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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信   


Mole Communication Monthly Magazine
2020年6月1日 第93号 初版 www.abekobosplace.blogspot.jp
あな
迷う たへ
事の :
あな
ない
迷路 あ
ただ を通
けの って もし、私がひとり無人島に流されることになり、一冊の本だけの携行をゆ
番地
に届
きま るされたとしたら、私はたぶんヘンリー・ミラーの本を選び出すことだろ

う。[1965.2] 『聖なる深海魚』(全集第30巻、169ページ下段)

Samuel Becket

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もぐら通信
もぐら通信                          ページ 2

    
               目次
0 目次…page 2
1 記録&ニュース&掲示板…page 3
2 荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(11):淤能碁呂島幻歌:岩田英哉…page 9
3 『周辺飛行』論(6):3。『周辺飛行』について(3):案内人̶周辺飛行3:岩田
英哉…page 14
4 安部公房とチョムスキー(11):岩田英哉…page 21
  11. 言語の観点から明治維新以来の150年を総括する(150年)
  11.1 ヘーゲルの『歴史哲学』の原題の誤訳を総括する
  11.2 『歴史の哲学』にある歴史の定義
  11.3 ヘーゲルのいふ歴史と国家と哲学の関係
  11.4 マルクス主義の理想の社会をまとめる
  11.5 キリスト教を切り捨ててヘーゲルの論理からマルクス主義が生まれた
  11.6 マルクス主義の歴史・共産党・社会・国家・国民・個人の関係
  11.7 マルクス主義と金融資本主義の関係
  11.8 時代の「曲がり角」は急激に「カーブの向かふ」へと「転身」してゐる
  12. 言語の観点から第二次世界大戦後の日本を総括する(70年)
  12.1 United Nationsを国際連合と訳した欺瞞
  12.2 現行日本国憲法の欺瞞
  12.2.1 第9条第2項に関する翻訳の欺瞞
  13. 安部公房の国體変形論
  14. 私たちは何をなすべきか
  15. 誤訳時代の平成30年間を総括する(30年)
   【欺瞞の例1】日本語を更に虚妄の日本語に翻訳する欺瞞
  【欺瞞の例2】トランプ大統領の晩 会での正しい言葉の使ひ方
   【欺瞞の例3】日米通商に関する日米共同声明の誤訳の欺瞞
   【欺瞞の例4】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞1
   【欺瞞の例5】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞2
   【欺瞞の例6】山本夏彦著『おじゃま虫』の「「鉄労」いまだ存在せず」の欺瞞  
  15.1 平成時代の30年を何と呼ぶか
  16 《東京裁判》を開廷する
5 哲学の問題101(9):性(sex):休筆御免:岩田英哉…page 77
6 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(36):第2部 XI: 幾多の、死の、
静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則が成立した、 :岩田英哉…page 78
7 編集後記…page 89
8 次号予告…page 89
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もぐら通信                           ページ 3

  ニュース&記録&掲示板

The best tweets 10 of the month

該当tweetなし。どうしたコーボーズ。
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今月の砂の女
ミライ@一日目東パ07b@mirai_pipo 11月12日
安部公房「砂の女」
C95一日目東パ07b「暗室文庫」文学作品イメージ
写真集
写真:かりん モデル:jennie、ミライ

Emily Johnson@ExistentEmily 11月9日


返信先: @HIDEO_KOJIMA_ENさん
数年前安部公房様の本「砂の女」のおかげで鳥取砂丘に巡礼しました。

(砂丘巡礼の砂漠の写真を)

今月のけものたちは故郷をめざす
玉英堂書店@gyokueido8044 11月7日
【新入荷情報】
「けものたちは故郷をめざす」
安部公房 講談社 昭32
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初版 装幀・安部真知 カバー少傷ミ背少ヤケ カバー少欠損有
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今月の飢餓同盟
玉英堂書店@gyokueido8044 11月7日
【新入荷情報】
「飢餓同盟」
安部公房 講談社 昭29
初版 装幀・安部真知 本文ヤケ 
カバーヤケシミ カバー上部1mm裁断有

今月の電子書籍化要求
うっく@マカロン@ukku1102 11月11日
電子書籍マニア!よく知らない皆様は殆どの書籍は電子化したと思ってるでしょう。案外有
名な作家がまだなのです。日本だと三島由紀夫と安部公房。他にもいると思うが私が待って
るのはこの二人。というか何べん検索させるんだマチクタビレター

今月の谷崎潤一郎賞
nthesky@pieinthesky4
安部公房、なかなかインパクトあるな♪

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今月の安部公房を語る
若松英輔@yomutokaku 11月9日
12月21日(金)NHK文化センター青山校で作家のリービ英雄とロシア東欧文学者の沼野充
義さんが「100分de名著」特別講座として「安部公房を徹底的に語りつくす」を行います。
世界文学の今を肉感的に語れる数少ない二人が、安倍公房を語る。面白くないはずがあり
ません。ぜひ! https://www.nhk-cul.co.jp//programs/program_1161506.html …

秋満吉彦@akiman55 11月14日
秋満吉彦さんが若松英輔をリツイートしました
若松英輔さんもご紹介くださってますが12/21 18:30-リービ英雄さんと沼野充義さんによ
る安部公房を巡るトークショー開催します。お二人が揃ってご登壇というのは非常にレアな
だと思いますし、愛する安部公房を語り合うので相当貴重な機会だと思います。少し先に
なりますがお早めに、ぜひお申込み下さい

今月の人間そつくり
ほないくどう @I_shi_kamo 11月15日
朝読の安部公房の人間そっくり読み終わったので

今月の安部公房文学講演
和泉書院@izumisyoin 11月12日
○川端康成「日も月も」論ー戦死者の<遺文>を手がかりにー
  関西大学大学院博士前期課程 辻秀平
○安部公房『他人の顔』における都市の表象
  神戸大学大学院博士前期課程 長澤拓哉

↓詳細は、下記リンクをご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/hanshinkindai/20181102/p2 …

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早稲田大学エクステンションセンターにて鳥羽耕史氏による安部公房連続講座開催
鳥羽耕史早稲田大学教授による安部公房連続講座開催。

開催の要領は下記の通りです。「ただ今受付準備中」とありますが、時機をみて、申し込み
は次のURLへ:https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/44819/
曜日:水曜日
時間:19:00∼20:30
日程:全4回 ・01月09日 ∼ 01月30日
(日程詳細)
01/09, 01/16, 01/23, 01/30

講義概要
安部公房(1924∼93年)は、1951年に『壁』で芥川賞を受け、1962年の『砂の女』で国際的
な名声を得ました。いわゆる「純文学」にとどまらず、メディアを超えて活躍した作家でし
た。この講義では、彼の世界の広がりを、四つの側面から紹介します。小説を中心とする
文学、ラジオドラマとテレビドラマ、映画、そして演劇です。20世紀のメディア革命の時代
を生きた一人の作家の活動から、文学・芸術の世界の広がりを実感して頂きたいと思います。

各回の講義予定内容
1 01/09
共同制作と『壁』
安部公房は1940年代から50年代にかけて、〈夜の会〉、〈世紀の会〉、〈現在の会〉といっ
た芸術運動に関わり、画家、作家、評論家らと共同制作をしながら、文学世界を形成して
いきました。芥川賞受賞作『壁』を中心に、芸術運動と共同制作の成果としての文学作品
を検討します。
2 01/16
ラジオドラマとテレビドラマ
1950年代から60年代にかけて、安部は多くのラジオドラマやテレビドラマのシナリオを手
がけました。音声や映像が残る作品を部分的に鑑賞しながら、放送メディアを通した芸術
の可能性を考えます。
3 01/23
書き下ろし長編小説と映画
1960年代から80年代にかけて、数年に一度、安部は書き下ろしで長編小説を発表するよう
になります。その中でも、勅使河原宏によって最後に映画化された『燃えつきた地図』に注
目し、小説と映画の関係や、描かれた団地や郊外の空間について検討します。
4 01/30
演劇と安部公房スタジオ
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1970年代、安部は自らの名前を冠した演劇グループを率いて、身体的な表現の可能性を追
求しました。1950年代以来の俳優座の千田是也との協力関係で実現した舞台も検討した上
で、安部と演劇の問題を考えます。
もぐら通信
もぐら通信                           ページ 7

CoMA@Factory_COMA 11月11日
" 郭沫若が「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべ
て焼き尽くすべきである」と、過酷なまでの自己批判をさせられたことが報じられると、
川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫も、連名で抗議声明を発表した。
文化大革命 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/
%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD …

今月の安部公房の昭和
昭和ガイド@showa_g
昭和を振り返る画像。
『安部公房』
プロフィールは→https://showa-g.org/men/view/68

今月の安部公房全集
ベロチュウ@読書垢@sh41tsu9 11月10日
さて今週買った本。
新刊25冊(とSFマガジン)、古本12冊。
安部公房全集がやっとそろった。2X年振りに再
読するならせっかくなら先週で、という感じ。
「探偵小説の黄金時代」もGET高い本ばっかり。ふぅ

今月の読書会
笑福亭智丸@chimaru_s 11月7日
22日のテーマ、安部公房の戯曲「友達」は、元となる小説「闖入者」が先にあるのです
が、いずれも嫌な悪夢感と、反面の笑える喜劇感が同居しています。もし落語でやれば演出
一つでどちらにも転ぶ気がします。小説まで実演的に想像してしまえるのがこの作家の魅力
とも思います。新潮文庫で入手可ですー

今月の安部公房論
詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
自由と反復 : 安部公房『砂の女』論 (特集
変容する欲望 : 高度経済成長期を読む)
http://ci.nii.ac.jp/naid/40019623991 …

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku
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『方舟さくら丸』論--二つの<穴>,あるいはシミュラ-クルを超えて (特集 安部公房--ボ-ダ-レ
スの思想) -- (作品の新しい顔) http://ci.nii.ac.jp/naid/120002165397 …
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もぐら通信                           ページ 8

詩的文学論文bot@shiteki_bungaku 11月8日
安部公房『壁--S・カルマ氏の犯罪』における「ぼく」から「彼」へ http://ci.nii.ac.jp/
naid/40006272201 …

今月の箱男二題(画像)

今月の箱男(YouTube)二題
https://www.youtube.com/watch?v=fW0mhx7EBew
『「箱男」のテーマによる渋谷観察』

https://www.youtube.com/watch?v=ibzVBR8CM6I
『boxman 箱男』

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もぐら通信
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荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む
(11)
    淤能碁呂島幻歌
     (おのごろじまげんか) 岩田英哉

淤能碁呂島幻歌

大気を飽和させる海原の精を集めて 星座を
結晶させる天地(あめつち)の肇(はじめ)の島
尾長鳥が 大いなる飛翔の夢を みるとき
瑠璃色の夜空は治療的である
太古の地層から湧き出ずる
原水の泉の畔で 眠る裸形の骸(むくろ)の眼窩から
痩せ細った橘の一樹が育ち
塩の実を付ける 秘密の礫庭に
横たわる女神(アニマ)を照らす 原古の月

***

九つの詩行からなる此の詩は、一行一行が俳句になつてゐる。勿論、5・7・5の様式を踏ん
ではゐないが、形式を取り払つて、謂はばレンモの皮を剥(は)いで中身だけを無造作に取り
出した趣(おもむき)がある。宇宙に在るありとあらゆる皮といふ皮を剥(む)いて、本質
(essence:エッセンス)だけを素手で取り出したといふ俳句です。

安部公房の考へてゐるやうに、実は本質は関係であり函数でありますから、実体はなく、それ
は空です。その空を再度内部と外部を裏返しにして言語に置き換へて見たのが、この詩です。
即ち、本質が皮であり、皮が本質である。安部公房曰く「実は「私」というのは本質なんです
よ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になっ
てしまうということです。」(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から4
79ページ上段)だから、この詩の皮は実存であり、隠れた話者である「私」は本質である。

この皮であり本質であり、従ひ皮でもなく中味でもない、皮であり実である何かを歌へば、そ
れは幻の歌であり、従ひ幻歌である。古事記の国生み神話でイザナギ・イザナミの命が天の沼
矛(あめのぬぼこ)をコオロコオロと音立てて産んだ最初の島、即ち淤能碁呂島を巡つて歌は
れたのが、この詩です。従ひ、幻歌が淤能碁呂島なのか、淤能碁呂島が幻歌なのか解らない。

私は何が言ひたいか。次の三つのことが言ひたい。

一つ目は、この幻歌は『化石の書庫』で話者が、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 10

「輝ける虚無
 光の虚無
 廃墟の浴槽に、
 終日(ひねもす)――
 釣り糸を垂れる男の影のように、光は……」

とある、釣り糸垂れたる先にある虚無、即ち「光の虚無」、即ち光は「釣り糸を垂れる男
に影のように」ある虚無の光の中にある、即ち「廃墟の浴槽」に存在する淤能碁呂島を歌
ふ幻であるといふことです。

二つ目は、俳句の話がしたい。この詩人の「メタ俳句自選百句」が『定本荒巻義雄メタSF
全集別巻 骸骨半島 花嫁 他』に収められてゐます。この詩人の俳句を眺めて要約すると次
のやうにいふことができる。

この詩人の俳句は、数学、宇宙物理学・地球物理学の物理学、哲学、そして信仰心の総体
の中に、人間とそのほかの生物が生きてゐる様子を5・7・5の様式に合はせて詠んだも
のである。

空蝉の鳴くこともある虚数界
平方根植える亡者の蓮の池
新任教師セーラー服を微分する
超紐やどこへ隠れた六次元
宇宙とは神の折り紙天の川
角膜剥離せば宇宙開闢

挙げると切りがありませんが、ここに収録の俳句は三つに分けられてそれぞれにまとめら
れてゐます。これらの部立てに名前を付けると次のやうになります。

I 数学俳句
II 生物俳句
III 哲学・形象俳句

上記列挙のものはIの数学俳句からのもの。II 生物俳句は次のやうなものです。

この蚯蚓(みみず)極楽浄土へ行くつもり
金魚鉢父母実生以前水の夢
蝶の翅天地折り込む蝶番
蝉が死んだから電池の替えどき
ライオンは三越前で記号になる
コブラ昇天して超空間煙突掃除
もぐら通信
もぐら通信                          ページ11

さうして、IIIの哲学・形象俳句からは次のものが。

未来派の空襲警報鳴り響く
包むものお襁褓(むつ)オムレツ御座候
裁断師キリコの店でズボン剥ぐ
向き合うべきは真空界ぞ色即是空
からだなきからだを生きよ妹よ
年の瀬に空蝉が鳴く二十五時

淤能碁呂島といふ島の名前を入れた次の句は、IIIの哲学・形象俳句に入れられてゐる。

乳の石と淤能碁呂島の塩の月

この詩人の独創は、時間の液状化だと度々既述したところです。このIIIから同じ時間の液状化
といふ形象を有する句を他に三つを。

稲妻のスパイス恋する乳房
暦運の滲み出たり百八つ
湯気立ててシチューの皿は純粋持続

三つ目は詩の話がしたい。淤能碁呂島幻歌といふ詩は一見散文自由詩のやうに見えますが、そ
の精神は単位化された一行づつの俳句に等しい一行詩であると私には思はれる。しかし、何故
か散文自由詩といふ萩原朔太郎が確立した近代詩で詩が書かれるときに、詩人は次のことを無
意識にでも思つてゐる。それが、詩人を一行詩と複数行詩の間を往来させてゐる。詩人の言葉
に嘘はないのです。

「私は、詩の本質は、読者の言語巣を刺激して、鮮度のいい新たなイメージ(内包/意味され
るもの(シニフィエ))を再生産する言葉の技術であり、優れた詩人の技は、日常を飛び越え
て別世界を覗かせてくれる。言いかえれば、連続体であるわれわれの〈世界〉を詩の言葉で切
り取り、不連続とすることである。」(詩集自筆後書「覚え書き」97ページ)

と、このやうにある、特に最後の一行「連続体であるわれわれの〈世界〉を詩の言葉で切り取
り、不連続とすることである」といふ意識の鮮明な表現が、詩人にとつての俳句の意義
(sense:内包)即ち「イメージ」であり、特に此の淤能碁呂島幻歌に現れてゐる物事の
essence(エッセンス:本質)の高度な凝縮度であり濃縮度である。即ち、

この詩人にとつて詩とは「世界接触部品」である
「世界接触部品」が詩文を構成する詩の一行である
この一行が詩人にとつての俳句である
もぐら通信
もぐら通信                          ページ12

この俳句であり詩であるものが、この淤能碁呂島幻歌です。従ひ、この詩は詩集中一番短い詩
となつてゐる。

この詩は全部で9行、即ち九つの句からなつてゐる詩といふ事になりますが、しかし他方一行
の文といふ単位で此の詩をみますと、全部でやはり俳句集の部立てと同じく三つの詩の部分か
らなる詩である事が判ります。上述のやり方で、それぞれの部分に名前を、従属文からではな
く主文から言葉を取り出して、つけてみませう。

1。天地(あめつち)の肇(はじめ)の島
2。治療的な瑠璃色の夜空
3。原古の月

この三つが淤能碁呂島の景色であり、また同時に大変優れた事には、古事記のイザナギイザナ
ミの命の国生み神話とは位相をズラして幻歌として国生みがなされてゐる。これは高度な、藝
術(art:アート)と呼ばれる技術に拠るParodie(パロディー)です。これが文藝の本質
(essence)です。即ち、

この詩は、三つの「世界接触部品」から構成され、二重に神話的な層をなしてゐる。

この神話的な二重構造はトーマス・マンの『魔の山』と同じ構造です。従ひ同様に淤能碁呂島
には時間は存在しない。『魔の山』では、物語の中で時間が停止して空間が無時間になつた瞬
間から、登場人物達が古代ギリシャの神々と二重写しになつた姿を取り始める。

話が飛ぶやうですが、特に最後の一行には俳味さへ感じます。

横たわる女神(アニマ)を照らす 原古の月

この女神(アニマ)の横たはるのは「秘密の礫庭」であり、そこには「痩せ細った橘の一樹が
育ち」「塩の実を付け」てゐて、この橘の木は「眠る裸形の骸(むくろ)の眼窩から」生えて
ゐる。何処で?「原水の泉の畔で」。

かうして、この「原古の月」もまた時間の液状化といふ独創的な着想に生まれた詩人生来の素
質たる「原水の泉」の畔を照らしてゐる。あるひは、「原水の泉」の水を鏡として其の水面に
映えてゐる。

さて、この幻の淤能碁呂島に泳いでゐる存在の魚の名前は一体何といふのか。それは、もし答
へるならば、

原古の月、それも「原水の泉」の水を鏡として其の水面に映えてゐる「原古の月」である
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 13

といふ事になりませう。

海原の精を集めた「天地(あめつち)の肇(はじめ)の島」があり、その中に「太古の地
層」あり、そこから湧き出る「原水の泉」があり、その水面に映えてゐる「原古の月」が
ある。存在の浴槽は三階層になつてゐる。全く安部公房の存在の三階層の世界と裏表の世
界の、しかし同じ世界の如し。

夜空を見上げれば、夜空は「瑠璃色」であり、「尾長鳥が 大いなる飛翔の夢を」見てゐ
る、このやうな「夜空は治療的である。」

この夜空は一体何を治療するのか?その病(やまひ)の名前は何といふのか?
もぐら通信
もぐら通信                          14
ページ

『周辺飛行』論
(6)
    3。『周辺飛行』について(3)
   『案内人ー周辺飛行3』 岩田英哉

安部公房の「周辺飛行」は存在の三階層からなつてゐる。

この、エッセイといふよりは小さな小説といふ趣のある「周辺飛行3」も同様です。さうして、
第三層に至るまでの各階層の間に石段があつて、案内人に先導されて階段を降りて行くのも他
の三階層の小説と同じです。降りる石段の数が3と明示されてゐないのは、これがエッセイで
あつて小説ではないからでせう。

(1)第一層:現実の時間のある層:直接話法で始まる:案内人の言葉「すみません、食事の
前に、ちょっと片付けておきたいことがあるので、ほんの四、五分、此処で待っていていただ
けませんか。」:現実の時間の流れてゐる層である。
(2)第二層:工場
(3)第三層:レストラン

これを図示すると次のやうになります。

さうして、冒頭の案内人の科白が既に超越論の科白になつてゐます。即ち、何かの始まりの
時間が不確定で、始めがなく、従ひ終はりがない。

始め:案内人の言葉「すみません、食事の前に、ちょっと片付けておきたいことがあるので、
ほんの四、五分、此処で待っていていただけませんか。」
もぐら通信
もぐら通信                          15
ページ

終はり:「とにかく親切すぎる案内人には気をつけることだ。食べはじめるのは容易だが、
食事の儀式の終りを予想するのは、絶望的にむつかしい。」

ベケット風にいへば、「ゴドーを待ちながら」レストランで定時定刻のないうちに始まつた
食事をしてゐたが、待ち人来らず、この後どうして良いのやら途方に暮れて、いつ食事を終え
て良いのか分からないといふことです。

そして、この話者である主人公が此の三層目の存在のレストランから、きちんとした小説作
品ならば主人公は窓といふ穴(凹の形象)から脱出できる筈なのですが、このレストランに
は「方舟さくら丸」のやうには便所がなく、主人公は永遠に閉鎖空間に閉ぢ込められたまま
になつてゐるといふこと、これが小説と違ふところです。この周辺飛行の最後のところは、
便所との関係では、次のやうになつてゐます。

「外では、いまも、便所探しの女たちが、腰をくねらせながら駆けずりまわっているのだろ
うか。どうやら、このレストランにも、便所は無さそうだ。しかしぼくには、もう質問する
方法が分からない。」

実は此の「便所探しの女たち」は存在の三層目のレストランに最後の場面でゐるばかりでは
なく、二層目の工場の場面でも便所を探して走り廻つてゐるのです。

二層目の工場では作業員たちは男か女か顔や姿では識別できない人間、即ちニュートラルな
人間です。その人間たちが製造するのは毛屑を割箸に巻いて足元のバケツの液に浸して「太
めのアイス・キャンデーのやうに」なる何かを頻りに製造してゐる。そこで、次の段落で、
便所を探して右往左往する若い女たちが登場します。

「急に外が騒がしくなった。窓の向うを、大勢の若い女たちが、先を争うようにして駆けて
行く。気掛かりな腰つきで、体をくねらせながら駆けて行く。そうだ、あれは小便をこらえ
て、我慢しきれなくなった腰つきだ。」

二層目の人間達が男でもなく女でもない人間であるといふことから、ニュートラルな、即ち
未分化の実存たる人間であると解することができますが、しかし、これらの人間は中年だと
云はれてゐますので、「垂れ目の少女」と「トンボ眼鏡の看護婦」が未分化の実存として描
かれると云ふ安部公房の筆法から云ひますと、少しいつもと様子が違ひます。あるひは、三
層目こそが本当の深部の存在の階層であると云ふことから、書き方を違へてゐるのかも知れ
ません。即ち、二層目はまだ存在の階層ではない。

「便所探しの女たち」は便所といふ存在の穴(凹)を探してゐるのですから、これは、この
ことから言つてもニュートラルな女性でなければなりません。さうでなければ、主人公を次
もぐら通信
もぐら通信                          16
ページ

の存在へと案内して連れ出すことができないからです。しかし、便所の穴がないので、これ
らの女性たちはニュートラルではない。それ故にただ右往左往してゐるといふわけです。そ
して「垂れ目の少女」と「トンボ眼鏡の看護婦」のやうな未分化の実存の形象を備へてをり
ません。

二層目の工場で生産してゐるものが上記の「太めのアイス・キャンデーのやうに」なる何か
であり、三層目のレストランで「当店自慢の鶏肉料理を自称する、問題の鶏肉料理がはこば
れて」来て、主人公のみる鶏肉料理は、主人公の独白では、

