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二
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撃
紳 皇紀 自序
本紀は最く*我帝國碑代より 高世一系の皇統を継承ましましける
碑 皇 五十 一 代の史上波れ させ給ひて博らざりしものありしこと を発
見し 謹 んて共御事填を世に公にするものなり。
仰*神皇五十一代は天碑七代地祇五代の後を承けて宇家測 不二合
須世と稲し、二千七百有除年にして、人皇の世となれり。 面して、各 碑皇
天祀日子火火出見奪の談訓を長みて即位毎に御講を襲承ましまし
は即ち 第一代の碑皇より第五十一代の碑皇に至るまて試れも、御
シ不合奪と稲し奉り各碑后も 赤又談訓に則り立后毎に御誌
承して 執れも 多摩夜里里女奪と賜はりしものなり。猫に 推みる
に人*第一代碑武天皇は即ち碑皇第五十一代ェ不合奪の御子に
ましましけるに、史上碑皇第 代 刺芽暮 不合奪 の御子の 如く停はれる
自 序
一
自 序 二
に因り 愛に 長れ多くも全然五十有除代の碑皇の浅れさせ給ひて世に
停はらざる に 至れ り しもの なら む 参天。
*
起
す。 其 心 を 書き ず し て、漫 に 共地 れ し 所 を 後 表せ ば、神 つて 応 なら ず。
方 も、歩 しく、比 が 併 成 以 て 生命 と 残し、一片 假名 古音 さて、佐々 として 1
十有九 年 の 如 し 東 に、共 其 相 と 信 する 所 を 縮め、今や、浙 < 世に 公 に
する こと を 得る に 至 九 り 強し、 副本 の 完美 は 我國 體 の 金融 集散 を
自 文 !
»
四
日文
した た 光 地 あらし め、成 皇統 の 高低 % を して余剰 なら も る。
り たり な不 件 投 く離開 く文經 將 他们 にし て 敵 機機嫌味 だ 修 を加
< 3,532 顆 し。 到 江路 將 敵 を 終わ ず、敵 の ある 所 を 象 也 る 、あ
劇
ら ば、李 世
碑 皇紀 凡例
一、本紀を分ちて、四編となす。即ち 第一編に 紳皇に闘する御事填を第
二 編 に、各 碑 皇 の 即位 式を行は せ 給
しける 者 を牧 め たり。
一、第 一編を 神皇之巻と名づけ、碑皇に闘する御事填を分ちて、四章とな
す。先づ 第 一章を総説とし、碑代より人皇 に 至れる鍵 遷 の 硬概を 第
二章を前紀とし、碑皇以前、即ち碑 よ
闘より 砕皇 に 至る ま て、所 請碑
闘
に
代
一
十
五
皇
碑
、
填
事
御
的
史
する
祇 の 御事 填 を 第三 章を正紀とし
れる
を、第 四 章を後紀とし、碑皇 より人 事賞 及人皇十二 列聖を
稲述し奉る。
第二 編 を、碑宮之巻と名づけ、各碑皇 の即位 式を行は せ給 ひし場所、即
凡 例 一
1
月
シ が 反駁 回 龍山 太 師匠 の 由來 を分ら て、三帝 と なす。 伴っ 第 1 章 を
將官 とし 大 師匠 の 創立 4 0 世に 至る まで の 交通 の拠 地 をš *
を 大 師匠 の 木簡 とし、五 期 に 分ら て 送 水兵 而 來 形 變遷 を後 李 ºš
論 とし 大 師匠 の 南北朝 時代 より 近世 に 至る まで の 後 還 を築き 」発
る。
% 討 を 停刊 之 徒 と名づけ 離 に 開する古 文書を 飛 來 」來 水 *
即ち が 大 原町 制 出太 神宮 の 大宮司を分あて、赤 一 肇 * *\$
安 を 務官 とし 北大 司 の 後継 の根拠 を 述べ後 11章 を 大宮司 の 正
論 とし を 破 天空 任命 の 大宮司 家 に魔神天空 任命 の大宮司 を š *
と 敵疎 とし 北市 文書を 複数 ,し て保存 しける者 を 列記」た º ?
大 司 の 下 に 制 可·司 其 等 を も 飛龍 觀º &
第 四 聖 保祿 之 徒 と名づけ 離 に開する古 文書を 撤収 する 高
2 % 討 を から それとた す。 伴っ 第 1 章 を 上艦 とし 後劉永遠 の
*
事 成 に 子孫 及 從者 を 第 二 章 を 下層 と た し、徐福 及 其 子孫 の 教 政 し
ける 古 文書 の ぼ 日 及 硬貨 を 記 達し たり。
1、神代 は 古 文書 に 表れ は 自ら 五 期 に 分 れ ける もの , ,倉
期天 之 世 天 之 神 也 代。 第 二 期 天 之御中 代 世 大 高見 神子 五代 第 三
期高天原 世 天神 也 代。 第 四 期間 町 站 原 世 地 神 王 生” “ 南寧 安 魂
不 11合 気 世 合 氣體 光 十 一 代 是 たり。 然れ とも 本紀 は 第 一 期 第 二 類
を 共 機構 に 止め、第 三 期 以下 代 を 分 も て 許 証し 東 九 0
1、古 文書 は、奈 德爾 自ら 撤収 しける もの と 共 子孫 と 代 まで 終於 し け
* の と あり。 而 ,し て 欲しく ぼ 胴 の 総 攻 しける もの たる も、中 神话
後 周 の 日 神 及 傳 記錄 に 位 れる もの と アJ 神武 の 遠縁 の 日 談 及 系譜 に …
術 れる もの と 多少 の 試點 あり。 因 ん や、共 子孫 と 代 ま ご 教改 しける
に 於 て を や。 該 に 中 文書 のみ に 作り、散ら 安 的 事實 を 定め ら と す
る は、共 正樹 を 得 たる もの に あらす。 伴隨 たる 古 文書 全校 に 通じ て、
* & 三
-
凡 例 四
初めて共事質 の眞相 を窺知する ことを得可 し。本紀は著者 が二 十
有九年間共全般 を通謡 して、共指示 しける所に従ひ、各 古跡を質地探
査して、潮く共眞相と信ずる所を以て編 韓 し たり。
一、本紀 の引用せる古文書は言語 の通 ぜざる者 と者との間 に於 て、漢字
を以て 録取 しける こととて、讃 み 難き語句 赤勘 からず。例へば 敷き」
を「鳴佐無気、川を渡 らんとす」を川尾渡働運登須」の 如 し。故に何人に
も解し 易き貸 めに、共 眞意を害 せざる限り、努めて通俗 的に編述せり。
故に文詞の時代及文鮮の他俗を以て太古の事獣を批議せらるるこ
と なく む は 幸甚 し。
二府録系譜は、一に古文書のみに操りてNを編成せり。即ち足れ従来
の所請正史を参的すれば、一種の合作系譜の嫌あるを以てなり
一、附録園面は、太古 より博れる圓面。天平二年八月中、行基上人の模寛
しける海伊國圓面。大同元年八月中 太碑宮 祀 傘山背郡 大領 太田 伴
えここ ま 」
ここ j、*
眞 長の 模寝 しける大 噴火国 面、建 久五年九月、大
総 地頭、宮下源太夫義仁
HA の 模寛 しける富士
書の 附属園面等を基礎として、参謀本部 園 面 に準
" ものなり
シ
好意 を多 と する もの なり。
。 大正十年四 月三 日
紀日 次
-*
第一 編
第一章
* * * * ** * * * - * * * *** * - - * * * * * * ** * - ● ● ● ● * * * * ● ● ● - -● ● - ● ● ● ● - * 』 - ● ● ●●●
第二章
****** ********** *** ・・・・・・・・・・・--** ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』 - ● ● ● ● 』
* ****** ・・・・・・・・・・・--*・・・・・・・・・・- ・・・・・・・・・・』 ・ ・・・・・
第二
三
第
四
第
五
第
六
第
七
第
臼 次
日 *
第二節 天 之 御 中世 火 高見 神 十 五 代 …:O
第一 天
~
第 ll 高安 克 郡 明神 :
________________-_ -__________________-- ------ -----
第三 字法 比古神 |
*
- -- ----- --____________ ----- --- ----- -- --- --- ---------
第四 字學 思字加 湖 比 古 神
第五
第六
第七
皇
第八
第九
第十 之 火 明 市方 神: |
第十 天 之 水 里 制:
第十 二 天 之 金 山田方 神 :
第十三
第十四
第十五
三セ
第三節 高天原 世 天 碑 七 代 :
* - - - - - - --
三毛
第一 国 立奪 ::
三
第ニ 国狭 ::
- - - - - - - - - - - - - -- - - - -- -- -- -
- - -- - *- --
園三
第三 淳奪 尾茂 太 留 奪:
: 四交
第四 泥土 者 奪:
碑 四六
第五 大戸道 奪 ::
四指
第六 面 足奪:
: - -- - - - - - - - - - -
四分
第七 伊井 諸 奪 :
皇 吾三
第四節 豊阿 始原世 地 碑 五代 ::
吾三
第一 天 照大 御 碑 :
交北
第二 天 之 忍 穂 耳 奪:
紀 七一
第三 天 日子 火 々 杵奪::
八吾
第四 日子 火 火 出 見奪 : :
丸三
第五 日子 波 激 式 鶴 考 算 不合奪:
- -- --- - - -- ---- --- -- --------* -* - - * - - - - * * ** 丸毛
第三 章 正紀 碑皇
三
T 次
第 一節
日
碑 皇 第二 代
碑 皇 第四 代
碑 皇第十二 代
碑 皇 第九 代
碑皇 第六代
碑 皇 第三 代
碑 皇 第 一代
碑 皇 第 十三 代
碑皇 第八 代
碑 皇 第七 代
碑皇第五 代
碑皇第十四代
碑 皇 第 十 一代
碑 皇 第十 代
碑 皇 第十 五 代
次
宇 家 潤 不二 合須 世 合須 紳 五十 一代:
日子 波 激 武 言 合 奪 :
:
奪
王
光
日野
指
二 :
奪
王
子
宇摩
一 :
奪
王
彦
豊田 :
奪
王
奈
阿知
隠
二 :
奪
王
彦
禰
津
三
二 一
:
奪
王
田彦
佐津 0
二
田彦
二
不
:
奪
王 :
奪
王
豊
阿蘇
毛
0
一 穂高
千
:
奪
王
吾
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一
:
奪
王
田彦
奈良
四
三 ●
●●
*****
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--***
*
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**
**** 天三子
萬
:
奪
王 ******
*
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- ****** :
奪
王
彦
見
出
三
一 :
奪
王
男
武力
0
三
一 武二
太
:
奪
王八
彦
丸七
七
丸
科 文法 + : * H な:... .… 11*
韓文 第 十 七 代 加日 H な:. 三名
韓文 第 十 八 代 都 位 老 王 李… ______ - -… 元
韓文 第 十 九 代 加 修正 な… _ … O
种方 第 二 十 代 加 作用 老 王 李 …: … 三
神仏 第 二 十 | 先代 登美 田 里 王 仲 : 1試
种方 第 二 十 二 代 等 科 里 王 李: 1
种方 第 二 十 三 代 津 家 建 王爷 : 黃
神文第 二 十 四 代 久远 在 老 王爷 …: 1試
神社 傍 1 + 王 先 宇佐 夫 王爷 …:1
种 自從 二 十 六 代 津田 修 王 李 … 関O
种方 第 二十 七代 頭 長男 王爷 : …1
神文第 二 十 八 代 足 長沙 王 李 :
神圣 彼 1 + た 代 手身成 王 李: 阿
种 文 俗 ' + 小 山守 性 主祭 : … 阿希
神社 傍 ! + ' £ 佐奈 川 方 王 弥 :1
日 *
日 *
神文 第 三 十 二 代
神仏 第 三 十 三 代
种自 第 三 十 四代
神圣 彼 + 王 先代 田 高密 王 李
代
六
十
三
第
方
种
-
川上 明 王佐 -------------------_-_… …
英
神圣
代
七
十
一
的
玉 縣志 王 等 ------------------------------- - - -- ---------
__________1 人
代
九
十
三
第
立
帕
和
帕
代
十
四
第
自
流 川弘地 王 李 ------------_-_-_____________-----------{
1
十
四
第
自
种
年代
國 科 長男 王 徐 - ---- - -- ---- --- -- ----- ---- --- --- - - - ---- -_ -_ -_ -_-_____
交
代
二
十
四
後
室
神
…… … … … • • • • ••• • •• • •• • ••• • •• •• • • • • • • 大
玉 珍于交
代
三
十
四
第
神宗
神 兵 第四 十 四 代
神圣 第 四 十 五 代
神自 第 四 十 六代
神圣 徒 四 十 七 代
第四章 後紀 人皇 -- - - - - -- -
:: 一丸丸
第一 東征 の 部署:: 一発
第二 丹
書
牟
征討
吾
0
三-
・
・
・
・・
第三 鬼山
・
四
第
字
・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第五 碑后登退 ・・・・・・ 。 三二四
第 ニ節 人皇 歴代 :: 三毛
第 一 代 碑 武 天皇 : 三毛
第 一 奪 都 と 即位 ・・・・・・-----
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・- - 三二七
日 次 七
t ネ 八
第二 ㎞ , 访问:… 元
第三 桜 新 金 : 三文
第四 桜子: 三角
--- -- --- --
第五 致 治 人 氣旋:
第六 的 风 神社 :…:
神
第二 代 統 時 天空 : O
第三 代 ( 學 天空 :… 元
第四代 統 懇 天空 : 1
第五 代 楽 町 天空 : 三哥哥
第六代 率 安 大 白玉 … 元夫
第 七代 楽 祭 天空 :… 元
第八代 楽天 天空 :… 大
第九 代 别 代 天文 :· 文
第十代 % 討 天文 :· 交通
第十 一 代 派 に 天白 :· |
第十 二 代 :·|0
第三 節 鈴 説: ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・. 三むへ
第 一 三 品 の 大 御 賞: 三毛へ
----------- - ---- - ---------** - -------- - -*** - *-
第一 左右 大 砕 :: 三へセ
第三 歴 書: 三 一
第二 一編碑宮之巻 紳 皇 即位所 * ---------------------------------------** **
三丸五=国三国
三丸吾
第 一 章 総説 :
第一 太 碑 宮 創立 : 三0交
第二 太碑宮 の 碑 使用 : 三0人
第三 太 碑宮と七廟ii 三二
第四 太 碑 宮 の 守護 碑 :: 三三
第五 太 碑 宮 と 紳 皇 即位 式: :: - -- -- -- - -- - - - - - --
三国
臼 次 九
-*-*-へへ-ヘへへ〜〜
。 # 。 盤 豊
太 太
岡 太 高 太 太 天 耐 耐 耐
耐 耐 昭 晃 宮 宮
繋
;
耐
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と ?
日。分 癖 遷
御 巻
の
耐
使 地
と
大
祀 本 祀 及 : ; 震
と 武
* 耐 :
豊 新 ㎞ 器
耐 耐 : の
* 盛 監 。 。
第 十八 太 宮 競 使 検察:: 三ニョ
第十九 太 碑 宮 三 分赴: 三 へ
第二十 二 所 明 碑: *
三三
第ニ 十 一 貞 観 の 大 噴火: 三交へ
-* ** ----** --
第 二十二 太 碑宮 改 稲: 三毛交
第 五期 富士十二 郷 :: 芸二
第 二十三 太 碑 宮 の 新宮 伴 ::: 三へ一
垣 ニ十四 太 碑 宮 の 新 大宮司: :: 三人交
第二十 五 太 碑 宮 の 碑 領 と 十 二 郷:: 三丸一
第 二 十六 太 碑 宮 と 都留 郡 ::: 国二0
第 二 十士 太 碑 宮 の 別 常:: 国三国
第二 十 八 太 碑 宮 と 将軍家 ::: 園二へ
第三 章 除論 : ・・・ 『三国
第三編宮司之巻 紳皇書保存
藤 者 i ・・・・・・国三 u至0言
日 次 一
第 一章
第二 章 碑皇書 保存大宮司(正篇)i ・・・・・・・・・ 四国三
第 一節 孝 霊 天皇 任命大宮司 : ●●● ● ● - ・・・・・ - -** i 四園三
第 一代
第二 代
第三 代
第四代
第五代
第六代
第 七代 顧 地 記 太夫命:: 園国吾
第八代 幅 地佐 太夫命 :: 園四吾
第二節 應碑 天皇任命大宮司 : 四
第 一期 富士 谷 保存 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四国交
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
原書 保存 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四園
代
一
第
宮下 源 太夫 明政:: 国吾一
代
三
第
宮 下記 太夫 政宗 : :: 園吾
代
六
第
宮下 源 太夫 仁 長:: 四吾園
代
七
第
宮 下記 太夫仁 元 ::: 園吾
代
八
第
宮 下記 太夫 仁 家 ::: 園吾
代
九
第
宮下 源 太夫 宗仁:: 園吾交
代
十
第
宮 下記 太夫 國仁 :: 園吾交
宮下 源 太夫 元 國 : i 園吾セ
代
一
十
第
代
二
十
第
宮 下記 太夫 仁成: - --- --- - --------- -- - -- - ---- --- - - - - -
園吾七
代
三
十
第
宮下 源 太夫 元 政 : 四六
代
四
十
第
宮 下記 太夫峰 元 : 園吾合
代
五
十
第
宮下 源 太夫 元 氏 : 四吾丸
第
代
六
十
宮下 顧 地 太夫 元治: 四交0
次
一三
目 次 一四
第 十 七代 宮 下記 太夫 元 照 : ・ 四交C
第十 八 代 宮下 源 太夫 元 定 : 交
-
第十九代 宮下 顧 地 太夫 國 富: 四六一
第 二 十代 宮 下記 太夫 元 長 : 四六三
第 二 十 一代 宮下源 太夫 秀 元: 四六三
第二 副書保存 時代:: 関交尋
第 二 十 二代 宮下顧 地太夫元長: 四交三
第二十 三代 宮 下記 太夫 元 頼: 四交囲
第二 十四代 宮下 源 太夫 元 道: 闘交囲
第 二十五 代 宮下顧地 記 太夫元村:: 四交吾
第二十 六代 宮下 源 太夫 元秀: 四交吾
第二期 相模國 保存時代 四交交
第 雨宮 奪 務 時代 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四交交
第 二 十 七代 宮下記 太夫仁 元: 四交交
第二 十 八 代 宮下 顧 地太夫 元 明::: 四交分
第 二 十九代 宮 下記 太夫 明政: i 園交
第 三 + {
第 三 十 | 先代
第 三十 二 代
第 三 十三代
第三 十 四 代 西屯
五
十
三
第
fŲ 関
六
十
三
第
代 西总督
經
刀L.
第 三 十 七 f\, 西昌
第三 十 八 代 阿
第 三 十 九 {\ 関数
f\
第 四 + 関数
{ę
第四十
第 四 十 1 代
第四十三 代
第四十四 代
第 四十 五代
*
目 次 -
一六
第四 十六代 宮下 顧 地 太夫明 朝: 四
第四十 七 代 宮下 源 太夫 明 魔 : 四人0
第四十八 代 宮 下記 太夫 政仁 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・
圓入
第 11 里 宮 専務 時代: 国人三
里 宮 第 一代 宮 下記 太夫 國 仁 : 園入三
碑
里宮 第 二代 宮 下記 太夫 住家 : 四人三
里宮 第三 代 宮 下記 太夫 住 國 : 四人三
里 宮 第 四代 宮下 佐 太夫 國定 : i 園入三
皇
里宮第五代 宮下記太夫政 園i
里宮 第六代 宮下佐太夫國明i 四入
里宮第七 代 宮 下記 太夫 明吉: 四人言
第三章 碑 皇書複 寛保存大宮司(績篇): - - - - - -- - - - - -- - * *
四入四
第 一期 富士 十一郷 時代 ・・・・ 四入園
第四 十 九代 宮下 源 太夫 義仁: 園入園
第 五 十 代 富士宮 下 藤 馬 亮 義國 :: 園分毛
第 五 十 1 年代
第 五 十 二 代
第五十 三代 ++
----- | 士 佔 不 在京 克 正成 : 西へ
Ä 士 名 下 將 太夫 教 家 : 元O
富 士 名 下方 政府 將 中心 : 西元
在 土佐 下方 社 交談 高 : 西元0
第五十 七 在 土浦 东京 兆 銘 數 : 阿克
第五十 八代 $ 战 在京 兆 銘 利: 西元
第 期 大宮司 保 在 此 代: -- -- - - ________ - --- -- - --- - -- --- - - - - - - -- -
西突
第五十九代
第 六 十 :
第 六 十 1 年代
第六 十 二 代
第六十三代
第六十四代
第 六十五代
*
月 *| <
-
第七十 二代 者 不滿 大夫 教
第七 十 三代 ℃ + 小太夫 將 敵 :O
第七 十四代 府下 深水 夫 教 作 : 老
-
第七十五代 府 下放 大夫 將 光 : 翌 1
第七 十六代 c下深
第七十七代 - 大大 教 與 : ---- ------ ---- --------------------------
翌0
基 - 美憂 “ここここ ここ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二 童 男 童女
第三 絵 子孫 : ・・・・・・・・・・・・こ ここ・・・・・・・・・・・・・・・・・こ・・・・・・・ ・・・・・・・・・こここ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吾一交
第一一章 下篇 碑皇書 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾三0
第一 碑 皇 書記
第ニ 皇書 複 %: 吾三ハ
皇 附録 系譜 * * * * * * * * * * * ● ● ● ● ● ● ● ● * ● ● ● ● ● ● ● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ----●●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● * * * * * * * ● ● ● ● ● ● ● ●● ●● ● ● ●
一
第 一章 碑代系譜(㎞)
第一 碑 皇大 系譜 「 タ
-- - -- * * * * --- - * * *
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
碑 代 第 一期 天 之 世 天 之 碑 七 代 系譜 ::: 一
碑 代第二期 天 之 御 中世 火 高見 碑 十 五 代 系譜: : 三
碑 代第三 期 高天原 世 天 碑 七 代 系譜 :: 図
碑 代 第四期 登 阿 始原 世 地碑 五代 系譜 : ** ******** -
セ
㎞ 代第五期 字 家 潤不 一合 世 合 須 碑 五 十 一代 系譜 ** --- ------------*** ***** - --- - -- --
丸
臼 次
日 % 1|O
• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• • • •
第二 在右大神大系譜 …•
神代第11期 <之御中世在右大神系譜… ------------------------1名
代號加泰米爾卡在治大學系譜…
神代第四期 ㎜ ㎝砲世在右大神系譜…
11个日世在右大神系譜------------------- --------…-------|
种神代役期字家馬不
人自圣母代左右大臣
系譜----------…
第三非語等大系語:
小夜見合大系譜:••••••••••••••••••••••••••••••
皇共|
非1 &= & «系譜…
共三 ㎢位男命大系譜:
- - - - - - - • • • •• • •• • •• •• • • • • • • • ••• •• • •• • • •• •• • • • • •
起第四大后通算大系譜---
共1 < * 全大系譜: _______________西哥
共11 年四川吉命大系譜:
_第五天之松德元等大本語______________
第六 天日子大愛好等大系譜 :
共 火照和命大系譜:…
其二 % %討會大系譜….
第七日子**出金大系譜…
共 天河天之火明命大系譜• • • • • • • • • •______ *…----------------
共11 * * * * *·
神第二章 族制天皇大系譜(翻轉職).
第一 <山
第ll į側室子大系譜…:------
第三 小女人系譜…
第三章 ㎢月有關大系譜().
第四章 術館大系譜線戰
附錄國面
第一章 ㎢代全國會圖
第 桜花野剥
日 *1] ]
日 *11]
第 二圈 界 成立 体内 放 地 な 物 だ 大國 十 八 州 國
第三脚 天 照 大御神 射 定 小 國 四十八 國 圖
-
-~~
第四國 < 日子 水 或 公开 除 前 定 十 七 軍 神 廟 號 風
第 I ㎝ ॥ も 代 高天原 形 圖
第 11 ㎝ ㎞ 離 去 代 高天原 路 圖
第 三國 推廣
歷 + 大 年 縣 地 山 噴火 前 高天原 形 圖
第四國 推廣 十 九 年 古典 型 大 年 兩 大 峽 水 現 於 形 圖
第五國 +1
第三章 者同 大原 稱其 宗 本古國
粗
----
第 一 圈 ︽ 神 上代 高天原 光景 古風
第 二國 推翻 云 代 高天原 鉄 東 方面
第 三國 推廣 大 質 炎 的 高天原 美景 古國
神室神修代表
神 室 和 日 攻略
皇 耐
園 古 頭 本
斐 書 は 目
中 古 は
耐 諸 冠天 開 別 文 獲
都 家 愛を 岡 に 書 見
賞 系 リ 耐 名 の 後 日]
録 岡 山世 代 稀 略 未
禁驚 代 き に 世
豊妥 計 も し に
髄 ろ て 公
天狭 は、引
闘器 1享
偲 用
に の
ご 稀 を
を 岡
附対 れ
る
も
の
な
り
* ** 『 』 - シ - } シ -**
引用 書目
一合 戦記 筑紫島二 度合戦記
碑代記残稿
天孫二 柱 奪事 填記
阿 田津 里 女 最期 記
碑 代軍師軍 碑 武家略歴 記
海 守碑記
陸守大本営ナ 本陣記
天地開闘碑 代 略記
宇 家潤不二 合須 國 五 十 一代歴世 記
宇 家潤不二 合須 世撮 政 記
答 日子大國 主雨 碑 祭 因縁 記
祀家武部茶 日子三家並皇族役人記
紳 代日 算之申 停
碑代 根創 定之 申博
人 不 大
-
器 皇
歴
代
-
|1 |
國
主
命
記
員 世
目 目 記
越
代
記
引用 書目
徐 子系 歴 記
徐顧 来 記 秦徐 顧来 朝記)
徐 顧 系圓一 秦 徐 顧 世代 記
惣 國 碑赴御 改定記
阿 祀 記 阿 祀 山 碑 赴 由来 記
阿 祀谷 浅 日 浅問 碑 赴由来 記
りJ 口 L 口
阿祀 赴 記 阿 祀谷 碑 赴 山来 記
一大山 守 記 大山守皇子御来歴記
大山 守皇子 累代家歴巻 一乃至三
山宮浅間顧地又八長世代記 ( ㎞。)
山宮浅間宮司記
二一皇子 二皇子来歴記)
一根鳥太田記 根鳥皇子太田 歴代記
一根 鳥 記ー 根 鳥皇子世代記
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三
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熱
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世世 富宮
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記 地 地 大
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明 火
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郡
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員
七 廟中三 座 由来 書上
富士 十一郷司 沿革 史
延 暦 噴火後宮守 事
七廟 中 四座 由来書上
源 頼朝朝臣 二 所参詣 記
二 所 七座 明 碑大 赴 再建寄附 御 連名記
富士 十二郷司世代記
富士 秘密 日記
富士秘密 日記博史
富士 秘密後記博史
御 碑霊御記録
太田 和 日記
高天原諸國 遷 日記
碑木 記
富士 七 廟 碑領共 他 免 賜 状 集
島津氏 興利記
島津家 史歴博
碑官歴代誌
南朝 髪曲輪 旨集
富士本宮 小室大 赴 記
源 頼朝 公 及 政子 立願事
書
別
川]
目
耐
参考書目
古事記博
古事記
績 日本 後 紀
上 記録 譚
皇 年代略記
帝王編年記
交替式
扶桑 略記
本朝 世紀
日本 書 紀
三代 洋 録
日本後 紀
参考 書目
耐 古 奪 耐 延 祀| 日 日 文 警を 奮 績
代 事 卑 皇 喜 道 本 本 徳* 事 日
文 記 分 正 式 五 逸 記 賞 日 本 本
字 別 派 統 - 部 奥 略 録 本 紀 紀
考 偉 記 書 後
紀
参考 書目 一
祀
祀
績 式 耐 祀軒
蒙
耐 祀 代 代
皇 各 記 巻
説
師
祀
十
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三三日
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偉
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呈 正統 記
熱田 大明 碑 縁 記
皇朝史略
國史略 愚管砂
-へ
大臣各 鑑 官 赴 祭 碑記
群 書類従 皇朝編年史
日本 全 史
今鏡
増鏡 纂 韓御系圓
諸家 知 譜 抽記 ㎞ 御系略
大 日本 帝王系 之 圓 藤原 氏系圓
藤原 氏 略 系
帝王 略 譜
大 鏡 系国
碑 代巻
日本州各 解
古 史成文
古 史徴
皇陵
陵墓 一隅 東 鑑場 要
東 鑑 不審問答
甲斐業記
甲斐國 茶話
香取 新 誌
尾張 志
参考 書目
参考 書目
信濃地名 考 上野名跡 志
日本歴史及地理 要覧 朝鮮 史
*
*-**ヘへ〜*-*
朝鮮 古 史断 史記
出雲風土記 伊賀風土記
和泉 國風土記 伊勢國 風土記
遠江國風土記 尾張國風土記
近江 國 風土記 上 継風土記
甲斐風土記 但馬 風土記
武蔵 國 風土記 陸奥風土記
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風
房
言 相模國 風土記
安 風土記
風 風
記
中 陸
國 國
吊
士 撮 津國 風土記
青
前
記
土
駿河國風土記
下線 園 風土記 遠江國風土記博
参考 書目
-*
- --- -
--*--*
三 論 議 羯 者
第 一 輪 動 自室 之 余 說 自室
第 1 章 統 ॥
開關 元始 の 時、初めて 成り ませる 神 の 御名 は、天 之 修 大夫 將水 に 天 之 高大 男 神。
に 天 之 高地 失神 木 に 天 之 高木 此 古 神女 に 天 之 章 界 錦衣 に 天 之 高原 里分钟 表 に 天 之
御 在 比 古 神。 此 の 七 性 の 神 を 天 之 神 とお よ。 そ 一 十 萬 日。 之 を 天 之 世 と 称し
に さ。
天 之 御 は 比 古 神 は、天 之 御社 美神 に 委ね て、生み ませる 神 の 御名 は 天 之 御中主神。
虎 の 神 天 之 御中 比 女神 に 愛 が て 生み ませる 神 の 得 名 は 高 皇 產 種 野神木 に 高中 守
第 羯 說
三 論 議 羯 者
第 一 類 動 自室 之 余 載 自室
神 第1 章 統 ॥
| ㎜ 常の 時 て成り** *の 名は 天之 書くまゆえに天 N** *
* 『天 之 高地 夫婦 女 に 天 之高本 北市 神女 に 天之 軍勢神 条 に 天 之 高原 秀麗 水 に 天 之
• #***********+= N***
*
. 之 御 は 比 古 神 は 天 之 御社美神 に 愛 が て 生み ませる 神 の 御名 は 天 之 御中主神•
長 の 神天 之 御中 此 女神 に愛 が て生みませる神 の 得 名 は高皇香 農學 講求 にあ中华
第 1 桜 說
諸家 知譜 抽 記
増鏡
今鏡
大 日本 帝王系 之 圓
碑 字 日 文博
日本 全 史
二 十二 赴 記
碑 赴 啓蒙
参考 書目
藤 正補 纂 皇 大 皇 官 愚 皇 熱 績 式 耐
耐 耐
原[御 輔 崩l 鏡 朝 祀 管 朝 田 耐 祀 代 代
氏 系 御
御 績
績 編 祭
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記
一
氏略系 諸家 系国 集
帝王略 議 碑 代系 国 停
大 鏡 系国 碑 代正語
碑 代巻 古 史略
日本 州各 解 碑 代質器 お
古 史成文 碑 武記
古 史徴 大 日本 國 誌
皇陵 山陵集
陵墓 一隅 砂 東 鑑場 要
紀 東 鏡末記 東鑑 不審問答
甲斐 国志 甲斐業記
甲斐国 記録 甲斐 國 茶話
古跡 葬 亡要 香取 新誌
望赴略史 尾張 志
参考 書目 三
* 』 シ
参考 書目
信濃地名 考 上野名跡 志
日本 歴史及 地理 要覧 朝鮮 史
。
朝鮮 古 史断 史記
出雲風土記 伊賀風土記
和泉 國 風土記 伊勢國 風土記
遠江 國 風土記 尾張 國 風土記
近江 國 風土記 上継風土記
甲斐 風土記 但馬 風土記
武蔵國風土記 陸奥 風土記
㎞ 陸奥風土記 山城國 風土記
大和 國 風土記 豊後風土記
相模國 風土記
撮 津國風土記
駿河 國 風土記
下総 國 風土記 遠江國風土記博
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耐
参考 書 日
-
神 桜
三 論 者 器 者
第 一 編 神室之余 說 自室
第 一 章 続 說
" 9*きる議 の 有名は 天 之 华 大夫 婦女 に 天 之高 水神 *
» ،«NN*****************N
w ! 之 古蹟。 その 七 任 の 呼 を 天 之 神 と & &。 そ 一 子离 日。 之 を 天 之 世 と 残し
に w"
. 之後 は 比 古詩 は 天 之 得 在 美神 に 委ね て 生み ませる 神 の 得 名 は 天 之 例 中主神。
キ の 呼'天 之 氣 中 比 女神 に 愛 り て 生み ませる 神 の 有名 は 高 皇 產 種 學 評 家 に 高中 守
乾 1 % 參
碑 皇紀 二
主碑、次 に高下守 主碑。父 大御碑の 言依し 賜 へりし命 の随 に 高皇産穂 男碑は 天 つ
日 嗣となり 高中守主碑 高 下守主碑は、左右 より天 つ 日 嗣に仕 へ 守らせ給 へり。左
右大碑愛 に始りぬ。高皇産穂 男碑より、宇津峰比古碑 宇摩 志宇 加弾 比古碑を歴て、
天之常立 比古碑 に至り、諡 の法を定め給 ひき。天之御柱 立碑 天之木作 比古碑 天之
草奈男碑天之土奈男碑天之火明男碑天之水男碑天之金山男碑天之火山男碑天之
田原男碑 を 歴 て、高皇産 霊碑 に 至り 諸、の萬 の草木を賞 め て薬種を考 へ ましき。比
の十五柱の碑を火高見碑といふ。凡そ六十 七萬五千日。之を天之御中世 と稲し
耐
に き。
皇
といひ第七の御子を園狭 植倉といふ。父大御碑の命以て撃難園は我が御子二柱
巻
の碑の知さむ園と言依し賜ひき。國常立奪 先っ言依し賜へりし随に天降りまし
給ふ。然 れども、久しく復奏なかりしかは、父大御碑、いたく之を憂へ 親ら國狭 植 奪
初め諸 の伴緒を支り加へて天降りまし給ふ。乃ち 高天原の小室に天の御舎を見
立て給ひき。左れと園常立奪に相見えすして覚に碑避りましぬ。倉 園常立奪高
天原に上りませるに 園 らずも 國狭様 奪 に相見え、共に相 軟喜 ひ 又、父大御碑の事を
聞召 して共に相突悲 み 給 ひき。後二 柱は、碑議 り に議り給 ひて、比の 國 を十八洲に
分 ち 更に 又 阿 祀東 阿 祀西・阿 祀南 阿 祀 北 の 四 つ に なむ分ち給 ひぬる。故に、比 國 を
四季島といふ。園常立奪は阿祀西阿祀北を知食しめして田堺の撃伊魔にましま
し給 ふ。國 狭 植 奪は阿 祀南 阿 祀東を 知 食しめし て高天原 にまし まし 給 ふ。國常
立 奪は、碑 佐 加 比 女 奪 に要 ひ て豊樹淳 奪を生み ます。國 狭 植 奪は、白清龍 比女 奪 に
要 ひ て泥土 煮奪:大戸道奪 面 足 奪 伊井諸骨 を生み ましき。比 の 七柱 の碑を 天 碑 七
耐
五百碑を事て赤作田彦命を御前に立して南島に向はせ給ひき。一『現々シ
阜
后を南島に訪はせ給ふ。適 碑后今や臨月とも見るべき玉鶴にてましましょかは
奪碑后を疑ひ途に附地見島に還幸ましましぬ。碑后いとも恐し』っ備。“*。
之
と請り給ひて即ち高照昆女命下照昆女命を副へ給ひ高天原に還り上 ッ*。“ー
巻
給ふ・ 乃ち㎞の無戸室に三皇子を産み書き*にシの噴火に*して
避りましぬ。天見屋根命無戸室の屋根を破りて三皇子を出し奉る。*
須勢理命 火遠理 奪是なり。
大遠 理 奪は遠 認 に因り、天 っ 日 嗣 の 大御 位 に 即 かせ 給 ふ。之 を 日子 大 々 出 見 貧
といふ。比の碑 初め海 佐知の事より 高天原 夫室刻 の湖畔 の龍宮 にましまして豊
玉里 女 命に 要 ひ て生み ませる碑 の御名は、阿 祀 男 命。一日外 歳、又 復 た、附 地見島 に
攻め来れり 方ち高天原家撃都の大御宮に天っ韓国っ碑八百萬碑を碑集ひに集へ
て碑議りに議り給ふ。即ち附地見島は歴。外意を蒙れり。如かす碑都を之に遷し
て内地を 知食 しめし つ 、外 疲 を防きまきむ にはと。是に於 て火 々 出 見 奪は、大御
位を皇子 阿 祀男命に 輝 り、遷都 の 事を行はしめ 給 ひ、諱 を 日子 波 激武言 合 奪と 改め
耐
印 中
御
下を知食しめすと難とも、一に不二山 高天原の天つ 大御碑の御碑託 に合はします
巻
べき意を採りて園名を学家測 不 1斜 須園と名っくへし。又代々の碑皇は競れも
即位毎 に諱を襲承して鶏芽葺 不合奪と稲し、代々 の碑后は 立后 毎に赤 諱を襲承し
て、多摩夜里昆女奪と 賜ふべしと。故に比即位式を世に講即位式となむ稲しける。
碑皇第一代職芽書不合奪は三百日を以て一樹と定めさせ給ふ。即ち年の始と
す。碑皇、語りたまはく皇太子は、碑皇の碑避りまし し 後 大御位 に即くべ し。碑皇
碑避りまし、と難とも 若し碑后の在はすあらは共在世中 碑后撮 政 として、天下を
知食しめすべし。と後碑后多摩夜里昆女奪の撮 政の終りますや 皇太子 不二高王
奪は高天原に上り 即位式を行はむとして第二 の皇子奈加 尾王命と共に春属三十
ハ碑を支り加 へ て海上より 渡航中番 く沈没 しましまし ぬ。尾羽張國造司 尾張彦
命 急騎 鍵を高千穂 の宮に以聞す。宮中 皆な色を失ひ恐 擢貸す所を知らす。乃ち
第三の皇子千穂高王奪を皇太子となし 汰 落斎戒すること 一百日 意 に高天原に上
耐
碑皇第三代職業書不合奪識 阿蘇豊王奪即位六十根火須勢理命の御子高天原地
之
司令碑稲田雄命の男大武知彦命等 本島東南の碑々を腹心となし、碑都復奮を企て
巻
通り減水 し て、定水 と なれ り。
之
碑皇第十八代職芽葺不合奪譲 都留彦王奪より第十九代多加彦王奪第二十代加
巻
る。第三の皇子封馬王落ちて我順撃に漂着して碑皇に殿園の暦書を奉りぬ。之
巻
第四十一代㎞利長男王奪に至り即位十三年南海認る。彦王雄命を元帥とし貞子
皇
式の貸め高天原に上らむとして大海に於て沈没して碑避りましぬ。第三の皇
子波奈長ェ奪皇太子となり高天原に上り講即位式を行はせ給へり。之を第四十
三の 皇となす。第四十四代照日彦王奪第四十五代津気男王奪を歴て第四十六
シ彦ェ奪に至り即位十年東南諸園触う碑皇紳后と共に共地方を巡幸して之
を賑はしめ給ふ。第四十七代顧仲穂王奪に至り南国観る。碑皇七年にして親ら
言向和平し給ひき。皇太子忠長彦王奪講即位式の貸め高天原に上り青木原に於
て暴かに碑避りまし ぬ。皇弟津加彦王奪を皇太弟となし 斎戒断食し て高天原に
上り 講即位式を行はせ給ふ。之を第四十八代の碑皇となす。第四十九代眞加弾
王奪即位七年本島南地の城将 長武彦等自木人( ㎞)土蜘蛛を語ひて反す。碑
皇 親 ら元帥となり 十七年にし て 討ちて之を平け給 ひき。十九年南島 地大 に震ひ、
山岳崩れ地裂けぬ、第五十代岩仲彦王奪即位十二年より六七年天下大に戦う諸
耐
に南島を犯しぬ。碑后 親ら元帥として味拒託彦根命興玉命を副へ 輸
耐
五百碑を率て赤作田彦命を御前に立して南島に向はせ給ひき。
皇 后を南島に訪はせ給 ふ。適 碑后今や臨月とも見るべき玉鶴にて
之 奪碑后を疑 ひ 達に附地見島に還幸ましまし ぬ。 碑 后、いとも撃
巻
と ひて即ち高照里女命下照昆女命を副
『上ーシー『ー
須勢理 命 火 遠理 奪足なり。
禰 ら しめ 給 ひき。
紳皇第五十 一代 親芳葺不合奪 諱弾 眞都男王奪 即位六年六月二十日、全國、地大に
震 ひ 山岳崩潰、黒泥噴出。翌年 天下大に戦う。碑皇諸。の皇族を率て、全國を歴 巡 し
て救福 ましましき。三十六年六月 蔵津亘理命は碑皇第四十六代鶴芽葺不合奪 講
第 一章 総説 一
碑 皇紀 六
て新都 も赤 日向 高千穂峰と名 つけ給ふ。是より 奮都 高天原を天都 といひ新都を
碑都といふ。乃ち 先つ奥山 住命等に命して急に宮作りましまさしむ。共未た屋
根 の葺き終ら さるに、日子波激武言合奪 高天原 より左右 大碑初め諸役碑を支 り加
へ て、天 降りまし まし給 ふ。則ち高天原 に復 奏 せしめませは、父大御碑 の 命以 ちて、
奪に譲を職業書不合奪と授け給ひき。即ち碑皇第一代 鍋業資不合奪足なり、面
して雨地見島は共新に都を築きませるに因り築市㎞)と改め給ひき。
父 大御碑 語りたまはく碑都築市島 代々 の碑皇は 即位毎 に御祀天 照大御碑 の 儀
耐
べき意を探りて園名を学家潤不ゴシ園と名っくへし。又代々の碑皇は競れも
即位毎 に諱を襲承して鶏 芽葺不合奪と稲し、代々の碑后は 立后毎に赤 諱を襲承し
て多摩夜里昆女奪と 賜ふべしと。故に比即位式を世に講即位式となむ稲しける。
碑皇第一代職芽葺不合奪は三百日を以て一根と定めさせ給ふ。即ち年の始と
す。碑皇 認 りたまはく皇太子は 紳皇の 碑避りましし後 大御位 に即くべ し。碑皇
碑避りまし \ と難 とも、若し碑后 の在は すあらは共在世中 碑后 撮 政 として、天下 を
知食しめすべし。と後 碑后 多摩夜里昆女奪の撮 政 の 終りますや 皇太子 不二 高 王
第
碑皇第三代職業資不合奪識 阿蘇豊王奪即位六十根火須勢理命の御子高天原地
-~~~~~~~~~~~~~へ
之
碑皇第十八代職芽葺不合奪講都留彦王奪より第十九代多加彦王奪第二十代加
巻
佐田彦王奪第二十一代登美田男王奪第二十二代笠砂男王奪第二十三代津奈建王
奪を 歴 て第二 十四 代 久具佐 彦王奪 に 至り、即位 十三 根 七十 四 日、外 寝 の 舟師数 百、海
上 に見は る。乃ち 四方の 州 國 に勅 し、兵を 催さしめ、各要衝 の 地 に 擁 り、之を 防 かし
む。曾、高天原 の 方より、黒雲巻き来 りて、烈風 暴雨 と共に 吹き荒し、敵船番 く 沈没
しにき。第二十五代 宇佐彦ェ奪 第二十六 代津田彦王奪を歴て第二十七 代頭長男
王奪に至り即位十二 根本島南陸大に寛る。碑皇親 ら行きて鎮めさせ給ふ。第二
十八代足長彦王奪 即位 十七根より三根 天下 鏡 る 東北観る。津守銭磨彦命を元帥
とし、太玉 別 命を副 師 として之を鎮め させ給ふ。第二十九代 手身武王 奪を歴 て第
三十代山 守雄王奪に至り 本島東南蹴る。金建武命 に認 し て之を平けし む。第三
十一代佐奈田 男王奪 第三十二 代弾 築作彦王奪を歴 て第三十三代田仲 雄 男王奪に
至り祀佐男命三十八 世の孫武長刀里 古命に認 し て尾羽張の入演の津島 に 日本惣
耐
赴を置き東南諸國の罪悪 碑の事を治せしめ給ふ。之より、出雲の大赴を陰大赴と
皇
る。第三の皇子封馬 王落ちて我順に漂着して碑皇に股園の暦書を奉りぬ。之
巻
國初世太記頭等に勅して之を賑はさしむ。更に切枝間山に伊装 諾中二柱を祀り、
皇
るゃ伏兵戦に起る。皇太子終に痛手を負ひ給ひき。シ)に着御ましませる
之
り急を東北巡幸中の父紳皇初め 各地に着御ましませる皇族諸官紳に報しにき。碑
皇大に驚き、即ち海上より伊瀬崎 の多気の宮に着御ましまし給ふ。されと城の大
軍に遮られ西園に巡幸ましますこと能はす。各地より皇族諸官紳起き援ふ。以
て碑皇を守護し奉る。乃ち、四皇子日高佐野王命を立てて皇太子となさせ給ふ。
碑皇は伊瀬日 ょり 皇太子は久眞野 日より接み撃たせ給ふ。然るに、人 共野日職
途 に利 あらす。伊 瀬 日 征討の途攻 偶、碑皇陣中に於 で暴か に碑避りまし ぬ。士気
索然として振は す。則ち皇太子、微 を四方 に飛はし以て義に 赴かしむ。是に於て、
全國 斎しく兵を催し、以 て義に 赴きぬ。
即ち 尾羽 張大主尾羽 張 明照雄 命を東海 惣 國の 元帥となし東海 日 より、譲 訪 大主
諏訪建勇命を東山 惣國の 元帥 となし、大湖 日 より 出雲大 主出雲大碑主命を北越 惣
園 の元帥 となし、丹 馬 針間の雨 日 より進軍 せしむ。賊の 雄師 潮く潰を告 け、東海 口
耐
+ * 動 使は 文 三品 の大 御 資を 維持し て高天原 に 上り せ 始 。 天皇 は ク を 以
卷
て永く 地位 式 の復興と 定め させ ぬか *
深藍天皇 より 安事 天皇家海天 皇家 路 天皇家安大量を 備 で素養 大皇 に 至るもて
嘉 永 º機具 に則 以前位 式を 行は せ 結 < 0° 者 需 天皇 也 十 四 甲中 年 九 月落 國 金峰
老者 身 女 五 百 餘人 を 従 《高天原 に 着 し 阿 加 各 中空 に 止り 同 祖山 太 尉 の 宮寺 司
ー ー
長尾初張 田彦命初め 高天原三十六 神戸の後胤に就き共各祀先か碑代より博 へ シ
し置きませる質記録 系譜等を 録取 し て、世に博 ふ。是を碑 代 十二 史談 即ち徐 顧博
といふ。
孝元天皇開化天皇を歴 て、崇碑天皇 に至り、五 成子年三月 高天原中室麻 呂 山 より、
天 照大御碑を 高天原 小室阿 祀 山 太碑 宮 より、三品 の 大御質を大和 國笠縫 の 里 に 遷
し 奉り、天 照皇太碑 宮 と 祀ら せ 給 ふ。六 月、三品 の 大御質 に模倣し て、更に新 器を 製
作 せしめ給 ふ。碑 代博来 の大御質は皇太碑宮の御 碑 霊と鎮め まし 奉り、新器は 代
耐
山 太 師匠 と 称し 三品 の 大 御筆を 納め 集め 本 少 部位 式 の 優賞を 定め させ ぬか さ。
*•
島 の 日向 の 高 千種 建 に 還 させ 結 { 0 0 %、同 作 經脈 の 後 與 を 長安 て、五 十 代 の 各
卷 *
天 之 高地 大神 。
羯
御子、天 之 高木 此 古 神
卷
石*てシし残山の焼火を持ち来まして養火にて之を条りて食み給ふ。又 限
皇
。初 者しくは木の葉なとを細き藤にて結ひっけ 身に纏かせ給ふ。又界山
之
*『の の物の形状を書き記して文字を定め給ふ。文字は木の養き遺りし炭
。の油に浸し回める石に水を入れて磨りこなし小竹の先を噂 み 之をつけ
て木の葉若しくは割れる大竹の中身にそ書き記し給ひき ㎞)
*シ“十 八千 まします。天之 七代凡モニ十g』にして%に天
第二 章 前 紀 碑 祇
一九
-- * - - -
碑 皇 紀 二○
之御中世となれり。(㎞)
第一一節 之御中世 火 高見碑十五代
㎞)は天之世第七代天之御柱比古碑の御子にまします
㎞)に要ひて生みませる御子高皇産穂男碑 次に高中守
となり高下守主碑は右守となりまして共に天っ日園を守り仕奉りにき。ェ
軍 碑
己C
㎞
大御碑は海演の真砂に自きものの附着しけるを日に管め共味を知り基土を水
にて誕 り回める土器を造り海水を入れ火を養きて眞砂を煎じ共湯固まりて望と
なれることを発見し給ひき。(㎞) *
又、天っ日嗣の大御碑の御紋章は日輪に十六筋の光明を附せるものと定 め
記
后の御紋章は月輪に五三模様の雲の形を附せるものと定めましき。(㎞代
碑
記。 e)
高皇産積 男神(㎞)は天 之御武 主神の第一の御女神皇産徳美神(㎞ 見 ㎞
穂 比
㎞)に要ひて生みませる御子 字津峰比古碑。
大御碑は、父大御碑 の言依し 賜 へりし 命の随に 高中守主碑を 左守大碑 と高下守
主碑を右 守大碑と なす。高中守主碑は、一 に大玉 守主碑 と いひ高下 守主碑 は、一 に
小玉 守主碑 といふ。
宇津峰比古神㎞)は宇津穂美碑 ㎞) に要ひて生みませる御子 学摩
志宇 加弾 比古碑。
耐
玉太男碑を左守大碑と小玉足碑を右守大碑となす。玉太男碑は、一に天之高佐
皇
比古碑と いひ高中守主碑の御子にましまして。小玉足碑は、一に天之高守比古碑
●
といひ高下守主碑の御子にましましき。
之
宇摩志宇加瀬比古碑(㎞)は津木峰美女碑(㎞) に要ひて生みま
巻
せる 御子、天之常立 比古碑。
大守雄碑を左守大碑と小奈雄碑を右 守大碑となす。大守雄碑は、一に天之高長
比古碑と いひ 玉太男碑の御子にまし まして小奈雄碑は、一に天 之高雄太 比古碑と
第二章 前 紀 碑 祇 - 二
碑 皇 紀 二二
いひ小玉 足碑 の 御子 に まし ましき。
天之常立比古神 ㎞)は講を碑農比古碑といふ。天之常立比女碑(㎞
㎞)講弾兵加身比女碑に要ひて生みませる御子 天之御柱立碑。
大木守碑を左守大碑 と小草角碑を右守大碑 となす。大木守碑は、一に天之高元
主碑と いひ、大守雄碑の御子 にましまして小草角碑は、一 に天之豊太比古碑といひ
小奈雄碑の御子にましましき (㎞)
比大御碑の御時 初めて説 の法を定め給ふ。又、眞土を水にて誕りて回める土器
耐
又は鳥獣の肉なとを煮臨をっけて食むことを創めましき。又 魚鳥獣の油の土器
之
に煮浸みて固くなれるを見て大竹を割り編み て中骨となし、眞土を水と諸肉の油
巻
ひ 小 草 角碑 の 御子 に まし まし き。
*
皇
天之木作比古神は講を農元比古碑といふ。天之木合比女碑 講農元比女碑に要
之
大家守碑を左守大碑と小佐比古碑を右 守大碑となす。大家守碑は、一に天之高
久 主碑と いひ 大多木碑の御子 にましまして小佐比古碑は、一 に天之 真古武碑とい
ひ、小 根 比 古 碑 の 御子 に まし まし き。
天之草奈男碑は講を農田 比古碑といふ。天之草奈女碑 講農田比女碑に要ひて、
第二 章 前 紀 碑 祇 二三
二四
碑 皇 紀
生み ませる御子、天之 土奈男碑。
大戸守碑を左 守大碑と小戸主碑を右 守大碑となす。大戸守碑は、一に天之高原
主碑といひ大家 守碑の御子にましまして小戸主碑は、一に天之高知雄 碑と いひ 小
佐比古 碑 の御子 に ましまし き。
天之土奈男碑は譲を農畑比古碑といふ。天之土奈女碑識農畑比目碑に要ひて
生み ませる御子 天之 火 明男紳。
大山主碑を左守大碑と、小谷主碑を右 守大碑となす。大山 主碑は、一に天 之座玉
耐
主碑といひ大戸守碑の 御子にましまして小谷主碑は、一に天之天戸太碑といひ 小
皇
戸主碑 の 御子 に ましまし き。
之
生み ませる御子、天之水 男碑。
大澤比古碑を右 守大碑と小坂主碑を右 守大碑となす。大澤比古碑は、一に天之
御玉主碑といひ、大山主碑の御子にましまして小坂主碑は、一に天之中原守比古 神
と いひ、小谷 主碑 の 御子 に まし まし き。
天 之 水果 顯 は 書 を 書長度 比 古 神 と いよ。 天 之 水文 轉錄 是 原 比 目 論 に 委ね て生,
ませる 御子 天 之 金山 明神。
大里 主神 を 左 字 大神 と、小高 主神 を 右 侍 大神 と なす。 大里 主神 は、1 J 大 之 高根
主神 と いび 大澤 比 古 神 の 御子 に まし まして、小高 主神 は、1 J 天 之 高木 明神 と いび
小 板 主神 の 御子 に まし まし き。
天 之 金山 明神 は 論 を 長谷 比 古 神 と いよ。 天之 金山 女神 論 是 往 比 女神 に 愛か で、
生み ませる御子 天 之 火山 明神。
産
擔綱 と いび 大里 主神 の 御子 に まし まして、小手 主神 は、1 J 天 之 高 公 比 古 神 と いひ
ż
小高 主神 の 御子 に まし まし き。
卷
天 之 火山 明神 は 論 を 長久 に 比 古 神 と いぶ。 天 之 火山 女神 論 書長久在1 比 目 神 に 愛
か て 生み ませる 御子、天 之 出 原 界 體。
大 中原神 を 左 侍 大神 と、小 体 主神 を 右 侍 大神 と なす。 大 中原 神 は、1 に 天 之 其 王
男神 と いび 大 長男 神 の 御子 に まし まし に 小 被 王 神 は、1 に 天 之 高 岳飛 腳 '%
第 1 ، 1] 王
碑 皇 紀 二六
手主碑 の御子 にまし ましき。
天之田原男碑は諱を農具比古碑 といふ。天之田原女碑 諱農具比女碑 に要 ひて、
生み ませる御子、高皇 産 霊碑。
太田 男碑を左 守大碑 と、小池雄碑を右 守大碑と なす。太田 男碑は、一 に天之高太
碑 と いひ、大中原碑 の 御子 にまし まして、小池 雄碑は、一 に 天之高山峰碑 と いひ、小
依 王碑 の御子 に まし まし き。
高皇 産 霊碑は 天之碑農氏碑 諱農作比古碑 といふ。碑皇産霊碑 に要 ひましき、比
耐
いひ 小池雄碑の御子にましましき。(㎞
大御碑は常に諸、の萬 の草木 の 質根 皮を常甘 め、臨を 含み て思考 まし まして、諸”の萬
の病及庇なとの薬種を定め子孫に博 へ示し給ひき。(㎞)
大御碑 に御子七柱 まし ます。第五の御子を農立比古 奪 といふ。即ち國常立 奪
j=-シ - 『 『 -
足なり。第七の御子を 農佐 比古奪といふ。即ち園狭 様 奪足なり。共に知勇卓絶
にましまし き。地碑第四代、日子 火 火出見奪の御宇 に至り、比大御碑を高皇 産 霊碑
と神后を碑皇産霊碑と諡し奉りぬ。(㎞)
天之御中世 巻属 凡そ三十五萬碑 まし まして火高見碑十五 代、凡そ六十七萬五千
日にして意に高天原の世となれり。(㎞
第三節 高天原 世 天碑 七代
第一 國 常 立 奪
國常立奪 諱を農立比古奪と いひ 天之御中世第十五代 高皇産霊碑、諱農作比古碑
の 第五 の 御子 に まし ます。
農作比 古碑は、第五 の 御子農 立 比 古 奪 第七 の 御子 農佐 比 古 奪 に 語り たまは く、日
の本なる海原に沢説世に二なき造業山のあるあり。次か命等之に天降りて撃薬
園を治せと事依し賜ひき。乃ち先っ農立比古奪は共依し賜へりし命の随に 一族
春属数多の神々を率て遂来山の煙を目標として天降りましき。然るに、一萬七千
第 二 章 前 紀 碑 祇 二七
碑 皇 紀 -
二八
五 百 日 を 経る も復 奏なかりしかは、父大御 碑、奪 の 安否 を 慮り、日夜官長 携 を そ悩し 給
ひ ぬる。則 ち、農佐 比古 奪 に 語りたまは く、吾 将 に親ら農立 比 古 奪 の後を追 ひ て 天
降る可しと。農佐比古奪 乃ち旅装を衛め、一族春属三千五百碑を率て御父母二柱
の大御碑 を 守護まし まして赤 落達薬 山 の 煙を目標として 天 降り 途 に大海原 に 天 降
つく しま ゆき しま
りましましき。共着かせませる島を附島といひ共行き過きませる島を行島とい
ひ共着かせまさむとしっるとき見えける島を順地見獣といひ南に見えける島を
酷gといひ共休みて通りませる島を偲避島といふ。黒鳥に導かれて一小島に着か
耐
せ給ひ又導かれて大陸島に渡らせ給ふ。故に共小島を佐渡 といふ、共より恋
皇
達します。即ち一原野あり、共登りましし上の原野なるに由り之を野発といふ。
巻
に於て大御碑は幾多の獣と黒鳥とに食を興 へ 乃ち又発します。 赤導 かれ て 或は
皇
シに送られ或は蜂書に迎へられて進みまししか 共達来山を見つけたりし後の
之
なるにょり基地方を記㎞といふ、又進みて大なる平野に出っ・ 則ち大川三
巻 シの碑々 之に打乗りて三流の大川をそ渡りましぬる。因て共地を三艦野と
*ふ。是ょり進みて潮く落 来山の麓にそ近きける。
* 諸 の神々相慶し相賀し遂に暫く愛に止らせ給ふ。然るに損食赤
*に書きなむとしたりけれは現 ち者 の 碑々 部言を定めて 之を案め給ふ 即ち 式
は木 の 果 革の 質を採り 成は魚類を、或は鳥獣を捕獲して正りましますこと三千四
『、基地をシ野といふ、共より又違みてき業山の中央に登り来ませはきに
大原野 にそ出 て ましける。
大原野には水あり火の燃ゆる所あり湯の湧く所あり。草木 大に繁茂して共質
多し。乃ち、先っ大御神は大原野の小室の 小高き丘 に、天の御合を造りて止り まし
まし給ふ。是を穴宮の大御宮といふ。爾来 常に著 来山を遥拝ましまして共状貌
世に類封く二なき山なるに由りてシの不二山と名っけ又共高き地に火の燃え
Hっ日に向へるに由り、一に『㎞ 地峡の能と名っけ 共章の冬木多き所を青木ヶ
と名っけ給ふ、大宮所在の丘を園田都山と共大原野を高天原と名っけ 出の起
山なるに由り 一に同電容又は阿祀原とそ稲しける。
大御碑は共の不二山高天原に着き止りましますに由り不二山一圓を選 大居と
名っけ東の大原野を灌人 (㎞)と共奥を撃 ェ)と名っく。又不二山百南の
地は 一 海に面し一望千里なるに由り逸人 見習 船と名っけ不二山西北即ち記和
第二 章 前 紀 碑 祇 三一
碑 皇 紀 三二
地乗太野の北方一帯は遠く産業山を案め多く山川を越えて来まししに由りせ
と 名 つけ 給 ふ。
大御碑は、碑后農作比女碑と落達薬山 に着きませるや 先 つ先 に 天降りましまし第
五 の御子 農 立比古 奪 の所在を素め させ 給 ふ。左れと、覚 に共行方を知る能は さり
しかは、日夜共に官長機を悩ましめ給 ひ 潮く精紳関 々 として気力 倶 に衰 へ まし まし
て途 に身例 ならす。高天原 に 止りますこと 一千五百日 にし て、二 柱 の 大御 紳、日並
に碑避りまし ぬ。共に阿田都山 の陵に葬る。天之碑農氏碑 天之碑農比女碑と諡
*
し後 高皇産霊碑碑皇産霊碑と諡し奉れり。(㎞
是 より先 農立比 古 奪は、父大御碑 の 依し 賜 へりし 命の 随に落 薬山 の煙を目標 と
之
碑を慰論ましまして語りたまはく農民碑は大御園の大御質碑なりとて毎に朝タ
巻
稲し奉る (㎞
皇
第二 國 狭 樋 奪
之
)
孫小立比古碑講天之月晴比古命の御子にましまして高皇産霊碑の御女御舟美命
史開
に要ひましき。(㎞)
こ
奪は黒石を火にて格き溶して繊金を製し、更に鍛ひて剣 又は諸。の物を切る器具
を製作ましますことを創め給ふ。又 諸。の春属 に勅して諸。の州々の山嶺 深谷又は
洞 原 なと より、石 剣 を 拾 ひ集めしめ以 て武器 に用ひましき。
耐
ひて共羽根を手頃に切りし細木小竹に附して前の竹に附けて射ることを創め給
巻
ふ。之 を弓 及び 矢と名 つけ ぬ。
大形の器は大竹にて、小形の器は小竹にて各型を編み 兵土を粉となし面して諸"
の油染みたるものの硬きを見 給 ひて之 に諸”の油を加 へ水 に て挺 り共の編みし型
に厚く塗り附け*にて焼き撃め以て大中小の諸 の器を製作ましますことを創め
まし き。
勅し て阿 田 都山 の 西南 なる金山 の 澤 々 又は河原 にて砂金銀 を 拾 ひ集め しめ 給
ふ。面して國事に功を建て碑國を守りませる碑々 に賞として之を興 へ 又碑國の
通用金と定め給ふ。故に勅命なく温に之を隠し拾ひ 又濫に使用する悪碑には死
罪又は手足の指を切り 若くは耳を切り 専 を殺ぎ 片目を扶るなどの 刑罪に虜すべ
きこと、し又 勅命に背く悪碑若くは諸、の碑々の所持物を盗み 又は承諾なくし て
使用する悪碑にも同刑に虜すべきことに定め給ひき。
大小の木を伐りて四方又は堅横の柱若くは天上なとを藤にて結びつけ外園は、
木 の皮 又は大竹 小竹 にて園 み 屋根は、木 の皮 鳥の羽根 又は菅 に て 葺きて、住居 まし
ますことを創めましき。可してシは盤にて書きっるを最も良とす。故に住居
する所を撃又は原といふ。
奪 初め御 一族 の 正りまし ます家 の 入口 には、小竹を細き藤 に て編み て、之を釣る
す \
し 垂る。出入毎 に須 々 と 鳴りぬ。故に、細き小竹 類を須々術といひ組みて垂れし
ものをシといひ奪の止りまします%に垂れ置くものを御須といふ
第二章 前 紀 碑 祇 三七
碑 皇 紀 三八
天之 世 天之御中世 より博りませる臨 並 に酒の製法、又は 天之御中世より博りま
せる農作の方法即ち稲は水田に栗碑変豆類は岡畑に作り諸 の品々を腐敗せしめ
て、肥料 と 貸すべき こと を 世に 博 へ 示し まし き。
・奪は、一族 春属等 に語りたまは く、吾 が一族 子孫 を 始め 諸”の春属 よ、比 まで 務 明 ま
しま せる諸”の食事類 又は諸”の器具武器類を起因 として更に古今希なる諸、の事物
を発明ましまさむことを故等の子孫代々に博へ示す可しと
みなみわだ しま あ わ ち しま にしわだ しま ゆき しき
奪は紳后自清龍比女奪と共に全園十八州を初め 南海島 阿和路島西瀬 行距
耐
なきうつうさ しまえ し
シ渡島海外島の八島を巡幸ましまし日夜重ぬること三手八十八メ八日
皇
にし て高天原 の 小室 澤 の 穴宮 に還り 上り まし まし き。
之
しき。
抑も比黒島は加㎞と鳴けるに由り加 良住(㎞)と名っけ後 鳥と改む。又
赤孤の獣に魔医郡聖導かれて造業山高天原に来ませるに由り佐留と名っけ 後
と改む。又角を振り立て四足にて三流の大川を泳ぎ諸。の碑々を乗せ渡しし獣を
第二章 前 紀 碑 祇 三九
碑 皇紀 四○
シっサシと改む、 三種のシは神々の使なるに依り %すことを撃く
禁止し給ふ。共他鳥獣強魚の諸。の種類は皆な暗 音又は容貌に由り 追々共名を命
じ 給 ふ。
面して四角と競ある獣とを使役ましませるに監ある獣の方最も学 兵%
使役し得らる、に由り之を宇最と名っけ後馬と改めき
奪は紳后と年老ゆるに従ひ 常に宮守川の川上なる龍ヶ河原の大松の下又は共
奥の小池の漫にて常に自の大鳥と黒赤の大虫とを愛し 之と共に遊 ひ給ふことを
築みとましましき。(㎞)
耐
自の大島の雌雄は常にシと略き黒赤の大賞の雌雄は家明と叫びけるを以て
皇
老夫婦の二柱は大に脱 び給 ひて我等の子孫こそ築ゆる吉兆なるらめと宣ひき。
之
『ち 大島をシと名っけ天皇を撃明と名っけ給ふ。後都部を細に家明を奪に
巻
改め き。
*は比吉兆に由り共止りまします地を都と名っけ共止りまします所を家と名
っ け給ふ。爾来 都留家明を鏡愛ましますこと盆々甚しく常に約にて食を郷げ興
シ明の五に並び競ひて食しけるをモ築みとましましし、一=赤郷げ興
哈 2 充 和文明 , 亦 º , ،
に 達し つ ( 6 ، % ) {
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と名っけ南尾崎を太田山と稲す。共山麓より湖水流れ出て太田山の東を流れ㎞
皇
の常にて仙泉山西大澤より流れ出っる西泉川と合し大原の田用水となれるに由
之
O三手三十メ日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所の陵に葬る。園狭
耐
戸道奪次を面足奪 次を尾茂太留奪次を伊非諾奪といふ。(㎞)
之
第二二 豊 -
淳 奪
巻
附 尾茂太 留 奪 諱 農田 里 古 奪
豊樹 淳 奪は、諱を阿 和 路 比 古 奪 と いひ 國 常立 奪 の 御子 に まし ます。白瀧 比女 奪
を 立て \、碑 后 となす。天之古登太留 比古命第 一 の御子 天之 茂登 太 足 比古 命の 第
五女にまし ましき。奪は阿和路島なる父大御碑の奮宮に 止りましまして南州 を
第二章 前 紀 碑 祇 四三
科 和 四四
食 しめし 始 よ。 嘉賓 賽 爾 克 に 病 みて 高く 評選り まし む。 許 使 に 0 万平 ?
