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仁し

大ョ本園書株式舎社
概本本那論書
支は

日に









倫理

儒 本考















誌 書


し 本する






欲倫理








初書


なり し

めん
らし
。 -研しめ
せて

便宜
する








易 究

解 附き書記 し



原熟語








就せる
に 設記名用け
引項
氏て

賢哲
支那
別書目




又 倫りるか面理 と





方し
す明の
せに


こと
。 代歴

単に






せる




寧 表 、
としてずく遠


多深便





なる
ま高尚

説き 寧易

近世







した


なり


簡 史






リ。
例 言 -

の由来を明かにし、又 巻末に於て、近世倫理 寧書の 主要な
るものを掲げて譲者の参考に供せり
と、


本は
一 譚


本中へ



原文
引せる
書文用
して





せ 挿考す言入



名要

諸家
資べき
参に

し置
きたり、是れ赤 初寧者 の斯寧 研鎖 に便せん がため なり。
明治四十一年四月 著者 識
日本 倫理史 綱 目次
論::: 一
第一 儒教 の 起源 第二 孔子血 の 教 旨
第二二 儒教の 復興 第四 程子と朱子
第五 象山と陽明 第六 明清の考謎寧
第七 日本の 儒 寧
第 一篇 朱子寧 * ● ● ● ● ● * * ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ * ・・ ・ ・
二三
第 一章 藤原 幌陸常:: :三
第一 握高の経歴 第二 握高の寧説
第一章 林 羅山 - - - - - - -
・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三o
第一 羅山 の経歴 第二 羅山の 寧 説
第三 聖堂の起源
臼 次
-
次 二
第三 章 山崎闇斎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:
第 一 闇斎の 経歴 第二 闇斎の寧説
第三 垂 加碑道
- ● ● ● ●
四九
第四章 貝原盆軒:
第 一 盆軒の経歴 第二 益軒の撃説
六○
第五章 室鳩巣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・・ - ● ● ● ●
第 一 鳩 楽の 経歴 第二 順 庵の経歴
第二二 鳩 集の 寧 説
朱子寧の系統・・・・・・・・・・・・・: 六九
- ● ● ● ●
第六 章
第 一 京都の朱子寧 第ニ 江戸の朱子寧
第二二 土佐の朱子寧 第四 爾 除の朱子寧
* * ● ● ● - - * * - - * - ● ● ● ● - - ● ● ● ● - - - - * ● - - * ● ● ● - -
第一一篇 陽明 寧
・ ・ ● ● ● ● ● ● ●
第 一章 中江藤樹 ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ * ・ ・・・・・・
一 藤樹 の 経歴 第二 藤樹の寧説
第一一章 熊澤 藩 山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八○
藩山の経歴 第二 審山の寧説
第二二 章 二輪 執 斎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 八七
執 斎の 経歴 第二 執 斎の寧 説
第四 章 大臨中斎・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・・ ・ ・・ ・ ・ ・ 九三
中斎の経歴 第二 中斎の寧説
第五 章 陽明 寧の 系統・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・ 一○○
一 陽明 寧派 第二 朱 王 融合派
第二二管編 復古寧: 一○三
第 一 章 伊藤 仁斎 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。。、、。・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 一○三
仁斎の 経歴 第二 仁斎の寧 説
第一一章 伊藤 東涯: ・・・一 一三
次 三
臼 次 四
第一 東涯の経歴 第二 東涯の寧説
一 一八
第三 章 山鹿素行・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・・ ・・・ ・ ・・・・・・、、。・ ・・ ・・・
第一 素行の経歴 第二 素行の寧説
第四章 荻生祖 徳: ・・・ 一二七
第一 祖 徳の 経歴 第二 祖徳 の寧説
・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ ・・ 一三五
第 五章 太宰 春 豪・・・・・・・ - - ● ● ● * - - - - 』
第一 春豪の経歴 第二、春豪の寧説
一四一
第六 章 復古 寧 の 系統・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一 仁斎派 第二 祖徳派
第一二 素行 派
第四篇 折表學 。・ ・ ・ ・ ・ ・ 一四三
第 一章 井上金 峨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第一 金戦の経歴 第二 金戦の寧説
、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 一五○
第一章 皆川 洪 園 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・
第 洪園の経歴 第二 洪園の寧 説
第二二 章 田 錦城・・・・・・・・・・・・・・・・・ 、・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 一五三
写J
錦城の 経歴 第一 錦城の寧説
第四 章 折 東 寧の系統 * * ・ ・ ・ ・ ・ ・ - - - - - - 』 』 、
一五九
第 金城 一派 第二 爾除の 折 吏寧者
附 録 近世の 倫理 寧書 - - - - - - -
:: 一六一
第一 章 朱子寧者 、 ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 一六一
第 一 藤原握高千代もと草共他著書
第二 林羅山 備門 思問録 共他著書
第三 山崎 闇斎 仁 説問答 共他 著書・
第四 貝原 盆 軒 慣 思録 共他著書
第五 藤井 欄 斎小 博及 ひ 著書
第六 西川如見全
次 五
-
目次 六
第七 井澤 幡龍 全
第八 闘 一楽 全
第九 室鳩集六 論行 義大 意共他著書
第七 中村 陽斎小 博及 ひ 著書
第十一 五井蘭洲質疑篇 共他小博及ひ著書
第十二 雨森芳洲 橋窓 茶話 共他小博及 ひ著書
第十 三 佐藤 直方 小 博及 ひ 著書
第十四 浅見綱斎 聖寧圓講義共他小 博及ひ著書
第十 五 三宅尚 斎小 博 及 ひ著書
第十六 中村蘭林 講習除筆)共他 小博及 ひ著書
第十 七 那波魯 堂 學問源流)全
第十 八 尾藤二 洲小博及 ひ著書
第十九 頼春水と否拝全
第二 十 安積 良斎 良斎間話 共他小博及 ひ著書
第甘 一 曾澤 正志 小博 及 ひ著書

● ● ● - * - ● ● -
陽明 寧者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
● ●
第一一章
第一 中 江藤樹 藤樹先生寧 術 定論)共他著書
第二 熊澤 藩山(聖義 和書、外書)全
第三 三輪 執 斎(日用心法 全
第四 三重松庵 小 博及 ひ 著書
L
写外 子 中根 東里 東 里外集 共他小博 及 ひ若 書
第六 大臨 中斎 洗心洞割記)共他著書
第七
佐藤一斎 言志四録全
第二二 章 復古 寧者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第 一 伊藤仁斎 語子血字義、童子問)共他著書
第二 伊藤東涯 撃問闘鍵 復 性携 訓幼 字義)全
第三
第四 太宰 春 豪 聖寧問答)全
第五 山懸周南 小 博及 ひ著書
第六 山鹿素行 聖教要録、武 教 小學)共他著書



岡龍洲本興録共他小備及ひ著書
富永 治 浪 古寧 遊 疑 全
第四章 折 裏寧 者・・・・・・・・・・・・・ ・・
第一 井上 金 峨 経義 折 吏 共他著書
第二 片山 盆東山(山子 垂統)共他 小 博 及 ひ 著書
第二二 皆川洪園著書
第四 細井平洲 喫鳴館 遺 草)共他小 博 及 ひ 著書
第五 太田 錦城 疑問 録、仁 説要義 共他 著書
第六 携 位 山 教 寧 遊 共他 小 博 及 ひ 著書
第七 朝川善 庵(仁義 略説)全
第五 章 爾 除の 諸 寧者: :
第一 石田 梅 嵐厳 小 博及 ひ 著書
第二 三浦梅園 督 語、敢 語)共他小 博及 ひ 著書
第三 手島塔 庵 小 博及 ひ 著書
第四 鎌田柳 温 四名 公語録 共他小 博 及 ひ 著書
第五 二 宮 奪徳 小 博 及び著書
第六 廣瀬淡窓 全
第七 塚田 大峯全
別録 引用原文井に 参考要句
日本 佔 理 中文 編
及 立 東側 業
概 論
日本 修理 の 一 張 を 知ら ん と 彼 は、音 人 は 先 グ 東洋 艦 理 特
に 信教 の 種 概 を 知る を 要 す、德 教 は 負 に 日本 國民 を し て 完
教 以外 に 立ち て 人 偷 道德 の 要旨 を 知 了 し、以 て 飛 が 開國家 航
會 の 今日 ある を 設 さ しめ たる もの なり 両 し て 艦 教 は も と
其 起源 を 支那 の 古代 に 愛し、宋 明 の 時代 に 至 て 始 と 一種 の
倫理 學 を 形成 し、之 を 飛 國 に 伸 ( \^近世 三 百 年間 に 於 ける
道德 の 基礎 を 提 《 たる もの なれ ば、日本 修理 を免 % , 9%
する 者 は、必 守備 教 の 起源 及 が 施 史 の 一 部 を 原 れ さる べ か
族 論
概論 二

ら ず。
第 一 儒教の起源 東洋の 一大古國たる支那にありて
は、今 を去ると殆ど五千 年以前に於て、一國の 賢哲推 されて
帝位に登り、民衆の産業を奨励して生活 上の 需要を充たし
め 之と同時に赴交的道義を教へて人々相互の闘係を和融
せしめたり 支那人が今に於て発愛の治を響するは之が貸
めなり 共赴 交的道義とは他なし(一)君と臣との闘係 二)父と
㎞。 子との闘係(三)夫婦の闘係(四長幼の闘 係(五)朋友の闘係を 知
らしめしこと是なり、面して君臣 父子、夫婦の三を三 綱とい
な 之に長幼 明友の一一を加 へ たる五倫を五典と呼び、撃 けて
以て人倫道徳の要旨とす別言すれば 君臣の間の倫理を義
といs父子の間の倫理を襲といひ 夫婦の間の倫理を別と
いふこれ即ち三 綱にして之に長幼の間の倫理なる序と明
友の間の倫理なる信とを加へてNを五典といふ也
儒教は質に以上の人倫道徳を教ふるものにして礼子之を
唱 へ、子思、学血子之を継ぎ、代々 祀 述して、終 に東洋 の 一大徳 教
と成れるものなり (一)
第二 孔子血の教旨 孔子は古聖の旨に則りて人倫道徳
○○
を説きしものなり面して専ら忠想によりて仁を行な 以て
鯨型

子血 人
道 観説
説 天道の規律あるに合せんと志せり子思之を承けて始めて
* ○
性 の 如何 を説き、「天 の 命ずる 所 これ即ち性 にし て、共性 に
率ふを道といひ 共道を修むるを教といふ 故に道なる者は
吾人の 須 曳も 離 る べから ざる もの にし て、離 る べきもの は
(三)
道に あら ざる 也」とい へり、子血子 に 至て は更に共説明 を敷
行して 人心の如何を説き人にして共心を霊せば共性を知
り共性を知れば天を知るべし故に共心を存じ共 世を養ぶ
-
概論 三
概論 四



しれる は」「



なり
ふ所以備
萬皆

るい物
とへり

恐”は


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%




はなし
より
こ大

*


*




行 り
て な


彼の
ふ 仁を求むる、これより近きはなし」と、これ人倫道徳
要を周密に説明せしものなり面して監子終に目く 人の寧
い -○**
ばずして能くする所の者は共良能なり 慮らずして知る所

、、 L・十 *
論 の者は 共良知なり」と、これ人性 研究の端を開きしものにし
て、学血子は 貸 に人性 を以て善 なる者とする に 至れり、然るに
菊子後に出て、監子の性善論に反封して性悪説を唱へ標
子雲 に至 て予血荷一一子の 説を折 吏 調和 せんと試み しも成ら
ず 後ち秦の 始皇帝天下 を統一 する に及び、儒教 を以て國政
に害あるもの とし、儒書を楚き 霊したれば、孔子血の教旨は 一 *
時 世に 滅びたり。
第三 偏教の復興 秦亡びて後ち漢の代となり 復び儒
教を採用するに至りたれば撃者潮く出て、先王の道を研
究するに及べり、されど常時は古書菓集の時代なりしを以
て、寧者の従事 する所は多くは 之が誌 響に止まり、未た深く
倫理問題の研究に進まさりき僅に董仲釘が性は善質あっ
て未だ善たる能は ざるもの也」といひ、又予血子の唱 へ し仁義
濃智の 四徳に信の 一徳を加 へ て之を五常といひ 始めて五
倫五常の名義を出し 楊雄は 性は善悪混ず」と いひ 韓念に至
り、性と情とを別ちて「人の行貸に善悪分る 、は性情の然ら
(八)
しむる所なり」と説き 王安石は之に反して性と情とは匿別
すべきものにあらずして 一なり」と説きたるに過ぎさりき
(九)
然るに五代を経て趙宋に及び 潮く哲寧的 研究に進み、周茂
叔は太極 圓説を作りて「陰陽二気の交感によりて萬物は化
生するものにして人は萬物中の秀霊なるものなり即ち性
概論 五
概論 六
は善なく不善なきも物に感動して善悪分れ萬事出づ共物
に感動して善悪の分る、所を幾と名づく と説き張 載は気
質 説 によりて、「性 の人に 於ける善 たら ざる なきも、た 、気 に
松て偏せる所あるが故に往々悪あるのみ即ち人は共質行
上共性の作用を完からしめざる気質の性を鍵換して天地
の性たらしむべし然せば善たり天たり得べし と説き部康
節は敷を以て継ての判断を下さんとし易を以て数理的に
天道を解響して倫理説を立て天時を以て人事を験し人事
を以て 天 時 を 験 せん と試み たり、これ 皆 儒教 の倫理 的 基礎
を築 かんと するもの にして、斯 寧復興 の運 に 向ろいしものに
外なら ず。 、
第四 程子と朱子 二程子に至り古聖の天道説を信じ
専ら孔子血の教 旨 を祀述して性 論の 基礎を築かんと 欲し、子血
子 の 良知良能説 に 基き、人は 絶 封 の 善意ある もの にして、発
は善 なり、故に「心本と善 なるも、思慮に発して善あり不善 あ
り若し既に発すれば則ち之を情といふべし之を心といふ
べからず」と示し、かく、良心の存在 を説きて 後、全 一良心 を具
する人にして聖賢の別ある如きはこれ理は一なるも 気に
於て清濁 を別 つ 故なりとし 説い て 曰く「性は 理 なり、理は 売
愛舞 より途人に 至るま て 一なり、オは気に真く気は清濁 あり、
皆善に至って性の本に復るべし湯 武は之を身にするもの
なり、孔子の 所請下患移ら ざる 者は 自暴自棄の人なり」と、以
上を程子の理気説とす。朱子比理気説を承け之を擁充し
て一元論を開き、面して窮理の功によりて性善 を発揮すべ
しとて説い て 日く、気 には清濁 あり 共純清 なる者は本然の
概論 七
概論 八
性にして、否 らざる者は気質の性なり」と、かく本然、気質の雨
性 を示して日く「明徳は人の 天に得る所 虚霊味 からず、衆理
を具 へ て 萬事に應ずるものなり、但 だ 気 真の 拘する所、人欲
の厳 ふ所となれば、時ありて 音し然るに共本妹の明は未だ
賞 て息まざるもの なり、故に寧者共務する所に因りて、遂に
之を明か にし、以て共初に復るべきなり」と、これ 寧問により
て多くの 書物を讃 み、事物を窮 め て 気質の清濁 を知り 共閉
塞を開くべしといへるものなり乃ち共工夫を説いて目く
撃者の工夫は唯だ敬に居り理を窮むるにあり共二事互に
相務す能く理を究むれば則ち敬に居り工夫日に貧 々進み、
能く敬に居れば則ち理を窮めて、工夫日に奪 々 密なり」と、こ
れ所請 窮理 説にし て、即ち寧問を必要とし居 敬と窮理とに
よりて、知を進め、行 を磨くべしと説けるもの なり
登 別々木子の 元論は遠く 寄 の に基づきて人金 の
別 を 立てしものた 0 歳 に日く 人心 は 光 和 愛情 欲 ある者
道 ら は別 是 九 歲 理 の 心 なり 以 て人心 の 主宰 たる べく間
し て 人 の 城 て 以 て 準 と すべ さ もの なり と 文 日くT人 の機組
樂 頻 た 知る 加 さ は 比 れ人心 なり 開 講義 思 は 道 小 なり 高松
の 如 * は 人心 なり 異常 さ に喜ぶ べ さ 所 を喜び、英 格 さ に 怒
る べ さ 所 を 経る もの は 道 小 なり 機 し て 食 を欲し 返し て彼
を 欲 , る 者 は 人心 なり彼 食 の 正 を 得る 者 は道 小 なり と 以
上 の 根據 に依 つて 殺 未 は 艦 教 の 修理 を 露 し、以 て 知 德 帝 行
の衣 に供 さん と ę < 0
第五 ︽ 山 と帰 明 小子 が 二元論 を 唱 《 し 時に 盛り?
職 と野崎して 元論を立てし ë 客 》雜食 而是たり 離し開
《 多く理 と いい、心 と いい 性 といふ か 如 さ は 全く 異體 後 の
概論 九
概論 -| O
方 而を 異 に せる 全 场 の 異名 に 過ぎ ず 最善心 地理 なる
、レし
のみ'政 に 日 <ſら は 一種 なり、至 當 | 2 號 》節慶 二 た し、比 心
此 理 實 に 1 % る べから ず、仁 即ち 此 小 なり、文 比 理 なり と、文
日く 人 皆 是 心 あり 心 者 是 理 あり、心肌 の 理 なり と、とれ 德 教
倫理 の 基礎 を 離心 設 の 上 に 築 かん と 企 て し ~もの なり、比 に
於 て陸子 は 更に 物心 の関係 に 及び て日 く 北 理 宇宙 を 集で 、
離か能く とを逃れん N に順 、 性 則 直之 に遠く は 即ち
其 家 級 は 別 ら 書 風 たり通後は 即ち 明知 たり 計 思 なる 者は
是 理 を 見 す、彼 に 多く は 逆 % ) で 知 を 設 す、明知 なる 者 は、
是 理 を 見る 放 に 能 く 貢 % で 以 て 吉 を 殺す と、文 日 くT 有 子は
物 を 投 す、小 人 は 物 に 役 やら る、大約 機 は 皆 我 に 在り、若 し 物
に あれ ば 間 の 物 の 時に 役 やられ ん と、とれ 我 が 心 の 理 に 従
へ は天下の事物 皆者 にし て吉 と する もの 皇帝 元論 の 無
ある所以にして全く長心の存在を明かにせしものなり 故
に 曰く「良心の人に在る や、或は 陥 溺 する所あり とい へ ども、
未だ 始め より混 然として 霊 亡 せ ざる なり、求むる所の者我
に在れば、未だ 求めて得ざるものあらざるなり」と
陸象山出て、後朱陸雨派の争論止まず撃者岐路に走りて
種々の言論を貸せしが元を経て明の代に及び王陽明出て
行陽

論知
一の

、雨派の 説を調和し、以て 儒教 性 論の寧 術 的 基礎 を定め ん


と せり、知行合 一説 即ち 是なり、陽明 先 づ 象山 の 説 を 祀述し、
唯心 の 門 を開き て 曰く、「夫 れ 物理は、吾 が 心 に外 ならず、吾 が
心を外にして物理を求むれば物理なし 物を遺れて吾が心
を求めば吾が心又何物 ぞ や」と、これ世 儒が理を以て物に存
す と するの 説を験 せしもの なり比 に於 て 知行 合 一説 に
びて日く「知は 是れ 行の始、行は是れ 知の 成 若し曾 得するの
概論 一一
-
概論 一二
時は、只 だ 一箇の 知を説くに、己 に自ら行の在るあり、又 一箇
の行を説くに、己に自ら 知の在るあり」と、これ知と行との相
離 る べき もの に あら ざる を説ける もの なり、かく て 陽明は
知行合 一説の根擁として良知を説明して目く 善なく悪な
きは是れ心の妹善あり悪あるは是れ意の動なり故に善を
知り悪 を知るは是れ 良知 善を貸し悪 を去るは是れ格物」と
これ良知に由りて善悪を知り面して善を貸し悪を去り得
べきを以て、知行は 一 なら ざるを得 ずとい へ る もの 也 然も
人に賢 患 の分る 、は共良知 を致す と 致 さ 、るとの別に出
づとて、之 を説明 して 日 く「良知良能は愚 夫思婦とい へ ども
聖人と全じ、但 だ 惟れ聖人は能く共良知を致す、面して患 夫
愚婦は致す能はず、比れ聖患の 由て分る 、所なり」と、乃ち格
物窮理の酷に論及して目く 格物は監子大人の君心の非を
格 す如く、是れ共心の 不正 を去り、以て共本然 の 正 を 全うす
べし但だ意思の在る所即ち共不正を去り以て共正を全う
するを要 す、即ち時として 虚として、天理 を存 せ ざるなし、即
ち 足れ窮理 なり、天理 即ち足れ明徳、窮理 即ち明徳 を 明かに
するのみ」と、これ 一意に共良知を致して窮理すべきを説け
る もの なり。
第六 明清の考霊撃王陽明 一たび出て、朱陸の調和
を園りたりと難も 到底朱 陸の 一方に偏 せる撃者を満足 せ
(一六)
しむる能はず特に羅飲順等の寧者頻りに競難攻撃せり 比
に於て陽明更に朱子晩年の定論と題し 考 謎 に依りて朱子
が晩年陸子に服したることを誇言せり然るに之を聞ける
朱子門下は共考謎の粗漏なるを論験し井せて王氏の所請
早 異 晩 全の説を反封に考誇するに至りしかば衛来學者間
概論 一三
概論 一四
に考謎を重んずるの気風を生じ、明 末に至りては朱 陸の争
一鍵して朱 王の争となり、朱寧は官朝に擁 り、王 寧は民間に
ありて共説を維持したる後、一朝雨派の勢力衰 へ、清代に至
るや顧炎武 毛奇齢等の寧者出て、大に考誇寧を鼓吹せし
かば、共寧隆盛を 極 むるに 至れ り。
(参考)
(一)孔子 名は丘 字は仲 尼管の裏 公甘年 に生れ 西暦紀元前五百五 十 一年貢
公十四年に卒す年七十三、三代の濃 楽復興を以て 任とす 論語等の著あり、
(三)子 思 孔子 の 孫 なり、中庸 を 作る、名は 仮
(三)子血子 名は阿 郡の人子思の門人なり、西暦紀元前三百 七十 一年に 生れ全
二 百八十八年に死す 性善論を唱 へ 監子の作あり、
(四)荷子 名は況 趙の人西暦紀元前三百年頃生る学血子 に反封して性悪説を
唱ふ衛子に寧びし者二人あり、一を韓非とし二を李斯とす 韓非は刑名寧
者 にして、李斯 は 秦の 始 皇 の 丞相 なり、
(五)董 仲 釘 廣州の人 韓非の後百年にして漢代に生る 性は善 たるべし悪 た
る べし と論 す、上琉 百 二 十三 篇 ありき、五行災異の 説を信 ず
(六)楊雄 字は子雲 (西暦紀元前 五 十 二 年に生れ、全十 八 年に死す)性は善悪混
ずとの論を唱 ふ
(セ)韓 念 字は退之 昌黎と 競す、唐 代の寧者西暦 紀元七百 六 十 八年に生る) 性
情 論 を唱 ふ
(入)王安石 字は介市 来最 宗帝天藤 五年 西暦紀元千○二 十 一年)に 生る 性情
-
、一 のみと唱 ふ、
(先)周茂叔 名は敦願道州営道の人 西暦千○十七年に生る 大極圓説と通書
と を著 し、太極論 を唱 ふ
三o張載 名は載字は子厚長安の人西暦紀元千O二十年に生る西銘を作り
て清虚 説を唱 ふ
(二郡康節 名は 確 字は幸夫 落陽の人河南に移り居す 西暦千○ 八年 に 生る)
易を以て数理 的に天道を解響せり
(三二程子 程 騒は字 を伯淳と いひ明道先生と競す河南の人西暦千○三十
概論 一五
概論 一六
一年に生る 共弟程 願は字を正叔といひ伊川先生と稲す、西暦千○三 十三
年に生る理気説を唱ふ 末代の湾儒なり
(三 失 子 名は 嘉 字は元晦 姿源の人西暦千百三十年生る)程朱 の 説を継ぎ本
然気質の性を立つ、宋代の湾儒 なり
( 陵象山 名は九淵字は子静 携 州金難の人西暦千百三十九年に生る 心性
説を 唱 ふ、宋代の濃 儒なり
(一五 王陽明 名は守 仁 字 は伯 安 除桃の人 西暦千 四 百 七十 一年に 生る 明代の
・鴻儒 なり、良知 を説き知行 合 一 論 を 唱 ふ、
二 雄飲順 整査と競す 西暦千四百六十五年に生る王陽明に反封して理気
合一論を唱ふ
(一毛 顧炎武 名は緯 字は常人 享林と競す 江南の 人明 末天啓元年 西暦千 六百
-
十三 年)に生る、考 謎寧 者
(一人 毛奇齢 字は大河 西河と競す 西山の人(西暦千六 百二 十三年に生る)考謎
學者
第七 日本の儒撃 儒教の我國に博はる や、寧 者競 ふ て
一之が研究に従事し、漢 寧の修習と共に、人倫道徳の要旨を味
ふ に 至りしが、南北朝 分立以後は、國内 の 騒 擬 止まざりしを
以て學者潮く共跡を絶ち催に京都鎌倉なる五山の碑僧等
が 譲 経の愛 ら漢文を弄びしに過ぎ ざりき、然るに徳川 氏三
百 年間の昇平時代に 入る や、文運 復興 し、寧者輩出 して 儒教
の 研究に従事するに至り、藤原 握賞 は 五山 購 僧の中 より出
て、朱子寧を首唱し 林羅山 全時に朱子寧を唱 へ 幾くもな
く 握窓闘 の弟子となりて盛 に共説 を鼓吹 し、終 に徳川家康を
して、朱子寧 を以て、我國徳育の基本 たらしむるに至れり。
かくて林 氏 の子孫は江戸にあつ て 世々 家 寧 を継承 し、握賞
の弟子松永 尺五の門下に木下順庵を出して共寧を築 へ し
めしが、これより先き土佐に朱子寧を唱 へ し谷時中野中傘
山等を出し共門下に山崎闇斎を出すに至て朱子寧は京都
概論 一七
概論 一八
江戸、土佐の三派に分れて 一世の流行を極むるに至れり、
比時に常 り、中江藤樹出 て \、始めて 王陽明 の寧を唱 へ、共弟
㎞の 子熊澤審 山大に共寧の 貸に霊 せしかば、陽明 寧は朱子寧に
封して、我國に於ける有力 なる 寧派として行は る 、に至れ
り、
既にして 伊藤 仁斎出 て 、宋 明 の寧 説に疑を挟み、古昔先王
の道は必ずしも宋明寧者の唱ふる如き煩魂の寧にあらず
何人も行 ひ易 き道徳 説たら ざる べからずと主張 し、論子血等
㎞。一 の古書に擁 りて古聖の最 意を得たりとし 始めて古 寧説を
唱 へ 共子 東涯 また盛に共説を鼓吹して 宋 儒 の 説を排 せし
が 全時に山鹿素行出て武士日常の修徳上より従来の教寧
の番 く理論に馳せて質際に資すること少きを概し 直に古
代道徳の眞相を明らめんと期し幾くもなく荻生祖徳出て
先王の道は仁斎の唱ふる如き道徳説にあらず全く治國安
民の道たるに過ぎずとし 之を政治的に解響して復古説を
唱へ Hっ秦漢以上の古文解を修めて詩文を弄び 共弟子太
宰春豪盛に復古説を鼓吹 せしかば 諸種の古寧説は 一時赴