「こんな鶏肉料理は見たこともない。皿に盛られているのは、ただの灰色の粉なのだ。粗挽
き胡椒を、ふるいに掛けたような感じの、白と黒の粒子が混り合った粉末なのだ。」

と云ふ鶏肉料理なのです。

これは存在の三階層目ですから、『砂の女』の砂と同じく、安部公房によつて存在概念の投
影された投影体だと解するのが良いのではないかと思ひますが、あなたは如何。砂の類の粒
は、安部公房の存在概念の形象化されたものなのです。安部公房の砂は、安部公房の水と同
様に如何様にでも変形自在です。安部公房スタジオの舞台の存在の一枚布も然り。従ひ、こ
の鶏肉料理は鶏肉料理とは名付けられて食卓に供せられても、それは存在であるので、一体
本当は何であるのかは案内人も給仕も知らない。あるひは知つてゐるのかも知れないにせよ、
教へてくれないといふことになるのです。

それでは一体二層目のあの蒲(がま)の穂のやうな「太めのアイス・キャンデーのやうに」
なる何かは一体何なのでせうか。これも安部公房の好む直喩を使つた、それも何かでありま
すから、存在のアイス・キャンデー様の形象をしたものの意味するところは、男性の生殖器
だと考へられます。なんとなれば、次のやうに安部公房は此のアイス・キャンデー様のもの
を描いてゐるからです。

若い女性たちが駆けてゆく様を表して、「そうだ、あれは小便をこらえて、我慢しきれなく
なった腰つきだ」と書いた次に続けて、

「ずらりと並んだ、便所の板戸と、古くなった冷凍魚の刺激臭を連想し、するとベンチの作
業員たちが、手にしたガマの穂先をぼくのほうへ向け、これ見よがしに振ったり、廻したり
しながら、さも思わせぶりなしのび笑いをもらすのだ。そのみだらな形態がうしろめたく、
ぼくは一瞬、食欲を忘れていた。」

とあるので、便所の板戸から穴(凹)の連想を、また「ガマの穂先」とアイス・キャンデー
様の何かを言ひ換へてゐますので、これは其の姿から云つて、『カンガルー・ノート』第2
章の「緑面の詩人」の章に出てくるバナナ・パフェと同じ意味合ひの形象でありますから、
まあ、男性の一物と考へて間違ひがないでありませう。それ故に「そのみだらな形態」と主
もぐら通信                         

人公は思ふ。「冷凍魚の刺激臭」といふ表現も性愛の刺激臭でありませうが、それが「冷凍魚の」
もぐら通信 ページ
といふところが安部公房らしい。冷凍魚には刺激臭はないのですから。これも安部公房の、数字
17
と記号ではなく言葉で表現するtopologicalな言語表現です。この目で見ますと、安部公房の文章
の至ることころに、この手の独特の表現を見ることができます。これが安部公房の文体と其の味
はひを醸し出してゐる。するとtopologicalな言語表現であるとは、メビウスの環、即ち連続の非
連続、非連続の連続による接続をいふのです。上位接続ならば「問題上昇」、下位接続ならば「問
題下降」です。前者はデジタル変換、後者はアナログ変換です。[註1]

従ひ、「ぼくは一瞬、食欲を忘れていた。」とは、「ぼくは一瞬、性欲を覚えていた。」といふ
意味です。これが安部公房のtopologyの文体(style)です。

もし初期安部公房の「転身」を一言でいへといはれたら、topologicalに数字と記号を文字と記号
に変換して表はすことで、安部公房は詩人から小説家への「転身」を成し遂げたといふことです。
[註2]

[註1]
言語と人間の関係あるデジタル変換とアナログ変換について、安部公房の次の発言があります:

1。『死に急ぐ鯨たち』の「破滅と再生2」(昭和61年、1986年):全集第28巻、252ページ
ここでは、ローレンツとパブロフに言及しながら、言語を論じている箇所が多々ある。
「(言語が)積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考
えてもらえばいい。はじめが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換の方を
採りたいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理しているのかは、今後
の研究に待つしかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。」

2。『破滅と再生2』全集第28巻、255ページ
「 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて推測すれば、要するに言語は一般条件
反射の積分値だと言いたかったんじゃないかな。
――-積分値、ですか?
安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考えて貰
えばいい。初めが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換のほう
を採りたいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理しているのかは、今
後の研究に待つしかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。 」

3。『シャーマンは祖国を歌う―儀式・言語・国家、そしてDNA』全集第28巻、232ページ)
「たとえばパブロフは、条件反射で有名なあのパブロフですが、《言語》を一般の条件反射よりも一次元高次の条件
反射とみなしていたようです。(略)
 「一次元高次」のという意味は、たとえば紙のうえに円を画き、その円を紙から話して空中移動させてみてくださ
い。チューブが出来ますね。平面が一次元高次の空間になったわけです。言葉を替えれば二次元が三次元に積分され
たことになります。つまりある条件反射の系の積分値として《ことば》を想定したのがパブロフの仮説になるわけで
す。ぼくとしては「積分」よりも「デジタル転換」のほうを採りたいような気もしていますが、今のところこれ以上
の深入りはやめておきましょう。肝心なことは、《ことば》をあくまでも大脳皮質のメカニズムとして捉えようとし
た姿勢です。」

4。『破滅と再生2』全集第28巻、255ページ
「 ついでにパブロフについても触れておくべきだろうな。(略)でもあえて推測すれば、要するに言語は一般条件
反射の積分値だと言いたかったんじゃないかな。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ18
――-積分値、ですか?
安部 積分値というのは、要するに平面上に描かれたあるカーブを、平面ごと移動させて出来る三次元像を考え
て貰えばいい。初めが円なら、こう、チューブになる……
 これはパブロフの暗示にもとづく類推だけど、僕としては積分値よりもやはりアナログ信号のデジタル転換の
ほうを採りたいな。大脳半球の片方(言語脳)が、どんなやりかたで、アナログ信号をデジタル処理しているの
かは、今後の研究に待つしかないけど、言語がデジタル信号であることは疑いようのない事実だからね。 」

[註2]
初期安部公房については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号か
ら第59号)をお読み下さい。この「転身」の過程をtopologicalに詳述しました。

まあ、蒲の穂が仁木順平、鶏肉料理の粉末が砂の穴の砂といふことで考へますと、『砂の女』
の世界になります。しかし、この「周辺飛行3」では、主人公は上記の理由で脱出することは
ありません。それ故に、最後のところで、

「給仕がいきなりぼくの肩を叩い」て、かういふのです。

「そのとおり、まだ分からないの、始めなけりゃ終りも無しってこと……」

何故給仕がこんな科白を主人公にいふのかと言ひますと、その前段で主人公は、さう、丁度、
安部公房の発見者、埴谷雄高の『死霊』(しれい)の最後の章で食卓を囲む登場人物たちの
側で影のやうに壁際に立つ黒服や青服のやうである其のやうな「そして、[引用者註:レスト
ランの中の]その上客たちをじっと見守るように、壁ぞいに並んでいる、黒い大きな人影」
を見て、「客でも、案内人でも、給仕でもなく、ここでの本当の主役は、じつは彼等なのか
もしれないという予感がした」からなのです。こう思つて内心起きた「ぼくの狼狽に、案内人
がすばやく搬(はこ)んで来るのは、きっと彼等にちがいない。」といふ主人公の内心の狼
狽の様子を察知して、案内人は次のやうな、超越論的な科白を口にする:

「そのとおり、まだ分からないの、始めなけりゃ終りも無しってこと……」

この文脈で読みますと、この影のやうな大男達は、超越論的な「彫像」のやうな人間達であ
つて、「その彫像は、あきらかに生きている。」これを読んで私はまたリルケの『形象詩集』
の中にある「『飾り彫りのある柱の歌」(もぐら通信第38号)を思ひ出しました。石でで
きた彫像に詩人が閉ぢ込められてゐて、生命と交はることのできぬ詩人の禁欲的な愛のあり方
を歌つた詩です。そしてこの論理を下敷きにしてゐる1950年代に安部公房の書いた石に関
する幾つかの作品も。例へば戯曲『石の語る日』といふやうな。また『終りし道の標べに』
の詩「私の無常を訴へるのか/此の石の身をとがめるのか/あゝ 私も生を欣求する」とあるや
うな(全集第1巻、323ページ下段)。かういふ「彫像」と云ふ語彙の選択に若き日の安
部公房が依然として生きてゐるのです。

恐らくは、この影のやうな静かに物言はぬ彫像の大男たちが、『第四間氷期』の最後に勝見
もぐら通信
もぐら通信                          ページ19

博士を殺しにやつて来る暗殺者に当たるのでせう。「ここでの本当の主役は、実は彼等なの
かもしれないという予感」、この主人公の予感は、勝見博士が小説の中で予感する予感、即
ち「既にして」(超越論的時間)起こつてしまつてゐる未来の事実が現在の時間の単位と等
価交換されて現在只今此処に起こるといふ「現在である未来」に関する予感なのであり、こ
れらの男達はいつてみれば短編小説『使者』の冒頭の次の詩に歌はれてゐる、この小説の主
人公奈良順平が定時定刻に始まる筈の講演の時刻までの間に、謂はば劇場の幕の開く前に現
れた火星人と超越論的な時間といふ余白と沈黙の中で会話して想到した「箱の論理」と同じ
論理による、作品のエピグラフでもある次の詩の中の32人の火星人の使者達であるのです。
安部公房の仮説設定[註3]では、火星といふ惑星では、時間に始まりも終りもないのです。
即ち、火星といふ惑星は超越論の惑星といふ仮説設定なのです。『使者』論は、次の詩の解
釈も含め、また『人間そっくり』論を併せて別途一緒に論じたい。

「秘めたる使命を帯びてきた
 三十二人の使者たちは
 あかしをたてる術(すべ)もなく
 冷たき狂気の墓場へと
 嘲(あざけ)られつつ追われゆく
 ―彼等の歌―」

[註3]
『安部公房の小説論総覧 安部公房全集より 』(もぐら通信第●号)より、安部公房の仮説設定論を述べてゐ
る評論は次の通りです:

「II 仮説設定の文学とSF文学論
自分の仮説設定の文学の淵源をポーに求めてゐる

1。私の文学を語る:全集第22巻、42ページ上段 子供のころから文章を書くのが好きだったという発言がある。
小学生のころ作り話をして先 生に盗作の疑いをかけられて叱られたこと。そうして、中学二年頃に、ポーに熱
中したこと が発言されている。 このインタビューは、この前後も非常に重要な安部公房の発言を含んでいる。
2。私の創作ノート:全集20巻、162ページ
3。『仮説の文学』:全集第15巻、237ページ
4。『仮説・冬眠型結晶模様』:全集第7巻、77ページ
5。『空想科学小説について』:全集第15巻、237ページ
6。『空想科学小説の型』:全集第8巻、252ページ
7。『空想的リアリズム』:全集第7巻、50ページ 8。『ぼくのSF観』:全集17巻、288ページ 9。『SFの流行に
ついて』:全集第16巻、376ページ」

かうして考へて参りますと、

安部公房の唱へる仮説設定の文学の仮説とは、超越論(汎神論的存在論)に他ならない。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ20

といふ事がよく判ります。

主人公が黒い人影として壁際に立つて生きてゐる「彫像」の人間達と一緒に此のレストラン
といふ三層目の存在の閉鎖空間を脱出できたかどうかについては何も書かれてゐません。存
在の三層目のレストランといふ閉鎖空間での食事にはただ終りのない「ゴドーを待ちながら」
の食事があるだけです。かうしてみれば、サミュエル・ベケットも超越論者です。不思議は
ありません、ベケットはアイルランド人であり、古代ケルト民族の末裔、即ち私たち日本民
族と同じ大地母神崇拝の心を共有してゐるからです。

かうして、大地母神崇拝といふ観点でヨーロッパの作家を眺めると、ルイス・キャロルがさ
う、ジェームス・ジョイスがさう、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフトがさう、
スウィフト同様に辛辣なるバーバード・ショーがさう、詩人イェーツがさうです。ルイス・
キャロルは、安部公房がポーの次に好きな作家でした。

さて、以上は、私の立てた理屈で、実際にはやはり安部公房の文章を味はふと云ふ、これが
読者としての醍醐味です。作者の文体に、批評による解釈は何も加へることができません。

原文を直かに味はつて下さい。

安部公房らしい、「奇妙な味」のする、いい文章です。[註4]

[註4]
「奇妙な味」とはSF文学史上SF作家ロバート・シェクリーの作風に主に言はれる文体の味はひの名前ですが、
安部公房にも通じてゐます。『SFの流行について』の中で、安部公房はシェクレイといふ表記で此の作家に言
及し、ポーを始祖とするSF文学といふ仮説設定の文学を継承してゐる作家のうち「ポーの方法を、形式の点で
も̶̶純化、もしくは俗化の、程度の差はあれ̶かなり忠実に受けついだ、ガーネット、コリア、サキ、ダール、
ブラッドベリ、シェクレイなど、誰かが「奇妙な味」と名づけた、あの一群の短編作家たち」の一人として名前
を挙げてゐます。(全集第16巻、383ページ下段)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 21

安部公房とチョムスキー
(11)
目次

1。ヨーロッパ文明の近代とは何であつた/あるのか
2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置 青字は前回までに
3。バロックとはどういふ時代か 論じ終つたもの、
3.1 バロックとは何か 赤字は今回論ずるもの、
3.2 バロック建築:差異の建築 黒字はこれからのもの
3.3 バロック文学:差異の文学
3.4 バロック哲学:差異の哲学
4。チョムスキーの統辞理論とバロックの言語学:生成文法とポール・ロワイヤル文法
4.1 チョムスキーの疑問に回答する:日本語の持つ冗長性とは何か
5。ポール・ロワイヤル文法とラシーヌ
6。「2。西洋近世哲学史の中の安部公房の位置」に関する補遺的説明
7。 一神教と大地母神崇拝をtoplogyで読み解く
8。スコラ哲学は21世紀にも生きてゐる
9。ネットワーク・トポロジーの変遷で近代ヨーロッパ文明の300年間を読む
10. 日本列島文明の視点から近世・近代ヨーロッパ文明を相対化する:大地母神崇拝と一神教の文明間戦争
11. 言語の観点から明治維新以来の150年を総括する(150年)
11.1 ヘーゲルの『歴史哲学』の原題の誤訳を総括する
11.2 『歴史の哲学』にある歴史の定義
11.3 ヘーゲルのいふ歴史と国家と哲学の関係
11.4 マルクス主義の理想の社会をまとめる
11.5 キリスト教を切り捨ててヘーゲルの論理からマルクス主義が生まれた
11.6 マルクス主義の歴史・共産党・社会・国家・国民・個人の関係
11.7 マルクス主義と金融資本主義の関係
11.8 時代の「曲がり角」は急激に「カーブの向かふ」へと「転身」してゐる
12. 言語の観点から第二次世界大戦後の日本を総括する(70年)
12.1 United Nationsを国際連合と訳した欺瞞
12.2 現行日本国憲法の欺瞞
12.2.1 第9条第2項に関する翻訳の欺瞞
13. 安部公房の国體変形論
14. 私たちは何をなすべきか
15. 誤訳時代の平成30年間を総括する(30年)
   【欺瞞の例1】日本語を更に虚妄の日本語に翻訳する欺瞞
  【欺瞞の例2】トランプ大統領の晩 会での正しい言葉の使ひ方
   【欺瞞の例3】日米通商に関する日米共同声明の誤訳の欺瞞
   【欺瞞の例4】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞1
   【欺瞞の例5】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞2
   【欺瞞の例6】山本夏彦著『おじゃま虫』の「「鉄労」いまだ存在せず」の欺瞞  
15.1 平成時代の30年を何と呼ぶか
16 《東京裁判》を開廷する
17. 安部公房の縄文紀元論
18。結語:安部公房とチョムスキー再度
(1)Topological(位相幾何学的)な「近代の超克」
(2)日本は「近代を超克」する必要がなかつたといふことについて
(3)日本の世界史的立場:逆王政復古:公武合体政策の解消とバロック的楕円形国體への復帰を
(4)世界の日本史的立場:逆バロック時代復古:汎神論的存在論(超越論)に拠つてヨーロッパ地域での古代の神々の復活を
もぐら通信
もぐら通信                          22
ページ

11. 言語の観点から明治維新以来の150年を総括する(150年)
先の戦争後の70年を観る前に、明治維新以来の150年を翻訳の視点から眺めたい。

11.1 ヘーゲルの『歴史哲学』の原題の誤訳を総括する
掲題のヘーゲルの歴史に関する哲学の書物の原題は、

Die Philosophie der Geschichte(ディ・フィロゾフィー・デル・ゲシヒテ)

といふのです。これを英語に直せば、

The History s Philosophy

となつて何か可笑しい。

この可笑しさは、これでは歴史が考へる当の哲学といふことになるからです。あるひは、も
う一つの解釈は、

歴史に残る哲学

といふ解釈があるでせう。

確かに、この著作には哲学史を語る趣もありますから、一概にこの解釈を否定することはで
きませんが、しかし、英語の訳でお判りの通りに、このThe History sとは所有格の sがつい
てゐますので、歴史のとはいつても、歴史が哲学を所有する、その支配下にあるといふ意味
はどうしても抜けない。

これでは本末転倒であつて、歴史が何か意志を有してゐて哲学するが如きである。この意味
が「歴史哲学」といふ訳では出てこない。これでは、やはり歴史に関する哲学といふ意味に
私たちは日本語で理解をしてしまふでせう。私も「歴史哲学」といふ名前を耳にはしてゐま
したので、そのやうに思ひ込んでゐました。ところが、安部公房といふ作家の新象徴主義哲
学を全集第1巻を読んで、近代ヨーロッパの思想史の上に此の連載を通じて位置付けようと
し始めて、初めてヘーゲルの主要な著作に眼を通しましたところ、哲学的な関心を抱いてゐ
る日本人の間で人口に膾炙した此の書物の名前が『歴史哲学』なのではなく、『歴史の哲学』
だといふことを知つて驚いたのです。いま、私は日本語でかうして書いてゐますから一見問
題がないやうに見えるのですが、上記英訳の通り意味が原文のドイツ語もまた複数の解釈が
あつて曖昧です。日本語からドイツ語に逆に翻訳すれば、

(a) Die Philosophie über die Geschichte(ディ・フィロゾフィー・ユーバー・ディ・ゲシヒ


テ)または、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 23

(b) Die Philosophie von der Geschichte(ディ・フィロゾフィー・フォン・デル・ゲシヒ


テ)

となつて、(a)(b)ともに、歴史が主体(subject)となつた哲学、即ち歴史が主語(subject)
で、哲学が述語(predicate)であるといふ主従の従属関係を表す書名ではなく、前者(a)は歴
史に関して(広範に亘つて論じる)哲学といふ哲学になり、後者(b)は歴史の(一部について
論じる)哲学といふ意味になるのです。

ですから、ヘーゲルは上記傍線部の示す通りに「歴史が主語で、哲学が述語であるといふ主
従の従属関係を表す書名」としたこと、これがこのままこの書物の題名であり、内容である
といふことになります。

この本末転倒の題名に、ヘーゲルの野心が現れてゐる、人間の哲学する意志、ものを自分で
考へる意志に優先させて、哲学に優先して歴史があるといふのです。

もし最前の二つ目のThe History s Philosophy の解釈を更に進めて、

歴史に残る歴代の哲学

といふ意味に善意に解釈するとどうなるかといへば、私の(ドイツ語からの)語感でいへば、

The History s Philosophies

と複数形になるのではないでせうか。これならば、

歴史に残る歴代の哲学

といふ意味になりさうに思はれる。しかし、かうなつて見ればみたで、やはり、

The Philosophies in the History とか、


The Philosophies of the Historyとか、
The Philosophies on the Historyとか、
The Philosophies over the Historyとか、

何かこんな幾つもの英訳になるのではないでせうか。さうして前置詞のinとかofとかonとover
の訳を日本語に微細に訳出しようとしても、これは難しいことに、どれも安直に「∼の」な
どと訳してしまつて、あるひはせいぜい「∼の中の」「∼についての」などと、いづれも同
じ日本語の意になつてしまふ。さういふわけで、これらの英訳は上記の(a)(b)になることに、
結果的な状態としては、等しい。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 24

あと一つだけamazonからドイツ語の次の書名の例を挙げて此の導入部の説明を終はりにし
ます。アンドレ・ジイドの『贋金づくり』のドイツ語訳を探してゐて、次の題名を見つけまし
た。

Das Europa der Literatur: Schriftsteller blicken auf den Kontinent 1815‒1945 (mimesis
50) (German Edition)

【拙訳】
文学のヨーロッパ:作家たちが大陸を眺め遣る 1815ー1945[訳者 :mimesis5
0は叢書の名前](ドイツ語版)

かうしてみますと、「文学のヨーロッパ」とは、文学の見遣つたヨーロッパ、文学畑の作家
たちが見た大陸ヨーロッパといふ意味であることがよく解ります。即ち、Die Philosophie
der Geschichte(「歴史の哲学」)とは、歴史の見やつた哲学といふ意味にも耐え得るので
す。この場合、この文脈ではDie(ディー)といふ定冠詞がついてゐますので、そもそもの哲
学、本来の哲学、歴史の観る哲学なるものといふ意味になります。それで「歴史の哲学」。
これを「歴史哲学」と訳したら、私たちは否応無く「歴史に関する哲学」「歴史を考へる哲
学」と理解して、実はヘーゲルの考へるところは哲学が考へるのではなく、哲学を考へると
いふ主体が歴史であるといふ此の転倒が理解できません。

11.2 『歴史の哲学』にある歴史の定義
ヘーゲルの『哲学の歴史』より歴史の定義を引用しませう。この書物の中にある唯一定義の
形式に則つてヘーゲルの定義してゐる歴史の定義です。プラトンの考へた国家とヘーゲルの考
へた国家を対比させて述べてゐるので、プラトンの側も含めた少し長い引用になりますが、
ヘーゲルの(哲学、国家、歴史、自然、観念、唯一絶対神God、世界)といふ言葉の関係が
よくわかるところです。

ヘーゲルの考へは、哲学の依つて立つ地面と歴史の依つて立つ地面は異なるといふことです。
地面とはヘーゲルの言葉です。地面を根底と訳し変へても良い。物事の成り立つ根拠の事です。
英語ではground(グラウンド)、あの野球のグラウンドです。原文の後に拙訳あり。

【原文】
Platon fordert die Philosophie schlechthin an die Regenten der Völker, stellt hier die
Notwendigkeit dieser Verbindung der Philosophie und der Regierung auf. Was diese
Forderung betrifft, so ist dies zu sagen. Regieren heisst, dass der wirkliche Staat
bestimmt werde, in ihm gehandelt werde nach der Natur der Sache; dann wird die
Wirklichkeit mit dem Begriff in Übereinstimmung gebracht, die Idee kommt zur
Existenz. Das Andere ist, dass der Boden der Geschichte ein anderer ist als der Boden
der Philosophie. In der Geschichte soll die Idee vollbracht werden; Gott regiert in der
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 25

Welt, die Idee ist die absolute Macht, die sich hervorbringt. Die Geschichte ist die Idee,
die sich auf natürlich Weise vollbringt, nicht mit dem Bewusstsein der Idee, - freilich
mit Gedanken, aber mit bestimmten Zwecken, Umständen.