日(神職 。“)前 和 路 局 の 段 に流 る。 墨 斯 洛 佐 と 論 し本 る。 中 子* し ます。
阿 和 武功 命 と いぶ。 國 金 文 等 は 関 被 她 發 の 第 四 の 御子 繼 田北 市 等 を 迎 《神 月 日
此 女 侍 の 後 失 として、其 後 を 授 か南 州 を 知 食 しめ さ しめ 立つ 阿 和 武男 命 を 落 有
しめ 除 。 農田 北市 金 は 數 十 五 o 三平 11く 同日(編號 種 體)にし て 神經 9،
成 十 六 O 大手 + < =(朝鮮 戰勝 )にし て神通り まし g § 大師 と 同 所 の 段
ñ।
*
:
|
家 。 同 被 加茂 吉宗 李 登 し本 る。 中 子七 章中 女神 しま した 。 (戰亂 希 ॥、内 體
%
魏)
之
阿 和 武功 命 は 義父 兄 成太 祖神 に 養育 やられ て 生長 * し まし、張 士 系 等 の 元 女 公
卷
女命に要ひて人延仁里古合 気合王命を生みましき(㎞)
同第二の御子填安昆古命は御子天之長男命と共に天照大御詩 の碑 動を受け*
皇
之
器類の製作を諸碑 に教 へ ましき。
同第三の御子水通 里古命は御子水満里古命と共に赤碑効を受け# 君法をシ
巻
に教 へましき。(㎞)
同第四の御子事代主命は大戸道奪の六女大己貴命の妹日吉里女命に妻ひて天
之手長男命天香護山各 加茂澤里女命を生みましき。
四五
第二 章 前 紀 碑 底
碑 皇 紀 四六
同第五の御子武佐太里 古命は環々杵奪の御宇 附地見島の松浦の湊裏山に於て、
外見を防ぎきに戦死し給ふ。太島座里古命と置し官赴に祀らせ給ふ。(㎞
第四 泥土 煮 奪
泥土煮奪は講を日本比古奪といひ園狭樋奪の第一 の御子にまします。大原比
女奪を立てて碑后となす。天之常武比古命の第一 の御子天之茂登太手比古命の
二 女 に まします。
奪は東州を知食しめし給ふ。性 手工に巧みにして陶挺を善くし又 者 前 の法を
耐
案出して之を諸神に教へましき。毒十二O三手三メ日 )にして碑避り
皇
( )にして神避りましぬ。沙土%奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。
引r
巻
従
子を 火之畑土命といふ。命の御 一子火之帰鉢命は後天照大御碑の碑勅を受け、
ゼ合
紳 に火 禁法を教 へ 給ふ。命の第二子火之焼玉命は赤碑勅を受け 者 前 法を諸碑
1 二日
に数へ給ふ。一女葉津里女命は月峰命に要ひましき。(㎞)
第五 大戸 道 奪
大戸道奪は講を農質比古奪といひ園狭様 奪の第二の御子にまします。字津比
女奪を立て、碑后 となす。天之茂登太手比古命の三女にまします。奪は四方諸。
の州 々の農作の事を掌りまします。後 共子孫三十八碑を四方 に遣はし、農頭とな
させ給ふ。奪 毒十五O三メ日(㎞)にして碑避りましぬ。大戸道奪と諡し奉
る。高天原宇宙峰北据 野の陵に葬る。碑后書十五O四メ日(㎞)( ㎞
") にして碑避りましぬ。大戸比女奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。第
一 の御子を大己貴命といふ。後天照大御碑の碑勅を受け四方の租税を徴牧する
耐
ふ。父の後を襲ひて惣農作の頭となり農作の事を掌りましましき。(㎞
之
㎞)
川 記、碑 都 録。/
巻
第六 面 足 奪
面足奪は講を穂千田比古奪といひ園狭樋奪第三の御子にまします。千早比女
奪を立て、碑后となす。天之古登太留比古命第一 の御子天之茂登太足比古命の
四女にまします。奪は、北州を知食しめし給ふ。常に鍛錬に心を用み 給 ひ 製刀 の
第二章 前 紀 碑 祇 四七
-
紀
碑 皇
四八
を 出してシに教へましき。詩十六o三手一メ四日(㎞)(㎞ )
にして紳避りまし ぬ。面足奪と諡し奉る。北越の園の陵に葬る。 紳 后 は、毒 十六
C『手四日 ) にして碑避りましぬ。大斗野漫奪と置し奉る。夫神と同
所の陵に 葬る。第一 の御子を倉平顔昆古命といふ。後天照大御碑の碑勅に依り
*を組みて依を製し 殺物を貯蔵することを創め給ふ。第二の御子を金子甘美金
*代命といふ。赤碑勅に依り父碑と共に剣鈴を製作することを創め給ふ。
㎞)
耐
皇
第七 伊 非 諾 奪
之
は試 を田仁知比古奪といひ園狭樋奪第五の御子にまします。園常立
巻
茂登太手比古命の子孫の内 知碑を左頭碑と茂登太足比古命の子孫の内知碑を右
巻
頭紳と定め給ひき。常時の左頭碑は茂登太手比古命にして諱を大玉守王命とい
ひ 園狭様 奪の第 一 の御女大玉美命を要ひまし 右頭碑は茂登太足比古命にして講
を古 宮守 命と いひ 園狭植 奪の第三の御女古竹里 女命を要 ひましき。
親子兄弟の嫌合を禁じ親子兄弟伯父母子孫の典濃を樹て、天つ大御碑を初め 天
第二章 前 紀 碑 祇 四九
碑 皇 紀 四四
知食しめし給ふ。察質麻 弱意 に病みて番 く碑避りまし ぬ。毒 僅に一 ○九手 一 ダ
八
日( )阿和路島の陵に葬る。豊掛溶奪と諡し奉る。一皇子まします
阿 和武男命といふ。國常立奪は 國狭植 奪の第四の御子農田比古奪を迎 へ 碑后自
瀧比女奪 の後夫として、共後を襲 ひ南州を知食しめさしめ、且つ阿和武男命を養育
せしめ給ふ。農田比古奪は毒十五O三手二メ四日(㎞)にして碑避りまし
ぬ。高天原宇宙 峰西大澤自運満尻菅原の陵に葬る。足茂太留奪と諡し奉る。碑
耐
后 十六O六手十メ四日 )にして碑避りましぬ。後夫碑と同所の陵に
い j ・ \ *
以上、『 闘記、
葬る。阿夜加志古泥奪と諡し奉る。皇子七碑 皇女九碑ましましき。(㎞
pH、中
皇 日
黒
都 録。 )
阿 和武男命は義父尾茂太留奪に養育せられて生長ましまし 泥土煮奪 の九女松
島北女命に要ひて東州に止り家 低質 ㎞)を治しめし給ふ。年既に七o二手十
メ『( )に在しますも子なし%に語りたまはく吾子一碑だになし子なき者
こそ世に阿 和濃なるものはなからめとて湧 泣ましましき。故に共止りませる地
を同シといふ。後高天原に正り神風神宗を祀りませる阿祀山太神宮に一命
をお ましますこと十メセ日にして、一男子 生ましまし ぬ て 夫ジ
芸 に暴 に 達すました。共に宇宙 峰百大澤の自 達違兄の菅原に葬る。夫神を
兵心 と をニ 心合 比女命 と言 し給 ふ。天 照大御神は 共生み ませる御子を
ひて、 名を 日 吉里 古 命と 賜 ひ共 父 の義妹、即ち 尾茂太 留 奪の 七女青木 里 女 命
をし て養育 せしめ 給 ふ。大御神 終 に 立て \、天 つ 日 嗣 に定め させ 給 ひ 講を 豊 武昆
古 奪と改め 賜 ふ。天之 忍 穂 耳 奪足 なり。
尾茂太 留 奪 第 一 の 御子 少名昆 古 邦 命は、大戸道 奪 の 三 女 大 己貴 命 の 妹 武瑠雄 昆
砕
女命に要ひて久延仁昆古命 知倉王命を生みましき(㎞)
皇
器 類 の 製作を諸 碑 に 教 へ まし き。
同第三の 御子 水 湧里 古 命は 御子 水 満里 古 命と共に赤碑 勅を受け 井 掘 法 を諸碑
巻
に 教 へ まし き。 (㎞)
同第四の 御子事代主命は、大戸道奪の 六 女大 己貴命 の 妹 日吉里 女命 に要 ひて、天
之手長男命天香護山各 加茂浮里女命を生みましき
第二章 前 紀 碑 祇 四五
碑 皇 紀
四六
同第五の御子武佐太里古命は現々杵奪の御宇 府地見島の松浦の湊裏山に於て
外見を防ぎきに戦死し給ふ。太島座里古命とし官赴に祀らせ給ふ。(㎞)
第四 泥土 煮 奪
泥土者 奪は講を日本比古奪といひ園狭樋奪の第一 の御子にまします。大原比
女奪を立てて碑后となす。天之常武比古命の第一 の御子天之茂登太手比古命の
二 女にまします。
奪は東州を知食しめし給ふ。性手工に巧みにして陶 延を
耐
*出して之を諸神に教へましき。毒十二O三手三メ日( )にして碑避り
皇
**。 土シとし奉る。高天原小室山の陵に葬る。神后部十五o一手日
之
(㎞)にして碑避りましぬ。沙土密奪と諡し奉る。夫碑と
巻
御子を火之畑土命といふ。命の御 一子火之帰鮮命は後天照大御碑の碑勅を受け、
諸紳に火禁法を教 へ給ふ。命の第二子火之焼玉命は赤碑勅を受け 者 前 法を諸碑
に教へ給ふ。一女輩津里女命は月峰命に要ひましき。(㎞)
第五 大戸 道 奪
大戸道奪は講を農質比古奪といひ 園狭様 奪の第二の御子にまします。宇津比
女奪 を立て、碑后 となす。天之茂登太手比古 命の三女にまします。奪は、四方諸。
の 州 々の農作の事を掌りまします。後共子孫三十八碑を四方に遣はし、農頭とな
させ給ふ。奪 誇十五O三メ日(㎞)にして碑避りましぬ。大戸道奪と諡し奉
る。高天原宇宙峰北福野の陵に葬る。碑后書十五O四メ日(㎞)( ㎞
") にして碑避りましぬ。大戸比女奪と諡し奉る。夫碑と同所の陵に葬る。第
一 の御子を大己貴命といふ。後、天照大御碑の碑勅を受け四方の租税を徴牧する
耐
ふ。父の後を襲ひて惣農作の頭となり農作の事を掌りましましき。(㎞
之
巻
第六 面 足 奪
面足奪は諱を穂千田比古奪といひ園狭植 奪第三の御子にまします。千早比 女
奪を立て、碑后となす。天之古登太留比古命 第一 の御子天之茂登太足比古命の
四女にまします。奪は、北州を知食しめし給ふ。常に鍛錬に心を用み 給 ひ、製刀 の
第 二章 前 紀 碑 祇 四七
碑 皇 紀 四八
法を案出して諸神に教へましき。詩十六o三手一メ四日(㎞)( 郵
にして紳避りましぬ。面足奪と諡し奉る。北越の國の陵に葬る。碑后は 毒十六
C四手四日 ) にして碑避りまし ぬ。大斗野漫奪と諡し奉る。夫碑と同
所の陵に葬る。第一 の御子を倉平顔昆古命といふ。後天照大御碑の碑勅に依り
薬を組みて依を製し殺物を貯蔵することを創め給ふ。第二の御子を金子甘美金
希代命といふ。赤碑勅に依り父碑と共に剣鈴を製作することを創め給ふ。
以上、開 闘記、國 常 記、
(㎞)
耐
皇
第七 伊 非 諾 奪
之
伊シ奪は 謎を田仁知比古奪といひ園狭趙奪第五の御子にまします。園常立
巻
に 達す 上り ょ しょ ,し て'日向 高地 水柱 の 小室 の 町田 郡山 の た 』。
改造 し て'上り まし まし 結び、以 て 四方 を 知 食 しめ させ 駱 %。 在 に 比 の 宮 を、日向 の
* { { { の 大佐 官 と ビ 科 し 本 リ ける。
民法 を 定め させ 駱 º ㎝ ら、一 词 桜 に 各 項 を 定め \ 额 の 頭 を 視 節 と、一邊
の 頭 を 浮现 と、一級 の 頭 を 組頭 と 定め 込 º > > ·恩 被 提琴 一 柱 の 大御神 の
子孫 を 天 つ 神 と 定め'天 之 夜校 太 手 比 古 命 天 之 夜空 太 足 比 古 金 二 社 の 神 の 子孫を、
羯
因 っ 种 J 定め 結ぶ。 ︽大 攻讀 は 天 つ 神 の 子孫 之 に 任じ'海津 租 の 各 取 は、國 つ 神 の
些差
龙 科 大手 比 古 金 の 子孫 の 内、知 种 を 左 眼神 と 交往 太 足 比 古 金 の 子孫 の 内 和 神 を 右
卷 頭 神 と 定め かき。 當時 の 左 眼神 は、安 格 大手 比 古 金 にし て 論 を 大王 守 王命 とい
ひ、政 被 她 後 の 第 1 の 得 女大王 兼ね を 愛 か まし、右 眼神 は、夜校 太 足 比 古 命 にし て 論
を 古 名字 命 と いか'國 放 建行 の 第 三 の 御 女 古 有些 女 命 を 愛 か まし き。
親子 日夜 の 構 分 を 禁じ‘我 子 日光 祖父母 子孫 の 典禮 を 樹 て、天 つ 大御神 を 初め 天
第 二 章 的 四九
足方り夜る山 。
碑
御御
大
惣
譲の
に
峰
月
な月を
是
)
㎞
(
命
四見
。 皇いふ
す
と稲
子
軽
命
率
月
四
譲
に
奪
女
留
日
を
洲
御
大
惣
の
照
天 子
方
る としてせ方治魔
矢
細竹
四退悪張り
、
を
こと
さする
示
に
碑
諸
の
。
き
まし け髪
へ
数
そ
と
)
㎞
(
O
千
吉
十
一
毛
竹
又
。
に
弦
て
り
燃
を る くきめる 、
掛
類
て
貫き
定しく
に
ひこと
給
。 しけ
東
天
又
。
く
掛
掛
に
頸
て
貫き
同
を
質
の
棚
は
碑
女
つ
國 く 貫き
中じくけ頭 て
掛栗
に
同頸
を
質
の
檜
は
碑
頭
下
、
て 立き
別
匿
下
常
、
は
碑
頭
上
。
ふ
給
させ
貫
多
数
に
夢
藤
を
質
の
樹
頸 て として
盤 衣初様め服 。
々
碑
國
つ
集天
を
質
木
の
”
諸
模に
、
中
頭
上 つきしめるけ
ひ
纏
す葉
製
定て
を
示こと
へ
博
に
國
・
ひ碑
給
御
大
つ
天
、
又 定き
を
式
濃
の
國
碑
つ
ひ
給
。 め
F
刑
仏 一
に
柱
二
皇
。
き
まし
い
里
市
と
奪
女
留
日
大
を
諱
、 子
女
ひ ふさくしりちめる
物
の
諸
定又
即こと
。
ふ
小給
を
木
取細き
数
て
な切り
と 柏
は
衣服
常
奮
」
木商
諸
他
葉
樹
集
取
を
莫
の
葛
、
共
ての葉
盤
め
り
○
五
紀
皇
碑
子 命 に 譲る。英 日子 奪 是 なり。
伊原 の 田 羽山 の 麓 に 嗣 を建て 、、國 常立 奪御 夫婦 の 碑 霊をそ 祀
といふ。尋 て 高天原 に還り上りましまして、小室の 日向
第
御宮に於て日並に(㎞)碑避りましぬ。共に共大御宮の西尾崎なる岩長の峰の
皇
陵 に 葬る。
二柱に伊非諸奪伊葬専務(㎞ )と諡し奉る。 後、共陵 前 に 赴 嗣
之
碑后自山里女奪は 初め父大御神に代り副元帥として阿祀北地方を巡狩して諸、
の悪碑を慰め鎮め、良農民碑を愛撫ましますこと 兄弟子女の如し。阿祀 北地方の
惣農碑等家賀の と 税 び祀ひき。故に 碑后 の 止りましましし地を家賀野とそ名 つ
けける。今や 共碑避りましし ことを博知するや惣農碑等撃りて奪の 止りましま
第二章 前 紀 碑 祇 五一
碑 皇 紀 五二
し、家賀野原の家賀山 の石川の漫に嗣を建て 、共碑霊を そ祀りける。
國常立奪園狭樋奪二柱の大御神の子孫一o二千一喜二十八碑( )春
属二O八千一喜八十六碑(㎞ )にして天っ碑凡そ十二O三千碑(㎞)
園っ碑凡そ二十O三千碑(㎞)合せて三十二O六千碑 ㎞)なり。高天原
世 天碑七代、兄そ十八O五千日(㎞)にして遂に豊阿始原瑞穂園の世となれり。
(㎞㎞)
系 圓 史、古 陵 記、寒川 記 篇。
四
第一 天 照大御碑
天照大御碑は講を初め大市里女奪といひ 後大日留女奪といふ。伊装 諾 伊装 中
二柱の奪の皇女にまします。二柱より天つ日嗣の大御位を受けさせ給 ひ四方の
惣 大御 洲 を 知 食しめし給 ふ。是 より先、二 柱 の 天 つ 日嗣を定めま さむ と せらる 、
や大市里女奪月峰命(㎞)、互に義を立て相譲りて天っ日嗣に立たせ給はす。
乃ち 月 峰命言したまはく 大市里 女奪は二 柱の初長子なり。故に奪を天っ 日 嗣 と
ー= -シ
シ『
〜(
し、以 て 四方 の 惣 大 御部 を 総 さ* 給 ふ へ し。と ー
ift
:
立て \、天 つ 日 嗣と なし 諱を大 日留女 奪 と 改め 賜 ふ。是 に至り て奪 大御 位 に即 か
せ給 ひ園を豊阿始原(㎞)瑞穂園と名つけ給ひき。
大 守男 命を 左 頭碑 と、小 守主命 を右 頭碑 と なす。大寺男 命は、天之 茂登 太 手 比古
命 の第 一 の 御子 に まし まして、尾茂太留 奪 の 二 女大仲美 命に 要 ひ ます。小 守主命
は、天之茂登太足比 古命 の第 一 の御子 にましまして尾茂太留 奪の三女小菊 昆 女命
耐
に要ひましき。
皇
月夜見命は、二 柱 の奪 の第 一 の皇子 に まし まして諱 を月峰 命といふ。西 古 農原
之
に宮守の宮と稲し奉る。爾後、大御位 に即 かせまさむには比太碑宮の紳殿 に 於 て
皇
大御位に即かせますへきことに定めさせ給ふ。 (㎞)
之
大御碑は大御心を諸、の萬の碑々 に注 かせましまし、事細大となく親ら身を以て
巻
出っる方に常れるに由り 出雲國といふ。(㎞)
皇
の玉を数多作り同しく貫きて月の形に作れるものなり。( *)
巻
租 佐男 命は、出雲の 國 に騎 り まし ます や 手 名都 知命 の 一女、稲田 里 女 命 に 要 ひま
し ぬ。手 名 都 知命は、初め 講 を 手 力 昆 古 命 と いひ、又 手 力男 命 といふ。天之常 式 比
古 命第 一 の 御子 天之茂登太手比 古 命 の 御子 に ましまして足名都 知命は 天之 古 登
太留比古命第 一 の御子天之茂登太足比古命の六女にましましき。一日 祀佐男 命
第二章 前 紀 碑 祇 五九
碑 紀
六○
は 計策を設け悪大蛇を殺し 之を酒希として大に宴を張り諸碑を響し給ふ。各碑
々 は 成は歌ひ或は舞ひ等を演して大に祀しましき。命は爾後碑勅に従ひ常に四
。 々を者ましましてシょりsシに至るまで もシを加
ふる。のは皆な足を退治せむことを職とし給ふ。則ち四海浪静かに治まり、天下
*の御代となりにき、一日手名都知命は三品の大御質を打鍛ひたる賞作りの
**シりの小丸長金とを奉持して高天原に慮し。大御神は芝を大
小 植 とそ名つけ給 ひし。
大御神は大己貴命に勅して四方の州々を巡行して諸 の農民碑に諸 の職業を教
へ『 まさしめむとして大植と大熊皮の大俗とを授け賜ふ。即ち大趙を手に持ち
て根気ょく打ちて諸 の職業を勉動すへけむ意を取りて打手の根植と名っけ給ひ
大熊の皮の大俗 は毒命を永く保ち根気よく職業を勉動すへけむ意を取りてお命
シと名っけ給ひき。命乃ち 勅を奉し比の二 品を携へ諸、の州々を巡歴して諸 の
農民刺 に打手の根植 と 毒命根俗 との因縁を委しく説き諸 の職業を教訓ましまし
ふ。後各地の巡歴を終へ 高天原に騎りて復奏し給ひき。則ち大御碑は共勢を
慰 ひ、師に詳を大国 主命と期ふ。比命は諸州農民神の諸職業の師たる大祀碑なる
に 因り、諸州 に 之 を 祀り ませる所多 かりけり。
又大御碑は弟碑江日住命に勅して四方の大海の浦々島々の港々の諸 の漁民碑
に、大海 ケ 原の 上にて貸す へき諸、の職業を教訓 せしめ給 ふ。命 則ち工夫に工夫を
重ね細竹の頭に鯨の 豚を抜き取りて 結びつけ 針金を曲けて餌を附し 魚を釣る こ
-*
小
大戸道命の子孫三十八碑に勅して四方の州々島々の大原小原大洞小洞大澤
皇
方
澤の農頭を命し田畑を開懇せしめらる。面して共次子農佐里古命を四方の州々
之
給
の 惣農作 の 頭 と定め、且つ 高天原 より 四方 の 諸、の州 々 に、道路 を開かしめ 給 ふ。故
巻
碑合せて四十八碑を四方の州々島々の大山の守護頭を命し給ふ
*日子命を以て四海の海守急頭と定め共子孫を四海の浦々演々。シ。
師頭に命し給ふ。足より楽日子命を一に大海津見命とし*。
又 川里吉命に勅して宣りたまはく方今天下四方の州々の諸。
多く穴居しにけり。吾共た足を愛ふ。故に諸 の州々の碑々をしてシ
造せしめ以て之に居住せしむべし。と命勅を奉し乃ち弟碑七柱を督して四 ヵの
州々の大山小山の木を伐り家作の事を司らしむ。足より四方の諸 の神々* く
耐
家屋にそ居住し得るに至りぬる。即ち大御碑は大に喜はせ給ひ命に講を正裁山 住
皇
命と鳴ひ共弟碑七柱 即ち月峰命の次子を弟山住命と三子を奥山住命と四子を倉
之
山住命と五子を繁山住命と 六子を葉山住命と七子を原山住命と八子を外山 住命
巻
と 各講を授け 賜 ひき。
面足奪の第一 の御子倉平顔 昆古命に勅して殺物牧納の法を各地の農民碑に数
へしめ給ふ。足より薬にて依を作ることを始め四方の諸 の州々に教へ博へしゃ
給 ひき。
六三
第二章 前 紀 碑 祇
碑 皇 紀 六四
泥土煮奪の 第 一 の御子 火之爆土 命の 一子火之 爆鮮 命に勅し て火禁 の法を 四方
諸”の州々 に教 へ 博 へ しめ給 ふ。共次 子火之焼 玉 命に勅し て食物の 煮 煎の 法を諸、
の州 々 に 教 へ 博 へ しめ給 ひき。
尾茂太留奪 の次子植 安里古命の男天之長男 命に勅して土を以て鍋釜及日食器
類を作らしめ、且つ共 法を四方諸”の州々 に博 へ しめ給 ふ。又、尾茂太留奪 の三子水
湧 里 古 命の 男 水 満里 古 命 に勅 し て井を 掘る法を四方 の 諸”の州 々 に教 へ 博 へ しめ
-
給 ひき。
耐
し、に共功順る見るべきものそ多かりし。大御碑 いと威賞ましまして之を四方
諸、の州 々 に 教 へ 博 へ しめ 給 ひき。
巻
場*香> ○ 海* 賀*市地
リミ蒸宿 リミ 晃リ
幾作 ー ヌ大 現作 住す豊
リ、山*富原 ご 留*築整
田* 間*佐一 ご リお 紫築
路* 登と地作 。詳ー海
獲*命た リリ
つート
員 4】
こ隻 の 出で **
針
羊み
大
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蹴 懲 “ ゞジ
-
陽海
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り
* ゴで一 陰海
巻リ 露 繋 型でリ
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蓋 美ー 蘭 認 三* て
池作 陰" リ野 野e 津°
ご リ 見ー
淡* * 少 "露
木* 小 名
居* 地や十
あ ペイ 小 附マ 八
名 伊" 津や大* 名 地ち 國
作下 田* 瀬* 佐* 淡* 佐s 衛ー を
(戰線)の 二盤とす。 松本
四
豊 期 停靠 の 子孫 を 四方諸“の 大國 造 者 の 家 と 定め 池 士 兼容 の 子孫 を 四方 諸“の 小
國 造 者 の 家 と 定め、面 是 拿 の 子孫 を 四方 諸“の大村 司 の 家 と 定め、大 后 通算 の 子孫 を
小 村長 の 家 と 定め 治 かさ。 美 大 后 通算 の 第 1 の 御子 大巴 普 金華 大國主命 の 子孫
を 語、の州 國 の 和 我 を 吸納 する 家 と 定め'第 二 子 作出 用 古 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 農
神 の 首 司 の 家 と 定め'月経 命 の 第 1 の 御子 正成 山 在 命 の 子孫 を 話、の州 國 の 山々 を
司る家 と 定め 東 日子 命 の 子孫を 四海 の大海 を 司る家と定め 落 がき“ (朝鮮 戰線
體)
御神は 即位 四o 四 千 日(韓國 。 )の とき た 方 大 禮物 多 人 百萬 の 天 つ 神岡 3 號
を 高天原 の 大 御堂 に 食し'國 法國 政 を 議 り まし ます。 如 ら、法政 に 背く 調 ん、文 は 四
ー
方諸"の州園を初め浦々島々の諸。の盗賊共他諸”の荒振神を 皆な出雲園に碑追ひに
追ひて同國出雲谷の里 大洞に入らしむることに定め給ふ。之を天獄といふ。面
して天獄は頑 佐男命をして之を監督せしめ且つ教碑の首頭となし香属の碑 々と
共に日々罪碑に説教説論をなさしむること、し若し罪碑の内善心に復りし碑々
は、一千日 乃至二千日見習はして全く改心せしものは免除し三千日説教説論をな
すも 書心に復らざる碑々は皆な死罪に虜することに定め給ふ。又千日毎に共末
の三十日間に四方諸"の州園より 天っ碑 園つ碑出雲國に倉して諸 の罪碑に赤説教
耐
シの上共罪を論じ共虜罰を評決ましまさしむることに定め給ひき。是に於て
皇
*倉しまします貸め出雲谷の里に 木及竹を用みて廣大なる大宮を造営ましまさ
之
ー。共木及竹にて造りませるに由り 杵筑の大宮又は大赴とそ名つけ給ひし。
巻
(㎞)
大御神は勃命を以て出雲國杵筑宮より頑佐男命の女出雲昆女命を田場園基伊
の桑田の宮に招きて豊受大神の宮を守護ましまさしむ。命は天資敦厚神に仕
へ“すこと誠敬至らさるなく共状碑の如し。諸 の農民碑は現碑と崇め居給ひし
-* #a* ては、
、
第二章 前 ーー -
六七
-
碑 紀 -
六八
が 毒十六O五千十四日にして碑避りましぬ。田場山に葬る。三穂都里女命と
し奉る。後世嗣を建て、共碑霊を祀り出雲大碑とそ稲しける。(㎞)
大御碑 認 して天之御中主大御碑より代々の碑祀碑宗を経て博 へ ませる日輪に
十六筋の光明ある代々 の天つ日嗣の大御碑の御紋章 並 に同じく博 へ ませる月輸
に五三の雲の形を附しある代々の碑后の御紋章を子孫代々 の天っ 日嗣に博 へ ま
さむことを訓 へ示し給ひき。(㎞。)
大御碑は 高天原阿田都山 の大柏木の下に、宗廟天 赴大宮阿祀山大碑宮の碑殿を
改造し 之を元宮阿祀山大碑宮と改稲ましましき。尋て三品 の大御質を各箱 に納
め、之を太碑宮の御碑殿 に納め鎮め奉らる。認して、永く末代に至るまて代々 天 っ
日嗣の大御位に即きまさむと する場合には 太碑宮の平殿に於 て三品の大御賞を
拝し、之を捧けますを以て典濃と定め させ給 ひ 子孫代々堅く之を守る へきことを
示し 置かせ給ふ。又同時に落達 来山 高地 火の峰を質来山高千火の峰 と改め給ひき。
(㎞)
大御碑は、大御位を御子豊武昆 古 命 に 譲ら せ給 ふ。之 を天之 忍穂耳奪 と なす。
大御碑 書十二O三千日(㎞ 拒。)にして碑避りましぬ。高天原宇宙峰南据野の出
崎島の陵に葬る。天都大日霊碑と設す。後天照大御碑と設し奉る。鶴和㎞)
月峰命書 十二O六千日(㎞)にして高天原加茂山の山守の宮に於て碑避り
ましぬ。加茂山に葬る。月夜見命(㎞)と諡し給ふ。妃月標田昆女命書十二O
八千日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。草津昆女命とし給ふ。
記、寒川
(㎞
記、大 山祇 記。)
楽日子命 高天原大室の刻の湖畔海守の宮に於て毒十二O十四日( )にし
耐
己
て碑避りまし ぬ。刻 の湖の出 崎山 に葬る。築日海男命と 諡 し 給 ふ。妃白糸里 女
皇
命、毒十二O一千日(㎞)にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。静浪里
俳
女命と諡し給ふ。(㎞)
巻
第二 天之忍穂耳奪
天之忍穂耳奪は幼名を日吉 昆古命と いひ 講を豊武昆古奪といふ。國常立奪 の
皇子豊樹淳 奪 の嫡孫にましまして最 心武命講阿 和武男 命の御子にまし ます。阿
和武男 命 子なきを憂 ひ高天原の碑祀碑宗に所りて、一子を生み ませるや暴かに碑
第二章 前 紀 碑 祇 六九
碑 皇 紀 六四
泥土煮奪の第 一 の御子火之爆土命の 一子火之 爆鉢命に勅して火 楚の法を 四方
諸、の州々 に教 へ博 へ しめ給 ふ。共次 子 火之焼玉 命に勅し て食物の煮煎の法を諸、
の州 々 に 教 へ 博 へ しめ 給 ひき。
尾茂太留奪の次子填安 昆古命の男天之長男命に勅し て土を以て鍋釜及 日食器
類を作らしめ、且つ共法 を四方諸、の州々に博 へ しめ 給ふ。又、尾茂太留奪 の三子水
湧里 古 命の男 水 満里 古 命 に勅し て井を 掘る法 を四方の 諸、の州 々 に 教 へ 博 へ しめ
-
給 ひき。
耐
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森> ○ 海* 賀*東地 定 め に
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懲。淡党ー 小 附マ 八
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神 和 六六
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魏) 深愛 神( )の 人道 と す。 郡 地小名僧が(總) 加賀郡 地 離( 韓 戰地後('
-
つくち かげ
尼、文、北 1 、作 o º 私 8 ㎝ : ? • * ?
脚*) の 四 道 (神) と す。 附地 小名 地區 衛 戰前 校师中盤 の 四 道 と す。 海巡 遊戲
え A あ £ ?
„%, 战, º, & 後、分 仍 社 o 科/ 作 合 和 式 啟 *
小名湖湖中 排(戰號
さら つう しま さ と
線)の 二道 と す 江 外 局 小 な しº 阿 和 路 服務 隊 )科
w ºし わたしまみをみわたしま
學術
体通 局作游 四十八 國 入 す。 根 に 比 國 た 1 J 大 八 洲 人と な
豊 期 停靠 の 子孫 を 四方諸、の 大國 造 者 の 家 と 定め 池 士 兼容 の 子孫 を 四方 諸“の 小
國 造 首 の 家 と 定め、面 是 等 の 子孫 を 四方 諸“の大村 司 の 家 と 定め、大 后 通算 の 子孫 を
小 村長 の 家 と 定め 始 かさ。 ︽大 后 通算 の 第 1 の 御子 大巴 普 金華 大國 主命 の 子孫
を 語、の州 國 の 祖 我 を 収納 する 家 と 定め'第 二 子 作出 用 古 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 農
神 の 首 司 の 家 と 定め'月経 命 の 第 1 の 御子 正成 山 在 命 の 子孫 を 語、の州 國 の 山々 を
司る家 と 定め 後 日子 命 の 子孫を 四海 の 大海を 司る家 と定め 落 がき。 (朝鮮 戰線
田
體)
大御神は 即位 四 o 四 千 日(韓國 。º)の とき た 方 大 禮物 多 人 百萬 の 天 つ 神岡 3 號
を 高天原 の 大 御堂 に 食し、國 法國 政 を 議 り まし ます。 如 ら、法政 に 背く 調 を、文 は 四
「『』
シの上共罪を論じ共虜罰を評決ましまさしむることに定め給ひき。是に於て
皇
*倉しまします貸め出雲谷の里に 木及竹を用みて廣大なる大宮を造営ましまさ
之
ー。共木及竹にて造りませるに由り 杵筑の大宮又は大赴とそ名つけ給ひし。
巻
祀 佐 記、
㎞)
大御神は勃命を以て出雲國杵筑宮より頑佐男命の女出雲里女命を田場園基伊
の桑田の宮に招きて豊受大神の宮を守護ましまさしむ。命は天資教厚神に仕
へ“すこと誠歌至らさるなく共状碑の如し。諸 の農民碑は現神と崇め居給ひし
第二 ーー - 六七
- -
碑 紀 六八
が 毒十六O五千十四日にして碑避りましぬ。田場山に葬る。三穂都昆女命と
し奉る。後世嗣を建て、共碑霊を祀り出雲大神とそ稲しける。(㎞)
大御碑認して天之御中主大御碑より代々の碑祀碑宗を経て博 へませる日輪 に
十六筋の光明ある代々の天っ日嗣の大御碑の御紋章並に同じく博 へ ませる引シ
に五三の雲の形を附しある代々の碑后の御紋章を子孫代々の天っ日嗣 に使 へ“
さむことを訓へ示し給ひき。(㎞。)
大御碑は高天原阿田都山の大柏木の下に 宗廟天赴大宮阿祀山大碑宮の神殿を
耐
改造し 之を元宮阿祀山大碑宮と改稲ましましき。尋て三品の大御質を各箱 に納
皇
め 之を太碑宮の御碑殿に納め鎮め奉らる。認して永く末代に至るまて代々天っ
之
日嗣の大御位に即きまさむとする場合には太神宮の平殿に於て三品の大御質を
名を
命、毒十二O一千日(㎞胆 )にして碑避りましぬ。夫碑と同所に葬る。静浪里
俳
女命と諡し給ふ。(㎞)
巻
第二 天之忍穂 耳奪
天之忍穂耳奪は幼名を日吉里 古命といひ 講を豊武昆古奪といふ。國常立奪の
皇子豊関淳奪の嫡孫にましまして兵心武命講阿和武男命の御子にまします。阿
和武男命 子なきを憂 ひ高天原の碑祀碑宗に所りて、一子を生みませるや暴かに碑
第二章 前 紀 碑 祇 六九
碑 皇 紀 七○
避りましs、天照大御神取って以て御子となし同和武リ命の義妹青木比女命を
して養育ましまさしめ 日吉昆古命と名っけ給ひき。大御碑十二O八喜日(㎞
*へへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
")のとき 立てて天っ日嗣となし諱を豊武里古命と改め賜ふ。是に至って阿祀山
第
女命を立て、碑后となす。祀佐男命の第 一女にまします。(㎞)
天太玉命を左守大碑と 天清住命(㎞)を右守大碑となす。天太玉命
編
母岬昆女命に要ひましき。(㎞)
之
轄闘 吾 軍大 に利 ありき。
皇
奪は先つ事代主命の長子天之手長男命婦碑手長比女命をして附島(㎞)及ひ
之
行島(㎞)の雨島を防き守らしめ給ひき。外宮 日夜大學して来り攻む。命防備
巻
を悪くして迎 へ 戦ふ。左れと、衆寡敵せず。行島の石田の原に於て覚に二柱共に
戦死ましましき。夫碑は石田南山の峰に葬る。毒十O二千三十日(㎞)。手長
雄 王命と 諡し 給ふ。婦碑は同北山 の峰 に葬る。命に三子 まします。長子を事武
男 命と 次 子を事勇男命と、三子 を事力男 命といふ。共に、父 に劣ら ぬ 聴 勇にましまし
第二 章 前 紀 碑 祇 七三
碑 紀
七四
て善く闘ひましぬ。乃ち又三柱に語して父碑に継き雨島の外
に
東北を廻り北方より上陸し賊の大軍と弓又は石・本棒 禁 火等に
第
と 一千二喜十日( )に及ひましき。
事勇男命は事力男命と 又軍兵を率み、軍船にて東より北に
編
て賊の大軍と戦ふこと一千一宣日( ) 事勇男命阿加見田原南山に於て造に戦
死ましましき。南山の率に葬る。 六O三日(㎞) 高御魂男命と諡す。弟碑事
力男命は五十四日後れて同所北大山に於て赤戦死ましましき。同山の峰に葬る。
書五C八千八日(㎞ ) 太祀詞雄命と諡す。面して行島の兄碑事武男命は共よ
り又 七十五日後れて伊岐原山 に於て戦死ましましき。同山の峰に葬る。毒六O
一千二吉 五日(㎞ 版 『)。兵主雄命と諡 す。
附地見島 ㎞)にては足茂太留奪の五子武佐太里古命は軍勢を率みて松浦の
漢に於て城の大軍と戦ふ。八百萬の碑々奮激先を争うて闘ひまします。左れど
衆寡敵せず。吾軍属。利あらず。命途に戦死ましましき。 同 裏山 の峰 に 葬る。毒
『-』 -
十 一 ○ 五千三十五日( )。太 島 里 古 命と言し 給 ふ。
是 に於 て 仁人 木 奪は 四方諸”の州園 に 認 し て軍兵を催さしめ給 ひき。義 に 赴き
ませる碑 々 赤多く我軍 大に振 ふ。乃ち奪は諸“大将 に 命じ部署を定め 先づ 賊 大農
第 して 数萬の軍船にて攻め来れる湊 々に進軍せしむ 即ち諸”の樹木を伐り積み重ね
て火を放ち各一斉に燃え木を以て敵船を目掛けて損けっけしめ以て敵船を焼き
# 挑はしめ給ふ、焼け残れる敵船類 狙して達げ去りぬ。上陸しける敵軍は弓攻め
石攻め棒攻めにて成 は射殺され 或は打 殺され 或は焼き 殺されて、一 の生還 するも
のなく悪く誌に伏しき。是に於 て積日の兵乱初めて言向和平しにき。三十六 日
* 後れ て南島 の 賊軍赤 打 殺 され焼き 殺 され て悪く言向 和平し ぬ。
之 是より先 碑后 の御父母二柱碑 大に共遠征を憂 ひ 後を追 ひて伊豆演に至ります
* や母加茂澤里女命身例ならず。途に神避りましぬ。お八o八千九三日(㎞)
伊須演に葬る。諱を寒川 昆女命といふ。後 別雷命と諡 し給ふ。比演は御 送り澤
と伊須海と、住留家海との三出張 崎 の演なるに由りて三島演と そ稲 しける。父碑
正裁山住命は進み て西 に向 ひ 尋ねて南島に至り、意 に碑后 に選 近ましまして、大 に
第二章 前 紀 碑 祇 七五
碑 皇 紀 七六
喜はせ給ひき。乃ち 晋婦碑の碑避りまし、次第を語り泣湯ましますこと良、久し
くシ 来 碑を追悼ましまし 惚として設る、能はず。途に疾に羅り幾もなくして
は三 へ伊久世と遺言して碑避りましぬ。故に比地を伊世といふ。 九o十
第
四日。共地に葬る。諱を寒川里古命といふ。後大山祇命と諡し給ふ。
一日 奪は 断地見島の荒振碑等を悪く言向和平しませるを以て更に南島に渡幸
“しまして 店とし給ひ。適用今ゃ 月とも見るべき玉gにましまし、
**之をシ居を根みて再び附地見島に遠幸ましましき、碑后 いとも恐し
ョっ しきか。と調り給ひて即時旅装を整へ高照里女命下照里女命を従へ 高天
皇
シり上りましましき。作田里古命見長みて天清住命(㎞)に告ぐ命赤展
之
みて共に後を追うて、赤高天原に還り上りましぬ。
巻
*ょり先神后高天原に還り上りましますや語りたまはく吾天の下に一碑と崇
*“せる奪に疑はれ何の面目ありて生き長らへむや吾腹中の御子生あらば能く
『せょ改は天の下に一碑なる奪の嵐なるぞ吾火中に投ずるも生を保ちて奪の疑
* へ、と乃ち小室なる宮守川と御座野川との合の眞砂の小島に無戸室を
造り共室内に入りまして三皇子を産み aき四方より土以て堅く塗塞きて頼む現
む 頼む。と三度請 ひ遺し給 ひ、大鹿 に鞭打ち て高 千 火 峰 中央 青木 ケ 原 に登り、火 の
噴き焼くる岩穴に 飛入りて碑 避りまし ぬ。大鹿は 悲鳴を撃げて 暗き狂 ひ 追尾し
させる得女**入りて 死しょ、天シの後を追うて
天原 に騙 附け見れば、則ち既に碑避 りましてそあり にける。然るに無戸室 に産 れ
見の泣 音 の すなれば御 見のみをも助けまさむとて報ち天清住命は共屋根を破り
て中に入り 御見を抱き奉り 高照昆女 命下照昆 女命に共養育をそ託し ましける。
作田 昆古命は、常に猿 に馴れまし 、かば 猿乳を擁り取りて御見を養育し奉りき。
皇
天清住命は共屋根を破り御見を抱き出しませるに由り。是より天見屋根命とい
之
ふ。
巻
初め 神后の飛入りて碑避りますや岩穴の噴火は 一時消火となりぬれども 不二
山高千火峰 *かに黒煙劇しく噴出して、遂に共峰を見る能はざるに 至りぬ。同時
に溶岩熱泥南澤に押出し合高山 と神座峠(㎞)との間は平地と化し流れて伊須
濱なる碑后 の御母碑加茂澤比女命の山陵に押被りて止まる。面して共熱泥満流
第二章 前記 碑 祇 七七
碑 皇 紀 七八
尾の下より怒ち泉水沿々湧出しけり、世に母子の基心の身に悪三留の意を取り
て三設撃野の陵墓とそ稲しける。共満流尾と初古 根山との間を大泉澤川といひ
南伊 須崎 の山 合 の 入海 に入り、同満 流尾と 合高山 と の間を、小泉 澤川といふ。南海
に そ 入り にける。
天 太 玉 命 天 見 屋根 命 作田 里 古 命は 種々工夫を以て、碑 后 の 御遺骨 を岩穴 より 撮
り集め、之を捧持し て、宮守 の 宮 に そ納め鎮め奉る。爾後煙 畑高 千火峰 を 厳 ひ見る
能は さる に由り、四方の州國 より 高天原 へ 上り来 ま さむ目標を失ひ、天下 潮 く 騒き
耐
けり。則 ち、天 見屋根 命 事代主命 と共に 鹿 に打ち乗り て 西 國に下り、事 の 由 を 奏し
皇
ければ、奪い とも驚き、乃ち附地見島を臨 土老翁 命 豊玉 武昆古 命に守ら せ、南島を興
玉 命 味拒託彦根命に守らせ 住防 下の闘を玉柱屋命に守らしめ共他の諸将初め軍
勢 を 従 へ、高天原 に還り上りましまし き。乃ち、太 力男 命 に勅 し て碑 后 の 飛入りま
し 、岩穴より砕 后 の身鶴の焼け煮浸みて共魂塊 の 止りましましける御霊石 を掘
り出さしめ給 ひき。命乃ち、種々工夫を凝し て共御霊石 を捧持ましまして、宮守 の
宮に至り御遺骨と合せて御座野原南なる金山の峰の陵に葬る。毒一○二千六百
』i
日。木花咲夜昆女奪と 諡 し奉る。是より奪 詳を金山 男奪と改め給ふ。守 て三良
子 の御名 を 命しま しき。先づ 碑 后 の 噴火 に 投じ、共 火熱 に て焼け ませる状 に 由り、
名 つけ給 ふ。即ち 最初に生れませる皇子は碑后の身鶴織 に焼けませる状に 由り、
火照須命と攻を共身鶴焼け終りませる状に由り火須勢理命と攻を身鶴焼け終り
まして火の遠かる状 に由り火遠理命と名つけ給 ひき。共御霊石を噴火 の岩穴ょ
り堀出しませる太力男命に講を石堀留日命(㎞)と下し賜ふ。(㎞、
奪は碑后か西 國より還り上りまして宮守の宮の碑殿に納め置きませる御 鏡と
自ら 斎 らして還り上りませる御霊玉と 質剣とを併せて碑祀碑宗天っ大御碑を祀
りませる阿祀 山太碑宮に納め奉り 神軍勝利の天拝 を奉り給 ひき。
奪は外寝を言向和平しぬる功を論じ共賞をそ定め給ひける。即ち天太玉命の
子孫一族を祀 家と名っけ 吾祀園に於ける天下の大政を司る家と定め給 ひ天見屋
根命の子孫一族を武部と名っけ武士軍事を司る家と定め給ひき。
惣軍司令頭長武知男命に特に語りこちて講を大物主命と闘 ひ 子孫 一族を興 阿
第 二章 前 紀 碑 祇 七九
魏 息 献 八O
始原 諸 郡 國 の 中央 に於 ける 東西南北 の 海 を に 至る まで の 物 可令 原長 の 家 と 定め
魯4 象は定繼田の 品質 の世に金を建て 正すまし** Nた武器 の º
よº 小 名馬 吉 那 命 派 大物主命 と 軍機 に 参 與 * し まし ) に因り 子孫 1 族を 南西 園
に於 ける 海 を まで の 物 司令 原 長 の 家 と 定め 始 よ。 金 は 赤 是 治田 の 中島 の 里 に 宮
を 建て 正すまし* * Nた敵 の と いよ。 李代 主命。 神と等しく平 に
參與 * し まし ) に 因り 子孫 1 族 を東北 國 に 於 ける海 ク まで の 物 同个 原 長 の 家 と
ため為本。 金は 農地後の直後の 世に金を建て 正すまし** Nた伊洛( 詳)
の 宮 と いよ。 此 三 神 は 常時 中日 个 称 なる 知行1 用 の 資 神 とい ヘク。
式 命 の長子儀式 主命及 同 于建有名 方命の子孫策を 北中國 寺建 高原長 の
家 と 定め 始 か'同一 子 經常 主命 及 同 四 子 武神 龍介 の 子孫 1 枚 を 東 國 1 番号 機 同班
長 の 家 と定め 始 。 永 に武功 命 の 弟 神魔王 老翁 命及 其 長子島 王 武 里吉 命 の 子孫
1 族 を 始 地 月島 1 回す 機 同 班長 の 家 と 定め 始 か'同 11 了 興 王命 同一 子 陈新能 修 根
命 の 子孫 1 族を 南島 1 面 等 議 同班長 の 家 と 定め 能 かさ。 文大 物主命 の 1 了 王在
屋 命及 同一 子 顯 國王 命 の 子孫 1 族を 西 中國 寺 機 同 原長 の 家 と 定め 能 が 同 三 子 春
城入里古命( ㎞)同四子前玉命を東大原野守護司頭長の家と を
め給 ひ同五子五十猛命を津久島行島 佐渡島守護司頭長の家と定め給ひき。大物
主倉のシ石シ日倉㎞ は手ェに巧なれば子孫一族を軍用武器製作の案と
定め給 ひき。大物主命以下十七軍碑の子孫を軍事司令頭長の家と定め給ふ。之
を武碑家と ぞ稲しける。又 大國主命の子孫 一族を北國 守護司頭長 の家と 定め
ひき。面し て建御名方命の子孫 一族は 常に鹿に乗りて四方 語、の州國 を駆け 廻り、
戦頭に進む軍大将の家と定め給 ひ 又 稚武王命の子孫 一族は常に馬に乗りて四方
耐
諸 の州園を駆廻り戦頭に先立っ大将の家と定め給ひき。(㎞)
皇
又諸 の事物の数へ方を改め、一 一二 一二 二十を廃し、一二三四五六七八九
、之
堀留目命は飯 楚器を棒にて打ち日夜を重ねませるも共効なく途に紳避りましぬ。
巻
義一萬五千八百十五日。碑后と同所の陵に葬る。天日子火現々杵
と 諡し 奉る。
事代主命は婦碑高照昆女命と共に環々杵奪の碑避りますゃ列死して紳避りま
しぬ。奪の陵の下 左右に葬る。夫碑を天之古登代主命と諡し給ふ。婦碑は幼名
を日吉 昆 女命と いひ 講 を高照昆 女 命といふ。大戸道命の 六女 にましまして、大國
主命の妹なり。古登合昆女命と諡 し給 ふ。嫡子天之手長男命 並 に共子事武男命・
事勇男命 事力男命は、共に外 寂 親征の役 に戦死ましましき。故に事代主命は嫡孫
事武男命の御子武長雄命を養育ましまし \ が 性麻 弱にし て鶴に毒四千五百十五
日 にして、病みて碑避りまし ぬ。武若雄命と諡 す。今や 事代主命夫婦碑の殉死ま
しませるに由り 愛に共宗家の血族ぞ絶えにける。(㎞ 『、 #
少名 昆古那命は事代主命の同 母 兄にして身媛小にましませとも天資聴 明知略
耐
古今に絶 し給ふ。諸。の州園を治しめし常世の園に渡り大功を現はし、且つ外 窟親
皇
征 の 役に現 々 杵奪に従ひ、大物主命事代主命と共に軍議に参興ましまして大功を
之
島の里隊府の言に正り南西の軍事を撃りましまし、か 覚に 三萬五百日にして
紳避りましぬ。同國中島の里に葬る。大國御魂命と諡し給ふ。婦碑武弾雄里女
命は伊瀬の度倉原に於 て、毒三萬五千除日にして碑避りましぬ。同園度曾原に葬
る。大國御魂 里女命と諡 し給ふ。御子久延仁 昆古命は 赤中島の里 國府の宮に於
第 二章 前 紀 碑 祇 八三
八四
碑 皇 紀 -
て、毒三萬四千四百除日 にして碑避りまし ぬ。同所に葬る。大御魂命と諡 し給ふ。
婦碑下照昆女命は碑皇に大功を建て給 ひしか足治田の海龍の里に於て毒四萬 一
千除日にして碑避りまし ぬ。同所に葬る。園御魂昆女命と諡し給ふ。御子阿 曾
武命は豊玉彦命の三女海那昆女命に要ひしか後 日子波激武鶏茨許不合奪 遷都の
御時 海軍 惣大将となり戦ひて碑避りまし ぬ。是に於 て少名昆古那 命の次子 知倉
王命及共男玉屋命は父祀の職を襲ぎ 南西の軍事を掌り給ふ。子孫之を承継 まし
編
o 尖 記、合
ましき。(㎞。
耐
一=大道理命見碑火照類命と約しませるに試に相互に 基を場へて独せむこと
●
を以てせらる。則ち火遠理命は兄碑より借受けませる獅 具を持して高天原の北、
大谷なる底大湖にて終日釣りませとも、一魚たに釣りまさきるのみならず。覚に
共釣をも失ひ給ひにき。還りて兄碑に謝しませとも免されず。乃ち剣を以て釣
千本 を造りて之を償 ひ給ふ。兄碑肯 じまさず、盆、原釣を責め給 ひき。弟碑大に
』_—」→__
受 政 * しょ し て 封 の 湖 の 法 の 祖名 に 到 小海神 の 司 首府 于 海鲜 民 * *。
~ *~ *~ &。 海 號 飛来 命 は% 日子 命 の 姉妹 に ましょ し て 海 金明 命 の 母 チ に
* * す。 カら 川 日 より小船 に て説 も させ ば 良 義 に 1 美女 の 物 使 いるあ 2
* * * は く北宮 は、書 後 海神 の 司 首 の 記憶 に まし ます。 と 作れ て 海神 に関し
! Q 中 を 告げ てク を 譲ら せ 結び 名 。 海神、いとも 長 安田 っ 將 永 ، し もし て非 に
編 に 書 に成 しさせる と ' + 1 日 日 に 及び g Nş し ، さき る 。
** * * ** * ** * *に攻め かし ،232 %
* 『あて高 天災 の 人 百 鬼神 兵を 走し て の 大半 を 襲撃 ち て大 にク を 使 。
" ! R 璃を 派 大湖 の 西北 の 大山 の 原野 に 神道 か に追い しゃ = 2 « か㎜ «
* 全 に 師* * Nた 日子永出 な たす。 國 總體總體 總體
•
第四 → 大火 出 民俗
日子 水火 出 具体 は詩 を 火 道理 教 と いび 大 日子 失敗 を 特徴 の 第 一 の 中 子 に もし
* す。 至 民 女 命 を 立て 制 后 と た す。 海 號 飛 來 命 の第 安 に よし も すº ş
第 1 ، 八五
碑 皇 紀 八六
め海佐知 の こと より海 緒根求男命の龍王宮 に 止りませること 一 千三百十四 日。
途に豊玉 里女命に要 ひて 止りまししに父大御碑の遺語に依り、左右大碑相議り給
ひて、天見屋根命を使とし作田 昆古 命を御前に立して、西刻 の湖の北、日 向山 の裾 の
龍宮に 火遠理命を迎 ひ給 ひき。乃ち命は婦碑を従 へ、小室 の宮に還りましまして
宮守の宮 の御碑殿 に於 て三品の大御質を奉じ て大御位 に即きましき。婦碑は天
見 屋根 命 の獅子 として是に 至 つて碑 后 に立たせ 給 ふ。
碑 后、一日 姿 将に産みなむ時 こそ近 つきぬれ と白 した ま ひき。奪 驚き て即ち月
耐
諱を豊玉 男命 と 授け 賜 ひき。
然るに碑后は奪の出産中に訪れ給 ひしことを、いと心恥しと以貸して密に産殿
を 去 つて加茂山 の岩穴に入り て 暴に碑避りまし ぬ。後、家基都 昆女 命を 立て 、碑
后 となす。天 見屋根命の一女にまします。諱を石割里女奪と改め賜ふ。(㎞
や、記、海 伊
㎞)
都 録、皇 系 記て
天大食雄命を左守大碑と武頭守主命を右守大碑となす。天大食雄命は諱を武
勇命といひ、天太種王命の第二の御子 にましまして武頭守主命は諱を太武身強男
命といひ大政守命の第一 の御子にましましき。(㎞)
大國主命を遠久見の國造となす命は、高天原より同國佐野原に移り 宮を造営し
て止りましき。之を佐野宮といふ。(㎞ )
作田 里 古命は 高天原大室の御舟湖畔なる御舟山 の宮に於て碑避りましぬ。毒
耐
十六萬三千日。宮の裏山なる泉仙山古峰に葬る。天照大御碑天之忍穂耳奪 天日
皇
て之を祀らせ給ひき。古峰の根元に祀れるに由り根元の大碑とぞ稲しける。(職
巻
㎞』
奪は、園狭植 奪の賞て標山 宇宙峰 に祀りませる共御父母天之碑農氏碑 天之碑農
比女碑を祭りまして更に高皇産霊碑 碑皇産霊碑と諡し奉り、共山を高座山 と名つ
け給ふ。又園狭樋奪 園狭比女奪の鎮ります寒川の菅原を初め各大御碑を祭りま
第二章 前 紀 碑 祇 八七
碑 皇 継 八八
して大に祭典式を行はせ給ひき。(㎞ )
奪は、父 環 々 杵奪の御宇 外 寂 親征 の役 事代主命の 子孫五柱 の 戦 残 ましまして共
血族の絶 へ ませるを欄然に食召され 命の御子天之手長男命婦碑手長昆女命 並に
共長子事武男命診 兵主雄命の三柱を行島(㎞) に官赴として祀り給ふ。又天
之 手長男命の 次 子事勇男命 論高御國 魂命、三子 事 力男 命 論太 祀詞 雄 命の二 柱 を 附
島 (㎞) に官赴として祀り給 ひき。又 同役に戦没ましませる尾茂太留奪の五
子武佐太里古命 太島座里古命を附地見島の松浦の淡の裏山に官赴として祀り
耐
給ひき。(㎞
皇
南海西海の諸。の州國大に蹴る。乃ち 天太眞祀命を元帥に石堀留目命(㎞)を
之
(㎞")は天之忍穂耳奪の第二の皇子にまします。伊須國を賜はり大山祇命の 一
女岩長 昆女命に要ひて伊東阿田見原の日金の宮に止りましましき。岩長 昆女命
病 みて碑避 り まし ぬ。伊豆 山 に葬る。後、之を伊 須大碑 と ぞ祀りける。是より伊
須山峠を日 金峠といふ。御子宇佐見 命は、上 の大原 に 止りましまし き。比 の宮を
伊東 の 宮といふ。天 太 玉 命 の 四 女 小幡 昆 女 命 に 要 ひ ましし が、足 に至りて、父 元帥
天 太 旨共祀 命 に 従 ひ、西 征 に 就 かせ 給 ひき。
遺みて"高野 の川上に本* ***
しき。元帥 の 住み 居 ませる所 を 住居國 といふ。共水戸より、舟 に て 軍勢を 西島南
島 へ 渡すに由 り、共所を 小 名 佐波 國 といふ。偶、元帥、軍 中 に於 て碑 避り まし ぬ。同
園に葬る。共止りまし、宮を穴門の宮といふ。事 高天原に聞ゆるや奪親ら 行き
て言向和平しましき、共駒を駐めませる原野を 太多瀬㎞といひ共地をシ
里といふ。共止りませる宮を 脱の といふ。之に大本営を置き 一千五百除日
耐
に移り止りましき。佐奈木里女命は作田里古命の玄孫沖津波根彦命の一女にま
之
しまして第碑言勝彦命と共に火明命を守護し奉らる。言慶彦命の能く命を守護
巻
之を 日子 波 激 武韓芽 葺 不合 奪 と なす。
皇
の地に本営を置かしめ以て西大陸の大軍を撃推せしめ五っ州園の競張碑等を言
第
め宿し祀りませる意を採りて遠宿住大碑と名つけ奉りき。命は日夜怠りなく父
大御碑を崇敬ましまし、且つ 國を治めませること 十二萬五千八百十三日 にし て 紳
耐
避りまし ぬ。毒十三萬三千七百十日。和家佐濃山の麓に葬る。三穂武男命と説
皇
し給ふ。婦碑眞留里女命は祀佐男命五世の孫出雲國造祀仲男命の女にましまし
之
て基調に三日後れて碑通りましぬ。夫碑と同所に葬る。基美里女倉
巻
*** -
り、 * -
さ o へ いと 上、合 戦記、國
後 語を以て三穂武男命夫婦の御神霊を遠宿住大碑に合祀し奉らる。(㎞
㎞)
豊 受 記、支那 皇 記。
第五 日子波激 武鶴 茅葺不合奪
日子波激武頼芽葺不合奪は幼名を阿祀男命又は家基都王命といひ講を日子波激
武言 合奪といふ。日子 火 々出見 奪 の第 一 の皇子 にまし ます。玉依 昆女 命を 立て
\、碑 后 と なす。海 館根 求 男 命諱 豊玉 男 命 の 第 一 の 御子海津 古 玉 彦命 諱 豊玉 彦命
の第一女にましまして豊玉里女奪の姪にまします。(㎞。
今や、天 つ 碑・國 つ 碑八 百萬碑 の 決議 に 基き、将 に碑 都 を附地見島 に 遷 さむ とし 給
ふ。発する に 臨み 伯父 碑 海 佐知 昆 古、諱 火照須 命 の 勘気 を 勅 免 まし まして、海 伊 國
の國造となし、且つ西 征の惣元帥と なし 給ふ。又、武 響 植 命 経津主命 建御名方命稚
武王命の四軍碑を副 帥となし、二萬八千除碑の軍勢を率みて天 降らしめ給ひき。
三十六 日 にし て穴門 の 住防 の 宮 に着 し給 ふ。時に 軍勢 日 に 加 はり、凡そ十 萬 除碑
と稲す。吾軍大に振 ふ。即ち軍勢を二手に分ち附地見島東 の水門より攻むる大
将は、元帥 火照須 命、副 帥 武 響 植 命・稚 武王命、軍勢五 萬除碑 とし 他 の 一軍は、附 也見
附 地見島、
の門
水南
より
攻むる大将は元帥火須勢理命 副帥経津主命建御名方命 軍勢五萬除
碑 と す。是 に於 て、各 軍とも共部署 する所 に 従 ひ て 進軍 まし ましけり。即ち、南 軍
は南水門 より上陸し 賊 の 大軍と 戦ひ、奮撃轄 闘六 百 五十 日 にし て、遂に 賊軍を西北
方面 に 撃 懐し ぬ。是 より先 別に阿 曾 武 命を海軍 惣大将として賊の 軍船 を攻め し
第二章 前 紀 碑 祇 九三
碑 皇 紀 九四
め 給 ふ。命は、婦碑 海那里 女 命と共に、我軍勢を率 みて大賊数萬 の 軍船 と戦ひ、巧 に
我 軍船を 騙 つて斉しく焼木 を 拠 ち て 敵 船を 火 き霊 くさ しむ。命、更に 敵の 大将を
目 掛け て共船に飛び移り、縦横 奮 ひ戦ひ て 意 に 戦死 まし ますや 彼 我 の軍船 悪く消
滅に騎しぬ。乃ち海軍惣大将阿倉武命 海那昆女命二柱の神を切枝間山の西の大
山に葬る。共謀に縁みて山を同行北とそ名っけける。面して夫碑を健磐記命と
説 す。毒 一萬二 千二 百 五 十日。婦碑 を阿蘇里 女 命と 説 す。毒 一萬 一 千八百十三
日。柳、阿 曾武命は少名昆古 那 命 の嫡孫 に まします。少名 昆古 那 命は大戸道命 の
耐
彦命 の三女海 那 昆 女 命 に 要 ひまししか、今や共に、戦死 まし まし に き。
巻
即位毎に高天原に参上りて先づ阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑託を受け三品
之
しめすことに定め給ひき。(㎞ 口」○
三れ
大
又 父 大 御 碑は築市 島 の碑 皇 の 諱・論 の 方法、及び 國 名 を定め 給 ふ。即ち碑 皇 の 新
て
天 の 下 に 君臨 し て、四方諸、の州國 を 知 食しめすと難 とも、一 に 不二山 高 天
耐
宗代々の天っ大御碑の御碑託に合はしまさむとの意を採りて園名を学
章
前 紀 碑 祇 九五
九六
种 桜
A * * * *は すQ <に o -
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家 馬 不 二 合 得 國人 定め 結び き。 美神 室代々 の 論 を 期 券 等 不合 等 人 制 后 代々 の 論
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を 多摩 洛 里 里 女 發 2 %'共 神 室 代々 の 論 を 学 家 制 不 二 合 氣質 と 神 后 代々 の 論 を
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富岡 始原郡 郡 國 世 地 神 王 代用 で十 七 萬 人 手術 日 にし て 述 に 学 家 制 不 11 合 得 世
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大
右
前
まして
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屋
柱
玉
講
命 根
し 孫野し子津
世
五
玉
碑
大
左
前
御まして
一
第
の
命
魂
ま明
天に
。
ます まる
に
多
を
諱
ます
奉
し
稲
と
奪
女
昆
夜里
㎞
(
。 し
摩 日し
代
四
皇
一
第
の
見
出
々
火
豊
后
碑
は
母
、
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ま
に
奪
女
里
。
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遷
に
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市
築
都
よ
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に
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百
五
千
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、
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て
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を
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碑
振
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し 天津玉津す野
、
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碑
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建。
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太
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命 よ天原玉て依り
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立に
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后
碑
、
女
一
第
の
彦命 不いふ原子合
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芽
鶴
代
一
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を
諱
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言
武
激
始波
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。
第
碑
地
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正● 紀
章
三
第
皇
碑
七
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御子
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代
十
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潤
家
宇
節
一
第
日子
代
一
第
奪
合
言
武
激
波
碑 皇 紀 九八
和平し 給 ひき。
外 疲 を言向和平しぬる功を論し賞を行 ひ まします。即ち、大國 玉 命及御子 稲 蒼
魂命(㎞ )をして父祀大物主命の後を嗣き本州中央に於て東西南北総司令頭
長の職を行はしめ知倉王命及御子玉屋命をして父祀 少名 昆古那命の後を嗣き、本
州南西に於て惣司令頭長の職を行はしめ天香護山命をして父事代主命の後を嗣
き本州東北に於て惣司令頭長の職を行はしめ給 ひき。稚主王命及御子武知王命
をし て、父 祀 稚武王命の 後を嗣き、並 に、建御玉 命及御子 建勇王命をし て、父 祀建御名
耐
方命の後を嗣き雨家共に本州北中園守護司頭長の職を行はしめ給ひき。経武里
皇
共職を承継しましま さしめき。
皇
更に西大山なる阿倉山(㎞ ")に陸守の大本営大本陣を設け阿曾武男命を陸守
之
をして長崎の水門を守護せしめましき。共止りませる地を日住野原といひシ
皇
本営を長崎の宮といふ。第四の御子大阿佐彦命をして南島の作田 里 古 命の奮 宮
之
なる阿波の水門を守護せしめましき。共止りませる地は作田里 古命の居太給 ひ
巻
しに因り居シ野(㎞)の里といひ共副本営を阿波の宮といふ。第五の御子那珂
三井男命をし て、津久 始野 の 里初古崎 の 水門を 守護 せしめ ましき。共止り ませる
地を津久始野原といひ共副本営を 初 古船の宮といふ。第六の御子玉懸彦命 第七
の御子石田 明男命、第八の御子 羽茂猛 命は三つ子にまします。玉懸 彦命をして、附
㎞。 )に渡らしめ 大海を守護せしめましき。共止りませる地を何
㎞ )原といひ 共副本営を天渡都見の宮といふ。石田明男命をして行島(㎞
世 ㎞) に渡らしめ大海を守護せしめましき。共止りませる地を石田野原
と いひ共副本営を天渡都手配の宮といふ。羽茂猛命 をして佐渡島に渡らしめ、北
大海を守護せしめましき。共止りませる地を 羽茂野里と いひ 共副本営を天渡都
見の宮といふ。比三柱は、三島に渡り て大海を 守護ましませるに因り、渡住三家と
そ稲 しける。
耐
っ幡大神宮と祀りましき。(㎞。『)
陸軍惣戦死者の碑霊を切枝間山 (㎞) に祀り切枝間碑赴と稲しましき。阿
曾山 に海軍惣大将健磐龍命諱阿曾武命の碑霊を祀り健磐龍命碑赴と 婦碑阿蘇里
女命講海那昆女命の碑霊を祀り阿蘇 昆女碑赴と稲しましき。又同山 に海軍惣戦
第三章 正紀 碑 皇 ○一
脚 和
-
101
死者 の 神靈を 記り 国道 神社 と 称し まし き。 (學觀經驗。
國 法 を 定め 始 。 即ち、神代 は 諸事 日 を以て歌 《 家 れ り し が 是 上り 指 1 本 を
日 とし、兩手 を 合掌 し て 十 日 とし、合 學 主3 る と と 十 度 っ ) 一同知ら 一 百 日 を 1 和 U
定め ます。 美、左右 大神 の 外 中 神 1 號、小調 回 神 を 置 さ'日 っ'四方 の 州 國 に 大 軍師 四
神 を 置 さ'路”の州 國 を 守護 や しめ まし さ。
石作監 會 は、丸 方 文 は 角 方 を 本 に 選 さ'大政 に 使用 さ しま せる 文字 を 形 り 列 入 で、
神 室 に 献上 まし まし 込。 此 文字 は、天 之 御 中世 第 十 五 代、高 皇族 建制 が、語、の物 の 形
を 書き 始 か て 文字 と なし、之 を 石 に 影 0 '國 常 立 等國 被 她 寫 和沙 子孫 一般に 数 { }
しましま し し 文字 なり と いぶ。
神 室、四方 の諸“の 州 國 に 動 し て、1 枚 硬 每 に 1 名字 を 造紙 や しめ'五 根 每 に 行幸 *
し ます と と に 定め 於船 かさº
火 原始 命 は 詩 を 何 香 武明 命 と いよ。 阿 太 野原 の 阿 多 官 に 止り まし まし しか 院
守 の 欧元 帥 となり、四方 諸“の州 國 の 敵 軍 司令 制 となり ませる や陸 字 の 大 本格 たる
日 原野 の 里 阿 鲁 山 の 宮 に 移り 止 うま しさ。 金 は 道 を 走り ます と と、いと 早く 日本
■-"
希なる に 因り、一 に 詳を年人彦命といふ。
火須勢理命は本島諸。の萬の諸務惣司令碑となりませるや不二山高天原に騎り
小室の家基都の宮に止りましまして元宮阿祀山太碑宮なる宮守の宮に於 て碑祀
碑宗を初め八百萬の大御碑を守護し 奉りき。
碑皇は御父母の遺髪及碑霊を高天原より遷し日向奇日の高千穂峰の上の大宮
に 祀り奉りき。後 更に共遺髪に剣霊 格扇を副 へ まして始羅山の上 の陵 に葬りぬ。
火照須奪は高天原の金山の陵より吾父母即ち天孫二柱の御霊剣気を日向の可
耐
碑皇認りたまはく皇太子は碑皇の碑避りましし後大御位に即く可し。碑皇碑
-之
是 より先 海 佐知 の 事 に て 父 命 の 高天原 底 大湖 の 西北 の 原野 に 碑 追は え まし ます
之
や国苦ましまして共地を開撃し古間留園と名っけ宮を高原宮と稲しぬ。世に共
巻
たり
魅
就
御
大
ら
然
の
霊
威
な
所
むる
属
春
碑
諸
乃ち
なし
むと
か
議
三
第 る 足
し
ら
相 源天原
と諱
命
男
聞宮記
貸鍵
然
知標
を
即所
高。
れ
いふちすき中太 まして
らず 聞
以
宮
穂
尾
。
ぬ
彦
張
御
一
第
の
命
明
火
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別
天
は
ま
に
、 羽 急
命
子
し 御命
り
来
粉
ち
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ら
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け
に
し
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。
尾
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國
の
彦
張
千
高
を
鍵
騎 舟 巻き
砕
れ
り
羽 渡雲
て
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海
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一
しき
しましま
暴
。
偶
且
、
起り
烈しく
黒
も
より
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航 と
上
風
つ 皇二山標舟命子 として
王の
尾
御奈加
て
へ
加
り
支
碑
六
十
三
属
春
不と共に
し
乗
目に
を 高天原
や
上
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太
山
祀
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位
授
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碑
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天
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賜
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第 り は
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む 皇す命子めし
三
第
初に
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の
后
碑
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命
