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維新前史の研究目次
彼 小寺の日的·
第二輪 小 雅·་五
第一輪 府大力至安永時代:た
第 <明以前に於ける祭作の野外後來:་--------元
第二章 領國に封する風民の態度:元
第三章 =路の接觸,と戦災地經科倫:|
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公?Ý

四線 夫明時代:五
第 小生きる進取開國內特神:五
第二章 盟國論の橋筋:.東
第三章 羯成地經校の計畫及び共中止:.人
第四章 羯庁論の従明:.人生
第五章 <州時代の微觀:.大
目*-|
*
從政 |--Fº)::*
和時代 །
! 戰火地 に封する光 の政策 _________________________________- _-_-_ -______
|
二 高 ラクスマシ の後來 _________ -_ - --- - -- - -- -- -- -- - - - - - - - - - -
三章
四 章 戰火地 の総: 不明
五 章 開國論及び戦闘 論の器购: | 0
六 章 光政府军和時代の航舰: 人
*
ゲ 編 文化時代 ___________________________________ - - - - - - - - - - - - - - - -

| レザノフ の派來: |
| レザフフ の波来に関する時間 の | _________________________________-_-'O
三 字 路人の 家行~と呼倫 の流路:
路附近地价 の 州布: 'EO
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ゴーニン の 衛四-に日落 の交涉: '
ト上 文 : ^ + ') ?*
弘 榮 フ " ートン
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英國 に対する関比の政權: 交
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維新前史の 研究要目
第 編 本書の目的
明治維新の指導精碑の蘭明(一):明治維新の重大なる使命(三): 研究の主鶴: 研究の時間的範園
(三):本書の使命
武力携庁の緩和(三): 衛菊牙使節の渡来と貿易復奮の要求: 幕府の制令を無祀せる長崎奉行の態度
(三):幕府の拒絶(三四):武力携庁による原則の崩壊:鎖國に封する幕府の響明(五):菊菊牙船
に封する臨機應鍵の虜分策:衛菊牙船に封する戒論騎國の虜分策(二交):姉港船の漂民護送:幕府
要 日 一
丹 ;

開 章
豊 {
警 闘
また
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地他


-

与 糞


の鎖
停統的精碑としての進取開國( 三): 鎮園に伴ふ進取開園の精碑の停滞(吾): 時代の要求として
國禁教(会)i民族性と相容れざる鎮園制度j郡蘇教の再玲味“績園制度の再玲味(交):西洋文
化の再認識:西洋文化の憧憶( 三)i博統的精神復活の機運( )“江戸時代の泰平の斎らせる好事 ニ
好事的気分によりて導かれたる西洋文化の移植(交四) :進
的気分(交):海外の事物に封する興味三
取開國の精紳の更生(交吾)
・・・・・・・・--**** - - - - - *
交セ
第 二 章 開園論の濫範
-
入C
第 三 章 蝦夷地経営の計書及び共中止
蝦夷地密貿易に闘する勘定奉行石谷清昌の調査(合):密貿易の風説による刺激:幕府の密貿易に闘
する調査(入一):巡見使の蝦夷地派遣:巡見使の調査:蝦夷地の虜分に闘する勘定奉行の伺(会):
蝦夷地開拓の計書及共中止(会):幕府の非開國論:非開國論の裏面に横はる開國的態度(入交):鎖
國の解響に闘する二方面(会):國防計書としての蝦夷地の開拓(公セ):露國に封する警備論
林子平の國防論(入丸): 仙豪藩への上書:三國通覧圓説及海國兵談の著作:露國の南下に封すろ豪
二) 開拓論の根擁を貸す二方面(丸 ):露國を以て帝國主義的
虜を國外と貸す見解(丸 ):蝦夷地に封する領土権認識の噛矢(丸):三國
要 日 三
愛m四
圖說の信仰:國防軍の根據《北):國防論の内容(火):國防の不備(元):歌洲の勢力に対する危
德(CO).文郡の勢力に封する危惧('):陈明に対する考察(")·林外さられたる観光地の頃
防(g).外患による関胤の像机(1):貴物論者としての子本の地位()·國家服飾()
第五章 <明時代の旗舰…<
領國に封する考察の一方面(C人).海外教方の成書に対する関民の意識:認識せられさる態度地の
領土構(C北):孫明に封する考察の不備:歌洲語圏の日本道他を不可能とする考察:國維打開の
術教
第五線就改革和時代----------------------------------||
第 桜成地に封する光の政策…|
朗克地に封する施設の愛(三):阿後島駅東人の神殿と光の調--
信の
-
防守派(二):东行所を防部佛經に設ける内義及其中止(二人):松本定信の対策:松本定信の野
登録に関する史家の考察,と共設想(二元)
第二章 7クスマンの渡米:…
ラクスマンの艦攻地帶來,と資材開始の要求(').7クスマンと松前藩との交涉:松前藩の上中{
こ 為
ラクスマンの長崎に入津せる場
長崎入港の信牌に闘する考察: 幕府が信牌を投けたる理由(三 ):
宣論使の何に封する幕府の指令(三):
日の虜分(三O): 貿易の開始に封する幕府の態度(三)。
米穀井に海産
貿易に闘する幕府の内意(三)。 開園通商の決意(三五):避戦の貸めの開園(三 )。
㎞によるシiァクスマンに投ける*
i外交上のシi主としてのシ はれ
シ制度の破綻i高船を 図に派通せんとするシ
たる開國的の施設(一四毛)
i 一四入
第三 章 外園船の待遇i“
る地北高議の債値( gi松前道魔の江戸拘束( %)“戦売地に於ける図助の 。
線とする蝦夷地経営の方針(二
地の常分上知i戦売地漫境の守備i探捉島を園防上の第一線とするシ ): 箱

奉前西設行
松東新館
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蝦夷
道廣の永熱 屋( *)“シ
島列島の放棄:蝦夷地経営に封する時論の 一斑
一セ0
第 五 章 開國論及び鎖國論の提唱 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。、、。。、、、、。
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要 臼 八
ゴローニンの千島測量(三):ゴローニンの捕縛iゴローニンの松前護送(三吾三“ 再び露船打挑令
の布達(三吾):打挑令に闘する考察iゴローニン放還に闘する交渉の開始(三高):
ョローニッの放
還(三吾):松前奉行よりの論書i園境劇定及び通商開始に闘する露國の提議(三 )。 通商の拒絶と
國境劇定に闘する幕議:應接使の撰捉派遣と共不調(三 毛): 蝦夷地警備の撤退:幕府の封露策に
闘する考察(三五入)
第 六 章 英艦フュートン競の不穏行貸ij 三交0
英船の出没( C): 英艦フョートン競の長崎入津i長崎奉行の英艦焼討の計書井に共中止(三
)“

英艦の脅迫: 英艦の退去(三交三): 長崎奉行の引責自双:英艦の行動に封する


幕府の不問的態度
:共事由(三雲):幕府の博統的政策(三交四):フ“ートシ跳事件の刺激
第 七 章 英園に封する國民の憂擢i 三交交
英國勢力の波及と國民の注意(三交)i備蘭西革命の日本に及ぼしたる影響(三 毛):蘭人雇備米船の長
崎入津i米船の入津に闘する世人の疑惑i和蘭政鍵の暴露と國民の憂慮( モ )“ 和蘭政鍵に闘す
る幕府より蘭人への質問(三):蘭人の告自及英露連合の警告:和蘭政鍵に闘するョローニ“の説
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(<!)
,311 , 5:('<).外國s利義による様に、《天).任東の新解釋:阿摩*5間へ
.作義信道の間國倫·伯河S縣洲列國S家方城故に封する考察(大尉):武力の後接による経済市場
の獲得·佐賀の英俊二國に対する成心(大)·伯通の野秀榮:在湖の野英俊(天).位制の南國に
對する愛感:其理想としての進取的國防策(大):信源の衛國に封する非開國論:開國論者の非
開國論(大比):土生态度の開國論·溫度の遊牧師(元).森國の東方政策に関する理解:司馬
江湖の開國論(元)
第九章 ș化時代の旗舰….元
魏國の性質の発化交)·福岡に因使する義宗の態度(元):達人なれる森在の離戰政策(火).
數對外交の出來·納國政策と連戰敗後との予香:進退爾維の苦境代):開國論と福岡崎.將
関に対する和戰論()·萊崖の進步:非常時日本なる意識の後生().道成の手段としての開
國倫·納國論者の開國論():部將軍より政治會人の交化:開明會將の領獎盃:火災の考察
の誤認
太不の降治人心の和地()·愛心線に見えたる世德人特():新聞に仕えた仏就()
始出物の遊牧師及火校水就會(北)·路山陽の封出羽

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骨#王践語翻論・・・・・・士又部出宗拝の 通敏井(三四一)・・・・・ 山鹿素行の国鶴論(三『三)・・・ ・・シ山の 理想 としての王政 復古
論・・・・・・ 能 運洋書山の 理想を粉飾せる公武合鶴論・・・ ・・倉王思想に於ける二 十人系統(三四五) : 浅見慣樹斎の公武
合鶴論:栗山潜鋒の王政復古論( 四セ):桑名松雲の王政復古論:三宅観測の王政復古論:理想
と現質との矛盾(三四八):竹内式部の王政復古論:山懸大武の王政復古論(三四 ):公武合鶴論の進展
(元C)i本居宣長の公武合鶴論(三吾):平田篤胤の公武合鶴論(三吾):発達の過程にある奪王論
(三高)j満生君平の封外策としての奪王論i平田篤胤の将軍職に封する新解響i奪王携夷論の淵

(三交 ):曾澤正志斎の進取経略論(三交五):擁夷論の根擁(三交セ):擁夷の日的(三ど):携夷論の内容

第 六 章 奪王開國論の提唱i 三人三
佐藤信淵の宇内混同策( 天 )i進取開園の精紳の更生に伴ふ宇内一帝論:信淵の経略論(天国):共
間程としての赴倉改革論(天 )i 進取経略の方策( 会):封外策を前提とする現状打破の策論(天主)
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封外策としての政治政革論の発生(三人公):現状打破の策論(三人丸)
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論(高)་康乃の標語を探事を必要とせる特別の理由་新しい意味に於ける軍事件事
南國會-3%立་%後正s是非を絶對應 s年因とする機來開國兩派の判書)事府の政權
←་非常時本の平་非怖の情勢を有利に展開さんぶs書
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第 一起 夫妻 の 日 的 1
明治維新の重 が 狗め に本書を若作した。 明治維
大なる使命
活ける推新の精神を武臣 に使いる
研究の主體
進取開國 の思想は、 江戶時代 の
維新を招來する指導精神 となり得 -
る。 もし此劇版 が無かつたならば、 明治維新の歴
つた様式 に於て、 表現 也 っれたに相連ない。 従って成等の 父加が、 知何に比阿波を成
受し
たか、 またそれが 知何なる影響を、 航會國家に及ばしだかを明か にしてこそ、
はじめて明
治維新の意義が理解 せられるであらう。 此理解を破 いだならば、 利氏明治
維新の真相を地
批*る ことが出来ない。 而して追殺の劇版を成受した武が観光の意識
の は、 おの つから野外
の政策,となって表現 址 られてある。 然れとも共表現は、 同時に封內後來人
としての重要性を飛
び、 寧み此方面に於て、 より多く存在 の信仰が あった。 子の研究 の


體も、 また指 從此就
に置 かれる。 即も 対內後來」としての野外 來である。 故に本書は、 對外後來の推移转速を
経れる
ことを日的~とするもの ながら、 また放て近世外交史 でなく、 全般に安る 野外關係
の友達で
もない。 これに因 多 て周內の 情勢を先 の、 明治維新 の 原因を求めよう と
する のである。
資場の鍵選、井に 日露、日英、日米間に起った各種の交渉の如き、いづれも叙述に必要な
る程度に止めて、それ以上に及んでみない。



いſ)

研 の時間的 精碑を開明するには、遠く建國創業の昔に遡って、共沿革鍵遷を経ね、下は
範園
明治維新の達成にまで及ぶことが要求せられる。然れどもかくの如きは、國史全般に互る
研究であり、短日月の能く葬する所でない。故に予は、予の専攻する近世史の立場から、
鎖國以前に遡らないことにした。蓋し種々の原因によって衰へて来た進取開國の精紳の更
生したのは、鎖國時代であるからである。また筆を安政開國の際に止めて、それより降ら
ないことにした、蓋し開國以後は、維新史の本鶴を貸すと共に、共以前に於て、明治維新
旨首手主円 既に成立してみたと信するからである。かくて研究の範園を、鎖
代の封外策が、
使

より多く内に向つて働き、 途に赴曾改造の機運 を導いた経過廷 に発展を叙して、 明治維新


の指導精碑を語るのが、共目的であり使命である。もし比研究が、多少なりとも活ける維
新の精神を博へ、國歩報難の際、如何にして能く、危機を乗切って来たかを、明かにする
ことが出来たならば、寧徒として無上の光薬である。

第 一編 本書 の 目的
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第 二期 $ 战 六
を 刺激して、 戦火地經科 の 説、 國防 の論、 對將 の後來成,となり、 戦して様成 強 となっ た。
康成、 開國の試 ^ に起 9、 共後她 たす明和計會 址 5れ、 先後の職者 をして、 國家の前途
路來に関し、 花心 有限せしめたことは、 お の つ から明治維新を招來する素因 ともなった。
故に接來說及び 開國論は、 維新定新たの上 に於て、 無限の関心を持つ ' *た此時代に、 特
陈s 分 勞役 に後述した竹王龍 は、 これ まで 一般 の常識,となっ て わるやうに、 必ずしも主政復古 の主張



忠!,





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を有 す る もの でない


~相關れるに及


相 んで、 特王僧の分裂が
先全に行はれ、 こ ^ にはじめて特王座火龍,と作站開國論,との 対立を見たのである。 明治維
新の指導航神は、 官にかくの 知さ公園祭の間から終生したことを、 注意しなければならな
時代神神 の間
明に終始する
これを要するに、 敵國時代の
本書の 研究
多の成因がある。 開國論,と いび、
の事實なは いまだ閘明せられず、 或は納國の内容に前


';
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の 一面に、 道就改後來の存在する ことを奪 は開國論及び構成 語が、 共に等


しく國家を擁護するが 狗めに起 5、 竹に進取開國の主張を以 て、 一世を指將 る質際を見
ないものもある。 是に於て敵國時代に於ける野外後來が、 加 可 なる意義を有し、 知何なる秘 -
-