曾 を風魔 するに 及 べり、
比際 朱子寧者なる貝原盆軒は晩年に及びて 程朱寧の俳老
を参面せるを認め明備離飲順の説に基づきて共意見を務
表し又陽明 寧者なる三輪執斎は盛に共寧を唱 へ しかば、濁
り室鳩巣の朱子寧を維持せるあるも大勢は終に四分五裂
の状 を呈し 幕府徳育の基本をして 殆ど動揺 せしめ んとす
るに及 べり、
比に於て 寛政 年間、更に朱子寧を以て官寧とし、大 に共寧の
復興を園り、全時に朱子 寧以外の撃者の仕途を禁ぜしかば、
概論 一九
-
旗 論 二C
學界 時 顯然 として論争 を高め たり異學の 禁 とい ぐる 是
なり、比 時に 常 小、所 表 考證 の 勢 較 小 紅 》并 上 金城宮川 菜園
大田 銀 城等 を出さ しめし が 後ろ 作 靈 寶等 の如 自德~
።¶s*******
東 の 本 高く 正 心 に至 九 0 以上 を 求 國 傳 學發達 の概要とす
(註解)
玉島 是 藤 二 州 の 正 學 指 掌 に 目 (公子 群 臣、夫婦 長 約、明 安之 を 王命 とい S
** * 作之 を 元 興 とい 金像 は 物な<王 景 は 異なり歩に就 て英
理 を 免れる な すま子 の 言 に格物 真光,於 五 品 と s < 6 五 品 は 即 ら 五峰 た
强烈 强 は ットムル 也 想 の 道 を 納め 行 ム とい ,
武城 闇 の 祖 場 王 と周 の 祖 武王 とと並 改 稱 す
楽寺 業 は 城市 の 氏 なり 非 怖 の 世に 於 て 時 の 史官 學術 の 事業 安 氏 春香 の
事 館 等 を 記 せり 放 に ク を 優香 と s {
早異晩同の説 朱子は初年には陸子と共説を異にせしも、晩年には 之と説
を同 うせり、とは王陽明の唱 へ し所なり 故に早異にして 晩全といふ 撃蓄
通携継序中に記して目く「意らざりき、近世一種早晩の説を造貸して、廻 ち
請 へ らく、朱子の初年、所見未だ定まらず 誤 て象山を疑ふ 面して 晩年始め
て 悔悟して象山と合 ふと 共説差し趙東山の 江 右の六君子 に 封 ふる策 に
萌して面して、程算撤の道 一編に成る近日に至て王陽明之に因り、又朱子
晩年定論を集貸す 比説既に成て より 後人復 た考ふるに暇あらず、一切に
擁信して、共早晩を願倒し 朱子を橋 護して以て陸寧を弾 縫することを知
らず」と 寧菊通 群は朱子携獲の書なりと難も、以上の文字によりて早異晩 -
全の意を審 かにすべ し 寧 燕 通舞 の事別に 之を出す
五山 北條氏の代に鎌倉に建長園 豊 毒 顧浮智 浮妙の五大寺建ち 之を鎌倉
五山と稲す 足利氏之に倣ひて京師なる建仁 東顧 南碑 天龍 相園の五大寺
を以て京都五山と稲せしむ何れも臨済碑寺なり藤原握常の寧びしは比
京都五山中の相園寺なり五山は最初ょり銀倉と京都と分立せし*のに
あらず 一時は五山第 一 の格を南弾寺とし、大徳 寺之に準し、之に 次げる建
概論 二一
概論 二二
仁、東 幅 高毒、建長 園 豊 を五山と稲 せし ことあり、又 建長、南輝 雨寺 を第 一、圓
豊 天龍雨寺 を第二、毒 顧 を第三 建仁 を第 四、東 幅 を第 五 とした る ことあり、
降て五山の上を南碑寺とし第 一を建長天龍第二を圓畳相園第三を書 顧、
建仁第四を龍智東顧第五を浄妙高 とせしことあり北朝至徳三年に至
り 幕命 により、始めて 京都、鎌倉 五山 分立せり。
第 一篇 朱子 寧
第 一章 藤原握高
第 握高の経歴 藤原握高は名 を粛といひ字を飲夫
といふ、握窓岡は共跳 なり、正親町天皇の 永藤 四年を以て 播磨
國三木 郡 細川村 に生る、幼 にして 碑 童の 稲あり、天正六 年四
月別 所長 治の貸に共領細川邑 を侵 抗 せ られ、父兄之 が貸 に
戦死するや 怪賞一族を撃けて京師に移り住し相國寺妙毒
院に高して書を讃み 幾くもなく共博識 一山の推す所とな
れり 既にして備説を疑ふて儒寧に志し天正十九年肥前名
護屋に 赴き、太 閣征韓の陣中に ありて小早川秀秋 の客と な
り、又徳川家康に謁 して 道を説き、文 藤一二年江戸 に行きて 家
第一章 第一篇 藤原握高 二三
第一章 第一篇 藤原握高 二四
康の貸に大寧 及貞観政要等の書を講 し、一朝志を立て 、明
國に遊はんと欲し舟を筑紫に継せしが 海上風波に達ふて
果 さ ず、曾 々四書 新誌 を得て 反覆熱讃し、道比に在りと貸し、
遂に霊く奮寧を棄て専ら朱子學を興すを以て、一生の事業
となすに 至れ り、
慶長五年九月徳川家康の入京するや展 々握高を召して道
を問 ひ、貸 に大學、漢書 等を講 せしむ 幾くもなく 家康幌陸窓間を
登唐せんとせしが、握箇之 を欲 せす 共高弟林 羅山を薦めて
自ら洛北市原村に隠居す、既にして慶長 十九年林 羅山建言
して寧校を京師に建て握高を以て共主となさんと請ふ 家
康之を嘉納し、命して土地 を相 せしめしが、曾 々大阪の役起
り家康尋 て夢 せしかば共事止めり かくて後元和五年将軍
秀忠の入朝するゃ鶴高を延見せんとせしが命未だ下るに
及ばず九月十二日握高病を以て残せり年五十九
これより先き宋寧の書を講ぜしもの南北朝時代に僧玄恵
あり尋て京都五山の僧徒等赤時に共書を締きしも未だ世
に弘むるに及ばず 提臨一たび出て共説を奉じて専心之が
鼓吹を勉め 共門下に林羅山 松永尺五、那波 活 所等の高足を
出せしを以て朱子寧潮く我園に行はる、に至れり
第二 握富 の撃 説 握窓岡は朱子寧を首 唱 せし寧者 にし
て、別に 異説 を立て しもの にあらず、されば 唯 だ 朱 説 を敷 行
して人に説き以て世教道徳の如何を明かにせんと期せり
管て天道を論じて目く 天道は理なり比理天に在て未だ物
に賦せざるを天道といふ比理人心に具へて未だ事に應せ
さるを性といふ性も赤理なり 霊し仁義濃智の性はかの元
享利貞の天道と名を異にして共質は 一なり 九そ人理 に順
第一篇 第一章 藤原握高 二五
第一 篇 第 一章 爾東條街 二六
《 性 則 天道 其中 に作 》 而し て天人 の加さ~ のた 0%
に 御 《 性 則 ら 人 欲其德 に勝つ、而 し て 天 は 是 れ 天 人 は 是 九
人なる 形 に 君子はカを 用いて天命 の管理 に彼る と とを
知る 小人 は 彼 を 神 にし て 後 戰 に 近づく と と を 知らず 元々
(三)
文 日く 大道 と は 天地 の間 の 主人 たり形 も なさ 能 に 日 に見
《 文杰 れ とも 容易 被 各 の 攻 第 の みだれ ぬ 如く に、四 時 を 行
<、人間 を 生 する 事 も 死 ささ 質 なる 事 も、五 級 を 生 する 事 ?
ム な 天道の所持 た 0 人 の 心は形なくし て直 ~ S 生人
| J たり、人 の ささ 後 す だ の は ヴ れ ま て も 比 心 & # 鰓 ら ず と
| 3 % 承 なさ が 如 し、比 人心 天 より わかれ 來 ~ て武 が 心 と な
る 位、も と は 天 と 一 款 の もの なり、比 大地 の 間 に、ある と あら
| ㎝ る もの は、みな 天道 の はら の 内 に はら ふれ ある 北、たと 《
『大義の に のは す であると金の書の3 *
て も、水 の 行渡らぬ といふ こと なし、人の 心の 内 へ も 天 の 心
の 行渡ら ぬ といふ ことなし、故に 一念 慈悲 を思 へ ば、共念天
に通じ、一念悪を お も へ ば共念天に通ずるが故に 君子は濁
をっ、しむ と これ天道に則りて人倫を律せんとするもの
にして軍章 儒教の天人 一致説なり、
説高
理悼

握常 又、明徳 誠 敬の三を心のつ 、しみなりといひ、仁義濃智


信の 五 を人々 日夜朝 暮の 所作なりといひ即ち 心の つ 、し
みによりて五常の道を行はしめんと期せり面して之を人
事に配せば君臣 父子 夫婦兄弟明友の五倫となる即ち 人に
して 先 づ 明徳 を明か にし、次 に 心 を誠に し、次 に共 貸す所 の
所作 を つ 、し みて、心の 内 をみがき、共上に 五倫 五常を 偲 な
く おこ な へ ば、我 身 ながら聖人となりて、天道と 一妹 なり」と
い へり、よく通俗に 倫常を説明 せ しもの といふ べし、
第一篇 第一章 藤原握高 -
二七
-
第一篇 第一章 藤原握高 二八
(四)
尚ほ儒備の別を論じて日くT響迎備 一切経の中に、心はある
もの なり、極楽地獄もあるものなりと説きたる所も多し、又
心もなし極楽地獄も なしと説きたる所も多し 然れば心は
な きもの ぞと落着たり、心ある もの ならば、暇 初 にも心は な
きもの ぞとは、説き給 ふ べからず、然らば後生はなさ ものに
落着たり、ふかく思惟して、よく 〜 心得わけたま ふ べし、儒
道には比 性は天の性 をうけ得 て 生れ、又もとの 天の性 へ 騎
ると落着たり、然れども心に詐 りて人をそこな ひ、人を妬み、
心 よこしまにして奮 りを極めたる ものは、比世にては天の
せめをうけ共身ほろぶるか又子孫に至りてほろび又死し
て後共心流 涙して、天に か へら ざるなり、これによりて 天を
恐れ、明徳を明かにして、心を誠にし、五常五倫 を おこ な ひ、慈
悲を専らにして、比性の天の本土にか へ る事をたのしむ、天
にいのり所蔵して、か へ るにはあらず」と、これ 一意世 教を以
て道徳 を維持 せんと欲 せ しもの に外なら ざるなり。
-
-
(参考)
一 握高文集中五事の難の一部
(三)より(四)握高 著「千代もとくさ」に あり
(誌 解)
元 亭利貞 易 の 語 にし て、元は 大、享 は通、利 は 宜、貞 は「正 にして 堅固」なる 意 に
て即ち「大に通る 貞に宜し」と訓す 文意は大に通りて何事をも貸し得る君
道 に て も、若 し 勢に 乗じて事を貸す のみ にて、正 にして堅固 ならざれば 共
末を途 ぐる能はず、終 に は國家 を敗 り共身 を亡ぼす べし、易 経の 初 に 乾 は
元 亭利貞とある足なり、詳しきは 易 経 を 観 よ
第一篇 第一章 藤原握高二 九
第一節 第二章 * |
O
第二章 統 解山
第 業 出 の経歴 際 鐵 山 は 名 を 思 义は信義 とい 小
を子信 とい 金山 は北魏た 0 地帶をス三郎とい< 後も適
春 と改 お 天正十 年 人 月来都 面 後に生 る効 にし て撃 に志
| - \ ㎜ 車 の 名 あり、文 祿 四 年 十 一 歲 にし て 元 服 を 加 《建 仁
寺 大 統 府 の 恋情 に 就 て 書 を 読み、衛 來 書籍 を 古方 に 素 め 信
株 0て 研究し 龐 長王 年始めて木子集計 を踏み て大 にク に服
し 事 ら木子學を 興す を以て 任 と する に 至れ り
此 時に盛り離開 祖朱子學を 唱 《基金小 0しかば 攜=
* (邈
* 軍に入る 事业v N にし+ 年金をなし て
駿府に至り家康に謁し又江戸に行きて将軍 秀忠 に謁 し、日
に書を講じて道を説き、一先づ京師に騎りしが、翌年又駿府
る顧川羅

。なの徳
間密県

に至り、これより毎歳東西の間を往復し十七年終に命を承
けて 駿府に移住し 常に営中に侍して家康の顧問となり、元
一 和二年家康夢 ずるや職を賜ふて京師に還り全四年江戸に
行きて宅地を賜ひ賞永元年四月旨を奉じて将軍家光に侍
し、全三年八 月将軍に従ふて京師に出て、六年十二月 弟信 澄
と共に民部 卿 法印 に叙 され、七年冬 地 を席 下上野 に賜 ひて
別撃となさしむ 九年冬尾張公義直大成殿を羅山の上野別
壁に築き親ら先聖殿の三字を書して堂額とす羅山乃ち共
地に 文庫 を建て 、群 籍 書像を 蔵 せしが、十年一月 初めて先
聖 殿に響 雲の濃を行ひ、四月将軍家光来りて聖堂を見、十 一
年三月大厚一字を賜ひて先聖殿の傍に移し建てしめ 魔安
第一篇 第二章 林羅山 三一
- 第一篇 第二章 林羅山 三二
四 年四 月将軍家光夢 じ、八 月家綱将軍となる や、遺命を以て
羅山に乗邑を賜s明暦元年夏銅瓦庫一字を賜ふて家塾に
移し建てしむ 然るに三 年正月 江戸大火 あり、羅山 の宅赤共
災に羅り、銅 庫別 庫皆 烏有に騎 せしかば、これ より羅山 病に -
駄 し、全月一一十三 日遂に 残す年七十 五。
、第二 羅山の撃説 羅山は程朱 説によりて経史を講ぜ
し外創見として 見るべき もの甚だ 少かりき、されど幕府文
教の衝に常りしを以て質践倫理の上には常に共心を募し
たり 管て孝経の語 身妹髪膚は之を父母 に受く 敢て段傷せ
さるは孝の始なり」と濃記の語 戦陣勇なきは孝にあらず」と
は雨立するや否やとの間に答へて目く 比孝経の孝は必ず
しも形のみを意味せるにあらず身妹を庇保するの上に心
にも邪 曲あら ざるべきを以て せるなり、然 らば戦陣に臨み、
死すべき時に死 せ ざるは義にあらず、義をやぶるは心を段
へるなり何ぞ之を以て孝と貸すことを得んや然れば孝と
義と封比して、よく共軽重の度を時に臨みて測 知 せ ざる べ
からず」とこれ常時潮く文化に向はんとする戦國武士の迷
夢を解きしもの也 又論語に「父母在 さば遠く遊ばず」といひ、
濃記に出るや必ず告げ、反る や必ず面す」とい へ ると抵鋼 せ
さるや否やとの問に答へて目くェ語は必ずしも文字上の
意味のみにあらず父母の膝下にあるも憂へて標はさるこ
とあり、百里隔つとい へ ども、父母の心脱ぶ事あり、即ち遠く
遊ばずといふは、子たる者の大法なるも、或は主を求めて遠
きに赴き 師を尋ねて他國に行く、これ必ずある べき義なり
されば家貧しく親老て共子仕 へ ざるは孝にあらずとい へ
ども、藤 を得るは、もと 〜 親を養は ん 貸 なれば、よく義理 を
第一篇 第二章 林羅山 三三
第一篇 第二章 林羅山 三四
はかりて、主 に仕 へ ざるべからず、己が身 をのみ思みて父母
を忘る 、は又孝に あらず」と、これ赤時勢に應じて孝道を説
けるものなり羅山又例を支那の三十四 季に引き挙の眞意
を示して目く 作金 過あり共母之を答っ色 奪泣けり母目く
義 に子を答っに子未だ伴て泣かず然るに今泣くは何そゃ
封へて日く金 罪を得答る、毎に痛めり今母の力我を痛ま
しむるに及ばざるを以て泣く とい へるは、これ孝道に適 へ
りされど又二十四孝中に部巨家貧にして母を養ふ部 巨一
見あり 母この見を愛し郭 巨 が進むる食物を取りて先づ之
を興ふ 郭巨乃ち養 ひに堪へ 難くして見を埋め殺 さんと思
み、見を携 へ て 或 虜に行き、地を堀りしに、一 の釜 を得 たり 題
して天賜孝子郭 巨 とありき、まことに孝行の感ずる所 奇特
不思議なり」とい へ るは孝道に反 せり 稲賛すべきにあらず、
何となれば比の如きは健律により金の釜を得て母子を全
うするを得たりしものにて若し比事なくんば 郭巨は親を
養はんために子を殺すに至るべし古今孝をなす者多しと
難も部 巨の如き患者を見ず 若し不幸にして 見を殺せば軍
意共親をして無事の幼子を殺さしむると全一にしてこれ
親をも不義に陥る、ものなり何れの國にか子を埋殺して
親を養 へ と教ふるものあらん や 愚の極といふべしと、か
くて後羅山は結局に於て親に事ふる道を説いて目く悪意
孝とい へるは親の志を安らかに養ふ ことにして、ロ 妹をの
み能く養ふにあらずそは子富貴ならば親に封して欲食衣
服居虜 器物以下奴僕に至るまて之を満足せしむるは 最も
容易の事にして誰人とい へ ども通常貸し得ることなれば
なり さればた 、親の心に従ふて之を脱ばするを養ふとて
第一篇 第二章 林羅山 三五
第一篇 第二章 林羅山 三六
孝道の至極とす」と皆至言といふべし
参考) 一)より(五)まて林 羅山著 儒問思門 録 中に あり
第三 聖堂 の起源 四 代将軍家綱の時、林羅山の開きた
る塾舎 に 弘文 館の 名 を賜 ひ 寧 科 を経科 史 科 讃 書 科、文科 和
學科の五科に分ちて生徒に教へ生徒には月々魔米を興へ
塾舎 を増して 東西南北の 四 塾となしたり、然るに五代将軍
綱吉大に文寧を嗜み、林家の 私塾を以て更 めて幕府の有と
し、弘文 館 を湯島坂の上 に移し、共坂 を昌平と名づけ、孔 願を
大成殿と命じ、之を継 稲 して聖堂と 呼び、綱吉 自ら 書 を比虚
に講じ林家をして代々寧事を掌らしむ時に羅山の孫風岡
共博寧父祀に譲らざりしかば命を請けて書を大成殿外門
に於て講ぜしに士庶の聴講順る多く常に舎内に溢れしと
いふ、爾来江戸聖堂は代々 林家の 監 する所となり、徳川 氏時
代 に 於 ける 武 國文學 の 植樹 となり、諸 藩 それ ~) に N た 模
し て 軍校 を 各地 に建 つる に 至れ り、
(參考)
支那の 二 十 四 季 大 秦漢 の文帝高宗于南関 子樂 會 參 王龍塘 菜子秦時廣東
人親善堂本東 省、王政 部 日本 義員列 子葉 原東 戰 與陸續 與 李 提議 の 兄弟、田
真田 原田 義の兄 場 與安 山谷 以上 二十四人の家行 を欲したるものた ~
第一篇 第二章 は 細 山 三七
第一篇 第三章 山崎闇斎 三八
第三 章 山崎闇斎
第 一 闇斎の経歴 山崎闇斎は名を嘉といひ 字を敬義
といふ闇斎は共跳なり 通稲嘉右衛門元和四年十二月九日
を以て京師に生る幼にして能く経を讃み詩を賦す 母氏共
子を育っること厳正常に誠めて日く鷹は餓ゆるも穂を陳
まず 士人の子は宜しく志を向ふべしと面して闇斎を待つ
こと特に厳なりさ、之を以て闇斎自強して讃書し 妙心寺に
入りて徒弟となり絶蔵主と稲す時に土佐侯山内一豊の弟
僧となりて全寺に在り闇斎を見て大に之を器とし土佐に
出て、高知吸江寺に寧ばしむ闇斎時に年二十三比時に常
り土佐に谷時中野中衆山等の士ありて儒寧を研鎖し闘斎
をして経群を譲ましむ間斎即ち四書及び朱子文集等の書
を譲み大に感ずる所あり霊く奮撃を棄て、儒撃に騎し 衛
来力を極めて備教を排す土佐侯之を祀て標はす終に闇斎
を逐 ふ 闇斎比に於て京師 に騎り、一家言を 立て 、朱子寧を
順 ふ、既にして萬治 元年春 江戸に遊び 笠間侯井上正利に 知
られ 又加藤泰義に厚遇せらる従遊者潮く多し寛文五年夏
曾津侯保科正之 の聘に應じ、常に共 左右に侍して書を講ず、
侯大に信任せり 闇斎曾 々碑道に心を傾け、九年秋伊勢太廟
に詣て大宮司精長及び出日延住に學び 十 一年十一月唯一
碑 道の秘博を吉川推足に受け垂加霊赴と競し京都にあり
て大に碑道を鼓吹 し、天 和一年九月 十 六 日 病 残す、年六十 五、
闇斎天資豪適にして門生を教ふること至厳 之を以て弟子
長服したり浅見綱斎佐藤直方三宅 尚斎の如き門下中の傑
出せるもの なり、面して共寧 一時大に行は れ、門弟 六千 除人
第一篇 第三章 山崎闇斎 三九
第一篇 第三章 山崎闇斎 四○
を以て数ふるに至れり晩年碑道に騎し垂加碑道を唱へし
を以て世人偉とせしも、高弟 浅見佐藤以下共門を去る 者少
からざりしといぶ、
第二 闇斎の撃 説 闇斎の朱子 寧は 之を土佐 派に得 た
るものにして共寧風自ら握高羅山 と異なるものありき 善
し闇斎の見地よりい へば握高の如きは勇ら陸子を寧ぶも
の にして旨県 の朱子寧 にあらず、羅山の如きは共師 説 を奉ず
闇斎學の
特色
るのみにして、雑 験言ふに 足らすと即ち 一 に程朱を標準と
して 経を講 し 理 を窮 め、記 謡 を付け、文 鮮を践 しめ たり、故に
共學自然に厳唆にして他を排するの趣を具へたり審 て自
鹿洞書院掲示を堂に掲け後に記して目く㎞)籍かに古
昔聖賢の 人を教 へ 寧を貸す 所以の意を観るに、之をし て義
理を講明して以て共身を修め然る後推して以て人に及ぼ
さしむるにあらざるはなし 徒に共記覧を務めて詞章を貸
し、以て撃 名 を釣り利 藤 を取るを欲する のみ にあら ざるな
り今人の寧を貸す者は即ち既に是に反せり 然も聖賢人を
教 ふる所以の 法具 さに経に存す 有志の士 固より常 さに熱
讃 深思して之を問 耕すべし 荷 くも共理の常然を 知りて共
身を責むるに必然を以てすれば則ち夫の規矩禁防の具豊
他人の之を説くるを待ちて後に持循する所あらんや と以
て共謹厳 の寧 風を想 見す べきなり、
㎞ 闇斎常て性に率ふ 之を道と請ふ を説きて日く言ふは共天
に得て以て生 する所の 者に循 へ ば、則 ち事 々 物 々 自然なら
ざるはなし、各 常 さ に行く べきの路ある、是れ 則ち所請道な
り、蓋し天命之 性は仁儀濃智 のみ共仁の性に 循 へ ば別ち父
子の親より以て仁民愛 物 に至るまて皆 道なり 共義の性に
第一篇 第三章 山崎闇斎 四一
-
第一篇 第三章 山崎闇斎 四一
循 へ ば、則ち君臣の 分 より以て敬 長奪 督 に至る逸赤道也 共
濃の性 に循 へ ば 則ち 恭敬 鮮譲の 節 文皆道 なり、共智の性 に
循 へ ば、則ち 是非邪 正の分別も赤道なり、蓋し所請性は 一理
の具はらざるなし、故に所請道は外求を待たずして備はら
ざる所なし、所請性は 一物の得 ざるなし、故に所請道は人貸
を暇らすして 周 ねから ざる所なし 」と、これ天 より受けたる
仁義濃智の性に循 へば行くとして何人も道に中らざるな
しとい へ る もの なり、
闇斎の仁

闘斎比見地より仁を説いて日くし仁の道たる刀ち天地
生物 の心、物に 即 て 面して 在り、情の未だ 発せ ざるや 比鶴己
に具はる 情の既に務するや共用窮まらず誠に能く鶴して
之を存すれば則ち衆善の源 百行の本是に在らさるなし比
孔門の教、必ず 寧者 をして仁を求むるに汲々 たらしむる
所以なり共言に日へるあり己れに克ち濃に復るを仁と貸
す言ふは能く己か私に克ち去り天理に復れば則ち比心の
鶴在らさるなく面も比心の用行はれざるなきなり 差し所
請情性は共分域の同じからずと難も然も共原絡の通 する
各属する所の者 あり 則ち易 ぞ常甘て判然と離絶して相管 せ
ざらん や 吾れ方 さに、夫の寧者の 程子の言を諦みて共意 を
求めず、遂に判然愛を離して仁を言ふに至るを病む 故に特
に比を論して以て共遺意を発明す と これ後世學者の従に
程朱 説を敷行 推究して多岐 に彷得するを難し共員髄を得
せしめ んと期 せ しもの なり き、
(参考)
(一自鹿洞書院掲示 朱子
父子有親 君臣有義夫婦有別長功有 序明友有信
第一篇 第三章 山崎闇斎 四三
-
-
第 1師 第三章 =時開賽 四四
有 五 歲 之 目覚 際 使 家 喬丹 徒 数教主 教師 此 是也 導 者 學元 而已,而 其 所以
學之宗派有 五 張 其 列如在
博學之 義同之 職 思之明神之 為 行之
右 衛 軍 之 虎 基 間 限 維 加 者所以 觀理 也有 未 第 行 之 事 則自 修身 以 至于 底,
事 機 物 亦各 有 要其 列如在
言 中信 行 第 歌
德 魯 塞納 達 等 教 過 ،
右 旋丸 之 要
正典 義不 識,其 利
明,其 道不計 其 功
右 旗津 之 要
已 所 不欲 物流 於 人
行 有 不得、長 水路 已
有 接称 之 要
( )山崎 間 擔 著 開 與 中 白 鹿 洞 書院 提示 の 次 に あり、
(三)全 全書中開巻にあり
(四 全 「仁 説 問答」中、開巻第 一にあり
第三 加碑道 闇斎が晩年碑道に騎 せしは 國 粋 的に
世 教道徳を維持 せん が貸 なり き、故に 土金の教 を立て、之 を
以て天人を貫く敬の至りなりと貸し説いて目く 天れ我か
碑國博来唯一 の宗源の道は土金に在り面して土は即ち敬
なり 差し土と敬と倭訓相通して天地の位する所以 陰陽の
行はる、所以人道の立つ所以共妙旨比訓に備はれり と乃
ち土金博を敷行して日く 主はッ 、也五ッの意也土を五ッ
とす金はがねるの意也五行の内金は土の内へかねる也水
も 火 も 木 も、それ 〜 に形をあらは し、水 は さくる、火は も ゆ
る、木は しげる 如く、自然 に共模様 をあらは す、金 ばかりは、士
の中に 蔵れて人の出さ ねば出 ぬ 也、カネ の ネ は 直 に人の寝
第一篇 第三章 山崎闇斎 - 四五
第一篇 第三章 山崎闇斎 -
四六
た意にて、しづまりて顕はれぬ也 足れ和訓の旨也 さて土は
つ 、しむの 意、五 つしむるの義也何 程 バラ 〜 した土ても
共ま 、置くに何虜にか、しま る もの也金のあるも共しまっ
た中ならては、な きもの也金に限らす、木の 上にても、つい 堀
起せる土に植たる分にては育た ぬ也とっくりと しまった
土の中に育つ也」と、これ土金説の通俗 的解 響なり闇斎又理
闇斎の碑
道説 気説より碑道を響して目く椎れ碑は天地の心推れ人は天
下の碑物 面して共心は即ち碑明の谷なり 抑々天下萬碑は
天御中主奪の化する所面も正碑 あり邪碑あるは何ぞ ゃ 素
天地の間は唯だ理と気と也面も碑なる者は理の気に乗じ
て出入する者その故に共気正しければ則ち共碑正し共気
邪まなれは則ち共碑邪なり人能く静謡にして運 池の始を
守り 邪機を破な精明を致し 正直にして所蔵すれば則 ち正
碑顧を申べ 邪碑顧を息む敬まさるべけんや」と これ全然碑
道の道徳 的 解 響といふ べし、
(参考)
(一)( 三)(三)山崎 闇斎著「土金 博」「土金 稽書」に あり
山崎 垂 加 の 後を継き しを跡部 光 海、伴部 安 崇、玉木 正英等とす、玉木 正英の
編「玉競集」は 最も 簡便 に 垂 加 の秘 博 を集 む
(誌 解)
唯一碑道 備 家の山王碑道 雨部 碑道等に 封 立して唯一 なる名義 を用 ひし
もの 也、蓋し 紳 祇 の事 を掌 れる 者 は 古代 に 四姓 あり、第 一 は 白川家、第二 は
中臣氏第三は斎部氏第四はト部氏なりしが中古朝廷の式徴と共に碑紙
の事自然衰類せしを、ト部氏の高なる吉田氏起りて比説を立てしものな
り、吉田 盆東 供が共子 九江とい へ る 僧 と共に旨共言 の儀式 を模して 紳道護摩
などを作り、後土御門 帝 の 延徳 元年伊勢 雨宮 の御 碑 妹、山城の吉田 山 へ 飛
移られたりと稲 し、大に共勢力 を高め、朝廷に も信用を得、特に豊臣 氏 に 信
第一篇 第三章 山崎闇斎 四七
四八
第一篇 第三章 山崎闇斎
仰せられ、吉田氏の 分家 萩原 爺従 秀吉 の夢 去 後豊國碑 廟に 嗣官となれ り
然るに徳川氏の代に 至り、豊國 廟破却と共に筆 従も共職を概はれて吉田
村に熱 居 せしが 後 ち吉川椎足とい へ る者起り、衆従に寧 びて 唯一 の 旨 を
明らめ之を山崎闇斎に博ふるに至りしもの也
垂加碑道 闇斎は晩年 惟 足の弟子となり、又外宮 の嗣官出口 延 佳 に寧 び、大
に碑道の奥旨を究め終に霊赴を京都上御霊の内に建て自ら垂加倉と種
して碑 道の 発揮 に 従 へり、垂 加とは紳 道 五部 書 に「碑 垂以 所轄 貸、先 冥 加以
正直 貸本」とあるより取り たるものなり、故に 闇斎の 碑道説 を垂 加碑道と
稲す
規矩禁防 規矩とは定規準則といふ意に全しく手本として寧ふをいふ 禁
防は 禁し防 くの、意に て 異端 邪説 を禁防 する を いふ、
持循 持ち従ふ といふ 意 にて、共説 を 違奉する ことなり、
第四 章 貝原盆軒
第1 盆軒の経歴 具原盆軒は名を篤信といひ 字を子
敬といふ 霊軒は共競なり別に損軒と競す 通稲久兵衛 寛永
七年十二月十四日を以て筑前園顧岡城中に生る 幼にして
嫡戯を喜ばず、七歳始めて書を讃 み十四 歳警書を讃 みて 略
ぼ薬方に通し、明暦三年侯命を奉して京都に遊び、松永 尺五
山崎闇斎、木下順庵の諸儒に従 ひて寧 び、日夜刻苦すること
三年寧業大に進む比に於て騎國して藩學教授となり大に
㎞| 藩侯に信任せられ、一藩の領儒として推さる年三十九にし
て近思録備考小學備考等の書を著は せしが 後ち初等教育
に力を用 ひ 大和俗訓家道訓 以下の訓蒙書十数部を著し又
本草寧 言語寧等の書を出し、用財記を著し 抄録類の書を出
第一篇 第四章口貝原 益軒 四九
第一篇 第四章 貝原益軒 五○
し、記行文を公 にす、皆 民生を済 ひ 日 用に 資 せん ため なりき
されば 元 藤十三 年、七十 一 歳 にして仕を 解し、京都に隠居 せ
しも藩 尚 ほ月偉 を賜 ひて 之れを優遇 せり、かくて 一生を著
述に委ね、正徳四年 八 月二十 七 日遂に家に残せり年八 十五。
盆軒の妻は江崎氏といひ 名は初字を得生東軒と競せり経
貝原東軒 史に精通し激 行 あり、又文 撃 を善くし 隷書に巧み に、和歌 を
よく せり、常に貧無 軒 に従ふ て 四方に遊び、益軒 の 記行文の 如
き、大 に之を内助 せりといふ、正徳三年 十一一月 益軒 に先たち
-
て残す。
益軒の 兄 存斎も藩儒 にし て、名 を元端 字 を子善と いひ、幼 よ
り寧を好み十八歳京師に遊び 数年にして騎園し壮にして
貝原存斎
江戸に出 て、藩侯 世子の侍臣となり、後 ち病を以て 仕を罪 め
騎農して 道を楽み、元 藤 八年十二月十日 残す 年七十四
(一)
盆軒初め陸王の寧を喜びしが 寧部通鍵を讃むに及び、尚書
論語に質して、深く奮寧の非を悟り、終に朱子寧に騎す 博覧
強記研究 せ ざるなし、太宰春豪常甘て盆軒を稀して博寧治聞
海内無比と貸 せり 然るに晩年朱寧研 鎖の結果大に共説に
疑を挟み 大疑録の書を著はせり別に自娯集憧 思録の著あ
とり
第二 盆軒の撃説 盆軒は初め陸 王の寧を非として程
朱寧に 向 ひしもの なるを以て、一意之を祀 述したり、常甘て日
く 集子が大學の格物致知誠意正心を説く如きは即ち知を
先にし行を後にす論語を説くには博文を先にし約濃を後
にす 中庸の性道教を説くには戒棚振 濁を以て存養智察の
工夫と貸す西銘を説くに及んては天地に事ふるの道と貸
す 比等諸説 聖人復起るも恐らくは比言を易ふべからさる
第一篇 第四章 貝原 益軒 五一
第一篇 第四章 貝原 益軒 五二
なり」と、これ 朱子を奪 信 せるの 言 たり、然も研究 の歩を進む
(三)
るに伴れて潮く程朱の説を疑ふに及び管て日く「宋儒気質
の性と天地の性とを以て分折して之を言 ふ、比れ寧者の暁
り易 から ん が貸なり 共賞 人に一一性なし 気質の本然、即ち是
れ天地の性 のみ 性は本と足れ気質の請也」と、かくて後 晩年
終 に、程子が 気と理 とを分ち 理を以て道と 貸し 陰陽を以て
器と貸し形面下とし道と陰陽とを二分せるを難し貸に理
気の分っべからさるを論じて目く 天れ天地の間すべてこ
れ 一気 なり 面も共動静 を以て 之を 稲して 陰陽 と貸す共生
分理
論気益
筒み