父
て
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に
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都
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家
き
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しき務 葬子
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諡
と
女
里
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御
の
一
第
。
、
命
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る 屋し根
見
天
、
は
昆
標
金
妃
ま奉る
根
八
十
四
百
五
毒
。
女
二
第
の
命
り
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碑
不いふ
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芽
競
代
二
第
皇
碑
幼
は
高
峰
い
と
穂
千
を
と講
奪
王
前
。合
名
彦
ひ
高
五
○
一
正紀
章
三
第
皇
碑
穂高
千
代
一
第
奪
王
"-』■
碑 皇 紀 - 一○六
の 皇子 千穂高 王命を 皇太子 と なし まし ぬ。則ち 皇太子は、百 日 汰 沿 斎戒し て、身を
清め心を誠になしまして更に赤春属を従へ 御舟に乗して不二山を目標として大
海 を航 しませる に、四海 波 静 にし て、事なく 高天原 に上り ましき。乃ち 阿祀 山太 碑
宮の天っ大御碑の御碑殿に於て職芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原
惣司令碑稲田雄命は三品の大御賞を 奪の天窓 に捧げ奉る。命は、火須勢里命の御
子 に まし まし き。
碑皇高天原より天降りましますや 語りたまはく常に高天原の大御碑の威霊を
長 み、心身を清浮 に なす可 し特に 皇太子は降誕 より大御位を受け させ給 ふまて、日
に 不 浮 の 物を食 ます身 に不浮 の物 に鋼れしめす 常に心身を清浄にし、戦々恐々 と
し て身 を慣 むべ し、と 宣りた まひ て、之 を子孫 に示し 博 へ しめ 給 ひき。
阿祀 昆 女命を立て \、碑后 と す。阿 志 加 命の御 女にまします。諱を多摩 夜里 昆
女奪 と 授け 賜 ふ、
天生玉男命を左大碑と、高彦根命を右大碑となす。天生玉男命は前左大碑天津伊建
玉 命の第 一 の御子 にましまして高彦根命は 前右大碑天野見屋建命の第三の 御子
に まし まし き。
碑皇は常に父 碑皇の譲訓を守りて、天下を 知 食 しめ 給 ひしかは、天下 四方の諸、の
州 國 何れも豊 にそ 治まりける。
和 加 彦命 を、田場 國眞井原 の 豊受 太碑 宮 の 宮守 司 と なし給 ひき。命は、火 火出 見
奪 の 第三 の御子、若 武里 古 奪 の 御子 に まし まして、子孫 世々 共職 を承継 せしめ給ふ。
紳 皇、天下 を 知 食 しめす こと 一百三十 一根。毒 三 百 七十 一根 お まし まして、高 千
穂 宮 に於 て 碑避 り まし ぬ。日向 の 奥 療 山 の峰 の 陵 に葬る。宇 家 測 不 二 合 須 奪 と
耐
所 の陵 に葬る。宇 家 潤 不二 合里 女 奪 と 諡 し 奉る。産殿は、日向 の 佐野 小濱 の 臼杵
之
耐代
ji 巴祀
巻
三代の碑皇となす。(㎞。『)
-*
第三代 阿蘇豊王奪
碑皇第三代料非葺不合奪は幼名を阿田津男といひ 講を阿蘇豊王奪といふ。前
碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り、阿 祀山太碑宮 の 天 つ大御碑の御 碑殿
第三 章 正紀 碑 皇 一O七
碑 皇 紀 一○八
に於て親芽葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑田知方命は三品
の大御質を奪 の 天窓に捧け奉る。命は、稲田 雄 命の第 一 の御子 にましましき。
佐登鈴里 女 命を 立て 、碑后と す。天 別天之 火明 命 の御女 にまします。諱 を多
摩 夜里 里 女 奪 と 授け 賜 ふ。
明 津頭命を左大碑と、清 根 頭命を右大碑となす。明津頭命は前左大碑 天生玉男命
の第一 の御子にましまして清根頭命は前右大碑高彦根命の第四の御子にましま
しき
。
即位六十五根 の時、火須勢理 命の御子 稲田 雄 命 の二子、大武知彦命・強力武 命 兄弟
は本島東南中央の諸 の天っ碑園っ碑を語ひて腹心となし高天原に於て碑都復奮
を 企 て 、反し ぬ。荒 振 碑等景附 し て國 の 内 甚 く援 ぎ て ありけり。偶。祀佐 男 命 の
御子 建 知 速 日 命の 孫 に まし まして、建御 日 受命 の 御子 にまし ます建豊大勇 命は、暁
勇 なる大力雄強力 雄 手 力雄 足力雄 の 四碑 を従 へ、暴風雨の 夜 闇黒に乗 し 高天原天
都 小室の家基都宮に忍入り、大武知彦命 強力武命兄弟を初め 一族 一類を皆な打 殺
しぬ、面して建豊大勇命は直に高天原副司令碑阿尾瀬最 男命(㎞。『)の山守
3: 2た ،く4 * * 和 彦命 形を 初め、 張 湯 を 守成 “ 毛 。
大事 者 たか は 逆 に 相應 しき 返 分 を た も 受け まさ むとて 自首 し 出 て * * * *
原 の 誘 使 神 和義 り 結び て 建興 大 金分布 蘭 西魏 德 士 四十八 神を 捕 《朝永 。伊達
尼 恩 尼 治山 の 半島 に 神道 か に 迫 が 結び き。 是 に於 て 天 の 下 回 カ の 諸“の州 國 初め
で法論 に そ 治 ،り ける。 然るに 天 火药 物理 會 の 子孫 經 た ませる に 由于 高天原 國
司令 官 たる 大 山脈 命 五 世 の 孫 同 是 隨其 明命 政 司令 神 に 天河 天 之 火 加 金 の 孫 吳 王
明 命前 同 企 神 に 定め 始 かき。 是 上り開 家 の 子孫世 を 共識を 承繼 *~ *~ &。 而
和神
子孫 之 を 承繼 まし ます と と に 定め 彼 かき。
ż
阿 修正 字國 被 她 第 二 社 の 定め させる大國 十 八 州 に 守護 國 同 を 認 さ 天 照 大御神
の ため ませる 小 國 四十八 國 に 守 同 を 置く と と に なめ 除 かき。
卷
品の大御資を奪の天窓に捧け奉る。命は大山祇命七世の孫にましまして前惣司
皇
令碑阿尾弾 眞男命の男久仁佐多男命の御子にましましき。
之
佐田 里女命を立て、碑后とす。佐気玉命の御女にまします。諱を多摩夜里昆
巻
女奪と授け 賜ふ。
碑建彦命を左大碑と多根彦命を右大碑となす。碑建彦命は前左大碑明津頭命
の第一 の御子にましまして多根彦命は前右大碑清根頭命の第一 の御子にましま
す。
即位三十八根 の時海賊大 に織 んとなり ぬれは行島附島 休 通島 佐渡島 江外島上面
海島・西海 島 の 七島 に 島 長 を 置き まして 言 向 和平 さしめ 給 ひき。
十八大州 に、各 行宮 を 造営 せしめ、常に 四方諸、の州 國を 巡幸 まし ます こと に定め
まし き。
碑皇 天下を知食しめすこと 五十根。毒 百四十根 お ましまして、高千穂宮 に於 て
碑避り まし ぬ。日向山 の 陵 に 葬る。宇 家 潤 不二 合須 奪 と 諡 し奉る。碑 后 撮 政三
十 根。毒 百 七十根 お まし まして同 宮 に於 て 碑避 り まし ぬ。碑皇 と同 所 の 陵 に 葬
耐
を第五代の碑皇となす (㎞f )
巻
第五代 佐津 田彦 王奪
碑皇第五 代 親 芽葺不合奪は 幼名 を佐津田彦と いひ 諱を佐津田 王 奪といふ。前
碑皇第 一 の皇子 にまし ます。高天原に上り、阿 祀山太碑 宮の 天 つ大御宮 の御 碑 殿
に於 て韓 芽葺不合奪 の諱即位 式を行は せ 給ふ。高天原惣司令 碑野見山 男 命は三
第三章 正紀 碑 皇 二一
碑 紀 、 一 一二
品の大御賞を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑山 主男命の御子にましまし
き。
夜佐昆女命を立て、碑后とす。筑男玉命(㎞ )の御女にまします。諱を多
摩夜里 里 女 奪 と 授け 給 ふ。
太玉奇命を左大碑と 見玉 策命を右大碑となす。太玉 奇命は前左大碑碑建彦命
の第一の御子にましまして見玉衆命は前右大碑多根彦命の第一 の御子にましま
しき。
皇 ”耐
后 毒百八十八根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。
巻
宇 家測 不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は石門の小演に造営して白波宮と稲しぬ。
皇子八碑皇女六碑ましましき。皇太子津禰彦王奪立ち給ふ。之を第六代の碑皇
以上、開 闘記、碑 代 記、五 十 一
となす (㎞f )
第六代 津禰彦王奪
碑皇第六 代瀬芳書 不合奪は 幼名を津 禰彦と いひ 謀 を津禰彦王奪 といふ。前碑
皇第 一 の皇子 にまし ます。高天原に 上り阿 祀山太 碑宮の天 つ大御碑 の御碑 殿 に
於て、鵜芽葺不合奪の諱 即位式を行はせ給 ふ。高天原惣司令碑 羽山男命は三品の
大御賞を奪の天窓に捧け奉る。命は 前惣司令碑野見山命の御子にましましき
橋豊昆女命を立て、碑后 とす。奈坂男命の御女にまします。諱を多摩夜里里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
日高雄 命を左 大碑と、千穂玉 命を右大 碑となす。日高雄 命は前 左大碑太 玉 奇命
耐
しき。
之
后撮
政二十二根。毒 二百七十三根 おましまして同宮に於て碑避 りましぬ。碑皇と同
所 の 陵 に 葬る。宇 家 潤 不二 合 昆 女奪 と 諡 し奉る。産殿は、黒澤 の 小濱 に造営
して、
玉光宮 と稲 しぬ。皇子 七碑 皇女八碑 まし まし き。皇太子阿知 奈 王奪立 ら給
ふ。
第三章 正紀 碑 皇 一 二三
碑 皇 紀 一 一四
之を碑皇第七代となす。(㎞f )
第七代 阿知奈 王 奪
碑皇第七代 競 茨 葺不合奪は幼名を阿知奈男といひ 諱を阿知奈王奪といふ。前
碑皇の第一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿に於 て韓非葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑西瀬基男命は三
品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑東弾 基男命の御子にましま
し て、羽山 男 命 の嫡孫 に ましまし き。
耐
女奪 と 授け 給 ふ。
之
(㎞f)
編
第九代 宇摩子 王 奪
耐
第十代 日野光 王奪
之
碑皇第十代職業資 不合奪は幼名を日野男といひ識を日野光王奪といふ。前碑
釜
皇第 一 の 皇子 に まし ます。高天原 に 上り、阿 祀 山太 碑宮 の 天 つ 大御 碑 の 御 碑 殿 に
於 て、鵜 芽葺 不合 奪 の講即位 式を 行は せ給 ふ。高天原 惣司令 碑余 千山男 命は、三品
の 大 御 質を 奪 の 天窓 に 捧げ奉る。命は、前惣 司令 碑 北山男命 の 御子 に ましましき。
佐瀬里 女 命を 立て \、碑 后 と す。登 旨共男 命 の 御女 に まし ます。諱を多摩夜里 里
ノ
第三章 正紀 碑 皇 一 一七
職 皇 紀 一 一八
女奪 と 授け 給 ふ。
倉建男命を左大碑と大笠山命を右大碑となす。倉建男命は前左大碑太田別命
の第 一 の御子にましまして大笠山命は前右大碑古玉別命の第 一 の御子にましま
しき。
『皇動して高千穂修の中腹に宮を造営ましまさしめ親ら大園主命の碑霊を祀
りまし ぬ。之を大國碑赴 と名づけ給 ひき。
紳皇天下を知食しますこと四十七根。毒百六十三根おましまして高千穂宮に
耐
於て碑避りましぬ。御質山峰の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。碑后、
皇
揺政二十三根。毒百八十八根 おましまして御質山の仙洞に於て碑避りましぬ。
之
紳皇と同所の陵に葬る。宇家測不二合昆女奪と説し奉る。産殿は大分野小演の
巻
玉光宮にして皇子八碑皇女四碑まします。皇太子太武王奪立ち給ふ。之を第十
一代の碑皇となす。(㎞f )
第十 一代 太武王奪
碑皇第十一代 親茨書不合奪は幼名を多武男といひ講を太武王奪といふ。前碑
皇 第 三 の 皇子 に まし ます。 高天原 に 上り、阿蘇 山大 神宮 の 天 っ 大御神 の 御 神殿 に
於 で 親李 春 不合 等 の 講師 位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原敬 司令 制 君山 明 命 は 三品 の
大 師資 を 尊 の 天意 に掛け 本 る。 命 は 前 總 司令 制 本 千 山 明 命 の 御子 に まし ましさ。
太 加里 安 金 を 立て 神 后 と す。 宮古 志 男 命 の 御 女 に まし ます。 武 を 多摩 洛 里
里 女 等 と 接 け 期 よ。
真 王維 金 を 左 大神 と、古 流浪 命 を 右大神 と なす。 其 王維 命 は前 左 大 轉 會 建明 命
の 第 1 の 御子 に まし まして 古流浪 命 は 前方 大神 大 等 山 命 の 第 1 の 御子 に まし *
#
しき。
羯
國 の 関す 神 の 下 に 全長 1 名 を 置き、四方 の 諸“の神 タ の 十分 の 1 つく 振興 を 選 みて
令 長 の 意 下 と た し、英 指揮 に 従 か て 脱落 城 を 言 向 和 本 ご した る と と を 定め 彼がき。
卷
神 室 天下 を 知 食 しめす と と 二 十 五 根。 義人 十 九 根 お まし まして 高 千種 の 宮 を
於 神 通り まし gº ㏊ 瘤 次 近 の 富山 の 陸 に 排 る。 李 家 馬 不 11合 氣 發 酵素る。
神戶幕政 二 十張。 義 者十 七 根 か まし まして 同省 に於 て神 通りまし &。 劇情
第 三 章 ॥ 1 1も
碑 皇 紀 一 一四
之を碑皇第七代となす。(㎞f )
第七代 阿知奈 王奪
碑皇第七代、鴨 芽葺不合奪は幼名を阿知奈男と いひ 諱 を阿知奈王奪といふ。前
碑皇 の 第 一 の 皇子 にまし ます。高天原 に上り 阿 祀 山 太碑 宮 の 天 つ大御碑 の 御碑
殿 に於 て 鵜 茅葺不合奪の諱即位式を行は せ給ふ。高天原惣司令碑西弾 眞男命は、三
品 の 大御 質を 奪 の 天窓 に捧け奉る。命は、前惣 司令 碑東 弾 旨共男 命の御子 にまし ま
し て、羽山男命 の嫡孫 に まし まし き。
耐
女奪 と 授け 給 ふ。
之
玉魂結命を左大碑と建豊玉命を右大碑となす。玉魂結命は前左大碑日高雄命
巻
の第一の御子にましまして建豊玉命は前右大碑千穂玉命の第一の御子にましま
しき。
碑皇、天下 を 知食しめすこと 五十八根。毒 百九十八根 お まし まして、高千穂 宮 に
於て碑避りましぬ。相良野五平山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と設し奉る。
-■--
碑后 書百 八十六根 おましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と同所の 陵に葬
る。宇潤不二 合昆女奪と諡し奉る。産殿は浦部演 に造営して浦里宮と稲しぬ。
皇子四碑 皇女八碑まします。皇太子豊田彦王奪立ち給ふ。之を碑皇第八代とな
す。(㎞「 )
第八代 豊田彦 王奪
碑皇第八代鶴茅葺不合奪は幼名豊田彦といひ講を豊田彦王奪といふ。前碑皇
第 一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮 の天つ大御碑の御碑 殿 に於
耐
て親 芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑南山男命は三品 の大
皇
巻
*
〜
香山武命を左大碑と、八重玉彦命を右大碑となす。香山武命は前左大碑玉魂結
へ
ヘ
-
命の第一 の御子にましまして八重玉彦命は前右大碑建豊玉命の第一 の御子にま
しましき。
第三章 正紀 碑 皇 一 一五
碑 皇 紀 一 一*
碑皇 天下を 知食しめすこと四十二根。毒百四十三根 お ましまして、高千穂 宮 に
於 て碑 避りまし ぬ。阿 屋 野木 原山 の 陵 に 葬る。宇 家潤 不二 合須 奪 と 説 し奉る。
碑 后 毒百十四 根 お ましまして同宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑皇と 同所の陵 に葬る。
宇 家潤不二合 昆女 奪と 諡し奉る。産殿は鳴 澤に造営し て、雲晴宮と稲しぬ。皇子
五 碑 皇女七碑 まします。皇太子 宇摩子 王奪 立ち給 ふ。之を第九代の碑皇となす。
(㎞f)
編
代 記、大 山祇 記、系 圓 史。
第九代 宇摩 子王 奪
耐
皇第 一 の皇子 にましまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
之
大代
天し子山令げ窓 て
奪
を
質
御
司捧大
惣
前
、
は
北奉る
御碑
の
命
ま男
に
。
き
まし 不於合 阿
葺
芽
鵜
、 、
皇
一
第
皇
高ま
。
ます
上
に
殿
御
大
つ
天
の
宮
碑
太
山
祀天原
子
し
り 岡
山祇
ま(
三
太女
立ます
奪
王
光
な日野
と
皇
碑
の
代
十
第
を
之
。
ふ
給
㎞
三
すち子し 八
奉子
し
諡
と
奪
女
里
合
二
不
潤
家
宇
分
大
は
殿
産
。
に
宮
光
玉
の
小濱
皇
て
皇
、
碑 る
野
し お
根
十
九
百
毒
ま
り
避
て
於
宮
、
まして
葬
に
陵
の
所
同
と
皇
碑
ぬ
。 し
る 。
き
まし 八し子命重
碑
大
右
前
は
命
別
古
、
彦まして
御玉
一
第
まの
に
立摩
佐瀬
眞
登
す
と
后
碑
、
\
ま
に
女
御
の
命
多
を
諱
。
ます
里
夜里て
男
し 不いふ
#
*
料
代
十
第
皇
幼
は
い
と
男
日
を
と識
奪
王
光
碑
前
。合
名
ひ
野 天めす
皇
し碑
食
知
三を
丁
六
まこと
お
根
八
十
百
二
毒
。
に
宮
高千穂
まして
し根下
正紀
章
三
第
皇
碑
七
一メ
代
㎞)
即天原品男令位
講
の
高奪
。
ふ
給
せ
行
を
司式
山惣
千
余
三碑
、
は
命
日野
代
十
第
奪
王
光
『--』-』
韓 皇 紀 一 一八
女奪 と 授け 給 ふ。
倉 建男命を左大碑 と、大笠山 命を右大碑 となす。倉 建男命は、前 左大碑 太田別 命
の第 一 の 御子 にまし まして、大 笠山 命は前右大 碑古 玉 別 命 の第 一 の 御子 にまし ま
しき。
碑 皇勅 し て、高千穂 峰 の中腹 に宮 を造営まし まさし め、親 ら大國 主命 の碑 霊を 祀
り まし ぬ。之を大國 碑 赴 と名づけ給 ひき。
碑皇 天下を知食し ますこと四十 七根。毒 百六十三根 お まし まして高千穂 宮 に
耐
撮政二十三根。毒百八十八根 お ましまして御質山の仙洞に於て碑避りましぬ。
之
女 奪 と 授け 賜ふ。
巻
魂幸見命を 左大碑 と 豊彦玉 命を右大 碑と なす、魂幸見 命は 前左 大碑 賞玉 雄 命
の第一 の御子にましまして豊彦玉命は前右大碑古海根命の第一 の御子にましま
しき。
即位 十 七根 の時 西 大陸 より大軍攻め 来 り ぬ。吾 軍七根 百八 十五 日 にし て、潮 く
之 を 向 言 和平 し に き。
碑皇、天下を知食しめす こと 四十三根。 毒二 百 五十九根 お ましまして碑 避 りま
しぬ。梅田御同の陵に葬る。字家測不二合須奪と諡し奉る。碑后誌二百四十九
根 おましまして同宮に於て碑 避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。宇家潤不二
合里女奪と諡し奉る。産殿は、大分野小濱の玉光宮にして皇子七碑 皇女四碑まし
代 巴
巴耐
代
ます。皇太子出見彦王奪立ち給ふ。之を碑皇第十三代となす。 ㎞ 、大
面
㎞)
史、碑 都 録。
耐
第十三代 出見彦 王 奪
皇
の 第 1 の 御子 に まして 後 王 在 命 は 前方 大神 鬼屋 手 命 の 第 1 の 御子 に まし ましさ。
些單
部位 二 十 一 根 の 時 西 大陸 より 外 放大 舉 し て 来 0 政 ち。 此 に 防 局 行 局 を 占領し、
之
音 员 是 神 に 防 省 を 貸す と 告 くる もの あり。 另 ら 建 建 德 命 を 元帥 と'時 海 艦艇 命 を
卷
副 師 と なし、敵 ら て 之 を 退け さ。
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 三 十 六 根。 義 自力 十 一 根 お まし まして 高千穂 の 宮
にめ て神 通りまし む。 地 の職 の 後に張る。 李 家 制 不合衆 とし本 る。
農曆十五 歲。 雍正十七張 し まして間 にめ て神道 5* * *
第 一 章 正 料 評 111]
碑 皇 紀 一二四
同所 の陵 に葬る。宇 家潤 不二合 昆女奪と諡し奉る。産殿は宮島の小濱に造営し
て、眞幸宮 と 稲し ぬ 皇子 十碑 皇女十二 碑 まし ます。皇太子奈良 田彦王奪 立ち給
ふ。之を第十五代の碑皇となす。(㎞「 )
第十 五代 奈良 田彦王奪
碑皇 第十五 代 鶴 芽葺不合 奪は幼名 を奈良 田彦 と いひ 講を奈良田彦王奪といふ。
前碑皇第三の皇子 にまします。高天原 に上り、阿 祀 山太碑宮 の 天つ大御碑 の 御 碑
殿に於 て競芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑津久山 男命は、
耐
まし き。
之
女奪 と 授け 賜 ふ。
高 照男 命を 左 大碑 と、豊武雄 命を 右 大 碑と なす。高照男 命は前 左 大 碑 玉 光 王命
の第 一 の御子 に まし まして豊武雄 命は前右 大碑 築 玉 柱 命 の 第 一 の御子 にまし ま
しき。
巻 之 皇 耐 まる
り
避
て
於
編
星
ぬ
葬
に
陵
の
御岳
奉
し
諡
と
奪
須
合
二
不
潤
家
宇
后
碑
。 し まして
野 天一
皇
し碑
食
知
を
ま
お
六
七
百
毒
。
根
十
三
こと
に
宮
の
高千穂
めす
下
し 四り
時
根
七
十
即位
流
大
度
意
に
園
州
。
多
々
の
諸
て
し
通
碑
まし方
行
く
不天原
書
芳
親
て
於
に
即
諱
の
高奪
。
ふ
給
せ
行
を
式
司
惣
三
は
命
男
兵
弾
上
碑 合阿
位
令 皇天原りし子
一
第
皇
高ま紳
。
上ます
に
殿
御
大
つ
天
の
宮
碑
太
山
祀 なす 給
と
皇
碑
の
代
六
十
第
を
之
ふ
)
f
㎞
(
。 玉ち子し女宮 に
照
て
ぬ
し
稲
皇と
三
ま十
碑
太五
皇
。
立ます
奪
王
顧佐彦 葬営
陵
の
所
同
皇
紳
奉
し
諡
と
奪
女
昆
合
二
不
測
家
宇
小
黒
、
は
殿
産
。
造 る ぬ
濱 おし宮野
八
百
二
毒
根
十
四
政
分撮
大
山まして
質
ま御
り
避
碑
て
於
に
。 天し地
て
し
拝
ま*
祀
顧
を
々
碑
萬
百
八
の
。
き
まし し幸
結
之
り
且
。
き
日
ら
親
皇
紳
登
に
峰
の め の
高千穂
を
四方
まして
ましつ
々 いまし
皇
。
悩ぬ
標
寝
守
園
州
”
諸
ひ
給
め
天
各
て
し
勅
に
祭
を
々
碑 と
司
地
不いふ
葺
芳
頼
代
六
十
第
皇
幼碑
いは
顧と
を
と講
奪
王
前
。
佐彦ひ名合
正一
章
三
第
皇
碑五紀
二
顧佐彦
代
六
十
第
奪
王
"i
碑 皇 紀 一二六
品の 大御 賞を奪 の 天窓 に 捧 け奉る。命は 前惣 司令碑 津 久山 男 命 の御子 にまし ま
・
しき。
戸志 里 女命を 立て \、紳 后 と す。根 佐男 命 の御 女 にまし ます。諱 を多摩 夜里 里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
赤 長 彦命を左大 碑 と、山 仲雄 命を右 大碑と なす。赤長 彦命は、前左 大碑高 照男 命
の第 一 の 御子 に まし まして山仲雄命は前右 大 碑豊武雄 命の第二 の 御子 に ましま
-
しき。
即位十根 の時 益碑 の法を改正ましまして大に之を起 させまし ぬ。諸”の碑 々 繁
築 し 給 ひき。
碑皇 天下を知食しめす こと 四十 一根。毒 二 百二十八根 お まし まして高千穂 宮
に於て碑避りましぬ。大分野御鏡山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪にと設し奉
る。碑 后 撮 政二 十二 根。毒 二 百三十九根 お まし まして、大分野御質山宮 に於 て碑
避りましぬ。碑皇と同所の陵 に葬る。宇 家潤不二合 昆 女 奪と諡し奉る。産殿は、
黒 小濱の照玉宮 にし て皇子 不詳、皇女八碑まし ます。皇太子加 目男 王奪 立ち給ふ。
『』i
之を第十七代の碑皇となす。(㎞)
第十七代 加目男王奪
碑皇第十七代韓非葺不合奪は幼名を加目男といひ譲を加目男王奪といふ。前
紳皇第 一皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑殿 に
於て刺芽葺不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原 惣司命碑中山男命は三品の
大御 資を奪の天窓に捧け奉る。奪は前惣司令碑上 瀬基男命の御子にましましき。
志モ里女命(㎞)を立て、碑后とす。霧坂男命(㎞ )の御女にまします。
諱を 多摩夜里里女奪と授け賜ふ。
武 魂男命を左大碑と家重建主命を右大碑となす。武魂男命は前左大碑赤長彦
倉の第一の御子にましまして家重建主命は前右大碑山仲雄命の第一の御子にま
しま しき。
海伊 の園造司園谷彦命は高天原の北方なる底大湖の南西の山澤を掘盤ましま
して湖水を流下せしめ給ふ。則ち大湖二分通り減水して定水となりぬれは暴風
-
第三章 正紀 紳 皇 一二七
碑 皇 紀 一二八
雨 にも湖水横溢せさりき。農民碑大に脱ふ。是より先 比大湖は暴風雨毎 に湖水
横溢して山澤 一帯満水 となり農民碑の困苦甚しかりしか 是に至つて常に大湖二
分通り減水して、定水を保ちぬるに至れり。今や農民碑大に共徳を頭し龍王水碑
とそ崇めける。命は共居を南湖漫に遷させ給ふ。共地を龍王の里といひ宮を龍
王宮といふ。奮宮地を世に長者家原といふ。命は天火照須命第二の御子 高原男
命十六世 の孫にましまして前國造司國岡彦命の第二 の御子にまします。
碑皇天下を知食しめすこと在位三十六根 毒百三十七根 お ましまして高千穂宮
耐
小濱の照玉宮にして皇子七碑 皇女八碑まします。皇太子都留彦王奪立ち給ふ。
之を第十八代の碑皇となす。(㎞)
第十八代 都留彦王奪
碑皇第十八代職芽葺不合奪は幼名を都留彦といひ識 を都留彦王奪といふ。
『"
前神皇第一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ大御神の御碑
殿に於て、鶏芽葺 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑久保弾 兵男命
は、三品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑中山男命の御子にまし
給
まし き。
摩津 里女命を立て 、碑后 とす。佐和田彦王命の御女にまします。諱を多摩夜
里 里 女奪 と 授け 賜 ふ。
編
剣若武命を左大碑と群 楽男命を右大碑となす。剣若武命は前左大碑武魂男命
耐
まし き。
之
即位八根の時碑皇は神后と共に四方の諸 の州園を巡幸ましまして七根八十四
*色さ
日 にし て 高千穂 宮 に還幸 まし まし き。
碑皇天下を知食しめすこと二十七根。毒百三十七根 おましまして高千穂 宮に
於て碑避りましぬ。大崎野直入山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。
紳 居振 政二十根。毒百五十二根 おましまして大崎野直入宮に於て碑避りましぬ。
第 三章 正紀 皇 1 二九
、神 皇 紀 一三○
碑皇と同所の陵に葬る。宇家潤不二合昆女奪と諡し奉る産殿は黒小濱の照玉宮
にして皇子十一碑 皇女十碑まします。皇太子多加彦王奪立ち給 ふ。之を第十九
以上、 記、神代 記、
代の碑皇となす。(㎞「一
第十九代 多加彦王奪
碑皇第十九代鶴芽葺不合奪は幼名を多加彦といひ 講を多加彦王奪といふ。前
碑皇第 一 の皇子 にまします。 高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑殿
に於て韓芽葺不合奪 の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑興古山 男命は三
耐
まし き。
之
波奈 昆女命を立て、碑后 とす。深長田雄命の御女にまします。諱を多摩 夜里
巻
昆 女奪 と 授け 賜 ふ。
若熊武命を左大碑と強兵男命を右大碑となす。若熊武命は前左大碑剣若武命
の第 一 の御子にましまして強兵男命は前右 大碑群築男命の第 一 の御子 にまし ま
す。
巻 之 皇 耐 編 通る山能り まして
伊一
ぬ
笠まし
小
葬原野
に
陵
奉の
し
諡
と
奪
須
合
二
不
潤
家
宇
后
碑
。 天めす第
皇
し紳
食
知
まを
お
八
百
毒
。
根
十
二
こと
碑
て
於
に
宮
高千穂
し下
不天原
書
募
て
於
に
即
諱
の
高奪
。
ふ
給
せ
行
を
式
司
惣
見
登
碑
三
は
命
男 合阿
位
令
山 皇天原りし子
二
第
皇
高ま前
。
上ます
に
御
大
つ
天
の
宮
碑
太
山
祀 なす 給
と
皇
碑
の
代
十
二
第
を
之
㎞
( 玉ち
朝
ぬ
し
稲
と
皇
七
ま
碑
六
太
皇
ます
立
奪
王
田彦
加佐
。
ふ 宮し
女
し
子 葬営
陵
の
所
奉
諡
と
奪
女
里
合
二
不
測
家
宇
大
野
杵
目
は
殿
産
。
造
に
て るぬ
濱 お
三
百
毒
根
十
二
政
揺
ま
り
避
て
於
に
宮
笹原
まして
同
と
皇
碑
。 し にり
日
一
十
西
て
降
天
に
。
き
ましし
園 代しく
大宗
っ
親天
て
於
に
前
碑
祭の
ま大
せ
は
行
を
式
二
七
三
こと
ます
御神し典々
天し子山令る窓
奪
を
資
御
大
奉『
け
司捧
惣
前
は
古。
興
御碑
の
命
ま男
に
ま 不いふ佐ひ名合
葺
非
㎞
代
十
二
第
皇
幼碑
いは
と
加加佐
を
と講
奪
王
田彦
。 と共にるり
庁
積
は
皇
時
#
十
上即位
に
都
天
の
な高天原
官
太
まして
祀
碑
正紀
章
三
第
皇
碑
ー
j
加佐
代
十
二
第
奪
王
田彦
三
一
静 員 羯 | 1
しき。
保 加盟 友 金 を 立て 、神 后 と す。 作 民明命 の 御 女 に まし ます。 韓 を多摩 洛 里 里
女 等 と 疑 け 開 よ。
明 帝王 命 を 左 大神 と武鐵 字 命 を 右 大神 と なす。 明 洪 た 大 神武 德 式 命
命 は前左
の 第 1 の 御子 に まし まして 武 鐵 字 命 は 前方 大 禮服 兵 防 命 の 第 二 の 御子 に
--~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
-
しさ。
編
即位 也 想 の 時、四方諸“の 州 國 に 親 し て 山野 を 開発 や しめ 結ぶ。 廣 く 之 を 公布 や
种
しめ まし き。
皇
安け葬
ぎ里
さ
º
開 あ安保師金て 3
に
合機
不
君
講越秀
天の
為
。
本
駱
せ
は
行
を
太
不從
書
証明
*
金
山寺 高天原
。
す
~
*
平
š16
東魏
上
に
祖
同
神
大
大
天
の
㎞ り
山
父
邱 1º道し1
許
。
根
一
成
排
后
ま魏
お
張
二
十
六
神月
て
於
に
同名
gまして
し
،
5
:
去た命神井
主命
大古登場
右
を
主秀全
兩
這
。
す
た
新と
金
に
功臣
大神 姉し妹
の
命
明
山
月
登
て
し
~
*
ま
に
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さ
まし 1正
佛
神
合
不
哥
夫
科
代
1
+
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は
と
明
登美
保
を
ひね
方
田
。
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金
名
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二
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制
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皇女
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太
皇
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「計j員 「シ口 -
碑 皇 紀 一 三四
の 第三 の 御子 にましまして古岩 勇 命は前 右 大碑 萬鎮守 男 命 の 第 一 の 御子 に まし
まし き。
即位十二 根 の 時、碑皇 は、碑 后 と共に、四方 の 諸、の州 國 を巡幸 まし まし き。
碑 皇 天下 を 知 食 しめすこと三十五 根。毒 百 八根 お まし まして高千穂 の 宮 に於
て碑避りまし ぬ。黒谷 野大見山 の陵に 葬る。宇家 潤不二 合須 奪と 諡し 奉る。碑
后撮 政十三根。誇百十七根おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所
の陵 に葬る。宇家 潤 不二 合 昆女奪と 諡し奉る。産殿は、臼杵野 大濱の 朝 玉宮にし
て皇子八 碑 皇女 五 碑 まします。皇太子 笠 砂男王 奪 立ち給 ふ。之 を第 二 十 二 代の
皇
碑皇となす。(㎞f 石ー 司 Jノ n
之
-
第二十二代 笠 砂男 王奪
巻
碑皇第二十二代料非葺不合奪は幼名を笠砂男といひ講を笠砂男王奪といふ。
前碑皇第 一 の皇子にまします。高天原に上り 阿祀山太碑宮の天 つ太御碑の御碑
殿に於て競 芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑大坂山男命は
三品の大物資を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑小坂山男命の御子にまし
を注気 里女を立て 、科后とす。自玉雄命の御女にまします。諱を多慮夜里里
女奪 と 授け 賜 ふ。
立着彦命を左大碑と大住主命を右大碑となす。立磐彦命は前左大碑道明主命
の第 一 の御子 にましまして大住主命は前右大碑古岩勇命の第一 の御子にましま
しき。
碑皇の在位中根(㎞)にまして四方諸、の州園静に治まり 天の下泰平なりにき
耐
碑皇天下を知食しめすこと四十根。毒二百六十根 おましまして高千穂宮に於
皇
て碑避りましぬ。大立山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と設し奉る。碑后誇二
之
百十七根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。字家
巻
潤不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は黒演野御崎に造営して自浪宮と稲しぬ。皇
子八碑皇女十碑まします。皇太子津奈建王奪立ち給ふ。之を第二十三代の碑皇
と なす 。(以上、開
(㎞ 闘記、碑 代 記、五 十 一
)
第二十三代 津奈建王奪
第三章 正紀 碑 皇 r 三五
碑 皇 紀 一三六
碑皇第二十三代 韓 芽葺不合奪は 幼名を津奈男と いひ 講を津奈建王奪 といふ。
前碑皇第 一 の 皇子 にまし ます。高天原に上り阿 祀山大碑宮 の 天 つ大御 碑 の 御 碑
*
しき。
巻
まし き。
巻
雨と共に吹き荒し、激数百般悪く沈没し終りにき
皇
碑皇天下を知食しめすこと二十三根。毒百二十八根 おましまして高千穂の宮
之
に於 て碑避りまし ぬ。平戸笹子山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。
巻
紳 八十三根 お ましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。
宇 家測不二合里女奪と諡し奉る。産殿は黒演野御崎の自浪宮にして皇子八碑皇
女五碑まします。皇太子宇佐彦王奪立ち給ふ。之を第二十五代の碑皇となす。
『-』i-i
第二十五代 宇佐 彦 王 奪
碑皇第二十五代料芽葺葺不合奪は幼名を宇佐彦といひ譲を宇佐彦王奪といふ
前碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り阿 祀 山 太碑宮の 天 つ大御碑の御 碑
* 設に於て科 *#不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原急司令碑摩留山男命は
一 三品の 大御 資を奪の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑鳥山 男命の御子 にましま
しき。
身奈 昆女 命を立て 、碑后 と す。浪和 王命の御女 にまします。諱を多摩夜里 昆
授け
と
奪
女
。
ふ
賜
耐
皇
と
右
を
岩
織
碑
大
左
前
は
命
男
作
玉
。
な太す古
古
碑
大
右
前
は
岩
御まして
一
第
の
ま命
高二し子根
太古に
ま
之
しき
。
巻 本なり
暴風雨
時
の
根
十
て
に
作を
と、
即位
荒南北
稲穂
白らし
悪く
登ら
五穀
島
物
作
南東
ち
則
す
に
國
諸
の
國 蹴 起り ぬ。碑 皇 親 ら巡幸まし まして之 を鎮め 給 ひき。
碑 皇天下を知食しめすこと十根。毒九十三根 おましまして高千穂宮に於て碑
第三章 正 紀 碑 皇 一三九
碑 皇 紀 一四○
避りましぬ。真崎山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。碑后撮政三十
根。毒百三十根おましまして碑皇の陵側の眞崎宮に於て碑避りましぬ。碑皇と
同所の陵に葬る。宇家潤不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は兵崎山の尾崎の砂原
に造営し て兵 砂宮 と稲し ぬ。皇子八碑 皇女十碑 まします。皇太子津田 彦王奪立
ち給ふ。之を第二十六代の碑皇となす。(㎞)
第二十六代 津田 彦 王奪
碑皇第二十六代 競 芽葺 不合奪は幼名を津田 彦と いひ、諱を津田 彦王奪といふ。
祀
金
武建維 金 を 左 大神 と 闘 す 主命 を 右 大神 と なす。 此 建 德 金 は 前 左 大神 其 に 作
-
の 第 一 の 御子 に まし まして'國 寺 主命 は 前方 大神 武王 光 命 の 第 1 の 御子 に まし
加曲
す。而し て。 而死に 前 左 大神 翼 に 作 命 の 第 11 の 御子、足 明 命 を 右 大神 と なし、右 大
家 の 事 を 行 はしめ まし き。
部位 十 二 張 三 十 八 日本 島 南 院 大城 城 に 起り、英 學 亦 親族 なり し と そ。 例 も 神室
新曲
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 二 十 根。 蘇 省 十 張 お まし まして 高 千種 常に 於 て 神
ż
遊 り まし お。 長 濱野 大 兒 山 の 陸 に 非 る。 字 來 測 不 二 合 氣質 と 論 し 本 る。 神 后援
卷
該 1+ 1 歳。 縣 市 三十 張 á *し まして長 將 金 に於 て神通り まし む。 神 と 同步
の 陸 に 非 る。 在于 家 制 不 一人合用 女 侍 J 政 し 來 る。 她 發 は、大分 の 黒野 小路 の 宮 にし
て 皇子 五 种 自圣 女 也 顯 まし ます。 至 太子 足 長沙 王孙 立ち 始 よ。 之 を 第 二 十 八 代 の
神 室 と なす。(戰 戰神 學 副秘書誌 『 )
-i-i"
第二十八代 足 長彦 王 奪
碑皇第二十八代競 芽葺不合奪は幼名 を足長男と いひ 講 を足長彦王奪といふ。
前碑皇第 一 の 皇子 にまします。高天原 に上り阿 祀 山 太碑宮の 天 つ 大御 碑の 御碑
殿 に於 て鶴 芽葺不合奪の諱即位式を行は せ給 ふ。高天原 惣司令碑津地山男命は、
三品の 大御 質を 奪 の 天窓 に 捧 け奉る。命は、前 惣司令 碑 火出見山 男 命 の 御子 にま
しま しき。
多 旨共明里女 命を 立て \、碑 后 と す。須種 手 彦命 の 御女 にまし ます。諱 を多摩 夜
耐
里 昆女 奪 を 授け 賜ふ。
皇
早馬太命を左大碑と古基武男命を右大碑となす。早馬太 命は前左大碑武建雄
之 命 の 第 一 の 御子 に まし まして、古 旨共武男 命は、次 の 前右 大碑足早男 命の 第 一 の 御子
に まし まし き。
即位十七根より三根天災地妖若りに珠り、運根(㎞) 五穀登らす戦争相績き東
北 の 國 々 盗賊 蜂起 し 勢狙 概 を 極め ぬ。勅 し て 津守 銭磨 彦命を元帥 と なし、太玉 別
命を副 帥と なし て東北の 大賊 を言向 和平 さしめ給 ひき。
第 三章 正紀 碑 皇 一四三
碑 皇 紀 一四四
碑皇天下を知食しめすこと三十五根。毒百二十 一根 おましまして高千穂に於
て碑避りましぬ。梅田野筑部山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。碑
后撮政二十二根。毒百三十四根 お ましまして 梅田宮に於 て碑避りましぬ。碑皇
と同所の陵に葬る。宇家測不二合昆女奪と 諡し奉る。産殿は大分の黒野小濱に
造営して小濱宮と稲しぬ。皇子三碑 皇女七碑まします。皇太子手身武王奪立ち
給ふ。之を第二十九代の碑皇となす。(㎞f
第二十九代 手身 武王奪
碑皇第二十九代 親芽葺不合奪は幼名を手身男といひ 講を手身武王奪といふ。
前碑皇第三の皇子 にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿に於て職募書 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原の惣司令碑天山男命は、
三品の大御質を奪の 天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑津地山男命の御子にまし
まし き。
明知標里女命(㎞)を立て、碑后とす。津加雄男命の御女にまします。韓
を多摩夜里 里 女奪 と授け 賜ふ。
__—
太宗 命 を 左 大神 “太 祖% 命 を カ大韓 た す。 太 康明命 に 前左 大亨。
の 第 1 の 御子 に ましょ し て 太极 參 命は前方 大神中 其 武 界 金 の 第 1 の 御子 に もし
まし さ。
即位 + 1 和平 國 に 大城 是 少佐。 カ ち 事 會 離 命 に 動 し て、N を 征 を しめ 始 かさº
神圣 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 張。義者十七 根 お ましょ し て 高 千種 常に 於 て 神
通り まし 込。 白井野大浪 の 日 向山 に 排 る。 李家 制 不 二 合氣象 と 論 し 本 º 羯庁
無 政 11 十 張。 義 自 四 十 張 お まし まして 大浪 の 日向 客 に 於 て 神 通り まし gº ॥
新特
入 同 所 の 後に 非 る。 李 家 馬 不 11 合用女神 と 論 し 來 る。 希 政 は 白井 野 大 將 の 仲 に
些單
し て 良子 玉 縣中 女 也 轉 まし ます。 皇 太子 山守 維 王孙 立ち 始 º N た 第三 十 代 の
ż
卷
第三十代 E字排 上停
神 室第 三 十 代辦事非 不 合金 は 幼名 を 山 守男 と いか 書 を 山守 維 王佐 と g º ॥
神圣 彼 の 皇子 に まし ます。 高天原 に 上り 同 祖山 太 師匠 の 天 つ 大仰 神 の 御 神
に 於 て親 家莊 不 合弁 の 講師 位 式を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 中山 明 命 は 三品
四
第 三 章 桜 ㎢ ㎏ 五
神 和 阿大
り 大師資 を 尊 の 天然 に 掛け 本 る。 命 は 前 總 司令 制 天山 明命 の 御子 に まし ます。
秀 作品 安 會 た 立て 、神 后 と す。 時 利息 命 の 御 女 に まし ます。 武 を 多摩 洛 里 里
女神 と 疑 け 期 よ。
武王金を 左 大師 と海與 主命を布 大神 とた す。 武王 命は前东 大 神木 雕像
の 第 1 の 御子 に もし まして 海 权 主命 は 前方 大神大根 絶命 の 第 1 の 御子 に ましょ
しさ。
克 南 語 の関 ヶ 浦 タ に 海峰山峰海 號將 超 しむ。 即ち 金建武 命 に 認 し てク を 征
レら 約 , 金 は金山 尼古 命中 五 世 の 孫 に まし ます。 カ ち 行き て 悪く N を言 而
和平 し g 些 功 に 依り 南國 の 造 司原金 と なす。 是 に 於 て 加生 金山 里吉 命 の 飲ま
ります 南宮 大神 を 分ら 合 は せ ねる意 を 取り て、其 正 り ませる 地 を 同 部 野生 いぶ。
北 愛し 戻り ける 宮 たる に 由 少 其 党 を 愛國 大神 と 名 つけ 結ぶ。 命或者 五 十 張 にし
て 神 通り まし み。 伊賀山峰 に 非 る。
神聖 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 二 張。 蘇 省 三 十 11 根 お まし まして 高 于 神宮 に
於 神經 9،レ gº E の 岡 の 後に張る。 李家 馬 不 11合氣象 と 設 し 来る。 神宗
*百十七# おましまして同宮に於て碑 造りましぬ。碑皇と同所の段 に葬る。字
家『不二合里女奪と言 し奉る。産殿は大分野黒の小濱の宮にして皇子八碑 皇女
十肩 まします。皇太子佐奈田男奪立ち給ふ。之を第三十一代の碑皇となす。(
言 国 記、韓代記、五 十 一
大山 、系 史、碑 ㎞)
第三十一代 佐奈田男王奪
碑皇第三十 一代競 芽葺不合奪は幼名を佐奈男といひ 講を佐奈田男王奪といふ
削碑皇第 一 の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御神の御碑
砕
品 の 大御 資を 奪 の 天窓 に捧け奉る。命は前惣司令碑中山男命 の 御子 に ましましき。
之
伊毛里女命を立て 、碑后とす。碑仁大彦王命の御女にまします。諱を多摩夜
巻
里里女奪 と 授け 賜 ふ。
高身太命を左大碑と岩城主命を右 大碑となす。高身太合 は前左大碑武勇王命
の第 一 の 御子にましまして岩城主命は前右 大碑海 根主命の第 一 の御子にましま
しき。
第三章 正紀 碑 皇 一日七
碑 皇 紀 四八
即位十五根四方諸 の州園大に不作にして餓争相龍み上下相苦しみぬ。明根 ㎞
年 ) 赤不作なりぬれは則ち諸 の大国守護司小園守司に勅して救荒策を設けて農
民碑を賑はさしめ諸、の八百萬の碑 々 を総 祀ましまさしむ。且っ原野には笹種を
水澤には碑を時かしめ以て共餓争を免からしめ給ふ。面して神皇街所愛㎞ の
州園を巡祀ましまして百般の種子を時かしめまししに共根 ㎞)赤五穀登らす。
足を以て廣く山野より碑及 ひ笹の質並に草木の質を採取せしめ 以て共飢餓を救
は せ給 ひき。
耐
碑皇天下を知食しめすこと五十根。毒百七十三根 おましまして高千穂の宮 に
皇
於て碑避りましぬ。大深谷野篤志山の陵に葬る。宇家測 不二合須奪と諡し奉る。
之
碑后 毒百四十五根 おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬
巻
Ji=|ijf
葬し
に
奉
し
設
と
奪
女
里
合
二
不
測
家
字
分
大
は
殿
産
。
小
黒
に
宮
の
皇
て る
野
濱 お
根
八
十
五
百
毒
、
后
る
ま
り
避
て
於
に
宮
まして
陵
の
所
同
と
皇
碑
。
ぬ し 。
まる
り
避
碑
て
於
七
ぬ
高
野
河原
葬
に
陵
の
山
奉
し
諡
と
奪
須
合
二
不
潤
家
宇 し
瀬 授け
と
奪
女
里
。
ふ
賜 三子
*
天
奪
を
質
御
大
奉
け
推
司
惣
前
は
。
山
碑
御
の
命
別
ま
に 品
窓
る
令
守 不天原男令位合 の
葺
芽
韓
て
於
に
殿
即御
諱
の
高奪
。
ふ
給
せ
は
行
を
司式
山惣
比
出
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一
第
皇
前
ふ
高ま
。
ます
上
大に
つ
天
宮
碑
太
山
祀
阿
天原
子
し
り
天めす
皇
し碑
食
知
を
ま
お
百
二
毒
。
根
三
十
四
こと
に
宮
高千穂
まして
下
し 庶り業
衆
、
て
にし
静粛
海内
以来
な即位
種
豊
)
㎞
根
連
み
築
を
き
に 津し子城瀬 。
古
岩まして
碑
大
右
前
は
御命
一
第
の
ま主命
に
き
まし 津す瀬
な古
と
右
を
太
身
高
碑
大
左
前
は
命
作
岳
泰 立摩
宮里
清瀧
奈
す
と
后
碑
、
\
ま
に
女
御
の
命
男
佐
多
を
諱
。
ます
夜 て
留
し 不い
書
芳
執
代
二
十
三
第
皇
碑
幼
は
茂
い
と
と
奪
王
彦
作
楽
弾
を
譲 合
名
田
ひ
正紀
章
三
第
・
皇
碑
一
四
プし
碑 皇 紀 一五 ○
子十碑皇女七碑まします。 皇太子田仲雄男王奪 立ち給ふ。之を第三十三代の 碑
皇となす。(㎞「 )
第三十三代 田仲雄 男 王奪
碑皇第三十三代 頼芽葺不合奪は幼名を田仲男といひ 講を田仲雄男王奪といふ。
前碑皇第 一 の皇子にまします。高天原 に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑
殿に於て職非書不合奪の識 即位式を行はせ給ふ。高天原抱司令碑多仁山明命は
三品 の 大御賞を奪 の 天窓に捧け奉る。命は前 惣司令 碑出 比 山男 命 の 御子 にまし
耐
まし き。
皇
炊照昆女命を立て、碑后とす。高根魂開命の御女にまします。諱を多摩夜里
之
昆 女奪 と 授け 賜 ふ。
巻
泰玉 親命を左大碑と太顔赤命を右 大碑となす。泰玉親命は前左大碑泰岳作命の
第一 の 御子にましまして太顔赤命は前右 大碑古 津瀬 命の第二の御子 にましましき。
碑皇武長刀昆古命に語して尾羽張國入濱の出張島の津島に宮殿を造営して祀
佐男命の御霊を祀り津島午頭天王碑赴と稲せしめ 共廣前に於て、東南の諸"の州國
の法政 に背ける罪悪碑を集め、説教説論を貸さしめ給 ふ。之を日本惣天 g といひ
碑赴を日本惣赴といふ。是ょり先大日留霊奪の御宇 組佐男命に認して出雲園出
雲谷の里大洞穴の天 獄に四方諸、の罪悪碑を集め 之を監督して説教説論をなさし
め㎞に復るものは免除し復らさるものは千日目毎に共末三十日間に四方の天
紳 園 っ碑の出雲の大赴に集りませるを俊ち て共 虜 分を評決ましまさしむるこ
とに定め給 ひ 術来 刑 佐男命より子孫三十八代承継して出雲祀海男命に至りにき
然るに今ゃ命の長子祀出國男命をして父祀の職務を承継せしめ、次子武長刀里古
命をして足初張國なる日本惣天獄の官長となし東南の諸 の州園を分携 して共罪
紳に説教説論をなさしめ給 ひき。足より出雲の大赴を陰大赴といひ津島の日本
惣祀を陽物 耐 と稲しぬ。面して比陽惣赴に於て説教説論をなすも善碑に復らき
る 碑は毎 未の三十日前官長之を率みて出雲に出向ましまし十五日日に
陰大赴に着しまして四方より集りませる天つ碑 園つ碑の評決に附して虜断まし
* さしむ。又津島の 陽惣赴の官長は武長刀 昆古命子孫之を承継ましますことに
定め 給 ひき。
第三章 正紀 碑 皇
一五一
碑 皇 紀 一五二
即位三十 六根 の 時、股國村辛王、周の 武王の 貸め に亡 され給 ふ。約 辛 王の第三の
御子に封馬王なるものまします。臣武丁に守護せられ 逃れて築市島の西北なる
はす 吊
附 島 に漂着 まし まし き。足より先、武丁 の 一族 に農 強 紳 なる も
第
山T
して 附島 に止りぬ。今や武丁は封馬 王を 守護し、落ち て農強 碑の後を追 ひ て之 に
頼りましき。後 共王に添 へ 来りませる般園 の暦書を碑皇に奉りぬ。乃ち 紳皇は
共島を津久島と改め 後封 馬 王を以て共島 の 初世太 記頭となし 給 ひき。是 に於て、
編
西成玄の十二支。並に木火土金水の五行を採り之を上に配して巡行きしめます
皇
皇
碑
祀
正
章
三
義
五
一
州
蹴平幸れ
に
行大
ら
親
皇
碑
。
和ぬ
向
言
を
之
まして
まし
し
給
碑 皇 紀 一五六
碑皇と同所の陵に葬る。宇家測 不二合昆女奪と諡し奉る。産殿は目杵野大濱の
宮にして皇子七碑皇女三碑まします。皇太子川上男王奪立ち給ふ。之を第三十
六代の碑皇となす。(㎞)
第三十六代 川上男王奪
碑皇第三十六代親芽葺不合奪は幼名を川上男といひ講を川上男王奪といふ。
前碑皇第二の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天つ大御碑の御碑
殿 に於て競 茨書 不合奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑手足長男命は、
耐
三品の大御資を奪の天窓に挑け奉る。命は前惣司令碑長山明命の御子にましま
皇
しき。
之
女奪 と授け 賜ふ。
政瀬王命を左大碑と大國田命を右大碑となす。政瀬王命は前左大碑太政彦命
の第 一 の御子にまして大國田命は前右大碑玉屋策命の第一 の御命にましましき
即位 七年西大陸の舟師数百般大撃して来り攻む。三年三月にして潮く之を撃
携 しにき。同十三年東園大に鶴 う。上下墓ラ 触争相落む。 皇親ら南北の州園
に 臨幸 まし まして諸”の穀物 を徴発 し て以 て東 國 を 賑は し 給 ひき。
碑 皇 天下を 知 食 しめすこと二 十五 年。毒 百 四十六 年 お ましまして、高千穂 の 宮に
於 て碑 避 り まし ぬ。阿蘇 原山 の 陵 に葬る。宇 家潤 不二 合須 奪 と 諡 し奉る。碑后、
撮 政三年。毒 百四十八年 お ましまして阿蘇宮 に於 て碑避りまし ぬ。碑 皇と同所
の 陵 に葬る。宇 家 潤 不二 合里 女 奪 と 諡 し 奉る。産 殿 は、大分野 黒 の 小演 の 宮 にし
て、皇子八 碑 皇女 十 一碑 まします。皇太子千利武王奪立ち給 ふ。之 を第三十七代
耐
の碑皇となす。(㎞) 日 、\
司 プ
皇
第三十七代 千利 武王 奪
之
於て碑避りましぬ。大分野御質山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉る。
皇
碑 后 撮 政四年。毒百二十年 おましまして御質山の宮に於て碑避りましぬ。碑皇
之
して皇子八碑 皇女七碑まします。皇太弟玉禰彦王奪立ち給ふ。之を第三十八代
の碑皇となす。(㎞f )
第三十八代 玉 禰彦王奪
皇第三十八代神*書不合奪は幼名を玉根彦といひ譲を玉顧彦王奪といふ。
割神皇の同母弟にましまして第三十六代神皇の第二の皇子にまします。高天原
に上り阿祀山太碑宮の天 つ大御碑の御碑殿に於て韓 茨書 不合奪の諱即位式を行
は せ 給 ふ。高天原 惣司令碑被 長富登男命は三品の 大御質を奪 の 天窓 に捧け奉る。
命は 前惣司令碑 手長男 命の 御子 にましまし き。
和加竹里女命を立て、碑后とす。多奈照彦命の御女にまします。講を多摩夜
里 里 女 奪 と 授け 賜 ふ。
大海原命を左大碑と根元守命を右 大碑となす。大海原命は前左大碑大道別命の
野
第二の御子にましまして根元守命は前右大碑玉興主命の第一 の御子にましましき。
皇
天 つ 大御碑 を 祀ら せ 給 ひき。
巻
女奪 と 授け 賜 ふ。
國太玉 命を左 大碑と國根 主命を右大碑となす。國太玉 命は前左大碑大海原命
の第 一 の御子 にましまして國 根主命は 前右大碑根元 守命の第 一 の御子 にましま
しき。
巻 之 皇 奪祀神
王
雄
張
川
代
十
四
第
。
授け
と
奪
女
昆
ふ
賜 天し
奪
を
質
御
大
奉
け
捧
司
惣
前
は
命
彦
共
旨
見
碑
御
の
ま
に
。
き
まし 不合 阿
窓 奪
る
令
命
子 葺
芽
韓
て
於
に
の 皇天原りし子
二
第
高ま皇
。
上ます
に
殿
御
大
つ
天
の
宮
碑
太
山
祀 太す
す
立
奪
王
雄
張
川
な
と
皇
碑
の
代
十
四
第
を
之
ふ
給
㎞
(
。 子
ち 奉し女子濱野る 。
し
諡
と
奪
女
昆
分合
大
、
は
殿
産
小。
の
に黒
宮
皇て
ま五
碑
三
ま 分るし宮野
大
、
山し
質
ま御
り
避
て
葬於
に
陵
の
所
同
と
皇
碑
ぬ
二
不
潤
家
宇 奉しる
し
諡
と
奪
須
合
不
測
家
宇
ま葬る
お
八
二
百
毒
年
一
十
政
撮
后
碑
。
ま 御野
高
奉
け
捧
を
刀
と
剣
ま
り
避
碑
て
分
大
二
十
百
毒
。
ぬ
に
陵
の
山
質
御 座
り
し
立摩し佐て
里
阿奈津
す
と
后
碑
ま、
に
女
御
の
命
男
多加
を
諱
。
ます
夜里 不いふひ尻名合
葺
芽
親
代
十
四
第
皇
幼碑
い川は
と
と男
奪
王
雄
張
川
を
講
前
。 天御神
し皇
食
知
高を
日
月
三
。
年
十
二
こと
神
祀
大碑
っ
天
の
めす
天原
下
宗
六
一
正紀
章
三
第
皇
碑 ㎞)●
即天原品男令位
高諱
。
ふ
給
せ
行
を
司式
長惣
足
三碑
は
命
ー
|
j
『
"
神 * 初 一大二
大 日 租金 を 左 大神 と'國 字 式 命 を 右 大神 と た す。 大 日 租金 は 前 左 大神 國 太 王命
の 第 1 の 御子 に ま,し まして 周 文武 命 は 前方 大神 國 飛 主命 の 第 1 の 御子 に まし も
す。
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 三 十 三 年。 義 自 四 十 七 年 お まし まして 高 千種 常に
於 て 神 通り まし み。 < 重要 對 海地 對 阿 の 陸 に 非 る。 字 本 制 不 二 合 得 金 と 論 し 來
る。 神 后裔 百 四 十 三 年 お まし まして 同 党 に 於 て神 通り まし み。 神 室 と 同 所 の 破
に 葬る。 李 家 馬 不 11合 配 女神 と 論 し 本 る。 海 教 は 八 重 返 新約 他 部 に 造営 し て 知
和神
池 の 宮 と 称し み。 皇子 入神 室 女 也 顯 よし ます。 皇 太子 職 利 長男 王孙 立ち 続 º
些德
之を第 四+ 1 代 の神 室 とた す。 (韓 戰機關 戰號 線 體, )
ż
第四十 一 代 羯 利曼 男 王 德
卷
神 星第 四 十 1 代 辦事 高 不 合算 は 幼名 を 根 利明 と いび 戦 を 勝利 曼 丹 王 金 といふº
前神聖彼 の 中 子 に*し ます。 高天魔 師 和山本 神宮 の 天 つ 大御神 の 御 神殿 に於
て 勤労者 不 介質 の 韓部位 式 を 行 は せ 始 。 高天原 物 可 令 制 日 晚 明 命 は、三品 の 大
御 資 を 飲 の 天然 に 掛け 本 る。 金 は 前 政 司令 制 足 長男 命 の 御子 に まし まし さ。
卷 ż 皇 神 第 東**し事て北
立湖
を
人文
多
。
す
と
神
よ、
に
子
の
金
*あ
*
ま仏ち子す
し
*
太神
立中
李
な
氏
神王
の
代
二
十
四
第
を
之
始
戰
(
。
す
た
と 1人し浪野殿1 まし
本不
。
る
本
し
論
と
等
女
分人民
大
小は
に県
宮
女の
室
神
二
十
子
全
、
て まりし 分
お
年
一
十
百
通后裔
神
て
於
党
まして
る
非
に
陸
の
所
同
。
む ま1
う
迹
神
て
於
許
他
第
む
1
不
間
家
学
非
に
陸
の
出
㎜
。
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本
し
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離
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結び々 天
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つ
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百
入
秘めめ 北宗原民く浦陸 ク
き
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本
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足
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、
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1
第
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命
武
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國
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一
百
為
。
年
五
十
三
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高
高千穂
まして
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し 1り
十
即位
南
年
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組
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基
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起
路
城
海
農
、
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共
に
大
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調
被
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。
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生 根左金神根す治
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大
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一
第
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湖
家
字
神 和 大四
第四十 二代 H 長老 王 傳
神島 第 四 十 二 代號 非営 不 合算 は 幼名 を 正 反応 と いび 戦 を 王景秀 主祭 と いぶ。
前神學 第 一 の 皇子 に まし ます。高天原 に上り 前 加 北 太 神宮 の 天 つ大御神 の 御 神殿
に於 で 輸 業 高 不合 等 の 論 部位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 大班 牙 命 は 三品
の 大師資を 尊 の 天然 に挙げ本 。 命 は 前 政 司令 制 日 晚 明 命 の御子 に まし ましき。
不 加里 女 命 を 立て 、神 后 と す。 宗神明命 の 御女 に まし ます。 韓 を 多摩 洛 里 里
女 等 と 接 け 期 よ。 -
-
國 鐵 離 命 を 左 大神 と 再 作 與 金 を右大神 と なす。 國 鐵 離 命 は前在 大神 大 山根 命
の 第 1 の 御子 に まし まして有 作用 命 は前方 大神 大 根治 命 の 後 の 御子 に ましょ
しさ。
部位 十 七 年本島 1 ㎞ 大 不作 にし て、張 松城 路 起 し て 大 に 農民 議 を 苦しむ。 及 多
神 室 四方 を 巡 車 ましょ し て 語”の州 國 の 初 世 太 祖師 區 國企 に 動 し て 討ち て N た 言
向 和 不 vしめ にさ。
神官至 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 五 年。
* + * * * ,しょ し て 高 千鶴 …
て 神 通り まし む。 日 向島 見山 の 陸 に乗る。 李 家 馬 不 11合资 金 とし %, ㎏
百 三 十 四 年 お まし まして 同名 に 於 て 神道 04 , gº ㎜ J 同 所 の 陸 に 非 るº 小
家 馬 不11 合 配女 等 と 論 し 本 る。 希 政 は 大 分野 県 の 小松宮 にし て、皇子 入神 室 女 大
柳 * し ます。 皇太子 波 家長 王金文 ら 結ぶ。 之を 第 四 十 三 代 の 神室 とた す。 (觀點
戰艦體 對 球 )
第 四 十 三代 族 女巫 王 曾
和神
前 神 星第 三 の 皇子 に まし ます。 初め 同 母 兄 皇 太子 张 其 明王 命 體 部位 式 の 傍ら 高
ż
天 原 に 上り も として 進 中 大海 に 於 て 沈没 し て 神 通り まし gº 2 充て 彼 の立
