雄 命を召し て 勅 を博 へ、軍兵 を催し、本島 に向
彦 弓 守彦大 守男 剣守彦等の諸将 を従 へ。軍兵二 千碑 を率 み 軍船八般 に分乗して針
美(㎞、 )の津高川の川上の水門に着御まします。時に大風にて浪荒きに
因り、高座 宮 に 入ら せ 給 ふ。常 國 の 初 世太 記 頭美作幡 命 より、匿 國美 作 令世 佐羅手

命 を 召し て 勅 を博 へ、更に、木山・山 表・山 背 川津 の 四 大國 の 令 を 召し て勅 を博 へ むと

し給ひしに初世 大記頭奏すらく比諸匿園は既に逆賊の根 擁地となりて、木山・山表


山背 川津四大國 の匿 國 即ち大河 山・山 表・山 背 木山・泉津 の 五 匿園 の 令は成な 殺害 せ


られにき、と博 へ 聞く、臣 将 に 一族を遣はし て之を 探知 せ しむ へ けれは暫く 駐 ら せ


給ふへしと。皇太子認りたまはく次か命の言疑なかるべし。きれど吾直に比事
質を 詞 はむ もの を と て速 玉緒 命 を 初め、守 佐 彦・左 守彦 右 守彦等、屈強 の 諸将 を従 へ
て 斬 ち発しまします。泉津 の 南の 水門 に着御 まし まさ むとし 給 ひし に、風清 いと
第三章 正紀 碑 皇 一八五


碑 皇 紀
荒く潮く川を遡りて河内川の水門に着御ましまし給ひき
四 皇子 日高 佐野王命は中臣道臣命を初め、武名彦 武勇彦 強力彦 剣武彦 大力 男・強
弓彦資美男・黒面 知 仁彦の 諸将 を従 へ、軍兵二 千碑 を率 み 軍船十 一般に分乗 し て海
上より淡木(転* )の竹里の濱野の水門に着御ましまして常園の初世太記頭阿尾
彦命 の大竹 の宮 に入御あらせ給 ふ。乃ち各匿國の穴門令文 屋彦命、丹但令 浅茅命
出雲令鳥飼 命 尾岐令興手 命 を召して 勅 を博 へ させ給 びき。
是より先 賊起長 髄彦は河内原の 高座山の要衝 に、城保 を築きて之 に擁 る。乃ち

大河 山 令任古若建命を 招請 して鳩毒を進め て 之 を 殺害し共尻を比山 に葬り ぬ。


今や、天 之碑 皇の巡幸 皇族の 巡撫ましますやに聞えしかは長髄 彦いと恐怖し、之を


参謀なる自木人(㎞。 )に議りつ。自本人乃ち農賊兵を催し 之を匿匿佐楽坂


の 坂本 に 伏せ しむ。然るに、皇太子海津 彦五瀬王命 は、青雲野 白 肩 の 津 より、匿 匿佐 築


坂 の 孔舎 衛坂の坂本なる草香 戸長の家 に、着御 ましま さむ と するや 伏兵暴 かに起
り 坂本より一斉に蹴射せり。流矢大雨の如し。皇太子初め官碑速玉緒命 甲斐山命
紳 馬建命的 松 命等いと得き 将に戦むとましませとも共衆寡敵し難きを見 て退き
て自肩野川向に操り給ひぬ。城将長髄彦自ら賊軍を魔きて之を追ふ。易風雨の
如 し。 皇太子今は是までなり 通くるも訟 なかるべしと。乃ち宣りたまはく共反
賊は離 なるぞと。賊起應へ まつらく、長れ多くも吾惣大将は天照皇大日霊奪の玄
孫 天別火明命の遠孫 富明彦主命にて本島中國主なりと。乃ち共盗める所の弓矢
を そ示しける。皇太子、之を見 て告りたまはく、彼は、陸 峰 に 祀り置きませる火明 命
の碑鶴にあらすや、吾試に比の矢を射返さむに質ならは的中すべ からず、とて即ち
共矢を執りつ。長髄彦の長男長髄足甲冑を着し馬 に跨り 顧み て答 へ まつらく 奴

よ 予共矢を受けむと言ふより早く 太子に胃を射貫れて馬より落ちて死す、長

髄彦大に怒り 衆を摩 き之 を園 み撃た むとす。皇太子 諸臣 と共に短兵急 に接し殊


死して戦ひまします。一 以て千に常 らさる莫し。偶、流矢あり 皇太子の賢 上 の髄


を突 つ。流血洪 湾 たり。然れとも 尚ほ 屈せず。奮撃轄 闘途に園 を切抜きて共川


に繋ける 小舟に 挿し僅 に身を以て 免 かれ、潮く難波 に還御まします。乃ち鳥島に
到りて 矢庇の 鮮血を洗 ひ 名草戸長の家 に入御ましましき。速玉緒命は牧馬を騙
りて、丹 但の大竹の 宮に着し物白 すといふ や 共僅 気絶して馬 赤磐 れ ぬ。大竹の宮
第 三章 正紀 碑 皇 一八七
碑 皇 紀 一八八
は四皇子佐野王命の行宮にまします。衆標 然 乃ち先 つ、速玉緒命の面部に水を遷
き潮くにして蘇生せしめぬ。佐野王命は徒事ならじと乃ち召見ましまししに果
して共鍵事ありし に標 き乃ち 諸官紳を率 み、急遽 牧馬を 騙りて難波 に向は せ給ふ。
是 より先 皇太子は名 草戸長 の 家 に駐 り、百方治術 を 霊しまししかば 矢庇潮く 療 え
なむと しける。一夕戸長盛 に 置酒し て皇太子を響 し つ。皇太子赤大 に酔ひ て 平
駄まします。供奉の諸臣赤酔駄ましましき。然るに戸長は何時しか数を長髄彦
に通じ 密に 賊 と謀し我家を園ましめ急 に之 を襲はしむ。賊 昭 城して奮 ひ撃つ。

乃ち供奉の諸臣殊死して之を防ぐ。皇太子赤起ちて戦はむとましますも発火消

え 股八を携せす。大に怒り親ら出てて縦横奮ひ撃ち途に賊を走らしめ 等て名草

戸長を素め て 之を斬りましき。然りと 難 とも 如何せん暗夜 熟睡中の襲撃なれば、皇



太子を初め諸臣の負傷殊に甚しかりしを。碑馬建命 赤運 身朱股にして鮮血洪湾、
語りたまはく皇太子崩御の殉死なり、とて賊徒の尻を左右に抱き前川に投して死
す。怒にして赤 塵起る。一座駿く。到れば四皇子佐野王命の丹但より駆けつけ来
ませる*のなり。衆相喜慶す。供奉の官碑赤潮く腕せ至る。然るに皇太子の創傷
殊に甚しく、且つ、奮矢疲 赤苦痛相 発し問 々 として起 っ能はす。佐野王命、いと意を
看護に霊し書 夜 解らさりし が 途 に共効なく病状潮く沈重。皇太子、怒馬 として起
ち個 剣を抜き天つ碑に向ひ謝して告りたまはく未た大賊を征討せさるに先ち予
の命数の霊きなむとするを免させ給 へ、とて合掌して意 に碑避りまし ぬ。紀原の
電山 に葬り ぬ。
佐野王命 報ち海上より急使を派し東國 巡幸中の碑皇を初め 各地に巡撫ましま
す皇族諸官碑に事の由を報せしむ。是より先 碑皇は本島に巡幸ましまして先っ

東北の諸大國諸匿國初め島々 の 土蜘蛛愛野人農賊等を言趣和平しけるに由 り各

地を巡幸ましまして進み て奥羽 に臨幸ましまし給ふ。偶。佐野王命の急使 皇太子


の鍵事を以聞す。碑皇大に驚き即時龍船を発せられ潮く伊瀬崎の多気の宮に着
御ましましき。然れとも賊の大軍遮り戦ふを以て足より西園に巡幸ましますこ

と能はす。曾、六皇子高倉王命は武佐志より軍船にて伊瀬崎の多気の宮に着し碑
皇を守護し奉る。然るに賊勢日に加はり威力盆。織なり。碑皇万ち勅して東國の
軍勢をして急遽 起き援はしめ以て大に賊を撃懐 せむとして先っ行宮を要衝の地
第三章 正紀 碑 皇 一八九
碑 皇 紀 一九○
に築かしめ給ふ。然るに東園の軍兵 潮攻海上を渡り赴き倉せしを以て比の宮を
度 の賞シ)と名っけ給ふ。足に於て四皇子日高佐野王命を立て、皇太子
となし高倉王命を勅使として共宣旨を奉して之を博へしめ給ふ。佐野王命 大に
得 ひ読みて之を受けさせ給ふ。命乃ち共地に行宮を建て、碑皇を迎へ奉らむと
し給 ふ。行宮を佐野の宮 と名け ぬ。
大久米王命は遠久見ょり 軍兵を率みて伊瀬の度倉の行宮に着し給ふ。碑皇認
して更に佐野の行宮に赴き救はしめ給はき。稲飯王命は津久島より三毛野入野

ェ命は土座ょり各泉崎の尾野水門に着し共に佐野の行宮に入らせ給ふ。則ち 軍

議を行宮に開きぬ。即ち人具野日より進軍することに決す。是に於て皇太子は

諸軍をして軍容粛然着しく進ましむ。倉、那賀戸長外十七戸長各兵を率みて来

り倉 し、先鋒たらむことを請ふ。即ち以て先鋒たらしむ。 進みつて角旨共多 に 至るや、


自本人の伏兵暴に丘上に起り最藤して襲ひ撃つ。矢石雨の如し。賊軍又 風に順
ひ様 に毒 煙を放っ。官軍 貸めに大に苦み旦っ戦ひ、且つ退き途に丹生に擁りて之
を防 く。販軍勢ひ猛烈勝に乗し盆 来り攻む。官軍縦横奮ひ戦ひて之を防きけり。
伊瀬日の官軍は伊瀬崎 ょ り山 を越して浮又澤に攻入り 勝に乗して進む。城軍
連載皆な敗れ先る。碑皇大に 標 ひ賀して共地を伊賀谷と名 つけ給 ひ共より進み
て 山背谷 にそ攻め 入りける。然るに、賊軍機 かに大撃し て来 り攻 む。我軍利あら
す。退 いて宇治川の東 に 止り、川 に擁り て 之 を防 く。賊 川 を渡り来 り攻 む。我軍
叱 陀戦を督 し 渡れるもの番 く之 を整 す。一 の生還 するもの なし。碑皇、偶。身例 な
ら す。百方治術 を 霊 し奉るも効 なく、七 日 にし て 暴 に陣中に於 て碑避 りまし ぬ。
終 に臨み 遺 語 すらく吾皇太子 に曾はざるを恨む、と 宜り給 ひき。本島大蹴の 初 よ
り 是に 至るま て、質に十七年。是 より闇黒の 世 と す。
碑皇、天下を 知 食しめすと四十五 年 毒 百 四十年 お まし ます。伊 瀬 の 山田 の 合野
山の陵に葬る。遺認の意を採り阿和須山の陵と稲す。宇家潤不二合須奪と諡し
奉る。碑后 碑皇 より十四年後 れ 毒 百三 十三 年、お ましまして、高千穂 の 宮 に於 て 碑
避り まし ぬ。暇 に宮 の裏 の 陵 に葬る。闇 黒十四 年三月十 五 日、皇太子佐野 王奪御
骨 を 発掘 し奉り、皇女身 顔美里 女 命 の 奉 し来れる遺髪と 合 し て阿 和須山 の 陵 に 改
め葬る。宇家潤 不二 合 昆女 奪と 諡し奉る。産 殿は、大分野黒の 小濱の宮 にして、皇
第三章 正紀 碑 皇
-

一九一
脚 桜 九1
子 入神圣女 + 1 歳 まし ます。 後兩 張 + 五 年辛苦 1 月+
立ち 始 * N た人 第 1 代 神武 天皇 とた す。 戰戰國 國 總體
第 二節 ㎢ 后蕭 說
張 政 は 神 室 の 神 通り まし し 後、制 后 の在 し ます あら は 共在世 中 神 后 に 於 で 神
に 代 之 天 の 下 を 知 食 しめ させ 駱 & J 人 是 たり。 神 室 第 1 代 辦事 者 不合 等 の 御字
書 の講談を ため させ 駱* 動 し て構成 に作し ます の神靈9122%
和帕

に あら され は 皇 太子 は天 っ 日 制 の 大 御 位 に 師 かせ まさき る と と に定め させ 駱
り。 是 知ら、制 后 端 政 の 神曲 なり き。

張 政 に在 し まし し 制 后 は神 星第 五 十 1 代 中 二 十 四 代 の 神 后 と す。 然 形 とも 呼

皇 第 五 十 一 代 郡 夫 哥 不 合弁 論據 其 部 里 王 等 の 神 后 多摩 洛 里 里 女 等 書館 正平 安徽
は神 の 議 通り まし し より中 四 年後 れ て神 通りまして 英在世中 亞太 子 日 為 作歌
王 金牌 。“)大 御位 に師 かせ 始 はす。 神戶 網羅 9* し し 翌年 11 月+ 1 日 に至り大
御成 を 聞かせ 駱 《 少。 而 し て共 十 四 年間 は常時 戰亂 の 世 たりけれ は 単に 間 無 の
世とそ稲しける。左れと今碑 m に徴し共揺 政十四年たりしや明なり。然るとき
は紳 后撮 政、凡 て二十五代とす。
碑皇第 一代、鶏 芽葺 不合奪、諱 日子波 激 武言 合奪の 碑 后 多摩 夜里里女奪講玉依 姫
奪、日向の 高千穂 の 宮 に於 て撮 政 に在しましし こと二 十根。毒 四百七十 一根 おま
し まして、同 宮 に於 て 碑 避り まし ぬ。

碑皇第四 代、鵜 芽葺不合奪 講不二田彦王奪 の碑后 多摩夜里昆女 奪 諱佐田里 女奪、


高千穂の宮 に於 て撮 政 に在しまし 、こと三十根。毒 百七十根 お ましまして同宮

に於 て 碑避り まし ぬ。

碑皇第六代、鴨芽葺不合奪 講 津禰彦王奪の碑后多摩夜昆女奪諱揃 豊里女奪 高千


穂の 宮 に於 て撮 政 に在 しましし こと 二 十二 根。毒二 百 七十三根 お ましまして同


宮 に於 て 碑 避 り まし ぬ。
碑皇第十代、鶏 芽葺不合奪 講 日野光王奪 の碑后多摩 夜里里女奪講佐瀬里 女 奪 高
千穂の宮に於て撮 政 に在しましし こと二十三根。毒百八 十八根 お はしまして同
宮 に於 て碑避りまし ぬ。

第三章 正紀 碑 皇 一九三
神 最 般 1カ四
神奈子 五代將 李群 不合 衆 品な 王金の神 タ常來 亞 里 安徽 宗 根市
女 等 大 分野 神 慈山 の 宮 に於 無 政 に在 し まし ) と と 四 十張。 義 11 日圓 + 人 張 永
*し まして 同省 に 於 て神 通り ょ しめ。
神圣 彼 + 大 代 將 李群 不 合金球體 在 沙王 仲の 神后 多摩 洛 里 亞 女侍
講 月底 里 女侍
大 分野 神 將 山岳 に於 て補 政 に在 し まし ) と と 11 十 二 張。 蘇
11 百 三 十 九 郎 家 *,
まして 同 党 に 於 て 調達 す まし み。

神 榜上 七 代 就非其 不合 弁論 加 日 明 王佐 の 神 后多摩 洛 里 亞女 侍
講法 手 里 安徽
st

神 室 の 御殿大 分野 狗 發 山 の 物 たる 御資 山 の 宮 に於 て 無 政
に在 し まし し と と 11 十
二 張。 新古 王 十 一 根 お まし まして 同 党 に於 て神 通り
!

まし や。
神中 第十 八 代 將李群 不合金球部 和沙 王位 の 神后 多摩 洛 里 亚 女侍

講義 德里安徽
----

神 室 の 御殿 大崎 野 直入 山 の 物 たる直入 の 宮 に 於 て

議政 に在 し まし し と と 11 十种。
蘇 百 五 十 二 張 も まし まして 同 党 に 於 て 神 通り まし め。
神圣彼 +九 代 將李群 不 合金多 加沙王金 の 神兵多摩洛 里 亚女 侍
從來此 女僕
神 室 の 御殿使 能 原野 小 笠山 の 物 たる 能原 の 宮 に 於 て構
設 に在,し まし し と と 11 +
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神 星 第 三 十 五 代 期 券 等 不合 弁論 出 高杉 王 金 の 神 后 多摩 沙市 出 女 优雅 大路 安 也
女 發、神 室 の 御殿 市 原野 郡 美山 の 物 なる 種 美 の 仲 に 於 て城 攻 に 在 しょ し ) と と セ

年 (劉 毅 1 日 三十代 年 ぶ まし まして 同 的 に於 て神道さ し gº


神 星 第 三 十 六 代號 或許 不合 弁論 川上 明王 金 の 神 后 多摩 安平 正久 保證 和仁 是 女
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神中 第四 十 四 代謝 菲菲 不合 金曜日 凌 王命 の 神 タ學校 正 北宋 雜 性 改 為 世
女 侍、制 室 の 御 陸 木 原野 在 风 山 の 物 なる 江 防府 に 於 て、瑞 政 に在 し まし す と と五年。
義市 四 十 1 年 お ましょ し て、同 党 に 於 て 神 通り まし め º
神圣 彼 四 十 六 代號 亦非 不合 弁護 神 秘密 王 神 の 神 后 多摩 後 正 正安 佐藤 大 作出 女
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神 室 第 五 十 一 代 期 券 等 不 合弁論據 其 部 里 王 仲の 神 后 多摩 安 市 出 女 优雅 麗 王 正

女神器 設 + 四 年。 雍正 三 十 三年 ぶ まし まして高 千 神父 に於 て神通り まし む。(


韓國網球 體 轉 º )
神 室 五 十 一 社 在 位 11 千 二 百 八 十 七 年 にし て、神 后悔 改 二 十 五 柱、四 百 五 十 四 年 た
り と す。 故に、子 家 湖 不 11 世 ル で 二 千 七 百 四 十 一 年 にし て、途 に 人 白玉 の 世 と そ な

魔神
& ! 桜 れ 大屯
巻 之 皇 耐


第 四章 後記 人皇
*へへへへーへへへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*

第 一節 人皇創業
第一 東征の 部署
人皇第 一代 碑武天皇は、宇 家潤 不二 合世、碑皇第五十 一代、鶏 芽葺不合奪、諱 弾 賞都
男王奪 の第四の 皇子にましまして、幼名 を日高佐野王奪と いひ、諱を碑 日本磐余彦
火 火 出見 天皇と 稲 し奉り ぬ。
初め、天皇の皇太子たりしとき、父 碑皇と共に東征 にあり。碑皇は伊勢 日より、皇

太子は久基野日より 厳軍即ち共佐勝彦命を奉して反せし長信彦鶴洋宣理命等を

征討 せ させ給ふ。然るに、吾久眞野口 は、戦途 に利あらず。伊勢日は征討の途次 碑


陣中 に於 て暴か に碑 避りまし ぬ。是 に於 て闇黒の世となり、士気索然 として振は
す。賊軍 大 に喜び機 失ふ可 から すと。乃ち、八方の 日々 の要害の場所 に陣を張り、
呼課し て来り攻む。矢石雨の如くに下る。皇太子、四方の皇軍に令して縦横奮ひ
第 四章 後 紀 人 皇 一九九
就 息 和 11OO
威 は しむ。 然 れ と ふ 軍兵 數 日 に 加 はり成 方 曾“城たり。 即ち 星 大 子 機 を 四方 に
飛 は し 以 て義 に 赴 か しむ。 即ち、路 大関 の 初 世 太 記 頭 より 話 區 國 金 に、文區 國企
う 語 小 國司 に、小 國司 より 話 錄音 に 納 音 より 話 神戶 長 に 送水 從 後 を 移し で サ りº
是 に 於 て、全 國際 しく、兵 を 催し、以 て 義 に 赴き ね 。
天河 天 之 火 明 命 五 十 世 の 孫 尼 苏 張大 主 是 初版 加盟 旗 金 を 東海 物料 の 元帥 J た
し、武 郡 和 命 五 十 三 世 の 孫、日 田地 大 主 日 田地 武功 命 維 地主 命 五 十 三 世 の 孫 悟 在 地
大 主席 位 地 客 取 德 金 の 両親 を、副 師 と なし 東海 諸 國 の 各 新 世 太 祖師、平 に 語 金 將同.

請 者 試 長 を 従 《平 氏 を 奉 る て東海 日 より 進軍 よし まさし む。 艦 中野 を 敵 Y 2。
些過

建 有名方 命 五 十 三世 の 孫武 功夫主義 的 建 金を 東山 路側 の 元帥 た た し 座 式 主
Ż

命 五 十 四 世 の 孫 大湖 大 主 大湖 作 人参 命成 期 能 修 根 命 五 十 三 世 の 孫權 與 大 主體 與

津 港 金 の 開頭 を 制御 と なし 東山 諸 國 の 各 物 世 太 祖師,並 に語不論 同 路 直路 長を 従
{軍兵 を 奉 る で、大湖 日 より 進軍 よ しま さ した 。 魔 城 天 に 帰る。
加 在 明 命 五十 五 世 の 孫出鉴 大主出雲大神主命を 北越 紹興 の 元帥 とた し 大巴拿
ばり * - ***
命 王 十 四 世 の 孫 弘光 大 主力 馬 他 返 家 金大物 主命 五 十 六 世 の 孫 弘前 大 主 神龍 類
彦命の雨碑を副帥 となし、北越諸園の各初世太記頭並に諸令諸司 諸首 諸長 を従 へ、
軍兵を率みて丹馬計間の雨日より進軍ましまさしむ。士気シ掲せり
賊軍 は、要衝 に占擁し、埼を高くし溝を深くして之を防く。既にして、雨軍相接し
て哨戦%を争ふ。矢石飛ふこと雨震の如し、皇軍殊死して戦ひ伏戸を越え流血
を渉りて奮撃す。賊の雄師 潮く潰を告け闘塞守をそ失ひける。皇軍勝に乗して
進む。勢風雨の 如し。諸将、牧馬の首を並 へ て前に 立ち、叱陀戦を督し て追撃 す。
或は弓 にて射殺し、或は剣 にて突き磐 し、或は石 剣 に て打ち砕く。暴風の 草木を吹
き荒すが 如し。東海 日第 一 に陥り、東山 日第二 に陥り、針間 日第三 に陥り、丹馬 日第
四に陥る。諸将、盆。騎聘 曲折 剣 を舞 はし て指摩 す。軍兵之 に従 ひ、韓闘長騎 向 ふ 所
前 なし。賊兵、彼 にも石 剣 に て蹴打 せ られ、比 にも剣 に て突き 弊 され、枕 骸原野 を厳
ひ、優 尻 山谷 を埋め てけり。騎降 する者 は、大将 分は首を断ち、兵卒は顔 に入 撃し て
放ち ぬ。東海 日 の 元帥尾羽 張明 照雄 命は、副 帥 日田地武勇命と、更に進んて、大栗 津
日 の 園 を撃ち破り、賊 の 惣 大将 眞佐勝彦命 の 本営 を指し てそ突進しける。勢 疾風
の 如 し。乃ち、石 の 大剣 を 打ち振り て急 に接すれは、副将 祀津 亘理 彦命は、惣大将を
第 四章 後 紀 人 皇 二○一
碑 皇 紀 二○二
守護して通れ 走り、賊兵四散して赤抗する能はす。吾 雨帥、韓闘長 騙向ふ所前な
し。城十八将、遂に赤四方に通逃しけり。吾雨帥 追撃して意 に戦二大将を日築山
*へヘヘヘー〜〜〜〜〜〜へヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜へへへ

の麓 に追及 す 即ち元帥 明照雄命は、大石剣を打ち振り賊の惣大将眞佐勝彦命を懸


天より慰骨 まて微塵 に打ち砕く。又副 帥武勇命は 赤賊の副将 顧津亘彦命を、同し
く微塵 に打ち砕きぬ。是に於て東海 日と東山 日とを堅め居たる賊軍は、道れて日
茶山 に立籠り、丹馬 日・計問日 を堅め居たる賊軍は、赤道れて阿多後山 にそ立て籠り
ける。則ち東海東山雨道の官軍、査り至り日 築山をそ八重十重に園みける。乃ち

四面より、肉薄して急劇攻め寄せ 伏 戸を踏み越え 殊死して戦ふ。即ち東海来山雨


道を堅め居たる賊将、悪く戦死し賊兵悪く出 て 、降る。降れるもの、皆入 撃して之


・之

を放っ。日 楽山 悪く 平く。尋て東海東山雨道の皇軍は丹馬・針間雨道の皇軍と兵

を合して、阿多後山を園み 継攻撃をそ開始しける。質に暗黒七年三月十八日なり
第二 丹生本営と日高宮
皇太子は時に丹生の本営に在しましぬ。一日 皇族大久米命 高座日多命を勅使
として、高天原 に上 らしめ、碑祀碑宗天 っ大御碑を祀り、國賊退治 の所願をなさしめ
給 ふ。又、丹生の川上 にて、高天原 の 天 つ 大御碑を初め、諸、の天碑 地祇を親 ら 轄 祀ま
-へへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜-*

しまさむとし給ふ。然るに 祭器 なし因 て植土 を天香山 に索めむとし給ふ。偶。宇


陀國司 弟得 は 密に兄猫及び加 志 國司阿 加 伊 呂等の 隠謀を企 つる ことを以聞して、
共之を率むるの危険なることを奏しぬ。面して第術 は宇須彦と共に興に天香山
の埴土を採り来らむことを請うて去る。乃ち宇須彦は老翁に 弟得 は老輝 に、各姿
を扱装して至る。途中果して廃 賊之を遮る。乃ち貧姫を見て 曖 晒なりとなし、輸

り 咲 ひて 道をそ譲りける。

皇太子 常に以貸らく 長髄彦は質は自木人(㎞)なりと Nと敷を通するもの赤


國賊なり。園賊即ち家兄の仇敵なり。何そ征討せさるへき と語り給ひき。潮く

にし て 宇須 彦弟狙、埴土 を採り来りて之を獣 す。皇太子大に悦 ひ、乃ち祭典 の 陶器


を作らせ給 ふ。宇須彦、丹生の川上 の榊 を掘り来 りて、祭典の 料 に供す。皇太子、丹
生の川上の武濃加奴 に清 鍵を張り、親 ら天 碑地祇を 遥拝 ましまして、國賊を退治せ
むことを特 祀ましましき。又 盤 範二手扶を置いて掲米を炊き鉛を作り、且つ厳奪
第 四章 正紀 碑 皇 二○三
碑 紀 皇 二○四
を丹生の川に沈めて所誓ましまししに就れも吉兆あり、皇太子劉 威 斜ならす則
ち 見和仮王命 三毛野入野王命をして海演を守らしめら諸皇弟皇子を従へ南
*へへへーへ一へ一へへーへヘへへー〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*

島筑紫の軍兵を率みて海陸共に進軍せきせ給ふ。兵勢日に加はり王気盆シす

進んで多太須の 屯に向はせ給 ふ や、山峡より毒畑㎞ たり。乃ち皇太子、大石剣を


抜き左右 に打振り給 へ は債 に風向鍵して賊軍に向ふ。白木人 貸めに苦み 途に営
を捨て て 走り ぬ。
偶。大久米命 高座日多命は 高天原より還りて碑剣を皇太子に獣上し奉る。皇太

子 乃ち共由を問はせ給ふ。雨命封自したまはく吾等勅を奉して高天原に上り 諸

の天っ大御碑を初め天照大御碑 並に高皇産霊碑に碑勅碑託を所願ましましける

に 方ち建雷命の個剣 世司布都の碑剣を授かり 又八思鳥を以て皇軍の概導たらし


む、との碑託を授かりにき。則ち、碑剣を奉持して還りませるに、今や皇の安座屋の
様 に、八股鳥数多止りて鳴きけるを祀たりし、と奏しけれは皇大子御威 いと斜なら
す。時に怒然御悩廃ゆ。皇軍 踊躍 奮ひ立ち ぬ。
皇大子%野崎の水門より上陸し先っ要衝を相して行宮を建て給ふ。共地を日
高と名っけ 共宮を日高の宮と稲し奉る。勅して海陸の将校を選み、日 っ共部署を
定め給 ふ。即ち皇太子、親 ら大久米命手研 耳命中臣道之臣命以下二十二将を率み
*

て宇陀の園見に向 ひて賊魅長髄彦を征しまさむとし 高座日多命相飯王命三毛野


入野王命をして中臣道足命以下十九将を率みて年典の鬼山に向ひて百本ェ。)
の戦 徒を征 せしめ むとし給 ひき。務するに臨み、稲飯三毛野の雨皇兄に認 りたま
はく諸兄等奮戦激闘して比日本の賦役を慶にすべし若し誤りて適走せしめなは

天地碑明共に容ささる所の罪なるべし、と厳に宣り給ふ。乃ち務 す。皇大子は 大



久米命等と共に 皇軍を率みて進みます。軍容粛然 兵威大に振ふ。八股島 之 か


導たり。名草 日野山岩川の農碑等、馬数百頭を獣し、軍に従はん ことを請ふ。八十版


に至る。兵勢日 に加はり 威力盆。織なり。


賛持頭の子加奈宇伊 呂は 吉野川に網代を作り、川魚を捕りて之を獣す。皇太子

語りたまはく、次小園司・郷司 村主等の状況を知れりや、封自したまはく能く之を知
れりと。乃ち、之を鶴導となしぬ。(㎞)
第三 牟 斐の鬼山征討
第 四章 後 紀 人 皇 二○五
碑 皇 紀 二○六
高座 日多命相 飯 王命 三毛野 入野王命は、皇軍を率 みて進み給ふ。乃ち、先 つ御木
山に自木軍(㎞)を攻む。自木軍固守して之を防く。皇軍鼓難して斉し
く進む。山岳%めに ふ、自本軍夫に 知をそ途りける。高座日多命 力ち彼の
碑 剣 を以て 打振り給 へ は、風怒 ち 方位 を鍵す。白木軍、貸 め に苦しみ走り て鬼山 に
退く、皇軍勝 に乗 し て 進む。勢風雨 の 如し。白木軍 又、通れ て三 木浦 に走る。錦村
戸長今 登 志麻 賊軍 に應 し農賊 を率 みて 皇軍 と 遮り戦ふ。皇軍、撃ち て 之 を磐 す。
白木 の 残軍破れ 走り て、海陸 に跨り陣 す。面 し て 残兵を集 む。稲飯 王命、更に別 隊

の 将 大 雷旨共志津 命を遣は し て、外 五 将 と 強兵五 百 騎 を率 みて、長髄彦の 背後 を突か


しむ。乃ち 進ん て、曾根 山 に到 る。賊軍、赤鬼山 に擁 れる白木 の 勇 兵 を進め て 之 を


拒 く。吾六将 強兵を率みて叱陀戦を督す 衆奮激先を争うて進み、殊死して戦ひ、覚


に之を敗 る。連戦轄 闘 以て数 ヶ所の 戯 闘 を抜く。是 に於 て、白木 軍途 に錦浦 にそ


走りける。比 日、皇軍 の 死傷 合せ て二 千 除 碑、賊徒 戦死 する 者算 なし。稲飯 王命・三
毛 野入 王命は、春 加 々 旨共津 命外三 将 と、曾根 の 水門 に軍船六般を織装 し て、将 に錦
水門 に白木 の 戯 軍を攻め むとし給 ふ。忌部若道 命、本陣 に就き て言したまはく、臣
既に備 ふる所の 海兵 あり、以て先陣たら んと請ふ。 雨 命之を許し給はす。忌部氏
又、言したまはく臣官て侍従長たりし故にや今日 皇太子海津彦五瀬命固く請うて
止 まさる。のありと。乃ち之を許す。翌朝黎明 七般の軍船を集めて、三木浦及鏡

浦を望みしに百本の軍船影跡たになし。浦の漁農目く前日既に去れりと。稲飯
-*

ェ命 活怒して宣りたまはく吾皇祀は天つ碑にして御母は海碑の女なり。如何そ

収 に海路を許す へき 諸軍績けと云ひ捨て、一般の龍船に打乗り 法電の如くそ追ひ


**。三シ三*三千ss員兵を五組に分乗

して 稲飯王命の後に従ふ。軸鶴相街む。行くこと賞雨の如し。 須史にして、津久

神の海原 にて自本の賦船にそ追ひつきける。乃ち眠船と相接し哨域銭を争ふ

**ふこと雨 の如し。息大将和仮王命 組上に立ち大音上にて高天原の碑


洞 宗請 の天っ大御碑を初め、八百萬の天碑地祇を呼上け 所りて宣りたまはく神力
を以て刺園の大敵を退治ましまし給ふ へしと。碑剣を頭上に捧げ道に海原を見
*せは は如何に周園の自本兵を援はんとして神㎞千里海を蔵ひ 産態高里天に
瑠 る あら むとは。 共衆寡敵せ さもの あるを知り、乃ち又 新りて宣りたまはく紳あ
第四章 後 紀 人 皇 二○七
らは速 に暴風を 起 し、以 て数多 の 賊 船を覆 へ し 給 ふ へ し。予は海原 を騙 廻りて数
多 の 賊 船を覆 へ すべ し。と 直 に頭上 に 捧け ませる大 剣 を八方 に 打ち 振り て、復 た
頭上 に捧げ て 之を大海 に投 し まし ぬ。三 毛野入野王命、比を見 て又、天碑 地祇を所
第 り て、赤 碑 剣 を 打 振り天 を 拝 し て、頭上 に 捧け て、大海 に 投 し まし ぬ。比 の 状 を 見 て、
春 加 々 旨具津 命 太玉 七峡谷 命 御 雷折 彦命・忌部 若道 命の 諸将、強兵二 千を率 みて、雨震
編 の 如く飛 ひ 来る流矢を事 と もせ す、明 城鏡 を 争 ひ奮激 殊死 し て、賊 船 を四方八方 に
乗 蹴 へ、調 怒震 薄風雨の 至る が 如く、短 兵急 に接 す。一 以 て 千 に常 らさるなし。賊

兵逸巡、魂 観れ気温 む。偶、黎明南西 より風大 に起 る。怒 ち 又、北西 より暴 風速 に来

り 我船初め 数多の賊船と共に皆な津久島に吹き附けらる。我兵大賊を上陸せし
めじ、と大 剣 を舞 はし 殊死し て 縦横 奮 ひ戦ふ。偶。辰巳東 なる未曾有 の 大 暴風 に鍵
し、怒 ち数 多の 賊船 悪く沈没 しけり。我軍物 大将 稲飯 王命 初め、三 毛野 入野 王命・春
*
加 々 旨共津命 御雷折 彦命・烏 部若道命等、並 に 強兵二 千五百 碑 皆沈 滅し給 ふ。賊船は
自木の軍船五十除般周園の援船五百除般なりといふ。(㎞)
第四 宇陀の國見征討
皇太子は親ら皇軍を率み、作田彦命の資 賛持命を懇 導として進み給 ふ。行 々 兵
を牧 め、伊 日加 呂井戸に至る。兵威大 に振 ふ。岩押 別 命の高吉野無勇 呂、赤兵 を率み
て、来 り調 す 以 て先鮮 となす、偶、大熊現れ、我軍の前を走る。拾も響導をなすものの
如 し。是より先、木 日 山奈衛 の 山賊 伊須 久里 敷を賊起長 髄 彦に通し今や皇軍の 来
ませるを 知り、道路 に陥難所 を設け、澤 々 谷 々 に伏兵を潜め て 之 を 待つ。彼 の 大熊、乃
ち先 つ 眺 に 陥る や、跳ね 踏 り て、大音撃 に て三 度 叫 ひつ。怒 にし て澤 々 谷 々 より、数
高の 熊永官 り来 り、共潜める伏兵数萬を 慶 にし にき。皇太子、大 に脱 ひ給 ひ て、乃ち、久
眞野 山 を熊野 山 と名 つけ 給 ふ。共地 を 売院 空牙 といふ。一 日、中臣道之 臣 命 奏 すら
く、勝主別 命 を遣し て 兄 滑 を召し出 さる可 し。と 乃ち之 を 召す。兄 滑 途 に 来 らず。
之 却 て 大殿 を造り、密 に押 機を 設け て皇太子 の 臨 御 を 請 へり。皇太子、潜 に問者 をし
て之を副はしめまししに叛形既に顕る。足に於て 旅土照田命岩折春時命に勅し、
遣はし て 兄滑 の 一類 を皆 な殿内 に押入れしむ。果して、皆 な押 機 に打たれ て、死 し
ける。共尻を斬刑 に虜 す。比の所を血原といふ。弟滑 大に悲敷して 目く、兄 滑謀
反 の 貸め、祀先 の 功 も今や水泡 に騎しなむ。翼く は、共子滑 足 をし て 比家 を 立てし
第 四章 後 紀 人 皇 二○九
碑 皇 紀 二一○
め ま さむ こと をと。皇太子、勅し て之を 免 させ給 ふ。弟滑 夫婦、大響 を皇 太子 に獣
す。皇太子、悦 ひて 宣りたまはく、吾征討 の 成り なむは、専ら軍兵 の 力 なら むと、乃ち
共響を 分 ち 賜ふ。我軍大 に振興 し にき。進み て宇陀の 十 知 に 至る。十 知 國司 兄
磯城 麻、馬 手 坂 に女 軍碑 を、弓手 坂 に男軍碑 を備 へ、又、大路 小路 に競炭を 置き て、共奥
に そ陣しける。比 所を磐余 といふ。太玉若 道命 奏すらく、八 冊だ烏 に勅 し、遣はし て
兄磯城 弟磯城を 説かしめらるべし と。乃ち之を遣 す。兄磯城 八服だ鳥を射る。矢
外れ て、共子若 磯城 呂 に 中りて 死す。又、太玉 若道命、八開だ鳥をし て 弟磯城を 説かし

む。弟磯城 章 に 長れて降る。則ち 賊情を 悪く自白しつ。即ち 賊魅長髄彦は國見


岳 に、兄 倉 下 弟倉 下は高座山 に、赤銅身 津呂 は吉野 佐多 木 に擁 れりと。速玉 山田 命


山城柏木 命奏 しま つらく、今 暁、宇陀の 山上 に赤気 あり 黒気 之 を 包め り、恐くは、賊四


方 に起りし なら むと。積 羽 若菱 守命、進ん て賊情 を詞はむ こと を 請 ふ。乃ち 遣は


す。須 史 にし て 騎り復 奏すらく、曾宇國 の 畑田村 戸長伊木三 呂は西山 に、和仁坂 の
古瀬村(㎞)戸長亀子武呂は南山に保倉江(シ)の仲見村戸長猪子興呂は北山
に、高 尾張の農賊伊佐古奈弾 呂 は南西の間 に擁り にけりと。皇太子御威 斜 ならす、
御製を賜 ひき、甘美基遅命奏しまっらく 巨 の偏剣は長国彦の希望する所のもの
なりと 聞く、臣 請 ふ、比を以て長髄 彦を欺き以 て 之を磐 す へ し、と て共謀を 具状し奉
る。皇太子、乃ち之 を 免し、太 玉 大苦命 を附 し て之 を 遣 は し給 ひき。
一日、皇太子 勅 して賊攻撃 の部署を定め まし き。即ち皇子手研 耳 命・中臣道之 臣
命は忍坂より 積初若菱守命速玉山田命は佐多木より水分幡彦命は畑田より創 電
百花建 命は 和仁 坂 の 巨勢より、岩 折春 時 命 は保倉 江 の 仲見 より、手 力 國 守命・雷 茂羅
志命は高尾張より各進軍せしむ。務するに臨み約すらく宇陀の十市の蜂火を合
圓 に、攻撃を開始 すべ しと。又、軍令 し て 語り たまは く、降る者 は 殺す可 から す、道る
者 は追 ふ可 からずと、乃ち 発す。忍坂 攻撃 軍 の 副将中臣道 之 臣 命 は、偶“大将皇子 手
研 耳命 に 一策を獣 す。カち是に従ふ。即ち、道之 臣 命は、椎根津彦命と共に降碑と
稲し兄磯城足(㎞)を欺きて響 す。酒酷にして中臣氏起ちて歌舞す。皇
子 手研耳 命 機を見 て賊 将兄磯城を斬る。雨将 衆を摩き、奮撃激闘して、悪く共 除賞
を磐 す。是に於 て、忍坂 意 に 平 く。乃ち、皇太子御製 を 賜はり、之 を賞せしめ 給 ふ。
積 羽 若菱 守 命 速玉 山田 命は賊 将赤銅三 津呂を佐多木 に攻む。賊山野 に 火を放
第 四章 後 紀 人 皇 二一 二
碑 皇 紀 二一m
ちて拒き戦ふ。皇軍乃ち兵を潜めて間道より遠りて共背後に出っ。衆哨城之を
突く。賊 福 狙 貸す所を 知らず 却 て前面 の 火勢 に困 み、遂に吉野川 の 上流 に そ逃れ
ける。皇軍、追撃 し て之 を 塵 に せり。比 所を 首 木」といふ。時に、宇陀 山上 に蜂 火 起
る。諸軍着しく進む。呼識して従横奮ひ闘ひ 愛に悪く賊墨を我く。倉*風起る。
乃ち 火 を 山野 に放つ。煙 畑天 を 擁 ふ。数 萬の 賊軍、悪く禁 死 し にき。西山 の 吉野
の 農碑 に、廣 麻 なるもの あり。野田の 賊将 日志 清 呂を射 つて 之 を 磐し 共首 級を揚
けて吾分大将水分氏に献す。乃ち賞して名を魔麻正と授けぬ。南山の城将亀子

無 呂 敗走し て馬 より落つ。巨勢國 の 農碑 等、撃ち て共首 級 を執り、吾 大将 御 雷氏 に


献 す。乃ち 賞し て 之 に酒希 を 賜ふ。又 進み て、北山 の 賊将 猪子 興 呂、並 に共常二 百


二十騎を磐しぬ。乃ち、吾大将岩折 氏之を賞して酒者及 ひ紙の大幣を 賜ひき。


南西 の 賊 将 伊佐古奈 弾 呂 は、土農の 騎順 多きを察し、自ら共 営 を焼き て 高尾山 に


奔る。吾大将手力氏共子手力早難命 手力須久身命の二碑に謀を授け賊の背後を
突かしむ。賊将 前路 に 走る。大将 手 力國 守 命、野山 に火 を放ち、軍 騎 追 ひて 之 を踏み
殺しぬ。土碑皇軍に酒鑑を響す。乃ち大将賞して紙の大幣を賜ひき。(㎞)
、東海東山 北越 北陸 四 道の皇軍は 伊瀬伊賀山 背 宇治 瀬多大坂 小坂 流 戸大湖 月馬
に充満 して、旗織天 に 弾 る。以て 阿 田後山の 大賊を包園し て、之を攻撃 せむとそし
ける。
一日同田後山の城常等深山数ヶ所に火を放ち以て皇軍を欺き% に木日園(㎞
『 日高地方に奔らむことを企っ。倉 基風大に起り 数萬の賊軍却って悪く養死し
たりけり。是 に 於 て、東北地方の皇軍、大山 を越え、潮 く盆“山間 泉地 木 日地方に進軍
し来り、又 各所の 墨より引上け来れるもの 日に多く、山野に闘暇 す。雲霞の如し。
祀神

威力盆。織なり。途に賊地 を十重二十重 に園みてけり。乃ち皇太子は大久米命と


大撃して賊船長髄彦を國見山に攻む。日月の御旗 繰績として旭日に弦く。全軍
-之

に鼓して徐に進む。天地貸めに振ひ 山岳貸めに崩れむとす。大地震大雷の如し。

賊軍、魂 観はれ気温 み 隊任を援して逃走を始む。則ち皇太子 直に龍馬を進め鳴鏡


矢を以て賊の軍門を射 らせ給ふ。時に、甘美旨共遅命 謀計を以て既に長髄彦を欺き
て共陣中に有り。暴か に大剣を打ち抜き、長髄彦を責めて告りたまはく 逆賊天地
*容れす皇の謀計とも知らすして吾に欺かる赤命なり。吾鶴に認命を奉して比
第い章 後 紀 人 皇 、二一三
*

り て、赤 碑 剣 を 打振り天 を 拝 し て、頭上 に 捧 け て、大海 に 投 し まし ぬ。比


頭上 に捧げ て 之を大海 に投 しまし ぬ。三 毛野入野 王命、比を見 て7 、天
軍り船

な自










)

(

といふ 彦し兵命 王命







強加









滅・












給 悪野将りく に






け怒

大沈没



入。




初め
稲飯
春 殊風る巳ふ横死






縦めじ

戦し

辰奮

な。
暴東


未曾有
鍵 初共に陸らき島め に
とり



久数


吹皆
けに
上附








せ 黎速西明 なし









北兵









風南西

より
来 風るく雨






至乗
如の
さが













。 如方死せるく 、
来の
も飛


殊流矢








四す






八方 峡て兵部命谷








彦春


忌御
強・





み若





雨 すせるち方上べ





頭多



まし

八捧


打大



振り 暴原風


海ら
























宇討陀

征第




○ 耐
状 地 り
を 祇 て
を 復
加所 た
皇太子は 親ら皇軍を率み、作田彦命の資 賛持命を響導として進み給ふ。行 々兵
を牧め、伊 日加 呂井戸に至る。兵 威大 に振 ふ。岩押 別命の商吉野 無勇呂、赤兵を率み
て、来 り 調 す、以 て先鮮 と なす、偶、大熊 現れ、我軍 の 前 を走る。拾 も響高導をなすものの
如 し。是より先、木日 山奈衛 の 山賊 伊須 久里 敷を賊起長 髄彦に通し、今や皇軍の 来
ませるを知り、道路 に陥階所 を設け、澤 々 谷 々 に伏兵を潜め て 之 を待つ。彼 の 大熊、乃
ち先つ 雅所 に陥る や、跳ね踏 りて、大音撃 にて三度叫 ひつ。怒にして澤 々 谷 々 より、数
萬の熊査 り来 り 共潜める伏兵数萬を慶にし にき。皇太子、大 に脱 ひ給 ひて、乃ち、久
眞野山 を熊野山 と名 つけ 給 ふ。共地を荒院究といふ。一日、中臣道之 臣 命奏 すら
く、勝主別 命を遣して 兄 滑 を召し出 さる可 し。と 乃ち之を召す。兄 滑 途に来 らず。

却 て 大殿 を 造り、密 に押 機を 設け て皇太子 の 臨 御 を 請 へり。皇太子、潜 に問者 を し
て之を調はしめまししに叛形既に顕る。足に於て匠土照田命岩折春時命に勅し
遣はし て兄 滑 の 一類を皆な殿内 に押入れしむ。果して、皆な押機 に打たれて死し
ける。共尻を斬刑 に虜 す。比の 所を血原といふ。弟滑 大に悲敷して 目く、兄得 謀
反 の 貸め 祀先の 功 も今や水泡 に騎しなむ。翼くは共子滑 足をし て 比家を立てし
第 四章 後 紀 人 皇 二○九
碑 皇 紀 二一○
めまさむ ことをと。皇太子 勅して之を免させ給ふ。弟滑夫婦、大響を皇太子に獣
す。皇太子 説 ひ て宣りたまはく、吾征討の 成りなむは専ら軍兵の力ならむと、乃ち
共 響 を分 ち 賜ふ。我軍 大に振興 しにき。進み て宇陀の十知に至る。十知 國司 兄
磯城麻 馬 手坂 に女軍碑を、弓手坂に男軍碑を備 へ、又、大路小路に競炭を置きて共奥
に そ 陣しける。比 所を磐余といふ。太玉若道命奏すらく、八 服だ烏に勅し、遣はし て
兄磯城 弟磯城を説かしめらるべしと。乃ち之を遣 す。兄磯城 八限だ鳥を射る。矢
外れ て 共子若磯城 呂に中りて死す。又、太玉若道命、八服だ鳥をして弟磯城を説かし

む。弟磯城章 に長れて降る。則ち 賊情 を悪く自白しつ。即ち賊魅長 髄彦は國見


岳に、兄倉下 弟倉下は高座山に赤銅身津呂は吉野佐多木 に擁れりと。速玉山田命


山城 柏木 命奏しま つらく、今 暁、宇陀の 山上 に赤気あり 黒気之を包め り、恐くは賊四


方に起りしならむと。積 羽若菱守命 進ん て賊情を詞はむ ことを請ふ。乃ち遣 は


す。須史にして騎り復奏すらく、曾宇國の畑田村戸長伊木三呂は西山に和仁坂の
古瀬村(㎞)戸長亀子武呂は南山に保倉江(シ)の仲見村戸長猪子興呂は北山
に 高尾張の農賊伊佐古奈弾呂は南西の間に擁りにけりと。皇太子御威斜ならす
御製を賜 ひき。甘美具 遅命奏 しまっ らく、臣の個 剣は、長随 彦の希望する所のもの
なりと聞く、臣 請 ふ、比 を以て長 髄 彦を 敷き以 て 之 を磐 す へ し、と て共謀を 具状し 奉
る。皇太子、乃ち之 を免し、太玉 大苦命を附 して之を遣は し給 ひき。
一 日、皇 太子 勅 し て、賊 攻撃 の部署 を定め ましき。即ち 皇子 手 研 耳 命・中臣 道之 臣
命は忍坂より 積初若変守命 速玉山田命は佐多木より 水分幡彦命は畑田より御電
百花建命は 和仁坂 の 巨勢 より、岩 折春 時 命は保倉 江 の 仲見 より、手 力 國 守命・雷 茂羅
志命は高尾張より各進軍せしむ。務するに臨み約すらく宇陀の十市の蜂火を合

圓 に、攻撃 を開始 すべ し と。又、軍令 し て 認 り たまは く、降る 者は 殺す可 から す、通る


者は追 ふ可 からずと、乃ち 務 す。忍坂 攻撃軍の 副将中臣道 之 臣命は、偶“大将 皇子手


研 耳命に 一策を獣 す。カ ち是に従ふ。即ち道之 臣命は、椎 根津彦命 と共に降碑と


稲し兄 磯城足( ㎞ )を欺きて響 す。酒酷にして中臣氏起ちて歌舞す。皇

子 手 研 耳 命、機を見 て 賊 将 兄磯城を斬る。雨将 衆を摩 き、奮 撃激闘 し て、悪く共 除 賞


を 磐 す。是 に於 て、忍坂 意 に 平 く。乃ち、皇 太子御製 を 賜はり、之 を賞 せしめ 給 ふ。
積 羽 若菱守命 速玉 山田命は賊将 赤銅三津呂 を佐多木に攻む。賊山野 に火を放
第四章 後 紀 人 皇 二一
碑 皇紀 二一て
ちて拒き戦ふ。皇軍乃ち兵を潜めて間道より遠りて共背後に出つ。衆哺城之を
突く。城犯 狙 貸す所を知らず却て前面の火勢に困み 途に吉野川の上流にそ逃れ
ける。皇軍 追撃して之を慶にせり。比所を首木」といふ。時に宇陀山上に蜂火起
。シしく地む。呼識して従横奪ひ闘ひ*に悪く賊 を奪く 曾、暴風起 る。
乃ち火を山野に放っ。煙畑天を推ふ。数萬の城軍悪く養死しにき。西山の吉野
の農碑に魔麻なるものあり。野田の城将日志清呂を射つて之を整 し共首級を揚
けて吾分大将水分氏に獣す。乃ち賞して名を魔麻正と授けぬ。南山の賊将亀子

無ョ 敗走して馬より落っ。巨勢園の農碑等撃ちて共首級を執り 音大将御雷氏に

慮す。乃ち賞して之に酒者を賜ふ。又進みて北山の城将猪子興呂並に共常二百

二十騎を警しぬ。乃ち 晋大将岩折氏之を賞して酒者及ひ紙の大幣を賜ひき

南西の城 伊佐古奈弾呂は土農の騎順多きを察し自ら共営を焼きて高尾山に
*る。吾大将手力氏共子手力早難命 手力須久身命の二碑に謀を授け賊の背後を
突か した。賊将前路に走る。大将手力國守命野山に火を放ち 軍騎追ひて之を踏み
。シを残す。方ち天将賞して紙の夫務を叫ひも(㎞)
***山** 北陸日道の皇軍は伊瀬伊賀山背宇治績多大坂 小坂逸戸大湖 月馬
に充満して旗様天に強 る。以て阿田後山の大賊を包園して Nを攻撃せむとそし
ける。
一日同田後山の戦常等深山数ヶ所に火を放ち以て皇軍を欺き釜に木日園(㎞
『 日高地方に奔らむことを企っ。倉 基風大に起り数萬の威軍却って悪く養死し
たりけり。是に於て東北地方の皇軍 大山を越え、潮く盆 山間 泉地 木日地方に進軍
し来り、又 各所の過 より引上け来れるもの日に多く山野に闘明 す。雲霞の如し。

威力盆 織なり。途に賊地を十重二十重に園みてけり。乃ち皇太子は大久米命と

大學 して賊起長髄彦を國見山に攻む。日月の御旗 繰績として旭日に技 く。全軍


-之

に設して徐 に進む。天地貸めに振 ひ、山岳貸めに崩れむとす。大地震大 雷の如し。


賊軍 現観はれ 気祖み 隊任を援して逃走を始む。則ち皇太子 直に調馬を進め鳴鏡


矢を以て賊の軍門を射らせ給ふ。時に 甘美兵遅命 謀計を以て既に長髄彦を欺き
て共陣中に有り。暴かに大剣を打ち抜き 長髄彦を責め て告りたまはく逆賊天地
*容れす 皇の謀計とも知らすして吾に欺かる赤命なり。吾鶴に認命を奉して比
第い章 後 紀 人 皇 二一三
碑 皇 紀 二一四
に来れるもの なり。今や乃ち、次 を斬りな むとすと。長 髄 彦答 白 ま つらく、吾 か運
命愛に窮る。何そ次を煩さむや。と 覚に自ら絵 れて死す。賊兵 一萬除常番く降
る。則ち、強 賊の 首なるもの七百十三賊は、太玉大 苦命皆な之を斬る。共他の除賊
は、何れ も皆 な顔面 に入墨を し て 之を 放つ。長 髄彦の 二男 髄 太和 尾呂、間道 より南
に走る。乃ち捕 へ て 之を斬る。是 に於 て、賊軍番 く言 向和平し ぬ。乃ち、皇 太子 初
め、大 久米 命外 三十八将、振 旅 し て 日 高宮 に凱旋 ましましき。
牟 書要の 白木 軍征討将軍高座 日 多 命は、又、日 高宮 に凱旋 し て、稲飯 王命以下 六将、官

兵二千五百碑入水の状を以聞す。時に闇黒の世十三年十月三十日なりき。(㎞)
-皇

- 第五 碑后 登 返

皇太子は積年の争 創 始めて 平定せ しを以て碑皇 に代り て、皇族高座日多命 大久


、巻

米命表春概王命以下八将を従 へ 兵害に羅りし諸地方の小國郷村などを巡幸まし
まして、農民碑 を憂勢 撫育 ましまし給 ふ。或は 國司以下の 功勢を賞興し、或は共功
勢 に 依り て新 に共職 に補 し、或は 窮農碑 を救 し 給 ひき。面 し て先 つ、吉野 より宇
陀を経て、宇治を巡狩まします。各地の農碑、いと脱 ひて執れも拝謝し奉る。宇治
より伊賀を経て伊瀬の度倉 の宮 に着御ましましき。先つ、父碑皇の御陵に参拝 ま
しまして、大 に 之 を祭 ら せ給 ふ こと二 十 一 日。即ち、闇黒十四年 一月二 十 一日 より
二 月十日までなり き。共より伊 瀬崎 に出 て、高天原 の 天 つ大御碑 に通 拝 ましまし
て赤祭らせ給ふこと二月十三日より同しき十九日まて七日。伊瀬崎より大湖津
に至り大湖の西漫を廻りて太場( )に出て大山麓の大谷を越え、小坂大坂を過
き、淀 戸より南奈度川 を経て、日 高宮 に還幸まし まし給 ふ。時に三 月三 日 なりき。
東征 の 役 起り て より平定 に 至るま て、皇軍 の 戦病死 者皇族七碑、将校三 十八碑、

卒 二萬五 千除碑、内病死者 五 千除碑 にし て、賊軍 の 戦 病死 者 将校 六十八 賊 内 病死十


三賊、兵卒 六萬八 千除 賊 内病死者、一萬五 千除賊 なり。又、白木 軍の 戦病死 者、凡一萬


五 千除、周國 の 援兵 凡そ 五 萬除 なりといふ。

三月十三日、宇家潤 不二 合世、碑皇第五十 一代、鵜 芽葺不合奪、諱 弾 旨共都男王奪 の碑


后 多摩 依里 里 女 奪、高千穂 の 宮 に於 て碑避 りまし ぬ。碑 后 は諱 を照玉里 女命 とい
ひ 海部雄 命の第三の女、母は、碑皇第五十代、鴨 芽葺不合奪 講岩 仲彦王奪 の第三の 皇
女碑 魂美女命にましましき。皇女身顔美里 女命は 碑后 の御遺髪を奉持し来 り て
第四章 後 紀 人 皇 二 一五
碑 皇 紀 二一六
皇太子に奉る。皇太子威博消 幕ましまして先つ悲しく遺髪を祀らせ給ふ。死に
事ふること 生に事ふるが如し。後 親ら之を奉持して、伊勢の度曾の宮に至り、父碑
皇の山陵に併せ葬りましましぬ。尋て御父母の碑霊を伊瀬碑宮と祀りまし左右
に宮を建て、左に 陸軍戦病死者の将校を 右に陸軍戦病死者の兵卒を祀りまして 共
に撮 赴大碑 とそ稲しける。又 海軍の皇族を初め将校兵卒の碑霊を津久島に併せ
祀りまします。之を海津住紳赴と稲しぬ。後 更に又共海軍の皇族を初め将校の
碑霊を山背園籠山に祀りまして貴船大碑と稲せしめ給ふ。共西海の戦没碑を祀
零。之 。 耐

りませる宮なるに因り、一に西宮大碑といひ 共籠山に祀りませるに因り、赤電山大
碑といふ。海軍の皇族とは皇兄即ち碑皇第五十 一代 競非葺不合奪の第二の皇子
天津稲飯 王命 同第三の皇子三毛野入野王命にましましき。
同時に又神代より高男命代々支配たりし揺津園の住吉に皇見即ち同碑皇の皇
太子海津彦五瀬王命の碑霊を祀りまして住吉大碑と稲せしめ給ふ。命に従ひ名
草戸に於て戦残ましましし功臣碑をも併せ祀りましき。(㎞)

第二 節 人 皇 歴代
第 一代 碑 武 天皇
第一 貧美都 と即位
碑武天皇は 幼名を、日 高佐野王奪と いひ 講を碑 日本磐余彦火 火出見天皇といふ。
碑代 宇家潤不二合須世 碑 皇第五十 一代、鴨 芽葺不合奪 講 弾兵都男王奪の第四の皇
子にましまして、母は 碑后多摩 夜里昆女奪 講 照玉 昆女命にまします。

紀元元辛西年二月十一日、天皇 大和國標 原の宮に於て、大御位に即かせ給ふ。是


より先、六月十五日 天皇は積年の争乱潮く平定せしを以て、日高宮に於て 皇族初め


諸将を倉して大事を議りましますこと七日。即ち積年の争乱 始めて平定したれ

とも 共除富 尚ほ多けれは即ち比地方の要衝を相して 帝都を奪め 以て共除常を鎮


むへ し。面して又、比地方は 我國の 中央なれは統治赤可なる べし、と議 愛に 決し ぬ。
是に於て天皇諸将を従へ 隣園各所を巡狩ましまして 帝都を奪むべき要衝の地を
相 しまし給ふ。即ち威傍山の東南隅なる撮 原の地こそ屈意 ならめ、とて日高宮に
第四章 後 紀 人 皇 二一七
碑 皇 紀 -
二一八
還幸ましましき。乃ち手力雄命 見早雄命に認 して普請奉行となし共地に宮殿を
造営せしめ給ふ。雨命 措 据 経営精を働 まし工 を圓り、遂に掘建家を造り 高 芽を以
て共屋根を そ葺きにける。乃ち功を奏す。稲 して 概原宮といふ。天皇 遷 りて 之
に止まりまし まし給ふ。乃ち高座 日多命を勅使 として、高天原に上らしめ 碑祀碑
宗天つ大御碑に参向せしめ、即位式を行 ひまさむとそし給 ひける。勅使高天原に
上り、勅旨を博ふ。時に、高天原惣 司令碑は 熱都 丹波彦命にまし ます。命は 大山祇
命五十九世の孫にましまして前惣司令碑阿津山男命の御子にましましき。護て

勅旨を奉し、高天原小室の宮守の宮 なる阿祀山大碑 宮の天つ大御碑の 御碑殿 に於


て御碑託を授け 賜はり、碑使として 三品の大御質を申受け、之を奉持 ましまして副


司 長初め数多の 宮守等を具して、勅使 と共に、標原 宮 に参向まします。則ち正殿に


於 て碑使熱都 丹波彦命は、天 つ大御碑の御碑託 に依り、天皇に講を波限建碑日本磐
、巻
余彦火 々 出見天皇と 賜はり、三品の 大御資を授け て、即位式を行は せ給ふ。終りて、
碑使熱津 丹波 彦命は、又、三品の 大御質を奉持し て、高天原 にそ還り上りましける。
面して即位の日 は闇黒の世十五年辛西二月十一日にして間黒園の悪魔を退散し
て、明 に 天 照園 と 成り ぬれ は、國 名を大 日本國 とそ 改め給 ひける。 又、年を 即位 紀元
一年と 改め、二 月十 一日 を紀元節 と 定め 給 ひき。
豊主別里女命を立て皇后となす。高座日多命の女にまします。諱を媛踏端五
十鈴媛奪と稲し奉る。高座日多命は碑皇第五十代 頼芽葺不合奪 講岩仲彦王奪の
第三の皇子にましまして碑皇第五十 一代 韓 芽葺不合奪 講弾 兵都男王奪の同母弟
にましましき。天皇 嘉資聴頼 にましませは、父碑皇風 に望を属し給ふ。天皇十五
歳の とき、全國大 に蹴る。父碑皇に従 ひ東征に就かせ給 ふ。偶 皇太子海津彦五瀬

王命の戦死ましますや、二 兄を措 いて、三十六歳にして皇太子に立たせ給 ひ、五十 一


(皇

歳 にて 全國を平定し給 ふ。是に至りて、標原の宮に於 て、天つ日嗣の天つ大御位に


-之

即かせ給ひき。(㎞

第一一 官制と法制
碑代よりの大國十八州、小國四十八國を魔し、更に東海 東山・北陸山陰 山陽・南海・西
海の七道を置く。即ち東海は伊賀( )伊瀬㎞ 足羽張三川遠久見 住留家
海伊佐賀見武佐志上富佐 下富佐(㎞)日田地(㎞) の十二道となし東山
第四章 後 紀 人 皇 二 一九
碑 皇 記 二二○
は大湖(㎞)見野日高( *『)志奈野(㎞)住和(㎞ )上毛下毛陸奥の八道
となし北陸は和加佐 (㎞)越地前 越地中越地 後 加川 佐渡 の 六道と なし、山陰は、太
場(㎞)田地間 稲葉(シ)穂木 出雲尾木(㎞)の六道となし山陽は針間
は、
(眠。)三間坂(㎞) 木日津(シ)阿木(シ)穴門(㎞)の五道となし南海は

木日(シ)阿和地向波(シ)佐貫本(㎞)伊代(㎞)土佐和(㎞t)の六道と
なし西海は筑前第後(㎞)豊前豊後(㎞)日前 日後( ㎞)日向
佐津 間 の 八道 と なし ぬ。

又大和(シ)山背川地泉水塩津の五道は御家内と稲し天皇の御領地と定む。

御家 七道の諸大國には國 造を置き、小 國には懸令を置き郷 には郷師を、村には村長


を置き ぬ。懸令 より 共所部を経て各農業を 勧めしめ 給ふ。先 つ弟滑 を 猛 田 懸王


に弟磯城を磯城懸王となす。又、全國を三十 一懸となし、三十 一懸令を置く。


官制 を 改革 し て、可 美 旨共 手 命、並 に天 日 方奇 日 方 命 を申 食 國政 大夫と なす。共に
國政 を 執らしめ 給 ふ。可 美 真 手 命は、碑皇第五十 一代競 芽 葺不合奪 の 左 大碑 太 玉
源波主命の第三の御子にましまして 幼名を太玉若道命と稲し後 表春機男玉命と
まる ス#臣***。ま。天皇5位の後 中臣シ*君命 と授け鳴ひ後、又可美 *
手年とをめ房 ふ。更皇の皇造 種ェシ“なし給ふ。天日方奇日方命は同碑
皇 の 右 大 碑、速 玉緒 命 の 第二 の 御子 にましまして、幼名を太 玉 大苦命 と稲 し、後、速玉
山田命と改め、又、中臣道臣命 と 改む。天皇即位の後、中臣武部道臣命と授け 賜 ひ 後
又、天 日 方奇 日方命 と 改め 賜 ふ。天皇の 皇妹武織媛命を妃 とし給ふ。椎 根津彦命
を 倭國の 惣 國 造と 貸し、國中碑 祇の 祭祀 の 事を 掌 ら せ 給 ひ、衆 ね て 民事 を治め しめ
給 ふ。椎 根津 彦命 は 伊 装 諾 奪第二 の 御子茶 日子命五十七世 の 孫 にましまして、海

軍惣司令頭長豊武力命の第一 の御子にまします。楽日子奪の子孫世々海碑と稲

し海軍の惣司令頭長の職を継承ましましき。五十六代豊武力命のとき 弟建勇命

強力男命・武力建命 手力強命・足早 雄命 知賢勇命 と共に、皇 兄 稲飯王命・三 毛野入野王


命の諸軍と力を合せ西海に於て自木及周園の大軍と戦ひ彼我共に沈滅しにき。
是 に至 つて、天皇 は 遺 子 椎 根津 彦命を以て、共 父祀 の 功 を 録し、帝都 所在 の 惣國 造と
なし、國中 碑 祇の 事 並 に 民事を 治め しめ 給 ひき。
中夫四人小夫四人の官師を置く。申食園政大夫に副へて政を司らしめ給ふ。
第 四章 後 紀 人 皇 二二一
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碑 皇 紀 二二二
即ち尾張田 彦命 課訪原彦命出雲彦命・大湖田 彦命、を中夫 に、日田地彦命 伊勢山田 彦
命 足柄彦命 武稲葉彦命を 小 夫に任し ぬ。
七道 五将軍を置く。即ち中臣道之雄 命を東海十二道の 将軍に、忌部 大建手命を
東山 八道 の 将軍 に、速玉 山田 命 を北陸 山陰十二道の 将軍に、宇津 彦命を 山陽・南海 十
一道の 将軍 に、椎 根津 彦命を西海八道 の 将軍に 任し給 ひき。
諸税 牧 納 役 を置く。大力太命を以て 之 に任す。命 は、諱を豊徳 知貴命といふ。
大己貴 命五 十 六 世 の 孫 にまし まして、大杉木 命の 御子なり。世々 遠久見國 の 國 造
たり。命、貸人聴 敏 にし て 知略あり。勅 し て、遠久見國 佐野 原 の 古 麻 の 宮 より、召し

て諸税 牧納 の 事を 掌 ら しめ、且つ 商法 の 道を 衆 庶 に教 へ しめ させ 給 ふ。居 を 標 原


宮の城上に賜はる。之を城上の宮と稲す。共地を三輪の里といふ。命に御子五

柱まします。大太力命佐野男命尾羽昨男命天香護山命(㎞) 菅野
-*
世諾命足なり。先に共に天皇に事へて東征に功あり。大太力命は識を太玉七峡
谷命と稲し、父 の 後を 嗣 きて、城上の宮 にまします。佐野男命は諱を白羽 鳥羽 命と
し*久見に『り三加達久見住留家の懸令となり父祀の居城佐野原吉魔の宮に
まします。尾羽 昨男命は譲 を吉笠見命と稲し 和加越地前後加川の懸令となり 野
登の宮にまします。三子共に 替力人に絶 く世に三勇士と稲す。又三宮を三輪家
とそ稲しける。天香護山命は越地後の國造となり。蒲原の伊夜の宮(㎞)にま
します。菅野 世 諾 命は、佐渡 の 懸 令 となり ぬ。
碑皇を人皇と 改め、政治家を家臣家と、軍碑家 を 武士家 といふ。農民家を農家と、
商法 家 を 商家 と、政治人 を家臣、と 軍碑を武士 といふ。農民碑 を農人と、商法 碑 を 商
人 と 定め給 ひき。
兵役を定む。即ち、皇族家臣 の外、武士農人 商人 にし て男子二 十五歳 より四十幾
まては等しく兵役に服すべきことに定め給ふ。但し元役、(㎞) は二十五歳
より三十歳ま て とし、将校 は、五十歳より六 十歳 ま てと 定め ぬ。
皇族は、天皇より別れて三代とし、三代以後は、臣家 又は平民と貸す。又、天皇の 御
紋章は、碑代の如く日輪に十六筋の光明を附 せるものと定め、皇后の御紋章も赤 碑
代の碑后の如く月輪 に五三模様の雲の形を附せるものと定め給 ひき。
農民全戸 病難なとに羅り、耕作の時期を失ふ者あらは、兵隊に命して之を助けし
第 四章 後 紀 人 皇 二二三
碑 皇 紀 二二四
むる法 を 定め 給 ひき。
租税 の 法 を定む。天皇親 ら耕して、租税を減 せ させ給 ふ。共法 に 目 く、租税 に二
種ありて、老 幼 男女を論 せ す 各人 共に頭分 に課す。即ち共 一 は、一人分 大概米 四合
とし、之 を 官省 の 経費 に充 つ。他の 一 は、一人分 米 一外二 合とし、共 一牛 を地方 及軍
備の 経費に 充て、一牛 を救荒の備と なし ぬ。面 して農人 一人の 作分は、凡そ 四十 束
と 定む。一束の粒、白米として 一斗 なれは四十束の粒 即ち自米四石 なりけり栗碑
豆変赤同 し。 - -
-

庶臣系統を紀し大夫以下諸官に 任すへき年齢を定む。語 に目く農民は天下の


大本 にして、諸人民の 生を保つべき 物を作り なすに因り、平民の 上等の 頭なり。故


に農民を保護 せ む貸め、大工 鍛治 漁者職人等 は、各武 事をも嗜むべし。兵隊 は、牛馬


の 牧を 預り、外 寂 あるときは、必 す先陣たる可 し。故に官より、常に 衣食を支給 す可


し と。
又、生来 宣人は子執 男女として、官舎 に住 ましめ、十五 歳に及 べ ば 教師 に附し て産
業を寧 はしめ、二 十五歳に及 べ は 一戸を 設け て住居 せしめ、以 て共父母 を養 はしむ。
又、父母 死して遺 子十五歳に及はさる者は官舎に住ましめて教育し、二十五歳にし
て共家 に還 住 せ しむ。又、人生れ て、十歳より諸藝 を寧はせ、十五歳より教師 に就き
て農 織 を 學 ひ、二 十五歳 より家 に還り て 共修 む所 を 行 ひ、三十歳 より 戸主と なる。
又、男女 婚姻 の 年齢 を定め ら る。即ち男は、二 十五歳以上、女 は一 十歳以上 と なしぬ。
男女共に 養する者は足の筋を超ちて子執男女となす。男女共に園事叛又は
主人並 に親 を 殺す者 は、大木 に捕縛 し置き、青竹 を以て 正面 左右 より 六 本突き て 突

き殺さしむ。又、男女共に、人を 殺す者は 斬首と す。又、男女 共に人を詐欺 する者は、


耳を殺き 届間に入 撃をなす。又父母の数論を守らすして私に婚姻をなす者は入

墨 を なし、且つ、法官議 し て、共男女 の 頭髪を斬り、衣服 を鍵換 せしめ、親族 の 縁 を 絶た


しめて 之 を追放 せ しむ。又、密 夫 は、雨 耳 を 殺 き、雨 類 に入墨 を なし、撃 丸 を 抜き て 追


放す。強 安数男、赤 同じ。密 夫 を 持ち たる女 は、雨 耳を 殺 き雨頼 に入 撃 を なし、官舎 に


於 て 子 執 女 と なす。又、浮 説流言を以て、政治 を妨害 する 者 は、耳 を 殺き て 子 執 と な
す。租税 不 納米 の 者は、鼻を 軒 り追放 せ しむ。
寡婦 五十歳以上 の 者は、共村の 教師 と なし、五 十歳以下の 者 は、子 執 女として共村
第四章 後 紀 人 皇 二二五
碑 皇紀 二二六
に養はしむ。生来魔族の者は男女共に将師の猿飼として薬法を試験 せしめ五十
歳以上に及 ひて 賢師となす。又、盲癌は 警師の教子として按腹し、並 に黄金の鏡術
を寧はしめ、三十歳 より接 腹をなさしめ、七十歳以上 にして鏡術 をなさしむ。又 機
多は諸”の猛獣を殺し、又、牛馬の皮を剥きて革を製し、衣服並 に、太鼓足駄等を製 する
ことを業となきしめぬ (㎞。
第三 論功と國造懸令
紀元二年天皇東征の功を論し大に賞給を行はせ給ふ。即ち第一皇弟阿田美雑

根津彦皇子を以て、日本 國の 惣國造首頭となし、且つ 國中の碑 祇の事を掌り、乗 ねて


民事を治めしめ給ふ。第二皇弟高座日本皇子を以て大和山背 川地三園の園造と

なし、且つ猛田大懸王となす。第三皇弟軽身大久保皇子を以て木日 撮 津二 園の園

造と なし、且つ 磯城副懸王とし、日本惣國三十 一懸 令 の 首 頭と なし共所部を経て、衆


ねて農功を勤めしめ給ふ。第 一皇子八井耳皇子を以て西海八道の 惣國造頭 及元
帥となし、築市島の高千穂の大御宮に止り 将軍に軍令を支配せしめ給ふ。第二 皇
子手研耳皇子を以て東海十二道の惣國造頭及元帥となし 不二山高天原小室の大

官に上り 将軍に軍令を支配さしあおふ、シリて正和㎞。)ょの委%にょ
ら せ 給 ふ。第四皇子 政 香 耳 皇子 を以て、北陸 山陰十二 道 の 惣 國 造頭、及元帥 と なし、
起の 波高演の大宮に上り将軍に軍令を支配せしめ給ふ。第五皇子碑淳川耳皇

*を以てシ十一シ及元ゅとなし*筆にシを支配せしめ=っ
天皇 の 御料地、伊賀・伊 瀬 の 國 造を 奪 ね しめ給 ひき。
皇族高知彦皇子を以て 土佐和( )の国造をなし皇族岩高彦皇子を以て佐貫

木(㎞)の國造となし皇族倉立彦皇子を以て伊代( ㎞)の園造となし皇族熊

山彦皇子を以て阿波( 、 )の園造となす 以上四皇子は神皇第五十代料茶 書 不合奪


#岩仲彦王奪の皇子にまします。皇族 川彦王を以て日向の園造となし%族東

以上三王 は、碑 皇 第四十九 仕、鶏 芽暮 不合 奪、諱旨共加 湖 彦 奪 の 孫 王 に まし ます。皇族


*
國 魔 彦王を以て 前 の 國 造 と なし、皇族 巨太 津 王 を以て、豊後 の 國 造と なし、皇族富
*
谷根 彦王を以て 豆前の 國造をなし、皇族大原 漫王を以て 筑後の國造となす。以上


四 王は、碑 皇第第 四
四十 代、鵜 芽葺不合奪 講 津 加 彦王奪 の 曾孫王 にまします。皇族太
第 四 章 後 紀 人 皇 二二七
利 & 11 人
日志 上 を以て 統帥 の 関 造 と た す。 王 は、神圣 彼 四 十 七 代號 班牙 哥 不合 衆議 制 他 被 王
佐 の 四 世 孫 王 に よし ます。 皇族 中 正道 是 沙 王 を以て 同 本 次 則 の 側近 と なす。 同
神 室 一世 孫 王 に よし ます

中文 尼 苏張明 縣 建 金 を以て、尼 苏 張 三川 の 国道 と なす。 天河 天 之 火 明 命 五 十 世


1

の 孫 に もし ます。 太 王曉波 王命 を以て逃 入 日 ,在留 家 の 国道 と なす。 天 之 太 王命


五 十 三世 の 孫 に よし ます。 這 正之 總 會 を以て 流 排 在 欧元 の 関 紙 を なす。 大 山脈


金 五 十六 世 の 孫 はまします。 玉 前 德 金を以て上位 作 下位 作(柳 “)の 関連

た す。 前 王命 の 御子 玉 前 男 命 五 十 二 世 の 孫 に まし ます。 小 夫 日 田地 武功 命を 以
で日 田地 の 武器 と た す。 武 神龍 會 正 十 三 世 の 孫 に まし ます。 小 夫 大湖 武 在 《 命

を以て大 湖北 野 の 知道 と た す。 雅 武王 命 五 十 四 世 の 孫 に ましょ し ます。


中央 政府 建功 命 を以て 日 高志 东野( * *) 在 和 の 制造 と なす。 建物 名 方 命 五
十 三 世 の 孫 に まし ます。 小太 常 作 地 會 取 命 を以て武 在 底 の 国道 と なす。 經 注 主
金 五 十 二 世 の 孫 に よ しま ます。 能 從 部 小 四 足 命を以て上手下手 の 国道 と なす。
經常 主命 五 十 四 世 の 孫 に まし ます。 小 夫 體學 武 命 を以て陸奥 の 関 道 と なす。 陳
基託彦根命五十四世の孫にして陸奥陸津彦命の嫡孫にまします。中臣天日 質知
王明命を以て和加佐 越地前の園造となす。日子火火出見奪の第三の皇子若武里
古 命五十 一世の孫 にまします。太玉七峡谷命を以て、越地中の國造となす。大 己
貴命五十六世の孫豊徳知貴命第一の御子にまします。天香護山命 (㎞
㎞)を以て越地後の園造となす。大己貴命五十六世の孫豊徳知貴命の第四
の御子 にまします。中臣道照王命を以て、加川の 園造となす。伊装 諸命五十七世
の 孫 に まし ます。小 夫 丹 馬 但波 命を以て、丹波 の 國造と なす。大己貴命五十四世

の孫 にまします。大臣表春撮 男玉 命を以て、田地間・稲葉の國 造と なす。日子火 火出


見奪の第三の皇子若武里 古 命五十 一世の 孫にまします。中夫出雲大碑主命を以


て出雲足木の園造となす。祀佐男命五十五世の孫にまします。小夫鮮間突撃

命を以て針間三間坂(㎞)の國造となす。大物主命五十六世の孫にまします。
中臣政屋多知玉命を以て 木日津(㎞)の園造となす。顕園玉命五十三世
の孫にまします。橋明玉命を以て伊岐(㎞)の園造となす。橋明天手長命四十
六世の孫にまします。和多都美命を以て津久島(シ)の園造となし ぬ。

第 四 章 役 紀 人 皇 二二九
-
神 紀 -
三o
伊 和 武明 命 を以て、小 國 社 開 の 武道 と なす。 大物 主命 五 十 六 世 の 孫 に まします。
景 福 在 男 命 を以て、小 國 阿 那 度 の 国造 と なす。 小 名 用 古郡 命 五 十 五 世 の 孫 に まし
* す。 開閉 式命を以て小銃前 の 国道とた す。 李 代 主命 王 十 五 世 の 孫 にまし*
す。 海 神武 命 を以て、小 國 在 佐 の 武道 と なす。 王 在 公元 十 世 の 孫 に まし ます。
美 其 作用 金 を以て、小 國術 和 の 武道 と なす。 隨 國王 命 の 孫中山 莊 市 命 五 十 二 世 の
孫 にまし ます。 下大原 金を以て小 國 下記 の 武器 と た す。 戰隊 入 北市 命 の 五 十
四 世 の 孫 に まし ます。 正 前 生命 を以て、小 國 上 常住 の 関 造 と なす。 前 王命 の 御子
爾帕

王 金五 十 三世 の 孫 にまします。 機械 式命を以て は彼 の 図書 きたす。 五 +


些酶

延命 の 御子 伊人 修 命 五 十 一 世 の 孫 に まし ます。 建部 用方 術 を以て、小 國 大湖 の 関 造

とた す。 幕 式 H 金 五十 五 世 の 孫 にまします。 高祖先 念 を以て小 鳳 山 太 の 武器 と


なす。 雅 武王 命 例子 離 主 王命 五 十 四 世 の 孫 に まし ます。 其 波多 金 を以て、小 國 母


波 の 頭 部 を なす。 雅 主 王命 の 御子 武 如 王命 五 十 三 世 の 孫 に まし ます。 最 优秀 會
を以て小 國 性和 の 国道 とた す。 伴 有名 方 金五 十 五 世 の 孫 に، します。 水手如
命 を以て、小 國 志 交野 の 関 造 と なす。 建 初 名 方 命 の 御子 建 海王 命 五 十 四 世 の 孫 に
まします。伊奈 武男命を以て、小園地久間の 國造となす。建御玉 命の 御子建勇王
命五十三世の孫にまします。香取武命を以て小園下 佐の園 となす、シ
命五十五世 の孫 にまします。太田別 命を以て、大火島八島 の國造になす。経津 主
命の御子経武里古命五十三世の孫にまします。鹿島武男命を以て小園日田地の
園造となす。武班種命の御子武強王命五十四世の孫にまします。類雑牧聞命を
以て、小國佐津間の國造となす。職 土老翁命五子醸 男命五十二世の孫武作男命第
一の御子武長男命の御子にまします。見掲都農命を以て小日日向の園造となす

武作男命の第三の御子にまします。阿蘇彦命を以て、小國肥地の國造となす。豊

玉武里 古 命の 孫碑 佐男命五十三世の 孫にまします。田村香川男命を以て、小國佐


貫木の國造となす。興玉 命の孫武知王命五十二世の孫にまします。土佐主命を

以て、小國 土佐 の 國造となす。味拒託彦根命の御子高加茂王命五十三世の 孫にま


します。名草武器命を以て木日(シ)の園造となす。石堀留日命の孫日前玉命
五十二世の 孫にまします。大物忌 命を以て出 羽島の國造となす。稲 斉魂命五十
三世の孫にまします。答志玉命も以て尾羽里志間の國造となす。大國玉命の 第
第四章 後 紀 人 皇 二三一

碑 皇紀 二三二
二の御子量 清太男命五十二世の孫にまします。
又*征の軍功に依り 全國三十一懸に三十一懸令を選任させせ給ふ。即ち 手置
シ 命を以て雨丹田の懸令となす。日子火火出見奪の第三の皇子若武里古命四
十九世の孫にましまして田島㎞の繋胞の宮に止り給ふ。天叫押別命を以て、
雨美針作の懸令となす。大物主命五十五世の孫にましまして尾羽張の中島より、
*『のシ和の営に移りて正り給ふ。村雲長小田命を以てシ本の 令
となす、佐之男命五十六世の孫にまします。日質気留木彦命を以てシ

の懸令となす。太基祀命五十三世の孫にまします。香立橋男命を以て紀泉津の

懸令となす。天見屋根命五十六世の孫申食國政大夫物部天日方奇日方命の第 一

ひら おか
の御子 にましまして河内の宇地原枚 岡の宮に移り止り給ふ。御鮮倉魂命を以て、

筑前後の懸令となす。太眞祀命の第二の御子崎玉男命五十世の孫にまします。
、木股佐楽長命を以て 霊前後の懸令となす。醜男命五十三世の孫にまします。大
太長川命を以て日前後の懸令となす。阿曾彦命五十三世の孫にまします。御
シ建命を以て日薩の懸令となす。経津八千剣命を以て伊代の懸令となす。夫
山祇命五十四世の孫にまします。岩折天野 楽屋命を以て佐貫木(㎞)の懸令と
なす。興玉命の子田村彦命五十二世の孫 にましまして世々 同國香川の田村の宮
に止り給ふ。武内種別命を以て土佐和( “)の懸令となす。味拒託彦根命五十
四世の孫にまします。八衛隅川命を以て阿波(シ 『)の懸令となす。作田 昆古命
玄孫言勝彦命講 尾羽張田彦命五十七世の孫 にましまして同 國板野大麻の宮 に止
り給ふ。天野填土船命を以て大湖見野の懸令となす。稚武王命五十五世の孫に
まし まして、栗本野建部の 宮 に 止り 給 ふ。言勝 國 日 命を以て二 伊 尾の 懸 令となす。

玉 柱 屋命 五十 一世 の 孫 にましまして、島 の答 市 伊射崎 の 宮 に止り給 ふ。飼 食眞幸


命を以て、日志 住の懸令となす。高照姫 命五十五世の 孫 にましまして 日高大野の


宮 に止り給 ふ。白羽鳥羽 命を以て、三遠 住 の 懸令と なす。大 己貴命五十六世 の 孫


豊徳知貴命の第二の御子 にましまして世々 遠久見國佐野原古麻 の宮 に 止り給 ふ。


高雄頭山 命を以て、海佐賀見 の懸令となす。大山祇命五十六世 の 孫 にましまして、
不二山 高天原小室の 宮 に止り 給 ふ。御 鉢 海 漫 命を以て、武 雨富佐の 懸令と なす。
天太玉 命五十五世 の 孫申 食 國政 大夫 倉我可 美 真手 命 の第二 の 御子 に ましまして、
第四章 後 紀 皇 二三三