々息まさるの徳之を生といふ故に易に目く天地の大徳を
生といふと共流行を以て、一を陰と貸し、一を陽と貸し 之を
道といふ共條理あって側れさるを以て又之を理といふ指
す所同じから ざるに由て始く共名を異にすと難 も然も共
【五)
質は皆 一物のみ」と又目く 足を以て陰陽の流行して純正な
る者即ち是れ道 故に理気 決して是れ 一物 分て一一物と 貸す
べからず然れば即ち気なきの理 なく又理なきの気なし先
後 を分 つべ から ず、何 も 気 なければ何 の 理 か これあら ん、こ
れ 理 気の分 つて一一と な すべ から ざる所以なり」と、これ 軍 意
程朱の一一元論を破し て 一元論に復 騎 せるもの なり、即ち 盆
軒は 一陰 一陽する所以を道とし太極即ち道也とし道即
気とし、気 即ち 理とするもの なるが故に、先 づ 理 ありて気 あ
りといふを許さず、又理気の離合をも許さず、理は別に 一物
あるにあらずしてた、これ気の理のみと説く故に気の純
正にして流行する もの を道とい ひ 共條理 あつ て 紛園 せ ざ
るを理と いひ、道と 理とを 全 一祀 せり、これ老備の 気中に理
なる 一 物 を高する 説 に異なる所以なり、然も 理は 気の純粋
第一篇 第四章 貝原盆軒 五三
-
* シ 五四
至善にして不正なきの名なるが 故に常鍵の言 ふ べきなき
も気は時ありて雑様素蹴し穏に%%共常を失ふ これ運動
鍵化の定まら ざるが故に然るもの なれば性は善なるも時
に鍵常の悪あるのみ、されどこれ陰陽の本然にあらず 愛常
のみ共常なる者は気の本然 即ち理たり 之を水に警ふるに
水は本と清潔なるも然も泥土の中を過 ぐれば 則ち洞 濁し、
清潔を失ふ が如し洞 濁は 水の本然にあらず、之を以て推せ
ば気能く 萬物を生ずといふを以て、理 よく高物 を生ずとい
ふ べきも、理 よく気を生ずといふ べからず、これ理は気の 理
たるが故 なり然るに 程朱は比 理気を分つて二物と貸す、こ
れ共言の支離し共論の混清して終に誤認に陥るを致す所
-
以なりと。
盆軒かく理気の分っべからざるを説く 比に於て性に善悪
あるは、軍意 理 一分殊 なるが故なり即ち、理は気の 理にして
一なるも気は時に雑採ありて、之を真くるの初めに於て清
濁厚薄の斉しからさるあり之が貸に萬人異なれるのみ面
も理は 一なるが故に天地の性と気質の性とを分っの要な
しといへり比等の説は明儒羅鉄順の理一分殊説に基づけ
るものにして、益軒性論の研究によりて潮く比に到達 せし
ものなりき、されば盆軒は 一般宋儒の寧を評して日く「宋儒
の寧は要するに太極無極を以て致知の先務と貸し 静座澄
心を以て力行の先務と貸し支離破砕を以て文學の先務と
貸す、これ乃ち高遠 銀 深 細 末無用の事、知り難く、行 ひ 難き無
用不急の者を以て先務と貸し聖門の教を立っるに孝弟愛
敬、文行忠信を以て先務と貸す所と異なれ り、故に共 教と貸
す所高遠 銀険寧び難く行 ひ難く、入り易からず」と、釜軒は比
第一篇 第四章 貝原盆軒 五五
-
第一篇 第四章 貝原 益軒 五六
見地に於て殆ど古寧説に類 せんとせり
(誌 解)
存養省察 共性に存する所 を養 ひ、之 を自身に 省み察して射 行質践するを
いふ
西銘 二 程子に道を問 ひて儒寧に騎せし張載 横温業 が共居室なる 東西の窓
に郷を掲げて自ら構成とせし中の国営の をいふこれ張子の管理書を
疑 ふべきものに て共 全文左の如し、
訂頑
乾稲 父 神稲 母、予慈 菊 馬乃混然中虜 故天地之塞吾共 鶴天地之帥 吾共性民吾
全胞物吾興也大君者吾父母宗子共大臣宗子之家相地奪高年 所以長共長
孤弱 所以幼 共幼 聖共合 徳 賢共秀也、凡 天下疲魔残疾 博濁 鎌寒 者吾兄弟之願
連面無告者也子時保之子之賀地築H不愛純手孝者也述目枠 徳害仁目城済
悪者不才 共践 形惟背者也知 化則善述共事 第 碑則善継 共志不 換 屋漏 貸 無 添
存心養生 貸 距解 悪旨酒 岸 伯子之顧 養育 英材 頼封人之鍋類不 地勢面底 換 愛
其 功 也 無 所 進而 特 高中 生 其 排 也 證其 受命 體 生 者 參 平 軍 於 從而 原 住 者 很 高
也 高貴 福澤 路 軍官 之 生,也 負 盛夏 威廉 王文校 成 也 存 者 服事務 者 會 也
法參 论 は書也 缺 氧 也
(參考)
( 學部 通 業 は 明末 為 韓 二 十 七 年 夏原 道 橋名 は 建)の 者 にし て 栄子學 を擁護
せ し もの 他 全書 の 維 京 中 に 目く、近世學者 修饰 張 將 し て 未婚 業 する なさ
* “最嚴重 ね てN か無敵を 倒し て栄の性 かなさるを以て
なり、夫 れ術學 近く 似 て 人 を 感 は す。其 部 を 食す こと に 2 %^**
に 安山 農民なる者 あり出 てく 東側を吸 て以 て書 が備 の 真を 破る橋 の言
を 扱 て以 て 海軍の 軍を基本 にし て 栄子生 て書 を全う しゃく事業を
存 し て終身之 たカ 排 す。其 言 路 加 なり、意 ら さ りさ、近世 稱 單眼 の 説 を 造
食し、酒 ら 調べ本子 初 年 の 所見 未だ 定 さら ず 而 し て 映 年 始めて 復帰 し て
象山 と合 すと、前 出)修學 より 今 に 至る ぎ て 三重 の 部隊 來 裝備 德 根治 ,し
て難する真 に 繋ぐ る ことなからん や建 此 が 食 に 振る 際 に自ら後
*壓縮 後 擔心 を 通常 に突 事實を 明かにし て以 三書 を発 さと
第一 篇 第四章 員原金野 五七
第一篇 第四章 貝原盆軒 五八
以て比書の性質をト知すべし清測乃ち前編には朱陸早同晩異の質を明
かにし後船には象山陽儒陰標の質を明かにしシには備撃近似人を惑
はすの質を明かにすとい へり、
(三)貝原 益軒著慣 思録』巻三 に あり
(三)全書」巻 一に あり
( Mェ長原盆軒著大疑録 巻下理気不可分論中にあり
(六)理 一分 殊 説 は明 儒羅整養 に 務せし ものなり 整養 名を飲順といふ、陽明と
時 を同 うして 生る、乃ち属 々 陽明 と論戦 せり、常甘て 陽明 か大寧 古本 の 復書
中 に「人の 寧 たる、但だ常 さ に 之 を内 に 求むべし、程朱 格物の 説 は 之を外 に
求むる を免 れず、故に 朱子の 分章を去り、共補 ふ 所 の博 を削るべし」とい へ
るを難し て 曰く、稲 かに 椎 ふ、聖門 教を設 くる や、文 行 奪 て 博寧 を資す、文に
於て厩ち明訓あり顔淵夫子の善誘を稲するゃ赤目ふ我を博うするに文
を以 てすと、文果して 内 か外 か、是れ固 より 携じ難 きもの なし、凡そ 程 朱の
説 を貸す所、比 に 戻るもの あらんや、如し 必ず 寧 を以て外 求 を資せず、但だ
常 さ に 反 観 内 省すべきを以て 務となさ ば、則 ち正 心誠意の 四 字 赤 何 の霊
さ ゞ る これ あらん、何ぞ 必ずしも入門 の際 に於て便 ち困する に 格物 一段
の 工夫 を以て せん や、顧 ふ に 経 既に比文 ある理常 さ に 奪信 すべく、又以 て
之 に 虜すあらざる べからず」とこれ 整恭 か 一意程朱の 窮理 説を以て 格物
致知の本旨 とし、陽明 か共唯心論 の 根 擁として 説ける内省 法 を難し、故 ら
に古聖の言を借り 来りしもの なり、軍意 理 一分 殊とは「性は 一 のみ、天地気
質の 性を分 つて 二とすべ からず、共理 一 なりとは 性の本 然共理 一 なる を
いふ 也、同じく これ 一 なるも、性の 雑 縁 これ 分 殊なり、人皆 以 て売愛 たるべ
く共分殊なる者は二気の性質を受けて各々殊なるのみ故に目く性相近
く 習 相 遠きなり、是を以て 上智と下 愚とは 移らず」と説き 進める 者 し に て、
比酷は程朱の性論上に一歩を進めんと期せしものとす
弟一篇 第四章 貝原益軒 五九
第一篇 第五章 室 六○
第五章 室鳩巣
第一 鳩集の経歴 室鳩巣は名を直清といひ、字を師 濃
といふ鳴集は共競なり通稲新助 萬治元年二月二十六日を
一以て備中に生る 幼より譲書を好み弱冠にして成人の如し
十五歳出て、加賀侯に仕 へ、一日大學を講して共異オを認
められ命じて京師に遊撃せしむ時に木戸順庵離を京師に
下し名盤籍甚なりしを以て鳩巣乃ち教を順庵に受け撃業
大に進む、順庵嘆賞して日く師濃 忠信 篤敬にして 聖道に 志
す、質に吾が盆友なりと、天 和三年江戸に騎り、貞享三年更に
母を奉して加賀に還り 後進を誘接して致 々俺まず州人徳
に向 ふ者 甚だ多し、既にして正徳元年三月新井 白石の薦を
以て幕府の儒員に列 せられ、藤二百 石を賜 ひ 府下大塚に居
る、三年一一月 宅を駿河 豪に賜 ひ 移つて 之に住す、世人是より
駿河先生と稲す、八代将軍吉宗職を襲 ふ や、特に推んて、殿
駿豪先生
中侍講とし雇 々政事の得失を論ふ享保四年九月命を奉じ
て書を高倉屋敷に講ず、士 庶業を受くる者多し、六年関 七月
命を奉じて六 論行義大意を撰進す、幕府之を板行して天下
に領 つ、七年三月特に 内 殿 に召し尚書を講 せしむ、鳩巣乃ち
命を奉じ、尋 て貞観 政要を講じ、五倫 五常名義を撰進す、十年
十二月 西城 侍講 に遷 り、常藤の外別に職 俸一一百俵を賜 ふ、十
三年春 病 を以て 職を解 かん ことを請 ふ 優命ありて 充 さす、
乃ち家居して病間駿豪雑話を著す比時に常り伊藤仁斎戒
生祖徳等異説を立て、程朱を排庁すること頻なりしかば
鳩集専ら朱 寧を奉じ、卓然名 教を維持 する を以て任と貸す、
かくて疾を力めて生徒を教授せしが、十九年八月十二日遂
第一篇 第五章 室鳩巣 六一
第一篇 第五章 室鳩巣 六一
一に残す年七十七
鳩巣世 教 に 心を傾くる こと深く、元 藤 の頃赤穂遺臣の吉良
氏を撃っゃ大に共撃を審識し義人録を著はす後世赤穂の
鎧。遺臣を以て義士と稲するもの全く比書の功によるといふ、
第ニ 順庵の経歴 木下順庵は室鳩巣の師なり 名を貞
幹と いひ、字 を直 夫といふ、別に錦里と 跳 せり、通稲 平之九、元
和 八 年を以て 京都に生る、幼 より強記 善く 書を讃 み 字 を寛
し、碑 童を以て聞 ゆ、松永 尺 五の門 に 入り、寧業大 に進み、長じ
て柳生宗矩に従ふて江戸に赴き将に幕府に用 ひられんと
す、されど遮る者 ありて 果 さ ず、比に於て 京師に騎 り、東山 に
扉 居 して諸 生を 教授 する こと二十年、名 撃 大に振 ひ 門客 腫
を接 す、加賀 侯共名 を聞き之を聘 せんとす、順 庵乃ち共師松
の木


義順

高共にじ義








感尺
とに






へしむ順庵乃ち前田氏に仕へしが 向ほ居を京師に定め時
に江戸に遊び 又加賀に赴き往来道を説きて席暖まるに暇
あらず 既にして天和二年七月二十七日簡抜せられて幕府
の儒 員と なる、時に年六 十一、
順庵性 至孝 にして旦 つ 友愛の情に厚く、兄弟の子 を撫育 す
る こと己が子の如く、又僕 碑を遇 するにも 慈恵ありき 面も
己を持すること謹厳にして終日盛服端巫人をして長敬せ
しむ、之を以て門下名士頼る多く終に木門の十哲を世に出
すに及べり新井自石室鳩巣雨森芳洲 祀園南海 編 原玄輔 松
浦儀 植 南部景衡、三宅観潤 服部南郭、向井三省即ち是なり、何
れも経寧家 史寧家 経済家 警家の泰斗なり、かくて元藤十 一
年十二月二十三日及す年七十八 次子寅亮菊澤と競し通稲
を平三郎といふ家學を継ぎて加賀侯に仕へ寛保三年七十六三
第一篇 第五章 室鳩巣
第一篇 第五章 室鳩巣 六四
八 歳にして 残す。
第三 鳩集の撃 説 鳩巣は師順庵の意を承けて 一意程
朱寧の維持を勉め、以 て 一世の風教を振作 せんと期 せり、賞
て問答妹に道を説ける中に目く 座中の 一人翁にむかひて
古明鳩

び陽
評及の

た 、今西京東都に於て世に鳴り人を率ゆる儒者の説を承
り候に、或は 我國の道と て、碑道を雑 へ て 説くもあり、或は 陽
明 が寧とて、長 知を主として説くもあり、或は古の寧とて、新
義を造りてとくもあり 紛々異全の説まち〜 なり、いづれ
を是とし、何れを非と せん、翁 の心に お みて、いか 、思 ひ給 へ
るに や、翁 きい て、常 代門戸をた て 、異説 を唱 ふるもの、お ほ
やう今 申 さる 、三流ときこえ 侍る、是等の 説を立る人々、さ
こそ所見あるにて侍るべしもし君が古に聞く所をもてい
は や、いづれも左には侍らず それ道は天に出て 、一原なる
ものなり、その 一原のところ を さ へ 悟り ぬれば、わが國の道
とて人の園にかはるべからず良知の説とて窮理にはなる
べからず都賀の撃とて瀬落にたがふべからず然るに足を
知るは聖賢の書にあり、聖賢 の書はよみ やすからず、されば
意を遜てくはしくよまずしては、その意を得る事なし、今 の
儒者はお ほくは自ら 高ぶる心ありて 瀬洛の 書 をくはしく
讃む人まれ なり、未だ 程朱の藩籠 をも窺はずして己が心を
先だて \、にはかに大賢を議す、所見の是非は始 くさし置 ぬ、
先づ共寧の軽薄浮浅なるこそ、うたてしく豊 え侍れ、さやう
の人は、孔子血の 書をも くはしく讃 むまじければ、孔子血の意を
も得 ざるべし、孔子血 の意を得ずしては、いかて程朱 の 説に 疑
みなかる べき、然るに程 朱をば軽がろしく議すれども、孔子血
を議すること をば聞かず、是は 孔子血には疑 なさに あらね ど
第一篇 第五章 室鳩巣 六五
-
-

* * *** 大六
% 討論は 二 千 年來世 に 電信 す、それ を 議 し ては 人 のうけか
は g事た 0 厘米 の 世代 もかく開關 に至 て成は議 る人もあ
り ける 故に、是 を 護る なり とい は く長毛 送 がい は ゆる 因 人
成事な 0 の所見ありと いぶ べからず 者し文已か道德
學術 可 直 には金及 ばれば 其權 0あり といは くさ ては今 種
朱 を 護る は 是 已 が 買 は はるか 遵 本 の 上 に 立つ と 自ら 武 ?
なる べし て は ともあれ、神道,と は S 《 《英語 を さく に、我國
| 2 期 擔 し、湯 武 城池 の 類 とい へ は 共 所 調 神道 は 伝統 の 外 に
ある に や あら ん。長 和 とい へ は 共 設 を さく に 備 性 を明 德 七
並べ 戦 し、武藏助解度を習に 男 の士 とい へ は共所調 景気 は
是非 の 心 に あら さる に や あら ん 中學,とい へ は 共 設 を さく
に 大學 を 証人 の 書 に あら ず とし、孔 祥 の 道 11 つ なし とい 《
任 其所聞中學は急性 の外 に あらん だ等の高いった 。
が疑をのがれ ぬ事にて侍る、然るに仁義をかね 内外を合せ
古今に通ずるはた 、程朱の寧なりされば大中至正の道に
て孔子血の正統 たること何の異論かあるべきた 、霧 がふか
く恐る、所は 程朱の寧をするのともがら 身をもて践履を
せすして、た 、議論をのみ事 とせば共寧を正しといふとも
道に お ひて何の得る事かあるべき 明朝にすてに共弊あり
し故に陽明 も支離をもて朱寧を護りし ぞかし邪説の 起る
も是故にこそ 侍れ、もとより質 行を忘れて空談 をっとむる
は聖賢の戒むる事なれば今更君が事新しく申すにも及ば
ずふかく慣むべき事にこそ と以て共眞 意の在る所を察す
べし。
参考)
(一)室鳩巣著駿 豪雑話 巻 一「異説まち〜」の中にあり
第一篇 第五章 室鳩巣 -
六七
* ハ
ノヘ
第一篇 第五章 室鳩巣 六
(誌解)
都魯の寧 孔子血の寧といふ に同じ乳子は魯國昌平郷の阪己今の山東省 近
州に生れ*子は 今の山東省章州府離馬に生る故に孔五事を証巻の
と稲 す、
廉路 米子事を請して藤格闘間の撃といふ何れも居所を指して井せ呼べ
るもの地議は周子 落はニ程子圓は張子園は朱子なり比に譲路といへる
は略稲なり、
第六章 朱子寧の系統
第一 京都の朱子墨 藤原握臨一たび 朱子寧を唱へてよ
り共門下に林 羅山松永尺五那波活所管玄洞 石川丈山三宅
寄シ 否庵 鎌田徳庵の諸氏を出し殊に林掘鎌田 那波の四
氏は常時 性衛の門の四天王と稲せられたり 又那波活所は
子孫三代業を継ぎ活所の孫管堂の門下に菅茶山 西山抽斎
あり話所の 第伊藤地魔は子孫三代共業を停へ舗=
顕はる又垣施の子龍州の門下に江村北海ありて弟子輩出
し丈山 玄洞 査施には門下少かりしも松永尺五には高弟木
下順庵ありて門下に済々たる多士を出し新井自石室鳩集
雨森芳洲員原 益軒の如きは常時経學者の随一と稲せらる
又地 集門下には中村
第1篇 第六章 朱子寧の系統
蘭林等を出せり 以上は京學の流れを
六九
第一篇 第六章 朱子寧の系統 七C
-
--
汲めるものなり、
第ニ 江戸の朱子撃 林羅山師握高に學び 江戸に移り
* て朱子學を博へしより子孫共職を世襲し刺% 以岡述斎等
は林家中の傑出せるものと稲 せらる門人世々順る多く羅
門下の永田善斎全人見鶴山鶴山門下の梁田悦厳鳳岡門
下の岡島冠山秋山玉山高瀬寧山風岡の子稲岡の門下灘井
太室後藤芝山、並に 芝山門下の柴野栗山、太室門下の林述斎
全述斎門下の安積良斎 松崎嫌堂等最も著名なるものなり、
殊に柴野 栗山の如きは寛政年間 執政 松平定信の 下にあり
て 寧政の刷新 を圓り、朱子寧の基礎 を因 め、以て幕府 徳育の
方針を 一定したり以上を江戸の朱子寧即ち東寧系統の 一
斑とす
第ニ 土佐の朱子學 土佐の朱子寧は梅村南軒之を首
南寧派 唱し、谷時中之を承け、共門下に野中奪 山 あり、乗山 一たび山
崎闇斎に共寧を博 へ て、大に比派の面目 を高む 別に時中の
門下 に大高坂 芝山、小倉三省 荘田 珠 庵等あり、又山崎闇斎の
門下に三宅尚斎、浅見綱 斎 佐藤直方等の名士を出し、尚斎門
下に村士淡斎管野乗山あり淡斎の門下に岡田寒泉奪山門
下に新井白戦を出し 綱斎門下には若林 寛斎を経て西依成
斎あり、直方門下には 稲葉 迂斎、三輪執斎を出せしが 執斎後
ち陽明寧に入る以上を土佐派の朱子寧 即ち南寧と稲 す、
第四 蘭除 の朱子撃 以上三寧派の外尚ほ 水戸に程朱
寧ありき、即ち時田江南 に始まり、立原東里を経て 青山 延子、
藤田 幽谷に至り、幽谷門下に曾 澤正志を出せしもの是 なり
又江戸には佐藤 一斎ありて朱 王融合 を唱 へ しが 共門下に
は、山田方谷 佐久間象山、林標宇等を出 せり省同ほ朱愛舞水の門
第一篇 第六章 朱子寧の系統 七一
-
第一篇 第六章 朱子寧の系統 七三
下には安東省庵安積 良斎 栗山潜 率等を出し、省 庵門下に安
東洞 庵あり 共他市川寛斎、三宅石庵並に共門下中井 警 庵、五
井持軒並に共子 蘭洲 蘭洲門下の中井竹山、全履軒 及び竹山
門下の脇屋 患 山、愚 山門下の 帆里 萬里の如き 皆 有名の 士な
り、尚 ほ朱子寧を奉ずる者には、松本 君山 後藤 松軒、古賀精里
並に共子個庵共弟子斎藤 抽 堂等あり 頼春水並に共子山陽、
否 坪及び山陽門下の森田節斎、後藤機 藤井竹 外等の如き皆
知名 の 士なり き、以上は 別 派 に 自説 を 立て 、朱子寧を 唱 へ
し もの なりき。
第武 篇 陽明 寧
第 一章 中 江藤 樹
第一 藤樹 の経歴 中江藤樹は名を原とい ひ、字を惟命
といふ、藤樹は共跳 なり、興左衛門と通稲 す 慶長十三年三 月
七日を以て近江國高島 郡小川村 に生る 父吉次は農に隠れ
しも、祀父 吉長は伯 考言米子城主加藤貞泰に仕 へ しを以て、藤
樹 幼 にして、米子に行き、吉長に養はれて人と なれり、天 和三
年米子侯 封を伊 像 國大洲 に徒 さる 、や、藤樹は 吉長に従 ふ
て大洲に行き、書 を寧ぶ こと敷年にし て、祀 父の書 輸を 代書
す、十 一歳、大寧を讃 み 嘆 じ て日く、幸に比経の存する、聖人党
に寧 ん て至る べから ざら ん やと、是より始めて書を讃 み 寧
を講 し、十 六歳 にして 十二二経 を通 習 す、性 強 記 にして 一讃 必
第二篇 第一章 中江藤樹 七三
-
第一章 中江藤樹 七四
シ ず諸んす人皆之を奇とせり衛来専心聖賢の書を究め終に
斯道を興す を以て己が任となすに 至る 候比に於て藤樹を
登唐し幾くもなく弟 某の食邑 に就かしむ 曾 々寛永二年郷
里の父吉次 残せしを以て藤樹近江に騎り、母を省して 伴 ひ
来らんとす 母年老い他郷に行くを欲せず 藤樹乃ち濁り大
洲に騎 りしが日夜 母 を慕 ふて己む時なし、比に於て 老臣仰
-
某に陳情して、致仕して 母 を養はん ことを以てす 年を踊え
て 充さず、藤樹 乃ち再び他家に仕 へ さるを誓 ひしも、尚 ほ充
されず比に於て遂に書を遺し 官を棄て、近江に騎れり時
に 年一一十 七。
藤樹かくて後自ら力作して母を養 ひ孝養の除暇生徒を来
めて書を講 し専ら朱子寧を究め、又孝経を標準として 行状
(一)
を慣み、全時に藤樹規 及び寧舎 巫右戒を撰し門弟子をして
N に愛らしわる に至 40 會 永安永十七年 聖殿 試験を 得
之 を 踏襲 し て大 に語る 所あり 正保 元年更に 王 陽明全書 を
得 てク を 断念 し遂に 番 學 を 乗 てく 場 開學 を 唱 る に 至れ
り、我國 に 於 て 王 學 を 唱 《 し は 貨 に藤崎 に 始まる かく て 機
安元 年 八 月 二 十 五 日 病 を以て 残す 年 四 十 一。
魔獣 の修行 盛化は よく 一種 を し て離島 の 民たら しめ 世に
近江 學 人 と 無 % % ) に 至れ 》而 し て開門 下 中 德 出せ し を
熊猫 業 出 ,と す。
( 1 ) 建樹 規 克 水 十 六 年 作)
大事之權在纽 卡 素
朱子 目、泰雅 使,愛 玲 司徒 教 教 主教 主教 者、父子 有 親 有 亞 有 幾 天 線 有 別 最初
༄༅***
而 其 所以 學之 術 在 秦 以 持 政府主 進修以歌 如カ 行 而 日 新 英制 和
七五
第二冊 第1章 中江藤博
第二篇 第1 章 中江藤浩 七大
農夫金魚棲
有 持 教之 要 進修 之 本 也
博學之 需 間之 旅居 之 明 嘉 之 第 行之、
有 進 議 之 虎、軍 開 思辨 四 者 所以 致知 也有 天 德行 之 事 內自 修身,以 至于 道事
機 物流 不在 英美洲
言 中信 行 第 敵 機會 堂 被 要害 發 過
右 修身 之 要
正典 義 不 認 其 利明 其 道,不計 其 功
有 廣平之 要
己 所 不 欲分佈於 人行 有 不得、反 水路 已
右 接物之要
原稱 龍介 之 人 食事 者 推計 師 師事 而已 是以 音 通之 所 寄 不 超 乎 言語 文字 之 間
武春夏之 也 深夜 推本 聖人 立教 之 宗旨而 參 以白 鹿 洞 條規 列 如右面 將之 精 間
康樂 與, 11个 表面,守 力行 之,也、
第二 |秀樹 の 軍 就 際 網 の 場 明學 を 奉 3 % ) に天人
合 一 を期 せしを以て、人を小鉢 の天地とし、天地を大鉢 の人
なりとし太虚 即心心即太虚と説明せり乃ち倫理の基礎を
比に築きて目く 人は共形小なれども太虚の全妹あるが故
に、人の性にのみ明徳の奪競あり、故に人は小鉢 の天にして、
天は大 鉢 の人なり、人の 一身天地に合せて 少も違ふことな
し呼吸の息は運行に合す、天地造化の碑 理主宰を元亭利貞
といひ 人に在ては仁義濃智といふ天地人を三極といふ 形
は異なれども 共碑は 一貫周 流して、隔て なし、理 に大小 なき
が故に方守と太虚は本より全じテ 々進んて性を説いて日
く 心は空を以て妹と貸す故に天地萬物に於て感應せずと
いふことなし心は生々の理を以て碑とす 日として生せず
といふことなし足を以て性といふ性は心の本然なり」と又
目く無極の理二気五行の精碑合して人となり明徳具はる
>ッ
第二後篇 一章
第一章 中
中江藤樹 七七
第二篇 第 一 章 中江藤就 七八
(四 )
之 を 世 といふ 性 中 自ら に 義 體 智 の 修理志》 推 だ 此 無極 の
理 に 五行 の 精妙 合 し て 人 となり、明德 倫 は る ク を 伴 J S 3
性 中 自ら に 義 體 智信 の 修理 %り、と 比 に 於 て 元 吉利 店 を 伝
理蕭
Ø)

義 組 麓 に 配し 大 の 主義氣息 の道を 信 に 配 し て人像 の 根源


を 解釋 するに 至 40 英語 に 日《 天地 は 元帝 利 自 の 理 に従
いて四 時 行 は る く 時 は 天地 位 し 高 教育 す 人 の 伝導 體 智 の
性 と 五條 明か なる 時 は 家 資 公國治 改 0 天下 不 少 なり、父母
の 子を 生 するは春の 物を 生 する が 加 し 民衆長 約 和 列 る は
夏 の 物 を 生 する が 如 し、書 亞 は 極 を 立つ る の 大義 なり 着用
相 繼續治 * 0 天下 平かなり 天地 の 化音 を助け て物 を
成 % 小松 に 艦 の るが加し 大綱 は人質 の始め たり 天地 開け
て後 明 女 あり 男女 あっ て後 交 子% 《 无界 % ~前夜 あり 若
正 あり、故に 五 師 は 皆 大 縮 の 内 に 離れ ず、大 の 冬 を以て 隠す
が如し別友は五行に配しては土なり土は定位なし云々と
れ 軍章、天理を以て人事を解 響せんと企てしものにして 要
するに天人合一の間に明徳を発揮せしめんと期せしもの
なり き。
(参考)
(一)より(五)まて中江藤樹 著 天道 圓 説「人道 圓 説」心法圓 説」に詳 也
(誌 解)
王龍渓語録 王龍渓名は畿 陽明 の 高弟なり 共 學精微と稲せらる、
太 虚即 心 虚空の大なる を形容して 太虚といふ、
人は天地の小なる者なれば共一身の主なる心は天地間に於ける太虚の
如 しといふ 意 也
方寸 一寸四方といふ 意にて人心の小なるを形容してい ふ 俗 に 胸の内と
いふ是なり、
第二篇 第一章 中江藤樹 七九
第二篇 第二章 熊澤審山 八○
第一章 熊澤審 山
第一 藩 山の経歴 熊澤審 山は名を伯継といひ 通稲を
次郎 八 といふ 後助右衛門と改 む 別に了 介と跳 せり、元和 五
年を以て京都に生る 藩山本姓は野尻氏なりしも外祀の養
ふ所となりて熊澤の姓を冒す 寛永十七年板倉重昌 京極高
通等の薦を以て備前國主池田光政 に仕 へ、精励刻苦して文
武 を 筆修し、将に登 唐 せられんと す、されど固 鮮 するに共寧
未だ 到ら ざるを以てし、遂に 致仕 して近江 桐原 なる親戚伊
庭 氏の家 に富 し、閑居 病を養 ひ、二 十二歳に 至り、始めて四書
集誌を譲みて道の眞を知り二十四歳中江藤樹に就いて道
を問 ひ、孝経、大寧、中庸等を寧 びて 之に通じ幾くもなく、桐原
に騎り貧に虚して濁寧すること五年正保二年に至り復び
池田光政に仕 へ 藤三千石 を給せられて國政に任ず蓄 山比
に於て精励 治 を園り、承 應三年備前大水 ある や、自ら江戸に
到り幕府に請ふて黄金四萬雨を借りて窮民を賑はし明暦
元年備前大に磯 ゆるや、又 自ら呂 里を巡 祀し、日夜心を済生
に 霊 せり、之 を以て 一國の民大 に審山を徳とす 既にして 明
暦二年病を以て致仕 せんとし 侯の第三子輝藤を養子とし
て、之に 職を譲り 明年京師に 騎れり、時に年三十 九、
藩 山かくて 後 京師に留まること十年、公卿貴 神と交り、大に
名盤を高め幾くもなく流言行はれしを以て寛文 七年去て
芳野に隠れ 後三年にして明石侯松平信之の賓客となり明
石大山寺の側に高 して息遊軒と競す 延賞七年信之、封を大
和郡山に徒 さる 、や審 山従 ひ行き、矢田山に閉 居 せり 後貞
享年間信之更に封を下総古河に徒 されしを以て 全四年八
第二篇 第二章 熊澤藩山 八一
第二篇 第二章 熊澤審山 -