遷を遂げて、明治維新の質現を、必然的に要求する 七上り
H
〜”を国
-* 碑の発生を促したかを研究した
いと思ふ。
第 二 編 序説
-
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シ ご *aa * ハシ ドし *い。ー ** シ - -、 ** シ
第三線 小 方上安永時代
第一 章 <明以前に於ける非怖の野外第
江戶幕府の諸國政策は、
> 俄 耶穌教の禁通を主要なる目的~~し、 內に封しては、 國民の海外
出る を停 め 、 外に封しては、 長崎の外、 全國の海岸を領し、 伊戈 て約為光、 西班牙の
兩國民、 発に北総数 位傳の意志を有する外國人の渡来を拒絶するにあった。 其法令 と資施
~は、 元和以來數次に行は 江、 安永十六年七月の布達を以て完成したのである。 个共後、
印部 鏈國時代の野外後 を述べるに常 6、 先 派來の外國船に封して、 知何なる道路を採っ
たか を検討し、 伊戈 て共變遷を経て見よう。
の ず拉賈
开 員」或
船 と fy

皮 る 序

魯j原
分布を

池水大年七月の所調節風化 を殺するに、 葡萄牙人に授けた老中の本書には、


白令以後、 カレクタ 海之後、 被停止之平。 此上於遼 、 破即北航、 并采、 速度非科之 日
延伸出也
この り、 我が図に水る船は破 知し、 乗組の者は、 非科に行~ ~ い ことになってみるが、
路大名 、 の本書には、
七种文元四維特 剛剛は 、 不以從政
第 三 編 寛永 乃至 安永 時代 一○
之事。
領内浦々、常々慌成者を附置、不審有之船来ニ於てハ、入念可相改之。自然異國船着岸之時ハ、従先
年如御定、早々船中之人数を改、陸地へ不上して、早速長崎へ可送遺事。
たものは、共船を長崎に護送すべきことを命じてみる。但文中
ある先年の御定は詳かでない。今比奉書を接するに、諸藩は自由に外船を虜分する権能を
興へられす、たゞ長崎に護送するだけの義務を負はされてみた。蓋し幕府の手にょって虜
分する考であらう。面して共最後の虜分が、衛菊牙に示したやうに、「破却共船、井乗来者
速可行罪科」 にあったことは、次の質例が誇明してみ
共賞 鎖國令の出た翌年、即ち寛永十七年五月、娼港からの衛 菊牙船が一隻長崎に入港して、
貿易の復奮を求めた。比時幕府が、共禁を犯して渡来せるを各め、船舶貨物を焼沈め、乗
組の人々を殺戦し、僅に十三人を助け、小船を興へて騎國せしめたのは、禁令及び禁令質
施の次第を、婚港在留の衛菊牙人に博へしめる貸めである。かくて同年六月九州、四國、
中國の諸藩に達した下知状には、
切支丹之宗門難御制禁候、数年弘彼法候付て、かれうた船渡海御停止之魔、今度長崎へ差渡之間、乗
、湊へ入

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第 三 編 寛永 乃至 安永 時代 一四
かりうた船、湊 へ入来候得バ、武道具を船より指上候間、共通可仕旨被申渡候。
とあるから、武器の陸揚は前例であり、今回もまた共前例に擁ったものと思はれる。かく
して彼は命に應じなかったけれども、奉行等はなほ兵力を用みない。たゞ萬一 の鍵に備へ
る貸めに、諸藩の兵を微したに過ぎなかった。 即ち共態度に於て、前年の令條にい
幕府の拒絶 ければならない。然るに幕府では、
武力擁庁によ 軍艦であり、また所請代替り御濃なる特種の事情によるものと思はれるけれども、衛菊牙
る原則の崩壊
船破却の原則が、既に崩れてみたことを立誇するものである。加之老中から奉行等への奉


書に比事を述べて、
右之趣申聞候て、若上意之趣不承届、無作法の鶴於有之ハ、従前廉ハ人数を手あつく申付置、相、石
火矢を差上候様ニ申渡、共上ニて致違背、手出し致すニ於てハ見計ひ、急度可申付候旨上意ニ候。但
比ヶ修ハ自然之貸被仰出。被得共意、従比方手出し不仕様犬ニ候
と達してみるのを思へば、彼より隙を開かない限り、兵力の使用を禁止したことが知られ
る。 は に 丁
加 之彼は途に奉行の要求を拒み
巨 、 リリヒ} 、 *に ニ
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前例に背いて、武器弾薬の陸揚を育んじなかったけ
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* て各りてみないのであるから、外船待 遇の寛大性が、ます〜魔
大 したものと 〜プえる。い
。 (して兵力使用の原則もまた全く破城 せられた。蓋し幕府は、共
禁令を励行する貸めに、一日 武威を示したに
*ム にもか 、はらす、こ
ることを、希はなかつたからであらう。 ㎞
府國

明す
幕領

科澤 闘
の に

なほ注意すべきは、老中から奉行等に授けた奉書である。即ち前文のつゞきに、
比度彼國より封日本、縦身命を捨候てなりとも、御奉公を可仕候由申候得共、それ程ニ可奉存筋目な
く候。難然第一、数年御制禁之きりしたん宗門を弘候儀、向後仕まじきよし、憶成誇擁書等有之者各
海御停止たるの間、比外は、何事を申立候
別候。左様ニ無之候得者、右宗門之儀ばかりニて、彼舟渡海御
-
とも、曾て以て御承引あるまじき事。
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***
とあるのは、耶蘇教の禁止が、鎖園の原因たることを説明すると共に、共裏面に於て、布 ーグ Dyォ7
教に無闘係なるよしの絶封の保誇だにあらば、再び渡海を許す意志のあること
る を、不用意

の間に浅らしたものと思はれる 。幕府は通商貿易に就いて、かなりの執着を持つてみる。
鎖國政策は必すしも幕府の欲する所でなかった。従って宗教の闘係を離れて、鎖園政策は
存在し得ないのである。
幕府の衛菊牙船に封する虜分策の緩和せられた後、共影響は次第に濃厚を加へて行く。
されば慶安二年四月には、在府西園諸大名の家来一人っ、を、老中阿部忠秋の第に招き、










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を護送した際には、これに封して米三十俵を興へるのが恒例であった。 即ち比時の虜
分は、支那、朝鮮、和蘭に準じたのである。暇令再渡を禁じたとはいひながら、幕府の方
針が、著しく鍵化したことを承認しなければならない。
長崎に於ける
應接を原則と 幕府の最も嫌悪せる菊菊牙に封してさへ、かくの如 くである から、共他の外國船に封し
する一般異國
船の虜分 てはなほ更である。是より先寛永十七年幕府が、九州諸藩等に下した條目の中に、

かれうたの外、唐船井異園船着岸之時ハ、比以前御仕置之ごとく、はやく船中の人数を改、陸地へあ

げす、長崎へ可途出事
と見えてみる。こ、にいふ異國船が、衛菊牙以外の外國船であることは、修文に明記する
所である。即ちこれを長崎に護送せしめる慣例であった。殊に正保二年二月松平頼重 ㎞
審 *
㎞ に授けた老中の奉書には
異園船領内之浦へ令到来、訴訟之儀於申者、船中之者気遣無之様致挨拶、至長崎、以奉行人可途訴訟
旨相含之、差副案内者、彼地へ可龍越候。若在共所て訴訟仕度と申候ハ ゞ、番之者を付置、共趣大坂

“ミた リ / 己 大 い 、、リ /)nj 、十字へ日住時以リ%、 矢o む 白
こ 、上に○HL川 、日
様存候。共上常所ニハ通事無之 長崎へ 能越儀 候ハ ゞ、可騎帆之旨含 之、被相構間敷候。更角
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○ 清時べ松
リ 月、“日午支配 に下 公エ矢月、 N へ 天 千り中支、、」日守ェ矢5
日本へ可貸商、船渡海訴訟候間、彼輩不気遣候様ニ可被心得候。年㎞
第 三 編 寛永 乃至 安永 時代 一八
と見え、大鶴の虜分は同じであるが、「船中之者気遣無之様致挨拶」 といひ、「彼輩不気遣候
様ニ可被心得候」 といへるなど、極めて穏かに、また彼等を刺激しないやうにしてみる態
度が殊更に目に着く。それだけ幕府の注意が挑はれてみるのである。かくの如く長崎に護
送せしめる恒例であったとすれば、共後如何なる虜分をすべきであらうか、資料が鉄けて
詳かでない。然れども慶安三年四月老中阿 は
り共時の事情に従ひ、適常の方法を採る積りであったらうと思はれる。
所請異國船には、寛永十六年七月老中の奉書にあるが如く、菊菊牙船を指した用例も存するから、
㎞ 断定することは困難であるけれども、概ね術菊井以外を指す場合が多いゃうに思はれる。今比
見解に従って置く。
焼津
の卒
討三筑
藩前

船唐
外戸

是より先正保元年六月肥前、筑前の海岸に、一隻の異國船が渡来した。比時筑前㎞平


戸㎞唐津㎞の三藩兵を出して船を焼沈め、大砲を分取した。三藩の虜置は、もとより共
専断に出で、幕府の命に基くものでない。 し寛永十七年六月幕府の下知状に、南
獄船が来た時には、速 とあるに従ったものと思はれるけれど
じ下知状には、沖懸りの
沖 間は、卒爾に進撃してはならないと戒めてみるから、明 か
である。また 一般の外國船ならば、
の 同じ時九州諸藩に下した修目に於て、長崎に護送すべ
-
、 日が記 “ *てる。から、なば更法令に背いた行といふ外はない。然るに幕府では、豪 め
もせす各め*せす、全く不問に付してみる。共理由もまた詳かでない。面もそれが幕府の
制規と相容れないことは、右に述べた如く、また翌正保二年松平頼重に授けた老中の奉書
を見ても明かである。故に世上では、分取の大砲にある横文字から考へると、多分英吉利


の軍艦で、新水食料を求めに来たやうだが、事情をも紀さすに焼討したのは、不行届の仕
果や


した船
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これまでは、 張國船 の水た時には、 長崎に逃 すべ さであったのを、 比時、
船を留め て長
術來行の指令を仰くこ~とになり、 取扱上多少の酸化を生じた。 かくて元文四年將國船
の、
當五月下句より、 泉州遊、 杨州航海上 へ 、 與國船相見中條山。 陸 へあがり 除 公 % 討 さ
道、 江淮河有
之丘陵 地線列强大修正か いたし、 南人眾ても不平衡、 可致上連線 路。

+
,と述し、 法海に支配所を有する代官、 和所を有する諸大名にも使道 书 ,しめた。 こ ^に
上陸
注 と
通商國制限の
情勢 要するに、 非怖の敵國政策は、 耶穌教の禁止を絶對の目的 とするものであり、 國民をし
て 足も、 海外に踏出す を許るさなかったことこそ、 制令の服なるを見る べ さである
が、
我が図に渡來する外國船に封しては、 葡萄牙、 西班牙 以外に、 これを拒絶したので
ない。
几然数の手段,として 資材を縮少したが、 長崎港がたけは魔く これを開放してみる。
されば國
،،*
兄 は 夫人 に,5 ㎏ 成 を片 , * * * * 行い 頃 の 旧 体 ・ 日生部 ,し 、 世上 では 、 北宋 國 船 ~ 部的 定 しれに
吳 國船 の株式に、 吳語を記 く たばかり でなく、 池湖、 女南、 東端末なさは、 趙國 の後に,5
淡水した。 然るに過經、 安南、 東端尖も、 いつしか 來なくなって、 支那、 和蘭ばか,9 が後
されたので、 比二國 のみ が、 通商の特權を有すると考え られるまでに、 酸化するやうにな
た。 正德五年兼作が、 長崎路易を改革した際、 間人 へ の中波に、
最初政難巴、 利未亞、 亞細亞等地方の人網を中上、 御來也を被成下、 通商の事を免さる人 もの
國、 英のも収録の法禁を相似す 事により て、 永タ 往來を禁經がらる。 其中阿蘭花、 通道の南國任か
は、通商をゆるさる) とい へ とも、 通道の人網の後は中絶し、阿蘭花人は元の如く制覇をも被孙行?
うに 想
新列。
~あり、 通商國に制限の ある ことを述べ て わるのは、 考の愛は つて来る艦艇を示すもの で
あった。 かくて世の下るに従い、 通商國,としての質際の有様に師して、 かやうな考が次第
に浮 、 法に松山をして、 逆には、 かれてためである高の外には
*
ない,といはしめ、 文化使の東側をして、 通信は流球、 朝鮮、 通商は支那、 和的に限る と
いはしめ たのである。 其將網は下文に渡って広く。
越戰政策の 成
立 光が樹皮炎を採っ
カ た超對の日的は、 耶穌 教の妹的にあったけれとも、 而 非怖をし

|的
第 1 章 < 而 以前 に 於 ける 光 光 の 劉 外來 1||

江永ル王安永時代1回
--
る所が、國內の平和にあったので、事を外國に挑、みが知さは、
保二年鄭芝龍が後を求めた時にも、また、慶安、地治の交、鄭
にも、延安がこれを細いてみるのは、いつれも背、かくの知さ期待に山水するものであっ
E=------
可け
た。體化節風災を維持さんがゆめに、永年間には、無制を犯して栄した所成
南楚能に対して、武力機不の手



か 武道成政策,經國政策とは、京府 の


る所,となり、一切の外國關係もまた、比二つ 政策を考慮することによって解决斗
㎏ のである。而も共產品時、我が図カ、光の成性は、共に破んであり、また海外路面の勢力
》和政策との測


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の、我が図を脅かすものがなかった 能(明政後來の調和を保ち、少しもオバを収しな
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しれにげ れとも、 それ か 仪 は 東(阿難を成 し、 共關和 が むつかし( ; , た。 若 し過戰敗後來
の根底には、 愛に服するの軽快 を要し、 敵國政策の維持 には、 これを可能ならしめる質カ
の存在を要する。 江戶時代の はじめには、 1つながら それが あった。 これ北端和を保* 代
た所以である。 然るに海外語國,との新らしい関係の数生した明和、 安永の交に於て、 我が
國力は文 、 何平も散州諸國の下風に立つ やうになった。 かく て拡散策~運載政策 との
それが 始將 5 れた。 明治維新 、の進歩 きた、 竹 にこ ^から出發*るのである。
情簡
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はじめ池は、 趙國政策を採って、 科及 港を 長崎 だけ に限定したが、 而入 长崎竹 を制


、º 然るに企銀
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トとを成し、 古文二年に、 これまで無制限であっ た構的:
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S 功を用いて、 彼德川の物に 移行平、 或网的世の 長使にあらす。 古より 北かた段收いまだ外掛
の 資 を作ら す 。 されば 義村S 外は、 他に求れ 、さ物もなし、 海州水( *らむ中、 古 の 如く な0,ても
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第三編 寛永 乃至 安永 時代 三○
本邦にて翻し緑取事は、民間のいそがしき中にて、農業と取まぜてすろ故に、よき 綿、よき締出来、が
たし。共上少なくして用るに足らす。武士の妻子、大身は無用の遊びに日をくらし、小身は盆なき事