碑 皇 紀 二三四
上富佐國 安房崎安房の 宮に移り て止り給ふ。長道八百路命を以て、雨毛の懸令と
なす。豊城 入 昆古 命の孫二荒男命五十三世の 孫 にましまして、下毛 國河内の 二荒
山の宮 に止り給 ふ。法 諾麻立命 を以て、日田地 の 懸令と なす。武響 植 命五十四 世
の 孫にまし まして、世々 同 國鹿島の宮 に止り給 ふ。明王弦 命を以て、陸奥國の懸 令
と なす。味 拒 託 彦根 命五十四 世 の 孫 に ましまして、世々 同國 白川の 宮 に止り給ふ。
吉 笠見命を以て、和 加越 地前後 加川の 懸令と なす。大己貴 命五十六 世 の 孫豊徳知
貴命の 第三 の 御子 にまします。菅野世 諾 命 を以て、佐渡 の 懸令と なす。大 己貴 命

五十六世 の 孫豊徳知 貴命第五の 御子 にまし まして、天香 護 山 命 の 弟なり。香船若


島命を以て津久島の懸令となす。豊玉武里古命五十三世の孫にまします。清野

三品命 を以て、蝦夷 の 懸 令と なす。、稲倉 魂 命 五十二 世 の 孫 に まします。天野狭 切


権 命 を以て、尾岐 の 懸 令 と なす。須 勢理 姫 命五十三 世の 孫 に ましまして、知府由良

の宮 に止り給 ふ。香山 悟 命 を以て、伊 岐 の 懸 令と なす。揃 明天 手 長命 四十六世 の


孫 にまし ます。海原 武勇命 を以て、西 千島 の懸令と なす。臨土 老翁命 四十八世孫
“します。シ倉を以て南海鳥の異令となす。海守部命五十三世の孫に
まします・ 大海鳥島武命を以て大火高島の懸令となす。大山祇命五十五世の孫
にまします。(㎞)
第 四 陸 守と海 守
天皇は諸 の州園の要衝の地に 陸守本営本陣を 請”の海漫の重要の水門 に海守本
営本陣を設け、各本営に元帥を置き以て全園を守護せしめ給ふ。乃ち、先っ海 守の
大本営を、全國三箇所に設け 副本営副本陣を十二箇所に設く。 即ち 津野 ")の
水門に海守の大本営大本陣を設け、武勇男命を以て、之 が大元帥となす。命は 楽日

子命の曾孫豊玉彦命の第二の御子佐津眞男命五十二世の孫 条原武命の第二の御

子におします。共大本営を住吉の宮といふ。中之島㎞。土佐和野(㎞。

の水門に海守中本営中本陣を設け 高照武命を以て 之 か中元帥となす。命は 豊玉


彦命の第六の御子玉懸彦命、五十世の孫 津木島都命の第 一 の御子 にまします。共


中本営を高加茂の宮といふ。築市島豊野の宇佐の水門に 海 守大本営大本陣を設
け、武田建命を以て、之が大元帥となす。命は豊玉彦命第七の御子石田明命 五十世
の孫 天明玉命の第一 の御子にまします。共大本営は紳代宇家測 不二合須世 の海
第四章 後 紀 人 皇 二三五
碑 皇 紀 二三六
守大本営を再興ましませるに因り 祀古都八 ッ 幡の宮といふ。比等を海 守三大本
*大本陣と稲す。面して三大本営に 守護鎮守神として滞都 三神を祀る。即ち
津野大本営なる住吉の宮に上津都王碑(㎞ *)を土佐和野の中本営なる
高加茂の宮に中津都王碑㎞ *)を宇佐の大本営なる祀古都八ッ幡の宮
に加古津都王碑(㎞ )をそ祀らせ給ひける。上津都王碑は天之世天之
紳七代の大御 碑 にましまして、中津都王碑は、天之御中世 火高見碑十五代の大御碑
にましまして祀古津都王碑は高天原世天碑七代の大御碑にましましき。

本島南海伊瀬崎の水門 に、副本営副本陣を設け 岩佐武命を以て、之か副元帥とな


す。命は豊玉彦命の第八の御子羽茂猛命 五十世の孫五十猛命 ㎞ )の第


三の御子 にまします。共本営を度海の宮といふ。本島東海三崎の水門に副本営

副本陣を設け、高御座男命を以て、之か副元帥となす。命は豊玉彦命の第三の御子
日野前佐武命 五十三世の孫 佐嘉彦命の第二の御子にまします。共本営を三浦の
宮といふ。本島東海奥野の水門に副本営副本陣を設け武刀男命を以て Nか副元
帥 となす。命は豊玉彦命の第四の御子大阿佐彦命 五十二世の孫阿和板野命の第
日。 子にさします。基本*を遠基の常といふ、本
シ武勇命を以てNが副元帥となす。。
十二世のシリ命の第二の御子“
シ門の水田に 本シ
は 正彦命の第六の御子玉シ。
にします。基本松を佐渡の常といふ、中之シ
シを は大麻を命を以てNが副元帥となす。 。
っ一〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^

シ五十世の 五十猛命の第二の御子に“れます。。
市の東海津久#野の水門に副本シ。

か となす。命はB王彦命の第五の御子那珂三シ十二『。
の御子にまします。基本巻は神代字家河不二合の

しませるに回りシの宮と名けぬ。築市g南シ
本陣をBけ*生命を以てこれが元帥となす、シ。シ
シリ命正十二世の孫楽魔武命の第一の御子にまします 。
二三七
-
第四章 後 紀 人 皇
碑 皇 紀 -
二三八
不二合須世の家古島の宮を再興ましまして大住の宮と名け ぬ。築市島西海長崎
の水門に副本営副本陣を設け、大長日命を以て、Nか副元帥となす。命は豊玉彦命
の第三の御子日野前佐武命五十三世の孫佐嘉彦命の第一の御子にまします。共本
*は神代字家測不二合須世の長崎の宮を再興ましまして日佐前の宮と名けぬ。津
久シ)なる碑代よりの本営に副本営副本陣を設け 和多彦命を以てNか副元
師 となす。命は興 玉彦命の第六の御子玉懸彦命、五十世の孫 津木島都命第 一の御
子 にましましす。共本営は碑代の天都渡見の宮を再興ましませるものにして和
太都住の宮と名けぬ。伊岐島(㎞)なる碑代よりの本営に副本営副本陣を説け、
天手長男命を以て N が副元帥となす。命は鶴玉彦命の第七の御子石田明男命 五
十世の孫天明玉命の第二の御子にまします。共本営は紳代の天渡都手配の宮を
再興ましまして石田明の宮と名けぬ。佐渡島なる碑代よりの本営に副本営副本
陣を設け、渡津男命を以て、之れがが副元帥となす。命は興 玉彦命の第八の御子羽
シ命 五十世の孫五十猛命の第一 の御子にまします。共本営は碑代の天渡都見
の官を再興ましまして渡都羽茂の宮と名けぬ。比等十二箇所を海守の副本営副
本陣 と 稲 し 給 ひき。
又、陸 守の 大本営大 本陣を、全國三箇所 に 設け、副本営副 本陣を三十六箇所に設け、
大本営 に大元帥 を、副本 営 に 副 元帥 を 置き ぬ。面 し て大元帥 副元帥 は、碑 代 より世
々十 七軍碑家 にましませるものの 一族中、武勇 あるもの を 選 み、三年毎 に交替 を な
-
さ しめ 給 ひき。
即ち 大和野(シ)の城上に陸守大本営大本陣を設く之を三輪の宮といふ。日
田地野の魔gには守大本**本陣を設く、之を鹿島の宮といふ。日野の同撃山
皇、耐

に陸守大本営大本陣を設く。之を阿蘇の宮といふ。比等を陸守の三大本営大本
陣 と 稲 し 給 ひき。

川地野(㎞。『)の河内に副本営副本陣を設くNを牧岡の宮といふ。尾羽張野

の中島に副本営副本陣を設く。之を眞清田(㎞)の宮といふ。遠久見野の佐野
に副本営副本陣を設く。古登眞地( )の宮といふ。伊須野 )の加茂に副
本営副本陣を設く。之を木見佐和 の宮といふ。佐賀見野の高天原に副本営副本
陣を設く。之を碑都阿祀山谷高座の宮といふ。武佐志野の阿 太地野に副本営副
第四章 後 紀 人 皇 -
二三九
碑 皇 紀 二四○
本陣を設く。之 を日川の宮 といふ。富佐野 の初生 に、副本営副本陣を設くっ 之を
玉前の宮といふ。奥野の自川 に、副本 営副本陣を設く。之を都々古和家の宮とい
ふ。上毛野(㎞)の碑楽に副本営副本陣を設く。之を貫前の宮といふ。下毛野
㎞)の河宇地に副本営副本陣を設く。之を二荒山の宮といふ。志奈野の湖端
に、副本営副 本陣を設 く。之 を 住 和 の 宮 といふ。大湖 野 の 栗本 に、副本営副本陣を
設く。之を建部の宮といふ。越地前(㎞)の鶴家に副本営副本陣を設く。之を

気日の宮といふ。越地後(㎞。)の碑原に副本営副本陣を設く。之を天野香護山

の宮といふ。能登野(㎞)の初昨に副本営副本陣を設く。之を木太の宮といふ。
太場野(㎞)の桑田に副本営副本陣を設く。之を三穂津の宮といふ。出雲野の

杵 筑 に、副本営副本陣を設 く。之 を出雲の 宮 といふ。尾木野の 安濃 に副本営副本


陣 を 設 く。之 を 物部 の 宮 といふ。見野 の 苦東 に 副本営副本陣を 設 く。之 を中山


石上都 の 宮といふ。穴門 の 豊浦 の 佐渡 に、副本営副本陣を 設 く。之 を玉 祀 の 宮と
いふ。木 日野 の 名草 に、副本 営副本陣 を設 く。之 を 日前 の 宮 といふ。奥野 の 中谷
に、副本営 副 本陣 を 設 く。之 を 曾 津古 呂 川 の 宮といふ。羽 崎野 の 海島 に、副本 営副
本陣を設く。之を大物主の宮といふ。木日津野(㎞)の加屋(転**)に 副本管副
本陣を設く。之を中山の宮といふ。海伊の山合に副本営副本陣を設く、之を海
伊谷の宮といふ。日高(㎞)の大原に副本営副本陣を設く。之を水無の宮とい
ふ。稲葉 野 の 朝見 に、副本営副 本陣を設く。之を宇都の宮 といふ。伊瀬野 の阿部
野 に、副本営副 本陣を設く。之 を阿 國 の宮といふ。比等三十六箇所を、陸 守 の 副本
営副本陣と稲し給 ひき。(㎞。『 )
第五 政治と祭祀
紀元二年、全國 一般悪疫流行し、人民多く磐 る。乃ち認して、農民の毒命を諮はし
め給 ふ。百歳を過る者なしと。又、食物房事の度数を諸はしめ給ふ。規律なしと。
天皇大に寝標を悩めしめ給ひ 途に共法を定めしめ給ひき。認して宣りたまはく、
天下の大病の原因は 食物房事より大なるはなしと。大夫中夫小夫に勅して 之を
天下に周知 せしめ 給 ひき。乃ち大夫は、見屋八島手 命外三十四 人をして、諸 國を巡
歴 し て、食物の分量、並 に居 事の 度数 を説 論 せしめ らる。共法に 目 く、七八 歳までを、
ッラ と稲して一合。八歳より十三歳までを ッチキと稲して二合、十四歳より
第 四章 後 紀 人 皇 二四一
t 己
二四二
二十歳までを、イカシと稲して三合。二十歳より三十歳までを、 ャリと稲して四
日。三十歳より五十歳までを、マスラと稲して五合。五十歳より七十歳までを、ス
ケと稲して四合。七十歳より九十歳までを、マスケ と稲して三合。九十歳より百
十歳までを、チス と稲して三合。百十歳より百五十歳までを、マチス と稲し て三合。
百五十歳より以上を、サキァと稲して三合。と定め給ふ。合の字を用ふるは共大
概 なり。面して 房事の度数は、イカシ までは房事をなすべ からず。 ャ リは 一日
下り、マスラは二 日 下り、スケは四 日下り、マスケは六日下り、チス は九日下り、マチヌ

は随意と そ 定め 給 ひける。

天皇群臣大夫と議り 年中の儀式祭日等の恒例を定め給ふ。即ち年始祭典並に

宴曾に付て、一月 一日 は、天 つ大碑 皇祀大碑、二 日は外 祀碑、三 日は諸大中小臣、四日 は


御自身五日は諸官員六日は農民七日は戸長八日は兵隊九日は牛馬十日は山岳十

一日は河川、十二 日は海洋、十三日は萬物 豊年祭となし ぬ。又、年中祭日 に付て、一月
十五日、松に勝木に竹梅花の門代を作りて玉栗餅を製し、二月二日 桂柳の門代を作
りて落 の餅を製し、三月三日 柳機の門代を作りて器 魔子餅を製し四月四日 瑞葉卵
見花の 門 代を作り、様葉 の 餅 を製 し、五 月五 日、日限、木 草 満 の 門代を 作り、茅の尾毛 鮮
を製し、六月六 日、格 蜂 花の門代を作り、運葉の 鉄 を製し 七月七日、千橘 樹 の門代を作
り、碑桑葉の餅を製し、八 月八日、根着萩花草花の門代を作り 稲餅焼米を製し、九月九
日、御木菊花の門代を作り、柿餅を製し、十月十日 線葉木の門代を作り、十種の新穀を
飯 に 炊き、十月三十日、山 椿松柏の門代を作り、俳 米に荷変の玉鉄 を製し、年碑に捧け

奉ることを定め給 ひき。
又、勅して衆庶の家屋を建築す へき地所 井に家屋制度を定む。又 内侍を造営し

て、天碑地祇を祭祀し給 ふ。又、全國 一般 毎戸に碑 棚を設け、碑 祇を祭祀す へき令を


布 かせ 給 ひき。
又、勅して人生 一世の勤務を定め給 ふ。共法に目く。ワラ 男女は之を撫育し、
ッナキ男女は力招を教 へ、イカシ 男女は家業を教 へ、 ャリ男女は家業を勉強 す へ
し、マスラ男女は戸主たれ、スケ男女は官員たれ、マスケ男女は郷司たれ、チス 男女は、
國主たれ、マチス 男女は宮内に奉仕 すべしと。又、勅して息長道 守男命外五十名を
文官 に、日別 湖武雄命外五十二名を武官 に任し、天下を巡 祀せしめ、事勝木採男命外
第四草 後 紀 人 皇 二四三
碑 皇紀 二四四
四十八名を諸工長に 植安道明 彦命外三十八名を勧農頭に任し、天下を巡 祀 せしめ
給 ひき。
天皇 親ら公田 を耕転ましまし給 ふ。皇族諸 大臣等、是 に倣 ひ各 田 を耕転し、以 て

窮民をそ救位し給ひける。

紀元四年四月、天皇 高天原に行幸ましまして、天つ大御碑を祭らせ給ふ。先つ、宇

津峰山西尾崎鳴澤山 の金山 に鎮ります天孫二 柱碑の御陵の岩戸を啓かせ給 ひ、二


柱の碑霊の 止りまします御霊石を 高天原惣司令碑熱都丹波彦命をし て奉持 せし

め、小室の宮守の宮 に遷し 祀らせ給 ひ、二柱の碑に、天日子火環 々 杵奪 木花咲 耶姫奪


と諡し給ふ。又中室の麻呂山に鎮ります天都大日霊碑に天照大御碑と諡し 次に

加茂山 に鎮まります寒川昆古命 宴 川昆女命に、大山祇命 別雷命と諡し、且つ泉仙山


古 峰 に鎮ります作田里 古命 熱都山の笠砂の尾崎峰に鎮まります伊井諸奪伊 装 典
奪 機山宇津峰 に鎮ります高皇産霊碑 碑皇 産霊碑、小室鳴澤の上なる菅原に鎮まり
ます國狭植 奪國狭 比女奪の各碑前に於て、親ら祭祀の濃を行は せ給ふ。所請不二
山高天原の七赴大碑足なり。次に小室中室大室に鎮まります八百萬碑にして國
に 残 功 ある 碑 々 に 各 設をなし 給 ふ。尋 て、高天原諸、の天 っ大御碑の宮守司 首 を、熱
都 丹波 彦命 に命 し、共 守護 を 貸さしめ 給 ひき。是 より更に、東北 の 諸 國 を巡幸まし
まして六月十五日 標 原の宮に還幸ましまし給ふ。爾来、大祭日には奉幣の勅使を

遣は し て、祭典 を 行は し むる こと に定 させ 給 ひき。同月、鳥見 山 に、高天原 阿 祀 谷 に


*へへヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

鎮り まし ます天 つ 大御 碑 の 通 拝 所を 建て させ 給ふ。天皇 皇后、毎月 一 日、十五 日、遥


拝所 に 行幸まし まして、親ら通拝 祭祀 の 濃を 行は せ 給 ひ、終り て 高天原 に 向 ひ て、濃
拝 まします こと に 定め 給 ひき。八 日 帝都 より 高天原 に、参詣 道 を そ開か せ 給 ひけ
る。
九月中九 日、天皇勅 し て 大賞曾 を 行は せ 給 ふ。大臣演 荻 命、中臣 忌部 八重垣 命、思
奪 堅石彦命等之 を掌 る。息長津玉垣命を祭主に任し、以下共職を奉 する者九十六
人。先っ 産上に塩を築き碑座を設け弓矢太刀剣 組布競物山野の葉類洋海の昆布
大小 魚・米酒 変 酒 青白 幣 を 供 へ、榊 に、大鏡を 六 面 小 鏡多数を掛け、瑞 柱 に、大小 の 曲 玉
を掛け、厳柱 に、八 色の 絹布を 掛け、疑水 を女 桶 に、臨水 を男 桶に容れ て 之 を供 ふ。二
十 四 人 の 舞人、鍛錬 種 時 苦田 採・田 植草 取 泥 播・水分 争穂 牧納 依 入等 の 四季 の 農事を歌
第四章 後 紀 人 皇 二四五
碑 皇紀 二四六
舞 す。共度毎 に、四季 の 祀詞を唱 ふ。次 に、八人 の 虜 女、青白 の 幣 と 五十鈴 と を 持ち
て 歌舞し 奉る。時に、天皇 親しく幣を 振 ひ手 を 拍 ち て碑座 を 拝し 給 ふ。大臣 中臣
^〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

等、紳 ㎞ を供 ふ。時に、奏楽終りぬ。愛 に 一群 の 舞人、脳面 の木 面 を着け、身 に襲を纏


ひ 手足を建に包みし者出てて共碑候を奪ひ盗まむとしけるを 多数の農人駐け来
り て 之 を伐 つ 状 を、並 碑 楽に て 舞 ひ にける。終り に、顧者皆 な農人 に 殺 されける 趣
肩。
*リ

を 演し、木 面並 に襲 葬 等 を積み重ね 火を放ち て、之を焼く。祭主以下築人 各 座 に着


く。酒鎌 を 賜ふ。是 より、毎年九 月中 の 九 日 を、定式 と 定め 給 ひき。

紀元五年 帝都より御家七道に道を開かせ 賜ふ。(㎞)


第六 惣國碑 赴

天皇は紀元五年より、七年に至る三年の間。勅使を諸。の國

鎮 り ます碑 赴を、調査し て改め 祀らしめ給 ふ。之を


即ち、不二山中央高天原阿祀谷に鎮ります大御赴は高座大碑 空川大碑 高澄大碑・
天照大神 根元野大神宮守大神山守大碑の七赴惣名元宮阿祀山太碑宮撮軌二百五
十赴 未赴三百五十赴まします (㎞
*** * ** * 大 神木 正七 武 * し * ? )* ?は 武器 大
執 導航 11 ·本社 主 祀 * し まして、文、加 成 神社、木 儿 园 社 よし ます。 而 地 に 繰り ます
は、河內大神、末社 十 二 航 まし ます。 張 性 の 図 に 鎮 り ます は、在 古 神社、末社 人 社 まし
*す。(私鉄º
伊賀 國 に 飾り ます は、金山 神社、末社 王 蛇 * し ます。 伊 涛 國 に 飾り ます は 合 山大
神號 航 < 社、末社 11 十 四 社 よし まして、文 使 合 神社、末社 四 社 よし ます。 同 國 是 初 里
島 に 飾り ます は、志 間 神社、末社 11 ㎢ * し ます。 是 初 飛 因 に 飾り ます は 異常 出 大神、
張 獻 公社、末社 十 二 社 まし まして、文、津島 神社、末社 十 二 社 よし ます。 這次 見 國 に 独

り ます は佐野 神木 正八祖*し ます。 作曲家間 に飾り ますは 不 大 神龍 1+


Ż

六 社、末社 也 十 二 社 よし ます。 海 牛肉 に 飾り ます は、海 世 神社、瑞 社 十 二 紀 末社 三 十


六 社 よし ます。 在 松 比 國 に 独り ます は、大山 在 大神、蘇 祿 二 十 六 社、本社 也 十 六 社 4

し ます。 此 作 亦 國 に 飾り ます は、日 加 和 神社、瑞 社 四肢、末社 十 二 社 よし ます。 在 ! -



國 に 飾り ます は、武王 大 神木 麻 + 大社 よし まして、文、香取 大師、末社 十 八 社 よし ます。
== 地 に陥り ますは 大 神木 正1+ ニ 僑 * **(關 。
第 四 章 務 和 < 二四
-
-
魏 息 般 11四 人
大湖 國 に 鎮 り ます は 建部大 神木 武 十 二 社 まし ます。 民 呼 國 に 飾り ます は 南宮
神社、末社 子 二 社 まし ます。 目 高 國 に 鎮 り ます は、水 無 都 尉 社、末社 十 二 社 まします。
ホ 交野 國 に まし ます は、住 和 大神、未 就 十 二 社 まし ます。 至 距 國 に 飾り ます は、貴 前
大神 来 就 < 社 まし まして、文、二 帝制 施 本社 入社 * し ます。 陸 奧 國 に飾り まし ます
は 都 タ 古河 神社、末社 三 十 二 社 まし まして、文 同 國 出 羽島 に 飾り まし ます は、阿久 海
神龍 太 祖 大 胜 * し ます。( **)
越 地 國 に 飾り ます は 高橋 頭 龍城 社 大社 本社 子 一般 よし まして、文 护 城 老師 範本

社 人 航 さ し ます。 佐渡島 に 鎮り ます は 渡 都 在 神社 報社 11 試、未 就 11 試 まし ます。


以上、北
映º
Ż

太陽 國 に 飾り ますは 豊 受 大 神職 社 十 二 社 本社 四 十 社 よし ます。 田地 間 國 に 独

り ます は 阿 和 鹿 大神、標註 十 二 社 本 航 一十 六 社 まし ます。 她 獲 國 に 飾り ます は後
蘇 美 神社 本社 人 社 よし ます。 出雲 國 に 飾り ます は 出雲大神 職能 士 入社 本 航 也 十
大正 し まして 文大 國大神無敵 人 社 東証+ 11話 まし ます。 太 常見 國( **)に集
りますは 安慶 雲 社 本 記入社 *し ます。( *)
* 『僕 」 * ? ”字 和 大 神靈 址 四 元 末社 + *し * * 『 仮説 『
に 触 す ます は 中山 大 神木 叶 + 11 試 *,し ます。 本 日常 困(乾酪 º *) に 集 》 * ア に 加
屋 神社 本社 十 二 社 まし ます。 大門 國 に 飾り ます は、玉 和 大神 来 就 十 二 社 まします。
(韓 )
木 日 國 に 独り ます は、日前 大 神木 社 十 二 社 まし ます。 阿 和 地島 に 飾り ます は 大
御 神 大神號 航 公社 本社 十 六 社 まし ます。 阿波 國 に 飾り ます は 阿 和 大神 来 就 大社
まし ます。 佐賀 本國 に 飾り ます は、田村 大神、未 記 十 二 社 まし ます。 伊代 國 に 飾り
和中

ます は、三島 大神 號 航 大 熊本 社 十 二 航 まし ます。 主 在 國 に 鎮り ます は高 加茂大神、


些過

来 证 + 1話 まし ます。(體 。*)
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地 阿 姆聯繫。)に飾りますは 既婚禮服 器 是 四 點來記+大 胜*します。 翌地


國 に 飾り ます は 作 原 大 神職 社 十 八 點 來 就 回 十 八 社 よし ます。 目 地図 に飾り ます
は 阿蘇 大神 論証 十 八 社 本社 四十八 點 * し ます。 目 而 國 に 鎮 り ます は、都 應 大 神職
社 也 十 五 社、末社 11 百 二 十 點 まし ます。 佐 世間 國 に 飾り ます は、牧師 大師 張 政 四點、
来就 十 六 社 * し ます。(戰 “ )
第 四 章 後 和 人 11月为
神 Ç 級 11 五O