卷
子 波 家長 王金代~ て自 太子 と たり高天原 に 上り 同 祖山 太 神宮 の 天 つ 大神 神 の 師
阿
神殿 に於 て親 李 群 不合 称 の 講師 位 式 を 行 は せ 結ぶ。 高天原 物 同 金剛 小 に 明 命 は、
1 品 の 大 御家 を 彼 の 天然 に 掛け 本 る。 命 は前 總 司令 制 大 師兄 金 の 御子 に よし も
しき。
皇
种
第 三 章 桜 1 大五
…
韓 桜 1 大六
波字 些 民 女 命 を 立て 農 后 と す。 法語 國 明 命 の 御 女 に まし ます。 建 を 多摩
夜里 里 女 等 と 怒り 開 よ。
大王 思部 命 を 左 大神 と 思 府 縣 命 を 右 大神 と なす。 大王 忠 部 命 は 前 左 大神 明細
雄介 の 第 1 の 御子 に まし まして、川 府 網 命 は 前方 大神 界 作用 金 の 第 1 の 御子 に ま
しま しさ。
部位 十 年 より、神 星 码 方 諸“の州 國 に 逃 事 を し ます と と セ 年還 者 の 翌日 高 千種 の
~~~~~~~~~~~
給水。 終り て 後四方 に 向 つて 神殿 まし まし き。
羯
朝 皇 天下 を 知 食 しめす と と 十 八 年。 義 自 三 十 八 年 お まし まして 高 千種 常に 於
と
后裔 百 三 十 一 年 お まし まして、大 分野 狗 資 山 の 宮 に 於 て 神 通り まし む。 神 室 と 同
所 の 陸 に 非 る。 本家 制 不 二 合 配 女神 と 論 し 本 る。 這 段 は 大 分野 県 の 小浪 の 宮 に
し て 自重 子 三 神 室 女 也 轉 * し ます。 皇太原 日產 王偉文 ら 結ぶ。 之 を 第 四 十 四 代
の 豊臣 と たす。(戰 戰線 編製鐵線 戰雙 )
第 四十 四 代 照 日彦王奪
神皇第四十 四代 競 芽葺 不合 奪 は幼名 を 照 日彦 と いひ講 を照 日 彦 王 奪 と 稲 し、前
碑皇第 一 の皇子にまします。高天原 に上り阿祀山太碑宮 の 天 つ 大御神の 御 碑
に於て鶴芽葺不合奪の諱 即位式を行はせ給ふ。高天原 惣司令碑加多目 男命は三
品の 大御質を奪の 天窓に捧け奉る。命は 前惣司令碑小仁男命の 御子 に まし まし
き。
津波 気昆女命を立て 、碑后 と す。顧越男命の 御女 にまします。諱を 多摩 夜里
耐
女奪 と 授け 賜 ふ。
*
皇
高津奇多命を左大碑と 守山主命を右大碑となす。高津奇多命は前左大神大玉
之
忌部命の第一の御子にましまして守山主命は前右大碑思宿禰命の第一の御子に
巻
まし まし き。
即位七年四方諸 の州園の初世太記頭匿園令に勅して道路の開設をなさしめ給
ひき。
西|
同十二 年 より、碑皇 東西南北の 園 に巡幸ましますこと 五年。後又 西大陸の大
第三章 正 紀 碑 皇 一六七
碑 皇 紀 一六八
軍攻め 来 り ぬ。十二 年を 経て、之を撃懐 まし まし き。
碑皇 天下を 知食しめすこと四 十五 年。毒百三十八年 お ましまして高千穂 の 宮
に於 て碑避 りましぬ。木原野江尻山 の陵 に葬る。宇家 潤不二 合須奪と諡 し奉る。
碑 后 撮 政 五年。毒百四十 一年 お ましまして、木原野江尻宮 に於 て 碑避 りまし ぬ。
碑皇と同 所の 陵 に葬る。宇 家測 不二 合 昆女奪 と 諡 し奉る。産殿は、臼杵 野大濱 に
再造営して自砂宮と稲しぬ。皇子七碑皇女八碑まします。皇太子津気男王奪立
ち給ふ。之を第四十五代の碑皇となす。(㎞)
耐
第四十五代 津気男 王 奪
皇
前碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ大御神の御神
巻
殿 に於 て、鴨芽葺不合奪の講即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑小被奈男命は
三品の大御質を奪の天窓に捧け奉る。命は前惣司令碑加多目男命の御子にまし
まし き。
津 羅 里 女 命を 立て 、碑 后 と す。船 子男命 の 御女 にまします。諱 を 多摩 夜里 里
女奪と授け賜ふ。
と、立剣 太 命を右 大紳 となす。 雲季 基命は前奏奏碑 ㎞務多
長年主命を左*
命の第一 の御子にましまして立剣太命は前右大碑守山主命の第一 の御子にまし -
まし き。
即位 七年より神皇四方諸。の州園 に巡幸ましまして農民碑の田畑の耕地を巡問
ましますと十三年。乃ち、諸、の萬の 作物を上中下に定め給 ひ各等級に従ひて裏賞
を 賜 ひに き。
耐
碑皇天下を知食めすこと四十年。毒百十六年 お ましまして高千穂の宮に於 て
皇
紳避りまし ぬ。豊津碑原の岡の陵に葬る。宇家潤不二須奪と諡し奉る。碑后 毒
之
百十年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。宇家測
代開 耐
巻
ま
不二 合 里女奪と諡し奉る。産殿は大分野黒の小演宮にして皇子八碑皇女十碑
巴闘
します。皇太子種越彦王奪立ち給ふ。之を第四十六代の碑皇となす。(㎞
五 十 一代 記、 、
㎞)
第四十六代 種越彦王奪
第 三 章 正 紀 碑 皇 一六九
北千穂
巡り
を
園
州
。
諸
高の
意
還まして
に
宮
更
、
ふ
給
まし
幸國 まして
よ
豪農
徴
を
物
発
の
諸
農
む
苦
シ
て
ふ
給
し
は
賑
に
碑 りま
発
民 窮幸
の
農民
多く
もの
する
餓死
地
共
と
后
は
皇
碑
ち
則
。
ず
なら
一方
巡
を 乏
方 。
き 主命
御
一
第
の
太
剣
立
碑
大
右
前
、
は
命
男
鞍
春
て
にし
ま
に
まし子
し 授け
と
奪
女
。
ふ
賜 。
しき
-- 天し
奪
を
質
御
大
品
捧
司
惣
前
は
。
奉る
御
の
命
男
奈
被
小
碑
ま
に
ま 窓碑
げ
令
子 不天原
葺
芽
職
て
於
に
殿
即
講
の
高奪
。
ふ
給
せ
行
を
式
司
惣
三
は
命
男
大
日 合 阿
位
令 皇天原りし子
二
第
皇
高ま前
。
上ます
に
御
大
つ
天
の
宮
碑
太
山
祀
東なりらて風南
年
十
暴即位
國
みの
荒
と吹き
穂
自
な
皆
も
れ
執
作
登諸
殺
百
て
。
ず なす
右
男
鞍
春
、
と
を
平
雲
碑
大
左
前
は
命
主
玉
太
。 佐摩して里
ま立天
に
女
御
の
命
玉
神
す
と
后
碑
多、
を
書
。
ます
=
夜 不いふひ彦名合
葺
芽
韓
代
六
十
四
第
皇
幼碑
い武は
とと
奪
王
彦
越
種
を
諱
。
紀
皇
碑
○
七
一
に 其
、
高 よ
■"』1-"
千 # *** し まして、高天原 に向 ひ、神祇 神宗代々 の 天 っ大御神を 初め、四方
の八 百 萬 の 碑 々 に、百 殻 の 豊穂 を 蔵 祀 まし まし 給 ひき。
神皇天下を知食しめすこと四十年、 百十八年おましまして高千穂宮に於て
* 碑避りましぬ。豊野直人の松島山の陵に葬る。宇家測不二合須奪と諡し奉る。
碑后撮政七年。お百二十五年おましまして豊野直入の松島宮に於て神避りまし
編 ぬ、字家測不二合里女奪とし*る。産殿は大分野黒の小濱の宮にして皇子十
一碑 皇女三碑まします。皇太子㎞仲穂王奪立ち給ふ。之を第四十七代の碑皇と
* なす。(㎞f )
・ 第四十七代 禰仲穂 王奪
之 碑皇第四十七代 鶴茅葺不合奪は幼名を根 仲穂と いひ 講を顧仲穂王奪といふ。
と
* 碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太神宮の天っ大御神の御神殿 の
に 於て、鶏 *普不合 奪の諱即位式を行はせ給ふ。高天原 抱司令碑立山男命は三
品の大御質を奪 の 天窓 に捧け奉る。命は前 惣司令碑目大男命 の 御子 にましま
き。
第三章 正紀 碑 皇 一七二
-
韓 息 和 1 を1
美 海里 安 命を 立て 神后 と す。 其作 非 金 の 御女 にまし ます。 書を 多摩 洛 里 里
女 等 と 松竹 開 。
太王弥山金 をな 大神 と 見栄=命を布 大神 となす。 太 王 將山 金は前在 大綱
玉 主 王命 の 第 三 の 御子 に まし まして 見 星象 山川 金 は 前 在 大神 宗教 界 衛 の 第 一 の 御
子 に まし まし さ。
地位 元 年より神 は神 と共に 東西南北 の書 の州 に離棄 しますこと+1
年 八 月。 其 上り 南國 の 大城 を 言 向 和平 し ます と と セ 年 にし て、荒 に 還 未 * し まし
說
藤 組 まし ます と と 各自 なり に さ。
Ż
神 星 天下 を 知 食 しめす と と 四 十 七 年。 府 再 三 十 一 年 お まし まして、高 千種 常に
卷
於 て 神 通り まし 於。 無法 醫師 立山 の 陸 に 非 る。 字 家 制 不 二 合 氣質 と 論 し 本 る。
制 后裔 西 二 十 六 年 お まし まして 同 党 に 於 神 通り まし む。 神 室 と 同 所 の 陸 に 葬
る。 李 家 制 不 11合 平 安徽 省 し 本 る。 張 政 は 大 分野 馬 の 小浪底 にし て 空子 人神
******* 大 佛法 加 修 王李 立ち 始 … 之 を 第 四 十 八 代 の 書 は た 。
(㎞ 第四十 八代 津加彦 王 奪
碑皇第四子へ袋 ㎞名を津加彦といひ譲を津加彦手務といふ 前
碑皇の 同 母 弟にましまして第四十六代碑皇の第七の皇子にまします。初め 前碑
皇の皇太子忠長彦王命は諱即位式の貸め高天原に上りましまししに 青木原 に於
て暴 かに碑避りましぬ。是れ 碑祀碑宗代々 の天 つ大御碑を初め四方の天 つ碑 園
碑 八百萬の碑の威霊の然らしむる所となし、人心競 々、戦標以 て之を子孫に博へ、
諸。の天っ碑 園 っ碑に封し度潔斉敬以て 功徳 に報いまさむことを誓はしめ給 ふ。
皇
の諱即位式を行はせ給ふ。高天原惣司令碑夜佐男命は三品の大御質を奪の天窓
に捧け奉る。命は前惣司令碑 立山 男命 の御子にましましき。
興顧 昆女命を立て 、碑后 とす。太立男命の御女にまします。諱を多摩夜里里
女 奪 と 授け 賜 ふ。
第三 章 正紀 碑 皇 一七三
碑 皇 紀 一七四
演歌主命を左大碑と長津玉垣命を右大碑となす、演次主命は前左大碑太玉繁
山命の第 一子の御子にましまして長津玉垣命は前右大碑見屋寒川命の第一 の御
子 にましまし き。
即位 十五年東國に内観起りぬ。乃ち碑皇は碑后と共に共地に巡幸ましまして
鎮めさせ給 ふ。南海道を廻り三年三月にして還幸ましましき。爾後雌 高千穂の
峰 に登幸ましまして高天原の碑祀碑宗代々の天つ大御碑を蔵祀して耳 濃ましま
す こと二 十 一年 なり し とそ。
碑皇天下を知食しめすこと四十五年。毒百五十八年おましまして高千穂の宮
に於て碑避りましぬ。八重雲野鷹林山の陵に葬る。宇家潤不二合須奪と諡し奉
る。碑后 書 百四十六年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵
に葬る。字家測不二合里女奪と諡し奉る。産殿は大分野 黒の小濱宮にして皇子
十二神皇女八碑まします。皇太子最 加解王奪立ち給ふ。之を碑皇第四十九代の
碑皇となす。(㎞t )
第四十九代 眞加弾 王奪
『-シ 『-』
と いひ、諱 を 旨パ 加 弾 千r と いふ。
神皇第四十九代*** *****んをま***
*
過
日
***。チェ**ォ によりシ%の っシ
Bに於て撃管石倉修の修ロに定を行はセ給ふ。高原寝司令神加誰山男命は
三品 の大 御質を奪 の 天窓 に 捧 け 奉る。命は前惣司令 碑 夜 佐男命 の 御子 に ましま
一 す。
立摩
ます
夜里
里
に
女
御
の
命
雄
玉
出
す
と
后
碑
、
を
諱
。
白太仁
ま
多 て
し
編
授け
と
奪
女
昆
。
ふ
賜
耐
来
毒
な質
と
右
を
演
碑
左
前
は
命
崎
國
土
大
。
主す命
皇
まして
荻
一
に
来
毒
質
碑
大
右
前
は
御
三
十
第
の
命
まし 玉垣
御
ま
主
長*子
し
命
津
之
に
子
。
き
まし
巻 年
七)
㎞
(
人
木
自
に
地
起南
賊
大
て
ひ
語
と
乃等
。
ぬ
本蜘蛛ちり島
土即位
蹴 。
大
比 まして
み
率
将
諸
は
皇
紳
幸
渡
に
年
七
十
、
給
け
平
を
賊
大
て
本き
ま
に
討
ひ 州
し
つ
を起 し し 賊 の 惣 大将 は 長武彦 にし て、副将 は阿 和 田彦 長門 彦・山中 彦・伊 眞男・
(㎞)久草原男 北濱彦日多尾彦越足彦頭長男足長男角田彦高津 漫男土佐防男楽
第三章 正紀 紳 皇 一七五
碑 自 紀 一七六
長男(㎞)鳥羽身彦永久羅男身長彦 の十七将なりき。
同十九年、本州南島 地大に震ふ。即ち山岳崩れ地裂け て諸碑多く碑避りましぬ。
乃ち四方の諸 國の初世太記頭 区園令に勅し て、高天原 の碑祀碑宗天 つ大御碑初め
諸”の碑 々 を 濃 り祀らしめ 給 ふ。面し て碑皇 親しく高千穂 の峰に日々 登幸 ましま
し て、高天原 に 向 ひ 念 り なく轄 祀 まし まし給 ひき。
碑皇 天下を知食 しめすこと三十三年。毒百 三十 一年 お ましまして高千穂の宮
に於 て 碑 避りまし ぬ。梅原野宮所 の穂積山 の 陵 に葬る。宇 家潤不合須 奪 と 諡し
耐
之を第五十代の碑皇となす。(㎞f )
第五十代 岩仲彦王奪
碑皇第五十代 鶴芽葺不合奪は幼名を岩仲彦 といひ講を岩仲彦王奪といふ。前
紳皇第一 の皇子にまします。高天原に上り 阿祀山太紳宮の天つ大御碑の御碑殿
高 千人 原 物a 司令 神山 成田刀 命 は、v 日叫 の
に於てシと
命は前惣司令碑加羅山男 命 の 御子 に まし ましきっ
㎞を奪のシ。
大空
豊尾尾安命をNU 庫信と 旧男年の御姿まします。議を多摩夜長尾 女
奪 と 授け 賜 ふ。
雲根 手長 王命を 左大碑 と 見 屋磯部命を右 大碑 と なす。雲根手長 王命は、前左大
碑 大 土國 崎 命 の第三 の 御子 に ましまして見 屋磯部命は 前 右大碑質毒 来 主命の 第
一 の 御子 にまし まし き。
耐
なく碑 殿 に於 て親 ら藤 祀 ましまし き。
皇
碑皇天下を知食しめすこと五十年。毒百四十二 年 お ましまして、高千穂宮 に於
之
て碑避りましぬ。直入野吾平山の陵に葬る。字家測 不二合須奪と諡し奉る。碑
巻
后毒八十八年おましまして同宮に於て碑避りましぬ。碑皇と同所の陵に葬る。
宇家潤不二合 昆女奪と諡 し奉る。産殿は、大分野 黒の 小演宮 にし て皇子十碑 皇女
八碑まします。皇太子弾基都男王奪立ち給ふ。之を第五十一代の碑皇となす (㎞
開 闘記、碑 代 記、五 十 一代」記、
㎞)
第 五 十 一代 禰 県 都 田力 王 彼号
**ェキシ都リといシ
ふ。前碑皇第一の皇子にまします。高天原に上り阿祀山太碑宮の天っ夫碑御の
第
女 奪 と 授け 給 ふ。
皇
王命 の 第 一 の 御子 にましまして 講 を 水門 足命 と いひ 道博主命は前 右大 碑 見 屋 磯
巻
皇 紀 一八○
男子中師替・診 破 共他の 不具 者及び病碑を除き、皆な軍碑 兵士 と定む。一萬碑 の頭
を大師 と定め、千碑 頭を 中師 と定め 百 碑頭 を 小 師 と定め、五 十碑 頭 を 五長 と定め 給
ひき。又、諸、の穀物 を初め、草木 の 質 鳥獣魚類等 にし て、各所有 高 の 十分の 一を軍資
として之を牧めしめ以て不時に備へしめ給ひき
同 六年六 月二 十 日、全國 地大 に震 ひ、山岳崩潰し、或は 地裂け て、黒泥 噴出 しぬ。又、
八 月初旬、烈 しき暴風吹き 荒み、稲作初め諸 作番 く白 穂 となり て 登ら す、翌年、霊森雨打
ち 績き、変 作皆 な黒穂 となりて 不作 なり き。是に於 て、天下騒然 として執 れも大 に
耐
さむょり外 方法なかるべしと。則ち軍船二百六十般を造り各共定めませる部署
皇
に 就 かしめ給 ふ。
之
惣頭碑司太玉部命中臣政屋多知玉命は築市島の諸。の匿國の諸令令に勅を博へ
巻
全島を 守護せしめ まし き。
大臣表春機男玉命は副司永島男 興 原彦 右手彦 津身雄彦鹿根彦海足男事水男大
沖津彦手カ彦達立男顧島彦等の諸将を従へ 軍兵三千碑を率み軍船十二般に分乗
して海上ょり六 津の水門 に上陸ましまして常國の初世太記頭柿崎彦命の和羅加
の宮 に入り給ふ。乃ち、奥波 の 諸 匿國の諸 令令を初め 江 外 令外、小島 山島の 令令 に
勅 を博 へ 賊を言向け 和平さしむ。曾 するもの、江外 令手長男 命 奥波令浅水 命 北越
令奈 飛 命 佐渡島 命棚 雲命 に て あり き。
皇弟高見香具山王命は中臣道之足男命を初め盛雄彦田 房産 三笠彦 笠座彦久羅
田彦 住留 家 彦・伊 須 彦 阿部 彦 倉見彦等 の 諸将を従 へ 軍兵三 千五 百 碑を 率 み 軍船十
五般に分乗し て南海 上 より佐賀見の除 綾 の 水門に着 御ましまして常 國 の 初世 太
記 頭 足柄 彦命の 八 間 室 屋 の宮 に入ら せ 給 ふ。乃ち東大原 令 雀雄 命 高 主命 友 別命
耐
道之足男命を従へて高天原に上り阿祀山太碑宮に於て諸 の宮守をして天っ大御
之
攻め 向はしめ 給 ひき。
*へ
命 を 召し て 勅 を博 へ、更に、木山・山 表・山 背 川津 の 四 大國 の 令 を 召し て勅 を博 へ むと
皇
よ 予共矢を受けむと言ふより早く 太子に胃を射貫れて馬より落ちて死す、長
皇
乃ち供奉の諸臣殊死して之を防ぐ。皇太子赤起ちて戦はむとましますも発火消
皇
え 股八を携せす。大に怒り親ら出てて縦横奮ひ撃ち途に賊を走らしめ 等て名草
之
東北の諸大國諸匿國初め島々 の 土蜘蛛愛野人農賊等を言趣和平しけるに由 り各
皇
の鍵事を以聞す。碑皇大に驚き即時龍船を発せられ潮く伊瀬崎の多気の宮に着
御ましましき。然れとも賊の大軍遮り戦ふを以て足より西園に巡幸ましますこ
巻
と能はす。曾、六皇子高倉王命は武佐志より軍船にて伊瀬崎の多気の宮に着し碑
皇を守護し奉る。然るに賊勢日に加はり威力盆。織なり。碑皇万ち勅して東國の
軍勢をして急遽 起き援はしめ以て大に賊を撃懐 せむとして先っ行宮を要衝の地
第三章 正紀 碑 皇 一八九
碑 皇 紀 一九○
に築かしめ給ふ。然るに東園の軍兵 潮攻海上を渡り赴き倉せしを以て比の宮を
度 の賞シ)と名っけ給ふ。足に於て四皇子日高佐野王命を立て、皇太子
となし高倉王命を勅使として共宣旨を奉して之を博へしめ給ふ。佐野王命 大に
得 ひ読みて之を受けさせ給ふ。命乃ち共地に行宮を建て、碑皇を迎へ奉らむと
し給 ふ。行宮を佐野の宮 と名け ぬ。
大久米王命は遠久見ょり 軍兵を率みて伊瀬の度倉の行宮に着し給ふ。碑皇認
して更に佐野の行宮に赴き救はしめ給はき。稲飯王命は津久島より三毛野入野
耐
ェ命は土座ょり各泉崎の尾野水門に着し共に佐野の行宮に入らせ給ふ。則ち 軍
皇
議を行宮に開きぬ。即ち人具野日より進軍することに決す。是に於て皇太子は
之
諸軍をして軍容粛然着しく進ましむ。倉、那賀戸長外十七戸長各兵を率みて来
巻
一九一
脚 桜 九1
子 入神圣女 + 1 歳 まし ます。 後兩 張 + 五 年辛苦 1 月+
立ち 始 * N た人 第 1 代 神武 天皇 とた す。 戰戰國 國 總體
第 二節 ㎢ 后蕭 說
張 政 は 神 室 の 神 通り まし し 後、制 后 の在 し ます あら は 共在世 中 神 后 に 於 で 神
に 代 之 天 の 下 を 知 食 しめ させ 駱 & J 人 是 たり。 神 室 第 1 代 辦事 者 不合 等 の 御字
書 の講談を ため させ 駱* 動 し て構成 に作し ます の神靈9122%
和帕
に あら され は 皇 太子 は天 っ 日 制 の 大 御 位 に 師 かせ まさき る と と に定め させ 駱
り。 是 知ら、制 后 端 政 の 神曲 なり き。
と
張 政 に在 し まし し 制 后 は神 星第 五 十 1 代 中 二 十 四 代 の 神 后 と す。 然 形 とも 呼
卷
皇 第 五 十 一 代 郡 夫 哥 不 合弁 論據 其 部 里 王 等 の 神 后 多摩 洛 里 里 女 等 書館 正平 安徽
は神 の 議 通り まし し より中 四 年後 れ て神 通りまして 英在世中 亞太 子 日 為 作歌
王 金牌 。“)大 御位 に師 かせ 始 はす。 神戶 網羅 9* し し 翌年 11 月+ 1 日 に至り大
御成 を 聞かせ 駱 《 少。 而 し て共 十 四 年間 は常時 戰亂 の 世 たりけれ は 単に 間 無 の
世とそ稲しける。左れと今碑 m に徴し共揺 政十四年たりしや明なり。然るとき
は紳 后撮 政、凡 て二十五代とす。
碑皇第 一代、鶏 芽葺 不合奪、諱 日子波 激 武言 合奪の 碑 后 多摩 夜里里女奪講玉依 姫
奪、日向の 高千穂 の 宮 に於 て撮 政 に在しましし こと二 十根。毒 四百七十 一根 おま
し まして、同 宮 に於 て 碑 避り まし ぬ。
編
に於 て 碑避り まし ぬ。
皇
宮 に於 て 碑 避 り まし ぬ。
碑皇第十代、鶏 芽葺不合奪 講 日野光王奪 の碑后多摩 夜里里女奪講佐瀬里 女 奪 高
千穂の宮に於て撮 政 に在しましし こと二十三根。毒百八 十八根 お はしまして同
宮 に於 て碑避りまし ぬ。
●
第三章 正紀 碑 皇 一九三
神 最 般 1カ四
神奈子 五代將 李群 不合 衆 品な 王金の神 タ常來 亞 里 安徽 宗 根市
女 等 大 分野 神 慈山 の 宮 に於 無 政 に在 し まし ) と と 四 十張。 義 11 日圓 + 人 張 永
*し まして 同省 に 於 て神 通り ょ しめ。
神圣 彼 + 大 代 將 李群 不 合金球體 在 沙王 仲の 神后 多摩 洛 里 亞 女侍
講 月底 里 女侍
大 分野 神 將 山岳 に於 て補 政 に在 し まし ) と と 11 十 二 張。 蘇
11 百 三 十 九 郎 家 *,
まして 同 党 に 於 て 調達 す まし み。
羯
神 榜上 七 代 就非其 不合 弁論 加 日 明 王佐 の 神 后多摩 洛 里 亞女 侍
講法 手 里 安徽
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神 室 の 御殿大 分野 狗 發 山 の 物 たる 御資 山 の 宮 に於 て 無 政
に在 し まし し と と 11 十
二 張。 新古 王 十 一 根 お まし まして 同 党 に於 て神 通り
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神中 第十 八 代 將李群 不合金球部 和沙 王位 の 神后 多摩 洛 里 亚 女侍
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講義 德里安徽
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神 室 の 御殿 大崎 野 直入 山 の 物 たる直入 の 宮 に 於 て
卷
議政 に在 し まし し と と 11 十种。
蘇 百 五 十 二 張 も まし まして 同 党 に 於 て 神 通り まし め。
神圣彼 +九 代 將李群 不 合金多 加沙王金 の 神兵多摩洛 里 亚女 侍
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神 室 の 御殿使 能 原野 小 笠山 の 物 たる 能原 の 宮 に 於 て構
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神中 第四 十 四 代謝 菲菲 不合 金曜日 凌 王命 の 神 タ學校 正 北宋 雜 性 改 為 世
女 侍、制 室 の 御 陸 木 原野 在 风 山 の 物 なる 江 防府 に 於 て、瑞 政 に在 し まし す と と五年。
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神圣 彼 四 十 六 代號 亦非 不合 弁護 神 秘密 王 神 の 神 后 多摩 後 正 正安 佐藤 大 作出 女
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神 室 五 十 一 社 在 位 11 千 二 百 八 十 七 年 にし て、神 后悔 改 二 十 五 柱、四 百 五 十 四 年 た
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魔神
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巻 之 皇 耐
恋
第 四章 後記 人皇
*へへへへーへへへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜*
第 一節 人皇創業
第一 東征の 部署
人皇第 一代 碑武天皇は、宇 家潤 不二 合世、碑皇第五十 一代、鶏 芽葺不合奪、諱 弾 賞都
男王奪 の第四の 皇子にましまして、幼名 を日高佐野王奪と いひ、諱を碑 日本磐余彦
火 火 出見 天皇と 稲 し奉り ぬ。
初め、天皇の皇太子たりしとき、父 碑皇と共に東征 にあり。碑皇は伊勢 日より、皇
之
太子は久基野日より 厳軍即ち共佐勝彦命を奉して反せし長信彦鶴洋宣理命等を
巻
請 者 試 長 を 従 《平 氏 を 奉 る て東海 日 より 進軍 よし まさし む。 艦 中野 を 敵 Y 2。
些過
建 有名方 命 五 十 三世 の 孫武 功夫主義 的 建 金を 東山 路側 の 元帥 た た し 座 式 主
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命 五 十 四 世 の 孫 大湖 大 主 大湖 作 人参 命成 期 能 修 根 命 五 十 三 世 の 孫權 與 大 主體 與
卷
津 港 金 の 開頭 を 制御 と なし 東山 諸 國 の 各 物 世 太 祖師,並 に語不論 同 路 直路 長を 従
{軍兵 を 奉 る で、大湖 日 より 進軍 よ しま さ した 。 魔 城 天 に 帰る。
加 在 明 命 五十 五 世 の 孫出鉴 大主出雲大神主命を 北越 紹興 の 元帥 とた し 大巴拿
ばり * - ***
命 王 十 四 世 の 孫 弘光 大 主力 馬 他 返 家 金大物 主命 五 十 六 世 の 孫 弘前 大 主 神龍 類
彦命の雨碑を副帥 となし、北越諸園の各初世太記頭並に諸令諸司 諸首 諸長 を従 へ、
軍兵を率みて丹馬計間の雨日より進軍ましまさしむ。士気シ掲せり
賊軍 は、要衝 に占擁し、埼を高くし溝を深くして之を防く。既にして、雨軍相接し
て哨戦%を争ふ。矢石飛ふこと雨震の如し、皇軍殊死して戦ひ伏戸を越え流血
を渉りて奮撃す。賊の雄師 潮く潰を告け闘塞守をそ失ひける。皇軍勝に乗して
進む。勢風雨の 如し。諸将、牧馬の首を並 へ て前に 立ち、叱陀戦を督し て追撃 す。
或は弓 にて射殺し、或は剣 にて突き磐 し、或は石 剣 に て打ち砕く。暴風の 草木を吹
き荒すが 如し。東海 日第 一 に陥り、東山 日第二 に陥り、針間 日第三 に陥り、丹馬 日第
四に陥る。諸将、盆。騎聘 曲折 剣 を舞 はし て指摩 す。軍兵之 に従 ひ、韓闘長騎 向 ふ 所
前 なし。賊兵、彼 にも石 剣 に て蹴打 せ られ、比 にも剣 に て突き 弊 され、枕 骸原野 を厳
ひ、優 尻 山谷 を埋め てけり。騎降 する者 は、大将 分は首を断ち、兵卒は顔 に入 撃し て
放ち ぬ。東海 日 の 元帥尾羽 張明 照雄 命は、副 帥 日田地武勇命と、更に進んて、大栗 津
日 の 園 を撃ち破り、賊 の 惣 大将 眞佐勝彦命 の 本営 を指し てそ突進しける。勢 疾風
の 如 し。乃ち、石 の 大剣 を 打ち振り て急 に接すれは、副将 祀津 亘理 彦命は、惣大将を
第 四章 後 紀 人 皇 二○一
碑 皇 紀 二○二
守護して通れ 走り、賊兵四散して赤抗する能はす。吾 雨帥、韓闘長 騙向ふ所前な
し。城十八将、遂に赤四方に通逃しけり。吾雨帥 追撃して意 に戦二大将を日築山
*へヘヘヘー〜〜〜〜〜〜へヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜へへへ
を放っ。日 楽山 悪く 平く。尋て東海東山雨道の皇軍は丹馬・針間雨道の皇軍と兵
巻
を合して、阿多後山を園み 継攻撃をそ開始しける。質に暗黒七年三月十八日なり
第二 丹生本営と日高宮
皇太子は時に丹生の本営に在しましぬ。一日 皇族大久米命 高座日多命を勅使
として、高天原 に上 らしめ、碑祀碑宗天 っ大御碑を祀り、國賊退治 の所願をなさしめ
給 ふ。又、丹生の川上 にて、高天原 の 天 つ 大御碑を初め、諸、の天碑 地祇を親 ら 轄 祀ま
-へへ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜-*
り 咲 ひて 道をそ譲りける。
皇
國賊なり。園賊即ち家兄の仇敵なり。何そ征討せさるへき と語り給ひき。潮く
巻
島筑紫の軍兵を率みて海陸共に進軍せきせ給ふ。兵勢日に加はり王気盆シす
第
子 乃ち共由を問はせ給ふ。雨命封自したまはく吾等勅を奉して高天原に上り 諸
皇
の天っ大御碑を初め天照大御碑 並に高皇産霊碑に碑勅碑託を所願ましましける
之
む、との碑託を授かりにき。則ち、碑剣を奉持して還りませるに、今や皇の安座屋の
様 に、八股鳥数多止りて鳴きけるを祀たりし、と奏しけれは皇大子御威 いと斜なら
す。時に怒然御悩廃ゆ。皇軍 踊躍 奮ひ立ち ぬ。
皇大子%野崎の水門より上陸し先っ要衝を相して行宮を建て給ふ。共地を日
高と名っけ 共宮を日高の宮と稲し奉る。勅して海陸の将校を選み、日 っ共部署を
定め給 ふ。即ち皇太子、親 ら大久米命手研 耳命中臣道之臣命以下二十二将を率み
*
天地碑明共に容ささる所の罪なるべし、と厳に宣り給ふ。乃ち務 す。皇大子は 大
郷
蕭
耐
坂
皇
語りたまはく、次小園司・郷司 村主等の状況を知れりや、封自したまはく能く之を知
れりと。乃ち、之を鶴導となしぬ。(㎞)
第三 牟 斐の鬼山征討
第 四章 後 紀 人 皇 二○五
碑 皇 紀 二○六
高座 日多命相 飯 王命 三毛野 入野王命は、皇軍を率 みて進み給ふ。乃ち、先 つ御木
山に自木軍(㎞)を攻む。自木軍固守して之を防く。皇軍鼓難して斉し
く進む。山岳%めに ふ、自本軍夫に 知をそ途りける。高座日多命 力ち彼の
碑 剣 を以て 打振り給 へ は、風怒 ち 方位 を鍵す。白木軍、貸 め に苦しみ走り て鬼山 に
退く、皇軍勝 に乗 し て 進む。勢風雨 の 如し。白木軍 又、通れ て三 木浦 に走る。錦村
戸長今 登 志麻 賊軍 に應 し農賊 を率 みて 皇軍 と 遮り戦ふ。皇軍、撃ち て 之 を磐 す。
白木 の 残軍破れ 走り て、海陸 に跨り陣 す。面 し て 残兵を集 む。稲飯 王命、更に別 隊
耐
浦を望みしに百本の軍船影跡たになし。浦の漁農目く前日既に去れりと。稲飯
-*
ェ命 活怒して宣りたまはく吾皇祀は天つ碑にして御母は海碑の女なり。如何そ
編
して 稲飯王命の後に従ふ。軸鶴相街む。行くこと賞雨の如し。 須史にして、津久
皇
神の海原 にて自本の賦船にそ追ひつきける。乃ち眠船と相接し哨域銭を争ふ
之
洞 宗請 の天っ大御碑を初め、八百萬の天碑地祇を呼上け 所りて宣りたまはく神力
を以て刺園の大敵を退治ましまし給ふ へしと。碑剣を頭上に捧げ道に海原を見
*せは は如何に周園の自本兵を援はんとして神㎞千里海を蔵ひ 産態高里天に
瑠 る あら むとは。 共衆寡敵せ さもの あるを知り、乃ち又 新りて宣りたまはく紳あ
第四章 後 紀 人 皇 二○七
らは速 に暴風を 起 し、以 て数多 の 賊 船を覆 へ し 給 ふ へ し。予は海原 を騙 廻りて数
多 の 賊 船を覆 へ すべ し。と 直 に頭上 に 捧け ませる大 剣 を八方 に 打ち 振り て、復 た
頭上 に捧げ て 之を大海 に投 し まし ぬ。三 毛野入野王命、比を見 て又、天碑 地祇を所
第 り て、赤 碑 剣 を 打 振り天 を 拝 し て、頭上 に 捧け て、大海 に 投 し まし ぬ。比 の 状 を 見 て、
春 加 々 旨具津 命 太玉 七峡谷 命 御 雷折 彦命・忌部 若道 命の 諸将、強兵二 千を率 みて、雨震
編 の 如く飛 ひ 来る流矢を事 と もせ す、明 城鏡 を 争 ひ奮激 殊死 し て、賊 船 を四方八方 に
乗 蹴 へ、調 怒震 薄風雨の 至る が 如く、短 兵急 に接 す。一 以 て 千 に常 らさるなし。賊
耐
兵逸巡、魂 観れ気温 む。偶、黎明南西 より風大 に起 る。怒 ち 又、北西 より暴 風速 に来
皇
り 我船初め 数多の賊船と共に皆な津久島に吹き附けらる。我兵大賊を上陸せし
めじ、と大 剣 を舞 はし 殊死し て 縦横 奮 ひ戦ふ。偶。辰巳東 なる未曾有 の 大 暴風 に鍵
し、怒 ち数 多の 賊船 悪く沈没 しけり。我軍物 大将 稲飯 王命 初め、三 毛野 入野 王命・春
*
加 々 旨共津命 御雷折 彦命・烏 部若道命等、並 に 強兵二 千五百 碑 皆沈 滅し給 ふ。賊船は
自木の軍船五十除般周園の援船五百除般なりといふ。(㎞)
第四 宇陀の國見征討
皇太子は親ら皇軍を率み、作田彦命の資 賛持命を懇 導として進み給 ふ。行 々 兵
を牧 め、伊 日加 呂井戸に至る。兵威大 に振 ふ。岩押 別 命の高吉野無勇 呂、赤兵 を率み
て、来 り調 す 以 て先鮮 となす、偶、大熊現れ、我軍の前を走る。拾も響導をなすものの
如 し。是より先、木 日 山奈衛 の 山賊 伊須 久里 敷を賊起長 髄 彦に通し今や皇軍の 来
ませるを 知り、道路 に陥難所 を設け、澤 々 谷 々 に伏兵を潜め て 之 を 待つ。彼 の 大熊、乃
ち先 つ 眺 に 陥る や、跳ね 踏 り て、大音撃 に て三 度 叫 ひつ。怒 にし て澤 々 谷 々 より、数
高の 熊永官 り来 り、共潜める伏兵数萬を 慶 にし にき。皇太子、大 に脱 ひ給 ひ て、乃ち、久
眞野 山 を熊野 山 と名 つけ 給 ふ。共地 を 売院 空牙 といふ。一 日、中臣道之 臣 命 奏 すら
く、勝主別 命 を遣し て 兄 滑 を召し出 さる可 し。と 乃ち之 を 召す。兄 滑 途 に 来 らず。
之 却 て 大殿 を造り、密 に押 機を 設け て皇太子 の 臨 御 を 請 へり。皇太子、潜 に問者 をし
て之を副はしめまししに叛形既に顕る。足に於て 旅土照田命岩折春時命に勅し、
遣はし て 兄滑 の 一類 を皆 な殿内 に押入れしむ。果して、皆 な押 機 に打たれ て、死 し
ける。共尻を斬刑 に虜 す。比の所を血原といふ。弟滑 大に悲敷して 目く、兄 滑謀
反 の 貸め、祀先 の 功 も今や水泡 に騎しなむ。翼く は、共子滑 足 をし て 比家 を 立てし
第 四章 後 紀 人 皇 二○九
碑 皇 紀 二一○
め ま さむ こと をと。皇太子、勅し て之を 免 させ給 ふ。弟滑 夫婦、大響 を皇 太子 に獣
す。皇太子、悦 ひて 宣りたまはく、吾征討 の 成り なむは、専ら軍兵 の 力 なら むと、乃ち
共響を 分 ち 賜ふ。我軍大 に振興 し にき。進み て宇陀の 十 知 に 至る。十 知 國司 兄
磯城 麻、馬 手 坂 に女 軍碑 を、弓手 坂 に男軍碑 を備 へ、又、大路 小路 に競炭を 置き て、共奥
に そ陣しける。比 所を磐余 といふ。太玉若 道命 奏すらく、八 冊だ烏 に勅 し、遣はし て
兄磯城 弟磯城を 説かしめらるべし と。乃ち之を遣 す。兄磯城 八服だ鳥を射る。矢
外れ て、共子若 磯城 呂 に 中りて 死す。又、太玉 若道命、八開だ鳥をし て 弟磯城を 説かし
耐
大撃して賊船長髄彦を國見山に攻む。日月の御旗 繰績として旭日に弦く。全軍
-之
に鼓して徐に進む。天地貸めに振ひ 山岳貸めに崩れむとす。大地震大雷の如し。
巻
八
○
二
紀
皇
碑
宇討陀
四
征第
見
國
の
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見
○ 耐
状 地 り
を 祇 て
を 復
加所 た
皇太子は 親ら皇軍を率み、作田彦命の資 賛持命を響導として進み給ふ。行 々兵
を牧め、伊 日加 呂井戸に至る。兵 威大 に振 ふ。岩押 別命の商吉野 無勇呂、赤兵を率み
て、来 り 調 す、以 て先鮮 と なす、偶、大熊 現れ、我軍 の 前 を走る。拾 も響高導をなすものの
如 し。是より先、木日 山奈衛 の 山賊 伊須 久里 敷を賊起長 髄彦に通し、今や皇軍の 来
ませるを知り、道路 に陥階所 を設け、澤 々 谷 々 に伏兵を潜め て 之 を待つ。彼 の 大熊、乃
ち先つ 雅所 に陥る や、跳ね踏 りて、大音撃 にて三度叫 ひつ。怒にして澤 々 谷 々 より、数
萬の熊査 り来 り 共潜める伏兵数萬を慶にし にき。皇太子、大 に脱 ひ給 ひて、乃ち、久
眞野山 を熊野山 と名 つけ 給 ふ。共地を荒院究といふ。一日、中臣道之 臣 命奏 すら
く、勝主別 命を遣して 兄 滑 を召し出 さる可 し。と 乃ち之を召す。兄 滑 途に来 らず。
之
却 て 大殿 を 造り、密 に押 機を 設け て皇太子 の 臨 御 を 請 へり。皇太子、潜 に問者 を し
て之を調はしめまししに叛形既に顕る。足に於て匠土照田命岩折春時命に勅し
遣はし て兄 滑 の 一類を皆な殿内 に押入れしむ。果して、皆な押機 に打たれて死し
ける。共尻を斬刑 に虜 す。比の 所を血原といふ。弟滑 大に悲敷して 目く、兄得 謀
反 の 貸め 祀先の 功 も今や水泡 に騎しなむ。翼くは共子滑 足をし て 比家を立てし
第 四章 後 紀 人 皇 二○九
碑 皇 紀 二一○
めまさむ ことをと。皇太子 勅して之を免させ給ふ。弟滑夫婦、大響を皇太子に獣
す。皇太子 説 ひ て宣りたまはく、吾征討の 成りなむは専ら軍兵の力ならむと、乃ち
共 響 を分 ち 賜ふ。我軍 大に振興 しにき。進み て宇陀の十知に至る。十知 國司 兄
磯城麻 馬 手坂 に女軍碑を、弓手坂に男軍碑を備 へ、又、大路小路に競炭を置きて共奥
に そ 陣しける。比 所を磐余といふ。太玉若道命奏すらく、八 服だ烏に勅し、遣はし て
兄磯城 弟磯城を説かしめらるべしと。乃ち之を遣 す。兄磯城 八限だ鳥を射る。矢
外れ て 共子若磯城 呂に中りて死す。又、太玉若道命、八服だ鳥をして弟磯城を説かし
耐
無ョ 敗走して馬より落っ。巨勢園の農碑等撃ちて共首級を執り 音大将御雷氏に
皇
慮す。乃ち賞して之に酒者を賜ふ。又進みて北山の城将猪子興呂並に共常二百
之
二十騎を警しぬ。乃ち 晋大将岩折氏之を賞して酒者及ひ紙の大幣を賜ひき
巻
南西の城 伊佐古奈弾呂は土農の騎順多きを察し自ら共営を焼きて高尾山に
*る。吾大将手力氏共子手力早難命 手力須久身命の二碑に謀を授け賊の背後を
突か した。賊将前路に走る。大将手力國守命野山に火を放ち 軍騎追ひて之を踏み
。シを残す。方ち天将賞して紙の夫務を叫ひも(㎞)
***山** 北陸日道の皇軍は伊瀬伊賀山背宇治績多大坂 小坂逸戸大湖 月馬
に充満して旗様天に強 る。以て阿田後山の大賊を包園して Nを攻撃せむとそし
ける。
一日同田後山の戦常等深山数ヶ所に火を放ち以て皇軍を欺き釜に木日園(㎞
『 日高地方に奔らむことを企っ。倉 基風大に起り数萬の威軍却って悪く養死し
たりけり。是に於て東北地方の皇軍 大山を越え、潮く盆 山間 泉地 木日地方に進軍
し来り、又 各所の過 より引上け来れるもの日に多く山野に闘明 す。雲霞の如し。
耐
威力盆 織なり。途に賊地を十重二十重に園みてけり。乃ち皇太子は大久米命と
皇
兵二千五百碑入水の状を以聞す。時に闇黒の世十三年十月三十日なりき。(㎞)
-皇
- 第五 碑后 登 返
之
米命表春概王命以下八将を従 へ 兵害に羅りし諸地方の小國郷村などを巡幸まし
まして、農民碑 を憂勢 撫育 ましまし給 ふ。或は 國司以下の 功勢を賞興し、或は共功
勢 に 依り て新 に共職 に補 し、或は 窮農碑 を救 し 給 ひき。面 し て先 つ、吉野 より宇
陀を経て、宇治を巡狩まします。各地の農碑、いと脱 ひて執れも拝謝し奉る。宇治
より伊賀を経て伊瀬の度倉 の宮 に着御ましましき。先つ、父碑皇の御陵に参拝 ま
しまして、大 に 之 を祭 ら せ給 ふ こと二 十 一 日。即ち、闇黒十四年 一月二 十 一日 より
二 月十日までなり き。共より伊 瀬崎 に出 て、高天原 の 天 つ大御碑 に通 拝 ましまし
て赤祭らせ給ふこと二月十三日より同しき十九日まて七日。伊瀬崎より大湖津
に至り大湖の西漫を廻りて太場( )に出て大山麓の大谷を越え、小坂大坂を過
き、淀 戸より南奈度川 を経て、日 高宮 に還幸まし まし給 ふ。時に三 月三 日 なりき。
東征 の 役 起り て より平定 に 至るま て、皇軍 の 戦病死 者皇族七碑、将校三 十八碑、
耐
五 千除、周國 の 援兵 凡そ 五 萬除 なりといふ。
巻
りませる宮なるに因り、一に西宮大碑といひ 共籠山に祀りませるに因り、赤電山大
碑といふ。海軍の皇族とは皇兄即ち碑皇第五十 一代 競非葺不合奪の第二の皇子
天津稲飯 王命 同第三の皇子三毛野入野王命にましましき。
同時に又神代より高男命代々支配たりし揺津園の住吉に皇見即ち同碑皇の皇
太子海津彦五瀬王命の碑霊を祀りまして住吉大碑と稲せしめ給ふ。命に従ひ名
草戸に於て戦残ましましし功臣碑をも併せ祀りましき。(㎞)
。
第二 節 人 皇 歴代
第 一代 碑 武 天皇
第一 貧美都 と即位
碑武天皇は 幼名を、日 高佐野王奪と いひ 講を碑 日本磐余彦火 火出見天皇といふ。
碑代 宇家潤不二合須世 碑 皇第五十 一代、鴨 芽葺不合奪 講 弾兵都男王奪の第四の皇
子にましまして、母は 碑后多摩 夜里昆女奪 講 照玉 昆女命にまします。
砕
諸将を倉して大事を議りましますこと七日。即ち積年の争乱 始めて平定したれ
巻
即かせ給ひき。(㎞
巻
第一一 官制と法制
碑代よりの大國十八州、小國四十八國を魔し、更に東海 東山・北陸山陰 山陽・南海・西
海の七道を置く。即ち東海は伊賀( )伊瀬㎞ 足羽張三川遠久見 住留家
海伊佐賀見武佐志上富佐 下富佐(㎞)日田地(㎞) の十二道となし東山
第四章 後 紀 人 皇 二 一九
碑 皇 記 二二○
は大湖(㎞)見野日高( *『)志奈野(㎞)住和(㎞ )上毛下毛陸奥の八道
となし北陸は和加佐 (㎞)越地前 越地中越地 後 加川 佐渡 の 六道と なし、山陰は、太
場(㎞)田地間 稲葉(シ)穂木 出雲尾木(㎞)の六道となし山陽は針間
は、
(眠。)三間坂(㎞) 木日津(シ)阿木(シ)穴門(㎞)の五道となし南海は
穴
木日(シ)阿和地向波(シ)佐貫本(㎞)伊代(㎞)土佐和(㎞t)の六道と
なし西海は筑前第後(㎞)豊前豊後(㎞)日前 日後( ㎞)日向
佐津 間 の 八道 と なし ぬ。
耐
又大和(シ)山背川地泉水塩津の五道は御家内と稲し天皇の御領地と定む。
皇
軍惣司令頭長豊武力命の第一 の御子にまします。楽日子奪の子孫世々海碑と稲
皇
し海軍の惣司令頭長の職を継承ましましき。五十六代豊武力命のとき 弟建勇命
之
命の諸軍と力を合せ西海に於て自木及周園の大軍と戦ひ彼我共に沈滅しにき。
是 に至 つて、天皇 は 遺 子 椎 根津 彦命を以て、共 父祀 の 功 を 録し、帝都 所在 の 惣國 造と
なし、國中 碑 祇の 事 並 に 民事を 治め しめ 給 ひき。
中夫四人小夫四人の官師を置く。申食園政大夫に副へて政を司らしめ給ふ。
第 四章 後 紀 人 皇 二二一
- "iー - 1} * 『 * - - -* - ー ・" *** -
碑 皇 紀 二二二
即ち尾張田 彦命 課訪原彦命出雲彦命・大湖田 彦命、を中夫 に、日田地彦命 伊勢山田 彦
命 足柄彦命 武稲葉彦命を 小 夫に任し ぬ。
七道 五将軍を置く。即ち中臣道之雄 命を東海十二道の 将軍に、忌部 大建手命を
東山 八道 の 将軍 に、速玉 山田 命 を北陸 山陰十二道の 将軍に、宇津 彦命を 山陽・南海 十
一道の 将軍 に、椎 根津 彦命を西海八道 の 将軍に 任し給 ひき。
諸税 牧 納 役 を置く。大力太命を以て 之 に任す。命 は、諱を豊徳 知貴命といふ。
大己貴 命五 十 六 世 の 孫 にまし まして、大杉木 命の 御子なり。世々 遠久見國 の 國 造
たり。命、貸人聴 敏 にし て 知略あり。勅 し て、遠久見國 佐野 原 の 古 麻 の 宮 より、召し
皇
柱まします。大太力命佐野男命尾羽昨男命天香護山命(㎞) 菅野
-*
世諾命足なり。先に共に天皇に事へて東征に功あり。大太力命は識を太玉七峡
谷命と稲し、父 の 後を 嗣 きて、城上の宮 にまします。佐野男命は諱を白羽 鳥羽 命と
し*久見に『り三加達久見住留家の懸令となり父祀の居城佐野原吉魔の宮に
まします。尾羽 昨男命は譲 を吉笠見命と稲し 和加越地前後加川の懸令となり 野
登の宮にまします。三子共に 替力人に絶 く世に三勇士と稲す。又三宮を三輪家
とそ稲しける。天香護山命は越地後の國造となり。蒲原の伊夜の宮(㎞)にま
します。菅野 世 諾 命は、佐渡 の 懸 令 となり ぬ。
碑皇を人皇と 改め、政治家を家臣家と、軍碑家 を 武士家 といふ。農民家を農家と、
商法 家 を 商家 と、政治人 を家臣、と 軍碑を武士 といふ。農民碑 を農人と、商法 碑 を 商
人 と 定め給 ひき。
兵役を定む。即ち、皇族家臣 の外、武士農人 商人 にし て男子二 十五歳 より四十幾
まては等しく兵役に服すべきことに定め給ふ。但し元役、(㎞) は二十五歳
より三十歳ま て とし、将校 は、五十歳より六 十歳 ま てと 定め ぬ。
皇族は、天皇より別れて三代とし、三代以後は、臣家 又は平民と貸す。又、天皇の 御
紋章は、碑代の如く日輪に十六筋の光明を附 せるものと定め、皇后の御紋章も赤 碑
代の碑后の如く月輪 に五三模様の雲の形を附せるものと定め給 ひき。
農民全戸 病難なとに羅り、耕作の時期を失ふ者あらは、兵隊に命して之を助けし
第 四章 後 紀 人 皇 二二三
碑 皇 紀 二二四
むる法 を 定め 給 ひき。
租税 の 法 を定む。天皇親 ら耕して、租税を減 せ させ給 ふ。共法 に 目 く、租税 に二
種ありて、老 幼 男女を論 せ す 各人 共に頭分 に課す。即ち共 一 は、一人分 大概米 四合
とし、之 を 官省 の 経費 に充 つ。他の 一 は、一人分 米 一外二 合とし、共 一牛 を地方 及軍
備の 経費に 充て、一牛 を救荒の備と なし ぬ。面 して農人 一人の 作分は、凡そ 四十 束
と 定む。一束の粒、白米として 一斗 なれは四十束の粒 即ち自米四石 なりけり栗碑
豆変赤同 し。 - -
-
耐
なし、且つ猛田大懸王となす。第三皇弟軽身大久保皇子を以て木日 撮 津二 園の園
巻
*を以てシ十一シ及元ゅとなし*筆にシを支配せしめ=っ
天皇 の 御料地、伊賀・伊 瀬 の 國 造を 奪 ね しめ給 ひき。
皇族高知彦皇子を以て 土佐和( )の国造をなし皇族岩高彦皇子を以て佐貫
編
木(㎞)の國造となし皇族倉立彦皇子を以て伊代( ㎞)の園造となし皇族熊
砕
#岩仲彦王奪の皇子にまします。皇族 川彦王を以て日向の園造となし%族東
之
巻
八
四 王は、碑 皇第第 四
四十 代、鵜 芽葺不合奪 講 津 加 彦王奪 の 曾孫王 にまします。皇族太
第 四 章 後 紀 人 皇 二二七
利 & 11 人
日志 上 を以て 統帥 の 関 造 と た す。 王 は、神圣 彼 四 十 七 代號 班牙 哥 不合 衆議 制 他 被 王
佐 の 四 世 孫 王 に よし ます。 皇族 中 正道 是 沙 王 を以て 同 本 次 則 の 側近 と なす。 同
神 室 一世 孫 王 に よし ます
第
た す。 前 王命 の 御子 玉 前 男 命 五 十 二 世 の 孫 に まし ます。 小 夫 日 田地 武功 命を 以
で日 田地 の 武器 と た す。 武 神龍 會 正 十 三 世 の 孫 に まし ます。 小 夫 大湖 武 在 《 命
之
て出雲足木の園造となす。祀佐男命五十五世の孫にまします。小夫鮮間突撃
巻
命を以て針間三間坂(㎞)の國造となす。大物主命五十六世の孫にまします。
中臣政屋多知玉命を以て 木日津(㎞)の園造となす。顕園玉命五十三世
の孫にまします。橋明玉命を以て伊岐(㎞)の園造となす。橋明天手長命四十
六世の孫にまします。和多都美命を以て津久島(シ)の園造となし ぬ。
第
第 四 章 役 紀 人 皇 二二九
-
神 紀 -
三o
伊 和 武明 命 を以て、小 國 社 開 の 武道 と なす。 大物 主命 五 十 六 世 の 孫 に まします。
景 福 在 男 命 を以て、小 國 阿 那 度 の 国造 と なす。 小 名 用 古郡 命 五 十 五 世 の 孫 に まし
* す。 開閉 式命を以て小銃前 の 国道とた す。 李 代 主命 王 十 五 世 の 孫 にまし*
す。 海 神武 命 を以て、小 國 在 佐 の 武道 と なす。 王 在 公元 十 世 の 孫 に まし ます。
美 其 作用 金 を以て、小 國術 和 の 武道 と なす。 隨 國王 命 の 孫中山 莊 市 命 五 十 二 世 の
孫 にまし ます。 下大原 金を以て小 國 下記 の 武器 と た す。 戰隊 入 北市 命 の 五 十
四 世 の 孫 に まし ます。 正 前 生命 を以て、小 國 上 常住 の 関 造 と なす。 前 王命 の 御子
爾帕
延命 の 御子 伊人 修 命 五 十 一 世 の 孫 に まし ます。 建部 用方 術 を以て、小 國 大湖 の 関 造
之
武作男命の第三の御子にまします。阿蘇彦命を以て、小國肥地の國造となす。豊
皇
の懸令となす。太基祀命五十三世の孫にまします。香立橋男命を以て紀泉津の
皇
懸令となす。天見屋根命五十六世の孫申食國政大夫物部天日方奇日方命の第 一
之
ひら おか
の御子 にましまして河内の宇地原枚 岡の宮に移り止り給ふ。御鮮倉魂命を以て、
巻
筑前後の懸令となす。太眞祀命の第二の御子崎玉男命五十世の孫にまします。
、木股佐楽長命を以て 霊前後の懸令となす。醜男命五十三世の孫にまします。大
太長川命を以て日前後の懸令となす。阿曾彦命五十三世の孫にまします。御
シ建命を以て日薩の懸令となす。経津八千剣命を以て伊代の懸令となす。夫
山祇命五十四世の孫にまします。岩折天野 楽屋命を以て佐貫木(㎞)の懸令と
なす。興玉命の子田村彦命五十二世の孫 にましまして世々 同國香川の田村の宮
に止り給ふ。武内種別命を以て土佐和( “)の懸令となす。味拒託彦根命五十
四世の孫にまします。八衛隅川命を以て阿波(シ 『)の懸令となす。作田 昆古命
玄孫言勝彦命講 尾羽張田彦命五十七世の孫 にましまして同 國板野大麻の宮 に止
り給ふ。天野填土船命を以て大湖見野の懸令となす。稚武王命五十五世の孫に
まし まして、栗本野建部の 宮 に 止り 給 ふ。言勝 國 日 命を以て二 伊 尾の 懸 令となす。
耐
島命を以て津久島の懸令となす。豊玉武里古命五十三世の孫にまします。清野
之
子命の曾孫豊玉彦命の第二の御子佐津眞男命五十二世の孫 条原武命の第二の御
皇
子におします。共大本営を住吉の宮といふ。中之島㎞。土佐和野(㎞。
之
三の御子 にまします。共本営を度海の宮といふ。本島東海三崎の水門に副本営
巻
副本陣を設け、高御座男命を以て、之か副元帥となす。命は豊玉彦命の第三の御子
日野前佐武命 五十三世の孫 佐嘉彦命の第二の御子にまします。共本営を三浦の
宮といふ。本島東海奥野の水門に副本営副本陣を設け武刀男命を以て Nか副元
帥 となす。命は豊玉彦命の第四の御子大阿佐彦命 五十二世の孫阿和板野命の第
日。 子にさします。基本*を遠基の常といふ、本
シ武勇命を以てNが副元帥となす。。
十二世のシリ命の第二の御子“
シ門の水田に 本シ
は 正彦命の第六の御子玉シ。
にします。基本松を佐渡の常といふ、中之シ
シを は大麻を命を以てNが副元帥となす。 。
っ一〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^
耐
シ五十世の 五十猛命の第二の御子に“れます。。
市の東海津久#野の水門に副本シ。
皇
か となす。命はB王彦命の第五の御子那珂三シ十二『。
の御子にまします。基本巻は神代字家河不二合の
巻
しませるに回りシの宮と名けぬ。築市g南シ
本陣をBけ*生命を以てこれが元帥となす、シ。シ
シリ命正十二世の孫楽魔武命の第一の御子にまします 。
二三七
-
第四章 後 紀 人 皇
碑 皇 紀 -
二三八
不二合須世の家古島の宮を再興ましまして大住の宮と名け ぬ。築市島西海長崎
の水門に副本営副本陣を設け、大長日命を以て、Nか副元帥となす。命は豊玉彦命
の第三の御子日野前佐武命五十三世の孫佐嘉彦命の第一の御子にまします。共本
*は神代字家測不二合須世の長崎の宮を再興ましまして日佐前の宮と名けぬ。津
久シ)なる碑代よりの本営に副本営副本陣を設け 和多彦命を以てNか副元
師 となす。命は興 玉彦命の第六の御子玉懸彦命、五十世の孫 津木島都命第 一の御
子 にましましす。共本営は碑代の天都渡見の宮を再興ましませるものにして和
太都住の宮と名けぬ。伊岐島(㎞)なる碑代よりの本営に副本営副本陣を説け、
天手長男命を以て N が副元帥となす。命は鶴玉彦命の第七の御子石田明男命 五
十世の孫天明玉命の第二の御子にまします。共本営は紳代の天渡都手配の宮を
再興ましまして石田明の宮と名けぬ。佐渡島なる碑代よりの本営に副本営副本
陣を設け、渡津男命を以て、之れがが副元帥となす。命は興 玉彦命の第八の御子羽
シ命 五十世の孫五十猛命の第一 の御子にまします。共本営は碑代の天渡都見
の官を再興ましまして渡都羽茂の宮と名けぬ。比等十二箇所を海守の副本営副
本陣 と 稲 し 給 ひき。
又、陸 守の 大本営大 本陣を、全國三箇所 に 設け、副本営副 本陣を三十六箇所に設け、
大本営 に大元帥 を、副本 営 に 副 元帥 を 置き ぬ。面 し て大元帥 副元帥 は、碑 代 より世
々十 七軍碑家 にましませるものの 一族中、武勇 あるもの を 選 み、三年毎 に交替 を な
-
さ しめ 給 ひき。
即ち 大和野(シ)の城上に陸守大本営大本陣を設く之を三輪の宮といふ。日
田地野の魔gには守大本**本陣を設く、之を鹿島の宮といふ。日野の同撃山
皇、耐
に陸守大本営大本陣を設く。之を阿蘇の宮といふ。比等を陸守の三大本営大本
陣 と 稲 し 給 ひき。
之
川地野(㎞。『)の河内に副本営副本陣を設くNを牧岡の宮といふ。尾羽張野
巻
の中島に副本営副本陣を設く。之を眞清田(㎞)の宮といふ。遠久見野の佐野
に副本営副本陣を設く。古登眞地( )の宮といふ。伊須野 )の加茂に副
本営副本陣を設く。之を木見佐和 の宮といふ。佐賀見野の高天原に副本営副本
陣を設く。之を碑都阿祀山谷高座の宮といふ。武佐志野の阿 太地野に副本営副
第四章 後 紀 人 皇 -
二三九
碑 皇 紀 二四○
本陣を設く。之 を日川の宮 といふ。富佐野 の初生 に、副本営副本陣を設くっ 之を
玉前の宮といふ。奥野の自川 に、副本 営副本陣を設く。之を都々古和家の宮とい
ふ。上毛野(㎞)の碑楽に副本営副本陣を設く。之を貫前の宮といふ。下毛野
㎞)の河宇地に副本営副本陣を設く。之を二荒山の宮といふ。志奈野の湖端
に、副本営副 本陣を設 く。之 を 住 和 の 宮 といふ。大湖 野 の 栗本 に、副本営副本陣を
設く。之を建部の宮といふ。越地前(㎞)の鶴家に副本営副本陣を設く。之を
編
気日の宮といふ。越地後(㎞。)の碑原に副本営副本陣を設く。之を天野香護山
耐
の宮といふ。能登野(㎞)の初昨に副本営副本陣を設く。之を木太の宮といふ。
太場野(㎞)の桑田に副本営副本陣を設く。之を三穂津の宮といふ。出雲野の
之
は随意と そ 定め 給 ひける。
皇
天皇群臣大夫と議り 年中の儀式祭日等の恒例を定め給ふ。即ち年始祭典並に
之
奉ることを定め給 ひき。
又、勅して衆庶の家屋を建築す へき地所 井に家屋制度を定む。又 内侍を造営し
耐
布 かせ 給 ひき。
又、勅して人生 一世の勤務を定め給 ふ。共法に目く。ワラ 男女は之を撫育し、
ッナキ男女は力招を教 へ、イカシ 男女は家業を教 へ、 ャリ男女は家業を勉強 す へ
し、マスラ男女は戸主たれ、スケ男女は官員たれ、マスケ男女は郷司たれ、チス 男女は、
國主たれ、マチス 男女は宮内に奉仕 すべしと。又、勅して息長道 守男命外五十名を
文官 に、日別 湖武雄命外五十二名を武官 に任し、天下を巡 祀せしめ、事勝木採男命外
第四草 後 紀 人 皇 二四三
碑 皇紀 二四四
四十八名を諸工長に 植安道明 彦命外三十八名を勧農頭に任し、天下を巡 祀 せしめ
給 ひき。
天皇 親ら公田 を耕転ましまし給 ふ。皇族諸 大臣等、是 に倣 ひ各 田 を耕転し、以 て
第
窮民をそ救位し給ひける。
一
紀元四年四月、天皇 高天原に行幸ましまして、天つ大御碑を祭らせ給ふ。先つ、宇
編
と諡し給ふ。又中室の麻呂山に鎮ります天都大日霊碑に天照大御碑と諡し 次に
之
古 峰 に鎮ります作田里 古命 熱都山の笠砂の尾崎峰に鎮まります伊井諸奪伊 装 典
奪 機山宇津峰 に鎮ります高皇産霊碑 碑皇 産霊碑、小室鳴澤の上なる菅原に鎮まり
ます國狭植 奪國狭 比女奪の各碑前に於て、親ら祭祀の濃を行は せ給ふ。所請不二
山高天原の七赴大碑足なり。次に小室中室大室に鎮まります八百萬碑にして國
に 残 功 ある 碑 々 に 各 設をなし 給 ふ。尋 て、高天原諸、の天 っ大御碑の宮守司 首 を、熱
都 丹波 彦命 に命 し、共 守護 を 貸さしめ 給 ひき。是 より更に、東北 の 諸 國 を巡幸まし
まして六月十五日 標 原の宮に還幸ましまし給ふ。爾来、大祭日には奉幣の勅使を
第
第六 惣國碑 赴
之
天皇は紀元五年より、七年に至る三年の間。勅使を諸。の國
笹
以上、北
映º
Ż
太陽 國 に 飾り ますは 豊 受 大 神職 社 十 二 社 本社 四 十 社 よし ます。 田地 間 國 に 独
卷
り ます は 阿 和 鹿 大神、標註 十 二 社 本 航 一十 六 社 まし ます。 她 獲 國 に 飾り ます は後
蘇 美 神社 本社 人 社 よし ます。 出雲 國 に 飾り ます は 出雲大神 職能 士 入社 本 航 也 十
大正 し まして 文大 國大神無敵 人 社 東証+ 11話 まし ます。 太 常見 國( **)に集
りますは 安慶 雲 社 本 記入社 *し ます。( *)
* 『僕 」 * ? ”字 和 大 神靈 址 四 元 末社 + *し * * 『 仮説 『
に 触 す ます は 中山 大 神木 叶 + 11 試 *,し ます。 本 日常 困(乾酪 º *) に 集 》 * ア に 加
屋 神社 本社 十 二 社 まし ます。 大門 國 に 飾り ます は、玉 和 大神 来 就 十 二 社 まします。
(韓 )
木 日 國 に 独り ます は、日前 大 神木 社 十 二 社 まし ます。 阿 和 地島 に 飾り ます は 大
御 神 大神號 航 公社 本社 十 六 社 まし ます。 阿波 國 に 飾り ます は 阿 和 大神 来 就 大社
まし ます。 佐賀 本國 に 飾り ます は、田村 大神、未 記 十 二 社 まし ます。 伊代 國 に 飾り
和中
来 证 + 1話 まし ます。(體 。*)
Ż
國 に 飾り ます は 作 原 大 神職 社 十 八 點 來 就 回 十 八 社 よし ます。 目 地図 に飾り ます
は 阿蘇 大神 論証 十 八 社 本社 四十八 點 * し ます。 目 而 國 に 鎮 り ます は、都 應 大 神職
社 也 十 五 社、末社 11 百 二 十 點 まし ます。 佐 世間 國 に 飾り ます は、牧師 大師 張 政 四點、
来就 十 六 社 * し ます。(戰 “ )
第 四 章 後 和 人 11月为
神 Ç 級 11 五O
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津 久島 に飾り ます は、和 太 都 在 神社、瑞 在 四 社、末社 十 八 點 * し ます。 伊波 (?
末
耐.:
順İ.
烏 に 飾り ます は、大手 反 明 神社、瑞 社 四 社、本社 十 六 社 よし まして、文房 組 都 称 1山
八 社 * し ます。(學。) -•
-_
三 十字 加 年始めて日本 問 を 吸 抚州 と 親 し 結ぶ。 四 十 二 千瓦 年 1 月 1 日 神祭
第5
名 川 正徳 を 立て く 水平 と た し 始 。 * .
七十 六 四 子午 三=+ 1 =* * + $= の東北 の 後に乗る。
神武 天皇 と 設 し 來 る。 皇后 は 終端 天皇 人 丁亥 年 三 月十 1 日 開 す。 蘇 省 三º <
と 同 所 の 陸 に 排 る。 神武 皇 太后 と 論 し 本 る。 愛女 十 二 人皇子 十 七 人皇女 二 十
人 まし ます。 也 十 九 巴 和 年 十 月 十 三 日、皇 太子、兄 手 研 开 金 の を 省 や たと と を 聞
れる を 知り、之 を 殺 させ 結び、明年 1 月 八 日、大 御 位 に 師 かせ 結ぶ。 是 を 殺 時 天空 と
た す。(國 總 編號)
第二代 桜 時 天皇
終 時 天皇 は 韓 を 神 將 名 川江 天皇 といふ。 神武 天 室 の 第 五 の 空子 神 性 は、皇后 援
略 曆五十鈴 鹿 等 に まし ます。 起 死人 十 年 1 月 八 日、大 御 位 に 師 かせ 給 º ㎝ 3部
位 元 東 長年 是 たり。 天皇 居 を 大和 风光 线 に 遷 さや 絵 % ク を 高 氏 の 名 と いた。
11 年 已 年 1 月 五 日、五 十 餘姚 命 を 立て 、王后 と す。 大 日 方式 日 から の 俳 2㎝
女帝 は 神武 天空 の 中 排球 職級命 にまし まし き
三千年 年 11 月 十 日 產物 支 命、並 に 日 他 大 運命 を 中介 國政 大夫 と た す。 该 游文金
新 中 合 國政 大夫 可笑 其 手 命 の 第 1 の 御子、母 は、神武 天皇 の 皇統 稱 五 級 會 たり。
日 他 大 運命 は 前 中 合 國政 大夫 天 日 方 高 日 方 命 の 第 11 の 御子、母 は、 基 后 五 十 张 俊介
と 同 母 たり。
天皇 は、父 天皇 の 法制 に 通 いて、天 の 下 を 治め しめ 始 。
每年 五 月 五 日、高天原 の 大祭 日 に は 天皇 室 后 行幸 よし まして、親しく 経典 を 行 は
せ始 。 《每年 四季 の 大祭 日 に は本 盤 の 助 使 を 述 は し て 終不具 を 行 は せ 結 / 0。
11 十 五 甲 長年 八 月 十 日、機械 性 參 王手 有金 を 立て 、 太子 と た し 結ぶ。
同年 國 城 の 戒律 宗 北 の 関 タ に 起 る。 カ ち、天空 戰 ら 元帥 た たり、日 他 大 運命 を 神
飛 , + ㎝ の 兵 を 催し、N た 従 し 結ぶ。 七 年 にし て 東北 の 同 タ 平定 し 結び き。
+ ++ += 天才 <+ = 2 ㎞
第 四 章 務 柳 < 11至
神 和 二 五三
皇 と 論 し 本 る。 七 月 入 日 自基 后 脱す。 縣 A 十 二。 天皇 と 同 所 の 後に 葬る。 然 持自室
太后としなる。 愛女 同人 子四人 女人* ** 大字 っ た安*
天皇 と た す。 (戰 對於º )
第 一代 {文學 天皇
安寧 天皇 は 議 を 機 城池 多 王手 有 天皇 と いぶ。 該 時 天皇 第 1 の 皇子、御殿 は、皇后
五十鈴 体 规律 に まし ます。 她 完全日 十 一 年 七 月 1 日、大 御 位 に 師 かせ 結ぶ。 如 ら 部
位 元 後 五 年 是 なり。 11 用武 年 三 月 十 日、天皇 居 を 大和 國 六 強 に 遷 させ 結ぶ。 之 を
和神
浮 治安吉 と いぶ。
將 名 旅 海 舰 金 を 立て て 自基 后 と す。 ︽ 海 支 命 の 第 11 の 御 女、母 は、神武 天皇 の 第 一
之
の 皇 女王 昭 月 江 總 金 に まし まし さ。
卷
四 西 長年 四 月 十 三 日 出雲 在 命 を 中 合 國政 大夫 と なし、大 稻 主命 を 得 亞 大夫 と な
す。 出雲 色 命 は 前中 金 國政 大夫 洛陽 文 命 の 第 1 の 御子、母 は 皇后 と 同 母 たり。 大
船主 命 は 前 中 合 國政 大夫 日 神 大連 命 の 第 11 の 御子、母 は、神武 天皇 第 七 の 皇女 國定
授命 なり。
十 一発 玄年十月五 日、大日本彦拒友 奪を立て 、皇太子となし給 ふ。
十三 乙 五年二 月、國賊の残常、大軍を催し奥の 國 々 に蹴入し て、國 造を 殺し抗 略 を
隷 にす。陸奥大に蹴る。乃ち天皇は東國 の軍将安房武正命 香取太良太命 度島武
雄命貴前政男命の四将に認して之を征せしむ。四将九年にして委く賊を東北海
の大島 に撃 懐し 給 ひき。
二十二甲成年より七年 連歳五穀登らす。上下窮乏。織死するもの赤多し。
三十 八 康宣 年三 月 六 日、天皇崩す。毒 五十 七。敵 傍 山 の西南御陰 井 の上 の 陵 に
葬る。安寧天皇と 諡し 奉る。皇后 は 警 徳 天皇三十四甲子年 一月六 日崩す。毒 八
十八。天皇と同所の陵に葬る。安寧皇太后と諡し奉る。天皇遺認すらく子孫代
代 の 天皇は碑 武天皇の勅定を 長 みて、毎年五 月五日 の大太 祭日 には、高天原の 碑
巻 に鎮 り まし ます天 つ 大御碑 の 太 碑 宮 に行幸 し て、親しく祭典式 を撃 行し、且つ 毎年
四季の大祭日 には、奉幣の 勅使を差遣す へ し と。要女十二人、皇子十三人、皇女 十八
人まします。皇太子立つ。是を競徳天皇となす。(㎞。『、
第 四代 謎 徳天皇
第 四 章 後 紀 人 皇 二五三
碑 皇 紀 二五四
経徳天皇は謎を大日本彦拒友天皇といふ、安寧天皇の第二の皇子御母は皇后
淳名底津媛奪にまします。紀元百五十一年二月四日 大御位に即かせ給ふ。即ち
即位元 辛卵年是 なり。二 千 辰 年二 月四日、天皇居 を大和國軽 に遷 させ 給 ふ。之を
-
曲 峡 宮 といふ。
天豊津媛命を立て \、皇后と す。大稲主命の第 一 の御女、母は彦湯支命の第 一 の
御女 建花媛 命 にまし まし き。
蘇我政史 命を 申食 國政 大夫と なし、武部 日 連 命 を侍臣 大夫 と なす。蘇我政史 命
は、前申 食國政 大夫出雲色 命 の 第 一 の 御子、母 は、緩 靖 天皇 の 第 一 の 皇女 なり。武部
日連命は前侍臣大夫大稲主命の第二の御子、母は皇后と同母なり。
之
ー康子年より三年、天下不作にし て、庶民戦死 するもの多し。
十二 千 宙 年秋 より、尾岐 島・佐渡島 に潜伏 し居たる國賊の 残常、赤大軍を催し、北陸
*~へへーベ -*、へん
の諸園に乱入して抗略を#にす。北陸大に乱る。乃ち城本日吉命大夫 説武彦
命の雨将に勅して之を征せしめ給ふ。七年にして悪く之を平け給 ひき。
二 十二 壬 子年二 月十二 日、観 松彦香 殖稲 奪を 立て て、皇太子 と なし給 ふ。
三 十 四 平 子年 九 月 八 日 天皇 崩すº : +2 歌 成山 の 市 たる 酸 水路 の 上 の 友 .