【拙訳】
プラトンは、只単に哲学に対して諸民族の支配者に直接哲学することを要求してゐて、これ
をいふことで、哲学と支配の此の結びつきの必要であることを論として立ててゐるのである。
この要求に関して言へば、このやうにいふことができる。支配とは何かと云へば、それは現
実の国家が明確に規定せられて、支配といふことが国家の中で具体的に取り扱はれるといふ
ことなのであるが、これが事の自然に応じてなされるといふところに眼目があるだ。さうな
れば次に現実は概念と調和することになり、観念が存在(Existenz:英語のexistence)する
ことになるからである。
 これに対してもう一つは、歴史の地面は哲学の地面とは異なるといふことである。歴史の
中にあつてこそ、観念が遂行されるのだ[ 1]。唯一絶対神Godは世界の内側で支配し、
観念は自分自身を生み出す絶対的な権力である。歴史とは、自然な方法によつて自分自身を
遂行する観念であつて、観念の意識と一緒にではなく勿論思想[ 2]と一緒に遂行するの
であるのだが、しかし決められた目的・目標や諸事情と一緒に自然な方法によつて自分自身
を遂行するのである。

[ 1]
「遂行され、完成し、完了する」は全てドイツ語vollbringen(フォルブリンゲン)の含む日本語の言葉の意味
である。

[ 2]
この思想と訳したGedanke(ゲダンケ)といふ一語は、日本語の考へ(大和言葉)、想念、概念、観念、表象
といふ言葉の意味を含んでゐる。

11.3 ヘーゲルのいふ歴史と国家と哲学の関係
ここでヘーゲルの言つてゐる歴史と国家と哲学の関係【α】は、次の通りである:

(1)国家は支配者に直接に結びつくものではない。
(2)観念こそが再帰的であるが故に、再帰的即ち自分自身を遂行するが故に絶対的な権力
なのあり、
(3)「歴史の中では、観念が遂行される」。
(4)「歴史とは、自然な方法によつて自分自身を遂行する観念で」ある。そして、
(5)この観念は、自然な方法で再帰的に自分自身を遂行する。
(6)歴史は「観念の意識」と一緒に働くのではなく、現実的・具体的な目の前にある「目
的・目標や諸事情と一緒に自分自身を遂行する観念(または理念)」である。
(7)「自然な方法」とは、上記(6)のこと、即ち歴史が目の前の具体的な目的・目標や
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 26

その他の諸事情と一緒になつて、観念が自分自身を再帰的に遂行することある。
(8)歴史が世界の内部で上記(2)から(7)にあるやうに再帰的な自己生産といふべき
自己遂行を繰り返すことに関し、「唯一絶対神Godが世界の内側で支配」してゐるのだ。し
かし、
(9)歴史とは、上記(4)によれば、再帰的に自分自身を遂行する観念である。とすれば、

一体支配者はどこにゐることになるのか?

といふ問ひに対して、この先でヘーゲルは次のやうに説明する。以下を読むと唖然とするの
であるが、支配者に脳味 は要らないといふのである。続けます。拙訳を後置します。理解
のための方便として「取り扱ふ」と訳した日本語は「「行為する」行動する」または「処理
する」ことと理解して訳語を置き換へてもよく、「取り扱はれる」と訳したところは「処理
される」と置き換へて読んでも良い。

【原文】
Es wird nach allgemeinen Gedanken des Rechtes, Sittlichen, Gottgefälligen gehandelt;
die Idee wird so verwirklicht, aber durch Vermischung von Gedanken, Begriffen mit
unmittelbaren partikulären Zwecken. Das muss auch sein; die Idee ist einerseits durch
den Gedanken produziert, dann durch die Mittel der Handelnden. Die Idee kommt
zustande in der Welt, da hat es keine Not; es ist nicht nötig, daß die Regierenden die
Idee haben. Die Mittel scheinen oft der Idee entgegengesetzt zu sein, da schadet nichts.
Man muß wissen, was Handeln ist: Handeln ist Treiben des Subjekts als solchen[
3] für besondere Zwecke. Alle diese Zwecke sind nur Mittel, die Idee
hervorzubringen, weil sie die absolute Macht ist.

【拙訳】
正義の、礼儀正しさの、唯一絶対神Godの意向に適(かな)つた一般的な思想によつて、事
は取り扱はれるのだ。何故なら、観念はこのやうに現実のものになるのであるが、しかし、
思想や概念が、直接的で特殊な目的・目標と混同されることによつて、観念は現実のものに
なる【A】からである。観念が世界の中に実現する、実際さうでなければならない。観念は
一方では思想を通じて生産されるが、次に観念は取り扱ふものたちの手段を通じて生産され
るからである。観念は世界に実現するが、そこには何の困難もない。何故なら、支配者たち
が観念を持つことは不要だからである。手段はしばしば観念に対立するやうに見えるものだ
が、それは一向に構はないのだ。知るべきことは、取り扱ふとは何かを知ることだ。即ち、
取り扱ふとは、特別な様々な目的・目標のために、そのやうな取り扱ひとして[ 3]主観
が推進することである。全てのこれらの目的・目標は、観念を生産するための単なる手段に
過ぎない。何故ならば、観念とは絶対的な権力であるからだ。 (傍線部訳者)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ27

[ 3]
「そのやうな行為として」と訳した原文( solchen :ゾルヒェン)は男性名詞の4格(日本語ならば ∼を に
あたるの)であるが、これは文の流れから行つて「Treiben」(トライベン:英語のdrive:中性名詞)を指す
と思はれるので、そのつもりで訳した。 solchen は誤植であらうと思はれる。といふのは、その直前に男性名
詞が一つもないからです。

この正気を失つた、さう、はつきり言へば、狂人の文章を訳すことはここまでとします。

先へ読むとプラトンのいふ哲学者の概念を相対化するためにイギリスの例を挙げて、イギリ
スで哲学者と呼ばれた例がプラトンのいふ哲学者とは違つてゐる職業が哲学者と呼ばれてゐ
るといつて其の例をあげるのですが、まあ、本論を外れるのでここまでとします。要するに、
ヘーゲルはプラトンを否定したといふことが判れば、それで十分です。即ち、ヘーゲルはやは
り此処でも超越論ではなく、汎神論的存在論の論者ではないといふことです。

カントーヘーゲルは共産主義の系譜、対してカントーショーペンハウアーは超越論の系譜で
あることを此処でも再確認することができました。これから解る事は、

(10)「正義の、礼儀正しさの、唯一絶対神Godの意向に適(かな)つた一般的な思想」
とは、哲学者の生産する観念であるが、しかし此の観念は歴史の中では、上記【α】の(2)
でまとめたやうに、「観念こそが再帰的であるが故に、再帰的即ち自分自身を遂行するが故
に絶対的な権力なの」であるのだから、
(11)「支配者たちが観念を持つことは不要」であり、それ故に、
(12)支配者の役割は、具体的な現実の諸問題の解決にあり、観念は、支配者の上位にあ
る。何故ならば、観念は絶対的な権力であるからだ。

以上のことを簡潔に見て参りますと、何故マルクス主義と此れの広まつてなる広義のマルク
ス主義、即ち共産主義が生まれたのかがよくわかります。上記訳文で傍線を付した【A】の箇
所、

「思想や概念が、直接的で特殊な目的・目標と混同されることによつて、観念は現実のもの
になる」……【A】

といふ一文は、まさしく別途連載してゐる『哲学の問題101』のマルクス主義者の著者の
論法と全く同じだからです。後継のマルクス主義の論法と同じであれば、歴史を振り返つて
見れば、ヘーゲルこそがマルクス主義の権化であつたといふことになります。

上記【A】の引用では、明らかに今のLGBTの新潮4の5の事件[ 4]と同様に、「思想や
概念」といふ文化の領域の論理の質の問題が、「直接的で特殊な目的・目標」といふ国家と
もぐら通信
もぐら通信                          ページ28

の関係では此れも明らかに政治的な量の問題と「混同されることによつて、観念は現実のも
のになる」といふ意図が書かれてゐる。ここまで来れば、これは「現実にする」といつても
良い。後述するやうに「現実にする」主語は共産党です。

[ 4]
これで、新潮4の5の事件が依然としてマルクス主義の論理であることが、ヘーゲルの文章を読み解くことによ
つて証明されました。揣摩臆測や推測や推論ですらなく、証明です。

言葉は恐ろしい。

このヘーゲルの論法と同じ論法を使つてゐる『哲学の問題101』の著者の文章を『哲学の
問題101(8):寛容』(もぐら通信第91号)の「9。マルクス主義の詭弁を徹底的に
論破する」より引用して再掲します:

「この著者の詐術、即ち詭弁は、無関係なもの同士の意味を関係のあるやうに交換してみせ
てゐるところにあります。

典型的な例が、人間一人の命は、地球の重さより重い といふ詐欺的言辞です。後者、即 ち地
球の重さは測定することができませうが、前者、即ち人間の命は測定することはでき ません。
一人一人によつて命のあり方は人生の数ほどに皆違ふ。但し生命保険会社は別です。さて、
それ故に、私たちは寿命といふ言葉を持つてゐるのです。前者は個人個人の生活の質の問題
であり、後者は地球の量の問題です。

同様に、ここでも著者は同じ詐術を使ひ、性的な差異と隣人の騒音が対応可能で、従ひ交 換
可能な同じものだと悪意を以つて混同し、読者に混同させてゐます。後者、即ち隣人の 騒音
はデシベルの単位で、量でありますから測定できるのに対して、前者、即ち性的な差異とい
ふものは、LGBTといふ十把一絡げの量ではなく、L,G,B,Tといふ個々人の人生の質の問題で
ありますから、同列に論ずることはできません。これがマルクス主義者の詭弁な のです。

上記に例として挙げた前者は量として人間を見るのですから、これは政治の話、これに対 し
て、後者は一人一人の生命と生活(英語ではともにlife:ライフ)を一義的に大切にして 其の質を
問ふのですから、これは文化の問題です。

これで、マルクス主義が唯物論であり、唯物論が一体人間をどのやうに量の塊として見て き
たかの理由がよくわかるでありませう。このために地球上で20世紀に億単位で計算で きる数
の人間が大量に虐殺された。21世紀に人類がこの詐術に されるのであれば、人類は滅びる
以外にはないと私には思はれる。もつとも、他の動物たちにとつては、それが 最も生活の質
を高める最短最速の方法であるのですが。何しろ、わたくしの人間の定義は 次のやうなもの
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 29

ですから:

人間とは、人間以外の生物にとつて、地球上で最も有害な生物である。」

ヘーゲルーマルクス以下/以降の共産主義は、この私の人間の定義を歴史的事実として見事に
証明してくれてゐる。もつとも、証明してくれたからと云つて、恩人と呼ぶには憚られるが。

果たして此の混同は現実的な問題の解決に役立つたか?

答へは否、NOである。混同は混乱を引き起こすのみ。

11.4 マルクス主義の理想の社会をまとめる
しかし、マルクス主義の理想の社会を、これで、ヘーゲルのお蔭で次のやうにまとめること
ができる。 > の記号は上下関係、主従関係、従属関係、支配・被支配関係を示す。

(1)観念は歴史の中に再帰的に再生産を繰り返する絶対権力である……【B】
(2)哲学者は思想を生産する……【C】

(1)は観念といふ歴史の中での再帰的な絶対権力……【B-a】
(2)は哲学者の生産する思想……【C-a】

とすると、

(1)歴史といふ時間の中では観念といふ再帰的な絶対権力が支配し……【B-b】
(2)時間の中にゐる哲学者は思想を生産する……【C-b】

歴史の中に実現する観念(=絶対権力)>思想や概念(哲学)

といふ階層で、観念はこのやうに現実のものになるのであり、そして現実化するとは、「思
想や概念が、直接的で特殊な目的・目標と混同されることによつて、観念は現実のものにな
る」【A】といふことであることが解ります。

一体支配者はどこにゐることになるのか?

といふ問ひには上述の如く答へることができた。即ち、まとめますと、

観念といふ再帰的絶対権力>支配者たち(手段を現実的に運用して具体的な諸問題の解決を
図る者たち)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ30

といふ構図であれば、「支配者たちの用ふる手段に対して目的・目標を定めるのは、観念と
いふ再帰的絶対権力である」といふことになる。さて、

一体全体、唯一絶対神Godはどうなつたのだ?

【α】の(8)の「歴史が世界の内部で」上記(2)から(7)にあるやうに再帰的な自己
生産を繰り返すことに関し、「唯一絶対神Godが世界の内側で支配」してゐるのだ」とすれ
ば、
【α】の(1)国家は支配者に直接に結びつくものではない。
【α】の(2)観念こそが再帰的であるが故に、再帰的な即ち自分自身を再生産するが故に
絶対的な権力なのであり、

とある以上は、国家と支配者を間接的に結びつけるのは、絶対的な権力である観念であると
いふことになる。さうであれば、

目的>手段 >国家経営
観念>支配者>国家経営

となり、【α】の(4)によれば「歴史とは、自然な方法によつて自分自身を遂行する観念
であ」るのだから、上の階層表現は、

目的            >手段 >国家経営
歴史(=観念(=絶対権力))>支配者>国家経営

といふ階層の対応関係で、これらの用語は、あることになります。

かうしてあきらになつたことは、ヘーゲルは、

歴史(=観念(=絶対権力))>支配者>国家経営

といふ国家経営の最上位に定めた歴史といふものに、かうして中世スコラ哲学の「三基準同
時不定立」を適用して、この歴史といふ時間の中での計算である否定和の論理[ 5]だけ
を、正反合(These・Anti-These・Syn-These)といふ別の名前の看板を掛け替へて、これを
弁証法と称したといふことです。

これは本論にて諸処既述の通り、西洋論理学の持つ部分論理に過ぎません。即ちヘーゲルの
哲学は西洋論理学の全体を欠いてゐるといふことです。何故でせうか?それは、言語の持つ
固有の性格である再帰性を否定するといふ慾に謂はば目が眩んだからです。論理学の否定的
もぐら通信
もぐら通信                          ページ31

部分論理であるものを誇張して見せて、現実を(時間の中で際限なく三基準同時不定立とい
ふ中世スコラ哲学の唯一絶対神Godの存在証明をするための論理を)否定する論理として使
ひ、哲学者の分際を弁(わきま)へずに、実際に現実に其のまま適用させて有効だと考へ
た、否、考へたかつたのです。これが冒頭で「ヘーゲルの野心」と書いた理由です。

これがヘーゲルの野心、この原題を『歴史に関する哲学』即ち『歴史哲学』とはせずに、『歴
史の哲学』と本末転倒を意図的に行つたヘーゲルの、まさしく、野心なのです。

これらのことを超越論者のショーペンハウアーもニーチェも哲学者として知悉してゐた。そ
れ故に、前者はヘーゲルを詐欺師ヘーゲルと罵倒し、後者はヘーゲルの哲学が腐つてゐるの
はヘーゲルが神学者だからだとやはり罵倒した。二人の罵倒は図星であつた。

[ 6]
否定和とは、Aではない、Bではない、Cではないといふことを幾ら繰り返しても全体を欠いてゐて問題の解決は
できない論理です。即ち、自分の弁論の矛盾に全く気がつくことがない。下図ーAがBであつて、当人がBを肯定
してゐるにも拘らず、ーCによつてCを否定してゐれば、この二つの肯定と否定がBを巡つて矛盾するわけですが、
この矛盾が理解できない。日本の戦後の素晴らしい学校教育の成果である。昔の大人なら 馬鹿を言ふんぢやな
い! といふ一言で片付けられた子供の理屈です。この理屈を詳しく学びたいといふ読者は国会議事堂の質疑応
答をTVでご覧になるか、議事録をお読みになると良い。クルクルパー論理学または馬糞論理学の図を示します:

ここまでヘーゲルの文章を読み解くと、ヘーゲルの頭の中にあるtopologyはやはり一神教の、
即ちキリスト教のtopologyであり、これをヘーゲルの用語を使つて表せば次のやうになりま
す。しかし、この図は(もぐら通信第81号)で描いた次のキリスト教会の組織化のtopology
に何とよく似てゐることか。観念(または理念)といふ唯一絶対神が共産党といふ組織を介
して社会に接続してゐる。中央の赤い丸が観念(または理念)です。それならば、これをフ
ランス革命の理念だといつて教はつた観念である自由・平等・博愛に置き換へても同じだ。
この三語の観念もまた世界中の大勢の人間たちを、まづ最初に何よりもフランスの自国民を
虐殺し、その次には民主主義といふ共産主義的イデオロギー(一神教topology)の元に今日
に至るまで、有色人種を虐殺して来た。
もぐら通信
もぐら通信                          32
ページ

かうして二つの図を比較して見ますと、キリスト教では時間の中のLordをGodと呼び、時間
の外のGodをLordと呼んでゐるわけですから、この伝で行くと、時間の中の独裁者をレーニ
ンとかスターリンとか毛沢東とかと呼び、時間の外のGodとは死体に永久保存の処置を施し
たミイラだといふことになります。何しろ時間の外に置かうとすると人間をミイラにせざる
を得ない。しかし、生きてゐる時にミイラにされては幾らなんでもたまらないので、全国各
地に自分の銅像を建てさせるのでありませう。あれはみな唯物論者としての独裁者の姿です。
文字通りに物質になつてしまつた独裁者たちである。こんな偽物のGodは誰も拝まないでせ
う。

11.5 キリスト教を切り捨ててヘーゲルの論理からマルクス主義が生まれた
さて、一体全体、本物の唯一絶対神Godはどうなつたのだ?

キリスト教のGodと呼ばれる唯一絶対神は、本論考にて諸処既述の通り、言語の再帰性を絶
対的に否定するのでした。従ひ、ここにヘーゲルの論理は唯一絶対神Godとの関係では破綻
を来してゐるのです。

【α】の(8)の「歴史が世界の内部で上記(2)から(7)にあるやうに再帰的な自己生
産といふべき自己遂行を繰り返すことに関し、「唯一絶対神Godが世界の内側で支配」して
ゐるのだ、といふ一行の文は破綻を来たしてゐるのです。さうであれば、ユダヤ人であるマ
ルクスがキリスト教の唯一絶対神Godを、宗教は阿片だと言つて安易な隠喩(メタファ)を
使ひ、弊履の如くキリスト教を捨て去ることは易しい。

かうして、ヘーゲルの論理から唯一絶対神Godは、マルクスによつていともたやすく取り除
かれて、マルクス主義が生まれた。さうなれば、
もぐら通信
もぐら通信                          33
ページ

目的            >手段 >国家経営
歴史(=観念(=絶対権力))>支配者>国家経営

といふ階層があるのですから、人間の歴史とは、人間の観念が歴史であるといふことになつ
て、観念は再帰的に観念の再生産を時間の中で繰り返しますから(といふヘーゲルの理屈で
すから)、「絶対精神の自然」を理解する人間が歴史を創造し、その下に支配者たちを置い
て此れを絶対的に支配し、絶対的に支配された支配者たちが共産党の掲げるイデオロギーに
服従して国家経営を行ふといふ、これが共産党の一党独裁による共産主義国家の構造である
といふことになります。さうであれば、既に『安部公房とチョムスキー(10)』(もぐら
通信第92号)の「10.2 第二次世界大戦を三つの戦域に分ける」の「(2)「B_ヒットラーの
頭の中の国家と文化と全体主義の関係」」で得た結論、即ち次の共産党による絶対支配の階
層、即ち

Partei>society>state>nation>people
共産党>社会>国家(state)>国家(nation)>国民

これに、

歴史(=観念(または理念))>支配者 >国家経営
History > govern>state

といふ二つを重ねて並べればどうなるか。次の三色の階層に色分けされました。Stateを国家
1、nationを国家2と呼ぶことにします。

History>Partei>society>state>nation >people……【D英語】
歴史 >共産党>社会  >国家1>国家2>国民……【D和訳】

最下層にゐる紫色のpeople(国民)とはドイツ語ではdas Volk(ダス・フォルク)であり、
これを更に日本語に訳せば、このドイツ語の一語は、普通には次の最初にある三つの日本語
訳に対応して、これらを含んでゐます。

(1)国民(フォルクス・ワーゲンのフォルク。国民車の国民。State(国家1)視点からの
日本語訳)
(2)民族(歴史と伝統と文化視点からの日本語訳。対応する英語はnation(国家2)。)
(3)民衆(上記(2)の民族としてある国民を大衆としてみた場合の日本語訳)
(4)人民(上記(1)から(3)の歴史的差異の成り立ちを一切無視し、否定して頓着せ
ず、das Volk(ダス・フォルク)を十把一絡げで訳したマルクス主義の日本語訳。勿論人民
は、しかし実際には共産党が、マルクス主義の社会を水平横断的に展開して此の社会を世界
的に無理やり押し広げて共有するといふ論理である。)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 34

かうして、日本人は翻訳語に惑はされて右往左往して来た明治維新150年、戦後70年、
平成30年であつた。再度「ヒットラーの頭の中を図解する」図を示すので吟味されたい。

ダウンロードのURLは:https://www.scribd.com/document/391967267/b-ヒットラーの頭の中
の国家と文化と全体主義の関係

かうしてみると、(1)から(3)の紫色のpeopleとは、「ヒットラーの頭の中を図解する」図
で示したやうに、上記【D英語】【D和訳】の階層図のうちの、state>nation[国家1>国家
2]といふ青色で示したまとまりの(いづれも日本語訳では)国家と訳されるまとまりに帰属す
る人々、即ち国民・民族であり、その国を形成してゐる民衆であるといふことが判りませう。

これが、歴史問題だとか歴史認識だとかと捏造した歴史を言ひ立ててゐるのが、共産党であると
いふ物事の発生と成り立ちの順序が、ヘーゲルの御蔭で、よく解りました。何故共産主義が歴史
を捏造するかといふと、その国の過去の成り立ち、即ち歴史を否定して、はい、この国は西暦何
年何月何日に建国されましたと内外に宣言して、突然に何の脈絡もなく国なるものをつくるので、
必然的にさうなるのです。人間にたとへれば、先代先々代と自分の歴史のない人間が俄か成金に
なつて自分の家系図を捏造するのと同じです。実はヨーロッパでは、この時代が17世紀バロッ
ク時代なのです。ドイツのバロック小説『阿呆物語』を読むと冒頭に此の家系捏造の蔓延してゐ
る話が出てきます。

しかし、この共産主義による歴史の捏造は、既に近世にあつて、イスラム教国から古代ギリシャ、
古代ローマの文化と文明の遺産を教へてもらひながら、その御蔭で近代のヨーロッパ文明の今日
があるものを、それを一切ヨーロッパ内外に広めることなく、自国の文明の歴史の、それまでの
キリスト教の支配した中世を暗黒の中世と呼んで否定し、近代ヨーロッパの中産階級(マルクス
が共産党宣言で呼んだブルジョワ)が歴史と伝統の切断を図つて近代ヨーロッパがあると虚偽の
歴史を捏造したことに第一の原因のあることは既述の通りです。[ 7]

[ 7]
『メタSF作家A氏への5つの手紙』(もぐら通信第71号)の「1.1 共産主義は何を実現したか?」をお読みくだ
さい。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 35
11.6 マルクス主義の歴史・共産党・社会・国家・国民・個人の関係
そして、マルクスが中産階級を否定して、また近代ヨーロッパの中産階級と同じ過ちをマルクス
主義として繰り返した。

①History>Partei>society
②歴史 >共産党>社会

この図式はどう考へても民主主義国家の図式ではない。何故ならば、民主主義国家の図式は、

①State>people(国民)または、
②Nation>people(民族)、そして、
③自然>神話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)>社会>people(国民、民族、民衆)

といふ図式の上に/中に、国家(state、nation)はあるからです。そして、もしあなたが個人とし
ての自分もこの中に入れたらどうなるのだ?と問ふならば、あなたの個人としての、即ち組織的
な人間でない場合の個人的なあなたの位置は、マルクス主義の場合には、次のやうになります。
マルクス主義では、個人とは呼ばず、同志と呼んでゐる。即ち、個人は存在しない[ 8]。

History>Partei>society>state>nation >people>Comrade……【D英語ーa】
歴史 >共産党>社会  >国家1>国家2>国民 >同志……【D和訳ーa】

[ 8]
Webster Onlineによる個人(individual)の定義:

individual noun
Definition of individual (Entry 2 of 2)
1
a: a particular being or thing as distinguished from a class, species, or collection: such as[ある階層、様々な
種、または集め/集められたものとは卓越したものとして識別・区別された特殊・特別な存在または物]
(1): a single human being as contrasted with a social group or institution[社会的な集団(グループ)または機関
とは対照的である単一の人間]
a teacher who works with individuals[個々人と一緒に働く一人の教師]
(2): a single organism as distinguished from a group[一つの集団(グループ)から卓越したものとして識別・区
別された単一の有機体]
b: a particular person[特殊・特別な人]
are you the individual I spoke with on the telephone?[あなたが電話で私と話をした其の当人ですか?]
2: an indivisible entity[目に見えない実在]
3: the reference of a name or variable of the lowest logical type in a calculus[計算法で一番下の論理的な型
(タイプ)の名前または変数を参照すること]