#巴一

~~~~
"たト •
津 久島 に飾り ます は、和 太 都 在 神社、瑞 在 四 社、末社 十 八 點 * し ます。 伊波 (?


耐.:
順İ.
烏 に 飾り ます は、大手 反 明 神社、瑞 社 四 社、本社 十 六 社 よし まして、文房 組 都 称 1山
八 社 * し ます。(學。) -•
-_
三 十字 加 年始めて日本 問 を 吸 抚州 と 親 し 結ぶ。 四 十 二 千瓦 年 1 月 1 日 神祭
第5

名 川 正徳 を 立て く 水平 と た し 始 。 * .
七十 六 四 子午 三=+ 1 =* * + $= の東北 の 後に乗る。
神武 天皇 と 設 し 來 る。 皇后 は 終端 天皇 人 丁亥 年 三 月十 1 日 開 す。 蘇 省 三º <
と 同 所 の 陸 に 排 る。 神武 皇 太后 と 論 し 本 る。 愛女 十 二 人皇子 十 七 人皇女 二 十
人 まし ます。 也 十 九 巴 和 年 十 月 十 三 日、皇 太子、兄 手 研 开 金 の を 省 や たと と を 聞
れる を 知り、之 を 殺 させ 結び、明年 1 月 八 日、大 御 位 に 師 かせ 結ぶ。 是 を 殺 時 天空 と
た す。(國 總 編號)
第二代 桜 時 天皇
終 時 天皇 は 韓 を 神 將 名 川江 天皇 といふ。 神武 天 室 の 第 五 の 空子 神 性 は、皇后 援
略 曆五十鈴 鹿 等 に まし ます。 起 死人 十 年 1 月 八 日、大 御 位 に 師 かせ 給 º ㎝ 3部
位 元 東 長年 是 たり。 天皇 居 を 大和 风光 线 に 遷 さや 絵 % ク を 高 氏 の 名 と いた。
11 年 已 年 1 月 五 日、五 十 餘姚 命 を 立て 、王后 と す。 大 日 方式 日 から の 俳 2㎝
女帝 は 神武 天空 の 中 排球 職級命 にまし まし き
三千年 年 11 月 十 日 產物 支 命、並 に 日 他 大 運命 を 中介 國政 大夫 と た す。 该 游文金
新 中 合 國政 大夫 可笑 其 手 命 の 第 1 の 御子、母 は、神武 天皇 の 皇統 稱 五 級 會 たり。
日 他 大 運命 は 前 中 合 國政 大夫 天 日 方 高 日 方 命 の 第 11 の 御子、母 は、 基 后 五 十 张 俊介
と 同 母 たり。
天皇 は、父 天皇 の 法制 に 通 いて、天 の 下 を 治め しめ 始 。
每年 五 月 五 日、高天原 の 大祭 日 に は 天皇 室 后 行幸 よし まして、親しく 経典 を 行 は
せ始 。 《每年 四季 の 大祭 日 に は本 盤 の 助 使 を 述 は し て 終不具 を 行 は せ 結 / 0。
11 十 五 甲 長年 八 月 十 日、機械 性 參 王手 有金 を 立て 、 太子 と た し 結ぶ。
同年 國 城 の 戒律 宗 北 の 関 タ に 起 る。 カ ち、天空 戰 ら 元帥 た たり、日 他 大 運命 を 神
飛 , + ㎝ の 兵 を 催し、N た 従 し 結ぶ。 七 年 にし て 東北 の 同 タ 平定 し 結び き。
+ ++ += 天才 <+ = 2 ㎞
第 四 章 務 柳 < 11至
神 和 二 五三
皇 と 論 し 本 る。 七 月 入 日 自基 后 脱す。 縣 A 十 二。 天皇 と 同 所 の 後に 葬る。 然 持自室
太后としなる。 愛女 同人 子四人 女人* ** 大字 っ た安*
天皇 と た す。 (戰 對於º )
第 一代 {文學 天皇
安寧 天皇 は 議 を 機 城池 多 王手 有 天皇 と いぶ。 該 時 天皇 第 1 の 皇子、御殿 は、皇后
五十鈴 体 规律 に まし ます。 她 完全日 十 一 年 七 月 1 日、大 御 位 に 師 かせ 結ぶ。 如 ら 部
位 元 後 五 年 是 なり。 11 用武 年 三 月 十 日、天皇 居 を 大和 國 六 強 に 遷 させ 結ぶ。 之 を
和神

浮 治安吉 と いぶ。
將 名 旅 海 舰 金 を 立て て 自基 后 と す。 ︽ 海 支 命 の 第 11 の 御 女、母 は、神武 天皇 の 第 一

の 皇 女王 昭 月 江 總 金 に まし まし さ。

四 西 長年 四 月 十 三 日 出雲 在 命 を 中 合 國政 大夫 と なし、大 稻 主命 を 得 亞 大夫 と な
す。 出雲 色 命 は 前中 金 國政 大夫 洛陽 文 命 の 第 1 の 御子、母 は 皇后 と 同 母 たり。 大
船主 命 は 前 中 合 國政 大夫 日 神 大連 命 の 第 11 の 御子、母 は、神武 天皇 第 七 の 皇女 國定
授命 なり。
十 一発 玄年十月五 日、大日本彦拒友 奪を立て 、皇太子となし給 ふ。
十三 乙 五年二 月、國賊の残常、大軍を催し奥の 國 々 に蹴入し て、國 造を 殺し抗 略 を
隷 にす。陸奥大に蹴る。乃ち天皇は東國 の軍将安房武正命 香取太良太命 度島武
雄命貴前政男命の四将に認して之を征せしむ。四将九年にして委く賊を東北海
の大島 に撃 懐し 給 ひき。
二十二甲成年より七年 連歳五穀登らす。上下窮乏。織死するもの赤多し。
三十 八 康宣 年三 月 六 日、天皇崩す。毒 五十 七。敵 傍 山 の西南御陰 井 の上 の 陵 に
葬る。安寧天皇と 諡し 奉る。皇后 は 警 徳 天皇三十四甲子年 一月六 日崩す。毒 八
十八。天皇と同所の陵に葬る。安寧皇太后と諡し奉る。天皇遺認すらく子孫代
代 の 天皇は碑 武天皇の勅定を 長 みて、毎年五 月五日 の大太 祭日 には、高天原の 碑
巻 に鎮 り まし ます天 つ 大御碑 の 太 碑 宮 に行幸 し て、親しく祭典式 を撃 行し、且つ 毎年
四季の大祭日 には、奉幣の 勅使を差遣す へ し と。要女十二人、皇子十三人、皇女 十八
人まします。皇太子立つ。是を競徳天皇となす。(㎞。『、
第 四代 謎 徳天皇
第 四 章 後 紀 人 皇 二五三
碑 皇 紀 二五四
経徳天皇は謎を大日本彦拒友天皇といふ、安寧天皇の第二の皇子御母は皇后
淳名底津媛奪にまします。紀元百五十一年二月四日 大御位に即かせ給ふ。即ち
即位元 辛卵年是 なり。二 千 辰 年二 月四日、天皇居 を大和國軽 に遷 させ 給 ふ。之を
-
曲 峡 宮 といふ。
天豊津媛命を立て \、皇后と す。大稲主命の第 一 の御女、母は彦湯支命の第 一 の
御女 建花媛 命 にまし まし き。
蘇我政史 命を 申食 國政 大夫と なし、武部 日 連 命 を侍臣 大夫 と なす。蘇我政史 命
は、前申 食國政 大夫出雲色 命 の 第 一 の 御子、母 は、緩 靖 天皇 の 第 一 の 皇女 なり。武部
日連命は前侍臣大夫大稲主命の第二の御子、母は皇后と同母なり。

ー康子年より三年、天下不作にし て、庶民戦死 するもの多し。
十二 千 宙 年秋 より、尾岐 島・佐渡島 に潜伏 し居たる國賊の 残常、赤大軍を催し、北陸
*~へへーベ -*、へん
の諸園に乱入して抗略を#にす。北陸大に乱る。乃ち城本日吉命大夫 説武彦
命の雨将に勅して之を征せしめ給ふ。七年にして悪く之を平け給 ひき。
二 十二 壬 子年二 月十二 日、観 松彦香 殖稲 奪を 立て て、皇太子 と なし給 ふ。
三 十 四 平 子年 九 月 八 日 天皇 崩すº : +2 歌 成山 の 市 たる 酸 水路 の 上 の 友 .
非 る。 愛 德 天皇 と 設 し 本 る。 皇后 は、李 昭 天皇 四 十 五 虎 成年 十 月 八 日 開 す。 高石
十 八。 天空 と 同 所 の 陸 に非 る。 赫 德 皇 太后 と 論 し 本 る。 愛女人人 皇子 四 人 皇女
七人 まし ます。 中太子立つ。 之 を 楽 町 天空 と た す。 (韓 戰 於 º )
第五代 者 招 天皇
李 昭 天空 は 韓 を 載 於 洛 奇 被 稱 天空 と いぶ。 赫 德 天皇 の 第 1 の 皇子 師 は 中后

|]
。 天蓝 地 級幹 に まし ます。 紀元 古 八 十 六 年 1 月 九 日 大仰位 に 師 かせ

位 元 西贡 年 是 たり。 天皇、新 に 告 を 大和 國 故 の 上 に 築き て 居 始 。 他 心 站 上院

安º
11 十 九 中 年 年 1 月 1 日 世襲 足 總 命 を 立て た す。 蘇我 政文 金 の 第 五 の 加
_
女兒 は 大船 主命 の 第 二 の 御 女 歌手 獎金 に よし まし き。
同年 四 月 四 日盛 日 政 我 命 を 中介 國政 大夫 と た し、武部 中 逃命 を 作
蘇 日 政 我 命 は 前 中介 國政 大夫 羅成政 支 命 の 彼 の 御子、母 は、 ハ と 同 母 たりº ॥
郡中 運命 は前 特區 大夫 武部 日 運命 の 彼 の 御子 母 は 出 安 在 命 の 彼 の 御 女安 非
第 四 章 務後 和 < 二 元五

耐st

11 五大
授命 なり。
1+ 2 米 年 11 月圓 盤 の精靈 帝 の 島々 に 導く 集り 東 り て誕生 し たり しか 遵
に 大軍 を 催し て 東海 の 風 タ に そ 就 大 し たり ける。 例 ら 天皇 親 ら 元帥 に なり、武部
中運命を 制御として南西 の軍兵 を 集め て東征 に彼 かせ 駱 * + 王 年 にし て働く
平定 し 結ぶ。 是 に 於 て、天 下落 不 の 世 となり に さ。
四十四 百 年 四 月 より 海內 流 ク 島々 に 至る まで、熱病 大 に 流行 し 成 梁 海軍 し。
爾 來 使 年 人多く 死す。 人 心胸 タ、香 た 英 家業 を 忘れ、高天原 初め 語、の山 タ 國 & の 神

社 に、藤 組ますると と 数 年。 然 れ ども 容易 に 病 教练 就 ℃ 0 vº
A

六 十 八 禁 西 年 1 月 十 四 日、日本 足 歩 國 神 人 尊 を 立て、皇太子 と なし 結ぶ。


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八 十 三 成 子 年 八 月 五 日、天皇 崩す。 雍正 十 四。 被 上部 多 山の上 の 陸 に 非 るº 率



昭 天皇 と 論 し 本 る。 明年 11 月 五 日、皇后 脱す。 義 者 十 一 。 天皇 と 同 所 の 陸 に 非る。
孝 賢良太后 とし 本る。 天堂安德爾 王。 美女 たし 屋子五人皇女三人 *し**
皇太子立つ。 之を 奉安 大 皇とた す。 (親 對於 * *)
第六代 率 安 天皇
李 安 大 皇 は、韓 を 日本 足 歩 政界人 天皇 と いよ。 孝 路 天皇 の 第 11 の 息子、 :
世 安定 盤 にまし ます。 紀元 二 百 六 十九 年 1 月七 日。 大 御 位 に 師 か や 輸 *
ち 部位 元 五 年 是 たり。 天皇 太 和 國 の 宝 に 達 り 原始 よ。 之 を 改建 局 の 佐 敦,
J 中 年 11 月海內 盧 安達 行 本 た 教義 に 至ら す。 另 ら 見 日本 武 志賀 に 命 を 求
會 使 として 高天原 を 始め、東北 韓國 の 神 タ に 本 盤 し て、基 納 希 を 敵 疎 , 8 %
文皇帝 政 齒 獸 あ太 命 を 本 將 使 として南西 の 諸 國 の 神 タ に本 盤, { , º
給 4 k㎡ 2 充 天 原 天 つ 大御神 の 太 神宮 の 通算 所 を 建て、七 年 の 間、日 日 韓愈 *

く親 ら 身 を以て、惠安 鎮静 を 想定 さ し まし 結ぶ。 兩 本能 使 節奏 すら く、國中 油 &


島々 に 至る まで 執 れ も 背 た 悪 安鎮靜 し に さと。 天皇 海域 社 たらす。 包 まっ 期,し て


全國 に 飛機 し て、因中 一般に大 祭典 を 行 はしめ 科 よ。 因 海 所 欲 ~ ~し て、安 路 の 思 を

た しむ。 因 民歌 わ も 天皇 の 徳 を 退 し、且つ 天皇 を 失敗 すると と、大御神 の 知,し。


+ た 成年 1 月 十 日 中金 國政 大夫 を 太 正 因 政 大夫 と 改め 特區 大夫 を 太 祖國 政大
夫 と 改め させ 始 。 大作 部 日 命 を 太 正 國政 大夫 と な ,し、吉備 篡 % 金 を 太平 民政 大
夫 と なす。 大作靈 日 命 は前中 会 政 政大 夫妻 日 政 我 命 の 第 1 の 例子、母 は 數 從 天
第四 章 % # < 二五七
碑 皇 紀 二五八
の第三 の皇女月江 媛 命なり。吉備 蘇 彦命は、前侍臣大夫武部中連 命の第二 の御子
母は、㎞ 徳天皇 の 第 一 の 皇女 山咲 媛 命 なり。
二十六甲寅年二月十日沖日媛命を立て、皇后とす。蘇日政我命の第二の御女
母 は、㎞ 徳 天皇 の 第三 の 皇女 月 江 媛 命 に まし まし き。
七十 六 甲 辰 年四月 五 日、大 日本 根子 彦太 環 奪 を 立て \、皇 太子 と なし 給 ふ。
八十成中年、筑紫島 西北 の 島々 に集り て、潜伏 しける園 賊 の 残 窯は、強 賊大勢 を催
し て扉、攻め 来 りて 抗 略 を極 む。築紫大 に蹴る。乃ち天皇親 ら元帥 となり、皇弟政
耐ſ

瀬 武彦太 命、井 に吉備蘇 彦命 を 副 帥 として、中國初め、筑紫島 の 軍兵 を率 みて、之 を 征


し 給 ふ。三 年七 月 にし て、悪く 平定し に き。是 より先、碑 武 天皇東征 の 國賊 の 残常



の 遺 競 等、諸”の浦 々 島々 に潜伏 し て、属。國蹴 を醸し居 たりしか、今や悪く之 を 平け、潮

く 四海浪静 に なん治りにける。悪病も 頼 に平癒し て 諸作大 に 登り豊年打ち績き


民 庶豊 に 各 共生 を 築 み に き。
百 二 康午年 一 r月九日、天皇崩す。毒百三十七。玉手 丘 の上 の 陵に葬る。孝安 天
皇と設 し奉る。皇后は孝霊天皇三発 西年二月十日崩す。毒百三十 一。天皇と同
所の段に葬る。孝安基質皇太后と諡し奉る。要女十八人 皇子二十一人皇女二十
六人まします。皇太子立っ Nを孝霊天皇となす。(㎞ )
第七代 孝 霊 天皇
孝霊天皇は 諱を大 日本根子彦太環天皇といひ 孝安天皇第三の皇子、母は皇后 押
=%にまします。紀元三百七十一年一月十二日大御位に即かせ給ふ、即ち即
位元辛未年是なり。共前年、大和國 黒田をトし、魔戸宮を造ら せ給 ひ 今や 位に比 に
即かせ給へり。

天皇常に 皇祀皇宗天 つ大御碑を初め 諸、の國 つ碑を崇敬 ましまし給 ふ。即ち朝


タ念 りなく四方 に拝 濃 まし まし、誠 敬 を霊し て轄 祀し給 ふ。


蘇我武日命を太正國政大夫となし吉備武彦命(㎞)を太臣園政大夫となす

蘇我武日 命は前太正國政太夫大伴蘇日命の第二 の御子、母は武部中連命の第二の


御 女若松 媛命なり。吉備武彦命は前太臣國政大夫吉備蘇彦命の第三の御子、母は、
孝昭 天皇の 第 二 の 皇女九重 媛命なり。
二千 申年一月二十日 穂祀媛命を立て、皇后 と す。吉備蘇彦命の第一 の御女、母
第四章 後 紀 人 皇 二五九
脚 息 和 二六O
は全 路天皇第 二 の 皇女カ 軍 獎金 に* しま しき
三十字 中 生 まり 一 年 五穀梁 ら す。 人多く 戦死 し にき。
三 十 六 四 年 年 四 月 二 十 五 日、日本 棋子 港 國 拳銃 を 立て 、皇 太子 と た し 続 *。
五 十 度中 年 三 月十 五中 日 の 夜、木 花 紋章 里 安條目 表 の美女 と なって 現れ 続 《 º
の あり方 天 は 東 に 拡大 により* * * ==
中 の 日 天皇帝 太原 天 つ 大御神 の 太 神宮 に 於 て、艦艇 ましょ し て北 移っ せ駱* **
不 一 山部 かる限 たく 別に 現れ、地 大 に 使 本。 伊始 出張 的 位 空格 と の 間 の 内海战

上り 確 地 と そたり に サ る。 天空 力 ら 資 知 に 参 命 に 認 し てヴ を 間 和 毛 , % 討 。

* て書 -- *= = + =には あの 神 にボ - -

て不 出 を 通勤 し て 結 點 * しま しき。 之 を 例 式 と 定め 始 ~ 。 1 日、不 11 山 再び 研

に現れ し に 因り、北 地 を 11 見 ク 地 と 名 つけ 続い。


七 十 四 甲 中 年 九 月、泰國 從頭、高天原 に 来 すね。 是 上り 先後 順 は、秦始皇 帝 を 張さ
大船入 十 五級 を 造り金銀 制裁 五 級 表 最 盛典其他 語“の品 タ を 用意 し て、老者 界 女王
日 除人 を 従 《不 11山 を 目標 として、 東海 に 水 0 米島 の 南海 に て 不 11 山 を 見 失 が、木
日國熊野山 に惑 ひ居 たりしか、一 『『 ひ 不二山を見附け、今や潮く高天原に上り来
れるもの なり。
七十六内成年二月八日 天皇崩す。誇百二十八。片丘の馬坂の陵に葬る。孝霊
天皇と諡し奉る。八月十八日 皇后崩す。毒百三十。天皇と同所の陵に葬る。孝
霊質合皇太后と諡し奉る。要女七人 皇子十二人 皇女八人まします。皇太子立つ、

。(以上、碑 代 記、人 鶴 記、五 十 一代 記、鍵 遷 記、火
字 三化 二に TE
足を孝元天皇となす。(㎞

伊 記 松風 来 記 祭 日記、溝 記。 )





孝元天皇は 講を大 日本根子彦國奉天皇といふ。皇霊天皇の第一 の 至子、

后 穂 刺 姫奪にまします。紀元四百四十七年一月十四日、大御 位に即かせ給ふ。即

ち即位 元丁玄年足なり。四康宣 年四月三日 房を大和園軽に遷させ給ふ。境原の


宮 といふ。
大伴武長り命を太正日政大夫となし式部大夫命を太臣日政大夫となす。大伴
武長男命は 前太正園政大夫蘇我武日命の第一の御子 母は挙安天皇第二の皇女山
天命は前太臣國政大夫吉備武彦命の第 一 の御子、母は 考安
皇 二六一
* * 二 六二
天皇 の 第 五 の 皇 女排 尿酸 作 たり。
七 於 巴 年 十 月 五 日 神經 被 命 を 立て て 空 兵 と た す。 蘇我 武 日 命 の 第 1 の 御女
母 は、李 安 天空 の 第 二 の 宝安 山 作 安城 命 に まし まし き。
二 十 二 叉 中 年 六 月 十 日曜日 本 棋子 修大 日々 を 立て て 太子 と なす。
五 十 七 次 未 年 九 月 1 日 天 空調 り たま は く設 の 御代 は 天下 來 不明 海 法論 か に 沿
り 良 度 亦 無 か に 出兵 連 年農作 の 武陵 を 見 し は総 の 車輛 たり。 日 出 度 し て 一 間 ,
で 敗北 歐陸 し つ ) 開 し 結ぶ。 高山 十 六。 創 地内 の 上 の 設 に 非 る。 孝 元 天空 載
レ を ,6 ㎢ 作 天空 大巴 菲 年 五 月 11 日 開 す。 蘇 省 人。 天皇 と 同 所 の 彼 に素
3 象牙 公正 太后 と 論 し なる。 愛女 十 二人皇子十 八 人 女 十 四 人 まし ます。 -
中太子立つ。 是を 開化 天 と なす。 (韓 戰。 º)
第九代 盟 化 天皇
開化 天空 は 神 を 確 日本 棋子 老大 日 日 天空 と いぶ。 李 元 天皇 の 第 11 の 皇子 神 鬼
は、空 后 都 在 離婚 紗 に まし ます。 紀元 五 百 年 1 月十 二 日 大 御 位 に 即 かせ 結ぶ。 即
ち 前 位 元 甲 中 年 是 たり。 有 を 大和 國 の 春日 に 造り 移り 方 約 。 之を率所含 J &
政本命を太正園政大夫となし 平郡武雄命を太臣園政大夫となす。蘇我政
園政 大夫大伴武長男命の第 一 の御子、母は、孝霊天皇第三の皇女菊里

六己#年三月十四日付 香色謎媛命を立て、皇后とす。武部大夫命第三の御女
母は 孝霊天皇の第 一 の皇女大倭媛命にましましき。
十三内中年 園 々 の園造に勅して、大國に大赴、小園に小赴 郷に郷赴、村に村赴を置
く ことを定め給 ふ。國民 一般に 碑赴を崇敬して、常に天下泰平並に五穀の豊作成
就 を 濃 祀す へき ことを示 させ給 ひき。
二十八幸玄 年八月十五日、御間城入彦五十環 殖奪を立てて 皇太子となし給ふ。
二十九千 子年三月三日より、天皇 族作に大御心を用 ひさせ給 ひて、皇后と共に、四
方 の 國 々 を巡幸 まし ま すこ て 原野 山澤 を開 組撃 し て、田畑 を 興 すこ
とを農民 に 勧め示 させ給 ふ。四十 一甲子年八月十八日、天皇潮くにして都に還御


第四章 後 紀 人 二六三
欧 桜 二六四
ましょ し 始 。
六 十 次 未 年 四 月 九 日、天皇 崩す。 為 百 十 一 。 在 日 の 準 川 の 板 上 の 陸 に 非 る。 開
化 天 室 と 論 し 來 る。 カ月 九 日、空 后 脱す。 ︽ 百 八 。 大臣 と 同 所 の 陸 に 非 る。 開化
親 合 室 太后 と 論 し 本 る。 愛 女王 人 王子 七 人 安 十 人 まし ます。 皇 太子 立つ た
を永祿 天皇 と た す。 (魏徵 。 )
第十代 些宗 神 天皇
宋 神 天空 は 離 を 御門 城 入 沙 王

皇后 仍 會 在 離線 等 に まし ます。 她 完
些單

よ。 如 \ 部位 元 中 中 年 更 なり。

同年 三 月 一 日、御 間 就 獎金 を 立て ) ^ 2 }。 不 那 武雄 介 の 第 一 の 御 女、母は、孝

元 天皇 の後 の 立安人 懷疑 金 に ましょ しき。


同月 十 日、大作 關 戰術 を 太 王國 政 大夫 と なし、武部 仍 將 金 を 太 區 內政 大夫 とた す。
大作 阿武 命 は 前 太 正 因 政 大夫 羅致 政 本命 の 第 二 の 御子、母 は 本 那 就 無休 の 第 一 の
例文 歌曲 就 像 な う。 物 都 仍 沿 命 は前 太 祖國 政 大夫 本 那 武雄 命 の 第 一 の 御子、母は、
皇后 と 同 母 なり
三 内 成年 六 月 十 五 日、宮を大和 園 磯城 に 遷 させ 給 ふ。之 を瑞峰 の 宮と 跳 す。
五 成子 三 月、高天原 碑 都 麻 呂 山 より、天照 大御 碑 を、大和 園 笠縫 の 里 に 遷 させ 給
第 ひ、又 高天原元宮七廟物 名阿 祀山太碑宮より、三品の大御質を移し、大御碑の碑霊と
し て 祀ら せ 給 ふ。 同 来、天下大 に隣 る 疫 流行し、盗賊 蜂起 し、海内 拘 々 たりき。乃

ち 天皇 碑威 を 恐れ、徳 を修め、庶民を賑 はし、群 碑 を祭ら せ給 ふ。即ち先 つ、皇女豊鍛
入 媛 命 同 淳 名城 入 媛 命 に 勅 して、笠縫 の 里 に、祭りませる 天 照大御 碑 の 碑 前 に於 て、

大國 魂碑祭を行はしめ、且つ吉備彦命 に 勅し て、高天原 に上り、太碑 宮初め各七廟 を
皇 祭 らしめ 給 ふ。後 更に、天下 に 認 し て、列聖 の 遺例 に逸 ひ、毎年五 月 五 日、高天原 太碑
宮 の 大祭 には 天皇 皇后 行幸し て、親しく 参拝を なし、且つ 四季の 大祭 には 奉幣使を
遣はして参拝を なさしめむことを宣布し 給 ひき。
不二山 を、職地 山 と 改稲 せしめ 給 ふ。
十発 己年、大彦命を以て 北陸道 に 武済 川 別 命を以て東海道 に、吉備彦命を以て西
第四 章 後 紀 人 二六五
11大六
*
す し
改擢

海道
主命






、 道


を以て


なく
なり
平定








。 2
路 丹





天下
乙めて

始十






調



男 未


役 武 す。 十 七 張子 年 諾



て、船 航 を 造ら しめ 於船 かさ。
四十八 年末 年 三 月 一 日、活 日 入 沙 王 十 位於 非 怖 を 立て て、白 木子 と た す。
五 十 後 西 年 三 月、天皇 初 し て 全 子 雙 城 金 を 求 國 に 述 は し、國民 を 抜擢 や しめ 結ぶ。
六 十 後 未 年 六 月出雲 國 劍 る。 古 地 修 命 に 勤 し て、詩 つて ク を 本 サ した 。 大 十 五 成
子 年 任 那 の 使者 來 朝 す。
六 十 八 字 加 年 11 月 五 日、天空 航 す。 義市 十 九。 山邊 道上 の 陸 に 赤 る。 宋 神 天皇
と 論 し 來 る。 同月 二 十 日后 脱す。 蘇 有 二 十 一。 天皇 と 同 所 の 陸 に 非 る。 宋 神
同 合 自基本 后 七 賢 し 本 る。 天空 天 資 彼 道 にし て 知行1 あり、防ぐ 制 を 掛 め、深く 民 を 愛
さら 北伐を 始し を 順 は し 結ぶ。 彼 に 天下非 德を 擁し て 神像 個 天空 を 飛
し 來る。 愛女+ 1人 子十 五 人 女士 二 人 まし ます。 皇太子立つ 地 を 論 に 天皇
8 /以上、人 白 龍、朝代 記 神 代償 請 不 1 E ॥、神殿
*す。 (柳 科 柳宿 縣 劃歸 。)
第十一代 垂 仁 天皇
垂仁天皇は諱を活日入彦五十狭 芽天皇といふ。崇神天 皇 の 第三の 皇子、母 は、皇
后御間城 媛奪 にまします。紀元六百三十二年 一月二日、大 御 位 に即 かせ 給 ふ。即
ち即位 元 壬 辰 年足なり。
二発 己年三月十五 日、狭穂媛命を立てて、皇后と す。武部伊苦命の第四の御女、母
は開化天皇の第二 の皇女、武勇 媛命 にましましき。


同年四 月、宮 を 大和 同 に遷 させ給 ふ。之 を珠城の 宮 といふ。



三甲午年六月新羅王の王子天日槍 来りて質物を獣す

同年八月十五日、武済 川別命に勅して、高天原碑都家基都㎞に鎮ります天駐元宮

阿 祀山太碑宮を、佐賀見海伊 住留家の三國の園 境の山村の上の大塚に 分ち移し 祀


らしむ。之を山宮阿祀山碑赴 とそ競しける。足より、比村を山 宮村といふ。


四乙未年一月十五日 皇
皇后見狭穂彦反を謀る。事豊れて誌に伏す

H言

七 成成年八 月十日 大和 園常 証 巴 に、強力 豚 速 なるもの あり。常に
{力 邑 に 衆 に誇り て、言
へ らく天下に敵なしと。天皇 之を聞き豚速を召し 出雲國の人野見宿禰と共力を
第四章 後 紀 人 皇 二六七
碑 皇紀 二六八
角せしめ給 ふ。野見宿禰、一躍して豚速の腰骨を折りて之を磐し ぬ。朝廷角力の
儀、比 に始 る。 因 て、常麻豚 速 の 領地を野見宿禰に 賜 ひき。
同月十五=ェ我満智彦命を太正日政大夫となし 平郡水党命を太臣日政大夫と
なす。養我満知彦命は前太正日政大夫大伴日武命の第一の御子がは平郡武雄命
の第一の御女シ命なり、平郡水寛命は前太臣日政太夫物部伊賞命の第一の

御子、母は、皇后 と 同 母 なり。
十五 内午年二月十日、日葉酢媛 命を立て 、更に皇后と す。武部伊草 命の第七の

御女 前皇后 の同母妹 にましましき。是れ前皇后、沈病起 つ能は す。故に復た、妹日


葉 酢 媛 を 立て しめ 給 ひに き。

二十五内辰年三月 大和園笠縫の里より 天照皇太碑宮を伊瀬園(㎞ ㎞) 度倉


の 里 五十鈴川上の碑武天皇の御父 碑皇五十 一代㎞ 芽許不合奪の 陵墓の 地 に、遷 し


祀らしめ給 ふ。皇女倭媛命に命し宮を守らしめ、州田彦をして供物の事を掌らし
め 給 ひき。


育又
二十七成年年 1 月三日、初めて、兵器を用 ひ て mと 成 し給 ふ。四 月初めて、大和
國来 目 己 に、屯倉 を 置 かしめ給 ひき。
二十八己未年十月十二 日、皇弟倭彦命墓 す。近臣の共葬に殉する者、日夜 競要す
天皇、共撃 の基 た 哀しきを聞き給 ひ、大 に測 ませられ、殉死 を 禁し給 ひき。
三十二発 玄 年三月二十日、前皇后狭 穂 媛 命、沈病二十 一年、遂に崩す。毒 六十 一。
天皇 軍 臣 に勅し て葬儀を議 せしむ。野見宿禰 植 土を 採り人馬 及 ひ諸 物を作り て
献し、以 て殉死 に易 へ られむ ことを請 ふ。天皇嘉賞して、永 式となさしめ 給ふ。野
見宿禰を土部職に任し世々大喪を司らしむ。前皇后を 営原の伏見の陵に葬る。
#右 標 皇太后 と 諡 し 奉る。
三十五西宣 年三月 諸 國 に勅し て、池溝八 百除町開盤せしめ給 ふ。農民之 に依り
て、大 に灌漑 の 便を 得 にき。
三十七成申年六 月十二 日、大足彦 忍代別 奪を立て \、皇 太子となし 給 ふ。
六 十辛成年二 月、出雲國 の 罪囚 五百人 徒賞し て諸 國 に 蹴入 す。三年にして、悪く
之を逮捕 し て、手足初め 首 を斬り て 死刑 に 虚 し ぬ。
九十九康午年 一月五 日、天皇崩す。毒百四十 一。菅原の伏見の 前皇后 と同所の
第 四章 後 紀 人 皇 二六九
神 桜 -
1 C
彼 に 家 る。 曹仁 天堂 と 設 し本る。 後中 后 は 急行 天空中 二 千 年年 11 月 五 日光 。
蒙古 + 1。 天堂 と 同 所 の 段 に乗る。 曹仁 在 中 太后 と論 しなる。 愛女士 人。
*+ <人 女 +人 * ** 大字 っ 小 行天 た* ॥
第十二代 果 行 天皇
* 行 天皇は球を 大足迹象 代 別 天皇 と いぶ。 曹仁 天空 の 第 三 の 空子 叶片 后 =
漢諾威 秀 に* し ます。 紀元七 百 三 十 1 年七 八 十 七 日 大師 徒 に師 かせ 駱 4 ㎞,
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前 位 元帝 朱 年 是 たりº
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***********************
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那 水 来 命 は 1 2 支流 式 な 金 と 補 し g

11H 中 年1 月 1日 將 樂府 日 大部 級 命を 立て 、 后 と す。 本部 水 站 金 鼎立 佛
武彦 命š 玉 の 御 女帝 は 大作國 武 命第 二 の 御女足 總 獎金 に *しました。
四 平成 年 八 月停 を 大和 國體 間 に 定め 始 。 更 少 で 日 代 名 と 勝 す。
* *****の構成 す。 天守ら之を 征し 始« から天安 = gu
ッまします。眠の二女を誘ひ納れ 陽に共長女を奨し給ふ。一日民女家に騎り、
父に酒を勧め共酔ひて駄しけるを窺ひて Nを殺しぬ。天皇共不孝を悪みて長女
を 課し、妹 に父 の 國を 賜 ひき。

二十五乙未年三月五日 武内宿禰を遣はし東北諸園の地勢及民俗を巡察せしめ
給ふ。六月シ海伊園に至りぬ。園造奈良田彦に命し慮大湖の堀下をなさしめ

ふ。奈良田彦は、火照須命六十 一世の孫にして世々海伊國國造たり。共十七世
の園造園谷彦命講湖守男命は碑代宇家潤不二合須世 碑皇第十七代㎞芽葺不合奪

の御時、大湖を掘下けしに湖二分通り減水し、爾後定水となれりしか 今や又 共堀下


をなさしめらる。奈良田彦 乃ち國中強力の農民を調務し、十有四年にして功を奏

す。臨海宿 弾 と 賜ふ。
二十七丁西年熊襲反す。皇子小確奪に命して 之を討たしめ給ふ。皇子 乃ち熊
**へヘヘヘし

襲の園に赴く。偶。賊肥川上最師共親族を倉して大に宴を張る。是に於て皇子女
装して% に剣を懐中して忍 ひ入り 共碑と共に酒を府む。夜牛島 師の酔駄しける
を何 ひ 共胸を刺す。最師驚き叫び問 ひけらく 次 誰人なるそや。皇子 應自したまは
第四章 後 紀 人 皇 -
二七一
* 紀 二六六
海道に丹波道主命を以て丹波に遺はし 各地方を接携し大に教化を布かしめ給ふ。
拝 して将軍となす。即ち四道将軍足なり。将軍を置くこと足に始る。

十二 乙未年 始めて天下の人民戸日を校して 男 女の調役 を課す。十七康子年 諸
國 に勅し て、船舶を 造らしめ給 ひき。
四十八辛未年三月三日活日入彦五十狭芽奪を立てて皇太子となす。

五十奏西年三月天皇勅して皇子豊城命を東園に遺はし国民を按馬 せしめ給ふ
六十奏未年六月出雲園乱る。吉備彦命に勅して討って之を平けしむ。六十五成

子 年任那 の 使者 来 朝 す。

六十八辛卵年二月五日天皇崩す。 百十九。山漫道上の陵に葬る。崇神天皇
と諡し奉る。同月二十日 皇后崩す。 百二十一。天皇と同所の陵に葬る。崇神
同合皇太后と諡し奉る。天皇天資敏達にして知仁ありBく碑を崇め深く民を愛
せられ請税を免し貧民を賑はし給ふ。故に天下共功徳を稲して御盤園天皇と稲
し奉る。要女十二人 皇子十五人 皇女十二人まします。皇太子立つ 足を垂仁天皇
と なす。(以、注、K 皇 記、碑
記 碑 代 賞 記、不二山 記、碑 器
㎞)
ら見




天下











出雲




宿禰く


し 山ける


しらし















。 宮 祀
といふ

村 神し






















に 宮




塚 開し





天皇








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勇 即り






。 位 六
年 ま元









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百 し
成りにる力和年 。

大七



強八




な国

常騒

あり
誇もの



て 皇乙する后未





謀年



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事 淳天原宮す川 獣






高同年




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天 を


















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物 月いふ

同年






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ふ宮

せ 会后て誌








立二


皇競



と 仁皇











天は



といふ









天皇





苦命

武部









御 三


皇子










かせ
碑 皇 紀 二六八
角せしめ給
*小 ふ。野見 宿禰、一躍し て 豚 腰骨 を 折り て 之 を盤 し ぬ。朝廷角力 の
儀、比 に始る。因 て、常 麻厩 速 の 領地を 野 宿禰 に 賜 ひき。
同月十五 日、蘇我満智彦命を 太 園政 夫と なし、平郡 水 苑 命 を太 臣 國政 大夫と
蘇我満 知 彦命 は、前太 正 園 政 大夫 大伴伴園 武 命 の 第 一 の 御子、母 は、平郡 武雄 命
の 第 一 の 御女 秋風媛 命 なり。平郡 水荒 は、前太 臣 園 政 太夫物 部伊草 命 の 第 一 の
御子、母は 皇后 と同 母 なり。
十 五 内 午年二 月十日、日 葉酢 媛 命 を 立て \、更に皇后 と す。 武部 伊草、命 の 第七 の
御 女 前 皇后 の 同 母 妹 に まし まし き。是れ 前皇后、沈 病起 つ 能は す。 故に復 た、妹 日

葉 酢 媛 を 立て しめ給 ひ に き。
F
二 十五 内辰 年三 月、大和 園 笠縫 の 里 より、天照皇太 碑 宮 を、伊 瀬園 ㎞) 度倉
s の 里、五十鈴川 一 の 碑 武 天皇 の 御父、紳 皇五 十 一代、鵜 芽賞 不合奪 の 陵墓
墓 の 地 に、遷 し
祀ら しめ給 ふ。 皇女 倭 媛命 に 命 し、宮 を 守らしめ、舟田彦を し て供物 の 事 を掌 らし
め 給 ひき。
二十七 成午年 一月三 日、初めて、兵器を用 ひ て 紳 幣と 成し給 ふ。四月初めて、大和
國 来 目 己 に、屯 倉 を 置 かしめ 給 ひき。
二十八 己未年十月十二 日、皇弟 倭彦命夢 す。近臣 の共葬に殉 する者、日夜競喫す
天皇 共撃の甚た哀しきを聞き給 ひ 大 に測ませられ、殉死を禁し給 ひき。
三十二発 玄年三月二十日前皇后狭穂媛命沈病二十一年 途に崩す。お六十一。
天皇 軍臣に勅して葬儀を議せしむ。野見宿禰 植 土を採り人馬及 ひ諸物を作り て
献し、以 て殉死 に易 へ られ む ことを請 ふ。天皇嘉賞し て、永 式となさしめ給ふ。野
見宿禰を土部職に任し世々大喪を司らしむ。前皇后を 管原の伏見の陵に葬る。
皇 。耐

岩 標 皇太后 と諡 し 奉る。
三十五西宣 年三月 諸 國 に勅し て池溝 八百除町開盤 せしめ給ふ。農民之 に依り

て、大 に灌漑 の 便を 得 に き。
*へへーへへーへヘヘヘ

三十七成申年六 月十二 日、大足彦忍代別奪を立て \、皇太子となし給ふ。


六 十辛成年二 月、出雲國 の 罪囚 五百人 徒 窯し て諸國 に 蹴 入す。三年にし て、悪く
之を逮捕 し て、手足初め首 を斬り て 死刑 に 虚 し ぬ。
九十九康午年 一月五 日、天皇崩す。毒 百四十 一。菅原の伏見 の 前皇后 と同所の
第四章 後 紀 人 皇 二六九
种 桜 -
二 七O
彼 に乗る。 曹仁 天皇 と 論 し 來 る。 後 身后 は 東 行 天皇十 二 千 年 年 11 月 五 日
義 自 十 一 。 天皇 と 同 所 の 陸 に 非 る。 新 に 信 自立 太后 と 論 し 本 る。 愛女子
子+ 人人 女 二 十人 まします。 皇太子 立つ。 史を 兼行 天空 とたす。 (戰 戰
體 顯赫 *
第十二代 果 行 天皇
景 行 天皇 は 離 を 大足 歩 所 代 別 天皇 といふ。 新 に 天皇 の 第 三 の 皇子、母 は、空 兵 日
業 都城 等 に まし ます。 紀元 七 百 三 十 1 年 七 月 十 七 日、大 御 位 に 師 かせ 給水º ㎝ 3

部位 元帝 朱 年 是 なり。
些單

皇 R 後 說 ︽ 命 を 大正 國政 大夫 と なし、平野 水 來 命 再び 大臣 國政 大夫 と なす。 不
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郡 水 來 命 は 一 に 吉備 武彦 命 と 海 し 込º

11 年 中 年 三 月 三 日、雅 樂 和 日 大 部 授命 を 立て 、自基 后 と す。 本 郡 水 来 命 前 も 古 德
武彦 命 第 五 の 御 女地 は、大作 國 武 命 第 二 の 御 女足 總 獎金 に まし まし き。
四 甲 成年 八 月、宮 を 大和 國 總 面 に 定め 込 & 。 更 Q て 日 代官 と 読 す。
+ 11 千 中 年统率 の 態 發 反 す。 天皇 親 ら ク を 征 し 結ぶ。 及 も 天皇 日向 の 関 に駐
ッまします。『きの二女を誘ひ納れ 陽に共長女を妻し給ふ 一日 長女家に騎り、
。シて風しけるを窺ひてNを殺しぬ。天皇共不孝を みてま女
を 言 し、緑 に父の 國を 賜 ひき。
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。シり。シ田彦に命し産大湖の地下をなきし
* シ令六十一世の孫にして世々海伊園園造たり。共十七世
。シ命は残代字家測不二合須世碑皇第十七代シ不合奪

。 「けしに 二分通り減水し 衛後定水となれりしか今や又発掘下


。“”。秦良田彦乃ち園中強力の農民を調務し十有四年にして功を奏

す。登 海宿 演 と 弱ふ。
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襲 の 望 に 赴く。
シ川上身師共親族を倉して大に宴を張る。 是 に於 て、皇子女
。 #して忍び入りシと共に酒を併た。夜牛%師の暗闘しける
。 ひけらく法人なるそゃ。皇子鷹自したまは
第 後 紀 人 皇 -
二七一
碑 皇 紀 二七二
く、予は大足彦 天皇の 日本童男なりと。鳥 師目く、吾未 た 強力皇子の如き者を見す。
今より宣 しく暮競を 日本武奪と稲し給ふ可 し、と言ひ 乾りて誌 せらる。
四十康成年 高天原阿祀山 太碑宮の副宮守司長阿祀 彦王は他の碑 祇の後胤 武佐
加彦等四十八将 と、碑都 復奮を企て 、叛 す 皇子日本武奪を遣はし 討って 之を平く。
是を東夷征討といふ。是より先 高天原の碑都 潮く衰退に 及 ひぬれは 東北諸園の
諸将及 國造等碑 都に曾し、遂に碑都復奮 の義兵を撃るくこと に決し ぬ。即ち阿 刺
彦王は、大 山祇命七十二世の孫 にして、碑代より世々 高天原の惣司令碑なれは、之 を
総元帥となし、武佐加 彦武大名 彦を副帥と なし、顧仙を軍帥となす。加集彦安房田

彦下総 彦佐加田男 点 留佐彦加 志田彦藤吾 男 最 佐男 奈加彦・倉根 田彦 知忠宇男千 根


佐男久 志津彦太仁出 男 弾佐彦三川 男江奈志彦 手 力男 津根彦足根 志男 加角羅男 加
眞彦奈良彦太根佐男波 志男彦宇摩彦甲太根男 志濃男永志身男千加摩彦身佐彦湖
根彦大鎌 宇・小鎌宇相佐志男 号力男・小弓 男大刀男・力武心彦星 足男 手早彦 手 知漫男
頭長男奈加志男 知力男等の諸将は密に東北の國々に割 擁して 稲 に兵を催しける。
事途に朝廷に渡れぬ。天皇乃ち小確奪を征夷大将軍に拝し親ら斧銭を授け 吉備
彦 大伴武日を神将 として、之 を征せしめ給 ふ。皇子 先 つ 伊勢に赴き皇太 神宮に詣
し 往 いて 尾羽張 に邸り、中島の 松子 嶋 源太夫建稲 種命の館 に過 る。命は、天 別天之
*-*-*

火明命六十世の孫尾羽張源太夫穂 明男命の長子なり。共妹 に 岩戸媛なるものあ


り、激姿婚容なれば、世に美夜 受 媛 と稲す。皇子 之を寵し、止らせ給 ふと八月と十日
( ㎞)遂に伴ひて発し給ひ住留家園顧地川(㎞)に至りて軍しぬ。
日、皇子の東征 を東軍に告 くるもの あり。東軍、乃ち諸 将 を部署 して、顧 地川 の難所
に之 を 防ぐ。是 に 至 つて、川を狭 みて 戦ふ。東軍、遂に 伴 り敗れ て 北く。則 ち、東 軍
の 軍師 顧 仙、軍略 を 廻らし、更に部署 を 定 む。即ち、副 師武佐 加彦を大将と なし、加 集
彦太 仁 出 男 量 佐 男 安房田彦 永志 身彦・曾根 田彦の 六 将 を 獅 師 に鍵 装 し て、山宮村 よ
り皇軍を出 迎はしむ。久 志津 彦 大鎌宇 相 佐志男・弓 力男・小弓 男大刀男・力武 心彦 早
足男手早彦手知漫男頭長男奈加志彦知力男等をして密に顧地山の裾野大原の各
所に潜伏 せしむ。又、継元帥 阿 祀彦王は、千根 佐 男 貞留佐 彦 加角 羅 男 三川男等を従
へ 軍師 顧仙 と共に 東小山の峰に 擁る。宇摩彦 志濃 男の二将は軍令使 として東軍
に軍令を報せ しむること 、なし ぬ。乃ち、七人の猟師、恭しく皇軍を山 宮村 に迎ふ。
第 四章 後 紀 人 皇 二 セ三
碑 紀 二七四
猟師等欺きて目く比大原に鹿順る多し鹿猟をなして遊び給ふべしと。皇子脱ひ
て之に従ふ。即ち、七人の獅師郷導となりて大原の茅野にそ分け入りっる。獅師
等機来れり、と合圓の 日 笛 ぞ吹く。伏兵又 各所に逐次 日 笛を博 へ、終に鈴をも打ち
鳴らしければ八方より一斉に茅原に火をそ縦ちける。怒ち煙始八方に燃え上れ
り。皇子 頼 に之 を 知り、即ち草 を 薙 きて、軍兵を、圓 形 に備 へ、途を鎖 て赤 圓 形に迎 ひ
火 を縦たしむ。曾、大風起り、東軍反 て楚死 するもの多し。継元帥阿祀彦王は 宇摩
彦 古 濃男の二人を家基都騨に遣はし戦状を急報せしめ、自ら四人の諸将と共に、火

中に投して楚死したりけり。家基都騎に擁れる諸将 急報に接し得然貸す所を知
之・ 皇

らす。乃ち先つ 寒川に架せる橋 々を焼き落し以て之を防き、且つ東北諸國の要衝


に防備を霊して之を防かしむ。皇子諸軍と火難を通れ 遂に進みて家基都㎞に至

り給ふ。先つ管原の大塚(㎞)より 編地山を遥拝まします。乃ち、阿祀山太碑宮
の宮守司長顧 地記太夫の宮に駐らせ給 ふ。十四日 諸軍をして休息せしむ。偶“妃
美夜受媛一王女を生みます。顧地媛と名つけ給ふ。既にして皇子は美夜受媛母
子に発石を附して記太夫に託して又東征に就かせ給ふ。即ち加茂坂を越え水市
"-シ『
に 出 て、加 後坂ょり、足加 羅山を経て佐賀見に至り、共出崎 より海にに へ て東し給ふ。
阿津佐



(

)の出崎に越えまさむとしけるとき 暴風儀に起り神舟三浦ヶ崎
に吹きっけられ、風清 盆。劇しく陸に上ることを得す。恐くは東北の悪碑 海碑の崇
りなるべし、と大妃橘 媛命 皇子に代りて海碑を所り海に投し給ふ。暴風即ち止む。
海上 浪静に、遂に阿津佐の出崎 に済りまし ぬ。進み て平野より奥羽に攻め入らせ
給ふ、東軍 各要衝 に割擁して皇軍を防きしに今や海路より、不意に背後に出 てら
れ 魂概はれ気祖む。則ち、背な騎順してけり。皇子、乃ち奥羽より越地後下毛 東上
毛武佐志を経て佐賀見 に出て 復た足加羅山を越えさせ給 ふ。偶。皇子三浦御崎の
大海を顧み 嘆して目く、吾婦はや、と因 て是より東睡を、吾艦 の 國とそ稲しける。皇
子、遂に再び顧 地山高天原小室家基都谷に凱騎ましまし給 ふ。是より先、記太夫は、
阿 田都山の麓に新宮を造り 美夜受媛母子を擁護し来れり。皇子、大に脱はせ給ふ。
比新宮は南加茂坂東阿田都山の麓なるに由り坂Fの宮となむ名っけける。
阿津佐濱 に 海知 男といふものなり。一日 坂下の宮に参向して目く皇子の着陸
後 七日目に橘媛命の樹漂着し来にけりとて之を獣す。皇子 乃ち親ら之を宮の東
第 四章 後 紀 人 皇 二七五
* 二き六
阿田都山 の大森に葬り、吾艦 の森と名つけ給ふ。共夜 記太夫火を焼きて皇子を慰
め奉る。皇子目 く、通比波 理 都久波 表 須疑己 伊久用加、泥 津流、と記太夫 應 へて 目く、加
賀那倍 旦 用 通和 許 許能用、比 通波 登表加 袁と。面して皇子は 美 夜受媛 母子守護の
功 に 依り、記太夫に、吾艦惣國 の 國造 となす。吾 婦 惣國とは佐加見・伊須 住留賀 海伊・
武佐志 上毛 下毛 阿津佐 阿波 土海 日 下地 尾久・出羽 の十二國なり。又 揃 を獣ぜ し海
知男は、建許 呂 命の 御子なり。後、共功 に依り、阿津佐國の馬 来 田國 の 國 造 と なし給

ふ。名を深河意瀬命と稲しぬ。又 奈良田彦を以て再 ひ海伊の國造となす。奈良 山


彦は碑都復奮の議に興しけるも、二十年間苦心して底大湖を掘下け 減水せしめし功

に依り 共罪を 免し、今や復た國造 に 任し 共湖漫 より臨を製しけるに因り 講 を 臨見


宿禰と改め 賜ふ。共嫡子駒男に譲 を武居男と 賜ふ。皇子は神将大伴武日を高天原


に留め 東北の國 々 を治めしめ 途に還御ましまし給ふ。即ち先っ、高天原阿 田都山


より、顧地 山を遥拝 ましまして、大田原 より 御古峠を越え、海伊 國山背の國府より、低
大湖の東漫を廻りて奥仙人峠を越え、玉澤より武佐志野に出て、上毛原より確氷峠
を経て科野路 に入らせ給ふ、遂に尾羽張 に至り、中島の松子島の源太夫の宮 に駐ら
せ給 ふ。是より先、妃美夜 受 媛 命、既に還御ましまして、皇子を待たせ給 ひき。皇子、
比 の宮 に駐 らせ給 ふ こと 七日、去る に臨み、命 に、比 を吾と 思 へ、と て草薙剣 を授け さ
せ 賜 ふ。皇子 乃ち、共より進み て 大海野 の 伊吹 山 に達し ませは、風雨 騒 に 至り、陰雲
晦 冥、書 旨し。皇子、偶“木根 に て 足を傷つく。落 痛甚 しく、潮く、杖 に頼り、見野 國 より
伊勢路に出て、一っ松の下に至りませば則ち先に征討の途攻 gれまし、剣術は存
在 しありき。皇子、大 に脱ば せ給ふ。進み て能 煩野 に至り、覚に夢し給 ふ。那 豆岐 田
の 陵 に葬る。日本武 奪 と 諡 し奉る。

五十二発 玄 年六月三日、天皇 高天原に 上りまし給 ふ。是より先、天皇常に、皇子日


本武奪の夢 去を追悼ましまして、愛慕措く能はず、乃ち皇子の平定ましませる地を

歴覧せむものをと て、武内宿禰を響導として途に高天原に上りませるものなり。

先づ菅原の大塚にて、顧地山を遥拝ましまして、中室の麻 呂山 なる天照大御碑の政
所の古跡に行在所を建てさせ給ふ。之を麻呂山の宮といふ。天皇親ら阿祀山太
碑宮を祀らせ給ふ。彦狭 島王を以て、小室 の都督となす。七月四日、小室を務し、東
海の諸園を巡狩して還幸ましましき。(㎞)
第 四章 後 紀 人 皇 二七七
碑 皇 紀 二七八
第三節 除説
第一 三品の大御賞

三品の 大御質は 豊阿始原之世、地 碑第一代、天照大御碑の御時 祀佐
しませるものにして高天原碑祀碑宗代々の天っ大御碑を祀りませ
宮の御碑 殿に 納め鎮めまし、三種の碑器なり。比碑器は祀佐男命か
の碑 勅を 長 みて、手名都 知命足名都 知命に命し、従族金山 昆 古 命講剣刀知
て 作せしめまして室雲の剣 ㎞}人太初の銭ェ)資司の御賞㎞ )
-
是 なり。
シの剣は銭に銀三分を和して鍛ふこと二百日 剣八本を製作し共一本を太
占にト和へて選みませるものにして共出雲の競川のシに於て製作ましませる
に由り 期く名っけ給ふ。八太羽の鏡は金に銀を和して鍛ふること二十 一日 日輪
の形に八本の御剣を加 へて八角花形の鏡を製作しましませるものにして内侍所
。シと 名っふ給ふ。資司の御霊は金を鍛ふること二十一日選来山高地火の峰
の形を製作 し、月輪の形を銀にて製作しまませる上に安置して、碑祀碑宗代々 の 天
つ大御碑の碑霊となしませるに由り 期く名 つけ給 ひき。
天照大御神は認して比三品を以て天っ日園の天っ大御質となし。Hっ子孫世

々 天つ日嗣の大御位 に即かせまさむには、太碑宮の御碑殿に於て、三品の大御質を
拝 きて即位式を行はせまさむことに定め給ひき。
夫れ大元々祀 即ち天之世七代より 天之御中世十五代を歴て高天原 世天碑七代
に至るまて、天 つ日 嗣の天 つ大御碑の大御質は、七品にてましましけり。然るに地碑
に至り天照大御に於て期く三品の大御質を以て七品の大御質に代へさせ給へり
抑も、七品の大御質は第 一石剣 第二自青黒の丸き大御 玉石 第三金銀繊の砂金第
四金銀白 赤黒の 丸 形 の 玉 金 第五鏡石 第六白黒の大粒小粒 の 丸き玉石 第七火出 つ
る石足なり。第一 の石剣第二の自青黒の丸き大御玉石 第四の金銀自赤黒の丸形
の玉金の三類は天元々加師ち天の世より代々の天っ大御神即ち神皇守護の大御
質なり。第五 の 鏡石 第七の 火 の出 つる石 の 二類は、大元々 祀即ち天 之世 より代々
の碑 后、守護 の大御質なり。第三の金銀繊 の 砂金は 代々 の 天 つ 大御碑 の 碑 勅 に依
第四章 後 紀 人 皇 二七九
碑 皇 紀 二八O
り、四方の諸。の國 々 に於 て、諸、の事物の通用に使 ひませる大御質なり。第六の白黒
の大粒 小粒の丸き玉石は 代々 の天 つ大御碑の碑勅 に依り 四方の諸。の國 々 に於て、
諸 の物の数取りに使ひましし大御質なり、比等を大元々風即ち天之世より世々
の 天 つ 大御碑の 大御質とそ稲しける。
然るに豊阿 始原之 世に至り、天 照大御碑は祀佐男命より 奉りませる三品 の大御
質を以て、七品の大御質に代 へ させ給 ひ、以て 子孫代々 天 つ 日 嗣の 大御位 に即 かせ
給ふ碑典をそ定めさせ給 ひける。爾来、地碑第二 代天之忍穂耳奪 より碑皇第五十

一代 韓 芽賞不合奪 講禰県 都男王奪に至るまで代々 大御碑の碑典に則り 執 れも 高


天原に上り阿祀山太碑宮の御碑殿に於て三品の大御質を拝きて即位 式を行はせ

給 ひにき。

人皇に至り 碑武天皇は共即位式を行はせまさむとして先っ勅使皇族高座日多
命をして高天原阿祀 山太碑宮に参向 せしめましき。勅使 乃ち高天原に上り 高天
原惣司令碑熱都 丹波彦命に勅旨を博ふ。命は大山祇命五十九世の 孫 にましまし
て前惣司令碑阿津山男命の御子にまします。書て動を奉し同太碑宮に於て神使
として、諸、の天 つ 大御 碑の 御 碑託を 授け 賜はり、三品 の 大御質 を中受け、謹 て 之 を 奉
持して、副司長初め数多の宮守等を従 へ、勅使と共に大和の標 原の 宮にそ天降りま
しましける。乃ち正殿に於 て、碑使熱都丹波彦命は天つ大御碑の御碑託 に依り天
皇に講を賜ひ三品の大御質を授け奉りて即位式を行はせ給ふ。終って碑使は又、
三品の大御質を捧持し 高天原に還り上りて太碑宮に納め鎮め奉らる。則ち天皇
は芝を以て永く即位の儀典と定めさせ給ふ。
爾来、人皇十代に至るまて共儀典に則り、各即位式を行はせ給 へり。即ち人皇第

二代 緩晴天皇即位式の碑使は宮守男命にして前高天原宮守司長熱都丹波彦命の

御子なり、第三代 安寧天皇即位式の碑使は宮方男命にして前宮守司長宮守男命

の御子なり。第四代繁徳 天皇即位式の碑使は宮志津目男命にして 前宮守司長宮


方男命の御子なり。第五代 孝昭天皇即位式の碑使は山宮男命にして前宮守司長
宮志津目男命の御子なり。第六代孝安天皇即位式の碑使は奈流男命にして前宮
守司長山宮男命の御子なり。第七代 孝霊天皇即位式の碑使は兵米山男命にして、
前宮守司長奈流男命の御子なり。第八代 孝元天皇即位式の碑使は 美禰方男命な
第四章 後 紀 人 皇 二八一
碑 皇 紀 二八二
り、命は祀佐 男命六十九世の 孫 にまし まして、孝 霊天皇新任 の高天原宮守司 長尾
羽 張田 彦命の御子なり。第九代開化碑 皇即位式の碑 使は 阿 曾男命 にして、前宮守
司長美瀬方男命の御子なり。第十代券碑天皇即位式の碑使は基田良男命にして
前宮守司長阿倉男命の御子なり - -
崇 碑 天皇 の 御宇 に 至り、五 年認 し て 皇女 豊 拒入 姫 命をし て、天照大御 碑 の 新宮 を
大和國 笠縫 の 里 に建て しめ 給 ふ。之 を 天照皇大碑宮 といふ。尋 て皇子豊城 命を
勅使とし、豊 拒入姫命及 ひ淳名城 入姫 命を副 使として 高天原より天照大御 碑の御

碑霊として三品の大御質を新宮に遷し祀ら しめ給ふ 乃ち勅使等 高天原に上り


汰 沿 斎戒 身を清め、先 つ 阿 祀 谷中室の 麻 呂 山 に鎮 り まし ます天照大御碑 の御 碑殿


に於 て、拝 濃 ㎞ 祀ましまし ぬ。更に 天赴元宮阿祀山 太 碑宮 の御碑殿 の 廣前 に於て、


拝 濃 轄 祀 まし まして、親しく御 紳 託 を 受け させ られ、且つ三品 の 大御賞をそ 授け 賜

はりける。時に、三月三日なり き。
勅使豊城命は副使 豊拒入姫 命同淳名城入姫 命と、三品の大 御質を捧持して帝都
に還 啓 ましまし給 ふ。宮守 司長 吉田 彦命、副 司太田川彦命初め宮守 一同、道中を警
護し 奉る。吉田彦命は祀 佐男命七十四 世 の孫 にましまして前宮守司 長 具 田 長男
命の御子なり。太田川彦命は大山祇 命 六十九世 の孫にましまして前副宮守司長
久良 高命の御子なり。勅使は、大和國に還らせ給 ふ や、先つ三品の大御質を笠縫の
里 なる新宮の 御碑殿 に納め鎮め奉らる。乃ち 豊拒入 姫命 済 名城入 姫 命は、御 碑
に於 て鎮座 の祇願を行はせ 給ふ。終り て後更に雨皇女初め 高天原の宮守司長吉
田 彦命以下 一同にて、御碑殿 に於て、大日本惣國 魂碑祭 の所 願を行は せ 給 ふ。時
四月九日なりき。是より笠縫の里を天赴の地と定め、天碑 戸に組入れ給ふ。

、六 月七日 より、笠縫 の 里新宮 天照皇太碑宮 の 廣前に於 て、百間四方を書し清浮 の


地となし、四面に垣を結 ひ廻はして注連縄を張り 上 に屋根を葺き三方に 離を垂れ


ぬ。域内中央の奥を壇還 となし、不二山 に日月の形を造りて奉安し奉る。共前


左右に松竹梅鶴亀を飾り 碑前大棚の中央に整 束を置き、祭器を列し、種々 の御隠 物


を供 へ 奉る。面して共碑前に於て、更に十間四方の細工小屋を造り 赤四方に 離を
垂れ、注連縄を張りぬ。是より先、勅して天下の名工を召 させ給ふ。即ち高天原よ
り亀 湖池 都留 松、又 銃紫より千久男宇目男、津 久島より兵津質等 召 に應し て来 り倉
-
第四章 後 紀 人 皇 二八三
碑 豊 紀 二八四
す。乃ち語し て 目 く、天 祀天 照大御碑 より、子孫代々 博 へ ましませる三品の大御質
に倣 ひて金銀黒鐵を鍛 ひ更に大御 質を製作 す へ しと。則 ち、五名工、謹 て 勅を 奉し
ぬ。乃ち 湾しく泉水 を被り、猫戒 し て 心身 を清 浮 にし、誠敬 を 霊 し て 碑 祀 碑 宗 の 天
つ大御 碑初め 諸、の天 つ碑 國 つ 碑に轄 祀 する こと 一百日。更に新 に衣服を改め 飲
食物を鎌 火にて清め誠意以て技を霊し工を極め、火化水洋して鍛煉を重ねること
一百日、遂に潮く新なる三品の大御質を製作し 奉り、功 を闘 下に以聞 す。乃ち阿 祀
山太碑宮の宮守司 長吉田彦副 司長太田川彦始め、皇女豊拒入姫 命、同淳名城入 姫 命
等をして 又、一百 日間諸、の天 つ碑 國 つ碑 に、六根清浄 の所願を貸さしめ 給ふ。終り
て新 に製作まし ませる三品の大御質を皇城の奥御殿 へ 遷し鎮め奉らる。時に七
年七月十五日なりき。是より皇城の奥御殿を 基碑殿(㎞)と名っけ給ひき。
眞碑殿は、四方に魔を垂れ 紫の 幕を張り、五色の 旗を四隅にそ建て置きける。面
し て新 に製作 ましませる三品の 大御 質は、天皇代々 守護 の大御質と定め させ 給ひ、
碑 代より代々 博 へ ましませる三品の大御質は 大和 國笠縫の里なる天照皇太碑宮
の 新官 に納め鎮め、以て同太碑宮 の 御 碑 霊とそ崇め させ給 ひける。
天皇認して、爾後即位式は 基碑 殿 の 正殿 に於 て碑祀碑宗 天 つ 大御碑初め、天照大
御 碑 に 拝 濃 まし まして大御 位 に即 かせ給 ふ こと に、犠 典 を 改め させ 給 ひき。
垂仁天皇二十五年。動して天照皇太碑宮を大和園より伊瀬園㎞)に遷宮
し 奉ら る。初め、天皇 は、碑 武 天皇 の御 父、即ち碑 皇第五 十 一代 鶴 芽 葺 不合奪 の 陵墓
所在地 に 太 碑宮を 遷宮し 奉らむ として特に 認命を以て、伊瀬 國度曾原 五十鈴川上
なる陵墓の東南 の前地を相し、新 に太碑宮 の御 碑 殿 を造営まし まさし む。是 に至
つて途 に大和 國笠縫の里 に鎮 りまします天 照皇太碑宮の碑 霊なる三品 の 大御賞
を、伊瀬の 新宮 に 遷宮あらせられ たり。皇女 倭姫 命を以て宮 守護並 に祭祀 の 司長
に任 せしめ 給 ひき。
-
舟田 彦命を以て皇 太 碑宮の供物 司長と なす。命は 作 正 里 古 命 六十七世の 孫 に


田農首



作里

なり頭
まして
標 作

と碑

して
子田務


宮物るし孫 まし
す*



*
、六
子連綿
なより
ませる


奉職





まし 代至。


承し
て 御御
湖畔


代高天原
大 原
継る々舟山 天

舟宮
に に




元阿
祀け
供を

止り
ましける。命 に、野見彦・田村 彦、の一弟あり。野見 彦は出示神 天皇六 十年 吉備津
二八五
第四 章 長 記 人 皇
碑 皇 紀 二八六
彦の神将 として、北越平定の功 に依り、北越諸國の 農事を司る。出雲の 國 に居る。
垂 仁 天皇八 月十五 日常麻豚速を倒ししに依り、共領地を 賜 ひ野見宿禰と改め賜ふ。
天皇崩御 の とき、夫妻% 死し てけり。乃ち、天皇御陵 なる 菅原の 東北 に 葬る。因 て共
子出雲彦に菅原宿禰と賜ふ。(㎞)命の召されて伊瀬に赴くや弟田村彦 共後を襲
ぎ て、高天原阿祀 山 太 碑宮 の 供物 司 長と そ なりにける。命 は 伊 瀬國 河曲 原 の 都 波
岐 の碑田 の 作 事の 貸 め 共地 に宮 を 造営し て都波 岐宮 と稲し 止らせ 給 ふ。面し て
碑 宮 の 供物 の 禁 場所は、高天原 の 古例 に擁 ら せ給 ふ。即ち、高天原小室澤の 白砂
の尾の 上 の 大松 の 下 に於 て楚 く こと を例 とせ しかは、伊 瀬國 河曲原 の 倭田山 の 尾
崎峰 の 大松 の 下 に於 て供物 を禁 く こと に定め 給 ふ。因 て 命は、倭田 氏 又は、山田 氏
と稲したりしが 後松木氏とそ改めける(㎞ )太碑宮に供物を捧け奉ると同時に、
高天原の 碑都の 天 つ大御碑を初め 諸、の天碑 地祇 に、遥 に供物 を捧け 奉らせ給ひき。
基場所は同園二度見ヶ浦とモ定められける
命は河曲彦の二 女を要り三 子を撃く。長子山田 彦は父の後を嗣 き碑田を作事
し供物を太碑宮に捧け 奉る。攻 子 木曾彦は太碑宮の碑 殿を造営し、又は修緒をな
すべき職を命せ られ、子孫之 を承継し三子合津彦は、太 神宮の神殿 の屋根 を菅 に て
葺く へき職を命せられ、子孫之を承継したり。後 山田彦は伊瀬園の國造となり、木
倉彦は、日高見の 園造となる。木曾彦の止りましし山を木倉山といふ。合津彦は
奥の園の園造となる。共止りまし、山澤を合津とそ稲しける。(㎞

第二 左右大碑
我國は紳代大元祀天之御中世より、天 つ 日 嗣の天 つ大御碑 即ち皇位承継の碑皇

には、左右大碑のましますありて代々 碑皇を補弱し奉れり。面して左右大碑も 碑

皇と等しく共天風を一にしHっ子孫赤代々一系たり。即ち左大碑は共子孫代々

左大神家を承継して祀家(㎞ )と稲し右大碑は赤共子孫代々右大碑家を承継

して武部 ㎞ )と稲し、覚に共に人皇に及びにき。
夫 れ 天之御中世第 一代天之御中主碑は天之御中美碑を碑后として高皇彦穂男
碑 高中守主碑 高下守主碑の三柱を生みます。
高皇彦穂男碑の子孫を以て代々 天っ日嗣の天つ大御碑と定めさせ給ふ。面し
-
第四章 後 紀 人 皇 二八七
-
碑 皇 紀 - 二八八
て 高中守主碑の子孫を以て代々 左守大碑とし、高下 守主碑の子孫を以て代々 右 守
大碑とし、左右 より天 つ 日 嗣 の 天 つ 大御 碑 を補 弱 す へき こと に定め させ 給 ひき。
左守大碑高中守主碑 講大玉 守主碑より十四世 の孫天之玉親主碑 講大岡 主碑 並
に、右 守大碑 高下 守主紳 講小玉 守主碑 より十四世 の 孫、天 之月晴比古碑 講 小 立 比古
碑は共に高皇産穂男碑より十四世の大御神高皇産霊神 天之農作比古碑を左右
より補弱 し 奉れり。天之 玉親主碑 の 御子、天 之常武比古 命講大海原碑は、天 之 月晴
比古 碑の御子、天之 古 登太留 比古 命諱御舟 守碑と共に 高皇産霊碑 の 御子國常 立奪・

國 狭 植 奪 を補 弱 し 奉れり。

天之常武比古命の御子、天之茂登太手比古命 並に天之古 登太留比古命の御子、天之


茂登太 足比古 命は、共に 伊井諾 奪 の 左右大碑 にまし ます。面して伊 装 諾奪 は、國常


立奪園狭継奪二柱の子孫を天っ碑と稲し 天之茂登太手比古命 天之茂登太足比古


奪・二 柱 の 子孫 を國 つ紳 と稲 せしめ給 ひ にき。
天之 茂登太手 比古 命の御子、大 守男命 並 に 天之茂登太 足 比古 命の御子、小 守主命
は 共に、地碑第 一代 天 照 大御 碑の左右 大碑 にまします。大 守男命は、大御碑 より 代
代大政の事に参興して祀園を守護しませるに由り祀家と 腸 ひ 小守主命は代々 武
士軍事 に参興し て、祀國 を 守護しませる に由り、武部と 賜ふ。大 守男 命は、尾茂太 留
奪 の第二 女 大中美命 に要 ひて、天太玉 命を生み まし、小 守 主命は、尾茂太 留 奪 の第三
女 小菊 昆女命に要 ひて、天 見屋根 命を生みます。天太玉 命より、天太種王命・天大 食

雄 命 太 火高主命天津明魂命を歴 て、天津伊 建玉 命に至り、又、天 見屋根 命より、大政 守


命 武頭守 主命大物主命・天津高倉 命を歴 て、天野 見屋建命に至りぬ。天津伊 建玉 命

天野見屋建 命は、碑皇第 一代 競 芽葺 不合奪の左右大碑 に ましまし き。


左大碑天津伊 建玉 命五十二世 の 孫を、太玉 購波主命 と いひ、右 大碑天野見屋建命


五十二 世の 孫 を、速玉 之緒 命といふ。共に、紳皇第五 十 一代、鵜 芽 葺不合 奪 の 左右 大


碑たり。左大碑太玉 購波 主命は、道博主命の二 女多 日美女命に要 ひて、太玉若道命
を生み まし、右大碑速玉 之緒 命は 穂明 魂命の二 女多毛美女命に要 ひて、太玉 大苦命
を生み ます。太玉 若道命 太玉 大苦命は、各共父と共に 神皇第五十 一代、鵜第葺不合
奪、並 に皇太子日高佐野王奪に 従 ひ 東征 の 途にありにき。
中國 平定の 後、皇太子 佐野 王 奪、位 に即 かせ 給 ふ。人皇第 一代、碑 武 天皇 是なり。
第四 章 後 紀 人 皇 -
二八九
評 息 和 二九O
天皇 は 英 动 に 依り、太 王若道 命 に 書 を 表 香織 男 王命 と 開か、大政 を 司り ませる 周 家
の 家 とし、更に 書を中 亞 蘇我 素 建 命 と 改め 開か 子孫を し て義 或 低( 鄭º)と 称する
と とを 発し 結び、後 文 观光 代々 の 大功 に依り 回 美 與 手 命 と 改め 開心 中 金 國政 大夫
に 任 し 結ぶ。 ︽太 王 大 者 金 に 勝 を 連 王 山田 命 と 開か、軍務 を 司 ク ませる 武部 の 家
とし、更に 書を中 正式部道 區 命 と 改め 開か 子孫を し て武部氏(職 º)と 称 すると と
を 免 し 開か、後 文 組 先 代々 の 大功 に 依り、天 日 方案可 日 方 命 と 改め 開心 中 合 國政 大夫
に 任 し 始 かさ。
和曲

可笑 其 手 命 は、天皇 の 皇統 稱 五 楼 金 を 犯 として、沙場 文 命 を 生む。 李鴻文 命 は、天


皇 第 三皇女 王座 月江陵 命を 組 として出鉴色 命を生む。 文天 日 方も 日 方 命は 天皇


ż

の 皇族 或 城楼 命 を 記 として、日 作 大連 命 を 生む。 日 作 大連 命 は、天皇 第 七星 女 國定


授命 を 犯 として 大船 主命 を 生む。 出雲 色 命 より、蘇我 政 支 命黨 日 政 我 命大作 靈 日


命黨 成武 日 命を 歴 て大作 武 長男 命(路線 )に 至り大 君主 命より式部 日 運命武部
中 運 金 術 顧 彥 命(安部 鏈 )·吉備武彦 命を 歴 て武部大夫 命 に 至る。 大作 武 長男 命
は老 舊 大 皇 の 第 三 皇女 教 里 埃 命 を 犯 として 無 我 政木 命 を 生む' 務 或 政 本命 + 1
世の 孫を蘇我入鹿となす。又、武部大夫命は孝 霊天皇第 一女大倭 媛命を妃 として、
平郡武雄命を生む。平郡武雄命十二世の孫を中臣鎌足となす。(㎞)
第三 歴書
暦 は、碑 代宇 家 潤 不二 合須 世 より 始まれり。即ち、大元々 祀 天 之世 より、天之御中
世 高天原世 を経て、豊阿 始原世に 至るまて、執 れも日 を数 へ て、事を記し まし 、に、宇
家潤不二合須世 碑皇第一代 韓 茨 葺不合奪の御宇、初めて三百日を 一根と定め給ふ。
同第三十三代瀬 芽葺不合奪、一根を 一年と改め、月の光り初めより光り終りまてを

一月とし、十月重ね て 一年と定め給ふ。常時、初めて 股暦博はり、五行・千支を日及年


月に配して、人皇に及 へり。第十五代 鷹碑天皇の御時 十二月を以て、一年とし、春夏


秋冬 の季節を定め させ給 ふ。愛 に、潮く陰暦は完成し にき。


夫 れ碑皇第一代 競 芽葺 不合奪は 即位 一 千五百日のとき、雨手の指を合せたるも


の十廻り三度 即ち三百日を以て、一根(㎞ )と定めさせ給ふ。是れ年の始とす。
碑皇第三十三代鶴芽葺不合奪 即位三十六根 のとき、股園二十八代 約辛王 周の武
王に亡 さる。忠臣、武丁 なるものあり。第三皇子、封馬王を守護し、王に股國の暦書
第四章 後 紀 人 皇 二九一
神 桜 二九二
を 経 洵 *)の西北たる敵 疎*)に滞在 しむ。 及“ 小牛式 」の
1 度 に 戻 體 轉 たる もの あり 設 國 の 日 に 非 たる もの ある を 見 て先 に逃れ て 北島 に
ありº 4 ( エ は 王 を 楽し、農 張軌 を 追う て、北島 に 来れる もの なり。 カ ち、王 に 源
東にし彼 德寺を 書 に敵す。 神龙も開 を推入 政 王を以て*
初 世 太 祖師 と た す。 是 に 於 て成層 に 依り、中 乙 西子 成 巴 東 半 手交 の 十 干支 社 党 则
反日 午 未 中西 成 女 の 十 二 文、木 大 土 金水 の 五行を 採用 し、日 に 配 し、毎月 期 ら す と º
に 定め 込 º > & を 十 11 時に 定 た 。 即ち、夜中 を 子 とし、北京 师 長 日 年 を 日 中

として 本 中西 成交 の 十 二 時 と た し 結び き。 是 れ、我國 五行 干支 の 始め た す。

同 种 基 部位 三 十 六 根 二 百 十 六 日 の とき、月を 目 度 に 月を 定め 落 。 同步 分 の 光

り 初め より、月 の 光り 終り まで を、1 月 とし'月 に も、五行 干支 を 配 し 過 ら す と と を 定


め、十 月重 れ て、1 枚 と定め させ 始 。 李 て、1 理を 1 年 と 改め 年 に もポ 五行 干支 を


配 し 結び き。 我國 年 是 上り 始まり お。
人 皇 第 一 代 神武 天皇 元 年。 太陰歷 を 太陽 質 に 改め、三 十 日 を 1 月 とし、十 月 を
年 人と 定め 於船 よ。
千支は神代より引き績き用み させ給 ひしか人皇第十代シ碑天皇に至り 十千を
魔 止し 給 ふ。
人皇第十五 代、應碑 天皇十四年三月、百済國 より 博士阿知伎 吉師 に、韓鍛治師 卓素、
呉服 師西 素 の二 人 を附 し、銘馬 一正、論語十巻、千字 文 一巻、暦書 一巻を貢献し ぬ。
天皇、一日阿知伎吉師に認りたまはく脱園の歴は寒者の定りなく、一月にして巻
熱なるあり又 六月にして雲冷なるあり 諸事不便戦からす乃ち次の知略を以て月
と季節と一致すへきことに改暦すへしと。吉師 護て勅を奉し七年間工夫して、

年を十二 月 に 定め、月の 廻り を見 て、大小 の 月を 定め、大の 月は三十 日 とし、小 の 月は


二 十九 日 と 定め、三 年 廻り に問月 一月を 加 へ、閏月 ある年は十三 月 と なし ぬ。是 に


於て、春夏秋冬 の 四季の 季節を定め得るに至れり。月を目度 に、暦を作りしに因り、


之 を陰暦と名 つけ 給 ふ。碑 代より碑 皇に至るまて、三十 日 を以て 一月と なし、十月


を 一年と 定め ありし に 因り、一 年は、十 月即ち三 百 日 なりしか、是 より陰暦 一年は、大
小 十 二 月 即ち三 百 六十 日 にし て、三 年毎 に問 月 一月 廻り 来 ぬれは、一年十三月即ち
-
三 百 九十 日 と なれ り。
第四章 後 紀 人 皇 二九三
碑 皇 紀 二九四
天皇御威斜ならす。共賞として吉師に河内國交野原藤坂村に於て 高田五百東
を 賜はり、名を阿知伎 王仁 と 賜ふ。
阿知伎王仁は賢人にして文學算術諸藝に達し、又、卓素西素は諸 の手工共他諸薬
に達しけるに因り、之を三賢と御威賞ましましき。認して男女十歳より、十五歳ま
ては阿知使王仁を教師として文學算術を撃はしめ 又十五歳より二十五歳まての
男女は卓素西素の二人を教師として諸 の手工共他諸 藝を學はしめられ、又、二十五
歳以上三十一歳まての男女は王仁 車素西素の三博士を教師として諸 の武藝を寧

人口8 (以上、開 闘記、碑 都 録、碑 代 記、人


はしめ給 ひき。(㎞ )



第一 一編 碑 宮 之 巻 紳 皇 即位 所
第 一章 総説
碑代宇家潤不二合須世、五十 一代の各碑皇の即位式を行はせ給 ひし場所は高天
原元宮 七廟 惣名 阿祀 山太碑宮の 御碑殿 なり。
夫れ、阿祀山太碑宮は、天照大御碑の御創立にましまして、高天原の碑祀碑宗天っ









祀まし
賢りし
にし
唯一
初め ませる




所 所

面耐

所譜 藤 代

、天照大御碑の大御位に即 かせ給ふ や 高天原の阿祀谷 小室の阿 田都山 に 宮殿
を造営ましまして、碑 祀碑宗代々 の 天つ大御碑を祀らせ給 ふ。高天原宗廟天赴大
宮 阿 祀山太碑宮と稲し奉らる。面し て 比太碑宮は、天 つ 日 嗣の 天つ大御 碑の止ら
せ給 ふ 大御宮を守ら せ 給 ふ 宮なるに 由り、一 に宮守 の 宮と稲し ぬ。
後、天照大御碑は、太 碑宮の 宮殿 を改造ましまして、元宮 阿 祀山太碑宮 と改稲し奉
り、三品の 大御 質を 太碑宮 の碑 殿に納め鎮め奉らる。子孫代々 天 つ 日 嗣 の大御 位
-
第 一 章 継 説 二九五
-

碑 皇 紀
二九六
* 『かせ“きむに太神宮の平殿に於て三品の大御資を拝き送を捧けましますを
。“大 位に即くの儀典と定め給ひ 等て碑避りましぬ。後共碑霊を大御碑の政
所をシけましし中室の麻呂山に祀りて麻呂山の碑廟と稲し奉る。
『“* は高皇産霊碑神皇産霊碑の鎮ります高座山の碑願園狭趙奪両
シの鎖ります鳴澤菅原の碑魔伊非諾中二柱碑の鎮ります笠砂の騎なる高

*。シ大御神の鎮ります麻呂山の碑廟御父母天孫二柱碑の鎮ります字津
*。金山の 魔外祀父母二柱碑大山祇命別雷命の鎮ります加茂山なる山守の

*。シ古命の鎮ります古峰の根元野の碑願を各祭らせ給ふ。面して共

シ**阿山太神宮に合祀ましませるを以て足より太碑宮を高天原天

祀元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉らる。

日子波激武韓非暮 不合奪 の碑都を築市島 ㎞)に遷させましますや父大


*
* 部りたまはく不二山高天原の碑祀碑宗天っ大御碑の御碑託に合
“ー。すの意を探りて官しく園名を宇家測 不二合須園と定むへし。又子孫代
。っ『『。大 化に即かせまさむには高天原の太碑宮の御碑殿に於て天っ夫
御碑の御神託を受け三品の大御質を捧けますべき天照大御碑の儀典を守る べし
と。故に第一代より第五十 一代に至る各碑皇は執 れも 皆共儀典を守らせ給 ひ 即
位毎 に築市島の日向の高千穂の峰 の碑都より 高天原の天都に上り、太碑宮の御碑
殿 に於 て、即位式をそ行は せ給 ひける。
人皇に至り 碑武天皇の帝都を大和國に遷させ給 ひ 標原の宮に止らせ給ふや皇

族高座日多命を勅使として高天原の天都に上り、太碑宮の御碑託を受けしめ給ふ。
常時高天原の惣司令碑は大山祇命五十九世の孫熱都丹波彦命なり。命は軌旨を

奉し先っ太碑宮の御碑殿に於て御碑託を賜はり 天つ大御碑の碑使として勤使と

共に根原の宮に参向し、正殿に於て三品の大御質を天皇に捧け奉りて即位式を行

はせ給 ひ以 て即位式の儀典を定め給 ひき。


紀元四年四月、天皇高天原に上りまして、天つ大御碑を祭らせらる。即ち、宇津峰
西尾崎鳴澤山なる金山に鎮ります天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ給 ひ、二柱の御
紳霊の正ります御霊石を 熱津丹波彦命に奉持せしめ、阿祀山大碑宮なる宮守の宮
に遷し祀らしめ給ふ。是より 太碑宮を慰名にては阿祀山太碑宮と稲し 軍に天孫
第 一章 総説 二九七
碑 皇 紀 二九八
二 柱 に て は、宮守 大 碑 と そ稲 しける。
天皇 又、中室 の 麻 呂 山 に鎮 まり ます天照大御碑、加茂山 の 山守の 宮 に鎮 り座 す大
山祇 命 別 雷命、又、古峰 の 根元野 に鎮 ります作田里 古 命 笠砂の硫 に鎮ります高 燈の
伊 装 諾・舟二 柱 碑、標 山 宇宙峰 に鎮り ます高座 の 高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑、小室鳴 澤の
菅原 に鎮 り ます國 狭 植 奪 園狭 里 女 奪 の 各 碑前 に於 て、親 ら祭祀の 濃 を行は せ給ふ。
尋 て熱都 丹波 彦命 に、共宮守 司 長を 命し 給 ひき。
孝霊天皇五十康申年三月 高天原に上りまして 小室の笠砂の硫に於て各天つ大

御碑 に通拝あらせ 給 ふ。又、宮守 の宮 に於 て、親しく祭祀の 濃 を行は せ られ、官 赴 一


幣 司 を 賜ふ。祀 佐男 命六十八 世 の 孫 尾羽 張 田 彦命 を以て、太碑 宮 の 宮守 司長 に 任


し、熱都 丹波 彦命 七世の 孫玉 武男 命を以て、副 司 長にそ 任し 給 ひける。
崇碑 天皇五 成子 年三 月、高天原 阿 祀谷中 室の 麻 呂 山 より、天照大御 碑 を 大和 國笠
縫 の 里 に 遷 し 奉り、同時に太 碑 宮 より、三品の 大御 賞 を 遷 し、共碑 霊として 祀ら せ 給
ふ。面 し て三品 の 大御 賞 を模倣 し て、新 に三品 を製作し て、奥御殿 なる眞碑 殿 に納
め鎮め、以 て 天皇 代々 の 守護 の 大御 賞 と 定め させ 給 ふ。子孫 代々 共正殿 に於 て、即
位式 を行 ふ へき こと に 改め 給 ひき。
爾来、不二山 中室の鷹 呂山の天照天御碑を、古宮天 照皇太碑と稲す。同年六月、菅
原 に 鎮 り 座 す國 狭 植 奪 の 碑 廟 を、寒川大 碑 と稲 し、不二山 を 顧 地 山 と そ 改めける。
垂 仁 天皇三甲午年、住 留家 海伊 佐賀見の三國 々 境 なる山村に、大碑 宮 を分 ち移し
祀らせ 給 ふ。之を山宮阿 祀山碑赴と 稲し、元宮 を 小室阿祀山太 碑 宮 と そ稲しける。
應碑 天皇 の 御宇 に 至り、大山 守 皇子 をし て、太 碑 宮 の 宮守 司長 と なし、隼 継 別皇子
をし て、副 司 長と なさしめ 給 ふ。三十 七 内 宙 年、碑 功 皇后 の 弓矢を大山 守皇子に 賜
ふ。四十一康午年二月天皇崩御。九月 大山守皇子は太碑宮の大相木の下に父天

皇 の 遺髪と 祀 母 碑 功 皇后 の 弓矢と を 祀り、高御久良 碑 赴 と稲 し ぬ。


崇竣天皇二 己西年厩戸皇子を勅使 として、太碑宮に大日本元幣司を賜 ひ、寒川大


碑を 遷宮し、高久良碑赴 に合祀して、寒川大明碑と改稲し、笠 砂の 高 燈大碑を幸 盤大


明 碑 と 改め 給 ひき。
*
文武天皇大賞元 辛五年六月、忍壁親王を加幣使 として 下向。勅願 により、寒川大
明 碑 を 幅 地八幡 大碑 と 改 稲 し 給 ひき。



第 一章 総説 二十
二九八
碑 皇 紀
二柱 にては宮守大碑とそ稲しける。
天皇又中室の麻呂山に鎮まります天照大御碑 加茂山の山守の宮に鎮り
山祇命別雷命 又 古峰の根元野に鎮ります作田里古命金砂の硫に鎮ります高盤の
伊 非諾由 二柱碑 機山宇宙峰に鎮ります高座の高皇産霊碑 碑皇産霊碑 小室鳴澤の
菅原に鎮ります國狭樋奪 園狭昆女奪の各碑前に於て親ら祭祀の濃を行 はせ給ふ。
尋て熱都丹波彦命に 共宮守司長を命し給 ひき。
孝霊天皇五十康申年三月 高天原に上りまして、小室の笠砂の荷に於て 各天っ大
御碑に通拝あらせ給ふ。又 宮守の宮に於て親しく祭祀の濃を行はせられ 官祀 一
幣司を賜ふ。祀佐男命六十八世の孫尾羽張田彦命を以て 太碑宮の宮守司長 に任
しェ 都丹波彦命七世の孫玉武男命を以て副司長にそ任し給 ひける。
崇碑天皇五成子年三月 高天原阿祀谷中室の麻呂山より、天照大御碑を大和國笠
縫の里に遷し奉り 同時に太碑宮より、三品の大御賞を遷 し 共碑霊として祀らせ給
ふ。面して三品の大御賞を模倣して新に三品を製作して、奥御殿なる眞碑殿に納
め鎮め、以て天皇代々 の 守護の 大御 賞 と定めさせ給ふ。子孫 代々 共正殿 に於て、即
位式を行 ふ へき こと に 改め 給 ひき。
爾来、不二山 中室の鷹日古山 の天照天 御碑を、古宮天照皇太碑 と稲す。同年六月、菅
原に鎮り座す國狭植 奪の碑廟を塞 川大碑と稲し、不二山を顧 地山とそ改めける。
垂仁天皇三甲午年住留家海伊 佐賀見の三國 々境なる山村に大碑宮を分ち移し
祀らせ給ふ。之を山宮阿祀山碑赴と稲し、元宮を小室阿 祀山太碑宮とそ稲しける。
應碑天皇の御字に至り、大山守皇子をして太碑宮の宮守司長となし 集継別皇子
をして副司長となきしめ給ふ。三十七内寅年碑功皇后の弓矢を大山守皇子に賜

ふ。四十一康午年二月天皇崩御。九月、大山守皇子は太碑宮の大柏木の下に父天

皇の遺髪と祀母碑功皇后の弓矢とを祀り高御久良碑赴と稲しぬ。
崇岐天皇二己西年厩戸皇子を勅使として太碑宮に大日本元幣司を賜ひ*別*

碑を遷宮し高久良碑赴に合祀して寒川大明碑と改稲し金砂の高盤大碑を幸撃。

明 碑 と 改め 給 ひき。
-

文武天皇大賞元辛五年六月忍壁親王を加幣使 として下向。勅願にょ
明碑を顧 地八幡大碑と改稲し給 ひき。
第 一章 総説
碑 皇 紀 二九四
天皇御威斜ならす。共賞として吉師に河内國交野原藤坂村に於て高田五百東
を 賜はり、名を阿知 伎王仁と 賜ふ。
阿知伎王仁は賢人にして文學算術諸藝に達し、又 点 素西素は諸 の手工共他諸薬
・第

に達しけるに因り、Nを三賢と御威賞ましましき。語して男女十歳より 十五歳ま
ては阿知使王仁を教師として文學算術を撃はしめ又十五歳より二十五歳まての
男女は 皇素西素の二人を教師として諸。の手工共他諸藝を學はしめられ 又、二十五
歳以上三十一歳まての男女は王仁 車素西素の三博士を教師として諸 の武藝を學

はしめ給ひき。(㎞ )



第一編 碑 宮之 巻 碑 皇 即位 所
第 一章 総説
碑代宇 家 潤不二合須 世、五十 一代の 各碑皇の即位式を行は せ 給 ひし場所は、高天
原元宮七廟 惣名 阿 祀 山太碑宮の 御碑 殿 なり。
夫れ、阿祀山太碑宮は、天照大御碑の御創立に ましまして、高天原の碑祀碑宗 天つ
大御 碑 を 祀りませる所 請碑代の 賢所 にし て吾 國太古 唯一 の 大廟 に まし ましき。
初め、天 照大御碑の 大御位 に即 かせ給 ふ や、高天原の 阿 祀谷小室の 阿 田都 山 に、宮殿
を造営まし まして、碑祀碑 宗 代々 の 天 つ 大御 碑を祀ら せ給 ふ。高天原宗廟天赴 大
宮 阿 祀 山太 碑 宮 と 稲 し 奉らる。面し て 比太 碑 宮は、天 つ 日 嗣 の 天 つ 大御 碑 の 止ら
せ 給 ふ 大 御宮 を 守ら せ 給 ふ 宮 なるに 由 り、一 に 宮守 の 宮 と 稲 し ぬ。
後、天照 大御 碑 は、太 碑 宮 の 宮殿 を改造まし まして、元宮阿 祀 山太 碑宮 と 改稲し奉
り、三品の 大御 資を 太碑 宮 の 碑 殿 に 納め鎮め奉らる。子孫 代々、天 つ 日 嗣 の 大御位
-
第 一章 鍵 説 二九五
碑 皇 紀
二九六
*『みせ“きをに太神宮の平殿に於て三品の大御資を拝き送を推けましますを
。“* に即くの偉関と定め給ひ*て碑避りましぬ。後共碑霊を大御碑の政
所をシけましし中室の麻呂山に祀りて麻呂山の碑廟と稲し奉る。
『“* は高皇産霊碑神皇産霊碑の鎮ります高座山の碑願園狭鶴奪両
シのります鳴澤管原の碑廟伊葬諾中二柱碑の鎮ります笠砂の硫なる高
。シ大御神の鎮ります麻呂山の碑魔神父母天孫二柱碑の鎮ります字津
*。山の 魔外風父母二柱碑大山祇命別雷命の鎮ります加茂山なる山守の
。シ古命の鎮ります古峰の根元野の碑願を各祭らせ給ふ。面して共
。山太神宮に合祀ましませるを以て足より太碑宮を 高天原天
赴元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉らる。
『子シ書不合奪の碑都を築市島㎞)に遷させましますや父大
* りたまはく不二山高天原の碑祀碑宗天っ大御碑の御神託に合
しょしますの意を探りて宣しく園名を宇家潤不二合須園と定むへし。 又、子孫 代
。っ『 。ォシに即かせまさむには高天原の太碑宮の御碑殿に於て天っ夫
街 ㎞の石碑託を受け三品の大御資を捧けますべき天照大御碑の儀典を守る べし
と。故に、第 一代より第五十 一代に至る各碑皇は読れも、皆共儀典を守らせ給 ひ 即
位毎 に 築市島の日向の高千穂の峰 の碑都より 高天原の天都に上り、太碑宮の御碑
殿 に於 て、即位 式をそ行はせ給 ひける。
人皇に至り 碑武天皇の帝都を大和國に遷させ給 ひ 標原の宮に止らせ給ふや皇
族高座日多命を勅使として高天原の天都に上り 太碑宮の御碑託を受けしめ給ふ。
常時高天原の惣司令碑は大山祇命五十九世の孫熱都丹波彦命なり。命は動旨を

奉し先っ太碑宮の御碑殿に於て御碑託を賜はり 天つ大御碑の碑使として動使と

共に根原の宮に参向し、正殿に於て三品の大御質を天皇に捧け奉りて即位式を行

はせ 給 ひ以て即位式の儀典を定め給 ひき。

紀元四年四月 天皇高天原に上りまして天つ大御碑を祭らせらる。即ち宇津峰
西尾崎鳴澤山なる金山に鎮ります天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ給ひ 二柱の御
紳霊の正ります御霊石を 熱津丹波彦命に奉持せしめ阿祀山大碑宮なる宮守の宮
に遷し祀らしめ給ふ。是より 太碑宮を慰名にては阿祀山太碑宮と稲し 単に天孫
第 一 章 総説 二九七
ーーーーーー

碑 皇 紀 二九八
二 柱 に て は、宮守 大 紳 と そ稲 しける。
天皇 又、中室 の 麻 呂 山 に鎮 まり ます 天 照大御 碑、加茂山 の 山守の 宮 に鎮 り座 す大
〜ヘへへーへ〜へ〜〜へへーヘヘヘヘヘヘヘヘ。

山祇 命 別 雷 命、又、古 峰 の 根元野 に鎮 り ます作田 昆古 命 笠砂の硫 に鎮ります高 燈の


伊井 諾・舟 二 柱 碑、標 山 宇宙峰 に鎮り ます高座 の 高皇産 霊碑 神皇産霊碑、小室鳴 澤の
菅原 に鎮 り ます國 狭 植 奪 國 狭 里 女 奪 の 各 碑前 に於 て、親 ら祭祀の 濃 を行は せ給ふ。

尋 て熱都 丹波彦命に、共宮守 司 長 を 命し 給 ひき。


ーへへへー

孝霊天皇五十康申年三月 高天原に上りまして 小室の笠砂の硫に於て各天つ大


御 碑 に通 拝あら せ 給 ふ。又、宮守 の 宮 に於 て、親しく祭祀 の 濃 を 行は せ られ、官 赴 一
幣 司を 賜ふ。祀 佐男 命六 十八 世 の 孫 尾羽 張 田 彦命を以て、太 碑 宮 の 宮守 司 長 に 任
し、熱都 丹波 彦命 七世の 孫玉 武男命を以て、副司長に そ任し給 ひける。
崇碑天皇五成子年三月、高天原阿 祀谷中室の 麻 呂山 より、天照大御碑を大和國笠
縫 の 里 に 遷 し 奉り、同時に太 碑 宮 より、三品の 大御 賞 を 遷 し、共碑 霊として 祀ら せ 給
ふ。面 し て三品 の 大御 質を模倣し て、新 に三品 を 製作し て、奥御殿 なる眞 碑 殿 に 納
め鎮め以て天皇代々 の 守護の大御質 と定めさせ給ふ。子孫代々 共正殿 に於て即
位式 を 行 ふ へき こと に 改め 給 ひき。
爾来、不二山 中室 の 磨 呂 山 の 天 照天御 碑 を、古宮天 照皇太碑と稲 す。同年六 月、菅
原 に鎮 り座 す國 狭 植 奪 の 碑 廟 を、寒川大碑 と稲し、不二山 を 顧 地 山 と そ 改めける。
垂 仁 天皇三甲午年、住 留家・海 伊 佐賀見 の 三國 々 境 なる山村 に、大碑宮を分ち移し
祀ら せ給ふ。之 を山宮阿 祀山碑 赴と稲し、元宮を小室阿祀山太碑宮とそ稲しける。
應碑 天皇の御宇 に至り、大山 守皇子 をし て、太碑宮 の 宮守司長 となし、隼 継 別皇子
をし て、副 司 長と なさしめ 給 ふ。三十 七内宣 年、碑 功 皇后 の弓矢を大山 守皇子 に 賜

ふ。四十 一康午年二 月、天皇崩御。九月、大山守皇子は、太 碑宮 の 大柏木 の 下に父 天


皇の 遺髪と 祀 母碑 功皇后 の弓矢とを 祀り、高御久良碑赴と 稲 し ぬ。


崇岐 天皇二 己西年厩戸皇子を勅使として、太 碑宮に大日本元幣司を 賜 ひ、寒川 大


碑を遷宮し、高久良 碑赴 に合祀し て、寒川大明碑 と 改稲し 笠砂の 高 燈大碑 を幸 盤大


明 碑 と改め給 ひき。
文武天皇大賞元 辛五 年六月、忍壁 親王を加幣使として 下向。勅願により、寒川大
明 碑 を 幅 地八幡 大碑 と 改 稲 し 給 ひき。

力L
力L
第 一章 総説 二十
ーーーーーーーー"-ー
碑 皇 紀三○○
光仁天皇質 亀五甲寅年六月 一日、中納宮 奪鎮守府将軍坂上刈田麻 呂を勅使とし
て下向。勅願 により、太碑宮を先現太碑と改め 賜ふ。是より、先現浅間の 文字を混
-
用するに至れ り。
桓武天皇延暦十九康辰年四月 顧地山七十二ヶ所より噴火 し 塔岩熱泥劇しく噴
出し頑地山二十里四方一物を除きす皆な焼け埋まりぬ。十一月 山宮村の分赴先
現碑赴の碑官元宮磨は難を甲斐園八代郡と山梨郡との合の 中山に避け共 弟大宮
暦は赤駿河國 顧地郡岩本澤に避く。翌年元宮の太碑宮の宮守司長 即ち大山守皇
子二十六世の 孫 宮下源大夫元秀は 赤東相模國早 女郷岡田原に避 く。乃ち七廟 中
より 幅地八幡大碑即ち寒川大明碑を勧請し奉る。即ち顧地山東本宮寒川碑祀足
なり。面して 山宮村より難を避けし分赴の碑官兄弟は、三月、各碑勅を夢み 甲斐園
に避けし兄元宮磨は共山に先現太碑を勧請し奉り山を碑部山と稲す。即ち顧 地
山北本宮碑部山浅間碑赴足なり、駿河園に避けし弟大宮磨は赤共地に先現太碑
を 勧請し奉り、共地 新山宮村と改稲 す。 即ち顧地山表 本宮大宮浅間碑 赴是なり。
是より、比三分赴を里宮と稲し、太碑宮を山宮 と稲し、各里宮の 奥の院となし ぬ。
-
「 “ 「 ょィ * **、山 ss と ミー・「*ミ** * *と **
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平城天皇大同元内成年六月 征夷 大将軍坂上田村麻呂を加幣使として 下向 かち
七廟中、大噴火にて焼失しける四 廟を再興せしめ、寒川の里宮碑官 及碑部山の 里宮
碑官をして、七廟 中各部署を定め て、二 ヶ所 に於 て、奉仕 せしめ らる。是より大碑 宮
を、一 に二 所明 碑、又は二 所七廟 明碑とそ稲しける。且つ 顧地山を富士山 と改稲 せ
しめ 給 ひき。
清和 天皇貞観六甲申年五月、富士山 一大劇震と共に、西 の峰 より噴火し、六 月 復た
溶岩熱泥 押出し、元宮 七 廟中 宮守碑赴・幸 燈大明碑 顧地八幡大碑 貸めに焼失 せり。
事朝廷に以 聞 するや、翌年七月、大納言藤原氏宗 に 勅し て、共焼失しける三廊 を再興
せしめらる。即ち 噴火 の常時、御舟 山頂 に、大碑 の 現し まし 、宮殿 の 如く、再 造営あ
ら せらる。十二 月、太碑宮 に 正 一位 一幣司を 賜はり、再 ひ宮赴 に列せら る。
醍醐 天皇延喜 七 丁卵年五 月 十八日、従五位 紀貫之 を 勅使 として、太碑宮 に 太 政 太
碑 を 授け らる。
村上 天皇元 丁末年七 月七 日、勅使藤原 千晴 右 少 携 菅原文晴をし て、七廟 中宮守碑
赴 を顧地八幡太碑 の東に 遷宮せしめらる。面し て先現太碑宮を、阿 座旨共明 碑大赴
第 一章 継 説 三○一
碑 皇 紀三○二
と改稲せしめ給 ふ。近時富士山 の噴火度々 なるに因り期く遷宮あらせられしも
の なり。白河天皇永保三年七月、一大噴火あり て、覚に消火となりぬ。延暦の 大噴
火以来、八度に及 ひ ぬれは、世に之を富士八流とそ稲しける。
二修天皇永暦元康辰年二月源氏の落人三浦上野守義顕を初め、柏木 武内渡部 天
皇大森 長田等富士谷に忍 ひ来り 太碑宮の大宮司 即ち大山 守皇子四十八世の孫 宮
下記太夫政仁の情に依り 執 れも太碑宮の宮伴に採用せらる。尋て政仁は 義顕の
長子源基吾重成を養子となし長女に配して、大碑宮の太宮司を譲る。即ち第四十

九代宮下源太夫義仁 是なり。
之 - 宮

後鳥羽天皇建久四発 # 年八月 征夷大将軍源頼朝は 立願成就せしものありしと、


向ほ武運長久を所らむとて 太碑宮に赴地目八町四方碑領五十五丁を寄進しにき。

又源氏の落人三浦義顕の長子三浦源九郎重成事大宮司宮下源太夫義仁外九名に、
共父等の戦功に依り富士山二十里四方を賜ふ。即ち富士十二郷是なり。頼朝初
め代々 の将軍は祭日には自ら参詣をなすか、又は家人をして奉幣せしめ 以て共武
運 長久 を所 れり。
後醍醐天皇天徳二年六月 密に藤原藤房をして北條氏滅亡を太碑宮に立願せし
め給ふ。常時の太碑宮 の大宮司は、大山 守皇子五十六世 の孫、三浦右近 亮義高なり。
義高 の 男 に、三浦 六 左衛門義勝 なるものあり。人 と 貸り、精忠 卓識、尻 に密旨 を奉し、

陰に中興の偉業を賛け 後 新田義貞を助け 北條氏をそ亡しける。


要するに、紳代宇 家潤 不二合須世、五十 一代の各碑皇は 即位毎に、築 市島の 日向 の
高千穂 の 宮 より、高天原阿 祀谷元宮七廟 惣名 阿 祀山太碑宮の御碑殿に 参向 ましま
し て、三品の大御質を捧け て 即位式を行は せ 給 へり。然るに、人 皇に至り、天皇即

毎に高天原より太神宮の神他三品の大御質を推持して帝都に就き回 位式を行は

せ給 ひ ぬ。崇碑 天皇は、天照大御碑及 ひ三品の 大御質を高天原 より、大和 園 笠縫 の


里 に奉 遷 せ させ 給 ふ。面し て共 大 御質に 模倣 し て、更に新 器を作ら せ 給 ひ、皇居 の


奥 御殿 なる旨共碑 殿 に 奉安 あら せら る。爾後、即位 式は、阿 祀 山 太 碑 宮 に 何等 闘 係 あ


る こと なく。軍 に旨共碑 殿 に 於 て 行は せ 給 ふ こと に 定め られ に き。
然 れとも、太 碑宮 たる 高天原 七 廟は、碑 代 の 御創立に 係り、且つ 碑 武 天皇 の 親しく
再興あら せ られし 大 御赴 なれは、列聖 の 崇敬 赤浅 から す。或は 親しく祭祀 の 濃 を
第 章 総 説 -
三○三
-
魏 桜 三O四
執ら せ 結び、或 は 皇族 を 派 し て 本 記述 しめら る。 前 まり、秋 時 天皇 以下 其 行 天皇 に 至
る まで、各 列聖 は 親しく 発砲 の 職 を 行 は せ 結び 東魏 天皇 文 皇子 學 城 命 を 派 し、景 行
天皇 派 自重 子 小 雅 命 を 遺 は し て 各 教祭祀 の 職 を 行 は せ 結ぶ。 應 神 天皇 は、大山 守屋 子
等 を し て、常に 之 に 奉仕 しめ 始 よ。 崇敬 天皇 族 后 自圣 子 を、文武 天皇、松 齡 殿 王 を し
て、各 教宗祖 の 職 を 行 は せしめ 結び き。
列聖 文、過 する に、或 は 天 就 曾 試 及 大 社説 を 開 り、或 は 整司 位 記 及び 各 城 を 授け ら
る。 部 ら 事变 天皇、先 つ 太 神宮 を 自社 と なし、一帶 同 を 問う、東京 師 大 皇 之 を 天 就 J な

し、崇敬 天皇 大 日本 元 後 同 を 開け 、大明神 と なし お。 文武 天皇、正 1 位 に 叙 し、光 仁 天


È

皇朝 期 により、太 師 字 を 先 現 太 神 と 改 稱 し 始 。 根治 天皇、延 曆 十 九 年 の 大 唐 大 に
之.

て、七 期中 四座 機 失守 し を、本 城 天皇、再興 あら せ られ、再び 正 11 位 1 億 司 を 授けらる。


文 德 天皇、從 1 位 を 授け、大社 號 を 期 よ。 清和 天皇 賞 競 年 中 亦 大體 大 に て セ 府中 一
座 機 失 や し もの を 再興 あら せ られ、正 一 位 一般市 同 を 期 はり、再び 自社 に 列 せら る。
農園 天皇之 に太 安大神を 授け 樟树上天 亮太 臓を 同性 質問 戰大船 と改めら
る。 此 而成 。 しか% に帝王 山浦 «となり 。 後鳥羽 天皇の師李 に 至りば
夷大 将軍源 頼朝、太碑宮を再興せ られ、多くの碑領、並 に 赴 家領 富士十二 郷 を寄進し
て、鎌倉 武運長久を所 らせ給 ふ。爾来、大祭日 には、将軍家自ら参詣し、又は重なる家
人をし て 奉幣せしめらる。後 太碑宮の大宮司、後醍醐天皇の密旨を奉して 新田氏
を援けて北條氏を亡す。足に至て将軍家参詣絶えにき ㎞
㎞")
延 暦 記、注 間 訳、郷司 記、免 賜 記、秘密 記。




第 一章 総説 三)五
三C六
第一一章 阿 祀 山 太碑宮
第 一期 碑代
第一 太碑宮創立
一 、 > m、
阿 祀山太碑宮は、地碑 第 一代、天照大御碑の 御 宇、大 御
を高天原 に、祀らせ給 ひし碑代唯一 の 大御赴 なり

州を天照大御碑に。四方 の 惣大 御山 を月夜見命に、四方の惣大御海を 楽日子 命 に 碑


らせ給 ひぬ。楽日子命は、高天原大室の刻の湖の北、日向山麓の濱に海 守の宮を造り


て止らせ給ふ。月夜見命は高天原小室の宮守川の川上に山守の宮を作りて止ら

せ給ふ。大御碑は高天原小室阿田都山なる父大御碑の止りまし、大御宮長日向
の宮に止らせ給ふ。共傍に 宮殿を造営ましまして碑祀碑 宗代々 の天っ大御碑を
祀らせ給ふ。之を高天原宗腐天赴大宮阿祀山太碑宮と名っけ奉らる。面して比
太碑宮は、天つ日 嗣の天つ大御碑の止らせ給 ふ大御宮なる長日向の宮を 守らせ給
ふ宮なるに因り、一 に、宮守 の宮 と そ稲し奉らる。
天シは太神宮の御神木なる大柏木の下に不二差業山の形を造り正 左右
シを作りてるシ天っ天シ

諸。の天っ紳園 っ碑を遥拝ましまし給ふ。後共大柏木の下に太碑宮の宮殿を改造
ましまして、更に、元宮阿祀山太碑宮と改稲あらせ給ふ。面して三品の大御資を 各
に御箱に納め 太碑宮の碑殿に納め鎮め奉らる。是より、不二山なる造来山高地
の峰を質来山高千火の峰と改め給ふ。語りたまはく子孫代々、天っ日嗣の大御
に即かせまさむには太碑宮の平殿に於て三品の大御資を拝 き 之を捧けさせ給ふ
以て 傑典となすべし。且つ子孫代々、比の儀典を堅く守る べし。と乃ち大園主
命を太神宮の守護司長となし、月夜見命の御子 正哉山祇命を以て副司長となし給
太碑宮の平殿に於て御子豊武里古命に三品の大御質を捧け、大御位を碑ら
せ給ふ。天之忍穂耳奪是なり。幾もなくして大御碑碑避りましぬ。宇宙峰山南
*野の出崎島の陵に葬る。共碑霊を大御碑の政所を設けさせ給ひし中室の麻呂
山にシ呂山の碑廟とそ稲し奉りける、(㎞)
第二章 阿 祀 山 太 碑宮 三○七
碑 皇 紀三○八
第二 太碑宮の 碑器使用
天日子 火環 々 杵奪 の御宇 に 至り、一日、西國 より豊玉武 昆古 命 腕 せ来り奏すらく、
西北の 大陸より、大軍附 地見島に 攻め 来れりと。乃ち奪は、諸、の天 つ 碑 國 つ 紳・八
萬碑を高天原の大御宮に集へ て碑議りに議りまして親ら言向和さむとし給ふ。
即ち奪は、太碑宮に奉安 まし ませる三品の 大 御資 の 内、資司 の碑 霊なる御玉 を玉鶴
に添 へ、室雲の御剣 を奉 持し給 ひ、碑 后 木花咲 耶里 女 奪をし て、内待所 の御鏡を玉鶴
に 添 へ しめ、武知男 命を 惣司令 頭長 とし、経 津主命等 の 四軍 碑 を大将 として、軍勢 一
萬 八 千碑 を 率 て作田 里 古 命 を御前に立し て、西 國 に 天降らせ 給 ふ。先 つ、住防 に闘
を立て て、附地見島 の 大 賊を防 かせ 給 ふ。賊 又、南島 に轄 せり と 告 くるもの を り。
乃ち碑后、親ら軍 大将となり、味 紅託 彦根 命 興玉命を副将として、軍勢八千五百 碑 を
従 へ、赤作田 昆 古 命を御前 に立し て、之を征 せしめ 給 ふ。是 より先、碑 后の 御 父母碑、
共遠征を憂ひ 共に共後を追ひ来り 伊須演に至り給ふや母碑加茂澤里女命 身例な
ら す。途に碑 避りまし ぬ。伊須 濱に 葬る。後、別雷命 と 諡 す。父 碑 正裁 山祇命は、更
に進みて西に向ひ 途に南島に至りて碑后に避近ましませるも婦碑を追悼ましま
して“一ます。六 身g ならす。き に言 送りまし ぬ。南島に葬る。後、大山祇 命と言
す。二 三() を、兵 “一うまし まし し高天原 小室加茂山 の 山守の宮に祭る。之 を
4 () 宮 () と し “
一日 々 杵 奪ニは、碑 后 を募 ひ て、南島 に浅幸まし まし 給 ふ。時に、碑 后、臨月とも見
る へき玉 に まし まし しか ニは、奪、之 を 疑 ひ、詞 后 を 恨み て、遂に 附 地見島 に 還幸 まし
まし き。碑 后 いとも し H つ 塩 しき かも と 請 り 給 ひ て、即時 旅 装 を整 へ、高 照 里 女
会 ・下 昆 女 命 を定 へ、高天原 に 這 り 上り まし まし き。乃ち 小室 なる宮守川 と御座
野川 と の の兵 の 小島 に、三戸室を 造り、共内 に三 皇子 を産み 置き、意 に 不二山 の

*

噴火 に 投 し て、碑 り まし ぬ。作田 里 古 命・天清住 命 は、碑 后 の 高天原 に 還り上り ま


せる こと の 常 なら さるを虚り、後を追 ひ て上り ませは、則 ち事後 に て、赤 如何 ともす


る は さ りき。先 つ 天清 佐 会 戸室 の 屋根 を破り て、三皇子を抱き奉り、高照昆


女多下 昆女 命 を し て、之 を養育 せしめ 給 ふ。是 より、天清住命を 天 見 屋根 命 とそ
特 しける。
天太 玉 命は、天 見 屋根 命・作田里 古 命 と、不二山 噴火 口 より、碑后 の御遺骨を牧 拾し
第 二 章 碑 名 三○九
た。

H
以碑
(
闘3

神天開



記より器孫記上る
葬T

え*
作し


















しか
奉り



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め とらす




まと

な築





屋まさ







命して根し 給
繰れ

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ふ り

め 納き








奉り
鎮め









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利 納剣玉りしられめ
かに
自置





ら内
還警


まし
御上り

を ひ園き 給


)

(

西目





殿




まして
まし
上り
還り
より しめ























ふ し の


留 ししめ窟山座守め
せ宮さ



御宮








金給

岩野原
峰 みり









霊 て 、
ませる















けむ 彼


臨乃ち

ま日

日働
認一まして






足 見乃り皇ら島ち 驚
噴め石内しみ火 上り地




守諸

倉南島

還しめ

高天原


まし なと





宮守


西













に る




三 戸く










まして
まし










な 室


天り原山海



金『

神二
なの


(






三川
第三 太 碑 宮と七 廟
日子 火 々 出見 奪は、園 狭 植 奪 の常言て 標 山 宇宙 峰 に 祀り ませる共御父母 天之農作
昆古碑・天之農作里 女 碑 に、高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑と 諡 し 奉り、共山 を高座 山と 名 つ
け 祭典式を行はせ給ふ。故に比二柱の碑腐を高座の碑魔と稲しぬ。又園狭植奪
國狭昆女奪の鎮ります寒川の畔なる菅原の碑廟を祭らせ給ふ。之を世に寒川の
碑廟とそ稲しける。又 阿田都山の笠砂の荷の高 燈の碑廟を祭らせ給ふ。初め 伊

装 諾・舟二 柱碑 の毎夜、笠 砂の硫 の 高峰に 於 て、等 火禁 き て、碑祀碑 宗天 つ大御碑を祭


りましまししに因り三柱の神原を高澄の神府とそ稀しける。次に御祀天照大御

碑 の麻呂山の碑 廟、次 に奪 の 御父母 天孫二柱 の金山 の碑腐、次 に外祀父母 大山祇命


別雷命の山守の宮の碑腐を祭らせ給ふ、個 作田里古命碑避りましぬ。共園に残
功 あるを以て、大 御碑 の碑避り まししに準じ、厚く高天原大室 の古 峰 に葬る。共碑
霊を古 峰 の根元 に祀る。根元 野 の碑 廟と 稲 す。比 七碑廟 を 高天原 の 七 廟 とそ稲
しける。面し て元宮阿祀 山太 碑宮は、比等 の碑霊をも、合せ 祀りませるを以て、一に
第二章 阿 祀山 太碑 宮 三一 一
高天原元宮 七廟 惣 名阿 祀 山太碑宮 と稲し 奉る。太 眞祀命を以て、守護司長と なし、
天見屋根命 天太玉命を以て副司長となし給ひき。( ㎞
第四 太碑宮の守護碑
日子波 激武競 茅葺 不合奪は、日子 火 火出 見奪 の認命 を 長 みて、碑都を附地見島に
二 遷 させ 給 ふ や、先 つ地 を相し 碑 都を切枝問山 に奪 め 給 ふ。不二山 の 日向高千 火 の
峰 て ふ名を襲 ひて、又、共 改 をも、日向 高千火 の峰 と名 つけ給 ふ。是より高天原を天
都といひ 新都を碑都といふ。共新に都を築きしに由り用地H島を築市島(㎞)
と 改め給 ひき。面し て奪を以て、遷都後、宇 家 潤不二 合須 世、第 一代の碑皇と なす。
父 大 御 碑 日子 火 火出 見奪は、高天原の 天都 に止り まし まし給 ふ。建 御名方命の
御子謙訪彦命並に阿倉里唯命等 守護し奉る。父大御碑認りたまはく子孫代々の
碑皇は鵜芽葺不合奪の諱を襲承すべし。又 楽市島の碑都に於て天下の園政を統
へさせ給ふと離も一に不二山高天原の天っ夫御神の御神託に合はしまさむの意
を採りて宣しく園名を宇家測 不二合須園と稲すべし。又 代々の碑皇は高祀天照
* あませる儀共に違ひて即位毎に高天原の天都に上り定っ太神宮の御
プ記
碑殿に於て、天つ大御碑の御碑託を受け、三品の大御質を捧けて、大御位を授け 賜は
り、以て即位 式を行 ふ べし。と 後幾 もなくし て、父大御碑、高天原 小室 の大御宮 なる
家 基都 の宮 に於 て碑避り まし ぬ。大室の碑 山 の陵 に葬る。碑皇は、父 奪 の 遺髪を、
日向 奇 日 の高千 火の峰 の 上の 大宮 に 祀り、後更に 始羅山の上の陵 に 葬り ぬ。
碑皇は、伯父碑 火須勢理命を以て、高天原 の諸務惣司令碑として、太碑宮を 守護せ
しめ給 ふ。命、乃ち築市島 より 高天原 の 天都 に還り上ら せ 給 ひ、弟大御 碑 の 止りま
しし大御宮 即ち家基都 の宮 に 止ら せ給 ふ。太 眞祀 命 の 子孫、火照須命 の 子孫、大國

主命 の 子孫、大 山祇 命 の 子孫 を、太 碑 宮 の 副 司令 碑 と なす。楽 日子 命 の 子孫、金山 更


古命の子孫 作田里古命の子孫 大物主命の子孫 前多眞命(㎞)の子孫 武斑鳩命の


子孫、経 津主命 の 子孫、稚 武王命 の 子孫、建御名 方 命の子孫 豊城入昆古命の子孫、味 拒託


彦根命 の 子孫、稲 斉 魂命 の 子孫 天香護山命 の 子孫、五十猛命 の 子孫、興玉 命 の子孫 揃


明玉 命の子孫 阿 祀 昆古 命 の 子孫 融 男命 の 子孫、鶴土老翁命の 子孫 題 園 玉命 の 子孫、
*
豊玉武昆古命の子孫石堀理 留日命(㎞)の子孫 手力男命の子孫 高照昆女命の
子孫、下 照 昆女奪 の 子孫、天 鋼女 命 の 子孫を太碑宮の 平宮 守護碑と なす。執 れ も 共
第 二章 阿 祀山 太碑宮 三一三
碑 皇 紀三○八
第二 太碑宮の 碑器使用 ●
天日子 火環 々 杵奪の御宇 に至り、一日、西國 より豊玉武昆古命腕 せ来り奏すらく、
西北 の大陸より、大軍附地見島 に攻め 来れりと。乃ち奪は、諸、の天 つ 碑 園 つ 碑・八
萬碑を高天原 の大御宮に集 へ て碑議りに議りまして親ら言向和さむとし給ふ。
即ち奪は、太碑宮 に 奉安ましませる三品の大御資の 内、質司 の碑 霊なる御玉 を玉鶴
に 添 へ、室雲の御剣 を奉持し給 ひ 碑 后 木花咲 耶 昆女奪をして 内待所の御鏡を玉鶴
に 添 へ しめ、武知男命を惣司令頭長とし、経津主命等の四軍碑を大将として、軍勢 一
萬八千碑を率 て作田 里 古 命を御前に立して西園に天降らせ給ふ。先つ、住防に闘
を立て て、附地見島の大賊を防 かせ給ふ。賊又 南島に轄 せりと告くるものをり。
乃ち 紳 后、親 ら軍大将となり、味 組託彦根 命 興玉命を副将として、軍勢八千五百碑を
従 へ、赤作田里 古命を御前に立して、之を征 せしめ給ふ。是より先 碑后の御父母碑、
共遠征を憂ひ 共に共後を追ひ来り 伊須演に至り給ふや母碑加茂澤里女命 野例な
らす。途に碑 避りまし ぬ。伊須演に葬る。後別雷命と諡 す。父碑正裁山祇命は、更
に進みて西に向ひ途に南島に至りて碑后に避近ましませるも婦碑を追悼ましま
し て 上 ます。赤身例 ならす。意 に碑避りまし ぬ。南島 に葬る。後、大 山祇 命と説
す。二 柱 の 碑霊を、共止りましましし高天原 小室加茂 山 の山守の宮に祭る。之を
山守 の 宮 の 碑 腐 と稲 し ぬ。
一日現 々杵奪は碑后を慕ひて南島に渡幸ましまし給ふ。時に神后ェ 月とも見
る へき玉 鶴 に まし まし しかは、奪、之を 疑 ひ、紳 后 を 恨み て、遂に 附 地見島 に 還幸 まし
まし き。碑 后 いとも 恐 し 且つ 悔しき かもと 請 り 給 ひ て、即時旅 装 を整 へ、高 照里 女
命・下 照 里 女命 を従 へ、高天原 に還り上りまし まし き。乃ち 小室 なる宮守川 と御座
野川 と の 間 の 眞 砂 の 小島 に、無 戸室を造り、共内 に三 皇子 を 産み 置き、覚 に 不二山 の
噴火 に 投 し て、碑 避 り まし ぬ。作田 里古 命・天清住 命は、碑 后 の 高天原 に還り上り ま
せる こと の常 なら さるを 慮り、後を追 ひ て上り ませ は、則 ち事後 に て、赤 如何 ともす
る能はさりき。先つ天清住命は 無戸室の屋根を破りて、三皇子を抱き奉り 高照昆
女命 下照里 女命をし て、之を養育せしめ給 ふ。是 より、天清住命を天見屋根 命とそ
稲しける。
天 太 玉 命は、天 見 屋根 命:作田 里古 命 と、不二山噴火 口 より、碑 后 の 御遺骨 を牧 拾 し
第二 章 阿 祀 山 太 碑宮 三○九
碑 皇 紀 -
三一○
て、之を太碑宮なる宮守 の宮に安置し奉り、尋て、事の由を西園に以聞す。奪、いと驚
き、乃ち諸碑をし て、附地見島 南島を守らしめ、倉皇高天原に還り上り ましまし き。
乃ち先つ彼の噴火日に臨み 協奥ましまして、日内の 一石を認め、足則ち碑后の碑鶴
の焼煮しみて、共魂塊の止りませる霊石 なりけむと。太力男命に勅し て、之を掘出
さしめ、宮守の宮に奉持せしめ給 ふ。後 命をして御座野原南の金山 の峰 の岩窟を
掘撃して陵 となし、霊石に遺骨を附して之を葬らしめ給ふ。太力男命に講石堀留
目命 (㎞)と開 ひき。奪は碑后か西園より還り上りましまして太碑宮の碑

に納め置 かれし内待所の御鏡と自ら警 らして還り上りましし御玉と御剣とを併


せて、太碑宮に納め鎮め奉り、碑軍勝利の天 拝を行はせ給 ひき。


一日奪は赤無戸室に行幸ましまして威概 描く能はす。共屋根の大笠の如くな

れるに繰り共所在を笠砂の荷と名っけ家佐座の富を笠砂の宮と改め給ふ。され
と、居常快 々 として楽みましまさず。途に身例 ならす。天太玉命・天見屋根命は老
作田里古命とり、種々装書を書して慰め奉りしか%に神連りましみ、神后
と同所の優に葬る。天孫二柱の金山の碑願足なり。(㎞
第三 太碑宮と七廟


日子 火 々 出見 奪は、園 狭 植 奪 の常言 て標 山 宇宙 峰 に 祀 り ませる共御父母 天之農作


昆 古 碑・天 之農作 昆女 碑 に、高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑 と 諡 奉り、共 山 を高座 山 と 名 つ


け 祭典式を行はせ給ふ。故に比二柱の碑廟を高座の碑魔と稲しぬ。又園狭樋奪


國狭 昆女奪の鎮ります寒川の畔なる菅原の碑廟を祭らせ給 ふ。之を世に寒川の

祀肺
碑 廟 とそ稲しける。又、阿田 都山 の笠 砂 の 硫 の 高 燈の碑 廟を祭ら せ 給 ふ。初め、伊


装 諾 由 二 柱碑 の毎夜、笠 砂の 硫 の 高峰 に於 て、奪 火 禁 きて、碑祀碑宗 天 つ 大御碑を祭

りましまししに因り 二柱の碑府を高盤の碑府とそ稲しける。次に御祀天照大御

碑 の麻 呂山 の碑 廟、次 に奪の 御父母 天孫二 柱の金山 の 碑 腐、次 に外祀父母大山祇命


別電命の山守の宮の神府を祭らせ給ふ、個 作田里古命碑避りましぬ。共園に殊
功 ある を以て、大 御 碑 の 碑避り ましし に準じ、厚く高天原 大 室 の 古 峰 に 葬る。共碑