非 る。 愛 德 天皇 と 設 し 本 る。 皇后 は、李 昭 天皇 四 十 五 虎 成年 十 月 八 日 開 す。 高石
十 八。 天空 と 同 所 の 陸 に非 る。 赫 德 皇 太后 と 論 し 本 る。 愛女人人 皇子 四 人 皇女
七人 まし ます。 中太子立つ。 之 を 楽 町 天空 と た す。 (韓 戰 於 º )
第五代 者 招 天皇
李 昭 天空 は 韓 を 載 於 洛 奇 被 稱 天空 と いぶ。 赫 德 天皇 の 第 1 の 皇子 師 は 中后
|]
。 天蓝 地 級幹 に まし ます。 紀元 古 八 十 六 年 1 月 九 日 大仰位 に 師 かせ
种
位 元 西贡 年 是 たり。 天皇、新 に 告 を 大和 國 故 の 上 に 築き て 居 始 。 他 心 站 上院
空
安º
11 十 九 中 年 年 1 月 1 日 世襲 足 總 命 を 立て た す。 蘇我 政文 金 の 第 五 の 加
_
女兒 は 大船 主命 の 第 二 の 御 女 歌手 獎金 に よし まし き。
同年 四 月 四 日盛 日 政 我 命 を 中介 國政 大夫 と た し、武部 中 逃命 を 作
蘇 日 政 我 命 は 前 中介 國政 大夫 羅成政 支 命 の 彼 の 御子、母 は、 ハ と 同 母 たりº ॥
郡中 運命 は前 特區 大夫 武部 日 運命 の 彼 の 御子 母 は 出 安 在 命 の 彼 の 御 女安 非
第 四 章 務後 和 < 二 元五
紀
耐st
11 五大
授命 なり。
1+ 2 米 年 11 月圓 盤 の精靈 帝 の 島々 に 導く 集り 東 り て誕生 し たり しか 遵
に 大軍 を 催し て 東海 の 風 タ に そ 就 大 し たり ける。 例 ら 天皇 親 ら 元帥 に なり、武部
中運命を 制御として南西 の軍兵 を 集め て東征 に彼 かせ 駱 * + 王 年 にし て働く
平定 し 結ぶ。 是 に 於 て、天 下落 不 の 世 となり に さ。
四十四 百 年 四 月 より 海內 流 ク 島々 に 至る まで、熱病 大 に 流行 し 成 梁 海軍 し。
爾 來 使 年 人多く 死す。 人 心胸 タ、香 た 英 家業 を 忘れ、高天原 初め 語、の山 タ 國 & の 神
种
社 に、藤 組ますると と 数 年。 然 れ ども 容易 に 病 教练 就 ℃ 0 vº
A
+ た 成年 1 月 十 日 中金 國政 大夫 を 太 正 因 政 大夫 と 改め 特區 大夫 を 太 祖國 政大
夫 と 改め させ 始 。 大作 部 日 命 を 太 正 國政 大夫 と な ,し、吉備 篡 % 金 を 太平 民政 大
夫 と なす。 大作靈 日 命 は前中 会 政 政大 夫妻 日 政 我 命 の 第 1 の 例子、母 は 數 從 天
第四 章 % # < 二五七
碑 皇 紀 二五八
の第三 の皇女月江 媛 命なり。吉備 蘇 彦命は、前侍臣大夫武部中連 命の第二 の御子
母は、㎞ 徳天皇 の 第 一 の 皇女 山咲 媛 命 なり。
二十六甲寅年二月十日沖日媛命を立て、皇后とす。蘇日政我命の第二の御女
母 は、㎞ 徳 天皇 の 第三 の 皇女 月 江 媛 命 に まし まし き。
七十 六 甲 辰 年四月 五 日、大 日本 根子 彦太 環 奪 を 立て \、皇 太子 と なし 給 ふ。
八十成中年、筑紫島 西北 の 島々 に集り て、潜伏 しける園 賊 の 残 窯は、強 賊大勢 を催
し て扉、攻め 来 りて 抗 略 を極 む。築紫大 に蹴る。乃ち天皇親 ら元帥 となり、皇弟政
耐ſ
帆
の 遺 競 等、諸”の浦 々 島々 に潜伏 し て、属。國蹴 を醸し居 たりしか、今や悪く之 を 平け、潮
恋
蘇我武日命を太正國政大夫となし吉備武彦命(㎞)を太臣園政大夫となす
巻
上り 確 地 と そたり に サ る。 天空 力 ら 資 知 に 参 命 に 認 し てヴ を 間 和 毛 , % 討 。
路
* て書 -- *= = + =には あの 神 にボ - -
之
て不 出 を 通勤 し て 結 點 * しま しき。 之 を 例 式 と 定め 始 ~ 。 1 日、不 11 山 再び 研
卷
伊 記 松風 来 記 祭 日記、溝 記。 )
耐
皇
は
『
第
孝元天皇は 講を大 日本根子彦國奉天皇といふ。皇霊天皇の第一 の 至子、
皇
后 穂 刺 姫奪にまします。紀元四百四十七年一月十四日、大御 位に即かせ給ふ。即
之
宮 といふ。
大伴武長り命を太正日政大夫となし式部大夫命を太臣日政大夫となす。大伴
武長男命は 前太正園政大夫蘇我武日命の第一の御子 母は挙安天皇第二の皇女山
天命は前太臣國政大夫吉備武彦命の第 一 の御子、母は 考安
皇 二六一
* * 二 六二
天皇 の 第 五 の 皇 女排 尿酸 作 たり。
七 於 巴 年 十 月 五 日 神經 被 命 を 立て て 空 兵 と た す。 蘇我 武 日 命 の 第 1 の 御女
母 は、李 安 天空 の 第 二 の 宝安 山 作 安城 命 に まし まし き。
二 十 二 叉 中 年 六 月 十 日曜日 本 棋子 修大 日々 を 立て て 太子 と なす。
五 十 七 次 未 年 九 月 1 日 天 空調 り たま は く設 の 御代 は 天下 來 不明 海 法論 か に 沿
り 良 度 亦 無 か に 出兵 連 年農作 の 武陵 を 見 し は総 の 車輛 たり。 日 出 度 し て 一 間 ,
で 敗北 歐陸 し つ ) 開 し 結ぶ。 高山 十 六。 創 地内 の 上 の 設 に 非 る。 孝 元 天空 載
レ を ,6 ㎢ 作 天空 大巴 菲 年 五 月 11 日 開 す。 蘇 省 人。 天皇 と 同 所 の 彼 に素
3 象牙 公正 太后 と 論 し なる。 愛女 十 二人皇子十 八 人 女 十 四 人 まし ます。 -
中太子立つ。 是を 開化 天 と なす。 (韓 戰。 º)
第九代 盟 化 天皇
開化 天空 は 神 を 確 日本 棋子 老大 日 日 天空 と いぶ。 李 元 天皇 の 第 11 の 皇子 神 鬼
は、空 后 都 在 離婚 紗 に まし ます。 紀元 五 百 年 1 月十 二 日 大 御 位 に 即 かせ 結ぶ。 即
ち 前 位 元 甲 中 年 是 たり。 有 を 大和 國 の 春日 に 造り 移り 方 約 。 之を率所含 J &
政本命を太正園政大夫となし 平郡武雄命を太臣園政大夫となす。蘇我政
園政 大夫大伴武長男命の第 一 の御子、母は、孝霊天皇第三の皇女菊里
第
六己#年三月十四日付 香色謎媛命を立て、皇后とす。武部大夫命第三の御女
母は 孝霊天皇の第 一 の皇女大倭媛命にましましき。
十三内中年 園 々 の園造に勅して、大國に大赴、小園に小赴 郷に郷赴、村に村赴を置
く ことを定め給 ふ。國民 一般に 碑赴を崇敬して、常に天下泰平並に五穀の豊作成
就 を 濃 祀す へき ことを示 させ給 ひき。
二十八幸玄 年八月十五日、御間城入彦五十環 殖奪を立てて 皇太子となし給ふ。
二十九千 子年三月三日より、天皇 族作に大御心を用 ひさせ給 ひて、皇后と共に、四
方 の 國 々 を巡幸 まし ま すこ て 原野 山澤 を開 組撃 し て、田畑 を 興 すこ
とを農民 に 勧め示 させ給 ふ。四十 一甲子年八月十八日、天皇潮くにして都に還御
皇
第四章 後 紀 人 二六三
欧 桜 二六四
ましょ し 始 。
六 十 次 未 年 四 月 九 日、天皇 崩す。 為 百 十 一 。 在 日 の 準 川 の 板 上 の 陸 に 非 る。 開
化 天 室 と 論 し 來 る。 カ月 九 日、空 后 脱す。 ︽ 百 八 。 大臣 と 同 所 の 陸 に 非 る。 開化
親 合 室 太后 と 論 し 本 る。 愛 女王 人 王子 七 人 安 十 人 まし ます。 皇 太子 立つ た
を永祿 天皇 と た す。 (魏徵 。 )
第十代 些宗 神 天皇
宋 神 天空 は 離 を 御門 城 入 沙 王
爾
皇后 仍 會 在 離線 等 に まし ます。 她 完
些單
よ。 如 \ 部位 元 中 中 年 更 なり。
之
同年 三 月 一 日、御 間 就 獎金 を 立て ) ^ 2 }。 不 那 武雄 介 の 第 一 の 御 女、母は、孝
卷
大
なく
なり
平定
と
て
し
非
后
を
平
形
。 2
路 丹
地
抜
と
㎞
通
抱
天下
乙めて
二
始十
年
を
日
后
、
て
調
の
人
殺
男 未
民
し
女
役 武 す。 十 七 張子 年 諾
し
動
に
國
て、船 航 を 造ら しめ 於船 かさ。
四十八 年末 年 三 月 一 日、活 日 入 沙 王 十 位於 非 怖 を 立て て、白 木子 と た す。
五 十 後 西 年 三 月、天皇 初 し て 全 子 雙 城 金 を 求 國 に 述 は し、國民 を 抜擢 や しめ 結ぶ。
六 十 後 未 年 六 月出雲 國 劍 る。 古 地 修 命 に 勤 し て、詩 つて ク を 本 サ した 。 大 十 五 成
子 年 任 那 の 使者 來 朝 す。
六 十 八 字 加 年 11 月 五 日、天空 航 す。 義市 十 九。 山邊 道上 の 陸 に 赤 る。 宋 神 天皇
と 論 し 來 る。 同月 二 十 日后 脱す。 蘇 有 二 十 一。 天皇 と 同 所 の 陸 に 非 る。 宋 神
同 合 自基本 后 七 賢 し 本 る。 天空 天 資 彼 道 にし て 知行1 あり、防ぐ 制 を 掛 め、深く 民 を 愛
さら 北伐を 始し を 順 は し 結ぶ。 彼 に 天下非 德を 擁し て 神像 個 天空 を 飛
し 來る。 愛女+ 1人 子十 五 人 女士 二 人 まし ます。 皇太子立つ 地 を 論 に 天皇
8 /以上、人 白 龍、朝代 記 神 代償 請 不 1 E ॥、神殿
*す。 (柳 科 柳宿 縣 劃歸 。)
第十一代 垂 仁 天皇
垂仁天皇は諱を活日入彦五十狭 芽天皇といふ。崇神天 皇 の 第三の 皇子、母 は、皇
后御間城 媛奪 にまします。紀元六百三十二年 一月二日、大 御 位 に即 かせ 給 ふ。即
ち即位 元 壬 辰 年足なり。
二発 己年三月十五 日、狭穂媛命を立てて、皇后と す。武部伊苦命の第四の御女、母
は開化天皇の第二 の皇女、武勇 媛命 にましましき。
縄
向
同年四 月、宮 を 大和 同 に遷 させ給 ふ。之 を珠城の 宮 といふ。
耐
王
の
三甲午年六月新羅王の王子天日槍 来りて質物を獣す
皇
同年八月十五日、武済 川別命に勅して、高天原碑都家基都㎞に鎮ります天駐元宮
之
H言
国
七 成成年八 月十日 大和 園常 証 巴 に、強力 豚 速 なるもの あり。常に
{力 邑 に 衆 に誇り て、言
へ らく天下に敵なしと。天皇 之を聞き豚速を召し 出雲國の人野見宿禰と共力を
第四章 後 紀 人 皇 二六七
碑 皇紀 二六八
角せしめ給 ふ。野見宿禰、一躍して豚速の腰骨を折りて之を磐し ぬ。朝廷角力の
儀、比 に始 る。 因 て、常麻豚 速 の 領地を野見宿禰に 賜 ひき。
同月十五=ェ我満智彦命を太正日政大夫となし 平郡水党命を太臣日政大夫と
なす。養我満知彦命は前太正日政大夫大伴日武命の第一の御子がは平郡武雄命
の第一の御女シ命なり、平郡水寛命は前太臣日政太夫物部伊賞命の第一の
編
御子、母は、皇后 と 同 母 なり。
十五 内午年二月十日、日葉酢媛 命を立て 、更に皇后と す。武部伊草 命の第七の
耐
葉 酢 媛 を 立て しめ 給 ひに き。
之
耐
育又
二十七成年年 1 月三日、初めて、兵器を用 ひ て mと 成 し給 ふ。四 月初めて、大和
國来 目 己 に、屯倉 を 置 かしめ給 ひき。
二十八己未年十月十二 日、皇弟倭彦命墓 す。近臣の共葬に殉する者、日夜 競要す
天皇、共撃 の基 た 哀しきを聞き給 ひ、大 に測 ませられ、殉死 を 禁し給 ひき。
三十二発 玄 年三月二十日、前皇后狭 穂 媛 命、沈病二十 一年、遂に崩す。毒 六十 一。
天皇 軍 臣 に勅し て葬儀を議 せしむ。野見宿禰 植 土を 採り人馬 及 ひ諸 物を作り て
献し、以 て殉死 に易 へ られむ ことを請 ふ。天皇嘉賞して、永 式となさしめ 給ふ。野
見宿禰を土部職に任し世々大喪を司らしむ。前皇后を 営原の伏見の陵に葬る。
#右 標 皇太后 と 諡 し 奉る。
三十五西宣 年三月 諸 國 に勅し て、池溝八 百除町開盤せしめ給 ふ。農民之 に依り
て、大 に灌漑 の 便を 得 にき。
三十七成申年六 月十二 日、大足彦 忍代別 奪を立て \、皇 太子となし 給 ふ。
六 十辛成年二 月、出雲國 の 罪囚 五百人 徒賞し て諸 國 に 蹴入 す。三年にして、悪く
之を逮捕 し て、手足初め 首 を斬り て 死刑 に 虚 し ぬ。
九十九康午年 一月五 日、天皇崩す。毒百四十 一。菅原の伏見の 前皇后 と同所の
第 四章 後 紀 人 皇 二六九
神 桜 -
1 C
彼 に 家 る。 曹仁 天堂 と 設 し本る。 後中 后 は 急行 天空中 二 千 年年 11 月 五 日光 。
蒙古 + 1。 天堂 と 同 所 の 段 に乗る。 曹仁 在 中 太后 と論 しなる。 愛女士 人。
*+ <人 女 +人 * ** 大字 っ 小 行天 た* ॥
第十二代 果 行 天皇
* 行 天皇は球を 大足迹象 代 別 天皇 と いぶ。 曹仁 天空 の 第 三 の 空子 叶片 后 =
漢諾威 秀 に* し ます。 紀元七 百 三 十 1 年七 八 十 七 日 大師 徒 に師 かせ 駱 4 ㎞,
st
前 位 元帝 朱 年 是 たりº
Ä
***********************
ż
那 水 来 命 は 1 2 支流 式 な 金 と 補 し g
卷
11H 中 年1 月 1日 將 樂府 日 大部 級 命を 立て 、 后 と す。 本部 水 站 金 鼎立 佛
武彦 命š 玉 の 御 女帝 は 大作國 武 命第 二 の 御女足 總 獎金 に *しました。
四 平成 年 八 月停 を 大和 國體 間 に 定め 始 。 更 少 で 日 代 名 と 勝 す。
* *****の構成 す。 天守ら之を 征し 始« から天安 = gu
ッまします。眠の二女を誘ひ納れ 陽に共長女を奨し給ふ。一日民女家に騎り、
父に酒を勧め共酔ひて駄しけるを窺ひて Nを殺しぬ。天皇共不孝を悪みて長女
を 課し、妹 に父 の 國を 賜 ひき。
第
二十五乙未年三月五日 武内宿禰を遣はし東北諸園の地勢及民俗を巡察せしめ
給ふ。六月シ海伊園に至りぬ。園造奈良田彦に命し慮大湖の堀下をなさしめ
編
ふ。奈良田彦は、火照須命六十 一世の孫にして世々海伊國國造たり。共十七世
の園造園谷彦命講湖守男命は碑代宇家潤不二合須世 碑皇第十七代㎞芽葺不合奪
耐
す。臨海宿 弾 と 賜ふ。
二十七丁西年熊襲反す。皇子小確奪に命して 之を討たしめ給ふ。皇子 乃ち熊
**へヘヘヘし
襲の園に赴く。偶。賊肥川上最師共親族を倉して大に宴を張る。是に於て皇子女
装して% に剣を懐中して忍 ひ入り 共碑と共に酒を府む。夜牛島 師の酔駄しける
を何 ひ 共胸を刺す。最師驚き叫び問 ひけらく 次 誰人なるそや。皇子 應自したまは
第四章 後 紀 人 皇 -
二七一
* 紀 二六六
海道に丹波道主命を以て丹波に遺はし 各地方を接携し大に教化を布かしめ給ふ。
拝 して将軍となす。即ち四道将軍足なり。将軍を置くこと足に始る。
え
十二 乙未年 始めて天下の人民戸日を校して 男 女の調役 を課す。十七康子年 諸
國 に勅し て、船舶を 造らしめ給 ひき。
四十八辛未年三月三日活日入彦五十狭芽奪を立てて皇太子となす。
編
五十奏西年三月天皇勅して皇子豊城命を東園に遺はし国民を按馬 せしめ給ふ
六十奏未年六月出雲園乱る。吉備彦命に勅して討って之を平けしむ。六十五成
耐
子 年任那 の 使者 来 朝 す。
皇
六十八辛卵年二月五日天皇崩す。 百十九。山漫道上の陵に葬る。崇神天皇
と諡し奉る。同月二十日 皇后崩す。 百二十一。天皇と同所の陵に葬る。崇神
同合皇太后と諡し奉る。天皇天資敏達にして知仁ありBく碑を崇め深く民を愛
せられ請税を免し貧民を賑はし給ふ。故に天下共功徳を稲して御盤園天皇と稲
し奉る。要女十二人 皇子十五人 皇女十二人まします。皇太子立つ 足を垂仁天皇
と なす。(以、注、K 皇 記、碑
記 碑 代 賞 記、不二山 記、碑 器
㎞)
ら見
へ
な
教
に
天下
天
。
聞
之
召
速
豚
野
人
の
國
出雲
を
力
共
と
宿禰く
皇
き
し 山ける
之
む
しらし
競
そ
と
社
碑
却
阿
よ
是
宮
山
を
村
比
、
。 宮 祀
といふ
り
村 神し
太
山
風
阿
佐
、
を
三
家
留
住
伊
海
見
国
山
大
上
の
移
ち
分
に 宮
賀
國
境
村
塚 開し
は
皇
二
第
の
天皇
武
、
ま
に
命
媛
。
き
まし化
女
勇 即り
ち
長
壬
元
な
是
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年 ま元
に
奪
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域
間
御
后
紀
。
ます
大
、
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月
一
年
二
十
三
百 し
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成
大七
日
十
月
強八
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麻
常
な国
速
常騒
。
あり
誇もの
に
衆
言
て 皇乙する后未
日
五
十
月
一
謀年
を
反
シ
伏見
に
誌
て
れ
g
事 淳天原宮す川 獣
式
日
五
十
月
八
高同年
て
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勅
命
ま別
り
鎮
に
扉
基
家
都
元碑
赴
天 を
甲
三
新
月
六
年
王
の
王
質
て
り
来
、
槍
日
天
。
す 午 給
羅
子
物 月いふ
四
同年
大
さ
遷
に
向
経
と園
宮
の
城
珠
を
之
。
ふ宮
和
せ 会后て誌
日
五
十
月
三
年
己
発
立二
を
命
皇競
て
。
す
と 仁皇
垂
芽
狭
十
五
彦
入
目
活
を
諱
天は
神
崇
。
といふ
皇
人
紀
後
章
四
第
七
六
二
天皇
仁
垂
代
一
十
第
苦命
伊
武部
母
女
御
四
第
の
即
に
位
御 三
第
の
至
皇子
の
三
第
皇
は
母
、
即
。
ふ
給
かせ
碑 皇 紀 二六八
角せしめ給
*小 ふ。野見 宿禰、一躍し て 豚 腰骨 を 折り て 之 を盤 し ぬ。朝廷角力 の
儀、比 に始る。因 て、常 麻厩 速 の 領地を 野 宿禰 に 賜 ひき。
同月十五 日、蘇我満智彦命を 太 園政 夫と なし、平郡 水 苑 命 を太 臣 國政 大夫と
蘇我満 知 彦命 は、前太 正 園 政 大夫 大伴伴園 武 命 の 第 一 の 御子、母 は、平郡 武雄 命
の 第 一 の 御女 秋風媛 命 なり。平郡 水荒 は、前太 臣 園 政 太夫物 部伊草 命 の 第 一 の
御子、母は 皇后 と同 母 なり。
十 五 内 午年二 月十日、日 葉酢 媛 命 を 立て \、更に皇后 と す。 武部 伊草、命 の 第七 の
御 女 前 皇后 の 同 母 妹 に まし まし き。是れ 前皇后、沈 病起 つ 能は す。 故に復 た、妹 日
皇
葉 酢 媛 を 立て しめ給 ひ に き。
F
二 十五 内辰 年三 月、大和 園 笠縫 の 里 より、天照皇太 碑 宮 を、伊 瀬園 ㎞) 度倉
s の 里、五十鈴川 一 の 碑 武 天皇 の 御父、紳 皇五 十 一代、鵜 芽賞 不合奪 の 陵墓
墓 の 地 に、遷 し
祀ら しめ給 ふ。 皇女 倭 媛命 に 命 し、宮 を 守らしめ、舟田彦を し て供物 の 事 を掌 らし
め 給 ひき。
二十七 成午年 一月三 日、初めて、兵器を用 ひ て 紳 幣と 成し給 ふ。四月初めて、大和
國 来 目 己 に、屯 倉 を 置 かしめ 給 ひき。
二十八 己未年十月十二 日、皇弟 倭彦命夢 す。近臣 の共葬に殉 する者、日夜競喫す
天皇 共撃の甚た哀しきを聞き給 ひ 大 に測ませられ、殉死を禁し給 ひき。
三十二発 玄年三月二十日前皇后狭穂媛命沈病二十一年 途に崩す。お六十一。
天皇 軍臣に勅して葬儀を議せしむ。野見宿禰 植 土を採り人馬及 ひ諸物を作り て
献し、以 て殉死 に易 へ られ む ことを請 ふ。天皇嘉賞し て、永 式となさしめ給ふ。野
見宿禰を土部職に任し世々大喪を司らしむ。前皇后を 管原の伏見の陵に葬る。
皇 。耐
岩 標 皇太后 と諡 し 奉る。
三十五西宣 年三月 諸 國 に勅し て池溝 八百除町開盤 せしめ給ふ。農民之 に依り
之
て、大 に灌漑 の 便を 得 に き。
*へへーへへーへヘヘヘ
巻
部位 元帝 朱 年 是 なり。
些單
皇 R 後 說 ︽ 命 を 大正 國政 大夫 と なし、平野 水 來 命 再び 大臣 國政 大夫 と なす。 不
ż
郡 水 來 命 は 一 に 吉備 武彦 命 と 海 し 込º
卷
11 年 中 年 三 月 三 日、雅 樂 和 日 大 部 授命 を 立て 、自基 后 と す。 本 郡 水 来 命 前 も 古 德
武彦 命 第 五 の 御 女地 は、大作 國 武 命 第 二 の 御 女足 總 獎金 に まし まし き。
四 甲 成年 八 月、宮 を 大和 國 總 面 に 定め 込 & 。 更 Q て 日 代官 と 読 す。
+ 11 千 中 年统率 の 態 發 反 す。 天皇 親 ら ク を 征 し 結ぶ。 及 も 天皇 日向 の 関 に駐
ッまします。『きの二女を誘ひ納れ 陽に共長女を妻し給ふ 一日 長女家に騎り、
。シて風しけるを窺ひてNを殺しぬ。天皇共不孝を みてま女
を 言 し、緑 に父の 國を 賜 ひき。
“こ**三ヵェョ式内国を達はし東北諸園の地勢及民俗を巡察せしめ
。シり。シ田彦に命し産大湖の地下をなきし
* シ令六十一世の孫にして世々海伊園園造たり。共十七世
。シ命は残代字家測不二合須世碑皇第十七代シ不合奪
砕
。“”。秦良田彦乃ち園中強力の農民を調務し十有四年にして功を奏
之
す。登 海宿 演 と 弱ふ。
**〜〜〜〜〜〜〜〜〜
を
「“「シ反す。皇子小確 に命して之を討たしめ給ふ。皇子力ち態
襲 の 望 に 赴く。
シ川上身師共親族を倉して大に宴を張る。 是 に於 て、皇子女
。 #して忍び入りシと共に酒を併た。夜牛%師の暗闘しける
。 ひけらく法人なるそゃ。皇子鷹自したまは
第 後 紀 人 皇 -
二七一
碑 皇 紀 二七二
く、予は大足彦 天皇の 日本童男なりと。鳥 師目く、吾未 た 強力皇子の如き者を見す。
今より宣 しく暮競を 日本武奪と稲し給ふ可 し、と言ひ 乾りて誌 せらる。
四十康成年 高天原阿祀山 太碑宮の副宮守司長阿祀 彦王は他の碑 祇の後胤 武佐
加彦等四十八将 と、碑都 復奮を企て 、叛 す 皇子日本武奪を遣はし 討って 之を平く。
是を東夷征討といふ。是より先 高天原の碑都 潮く衰退に 及 ひぬれは 東北諸園の
諸将及 國造等碑 都に曾し、遂に碑都復奮 の義兵を撃るくこと に決し ぬ。即ち阿 刺
彦王は、大 山祇命七十二世の孫 にして、碑代より世々 高天原の惣司令碑なれは、之 を
総元帥となし、武佐加 彦武大名 彦を副帥と なし、顧仙を軍帥となす。加集彦安房田
皇
中に投して楚死したりけり。家基都騎に擁れる諸将 急報に接し得然貸す所を知
之・ 皇
)の出崎に越えまさむとしけるとき 暴風儀に起り神舟三浦ヶ崎
に吹きっけられ、風清 盆。劇しく陸に上ることを得す。恐くは東北の悪碑 海碑の崇
りなるべし、と大妃橘 媛命 皇子に代りて海碑を所り海に投し給ふ。暴風即ち止む。
海上 浪静に、遂に阿津佐の出崎 に済りまし ぬ。進み て平野より奥羽に攻め入らせ
給ふ、東軍 各要衝 に割擁して皇軍を防きしに今や海路より、不意に背後に出 てら
れ 魂概はれ気祖む。則ち、背な騎順してけり。皇子、乃ち奥羽より越地後下毛 東上
毛武佐志を経て佐賀見 に出て 復た足加羅山を越えさせ給 ふ。偶。皇子三浦御崎の
大海を顧み 嘆して目く、吾婦はや、と因 て是より東睡を、吾艦 の 國とそ稲しける。皇
子、遂に再び顧 地山高天原小室家基都谷に凱騎ましまし給 ふ。是より先、記太夫は、
阿 田都山の麓に新宮を造り 美夜受媛母子を擁護し来れり。皇子、大に脱はせ給ふ。
比新宮は南加茂坂東阿田都山の麓なるに由り坂Fの宮となむ名っけける。
阿津佐濱 に 海知 男といふものなり。一日 坂下の宮に参向して目く皇子の着陸
後 七日目に橘媛命の樹漂着し来にけりとて之を獣す。皇子 乃ち親ら之を宮の東
第 四章 後 紀 人 皇 二七五
* 二き六
阿田都山 の大森に葬り、吾艦 の森と名つけ給ふ。共夜 記太夫火を焼きて皇子を慰
め奉る。皇子目 く、通比波 理 都久波 表 須疑己 伊久用加、泥 津流、と記太夫 應 へて 目く、加
賀那倍 旦 用 通和 許 許能用、比 通波 登表加 袁と。面して皇子は 美 夜受媛 母子守護の
功 に 依り、記太夫に、吾艦惣國 の 國造 となす。吾 婦 惣國とは佐加見・伊須 住留賀 海伊・
武佐志 上毛 下毛 阿津佐 阿波 土海 日 下地 尾久・出羽 の十二國なり。又 揃 を獣ぜ し海
知男は、建許 呂 命の 御子なり。後、共功 に依り、阿津佐國の馬 来 田國 の 國 造 と なし給
編
彦は碑都復奮の議に興しけるも、二十年間苦心して底大湖を掘下け 減水せしめし功
皇
本武奪の夢 去を追悼ましまして、愛慕措く能はず、乃ち皇子の平定ましませる地を
之
歴覧せむものをと て、武内宿禰を響導として途に高天原に上りませるものなり。
巻
先づ菅原の大塚にて、顧地山を遥拝ましまして、中室の麻 呂山 なる天照大御碑の政
所の古跡に行在所を建てさせ給ふ。之を麻呂山の宮といふ。天皇親ら阿祀山太
碑宮を祀らせ給ふ。彦狭 島王を以て、小室 の都督となす。七月四日、小室を務し、東
海の諸園を巡狩して還幸ましましき。(㎞)
第 四章 後 紀 人 皇 二七七
碑 皇 紀 二七八
第三節 除説
第一 三品の大御賞
第
三品の 大御質は 豊阿始原之世、地 碑第一代、天照大御碑の御時 祀佐
しませるものにして高天原碑祀碑宗代々の天っ大御碑を祀りませ
宮の御碑 殿に 納め鎮めまし、三種の碑器なり。比碑器は祀佐男命か
の碑 勅を 長 みて、手名都 知命足名都 知命に命し、従族金山 昆 古 命講剣刀知
て 作せしめまして室雲の剣 ㎞}人太初の銭ェ)資司の御賞㎞ )
-
是 なり。
シの剣は銭に銀三分を和して鍛ふこと二百日 剣八本を製作し共一本を太
占にト和へて選みませるものにして共出雲の競川のシに於て製作ましませる
に由り 期く名っけ給ふ。八太羽の鏡は金に銀を和して鍛ふること二十 一日 日輪
の形に八本の御剣を加 へて八角花形の鏡を製作しましませるものにして内侍所
。シと 名っふ給ふ。資司の御霊は金を鍛ふること二十一日選来山高地火の峰
の形を製作 し、月輪の形を銀にて製作しまませる上に安置して、碑祀碑宗代々 の 天
つ大御碑の碑霊となしませるに由り 期く名 つけ給 ひき。
天照大御神は認して比三品を以て天っ日園の天っ大御質となし。Hっ子孫世
第
々 天つ日嗣の大御位 に即かせまさむには、太碑宮の御碑殿に於て、三品の大御質を
拝 きて即位式を行はせまさむことに定め給ひき。
夫れ大元々祀 即ち天之世七代より 天之御中世十五代を歴て高天原 世天碑七代
に至るまて、天 つ日 嗣の天 つ大御碑の大御質は、七品にてましましけり。然るに地碑
に至り天照大御に於て期く三品の大御質を以て七品の大御質に代へさせ給へり
抑も、七品の大御質は第 一石剣 第二自青黒の丸き大御 玉石 第三金銀繊の砂金第
四金銀白 赤黒の 丸 形 の 玉 金 第五鏡石 第六白黒の大粒小粒 の 丸き玉石 第七火出 つ
る石足なり。第一 の石剣第二の自青黒の丸き大御玉石 第四の金銀自赤黒の丸形
の玉金の三類は天元々加師ち天の世より代々の天っ大御神即ち神皇守護の大御
質なり。第五 の 鏡石 第七の 火 の出 つる石 の 二類は、大元々 祀即ち天 之世 より代々
の碑 后、守護 の大御質なり。第三の金銀繊 の 砂金は 代々 の 天 つ 大御碑 の 碑 勅 に依
第四章 後 紀 人 皇 二七九
碑 皇 紀 二八O
り、四方の諸。の國 々 に於 て、諸、の事物の通用に使 ひませる大御質なり。第六の白黒
の大粒 小粒の丸き玉石は 代々 の天 つ大御碑の碑勅 に依り 四方の諸。の國 々 に於て、
諸 の物の数取りに使ひましし大御質なり、比等を大元々風即ち天之世より世々
の 天 つ 大御碑の 大御質とそ稲しける。
然るに豊阿 始原之 世に至り、天 照大御碑は祀佐男命より 奉りませる三品 の大御
質を以て、七品の大御質に代 へ させ給 ひ、以て 子孫代々 天 つ 日 嗣の 大御位 に即 かせ
給ふ碑典をそ定めさせ給 ひける。爾来、地碑第二 代天之忍穂耳奪 より碑皇第五十
耐
天原に上り阿祀山太碑宮の御碑殿に於て三品の大御質を拝きて即位 式を行はせ
之
給 ひにき。
巻
人皇に至り 碑武天皇は共即位式を行はせまさむとして先っ勅使皇族高座日多
命をして高天原阿祀 山太碑宮に参向 せしめましき。勅使 乃ち高天原に上り 高天
原惣司令碑熱都 丹波彦命に勅旨を博ふ。命は大山祇命五十九世の 孫 にましまし
て前惣司令碑阿津山男命の御子にまします。書て動を奉し同太碑宮に於て神使
として、諸、の天 つ 大御 碑の 御 碑託を 授け 賜はり、三品 の 大御質 を中受け、謹 て 之 を 奉
持して、副司長初め数多の宮守等を従 へ、勅使と共に大和の標 原の 宮にそ天降りま
しましける。乃ち正殿に於 て、碑使熱都丹波彦命は天つ大御碑の御碑託 に依り天
皇に講を賜ひ三品の大御質を授け奉りて即位式を行はせ給ふ。終って碑使は又、
三品の大御質を捧持し 高天原に還り上りて太碑宮に納め鎮め奉らる。則ち天皇
は芝を以て永く即位の儀典と定めさせ給ふ。
爾来、人皇十代に至るまて共儀典に則り、各即位式を行はせ給 へり。即ち人皇第
耐
二代 緩晴天皇即位式の碑使は宮守男命にして前高天原宮守司長熱都丹波彦命の
皇
御子なり、第三代 安寧天皇即位式の碑使は宮方男命にして前宮守司長宮守男命
之
方男命の御子なり。第五代 孝昭天皇即位式の碑使は山宮男命にして前宮守司長
宮志津目男命の御子なり。第六代孝安天皇即位式の碑使は奈流男命にして前宮
守司長山宮男命の御子なり。第七代 孝霊天皇即位式の碑使は兵米山男命にして、
前宮守司長奈流男命の御子なり。第八代 孝元天皇即位式の碑使は 美禰方男命な
第四章 後 紀 人 皇 二八一
碑 皇 紀 二八二
り、命は祀佐 男命六十九世の 孫 にまし まして、孝 霊天皇新任 の高天原宮守司 長尾
羽 張田 彦命の御子なり。第九代開化碑 皇即位式の碑 使は 阿 曾男命 にして、前宮守
司長美瀬方男命の御子なり。第十代券碑天皇即位式の碑使は基田良男命にして
前宮守司長阿倉男命の御子なり - -
崇 碑 天皇 の 御宇 に 至り、五 年認 し て 皇女 豊 拒入 姫 命をし て、天照大御 碑 の 新宮 を
大和國 笠縫 の 里 に建て しめ 給 ふ。之 を 天照皇大碑宮 といふ。尋 て皇子豊城 命を
勅使とし、豊 拒入姫命及 ひ淳名城 入姫 命を副 使として 高天原より天照大御 碑の御
耐
し
宮物るし孫 まし
す*
高
御
彦
*
、六
子連綿
なより
ませる
十
奉職
と
七
を
職
共
まし 代至。
に
命
承し
て 御御
湖畔
の
室
代高天原
大 原
継る々舟山 天
そ
舟宮
に に
宮
碑
太
山
元阿
祀け
供を
捧
止り
ましける。命 に、野見彦・田村 彦、の一弟あり。野見 彦は出示神 天皇六 十年 吉備津
二八五
第四 章 長 記 人 皇
碑 皇 紀 二八六
彦の神将 として、北越平定の功 に依り、北越諸國の 農事を司る。出雲の 國 に居る。
垂 仁 天皇八 月十五 日常麻豚速を倒ししに依り、共領地を 賜 ひ野見宿禰と改め賜ふ。
天皇崩御 の とき、夫妻% 死し てけり。乃ち、天皇御陵 なる 菅原の 東北 に 葬る。因 て共
子出雲彦に菅原宿禰と賜ふ。(㎞)命の召されて伊瀬に赴くや弟田村彦 共後を襲
ぎ て、高天原阿祀 山 太 碑宮 の 供物 司 長と そ なりにける。命 は 伊 瀬國 河曲 原 の 都 波
岐 の碑田 の 作 事の 貸 め 共地 に宮 を 造営し て都波 岐宮 と稲し 止らせ 給 ふ。面し て
碑 宮 の 供物 の 禁 場所は、高天原 の 古例 に擁 ら せ給 ふ。即ち、高天原小室澤の 白砂
の尾の 上 の 大松 の 下 に於 て楚 く こと を例 とせ しかは、伊 瀬國 河曲原 の 倭田山 の 尾
崎峰 の 大松 の 下 に於 て供物 を禁 く こと に定め 給 ふ。因 て 命は、倭田 氏 又は、山田 氏
と稲したりしが 後松木氏とそ改めける(㎞ )太碑宮に供物を捧け奉ると同時に、
高天原の 碑都の 天 つ大御碑を初め 諸、の天碑 地祇 に、遥 に供物 を捧け 奉らせ給ひき。
基場所は同園二度見ヶ浦とモ定められける
命は河曲彦の二 女を要り三 子を撃く。長子山田 彦は父の後を嗣 き碑田を作事
し供物を太碑宮に捧け 奉る。攻 子 木曾彦は太碑宮の碑 殿を造営し、又は修緒をな
すべき職を命せ られ、子孫之 を承継し三子合津彦は、太 神宮の神殿 の屋根 を菅 に て
葺く へき職を命せられ、子孫之を承継したり。後 山田彦は伊瀬園の國造となり、木
倉彦は、日高見の 園造となる。木曾彦の止りましし山を木倉山といふ。合津彦は
奥の園の園造となる。共止りまし、山澤を合津とそ稲しける。(㎞
㎞
第二 左右大碑
我國は紳代大元祀天之御中世より、天 つ 日 嗣の天 つ大御碑 即ち皇位承継の碑皇
耐
には、左右大碑のましますありて代々 碑皇を補弱し奉れり。面して左右大碑も 碑
皇
皇と等しく共天風を一にしHっ子孫赤代々一系たり。即ち左大碑は共子孫代々
之
左大神家を承継して祀家(㎞ )と稲し右大碑は赤共子孫代々右大碑家を承継
釜
して武部 ㎞ )と稲し、覚に共に人皇に及びにき。
夫 れ 天之御中世第 一代天之御中主碑は天之御中美碑を碑后として高皇彦穂男
碑 高中守主碑 高下守主碑の三柱を生みます。
高皇彦穂男碑の子孫を以て代々 天っ日嗣の天つ大御碑と定めさせ給ふ。面し
-
第四章 後 紀 人 皇 二八七
-
碑 皇 紀 - 二八八
て 高中守主碑の子孫を以て代々 左守大碑とし、高下 守主碑の子孫を以て代々 右 守
大碑とし、左右 より天 つ 日 嗣 の 天 つ 大御 碑 を補 弱 す へき こと に定め させ 給 ひき。
左守大碑高中守主碑 講大玉 守主碑より十四世 の孫天之玉親主碑 講大岡 主碑 並
に、右 守大碑 高下 守主紳 講小玉 守主碑 より十四世 の 孫、天 之月晴比古碑 講 小 立 比古
碑は共に高皇産穂男碑より十四世の大御神高皇産霊神 天之農作比古碑を左右
より補弱 し 奉れり。天之 玉親主碑 の 御子、天 之常武比古 命講大海原碑は、天 之 月晴
比古 碑の御子、天之 古 登太留 比古 命諱御舟 守碑と共に 高皇産霊碑 の 御子國常 立奪・
耐
國 狭 植 奪 を補 弱 し 奉れり。
皇
として 本 中西 成交 の 十 二 時 と た し 結び き。 是 れ、我國 五行 干支 の 始め た す。
皇
同 种 基 部位 三 十 六 根 二 百 十 六 日 の とき、月を 目 度 に 月を 定め 落 。 同步 分 の 光
之
面耐
太
ま
所譜 藤 代
二
、天照大御碑の大御位に即 かせ給ふ や 高天原の阿祀谷 小室の阿 田都山 に 宮殿
を造営ましまして、碑 祀碑宗代々 の 天つ大御碑を祀らせ給 ふ。高天原宗廟天赴大
宮 阿 祀山太碑宮と稲し奉らる。面し て 比太碑宮は、天 つ 日 嗣の 天つ大御 碑の止ら
せ給 ふ 大御宮を守ら せ 給 ふ 宮なるに 由り、一 に宮守 の 宮と稲し ぬ。
後、天照大御碑は、太 碑宮の 宮殿 を改造ましまして、元宮 阿 祀山太碑宮 と改稲し奉
り、三品の 大御 質を 太碑宮 の碑 殿に納め鎮め奉らる。子孫代々 天 つ 日 嗣 の大御 位
-
第 一 章 継 説 二九五
-
「
碑 皇 紀
二九六
* 『かせ“きむに太神宮の平殿に於て三品の大御資を拝き送を捧けましますを
。“大 位に即くの儀典と定め給ひ 等て碑避りましぬ。後共碑霊を大御碑の政
所をシけましし中室の麻呂山に祀りて麻呂山の碑廟と稲し奉る。
『“* は高皇産霊碑神皇産霊碑の鎮ります高座山の碑願園狭趙奪両
シの鎖ります鳴澤菅原の碑魔伊非諾中二柱碑の鎮ります笠砂の騎なる高
編
*。シ大御神の鎮ります麻呂山の碑廟御父母天孫二柱碑の鎮ります字津
*。金山の 魔外祀父母二柱碑大山祇命別雷命の鎮ります加茂山なる山守の
耐
*。シ古命の鎮ります古峰の根元野の碑願を各祭らせ給ふ。面して共
宮
シ**阿山太神宮に合祀ましませるを以て足より太碑宮を高天原天
之
祀元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉らる。
巻
族高座日多命を勅使として高天原の天都に上り、太碑宮の御碑託を受けしめ給ふ。
常時高天原の惣司令碑は大山祇命五十九世の孫熱都丹波彦命なり。命は軌旨を
耐
奉し先っ太碑宮の御碑殿に於て御碑託を賜はり 天つ大御碑の碑使として勤使と
宮
共に根原の宮に参向し、正殿に於て三品の大御質を天皇に捧け奉りて即位式を行
之
紀元四年四月、天皇高天原に上りまして、天つ大御碑を祭らせらる。即ち、宇津峰
西尾崎鳴澤山なる金山に鎮ります天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ給 ひ、二柱の御
紳霊の正ります御霊石を 熱津丹波彦命に奉持せしめ、阿祀山大碑宮なる宮守の宮
に遷し祀らしめ給ふ。是より 太碑宮を慰名にては阿祀山太碑宮と稲し 軍に天孫
第 一章 総説 二九七
碑 皇 紀 二九八
二 柱 に て は、宮守 大 碑 と そ稲 しける。
天皇 又、中室 の 麻 呂 山 に鎮 まり ます天照大御碑、加茂山 の 山守の 宮 に鎮 り座 す大
山祇 命 別 雷命、又、古峰 の 根元野 に鎮 ります作田里 古 命 笠砂の硫 に鎮ります高 燈の
伊 装 諾・舟二 柱 碑、標 山 宇宙峰 に鎮り ます高座 の 高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑、小室鳴 澤の
菅原 に鎮 り ます國 狭 植 奪 園狭 里 女 奪 の 各 碑前 に於 て、親 ら祭祀の 濃 を行は せ給ふ。
尋 て熱都 丹波 彦命 に、共宮守 司 長を 命し 給 ひき。
孝霊天皇五十康申年三月 高天原に上りまして 小室の笠砂の硫に於て各天つ大
耐
九
九
第 一章 総説 二十
二九八
碑 皇 紀
二柱 にては宮守大碑とそ稲しける。
天皇又中室の麻呂山に鎮まります天照大御碑 加茂山の山守の宮に鎮り
山祇命別雷命 又 古峰の根元野に鎮ります作田里古命金砂の硫に鎮ります高盤の
伊 非諾由 二柱碑 機山宇宙峰に鎮ります高座の高皇産霊碑 碑皇産霊碑 小室鳴澤の
菅原に鎮ります國狭樋奪 園狭昆女奪の各碑前に於て親ら祭祀の濃を行 はせ給ふ。
尋て熱都丹波彦命に 共宮守司長を命し給 ひき。
孝霊天皇五十康申年三月 高天原に上りまして、小室の笠砂の荷に於て 各天っ大
御碑に通拝あらせ給ふ。又 宮守の宮に於て親しく祭祀の濃を行はせられ 官祀 一
幣司を賜ふ。祀佐男命六十八世の孫尾羽張田彦命を以て 太碑宮の宮守司長 に任
しェ 都丹波彦命七世の孫玉武男命を以て副司長にそ任し給 ひける。
崇碑天皇五成子年三月 高天原阿祀谷中室の麻呂山より、天照大御碑を大和國笠
縫の里に遷し奉り 同時に太碑宮より、三品の大御賞を遷 し 共碑霊として祀らせ給
ふ。面して三品の大御賞を模倣して新に三品を製作して、奥御殿なる眞碑殿に納
め鎮め、以て天皇代々 の 守護の 大御 賞 と定めさせ給ふ。子孫 代々 共正殿 に於て、即
位式を行 ふ へき こと に 改め 給 ひき。
爾来、不二山 中室の鷹日古山 の天照天 御碑を、古宮天照皇太碑 と稲す。同年六月、菅
原に鎮り座す國狭植 奪の碑廟を塞 川大碑と稲し、不二山を顧 地山とそ改めける。
垂仁天皇三甲午年住留家海伊 佐賀見の三國 々境なる山村に大碑宮を分ち移し
祀らせ給ふ。之を山宮阿祀山碑赴と稲し、元宮を小室阿 祀山太碑宮とそ稲しける。
應碑天皇の御字に至り、大山守皇子をして太碑宮の宮守司長となし 集継別皇子
をして副司長となきしめ給ふ。三十七内寅年碑功皇后の弓矢を大山守皇子に賜
耐
ふ。四十一康午年二月天皇崩御。九月、大山守皇子は太碑宮の大柏木の下に父天
宮
皇の遺髪と祀母碑功皇后の弓矢とを祀り高御久良碑赴と稲しぬ。
崇岐天皇二己西年厩戸皇子を勅使として太碑宮に大日本元幣司を賜ひ*別*
之
碑を遷宮し高久良碑赴に合祀して寒川大明碑と改稲し金砂の高盤大碑を幸撃。
巻
明 碑 と 改め 給 ひき。
-
文武天皇大賞元辛五年六月忍壁親王を加幣使 として下向。勅願にょ
明碑を顧 地八幡大碑と改稲し給 ひき。
第 一章 総説
碑 皇 紀 二九四
天皇御威斜ならす。共賞として吉師に河内國交野原藤坂村に於て高田五百東
を 賜はり、名を阿知 伎王仁と 賜ふ。
阿知伎王仁は賢人にして文學算術諸藝に達し、又 点 素西素は諸 の手工共他諸薬
・第
に達しけるに因り、Nを三賢と御威賞ましましき。語して男女十歳より 十五歳ま
ては阿知使王仁を教師として文學算術を撃はしめ又十五歳より二十五歳まての
男女は 皇素西素の二人を教師として諸。の手工共他諸藝を學はしめられ 又、二十五
歳以上三十一歳まての男女は王仁 車素西素の三博士を教師として諸 の武藝を學
耐
はしめ給ひき。(㎞ )
皇
之
巻
第一編 碑 宮之 巻 碑 皇 即位 所
第 一章 総説
碑代宇 家 潤不二合須 世、五十 一代の 各碑皇の即位式を行は せ 給 ひし場所は、高天
原元宮七廟 惣名 阿 祀 山太碑宮の 御碑 殿 なり。
夫れ、阿祀山太碑宮は、天照大御碑の御創立に ましまして、高天原の碑祀碑宗 天つ
大御 碑 を 祀りませる所 請碑代の 賢所 にし て吾 國太古 唯一 の 大廟 に まし ましき。
初め、天 照大御碑の 大御位 に即 かせ給 ふ や、高天原の 阿 祀谷小室の 阿 田都 山 に、宮殿
を造営まし まして、碑祀碑 宗 代々 の 天 つ 大御 碑を祀ら せ給 ふ。高天原宗廟天赴 大
宮 阿 祀 山太 碑 宮 と 稲 し 奉らる。面し て 比太 碑 宮は、天 つ 日 嗣 の 天 つ 大御 碑 の 止ら
せ 給 ふ 大 御宮 を 守ら せ 給 ふ 宮 なるに 由 り、一 に 宮守 の 宮 と 稲 し ぬ。
後、天照 大御 碑 は、太 碑 宮 の 宮殿 を改造まし まして、元宮阿 祀 山太 碑宮 と 改稲し奉
り、三品の 大御 資を 太碑 宮 の 碑 殿 に 納め鎮め奉らる。子孫 代々、天 つ 日 嗣 の 大御位
-
第 一章 鍵 説 二九五
碑 皇 紀
二九六
*『みせ“きをに太神宮の平殿に於て三品の大御資を拝き送を推けましますを
。“* に即くの偉関と定め給ひ*て碑避りましぬ。後共碑霊を大御碑の政
所をシけましし中室の麻呂山に祀りて麻呂山の碑廟と稲し奉る。
『“* は高皇産霊碑神皇産霊碑の鎮ります高座山の碑願園狭鶴奪両
シのります鳴澤管原の碑廟伊葬諾中二柱碑の鎮ります笠砂の硫なる高
。シ大御神の鎮ります麻呂山の碑魔神父母天孫二柱碑の鎮ります字津
*。山の 魔外風父母二柱碑大山祇命別雷命の鎮ります加茂山なる山守の
。シ古命の鎮ります古峰の根元野の碑願を各祭らせ給ふ。面して共
。山太神宮に合祀ましませるを以て足より太碑宮を 高天原天
赴元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉らる。
『子シ書不合奪の碑都を築市島㎞)に遷させましますや父大
* りたまはく不二山高天原の碑祀碑宗天っ大御碑の御神託に合
しょしますの意を探りて宣しく園名を宇家潤不二合須園と定むへし。 又、子孫 代
。っ『 。ォシに即かせまさむには高天原の太碑宮の御碑殿に於て天っ夫
街 ㎞の石碑託を受け三品の大御資を捧けますべき天照大御碑の儀典を守る べし
と。故に、第 一代より第五十 一代に至る各碑皇は読れも、皆共儀典を守らせ給 ひ 即
位毎 に 築市島の日向の高千穂の峰 の碑都より 高天原の天都に上り、太碑宮の御碑
殿 に於 て、即位 式をそ行はせ給 ひける。
人皇に至り 碑武天皇の帝都を大和國に遷させ給 ひ 標原の宮に止らせ給ふや皇
族高座日多命を勅使として高天原の天都に上り 太碑宮の御碑託を受けしめ給ふ。
常時高天原の惣司令碑は大山祇命五十九世の孫熱都丹波彦命なり。命は動旨を
耐
奉し先っ太碑宮の御碑殿に於て御碑託を賜はり 天つ大御碑の碑使として動使と
宮
共に根原の宮に参向し、正殿に於て三品の大御質を天皇に捧け奉りて即位式を行
之
はせ 給 ひ以て即位式の儀典を定め給 ひき。
巻
紀元四年四月 天皇高天原に上りまして天つ大御碑を祭らせらる。即ち宇津峰
西尾崎鳴澤山なる金山に鎮ります天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ給ひ 二柱の御
紳霊の正ります御霊石を 熱津丹波彦命に奉持せしめ阿祀山大碑宮なる宮守の宮
に遷し祀らしめ給ふ。是より 太碑宮を慰名にては阿祀山太碑宮と稲し 単に天孫
第 一 章 総説 二九七
ーーーーーー
碑 皇 紀 二九八
二 柱 に て は、宮守 大 紳 と そ稲 しける。
天皇 又、中室 の 麻 呂 山 に鎮 まり ます 天 照大御 碑、加茂山 の 山守の 宮 に鎮 り座 す大
〜ヘへへーへ〜へ〜〜へへーヘヘヘヘヘヘヘヘ。
力L
力L
第 一章 総説 二十
ーーーーーーーー"-ー
碑 皇 紀三○○
光仁天皇質 亀五甲寅年六月 一日、中納宮 奪鎮守府将軍坂上刈田麻 呂を勅使とし
て下向。勅願 により、太碑宮を先現太碑と改め 賜ふ。是より、先現浅間の 文字を混
-
用するに至れ り。
桓武天皇延暦十九康辰年四月 顧地山七十二ヶ所より噴火 し 塔岩熱泥劇しく噴
出し頑地山二十里四方一物を除きす皆な焼け埋まりぬ。十一月 山宮村の分赴先
現碑赴の碑官元宮磨は難を甲斐園八代郡と山梨郡との合の 中山に避け共 弟大宮
暦は赤駿河國 顧地郡岩本澤に避く。翌年元宮の太碑宮の宮守司長 即ち大山守皇
子二十六世の 孫 宮下源大夫元秀は 赤東相模國早 女郷岡田原に避 く。乃ち七廟 中
より 幅地八幡大碑即ち寒川大明碑を勧請し奉る。即ち顧地山東本宮寒川碑祀足
なり。面して 山宮村より難を避けし分赴の碑官兄弟は、三月、各碑勅を夢み 甲斐園
に避けし兄元宮磨は共山に先現太碑を勧請し奉り山を碑部山と稲す。即ち顧 地
山北本宮碑部山浅間碑赴足なり、駿河園に避けし弟大宮磨は赤共地に先現太碑
を 勧請し奉り、共地 新山宮村と改稲 す。 即ち顧地山表 本宮大宮浅間碑 赴是なり。
是より、比三分赴を里宮と稲し、太碑宮を山宮 と稲し、各里宮の 奥の院となし ぬ。
-
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平城天皇大同元内成年六月 征夷 大将軍坂上田村麻呂を加幣使として 下向 かち
七廟中、大噴火にて焼失しける四 廟を再興せしめ、寒川の里宮碑官 及碑部山の 里宮
碑官をして、七廟 中各部署を定め て、二 ヶ所 に於 て、奉仕 せしめ らる。是より大碑 宮
を、一 に二 所明 碑、又は二 所七廟 明碑とそ稲しける。且つ 顧地山を富士山 と改稲 せ
しめ 給 ひき。
清和 天皇貞観六甲申年五月、富士山 一大劇震と共に、西 の峰 より噴火し、六 月 復た
溶岩熱泥 押出し、元宮 七 廟中 宮守碑赴・幸 燈大明碑 顧地八幡大碑 貸めに焼失 せり。
事朝廷に以 聞 するや、翌年七月、大納言藤原氏宗 に 勅し て、共焼失しける三廊 を再興
せしめらる。即ち 噴火 の常時、御舟 山頂 に、大碑 の 現し まし 、宮殿 の 如く、再 造営あ
ら せらる。十二 月、太碑宮 に 正 一位 一幣司を 賜はり、再 ひ宮赴 に列せら る。
醍醐 天皇延喜 七 丁卵年五 月 十八日、従五位 紀貫之 を 勅使 として、太碑宮 に 太 政 太
碑 を 授け らる。
村上 天皇元 丁末年七 月七 日、勅使藤原 千晴 右 少 携 菅原文晴をし て、七廟 中宮守碑
赴 を顧地八幡太碑 の東に 遷宮せしめらる。面し て先現太碑宮を、阿 座旨共明 碑大赴
第 一章 継 説 三○一
碑 皇 紀三○二
と改稲せしめ給 ふ。近時富士山 の噴火度々 なるに因り期く遷宮あらせられしも
の なり。白河天皇永保三年七月、一大噴火あり て、覚に消火となりぬ。延暦の 大噴
火以来、八度に及 ひ ぬれは、世に之を富士八流とそ稲しける。
二修天皇永暦元康辰年二月源氏の落人三浦上野守義顕を初め、柏木 武内渡部 天
皇大森 長田等富士谷に忍 ひ来り 太碑宮の大宮司 即ち大山 守皇子四十八世の孫 宮
下記太夫政仁の情に依り 執 れも太碑宮の宮伴に採用せらる。尋て政仁は 義顕の
長子源基吾重成を養子となし長女に配して、大碑宮の太宮司を譲る。即ち第四十
耐
九代宮下源太夫義仁 是なり。
之 - 宮
毎に高天原より太神宮の神他三品の大御質を推持して帝都に就き回 位式を行は
宮
宮
皇朝 期 により、太 師 字 を 先 現 太 神 と 改 稱 し 始 。 根治 天皇、延 曆 十 九 年 の 大 唐 大 に
之.
文 德 天皇、從 1 位 を 授け、大社 號 を 期 よ。 清和 天皇 賞 競 年 中 亦 大體 大 に て セ 府中 一
座 機 失 や し もの を 再興 あら せ られ、正 一 位 一般市 同 を 期 はり、再び 自社 に 列 せら る。
農園 天皇之 に太 安大神を 授け 樟树上天 亮太 臓を 同性 質問 戰大船 と改めら
る。 此 而成 。 しか% に帝王 山浦 «となり 。 後鳥羽 天皇の師李 に 至りば
夷大 将軍源 頼朝、太碑宮を再興せ られ、多くの碑領、並 に 赴 家領 富士十二 郷 を寄進し
て、鎌倉 武運長久を所 らせ給 ふ。爾来、大祭日 には、将軍家自ら参詣し、又は重なる家
人をし て 奉幣せしめらる。後 太碑宮の大宮司、後醍醐天皇の密旨を奉して 新田氏
を援けて北條氏を亡す。足に至て将軍家参詣絶えにき ㎞
㎞")
延 暦 記、注 間 訳、郷司 記、免 賜 記、秘密 記。
耐
宮
之
巻
第 一章 総説 三)五
三C六
第一一章 阿 祀 山 太碑宮
第 一期 碑代
第一 太碑宮創立
一 、 > m、
阿 祀山太碑宮は、地碑 第 一代、天照大御碑の 御 宇、大 御
を高天原 に、祀らせ給 ひし碑代唯一 の 大御赴 なり
耐
て止らせ給ふ。月夜見命は高天原小室の宮守川の川上に山守の宮を作りて止ら
巻
せ給ふ。大御碑は高天原小室阿田都山なる父大御碑の止りまし、大御宮長日向
の宮に止らせ給ふ。共傍に 宮殿を造営ましまして碑祀碑 宗代々 の天っ大御碑を
祀らせ給ふ。之を高天原宗腐天赴大宮阿祀山太碑宮と名っけ奉らる。面して比
太碑宮は、天つ日 嗣の天つ大御碑の止らせ給 ふ大御宮なる長日向の宮を 守らせ給
ふ宮なるに因り、一 に、宮守 の宮 と そ稲し奉らる。
天シは太神宮の御神木なる大柏木の下に不二差業山の形を造り正 左右
シを作りてるシ天っ天シ
第
諸。の天っ紳園 っ碑を遥拝ましまし給ふ。後共大柏木の下に太碑宮の宮殿を改造
ましまして、更に、元宮阿祀山太碑宮と改稲あらせ給ふ。面して三品の大御資を 各
に御箱に納め 太碑宮の碑殿に納め鎮め奉らる。是より、不二山なる造来山高地
の峰を質来山高千火の峰と改め給ふ。語りたまはく子孫代々、天っ日嗣の大御
に即かせまさむには太碑宮の平殿に於て三品の大御資を拝 き 之を捧けさせ給ふ
以て 傑典となすべし。且つ子孫代々、比の儀典を堅く守る べし。と乃ち大園主
命を太神宮の守護司長となし、月夜見命の御子 正哉山祇命を以て副司長となし給
太碑宮の平殿に於て御子豊武里古命に三品の大御質を捧け、大御位を碑ら
せ給ふ。天之忍穂耳奪是なり。幾もなくして大御碑碑避りましぬ。宇宙峰山南
*野の出崎島の陵に葬る。共碑霊を大御碑の政所を設けさせ給ひし中室の麻呂
山にシ呂山の碑廟とそ稲し奉りける、(㎞)
第二章 阿 祀 山 太 碑宮 三○七
碑 皇 紀三○八
第二 太碑宮の 碑器使用
天日子 火環 々 杵奪 の御宇 に 至り、一日、西國 より豊玉武 昆古 命 腕 せ来り奏すらく、
西北の 大陸より、大軍附 地見島に 攻め 来れりと。乃ち奪は、諸、の天 つ 碑 國 つ 紳・八
萬碑を高天原の大御宮に集へ て碑議りに議りまして親ら言向和さむとし給ふ。
即ち奪は、太碑宮に奉安 まし ませる三品の 大 御資 の 内、資司 の碑 霊なる御玉 を玉鶴
に添 へ、室雲の御剣 を奉 持し給 ひ、碑 后 木花咲 耶里 女 奪をし て、内待所 の御鏡を玉鶴
に 添 へ しめ、武知男 命を 惣司令 頭長 とし、経 津主命等 の 四軍 碑 を大将 として、軍勢 一
萬 八 千碑 を 率 て作田 里 古 命 を御前に立し て、西 國 に 天降らせ 給 ふ。先 つ、住防 に闘
を立て て、附地見島 の 大 賊を防 かせ 給 ふ。賊 又、南島 に轄 せり と 告 くるもの を り。
乃ち碑后、親ら軍 大将となり、味 紅託 彦根 命 興玉命を副将として、軍勢八千五百 碑 を
従 へ、赤作田 昆 古 命を御前 に立し て、之を征 せしめ 給 ふ。是 より先、碑 后の 御 父母碑、
共遠征を憂ひ 共に共後を追ひ来り 伊須演に至り給ふや母碑加茂澤里女命 身例な
ら す。途に碑 避りまし ぬ。伊須 濱に 葬る。後、別雷命 と 諡 す。父 碑 正裁 山祇命は、更
に進みて西に向ひ 途に南島に至りて碑后に避近ましませるも婦碑を追悼ましま
して“一ます。六 身g ならす。き に言 送りまし ぬ。南島に葬る。後、大山祇 命と言
す。二 三() を、兵 “一うまし まし し高天原 小室加茂山 の 山守の宮に祭る。之 を
4 () 宮 () と し “
一日 々 杵 奪ニは、碑 后 を募 ひ て、南島 に浅幸まし まし 給 ふ。時に、碑 后、臨月とも見
る へき玉 に まし まし しか ニは、奪、之 を 疑 ひ、詞 后 を 恨み て、遂に 附 地見島 に 還幸 まし
まし き。碑 后 いとも し H つ 塩 しき かも と 請 り 給 ひ て、即時 旅 装 を整 へ、高 照 里 女
会 ・下 昆 女 命 を定 へ、高天原 に 這 り 上り まし まし き。乃ち 小室 なる宮守川 と御座
野川 と の の兵 の 小島 に、三戸室を 造り、共内 に三 皇子 を産み 置き、意 に 不二山 の
零
*
三川
第三 太 碑 宮と七 廟
日子 火 々 出見 奪は、園 狭 植 奪 の常言て 標 山 宇宙 峰 に 祀り ませる共御父母 天之農作
昆古碑・天之農作里 女 碑 に、高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑と 諡 し 奉り、共山 を高座 山と 名 つ
け 祭典式を行はせ給ふ。故に比二柱の碑腐を高座の碑魔と稲しぬ。又園狭植奪
國狭昆女奪の鎮ります寒川の畔なる菅原の碑廟を祭らせ給ふ。之を世に寒川の
碑廟とそ稲しける。又 阿田都山の笠砂の荷の高 燈の碑廟を祭らせ給ふ。初め 伊
耐
りましまししに因り三柱の神原を高澄の神府とそ稀しける。次に御祀天照大御
之
別雷命の山守の宮の碑腐を祭らせ給ふ、個 作田里古命碑避りましぬ。共園に残
功 あるを以て、大 御碑 の碑避り まししに準じ、厚く高天原大室 の古 峰 に葬る。共碑
霊を古 峰 の根元 に祀る。根元 野 の碑 廟と 稲 す。比 七碑廟 を 高天原 の 七 廟 とそ稲
しける。面し て元宮阿祀 山太 碑宮は、比等 の碑霊をも、合せ 祀りませるを以て、一に
第二章 阿 祀山 太碑 宮 三一 一
高天原元宮 七廟 惣 名阿 祀 山太碑宮 と稲し 奉る。太 眞祀命を以て、守護司長と なし、
天見屋根命 天太玉命を以て副司長となし給ひき。( ㎞
第四 太碑宮の守護碑
日子波 激武競 茅葺 不合奪は、日子 火 火出 見奪 の認命 を 長 みて、碑都を附地見島に
二 遷 させ 給 ふ や、先 つ地 を相し 碑 都を切枝問山 に奪 め 給 ふ。不二山 の 日向高千 火 の
峰 て ふ名を襲 ひて、又、共 改 をも、日向 高千火 の峰 と名 つけ給 ふ。是より高天原を天
都といひ 新都を碑都といふ。共新に都を築きしに由り用地H島を築市島(㎞)
と 改め給 ひき。面し て奪を以て、遷都後、宇 家 潤不二 合須 世、第 一代の碑皇と なす。
父 大 御 碑 日子 火 火出 見奪は、高天原の 天都 に止り まし まし給 ふ。建 御名方命の
御子謙訪彦命並に阿倉里唯命等 守護し奉る。父大御碑認りたまはく子孫代々の
碑皇は鵜芽葺不合奪の諱を襲承すべし。又 楽市島の碑都に於て天下の園政を統
へさせ給ふと離も一に不二山高天原の天っ夫御神の御神託に合はしまさむの意
を採りて宣しく園名を宇家測 不二合須園と稲すべし。又 代々の碑皇は高祀天照
* あませる儀共に違ひて即位毎に高天原の天都に上り定っ太神宮の御
プ記
碑殿に於て、天つ大御碑の御碑託を受け、三品の大御質を捧けて、大御位を授け 賜は
り、以て即位 式を行 ふ べし。と 後幾 もなくし て、父大御碑、高天原 小室 の大御宮 なる
家 基都 の宮 に於 て碑避り まし ぬ。大室の碑 山 の陵 に葬る。碑皇は、父 奪 の 遺髪を、
日向 奇 日 の高千 火の峰 の 上の 大宮 に 祀り、後更に 始羅山の上の陵 に 葬り ぬ。
碑皇は、伯父碑 火須勢理命を以て、高天原 の諸務惣司令碑として、太碑宮を 守護せ
しめ給 ふ。命、乃ち築市島 より 高天原 の 天都 に還り上ら せ 給 ひ、弟大御 碑 の 止りま
しし大御宮 即ち家基都 の宮 に 止ら せ給 ふ。太 眞祀 命 の 子孫、火照須命 の 子孫、大國
耐
一日奪は赤無戸室に行幸ましまして威概 描く能はす。共屋根の大笠の如くな
巻
れるに繰り共所在を笠砂の荷と名っけ家佐座の富を笠砂の宮と改め給ふ。され
と、居常快 々 として楽みましまさず。途に身例 ならす。天太玉命・天見屋根命は老
作田里古命とり、種々装書を書して慰め奉りしか%に神連りましみ、神后
と同所の優に葬る。天孫二柱の金山の碑願足なり。(㎞
第三 太碑宮と七廟
り
日子 火 々 出見 奪は、園 狭 植 奪 の常言 て標 山 宇宙 峰 に 祀 り ませる共御父母 天之農作
し
昆 古 碑・天 之農作 昆女 碑 に、高皇産 霊碑 碑皇産 霊碑 と 諡 奉り、共 山 を高座 山 と 名 つ
耐
け 祭典式を行はせ給ふ。故に比二柱の碑廟を高座の碑魔と稲しぬ。又園狭樋奪
ら
國狭 昆女奪の鎮ります寒川の畔なる菅原の碑廟を祭らせ給 ふ。之を世に寒川の
祀肺
碑 廟 とそ稲しける。又、阿田 都山 の笠 砂 の 硫 の 高 燈の碑 廟を祭ら せ 給 ふ。初め、伊
耐
耐
装 諾 由 二 柱碑 の毎夜、笠 砂の 硫 の 高峰 に於 て、奪 火 禁 きて、碑祀碑宗 天 つ 大御碑を祭
宮
りましまししに因り 二柱の碑府を高盤の碑府とそ稲しける。次に御祀天照大御
之