八二
月 審 山復た幕命によりて古河に移り、全年十月封事 を幕府
に上りて政治の得失を論じ大に将軍綱吉の旨に作ひて禁
鋼せらる、に至れり 衛来専ら心を風月に弄ひ元難四年八
月十七日古河に残す年七十三
審山管て 日く「寧は人倫を明かにする所以なり 儒者の私業
にあら ざるなり、古の寧 者は 己れの貸 にす 徒に席上の 珍と
なすにあらず聖賢己れを修め人を治むるの道をして空言
に騎し質用に遠ざからしむ これ誰の意 ぞや 士君子の寧は
常さに文武 衆資し之を事業に施して以て天職に位すべし
吾れ寧ろ 一介の武夫となるとも 儒家者流たるを願はざる
なり と Nを以て審山は終に備前に仕へて園政を経論せり
面して比見地より常に賞寧を奪 びて、知行合 一 の寧説を重
ん ぜ しなり、
第ニ 藩 山の撃説 審山は元来治園経世の獣に力を書
せる儒者なるを以て、一 に賞用の寧を重んじ 共根抵の精碑
を陽明寧に探れるのみ 廣く朱子寧をも参考したり 管て人
の朱寧王寧陸學心學の目を撃げて何れか古の儒道なるや
養山の寧
問解 といへるに答へて日く 撃問の手筋の儀いっれをよしとも
悪し、とも申し難し然して少し 學びて道だてする者は人
道の害になる事 に候 身の 愚 なるたけをも知らず、至りもせ
ぬ 見を立て、とかくい へ ば無事の人ま て物にくるは せ候、一
向に俗儒の 謙り心得 よき者を招ぎて経義 をき、給ふ べし、
共身文武一一道の士 にて なきと申すばかりにて候、夫れ武士
たる人學問して物の道理を知りたまひ共上に武道のっと
め候は 、今の武士 則 ち古 の 士 君子 たる べく候」と、以て共寛
容 の精 碑を観る べし、されば又寧友 の「一陰 一陽調 之道継 之
第二賞 第二章 熊澤審山 入三
第二節 第 二章 態機器山 入四
-
者 普 也 成之 者 姓 也 といふ を 間 へ る に 答 〈N を 露 し て 日 〈
大級 時に動 て 物 生 し 時に離 にし て陸 生動戰は 時 也 像開
元 に共 根 を なす、太極 の 時に た が はず、太極 ~も と 無極 也 放 に
之 を 造 と いぶ、一族 學生 じ て や まさる を 継ぐ と いぶ やま
さる 時 は 四 時 行 は れ 日 月 明 かなり 普 J れ より 大 なる は な
し 進化の 流行を 見れ ば 者たり 山下の出 京其結構 れる もの
なし、未だ 海 湖 を いぶ べから ず、中間 にとり を なす もの あれ
は 本源 の 水色 を 失い 、とくに 於 て清 湖 の 名 出來 安源 出 に た
が はず、継が る もの を 樹 とい は ん が 如 し 進物 者 人 を 成 し て
人 の 性 あり、萬物 を 成 し て 東陽 の 性 のり、人 は 天地 の 心 なる
㎝ ( 2、 陰陽 の 理 全 9 し て 明德 倫 は れ り 異性 に 従 て 動
く 時 は に 義 體 智 の 性 あり て書 なり、性 の 値 を失 % 討 は 不仁
不知不 遠 不義 にし て悪な 0 米の中間 流通 の 操るか し
天 は 無心 無 後 也 放 に 理氣 離 る く 事なくし て 四 時 あや また
*人は 有心 有微 なる が敵 に心 法 なさ ものは 過ちあ 《聖人
以下 の 人 過ち な さと と 能 はず、よく 政 れる を 書 と す、心 法 は
天命の徳 にしたか ふ 受用也 人心 天理 に したか ふた道とい
3期 の 後 一場 を 造 といふ と 改 也 去 ん、とれ よく 通 の 根
源 を 不易 に成 明る もの にし て必ずしも本 王 の 姿 に信
せ ざる を 下 すべ さ 也
番山の事
泰山 巴 か 學風 を人 に答 、 日く 離は 朱子 にも 収 ら す 際 關
に も 取ら ず たく 方 の 聖人 に 取り て 用い作る 也 造紙 の 博 の
より来る とと本 王夫 に全 し東晉は 時 によって残 するなる
べし、其 質 に 於 て は 竹簡 を 合せ たる が 如 し、又 未 王 とても 各
別に あら ず、朱子 は 時 の 解 を と むべ さ が 続 に、理 を 空心 感 を
排 る 上 に 重んじ、自 反應 屬 の 功 なさ に あら ず、王子 も 時 の
第二篇 第二 章 態機器山 八五
第二篇 第二章 熊澤藩山 八六
弊によりて、自 反 横 濁 の功 に重んじ、究 理の 寧 なきに あらず、
愚 抽は自 反 慣 濁 の功の 内 に向て 受用となる事は、陽明の良
知の 発起に取り、惑を耕ふる事は朱子窮理の寧により侍り、
朱 王の世 寧者のま どひ異なり、地をか へ ば全じかるべし、云
々、これよく自己の地位を明かにし 井せて朱王井せ取るの
意見をも徴す べきなり、
(参考)
(一)熊澤 審 山著集義 和書」巻 一 に あり
(三)全 「全 書」巻十 五に あり
(三)全 「集義 外 書」巻八 に あり
第三 章 三輪執斎
第一 執斎の経歴 三輪執斎は名を希賢と いひ 通 稲を
善蔵といふ 執斎は共競 なり寛文九年を以て 京師に生る、十
九歳の時佐藤 直方の門に入り、朱子寧を修め 師の薦を以て
厩橋侯に仕 へ、一朝王陽明 の遺書を得て 反覆 衛味し終に奮
學を棄てて長知の旨を述ぶ厩橋侯之を見て快とせず 比に
於て執斎致仕して京師に騎り 尋て大阪に移り 幾くもなく
江戸に富し後ち復び京に騎れり執斎共間三都に於て書生
を教授して 専ら良知の寧を博 へ、騎京後門人 川田雄琴 に寧
事を託し四十四歳にして陽明の博習録を講ぜり、これ京都
所司代篠山侯の請に由てなり 又松平紀伊守の貸に周易進
講手記を録し、尚ほ四言教講義、古本大寧和解等の書を著 せ
第二篇 第三章 三輪執斎 入セ
第二篇 第三章 三輪執斎 八八
り、これ 皆 一意王 寧の振 起を園 りしものなりき、かくて延 享
元年正月十五日 及す年七十六 執斎の比祀述によりて陽明
寧は僅に之を 後世に博ふるを得 たりといふ、
第二 執斎の撃説 執斎は 一意 王寧を祀述 せしもの也、
乃ち常て陽明の四言教を講じて日く 撃は教なり豊なり 数
は豊のつとめ豊は数のしるし元より二なし共日三あり、
に云く寧派 聖人の天に継ぎたま へ る道説の心法なり 即ち
仁徳なり、是に侍れば天に背きて 異端に 陥る、二 に云く寧術、
六経四書に 説ける所の教 誕 なり、即ち知徳 なり足に従はざ
れば共脈を得る ことなし、三に云く 寧業共教誰 に従ふて修
する所の質功なり 即ち勇徳なり 足を務めざれば共志を成
すこと能はず、三 つの者共質は 一 なり 自然の寧理 より之を
駅といふ 天命の性 なり師の教 より之を術 といふ、率 性の道
なり、學者 の 勝 まり ク を 楽 と & &、自ら 明か に する の 功 修道
の 数 なり 除は たと へ は往 かん と 彼 する 所の道路の 加 し 龐
は 陸 は 興 を 用い、海 は 宗 を 用いる が 如 し番 は奥 は ク を 樹 3
府 は N を 清 ( が 如 し、荷 % U J たく描く と と なけれ ば、興宗
~ 金なし龐 罪を 用いされば攜帶 有〈 踪 はず 學堂 でな
はり、荷 3 清 ( J トと を 務 る と 離 ~も 通路 を た が 、 は 往 ,かん と
彼 3 る 所 に 至る と と 船 はず、徐 0,と 無 % 討議 員 生 ク の 志 に も
と つか され ば、三 つの 物 皆 属 名 なり 放 に 所以 行之 の 者 は
なり,といふ、北 の 志 ある 時 は 自ら 離 く通 を 評 れ 術 を 問 。
て共 業 を つとむ、放 に 終 に 共 & かん と 彼 3 る所 の 地 に 至る。
故に 撃 は 比 っ の 志 を た つる の 工大 なり と、とれ 四 言 教職
義 の 字 に 運ぶ る 所 なり、་ ་*

說格
(1)

物執
知の
進ん て格物 致知 の 説明 に 及び て 目くTそれ 物 を 格 す といふ
第二篇 第三章 論對齊 入九
第二師,第三章 羯就應 九O
中國外人は 物をた 。 すにあらす た 。 我 が心の 物をた
| *《後に身の上 に軍は たるもの にてク をた 。
と と は 藤 は 未だ 其 要 を 得 たり とせ ず、故に 来 は 必ず 嫌 に 流
る小人開 して不善を 倒すと いる是なりそれ身 に興は
る く 普 惠は みな 心 より出 ? れ ば、先 グ へ のか とる 所加 価
と 容 すべ し、故に 自ら 反し て順 源 の 功 を たつ と いぶ、父兄 に
つか ふる に 共 意 の 悪 を 去っ て 共 者 に て つか ふる を 挙 と す
元 で天下の平大小た北の如くたらさんはたし 彼 に金 に
我 が 心灵 來 都 要 なさ 本 航 を よく 7) か べり み、お ぼ た て、
言行 其 本體 の 多く の 書 ら 起 0 出 グ れ ば、軍情 し て、當下 に
是を残し 方 し本 旅 に そも さて悪さ 心 か とり出 つれ ば 誰海
みて常 下 にク を さる、 事 かく の 如く すれ ば、一事 學 人 の 地
に すぐ み、 一刻 かく の 如く に すれ ば、一刻 學 人 の 地 に 至る 是
れ即ち人皆以て発愛 となるべき道皇天の御心にして聖人
道統の寧術なり、何の 疑ふ べき事か あら ん 蓋 し 長知は本 妹
のま、にして人貸にわたらざるもの也比外識知あり俗知
世知あり 森知邪知あり 艦子の井に入るを見て他陽 側隠す
るが如きは人貸にわたらず、天命の性 より直に発生するも
のなり之を良知といふ 識知は見聞より出て私知 換 非を以
て 耕 へ たる もの 也、是 も赤 良知の 外 にあらずと 難 も 人 貸 に
わたりて自然の明豊 にあらず、故に面々 の 得方に落ち て、気
質より善悪をさだむ但し長知より出づれば見聞も良知な
り見聞に出づれば良知も識知と貸る也俗知世知といふは
是赤 良知 の 外にあらずと難 も、世に おもねり、時に あは せ、利
害得喪のはかりごとにのみ明かなるものなり 要するに比
心妹自然の良知 より出 てたる善 を至善といふ、眞智といふ、

第二篇 第三章 三輪執斎 九一
第二篇 第三章 三輪執 - -
九一
是なり、是れ三達徳の内の 知なり、心を比 至善にす へ 定めて、
比知にて見たる所の善は必ず足を貸し比知にて見たる所
の悪は、必ず足を去るべきなり、故に 知を致すことは 物 を格
すにあり と これ平易通俗に良知説を説明せしものに外な
-
らず、
(参考)
(一)より(三)三輪 執 斎著四言教講義 にあり
(誌 解)
状 陽 側隠 昧揚は憂 擢 也側は痛也 即ち 恐れ傷むといふ程 の 意
私知按排 一己の私見知識を以て思接し排列したる知識といふ意なり、
第四章 大臨 中斎
第一 中斎の経歴 大臨中斎は名を後素といひ又正高
といふ 字は子紀 中斎は共競なり 寛政六年を以て阿波園長
鍋氏の家に生る、幼にして 母 を喪 ひ、母の縁故を以て大阪の
某に託せられ、七歳にして大臨 氏を継ぐ、既にして中斎二十
歳に達して大阪東組興力となり 専ら寧に志し、一朝古本大
寧を讃みて悟る所あり、爾来陽明の寧を奉ず、文政四年高井
質徳大阪東町奉行となるや大に中斎を信じ 躍て、玲味役
とす、中斎乃ち鋭意治を園りて百害を除く、曾 々 天保元年七
月高井 氏老を以て大阪東町奉行を解し、跡部良弱代て全奉
行となるや、心潜かに中斎の剛直を忌 みて 之を疎んず、中斎
比に於て職を鮮し 専心王寧の龍奥を究め、常時の文豪頼山
第二篇 第四章 大鶴中魔 九三
第二篇 第四章 大臨中斎 九四
*
陽の大阪に来るゃ 之と交を厚うし 天保三年六月近江に遊
びて中江藤樹の墓に詣て翌四年四月共著洗心洞割 記の刻
成るゃ之を四方の名家に贈りて批評を求む これより先き
中斎は 吏務の除 暇洗心洞を開きて 文武子弟を教授 し職を
鮮するや 専ら陽明の寧を博 ふ、既にして天保七年陰雨久し
きに 亘り、洪水 汎濫 し、秋 に至り暴風 烈雨 起り、年 穀 登らず、米
債勝 貴し下民葉色あるゃ 中斎大阪町奉行に請 ふに市民の
救植を以てせり されど容易に許可せられず乃ち全志二十
除名と共に大阪市中の豪商に救価を謀る豪商赤之を諾せ
ず、翌八年磯僅 倍々 甚だしく鎌 基 路に腫 く、比に於て中斎共
所蔵の書賞を き六百五十雨を得てとを貫民に数値す可
奉行跡部良弱之を見て上司を侮蔑するものとして謎責を
加ふ中斎選に門下全志武百除人と共に事を撃げ数民の賞
を 翻 へ し て大に賑施 の事 を企て、先づ 豪商の家を襲 ふ、幕吏
来り防ぎ 中斎衆寡敵 せず共子格之助と共に共塩を逃れ三
月二十六日幕更の園む所となり、父子火を共家に放ち自双
せり、年四十四。
第ニ 中質の撃説 中斎は専ら陽明の所説を奉じて知
行合 一を重んず面も心太虚に騎せずんば不可なりとし先
づ太虚説を唱ふ共言に目く 天は特り上に在て若 々たる太
虚のみにあらず、石間の虚、竹中の虚と難 も 赤天 なり、況 ん や
老子の所請谷郡をや谷碑とは人心なり 故に人心の妙は天
と全じ、聖人に於て 験すべ し、常人は則ち 虚を失す、焉 ん ぞ之
を語るに足らんや と又目く 方寸の虚は太虚と刻して通せ
さるべからず如し隔て、通せされば則ち生人にあらざる
也、何と なれば今物を以て 日 中を塞げば、即ち方寸の 虚閉 ち
第二篇 第四章 大臨中斎 九五
第二篇 第四章 大臨中斎 九六
て呼吸絶え 怒ち死人と貸る故に方寸の虚は刻して太虚に
通 ぜ ざる べから ざる也、これ 他なし、太虚即ち 心の本妹 たる
を以ての故也」と、かく太虚主義を唱 ふ然も比太虚は理 気合
一 に基くにあら ざれば 荒唐無稽の 太 虚たらんと て、乃ち日
く 理気合一を了すれば則ち太虚も赤惟だ理気のみ加し理
気を離れて 太虚を言 ふ 者は、四書 五経聖人の道 にあら ざる
なり と比に於て進んて心身の闘係に及びて日く 形よりし
て 言 へ ば則ち身は心を裏 ん て心は身の 内にあり、道より し
て 観れば 則 ち心は身を裏 ん て心は身 の内に在り、共心は身
の内 に在りといふ も、一たび 操 存の 功 を遺 せば、則 ち物 我 を
累はし 共身は心の内に 在るを豊 ゆる者は常に 超脱の妙を
得て、我れ物を役 せん」と又日 く「拘はりて心は身内に在りと
いは 、十目 十指の義も 一生之を了すること能はず 悟りて
身は心の内に在るを識らば意欲機動く時特に十目十指の
み にあらず、蓋 し以て天下の 祀指 する所と貸 さん、何となれ
ば身外の 虚は皆吾が 心にして萬物の往来起伏 する地なる
一 を以ての故 なり」と、これ人は共身の心内にあるべきを了 す
べく、一たび之を了せば心外の虚は皆我が心なるを知らん、
面も我が心は萬物の往来起伏する地なるを以て人欲を去
り天理に復したる後に於て共理気を離れたる空虚にあら
さるを知るべしとの意なり 故に目く 心太虚に騎するは他
にあらず、人 欲 を去り、天理 を存 すれば 乃ち太 虚 なり」と、又 日
く「人心太 虚に騎 するも、赤 慣 濁 克己 より 入ら んのみ、若 し横
濁 克己より せ ずして 入らば、則 ち 譚 寧の 虚妄 たらん」と、又日
和説説
の大頁

とと
く、陽明先生の訓 ふ所の良知の質功を積むにあら ざれば則
ち横 返業先生の所 請太 虚の地位 に 至る べからず、故に 心を太
第二篇 第四章 大盤中斎 九七
第二篇 第四章 大臨中斎 九八
虚に騎 せんと欲 せば、宜しく 良知を致 すべ し、良知 を致 さ ず
して太虚を語る者は 必ず 響老の寧に陥らん 恐れざるべけ
ん や」と、これ 均しく 太 虚といふも、聖人の眞に到るには共道
あるを戒め示せるものなり 比に於て太虚に騎する工夫の
(八)
一端 を述べ て 曰く「未だ 太 虚 に騎 せ ざるも、自ら 欺 かず、自ら
謙し意を誠にするの工夫徹動徹静 徹書徹夜終始 一ならば、
便ち是れ仁義を貸すの道面して太虚に騎するの数なり と (九)
終に太虚に騎したる後の徳を叙して日く、夫れ人の嘉言善
行は即ち吾が心中の善面して人の醜言悪行は赤吾が心中
の悪なり足の故に聖人は之を外祀する能はざるなり 家を
斉 へ 國を治め天下を平かにするも、一 として心中の善を存
せ ざるなく、一 として心中の 悪 を 去ら ざるなし、道と 寧と岸
際なきこと見るべしと又目く日に太虚を吐きて世界を容
る太虚日に入て又心を成す心と太虚と本と一物人能く道
を存 すれ ば口ハ今 平」とこれ中斎が富士 登山の玲 にして共太
虚説 に 由て道の眞に 入らん ことを期 ぜ しもの也 要するに
中斎の太虚説は張氏の 太虚に基き、之を陽明 の良知説に参
して、得る所ありし ものといふ べし、
参考)
(一)より まて大臨中斎著洗心洞割記 にあり
(誌解)
谷碑 老子谷碑不死章 に 目 く谷碑不死是請 玄牝 と 谷 は空虚 に 喩 へ たるに
て共虚にして能く受け面も受けて有せず微妙にして 測られざるを以
て、之を谷碑といふ 也、
穴なり空なり周濃天官に雨之以九豪之鍵 と誌に目く陽築七陰数二院
に目く七者在頭露見故 貸 陽、一 者在下不見故貸 陰とあり、
第二篇 第四章 大臨中奮 九九
第 二硫 第五章 器 開學の系統 1 CC
第五章 羯 座 率 の 系統
第一 羯 明學派 小江 藤崎 本子 學 を 出 てく 場 明學 を 奉
じ て より、斯學 重く 飛 が 社會 に 使 はり、第 子 態 體 帶 山 は 共 轄
江西學派 神を 王學 に似 てクを破く事業 に施し て唯本 に北島 嶼山
出 てく エ學 を 奉じ、数位 し て 諸 國 を 授 道 や、三宅 石 港 东 大阪
に あり て 王 學 を 奉じ、終 に 操縦 書院 の 祭 酒 たり、全 時に 三重
松 德 克 都 に あり て 王 學 を 唱 、 子弟 を 教授 す、既に し て間 擔
派 作 農 直方 に 率 が し 一輪 就 應、 朝陽 明 學 に 臨 し て 大 に 期
學 を 唱 ,公元 の門人 に 川田 雅 琴 を 出 せり時に 中根 東 里 和 彼
の 門 に 撃 が し も 修辭 の 非 を 悟り て 良知 の 説 を 信 し 下野 に
あり て 新 學 を 唱 ︽北 時に 常 0 米子學 の 外 に 伝 鱗 和 彼 の 復
古 學地0%て所安老 職 の暴走らんとし 第 に書は未 予學
(一)
の正教を保護する貸に 異寧の禁を布きしかば陽明學は大 -
に衰 類するに 至れり、
第ニ 朱王融合派 熊澤審山経世の材を以て精神を王
派朱學
令の三

融間

學に採り井せて朱寧をも用なしを以て朱王融合の端開け
三宅石庵の如きも純然たる王撃者にあらずして寧ろ朱王
井 せ寧 びたるもの 、如し、かくて王寧衰微の時、梁川星魔詩
に隠れて斯寧を奉じ て竹村悔斎赤深く知行合一の旨を
妹 せり、又殆 と全時に大臨中斎大に斯寧を究め、大阪にあり
て鋭意之を宣揚せんとして果さず比時に常り江戸に佐藤
一斎あり、傾儒を以て 一代に推され 幕府の用ふる所となり、
表面朱子寧者の 観ありしも、陰然陽明寧をも奉じたり、故に
陽朱陰王の名あり 共門下に吉村秋陽山田方谷 奥宮 憶着 池
田 草庵の諸氏を出 せり
第二篇 第五章 陽明寧の系統 一○一
第二篇 第五章 陽明学の系統 一C二
(参考)
(一異寧の禁とは寛政年間 松平定信 白川楽翁)執政となるや、将軍家管 を佐 け
て諸制度の改革に着手し、寧政 の統一 を圓る ため比 禁 を布きしも のなり
き 即ち柴野栗山、岡田 寒泉 尾形二洲等の朱子寧 者を撃げて儒 臣とし 是等
儒者をして林家を助けて撃政の健革を計らしめたり時に部下湖霊の復
古撃者等大に反抗せしかば幕府は断然として朱子撃以外の撃者を探用
せざる に 及べり、かくて林 述斎林家を継 くや、盆 々 異 寧の 禁 を 厳 にし、同 七
年終に 聖堂を官 置 とし、全時に 天下に令し、朱子寧を奉ずる者の外は 何れ
の藩も番 く進仕を許さ ゞ ること、したり 以上を寛政異學の禁といふ、
(三)佐藤 一斎常て朱王の運 融を説きて 目く『朱陸全じく伊 洛を宗として共見
解 稲 異なれり、二子 並に賢 儒と稲す、朱子常甘て 目 く、南渡 以来著質の工夫を
理倉する者は唯業と子静の二人と 陸子も赤聞ふ 建安に朱元唯なく青田
に 陸子静 なしと 蓋し共相互に許すこと比の如し、常時の門人赤雨家相通
ずる者あり各師説を持して相争ふことを貸さず明儒に至り自沙算 撤除
桃 増城の如き 並に雨家を傘 ね取る我邦握宮藤公蓋し赤比の如し」と
第三篇 復古寧
第 一章 伊藤仁斎
第一 仁斎の経歴 伊藤仁斎は名を維積といひ字を源
佐といふ 仁斎は共競なり覚永四年七月二十日を以て京都
堀河に生る、十 一歳師に就て 句讃 を習 ひ 初めて大寧を授け
られ、治國 平天下の 章に至り、嘆 じて 日 く、今の 世赤 比の如き
ことを知るものあるかと十九歳季延平問答を熟譲しそれ
より 心を程朱寧に 注ぎ、性 理大全、朱子 語類等の書を讃 み、共
菊艦奥を究めしが、二十 八 九歳の 交 偶々 疾に 罪 り、癒え ざるも
の 殆ど十年、比間宋儒の説に就て疑ふ所あり、一朝自得する
や乃ち日く大學は孔氏の遺書にあらず鶴 用理気等の説は
皆備老の除意にして聖人の旨にあらずと 比に始めて門戸
第三篇 第一章 伊藤仁斎 -
一○三
第三篇 第一章 伊藤仁斎 一○四
㎞ を開きて 生徒を教授 す、時に年三十六、比に於 て論 子血 古 義、中
唱ふ
庸 発揮等 の書 を著 して 古 寧 説を述べ、又全志 曾 を設けて射
行 賞 践に資す、延賞元年五 月 京都大火 ある や、仁斎の家 赤 火
に 遇 ひ、百 物 藻 霊 す、仁斎 唯 だ 古 義一部を携 へ て 逃れ、京極大
恩 寺に橋 居し、母 の 病 を奉養 す 時に細川越中守聘 せんとせ
しも、侍 養人なきを以て固 鮮し、全年 母 死 する や 之 が 喪に服
す越前侯共行状を聞き幣物を賜ふ幾くもなく父赤卒せし
を以て、仁斎 喪 に服する こと通計四年 服終りて後始めて論
語を開講し、爾来論子血 中庸の三書を反覆講義 し、労ら易、大學、
近 思録 に及び、教授 俗 まざるもの 四 十 除年、比に於て名撃 日
古寧説の に盛 にして、門下に刺を 通ずる もの三千人、全國 を通じて飛
普及
興佐渡 登岐の三國人のみ共門に及ばさりしといふ かくて
天 和三年稲葉 正 休 の貸 に語 子血字義を著し、又大寧定本 を撰
せしが 賞永二年三月十二 日病て家に残せり 年七十九。
仁斎五男三女あり、五子皆家寧を究めて名撃を墜 さず、世之
、堀河の五
蔵 を堀河の五蔵といふ、これ 五子何れも魔の 一字を共名に付
するを以てなり、就中長男五男の二子特に深出せしを以て
世 又伊藤の首尾蔵と 稲 せり。
(参考) * 、
(一)李延平問答」は朱子初年の師 李側の著なり 李個は羅像章に寧 び羅像章は
場亀山に程子の備を受けたるもの也
第二 仁斎の撃説 仁斎は宋明の寧を以て古 聖の眞意
にあらずとし、単 直に古代倫理の眞相を発揮 せんと期 せり、
故に四 書を以て道徳の標準とし、一切宋明寧者の誌響書を
棄てたり されば論語を推奪して目く 論語の書は聖人 大 中
仁斎の語
至正の心を以て大中至正の道を説く故に唯だ大中至正の
第三篇 第一章 伊藤仁斎 o五

第三篇 第一章 伊藤仁斎 一○六
能く之を 知る、美亜し 知り難く行 ひ難く、高遠及ぶ べから ざ
るの説は乃ち異端 邪説にして知り易く行ひ易く平正親切
の者便 ち 之れ売愛舞の道なり、孔子今 古を帝万 観し、群 聖を歴選
し、特に売愛舞を祀 述し共知り易く行 ひ易き高世不易の 道を
立て、以て生民の極と貸し 之を門人に博へ之を後世に語
ふ故に論語の一書は最上至極宇宙第一の書たる也と 攻に
監子を棚して日く 歪子の書は論語に亜いて孔子の旨を発
明するもの也共言に目く発愛の道は孝備のみと又共知り
難く 行 な難く、高遠及ぶ べからざるの説を 庁けて以 て邪説
と貸し、暴行と貸し て痛く之を拒絶 す、面して専ら仁義 の旨
を 唱ふ、蓋し論語の義 硫なり」と。
學仁
以上の見地に立ち仁斎は更に心と性情とを論じて宋儒を
(三)

評の
比 判 して 日く「心は人の 思慮運用する所、本と貴きにあらず、
赤践しきにあらず 兄そ情あるの類は 皆是あり 故に聖人徳
を貴びて心を貴ばす 論語中心を説く者は鍵かに共心三月
仁に違はす及ひ 心の欲する所に従ふて短を職えす及び 簡
は 帝心に在りの三言に過きさるのみ然も皆心を以て緊要
と なさず、学血子に 至て 多の 心を説く然 も赤 仁義の 良心を指
し て言 ふ特に心を説かす、日 く本心、日 く存心是なり、大凡 備
氏及 ひ諸子盛に心を言ふ者 本と徳の貴ぶべきたるを知ら
す 茨意社撰のみ礼監の旨も質に審壊なり と又日く艦東日
ふ心は性情を統ふと 非なり監子日く心を存し性を養ふと
又日く心を動かし性 を忍ふと比を以て之を観れば、心は自
ら 是れ 心性は自ら是れ性 指す所各 殊 なり、若し心 を以て性
情を統 ふと 貸さ ば、単に 心を言って可 なり、既に心を存 すと
いひ、面して又性 を養 ふと言は 、共言 豊 に 資に あらす や、面
第三篇 第一章 伊藤仁斎 一○七
第三篇 第一章 伊藤仁斎 一○八
も偏に性を養 ふと言ひて情字を遺るれば共言赤偏なり 善
し性 を養 へ ば情 自ら正 し、別に情を修するの 工夫 を用 ひざ
る也」と又日く 心を論ずる者常さに側隠着悪 鮮譲足非の心
を以て本と貸すべし、夫れ人の是の心あるや 獅 ほ源あるの
水根あるの草木の如し生募具足鋼に随って動く途 々出て
、念 々 場きす、懲 々問 なて 念 々 霊きす、是れ則ち心の本鶴 岩
に比より質なるものあらん や 今乃ち心を以て虚と貸す者
は皆備老の緒除面して聖人の道と正に驚盤のみならず撃
の講ぜ ざる、一 に比に至る、灌る べきかな」と、以て共心の解響
仁斎の性
を見るべきなり攻に性を論して目く 性は生なり人共生す