霊を古 峰 の 根元 に祀る。根元野 の碑 廊 と稲 す。比 七碑腐を高天原の 七廟とそ稲
しける。面し て元宮阿 祀山太碑宮は、比等の 碑霊をも、合せ 祀りませるを以て、一 に
第二章 阿 祀山 太碑 宮 三一 一
碑 皇 紀 三一二
高天原元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉る。太 眞祀命を以て、守護司長となし
天見屋根命 天太玉命を以て副司長となし給ひき。(㎞

第四 太碑宮の守護神
日子波 激武競 茅葺不合奪は、日子 火 火出見奪 の認命を 長 みて、紳都を附地見島 に
遷 させ給 ふ や、先 つ地 を相し 碑 都を切枝問山 に奪 め給 ふ。不二山 の 日向高 千 火 の
峰 て ふ名を襲 ひて、又、共 皮 をも、日向 高千 火 の峰 と名つけ給 ふ。是より高天原を 天
(
都といひ新都を碑都といふ。共新に都を築きしに由り 的地H島を築市島(㎞)
と改め 給 ひき。面し て奪 を以て、遷都後、宇 家 潤不二 合須 世、第 一代 の碑皇と なす。

父 大 御碑 日子 火 火出 見 奪 は、高天原 の 天都 に 止り まし まし 給 ふ。建 御名 方 命の

御子譲訪彦命並に阿倉里唯命等 守護し奉る。父大御碑認りたまはく子孫代々の

碑皇は 鵜 芽 葺不合 奪 の 諱 を襲承 すべ し。又、築市 島 の 碑都に於 て、天下 の 國政 を 統


へさせ給ふと離も一に不二山高天原の天っ夫御神の御神託に合はしまさむの意
を採り て、宜しく 國名 を宇 家 潤 不二 合須 國 と稲 すべ し。又、代々 の 碑 皇は高祀天照
大 御碑 の 定め ませる儀典 に違 ひ て 即位 毎 に、高天原 の 天 都 に 上り、先 つ 太 碑 宮 の 御
碑殿に於て、天つ大御碑の御神託を受け、三品の大御質を捧けて、大御位を授け 賜は
り、以 て 即位 式を行 ふ べし。と 後幾もなくし て、父大御碑、高天原 小室 の 大御宮 なる
家 基都 の 宮 に 於 て 碑 避 り まし ぬ。大 室 の 碑 山 の 陵 に葬る。碑皇は、父 奪 の 遺髪を、
日向 奇 日 の 高 千 火 の峰 の 上 の 大宮 に 祀り、後 更に、始 羅 山の上 の 陵 に 葬り ぬ。
碑皇は、伯父 碑 火須勢理命 を以て、高天原 の諸 務惣司令 碑として、太碑 宮 を 守護せ
しめ 給 ふ。命、乃ち 築市 島 より高天原 の 天都 に還り上 ら せ 給 ひ、弟大御 碑 の 止りま
し し大 御宮 即ち家 基都 の 宮 に 止ら せ 給 ふ。太 旨共祀 命 の 子孫、火照須 命 の 子孫、大國

主命の 子孫、大山祇命 の子孫を、太 碑 宮 の 副 司令 碑と なす。楽 日子命 の 子孫、金山 里


古命の子孫 作川里古命の子孫 大物主命の子孫 前多眞命(㎞)の子孫 武班植命の


子孫、経津 主命 の 子孫、稚 武王命 の 子孫、建 御名 方 命の子孫 豊城入里 古命の子孫、味 拒託


彦根命 の子孫、稲若 魂命 の 子孫 天香護山命 の子孫、五十猛命の子孫、興玉命の子孫 揃


明 玉命 の 子孫 阿祀 里古 命 の 子孫 融 男 命 の 子孫、鶴 土老翁命 の 子孫 題 園 玉命 の 子孫、
豊玉武昆古命の子孫 石堀理 留日命(㎞)の子孫 手力男命の子孫 高照昆女命の
子孫、下 照昆 女奪 の子孫、天 鋼女 命 の 子孫を太碑宮 の 平宮 守護碑と なす。執 れも 共
は J へ B→ 、
第 二 章 阿 祀 山 太碑宮 三一三
碑 皇 紀 三一四
第五 太碑宮と 碑皇

企よ


て、


宇 家潤 不二 合須世 五十 一代の各 碑 皇は、御祀 日子 火


殿



れも、高天原 の 天都 に上り、元宮 七 廟物 名 阿 祀 山 太 碑 宮 於 て、三品 の 大御
質を捧け て 即位式を行は せ給 ひぬ。初め碑 皇第 一代、鵜 芽葺 不合奪は、遷都
碑宮に於 て即位式を行 はせ給 ふ。面して 築市嶋の 日向高千穂の 宮にて、天下を治
めすこと二百有除年官 て認りたまはく、皇位は、紳皇の碑 避りましし後に於 て、皇太

子大御位 に即く へ し。若 し碑后の在はしますあらは、共在世中 碑后撮 政として、碑


皇に代り、大政 を撮行す へ しと。故に皇 太子不二高 王奪は、碑后 多摩夜里里女奪、撮


政二 十根の後、高天原 に上り、太 碑宮の御碑殿 に於 て、大御位 を授け 賜はらむ として


第二 の皇子奈加尾王命 と共に容属三十六碑を支り加 へ て、御舟 に乗し、西海より不


二 山 を 目標 として、渡航 まし ますや、偶“暴風雨 烈しく起り、御舟 貸め
沈没 ましまし ぬ、天 別 天之 火明命 の第 一子、尾羽 張 彦命 講源太 記男命、事 の由を高 千
穂 の 宮 に以 聞 す。乃ち 第三 皇子 千穂高 王 奪 を皇 太子と なし、汰 沿 斎戒 する こと 一
百 日、更に赤 春属を従 へ、御舟 に乗 し て渡航ましましし に、四海波 静にし て、事 なく不
二 山 高天原 の 天都に上り、太碑 宮 の 御碑 殿 に於 て、天 つ大御碑 より御碑託を受け、鶴
茅葺不合奪の諱を授け 賜はり ぬ。高天原 惣 司令碑稲田雄命は、三品の大御質を奪
の 天窓 に捧け奉り て、即位式を行はせ 給 ふ。これを碑皇第二 代 鶴芽葺不合奪 とな
す。
碑皇第二 代 鶴 芽葺不合奪の碑避りますや、皇太子阿蘇豊王奪、赤高天原 に上り、即
位式を行はせ給ふ。之を碑皇第三代 鶴 芽葺不合奪とす。常時高天原 惣司令碑は、
田 知方命といふ。稲田 雄命 の第 一 の御子 にましまして、火須勢 里命 の嫡孫にまし
ます。然るに、同碑皇即位六十五 根 の とき、田 知 方命 の弟碑 大武知 彦命 強力武 命は、
本 嶋東南の 中央 の諸”の天つ碑 園 つ 碑を率 みて、腹心と なし、高天原 に於 て、碑都復 奮
を企 て 、反 す。偶。祀佐男命の第二 の 御子建知速 日命 の 孫、建豊大勇命は、競勇なる
四碑を従 へ、暴風雨 の闇夜に乗し、密に高天原 小室 の家基都 の宮 に忍 ひ入り、大武知
彦命・強力 武 命 兄弟を 初め、一族 一類 を慶 殺し て、山守 の 宮 に至り、副 司令 碑阿 尾瀬旨共
男命に 共由 を 自首しけり。乃ち、高天原 諸 役碑 衆議 の末 雨命外四競碑 従士 四十八
第二章 阿 祀山 太碑宮 三 一五
- ---
三一六
せ 是 に於 て、阿尾弾 兵男 命 を以
て 副 司令 碑 と なし て 太 碑 宮を 守護し
奉る。 阿尾弾眞男命は、大山祇命五世 の 孫 にまし まして、久良 弾 問男 命の第 一 の 御
子 にまします。源玉 男 命は、天別 天之 火明命 の嫡孫 にましまして 源太 記男命の 第
一 の御子 にまします。共に子孫、共職を 承継ましましき。
碑 皇第四 代 より第三十八 代に 至るまで、執 れも美恋 なく太 碑宮 の 御 碑 殿 に於 て
位式を行は せ給 へり。然るに、紳皇 第三十八 代、鴨 芽葺不合奪 の紳避ります や、皇

か に碑

り まし ぬ。乃ち 第二 皇子 津 加 田彦王 奪 皇太子となり、高天原 に上り即位 式 を 行


せ給 ふ。之を碑皇第三 十九代 競 芽葺不合奪 足なり。


是 より二 代を歴 て、碑皇第四十二 代、鶏 芽 葺 不合 奪 の 碑避り ますや、皇太子 津眞男


王命は、高天原 に上り、即位式 を行はむ として、渡航 中海上 に於 て、沈没し て 暴 に碑避
り まし ぬ。第一皇子 波奈 長王奪 皇太子 となり、高天原 に 上り、即位式を行は せ 給 ひ
き。三代を歴 て碑 皇 第四十七代、鴨非賞 不合奪に至り、共 の 皇太子忠長 彦 王奪 即位
式 の貸め、高天原 に 上り、青木原 に於 て、暴 か に紳 避 り まし ぬ。皇弟津加 彦王奪を皇
太弟となし、高天原 に上り 即位式を行はせ給 へり。爾後、三代事なく高天原の太碑
宮にて即位式を行はせ給ひて覚に人皇の御世となむなりにける。(㎞
大山
㎞)
佐 記、火 明記。
第二 期 碑 器奉安
第六 太碑宮の御 碑 託
碑武天皇の未た皇太子たりしとき東征の途次、高天原七廟惣名元宮阿祀山太碑
宮の御碑託により、碑剣 と八 明だ鳥とを授かり、皇軍大 に振 へり。是より先 碑 皇第五
十一代 韓 芽葺不合奪の 御宇、顧津亘理命は皇胤眞 佐勝彦命を奉し、長髄彦を惣司令
長として反 す。乃ち碑皇は、日向 高千穂 の宮に皇族官碑を集 へ て、東征 の部署を定
めさせ給ふ。先つ皇弟高見香具山王命をして、諸将を従 へ 海上佐賀見の除綾の水
門に着し、更に高天原 の 天都に上り、諸。の守護碑をし て、太碑宮 なる碑祀碑宗 天 つ 大
御碑 に、大賊退治 の所 願を貸さ しめ、尋 て東國の軍勢を催し て、中園 に攻め登らしめ
第二 章 阿 祀 H 太 碑宮 三一七
碑 皇 紀 三 一八
給ひき。然るに皇太子海津彦五瀬王命 既に諸将を従へ津泉の面の水門より攻め
入り、孔 舎衛坂 に戦ひ利 あらずし て傷 き給 ふ。急 を 丹但 の 大竹 の宮 に報 す。比宮
は四皇子 日 高佐野 王命 の 行宮 なり。駆 ち急速、馳せ 倉し 給 へ と、皇太子意見 に夢 し 給
ひき。乃ち 鍵を東國 巡幸中の 父 碑皇 に以聞 す。碑 皇大に驚き、直 に 龍船を 伊 瀬崎
に轄じ給 ひ 伊瀬園の多気の宮に 入らせ 給 ひき。六皇子高倉 王命等、武佐志 より軍
勢を催し 来 り、先 つ要衝 の 地 に 行宮を 建て て、碑皇を 守護し 奉る。碑 皇 乃ち、四皇子
日 高佐野王奪 を 立て \、皇太子と なし給 ふ。即ち 人皇第 一代 碑武 天皇是 なり。皇
太子 共地 に赤 行宮 を建て \、佐野 の 宮 と 名 つけ、以て 碑皇 を迎 へ 奉 らむ とし 給 へと、
賊に遮られて果さす。乃ち皇太子は久 基野日より神皇は伊勢日より賊軍を挟み
攻む。碑皇偶 身例ならず暴に陣中に於て碑避りましぬ。足より面黒の世とす。
皇太子 機を 四方 に飛はしめ、以 て 義に 赴 かしむ。且つ、皇族大 久米命 高座 日 多命 を
勅使 として、高天原 の 天都 に上り、太碑宮の 天 つ 大御碑 に所願をなさしめ 給 ふ。更
に 自ら丹生の川上 に通 拝所を建て \、高天原 天 つ大御碑を轄 祀ましましき。
大 久米命 高座 日多命 高天原より還り復奏すらく吾等高天原の 天都に上り、太碑
宮の天っ夫御碑を初め、天照大御碑 並に高皇産霊碑に碑動碑託を所願ましましし
に、期ち建雷命の個 創世司布都の碑剣を授かり、又、慶鳥を以て官軍の郷導たらしむ
との 御碑託を 授かり給 ふ。則 ち 碑剣を奉持して還り来まししに、今や 皇の 安座屋
の棟に、八 度鳥数多止り鳴き給ふを見たりと。皇太子、大に悦 ひ 御悩怒 ち 療 ゆ。皇
軍大に振 ふ。乃ち皇太子は、太碑 宮 の碑剣 を奉持し、八 冊だ鳥を響導 として、湯野崎 の
水門 より、木 日 國 に上陸まし まし ぬ。先 つ 要衝 の 地 を相し、行宮 を 建て \、日高 の 宮
と名っく。乃ち軍を陸海の雨軍に分ち葉将校を選み 部署を定め給ひて陸海より
奮戦劇闘十四年にし て、悪く大賊を征討し、天下を平定し給 ひき。
是 に於て、皇太子は、碑皇に代り、高座日 多命以下皇族将校十碑を従 へ、兵 蹴となり
し 地方を巡 狩 まし まして、諸農碑を 慰撫し 給 ふ。先 つ 吉野 より、宇陀を経て 宇治 に
至り、更に 伊賀 を経て 伊 瀬 の 度倉 の 宮 に着御 ましまし ぬ。先 つ 父 碑皇 の 御陵を 祀
らせ 給 ひ、更に伊瀬崎 に出御まし まして、高天原の 天都に向 ひて、太碑宮の 天 つ 大御
碑を遥拝 ましますこと七日。面し て 又各地を巡 狩 ましまして、遂に日高の宮に還
幸まし まし ぬ。時に三月三 日 なりき。
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三一九
沖 紀
二項 三二○
六 月、日 高 の 宮 に於 て、皇族諸将を 倉し 衆議 の 末、大和 國 敵 傍 山 の 東南隅 の 標 原 の
地を相し、帝都 を貧美め させ 給 ふ。之 を 標 原 の 宮 と稲 す。乃ち、高座 多 日命 を 勅使と
し て、高天原の 天都 に上り、以 て即位 式を 行 ひま さむ ことを博 へ しめ 給 ふ。時に、高
l


山天

丹碑
よなり品けり 彦命都
















司波祇令
なり



ル 山
使 の





殿

受太

と託
使

三共




ſ




に行


即闇
なて






西


爾紀元


、 と共に
時後りちしに 式


















勅位


即 殿

是を以て即位式の儀典と定めさせ給ひにき。(㎞)
第七 太碑宮の御親祭
碑武天皇紀元 四甲子年四月五 日、諸将を従 へ 帝都を発せられ、二 十日、高天原 の碑
都 に上り、小室の 里家基都 の宮を行在所として駐 らせ給 ふ。二 十 一日、阿 田都山西
尾崎 なる笠砂の宮に於 て、高天原 の 天 つ大御碑 に造拝ましまし ぬ。尋 て、同所 に鎮
り座 す伊井 諾・舟二 柱の碑の 碑廟を 高 燈大碑と祭らせ 給 ひき。二十二 日、小室の宮
守川 と御座 野川 との間 の具 砂の 小島 に行幸ましまして、無戸室の古跡を訪はせ給
ふ。又天孫 二柱の碑の鎮ります御座 野原南の鳴澤山に行幸ましまして 金山の碑
廟に拝濃まします。乃ち 語りたまは く、股 が御祀 天孫二柱の碑は岩窟に鎮りまし
ませは、今も尚ほ 玉 鶴全からむと、高天原 惣司令碑熱都 丹波彦命に命じ 岩戸を啓か
しめ 給 へ は、則 ち玉 鶴遣 骨成な消え失せ、唯御霊石 の みそ残存まし ましける。天皇
流湯良、久しく悲しく拝濃ましまし ぬ。乃ち 語りたまはく、是れ、天孫二柱の御碑 霊
の 止り ます御霊石なり、と 乃ち熱都 丹波 彦命 に 命し て、之 を捧持 せしめ、太 碑 宮なる
宮守の 宮に鎮め祀らせ給 ひ、天 日子 火 環 々 杵奪 木花咲 耶里女奪と諡し奉らる。是よ

り、七廟惣名にては阿祀山太碑宮と稲し、天孫二 柱の碑霊に ては 宮守大碑とそ稲し

ける。二十五 日を祭日と定め 熱都 丹波彦命を以て守護司長と なし、太兵組命 の後
、胤 火照須命の後胤・火須勢理命の後胤大國主命の後胤 天見 屋根命の後胤 天太玉 命
の後胤 を以て、副 守護 司長となさしめ給 ふ。平宮守は、故の如く承継 せしめ給ひき。
天皇 又、中 室の麻呂山 に鎮ります大日 霊貴奪 の 麻呂山 の碑廊 を祭り、天照大御碑
と諡し、次 に、加茂山 に鎮り座 す塞川彦命講 正裁 山祇命 寒川姫命講 加茂澤里 女命の
碑願を、山守大碑 と祭らせ給 ひ、大 山祇命 別雷命と 諡し奉らる。次 に 又、小室 中室・大
第 二 章 阿 祀山 太碑宮 三二
碑 皇 紀 三二二
室に鎮ります八百萬碑にして國 に殊 功ある碑 々 に、各論をなし 給ふ。且つ寒川の
畔なる菅原に鎮ります國狭植 奪 園狭昆女奪の碑廟を 塞 川大碑となし、又、古峰の根
元に鎮ります作田 昆古命の碑廟を 根元野大碑となし、又 標 山 宇津峰に鎮ります高
皇 産 霊碑 碑 皇産 霊碑 の 碑 廊 を、高座大 碑と なし、各祭典式 を行は せ給 ひき。二 十 六
日、又、阿 田 都 山 の笠 砂の 硫 に 於 て、更に諸、の天 つ 大 御碑 に通 拝 まし まし 給 ふ。二 十
八 日、高天原 の碑都を 務し還幸ましましき。爾来、毎年四 月 二 十五 日 には、勅使を派
し、以て大祭を行はしめ 給 ひき。同年六 月、大和 國 鳥見 山 に、高天原 太 碑宮 の 天 つ 大
御碑 の通 拝所を建て させ 給 ひき。八 月 帝都 より不二 山陰を経て太碑 宮 へ、東海道
を開かせ給ふ。共騎攻は三十三騎とす。即ち高市魔瀬忍海 久世宇野原田山城 宇
太 山崎山田・伊賀 発名 市村 度曾・鴨部 馬 津海部中島・山田 知太 鳥浦渡津 遠江 佐野・西木
原 横尾 小川・横田・阿部 松岡 水 久保 川口・家 基都、是 なり。高 市は、標 原 の 宮 所在地 にし
て家基都は太碑宮所在地なり。(㎞
第八 太 碑 宮 と大地震
孝霊天皇五十度申年三月十五申日の夜天皇の寝殿に本花咲耶里女奪自衣の美
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女に現れて語りたまはく、次 の敬心誠願に依り、不二山の悪魔消え暗れて明に現し
給 ふ へ し、と の 霊夢 に由り、天皇則ち、高天原 太 碑宮 の参拝を なさむとし 給 ふ。四月
七日、高天原に上らせ給 ふ。八 日、笠砂の硫 に於て、小室・中室・大 室に鎮ります、各天 つ
第 大御碑に造舞ましまし、且つ 高盤大碑を祀らせ給ふ。九日初 申の日、太碑宮なる宮
二 守の宮に於 て、親しく祭典式を行はせ給ふ。偶、地大に震 ひ、不二山 の煙皆な晴れ、人
心 いと 安 からす。天皇、初め屋従の 人々、且つ 驚き 且つ 通 舞 まし まししか、既に薄暮
に及 ひぬれは、赤明日見むものをと て、行在所に還幸まし まし ぬ。是 より、比地方を

一に明見 の 里といふ。共夜、宮守 の 宮 に、白衣 の美女現れ、天孫 二 柱の御霊石 の 上に、

鏡を置きて消え させ給ふ。因 て 比宮に、官駐 一幣司を賜 ふ。十 五 日、祀佐男命 六十


八世の孫 尾羽張 田彦命を以て、太碑宮の宮守司長と なし、阿 祀彦命を以て副宮守長


巻 となしぬ。阿 祀彦命は 熱都 丹波 彦命七世の 孫にし て 前 守護司長 小室彦命の御子
なり、父の後を襲ぎて守護司長たりしか足に至って副宮守司長となれり。足ょ
り、太碑宮 の 守護 司 長を宮守司 長と改め ら る。面し て 文、前副 守護 司長 たりし 七家
は、爾後、副 宮守家 と改め前平宮守二 十七家は、平宮守家 と 改めさせ 給 ふ。
第二章 阿 祀 山 太 碑宮 三二三
碑 皇 紀 三二四
天皇御親 祭常日の大地震は、伊須國最も劇しく震 ひ、伊須出張島と伊須演との間
の内海、震上り て 途 に 原野 と鍵し ぬ。天皇、太碑宮 の 副 宮守家賢知仁 彦命 に 勅して、
共原野 の開銀 を命 せらる。尋 て、帝都 黒田 の魔 戸の宮に還幸まし ましき。
賢知仁彦命は天孫二柱奪の第二の御子 火須勢理命五十五世の孫にましまして、
前 副 守護司長 若気 心男命 の第 一 の 御子 なり。命 乃ち、春属を 従 へ 伊 須國 に移り止

らせ給ふ。共止らせ給ふ宮を 任羅山の里(㎞)江川の宮といふ。面して大地
震にて内海震上り水全く弾参留に因り引留賀共 継を祀り 共務きませる塚を引留

賀小島 といふ。命は、共震上りし地を開銀 まし まし \ に、途 に良 農田 と なれる に因


り、共田原 を田方 國 といふ。命 に、男子 八人、女子十二 人あり。皆 澤 々 に 分れ 住みぬ。


共長子を 亡田大八良命といふ。(㎞)子孫世々大八良と稲しぬ。長女
を 君 澤田 媛といふ。媛は、伊須演 に鎮 り ます加茂澤 昆 女大 碑 の 宮守 加茂 澤雄 命 に
嫁 く。命 は、大 碑 の第二 の 御子、加茂山 雄 命 五十七世 の 孫 なり。共所在を加茂 國 と
-
いふ。
爾来、天皇 毎年四月の大祭 日、井に毎月 一日 十五 日 には、伊瀬崎 に行幸ましまして、
不二山高天原 に向 ひて、太碑宮に通 拝ましまししか、一日再ひ、不二山の煙皆な晴れ、
明かに見えつれは 則ち共地を二度見 ケ浦とそ稲しける。
七十三発 未 年八月 秦徐顧童男童女五百除人を従 へ 不二山 にそ着しける。乃ち
先っ阿祀谷 に上り、太碑宮を初め各七廟に詣づ。面して皆な大室に止りぬ。徐顧
は 後 中室に居を 下して 止り 童男童女五百除人は、或は中室に、或は大室に止り 各職
とする所に従事しにき。然るに、徐 顧は、比等の人々を督して、先つ 賞を養 ひ緑を製
し、以て機を織らしめけり。是れ我國絹布の権興なり。
徐顧、止まること須史にして、太碑宮の宮守司長尾羽張田彦、及共男不二 田彦 井に
副宮守司長阿祀彦共他碑祇の後胤等と、交を結 ひ、且つ比等に、文學をそ授けける。
後、覚に太碑宮の 由来、並に碑代よりの事填 に闘し 共者等の 日牌と、各後胤の秘蔵し
ける質記録及系譜等とを録取して世に博ふ。之を十二史談 即ち徐顧博といふ。
武内宿禰 太碑宮に奉幣し来るや 偶、徐顧の来朝を聞く。乃ち共門に入りて、徐顧
及 ひ共子 顧永等に従ひて 共教を受く。後 男矢代宿禰を件 ひ来りて、父子共に徐顧
學 を そ 窮 めける。
第二章 阿 祀山 太碑宮 三二五
-
静 和 三 二六
孝 元 天皇北美 军 11 月 入 日後 屬中 常に於 愛す。 之 を中空 服 日山 の 降 に集。
求 神代 よう の 事態を世に 修 《文 は文學 を 数 《機械を 人 に 授 < るたと 攻囲 に貢獻
する所形から きる。のあるを以て時人轉載 の 如く し て ゆく之 を 祀る。 中 宮殿
*** *** * ** * * * *** «6 筆した『g
鐵 山 た 軍少 其 地を新さて居住 し にサ る。 後其 地 に父 の 神 論 を 分 後 し 制 ,8

賽事 の後 漸擴張 炎をす。截肢 體 對 戰艦體 轉變 體


第九 大 神宮 の 神 使

神武 天皇 は高天原本神宮 の 守護 司長教都 非 改修 命 を し て 神聖神祭 天 大師寺


Ä

の 御神 記 を 受け止め、英制使 となり、三品 の 大 御 資を 楽し 座 部 に 参加 しめ 以前
ż

位 式 を 行 は ギ 論 家。 即ら 紀元 元寺西年 11 月十 日 是たり。 新 修復た 三品 の 大 御


*を楽し て、 高天災 に張り大神宮 に納め集め東9g 小 队友 》 地位 式


後 與 人 定め させ 始 か に さº
都 无 人 于波長年 1 月 入 日本 神宮 の 守護 司 長官 守 方會 は 高天原, 23 ㎞
8*** ** * * *を楽し て栄 の 地位式 に参加 しg ㎏
- - -
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波 彦命 の 御子 なり。
紀元 百十三発 五 年七月三 日、太碑宮の 守護司長宮 方男命は、高天原 より赤神 使と
なり、三品 の 大御質を奉し て、安寧 天皇 の即位 式 に参向 しぬ。命は、宮守 男命 の 御子也。
紀元 百五十 一辛卵年二 月四日、太碑宮の守護司長宮 志津目男命は、高天原 より赤

碑使となり三品の大御質を奉して鶴徳天皇の即位式に参向しぬ。命は宮方男命
の 御子 なり。

紀元百 八十六 内宣 年 一月九日、太碑宮の 守護司長 山宮男 命は 高天原 より赤碑


となり、三品の大御質を奉して、孝昭天皇の即位式 に参向 し ぬ。命は、宮 志津目男命


の御子なり。

紀元二百六十九己五年 一月七日、太碑宮の守護司 長奈流男命は高天原より赤碑


使となり、三品の大御質を奉して 孝安天皇の即位式に参向しぬ。命は、山宮男命の
御子なり。
紀元三百七十 一辛未年 一月十二 日、太碑宮の守護司長賞米山男命は 高天原より
赤 碑使よなり、三品の大御質を奉し て、孝霊天皇の即位式 に参 向し ぬ。命は、奈流男
第二章 阿 顧 山 太 碑宮 三二七
碑 皇 紀 く 言二人
命 の 御子 なり。
紀元四百四十七丁玄年 一月十四日、太碑宮の守護司長美弾 方男命は高天原より
赤碑使 となり、三品の大御質を奉し て、孝元天皇の即位式に参向し ぬ。命は 講 を不
二田彦といひ刺佐男命六十九世の孫にましまして孝霊天皇の新任ましませる太
碑 宮 の宮守司長尾羽 張 田彦命 の 御子 なり。
紀元五百甲申年 一月十二 日、太碑宮 の宮守司長阿 曾男命は 高天原より赤碑使と
なり、三品の大御質を奉し て、開化天皇の 即位式に参向し ぬ。命は講を、大室田彦と

いひ、美禰 方男命 の御子 なり。


「宮

紀元五百六十四甲申年 一月十三 日、太碑宮の宮守司長 具田良男命は、高天原 より


赤碑 使 となり三品の大御質を奉して 崇碑 天皇の即位式 に参 向し ぬ。命は 韓を西


田彦と いひ、阿 曾 男 命 の 御子 なり。


碑武天皇以下 の各列聖は、天皇 の遺 語 を 長みて、毎年五 月 五日、太碑宮の大祭 日に
は高天原 に上り 親しく祭典を行はせ給 ひ、又、四季の大祭日には奉幣使をして祭典
*
以上、人 皇 記、大
を行はせ給ひき。(㎞")
第一二 期 碑 器奉遷
第十 天 照 大御碑及碑器の奉遷
崇碑天皇五成子年三月、天皇皇子豊城命(㎞ )をして高天原よ
り天照大御碑を太和國笠縫の里に勧請せしめ、且つ高天原元宮七廟惣名阿祀山太
碑宮より、三品の大御賞を大御碑の碑霊として、太和國に奉 遷 ましましき。是より
先、皇女豊拒入媛命に勅して、天照大御碑を勧請し奉るべき宮殿を太和國笠縫の里

に造営し奉り、更に皇子豊城命を勅使 として、皇女豊拒入 媛命 及 淳名城入媛命を副


使として高天原に上り 天照大御碑を勧請し奉らせらる。即ち勅使等は林浴斎戒

し て、高天原阿祀谷中室 の麻呂山に 鎮ります天照大御碑の御 碑殿 に於 て、勧請の所


願を なし、尋 て阿祀山太碑宮の御碑殿 に於 て、天 つ 大御 碑 の御碑託を受け、三品の 大


御質を そ授け 賜はりける。時に三月三日 なり き。
乃ち勅使豊城命は、副使 豊拒入 媛命・淳名城入 媛命と、三品の 大御質を捧持し奉り、
太碑宮の宮守司長吉田彦命、副宮守司長太田川彦命初め宮守一同 道中を警護し奉
第二章 阿 祀山 太碑宮 三二九
-
碑 皇 紀 三三○
りて、之を帝都に奉遷し 笠縫の里なる天照大御碑の新宮に納め鎮め奉らる。乃ち
豊紅入媛命 停名城入媛命は 新宮の御碑殿 に於て 鎮座の所願を行はせ給ふ。更に
雨皇女初め 宮守司長吉田彦命以下 一同にて、又御碑殿に於て、大日本惣國魂碑祭の
所願を行はせ給ふ。時に四月九日。認して新宮を天照皇太碑宮と稲し等 経の里
を天赴の地と定め、天碑戸に組入れ 給ふ。面して高天原 阿祀谷中室の麻 呂山 に鎮
ります天照大御碑 の碑廟を、古宮 の 天照皇太碑と ぞ稲し 給 ふ。
六 月、天皇、勅して笠縫の里天 赴 天照皇太 碑宮 の 廣前 に於 て、百間四方 の 垣を 廻ら

し、域内に碑籍 を設け、共前に、又十間四方を割して、荘厳なる工場を設け、天下 の名工、


亀湖池都留 松 千久男 宇目男 旨共 津質 の 五名をして、三品の 大御質を模倣 して、之 を製


作 せしめ給 ふ。

万ち各名工等 法 沿斎戒して碑祀碑宗天つ大御碑初め諸、の天つ碑 國の碑に所願
をなし、意を用み 心を霊し て、覚 に同一 の三品の 大御資を製作し奉り、功 を闘下 に以
聞 す。乃ち、高天原 の太碑宮の宮守司長吉田 彦命、副宮守司長太田川 彦命初め、皇女
豊拒入媛命 済 名城入媛命等をして又 百日間諸、の天っ碑 園っ碑に 六根清浄の所属
を貸さしめ給 ふ。是 に於 て、新器 を大 御宮の奥御殿 なる旨共碑殿 に納め銭め奉らる。
面 し て新 器は代々 の 天皇 守護の 大 御質と 定め られ、碑 代博 来 の 三品 の大 御質は、笠
縫 の里なる 天 照 皇太 碑宮 の碑 霊 として、斎 き鎮め させ給 ふ。天皇 語し て、爾後即位
式は 量 碑殿 の 正殿 に於 て、碑 祀碑宗 天 つ 大 御碑 初め、天照太御碑 に 拝 濃 ましま て、大
御位 に 即かせ 給 ふ こと に、儀典を 改め させ給 ふ。
爾来天下大に置え 撃投流行し遂賊蜂起しぬ。足れ 天照大御碑 及び三品の大御
賓を奉 遷 まし ましし に因り、高天原 の 太 碑宮 なる碑 祀碑宗 天 つ 大 御碑 の 碑怒 の然

らし むる所なら む、と て海内 胸 々 たり。是 に於 て、天皇 碑威を 恐れ、徳を修め、庶民 を


賑はし、群碑を祭 ら せ給 ふ。即ち先づ豊 拒入 媛命 停 名城 入 媛命 に 勅し て、笠縫の 里


に祭りませる、天 照大 御碑 の 碑前 に於 て、大國 魂碑祭 を行はしめ、日々 所 願を なさし


め給 ふ。更に吉備彦命に勅 し て、高天原 に上り、西の 高峰 に鎮 まります碑皇産 霊碑


を祭り、之 を碑座 山と稲し、東 の 高峰即ち 天 の石窟 なる 天照大御碑 の奥宮 を祭り、之
を 御祀代山と稲し 南の高峰 に鎮ります高皇産霊碑を祭り、之を高座山 と稲し、北の
高峰に鎮ります道祀作田 昆古 命を祭り、之 を道祀 山 と稲し、太碑宮 を初め各 七廟を
第二章 阿 風山 太碑宮 三三一
* 碑 皇 紀 -
三三二
祭らしめ給 ふ。且つ 天下 に 語し て、列聖の遺例に違 ひ、毎年五月五 日の 高天原 太 碑
宮の大祭には天皇皇后親臨して祭典を行はせ給 ひ、四季の大祭には奉幣使を遣は
し て祭典を行はし むることを宣布し て、國中を鎮め させ給 ひき。

天皇六年己 五 六 月二十五 日、武淳川 別命に勅し て、高天原 阿祀谷の小室 中室・大 室


に祭ります天碑地祇 を祭らしめ給 ふ。即ち、先 つ 阿祀 山太碑宮 を祭り、尋 て 七廟中、

寒川畔 なる 小室鳴 澤 の 菅原 に鎮 り ます碑 廟 を 修め、國 狭 植 奪 諱農狭 昆古 奪 の 剣 石


と 園狭昆女奪諱自清龍王女奪の鏡石とを斎き祀り 寒川大碑と稲し 碑領圭田二百

束 を賜 ふ。次 に、小室 の 宮守 大碑、加茂山 の 山守大碑、笠砂 の 硫 の 高 澄 大碑 麻呂 の 天


照皇太碑根山宇津峰の高座大碑治峰の根元野大碑を祭り、且つ四季の大祭師ち春

は桃澤祭 夏は社若祭 秋ば菊里祭 冬は青木祭を行はしめ給ひき。


又高天原の小室中室大室の各所に鎮まります祀佐男命 (㎞) 大山祇命 (㎞


㎞)* 主シ
以与% き
㎞" シ夫物シ 興崇 神 毛
#主命確武王命建御名方命豊城入里古命(㎞ ェ。)味拒託彦根命稲査
倉天香山命五十猛命興玉命騎明玉命阿祀里古命シ
玉式正吉倉シ日命(㎞)手カリ倉高照里女シ
㎞の三十六神の賞を同組谷三十六神戸と定め各天#となし。『ー“。
聖願地を天赴の地となし給ふ。住留家より登る道を御園坂とシょ。


を天家坂と海伊より登る道を元住坂と唱へしむ。球て不二山をシ

函巴 貫
祀l耐
巴記
三川


第十 一 碑宮の分赴
垂仁天皇三甲午年八月十五日武済川別命に勅して住留家 伊 佐賀見の三国々
境なる山村の上の大塚に太碑宮の分赴を設けしめ給ふ。夫れ山村は 武天皇の
-ヘ-**

間かせましし顧地山陰なる東海道の騎攻にして三園々境に位し、何れょり 地山
に登らむとするも 必ず比村を経過せざる可からず、即ち東園ょりは 佐賀シの
川日村を経て百十町にして北園よりは海伊園の元住村を経で百十二町して
よりは住留家園の端久保村を経て百四十町にして各山村に達し、Nょり調地山 *
登りしものなり。故に今や比村に分赴を設けしめらる。足ょり山村を山**。
三三三
第二章 阿風 山 太碑宮
* -

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シ。 『 』 * シー シ シシ - -
碑 皇 紀 三三四
改め分赴を山宮阿 祀山碑赴と稲し、本赴 を元宮小室阿祀山太碑宮 と稲す。分赴は、
太碑宮 を距 る こと二 百 二 十 六 町 と す。
太仁志男命を以て分赴の宮守となし、旦 つ 太碑宮の 副宮守司長を奪 ねしめ給ふ。
命は、太碑宮の 宮守司長川山田 彦命の弟 にして、前宮守司長吉田彦命の二子なり。
共碑赴を更に又創めませるの意に縁り謎を最 太八千# 良と給ふ。故に子孫世々
真太八良と稲し後世遂に 飛良とそ稲しける。
天皇二十五年、勅し て伊勢國度曾原なる碑武天皇の御父、碑皇第五十 一代 親 非葺

不合奪 の御陵 の東南の前地を相して、新 に 天照皇太碑宮の御碑殿 を造営し、大和 國


笠縫の里に鎮ります天照大御碑の碑霊たる三品の大御質を そ遷宮し奉りける。

皇女 倭媛命を以て、宮 守護、並 に祭祀の 司長 に任じ給 ふ。又、阿 祀山太碑宮の供物


司長 舟田 彦命を以て、天照皇太碑宮 の供物 司長 に任じ給 ふ。命は乃ち弟田村彦命


に共職を譲りて途に伊勢園に て移りける。即ち 河弾頭の都波戦の碑田の作事の
発盤に&を 管して正らせ倉 。Nを都護きい。シ
の供物の養場所は高天原小室澤の自砂の足の上の大松の下に於 て養きし古
■i}"』
例に則り、河曲原の倭田山 の尾崎峰の大松の下に於 て楚くことに定め給 ふ。因て
命は、倭田氏、又は 山田 氏と稲し、後、松木 氏と ぞ改めける。面して新宮 に供物 を捧げ
奉ると同時に、二度見 ケ浦より 遥に高天原の太碑宮なる碑祀碑宗 天つ大御碑 にも、
第 供物を捧げ奉ることに定めさせ給ひき (㎞)
二 第十一一 太碑宮と 日本 武 奪
編 景行天皇四十康成年、太碑宮の副宮守司長阿祀彦王は他の碑祇の後胤武佐加彦
武大名彦等四十八 将と 碑都復奮を企て、反す。是に於て、天皇は皇子小確奪を征
* 夷大将軍に拝し親ら斧銭を授け 吉備武彦大伴武日を神将として之を征せしめ給
* ふ。皇子、先づ伊瀬に赴き、皇太碑宮に詣し、往て尾羽張 に邸り、中島の松子島源太夫
之 建稲種命の館 に過りぬ。命は、天別天之 火明命六十世の孫、尾羽張源太夫穂 明男命
巻 の長子なり。共妹 美夜媛を寵し止らせ給ふこと久しく途に媛を伴ひて務 し 住留
家園顧地川に至らせ給ふ。乃ち川を来むで戦ふ。東軍須史にして、伴り敗れて北
く。乃ち計を設け、武佐 加彦 初め、六将を獅師に扮装して、山宮村に要 じ、伴り出で 、
皇軍を迎 ふ。即ち遊猟 に顧 地山 裾野に誘 ひ、四方より火を放つ。奪 乃ち質剣 にて
第 二 章 阿 祀 山 太碑宮 三三五
-
碑 皇 紀 三三六
草を薙ぎ 用意の盤を鎮つて、逆 へ焼き、兵を磨きて之を攻む。東軍途に敗走せり。
奪、潮く小室に至り 菅原の大塚にて、先づ顧地山を遥拝ましまして、途に太碑宮の宮
守司長顧地記太夫の館に駐らせ給ふ。記太夫は祀佐男命七十四世の孫にして前
宮守司長川山田彦命の長子なり。尾羽張の松子島源太夫穂明男命の姉 中島根 媛
を室となす。媛は 質に美夜受媛の伯母なり。美夜受媛、日 なら ずして 一王女 を
晩分す。顧地媛と名づく。是に是て奪は、王女 に疑袋を附し、之を記太夫に託し、更
に東征に就かせ給ふ。則ち東國平定の後 道奥 毛の園より、武佐志・佐賀見を巡り 復

た足柄山を越え 御園坂より御祀代山なる天照皇太碑の奥宮(㎞ )に詣せられし


に、偶、日暮 に至りぬれば、愛に 一宿し、旦 日、東天に碑 の雲を切り分けて現しまします


を 拝し、騎 途共麓なる泉水 の上の大石 に、共碑像を書き おき、振 旅して小室 の 里家基


都 に還御ましまして管て記太夫の新に築き 美夜受媛母子を擁護し奉りし新宮に
駐らせ給ふ。比新宮は南加茂坂東阿田都山の麓にあるを以て世に城下の宮とそ
稲しける。
奪 騎途に臨み 笠砂の尾崎峰に於 て、顧地七廟を遥拝ましまして、遂に小室を務 し
大 室より御古 峠 を越え、海 伊國 より更に毛の 國 に出で、確氷 峠を経て西に還ら せ給
ふ。騎 途、又、尾羽 張 に過きり 美夜受 媛に 草薙の質剣を吾と思 へ、と て授け させ給 ふ。
去 つて近江より能類野 に 到りて暴かに夢 し ぬ。日本武奪 と諡し給 ふ。明年五月
五 日 美夜 媛、一王子 分競 す。長田 王と つけ給 ふ。
五十三発 玄 年六月三 日、天皇、顧地山 阿 祀谷 に巡 狩 まし まし ぬ。是 より先、天皇常
に、皇子、日本武 奪 の 平 げ ませる地を 歴 覧 まし ま さむ と せり。是 に至 つて、武内宿禰

を郷導として、阿 祀谷 に巡 狩 ましましし もの なり。乃ち先づ、菅原 の 大塚 に て、顧地


山 を遥拝 まし まして、中室の 麻 呂山 なる 天照皇太碑の 政所の古跡 に、行在所を建て


させ 給 ふ。之 を麻 呂 山 の 宮 と 稲 す。面 し て 太碑 宮 を初め、各 七廟 の 碑前 に於 て、親


ら祭典の式を行は せ 給 ひ、又、各所の古跡を訪はせ 給ふ。彦狭島王を以て、小室の都


督 と なす。七月四 日、小室を発し 東海 の諸 國を巡 狩して、西に還りましき。


成務天皇 七年三月 建稲 種命の長子、小 止興命を以て、尾羽 張國造となす。六 月、國
造 に認 して、高岡の長田を埋立 て て 宮殿を造営して 草薙の質剣 を奉祀し、日本武奪
の紳 霊を合祀ましまさしめ給ふ。夏熱き日 に、田を埋立て \、建てしめし宮なるに
第 二章 阿 祀 山 太碑 宮 三三七
*
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* シ → シシ ェ 『
碑 皇 紀 三三八
縁り 熱田大碑と名 つけ奉らる。日本武奪の遺腹子、長田王を以て宮守司長となし
姓 を尾羽張と賜ひ官名を源太夫と賜ふ。小止興命の姓尾羽張を、一の宮と改め 賜
ひ官名源太夫を記太夫と改め賜ふ。墓て眞清田大碑の宮守司長となし給ふ。(
膨 ㎞)
記、眞 清田 記、雲 切 如来 記、不 二 日記。
第十三 高御久良碑 赴と新碑官
碑功皇后撮 政五十四甲成年撃 田別奪の皇子阿計日登王は 弟集線別王と共に羽
田矢代宿禰を従へ編地山阿祀谷家基都㎞に来り 太神宮の宮守司長顧地
館に駐らせ給ふ。阿計日登王は 佐太夫の長女気久野系媛に要ひ 年総別王は#妹、
女登利媛に要ひける。抑も比二女は、日本武奪の孫王女にましまして犯美夜受媛
の生みませる王女 幅地媛の御女にまします。初め日本武奪の西に還らせ給 ふや、
王女顧地媛の教養を 太碑宮の宮守司長顧地記太夫に託し給ふ。媛長 じて、記太夫
の闘子佐太夫 に配し て、比 二 女を そ撃けにける。
撃 田別天皇即位五甲午年七月三日、阿計日登王を以て、山守部の司となさせ給ふ。
是 より 大山 守 皇子 と ぞ 稲 しける。更に、皇子 を以て、太 碑 宮 の 大宮司長と なし、顧 地
に た た , 以 國: 83 % と ため 本線 列 王子 は 太 祖 李永 無須 為 火災 が 即 命前
日 都多 金(總體 報º)等 の 後加 と共に中宮司 長 の 家 とため 大國 主命 天 水玉 命 天文
屋根 命 後 日子 命 天 之 火 明 命 の 後 周 を以て、小宮司 長 の 家 と 定め、金山 里吉 命・作用 证
古 命 大物 主命 前 王命 の 後 周 を以て 終身 可 長 の 家 と 定め、武 鐵 劍術 總 建 主命·雅 德 王
命性得 名 方 命軍 球 入 北市 命 軍 王 武 里吉 命 于 九 明命在 瑞和 日 命.(飾 ) の後加を
以 て 宮寺 機 群 或 防 司 長 の 家 と 定め、湖上 老翁 命 前 则 王命 の 後 加 を以て、航 司 の 家 と

ため 本家金 龍虎 基金 會同 祖古 金 の後 を以て 使 物 の象と な


高原 配 女 命・下 路 用 女 作・大氣 女 命 王 十 篇 作 の 後 加 を以て、神 樂 司 長 の 家 と 定め、香 天


護 山 金 朝 國王 命 與 王命 高杉 根 命 の 後 周 を以て、神宮 駅 の 家 と 定め させ 始 &。 此 一

十 六 家 は、所 調 阿 祖谷 大社 三 十 六 种 后 是 たり。
三 十 七 天 真 年 六 月 十 日、武内 信頼 を 助 使 として 三國 第 一 山 で ふ 初期、及び 戦 功臣
后 の 弓矢 を、大山 守 自圣 子 に 開 よ。 而 し て、天 照 自室 大神 の 麻 呂 山 の 古 朱古 を 改造 し て、之
に 御 加代 山 なる 皇 太 神 の 奥 古 を 合祀 し 本 ら る。 不同 所 たる 佐藤 の 空洞 に 付 を 延
て て 徐福 神社 として 記 ら せ 結ぶ。 四 十 三 張 年 年 11 月 二 十 二 日、天皇 崩御。 九 月 11
乾 11 章 阿 朗 山本 神宮 三大
碑 皇 紀 三四○
十二 日、大山 守皇子は、父天皇の遺髪と祀母碑功皇后の弓矢とを阿田都 山の宮守大
碑の大柏木 の下に祀り、高御久良碑赴 と稲す。皇子は、共宮の下に居を下して止ら
せ給ふ。之を常 の盤と唱ふ、足より子孫世々㎞を密下とそ稲しける
東北諸園の碑祇の後胤等 復た、大山 守皇子を奉じ、碑都復奮を企て 、反す。即ち、
武奪植命の後胤加志摩 彦良を軍大将となし、建御名方命の後胤 諏訪彦良 天太玉命
の後胤安房田彦良を副将となし前玉命の後胤武継彦男以下、三十五将をして、各國
國に兵を催し 密に阿祀谷に軍勢を集めしむ。事、京師に波る 、や 大鶴鶴天皇は 皇弟
苑道稚郎子皇子を将として、之を征せしめ給 ふ。東軍の大将加志摩彦良は、大山 守
皇子の衣服 を着し 諸将と兵五百騎を従 へ、皇軍を慶 にせむものをとて、顧 地川を渡
る。偶 伏兵暴かに起り撃つ。東軍利あらず 多く湖死す。乃ち加志摩彦良、敵中に闘
入し、縦横奮ひ戦ふ。怒ち河中に投じて浮き つ沈み つ 巧に下流に上陸し、残兵を牧め
て家基都に騎る。英道稚子は、乃ち衆を摩 き、鍵を以て溺死者を引上げ 以て大山 守皇
子を物色せしめ 給 ふ。 然るに、作田 昆古 命の後胤佐田彦は、共容貌皇子 に酷似 しける
ものあるを以て、大山 守皇子は 足なり、と乃ち共尻を大和園に送り 奈良 山に葬りぬ。
大将 加 志摩 彦良 は諸将と議 し、先づ 大山 守皇子 に玉 柱良男等の 七 将を附し、佐賀
園に移駐し奉り 様走(㎞)の闘を横走利羅に足柄山中の闘を弾無羅佐和良に
らしむ。乃ち、又諸将を部署して各要所に於 て皇軍を防ぐ。且つ巧 に奇計を設
け て 之 を 蔵 くす。皇軍、遂に 山 宮村 より 幅 地川 に退く。東軍 追撃川を 来 みて 戦ふ。
る に、一日 勅使香古坂 王 山宮村 に参向 し て 目 く、坂 主大山 守皇子、溺死 しける今日、
とも盆 なし。因 て 雨軍、宜しく和 を講ずべし と。大将 加志摩 彦 長、謹 て 勅 を 奉
じ、和を講し ぬ、東軍旦 つ 脱 ひ、且つ 祀賀しにき。乃ち阿祀谷家基都 騨を、賀吉 騒と
む。足に於 て、大山 守皇子 を 佐賀見より、阿 田 都 山 の 小室城 宮下 の 宮 に 迎 へ奉る。
より、皇子は鍵名 して 宮下記太夫明仁 と稲し、顧 地太夫 の 後を嗣ぎ、祀佐男命六十
八世 の 後胤 と稲 し、大宮司 長 と なる。子孫世々、大宮司 長を 承継 し 給 ふ。共皇子 の
駐 まし まし し山 を、大山 と いひ、共 山麓 の 原野 を、大 住 の 里といふ。
弟集 纏 皇子、赤鍵名して、顧地又八良政元と稲す。是より先、皇子は、妃女登利媛を
ひ、帝都 に上り、共に大鶴鶴天皇に調 す。天皇、共妃を慕ははせ 給 ふ。皇子、乃ち 羽
矢代宿禰と議 り、主従七人、密 に逃れ て倉橋の里 に匿れ、倉橋山 を経て宇陀の里 に
第二章 阿組 山 太碑宮 三四一
碑 皇 紀 三四二
至るや、果して追兵来り攻 む。宿禰、乃ち従士 目 志良 男を殺し、皇子の 衣服 を着せし
め 顔面数箇所に矢創を附し 皇子の戦死ましまししものの如くし て山越 に逃れ、伊
勢路 より、辛じ て、阿 祀谷 に還らせ給 ふ。是に於 て、鍵名 し て 幅地又八良政 元と 改め
分赴山宮阿 祀山 碑赴 の 宮司、衆太碑宮 の 副宮司長 顧地 又 八 良大原 田彦の 養子と な
り て、共職 を承継 す。妃 女 登利 媛 赤鍵名 し て標 山 媛 と稲 し ぬ。
同 天皇十七己五年二 月二 十二 日、大山 守皇子、宮下 の宮 に て、夢 せらる。毒八十七。
高 御 久良 碑 赴 の 赴 側 の 大 柏 の 下 の 陵 に 葬る。同三十 五 丁 未 年、根 鳥皇子 をし て、阿
祀谷 の 農事 を司り、且つ 八百 萬碑 の 祭典司長と な させ 給 ひ、初田 矢代 宿禰 同 副 司長
となる。皇子は、川口 村 の 北、太田 山 に 居 を 定め給 ふ。之を太田 の 宮 と稲 す。子孫
世々、太田 を氏 と す。

同三十七己西年九月二十二日集継別皇子 日本武奪の奮跡なる坂 の宮にて夢


せら る、毒 百 十三。兄 皇子と同 所 の 陵 に 葬る。反正 天皇元 内午 年十 一月二 十二
日、根 鳥皇子、太田 の宮にて夢 せらる。毒百二 十八。雨皇子と同所 の陵 に 葬る。之
以上、神代
を顧地谷阿田都山の三陵と稲 す。甲斐 國風土記に 所請 陵墓三基 足なり。(㎞
月 に て、阿
阿 祀谷 七廟中麻 呂 山 の 天照皇太 碑 の
古宮初め、徐 顧碑赴共他の赴 嗣、多く破壊 せらる。事、京師 に以聞 するや、十三千 中年



九月九 日、勅使 物部尾興、阿 祀谷高澄


碑を 大 碑 に合祀 し奉れ り。

崇岐天皇己西年六月 概 戸皇子勅使として海伊 の 黒駒に乗り阿祀谷に上り 岡祀
山 太碑宮 に、大 日本元幣 司を賜 ひ、七廟 を 再興せ られ、且つ 寒川大碑を遷宮し て、高 シ

久良碑赴 に合祀し、寒川 大明碑と稲し、高 澄 大 碑を幸 燈大明碑と 改 稲せしめ給 ふ。


又、太碑宮の職務を定め させ給 ふ。即ち、大宮司・副宮司の下に 赴 司八人、祀八人、顧 宜


四人を置き基下に赴掌八人司典八人を置き、Hっ碑官五人毎に 頭長を立っること

に 定め させ 給 ふ。
皇子 又、寒川大碑を高御久良碑赴 へ 合祀したりし赴地、即ち自 連満 尻 に 一宇 を建
立し、顧地山白蓮寺と 跳し、寺領主田三十五束を 賜 ひ、以 て行満 寺 の奥の院と ぞ稲し
ける。抑も行満 寺は、百済 國 の 日 羅 の 創立 と す。初め 日 羅 は、敏達 天皇十 四 乙己年
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三四三
碑 皇 紀 三四四
阿 祀谷 小室 に来 り、太 碑 宮 の 赴前 を流 るる 宮守川 に 一撃 を建立して日夜基
近の 小池、又は菅原 の大塚の上 なる自 蓮流にて行を修し、地蔵の 法と勝軍の法とを
~~へヘヘヘヘヘヘヘヘヘへへへへヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ

極 む。後、行満ちて 西 に 騎る、共堂 に 徐 顧 の斎 らし来れる薬師如来 と、日 羅の持ち 来


れ み 地蔵奪とを安置 し て 徐 顧 山行満 寺と跳 す。之を東國 寺院の 鳴矢 と す。今や、
皇子は日本武奪東夷征討のとき御代山麓なる泉水の上の大石に書き置かれし碑
像を務見せ られ、之 を紙 に寛 させ 給ふ。共東海 に雲を切り分け まししに由 り、雲切
如来と名っけ又自らの像を書き基に行満寺に納め*領寄田三十五東を賜ひ H共

奥の院として、白蓮寺を創立せられしもの なり。常時の勅状は、
うくくくくくくくくくくく、くくくくく

勅 命 司

大臣 蘇我 馬子 花押
今度 顧地元宮七赴大碑 各再興之事。
顧地 山 仁、備寺 建立之 事。
勅定
泊瀬部若雀奪(㎞)二年六月三日
就 権 既 ► (花押)
福地 山 也 就 大 神宮司
を 下記 本美元磨、 _
春天 人 陈 に日本 文獻
座 地 なる 佐賀 見 國 小 國 都留 高座 國 を 改め、都留 高座 部 と なし、海 空調 小 國 山 背 國 を
改め'山 背 郡 と なし 在留 家 國 小 國 屬 地図 を 改め、福地 那 人 た させ 結ぶ。 同士 王年文、
金剛 の 不知 不論 み を 改め に由 大 神父 の銀座 地 たる 佐賀 郡和 高雄 馬 を
改め、相模 國 都留 高座 部 と 改め、海陽 山 背部 を 中 非美國 八代 郡 と 改め 後期 か、在留 家 國
羅 地帯を 敵 地圖 爾 地帯 と 改め踊 (講義 縣 議 魏)
第十 五 爾 地 人脈 と 先 現 太

华 德 天空 大 化 元 J 西平 十 二 月 十 日 阿 加山 太 神宮 の 独り まし ます 相 機関 の 1 部
を 倒 さて、甲斐 國 に 編入 やら る。 之 を 都留 郡 といふ。 是 上り 先、諸 國 の 小 國 を 改め
郡 と た させ 結 % ) 開 地 山 東北 総 1 ㎞ の 地 を 称 相 高座 部 と 称し、都留·麗 地 和 被古國
都 區 北非 平 女 の 六郷 に 分ら あり し が、今や 都留·福地 和 校・吉岡 の 四 郡 を 割 さて 流 相 鄰
第 1} * 動 名 三四五
碑 皇 紀 三四六
と稲し甲斐國 に編入せられ、都匿井早女の二郡を相模國高座郡と稲せしめらる。
是 より、太碑宮 を初め、各 七廟は 意 に甲斐園 に属する こと 、なれ り。
文武天皇大質元 辛五年六月十三日、勅願により、忍壁親王を加幣使として阿 祀谷
に上り、七廟中 寒川大明碑を顧地八幡大碑と改 稲し、正 一位を賜 ひ 碑領として 圭田


四十八 束 を賜ふ。同時に、山宮村 の 山宮阿 祀山碑赴 に 従一位 を、元宮 小室阿 祀山太
碑宮に正 一位を賜 ひ、碑領として駿河 園 顧地郡 に於 て 主田五十束 相模國高座郡 に
於て圭田五十東、中斐園八代郡に於て主田五十東を賜ふ。常時の勅状は、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
勅願
*品"

天之 眞宗 豊祀 天皇 文武天皇
勅願之事。
-

寒川明碑尾改稲 志、赴 跳 尾八幡大碑登致事。


碑領圭田四十八東寄付致事。
授 正 一位尾 賜 事。
右 條 々 閣勅 定例面如 件
大 質元 年六 月十三 日
勅使 忍壁 親王 (花押)
顧地山宮守司宮下源太夫元道
顧地八幡大碑 謹敬 自
忍壁親王又動命に依り 太神宮の神官神職を改め定めさせ給ふ。即ち大宮司一
人副宮司一人駐司四人 顧宜四人 祀八人 祭司八人 仕典十二人仕手二十四人 役人碑
官六十二人、平碑職三百十八家、赴家四十二家、凡 て三百六十家 なり。碑職五家毎 に

組頭 一人を置き、七十二組となし、上碑職三十六組は、大宮司 に属し、下碑職三十六組

は、副宮司 に属する こと に定め させ 給 ふ、又、山宮分赴 の碑官は、太碑 宮 の 副 宮司共


首となり、赴司四人、顧宜二人祀四人 祭司四人 仕典六人 仕手十二人、凡 て三十三人と


定めさせ給ふ。古例に準じ、毎年、太碑宮より出張して、之を掌る こと 、なし ぬ。
太碑宮の農作及祭典副司長宮田磨は、加幣使 忍壁親王の知る所となり、遂に共職
を弟宗治彦に譲り、親王に従 ひて京師に上る。撮せ られ て、親王の副 帥 となり、共に
蝦夷を征す。共功に依り 科野園高井 水内の二郡を賜ふ。長野原の吉田岡の坂上
第二 章 阿 祀 山 太 碑宮 三四七
碑 皇紀
三四八
の館に居る。因て坂の上を氏とす。質亀二年北越 西海 諸園征討の功に依り 陸奥
園三十四郡を賜はり 従 夷大将軍に任ぜらる。菊田郡菊田の館に居る。之より城
菊田 鷹 と稲し ぬ。

光仁天皇質亀五甲寅年六月一日 勅願に依り 中納言衆鎮守府将軍坂上刈田鷹軌


使として阿祀谷に上り 物旨を博へ て元宮七廟は我國最先に現はれませる碑 々な
るに因り 物 名阿祀山太碑宮を先現太碑と改稲し給ふ。足より後世 先現 浅間の文
字 を混用 するに 至れり。共 勅状 は、

天宗高 紹 天皇光仁 天皇)


従一位左大臣 藤原 永 手 花押)

願例面 顧 地山元宮七赴太碑惣名阿祀山碑赴尾 先現太碑登改稲す。



資亀 五 宙 年六 月 一 日
顧 地 山元宮 七赴 天碑 大宮司
顧 地記太夫元村 *、 くくくく『
坂上菊田磨は後陸奥園菊田郡菊田の館 より同園田村 郡田村の館に移り居る。
天 應元年長子田村暦と共に蝦夷を平ぐ。同十 一年陸奥三十四郡を田村磨に譲り、
奮領地なる科野園水内郡長野原吉田岡坂上の館にそ隠居しにける。(㎞
・ 第十六 雲切如来と篠垣 塚
文武天皇大質元辛五年僧雲遍阿祀谷に上り、徐顧山行満寺に入り行を修し、又 奥
の院なる顧地山自蓮寺に移り、自蓮満の清淡にて備書百部を勝寛して天皇に奉る。

爾後清漢を霊水と稲し、之に溶し又は之を服すれば諸病に効験ありとて顧地山通
拝 者 盆、繁盛 を極 む。
*、*、ヘヘヘヘヘヘヘヘし

シ 天皇 一日雲遍に勅して 行満寺より雲切如来を皇城藤原の宮に遷さしめ以て 守
シとなきしめ給ふ、雲切如来は書て日本武%が東海に雲を切り分けて はれ
ましましし碑像を石に描き置かれしを、概 戸皇子、更に之を紙に寛 させ給 ひて、行満
寺に安置 せ られしもの なり。
第二 章 阿 祀山 太 碑宮 -
三四九


碑 皇 紀 三四四
阿 祀谷 小室 に 来 り、太 碑 宮 の 赴前を流 るる宮守川上 に、一 **を建立して『夜基
近の小池、又は菅原 の大塚の上なる白蓮満 に て行を修し、地蔵の法と勝軍の法とを
極 む。後、行満ち て 西 に 騎 る、共 堂 に、徐 顧 の 斎 らし来れる薬師 如来 と、日羅 の持ち来
れ み 地蔵 奪 とを安置 し て、徐 顧 山行満 寺 と跳 す。之 を東國寺院 の 鳴 矢 と す。今や、
皇子は、日本武 奪東夷 征討 の とき、御代 山麓 なる泉水 の 上 の 大石 に、書き置 かれし 碑
像を 務 見せ られ、之 を紙 に寛 させ 給ふ。共東海 に雲を 切り分け まし し に 由 り、雲切
如来と名っけ又自らの像を書き基に行満寺に納め等領寄田三十五東を賜ひ H共

奥の院として 自蓮寺を創立せられしものなり。常時の勅状は、
う〜〜〜} *くくくくく
勅 命 司

大臣 蘇我 馬子 (花押
今度 顧地元宮七赴 大碑 各 再興之事。
顧地 山 仁、備 寺建立 之事。
勅定
泊瀬部若 雀奪(㎞)二年六月三日
執 候 話 ► (花押)
羅 地 山 也 就 大 神宮司
下記 本美元理、
摩天 大使 陈 寿 に古 朱 文獻
座 地 たる 佐賀 月頃 小西 都留 高 座頭 を 改め、都留 高座 部 と なし、海 世 民 小 國 山 背 側 を
改め、山 背部 と た し 作曲 家 國 小 鳳 頭 地図 を 改め、福地 那 人 た させ 結ぶ。 同「五 年文
全 36 % s * に由 太宗 の農地た 金 を
改め、相模原 郡 和 高座 部 と 改め、海 世博 山 背部 を 中 英國 八代 郡 と 改め 始 か、作曲 家園

聖書 記 を 政 齒 龍虎 皮膚 (講義 縣 縣 縣 縣 )



腳註

第十 五 摘 しと 先 現 太 師

李 德 天空 大 化 古巴 吉 布 于 1 月 十 日 阿 加山 太 神宮 の 舞う まし ます和校園 の 1 部
を 割 さて 中 安政 に 編 入ら る。 之 を 部 路 部 と いぶ。 是 上り 先前 國 の 小 國 を 改め
郡 と た させ 始祖 地 山 東北 俊一 帶 の 地 を 称 相 高座 流 と 称し、都和烏 地 和 被中國
都 區 北 平安 の 六 郡 に 分ら あり しか、今や都留·福地 和 秋 吉岡 の 四 盤 を 抱き て 激 战舰
第 二 章 小說 三四五
碑 白 紀 三四六
と稲し甲斐園に編入せられ部匿非皇女の二郡を相模園高座郡と稲せしめらる
是より、太碑宮 を初め、各七廟は意 に甲斐園 に属する こと 、なれり。
文武天皇大質元辛#年六月十三日 勅願により 忍壁親王を加幣使として阿祀谷
に上り、七廟中塞川大明碑を顧地八幡大碑と改稲し、正 一位を賜ひ 神領とし
}

四十八 束を賜ふ。同時に 山宮村の山宮阿祀山碑赴に従一位を 元宮小室阿祀山太
碑宮に正 一位を賜ひ 碑領として駿河園顧地郡に於て圭田五十東 相模國高座郡 に
於て主田五十束、中斐園八代郡に於 て、圭田五十束を賜ふ。常時の勅状 は、

り〜 ー

天之 眞宗豊祀 天皇 文武 天皇

勅願之事。
寒川明碑 尾改稲志 赴競 尾八幡大碑登致事。
碑領主田 四十八 束寄付致 事。
授正 一位 尾賜事。
右 修 々 閣勅 定例 面 如 件
大 資 元 年六 月十三 日
勅使 忍壁 親王 (花押)
の碑官碑職を 改め定め させ 給 ふ。即ち大宮司 一
人副宮司一人駐司四人顧宜四人 祀八人 祭司八人 仕典十二人仕手二十四人 役人碑
官 六十二人、平碑職三百十八家、赴家四十二家、凡て三百六十家 なり。碑職五家毎 に

組頭 一人を置き、七十二 組となし、上碑職三十六組は、大宮司 に属し、下碑職三十六組


は、副宮司 に属する こと に定め させ 給 ふ、又、山宮分赴 の 碑官 は、太 碑 宮 の 副 宮司 共


首となり、赴 司四人 顧 宜二人 祀四人 祭司四人 仕典六人 仕手 十二人、凡 て三十三人と


定めさせ給ふ。古例 に準じ、毎年、太碑宮 より出張し て、之を掌ること 、なし ぬ。


太碑宮の農作及祭典副司長宮田磨は、加幣使忍壁親王の知る所となり、遂に共職
を弟宗治彦に譲り、親王 に従 ひて 京師に上る。揮 せ られ て、親王 の 副 帥 となり、共に
蝦夷を征 す。共功に依り、科野園高井・水内の二郡を賜ふ。長野原の吉田岡 の坂上
第二 章 阿 祀 山 太碑宮 三四七
-
-
-
-
碑 皇 紀 三四八
居る




て坂の 上を氏と す。質亀二 年、北越 西海 ・諸園 征討 の 功 に依り、陸奥


國 三 十 四郡 を 賜はり、征夷大 将軍 に任 ぜ ら る。丸田 郡 菊田 の 館 に居る。之 より 坂
上 菊田 磨 と稲 し ぬ。
第 光仁 天皇質亀五甲 寅年六月 一日、勅願 に 依り、中納言 奪 鎮守府将軍坂上刈田鷹 勅
二 使として阿祀谷に上り 勅旨を博 へ て、元宮七廟は我國最先に現はれませる碑 々な

るに因り、惣 名阿祀 山 太 碑宮 を先現太 碑 と 改稲し 給 ふ。是 より後世、先現・浅間 の 文
字を混用 するに 至れ り。共 勅状は、

天宗 高 紹 天皇光 仁 天皇)

従一位左大臣 藤原 永 手(花押)
之 勅願例 面 顧地山元宮 七 赴 太紳 惣名 阿 祀 山 碑 赴 尾 先 現太碑 登 改稲 す。
巻 勅
資亀五 定員年六 月 一 日
顧 地山元宮 七赴 天碑 大宮司
顧地記太夫元村 *} *}}
坂上 非対田磨は、後 陸奥國 非対田 郡 丸田 の館 より 同 國 田村 郡 田村の館 に移り居る。
*"〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*

天 應元年、長子 田村 暦と共に 蝦夷 を 平 ぐ。同十 一年、陸奥三十 四郡を田村鷹 に譲り、


奮領地なる科野園水内郡長野原吉田岡坂上の館に そ隠居しにける。(㎞
記、作田 後記、不 二 日
記、勅 状 集、鍵 遷 記。
・ 第十 六 雲切如来と篠垣 塚
文武 天皇大質元 辛五年、僧雲遍阿 祀谷 に上り、徐 顧山行満 寺に 入り行を修し、又、奥
の院 なる 顧地 山 白蓮寺 に移り、白蓮満 の清淡 に て備書 百部を 鷹寛 し て 天皇 に奉る。
爾後 清淡を霊水と稲し、之に 溶し又は之を服すれば諸病に効験ありとて顧地山通
拝 者 盆、繁盛を極 む。

天皇 一日 雲 遍 に勅し て、行満 寺より雲切 如来 を皇城藤原 の 宮 に 遷 さしめ、以 て 守


護備となきしめ給ふ、雲切如来は管て日本武奪が東海に雲を切り分けて顕はれ
まし ましし碑像 を石 に描き置 かれしを、厩 戸皇子、更に 之 を紙 に寛 させ 給 ひて、行満
寺 に安置 せ られし もの なり。
第 二 章 阿 祀山 太碑宮 -
三四九
碑 皇 紀 三五○
元明 天皇和銅二 己西年、役 小角、再び行満 寺に入り行 を修す。小角初め持統天皇
六己未年同寺に来り行を修し明近に一宇を建立して小角 堂と名づけしが今や復
た入りて行 を修し、尋て 桂水 山 に還る。共 附近の白蓮 満 尻なる菅原 の大塚に、大蜘
妹の妖霊常に現はれ王民を害しけるものあるを聞きどを封して篠原 塚と襲す
抑も 菅原 の 大塚は、紳 代 より、阿 祀谷 に於ける 顧 地 山 観望唯一 の 勝地 と稲 す。即ち
國 狭 植 奪は、常に比 塚 に て 顧地山 に向 ひ て 碑祀 碑宗 を 遥拝ましまし しといふ。爾
来、天碑地祇より碑武天皇を初め 太碑宮御 親祭の列聖 に至るまで 執れも皆 な比塚
より、顧地山 を遥拝まし ましにき。後、日本武奪東夷 征討の途次、阿祀 谷 に入らせ給
ふ や、赤先づ、N より通拝 まし ましけり。然るに、鷹碑 天皇の御宇 に至り、共大塚 の
業中に大 蜘蛛 棲息し て 常に通拝に 来れる人々 を害しけり。則ち 潮く途 に通 拝者
社 絶する に至り にき。大山 守皇子、乃ち 一策 を設け、大塚 を破壊し て之 を退治し給
ふ。然るに 爾来、共 妖霊常に、相現れ、又 赤、土 氏 を害し来れり。今や、役 小角、之 を聞き、共
妖霊を封じ、共 大塚 を修垣塚と 稲し、法従 を張り、忌辰 を修す。是より、共 害 なく、顧地
山 通拝者赤 繁盛を極む。共顧地山を 遥拝 すべき塚 なるに由り、一に之を顧 地見塚
と いひ、附近 一帯を 顧地見地 といふ。後、小角は、行満寺の出張寺を 相模 郷 に創立 し
て、又 諸人を所 願 せり。世に、之を 救 願寺 と ぞ稲しける。共都留 郷 より出張 するを
以て共所在を都留島といふ。(㎞)
第四期 富士 八流
第十七 延 暦の 大 噴火
桓武 天皇延 暦二 発 玄年六 月十五 日、大奉幣使藤原種継、顧地 山元宮 七 廟物 名 小室
先現太 碑宮、並 に 山宮 先 現 碑 赴 に 下 向 せら る。
同十九 康辰年四 月、顧地 山八方数十箇所 より噴火し、溶岩熱 泥劇しく噴出 し、顧 地
山 二十里 四方 一 物 を除 さず、成な焼け 埋まり、阿 祀谷 元宮 の 先現太 碑宮焼失し、山宮
の先現碑 赴 四十除 史下にぞ焼け埋まれける。初め三 月八 日、暴風雨に て顧地山大
に荒れ、爾来、三十日 除暴風雨打 績き、四 月八 日 九日 に 至り、一大劇震 と共に、顧地 山八
方 より 溶岩熱泥 押出し、二 十里 四方山間 渓谷 より、人家 初め 碑 軌 備閣に至る まで 溶
岩熱泥 成は 押入り、或は 押 被り怒 ち鍵し て溶岩満流 尾世界となり ぬ。人畜焼死算
第二章 阿祀 山 太碑宮 三五一
碑 皇 紀 三五二
なし。諸山は 赤 娘山 となり各湖 執れも溶岩熱泥 押 入り魚類悪く死して 浮き上り
ぬ。宇都峰 高座 山 の 尾崎も 格岩熱泥 押被り、小室澤 一湖水 に鍵し 寒川の 河身高上
して横溢し村落 執 れも 成は溶岩 にて 理 没し或は熱泥 にて焼け失せ 住民多く焼死
し たり けり、然れ ども場所 の よき地 に住居しけるもの は 幸 に甲斐・雨 毛・武蔵・下総・
相模・伊豆 駿河・遠江・三河・尾張・信濃 越後等 に そ逃げ延びける。史上 に所請自 三月十
四 日 逸 四月十八 日 富士山 嶺自焼書 則畑気暗 腹 夜則 火光照 天共撃若 雷火 下 如 雨、山

是 より先 延 暦十九年二 月十五 日 顧地山阿 祀谷 小室・中室・大室より太碑宮 の 大宮


司 初め 諸碑官 の 一族巻属三百 四十九人は、伊勢皇太 碑宮 の参詣をな さむとて、先現


太神宮の留守宮伴を宮守太田眞長羽田宗治並に別常行満寺丹波丹治等に託して

出発 せり。然るに、三 月八日より、暴風雨荒れ初め、爾来 打績き、四月八 日九 日 に至り、


大劇 震 と同時に 噴火 し たり。別常 丹治は、赴 家 小菅政長 と共に、相模 國 高座郡 尾
木野 に 逃げ延び ぬ。留守宮 伴太田 眞長、初田 宗治は積 日 の 暴風雨 に萬 一 の 危害あ
らむ ことを慮り、太 碑宮を初め各七廟 の 御碑 霊、御質物初め 種々 の 碑器 祭具を牧集
し て、穴蔵の資庫 に納 置し奉りつ 、ありし に怒ち 天地も割れ崩れ むかと思ふ 一大
音響は 百雷劇震の 一度に来れるよりも甚しく顧地山八方より、一度に噴火したり
けり。雨宮 守、且つ 驚き、且つ 標 き、倉皇穴蔵 を厳 に閉鎖し、覚えず、家 基懸 峠を越し、頻
りに落ち 延び て、相模 河原 の奥 の 深山 に逃れ、夢中 に湖水 に投入し て、水草 を首 に載
きつ \、種々 防備 を 霊 し て、一身 を 全 うし、鳥獣魚 初め、諸種の焼死 物 を 拾 牧し て、潮 く
太田 眞長は、應仁 天皇の 御子根 鳥皇子二 十五世 の 孫 なり。皇子 が、太 碑宮 の 農作
及 祭典 司 長 と なら せ 給 ひし より、子孫代々 共職 を 承継 し て 旨共長 に至れ り。羽田 宗
治は武内宿禰の嫡子羽田矢代宿禰二十九世の孫なり。矢代宿禰が同副司長とな
り子孫赤代々共職を承継して宗治に至れるものなり (㎞)共略請。
(㎞。『)を見んに
魔仁天皇ー悲B 皇子 』
L府 田彦ー 佐 彦ー加 彦ー政 仁彦ー

第 章 阿 祀山 太 碑宮 三五三
-
十二 十三
「 * 眞木 彦 が沼田彦
*口か 山 *口
十五 十六 十七 十八
流 男 松根 男 綱男 綱 力 男ー
十九 二十 二十一 二十二 二十三
高 夜 男ー柏 根 男ー千 久男ー本武麻 呂
二十四 二十五
==
二十六
ー貞 田 暦 大山 暦ー眞 長男
武内 』 田矢代シー 面㎞』
「 回 』 知彦ー

小田眞彦 が 島 * 信田 眞男ー鶴田 男ー

ー察 良彦
十四
彦Fi

十八 十 『 』

シ口シ口 二十二
-
二十三

日 高 彦
二十四 -
㎞ 拝* 活セ シ
シーシーシー 、田 *ー ㎞
第十八 太碑宮勅使検察
i}』、1』
甲斐 國司 橘 朝臣 安 磨は、急使 を以て、顧地 山大噴火、並 に太 碑宮 焼失 の 事を 闘 下 に
以聞す。等て駿河相模の雨園司より交 々赤顧地山の鍵事を以聞し奉る。是より
先 太碑宮の大宮司 副 司 初め 諸碑宮の 一族 春属三百 四十九人は、二 月十五 日阿 祀谷
* を出発 し伊勢國に至り 先づ二見 ヶ浦に出で顧地山を遥拝し進みて天照皇太碑 豊
二 受大碑の雨宮 に詣でけり。乃ち 一行更に新都 の名所 奮跡も訪れむもの をとて、覚
に平安城下 に韓 じ、諸所見物し居 たりしに偶。國司 より、顧地山大噴火を以聞し奉る
や朝廷震駿 都 下騒然たり。大宮司以下三百除人、之を耳 にして皆な色を失ふ。天

皇、いと 感然に思召 され 廷議の末 先づ三百除人の保護を命ぜ させ給 ふ。翌年六月

期日、従四位上征夷大将軍坂上田村暦を大使となし、正五位 上百済 俊哲 従四位 下多


治 比演成を副使と なし て顧地山 噴火の被害を検察せしめらる。且つ最澄 上人 に


巻 勅し て人畜 を初め鳥魚草木 に至るまで、共焼死しけるもの 、供養をなさしめらる。
勅使等、共に興 に発す。三百除人之 が響導たり。十五 日 阿祀谷 小室 に着し ぬ。最
澄 上人は先づ 行満 寺の焼跡 を相し、焼木 を集め 一宇 堂を再建し、寺跳 を改め、不二山
延暦寺と競す。乃ち、穴蔵の質庫より 聖徳太子自書像と 奏徐顧の斎 らし家れる薬
第 二章 阿 祀 山 大碑宮 三五五
-
碑 皇 紀 三五六
師如来の像とを取出す。即ち薬師如来を正面に安置し 天皇より賜はりし雲切如
来 と、聖徳 太子の 像 とを左右 に掛け奉り、大 に法鍵を張り、以 て焼死しける もの 、供
養 を なし 給 ふ。又、行満 寺 の 出張 寺 なる都留島 の 救願 寺 に於 て、赤 同じく供養をなし、
寺 競 を 改め、本郷 山 質 正寺 と そ跳 しける。
勅使は、大宮司 宮下源太夫元秀副司金子國太夫政明 副司井出 弾正 亮明治等を響
導として、太碑宮初め、顧地山八方の澤 々谷 々 の被害を検察し給 ふ。
則ち、太碑宮を初め七廟中 顧地八幡大碑・宮守碑赴 寺 燈大明碑を初め諸碑赴 撮赴・
枝耐 末赴 百二十除赴焼失し、宮守赴家六百三十六家焼絶し 顧地山陰の東海道赤 数
十丈下 に埋没 したりけり。宇宙湖は溶岩熱泥中央 に申入し て南北二 湖 に分れ、
寒川熱泥押入り河身高上横溢し、宇宙峰高座山の尾崎は溶岩熱泥押被り、小室澤は、
七廟中加茂山の山守碑赴前南なる亀池 より、無戸室の古跡なる笠砂の小島に至る
まで、一面 の湖水と鍵しけり。又、刻の 湖、二分の 一を失ひ、太田原に、二 里に 一里除の
新湖( ㎞)現出し太田川埋没し 御舟湖熱泥押入り三分の 一とそなりにける。面し
て、顧地山北東大澤即ち太碑宮鎮座地なる甲斐國都留 郡 都留郷 の内阿祀 見郷加吉
譚-東 吉田・中吉田・西 吉田・日向・松山・川久保、並 に、顧地 郷の内、太田川 郷川 日 購・西山・大山・
大原上山・上手・中手・下手・元 作・浅川・廣里 天碑 碑原水 日 郷水市購 宇宙 野等、凡 て 戸数千
六百除 戸 人日五千四百除人。顧地山北西大澤 即ち元甲斐園分北村郷の内 北村 村
本古闘大鳥居温古 ㎞)大磯 佐野並に皆川郷の内背川 河内 清澤向志川宮原山宮等

凡て戸数五百除 戸 人日千五百除人。顧地山西南大澤 即ち駿河園顧地郡上郷の内、


井出 御原 高野ェ 大塚 北山水澤郷水久保騒 和子森島 空下松岡郷岩本県立に下郷


の内玉野池久志 川久保 加島(㎞)瀬古津ェ加中野三津澤(㎞)鈴本山本郷顧

地川騒 編島田子柏原 松本古里大下等、兄て戸数千百八十九戸人日三千六百七十八



*。

人。地山東南大澤 師ち駿河園駿河郡上郷の内顧住 顧地 住山 碑山中山 泰野 日向


紳代等 九て戸数二百七十三戸 人日七百二十除人。同下郷の内古澤郷駿河撃を崎


横走大久保ェ野元郷足柄県 小菅澤 深谷 碑山 鈴木 和泉大泉原 顧岡合高 豊本 金子古
屋 天利等 九て戸数千五百除戸 人日三千二百除人、悪く焼絶したりけり。
又 編地山南面は燃 岩熱泥押出し合高山にて岐れ駿河郡と顧地郡との雨澤に押
入り編地郡は三原 古都加島原尻まで押流し駿河郡は南澤にては佐野原 居住 司間
第 二章 阿 祀 山大 碑 宮 三五七
シ シ
碑 皇紀 三五八
田原 逸 東古澤 に ては、竹 の 本 まで 押 流し ぬ。顧地 山東面は、太碑 宮鎮座地 に押出し、
加吉騒 座見 相模 田原宮原田座を経て駒澤(㎞)まで押流しぬ。面して顧地山八
面に噴火日七十二箇所現はれにけり。(㎞)
第十九 太碑宮三分 赴
延暦二十辛 己年七月十 四日 太碑宮の 碑 官 等三 百除人は、勅使 征夷 大将軍坂上田
村 暦 の意に従ひ、顧地 山行満寺の出張寺たる相模川 の東 漫 即ち東相模 國 高座 郡早
女郷岡田原 の 安楽寺 を便りて共地 に移住したりけり。

三百 除人 の 種別は 即ち大宮司 宮下源太夫元秀春属百十 一人。元秀は、大山 守皇


子の第 一王子源太夫明政二 十五世 の 孫にし て前大宮司宮下顧地記太夫元村の 第


二十七子なり。副司金子國太夫政明春属二十四人。政明は、大山 守皇子の第二王

子田 宿伯 二十六世 の 孫なり。副 司井出 弾正亮明治春属十五人。明治は 大山 守皇


子 の第三 王子、畑志津治二十七世の 孫 なり。宮守頭鈴木 喜平太清定春属十三人。
清 定は、月夜見命 七十二 世の 孫 阿 祀彦王の 二子、阿 志長男二 十八世の後胤 なり。宮
守副頭天利小 膳太明仲春属十三人。明仲は天別天火明命の後胤にして尾張國造

建稲 種命の弟 田稲 弾命二十六世の孫なり。副宮守司 皆川小 仁多清泉 春属十四人。


清泉は 作田彦命の後胤にし て佐田彦命二十五世の孫なり。宮守司惣元司本郷清
太兵軍政 春属二十人。軍政は、武響 植 命の 後胤にし て、加志 彦良二十七世の 孫なり。
宮守 司 副元司大 住建太夫 訪敬 春属十八人。訪敬は、建御名 方命 の 後胤 にし て、諏訪
彦良命二十五世の孫なり、宮守司副元司生澤太玉夫仲秋春属十二人。他秋は天

太 玉 命 の 後胤 にし て、安房 田 彦命二 十五世の遠 孫なり。惣 赴 家 取締頭原平 太夫道


弘 春属十五人。道弘は 前 玉 命 の 後胤 にし て、武 線 彦男命二 十四世 の 孫なり。惣 赴

家 副 取締役 杉崎 稚 太夫元晴春属十五 人。元 晴は、稚武王命 の 後胤 にし て江奈 長彦


命二 十五世 の 孫なり。赴家 惣 取扱役古屋牛太夫春信 春属二 十人。春信 は天 見屋


根 命の遠孫 なり。赴家 副 取扱 役 小菅 右 馬夫駒 尾春属二 十人。駒 尾は、大 己貴命 の


後胤 にし て、経津 志良 男 命二 十六世 の 孫 なり。碑事宮守頭北村豊城男佐家春属十


一人。佐家は豊城入彦命の後胤にし て津身佐男命二十五世の孫なり。碑子取扱
役 顧 岡萬 七 太 徐 教 春属二十八人。徐 教は、秦徐 顧 七世 の嫡孫 秦顧岡二 十四 世の 孫
なり。執 れ も、岡田 原 の 各所 に散在し て 居住し にけり。
第二 章 阿 祀 山大 碑 宮 三五九
シ *
* 『 ---* ***
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碑 皇紀
三六○
翌十五日 顧地阿祀谷天っ碑 園っ碑 八百萬碑の大祭を行ひ焼死者の供養を行ふ。
供養は宮守赴家六百三十六家絶えにし共焼死者の霊を慰し大祭は阿祀谷諸碑赴
揺記 校赴末赴百二十赴焼失せし碑祇を慰めむとするものなり。比地方は往古大
山守皇子 の奮領地なりしかは國中の人々顧地山の碑 々 天降れりとて集り来り碑
事を助く。乃ち先づ顧地山より焼残れる遺骸器物を牧拾し来り 納めて大塚を築
き大祭を行ふ。時に九月十九日にして勅使途に西に還りぬ。
翌二十一千 年年正月宮殿を造営して顧地山小室元宮七廟惣名先現太碑宮より

編 地八幡大碑 即ち寒川大明碑を分ち移し祀る。第一園狭樋命第二寒川里古命設

大山祇命 空川里女命説別雷命第三阿田都菊里昆女奪説木花咲耶昆女奪第四撃 田

別シ女命を祭神となし。即ち顧地山東本宮変川碑赴足なり。五月五日


* *を行ふ。大日本第一の碑山風地山より移し祀りませる宮なるに由り共地を
紳山村 と名づく。後、早女郷を寒川郷とし碑山村を宮山村と改めき。
足ょり先、分赴 山宮先現碑赴の宮司顧地又八 良元宮鷹は延暦大噴火の際 難を甲
斐園八代郡と山梨郡 との合の中山 に避く。後共地の豪族古屋彦九良の養子とな
り 古屋元 太夫と稲 す。弟大宮磨は 赤難を験河園 顧 地郡岩本澤に避く。偶、一夜、兄
弟共に 先現太碑の碑 勅を夢む。乃ち 兄元宮暦は、山梨 郡と八代郡との 合の 中山 の
東山に 宮殿を造営して先現太碑を分ち移し祀る。比の山を 砕部山と名づく。即
ち顧地山北本宮 碑部山浅間碑軌 足なり。弟大宮鷹は 顧地 山西北の 合の裾野なる
顧地郡上野御原 に 宮殿を造営して、先現太碑を分ち移し 祀る。共地を新山宮村と
名づく。延暦二十辛巳年顧地郡大領和通部豊魔は、一女の配偶として大宮暦を養
子 と なし、且つ富 知碑軌 の池畔 に 先現太 碑 の 新宮を遷宮し奉る。即ち 顧地山 表 本

宮浅間碑 赴 是なり。表 本宮 より元宮の太碑宮まで十五里に て北本宮 より十 一里


東本宮 より二 十五 里と す。

延暦二十一壬午年三月三日、征夷大将軍従三位坂上田村磨を大使として、従 四

位 下多 治演成を副 使として、大噴火 に て 埋没 せ し 奮東海道を改築 せしめ らる。抑


も、奮東海道、顧地川よりの 輝 次は、松岡郷 の 岩本輝・山本郷 の 顧地川輝・水澤郷 の 端
シ)久保騒(㎞)を経て山宮村に達し之より太田川郷の
見郷の加吉都騒 水日郷の水市騎 ㎞)古澤郷の駿河㎞野元郷(㎞
第 二章 阿祀 山 太碑宮 三六一



より
河原
相模












都留山ち留ち せ
即しめら
。る 支し





分國
都甲斐
な地
鎮宮
なと

太稀跡



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割留る座薄 ㎞
(

たり
られ
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こと




足出
で道て

しめる柄路 、


登西山
を 足柄
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。 せ

として
奉行
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り麓にちむ )



(
な也



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そを


箱まで
山 模上る通根 月、
よ二
五日


即拓

三き漫




山合
見を
高裾



末り通し
ちぬ原麓野 合

沿に
て河

よ地

即開

顧を











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底遣やる没 足の柄
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荒、

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より
河原
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)
(

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火のり 碑





岩流 流是德文中國 加味 す東南を 相模 國 都 人非部をし て支配 を しめ 及 其他 會 た
降 より 北 克 國 四根 り西北 を 中 美國 山梨 部 を し て支配 を しめ 結ぶ。 是 上り 本 神宮
は 都留 郡 の 銀座 なれ とも、八代 郡 の 支配 と なれる を以て、後世 太 神宮 を ハ代 郡 の 鎮
座 の 如く な せる もの 赤 發 から ず、三 大賞 線・日本 記 略·維高 式並 に 古 文書 等 是 なり。
類 科 醫師 體 轉載 體 裁撤 職種體 智慧 型 電動 轉 職 。)
大宮 町、种 部 記、國 都 記、式 內 設、大山 守則、速 自 聖、甲斐 站º
第二十 11 斯 四 神
平城 天皇 大同 元 天成 年 六 月 一 日、加密 使 版 上 田村 顾 は、甲斐 國司 正田 王 を 従 /
#

仙山 を 越 《 阿 祖 公 小室 に 下 向 % 2 公 。 太田 真 長 を以て、八代 郡 の 大 領 に 任じ、初田
È

宗治 を以て、副 領 に 任じ 始 よ。 文武司 に 命じ、阿 祖 公元 有 七 娘 惹名 小室 先 現 太 神宮


ż

中 大 唐 大 に て 焼失 しける福地 人權 大 神宮寺 神社・車 從 大明神 天 照 自基本 神 の 四 福 を


再興 しめ られT三國 第 一 山 の 初期 を 期 が 正 11 位 一般 可 を 授け ら る、而 し て 放 長 を
神宮 の 説 に 完治 を 離宮 に 任じ 名 也 應,並 に 動 領 の 守護 を 命ぜ ら る。 日 大牌 大 に
其 能 く 太 神宮 を 護 作 しける 効 に 依附 人 に 各 建 を 作 正 と 開 。 更に 相 機関 本州
神社 の 神 作 有 下記 太夫 与 元 を以て、太 种 常 の 大宮司 と なし、七 府中 宮寺 神社・山 守则
第 1] ↑ ॥ E * 動; 它 三大 三
-
碑 皇 紀 三六四
赴 編地八幡大神の宮守を命じ甲斐園碑部山浅間碑赴の碑官古屋元太夫元宮鷹を
以て副司となし天照皇太碑主華盤大明碑 根野碑赴 座 大明碑の 宮守を命じ、都留 島
の資正寺を以て別常となし給 ふ。 尋 て顧地山を富士山と改め給ふ。共勅定状は、

大政官藤状
使観察使従三位上守坂上田村魔
従五位上行玄藩頭藤原朝臣千引

従五位下守大和 守藤原朝臣永貞

貸國政顧地山高天原元赴七大碑再興勅定之事。

一幣司 授正二位 尾事、


七赴大碑之宮 皆再創立致事。
顧地山尾富士山登 改稲事。
右修 々 勤定観ロ之聴使検校、一状謹致追状口農。
大同 元 年六 月三 日 勅 定
観察使 従 三 位 上
征夷大将軍長に旧村属冠
甲斐國 山 背 郡 阿 祀 谷 鎮座

富士山元宮 七赴 太碑宮宮守
二宮 下記太夫 仁元
編 富士山 元宮七太碑 敬白

) 大宮司宮下記太夫仁元は大山守皇子二十七世の孫にして前大宮司宮下源太夫
。元秀の長子なり、副司古屋元太夫元宮魔は集料別皇子二十九世の孫にして前別
* 司衆分赴山宮宮司顧地又八良宗晴の長子なり。先に難を免れて甲斐園山梨郡と
* 八代郡との合の中山に避け古屋彦九郎の養子となれるに由り古屋元太夫正彦と
稲しぬ。別常資正寺住は丹波丹治にして大山祇命の後胤なり。噴火前まで顧地
山行満寺の住にして太碑宮の別常たりしが先に難を免れて相模園の山中に避け
後 資正寺の住 となり今や、赤 太碑宮の別常とぞなりにける。
第二章 阿 祀 山大 碑 宮 三六五
碑 皇 紀 三六六
、雨宮司は加吉谷の古谷なる小原の日向の左右に、各館を造営して大宮司即ち寒
川碑官の館を大多和の館と名づけ 副司即ち碑部山碑官の館 を古原長江館 と名づ
け共二箇所に於て各指任する所の碑赴に奉仕せり。故に世に太碑宮を一に二所

明碑といひ 又は二所七廟明碑といふ。面して富士山東本宮寒川碑赴 富士山北本


宮碑部山浅間碑赴 富士山表本宮大宮浅間碑赴の奥の院とぞ定めける。是より 太
碑 宮即ち二所明碑を山宮と稲し三本宮を里宮と稲しぬ。寒川及碑部山の雨碑官

は別常質正寺と共に毎年六月 一日より八月十五日まで山宮に出張して二所明碑

に奉仕 せり。

大同二 丁玄年六月十二日 勅使坂上田村暦は空海上人と共に阿祀谷に下向、乃ち


太碑宮の前坂 に二王門を創立し 峠に鳥居を建設し、平城天皇の三國第 一山 の勅額


を掲げ奉らる。又、仁王門に空海上人自作の仁王奪を安置し奉らる。供養として
役小角の奮跡たる小角堂焼跡に、一宇堂を建立して古原山萬蔵 寺と競 す。徐顧の
斎 らし来れる薬師 如来 に模倣して三鶴同一 に刻み、之 を本奪 として、安置し奉らる。
之を富士三薬師 と稲す。又 延暦寺の裏なる行満寺開山、日羅の開山堂を再興して
小室山千毒院と競 す。阿祀山峠 に阿 弾陀堂を創立して雲切如来 を安置し奉らる。
文徳 天皇仁 毒三発 西年五 月五 日、大納言源 信之 を 勅使として富士山 元宮 の 七 廟
即ち太碑宮に従一位を授け大赴競をそ賜はりける(㎞ ㎞ ㎞

『)常時の勅状は、

道康天皇 文徳天皇)

左大臣 清 常 花押)

右大臣 良 房(花押)
之 勅
巻 貸天下泰平五穀成就也富士山元宮七赴明碑 想名先現碑赴仁、
賜従一位大 赴 跳。
仁 毒 三 西 年五 月 五 日
勅使大納言源 信之 花押)
第 二 章 阿祀山大碑宮 三六七
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碑 皇 紀 -
三六八
甲斐 國 山 背 郡 阿 祀谷鎮座
富士山 元宮 七 赴明 碑
大宮司 宮下記 太夫仁元
第二十 一 貞観の大噴火
清和天皇貞観六甲申年五月 一日乃至三日 暴風雨 大 雷電、黒畑劇噴。五日の朝、一大
劇震と共に、富士山 西 の 峰 に 織 火現 る。甲斐駿河 雨國民、大 に恐怖 し て人 心胸 々 た

り。八代郡大領無位伴安貞 男伴旨共貞は、元宮 七廟中 宮守碑赴 顧地八幡大碑 山守碑


赴 の 碑託 に従 ひ、太 碑 宮 の 大宮司 を相模 國 寒川 碑 赴 より、並 に太 碑 宮 の 副 司 を甲斐


國 碑部 山浅間 碑 赴 より 招き、仁王坂 麓 の 要害堅固 なる所 願 所 に於 て 鎮火 の所願をな


さ しむ。偶、一大音響と共に途に西 の峰 より噴火し到 の 湖 格 岩熱泥数十町、深さ三


丈 除 押込み、三湖 に分れ、魚 驚 悪く 死す。甲斐 國司 橘 末茂、急使 を以て 事の 由を京師
に以 聞 す。然るに 又、六 月九日乃至十三日朝 復 び 溶岩熱泥 押流し 御舟湖、遂に 一町
に八十間を除し 埋没し尚 ほ 御舟山を包園し て押流 る。共天地も 一時に崩れ んず
1
る夫書 にシして用意の次 に置ルgると三** *シ
として百雷の一時に鳴り渡れるが如く七月下旬に至るまで西北十三ヶ所より噴
火 したりけり。是より先、延 暦の 大噴火 に開きし甲斐 國より太碑宮 に通ずる御古
峠 も赤 閉塞 しける に因り、更に道 祀 山 に 通路 を開き ぬ。比道祀 山は、三 つの峠 より成
れるに因り、一 に三津 峠、又は 三坂と稲 せし が 今や 噴火の貸め に 又 閉塞せられけり。
八 月三 日、勅使藤原 氏 宗、富士山 表 本宮大宮 浅間碑赴 に下向 し て 目 く、今度 の 噴火

は案ずるに全く碑官の不動不敬の然らしむる所 宣しく鎮謝して所願すべし。と

更に勅使は富士川通を上り甲斐國に下向したり。五日 國司橘末茂に下知して目

く駿河富士山 火、彼 國言上、決 之 著亀 云、浅間名 碑 禰宜 祀等、不、動 斉敬之 致也例應 鎮謝


。之

(㎞)と園司應 へ て目く富士山の噴火今や鎮まれり請ふ就きて検案せらる

べし。と乃ち八代郡擬大領無位伴眞貞に命じ同副領伴秋吉を鶴導として笹子峠
より 千箇坂 を越え 相模 河原 より 家基 懸 峠を越え、八 日、阿 祀谷 小室 なる所 願所 の 小
屋場に着し給ふ。
九 日 勅使は熱都山 笠 砂の尾崎峰なる幸盤明 碑大赴 の境内 に於 て検察し給 ふ。
第 二章 阿祀山 太碑宮 三六九
*
* #* -* i ji」

シ 草 紀 三七○
則ち北方は御舟湖溶岩熱泥押込み御舟山は之に包園せらけり。偶。検察中御舟山
頂に、一宮殿通に現れつるを認む。即ち垣有四偶 以 月青石 立共四面 石高 一丈八尺許、
廣三尺厚一尺除立石之門相去一尺中有一重高閣以石構造彩色美麗不可 勝言(㎞
㎞)査し阿祀谷小室中室大室に鎮まりませる碑々の現し給ふ宮殿ならむ。とて
勅使初め一同 覚えず通拝し奉れり。又西の方を見渡せば三坂澤の新湖( ㎞)
は、三津峠山の中尾崎山薩まで燃岩押込み 共面積判然せざるも平野約百 四五十町
除ありけむ。面して共西刻の湖を理むること千町許(㎞。岩石世界に鍵じ
たりけるを検察して途 に京師 にぞ 騎りける。後九月九日 に至り 御舟 山頂 に 碑 々
の現しましませる宮殿は消え失せにけり。是より 太碑宮の祭日を 九月九 日 と改
め 給 ふ。
常時 の 勅状は、
惟仁天皇清和天皇
太政大臣 藤原 良 房(花押)
1
左大臣 城 闇 之《花押)
右大臣 際 原 定 相(花押)
動命
像 今度 中 表 該 河 兩 國民 仍 里高士 出 大 唐 大致 上 開庭
11 除 安 得 留 に、全 人 神官 之 不動 不 敵 之 故 等 亦 無 路 所 也 普 瓦 底 火线 是 情 日、無 條
編 * u要 研製 時飛車人猿*
貞觀 六 中 年 八 月 十 日動 命
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勒 使 大納言 葉原 氏宗 阿
È

甲斐 國司 被 水 成
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同 國 八代 郡 阿 骨科 教 座
卷 富士 元 有 先 現 太 神 大社
神官中
其親 A J 西 年 七 月 十 一 日 就 使 大納言 葉原 氏宗 文中 美國 に 下 向 し て、國司 被 水 成
第 11 E 小 動 售 三七
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碑 皇 紀 三七二
に宣 へ て 目く八代郡 の 郡家 の南に鎮り ます浅間明碑 即ち富士七廟 先現太碑宮中、
宮守碑赴・幸澄明碑大 赴・顧 地八幡大碑は、昨年の噴火 にて焼失せし が、共常時 御舟山
頂に、碑 々 の 現し 給 ひし 如き宮殿を再造営すべ し。と共 勅状は、


ニ 惟 仁 天皇(清和 天皇)
-
編 太 政 大臣 藤原 長 房(花押)
1 左大臣 源 信之花押

右大臣 藤原 良相(花押)

勅、
昨年、焼失致 志多留七赴 の内三 赴 の宮者、噴火 乃際 富士大碑 乃 賜現志 通仁 再
巻 興 創立 致事尾勅 ス。
-
貞観 七西年七 月十三 日
〜”・。
-
勅使大納言藤原 氏宗 花押
「」
甲斐 國 八代郡 阿 曾谷鎮座
“「。 日
富士七赴先現太碑
*

大宮司 宮 下記 太夫 明政
惣宮守 中
ニ 國司勅を奉じ宮殿を再興創立し十一月二十七日 功を闘下に以聞し奉る。乃ち
十二 月九 日 従 五位藤原朝臣安 麻 呂 従 五位下藤原 賞 朝を勅使 として 下向 せしめ、太
碑宮 なる浅間明 碑 に 正 一位 一幣 司 を賜 ひ、再び 官 赴 に列 せら る。史上 に所 請、貞観
* 七年十二 月九日、内辰 勅 甲斐 國 八代郡 立 浅間明碑 嗣 列 於官赴 云々、斎祭 奪預 官赴 従、

之足なり。(請 ㎞ 転 )
之 共 勅 状 は、

勅定
:て 太政 大臣 藤原 良 房 花押)
左大臣 源 信之(花押)
第二 章 阿 祀 山 太碑宮 三七三
Hりー 『ー =ー上シ=
三七四
碑 皇 紀
右大臣 藤原良相花押)
勅命
昨年噴火仁熱湯火熱仁面 致焼死太留富士根本三赴 碑元宮尾昨年噴火際、
富士太碑方之給現志宮殿之通再造営致事明良成留事
二 一例面富士根元七赴惣名先現名碑浅間大赴仁授正一位、一審司足シ
命尾再度列官赴 者也。
勅定貞観七年十二月九日
勅使従五位下藤原朝臣安麻呂花押)

同 従五位下藤原朝臣 眞朝 花押
甲斐國司従五位 下岳田王
富士山宮守司宮下記太夫明政
富士山宮守副司古屋彦太夫政信
富士山元宮浅間 大赴
七赴 先 現 明 碑 大赴 敬白
〜〜〜〜〜()
又、八代郡大領伴具貞を以て、太碑宮の祀に任じ、同副領伴秋吉を以て同 禰宜に任
じ 給ふ。是より先、眞貞託宣 云、我浅間 明碑 欲 得 比 國斎祭 頃年貸 國 更 成 凶 各 貸 百姓 病
死 然未曾豊悟例成 比推須早定碑赴 奪任祀禰宜潔奉祭共長之身或伸可入尺 成屈可
二 尺 鍵鶴長短 吐 件等詞 國司求之ト策 所 告同 於託宣 於、是依 碑明願 以量 貞 貸 祀同郡
人伴秋吉貸顧宜(㎞) 足に至て勅使等 十四日滞在して京師に還らせ給ふ。
基貞は太田伴真長の嫡孫にして前大領伴長太夫安貞の長子なり。秋吉は羽田伴

宗治の曾孫にして前副領伴元太夫春吉の長子なり。春吉の父を宗市といひ 宗市

の 父は即ち宗治是 なり。

二十 日甲斐 國 山梨 郡碑部 山浅間碑 赴 に於て、甲斐惣國民の 大祭典を行はしめ給ふ。


史上に所請令 甲斐園 松 山梨郡 致 祭浅間 明碑 一同八代郡。(㎞)足なり。即ち、


山梨郡 の浅間明碑 と、八代郡 の浅間明碑 との匿 別を示せり。即ち 山梨郡 の浅間明碑
は、里宮 なる富士山 北本宮碑部 山 浅間碑赴 にし て、八代郡 の浅間明 碑は 山宮なる富
士山元宮七廟惣名浅間太碑宮なり。里宮は後共鎮座地の八代郡となれるを以て、里
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三七五
碑 皇紀 三七六
宮山宮、共に同一郡となれり。故に史上斯く匿別あるに拘らず後世過 つて里宮山
宮を混同するに至れり。面して常時山宮なる太碑宮は噴火中なりしを以て斯く
碑部山の里宮に於て甲斐園惣園民の大祭典を行はしめ給ひしものなり
十成子年六月太碑宮より加古坂向の平野なる新富士に道路を拓く。比新富士

は延暦十九年の大噴火のとき演出しける新山なりしも延暦二十二年末に至るま
で、黒雲暗黒にて見えざりしに、二十二年末に至りて、黒雲初めて晴れたりしかば、相
耐 。

模 駿河の雨國民 之を務見して京師に以聞す。世にNを新富士と稲す。今や太碑
宮 より 道路 を開通 するに 至れり。

抑も、太古 より、太碑宮の天 つ大御碑の碑霊を慰せむとて、延暦大噴火前は、碑代よ


り鳴澤、又は御座野 高座山峰 に於て 諸碑 歌舞音曲等を演じ給 ひしに因り、爾来、顧 宜


祀等之を襲踏し来 り、且つ篠垣塚 にて富士山を遥拝 せしものなり。然るに、本年よ


り、新富士 にて歌舞音曲等を演じ、加後坂 にて遥拝
にて する事となれり。太碑宮より加後
坂まで百四十六町なりとそ。(㎞)
第二 十一一 太 碑宗呂 改 稲
貞観十二度質年七月富士山中央より噴火したりしも 太碑宮に何等被害なかり
き。同十七乙未 年十 一月 五 日、富士山表 の峰 に於 て、白衣 美女舞 遊ましましし と て、
表 本宮大宮 浅間碑赴 の 大祭 日 と定め させ 給 ふ。
醍醐 天皇延喜 七 丁卵年 五 月十八 日、従五位 上 紀貫之 を 勅使 として、太碑宮 に太 政
大碑を授けさせ給 ふ。常時の大宮司は宮下富士記太夫明照と稲し大山守皇子三
十二世 の 孫 にし て、大 日本三大宮司 の 一なり。共太碑 宮 に 賜はりし 勅状 は、

左大臣 藤原時 平(花押)


右大臣 源 光行 花押)

従四位 上 三善清行(花押)

従 四位 上 小野道風(花押)
従四位 下 藤原 佐理(花押)
従四位 下 藤原 行成(花押)
勅定
第二章 阿 祀山 太碑宮 三七七
碑 皇 紀 三七八
富士元宮七廟天赴先現 明碑仁、授 太政大碑 尾。
勅 延喜 七年五 月 十八 日
勅使 従五位 上 紀 貫之(花押)
甲斐 國 山背郡 阿 祀谷 鎮座
元 赴七 廟大赴先現 明 碑
大宮司富士 記太夫 明照

朱雀天皇承平二 壬辰年十月十三日、富士山峰 より八方に噴火し、溶岩焼石 大電にて


雨の 如く降下せし が、太 碑宮潮く焼失を免れしも、大宮浅間碑赴貸めに焼失したり。


天慶元 己玄年八 月、貞観六年の 大 噴火 に、御舟 山頂 に碑 の 現し 給 ひし 宮殿 に準じ、再


造営を なし ぬ。
村上 天皇天 暦 元丁 未年七 月七 日、近年富士山 噴火 度々 なるに因り、赤共危害あら
むことを恐れ、藤原千晴 管原文時に勅して、七廟中 宮守碑赴を顧地八幡太碑の東大
黒木の下なる日本武奪の奮跡に遷宮し奉らせらる。面して大同元年下し賜へる
平城天皇の勅額を再興し、更に空海上人作の仁王奪を再興あらせら。 又、太碑 宮
即ち七廟惣名先現太碑を阿座基明碑大赴と改稲せられ、尋て勅筆を ふ。 是 より
後世又、阿座基 浅間の文字を混用するに至れ り。 空也上人、勅使と共に来 り勅命の -
眞筆を賜ふ。常時の勅状 は、
〜(((((((()


闘白 大政 大臣 忠平(花押)
右 大 臣 藤原 質頼(花押)

勅定

富士山高天原元赴七大碑内宮守碑赴 祀地八幡太碑之東大黒木之下ョ本

武奪奮 跡仁移事。

平城天皇勅額 再興之事。
七赴大碑惣名先現太碑尾阿座基明碑大赴登改稲致事。
天 暦元未年七月七日
勅使 藤原 千晴 花押)
三七九
第二章 阿祀 山 太 碑宮
碑 皇 紀 三八C
右 少携 菅原 文時 花押)
賜 勅筆
甲斐 國八代 郡 阿 曾谷鎮座
富士山元宮先現明碑大赴宮司

宮下源 太夫 明信
碑..

天 暦六壬子年二月富士山峰より北東に噴火せしも 太紳宮に被害なかりき。
冷泉天皇安和二己巳年七月、源頼光主従太碑宮に詣で渡部綱道平城天皇の勅額

に書 副をなし ぬ。

一條天皇正暦四発 巳年八月富士山北東三書夜鳴動して遂に噴火せしも太碑宮

に被害 なかりき。
後 一條天皇寛仁元丁 己年九月、北方三ヶ所より噴火したり。斯く富士山度々の
噴火 にて 太碑宮の参詣者潮く跡を絶ち顔る衰微を来しぬ。同年十二月、大奉幣使藤
原秀忠下向せしも 噴火にて道路通せず 太碑宮へ奉幣し能はざるにより富士山表
本宮大宮浅間碑赴に奉幣して西に騎れり。足より大宮盆々盛大となれり。
白河天皇永保三発 玄 年七月、富士山七 ヶ所より噴火し、溶岩熱泥押流し 、も、是に
至て 富士山 途に消火 となれり。延暦の大噴火 より比噴火 まで、凡そ八度に及べり。
世に之を富士八流といふ。消火後伊豆の大島又噴火を始む。世に富士山の噴火
以上、
火 年代 記、浅間 記、大宮 記、宮司 記、
大島に移れりといへり。(㎞")
第五期 富士十二郷
耐。

- 第二十三 太碑宮の新宮伴

二條天皇平治元己卵年二月源氏の落人三浦上野守義顕等 京師より落ちて富士

谷東南の大澤の森林中に潜み居たりしが、翌年六月十五日、太碑宮の大宮司 即ち大

山守皇子 四十八世の 孫、宮下記太夫政仁 に発見 せ られ、義顕等、成な太碑宮 の宮 伴 に


ぞ採用 せ られける。
抑も三浦義顕は、源頼義の 曾孫 にし て 加茂二郎義綱の嫡孫 なり。頼義に三子 あ
り。八幡太郎義家、加茂二郎義綱新羅三郎義光是なり。
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三八一
碑 皇 紀 三八二
義綱 初め加茂明碑 に於 て 冠し、加茂二郎義綱と稲 す。常赴の宮司 を紀長貫 とい
ひ、紀貫之の曾孫なり。貫之 の長子武貫は、父の勘気 に鋼れ、加茂明碑宮司 の館 に寄
高し、途 に共 一女 菊江 に 配 せられ、共職を襲 ひ常 之 を生む。常之は、即ち長貫の父 な
り。長貫義綱と主従を約し、共家将と なる。義綱 奥州前九年後三年の功により、左衛
門 少尉に補せらる。天 仁元年陸奥守に任ぜられ 出羽の賊 平師砂を平けし功に依り、
従四 位上に叙せらる。同二 年、近江國甲賀山の役に佐渡に流 され、家将 長貫戦死し
ぬ。義綱の嫡子義明は源貸義に従 ひ、鎌倉 に下り、三浦平太夫貸道の女浦浪姫を室
とし、三浦郡を食み、衣笠城 に居る。久 毒二 乙玄年、下野 那須野 に於て、九尾の 狐 を退治
しける功 に依り、従四位上に叙し、三浦大佐 に補せらる。義明 に六子あり、長を義顕
いひ、次 を義澄 といふ。義顕源貸義の九女若標 姫を室とし、貸義と共に京師 に居る。
久安元乙 #年 貸義に従ひ南都僧兵を走らす 共功に依り、従四位上に叙し、上野守に補
せらる。家将紀長定、赤助蔵に補せらる。長定は長貫の嫡子なり。義顕 保元の役
に 貸義に従ひ敗走し 近江の佐々木秀義の館に匿る。平治の役に源義朝に属し復
シー 一族皆な近江に走る途にして柏木伊像守義隆流矢に中りて卒す。
途 に落ち て、美濃 國青墓 騒 に 至る。乃ち義顕は、義朝 に別れ、妻若 標 姫 及 長子 源 甚吾
重成 並に義隆の妻柏姫共次子時若丸 家将紀助蔵長定及 共妻浪江男竹王丸等を伴ひ、
間道より熱田大宮司の館に投ず。後去って三河 遠江を経て駿河の富士川に至る
や 敵 に襲はれ大宮 に逃る。籍 に夜に乗じ、鶴導を得て東駿河に出で、相模 に向はん
と するや、大場、保野、日々 に固め居るを以て入ると能はず、足を菅沼村 に止む。敵之

を聞き 将に襲ひ来らむと告くるものあり。一行色を失ひ 即ち富士山を目標として


方角 をも葬 せ ず、妄り に森林 を押 分け、八幡 太碑 を所りつ \、富士 谷深き大澤 に押入

り て そ身を潜めける。時に永 暦元康 辰 年二 月二 十日 なりき。曾、義顕妻 若標 姫 機


むと三 日、即ち二 十二 日 辰 の 刻に男子 を分 晩し、己の 刻 に赤男子を分晩す。時に 雨大


に降る。乃ち木を伐り小屋を建て 草を菊り て屋根となし、或は鳥獣を捕獲して命


を繋ぎ 成は附近にて臨殺を抗 奪して生を そ送りける。一日義顕は長定を従へ 例


綱 廣 嫡子庄 左衛門 綱重、三子石部五衛門綱吉、天野遠江守景信、大森駿河 守頼茂に避
近したり。興に共に抗 奪を遂げ、目標 に頼り山小屋 に騎り、共に潜伏し て徒 に日 を
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三八三
--
-
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-
碑 皇紀 -
三八四
そ送りける。
渡部美濃 守綱廣は源頼光四天王の随 一渡部綱道六世の 孫 にして、渡部競の 兄 な
り。綱道の 祀父宗康親王は、陸戦 天皇の皇子 にして、弘仁 五甲午年三月姓を源氏と
賜 ひ、撮 津の渡部に居る。因 て氏と す。綱道は、武蔵國美田に生れしを以て 美 田源
氏を稲す。幼名を多摩丸といふ。多田満仲に従ひて本國渡部に騎り 満仲の嫡子
頼光に仕 へ 揺 津源氏と稲す。綱定綱家綱信を経て綱晴に至り 綱廣 競の二子を撃
ぐ。綱廣は、天 仁元年陸奥 守加茂二郎義綱に従ひ、出羽 の賊 平師砂を平げし功に依り、

美濃 守となる。義綱 の嫡子義明 の女義顕の妹 浦江 姫を室とし、義顕と共に、源貸義


父子 に仕 へ、保元・平治の 役 に敗走し東 に走り、義顕を 索め て、天野遠 江守景信等と富


士 谷 に来れるもの なり。

天野遠江守景信は菅原道眞七世の孫なり。道具の既せらるるや姉子高祀は男
文時と土佐 に熱 居す。天慶三康子年、伊像大操藤原純友反 す。乃ち、文時は、共男輔
正と 藤原國風 林道保等に従ひ 純友を平ぐ。共功に依り、天暦二成申年八月十日、飛
輝國を賜はり、輔 正常國大操となる。天元 五千 午年十月五日、輔 正は、弟道輔に大接
を譲り京師 に騎り、父文時の後を襲 ぐ。道輔、常國天野郡に操りて、國中をそ治めけ
*。因て天野を氏とす、安長を経て道文に至る。道文源頼信の女頼義の妹時顧
姫 を室とし、頼信 父子 に従ひ、奥州前九年の 役の功 に依り、遠江 介となる。共 子景信
源義家 に従 ひ諸所 に功を建て、且つ源 貸義 に従 ひ 甲賀山 の役 に功 あり て、遠江守と
なり、秋葉 城 に擁 る。三浦義顕 と共に、源 貸義父 子 に従 ひ、保 元・平治の 役 に敗走し、て
領 國遠江 に匿れ居たりし が、義朝 尾張 内海 に 殺 され、頼朝 捕はるると聞き、東駿河 に
落ち来る。義顕 主従富士谷に潜みけるを知り、大森駿河 守頼茂と共に富士谷にぞ

来 り ける。

大森駿河 守頼茂は、太碑宮 の大宮司、即ち大山 守皇子三十八世の 孫、宮 下記太夫親


明 の 曾孫 なり。親 明 十七歳 にし て卒す。弟源太夫 政明 共職を襲 ひ て大宮 守 と な


る。親 明 に 一子あり元若 といふ。時に 年二 歳、母と共に、大森 の館 に養は る。源頼


義 を鳥 幅 子親 とし 冠して 大森 太郎頼 親と 稲 す。鎌倉 権 正景 任 の 女鶴 司 を 室 とし 頼
義 に 従 ひ、前九年の 役 に 功 あり、駿河 庄司 に補 せら る。又 源義 家 に 従 ひ 後三年の 役
の 功 に依り、駿河 守となる。共子頼高三浦平 太夫貸道の二 女花子を要り、頼 茂を生
第二章 阿 祀 山 太碑宮 -

三八五
*

『』

碑 皇 記 三八六
む。幼名 大森 太郎頼 宗 といふ。三浦 義顕等と 源 貸義 に従 ひ、南都 の僧兵 を平ぐる
功 に依り、父 の官職を襲ぎ、大森駿河 守頼茂と稲 す。常國合高城 に擁 る。源義朝 に
従 ひ、平治の役 に落ちて、本國 に来り つれば 則ち義顕主従 富士谷 に潜みけると聞き、
親子三人忍び て、天野 氏 と共に、富士谷 にぞ来 りける。
抑も毎年六月十五日は古より富士山の山間とす、永暦元康辰年六月十五日赤
太碑宮の 大宮司、宮 下記太夫 政仁は 顧宣祀を従 へ、山開 に登りつるに 東南麓の森林中
より、炊 畑の起 るを 厳る。以 貸らく、奇異なり と。乃ち 放 姻 を目 常 として 赴く。即ち

山賊ありて、潜伏 の 所以 を告ぐ。政仁、大に共義に威 じ 潜伏者等を伴 ひ来り、太碑宮


附近に家屋を造営して之に居住せしめ 悪く太碑宮の宮伴にそなしにける。(㎞

㎞)
座 書、四座 書、鍵 遷 記。

第一一十四 太碑宮の新大宮司
鷹保元辛己年三月 富士山元宮七廟惣名小室浅間表碑宮の中顧地八幡大碑を 宮
中 上
の 地に あらせらる。北 天s可s下記太夫安仁は三浦上野*義g
。長子滅基吾重成事源九*を以て養子となし*女**に配し*田大宮司**』
- 』- 『-』 『j、『 「
太夫園住と議り 之に太碑宮の大宮司を譲る。 名字官名を賜はり 宮下源太夫義仁と
稀す。足を大山守皇子四十九世とす。等て駿河 伊豆中斐上野十野陸奥出羽七箇
園の宮取締を命ぜらる。政仁 衛後専ら寒川碑赴の里宮宮司となりぬ。
鷹保二千 年年二月二十二日 義仁の母若標姫病みて卒す。 父義顕入道して義明

場阿間奥瀬心と競す。太古の行満寺なる延暦寺を再興し*競を富士山三浦寺と
改め、共住となり、一門及妻の冥 顧を そ所りける。
治承四度子年七月十日 義顕の弟三浦二郎義澄密に富士山小室大多和の館に潜

**る。乃ち人を解け兄三浦上野守義顕入道義明房阿闘梨源心 及共子大宮司宮

「瀬太夫義仁と 密議の末 義顕を大多和山郎義久と義仁を太郎義成と鍵名して競


に伴れて三浦郡衣笠城にぞ微行しける。愛に遂に、一族倉議の末伊豆の源頼朝

に魔じ 義兵を撃くることに決す。八月二十二日 義澄等兵三百騎を率みて進む。


『石橋山の敗走を聞き 乃ち引き還る。中途小坪にて高山二郎重忠と戦ひ Nを走
らす。後重忠大學して来り攻む。我軍利あらず。義明城に火を縦ちて自裂して
す、シにて上継を指して落ち延び以て頼朝を案む。義久父子誠軍の連
第二章 阿 観山 太 碑 宮 三八七
韓 組 三八八
去 するを窺 ひ、密 に父義明 の遺骨 を牧 拾 し、非人 に鍵装し て富士谷 に騎り、三浦寺に
葬る。義久復た僧に還り、父及 一門の冥 顧を所 り、義成 赤現職に復し、日夜平 氏調伏
を太 碑 宮 に ぞ所 願しける。

十 一月、柏木忠 七郎義政 は 復た富士谷に落ち来 り、大宮司源大夫義仁妻 の妹、即ち


前大宮司宮下記太夫政仁の二女小春を妻とし太碑宮の副宮司となりぬ。義政は、
多田満仲 六世の 孫にし て、柏木伊 像 守義隆の二子 なり。満仲の第四子頼信 に 頼義・

頼清 義季の三子あり。義季、兄頼義 に従 ひ、前九年の役 の 功 に依り、武蔵國牛國を賜


はり、柏木 右衛門佐義季と稲す。三子あり。嫡子集人正義長に、久良 岐 都築 多摩 術
樹 入間 前玉 の六 郡 を賜 ひ、次 子二郎太輔頼盛に秩父・見玉 の二 郡を賜 ひ、三子三郎兵
衛 頼高 に、足立・豊島 の二 郡 を賜 ふ。義長、後三年の 役 に、源義家 に従 ひて 戦死 す。一
女小標 姫 に義家 の 末子義隆 を 配 し て、共後を襲は しむ。後、小標 姫、病 みて 死す。源 貸
義の七女柏姫を後室とす。久安元 乙# 年義隆義 義に従ひ南都の僧兵を征せし功
シとなる。保元の役に残義に従a修走し匠江に優れ*治や *
役に源義朝 に従ひ赤敗走し中途流矢に中りて卒す。埼子元若丸は近江に匿る。次
子時若丸 母柏 姫と三浦義顕主従に伴はれ 富士谷に匿る。時若丸 長じて太碑宮の碑
前に於て、大宮司義仁を鳥帽子親とし 冠して忠七郎義政と稲し、大田中の館 に居る
因て大田中忠七郎義政といふ。後 密に近江園なる兄元若丸を訪ふ。時に元若丸
山本前兵衛尉義経と稲し 弟柏木冠者義衆と、山本の館に擁る。十一 月 一 日 佐兵衛
督平知盛兵数千騎を率み来り攻む。義経 弟義政 義衆と死守して之を防ぐ。然れ
ども衆寡敵せず 城章 に陥る。義政兄弟に別れ 復た富士谷に落ち来 り、今ゃ太碑宮
の 副 宮司 と ぞ なり にける。
義仁の弟 即ち義顕の次 子松若丸、元して三浦庄九郎重泰と稲し、三子竹若丸 冠し
て三浦治九郎義重と稲し、四子梅若丸、元して三浦善九郎義基と稲す。家将紀長定
の長子を金王丸といひ、怒 力人に絶ぐ。義仁の未だ源甚吾重成なりしとき 共小姓
を勤め後義朝に従ひ尾張 に潜む。次 子を竹王丸といひ、母と共に 義顕 に従ひ富士
谷に潜みしが、今や義顕を鳥帽子親として原姓 に復し 冠して武内兵三郎長貫 と稲
す。共に太碑宮の宮伴となりぬ。
義仁の妻春子偶 病む。伊豆三島明碑に所りて治す。則ち十二月、濃参 に詣で、曾。
第二章 阿 祀山 太碑宮 三八九
-
碑 皇 紀 三九○
長田藤 七郎資家 に避近し、伴 ひて 大多和の館 に騎り、太碑宮の宮伴と なし ぬ。
長田資家は、藤原葛野鷹の 後胤にして、高庭介資経の 次 子なり。葛野 暦の二男長
岡は、尾張 の 國 造 となり て、沼の内海 の長田 庄 に居る。因 て 長田を氏 と す。共より
十 一世 の 孫を、長田致信 といふ。共次 子 に、長田 庄司二郎 資致 といふ もの あり。源
義家 に従 ひ諸所 に功を建て て、因幡 國 法美 八上・巨濃 知 頭の 四 郡を食み、八 上郡 高 庭
に居る。嫡子 を長田 高庭介資経といふ。平治の 役 に、源頼朝 の 伊豆 に流さるるや、
資経 共次子藤七郎資家をして外護の貸め之に追尾せしむ。治承四康子年八月二

十二 日、源 頼朝 の 石橋 山 に 兵を撃げ て敗走 するや、資家 父子、箱根 山中に 匿 る。資家


の 妻 秋野 は、天野遠江守 景信 の 女 にし て、常時、三島 の 立花 屋 瀬兵衛 なる旗享 に ぞ潜


めける。資家、赤密 に鍵 装 し て共旗 亭 に潜む。十一月、西 の 町 なる三島明 碑 の 大祭


に、義仁 参詣の 末 赤 共旗亭 に投ず。偶、資家 に ぞ避近 しける。乃ち 義仁は資家 親子


三人を 伴 ひ、富士谷 に騎 り、太碑 宮の宮 伴と なす。後 資家卒す。共子 亀 丸 冠 し て 長
田源 二郎忠利と 稲し、共後を襲 へり。
毒 永元千 演年春、三浦義顕入道義明防源心は、白蓮満 尾なる白蓮 寺を再建して、寺
競 を 富士山 山野寺と改め、三浦寺 の奥の院となす。面 し て三浦寺を弟子金剛防 道
開 に譲り、山野 寺 に 隠居 しぬ。翌年十二 月二 十 日 寂す。弟子六人あり。即ち 金剛防
道 開高蔵 防 保山 成澤防 富岳 新蔵防 湖山・平野防 山中 南泉防 清光 是 なり。之 を富士
北方六防と稲す。(㎞)
第二十五 太碑 宮の碑領と十一一郷
文治四 成申年正月十六 日、二 品源頼朝 太碑 宮 なる二 所明碑精進始め。二十二日、
二 所 明 碑 参詣、山路 の警衛は、甲斐・駿河・伊豆 等 の 家人なり。二 十五 日 騎 府。六 康成

年正月二十日、二所明碑参詣 富士谷 一宿の 後騎 府。二月二十二 日、三浦介義澄をし


て太神宮へ諸願成就の濃参をそなさしめらる。常時の書状に
巻 ' 之

富士大 菩薩 立願事
治承 四康子年四月九 日 より、毎日毎夜、富士大菩薩 謹立願頼給同八月十五 日 よ
り、御豪所供 々 立願、毎日毎夜也。養和二 千 宣 年八月十 一日、貸御 豪所安産、常 一
宮奥 院、三國第 一山 元宮 七赴 明 碑、梶原 平次 景高、令代参詣 候 乾。同八 月 康成年
十二月西刻御豪所 男子平産 例面握原太源左衛門景季常國 一宮奥院 第一山 令
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三九一
碑 皇 組 三丸二
代参詣給候乾。文治元乙巳年十一月二十四日 発 卵日常國 一宮奥院 第 一山、以
次郎重忠 園土泰平、奉納御願書候乾。同二内午年、常一宮奥院第 一山、顧地
八幡太碑始 七赴 明碑 令修造、並 賜寄附御碑殿、御戸張 候軍。代参奉行和田太郎
義盛候乾。同年五月二十七日甲 辰 日、常 國 一宮奥院、貸被加修造、民部丞 盛時 奉
行申付候乾。同年七月十九甲午 日、富士 領上政所より、顧地八幡大碑赴奉寄附
碑 田、以北條 小四郎義時、沙汰仰付候 乾。同五 己西年七月五発 玄 日。富士御帝
響院三浦寺 Q 奥州征伐所轄 常國於高座郡寒川郷、被寄附田地百五十 丁、以 北條

小四郎義時、沙汰 之候 乾。奉 謹進上。


右件 修 々 の諸 願 成就候乾。誠是碑明 力也。追面、可 奉勘賞候。碑 明 恐如比、言


上子細候也。以比旨、可令富士大碑申上給候。頼朝 恐惧 護 言

文治六 康成年 二 月二十二 日


頼朝(花押)
シ三浦介義澄(花押)
進上 常 國一宮
大宮司 殿
建 久二 辛 玄年二 月二十二 日、右 大将源 頼朝二所 明碑参詣、二 十四 日 騎府。三千 子
年八月十七日御豪所平朝臣政子は太碑宮へ諸願成就の濃参をそなしにける。常
時 の諸 状 に、
富士山 諸 大菩薩 立願は た し事

治承四年八 月十五 日 より、毎日 毎夜、我君 の武運さ いこうの ため奉立願候とこ


ろ、碑備 の お ちから に て、一家 のあた かたきを、打 ほろぼした まい おわんの。後


大 日本 國 の ゆみ やの 大 とうり やうの院宣 を、くた した まわる も、皆 碑 備 の ちか


ら に候 わん。こと に、大 日本 國は、碑 國 にまし〜 候 わん。碑 國 第 一むさうの


霊山 に、開闘 元始の 碑 々、鎮め と 、まりまし 〜 て、我君 を 守護たまうて、日本國
に武名 をあらは しか \ やくも、皆 碑 妙 の お ちからに候 わん。せんけん大 菩薩
は、安産の 碑 の 祀 に候 わん。八幡大ほさ つは、我 君先祀 より、代々 の 守護 碑 なり。
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三九三
韓 皇 紀 三九四
治承 四年より、本年今月今日 までの 立願、大願成就 候 おわん。上品絹十二 匹、干
めきぬ十四切、付市三十 六反、まく布十三 反常國 一宮奥の みんに、津加 わせ候 お
わん。午 恐謹、粗 まつの品々 奉進上。政子恐憧 敬白。
建 久三子年八 月十七 日
平朝臣 政子
進上