マルクス主義ではなく、民主主義かまたは正確にいへば、有色人種の超越論、汎神論的存在論の
場合には、個人としてのあなたの位置は次の通り 個人(individual;personal の位置にゐるこ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ36
とになります:

③自然>神話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)>社会>people(国民、民族、民衆)>個人
(individual;personal)

さて民主主義の図式【D英語ーa】と【D和訳ーa】は下図の「A_政治と経済の内部から外部の自
然まで」の円の中央の政治の中に/上にある。あなたは、これに対して、下図の円盤図の中で黄色
の帯が右上から左下に斜めに横断してゐる通りの、さう、組織人でない場合には、個人と呼ばれ
る人間です。あなたといふ人間は(民族、言語、国家)を日々代表してゐる。これを職業とすれ
ば、あなたは政治家となり、民主主義の手続きによつて当選すれば、代議士と呼ばれる。
ダウンロードのURLは:https://www.scribd.com/document/392167695/政治と経済の内部から
外部の自然まて

これだけの複雑な組み合はせを、否定和だけで説明することはそもそも不可能であり、さうしよ
うと思ふことだに愚かである。現実はヘーゲルの能力を超えて遥かに複雑である。思想の論理と
現実的な目の前の細かな問題を混同すれば、混乱が起きるだけです。文化と政治の範疇は峻別す
べきです。そして、前者の範疇に属する藝術家が政治的発言をする時には、後者の範疇にあつて
は一庶民としての発言であることを自覚すべきです。しかし、people(国民、民族、民衆)は、
この二つの範疇を混同する。何故ならば、その藝術家が有名であれば、そのためにpeople(国民、
民族、民衆)は範疇を好んで無視してしまひ、有名人の言葉に扇情されて共感し、行動すること
になるからです。このやうなpeople(国民、民族、民衆)を大衆といふのです。これは結果とし
ての大衆ですが、これでお判りの通り、潜在的な大衆(これをエリアス・カネッティの用語mass
を借りて mass-potentials (群衆潜在者)と呼ぶことにします)は常に時間の中に、即ち歴史の
中の現在にゐる。文字通りに量としてある十把一絡げのマス(mass)です。このマス(量)とし
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 37

ての大衆または群衆潜在者の心理と行動の非常に鋭く深い分析は、エリアス・カネッティの著
した『Masse und Macht(マッセ・ウント・マハト)』(邦題『群衆と権力』)をご覧くだ
さい。カネッティの日本語訳は、法政大学出版で全集が出版されてゐます。カネッティは、箱
根隠棲時代の安部公房が、この作家がノーベル文学賞を受賞した1981年に名前を知つて
その後折に触れて言及し、称賛した作家です。

さて、かういふことが、そもそも誤訳も含めて、明治維新以来150年の近代日本の歴史には
たくさんあるのではないかと、かうして見ると、私は疑つてゐるのです。

この一連の論考で、ヘーゲルーマルクスの原因と結果の論理的な連鎖がよくわかりました。

マルクスの後のフランクフルト学派も、金融資本主義のglobalismの看板を掲げて金融商売を
してゐるウォール街やロンドン・シティのマルクス主義も推して知るべし。

11.7 マルクス主義と金融資本主義の関係
次に、金融資本主義といふマルクス主義の名前を、下の図式にあるやうに、共産党の位置に金
融資本主義といふ言葉を入れて置き替へて、さてどうなるかをみてみませう。

①History>Partei>society
②歴史 >共産党>社会

この図式を次のやうに変形する。

①History>Financial Capitalism>Society
②歴史 >金融資本主義    >社会

この、共産党の位置を金融資本主義に置き換へて、垂直支配構造によつて、民主主義国家の図
式である上記の円盤図「A_政治と経済の内部から外部の自然まで」と下記③の民主主義の階
層を破壊してきたのが、金融資本主義といふ、金を けるためなら手段をも選ばない、即ち各
国の支配者は皆一党独裁の共産党の位置に入れ替はつてゐる金融資本主義に絶対的に従はね
ばならない。と、さう考へる人たちの集まりが、なるほどかうしてヘーゲルの助けを借りて考
へて来るとよくわかりますが、ダヴォス会議です。誰がメンバーかは既報の通りですが[
9]、ドイツの首相のメルケルは其の一人です。その他の詳細なメンバーは次のURLへ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/世界経済フォーラム#参加者 そして、ヨーロッパではこれら
globalistたちの退潮が著しい。ネットワーク・トポロジー(network topology)が急激に変
化してゐるといふこと(change)、正確に云へば変形(transform)してゐるといふこと
(transformation)です。

これは経済の一神教topologyですが、今度は政治の民主主義の階層ではどうなるかといへば、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ38

同じ一神教topologyを抱へたまま、同じ円盤図「A_政治と経済の内部から外部の自然まで」
の上に/中に、そして民主主義は政治制度なので正確には(政治、経済)の政治にあるといふ
事になります。民主主義の問題は、この円盤の階層図と一神教topologyの 間(非連続量)と
歪み(連続量)に発生するといふことが判ります。何故なら、この円盤図の階層は、そもそも
汎神論的存在論の、即ちカント以来の哲学用語でいふ超越論の階層であるからです。もつとは
つきりと言へば、一神教topologyと円盤図「A_政治と経済の内部から外部の自然まで」の間
の対応関係をどうやつて考へて、どうしたら良いのか、これが近代の欧米人の未解決の問題、
彼奴ら南蛮人の、紅毛人の「近代の超克」の問題なのです。これは私たちの悩みではそもそ
も、ない。

③自然>神話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)>社会>people(国民、民族、民衆)>
個人(individual;personal)

これが私たちの世界です。

[ 9]
『言葉の眼12:スイスの世界最長トンネル開通式典の異様:大地母神崇拝の復活とキリ スト教の衰退』(もぐら通
信第74号)をご覧ください。詳述しました。

彼奴ら南蛮人、紅毛人の近代300年の超越論者の努力は、次のtopologyの図に示すやうな
努力でありました。この文脈では、唯一絶対神Godの位置、即ちコンピュータのネットワーク・
トポロジー(network topology)の場合には中央演算処理装置である電子計算機といふ絶対
支配者の位置に、金融資本主義を入れ替へたtopologyを掲げます。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ39

さらに、言語の観点から此の転換の姿を示せば次の通りです。言語の観点からとは、意義
(sense:センス)と意味(meaning:ミーニング)の観点からと云つても同じです。あるひ
は、内包(intensive:インテンシヴ)と外延(extensive:イクステンシヴ)と云つても。「歴
史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係」を『安部公房の北海道文学への批判』(も
ぐら通信第62号)より引用して再掲します:

「「特殊性の中にほうがんされない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存 在しない」とは、
内部と外部を交換し、その境界域の両義性に身を没して自己を生かす topologyの考へ方です。これは、単なる言
葉の意味と位相幾何学的な問題だけなのではなく、 歴史が其のやうに展開し、人間に働きかけるものだからです。
歴史の根本的な変化は、言語 (logos)の観点からみると、いつも次のやうに動きます。安部公房は当然このロゴス
の働 きを知つてゐたのです。宇宙は単純にできてゐる。小学生の安部公房の知つてゐた「奉天の 窓」です。Aを
あなただと思つて見ませう。すると、→は、次の次元へのあなたの失踪を意 味するといふことになります。Bを
あなただと思つてみませう、「あなたそつくり」の、し かし、異次元での、また別の人生がある。といふことに
なります。あなたは何処にゐるの か? 」
(『安部公房の札幌文学への批判』(もぐら通信第62号)より )

このtopologyの転換図の示すところは、部分から全体に成つたB、即ち国民経済は、もはやか
つての19世紀、20世紀の国民経済ではなく、次元の一つ上昇した国民経済であるといふ
ことです。何故なら、内部にglobalismである経済部分を含んでゐるからです。この全体と部
分の関係が一体どうなるのか、これを考へるのがこれからの21世紀の経済学の仕事になり
ます。その結果、経済学の前に何々経済学といふやうに新しい経済学の性格と目的を表す形容
詞または形容詞相当語句が付くことになります。しかし、明治時代の先人の翻訳した
economicsの日本語訳の由来が経世済民[ 10]であるといふ目的は変はらない。

[ 10]
経済の語源は「世を經(おさ)め、民を済(すく)う」の意。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ40

11.8 時代の「曲がり角」は急激に「カーブの向かふ」へと「転身」してゐる[ 11]
話を続けます。

上図の「歴史の動きと「あなたそつくり」とtopologyの関係」の左の円の中のAがglobalism
(マルクス主義)、Bが国民経済の考へ方。対して右は此の関係の包摂関係が入れ替はり、内
部と外部が等価交換されて、Bが全体、Aが部分となる。Globalismが国民経済の一部となる。
この転換点の→に余剰が、即ち富が生まれる。即ち、

Partei>society>state>nation>people>Comrade

といふマルクス主義の考へる硬直した階層にあつて、

Partei(パルタイ)といふマルクス主義の共産党が潰れ、従ひダヴォス会議などのglobalistの
社会(これを国際社会といふのであらう)も潰れ、state(国家1)と其の下位にあるnation
(国家2)といふ即ち国家が、息を吹き替へし、やつとまともな柔軟な垂直構造が復活する
と次のやうになるわけです:

State(国家1)>nation(国家2)>society(社会)>people(国民、民族、民衆)>
individual(またはpersonal:個人)……【SNSPI】

[ 11]
掲題の使用した「曲がり角」「カーブの向かふ」「転身」については初期安部公房論をお読み下さい。初期安部
公房論は『安部公房の初期に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)に詳述
しました。

この垂直分類を、それぞれの階層の英語の頭文字をとつて「SNSPI垂直分類」または単に
「SNSPI」と名付けることにして、次の章で論ずる問題の土台とします。即ち、この土台の上
に次の掲題を論ずることにします。

12. 言語の観点から第二次世界大戦後の日本を総括する
12.1 United Nationsを国際連合と訳した欺瞞
言語論理上の欺瞞と意図的な国家による誤訳、これが私たち日本人の道徳と文化の上では偽
善となつてあらはれた70年でした。

前者、即ち言語論理上の欺瞞と意図的な国家による誤訳は、国際関係にあつては(今なら
globalismにあつては)意図的な、日本国民に悪意ある誤訳となります。典型的な例は連合国
(United Nations)を国連と訳したものがそれです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ41

連合国と正しく訳すべきであつた。敗戦国が何故連合国の集まりに、大きなお金を拠出をし、
出席もし、その決議に従はなければならないのか、この苦痛の中で日本人はものを考へて、日
本人として、従ひ日本の国と日本人としての真理と真実を求めるべきであつたのに、これをせ
ず、苦しみから逃げ続けてきた70年であつた。そして、これが日本の経済成長であり、道徳
の劣化であつた。明治時代に渋沢栄一の説いた論語と算盤をそれぞれの手に持つて両手で考
へよといふ教へに背いて、算盤を弾いただけの、論語を忘れた70年であつた。

私の考へでは、人間の最高の能力が二つある。

(1)一つは、言語能力
(2)二つ目は、苦しむ能力

先の終戦後の70有余年は、そして特に濃厚に此の無道徳が顕著になつたのは、平成の30年
間であつた。

最上位の原因は日本国憲法の第9条第2項の誤訳(国家の階層の誤訳)、最下位の原因は日
常の自主検閲(といふ共産主義)によつて日本語を別の日本語にする誤訳である。後者にあ
つては、日本語を更に虚妄の日本語に誤訳してきたのが70年であると、さう言つても一向に
差し支へないと私は考へてゐる。

これが一つ目の欺瞞である。欺瞞は偽善を生む。

そこで、

【日本人の肺腑をえぐる二大作家の一行】
(1)三島由紀夫: All Japanese are perverse. (日本人はみんな倒錯してゐる)
[澁澤龍彦主催『血と薔薇』1968年11月1日創刊、1969年3月20日に最後の第
3号)]
(2)安部公房: 弱者への愛には、いつも殺意がこめられてゐる。
[『方舟さくら丸』1984年]

この二人の作家の言葉は、これから論じ考へることに役立つでありませう。何故なら前者は
エロス(eros)論、後者は殺人論だからです。折に触れて、論の如何を問はず然るべきところ
で引用して、私たちの指標としたい。

12.2 現行日本国憲法の欺瞞
もう何十年も前のある時、有斐閣刊行の模範六法を開く機会があつた。その最初のページを
開くと、まづ英語原文の日本国憲法(以下「原・日本国憲法」と呼びます)が載つてゐまし
た。そのあとに日本語訳の憲法が続き、その後に一般的な民法以下の法律が続くといふ体裁
をとつてゐた。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 42

実に愚かなることに、私は日本国憲法は日本語で書かれてゐると思つてをりましたから、驚き
ました。それは隠喩(メタファ)を使つて、今、衝撃と云つても良い。

この時の衝撃が、私をして此の一章を書かしめてゐるのです。

12.2.1 第9条第2項に関する翻訳の欺瞞
英文原文を示し、その後に日本語の翻訳憲法の同条同項の誤訳と拙訳を併記してお話しします。

英文原文:第二項を赤字としました。また国家1(state)と国家2(nation)の二つの国家
が使ひ分けられてゐることに注意。第2項は赤字で示します。

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the
Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat
or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as
well as other war potential[ 12], will never be maintained. The right of
belligerency of the state will not be recognized.

日本語訳:
(1)外務省の訳:日本国家の翻訳といつても良い。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争
と、 武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放
棄 する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、こ
れを認めない。


(2)第2項拙訳:
前項の目的を達するために、陸海空軍ならびにその他の潜在的な戦争遂行能力は、保持され
ない。(国際法に基づく一般的な意味での)国家の交戦権は認められない(または認められ
ることはない。)

[ 12]
PotentialをWebster Onlineで引くと次の通り:

potential noun[名詞]
Definition of potential (Entry 2 of 2)
1
a: something that can develop or become actual[現実的に発達しまたはさうなることの出来る何か]
a potential for violence[暴力を振るふ潜在能力]
b: PROMISE sense 2[約束]
2
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 43
a: any of various functions from which the intensity or the velocity at any point in a field may be readily
calculated[戦場での様々な機能であつて、これらの機能から戦場にあるどの地点にあつても強度または速度か
ら既にあらかじめ計算されるかも知れない其のやうな機能]
b: the work required to move a unit positive charge from a reference point (as at infinity) to a point in
question[(無限としての)参照点から問題とする点への単位化された積極的な(プラス)の負荷を取り除くた
めに要求されて行ふ仕事]
c: POTENTIAL DIFFERENCE[潜在的な相違]

(A)原文の欺瞞
国際法で認められてゐる一般的な国家の主権を否定するなどといふこんな非常識な一行は本来
は書くことができる一行ではない。それ故に、この一行を書くための筆をもつた人間は、こ
の文を受身(受動態)にして、陸海空の軍隊の保持を認めない当の主語(主体)を曖昧にした。
これは、広島の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」といふ原爆慰霊碑の一行
と同じである。この慰霊祭の碑文の二つめの文を英語に直したら、間違ひなく外務省は受け
身で訳することであらう。

この欺瞞の、軍隊の保持否定の一行の筆を持つて書いたアメリカ人は軍人ではないと私は信
ずる。さうでなければ、文官か民間人である。

(B)外務省(または日本国家)の翻訳の欺瞞
上の原文の欺瞞を外務省は、日本語に訳する段階で受け身の文を能動の文に訳した。これは
誤訳であるが、しかし正確に受け身で訳すと「あやまちは二度と繰り返しませぬから」とい
ふ広島の慰霊碑の文言と同じ問題が起きる。それ故に、国はthe state(一般的な国家)をthe
State(日本国)と誤読させるやうに悪意をもつて誤訳をしたと云ふことになる。

原・日本国憲法を精査したところ、定冠詞付きでSTATEのSが小文字のsであるのは此の条文
のみ。[ 13]

[註13]
日本国憲法をSTATE表記の視点から分類すると次の通り:

【結論】
日本国憲法第9条第2項は削除する。

【根拠】
この条項以外の全ての条文のSTATEの使ひ方に違背し、憲法全体との関係で、この第2項のみが矛盾するから。

【論証】
論証を確かなものにするために、私はアメリカ合衆国憲法と其の下位に位置する州の憲法のうちニューヨーク州
の憲法に目を通しましたが、前者は国家としてのStateであり、後者もまた訳語上は州ですが、州とはやはりState
でありました。なるほどアメリカといふ国は法律の視点から見ると二重法律国家だといふことがわかります。そ
れはそれとして、しかし、用字・用語法の視点で見て見ますと、定冠詞の有無と大文字小文字のStateまたはstate
の組み合はせに関し、原・日本国憲法で用ひられてゐるやうな用法は合衆国憲法にもニューヨーク州憲法にもあ
りませんでした。この用字・用語法は、アメリカまたはGHQによつて、英語で起草された原・日本国憲法のため
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ 44
ために用意された特殊な用字・用語法だといふ事になります。

1。日本国憲法のSTATEの表記の洗い出し
日本国憲法のSTATEの表記には次の4つの場合がある:

[(定冠詞、無冠詞)、STATEのS(大文字、小文字)]の組合せで以下の通り。数字は条数。( )の中は出
現回数。

(1)the State:定冠詞+S大文字(11回)
①1(1)
②17(1)
③20(2)
④25(1)
⑤37(1)
⑥40(1)
⑦41(1)
⑧85(1)
⑨88(1)
⑩90(1)

(2)State:無冠詞+S大文字(10回)
①7(1)
②63(1)
③66(2)
④68(2)
⑤74(1)
⑥75(1)
⑦99(1)
⑧103(1)

(3)the state:定冠詞+S小文字(1)
①9(1):第9条第2項
[②91(1):このthe stateは状態と云ふ意味のstate。]

(4)state:無冠詞+S小文字(7回)
①3(1)
②4(2)
③5(1)
④7(1)
⑤41(1)
⑥73(1)

2。分析と解釈
(1)the State:定冠詞+S大文字(10回)
Emperor, Imperial Household, Cabinet, Diet, A Boat of Auditなど天皇陛下とその最も親近な国の機能に関す
る場合には、the Stateと表記する。

(2)State:無冠詞+S大文字(11回)
Minster(s) of State(国務大臣)の場合のState
もぐら通信                         

もぐら通信 45
ページ
(3)the state:定冠詞+S小文字(1):第9条第2項
上記(1)と(2)および下記(4)に鑑みれば、the stateはこれ一回のみの表記であることから、これは一般
的な国家、そもそも国際的に共通に(または国際法で共有されてゐる)国家だと解釈する以外にはない。

(4)state:無冠詞+S小文字(7回)
この場合のstateは、普通名詞としてのstateである。定例的、定型的な繰り返される業務に関しては定冠詞がなく
なるといふ語学上の規則がある。例へば、北朝鮮からミサイルが飛んで来て、最初の警報の時には、ミサイルが
飛んで来たぞといふ此のミサイルにはtheが付きますが、これが何度も繰り返されるといつの間にか慣れてしまつ
て、さうなるとtheが取れて只のミサイルになつてしまふといふ私たちの心理を表してゐる。

①3、4、5、7:matters of state(Emperor:国事行為)
②41:the highest organ of state power(Dietの地位:国権の最高機関)
③73:conduct affairs of state(Cabinet:国家を総理する)

かうなれば、民も国家も欺瞞の民、欺瞞の国家、従ひ偽善の民、偽善の国家といふことです。
これで70年やつてきた。ソヴィエト連邦の共産党も70年で滅んだ、中国共産党も70年で
滅びつつある(といふか超越論で考へれば「既にして」(超越論的時間)滅んでゐる。ベスト
セラーの漫画の主人公の「決め科白」を借用すれば「お前は既に死んでゐる」)以上、この
誤訳偽装国家、従ひ偽善国家もまた、間違ひなく同様の運命をたどることであらう。やはり、
どのやうに考へても、平成の年号が新しい年号に変はる今年来年は大激動の、コモン君が失墜
したのと同じ「今度は本格的な地割れらしい」のである(全集第2巻、236ページ下段)。
あなたは《デンドロカカリヤ》になるのか?日本の国が《デンドロカカリヤ》に変形するの
か?このやうに世を眺めれば、何が起きても、来年の、春のこころは長閑(のど)けからま
し。

さてはて、以上のことから、国家を人體にたとへるならば(確かにソクラテスにならへば国家
は国體であるからして、そして体よりも骨と豊かな肉叢(ししむら)からなる體の方が字体とし
ては正字が相応しからう)、私は断言するが、即ち、

第9条第2項は盲腸である。

これが私の結論です。

私はこれを、第9条第2項盲腸説と命名する。

さうすると、厳粛なる国会議事堂の中で、こんな質疑応答が行はれる:

野党議員:第9条第2項の削除は絶対反対であります。削除の根拠を述べなさい。(いつもの
やうに粗暴で居丈高な口調で)
議長:内閣総理大臣。
総理大臣(実はあなた):あつ、その件ですね、国際法の法理に照らし、実は9条2項は我
が国の盲腸であることがわかりましたので、痛まない限りは切除する必要はありません。(野
党席から拍手万雷)
もぐら通信
もぐら通信                          ページ46

野党の議員:議長!(と威勢良く挙手する)
議長:何々君
野党議員:ただ今総理から、憲法第9条第2項は盲腸であるといふご回答を戴いたわけです
が、国防といふものは万が一を常に考へることですので、野党と致しましては、我が国防衛と
いふ観点から国民の生命・財産・安全を保障するために、それでは敢へてお聞き致しますが、
万が一盲腸が痛んだ場合にはどのやうに処置するお考へですか?
議長:内閣総理大臣
総理大臣:万が一痛みを覚えたら、あなたならどうなさいますか?
議長:何々君
野党議員:えー、私の盲腸が痛んだ時には、もちろん病院に行つて、外科的な摘出手術を受け
ました。
議長:内閣総理大臣
総理大臣:その通りですね、しかし、やはりこれは外科手術ですから、解りやすく申し上げ
ますと、国といふ體の中にゐる私たち日本人には外科手術は無理でございまして、自分で自分
の腹を切ることは難しい。あなた、自分で腹を切開してゐないので、今かうして生きてゐるの
ですよね。えー、そこで政府と致しましてもですね、八方手を尽くしまして、それでは日本国
外に我が国の盲腸を摘出する外科的技術を有する国はないかといへば、やはりアメリカ合衆
国か、隣国の中国共産党といふことになりますが、まあ、どちらの国も素性は共産主義です
から(この語尾は尻上りの口調で)、それに大陸の人間は乱暴で何事につけ大雑把ですから
(この語尾も尻上りの口調で)、手術を受けると相当な激痛が走り(ここは恐ろしげに誇張し
て)、出血甚だしく(苦痛に顔を歪ませて)、場合によつては死に至りますが(お前もさう
だといはむばかりの突き放した冷たい調子で)、あなたはどちらが良いとお考へですか?あつ、
EUは断つて来ましたので(ここは桂小三治の口調で)、これ以外の現実的な選択肢はありま
せん(ここは一国の総理大臣らしく重々しく)。
野党議員:ハアア……。(このハアアの声は、溜め息に似た、そして希望に満ちた絶望的な声
で。野党議員は安部公房の愛読者であることが望ましい。)

最初に盲腸の痛みを日本といふ国の體(三次元)、即ち国體が覚えたのは、1950年6月
25日の朝鮮戦争勃発の時でした。そのあと、第一次第二次の安保条約改正の時機に国體と
いふ體は盲腸の痛みを繰り返し、その度に外科手術をして摘出することはせず、その場凌ぎの
注射を打つて痛みを散らし、一時凌ぎの連続で生きて来たのが、この70有余年の日本の国体
です(こんな日本の国に體の正字はもつたいなくて使へぬわい、軽薄なる略字で結構結構)。