る所、加損 なさなり、董子日く、性は生の質なり、周子は剛善 剛
悪、柔善、柔悪 不剛、不柔面して中なる者を以て 五性と貸す、是
なり、獅ほ 梅子の性 酸 補 子の性 稚師、某 葉の性 温、某葉の 性 寒 な
りと言 ふが如し 面して子血子又之を善と請ふ者は蓋し人の
生質萬不全ありと難 も 然も共善を善とし悪を悪とするは、
則ち古今となく、聖患となく、一 なるを以てなり、気質を離れ
て之を言ふにあらさる也 又目く 北子日ふ性相近き也習相
遠き也と、比れ萬世性 を論 するの根本準則 なり、面して 予血子
は孔子 を宗として之を寧ばん ことを願ふ共旨 豊に二あら
ん や、学血子固と言ふ 物 の 斉しから ざる や、物の情なりと、知る
べし、共所請性善 なる者は、即ち孔子の言 を述ふる者 なり、然
るに後儒孔子の言を以て気質の性を論すとなし監子の
を本然の性を論すと貸す信に共言の如くならば足れ孔子
本然の性 あるを知らず、学血子気質の性あるを知らざるもの
にあらす や、惟 に 一性 をして一一名 ならし むるのみ にあらず、
且つ 孔子血 同一血脈の 寧 をして 殆ど径 消の 相合し、薫 藩の相
第三篇 第一章 伊藤仁斎 一○九
第三篇 第一章 伊藤仁斎 一 一○
-
混する如く、一清 一 濁 適従すべ からざらしむ共言支離 決裂
殆ど相入れざること比の如し と これ全く考証的の文鮮と
*

く者は性の欲なりと足なり先儒以訓らく情とは性の動な
りと、未だ備はらす 更に欲字の意を見得し分暁なるを欲す、
人常に人情といひ 情欲と言ふ 或は天下の全情といふ 皆 な
比意なり 目の色に於ける 耳の盤に於ける 日の味に於ける
四肢の安逸に於ける足れ性、目 の美色を祀んと欲し 耳の好
音を聴か んと欲し、口 の美味を食はんと欲し、四肢の安逸を
得 んと欲する、是れ情 父子の親は性 なり、父必ず共子の善を
欲し、子必ず共父の毒 老を欲する 情なり 善を好み悪を悪む、
天下の全情なり、大凡比類を推して之を見れば情字の義 自
ら 分 時 なり元々、以 て 共 衛 空手 の 見解 を 認 れ 、 さ なり、仁義 文
職。 不易 に道を 探し て 日く 離は論 は 路 の 加さ也人 の作 來 , る
所以たり彼 に陰陽 交通之 を 天道と 調動 系 和氣 之 を地道
と いぶ、仁義 相 行 之 を 人道 といふ’冒 在 來 の 義 を 取る 他 文 日
く通 は着 は途 の加さ也 能 に由 八代 即ち 行く を 彼此 に 曲
され ば、即ち 行く を 得 ず 所 調節 を 新 道 に 由 る 真 は ん、及び 道
なる 物 は 御 史 ~も 離 る べから さる もの 是 たり、義 し 此 に 由 て
即ち行くを 得る の 義 に取る推 た 基 以 て作來 3る に 足るを
以 て敵 に北 に出 て行か さるを 得ず 嫌 あり と 離 。 實は
株:
は道 を 全 2 % ) 等 の 如 さ 是なり文 方法 を以て言 者 % り、
大學 の 道及び、今 の 世に 生れ て 古 の 道 に 反する加さ 是たり、
然。 普通 行の後に 因 之を証す 形 に天道 地道 》
| | |
第三篇 第一章 供應行 資
第三篇 第一章 $焚に変 | 11
人 道のり、及び 東端 小道 自 蘇 の 末、背 道 を以て 之 を 言 を得
る 也 と とれ 軍 東非 所調 道を し て日 用人信 の上 に有効 的 應
なら し めん と 冷たい し 続 に 外 なら さる 北
(参考)
( 11 世 繼續 著 電子 間 に あ 0
( )より( )進 ॥ 香辛 に あり
(註解)
體用 器 子 目 く 主 て 彼 なる 者 は 理 也、至 て 著 は る く 者 は 家 也 證 用 原 を !
*最後書 りなしと文官 (ふた 張し て ** あふ然 不 實是**
用 を 指し て 言 ~& 者 あり、威 し て 後に 天下 の 故に 通 する 北 座 公共 見 は る )
所 知 何 を 観る のみ と
大中 至 正 中 書 を 得 たる 最大 の もの にし て 正 の 亜 種 なる もの を s ,《天下
之 に 比べ Y « 3 の なさ の 調 なり、
嘉賓 黨 代表 也 獲 は 打 本 の 自英 也 兼職 とい メ が 知 し
第一章 伊藤 東涯
第一 東涯 の経歴 伊藤東涯は名を長胤といひ 字を原
蔵といふ、東涯は共跳なり、仁斎の長子にして、寛文十年四月
二十八 日を以て 京師堀河の家に生る、三 四歳にして能く字
を知り、稲々長じて頭角を見はす 人となり寡獣 恭謙人の過
を言はず 面も人の文鮮を乞ふあれば、貴践 長幼 に論なく之
に應ず、平生他の好 嗜 なく、終日砲 々として書を讃み、得る所
海内第一
の博識 あれば之を録し終に海内第 一 の博識を以て稲 せらる 著書
顔る多しかくて諸生を教授すること数十年元文元年七月
十七日病て共家に残す年六十七。
伊藤蘭購 東涯の弟蘭 岬 名を長堅といひ字をオ 蔵といふ 仁斎の第五
子にして、元碑七年五月期日を以て生れ 享保十六年三十八
第三篇 第二章 伊藤東涯 一 一三
第三篇 第二章 伊藤東涯 一 一四
歳にして紀伊公に仕 ふ博寧能文父兄に類し撃止端正にし
て 君子の 風あり、共書を講ずる や 音 吐 期 々、婦 論 明快にして
一座 を嘆服 せしめしといふ、安永 七 年一月二十六 日 残す 年
八 十五。
第二 東涯 の撃 説 東涯は 専ら父 仁斎の 古 寧説を祀述
(一)
す乃ち管て宋個の性論を厳して日く葉備の寧専ら理を主
とす 故に性命 天道等の撃を以て、一理の別名にして虜に随
ひ名を異にすと貸す也最も然らさるなり聖賢の言を立っ
る や 各自 同じ から ず、皆 指す所あり 以 て各共旨 を明かに す、
畳 に相 通用 す べきの 字を以て、虚 に随 ひ用 を換 へ、以 て無益
の勢懐を貸 さん や、義を立つ る、自ら別 用 せ ざる能はず、若し
宋 儒の 説の 如くんば、即ち五十にして天命 を 知ると 曰 ふ 如
きも、赤 五 十にし て 天理 を知るといふ も赤可 なり、理 を窮 め、
性を霊し以て命に至るといふ如きも赤性を窮め理を霊 す
と日ふも赤可なり 物を格し知を致すといふ如きも赤性を
知り心を霊すと日ふも可なり、豊に可ならん や 命字の如き
は、本と天 の人に命する吉凶 顧 顧 にして、獅ほ人君の 命令あ
り以 て人 を賞罰 する が 如 し、故に之 を命と 請 ふ 也、詩書 六経
未だ 堂吉 て 比 を以て 陰陽 造化の 理と 貸さ ず、赤 比 を以て人 に
在 るの性と 貸さ ゞ る也、程子以 貸 らく人性は天 に在るの名
と朱子大極を以て理の命と貸す 皆之を失せり とよく考誇
的に言説せしものといふべし (二)







東涯
を 験して 曰く「今共義を審 かにするに
兄そ復を言ふ者物共本を失して初めに復るの調なり 故に
日月の触明に復るを復といひ 疾の癒ゆるを赤復といふ若
し天下の人をして共初め皆共聖人の説を全うして後来ら
第三篇 第二章 伊藤東涯 -
一 一五
第三篇 第二章 伊藤東涯 一 一六
しめ始めて之を失すれば即ち固より共説の初に復って可
なり、然れども 共胎 を出 て、地に堕 つるの 時 を 原 ぬるに、弧 々
として崎き 奮々として動き足非を知らす 好悪を排せず及
び父母 兄長を識らず、若し共説の初 に復らんか、則 ち固より
悪の除くべきなく、赤善の長ず べきなし、惟だ 共春 々の中以
て善の本具と すべ し故に共稲長ずる や足非を分 ち好悪を
耕じ、父母 を見ては則ち 之と親しむを知り、兄長を見ては即
ち之を敬 ふを 知る、比れ人性の善 なる所以 面して 物の 能く
及ぶ 所 にあらず、聖賢 たるべきの本 比に歴胎す 所請良知良
能これなり豊へば一類の松子あり発生の時に方て之を映
壊に藤 けば即ち不 日にして基 甲折き華葉抽 く、日月以て之
を短し間露以てNを潤うせば即ち日に長し年に茂りて以
て千尋の橋木となるべし今夫れ萌撃の生を観て千尋の奮 メ
伊り命




東涯

あ或









)

(藤 参考 。
)
( もし


顕 の の
によって
如何

なる





せ 明 共育













如き
ある性 」


悪 聖し


















と 人 故

つ 稀

聖人







質 人 ざる

り 無ら















虚無形

ど とる
















面 いに
ならんめもし

なむるに



どや

初とい


全 む べし
求以て





をれ









千尋
ち な以て

を商












面 り

義 本
ならん













の り は
義 即とい尋りちる
とい
なべし
千可


と、



伊藤





東涯

千尋


第三篇 第三章 山鹿素行 -

一 一入
第三 章 山鹿 素行
第一 素行の経歴 山鹿 素行は 名 を高 赴 又義 短 と いび
字を子敬といふ 甚五左衛門と通稲 せり 元和八年を以て奥
洲倉津に生る父 六右衛門國主蒲生氏の封を除かるるゃ園
老町野左近父子 と共に江戸に出て 警を業とせしかば、素行
伴はれて江戸に移れり 既にして寛永九年九歳に達して林
羅山 の門に 入り、熱心程朱寧 を修め、十五歳 にして小畑景憲
北條氏長に就きて兵學を究め 十七歳に至り高野光有に従
なて 國學 を修め、撃 響潮く 高くして将に幕府 に 登用 せられ
ん とす、曾 々 将軍家 光夢 して共事 止み しか ば、素行は 爾来 民
間に 在りて諸 生を教授 する こと 十年、承 應元 年赤穂 侯浅野
長 直 に聴 せ られて出 て 仕 へ、萬治二二 年故あり て赤穂 を辞し、
再び 江戸にありて後進を誘接し 儒 寧及び兵寧に闘する著
書を公にせり 曾 々 寛文六 年共意見として聖教要鎌 を発表
せしに、幕府の忌講に鋼れ、謎を蒙りて赤穂に預けらる後延
賓三 年赦 されて江戸 に還り、浅草 田原 町 に住 して 教授を以
て 業とせ しが、貞享一年九月二 十六 日遂に 残す、年 六 十四
差し素行が聖教要録を著すに至りしは武士としての質學
を重 ん ぜ しを以て、世間と寧問との 懸隔 せるを非 なりとし、
殊 に宋儒 性 理の寧が徒に机上の空論となりて高遠 に馳せ、
盆 々 日用 に資する こと 迂 なるを厩 な 終に儒教の旨県 意を発
揮して、活 寧問たらしめんと希なし貸なりき、これ素行の 古
寧 説を唱 ふるに 至りし所以なり、 -

-
第ニ 素行の撃説 素行管て仁を響して目く 仁は人の
素行の仁
人たる所以、克己復 濃なり、天地元を以て行はれ、天下仁 を以
第三篇 第三章 山鹿素行 一 一九
第三篇 第三章 E病毒素行 -
1 二O
て立っ 掛 子にを間 大于朝日を以て之 に答 に の 金融大
用 書くに は 五常 を 兼ねる の 言 學 人 の 教 は 伝 を以て極道 と
摘 す、漢 廣 德 生、伝 を以て 愛 字 と 作 す。其 說 及ば ず、宋 に 至り、仁
を以て性 と 廊 し 大 な 高価 な 0 世に 聖人 の にを 知らず 桜庭
の 整 小 く失明 の 繁忙 於 し、仁 の 解 體重 人 之 を 許 か にせ ず、仁 を
義 に 封 し て 調べ は 別 ら 愛 意 の 愛 なり、仁 は 義 に 因 て 行 は れ
義 は J に 因 て 立つ、仁義 文 維 ^ ? 小 シ ず、人 の 情 は 愛 器 のみ、
とれ 自然 の情 なり に義なる者は愛麗 の師 に中 れるたり 正
常客 用 必 0、而 ~も 何 括 す 文文 維 やす 手冊 子 之 を 説く先師 口
く元 そ 高 気 ある の 敵 は 五常 を 具 3 J 大於 理 解析 す、五常 と
は 精 の 容 にし て 簡 に 中 れる 也 發 如 力行 战斗,è ば み ら 得 ベ
から ず、人 皆 此 情 め り、能 く 追 を 修 斗9 れ ば 方 の 節 に 中 る と と
素行の道
の解 を 得 と、とれ 會員 用 的 の 見地 より 古装 的 解釋 を 試み しいもの 池
(三)
乃ち又道を響 して日くT道は 日用共に由 り、常 さに行ふ べき
所、條理あるの名 なり、天能く運び、地能く 載せ、人能く 云 貸す、
各共道を有 つて違 ふ べからず、道は 行ふ 所あれば なり、日用
由て以て行ふべからずんば則ち道ならず 聖人の道は人道
なり、古今に通し、上下に至り、由 て以 て 行ふ べきなり、若し作
貸造設に渉り我れ行くべく彼れ行くべからず古へ 行くべ
く、今 行くべから ざれば即ち人の道にあらず、性 に率 ふ の道
に あら ず、道の 名 は 路上 より 起 る なり、人の 行は 必ず道 あり、
大路は都城王畿の道面して車馬通すべし人物器用 交々行
くべし天下の人民各共路に出てんと欲す小径は吾人利す
る所の路面して甚だ狭晒なり共険阻隆曲少しく衛 ふべき
のみ 聖人の道は大路なり異端の道は小径なり小径少しく
衛ぶべきも終に安んずべ からず 大路は衛ぶべきなく見る
-
第三篇 第三章 山鹿素行 -
一二 一
-
第三篇 第三章 山鹿素行 -
一二二
解行
の素

べきなきも萬の小径日下にあり終に離るべからず」と又徳
を響して日く、徳は得なり知至て内に得る所あるなり之を
心に得之を身に行ふを徳行といふ 共徳は公共にして天地
に通し萬物 に惑は ざる者、天徳明徳 なり、浅露薄 軽 にして 賞
地 を踏 まず んば 即ち徳といふ べから ず」と、進ん て誠 を響 し
て目く 旧むを得さる之を誠といふ純一 にして雑らず古今
上下易ふべからさる也維 天の命於残として止まさるなり
聖教未だ常て誠を以てせずんはあらず道なり徳なり 仁義
なり、濃楽なり、人々 止む を得 ざるの誠なり、父子の 親の 如き
是れ 暇 合 附 曾にあら ざる なり、無 妄之を誠と調 ひ、眞賞無 宴
之を誠といふは共に誠を知らざるなり己むを得 ざるの誠
を致せ ば、即ち 一言 一行、一事 一 物 の 間誠 なら ざる なし」と、こ
れ 皆 理論的にあらずして 賞際的の見地なりといふべし。
(五)

،
上 の 見解 より 社論 に 及び て 日くT理氣 統合 し て 生 女 自行
素行の性

なさ 定 能 く 感 通 知識 する 者 は 性 たり人物 生ん 大 命 たら さ
る なし 彼 に 日 《天命之 を推 と調 と 理氣 相合 すれば 見 ら
交感 し て飲用の 性 恋 》ル で天下 の間後 あれば から 北 世あ
る 位 比 れ 象 の 生 正 心 を 得 され ば なり、象 あつ て 月 あ 已 れ た
神 さる の情意 あり神意あっ て から れ を 称 さん の 道 あ 0
道 % つて 力 あ 已 れ を 得 さる の 教 あり、天下 の 道 は 至 戰 なり、
人物の性 原 にし て 栄 日ら 遠不及 《東芝 加會通
亦 與 たれ <リ、人 全 ドレ く 大地 に 真 け、而 し て 四 夷 者 與 たれ り、沈
ん や 高級 武功 の軍 を や性 は普 惠を以て言 3 « から ず 自制
の 所 理性 善 なる 者 は、已 れ を 得 ず し て ク に 停 ?费 死 を以て
| 的 と 持 す 也 接 世 其 質 を 知らず、切り に 性 の 本書 を 認め て 工
大 を 立つ、元 ~も 愛 者 の 感 なり学者 姓 帝 を 踏み、章 に 心 學 理學
第三節 第三章 小島素行 | 1
第三篇 第三章 山鹿素行 一 二四
の説あり人々賊する所の性は初め相近し気質の習に因て
相遠し、宋明 の寧者、異端の 失に 陥るは、唯に這裏に在り、比道
を修め て以て 天命の性 に 率 ふ、是れ聖人なり、君子 なり、己 れ
の 気質に習 ふ て 情 に従ふは、乃ち小人 なり、夷 狭 なり、性は唯
教を習 ふ にあり、聖教に因らずして、切りに本然の性を否覚む
る 者は 異端 なり、聖人は 天命気質 の 性 を分 た ず、若し相 分た
ば 則 ち天人 理気 音覚に間隔 す、比性 や 理気 交感の間に生 る、天
地人物皆然る也 気質を措いて性 を論ずる者は寧者の差認
なり 細は乃ち細なるも聖寧に盆なし生之を性と日ふ性悪
といひ 善悪混ずといひ 善なく悪なしといひ 作用是れ性と
目な性即ち理といふ背性を知らさる也性は多言に渉るべ
からず」と、これ宋明の理寧心寧等を排庁して直に古聖の意
(六)
を窺は んと期 するもの 也、乃ち進ん て心を論じ て 日く、性は
形鶴の間に充ち、方形の措くべきなし共舎高する所 の地を
心胸といふ、一身の中央 元 属の第一 碑明の舎 性情の具する
所、一身の主宰 なり、心は 火 に属す、生々 息むなく、少しも住ま
らず、流行運動の 請なり 性情を措いて心と日 ふ、凡そ心 と請
へは乃ち性情相撃くるなり 知覚を以て心と貸し理を以て
性と貸す、是れ切りに性 心 を分たんと欲する也、性 を以て本
然の善と貸し、人心道 心 を認め 来 り て心を正す、皆 知覚及び
理共に具はる也 と又意と情とを説きて日く 意は性の発動
未だ 述あるに及ば ざるの名 なり、既に述あれは 乃ち情と日
ふ 発動の機微 これ意なり、心の響 ふ所なり、性心なる者は鉢
にして、意情 なる者は 用 なり、側隠差 悪 鮮 譲 是非 ある、是れ情
なり、情の発して物 に及ぶ 共目一五 の間 に出 て ず、聖人は仁
義 濃智 を以て共情をして共節に 中らしむる なり」と、みな 後
第三篇 第三章 山鹿素行 一二五
第三篇 第三章 山鹿素行 一二六
、世寧者の推理 を庁けしもの也。
(参考)
(一)より(四)まて山鹿素行 著「聖教 要録」巻中に あり
(五)より(七)まて「全書 巻下 に あり
(誌解)
於程 於は鳴 呼 程は 敬 謹なり、即ち「ア 、程として」とょむ。
五臓 人身内に五臓ありとは古人の説く所なり、心臓 肝臓賢 臓腕 臓 牌臓之を
五臓といふ、又 五臓 に 六 肺あり、心 に(小腸肝 に 魔 将 に 勝 脱 時に 大腸 牌 に
胃 及び腎と同位なる命門 に 三焦 の諸腕 ありといふ 所請 五臓 六腕是な
うり
第四 章 荻生但徳
第1 祖徳の経歴 荻生祖徳は名を双松といひ 字を茂
卿といふ祖彼は共競なり通稲継右衛門 本姓物部共先三河
荻生に居る因て氏と貸す寛文六年二月を以て江戸に生る
五歳字を識り、十歳能く文を属し、延賞元年父方庵の事に座
して江戸を逐はれ、上継に 塾 居す 時に漫 隅の地、書籍 なく師
友なく僅に大父手抄の大學議解一冊を得て熟語監味し 衛
来聖寧に志し群籍を求めて之を渉猟す二十五歳赦に逢ふ
て父と共に江戸に還り、父 再び出て、警官となり、三子 某を
共嗣となす や、祖徳 乃ち唯を芝浦に下して 教授自ら給し、貧
に虚して苦寧す 柳澤吉保共名を聞き群して書記と貸す、曾
々将軍綱吉寧を好み履 々柳澤侯の第に臨み 家臣をして経
第三篇 第四章 萩生租徳一-*
第三篇 第四章 シ 一二八
書を進講せしむ祖徳之を以て将軍に好遇せられ前後食藤
を増して五百石に至り番頭格に進む 比時に常り伊藤仁斎
古 寧を 平安 に唱 へ、程朱 を排 せしかは、祖徳 乃ち議園随筆 を
著して程朱を掃護せしが偶々李王の書を譲みて大に感す
る所あり、霊く 奮 寧 を棄て 、専ら古文 解 を修し、終 に 一家 言
を立て 、復古寧と 稲するに 至れり 比 に於て日く 道は文章
のみ、六経赤 比物 比を合て他に求む足れ後 儒の道を知ら ざ
る所以 なりと、又日 く孔子の道は 先王の道なり、共教は詩書
濃楽四術のみ 子思 学血子 諸子と争ふて より降て儒家者流と
なると刀ち論語徴競道競名等の書を著して痛く宋儒を験
し、思子血を排 し、併せて 仁斎を攻 む 弟子太宰春豪、山懸周南、服
部南郭等の徒従ふて共説を鼓舞し名盤籍甚、一世を風魔す
既にして享保六年将軍吉宗祖彼 に命して六 論術義を句 譲
せしむ成るに及び時服を賜ふ後展々文學を以て教を奉す
かくて十三年正月十九日病を以て 残す年六十三、
祖徳天性豪適にして卓撃不闘 眼 一世を全うし 自ら海内第
一 の人物と 稲す、面して聖寧を以て 一 に治國経世の道なり
とし共文字を以て盛時を飾るの具と せり 故に又古文鮮寧
の 稲 あり。 〜

(参考) -

一李王の書とは明末に 古文鮮を唱へし李子隣撃龍王元美世貞の著書をい
ふ、二人に従ふ五子ありて七才子と稲し、赴を結びて互に共文章を標賞す
第ニ 祖徳の撃説 祖徳は儒教を以て政治経済の治具
と見倣せり乃ち先づ考誇的に解響して日く 北子の道は先
王の道なり先王の道は天下を安んずるの道なり礼子平生
東周の貸に共弟子を教育し各をして共材を成し以て之を
第三篇 第四章 茨生祖徳 -

一二九
*****o
用い ん と せり、其 修 に 位 を 得 さる に 及び て後 六 經 を 修 し、以
てク を他 大 經 即 ら先王 の道なり とかく 先王 の道を設 さ
* 壓迫 を論し て日(道 なる者は義公 た 0 由 所あるを
以 てクを ふし 本 主の立 る魔大下後書の人をし
て北 に由 て以 て行かしめ 而し て 江 东北 に出 て以 て行く
也 能を人 に呼ぶる に道路 に出 て以 て行く彼 に道 と いぶ事
機に義 》以 て農業 開設 に至るまで合し て以てク を負っ
梅 e (後に日 く親名なり んぽん てに義 體等の字義 に及び て
日く なる者は 長生安民 の徳を いふ也是 九 華人の大德也
天地の大德を生 と日 軍人之に 則 る敵 に文之を 好生の像
(四)
༄༅
| > Q る や、其 教 たる 周 れ し、徐 れ ど ~も 順 l 泊 の 観 あり て 天下
(五)
の 事 發 0 た し、故に 文 表 を 立つ 體 なる 者 は 道 の 名 なり先王

の制作する所四教六シれ基一に居る所調㎞三百成備
ゃ *
-
-*
j ロ ) >〜
三千 足れ共物なり」と、皆 政治 的 の解 響といふ べし、故に又君
㎞ 子小人を解して日く 君子は上に在るの稲なり子は男子の
美禰面して之を向ふに君を以てす 君なる者は下を治むる
者なり土大夫皆民を治 むるを以て職と貸す故に君之を向
び子以て之を龍す足れ位を以て之を言へるもの也下位に
ありと難も共徳人の上たるに足れは赤之を君子といふ 足
れ徳を以て之を言ふ者なり古の人學んて徳を成せば即ち
之を士に進め以て大夫に至る故に目く 君子なる者は成徳
の稲「小人も赤民の稲なり民の務むる所は営生にあり故に
共志す所 一己を 成すに あり て、安民の 心なし、是を これ小人
といふ 共志す所小 なるの 故 なり、上位にありと 難 も 共心を
採る比の如くなれば赤之を小人といふ 経博言ふ所或は位
第三篇 第四章 萩生祖徳 一三 一
第三篇 第四章 荻生祖徳 一三二
を主として之をいひ成は徳を主として之を言ふ指す所全
じからざるも、共稲して小人と貸す所の 意は皆比に 出 てず」
㎞ と祖徳以上の見地より性情を論じて目く 性は生の質也 衆
儒の所請 気質なる者 是也 共性 に本然あり 気質ありと請 、
ふ、人性 皆 聖人と異なら ず 共異る所の 者は気質のみ と、遂に
気質を鍵化し て 以て 聖人に 至 らんと欲す、若 し唯だ本 然 に
して気質なからしめば則ち人々聖人なり何そ學問を用ひ
ん又若し唯だ気質にして本然の性なからしめば則ち寧ぶ
と離も盆なし何そ寧問を用なん足れ宋備の本然気質の性
を立っる所以の意也然も歴 胎の初め気質己に具はれば則
ち共所 請本然の性は唯だ之を天 に属すべくして、人に属す
べからざる也、又以貸らく理は 局する所ある なし 気質の 局
する所と難も質に局せさる所あって存す則ち奪戦と人と
何を探ばんゃ故に又諸を正通運塞の説に騎す面して本然
の説終に立たず姿説といふ べきのみ 慣は喜怒哀楽の心思
慮を待たずして発する者 各々性を以て残 なり、七情の目、警
書に日く喜怒愛思悲驚恐と比れ共五蔵に発する者に就て
之か名を立つ 備書に日く喜怒哀棚愛悪欲と成は只だ喜怒
哀楽の四者を言ふ 比れ皆好悪の雨端を以て 之を言 ふ、大抵
心情の分共思慮する所を以て心と貸す、思慮に渉らざる者
を以て情と貸す、七者の発 性と闘 せ ざるを以て心と貸す 性
に闘する者を情と貸す九そ人の性皆欲する所あり面して
思慮に渉れば即ち或は能く共性を忍ぶ 思慮に渉らされば
即ち共性の欲する所に任す 故に心は能く橋飾する所あり、
面して情は橋 飾する所あるなし 是れ心情の 説なり、凡そ人
第三篇 第四章 荻生但徳 一三三
-
第三篇 第四章 萩生但徳 こ
一三四
の性皆欲する所あり面して欲する所或は共性を以て異な
り故に七情の 目は欲を以て主と貸す 共欲に順 へ ば即ち喜
楽愛 共欲に逆 へ ば 即ち怒悪 衰 擢、是れ性 各 欲する所ある者、
情に見はる、のみ故に情欲と日s天下の全情といふ如き
皆欲する所を以て之を言ふと要するに考説的に性情を匿
別解説 せるものといふ べし、
(参考)
(一)三萩生但彼 著排道にあり
(三) 四Y五)全著携名 巻上にあり 六 セX入 (丸 「全書 巻下 にあり
第五章 太宰 春 豪
第一 春 豪の経歴 太宰春豪は名 を純と いひ、字 を徳夫
といふ春豪は共競なり延賞八年を以て信州飯田に生る 幼
にして父 に従 ひて江戸に来り、一意経 寧を修めて除 念なく
幾くもなく出て、出石侯 に仕 へ しが、数年にして 疾 を以て
致仕を乞ひ 許可なかりしより自ら藩を脱す之を以て藩捕
へて禁鋼せり 既にして春 豪赦されて京畿に遊び共道を博
㎞ へんとせしに曾々荻生 祖徳復古寧を江戸に唱へ名盤群甚
たりしかば遂に之に従 ひ安藤服部等の諸子と研鎖講習し
盆 々復古寧の貸 に気 船を吐けり 後ち祖徳残する や、春豪推
されて 物門の 棟梁となり、自ら 一世の師表 を以て 許せり、か
くて 沼田侯の貸 に濃 遇 せられしも、終 に出て仕 へ ず 専ら民
第三篇 第五章 本シ 一三五
第三篇 第五章『太宰春豪 一三六
間の儒を以て任じ延享四年五月三十日遂に残す 年六十八。
春豪性厳毅 にして菊 くもせず 弟子に封する こと拾も将軍
の諸侯を見る如くなりき之を以て古文鮮の寧風盆々規律
正しく、よく 赴 曾に博播 せりといふ。
第ニ 春豪の撃説 春豪は師祖徳の後を承けて専ら復
古寧を唱ふ 従て宋儒の説を験すること盛なりき 普て朱子
の説を評して目く 本子本然気質の説は性善の義を立てん
とて古聖人の道になき事を社撰してい へるなり 軍意 造化
の理を知ら ざるが故なり 天地の性に 不善なければ共気 を
受けて 生ずる人も不善 の性 なかる べしと思へるは、理に常
れる論なれ ども、造化の 理に味し 陰陽五行の 気に 不善なし
といふこと 認 論なり 陰陽の一一気は天地に昇降 する者なり、
五行の気は天地の間を運行する者なり陰陽は銀歳消長し
て萬物を生じ五行は更代旺養して萬物を養ふ陰陽は天地
の気なり、五行は又陰陽より分れ出てたる者なれば陰陽五
行の気は皆正気にて足に邪悪の気はあるまじき義と思は
るれども変かるべき時暖に%かるべき時涼しき類なり 変
暑のみに限らす 風雨露雪の類まて皆 然なり陰陽五行の気
は天地の間を均しく昇降運行すれども太過 不及あるに因
て正気も邪気となりて 人に中り物を害す 天地は萬物を生
じ 高物を養ふは常なれども共気の太過不及に因ては萬物
を傷害することあり 足れ天地の如何なる心にて比災 診を
降すといふことをば智者も知ること能はず然れば天地は
正気のみにて邪気なしといふ べからず、又造物の理をば、古
より陶家の 器を造るに警ふ 陶工の器を造るは全形の器を
百千造るに、皆 番く庇なく共形の好く成就せん ことを欲す
第三篇 第五章 太宰春豪 一三七
第三篇 第五章 太宰春豪 三入
れども共器の成就するに及んて形に不全あり 成は難あり
或は楽の行届かぬ所もあり百千の陶器一様にはあらず 天
地の萬物を生ずるも赤然也造物に悪意なけれども 生ずる
所の物には善悪ありて、共性 さま 〜 也、大患難 には虎狙の類
あり、小 虫には岐 忙番 職の類 あり、家には風あり、田には 韓 あ
り 皆是れ人を害する悪 物なり 鳥獣亀龍のみにあらず 草木
金石にも毒物あり天地の 正気 より生ずる高物の中に、比等
の悪物 あるは何故 ぞ や、程朱の説の如く ならば 比等の悪物
も本然の性は善なれども気質の性に悪ありといふべし腹
を捧へたる事なり されば萬物の性に善悪ある如く人の性
にも善悪あり、善に又 種々あり、悪に又種々あり、全しく天地
の正気より生ずれども 生れ出たる虚を看れば 萬人萬様な
り、一父一母にて生む子も十人は十様にて賢愚善悪さまさ
ま なるは、父母 も知らず、如何ともす べき様 な し、天地 造物 も
定めて人の父母 の如くなるべし、天下 に不善人なき様にと
思ふべけれども 造物者の心にも任せ ぬなるべし若し然ら
ずば、世に不善人の生するも 天下の全鶴に於ては 何か所用
ありてするもの ならん 軍章 天意測り難し 道理を以て推す