南富士先元大菩薩

南顧 地八幡大 菩薩

南外諸 大菩薩

山宮 大宮司

源太夫 義仁殿
、建久四姿#年五月八日 征夷大将軍頼朝富士山の巻狩をそ始めける 力ち夫将軍
シ実際たる陸ェ深さら加後装を越へシに***定に加茂 き
越 へ 将に御祀代山 に狩入らむとし給ふ。先づ富士谷小室加吉騒の三浦寺を本陣
となし、萬蔵寺を頼家の本陣となし給ふ。十二日、大将軍は頼家と高蔵防を鶴導と
して、天狗 山 より狩込みける。面して頼家は 盆 深く狩込み、三日目即ち十四 日、相模
河原に於て、午の刻に 大鹿を射止む。仁田四郎忠常 腕せて父大将軍に報ず。大将
軍方に午警 即ち著を投じ駒を駆け御祀代山の桃澤の奥にて頼家に避近し敷賞し
て措く能はず。即ち文して、夫人政子に急報しけり。是より 共文せし泉水を頼朝
の観水と唱 へ、相模河原 を鹿留河原と唱ふ。翌日休息し、本陣に於て祀宴を そ張り

ける、即ち是れ太碑宮の碑力ならむとて江間小四郎義時を使者として太碑宮な

る七廟 各明碑 へ 碑餅を奉らしめ、又 家人 にも之を願ち賜ふ。面して又、太碑宮に碑


領を、三浦寺 高蔵寺に寺領を追定せむとして共由緒等の調査を 大宮司宮下源太夫


義仁等、並に太碑宮の別常三浦寺住金剛防道開に命ぜらる。共追定領状は、
追 定領事
本月、富士山南東西貸夏狩 東面阿 曾山於奥 昨日、源頼家朝臣、大鹿給 みとめ、比 碑
第二章 阿 祀山 太碑宮 三九五
碑 皇 紀 三九六
明也。依 今日休日 同山南西 帝響院三浦寺之御本陣 源頼朝朝臣以江間 小四郎、
奉碑餅 共もち 賜下御家人乾 常 山々 碑始 諸赴 諸寺、赴 寺領追 定事。
但 シ、常山諸寺記録、至急 明細 取調、可 書上申事。
右 件書状 依仰 君 賜時政 之。
建久四五年五月十五日
北條四郎時政 花押)
常山 別常

宮司 宮守中

五月十五日大将軍は富士山北東麓の巻狩を終り西北麓に移り非出の館に入ら

せらる。
六月十日、大将軍又 家人の警衛にて太碑宮なる二所明碑参詣 ありて、大多和の館
に遅留。十七目岡顧潮にて奪魚の催あり。小室館に入り 日々名所質跡を訪れミ
十一日騎府。六月十四日 大宮司宮下源太夫義仁は元太碑宮の大宮司たりし聖 宮
相模寒川碑赴宮司宮下記太夫政仁の連署にて太碑宮なる二所七廟中 宮守碑赴
地八幡太碑山宮碑赴の各由緒を、七月十二日義仁は元太碑宮の副司たりし里宮甲
斐碑部山浅間碑赴宮司古屋彦太夫元貞の連署にて、二所七廟中天照皇太碑*盤大
明碑 高座大明碑 根野碑赴の各由緒を大将軍 へ 上りぬ。
八月三日、大将軍より 太碑宮の碑領並に三浦寺 高蔵寺並に赴家領即ち富士十二
郷 を免 賜あら せらる。即ち、
免 状
甲斐國八代郡富士山 北東麓鳴澤郷小室澤宮守川上里日向山鎮座 -
之 碑代創立、碑武天皇勅願。
小室山宮守碑赴。職㎞、嫌㎞"
仁徳天皇創立、文武天皇勅願。
顧地八幡大碑赴。職 ㎞、韓 却胆㎞ 版
碑代創立 碑武天皇勅願。
第二章 阿 調 山 太碑宮 三九七
碑 皇 紀 三九八
** * *
。- 山、 *

加茂山山守碑赴。 ㎞ョ
碑代創立、碑武天皇勅願。
*、 fo 於 北原 仁、碑」領、 日、二 月 八 日、三 一 日、 日、
麻呂山天照皇太神。職㎞、韓㎞
第 碑代創立 碑 武天皇勅願。
*

古修シ野碑赴。購㎞。魔㎞
編 表富士山三浦寺。購㎞、 免状、外状有 里。

裏 日原山 高蔵寺。難㎞』 発状 外状有里。
赴 家、表 八家。 ㎞、免状 外状有里。

赴 家、裏八 家。
之 右 赴 地、目 八丁 四方。
巻 尾 映 山峰鎮座。
碑代創立 神武天皇勅願。 -
- *-
い 」 * * *

幸発明碑大赴園興碑。購㎞ 、㎞g
右赴地目通四方。
+り ، ، ، ،r +4,
神代 和 立 神武 天皇 初 與º
名神
高座
º

正月 七 日、七 月 九 日、


自 達 羅 克最深山野寺。 蘇禪 寺 駅
右 轉 地、神領、横山 1 回。
方 七 點 組 名、
小 室町 幕 典名神大 胜。 據


福地 人權 大神 祭典。
* * *~* 於
遠鏡像 。 體漢 環線
藏、次 性 都 に、田 知 者 于哈 同 國貨 倉敷 に、
體 語讀
右上 社、社 地、神領。
低成大 將劉之後
#<<==
遠 江守 北條 時 政治 神)
因幡 生 大 江漢 元 化 期开)
第1 ㎢ = * 動 會 三 元九
碑 皇 紀 四○○
三浦荒二郎 義澄 花押
畠山一一郎 重忠花押
富士山 阿 曾 山
七赴 阿座 層共名碑大赴
二 宮下富士源 太夫 殿
免 状

一門 並譜代供養領 トシテ、桂谷 ニテ五百丁 並三赴別常。征夷大将軍源頼朝、腸

之 申付 也。 *
建久 四 年五八 月三 日
北條遠江守時政(花押)
因幡 守大江 廣元(花押)
三浦荒二郎義澄(花押)
島 山 二郎 重忠(花お)
富士山
三浦寺
免 状

三浦源九郎、同 庄 九郎、同治九郎、同善九郎、同家臣 武内 平三郎、並 柏木 忠 七郎、渡部
原書ノママ
庄太夫大森茂二郎 天野源太郎 共方ラ、父ラ 保元平治武度之合戦之儀兵 ニ付 並、
長田源二郎父 石橋山 sァ部合捨名之*同風谷東西北南名学大小並

鎌倉 武運長久之 所轄。征夷大 将軍源 頼朝、免 賜之申 付也。


建久四年五八月三 日

北條遠江守時政(花押)

因幡 守大江 魔 元 花押)
三浦 荒二郎義澄(花押)
畠山一郎 重忠 花押)
第二章 阿祀 山 太碑宮 四○一
碑 自 紀 四○二
建 久四発 五年八月三 日、三浦上野 守義顕の 長子三浦源九郎事太碑宮 の大宮司 宮
下源太夫義仁、義顕 の 次 子三浦 庄九郎重 泰、同三 子三浦治九郎義重、同四子三浦善 九
郎義基、柏木伊像 守義隆の 次 子柏木忠七郎義政、渡部美濃 守綱 廣の長子渡部庄太夫
綱 高、大森駿河 守頼茂の長子 大森茂二郎頼重、天野遠江守景信 の三子 天野源太郎景
園武内紀助蔵長定の次子武内兵三郎長貫長田藤七郎資家の長子長田源二郎忠利
等は、共 父 等 の 功 に 依り、征夷大将軍源頼朝 より、富士山 東西 南北二 十 里 四方を 賜は
り し に因り、共匿割 を 定む。面し て共地域は、即ち富士山 阿 祀谷 太碑 宮 鎮座地 一圓、
甲斐 國 八代郡、駿河 國 富士 郡 駿河 郡 の 三郡 に跨り、東は、鹿留河原 より、相模山峰 博ひ、
大御碑 山峰 に沿 ひ駿河川限り、南は、深澤 より金時山峰 博 ひ、佐野原 より合 高山 一圓、
及び大宮澤の裏地限り、西は、大 宮澤裏地より、芝川 に 沿 ひて二 國 山 一圓 及び瀬山 よ
り阿 志川 山峰 通り限り、北は、三坂 山峰博ひ 仙泉山 槍峰限り、鹿留 河原限りと す。
八月七日 十土倉議の末 表五郷 即ち御原郷・(㎞) 富士郷 木原郷 御殿郷 験河郷
(㎞)並に裏七郷 即ち都留郷字津郷 唱 澤郷 園地郷大原郷河日郷大田和郷の十二
郷 に匿割 し、更に三十八庄となし ぬ。所 請富士十二 郷是 なり。郷 に郷司を、庄 に庄
司 を置く。之 を統治 するもの を、総地頭、又は大地 頭 と 稲 す。面し て 共 匿 割 を、大将
軍に上申せし に、翌年三 月十五 日 免定 せられたり。
富士山 阿 祀谷 免定事
富士山阿祀谷甲斐國八代郡、駿河 國富士郡駿河 郡之三郡 またかり、東 鹿留河原 よ
り相模 山峰 博 へ 駿河 川限り、南、深澤 より金時 山峰 博 へ 佐野原 より 合高山 一るん、
西 大宮澤裏地 より 芝川博 へ 二 國 山 一る ん瀬山峰 博 へ 限り、北、仙泉山 檜峰博る 鹿

止河原限り、凡二 十里 除 四方、十 i一郷、三十八 庄 に定事。
但し十二 郷々 名
都留郷、宇津 郷、鳴 澤郷、顧地郷、大原郷、河口 郷、大田 和郷御原郷 富士郷、木原郷、御殿郷、
駿河郷、
但し三十八 庄 々 名
第二 章 阿 祀山 太 碑宮 四○三
**
郡 n 紀 四○四
加吉都庄、宇津野庄、水 日庄、加津羅庄 伊津水 庄、お さ野庄 吉田庄 舟湖庄、白ふち庄 自
浪庄西演庄 大原庄元住庄 佐野庄下部庄補子庄北山庄 芝田庄 方野庄村山庄 湖古
津庄 西原 庄 下原 庄 合高庄 須山庄、みん野庄 富澤庄、かまと庄富河 庄 碑山庄、ふか澤
庄、あい さわ 庄、小林 庄、ふる澤庄、大御碑庄 坂下庄 菅沼庄、足柄庄。郷庄に地頭郷司
庄司置。碑赴備寺土民等致保護 國土泰平 嫌倉武運長久可所事。
右件條 々、依仰君、政所並問注所、免定之申付者也
建 久五宣 年三月十五日
前因幡 守中原 朝臣魔元 花押)
前下 継 守源朝臣 那 政 花押)
令民部少 丞藤原 行政花押)
案主
鎌田 新藤 次 俊 長(花押
知家事
岩 平 小中 太中原 光家 花押)
問 注 所 執事
中宮 太夫 属 三 善康 法師(花押)
侍所 別常
第 左衛門 少尉平 朝臣 義盛 花押)
所司

梶原平三朝臣平 景時 (花押)

富士十二 郷大地頭

大宮司源太夫義仁 殿

又、同日、大 将軍は、和田 太郎義盛、畠山二郎重忠を、太碑 宮 なる二 所七 廟明碑再造営の
* 普請奉行となす。是より先 大将軍は太碑宮の再造営をなさむとして江間小四郎
巻 義 時、三浦介義澄 を寄附奉行 として、大 将軍及 夫人、並 に 御家人 國司等二 百九十 一名
より 寄附金品を集む。即ち 前右兵衛佐従四位下行左馬頭衆幡摩守義朝三男母散
位藤原 季範女、征夷大将軍源 頼朝朝臣 として、砂金三十六雨、白米三石。次 に、北條四
郎時政 女、政子御 豪所として、砂金七雨、白布十二 反。武蔵 守義信朝臣、参河守範頼朝
第二 章 阿 組山 太 碑宮 -

四○五
碑 皇 紀 四○六
臣 遠江 守義定朝臣、相模 守惟義朝臣、信濃守遠光朝臣 として、各砂金八雨宛にて、以下
國司家人順次 差等ありき。義盛 重忠は、乃ち先づ 太碑宮 なる二 所七廟明碑を再建
立し、鎌倉 より太碑宮まで、新 に近道を拓き、里程を二十里とす。仁王門を、新道 なる阿
祀山峠に移し 仁王坂より仁王奪を同祀山向ふ盤に移しぬ。太碑宮より阿祀山峠
を経て山中舞即ち太古の水 日 騎まで二里牛とし、山中騎より古澤騎即ち太古の駿
河 群まで四 里とし、古澤 輝 より酒匂 騎即ち太古 の 坂本㎞ まで四里牛とし、酒匂 騒 よ
り大磯 購 まで五 里とし、大磯 輝 より鎌倉 まで四里と す。面し て大磯 騒、古澤購 を中
飯所とし、酒匂 購、山中露 を止宿所として、各 本陣を置く。比新道を鎌倉往還源氏通
と稲 す。爾来 毎年の太碑宮 の大祭 日 には 奉幣使として三浦家及、北條家 と定めらる。
建 久五甲寅年四月二 日、大将軍は、三浦義澄・畠山重忠を祭典奉行として、大祭五箇
日の 名 稲を定め、祭典領 を 賜はり、且つ 流鏡 馬祭並 に 流鏡 馬 祭典領 を 賜は る。即ち
毎年四月初申日、懸る久摩晴れ祭、四月二十五日、桃澤標 谷花見祭、六月 二十五日 富士
火山鎮火 祭、九月九 日 山 野菊 里花見祭、十二 月九 日、寒梅青木 碑宮 現れ祭 と定め らる。
足 れ太碑宮 に因縁 深き祭日 にし て、古 より之を四季 の 大祭日と稲し来れるもの な
り。面 し て太 碑宮 初 各 七 廟 の 祭日 は、碑 武 天皇以来、潮 次 増加 した るもの により、行
ふ こと に達せ られ たり。
太碑宮即ち二 所七廟の 祭典領 として、相模 國大住 郡 に於 て主 田 五百町歩、伊豆國
田方郡 に於 て 主田 五百 町歩、駿河 國富士 郡 に於 て 主田 五 百町歩、甲斐國 山梨郡 に於
て 主 田 五 百 町歩、都合主 田 二 千 町歩 を そ 賜りける。
七廟 中、顧 地八幡大碑は、弓矢太刀鈴録 の 守護碑 にし て、共競馬 流鏡 馬 祭は、富士山
阿 祀谷 なる 宮守川 の 陳 の 龍 の 河原 に於 て、毎年九 月九 日 より十九 日 まで、毎日 執行
する こと に 定め 給 ふ。是れ富士山 阿 祀谷 第 一 の 大祭 日し て、龍 ケ 馬場競馬・流鏡 馬・
富士十二 郷 大祭と稲 す。共方法は、各郷 より雄 馬 四 頭づ \、七日間 職 切 火 にて、身鶴
食事を始め諸 道具を清め、十二郷 より 兄 て 四十八頭を派出 し て、太碑宮中顧地八幡

大 碑宮 の 赴前 に於 て、碑闘 を取り 序 次 を定め、各 流 鏡 馬 祭を 執行 するもの と す。面


し て、鎌倉 武運長久 の貸め、伊豆・相模 に於 て、流 鏡 馬 祭典領として、圭田 五百町歩 を そ
-
賜はりける。







宮下源太夫義仁は、大宮司 奪富士十二 郷の大地頭及都
第 二 章 阿 組山 碑宮 四○七
碑 皇 紀 四○八
木忠 七郎義政 は、副 宮司 気 富士十二 郷 の 副地頭及 富士郷の 郷司 を命 せ られ、柏木忠
太夫義 競 と稲 す。三浦庄九郎重 泰 は、弾 宣 奪元老 職及河口 郷の 郷司を 命せ られ、宮
下庄 太夫重 泰 と稲 す。三浦治 九郎義重 は、赴 司 奪 元老 職及 太田和 郷の 郷司 を命 せら
れ 宮下治太夫義重と稲す。三浦善九郎義基は駐司衆元老職及顧地郷の郷司を命
せ られ、宮下善太夫義基 と 稲 す。武内兵三郎長貫は、祭司 奪 諸事代官 役 及 木原郷 の
郷司を命 せられ、宮下兵太夫長貫と稲 す。渡部 庄太夫綱 高・大森茂二郎頼重 天野源
太郎 景國 長田 源 二郎忠利の 四士は、司 典 奪 善悪 取 拠 役、並 に綱高は、大原郷の 郷司、頼

・ 重は宇津郷の郷司 中心利は駿河郷 ㎞)の郷司 最園は御殿郷の郷司を各命せらる。


面 し て 又、綱 高は 勅額 伴を、頼重は、制札場 仁王門前の 下馬 役 を命 せら る。奮横走の


闘を再興して山中の闘と名っけ 最園中心利の二士に闘守を命せらる。御原郷(㎞

* ) 鳴澤郷は 共に富士登山日に常れるを以て別に郷司を置かす 十士にて互に出


張して之を治む。鳴 澤郷の御座野村は 富士山 # 宣 日 にて裏日と唱 へ 御原郷の宇
*野村は富士山未申日にて表日と唱ふ
*太夫基照及伴宗太夫秋高は 共に赴元老司となし*分碑官とめぬ。基照
は太田真長十八世の孫にして秋高は羽田宗治十八世の孫なり。太田眞長初田宗
治は延暦大噴火のとき太碑宮の御碑霊 御質物等の保護者にして 大同元内成年六
月 勅命にて太碑宮の宮守護伴に任せられ、各伴氏を下し賜ふ。子孫世々 共に伴氏
と稲す。真長は太碑宮所在地たる八代郡の大領に宗治は同副領に任せらる。眞
長より具正を経て眞貞に至り、又 宗治より宗市 春吉を経て秋吉に至るゃ真観の大
噴火のとき、又、太碑宮に霊 す所ありとて眞貞は祀に、秋吉は禰宜 に任せ らる。爾来、
建久四年に至るまで、子孫共職務を承継して基照並に秋高に至りしが、今や 新碑官

にて太碑宮の職務を行ふに際り、比雨家を特に敬して 赴元老司と崇め、客分碑官と

ぞ なし にける。

八月十三日、里宮なる相模國寒川碑赴副宮司金子國太夫政家の三子、三郎秀隆は、

木曾義仲並に西平氏征討の功 に依り 源頼朝より相模國愛甲郡 一圓を賜はり 太碑


宮の 副宮司を命せらる。是より愛甲三郎義隆と稲す。又、同里宮の副宮守鈴木越
知太夫政忠の長子 鈴木越後亮政信は同一 の功 に依り、相模郷の内桂庄 一圓を賜は
り 並に七廟中麻呂山の天照皇太碑の守護伴役を命せらる。又井出 卵正忠正長の
第二章 阿 祀 山 太碑宮 四○九
碑 皇 紀 四 一○
長子井出一郎は富士郷の内北山庄一圓を賜はり、次子井出次郎は同郷の内家島庄
一圓を 賜はり、共に太碑宮の 赴 司 宮守を命 せらる。又、小松 内大臣 平重盛 の 孫平維
盛 の男、六 代君は、合 高庄 一圓 を 賜はり、赤 太 碑 宮 の赴 司宮守を命 せられ、印 野 平八郎
維重 と 稲 す。
又、三浦寺を以て 太 碑 宮 の 大 別常 と なし、萬蔵寺を以て 小 別常 と なし、山野 寺 を以
て 副 別常 と なし ぬ。後に 至り、成澤 寺・南泉寺・東山 寺・新蔵寺 をも、小 別常 と ぞ なし に
ける。(㎞)
記、地名 録 立願 集、井出 記、六 寺 録、浅間 記、三 座 #、四座 書、秘密 記、祭 日記、郷司 沿革、大 赴 記。

第一一十 六 太碑宮と 都留 郡

建久 六 乙 卵 年四 月二二 日、征夷 大将軍源頼朝は、富士 阿 祀谷 元宮 七廟 惣名 小室浅間


碑 宮、即ち二 所 明 碑 の 鎮座 地 なる都留 郡 の 延 暦年中 より、甲斐 國 八代 郡 の 治下 に


置かれしものを復奮せしめられたり。是より先 都留郡は延暦大噴火以来、土地荒
魔人跡稀薄となれるに因り Nを三分して和極河原より仙泉山格峰を見渡し共以
*
り り
ち太神宮の鎮座地なる阿祀谷一回を更斐園八代荘の溶下に置き相機河魔よ
いた - *
シ流足博ひ古園川限り 和松園都久井郡の治下に置き山泉山拾略より
國川限り西北は甲斐園山梨郡の治下に置きしが、三百七十有八年後に至り、
大将軍は島 山重忠をして、三郡より分離して都留郡を そ復奮せしめらる。故
より以前 に成れる史上即ち日本記略 三代質録 延喜式 共他古文書 は、太碑宮な
間明碑を 八代郡の部に牧めありけるも、爾後都留郡の太碑宮に復gせられけ
・然るに は往々八代郡のシの如くれるは都留 郡復%以sの地上のみに
擁りて共以後斯く復奮ありし事質を深く窮めさるに因れるものならむ。今共達
状を撃 くれ は、
達 状
比度富士山浅間再興 ニ 付、八代郡、山梨郡、相模國津久井之三郡 ニ、延暦之 噴火 ニ 付、
編入致置虜、如中古 之、都留郡仁奮復致状 執達例面如件。
但あ 二所明碑 再興終事。
建 久六卵年四月三日
征夷大将軍源頼朝
富 土十二 郷地頭
二 所明 碑宮司源太夫殿
建久四甲子年十月十六日 将軍家より、太碑宮なる二所明碑に碑馬を奉らる。世
に、之 を御奉審 とそ稲 しける。
建暦二千 申年正月二十六 日 将軍家、二 所明碑精進始。二月五日、征夷 大将軍源質

朝、尼御豪所と共に、二所明碑参詣として進務 相州武州修理 亮以下属従、八 日騎府。常


時、二所明碑即ち太碑宮の大宮司宮下藤馬亮義國は、大山 守皇子五十世の孫にして

前大宮司義仁の長子なり。翌年正月十六日 将軍家二所明碑精進始、二十二日大将

軍 相州武州等を従 へ二所明碑 へ進発 夕方に至り 機 に風雨甚しく成の刻潮く酒匂


騒 に着、二十四日二所明碑参詣、二十六日騎府。建保二甲成年正月三日 将軍家二所
明碑精進始。二十六日大将軍二所明碑 へ 奉幣あらせらる。九月二十二 日又、精進
始、二十九日、大将軍、相州を従 へ 進発 随 兵五十除騎前後を警護し て、二 所明碑参詣 十
月三日の夜騎 府。相州は、大将軍の使者として、太碑宮より直に里宮なる東本宮寒
川碑赴 に ぞ奉幣あらせらる。四内子年二 月二十五日、大将軍、二 所明碑参詣、二十七
日 騎 府。五 丁 五年 正月二十八 日、赤 大将軍、相州を従 へ 二 所明碑 に奉幣 あらせられ、
二月五日騎府。六成寅年正月十六日大将軍 赤二所明碑へ進発 二十九日騎府。故
なく路次 に於 て、御馬一頭暴 に磐 れ ぬ。翌年正月、大将軍 狙撃 せられて夢 せらる。
貞應二発 未年三月、左京希太夫江間義時、太碑宮の 拝殿 を造営し、二 所七廟中顧地
八幡大碑を再造営せらる。三甲申年正月二十日、将軍家使者三浦駿河前司義村奉

幣。元仁元甲申年八月 執権北條泰時の目代三浦義村下向 太碑宮の本赴を修緒せ


られ、碑領 及 碑事は、征夷大将軍源頼朝差置の 通りに定め らる。共状 は、


*}

免状
二 所 七赴 明碑 大赴。
征夷大将軍源頼朝公差置之通 撃相守天下泰平 五殻成就 並武運長久所蔵可致事。
元 仁元申年八 月 七 日
-
第二章 阿祀山太碑宮 四一三
目 代
三浦 駿河 守義村(花押)
富士山 北東隣郷 明 見七赴 宮 附
外 碑官中
安貞二 成子年正月二十九 日、将軍家二所明 碑参詣ある へ かりし に、暴 かに中止。

二月十五日将軍家使者三浦駿河前司義村の奉幣ありき。(㎞)

第二 十 七 太 碑 宮 の別 常

安貞二 成子年六 月、親霊上人、富士山阿 祀谷に来 り、太碑宮の 別常 なる富士山三浦



寺に入り 行を修せらる。雲切如来に書き副をなし 六字の名競を賜はり 常寺の寺
跳 を明 見山 顧 仙 寺 と 改め、浮土新宗と なし 給 ふ。爾後、太 碑宮 の 別常 を大原 山西 方
寺 に譲り ぬ。是 より先、和田 氏 の 北條 氏に 亡 さる る や、和田 義盛の 次 子新兵衛 尉朝
盛は、継母 E江 の 方を 守護し、鍵装し て富士谷 に通れ 高蔵寺の寺領なる向原山岸の
** ・
** 。
林間の草庵阿 弾 陀堂に身を潜む。止まること十有除年、入道して浮局 防誠鑑と競
し、満 蔵防 保山 の 後 を襲う て、萬蔵寺中興第三 世 とそなり にける。然るに、偶、兄新 左
衛門尉常盛 の潜めるあり。初め、北條 氏 に 亡 さるるや、常盛は、古郡 新 左衛門 保忠と

共に、保忠の本國都留 郡古郡郷 に落ち来りし に、既に敵地となり ぬれば、片 時 も心を


安 んずる こと能は す。乃ち 従士 渋鶴谷二郎 高重、中山四郎重政 の 雨 士、坂東坂 丹波 の
二本木 に て、自刃 し て 死す。即ち 共雨 士 の 首を常盛・保忠の 首 と 稲し て 鎌倉 に贈り、
更に 山 深き岩殿 山北大澤の 奥山 に匿 れ居りしか、一 日、弟誠 鑑の 招き に 依り、古郡 保忠
と共に、来 り て 萬蔵寺 に そ潜みける。誠 鑑、乃ち密 に、三浦寺 の 住 鳴 澤 防 元 山 に議り、
以 て親震上人 に語り て 目 く、吾 父 義盛は、将軍家 を 守護 せ むと する忠憶 禁し難く、遂
に義兵を鎌倉に興し北條氏一族を亡ぼし以て将軍家の子孫をして 永く天下を治
めし むる こと を圓 りしも、天運 至らずして、吾 一族却 つて亡 され、今や天下 に身を置
くに 所 なき に 至れり と。上人 深く欄 れ まし 給 ひ、遂に常盛 を吾 弟子 と なし 入道 せ
しめて 目 く、顧地八幡大碑の 大柏木 の 如く子孫繁昌し て、以 て父義盛の本意を達す
べし と て、僧名 を 柏木 防義 山と 跳 せしめ ら る。七 月二 十八 日、鳴 澤 防 元 山は、三浦寺
第二 章 阿 祀山 太碑 宮 四一五
碑 皇紀 四一六
を義山 に譲り、山野 寺 に隠居しにけり。上人、乃ち三浦寺を明見山 顧 仙寺 と 改稲し、
宗旨を浮土新宗 に改め、義山を以て 顧仙寺中興第 一世となし給ふ。是より、太碑宮
の 別常は、三浦寺 の隠居 寺なる大原 山西 方寺 に於 て之 を襲 へり。義 山の弟六郎兵
第 衛尉義信 は、同時に上人の弟子 となり、僧名を 和泉 防 了 賢と 賜はり、顧仙寺寺中質正
ニ 寺に入る。従士等赤入道して土方五郎政園は浅間防と深澤三郎景家は長名防と、
中山四郎重政(㎞)は善楽防と避谷二郎高重(㎞)は慶林防
と、土肥左衛門尉惟平は徳 質防 と、梶原刑部亮朝 景は鍛治屋防 と、梶原 七郎景氏は上
* 元防と岡崎一左衛門尉質忠は河日防と各競しける。又古郡左衛門尉保忠は中室
宮 防 忠山 と競し、向山 の 草庵 にそ入り にける。
之 嘉 頑 四成成年 正月十 一日、征夷大将軍藤原 頼経は、富士山元宮 七廟 惣名 小室浅間
巻 太碑宮なる二所明碑参詣として進発 左京亮属従 十五日午の 刻騎府。常時の大宮
司は、宮下 右近亮義政 にし て前大宮司 宮下藤馬 亮義國の長子 なり。仁治元 康子年
十二 月十六 日、二 所明碑精進屋を、建立あらせらる。翌年 正月、将軍家二 所明碑代参
使 相模 右近太夫 将監 時定代参。仁治 四 発 卵年三月二 十五 日、大将軍二 所明 碑参詣、
十七日騎府。九月十九日若君抱療 を悩みぬ。将軍家使者信濃太夫判官行綱、二所
明碑 代参。
寛元二甲辰年正月十七日、将軍家二所明碑精進始。由比浦に出 て、潮 溶あらせら

る。二十三日、征夷大将軍藤原頼嗣は 故前右京兆 碑室御孫女富士姫と共に、二所明


碑参詣、北條左親衛供奉 富士阿祀谷遅 留、二 月三日、駿河 國富士 郡を経て騎 府。五 月


二十二 日、将軍家奉幣使 駿河 式部太夫家村代参。三 乙己年十二月 将軍家 代参使能
登前司光村代参。四乙午年正月二十八日将軍家二所明碑毎年定式大祭奉幣使を

三浦介盛時、新田 参 河前 司頼氏、年 番 に定めらる。五 丁 未年六月二 十 一日、三浦泰村


一族 亡 ふ。爾来、将軍家二所 明碑 参詣中止となりぬ。二 十五 日、三浦駿河二郎光村、


逃れ て二 所 明碑なる大 碑宮 の 大宮司右近 亮義政 の館 に匿る。抑も光村は、三浦駿


河守義村の 弟、三浦九郎 左衛門 尉 胤義 の嫡子 なり。大宮司義政 の 妻花子 は、義村 周


義の妹 にし て、光村の 叔母 なり。且つ 義政 の 男 正忠の 室松子は、義村 の男三浦若狭
守泰村の長女にして義政の母浪江は三浦荒三郎義澄の二女なり。三浦家と大宮
司 家 と は、共に三浦義明 の 子孫 にし て、世々 重 縁の 闘 係あり。故に光村は、今や、大宮
第二 章 阿 祀 山 太 碑 宮 四 七
碑 皇 紀 - 四一八
司の館にそ身を潜めける。初め、六月二十 一日の 夜、三浦 一族 北條時頼の貸め に敗
らるるや、泰村、走 つて源頼朝 公影堂に入り、一族二 百七十除人影堂の前に列座 し自
双して死す。光村は一族八十除騎を従へ永 寺に挑り泰村を迎ふ。薬らす。光

村 のち行いて堂中に入り 赤自双せんとするゃ狩野刑部太輔盛信は君に代りて死
せむと云ふより早く成衣を脱し自刃して死す。光村泣海 乃ち盛信の面を剥き 者
戒衣 を着せしめ、自ら盛信の戒衣 を着し、浦賀三郎義晴横須賀七郎義園の二士を従

へ、裏山 の 竹業中に身 を潜め、翌二十二 日、暮 るるを待ち て、山博 ひ に落ち て、未明、潮く


常 國 一宮寒川碑赴 の 里 宮宮司 の館 に潜む。則ち主従三人、非人 に鍵装し、又、落ち て


太碑宮の 大宮司義政 の館 に着しけるは、二 十五日 なりき。乃ち入道し て 妙 蓮と跳


じ、幅 仙寺中興開山 柏木防 義 山の 女 第二 世義長法師 の姉 阿祀 姫 の 智 となり て、共第


三世となる。従士浦賀三郎義晴は寺本博 一郎と、横須賀七郎義園は安富庄一郎と、

各鍵名して顧仙寺にそ仕へける。(㎞)
第 二十 八 太 碑 宮と 将軍家
建長 四 壬 子年八 月十 七日、征夷大将軍宗 奪親王、例 ならず、所 願使三浦介盛時、二 所
明碑代参、碑馬奉納あらせらる。二十五 日 又、所願 使武藤左衛門尉 景時、二 所明碑代 、
参、御剣 碑馬 奉納 あら せらる。五 発 五 年 正月 二 十六 日、将軍家 二 所 明 碑精進始。二
月十日、奉幣使 右近太夫将監時定朝臣代参。六甲 寅年正月二 十八 日、将軍家二 所明
碑精進始。三十日 奉幣使武蔵守朝臣代参。二月一日 陸奥守掃部助質時参詣武蔵
守朝臣、二 月六 日まで小室加吉 騨 遅留。八内辰 年二 月十九 日、将軍家二 所明碑精進
始。二 十六日、奉幣使右近太夫将監時定朝臣代参。康元二 丁 己年正月六 日、将軍家
二 所明 碑 精進始。十六 日、奉幣使遠江守睦 直朝臣 代参。
正嘉二 成午 年二 月二 十五 日、将軍家 二 所明 碑精進始。是 より先、三浦 氏 の 鍵あり
し以来、将軍家二 所明 碑 参詣中止と なれ りしか、今や復 た、始め ら る。三 月 一 日、征夷
大将軍宗奪親王、二所明碑へ 進務 浮衣の人々行列 和泉前司行力之が奉行たり。随
兵行列、平三郎左衛門尉盛時之が奉行たり。三 日 二 所明 碑 参詣、六 日還御。常時の
大宮司 は、宮下源太夫 正忠にし て前太宮司義政 の二子 なり。文 應元康 辛 年八 月七
日、将軍家赤病病 にて例 ならす。所 願使 狩野 四郎左衛門代参。十 一月二 十 七日、大
将軍の 宮、二 所明碑 へ 進発、二 十九 日二所明 碑 参詣、十二月二 日還御。二 辛西 年二 月
第二 章 阿 祀山 太 碑宮 四 一九
碑 皇 紀 四二○
十三日 将軍家奉幣使相模三郎時村代参。弘長三発玄 年四月二十八日、大将軍の宮
騎馬にて二所明碑参詣、五月 一日還御。文永二 乙五年四月二十二 日 将軍家夢想に
由り、二十六日代参使三浦介盛時代参。
久永三内宣 年正月三十日 将軍家二所明碑精進始。二月七日奉幣使新田三河前
司頼氏代参。九日騎府。五成辰年正月二 十二 日、将軍家二所明碑精進始。二 月二
日征夷大将軍権康親王二所明神参詣 一日返留五日還御。常時の大宮司は宮下左
京亮正成にし て前大宮司正忠の長子 なり。九千 申年二 月二十二 日、将軍家二 所明

紳精進始。二十九日、大将軍の宮 騎馬 にて進務 相模甲斐駿河武蔵等の御家人供奉、


武蔵 守之が 奉行たり。三月二 日二所明碑参詣 五日還御。建治二内子年二月二十


二日 将軍家二所明碑精進始。二十八日将軍の宮進務 諸御家人供奉 相模守之か奉


行たり。三月二日二所明碑参詣 五日還御。弘安三辛申年正月二十二日将軍の宮
二 所明碑参詣、二十五日還御。
永仁四 内申年正月二十二日、将軍家二所明碑精進始。二十八日、征夷大将軍守邦
親王進発、二月二日二所明碑参詣、三日返留七日還御。常時の大宮司は宮下源太夫
義泰 にし て前大宮司 正成 の 長子 なり。元 應二 康 中年正月二 十二 日、将軍家二 所 明
碑精進始。二月二十二日将軍の宮二所明碑参詣同二十三日還御。常時の大宮司
は、宮下 右近 亮義忠 にし て前大宮司義 泰 の長子 なり。是より先、弘安 五千 午 年五 月
十三日、馬 入川汎濫し 沿岸 一物 を除 さす皆押流 さる。相模國なる富士山東 本宮 寒
川碑 赴 の質蔵、貸 に流失せ むとす。里宮宮司宮下記太夫明吉 は、父 國明 と共に、質蔵
に秘蔵 せる大 古 より の 古文書、即ち徐 顧博 列聖 の 勅状 代々 大宮司 筆記 に係る寒川
日 記録等 を 救出 せ む として、父子 共に 溺死 し けり。明吉は、大山 守皇子 四十八 世 の
後胤、宮 下記 太夫 政仁 七 世の 孫 にし て、世々 里 宮 宮司 たり。妻 小浪 の 方は、二 所明 碑
なる 太 碑宮 の 大宮司 左京 亮正成の 二 女 にし て 正成は政仁 の 養子、即ち 太碑宮 の 大
宮司 宮下源 太夫義仁 の 玄孫 なり。小浪 の 方は、遺 子里宮丸 と共に、富士山 阿 祀谷 の
質家 に養は る。時に、共兄義泰、太碑宮 の 大宮司 奪 富士十二 郷の総地頭たり。里宮
丸を子 とし養 ふ。後、冠 し て宮下次郎義高 と 稲 せしめ、富士十二 郷 の内、村山郷・大田
和 郷 に て、西 宇津野 庄外 二 庄 の 四十貫を 分 ち 食 まし む。是 より、義高、自ら四 貫 次郎
と稲す。義泰老す。嫡子右近発義忠之を嗣く。元應二康申年八月三日義忠病み
第二章 阿 祀山 太碑宮 - 四二 一
碑 皇 紀 四二二
て物 す。嗣なし。四貫次郎義高、入りて共後を襲 ふ。之を大山守皇子五十六世の
孫、宮下右近 亮義高 と稲 す。表本宮 大宮浅間 碑 赴 の 里 宮 宮司、富 土 又 八良 國安 の 長
女宮子を要り 六左衛門義勝を生む。義勝太田和城に長したるを以て大田和六左
衛門義勝と稲 し、後三浦左京 亮義勝 と稲す。人 となり、精忠 卓識 常に嫌概、私に 皇政
復古 の 志あり。偶。元徳二 康午年六 月、後醍醐天皇、潜 に富士太碑宮の大宮司 の 意向
し 探らしめ む として、藤原 藤 房を し て、太 碑宮 に 立願 せ させ 給 ふ。藤 房、道士 に鍵装
をて大宮司の居城 即ち小室城宮下の館に投し 常に密旨を博へにき (㎞
㎞)常時の諸論旨は、
*}*}
立願 事
敬白
一、富士大碑、碑 力仁仮面、北條 一族 一類、調伏 退治立願之事。
一、皇政 復古 候上 者、常 赴 太古 仁 復 奮之 事。
一、富士 大 碑 碑田、甲斐 駿河、伊豆 於三國、三十六萬 丁 歩差置 事。
+ 十八 日、旧ー #文「駐 』、『 二F* *。
右 條 々、天正 静設 之 時、可 置 遣 之 状 如 件。
元徳一一年六 月十 日
天子 奪 治敬白
勅使 藤原朝臣 藤 房
富士 大碑大宮司 右近 亮殿
義勝は、父 右近 亮 義高 と 謹 て 聖旨 を奉し、陰に中興の 偉業 を賛助 せ む ことを 誓ふ。

乃ち義勝は 藤房 を伴 ひ て、二 所明碑の碑官井出 弾正忠正親の 女 村子 の嫁 きける河


内 國 補 木庄 左衛門 正 近の館 に至り、正 近の 男 左衛門尉 正成と、大事 に闘 する密約 を


そ なし にける。後、義勝は、元弘三発 西年五 月、義兄 新田 義貞を助け て、北條 氏をそ 亡


ほしぬる。是より 将軍家二所明碑参詣絶えにき (㎞)


第二二 章 除論
富士山阿 祀谷 元宮 七廟 惣名 小室浅間太碑宮 は、始め 阿祀 山太碑宮 と 稲 し、碑代 に
於ける宇家潤不二 合須世、五十 一代 の各碑皇の 即位式を行はせ 給 ひし所 請碑代の
第 二章 阿 祀山 太碑宮 四二三
碑 皇 紀 四二四
賢所 なり。
抑も比 太 碑 宮 は、長れ多くも天 照大御碑の 御創立に係り、不二山中央 高天原、即ち
富士山北東麓阿祀谷に鎮りましまして、高天原 の 碑祀 碑 宗 天 つ 大御碑 を祀りませる
吾國太古 唯一 の 大廟 にし て、碑武天皇の 再興ま し ませるもの なり。即ち列聖 の 崇
敬赤浅からず 古より天赴官赴に列せられ 正一位一幣司を賜はり 大赴競を授けら
る。偶。貞観年中、富士山 の 噴火 に て太碑 宮 の 焼失 する や、更に 之 を再興し て、復 ひ 官
赴に列せらる。史上所請古 観七年十 一月九日 勅甲斐園八代郡 立 浅同明祀制 列 於


官赴会 々、傘預官赴 従之。(㎞) 日 っ延喜式に甲斐園八代郡、娘

トーイ
浅間碑赴、㎞ 足なり。(㎞、

夫れ太碑宮の聖廟地 郎ち高天原阿祀谷は大古相模園都留高座郡に属せしに大

化五年、共 一部を割きて都留 郡 として、甲斐國 に編入せらる。是より、相模 國 の太碑


宮 も、章 に甲斐 國 都留 郡 と なれ り。然るに、延 暦十九年の 大 噴火以来、都留 郡は 土地
ヘヘヘ
荒魔 人跡稀薄となれるに由り、延暦二十二年、大伴弟鷹に勅して都留郡を三分して、
附近三 郡をし て支配 せしめらる。即ち都留 郡の 内、太碑宮 の鎮座地なる阿 祀谷 一
*
圓 及共附近以南を、甲斐 國八代郡 をして、支配 せしめらる。爾後、都留 郡 の 太碑宮も
赤八代郡の支配となれり。故に史上所請 勅 甲斐國八代郡 立 浅間明碑 嗣 列 松 官赴
且つ延喜式に甲斐國八代郡 浅間碑赴、 とある所以なり。爾来三百九十有除年
間、八代郡の太碑宮 なりしに 建久 六年、征夷 大将軍源頼朝は、阿 祀谷共他附近三郡 の治
下 に置 かれしもの を 更に分配し て都留郡 を復活 せしめらる。是 に於 て、太碑宮 又
途 に、都留 郡 に復 騎し にけり。
然れとも、延喜年中 には、斯く太 碑 宮 も八代 郡 の 支配 下 に ありし を以て、延喜 式 に

は甲斐園八代郡 線 浅間碑赴 となせり。常時八代郡に於ける名碑大赴は、


太 碑宮 のみ にし て、碑 部 山浅間碑 赴 は、山梨 郡 に鎮り まして、八代郡 の 碑 赴 にあらさ


りしなり。即ち太碑宮 なる七廟 中、宮守碑赴・幸 燈大明碑・顧地八幡大碑は、貞観 六年


中富士山 の 噴火 にて 焼失 せし に由 り、翌年七 月、勅使大納言 藤原 氏 宗を遣は し、甲斐


國司 桶 末 茂 八代 郡 大 領伴 眞貞等 に勅し て、之 を再興 せしめ らる。十二 月九 日、勅使
藤原 安麻 呂等 を 遣は して、再 ひ 官 赴 に列し 給 ふ。故に、三代質録 に、貞観 七年十二 月
九 日、勅 甲斐園 八代郡 立 浅間明碑 列 松 官赴 云々、衆預 官赴 従 之 とあり。面し て省同ほ
第二章 阿祀山 太碑宮 四二五
碑 皇 紀 四二六
噴火あらむことを恐れ同年十二月二十日 里宮なる山梨郡の碑部山浅間碑赴に於
て甲斐継國民をして常士山鎮火大祭を行はしめ給ふ。三代質録にT甘日丁卵 令 甲
斐國 松 山梨郡 致 残問明碑 一同 八代郡、 劉 惑 ) と ある是 なり。即ち 山梨郡 なる

碑部山浅間碑赴は、八代郡なる富士山元宮七廟惣名小室浅間太碑宮と共異れるを
知るに足れり。蓋し延暦十九年富士山の大噴火に て太碑宮の分赴の紳官元宮魔
は、難を山梨郡に避け 共地に浅間大碑を 勧請し奉り 鎮座地を碑部山と名づく即ち

富士山北本宮碑部山浅間碑赴是なり。爾来 八代郡の太碑宮を山宮と稲し、山梨郡

の碑部山を里宮と稲す。乃ち山宮は里宮の奥の院となれり。故に 延喜 式の所請、
八代郡の浅間碑赴 ㎞は山梨郡の碑部山浅間碑赴にあらすして八代郡の富士山

元宮七廟惣名 小室浅間太碑宮なるや明なり。面して、延喜式完成の後、四十有除年
を経て村上天皇天暦元年八月に至り、勅使藤原伊尹をして甲斐國 守橘道保に命じ、

八代山梨雨郡の境界の足逸金川なりしを改め、更に金川河原より 遥か北東なる仙
丈ヶ嶽より発する大川並に笛吹川を以て雨郡の境界と定めらる。足に於て山梨
『の神部山浅間神赴*座地**に八代郎の地域となれり。故に比の神。





し て 延喜 式 に所 請、中斐 國 八 赴 にあらきるや 盆 験自 たり。



爾来三百 五十有除年 の 後、建 久 六年、源 頼朝は、八代郡 外二 郡 の 治下 に 置 かれしもの
を分離し て、都留 部を復活 せしめらる。是に於 て、太 碑 宮即ち延喜 式内八代郡 大 一

座浅間碑赴 は途に又 都留郡に復騎して延喜式後四十有除年を経て山梨郡よ


り新 に編入 せ られし碑 都山浅間碑 赴 のみ、八代 郡 に残存 し にけり。故に歴史上、単


に甲斐園八代郡の浅間碑赴、 を素めむに 共新に山梨郡より編入せられて八代
郡 に残存し にける碑部 山 浅間碑 赴 の 如く相見え けり。先 に既に、國 幣 大 赴 の 赴 格

を以て祀ら せ給ふ。共八代郡より都留郡 に復騎し にける所請 延喜式上 眞 正なる


八代郡の浅間碑赴、即ち元宮の太碑宮は、延喜式上 大小 一赴た になかりし 都留 郡と
なれる故にや、今 尚波れて赴 格を以て祀 られさるに至れり。鳴呼 哀 哉。鳴呼 長れ
多き極みならすや。加之、後 醍醐天皇の御宇 に至り。太碑宮の 大宮司等南風の競
はさるに義 を樹てし以来、足利氏の豚剛 甚しく、元宮の太碑宮 潮く衰微して、事質上
赤 都留郡 に延喜 式内名碑大 赴 なかりし やを威 せし むるに至れり。
抑も後醍醐天皇の中興の偉業を圓らせ給ふや天皇潜に富士山阿祀谷七廟 惣名
第二章 阿 組山 太碑宮 四二七
--- - -- - - -
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- -

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-
碑 皇 紀 四二八
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元宮小室浅間太碑宮の大宮司の意向を探らしめむとして、潜に藤原藤房を遣はし、
太碑宮に北條氏調伏皇政復古 を立願 せしめ給ふ。時の大宮司宮下右近 亮義高の男
に三浦左京亮義勝といふものあり 父と議り謹んで密旨を奉す 面して義時はシを
伴ひ太碑宮の碑官 井出 弾正忠正親の外孫楠木正成の館 に赴き、正成と大事に闘し、
興に、密約をそなしにける。後、 勝は 義兄新田義貞を援けて、北條氏を そ亡しける。
建武元甲成年十一月護良新王の鎌倉に徒され給ふや 植木正成は危害の共王子
萬毒王に及はむことを恐れ、外祀父二條大納言貸定と議かり 美濃の人堀江美濃守
貞満をして、王子を擁護せしめ、後 家臣橋本八郎正貞 和田五郎正隆を非人に 鍵装せ
しめ、密に王子を、太碑宮の大宮司の館、即ち小室城宮下の館 に潜置 し奉る。時に、建
武二 乙玄年二 月二 日にして、王子年十。義勝、先づ吾置城たる富士阿祀谷宇津峰南
城内に新に忍ケ館を興し、王子を潜駐し奉り、叔父富士 又八郎義照を文學の師とし、
狩野太郎興家をして、之を守護せしむ。八月七日 護良親王の近臣 松木左中将藤原
宗忠は親王の首設を奉持して鈍倉より大宮司の館に投ず。共夜衆議の末 音級を
* 宮の内宮に隠私し奉り%忠義勝京師に上り 基状を基して闘下に以聞す。
後村上天皇 正平四 己五年二月四 日 太碑宮に再び正 一位一幣司を賜 はり、且つ常
時の大宮司三浦義勝に護良親王の首級を守護しける功に依り、正四位上に叙し涙
兵衛佐 衆越中守に補し給ふ。面して同時に論旨を賜はりて足利氏を討すへきこ
とを以てせらる。義勝 乃ち先っ%三浦八郎左衛門高通をして間議に入れ*計を
運らし、足利氏兄弟を離間せしむ。尋て正平十乙未年六月 切新田義宗等と 彼東将
軍宗良親王を奉し兵十萬除騎を率みて足利奪氏と上毛に戦ひ 覚に利あらず。即
ち義勝は新田氏等をして親王を奉し信濃に退去せしめ自ら止り遮り戦ひ ヒ月二

十一日途に之に戦死しにき。事鎌倉に聞ゆるやシ氏は常に南北雨朝に偏偽せま

りし太碑宮の大宮司三浦義勝にして今や南朝に左祖せしと聞き乃ち目代仁木頼

章 六角氏頼等をして兵三千騎を率み、大宮司の館に臨み太碑宮の碑領始め富士十

二郷を官 没せむとせしも義勝の死因 定かならずして果さす。


征東将軍宗良親王は上毛敗走の後 陽に雨毛信越等に往来せられしものの如き
*共質然らず。熟れも代り人のみにして陰に大宮司の匿城たる富士阿祀谷字津
峰南城の忍 ヶ館を根城として潜駐せられけり。是れより先 延元三年五月 親王は、
第二章 阿祀 山 太碑宮 四二九
碑 皇 紀 - 四三○
遠江園自初の漢に着源し非伊谷に入らせ給ひ 六月更に富士阿祀谷に潜行し南城
に駐らせ給 ひ、甥高毒王を元服せしめ興長親王と稲せしむ。興國二年二月、天皇勅
使萬里小路秀房をして、興良 親王を宇津峰南城より迎 へ て、征夷大将軍に任し、常陸
園 の大 守となし、陸の 一字を賜はり、陸良親王と改 む。四 年五月、尹良親王井伊谷よ
り南都に上ると稲し 赤密に南城に潜行して、駐らせ給 ふと七年。正平四乙 # 年四
月上毛寺尾城に潜行し、父親王に面調し、共城に駐らせ給 ひしか、正平七千 長年間正
月、宗良 親王は、新田義宗等の 奉 する所となり、鎌倉 を居らんとして 敗走し、親王 越後
に走トチ長親王辛して阿祀谷に騎らせ給ふ。後 父親王が宇津峰南城に潜行せら
れ、父子共に駐 らせ給ふこと十有除年。故に世に興良親王を前宇津峰宮と、宗良親王
を中宇津峰 宮と 尹 良 親王を後宇津峰宮 と稲しける。前大宮司左近 亮義高鍵名して
田貫次郎と稲し、各親王を擁護し奉りぬ。故に親王をそ一に田貫の長者とも唱へける。
後 小松 天皇 の御宇 に至り、南北雨朝統一 に 騎 するや、足利 氏は、諸 國 に 令し て、南朝
の宮方及共遺臣を案めしむ。遺臣にして富士谷に落ち来れるもの劇せすし て高
シ。義勝の 男 師 ち太碑宮の大宮司字津越中守義利を将としてサ良親王を奉し、足
利氏と富士谷 に戦ふ こと前後三回、即ち應永五年二月、及 七年正月の戦に富土谷勝
を制 せしか、十 年四月の 戦 に利あらす、十 一甲申年二 月四 日、足利 氏の 目 代千葉 奪胤、
富士阿 祀谷 に臨み、太 碑宮の碑領 を初め、富士 十二 郷 共他 一切 の諸領を官 没 し、且つ
太神宮の赴内並に各碑官の家宅等を捜査し古文書質物を寛集して赴前なる龍の
河原 に於 て 悪く焼却し、以 て 太碑宮 の碑 聖を 咲 調し にき。十五成子 年四 月、富士谷
一帯 を、上杉顕 憲 に 賜 ふ。
夫 れ、官赴 正 一位 一幣司たりし 七廟惣名 元宮 小室浅間太碑宮は、古 より、富士山 阿
祀谷 小室の 里 に鎮りまし給 ふ。富士山は、祀 山 なる に因り、共北東麓 一帯を阿 祀 谷
(㎞) といひ、桂谷勝山谷と共に富士谷と稲す。阿祀谷は 太古より、小室 中室 大室
の三室 に分 る。共 聖廟 地 なるを以て崇 碑 天皇勅 し て 天 赴 の 地 と なし給 ふ。 駿 河

家相御
廟 より甲天






あ斐坂模り
あり
上る



は、阿 祀谷の諸山 に散在しあるを以て、往古、之を継稲して、阿 祀 山太碑宮と稲す。


光仁 天皇 の 御宇 に 至り、太碑 宮は、我國 最先 に 現は れ まし し 碑 なる に因り、先 現 太 碑
と 改め ら る。是 より、先現・浅間 の 文字 を 混用 するに至る。又、御村上 天皇 の 御宇 に
第二 章 阿 祀山 太碑宮 四三 一
碑 皇 紀 四三二
至り、先 現 太 碑を阿座 旨共明碑 大 赴 と 改 稲 せら る。是 より 又、阿座 賞 浅間 の 文字 を 混
用するに至れり。然れとも浅間の文字は前に漢音先現に通し 後又園音阿座眞に
通し、一語克く雨音を併有し、且つ アソャマ 阿 祀山 の約 まり て アサマ(浅間 なるに因
り、共 使用上 甚た 好 便 の 文字 にし て、最も克 く、最も多く、使用又は混用 せられ、後世、遂
に 之 を 専用 する に至れ り。
故に阿 祀谷 の外 に、眞 正 なる 阿 祀 山太 碑宮、即ち 浅間大碑 の ある へき理 なく、偶ょ之
あるも、共執 れ も、阿 祀 谷 より 勧請し 来 りし もの に外 なら ざる や明 なり。即ち恒武
天皇 延 暦十九 年、富士山 一大 噴火 を演 する や、難を 甲斐 に避けし 分赴 山宮 浅間碑赴
の碑官元宮 麻 呂は、共地 に浅間大碑を 勧請し 奉る。富士山 北本宮碑部山浅間碑赴
是 なり。共弟大宮麻 呂赤難を、駿河 に避け、共地に赤浅間大碑を 勧請し奉る。富士
山表本宮浅間碑帖 足なり 又難を相模に避けし元宮の大宮司源太夫元秀 赤共地に
七 廟中寒川大明 碑 即ち 顧地八幡大 碑 を 勧請 し 奉る。富士山東本宮 寒川紳赴是なり。
然れとも阿祀香の浅間太碑宮のみは碑代の創立に係り 太古より特に元宮と稲
し 五十一代の各神皇の即位式を行はせ給ひし所請碑代の賢所にましましてシ
、 nミ rょ
太古唯一 の大廟たり。列聖の崇敬赤浅からず。上古 天皇親しく、祭祀の濃を行は
せ給 ひしか 中古より、或は皇子を派し、或は勅使を遣はして祭祀の 濃を行はせらる。
又、遇 するに、或は天赴 官赴 を以てし、或は 正 一位・一幣司を以て せらる。面して、中古
元宮 より、勧請し 奉りし三赴は、曾 て 比等 の濃 遇 を受け させ 給ひし こと なく、仁 毒二
年初めて、位記を賜 ひ、自後潮く 陸叙せられ し のみ。
然るに、長れ多くも 共碑代の創立に係れる継元宮にして、高天原碑祀碑宗天つ大
御碑を、祀れる古来我國唯一 の大廟たる官赴正 一位 一幣司たりし阿祀谷の小室浅

間太碑宮の碑聖は足利氏、騎借の貸めに豚端せられ、元宮潮く衰微し赴殿壊魔に騎

するも、二 百有除年之 を顧みるものなく事質上都留郡 に延喜式内の名碑大赴なり


しやを 威 せし むるに至れり。鳴呼哀 哉。鳴呼 最れ多き極みならすや。天文 元年、氏


子二十五箇村 共壊魔を概き、元宮七廟中 宮守碑赴 顧地八幡大碑を再興し、之に五廟


を合祀まし まししに、元亀二 年、顧地八幡大碑、祀融 に羅り鳥有 に騎し ぬ。元和 元年
八 月土地の 領主秋元撮 津守香 知より、土地三千除 坪 を、共鳥有に騎 せし 幅地八幡大
紳の赴地として寄贈せらる。乃ち、氏子村民は阿祀山軽島森より 共残れる宮守碑
第 二章 阿 祀 山 太碑宮 四三三
*

-
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巻 之 宮 耐 編 ニ 第

。豊


第 三期 有司 之 徒 議 室 書 保存 者
第一 章 羯 育
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* — 呢 天天 祐 元 也 應該公司 加山太 師匠 の 代々 の 大 司 に於 乙
* **」 で後世 に で彼 « かる。 彼 に共大宮司 の 代々 を 列聖 アル は 別,英文 º
の 家 李 光 を 列舉 する。の に外 たらす。 而 し て共 の 金保存 者 の 保存 在 し „ … …

*** 『 神代 の 寺院就 * ,し て成長 する ことを 得る に 至り。 為 神代 の 平野 と


** *** * ** * * に 応 しさを 書き にめ て r姊 68
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。卡通 報 に 触 し て赤世に彼らさる 可 し。 彼 に保存者 の 功被 派出 後者 と 等しく


逃兵 大 なる もの あり と 語っ 可 しº
* * 和 山 太 麻 省 の 大宮司 は 神代 に て は 仲 裁判 長 と いひ 的 天 原野 町 金剛 … …
* ス に 至少 秋 は守護 団長 と 叫 《永 て 守司長 と 改め 後大 司 長 と ん 3 …
*** * * * に至り。 地 神佛 1 代 天照大 神殿の 太郎 を創設 し „ …
第 1 章 統 四三五
碑 皇紀 四三六
大國主命を以て、守護 司長と なさせ給ふ。日子火 々 出 見奪の御時に至り、多旨共祀命
を以て、守護 司 長 と な させ 給 ひき。子孫 之 を 承継 し て、地碑 五代を歴 て、宇 家測 不二
合須世に至るや碑皇第一代 親非葺不合奪謎 日子波激武言合奪は伯父碑火須勢理

命を以て高天原惣司令碑(㎞)となし多眞祀命の子孫を以て副司長となさせ給
ふ。碑皇第三代競 芽葺 不合 奪、諱 阿蘇 豊 王奪 の御時に 至り、大 山祇命第六 代 の 遠 孫、

阿尾 弾 旨共男命を以て、高天原 惣司令碑と なさせ給 ふ。爾来、子孫 承継 五十有二 代を


経て 都丹波彦命に至るや人皇第一代碑武天皇四甲子年四月高天原に上りまし
まして、太碑宮 を祭 ら せ 給 ひ、命 を以て、更に 守護司長 に任せらる。宮守男 命 宮 方男
命・宮 志津 目男 命 山宮男命・奈流男 命・兵米山 男 命 を経て、玉 武男命 に至れり。孝 霊天

皇「五十 康申年四 月、赤高天原 に上り まし まして、太碑 宮を 祭ら せ 給 ひ、尾羽 張園 より、


従へ来ませる祀佐男命六十八世の孫尾羽張田彦命を以て宮守司長(㎞)となし、
玉 武男 命 を以て、副 司長 と なし、共に 子孫共職を承継 せしめ給 ふ。尾羽 張 田 彦命 の
宮守司長となりにしより 二十有除年にして秦徐顧日本に来朝し、不二山高天原に
上り、居を中室に相し て 止りぬ。 後述に碑帖の後胤等に就き碑代の事填を録*「
て世に博ふ。之を十二 史談、又は徐顧博 といふ。阿祀山太碑宮の質物として資蔵
に納めにき。爾来代々 の宮守司長、之を保護し来りて第七代佐太夫命に至れり。
應碑天皇五年七 月 皇子明仁彦を以て、大宮司長となし、且つ山守部の司と なさしめ
第 給ふ。是より、大山 守皇子と稲し 佐大夫命の後を襲はしむ。子孫之 を承継するこ
と六十七代、一千三百九十有五年間古文書を保護し来にき、Hっ代々の大宮司は、
碑宮に闘し 共日記をそ作りける。之を寒川日記と稲しき
天智天皇四辛未年八 月第二十二代顧地太夫元長の大宮司 たりしとき 中臣藤原
* 物部磨阿祀谷 に来り、元長に請うて徐顧博を問し、初めて碑代に於 ける吾物部家の
司 祀先 並に蘇我家の祀先等を知りき。然るに共徐顧博潮く 腐朽せむとしけるを見
之 て、共酒 滅を 恐れ、之 を鷹 寛 し て副書を作りにき。
巻 桓武天皇延暦十九年 顧地山(㎞)一大噴火を演し太碑宮の七廟中四座焼失し 蹴
蔵、赤共難に羅り てけり。翌年第二 十六代源太夫元秀は職宣祀等と共に、徐 顧博・寒
川日記 共他の古文書 質物を保護して難を相模國高座郡早女 郷岡田の原なる元 大
山守皇子の奮領地に避く。赤共地に赴詞を建て、七廟中より寒川碑赴を勧請し
第 一章 緒 言 四三七
-
-
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シシシシーシ
碑 皇 紀 - 四三八
奉る。傍に質蔵を建て、共擁護し来れる古文書資物をそ納めける。奪て大宮司
元秀卒す。共子仁元之を襲ふ。第二十七代宮下記太夫と稲す。
平城天皇大同元内成年六月、坂上田村鷹 に勅し て、七廟中焼失しけ み 四座を再興
し相模より大宮司記太夫仁元を招き共職に復せしむ。足より 七廟たる太碑宮を
山宮と稲し 相模國寒川碑赴を里宮と稲す。仁元は雨宮の宮守を奪 ね、且つ相模國
に於ける古文書を保護しにき。子孫共職を承継して第四十八代記太夫政仁に至
- - -
り ぬ。

二修天皇永歴二辛己年三月大宮司宮下記太夫政仁卒先して太碑宮即ち山宮七

廟を改造し 源氏の落人三浦義顕の長子源甚吾重成を養子となし 長女春子に要は


せ 之に山宮の大宮司を譲る。之を第四十九代宮下源太夫義仁と稲す。是より政

仁は相模園に騎り 単に里宮の宮司となり 専ら古文書質物を保護し子孫之を承継


しにき。
* ㎞ なし ぬ。共男藤馬亮義
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國 も、赤 母 の質家 に至り、父 の複寛 せ さりし他の古 文書を複寛 して、父 の複 高 せしも
の と共に、山宮 の質物 として保護し、之を 子孫に博ふ。是より、里宮 の宮司は、古 文書
-
を保存し、山宮 の 大宮司は、複 寛 古 文書を保存 する こと と なれり。 -
弘安 五 千 午年 五 月 十三 日、馬入 河 汎濫 し て、里宮 に 保存しける古 文書 悪く流失し
たけり。常時、宮司 即宮 下記太夫 政仁 七世 の 孫、宮 下記太夫明吉は、父 佐太夫國 明 と、
古文書流失の難を 免かれしめ むとして、共に溺死 せり。明吉 の遺子里 宮丸は 母の
審員家 なる山宮 に来 り、外 祀 大宮司 宮下 源太夫 正成の嫡男 大宮司 義 泰 に養は る。義

泰 は源太夫義仁 五世 の 孫 なり。義泰 の嫡男大宮司 右近 亮義忠 の天折 するや、里宮


丸、共後を襲 ふ。第五十六代右近 亮義高 是なり。是に於 て、里宮 の古 文書保存者と、


山宮 の 複 寛 古 文書保存 者 と、覚 に 一に騎して、爾今、専ら複 寛 古 文書を保存 する こと


と なれ り。
後 醍醐 天皇 の 御宇 に 至り、義高 の 嫡男、三浦 左京 亮義勝、尻に、義を唱 へ、新 田義貞を
援け北條 氏 を 亡 ほし、後、南風の競はざる を慣 り、新田 義宗等をし て、宗良 親王を奉 し
て、慶、東國 に義兵 を撃け しめしか、覚 に 正平十年七月二 十 一日戦死 せり。義勝 の嫡
第 一章 緒 言 四三九
碑 皇 紀 四国O
男、宇津越中守義利、父 に代り義を唱 へ、共隠れ城たる宇津峰南城 に於 て、宗良 親王・興
良親王サ良親王を保護し奉れり。共旅情を慰め奉らむとして徐顧博の一部並に
寒川 日記の 残 篇 より妙 録し て、親王に 捧 呈 せし もの 赤勘から す。後、属、足利氏、又は
後世 領主等 より、古 文書 を焼棄 せしめ られしも。幸に共捧 呈 せ し妙 録 古 文書 の 存

するありて、共原書 の内容を窺知 すること を得しは赤幸なり。義利の嫡孫、大宮司


源太夫義忠が、南朝 の遺鍵等と、共に徐 顧博を録取 し、又は複寛 せしもの 赤勘 からす。

慶安年中に至り、複 寛古 文書も、潮く腐朽 せむと せり。常時、大宮司即ち源太夫義


忠六世の孫宮下源太夫宗高は、族岩田五左衛 源貸吉をして、更に復た 複寛 せしめて


古 文書を保存 しけり。然るに、共嫡男甚太夫宗忠の大宮司たりしとき、時 の領主 牧


飲を遅うせり。宗忠、慣然義を唱ふるや領主、宗忠を斬り 共族を裏け、大宮司職を続

奪し て、共古 文書 を焼棄し けり。家人機を見て、共一部を隠匿しにき。一族の 者、共
血統を素め、宗家 を 再興 す。即ち第六十八代源大夫義信 是なり。然れども、大宮司
職は、分家 既に補せ られしを以て、義信 及共子孫 は、単に複寛 古 文書 の残驚を保護 す
る のみ となり に き。
要するに 徐顧博 即ち碑代十二史談は孝霊天皇任命の大宮司のとき、録取 せれら
共大宮司 の 子孫承継して、之 を保存 すること八代。次 て、應碑天皇任命 の 大宮司 の
ヘし - ヘヘヘヘヘヘヘヘヘ***~へペ **

子孫承継して之を保存しける こと六十七代。共第二 十二 代の とき、先 つ 保存行貸


施 され、第二十六 代の とき、阿 祀谷 より相模國に移 され、第四十九代の とき、複寛 し て
阿祀谷に復騎し にけり。比は、阿祀谷の山宮に保存せられ、彼は相模の里宮に保存
せられしが、彼は共後水難に羅り、覚に悪く、酒 滅にそ騎しにける。比は扉“危害を被
へ。ヘ・ヘヘヘヘヘヘ・〜

らむとして潮く僅かに共一部存在して今日に博ふることを得るに至れり。(㎞
記、神武 記、大 山祇 記、祀 佐 記、津島 記、阿東 記、
大山 守 記、宮司 記、延 暦 記、寒川 記、三浦 記。 )
第 一章 緒言 四四一
碑 皇 紀 四四二
第一一章 碑皇書保存大宮司(正篇
第 一章 孝 霊天皇任命大宮司
第 一代 尾羽張 田 彦命
尾羽張田彦命は祀佐男命六十八世の孫にして、知刀田命の長子なり。孝霊天皇
五十康申年四月、天皇に従 ひて高天原に上り、同十五日、阿祀谷天赴元宮七廟 惣名阿
祀山太碑宮の宮守司長に補せらる。是より碑武天皇任命の守護司長熱都丹波彦
命七世の孫、玉武男命は、副司長にぞなりにける。
尾羽張田 彦命 の宮守司長になりにしより、二十有除年にして、秦徐 顧来朝し高 天
原阿祀谷の中室 にぞ止りける。爾来十有除年にして、潮く徐顧博 即ち十二史談成
りにけり。資物として之を太碑宮に納め奉る。代々の宮守司長之を保護し来に
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撃発表
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*三十七姿文年四月二十五日葬す。お百四十二。阿東風命。
副司長玉武男命は講を阿祀彦といふ。真米山男命 譲 小室彦の長子なり。摩武
媛命を 要り ぬ。
第二代 美禰方男命
美弾 方男命は 講を不二田彦といひ、尾羽張田彦命の長子なり。玉武男命の長女
太久千媛命を要る。孝元天皇二十内午年十月三日夢 す。毒百 七。
見奈加男命を副司長とす。玉武男命の御子なり。山不記媛命を要りぬ。
第三代 阿 祀男命 *

阿祀男命は諱は大室田彦といひ、美禰方男命の長子なり。見奈加男命の二女山

里佐媛命を要る。開化天皇二十 一甲辰年十月四日夢 ず。毒百三。


久良高命を副司長とす。見奈加 男命 の長子なり。波 禰美媛命を要り ぬ。


第四代 眞田 良男命
眞田良男命は諱を西田彦といひ 阿祀男命の次子なり。見奈加男命の長女佐和
媛命を要る。崇碑天皇元甲申年二 月二 日夢 す。毒 百十六。
岩長男命を副司長とす。久良高命の長子なり。波 志 媛命を要りぬ。
第 二 章 碑 皇 書保存大宮司 四四三
碑 皇 紀 四四四
第五代 眞田 八代良男命
眞田八代良男命は講を吉田彦といひ、眞田良男の長子なり。岩長男命の長女深
*〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜***

根 媛命を要る。崇碑天皇六己五年、不二山を顧地山と改稲せしめらる。同四十八

辛 未年六月六 日夢 ず。毒 百三 十 一。
宮守男命を副司長となす。岩長男命の攻子なり。成里媛命を要りぬ。
第六代 又久良 男命
又久良男命は講を川山田彦といひ 共田八代良男命の長子なり。岩長男命二十

七女を要る。垂仁 天皇三甲午年八月十五 日、武淳川別 命に勅し て、佐賀見 海 伊 住留


家 の三國 々 境なる山村に、七廟 惣名 阿 祀 山太碑宮の 分赴 を創立 せしめ 給 ふ。是 よ


・ 之

り、山村を山宮村と稲し、分赴を山宮阿祀 山碑赴と稲し ぬ。眞田八代良男命の 次 子


にし て、又 久良 男 命 の 弟、太 仁志 男 命を以て、之 が宮守となし、七廟 の 副 司 長を 発 ね し


め給ふ。共碑赴を又創めけるに由り世に太仁志男命を撃田八千# 良とそ稲しけ
る。故に子孫世々、又八良と稲す。本赴の宮守司長又久良男命は 景行天皇元 辛未
- -
年三 月 七 日 夢 ず。毒 百 五十。
御身弾男命を副司長 となす。宮守男命の長子なり。津奈加 媛命を要りぬ。常
時、副司長二 人 あり。即ち御身弾 男命、眞田 八 千目 良、是なり。
第七代 顧 地記 太夫命
顧地記太夫 命は、又 久良 男命の長子 なり。尾羽 張中島 松子島の 記太夫碑 心雄命
三 の長女 源太夫穂明男 命の姉中島根媛命を要る。成務天皇四十康成年二月十日夢
*
ず。毒 百六十三。
阿祀彦王命、長太八良命を副司長となす。阿祀彦王命は、御身弾男命の長子にし
て、玉里 媛 を要りぬ 長 太八良命は、諱 を顧 地兵太八良 と いひ、眞田八 千日良 の長子に

して大室援を要りぬ。後阿祀彦王命は碑都復奮を企て、反す。景行天皇皇子日

本武 奪をし て、之 を 征 せしめ ら る。即ち 東夷 征討足なり。
第八 代 顧 地佐 太夫命
顧地佐太夫命は、記太夫命の長子なり。質は、副司長阿祀彦王命の七子なり しが、
父 命 の反するや 東夷として日本武奪 に征 せらる。故に 記太夫、吾 長子として、之を
養 ひし者なり。日本武奪の王女、顧地媛 を要る。初め奪の東夷を征 せむとし給ふや、
第 二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四四五
碑 皇 紀 - 四四六
伊勢より 尾張 に 来り、中島の 松子島源太夫穂 明男命の館に 過り、七月除 止らせ給ひ、
途に命 の 女、建 稲種命 の 妹、美夜 受 媛 を 妃 と なし、伴 ひ て征討 に上り、遂に顧地 山 裾野
に於 て疑を鎖て東夷を敗り、進んで、阿祀谷小室の阿祀山太碑宮の宮守司長、即ち大
宮司記太夫の館 に駐らせ給 ふ。大宮司記太夫の妻中島根 媛は、美夜受 媛の伯母 な
三 り。美夜受 媛偶、一王女を分焼 す。顧地 媛と名づく。日本武奪、凱騎 に際し、幅地 媛を
記太夫に託し て教養 せしめ給ふ。今や 佐太夫の妃となりて、二女を生む。長女を
気久野乗 媛 と 呼び、次 を女登利媛と 目 ふ。佐太夫は、應碑天皇七内申年夢 ず。毒 百
七十二。
大原田彦を副司長となす。諱を又八良と稲 す。長太八 良命の長子にして、顧地
記太夫の 一女三室媛を要りぬ。(㎞、
第一一節 應碑天皇任命大宮司
第 一期 富士 谷保存時代
- 第一 原書保存時代
第一代 大山守皇子
大山 守皇子は、應碑 天皇第二 の皇子にましまして、諱 を阿計日登 彦と稲し 後明仁
彦に改め 給 ふ。碑 功 皇后五十四甲成年、弟 政元彦と共に、徐 顧寧を慕ひ、武内 宿禰の
三 男 羽田 矢代宿禰を響導 として、顧地山阿 祀 谷 にそ参 向ましましける。七 廟 惣名 阿
祀 山太碑宮 の大宮司顧地佐 太夫の館 に止ら せ給ふ。後明 仁彦は、佐太夫の長女 気
久野来媛( ㎞)を要り 佐太夫の後を襲ひて記太夫明仁彦と稲す。政元彦は集継
別皇子といひ赤共次女女登利媛(㎞)を要り 太碑宮の副司長祀佐男命七十四世
の 孫 顧地又 八長大原田 彦の 後を襲 ひ て、顧地又八良政 元彦と稲しぬ。
碑 天皇五 甲午年、勅 し て大 日本 山守部を定め、明 仁彦を し て、之 を 司 らしめ、且つ
阿 祀 山太 碑 宮 の 大宮司 長 と な させ 給ふ。是 より、大山 守皇子といふ。隼継 別皇子 を
以 て、副 司長 と なし、且つ 分赴 なる 山宮 阿 祀 山碑 赴 の 宮司 を 奪 ね しめ給 ふ。子孫共
職を承継 し、代々 顧地 又八良と稲 しぬ。三十七内宣 年六月二 十六 日、武内宿禰を 勅
使として太碑宮に三園第一山 の勅額及碑功皇后の号矢を賜ふ。大山守皇子は徐
第 二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四四七
碑 皇紀 四四八
顧の子孫 に就き、徐顧寧を修む。後、遂に徐 顧博に擁り、且つ古老の 日 牌 に基きて、
一、高 間 原碑代質記、
一、高間原碑都質記、
一、阿 祀 山 碑 赴 由来 記、
などを録 取して、世に ぞ 博 へ ける。
應碑 天皇四十 一康 午年二 月、天皇崩ず。九月、大山 守皇子、乃ち阿 祀谷 小室 に 属を
建て \、父 天皇の 遺髪と、祀 母碑 功 皇后 の 弓矢と を祭り、高御久良 碑 赴 と 稲し 奉らる。
更に、共宮 の 下 に居をトし 明 宮 より 遷 り 止ら せ給 ふ。之 を 宮下 の 宮 と いひ、姓 を
宮下となむ稲しける。大山守皇子に十二王子あり。即ち不二足田長彦金子田宿
伯 井出 畑志津治・品陀科野 彦・土 形遠 築 彦・棒原須留 賀彦・幣岐佐加陸彦・香古坂 海井
彦・大原毛野陸 彦・盆田 日 高彦・古坂三河和彦 阿 曾津久波彦 見なり。季子古坂三河和
*

彦 阿 曾津久 波彦の 二 王子は、天折 し ぬ。第 一王子 不二 尾田 長彦は、父 の 後 を襲 ぎて、


太碑宮の大宮司となる。第二 王子金子田宿伯、第三王子井出 畑志津治は、共に太碑
宮の 副司長 となる。田宿伯 は 金子氏の祀とし 畑志津治は井出氏の祀とす。第四
王子品陀科 野彦は、科野の國 造となる。同國長谷原水谷 品陀の館に止ら せ給 ふ。
春田氏の祀 とす。第五王子 土形遠築彦は、遠久見留園の國造となる。同園小笠原
土形の館に止らせ給ふ。土形氏の祀とす。第六王子棒原須留賀彦は須留賀園の
國造となる。同國棒原の館に止らせ給 ふ。棒原・興津・蒲原 狩野 諸氏の祀と す。第
七王子幣岐 佐加陸彦は 佐賀陸國の國造となる。波多野氏の 祀とす。第八王子香

古坂海井彦は海伊國の國 造となる。山懸 指手諸氏 の組とす。第九王子大原毛野


陸彦は、毛野陸國の國造となる。共嫡孫 蒲原吉田越地彦は、越地國 の懸主となる。

蒲原氏の祀 とす。第十王子 盆田 日高彦は、日 高見園の國造 となる。葛西氏の祀とす。


高天原 の碑 祇の後胤等、復た碑都復 奮を企 て 大山 守皇子を奉し て反 す。皇軍討


ちて利あらず。初め應碑 天皇の崩ぜ らるるや、碑 祇の後胤 即ち武響 植 命の後胤加


志摩彦良 建御名方命の後胤譲 訪彦良・天太玉 命の後胤安房 田彦良の諸 将 皇子を奉
し て 反し、顧地川 の険 に憑 り、皇軍を防ぐ。東軍利あらず、乃ち大将 加 志摩彦良、大 呼
し て自ら大山 守皇子と稲 し、流を蹴し て彼岸に上り、敵中に闘 入し、縦横 奮 ひ戦ふ。
怒ち 又、河中に投じ て、或は沈み、或は 浮び、終 に溺死 せ しものの 如くし て、水中 に 身 を
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四四九
。。- 『 -*
碑 皇 紀 四五○
潜め、巧 に下流 に上陸して、残兵 を牧 め 山宮村に ぞ退 きける。乃ち先づ 皇子 を佐賀
見 國 に移駐 し 奉る。乃ち 又、諸将 を部署 し て 皇軍 を防ぎ 且つ 戦ふ。皇軍 途 に利あ
らず。然るに、勅使香 古坂 王、単身以 て 小室家 基都 に来 り、宣 べ て 目 く、大山 守皇子 既
に 溺死 せられ し今日、他は 描 て 問はず、と 慰撫したりけり。東軍大 に喜び、乃ち 速に、
皇子 を 佐賀見 國 より ぞ 迎 へ 奉りける。共潜 駐 せ られ し山 を大山 といふ。共潜 駐
を紀念 せ むとして、奪の 一字を岩石に刻み 置きぬ。共所在を大住の里といふ。
徳 天皇十五 丁 玄年七 月十 日、根 鳥皇子 を以て、七 廟 惣名 阿 祀山 太 碑宮 の 祭典 司
長となし、且つ高天原阿祀谷の農作の事を司らしむ。羽田矢代宿禰を以てNか副
司長たらしむ。乃ち皇子は、大 室 の 川口 村 の 北、太田 山 の麓 に、居を定め 給 ふ。之を太
田 の 宮 といふ。因 て、子孫代々 姓 を太田 と稲 す。十七 己五 年二 月二 十二 日、大山 守
皇子、宮下の宮 に夢 ぜ らる。毒 八十七。高御良碑赴 の赴側 なる大柏木 の 下 に葬る。
三 十 七 己西年九 月二 十二 日、隼継 別皇子、小室 の 里 なる 日本 武 奪 の 奮 跡、坂下 の 宮 に
夢 せらる。毒 百十三。兄大山 守皇子と同所 の陵 に葬る。反正天皇 内午 の年十 一
月二十二日 根鳥皇子太田の宮に夢 せらる。毒百十一( ㎞)。赤雨皇子と同所の




陵に葬る。之を顧地山阿曾谷三陵と稲す。甲斐園風土記に所請増 幕三基足なり。
大久保子


)
王(




















吉田

一 の 王子なり。隼継別皇子第一 の王女小室姫を要り、不二田 一摩 古彦 吉田二 序古


-

良子ち政

即太

皇元


王集




なり な氏田本る
和宮主

西
諸・






の 王田




吉田



















氏 子


る 王田る子 の
な第











吉吉田









と 毛子



















肌野國



氏 受なり








大田


と太










太夫け 不
宮司
記 吉子

















二 摩

宮下源太夫明政は 幼名を不二 尾田長彦と いひ講を明政といふ。大山 守皇子第


→ ー

良見司宮



山旨




宮を以て





政阿








太徳夫
仁源


明政














天皇
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第二 章
-

第二代
碑 皇 書 保存 大宮司
ー -

宮下源太夫明政
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大山 守皇子 の第三王女を要る。反
-

四五一


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-
碑 皇 紀 四五二
正天皇七 壬 子年三月三日 夢 ず。毒百七。
太田 西原男を以て、太碑宮 の 祭典司長 となす。根鳥皇子の第 一王子 なり。子孫
世々 太田 氏と稲 す。太田・伴 伴野 諸氏の 祀と す。羽田 弾 根尾を以て、同 副 司長と な
す。武内宿禰の 孫にし て、羽田矢代宿禰の長子なり。後、弾 根尾は、太碑宮 の 供物 司

長田 作 彦の 養子 となり、共職を承継し、太碑 宮 の 供物 司 長 を 奪 ね ぬ。田作彦は、作田
昆古命(㎞)七十一世の孫にして世々太碑宮の供物司長たり。共四世の祀を 機
彦命といふ。命に舟田彦野見彦 田村彦の三子あり。垂仁天皇の御宇天照皇太碑

宮を大和の笠縫の里より伊勢の度倉の里に遷宮あらせ給ふゃ井田彦を以て伊勢

の太 碑宮 の 供物 司長 と なし ぬ。是 に於 て、舟 田彦は、田村 彦に阿祀 山 太碑宮 の 供物


司 長 を譲り ぬ。田村彦より、都 田彦 弾 根男 を歴 て、田作彦 に 至る や闘 なし。因 て、羽


田瀬根尾を養子 と なし、長女 春子 媛 に配 し て、共職 を承継 せしむ。是 より、雨 家合 し


て 一 となり、子孫代々 羽田 氏と ぞ稲しける。羽田・伴 坂上 田村・信夫・伊達 諸氏の 祀 と
-
す。
第三代 宮下記太夫仁忠
宮下記太夫仁忠は幼名を不二田 一摩古彦と いひ講を仁忠といふ。前大宮司長
宮下源太夫明政 の第 一王子なり。顧地 又八 長政 見の長女を要る。履仲 天皇五甲
辰年五月三 日夢 ず。毒六十三
顧地又八良政次(㎞)を以て副司長奪山宮の宮司となす。政次は顧地 又八良政
見 の長子 なり、太田 守良 の長女を要りぬ。政 次 卒す。共二子 政長之 を 嗣ぐ。羽
田 正宗 の 一女 を要り ぬ。
太田川島彦を以て、祭典 司長と なす。西原男 の 長子なり。羽田 玉田彦を以て同
副 司長 奪 供物 司長と なす。弾 根尾の長子 なり。
第四代 宮下源太夫 政 正
宮下源太夫政 正は前大宮司宮下記太夫仁忠の三子なり。顧地又 八良政 次 の 四
子を要る。安康天皇元丁百年十一月三日夢す。 八十六
顧地又 八 良正里を以て、副 司長 奪 山宮 の宮司 と なす。顧地 又 八 良政 長 の二子 な
り。羽田 宗吾 の三女 を要り ぬ。
太田田見男を以て、祭典司長となす。川島彦の長子なり。羽田春田男を以て、同
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四五三
碑 皇 紀 四五四
副 司長 発 供物 司 長と なす。玉田 彦の 二子なり。
第五代 宮下記 太夫政宗
宮下記太夫 政宗は、前大宮司長宮下源 太夫政 正 の長子 なり。顧地 又八良正里の
長女 を要る。安康天皇三内申年七月十 一日夢 ず。毒三十六。
三 顧地又八良 宗晴を以て、副司長 奪 山宮 の宮司と なす。顧地 又八良正里 の長子な
り。宮下源太夫政 正の二 女を要り ぬ。
太田原田彦を以て、祭典司 長となす。田見男の 長子なり。羽田 羽奈男 を以て、同
副司長 奪供物司長 と なす。春田 男の長子 なり。
第六代 宮下源太夫仁良
宮下源太夫仁良は前大宮司長宮下記太夫政宗の長子なり。顧地又八長宗晴の
七女を要る。雄略 天皇二 十三己未年夢 ず。毒九十三。
顧地 又八良宗定 を以て、副司長 衆山宮の宮司となす。顧地 又八良宗晴 の長子な
り。宮 下記太夫 政宗 の長女 を要りぬ。
太田眞佐彦を以て祭典司長となす。原田彦の長子なり。羽田 羽長男 を以て同
副 司長 争傘 供物 司長 と なす。羽 奈男 の 長子 なり。
*

第七代 宮 下記太夫仁元
宮下記太夫仁元は前大宮司長宮下源太夫仁良 の長子なり。顧地又八良宗定の
長女 を要る。顕宗 天皇元 乙 五年十二 月三 日夢 ず。毒 六十 一。
顧地又八良元長 を以て、副司長 奪 山宮の宮司となす。顧地又八良宗定の二子な
り。太田 勝磨 の 長女を要り ぬ。
太田加基彦を以て祭典司長となす。基佐彦の長子なり。初田三知彦を以て同

副司長奪供物司長となす。羽長男の長子なり。(㎞

第八代 宮 下記太夫仁家

宮下記太夫仁家は前大宮司長宮下記太夫仁元の長子なり。顧地又八郎元長の
*-*

二 女を要る。顕宗天皇三丁卵年夢 ず。毒三十。
顧地又八良彦太を以て、副司長衆山宮の宮司となす。顧地又八良元長の長子な
り。宮 下記太夫仁元 の 三 女を要り ぬ。
太田政仁彦を以て、祭典司長となす。加旨共彦の二子なり。羽田古 峰男を以て、同
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四五五
碑 皇紀 、四五六
副司 長 奪 供物司 長 と なす。三 知彦の 長子なり。
第 九代 宮下源太夫宗仁
宮下源 太夫宗仁は、前大宮司 長宮 下記 太夫 仁 家 の 甥 にし て、顧地又 八 良彦太 の 長
子 なり。仁 家嗣 なし。因 て 妹 の 生める宗仁 を 養 ひ、長女 秋 姫 に 配 し て 嗣子と なし
ぬ。仁賢天皇十丁 五年四月十日 夢 ず。毒 四十九。
顧地又八良元彦を以て、副司長奪山宮の宮司となす。顧地又八良彦太の二子な
り。宮 下記太夫仁 家 の 二 女 を 要り ぬ。

太田 政見彦を以て、祭典司長となす。政仁彦の長子なり。羽田小田眞彦を以て
同副司長奪供物司長となす。古峰彦の長子なり。
第十代 宮 下記太夫 國仁
宮 下記太夫國 仁は、前大宮司長宮下源太夫宗仁 の長子なり。顧地 又八良元彦の
長女 を要る。武烈 天皇 七 乙西 年八月十二 日 夢 ず。毒 五十三。
顧地又八良政 定を以て、副 司長 奪 山宮 の宮司となす。顧地又八 良元彦の長子な
り。宮下源太夫宗仁 の 長女を要りぬ。
太田眞木彦を以て祭典司長となす。政見彦の長子なり。羽田小鳥彦を以て同
副司長条供物司長となす。小田眞彦の長子なり。
第十 一代 宮下源太夫元國
宮下源太夫元 國は前大宮司長宮下記太夫國仁の二子なり。 顧 地 又 八 良政 定の 十
一女を要る。
安閑天皇元甲寅年十二月 一日夢 す。毒六十八。
禰地又八良政彦を以て副司長奪山宮の宮司となす。顧地又八良元彦の二子な
り。羽田宗太 の 一女を要り ぬ。
太田小 沼田彦を以て祭典司長となす。眞木彦の長子なり。羽田作田眞男を以
て、同 副司長 奪 供物司長となす。小鳥彦の長子なり。
第十一一代 宮下記太夫仁成
宮下記太夫仁成は前大宮司長官下源太夫元國の長子なり。顧地又八良政彦の
長女を 要る。
安閉天皇二 乙卵年十月三日夢 ず。毒三十八。
第二章 紳 皇 書 保存 大宮司 四五七
碑 皇 紀 四五八
顧地又八良彦 一を以て、副司長 奪 山宮 の宮司 となす。顧地又八良政彦の長子な
り。宮下源 太夫元園 の三女を要りぬ。
太田加津彦を以て、祭典司長となす。小沼田彦の、長子なり。羽田稲田男を以て、
-
同 副 司長 奪 供物 司 長 と なす。作田 眞男 の 二子 なり。

第十三代 宮下源 太夫元政


宮下源太夫元政は前大宮司長宮下記太夫仁成の長子なり。顧地又八良政彦の
四女 を 要 る。
飲明天皇六乙五年三月四日夢ず。毒七十

顧地又八長良彦を以て、副司長条山宮の宮司となす。顧地又八良政彦の二子な

り。宮 下記太夫仁成の長女を要り ぬ。

太田 小山彦を以て、祭典司長となす。加津彦の長子なり。羽田奈良彦を以て、同
副 司長 奪 供物 司長 となす。稲田男 の長子なり。
第十四代 富下記参実峰元
宮下記太夫峰元は前大宮司長宮下源太夫元政の二子なり。地又八** の
日まt rトー +t、 こ に gg
長女 を要 る。
飲明天皇十己巳年十月二十四日夢 す。毒二十七。
顧地又八 良良彦の 副司長 衆山宮の宮司たること、故 の如し。
太田西島男を以て、祭典司長となす。小山彦の長子なり。羽田 中津彦を以て、同
三 副 司長 奪 供物司長 となす。奈良 彦の長子 なり。
第十 五代 宮下源 太夫元氏
宮下源太夫元 氏は、前 大宮司長宮 下記太夫峰 元 の弟 にし て、源 太夫元 政 の 八子 な
り。顧地 又 八良良彦の 十三女を要る。飲明 天皇三十己五年二 月二 十七日夢 ず。
毒三十七。
顧地又八良彦武を以て副司長 奪 山宮の宮司となす。顧地又八良良彦の長子な
り。宮下源太夫元 政 の八女を要り ぬ。
太田 水流男 を以て、祭典司長 となす。西島男 の 四子 なり。羽田國玉彦を以て同
副 司長 奪 供物司 長と なす。中津 彦の長子 なり。國玉 彦卒す。弟大原根 彦共後を
嗣ぐ。
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四五九
碑 皇 紀 四六○
第十六代 宮下顧 地太夫元治
宮下顧地太夫元治は前大宮司長宮下源太夫元氏 の 長子 なり。顧地又八良彦武
の長女を要る。崇唆 天皇元成中年十 一月三十日夢 ず。毒 七十六。
顧地又八良彦三を以て、副司長奪 山宮の宮司となす。顧地又八良彦武の長子な
り。宮下源太夫元氏の四女を要りぬ。
太田 松根 男を以て、祭典司 長と なす。水流男 の 五子 なり。羽田 加津 羅男を以て
同副司長衆供物司長となす。大原根彦長子なり。

第十七代 宮下記 太夫元照


宮下記太夫元照は、前大宮司 長宮下顧地太夫元治の長子なり。顧地 又八良彦三


の 長女 を要る。爾後、大宮司長を大宮司 とし、副司長を副宮司 と そ 改め ら る。推古



天皇八 康 申 年四 月二 十 七 日 夢 す。毒 四十。
顧地又八良元長を以て副宮司(㎞)傘山宮の宮司となす。顧地又八良彦三の長
子 なり。宮下 顧 地太夫 元治 の長女 を要り ぬ。
太田 友 綱男を以て、祭典司長 と なす。松根 男 の 長子 なり。羽田 政木 男 を以て、同
副 司 長 衆 供物 司 長 と なす。加津 羅男 の二子 なり。
第十八代 宮下源太夫元定
宮下源太夫元定は 前大宮司宮下記太夫元照の長子なり。顧地又八良元長の長
-
女を要る。釘 明天皇二甲寅年二 月二 十日夢 す。毒 六十 一。
顧地又八良元忠を以て副司衆山宮の宮司となす。顧地又八良元長の長子なり。
-
宮下記太夫元 照の 二 女を要り ぬ。

太田綱力男を以て 祭典司長となす。友 綱力男の三 子なり。羽田 正 弾 彦を以て、


同 副 司 長 暴 供物 司長 と なす。政木 男 の 三 子 なり。

第十九代 宮下幅 地太夫 國富


宮下顧地太夫國富は前大宮司宮下源太夫元定の長子なり。顧地又八良元忠の

長女を要 る。孝徳天皇大 化五 己西年十月三 日 夢 ず。毒 八十。


顧地又八良 照元を以て、副 司 傘 山宮の宮司となす。顧地又 八良元忠 の長子なり。
宮下源太夫元 定の長女を要り ぬ。
太田高夜男を以て祭典司長となす。綱力男の長子なり。羽田宇津彦を以て同
第三章 碑 皇 書 保存 大宮司 四六一
四六二
碑 皇 紀
副司長衆供物司長となす。正弾彦の長子なり。宇津彦卒す、弟日高彦基後を嗣く。
第二十代 宮下記太夫元長
宮下記太夫元長は前大宮司宮下顧地太夫園富の長子なり。顧地又八良 照元の
七女を要る。孝徳天皇自雄四発 #年四月十日夢す。書 四十二。
三 顧地又八良正家を以て副司傘山宮の宮司となす。顧地又八良照元の長子なり、
宮下顧地太夫國富 の 四女を要りぬ。
太田柏根男を以て祭典司長となす。高夜男の長子なり。羽田大室彦を以て同

副司長奪 供物司長となす。日高彦の長子 なり。

第二十 一代 宮下源太夫秀元
宮下源太夫秀元は前大宮司宮下記太夫元長の長子なり。顧地又八良正家の長
女を要る。天智天皇七成辰年三月二日秀元変す。 四十

太田 守彦の長女を要りぬ。 以て、
太田千久彦を以て、祭典司長となす。柏 根 男の長子 なり。 初田宇佐麻ョ。
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記記

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㎞司長となす、大**の長子なり ㎞ 祇

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皇山 子 関宮 司
第二 副書保存時代
第二十二代 宮下顧地太夫元長
*「シ太夫元長は前大宮司宮下源太夫秀元の長子なり。 顧地又八良 正康の
二 女を要る。
シ八月中臣藤原物部魔除顧僅の潮く将に魔初せたとしけるを
停 とを保護し 来れり。
。 ょり各大宮司は勝賞しけるシしけるシ
天武天皇十ェ午年七月四日夢ず。誇六十八。
山宮の宮司となす。地又八
宮下源太夫秀元の長女を要りぬ。
太田本武麻呂を以て祭典司長となす。 千久彦の長子なり。 羽田阿津麻呂を以
第 二章
*書 保存 大宮司 四六三
四六四
碑 皇 紀
宇佐麻呂の長子なり。
て同副司長象供物司長となす
第二十三代 宮下記太夫元頼
顧地又八良國高の
宮下記太夫元 は前大宮司宮下顧地太夫。毒 四十三。
長女を要る。文武天皇大質元幸#年二ヵ『『。
八a園高の副司奪山宮の宮司。



なす。本シニ。。
て同』司長を供物司長となす。シ。
第二十四代 宮下源太夫元道
* 。
女 元正天皇霊亀ニ内長年八月八『 顧地又八良正康の二子なり。
顧地又八良宗信を以て副司奪山 の 『。
羽田 家 三奏を愛ら 『阿本田魔。
太田』 を以てシとなす。『。“。
同副司長象供物司長となす。基佐麻呂の長子。
第二十五代 宮下顧地記太夫元村
宮下顧地記太夫元村は、第十 一代大宮司宮下源太夫元 國 の 七子 なり。前 大宮司
宮下源太夫元道、天折 し て 嗣 なき に因り、入り て共後 を襲 ふ。顧地 又八 長 正康 の 長
女 を要 る。恒武 天皇 延 暦十 一壬 申年八 月二 十七 日 夢 す。毒二 百五十 七。
顧地 又 八 良 宗 信 の 副 司 発 山宮 の 宮司 たる こと、故 の 如 し。
太田 大山磨を以て、祭典司 長 と なす。貞田 磨 の 長子 なり。羽田宗田 磨 を以て、同
副 司長 奪 供物 司長となす。阿 木田磨 の長子 なり。
第二 十六代 宮下源太夫元 秀
宮下源太夫元 秀は、前大宮司 宮下 顧 地 記太夫元村 の二 十七 子 なり。顧地 又 八良
宗信 の 三女 を 要 る。桓武 天皇 延暦二 十 辛 巳年二 月三 日 夢 ず。毒 四十八。
顧地 又八 良 宗晴を以て、副 司 発 山宮 の 宮司 と なす。顧地 又 八 長宗信 の 長子なり。
太田 守重 の 長女を要り ぬ。
太田 眞長男を以て、祭典 司 長と なす。大山磨の 長子 なり。羽田 宮田 暦を以て、同
副 司長 奪 供物 司長となす。宗田 暦の長子 なり。宮田磨 後、京 に召さる 、由 り、共職
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四六五
碑 皇 紀 四六六
を弟宗 治彦に譲る。途 に忍壁親王の副帥となりて、蝦夷を平 ぐ。共功 に依り、科野
國高井 水内の二 郡を賜ふ。長野原 の坂上の館 に居る。坂の上氏と稲 す。又、北越
西海征討の功 に依り 陸奥國三十四郡を賜ふ。征夷大将軍 に任せられ、菊田の城に
居る。坂上菊田磨 と改む。坂上 田村 信夫・伊達 諸氏の組とす。坂上田村磨は、共の
交H
o (以上、大山 守、記、宮司 記、集 継 記、根
長子なり。(㎞)
第二期 相模國保存時代

第一 雨宮 衆務時代

第二十七代 宮下記太夫仁元

宮下記太夫仁元は前大宮司宮下源太夫元秀の長子なり。金子國太夫政明の長
女を要る。桓武天皇延暦十九基長年四月 幅地山 一大噴火 を演じ碑代よりの碑都
へ S こ{ 、
翌年
シシを初や三十m四方 #*石#
大宮司元秀は長子仁元を初め顧宜祀等と金属博共他の古文書資 。「"
難を東相模國早女郷岡田原の元大山守皇子の奮領地に避く。太碑宮なる七廟中
寒川大明 碑を 勧請 し 奉る。富士山東本宮 寒川碑赴 是なり。共傍 に資蔵を建て\、
擁護し 来 にける古 文書質物を そ蔵 めける。尋 で元秀夢 す。仁元寒川紳 赴 の宮司
と なる。是 より、寒川 碑 赴 を 里宮 と稲 し、太碑宮 を 山宮 と 稲し ぬ。
平城 天皇大同元内成年六月三 日、坂上 田村磨 に勅し て、太 碑宮 なる 七 廟 中延暦大
噴火 に て、焼失 せし 四座 を再興 せしめ 給 ふ。里宮 の 宮司 仁 元 を以て太碑宮 の 大宮
司 と なし、里 宮 の 宮司 を 奪 ね しめらる。翌年、顧地 山 を富士山 と 改 稲 せしめ き。是
より 太 碑宮 の 大宮司 は、代々 里宮 の 宮司 を 奪 ね て、古 文書 を 保護 する こと に そ なり

に ける。

仁元、文徳天皇天安二 成定員年三 月二 十日夢 ず。毒 七十。


顧 地 又 八良 宗晴 の 副 司 奪 山宮 の 宮司 たる こと、故 の 如 し。宗晴 に一一子 あり。長


を元宮磨といひ、次を大宮磨といふ。延暦十九年の大噴火にて山宮先現碑赴(㎞
は数十丈下に埋寝せられたり。元宮魔㎞を甲斐園山梨郡と八代郡との合の中山
に避く。古屋彦九長の養子となり 古屋元太夫正彦(㎞ )と稲す。中山に先現太
第 二 章 紳 皇 書 保存 大宮司 四六七
碑 紀 * 四六A
碑を勧請し奉る。共山を碑部山と改む。即ち富士山北本宮神部山浅間神赴 足な
り。元宮鷹之が宮司となる。弟大宮鷹 赤難を駿河國顧地郡岩本澤に避く。和 通
部豊磨の養子となり富士又八郎と稲す。上野御原に赤先現太碑を勧請し奉る。
共地を新山宮村と改む。即ち富士山表本宮大宮浅間神軌是なり。大宮鷹 之が宮
三 司となる。平城天皇大同元内成年八月元宮磨を以て太紳宮の副司となし碑部山
の 宮司 を 奪 ね しめ 給 ひき。
太田眞長男 初田宗治彦は共に難を太碑宮の 穴蔵に避け 止りて太碑宮を そ守護
し奉りける。平城天皇大同元内成年六月共能く太碑宮を護伴しける功に依り雨
人に姓を各伴氏と賜ふ。眞長男を以て甲斐國八代郡の大領を奪ねしめ宗治彦を
以 て同副領を乗ねしめ給 ひき。
第二十八代 宮下顧地太夫元明
宮下顧地太夫元明は前夫宮司譲基宮宮司宮下記太美仁元の長子なり。地又
八良宗時の三女を愛る。清和天皇三康長年六月三日*す。
晴 " 宮磨の
*『 大夫 =ss可た。こと。
大宮 の 宮司たる こと故 の 如 し。
太田伴基長男の祭典司長奪八代郡の大領たること並に初田伴宗治彦の同副司
長 衆供物司長たる こと故の如し。 ●
第二十九代 宮下記太夫明政
宮下記太夫明政は前大宮司奪 里宮宮司宮下顧地太夫元明の弟にして第二十七
代宮下記太夫仁元の三子なり。金子郷太夫正長の長女を要る。清和天皇貞観十
三辛卵年正月十日夢 す。毒三十四。
古屋元夫太正彦の副司衆碑部山の宮司たること並に和 通部大宮磨の大宮の宮

司 たる こと故 の 如 し。

太田伴最 長男の祭典司長奪八代郡大領たる こと並 に 羽田 伴宗治彦の同 副 司 長


象供物司長たること故の如し。
第三十代 宮下源太夫明忠
*「瀬太夫明忠は前大宮司傘里宮宮司宮下記太夫明政の弟にして第二十七代
*「記太夫仁元の四子なり。富士又八郎大宮底の長女を要る。光孝天皇仁和三
第 二 章 紳 皇 書 保存 大宮司 四六九
碑 皇 紀 四七○
丁未年十月十四日夢 ず。毒三十八。
古屋元太夫正彦の 副司 傘碑部山 の宮司たること故の如し。富士又八郎翌明を -
以 て、大宮の宮司となす。和 通部大宮磨の長子 なり。
第 太田伴兵長男の祭典司長 奪 八代郡の大領たる こと 並に羽田伴宗治彦の同副司
ニ 長奪 供物司長たること故の如し。
編 第三十 一代 宮下幅地太夫明高
宮下顧地太夫明高は前大宮司傘 里宮宮司宮下源太夫明忠の弟にして第二十七
代宮下記太夫仁元の五子なり。富士又八郎B明の長女を要る。配闘天皇延喜十

康 午 年十 月三 日 夢 す。毒 七十 一。
之 古屋彦太夫政長を以て、副司 傘碑部山 の宮司となす。元太夫正彦の長子なり。

富士 又八郎豊仲を以て、大宮 の宮司と なす。又八郎豊明 の長子 なり。


太田伴長太夫貞正を以て祭典司長象八代郡夫領となす。眞長男の長子なり。
羽田 律夫 実宗市を以て同副司長奪供物司長となす。 宗 治彦 の 長子 なり。
第一二十 二 代 宮 下記 太夫 明照
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夫 明照は、前大宮司 条 里宮 宮司宮下顧 地太夫明高 の 長子 なり。富士 又
七女を要る。認闘天皇延長七己#年七月四日夢す。書二十。
古屋元太夫政彦を以て副司 傘碑都 山 の宮司となす。彦太夫政長 の長子なり。
仲の 大宮 の宮司 なる こと 故の 如し。

眞貞を以て祭典司長 奪八代郡大領 となす。長太夫貞正の長子なり。


眞貞の弟に 伴二郎眞仁なる者あり。父 貞正 と信濃 國 に移住 す。高井郡 水 内郡 の
大領となる。同國 伴 氏 伴野 氏 の 祀と す。羽田 伴元太夫春吉 を以て同副 司長 奪 供

物 司長 と す。宗太夫宗市 の 長子 なり。

第三十三代 宮下源太夫 明信

宮下源太夫明信は、前大宮司 奪 里宮宮司 宮 下記太夫明照の弟にし て、第三 十 一代


宮下顧地太夫明高の二子なり。富士 又八郎豊仲の三女を要る。村上天皇天 暦二
成申年四月四 日 夢 す。毒三十七。
古屋彦太夫政氏を以て副司傘碑都山の宮司となす。元太夫政彦の長子なり。
富士 又八郎豊繁を以て、大宮 の宮司となす。又八郎豊明 の二子なり。
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四七一
碑 皇 紀 四七二
太田伴太郎兵貞の祭典司長衆八代郡大領たること故の如 し。 羽田 伴 宗 太夫秋
吉を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫春吉の長子なり。
第三十四代 宮下幅地太夫明清
宮下顧地太夫明清は前大宮司衆里宮宮司宮下源太夫明信の弟にして、第三十一
三 代宮下顧地太夫明高の三子なり。富士又八郎豊繁の長女を要る。村上天皇應和
二千 成年二月一日夢 す。毒四十 一。
古屋元太夫宗元を以て副司奪碑部山の宮司となす。彦太夫政氏の弟にして送
太夫政彦の二子なり。富士又八良豊元を以て大宮の宮司となす。又八郎豊繁の
長子 なり。
太田伴長太夫眞忠を以て祭典司長奪八代郡大領となす。太郎基貞の長子なり。
羽田伴元太夫秋宗を以て同副司長奪供物司長となす。 宗太夫秋吉 の長子 なり。
第三十五代 宮下記太夫元景
シ。 M旧 “プゲ C
八郎 冷泉天皇*和ニEE年三月日』をす。。『
古屋彦太夫正朝 を以て、副司 奪碑部山の宮司 となす。元太夫宗元の長子なり。
富士 又 八郎重豊を以て、大宮 の宮司となす。又八良豊元の長子 なり。
太田 伴九太夫貞秀 を以て、祭典司 長 奪 八代郡大領 となす。長太夫旨共忠 の長子 な
り。羽田伴宗太夫秋園を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫秋宗の長子な
三 れシ。
第三十六代 宮下源太夫 明 景
宮下源太夫明 景は前大宮司 傘里宮 宮司宮 下記太夫元景 の長子 なり。富 土又八
郎豊元の二女を要る。花山天皇寛和二 内成年六月 四日夢 す。毒二十。
古屋元太夫頼政 を以て、副司 傘 碑部山 の 宮司 と なす。彦太夫 正朝 の長子 なり。

富士 又八郎重豊 の 大宮 の 宮司たる こと 故の如し。

太田伴長太夫眞 晴を以て、祭典司 長 条八代郡大領 と なす。丸太 夫旨共秀の長子 な
り。羽田 伴元太夫秋 魔 を以て、同副 司 長 奪 供物 司 長 と なす。宗太夫 秋 國 の長子 な
*

り。
第二二十 七代 宮下 幅 地太夫元経
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四七三
碑 皇 紀 四七四
宮下 顧地太夫元経は前大宮司 傘里宮宮司宮下源太夫明景の弟にして第三十五
代宮下記太夫元量の二子なり、富士又八良重 の長女を要る。三條天皇長和二姿
# 年二 月三日夢 ず。毒 四十。
古屋彦太夫政徳を以て、副司条碑部山 の宮司となす。元太夫頼政 の長子なり。
富士 又 八郎重 豊 の 大宮 の 宮司 たる こと故 の 如し。
太田伴九太夫旨共親を以て、祭典司長奪八代郡大領となす。長太夫旨共晴の長子な
り、羽田伴元太夫秋魔の同副司長衆供物司長たること故の如し。
第三十 八 代 宮下記 太夫親明

宮下記太夫襲明は前大宮司奪里宮宮司宮下顧地太夫元経の長子なり、富士又

八郎重 豊の七女を要る。後 一條天皇寛仁二成午年九月四日夢 す。毒十七。


古屋彦太夫政家を以て副司奪神部山の宮司となす。彦太夫政徳の長子なり。
富士八太夫宗豊を以て、大宮の宮司となす。又八郎重 豊の長子なり。
太田伴長太夫眞吉を以て、祭典司長奪八代郡大領となす。九太夫旨共親の二子な
り。羽田伴宗太夫秋経を以て、同副司長 奪 供物司長となす。元太夫秋魔 の長子なり。
第三十九代 宮下源太夫政明
宮下源太夫政明は前大宮司傘里宮宮司宮下記太夫親 明の弟にして第三十七代
宮下顧地太夫元経の二子なり。富士八太夫宗豊の長女を要る。後一條天皇寛仁
四康申年四月六 日夢 ず。毒十六。
古屋彦太夫宗廣を以て、副司 傘碑部山の宮司となす。元太夫政家 の長子なり。
富士又八良國 豊を以て、大宮の宮司となす。八太夫宗豊の二子なり。
太田伴九太夫眞住を以て祭典司長傘八代郡大領となす。長太夫兵吉の長子な

り。羽田伴元太夫秋徳を以て、同 副 司長 奪 供物司長となす。宗太夫秋経 の 長子な


り。

第四十代 宮下幅地太夫宗應

宮下顧地太夫宗應は、前大宮司 傘里宮 宮司宮下源太夫政明 の弟にし て、第三十七


代宮下顧地太夫元経の三子 なり。富士 又八良國豊の二女を要る。後冷泉天皇天
喜二甲午年十月二 日夢 ず。毒 二 十 一。
古屋元太夫政盛を以て、副 司 傘 碑部山 の宮司となす。彦太夫宗魔の長子なり。
第 二章 紳 皇 書 保存 大宮司 四七五
碑 皇 紀 四七六
富士 又八良 國 豊の 大宮の宮司たる こと故 の 如し。
太田伴長 太夫眞守を以て、祭典司長条八代郡大領となす。九太夫 具住の長子な
り。羽田伴宗太夫秋成を以て、同副 司長条供物司長となす。元太夫秋徳の長子なり。
第四十 一代 宮下記太夫明秀
宮下記太夫明秀は前大宮司 傘里宮宮司宮下顧地太夫宗應の弟にして、第三十七
代宮下 顧 地太夫元経の四子なり。富士又八良國豊の三女を要る。白河天皇永保
二 千 成年十 一月三 日夢 ず。毒三十 一。

古屋彦太夫宗信を以て、副司 傘碑部山の宮司となす。元太夫政盛の父宗廣の弟

にし て、元太夫政家の子なり。富士 又八良國豊の大宮の宮司たる こと故 の如し。


太田伴九太夫眞治を以て、祭典司長 奪八代郡大領となす。長太夫眞守の長子な

り。羽田伴元太夫秋朝を以て、同副司長奪 供物司長となす。宗太夫秋成の長子な
り。 -
-
第四十一代 宮下源太夫元頼
宮下源 太夫 元頼は、前大宮司 傘 里宮 宮司 宮 下記太夫 明秀 の 弟 にし て、第三 十七代
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宮下顧地太夫元経の五子なり。富士又八良園豊の八女を要る。自川天皇應徳二
乙 五年二 月四 日夢 ず。毒三十二。
古屋元太夫宗正を以て副司奪碑部山の宮司となす。彦太夫宗信の長子なり。
宗正卒す。共長子彦太夫政平嗣く。富士又八郎武豊を以て大宮の宮司となす。
三 富士 又八 長 國 重 の 三 子 なり。
太田伴長太夫旨共次 を以て、祭典司長奪 八代郡 大領となす。九太夫旨共治 の二子な
り。羽田 伴宗太夫秋秀を以て、同副司 長 奪 供物司長と なす。元太夫秋 朝 の長子 な
り。
第四十三代 宮下幅 地太夫 明 頼
吾下顧地太夫明頼は前大宮司 傘里宮宮司宮下源太夫元頼の長子なり。堀河天
皇寛治 元 丁卵年五月十日夢 ず。毒 僅に八年。
古屋元太夫宗平を以て、副 司 傘 碑都 山 の 宮司 と なす。彦 太夫政平 の弟にし て、元
太夫宗正の二子なり。富士 又八良 豊成を以て、大宮 の 宮司 となす。又八良國豊の
-
四 子 なり。
第二章 紳 皇 書 保存 大宮司 四七七
碑 皇 紀 四七八
太田伴九太夫貞宗を以て、祭典司長 奪八代郡大領となす。長太夫旨共次 の長子な
り。羽田伴元太夫秋家を以て、同副司長 衆供物司長となす。宗太夫秋秀の長子な

いン
第四十四代 宮 下記太夫 明 盆東
宮下記太夫明 衆は 前大宮司 衆里宮宮司宮下顧地太夫明頼の弟にして第四十二
代宮下源太夫元頼の二子なり。堀河天皇寛治二成辰年七月一日夢す。 僅に七
年。
古屋彦太夫正晴を以て、副司 奪 碑部山 の宮司となす。元太夫宗平の弟にして宗

正の三 子 なり。富士 又八長豊成 の大宮の 宮司 たる こと故の如し。


太田伴九太夫貞宗の祭典司長 奪八代郡大領たること、並に羽田伴元太夫秋家 の
同副司長奪供物司長たること故の如し。

第四十五代 宮下源太夫明富
宮下源太夫明富は前大宮司 衆里宮宮司宮下記太夫明 発の従弟にして第四十 二
代宮下記太夫明秀の長子なり。金子國太夫正勝の長女を要る。崇徳天皇大治二
丁 未年六月三日夢 す。毒四十二・
古屋元太夫正忠を以て副司傘碑部山の宮司となす 彦太夫 正晴の長子 なり。
。す *夫シ闘ぐ。宗貞卒す。共長子元太夫宗舞闘く・富士又八郎
シを以て大宮の宮司となす。又八良豊成の長子なり。

)
*シを以て祭典司長奪八代郡大領となす。九太夫賞 の二子を
り。
** **を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫秋家の長子な
第四十六代 宮下顧地太夫明朝

『シは前大宮司奪里宮宮司宮下源太夫明常の長子なり。顧地又

。ま*を妻る。近衛天皇久安二内賞年三月二十四日撃す。 三十七

シを以て副司奪碑部山の宮司となす。元太夫シの正子なり
太夫政*闘く。富士又八郎B常を以て大宮の宮司となす。又八
郎経 豊の二子なり。
シ***佐を以て祭典司長奪八代郡大領となす。長太夫シの四子を
第二 章 紳 皇 書 保存 大宮司
四七九
-
H 四八○
り。羽田伴元太夫秋忠を以て、同副司長 奪供物司長となす。宗太夫秋善の三子 な
むン
第四十七代 宮下源 太夫 明廣
宮下源太夫明廣は前大宮司奪里宮宮司宮下顧地太夫明朝 の弟にして、第四十五
代宮下源太夫明富の二子なり。富士 又八郎経豊の十 一女を要る。近衛天皇久安
五己己年三月三日夢 す。毒三十七。明廣の弟に二郎清國なるものあり。深集郷
を食めるを以て、深第二郎清國と稲 す。土肥質平の姉定子を要る。初め、源貸義 に
仕 へ、後 鎮西八郎貸朝に仕 ふ。貸朝の八丈島に流さる \ や 従ひて行く。河野氏 見

島氏の組とす。共長子、一島の長となる。共島を管下島と稲す。後世三宅島とそ

稲しける。

古屋彦太夫元忠を以て、副 司 奪 碑部山 の 宮司 と なす。元太夫政春 の長子なり。


富士 又八朗秀豊 を以て、大宮 の宮司 と なす。又八郎豊常の長子なり。
玄田律長夫実 残を以て参豊司長傘天袋無実績をなす。九夫実貞佐の長きな
り。羽田伴宗太夫秋宗を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫秋忠の長子。
ート



*

『ノ、 # # LA +
第四十八代 宮下記太夫政仁 -
宮 下記太夫 政仁 は、前大宮司 気 里宮 宮司宮下 源 太夫 明廣 の長子 なり。熱田 大宮
司 尾張 源 太夫忠 住 の 七 女 を 要る。一一條 天皇永 暦二 辛 己年三 月、政仁 率先 し て、太碑
宮 なる七 廟 の 宮殿 を ぞ 改造しける。尋 て、源氏 の 落人三浦上野 守義顕 の 長子 源 甚
吾 重成を養子と なし、長女春子に配し、熱田大宮司尾張 源太夫忠住 と議り、重成に 太
碑宮 の 大宮司を 譲り ぬ。即ち第四 十九 代宮下 源太夫義仁 是なり。政仁、是 より、単
に里宮なる東 本宮 寒川碑赴 の宮司 となりて、専ら徐顧博共他の古 文書を保護しに

、き。建久三千 子 年八 月十二 日夢 ず。毒九十八。


古屋元太夫元成を以て、副司 奪 碑部山の宮司となす。彦太夫元忠 の長子なり。


元成卒す。共長子彦太夫政豊闘 ぐ。富士 又八良豊折を以て、大宮の宮司となす。


又八朗 秀豊 の 長子 なり。
太田伴長太夫基彦の祭典司長衆八代郡の大領たること 故の如し。羽田伴十太
夫秋長を以て同副司長奪供物司長となす。宗太夫秋宗の長子なり (㎞、
第 二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四八 一

四八二
部根


記島

件矢
誤代

*
浦延

里宮第 一代 宮下記太夫國仁
宮下記太夫國仁 は前大宮司 奪 里宮宮司 宮下記太夫政仁の長子なり。熱田大宮
司 尾張源太夫國住 の 四女を要る。元久二 乙 五年三月六 日夢 ず。毒 八十六。
里宮第一一代 宮下記太夫住家
宮下記太夫住家は、前里宮宮司宮下記太國仁 の二子 なり。太碑宮の 大宮司宮下

源太夫義仁 の女を要る。建暦二 壬申年十月三日夢ず。毒 六十八。


里宮第三代 宮下記太夫住國

宮 下記太夫住國は前里宮 宮司 宮下記太夫住家 の長子 なり。太碑宮 の 大宮司宮


下 藤 馬 亮義國 の女 小標 を要る。寛元四内午年十 一月十七日夢 ず。毒 五十八。
里宮第 四代 宮下佐 太夫國定
宮下 佐 太夫 國定は、前里宮 宮司 宮下記太夫住 國 の長子 なり。碑部 山 宮司古屋 彦
太夫 等 信 の 女 海子 を 愛 る。 元 長 一 千 成年 六 月 二 十 四 日 葵 す。 義 四十八。
里有第 五 代 育 下記 太夫 政 國
宮 下記 太夫 政 國 は 前 田宮 有 可 有 下 在 太夫 國定 の 長子 なり。 太 尉 字 の 大宮司 方
近 完善 政 の 二 女 小春 を 要 る。 建治 三 丁 丑 年 八 月 一 日 葵 す。 春 大 十 一 。
里 有第 六 代 育 下 作 太夫 國 明
常 不在 太夫 國 明 は、前 田宮 有司 官 下記 太夫 政 國 の 長子 なり、 太 种 常 の 大宮司 官
下 原 大夫 正忠 の 長女 多 本 を 愛 る。 弘安 五 千 年 年 五 月 十 三 日、馬 入川 河道 し て 資 議
の 流失 守れ と しける より、男 加古 人と共に、徐福 使 其他 の 古 文書 を 救出 せ た として、湖
死 し 込。 義 四 十 二。
里有第七代 者 下記 太夫 明吉
停 下記 太夫 明吉 は 前 甲骨 骨 司 有 下位 太夫 國 明 の 長子 なり。 太 師匠 の 大宮司 官
下 左京 東 正成 の 二 女 小池 を 愛 る。 弘安 五 千 年 年 五 月 十 三 日 後藤 使 其他 の 古 文書
を 救出 せ た として父 國 明 と共に親 死 しむ。 義 11+11。(假 胜球 總體。)
第 二 章 羯 庁舎 & 在 大宮司 . : ; 四人三
、碑 皇 紀 四八四
第三 章 碑 皇書複寛保存大宮司(績編)
第一 期 富士十一一郷時代


第 四十九代 宮下源太夫 義仁
宮下源太夫義仁は、前大宮司 宮下源太夫政仁 の 養子 にし て、三浦上野 守義顕 の 長
子 なり。幼名 を 源 甚吾重 成 といふ。太碑 宮 の 大宮司 に補 せら る \ や、駿河・伊豆・甲
斐上野・下野 陸奥 出羽 の 七箇國 宮 取締を命せらる。官 名 苗字 を賜はり、第四十九代
宮下 源太夫義仁 と 稲 す。
抑も、三浦義顕は源頼義の 玄孫なり。頼義 に八幡 太郎義家・加茂二郎義綱 新羅三
郎義光 の三 子あり。義綱 天仁二 己五年近江甲賀山 の役 に佐渡 に流 さる。共長子
義明、源 貸義 に従 ひ 鎌倉 に下り、三浦 平 太夫 貸道 の 女を 室 とし、三浦郡 を食 み 衣笠城
に居る。義明の長子を太郎義顕と いひ、次 子を二郎義澄 といふ。義顕久安 元 乙 五
年、貸義 に従 ひ て、南都 の僧兵を走らす。共功 に依り、従四 位上 に 叙し、上野 守に補せ
らる。貸義の九女 若標 を要り、源 甚吾重成を生む。平治の役 に義朝 と走つて美濃
園青墓騎に至り 義朝に別れ潜に熱田大宮司尾張源太夫忠住の館に投ず。止まる
こと 須 史 にし て、義朝 の鍵を聞き、去 つて 駿河 に至る。将 に、相模 に落ち 延び むとす
る や、大場 俣野 等道 を拒 しける と 聞き て 果 さず。乃ち富士山 を 目 常に、艦 り に共 裾
野 に身 を そ 潜め ける。平治二 成辰 年六月 十五 日、富士山 の 山 開 として、太 碑 宮 の 大
宮司宮下記太夫政仁は 瀬 宜祀を従 へ て 登山しけるに、偶。義顕父子等 に解近し、共義
に威 じ、伴 ひ て 小室城 宮下 の 館 に来 り、太碑 宮 の 宮 伴と なし ぬ。是に 至り、源 甚吾重
成 を養子となし、長女春子 に配し て大宮司 を そ譲りける。面し て、大宮司の 下 に、副 司
一人、顧 宜 一人、赴 司二 人、祭司 一人、司 典四人 を そ 定めら る。何れ も、義顕 の 一族 にて、
新 に 命 せ られ にき。
義仁、常に養家 に 至り、里 宮 の 質蔵 に て、徐 顧 博、並 に累代大宮司 の 録取 しける 寒川
日記列聖より開はりし論旨共他の古文書を複%すること十数年。魔らし来りて
碑宮 の質物として、資蔵 に納め奉る。爾後、大宮司は、共複寛古 文書を保護 する こ
ととなれり。然るに、弘安 五年古 文書の原書、副書番 く流失 に騎し にき。故に今や、
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 四八五
四八○
り。羽田伴元太夫秋忠を以て同副司長奪供物司長となす。宗太夫秋善の三子な
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いン
第四十七代 宮下源 太夫明廣
宮下源太夫明廣は前大宮司奪里宮宮司宮下顧地太夫明朝の弟にして第四十五
代宮下源太夫明富の二子なり。富士又八郎経豊の十 一女を要る。近衛天皇久安
五己己年三月三日夢 す。毒三十七。明廣の弟に二郎清國なるものあり。深集郷
を食めるを以て、深第二郎清國と稲す。土肥質平の姉定子を要る。初め 源貸義に

仕 へ、後鎮西八郎貸朝に仕 ふ。貸朝の八丈島に流さる 、や 従ひて行く。河野氏 見


司]

島氏の組とす。共長子、一島の長となる。共島を管下島と稲す。後世三宅島とそ

稲しける。

古屋彦太夫元忠を以て、副司 傘碑部山 の宮司となす。元太夫政春 の長子 なり。


富士又八朗秀豊を以て大宮の宮司となす。又八郎豊常の長子なり。
クo

奏奏競シ司長益八代郡夫 となす。九太夫貞佐の長** き :
初田シを以てシとなす。元太夫**。
り。
第四十八代 宮下記太夫政仁 -
宮下記太夫 政仁 は、前大宮司 気 里宮 宮司宮下源太夫明 魔 の 長子 なり。熱田 大宮
司 尾張源太夫忠住の 七女を要る。二條天皇永暦二 辛 己年三 月、政仁 率先して、太碑
宮 なる七廟の宮殿 を ぞ 改造しける。尋て、源氏 の落人三浦上野 守義顕 の長子源 甚
吾 重成を養子と なし、長女春子 に配し、熱田大宮司 尾張源 太夫忠住と議り、重成に太
碑宮 の 大宮司 を 譲りぬ。即ち第四 十九 代宮下源 太夫義仁 是なり。政仁、是 より、単
に里宮なる東 本宮 寒川碑赴 の宮司となりて、専ら徐顧博共他の古 文書を保護しに
、き。建久三千 子 年八 月十二 日 夢 ず。毒九十八。
古屋元太夫元成 を以て、副 司 発 碑部 山 の宮司となす。彦太夫元忠 の長子なり。
元成卒す。共長子彦太夫政豊闘 ぐ。富士 又八良豊折を以て、大宮 の宮司となす。
又 八朗 秀豊 の長子 なり。
太田伴長太夫基彦の祭典司長衆八代郡の大領たること故の如し。羽田伴十太
夫秋長を以て同副司長衆供物司長となす。宗太夫秋宗の長子なり (㎞ 記
第 二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四八一
四 人11
神 者 ॥
里 有第 1 代 育下記 太夫 國 に
| 名 下記 太夫岡 に は前大宮 司祭里 安 宮司令 下記 太夫 政た の 長子た す。 私 出水
司是張遼太夫 國 在 の 四 女 を愛 る。 元ス11 亿 元 年 1月 大田 家 才。 家人 + 大。
里有第 二代 育 下記 太夫 在家
它 下記 太夫在家 は前 軍官官司官下記 太 國 任 の 11 子なり。 太廟 街 の 大宮司 名 下
源太夫義に の 女を 愛 る。 建康二手 中 年十 月1日 落す。 義大 十 人。
里 自 第 三代 育 下記 太夫 在 國
名 下記 太夫 在 風 は前 正宮司宣 下記 太夫 在家 の 長子たり。 太 尉 の 大使 司法
下 薩 馬 洛泰國 の 女 小康を愛 る。 真正 四 百 年年+ 1 月十七 日 落す。 或 五 千 人。
學院第四代官不復を交國歷
* .…詞「** ** * * ** **“
』日 - - - ++ n *** ، * - -- .
_(ー」
太夫 字 信 の 女 海子 を 愛 る。 弘長 1 H 成年 六 月 二 十 四 日 葵 す。 義 四十八。
里 有第 五 代 育 下記 太夫 政 國
宮 下記 太夫 政 國 は 前田里 安 宮司 官 下位 太夫 國定 の 長子 なり。 太 神宮 の 大宮司 有
近 完 義政 の 二 女 小春 を 要 る。 建治 三 丁 丑 年 八 月一 日 葵 す。 嘉庆 十 一 。
里 有自 第 六 代 育 下 作 太夫 國 明
宮下 在 太夫 國 明 は、前田 宮司 官 下記 太夫 政 國 の 長子 たり、 大 神宮 の 大宮司 有
下流 大夫 正忠 の 長女 多 本 を 愛 る。 弘安 五 千 年 年 五 月 十 三 日、馬 入川 河道 し て 資 政

の 流失 守れ と しける より、男 加古 人 共に 徐福德 共 他 の 古 文書 を 救出 せ た として、湖

死 し 込。 春 四 十 二。
ż
里有第七代 育 下記 太夫 明吉
卷 停 下記 太夫 明吉 は 前 車 客 使 司令 下位 太夫 國 明 の 長子 なり。 太 神宮 の 大宮司 官
~~~~~
下 左京 東 正成 の 二 女 小池 を 要 る。 弘安 五 千 年 年 五 月 十 三 日 從頭 像 其他 の 古 文書
を 救出 せ た として 父 國 開 と共に福 花 しむ。 義 11+11。(順 時 總體。)
第 二 章 羯 自害 保存 大宮司 · '* 四人三
-
、碑 皇 紀 四八四
第三章 碑皇書複寛保存大宮司 績編)
第一期 富士十一一郷時代