ところが、かうしてゐる間にいよいよ盲腸は腐臭を発し、その毒が国体の全身に り始めた。

これは自分の体に自分で外科手術を施すやうなものですから、日本の政治家はドクトルでなけ
ればならず、かくなる事態であれば、日本の今の政治家は外科医出身の政治家以外皆落第であ
る。ここは一つ、ドクトル・マンボウ[ 14]に墓穴(ボケツと読まないで欲しい)から
い出して戴き、御出馬願つて、パジャマを着たままでいいからお笑ひ国会議事堂の中でユーモ
アと笑いのメスを厳粛なる国会議員として振るつてもらふ以外にはなささうである。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ47

[ 14]
ドクトル・マンボウとは、北杜夫のユーモア れる一連の随筆で作家の使用した名前。『どくとるマンボウ航海
記』『どくとるマンボウ青春記』その他の作品がある。

上記お笑ひ国会議事堂での総理大臣の答弁のやうに、もし国際法の法理に、個別国家の憲法
に国際法に違反する文言があれば、それは無効であるとみなすか、または有効ではないとい
ふことになるといふ法理があるのであれば、憲法改正のための国民投票は無用となり、上記
のごとき国会の質疑応答となりませう。そんな法理があるものかどうか。あれば日本は盲腸
天国(appendix heaven)から脱出できる。日本を盲腸天国にしないために、国際法理の専
門家のご意見を伺ひたい。まあ、盲腸天国になると、脱税天国(tax heaven)の連想で、世
界中から「平和を愛する諸国民の」盲腸が日本に群がり集まつて来るやうな妄想に駆られる。
成る程、盲腸は妄腸であつたか。しかし、この妄腸の襲来には、第9条第2項は対抗不能
(Impotenz)である。この意味でも盲腸の摘出は必至である。

13. 安部公房の国體変形論
晩年まで人間個人との関係で人間の組織の最大のものとしての国家とは何かを考へ、また国家
の均衡(バランス)ある経営のために言語と哲学教育の必要性から教育「府」の設置を考へ
た安部公房の読者の一人として、『安部公房とチョムスキー(11)』(もぐら通信第92号)
の「「10.2 第二次世界大戦を三つの戦域に分ける」の章で国家の定義をし、意志の定義をし、
これら二つの定義の上に国家意志の定義[ 15]をしましたので、この章では、冒頭述べ
た衝撃的な驚きを衝撃のままに生かして、この三つの定義の上に、この衝撃の問題解決を考へ
たい。

[ 15]
(1)国家の定義:
国家とは、自然>神話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)の入籠構造をなす円環の中で、時間の中で生きる人
間のつくる最大の組織である。

(2)国家意志の定義:
国家意志とは、国家が有する意志である。

(3)意志の定義:
意志とは、その人間の生まれついた民族(民族の遺伝子と言ひ換へても良い)と個別言語の生み出す人間の、政
治・経済・文化に関する、かうしたいと云ふ思ひ、またはかうしてはならないと云ふ思ひである。

その前に安部公房の所説を読んでから先の戦後70有余年の今の日本国家が誤訳国家である
ことの本題に入りたい。安部公房はここで解決策を見事に提示してゐる。《ことば》とは、
《 》が安部公房の汎神論的存在論(超越論)の記号[ 16]を使用した存在の言葉であ
ることを念頭にお読みください。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ48

[ 16]
安部公房の存在論の記号の意味については『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)』
(もぐら通信第58号)より「IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期
の小説)」以下の章で詳述しましたので、これらの章をお読みください。《 》といふ記号は存在または現存在
を表す記号です。実際には本文にて後述してゐます。

『シャーマンは祖国を歌うー儀式・言語・国家、そしてDNA』の中で、安部公房は言語と哲
学教育のための教育「府」を提案して、次のやうに述べてゐる。まづ言語機能の二つの働き、
即ち「分化」機能と「集団化」機能について説明し、TVの「擬似集団形成能力」を例に挙げ
て、「単に料理済みの情報の過剰だとか、低俗番組の横行とかいうだけでなく、愁嘆場やス
ターを共有することによる「擬似集団」の氾濫によつて、「集団化」衝動にたいする免疫が出
来てしまうのではないかという懸念です。慢性化した「集団化」中毒患者は、国家儀式の肥大
化にも、ほとんど気をつかわなくなるでしょう。「分化」機能としての《ことば》は家畜小屋
に閉じ込められたっきり、肉や卵の生産にはげむだけで、 をむくことなどとうに忘れてしまっ
た様子です。」(略)「なんとか、此の《ことば》の片肺飛行に終止符を打たないかぎり、「技
術」を含む人間の自己投影の成果が正当な評価を受けられない可能性がある。」(略)「一
つ「国家信仰」を冷却させるための具体的な提案をしてみたい。現在の民主主義制度はいちお
う権力の楕円形型二極構造から、立法、司法、行政の三権分立をとるまでに進化しています。
この際それに「教育」のための独立した「府」を追加し、四権分立にしてみたらどうでしょう。
もちろん従来の意味での教育とは違います。DNAが《ことば》という鏡の前に立って自己発
見するまでの、系統発生の歴史を教育基本法にすえた、新しい教育体系でなければ意味があ
りません。もはやどんなシャーマンの御宣託にも左右されない、強靭な自己凝視のための科学
的言語教育です。存在や認識の「プログラム」を開くと《ことば》という を、ついシャーマ
ンの歌にまどわされて手放したりしないための教育です。人間とはまさに「開かれたプログラ
ム」それ自体にほかならないのですから。」(『シャーマンは祖国を歌うー儀式・言語・国
家、そしてDNA』全集第29巻、239ページ)

「慢性化した「集団化」中毒患者は、国家儀式の肥大化にも、ほとんど気をつかわなくなる
でしょう。「分化」機能としての《ことば》は家畜小屋に閉じ込められたっきり、肉や卵の生
産にはげむだけで、 をむくことなどとうに忘れてしまった様子です。」とある此の言葉は、
なんとまあ、今の日本の文学と出版業界の衰退の無様な姿を其のまま予言してゐることでせう。
それにまた適用範囲が広い事には、言論界(そんな世界があつたのか?)もまた然り。

最近の新潮4の5の事件での声明文[ 17]を読むと、新潮社もまた「肉や卵の生産には
げむだけで、 をむくことなどとうに忘れてしまった様子です。」「「肉や卵の生産にはげむ
だけ」といふのは、大量生産の豚小屋の豚や牛舎の牛や鶏小屋の鶏のことをいふのでせう。
そのうち、本物の豚や牛や鶏に が生えて来て、 をムキムキ新潮社の門前に合計100頭を
超える家畜達が集合して、LGBT!と叫ぶことであらう。これは勿論、Let s Go Bombing
Today!の意味である。家畜の方が知能が上等で、英語ができるのである。新潮社の社屋が豚
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 49

や牛や鶏に爆破されぬことを祈る。いよいよ、ジョージ・オーウェルの予言は『1984』に
於いてのみならず、『動物農場』(原題:『Animal Farm』)に於いても実現するといふ時代
になつた。これから時代をジョージ・オーウェルを引用して語るときには、『1984』のみ
ならず、『動物農場』も引用することにならう。そこで、あはれを覚ゆる吾(あ)が詠める歌
三首:

なんとまあ、哀れなるかな人間よ 牛馬豚に 縋(すが)る世の中
いと悲し 牛馬豚も人間を 家畜にしても 食べる部位なし
食べようと 頭蓋を開けてみたれども ただスカスカの秋風ぞ吹く

[ 17]
以下ネット媒体「literax」の「「新潮45」休刊声明の嘘! 杉田水脈擁護、LGBT差別は「編集部」でなく「取締
役」がGOを出していた」(https://lite-ra.com/2018/09/post-4277.html)より:

2018年「9月21日には、同社代表取締役社長・佐藤隆信氏が、公式サイトに「『新潮45』2018年10月号特
別企画について」と題した声明文を発表。

「弊社は出版に携わるものとして、言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性などを十分
に認識し、尊重してまいりました。
 しかし、今回の『新潮45』の特別企画『そんなにおかしいか「杉田水脈」論文』のある部分に関しては、それ
らに鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられました。
 差別やマイノリティの問題は文学でも大きなテーマです。文芸出版社である新潮社122年の歴史はそれらとと
もに育まれてきたといっても過言ではありません。
 弊社は今後とも、差別的な表現には十分に配慮する所存です。」

この安部公房の考へを図示すると次のやうになる。ダウンロードのURLは:https://
www.scribd.com/document/393247088/安部公房の国体観

(以下、このページは余白)
もぐら通信
もぐら通信                          50
ページ
もぐら通信
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上記の引用で安部公房の述べてゐるのは、この図でお解りの通り、並行四辺形に襷(タスキ)
掛けの汎神論的存在論、即ち超越論に基づく国體なのです。国体では国民体育大会みたいです
から、正字の體をここでも使ひます。これならカラダが骨と豊かな肉叢(ししむら)でできてゐ
るといふ事が一目明瞭ですし、ソクラテスが『国家 』で感嘆したやうに、国家を人体(これ
も人體)に譬(たと)へると何故かこのやうに国家の説明がし易いのですし、このやうな人
體である国體が存在の十字路に存在する、安部公房の存在論の記号を使つて表せば、存在の
《国家》であるのです。同じnetwork topologyの図形を私たちは十代の安部公房が既に脳裏
に描いてゐたことを知つてゐます。それが次の図です。

これが汎神論的存在論、即ち西洋哲学でいふ超越論のnetwork topologyであることは、ここ
まで考察を深めると、いふまでもありません。この18歳の安部公房の超越論のnetwork
topologyを、次のやうに民主主義の政治制度との比較をして、みてみませう。

(部屋、反照、窓)
(立法、司法、行政)

「DNAが《ことば》という鏡の前に立って自己発見するまでの、系統発生の歴史を教育基本
法にすえた、新しい教育体系」の基礎の上に、「教育」のための独立した「府」を追加する
と、

(部屋、反照、窓、自己証認)
(立法、司法、行政、「教育」のための独立した「府」)

といふ関係になるでせう。即ち、安部公房の構想したのは、国家が国家であるといふ此の再
帰的な、言語固有の再帰性に基づく自己証認と自己証明のための、即ち英語でよくいふ
もぐら通信
もぐら通信                          ページ52

idendity(アイデンティティ:自己同一性)といふ、個人ならば「私は私だ」といひ、この文
を言へることの根拠を言語再帰性に拠つて子供達に考へさせるといふ「教育」のための独立
した「府」が、この「教育」の「府」なのです。さうであれば、日本の国家たる人體としては、

国家は国家である

といふ文を生成することのできる「教育」の「府」であり、この場合国家には二つあるので
したから、

国家1(state)は国家1(state)である
国家2(nation)は国家2(nation)である

あるひは、state>nationといふ関係でありましたから、

国家1(stae)は国家2(nation)である

そして、この上下関係をtopologicalに言葉の意味の内部と外部を等価交換をしてひっくり返し
て、

国家2(nation)は国家1(state)である

といふことのできる国であれば、そこには言論の自由があることになりませう。

これら上記の国家を日本と置き換へることが、当然のことながらできますから、即ち、

日本(国家1:state)は日本(国家2:nation)である
日本(国家2:nation)は日本(国家1:state)である

更に、国家1と2を併せて単に国家の一文字で表して、次の再帰的な文が成り立つ:

日本(国家)は日本(国家)である
日本(Japan)は日本(Japan)である

更に、

日本(Japan)は日本(Deep Japan)である
日本(Deep Japan)は日本(Japan)である

あるひは、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ53

Japan(日本)はDeep Japan(日本)である
Deep Japan(日本)はJapan(日本)である

と、如何様にでも変形可能です。

この再帰的な文を日本人が自分で生成することができ、口で発声することができたら、それ
は個人の独立であり、国家の独立であるといふことに、言語の観点からみれば、なります。

何故なら、私は私である。

という此の再帰的な一文を生成することのできないのが、昨今の表(おもて)に登場して騒が
しいLGBTだからである。LGBTとは、密かに牛馬豚の愛用せるスローガン(標語)Let s Go
Bombing Today! を剽窃したのではないのか?

このやうに考へてくれば、この安部公房のnetwork topologyに拠る《国家》は、汎神論的存
在論ですから、四隅にある四つの府は等価交換可能であるといふことを考へれば、何故安部
公房が府と地の文にベタの表記にはせず、「府」と一重鉤括弧に入れて、しかも其の前に「独
立した」と形容したかといふ理由がよくわかります。もし等価交換されれば、立法府も司法府
も行政府も相互に独立した「府」として、日本の国家のみならず世界中の国家、即ち人間のつ
くる組織の最大のものが、それぞれに独自の《国家》となり、外国の力(power)や勢力
(force)に依存することなく、本居宣長流に云へば漢心(からごころ)に依存する事なく独
立した国家として自己の存在証明ができるからです。『カンガルー・ノート』論(もぐら通信
第66号)より安部公房の存在論の記号の意味は次の通りでした:

「3。『カンガルー・ノート』の記号論
最初に、次の5つの記号の意味をお伝へします。
(1)《 》:《存在》と《現存在》に関する『終りし道の標べに』以来の哲学用語を意味
する。
(2)『 』:存在の中の存在の詩人または其の物語の作者《縞魚飛魚》の書いた物語につ
いてのものであることを意味する。
(3)[ ]:存在の中の存在の中の存在であることを意味する。
(4)「 」:地の文にある立て札を意味する。
(5)( ):存在の中に存在することを意味する。

これらの記号の階層は、次のやうになります。

存在といふ視点から分類すれば、その階層は、階位の高い順に並べると、

(1)( )
(2)《 》
もぐら通信
もぐら通信                          ページ54

(3)『 』
(4)[ ]
(5)「 」」

さうして、これらの記号の(1)から(5)は、(5)は(1)であり(1)は(5)であり
ますから(メビウスの環)、《国家》は此の連続・非連続の中に/上にtopologicalに永遠に再
帰的に存在することになります。それ故に、「教育」のための独立した「府」と教育と府の文
字を「 」で括つたのです。即ち、

「教育」のための独立した「府」とは、存在への立て札であり、そこに働く代議士、裁判官
と検察官、行政官は皆、存在への案内人なのです。

果たして今の日本の教育機関に、この超越論を教へることのできる人材がゐるのかと問ふて見
ると、世の報道によれば絶望的ですが、しかし、安部公房曰く、絶望もまた希望の一形式で
ある、もはや、黒い笑ひを笑ふ以外にはない。私の本論の筆が、かくして辛辣になりゆく由縁
です。

この安部公房の国體観には後々も、繰り返し戻つて考へることになりませう。

さて、それでは原・日本国憲法を読み、国家視点から暗号のやうな現行日本国憲法を解読しよ
うといふ本題に戻ります。分類の視点は、徹頭徹尾言語です。この解読によつて、先の終戦戦
後70年を超えて日本国家そのものが翻訳国家であり、しかもヘーゲルの『歴史哲学』の場合
と同様に誤訳国家であつた。ヘーゲルの場合は民間の学者の誤訳ですが、しかし日本国憲法は
私たちの生命と財産と安全保障の守護に関はることですから、事は重大であり、致命的な、
これは問題です。今日本列島に生きてゐる私たちのみならず、これから生まれてくる子供達の
命にも関はるからには。それから何よりも、死者たちを大切にしなければならない。

[ 18]
国家、国家意志、意志の定義は、『安部公房とチョムスキー(11)』(もぐら通信第92号)の「10.1.1 人間
の行為の一次分類 」により次の通りです:

「国家の定義:
国家意志とは、自然>神話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)の入籠構造をなす円環の中で、時間の中で生きる人間の
つくる最大の組織である。

[補足説明] この順序は時間の中で一見成立が反対に見えるてゐて、国家が現実には組織上の最上位組織で あると


しても、成り立ちに着眼すれば、順序は逆であり、人間が国家を生み出すと云ふ順序に なる。即ち、

その人間の民族(民族の遺伝子と言ひ換へても良い)と個別言語の生み出すものが国家である。 安部公房が言語と
遺伝子の関係に着目して、普遍的な人間のモデル(模型)とクレオール語と 云ふ(民族と個別言語を異にする子供達
が出会つて生まれる)母国語に対するに二次的な普遍言語を論じたことには、このやうに深い意義があるのです。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 55

その人間とは、例へば、あなたである。上記定義の全体を視覚的に理解するために「政治と 経済の内部から外部
の自然まで」の円盤図を参照のこと。上の定義と此の円盤図を見て、人間であるあなたが民族・言語・国家を代
表してをり、また逆にこれら三つで人間ができてゐることの真理を認識されたい。このやうな人間が、自然> 神
話>歴史>伝統>文化>(政治、経済)の入籠構造をなす円環の中で/円盤の上で、時間の中を生きてゐる。 この図のダ
ウンロードは:https://www.scribd.com/document/392167695/政治と経済の内 部から外部の自然まて

(2)国家意志の定義:
国家意志とは、国家が有する意志である。

(3)意志の定義:
意志とは、その人間の生まれついた民族(民族の遺伝子と言ひ換へても良い)と個別言語の生み出す人間の、政治・
経済・文化に関する、かうしたいと云ふ思ひ、またはかうしてはならないと云ふ思ひである。

安部公房の汎神論的存在論(または超越論)の記号を、この文脈でまとめますと、次のやう
になります。読者に於かれては納得のことだと思ひますが、如何か。

地の文:存在論による記号化   
贋魚: 《魚》
贋の父親:《父親》
贋箱男:《箱男》
贋医者:《医者》

となると、どうしても、

贋国家:《国家》

といふ変形になるでせう。即ち、

贋といふ接頭辞(prefix)は「存在の」といふ意味だといふことです。

かうして、あなたは幾つでも存在を生み出すことができます。何故ならば地の文の普通名詞に
此の接頭辞「贋」を冠して名前を呼べば、あなたはいつでも楽々と「存在の」普通名詞を創造
することができるからです。これが18歳の安部公房が『問題下降に依る肯定の批判』で「こ
れこそ雲間より洩れ来る一条の光なのである。」と書いた文字通りの光なのです(全集第1
巻、12ページ上段)。かうして、あなたは「しかし此処に新しい問題下降――一体座標なく
して判断は有り得ないものだろうか。」(原文傍線は傍点:同巻、12ページ上段)といふ問
ひに肯定の答へを批判的に返すことができ、座標のない世界を生きることができるといふわ
けです。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ56
この大地母神崇拝の論理、即ち汎神論的存在論を、明治以来日本の学校教育は上から下まで
否定することをして来たわけですから、私たち安部公房の読者はこんな碌でもない、贋ですら
ない(以下更に話を続けて述べるやうな誤訳偽装の)国家に頼ることはできません。従ひ、
あなたは自分の身を自分で守る以外にはないのです。そのために安部公房の存在論の記号をお
使ひ下さい。黙つてゐても、さうすれば、あなたは《日本》、即ち《Japan》、即ち《Deep
Japan》の住民になる。そこは全く自由の天地(文字通りに高天原の天地(あめつち)といふ
差異である)、即ち並行四辺形のtopologyの汎神論的な世界であり、あなたは自分自身も含
め日々物・事・人を変形させて生きることができる。こんな碌でもない誤訳偽装国家を意に
介することなく(本当は恥じることなくと言ひたい)、道を歩いてゐて不図見つけた路傍にあ
る小さな御社や御地蔵様や目に青葉と目についた美しさに手を合はせることと何の矛盾もな
い自分自身に正直な生活を送ることができます。

14. 私たちは何をなすべきか
さて、ここまで書いてきて私のおもふことは、このやうに日本の国家は此の70有余年誤訳国
家であり、自国語によつて書かれた本物の憲法を戴くと錯誤し、また従ひ其の誤訳をすら疑
ふことなく偽の日本語を信じて生きてきた国民と、さう国民を信じせしめて恬(てん)として
恥じない政府と国家議員と役人からなる誤訳偽装国家であつたといふことです。さうであれば、
安部公房の読者として何をなすべきかはいふまでもなく、この偽装国家を本物の贋国家に変形
させて存在の国家となし、シャーマン安部公房の云ふ祖国といふ言葉の意味が歴史といふ時
間の中の日本ではなかつたやうに、この惨たる日本国憲法を(リルケが詩の中で存在をさう
したやうに)存在論的に褒め称へ荘厳して、存在の憲法、即ち《日本国憲法》といふ贋憲法に
変形することでありませう。

さう、安部公房の四権分立国體構想によつて日本の国家丸ごと贋国家、即ち《国家》に変形
させてしまひませう。さうなれば、存在としての《国家》と現存在としての《国家》が存在す
ることになります。これは、かうなるといよいよ、Deep Japanです。この二つの国家は
topologicalに等価交換が可能なのでした。さうして、この等価交換の出来ぬものは受け容れず、
出来るものは受け容れることが出来る。これが、縄文時代以来の私たち日本人といふtopology
民族の流儀でした。縄文時代といふよりも、1万5千年の時間の長さですから、千年紀など
といふ言葉があるわけですから、縄文紀元と呼ぶ方が正しいと、私は思ひます。私たちの超越
論、即ち汎神論的存在論の世界です。これを島嶼哲学と呼び、また秋津島哲学と呼んでもまた
一向に差し支へはない。

縄文紀元といふ言葉の分類を以下に掲げます。これは、初期安部公房論[ 19]を論じた時
に行つた「時代>期間>時期>区分」といふ安部公房の創作活動の時間的分類の上に、紀元
>世紀を加へたものです。これを英語にした場合に、この順序にして英語の概念同士で異同が
ないかどうかの吟味は後日としたい。文化とは言葉を正しく使ふことであるといふのが上述
の私の文化の定義ですが、かうしたやうに先の戦争中までは日本人は言葉を正しく使つてゐた
のです。例へば、紀元節[ 20]といつたやうに。文化とは言葉を正しく使ふといふことで
す。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ57
紀元2が千年紀といふ千年単位の紀元でありますから、紀元1の時間の単位は、1万年単位
から五万年単位から10万年単位でも100万年単位でもよろしいと思ひます。紀元1は孫
悟空の如意棒と同じで伸縮自在の概念です。紀元の紀と元の語源と概念を『字統』(白川静
著)に尋ねてみて下さい。納得が行くはずです。ここでは省略して先を急ぎます。

この紀元・時間分類を下記の高天原topologyの基本モデルと比較をして日本の紀元を考へて
みることが大事です。その紀元の節目、即ち紀元節は、今思ふままに挙げてみますと、日本
の歴史は超越論ですから、私たちの歴史には初めも終はりもありませんが、敢へて此れまで
の考察の順序に従つて紀元節を時系列に挙げて観ると大体次のやうなものがあるのではない
でせうか。

天地開闢の紀元節、国生み神話の紀元節、岩石文明習合の紀元節、瓊瓊杵尊(ににぎのみこ
と)の天孫降臨の紀元節、初代神武天皇即位の紀元節、陰陽五行習合の紀元節、神仏習合の
紀元節、西洋近代哲学の超越論習合の紀元節(と云つても既に高天原topologyに1万500
0年前からの縄文紀元に「既にして」(超越論的に)習合済みなわけですが)あるひは従ひ
此れを哲学習合の紀元節と呼んでも良い、そしてこれから先未来に、何百年何千年何万年先
に至るまで、やつて来る習合問題のための解決方法(method)も方法論(methodology)
も、この『安部公房とチョムスキー』の連載に是 明らかにした通りに、皆同じです。その
方法論(Methodologie:methodology)と方法(Methode:method)であるtopologyを古
事記の冒頭の天地初発・国生み神話に戻つて再度図示すれば以下の通り:

このtopologicalな超越論的な(汎神論的存在論に依る)等価交換に拠つて、上記紀元節の節々
は時間を捨象して等価交換が可能です。かくして、やはり、天地初発以来、日本の歴史には初
めもなく終はりもない。無時間の空間にDeep Japanが存在してゐる。即ち、私たちの世界に
は、ヨーロッパ・キリスト教のいふやうな、あるひは其の同類の、大陸の、一次元の直線時間
的な歴史は、そもそも存在しない。私たちの時間は再帰的に繰り返す。伊勢神宮の遷宮のやう
に。紀元の紀と元という文字の示すそれぞれの概念と其の組み合はせを玩味なさつて下さい。。

[ 19]
初期安部公房論は『安部公房の初期に頻出する「転身」といふ語について』(もぐら通信第56号から第59号)
に詳述しました。

[ 20]
紀元節(きげんせつ)は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。
日付は2月11日。1873年(明治6年)に定められ、1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止された。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ58
かつての祝祭日の中の四大節の一つ。^ 四大節は、旧制度の4つの祭日で、紀元節(2月11日)、四方節(1月1
日)、天長節、明治節を指す。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/紀元節

15. 誤訳時代の平成30年間を総括する(30年)
言葉の上での欺瞞が、文化の領域では道徳上の偽善となることは、時間の長さが70年であら
うが30年であらうが、変はらない。

【欺瞞の例1】日本語を更に虚妄の日本語に翻訳する欺瞞
さて、上記の「最下位の原因は日常の自主検閲(といふ共産主義)といふ日本語を更に日本語
にするといふ誤訳、即ち正しい日本語を頽落した日本語に更に翻訳する誤訳である。「後者に
あつては、日本語を更に虚妄の日本語に誤訳してきたのが70年である」という例を一つ挙げ
ることにしよう。私の文化の定義は言葉を正しく使ふといふ事でした。即ち、言葉を不正に使
ひ、即ち日本語を更に誤訳を重ねて虚妄の日本語の日本語訳をして、私たちの国家1(state)
と国家2(nation)と国民(people=民族・民衆)の道徳の頽廃を示す好例が、次の例です:

「國鐵よ言葉を浪費するな   昭和四十四年六月一日

 國鐵の値上げ法案が國會を通つて値上げが實施されるとともに幾つかの關係事項が改められ
たが、その中で車輛の呼び名を次の様に改めてゐる。

二等坐席車→普通車
一等坐席車→グリーン車
二等寢臺車→B寢臺車
一等寢臺車→A寢臺車
二等船室→普通船室
一等船室→グリーン船室

 これを觀ると一等、二等の車名がなくなり、一等はグリーン又はA、二等は普通又はBとなつ
てゐる。車輛や船室の等級がなくなつたのなら兔も角、等級が儼然としてある以上、從來の呼
稱をそのまま使用してなんら差し支へないものを、事新しく、普通だグリーンだ、AだBだとは
一體どういふわけであらふ。國鐵の運賃料金改正の要旨説明用ちらしに「一等の坐席車、寢臺
車などの名稱を改めましたが、聯結する列車はいままでとかはりません」とある。一等の名稱
のかはりに、新しいグリーンとAの標示をするのに一體どれ程、手間と費用がかかるのであら
ふか。國鐵は一等、二等の言葉を無駄にすることによつて、莫大な、手間と費用を亂費した。
この皺寄せは必ず國鐵利用者にくる。値上げした上に一等、二等の二つの言葉を普通、B、グ
リーン、Aの四つにして繁雜化し、つまらぬ頭腦的負擔を乘客にかけ、あまつさへ事後處理に
よる亂費の皺寄せを加重させるとは言語道斷の至りである。國鐵はもつと言葉を大事にせよ。
言葉の尊重が國鐵合理化の一大要因であることを銘記せよ。言葉の浪費は精神と肉體の浪費に
直接つながることだ。」
(近藤裕康著『國語國字今昔爭論』
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ59
当時のことを私は子ども心に覚えてゐますが、これは酷いことになつたと思ひました。お酒も
大人たちは一級二級と言つてゐた。金があれば一級酒を買ひ、なければ二級酒を買ふ。一等の
切符の買へる人は買つたら良いし、買へない人は二等の切符を買つたら良い。この差異を意図
的に混同して混乱を起こした、これは共産主義化の一例です。一級酒二級酒は酒の質の問題で
す。車室の一等二等も車室の質の問題です。これを「普通だグリーンだ、AだBだ」と十把一絡
げの量の問題と混同させたといふことです。これでは日本人は日本語に隠れてある優れた分類
といふ言語能力を劣化させるだけである。吟醸とか純米吟醸とか大吟醸などといふ酒にはない
(これはこれで日本人らしい洗練の仕方で否定はしませんが、しかし)、安酒には安酒の旨さ
があるのです。これは個人の生活の質(quality)と趣味(taste)の問題です。兼好法師曰く、
月は隅(くま)なきものを観るものかは。

もしあなたが、ご自分の文字を正字正仮名に変換したければ、次の無料のサービスが使ひ勝手
がよくてお薦めです。上の引用の変換には此れを使ひました:「正(旧)仮名遣ひ 現代(新)
仮名遣い」相互変換∼まるやま君」:http://hp.vector.co.jp/authors/VA022533/tate/
komono/Maruyaruma.html#pos

【解決策】
この共産主義勢力に対抗する解決策は、それは可笑しい、私はかう思ふといふこと、私は私だ
と発言する事、これが解決策です。この私の言葉、しかし私語ではない、即ち徒党を組まずに、
公共に向かつて発する私の言葉が世の中に変革を促す。即ち、今の日本人に欠けてゐるのは道
徳の徳目のうち、勇気といふ徳です。それも大勇ではなく、箱男の小さな勇気で良い。但し、
「弱者への愛には、いつも殺意がこめられてゐる――」、このことを忘れてはなりません。

小林秀雄は、18世紀後半に江戸時代といふ時代を伊勢松坂に生きた本居宣長といふ箱男、文
字通りに昼間の生業である医者の稼業が終はると早々と梯子(はしご)を引き上げて家人との
接触を断ち中二階に籠つて、屋根裏部屋といふ閉鎖空間で郵便切手を製作してゐた『箱男』の
ショパンみたいに、『古事記伝』『紫文要領』『玉勝間』『てにをは紐鏡』『詞の玉の緒(こ
とばのたまのを)』その他の珠玉の作品を著した享保年間の箱男について次のやうに語つてゐ
ます:
「或る時、宣長といふ獨自な生まれつきが、自分はかう思ふ、と先づ發言したために、周圍の
人々がこれに說得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開
いたのである。」(小林秀雄著『本居宣長』単行本、20ページ)

別途「安部公房の縄文紀元論」の一環として、安部公房による「日本語クレオール語論」即ち
「日本語topology言語論」(だから天地初発・国生み神話のtopology即ちDeep Japanが存在
するといふこと)を論ずるときに、この享保年間の偉大なる箱男の力を借りることになります。

【欺瞞の例2】トランプ大統領の晩 会での正しい言葉の使ひ方
2017年トランプ大統領が来日して、安倍首相による晩 会が開かれたときの、大統領のス
ピーチの(最初私はWashinton D.C.の広報部門のYouTubeの動画見たもの)で、この晩 会
の当日天皇陛下と皇后陛下にお会ひしたことに言及し、お二人のことを Imperial Majesties
と(右のYouTubeの23分のところで)呼んでゐる:https://youtu.be/wrNar3xlg8c
もぐら通信
もぐら通信                          ページ60

さうであれば、日本の国の英語の正式名称はJapanではなく、Imperial Japanなのであり、日
本語による正式名称は、日本帝国である。(アメリカ人の大統領に正しい日本語を教はつてど
うするのだ?)

このやうな言葉の論理的な接続と変形の関係を知ること、そしてそれを発声し、文字で書くこ
とが言葉を正しく使ふといふことなのです。義務教育で此れを教へなければ、それは教育とは
いへない。

あなたは、実用に耐え得る日本語の文法を学校へ行けといはれて其処で教はつたことがありま
すか?私は教はらなかつた。それで、半分は仕方がないので、独学で習ひ覚えたドイツ語文法
で世の中の出来事を理解し、解釈し、人知れず自分自身に長年説明してきました。まあ、言つ
てみれば、安部公房全集全30巻も、ドイツ語の文法で読んでゐると言つても当たらずといへ
ども遠からず、といふことなのです。一体日本語文法を日本人が知らずに、日本で起きてゐる
社会的な国内の事象は勿論、海外で起きてゐる事象もまた、どうやつて理解し、また何よりも
起きてゐることを文章に書いて自分自身に整理して、人に伝へることができるのでせうか。

マルクスがヘーゲルの論理のうちからキリスト教を弊履の如く捨て去つたやうに、かくして、
私たちも現行日本国憲法を弊履の如く捨て去ることが得策と存ずる。日本帝国に一時ご滞在中
のマルクス主義者の諸君、マルクスを見習つて偽日本国憲法を捨てて革命へと脱皮しては如何
か(ヘーゲルの「弁証法」の論理によれば革命は永久に繰り返される)。何故なら日本国憲法
を日本人自身が筆を持つて日本語で起草することの良いことは、日本人が日本語の文法を憶ひ
出さねば一行たりとも憲法の文章を書くことができないからです。さうであれば、文法のみな
らず、用字・用語法も正しくしなければならなくなる。この70年は全てが与へられてゐて、
その中でだけ 褄合わせをしてきた偽の70年だといふ事です。これでは、新しいものを創造
することはできません。実際何の成果もない殊に30年だつたのではありませんか?自分の人
生を振り返つてみては如何か。これを江藤淳といふ優れた批評家は実証主義的に米国に公開の
英語の一次資料を読み込み証明をなして「閉ざされた言語空間」と名前を付けました。与へら
れて其処にあるものは自分自身も含めて全て疑へ。安部公房の読者であるならば、閉鎖空間の
外部へと喜んで失踪しませう。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 61

【欺瞞の例3】日米通商に関する日米共同声明の誤訳の欺瞞
今回2017年9月26日付け日米通商に関する日米共同声明の誤訳

3 Japan and the United States will enter into negotiations,following the completion
of neccesary domestic procedures for a Japan-UnitedStates Trade Agreement on goods,
as well as on other key areas including services,that can produce early achievements.

【外務省の訳】:間違つた訳
3 日米両国は,所要の国内調整を経た後に,日米物品貿易協定 (TAG) について,また,他の重
要な分野(サービスを含む)で早期に結果を生じ得るものについても,交渉を開始する。

【農業協同組合新聞の訳】:正しい訳
日本と米国は、必要な国内の手続きを完了させた後に、早期に実績をあげることが できる、
物品、並びにサービスを含む他の重要な分野に関する日米貿易協定の交渉を開始する。

【問題】
(1)原文にはTAGなどといふ略称はない。
(2)外務省の訳では、TAGといふ略称される協定にのみ物品が対象として含まれてゐること
になるが、しかし、原文では農業協同組合新聞の訳に正しくあるやうに、物品以外の「サービ
スを含む他の重要な分野」もまた此の協定の対象に等分の重みでなつてゐる。外交交渉の予定
か見込みか期待と、原文の文章(テキスト)を読むことと、前者を優先させて恣意的な訳をつ
けたと思はれる。原文は原文である。従ひ、原文訳は原文訳である。個人であれ組織であれ、
訳は公明正大でなければならない。期待や思ひ込みを入れた恣意的な訳は禁物である。

問:何故農協の新聞の訳が正しく、外務省が意図的な捏造翻訳をするのか?
答:農協の人たちは、生活がかかつてゐるからである。外務省の役人は(すべてとはいはぬが)
生活(life:ライフ)を懸けて仕事をしてゐないからである。本当は、命(life)を懸けて、と
いひたい。

【欺瞞の例4】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞1
【欺瞞の例2】の例と同じ例を過去に、これは平成30年の欺瞞の例ではなく先の戦争終結後
70年の欺瞞の例でありますが、外務省の誤訳、即ち翻訳に徹するのではなく、自分の恣意的
な期待と願望を入れ込んで意図的な誤訳をしたといふことから、この例を此処で挙げたい。

私は何十年も前に向坂逸郎訳の『資本論』(原題『Das Kapital』)の最初のところを見て、
恣意的な誤訳があるので以来マルクス主義者のドイツ語の和訳は全く信用しなくなりました。
その、外務省の役人と同じ類の恣意的な訳は次の通りです。翻訳といふ視点で見たら、国家を
代表して官僚の誤訳を鵜呑みにするお笑ひ国会議事堂の中の政治家も、そして東京大学で教
を執る『資本論』信奉者の、笑ひの無い鹿爪(しかつめ)らしい顔をしたマルクス主義者の学
者も、どちらも同じ穴の貉(むじな)である。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ62

後者の恣意的な、即ち論理性を欠いた訳語が「大いさ」といふ訳語です。どんな経済学であら
うとも経済の核心にある筈の貨幣といふ概念を巡り(貨幣論を欠いた経済学は経済学ではな
い)、商品との関係で論ぜられてゐる、価値とは何かといふ問ひに対する答へを叙述する『資
本論』の最も大事な「第一 商品と貨幣」「 第一章 商品」の最初第一節の題名から、訳が恣
意的である。要するに誤訳です。題名を本文とともに示します。赤字の文が当該箇所です。

マルクスはこの冒頭で題字にあるやうに、物の有用性といふ視点から商品と価値と使用価値、
それから本文に入るとわかりますが、交換価値と云はれる卑属に云へば相場での商品の価値に
ついて論じてゐます。そして、マルクスのいふ「われわれがこれから考察しようとしている社
会形態においては、使用価値は同時に――交換価値の素材的な担い手をなしている。」(傍線
引用者)と云ふのです。この交換価値の社会形態が共産主義社会です。これがマルクスの唯物
論の始まりです。マルクス個人一人がさう考へる分には問題はないが、「われわれ」が互ひに
「同志」と呼び合つて妄信的にこれらの語彙を徒党を組んで使ひ始めると、21世紀にまた2
0世紀が繰り返される。次の訳は何が書いてあるのか不明でせうが、辛抱して一度通して読ん
で下さい。

【向坂訳】
『資本論』「第一 商品と貨幣」「 第一章 商品」「 第一節 商品の二要素 使用価値と価値(価
値実態、価値の大いさ)

 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現れ、個々の
商品はこの富の成素形態として現れる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始
まる。
(略)
 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう。その交換関係がどうであれ、此
の関係はつねに一つの方程式に表す事ができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量
の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。この方程式
は何を物語るか?二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェン
トネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両
(ふた)つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、
前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値であるかぎり、こうして、こ
の第三のものに整約しうるのでなければならない。
 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それ
を比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と
全くちがった表現――その底辺と高さとの積の二分の一――に整約される。これと同様に、商
品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの
共通なあるものの大小が示される。
 この共通なものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的またはその他の自然的属性であるこ
とはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがっ
て使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の
もぐら通信
もぐら通信                          63
ページ

交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この
交換関係の内部においては、一つの使用価値は、他の各使用価値と、それが適当の割合にあり
さえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、
「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同じだけのもので
ある。この場合同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違または差別がな
い。」
(同書45∼49ページ)

これ以外にも「大いさ」は、「財貨の価値の大いさはどうして測定されるか?」とか(同書5
0ページ)、「そんなわけで、ある使用価値の価値の大いさを規定するのは、ひとえに、社会
的に必要な労働の定量、またはこの使用価値の製造にお社会的に必要な労働時間にほかならな
いのである。」(同書51ページ)とか、続けて「同一の大いさの労働量を含む商品、または
同一労働時間に製作されうる商品は、したがって、同一の価値の大いさをもっている。」
「(同書51ページ)とか、その後も此の「大いさ」は頻出する。

結論を言へば、この訳者は名詞である価値といふ言葉に関するところで、価値の「大きさ」と
訳するべきところを「大いさ」と訳してゐるのです。こんな日本語はない。従ひ、他の同類の
表現、即ち「必要な労働時間は大きく、それだけその価値は大きい。」(同書53ページ)な
どといふ形容詞としての大きさとの関係が不明になる。他方、反意語である小さいとか小さく
なるといふ言葉との関係も不明になる。実はドイツ語の原語を見れば、大きさも小ささも die
Größe (グレーセ)であり、小さいものの大きさもあれば、大きいものの小ささもあるとい
ふ使ひ方のできる 大きさ であるのです。英語でいふならサイズ(size)です。あなたの服の
サイズ、靴のサイズ、腹 りのサイズ(どれ位デブであるか)、心の大きさ(どれ位あなたの
心は広々としてゐるか)といふやうなサイズ(大きさ)の大きさです。これは全て時間の中で
は相対的な価値の問題であり、相場の問題であり、即ち現実の時間の中で動態的に動いて止ま
ない、それこそ自由な(制限の全くない)言葉の意味の問題だから、このやうにいふことがで
きるわけです。

私が当時訳文と原文を比較対照しながら得た直観によれば、この訳者はマルクスを余りに盲目
的に信奉し崇拝する余りに、此の価値論の「価値の大きさ」といふ平凡な日常的な言葉に、ド
イツ語の原語が die Größe (グレーセ)であるので「大いさ」などといふ造語を新たにつく
つたのであらうと直覚しました。何故なら die Größe (グレーセ)とはドイツ語で同時に「偉
大さ」といふ意味でもあるからです。ナポレオンのサイズ、ヒットラーのサイズとは言へない
が、ナポレオンの偉大さ、ヒットラーの偉大さといふドイツ語は言へるのです。しかし、ナポ
レオンの大いさ、ヒットラーの大いさは意味不明である。

これで果たして、フーテンの寅さんが 飾柴又に放浪の旅から久し振りで帰つて来て、隣の町
工場に顔を出して、「よお!労働者の諸君、元気でやつてゐるかあ?」などと呼ばれる労働者
諸君に『資本論』の「大いさ」が理解されるものかどうか。
もぐら通信                         
もぐら通信 ページ64
ドイツ語の【原文】は省略します。勿論、これは武士の情けである。私も翻訳者の端くれとし
て、翻訳に誤訳は付きものだといふ事は、私自身の訳を含めてあることをよく知つてゐます。
しかし誤訳にも筋のいい誤訳と筋の悪い誤訳があるのです。この訳者の訳は後者です。このた
めに一体何十万人、何百万人、何千万人の「労働者の諸君!」が自分の人生をドブに捨てたの
だらうか?フーテンの寅さんのやうに生きるべきではなかつたのか、「労働者の諸君!」。こ
の、先の終戦後70年の教訓は、庶民がインテリと自然に命名して 称する輩(やから)のい
ふ事は鵜呑みにするな、信用するなといふことです。『資本論』の此の例でもお判りの通り、
西谷啓治さんのおつしやつてゐる通りに「第一に言葉が非常にむづかしい。 時には専門の者
の間でも分からないやうな言葉を使つてゐる、これは非常によくない ことだ 」からです。

私たちは一庶民として、もういい加減に眼を覚ますべきときではないのか?

この【欺瞞の例4】の最後に安部公房の読者のためにお伝へすれば、上記幾何学的な三角形の
図形に言及してゐる引用の箇所から解るやうに、マルクスの思考の範囲はユークリッド幾何学
の中に留まってをり、超越論の系譜の哲学者たちのやうな非ユークリッド幾何学(topologyは
その一つ)の思考論理の世界ではないことがお判りでせう。これがマルクスの限界です。従
ひ、ここでもマルクス主義者や其の情緒的な共感者には安部公房は理解できないのです。従
ひ、安部公房の壁はいつまでもこれらの人たちには「嘆きの壁」になる。S・カルマ氏は 俺は
成長しない「嘆きの壁」ではない と言つてゐる。S・カルマ氏は「静かに果てしなく成長して
ゆく壁なのです。」(全集第2巻、451ページ下段)この事情は、広義のマルクス主義者、
即ちフランクフルト学派やglobalismの信奉者である広義の共産主義者にあつても同然です。
彼らの思考論理は、表立つた語彙が違ふだけで、さうして自らの看板を掛け替へただけで、思
考論理はキリスト教中世のスコラ哲学のままに旧態依然のまま、古代ギリシャのユークリッド
幾何学のままなのです。歴史を否定したものに歴史的な進歩はない。歴史を否定したものは歴
史に復讐される。ヘーゲルの罪は深い。

さうして、同じ【欺瞞の例4】を以つて、『資本論』の訳者が「歴史を否定したものは歴史に
復讐され」た例を次に挙げませう。上記引用の「大いさ」が原因で、マルクスが理解の便を読
者に図るために上記ユークリッド幾何学の三角形の図形を例にして、(商品、商品価値、交換
価値)の三つの関係を分かり易く説明してゐる箇所の誤解と誤訳を解説します。向坂訳『資本
論』の48ページです。

誤解の原因は、 die Größe (グレーセ)を「大きさ」(サイズ)と普通に訳せば良いものを


「大いさ」などと恣意的な理解をして和訳したものだから、 die Höhe (ヘーエ)即ち「高さ」
とマルクスが言つた垂直方向の価値の「大きさ」(サイズ)との意味の関係を理解することが
できず、従ひ das halbe Produkt (ダス・ハルべ・プロデゥクト)英語ならばthe half
product、即ち「半製品」を半製品と理解することができなかつたのです。この訳者のいけな
いところは、この「半製品」を半製品と理解することができなかつたので、これを文字にして
訳してゐないことです。訳者としてのこんな不誠実、こんな不徹底はない。こんなことまで私
は言はなければならないのか。知つてしまつた以上、心を鬼にして【原文】と【向坂訳】を挙
げて【拙訳】と【解説】を示します。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 65

【欺瞞の例5】向坂逸郎訳『資本論』の誤訳の欺瞞2
【原文】
Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr
Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes
Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen
= a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? Daß ein Gemeinsames von derselben Größe
in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen.
Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das
andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar
sein.
Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller
gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das
Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen
Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die
Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder
Minder darstellen.