うつくし


綿
白じく

べし。今綿にて締 とろに、 人のとろ


なれども、共下の人のとる
は、格別おとれるにて知るべし。然れども今より桑をうる て、盛んに出来る間、十年十五年は、異國
* トト こ 大學
より渡さでは事峡くべし。
との前提の下に主張した。即ち生緑の國産を奨励して、共輸入を制するのが、目的である
けれども、今直ぐの間に合はないから、それまでの間、なほこれを海外の供給に仰がなけ
ればならない。海外の供給を仰ぐに は、平戸の開港が必要であるといふに
自給自足の説を有してみたことは しこ
日本の 四海に勝れたる 『
も劣り行く事は、山澤の至精を蓄へ隠さすして、金銀銅銭多く掘出し、異國へまで渡し、山荒れ、川
くなりたる故にてもあらんか。又有無を換ふるといふことは、換へすして不吐物ない。薬種などの
を来 すとも、政道の有りゃうにて、日本の中にて事足るべし。書店
マ、『*の“ のみ用たる時は、却りて人道も風流に作りき。近代店店物多く結構なれども、人道
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第 三組 府 東方 主 安永 時代 三
新开自有 常,と考え たのであらう。 また新井白石 が 同じ理由から、 長崎路易を改革 したことは、 性に
天野信社 遊べ て松いた。 かくの知さ比解を有する者は、 北後にも多く、 天野在法は魔鬼に於て、 三
'流形図
欧几场份 正高
市木兒 。
梅州は彼に於て、 仲間の恋を成し、 平に至ては、
~て、 資材の停族を説いてみる。 而も同じ 見解を抱いて、 結論を異にするものもあった。
政协改*會 三宅制御が、 發射法師の言を引き、 金貨を輸出して、 無用の容物品を呼ぶの不可を論し、
三宅製劑
!-- *- - - - - -- -----_2 + 所位、 -
-- - -
光大學科水土之不可快地。 而將之金、 不可利爾將、 翼 及航空機關、 可信者參取、 以容成性
加, 而知後他eN知 州立以將羅氏 桃、 カ作之物, 而发生不停地方英日以判之 影響。
佐久間來出川 ~い へ るが 知さ、 佐久間來加 が、 金銀制 の流出を受 《、 新开白石 の所見に賛同の意を表し
古よ 0年々 にとり行し とこみに比サ ば、 非 傳なれとも、 右 の ことく个或因通用なさ品され 、 彼地に と
--- -- - - - - ただ
1831 ㎞の道を変え なるべし 訳
~て、 外國貨幣及び我が古金銀幣人の災を説いたのは共 一例である。 若し路易の方法に、
或種の鍵革を施さうとする改善論であった。
貿易讃美論
三輪 執斎
以上の人々と相反して、金銀銅の輸出を、必ずしも不可としない者に三輪執斎がある。
共説に日く、
問、銅鐵金銀を異園へ渡申事は、捨申同前に候。いかゞ候はんや。日、吾國のうちにて、東國のもの
を西園へつかはし候も、日本より唐へ遺し候も、天より見れば同じ事に候。大やうに御覧可被成候。
去ながら無用の異國のものを、日本へ買入申事、とかくいらざる事に候。況大切の金銀を、他へ遣し
申候をや。ェ
執斎は長崎貿易の質情に即して、奪移品の輸入に反封したけれども、大局の上からは、寧
ろこれを承認してみる。彼は必すしも貿易に封する悲観論者でなかったやうに見える。然
れどもそれ以上の説を述べて み
錦山様泉生 -
ー/

と稲して、貿易の貸に間園の虚耗を促すといふ
於異域殊方面乃足英。夫難足、使設崎面入通華夏及諸獄
比面官家慮濫法借度、居鎮伴守崎。故華夷通商、可
- }
態度 三三
平庸、都督城、 朱元磨川雅也 將那托 樸



~て、 共學の面倒を利し、 光を標する所以な
太字系 發 る。 発 で太宰空も、 諸大名の航 Nを救 の策を論じて、
他國人 交通して知用を足すべしº 是國を広ます術なりº
~
~い へ るは、 內地質 で、 外國貿易ではないけれとも、 松前民が 戦火 と廊坊し、 宗氏が個
-
館 と協助し、 島津氏が 加味 と資材 して、 常有の問を ある ことを果け、
對馬、 陈泰、 松前は、 非外関 の貨物を占め て、 一 说より放り出せば、 他の諸侯の比類する所に非すº
C 經濟
錄為武
~就 いてみる のを見れば、 朱雀3また外國貿易 の護送者 であった。
かく の知(秋 に関する種々 の意見が行は 打 てみるが、 いつ れも非常時議者 の考察であ
5、 後成は開國論 の湖湖を残し、 文或は納國論の基礎 となり、 天明以來の世能 に影響する
所多く、 延いて封外後にも、 王大の関係を持つてみる。
此時に際して、 我國には まだ政國外患,と帰す べきものがない。 故に外患の意識を基礎 と
ったけれとも、 明の城巴~、 満の物與,とは、 趙國 の 日本にも影響

---
文事あるものは武備 がりといへり。文事は治園平天下なり。まシにしてシす、シ
なり。内堅固なる第一は、道ありて和し、兵根多なり。外園のお“る、第一は、弓馬兵法のだしをみ
ふかく、土民ともに達者にて、武園の名に叶ふ也。今の急務は、兵 が多く貯るにあり。北秋店土を取
て、本邦に来りし事度々なり。今己に店土を取れり、ょも来はせじとおもふたのみは武備にあらす。
今北狭来りなば、彼と合戦までに及ばす、内虚にして、人心散する事あらん。シ
太宰春豪 とて、 像めこ これに備へる必要を論じ、 また文曾雑記によれば、 太宰春豪もまた、

ノ\

日本古ノ漫備、殊ニ東北ニ備へ タ ト見エタリ 。今 西海ノミ漫備ァリ。モシ清人、女眞ノ方ョリ、
リ。
北海ノ奥羽ノ漫チ疑ンニ、共備ナキコト、 然ルべカラズト云へ
と見えてみる。殊に幾度か支那の貸め *}
たのは常然で、貞享年間支那入寂の風説の行はれた時に、同藩士賀島
- こ * 芝 ーい - 用 Hい A
る急務を論じて、藩府の注意を促してみる。ェ『かく し
を 驚かすものがなく、再び情眠を貧るの際、支那よりも更に
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恐るべき勤敵の出現に遭遇するに及び、共意識もまた明確となり、こ、にはじめて近代日
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争が起り、共報告も松前に達してみる。松前氏は常時既に、露國南下の勢力の、潮く自己
の領域に迫って来た質際を暁ってみたに相違ない。 ㎞、
露人の蝦夷地 かくて安永七年六月、露人はじめて根室の霧多布に来て、同地運上屋に滞在中の松前藩
渡来と貿易開

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八は、重大の事件であるから即答が出来ない。明年再び来るようにと答へて騎帆せ
松前に騎ってこれを上申した。然るに松前藩では、共請を都けることに定まり、特に上乗
役浅利幸兵衛等を霧多布に遺はし、折しも再来せる露人と曾して、異國との交易は長崎一
* - た、ら A
ヶ所に限り
基外は禁じられてみるから、許すことは出来ない。長崎に赴くが宜からうと

和蘭人がみるから好ましくないと稲し、 途に同地を去つた。 * r f
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と述べてみる。露國からの輸入品は、園法に鍋れるのでこれを禁じ、満洲、山丹からの輸
入品は、制禁でないから許してあるといへるのを見ても、露支雨園に封する松前氏の態度


なければならない。これ一面に於て、露園





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ものである。面も比時に常って、切迫

べ ニョーブスキーの漂着に就いては、田保橋教授の精密な研究がある。 近代日本外さ
ヨ い"* *
出 い仁 ーに、 たり むり い* ri *
露園の野心に 園闘衛シ 然れど
闘するべ ニョ
ープスキーの
警告
も本書に於ては、詳しく共事情を語るほどの必要もなからう。寧ろそれから受けた刺激に
闘して、多大の注意を挑はなければならない。べ ニョーブス
園の捕虜となって、カムチャッカに追放せられ が 同
走の途上、阿波、土佐の海岸に寄港して新水を請ひ、更に琉球の大島で、重ねて
めた時、通かに書を長崎なる蘭人に寄せて、長崎奉行へ の書輸を依頼した。書輸には、
日本人の扶助を威謝し、併せて露人が砦を千島に築き、また密に松前及び附近の諸島を蹴
露國の野心に
闘する関人の
警告
ら波れて潮く世上に流布せられた。ェ㎞ 、面してこれと殆んど同時に蘭人も
--
明和八年及び天明元年の風説
㎞㎞*
書には、露園が我が國 に封して隠謀を抱ける事 我が漂民を状助して、 日本語を東学べる事
な*記し、シ㎞・なは明和、安永の頃にも、露國がカムチ・ カ、千島附近を質
食して蝦夷を窺へる事、北から南に進むは易く、南から北に進むのは難い。露國の南下は
比天理に基いてみる。今の内に備へなければ、将来の大害を醸すであらうと告げた事もあ
った。林子平の如きは、親しくこれを蘭人から聞いた一人である。艦㎞。、また工藤球
卿も、和蘭通詞に聞いたことが、共著赤蝦夷風俗考に見え、平澤旭山も同様であったこと
が、新村博士の績南量廣記に見えてみる。かなり廣く流布せられたのであらう。
鍛夷地密貿易 日露密貿易開始の風説が、世上に博はつたのもやはり比際であった。狂歌師として名高
の風説(共 一)
い平秩東作 ㎞ の如きは、既に早くこれを勘定奉行石谷清昌
警告したことが、勘定奉行松本秀持の幕府に提出した上申書中に見えてみ
㎞ 然れどもいっ頃であるか、別に説 れ
月から、安永八年四月まで、あるから、勘くとも安永八年四月以前と推定せられる。また
こい よ、ヨn い )〜にち上す 2 L Fこ、
如何にして東作が、共事質を知 つ たかは、同じく秀持の上書中に
- と -- -- --」 --) - に」 - 属に ○済
稲毛屋金右衛門と申町人:先年より書物好にて、桂川市筑方杯へ参り、且松前志摩守魔
第三章 日露の 接鋼と 夷 地経管論 四
-
--
開 次

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すべきかは最大の疑問である。またこれを立設すべき正確なる史料 も博はつてみない。
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露國の勢力に
封する國民の べ ニ『ーブスキーと蘭人との警告、密貿易開始の風説は、 相前後して、殆んど同時に世
憂慮
上 に流布せられた。是に於て愛國の識者もまた、はじめて露園の勢力の恐るべきを知り、
北 海の情勢に就いて細心の注意を挑ひ、幾多の封策が試みられた。面して共最も早く提唱
せ られたのは、蝦夷地経営論である。
蝦夷地経営論
の由来 江戸時代に、蝦夷の富源に着眼した第一人者は水戸光園である。元藤元年新造の大船快
水戸光陽
風丸を蝦夷地に遣つて共職域を探り、石狩の地方で土民と貿易した。蓋し物産の利を征
佐藤信景
る考であらう。㎞ 尋で佐藤信景㎞が元藤十一年に、蝦夷地に来て田畑の試作を


貸し、牧穫も多かったので、開國新書を著はして共方法を説き、また土性難を者はした。

道藤
海佐

面も途に共志を遂げることは出来なかったのである。難㎞ ㎞正徳、享保の交、
並河天民 並河天民もまた信景と志を同じくし、蝦夷開拓のことを幕府に上書しようとしたが、提出
の機曾を得すにしまった。開職録と稲して、世に博はるものがそれである。即ち土地人民
は、天子将軍第一の質であるのに、蝦夷の如き廣大の土地を捨て、置くのは、遺減である
といふ事から説き起し、蝦夷地には五殺が熟しないとの説の誤りなる事、もし共開拓が成
第三 章 日露の接鋼と 夷 地 経営 論 四七
第 三 編 寛永 乃至 安永 時代 四八


り、





s

*

就して、産物を出すやうなれば、物畑


比園の者共、耕作農業の道を教へ候て、國の最中を開き、國郡御分ち被遊候はド、数年の中には、見
事なる園土と成候て、日本國と一 つに成申すべく候。左候はゞ、大日本を又々増候て、大々日本とな
り可申候。
といってみる。なほ松本胤通の獣岸微裏によれば、天民が蝦夷地から満洲に攻入り、これ
を経営すべき事を、再三幕府に出願したけれども許され


を過ぎ、「苦」陽祭雲獅自奇、貸遊東海失騎期、無情最是闘門吏、王者三過曾不知」との詩を
賦したとのことであるが、天民は江戸に下ったことがないといふから、闘門賦詩の説は誤
板倉源次郎 であらう。また満洲経略の計書も、容易に信せられないやうに思ふ。尋で元文四年板倉源
次郎は、共著北海随筆に於て、松前氏の治所を、形勝の亀田に移すべきを論じ、
比地を府中とする時は、往々仙豪、水戸漫の船 々も入りつどひて、箱館より江戸廻りも自由なるべし。
といひ、更に亀田を基として開拓の歩を進め、然る後、宗谷と霧多布とに府を置くべきを
説き、
数年を経て成就の後、西海路ソウャに府をする て、カラフト島の通路をおしひろめ、夷人の望む所を
興へ、交易を大にする時は、数年ならすして長崎の如き大湊出来て、本邦の利潤あげてかぞへ難し。
又東海路キィタップにも府を置て、島々の夷人どもを撫育する時は、土地ひろまること極りなかるべ
し、比決業数 日年に至らば、大下の シ、諸日氏シを蒙るべし。
と幕してる。共所請開拓は、シ工ょる利を征するにあったが、 にな銀の採
#*また重要の政策である。故に蝦夷地の廣大旦金銀に富むことは、人の知る所であるか
ら、採掘の利益あることを述べ、
これ容易ならすといへども、又これを成しがたきにもあらざるべし。
と結んでみる。蝦夷地の金銀に富むことは、尻に新井白石が、共著蝦夷志に於て 「山産金
銀、海出青項耳」 と説明した。面もあまり世の注意を引かなかったのを、比頃潮く喧博せ
られしもの、如く、板倉源次郎もまた、金銀山探険の貸めに蝦夷の各地を巡行したが、途
に得る所なくして江戸に騎った。北海随筆は比旅行の副産物である。これから蝦夷地の金
銀が、世人の話題に上り、途に誇大に博へられて、蝦夷地経営の策と密接の闘係を生じた