第四十九代 宮下源太夫義仁
宮下源太夫義仁は前大宮司宮下源太夫政仁の養子にして三浦上野守義顕の長
子なり。幼名を源甚吾重成といふ。太碑宮の大宮司 に補せらる 、ゃ 験河 使 豆中

斐上野・下野 陸奥出羽 の七箇國宮取締を命せらる。官名苗字を賜はり 第四十九代


宮下 源 太夫義仁 と 稲 す。

抑も 三浦義顕は源頼義の玄孫なり。頼義に八幡太郎義家 加茂二郎義綱 新羅三


郎義光の三子あり。義綱天仁二 己五年近江甲賀山の役に佐渡 に流さる。共長子


義明 源貸義に従ひ鎌倉に下り、三浦平太夫貸道の女を室とし、三浦郡を食み衣笠城
に%る。議場の さいs 手を三郎義澄きい 。義順久案 N#
義に従 ニシらす。シsしょ*。
ら る。貸義 の 九 女若標 を要り、源 甚吾重 成 を生む。平治の 役 に義朝 と走 つて美濃
園青墓 騎に至り 義朝に別れ潜に熱田大宮司足張源太夫忠住の館に投ず。止まる
こと 須 史 にし て、義朝 の鍵を聞き、去 つて 駿河 に 至る。将 に、相模 に落ち 延び むとす
*へヘヘヘヘヘヘヘヘへヘヘヘヘヘヘへ

るや、大場 俣野 等道を掘 しけると聞き て 果さず。乃ち富士山 を目 常に、艦 りに共裾


野 に身 を そ 潜め ける。平治二 成辰 年 六 月十 五 日、富士山 の 山 開 として、太碑 宮 の 大
宮司 宮下記太夫政仁は弾 宜祀を従 へ て 登山しけるに、偶。義顕父子等 に解近し、共義
に 威 じ、伴 ひ て 小室 城 宮下 の 館 に 来り、太 碑 宮 の 宮 伴 と なし ぬ。是に 至り、源 甚吾重
成 を養子 と なし、長女 春子 に 配 し て大宮司 を そ譲りける。面 し て、大宮司 の 下 に、副 司
一人 顧 宜 一人、赴司二人、祭司 一人 司典四人を そ定めらる。何れも 義顕 の 一族にて、
新 に 命せ られ にき。
義仁、常に養家 に至り、里宮 の質蔵 に て、徐 顧博、並に累代大宮司 の 録取 しける寒 T
日記、列聖 より 賜はりし論旨、共他の古 文書を複寛 する こと十数年。斎 らし来
太碑宮 の質物 として、資蔵に納め奉る。爾後、大宮司は、共複寛古 文書を保護 す
ととなれり。然るに弘安五年古 文書の原書、副書悪く流失に騎しにき。故に今や
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 四八五
碑 皇 紀 四八六
吾國 碑 代 の事 填を世に博 ふるを得るもの、天下唯、一に複寛古 文書 のあるのみ とな
れ り。左れは第四十九代宮下源太夫義仁の功 赤大 且つ 偉 なりと請 つ べし。
建久四年八 月三 日、源太夫義仁等十名に、共父等の 功 に依り、征夷大将軍源 頼朝よ
り、富士山二十里 四方を賜はり、之を十二 郷に分ちぬ。義仁共継地頭となる。爾後、
大宮司は常に富士十二郷の総地頭を奪ねることとなりぬ。義仁正治二甲申年九
月二 十二 日夢 ず。毒 七十八。
古屋元太夫政析を以て、副 司 奪 碑部山 の宮司 となる。彦太夫政豊の弟にし て、元
成の二子なり。政析卒す。共長子彦太夫元貞嗣ぐ。然るに頼朝より富士十二郷

を 賜はり、新 碑 官 を 命ぜ ら る や、柏木忠 太夫義政 を以て、副 司 と なし ぬ。爾後、古屋 氏


は、専ら 碑部 山 の宮司 と なれ り。 即も柏木義政 は、柏木 右衛門佐義 季 の 孫、即ち 八幡


太郎義家 の末子、柏木伊 像 守義隆の二子 なり。前大宮司宮 下記太夫政仁 の二 女 小


春 を要り、柏木忠太夫義政 と稲 す。三浦庄九郎重 泰 を以て、顧 宜 と なす。源 太夫義
仁の弟にして義顕の二子なり。宮下庄太夫重泰と稲す。三浦治九郎義種 及三浦
善九郎義基を以て赴司となす。義重は義顕の三子にして宮下治太夫義重と稲す。
義基は義顕の 四子にし て、宮下善太夫義基と稲 す。武内兵三郎長貫を以て祭司と
なす。紀貫之四世の孫、武内紀助蔵長定の二子にして、宮下兵太夫長貫と稲す。渡
部 庄太夫綱 高、大森茂二郎頼重、天野 源太郎 景國、長田源二郎忠利を以て 司典となす。
綱高は四天王渡部綱道五世の孫 渡部美濃 守綱廣の長子にして頼重は、三十八代大
三 宮司宮下記太夫親明三世の孫 大森駿河守頼茂の長子なり。景園は菅原道具六世
の 孫 天野 遠江守景信 の三 子 にし て、忠利は長田 藤 七郎資家 の長子なりき。
太田伴長太夫旨共照 及 羽田伴宗太夫秋高を以て、共に赴元老司となし、客分碑官と

して之を遇し ぬ。眞照は、長太夫旨共彦の長子 にして、秋高は、十太夫秋長の弟にして、
宗 太夫 秋 宗 の 五子 なり。
第 五十代 富士宮下藤馬 亮 義國
富士宮下藤馬 亮義國は前大宮司 奪富士十二郷継地頭宮下源太太義仁の長子 な
り。三浦荒二郎義澄の二 女浪江を要る。義國は、常に 母 の質家なる里宮に至り 徐
顧博 寒川日記 共他の古文書を閲覧し、父義仁の未だ 複寛 せざるものを複寛して、赤
太碑 宮の質物と なし ぬ。建治二内子年七月六日 夢 ず。毒 七十三。
第 三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 四八七
* 『 シ『 - -*} }
碑 皇紀 四八八
柏木仁太夫義晴を以て副司となす。忠太夫義政の長子にして宮下源太夫義仁
の 女演 司 を 要り ぬ。
太田伴九太夫基光 及羽田伴元太夫秋頼を以て赴元老司となす。眞光は長太夫
眞照の長子にして、秋頼は宗太夫秋高の長子なり。
第五十 一代 富士宮下右近 亮義政
富士宮下右近亮義政は前大宮司衆富士十二郷総地頭 宮下藤馬亮義園の長子な
り。三浦駿河守義村三女花子を要る。建長四エ午年五月二十日夢す。誇六十七
柏木忠太夫義質を以て、副司となす。仁太夫義晴の長子なり。宮下藤馬亮義國
女 小 秋 を要り ぬ。
太田伴長太夫 基時及羽田伴宗太夫朝秋を以て赴元老司となす。具時は 九太夫
基光の長子 早く卒す。弟九太夫最人嗣ぐ。朝秋は元太夫秋頼の二子なり。
第五十二代 富士宮下源太夫 正忠
富士宮下源太夫正忠は前大宮司衆富士十二郷総地頭宮下右近発義政の二子な
り。三浦武蔵 守泰村の長女松子を要る。文永四丁卵年二月十五 日夢ず。毒五十
八。
柏木 仁 太夫義定を以て、副 司 と なす。忠太夫義質の 長子 なり。宮下 源 太夫義政
の 女松江 を 要り ぬ。
太田 伴長太夫旨共教、及 羽田 伴 治 右 衛門尉 元忠 を以て、赴元老 司 と なす。眞教は、九
太夫旨共人 の弟 にし て、九太夫旨共光 の 七子 なり。元忠は、宗太夫秋秀 四世の 孫 にして、
宗太夫朝 秋 の 養子 なり。

第五十三代 富士宮下左京 亮正成
富士宮下左京 亮正成は、大宮司 奪富士十二 郷継地頭宮下源太夫正忠 の長子なり。
三浦二郎光村の二 女藤江を要る。延慶元成申 年二 月二十八日夢 ず。毒七十六。
柏木佐太夫義親を以て、副 司となす。仁 太夫義定の長子なり。井出 弾正忠正晴
の女富士 を要り ぬ。
太田 伴長太夫旨共質 及 羽田伴宗太夫宗 秋を以て、赴 元老司 と なす。眞質は、長太夫
基数の二子にして宗秋は治右衛門尉元忠の長子なり。
第三 章 碑 皇 害 複 寛 保存 大宮司 四八九

碑 皇紀 四九○
第五十四代 富士宮下源太夫義泰
富士宮下源太夫義泰は、前大宮司 奪 富士十二 郷継 地頭宮下左京 亮正成の長子な
り。渡部庄太夫綱慶の長女 菊江を要る。延元二 丁 五年三月十 一日夢 ず。毒 六十
三。
柏木忠太夫義國を以て、副司となす。佐太夫義親の長子なり。鈴木左京亮の女
多禰女を要り ぬ。
太田 伴九太夫具豊 及 羽田伴治太夫元秋を以て 赴元老司となす。眞豊は長太夫
眞質の長子にして、元秋は、宗太夫宗秋 の長子なり。
第五十五代 富士宮下右近 亮義忠
富士宮下右近 亮義忠は前大宮司 奪富士十二郷纏地頭宮下源太夫義泰 の長子な
り。和田左衛門尉義秀の姉秀子を要る。元應二康申年八月二 日夢ず。毒二十三。
柏木忠太夫義國の副司たること、並に太田伴九太夫最 豊 及羽田伴治太夫元秋の
赴元老司たること 故の如し。
第五十六代 富士宮下右近 亮義高
#*「右近産義高は前大宮司衆富士十二郷総地頭宮下右近売義忠の義弟に
して第五十三代宮下左京亮正成の外孫なり。正成の二女を小浪といふ。里宮宮
司宮下記太夫明吉に稼ぐ。弘安五年明吉 父園明と徐顧博 共他古文書の流失を救
出せむとして、共に興に溺死し ぬ。小浪の方は、三歳なる長子里宮丸を伴ひ 山宮の質

家に騎りて寄食 せり。正成の嫡男大宮司源太夫義泰は里宮丸を子として養ふ。
長するに及びて義泰の嫡子大宮司義忠天折するや 里宮丸共後を襲ふ。即ち第五
十六代宮下 右近亮義高是なり。初め、第四十八代記太夫政仁のとき、子孫分れて、太
碑宮の大宮司と、里宮宮司となれり。太碑宮の大宮司子孫七代、里宮宮司子孫赤七

代を歴て復た 一に騎し以て遺れる複寛 古 文書を保護する こと、なりにき。


義高は富士又八良國安の長女菊野を要り、六左衛門義勝 八郎左衛門高通 源左門


義正を撃 ぐ。弘和三発 玄年七月十七日夢 ず。毒八十六。


柏木仁太夫義時を以て、副司 となす。忠太夫義國の長子なり。渡部庄太夫綱利
の 女 高 江 を要り ぬ。
太田伴長太夫量稲及羽田伴宗太夫園秋を以て赴元老司となす。具稲は 九太夫
第三章 碑 皇 書 複 窮 保存 大宮司 四九一
碑 皇 紀 四九二
異豊 の 長子 にし て、國 秋は、治 太夫元秋 の 長子 なり。
第五十七代 富士三浦左京亮義勝
富士三浦左京亮義勝は前大宮司 傘富士十二郷継地頭富士宮下右近 亮義高の長
子なり。大多和 城に生育せしに因り 幼名を大多和六 左衛門と稲し、後富士三浦六
三 左衛門と稲す。新田六郎太郎朝氏の女新田義貞妹鶴江を要る。義勝残人精忠卓
識 私に志士を鼓吹し以 て王政復古を ぞ期しける。藤原藤房 補木正成等と、密約 を
定め 後 新田義貞を援 け、北條氏を亡し ぬ。共功を以て建武元甲成年三月十二日従
五位に叙し 源太夫に任じ越中 守に補し、駿相豆 の地頭を奪ね しめらる。是ょり三
浦越中守と稲す。六月十日 義貞より駿河國駿東郡富士郡を初め 越後國蒲原郡の
三 郡 を ぞ義勝 に分興し にける。 *
建久元甲成年十一月三日、征夷大将軍護良親王の足利 直義に附して鎌倉 に流さ
れ給ふや補木正成 親王の 一王子萬毒王に危害の及ばむ ことを恐る。乃ち正成は、
王子の外祀二條 大納言貸定と謀り 美濃の人堀日美濃 守貞満をして密 に之を擁護
せ しむ。後、従士橋本八郎 正 貞 和田 五郎 正隆 を非人 に 鍵装し て、王子 を義勝 の 居城
小室城宮下の館に移駐し奉る。時に王年僅九。翌年二月二日、義勝父義高と議り、
共置城たる宇津峰南城内に潜 駐し奉る。従父富士又八郎義照 狩野太郎興家をし
て を衛護せしめにき。

4 延元三成宣 年六月二 十日、宗良 親王、小室城宮下の館 に入らせ 給ふ。旦日、匿城た
三 る宇津峰 南城に駐 らせ給ふ。乃ち親王は、甥萬毒 王を元服せしめ、國賊 足利兄弟を
・ 滅ぼし 我國を再興 すべしとて、興良親王と稲せしむ。興國二 辛己年二 月五日、吉野
より勅使 萬里小路 秀房、宇津峰 南城 に参向。興良親王 を以て、征夷 大将軍に 任じ、常
陸の大 守に補し 陸の 一字を賜はり 陸良 親王と改稲 せしめ、上野・下野雨國の 守護を

傘しめ給 ふ。時に 毒 十六。
之 正平四己 五年三 月四日、後 村上天皇 より、義勝 に論旨を 賜ふ。即ち「楠新雨家 亡ぶ
巻 る上は、賊 足利の 一類を挫 き考ふ大将 は、股 國大 日本に、次 の外之 なし。」 と義勝、威 泣
惜 く能はず、覚に専ら 兵馬を 事と する に 至れり。乃ち 奇計を 廻らし、間謀 を放ちて
足利氏兄弟を離間し、且つ 密に、甥新田 義宗 脇屋義治をして、大に兵を催さしむ。途
に正平十乙未年六月二十八日義勝は義宗 義治等と共に征東将軍宗良親王を奉じ
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 四九三
四九四
碑 皇 紀
越後より上毛に顕れ 吾妻に陣す。兵十萬と稲す。先づ義治義興をして録倉を襲
はしむ。後義宗をして三萬に将として奪氏を激 へ撃たしむ。然るに吾陣中 に 反
應者ありて内外相應じ 音軍を攻む。一軍大に飢 る。義勝 先っ義宗をして 親 ェを
奉じて信濃に逃れしめ自ら止まり戦ひ三百十六人と枕を並べ自刃して薬ず。時
に七月二 十 一日 にし て、毒 五十 六。

柏木忠太夫義隆を以て副司と なす。仁太夫義時の長子なり。宮下右近亮義高
の 女 小萩 を要り ぬ。
太田伴九太夫正基及羽田伴宗太夫時能を以て赴元老司となす。正基は 長太夫

眞稲の長子にして、時能は譲 を六郎左衛門と稲し 國秋の長子なり。初め大宮司義


勝の新田義貞と北條征討の密約を貸すや富士三勇士たる羽田六郎左衛門時能 長

演顕寛 徳塚伊賀守忠勝(㎞)を以て人質として義貞に そ入れにける。足に於

て、時能は、共職を弟羽田 宗二郎正時にぞ譲りける。
第 五十 八 代 宇津左京 亮義利
字津 左京 亮義利は前大宮司 条富士十二 郷総地頭三浦左京 亮義勝の長子なり。
父 の後を嗣ぎ、越中守 と稲 す。後 名 を道次 と改め賜ふ。又 祀父宮下右近亮 義高 が
宇津峰南城に隠逃し て南朝の諸皇族を 守護し、城内に田を耕し て慰め奉り、自ら田
貫次郎と稲せしに由 り 義利赤田貫又は 宇津と稲し ぬ。井伊遠江守道 政の二女伊
佐姫を要る。父戦死 の後、父に代り、宇津峰 南城に於て宗良 親王チ良 親王を 守護し
奉り、親王を慰め奉 らむとして、常に徐顧博、又は寒川日記より 海伊國開闘歴記 作田
彦命の歴代記共他の古 文書を砂録して捧 呈せし こと勘 からず。然るに後属。足利
氏に古文書を龍の 河原に於て焼棄せしめ られたり。故に共原書たる宮下源太夫
義仁の膳寛 に係れる寒川 日記は、遂に酒 滅に騎しにしも、義利の砂録して親王 に捧

呈せしものの存在し あれば、幸に太古の事 填を推知することを得べきなり。後、尹


良親王の上毛に移らせ給はむとせらる、や義利親王を擁護して道中事なく移駐
し奉りければ、親王大 に喜び給 ひ 名を道次 と 賜ふ。應永三十一甲辰年八月、親王の

信濃 譲訪より、同國 大河原 に至らせ給ふや、土賊の襲ふ所となれ り。道次、奮撃轄 闘


意 に親王と共に戦死 せり。時に八月十五 日。毒八十八。
柏木仁太夫義 奪 を以て、副司となす。忠 太夫義隆の長子なり。宇津左京亮義利
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 四九五
・碑 皇 紀 四九六
-
の女 小糸を要りぬ。
太田伴長 太夫量 兵、及 羽田伴七郎正宗を以て、赴元老司となす。眞兵は、九太夫正
眞の長子にして、正宗は時能 正時の 弟にして、宗太夫國秋の三子なり。後、正宗は四
條際に於て楠木正行に従ひ戦死す。時に毒三十二。(㎞)