別電命の山守の宮の神府を祭らせ給ふ、個 作田里古命碑避りましぬ。共園に殊
功 ある を以て、大 御 碑 の 碑避り ましし に準じ、厚く高天原 大 室 の 古 峰 に 葬る。共碑
霊を古 峰 の 根元 に祀る。根元野 の碑 廊 と稲 す。比 七碑腐を高天原の 七廟とそ稲
しける。面し て元宮阿 祀山太碑宮は、比等の 碑霊をも、合せ 祀りませるを以て、一 に
第二章 阿 祀山 太碑 宮 三一 一
碑 皇 紀 三一二
高天原元宮七廟惣名阿祀山太碑宮と稲し奉る。太 眞祀命を以て、守護司長となし
天見屋根命 天太玉命を以て副司長となし給ひき。(㎞
中
第四 太碑宮の守護神
日子波 激武競 茅葺不合奪は、日子 火 火出見奪 の認命を 長 みて、紳都を附地見島 に
遷 させ給 ふ や、先 つ地 を相し 碑 都を切枝問山 に奪 め給 ふ。不二山 の 日向高 千 火 の
峰 て ふ名を襲 ひて、又、共 皮 をも、日向 高千 火 の峰 と名つけ給 ふ。是より高天原を 天
(
都といひ新都を碑都といふ。共新に都を築きしに由り 的地H島を築市島(㎞)
と改め 給 ひき。面し て奪 を以て、遷都後、宇 家 潤不二 合須 世、第 一代 の碑皇と なす。
宮
父 大 御碑 日子 火 火出 見 奪 は、高天原 の 天都 に 止り まし まし 給 ふ。建 御名 方 命の
之
御子譲訪彦命並に阿倉里唯命等 守護し奉る。父大御碑認りたまはく子孫代々の
巻
企よ
火
長
の
て、
就
み
宇 家潤 不二 合須世 五十 一代の各 碑 皇は、御祀 日子 火
を
御
殿
耐
浴
の
に
れも、高天原 の 天都 に上り、元宮 七 廟物 名 阿 祀 山 太 碑 宮 於 て、三品 の 大御
質を捧け て 即位式を行は せ給 ひぬ。初め碑 皇第 一代、鵜 芽葺 不合奪は、遷都
碑宮に於 て即位式を行 はせ給 ふ。面して 築市嶋の 日向高千穂の 宮にて、天下を治
めすこと二百有除年官 て認りたまはく、皇位は、紳皇の碑 避りましし後に於 て、皇太
耐
か に碑
宮
腫
祀
ル 山
使 の
つ
天
て
於
に
殿
宮
受太
を
と託
使
碑
三共
、
賞
御
大
御
ſ
ふ
給
せ
は
に行
五
黒
即闇
なて
日
一
十
月
二
年
西
辛
元
爾紀元
。
き
、 と共に
時後りちしに 式
奉
し
向
参
宮
原
標
於
に
、
て
け
捧
質
御
大
の
を
勅位
正
三
即 殿
品
是を以て即位式の儀典と定めさせ給ひにき。(㎞)
第七 太碑宮の御親祭
碑武天皇紀元 四甲子年四月五 日、諸将を従 へ 帝都を発せられ、二 十日、高天原 の碑
都 に上り、小室の 里家基都 の宮を行在所として駐 らせ給 ふ。二 十 一日、阿 田都山西
尾崎 なる笠砂の宮に於 て、高天原 の 天 つ大御碑 に造拝ましまし ぬ。尋 て、同所 に鎮
り座 す伊井 諾・舟二 柱の碑の 碑廟を 高 燈大碑と祭らせ 給 ひき。二十二 日、小室の宮
守川 と御座 野川 との間 の具 砂の 小島 に行幸ましまして、無戸室の古跡を訪はせ給
ふ。又天孫 二柱の碑の鎮ります御座 野原南の鳴澤山に行幸ましまして 金山の碑
廟に拝濃まします。乃ち 語りたまは く、股 が御祀 天孫二柱の碑は岩窟に鎮りまし
ませは、今も尚ほ 玉 鶴全からむと、高天原 惣司令碑熱都 丹波彦命に命じ 岩戸を啓か
しめ 給 へ は、則 ち玉 鶴遣 骨成な消え失せ、唯御霊石 の みそ残存まし ましける。天皇
流湯良、久しく悲しく拝濃ましまし ぬ。乃ち 語りたまはく、是れ、天孫二柱の御碑 霊
の 止り ます御霊石なり、と 乃ち熱都 丹波 彦命 に 命し て、之 を捧持 せしめ、太 碑 宮なる
宮守の 宮に鎮め祀らせ給 ひ、天 日子 火 環 々 杵奪 木花咲 耶里女奪と諡し奉らる。是よ
耐
り、七廟惣名にては阿祀山太碑宮と稲し、天孫二 柱の碑霊に ては 宮守大碑とそ稲し
宮
ける。二十五 日を祭日と定め 熱都 丹波彦命を以て守護司長と なし、太兵組命 の後
、胤 火照須命の後胤・火須勢理命の後胤大國主命の後胤 天見 屋根命の後胤 天太玉 命
の後胤 を以て、副 守護 司長となさしめ給 ふ。平宮守は、故の如く承継 せしめ給ひき。
天皇 又、中 室の麻呂山 に鎮ります大日 霊貴奪 の 麻呂山 の碑廊 を祭り、天照大御碑
と諡し、次 に、加茂山 に鎮り座 す塞川彦命講 正裁 山祇命 寒川姫命講 加茂澤里 女命の
碑願を、山守大碑 と祭らせ給 ひ、大 山祇命 別雷命と 諡し奉らる。次 に 又、小室 中室・大
第 二 章 阿 祀山 太碑宮 三二
碑 皇 紀 三二二
室に鎮ります八百萬碑にして國 に殊 功ある碑 々 に、各論をなし 給ふ。且つ寒川の
畔なる菅原に鎮ります國狭植 奪 園狭昆女奪の碑廟を 塞 川大碑となし、又、古峰の根
元に鎮ります作田 昆古命の碑廟を 根元野大碑となし、又 標 山 宇津峰に鎮ります高
皇 産 霊碑 碑 皇産 霊碑 の 碑 廊 を、高座大 碑と なし、各祭典式 を行は せ給 ひき。二 十 六
日、又、阿 田 都 山 の笠 砂の 硫 に 於 て、更に諸、の天 つ 大 御碑 に通 拝 まし まし 給 ふ。二 十
八 日、高天原 の碑都を 務し還幸ましましき。爾来、毎年四 月 二 十五 日 には、勅使を派
し、以て大祭を行はしめ 給 ひき。同年六 月、大和 國 鳥見 山 に、高天原 太 碑宮 の 天 つ 大
御碑 の通 拝所を建て させ 給 ひき。八 月 帝都 より不二 山陰を経て太碑 宮 へ、東海道
を開かせ給ふ。共騎攻は三十三騎とす。即ち高市魔瀬忍海 久世宇野原田山城 宇
太 山崎山田・伊賀 発名 市村 度曾・鴨部 馬 津海部中島・山田 知太 鳥浦渡津 遠江 佐野・西木
原 横尾 小川・横田・阿部 松岡 水 久保 川口・家 基都、是 なり。高 市は、標 原 の 宮 所在地 にし
て家基都は太碑宮所在地なり。(㎞
第八 太 碑 宮 と大地震
孝霊天皇五十度申年三月十五申日の夜天皇の寝殿に本花咲耶里女奪自衣の美
』 』』 J 』 『 』「 j 「
女に現れて語りたまはく、次 の敬心誠願に依り、不二山の悪魔消え暗れて明に現し
給 ふ へ し、と の 霊夢 に由り、天皇則ち、高天原 太 碑宮 の参拝を なさむとし 給 ふ。四月
七日、高天原に上らせ給 ふ。八 日、笠砂の硫 に於て、小室・中室・大 室に鎮ります、各天 つ
第 大御碑に造舞ましまし、且つ 高盤大碑を祀らせ給ふ。九日初 申の日、太碑宮なる宮
二 守の宮に於 て、親しく祭典式を行はせ給ふ。偶、地大に震 ひ、不二山 の煙皆な晴れ、人
心 いと 安 からす。天皇、初め屋従の 人々、且つ 驚き 且つ 通 舞 まし まししか、既に薄暮
に及 ひぬれは、赤明日見むものをと て、行在所に還幸まし まし ぬ。是 より、比地方を
耐
一に明見 の 里といふ。共夜、宮守 の 宮 に、白衣 の美女現れ、天孫 二 柱の御霊石 の 上に、
宮
らせ給ふ。共止らせ給ふ宮を 任羅山の里(㎞)江川の宮といふ。面して大地
震にて内海震上り水全く弾参留に因り引留賀共 継を祀り 共務きませる塚を引留
耐
共長子を 亡田大八良命といふ。(㎞)子孫世々大八良と稲しぬ。長女
を 君 澤田 媛といふ。媛は、伊須演 に鎮 り ます加茂澤 昆 女大 碑 の 宮守 加茂 澤雄 命 に
嫁 く。命 は、大 碑 の第二 の 御子、加茂山 雄 命 五十七世 の 孫 なり。共所在を加茂 國 と
-
いふ。
爾来、天皇 毎年四月の大祭 日、井に毎月 一日 十五 日 には、伊瀬崎 に行幸ましまして、
不二山高天原 に向 ひて、太碑宮に通 拝ましまししか、一日再ひ、不二山の煙皆な晴れ、
明かに見えつれは 則ち共地を二度見 ケ浦とそ稲しける。
七十三発 未 年八月 秦徐顧童男童女五百除人を従 へ 不二山 にそ着しける。乃ち
先っ阿祀谷 に上り、太碑宮を初め各七廟に詣づ。面して皆な大室に止りぬ。徐顧
は 後 中室に居を 下して 止り 童男童女五百除人は、或は中室に、或は大室に止り 各職
とする所に従事しにき。然るに、徐 顧は、比等の人々を督して、先つ 賞を養 ひ緑を製
し、以て機を織らしめけり。是れ我國絹布の権興なり。
徐顧、止まること須史にして、太碑宮の宮守司長尾羽張田彦、及共男不二 田彦 井に
副宮守司長阿祀彦共他碑祇の後胤等と、交を結 ひ、且つ比等に、文學をそ授けける。
後、覚に太碑宮の 由来、並に碑代よりの事填 に闘し 共者等の 日牌と、各後胤の秘蔵し
ける質記録及系譜等とを録取して世に博ふ。之を十二史談 即ち徐顧博といふ。
武内宿禰 太碑宮に奉幣し来るや 偶、徐顧の来朝を聞く。乃ち共門に入りて、徐顧
及 ひ共子 顧永等に従ひて 共教を受く。後 男矢代宿禰を件 ひ来りて、父子共に徐顧
學 を そ 窮 めける。
第二章 阿 祀山 太碑宮 三二五
-
静 和 三 二六
孝 元 天皇北美 军 11 月 入 日後 屬中 常に於 愛す。 之 を中空 服 日山 の 降 に集。
求 神代 よう の 事態を世に 修 《文 は文學 を 数 《機械を 人 に 授 < るたと 攻囲 に貢獻
する所形から きる。のあるを以て時人轉載 の 如く し て ゆく之 を 祀る。 中 宮殿
*** *** * ** * * * *** «6 筆した『g
鐵 山 た 軍少 其 地を新さて居住 し にサ る。 後其 地 に父 の 神 論 を 分 後 し 制 ,8
編
の 御神 記 を 受け止め、英制使 となり、三品 の 大 御 資を 楽し 座 部 に 参加 しめ 以前
ż
碑使となり三品の大御質を奉して鶴徳天皇の即位式に参向しぬ。命は宮方男命
の 御子 なり。
編
の御子なり。
之
使となり、三品の大御質を奉して 孝安天皇の即位式に参向しぬ。命は、山宮男命の
御子なり。
紀元三百七十 一辛未年 一月十二 日、太碑宮の守護司長賞米山男命は 高天原より
赤 碑使よなり、三品の大御質を奉し て、孝霊天皇の即位式 に参 向し ぬ。命は、奈流男
第二章 阿 顧 山 太 碑宮 三二七
碑 皇 紀 く 言二人
命 の 御子 なり。
紀元四百四十七丁玄年 一月十四日、太碑宮の守護司長美弾 方男命は高天原より
赤碑使 となり、三品の大御質を奉し て、孝元天皇の即位式に参向し ぬ。命は 講 を不
二田彦といひ刺佐男命六十九世の孫にましまして孝霊天皇の新任ましませる太
碑 宮 の宮守司長尾羽 張 田彦命 の 御子 なり。
紀元五百甲申年 一月十二 日、太碑宮 の宮守司長阿 曾男命は 高天原より赤碑使と
なり、三品の大御質を奉し て、開化天皇の 即位式に参向し ぬ。命は講を、大室田彦と
耐
使として高天原に上り 天照大御碑を勧請し奉らせらる。即ち勅使等は林浴斎戒
之
作 せしめ給 ふ。
巻
万ち各名工等 法 沿斎戒して碑祀碑宗天つ大御碑初め諸、の天つ碑 國の碑に所願
をなし、意を用み 心を霊し て、覚 に同一 の三品の 大御資を製作し奉り、功 を闘下 に以
聞 す。乃ち、高天原 の太碑宮の宮守司長吉田 彦命、副宮守司長太田川 彦命初め、皇女
豊拒入媛命 済 名城入媛命等をして又 百日間諸、の天っ碑 園っ碑に 六根清浄の所属
を貸さしめ給 ふ。是 に於 て、新器 を大 御宮の奥御殿 なる旨共碑殿 に納め銭め奉らる。
面 し て新 器は代々 の 天皇 守護の 大 御質と 定め られ、碑 代博 来 の 三品 の大 御質は、笠
縫 の里なる 天 照 皇太 碑宮 の碑 霊 として、斎 き鎮め させ給 ふ。天皇 語し て、爾後即位
式は 量 碑殿 の 正殿 に於 て、碑 祀碑宗 天 つ 大 御碑 初め、天照太御碑 に 拝 濃 ましま て、大
御位 に 即かせ 給 ふ こと に、儀典を 改め させ給 ふ。
爾来天下大に置え 撃投流行し遂賊蜂起しぬ。足れ 天照大御碑 及び三品の大御
賓を奉 遷 まし ましし に因り、高天原 の 太 碑宮 なる碑 祀碑宗 天 つ 大 御碑 の 碑怒 の然
耐
照皇太碑根山宇津峰の高座大碑治峰の根元野大碑を祭り、且つ四季の大祭師ち春
之
函巴 貫
祀l耐
巴記
三川
太
第十 一 碑宮の分赴
垂仁天皇三甲午年八月十五日武済川別命に勅して住留家 伊 佐賀見の三国々
境なる山村の上の大塚に太碑宮の分赴を設けしめ給ふ。夫れ山村は 武天皇の
-ヘ-**
間かせましし顧地山陰なる東海道の騎攻にして三園々境に位し、何れょり 地山
に登らむとするも 必ず比村を経過せざる可からず、即ち東園ょりは 佐賀シの
川日村を経て百十町にして北園よりは海伊園の元住村を経で百十二町して
よりは住留家園の端久保村を経て百四十町にして各山村に達し、Nょり調地山 *
登りしものなり。故に今や比村に分赴を設けしめらる。足ょり山村を山**。
三三三
第二章 阿風 山 太碑宮
* -
シ
=
-
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シ。 『 』 * シー シ シシ - -
碑 皇 紀 三三四
改め分赴を山宮阿 祀山碑赴と稲し、本赴 を元宮小室阿祀山太碑宮 と稲す。分赴は、
太碑宮 を距 る こと二 百 二 十 六 町 と す。
太仁志男命を以て分赴の宮守となし、旦 つ 太碑宮の 副宮守司長を奪 ねしめ給ふ。
命は、太碑宮の 宮守司長川山田 彦命の弟 にして、前宮守司長吉田彦命の二子なり。
共碑赴を更に又創めませるの意に縁り謎を最 太八千# 良と給ふ。故に子孫世々
真太八良と稲し後世遂に 飛良とそ稲しける。
天皇二十五年、勅し て伊勢國度曾原なる碑武天皇の御父、碑皇第五十 一代 親 非葺
耐
笠縫の里に鎮ります天照大御碑の碑霊たる三品の大御質を そ遷宮し奉りける。
之
都 に還御ましまして管て記太夫の新に築き 美夜受媛母子を擁護し奉りし新宮に
駐らせ給ふ。比新宮は南加茂坂東阿田都山の麓にあるを以て世に城下の宮とそ
稲しける。
奪 騎途に臨み 笠砂の尾崎峰に於 て、顧地七廟を遥拝ましまして、遂に小室を務 し
大 室より御古 峠 を越え、海 伊國 より更に毛の 國 に出で、確氷 峠を経て西に還ら せ給
ふ。騎 途、又、尾羽 張 に過きり 美夜受 媛に 草薙の質剣を吾と思 へ、と て授け させ給 ふ。
去 つて近江より能類野 に 到りて暴かに夢 し ぬ。日本武奪 と諡し給 ふ。明年五月
五 日 美夜 媛、一王子 分競 す。長田 王と つけ給 ふ。
五十三発 玄 年六月三 日、天皇、顧地山 阿 祀谷 に巡 狩 まし まし ぬ。是 より先、天皇常
に、皇子、日本武 奪 の 平 げ ませる地を 歴 覧 まし ま さむ と せり。是 に至 つて、武内宿禰
編
十 六 家 は、所 調 阿 祖谷 大社 三 十 六 种 后 是 たり。
三 十 七 天 真 年 六 月 十 日、武内 信頼 を 助 使 として 三國 第 一 山 で ふ 初期、及び 戦 功臣
后 の 弓矢 を、大山 守 自圣 子 に 開 よ。 而 し て、天 照 自室 大神 の 麻 呂 山 の 古 朱古 を 改造 し て、之
に 御 加代 山 なる 皇 太 神 の 奥 古 を 合祀 し 本 ら る。 不同 所 たる 佐藤 の 空洞 に 付 を 延
て て 徐福 神社 として 記 ら せ 結ぶ。 四 十 三 張 年 年 11 月 二 十 二 日、天皇 崩御。 九 月 11
乾 11 章 阿 朗 山本 神宮 三大
碑 皇 紀 三四○
十二 日、大山 守皇子は、父天皇の遺髪と祀母碑功皇后の弓矢とを阿田都 山の宮守大
碑の大柏木 の下に祀り、高御久良碑赴 と稲す。皇子は、共宮の下に居を下して止ら
せ給ふ。之を常 の盤と唱ふ、足より子孫世々㎞を密下とそ稲しける
東北諸園の碑祇の後胤等 復た、大山 守皇子を奉じ、碑都復奮を企て 、反す。即ち、
武奪植命の後胤加志摩 彦良を軍大将となし、建御名方命の後胤 諏訪彦良 天太玉命
の後胤安房田彦良を副将となし前玉命の後胤武継彦男以下、三十五将をして、各國
國に兵を催し 密に阿祀谷に軍勢を集めしむ。事、京師に波る 、や 大鶴鶴天皇は 皇弟
苑道稚郎子皇子を将として、之を征せしめ給 ふ。東軍の大将加志摩彦良は、大山 守
皇子の衣服 を着し 諸将と兵五百騎を従 へ、皇軍を慶 にせむものをとて、顧 地川を渡
る。偶 伏兵暴かに起り撃つ。東軍利あらず 多く湖死す。乃ち加志摩彦良、敵中に闘
入し、縦横奮ひ戦ふ。怒ち河中に投じて浮き つ沈み つ 巧に下流に上陸し、残兵を牧め
て家基都に騎る。英道稚子は、乃ち衆を摩 き、鍵を以て溺死者を引上げ 以て大山 守皇
子を物色せしめ 給 ふ。 然るに、作田 昆古 命の後胤佐田彦は、共容貌皇子 に酷似 しける
ものあるを以て、大山 守皇子は 足なり、と乃ち共尻を大和園に送り 奈良 山に葬りぬ。
大将 加 志摩 彦良 は諸将と議 し、先づ 大山 守皇子 に玉 柱良男等の 七 将を附し、佐賀
園に移駐し奉り 様走(㎞)の闘を横走利羅に足柄山中の闘を弾無羅佐和良に
らしむ。乃ち、又諸将を部署して各要所に於 て皇軍を防ぐ。且つ巧 に奇計を設
け て 之 を 蔵 くす。皇軍、遂に 山 宮村 より 幅 地川 に退く。東軍 追撃川を 来 みて 戦ふ。
る に、一日 勅使香古坂 王 山宮村 に参向 し て 目 く、坂 主大山 守皇子、溺死 しける今日、
とも盆 なし。因 て 雨軍、宜しく和 を講ずべし と。大将 加志摩 彦 長、謹 て 勅 を 奉
じ、和を講し ぬ、東軍旦 つ 脱 ひ、且つ 祀賀しにき。乃ち阿祀谷家基都 騨を、賀吉 騒と
む。足に於 て、大山 守皇子 を 佐賀見より、阿 田 都 山 の 小室城 宮下 の 宮 に 迎 へ奉る。
より、皇子は鍵名 して 宮下記太夫明仁 と稲し、顧 地太夫 の 後を嗣ぎ、祀佐男命六十
八世 の 後胤 と稲 し、大宮司 長 と なる。子孫世々、大宮司 長を 承継 し 給 ふ。共皇子 の
駐 まし まし し山 を、大山 と いひ、共 山麓 の 原野 を、大 住 の 里といふ。
弟集 纏 皇子、赤鍵名して、顧地又八良政元と稲す。是より先、皇子は、妃女登利媛を
ひ、帝都 に上り、共に大鶴鶴天皇に調 す。天皇、共妃を慕ははせ 給 ふ。皇子、乃ち 羽
矢代宿禰と議 り、主従七人、密 に逃れ て倉橋の里 に匿れ、倉橋山 を経て宇陀の里 に
第二章 阿組 山 太碑宮 三四一
碑 皇 紀 三四二
至るや、果して追兵来り攻 む。宿禰、乃ち従士 目 志良 男を殺し、皇子の 衣服 を着せし
め 顔面数箇所に矢創を附し 皇子の戦死ましまししものの如くし て山越 に逃れ、伊
勢路 より、辛じ て、阿 祀谷 に還らせ給 ふ。是に於 て、鍵名 し て 幅地又八良政 元と 改め
分赴山宮阿 祀山 碑赴 の 宮司、衆太碑宮 の 副宮司長 顧地 又 八 良大原 田彦の 養子と な
り て、共職 を承継 す。妃 女 登利 媛 赤鍵名 し て標 山 媛 と稲 し ぬ。
同 天皇十七己五年二 月二 十二 日、大山 守皇子、宮下 の宮 に て、夢 せらる。毒八十七。
高 御 久良 碑 赴 の 赴 側 の 大 柏 の 下 の 陵 に 葬る。同三十 五 丁 未 年、根 鳥皇子 をし て、阿
祀谷 の 農事 を司り、且つ 八百 萬碑 の 祭典司長と な させ 給 ひ、初田 矢代 宿禰 同 副 司長
となる。皇子は、川口 村 の 北、太田 山 に 居 を 定め給 ふ。之を太田 の 宮 と稲 す。子孫
世々、太田 を氏 と す。
巻
上
に
四人を置き基下に赴掌八人司典八人を置き、Hっ碑官五人毎に 頭長を立っること
巻
に 定め させ 給 ふ。
皇子 又、寒川大碑を高御久良碑赴 へ 合祀したりし赴地、即ち自 連満 尻 に 一宇 を建
立し、顧地山白蓮寺と 跳し、寺領主田三十五束を 賜 ひ、以 て行満 寺 の奥の院と ぞ稲し
ける。抑も行満 寺は、百済 國 の 日 羅 の 創立 と す。初め 日 羅 は、敏達 天皇十 四 乙己年
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三四三
碑 皇 紀 三四四
阿 祀谷 小室 に来 り、太 碑 宮 の 赴前 を流 るる 宮守川 に 一撃 を建立して日夜基
近の 小池、又は菅原 の大塚の上 なる自 蓮流にて行を修し、地蔵の 法と勝軍の法とを
~~へヘヘヘヘヘヘヘヘヘへへへへヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ
奥の院として、白蓮寺を創立せられしもの なり。常時の勅状は、
うくくくくくくくくくくく、くくくくく
宮
勅 命 司
之
大臣 蘇我 馬子 花押
今度 顧地元宮七赴大碑 各再興之事。
顧地 山 仁、備寺 建立之 事。
勅定
泊瀬部若雀奪(㎞)二年六月三日
就 権 既 ► (花押)
福地 山 也 就 大 神宮司
を 下記 本美元磨、 _
春天 人 陈 に日本 文獻
座 地 なる 佐賀 見 國 小 國 都留 高座 國 を 改め、都留 高座 部 と なし、海 空調 小 國 山 背 國 を
改め'山 背 郡 と なし 在留 家 國 小 國 屬 地図 を 改め、福地 那 人 た させ 結ぶ。 同士 王年文、
金剛 の 不知 不論 み を 改め に由 大 神父 の銀座 地 たる 佐賀 郡和 高雄 馬 を
改め、相模 國 都留 高座 部 と 改め、海陽 山 背部 を 中 非美國 八代 郡 と 改め 後期 か、在留 家 國
羅 地帯を 敵 地圖 爾 地帯 と 改め踊 (講義 縣 議 魏)
第十 五 爾 地 人脈 と 先 現 太
谷
华 德 天空 大 化 元 J 西平 十 二 月 十 日 阿 加山 太 神宮 の 独り まし ます 相 機関 の 1 部
を 倒 さて、甲斐 國 に 編入 やら る。 之 を 都留 郡 といふ。 是 上り 先、諸 國 の 小 國 を 改め
郡 と た させ 結 % ) 開 地 山 東北 総 1 ㎞ の 地 を 称 相 高座 部 と 称し、都留·麗 地 和 被古國
都 區 北非 平 女 の 六郷 に 分ら あり し が、今や 都留·福地 和 校・吉岡 の 四 郡 を 割 さて 流 相 鄰
第 1} * 動 名 三四五
碑 皇 紀 三四六
と稲し甲斐國 に編入せられ、都匿井早女の二郡を相模國高座郡と稲せしめらる。
是 より、太碑宮 を初め、各 七廟は 意 に甲斐園 に属する こと 、なれ り。
文武天皇大質元 辛五年六月十三日、勅願により、忍壁親王を加幣使として阿 祀谷
に上り、七廟中 寒川大明碑を顧地八幡大碑と改 稲し、正 一位を賜 ひ 碑領として 圭田
山
四十八 束 を賜ふ。同時に、山宮村 の 山宮阿 祀山碑赴 に 従一位 を、元宮 小室阿 祀山太
碑宮に正 一位を賜 ひ、碑領として駿河 園 顧地郡 に於 て 主田五十束 相模國高座郡 に
於て圭田五十東、中斐園八代郡に於て主田五十東を賜ふ。常時の勅状は、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
勅願
*品"
呂
天之 眞宗 豊祀 天皇 文武天皇
勅願之事。
-
組頭 一人を置き、七十二組となし、上碑職三十六組は、大宮司 に属し、下碑職三十六組
宮
定めさせ給ふ。古例に準じ、毎年、太碑宮より出張して、之を掌る こと 、なし ぬ。
太碑宮の農作及祭典副司長宮田磨は、加幣使 忍壁親王の知る所となり、遂に共職
を弟宗治彦に譲り、親王に従 ひて京師に上る。撮せ られ て、親王の副 帥 となり、共に
蝦夷を征す。共功に依り 科野園高井 水内の二郡を賜ふ。長野原の吉田岡の坂上
第二 章 阿 祀 山 太 碑宮 三四七
碑 皇紀
三四八
の館に居る。因て坂の上を氏とす。質亀二年北越 西海 諸園征討の功に依り 陸奥
園三十四郡を賜はり 従 夷大将軍に任ぜらる。菊田郡菊田の館に居る。之より城
菊田 鷹 と稲し ぬ。
第
従一位左大臣 藤原 永 手 花押)
勅
之
資亀 五 宙 年六 月 一 日
顧 地 山元宮 七赴 天碑 大宮司
顧 地記太夫元村 *、 くくくく『
坂上菊田磨は後陸奥園菊田郡菊田の館 より同園田村 郡田村の館に移り居る。
天 應元年長子田村暦と共に蝦夷を平ぐ。同十 一年陸奥三十四郡を田村磨に譲り、
奮領地なる科野園水内郡長野原吉田岡坂上の館にそ隠居しにける。(㎞
・ 第十六 雲切如来と篠垣 塚
文武天皇大質元辛五年僧雲遍阿祀谷に上り、徐顧山行満寺に入り行を修し、又 奥
の院なる顧地山自蓮寺に移り、自蓮満の清淡にて備書百部を勝寛して天皇に奉る。
宮
爾後清漢を霊水と稲し、之に溶し又は之を服すれば諸病に効験ありとて顧地山通
拝 者 盆、繁盛 を極 む。
*、*、ヘヘヘヘヘヘヘヘし
シ 天皇 一日雲遍に勅して 行満寺より雲切如来を皇城藤原の宮に遷さしめ以て 守
シとなきしめ給ふ、雲切如来は書て日本武%が東海に雲を切り分けて はれ
ましましし碑像を石に描き置かれしを、概 戸皇子、更に之を紙に寛 させ給 ひて、行満
寺に安置 せ られしもの なり。
第二 章 阿 祀山 太 碑宮 -
三四九
㎞
シ
碑 皇 紀 三四四
阿 祀谷 小室 に 来 り、太 碑 宮 の 赴前を流 るる宮守川上 に、一 **を建立して『夜基
近の小池、又は菅原 の大塚の上なる白蓮満 に て行を修し、地蔵の法と勝軍の法とを
極 む。後、行満ち て 西 に 騎 る、共 堂 に、徐 顧 の 斎 らし来れる薬師 如来 と、日羅 の持ち来
れ み 地蔵 奪 とを安置 し て、徐 顧 山行満 寺 と跳 す。之 を東國寺院 の 鳴 矢 と す。今や、
皇子は、日本武 奪東夷 征討 の とき、御代 山麓 なる泉水 の 上 の 大石 に、書き置 かれし 碑
像を 務 見せ られ、之 を紙 に寛 させ 給ふ。共東海 に雲を 切り分け まし し に 由 り、雲切
如来と名っけ又自らの像を書き基に行満寺に納め等領寄田三十五東を賜ひ H共
耐
奥の院として 自蓮寺を創立せられしものなり。常時の勅状は、
う〜〜〜} *くくくくく
勅 命 司
之
大臣 蘇我 馬子 (花押
今度 顧地元宮七赴 大碑 各 再興之事。
顧地 山 仁、備 寺建立 之事。
勅定
泊瀬部若 雀奪(㎞)二年六月三日
執 候 話 ► (花押)
羅 地 山 也 就 大 神宮司
下記 本美元理、
摩天 大使 陈 寿 に古 朱 文獻
座 地 たる 佐賀 月頃 小西 都留 高 座頭 を 改め、都留 高座 部 と なし、海 世 民 小 國 山 背 側 を
改め、山 背部 と た し 作曲 家 國 小 鳳 頭 地図 を 改め、福地 那 人 た させ 結ぶ。 同「五 年文
全 36 % s * に由 太宗 の農地た 金 を
改め、相模原 郡 和 高座 部 と 改め、海 世博 山 背部 を 中 英國 八代 郡 と 改め 始 か、作曲 家園
宮
聖書 記 を 政 齒 龍虎 皮膚 (講義 縣 縣 縣 縣 )
地
八
腳註
之
第十 五 摘 しと 先 現 太 師
卷
李 德 天空 大 化 古巴 吉 布 于 1 月 十 日 阿 加山 太 神宮 の 舞う まし ます和校園 の 1 部
を 割 さて 中 安政 に 編 入ら る。 之 を 部 路 部 と いぶ。 是 上り 先前 國 の 小 國 を 改め
郡 と た させ 始祖 地 山 東北 俊一 帶 の 地 を 称 相 高座 流 と 称し、都和烏 地 和 被中國
都 區 北 平安 の 六 郡 に 分ら あり しか、今や都留·福地 和 秋 吉岡 の 四 盤 を 抱き て 激 战舰
第 二 章 小說 三四五
碑 白 紀 三四六
と稲し甲斐園に編入せられ部匿非皇女の二郡を相模園高座郡と稲せしめらる
是より、太碑宮 を初め、各七廟は意 に甲斐園 に属する こと 、なれり。
文武天皇大質元辛#年六月十三日 勅願により 忍壁親王を加幣使として阿祀谷
に上り、七廟中塞川大明碑を顧地八幡大碑と改稲し、正 一位を賜ひ 神領とし
}
て
四十八 束を賜ふ。同時に 山宮村の山宮阿祀山碑赴に従一位を 元宮小室阿祀山太
碑宮に正 一位を賜ひ 碑領として駿河園顧地郡に於て圭田五十東 相模國高座郡 に
於て主田五十束、中斐園八代郡に於 て、圭田五十束を賜ふ。常時の勅状 は、
耐
り〜 ー
宮
天之 眞宗豊祀 天皇 文武 天皇
之
勅願之事。
寒川明碑 尾改稲志 赴競 尾八幡大碑登致事。
碑領主田 四十八 束寄付致 事。
授正 一位 尾賜事。
右 修 々 閣勅 定例 面 如 件
大 資 元 年六 月十三 日
勅使 忍壁 親王 (花押)
の碑官碑職を 改め定め させ 給 ふ。即ち大宮司 一
人副宮司一人駐司四人顧宜四人 祀八人 祭司八人 仕典十二人仕手二十四人 役人碑
官 六十二人、平碑職三百十八家、赴家四十二家、凡て三百六十家 なり。碑職五家毎 に
耐
太神宮の留守宮伴を宮守太田眞長羽田宗治並に別常行満寺丹波丹治等に託して
巻
小田眞彦 が 島 * 信田 眞男ー鶴田 男ー
宮
ー察 良彦
十四
彦Fi
之
十八 十 『 』
二
シ口シ口 二十二
-
二十三
巻
日 高 彦
二十四 -
㎞ 拝* 活セ シ
シーシーシー 、田 *ー ㎞
第十八 太碑宮勅使検察
i}』、1』
甲斐 國司 橘 朝臣 安 磨は、急使 を以て、顧地 山大噴火、並 に太 碑宮 焼失 の 事を 闘 下 に
以聞す。等て駿河相模の雨園司より交 々赤顧地山の鍵事を以聞し奉る。是より
先 太碑宮の大宮司 副 司 初め 諸碑宮の 一族 春属三百 四十九人は、二 月十五 日阿 祀谷
* を出発 し伊勢國に至り 先づ二見 ヶ浦に出で顧地山を遥拝し進みて天照皇太碑 豊
二 受大碑の雨宮 に詣でけり。乃ち 一行更に新都 の名所 奮跡も訪れむもの をとて、覚
に平安城下 に韓 じ、諸所見物し居 たりしに偶。國司 より、顧地山大噴火を以聞し奉る
や朝廷震駿 都 下騒然たり。大宮司以下三百除人、之を耳 にして皆な色を失ふ。天
耐
皇、いと 感然に思召 され 廷議の末 先づ三百除人の保護を命ぜ させ給 ふ。翌年六月
宮
二十七子なり。副司金子國太夫政明春属二十四人。政明は、大山 守皇子の第二王
巻
編 地八幡大碑 即ち寒川大明碑を分ち移し祀る。第一園狭樋命第二寒川里古命設
宮
大山祇命 空川里女命説別雷命第三阿田都菊里昆女奪説木花咲耶昆女奪第四撃 田
之
別シ女命を祭神となし。即ち顧地山東本宮変川碑赴足なり。五月五日
巻
山
* *を行ふ。大日本第一の碑山風地山より移し祀りませる宮なるに由り共地を
紳山村 と名づく。後、早女郷を寒川郷とし碑山村を宮山村と改めき。
足ょり先、分赴 山宮先現碑赴の宮司顧地又八 良元宮鷹は延暦大噴火の際 難を甲
斐園八代郡と山梨郡 との合の中山 に避く。後共地の豪族古屋彦九良の養子とな
り 古屋元 太夫と稲 す。弟大宮磨は 赤難を験河園 顧 地郡岩本澤に避く。偶、一夜、兄
弟共に 先現太碑の碑 勅を夢む。乃ち 兄元宮暦は、山梨 郡と八代郡との 合の 中山 の
東山に 宮殿を造営して先現太碑を分ち移し祀る。比の山を 砕部山と名づく。即
ち顧地山北本宮 碑部山浅間碑軌 足なり。弟大宮鷹は 顧地 山西北の 合の裾野なる
顧地郡上野御原 に 宮殿を造営して、先現太碑を分ち移し 祀る。共地を新山宮村と
名づく。延暦二十辛巳年顧地郡大領和通部豊魔は、一女の配偶として大宮暦を養
子 と なし、且つ富 知碑軌 の池畔 に 先現太 碑 の 新宮を遷宮し奉る。即ち 顧地山 表 本
耐
東本宮 より二 十五 里と す。
之
延暦二十一壬午年三月三日、征夷大将軍従三位坂上田村磨を大使として、従 四
巻
第
は
下
より
河原
相せしめ
又
支を
てし
八
郡
園
同
芝
は
上
り
ょ
基
シー
模配代 多
の
次
騒
共
て
に
噴大
然なり
。
もし
入㎞
)
(
騎
るに
火のり 碑
紀
皇
三
二
六
岩流 流是德文中國 加味 す東南を 相模 國 都 人非部をし て支配 を しめ 及 其他 會 た
降 より 北 克 國 四根 り西北 を 中 美國 山梨 部 を し て支配 を しめ 結ぶ。 是 上り 本 神宮
は 都留 郡 の 銀座 なれ とも、八代 郡 の 支配 と なれる を以て、後世 太 神宮 を ハ代 郡 の 鎮
座 の 如く な せる もの 赤 發 から ず、三 大賞 線・日本 記 略·維高 式並 に 古 文書 等 是 なり。
類 科 醫師 體 轉載 體 裁撤 職種體 智慧 型 電動 轉 職 。)
大宮 町、种 部 記、國 都 記、式 內 設、大山 守則、速 自 聖、甲斐 站º
第二十 11 斯 四 神
平城 天皇 大同 元 天成 年 六 月 一 日、加密 使 版 上 田村 顾 は、甲斐 國司 正田 王 を 従 /
#
仙山 を 越 《 阿 祖 公 小室 に 下 向 % 2 公 。 太田 真 長 を以て、八代 郡 の 大 領 に 任じ、初田
È
再興 しめ られT三國 第 一 山 の 初期 を 期 が 正 11 位 一般 可 を 授け ら る、而 し て 放 長 を
神宮 の 説 に 完治 を 離宮 に 任じ 名 也 應,並 に 動 領 の 守護 を 命ぜ ら る。 日 大牌 大 に
其 能 く 太 神宮 を 護 作 しける 効 に 依附 人 に 各 建 を 作 正 と 開 。 更に 相 機関 本州
神社 の 神 作 有 下記 太夫 与 元 を以て、太 种 常 の 大宮司 と なし、七 府中 宮寺 神社・山 守则
第 1] ↑ ॥ E * 動; 它 三大 三
-
碑 皇 紀 三六四
赴 編地八幡大神の宮守を命じ甲斐園碑部山浅間碑赴の碑官古屋元太夫元宮鷹を
以て副司となし天照皇太碑主華盤大明碑 根野碑赴 座 大明碑の 宮守を命じ、都留 島
の資正寺を以て別常となし給 ふ。 尋 て顧地山を富士山と改め給ふ。共勅定状は、
二
大政官藤状
使観察使従三位上守坂上田村魔
従五位上行玄藩頭藤原朝臣千引
耐
従五位下守大和 守藤原朝臣永貞
宮
貸國政顧地山高天原元赴七大碑再興勅定之事。
之
七赴大碑之宮 皆再創立致事。
顧地山尾富士山登 改稲事。
右修 々 勤定観ロ之聴使検校、一状謹致追状口農。
大同 元 年六 月三 日 勅 定
観察使 従 三 位 上
征夷大将軍長に旧村属冠
甲斐國 山 背 郡 阿 祀 谷 鎮座
第
富士山元宮 七赴 太碑宮宮守
二宮 下記太夫 仁元
編 富士山 元宮七太碑 敬白
耐
) 大宮司宮下記太夫仁元は大山守皇子二十七世の孫にして前大宮司宮下源太夫
。元秀の長子なり、副司古屋元太夫元宮魔は集料別皇子二十九世の孫にして前別
* 司衆分赴山宮宮司顧地又八良宗晴の長子なり。先に難を免れて甲斐園山梨郡と
* 八代郡との合の中山に避け古屋彦九郎の養子となれるに由り古屋元太夫正彦と
稲しぬ。別常資正寺住は丹波丹治にして大山祇命の後胤なり。噴火前まで顧地
山行満寺の住にして太碑宮の別常たりしが先に難を免れて相模園の山中に避け
後 資正寺の住 となり今や、赤 太碑宮の別常とぞなりにける。
第二章 阿 祀 山大 碑 宮 三六五
碑 皇 紀 三六六
、雨宮司は加吉谷の古谷なる小原の日向の左右に、各館を造営して大宮司即ち寒
川碑官の館を大多和の館と名づけ 副司即ち碑部山碑官の館 を古原長江館 と名づ
け共二箇所に於て各指任する所の碑赴に奉仕せり。故に世に太碑宮を一に二所
第
宮碑部山浅間碑赴 富士山表本宮大宮浅間碑赴の奥の院とぞ定めける。是より 太
碑 宮即ち二所明碑を山宮と稲し三本宮を里宮と稲しぬ。寒川及碑部山の雨碑官
編
は別常質正寺と共に毎年六月 一日より八月十五日まで山宮に出張して二所明碑
耐
に奉仕 せり。
宮
を掲げ奉らる。又、仁王門に空海上人自作の仁王奪を安置し奉らる。供養として
役小角の奮跡たる小角堂焼跡に、一宇堂を建立して古原山萬蔵 寺と競 す。徐顧の
斎 らし来れる薬師 如来 に模倣して三鶴同一 に刻み、之 を本奪 として、安置し奉らる。
之を富士三薬師 と稲す。又 延暦寺の裏なる行満寺開山、日羅の開山堂を再興して
小室山千毒院と競 す。阿祀山峠 に阿 弾陀堂を創立して雲切如来 を安置し奉らる。
文徳 天皇仁 毒三発 西年五 月五 日、大納言源 信之 を 勅使として富士山 元宮 の 七 廟
即ち太碑宮に従一位を授け大赴競をそ賜はりける(㎞ ㎞ ㎞
第
『)常時の勅状は、
編
道康天皇 文徳天皇)
碑
左大臣 清 常 花押)
宮
右大臣 良 房(花押)
之 勅
巻 貸天下泰平五穀成就也富士山元宮七赴明碑 想名先現碑赴仁、
賜従一位大 赴 跳。
仁 毒 三 西 年五 月 五 日
勅使大納言源 信之 花押)
第 二 章 阿祀山大碑宮 三六七
** ** ㎞ f} - # ** ー → - シ
碑 皇 紀 -
三六八
甲斐 國 山 背 郡 阿 祀谷鎮座
富士山 元宮 七 赴明 碑
大宮司 宮下記 太夫仁元
第二十 一 貞観の大噴火
清和天皇貞観六甲申年五月 一日乃至三日 暴風雨 大 雷電、黒畑劇噴。五日の朝、一大
劇震と共に、富士山 西 の 峰 に 織 火現 る。甲斐駿河 雨國民、大 に恐怖 し て人 心胸 々 た
耐
は案ずるに全く碑官の不動不敬の然らしむる所 宣しく鎮謝して所願すべし。と
耐
更に勅使は富士川通を上り甲斐國に下向したり。五日 國司橘末茂に下知して目
宮
(㎞)と園司應 へ て目く富士山の噴火今や鎮まれり請ふ就きて検案せらる
巻
べし。と乃ち八代郡擬大領無位伴眞貞に命じ同副領伴秋吉を鶴導として笹子峠
より 千箇坂 を越え 相模 河原 より 家基 懸 峠を越え、八 日、阿 祀谷 小室 なる所 願所 の 小
屋場に着し給ふ。
九 日 勅使は熱都山 笠 砂の尾崎峰なる幸盤明 碑大赴 の境内 に於 て検察し給 ふ。
第 二章 阿祀山 太碑宮 三六九
*
* #* -* i ji」
沖
シ 草 紀 三七○
則ち北方は御舟湖溶岩熱泥押込み御舟山は之に包園せらけり。偶。検察中御舟山
頂に、一宮殿通に現れつるを認む。即ち垣有四偶 以 月青石 立共四面 石高 一丈八尺許、
廣三尺厚一尺除立石之門相去一尺中有一重高閣以石構造彩色美麗不可 勝言(㎞
㎞)査し阿祀谷小室中室大室に鎮まりませる碑々の現し給ふ宮殿ならむ。とて
勅使初め一同 覚えず通拝し奉れり。又西の方を見渡せば三坂澤の新湖( ㎞)
は、三津峠山の中尾崎山薩まで燃岩押込み 共面積判然せざるも平野約百 四五十町
除ありけむ。面して共西刻の湖を理むること千町許(㎞。岩石世界に鍵じ
たりけるを検察して途 に京師 にぞ 騎りける。後九月九日 に至り 御舟 山頂 に 碑 々
の現しましませる宮殿は消え失せにけり。是より 太碑宮の祭日を 九月九 日 と改
め 給 ふ。
常時 の 勅状は、
惟仁天皇清和天皇
太政大臣 藤原 良 房(花押)
1
左大臣 城 闇 之《花押)
右大臣 際 原 定 相(花押)
動命
像 今度 中 表 該 河 兩 國民 仍 里高士 出 大 唐 大致 上 開庭
11 除 安 得 留 に、全 人 神官 之 不動 不 敵 之 故 等 亦 無 路 所 也 普 瓦 底 火线 是 情 日、無 條
編 * u要 研製 時飛車人猿*
貞觀 六 中 年 八 月 十 日動 命
st
勒 使 大納言 葉原 氏宗 阿
È
甲斐 國司 被 水 成
Ż
同 國 八代 郡 阿 骨科 教 座
卷 富士 元 有 先 現 太 神 大社
神官中
其親 A J 西 年 七 月 十 一 日 就 使 大納言 葉原 氏宗 文中 美國 に 下 向 し て、國司 被 水 成
第 11 E 小 動 售 三七
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-
碑 皇 紀 三七二
に宣 へ て 目く八代郡 の 郡家 の南に鎮り ます浅間明碑 即ち富士七廟 先現太碑宮中、
宮守碑赴・幸澄明碑大 赴・顧 地八幡大碑は、昨年の噴火 にて焼失せし が、共常時 御舟山
頂に、碑 々 の 現し 給 ひし 如き宮殿を再造営すべ し。と共 勅状は、
第
〜
ニ 惟 仁 天皇(清和 天皇)
-
編 太 政 大臣 藤原 長 房(花押)
1 左大臣 源 信之花押
碑
右大臣 藤原 良相(花押)
宮
勅、
昨年、焼失致 志多留七赴 の内三 赴 の宮者、噴火 乃際 富士大碑 乃 賜現志 通仁 再
巻 興 創立 致事尾勅 ス。
-
貞観 七西年七 月十三 日
〜”・。
-
勅使大納言藤原 氏宗 花押
「」
甲斐 國 八代郡 阿 曾谷鎮座
“「。 日
富士七赴先現太碑
*
大宮司 宮 下記 太夫 明政
惣宮守 中
ニ 國司勅を奉じ宮殿を再興創立し十一月二十七日 功を闘下に以聞し奉る。乃ち
十二 月九 日 従 五位藤原朝臣安 麻 呂 従 五位下藤原 賞 朝を勅使 として 下向 せしめ、太
碑宮 なる浅間明 碑 に 正 一位 一幣 司 を賜 ひ、再び 官 赴 に列 せら る。史上 に所 請、貞観
* 七年十二 月九日、内辰 勅 甲斐 國 八代郡 立 浅間明碑 嗣 列 於官赴 云々、斎祭 奪預 官赴 従、
宮
之足なり。(請 ㎞ 転 )
之 共 勅 状 は、
●
勅定
:て 太政 大臣 藤原 良 房 花押)
左大臣 源 信之(花押)
第二 章 阿 祀 山 太碑宮 三七三
Hりー 『ー =ー上シ=
三七四
碑 皇 紀
右大臣 藤原良相花押)
勅命
昨年噴火仁熱湯火熱仁面 致焼死太留富士根本三赴 碑元宮尾昨年噴火際、
富士太碑方之給現志宮殿之通再造営致事明良成留事
二 一例面富士根元七赴惣名先現名碑浅間大赴仁授正一位、一審司足シ
命尾再度列官赴 者也。
勅定貞観七年十二月九日
勅使従五位下藤原朝臣安麻呂花押)
ミ
同 従五位下藤原朝臣 眞朝 花押
甲斐國司従五位 下岳田王
富士山宮守司宮下記太夫明政
富士山宮守副司古屋彦太夫政信
富士山元宮浅間 大赴
七赴 先 現 明 碑 大赴 敬白
〜〜〜〜〜()
又、八代郡大領伴具貞を以て、太碑宮の祀に任じ、同副領伴秋吉を以て同 禰宜に任
じ 給ふ。是より先、眞貞託宣 云、我浅間 明碑 欲 得 比 國斎祭 頃年貸 國 更 成 凶 各 貸 百姓 病
死 然未曾豊悟例成 比推須早定碑赴 奪任祀禰宜潔奉祭共長之身或伸可入尺 成屈可
二 尺 鍵鶴長短 吐 件等詞 國司求之ト策 所 告同 於託宣 於、是依 碑明願 以量 貞 貸 祀同郡
人伴秋吉貸顧宜(㎞) 足に至て勅使等 十四日滞在して京師に還らせ給ふ。
基貞は太田伴真長の嫡孫にして前大領伴長太夫安貞の長子なり。秋吉は羽田伴
紳
宗治の曾孫にして前副領伴元太夫春吉の長子なり。春吉の父を宗市といひ 宗市
宮
の 父は即ち宗治是 なり。
之
は延暦十九年の大噴火のとき演出しける新山なりしも延暦二十二年末に至るま
で、黒雲暗黒にて見えざりしに、二十二年末に至りて、黒雲初めて晴れたりしかば、相
耐 。
模 駿河の雨國民 之を務見して京師に以聞す。世にNを新富士と稲す。今や太碑
宮 より 道路 を開通 するに 至れり。
宮
右大臣 源 光行 花押)
之
従四位 上 三善清行(花押)
巻
従 四位 上 小野道風(花押)
従四位 下 藤原 佐理(花押)
従四位 下 藤原 行成(花押)
勅定
第二章 阿 祀山 太碑宮 三七七
碑 皇 紀 三七八
富士元宮七廟天赴先現 明碑仁、授 太政大碑 尾。
勅 延喜 七年五 月 十八 日
勅使 従五位 上 紀 貫之(花押)
甲斐 國 山背郡 阿 祀谷 鎮座
元 赴七 廟大赴先現 明 碑
大宮司富士 記太夫 明照
耐
造営を なし ぬ。
村上 天皇天 暦 元丁 未年七 月七 日、近年富士山 噴火 度々 なるに因り、赤共危害あら
むことを恐れ、藤原千晴 管原文時に勅して、七廟中 宮守碑赴を顧地八幡太碑の東大
黒木の下なる日本武奪の奮跡に遷宮し奉らせらる。面して大同元年下し賜へる
平城天皇の勅額を再興し、更に空海上人作の仁王奪を再興あらせら。 又、太碑 宮
即ち七廟惣名先現太碑を阿座基明碑大赴と改稲せられ、尋て勅筆を ふ。 是 より
後世又、阿座基 浅間の文字を混用するに至れ り。 空也上人、勅使と共に来 り勅命の -
眞筆を賜ふ。常時の勅状 は、
〜(((((((()
押
闘白 大政 大臣 忠平(花押)
右 大 臣 藤原 質頼(花押)
紳
勅定
宮
富士山高天原元赴七大碑内宮守碑赴 祀地八幡太碑之東大黒木之下ョ本
之
武奪奮 跡仁移事。
巻
平城天皇勅額 再興之事。
七赴大碑惣名先現太碑尾阿座基明碑大赴登改稲致事。
天 暦元未年七月七日
勅使 藤原 千晴 花押)
三七九
第二章 阿祀 山 太 碑宮
碑 皇 紀 三八C
右 少携 菅原 文時 花押)
賜 勅筆
甲斐 國八代 郡 阿 曾谷鎮座
富士山元宮先現明碑大赴宮司
二
宮下源 太夫 明信
碑..
天 暦六壬子年二月富士山峰より北東に噴火せしも 太紳宮に被害なかりき。
冷泉天皇安和二己巳年七月、源頼光主従太碑宮に詣で渡部綱道平城天皇の勅額
宮
に書 副をなし ぬ。
之
一條天皇正暦四発 巳年八月富士山北東三書夜鳴動して遂に噴火せしも太碑宮
巻
に被害 なかりき。
後 一條天皇寛仁元丁 己年九月、北方三ヶ所より噴火したり。斯く富士山度々の
噴火 にて 太碑宮の参詣者潮く跡を絶ち顔る衰微を来しぬ。同年十二月、大奉幣使藤
原秀忠下向せしも 噴火にて道路通せず 太碑宮へ奉幣し能はざるにより富士山表
本宮大宮浅間碑赴に奉幣して西に騎れり。足より大宮盆々盛大となれり。
白河天皇永保三発 玄 年七月、富士山七 ヶ所より噴火し、溶岩熱泥押流し 、も、是に
至て 富士山 途に消火 となれり。延暦の大噴火 より比噴火 まで、凡そ八度に及べり。
世に之を富士八流といふ。消火後伊豆の大島又噴火を始む。世に富士山の噴火
以上、
火 年代 記、浅間 記、大宮 記、宮司 記、
大島に移れりといへり。(㎞")
第五期 富士十二郷
耐。
- 第二十三 太碑宮の新宮伴
宮
二條天皇平治元己卵年二月源氏の落人三浦上野守義顕等 京師より落ちて富士
之
谷東南の大澤の森林中に潜み居たりしが、翌年六月十五日、太碑宮の大宮司 即ち大
巻
士 谷 に来れるもの なり。
巻
天野遠江守景信は菅原道眞七世の孫なり。道具の既せらるるや姉子高祀は男
文時と土佐 に熱 居す。天慶三康子年、伊像大操藤原純友反 す。乃ち、文時は、共男輔
正と 藤原國風 林道保等に従ひ 純友を平ぐ。共功に依り、天暦二成申年八月十日、飛
輝國を賜はり、輔 正常國大操となる。天元 五千 午年十月五日、輔 正は、弟道輔に大接
を譲り京師 に騎り、父文時の後を襲 ぐ。道輔、常國天野郡に操りて、國中をそ治めけ
*。因て天野を氏とす、安長を経て道文に至る。道文源頼信の女頼義の妹時顧
姫 を室とし、頼信 父子 に従ひ、奥州前九年の 役の功 に依り、遠江 介となる。共 子景信
源義家 に従 ひ諸所 に功を建て、且つ源 貸義 に従 ひ 甲賀山 の役 に功 あり て、遠江守と
なり、秋葉 城 に擁 る。三浦義顕 と共に、源 貸義父 子 に従 ひ、保 元・平治の 役 に敗走し、て
領 國遠江 に匿れ居たりし が、義朝 尾張 内海 に 殺 され、頼朝 捕はるると聞き、東駿河 に
落ち来る。義顕 主従富士谷に潜みけるを知り、大森駿河 守頼茂と共に富士谷にぞ
耐
来 り ける。
宮
三八五
*
『』
碑 皇 記 三八六
む。幼名 大森 太郎頼 宗 といふ。三浦 義顕等と 源 貸義 に従 ひ、南都 の僧兵 を平ぐる
功 に依り、父 の官職を襲ぎ、大森駿河 守頼茂と稲 す。常國合高城 に擁 る。源義朝 に
従 ひ、平治の役 に落ちて、本國 に来り つれば 則ち義顕主従 富士谷 に潜みけると聞き、
親子三人忍び て、天野 氏 と共に、富士谷 にぞ来 りける。
抑も毎年六月十五日は古より富士山の山間とす、永暦元康辰年六月十五日赤
太碑宮の 大宮司、宮 下記太夫 政仁は 顧宣祀を従 へ、山開 に登りつるに 東南麓の森林中
より、炊 畑の起 るを 厳る。以 貸らく、奇異なり と。乃ち 放 姻 を目 常 として 赴く。即ち
耐
附近に家屋を造営して之に居住せしめ 悪く太碑宮の宮伴にそなしにける。(㎞
之
㎞)
座 書、四座 書、鍵 遷 記。
巻
第一一十四 太碑宮の新大宮司
鷹保元辛己年三月 富士山元宮七廟惣名小室浅間表碑宮の中顧地八幡大碑を 宮
中 上
の 地に あらせらる。北 天s可s下記太夫安仁は三浦上野*義g
。長子滅基吾重成事源九*を以て養子となし*女**に配し*田大宮司**』
- 』- 『-』 『j、『 「
太夫園住と議り 之に太碑宮の大宮司を譲る。 名字官名を賜はり 宮下源太夫義仁と
稀す。足を大山守皇子四十九世とす。等て駿河 伊豆中斐上野十野陸奥出羽七箇
園の宮取締を命ぜらる。政仁 衛後専ら寒川碑赴の里宮宮司となりぬ。
鷹保二千 年年二月二十二日 義仁の母若標姫病みて卒す。 父義顕入道して義明
二
場阿間奥瀬心と競す。太古の行満寺なる延暦寺を再興し*競を富士山三浦寺と
改め、共住となり、一門及妻の冥 顧を そ所りける。
治承四度子年七月十日 義顕の弟三浦二郎義澄密に富士山小室大多和の館に潜
耐
**る。乃ち人を解け兄三浦上野守義顕入道義明房阿闘梨源心 及共子大宮司宮
宮
に伴れて三浦郡衣笠城にぞ微行しける。愛に遂に、一族倉議の末伊豆の源頼朝
巻
前大宮司宮下記太夫政仁の二女小春を妻とし太碑宮の副宮司となりぬ。義政は、
多田満仲 六世の 孫にし て、柏木伊 像 守義隆の二子 なり。満仲の第四子頼信 に 頼義・
編
て太神宮へ諸願成就の濃参をそなさしめらる。常時の書状に
巻 ' 之
富士大 菩薩 立願事
治承 四康子年四月九 日 より、毎日毎夜、富士大菩薩 謹立願頼給同八月十五 日 よ
り、御豪所供 々 立願、毎日毎夜也。養和二 千 宣 年八月十 一日、貸御 豪所安産、常 一
宮奥 院、三國第 一山 元宮 七赴 明 碑、梶原 平次 景高、令代参詣 候 乾。同八 月 康成年
十二月西刻御豪所 男子平産 例面握原太源左衛門景季常國 一宮奥院 第一山 令
第二章 阿 祀 山 太碑宮 三九一
碑 皇 組 三丸二
代参詣給候乾。文治元乙巳年十一月二十四日 発 卵日常國 一宮奥院 第 一山、以
次郎重忠 園土泰平、奉納御願書候乾。同二内午年、常一宮奥院第 一山、顧地
八幡太碑始 七赴 明碑 令修造、並 賜寄附御碑殿、御戸張 候軍。代参奉行和田太郎
義盛候乾。同年五月二十七日甲 辰 日、常 國 一宮奥院、貸被加修造、民部丞 盛時 奉
行申付候乾。同年七月十九甲午 日、富士 領上政所より、顧地八幡大碑赴奉寄附
碑 田、以北條 小四郎義時、沙汰仰付候 乾。同五 己西年七月五発 玄 日。富士御帝
響院三浦寺 Q 奥州征伐所轄 常國於高座郡寒川郷、被寄附田地百五十 丁、以 北條
耐
上子細候也。以比旨、可令富士大碑申上給候。頼朝 恐惧 護 言
巻
南顧 地八幡大 菩薩
宮
南外諸 大菩薩
之
山宮 大宮司
巻
源太夫 義仁殿
、建久四姿#年五月八日 征夷大将軍頼朝富士山の巻狩をそ始めける 力ち夫将軍
シ実際たる陸ェ深さら加後装を越へシに***定に加茂 き
越 へ 将に御祀代山 に狩入らむとし給ふ。先づ富士谷小室加吉騒の三浦寺を本陣
となし、萬蔵寺を頼家の本陣となし給ふ。十二日、大将軍は頼家と高蔵防を鶴導と
して、天狗 山 より狩込みける。面して頼家は 盆 深く狩込み、三日目即ち十四 日、相模
河原に於て、午の刻に 大鹿を射止む。仁田四郎忠常 腕せて父大将軍に報ず。大将
軍方に午警 即ち著を投じ駒を駆け御祀代山の桃澤の奥にて頼家に避近し敷賞し
て措く能はず。即ち文して、夫人政子に急報しけり。是より 共文せし泉水を頼朝
の観水と唱 へ、相模河原 を鹿留河原と唱ふ。翌日休息し、本陣に於て祀宴を そ張り
耐
ける、即ち是れ太碑宮の碑力ならむとて江間小四郎義時を使者として太碑宮な
宮
義仁等、並に太碑宮の別常三浦寺住金剛防道開に命ぜらる。共追定領状は、
追 定領事
本月、富士山南東西貸夏狩 東面阿 曾山於奥 昨日、源頼家朝臣、大鹿給 みとめ、比 碑
第二章 阿 祀山 太碑宮 三九五
碑 皇 紀 三九六
明也。依 今日休日 同山南西 帝響院三浦寺之御本陣 源頼朝朝臣以江間 小四郎、
奉碑餅 共もち 賜下御家人乾 常 山々 碑始 諸赴 諸寺、赴 寺領追 定事。
但 シ、常山諸寺記録、至急 明細 取調、可 書上申事。
右 件書状 依仰 君 賜時政 之。
建久四五年五月十五日
北條四郎時政 花押)
常山 別常
耐
宮司 宮守中
宮
之
五月十五日大将軍は富士山北東麓の巻狩を終り西北麓に移り非出の館に入ら
巻
せらる。
六月十日、大将軍又 家人の警衛にて太碑宮なる二所明碑参詣 ありて、大多和の館
に遅留。十七目岡顧潮にて奪魚の催あり。小室館に入り 日々名所質跡を訪れミ
十一日騎府。六月十四日 大宮司宮下源太夫義仁は元太碑宮の大宮司たりし聖 宮
相模寒川碑赴宮司宮下記太夫政仁の連署にて太碑宮なる二所七廟中 宮守碑赴
地八幡太碑山宮碑赴の各由緒を、七月十二日義仁は元太碑宮の副司たりし里宮甲
斐碑部山浅間碑赴宮司古屋彦太夫元貞の連署にて、二所七廟中天照皇太碑*盤大
明碑 高座大明碑 根野碑赴の各由緒を大将軍 へ 上りぬ。
八月三日、大将軍より 太碑宮の碑領並に三浦寺 高蔵寺並に赴家領即ち富士十二
郷 を免 賜あら せらる。即ち、
免 状
甲斐國八代郡富士山 北東麓鳴澤郷小室澤宮守川上里日向山鎮座 -
之 碑代創立、碑武天皇勅願。
小室山宮守碑赴。職㎞、嫌㎞"
仁徳天皇創立、文武天皇勅願。
顧地八幡大碑赴。職 ㎞、韓 却胆㎞ 版
碑代創立 碑武天皇勅願。
第二章 阿 調 山 太碑宮 三九七
碑 皇 紀 三九八
** * *
。- 山、 *
七
加茂山山守碑赴。 ㎞ョ
碑代創立、碑武天皇勅願。
*、 fo 於 北原 仁、碑」領、 日、二 月 八 日、三 一 日、 日、
麻呂山天照皇太神。職㎞、韓㎞
第 碑代創立 碑 武天皇勅願。
*
二
古修シ野碑赴。購㎞。魔㎞
編 表富士山三浦寺。購㎞、 免状、外状有 里。
碑
裏 日原山 高蔵寺。難㎞』 発状 外状有里。
赴 家、表 八家。 ㎞、免状 外状有里。
宮
赴 家、裏八 家。
之 右 赴 地、目 八丁 四方。
巻 尾 映 山峰鎮座。
碑代創立 神武天皇勅願。 -
- *-
い 」 * * *
、
幸発明碑大赴園興碑。購㎞ 、㎞g
右赴地目通四方。
+り ، ، ، ،r +4,
神代 和 立 神武 天皇 初 與º
名神
高座
º
航
大
正月 七 日、七 月 九 日、
給
都
字
自 達 羅 克最深山野寺。 蘇禪 寺 駅
右 轉 地、神領、横山 1 回。
方 七 點 組 名、
小 室町 幕 典名神大 胜。 據
九
口
福地 人權 大神 祭典。
* * *~* 於
遠鏡像 。 體漢 環線
藏、次 性 都 に、田 知 者 于哈 同 國貨 倉敷 に、
體 語讀
右上 社、社 地、神領。
低成大 將劉之後
#<<==
遠 江守 北條 時 政治 神)
因幡 生 大 江漢 元 化 期开)
第1 ㎢ = * 動 會 三 元九
碑 皇 紀 四○○
三浦荒二郎 義澄 花押
畠山一一郎 重忠花押
富士山 阿 曾 山
七赴 阿座 層共名碑大赴
二 宮下富士源 太夫 殿
免 状
碑
一門 並譜代供養領 トシテ、桂谷 ニテ五百丁 並三赴別常。征夷大将軍源頼朝、腸
宮
之 申付 也。 *
建久 四 年五八 月三 日
北條遠江守時政(花押)
因幡 守大江 廣元(花押)
三浦荒二郎義澄(花押)
島 山 二郎 重忠(花お)
富士山
三浦寺
免 状
平
三浦源九郎、同 庄 九郎、同治九郎、同善九郎、同家臣 武内 平三郎、並 柏木 忠 七郎、渡部
原書ノママ
庄太夫大森茂二郎 天野源太郎 共方ラ、父ラ 保元平治武度之合戦之儀兵 ニ付 並、
長田源二郎父 石橋山 sァ部合捨名之*同風谷東西北南名学大小並
耐
建久四年五八月三 日
之
北條遠江守時政(花押)
巻
因幡 守大江 魔 元 花押)
三浦 荒二郎義澄(花押)
畠山一郎 重忠 花押)
第二章 阿祀 山 太碑宮 四○一
碑 自 紀 四○二
建 久四発 五年八月三 日、三浦上野 守義顕の 長子三浦源九郎事太碑宮 の大宮司 宮
下源太夫義仁、義顕 の 次 子三浦 庄九郎重 泰、同三 子三浦治九郎義重、同四子三浦善 九
郎義基、柏木伊像 守義隆の 次 子柏木忠七郎義政、渡部美濃 守綱 廣の長子渡部庄太夫
綱 高、大森駿河 守頼茂の長子 大森茂二郎頼重、天野遠江守景信 の三子 天野源太郎景
園武内紀助蔵長定の次子武内兵三郎長貫長田藤七郎資家の長子長田源二郎忠利
等は、共 父 等 の 功 に 依り、征夷大将軍源頼朝 より、富士山 東西 南北二 十 里 四方を 賜は
り し に因り、共匿割 を 定む。面し て共地域は、即ち富士山 阿 祀谷 太碑 宮 鎮座地 一圓、
甲斐 國 八代郡、駿河 國 富士 郡 駿河 郡 の 三郡 に跨り、東は、鹿留河原 より、相模山峰 博ひ、
大御碑 山峰 に沿 ひ駿河川限り、南は、深澤 より金時山峰 博 ひ、佐野原 より合 高山 一圓、
及び大宮澤の裏地限り、西は、大 宮澤裏地より、芝川 に 沿 ひて二 國 山 一圓 及び瀬山 よ
り阿 志川 山峰 通り限り、北は、三坂 山峰博ひ 仙泉山 槍峰限り、鹿留 河原限りと す。
八月七日 十土倉議の末 表五郷 即ち御原郷・(㎞) 富士郷 木原郷 御殿郷 験河郷
(㎞)並に裏七郷 即ち都留郷字津郷 唱 澤郷 園地郷大原郷河日郷大田和郷の十二
郷 に匿割 し、更に三十八庄となし ぬ。所 請富士十二 郷是 なり。郷 に郷司を、庄 に庄
司 を置く。之 を統治 するもの を、総地頭、又は大地 頭 と 稲 す。面し て 共 匿 割 を、大将
軍に上申せし に、翌年三 月十五 日 免定 せられたり。
富士山 阿 祀谷 免定事
富士山阿祀谷甲斐國八代郡、駿河 國富士郡駿河 郡之三郡 またかり、東 鹿留河原 よ
り相模 山峰 博 へ 駿河 川限り、南、深澤 より金時 山峰 博 へ 佐野原 より 合高山 一るん、
西 大宮澤裏地 より 芝川博 へ 二 國 山 一る ん瀬山峰 博 へ 限り、北、仙泉山 檜峰博る 鹿
之
止河原限り、凡二 十里 除 四方、十 i一郷、三十八 庄 に定事。
但し十二 郷々 名
都留郷、宇津 郷、鳴 澤郷、顧地郷、大原郷、河口 郷、大田 和郷御原郷 富士郷、木原郷、御殿郷、
駿河郷、
但し三十八 庄 々 名
第二 章 阿 祀山 太 碑宮 四○三
**
郡 n 紀 四○四
加吉都庄、宇津野庄、水 日庄、加津羅庄 伊津水 庄、お さ野庄 吉田庄 舟湖庄、白ふち庄 自
浪庄西演庄 大原庄元住庄 佐野庄下部庄補子庄北山庄 芝田庄 方野庄村山庄 湖古
津庄 西原 庄 下原 庄 合高庄 須山庄、みん野庄 富澤庄、かまと庄富河 庄 碑山庄、ふか澤
庄、あい さわ 庄、小林 庄、ふる澤庄、大御碑庄 坂下庄 菅沼庄、足柄庄。郷庄に地頭郷司
庄司置。碑赴備寺土民等致保護 國土泰平 嫌倉武運長久可所事。
右件條 々、依仰君、政所並問注所、免定之申付者也
建 久五宣 年三月十五日
前因幡 守中原 朝臣魔元 花押)
前下 継 守源朝臣 那 政 花押)
令民部少 丞藤原 行政花押)
案主
鎌田 新藤 次 俊 長(花押
知家事
岩 平 小中 太中原 光家 花押)
問 注 所 執事
中宮 太夫 属 三 善康 法師(花押)
侍所 別常
第 左衛門 少尉平 朝臣 義盛 花押)
所司
二
梶原平三朝臣平 景時 (花押)
編
富士十二 郷大地頭
碑
大宮司源太夫義仁 殿
宮
又、同日、大 将軍は、和田 太郎義盛、畠山二郎重忠を、太碑 宮 なる二 所七 廟明碑再造営の
* 普請奉行となす。是より先 大将軍は太碑宮の再造営をなさむとして江間小四郎
巻 義 時、三浦介義澄 を寄附奉行 として、大 将軍及 夫人、並 に 御家人 國司等二 百九十 一名
より 寄附金品を集む。即ち 前右兵衛佐従四位下行左馬頭衆幡摩守義朝三男母散
位藤原 季範女、征夷大将軍源 頼朝朝臣 として、砂金三十六雨、白米三石。次 に、北條四
郎時政 女、政子御 豪所として、砂金七雨、白布十二 反。武蔵 守義信朝臣、参河守範頼朝
第二 章 阿 組山 太 碑宮 -
四○五
碑 皇 紀 四○六
臣 遠江 守義定朝臣、相模 守惟義朝臣、信濃守遠光朝臣 として、各砂金八雨宛にて、以下
國司家人順次 差等ありき。義盛 重忠は、乃ち先づ 太碑宮 なる二 所七廟明碑を再建