ことは、次第をこれを聞かにする機倉があらうと思ふ 基後安永七年シ山の最%に遊
んで、松前氏に客たりし時、開拓の説を藩主松前道魔に勧めたといはれてみるが、共意見
は博はってみない。要するに水戸光図は始く措き、佐藤信景以下の論する所は、概ね蝦夷
地の開拓によって、國家の富を増さうとする経済策であった。蝦夷地経営論の由来も一朝
一夕でない。然れども露國の勢力を意識し、國防上の見地から説を建てたものは、長崎の
第三 章 日露の 接編と 夷 地 経営 論 四九
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知りながら、まだ封常の策を建てる逸のないをりしも、早〜ポ基地の経営によって、露園
の勢力を防ぐべき説を唱へた。議見の勝れたのを見るべきである。耕牛は、たゞに 関事者
「 一
として、吉雄流督術の創始者として、また海外の形勢に通じた先豊として、重きを貸すば
封露論の嗜

かりでなく、更に國防論者として、蝦夷地経営論者として特殊の地位を占め、封露論者の
松前廣長 鼻祀と仰がなければならない。尋で松前廣長の松前志を著はすや、共露國との闘係を述べ
こを 本 に- 、
*7 和#
夷地廣シト難モ、北狭地方ノ廣大ナルニハ及プべカラズ。故ニ北狭ノ地ハ、我東北ノ諸島ラモ引包。
タル如ク思ハル、ナリ。サレバ熊澤次郎八ガ大學或問ニ、日本北狭ノ備ナクシバアルべカラスト 至置
ケルコト、誠ニ宜ナラズャ。

と稲してみる。弦に北秋といへる 、露國の事であった。審山の大學或問にいふ所は、明
を滅ぼした清を指してみるが、廣長はこれを轄用して、封露の策を述べたのである。蓋し
また露國の勢力を威知し、蝦夷地の経営の怒に貸し難いのを聴り、これに備へることの必
要を説くにあった。思ふに松前志の著作の如きも、蝦夷地の経営に役立たしめる貸めの企
であらう。然れども耕牛、廣長には、まだ具鶴的の策論がない。面して共これあるは、質
に工藤球卿にはじまる。共説は次編に譲って置く。
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更章



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文化を、 知何に町に収入 れて みるか、 また日
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-> 、 唯々を要 しない所であらう。 常時の 日本人
彼はし~とし、 歐羅巴に西亞 米利加に、 共運命を開拓しよう として、


の取締st
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神道他
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日本人は背から、 かくの知 さ進取の因反であった。 然るにはしなくも近水


の敵國化 によ
つて、 共文化、 共闘力の教徒を阻害し、 進攻開國の精神を停滯せしめ たこと
は、 我が 近世
史上、 最も重大なる出來事 である。 而して近水の )
> 範囲ん が、 耶穌 ~
行はれ たのは、 改めて述べるまでもない。 即らそれは、 北総数を禁通
耶穌 教を禁過するのは、 共修道 に作 政治上の波蘭を恐れ >
私れを抱か しめるだけの素因が あったから である。 若し此時に常 9、
我國の上下は、 長い
間の戦術 に敗れ、 心から水牛を熱望してみる。 故に友不 の機能を
の 防ぐ ? ~、 あらゆる総省

を排斥,しよう としたのは常然 である。 而も彼等 の信する所に よれば、
ルイ
耶穌教及び 北縣政
官校師 の 日本に及 ばす影響は、 カに それに 相當する もの であっ
た。 かく て送に北非凡
) の減少'*' ** * * *~・ クイ 、 銀圓 形勢, 原敬した の w s る。 此 \
人 として、 袁術の銀圓球隊 の政策に、 反對するもの なかみ に,が、 明か に
L' 社を設
، 地
してゆる。 東 、“ 神風は異論であり、 また貨に時代の要求さり ク に 応 で の愛犬
に従い、 國家の不安~称作 とを維持するが 狗めに、 これを断行したのである。 従って触
-
禁数の政策は、 それ自身に存在の意義が あった。
民族性と相容 常の範圍成後は、 かを得ない平常に歩いてかる。 然 とも進攻南面は、 我が風の*
* 能的精神であり、 日本人もまた、 極めて進攻的の風 である。従ってそれは、 我が地域的
脚に背さ、 日本人の気性,とは、 相容れないものであった。 假令時代の要求に従い、 一時
經國政策を断行した,としても、 永久にこれを持續することは、 劉德洛伐る所でない。 最




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に基づき、 も,との姿に復歸する情勢が、 次第に動いて水


るのである。 従しそれは、 前に述べ たやうな時代の要求が自然に消滅して、 他の新たな
る要求の起る時 でなければならない。 其間相常 の成几を要したのは勿論である。
耶維数の再於 趙國以來 一 世紀に近い成月が流れた。 其時先?我が議者 の間に起ったのは、 郡縣数に封
味(其 1 )
する反省であった。 即ら部隊教なるものは、 作て信さられた知くに、 また个でもなは 一般
に信徒られてあるが
-
知くに、 果して光宗である や不 名)、 日 yれが政治問題 と結付 さ、 他國
第 1 章 小 さる 進攻 開明 の 精神 五五
第 四 編 天明 時代 五六
を侵略する手段に供せられたものであるや否やに就いて、再玲味をして見たいといふ考の
起ったことである。面して我が識者をして、かくの如き考を起さしめる機倉が、偶然にも
れ 黒馬

布|1
質永五年に作られた。それは羅馬人で宣教師であるシドッチが、比年萬死を冒して、布教
たから である。幕府は初論シド 。チの要求を容れなかった。彼は小石
石川
新井白石の の切支丹 屋敷に幽閉せられ、そこで新井白石の取調を受けた。取調の結果、自石の
考察

察 が、世上の常識と、
得た耶蘇教に封する考察

I
著しい相違のあったことを注意しなければな
主へ
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といひ、またシドッチ虜分の建議にも、
法もと正しからすといへども、我國を謀るといふは質なるべからす。
とも稲してみる。白石はシドッチの説明を聞き、面して過去の歴史をも回顧した後に、潮
く耶 転 教共もの、性質は、決して悪いものでなく、且また日本を奪ふ政策をも伴つてみた
~は思い ル ・い ~の社論に 到達 したのである。 白石 が成帝之 靈 址、 冷静に安門の精神と比
有してかるのは、 沈下に北見る所が高い ていはなければならない。 他自在が 「其法,
しか * ~いってみるのは、 李守る元宝の数を標準 としたものであり 、また大陸に於
て、 佛教~前→の~見てあるからである。 故に西洋紀開にも平を論じ て
大約其数の由来する所、 西大洋風の説 に出 º . 今 ェイズスが法をさくに、 造像あり、 受戒め0
源氏 のめ、 神經あり、 念珠あり、 天堂地獄、 輸艦戦の説ある平、 佛陀の言に相似すといふた 、
其波浪の世しさ に至りては、 同日の論 とはなすべ からすo
~稱してみる。 白石が催者である以上、 かくの知さ考察は、 巴れ を得ない所であらう。 而
*も
然 とも盛 s地出来たれば、中開く平屋かんべし % 討 *
ーと いび、
被國の人、 非法を盛岡にひみめ然平、 関を奪い彼德格にては無之役« か開に彼といとも, 生法隆
んよなめ彼 は、 もの っから北側に反逆の正子出來然平は、 また%然の理教にて終戦 もかくは大明
三百餘年の天下、 はみは 使李の端は、 三ヶ峰有之使うち、 北條は、 比法 の行於火 の山 にしか
に非怖の寺に州立 候。 大明はみが使李は、 大蛇神名 の比の平に破 大明にては、 北の階建
之-州立 候成に、 或民にてはささだも彼て、 彼法をさびしく制制策被邀、 於个北省 かに絶斯生總

|
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第四組 ︽ 明 時代 五人
* 初名義の神拳 、作詞來在陰險。
~いつて、 禁数の政策を設委してある。 また幕府が、 佛教を以て部隊教を制するの政策を
評しては、


た ド その皮を以て東を治行、 時の構在には出かれとも、 虎をす ( みて彼を頼る。 またその受なさに
あらす。 戰
~稱してみるのを見ても、 所謂 「其法も,と正しからす」 ,とい へ る考察の非(明が想像せら
れる。 かく の知(白石は、 なは荒派教を以て 「不正」 の故,とし、 光の禁数政策に同意し
てわるけれとも、 而も 彼國の人、 英法を誘因にひみ め候事、 國を奪か使球路にて
段、 分明に破」 ,とて、 世上の考察~此許,とを、 斯從不定してあるのである。 威に放熱の議
論であった。 こく に近世史上に於ける重大なる意義が掛んである。
部總教 の再於
映(其 二) 白石の見解は、 江戶時代に、 耶穌教に封する考察の、 一 變すべき離婚を示すものである
松生很像 の
けれども、 其後なは哲くの間、 かくの知さ此許を試みたものはない。 たく 親生和彼が、
フル人無+放 、 共教和阿す ルトムナル人無シº 能进、 佛道、 神道 文帝 、 惠
可數 千計神シ。 是 m ッテ切支开ノ非戰神座 有影 す モ、 衛者下 を 見を習
度类也。 戦
と稀し、完全に禁過の質を撃げるには、まづ共教旨を知って置〜必要がある。せめて信者
けには、幕府の文庫にある切支丹闘係の書籍を譲ましめて、取締りの方法を講じなけれ
ばならないと論じてみる。かくて祖徳は途に比主張を、彼自身の手によって質行した。共
崎人践に目く、
外人見、部共書、偉海舶不貨。以故衰内莫知共教所云何若也。喧
安知共革面面包顧、或潜平他教也。共書弱存、将何以 数之哉。赤有司之過也。尾藩津田大夫、偶獲崎
人十篇、赤不能審共貸何 就 予讃之、始得識彼之説。因軟、世輝膜談道、面不自豊墜者
何限。途伴算一通、以貸燃 尾照椎之共云。
享保内午七月初九日 物 茂 卿 識
崎人十篇は所請利馬質の著はす所、禁書の 一であった。祖徳はこれを讃んで、はじめて耶
蘇教の大意を知り、また燃雇照悔の具とするが貸めに、一部を寛して置いたのである。誠
に祖徳が政談に論じた如く、また崎人の戯に説くが如く、彼を制するには、醸じめ先づ彼
を知らなければならない。面も比事質は、一面に於て常年の識者等が、最早無批判に、耶
蘇教に封する世評を、受入れることの出来ないまでに、共智識懲の進んで来たことを示す
ものである。世評を受入れる前に、厳重なる批判を下さ・
ばかりでない。新井白石がシドッチ物問の際、教義を
第 一章 更生 せる 逸 取 開園 の 精 碑
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とであった。白石は非常に シドッチの人格に敬服し、
共志の堅き有様を見るに、彼が貸に心を動かさざる事能はす。ェ
といってみるが、それ以上に敬服したのは、彼の寧識であった。

共人博聞強記にして、彼方多寧の人と聞えて、天文地理の事に至つては、企及ぶべしとも豊えす。
上 三○

と口を極めて稀賛してみる。白石の著述の中、名高い西洋紀聞は、シドッチから教へられ
た所を筆記したものであり、采覧異言は、共教へられた智識を基礎として作られたもので
ある。要するに白石は、シド。チを介して、はじめて世界の形勢を知り、西洋の寧問の精
級なるを知った。殊にそれが、所請形面下の學問に就いてゞあったことは、
架きは、たド共形と器とに精しき事を。所請形面下なるもの〜みを知りて、
形面上なるものは、い

西洋文化 といってみるのを見ても明かである。かくして鎖國の日本にも、西洋文化の長所を認識し
て、これを研究しようとする機運が動いて来るのである。併しそれは、必すしも白石一人
でない。和蘭商館の賢師として渡来せるケシべ ルの、長崎滞在三年の間、共研究を助けた
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た除澤であった。
江戸時代の泰平が、左省移遊情の気 分を養ひ、士気の類魔、風俗の浮廃を助長する姿は、
ら代
分せの
的資時
好卒江
事の戸




暦、明和の頃から著しく濃厚を加 って行はれた所請享保の改革
日に 行す
か 免れ、心意行動の自由を求めようとしたこと
の反動として、多数の國民が窮屈な 束縛から

は、必然的にかくの如き時勢の出現を促してみる。かくて世人は、意の欲する所に任せ
享楽に吐り、奔移に流れると共に、 つ
海外事物に封
する興味
蘭寧事始の

基頃より世人何となく、彼園 持渡りのものを奇珍とし、継て共舶来の珍器の類を好み、少しく
侯㎞
なし。殊に故の相良有意次
好事ときこえし人は、多くも少くも 取 緊て、常に愛せざるはな 。シ の
常路執政ひ
頃にて、世の中甚だ華美、繁華の最中なりしより、彼舶よりウールガラス、 テルモメートル、
㎞ ドシドルガラス、 *クトメートル、 ドシクルカームル、 トーノルランター
レシ、 『ッシカラズ、 「ループル といへる和ひ、種々の器物を年々持越し、共除諸種の時
心を動かし、
計、千里鏡、ならびに硝子細工物の類、あげて数へがたかりしより、人々共奇好に甚だ
たり3
共窮理の微妙なるに感服し、自然と毎春拝鶴の蘭人在府中は、共客舎に膨く緊るやうになり

と見えてみる。蘭撃事始は、玄自晩年の著述であるから、幾分記憶の錯誤があり、明和


第 一章 更生 せる 進取 開園 の 精 碑 六三
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朝鮮
物数寄の流行する間から、西洋文物移植の途が開 f、 gにシの 。
喰入せられて、進取開園の新機運が勃興した。前野良浮が間事に志したのも、同郷の取江
鴨の示した間書の残篇に、刺激せられたといはれてみる 共上政治の方針がゆるゃか
であるから、江戸、長崎に於ける蘭人との交通往来も、割合に自由な貸めに、蘭人を介し
て、新智識を得ることの出来たのは、ます〜比機連を助けた。かやうな情勢は、共ま、
田沼意次の全権時代にまで持越された。林子平が長崎に遊び、将来海國兵談を著

を、蘭人によって供給せられたのも比時である。殊に田沼は、共著移を好む性質から、ま
味 世
更開
の取
耐進

生國 Jノ 幕 用 や
等が、勢力を占めてみた頃に於て、一般文化の進みと、泰平の除澤とは、園民の好奇心を
そ、のかして、舶来の め 洲の文 ーと
第 一章 更生 せる 逆 取 開園 の 精 紳 六五
第 四 編 天明 時代 六六
これまで國内に熱伏し、他を顧る逸のなかった人心もまた、再び外に向って動かうとする
情勢の、あらはれて来たことを注意しなければならない。かくして進取開園の精紳が更生
したのである。
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第四編 天明 時代 七○
代従せしめなば、金銀銅には限らす、一切の産物皆我國の用を助くべし。
蝦夷地開拓