ことを得ず、只六経の旨に任せ、孔子の 言を以てて 観れは、程朱
-
の妄認見ゆる也」と、
春豪又監子を請して、監子には二つの病あり一は他の説
を破せん貸に新奇 の言 を貸し 性善といひ、人皆売愛舞たる べ
しといひ 音が消然の気を養ふといふ皆先王孔子の道にな
き事なり二は諸園王に謁して方便的の言を弄し社撰美説
を以て古人を講りること多しと列撃し断じて日く日本の
伊藤仁斎は見識を立てシをは講れども五子を 信する
第三篇 第五章 太宰春豪 一三九
第三篇 第五章 太宰春藩 -

一四○
ことは宋儒に替らず九そ古の聖人の道には心性を談ずる
ことなし 心性の説は学血子より始まれ り、宋儒又響氏に倣ふ
て、心法を以て教とする故に子血子の説の己が宗旨に合 へ る
を脱んて、これを奪信するものなり 仁斎は宋儒の理寧を嫌
なしかども軍章心法の教を主とする故に学血子の説の孔子
に違へることを知らずして乳子と並べて奪信し監子の書
をば論語の義琉なりといふ 悲しき見虜なり」云々東西古寧
説の 相反 せる、比 一事 を以て 推知す べき なり。
-
(参考) -
(一X三太宰春豪著聖事問答 巻上にあり
第六 章 復古寧の系統
第ニ 仁斎派 伊藤仁斎京師に古寧を唱へてより共子
東涯 蘭 隅等父の業 を承け、又門下に並河 天民 北村 篤所、中江
混 山等あり殊に天民は経済的の見地より 一家言を立て東
涯と封時して仁斎門下を二分せし観ありき東涯の後共子
東所東所の子東里相継ぎ東涯門下には澤村琴所宮崎街回
青木昆陽 奥田三角 原双桂等を出せり以上を京都にあって
古寧説を唱 へし著名の寧者とす
第二 祖徳派 荻生祖徳一たび 東都に復古寧を唱 へ て
より共門下に太宰 春豪 服部南部、山懸周南、大内熊耳、平野金
華、宇佐美満水、赤松 太 疫 亀井南 演等を出し、春 豪門 下に、五味
釜川 松崎 観 海あり、南郭門下に 編殿士寧 湯浅常山 あり、周南
第三篇 第六章 復古寧の系統 一四一
第三篇 第六章 復古學の系統 -
一四二
門下に瀧鶴豪 あり熊耳門下に市川鶴鳴 立原 翠軒あり共他
門下末葉順る多く、質に 一時 済々 たる多士を出 せり
第三 素行 派 山鹿素行は 兵寧者として多く世に 知ら
-
説行

學素

衛 れ

しものにして、儒 寧者としての門下少し 特に共子 八郎左


衛門政質は兵法を以て津軽家に仕 へ、五世の孫高美又兵法
を以て弘前藩に仕 へ し外僅に高美の孫高補が素水と跳し、
弘前藩にありて兵法以外に家學を継承せし外稲すべきも
以 成の
なし、面して門人にありても、何れも寧術を以ては 一家を
成さず唯だ兵法家として世に用ひられしに止まれり之を
て素行派の古寧説は世に弘まらずして止めり
第四篇 折夷寧
第一章 井上金峨
第一 金峨の経歴 井上金 峨は名を立元と いひ、字を純
卿といふ 金峨は共跳なり 通稲を文平といひ 享 和十七年を
以 て 江戸青山 に生れ、幼 にし て 讃書 を好み、初め伊藤 仁斎の
古 寧説を究め、韓 じて萩生祖徳の復古 説を聴き 幾くもなく、
番 く共非 を悟り て 一 機軸 を出し、隣 徴 録 を著は して大に復
古 寧 を 験 せり、比に 於 て笠間 侯 井上 氏の 貸 に用 ひ られしが、
二十四歳にして全侯の仕を辞し離を駒込に下して生徒を
教授し、家 貧 にして 自給 する 能は ざりし より、聴講 者 より 銅
銭三十文宛を徴して共日を送れり偶々多紀元簡幕府の命
を奉じて 隣毒 館 を建て、金 峨 を聘して 館 の警生を教導し、又
第四篇 第一章 井上金峨 一四三
第四篇 第一章 井上金峨 一四四
學制をも定めしめしかば金戦の名これより顕はれ八年二
本松の聘に應じて國に下り、七ヶ月にして騎り又中村侯の
貸 に 封 内の 政事に 参興し、安永 九 年輪 王寺宮の招聘に鷹じ
て経を講じ、龍遇 日 に厚 かりしが、天明 四年六月十 六 日遂に
残す 年 五 十 三
第二 金 峨の撃 説 金峨共折 裏寧の見地より儒寧の 沿
革を叙し評して目く伸尼残して微言絶し七十子大義を喪
ふて乗く子思中庸を作る質に貸す所あり監菊以降降って
儒家者流となる 性善門を貸し性悪 戸を建つ、是に於てか 一
家の言始めて分る漢興 って以来諸儒輩出し遺経を嫌 除に
求む専門の奥訓話以て大義を撃ぐ島郷の徒参互稽定所見
あるなさ者の如しと難も、面も古 を去る未だ大に遠からず、
古時の言 因 て復 た究むべ し、宋二程朱子出づるに及び、豪傑
の資絶倫の材を以て微然望を養 な千古を塊 祀し因て無稽
の言を発す、乃ち 云 ふ、千載不博の寧を継ぐと共騎趣を要す
るに備老に及ばざること遠甚なり陽に之を排して以て異
端と貸すと難も 陰に質は之に擁 て以て共説の由る所と貸
す、伊 公目 するに 碑儒を以てし、物公審 かに之を條論す 鳴呼
赤倫快ならずや然りと難も余の程朱に取らざる所以の者
は特に共説の由て起る所を悪むのみ 朱子の撃の博の如き、
騒賦詩文に至るまて皆発揚あり 豊に長敬 せざらん や 後の
性 理 を言 ふ者 徒に共説を諦 習し、之が古 を求むるを知らず、
共無聞を施ふては、則 ち日く、物 を衛 へ は志 を喪 ふと 共晒 解
を塊 ちては則ち日く 鮮達するのみと共施貸を論じ ては則
ち日く窮理居敬と 質に用ゆる所なし、山林 濁善者の行に如
かす、遂に人をし て 儒者は 世 の 長物 たりとい はし むるに 至
第四篇 第一章 井上金峨 一四
第四節 第一 章 界上金成 四六
る 長 級 風を 残す べし翌 季 以來世に性 理 を護 する 者 党 に
を以て 共 出る 所 を 並 與 し、而 し てク を 廃棄 すが 認 さら ず
や、之 を 要するに余子 の 末子 たる 所以 を 書き ず、縣 か に 二 公
病 く 之 を 排 Ù る を 明け は 別 の 愛 手 として 調 %、大橋 は | 5
是 上と すべ さ なし と 比 れ 亦 1 集 を 愛する に 足る のみ と、とれ
仁賀 和 彼 の 説 を 明 縣 し て、更に 前橋 の 長所 を 採 らん と 期す
る者所前所 求學のみ ある所以 な 0
金 像 文來 王子を執照し て日( 平子 の 軍本 ア と異なる者
結 と 冷 なり、朱子 は 諸 れ を 理 に 求め、王子 は 諸 れ を 心 に 求 れ、
朱子 は 諸 れ を 二 に 求め、王子 は 諸 れ を | 2 米 粉末 子 は 調 %
事物 の 理 に親 的 剧 《世 か 心 の 知 を 数 ヶ と 王 氏は 調音 が
良心を事物 の 上 に敗 す と ク を 有 す する に 要 は 見 性成派都
雑誌 の 設 に輸 , 其先王元子の節 と 和 太る と と遺書 な 0
大 眼 王 氏は 製糖體本 の能 く 彼氏 所 に あらず ㎞ - 雞 籠は 別
桜木 の 年 に 過 《 る 能はず、理 を 心 に 日 《二 を | 2 建 し勝 .
を 帯の間 に機 飛龍 た 対象 の 残す所實 に大 に 見る所あ
る に あら ず 其 未 子吸 作 の 言を 破り 以 て 定論 と 残し 人を し
て基金の処を有するを 立 しめん と彼 と 廊。 而 亦
以 て 自ら 共 小 に 安 ん せき る ある を 知るべ し 込ん、これ 本 王
子の矢野 を指摘 さるもの と いぶ べし スに書 を許し て日
(三)
く成が 東方 に奉 伊藤生生 出る に 至 《周り歩く重機 とし
| 先頭 家を以て魔術 と 残し彼 市 の業 を 首開 す 此 れ其 手
古 に 使 出し、而 し て 優良 木 於 世 た あら さる 所以 の 者 なり、唯
だ 其 情 れ 、さ 者 は 詩書 都會 破っ て 二 進,と 持 し、孔子,と 先王
と を 脱 る 領 は後世 德 家各 門戶 を 建て 以 て 分 つて 町 時 を 書
が 如 し 是 に 放 て かれ 子 の 道 原本 て 自ら 小 なり 終 に 王道
第四節 第一 撃 夫上金総 一 百七
-
第四篇 第 1章 #上金城 *
或 は個 學を以て 新道を勝 稱 するを 意志 ん え に位 來 を 許
して日く 書侍從 古の事を首 曲し之を求 が東方に開く
其 功 來像 なり両 º 集 は従来 源 行 の 説 を立てボ来 た 未婚 者
家を割 受ける能 はず 最 に N を描い て流浪 たる こと艦 は さ
りょに復た情も « からず や他 從生時に 見るあり師 ,
日 《道 とは先王 の 道なり 天下 を安ん する の 道たり、愛 は 長
人安民と敵天 と に載 するのみ 北野 な が 出て天下學者作
德 を 包 れ に 成 し 攻 民 の道を 行 心 を知る 問 正門 の 教 座 》
は復 すべ けんゆり と 離~本 の先生 に取るある 者 は 特に共
根由 する 所 の 説 のみ、推 だ 其人 と 時 0 ) 本町 を 好む の 勝ち り、
英道 の資を以てク を言語文章 の間 に愛し 本 を 立つ る に急
にし て共 設 の 合 と 否,と を 頼み ず、比 れ 議論 さる べから きる
地 と赤よく 考證的 に 子を証書 きるもの といふくし、
秀考
(一(三 (三) 四)井上 金 峨 著「経義 折 東 」に あり。
誌解
シのニ人を す三園の際にありて訓 の撃に従ふ
資章 質永享保の略稲なり、
見 性成備、浄智圓 満 俳 教 の 語 なり、見 性 悟道と いひ、成俳得道と いひ、浄智 浮
妙といひ園満 具足といひ 種々に心性を説く、一々述べ 霊し難し
-
第四篇 第一章 井上金峨 一四九
第四篇 第二 皆章川洪園 一五C
第一一章 皆川洪 園
第一 演 園 の経歴 皆川洪園は名 を原態といひ、字を伯 恭
といふ、洪園は共跳 なり、別に筋 斎と 跳 す、通 稲 を文蔵といふ、
享保 十九年十 二 月 を以て 京都 に生る、四歳よく字 を 知り、五
歳よく詩を 記憶し、弟富士谷 成章と共に寧に 志 せり、十 五 歳
の時洪園兄弟韓客と唱和し人をして共双璧なるを感せし
む漢園比時より文學に就て研究する所あり字書を締きて
學洪

む字
な・園

専心 象形に考へ盤音に求め大に発明せり万ち之を以て諸
書を誌解を加 へ易経儀濃春秋 論子血寧庸等に及び 名盤一時
に高まれり比に於て公卿侯伯の子弟設を執る者多く、一時
弟子三千人に及べり 平戸侯最も心を漢園に寄す 寛政中皇
居造営の撃あり 幕府柴野栗山に命じ 負文亀考を撰せしむ、
洪園と柴
錦栗山 時に演園之が 誤認を指摘して 栗山を服 せしむ 共博寧想ふ
べし、かくて洪 園は文化二年弘道館を立て出 て 、経義を講
じ大に諸 生を教導せしが、全四年五月十六日遂に 残す年七
-

-
十 四。
第二 演園の撃説 洪園は専ら文字の 研究によりて 道
の眞を明かにせんとしたるもの也即ち象形に取り盛言に
求め名物の義を接して目く 名は盤に生じ盤は物に生じ物
は天地陰陽四時の常ある者に生じ道徳を統べ 性情を貫き、
盤気に務し民言に著はる故に%説封博に目く紳なる者は
萬物に妙 にして言を貸す者 なりと 凡そ 聖人の道名を耕ず
るを要と貸す名明かなれば則ち物察す物察すれば則ち文
義正常す 繋鮮 博に日く夫れ易とは何貸す者ぞ や 物を開き
務を成す と又日く離いて名に常り物を耕じて言を正すと
第四篇 第二章 皆川洪園 -

一五一
第四篇 第二章 皆川漢園 一五二
(三)● ●
足の調なり、と又日く 音記象表の法を以て名物の義を究め
ば即ち精微の極といへども赤以て通暁すべし字義既に通
じて文理始めて断かなり面して後古人の書を請まば則ち
明自日を掲 くるが如し と比の如きは軍意 米王雨寧の争ょ
り更に伊 物二氏の寧起り 寧界潮く紛乱 を来 せしかば比に

一機軸 を出して古道の眞を比に求めんとせしものに外な
らざる也
(参考)
(一)より(三 者川洪 園著名 崎」に あり
(誌解
象形 萬物の象によりて 字形を作りし☆ の @ g日 月の如し
音記象式 音によりて記し象 によりて現はすをいふ、
易説封博 易経の説掛博をいふ、即ち八掛の義を論し天道 性命の理 を明か
にせる もの 也
第三 章 太田 錦城
第ー 錦城の経歴 太田錦城は名を元貞といひ字を公
幹といふ 錦城は共競なり、オ佐と通稲 す明和一年を以て加
賀大聖寺に生る幼にして碑童の名を博し十三歳より経史
を講説し終に西遊して京都に出て皆川洪園に就て學びし
も 意に満たず、去つて 江戸に出 て、山本 北山に就 いて 疑義を
錦城の苦

質せしも尚ほ意に満たす比に於て道を古人に求めんと志
し、刻苦して書を譲 み、終 に 唯を下し て 教授 せり、時に幕府の
警官 多記元簡博寧にして 士 に下り、錦城のオ寧を愛し、己が
弟子として業 を 受けしめ たり、爾来 錦城の名 潮 く 顕はれ、終
に教授の勇ら百家の書を譲み折東して一家言を立つるに
至れりかくて一時老中吉田侯の貸に共世子を教育せしが
第四篇 第三章 太田錦城 一五三
第四g 第三* 大田シ 一五四
更に加賀藩に仕へ㎞三百石を賜はりて上士に班し優遇職
事に常り文政八年四月二十八日遂に残せり年六十七
第ニ 錦城の撃説 錦城は洪園北山の説に満足 せず己
れ共上に出てんと志せしを以て 営に儒書のみならず老荘
響 弾占相等の 説に至るまて 霊く之を究め、共採るべきは 採
り、棄 つ べきは 棄て、朱 王 伊物 に 偏 せ ず、尚ほ洪園北山等の 未
だ窺はざる所をも究めて終に折 表寧を大成せり、されば共
言該博にして考誇精緻なり 程朱の性論の監子性善と全く
共趣旨 を異に せるを考 誇 的 に論隣し、尚 ほ進ん ては周 程 張
朱 の 説 の、全く 輝に本づくことを指 掃 して 刺す 所 なか りき、
共言に日く 未一代碑寧盛に行はれ撃士大夫皆霊く共門に
入 て参論 せり、周程張朱 も初 年共門に 入 て共道を寧ばれた
る もの也、夫 れ故に先人 主と 貸 り、反 て 吾 か 聖人の 寧を講ず
るに至て共習骨髄に決治せし故に 多分は共見解を以て聖
人の書を説かれしものなり 予管て評直編を作って聖人の
戒を犯し霊く共事を録せり今共一二を撃げて足を示さん
周茂叔は潤州鶴林寺の僧書涯に参せられたるとと宋晃公
武の讃書志 馬端臨の文献通考明郡敬の時習新知 清朱務 奪
の経義考等に見へたり備印刷師元公と相興に講道せりと
いふ こと、暁 営 の雲 駄 紀談に 見 へ たり、東林 継 弾師 に太極 圓
の深旨を叩きしこと空谷 尚直編に見 へたり 程伯子の老響
に出入 せし こと幾十年といふ ことは、叔子の 明道行状 に 見
へ たり、張横返業の響老の書に訪 ふ こと累年霊く共説を窺ふ
といふ ことは、呂興叔の 横梁 行状 に見 へ たり、朱晦翁 の謙開
善に學ばれたることは延平問答附録に見へたり又羅飲順
の間知記に*『へたりシの座にて一『Esし参
第四篇 第三章 太田錦城 一五五
第四篇 第三章 太田錦城 一五六
せしことを自ら言はれしこと朱子語類に見へたり又
氏の説を喜び 共人を師として共道を奪 ぶといふこと 文集
江尚書に答ふる書に見へたり輝老に出入する者十除年と
いふことは文集江無適泳に答ふる書に見へたり皆悔悟の
| 語なり、程子初 年に寧ばれたる劉昇山 も質は 購 寧者なる こ
と、晦翁の展 山墓表に見 へたり、王士種の池北偶談にも見 へ
たり 共他程門諸子楊亀山 謝上葬遊定夫 サ和靖呂晋伯呂興
叔 呂原明、胡文定 張思叔 那和叔等老備より来り、又老備に騎
せしこと伊洛淵源録朱子語類の二書に詳かに見へたり天
下酒々として碑寧に騎する時務にて諸老先生も皆共門よ
り来られしことなれば備老の見解を以て聖人の道を説か
れたるものたるも光のことならずゃとこれ全く事質の考
電によって来事を請せしものといふべし錦城又朱子の理
気説を評して日く 未子の寧は程子の理 一分殊に原いて天
地の性、理は 全 じと難 も、形気 正通 を受けしものは、人となり、
形気の偏塞を受けしものは鳥獣となるといふ説 なり 大學
或問に共説至て 詳 か也、中庸 成 問の 説 も全じ こと にて、学血子
集誌 にも共説あり、されば、人と鳥獣との 別は形気 に在 て、理
は 一なるもの也 然るに子血子に犬の性 獅ほ牛の性の如く、牛
の性 獅 ほ人の性の如しといふ に至 て、共説窒 塞し て通 ぜ ぬ
故怒ち共説を改めて人と鳥獣と気を受けたるは異ならさ
れども、理 を高票けたる 虚 に異なる 所ありといふ、前説 に て は
人物 の 異は気に あり、後 説 に ては、人物 の 異 は 理 に あり、先後
矛盾 せり、笑 ふ べき こと なら ず や、明 元の儒共誤 を救は んと
て、種 、の議論を建てたれども軍意 朱子の本 説に 認 誤ある
こと顕然たれば施 ひ隠すべきにあらず、されば朱子の 理気
第四篇 第三章 太田錦城 一五七
第四篇 第三章 太田錦城 一五八
共き
















如 立







足れら
こする
こと
ざる

赤 考誇 的 の文 鮮 に外 な ら
ず、
(参考)
(一 )太田 錦城 著「疑問 録「周程 張 朱」の 修 に あり
(三)全書」 「理気 矛盾」の條 に あり
中庸成間に目く差し天に在り人に在りては性命の分ありと離も面も共理
未だ 常 て 一 ならずんば あらず、人に 在り 物 に 在 て は 気 高票 の異 ありと難 も、面
も共理は則ち未だ伴て全じからずんはあらず 監子集誌に目く気を以て之
を言 へ ば 則 ち知 豊 運動、人と物と異ならざる如き 也、理 を以て 之を言 へ ば 則
ち仁義濃 智の高委豊に 物 の得 て、全き所 ならんやと、これ朱子の説く所にして
即ち錦城の所調理気矛盾説の由来なり、
第四章 折東寧の系統
** 第一 金 峨 一派 井上金 峨は井上蘭豪の後を承けしも
のなるが共門下に山本北山 亀田鴨斎 石川治涙 修崎竹堂等
を出し北山門下に蒲生君平小川泰山あり共他門葉頻る多
かりき、
第ニ 爾除の折表撃者 井上金戦背川洪園太田錦城等
*一 の外折東寧者として見倣さる、は復古寧なる郷殿士寧の
門を出 てし片山盆東山 が晩年折東 寧を唱 へ しあり、共門下に
小野 君山等を出し、又 宇野士 新、全士 朝は壮年にして逝き し
も是赤折東 寧を唱 へ 門下に片山北海 赤松治洲 温草魔僧大
典を出し、北海 門下に尾藤二 洲、木村 異斎等 あり、草魔門下に
大江玄園あり、されど二洲は後ち宋 學に 入りて程朱寧の維
第四篇 第四章 折東 寧派の系統 一五九
第四篇 第四章 術表學派の系統 一大O
特に 納め、草稿 は復古 學 に 入り て 和 德 派 の 時に 書き り、文中
西 族 源 は 別に 折衷 學 を 唱 《共 開門 下 に 細 非 平湖 南宮 大湖 を
出し 平湖 大湖、赤間 生 期 る 多 か りさ 以上 は 我 江戸 幕府 中葉
以降 に 於 ける 所 表 學者 の 一 班 ,と す。
(第 一) 藤原 握 高 文集 を主要 なる 者 とし軌板 握 高文集羅山 編 次 の「握高文
-、、、、 *
集 、菅得 庵 編 次 の「握 高績集」「暇名性理、「千代 もと草」等の 著 あ
千代もと 草 一 巻 天明 八 年刊
比書は提高が共母の貸に儒教 の大意を平易に述べて儒と備との異全を示し、
-
併せて人倫の 修 すべき
を秘蔵せしを 天明八年岡山菱質 千代もと草と題して上枠せしものとす
巻中 天道明徳誠敬 五倫五常天の本心天照太碑 備教備教の博来 儲道と備法と
のかはり、天下博授の鮮等を 説明したるは、よく記事の本末 順序を得たるもの
なり比書井上解 江雨氏共編の日本倫理 従編第七巻に牧む
-* * * s *
: リ - ・I・ ・ ーノ
第二) 林羅山 「儒門思 問録「無極太極説、『性理 字義誘解「理気」擁童 観抄』 局言抄」
共 他四 書 五経 の 誌 解 書 あり、訓 獣本 あり、老子 孫呉 等 の 抄録 あり、他に 歴史博 記
類 の 著書 順 る多 し、
附録 一六三
附 銭 -
一六二
儒門 思 問 録三 巻 寛文二 年刊
本書は古聖賢の訓言を常時に適切有盆ならしめんが貸め四書五経中の一見
時代思潮と衝突せる如く見ゆる文字に説明を加へたるものなり例へば孝経
に 身鶴髪膚は之を父母に受 く敢て 段傷せざるは 孝の始 也と濃 記に「戦陣勇な
きは 孝 にあらず」との封 照 論語 に「父母 在 せ ば遠く 遊ばず」 濃記 に「出 ては 必 す告
げ反て必ず面す等の説明 共他二十四孝中郭巨の孝信金 の孝の是非を論し 警
腹と愛 と早陶とを撃げて忠孝の軽重を論ぜる如き是なり、
第三 山崎間斎 文倉筆録を主要としニ十九巻あり 乗加文集 上額捨遺基
十六 巻あり、共他四 書、五経 孝 経 易小學等 の 誌 響書 訓酷本多し「闘異」「経名考 「仁説
問答」 沖漠無股説」「夜寝驚」「大和 小學」等の 著 あり、
仁 説問答 一 巻 寛文 八 年刊
第中仁説仁説国各張鉄夫論 u説 四回答宮伯恭二回の章に分ちて仁を論排せ
る もの最も詳か也就中仁説圓の所き大に参考に資すべきもの也比書 日本倫
*
理量編第七 巻に牧 む、
第四 貝原益軒 慣思録 自難集 大疑録 自警編及び家道訓 大和俗訓 初
學訓』楽訓 重子訓 五常訓「文武訓「君子訓』養生訓 願生韓 要』雨葉支鑑「初寧知
要『大女學 等の著あり、共他小學 近思録等の備考、四書五経の訓 酷本多く、紀行文
赤 多し、
横 思録六 巻 正徳 四 年刊
本書は寧を貸すの要寧を貸すの工夫を叙したるものにして、盆 軒の随筆なり
盆軒自叙して目く 差し學は自得を貴ぶ 荷も憧 思せざれば、則ち博學審問と難
も 瞬倉貫通して之を己れに得る能はざるなり故に程子目く撃を貸すの道は
必ず思 に本づく、思 へ は則ち之を得、思はずんば則ち得ず然れば則 ち思の功 共
義大 なる 哉」と以 て 比 書 の 性質をトすべ し、
日本 倫理 量 編第八 巻には比 書及び「五常訓」を牧 む、西田 敬止氏の 盆 軒十 訓に
は 自警 編 及び奪 軒博を載せ、五常訓」「大和 俗訓「和 俗童子訓「初 寧訓 「文訓 、
訓 家道訓 楽訓 君子訓 養生訓 を牧む
射行倉編難の射行倉業書第一集には盆軒の充明 抄 を牧む克明抄は園君の
貸に在上者としての心得を論述せるもの也
第五) 藤井欄斎 名は威字は季廉 筑後の人初め眞名部忠庵と稲し 警を寧 び
附録 一六三
附録 一六四
て久留米候に仕 ふ 比にして官を備し京都に入りて儒を山崎間斎に撃び 権を
下して教授す 晩年京師鳴満 村に隠居して世産を絶ち性理を高談す室鳩集大
に共人となりを稲せり 米川操 軒 中村陽斎等と交る残年詳かならず 著す所 関
際筆記『睡除録 本朝孝子博 、大和貸 善録『二 濃童覧 園朝諫 静 録、常磐木 譲書除
玲 等あり、専ら世教 を維持する を以て 任したり
第 六) 西川如見 名は忠英 次郎右工門と稲し、又求林斎と競す 長崎の人少
にして父を喪 ひ、二十歳始めて奥 に志 し寛文十二年京都の僧南部 卿毒の長崎
に遊ぶ ゃ之に就て朱子寧 を修め、又天文暦算の寧を究め 先儒の説と外園の説
とを参前して造詣深し道徳書天文暦算の著書多し享保四年町人賞 を著し*
- -
て「百姓襲」を著す、民間教育 に力を用 ひしもの 也
第七 井澤 幡 龍 名は長秀 通稲十郎左衛門肥後熊本の人正徳享保の頃藩
候に 仕 へ勤仕の除暇多くの教訓書を草せり、武士訓 五巻、男子訓 五巻、「女訓み
さこ草 碑道天%を記等の著あり 具原盆軒と全じく民間教育に力を用ひしも
のなり 抽著 日本道徳業書第 一編には武士訓 第二 編には 男子訓 第三編に碑道
天%を記を牧む
第八) 闘一築 名は載市通稲幸助 又輔仁堂と競す豊後の人にして同園岡
に 仕ふ 西川如見 井澤 幡 龍と相 並んて常時九洲の消 儒なり、著書多く、春秋 胡
氏博診解 気加訓 大道訓等を共最とす算加訓は五顧六極を平易に解響せし
ものにして、大道訓は 張載の西銘を通俗に説明せ しものなり、何れ も民間 教育-
に力を用sし書とす 卒保十五年残す年八十五
第九) 室鳩巣 「鳩集文集 駿豪雑話 六論術義大意 五倫五常名義 不亡抄 等
の著井に周易四書西銘 太極園説等の証解書あり 尚ほ献可録義人録等の著あ
六論術義大 意 一 巻 享保七年刊 ・
*
本書は康熙初年清帝 聖祀が下せし六條の 認 論 即ち 一孝順 父母 (二)算 敬長上(三)
琉球程順則 之を 全國 内に刊行せしを、八代将軍吉宗 共世教振作に功ある著書
なるを認め鳴集 に命じて 和 譚せしめ 官板 に附して 世に願ちし もの也、
日本倫理盤編第七巻には駿豪雑話を牧む軍行本赤多し押著日本道徳業書
第 一 二 巻には六論術義大意及び全書附録二巻を牧む。
附 -
**
附録 一六六
(第十) 中村 楊斎 名は 之飲 字は敬 市 仲二郎と通稲す、京師の人 寛文六年二
月九 日を以て生る、市民 の出なりしも治産を鷹 ふ て講寧に 志し 道徳を質践す、
元藤 十 五 年七月甘 六日 残す 年 七十 四、
著述としては「姫 鏡 あり女子 教育の書なり、又 四書五経の誌解 近思録鈴説江井に
書小學等の 訓蒙書あり、皆陽斎の寧 殖意見を窺ふ へ きものとす、日本倫理集
編第七巻は講寧筆記」として之を牧む、
第十 一) 五井蘭洲 名は純諸順 字は子群、通稲藤九郎、持軒の二男にして 家寧
を嗣く享保年中 中井秋見廃 懐徳書院を大阪 尼ケ崎 坊に 設 くるや、三宅石庵講席
を主り 蘭洲助教となる 幾くもなく江戸に出 て、召 されて 津軽侯 に 仕 ふ 津軽は
遊園の地聞測赴くに及ひ 始めて撃に向ふといふ 後病を以て致仕し元文四年
大阪 に騎り 復 び懐徳書院に 教授し賞暦十二 年三月十 七日残す 年六十六、
蘭洲 宋寧を維持するを以て 任とし、非物 非伊 質疑の三篇を著して古寧を排 庁
し 又「環 語「著 語」「兵 論 等の 著あり
質疑 編 一 巻 明和三年刊
寛延康午夏蘭洲比篇に自序して目く経史を譲む毎に必ず疑あり疑あって後
解く解あって後得 共得るや則ち尚ほ是れ疑ふ 深夜 睡豊 め て 魔を挑けて 之を
章す随て麓に投ず積んて数十條と貸るとこれ比書の由来なり 異 意 経史を尋
ね て家寧 の眞 を 務せんと勉 め たるものとす、中井竹山 兄弟之 に 賛序を加 ふ、
第十 二) 雨森芳洲 名は東 又誠清 字は伯陽京師の人寛文八年を以て生る、
幼 にして 江戸 に遊び、木下順 菊 の 門 に 遊ぶ、後順 恭 の 吹撃 によりて 封馬 侯 に 仕
ふ 芳洲支那朝鮮の語に通じ 韓使の應接を勉めたり精力絶倫 年八十 一にして
和歌に志 じ数年にして精通す、質暦四 年正月六 日残せり 年八十八
橋窓茶話三巻 天明 六 年刊
芳洲著作の四十年後にして刊行せらる運食の戦 子弟と論排せし随筆もの地
継 て漢文、著者 の 寧 殖 を窺 ふ に 足る、日本 倫理 量 編第 七巻に 比 書を牧 む、
第十三) 佐藤 直方 慶安三年備後國顧山に生る、二十 一歳にして京師に出
て、山崎 闇斎 の 門 に 入りて 遊ぶ、後江戸に 赴き、唯を下して 教授せり、始め結城 侯
に仕 へ、後厩橋侯 に 仕 へ、又彦根侯 の賓師となる、亭保四 年八月十 五日残す 年七
十『講 寧鞭策」排響 録」「端 蔵 録』寧 談 雑録 等 の 著あり、皆 共寧殖を窺 ふ べき もの と
す、日本倫理 鳥葉編第七巻 には 寧 談 雑録を牧 む、
附録 一六七
附録 -
一六八
(第十 四) 浅見綱斎 名は 安正、初め順 良 といふ、承 應元年八月 十 八 日、近江 國
に生る、後家 を 京師 に移す、初め 警 を業とせしが、一たび山崎 闇斎 に 調し
て儒と貸る、一生民間の儒を以て終り 意 に藤仕せず 正徳元年十月 一日残す年
六十 著す所聖學圓講義』六経編考 端獣遺言等あり、日本倫理量編第七編には 前
二 書を牧 む、又内藤刑 史 翁編の 日本文庫第八編 には白 鹿洞書院掲示講義を牧