立し、鎌倉 より太碑宮まで、新 に近道を拓き、里程を二十里とす。仁王門を、新道 なる阿
祀山峠に移し 仁王坂より仁王奪を同祀山向ふ盤に移しぬ。太碑宮より阿祀山峠
を経て山中舞即ち太古の水 日 騎まで二里牛とし、山中騎より古澤騎即ち太古の駿
河 群まで四 里とし、古澤 輝 より酒匂 騎即ち太古 の 坂本㎞ まで四里牛とし、酒匂 騒 よ
り大磯 購 まで五 里とし、大磯 輝 より鎌倉 まで四里と す。面し て大磯 騒、古澤購 を中
飯所とし、酒匂 購、山中露 を止宿所として、各 本陣を置く。比新道を鎌倉往還源氏通
と稲 す。爾来 毎年の太碑宮 の大祭 日 には 奉幣使として三浦家及、北條家 と定めらる。
建 久五甲寅年四月二 日、大将軍は、三浦義澄・畠山重忠を祭典奉行として、大祭五箇
日の 名 稲を定め、祭典領 を 賜はり、且つ 流鏡 馬祭並 に 流鏡 馬 祭典領 を 賜は る。即ち
毎年四月初申日、懸る久摩晴れ祭、四月二十五日、桃澤標 谷花見祭、六月 二十五日 富士
火山鎮火 祭、九月九 日 山 野菊 里花見祭、十二 月九 日、寒梅青木 碑宮 現れ祭 と定め らる。
足 れ太碑宮 に因縁 深き祭日 にし て、古 より之を四季 の 大祭日と稲し来れるもの な
り。面 し て太 碑宮 初 各 七 廟 の 祭日 は、碑 武 天皇以来、潮 次 増加 した るもの により、行
ふ こと に達せ られ たり。
太碑宮即ち二 所七廟の 祭典領 として、相模 國大住 郡 に於 て主 田 五百町歩、伊豆國
田方郡 に於 て 主田 五百 町歩、駿河 國富士 郡 に於 て 主田 五 百町歩、甲斐國 山梨郡 に於
て 主 田 五 百 町歩、都合主 田 二 千 町歩 を そ 賜りける。
七廟 中、顧 地八幡大碑は、弓矢太刀鈴録 の 守護碑 にし て、共競馬 流鏡 馬 祭は、富士山
阿 祀谷 なる 宮守川 の 陳 の 龍 の 河原 に於 て、毎年九 月九 日 より十九 日 まで、毎日 執行
する こと に 定め 給 ふ。是れ富士山 阿 祀谷 第 一 の 大祭 日し て、龍 ケ 馬場競馬・流鏡 馬・
富士十二 郷 大祭と稲 す。共方法は、各郷 より雄 馬 四 頭づ \、七日間 職 切 火 にて、身鶴
食事を始め諸 道具を清め、十二郷 より 兄 て 四十八頭を派出 し て、太碑宮中顧地八幡
巻
為
命
柏
郷
せ
留
司
の
ら
を
宮下源太夫義仁は、大宮司 奪富士十二 郷の大地頭及都
第 二 章 阿 組山 碑宮 四○七
碑 皇 紀 四○八
木忠 七郎義政 は、副 宮司 気 富士十二 郷 の 副地頭及 富士郷の 郷司 を命 せ られ、柏木忠
太夫義 競 と稲 す。三浦庄九郎重 泰 は、弾 宣 奪元老 職及河口 郷の 郷司を 命せ られ、宮
下庄 太夫重 泰 と稲 す。三浦治 九郎義重 は、赴 司 奪 元老 職及 太田和 郷の 郷司 を命 せら
れ 宮下治太夫義重と稲す。三浦善九郎義基は駐司衆元老職及顧地郷の郷司を命
せ られ、宮下善太夫義基 と 稲 す。武内兵三郎長貫は、祭司 奪 諸事代官 役 及 木原郷 の
郷司を命 せられ、宮下兵太夫長貫と稲 す。渡部 庄太夫綱 高・大森茂二郎頼重 天野源
太郎 景國 長田 源 二郎忠利の 四士は、司 典 奪 善悪 取 拠 役、並 に綱高は、大原郷の 郷司、頼
耐
闘を再興して山中の闘と名っけ 最園中心利の二士に闘守を命せらる。御原郷(㎞
巻
にて太碑宮の職務を行ふに際り、比雨家を特に敬して 赴元老司と崇め、客分碑官と
宮
ぞ なし にける。
之
八月十三日、里宮なる相模國寒川碑赴副宮司金子國太夫政家の三子、三郎秀隆は、
巻
第一一十 六 太碑宮と 都留 郡
宮
置かれしものを復奮せしめられたり。是より先 都留郡は延暦大噴火以来、土地荒
魔人跡稀薄となれるに因り Nを三分して和極河原より仙泉山格峰を見渡し共以
*
り り
ち太神宮の鎮座地なる阿祀谷一回を更斐園八代荘の溶下に置き相機河魔よ
いた - *
シ流足博ひ古園川限り 和松園都久井郡の治下に置き山泉山拾略より
國川限り西北は甲斐園山梨郡の治下に置きしが、三百七十有八年後に至り、
大将軍は島 山重忠をして、三郡より分離して都留郡を そ復奮せしめらる。故
より以前 に成れる史上即ち日本記略 三代質録 延喜式 共他古文書 は、太碑宮な
間明碑を 八代郡の部に牧めありけるも、爾後都留郡の太碑宮に復gせられけ
・然るに は往々八代郡のシの如くれるは都留 郡復%以sの地上のみに
擁りて共以後斯く復奮ありし事質を深く窮めさるに因れるものならむ。今共達
状を撃 くれ は、
達 状
比度富士山浅間再興 ニ 付、八代郡、山梨郡、相模國津久井之三郡 ニ、延暦之 噴火 ニ 付、
編入致置虜、如中古 之、都留郡仁奮復致状 執達例面如件。
但あ 二所明碑 再興終事。
建 久六卵年四月三日
征夷大将軍源頼朝
富 土十二 郷地頭
二 所明 碑宮司源太夫殿
建久四甲子年十月十六日 将軍家より、太碑宮なる二所明碑に碑馬を奉らる。世
に、之 を御奉審 とそ稲 しける。
建暦二千 申年正月二十六 日 将軍家、二 所明碑精進始。二月五日、征夷 大将軍源質
耐
時、二所明碑即ち太碑宮の大宮司宮下藤馬亮義國は、大山 守皇子五十世の孫にして
之
前大宮司義仁の長子なり。翌年正月十六日 将軍家二所明碑精進始、二十二日大将
巻
*}
巻
免状
二 所 七赴 明碑 大赴。
征夷大将軍源頼朝公差置之通 撃相守天下泰平 五殻成就 並武運長久所蔵可致事。
元 仁元申年八 月 七 日
-
第二章 阿祀山太碑宮 四一三
目 代
三浦 駿河 守義村(花押)
富士山 北東隣郷 明 見七赴 宮 附
外 碑官中
安貞二 成子年正月二十九 日、将軍家二所明 碑参詣ある へ かりし に、暴 かに中止。
耐
二月十五日将軍家使者三浦駿河前司義村の奉幣ありき。(㎞)
宮
第二 十 七 太 碑 宮 の別 常
之
村 のち行いて堂中に入り 赤自双せんとするゃ狩野刑部太輔盛信は君に代りて死
せむと云ふより早く成衣を脱し自刃して死す。光村泣海 乃ち盛信の面を剥き 者
戒衣 を着せしめ、自ら盛信の戒衣 を着し、浦賀三郎義晴横須賀七郎義園の二士を従
編
行たり。三月二日二所明碑参詣 五日還御。弘安三辛申年正月二十二日将軍の宮
二 所明碑参詣、二十五日還御。
永仁四 内申年正月二十二日、将軍家二所明碑精進始。二十八日、征夷大将軍守邦
親王進発、二月二日二所明碑参詣、三日返留七日還御。常時の大宮司は宮下源太夫
義泰 にし て前大宮司 正成 の 長子 なり。元 應二 康 中年正月二 十二 日、将軍家二 所 明
碑精進始。二月二十二日将軍の宮二所明碑参詣同二十三日還御。常時の大宮司
は、宮下 右近 亮義忠 にし て前大宮司義 泰 の長子 なり。是より先、弘安 五千 午 年五 月
十三日、馬 入川汎濫し 沿岸 一物 を除 さす皆押流 さる。相模國なる富士山東 本宮 寒
川碑 赴 の質蔵、貸 に流失せ むとす。里宮宮司宮下記太夫明吉 は、父 國明 と共に、質蔵
に秘蔵 せる大 古 より の 古文書、即ち徐 顧博 列聖 の 勅状 代々 大宮司 筆記 に係る寒川
日 記録等 を 救出 せ む として、父子 共に 溺死 し けり。明吉は、大山 守皇子 四十八 世 の
後胤、宮 下記 太夫 政仁 七 世の 孫 にし て、世々 里 宮 宮司 たり。妻 小浪 の 方は、二 所明 碑
なる 太 碑宮 の 大宮司 左京 亮正成の 二 女 にし て 正成は政仁 の 養子、即ち 太碑宮 の 大
宮司 宮下源 太夫義仁 の 玄孫 なり。小浪 の 方は、遺 子里宮丸 と共に、富士山 阿 祀谷 の
質家 に養は る。時に、共兄義泰、太碑宮 の 大宮司 奪 富士十二 郷の総地頭たり。里宮
丸を子 とし養 ふ。後、冠 し て宮下次郎義高 と 稲 せしめ、富士十二 郷 の内、村山郷・大田
和 郷 に て、西 宇津野 庄外 二 庄 の 四十貫を 分 ち 食 まし む。是 より、義高、自ら四 貫 次郎
と稲す。義泰老す。嫡子右近発義忠之を嗣く。元應二康申年八月三日義忠病み
第二章 阿 祀山 太碑宮 - 四二 一
碑 皇 紀 四二二
て物 す。嗣なし。四貫次郎義高、入りて共後を襲 ふ。之を大山守皇子五十六世の
孫、宮下右近 亮義高 と稲 す。表本宮 大宮浅間 碑 赴 の 里 宮 宮司、富 土 又 八良 國安 の 長
女宮子を要り 六左衛門義勝を生む。義勝太田和城に長したるを以て大田和六左
衛門義勝と稲 し、後三浦左京 亮義勝 と稲す。人 となり、精忠 卓識 常に嫌概、私に 皇政
復古 の 志あり。偶。元徳二 康午年六 月、後醍醐天皇、潜 に富士太碑宮の大宮司 の 意向
し 探らしめ む として、藤原 藤 房を し て、太 碑宮 に 立願 せ させ 給 ふ。藤 房、道士 に鍵装
をて大宮司の居城 即ち小室城宮下の館に投し 常に密旨を博へにき (㎞
㎞)常時の諸論旨は、
*}*}
立願 事
敬白
一、富士大碑、碑 力仁仮面、北條 一族 一類、調伏 退治立願之事。
一、皇政 復古 候上 者、常 赴 太古 仁 復 奮之 事。
一、富士 大 碑 碑田、甲斐 駿河、伊豆 於三國、三十六萬 丁 歩差置 事。
+ 十八 日、旧ー #文「駐 』、『 二F* *。
右 條 々、天正 静設 之 時、可 置 遣 之 状 如 件。
元徳一一年六 月十 日
天子 奪 治敬白
勅使 藤原朝臣 藤 房
富士 大碑大宮司 右近 亮殿
義勝は、父 右近 亮 義高 と 謹 て 聖旨 を奉し、陰に中興の 偉業 を賛助 せ む ことを 誓ふ。
耐
三
官赴会 々、傘預官赴 従之。(㎞) 日 っ延喜式に甲斐園八代郡、娘
宮
トーイ
浅間碑赴、㎞ 足なり。(㎞、
之
夫れ太碑宮の聖廟地 郎ち高天原阿祀谷は大古相模園都留高座郡に属せしに大
巻
碑部山浅間碑赴は、八代郡なる富士山元宮七廟惣名小室浅間太碑宮と共異れるを
知るに足れり。蓋し延暦十九年富士山の大噴火に て太碑宮の分赴の紳官元宮魔
は、難を山梨郡に避け 共地に浅間大碑を 勧請し奉り 鎮座地を碑部山と名づく即ち
編
富士山北本宮碑部山浅間碑赴是なり。爾来 八代郡の太碑宮を山宮と稲し、山梨郡
耐
の碑部山を里宮と稲す。乃ち山宮は里宮の奥の院となれり。故に 延喜 式の所請、
八代郡の浅間碑赴 ㎞は山梨郡の碑部山浅間碑赴にあらすして八代郡の富士山
之
元宮七廟惣名 小室浅間太碑宮なるや明なり。面して、延喜式完成の後、四十有除年
を経て村上天皇天暦元年八月に至り、勅使藤原伊尹をして甲斐國 守橘道保に命じ、
巻
八代山梨雨郡の境界の足逸金川なりしを改め、更に金川河原より 遥か北東なる仙
丈ヶ嶽より発する大川並に笛吹川を以て雨郡の境界と定めらる。足に於て山梨
『の神部山浅間神赴*座地**に八代郎の地域となれり。故に比の神。
耐
大
郡
祀
座
浅
耐
間
ーー= ーーー
-
碑 皇 紀 四二八
-
元宮小室浅間太碑宮の大宮司の意向を探らしめむとして、潜に藤原藤房を遣はし、
太碑宮に北條氏調伏皇政復古 を立願 せしめ給ふ。時の大宮司宮下右近 亮義高の男
に三浦左京亮義勝といふものあり 父と議り謹んで密旨を奉す 面して義時はシを
伴ひ太碑宮の碑官 井出 弾正忠正親の外孫楠木正成の館 に赴き、正成と大事に闘し、
興に、密約をそなしにける。後、 勝は 義兄新田義貞を援けて、北條氏を そ亡しける。
建武元甲成年十一月護良新王の鎌倉に徒され給ふや 植木正成は危害の共王子
萬毒王に及はむことを恐れ、外祀父二條大納言貸定と議かり 美濃の人堀江美濃守
貞満をして、王子を擁護せしめ、後 家臣橋本八郎正貞 和田五郎正隆を非人に 鍵装せ
しめ、密に王子を、太碑宮の大宮司の館、即ち小室城宮下の館 に潜置 し奉る。時に、建
武二 乙玄年二 月二 日にして、王子年十。義勝、先づ吾置城たる富士阿祀谷宇津峰南
城内に新に忍ケ館を興し、王子を潜駐し奉り、叔父富士 又八郎義照を文學の師とし、
狩野太郎興家をして、之を守護せしむ。八月七日 護良親王の近臣 松木左中将藤原
宗忠は親王の首設を奉持して鈍倉より大宮司の館に投ず。共夜衆議の末 音級を
* 宮の内宮に隠私し奉り%忠義勝京師に上り 基状を基して闘下に以聞す。
後村上天皇 正平四 己五年二月四 日 太碑宮に再び正 一位一幣司を賜 はり、且つ常
時の大宮司三浦義勝に護良親王の首級を守護しける功に依り、正四位上に叙し涙
兵衛佐 衆越中守に補し給ふ。面して同時に論旨を賜はりて足利氏を討すへきこ
とを以てせらる。義勝 乃ち先っ%三浦八郎左衛門高通をして間議に入れ*計を
運らし、足利氏兄弟を離間せしむ。尋て正平十乙未年六月 切新田義宗等と 彼東将
軍宗良親王を奉し兵十萬除騎を率みて足利奪氏と上毛に戦ひ 覚に利あらず。即
ち義勝は新田氏等をして親王を奉し信濃に退去せしめ自ら止り遮り戦ひ ヒ月二
耐
十一日途に之に戦死しにき。事鎌倉に聞ゆるやシ氏は常に南北雨朝に偏偽せま
宮
りし太碑宮の大宮司三浦義勝にして今や南朝に左祖せしと聞き乃ち目代仁木頼
之
章 六角氏頼等をして兵三千騎を率み、大宮司の館に臨み太碑宮の碑領始め富士十
笠
○
り
七
間太碑宮の碑聖は足利氏、騎借の貸めに豚端せられ、元宮潮く衰微し赴殿壊魔に騎
宮
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巻 之 宮 耐 編 ニ 第
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第 三期 有司 之 徒 議 室 書 保存 者
第一 章 羯 育
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逃兵 大 なる もの あり と 語っ 可 しº
* * 和 山 太 麻 省 の 大宮司 は 神代 に て は 仲 裁判 長 と いひ 的 天 原野 町 金剛 … …
* ス に 至少 秋 は守護 団長 と 叫 《永 て 守司長 と 改め 後大 司 長 と ん 3 …
*** * * * に至り。 地 神佛 1 代 天照大 神殿の 太郎 を創設 し „ …
第 1 章 統 四三五
碑 皇紀 四三六
大國主命を以て、守護 司長と なさせ給ふ。日子火 々 出 見奪の御時に至り、多旨共祀命
を以て、守護 司 長 と な させ 給 ひき。子孫 之 を 承継 し て、地碑 五代を歴 て、宇 家測 不二
合須世に至るや碑皇第一代 親非葺不合奪謎 日子波激武言合奪は伯父碑火須勢理
第
命を以て高天原惣司令碑(㎞)となし多眞祀命の子孫を以て副司長となさせ給
ふ。碑皇第三代競 芽葺 不合 奪、諱 阿蘇 豊 王奪 の御時に 至り、大 山祇命第六 代 の 遠 孫、
編
従へ来ませる祀佐男命六十八世の孫尾羽張田彦命を以て宮守司長(㎞)となし、
玉 武男 命 を以て、副 司長 と なし、共に 子孫共職を承継 せしめ給 ふ。尾羽 張 田 彦命 の
宮守司長となりにしより 二十有除年にして秦徐顧日本に来朝し、不二山高天原に
上り、居を中室に相し て 止りぬ。 後述に碑帖の後胤等に就き碑代の事填を録*「
て世に博ふ。之を十二 史談、又は徐顧博 といふ。阿祀山太碑宮の質物として資蔵
に納めにき。爾来代々 の宮守司長、之を保護し来りて第七代佐太夫命に至れり。
應碑天皇五年七 月 皇子明仁彦を以て、大宮司長となし、且つ山守部の司と なさしめ
第 給ふ。是より、大山 守皇子と稲し 佐大夫命の後を襲はしむ。子孫之 を承継するこ
と六十七代、一千三百九十有五年間古文書を保護し来にき、Hっ代々の大宮司は、
碑宮に闘し 共日記をそ作りける。之を寒川日記と稲しき
天智天皇四辛未年八 月第二十二代顧地太夫元長の大宮司 たりしとき 中臣藤原
* 物部磨阿祀谷 に来り、元長に請うて徐顧博を問し、初めて碑代に於 ける吾物部家の
司 祀先 並に蘇我家の祀先等を知りき。然るに共徐顧博潮く 腐朽せむとしけるを見
之 て、共酒 滅を 恐れ、之 を鷹 寛 し て副書を作りにき。
巻 桓武天皇延暦十九年 顧地山(㎞)一大噴火を演し太碑宮の七廟中四座焼失し 蹴
蔵、赤共難に羅り てけり。翌年第二 十六代源太夫元秀は職宣祀等と共に、徐 顧博・寒
川日記 共他の古文書 質物を保護して難を相模國高座郡早女 郷岡田の原なる元 大
山守皇子の奮領地に避く。赤共地に赴詞を建て、七廟中より寒川碑赴を勧請し
第 一章 緒 言 四三七
-
-
シシ
シシシシーシ
碑 皇 紀 - 四三八
奉る。傍に質蔵を建て、共擁護し来れる古文書資物をそ納めける。奪て大宮司
元秀卒す。共子仁元之を襲ふ。第二十七代宮下記太夫と稲す。
平城天皇大同元内成年六月、坂上田村鷹 に勅し て、七廟中焼失しけ み 四座を再興
し相模より大宮司記太夫仁元を招き共職に復せしむ。足より 七廟たる太碑宮を
山宮と稲し 相模國寒川碑赴を里宮と稲す。仁元は雨宮の宮守を奪 ね、且つ相模國
に於ける古文書を保護しにき。子孫共職を承継して第四十八代記太夫政仁に至
- - -
り ぬ。
宮
二修天皇永歴二辛己年三月大宮司宮下記太夫政仁卒先して太碑宮即ち山宮七
司
せ 之に山宮の大宮司を譲る。之を第四十九代宮下源太夫義仁と稲す。是より政
巻
と なれ り。
後 醍醐 天皇 の 御宇 に 至り、義高 の 嫡男、三浦 左京 亮義勝、尻に、義を唱 へ、新 田義貞を
援け北條 氏 を 亡 ほし、後、南風の競はざる を慣 り、新田 義宗等をし て、宗良 親王を奉 し
て、慶、東國 に義兵 を撃け しめしか、覚 に 正平十年七月二 十 一日戦死 せり。義勝 の嫡
第 一章 緒 言 四三九
碑 皇 紀 四国O
男、宇津越中守義利、父 に代り義を唱 へ、共隠れ城たる宇津峰南城 に於 て、宗良 親王・興
良親王サ良親王を保護し奉れり。共旅情を慰め奉らむとして徐顧博の一部並に
寒川 日記の 残 篇 より妙 録し て、親王に 捧 呈 せし もの 赤勘から す。後、属、足利氏、又は
後世 領主等 より、古 文書 を焼棄 せしめ られしも。幸に共捧 呈 せ し妙 録 古 文書 の 存
三
飲を遅うせり。宗忠、慣然義を唱ふるや領主、宗忠を斬り 共族を裏け、大宮司職を続
巻
奪し て、共古 文書 を焼棄し けり。家人機を見て、共一部を隠匿しにき。一族の 者、共
血統を素め、宗家 を 再興 す。即ち第六十八代源大夫義信 是なり。然れども、大宮司
職は、分家 既に補せ られしを以て、義信 及共子孫 は、単に複寛 古 文書 の残驚を保護 す
る のみ となり に き。
要するに 徐顧博 即ち碑代十二史談は孝霊天皇任命の大宮司のとき、録取 せれら
共大宮司 の 子孫承継して、之 を保存 すること八代。次 て、應碑天皇任命 の 大宮司 の
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らむとして潮く僅かに共一部存在して今日に博ふることを得るに至れり。(㎞
記、神武 記、大 山祇 記、祀 佐 記、津島 記、阿東 記、
大山 守 記、宮司 記、延 暦 記、寒川 記、三浦 記。 )
第 一章 緒言 四四一
碑 皇 紀 四四二
第一一章 碑皇書保存大宮司(正篇
第 一章 孝 霊天皇任命大宮司
第 一代 尾羽張 田 彦命
尾羽張田彦命は祀佐男命六十八世の孫にして、知刀田命の長子なり。孝霊天皇
五十康申年四月、天皇に従 ひて高天原に上り、同十五日、阿祀谷天赴元宮七廟 惣名阿
祀山太碑宮の宮守司長に補せらる。是より碑武天皇任命の守護司長熱都丹波彦
命七世の孫、玉武男命は、副司長にぞなりにける。
尾羽張田 彦命 の宮守司長になりにしより、二十有除年にして、秦徐 顧来朝し高 天
原阿祀谷の中室 にぞ止りける。爾来十有除年にして、潮く徐顧博 即ち十二史談成
りにけり。資物として之を太碑宮に納め奉る。代々の宮守司長之を保護し来に
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撃発表
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*三十七姿文年四月二十五日葬す。お百四十二。阿東風命。
副司長玉武男命は講を阿祀彦といふ。真米山男命 譲 小室彦の長子なり。摩武
媛命を 要り ぬ。
第二代 美禰方男命
美弾 方男命は 講を不二田彦といひ、尾羽張田彦命の長子なり。玉武男命の長女
太久千媛命を要る。孝元天皇二十内午年十月三日夢 す。毒百 七。
見奈加男命を副司長とす。玉武男命の御子なり。山不記媛命を要りぬ。
第三代 阿 祀男命 *
宮
阿祀男命は諱は大室田彦といひ、美禰方男命の長子なり。見奈加男命の二女山
司
第四代 眞田 良男命
眞田良男命は諱を西田彦といひ 阿祀男命の次子なり。見奈加男命の長女佐和
媛命を要る。崇碑天皇元甲申年二 月二 日夢 す。毒 百十六。
岩長男命を副司長とす。久良高命の長子なり。波 志 媛命を要りぬ。
第 二 章 碑 皇 書保存大宮司 四四三
碑 皇 紀 四四四
第五代 眞田 八代良男命
眞田八代良男命は講を吉田彦といひ、眞田良男の長子なり。岩長男命の長女深
*〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜***
根 媛命を要る。崇碑天皇六己五年、不二山を顧地山と改稲せしめらる。同四十八
第
辛 未年六月六 日夢 ず。毒 百三 十 一。
宮守男命を副司長となす。岩長男命の攻子なり。成里媛命を要りぬ。
第六代 又久良 男命
又久良男命は講を川山田彦といひ 共田八代良男命の長子なり。岩長男命二十
宮
三
巻
ー
ー
陵に葬る。之を顧地山阿曾谷三陵と稲す。甲斐園風土記に所請増 幕三基足なり。
大久保子
戸
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王(
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第二 章
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第二代
碑 皇 書 保存 大宮司
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宮下源太夫明政
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大山 守皇子 の第三王女を要る。反
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四五一
『
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碑 皇 紀 四五二
正天皇七 壬 子年三月三日 夢 ず。毒百七。
太田 西原男を以て、太碑宮 の 祭典司長 となす。根鳥皇子の第 一王子 なり。子孫
世々 太田 氏と稲 す。太田・伴 伴野 諸氏の 祀と す。羽田 弾 根尾を以て、同 副 司長と な
す。武内宿禰の 孫にし て、羽田矢代宿禰の長子なり。後、弾 根尾は、太碑宮 の 供物 司
三
長田 作 彦の 養子 となり、共職を承継し、太碑 宮 の 供物 司 長 を 奪 ね ぬ。田作彦は、作田
昆古命(㎞)七十一世の孫にして世々太碑宮の供物司長たり。共四世の祀を 機
彦命といふ。命に舟田彦野見彦 田村彦の三子あり。垂仁天皇の御宇天照皇太碑
宮
宮を大和の笠縫の里より伊勢の度倉の里に遷宮あらせ給ふゃ井田彦を以て伊勢
司
第七代 宮 下記太夫仁元
宮下記太夫仁元は前大宮司長宮下源太夫仁良 の長子なり。顧地又八良宗定の
長女 を要る。顕宗 天皇元 乙 五年十二 月三 日夢 ず。毒 六十 一。
顧地又八良元長 を以て、副司長 奪 山宮の宮司となす。顧地又八良宗定の二子な
り。太田 勝磨 の 長女を要り ぬ。
太田加基彦を以て祭典司長となす。基佐彦の長子なり。初田三知彦を以て同
宮
副司長奪供物司長となす。羽長男の長子なり。(㎞
司
第八代 宮 下記太夫仁家
之
宮下記太夫仁家は前大宮司長宮下記太夫仁元の長子なり。顧地又八郎元長の
*-*
巻
二 女を要る。顕宗天皇三丁卵年夢 ず。毒三十。
顧地又八良彦太を以て、副司長衆山宮の宮司となす。顧地又八良元長の長子な
り。宮 下記太夫仁元 の 三 女を要り ぬ。
太田政仁彦を以て、祭典司長となす。加旨共彦の二子なり。羽田古 峰男を以て、同
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四五五
碑 皇紀 、四五六
副司 長 奪 供物司 長 と なす。三 知彦の 長子なり。
第 九代 宮下源太夫宗仁
宮下源 太夫宗仁は、前大宮司 長宮 下記 太夫 仁 家 の 甥 にし て、顧地又 八 良彦太 の 長
子 なり。仁 家嗣 なし。因 て 妹 の 生める宗仁 を 養 ひ、長女 秋 姫 に 配 し て 嗣子と なし
ぬ。仁賢天皇十丁 五年四月十日 夢 ず。毒 四十九。
顧地又八良元彦を以て、副司長奪山宮の宮司となす。顧地又八良彦太の二子な
り。宮 下記太夫仁 家 の 二 女 を 要り ぬ。
宮
太田 政見彦を以て、祭典司長となす。政仁彦の長子なり。羽田小田眞彦を以て
同副司長奪供物司長となす。古峰彦の長子なり。
第十代 宮 下記太夫 國仁
宮 下記太夫國 仁は、前大宮司長宮下源太夫宗仁 の長子なり。顧地 又八良元彦の
長女 を要る。武烈 天皇 七 乙西 年八月十二 日 夢 ず。毒 五十三。
顧地又八良政 定を以て、副 司長 奪 山宮 の宮司となす。顧地又八 良元彦の長子な
り。宮下源太夫宗仁 の 長女を要りぬ。
太田眞木彦を以て祭典司長となす。政見彦の長子なり。羽田小鳥彦を以て同
副司長条供物司長となす。小田眞彦の長子なり。
第十 一代 宮下源太夫元國
宮下源太夫元 國は前大宮司長宮下記太夫國仁の二子なり。 顧 地 又 八 良政 定の 十
一女を要る。
安閑天皇元甲寅年十二月 一日夢 す。毒六十八。
禰地又八良政彦を以て副司長奪山宮の宮司となす。顧地又八良元彦の二子な
り。羽田宗太 の 一女を要り ぬ。
太田小 沼田彦を以て祭典司長となす。眞木彦の長子なり。羽田作田眞男を以
て、同 副司長 奪 供物司長となす。小鳥彦の長子なり。
第十一一代 宮下記太夫仁成
宮下記太夫仁成は前大宮司長官下源太夫元國の長子なり。顧地又八良政彦の
長女を 要る。
安閉天皇二 乙卵年十月三日夢 ず。毒三十八。
第二章 紳 皇 書 保存 大宮司 四五七
碑 皇 紀 四五八
顧地又八良彦 一を以て、副司長 奪 山宮 の宮司 となす。顧地又八良政彦の長子な
り。宮下源 太夫元園 の三女を要りぬ。
太田加津彦を以て、祭典司長となす。小沼田彦の、長子なり。羽田稲田男を以て、
-
同 副 司長 奪 供物 司 長 と なす。作田 眞男 の 二子 なり。
三
顧地又八長良彦を以て、副司長条山宮の宮司となす。顧地又八良政彦の二子な
之
り。宮 下記太夫仁成の長女を要り ぬ。
巻
太田 小山彦を以て、祭典司長となす。加津彦の長子なり。羽田奈良彦を以て、同
副 司長 奪 供物 司長 となす。稲田男 の長子なり。
第十四代 富下記参実峰元
宮下記太夫峰元は前大宮司長宮下源太夫元政の二子なり。地又八** の
日まt rトー +t、 こ に gg
長女 を要 る。
飲明天皇十己巳年十月二十四日夢 す。毒二十七。
顧地又八 良良彦の 副司長 衆山宮の宮司たること、故 の如し。
太田西島男を以て、祭典司長となす。小山彦の長子なり。羽田 中津彦を以て、同
三 副 司長 奪 供物司長 となす。奈良 彦の長子 なり。
第十 五代 宮下源 太夫元氏
宮下源太夫元 氏は、前 大宮司長宮 下記太夫峰 元 の弟 にし て、源 太夫元 政 の 八子 な
り。顧地 又 八良良彦の 十三女を要る。飲明 天皇三十己五年二 月二 十七日夢 ず。
毒三十七。
顧地又八良彦武を以て副司長 奪 山宮の宮司となす。顧地又八良良彦の長子な
り。宮下源太夫元 政 の八女を要り ぬ。
太田 水流男 を以て、祭典司長 となす。西島男 の 四子 なり。羽田國玉彦を以て同
副 司長 奪 供物司 長と なす。中津 彦の長子 なり。國玉 彦卒す。弟大原根 彦共後を
嗣ぐ。
第二 章 碑 皇 書 保存 大宮司 四五九
碑 皇 紀 四六○
第十六代 宮下顧 地太夫元治
宮下顧地太夫元治は前大宮司長宮下源太夫元氏 の 長子 なり。顧地又八良彦武
の長女を要る。崇唆 天皇元成中年十 一月三十日夢 ず。毒 七十六。
顧地又八良彦三を以て、副司長奪 山宮の宮司となす。顧地又八良彦武の長子な
り。宮下源太夫元氏の四女を要りぬ。
太田 松根 男を以て、祭典司 長と なす。水流男 の 五子 なり。羽田 加津 羅男を以て
同副司長衆供物司長となす。大原根彦長子なり。
宮
同 副 司 長 暴 供物 司長 と なす。政木 男 の 三 子 なり。
司
宮下顧地太夫國富は前大宮司宮下源太夫元定の長子なり。顧地又八良元忠の
巻
記記
東
*
総山
誤阿 *
㎞司長となす、大**の長子なり ㎞ 祇
記守
*
皇山 子 関宮 司
第二 副書保存時代
第二十二代 宮下顧地太夫元長
*「シ太夫元長は前大宮司宮下源太夫秀元の長子なり。 顧地又八良 正康の
二 女を要る。
シ八月中臣藤原物部魔除顧僅の潮く将に魔初せたとしけるを
停 とを保護し 来れり。
。 ょり各大宮司は勝賞しけるシしけるシ
天武天皇十ェ午年七月四日夢ず。誇六十八。
山宮の宮司となす。地又八
宮下源太夫秀元の長女を要りぬ。
太田本武麻呂を以て祭典司長となす。 千久彦の長子なり。 羽田阿津麻呂を以
第 二章
*書 保存 大宮司 四六三
四六四
碑 皇 紀
宇佐麻呂の長子なり。
て同副司長象供物司長となす
第二十三代 宮下記太夫元頼
顧地又八良國高の
宮下記太夫元 は前大宮司宮下顧地太夫。毒 四十三。
長女を要る。文武天皇大質元幸#年二ヵ『『。
八a園高の副司奪山宮の宮司。
以
三
なす。本シニ。。
て同』司長を供物司長となす。シ。
第二十四代 宮下源太夫元道
* 。
女 元正天皇霊亀ニ内長年八月八『 顧地又八良正康の二子なり。
顧地又八良宗信を以て副司奪山 の 『。
羽田 家 三奏を愛ら 『阿本田魔。
太田』 を以てシとなす。『。“。
同副司長象供物司長となす。基佐麻呂の長子。
第二十五代 宮下顧地記太夫元村
宮下顧地記太夫元村は、第十 一代大宮司宮下源太夫元 國 の 七子 なり。前 大宮司
宮下源太夫元道、天折 し て 嗣 なき に因り、入り て共後 を襲 ふ。顧地 又八 長 正康 の 長
女 を要 る。恒武 天皇 延 暦十 一壬 申年八 月二 十七 日 夢 す。毒二 百五十 七。
顧地 又 八 良 宗 信 の 副 司 発 山宮 の 宮司 たる こと、故 の 如 し。
太田 大山磨を以て、祭典司 長 と なす。貞田 磨 の 長子 なり。羽田宗田 磨 を以て、同
副 司長 奪 供物 司長となす。阿 木田磨 の長子 なり。
第二 十六代 宮下源太夫元 秀
宮下源太夫元 秀は、前大宮司 宮下 顧 地 記太夫元村 の二 十七 子 なり。顧地 又 八良
宗信 の 三女 を 要 る。桓武 天皇 延暦二 十 辛 巳年二 月三 日 夢 ず。毒 四十八。
顧地 又八 良 宗晴を以て、副 司 発 山宮 の 宮司 と なす。顧地 又 八 長宗信 の 長子なり。
太田 守重 の 長女を要り ぬ。
太田 眞長男を以て、祭典 司 長と なす。大山磨の 長子 なり。羽田 宮田 暦を以て、同
副 司長 奪 供物 司長となす。宗田 暦の長子 なり。宮田磨 後、京 に召さる 、由 り、共職
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四六五
碑 皇 紀 四六六
を弟宗 治彦に譲る。途 に忍壁親王の副帥となりて、蝦夷を平 ぐ。共功 に依り、科野
國高井 水内の二 郡を賜ふ。長野原 の坂上の館 に居る。坂の上氏と稲 す。又、北越
西海征討の功 に依り 陸奥國三十四郡を賜ふ。征夷大将軍 に任せられ、菊田の城に
居る。坂上菊田磨 と改む。坂上 田村 信夫・伊達 諸氏の組とす。坂上田村磨は、共の
交H
o (以上、大山 守、記、宮司 記、集 継 記、根
長子なり。(㎞)
第二期 相模國保存時代
宮
第一 雨宮 衆務時代
司
第二十七代 宮下記太夫仁元
之
巻
宮下記太夫仁元は前大宮司宮下源太夫元秀の長子なり。金子國太夫政明の長
女を要る。桓武天皇延暦十九基長年四月 幅地山 一大噴火 を演じ碑代よりの碑都
へ S こ{ 、
翌年
シシを初や三十m四方 #*石#
大宮司元秀は長子仁元を初め顧宜祀等と金属博共他の古文書資 。「"
難を東相模國早女郷岡田原の元大山守皇子の奮領地に避く。太碑宮なる七廟中
寒川大明 碑を 勧請 し 奉る。富士山東本宮 寒川碑赴 是なり。共傍 に資蔵を建て\、
擁護し 来 にける古 文書質物を そ蔵 めける。尋 で元秀夢 す。仁元寒川紳 赴 の宮司
と なる。是 より、寒川 碑 赴 を 里宮 と稲 し、太碑宮 を 山宮 と 稲し ぬ。
平城 天皇大同元内成年六月三 日、坂上 田村磨 に勅し て、太 碑宮 なる 七 廟 中延暦大
噴火 に て、焼失 せし 四座 を再興 せしめ 給 ふ。里宮 の 宮司 仁 元 を以て太碑宮 の 大宮
司 と なし、里 宮 の 宮司 を 奪 ね しめらる。翌年、顧地 山 を富士山 と 改 稲 せしめ き。是
より 太 碑宮 の 大宮司 は、代々 里宮 の 宮司 を 奪 ね て、古 文書 を 保護 する こと に そ なり
司
に ける。
之
司 たる こと故 の 如 し。
之
象供物司長たること故の如し。
第三十代 宮下源太夫明忠
*「瀬太夫明忠は前大宮司傘里宮宮司宮下記太夫明政の弟にして第二十七代
*「記太夫仁元の四子なり。富士又八郎大宮底の長女を要る。光孝天皇仁和三
第 二 章 紳 皇 書 保存 大宮司 四六九
碑 皇 紀 四七○
丁未年十月十四日夢 ず。毒三十八。
古屋元太夫正彦の 副司 傘碑部山 の宮司たること故の如し。富士又八郎翌明を -
以 て、大宮の宮司となす。和 通部大宮磨の長子 なり。
第 太田伴兵長男の祭典司長 奪 八代郡の大領たる こと 並に羽田伴宗治彦の同副司
ニ 長奪 供物司長たること故の如し。
編 第三十 一代 宮下幅地太夫明高
宮下顧地太夫明高は前大宮司傘 里宮宮司宮下源太夫明忠の弟にして第二十七
代宮下記太夫仁元の五子なり。富士又八郎B明の長女を要る。配闘天皇延喜十
司
康 午 年十 月三 日 夢 す。毒 七十 一。
之 古屋彦太夫政長を以て、副司 傘碑部山 の宮司となす。元太夫正彦の長子なり。
巻
物 司長 と す。宗太夫宗市 の 長子 なり。
司
第三十三代 宮下源太夫 明信
之
宮下顧地太夫明高の二子なり。富士 又八郎豊仲の三女を要る。村上天皇天 暦二
成申年四月四 日 夢 す。毒三十七。
古屋彦太夫政氏を以て副司傘碑都山の宮司となす。元太夫政彦の長子なり。
富士 又八郎豊繁を以て、大宮 の宮司となす。又八郎豊明 の二子なり。
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四七一
碑 皇 紀 四七二
太田伴太郎兵貞の祭典司長衆八代郡大領たること故の如 し。 羽田 伴 宗 太夫秋
吉を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫春吉の長子なり。
第三十四代 宮下幅地太夫明清
宮下顧地太夫明清は前大宮司衆里宮宮司宮下源太夫明信の弟にして、第三十一
三 代宮下顧地太夫明高の三子なり。富士又八郎豊繁の長女を要る。村上天皇應和
二千 成年二月一日夢 す。毒四十 一。
古屋元太夫宗元を以て副司奪碑部山の宮司となす。彦太夫政氏の弟にして送
太夫政彦の二子なり。富士又八良豊元を以て大宮の宮司となす。又八郎豊繁の
長子 なり。
太田伴長太夫眞忠を以て祭典司長奪八代郡大領となす。太郎基貞の長子なり。
羽田伴元太夫秋宗を以て同副司長奪供物司長となす。 宗太夫秋吉 の長子 なり。
第三十五代 宮下記太夫元景
シ。 M旧 “プゲ C
八郎 冷泉天皇*和ニEE年三月日』をす。。『
古屋彦太夫正朝 を以て、副司 奪碑部山の宮司 となす。元太夫宗元の長子なり。
富士 又 八郎重豊を以て、大宮 の宮司となす。又八良豊元の長子 なり。
太田 伴九太夫貞秀 を以て、祭典司 長 奪 八代郡大領 となす。長太夫旨共忠 の長子 な
り。羽田伴宗太夫秋園を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫秋宗の長子な
三 れシ。
第三十六代 宮下源太夫 明 景
宮下源太夫明 景は前大宮司 傘里宮 宮司宮 下記太夫元景 の長子 なり。富 土又八
郎豊元の二女を要る。花山天皇寛和二 内成年六月 四日夢 す。毒二十。
古屋元太夫頼政 を以て、副司 傘 碑部山 の 宮司 と なす。彦太夫 正朝 の長子 なり。
之
富士 又八郎重豊 の 大宮 の 宮司たる こと 故の如し。
巻
太田伴長太夫眞 晴を以て、祭典司 長 条八代郡大領 と なす。丸太 夫旨共秀の長子 な
り。羽田 伴元太夫秋 魔 を以て、同副 司 長 奪 供物 司 長 と なす。宗太夫 秋 國 の長子 な
*
り。
第二二十 七代 宮下 幅 地太夫元経
第二章 碑 皇 書 保存 大宮司 四七三
碑 皇 紀 四七四
宮下 顧地太夫元経は前大宮司 傘里宮宮司宮下源太夫明景の弟にして第三十五
代宮下記太夫元量の二子なり、富士又八良重 の長女を要る。三條天皇長和二姿
# 年二 月三日夢 ず。毒 四十。
古屋彦太夫政徳を以て、副司条碑部山 の宮司となす。元太夫頼政 の長子なり。
富士 又 八郎重 豊 の 大宮 の 宮司 たる こと故 の 如し。
太田伴九太夫旨共親を以て、祭典司長奪八代郡大領となす。長太夫旨共晴の長子な
り、羽田伴元太夫秋魔の同副司長衆供物司長たること故の如し。
第三十 八 代 宮下記 太夫親明
司
宮下記太夫襲明は前大宮司奪里宮宮司宮下顧地太夫元経の長子なり、富士又
之
古屋彦太夫政家を以て副司奪神部山の宮司となす。彦太夫政徳の長子なり。
富士八太夫宗豊を以て、大宮の宮司となす。又八郎重 豊の長子なり。
太田伴長太夫眞吉を以て、祭典司長奪八代郡大領となす。九太夫旨共親の二子な
り。羽田伴宗太夫秋経を以て、同副司長 奪 供物司長となす。元太夫秋魔 の長子なり。
第三十九代 宮下源太夫政明
宮下源太夫政明は前大宮司傘里宮宮司宮下記太夫親 明の弟にして第三十七代
宮下顧地太夫元経の二子なり。富士八太夫宗豊の長女を要る。後一條天皇寛仁
四康申年四月六 日夢 ず。毒十六。
古屋彦太夫宗廣を以て、副司 傘碑部山の宮司となす。元太夫政家 の長子なり。
富士又八良國 豊を以て、大宮の宮司となす。八太夫宗豊の二子なり。
太田伴九太夫眞住を以て祭典司長傘八代郡大領となす。長太夫兵吉の長子な
宮
り。
之
第四十代 宮下幅地太夫宗應
巻
古屋彦太夫宗信を以て、副司 傘碑部山の宮司となす。元太夫政盛の父宗廣の弟
司
太田伴九太夫眞治を以て、祭典司長 奪八代郡大領となす。長太夫眞守の長子な
巻
り。羽田伴元太夫秋朝を以て、同副司長奪 供物司長となす。宗太夫秋成の長子な
り。 -
-
第四十一代 宮下源太夫元頼
宮下源 太夫 元頼は、前大宮司 傘 里宮 宮司 宮 下記太夫 明秀 の 弟 にし て、第三 十七代
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宮下顧地太夫元経の五子なり。富士又八良園豊の八女を要る。自川天皇應徳二
乙 五年二 月四 日夢 ず。毒三十二。
古屋元太夫宗正を以て副司奪碑部山の宮司となす。彦太夫宗信の長子なり。
宗正卒す。共長子彦太夫政平嗣く。富士又八郎武豊を以て大宮の宮司となす。
三 富士 又八 長 國 重 の 三 子 なり。
太田伴長太夫旨共次 を以て、祭典司長奪 八代郡 大領となす。九太夫旨共治 の二子な
り。羽田 伴宗太夫秋秀を以て、同副司 長 奪 供物司長と なす。元太夫秋 朝 の長子 な
り。
第四十三代 宮下幅 地太夫 明 頼
吾下顧地太夫明頼は前大宮司 傘里宮宮司宮下源太夫元頼の長子なり。堀河天
皇寛治 元 丁卵年五月十日夢 ず。毒 僅に八年。
古屋元太夫宗平を以て、副 司 傘 碑都 山 の 宮司 と なす。彦 太夫政平 の弟にし て、元
太夫宗正の二子なり。富士 又八良 豊成を以て、大宮 の 宮司 となす。又八良國豊の
-
四 子 なり。
第二章 紳 皇 書 保存 大宮司 四七七
碑 皇 紀 四七八
太田伴九太夫貞宗を以て、祭典司長 奪八代郡大領となす。長太夫旨共次 の長子な
り。羽田伴元太夫秋家を以て、同副司長 衆供物司長となす。宗太夫秋秀の長子な
●
いン
第四十四代 宮 下記太夫 明 盆東
宮下記太夫明 衆は 前大宮司 衆里宮宮司宮下顧地太夫明頼の弟にして第四十二
代宮下源太夫元頼の二子なり。堀河天皇寛治二成辰年七月一日夢す。 僅に七
年。
古屋彦太夫正晴を以て、副司 奪 碑部山 の宮司となす。元太夫宗平の弟にして宗
司
太田伴九太夫貞宗の祭典司長 奪八代郡大領たること、並に羽田伴元太夫秋家 の
同副司長奪供物司長たること故の如し。
巻
第四十五代 宮下源太夫明富
宮下源太夫明富は前大宮司 衆里宮宮司宮下記太夫明 発の従弟にして第四十 二
代宮下記太夫明秀の長子なり。金子國太夫正勝の長女を要る。崇徳天皇大治二
丁 未年六月三日夢 す。毒四十二・
古屋元太夫正忠を以て副司傘碑部山の宮司となす 彦太夫 正晴の長子 なり。
。す *夫シ闘ぐ。宗貞卒す。共長子元太夫宗舞闘く・富士又八郎
シを以て大宮の宮司となす。又八良豊成の長子なり。
三
)
*シを以て祭典司長奪八代郡大領となす。九太夫賞 の二子を
り。
** **を以て同副司長奪供物司長となす。元太夫秋家の長子な
第四十六代 宮下顧地太夫明朝
司
『シは前大宮司奪里宮宮司宮下源太夫明常の長子なり。顧地又
之
。ま*を妻る。近衛天皇久安二内賞年三月二十四日撃す。 三十七
笹
シを以て副司奪碑部山の宮司となす。元太夫シの正子なり
太夫政*闘く。富士又八郎B常を以て大宮の宮司となす。又八
郎経 豊の二子なり。
シ***佐を以て祭典司長奪八代郡大領となす。長太夫シの四子を
第二 章 紳 皇 書 保存 大宮司
四七九
-
H 四八○
り。羽田伴元太夫秋忠を以て、同副司長 奪供物司長となす。宗太夫秋善の三子 な
むン
第四十七代 宮下源 太夫 明廣
宮下源太夫明廣は前大宮司奪里宮宮司宮下顧地太夫明朝 の弟にして、第四十五
代宮下源太夫明富の二子なり。富士 又八郎経豊の十 一女を要る。近衛天皇久安
五己己年三月三日夢 す。毒三十七。明廣の弟に二郎清國なるものあり。深集郷
を食めるを以て、深第二郎清國と稲 す。土肥質平の姉定子を要る。初め、源貸義 に
仕 へ、後 鎮西八郎貸朝に仕 ふ。貸朝の八丈島に流さる \ や 従ひて行く。河野氏 見
司
島氏の組とす。共長子、一島の長となる。共島を管下島と稲す。後世三宅島とそ
之
稲しける。
巻
さ
*
『ノ、 # # LA +
第四十八代 宮下記太夫政仁 -
宮 下記太夫 政仁 は、前大宮司 気 里宮 宮司宮下 源 太夫 明廣 の長子 なり。熱田 大宮
司 尾張 源 太夫忠 住 の 七 女 を 要る。一一條 天皇永 暦二 辛 己年三 月、政仁 率先 し て、太碑
宮 なる七 廟 の 宮殿 を ぞ 改造しける。尋 て、源氏 の 落人三浦上野 守義顕 の 長子 源 甚
吾 重成を養子と なし、長女春子に配し、熱田大宮司尾張 源太夫忠住 と議り、重成に 太
碑宮 の 大宮司を 譲り ぬ。即ち第四 十九 代宮下 源太夫義仁 是なり。政仁、是 より、単
に里宮なる東 本宮 寒川碑赴 の宮司 となりて、専ら徐顧博共他の古 文書を保護しに
司
四八二
部根
祀
記島
件矢
誤代
記
*
浦延
里宮第 一代 宮下記太夫國仁
宮下記太夫國仁 は前大宮司 奪 里宮宮司 宮下記太夫政仁の長子なり。熱田大宮
司 尾張源太夫國住 の 四女を要る。元久二 乙 五年三月六 日夢 ず。毒 八十六。
里宮第一一代 宮下記太夫住家
宮下記太夫住家は、前里宮宮司宮下記太國仁 の二子 なり。太碑宮の 大宮司宮下
司
里宮第三代 宮下記太夫住國
巻
島氏の組とす。共長子、一島の長となる。共島を管下島と稲す。後世三宅島とそ
之
稲しける。
巻
宮下 源 太夫義仁 と 稲 す。
之
家に騎りて寄食 せり。正成の嫡男大宮司源太夫義泰は里宮丸を子として養ふ。
長するに及びて義泰の嫡子大宮司義忠天折するや 里宮丸共後を襲ふ。即ち第五
十六代宮下 右近亮義高是なり。初め、第四十八代記太夫政仁のとき、子孫分れて、太
碑宮の大宮司と、里宮宮司となれり。太碑宮の大宮司子孫七代、里宮宮司子孫赤七
司
柏木忠太夫義隆を以て副司と なす。仁太夫義時の長子なり。宮下右近亮義高
の 女 小萩 を要り ぬ。
太田伴九太夫正基及羽田伴宗太夫時能を以て赴元老司となす。正基は 長太夫
司
良親王の上毛に移らせ給はむとせらる、や義利親王を擁護して道中事なく移駐
し奉りければ、親王大 に喜び給 ひ 名を道次 と 賜ふ。應永三十一甲辰年八月、親王の
巻
(㎞)-
夫れ徐顧は軒韓氏より出づ。軒韓氏第四の御子を忠顕氏といふ。忠顕氏六世
の 孫を 萬正 氏 といふ。萬正 氏 夏再 王 に 仕 へ、農作 の 事を 掌 る。子孫世々 夏 に 仕 へ
しも共亡 ひし後、又 朝 に仕 へ ず。萬正 氏、四十八世 の 高を 正勝 といふ。正勝、文學を
第 一章 上篇 秦徐 顧 五○五
脚 白 和 五CO
に結 者 し たり けるº 5% め て 目 く不 時に 際 は 生 ? 之 を 守護 す可 し。 若 し 運
と、N た 開か ば、明 を 失 す 可 し。 こそ 系 相 成 的 で 1 人 の 開く もの なくN を 保護 した
りº 高保 十 J J 年 十 月 四 日 卒 2° 羯 < 十 四。
第六十九代 育 下 世 太 大義 法
三 有 下 世 太夫 義 法 は 離 を 作 好 在 衛門 と いひ 的 平原 大夫 義信 の 長子 なり。 小 在野
越後 守 の 女 小銃 を 愛 る。 高保 十 八 次 开 年 十 月 四 日 卒 3。 康熙 五 十 六。
第七十代 府下 原 大 大義 度
有 下 原 大夫 義 派 は 詩 を 忠 在 衛門 と いび、 自 下 世 太夫 義治 の 長子 なり。 波 部 左1太
夫 の 女 小春 を 愛 る。 延 享 四 丁 加 年 十 一 月 11 日 卒 3° 者 五 十 八。
第七十 一 代 育 下 作 郎 太 大義 根
有 下 作對 太夫 將 根 は 論 を 生 在 衛門 と いひ 的 下 派 大夫 義 度 の 長子 なり。 波 部 中心
右 衛 の 女 小米 を 愛 る。 資歷 三 尖 西 年 六 月 二 十 四 日 卒 ォ。 高 三 十。
第七 代 -雞太夫將
******“…………*********“
夫 の 女 平 を 要 る。 安永 入 巴 文 年 十 月 二 十 四 日 卒 }° 者 四 十。
第 七 十 三代 育 下 作 太夫 將 其
省 下作太夫 義景 は 金 を生 方 衛門 と いび 下海 大夫 義貞 の長子たり。 機 部 u太
夫 の 女 德 を 愛 る。 安永 三 甲午年 十 二 月 十 一 日 卒 }。 嘉 二 十 一 。
第七十 四代 育 下 原 太 大義 作
宮下 派 大夫 義 作 は、議 を 派 兵衛 と いび、宮下 作 太夫 將 其 の 長子 なり。 宮下 派 有 街
門 の 女 多 與 を 愛 る。 天保 太 乙未 年 七 月 二 十 日 卒 2。 為 六 十 四。
第七十 五代 者 下 世 太 大 義光
宮下 世 太夫 將 光 は 議 を 高級 といふ、宮下 原 大夫 義 作 の 長子 たり。 至 原 體 與 衛 の
長女 成 梁 を 愛 る。 明治 二 十 一 成子 年 三 月 三 十 日 卒 }。 表 也 十。
-
第七十六代 者 下 原 太 大 義昭
有 下 原 大夫 義 路 は 論 を 派 兵衛 と いび、宮下 世 太夫 義光 の 長子 なり。 安政 五 成子
年 八 月 11 日 卒す。 義 十 八。
第七 十 七代 者 下 完 太夫 義興
第 二章 論文 書 被 寫 《 在 大 を 司 五0
** ، ، ، ،
-
碑 皇紀 ○二
宮下 元太夫義興は、宮下源太夫義照の弟にし て、宮下甚太夫義光の 二子 なり。宮
下忠二郎の 長女 梅を要る。兄 義照の天折 する や 共 後を襲 きて源兵衛 と 稲 す。
文久三発 支年十 一月二 十九日夜、隣倍 火を 失 す。曾、西風烈しく、火勢 候ち四散し
て震爆盆地る。時に義興年十四。病響中にあり。潮く枝に偽り 離を伯父の家に
三 避く。母 病夫及 八十五歳の老始 を扶け、幼女を携 へ て 従ふ。姉梅子時に年二十一。
祀先の遺訓を長み軍身身を躍らして奥室に入り 組先の様梁に結着し置ける遊 紙
包 の 古箱 及 刀剣 類を大箱 に入れ 槍弓 等を館後の 小川に沈め、尚ほ備 倉龍中の位牌過
古 帳 を取編め、共に 大箱 に牧 め、負荷して 将に火を避け なむとするや、悪漢之 を奪 ひ
去る。直に追跡し て 取還せ し に、悪漢にあらず し て、救難 に駆付け し 一族なりき。
梅子即ち引返し、更に 碑架三 赴 の宮を搬出 せ むと するや、紅 船天 を 般き黒畑地に 温
り、赤 如何 とも する能はず。意 に 本館及 家貨付 質撃け て鳥有 に 騎しにけり。抑も、
本館 は代々 大宮司 の居城 にして、所 請富士阿祀谷 小室城宮下の館 是なり。寛文年
中阿 田都 山 の小室の里より新屋敷に移しけるもの なり。碑架三赴の宮は 天照大
御碑の御碑鶴として奉祀ましませる碑 代の武器 共他の質物を安置 しありしとい
ふ。
明治十六発 未年二 月二 十二 日、義興は常時富士阿 祀谷 七廟継名元宮小室浅間太
碑 宮 の碑 官 宮下荘 斎 と議 り、文明 の 今日、祀先の遺訓 を破り、古 箱 を開くも明 を失 す
る ことなか るべし とて、深夜、汰 溶斎戒し て、居宅の奥の 一室に籠り、姉梅子の 救出 に
係 れる古 箱、共他の 武器を 牧め列 ね ぬ。乃ち轄 祀の 後 共 古 箱 を開け は、碑皇 に 闘 す
る古 文書、即ち徐顧博・寒川 日記共他の複寛古 文書は、南朝の諸記録 と、共に顕れ出づ。
偶、父義光の宿病怒ち癒えにしとそ。(㎞
第三章 碑 皇 書 複 寛 保存 大宮司 五○三
- - シー『『ー 『
#* シ # 。 引ェm #日 *日 *4日
第四編徐 顧之巻 碑皇書記録者
第 一章 上篇 秦徐 顧
第一 徐 顧来歴
碑皇に闘する古文書は 人皇第七代孝霊天皇七十四年、不二山に来れる秦徐顧及
共子孫が 碑祇の後胤等に就き 基日牌使言質記録 楽譜などに擁り 之を記録しける
もの なり。
徐
(㎞)
夫れ徐 顧は 軒韓 氏 より出づ。軒韓 氏、第四の御子を忠顕氏といふ。忠顕氏六世
の 孫 を高正氏といふ。萬正氏 夏再王に仕 へ、農作の 事を掌る。子孫世々 夏に仕 へ
しも共亡 ひし後、又 朝に仕 へ ず。萬正 氏、四十八世 の 高を 正勝 といふ。正勝、文學を
第 一章 上篇 秦徐 顧 五○五
碑 皇 紀 五○六
能くし、地理 に精し出 で 、周の武王に仕 へ て功あり。性を徐と賜 ひ 禁定國の首長 に
、補せらる。武永武正武建 武長 長良 武達 武富 長佐武天 武宗 武彦武晴 武賢 武顕 武祀
武力 武春を歴 て、部子に至る。都 子、曾、郷喜の害する所となる。弟然築楚憤然父祀の
領地、楚を復奮 せしか ども遺子茶公、母 と共に逃れ て、深山の大洞に匿 れ、農事 を そ事
としたりける。
築公より 農雄・田眞泰田國永・洞山 徐 子・原田を 歴 て、子路 に 至る。子路、孔子の門に
入り、學を修 む。子孫 世々 儒學 を以て、顕は る。子路、忠永 の女 旨共仁 婦人 を要り、太達
徐
て徐顧 を生め り。
徐顧は名を徐子(㎞*)といふ。徐顧は即ち共字なり。博く儒事を修
め、後 天笠一に 渡り、備 寧 を究 むる こと 七年、切 磁 勉 動 章 に 一切経の 奥義を攻 む。後 薬
師如来 の備像を求め、以 て本國に 騎る。秦王政 に仕 へ 動 功赤 診からず。官位 潮く
建造 し て 帰る軍用 せ られ% に宮女 學 書籍人 を 展 。 李を 踏 上 城人(ち帰 *)と *
*。 後 本 の女たり。 王天下を 続 し て 知ら自ら 始皇帝と 解す。 三年(機 轉 +)*
東 の 方 郡 縣 を 巡航 し て 朝 康 山 の 降 に 上り東海を 望 ませ 始ま。 傳達に 達東山 島 の
見 は る ) % ク。 皇帝 为 方 通 轉送 させ 結ぶ。
後藤 秀 ら 上 書 し て 目 く東海 の 進來之 文泰州 の 三神山 は 全 世界 の 大 元 祖國 にし
て 大 元祖 タ の 神仙 の 正 れる あり 日 っ 不老 不死 の 良 業 あり。 若 し 之 を 服 や は、千 萬
威 の 護衛 を 保持 すると と を 得 可 し。 區將 に 重要 意 安五 百 人 と海 に 入り'N を 集め
も と 話 よ。 元 ら 認 し て 共 定義 を 求め した 。 徐福 文泰 すら く' N た 末 Q ち に は 少く
Ä
* + 五 年運 く は 三 十 年 を 要 すべ し。 故に相當 の 旅 装 を 要 す。 即ち 金 鋼鐵 被 金
Ż
球 王 及び 家 食 器具並 に 大船 人十 五 級 を 要 すべ し。 これら 共 育 の 如く し て 製造 を
卷
, *。 カ ち 同年 六 月 二 十 日 後藤 は 重要 意 安 五 百 人並 に 共 租金 等 を 大船 人士
五 級 に 分 乘 し て後したりサ り。(總體變 體論証)
1 名 不 11 達東山 を 目標 として 海上 東 に 向 か て航 やり。 航 すると と 総 書 を と な
く 家 クけるに 優、1 島を 認 た 。 即ち 不 二 進來 出 たる べし、と て 来 大 に喜び て 上陸し、
第 1 第 楽 祭祀 五 Q七
*- - - - - ------ ------
碑 皇 紀 五o人
西 に東 に と 素 むれ とも、曾 て共山 を見ず。乃ち 比島 にあら じ、と て 赤 一行元 の 船 に
騎 り、更に大海 を東南 に 向 ひ て航 し来れる に、左右 に 島 あるも、不二 落達葉山 更に見え
ず。共より 又 南東に 向 ひ て 航しける に、一 日 天 晴れ浪 静 かなり しかば、偶、東方海上
遥に不二選来山の現はるるを認む。一行五百除人大に脱び 読れも之に通拝をそ
なし ける。
是に於 て船を早め て、航しける に、何時しか共 山をも見失ひけり。然 れ ども共現
れし 方 に 向 ひ て 航 しける に 曾、赤大山 を 認 む。是 ぞ 不二 落 薬 山 なり なむ、と て 山 の
裾野に船を繋ぎ、一行皆上陸をそなしにける。時に十月二十五日(㎞。")なり
き。然るに不二落葉山と容貌異なれるものあれば、一行旦つ驚き且つ 悲しみにき。
之 乃ち先づ共地 に居を定め部署して 山を素め むものをとて東西に分 れ、日々 彼虜 に
比虜にと索めしに、一日 潮く不二蓮来山を見附けけり。時に既に上陸後三年を過
ミミ S
き o ここ
。養比上陸せし地を聞けは本日園(㎞の本を野の夫山ならしさいふ
**天皇七十四年九月十三日、一行赤船に分乗し共見附けたりし不二 違来山を
『シとして東に航しけり。十有除日にして遂に住留 家の字記島原に上陸したり
* 』 tA Fi ーイ、「1 『4 *
『
けり。即ち松岡 騎 より水 久保騒を越 へ、山村を経て 不二 蓮葉山の中央 高天原に登
り 川口 ㎞ より阿 祀谷 小室家 基都響 に着 しけるは、十月五 日なりき。先づ 阿祀 山 太
碑宮初め、各 七廟 に 拝濃を なし ぬ。更に 大 室 の 原 に 止り 後、中室に移* g。童男童
第
る 女 武 四 十 五 人 內也 人安 婦。 又非人 にし て 男 たる もの 四 十 一 人女 なる 。の 四 +
兩
の 1 % + 一人 を 合せ て、五 百 五 十 八 人 なり き。
卷 徐福 一家
麥金龍 東 羅山 女 男爵 夫婦 白 龍 女 二男 關 區 三男 後他 四 男爵 家 長女 天正 *11 %
義 安 女 三 女 安 王女 將 ·阿 夫 正 女 以上 十 11 人。
老人 男 分
*、* ー〜 「
徐永徳正 藤行 伴光 回萬 博正・清明 明天 除資 知園・智泰 徳正 園世 要金 不最言光 永明
長生 勤貞平喜 仙知 源工 元清忠永 信正 加姓・久安 興大 明徳 戸山 湯元・魔美空雷 仁 基永 以
上三十五人。
老人女分
清自女 美自女目永女真流女真受女井自女シ徳女(㎞)・夜音女 日波女 日仲女
日向女 月光女 光正女 角永女・丸長女 作仁女 忠流女波天女 小天女 尾波女 兵仲女 兵正
女 正面女 身進女(㎞。)仲正女春正女(㎞)夏河女秋志女冬木女冬寒女 春花女 加
徐
久佐 女・瀬佐女 以上 四十五人。
之
有 妻人男分
巻
女去加女佐加女 田根女波留女間根女身根女太仁女佐和女*知女川水女加和女*
身女 瀬奈女津目女波羅女 久仁女 字根女 登目女 君身女 字羅女 時身女 久佐女木根女
巻
太目女伊京女佐根女佐永女津知女 津基女漫佐女湯気女初根女真佐女知 *女加 *
玄天津奏高毒奏御冒季長奏㎞k伊安佐日安佐多女身坂女㎞。加佐シ
伊女常根女子志女字永女 誌モ女誌渡女*津女シ女シ。
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は、 し*ー& # し*ー6j こ * *ーょ。“
早目女( ㎞。佐足女太知女太身女太永女良天女・中天女 加時女奈佐女春 一女 小丸
〜〜〜〜〜〜〜へヘヘ
七女彦身女基日女同和女独足女 日根女奏仁女波根女津永女日加女㎞) 以上
百 四十五人。
若人男 分
徐
太 高金 千毒 千金 長正 登仙 安慶 成三 除京 藤元 徳成・建保 建重 京太 始明 常仙
之
若人女分
阿 根女真目女 佐加女 要目女 利佐女 湯和女 太根女 久志女
田女 田慶女 兵津女 字日女・一日女奏和女 兵田女 田尾女 波加女
仲
安和 女 姿等女 不世女シ日女シ和女・忍 志女・身佐女・日仲女 登伊女 志仁女 根漫女 字根
第 一章 上 篇 徐 ㎞ 五 一五
碑 皇 紀 五一六
女 佐手女 基千女 賞加女 間佐女 間目羅女 津身女官美女・富気女以上四十三人。
幼人男分
貞彦仲天 司天京源 千九大丸忠子良子源太 他 丸金測 金大社良信丸体治園シ
日子月子豊丸 行子仲治 仲丸 少記 司小 大良 光子真子演子・政子・正司 山子* 身子 命佐
子極加子知丸金根子銀尻大易 北佐千海三米丸介丸根志子大王子 大日子シ
富子・喜長男、津知男 波 久男以上五十 一人。
幼人 女分
比賞女 比久女 興里女 玉江女 美比女 自天女 津奈女 弾 座女 弾 根女 津知女 太加女 都
顧
(㎞)熊野山に至り共土地を開塾すること、なれり。乃ち春属五十除人を従
編
の 一字 を冠 し ぬ。
之
二 碑都質録。
三天之御中世園常立奪 園狭樋奪 日向高地火峰不二山中央高間原天降由来記。
四、伊 邪那岐・伊 邪那美奪 一代記。
五、大日留 目奪 一代記。
六、仁 々 記奪一代記。
七、筑紫南島合戦記。
八、火 々 出見命 皇太子仁御位 尾譲利 都古 筑紫移住 記。
九 號 系 再 合 戰記。
十、神武 天皇 不 一 說。
十 一 不 一 再現 記。
十 二 語 家系 國史。
其他、徐福 の 殺 敵 や し もの 左 の 如 しº
1 時代 李 祖。(縣縣
1平 "
世、高天原 縣
:
址、野 縣
幸免級 戰線
地、字 家 戰機體)
通 不 1] < # 、略記º
1、不 一 山高 千 大 由來 記。
.