第二期 大宮司 保存時代


第 五十九代 宇津源太夫宗正

宇津源太夫宗正は、又、田貫左京亮宗正 と稲 す。前大宮司 衆富士十二 郷継地頭宇


津左京 亮義利の三子なり。千野六郎伊豆守頼憲の女志摩姫 を要る。應永 十五年


四 月 六日、足利氏 より富士 十二 郷初め太碑宮の碑領を官 没せ られ、之 を上杉民部太

輔顕憲に賜ふ。十月十日 宗正を以て、太碑宮の大宮司 となす。文正元内成年十二月
七日夢 ず。毒七十二。代々 の大宮司、密に南朝に義を樹てし こと、足利氏の知る所
となれり。共豚 剛特に甚しく、紳官の多くは戦死し太碑宮大に衰微し て、赤見る に
***********
第六十代 容 上 源 太夫 將 中心
富士原 太夫 將 中心 は、前 大宮司 字 德 原 大夫 家 正 の 弟 にし て、牛津 在京 京 義利 の 五子
なり。 神木 一郎 正光 の 女 海江 を 愛 る。 文 會 一 千 成年 十 二 月 一 日 慶子。 義元十八º
第六十 一 代 育 下 原 大大 宗明
停 下流 大夫 尔 加 は前 大宮司 出土 桃 太夫 義 思 の 場 にし て 学 法 源 太夫 亦 正 の 長子
なり。 她 本 土地 正親 の 女友 子 を 愛 る。 天文 二条 巴 年 十 月 十 日 慶 すº 議 也 十 二º
第六十二代 者 下 世 太 大宗 崇
佐 下 座 大夫 余 家 は 前 大佐 同省 下原大夫 余 四 の 長子 たり。 當下中 太夫 哥 利 の 女
建 于 を 愛 る。 永 曆 十 于 加 年 11 月 二 十 二 日 英文º 府 八 十 五º
第六 十 三代 者 下記 太 大宗 元
位 下記 太夫 余 无 は 前 大宮 司令 下世 太夫 余 家 の 二子 たり。 佐藤 文 三郎 の 仲良 玉
子 を 愛 る。 慶長 四 已 次 年 八 月 一 日 施すº ॥ A +<
第六 十 四代 三浦 兵部朝宗 所 .
第 三 章 羯 庁舎 校 的 保存 大宮司 四九七
_- - -
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-
碑 皇 紀 四九八
三浦兵部輔宗折は前大宮司宮下記太夫宗元の養子にして、第五十六代宮下右近
高義高十三世の孫三浦義鎮の長子なり。岡部丹後 守の女静野を要る。慶長十五
康成年九月九日夢 す。毒 七十三。
第六十 五代 宮下右近亭 宗義
宮下右近 亮宗義は前大宮司三浦兵部大輔宗折の長子なり。山懸三郎兵衛 員 景
の女菊野を要る。慶長十二 丁未年七月四日夢ず。毒四十二。
第六十 六代 宮下源 太夫宗高
宮下源太夫宗高は前大宮司宮下右近亮宗義の長子なり。長田源二郎の姉波 摩
子を要る。常代に至り 複寛 古 文書赤潮く腐朽せむとするもの あるを以て旅岩田
五 右衛門源貸吉 に命し て、先づ共腐朽 に係れるもの より、更に又た複寛 せしめにき。
寛文二 千 宣 年四月八 日夢 ず。毒 七十八。
第六十七代 宮下甚太夫宗忠
宮下甚太夫宗忠は前大宮司宮下源太夫宗高の長子なり。寛文五六年の交より
土地の 領主秋元撮 津守番 知、虐 政を達 にし牧飲 を そ厚うし にける。大宮司 宗忠 卒
失 し て義を 唱《康夫 為 《 上 風4,る 所ありサり。 即ち 主 なり て 金 文人成中年
月四 日 全 非 阿爾 に於 て家思を新 事 に走しむ。 義11+ 五。 (戰 戰 記錄)
第一期 尔 家保存 時代 _
第六十 八代 員 士 原 大夫 將 官
富士 陵 太 義信 は 前 大宮司 曾 下 世太夫 余 中心 の 従弟 にし て、第 六 十 五 代 名 下 有 近東
宗 表 の 二子 宮下 条 方 衛門 の 長子 なり。 初め 家忠 の 新 軍 に 達 やら る や、 明 主 政 元康
津 字 季高知 は、宗 中心 の 三 族 を 東 ば、果 代 の 大宮司 職 を 観客 し、発 で 第 四 十 九 代 名 下 深 大
夫 義た の 弟 生 太夫 重奏 十 五 世 の 孫 安 卡 生 太夫 重 製 を以て 大宮司 に そ 結 しける。
而 し て古 文書 者 数 を 社 前 たる 語 の 河原 に 於 て検察 し に き。 然るに 家人 機 を 見て、
英 一 部を 隠居 し てけり。 カ ち、1 度 等 其自我 を 集め 本 史 の 妹 學 文 に 配 し 家家 を 再
與 李。 部 ら 流 大夫 義信 是 なり。 然 れ とも 第 主 政 元 將 建 宁 府 知 に は、渡部 に 太夫 の
分 家 と 解 し て 唯 德 に 共 許可 を 得 たる のみ。 義信 及び 其 一族 等 新 《 書香 たる 古文
書 の 古家 より 戻“突尼 に 座り し を以て 復 た ク に 過 は ちか を 恐れ、 話 後 封 し て 様 %
第 三 章 桜 容 保存 大名 司 四九 九
メ *
碑 皇 紀 ○二
宮下元太夫義興は、宮下源太夫義照の弟 にし て、宮下 甚 太夫義光の二子 なり。宮
下忠二郎の 長女 梅を 要る。兄義照の天 折 する や、共 後 を襲 き て源兵衛 と 稲 す。
文久 三 発 攻年十 一月二 十九 日夜、隣倍 火 を失 す。曾、西風烈しく、火勢 修 ち四散 し
て震爆盆地る。時に義興年十四。病舞中にあり。潮く枝に偽り を伯父の家に
避 く。母、病夫及 八十五歳 の 老始を 扶け、幼女を携 へ て 従ふ。姉 梅子時に年二十一。
風先の遺訓を長み単身身を園らして奥室に入り祀先の様梁に結着し置ける濃紙
包 の 古 箱、及 刀剣 類を 大箱 に入れ、槍 弓 等を 館 後の 小川 に 沈め、尚 ほ 備倉龍中の 位牌 過
古 帳 を 取編め、共に 大箱 に牧 め、負荷 し て将 に火 を避け なむ とするや、悪漢之 を奪 ひ
去る。直に追跡 して 取還 せしに、悪漢にあらずして、救難 に駆付け し 一族なりき。
梅子即ち引返し、更に碑架三 赴 の 宮 を 搬出 せ むと する や、紅 畑 天 を 競 き黒畑地に 温
り、赤 如何 ともする能はず。意 に本館 及 家貨仕 質 撃け て 烏有 に 騎 し にけり。地も、
本館 は 代々 大宮司 の 居城 にし て、所 請富士 阿 祀谷 小室城 宮下 の館 是なり。寛文 年
中阿 田都 山の 小室 の里 より新屋敷 に移しけるもの なり。碑架三赴 の 宮は、天照大
御碑 の御 碑鶴 として 奉祀 ましませる紳 代 の 武器、共他の 資物を安置し あり し とい
- -
* シ 1y * 『 シ j 「
ふ。
明治十六発 未年二月二十二日 義興は常時富士阿祀谷七廟継名元宮小室浅間太
碑宮の碑官宮下荘斎と議り、文明の今日 祀先の遺訓を破り 古箱を開くも明を失す
ることなかる べしとて、深夜、泳 沿斎戒して居宅の奥の 一室に籠り 姉梅子の 救出 に
三 係れる古箱 共他の武器を牧め列ねぬ。乃ち崎祀の後共古箱を開けは碑皇に闘す
る古文書 即ち徐顧博実川日記共他の複寛古 文書は南朝の諸記録と共に顕れ出っ
偶 父義光の宿病怒ち産えにしとそ。(㎞)
第三章 碑 皇 書 復 % 修 存 大宮司 五○三
-- - -
- 愛

-
第四編 徐 顧之巻 碑皇書 記録 者
第 一章 上篇 秦徐顧
第一 徐顧 来歴
碑皇に闘する古 文書は、人皇第七代孝霊天皇七十四年、不二山に来れる秦徐顧及
共子孫が 碑祇の後胤等に就き、基日牌は言質記録 系譜などに擁り之を記録しける
もの なり。

秦始皇帝三年(㎞ ) 帝 東の方郡懸を行り海上に遊び 覚に朝曜山の峰に上


り、東海を望 ませ 給 へり。時に、徐顧上書 して、童男童女 と東海 に 入り、逐薬・方丈・源 洲


の三碑 仙 及び不老 不死 の薬を求め む ことを請 ひ、以 て 不二山 に来れるもの なり。


-

(㎞)-
夫れ徐顧は軒韓氏より出づ。軒韓氏第四の御子を忠顕氏といふ。忠顕氏六世
の 孫を 萬正 氏 といふ。萬正 氏 夏再 王 に 仕 へ、農作 の 事を 掌 る。子孫世々 夏 に 仕 へ
しも共亡 ひし後、又 朝 に仕 へ ず。萬正 氏、四十八世 の 高を 正勝 といふ。正勝、文學を
第 一章 上篇 秦徐 顧 五○五
脚 白 和 五CO
に結 者 し たり けるº 5% め て 目 く不 時に 際 は 生 ? 之 を 守護 す可 し。 若 し 運
と、N た 開か ば、明 を 失 す 可 し。 こそ 系 相 成 的 で 1 人 の 開く もの なくN を 保護 した
りº 高保 十 J J 年 十 月 四 日 卒 2° 羯 < 十 四。
第六十九代 育 下 世 太 大義 法
三 有 下 世 太夫 義 法 は 離 を 作 好 在 衛門 と いひ 的 平原 大夫 義信 の 長子 なり。 小 在野
越後 守 の 女 小銃 を 愛 る。 高保 十 八 次 开 年 十 月 四 日 卒 3。 康熙 五 十 六。
第七十代 府下 原 大 大義 度
有 下 原 大夫 義 派 は 詩 を 忠 在 衛門 と いび、 自 下 世 太夫 義治 の 長子 なり。 波 部 左1太
夫 の 女 小春 を 愛 る。 延 享 四 丁 加 年 十 一 月 11 日 卒 3° 者 五 十 八。
第七十 一 代 育 下 作 郎 太 大義 根
有 下 作對 太夫 將 根 は 論 を 生 在 衛門 と いひ 的 下 派 大夫 義 度 の 長子 なり。 波 部 中心
右 衛 の 女 小米 を 愛 る。 資歷 三 尖 西 年 六 月 二 十 四 日 卒 ォ。 高 三 十。
第七 代 -雞太夫將
******“…………*********“
夫 の 女 平 を 要 る。 安永 入 巴 文 年 十 月 二 十 四 日 卒 }° 者 四 十。
第 七 十 三代 育 下 作 太夫 將 其
省 下作太夫 義景 は 金 を生 方 衛門 と いび 下海 大夫 義貞 の長子たり。 機 部 u太
夫 の 女 德 を 愛 る。 安永 三 甲午年 十 二 月 十 一 日 卒 }。 嘉 二 十 一 。
第七十 四代 育 下 原 太 大義 作
宮下 派 大夫 義 作 は、議 を 派 兵衛 と いび、宮下 作 太夫 將 其 の 長子 なり。 宮下 派 有 街
門 の 女 多 與 を 愛 る。 天保 太 乙未 年 七 月 二 十 日 卒 2。 為 六 十 四。
第七十 五代 者 下 世 太 大 義光
宮下 世 太夫 將 光 は 議 を 高級 といふ、宮下 原 大夫 義 作 の 長子 たり。 至 原 體 與 衛 の
長女 成 梁 を 愛 る。 明治 二 十 一 成子 年 三 月 三 十 日 卒 }。 表 也 十。
-
第七十六代 者 下 原 太 大 義昭
有 下 原 大夫 義 路 は 論 を 派 兵衛 と いび、宮下 世 太夫 義光 の 長子 なり。 安政 五 成子
年 八 月 11 日 卒す。 義 十 八。
第七 十 七代 者 下 完 太夫 義興
第 二章 論文 書 被 寫 《 在 大 を 司 五0
** ، ، ، ،
-
碑 皇紀 ○二
宮下 元太夫義興は、宮下源太夫義照の弟にし て、宮下甚太夫義光の 二子 なり。宮
下忠二郎の 長女 梅を要る。兄 義照の天折 する や 共 後を襲 きて源兵衛 と 稲 す。
文久三発 支年十 一月二 十九日夜、隣倍 火を 失 す。曾、西風烈しく、火勢 候ち四散し
て震爆盆地る。時に義興年十四。病響中にあり。潮く枝に偽り 離を伯父の家に
三 避く。母 病夫及 八十五歳の老始 を扶け、幼女を携 へ て 従ふ。姉梅子時に年二十一。
祀先の遺訓を長み軍身身を躍らして奥室に入り 組先の様梁に結着し置ける遊 紙
包 の 古箱 及 刀剣 類を大箱 に入れ 槍弓 等を館後の 小川に沈め、尚ほ備 倉龍中の位牌過
古 帳 を取編め、共に 大箱 に牧 め、負荷して 将に火を避け なむとするや、悪漢之 を奪 ひ
去る。直に追跡し て 取還せ し に、悪漢にあらず し て、救難 に駆付け し 一族なりき。
梅子即ち引返し、更に 碑架三 赴 の宮を搬出 せ むと するや、紅 船天 を 般き黒畑地に 温
り、赤 如何 とも する能はず。意 に 本館及 家貨付 質撃け て鳥有 に 騎しにけり。抑も、
本館 は代々 大宮司 の居城 にして、所 請富士阿祀谷 小室城宮下の館 是なり。寛文年
中阿 田都 山 の小室の里より新屋敷に移しけるもの なり。碑架三赴の宮は 天照大
御碑の御碑鶴として奉祀ましませる碑 代の武器 共他の質物を安置 しありしとい
ふ。
明治十六発 未年二 月二 十二 日、義興は常時富士阿 祀谷 七廟継名元宮小室浅間太
碑 宮 の碑 官 宮下荘 斎 と議 り、文明 の 今日、祀先の遺訓 を破り、古 箱 を開くも明 を失 す
る ことなか るべし とて、深夜、汰 溶斎戒し て、居宅の奥の 一室に籠り、姉梅子の 救出 に
係 れる古 箱、共他の 武器を 牧め列 ね ぬ。乃ち轄 祀の 後 共 古 箱 を開け は、碑皇 に 闘 す
る古 文書、即ち徐顧博・寒川 日記共他の複寛古 文書は、南朝の諸記録 と、共に顕れ出づ。
偶、父義光の宿病怒ち癒えにしとそ。(㎞
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 五○三
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第四編徐 顧之巻 碑皇書記録者
第 一章 上篇 秦徐 顧
第一 徐 顧来歴
碑皇に闘する古文書は 人皇第七代孝霊天皇七十四年、不二山に来れる秦徐顧及
共子孫が 碑祇の後胤等に就き 基日牌使言質記録 楽譜などに擁り 之を記録しける
もの なり。

秦始皇帝三年(㎞ ) 帝 東の方郡懸を行り海上に遊び 覚に朝曜山の峰に上


り 東海を望 ませ 給 へり。時に、徐 顧上書して、童男童女 と東海 に入り、逐薬・方丈・源 洲


の三碑仙 及び不老 不死 の 薬を求め む ことを請 ひ、以 て 不二山に来れるもの なり。


(㎞)
夫れ徐 顧は 軒韓 氏 より出づ。軒韓 氏、第四の御子を忠顕氏といふ。忠顕氏六世
の 孫 を高正氏といふ。萬正氏 夏再王に仕 へ、農作の 事を掌る。子孫世々 夏に仕 へ
しも共亡 ひし後、又 朝に仕 へ ず。萬正 氏、四十八世 の 高を 正勝 といふ。正勝、文學を
第 一章 上篇 秦徐 顧 五○五
碑 皇 紀 五○六
能くし、地理 に精し出 で 、周の武王に仕 へ て功あり。性を徐と賜 ひ 禁定國の首長 に
、補せらる。武永武正武建 武長 長良 武達 武富 長佐武天 武宗 武彦武晴 武賢 武顕 武祀
武力 武春を歴 て、部子に至る。都 子、曾、郷喜の害する所となる。弟然築楚憤然父祀の
領地、楚を復奮 せしか ども遺子茶公、母 と共に逃れ て、深山の大洞に匿 れ、農事 を そ事
としたりける。
築公より 農雄・田眞泰田國永・洞山 徐 子・原田を 歴 て、子路 に 至る。子路、孔子の門に
入り、學を修 む。子孫 世々 儒學 を以て、顕は る。子路、忠永 の女 旨共仁 婦人 を要り、太達

を生む。太達、高永 の 女 小白 婦人を 要り 光正を生む。光正、楚 山 の 女澤江 婦人を 要


り、良 永を生む。良 永、古山 の 女 玉木 婦人を 要り、長良を生む。長 長、三永 の 女竹 仁婦


人を要り 落鮮 を生む。唯 奏王に 仕 へ、應候 に 封 せらる。斎知の女質永婦人を要り


て徐顧 を生め り。
徐顧は名を徐子(㎞*)といふ。徐顧は即ち共字なり。博く儒事を修
め、後 天笠一に 渡り、備 寧 を究 むる こと 七年、切 磁 勉 動 章 に 一切経の 奥義を攻 む。後 薬
師如来 の備像を求め、以 て本國に 騎る。秦王政 に仕 へ 動 功赤 診からず。官位 潮く
建造 し て 帰る軍用 せ られ% に宮女 學 書籍人 を 展 。 李を 踏 上 城人(ち帰 *)と *
*。 後 本 の女たり。 王天下を 続 し て 知ら自ら 始皇帝と 解す。 三年(機 轉 +)*
東 の 方 郡 縣 を 巡航 し て 朝 康 山 の 降 に 上り東海を 望 ませ 始ま。 傳達に 達東山 島 の
見 は る ) % ク。 皇帝 为 方 通 轉送 させ 結ぶ。
後藤 秀 ら 上 書 し て 目 く東海 の 進來之 文泰州 の 三神山 は 全 世界 の 大 元 祖國 にし
て 大 元祖 タ の 神仙 の 正 れる あり 日 っ 不老 不死 の 良 業 あり。 若 し 之 を 服 や は、千 萬
威 の 護衛 を 保持 すると と を 得 可 し。 區將 に 重要 意 安五 百 人 と海 に 入り'N を 集め
も と 話 よ。 元 ら 認 し て 共 定義 を 求め した 。 徐福 文泰 すら く' N た 末 Q ち に は 少く
Ä

* + 五 年運 く は 三 十 年 を 要 すべ し。 故に相當 の 旅 装 を 要 す。 即ち 金 鋼鐵 被 金
Ż

球 王 及び 家 食 器具並 に 大船 人十 五 級 を 要 すべ し。 これら 共 育 の 如く し て 製造 を

, *。 カ ち 同年 六 月 二 十 日 後藤 は 重要 意 安 五 百 人並 に 共 租金 等 を 大船 人士
五 級 に 分 乘 し て後したりサ り。(總體變 體論証)
1 名 不 11 達東山 を 目標 として 海上 東 に 向 か て航 やり。 航 すると と 総 書 を と な
く 家 クけるに 優、1 島を 認 た 。 即ち 不 二 進來 出 たる べし、と て 来 大 に喜び て 上陸し、
第 1 第 楽 祭祀 五 Q七
*- - - - - ------ ------
碑 皇 紀 五o人
西 に東 に と 素 むれ とも、曾 て共山 を見ず。乃ち 比島 にあら じ、と て 赤 一行元 の 船 に
騎 り、更に大海 を東南 に 向 ひ て航 し来れる に、左右 に 島 あるも、不二 落達葉山 更に見え
ず。共より 又 南東に 向 ひ て 航しける に、一 日 天 晴れ浪 静 かなり しかば、偶、東方海上
遥に不二選来山の現はるるを認む。一行五百除人大に脱び 読れも之に通拝をそ
なし ける。
是に於 て船を早め て、航しける に、何時しか共 山をも見失ひけり。然 れ ども共現
れし 方 に 向 ひ て 航 しける に 曾、赤大山 を 認 む。是 ぞ 不二 落 薬 山 なり なむ、と て 山 の
裾野に船を繋ぎ、一行皆上陸をそなしにける。時に十月二十五日(㎞。")なり
き。然るに不二落葉山と容貌異なれるものあれば、一行旦つ驚き且つ 悲しみにき。
之 乃ち先づ共地 に居を定め部署して 山を素め むものをとて東西に分 れ、日々 彼虜 に
比虜にと索めしに、一日 潮く不二蓮来山を見附けけり。時に既に上陸後三年を過
ミミ S
き o ここ
。養比上陸せし地を聞けは本日園(㎞の本を野の夫山ならしさいふ
**天皇七十四年九月十三日、一行赤船に分乗し共見附けたりし不二 違来山を
『シとして東に航しけり。十有除日にして遂に住留 家の字記島原に上陸したり
* 』 tA Fi ーイ、「1 『4 *

けり。即ち松岡 騎 より水 久保騒を越 へ、山村を経て 不二 蓮葉山の中央 高天原に登
り 川口 ㎞ より阿 祀谷 小室家 基都響 に着 しけるは、十月五 日なりき。先づ 阿祀 山 太
碑宮初め、各 七廟 に 拝濃を なし ぬ。更に 大 室 の 原 に 止り 後、中室に移* g。童男童

女 五百除人 或は中室に、或は大室に居を占め にけり。


へへへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜へヘヘヘへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜°ーへへー〜〜^ー

一行中 に は、或は 農夫・大工・壁 塗・獅 人 あり。或は 紙師 紙 海・笠 張楽人 仙人あり。或


は 衣類仕立 工 女・酒製造 夫・油 製造 夫・職 製造 夫 あり。或は 鍛治 夫・鋳物師 諸細 工夫・石

工夫あり。或は 賢師・賢者あり。共他各種の 諸 職 夫あり て各 共職業 に従事 したり


けり。徐 顧は童男童女を督し て、先づ ㎞ を養はしめ、婦女等をし て、糸を製 せしめ以
て機を織らしめけり。(㎞)
武内宿禰 偶。不二山元宮七廟惣 名阿祀 山太碑宮 に奉幣し 来 りき。即ち徐 顧 の 来
朝 を聞き 大 に 脱 び 後、遂に共門 に 入り て、徐 顧 及び共 子 顧永 等 に従 ひ て、教 を受け、徐
顧 寧 を 信 する こと特に厚 かりき。後 又 男 矢代 宿禰 を伴 ひ 来 り、父子、共に 共龍 奥を
究 む。共門葉 なる に因り、矢代宿禰 をし て秦 に 縁 みて羽田矢代宿禰と稲 せしむ。
後 矢代 宿禰 赤 途 に大室に 止り ぬ。
第 一章 上 篇 秦 徐 観 五O九
-
碑 皇 紀 五一○
秦 徐顧は、初め、武内宿禰等の請を容れ 共 寧 を講 するや、高天原 に於ける碑 祇の後
胤等、赤 来りて 教 を請 へり。即ち、阿 祀 山 太碑宮の宮守司長、祀佐男 命六十八世の 後
胤 尾羽 張田彦 共子 不二 田彦は、副 司長、大山祇 命 六十四 世 の後胤小室彦 共 子 阿祀彦
等赤入りて共撃を究め除風を信すること順る厚く遂に高天原の由来並に各共祀
先 の来歴 をも、告ぐるに 至れり。是 に於 て、徐顧は、共碑 代の事 填の 潮く酒 滅 せ むこ
と を 恐れ、之 を 録 取 し て、世に博 へ む こと を そ期し にける。
徐 顧は、爾後 宮守司長尾羽 張田彦 共子不二 田彦副 司長 小室彦共子阿 祀 彦を初め、
宮守家たりし太賞祀 命の後胤、火照須 命の後胤、火須勢理 命の後胤、日子 火 火出見命
の後胤、大國 主命の後胤、天 太玉 命の後胤、天 見屋根 命の後胤 並 に 平宮守家たりし楽
日子 命の後胤、天火明 命の後胤、金山 里 古 命の後胤 作田里古 命の後胤、大物主命の後
胤 前玉 命の後胤 武響 植 命の後胤、経 津主命の後胤、稚 武王 命 の後胤、建御名方命の 後
シスシ
「シの後胤真玉命の後胤 備明玉命の後胤同祀足古命の後シリ命の後胤*
ュ老翁命の後胤願園玉命の後胤 量王武足古命の後胤 合堀留日命の後胤 予カ男令
の後胤 高照昆女命の後胤 下照昆女命の後胤、天 鋼女命の後胤 所請高天原 三十六碑
戸 なる碑祇の後胤等に就き共 日 牌・日談、博言 並に各家 に秘蔵として博れる種々 の
賞記録 及各系譜等を録取して十二史談を作る。之を一に徐顧停とそ稲しける。
後又、徐顧の子孫の 録取しけるもの赤勢からず。
碑 祇の後胤等の秘蔵せる質記録及 系譜等は碑代に於 て共祀先の書き遺し置き
まししもの とす。即ち 消炭を平なる石の上にて、種々 の油を加 へ て磨り、小さき篠
竹を伐り、共尖頭を能く噛み て柏の葉竹の葉、又は竹片 若くは木片に碑代の 文字を

以 て 書き附け たるもの なり。


徐 顧 は、小室高座山 に資蔵を造営して自ら魔 らし来れる薬師如来を安置し奉り、


旦っ録取しける十 二 史談即ち徐顧博 並に自ら斎 らし来れる各種書類 一千八百巻


孔子著作書 一千八百五十巻 共他各種の質物を納め以て阿 祀山 太碑宮の質物とな


せり。是ょり比古文書資物類は同太碑宮代々の大宮司に於て保護することとな
む なり にける。
人皇八代 孝元天皇七発色年二月八日 秦徐顧 高天原中室に於て夢 ず。中室麻呂
第 一章 上 篇 秦 徐 祀 五一
神 桜 五| 1
山 の 陰 に張る。 其 文字 を 教 各種 の 職業 を修 《特に神代 より の 寺 駅 を後世 に伴
4,3 ㎞* 羯 座 大 たる もの ある を以て 時 人 共 德 を 称し 離 能 の 加 くし て ク を
劇たり。(戰號線 體轉讓球 總 體積 體 。
第1 育基 里 希里 安
會 男 童女 と は 素 為 皇帝 三 年從頭 に 従 か て海 に 入り、運 來之 交通 州 の 三 神 山の神
仙 及 不老 不死 の 薬 を 求め ち として、我國 に 水 期 せ し もの たり。 帝 弗 雷 文中 に は 永
人 として 男 たる もの 三 十 五 人女 たる もの 四 十 五 人。 文类 ある 男 百 一 十 八 人、天 %

る 女 武 四 十 五 人 內也 人安 婦。 又非人 にし て 男 たる もの 四 十 一 人女 なる 。の 四 +

< «ş人 にし てかた。 五十 人々なる。 十 人人 * **


Ż

の 1 % + 一人 を 合せ て、五 百 五 十 八 人 なり き。
卷 徐福 一家
麥金龍 東 羅山 女 男爵 夫婦 白 龍 女 二男 關 區 三男 後他 四 男爵 家 長女 天正 *11 %
義 安 女 三 女 安 王女 將 ·阿 夫 正 女 以上 十 11 人。
老人 男 分
*、* ー〜 「
徐永徳正 藤行 伴光 回萬 博正・清明 明天 除資 知園・智泰 徳正 園世 要金 不最言光 永明
長生 勤貞平喜 仙知 源工 元清忠永 信正 加姓・久安 興大 明徳 戸山 湯元・魔美空雷 仁 基永 以
上三十五人。
老人女分
清自女 美自女目永女真流女真受女井自女シ徳女(㎞)・夜音女 日波女 日仲女
日向女 月光女 光正女 角永女・丸長女 作仁女 忠流女波天女 小天女 尾波女 兵仲女 兵正
女 正面女 身進女(㎞。)仲正女春正女(㎞)夏河女秋志女冬木女冬寒女 春花女 加

津女多仁女太玉女興日女 長太女 身根女 下根女加和女 加願女㎞ )登根女 戸開女


久佐 女・瀬佐女 以上 四十五人。

有 妻人男分

利盆 思時 要領 態佐治稲 経京 清明(㎞)天雲元雨 長進 長流 長日 伴貞 泰領 光敬三造


三弾 三東 陸清海明海蔵 永雲 清應 慶山 明山 明應古世大造 小明正海 行安発技 動山 金
明 銀山 競山 競人 用應元資元忠 約明攻山 知明知山 光明 明山・足敬質 成人常 博保自應
山保明湯重山 泰保 政人 清永 水天心明親光(㎞) 考明孝徳古山 平敷 波運 件平平作
第 一章 上 篇 秦 徐 顧 五一“
五一四
碑 皇 紀
田奈田主田吾 田史 波最雪山清丹元丹 郡明園正 案明 利明シ元 他田丸基 基治信正*
佐真治義身 義正 和光正金賞正治永明仁王道主 魔点摩質慶安貞光貞一保 二保*治
平間隔治来治中清 態治中進元之 正之 正行 正勝最宮 基高正進他知 一鷹 金田 君治公
明公官(㎞)高清道治谷見湖身㎞足命光 術心面治津治都幸奈治加幸*幸時即谷
宇明 谷仁玉應以上百三十八人。
有夫人女分(内七人寡婦)
龍永女 天龍女 明水女 水泉女大姉女小姉女 津気女波間女身目女加目女佐目女岩

水女登志女波加女津根女加和女 加久女加伊女 非佐女 興志女 登次女 平間女ショ女


津伊女 守利女倉幸女宮日女永目女久志女 波久女官加女官美女不出女*身女 加久


女去加女佐加女 田根女波留女間根女身根女太仁女佐和女*知女川水女加和女*
身女 瀬奈女津目女波羅女 久仁女 字根女 登目女 君身女 字羅女 時身女 久佐女木根女

太目女伊京女佐根女佐永女津知女 津基女漫佐女湯気女初根女真佐女知 *女加 *
玄天津奏高毒奏御冒季長奏㎞k伊安佐日安佐多女身坂女㎞。加佐シ
伊女常根女子志女字永女 誌モ女誌渡女*津女シ女シ。
j} 「メ } j | 、
ーミ、
ト』 - - ミ ”、
は、 し*ー& # し*ー6j こ * *ーょ。“
早目女( ㎞。佐足女太知女太身女太永女良天女・中天女 加時女奈佐女春 一女 小丸
〜〜〜〜〜〜〜へヘヘ

女中目女 大丸女 下手女西太女 北根女主東風女・小一女 小嵐女 大北目女 手奈女足奈女


加太女 久和比女 加太女 小太女 太田女 小奈女 小奈身女太日女 根仲女 尾気女・一根女

和加女 日 加根女足目女 登伊女 伊佐女佐伊 女・平身女・小目女・阿佐女 奈日女 五三女 五


七女彦身女基日女同和女独足女 日根女奏仁女波根女津永女日加女㎞) 以上
百 四十五人。
若人男 分

元定ら *園時(㎞)・山貞 海良 法松 身金銀保 他 千・一六 艦奏 知重水治 千


太 高金 千毒 千金 長正 登仙 安慶 成三 除京 藤元 徳成・建保 建重 京太 始明 常仙

波司 産 古間古 長建 更 千司長 仲谷 深山 以上四十 一人。


若人女分
阿 根女真目女 佐加女 要目女 利佐女 湯和女 太根女 久志女
田女 田慶女 兵津女 字日女・一日女奏和女 兵田女 田尾女 波加女


安和 女 姿等女 不世女シ日女シ和女・忍 志女・身佐女・日仲女 登伊女 志仁女 根漫女 字根
第 一章 上 篇 徐 ㎞ 五 一五
碑 皇 紀 五一六
女 佐手女 基千女 賞加女 間佐女 間目羅女 津身女官美女・富気女以上四十三人。
幼人男分
貞彦仲天 司天京源 千九大丸忠子良子源太 他 丸金測 金大社良信丸体治園シ
日子月子豊丸 行子仲治 仲丸 少記 司小 大良 光子真子演子・政子・正司 山子* 身子 命佐
子極加子知丸金根子銀尻大易 北佐千海三米丸介丸根志子大王子 大日子シ
富子・喜長男、津知男 波 久男以上五十 一人。
幼人 女分
比賞女 比久女 興里女 玉江女 美比女 自天女 津奈女 弾 座女 弾 根女 津知女 太加女 都

根女・一始女 大気女 加根女 加志女在木女 火出女大目女 阿江女児美女 目小女自和女


大目女官佐女登和女大和女 身世女 久佐女佐美女 顧志女 顧根女 不出女・女佐女向久


女 志目女 手玉女 足利女 身津女 晴濃女 奈気女徐美女 加美女古身女 根 弾 女 在 志 女 河


-*-**
佐女以上四十八 人。(㎞)
第三 徐幅子孫
秦徐面は徐永の女顧正女を要り顧永 徳他 編書の四男 並に天『*。
正女の三女 を撃 く偶。秦始皇帝に請 ひ て選 薬山等の碑 仙山 に来 らむと するや伴 ひ
て 日本に来 り、途 に 高天原中室 に居をそ定めける。後又 顧畑 顧海・顧 住 の三男を撃
くるに至れり。長男顧永は父の後を受く。次男顧萬は名を顧島と改め父の命に

より 鶴 に 日本 へ 航行の途次 迷 ひて上陸し、不二山を素め て三年居住しける木 日 國


(㎞)熊野山に至り共土地を開塾すること、なれり。乃ち春属五十除人を従

へ 本日國に移住しにけり。後共子孫 耐 刺を造営して徐顧の霊を祀り ぬ。三男徐


仙は 名を顧 山と改め 四男顧 毒は名を顧田 と改めけり。七男七箇所に分れ、共子孫

並に童男童女の子孫、大に阿祀谷の内外 に繁殖しけり。多く秦を姓とし 又氏に顧


の 一字 を冠 し ぬ。

第二 代 秦顧永は要領の女自 蓮女を要り、一丸 次 正女を撃げしとき、妻子と共に父


に従ひ日本に渡り、一丸長し て徐光と稲し ぬ。後顧永は名を顧岡と改 む。子孫代


々 顧岡 を氏 と す。第三 代徐光は龍仙 の女萬世 女 を室とし 顧仙 を生む。第四代 顧
仙は、大山祇命七十世の孫 御身弾 男命の女種子媛を要り、顧秦を生む。顧仙は御身
瀬男命に頼り阿 祀山太碑宮の碑官に任せらる。赴中碑子取扱役に補せられ 子孫
第 一章 上 篇 秦 徐 顧 五 一七
柳 自棄 和 五一八
代 タ 其 職 を 承繼 しみ。 第 五 代 福本 は 無茶 の 女王 手袋 を 愛 り 後 東 を 生むº 第 六 代
徐 京 は勝 本 長 の 女 都 平 線 を 愛 り 頭痛 を生む。 第七 代 雜誌 は 海 地圖 進香 吉安 王 の
女流 月 城 を 愛 り 頭 來 を 生む。 那 木 後に 名 を 同 企 9 % % が る。
< 代 爾 蘭 阿倫“小佛 士 代爾 蘭成十代 醫藥+ 1 代 醫藥 +
代屬 高麗在 佛 士 三代 爾 蘭 屬地 第十 四 代 福岡 除数 第十 五 代 福岡 藩作 第十 六 代 福岡
徐道 第十 七 代福岡 藩 家 第十 八 代 福岡 除長宗十九 代 福岡 藩 の第 二 十 代 福岡 金 收錄
1 + 1 代 爾 則徐海 第二 十 二 代 爾 圖 爾 本第 二 十 三 代 福岡長 不 第 二 十 四 代 福岡 食欲
第 二 十 五 代 爾 蘭 屬 作 第 二 十 六 代 福岡 來 像を 修 て第 二 十七 代 福岡 藩 領 に 至る や自
後球 を 図 すると と なれり。 魔術 の 職 を 除 源太 と g %。 故に 福岡 本源太 醫術 と
稱 す。 第 11 + <代 を興 國泰 十本 政 編 と称し第 二 十九 代を愛 爾 曼 德 太志願 と 解し
第 三 十 代 を 顧問 常 也 大 後 数 と そ稱 しける。
神武 天皇 冠軍 十九 年的 士 山大 質 炎 を 演 し 高天原 四 十餘 文 「 に 興 を やり 死神
代 の 古跡 は 後に 常に 失守 にサり。 元帝 也 應徵名 阿 祖山 太 神宮 の 大宮司 派 大夫 元
秀 は 藤正 成を 初め、福岡 島 北本後 数 と共に 後 關條來 加 日記大砲 の 古 文書を い事物
を擁護して難を相模國高座郡早女郷岡田原 に避け ぬ。新に勧請したる寒川碑
の傍に資蔵を営造して斎し来れる古 文書資物を納めけり。爾来 顧岡徐教は共地
に居住し同碑赴の碑官となり 宮司と共に世々古文書を保護したりけり。(㎞
㎞")
四。
編。




第 一章 上 篇 秦 徐 顧 遮 一流
** *} 『1』 シ
碑 皇 紀 五二O
第一一章 下篇 碑皇書
第一 碑皇書 記録
秦徐顧は高天原三十六碑戸の碑祇の後胤等の日牌 日談 使 言並に各碑祇の後胤
等の家々 に秘蔵して博れる共家々 の系譜 及共質記録を録取して世に博 ふ。之を
徐顧博 即ち十二史談 といふ。即ち左の如し。
一、碑代 質記。
巻 之 顧 徐

二 碑都質録。
三天之御中世園常立奪 園狭樋奪 日向高地火峰不二山中央高間原天降由来記。
四、伊 邪那岐・伊 邪那美奪 一代記。
五、大日留 目奪 一代記。
六、仁 々 記奪一代記。
七、筑紫南島合戦記。
八、火 々 出見命 皇太子仁御位 尾譲利 都古 筑紫移住 記。
九 號 系 再 合 戰記。
十、神武 天皇 不 一 說。
十 一 不 一 再現 記。
十 二 語 家系 國史。
其他、徐福 の 殺 敵 や し もの 左 の 如 しº
1 時代 李 祖。(縣縣
1平 "
世、高天原 縣
:
址、野 縣
幸免級 戰線
地、字 家 戰機體)
通 不 1] < # 、略記º
1、不 一 山高 千 大 由來 記。
.

1、不 一 山 高天原 發車 中 。
1 ‘辛 那 度 日 國 皇 代 歷 記。
1、徐 子 系 種 記。

1、神 室 氣 系 度 記。
1、軍師 軍神 武家 路 德語。
一 肇 因 肺 社 傍 改 目 記。
1'文 郡 度 日 國 タ 法 認 記。
第 二 章 + ॥ 五11
碑 皇 紀 五二二
一、天地開闘碑代略歴記。
一、築日子 大國・雨碑因縁記。
一、祀家・武部 楽 日子・三家皇族之役人 記。
又、徐 顧並 に共子孫継績 録取 せし もの。
一人皇歴代記(㎞ ㎞)。
又 徐顧 又は共子孫 熟れかにて録取せしもの。
一、國 常立 奪 来歴 記。

一、大國主命世代記。

又、徐 顧 の嫡孫 秦徐光の録 取 せしもの。




又、徐 顧 七世 の 孫 秦、顧 毒 の 録 取 せし もの。
一、大瀬 摩 津見 命御歴代記。
一、養除顧博来記(㎞ )。
一、阿東 祀 命 歴代 記。
文後頭 人世 の 孫家 福永 の 縁取 や し º の。
1、神 室 一種 神器 之 術。
1 歲 生 之 男 命 來歷 世代 記。
食神像 前 十 二 史跡 は 高天原 小室高座 山 の資者 に納め、无法 也 應徵 名 阿 福山*
學術 の 薬物 とた した タ の 大宮司之を 守護し 家 にサ り。 徐福德宗 成帝 時 の **
に 制作 方 術 大 十八世 の 孫 是 孙 武田 修命 にし て共 八世 の 孫 を 作 太夫 º 8 * *

夫 の 大宮司 の とき 離戰 天皇大山 守 皇子を以て 同祖山太 麻 省 の 大宮司 º た, 在 太


たと 以 で 制 可 と た し 以 て徐福德 を守護 や しめら る。 皇子常に徐福 の 子孫 に就き


徐福 學 を 修 た。 後 逐 に 古老 の 日時並 に徐福德 に 張り 東 に 換取 まし ませる 。 の 左


Ż

の 如 し。

一 肇庆 原 神代 曾祖。
| 美國 天 原 神 都賀 記。
1 回 祖山 神社 由來 記。
大山 守屋 子子孫 連 線 大宮司 を 承繼 すると と に大 十 七 代、1 千 三百 九 十 有 五 年
-
第 二 章 - 第 羯 息 者 五三
鄭 自 和 五一八
代 タ 共識 を 承繼 しみ。 第 五 代 福本 は 無茶 の 女王 手袋 を 愛り 後 東 を 生むº 第 六 代
徐 宗 は勝 本 の 女 都 平城 を 愛す 際 網 を 生む。 第七 代 雜誌 は 海他國 造 香 吉安 王 の
女 別 月 城 を 愛 り 周 永 を 生む。 爾 本 後に 名 を 削除 さ で改め するº
<代 爾 蘭後 まりゅ んぼ胴齊 冰+代 醫藥 + 1 代 醫藥+
代 魔 高麗在 佛 士 三代 爾 蘭 屬地 第十 四 代 福岡 除後,第十 五 代 福岡 藩在 第十 六代 福岡
徐道 第十 七 代福岡 藩 家 第十 八代福岡 除長宗十九 代福岡 藩 の第 二 十 代 福岡 金 收錄
1 +1 ㎢ ㎞ 後 海 第 二 十 二 代 福岡 藩 本第 二 十 三 代 福岡 長 不 第 二 十 四 代 福岡 金奖
佛11 + 王 朱鷺 間 關 作第11+ 大 代 屬 關產後を 歴 て第 二 十 七 代 福岡 藩 領 に 至る や自
後球 を 発 すると と なれ り。 魔術 の 職を除 源太 と g %。 故に 福岡後 派 大 魔術 と
稱 * 第11 + <代 を興 國泰 十 本 政 編 と称し 第 二 十九 代を 順 風景德 太安藤と 解し
第 三 十 代 を 顧問 世 也 大 後 数 と そ稱 しける。
神武 天皇 家 歷 十九 年的 士 山 1 大震災 を演 し 高天原 四 十餘 文 「 に 興 を やり ゅ耐
代 の 古跡 は 後に 常に失態 にサり。 元 空 也 應物 名 阿 祖山 大 神宮 の 大宮司 派 大夫 元
秀は 議 官 服を 初め、福岡薩 卡 本 後 数 と共に 後 關條來 加 日記主砲 の 古 文書を い事物
を擁護して難を相模國高座郡早女郷岡田原 に避け ぬ。新に勧請したる寒川碑
の傍に資蔵を営造して斎し来れる古文書資物を納めけり。爾来 顧岡徐教は共地
に居住し同碑赴の碑官となり宮司と共に世々古文書を保護したりけり。(㎞
㎞"系 園、延 暦 記 て

編*




第 一章 上 篇 秦 徐 顧 秀一九
碑 皇 紀 五二○
第一一章 下篇 碑 皇書
第一 碑皇書 記録
秦徐顧は高天原三十六碑戸の碑祇の後胤等の 日 牌・日談・徳言 並 に各碑祇の後胤
等の家々 に秘蔵し て博れる共家々 の系譜、及共質記録を録取し て、世に博 ふ。之を
徐 顧博 即ち十二 史談 といふ。即ち 左の如し。
一、碑代質記。
編 徐

二 碑都質録。
**
三 天之御中世國常立奪 園狭植 奪、日向高地火峰不二山中央 高間原天降由来記。
巻 之

o
四、伊 邪那岐 伊 邪那美 奪一代 記
五、大日 留 目 奪 一代記。
ハ仁々記奪一代記。
七銃紫南島合戦記。
八、火 々 出見命 皇太子仁御位尾譲利 都古 筑紫移住記。
九、筑紫再 合戦記。
十、碑 武 天皇不二 記。
十 一、不二 再現記。
十二、諸家 系国史。
共他 徐 顧 の 録 取 せしもの 左 の 如し。
一、碑 代 事 記。 (㎞
『ィ"『 W世、高天原 ㎞
世、豊章 原 世、宇 家 潤 不 二 合 須 世、略記。)
一、不二山 高千火 由来 記。

一、不二山 高天原鍵革史。

一支那震 旦國皇代 歴記。


一、徐 子系 歴記。

一、碑 皇御系 族 記。
一、軍 軍 碑 武家 略歴 記。
一、惣 國 碑 赴 御改 目記。
一支那震 H國 々 法 略記。
第二章 下 書 五二一
碑 皇 紀 五二二
二天地開闘碑代略歴記。
一、茶日子 大國・雨碑因縁記。
一、祀家・武部 然案日子・三家皇族之役人記。
又、徐 顧並 に共子孫継績 録取 せしもの。

一人皇歴代記(㎞ ㎞)。
又 徐顧又は共子孫 執れかにて録取せしもの。
一、國 常立 奪来歴 記。

一、大國主命世代記。

又、徐 顧 の 嫡孫 秦徐光の 録 取 せし もの。


紋潤


章不
御家
耐世
!!l
創世

皇I原

局字



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一 碑代記残篇(㎞


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又、徐 顧七世 の 孫 秦、顧毒 の 録取 せし も


一、大弾摩 津見命御歴代記。
一奏徐顧鷹来記㎞
一、岡東祀命歴代記。
文後頭 人世 の 孫 家 福永 の 解散 逸し もの。
1 號 學 三種 神器 之 徒。
1 號 在 之 男 命 來歷 世代 記。
徐福德 郡 ら 十 二 史跡 は 高天原 小室 高座 山 の 資政 に納め、元 住宅 魔物 名 阿 祖山 太
神宮 の 資 物 と た し、代々 の 大宮司 之 を 守護 し 來 に サ り。 徐福德 宗 成 當時 の 大宮司
は 祖 生男 命 大 十 八 世 の 孫 是 初版 由 麥 金 にし て、英 人世 の 孫 を 作 太夫 と いぶ。 在 太
夫の大 司 の とき事農夫 大山守 李子を以て 同祖山太 康省 の大同 た 作太

夫 を以て 制 可 と た し、以 て 徐福德 を 守護 や しめら る。 皇子 常に 徐福 の 子孫 に 就き、


徐福 學 を 修 た 。 後 逐 に 古老 の 日 神、平 に 徐福德 に 振り、更に 撤収 まし ませる もの、左


Ż

の 知 し。

1、高天原 神代 曾祖。
一些 天 原 神 都 賀龍。
1'阿 祖山 神社 由來 記。
大山 守屋 子 子孫 連 線 大宮司 を 承繼 すると と、食 に 大 十 七 代、一 千 一 百 九 十 有 五 年
-
第 11 - 第 羯 者 五三
神 桜 五11四
傳 に 攻 が る 貴重 なる 太古 史 たり さº (戰神 靈 體驗 屍體 變體驗 )
佛11 +11 代 的 下屬 地 大夫 元 長 の とき 中正 模 原 物部族は徐福使 中 に 難 成功部南
家の議 代 よりの系譜 等变量はあるもの ありし と とを聞き 不同祖 金 小室 に上
ク 家永 す。 カら 大宮司 天 長 に語って徐福德中將 本 系 圖 史 を 問 し 日 3 其 配樂 府時
前 まっ家 元 天皇 の 御 字 より 天智 天皇 の 御 字 に 至る まで、阿 本 の 系 圖 を 補足 し でナ20
然るに 盛 時除雪佛 の 成 に 遠く際新 し て形 に神代 の 平野 の 連載 せん する を 恐れ た
張 斑 。之 を 勝後 し て 制 性を そ作りける。 時に 天智 天皇 四季末年 八 月 にし て 食
魔術 の 記錄,しける よりバロセ 十 八 年後 たり きº
佛 11 + 大 代號 太夫 元 秀 の とき 地。根 武 天皇 是 歷 十 九 年 出土 山大 唐 太 を 除 し お
石井 劇,しく 見出し11 十里 西方 1 物を 除 さす様 地 まり 締め に 高天原 四 十 餘 た ド
º 國 波 º られ 替代 より の 古 縣志 帝 に失守 にサり。 元秀 は顔立武等 と 非 に食慾狄
李榮譽 會永寺
子 の 佐 領地 に避く。 カち其 地 に富士 セ 府中 より開 地 人 娘 たる 本 川大 風雲 ºº
し奉り 寒川碑赴 と稲し奉る。傍 に質蔵を造営し て、共斎 らし来れる 徐 顧 博・寒川日
記 共他の 古 文書 質物 を そ納めける。然れ ども 常時、古 文書 の 多くは、共難に 羅 れ り
といふ。翌年 大宮司元秀卒す。共子記太夫仁 元之 を襲 く。平城天皇 大同 元内 成
年六 月 坂上 田村磨 に 勅 し て、七廟中焼失しける 四座 を 再興し、相模 國 寒川碑 赴 より、
宮司 仁 元 を招き、七 廟 の 大宮司 たらしむ。是 より、七廟を 山宮 と 稲 し、寒川碑赴 を 里
宮とそ稲しける。
第四十八 代記太夫 政仁 は、日本三 大宮司 の 一人にし て源氏 の落人三浦上野 守義

顕の 長子 源 甚吾 重 成 を養子 として、長女春子に配 し、山宮 の 大宮司 を譲る。之 を第


耐品

四十九 代源太夫義仁 と稲 す。政仁、乃ち相模 に 騎り、単に 里宮 の宮司 となり、専ら徐


顧 博・寒川 日記 共他の 古 文書 を 守護しけり。義仁、属、里宮 に 至り、養父 政仁 に請 ひて、


徐 幅 博及 寒川日記共他古 文書 の 各残篇を複寛 する こと十数年。斎 らし 来り て、山


宮 なる富士 七廟 の 太碑宮 の 質物 として、資蔵 に納めけり。共父三浦上野 守義顕入
道義明 房源 心も、一 二 之 を複寛 し 義仁の 長子藤馬 亮義國、赤 母の質家 なる里宮 に至
り、父 義仁 の 複寛 せ さりし他の 古 文書 を複 寛 し て赤 山宮 の 質物 とな せり。
第二章 下 篇 碑 皇 書 五二五
魏 息 料 五一八
代々 其 職 を 承継 しみ。 第 五 代 祖 朱 は 無茶 の 女王 手紙 を 愛 り 除 京 を 生む。 佛 大 代

** に書 本 の 女歌手 線 を 愛 5 萬 諾を生む。 第七 代 編成 は 海 平面 进香 吉 斯 王 の


代 第 顧 顧
女 加 日 線 を 愛 り 頭 來 を 生む。 に 名 を 削除 と で 改め ける。
第 八 代 福岡 阿尔 上り 第 九 代
st; 阿爾 沃土 代 醫藥 + 1 代 爾 蘭 克 林中
代 醫 師範 に 第 十 三 代 福岡 藩藩 第十 四 代 屬 關 條款 第十 五 代 福岡 藩在 第 十 六 代 爾 蘭


進・第 十 七 代 福岡 關系 第 十 福岡 後 長,第十 九 代 福岡 藩 の第 二 十 代 福岡 除 最 接


二 十 七 福岡 本 海 第 二 十 二 代 福岡 藩 本第 二 十 三 代 爾 蘭 是 本第 二 十 四 代 爾 蘭 後

第 二 十 五 代 福岡 屬 有 第 二 十 六 代 福岡 來 像を 修 て第11 士 也 代 福岡 藩 藩 に 至る や 自

後書 を 促 すると と た わり。 屬 福 の 論 を 除 源太 と いぶ。 故に 藤岡 除 原木 爾 德 º


稱 すº 第 二 十八 代 を 顧問 委 十 本 政 編 と 称し 第 二 十九 代 を順 風景 德 太 志願 を 減し

第 三 十 代 を 顧問 常 也 大 後 数 と で解 しける。
聖 武 天皇 是 將士 元 年的 士 山大 質 炎 を 演 し 高天原 四 十餘 文王 に 埋没 **
作の高雄は後にºuたまに す。 元 七 巧* ** ** ****
あ ،を 初め 東 涌 大 象 と共に金像來 加日 中 他 の古文** ***
を擁護して難を相模國高座郡早女 郷岡田原に避けぬ。新に 勧請したる寒川碑
の傍に資蔵を営造 して斎し来れる古文書質物を納めけり。爾来 顧岡徐教は共地
に居住し同碑赴の碑官となり 宮司と共に世々古 文書を保護したりけり。(㎞
㎞")
系 圓、延 暦 記て

編*





第 一章 上 篇 秦 産 一九
碑 皇紀 五二二
一、天地開闘碑代略歴記。
一、築日子 大國・雨碑因縁 記。
一、祀家・武部 楽 日子・三家皇族 之役人記。
又、徐 顧並 に共子孫継 績 録取 せし もの。
一人皇歴代記( ㎞)。
又 徐顧 又は共子孫 就れかにて録取せしもの。
一、國常立 奪 来歴 記。

一、大國 主命世代記。

又、徐 顧 の 嫡孫 秦徐光 の 録 取 せしもの。

ーイ
略二
記合
紋測間
章不
御家
耐世


店字

一 碑代記残篇(㎞

又、徐顧 七世 の 孫秦、顧毒 の録取 せしもの。


一、大 弾 摩 津見命御歴代 記。
三シ薬記㎞
一、阿東 祀 命 歴代 記。
交後頭 人世 の 孫家 福永 の 録 取 や し もの。
1 號 學 三種 神器 之 象。
1 號 在 之 男 命 來歷 世代 記。
徐福德 郡 ら 十 二 史跡 は 高天原 小室 高座 山 の 資 政 に納め、元帝 也 寫 歌 名 阿 祖山 太
神宮 の 資 物 と た し、代々 の 大宮司 之 を 守護 し 來 に サ り。 徐福德 宗 成 當時 の 大宮司
は 私 生男 命 大 十 八 世 の 孫 是 防 長田 修 命 にし て共 八 世 の 孫 を 作 太夫 と いぶ。 在 太
夫 の 大宮司 の とき、龍神 天皇 大山 守屋 子 を以て、阿 祖山 太廟 街 の 大宮司 と た し 作 太
夫 を以て 制 可 と た し、以 て 徐福德 を 守護 や しめら る。 皇子、常に 徐福 の 子孫 に 就き、
徐福 學 を 修 た 。 後 逐 に 古老 の 日 解並 に 徐福德 に 張り、更に 換取 まし ませる もの、左
の 知 しº
| 國 天 原 神代 曾祖。
一些 天 原 神 都賀 記。
1' E 事 記。
大山 守 自圣 子 子孫 者 得 た 名 司 を 水 酸 すると と 作 に 入 十 七 代, 1 - 1日 た 十 有 五 年
第 二 季 -
种 員 和 -

五二四
にし で、代々 其 大 神宮 に 開 し、日記 を 作り 来れ り。 之 を 歩 川 日記 と 称す。 是 れ 除 福
像 にネサ る貴重 なる太古 史 たりき。 (戰神崎 縣 縣 縣 縣 屬醫 ")
第 二 十 二 代官 下屬 地 大夫 元 長 の とき、中 正職 原 物 部族 は 徐福德 中 に 輸 球场 部 開
後の 神代よりの系譜 等条 はある。 ありしたとを 聞きょ1山高祖 李小室に上
り 来 形 り。 例 ら 大宮司 元 長 に 語り で、徐福德 中 說 家系 圖 史 を 関し'且つ 其 能 像 出時、
即ち 者 无 天皇 の 御 字 より 天智 天皇 の 御 字 に 至る まで 開 家 の 系 圖 を 補足 し てけり。
然るに 常時、徐福 使 の 窓 に 滞 < 府 打 し て 形 に 神代 の 事典 の 運 城址 ん する を 恐れ 死

長 と 議 り'之 を 略 高 し て 創設 を そ 作り ける。 時に'天智 天皇 四 字 来年 八 月 にし て、徐


.

福德 の 記錄 しける より、八 百 七 十 八 年 後 なり き。
ż

第 二 十 六 代 原 大夫 元 秀 の とき、偶“祖 武 天皇 是 歷 十 九 年當 士 山大 唐 太 を 演 し、洛

岩 石井 劇 しく 離 出し、二 十 里 西方 一 物 を 除 さす 様 地 まり 締め に 高天原 四 十 餘 文 不
に 埋没 能力、神代 より の 古跡 亦 常に 失守 に サ り。 元 秀 は 職 官 就 等 と共に 徐福德·
家元日 成他 支部隊を発射し て難を認識 を舞鶴田舎
子 の承德 地 に 遅く。 カら東 地 に金 士 セ學 中 より 地 人 た 。 な= 大明書 を
し奉り 寒川碑赴 と稲 し奉る。傍に質蔵を造営して、共斎 らし来れる徐 顧 博 実川日
記 共他の古文書質物をそ納めける。然れども常時、古文書の多くは共難に羅 れり
といふ。翌年大宮司元秀卒す。共子記太夫仁元之を襲く。平城天皇 大同元内成
年六月坂上田村磨 に勅して七廟中焼失しける四座を再興し相模國寒川碑赴より、
宮司仁元を招き 七廟の大宮司たらしむ。是 より七廟を山宮と稲し寒川碑赴を里
宮とそ稲しける。
第四十八代記太夫政仁は日本三大宮司の 一人にして源氏の落人三浦上野 守義

顕の長子源甚吾重成を養子として、長女春子に配し山宮の大宮司を譲る。之を第

四十九代源太夫義仁 と稲す。政仁、乃ち相模に騎り、単に里宮の宮司となり 専ら徐


顧博恭川日記 共他の古文書を守護しけり。義仁属。里宮に至り 養父政仁に請 ひて、


徐顧 博及 寒川日記共他古文書の各残篇を複寛 すること十数年。斎 らし 来り て、山


宮なる富士七廟の太碑宮の質物として質蔵に納めけり。共父三浦上野 守義顕入
道義明居 源心も、一二之を複寛し義仁の長子藤馬 亮義國、赤母の質家なる里宮に至
り、父義仁の複寛せ さりし他の古 文書を複寛して赤山宮の質物となせり。
第二章 下 篇 碑 皇 書 五二五
-
碑 皇 紀 五二六
弘安五 壬午年五月十三 日、馬入河 汎濫し、沿岸一物を除 さす 皆 な押 流 さる。常時、
里宮 の 宮司 は、政仁 七世 の 孫 宮 下記太夫明吉 なりし が 徐 顧博、寒川 日記、共他の 古文
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜へヘヘヘヘヘ

書 の 水難 に 羅らむ とせしか ば、父 佐太夫園 明 と、共に 必死 となり て、之 を 救出 せ むと


して共に溺死しにき。鳴呼情裁 我園唯一の太古史たる徐顧博寒川日記共他の古

文書、悪く意見に酒 滅 に 騎し てけり。

記太夫 明吉 の 妻小浪 の 方は、山宮 の 大宮司 宮下 左京 亮正成 の一一女なり しかは共


遺子里宮丸と共に質家 に騎 り て養はる。里宮丸 長 し て 従兄 山宮大宮司義忠の後

を受け、共職を襲 ぐ。即ち第五十六 代右近 亮義高にして、山宮七廟の質物たる複寛


古文書を守護しけり。然るに長子三浦越中守義勝南風の競はさるに義を樹て、

戦死するや 足利氏共碑領を没牧し て複寛古文書及 ひ質物を富士七廟の赴前な



る 宮守川畔 龍 の 河原 に於 て焼棄 せり。初め 足利氏 の 目 代 仁木 頼章、六角氏頼 等、兵
三千騎 を率るて来ると告 くるもの あり。父義高は複寛 古 文書の共難に羅らむか
を恐れ密に質蔵より重なる複窮古文書の一部を隠匿し潮く僅かに共難を免かれ
にけり。
第六 十六 代源太夫宗 高 の とき、複寛 古 文書の残 篇 潮 く将に腐朽 せ むと するもの
あるを以て族岩田五左衛門源貸吉をして、共腐朽に係らむとしけるもの より潮次
藤%せしめけり。時に慶安三年前後にして今を駆をこと二百七十有除年前なり
き。面して常時の勝寛者は共勝寛 の確質を期せむと する意にや勝寛古 文書の前
に、原 複寛 古 文書 の 腐朽紙片 を、貼 附し 置ける もの 赤 勘 から す。
宗高の嫡男甚太夫宗忠の大宮司たりし とき時の領主 牧飲を厚うし、土民塗炭に
苦しむや 宗忠慣然義を唱ふ。領主秋元撮 津守香 知、之を斬罪に虜 し、共族を 裏け 累

代の大宮司職を概 奪し 尋 て赤共古 文書質物を吐前なる龍の河原に於て焼棄せり。


鳴 呼 哀 哉、潮 く僅かに除 命 を 繋 き 来 にける太古 史の 遺管帰 も、意 に酒 滅 に 騎し にけり。


然れ とも、家人 機を見 て共 一部を 隠匿 しけり。面し て後、一族の 者、共血統を素め、


紳 官渡部仁 太夫の 分家 と稲し て、領主 の許可 を得、以 て宗家 を 再興せり。即第六 十


八代源太夫義信是なり。然れども、大宮司職は領主の命にて分家之を襲 へり。故
に義信及共子孫は単に古 文書残篇の保護のみをそ なしにける。即ち期く貴重な
る古 文書 が 古来 より展。災厄に羅りしを以て復た之 に遇は むかを恐れ、一括 密封し
第二 章 下 篇 紳 皇 書 五二七


五二八
て、棟梁に結着し、戒め て 目 く、不時に際せば、先づ之を守護す可し。若し 濫 に之を開
かは明を 失 す可 し。と 爾来二 百 五十有除 年間、相戒め て、一人 の開くもの な かりし
か、明治 十六年二 月二 十三 日、文明 の今日、開きて 明を失する か如き こと 之 なかるべ
しとて斎戒以て之を開けは古文書異 々として顕はる。幸に第四十九代源太夫義
仁の複寛に係れる徐顧博の一部並に寒川日記の残篇の存在しありしを似て愛に

碑代より人皇初代に至るまでの事填を窺知することを得るに至りにき。(㎞、
宮司 記、寒川 記、郷司
㎞)
三浦 記、延 暦 記、噴火 記。

第二 碑皇書複寛

大山守皇子四十九世の 孫、大宮司宮下源太夫義仁は里宮なる相模國 寒川碑赴の


質蔵に秘蔵しける元富士山元宮 七廟 なる太碑宮 の質物たりし秦徐 顧の録取 しけ


る徐 顧博 及 代々 大宮司 の筆記しける 寒川日記 共他の古 文書を複寛し て富士山元


宮の 太碑宮の質物となし ぬ。共父三浦上野 守義顕 及義仁の嫡子宮下藤馬亮義國
の複答しけるもの赤一三之あり。今左に基複務しける古文書を掲げ。
古 文書の内容の大意を略記 しにき。(㎞ ㎞)
+ +< * *> , , , , , * * * * * * * * * *،3 " , * * *»
1 間 關 神代 歷代 記。
本 古書 は、泰 德 麗 の 録 取 しける もの にし て 建 久 二 千 予 年 八 月 中 宮下 原 太夫 將
仁 の 複 高 しける もの たり。 即ち、我國 開關 元祖 即ち 朝代 第 1 期 天 之 世 天 之 神
代 第 一 代 より 第 七 代 まで の 各 大御神 及 神 后 半 に共 年代、一族 作 局 數 等。 本 に、神
代 第 二 期 天 之 御 中世 大 高見 神 十 五 代 第 一 代 より 第 十 五 代 まで の 各 大御神 及 神
后 半 に 共 年代 作 局 數字 頭 等。 本 に、神代 第 三 期 高天原 代 天神 也 代 第 一 代 より 第
七 代 まで の 各 大御神 及 神 后、並 に 各 代 の 事典在 位 將山陵 年代 從屬 數 等。 本 に 師
代 第 四 期間 平原 世 地 神 王朱榮 1 生代 より 第 五 代 まで の 各 大御神 及 神 后、並 に 各 代
の 事蹟 在 位 將 山陵 年代 從屬 等。 本 に 神代 第 五 期 学 家 馬 不 二 合 氣 世 合 得 神 王 十
1 代 第 一 代 より 第 五 十 一 代 まで の 各階 代 神 室 の 史 的 現象。並 に 各 种 自室 及 神 后 の
論 名 醫 名物 名 在 位 將 山陵 神 后 の 張 政 自圣 子 等。 本 に、天 之 御 中世 より、大御神 神
並 に 神 后 の 御 校章、文字 及 背 方 表 食性 器具 等。 本 に、天 之 御 中世 國 常 交往 國 被 她
拿'日向 高地 降 不 一 山 中央 高天原 天 降由來 並 に 各地 命名 十 八大洲 區劃 統治 安裝
安東郡 の創た後 張 錄像 の 命名等を 語る。 あたり。 ま に 本 記 は徐福德 郡 も
第 二 章 + ॥ 五一九
碑 皇 紀 五三○
十二史談中 左の六史を合せしものの如 し。
一、碑代質記。
二天之御中世園常立奪園狭趙奪日向高地峰不二山中央高天原天降由来記。
一 伊 邪那岐伊 邪那美奪、一代記。
一、大日留目 奪一代記。
一 仁 々 記奪 一代記。
一、火 々出見奪 皇太子仁御位尾譲利 都古筑紫移住記。

一 宇 家潤 不二 合須 國 五十 一代記。

本古文書は徐顧の録取しけるものにして仁安三成子年三月三日源太夫義仁

複寛しけるものなり。即ち碑代第 一代より第五十一代に至る 各碑皇の講名 設


名在位 及毒並に碑后の講名 論名親族闘係毒等を詳記したるものなり。

一、碑 代 事記。
李喜姿産は奪顧の 設しけるものにこk信委M残季季M月中麗参奏義に
複 寛 しけるもの なり。即ち、神代 の 園名道名 神代文字 補 代言 鮮 天之 世、大 之御中
世、高天原世豊阿始原世、字家測 不二 合須世等の略記なり。
一、碑代記残 篇。
本古 文書は 徐 顧 の嫡孫徐 光の 録 取 しけるもの にし て源太夫義仁 の 複寛 し け
るもの なるも、複寛年月定か ならす。即ち、天之 世、天 之御中世、高天原世 豊 阿始原
世 宇 家 潤 不二 合須 世 の 世数 年代 並 に年月の 創定 碑皇碑后 の 御紋章 等 の外 は消
滅し て 世に博らず。
國 常 立 奪 来歴 記。
本 古 文書は徐 顧 の 録取しける碑代記中より、抄録しけるもの にし て、建久八丁
己年八月中源太夫義仁の複寛 しけるもの なり。即ち、天 之御中世第十五代高皇
産霊碑 か、五男國常立 奪 に 命 し て高天原 に天降らしめ 給 へ るより、父 大御碑か 更
に七男園狭樋奪と共に天降らせ給 へる事質。次に兄弟雨碑の倉合及分割治世
の事填等。次 に見碑 に 一男 一女あり、一男豊酔淳奪の事填 及 配偶者の親族闘係。
攻に、一女自山里女奪(㎞)をして弟碑の末子田仁知里古奪(㎞)に要はしめ
以て西州を始めしめ給ふ事質。次 に弟碑の五子の碑名略博 及配偶者等の親族
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三 一
碑 皇 紀 五三二
闘係(㎞)。次に兄弟二柱碑の碑都分割治世在位 年代山陵春属等。攻に
伊井諾舟二柱の治世法制官制服制等より 子孫年代 在位 毒 山陵 碑都春属に至る
ま ての 事墳。次 に 又 二 柱は國常立奪の碑霊を共碑都田 羽 の最 井原に祀り、豊受
大碑と崇めさせ給 ひ天照大御碑は祀佐男命の 一女出雲里女奪(㎞)をして、
豊受大碑の宮を守護せしむる事填。次 に日子 火 火出見奪の三子若武昆古 命を
して同しく宮守をなさしめ共子孫をして世々 宮守を承継せしめたる事質を詳
記 した るもの なり。
-*

碑皇三種碑器之巻。
本古 文書は徐顧八世の孫 顧永の録取しけるものにして建久八丁 己年九月中、
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち祀佐男命が 天照大御碑の語命に依り、
手名植 命等と議かり 従族金山 昆古命に命し、三品の大御質製作の準備 並 に共原
料取寄の事情製作の方法 及形状等。次 に製品にて海内悪碑妖怪退治の状況 及
奇 碑に奏翻警奏屋の儀式発 費等。妻に製律彼用のシを奪に委園*
*日子雨神全国 同の事 。次に創佐リ命 生園の父母兄弟従族等の氏名 及
族闘係、並 に各 諱名 説名 毒、山陵 等より、勤王の事 填 及 共子孫等。次 に、碑器 の 富士
山 元宮太碑 宮 奉安、並 に碑代及 人皇九代逸、太碑宮碑器 鎮座の事質。次 に、人皇十
碑器及天照大御碑の大和國奉 遷 の事情及状況。次 に、勅命に依り模倣 碑器の

製作、及 製作 者五 名工、及 製作事 質及 状況。次 に 碑器 製作前、皇位承継 の 大御碑 の


守護 碑質、即ち 七 品 の 大 御質 並 に各 品 の 種類、及 縁 由 等 を詳 記しけるもの なり。
一、碑 皇 御 系族記。
本古文書は徐顧博即ち十二史談の一なる筑紫合戦記の前篇にして安元二西
申年三 月中 源太夫義仁 の 複 寛 しけるもの なり。即ち、碑皇國常立 奪 か天 之常武
比古命の 一女碑佐加比女奪を要りて、一男阿和路比古奪(㎞)一女自山比女奪
㎞)を生みませる事質より豊期 浄奪の嫡孫豊武昆古奪天照大御碑の皇太子
に立たせ給へるまての事 。次に天孫二柱の事填等を詳記したるものなり
一 筑紫二 度合戦記。
本 古 文書 は 徐 顧博即ち 十二 史談 の 一 にし て、安 元一一内申年三 月中、源 太夫義仁
の複寛しけるものなり。即ち天孫現 々杵奪か軍碑八千除碑を従へ高天原より
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三三
* 愛* シ - 』- - - シ ** - * シ
* - *} - -
碑 皇 紀 五三四
西園に天降り以て外寝を撃携し給 へる戦況 並に論功行賞の事填。次に地碑五
代 競 芽 葺不合奪、赤西 國 に 天 降り、以 て外 疲 を撃 懐し 給 へ る 戦況、並 に 高天原 より
西 國 へ 遷都 の事質等 を詳 記した るもの なり。
第 一、碑代 軍師軍 碑 武家 略歴 記。
四 本古 文書は孝元天皇 五年徐顧の録 取 しけるものにし て、安 元二内申年八 日中、
編 源太夫義仁 の 複寛 せるもの なり。即ち天孫二柱 の 高天原 より西園 に天 降り ま
し て外 疲 を撃懐 せ られ しときの 十七軍碑、即ち 惣軍 司令頭長大物主命 南西 惣司

令頭長 少名 里 古那 命東北惣司令頭長事代主命 武士軍碑稚武王命 建御名 方命 経
顧 津主命武豊地命主柱屋命頭園玉命豊城入里古命前玉命五十猛命 土老翁命豊

玉武 昆 古 命 奥 玉命 味 拒託彦根命 石堀留 目 命の 祀 先より の系統 及 子孫等。次に、


巻 軍功 に依り十七軍碑 の 全國十七 ケ所 割擁 の 事 填等。次 に、共 子孫 赤地碑 五代 鶴
茅葺 不合奪 の外 寂 撃懐 に 功 を樹 てし より、宇 家 潤 不 二 合須 世 碑皇 五十 一代を 経
て人皇第一書碑武奏皇に豪るまF手㎞を継承して軍事を撃 ミシ
次 に神武天皇の東征 の功に依り十七軍神の子孫は悪く園造及 懸令となりける
事 填 等を 詳 記した るもの なり。
一、天地開闘碑代略歴 記。
本古 文書は、孝元天皇五年 秦徐 顧 の 録 取しけるもの にして、安 元二内申年八月
中、源 太夫義仁 の 複寛 しけるもの なり。即ち、天 之世・天 之 御中世・高天原世・豊 阿 始
原世 を 経て、宇 家 潤 不 二 合須 世に 至る 事 質、並 に 天 照 大御碑 の 大 八 洲 を 定め 給 へ
る事を略記した るもの なり。
一碑都質録。

本 古 文書 は、徐 顧 の 録 取 しける もの にし て徐 顧 博即ち 十二 史談 中 の 一史 なる


べし。建暦一一壬 申年八 月中 源太夫義仁 の 長子、藤 馬 亮義國 の 複寛 しけるもの な


り。即ち碑代高天原世天碑七代の統治方法並に豊阿始原地碑五代の治政及八百

萬碑 の 職務分掌、外 寂 征討 及 論功 等。次 に西國 遷都 の評定 及共質施 の 事質、次 に


宇 家 潤 不二 合須 世碑皇五十 一代中年月の創定外 寂 の襲来、不作 に因 る内蹴天災
地鍵等。次 に 長髄彦等の 謀反 東征の部署 及軍略等を詳 記 せるもの なり。
一、字 家 潤 不二 合世 撮 政 記。
第二 章 下 編 碑 皇 書 五三五
脚 息 殺 五 三大
本 古 文書 は 前記 と 等しく表 に1 の 長子 隊 指定 義國 の 複 高 しける もの なり。 包
ち 鞍自圣 王 十 一 代 中 播 政 した る各 种 后 の 無 政 年代平 に左半月 の 創 定 及 神學制 后 の
御 校章 等 を 略記 した る もの なり。
1'不 11 日 高地 大 降 與 國 記。
本 古 文書 は 前記 と 等しく表 に1 の 長子 陈 氏 宗 我國 の 複 為 しける もの なり。 如
ち 時代 天 之 世 天 之 神 也 代 天 之 御中世 大 高見 舞子 五代 高天原 世 天神 也 代 戰術 館
原 世 地 神 王 先、学 家 制 不 二 合得 世 合 得 神 王 十 一 代 の 年代帝 に 時代 に 依る 制 の 名
術st

稱 の 異動 等 を 略記 した る もの なり。
| 羯 代 日 基 之 中 傳。
Ż

本 古 文書 は 前 書 と 等しく際 問 定義 國 の 複 高 しける もの なり。 即ち、天 之 御中


世大高見識 の 時代 より 南平 の 指+本を 合せ 1 根 (鄭 麗 神靈感) として、1 + 根 11


十 根 と 日 を 数 / > U の 中 傳 を 略記 した る もの なり。
就代舞鶴缝 中盤
們不
本 古 文書 は 前 書 と 等しく飛馬 來 表 國 の後 約 しける もの たり。 知ら全家
14 世 第 1 代 爾 蒙 哥 不合 交部位 1 千 五 百 日 の 時兩手 の 指 を 十 張り 重 れ たる 。
3 度合 で 武昌 三百 日 とし 第三十 三代劇本書 不合後 即位十 三張 の º
ル を ため、「月 を 根 と た す等。 水 に 同 體 呈 三 十 六 根 の 時、商 國 滅亡 靈 王子 命
し て 半 人 島 に 隠れ、高層を 使 。 關 東武 國 初めて 平 文王 行を 日 及 月 に 備用, 後
相 を 一 年 に 改め 之 に も 順 用 せ し と と を 略記 した る 。 の な う。

-
| 國家 系 國史。
本古 文書 に金雕像 地も 十 二 史塔 の にし て佐久 手 子年 人 中城太夫義ų
り 返答 しける もの たり。 即ち 大 之 御中 主神 の 長子高 空港 地方 神 の 子孫 は 代 タ
Ā

皇位 於義 の 大御神 にし て水手大王 守主神(神職 )の 子孫は代々 在 字大神 とし、


之.