とて、國家の富を増すには、蝦夷の開拓が必要であり、蝦夷を開拓するには、金山を開き
召井に共出産物を多くしなければならぬ。それには露國と貿易するのが有利である。何とな
れば、貿易の利益によつて、開拓の資金が得られるからであるといってみる。またこ、に
「井共出産物」 とあるのは、金山の出産物であるか、金山以外の出産物であるか、文意明諫
でないけれども、もしそれが金山以外とするならば、主として俵物、即ち海産物を指すも
のであらう。共つゞきに 「金銀銅には限らす、一切の産物皆我園の用を助くべし」 とある
から、海産物を含むものとも、考へられるやうに思ふ。かくて蝦夷地調査の急務を説いた
後に、
扱しらべ済ての後の手段は、奉行持にして、年々交代あるべし。
と論じ、幕府の直轄と貸すべき事にも及んでみる。然れども蝦夷地の開拓は、たゞ國家を
封露策とし 富ますが貸めの手段ばかりでない。蓋しまた露國に備へる所以でもあった。
て蝦夷地の
開拓 比ま〜にすておきて、カムサスカの者共、蝦夷人と一所になれば、蝦夷もラロシャの下知に附従ふ故、
最早我國の支配は請まじ、然る上は梅て返らぬ事なり、下説に種々の風説を聞に、東北蝦夷のかたは、
段々にプロシャに懐け随ふと承る。如比質説にて、一旦ラロシャにしたがひては、力およばぬ事なれ
ば、是までの様にしては、差置がたき事とおもはる、なり。只今までの通にて通路なければ、何事を
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第四編 天明 時代 七二
制なり。比ま〜に打捨あらば、抜荷は段々に巧者に成て、何程も出べきなり。是等の事を考るに、表
立ての交易有之より外にはなし。交易あれば、共向の人情も知れ、風土も知る、故、それに向ての手
常もあるべし。
利を好むは人情にて、抜荷は倍増すべき事なり。比るぞ日の抜荷に禁じ難き所あり。松前の下知にて
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に至りては、獅知れ難き所なり。紅毛の書にて考ふるに、ラ
ロシャの日本と交易を好むは、数十年以前の趣向と見ゆる故、いか様成事をしても、交易すべき心あ
りと思はる、なり。
蝦夷地では既に密貿易が行はれてみるやうに見える。果して然らばこれを制する事は容易
に出来ない。また露國が日本との貿易を望んでみるのも、久しい以前からである。情勢か
くの如くであるからには、寧ろ進んで公然これを許すのが得策である。共上貿易を開いた
貸めに、彼の國情も明かになり、制収の手段もおのづから生する。これ即ち球卿が、露國
と交通貿易を開かうとする第二の事由であつた。

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體設さられたと見る事の 安宮であるならば、 熱(~~5个同地,として取扱っ てみる大明時代
にまで、 劉 9得る可能性があるやう に思 。 果して彼らば、 資材の撤退、 科 達の路加を
役作~*る~香~にか ^はらず、 所前特定 の諸國、 部も海南二國の外にこれを許す事は、
やは小南側を意味するもの であらう。 此意義に於て工藤球軌の所說は、 常被開國會見な
^ ^ であった。 然れさ3それは、 かくの知さ考察を前提 とする結論であり、 何等の説明
を* *に、 無條件で購入るべきものでない。 為し天明時代は、 趙國の性質が、 教に愛
化しょう~*る過渡期である。 従って開園 の意義も、 趙國の本質及び北 愛他の過程から
二年に考察*る必要があらう。 なに共變化の過程に就いては、 次拿 下に於て述べ よう )と
思 。
第 1 桜庭 七九

に闘する勘定 戦夷地密貿易の風説が、幕府有司の耳に達したのは、前編 ㎞ に述べた如く、既に
-
㎞。一早く安永年間であった。勘定奉行石谷清員は、はじめてこれを平秩東作から聞いてみる。
清昌は容易に信じなかった の 篠大
め、東作と曾見せしめたけれども、六左衛門もまた、山師
是に於て東作は、更に松前の
しめる考であったが、やはり六左衛門を動か
に清昌は却て、弾惣兵衛の談話に啓発せられたと見え 門
に封する審問を開始せしめたのである。面も共結果は、要領を得すに終った。偶々湊源左
衛門の出府によって、密貿易の風説が潮く盛んになり、世上識者の注意は
るやうになった。 かくて天明の初年、工藤球卿はは赤蝦夷風俗考を著はし、また密
㎞。一にこれを幕府に提出し、㎞ 勘定組頭土山宗次郎は源左衛門の僕善吉に就いて、密貿易に
『「る誇擁物件の菓集を企て、東作は宗次郎と謀り、名を松島の遊覧に託し、祀察の貸め
に松前に赴くなど、共刺激が、種々 の形となってあらはれてみる。
㎞、幕府

もまたこれに鑑み、はじめて蝦 夷地の質地見分に着手する事になった。
幕府の密貿易 K m
幕府に提出せられた工藤球 シ の赤蝦夷風俗考は、まづ勘定奉行松本秀持を驚かした。秀
に闘する調査
持はこれ によって、露人が蝦夷、千島に来て貿易する事、密貿易の行はれてみる事を知
り、また共日露貿易、蝦夷地開拓の意見の、注意すべきも る
招いて詳細の事質を尋ね、更に土山宗次郎にも質し、湊源左衛門の説話をも聞いて、ます
ます事の容易ならざるを暁り、同年五月書を老中田沼意次に呈して、松前藩を訳問し、次

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第によっては、見分の者を厳夷地に派遣すべき事を建言した。意次これに従ひ、秀持をし
巡見使の蝦夷 て共任に常らしめたが、松前氏の具申する所が要領を得ないので、幕府は途に巡見使派遣
地派遣
の議を決したのである。是に於て普請役山口繊五郎、庵原弾六、佐藤玄六郎、皆川沖右衛
門、普請役見習青島俊蔵が命を含み、翌五年二月江戸を務して共途に上り、大鳥逸平、最
上徳内も随行した。調査事項は、Q露國への通路の有無及び共附近の地理物産、@



満洲への通路の有無及び共附近の地理物産、@厳夷地の産物及び金銀山
眼としてみる。 件
巡見使の調査
第 四 編 天明 時代 八二
人に闘する事を浅らしたならば斬首すると稲し、蝦夷人を威噛したほどであるから、二ヶ

年に互る巡見も、十分の効果がなかったけれども、なは左の事質を知り得たのである。
調査の貸め 一、請負商人等の請負地は、松前藩の 借入金に封する控保の性質を帯び、藩の政令の及ばない事。



知り


る事項 二、松前藩及び請負商人等は、蝦夷人 の進歩を喜ばない。力めてこれを愚にし、且私曲を怒にして、
彼等を虐待する事。
三、東蝦夷地は、厚岸、霧多布、國後を露國への通路とし、絹、錦、更紗、木綿、砂糖、薬種等を輸
入する事。
四、西蝦夷地は、唐太を山丹、満洲への通路とし、眞羽、青玉、錦等を輸入する事。
五、密貿易は、直取引の行はれてみると思はれないけれども、蝦夷人に取次がせ、露人持渡りの品を、
請負商人手先の者等が、内分で買取るに相違ない事。
六、得撫以北の千島列島は、既に露人が占有してみる事。
七、露人は脳虎猟を傘ねて、貿易の貸めに得撫に来る事が絶えない。またしば〜越年する事。
密貿易に闘 巡察使等はなほまた、蝦夷人の密告によって、飛弾屋久兵衛の支配人が、巡見使の来る
する嫌疑
前に、醸め運上屋所蔵の露人持渡の品を焼き捨て、或は海中に投じた事も知られてみるか
ら、露人との直取引も、必すしも絶無とはいへない。支配人等を勘問するならば、共漫の
事情が闘明するであらうと付言してみる。環㎞地
一件。
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江戶時代に於て、國內の日於和日记の絶滅に反對) によって宮をなす**ベ 3%討し
世俗の進歩を破り~したものは、球軌がはじめである。これ地球軌が、张牌名通讯
易を明かう)とする第三の事由であった。

店 stī
沈阳明を 光纤毛の交易にも、或因のナシャ,との交易の平をしれば、心のはげ入にて、諸式も併下市に可和
制する事の
利益 成、制度し高も減少あるべさなりº %此交易の直政を以て、片就足の直政につき合わば、

本五段、年々の相場、共に明かに知 ん>
海南風が、日本に於ける好物の利を縦断する結果、共融入する作物の信盛をも高からし
こ5
た。もしこれを飲料にも許し、互に競爭せしめたならば、物信がおのつから下落する。
橋街の二國,もまた、不相常の信技術を付ける事は 出來ないであらう。これ地球前が、松岡
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2定

*資材を開かうとする第四の平山であった。
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観光明新の
資金を得る
放物の利益を、製炎地開拓の資に充てる必要を論した事は、上文に公《心如くで
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事の利益
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出開
品 Þ།



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第四組 < 明 時代 七西
大岡にて、 城下は強固なれとも、 カムサスカは近隣 の上に、 陕北 かれば, 或因 S体物、 米, 將 體
の郡は、 命にかけてº法院成、 交易筋 は、 体物种社にても、 大方は李濟行 し …… …
の本 心は、 或因 の金銀期に、 日を防る と思はる( な08
'' によれば、 彼物を平 を払いてかたやうに見える。 然 とも断の本心が、 &㎝.
ある と想後した彼 もの 、加く、
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製炎を明外
~する事 の
見解
** 出家 老人 であた。 こ で性欲しなければならないのは、 戦友善の&㎝
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“ 、 永遠に松浦の 側に設ける御である。 而入れに代 へんに、 戰友提出の列 以
°S , 策 法の地図 るからであった。 武器に従 に、 戦災
風の 地 でない。 “た=木の 郡でもなかった。 製炎を除いた他の部分のみが、 紫雲の仲
** * 。 故に彼は、 所謂的地 の御を備えで、 戦災復出の例を伴いたがった 。
本。 《の 河” 字在するものは、 周 0球員はかりでない。 新光:野友, 93
* “?''*** ~、 水 の大=本史は製炎を外關條に列した。 光正解が… (*
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* 、、リシ #、シ ㎞、シー 〜 〜も 〜
、シ、シ -シ 〜ー、シ ** り ゅ日、シ シ 、 ・ ・も * 〜 、
れを拒絶すべき意志はなかった。また現に鎖園 の素因を作せるシオ人に封してさ へも、
耶無教に無闘係なるよしの絶封の保おだにあらば、再び通商を計すかも知れないとの旨を、
不用意の間に渡らしてみる。 同じ意味に於て、また同じ修件に於て、これを露園
に許したとしても、鎖園の精紳と矛盾するものでない。従って球卿が、日露貿易論を提唱
したといふ理由により、無條件で、開園論者として取扱ふ現代史家の考察は、明かに誤認
である。然れども球卿はやはり開園論者であった。たゞ共理由は、現代史家の考察以外に
求めなければならない。
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) ゲーミーグ ふ* 、L、) ばい、、、 い* j
露の貿易は、決してこれまでのやうな狭崎の範園
-
*-、 、Q *ーに 3 * ゲーくーグ **
だけで満足しない 寧ろ大規模の取引 を考へ てみた 姿する に貿易は園を富ましめるもの
第 二 章 開園 論 の 濫 範 七七
工藤球卿の所 “*
説が開園論た 劉園の精神はかくの如く、面してまた鎖園の精神を正常に理解する事、松前藩の如きも
り得 べき理由
(共二)
してみたけれども、他の一方に於て、長崎貿易井に封外闘係の質際に
『し、鎖園の精神を、別の意味に解科しようとする思想の起りつ、あった事を、見通して
はならない。即ち鎖園以来既に百有除年の久しきに及び、共間長崎に来て貿易するものは、
國に限られ
園は次第に共跡を絶ち、且耶蘇教宣博の意志を有しな
い以上、自由に長崎に於てのみ、貿易を貸し得る除地のあるにもか、はらす、延資年間の
長崎貿易の *〜
賞情に即す 門戸を叩いたものもなかった。従って、清蘭二園のみが共特権を
る貿易園限
定の情勢 有し、他の諸園は、これに均需すべきものでないといふ考もまた、おのづから生じたやう
に思はれる。 それには延質 間英船の要求を拒絶した影響が、 多少働いてみるかも知れな
い。共後幾もなく寛政年間の幕閣が、露園使節ラクスマンに授けた論書の中に、通信通商
*** *** *年間長 か にな生したもの ( ← _
祖康介 な~見る事の 安蓝 であるならば、 科 (~~~5个周期起,として 大明 氏
て ゆる 大明時 -
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に“で、 遼 代 可能性が あるやうに思 。 果して欲らば、 路易の魔城、 彼女性の増加。
術作~する~香~にか ^はらず、 所前特定の諸國、 印も常簡陽 の外にこれを許す事:
やはり開國を意味するものであらう。 此意義に於て工藤球制の所說は、 常総開國會見な
^ベ さであった。 然れさもそれは、 かくの知さ考察を前提 とする結論であり、 何等の説明
を 加 《 に、 無條件で購入るべきものでない。 若し天開時代は、 趙國の性質が、 特に愛
化しょう~*る過渡期である。 従って開國の意義も、 趙國の本質及び北愛にの過程から
元に考察 *る必要が あらう。 なに共變化の過程に就いては、 太常以下に於て述べようと
思 。
第1 桜庭
㎞ 戦夷地密貿易の風説が、幕府有司の耳に達したのは、前編㎞ に述べた如く、既に
㎞。 早く安永年間であった。勘定奉行石谷清昌は、はじめてこれを平秩東作から聞いてみる。
清昌は容易に信じなかった。併し幾分の疑もあるので、勘定組頭篠木六左衛門に内意を含
め、東作と曾見せしめたけれども、六左衛門もまた、山師の東作と稲して耳を傾けない。
是に於て東作は、更に松前の商人村上弾惣兵衛を六左衛門に紹介した。蓋し自説を立誇せ
しめる考であったが、やはり上
に清昌は却て、弾惣兵衛の
に封する審問を開始せしめたの
衛門の出府によって、密貿易の風説が潮く盛んになり、世上識者
つ た。 かくて天明
こ㎞
幕を
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し 出府れ
による刺激 、翻 の