【向坂訳】
さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄とをとろう。その交換関係がどうであれ、この
関係はつねに一つの方程式に表すことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量
の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=a ツェントネル鉄といふうに。この方程式は
何を物語るか二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネ
ル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両(ふた)つ
のものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つ
のいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値であるかぎり、こうして、この第三のものに
整約しうるのでなければならない。
 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それ
を比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と
全くちがった表現――その底辺と高さとの積の二分の一――に整約される。これと同様に、商
品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの
共通なあるものの大小が示される。

【拙訳】
更に二つの商品、例へば小麦と鉄を例にして考へて見よう。その交換関係がどうであれ、この
関係は常にある等式で説明がつくのであるが、この等式を使へば、ある量の小麦は何らかの量
の鉄に同等である(等しい値を有する)。この等式は何を言つてゐるのだらうか?二つの異な
る物に共通するものがそれぞれの大きさ(サイズ)には存在するといふこと、即ち、1クォー
ターの面積の小麦と重量100ポンド当たりの鉄に共通するものが存在するといふことを言つ
てゐるのだ。両方とも、従ひ、第三のものに等しい値を持ち、この値はそれ自体は前者でもな
もぐら通信
もぐら通信                          ページ66

ければ後者でもない。従ひ、両方のそれぞれの物は、交換価値に関する限り、この第三の物に
還元されねばならないのである。
 単純な幾何学的な例を見れば、直観的に此れが判るだらう。全ての直線的な図形からなる平
面の面積を決めて比較するためには、これら全ての図形を三角形に還元して此の等式を解くこ
とになる。三角形自体を、三角形とは視覚的な形が全く異なつてゐる表現に落としてみるので
ある――即ち此れが、三角形の底辺をなす半製品なのであつて、これには高さといふものがあ
るのだ。全く同様にして、商品の交換価値といふものは、一つの共通するものに還元されるの
であるが、この共通するものとは、交換価値がより多いかより少ないかといふことなのである。

【解説】
マルクスが二つ目の段落で述べてゐる幾何学的な説明を其のまま図示すると次のやうになりま
す。

付言すれば、この訳者が「1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも」と訳したと
ころは、訳者本人が一体マルクスが何を言つてゐるのかが理解できなかつた証例です。

前者のクォーターは面積を表す単位であるのに対して、後者のツェントネルとは、ドイツ語表
記をしてゐますが、これはイギリスの鉄鋼を量として測る時の単位です。前者も英語、後者も
英語です。後者にあつて英語が使はれてゐるといふことは、当時イギリスでは鉄鋼業がヨーロッ
パで一番盛んだつたのでありませう。そして、面積と量といふ異なつた単位の半製品を完成品
にするのが相場であり、相場で半製品は交換されて其の価値が相対的に「より多いかより少な
いか」といふ風に決まるといふのがマルクスの言ひたいことなのです。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ67
1クォーターは1マイルの4分の1、1ツェントネルとは100ポンド、キログラム単位では
50キログラムです。ですから、「aツェントネル鉄」のaとは英語の文法でいふ不定冠詞なの
であり、不定冠詞を単位を数へるときに使ふ単位化のaなのです。ですから、「1クォーター
小麦=a ツェントネル鉄」ではなく「1クォーターの面積の小麦と重量100ポンド当たりの
鉄」でなければ、日本語訳では正しい訳にならないのです。この不定冠詞の単位化の用法はド
イツ語も同じです。

この訳者は「1クォーターの面積の小麦と重量100ポンド当たりの鉄」が、小麦「1クォー
ターの面積の」量の大きさ(サイズ)であり、鉄が「重量100ポンド当たりの」量の大きさ
(サイズ)であることが「大いさ」などといふ恣意的な訳語で理解(または不理解)したため
に言葉相互の連関が理解できなかつた。

マルクスは「三角形自身」について「その底辺と高さとの積の二分の一」などとは少しも言つ
てゐない。積算値の半分だとは一語も書いてゐないし、考へてゐない。

半製品といふ言葉は特殊な言葉ではなく、文脈は違ひますが、工場の現場に行けば、マルクス
のいふ「万国の労働者よ、団結せよ!」の労働者たちばかりではなく、「よお!労働者の諸君、
元気でやつてゐるかあ?」などと寅さんに呼ばれる隣の工場に働く庶民がよく知つてゐる言葉
です。

マルクスの履歴を調べますと、ロンドンに長い居住をしたやうですから、間違ひなくthe City
の証券取引所か商品取引所を訪ねて現場を見て資本主義の本質に触れてゐて、深く感ずるもの
があつた筈です。しかしユークリッド幾何学で考へ、非ユークリッド幾何学(超越論)で考へ
たのではなかつた。これがマルクスの限界です。しかし、日本人としてマルクスのドイツ語を
訳しながらマルクスの心の中に入つて行きますと、マルクスの語彙の選択と其の語順の配置の
仕方を読み(たとへば言葉の強意のための倒言葉の置など)、その文章の音調や抑揚から、か
くなるマルクスの筆使ひから、生きてゐるマルクスの息遣ひが聞こえました。

マルクスが常に念頭にあつたのは、初期マルクスと呼ばれる著作に(粗略ながら)目を通しま
すと、古代エジプト時代と同様に此の近代のドイツにあつても(といふことはヨーロッパにあ
つても)ユダヤ人は抑圧され迫害されてゐるに等しいと考へたことでありませう。そして実際
にさうであつた。ですから、マルクスは何よりもユダヤ人の解放を念頭に措いて考へたので
す。そして、自分たちユダヤ人の歴史的な迫害を疎外(die Entfremdung:ディ・エントフレ
ムドゥング)と一般化して呼んだ。諸国民が共有し易い言葉に変へて、ユダヤ人であることを
相対化して諸国民の目から隠した。それが容易であるほどにヨーロッパの産業界で働く人々の
現実はまた酷かつたといふことでありませう。そして何かからの疎外とは好き勝手に言ふこと
ができる。さうなれば、上述の「ヒットラーの頭の中の国家と文化と全体主義の関係」の水平
横断的に複数の国家を貫いて影響力を行使するために XX的なもの の共有、即ち他国と同じ
文化を共有するといふ名目上の戦略で、Partei>society>state(国家1)>nation(国家2)
>peopleを、societyを即ちnational-socialism又は単にsocialismをを 語(キーワード)に
し、此れを水平横断的に主張してそれらの国々を貫通して支配できることになる。即ちヘーゲ
ルのいふ観念と現実の諸要素の混同を惹起するわけです。正確にいへば、
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ68
「思想や概念が、直接的で特殊な目的や目標と混同されることによつて、観念は現実のものにな
る」……【A】

さて、従ひ、マルクス主義は反キリスト教なのであり(何故なら近代ヨーロッパ文明はキリスト
教国の文明であるから)、ヨーロッパの中欧から見れば辺境に当たるロシア帝国に目をつけて(そ
の間の政治的な事情は色々とあることでせうが)、この辺境でロシアといふ名前のロシア人の仮
面を被つて、「ヒットラーの頭の中の国家と文化と全体主義の関係」図を用ひて上記【A】の方
法で、ユダヤ人の革命を起こしたといふことなのです。20世紀のマルクス主義の跳梁跋扈は世
紀の偽装を剥ぎ取れば、ユダヤ教とキリスト教の宗教戦争であつた。勿論政治的にはマルクス主
義経済と資本主義経済の戦争であつたにせよ。

この、ユダヤ人は必ず抑圧され迫害されるといふ歴史的なユダヤ人の被害者心理は、共産主義と
共産党のものの考へ方には根深いものがあると察せられます。そして、共産主義が20世紀を席
巻したのは、かうして考へて参りますと、マルクスは「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を
支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われらの安全と生存を保持しようと決意した」のでは全くなく、この人間の持つ被害者心理と深
層心理に潜む根源的な感情に働きかけたからだといふことになります。しかし、私の観察では、
同じことを善の元に名前の挙げられる歴史的な有名な指導者たちもまた、peopleに対して、それ
が民族であらうが、国民であらうが、大衆であらうが、庶民であらうが、人民であらうが、何と
呼ばれやうとも、一国の人間たちに深い影響を人間に与へるために意識的に使つてゐる。人間の
深層心理に潜む根源的な感情とは、次の四つです。これらの感情の言葉にはそれぞれの下位概念
があり名前が付いてゐる筈ですが、ここではこれ以上深いところへは降りて行かずに、本題に留
まります。

例へば、マルティン・ルーサー・キング牧師といふ黒人の有名な I have a dream といふ演


説の英文を随分以前に読んだことがありますが、これを読みますと、この人は結果として白
人種の恐怖心に訴求し、この根源的な感情を揺り動かしたので暗殺されたのです。勿論、根
源的な感情を揺することのない指導者といふものは有り得ません。キング牧師は正しいこと
をしたのです。そして、その命は失はれた。

しかし、私たちはユダヤ人でもなければ、キリスト教徒でもなく、同じ有色人種だとはいへ
黒人でもありません。その扇情に乗らないためには次の理を均衡(バランス)よく考へて生
きるといふことではないでせうか。この理を図るのは、安部公房の分類でいふ「集団化」の
言語機能ではなく(これは上記の情理の情の面での働き)、「分化」の言語機能です。即ち、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ69

あなたは散文を書いて[ 21]、辞書を引き、情理の理を尽くして自分の言葉で考へると
いふことです。(『シャーマンは祖国を歌う』全集第28巻、238ページ上下段)さうし
て、あなた自身の人生のバランス(均衡)を取るといふことです。

[ 21]
散文とは何かについては「〈散文精神―安部公房氏〉『朝日新聞』の談話記事」に安部公房の言葉があります(全
集第28巻、298ページ)

さて、ここに、ようやく戦後70年、マルクス主義は日本の国に於いても敗戦記念日を迎へ
たのです。庶民にインテリと 称されるものたちについてはいふまでもありません。ソヴィ
エト連邦の共産党が崩壊して70年、中国共産党が超越論的に「既にして」崩壊して70年、
日本の戦後「共産党」と「戦後民主主義」を誤訳偽装した官民を問はぬ戦後「共産主義」が
崩壊して70年といふことになりました。そして今度は誤訳偽装国家日本の崩壊する番で
す。

【欺瞞の例6】山本夏彦著『おじゃま虫』の「「鉄労」いまだ存在せず」の欺瞞
言葉のことは行ひに現れる例として、山本夏彦著『おじゃま虫』の「「鉄労」いまだ存在せ
ず」より、民営化される前の国鉄時代の唯一の独占的な、親方日の丸といはれた国有鉄道会
社の時代の実例を挙げることにします。

この例で私のいひたいことは、言葉の私刑(リンチ)が行為の私刑(リンチ)になつてゐる
といふことです。もつと云へば、日本人が日本人に私刑(リンチ)をしてゐるといふことで
す。これが上は憲法から下はマルクス主義のいふ労働者に至るまでの先の戦後の日本人の7
0年間の姿だと云ふことです。大人がかうであれば、子供も真似をして、子供が子供に私刑
もぐら通信
もぐら通信                          ページ70

(リンチ)を加へるといふ凄惨な事件が起きるまでになつた。そして更に加へて近頃は、人
間と日本人の性の領域にまで害が及び、マルクス主義の名前が変はつただけで、実体は何も
変はらぬLGBTなどと言はれてオタオタする屁つぴり腰の日本の世の中である。屁つぴり腰も
差別用語か?なるほど、屁は腰からは出ないからな、屁は尻の穴から出るのである。腰が尻
に差別だといつてゐるのか?しかしこれは誰の尻の穴も同じであるから、男女の別なく性の
別なし(それとも尻の穴の形状や肉の硬軟や穴の「大いさ」に男女の別があるのだらう
か?)、従ひ少しも差別に当たらないだらう(私は調べた事がないので本当は解らないが)。
さういふ腰つきを屁つぴり腰といふのである。しかし、こんな説明までせねばならぬほどに、
日本の国は劣等になつたのであるな。それであれば日本列島も地図上の名前を変へて、いつ
そのこと日本劣等と表記してはどうだ、国土地理院、国土交通省の役人ども、さあ、反論し
てみろ、LGBT!Let s Go Bombing Today!こんなものは爆撃してぶつ壊してしまへ!といふ
ことに相成つた平成の30年目であります。私が東京の上空遥かに悠々と高く飛ばす爆撃機
は勿論、LGBT−29である。さて、夏彦翁曰く:

「「鉄労」いまだ存在せず

「なぜ助役になった 裏切りではないか」という新聞記事を読んだ。国鉄大宮操車場駅で、
深夜新任助役を三十九人がつるしあげたときの言葉だという。
 助役は管理職で管理職は労働者の敵である。この間まで同じ組合(国労)員だったのに、
管理職になるとは裏切りではないか。助役試験を受けたのを隠していたな。そんなに、管理
職手当がほしいか。
 管理職手当は三、四万円だそうで、それを奪って助役になった甲斐がないようにするには、
洗剤、灰皿、ハンガー、NHKの聴視料まで要求するといい。こんなもの当局からは貰えない
から助役は自腹を切らなければならない。ついでに便所掃除もさせてやれ。国労は「国労中
央労働学校」を経営していて、ここで活動家を育てている。講師陣は大学教授六十人、「本
科」だけでこの八年間に一万人の活動家を全国に送りだしたと、これは朝日新聞(昭和57
年4月19日)で読んだ。
(略)
 私は国労に革命家を要請する学校があるなんて知らなかった。三大新聞はなが年それを知
りながら書かなかったのである。それでいて知る権利、知らせる義務とことごとに言うので
ある。」
(山本夏彦著『おじゃま虫』、97∼99ページ)

夏彦翁の書いた当時は今から36年前の記事である。法律も規則もなきものにしての此のリ
ンチ(私刑)は、今やLGBT(Let s Go Bombing Today!)と看板を掛け替へ、昔の名前で出
るのは恥ずかしいので(何故ならマルクス主義国家の実験の失敗は歴史的事実としてまた歴
史認識として誰の目にも明らかであるから)、厚化粧して今の名前で出てゐるのである。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ71
朝日新聞の記事は昭和57年4月19日付とはいへ、平成の始まるのは西暦1989年1月8
日。昭和57年は、西暦1982年。これはほとんど其のまま姿形を変へて現れてゐる同じ平
成の様子なのではないか?

最後の二行の、20世紀の一斉同報型のマスメディアの旧態依然の為体(ていたらく)を、私
は見せず、言はせず、聞かせずの偽装三猿主義と呼んでゐる(左甚五郎は草葉の陰で泣いてゐる
だらう)。庶民は報道からの自由を主張する以外にはない。その具体的な手立ては『安部公房
とチョムスキー(11)』(もぐら通信第92号)の「10.2 第二次世界大戦を三つの戦域に分
ける 」の中の「(3)「C_ヒットラーから学ぶべき教訓」 で述べた通りです。

15.1 平成時代の30年を何と呼ぶか

かうして、昭和と平成の二つの時代を考へると、これらの時代を戦争体験の有無と景気の有無と
で表すと次のやうになります。

1。昭和天皇の時代:戦中派(戦時体験者)と昭和元禄
2。平成天皇の時代:戦後派(戦後被教育者)と平成●●

昭和といふ時代は、子供であつた日本人も含めて戦時体験者の築いた時代でした。全く灰燼に帰
した国土の上に新しく国を立て直すことに精力を傾注した日本人です。その心はソニーの創業者
のお一人盛田昭夫著『学歴無用論』に詳しい。1960年代のベストセラーです。これに対して
平成は戦後被教育者の時代でした。

このやうに考へて、さて上記2の●●の中になんと云ふ文字が入るものか?

私は、「太平記」と入れました。

平成天皇の時代:戦後派(戦後被教育者)と平成「太平記」

平成の年号を当時の小渕官房長官が発表したときにTVの画面で、半紙に墨書された平成の文字を
みて直観的(直感ではない)に思つたことは、これは戦乱、動乱の時代になるのではないかと云
ふことでした。何故なら、『太平記』と名付けられて叙述された時代は、南北朝の動乱の時代で
あつたからです。平成時代を振り返つて軍記物を書けば、論者がみんな右も左もそれぞれの領域
で確かに30年間書いてきたものは皆軍記物であり、軍記物を書いて来た30年であつたのでは
ないでせうか。従ひ、それは『平成記』と呼ぶに相応しいと私は思ふ。従ひ、600年前に書か
れた『太平記』の中の世がさうであつたやうに、平成30年間の世は乱れた。これは、超越論で
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 72

云へば、「既に」(超越論的時間)未来に書かれてゐた『第四間氷期』のコンピューターの
予言の現在といふ時間的遅延に現れた「過去といふ未来」の現実だつたのです。

俗称「戦後民主主義」教育の成れの果てである。平成といふ時代は何か一つでも新しいもの
を創造したのだらうか?あなたの胸の中で自問自答してみてください。私の答へは否。そこ
で一首:

平成の右も左も騒がしく 悪筆で書く軍記物馬鹿り

次の御世が始まつたあとで、後世の日本人が平成記を読んでも、よくわからないであらう。
何故なら誰が敵で誰が味方であるのかがはつきりしないからです。政治の話であるのにも拘
らず、敵とも味方とも言はない。この言葉を使はない。共産主義的に量と質の混同をして物
事のあり方を曖昧なままに放置してきた。壬申の乱、保元の乱、平治の乱ならよく解る。源
平の合戦なら、これもよくわかる。南北朝も、応仁の乱も、関ヶ原の戦ひも、鳥羽伏見の戦
ひも、そして日清戦争も、日露戦争も、よくわかる。何故なら、敵味方の戦争の話だから。
そして、誰が敵で誰が味方かはつきりしてゐるからです。しかし、平成の右が書き左が書いた
軍記物語馬鹿りは其れが曖昧で後世が読むに堪えないであらう。歴史の資料として役に立た
ないといふことです。日本人が、苦しむべき本質的な苦しみから逃げ続けて来たからです。
これが、次の「平成日本の30年」と題した年譜です。再度おさらひすれば次の通りの此の
三つの規準(criteria:クライテリア)によつて30年を評してまとめました。実に平々凡々
たる規準です。即ち、平成のXXの乱も、平成のXXの戦ひもあるだらうといふことです。

(1)政治の一次分類は、敵か味方か。
(2)経済の一次分類は、損か得か。 かるか からないか。
(3)文化の一次分類は、言葉を正しく使ふか使はないか。

「平成日本の30年」のダウンロードのURLは:https://www.scribd.com/document/
393328143/平成はと-んな時代て-あつたか-掲載版

(以下このページは余白)
もぐら通信                         

もぐら通信 73
ページ
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ74
この表の中央に置いた文字列を取り出して此処に置いて御目通り願ふならば次のやうになりま
す:

政治:平成時代は忖度の時代。日本が国際的(と錯誤してゐる)共産主義の空気を読んだ/忖度
した時代。仮想現実の時代=敵と味方を識別し、区別しなかつた時代=道徳を失つた時代。平
成元年に起きた朝日新聞によるKY沖縄沖サンゴ礁事件の文字がKYだといふのは象徴的である。
サンゴ礁を毀損した当人の意図はどうあれ、KYは俗語で空気を読むの意味だからです。

また、政治の下位概念である法律に於いては、

法律:平成時代は日本の国が(日本国民も)が国際的にも(中国共産党による尖閣諸島侵犯問
題等)国内的にも(ヘイト・スピーチ法といふ罵詈雑言禁止法の制定など)国も国民も正当な
る行使して当然の権利を行使しようとしなかつた時代=日本人の道徳を実現できなかつた時代。
道徳を失つた時代である。

経済:平成時代は損得(金 け)勘定だけの時代=道徳を失つた時代である。古来日本人とは
弱きを助け強気を挫くのが日本人ではなかつたのか?金の亡者どもめ。

文化:平成時代は言葉を正しく使はなかつた時代。言葉を恣意的に使つた時代=言葉の歴史も
伝統も忘れた/顧みなかつた時代=文学の劣化=文化の劣化=道徳を失つた時代である。

平成時代を一言でいへば、私たちが戦後最も道徳を失つた時代だといふことができます。

平成の時代は、いよいよお笑ひ国会議事堂での盲腸問答の盲腸が脱腸に変形してしまひ、自分
で怠惰のツケを払はねばならぬといふ、いや、ケツも正視して自分自身の手で、従ひ再帰的に
ケツの穴の「大いさ」を拭かねばならぬといふ、さういふ時代の最後の年に到頭至つたのであ
ります。[ 22]日本の時代と日本人が下卑てくれば、言葉は世に連れ世は言葉に連れ、私
の言葉も品格を失ひ、「問題下降」[ 23]してしまふことには仕方あるまい。私も18歳
の安部公房の「問題下降」と云ふ言葉を、『終りし道の標べに』の主人公のやうに「粘土を愛
するはしたない仕事にしてしまったのだ。」[ 24]そこで吾が詠める一首:

平成の 最後の年は ケツの年 マルクス主義の 大いさ壽(こと)ほぐ

[ 22]
日本に関する私の分類によれば、今の日本は表層から深層まで次の三階層からなつてゐる:

Fool Japan(日本劣等):阿呆馬鹿列島と呼んでも良い。虚しく騒々しいのでBeep Japanである。


Cool Japan(万国通用列島):世界汎神論促進列島である。超越論促進列島といふと欧米には通じる。
Deep Japan(深層列島):これはクレオール語族(日本語文法学者の命名を使へば膠着語族)たる日本民族の
           土俵であるので、ここに世界(海外)を引き入れて戦ふこと。私たちのルール(規則)
           によるので百戦百勝である。もはや、敵の土俵に載つてはいけない。「曲がり角」は
           「カーブの向かふ」に大きく急激に「転身」してゐるのであるから。日本列島は超越論
           列島であるといふと欧米には通じる。
もぐら通信                         

もぐら通信
[ 23]
ページ 75
「問題下降」といふ用語については『問題下降に依る肯定の批判』をお読みください(全集第1巻、11ページ)。
但し、盲腸と脱腸についての、18歳の安部公房による言及はない。

[ 24]
『もぐら感覚4:触覚』(もぐら通信第2号)より:
もぐらと粘土塀といふ存在の形象に関する主人公の触覚感覚は「「終りし道の標べに」(初版。真善美社版。19
48年。24歳)につぎの箇所にあります:

「愚かな瞳が一切の斯く在る<<存在象徴>>を、一切の問題、下降すべきものの母体、例えば人間•社会•科学•生命等
に転化すべきであり、またしたはずだったのに、私はそのせつない象徴の統一をまるでもぐらのように、粘土を愛す
るはしたない仕事にしてしまった」(下線部は原文は傍点。全集第1巻。384ページ)」傍線筆者。

象徴の統一が「はしたない仕事」だという言葉に、この触覚に対する安部公房の後ろめたさがあります。」

粘土は、砂や水と同じく、可塑性の高い存在の形象です。

16. 《東京裁判》を開廷する
さて、いよいよ本論本章までを論じ来たるところ、此処に、天津神ならびに国津神に対し、私は
次の九つの《東京裁判》の開廷を乞ひ願ひ奉る。《 》の記号は勿論いふまでもなく、安部公房
の汎神論的存在論の、そして(西洋哲学の18世紀の哲学者『恒久の平和のために』の著者カン
トの哲学に発する)超越論の、記号です。

(1)《東京大空襲を始めとする日本諸都市の軍人ならざる日本の国の無辜の民を空襲によつて
大量虐殺し、また同様の大量虐殺のために広島および長崎に原子爆弾を落とせる国際法違反のア
メリカ合衆国の罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第一法廷の開廷を
(2)《占領下にあつて国家主権のない日本国に対し自らの母国語である英語による英文の日本
国憲法を起草し、脅迫的言辞を弄して此れを日本に受け容れせしめ、日本の国会で承認させるこ
とを謀つたダグラス・マッカーサー以下占領軍GHQの国際法違反の罪を弾劾し、裁くための東京
裁判》の第二法廷の開廷を
(3)《戦後の保守政治家たちの、また特に自民党の政治家のうち総理大臣職を経験したる者の
罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第三法廷の開廷を
(4)《戦後の行政官僚の、特に文部省(現文部科学省)、外務省、大蔵省(現財務省)および
法務省の、そしてその他の省庁の官僚の罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第四法廷の開廷を
(5)《戦後の保守の論客を標榜したる者たちの罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第五法廷
の開廷を
(6)《戦後のマルクス主義者を標榜したる者の罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第六法廷
の開廷を
(7)《戦後の歴史家の罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第七法廷の開廷を
(8)《戦前には日本国民の戦意昂揚を ふり第二次世界大戦への開戦を扇動してをきながら、
戦後には反対に占領軍GHQに阿(おもね)り、現行日本国憲法第21条(検閲の禁止)に違背
して、平成30年(西暦2018年)の此の年に至つても依然として隠然たる検閲を廃止せぬ紙
もぐら通信                         

もぐら通信
媒体の、そしてTV放送局地上波の、20世紀の一斉同報型マス・メディアの罪を弾劾し、裁く
ページ76
ための東京裁判》の第八法廷の開廷を

そして、何よりも、

(9)《衣食足りて礼節を失つた戦後の日本国民の罪を弾劾し、裁くための東京裁判》の第九
法廷の開廷を

ここに願ひ奉る。

安部公房の発見者、存在論の目利き、マルクス主義者であつた埴谷雄高がアンドロメダ星雲の
中のどこかの惑星にゐて、手を携へてゐる三輪與志・津田安壽子とともに、遥かに此の裁判の
傍聴をしてくれるであらうことを私は疑はない。また、安部公房の師、日本の近代を徹底的に
批判して生きた純粋なアナーキスト夷斎先生もまた[ 25]、この存在の法廷の傍聴に「幽
霊」として足を御運び戴くよう乞ひ願ふものである。

[ 25]
『石川淳の編上靴』に「石川さんは、たぶん、正確な意味でのアナーキストだったのだと思う」とある(全集第2
8巻、383ページ)。

17. 安部公房の縄文紀元論
18。結語:安部公房とチョムスキー再度

(続く)
もぐら通信
もぐら通信                          77
ページ

哲学の問題101
(9)
  性(SEX)
岩田英哉

たし。
待たれ
次 号を

御免
休筆
もぐら通信
もぐら通信                          78
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(36)
   第2部 XI
       ∼安部公房をより深く理解するために∼ 岩田英哉

XI

MANCHE, des Todes, entstand ruhig geordnete Regel,



weiterbezwingender Mensch, seit du im Jagen beharrst;

mehr doch als Falle und Netz, weiß ich dich, Streifen von Segel,

den man hinunter gehängt in den höhligen Karst.