聖 寧 圓 講義 一 巻 質 永 六 年刊
本書は 朱子 寧 を明瞭 に 門生に 示 さん 貸 め、聖寧 圓 を作り、之 を掲示 せる に 就 い
ての講義なり編中看るべき節多し門人等の上枠せるもの也。
第十五) 三宅尚斎 名は重固 字は丹治 寛文二年正月四日播盤 國明石に生
る 初め盤 を 修め、後山崎闇斎 に 従 ふ て 儒を 寧 ぶ、尚 斎 の闇斎 に 師事する 僅に 三
年にして師残せしかば佐藤直方浅見綱斎の二高弟と共に切競して道を究む、
かく て 尚 斎忍 侯 に 仕 ふる 十 年、直 諫 して 容れ られ ず、疾 に 託して 官を鮮 し 幽囚
せらる 乃ち獄中に在りて狙 愛 自雀の二録 を書す別に獣識録 の著あり 寛保元
年正月ニ十三日発す年八十競中㎞四巻には道gs撃間諸生の章を分っ
て細論す 大 に看るべし 正徳五年の刊行なり、日本倫理 量編第七編に比書を牧
む - -
第十六 中村蘭林 名は明達字は子晦深蔵と稲す江戸の人 父玄悦幕府の
将官たりしを以て蘭林業を書きて玄春と稲す優衛官たらんと志し官に請ふ
も充されず数年後侍賢として経進に出づるを許され延享四年特命ありて儒
員に抽 んてらる関林 少より室鳩巣に師事せしを以て、朱子寧者なりしも間々
新意を出して朱子を議する所多し賞暦十 一年九月三日残す年六十五 著はす
所寧山除 講習除筆 譲易要領 譲詩要領、監子考謎 諸子考誇「大學術義考謎 撃
規 日解」「通書解 等あり、日本 文庫第六篇には講習 除 筆を牧 む
講習 除筆 延 享 四 年刊
本書は儒學の淵源ょり筆を起して文章の上に及ぼし経博 音余 を引誇して道
徳文章を論ず自ら記して全志の士と共に経を論じ史を評し講習催まず比書
を成すとい へり以て共性質をトすべし 経書歴史 學意雑話稲請字義等に分ち
て建て百六十二傑あり -

-
--
第十七) 那波管堂 名は師倉 字は考卿通稲主膳幡磨姫路の人活所の高な
附 録 一六九
附録 一七○
り、少にして寧 を好み、十 七歳 平安 に遊びて 岡 龍洲 の門 に入り、寧ぶ ふ こと五 年
唯を聖護院に下して教授す 幾くも なく全院王府の侍譲となる初め師説の古
學を奉せしも後翻て程朱寧に騎し専ら古學を排するを以て任とし共業大に
行 はる、晩年阿波侯 に 仕 へ て、儒 官となり 徳島に 移る、世人 呼びて 四國の 正寧と
す 寛政元年九 月 十 一日 残す 年六 十三、著す 所「左博標 例 撃問源流 、道統問答」廷
に「文集」あり、日本文庫第六 篇 に は 寧問源流 を牧 む、
學問源流 寛政 六 年刊
本書は 我國 に儒寧 の 行 は れし 由来 を 叙し、程朱寧、陽明 寧 古 寧等 の 基く 所を詳
かにす最も歴史を知るに便 なり自ら記して目く時々寧風の世に随て推移し
又 士 習 に 汚 隆ある等 を語る に及び、比 小 冊を成し、門人諸子 に 授 くと以 て共性
質をトすべ し、
(第十 八) 尾藤二 洲、名は 孝警 字は志 君 、伊像の人、延享二 年を以て生る、幼に
して多 病、十 五歳 始めて 書 を讃 み 手 に 巻を響 かす、長して 大阪 に 赴き片山 北海
の姿に入り便古撃を修む倉て安藝の風春水全じく*にあり 二人共に程未の
書 を得て 大”に 喜び、之を究 む、既に して 白河楽翁 の貸 に 撃げ られて 昌平校 教官
となる 文化十年十二月四日残す年六十九著す所素養録 静寄軒除筆 冬譲書除
「正學指掌 あり、日本倫理量編第八 巻には素養録及 正寧指掌を牧め、日本文庫巻
一編には正寧指掌を牧む就中正寧指掌は朱子寧の正寧たることを簡明に記
述せるもの にして、道撃 致知 力行、讃書、詩文の目を分ちて 論じ 附録として 仁斎
學、但彼 寧、心寧 を批評 す、
第十 九) 頼 春水と査 坪 春水名は 寛 字は伯栗、安藝の人なり、弟 否 坪名は 椎
柔字は千 碑 共に大阪 に出て 兄弟自ら師友 となりて 程朱寧 を究む 後 否 坪 擢 て
られて安藝の儒官となり 春水と共に寧政を治 む 晩年郡奉行となりて治績あ
り 二人常て藩命を受けて藝備孝義博 を編す日本倫理撃編第入編には査 舞著
原古 編」を牧 む。
原古 編六 巻 寛政 二 年刊
本書は天説 鬼碑 説 人物説 命説 性説 心説仁 説 仁義説濃智説、五常説道説、一貫説
道統説 聖説残撃説小大學説知行説存養持敬説治教説天道説主新説の目に分
ちて道 を論せる☆のにして勇 ら古寧の 妄を擁 庁せるもの也
第二 十) 安積 良斎 名は重信 撃稲 を耐助といふ、奥州安積郡の人 幼 より讃
附録 一七一
進弱士しむ


と共

君平
志満生

文善







\


に 日し生



に五

る せる










なり
もの

- 世筆


知るべ













といに べく


書 治る


も 國 あらす
関する
















士 近語






















王侯藤


だ 史り














、 論 署面語子婦長 年





節七





叔斎


論博

全文

良 教延元



高師





育英
と共に





十 授に


す となり






二本松










昌 州 侯



平 教まる








高す









の 授

羽 る




一斎

















林家つ に
り 好本松
二書



藩儒
















出 み



倉明
)













正志



水戸
といふ

二 澤
蔵 巻





年刊


天保
-
-

附録



- -

沈しり田毅

入藤十



に幽谷



ど身も
修へ


ち亀を弄ひ天に兵書を籍きて英気を養ふ器候之を聞きて稲揚し賞政十一年
四月撃げて彰考館生員とす 享和三年留守に班し、二月江戸に移り、それ より累
進して文政三年馬廻りに遷 り、五月水戸 に騎りて塾を開き教授せり、六年編修
の功にょり進物番の上に班し八年新編七篇を草して推夷を首唱し 九年幽谷
の残後を承けて 彰考館継 裁となり 後郡奉行に進み、藤田東湖等と召 されて江
戸に従り三年通事に列し験百五十石を賜ひ刻 公を助けて一藩中興の業を定
うし十年撃制略説を著し十一年小姓頭に進みて弘道館督撃を奪ね弘化元年
烈公の致仕するゃ職を退きしが 安政元年命ぜられて教授を掌り 二年篤寧を
以て召 されて将軍家定に調し御侮策を作り て 之を呈し新番頭に班し、文久二
年には馬廻頭の上に班し藤 四百五十石を食む、正志比能遇を以て共 職に精働
し時務策を著して 一橋慶喜に上り文久三年七月十四日病んて残す年八十二
水戸寧の精英を一身に集めし學者といふべし著書順る多く 考経考、中庸響
義」 剛詩義」 典譲述義』草個和言 、架 藤編 退食関話「関聖編 『新論 深酒教學擁言及
門遺範 下學通言『開聖漫録 息邪漫録 詩草 雑録、稽古録 等の著あり何れも霊
忠報園の精紳ょり 出てしものにして園妹の大義を宣揚せしもの最も多し
附録 一七三
附録 一七四
--
第二章 陽明 寧者
第一) 中江藤樹、鈴問答 、鑑草 、孝経啓蒙 論語郷常 翼博 大學考 論語解
止 歌」「春風」、「藤樹遺稿 等の著あり、日本 倫理集編第 一編には、翁問答 藤樹遺稿 藤
樹先生書輸雑著 藤樹 先生寧術 定論を牧 め 日本 文庫第 七編には 知 止小解を牧

藤樹 先生寧 術 定論 一 巻 享保十 年 校
一名「孤 琴 論」といふ 享保年間京都の 門人石川基の編次せる ものなり、江西寧の
眞 髄を博 へんと期せしもの にて「意者 心之所 俺 也」とい へ る を藤樹寧の主本と
し 他の 所説 を排せるものなり、即ち第 一 に 意の解、次 に 知止歌の解明 道先生の
*解井に書に『朱文公の時象山先生の詠園明先生四言数に蹴き#述し更に
聖人天 評圓 解 象山 天 拝圓解 陽明 先生天 評圓解 藤樹 先生天 群 圓 解等あり、且つ
附録として初寧手段を載す 藤樹の寧説を窺ふには最も 便なり
(第二) 熊澤 藩山 「集義和書」「集義外書」を主なるもの とし、四書五経の 小解多
し、別に「孝 経 或問」「二十四孝 評」「女子訓」「葬祭 携論 等あり「大學 或問」の 著は政治経
済上の意見を忌揮なく 述 へ たるものにして、大に共経世上の卓見を窺 ふべし、
日本 倫理 量 編第 一編 に は 集義和書 第二 編には 集義 外書 を牧め、日本 文庫第五
編 には 大學 或問 第六 編には 葬祭 排 論 を 牧 む。
集義和書 十 六巻
書簡五 心法圓解一 始物解一義編九の十六巻より成り 人の問に答へ て平易適
質に道の要撃の要を示せるものなり
集義外 書 十六 巻 寛永 七 年刊
削簡三、脱論七、中庸九経考 一、窮理 三 雅楽解 一、水土解 一、合計 十六巻より成り、専
ら経世治教の事に就て論排せる ものなり 所請文武の道寧校宗教等にまて論
及せり成はいふ本書は偽作ならんと 未だ基信を詳かにせず
第三) 三輪執 斎 「日 用心法」「四 言教講義「大學 俗解」、孝 経小解」「周易進講手記」
祭薦 巻」、訓蒙 大意」、幸典和 響」「碑道鷹説」「標誌 博 習 録」「古本大學 校正本」 雑著」等あ
り日本倫理盤編第二編には日用心法四言教講義雑著を収め日本文庫第四編
に ☆ 四言教 講義を牧 む、全第 六編 に は 正享問答 あり、四言教講義とは 王陽明 の
「無 善無 悪心之鉢、有善有 悪意之動、知 善知 悪是良知 貸 善去 悪是格物」の語 を取り
て、王 學の 心法を説明 せる もの なり、
附録 一七五
-
-
附録 一七六
日 用心法 一巻 元藤 十 五年刊
(一)立志 を始とす、二辰 をしるを助けとす 三孝傍を本とす(四)気を養 ふ 五量を廣
ふす 六気象を考ふ 七内省八致良知 九言行念慮忘にすべからず 十 執中の十章
に分ちて日用の心法を平易適切に説明せるもの也
(第四) 三重 松 恭 名は貞亮、通稲新 七郎、平安の人、三輪執 斎と時を全 うして
出て元藤十五年門人村上明亮の貸に 関明學名義二巻を著して之に授く致良
知五常五倫 孝大學説 仁義濃智信孝備忠信心性情理気 知行合一 四句教法の十
四條を説く平易親切なり元藤十五年の著とす 日本倫理象編第二編には之を
牧む
(第五) 中根東里 名 は若 思 學は 敬夫、道稲 貞 右衛門、伊豆 の人、十 三歳にして
父を襲ひ母の命により郷里の一碑利に入りて僧となり後ち山城宇治の黄環
山に登りて脱山碑師に師事し幾くもなく江戸に出て荻生祖徳と交り文除を
修む、二 十三歳室鳩巣の招 に應じて共家に客 となり、加賀及び江戸にて生徒を
教授し既にして延 享年中下野仁田に遊び 高九峯の家に高 し 共地の清閑を愛
して天明郷に移り 比時始めて奮撃を棄て王陽明を奪信して終に共説を唱へ
の寧 殖及








近侍
登に














に幼



りり村みし なり
べき
知を
たる
述自
てるべ説 摘を





せ刻







せ刻
とを


大學

しめ

みのん本 人




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、條





上にし


もの
べふ






中斎
斎り下き 心 日、
洗む


洞 あ著
本り 儒



大學
古記



洗本心
洞 下 |1








遺文
先生 里









倫理
日あ









遺は
、に

著十
-、


本り稿述 年
残に
、浦洲






明て
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教生徒
、を
す賀和くり授
を十



安人


江す


捨蔵
大は


以て


一斎
佐第

永戸道藤 年四
天巻




洗心
刊保 )

第 状 里




あ順
、等

和壁
世、










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り歌し 年元
元巻





刊治
**
附 な
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世廣

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に 本 大 び 政 -





大學
古は





倫理 門 行 世世
本 劉
録 中 の

を 窺 ふ に足る。

日j
ー 日







増聖


空虚










空虚


-七
附 録 一七八
と共に寧ぶ寛政 四年浪速に遊び中井竹山に寧び 又京都に入りて皆川洪園に
面じ、江戸に騎 りて 翌 五 年林簡順 の門 に 入り儒 を以て業と す、幾くも なく述斎
林家を継ぐや、一斎を以て門人とす文化二年林氏の塾長となり門生を監督し
天保十 二 年十 一月 擢 て られて 儒官となり、昌平寧薬官舎 に 住す、かくて 安政 六年
九月二 十 四 日 残す、年八 十 八、 ●
一斎の著書は「古本大學 帝分 響補「大學摘説』言 志 録」「中庸」「論語』子血子、小學 近思録周
易 博習 録 の欄外 書 等とす、共寧、朱子 寧を襲ふ て 帝分ら陽明 寧 を修す 故に 陽朱 陰
王の目 あり。
言志四録 嘉永 六年刊
#*に言志賞を著し六十を発えて全機gを著し 七十にしてシを著し入
十 にして 全考毛録を 著す、合して 四 録とす、共寧殖 及び 思想 の鍵 化をも窺 ふ べし、
単行本 あり、世に 行 は る、日本 倫理 量 編 第 三編 赤之 を牧 む、日本文庫第二 編 に は

幼學課業次第を牧む
第三章 復古寧者
第一 伊藤仁斎 大學定本 中庸発揮 論語古義 監子古義 電子間 語監字
義」周易乾抽 古義」「春秋 経博通解」「仁斎 日 札 あり、共他詩文集あり、日本倫理集編
-
第五 編に は 語 子血字義、童子 問、仁斎 日 札 を牧 む。
語 子血字義二 巻 天和三年刊
天道、天命 道理、徳、仁義濃智、心性、四 端之 心情 才、志、意 良知良能 忠信 忠 怨 誠 敬、和直、
寧 権 聖賢 君子小人 王 覇 鬼碑 詩書 易 春秋、総論 四 経等の目 に 分ちて道を細 論し、
附するに大學非 孔 氏之 遺書 競 編 荒受舞既没邪説 暴行 又作 の二 編 を以て す 仁斎

とすい
自ら附記 し て、論 子血古 義 をよく 理解 せしめんが 貸 に 比 字義 を著 へり、
-
童子




藤六年刊
童子を引来って問を設け、一々之に答 へ て道を説ける もの也、兄て五十九章 赤
よく 古 寧 の旨 を了 すべ し、
第二 伊藤東涯 「周易経翼通解」復 性擁」古寧指要」「経 史博論」携疑録」 古今寧
鍵」「天命或問」、讃易私 記』 通書管見、太極 管見』『郷魚官大旨「訓 幼字義 、閑居筆録』撃
附録 一七九

-

訓 闘

計量前 附


小\ 輪

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端 筆

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良 政

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*

目目
(第三) 荻生祖徳 「携道、競名「大學 解「論語解「中庸 解」「讃荷子」「讃韓非子」「讃呂
氏春秋 子血子馴 経子史要覧 答問書』論語徴 政談 、太平策 共他詩文誌響書 多し、
日本倫理 量編巻六 に は 競道 競名 寧制 答問書 を牧 む、日本文庫第 二に は 太平策、
第四には護園談 録第五には祖 徳答問書を牧む
携名二巻・
道徳 仁 智、聖 濃 義、孝様忠信、怨 誠、恭敬 荘慣 濁 識譲不伐 勇武剛強 殺 清廉不欲 節 険、
公正直 中庸和表 善良、元亭利貞 天命帝鬼碑 性情才、心志 意思謀慮理気 人欲陰陽
五行、五常、極 寧、文質鶴用本末 経権、物、君子 小人王覇 の目 に分 ちて道を詳論 し、所
請 考 謎的の筆 を以て復古 寧を説ける もの 也、
但徳先生答問 書 二 巻 享保十 年刊
租徳 の門人に答 へ し、経世治 教 上の答 を集め て 門生の刊行せし ☆ のなり、
第四) 太宰 春 豪 耕道書『聖寧問答」 士ハ経略説」 産 語ェ済録 器芝園漫筆 等
あり、共他文集あり、日本 倫理 量編巻六 には 携道書 聖寧問答 六 経略説を牧 む、日
本文庫第九 編 には 聖 寧問答 を牧 む、

聖 寧問答二 巻 享保 十七年刊
附録 一 八
附録 一 八二
携頭 監子を批難し次て朱子の説を批評し終に宋 儒の寧 の妄を擁す 面して宋
儒の奥は備%に全じと結論せり 赤復古撃の3に気類を吐きしものなり
第五) 山懸周南 名は孝 鑑 字は次 公 通稲十助 長門の人 父 良斎長 藩の儒臣
たりしを以て周南をして刻苦して経史を渉猟せしむ年十九にして江戸に出
て萩生祖徳 に寧ぶ 全 寧 安藤 東野と研鎮し途に名 撃を高 む 後園に騎り、明倫 館
の祭酒となり、寧規を立つ、かくて質暦二年残す 年六十六著書には 貸 寧初問』作
文初間 文集等あり日本倫理*編には残撃初間を牧む
第六 山鹿素行 聖教要録 山鹿語類 武教小學 武教全書 武家事記、中朝
事質 配所残筆 論居童間 原源発機等の著あり 日本倫理シ四には聖教要
録 山鹿語類節界各武教小學、配所残筆を牧 む 射行曾業書赤聖教要録を牧 む。
聖教要録三窓 寛文五年刊
聖人知至聖奥師道 立教譲書道統時文中道即ェ伝㎞悪 シ碑 陰陽五行
天地 性、心意情志気思慮 人物之生易有太極 道原の目に分ちて上中下三巻に詳
論す 共質用を貴べ る見地より、聖 寧 を活寧問たらしめんとせし志 比書の文字
に よ つて 寮 する を得べし。
古する




達明か
















本書今 の

く 説人

本書















道 き


の む
牧 史本り朝記 字


皇補



あ艦



日儒










文庫 周子経易


詩著書




孔書













語 優す和くめ遇 る

留なり


かし

明ら
残て









、 南海


殿

梁田
南部 つて





警 麻
年寛本

イ巻刊政


興 専學






















蓮池
肥前
と ら
年 言孫

















色欲
飲食




教戒語

猟 小刊







一 學




附録

*

長 参して考





と貸

もの


刊行






なり

あり
附録 一八四
をトすべき文字なり、治園 経世上の 一意見なり、
第八) 富永 治浪 名は 潤字 は 子 源、左仲と稲 す、近江 浅井 郡 の人 幼 より 寧 を
好み、閉 戸書を讃み 終 に 徒 に 授く、良 師 な かりし も 天 資俊 来能 く経義 に 通す、漢
唐の博琉宋明の集響に於ける淵源を究め衆 説を折裏して礼子血の遺経を闘 発
す 易書 詩 論語 孝経 背 発 誌あり、彦根儒員龍草魔治浪の書の枠行せざるに先ち、
之を割稲して己か説とす 後豊はれて仕を鮮 すといふ明和二年八月十九日残
す、年三 十三、著 す所 経 説 彙 誌」の 外に「古 寧 堀 疑」 鶴 助 集」の 著 あり。
古 寧 携疑二 巻 天保五年刊
本書は 上下二 巻より成り、道徳 仁義 聖 智、天命帝 鬼碑、性情 才、心志 意 孝焼 忠信 窓、
中庸 理 橋恭敬 誠 和五行 五常 勇強 文質経権鶴用 詩書 易 春秋濃築 撃の目を設け
て 論 携する こと数 十 條、該博 よく古 寧 の面目 を務 揮した るもの 也、猪飼 敬所之
を校正し て 刊行す。
第四 章 折 東 寧者
第 一) 井上金 峨 「葬徴 録』議寧則」、経義 折裏 "巨 正録 、考撃漫録『論語集説」「寧
J
庸 古義 等の著 あり、日本橋理集 編巻九 には 経 義折 哀、臣 正 録を牧 む、
経義折 裏 一 巻 賓暦
日本仁斎伊藤 氏、日本 祖徳 物氏 の 四 目 を掲げ、
共略 博、家言、引 擁 経 語 を も掲 し、之 をよく 折 裏して自家 の 用に 供す
べしと結論 せり
第二) 片山 奪 山 名は 世 播 字 は 叔 悪 通 稲 東 造 高学保 十 五 年上野 園 に生る、十
七歳 にして 江戸 に 遊び、鵜殿本荘 に 就 て 寧 ぶ、本荘 は 祖徳 派 服部 南郭 の 門人た
りしを以て衆山 一時比寧を究めて南郭の門に入り秋山玉山等と交る 玉山の
肥後に騎る や 発 山 を伴 ひ、熊本 時 習館 に 高せしめ、幾 く ならず生員に 充 つ、既に
し て 発 山熊本 を 去り、京阪 地方 に 遊び、再び江戸 に 出 て、宇佐見満水 に 調し、共吹
撃 を以て、共に出雲 侯 に仕 へ、共
へ 儒 員となる、後疑 を復古 寧 に 挟み、終に 折裏 寧 を


ふ、既にして名 積 潮 く 高まり、尾藩 に 仕 へんとせしが、天明 二 年三 月 二 十 九 日
附録 一八五
附録 一八六
病 て 残す 年五 十 三
著書 に
7* は「論語
し 三司 三日 一貫『論語 徴 高音」「寧 席解魔 疾」「山子垂 統」 等 あり、日本 倫理 量 編巻
九 に は 山子 垂統前後六 編 を牧 む
山子 垂 統六 巻 安永 四 年刊

本書 は 前編 を上中下三 章 に 分 ち、上 中二 章 専ら道 を 説 けり、寧 之 貸 言 効 也 部 俗、
克己復濃 無盤無臭近思録、一戒衣 至誠威碑出納五言の日を設けて言を立っ所
請 該博 にし て 共 折 裏 寧 の 先駆 たりし を知るべ し、又後篇 を上中下三 章 に 分 ち
-
諸 書 を 渉猟 して 治國 経世 の 言 に 及べり、
(第三) 皆川洪園 「名 嘘「「問寧撃要 周易 書 経 詩経 優濃 大學 中庸 論 語学血子、老
子 荘子 列子等の経 解あり、又 荷 子 篇旨 、見原 、「易寧開物 及び文集詩集等多し、以
上の 響解は 皆 文字 研究 の上より 古 言を解響したる もの 也
第四) 細井平州 名は徳民字は世撃 通稲甚三郎享保十三年六月二十八日
尾張智多郡に生る 幼より大志 あり、年十六にして 京師に出て師を得ずして騎
郷し 書 を讃 む、既に し て名古屋 に出 て中西淡 淵に 従 ひ 寧 び、年 十 八長崎 に 遊び
小河仲果飛鳥子静と交り三十四歳にして師淡淵と共に江戸に出て唯を下し
て教授す交友には秋山玉山温鶴豪満井太室南宮大激等ありかくて四十四歳
米澤に行きて鷹山侯の貸に寧政を設け治教を佐け、五 十三歳にして 尾張侯の -
知遇を受け 享 和元 年六 月 甘 九 日残す、年七十 四
著書 には「詩経古博「献芦録」一名野 芦 詩経の誌 解、つら 〜 文 等あり、後「喫 鳴館遺
草として 野 芽、つら〜 文共他を菓 む、日本倫理 九 巻に は 喫 鳴館遺草 を牧 む。
喫鳴館遺 草第六 巻 天保六 年刊
野芥、上は 民の 表、教 寧、政 の 大鶴 農民 の 心得、もりか 、み、封 人 之 問 忠、建寧 大意、管
氏牧 民國字解、つら 〜 ふみ、花木 の花、封 基 侯 問 書、等 の 目 を 設け、流 陽 なる 暇 字
-
文 又は 書輸 文 に て道の 要を説 けり。
第五) 太田錦城 「九 経 談」「仁 説」 疑問録 橋寧 携、「悟 窓漫筆 四 書の 注解 周易
象義」「繋鮮鮮 説 『周易 曾通纂要」「老子妙 敵」「春草堂随筆」「稽古録 、教 説 務 揮」「直見
編『宋 寧 携、荷 子 考」共他順る多く、日本 倫理第 編第九 巻には疑問録 仁 説三 書 即
-
ち深酒仁説、一貫明義仁説要義を牧む
疑問鎌 二 巻 文政 十 三 年刊
本書は復 性復初、本然気質の論より筆を染めて、宋撃 を評 し折表 寧を 鼓吹せし
録 一八七
附録 一八八
もの也 寛政 七年錦城比書の終 に附記して、性理 寧ょ り来 り し門生の貸に 偽 撃
擁中より数十條を抄出して 國字とし以て奮見の非を悟らしむと以て比書の
-
性質を 知るべ し
仁 説 要義一 巻 文政三 年刊
親愛 生養 思恵 救済 保安 民之父母 仁者人也 及 人以 二、安仁居仁 欲 仁 求 仁 仁道仁
徳仁諸徳之表 仁不 特 君徳仁不 専 親愛 仁人通用 仁有 大小長短生熟之分 博愛 諸
家解 仁 評用 雑義の二 十章に分ち 仁 を考謎的に 論携せる ☆の 池
第六 擁化山名は公偲学は公市又湾佐越前の人太田錦城の門に撃びて
名あり後姫路侯に仕 ふ 売 水二年二月四日残す 年六十 七
著書順る多し 讃 論語集注「論語折表 教寧排「荘子説 、全全診 、孫子説「 家求啓
蒙』『韓非子 論解「奮聞新識 等あり、
教 寧 携三 巻 文政十 一年刊
教撃の必要を述べたるものにして共該博なるは折裏撃に得たるものといふ
べし 巻首記にして目く世の 教ふる者共方を得ず 撃者をして江格して勤めず、
或は委歴して下流に隊 つるを甘んぜしむ 中夜之を思ふ て鶴勃己まず 因て自
べし 孔子






。 血
仁公平


極の




該博
叙参なり


もの
せる
以めて義述照 もの義 著者
仁文庫





略説







牧本 仁仁義







説門あ國

の撮大公
とを

せして
義人り意る 九


か六






て残くす を



十 聞、







取特に




者将召し




多調きる軍 遊び







名家
薩長に


及び 摩崎む 歳
進松浦




遊名

侯 山北山
し一見


にす




と既京





し撮
共に
本むに せ

を朝川




三男
託之


獣と乃養
子二



以て
して

すち 量



















とせ
べす


、 ん

文十
年仁義
四巻

略説
化刊 第

)

