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物 の荒集を企て、東作は宗次郎と謀り、名を松島の遊覧に託し、
する誇擁物件 祀察の貸め
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に松前に赴くなど、共刺激が、種々の形となってあらはれてみる。 ェ -
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第 四 編 天明 時代 八二
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年に互る巡見も、十分の効果がなかったけれども、なほ左の事質を知り得たのである。
調査の貸め 一、請負商人等の請負地は、松前藩の借入金に封する控保の性質を帯び、藩の政令の及ばない事。
に知り得た
る事項 二、松前藩及び請負商人等は、蝦夷人の進歩を喜ばない。力めてこれを愚にし、且私曲を窓にして、
彼等を虐待する事。
三、東蝦夷地は、厚岸、霧多布、國後を露國への通路とし、絹、錦、更紗、木綿、砂糖、薬種等を輸
入する事。
四、西蝦夷地は、唐太を山丹、満洲への通路とし、眞羽、青玉、錦等を輸入する事。
五、密貿易は、直取引の行はれてみると思はれないけれども、蝦夷人に取次がせ、露人持渡りの品を、
請負商人手先の者等が、内分で買取るに相違ない事。
ハ、得撫以北の千島列島は、既に露人が占有してみる事。
七、露人は脳虚猟を傘ねて、貿易の貸めに得撫に来る事が絶えない。またしば〜越年する事。
密貿易に闘 巡察使等はなほまた、蝦夷人の密告によって、飛弾屋久兵衛の支配人が、巡見使の来る
する嫌疑
前に、醸め運上屋所蔵の露人持渡の品を焼き捨て、或は海中に投じた事も知られてみるか
ら、露人との直取引も、必すしも絶無とはいへない。支配人等を約問するならば、共漫の
情が開明するであらうと付言してみる。 ㎞イー
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だ戦夷地開拓の質功を撃げる事に苦心してみる。それ蓋し幕閣の中心勢力たる
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ふに赤蝦夷風俗考の説に耳を傾け、工藤球卿と同じ考察を下した貸めであらう。併し比頃
のではなかった。寧ろ多大の危豪を抱くもの の
び 共 中止 八七
第 四編 天明 時代 八八
あった事は、早くこれを長崎の通鮮吉雄耕牛に於て見るばかりでなく、耕牛の威化を受け
記し
た三浦梅園は、耕牛の説を記
平秩東作
と稲して、兵備の怒にすべからざるを説き、平秩東作も、
軽組の属國ムスコウべャといふ國あり、女王にて、至て紳武英傑の人のよし。韓組をも七分程平げ、
國あ
人民摩き候よし。ムスコウべ ャ属園 にカモシカウッテといふ國甚だ蝦夷に近し、松前の兵備とてもい
* *
かゞあらん。すべて遠き慮なければ
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○歌
うたてしきことなし。数㎞
とて、松前氏の兵力の、防御 に堪へ得るや否やを危んでみる。常年の幕閣が、耕牛、梅園、
東作の著書言説に就いて、もとよりこれを知るはすもなからうけれども、國家としての立
場から、常然考慮すべきはすであって、面も考慮しなかったのは、一 つには蝦夷地の調査
の未了の貸めであり、一っには経済的利源に封する追求の方が、特に強かった貸めとも思
はれるけれども、なほまた工藤球卿の考察に共鳴したからであらう。かくて共後、球卿と
同じ考察をするものが多く、これが貸めに、幕府をして久しく、北海の警備を等関に付せ
しめる情勢を馴致した事は、最も注意しなければならない。
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雄士、 兵を掛けて比三國 / 入る平あじと
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黃志の在 する所知るべきである。 かくてこの南書に於て、 或は岡本形態の微意を沈し、
は浦路二國に封して、 防御 の策を識する事の急務なるを説いたº
戴國の南下に
對する愛德
三國通院創設を殺する に、 子不は戦災地に封して、 最も深い性意を排か、 陈国南下の情
熱を語り、 能に アムチ。 アを略し、 除成千島に及 ? るを説さ、
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*** * ** 、 ラクモト 大正 陽帆 s… …
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クハエトロァァ手谷 ノ 志意 ニハ不有駅 。
ファサッヶッ上ハ、又一タ“西ニ顧ミバ、銀夷ノ東北部ニ至ルペシ。日本ト帳売トハ唇樹ノ國也 可察。
蝦夷地開拓論
と稲し、更に蝦夷地の開拓に及び、
共國ニ第一金銀多シ。然レドモ掘コトヲ不知、空ク埋レテアル也。銀山、銅山赤然リ。又砂金ノ出ル
地多シ。: 是等ノ金銀ヲ不取シテ、空ク捨置コト可惜コト也。稿ニ憶フ、今取ズンバ、後世必莫斯
晋未亜取べシ。莫斯晋未亜既ニ是チ取バ、膳チ噛トモ遅カルべキ敷。
又曰く、
蝦夷ラバ早ク招論スべシ。早クセズシバ、後世必、莫斯晋未亜ノ賊至べシ。共時暦チ噛トモ遅カラン
敷。篇ニ憶バ、風ヲ移シ俗ラ易テ一州チ経邦シ、共金銀チ取テ上國ノ質貨チ増、共九百里ノ地チ招テ、
ァ* ト ァ す ノリ
上國ノ郡ト貸ノ術有ニ似タリ。然ト云ドモ尋常ノ商借、舟人ノ輩ニ不可説。術アル商倍、舟人等ニ曾
テ、日自ラ語ルべシ。只心憎キハ 莫斯晋未亜ノ姦賊等、先達テ蝦夷地ニ入テ、上國ノ商店、舟人等チ
拒ムョトァラン敷、若拒ムコトアラバ、速ニ共赤賊チ塵ニシ、災ノ根本チ除テ後、快ク教諭セバ、前
文ノ如ク、共俗怒チ上園ノ風ニ移テ、遠クカラフト逸モ、松前ニ等キ風俗トナルべシ。然ルトキハ金
銀プ得テ、賞貨プ増面己ナラズ、共九百里ノ地、恐ク上園ノ郡ト成テ、日出度コト比上モナキコトナ
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ルベシ。是又商倍、舟人等ノ大義ナル哉。
かくてまた蝦夷地の産物を撃げ、共海獣、海産物に富み、良材多く、業品を出すことを
第四章 國防 論 の 提唱 九一

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政主義的國家
大佐す 見解
=不安文》 、 歐羅巴洲文斯哥本 の女帝大後使 シテ、 五世界 市公 フントホア系4超シ、 制す
定 メ、 令之下ろす日、 五 m 0億、 子公孫 «、 我が制す不改、 土地す度々 シ、 防 す大 スレチ以文帝業
トモトナリ。 ソレヨリ 日々 月タ 人才ア學用テ、 次第 三 體組ん北邊 ア野 シテ、 終 日本元文) 取这
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、 東 )取り 扱社加)都 * )、 劉 。 日本道三千餘里う文斯哥本帝 ア領地ト役 す、 彼 2 %
代 的 、 脚本ファシム 戦績


即*近代語を以てするならば、 帝國主義、 軍國主義の関家 と見てわるのである。 故に上
に飛び た知く、 比加拉西社加 79 東 、 略 スペキ 土地す シ。 彼女西 斯文、 彼2 千
島 ア 手 入 が ベキ機アリト砲 」,と称して栄を加 《 た。 それにもか ^ はらす子不は、 遠
に戦火地の兵備、 國防に就 ては、 1 :5 期社 でみない。 對將從大しての製炎地 の総称は、
土人の教化~、 土地 の開發~に留まり 、 北関する所、 英語(し 「教思 、 製炎アメク 格會
*?» +* *後世 後、 陈金幣 。北 アトラ …
* 初 防御 の 松 町 九
第四編 天明時代 九四
へる言葉で霊されてみる。即ち工藤球卿の説と大鶴に於て同じであった。露國を以て軍國
主義の國家と貸し、共南下に危催の念を抱ける子平の意見としては、誠に怪しむべきであ
る。殊に子平は、次に述べるが如く、兵備園防の急務を叫んでみる。然るに濁り蝦夷地を
除外したのは何故であるか。ます〜疑が起る。併し三國通覧圓説を精讃するに、幾分
か、比疑問に答へるものがあるやうに思ふ。
蝦夷を國外と
貸す見解 子平説を貸して目く、
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松前ノ北ノ限リプ熊石ト云。:是今ノ蝦夷園界ニシテ、日本風土ノ限リトスル也。: 右ノ如ク熊
石チ以テ、日本風土ノ限リト見ルハ、蝦夷プ外國ト立シコトナル故、柔和正直ノ見識トモ云べキ敷
赤籍ニ憶へバ、強テ蝦夷ノ極北、ソウャ、シラヌシ等ラ以テ、日本風土ノ限トスべシ。是蝦夷國ァ以
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テ、日本ノ分内ニシタル見識也。
夷を外國と見るのであるから 安常でない。寧ろ戦夷を以て 「日本ノ分内ニシ
必要を説き、領土権の擁張を論じたのは、傾聴に値するものであるが、質は子平もまた、
ゴ7
やはり戦夷を、日本帝國の一部とは考へてみない。三國通覧闘説に所請三國とは、朝鮮、
球、 製成 を近 し、 日 ・ 八 ヶ 池 明 し て ~ ル 風 < * 7* 桜 ? ~ : *成 7 %, ,
いい、 更に 「日本ト製炎ト 島南ア國也」 といび、 まだ海風毛球 S政に、
子將 三國通常關設を落すº 其書也、 日本 の三法國、 朝鮮、 琉球、 製炎の地図を明さりº
トと いつてわるので明か であらう。 外國なるが故に 「純 l 舗 が 、 風 ラ砂 シ 体 7日のテ 州フ 經
郡 シ、 非金銀 ラステ上國 2充 其7路、 英九百里 > 地 ア路ラ、 上國 2 部ト海2 使有 假名
2」,との提唱,とも残り得る のである。 是に於て共所謂 「東新歌未亞 ノ酸 の王 5% る以前
に 製炎フメ 早ク 路撒 ,して、 日本 フ 分內」 と残すもの、 藍(し子平の志であった。 我が帝
國なればこそ、 兵備、 國防を整え あ要もある。 國外の地は、 まっこれを維持して、 我が
手に敗めなければならない といふのが、 戦災地に於ける兵備、 國防の議に及ばなかった所
以であらう。 然れとも戦火を認識して、







*2







る)と信じてみ だかどうかは、 なは後され た
何等の 説明をも珍してみない。


-
製炎を初代 と (* ね
柳も役前代の 政令は、 十分に行は
---- * てみなかったと
カ するも、 な は日於前正が、 戦火
托す見解 の後
れ 、 古大を所有する権利を主張 してみたことは、 上文に述べ た知く、 元謀の都能 の、 明か
に就開する 所である。 然 れとも世人 の多くは、 これを外國人と見る のが 普通であった。 され
羯 庁舎 の 従 站 九五
第四 章

第 組 < 時代 九六
|1

ば大=本史に、 製炎を外國傳に列した ことはい に及ばず、 執 新井が製成に於て、


「我東北海岸、 距 戰成南非、 不甚 和道」 ,といってみる のも、 製炎を倒外 の 地 と見た見解で
あり、 古雅斯生 が 「カク取り 易 キ國 7 取 ラズ、 若西洋 戰役 と フレメ 、 國家立北約
脚 ノ 安之
カラシャ 純 “~いへるもまた、 國內,とは見てみないのである。 從 ってそれは、 林子
平はかり ではなかつ た。 而も子平が、 所前日本の分內を、 製炎の様北宋代、 白
戦火地に対す
る領土橋認識 張する説を防ぐ たのは、 若し戦火地に封する領土構の認識が、 議者 の注意に上 った最初の
の樹木
文接するに、 子平が三國通院國論を落はしたのは、 其 る
の あ
年間古河市松野は、 これを許して崇文の書である といび、 魏 孝和年間仍未正後は、 戰成
志の併に過ぎない と命武してから後、 體 延時の史家もまた彼らに防和尚
那和不は*~ いび、 或は淡海员る に城 へない といふもの も ある。 若し子平 の
所、 往タ 朝政が あるからであった。 然 れとも同書に封して
同 、 地理學的の批評を試み よう とす
るのは、 被批からの誤解である、 同書には勿論地理を説いてわるけれども、 愛するにそれ
は、 我が四肢の形勢を述べ、 日本の地位を、 加修 に知らしめんが 狗め の手段に過ぎない 。
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︽情 中 s入 北京 sº
港口 を以て始1& 」
¿3** ㎞にまで試いてある の砂を吐いて地人を掛か し、
國船は長崎にばかり 入港するもの でない と成 の、 空 船船の通する所には、 砲やを築かな
ければならない。 それにはまつ 江戶の海口を固める のが急務である)と発
S 制作 工夫を避 スペし。 其次 分水主、 相吸 、 本能の操練を指 «
数、し。 其次 總兵士 、 水線、 水坑、 船街の取 まはしを教? した水駅 の 記號 也
南蛇及び政難色高岡の船 公 、 共關作性較 寬度大也º 教科 たる大統 あらさ れ



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て の 比能 通たら なし
~て、 洋式軍艦の側に彼 ベタ 形いてみる。 然 とも子不の法も力を入れたのは、 大砲
の改善 其书省人 であった。 故に北家作は、 和的に この必要を論じたる後

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~稱したのである。 これ に子不の収に映 したる周防上 の不備であった。
此時に常 9、 我が関物 には、 子午 の
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として愛慮せられたのは不思議はない。汎や露園の勢力が、 我園 に迫らうとして みるとす
ればなほ更である。また日〜、
後の






















こ に

所頃
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て 東の限り加シ加㎞ を押領したり、 ルに加シ、シ
き園士なし。比故に又西に即ミて、蝦夷園の東なる千島を、手に入るべき様ッあり、シべ*。