Leise ließ man dich ein, als wärst du ein Zeichen,



Frieden zu feiern. Doch dann: rang dich am Rande der Knecht,

― und, aus den Höhlen, die Nacht warf eine Handvoll von bleichen

taumelnden Tauben ins Licht... Aber auch das ist im Recht.

Fern von dem Schauenden sei jeglicher Hauch des Bedauerns,



nicht nur vom Jäger allein, der, was sich zeitig erweist,

wachsam und handelnd vollzieht.

Töten ist eine Gestalt unseres wandernden Trauerns...



Rein ist im heiteren Geist,

was an uns selber geschieht.

【散文訳】

幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則が成立した、
更に強制する人間よ、お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来。
もちろん、罠(わな)と網以上に、わたしはお前を知っている、穴の開いた
石灰岩台地の中、穴の下の方に掛けて鳥を捕らえるために使う帆布の幕を。

恰もお前が平和を祝う印(しるし)であるかの如くに、ひとはお前を招じ入れた。
しかし、そうした途端、騎士の待臣、従者が、縁のところで、お前と格闘し、
しかし、数々の獣の穴の中から外へと、夜が片手一杯の青ざめた、よたよたと歩く鳩を光
の中へと投げ入れた…しかし、それもまた正しさの内にあるのだ。
もぐら通信
もぐら通信                          79
ページ

見る者から遠く離れて、憐れみの吐息はどの吐息も、あれ。いいタイミングで証明するも
のを、用心深く且つ規則に従って行うことで執行する狩人ばかりから離れているだけでは
なく。

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ…
わたしたち自身の身に起きることは
より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。

【解釈と鑑賞】

ソネットXIで、死刑を宣告する裁く者に呼びかけ、死を歌い、ソネットXで機械と芸術を
歌って、このソネットでは、それらのやはり連想があると思いますが、引き続き死を、狩
りとの関係で歌っています。

この詩を読み始めると忽ち、最初の一行の語順が破格であることが目を惹きます。語順通
りに訳せば、

幾多の、死の、成立した、静かに変哲無く秩序立てられた規則

というのです。

つまり、成立したという動詞が、「幾多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた
規則」という主語の間に挟まっているのです。これに類似した例は、リルケが花と女性を
以って、性愛を歌うとき以外にはありません。ここでは、性愛ではありませんが、全く逆
の意味で、時間を捨象しようとリルケに思わしめた事情が伏在するのかも知れません。し
かし、時間を捨象することはできなかった。

このソネットは、何があっても徹底して死の規則に従わしめる人間に対して呼びかけ、歌
われている。それは、平和の象徴だとひとびとは誤解した。そうではなかった。

また、このソネットでは、時間の取り扱いについても破格です。これは、最初の一行の語
順の破格と脈絡が通じているのだと思います。死の規則が成立したと過去形で主文はある
のに、従属文である文の「お前が狩りに固執し、狩りを主張して以来」の「して」は、現
在形だからです。普通に考えれば、この「して」は過去形になると思います。規則の成立
は過去だが、この人間が狩りに執着することは今も続いているというのでしょうか。しか
し、それでは、主文と従属文の時間の因果を引っくり返すことになる。しかし、時間の順
序を引っくり返す、それこそが、ここで、リルケのしたかったことなのだと思います。
もぐら通信
もぐら通信                          ページ 80

第1連の、狩りのために使う帆布については、リルケによる自註があります。

Bezugnehmend auf die Art, wie man, nach altem Jagdgebrauch, in gewissen
Gegenden des Karsts, die eigentümlich bleichen Grotten-Tauben, durch vorsichtig in
ihre Höhlen eingehängte Tücher, indem man diese plötzlich auf eine besondere
Weise schwenkt, aus ihren unterirdischen Aufenthalten scheucht, um sie, bei ihrem
erschreckten Ausflug, zu erlegen.

【拙訳】

古い狩りの習慣に従って、石灰岩台地の或る地方では、もともと青ざめた色の、洞窟に棲
む鳩を、慎重に(鳩たちの)穴に掛け入れた布を使って、この布を突然ある特別な方法で
揺れ動かして、地下にとまっているところを無理やり追い出して、驚いて飛び出すところ
を殺す、その方法を言っている。

さて、この死の規則の男、多分男でしょう、この男は、平和の象徴と思って、この世界の
中に入ることを許されたといっています。ところがそうではなかった。入った途端に、騎
士の従者と縁(へり)で格闘することになった。

この騎士の従者は、第1部ソネットXIの騎士の従者と考えることができます。隣にいる者こ
そ最も遠い者だと知っている騎士。孤独にあるのではなく、遠くあって且つこころを通わ
せ、互いを結びつけ結びつけられ、意思疎通、コミュニケーションすることを願っている
騎士、その騎士の従者だと思いましょう。騎士はもちろんですが、従者もこのような男の
入場と、そのような死の規則の適用をさせまいと戦ったのです。そこが、普通の、世間の
人間たちとは最初から違います。縁でというのは、ぎりぎりのところで、何があってもそ
うはさせないという意味に理解するができます。

しかしそれでも、夜に、きっとこの洞窟に棲む鳩の狩りは夜行われたのでしょう、驚いて
光の中に飛び出してくる鳩たちは、そこで殺されてしまう。しかし、これも正しいことな
のだと話者は歌う。わたしには、この殺生も現実だといっているように聞こえる。

狩人ばかりではなく、またその狩りを見物しているひとからも遠く離れたところにも、お
悔やみの、悲しみの吐息はあれよかしと祈願され、歌われています。狩人は、ただ、タイ
ミングよくなすべきことをなしているだけなのです。同じことは、狩りだけではなく、そ
こから遠い、普通の、普段の生活の中にもあるだろうと言っている。それは、その通りで
はないでしょうか。

この狩人や見物人から遠くあってもなおあれかしと歌われているのは、Hauch、ハオホ、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ81

吐息です。ほっとか、ほうとかいって出す小さな息のことです。この息といえば、空気、
空間、風が、その類語であったことをもう一度思い出しましょう。第1部ソネットIIIの第4
連、同じ部のソネットIVの第1連と第4連を思い出すことにしましょう。これらは、全体を
備えて分かれることのないものでした。

このソネットの吐息は、悲しみの吐息ではありますが、ふたつに分かれることなく、いつ
もひとつになっている空間、すなわちこころの平安が、語義の矛盾のように見えますが、
悲しみのこころの平安があれよかしと歌われています。これは、祈りの文です。

何故ならば、最後の連、

殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ

とあるように、殺生は、生きている限り避けることはできないものだからです。

この一行は、斜字体になっていますので、リルケの思いが一層籠められています。一種、
箴言のように響きます。

さて、最後の2行は、そうであればこそ、わたしたち自身が殺されることになろうと、それ
は、精神の中で起きる事件であるならば、純粋であるのだ、そのように私達の身に死が起
きても、そのように考えよと歌っています。

第2連の「それもまた正しさの内にあるのだ。」と、最後の第4連の「より明朗な精神の内
にあって、純粋なのだ。」という二つの文は、何々の内においてという言葉の使い方の点
で、明らかに共通させて、ものごとの両面を表現しようとしています。鳥を追い出して殺す
ことも正しければ、わたしたち人間がなにかの理由で鳥のように殺される側になるとして
も、それもまた精神の中では、正しいとは言わないが、しかし、それを受け容れることは、
純粋なことであるのだ。

リルケがrein、ライン、純粋なという形容詞を使うときには、いつも時間を捨象するとい
う意味です。精神の内、精神の中とは、精神の空間の中と考えても間違いではないし、そ
う考えることができます。そのような空間は、時間がなく、永遠で、神とさへ言い換えら
れていることは、既に悲歌8番の第1連で見た通りです。動物や花の知っている、死から自
由な、開いている空間。

「殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ」から、殺生する人間よ、
自らが殺されるときには、死を精神において受け容れよという思想は、苛烈な思想である
とわたしは思います。これがリルケなのでしょう。
もぐら通信
もぐら通信                          82
ページ

オルフェウスが身を引き裂かれて、殺されたこと、ソネットで歌われているその意義もこ
こにあるのでしょう。オルフェウスの死を思えとリルケは言っているようです。

第1部ソネットXIIで、「精神において快癒せよ。精神は、わたしたちを結びつける。」と
歌われていることを、ここで思い出しましょう。リルケの考えは、思想というべきでしょ
うが、首尾一貫しています。(もちろんそうでなければ、思想とは言えません。)

【安部公房の読者のためのコメント】

第一連の、

「もちろん、罠(わな)と網以上に、わたしはお前を知っている、穴の開いた
石灰岩台地の中、穴の下の方に掛けて鳥を捕らえるために使う帆布の幕を。」

この二行から連想するのは、『方舟さくら丸』ではないでせうか。

あの存在の閉鎖空間は、果たして何かの、誰かの、仕掛けた罠であつたかどうか。

かう思つてみて、更に第二連を読みますと、

「恰もお前が平和を祝う印(しるし)であるかの如くに、ひとはお前を招じ入れた。」と
ある者は主人公のもぐらであり、招じ入れられたものは、恰も昆虫屋と一組みの男女であ
るかのやうに読まれ得る。

続けて、

「しかし、そうした途端、騎士の待臣、従者が、縁のところで、お前と格闘し、」とある
のは、主人公と役割を交代して演ずる三人かとも思ひ、更に、

「しかし、数々の獣の穴の中から外へと、夜が片手一杯の青ざめた、よたよたと歩く鳩を
光の中へと投げ入れた…しかし、それもまた正しさの内にあるのだ。」といふ此の「正し
さ」は、

「殺すということは、わたしたちの遍歴する悲しみの姿なのだ…
わたしたち自身の身に起きることは
より明朗な精神の内にあって、純粋なのだ。」
もぐら通信
もぐら通信                          ページ83

とある此の正しさは、地下の洞窟から脱出した後に地上で目にする透明感覚に満ちた風景
の姿であるかと、これも思はれる。何故なら、「より明朗な精神の内にあって、純粋」で
あるとは、殺し殺されるといふ関係にあつては、「殺すということは、わたしたちの遍歴
する悲しみの姿なのだ…」から。そして、思ひだすのは、安部公房の名句:

弱者への愛には、いつも殺意がこめられている

『『箱男』論∼奉天の窓から8枚の写真を読み解く∼』(もぐら通信第34号)より「万
博会場における、身体障害者のための記念撮影風景(4枚目の写真)」に安部公房の付した詩
を読んだ箇所を再掲して、このリルケの詩への解釈の一端とします:

「そのように考えて、この写真の下の詩を読んでみましょう。

「 見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとし
て、人は歯をむくのだ。しかし誰もが見るだけの人間になるわけにはいかない。見られた
者が見返せば、こんどは見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。」

安部公房がリルケに学んだ主題と動機(モチーフ)は、愛と別れと死と遥かな距離でありま
すが、この他者との距離を0にするために安部公房の小説の主人公たちは皆、その命を引き
換えにして、無名のままに、失踪したり死んだりするのです。そうやって、最初の物語の
閉鎖空間を脱出する。

この場合の、この詩にある距離は、弱者というものを巡って、見るものと見られるものと、
それから愛と憎しみという、これら両極端のものがあり、その差異にこの詩は生まれたと
いうことになります。

そうして、見るものと見られるものの両極端が、見るということを通じて、交換されて、
互いが互いに今度は反対の立場になり、愛することと憎むこととも交換される。

この平等な、superflatな交換関係の中に、確かに「弱者への愛には、いつも殺意がこめら
れ ている----」という苛烈な箴言の生まれる道理がよくわかります。

何故ならば、愛することは憎むことに通じ、憎むことの一番極端なるものは殺人であるか
らです。これが、安部公房の論理であり、『密会』の世界の論理です。だとすれば、今度
は、憎むことは愛することに通じ、愛することの一番極端なるものは一体何になるのでしょ
うか。

このことを、(弱者、強者)と(愛すること、憎むこと)の関係で考えると、上の[註15]で安部
もぐら通信
もぐら通信                          ページ84

公房の言っていることは、次のようになります。

ここで弱者と強者の関係にあつて(1)から(4)までのセルに入ることばが不明のままに、
また不明にも拘らず、このマトリクスに尽くされた全ての場合で、リルケは死を受け容れて
ゐるといふ事になります。

「より明朗な精神の内にあって、純粋」に。

安部公房の全ての主人公は「より明朗な精神の内にあって、純粋」に世界の果ての「終わり
し道の標べに」といふ存在の方向を指し示す立て札(案内人)の立つてゐる場所で失踪する。
この場合、作者自身は、概念化した存在の金山時夫を殺すとともに、自分自身をも殺害して
ゐるのです。

それを示すのが、『密会』刊行後の安部公房の次の、『密会』に関する陰画の美についての
言葉です。傍線がそのことを示してゐる:

「この小説のエピ」グラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」
という言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて、「弱者の幸せには、いつも殺さ
れる期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意
がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょうど裏表な
んだな。書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説
はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書い
たということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、
また、ユートピアを裏から書いたとも言える。」(『裏からみたユートピア』全集第25
巻、503ページ)

同じことを25歳の安部公房は詩人から詩人のままに小説家にならうとする「転身」期に上
記の、リルケの詩にある詩人の覚悟と同じことを、小説家として生きてゆく覚悟として次の
やうに書いてゐる:

「結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーンの快活さにたいしてであり、
もぐら通信
もぐら通信                          ページ85

それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえてるぼく自
身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろうか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹か
ねばならぬのだ。」
(『牧神の笛』全集第2巻、202上段下段)(原文は傍線は傍点)

あなたもまた、フォーンの笛を吹くのか、陰画のユートピア(理想郷)に生きるのか。
もぐら通信                         

もぐら通信 ページ86
連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼12
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部屋
(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(2)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II:『箱男』をtopologyで解読する
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
    真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
    て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
もぐら通信                         

もぐら通信 87
ページ

(43)安部公房とバロック哲学
    ①安部公房とデカルト:cogito ergo sum
    ②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論
    ③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
    ④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
    ⑤安部公房とハラルド・ヴァインリッヒ:バロックの話法
(44)安部公房と高橋虫麻呂:偏奇な二人(strangers in the night)
(45)安部公房とバロック文学
(46)安部公房の記号論:《 》〈 〉( )〔 〕「 」『 』「……」
(47)安部公房とパスカル・キニャール:二十世紀のバロック小説(1)
(48)安部公房とロブ=グリエ:二十世紀のバロック小説(2)
(49)『密会』論
(50)安部公房とSF/FSと房公部安:SF文学バロック論
(51)『方舟さくら丸』論
(52)『カンガルー・ノート』論
(53)『燃えつきた地図』と『幻想都市のトポロジー』:安部公房とロブ=グリエ
(54)言語とは何か II
(55)エピチャム語文法(初級篇)
(56)エピチャム語文法(中級篇)
(57)エピチャム語文法(上級篇)
(58)二十一世紀のバロック論
(59)安部公房全集全30巻読み方ガイドブック
(60)安部公房なりきりマニュアル(初級篇):小説とは何か
(61)安部公房なりきりマニュアル(中級篇):自分の小説を書いてみる
(62)安部公房なりきりマニュアル(上級篇):安部公房級の自分の小説を書く
(63)安部公房とグノーシス派:天使・悪魔論∼『悪魔ドゥベモウ』から『スプーン曲げの少年』まで
(64)詩的な、余りに詩的な:安部公房と芥川龍之介の共有する小説観
(65)安部公房の/と音楽:奉天の音楽会
(66)『方舟さくら丸』の図像学(イコノロジー)
(67)言語貨幣論:汎神論的存在論からみた貨幣の本質:貨幣とは何か?
(68)言語経済形態論:汎神論的存在論からみた経済の本質:経済とは何か?
(69)言語政治形態論:汎神論的存在論からみた政治の本質:政治とは何か?
(70)Topologyで神道を読む(1):祓詞と祝詞と結界のtopology
(71)Topologyで神道を読む(2):結び・畳み・包みのtopology

[シャーマン安部公房の神道講座:topologyで読み解く日本人の世界観]
(71)超越論と神道(1):言語と言霊
(72)超越論と神道(2):現存在(ダーザイン)と中今(なかいま)
(73)超越論と神道(3):topologyと産霊(むすひ)または結び
(74)超越論と神道(4):ニュートラルと御祓ひ(をはらひ)
(75)超越論と神道(5):呪文と祓ひ・鎮魂
(76)超越論と神道(6):存在(ザイン)と御成り
(77)超越論と神道(7):案内人と審神者(さには)
(78)超越論と神道(8):時間の断層と分け御霊(わけみたま)
(79)超越論と神道(9):中臣神道の祓詞(はらひことば)をtopologyで読み解く:
              古神道の世界観

(80)三島由紀夫の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
もぐら通信                         

もぐら通信 88
ページ
(81)安部公房の世界観と古神道・神道の世界観の類似と同一
(82)『夢野乃鹿』論:三島由紀夫の「転身」と安部公房の「転身」
(83)バロック小説としての『S・カルマ氏の犯罪』
(84)安部公房とチョムスキー
(85)三島由紀夫のドイツ文学講座
(86)安部公房のドイツ文学講座
(87)三島由紀夫のドイツ哲学講座
(88)安部公房のドイツ哲学講座
(89)火星人特派員日本見聞録
(90)超越論(汎神論的存在論)で縄文時代を読み解く
(91)「『使者』vs.『人間そっくり』」論
もぐら通信                         
編集後記

もぐら通信 ページ 89
●荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(11):淤能碁呂島幻歌:私は此の詩集中、この詩が最も優れた詩
だと思ひます。高度に、また深く、研鑽を積んでゐなければ、こんな言葉の濃縮された詩を書くことはでき
ません。私の解釈と鑑賞をお読みください。詩にくらぶれば、あらゆる解説や解釈は、優れた詩にあつて
は、すべて蛇足です。●『周辺飛行』論(6):3。『周辺飛行』について(3):案内人―周辺飛行3:
このまま小説だといつても良い、安部公房らしいいい文章でした。これも新潮文庫にある『笑う月』の中
に入れても良いと思ふやうな掌編です。確かに安部公房の『笑う月』の中の掌編は皆「奇妙な味」がします。
シェクリーを久しぶりで思ひだした。● 安部公房とチョムスキー(11):到頭ここまで来たか、ヘーゲ
ルさん。といふ感じですなあ。やれやれ。まさかここまで共産主義の系譜に足を入れるとは思はなんだ。し
かし、カントーヘーゲルーマルクスの共産主義の系譜の論理的な接続関係が明らかになりましたので、めで
たしめでたし。『歴史哲学』では解らぬよ。『歴史の哲学』なら解るよ。題名がヘーゲル様の所説の論理と
一致してゐるからな。安部公房の成城高校時代の親しき哲学の友、中埜肇も此れを読んだのだな。ご苦労様
である。この優れた友の訳した『ヘーゲル伝』を読むと、その訳文から此の友人の実に粘り強い性格を読む
ことができます。勿論、その粘り強さは伝記作者の文章に由来する日本語訳の粘り強さなのですが。しかし
訳者は中埜肇なのであり、向坂訳『資本論』のやうな粗雑粗暴不誠実不正直な恣意的な訳ではない。正直
に言へば、本文には書かなかつたが、私は此の訳者に恥を知れと言ひたかつた。ドイツ語の文法がわからず
にマルクスの原文が理解できなければ同じ大学の専門のドイツ語学者に訊けば良いではないか。人の翻訳の
間違ひをあげつらふのは私の趣味では毛頭ない。武士の情けが保ち切れなかつた。中埜肇の和訳は原文に
忠実で、緻密です。/でもこれで時代も日本全国の労働者諸君!も皆スッキり。もつとも労働者諸君!など
といふ労働者はもはや日本の国にはをらぬが、しかし、めでたしめでたし。勿論、残るは知性に病ひダレ
の掛かつたインテリ退治である。/時代の「曲がり角」は急激に「カーブの向かふ」へと「転身」してゐる。
この時代は角も曲がつてゐるので人間も臍曲がりで歪んでゐなければ時代の「転身」について行けない。も
う自分に嘘をついて誤魔化して生きることはおやめなさいまし、ほら、そこの、日本人のお方。/安部公房
の国體変形論は思はぬ収穫でした。千両箱三箱の値あり。この三千両は読者みんなで分けませう。しかし、
安部公房つて奴は何から何まで考へたのだなあと改めて感嘆、賞嘆、賞讃、讃嘆する。/山本夏彦の文章は
いつ読んでも引き締まつてゐて、いい。/《東京裁判》が開廷できてよかつた。被告人ども、首を洗つて待
つてろよ。あつ、超越論の裁判だから、開廷前に「既にして」閉廷してゐたか。「お前たちは既に死んでゐ
る」。●哲学の問題101(9):性(sex):休筆御免。ここまでマルクス主義の論理と感情を知つたら、
敵を知り己を知れば天下無敵である。当たるを幸ひバッタバッタと薙ぎ倒し。と行かないのは、己を知るこ
とが難しいからである。嘆息。●リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(36):第2部 XI: 幾
多の、死の、静かに何の変哲もなく秩序立てられた規則が成立した、 :リルケはリルケ、安部公房は安部
公房ですが、しかし両者は本当によく通つてゐる。安部公房は何歳になつても変はらない。最初に出来上
がつてゐるからだな。「クリヌクイ クリヌクイ/カーテンにうつる月の影」といふ安部公房恐らく一桁の
学齢の時に書いた詩。これが安部公房文学の全てを表してゐるといふならば、誠にさういふことができます。
ご両親も奉天千代田小学校の御担任の宮武先生も、これが何を意味するものか、この子供の天才に気づいて
ゐただらうか。

差出人:
次号の原稿締切は超越論的にありません。いつでも
贋安部公房
ご寄稿をお待ちしています。
〒 1 8 2 -0 0 次号の予告
03東京都
調布
市若葉町「 1。『周辺飛行』論
閉ざされた
無 (6)
限」
2。荒巻義雄詩集『骸骨半島』を読む(12)
3。安部公房とチョムスキー(12)
4。哲学の問題101(9)
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(37)
6。Mole Hole Letter(13):超越論(6):日本人はtopologyで如何に漢
字を二つの仮名に変形したか:片仮名とは何か、平仮名とは何か
もぐら通信
もぐら通信                          90
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新し
い知見の発見に努め、それを広く紹介し、
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくた その共有を喜びとするものです。
めに、 安部公房縁りの方、有識者の方など 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、
に僭越ながら 本誌をお届けしました。ご高 もぐら通信の編集及び発行を行うものです。
覧いただけるとありがたく存じます。(順
不同)  【もぐら通信第92号訂正箇所】

近藤一弥様、池田龍雄様、ドナルド・キー なし
ン様、中田耕治様、宮西忠正様(新潮社)、
北川幹雄様、冨澤祥郎様(新潮社)、三浦 訂正の場合には、Googleドライブには訂正後

雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎様、巽孝 の最新版を差し替へて置いてあります。

之様、鳥羽耕史様、友田義行様、内藤由直
様、番場寛様、田中裕之様、中野和典様、
坂堅太様、ヤマザキマリ様、小島秀夫様、
頭木弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦様、円
城塔様、藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤
田康和様(朝日新聞社)、富田武子様(岩
波書店)、待田晋哉様(読売新聞社)

【もぐら通信の収蔵機関】

 国立国会図書館 、コロンビア大学東アジ
ア図書館、「何處にも無い圖書館」

【もぐら通信の編集方針】

1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集
と交歓の場を提供し、その手助けや下働き
をすることを通して、そこに喜びを見出す
ものです。
2.もぐら通信は、安部公房という人間と
その思想及びその作品の意義と価値を広く
知ってもらうように努め、その共有を喜び
とするものです。

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