に川


て 戸






附 録 一九○
第五章 爾 除の 諸 寧者
第 一) 石田梅魔 名は 興長 通稲勘平、丹波の人 貞享二年九月十五 日生る、二
十三歳京師 に出て商業に仕 へしが、碑儒備三道に 心を傾け三十五歳 にして小
栗正順に従ひ道を究め後自性を見得する所ありとて 始めて平易なる心撃を
唱 へ、論語、徒然草等 を開講す、かくて延 享元年九月二 十四日 残す、年六 十、著はす
所 都 部問答」管家 論 、「石田先生遺稿 等あり、皆 民間教育書なり、抽 著日本道徳業
書第一編には都 部問答を牧む、
第二) 三浦梅園 名は晋 字は安貞 豊後の人享保八年八月二日生る幼 にし
て 願 敏 藩儒 綾部網 斎 に 従 ひ 寧 び、十 七歳豊前 中津 に 行き て 全藩儒藤原 貞一 に
學び、更に天象寧を 修め、大 に発明 する所 あり て 條理學と名づけ、貸 に 玄語 を著
し人の之を攻撃せるに答へて養語を著し更に性命の理を発揮せんとして敢
語を著す以上を 梅園三語」といふ 後展々共稿を改 質せりかくて 社 築侯に優遇
せられ寛政元年三月十四日残す年六十七著す所三語の外に 高意 時輸 時集
業書 等あり日本倫理象編第十巻には資語中の敢語電 意梅園業費船葉を牧む
警 語六 巻
天地訓 陰陽訓 身生訓 死生訓 善悪訓、天 人訓、の 六編に 分ちて 天道及び人生を論
携して除龍なし 面して共善悪訓の如き、一種他儒と趣を異に するを見るべし、
敢語 一 巻 明和 四 年著
君臣明善臣婦孔子要葬利害 活殺観察望修の九章に分ちて詳論せり
(第三) 手島塔 庵 名は信、又 高房 字は應元 源右衛門と通稲し 後 嘉左衛門 と
改 む、京師の人、幼 にして道徳 に 志 し 享保 二 十 年石田 梅蔵に 従 ひ、元 文 二 年自性
を見得し衛来京畿を始め諸園を巡教し天明六年二月九=残す年六十九子手
島和 庵早世し「和 庵遺稿」あり、次 子 上河 正場 洪水と跳し、聖賢誇 語解」の者 あり、心
寧の道統 の 性 理 寧 に基く を明か にし 朱陸 発 ね修めし藤原握高の 流 を汲む こ
と を論 誇 す、塔 庵の 道話 書は 顔る 多し、慈 に 賛 せず
第四) 鎌田柳源 名は鴨 南紀の人 にして 京都 に来 り、曲 版 庵と稲す 石門心
學者布施松翁に親炎し魔く世人を教化せり 心學五則 道の谷響 心の花質等の
教訓書是なり、又宏才博覧にし て終に朱王 一致説を唱 へ貸 に「朱寧携」「中庸 百章
-
講義」 理 寧秘 談心花除財』(四名公語録老子 鑑「十二窮理諸言」政 語」荘子響説 等
** をバ
M 々あ 一九一
録 一九二
の 著 あり
四名 公 語録
陸象山、王陽明、王龍渓羅近渓の 語録中より、心寧に適切 なる者を摘記した る も
の 北、
第五 二宮奪徳 通 稲 を金次郎といふ、相模足柄郡の人、天明 七年七月二 十
三日生る 文政 五年小田原侯抽 んて、藩士とし候の分家宇津氏の来地下野園
芳野郡物井村の田園を復興せしむ 算 徳乃ち自得の開拓法を以て徳化 を布き
功徳を撃げ 衛来鳥山候 谷田部候等に信任せられ、天保十三年 幕府より提用せ
られ 普請役の格に斑し印幡湖開㎞ の事に従ひ、弘化元年日光碑領 荒蒸開拓調
査を命ぜられ%に常園方法書六十巻を進献し%永七年日光碑領九十村荒燕
開拓の命を受けて今市 ㎞の官舎に移り、共質行に着手せしが 安政三年十月二
十日中道にして残す年七十一*徳比間相馬氏の に%政鑑三巻を著して之
を献じ大に治績を撃ぐ門人遺書を集め、報徳記 報徳編 二宮翁夜話 報徳寧内
記 報徳外記、二宮先生語録を編す世に行はる、者多し日本倫理盤編第十巻
に は報徳外記、二宮先生語録を牧 む、奪徳の書は即ち農業と道徳との調和 を園
り て 之 を質行せし 記載とす。
第六) 廣瀬淡窓 名は建 字は子基 通 稲 求馬 豊後日田の人、天明 二年生る、幼
にして亀井 元鳳に 従 ひて 寧 び 後唯 を下して教授 す、生徒四千人、一時九州第 一
の 塾舎 と稲せらる 知名の 士共門 に出づる者多 し、大村、府内二 侯 之を濃 遇して
賓師とす、かくて安政三年 残す 年七十五 著はす所「析 玄 義府 、「迂言 老子摘解
他小品詩 砂等 あり、
第七) 塚田大峯 名は虎 字は叔魏 通稲は多門信濃の人父を旭徹といふ 室
鳩集の門人なり、大峯初め父に寧 びて 程朱の教 を奉ぜしが共後師 を求めずし
て 古今の 書を研究し、途 に経義に流派 を立つるを不可 とし、貸 に諸経の解を作
りて共寧を魔 む 紀尾雨侯共門 に寧 び、武士多く 教を受く、天明 元年尾張侯の侍
讃となり、寛政 異寧の禁下る や、大峯上書し て共不可を論ずる こと三回、幕府貸
に共禁 を地むといふ、かくて文化八 年尾張明倫 堂 督寧に 擁 て られ、専ら経 を講
じ後進 を誘 接し天保三年三月 二 十 一日 残す、年八十・八 著はす所 家 誌尚書」「濃記
養説」「春秋 左博増 誌「論語群疑考」「論語講録」「荷 子断 「子血子断 、聖道合語」「聖得門」
聖道排物 入官第一義 隆重録 番川談 家誌の論語 挙経 老子孔子家
*り』
M
な大
%弱 一九三
語 孔霊子㎞
附録 一九四
誌の老荘最委管諸子、大學 中庸の國字解 共他 歴史 文集等顔る多し、
〜くくくくくくくくくくくくくくく〜〜〜〜く〜くくくくくくくくくくくくく〜〜〜(くくくくくメ
因 に記す、近世の倫理 書を牧録する もの前顕の外に甘雨亭業書 板倉勝明編)中
古業書の 編韓 書あり、特に甘雨亭業書 には、鳩 集 仁斎、盆 軒、直方、白石 綱 斎 潜 峰、湾
-
泊 南海、尚 斎 等の著書を牧 む、就 いて観るべし、
別 羯
本書引用の原文郡に参考書物
孔子 1道 平成 吉松 斯 に 至交 ァ ロ大于之 道 武器 而已 突
子思 « 金 之 間 性 毒性 之 詩道修道 之 語 教 過 也 者 不可 得 東 維 也 可延平 淡出
孟子 業基金者 如其性 也 知 其 性 則如 天安 在 其 心從 其 性 所以 平 天 也 來 將不
-
武隆 以後之 所以 立命 也
C 高 砂岩 德 於 我 素 及 身 而 破棄 東大 馬頭 部 而 行李仁 慕近傍
O 人 之 所 不 愛 而 能 者 其 長 能 也 非 不 應 而 知者 其 長 和 也
布子 < 之 性器。其書 者 們 也
黃竹坑 件 體 出 書面 性 来 可 調書 也
O 性 有 普 賽,而 未 能, 為 善也
楊子零 < 之 性 也 普惠理 條,其 普 朗 格 等 人修正 殿 前 為 惡人
韓愈 件 也 者 與 生 俱生 也 常 也 者 接收 物而 生 也
別 錄
別 錄 1
李淵 人 之 所以 讓 人类 社 傍人之所以 乘佛 ***
王安石柱 者 帶之 本 能楽 性 之 加後者 自 性常 也
周子 般 道成 男神道 成女 二 家 交感 化生 將 物 尚 物生 ク 軍營 化 集 院 高雄 人 也
得 其 產 而 最 嚴、形 新生 委 副 教 和 突 五 桂 成 動 而 普 惠 分离 事 出 突
o 安然 不動者 號 也成 而 達通 考 書 也 高 而 未 能 有無之間 將 樂也
張戰 些 手 人無 不善整 張 專長不善 長 而已 過 天地 之 化不普及率 也 命 于 人無
不正 整 張 學 與 不順而已 行 檢 使 使不順命 者 也
o 形 而後書 之 權 及之前 天地 之性花 莖之 神子李佛家

-
部東師 * 第 也 生 則 為 物浦 則 為 陰被 二 者 而已 失败 者 11而已 交大 將 三 官
已 突入 者 四 而已 突是 以 言,天 而 不 言 地 會 書面 不 言 巧言 文 而 不 言 す 言
大 而 不 言,随即 從 天祥 地 而 离 物 生 有 得 亞 而 离 物化 行 交 得 子、夫 特 號 而
家 道成 投 有, 别 有 二、有 二 期 有 四 行 一則 有 六有 四 間 有人。
羅開道 師公布鲁 塞奇 在 天 會在義理作人性 生 于 纽
本書、教 于 武康 問 有 普 有 不善堂有 所 發 前 可 調之 情 不可 調之 心

伊川 性 則 是 理理論自覺 藝電子遊人 也 才 將 手 家象 有情 都北 前者 將
家共 湖 者 為 武學 而 知之 前後 無 前 通常 可 至於將 使徒 之本 級 武 斗之 是
--

O → 閔、上 如果 不 思 不够 然 亦 有 可 移 之 理 推 自暴自棄 者 則 不 移 也

天地 之 間 有理 有 氣 理 也 者、形而上 之 道 也 生物 之 本 也 象 也 者 形而下 之
器 也 生物 之 其 也是 以 人物 之 生、必 高票,此 理 統 後 有 性、必 商家 比 家級 後 有形
O 天地之所以 生物者 理 也 基 生物者 家與質也 人物從 本質以 成形而 其

武之 在 是 否則 調之 性欲 所調集 賢者 有 偏 有 正純 政界 開原 城 之 不 齊放

性之 作 是 東北 區 亦 不 開 皇家實之 性 都是 地
o 德 家人之所得 平 天而 皇不 难以 東師李秀吉 他 ę家業所
的 人 欲 所 做 則 有 時 而 昏厥 其 本體 之 明、有,未曾 自愿 者 放 學者 常 因 其 所 發
而 逐 明之、復,共 抗,也
O 美白 天 降生 民則 具,與之 以 仁義 體 智之 性 交换 其 家 實 之 高架或 不能 將
O 性 和 近 是 氣質 之 性 非本 松 之 性 則 一般 無 相近,
O 學者 エ 大權 在 居 數 第 理 此 二 事 厅 和 餐館 館 理 期 居 教 工夫 日益 進 階 民,

「別
錄 三
別錄四
數則學理工夫日益進
O數之华地學之所以成為而成後者也發者心之主李白方事N根本

O天地之性指揮而言宗實之性則以理總統而言
O有天地之生有氣質之性天地之性則太極本條之妙高頻N 4 %
之性則11集客運而生、本而离称也
O本於性命為道小出於形象為人心
O人心是有例被暗戀者道分別是義理之心可以為人心之主李昌人心廣
以符,準者也、
O家人気機將來吸收人心也加農産業道公也
O物事務人心也將其所當事務求所當娜及道公也顯然後將死於香人心
也得欧美之正考道夫也。
國家山公園地至金屬靈的心地理實不容有二階u㎜此公元前
也、
O人皆有是心公告其北師公司理也
陽物场助界明
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能 不以







,




言 得


別 錄 六
O 文 知足 能 意 大 恐怖 與 聖人全 相應 器 人 能 找 其 長 和 而 退 大 恐怖 不能 發
此 學 思 之 所 由 分,也
O 格物 如,字 子 大 人格 者 心 之 光 是 去 其 心 之 不正以 全 共 本 松 之 正 祖 意思
所在 即 要 去,其 不正 以 全,其 正則 無味 無 處 不是 在 天 師師 是 親 則 天 師 師
·
是 明 德 弗 朗 即 明明 德
O 如 之 其 功德 贊 度 则 是 行 行 之 明 學 精深 處 即 是 知 如 行 工夫本 不可 樂 日
然後世 學者 分 百 萬 歲 開 玩 失地 知行 本 熊座 有 合 能 進之 說其 如 地 所
以為 行 不行 不足 間之 如
山崎關懷 為鄭 國立 普 軍 將 所以 数人為 學 之 意 其 非 使 之 職 前 發 彈 以修 班級
後 推以及人 非 定 從其 移居 館 為 調 車 以 約 熱 名取,利 略 而已,也 令 人 之 為
學者 而 此 反是 突然 單質 所以 被人 之 法典 在於 經 有志 之 士 國 當家 衷
思 而 開辦之 的 知,其 理 之 實錄 音 書 共 身 以 必然 前夫 期 延续 成 之 其党 得
-
-
他人 設 之 而後 有 所 特 德 就
O 學性 之 龍造 高 德 共 所得 平 天 以 生 者 則 事 名物 を、莫不自然各 有 常行 之
路是 前 所 前 這 也 普 天命 之 性 u 義 詮釋 而已 婚夫 之性則 自 父子 之 湖
以 至於 七 代 受傷 者 道 也 使 其 將 之 性 則 自在 亞 之 分以 至於 政長 將來
近 地 德 基礎 之性而 李 俊雄 鹿之前 文書 館也 希 律之 性则 是非 怖 正之
分別 克 道 也 普 斯 語 性 者 無理 之 不具、彼 所 調 道 者 不得 外來 而 無 所 不.
龍 所 關 性者無 功之 不得後 所開通常不服 人 而無所不同
O 金 仁之 靈 力 大地生物之 心 寺廟 而在常之未 接而 此 說 已 具備 之 前後
而其 加不嚴謹 慎吾 N 東 之翼 之本文金門 之後
所以 必使 學者 设, 於 永 仁也 具有 日光 已 被 認為 能 克夫 已 灭
平 天理,則 此 小 之 觀無 不在、而 此 小 之 用 無 不行 也 反目 有 施 萊 納,事 敗、與.
人 中心、前 亦 所,以 存,此 小,也、文 日 事 就學 班 尼 安及 物 志明 宗 所以 行 此 必 也
( 中略 高 所 調 特性 者 號,共 分 城 之 不同 然 其 服 終 N 通 各 有 收购、前 的 書刊
然 繼續 而 不 相當 成、
O 嘉 語 我 神 之 本 對 有 四 品,將這 化 之 神祭 化 之 師、身 化 之 師、心 化 之 神奈 特
此 四 師從 後 可以 說 成 神道交 中將 水火本 金士之 神器 有 氣體 有 形體 而
形象 各 有 陰陽 光、氣體 而 形質 也 以 形體 之 水火 槍械、而 水 金 士 上質以 其
梅花 屬,水火 之 神 於 天地 之 神 而 目 三 神论 道 館,化 以 成 此 她 明 也
別 錄 七
地 錄 八
O 事 前面 是 魯 閣 總 會 士 就 地面 是 春 人體 具足 也 常会加 武 吉隆 拿 之 制 而
書 體 字者 不 敵 者 將其 之 為 根 也 仍 非 語 等 位 非 世尊 者、面 是 格 被 尊 之子 也、
故 常盤 連 目、人 得 欧而生 寫 歌 不 上 地 之 余 公 士 地 之 移至五 者 上 也、日 啟示
伊 萊 佛 者 士 也 仍 維護 衛 斯 前 通 空天智 命 為 五 段 成 各 化成,五 山脈元 水生。
士 而 土 瓜 石 之 言 本条
月原曾對 生子如 說大學 怪物 致 知識 意 正 心前 先知 後 行 證 會戰 死 博文後約 證
說中 應 性 通教 以 成 德 姆 洛 在 落後有 條 之 工夫 及 設 西 都從事,天地 之 道
-
此 等 諸説 基 人 得 起源 可 不易 北 高 也
O 來 艦 以 無 實 之 性、天地 之 性 分析 言之、比 海 學者 均 體 也 基質 無 二 性 氣質
之 本 松前 是 天地 之 性 而已。在 者 本 是 氣質 之 語 也
6 天 天地 之 間 都 是 氣而以 其 動靜海之 為 陳毅夫 生 « 不 息 之德國之 生
故 易 目、天地 之 大 德 日生 以 其 流行,而 ,像 @ 物語之 道以 其 有 條理
而 不知、文語之 理論,由 所 指 不全 而 結果,其 名松 其實 者 一般 而已 安是 以
除 物 流行 而 她 正 者 即 是道被 理氣 法 是 1 物 不可分 而 增,11 物 時從前無
無線 之 理文 無 黨 部 之氣不可分 先後為無 家 則 阿難 之有 足所以 理 家 不
可 分 而 忽,二、且 不可 言 代 有理 而後 有 氣象 派 之 神化 而 流行 者 間之 道 以,
其 有 條理,而 不,就航,故 語之 理 其實 道 與 理 | 小 的 以 理想,別 有一 物 而 离,
氣 中 則 是 與 老夫 所 調 有 物 混成 化 天地,生、佛 氏 所 調 有 物化 天地 無形 本
後 金像中不達 西武 神奈何以平 天地大和 之祭祀之 正*
故 能生 高陽 府 高 品 之 根底 至 其 之 理、不可,城 之 而 然 形而下 之 器 也 放題
氣 是 一 物 以,其 運動 變化 有 作用 而 生ん 府 不 息 語之 氣 以 其 生長 政 處 有
條 置 而 不,香 氣體 之 理 其實 | 約 而 已然 命 之 語,即 前 鎮 之 總 經 全書 而 無
不正 之 名 是 以 無常 卿 之 可 言、命之 語氣 而 有 時 而 那樣 系 就 稱 來 後,大,其
李 俊足方由 連動變化 而 不定無從 地 從此 非 怖 之 本熊井 家之 術 師
無 不 正典 常 者 是 氣 之 本 松、即 是 现 而已 突發言語 水水 本 清潔、松 過於 延 士
之 中 則 通海 汽機 失 其 情 深 不 可以 其 獨 機 為,水 之 本 松,也 放熱 能生 高
物 而 朝,理 能生 高 陽光 可 也 為 調理 能 生氣 則 不可 也 向 前 即將 家 之 理 也
非有本 未 死後
O E 荡,数 也 以 老 院 中信 榜。本、以 學 文 方 行為 學、平易 斯 大路 從 羅 恩 者,另
知 另行、海 而 其精力 火 而 極其 種 則 發商 大而 極 特徵是 下 學 而 上 達也
別 錄 九

錄 O
C 本橋 之 學 以 太極 無 極為 故 如 之 先攻以 將 生 精 心态 为 行 之 先 務 以 支 樂
破碎, 為 文學 之 先 形,是 方 高 遠離 家、細 本 無用 之 事 以 離,如 建有無 用 不 急
者 為先 與 聖 鬥 之 所主教、以 李 光秀 歌 文 行 总 值 為 先 務 者 與 交使 所 為數
高 遠離 時 以為 羅 摩 羅布置 不可入此 後世 學 武者 應器 之而 羅維奇 山
此也
大體中衛 天不常在上衣 «大 聖堂在關事件中 宗 天地 租者 于 陈 金剛
平谷 號 為人心也 被 人心 协 奏文全校 學人寿 人 失靈 址
之就
O 方 可 之 龍 與太原不可 利 不過 也 如 阿 而 不過 馬、前 北非 生 人 也 同 者 个 以 物
德 华 日 中 即 方 可 N 羯 座机 而 能 吸 經 安然 為 死人,後方 可 N 高 不可 利 不通
於 太 區 也是 無地 以 太歲 即応 之 本體 校 也 派 阿 城 也 成
O 了 理氣 合間 大會 亦 推理 氣 馬 耳、加 羅馬 家 而 太 裔 美 北 四 書 五 經學
人之道也
O 自修 而 言、別 身 東 小心 在 身 內 將自適 而 羅 開心 事 自身 在心 內 將其 語, 介
在 身 內將 這樣 在 之 功 而 歐盟 成 其 從 在心內 將 金 術 體 成 之 妙 而 成
役,物
O 物 而,調 小 在 身 內 塔、十 月 十指 之 義、 生 不能 了之。假 面識,身 在心 內 塔 意
微 機動 時 非特 于 日子 指 將高 以為,天下 之 所 說 指向 香江 府 外 之 龍骨 骨
心 而 离 物 在 來 紀代 之 地 放 也
O Q 時 平太 虚 非 他、去 人 欲 存 大理 方太 虚 也
O 人心 部 平 太原來自 德 姆 克己 而 入 馬 加 不自 德 姆 克己 而 入前 體 學 體 文
C 非 相,楊 明 先生 所 副 政長 和 之 實物 則 不可 至於 橫 須 先生 所 調 太歲 之 地
位 放松 陰平 太 虚,者、自發 自反 冲突 不 致使 如 血 前 太原 名、必 略 稱 者 之 學
可 不想 成、
O 本 編成了 太原 著 不 自救自 那 就 意 之 功夫、被動 被 稱 做 成像 を 終始 碼、従
是 為 仁義之 道 而 歸 平太 虚,之後 也 從 羅,宋 雜 手 太原 永 仁義 阿 可 不然 也
6 萬平太 皇 太虚无 心 從 後金 與 學 之 雲 大人 之 孫策
行、而 再 兴 中 之 書、而 人 之前 言 要 行 亦 再 小 中 之 恩 也是 故事 人 不能 外觀
之 也 擔 家 治國 平 天下 無 不 存 命中 之 書館 | 小 夫 ら 中 之 靈活 與 學 無
別 錄 |
別錄| 1
崔際問自西突
6日正太监察冀東大直入日文成心公園大體本物人能人能在道只今
平--
o㎜王羲之心血不利奇心地基地共五虎之心地方而繼承天瑞
伊藤に資 論語之書事人以大中至正之心設大中至正之道被應大中至正之人
能知之子必以離,如羅行高遠不可及資為至道而不知見知見行不正親
切洛尔是离世不易天下線至 N理論體,如羅行高遠不可及之說、カ與瑞
那些官房和易行不正親切者使是泰雅之道而元子立教之本原諸語之
宗旨也普在元子安眠中个摩薩維基特龍城秀賴德軍交武器重大體例
離行號離婚大不可觀測之說而立,其功和易行高低不易之道以增生民
之極座之門人認之後世故論語 1章算符,最上至極字正第一書
o至于之書文龍會後開元子之基地址日凌雲之道家而已突
文氏,其體,如羅行高遠不可及之說以為那說︽暴行測距離之而專明仁
義之言論議論之義統也
o心者人之所寫道運用本非武宗李懷有佛之類有有之故事人李德而
不 實心 會話 中 說,必 者 後 有,其 心 一 月 不 達 於 行 及 從心所欲 不論如、及 简
在 帝 又 一 言,而 已然 有 不 以 心态 系 要至於 孟子 多 設 公然 亦 告 指 行1 義之
良心,而 言 不 特設,小、日本 心、目 在 小 是 也、大兄 使 天 及 諸子 成 書. 者、本 不.
知,德 之 為 可 長而 定 意 社 理 其 與 孔子量 之 目 資 香 煙突
O 構架 日 心 線性情非 也 重子 目 在心 硬件 文 目 動 公認 性 以 此 觀之心自 是
小姓 自 是 性 所 指 各 族、若 以 心 為 統 性 情節 軍官,必 而 可、既 言在心、文言 後,
性、前 其 言 亞 非負 平 而 偏 言 後 在 面 进 党争 則 其 言 亦 個 突、普 渡 性 則 常 自
正、不 列 用 停 牌坊 大 也、
O ॥ 小 者 常 以前 照準 器 就職 是非 之 心态,本、夫人 之 有 是 心,也 擔 有 原 之 水、
有 根 之 軍 水生 宗 自足 聯網 而 動態 出 像 不 規、急用 像 不 識 是 前 バ N 本 統、
亞 有 實,於 此 看,于 个 方 以 心 為 直 者 皆 使者 之 總統 而 與 聖人 之 道,不 止痛
落事 之 不 識 ,於 此 可 權 也 夫。
O 性 生 也 人 其 所 生 而 無 邪 根 也 重子 目 性 者 生 之 實 也 開 子 以 副 書 動脈、香
善、 柔器 不 關 不 來 而 中 馬 者 為 五 性 是 也 纳 言 称 子 性 破、桃子 性 部、東華 世
遺産業性 來也 直至 于文昌之靈 以人之生氣體育 方 不全然 主義
别 錄 -
1三
別 錄 |
嘉慶尚 無中个 集 電廠 也 非難 於 氣質 而 言之 也
O → 日 世 相近 也 容 相違 也 比 高低 論 性 之 根本 樂師 也 面子曲子 祭礼 子 而
觀察 之 英 百 富有 二 地平 武、孟子 阿 書物 之 不 應 物 之 情 也 可知 其 所 調 性
善也 者、師 達 氏子 之 言 者 也 從 後備 以 北 子 之 言為 會 第 安之 性 手冊 子 之 言
然 會 本 級 之 性情 和 其 言,則 是非 礼子 不知有 本 級 之 性 手冊 子 不知,有 氣質
N 性歌手李龍神 名= 使 金昌原之 佛之 如金
崇 德 之 相 混淆 桜木,可 通 後從 其 支 樂 法 突如 不 相 入者 比
O 持 者 姓 之 微 地 以 有 所 動 而 言 被 以 性情 非 海 業 能 回成 物 而 動 者、性 之 微
也是 也 先師 以 調試 者 姓 之前、未婚夫 被 记得 被 李之意力 時 人 常 害人情
言 情欲或 高 天下 之 全勝 者 此 之 意 目 之 於在巴 耳 之 於 當日 之 於 陳、四 支 之
於安 迪 是 性、日 之 被 視差 色 且 之 被 聯邦 音 日 被 食 美味 四 支 之 被 視 女 选
是 常、父子 之 類、性 也、父老 被 其 子 之 書 学 老板,其 父 之 義 考 特 也 反 目安普
惠普 天下 之 全能 也 大 元 東北 之 類 用之術 学 之義自分 數
O 道德 路 也'人 之 所以 往來 也 放 除 場 交通 語之 天道制 系 和 空調之 地道 行l
義和 行 調之 人道者 取在 來 之 義也 反目 道德 維 也 由 此前 得 行 不由 此前
不得 行 所 調 回 京中 新 道,也 反 道 也 者 不可 得 奧 維也是 也 並 取決 由 此 即
從 行 之義德 以 其 足以 在 李從 不得 不由 此 而 行 交響樂 師也 逐
有 以 人 之 所 行 而 言 者若 葉脈 之 道 及 三 子 者 不全 通 等 是也 支 有 以方法
義 大學之道 及 生平个 N世 而 反之 靈 址 望 之書
信之故 有 天道有 地道 有人道及 黑體 小道台 鐵 之 未有 從 武道 之 地
伊藤東進 夫 省 之 泉 寺主 理被 以 性命天道等字 頭 之 別名 而 隨 處理 名 地址
不然 也 率 降 立 宣布 自 不 全省 有 所 指 以 各 明 其 目覚 以 可 和 通用之 字體
廣義 元以 無益 之 際 機設立 為 各 異 目 不能 不 列 四光宗 朱德 之 能 訓
目,五 十 和 天命 派 目,五 十 如 天理 宗 可 追加 日空調 離 性 以 不 會 亦 日期 性
龍神 宗 可能 如,目 隆纳 兹 和 赤目,如 作 權,心 可 交量 可 采 就 如 命 字 本 天 之
命 人吉凶 調 離婚,人群 之 有 命令 以 實.詞 人被 調之 命 也 證書 大 經本書 以
此 為 陰陽 造化 之 師亦 不 以 此 為 在 人 之 性 也 积 子 以為人性 在 天 之 名 朱
子 以太 極為 理 之 命 者 失 之 交
O 个 能 共 美元 ,使者、物 大,其 本 而 反物 之前 被 日 月 之 他 很 明 目 使 接 之 會
亦 目 使 君 使,天下 之 人 其 初 指令 其 罪人 之 德 而 後來 防火之 前面 使 其 性
别 線 1五
别 錄 · 1
之 初回 安然 原英 出航 降地 之 時原名 而 陳儀 タ 而 動 不知 是非 不 排 好 野
及 不 論文 氏 兄長者 被 使 其 性 之 初,部 則 因 無 頭 之 可 除 文 無毒 之 可 長達
北 省 之中可以 將之 本 武隆美 爾曼 也 分是非常好學品公元前期
親之 是 兄長 則 如故之 北 人性 之 所以 為 普 而 非 物之 所 能 及 可 食卓 羲之
本 服饰 於 此 所 調 自 知 自 指 是 也 為 有 以 產之 則 可以 成 仁義 經費不 從前
離 有 可 成 仁義 體 智之 德之 本 而 不能 成 仁義 體 智之 德 被 聖人 使 人就 其
西端 之 本 心服 而 克之 以 其 所 不忍 推之 于 其 所 欲以 所 共 所 不符 集 之 其
所以 從成 武 德五子 目人之所不幸而 能 者 其 能 也 將不會 而 知 者非
良知 也 被 提 之 事 無 不 知覺 共 期 也 反共 長 也 無 不知 政事 记,也 就 想 に 見
· 傑克森 也 無他 地之天下也是也 將有 關於 子方 發生之時事 之 處處則
不 日 而 李 中 所 实事業 地 交 日 月以 随之 用 客 以 調之 則 日 長 年度 可以 為
千尋 之 高木 齐全 天體弱勢 之 生前 可 為 千尋 之 高木 斯 可 笑話之 師 「義
之 高木町 平、四 師 之 心病學 之 生 也 在 義之 德 于 神 之 高木 地 將以 四 歲 之
心 為 性 之 發而 求,仁義 於其 初 即 阿 以 與松永 平郡 之 形 於未来 而 先就 非
開 羅馬 其 形 而 其 理 全放 物 則 ル所 需 的 愛德 羅素 u 之御者 而無 形態
之中方 七 之 實質不 知道無 失敗 之 言者 希 安座 人 之學 實學 也 能 人 之
觀賞 語 也 從 聖人之 能性 有 充裕 之方而無後 初之 說
山鹿家行 作者人 之 所以 ę 人党校 尉 也 大地 以 元 而 行 天下以仁 而立 原子間
仁、夫子 以 網目 後 之 七 之 全體 大 用 器、仁者 從 五常之 言、聖人 之 数 以仁科
極道
康 康德 生 以仁 作 发生 共 設 不 及至 宋以 仁科 性 大 高价 也 非 不 知事 人 之
仁宗 座 之 歌 小不明 之 盛世 に ク 解離 人群 之、
仁 對 義 而 武則 為 愛慕 之 愛 に 因素 而 行、義 因而 立、仁義 不可 支離人 之
-
情愛 張 耳 是 自然 之 情 也 与 装 者 受 惠 之 中部 也
五 常客 有用 而 不 包括 文 不支 樂 手冊子 說之 先師 目、兄 有 血 家之 類、具 正常
本不理由 金之後 而中營地不盡力 分不成人寿
修道 方 得 中飾。
O 道 者 日 用 所 共由 當 行 有 修理之名 也 大 能 連敗 能 就 人物 能 公路 客 有 其
道 不可避 過 有 所 行 也 日 用 不 可以 由 行 則 不 道 器 人 之 道 者 人道 也 通 古
金上下可以 自行 也 非 怖 作戰 成 可行後不可 行方 可在金不可 行
-
* 錄 1A

*




道率
出 之性路



路起


也號
大都城
王光道上路
出 Ż Ī A



車 人








天下
交之
人與
、用派物行民





明倫
基西



世小族板

路 道 大路 也 與 瑞 之 道
小 徑 少可 折 而 終 不可安大路 集 可能 維 奇 克 而 离 小 徑 在 目下 路

O 德 者 得 也 知 至 而 有 所得法门也 得之 於 心 有之 於 身 前 德行 其 德 公共育
通 天地 不感 高陽 者、天 德 明 德 也、複雑 種 經、而 不 將 實地 則 不可 調節。
O 不得已 之前,就航 府 不雅 方 今 上下 不可,且 也 推 天 之 命 於 種 不已 也 率
放 本書 不以 說道 也 應 也 1義也 證 樂 也 人々 不得已 之 戰 也 如 父子 之 觀
是非 原 合 院 會 也 無 安之 語 說 其實 無 安之 語 錄音 不 知識 也 较 不得已 N
載寢 、一事 | 約 之 間 無 不 識。
O 理 氣勢 合 而 有 生生 無 意味 道成 通知 識者 姓 也 人物生ん、無不 大 命 政 目
天命 之前推理 氣 和 合間 交 成 而 有 物 用之 性元 天下 之 間有 象が有 此 世
也 成 後之生不得已 有 象 方有 不得已 之 性 有 性 方 有 不得已 之 情 故 有
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