こきff} に " y * - ッ ** レ 、、
に明和辛卵の年、莫期晋未亜より加模西葛杜加ェ遺シ置ル豪傑パロシ、マォリ。チ、ァラァタル、
シべショロウ Qール、フオン、べ ニフスキ といふ者、加模西葛杜加より船を発シて日本ェ押波
り、港々ェ 毛細して、共深サを計りながら、日本を過牛乗廻シたる事あり。就中土佐の図に於ては、 ノョシ - - き A
** * い、1 』 は
日本園ニ在合阿蘭人ェと認シ書を、遺置たる事もある也。是等の事、共心根可将可恐、足海図なるが
ゆへに、来ル間敷船も、乗ル人の機韓次第にて、心易ク来ラる、なりと察スべし。
露園が、蝦夷地を蹴観せる事は、三園通覧闘説にも見えてみる。加之べニ『ーブスキーの
漂流に就いて、猫疑の眼を以て詠めてみた事、またかくの如くであった。子平が 成を加
へた所以、おのづから肯かれる。然れども子平は、欧洲の勢力に封しては、比較的重要視 く」 〜 上下、}
- ーに上でム
ハなし。然るに各園皆英雄
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神の記官に もある敵。
安した社」の間保が、 子不をして栄 しめた 原因~なってゆる 」、 《孝ºº
23 ㎞2 …た影の恐るべきはこればかりでない。 熊、 金術 家、 道札ºる風力に成
いて、 特に注意を排 った。 故に非自作の中に、 桃園の物質を欲した る後、
康熙、 海上、 陈の 三王 、 作文式製にして施術教に述 多、 龍虎山を手に似た 。 必明道の店山 と思
7平なかれ、 よろ个の曲を以て、 古の店山に親し 、 土地も古の放出に 1 作し、 武家º
能修練シ、 前線も北村を求て、 前頭に移り行放、 終に北狄翁 の 心思。 攻めに片山に推移いて、 共作
草の氏後も高々に就成 ン、 正宗正タ の北伐 、 攻めに就之成行、 赤日本ト作家 隊少、 共上人心 日
月タ に後明すれ バ 、 い」 は光山にて日本の海路、 阿那等も、 微細に知代之 。
x.
以後の武士 课 業 、= の北 で、 物 學
李 氏時に至七 公众欢吃水トすれ ば 、 日本のに政にも不可被、 文氏桃の多+ながメ パ、 日本の
武成にも不可 長、 中 明道の 旗山,と、 同 シ からざるわけ也。
第四章 界的論 の批 C
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…… ㎞ら順の南下に乗る子 の防災であった。
備に就いては、 一 言も語る所がなく、 知 て「大砲の術を絶海岸に設けされば、 日本の武備、
全く際 社 5~は言が難かる べし」とい へ る所以、 孟しこ ^ に存するのである。 故に子平は、
將國の戦來使路を浴び,と共に、 共或は内地に来ることを恐れた。 自序の中に、
外患 による 風
小子 分直持使行の興大なるゆえ 、 政て民議を不願、 因てペンゴロウが事を始トして、 都て外遇の来り
離の微型
易キわけを、 有のまくに書シ て、 知て海國所要の武備 公 、 如此也ト 公平を、 肉食の人々に知しめんト
彼ル放、 見聞スル所を集集シテ此書ア作為スº
-てい へ る、 また物設に供すべ さであらう。 沿岸の防備の知さも、 一面にはやはり、 衛國之
以て英對象 としてみる。
子李*た目く、
抗に突するに、 日本開關より 三千年, 此大統の価を海岸に不設して、 个に至て残安全な りº 其上外殼
の母に最クたしなめられし事も、 个日に至 ル吃掉て有ラさる事なるに、 个新タ に比海國 々
言出ス事、 从 公里恩恵の過たるにも似、 且 分 新設を好にも似、 几 分 在 を後するに も
第四章 桜 | 0
第四組 < 明 時代 10
も天地而人間世の事に ハ 、 必發車ある平定すぐ ル 理也。 必英的世も、 一定の 全日 と思ことなかれº
子不は内外に於ける情勢の酸化に微し、 今や修に、 三千年來はじめて見る所の外注の低


分II

b

が、 目前に展開さられよう としてみる たのである。 圖說、 兵隊の 加さ、 總て


背此意識の下に著作さられた。 對外の関係の新たなる教生が、 やがて他儿 、 我が興建,
もなるべ さを撤退して、 國民を成 のたのは、 官に子本にはじまる。 此期から考察するも、
子平は酸に先後の職者 であった。
國防護者とし 近世日本に於て、 海外教方の成城を成し、 共設を述べ たものは頼る多い。 然 打 とも若北
ての子本 の地
を公にして意見を務求した事、 及び 兵器、 軍艦の改善を論じ、 海軍來與の必要を述べ、 砲
李榮造の急務を説さ、 佛 てまた東亞の形勢 と海國日本の地位~を語り、 國民の愛麗を促
が さう~したものは、 子平が最初であった。 此意義に於て、 海國兵號、 三國通路面識の南
書は、 不打の名者 といはなければならない。 なは製炎を以て外國人 し、 歐洲語國の、 容易
に兵を日本に加 《る事の出来ない とい へる考察が、 其後の野外來神に封外關係 と、 知何な
る交渉を有するかは、後述の年の進むに従って、 おのグから開かにせられる から2・チ
式溜冰 、 子守の後輪が、 かくの知さ考察を基礎~ ~~ 北 に、 北関ヶ„の。
“* *S**~て開されるが知(、 製炎、 千: …… ---_
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,,… いて、 特に試み の社 を促して (,
- -• ) " …,5\\
國家影展會
…« の姿をしてゆ º'º
…… 詞、 魔球、 製炎、 師 張所拥 國が、 発を敵 疎 タを説き、 政 W%
テ三國 入 华人有トモ、 光祿ア後 ストキメ、 三國2分內」然トシテ日建 在沙和 多、
李從トシテ役 h ゲベシ」,といび、 海國兵装に於ても、 圖說著作の事を述べ て、「其意 日
本の維士、 兵を提げて此三國に入る事あらん時、 比國を論んじて艦隊 が よ~な 9 ~ある

9.
を見て、 は > 推察する事が出来る。 戰火地開拓の知さ、 一面には比恩想のあらはれ であ


(/)



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う。 これやがて他日、 本多利明 の植民政策、 古賀個地の領地擴張論、 佐藤行 字的飛
後來~なって後延 3る湖湖を残すもの であった。
第 四 % 討論 の 批評 15セ
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路國に封して、 特に注意 のー・うになった。 か〜イ・シパ地
ら髪化し、既に暇夷地に迫
迫にし

にれる

、 い ゲと
校論が提唱せられたが、共趣旨の布する所、、 れも皆殿夷を園外の地と認。
経営論が提唱*
ョを撃げ、 主人を数化し
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) 、- )目け一
〜時には、落園に奪はれる恐があるから、達に開拓の質を撃 、す。
て、我が版圓としなければならないといふにあった。蝦夷地に封する領土権の主張は、ま

土構
だ発見することが出来ない。幕府の見る所も、工藤球卿、林子平の考察も、やはりそれで
あった。故に防備を厳夷地に設けて、我が領地を保護するやうな考はない。子平が國防の
㎞る | 急を論じたのも、蝦夷を除外せる領域であった。従うて露國に封する考察の如きも、徹底
考察の不備
しないものがある。工藤球卿は王道主義の國家であると稲し、却て蘭人の警告の誕告なる
㎞| を疑ひ、幕府の有司も、左組したやうに思はれる。これに反して子平は、欧洲勢力の恐る
能とする考察 - -
-* L* *---*-」 =--
べきを説いたけれども、「共干支ハ、路遠キ故施す事を得されバ、我に於て欧羅巴 患ルに
不足也」 と稲し、却て隣邦の支那に封して、多大の憂慮を抱いた。また比欧洲諸園の、路
遠きが故に、容易に兵を加へる事が出来ないといへる考察に就いて、中野柳園、平山行蔵、
蒲生君平をはじめ、後にこれに和するもの、多かったことは、後章に於て細説する機曾が
あらう。
國難打開の情
七十 〜 に じ人、 、 * て 厚" とも さ “ト』 - 『上
勢 要するに比時代は、鎖國以来再び、海外諸國と の接鋼が生じ、はじめて封外の策を講す
第五章 天明 時代 の 概観 一○九
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5
第五編 寛政享和時代
第一章 暇夷地に封する幕府の政策
蝦夷地に封す
る施設の 一鍵 田沼意次を首班とする幕閣の、蝦夷地経営の計書は、共避免と共に挫折し、巡見使普請
役佐藤玄六郎等の騎府するに及んでも、幕府は巡見の結果に就いて問ふ所がなく。ェ㎞
㎞ 共報告書たる蝦夷拾遺は、途に提出の機倉を得なかった。ェ㎞
㎞ 以て常時の情勢を察することが出来よう。かくて松平定信が老中
首座となって、寛政の改革を行ふに常り、蝦夷地に封する政策もまた一鍵した。
國後島慰夷人
の蜂起と幕府 寛政元年に、國後島の蝦夷人は、同地の請負商人飛騨屋久兵衛の虐待を慣り、蜂起して
の調査
運上屋を襲ひ、また霧多布、厚岸をも侵し、七十除人を殺害した。松前藩では直に兵を務
して、これを鎮定すると共に、久兵衛の請負をも停止した。然るにこの騒剣には、露西亜
人も闘係してみるとの風説が行はれ、物情胸々たる有様である。幕府はこれを聞いて、勘
定奉行久世廣民、根岸鎮衛に命じ、松前藩を訳問せしめた。共箇條はQ松前氏の領地はい
づこを限りとするか。Q飛騨屋久兵衛の商売買の仕方に不正があるさうであるが、共事質は
如何。%ラッコ島へは、異園の者も入込んでみるさうであるが、運上屋、番所等をも設け
第 一章 夷 地 に 封 する 幕府 の 政策 一一一

第五編 寛 享 和 時代 一 一二
(4)
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ない 赤人は通商を望み、松前へ贈物をした所、返却したさうである。共事質は
飛続
5)


女m

。Q飛弾屋久兵衛の外にも、請負の商人があるかの五箇條である。これに封して同藩

、蝦夷人の住する所は、継て松前の領分と心得てみる。但し千島、唐太の漫は異國との
境で、蝦夷人との貿易はあるけれども、政令も及んでみないから、或は異國へ附属してみ
る所があるかも知れない。また領分の境を取極めたことはない。赤人の本國はヲロシャと
唱へ、寛永年中厚岸に来た事が、奮記に見えてみるけれども、共始末は詳かでない。近く
安永七年 務多布へも来り、羅紗二巻を出して通商を望んだが、翌年共請を都け、羅紗をも
返却したとのみ答へて、多くを語らなかった。ェ
蝦夷地改革案 比時幕府はまた、天明度の巡見使の一人たる青島俊蔵をも、隠密御用として、再び蝦
夷地に派遣した。共調査により、露人の参加してみない事が明かになったけれども、松前
藩の不取締は推ふべくもない。幕府は共不束を責めて戒飾を加へた。是に於て同藩主松前
道廣は、東西蝦夷地の場末は、請負商人に任かせないで、みづからこれを経営し、蝦夷人
の騎服するやう虜置する事、東蝦夷地の厚岸、西蝦夷地の宗谷に番所を設け、番頭、侍、
足軽を派遣し、共他然るべき場所にも、番所を設ける事、外園に備へる貸め特に武備を講
じ、また 火を設けて、萬一の髪起らば、これを急報せしめる事、異園との境まで、毎年
家臣を派遣して、形勢を採らし 、更に書かのシ、シ㎞
シに上中してみる。シこれを許し、シ、二 ㎞
㎞『 武備講習の事が比時はじめて基議に上ってみるけれども、 事質には行はれて
の "響

ない。幕府の直轄に騎するまで、何等見るべきものもなかった。 ㎞
松平定信の慰 幕府が松前氏の蝦夷地改革案を承認したのは、共封露策と密接の闘係がある。松平定信
夷地非開拓論
の字下人言に、比時の事を記して曰く、
蝦夷てふ國は、いとうひろければ、世〜の人、米穀などうへば、その國をひらくべしなどいふもの
ことに多かりけれど、天のその地を開き給はざるこそ難有けれ。いま蝦夷に米穀おしへ侍らば、極め
て漫害をひらくべし。ことにおそるべき事なりと建議して、その義はやみにけり。忠義朝臣㎞、
A *
蝦夷の人の、御恩澤にしたがひ奉るやうにとの建議なり。それらも後にに
らんとおもふなり。

文中に今とあるのは、寛政二三年の頃であった。これによれば、蝦夷地の開拓
)* は、露園と
の接鋼を促し、却て漫害を生する恐がある。寧ろ不毛のま、に放任して置くのが、得策で
あるといふので、土人を教化することさへも、裏心から賛同してみない。天下の識者が、
世に先だちて憂へ、蝦夷地開拓の急を叫ぶの際、名宰相の撃高さ定信にして、
、メイj } 非開拓の説
第 一章 夷 地 に 封 する 幕府 の 政策 一 一三
第 五 編 寛政 享 和 時代 一 一四
を唱へ、開拓の議を幕閣に主張せる老中本多忠等も、後には定正

は、誠に意外である。かくて定信は、寛政二年七月甘一日水戸治保を訪ひ、共旨を告げ
こo
*7
松前之儀、段々相紀し候虜、常時ニてハ、取扱方差て悪敷事も無之、手常之儀歳重 ニ 申付、志摩守
㎞より雨所程番所相建、役人共差遣し、取計ひ候赴ニて、御メりも付
*れ 間、最早段段之取計ひニ
も及申間敷、前々之如く、松前へ鍛夷之儀ハ御任せ之方可然と、各論談相決候。鷹 ㎞
定 は 松前氏の力なほ能く蝦夷地を統治して、後顧の憂なからしめることが出来ると信
である。これやがて田沼意次の蝦夷地経営の計書を中止し、依然松前氏に委ね
貸めに、寛政三年の春、普請役最上徳内、田漫安蔵、大塚唯一郎、小人目付和田兵大夫、
高崎助四郎、豊田源八郎を鍛夷地に派遣した。かくて徳内、兵大夫等は、標捉、得撫を巡
祀し、安蔵、助四郎等は、厚岸、霧多布、國後に於て蝦夷人と交易した。 で翌四年の春
重ねて書請役最上徳内、田漫安蔵、中村小市郎、小人日付木村大蔵、和田兵大夫、西丸興
力小林源之助等を同地 に派遣し、徳内、兵大大、源之助は#水を逃親し、他の人 **、*
殿張 単紙後編に、
谷、石和に於て蝦夷人と交易したのである。シ
シ年、御用の節は、前々よs住来sの通りにして、新法を出さず、B群を“**、*
の品宜しき物を撰み 、老人、小供へは飯をふるまひ、貧践の者へは、御手常する事を専要にしたる故
に、誠に蝦夷人脱び、歌を諦ひ、踊を舞ひ、難有事に豊えたり、夫にても御金蔵へ、千雨除御盆金を
納めた り。
とあるので、「御救交易」 の一斑を知る事が出来よう。宇下人言に、本多忠等が 「蝦夷の人
の、御恩澤にしたがひ奉るやうに」 と、建議したといへるもの、即ち比 「御救交易」 であ
*7
定信はかくの如く、蝦夷地非開拓の説を有し、線かに本多忠等の、蝦夷人緩撫の策に賛
園に割する園
同したけれども、露國に封する危擢の情は、途に免かれる事が出来ない。これが貸めに、
幾もなく共説を修正せざるを得なかったのである。寛政四年忠等に答へた意見書に曰く、
御書面ニ も有之如く、赤人と唱候鶴人、或はからふとへ来り、又はる とろふなどへ数年返留し、異形
の備像などを信じ候類、何とも不審之次第ニ御座候。然ル虜、蝦夷は不毛之地ニ候へば、たとひ外國
より、或は席巻㎞食之手段いたし候とも、数百里不毛の地、山川堅固之義ニ候へば、質ニ自然の御固
メニ付、比偉ニ被差置候かた、永久之御固メニ候段申候ものも有之、始メは犬之様ニも被存候 然虜
第 一章 夷 地 に 封 する 幕府 の 政策 一 一五
親 守党 政 文 和 時代 11
本省府之上水 後に、 聖地 亞 熱では、 五校舎のよし、 もしな 中 、 小豆 な
との質持这 0候を見條 へ は、 比方より もう るはしく相 見、 珠 三 志人數年 人的故し龍在條よし。 自焚 の
みとりくらい彼事 と被废除 。 右隊之發明 不 0候 ては、 千里根を述 の手常 ,6不及、 所調水平 三 つ
さて居るの類 て、 山川除前は固まりおそるまじく、沈むね上先行は至 て熱線之祭、彼が得手の 頃は、
我が得手不中處 て、 そかく 女心可在義 は有之間放、 日文於前將は、 日前より、 製炎を とり おさ
め然將波、 松前の台 使を組され彼は で、永久期成は静議たるべき 日本存彼º 是小麥任性手の御殿意。
御夫 は彼 とも、 排于香在は共人 より彼て、 任じ德教徒。 其家 より除て、 世 タ 之安在 いたし
可燃發人 は中かれ始。 汉成門口城縣道之地、 兩度比分被遺族ても、 松前之政平、 人物之義感, 1 « は
わかりがたく彼。 已後東側を以て、 動武を被紅然我は、 極めて引らがひ候も と て、 商全之平 とは難
中條。 表し ば とて、 貨代かたも無之、 只タ當時之於前不宜,とて、 御北り、 文は敵 方など被假村俊,と