1、不 一 山 高天原 發車 中 。
1 ‘辛 那 度 日 國 皇 代 歷 記。
1、徐 子 系 種 記。
参
1、神 室 氣 系 度 記。
1、軍師 軍神 武家 路 德語。
一 肇 因 肺 社 傍 改 目 記。
1'文 郡 度 日 國 タ 法 認 記。
第 二 章 + ॥ 五11
碑 皇 紀 五二二
一、天地開闘碑代略歴記。
一、築日子 大國・雨碑因縁記。
一、祀家・武部 楽 日子・三家皇族之役人 記。
又、徐 顧並 に共子孫継績 録取 せし もの。
一人皇歴代記(㎞ ㎞)。
又 徐顧 又は共子孫 熟れかにて録取せしもの。
一、國 常立 奪 来歴 記。
徐
一、大國主命世代記。
顧
の 如 し。
管
一 肇庆 原 神代 曾祖。
| 美國 天 原 神 都賀 記。
1 回 祖山 神社 由來 記。
大山 守屋 子子孫 連 線 大宮司 を 承繼 すると と に大 十 七 代、1 千 三百 九 十 有 五 年
-
第 二 章 - 第 羯 息 者 五三
鄭 自 和 五一八
代 タ 共識 を 承繼 しみ。 第 五 代 福本 は 無茶 の 女王 手袋 を 愛り 後 東 を 生むº 第 六 代
徐 宗 は勝 本 の 女 都 平城 を 愛す 際 網 を 生む。 第七 代 雜誌 は 海他國 造 香 吉安 王 の
女 別 月 城 を 愛 り 周 永 を 生む。 爾 本 後に 名 を 削除 さ で改め するº
<代 爾 蘭後 まりゅ んぼ胴齊 冰+代 醫藥 + 1 代 醫藥+
代 魔 高麗在 佛 士 三代 爾 蘭 屬地 第十 四 代 福岡 除後,第十 五 代 福岡 藩在 第十 六代 福岡
徐道 第十 七 代福岡 藩 家 第十 八代福岡 除長宗十九 代福岡 藩 の第 二 十 代 福岡 金 收錄
1 +1 ㎢ ㎞ 後 海 第 二 十 二 代 福岡 藩 本第 二 十 三 代 福岡 長 不 第 二 十 四 代 福岡 金奖
佛11 + 王 朱鷺 間 關 作第11+ 大 代 屬 關產後を 歴 て第 二 十 七 代 福岡 藩 領 に 至る や自
後球 を 発 すると と なれ り。 魔術 の 職を除 源太 と g %。 故に 福岡後 派 大 魔術 と
稱 * 第11 + <代 を興 國泰 十 本 政 編 と称し 第 二 十九 代を 順 風景德 太安藤と 解し
第 三 十 代 を 顧問 世 也 大 後 数 と そ稱 しける。
神武 天皇 家 歷 十九 年的 士 山 1 大震災 を演 し 高天原 四 十餘 文 「 に 興 を やり ゅ耐
代 の 古跡 は 後に 常に失態 にサり。 元 空 也 應物 名 阿 祖山 大 神宮 の 大宮司 派 大夫 元
秀は 議 官 服を 初め、福岡薩 卡 本 後 数 と共に 後 關條來 加 日記主砲 の 古 文書を い事物
を擁護して難を相模國高座郡早女郷岡田原 に避け ぬ。新に勧請したる寒川碑
の傍に資蔵を営造して斎し来れる古文書資物を納めけり。爾来 顧岡徐教は共地
に居住し同碑赴の碑官となり宮司と共に世々古文書を保護したりけり。(㎞
㎞"系 園、延 暦 記 て
四
編*
徐
藤
之
巻
第 一章 上 篇 秦 徐 顧 秀一九
碑 皇 紀 五二○
第一一章 下篇 碑 皇書
第一 碑皇書 記録
秦徐顧は高天原三十六碑戸の碑祇の後胤等の 日 牌・日談・徳言 並 に各碑祇の後胤
等の家々 に秘蔵し て博れる共家々 の系譜、及共質記録を録取し て、世に博 ふ。之を
徐 顧博 即ち十二 史談 といふ。即ち 左の如し。
一、碑代質記。
編 徐
二 碑都質録。
**
三 天之御中世國常立奪 園狭植 奪、日向高地火峰不二山中央 高間原天降由来記。
巻 之
o
四、伊 邪那岐 伊 邪那美 奪一代 記
五、大日 留 目 奪 一代記。
ハ仁々記奪一代記。
七銃紫南島合戦記。
八、火 々 出見命 皇太子仁御位尾譲利 都古 筑紫移住記。
九、筑紫再 合戦記。
十、碑 武 天皇不二 記。
十 一、不二 再現記。
十二、諸家 系国史。
共他 徐 顧 の 録 取 せしもの 左 の 如し。
一、碑 代 事 記。 (㎞
『ィ"『 W世、高天原 ㎞
世、豊章 原 世、宇 家 潤 不 二 合 須 世、略記。)
一、不二山 高千火 由来 記。
徐
一、不二山 高天原鍵革史。
編
一、徐 子系 歴記。
巻
一、碑 皇御系 族 記。
一、軍 軍 碑 武家 略歴 記。
一、惣 國 碑 赴 御改 目記。
一支那震 H國 々 法 略記。
第二章 下 書 五二一
碑 皇 紀 五二二
二天地開闘碑代略歴記。
一、茶日子 大國・雨碑因縁記。
一、祀家・武部 然案日子・三家皇族之役人記。
又、徐 顧並 に共子孫継績 録取 せしもの。
四
一人皇歴代記(㎞ ㎞)。
又 徐顧又は共子孫 執れかにて録取せしもの。
一、國 常立 奪来歴 記。
徐
一、大國主命世代記。
顧
ご
紋潤
合
章不
御家
耐世
!!l
創世
皇I原
局字
●
之
略
F11
人ー
一 碑代記残篇(㎞
の
C
巻
の 知 し。
卷
1、高天原 神代 曾祖。
一些 天 原 神 都 賀龍。
1'阿 祖山 神社 由來 記。
大山 守屋 子 子孫 連 線 大宮司 を 承繼 すると と、食 に 大 十 七 代、一 千 一 百 九 十 有 五 年
-
第 11 - 第 羯 者 五三
神 桜 五11四
傳 に 攻 が る 貴重 なる 太古 史 たり さº (戰神 靈 體驗 屍體 變體驗 )
佛11 +11 代 的 下屬 地 大夫 元 長 の とき 中正 模 原 物部族は徐福使 中 に 難 成功部南
家の議 代 よりの系譜 等变量はあるもの ありし と とを聞き 不同祖 金 小室 に上
ク 家永 す。 カら 大宮司 天 長 に語って徐福德中將 本 系 圖 史 を 問 し 日 3 其 配樂 府時
前 まっ家 元 天皇 の 御 字 より 天智 天皇 の 御 字 に 至る まで、阿 本 の 系 圖 を 補足 し でナ20
然るに 盛 時除雪佛 の 成 に 遠く際新 し て形 に神代 の 平野 の 連載 せん する を 恐れ た
張 斑 。之 を 勝後 し て 制 性を そ作りける。 時に 天智 天皇 四季末年 八 月 にし て 食
魔術 の 記錄,しける よりバロセ 十 八 年後 たり きº
佛 11 + 大 代號 太夫 元 秀 の とき 地。根 武 天皇 是 歷 十 九 年 出土 山大 唐 太 を 除 し お
石井 劇,しく 見出し11 十里 西方 1 物を 除 さす様 地 まり 締め に 高天原 四 十 餘 た ド
º 國 波 º られ 替代 より の 古 縣志 帝 に失守 にサり。 元秀 は顔立武等 と 非 に食慾狄
李榮譽 會永寺
子 の 佐 領地 に避く。 カち其 地 に富士 セ 府中 より開 地 人 娘 たる 本 川大 風雲 ºº
し奉り 寒川碑赴 と稲し奉る。傍 に質蔵を造営し て、共斎 らし来れる 徐 顧 博・寒川日
記 共他の 古 文書 質物 を そ納めける。然れ ども 常時、古 文書 の 多くは、共難に 羅 れ り
といふ。翌年 大宮司元秀卒す。共子記太夫仁 元之 を襲 く。平城天皇 大同 元内 成
年六 月 坂上 田村磨 に 勅 し て、七廟中焼失しける 四座 を 再興し、相模 國 寒川碑 赴 より、
宮司 仁 元 を招き、七 廟 の 大宮司 たらしむ。是 より、七廟を 山宮 と 稲 し、寒川碑赴 を 里
宮とそ稲しける。
第四十八 代記太夫 政仁 は、日本三 大宮司 の 一人にし て源氏 の落人三浦上野 守義
徐
** に書 本 の 女歌手 線 を 愛 5 萬 諾を生む。 第七 代 編成 は 海 平面 进香 吉 斯 王 の
後
永
代 第 顧 顧
女 加 日 線 を 愛 り 頭 來 を 生む。 に 名 を 削除 と で 改め ける。
第 八 代 福岡 阿尔 上り 第 九 代
st; 阿爾 沃土 代 醫藥 + 1 代 爾 蘭 克 林中
代 醫 師範 に 第 十 三 代 福岡 藩藩 第十 四 代 屬 關 條款 第十 五 代 福岡 藩在 第 十 六 代 爾 蘭
四
八
進・第 十 七 代 福岡 關系 第 十 福岡 後 長,第十 九 代 福岡 藩 の第 二 十 代 福岡 除 最 接
順
二 十 七 福岡 本 海 第 二 十 二 代 福岡 藩 本第 二 十 三 代 爾 蘭 是 本第 二 十 四 代 爾 蘭 後
份
第 二 十 五 代 福岡 屬 有 第 二 十 六 代 福岡 來 像を 修 て第11 士 也 代 福岡 藩 藩 に 至る や 自
顧
第 三 十 代 を 顧問 常 也 大 後 数 と で解 しける。
聖 武 天皇 是 將士 元 年的 士 山大 質 炎 を 演 し 高天原 四 十餘 文王 に 埋没 **
作の高雄は後にºuたまに す。 元 七 巧* ** ** ****
あ ،を 初め 東 涌 大 象 と共に金像來 加日 中 他 の古文** ***
を擁護して難を相模國高座郡早女 郷岡田原に避けぬ。新に 勧請したる寒川碑
の傍に資蔵を営造 して斎し来れる古文書質物を納めけり。爾来 顧岡徐教は共地
に居住し同碑赴の碑官となり 宮司と共に世々古 文書を保護したりけり。(㎞
㎞")
系 圓、延 暦 記て
四
編*
徐
嗣
之
巻
羅
徐
第 一章 上 篇 秦 産 一九
碑 皇紀 五二二
一、天地開闘碑代略歴記。
一、築日子 大國・雨碑因縁 記。
一、祀家・武部 楽 日子・三家皇族 之役人記。
又、徐 顧並 に共子孫継 績 録取 せし もの。
一人皇歴代記( ㎞)。
又 徐顧 又は共子孫 就れかにて録取せしもの。
一、國常立 奪 来歴 記。
徐
一、大國 主命世代記。
編
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略二
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御家
耐世
●
店字
之
一 碑代記残篇(㎞
巻
五二四
にし で、代々 其 大 神宮 に 開 し、日記 を 作り 来れ り。 之 を 歩 川 日記 と 称す。 是 れ 除 福
像 にネサ る貴重 なる太古 史 たりき。 (戰神崎 縣 縣 縣 縣 屬醫 ")
第 二 十 二 代官 下屬 地 大夫 元 長 の とき、中 正職 原 物 部族 は 徐福德 中 に 輸 球场 部 開
後の 神代よりの系譜 等条 はある。 ありしたとを 聞きょ1山高祖 李小室に上
り 来 形 り。 例 ら 大宮司 元 長 に 語り で、徐福德 中 說 家系 圖 史 を 関し'且つ 其 能 像 出時、
即ち 者 无 天皇 の 御 字 より 天智 天皇 の 御 字 に 至る まで 開 家 の 系 圖 を 補足 し てけり。
然るに 常時、徐福 使 の 窓 に 滞 < 府 打 し て 形 に 神代 の 事典 の 運 城址 ん する を 恐れ 死
徐
福德 の 記錄 しける より、八 百 七 十 八 年 後 なり き。
ż
第 二 十 六 代 原 大夫 元 秀 の とき、偶“祖 武 天皇 是 歷 十 九 年當 士 山大 唐 太 を 演 し、洛
卷
岩 石井 劇 しく 離 出し、二 十 里 西方 一 物 を 除 さす 様 地 まり 締め に 高天原 四 十 餘 文 不
に 埋没 能力、神代 より の 古跡 亦 常に 失守 に サ り。 元 秀 は 職 官 就 等 と共に 徐福德·
家元日 成他 支部隊を発射し て難を認識 を舞鶴田舎
子 の承德 地 に 遅く。 カら東 地 に金 士 セ學 中 より 地 人 た 。 な= 大明書 を
し奉り 寒川碑赴 と稲 し奉る。傍に質蔵を造営して、共斎 らし来れる徐 顧 博 実川日
記 共他の古文書質物をそ納めける。然れども常時、古文書の多くは共難に羅 れり
といふ。翌年大宮司元秀卒す。共子記太夫仁元之を襲く。平城天皇 大同元内成
年六月坂上田村磨 に勅して七廟中焼失しける四座を再興し相模國寒川碑赴より、
宮司仁元を招き 七廟の大宮司たらしむ。是 より七廟を山宮と稲し寒川碑赴を里
宮とそ稲しける。
第四十八代記太夫政仁は日本三大宮司の 一人にして源氏の落人三浦上野 守義
徐
顕の長子源甚吾重成を養子として、長女春子に配し山宮の大宮司を譲る。之を第
罰
して共に溺死しにき。鳴呼情裁 我園唯一の太古史たる徐顧博寒川日記共他の古
四
文書、悪く意見に酒 滅 に 騎し てけり。
編
古文書を守護しけり。然るに長子三浦越中守義勝南風の競はさるに義を樹て、
之
五二八
て、棟梁に結着し、戒め て 目 く、不時に際せば、先づ之を守護す可し。若し 濫 に之を開
かは明を 失 す可 し。と 爾来二 百 五十有除 年間、相戒め て、一人 の開くもの な かりし
か、明治 十六年二 月二 十三 日、文明 の今日、開きて 明を失する か如き こと 之 なかるべ
しとて斎戒以て之を開けは古文書異 々として顕はる。幸に第四十九代源太夫義
仁の複寛に係れる徐顧博の一部並に寒川日記の残篇の存在しありしを似て愛に
皇
碑代より人皇初代に至るまでの事填を窺知することを得るに至りにき。(㎞、
宮司 記、寒川 記、郷司
㎞)
三浦 記、延 暦 記、噴火 記。
徐
第二 碑皇書複寛
幅
一 宇 家潤 不二 合須 國 五十 一代記。
顧
本古文書は徐顧の録取しけるものにして仁安三成子年三月三日源太夫義仁
之
碑皇三種碑器之巻。
本古 文書は徐顧八世の孫 顧永の録取しけるものにして建久八丁 己年九月中、
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち祀佐男命が 天照大御碑の語命に依り、
手名植 命等と議かり 従族金山 昆古命に命し、三品の大御質製作の準備 並 に共原
料取寄の事情製作の方法 及形状等。次 に製品にて海内悪碑妖怪退治の状況 及
奇 碑に奏翻警奏屋の儀式発 費等。妻に製律彼用のシを奪に委園*
*日子雨神全国 同の事 。次に創佐リ命 生園の父母兄弟従族等の氏名 及
族闘係、並 に各 諱名 説名 毒、山陵 等より、勤王の事 填 及 共子孫等。次 に、碑器 の 富士
山 元宮太碑 宮 奉安、並 に碑代及 人皇九代逸、太碑宮碑器 鎮座の事質。次 に、人皇十
碑器及天照大御碑の大和國奉 遷 の事情及状況。次 に、勅命に依り模倣 碑器の
第
り。即ち碑代高天原世天碑七代の統治方法並に豊阿始原地碑五代の治政及八百
巻
稱 の 異動 等 を 略記 した る もの なり。
| 羯 代 日 基 之 中 傳。
Ż
-
| 國家 系 國史。
本古 文書 に金雕像 地も 十 二 史塔 の にし て佐久 手 子年 人 中城太夫義ų
り 返答 しける もの たり。 即ち 大 之 御中 主神 の 長子高 空港 地方 神 の 子孫 は 代 タ
Ā
奉る。比五十一代碑皇の第四子は即ち碑武天皇にましまして太玉 購波命の第
三子は即ち可美 真手命 及速玉之緒命の第二子は即ち天 日方奇田方 命にして共
四
に天皇を補弱し奉る。面して左右大碑共紳代初代より人皇に至るまで歴代 及
配偶者等の親族闘係等。次に楽日子命(㎞)より第五十五代海部知男命まで
徐
の歴代、及配偶者等の親族闘係等を記載しけるものなり。
顧
、大瀬摩 津見 命御歴代記。
之
本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取しけるものにして仁安三成子年三月中
巻
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、大山祇命より七十二代まて歴代 及共
配偶者等。次 に五十九代熱都丹波彦命は紳武天皇常時の不二山高天原惣司令
碑にして毛幸三高顧残は最育委皇常時の高奏%湖司長なら。『シ
の総大将にて他の神祇の後胤と謀反 せし事質 及日本武奪東征の事質。次に*
継 別皇子 の 事噴 等を 詳記した る もの なり。
一、阿東 祀 命 歴代 記。
本古 文書は徐顧 七世の 孫 顧毒 の 録 取したる もの にし て建 久三千 子年三月中、
源太夫義仁 の複寛しけるもの なり。即ち 祀佐男 命より六 十代築早男 命まて歴
代 及共配偶者且つ孝霊天皇五十康申年四月命の 一子尾羽張田彦命高天原顧地
元宮 太碑宮 の 大宮司 任命 並 に共五世 の 孫、大宮司記太夫命の とき、日本 武 奪東夷
征討ありし 事質等。次 に記太夫命の嗣子佐 太夫命の とき、大山 守皇子 顧 地元宮
太碑宮の大宮司 任命後 東北の碑 祇の 遠孫等 皇子を奉し復た碑都 復奮を企て、
謀反 せし事質及状況。次 に、皇子 佐太夫命の後 を襲ふ て、記太夫明仁 と鍵名し て
大宮司 と なれる事質 等 を 詳 記した るもの なり。
一 祀佐男命来歴世代記。
本古 文書は徐 顧八 世 の 孫顧永の録取 しけるもの にして、建久八丁 己年九月中、
源 太夫義仁 の 複 寛 しけるもの なり。即ち、祀 佐男 命 か谷属八 千除人を 従 へ、日本
國 に渡り、瑞穂 國 を 占領 せ むとて、天 照 大 御碑 に不敬 を 加 へ し事質より、命 の 生検 、
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三九
* 『』 シ
碑 皇 紀 五四○
及 調流に至るまての 事質。次 に命悔心して碑勅に従 ひ三品の大御質を製作ま
しまししより 大御質製作用の大植・小植 の教論 大國 主 第日子雨碑 大植 小植携帯
全國巡歴に至るまての事質。次 に祀佐男命より三十九代祀出國男命まての歴
第 代、及配偶者の親族闘係等。次 に祀出國男命の弟武長刀 昆古命は、碑皇三十三代、
四 鵜芽葺不合奪の認命に依り尾羽 張國海部に日本惣赴津島午頭天王碑赴 を設け
# 出張して東南諸園の罪悪碑弾効の事質等。次に祀出國男命の長子 即ち四十代
宇津男命より五十五代大碑主仁心男命に至る歴代 及配偶者の親族闘係等。次
徐
に、五十五代は人皇初代碑武天皇常時にて、天皇に従 ひ東征 に功を樹てし こと又、
顧
七十五世雲晴男命は人皇十六代仁徳天皇常時 にて共歴代 及配偶者の親族闘係
之 等を 詳 記した るもの なり。
巻 一、大國主命世代記。
本古 文書は、録取者不明にして應永九千 午年八月十五日 南朝勤王家内大臣藤
原長襲卿の男 名高出倉肉薬の襲しけるものなら即与委園シ
祀先の奪属闘係及第一代大穴貴命ょり第五十六代大力太命に至るまで歴代及
口
j
ー
明男命以下三十九代の歴代、及配偶者の親族闘係等を詳記したるものなり。
之
一、碑武 天皇不二山 記。
巻
の歴代、及配偶者等の親族闘係等を記載しけるものなり。
顧
、大瀬摩 津見 命御歴代記。
之
本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取しけるものにして仁安三成子年三月中
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち、大山祇命より七十二代まて歴代 及共
巻
配偶者等。次 に五十九代熱都丹波彦命は紳武天皇常時の不二山高天原惣司令
碑にして毛幸三袋高顧残㎞奏皇常時の高奏%湖司長きら。『シ
の総大将にて他の神祇の後胤と 謀反 せし事質 及日本武奪東征の事質。次に電
継別皇子の 事 填等を詳記したるもの なり。
一、阿東祀命歴代 記。
本古文書は徐顧七世の孫 顧毒の録取したる もの にし て建久三千 子年三月中、
源太夫義仁の複寛 しけるものなり。即ち祀佐男命より六十代築早男 命まて歴
代 及共配偶者且つ孝霊天皇五十康申年四月命の 一子尾羽張田彦命高天原顧地
元宮太碑宮の大宮司任命並に共五世の孫 大宮司記太夫命のとき、日本武奪東夷
征討ありし事質等。次に記太夫命の嗣子佐太夫命のとき大山守皇子 顧 地元宮
徐
太碑宮の大宮司任命後東北の碑祇の遠孫等皇子を奉し復た碑都復奮を企て、
顧
謀反せし事質及状況。次 に皇子佐太夫命の後を襲ふて記太夫明仁と鍵名し て
之
一 祀佐男命来歴世代記。
本古 文書は徐顧八世の孫顧永の録取しけるものにして、建久八丁己年九月中
源太夫義仁の複寛 しけるものなり。即ち 祀佐男 命か 春属八千除人を従 へ 日本
國に渡り 瑞穂 國を占領 せ むとて天照大御碑 に不敬を加 へ し事質より 命の生捨
第二 章 下 篇 碑 皇 書 五三九
碑 皇 紀 五四○
及 調流 に 至るま て の 事質。次 に、命 悔 心して、碑 勅 に従 ひ、三品 の 大御質を製作 ま
し まししより 大御質製作用の大植・小植 の 教論 大國 主・築 日子雨碑 大植・小 植 携帯
全國 巡歴 に至るま て の 事質。次 に祀佐 男命 より三十九代祀出國男 命ま て の 歴
第 代、及 配偶 者の 親族闘 係等。次 に祀出國男命の弟武長刀里 古 命は、碑皇三十三代、
四 鵜 芽葺不合奪の 語 命に依り、尾羽 張 國海部 に、日本 惣 赴 津島午 頭 天王碑 赴 を設け、
出張 し て東南諸國の罪悪 碑 弾効 の 事質等。次 に祀出國男命の長子 即ち四十代
宇津男 命 より 五 十 五 代大碑主仁 心男 命に至る 歴代、及 配偶 者 の 親族闘 係等。次
徐
に、五 十五 代は、人皇初代碑 武 天皇常時 に て、天皇 に従 ひ東征 に功 を樹 てし こと、又、
編
より知勇に富めるものを選みて、勅命にて登用ましませる事質等を詳記したる
巻
もの なり。
一、惣國 碑赴御改定記。
本古 文書は孝元天皇五年 徐顧の録取しけるものにして、安元二内申年八月中、
源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち 高天原阿祀谷の高座大碑 実川大碑 高
第 二章 下 篇 碑 皇 書 五四五
-
五四六
碑 皇紀
電大神天照大神シ元野大神宮守大神山守大碑の七廟
り全園各大赴及撮証未赴に至るまで紳武天皇五年乃至七年シ
定あらせられし碑名 帳なり。
第
一、楽日子 大國主雨碑祭因縁記。
本古文書は徐顧及共子孫代々 継績録取しけるものにして *三シ
四
中瀬太夫義仁の父三浦上野守義顕入道義明房源心のシーサ。『
編
ち*日子命は海演の漁事を掌り大園主命は園中商法の事を撃。シ、一。
戸に祭れる事賞。次に*日子命第五十五代海部知男命の長子。武カ
て、大
子共に碑武天皇東征に戦死せしかば天皇豊武力命の遺子シ
和大園造となし。惣園中の神祇祭祀の事を掌らしむ、次にシょ。「三
代までの歴代及配偶者の親族闘係等を略記したる。の。 -
一 高天原古跡 録。
本吉文書は浦和天皇貞観八内成年三月十五日 にし士山七魔 名阿加山*神
て、嘉 應 二 虎定員年三 月 十 六
のシ八代』大領伴基貞の。、。
日 源太夫義仁の勝寛しけるものなり。即ち、碑代に於ける高天原の小室中室大
室・青木 ヶ 原・宇宙野 の五 大字、湖水 四湖、池水二 池、河川五川、噴火六箇所、湯の 湧く所
二 箇所、阿 祀 山二 十三山、水市山四山泉 仙山十二 山 到 山五山の各名稲。次 に、人皇
以後に於ける高天原の大字は小室は家基都澤に 中室は中室澤に大宝は五字に
分 れ、青木 ヶ 原は十五字 に分れ、宇宙野原は六字に分れ、山川湖水は碑代と鍵化な
き事質。攻 に 孝徳天皇大化年中 高天原所在の都留郡の甲斐園編入、恒武天皇延
暦十九年大噴火後都留郡三分して他郡をして支配 せしむる事質。次 に、延暦十
徐
九年及貞観六年の二大噴火 の状況、及湖水山川大字の鍵遷等を詳記したるもの
幅
なり。
之
一、祀家・武部変 日子・三家 共皇族役人記。
本古 文書は 徐顧 の録取しけるもの にして、毒永二発 卵年正月中 源太夫義仁の
父三浦上野 守義顕入道義明房源 心の複寛しけるものなり。即ち、顧家 氏可美兵
手命 及武部氏天日方奇日方命を申食 園政太夫となし*日子氏推根津彦命を大
和の國造となし 高座日本皇子を猛田大懸王 ㎞)となし、軽身大久保皇子を
第 一章 下 篇 碑 皇 書 五四七
碑 皇 紀 五四八
磯城副懸王 ㎞)となし給ふ事を略記したるものなり
一、人皇歴代 記。
本古 文書は秦徐顧及共子孫世々 継績録取しけるものにして、 永二発卵年正月
中 源太夫義仁の父、三浦上野守義顕入道源心の複寛しけるものなり。即ち、人皇
四
義仁の複寛しけるものなり。即ち開闘元始時代に於ける高天原附近の湖水を
之
撃 く目く高天原湖、目く阿祀湖、目く亀之湖、目く宇宙湖。次に、不二山高千火峰の
巻
北陰一帯に位せる高天原湖を、一に碑代湖と稲し 共大弓に似たるを以て、赤大弓
湖といふ。碑皇第三十三代鶴芽葺不合奪の時、月を見常に月を定め、十月を一年
* 、ボ大三日月湖と唱ふ事質。
とし定められ 時 時 よ り兵調形三日月に似たりしとて
基 形 夫M
次 に、國 供 植倉 五子に命し 泉仙山南 のシ 院前橋を匿撃し測水をシ“。。
へば 共下なる亀之湖と共に押崩れ、雨湖酒湯し 高天原湖 東西に一部分づ、残存、
二湖㎞)となる。次に共結果 須留家の田用水絶ゆ 乃ち奪 又五子に命じ、
不二山西麓を堀撃して共残存せる西湖水(㎞)を引水せしめ給ふ。共所を割
石峠 といふ。次 に、阿 祀 湖、宇宙 湖 の 形状 由来 等 を詳 記した るもの なり。末尾に、
寒川 日記中より、不二山の 碑代 に於ける噴火及 共状況 より、延暦貞観等 の 噴火ま
-
-
でを附記したり。
一、寒川日記、海伊 國開闘 歴記 投 録。
徐
夫義仁の録取しけるものへ共以降の分を 七世の孫宇津越中守義利の書添をな
之
したるものなり。即ち 高天原に於ける宇宙湖向祀湖石井湖動之湖( ㎞ )
巻
底大湖の五湖の状況等。次 に、底大湖最も大きく、海佐知の事填起因より 到 之湖
の龍宮に、火火出見奪の寄富、及碑后 豊玉里女奪の出産ましますまでの事填。次
に 親 芽葺不合奪、父奪の 語命を 長み、西國遷都のとき、海佐知里古講 火照須命の勅
免 及海伊國造任命、征西惣元帥任命までの事填。次 に、火照須命の長子 佐津兵武
第 二章 下 篇 碑 皇 書 五四九
-
碑 皇紀 -
五五○
命父命の惣元帥職承継(㎞)、次子高原男命海伊國造承継等。次に高原男命よ
り六十代臨海 宿禰までの歴代、及 配偶 者の 親族闘係等。臨海宿禰最行天皇二 十
五年武内宿禰の命 に依り、底大湖の南山掘撃 湖水四分の 一減水井に湖西北は、小
第
海伊園なる由来。次に農佐知里古講火須勢理命より 五十五代賢知仁彦命まで
の歴代及配偶者の親族闘係。次に考霊天皇五十年賢知仁彦命を以て伊須出張
島内海震上りし荒地開狙を命せらる。共長子江川大八良命より五十 一代まで
徐
の歴代及配偶者の親族闘係等。次に地碑二代天之忍穂見命の一子 太基祀命(
㎞)大山祇命の長女岩長里女命に要ひて伊須園に止らせ給ふより 命を元帥と
し 石堀留日命 (㎞)を副帥となして西海諸園の戯軍征討中穴門の宮に於て
碑避り給ふまでの事質。次 に 太眞祀命より数十代の歴代、及配偶者の親族闘係、
井に石堀留目命の長久佐宮に碑避り給 ひ 日野前宮と稲する等を詳記したる*
のなり。
一、寒川日記 作田 彦命歴代後記が修。
国ー
本古 文書は富士太碑宮の代々 大宮司の録取せるものにして建久年中 源太夫
義仁の複寛 しけるものなり。面して共七世の孫宇津越中守義利が 代々 大宮司
の日記 共他の古 文書の残篇を寛集して 共以降の分を修補し以て元中九手 申年
十二月十日 長慶天皇に奉呈 せしものなり。即ち、作田彦命六十七世の孫 機田彦
命に、州田彦野見彦田村彦の三子あり。舟田彦は、垂仁天皇二十五内辰年八月伝
園笠縫の里より 伊勢度倉 へ 遷宮ましませる天照皇太碑宮の供物司長に 顧地太
碑宮より韓任して伊勢國河曲野都波岐宮に止り、山田氏と稲し後松木氏と改 む
徐
る事質(㎞)。次に野見彦は%碑天皇六十姿未年元帥吉備津彦の神将となり、
顧
出雲初め北越の賊を平くる功に依り 同地に止り、農事を司りしより、垂仁天皇七
之
㎞)。攻に田村彦は見舟田彦の後を襲ひ㎞地太神宮の供物司長となり不二
山阿祀谷御舟湖畔の御舟の宮に止る。共三十世の孫 羽田宗田鷹の長子宮田 鷹
は元明天皇和銅二己西年忍壁親王の副帥となり 左大舞巨勢磨等と 鍛束を平 、
第二章 下 篇 碑 皇 書 五五 一
碑 皇 紀 五五二
る功に依り、科野國高井水内二郡を賜はり、長野原吉田岡の 坂上の館 に居る。坂
上宮田磨と稲し 後、北越西海の賊を平 ぐる功に依り、陸奥國三十四郡 を賜はり、征
夷大将軍となり対田城に居る 坂上丸田魔と改むる事質 ㎞)。次に 弁田
彦より三十五代松本足 時に至る歴代及配偶者の親族闘係並に略博、次に野見
彦より三十二代菅原道眞に至る歴代 及配偶者の親族闘係 井に略博。次に田村
彦より、三十代宗田鷹に至る 歴代、及配偶者の親族闘係井に略博。次 に、宗田鷹の
一子宮田磨事 坂上菊田磨より、十三代田村清正に至る歴代 及 配偶者 井に略博。
徐
一、寒川 日記妙 録。
顧
1、文 郡 是 日 國 皇 代 歷 記。
st
大 中原 に 天 降り 結び し より後來 轉變 氏 以下 唯 代 即ち 一定 王 派 より、文 版 用 三代
卷
に 至る まで、帝王 の 系統 及 各 后妃 の 親族 開 除非 に 路 傳。 次 に 太湖 國 湖 洲 朝鮮等
の 王族 系統 及 后妃 等。 水 に 相州 國府 發 等 の 王族 系統 及 后妃 等。 次 に 西湖 國西
% に安 等。 北魏國非 怖 主教等を話した 。
1 後 子 系 毕业。 -
-
本古 文書は 孝霊天皇七十六内成年十月十日、徐顧の録取しけるもの にして、安
政二内申年八月中源太夫義仁の複寛しけるものなり。即ち 秦徐顧の刺 先ょり
の歴代、及 配偶者の親族闘係、及略博。次 に 徐顧の文學修業、並 に天笠渡行備奥修
業より 始皇帝仕官 まての事質。次 に 始皇帝に上書して 東海渡航 に至るまで の
事質等を詳記したるものなり。
一、支那震 旦國國 法略記。
本古 文書は老元天皇五年 徐顧の録取しけるものにして、安元二内中年八月中、
徐
の園鶴の基本を記述して、孔子の仁義忠孝の道を詳記したるものなり。
之
一、不二山大祭徐顧来朝井 勅定寛。
本古文書は代々大宮司の筆記しけるものより建久五甲寅年二月中源太
巻
仁の際寛しけるものなり。即ち神武天皇及孝霊天皇の各太碑官御親シ
の来朝井に 一行五百除人の職業別 斎 帯せる金物 徐顧の 一族子孫等。次 に
顧島の紀伊の大山間組 井に徐顧寧入門の武内宿禰等 太神宮の天赴 及分赴創立。
第二章 下 篇 碑 皇 書 五五五
碑 皇 紀 五五六
次 に、東北碑 祇 の後胤等の謀反、日本 武奪 の 東征。次 に、列聖 より、太碑宮 へ 賜る勅
定状、十 一 状 の 寛 等 を 詳 記した るもの なり。
一、阿 祀山 太碑宮鍵革記。
本古 文書は、富士元宮太碑宮 の代々 大宮司 の 録取 しけるもの にし て、建 久 五年
四
太基祀命七十四代紀彦鷹の次子紀小弓彦より 四世の孫紀男魔住留家國の國造
任命より眠戸皇子顧地元宮太碑宮参向まての事填。次に 太碑宮鎮座地の地名
鍵更園霊の姿㎞守の鍵更等。まにシ報の去 のシ
の 再興 富士十二郷の 免 賜等を詳記した るものなり。
一、延 暦十九年顧地 山碑 官伊勢 参詣 記。
本古 文書は、延暦二 十三甲申年九月中、徐 顧三十世 の 孫、顧 岡 徐教の 録取しける
ものにして建久五年八月中瀬太夫義仁の勝算しけるものなり。即ち延暦十九
年三月、顧地元宮太碑宮 の 大宮司、宮守、赴家、所請 碑代 よりの碑 祇 の後胤、三十六碑
戸の家族春属三百有除人、伊勢太碑宮参詣出 務等。共留守中、延暦の大噴火 にて、
富士二 十里四方埋没 せし より、噴火の 状況、被害 の 踏査、碑官等 の 相模 移住 に至る
まて の 事質。次 に、移住地 に、寒川碑 赴 設立、古 文書資 物の保全、勅使の下向等。次に、
徐
一、延暦 十九年 顧地 山 噴火 記。
之
本古文書は淳和天皇承和三内長年八月中延暦大噴火常時富士元宮太碑宮の
巻
填。次に碑代より各大御碑 及各碑皇の太碑宮に於ける即位式の方法、及共衣冠 に
耐品
闘する来歴方式等。次に、碑皇及人皇各即位式 の異動。並に、天照大御紳三種碑
之
器の奉遷等。次に延暦貞観等の大噴火に因る富士の太碑宮残選の状況。攻に、
巻
**
露
脚 息 般 % ॥
第一 章 議 代 神 系譜(純潔
第一 羯 摩 大 系譜
第 天
世
之
夫
期
1 之 神 也 代 系譜
夫 朝后、 天 之術水母乳。
天
之 高 水神』
— Nº 小學 副刊
天 之 高木 此 古 神社
第五
之 草 男 * * * **
二
碑 皇紀 系譜
第六
“ 天 之 高原 男 碑「紳屈「剤劇美馴
**
第七
期
第二期
世 天之御中世火高見碑十五代系譜
「』o天 之 御中 主 紳「紳屈「刃御明批刻刷
-ー
c高 皇 産 穂 男 碑「碑后「碑皇劇酬美碑
- チ
左大碑家、始祀
高 中 守 主 碑
右 大碑家、始祀。
高 下 守 主 碑 ---
三
』 =
第四 - -
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中 引ーシー
『 碑后、津木峰 美女 碑、
ー
天之
ョ* ョュ 以 1日 利「㎞、「対剤地丸碑、謝剛引加射出剤
』
一。天 之 御 柱 立神 ㎞、シ -
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『天之本シ
之草奈 男 神ー㎞ 諦農田比女碑で
“天zt ㎞シ
「 天 之 火 明男 碑 ㎞ 諱農山比女碑。
「 天 之 水 明神㎞、シ
『 天 之 金山 男 神 ㎞剤 諱農谷比女碑て
『天 之火山 明神㎞シ
『天 之 田 魔 リ ㎞シ -
第十 は 中_論農作比古碑、 天之神農氏神、後 高皇産霊碑。
「。高 皇 産 霊 碑「㎞「㎞、シ比s碑
碑 皇紀 系譜
第二二期 高天原世天碑七代系譜
第一
-----
五子、論農立比古奪。
8國 常 立 奪「碑后、園㎞「 碑佐加比剤、天之常武比古命女。
第二
七子、講農狭比古陰。
Lo國 狭 植 奪 碑后「國狭比女鶏、請自清龍比女奪、天之古登太留比古命女 て
第三
号 一子、諱阿和路比古尊。
ーo豊樹 *}
ー』シーシ市牝 1りリ』 引ー
碑后、「阿夜加志古泥奪、調自満比女奪、天之茂登太足比古命五女。
養子、賞者、國狭樋奪四子、豊期停奪夫折、受共後、講農田比 古g。
ー尾茂 太 留 奪「㎞s
一女、講伊井出 奪、伊井諸奪碑后。
*「白山 比 女 奪
一子、諱阿和武男命。
「* 心 武 命 婦碑「眞心比女命、請松島比女命、泥土者奪九女。
『 武 足 古 奪 天照大御神、養貸太子、天之シ
ー少々名 用比 十日 那命ー 一子、設大國御魂命。
婦碑、武弾端里女命、「言大國御魂足女命、大庁道s三女。口 」
ー久延仁昆古命「崎碑、下照昆女命、大國主命二女。「
「鶴 第 龍 命 ㎞s、シ、シニ*
「知 倉 王命ー玉屋 命
ー壇 安比 古 命ーFシ 天 之 長男 命
水 湧 昆 古 命ー長シ 水 満里 古 命
四子、譲天之古登代主命。
ー事 代 主命ー㎞ 高照里女命、諱日吉里女命、大戸道奪六女。
設手長雄命。 該 兵主雄命。
ー天之手長男命 事 武男 命
ー天香護山 命 ー事 勇男 命 高高御魂雄命。
大山祇命妃諡別雷命。
ー加茂澤昆女命 ー事 力 男 命 露太祀詞雄命。
ー武佐 太 昆 古 命 五子、喜太島座昆古命。
ー白糸 比 女 命 楽日海男命妃。
第一章 碑代碑系譜 五
4
第
大
8 武比
和
阿
講
、
武
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妃
命松男島
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心
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女 。
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之
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碑
系譜
奪
道
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碑后、沙十者奪、講大原比女命、天之茂登太手比古命二女。
手
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古
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二子
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一子、諱日本比古奪。
六
ー大 己 貴 一げ、認識大國主命。
命 婦神、若美比女命、天之茂登太手比古命男、豊心比古命一女。
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作
昆
二子、言ェ比活塗い ㎞作田理吉論、世ェ湖里古命。
古 命 ㎞、作田更女命、豊書済奪(尾茂太留厚)二女で
少名昆古冠命記で
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事代主命起こ
高 照 昆 女 命
三子、違 種 千ョ比古*。
こ面 足 奪 碑戸、大戸 まき、 千早比女命、天之茂登太兄比古命四女で
一子、資判貯蔵法始祀。
二子、剣銃 自在始組。
命ー 四子、農田比古彦、貸 后、阿夜加志古混第之人夫。
五子、 田仁知 比古多
伊 奪 碑万、伊葬再%、 自山比女%、、常立倉
角ん ム 好 也 神
中 石 〜 %け
豊 阿 始原世 地 一代 系譜
第一章 碑存 、シ
八
耐 皇 紀 系 譜
一女、幼名大市昆女陰、諱大日留女奪。
大 御 碑
刑 「認 ハ都大日 碑、後譲天照大御神。
え
ー月 夜 見 好、効陥 良い㎞決㎞
奪 婦碑、シ里%命、「講用標昆女命、泥十煮命一女。
謎塔日海男命。
奪 二子、幼名仁良、講軽子命、改講江日住命、腸講築温 命、稲次海津見命、
ー築 日子 ㎞、慰昭刻命『講作糸昆如命「卿期淳奪(尾茂太留等)一女。
-
*
高『皇産霊碑曾係也、腸諱祀佐男命。
皇産霊碑曾孫 賜諱祀佐男命
-
ー祀 佐 男 奪 距女命「 稲眠聞 の命、引力男命、諱手名植命一女。
養子
第二 浮奪節係、眞心武命一子、幼名日吉昆古噂、講博武出店陰、
浄奪
、賞者、豊期淳
*
し c天 之 忍 穂 耳 奪「㎞列命「 機科津昆女%、訓佐男命一女。
第三
一子、幼名武雄里古奪、又、荒心押噂、講作 収味㎞
Lo天日子火環 々 杵奪「碑婚、シ、歌名菊聞女命、講阿田都昆女命、大山祇命二次。
二子、一作玉祀命。
ー太 眞 祀 命 ㎞、シ、大山祇命一女。
ー太 八重美 命 一女、シ
二女、天見屋根命妃。
ー天母 岬 昆 女 命
-
*
子、稲海佐知昆古、講阿曾武男命、 一稲識準人彦命、設天下武男命。
火照 須 命 ㎞
● -
二
*
佐知田比古、説 太田知博 命。
7火 須 勢 理 命 ㎞、天見屋根命こ女。
賞 」、 三子、論火*里命、稲山佐知里古。
ー。日子 火 々 出見奪「離婚「シ㎞局、 引郡出剤、改 石シ『女
第五 -
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弾 * *に、も 3
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『 日子波激武職茨音不合奪 ㎞、改*日子シ
二子
り 、尾羽張田原國造、居干中島之旨県清田宮。 干
ー天 別 天 之 火 明 命婦碑、富身美里女命、天政治彦命三女。
三子、講若武昆古命、治干北越山陽山陰、居干和加佐濃宮。
ー三 穂 武男 命 ㎞
四子、高天原宮守。
ー阿 田 都 彦命
第五期 宇家潤不二合須世合須碑 五十 一代系譜
日子 火 火出見 奪 一子 即 地碑五代 日子波激武頼芽葺 不合 奪 也。
・ 。油 ・白 や、自 、トを、 日子火火出見奪一子、諱日子波微武言合奪。
碑皇第 一代 瀬非葺不合奪「紳㎞剤
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皇
二 高 王 命 シ、 沈没碑避参。
『 >
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二皇子。
命 ㎞即位式随行渡航中、沈没碑避参
『 第一章 碑代碑系譜 九
數量 和 系譜
第 一期 高天原 世 天神 上代 系譜
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1 女、 蘇伊非非、 伊非欧神后º
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天照大御神、 愛好天子、 天之忍德元は夫也。
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ー久延仁昆古命「婦碑、下照即刻剣、大國主命二女。「
諱阿曾武命。
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龍 命 ㎞足女命、富岡藤里女命、豊玉彦命二女。
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ー事 代 主命 ー㎞ ㎞ 大戸道奪六女。
『天之手長男シ 事 武男 命 謀兵主雄命。
ー天香 護山 命 ー事 勇男 命 高高御魂雄命。
加茂澤昆女命 大山祇命紀意別電命。 ー事 力 男 命 置太祀詞雄命。
ー武佐 太 里 古 命 五子、設太島座昆古命。
ー白糸 比 女 命 楽日海男命妃。
第一章 碑代碑系譜 五
碑 皇紀 系譜 六
ー作田 比 女 命 作田里古命組。
ー青木 比 女 命
留 戸比 女 命
ー鋼 目 女 命
第四
o泥 土 煮いし 一子、諱日本比古奪。
奪 碑后、沙十者算、講大原比女命、天之茂登太手比古命二女。
ー火 之 爆 土 命
ー火 之 爆 鮮 命 火養始祀。
ー火 之 焼 玉 命 者前始祀。
ー草津 昆 女 命 月夜見命妃。
「松島 比 女 命 賞心武命、講阿和武男命妃。
第4 二こ、、
二子、諱農質比古陰 Q
o大 戸 道 「紳屈「刻師比刻剣「調剤「刃剤引比古命三女。
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一子、腸講大國主命。
己 貴 命 婦碑、若美比女命、天之茂登太手比古命男、豊心比古命一女。
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田 昆 古 命 す
子、諱農佐比古命、場論作田昆古命、世補発 田里古命。
碑、作田里女命、豊勤停奪(尾茂太留㎞)二女 で
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弾 雄里 女命 名昆古那命妃。
照 昆 女 命
足 三子、違 穂千田比古*。
奪 「碑后、大戸野浅倉、諱千早
比女命、天之茂登太別比古命四女で
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茂 太 留 命 _四子、農田比古算、貸豊料 落撃碑后、阿夜加志古泥倉之入夫。
五子、諱田仁知比古 学で
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豊 阿始原 世 地碑 五代系譜
第一章 碑代碑系譜
ーc天日子火 環 々 杵 奪 「碑后、木花咲耶昆女奪、幼名菊里昆女命、講阿田都里女命、大山祇
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- 三子、譲若式昆古命、治千北越山陽山陰、居干和加佐濃宮。
三穂 武男 命 ㎞
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第五期 宇家潤不二合須世 合須碑 五十 一代系譜
日子 火 火出 見奪一子 即 地碑 五代 日子 波激武頼芳賞 不合 奪 也。
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い 日子火火出見奪一子、違日序波務式言合奪。
・ 皇第 一代 親方暮 不合奪㎞、 名シ刻
一皇子。
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* 二皇子。
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第一章 碑代碑系譜 九
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昆田 | 昆知 | 地 翻
安彦| 安 盗| 安彦
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玉| | 土| | 奈
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摩 幼 | 摩幼
牧|名 | 夜|名
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媛男 女|田 | 女 田
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幼|違 | 幼 違
名|登 | 名|加
動I
加| き | 奈佐
・仁田 | 加田
翌|男 | 昆 彦
女| 正 | 女|工
命。 命豊
登 作
根 見
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彦 リ
命 女
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碑 * 系譜 一二
* ーを、 二皇子、幼名久眞左彦、論久は佐彦王陰。
3碑皇第二十四代頼芳葺不合奪ー神㎞「判別剣刻
一皇子、幼名宇佐を、諱字佐彦王奪。
『シ 碑后 *
多摩 役甲田比女g、 幼名身奈川比女命、浪和王命女、
奈
シ
「
一
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諱
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博
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皇田
津田子
名
二
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十六代刺芽葺不合奪「紳刷『刻㎞『劉シ刻剣「測例
佐彦彦命女。
十* いふ * ーす 一皇子、幼名項長男、諱頭長明王奪。
二十七代瀬芽葺不合奪ー郡『刻㎞劉「刻㎞剤回引
隣
一皇子、幼名足長男、諱足長彦王陰。
二十八代a*合* 碑后、多摩 後里里 女奪 幼名多眞明昆女命、須種手彦命女。
三皇子、幼名手身男、諱手*武王奪。
「 シ 二十九代瀬*書不合奪㎞出剤「油加判別剣刻
中」t &nう ヒ、白時 と 、
い身じー 、、 一皇子、幼名山守男、諱山守雄王陰。
「 シ三十代シ不*
十Jü
碑后、多摩夜里里女奪、幼名美佐里女命、時利思命女。
-
し ○ りす 、シ
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すに、 \1 一皇子、幼名佐奈男、諱佐奈田男王奪。
ーリー
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8紳皇第三十一代瀬*資不合奪「紳属『刻㎞、如㎞命「紳仁大%引命効
一皇子、幼名鋼茂田彦、諱鋼楽作彦王奪。
三十三代』シ
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多摩夜中里女奪、幼名清瀧宮里女命、奈留佐男命女。 小L方
一皇子、幼名田仲男、諱田仲堆男王倉
三十三代シ不合 碑后、多磨
い} *
後里田 女割、幼名放照四女命、 高根魂開命女、
-
「シ三十四代** 三皇子、幼名貞備ち、論貞仲雄王奪。
いすうさ
多摩 後可里女倉、 碑后、 幼名仲津昆女命、御#男命女。
し- 三皇子、幼名田高彦、諱田高彦王奪。し
ーo碑皇第三十五代韓非葺不合奪 離属。多㎞、如シ里女命、番良男命女
ら rt 、トよ 二皇子、幼名川上男、講
川上男王噂。
「 シ三十六代シ ㎞剤
ー。紳皇第三十七代職業書不合奪 一皇子、幼名千利男、講
㎞、シ
千利武王奪。
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きす」三皇子、働碑園様、勘シ、シ
ー3碑皇第三十八代鶴芽葺不合奪 ㎞刻㎞剤
一皇子。
即命
シ位
ー多 仁 彦 王 式出向途中、紳避美
にも「 、、を、 二皇子、幼名津田加彦、講津加田彦王奪。
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第一章 碑代碑系譜 一-
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長子、1作靈公正五金、母字大神、縣成部、而同武士軍事之平
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第一肇 ㎢代神系譜九
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三皇子、幼名波奈長男、諱波奈長王奪。
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第一章 碑代碑系譜 一三
碑 皇紀、系譜 一 四
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ーo紳皇第四十四代頼芽葺不合奪 紳后、 ㎞ ㎞剤 禰越出 命女“
一皇子、幼名津気男、諱津気男王律。
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第一章 碑代碑系譜 一五
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第一章 碑代碑系譜
1五
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碑 皇紀 系譜
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神代第三期 高天原世在右大神系譜
(*
*
*
*
1 作天之命武比古神、
作 蘇十五萬大千日º
大湖文祿、 商界空氣體 文º
1
1
作
作天之古在太祖比古神、 蘇中五萬四千日º
|
o例 先 P 羯 摩爾羌
--__-___ 二子、 作天之後登太手比古命、 慶十六萬 千日º
|o大王 守 主命 維新鄭 成為戰 後
-
- 長子、 作 天之後金太是比古今º 義中 两=º
古 桜 新啟
神代第四期間 同始服世在右大神系譜
長子、 作阿史 主命、 母在守大神、 部副本、 而同大政之 事、 1 部隊成家。
|o大 桜 ㎞神 劍
|手 之 界 -
, 桜子、 作專心比古谷、 母方丈夫婦、 縣成部、 而同武士軍*之平、 1 部隊%。
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れ 老 ㎢代神系譜 九
碑 皇紀 系譜 二○
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長子、1作玉佐比古命。
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長子、一作高仁男命、諱天清住命
(一作加茂山彦命)。
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長子、一作元副主命
「 天 太 種 王命㎞丸見風利剣T刻
五
-
長子、一作高親守命、諱夫政治彦命。
ー。大政 守 命㎞、シ命㎞
二子、論武勇命。
「8天 大 食 雄 命 ㎞命「シ命H効
- 『 三子、論臨土武命。
シ土老翁 命
男
豊玉 武昆古命 シーー豊 國王 命
ー興 玉 命」はー興 武男 命
ー味拒託彦根命」ほー高 加茂 王
ー醜男 命 四子。
長子、講大武身『男命。し _
。武 頭 守 主命㎞種乱命二丸
韓大火高主命。し
ーo稚 武王 命㎞
婦碑「若木美女命、武頭守主命一女。
ー建 御名 方 命」シー建 御玉 命 建 勇 王命
ー経 津 主命『ー経 武 里 古 命
武 樋 命シー武 強 王命
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長子、講武知男命、一稲天之見屋立命、改賜講大物主命。
|ー。大物 主命哺㎞。『
ー日 高雄 命
ー日 前 玉 命
長子、講稚主王命。し
津 明 魂 命㎞「大判剣 「女。
『
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。玉 柱 屋 命㎞剤
第一章 碑代碑系譜 二一
二二
碑 皇紀 系譜
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園
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國 男 命 ー中山 昆 古 命
ー命
古
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主命ー二 症
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前
四子。 前
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大 園 玉 命 。ー
稲 蒼 命
ー眞清 太 男 命
碑代第五期 宇家測不二合須世左右大碑系圓
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経碑、信佐江善 命、天津高倉命 一女。
『 天野見屋建命 か
長子、諱玉武男命。
碑、香幸知美命、天津明魂命一女。
一 「
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五
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次命重日玉 剤
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傘も
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二子
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清
頭
八
十
七
十 六
十
五
十
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○ ○ 高
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二
命
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シ
八
男
別
建
倉
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太田 剤
小命
㎞武
山
シ
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結
魂
注
川 本
三
十
命
剤
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高
用
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1
引
命
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命
奇
四
雄 (せ) 明 男
玉
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系碑
三
二代
章
一
第
譜
玉 玉。二子 || 根
長子
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別
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武
、
命
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女
一
香
武
、女d山女
美畑
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第一章 碑代碑系譜 二五
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第一章 碑代碑系譜 二九
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第一章 碑代碑系譜
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第一章 碑代碑系譜
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第一章 碑代碑系譜
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第一章 碑代碑系譜
碑 皇紀 系譜 二八 、
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第一章 碑代碑系譜 二九
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第一章 碑代碑系譜
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ー佐津 興 男 命 三。 「海田 彦命
ー日野前佐武命"。 「大波 リ 令
ー大 阿佐 彦命 四子。 「心 波 彦命
一
第一章 碑代碑系譜 三五
碑 皇紀 系譜 三六
ー那珂三井男命。 ー海 現 男 命
ー玉懸 彦命。 「 玉 波 彦命
ー石田 明男 命。
ー羽茂 猛 命。
「多摩夜里里女奪㎞シ后
「阿蘇 里 女 命㎞
- リ命電波 男 命 船 走 男 命
「 リ命 航 玉 彦命ー 蹴 長男 命
観 建 彦命 瀬 中 彦命 立 男 命
「 隣 足 男 命 里 彦命
*リ命 転。部 男 命ーし 、勇 彦命ー』
二十六 二十七 二十八
ーc建 久男 命 8元 建 彦命 o軽 島 彦命
二十九 三十一
『サ
ー8大 演 男 命 o小磯 彦命 o中 磯 男 命
三十二 三十四
三十三
ーo大磯 男 命ーo速 瀬 彦命 o瀬 立 男 命
「 船、建 命ー群、坂 男 命 断、蘇 彦命
四十
口㎞ ㎞丸
ー8雷雲 男 命 o雲 根 彦命 o鶴 飼 男 命
四十一 四十二 #ョ
ー8鳴、動 男 命ーo鳥 飛 彦命 o小嶋
彦命 =
湖、波 男 命 継。長男 命 ㎞、州 王命
四十 四十八 四十九
o船 知 男 命 o船 希 彦命ー o碑 、鳴 彦命ー『ー
動、農 知命 源 獅 知命 顧 楽 命
五十四 五十五
㎞ 足
8豊 知命 o大 炊 建 命 O油 部 知男 命
講照玉昆女命、碑皇第五十一代鶴茅葺不合奪碑后。
ー多摩夜里昆女奪
第一章 碑代碑系譜 三七
碑 皇紀 系譜 三八
丁 撃、武 カ 命藤㎞ー 群 根津彦命㎞『
ー建 勇 命距 年三十六
ー操 カ 男 命㎞年三十四
「武 カ 書 命㎞年三十三。
ー手 力 強 命㎞年三十九
ー足早 雄 命㎞年ニ十七。
ー知賢 勇 命㎞年三十五。
「 艦。武正 命ー シ、碑 男 命ーシ 守 雄
命ー』
「シ 武 命 郡部 山 命ー 曲。浮 野 命ー』
「 、宮 正 命 シ"田原 命 。田 作 命=
男 命 ㎞。碑 心 命
共三 祀佐男命大系譜
伊非諾奪義子、賞者、高皇産霊碑曾孫也
講多加王、依佐祀國之功、腸講祀佐男命、旦結興天照大御碑姉弟之約、諡八佐加昆古命。
。。
Q 顧 佐 男 命 婦碑、「八佐加里女命、調稲田昆女命「引名樹命、調引加男剣 T刻3
二
- 長子。
。 武男 命㎞「回剤
「建 知 速 日 命止 ー建御 日受命ー建 豊 大勇 命
「祀 見 男 命止ー不見 男 命ー祀 尾 男 命ー弾倉 男 命
- 諱雲津昆女命。
「精 幡 昆 女 奪 ㎞后。
三穂都昆女命 ㎞
四
二子。
8佐 太 男
㎞闘園 口
ーo祀 仲 男 命ー 祀 木 男 命ーシ 泰男
第一章 碑代碑系譜 三九
碑 皇紀 系譜 四C
Lo祀 八 九
見 男 命ー8祀 太 男 命
●
十
o祀 眞男
命』
ー 悪 太田 男命
十三 十四 十五
ー8佐 成 男 命 o祀 登立 男 命 o佐 種 男 命
-
十族 十七 十八
ーo祀 手 立 男 命 8佐 仁田 男 命 8祀 長男 命
十九 二十 二十一
ーo佐 瀬 男 命 o祀 古 男 命 8佐 強 男 命
二十二 二十四
L o祀 ㎞ョ
重男 命ーo佐千 男 命 ーo祀 元 田 男 命
-
二十五 三十六 二十七
「8佐 眞男 命ー8祀 吉 男 命 o佐和田 男
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「昨 雲 園 リ命 備。佐 男 命 船 魔 リ 命ー
「 雲出 男 太 男 命
ー口 ー。園 武 命 駆。源 男 命ー
三十五 三十六 三十七
『 = 三十九
= 「
ー武長刀昆古命 ㎞
皇第三十 代鶴 暮 e合噂、 別 勅命、 創位天g手 尾
門間之里、興出雲同説論罪碑、稲津島
㎞
「 # リ 倉ー リ 命ー 太刀 令『
ー武 祀 別 命ー祀 太 男 命
リ 倉ーお、金 リ 令
・・ 』
Lo白金 男 命
四十六
8太 建 男 命
ー津 奈田 命ー眞 津田 命 小石 田 命
「船、知 リ 命ー 明。元 男 命
ー大 石田 命ー大 中 男 命 茂 佐 力 命
一
第一章 碑代碑系譜 四一
五十 五十一 五十二
ー8谷 貞男 命 8大 寅男 命 8久 長男
ー阿 仁田 命
五十三
ー8朝 久男 命
眞 瀬田
五十四
o勝 心 男 命
命
・
8仁
#五 、
心 男
ー沼 川田 命 道 廣田 命 田 刀 彦命ー
「 男 男 命
*㎞シ 玉
益東出雲大國造。
大力 男 命 強力 男 命
五十八 五十九 六十
18小 王 男 命ー8宗 眞男 命ーo亀田 男
ー大 強 太 命 大 男 武 命 小資 田
六十一 六十三 六十三
18時 名 男 命ーc麻佐 男 命ー8平。太 男
ー大田 彦命 津 奈 田 命 尾 豊田
-
--』
ーー、
「シ 心 男 命ー 建 男 命ー 夫、勇男 命
ー政利 彦命ー國、田 男 命 國 立 彦
=
「信 武男 命ー 園。 玉 男 命 瀧。 田 男 命
ー勝田 王命 知 刀 田 命
一
摩魔天皇五十年、高天原阿祀山太碑宮、宮守司長任命、子孫世々承継、諡阿東祀命。
「8尾羽張田彦命 ㎞
ー田原 米 彦命ー平山田内彦命
七十一 七十二
仁 男
二
諱不二田彦。屋 講大室田彦。 諱西田彦。
o美禰 方男 e阿 曾 男 c旨共 田 良男 命
*㎞ 司巨 シ
- シ
長。
七十四
リ令ー
第一章 碑代碑系譜 四三
碑 皇紀 系譜 四四
トーで 論吉田彦。
ー8眞田八代良男命 神㎞割引
ー天 家田 命
諱川山田彦。
交 久良 男 命 高天原宮守司長。
一子、景行天皇四十三年、貸吾幡十二箇園練園造、高天原宮守同長。
「 記 太夫リ命 室、中島根媛命、尾羽張記太チ碑心#命一女。
二子、分赴、山宮阿祀山碑駐宮守。
ー眞 太 八 良 命 長
子孫、世々承継。
ー大 原田 彦
をQ
宮守司長
佐 太夫 命 養子、阿曾彦王七子、高天原
室、顧地媛、 シ
-- シ
久
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五
四
碑 皇紀 系譜 四六
艦ハ 九
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大玉 男 命ー 小玉 彦命ー
十三 十四 十五
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「 佐倉 天高男命 天海 主命
「 "=ー大園 立リ 令『
「大仰 本リ令 天 録 田 男 命ー 小 太加 男命
「 天。太 身命 夫、武男 命
二十八 二十九 三十
「c大力 男 命 8大 長男 命 c大 妹 身 男 命
「大山 男 命 天原田 男命 天 竹男 命
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三十七 三十八
』
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「 天 園 里 男 命ー 夫 木 男 命
** 口
「 天 セリ 命 ー 共。八 男 命
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「駆 者 リ 令 出。丸男 命ーシ、田 男 命』 -
『十九 五十 五十 *
ーo泉 田 彦命 8大田 男 命 基 心 男 命
五十三 五十三
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「c大 太 力 命 長子、譲次 玉 セ映谷命、碑武天皇元年、任牧納役で
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居 千欄 願引之城H剤
ーと工 FLLF、シ自傷鳥羽命、神武医皇元年、任巨川、遠久見、住留家懸令
佐野 男 命#引㎞
ーも ィ ヒ 巨仔、職情境倫、神武侯皇元年、任和加佐、虚地前、加川鷹令
㎞ ㎞ 居千磯浪之高瀬宮、又、加川之野登宮。
以上、三
ーtて f
氏三家)
を ー ト 四子、越後國造。
天香 護 山 命 ㎞。
ー査 野 世 諸 命 五子、シ令。
碑 皇紀 系譜 四二
五十 五十 五十二
谷 貞男 命 8大、寅男 命ー8久 長男 命
ー阿 仁田 命 眞 瀬田 命ー嶋 尾田 命
ー 久男 命 勝、心 男 命 信心 男 命ー
ー沼 川田 命 道 廣田 命 田 刀 彦命ー
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玉造 男 命㎞剤 天、玉 男 命
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大力 男 命
五十八 五十九
強力 男 命
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ー大田 彦命ー津 奈田 命ー尾 豊田 命1口
六十四 六十五 六十六
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ー田原 米 彦命ー平山田 内彦命
]
ー 共里 男 命ーシ 田心男命ー 仁 男命
二
諱不二田彦。巨大室田彦。
講西田彦。
「 美禰方男命㎞阿
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倉 男 命㎞ー
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松 原田 命ー梅谷 見 命ー大坂 男 命
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第一章 碑代碑系譜 四三
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第四 大戸道奪大系譜
共一 大國主命大系譜
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二 三
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長子。
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第一章 碑代紳系譜 四五
碑 皇紀 系譜 -
四六
* 澤 昆 古 命ーo天 質 男 命 金丸 男
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「 大主 里 古 今天 玉 男 命 * 口
「大仲 リ 令 天 園 玉 命 天 玉 彦命
天 園 佐 命ー 大 高 男 命ーシ 海 主命
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四十七 四十八
倉ー 日 』* 田 =
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五十三 五十三
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五十五
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夫、カ て ト 長子、諱豊徳知貴命。
太 命㎞シ
㎞セ 長子、諱太玉七峡谷命、碑武天皇元年、任牧納役で
「c大 太 力 命軌㎞
-
二子、諱自羽鳥羽命、碑武天皇元年、任三川、遠久見、住留家懸令
佐野 男 命#引㎞
ーも ィ ヒ 巨序、講唐笠児
命、脚武侯皇元年、任衛加佐、越地前、加川鷹令
尾羽 昨 男 命 ㎞
(以上、三輪氏三家)
ー1t\ } 四子、越後國造。
上』
天香 護 山 命㎞。
五子、佐渡懸令。
菅野 世 諾 命
第一章 碑代碑系譜 四七
」
「大和 男 命ーシ 田 男 命ー デ 都 男 命ー」
「シリ命ー 厳 田 リ 倉ーシ 太リ 命ー」
*国 せェ も、
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長子、襲父祀之後、子孫世々、牧納役。
ー
|
吉備彦命二子、四シ之 。
「丹波道主命 三子、四シ之 。
「尾 倉ー尾武長リ命 大 勇 男 命
武田 リ 命ー大 リ 命ー太 武彦 命ー」
= 四道封軍之一。
「大 本倉ー* 1
日* 人
「―ー *ー大佐 s』大都 。ー
「* 「**
「兵庫 式 命ー夫 彦命ー式
「大 彦命四シ之 。
第一章 碑代碑系譜 四九
五○
碑 皇紀 系譜
共二 作田昆古命大系譜
大戸道命第二子
。 論農佐昆古命、腸講作田里古命、世隠慮田彦命。
・ 作田 昆 古 命 ㎞剣『㎞剤剣「刃。
三
子。 長子。
時す 澤 男 命㎞剤「 天津柳 機彦命 婦刺「剤引。
四 e
子
『 沖津波根彦命 ㎞「渕剤「 神男剣T剤
五 長子。
田原 彦命㎞碑「回顧引剣「何利引剣ヨ刻。
日子火火出見奪妃、天別天火明命母。
ー佐奈木 昆女命
ー言 勝彦 命シ
「 田 彦命 田 彦命ー 州 田 口
Hほ 口 田 彦命 船田 彦命「」
「せ丸田 彦命 -
十三
8長田 彦命
#法
=
ー 深田 彦命 ○
田 彦命 ㎞
○ 田 彦命
十八 十九 二十
「気 都田彦命 o秋田 彦命 8冬 田 彦命
口
二十一 二十三
o山田 男 命 順 田 彦命ーo内田 彦命
二十六
L」。
o外 田彦 命
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二十七 二十八
ーo穂 田 彦命 Ho 見 田 彦命 競。田
城 田 彦命ー
彦命
三十二
行
- 田 彦命
十子
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多
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三 三十五
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三 十八
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*
彦命 o細田 彦命
#二
「 ”田 彦命
シ o頼 田 彦命 }
の浮 田 彦命
口田 彦命 田 彦命 田 彦命 口
五二
碑 皇紀 系譜
四十六 四十七
田 彦 命 8月 田 彦命 o曰 田 彦命
五十
#カ
光 田 命 c廣田 彦 命 8針田 彦命』
五十二 五十三
田 彦命 o海 田 彦命 c顧 田 彦命
廃t五 - ㎞六
田 彦命ー8雪田 彦命 o栗田 彦命
五十八 五十九
田 彦命 o男 田 彦命 o女 田 彦 命
六十一 六十三
-
田 彦命 o早、田 彦命ーo奥田 彦命
六十四 六十五
田 彦命 o竹田 彦命 o梅田、彦命
六十七 ㎞シ
田 彦命 シ、田 彦命 ㎞
、弊 常麻厩速、改賜野見宿禰、菅原氏祀。
ー野見 彦命㎞
- M子、襲見舟田命之後、貸富士夫碑宮供物司長、坂上、旧村
将。寸 諸氏祀。
。田村 彦命㎞女命、武溶川%命三女。
ー司
三子、奥國造、稲共居所地、稲合津。
合 彦 伊勢太碑宮、屋根葺職。
五三
碑 皇紀 系譜 五四
第五 天之忍穂耳奪大系譜
・ 天之忍穂 耳奪
ー天日子火環々杵奪 長子、皇位承継。
-
ー、 二子、一作玉祀命、陽伊須國、止居子伊東阿田見原之日金宮。
3太 基 祀 命㎞
天太玉命妃。
ー太 八重美 命
「天母 岬 里 女命 天見屋根命犯。
長子、居手木野國久眞野宮、創立久直野山赴大碑、 祀伊俳諸事雨桂以下父碑逸四代之碑魔
-
字 佐 見 命 婦碑「小幡聞女命、 天気玉命四女。
ー崎 玉 男 命三。
ー國 玉里 女 命
石堀留目命一男大力雄命妃。
ー
**人生*ー 眞 太夫 命ー 兵 心 男 崎ー』
*** *ー*
「大 太 命ー 大仁加 リ命
「田 仁田彦命 ー 太 長 令
「シ木戸彦命ー リ命
「金田 千彦命ーシ 心 リ 命ー
「大 ag 命ーシ 田リ命
「 a 命ー 夫、物 命
「 彦命 態。懸 武 命
「小a山 リs 園 造 彦命
「 sー夫、 武 命ー
「 丸 面 リ 命ー 仁知リ命
第一章 碑代碑系譜 五五
碑 皇紀系譜 五六
三十九 四十 四十二
ー8大 旨共 心 男 命 o國 津田 男 命 o大杉 山彦
「同 *** 黒木 彦命
ョ
「 十三 四十四
o阿木 奈 彦命 c大 佐知 彦命
大 身 リ 命ー
「 明 川田彦命 武命仁 佐 男命
「 山大千倉 天 知八代 命 山元 開 太 命
「 加* 知* * 大倉山 太命 夫 多木 男命
ー日鷲気 留 木命 碑武天皇元年、貸穴門撮津懸命。
五十四 五十五
「若 逢 心 生命ー c都 見 里 命 8國 阿木 男 命
五十七 五十八 五十九
C佐 知心 彦命 o太 玉 建 命 o長瀬 瀬 命
六十一 六十二
ー。三 津瀬 男 命ー 津 盛 彦命 8山 佐知
「正修
c河 住 武 命 子孫、稲紀氏、又大山氏。
知り 口
天日子火項 々杵奪大系譜
共一 火照須命太系譜
・ 天日子火璃々杵奪
佐知
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古
昆
稲
、
子
一
-
一 講阿曾武男命、改講隼人彦命、隼人祀、諡天下武男命。
*
「c火照 須 命㎞ 命
沖田比女命、天太玉命三女で
二子、稲農佐知里古。
ー火 須 勢 理 命
ー日子火火出見奪 三子、講火遠理命、稲山佐知里古。
- 一子、襲父之諸園惣軍師職、奪碑赴守護職、子孫承継。
佐津 兵 武 命時詞父㎞
二
二子、襲父之海伊國造司職、子孫承継。
o高原 男 命㎞
居子、父之高原宮、改 愛見宮。
ー八 津 撤 男 命三子。
「荒 i、 彦 命ー 都 男 命
ー日野原 男 命 四子。
第一章 碑代碑祭譜 五七
碑皇 紀
ー念 場 男 命 五子。 ー 夫 谷 彦命 津 彦命ー
「浅尾魔リ倉。 「H 瀬 男 命 o眞 佐 彦命
ー西島 男 命“子。 ー 瀬 男 命 小澤 雄 命
ー南部 男 命 八子。 「大 = リ 命 基 太 彦命
ー下河原 男 命 丸子。 - 園家 男命
ー宮地 男 命 十子。 - 彦命 園 岡 彦命
十七 十八
ー場 原 男 命 十一子。 c國 谷 彦命 o玉 守男 命
ー宮塚 男 命 十二子。 「シ 田 彦命ーシ 海 男 命
ー西野 昆 女 命 一女。 「闘 丸男 命 園 早 彦命
三十四
ー小室 昆 女 命 二女。
「シ
谷澤 男 命ーo早 易 彦命 =
持ェ 、 二十六
ー古澤 里 女 命 三女。 「o弦 立川
彦命ーe奈 仲 彦
命ー』
二十七
金竹 昆 女 命『。 「シ 山 彦命ーc高 率 彦命
古市
ー
「
。
命
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リ 倉ール 山
小笠 里 女命。「大谷 彦命ー リ =
-
一 三十四 三十五
「 小島
心 彦命ーo三 質 彦命 8大 室 男 命
三十六 三十八 -
ーo八 津 構 男 命ーo大熊 彦命 o高山 雄 命
「 春、田 倉ー 郡 名 リ 命 郡 守彦 命』
「 太 彦命ー 話 命 =
四十六 四十七
沖ュー
ー8大川 知 彦命 c武 知雄 命
武力太 命』
四十八 理中九 十
ーo強力 男 命 o志 須 雄彦 命
㎞ 面 =
ー カ* 源太 雄彦命 小 元太彦命
ー 信、久彦 命 繁 高 彦命 =
五九
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知 皇
彦 紀
命 。
溝
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共二 火須勢理命大系譜
天日子火項 々杵奪第二子
1
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*
・
火 須 勢、 理 稲雄
命婦室田
里 稲農佐知昆古、諡太田知穂命。
小㎞
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一子。
碑
、
命
女
里 、
命
女 火照須命二女。
ー 田 知 方 命ー 出 基 彦命ー園 玉 男 命』
ー大 武知 彦命
『 =曲 -
強力 武 命 「魔 山 彦命 「」
「 リ 倉ーシ 回 シ 田知彦命ー
「* 個 彦命ー
「* 口 加 日 彦命ー
『 』 』 』
第一章 碑代碑系譜 六一
碑 皇紀 系譜
「 三坂 彦命ー 臣。率 彦命 =
田 彦命ー 命
「無 佐知彦命ー群、本 命 金澤 彦命
『シー 倉ー 佐 =
「 天津彦命ー群、長 彦命 佐 男 口
ー加茂山 彦命 夫。山 彦命 ㎞、山 彦命ー」
彦命 共 倉 彦命ー 室 彦命ー
「 リ 命ーが、 リ 命 心 男命
「 基、宣雄 命 シ。心 リ 命ー
「シ 武 心 彦命 武 山田 彦命
「 気リ令 正勝 心男命 お気心男命ー」
「
五十五
子、 川、南 、牧 、仁田、杉山、吉田、シ
口 仁彦 命㎞引判回「引制判 江川。口
= = 』
「江川 * 』 命ー 大 中島 男
碑 皇紀 系譜 * 六四
第七 日子火火出見奪大系譜
共一天別天之火明命大系譜
・ 日子火火出見奪
も o
*
ー日子波激武鶴基音不合奪 『、。
ー3 で= 二子、天別楽美豆火明命、尾%ま園造、子孫承慣、層序慎博
天別天之火明命㎞ 天政治彦命三女。
母、「佐奈木里女命、沖津波根彦命一女。
- -
三子、諱若武昆古命。
三穂 武男 命 艦離い㎞
母 碑后石割里女命。
賞留昆女命、出雲祀武男命女。
「『』***。
三
= 一子、一稲尾羽濃義 論。シ o原 玉 LL子、貸高天原副同令碑
8源太 記 男 命㎞魂命二刻。8源 玉 男 命 離「判即刻剣「部剤
碑皇第三代、鵜芽葺不合奪碑后。
ー佐登鈴里 女 命
記 種 彦命ー 海 別 雄 命ーシ 橋 男 命
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ー 足 長 彦命ー 労 川 彦命 * 回 =
「 平田 彦命 城東 男 命 倉口
ェ 左 男命 清彦 命 太 玉 命ー」
年 浪 男 命 高座 男 命 張 彦命ー
郡 元 男 命ー 里 男命 = リ 命ー
「 = リ命 富川 男 命 岳男 *ー
「 個、牛 リ 命 大泉 彦命 明、泉 彦命口
「 命 態、坂 彦命 清彦 命
i 、十二 ㎞ョ
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ー8信良 彦命 o道 良彦 命 o陸 道 彦命
三十四 三十五 三十六
シ。主 男 命ー 樹、山 彦命ー 金澤 男 命
「 座リ令 園。光彦 命 基、湖 彦命
第一章 碑代碑系譜 六五
碑 皇紀 系譜 六六
四十 門 世 四十 二
|
田
男 命 o照、建 彦命ーo大 的 彦命
十三 潤中 ㎞。
ーc津 悟 彦命 o御、魂 彦命ーo松 照彦 命
『十六 ㎞セ 肝。そ
「毛 穂 彦命ー c碑 集 島 命ー 碑 形 彦命
一子、尾羽張源太夫、尾羽張、三川、雨國之大國造主。
「 ㎞丸 柳 彦命
工
o明 照 雄
ま
命㎞ ㎞
之
碑武天皇、東征之時、 貸東海十二道之惣元帥、依大賊平
定之大功、貸中夫奪雨國大國造主、居干中島之松子島、
五十一 五十三 *
子、尾羽張記太夫。 #三 、望 17 夫o 張記太夫。
照雄 命」はシェ明雄
B 出 命」シ足 彦命」シ
チシ 十ヶム
「 玉 男命」シ駆 知男 命」はシェ 魔 男命長シ
「 野 相 男 命」子シ㎞木 男命」はシェ 心 雄 命」はシ
ー中 島根 媛 命 シ、大宮司、シ
ー 明男 命 シは惨
室、小室剤、顧地記太大二女、成務
天皇七年、改賜姓一宮。
戸媛。
ー美 夜 媛 命㎞
*
日本武奪王女。
ー顧 地 ㎞夫室
ー長 王㎞太夫、 田大宮間、子シ
田窪、稲作媛命、 稲種命二女。
成務天皇七年、腸姓尾羽張、尾羽張氏祀。
「 一子、一宮記太夫。 ㎞ と F ト 一子、一宮記太夫。
尾羽張種興命㎞知 「c政 身 雄 命㎞ 対
二
一子、尾羽張源太夫。 『 ー 一子、尾羽張源太夫。し
ー眞田 王命㎞別 高山 王命㎞皇刻。
韓『ー 一子、一宮記太夫。 1 一子、一宮記太夫。
8時田 彦命㎞引3 「 深 玉 男 命㎞引
五
温 ト 一子、尾材張源太夫。
勝 摩 王命㎞引ー魔 田 命㎞
山下
明政
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Lシ 六十八 十九 七
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o小 田 長 o中 島 雄 O島 田 男 田 男
六 七 八 九
「岩 作 王ー守 里 王ー海 部 王ー手 長 王
第一章 碑代碑系譜 六七
碑 皇紀 系譜 六八
共二 三穂武男命大系譜
日子火火出見奪第三子
s。
●
講、若武昆古命、治北越・山陽、山陰、居千和加佐濃之都地。
三穂 武男 命㎞
建制、祀父奪之霊、稲遠宿住大碑、後合祀三穂武男命夫婦之霊。
-
二 *
場闘 員片
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一 碑宮守 司、
貸田場國眞井原之豊受太碑宮守護司、子孫承継承
ーo和 加 彦命 ㎞
婦碑、太加里女命、出雲祀木男命 」 女。
「大 』 『ー 本 リ 倉ー
「 加奈 田男命ー* 田 彦命ー
「 字 佐 リ 令『 -ー大 * リ 命
「佐 明命 蹴 田 彦命
-
十五 十六 十七
ーo竹田 男 命 山田 彦命ー 島 男 命ー』
大森 男 命ー。小森 男 命
一
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ーo小、鳥 男 命 ー去 島 茂 命 田 羽 男命
「 、知 彦命ー 夫人良男命ー*。仁彦 命
「 仁 リ 命ー 艦、資 彦命 能。見 男 命
「 正 s 彦命ーシ 田 彦命 石川 彦命
三十三 三十四 三十五
『o長、野 男 命ー8安田 彦命ーo安富 男 命
三十六 ㎞*リ 巨人
口 o倉。異 彦命ーo保利 部 男 命ー8川田 男 命
『 朗、田 彦命ー リ 倉ーシ 奈 彦命
「 駆 加 志リ 命ー㎞。田 彦命ーシ 信 リ 命
『 「 大リ倉 腕、吉彦 命
「 射。浅 リ 令ー 船、真 彦命ー 政 本 リ
男 命
|
五十三
五十一
ー 佐 彦命ー 獣 玉 男 命ー 玉 祀 彦 命
第一章 碑代碑系譜 六九
碑 皇紀 系譜 七○
『 日賢知王明命 碑武天皇元年、 依東征之功貸若佐越地前國造
「 出羽大仁リ命ーシ仁彦命 田羽音知男命
「 非波園立彦命ーシ田初リ命 非波園元彦命
「離永田初リ命ー闘k井波彦命 品羽谷仁男命
「シリカ彦命ー 井田羽リ命 無照丹波彦命
「 山田羽リ命ーシ笠山彦命 眠羽根元男命
「 波始祀彦命ー品初太根男命ー射波元作彦命=
「 眠羽*風リ命
* えい C
七十三 店 各日に、ヨ巨 こ ー、
従遷奉仕
井波祀始彦命㎞ ㎞キシ
室、「美津昆女命、山田松魔命
第二章 應碑天皇大系譜(㎞
第一 大山守皇子大系譜
一
諱阿計日登 (明仁し、後、隠宮下記太夫。ー_
・ 大山 守 皇子 ㎞
室、気久懸 乗媛 (菊野媛)。 地佐太夫一女。
祀父霊千㎞地谷小室、稲高御久良 碑赴、 居干共宮之下、調宮下宮、因稲宮下氏。
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大宮司
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環政見一女。
宮宮本
大宮下
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i* 、毛野
ー井出畑志津治㎞シ。ー吉田二摩古彦㎞氏叫。
*
子 、シ 巨、三 司羽、水谷 * * 太地園懸王。
ー撃 田 科 野 彦 ㎞ ㎞を ー吉田三摩 古彦 ㎞ ㎞
陸佐志國懸王。
ー士 形遠 楽 彦㎞久シーシ㎞シ
-
第二章 應碑天皇大系譜 七一
碑 皇紀 系譜 七二
「棒原須留賀彦 ㎞氏』 『 田五摩古彦㎞ シ
ーシ佐加陸彦㎞。 正㎞ ㎞
「春吉坂海井彦㎞ ㎞合 元㎞
ー大原 毛野 陸彦 ㎞ 野陸國造。 「台 家 ㎞ シ ㎞
ー盆 田 日 高彦㎞ 園 仁㎞ 園㎞
ー古坂三河和彦㎞。 ー 成㎞ 政㎞」
ー阿倉津久波彦㎞。 ー 元㎞
「不 佐 媛シ 元 氏㎞元 シ
「山 標 媛ェシ 元 照ェ 元 定ェ
「多 仁 里 ェシ # シシ
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「 元、村㎞ 秀シ仁、元 シ刊
ー 元、明 ㎞。
T 明、政 ㎞。
T 駆 忠㎞。
「駆 高 ㎞シー 照㎞。
暁。信㎞。
ー 罪、清 ㎞
ー 駆、景 ㎞。「 載。明 ㎞。
元、景㎞ー 元、経 ㎞ー L 明㎞。
應 ㎞。
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第二章 應碑天皇大系譜 七三
碑 皇紀 系譜 七四
四十二 五子、 源太夫。
「元 ㎞口
四十三
o明 一子、顧地太夫。
日 頼 ㎞ i
{、口 旨 一子、 輝㎞2
四十四 * 富士大宮司
子、記太夫。
ー 馴、衆㎞
四十六 *
ー 瞬。朝 ㎞。
#* 二子、源太夫。
ーo明廣 ㎞
-
三子、深集二郎。
3清 國 ㎞。
四十 五十
一子、記太夫。 養子、源太夫。 一子、藤馬亮。
「シ 仁㎞ー 仁 ㎞ー 國㎞
て 二子、記太夫。
家「難川割訓
い 二子、源太夫。 評ョ 一子、左京亮。
忠「錦計対㎞ 8正 成 鮮#外盤訓
環 五 六
一子、佐太夫。 一子、記太夫。
ー住 園 一子、記太夫。
㎞ー園 定ェシー政 園シ『
ー 。ェ 義。忠* 富士大宮
」シ 武。
明吉嫡子、伯父義泰養子、
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子
一
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j 一子、記太夫。 右所売。
國 明㎞ ー明 吉料離シー8義 高 ㎞削3
五十モ
一子、大多和六左衛門、三浦左京亮、正四位上成 中守。
「義 勝 ㎞可
-
二子、三浦八郎左衛門。 一子、三浦介、相州新井城主。
高 通上シー高 明㎞
-
に 三子、田漫源左衛門。
義 正 距 、観㎞
リ _一子、宇津左京亮、又、田貫左京亮、腸論通次。
ー 養。 *「割「倒個刺「引倒潮江割政T刻 「割引対剤d
「義 信㎞主
、三子。
「義 宗 住征夷大将軍、 ー正 守 一子、田貫左京亮。
尹長親王。
- 四子。 ー 時。 二子、宇津源太夫、又、田貫左京亮。
義 正㎞ 。宗 正㎞例勤引㎞剤3
0* O
ー義 攻㎞ ー忠 照㎞
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ー甚 太 失六子。 「義 廣㎞
ー』 に 七子。 ーシ a 五子、富士源太夫。
宗 正 ㎞民祀。 *義 忠 窮『菊㎞二郎正光女、富士大宮司。
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第二章 應碑天皇大系譜 七五
碑 皇紀 系譜 -
七六
も
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* -
一子、源太夫
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明神井札シー9宗
六十二
一子、甚太夫。
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入宮司 で 明
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戸 ㎞太夫。
竹 小豆坂戦死
六十三
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六十四 * ハ十五 六十六
子、義高十三世孫。
㎞ 一子、右庁売。 一子、源太夫。
o宗 析㎞シー 察 義 ー計引sーcゲ
富士大宮司 o宗 高 で
富士大宮司りC
詳セ 子、甚太夫。
宗 忠㎞
第二 隼継別皇子大系譜
應碑天皇皇子
・ *リー
職に 悩扮㎞地営阿欄曲碑能官同 、園地区八良大原田彦之養子、因稲顧地又八良。
・ 集 継 別 皇子 ㎞
二
墜、正妹女登利姫、鍵名標山姫、顧地佐太夫二女、即日本武奪王女顧地姫二女。
丁、顧地又八良。 四
に、一子、顧地又八長。 二子、顧地又八良。
政長胞㎞
五
二子、 八良。 競、
『 里㎞シー 宗
巨可 一子顧地又八良。
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八 九
二子、顧地又八良。 一子顧地又八良。 詳
十二 -
口 二子、顧地又八良。
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八良o 十三子、 o
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十三 -
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一 又八良。 *
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十六 十七 十八
一子、 又八良。 、顧地又八良。 * 月
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家一子、顧地又八良
第二章 應碑天皇大系譜 七七
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大宮浅間碑宮赴司系譜
「 豊明シー 仲㎞又。
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第二章 應碑天皇大系譜
七九
八○
碑 皇紀 系譜
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一子 富士又八郎。 “、 一子、富士八太夫。 國
豊社シー8宗 豊シー
三子、 富士又八郎。
豊 大宮宮司。
十二 二子、富士又八郎。
十二子、富士又八郎。
四子、富士又八良。 c豊 常生シ
成神シ 経 豊㎞
二子、富士又八良。 三子、富士又朗。
一子、富士又八朗。 仁㎞
豊シ宮請 析シー
十八
十七 五子、富士又八良。 一子、富士又八郎。
養子、富士又八郎。 照をェ
安㎞ 8國 安シー8義
第三 根鳥皇子大系禰
應碑天皇皇子
一
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根 鳥 皇子 慮快畑特皇子命、貸園地太碑宮祭典司長、太田、伴、諸氏祀。
伴、諸氏祀
㎞、神㎞命、温脆演者理女
㎞酬隣 映準㎞二次パ調汰達者、建彦長子闘地彦三男也。)
居子太田川之漫、太田山宮、 因耐、 稲太田氏。
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一王子、稲太田氏o 『 に、 一子。 四 *
西原 男㎞ー 川島彦㎞ - 田 見 男㎞』シ LL Hダ
Lg 子、 -
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第二章 應碑天皇大系譜
扉
八二
碑 皇紀 系譜
- 二十五 こLC
二十国
二十三 二子。 c大山 鷹神離司興 二子。 シ
ーo豊田 魔㎞ o貞田 鷹㎞訓興
、 大山鎮守命、八代郡体園、樺、構撮㎞
二十六 - * p」は、日c
「シ 長男㎞ ㎞川「シ、シ
二十七 子、 一作安貞、伴長大法 o眞
転。 一子、伴太郎、諡富士大守命。 - - -
『 正㎞ 貞㎞司軸「刈田郡対剣「湖利天皇「引観七 、シ士太碑宮祀。
二
二振 伴二郎、居子信濃園伴之郷、同園伴氏園
ー8眞 仁 ㎞訓刻鋼「劉「剣劉例外郡
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十 十二 - 日
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* F ししに」 十二
二十九 一子、伴長太夫。 ㎞ s七シー
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三十四
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三十二 一子、伴九太夫。 に疑心ェ園「3基
「野 親外得郡大館「 引観 o眞 吉㎞引刺
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三十七 三十八 三十九
二子、伴長太夫。 、一子、伴九太夫 二子、伴長太夫。
「 基、次走㎞「 g、宗生㎞ー 盛定㎞
四十
四子、伴九太夫。 ㎞ 一子、伴長太夫。 ㎞ 、一子、伴長太失。
「 佐神㎞軌「 彦丸㎞1 競 照上『ー
四十三 四十四
一子、伴九太夫。
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二子、伴九太夫
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四十六 四十七
七子、伴長太夫 武 二子、伴長太夫。
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「撃 はほ 撃 一子、伴長太夫。
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第二章 應碑天皇大系譜 八三
耐 皇紀 系譜
第三章 武内宿禰大系譜 ㎞
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武内宿禰長子
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一
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*
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三
一子、稲羽田氏。
Lc羽田瀬根尾 一子、貸作田彦命七十二世孫、田作彦之養子。
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子 五 六
子、 一 一子、
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十三 ○ 十四
一 に、 一子。
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二十一 0 二十二
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二十三 二十五
㎞ 一子。 一子。
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時*ー j一子、 菊田磨、坂上、田村、信夫、伊達、諸氏園。
一子、改坂上菊
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二
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「田村 鷹ー和田 鷹ー良 盛「清 信「清 #ー」
「清氏 清 宗ー清 長 清 光 清秀
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ー秀 治三子、シ。
ー秀政三子、伊達氏 。
沖丸 二子、甲斐園八代郡副領、羽田、伴、諸氏始 組。
ーo宗 治彦 ㎞ 鋼計副司興「平剤「大同元御引月「個割引太碑宮守調件之功、腸姓件氏
任甲斐國八代郡副領。
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第三章 武内宿禰大系譜 八五
碑 皇紀 系 艦 、
三十一
F」子、伴宗伴太夫。 一子、伴元太夫
Tn H副司典、八代郡副領。 8春吉 富士副司典、八代郡副領
一子、伴宗太夫。
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子、伴元太 ○
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四十
子、伴元太夫、
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氏ー秦 徳丸 貸宗家羽田朝秋之養子。
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四十 - -
四十二 - に -
子、伴元太夫
一子、伴宗太夫。
「科 家」ほ、世は惨ーシ 善 シ 忠三
四十四
長一子、伴十太夫
四十六 *
四十七 *
宗太夫。 元太夫。
ー㎞。高圧子、俳隊は味 秋、頼」旨、俳 は昧
=
L 秋上寺、俳 は民 競。 忠様子、シ 宗 秋」、俳院は法
五十一 * に ヒてC 五十二 、 に」へ」でC
ー 能」㎞夫、稲羽田六郎左衛門尉時龍。
仕新田義貞で
五十四 * に
二子、羽田宗二良。
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o正 宗㎞又㎞
仕楠木正行、戦死手四條職。
第三章 武内宿禰大系譜 八七
碑 皇紀 系譜 八八
第四章 秦徐幅大系譜㎞)
黄帝第四皇子
・・ 仕少足金天氏。
・ 忠顕 氏㎞「剛回引
四 五
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萬 正 氏㎞ー農 賢 氏ー農 記 氏 農氏』
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豊正氏 畑 立山 田平 林海
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五十四 五十 几 五十六 五十七
任何成王、 依 年协、 陽性作?
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六十三 六十 五 六十六 六+
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第四章 楽除 術大系譜 八九
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