三子 小 王 守 主神(韓 戰 。)の 子孫 は 代々 在 大神 として空位 來 語 の 各 大御神を


左右, 2 期 約 し 本 かり。 其 在 字大神大王 守 主神 より第十 五 代 大 海原 縣東 に方

年 大神 小金 主神 上り 第十 五 代 神 井守 神 は 共に天 之 御中世 為 皇帝 都 明顯 より第


十 五 代 高 皇 た 愛 神 論 天 之 變化 里吉 神を 左右 より神 崩し 本 る。 たまり各 四 代目
は 左 子大神 を 天 大王 命有 守太 神を 天元 宗 根 命 と いび 北 に 取 材質 を 神 廟 ,し 家
华 二 章 + 五三七
碑 皇 紀 五三八
る。又、九代目は左守大碑を天津伊建玉碑 右 守大碑を天野見屋建命と いひ 宇家
潤不二合世 碑皇第一代鶴茅葺不合奪を補弱し奉る。六十代目は左守大碑を太
玉 購波命右 守大碑を速玉之緒命といひ碑皇第五十一代競 芽葺不合奪を補弱し

奉る。比五十一代碑皇の第四子は即ち碑武天皇にましまして太玉 購波命の第
三子は即ち可美 真手命 及速玉之緒命の第二子は即ち天 日方奇田方 命にして共

に天皇を補弱し奉る。面して左右大碑共紳代初代より人皇に至るまで歴代 及
配偶者等の親族闘係等。次に楽日子命(㎞)より第五十五代海部知男命まで

の歴代、及配偶者等の親族闘係等を記載しけるものなり。

、大瀬摩 津見 命御歴代記。

本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取しけるものにして仁安三成子年三月中

源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、大山祇命より七十二代まて歴代 及共
配偶者等。次 に五十九代熱都丹波彦命は紳武天皇常時の不二山高天原惣司令
碑にして毛幸三高顧残は最育委皇常時の高奏%湖司長なら。『シ
の総大将にて他の神祇の後胤と謀反 せし事質 及日本武奪東征の事質。次に*
継 別皇子 の 事噴 等を 詳記した る もの なり。
一、阿東 祀 命 歴代 記。
本古 文書は徐顧 七世の 孫 顧毒 の 録 取したる もの にし て建 久三千 子年三月中、
源太夫義仁 の複寛しけるもの なり。即ち 祀佐男 命より六 十代築早男 命まて歴
代 及共配偶者且つ孝霊天皇五十康申年四月命の 一子尾羽張田彦命高天原顧地
元宮 太碑宮 の 大宮司 任命 並 に共五世 の 孫、大宮司記太夫命の とき、日本 武 奪東夷
征討ありし 事質等。次 に記太夫命の嗣子佐 太夫命の とき、大山 守皇子 顧 地元宮
太碑宮の大宮司 任命後 東北の碑 祇の 遠孫等 皇子を奉し復た碑都 復奮を企て、
謀反 せし事質及状況。次 に、皇子 佐太夫命の後 を襲ふ て、記太夫明仁 と鍵名し て
大宮司 と なれる事質 等 を 詳 記した るもの なり。
一 祀佐男命来歴世代記。
本古 文書は徐 顧八 世 の 孫顧永の録取 しけるもの にして、建久八丁 己年九月中、
源 太夫義仁 の 複 寛 しけるもの なり。即ち、祀 佐男 命 か谷属八 千除人を 従 へ、日本
國 に渡り、瑞穂 國 を 占領 せ むとて、天 照 大 御碑 に不敬 を 加 へ し事質より、命 の 生検 、
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三九
* 『』 シ
碑 皇 紀 五四○
及 調流に至るまての 事質。次 に命悔心して碑勅に従 ひ三品の大御質を製作ま
しまししより 大御質製作用の大植・小植 の教論 大國 主 第日子雨碑 大植 小植携帯
全國巡歴に至るまての事質。次 に祀佐男命より三十九代祀出國男命まての歴
第 代、及配偶者の親族闘係等。次 に祀出國男命の弟武長刀 昆古命は、碑皇三十三代、
四 鵜芽葺不合奪の認命に依り尾羽 張國海部に日本惣赴津島午頭天王碑赴 を設け
# 出張して東南諸園の罪悪碑弾効の事質等。次に祀出國男命の長子 即ち四十代
宇津男命より五十五代大碑主仁心男命に至る歴代 及配偶者の親族闘係等。次

に、五十五代は人皇初代碑武天皇常時にて、天皇に従 ひ東征 に功を樹てし こと又、

七十五世雲晴男命は人皇十六代仁徳天皇常時 にて共歴代 及配偶者の親族闘係
之 等を 詳 記した るもの なり。
巻 一、大國主命世代記。
本古 文書は、録取者不明にして應永九千 午年八月十五日 南朝勤王家内大臣藤
原長襲卿の男 名高出倉肉薬の襲しけるものなら即与委園シ
祀先の奪属闘係及第一代大穴貴命ょり第五十六代大力太命に至るまで歴代及

j

配偶 者、の 親族闘 係等。 次に大力太命の御子三柱 碑武天皇東征に功を立っ 即


長子大太力命は父の職を襲ぎ諸税牧納役となり 標原の宮の上なる上野宮に止
り 攻子佐野男命は祀先の後を襲き遠久見園造となり 佐野宮(㎞)に止り三
子 羽 昨 男命は、北越 を掌り、野登宮に止る。以上三輪家三家と稲する等。次 に長
子大太力命以下九代の歴代及 配偶者、並に共九代照明男命は、父 の職務を襲ぎ 弟
吉備彦命、同丹波道主命は、崇碑天皇四道将軍の内二士。次 に 佐野男命以下九代
歴代、並に九代武力男命の長子、武淳川別命は、四道将軍の内 一士。羽 昨男命以下
九代の歴代並に九代武智男命の長子大彦命は四道将軍の内一主。次に嫡宗照

明男命以下三十九代の歴代、及配偶者の親族闘係等を詳記したるものなり。

一、碑武 天皇不二山 記。

本古 文書は徐顧博即ち十二史談中の 一なるべし。建久二千 申年八月中 源太


夫義仁の長子、藤馬亮義園の複寛しけるものなり。即ち、碑皇第五十一代競茨暮
不合奪の碑避り給ひしより 間黒の世となれる事質。皇太子日高佐野王奪(㎞
* )、父奪の遺語を長みて東征に従事し給ふも 覚に利あらす 乃ち軍令を諸園の
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五四一
碑 皇 紀 五三八
る。又、九代目は左守大碑を天津伊建玉碑 右守大碑を天野見屋建命と いひ 宇家
潤不二合世碑皇第一代鶴 茅葺不合奪を補弱し奉る。六十代目は左守大碑を太
玉 購波命 右守大碑を速玉之緒命と いひ碑皇第五十 一代競 芽葺不合奪を補弱し
奉る。比五十一代碑皇の第四子は即ち碑武天皇にましまして太玉購波命の第
三子は即ち可美 真手命 及速玉之緒命の第二子は 即ち天日方奇田方命にして共
に天皇を補弱 し奉る。面して左右大碑共碑代初代より人皇に至るまで歴代 及
配偶者等の親族闘係等。次に楽日子命(㎞)より第五十五代海部知男命まで

の歴代、及配偶者等の親族闘係等を記載しけるものなり。

、大瀬摩 津見 命御歴代記。

本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取しけるものにして仁安三成子年三月中
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、大山祇命より七十二代まて歴代 及共

配偶者等。次 に五十九代熱都丹波彦命は紳武天皇常時の不二山高天原惣司令
碑にして毛幸三袋高顧残㎞奏皇常時の高奏%湖司長きら。『シ
の総大将にて他の神祇の後胤と 謀反 せし事質 及日本武奪東征の事質。次に電
継別皇子の 事 填等を詳記したるもの なり。
一、阿東祀命歴代 記。
本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取したる もの にし て建久三千 子年三月中、
源太夫義仁の複寛 しけるものなり。即ち祀佐男命より六十代築早男 命まて歴
代 及共配偶者且つ孝霊天皇五十康申年四月命の 一子尾羽張田彦命高天原顧地
元宮太碑宮の大宮司任命並に共五世の孫 大宮司記太夫命のとき、日本武奪東夷
征討ありし事質等。次に記太夫命の嗣子佐太夫命のとき大山守皇子 顧 地元宮

太碑宮の大宮司任命後東北の碑祇の遠孫等皇子を奉し復た碑都復奮を企て、

謀反せし事質及状況。次 に皇子佐太夫命の後を襲ふて記太夫明仁と鍵名し て

大宮司となれる事質 等を詳記したるもの なり。


一 祀佐男命来歴世代記。
本古 文書は徐顧八世の孫顧永の録取しけるものにして、建久八丁己年九月中
源太夫義仁の複寛 しけるものなり。即ち 祀佐男 命か 春属八千除人を従 へ 日本
國に渡り 瑞穂 國を占領 せ むとて天照大御碑 に不敬を加 へ し事質より 命の生捨
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三九
碑 皇 紀 五四○
及 調流 に 至るま て の 事質。次 に、命 悔 心して、碑 勅 に従 ひ、三品 の 大御質を製作 ま
し まししより 大御質製作用の大植・小植 の 教論 大國 主・築 日子雨碑 大植・小 植 携帯
全國 巡歴 に至るま て の 事質。次 に祀佐 男命 より三十九代祀出國男 命ま て の 歴
第 代、及 配偶 者の 親族闘 係等。次 に祀出國男命の弟武長刀里 古 命は、碑皇三十三代、
四 鵜 芽葺不合奪の 語 命に依り、尾羽 張 國海部 に、日本 惣 赴 津島午 頭 天王碑 赴 を設け、
出張 し て東南諸國の罪悪 碑 弾効 の 事質等。次 に祀出國男命の長子 即ち四十代
宇津男 命 より 五 十 五 代大碑主仁 心男 命に至る 歴代、及 配偶 者 の 親族闘 係等。次

に、五 十五 代は、人皇初代碑 武 天皇常時 に て、天皇 に従 ひ東征 に功 を樹 てし こと、又、

七十五 世雲晴男 命は、人皇十六 代 仁徳 天皇常時 に て共歴代 及 配偶 者 の 親族闘 係


等を詳 記した るもの なり。


巻 一、大國主命世代記。
本古文書は、録取者不明 にし て應永九 壬午年八月十五日 南朝勤王家内大臣藤
原長襲卿の男髪名高山宮内楽の複資しけるものなり 即ち天園主シ
風先の奪属闘係 及第一代大穴貴命より第五十六代大カ太命に至る“。
配偶者の親族闘係等。攻に夫力太命の御子三柱碑武天皇東征に功を立っ 即
長子大太力命は父の職を襲ぎ諸税牧納役 となり、機原の宮の上なる上野宮に止
り 攻子佐野男命は祀先の後を襲き遠久見園造となり 佐野宮( ㎞)に止り三
子羽唯男命は、北越を掌り、野 登宮に止る。以上三輪家三家 と稲する等。次 に長
子 へ太力命以下九 代の歴代及 配偶者 並に共九代照明 男命は父の職務を 襲ぎ 弟
吉備彦命、同月波道主命は景碑天皇四道将軍の内二士。次 に 佐野男命以下九代
歴代 並に九代武力男命の長子 武淳川別命は、四道将軍の内一士。羽 昨男命以下
九代の歴代、並 に九代武智男 命の長子、大彦命は、四道将軍の内一士。次 に 嫡宗照
明男命以下三十九代の歴代、及配偶者の親族闘係等を詳記 したるものなり。
碑 武 天皇不二山記。
本古 文書は徐顧博即ち十二史談中の 一なるべし。建久二千申年八月中 源太
夫義仁の長子、藤馬亮義國の複寛しけるものなり。即ち 碑皇第五十一代湖非葺
不合奪の碑避り給ひしより面黒の世となれる事質。皇太子日高佐野王奪(㎞
)、父奪の遺認を長みて 東征に従事し給 ふも、寛に利あらす乃ち軍令を諸 園の
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五四一
碑 皇紀 五四二
初世太記頭より 諸匿國令 諸郷首 諸村長 に移し、義に赴かしむ。即ち東海 日・東山
日 大湖 日 北越 日・丹馬 日 針間日 より、各賊軍を進撃せしむる史的事質。皇太子 皇
族大久米命等を、不二山高天原の太碑宮に遣はし、御碑託を受けしめ、更に稲飯王
命 三毛野 入野王命等をし て海軍を率 み、牟書要の鬼山に向はしめ、親ら陸軍を率み、
高天原の御碑託に依れる八 思鳥を響導とし、宇陀の國見 に進軍ありて、遂に賊軍
を撃ち平け給 ふまての部署、及各将校 並に戦法、戦況の事質。次 に、戦闘地の御
巡狩、及農民の慰問救 流 より、伊瀬崎に於て、不二山高天原の天つ大御碑の通 拝並
に伊瀬度曾宮なる父碑皇の 山陵 へ 母碑后を合葬して伊瀬碑宮となし、共左右 に
戦死軍人を祀らせ給ふ事質。次 に貧都の曾議 並 に大和標 原地の選定即位式等。
次 に御家内七道及官制、法制、並に論功行賞に基く國造懸令の任命等。次 に、祭祀
の方法、年中祭日、大賞祭の事填。次 に、高天原の行幸、及七廟惣名阿祀山 太碑宮の
御親祭、高天原宮守の任命、鳥見山に於ける高天原遥拝所建設、並に帝都より高天
原に東海道開設及五畿七道の道路開通等。姿に作田彦命第一代より人皇初代
に 至る歴代、及 配偶者の 親族闘 係。 次に 天別天之火明命の足 初張國造の任命 及
眞清田宮に移り止らせ給 ふ事質。並 に大己貴命の遠久見國造の任命及佐野宮
に止らせ給ふ事質。次 に、火明命第一代より人皇初代まで歴代 及配偶者の親族
闘 係を 詳 記した るもの なり。
第 一、阿 田津 昆女最期記。
四 本古文書は秦徐顧の中博を録取しけるものにして建久八丁己年八月中源太
夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、阿田津昆女奪 訟木花咲 耶 里女奪 が 外冠 征
討中南島にて夫碑天日子火環 々 杵奪に疑はれ 碑都高天原に還御ましましてょ

り 不二山の噴火に投して碑避りまし ぬまでの願末。並に 乗御の大鹿の悲鳴 及

侍女の殉死より、環 々 杵奪還幸ましまして、噴火 口内の焼石を掘出さしめ給 ふま


での事 填。次 に、噴火 日 投入 より、不二山 大噴火まで の 状況。次 に、大山祇命の家


巻 司旨具原家司の宮の由来 より、大山祇命 別雷命の御陵墓の由来に至るまでの事質
を 詳 記した るもの なり。
一、海 守碑記。
本古文書は、録取 者不明 にして、建 久三千 子年八月中 源太夫義仁 の複寛 しける
第二章 下 篇 碑 皇 書 五四三
碑 皇 紀 五四四
もの なり。即ち、日子火々出見奪、御子 鴨 芽葺不合奪 に譲位 まし まししより、築市島
遷都までの 事填。次 に海軍惣元帥豊玉彦命、高天原刻 の湖畔 なる海 守の宮即ち
龍宮より 築市島豊野の里宇佐の宮に移り止らせ給ふ状況。長子宇佐豊武命に
大本営大本陣なる宇佐の宮を、次 子佐津眞男命に佐津 眞原家古島の宮を、三子日
前佐武命に日佐野原長崎の宮を、四子大阿佐彦命に南島居太野の里阿波 の宮
を 五子那珂三井男命に津久始の原初古崎の宮を 六子玉懸彦命に注木島( ㎞)阿
加見太原の天渡都見の宮を七子石田明男命に伊木島 ( ) 石田野原の天渡都
手配の宮を、八子 羽茂猛命に佐渡島 羽茂野の天渡都の宮を守護せしめ給ふ事填。
次 に 海 守の目印として、浪 に日月を書きし幡八施を製し、八子に 一旋 つ 、を分ち
興へHっ 天本営大本陣の傍の丘上に同を建て 、八子の守護碑として八っ幡大
神と祀りませる事 。次に『 玉彦命五十一世の孫海部知男命の七柱の御子神
武天皇東征の役に戦死ましませる事質。攻に碑武天皇 海軍大本営大本陣を三
箇所に置き夫元帥をして之を守護せしめ副本営副本陣を十二箇所に置き副完
帥をして 各守護せしめ、且つ、共元帥等は、執 れも、豊玉彦命八柱の御子の後胤をし
て、N に常らしめ給 ふ事質。次 に、三箇所の大本営大本陣に守護神として、上津都
王碑 中津都王碑 朝 古津都王碑を祀らしめ給ふ由来等を詳記したるものなり。
一、陸 守 大本営大本陣記。
本古文書は前と同じく引績き源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち 碑
第一代競 非葺不合奪の築市島遷都の後阿倉山(㎞)に陸軍大本営大本陣を置
き、阿 曾武男命を惣元帥 となし、全國十七軍碑に軍令をなさしめ給ふ事填。次に
碑武天皇東征の後 大和園城上の三輪の宮、日太地園鹿島の宮、日野園阿蘇の宮に、
各大本営大本陣を、全國三十六箇所に副本営副本陣を置き、且つ大本営に大元帥

を、副本営に副元帥を置きませる事質。 次 に、大元帥 副 元帥は 十七軍碑の後胤中


より知勇に富めるものを選みて、勅命にて登用ましませる事質等を詳記したる

もの なり。
一、惣國 碑赴御改定記。
本古 文書は孝元天皇五年 徐顧の録取しけるものにして、安元二内申年八月中、
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち 高天原阿祀谷の高座大碑 実川大碑 高
第 二章 下 篇 碑 皇 書 五四五
-
五四六
碑 皇紀
電大神天照大神シ元野大神宮守大神山守大碑の七廟
り全園各大赴及撮証未赴に至るまで紳武天皇五年乃至七年シ
定あらせられし碑名 帳なり。

一、楽日子 大國主雨碑祭因縁記。
本古文書は徐顧及共子孫代々 継績録取しけるものにして *三シ

中瀬太夫義仁の父三浦上野守義顕入道義明房源心のシーサ。『

ち*日子命は海演の漁事を掌り大園主命は園中商法の事を撃。シ、一。
戸に祭れる事賞。次に*日子命第五十五代海部知男命の長子。武カ
て、大
子共に碑武天皇東征に戦死せしかば天皇豊武力命の遺子シ
和大園造となし。惣園中の神祇祭祀の事を掌らしむ、次にシょ。「三
代までの歴代及配偶者の親族闘係等を略記したる。の。 -
一 高天原古跡 録。
本吉文書は浦和天皇貞観八内成年三月十五日 にし士山七魔 名阿加山*神
て、嘉 應 二 虎定員年三 月 十 六
のシ八代』大領伴基貞の。、。
日 源太夫義仁の勝寛しけるものなり。即ち、碑代に於ける高天原の小室中室大
室・青木 ヶ 原・宇宙野 の五 大字、湖水 四湖、池水二 池、河川五川、噴火六箇所、湯の 湧く所
二 箇所、阿 祀 山二 十三山、水市山四山泉 仙山十二 山 到 山五山の各名稲。次 に、人皇
以後に於ける高天原の大字は小室は家基都澤に 中室は中室澤に大宝は五字に
分 れ、青木 ヶ 原は十五字 に分れ、宇宙野原は六字に分れ、山川湖水は碑代と鍵化な
き事質。攻 に 孝徳天皇大化年中 高天原所在の都留郡の甲斐園編入、恒武天皇延
暦十九年大噴火後都留郡三分して他郡をして支配 せしむる事質。次 に、延暦十

九年及貞観六年の二大噴火 の状況、及湖水山川大字の鍵遷等を詳記したるもの

なり。

一、祀家・武部変 日子・三家 共皇族役人記。
本古 文書は 徐顧 の録取しけるもの にして、毒永二発 卵年正月中 源太夫義仁の
父三浦上野 守義顕入道義明房源 心の複寛しけるものなり。即ち、顧家 氏可美兵
手命 及武部氏天日方奇日方命を申食 園政太夫となし*日子氏推根津彦命を大
和の國造となし 高座日本皇子を猛田大懸王 ㎞)となし、軽身大久保皇子を
第 一章 下 篇 碑 皇 書 五四七
碑 皇 紀 五四八
磯城副懸王 ㎞)となし給ふ事を略記したるものなり
一、人皇歴代 記。
本古 文書は秦徐顧及共子孫世々 継績録取しけるものにして、 永二発卵年正月
中 源太夫義仁の父、三浦上野守義顕入道源心の複寛しけるものなり。即ち、人皇

第一代碑武天皇より 第十二代景行天皇に至るまで 各歴代の即位 奪都立后、立太


子 任官 在位 毒 山陵 共他一切の史的事質を詳記したるものなり。
一、不二山高天原鍵革 記。

本古 文書は秦徐顧の録取しけるものにして建久五 甲寅 年九月十五日 源太夫


義仁の複寛しけるものなり。即ち開闘元始時代に於ける高天原附近の湖水を

撃 く目く高天原湖、目く阿祀湖、目く亀之湖、目く宇宙湖。次に、不二山高千火峰の

北陰一帯に位せる高天原湖を、一に碑代湖と稲し 共大弓に似たるを以て、赤大弓
湖といふ。碑皇第三十三代鶴芽葺不合奪の時、月を見常に月を定め、十月を一年
* 、ボ大三日月湖と唱ふ事質。
とし定められ 時 時 よ り兵調形三日月に似たりしとて
基 形 夫M
次 に、國 供 植倉 五子に命し 泉仙山南 のシ 院前橋を匿撃し測水をシ“。。
へば 共下なる亀之湖と共に押崩れ、雨湖酒湯し 高天原湖 東西に一部分づ、残存、
二湖㎞)となる。次に共結果 須留家の田用水絶ゆ 乃ち奪 又五子に命じ、
不二山西麓を堀撃して共残存せる西湖水(㎞)を引水せしめ給ふ。共所を割
石峠 といふ。次 に、阿 祀 湖、宇宙 湖 の 形状 由来 等 を詳 記した るもの なり。末尾に、
寒川 日記中より、不二山の 碑代 に於ける噴火及 共状況 より、延暦貞観等 の 噴火ま
-
-
でを附記したり。
一、寒川日記、海伊 國開闘 歴記 投 録。

本古 文書は富士太碑宮の 代々 大宮司 の録取しけるもの にして建久年中、源太


夫義仁の録取しけるものへ共以降の分を 七世の孫宇津越中守義利の書添をな

したるものなり。即ち 高天原に於ける宇宙湖向祀湖石井湖動之湖( ㎞ )

底大湖の五湖の状況等。次 に、底大湖最も大きく、海佐知の事填起因より 到 之湖
の龍宮に、火火出見奪の寄富、及碑后 豊玉里女奪の出産ましますまでの事填。次
に 親 芽葺不合奪、父奪の 語命を 長み、西國遷都のとき、海佐知里古講 火照須命の勅
免 及海伊國造任命、征西惣元帥任命までの事填。次 に、火照須命の長子 佐津兵武
第 二章 下 篇 碑 皇 書 五四九
-
碑 皇紀 -
五五○
命父命の惣元帥職承継(㎞)、次子高原男命海伊國造承継等。次に高原男命よ
り六十代臨海 宿禰までの歴代、及 配偶 者の 親族闘係等。臨海宿禰最行天皇二 十
五年武内宿禰の命 に依り、底大湖の南山掘撃 湖水四分の 一減水井に湖西北は、小

國湖間園( 離*)湖南は小園山背園湖東は谷間名地園 (㎞『)の三小園 即ち


海伊園なる由来。次に農佐知里古講火須勢理命より 五十五代賢知仁彦命まで
の歴代及配偶者の親族闘係。次に考霊天皇五十年賢知仁彦命を以て伊須出張
島内海震上りし荒地開狙を命せらる。共長子江川大八良命より五十 一代まで

の歴代及配偶者の親族闘係等。次に地碑二代天之忍穂見命の一子 太基祀命(
㎞)大山祇命の長女岩長里女命に要ひて伊須園に止らせ給ふより 命を元帥と
し 石堀留日命 (㎞)を副帥となして西海諸園の戯軍征討中穴門の宮に於て
碑避り給ふまでの事質。次 に 太眞祀命より数十代の歴代、及配偶者の親族闘係、
井に石堀留目命の長久佐宮に碑避り給 ひ 日野前宮と稲する等を詳記したる*
のなり。
一、寒川日記 作田 彦命歴代後記が修。
国ー
本古 文書は富士太碑宮の代々 大宮司の録取せるものにして建久年中 源太夫
義仁の複寛 しけるものなり。面して共七世の孫宇津越中守義利が 代々 大宮司
の日記 共他の古 文書の残篇を寛集して 共以降の分を修補し以て元中九手 申年
十二月十日 長慶天皇に奉呈 せしものなり。即ち、作田彦命六十七世の孫 機田彦
命に、州田彦野見彦田村彦の三子あり。舟田彦は、垂仁天皇二十五内辰年八月伝
園笠縫の里より 伊勢度倉 へ 遷宮ましませる天照皇太碑宮の供物司長に 顧地太
碑宮より韓任して伊勢國河曲野都波岐宮に止り、山田氏と稲し後松木氏と改 む

る事質(㎞)。次に野見彦は%碑天皇六十姿未年元帥吉備津彦の神将となり、

出雲初め北越の賊を平くる功に依り 同地に止り、農事を司りしより、垂仁天皇七

成成年八月 常麻 豚速を整 し後夫婦共に同天皇に殉死せるまでの事質 井に天皇


の山陵なる大和國菅原の伏見附近に葬り、長子出雲彦 に、菅原 宿禰 と 開 ふ 事 賞

㎞)。攻に田村彦は見舟田彦の後を襲ひ㎞地太神宮の供物司長となり不二
山阿祀谷御舟湖畔の御舟の宮に止る。共三十世の孫 羽田宗田鷹の長子宮田 鷹
は元明天皇和銅二己西年忍壁親王の副帥となり 左大舞巨勢磨等と 鍛束を平 、
第二章 下 篇 碑 皇 書 五五 一
碑 皇 紀 五五二
る功に依り、科野國高井水内二郡を賜はり、長野原吉田岡の 坂上の館 に居る。坂
上宮田磨と稲し 後、北越西海の賊を平 ぐる功に依り、陸奥國三十四郡 を賜はり、征
夷大将軍となり対田城に居る 坂上丸田魔と改むる事質 ㎞)。次に 弁田
彦より三十五代松本足 時に至る歴代及配偶者の親族闘係並に略博、次に野見
彦より三十二代菅原道眞に至る歴代 及配偶者の親族闘係 井に略博。次に田村
彦より、三十代宗田鷹に至る 歴代、及配偶者の親族闘係井に略博。次 に、宗田鷹の
一子宮田磨事 坂上菊田磨より、十三代田村清正に至る歴代 及 配偶者 井に略博。

次 に、田村清正に、田村太郎清 基 信夫二郎秀治伊達三郎秀政 の三子あり。清基ょ


り、十代田村陸奥太夫清勾 に至る 歴代 井に秀治 より、十代信夫太郎重信 に 至る歴


代 井に秀政 より、十代伊達三郎太夫宗朝 に至る歴代等。次 に菅原道旨共より、十三


代菅原有登郷 に至る歴代、及配偶者、井に 略博。次 に、井出 氏、中興十六代の 歴代、及

配偶 者、井に略 博。次 に、應碑 天皇の皇子根鳥皇子顧地元宮 太碑宮 の 祭典司長 と
シ㎞
り、二十六代太田 眞長 に至る 歴代 放配偶者 井に略偉。次に、垂仁 天* 「”『*
年祀佐男命 七十二世の後胤、吉田彦の二男 顧地眞太八良を以て、顧地元宮太碑宮
の分赴山宮 浅間碑赴の宮司 となす、共三世 の孫大原田彦は、集継別皇子を 嗣子 と
なす㎞地基太八a政仁と髪名す足より二十七代風地又八良政忠に至るまで歴
代及配偶 者 井 に略博。次 に碑代宇家 潤不二 合須世、碑皇第 一代競 芽葺 不合奪 よ
り人皇第 一代碑武天皇 に至るまで、海 伊 國代々 の國造、及 略博 井 に同天皇より、故
達天皇に至る 代々 の國 造、及略博 % に、聖武天皇以降、天朝領 となり、甲斐 守を 置
きしより 堀河天皇に至るまでの代々の甲斐守及略博等を詳記したるものなり。

一、寒川 日記妙 録。

本 古 文書 は、代々 大宮司 の 録 取 せるもの より、建久九成午 年三月、源太夫義仁 の


抄録しけるもの なり。即ち、第三巻の 四、及 第四十三巻の三 乃至九 にて、碑代高 天


原の地勢状況 井に各碑祇の山陵等より 延暦大噴火の質状相州寒川紳赴創立 勅


使太碑宮再興 真観の大噴火 避難の 貸め、太碑 宮の 遷宮等を、詳記しけるものなり。
一、不二山 高千 火由来 徐 顧博。
本古 文書は、徐 顧博 中より 一部枠 録しけるもの にし て、抄録者不明 なり。即ち
第 二章 下 篇 碑 皇 書 五五三
評 和 五五四
晚 & 些特急 の 一 子 の 事 時 を 略記 した る もの なり。
1、泰 尔 福 德 萊 設。
本 古 文書 は 徐福 也 世 の 孫、福寿 の 縁取 しける もの にし て建 久 三 年 王子 一 月中、
源 太夫 義 に の 複府 しける もの たり。 部 ら、泰 德 麗 始皇帝 に 上 許し て、金 被 用 皮 を

關連 し 前 男 童女 五 百 有餘 人 大船 四十八 被 分 乘 及 出航 の 事宜。 次 に、英 帝 明帝 女


五 百 有餘 人 の 氏名 林 に 共振 らし 來 れる 資 物 及 非 如 等 を 許 証 した る もの な う。

1、文 郡 是 日 國 皇 代 歷 記。
st

本 古 文書 は、李 雲天 室 也 十 六 天成 年 十 月 十 日、徐福 の 孫 取 しける もの にし て、安


st

元 二 西 中 年 八 月 中原 大夫 義 に の 複 高 しける もの たり。 知ら、大 民 代表 民 大陸 の


Ż.

大 中原 に 天 降り 結び し より後來 轉變 氏 以下 唯 代 即ち 一定 王 派 より、文 版 用 三代

に 至る まで、帝王 の 系統 及 各 后妃 の 親族 開 除非 に 路 傳。 次 に 太湖 國 湖 洲 朝鮮等
の 王族 系統 及 后妃 等。 水 に 相州 國府 發 等 の 王族 系統 及 后妃 等。 次 に 西湖 國西
% に安 等。 北魏國非 怖 主教等を話した 。
1 後 子 系 毕业。 -

-
本古 文書は 孝霊天皇七十六内成年十月十日、徐顧の録取しけるもの にして、安
政二内申年八月中源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち 秦徐顧の刺 先ょり
の歴代、及 配偶者の親族闘係、及略博。次 に 徐顧の文學修業、並 に天笠渡行備奥修
業より 始皇帝仕官 まての事質。次 に 始皇帝に上書して 東海渡航 に至るまで の
事質等を詳記したるものなり。
一、支那震 旦國國 法略記。
本古 文書は老元天皇五年 徐顧の録取しけるものにして、安元二内中年八月中、

源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、三皇五帝より 夏股周三代 に至るまで


の園鶴の基本を記述して、孔子の仁義忠孝の道を詳記したるものなり。

一、不二山大祭徐顧来朝井 勅定寛。
本古文書は代々大宮司の筆記しけるものより建久五甲寅年二月中源太

仁の際寛しけるものなり。即ち神武天皇及孝霊天皇の各太碑官御親シ
の来朝井に 一行五百除人の職業別 斎 帯せる金物 徐顧の 一族子孫等。次 に
顧島の紀伊の大山間組 井に徐顧寧入門の武内宿禰等 太神宮の天赴 及分赴創立。
第二章 下 篇 碑 皇 書 五五五
碑 皇 紀 五五六
次 に、東北碑 祇 の後胤等の謀反、日本 武奪 の 東征。次 に、列聖 より、太碑宮 へ 賜る勅
定状、十 一 状 の 寛 等 を 詳 記した るもの なり。
一、阿 祀山 太碑宮鍵革記。
本古 文書は、富士元宮太碑宮 の代々 大宮司 の 録取 しけるもの にし て、建 久 五年

逸源太夫義仁の膳寛 しけるもの へ、共以降の分を 嫡孫源太失 正政 の書 添 へ をな


したるもの なり。即ち、高天原阿祀谷 七廟 惣名阿祀山太碑宮 の碑代創立、鎮座地
附近の山川原野の地名及古跡等。次 に、太碑宮の碑代の宮守 碑武天皇時代の宮

守孝霊天皇時代の宮守、即ち三 十六 碑 戸等。次 に、崇碑 天皇、三種 の 碑器及 天照大


御 碑の奉遷、垂仁 天皇、太碑宮の 分 赴創立、成務天皇の 顧地 山 の境界 艦碑天皇の新


宮守任命、三十六碑 戸の撮 赴 末赴等。次 に、各列聖に 於ける阿 祀谷 の鍵遷。次に


太基祀命七十四代紀彦鷹の次子紀小弓彦より 四世の孫紀男魔住留家國の國造
任命より眠戸皇子顧地元宮太碑宮参向まての事填。次に 太碑宮鎮座地の地名
鍵更園霊の姿㎞守の鍵更等。まにシ報の去 のシ
の 再興 富士十二郷の 免 賜等を詳記した るものなり。
一、延 暦十九年顧地 山碑 官伊勢 参詣 記。
本古 文書は、延暦二 十三甲申年九月中、徐 顧三十世 の 孫、顧 岡 徐教の 録取しける
ものにして建久五年八月中瀬太夫義仁の勝算しけるものなり。即ち延暦十九
年三月、顧地元宮太碑宮 の 大宮司、宮守、赴家、所請 碑代 よりの碑 祇 の後胤、三十六碑
戸の家族春属三百有除人、伊勢太碑宮参詣出 務等。共留守中、延暦の大噴火 にて、
富士二 十里四方埋没 せし より、噴火の 状況、被害 の 踏査、碑官等 の 相模 移住 に至る
まて の 事質。次 に、移住地 に、寒川碑 赴 設立、古 文書資 物の保全、勅使の下向等。次に、

徐 幅 より三 十代ま て の 歴代等 を詳 記 した るもの なり。


一、延暦 十九年 顧地 山 噴火 記。

本古文書は淳和天皇承和三内長年八月中延暦大噴火常時富士元宮太碑宮の

大宮司 傘 寒川宮司宮下記太夫仁元、同副 司 傘 碑部山 浅間宮司古谷彦太夫元貞 太


碑宮 の 別常萬蔵寺住 快 天法師等の 録取しけるもの にし て、建 久二年源 太夫義仁
の 磨寛 しけるもの なり。即ち、延暦大噴火 の状 呪、彼 害の惨状、岩石 世界 の質況、各
地理没せし村落 戸数 人日等。次 に 太碑宮の各神官の親族闘係 及焼残り人数 即
第二章 下 篇 碑 皇 書 五五七
碑 皇 紀 五五八
ち伊勢参詣の碑官等、三百除人移住等。次 に、太碑宮の再興寒川碑赴の新設 勅使
下向等 を詳記したるもの なり。
一、甲斐國八代郡 延喜式内碑赴記。
本古 文書は、醍醐天皇延長四内成年八月十日、即ち 延喜式常時 富士元宮七廟浅
間太碑宮の顧官 伴秋吉、八十六歳にて、録取しけるもの にして、嘉應二康演年三月
十五日同太碑宮大宮司源太夫義仁の勝寛しけるものなり。即ち甲斐園八代郡
式内大座 一座なる富士山元宮七廟惣名浅間太碑宮の御碑鶴、並 に紳代よりの事

填。次に碑代より各大御碑 及各碑皇の太碑宮に於ける即位式の方法、及共衣冠 に
耐品

闘する来歴方式等。次に、碑皇及人皇各即位式 の異動。並に、天照大御紳三種碑

器の奉遷等。次に延暦貞観等の大噴火に因る富士の太碑宮残選の状況。攻に、

鮮衝碑赴 中尾碑赴 表門碑赴 佐久碑赴弓削碑赴の式内小座五座の事 獣等を詳記


した る もの なり。

一、高天原碑都質 記。
一、阿 祀 山碑 赴 由来 記。
一、阿祀山 碑赴祀詞大教。
一、阿 祀 山 碑 赴 大祀詞。
一、顧 地山開 闘 由来。
一、高天原 諸 國 遷宮 日記。
一、阿 祀谷浅日 浅間神祇 由来記。
一、阿 祀谷 碑 赴 由来 記。
一、大山 守皇子御来歴 井御皇胤 頼末記。
一、大山 守皇子果代家 歴巻之 一、巻之二 巻之三。
一、顧 地 又八郎 歴代記。
一、富士山 噴火年代 記。
一 皇子博。(㎞)
一、七廟中三座由来 書上。
一、七廟中 四座由来 書上。
五五九
第二章 下 篇 碑 皇 書
-
碑 皇 紀 五六○
一、碑代 記。
一、碑木 記。
一、富士 本宮 小室大赴 記。
一、大宮 浅間大赴 博記。
一、源 頼朝公二 所明碑 参詣附帳。
一、源 頼朝 公二 所七 赴 明 碑 大 赴 再建寄附 御 連名 帳。
一、富士 七 廟碑 領 免賜状。
一、富士 秘密日記。
一、富士 秘密 日記博史。
一、富士 秘密後記 博史。
一、太田 和 日記。
一、富士 谷地名 録。
右列撃の古 文書は、大山 守皇子、又は 共子孫代々 大宮司の録取 しけるもの なり。
面して源 頼朝以前に係れるものは 多く宮下源太夫義仁及 共子孫の 複寛 又は警
寛しけるもの にし て、頼朝以後に係れるものは、古 文書の 本書 なり。然れとも、比
等古文書は 固 と本篇の目的 にあらず、単に参考の貸めに列撃せしもの なれ ば、執
-
れも、共内容は 之を省略 したり。





-
第二章 下 篇 碑 皇 書 五六一
*エ編エー=ー編

**


脚 息 般 % ॥
第一 章 議 代 神 系譜(純潔
第一 羯 摩 大 系譜
第 天




1 之 神 也 代 系譜
夫 朝后、 天 之術水母乳。

之 高 水神』
— Nº 小學 副刊
天 之 高木 此 古 神社
第五
之 草 男 * * * **

碑 皇紀 系譜
第六
“ 天 之 高原 男 碑「紳屈「剤劇美馴
**
第七

第二期
世 天之御中世火高見碑十五代系譜
「』o天 之 御中 主 紳「紳屈「刃御明批刻刷
-ー
c高 皇 産 穂 男 碑「碑后「碑皇劇酬美碑
- チ
左大碑家、始祀
高 中 守 主 碑
右 大碑家、始祀。
高 下 守 主 碑 ---

』 =
第四 - -
--*-
中 引ーシー
『 碑后、津木峰 美女 碑、

天之
ョ* ョュ 以 1日 利「㎞、「対剤地丸碑、謝剛引加射出剤

一。天 之 御 柱 立神 ㎞、シ -
-=
『天之本シ
之草奈 男 神ー㎞ 諦農田比女碑で
“天zt ㎞シ
「 天 之 火 明男 碑 ㎞ 諱農山比女碑。
「 天 之 水 明神㎞、シ
『 天 之 金山 男 神 ㎞剤 諱農谷比女碑て
『天 之火山 明神㎞シ
『天 之 田 魔 リ ㎞シ -
第十 は 中_論農作比古碑、 天之神農氏神、後 高皇産霊碑。
「。高 皇 産 霊 碑「㎞「㎞、シ比s碑
碑 皇紀 系譜
第二二期 高天原世天碑七代系譜
第一
-----
五子、論農立比古奪。
8國 常 立 奪「碑后、園㎞「 碑佐加比剤、天之常武比古命女。
第二
七子、講農狭比古陰。
Lo國 狭 植 奪 碑后「國狭比女鶏、請自清龍比女奪、天之古登太留比古命女 て
第三
号 一子、諱阿和路比古尊。
ーo豊樹 *}
ー』シーシ市牝 1りリ』 引ー
碑后、「阿夜加志古泥奪、調自満比女奪、天之茂登太足比古命五女。
養子、賞者、國狭樋奪四子、豊期停奪夫折、受共後、講農田比 古g。
ー尾茂 太 留 奪「㎞s
一女、講伊井出 奪、伊井諸奪碑后。
*「白山 比 女 奪
一子、諱阿和武男命。
「* 心 武 命 婦碑「眞心比女命、請松島比女命、泥土者奪九女。
『 武 足 古 奪 天照大御神、養貸太子、天之シ
ー少々名 用比 十日 那命ー 一子、設大國御魂命。
婦碑、武弾端里女命、「言大國御魂足女命、大庁道s三女。口 」
ー久延仁昆古命「崎碑、下照昆女命、大國主命二女。「
「鶴 第 龍 命 ㎞s、シ、シニ*
「知 倉 王命ー玉屋 命
ー壇 安比 古 命ーFシ 天 之 長男 命
水 湧 昆 古 命ー長シ 水 満里 古 命
四子、譲天之古登代主命。
ー事 代 主命ー㎞ 高照里女命、諱日吉里女命、大戸道奪六女。
設手長雄命。 該 兵主雄命。
ー天之手長男命 事 武男 命
ー天香護山 命 ー事 勇男 命 高高御魂雄命。
大山祇命妃諡別雷命。
ー加茂澤昆女命 ー事 力 男 命 露太祀詞雄命。
ー武佐 太 昆 古 命 五子、喜太島座昆古命。
ー白糸 比 女 命 楽日海男命妃。
第一章 碑代碑系譜 五
4


8 武比







命松男島



女 。



草夜津
月ー

里 命




ー 泥土


煮 命



ー 青木



比 命















ー シ
*





ー 皇紀

系譜


戸 命



碑后、沙十者奪、講大原比女命、天之茂登太手比古命二女。








可碑






地后比、
潮。






二子
_
一子、諱日本比古奪。


ー大 己 貴 一げ、認識大國主命。
命 婦神、若美比女命、天之茂登太手比古命男、豊心比古命一女。


二子、言ェ比活塗い ㎞作田理吉論、世ェ湖里古命。
古 命 ㎞、作田更女命、豊書済奪(尾茂太留厚)二女で
少名昆古冠命記で
ー式 昆女命
事代主命起こ
高 照 昆 女 命
三子、違 種 千ョ比古*。
こ面 足 奪 碑戸、大戸 まき、 千早比女命、天之茂登太兄比古命四女で
一子、資判貯蔵法始祀。
二子、剣銃 自在始組。
命ー 四子、農田比古彦、貸 后、阿夜加志古混第之人夫。
五子、 田仁知 比古多
伊 奪 碑万、伊葬再%、 自山比女%、、常立倉
角ん ム 好 也 神
中 石 〜 %け
豊 阿 始原世 地 一代 系譜
第一章 碑存 、シ

耐 皇 紀 系 譜
一女、幼名大市昆女陰、諱大日留女奪。
大 御 碑
刑 「認 ハ都大日 碑、後譲天照大御神。

ー月 夜 見 好、効陥 良い㎞決㎞
奪 婦碑、シ里%命、「講用標昆女命、泥十煮命一女。
謎塔日海男命。
奪 二子、幼名仁良、講軽子命、改講江日住命、腸講築温 命、稲次海津見命、
ー築 日子 ㎞、慰昭刻命『講作糸昆如命「卿期淳奪(尾茂太留等)一女。
-
*
高『皇産霊碑曾係也、腸諱祀佐男命。
皇産霊碑曾孫 賜諱祀佐男命
-
ー祀 佐 男 奪 距女命「 稲眠聞 の命、引力男命、諱手名植命一女。
養子
第二 浮奪節係、眞心武命一子、幼名日吉昆古噂、講博武出店陰、
浄奪
、賞者、豊期淳

*
し c天 之 忍 穂 耳 奪「㎞列命「 機科津昆女%、訓佐男命一女。
第三
一子、幼名武雄里古奪、又、荒心押噂、講作 収味㎞
Lo天日子火環 々 杵奪「碑婚、シ、歌名菊聞女命、講阿田都昆女命、大山祇命二次。
二子、一作玉祀命。
ー太 眞 祀 命 ㎞、シ、大山祇命一女。
ー太 八重美 命 一女、シ
二女、天見屋根命妃。
ー天母 岬 昆 女 命
-
*
子、稲海佐知昆古、講阿曾武男命、 一稲識準人彦命、設天下武男命。
火照 須 命 ㎞
● -

*
佐知田比古、説 太田知博 命。
7火 須 勢 理 命 ㎞、天見屋根命こ女。
賞 」、 三子、論火*里命、稲山佐知里古。
ー。日子 火 々 出見奪「離婚「シ㎞局、 引郡出剤、改 石シ『女
第五 -
*
* *} ョy *
弾 * *に、も 3
>
『 日子波激武職茨音不合奪 ㎞、改*日子シ
二子

り 、尾羽張田原國造、居干中島之旨県清田宮。 干
ー天 別 天 之 火 明 命婦碑、富身美里女命、天政治彦命三女。
三子、講若武昆古命、治干北越山陽山陰、居干和加佐濃宮。
ー三 穂 武男 命 ㎞
四子、高天原宮守。
ー阿 田 都 彦命
第五期 宇家潤不二合須世合須碑 五十 一代系譜
日子 火 火出見 奪 一子 即 地碑五代 日子波激武頼芽葺 不合 奪 也。
・ 。油 ・白 や、自 、トを、 日子火火出見奪一子、諱日子波微武言合奪。
碑皇第 一代 瀬非葺不合奪「紳㎞剤
Q

二 高 王 命 シ、 沈没碑避参。
『 >
加 ェ
二皇子。
命 ㎞即位式随行渡航中、沈没碑避参
『 第一章 碑代碑系譜 九
數量 和 系譜
第 一期 高天原 世 天神 上代 系譜
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因 陀º
古。
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神武天



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影! 七子、 沈殿 被北方停º
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子、 冰河和洛 比古º

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副約师翰
-8輛 料 站停 容 足 北市金五
湖北及李天之成金太阳 五
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後宇、 食者、 阿拔範な図子、 雲斯林天所' &此後、 桃山比 šº
「尾 龙 大智 容 鄭州 同上海神戶之入宋º
1 女、 蘇伊非非、 伊非欧神后º
* 1日 E 小 女 警
そ、 神阿和式 命º
* * * T 線新政的出配殿和比安全 和王家徐カ女º
天照大御神、 愛好天子、 天之忍德元は夫也。

1 子 *大阿骨肉牛º_
|少 名 世 中 那金 紫 砂漠、 太祖 * 「 口
ー久延仁昆古命「婦碑、下照即刻剣、大國主命二女。「
諱阿曾武命。
「健 磐 コ
龍 命 ㎞足女命、富岡藤里女命、豊玉彦命二女。
ー知 倉 王命ー玉屋 命
ー埴 安比 古 命ーFシ 天 之 長男 命
ー水 湧 昆 古 命ー長シ 水 満里 古 命
ー事 代 主命 ー㎞ ㎞ 大戸道奪六女。
『天之手長男シ 事 武男 命 謀兵主雄命。
ー天香 護山 命 ー事 勇男 命 高高御魂雄命。
加茂澤昆女命 大山祇命紀意別電命。 ー事 力 男 命 置太祀詞雄命。
ー武佐 太 里 古 命 五子、設太島座昆古命。
ー白糸 比 女 命 楽日海男命妃。
第一章 碑代碑系譜 五
碑 皇紀 系譜 六
ー作田 比 女 命 作田里古命組。
ー青木 比 女 命
留 戸比 女 命
ー鋼 目 女 命
第四
o泥 土 煮いし 一子、諱日本比古奪。
奪 碑后、沙十者算、講大原比女命、天之茂登太手比古命二女。
ー火 之 爆 土 命
ー火 之 爆 鮮 命 火養始祀。
ー火 之 焼 玉 命 者前始祀。
ー草津 昆 女 命 月夜見命妃。
「松島 比 女 命 賞心武命、講阿和武男命妃。
第4 二こ、、
二子、諱農質比古陰 Q
o大 戸 道 「紳屈「刻師比刻剣「調剤「刃剤引比古命三女。
」ー
一子、腸講大國主命。
己 貴 命 婦碑、若美比女命、天之茂登太手比古命男、豊心比古命一女。
婦リー

田 昆 古 命 す
子、諱農佐比古命、場論作田昆古命、世補発 田里古命。
碑、作田里女命、豊勤停奪(尾茂太留㎞)二女 で

弾 雄里 女命 名昆古那命妃。
照 昆 女 命
足 三子、違 穂千田比古*。
奪 「碑后、大戸野浅倉、諱千早
比女命、天之茂登太別比古命四女で
- 倉 平 顔比古 命 一子、穀物貯蔵法始祀。
ー金子甘美金希代命ー」序、 倉自者始㎞。
茂 太 留 命 _四子、農田比古算、貸豊料 落撃碑后、阿夜加志古泥倉之入夫。
五子、諱田仁知比古 学で
葬 諾 奪 「碑后、伊井専 、諱自山比女奪、シ立奪 「カ
豊 阿始原 世 地碑 五代系譜
第一章 碑代碑系譜
ーc天日子火 環 々 杵 奪 「碑后、木花咲耶昆女奪、幼名菊里昆女命、講阿田都里女命、大山祇
。 ー









㎞一


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第三
















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母二



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一 -






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女 祇 天






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嫡、
奪武




命 孫名 祀
幼日吉







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皇系譜





㎞ 子
い *







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-


二子
一玉



作 、
二子
幼難
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日、


海命
見設



。名子津楽 子

一子、幼名武雄里古奪、又、荒心田奪、講仁人木奪

- - 、
義子

















。 加孫 -

-
------*-*●


幼講
太良
名 プ

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女昆



武命

阿稲

彦、

集諡
天命
武男

男命下













太命
知穂


-





屋1
命。







第四 * -
* jして
三子、譲火*ョ命 稲山佐知里古。 - ---
。F 子 * 々 出 、シ」女
*ニ * *
*)
日子波演武シ不合奪 ㎞、シ
m力 二子、尾羽張田原國造、居 千ロ鳥之眞清田宮。
天 別天 之 火 明 命 ㎞
- 三子、譲若式昆古命、治千北越山陽山陰、居干和加佐濃宮。
三穂 武男 命 ㎞
阿 田 都 彦命 四子、高天原宮守
第五期 宇家潤不二合須世 合須碑 五十 一代系譜
日子 火 火出 見奪一子 即 地碑 五代 日子 波激武頼芳賞 不合 奪 也。
** -
い 日子火火出見奪一子、違日序波務式言合奪。
・ 皇第 一代 親方暮 不合奪㎞、 名シ刻
一皇子。
「不 二 高 ェ 命 ㎞位式出向渡航中、沈没碑発参
* 二皇子。
「奈 加 尾 王 命 ㎞位式自行渡航中、沈没㎞美
第一章 碑代碑系譜 九
-

;
一 島 | | 。 下
耐 耐 | 耐 | 耐 耐
皇 皇

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第 第
六マ

企算
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企な

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祀|一




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多摩|幼
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| 摩幼 | 摩幼
夜|名 夜|名 夜 名
#

里|豊 | 甲|何 | 単 津
昆田 | 昆知 | 地 翻
安彦| 安 盗| 安彦
豊 盤|盤|リ
い。 "講 * \

-
鷲|醤|雛
融隊 |魏臨| 端麗
リ産 | 首繋| 蹴 正
長エt二


燃 *| 機器| 機。
* | 女 |リ | 女
á |森 "| 益
器 器
玉| | 土| | 奈
知| | 根 | 坂
男 王 歩
命 命 命
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碑 * 系譜 一二
* ーを、 二皇子、幼名久眞左彦、論久は佐彦王陰。
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一皇子、幼名宇佐を、諱字佐彦王奪。
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十* いふ * ーす 一皇子、幼名項長男、諱頭長明王奪。
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一皇子、幼名足長男、諱足長彦王陰。
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三皇子、幼名手身男、諱手*武王奪。
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一皇子、幼名鋼茂田彦、諱鋼楽作彦王奪。
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一皇子、幼名玉長彦、諱玉長彦王奪。 _
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三皇子、幼名波奈長男、諱波奈長王奪。
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第一章 碑代碑系譜 一-

碑 皇紀、系譜
シ 一皇子、幼名照日彦、論照日彦王陰。
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二皇子、幼名種武彦、講種越 彦王尊。
碑后、多摩 役里 里女奪、幼名天佐田比女命、仲玉雄命女、
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ー。紳皇第四十八代鶴芽葺不合奪ー㎞刻㎞別剣刻
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七皇子、幼名玉加鋼彦、講眞加鋼王奪。
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一皇子、幼名欄眞都男、論欄値都男王倉。
碑后 多摩夜里里女奪、幼名照玉田女命、海部雄命女。
久 米 王 命 二*。


高座 口 多 王命
三皇子。
媛踏端五十鈴媛奪
碑武天皇皇后。

五皇子。

六皇子。

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一皇子、皇太子。


二皇子。
三泉事。



女子、可美員手命妃。
四g子、皇太子、幼名佐野命、 日高佐野主g、改 碑日本勢金彦火々出見天g。
五皇子。
一六
碑 皇紀 系譜
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神代第三期 育大原世左右大神系譜
_1作天之成比古神、慶十五度大千日º
—1
%討厭戰戰亂
-作天之古後並木留比古神
舞步扩 羯摩 耗*
胡朝陽帆布雷神女 º
、街西卡日º
| ………… 之機械***=
|×王守主食肆虐
11
, ,長父子、1作天之
子 成立太是比古命º義十萬日º
—古 桜新啟
神代第四期間同始服世在右大神系譜
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作國立主命
、氏在守大
神、将武家
、而可大政
之事、1前
排政家。
|o大兒 桜㎞神劍
|手 R 界 €
長子、1作靈公正五金、母字大神、縣成部、而同武士軍事之平
オ主 守 ㎢期取扱_ 、1萬張政%。
|
第一肇 ㎢代神系譜九
碑 * 系譜 一二
ーを、 二皇子、幼名久眞左彦、諱久は佐彦王奪。
ー3碑皇第二十四代頼芳葺不合奪ー赴㎞「判別剣刻
*
一皇子、幼名字佐彦、諱字佐彦王喰 。
ー 碑皇第二十五代親非葺不合奪ー㎞外剣「測判剣刻
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ーo碑皇第二十六代鶴芽葺不合奪 碑后、多摩代甲田荘女g、幼名多良昆女命、濃佐彦命女。
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㎞* トr 一皇子、幼名足長男、諱足長彦王倉。
1十八代瀬非書不合奪「紳刷「刻㎞『如名シ卵出刻命、御引 命外
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一皇子、幼名山守男、諱山守雄王奪。
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一代瀬*葺不合奪 ㎞命「紳行大%引命効
「 神 三十 二代刺*資不合奪㎞命、奈留佐明命女
一皇子、幼名端茂田彦、講鋼楽作彦王奪。
中 一皇子、幼名田仲男、諱田仲非 男王律
碑皇第三十三代競売書不合奪㎞剣「 細引闘剣刻
三川中
・ ー 三皇子、幼名貞他 彦、諱貞仲雄王陰。
三十四代 シ 紳局、多摩%引田比女%、幼名仙津昆女命、御g 男命女。
三皇子、幼名田高彦、諱田高彦王尊。
ーo碑皇第三十五代競芽葺不合奪 離層 多㎞、シ里女命、番良男命女。
.t 、トよ 二皇子、幼名川上男、諱川上男王奪。
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一皇子、幼名千利男、講千利武王奪。
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いすj二皇子、 幼名津田加彦、 講津加田彦王奪。
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「 シ 四十代鶴芽葺不合奪「離二皇子、幼名川尻男、諱 川張雄王奪。
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一皇子、幼名根利男、講禰利長男王奪。
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「 シ四十 二代頼芳葺不合奪 碑一皇子、幼名玉長彦、諱玉長彦王奪。
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一皇子。
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三皇子、幼名波奈長男、諱波奈長王奪。
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第一章 碑代碑系譜 一三
碑 皇紀、系譜 一 四
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一皇子、幼名津気男、諱津気男王律。
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第一章 碑代碑系譜 一五
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碑 * 系譜 一二
* ーを、 二皇子、幼名久眞左彦、諱久具佐彦王は。
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第二十四代韓茅葺不合奪 刷局「刻回剤「幼名 徳里女命、登富知男命女。
一皇子、幼名宇佐彦、諱字佐彦王奪。
シ 碑局 多摩 役出 田女Q、幼名身奈川比女命、浪和王命女、
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三皇子、幼名波奈長男、諱波奈長王奪。
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第一章 碑代碑系譜 一三
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| 子、幼名照日彦、諱照日彦王陰。
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一皇子。
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ーe碑皇第四十八代鶴芽葺不合奪ェ列㎞別剣刻
鋼王奪。い鳥 に すに 七皇子、幼名玉加鋼彦、講眞加 -
ー8碑皇第四十九代競芽葺不合奪 ㎞、幼名シ在 最女命、出玉端命女。
二皇子。
久米 - 命
「 高 座 日 多 王 命し伝停。 媛踏端五十鈴媛奪 シ

高 知 彦 王 四皇 ず

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露子


ー熊 山 彦 王 命 *。
L高見 香具 山王
王 命 八*
王|

海 津 彦 五 命
一皇子、皇太子。

津 命 二皇子。



三皇子。

-

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口 美
県手命妃。
天 皇 四皇子、皇太子、幼名佐野命、講日高佐野王奪、改論碑日本磐余彦火々出見天皇。
阿 田 美 椎津 彦 王命。
第一章 碑代碑系譜
1五
一六
碑 皇紀 系譜
ー高 倉 日本 王命 六皇子。
ー経 身 大久保 ェ 命。
ー武織 媛 命 女子、天日方奇日方命組。
|
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耐 婦耐 耐 劉士


章一 - -

祀 作 祀作
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小 (七) 大
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主 男 主 守

"| 耐 耐 耐 耐
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耐|作 祀作
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小芝 大之 少隆 宏隆
戸|高 戸|高
手|高 長|御
学|谷 女|津 里親 玄原
耐比 耐雄 耐機 耐ま 八
C|古 ー耐 *
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神代第三期 高天原世在右大神系譜
(*
*
*
*

1 作天之命武比古神、
作 蘇十五萬大千日º
大湖文祿、 商界空氣體 文º
1
1


作天之古在太祖比古神、 蘇中五萬四千日º
|

o例 先 P 羯 摩爾羌
--__-___ 二子、 作天之後登太手比古命、 慶十六萬 千日º
|o大王 守 主命 維新鄭 成為戰 後
-
- 長子、 作 天之後金太是比古今º 義中 两=º
古 桜 新啟
神代第四期間 同始服世在右大神系譜
長子、 作阿史 主命、 母在守大神、 部副本、 而同大政之 事、 1 部隊成家。
|o大 桜 ㎞神 劍
|手 之 界 -
, 桜子、 作專心比古谷、 母方丈夫婦、 縣成部、 而同武士軍*之平、 1 部隊%。
o小 ¸ 璽
れ 老 ㎢代神系譜 九
碑 皇紀 系譜 二○
L」
。天 太 玉 命 ㎞シ
長子、1作玉佐比古命。


長子、一作高仁男命、諱天清住命
(一作加茂山彦命)。
ー8天 見 屋根 命㎞ 奪二 皇女で
リに no
長子、一作元副主命
「 天 太 種 王命㎞丸見風利剣T刻

-
長子、一作高親守命、諱夫政治彦命。
ー。大政 守 命㎞、シ命㎞
二子、論武勇命。
「8天 大 食 雄 命 ㎞命「シ命H効
- 『 三子、論臨土武命。
シ土老翁 命


豊玉 武昆古命 シーー豊 國王 命
ー興 玉 命」はー興 武男 命
ー味拒託彦根命」ほー高 加茂 王
ー醜男 命 四子。
長子、講大武身『男命。し _
。武 頭 守 主命㎞種乱命二丸
韓大火高主命。し
ーo稚 武王 命㎞
婦碑「若木美女命、武頭守主命一女。
ー建 御名 方 命」シー建 御玉 命 建 勇 王命
ー経 津 主命『ー経 武 里 古 命
武 樋 命シー武 強 王命
G
長子、講武知男命、一稲天之見屋立命、改賜講大物主命。
|ー。大物 主命哺㎞。『
ー日 高雄 命
ー日 前 玉 命
長子、講稚主王命。し
津 明 魂 命㎞「大判剣 「女。

ー。 長子、1稲天津高倉命。
。玉 柱 屋 命㎞剤
第一章 碑代碑系譜 二一
二二
碑 皇紀 系譜




シ城ー ー

國 男 命 ー中山 昆 古 命
ー命

登入



ー"エ"。
主命ー二 症
州 男
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碑 皇紀 系譜 二四

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第一章 碑代碑系譜 二五
碑 皇紀 系譜 二六
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四十五 四十六
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ェ園 碑代碑系譜 二七

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第一章 碑代碑系譜 二九
碑 皇紀 系譜 三○
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第三 伊非諾奪大系譜
共一 月夜見命大系譜
・ 伊 装 諾 奪
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ー天 照 大 御 碑**、シ
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ー楽 日子 命“。
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第一章 碑代碑系譜
ー顕 國 玉 命」ほ 國 祀 男 命
ー豊城入 昆古命」は 豊 武 主命
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ー五十猛 命シ 伊 八 彦命
碑代第五期 宇家潤不二合須世左右大碑系闘
。天津伊達玉命㎞、天津高倉命」女。

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長子、諱玉武男命。-
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第一章 碑代碑系譜
碑 皇紀 系譜
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第一章 碑代碑系譜
碑 皇紀 系譜 二六
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四十五 四十六
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第一章 碑代碑系譜
碑 皇紀 系譜 二八 、
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人皇時代左右大臣 系譜
「可 三子、幼名太玉若
道命 講表春織男玉命、陽論中臣蘇投春建命。
美 基 手 命㎞
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大伴 園 武 命ェ風%命 シ命 効。「 藤我満智彦命㎞命、 都伊g命」
十 十二
7 長子。 、『 g 長子、一稲吉備武彦命。 _
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「* 我 清原 命ー 大伴倉持倉ーシ 日 倉ー
第一章 碑代碑系譜 二九
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第三 伊非諾奪大系譜
共一 月夜見命大系譜
・ 伊 装 諾 奪
ー天 照大 御 碑**、シ
ー 庁 夜 見 命㎞シ
ー楽 日子 命“。
ー祀 佐 男 命。
ー 大 山祇 命㎞シ
「 山 生命シ
ー奥山 住 命"。 ー 加茂澤里古命 ㎞ ㎞ 武事植 命一女。
第一章 碑代碑系譜

茂山

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二子。
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-
-
香山 、乗牛行。
長女、太眞祀命妃。
ー岩 長 里 女 命
ー魔 山 生命。
二女、天日子火境々杵奪碑后。
山 住 命。 ー木花咲耶昆女命
「 肥F。リ B 、 小佐シ命。



茂利里 古命婦 碑、 佐和昆女命、 日子火火出見奪 一 女。
「大a 湖間男命
ノ向 藤㎞
婦碑。 阿曾刻 石里カ命、紳皇 第 「個刺剤不剤 「女。
六 七
天 百 物a司令沖、子系承㎞o
o久仁 佐多男命
㎞ 口
九 十

o山 主 男 命
-
野見出男命ー 弱 山男 命ー』
十一 十三
基 男命 龍山 男 命
山男 命 シ千山男 命ー 群 山男 命
「lー
シ 津山 男命
二十二
o上 弾 具 男 命
ー賞 点 山男
命ー
二十八
o小坂 山男 命
三 十二
o鳥山 男 命
三十四
o火出見山男命
三十七
e天山 男 命ー o中山 男 命
三十九 四十
o出 比 山男 命 o多 仁山 男 命
四十三
山男 命 o手足 長男 命
四十六
被良富登男命 o見 眞 彦
「口
四十八 四十九
o日 廣 男 命 8大 頭 男 命




三三
碑 皇紀 系譜 三四
五十一
「お五十
仁 男 命ーo加 多 目 男 命 心被 奈男命
五十三 中国 ㎞五
ーo目 大 男 命ーo立山 男 命 o夜 佐 男 命
山リ命ー眠、度 リ 命 阿 津山 男命
五十九 * 中定O
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六十 六十一 ㎞
ーo宮 守男 命 o宮 方 男 命 o宮 志津目 男命
六十三 し 隣 ェ
ー8山 宮 男 命ーo奈 流 男 命 o眞 米山 男 命
諱阿祀彦命。 『ミ =
「 隣* 男 命シ引「伯刷回剤 o見 奈加 男 命ー
七十
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ー8久良 高 命 o岩 長男 命 8宮 守男 命

七十一 一 O
ー 彦王 8阿 志 長男 シ



調子C
古屋氏祀。
ー彦田 王 太夫シ配太夫を
共二 楽日子命大系譜
伊非諾奪第二皇子
一 働者に濃い㎞改証相准命、腸講楽日子命、世稲大海津見命、設江日海男命、海守職、
・ 茶 日子 命

㎞』
婦碑、朝演里女命、調印剤里女命、「割酬潟 (園剤

「 海 守男 命神㎞シ

長子、陽講豊玉男命。
㎞川剤13海鮮根求男命神㎞判
ー F 長子、諱海津古玉彦命、遷*千築市島豊野里字佐宮。
8豊玉 彦命 ㎞
日子火火出見奪碑后。
ー豊玉 昆 女 命
ー 長子、講臨玉男命。
8宇佐 豊 武 命㎞ 金澤美女命、豊里男命二女。
ー佐津 興 男 命 三。 「海田 彦命
ー日野前佐武命"。 「大波 リ 令
ー大 阿佐 彦命 四子。 「心 波 彦命

第一章 碑代碑系譜 三五
碑 皇紀 系譜 三六
ー那珂三井男命。 ー海 現 男 命
ー玉懸 彦命。 「 玉 波 彦命
ー石田 明男 命。
ー羽茂 猛 命。
「多摩夜里里女奪㎞シ后
「阿蘇 里 女 命㎞
- リ命電波 男 命 船 走 男 命
「 リ命 航 玉 彦命ー 蹴 長男 命
観 建 彦命 瀬 中 彦命 立 男 命
「 隣 足 男 命 里 彦命
*リ命 転。部 男 命ーし 、勇 彦命ー』
二十六 二十七 二十八
ーc建 久男 命 8元 建 彦命 o軽 島 彦命
二十九 三十一
『サ
ー8大 演 男 命 o小磯 彦命 o中 磯 男 命
三十二 三十四
三十三
ーo大磯 男 命ーo速 瀬 彦命 o瀬 立 男 命
「 船、建 命ー群、坂 男 命 断、蘇 彦命
四十
口㎞ ㎞丸
ー8雷雲 男 命 o雲 根 彦命 o鶴 飼 男 命
四十一 四十二 #ョ
ー8鳴、動 男 命ーo鳥 飛 彦命 o小嶋
彦命 =
湖、波 男 命 継。長男 命 ㎞、州 王命
四十 四十八 四十九
o船 知 男 命 o船 希 彦命ー o碑 、鳴 彦命ー『ー
動、農 知命 源 獅 知命 顧 楽 命
五十四 五十五
㎞ 足
8豊 知命 o大 炊 建 命 O油 部 知男 命
講照玉昆女命、碑皇第五十一代鶴茅葺不合奪碑后。
ー多摩夜里昆女奪
第一章 碑代碑系譜 三七
碑 皇紀 系譜 三八
丁 撃、武 カ 命藤㎞ー 群 根津彦命㎞『
ー建 勇 命距 年三十六
ー操 カ 男 命㎞年三十四
「武 カ 書 命㎞年三十三。
ー手 力 強 命㎞年三十九
ー足早 雄 命㎞年ニ十七。
ー知賢 勇 命㎞年三十五。
「 艦。武正 命ー シ、碑 男 命ーシ 守 雄
命ー』
「シ 武 命 郡部 山 命ー 曲。浮 野 命ー』
「 、宮 正 命 シ"田原 命 。田 作 命=
男 命 ㎞。碑 心 命
共三 祀佐男命大系譜
伊非諾奪義子、賞者、高皇産霊碑曾孫也
講多加王、依佐祀國之功、腸講祀佐男命、旦結興天照大御碑姉弟之約、諡八佐加昆古命。
。。
Q 顧 佐 男 命 婦碑、「八佐加里女命、調稲田昆女命「引名樹命、調引加男剣 T刻3

- 長子。
。 武男 命㎞「回剤
「建 知 速 日 命止 ー建御 日受命ー建 豊 大勇 命
「祀 見 男 命止ー不見 男 命ー祀 尾 男 命ー弾倉 男 命
- 諱雲津昆女命。
「精 幡 昆 女 奪 ㎞后。
三穂都昆女命 ㎞

二子。
8佐 太 男
㎞闘園 口
ーo祀 仲 男 命ー 祀 木 男 命ーシ 泰男
第一章 碑代碑系譜 三九
碑 皇紀 系譜 四C
Lo祀 八 九
見 男 命ー8祀 太 男 命


o祀 眞男
命』
ー 悪 太田 男命
十三 十四 十五
ー8佐 成 男 命 o祀 登立 男 命 o佐 種 男 命
-
十族 十七 十八
ーo祀 手 立 男 命 8佐 仁田 男 命 8祀 長男 命
十九 二十 二十一
ーo佐 瀬 男 命 o祀 古 男 命 8佐 強 男 命
二十二 二十四
L o祀 ㎞ョ
重男 命ーo佐千 男 命 ーo祀 元 田 男 命
-
二十五 三十六 二十七
「8佐 眞男 命ー8祀 吉 男 命 o佐和田 男
命口
「昨 雲 園 リ命 備。佐 男 命 船 魔 リ 命ー
「 雲出 男 太 男 命
ー口 ー。園 武 命 駆。源 男 命ー
三十五 三十六 三十七
『 = 三十九
= 「
ー武長刀昆古命 ㎞
皇第三十 代鶴 暮 e合噂、 別 勅命、 創位天g手 尾
門間之里、興出雲同説論罪碑、稲津島

「 # リ 倉ー リ 命ー 太刀 令『
ー武 祀 別 命ー祀 太 男 命
リ 倉ーお、金 リ 令
・・ 』
Lo白金 男 命
四十六
8太 建 男 命
ー津 奈田 命ー眞 津田 命 小石 田 命
「船、知 リ 命ー 明。元 男 命
ー大 石田 命ー大 中 男 命 茂 佐 力 命

第一章 碑代碑系譜 四一
五十 五十一 五十二
ー8谷 貞男 命 8大 寅男 命 8久 長男
ー阿 仁田 命
五十三
ー8朝 久男 命

眞 瀬田
五十四
o勝 心 男 命



8仁
#五 、
心 男
ー沼 川田 命 道 廣田 命 田 刀 彦命ー
「 男 男 命
*㎞シ 玉
益東出雲大國造。
大力 男 命 強力 男 命
五十八 五十九 六十
18小 王 男 命ー8宗 眞男 命ーo亀田 男
ー大 強 太 命 大 男 武 命 小資 田
六十一 六十三 六十三
18時 名 男 命ーc麻佐 男 命ー8平。太 男
ー大田 彦命 津 奈 田 命 尾 豊田
-
--』

ーー、
「シ 心 男 命ー 建 男 命ー 夫、勇男 命
ー政利 彦命ー國、田 男 命 國 立 彦
=
「信 武男 命ー 園。 玉 男 命 瀧。 田 男 命
ー勝田 王命 知 刀 田 命

摩魔天皇五十年、高天原阿祀山太碑宮、宮守司長任命、子孫世々承継、諡阿東祀命。
「8尾羽張田彦命 ㎞
ー田原 米 彦命ー平山田内彦命
七十一 七十二
仁 男

諱不二田彦。屋 講大室田彦。 諱西田彦。
o美禰 方男 e阿 曾 男 c旨共 田 良男 命
*㎞ 司巨 シ
- シ
長。
七十四
リ令ー
第一章 碑代碑系譜 四三
碑 皇紀 系譜 四四
トーで 論吉田彦。
ー8眞田八代良男命 神㎞割引
ー天 家田 命
諱川山田彦。
交 久良 男 命 高天原宮守司長。
一子、景行天皇四十三年、貸吾幡十二箇園練園造、高天原宮守同長。
「 記 太夫リ命 室、中島根媛命、尾羽張記太チ碑心#命一女。
二子、分赴、山宮阿祀山碑駐宮守。
ー眞 太 八 良 命 長
子孫、世々承継。
ー大 原田 彦
をQ
宮守司長
佐 太夫 命 養子、阿曾彦王七子、高天原
室、顧地媛、 シ
-- シ


照 。



ー 長ー
F

子 シ







大國 『

魂 命

里 ㎞
作田 で
ー 女











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主命ー


大ー

命仁古今
佐山

田倉里 刻











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大第
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譜戸


大共
主命
一譜國


長子
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主命

法関

「""**。



碑 皇紀 系譜 四六
艦ハ 九
*""。 c大 質 男 命 o今
=
、: 十二 十二
ー8大 主 昆 古 命
大玉 男 命ー 小玉 彦命ー
十三 十四 十五
ーo大仲 男 命 o大國 玉 命ー8大玉 彦命
「 佐倉 天高男命 天海 主命
「 "=ー大園 立リ 令『
「大仰 本リ令 天 録 田 男 命ー 小 太加 男命
「 天。太 身命 夫、武男 命
二十八 二十九 三十
「c大力 男 命 8大 長男 命 c大 妹 身 男 命
「大山 男 命 天原田 男命 天 竹男 命
「小
三十七 三十八

「天 手 佐倉 o大 見 彦 命
「 天 園 里 男 命ー 夫 木 男 命
** 口
「 天 セリ 命 ー 共。八 男 命

「駆 者 リ 令 出。丸男 命ーシ、田 男 命』 -
『十九 五十 五十 *
ーo泉 田 彦命 8大田 男 命 基 心 男 命
五十三 五十三
Lc大船 *
心 彦命 o丹波 彦命
五十国
五十五 五十k * - -

大村
0
=
「シ『シカ 太㎞
五十七
「c大 太 力 命 長子、譲次 玉 セ映谷命、碑武天皇元年、任牧納役で

居 千欄 願引之城H剤
ーと工 FLLF、シ自傷鳥羽命、神武医皇元年、任巨川、遠久見、住留家懸令
佐野 男 命#引㎞
ーも ィ ヒ 巨仔、職情境倫、神武侯皇元年、任和加佐、虚地前、加川鷹令
㎞ ㎞ 居千磯浪之高瀬宮、又、加川之野登宮。
以上、三
ーtて f
氏三家)
を ー ト 四子、越後國造。
天香 護 山 命 ㎞。
ー査 野 世 諸 命 五子、シ令。
碑 皇紀 系譜 四二
五十 五十 五十二
谷 貞男 命 8大、寅男 命ー8久 長男 命
ー阿 仁田 命 眞 瀬田 命ー嶋 尾田 命
ー 久男 命 勝、心 男 命 信心 男 命ー
ー沼 川田 命 道 廣田 命 田 刀 彦命ー
五十六 、シ」 、旧r =Q
玉造 男 命㎞剤 天、玉 男 命
奪出雲大國造。
大力 男 命
五十八 五十九

強力 男 命
六十
=
小 王 男 命ーo宗 眞男 命ーo亀田 男 命
口大 本命ー大 リ ー小 * 田 =
交子一 交十三 へホミ
Jo時 名 男 命ー 腕 佐 男 命ー8平 太 男 命
ー大田 彦命ー津 奈田 命ー尾 豊田 命1口
六十四 六十五 六十六
「シ、心 リ 倉ーシ、建 リ 命ーシ、リリ 命
ー = 「園 =
ー 個、武男 命ー 園。玉 男 命ー 。田 男 命
ー勝田 王命ー知 刀 田 命
にji
「8尾羽張田彦命 摩魔天皇五十年、高天原阿風山太碑宮

、宮守同長任命、子孫世々承継、高同東祀命。
ー田原 米 彦命ー平山田 内彦命
]
ー 共里 男 命ーシ 田心男命ー 仁 男命

諱不二田彦。巨大室田彦。
講西田彦。
「 美禰方男命㎞阿
司長。
倉 男 命㎞ー
シ 賞田 良男 命㎞ 長。
松 原田 命ー梅谷 見 命ー大坂 男 命
「 リ 倉ー
第一章 碑代碑系譜 四三
L






天十
四年










高宮守
、長

。皇天原
3 ー眞八代
8良男

高天原
宮守


長 田

3
太命
夫ー
室、顧地媛、
A
-
*
*








シ 記
太男


夫 又 六
久男






家命

吉彦
諱。




系譜
四紀

山阿







一宮守 譚
山彦
川。田


\Ljr
r、L、j


天原宮守司長。

第四 大戸道奪大系譜
共一 大國主命大系譜
に *--*1
*、* す * 口e
*メ 長子、諱大己置命 賜講大國主命、牧納職、及商法始 興、遠久見園 随
ーの大國 主命㎞刻
二子。
ー作田 昆 古 命
ー大國魂里女命シ、シ
「高 照 里 女 命 シ
二 三
- 長子。 *
長子。
-
8大 玉里 古 命㎞「剣引剤3大平 彦命㎞「外剤「剛明命ヨ
命妃。
「 山 佐里 古 命ー 夫 高 仁 命ー 大田 男 命ー
-
第一章 碑代紳系譜 四五
碑 皇紀 系譜 -
四六
* 澤 昆 古 命ーo天 質 男 命 金丸 男
*口
「 大主 里 古 今天 玉 男 命 * 口
「大仲 リ 令 天 園 玉 命 天 玉 彦命
天 園 佐 命ー 大 高 男 命ーシ 海 主命
「 『ー六 日立リー
「大 御 木刀令『シ 田 リ令『 太加 明命
』 』 命』
』 』
「 大山 』 命口
ー 小島 彦命ー 夫 容 男 命ーシ 太田彦命ー」

口 口和 「 _ー(
「い
『天国』 = 『十四
* = 』
「シ
ーc大 七 男 命 - 沖五
口大 八 = =
四十七 四十八
倉ー 日 』* 田 =
「シ田 彦命 大田 男 命ーシ 心 男
五十三 五十三
命』
Lc大船 心 彦命ー
* *
五十国
o丹波 彦命ー8大村 男 命
五十五
「シ し
夫、カ て ト 長子、諱豊徳知貴命。
太 命㎞シ
㎞セ 長子、諱太玉七峡谷命、碑武天皇元年、任牧納役で
「c大 太 力 命軌㎞
-
二子、諱自羽鳥羽命、碑武天皇元年、任三川、遠久見、住留家懸令
佐野 男 命#引㎞
ーも ィ ヒ 巨序、講唐笠児
命、脚武侯皇元年、任衛加佐、越地前、加川鷹令
尾羽 昨 男 命 ㎞
(以上、三輪氏三家)
ー1t\ } 四子、越後國造。
上』
天香 護 山 命㎞。
五子、佐渡懸令。
菅野 世 諾 命
第一章 碑代碑系譜 四七

「大和 男 命ーシ 田 男 命ー デ 都 男 命ー」
「シリ命ー 厳 田 リ 倉ーシ 太リ 命ー」
*国 せェ も、

照明
o照
引シ 男命
長子、襲父祀之後、子孫世々、牧納役。

|
吉備彦命二子、四シ之 。
「丹波道主命 三子、四シ之 。
「尾 倉ー尾武長リ命 大 勇 男 命
武田 リ 命ー大 リ 命ー太 武彦 命ー」
= 四道封軍之一。
「大 本倉ー* 1
日* 人
「―ー *ー大佐 s』大都 。ー
「* 「**
「兵庫 式 命ー夫 彦命ー式
「大 彦命四シ之 。
第一章 碑代碑系譜 四九
五○
碑 皇紀 系譜
共二 作田昆古命大系譜
大戸道命第二子
。 論農佐昆古命、腸講作田里古命、世隠慮田彦命。
・ 作田 昆 古 命 ㎞剣『㎞剤剣「刃。

子。 長子。
時す 澤 男 命㎞剤「 天津柳 機彦命 婦刺「剤引。
四 e

『 沖津波根彦命 ㎞「渕剤「 神男剣T剤
五 長子。
田原 彦命㎞碑「回顧引剣「何利引剣ヨ刻。
日子火火出見奪妃、天別天火明命母。
ー佐奈木 昆女命
ー言 勝彦 命シ
「 田 彦命 田 彦命ー 州 田 口
Hほ 口 田 彦命 船田 彦命「」
「せ丸田 彦命 -
十三
8長田 彦命
#法
=
ー 深田 彦命 ○
田 彦命 ㎞
○ 田 彦命
十八 十九 二十
「気 都田彦命 o秋田 彦命 8冬 田 彦命

二十一 二十三
o山田 男 命 順 田 彦命ーo内田 彦命
二十六
L」。
o外 田彦 命

㎞ 田
o向 彦命

ー 。田 彦命
二十七 二十八
ーo穂 田 彦命 Ho 見 田 彦命 競。田
城 田 彦命ー
彦命
三十二

- 田 彦命
十子
-


o天 田 彦命 c道 田 彦命
三 三十五
「 船 田彦形 命
「o剣 ㎞。 田 彦命 N
o中田 彦命
三 十八
少。田
ーo九 彦命 ㎞" 田
*
彦命 o細田 彦命
#二
「 ”田 彦命
シ o頼 田 彦命 }
の浮 田 彦命
口田 彦命 田 彦命 田 彦命 口
五二
碑 皇紀 系譜
四十六 四十七
田 彦 命 8月 田 彦命 o曰 田 彦命
五十
#カ
光 田 命 c廣田 彦 命 8針田 彦命』
五十二 五十三
田 彦命 o海 田 彦命 c顧 田 彦命
廃t五 - ㎞六
田 彦命ー8雪田 彦命 o栗田 彦命
五十八 五十九
田 彦命 o男 田 彦命 o女 田 彦 命
六十一 六十三
-
田 彦命 o早、田 彦命ーo奥田 彦命
六十四 六十五
田 彦命 o竹田 彦命 o梅田、彦命
六十七 ㎞シ
田 彦命 シ、田 彦命 ㎞
、弊 常麻厩速、改賜野見宿禰、菅原氏祀。
ー野見 彦命㎞
- M子、襲見舟田命之後、貸富士夫碑宮供物司長、坂上、旧村
将。寸 諸氏祀。
。田村 彦命㎞女命、武溶川%命三女。
ー司
三子、奥國造、稲共居所地、稲合津。
合 彦 伊勢太碑宮、屋根葺職。
五三
碑 皇紀 系譜 五四
第五 天之忍穂耳奪大系譜
・ 天之忍穂 耳奪
ー天日子火環々杵奪 長子、皇位承継。
-
ー、 二子、一作玉祀命、陽伊須國、止居子伊東阿田見原之日金宮。
3太 基 祀 命㎞
天太玉命妃。
ー太 八重美 命
「天母 岬 里 女命 天見屋根命犯。
長子、居手木野國久眞野宮、創立久直野山赴大碑、 祀伊俳諸事雨桂以下父碑逸四代之碑魔
-
字 佐 見 命 婦碑「小幡聞女命、 天気玉命四女。
ー崎 玉 男 命三。
ー國 玉里 女 命
石堀留目命一男大力雄命妃。

**人生*ー 眞 太夫 命ー 兵 心 男 崎ー』
*** *ー*
「大 太 命ー 大仁加 リ命
「田 仁田彦命 ー 太 長 令
「シ木戸彦命ー リ命
「金田 千彦命ーシ 心 リ 命ー
「大 ag 命ーシ 田リ命
「 a 命ー 夫、物 命
「 彦命 態。懸 武 命
「小a山 リs 園 造 彦命
「 sー夫、 武 命ー
「 丸 面 リ 命ー 仁知リ命
第一章 碑代碑系譜 五五
碑 皇紀系譜 五六
三十九 四十 四十二
ー8大 旨共 心 男 命 o國 津田 男 命 o大杉 山彦
「同 *** 黒木 彦命

「 十三 四十四
o阿木 奈 彦命 c大 佐知 彦命
大 身 リ 命ー
「 明 川田彦命 武命仁 佐 男命
「 山大千倉 天 知八代 命 山元 開 太 命
「 加* 知* * 大倉山 太命 夫 多木 男命
ー日鷲気 留 木命 碑武天皇元年、貸穴門撮津懸命。
五十四 五十五
「若 逢 心 生命ー c都 見 里 命 8國 阿木 男 命
五十七 五十八 五十九
C佐 知心 彦命 o太 玉 建 命 o長瀬 瀬 命
六十一 六十二
ー。三 津瀬 男 命ー 津 盛 彦命 8山 佐知
「正修
c河 住 武 命 子孫、稲紀氏、又大山氏。
知り 口
天日子火項 々杵奪大系譜
共一 火照須命太系譜
・ 天日子火璃々杵奪
佐知






-
一 講阿曾武男命、改講隼人彦命、隼人祀、諡天下武男命。
*

「c火照 須 命㎞ 命
沖田比女命、天太玉命三女で
二子、稲農佐知里古。
ー火 須 勢 理 命
ー日子火火出見奪 三子、講火遠理命、稲山佐知里古。
- 一子、襲父之諸園惣軍師職、奪碑赴守護職、子孫承継。
佐津 兵 武 命時詞父㎞

二子、襲父之海伊國造司職、子孫承継。
o高原 男 命㎞
居子、父之高原宮、改 愛見宮。
ー八 津 撤 男 命三子。
「荒 i、 彦 命ー 都 男 命
ー日野原 男 命 四子。
第一章 碑代碑祭譜 五七
碑皇 紀
ー念 場 男 命 五子。 ー 夫 谷 彦命 津 彦命ー
「浅尾魔リ倉。 「H 瀬 男 命 o眞 佐 彦命
ー西島 男 命“子。 ー 瀬 男 命 小澤 雄 命
ー南部 男 命 八子。 「大 = リ 命 基 太 彦命
ー下河原 男 命 丸子。 - 園家 男命
ー宮地 男 命 十子。 - 彦命 園 岡 彦命
十七 十八
ー場 原 男 命 十一子。 c國 谷 彦命 o玉 守男 命
ー宮塚 男 命 十二子。 「シ 田 彦命ーシ 海 男 命
ー西野 昆 女 命 一女。 「闘 丸男 命 園 早 彦命
三十四
ー小室 昆 女 命 二女。
「シ
谷澤 男 命ーo早 易 彦命 =
持ェ 、 二十六
ー古澤 里 女 命 三女。 「o弦 立川
彦命ーe奈 仲 彦
命ー』
二十七
金竹 昆 女 命『。 「シ 山 彦命ーc高 率 彦命
古市





リ 倉ール 山
小笠 里 女命。「大谷 彦命ー リ =
-
一 三十四 三十五
「 小島
心 彦命ーo三 質 彦命 8大 室 男 命
三十六 三十八 -
ーo八 津 構 男 命ーo大熊 彦命 o高山 雄 命
「 春、田 倉ー 郡 名 リ 命 郡 守彦 命』
「 太 彦命ー 話 命 =
四十六 四十七
沖ュー
ー8大川 知 彦命 c武 知雄 命
武力太 命』
四十八 理中九 十
ーo強力 男 命 o志 須 雄彦 命
㎞ 面 =
ー カ* 源太 雄彦命 小 元太彦命
ー 信、久彦 命 繁 高 彦命 =
五九
「一
善 耐

知 皇
彦 紀

命 。




字盤


彦 六

命 ○
共二 火須勢理命大系譜
天日子火項 々杵奪第二子
1

*

火 須 勢、 理 稲雄
命婦室田
里 稲農佐知昆古、諡太田知穂命。
小㎞



一子。




里 、

女 火照須命二女。
ー 田 知 方 命ー 出 基 彦命ー園 玉 男 命』
ー大 武知 彦命
『 =曲 -
強力 武 命 「魔 山 彦命 「」
「 リ 倉ーシ 回 シ 田知彦命ー
「* 個 彦命ー
「* 口 加 日 彦命ー
『 』 』 』
第一章 碑代碑系譜 六一
碑 皇紀 系譜
「 三坂 彦命ー 臣。率 彦命 =
田 彦命ー 命
「無 佐知彦命ー群、本 命 金澤 彦命
『シー 倉ー 佐 =
「 天津彦命ー群、長 彦命 佐 男 口
ー加茂山 彦命 夫。山 彦命 ㎞、山 彦命ー」
彦命 共 倉 彦命ー 室 彦命ー
「 リ 命ーが、 リ 命 心 男命
「 基、宣雄 命 シ。心 リ 命ー
「シ 武 心 彦命 武 山田 彦命
「 気リ令 正勝 心男命 お気心男命ー」

五十五
子、 川、南 、牧 、仁田、杉山、吉田、シ
口 仁彦 命㎞引判回「引制判 江川。口
= = 』
「江川 * 』 命ー 大 中島 男
碑 皇紀 系譜 * 六四
第七 日子火火出見奪大系譜
共一天別天之火明命大系譜
・ 日子火火出見奪
も o
*
ー日子波激武鶴基音不合奪 『、。
ー3 で= 二子、天別楽美豆火明命、尾%ま園造、子孫承慣、層序慎博
天別天之火明命㎞ 天政治彦命三女。
母、「佐奈木里女命、沖津波根彦命一女。
- -
三子、諱若武昆古命。
三穂 武男 命 艦離い㎞
母 碑后石割里女命。
賞留昆女命、出雲祀武男命女。
「『』***。

= 一子、一稲尾羽濃義 論。シ o原 玉 LL子、貸高天原副同令碑
8源太 記 男 命㎞魂命二刻。8源 玉 男 命 離「判即刻剣「部剤
碑皇第三代、鵜芽葺不合奪碑后。
ー佐登鈴里 女 命
記 種 彦命ー 海 別 雄 命ーシ 橋 男 命
こ*こ ** ーj}
シー
-


ー 足 長 彦命ー 労 川 彦命 * 回 =
「 平田 彦命 城東 男 命 倉口
ェ 左 男命 清彦 命 太 玉 命ー」
年 浪 男 命 高座 男 命 張 彦命ー
郡 元 男 命ー 里 男命 = リ 命ー
「 = リ命 富川 男 命 岳男 *ー
「 個、牛 リ 命 大泉 彦命 明、泉 彦命口
「 命 態、坂 彦命 清彦 命
i 、十二 ㎞ョ
#二
ー8信良 彦命 o道 良彦 命 o陸 道 彦命
三十四 三十五 三十六
シ。主 男 命ー 樹、山 彦命ー 金澤 男 命
「 座リ令 園。光彦 命 基、湖 彦命
第一章 碑代碑系譜 六五
碑 皇紀 系譜 六六
四十 門 世 四十 二
|

男 命 o照、建 彦命ーo大 的 彦命
十三 潤中 ㎞。
ーc津 悟 彦命 o御、魂 彦命ーo松 照彦 命
『十六 ㎞セ 肝。そ
「毛 穂 彦命ー c碑 集 島 命ー 碑 形 彦命
一子、尾羽張源太夫、尾羽張、三川、雨國之大國造主。
「 ㎞丸 柳 彦命

o明 照 雄

命㎞ ㎞

碑武天皇、東征之時、 貸東海十二道之惣元帥、依大賊平
定之大功、貸中夫奪雨國大國造主、居干中島之松子島、
五十一 五十三 *
子、尾羽張記太夫。 #三 、望 17 夫o 張記太夫。
照雄 命」はシェ明雄
B 出 命」シ足 彦命」シ
チシ 十ヶム
「 玉 男命」シ駆 知男 命」はシェ 魔 男命長シ
「 野 相 男 命」子シ㎞木 男命」はシェ 心 雄 命」はシ
ー中 島根 媛 命 シ、大宮司、シ
ー 明男 命 シは惨
室、小室剤、顧地記太大二女、成務
天皇七年、改賜姓一宮。
戸媛。
ー美 夜 媛 命㎞
*
日本武奪王女。
ー顧 地 ㎞夫室
ー長 王㎞太夫、 田大宮間、子シ
田窪、稲作媛命、 稲種命二女。
成務天皇七年、腸姓尾羽張、尾羽張氏祀。
「 一子、一宮記太夫。 ㎞ と F ト 一子、一宮記太夫。
尾羽張種興命㎞知 「c政 身 雄 命㎞ 対

一子、尾羽張源太夫。 『 ー 一子、尾羽張源太夫。し
ー眞田 王命㎞別 高山 王命㎞皇刻。
韓『ー 一子、一宮記太夫。 1 一子、一宮記太夫。
8時田 彦命㎞引3 「 深 玉 男 命㎞引

温 ト 一子、尾材張源太夫。
勝 摩 王命㎞引ー魔 田 命㎞

山下
明政





一 崎


-
Lシ 六十八 十九 七


c
o小 田 長 o中 島 雄 O島 田 男 田 男
六 七 八 九
「岩 作 王ー守 里 王ー海 部 王ー手 長 王
第一章 碑代碑系譜 六七
碑 皇紀 系譜 六八
共二 三穂武男命大系譜
日子火火出見奪第三子
s。

講、若武昆古命、治北越・山陽、山陰、居千和加佐濃之都地。
三穂 武男 命㎞
建制、祀父奪之霊、稲遠宿住大碑、後合祀三穂武男命夫婦之霊。
-
二 *
場闘 員片
Q
一 碑宮守 司、
貸田場國眞井原之豊受太碑宮守護司、子孫承継承
ーo和 加 彦命 ㎞
婦碑、太加里女命、出雲祀木男命 」 女。
「大 』 『ー 本 リ 倉ー
「 加奈 田男命ー* 田 彦命ー
「 字 佐 リ 令『 -ー大 * リ 命
「佐 明命 蹴 田 彦命
-
十五 十六 十七
ーo竹田 男 命 山田 彦命ー 島 男 命ー』
大森 男 命ー。小森 男 命

L"
ーo小、鳥 男 命 ー去 島 茂 命 田 羽 男命
「 、知 彦命ー 夫人良男命ー*。仁彦 命
「 仁 リ 命ー 艦、資 彦命 能。見 男 命
「 正 s 彦命ーシ 田 彦命 石川 彦命
三十三 三十四 三十五
『o長、野 男 命ー8安田 彦命ーo安富 男 命
三十六 ㎞*リ 巨人
口 o倉。異 彦命ーo保利 部 男 命ー8川田 男 命
『 朗、田 彦命ー リ 倉ーシ 奈 彦命
「 駆 加 志リ 命ー㎞。田 彦命ーシ 信 リ 命
『 「 大リ倉 腕、吉彦 命
「 射。浅 リ 令ー 船、真 彦命ー 政 本 リ
男 命

|
五十三
五十一
ー 佐 彦命ー 獣 玉 男 命ー 玉 祀 彦 命
第一章 碑代碑系譜 六九
碑 皇紀 系譜 七○
『 日賢知王明命 碑武天皇元年、 依東征之功貸若佐越地前國造
「 出羽大仁リ命ーシ仁彦命 田羽音知男命
「 非波園立彦命ーシ田初リ命 非波園元彦命
「離永田初リ命ー闘k井波彦命 品羽谷仁男命
「シリカ彦命ー 井田羽リ命 無照丹波彦命
「 山田羽リ命ーシ笠山彦命 眠羽根元男命
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「 眠羽*風リ命
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七十三 店 各日に、ヨ巨 こ ー、
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井波祀始彦命㎞ ㎞キシ
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第二章 應碑天皇大系譜(㎞
第一 大山守皇子大系譜

諱阿計日登 (明仁し、後、隠宮下記太夫。ー_
・ 大山 守 皇子 ㎞
室、気久懸 乗媛 (菊野媛)。 地佐太夫一女。
祀父霊千㎞地谷小室、稲高御久良 碑赴、 居干共宮之下、調宮下宮、因稲宮下氏。

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第二章 應碑天皇大系譜 七一
碑 皇紀 系譜 七二
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ー大原 毛野 陸彦 ㎞ 野陸國造。 「台 家 ㎞ シ ㎞
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ー 駆、景 ㎞。「 載。明 ㎞。
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第二章 應碑天皇大系譜 七三
碑 皇紀 系譜 七四
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四十三
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環 五 六
一子、佐太夫。 一子、記太夫。
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第二章 應碑天皇大系譜 七五
碑 皇紀 系譜 -
七六


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㎞ 一子、右庁売。 一子、源太夫。
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第二 隼継別皇子大系譜
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・ 集 継 別 皇子 ㎞

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丁、顧地又八良。 四
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第二章 應碑天皇大系譜 七七





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「 豊明シー 仲㎞又。
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第二章 應碑天皇大系譜
七九
八○
碑 皇紀 系譜
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三子、 富士又八郎。
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十二 二子、富士又八郎。
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二子、富士又八良。 三子、富士又朗。
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第三 根鳥皇子大系禰
應碑天皇皇子

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伴、諸氏祀
㎞、神㎞命、温脆演者理女
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第二章 應碑天皇大系譜

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第二章 應碑天皇大系譜 八三
耐 皇紀 系譜
第三章 武内宿禰大系譜 ㎞
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第三章 武内宿禰大系譜 八五
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一子、伴宗太夫。
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第三章 武内宿禰大系譜 八七
碑 皇紀 系譜 八八
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第四章 楽除 術大系譜 八九




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● 著 無 著 ●
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作 所/季 作 年年年年年
免 者| 艦なル |者 拾九八六六
女。リ 三与。
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元 ● 也 版 低 ● 月 武拾

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