-
も、 右 で政事共處を得、 用い彼人、 その能を張し線程 可至,とも不被存、 陳光被 视 化 碳 その
調子の野百も離奇俠。 世音之患些 如此 條 に、 只供手制委任可然 とは離中條 º :松前
へは、 尾大の忠少なく似 た ば、 御家在 は不让使い つれ比利常は離婚生產在條 作非正統外祖之
劉備 と中條ては、 長崎之地 で、銅器、黑田、五島、松浦之期有之上、 長崎家行も年 «交代数し線。 正
外大成、熊、 甲府之劍、 雲、 山川、冬、代 之和 李俊、 西阿桑 乔
*、 郡代夫 被災 、山川の政府、新井、紅茶名海、 大井川、 法上川、 木作作や、 大師師所の師
*** 動畫在 北條邊、 東 之際 金6%では、 元の御所s ㏊-2
郡代、 遠因素行も無之º : 西軍撤除くさの側の加く は、 中々以加成まじゃ系、 師大切之 至 0
みれば、長崎の如き鎮豪もなく、遠國奉行も置かれてみない。誠に不安心である。宜しく
あった。暇令露人に封する認識が足りない
草して、同列の評議に付した。
かくて幾もなく忠等が、蝦夷地虜分の任を定信イn
*ー
ない


蝦地
やに



農を
出やう

なたと
すれ


あ。
で加世

産物
夷すっほる之 食

穴の





山険は

よ恐れ

しから





役居ない
り川
に立た
阻り然害 来る


















よ、







の解正るれみ で
捕り あと
見に
の修を





松氏
のによって


南の
國勢
防事
をが

る解正前み下ぐ 即ち
定信











不の
蝦地










貸もの
毛夷然害す

「日本の備」 を設けなければならないといふのが、新らしく考慮せら

ば、いかほどの御備可被仰付哉、難計
決して







i








。 いか

ニ 御座候。・・・・・ 只今の 如く様
















を も本

、リリ


-
防御


みら
こを

すづかれる あら








改する



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ので
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於前政革待い

o 字下 国



、 境

計はど
即ち戦夷地

或は






事時








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ことが必要にな
を、奮に例って松前氏に委ねる

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ふん
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*M i Li j にい
本行所を南部
津軽に設ける 軽、南部雨地の要所を上知し、奉行所を置いて、遥に露園の南下に備へようとするのであ
内議井に共中
る。ェ。同列にも異議がないので、内命を二藩に博へた。然るにたま〜露園使節
ラクスマシ渡来の事件が起り、これが貸めに、日付石川忠房等を鍛夷地に派遣した際、共
騎途、南部、津軽を過り、奉行所を設置すべき場所を調査せしめたけれども、忠房等の騎
府する前に、定信の鮮職となり、途に質行せられなかったのである。ェ㎞
定信の封露策は、要するに南部、津軽に奉行所を設け。拾も九州に於ける長崎奉行の如
く、附近の諸藩を指揮して、これに備へるにあった
付い あった 。面して共所請 「日本の備」 が、林子
平の海國兵談の用語と
語と同じく、蝦夷地を除外した地域に限られてみる事は、奉行所の 設置

あった。故に蝦夷地の防備に就ては考慮してみ ない。殊に共端を元藤に務し、質暦、明
和、安永、天明の交、松平武元、田沼意次等の好んで採用せる興利政策は、定信の同意す
る能はさる所である。定信が少しも共手を暇夷地に鋼れなかった所以のもの、蓋し他の一
面の事由は、またこ、にあったやうに思ふ。然れども比上知の計
蝦夷人緩撫の策と共に、他日幕府をして、松前奉行を置き、蝦夷地を直轄経営せしめる歴
と る對
考關信
察すの
認のに定

地と繋げ ,…)
誤家觀车
其史外松

た作品は、 共浴池の中 に、 對外觀を述べ たもの が多い。 个北 外患 の


る のが所要で ある。 外國~いへは、 成しいもの やうに考 3人。
の計量を受けないで、 帝,とな 9王 となるは岩佐 し とい* ? <、 土地
ば、 なは更符いといはなければならない。 秋に新西亞 の 知さは新興
-

の風で、 清新の風に富んである。 上下將她也 る武が図の比でない。 海外の諸國は、 特徴の


武器を有し、 實戰の経験もある。 李本の除整を受けた武が図の、 容易に敵す べきでない。


大砲、 軍艦を改善し、 兵法を愛車して後、 はじめて外國人 格拉する事が出來よう。 從らに
形容を楽寺するのは誤っ てみる。 正しく見聞を焼くし、 韓民を大にして、 外國の事情を察
~ なければならない とい へ ることなどが、 秘線大要、 淡水線に記してある。 然 打 とも南書
共に、 後年の者作にか ^5、 老中在職 の常時、 性にかくの知さ見解を有してかたとは思は
れない。 其成は戦火地
第 1 章 羯 座 地 に 封 する 架空 の 政策 | 1





一二○
第二章 ラクスマンの渡来
ラクスマン の

蝦夷地渡来と
貿易開始の要 シ“、これを してsigに
求 述べてある。たま〜天明共年の暮、伊勢自子村の船頭幸大夫等十七人の乗船碑昌丸は、
十*
駿河の沖で殿風に遇ひ、進退の自由を失うて海上に漂ふ事八ヶ月の後、翌三年の初秋カム
ソロ
チャッカの東方アレウト郡島の 一つに漂着し、五 ケ 年を経過し
過したが、同七年の夏露船に救は
れ、共後数年の間、西比利亜の各地で保護を受けた。然るに病死する者前後十二人、残る

五人の内二人は、露國官憲の勧めによって騎化したけれども、幸大夫、磯吉、小市の三人
は騎國を望んで己まない。是に於て寛政三年更に露都べテルブルグに送られた。比時エカ
ラリナ女帝は、幸大夫等の護送を機として、日本と通商を開きたい考があり、西比利亜継
督ビールに、計書の途行を命じたのである。かくて種々評議の結果、陸軍中尉ラクスマン
が使節に選任せられ、幸大夫等三人を伴うて、蝦夷地の根室に着いたのは、寛政四年九月
五日であった。但し共詳しい研究は、播磨樹吉氏の露園最初の遺日使節ラクスマシ㎞
に引
新村出博士の伊勢漂民の事踏 ㎞等があるから、それ等に譲って置く。
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根室に着いたラクスマシは、同地滞在の松前藩吏に託し、日露雨國語
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前氏に贈り、日本の 氏三名を、江戸*の役人に、シィペ。
シを収*いで貫いたい。比港で起年する風 であるが、シ
「値 に江戸に赴き、直接に交渉するであらう。またシのシ。
-* *}- 「 -
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比度は公の使節であ
を通じた。松前藩では、これまで何事も秘密にしてみた
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り、幕府との闘係もあるので、術態を保守する事が出来ない。 使を せて。 * 魯西亜人取扱手留
報じ、併せてラクスマンの書輸をも提出した。 シ記) f 、 主上りに F〉、 ょ ビ
松前氏の上申が幕府に達したのは、寛政四年十月十九=であった。比シの中。
中松平定信である。定信は早くも露園の眞意が、名を漂民の護送に託して、シ。
にある事を観破した。故に幕府の評議は、比考察を基礎として行はれてみる。か(“シ
- 引 るて書# 五 r 〜 1ィー〜
下に さし ト
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、 上“日
定信の自記せ
は、これを同列の議に付し、また三奉行の意見をも微した。共時の評議は
が七十
る魯西亜人取扱手留に詳しく記されてみる。即。 “日
三奉行のうちにも所存一ならす、漂流人はうけとり、犬江戸へ出候事はゆるさす、刺書川間、シ
ば厳しく取計ひ可然などもいひ、又は外園の往来は、長崎之港あり、その除の虜へたとひ*。
長崎よりしらべかへす事なれば、長崎へ来ルべしといひて、かへすにしかすといふ。 又は通商之道開

きたくば、蝦夷地にて開き給はゞ可然などいふなり。

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然れども定信はこれに反封した。反封の理山 次の如くである
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一二 一
第 三 章 ラクスマン の 渡来
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スマンの日記によれば
れたる書状により、貴國大露西亜女帝陸下は、我園と善隣の交譲
を締結せんが貸に、貴下を派遣せられたることを知るを得たり。面して右書状の趣旨によれば、比善
隣の交譲をして、最も議固ならしむるものとしては、露西亜と、天碑公方階下の國民の間に、相互の
交易闘係を締結すること以上に、効果あるものを見すとあり。然しながら國法により、比港に於て
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誌『








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長し
こと

べ 崎

戒命


西









の め 諸 九べき



を大奉行



に 役き前日くるべ人



述と
出名州崎る府帆 、
した
長来即ち
幕館

共 命 みが
見え
かたと
晦。


松て

退ラクスマシ




國をして、直ちに我國に再渡せしめる機曾を、容易


H、、、よい ) ^ えて、近ゴ 魯西亜人取投手留、通航
に興へなかったと見えて、暫く獅像せられてみる。ェ㎞

幕府はラクスマンに授け *}
論書に於て、「通信通商の事、定置たる外、張に許しがたき事 す
・ 、
---- -
も授け、必すしも%園の要求を拒絶ィるものて 、「この態度を示してかるも
故 ンは、「貿易の事は、長崎の港の外に於て、之を議するを得ざるは、日本の園
法なり。故にいま公書を興ふべし。之を挑帯せば、長崎港に入るを得べし。同港には官吏
あり、宜しく之に就き、貿易の事を商議すべし」との意味に解響して、本國政府に報告し
たばかりでなく ㎞ 常時の邦人もまた、同様に信じてみたことは、寛政十年に成
る 本多利明の西域物語に、「長崎へ渡来して、貿易するとの事を承知し、信牌を受取て騎

帆 せ しが、今に長崎へも渡来せす、注文に翻酷せし故ならん」 と
ほ文化元年レザノフ渡来の際、警固の兵を出せる大村藩から幕府
ハ渡来御免の船ながら、初て渡来之事故、右之手常致置候間、御
候様i」㎞ といへるのも、やはり同じ考察に基くものであらう。かくの如きは誠に常
然であった。

*}

けたる理 g職をックスマンに授けた事が、定信の十分に 考慮した結果である事は、を信の手記が
これ

明してみる。ェ然らば定信は何が 故に、ラクスマンの要求もないのに、みづか
ら進んで彼を長崎に招いたか。また東捕寒の前例に準操するとはいひながら、事質に於て

もまた定信自身が説明してみる。魯西亜!H
これ
第二 章 ラクスマン の 渡来 一二九
第 五編 寛政 享 和 時代 一三○
人取扱手留に目く、
長崎へ相こし候へと申義、是変好候義ニは無之候へども、江戸へ是非相こし度旨申候を、いくへも不
相成と計申渡、國書も不請取、獣上物も受納無之ときは、彼ニも失望候はゞ、又いか様にか計策をい
たし可申候。日本之御備全備無之うちニ、短慮ニ存切り候て生隣候はゞ、甚以落度たるべき事ニ付、
しからば長崎へ可相越と、活路を開き候へば、比方の法を立、敢て拒み候計ニ無之段も顕然ニて候。
比文によっても知られる如く、定信はラクスマンの江戸に来る事を拒み、また國書を受領
せす、贈物をも都ける事が、彼に不快の念を興へ、共結果 「いか様にか計策をいたし「生
か様に
隙」 を恐れたからであり、又定信をして、かくの如き豪を抱かしめ
かしめたのは 「日本之御備全
備無之」が貸めであった。即ち國防計書のいまだ共緒に就かない以前、ラクスマンを激し
て、事鍵を生する事の危険なるを慮り、比危険から免かれる手段として、「活路」を開い
た。要するに窮除の一策である。然らば長崎に於て議する所は何事であったか。同じく手
留の中に説明して曰く、
ラクスマン の
長崎に入津せ 何とも申有め、長崎へ和こし候へと申候節は、存之外、長崎へ可龍越も難計候。そのせつは、長崎ニ
る場合の虜分
てシ可有之事ニ付、蝦夷地よりは宜しく候。己来交易之義不好義ニ候へども、足恋不相成と申候
せっ*、*へって隣を生じ候間、長崎ニて貸願、代日物がへ等之義長崎ニてかけ合、その上、己来長
“*可シか、又は戦売地ニて交易可被仰付候か、遂てゆる〜評議いたし、七明然候
比 事は: た、定信の者 は外界大活女にも、 七五 の 如〜日ルえて ォ、、な。
寛政#年か、比幸大大なるものを、日本 へ おくり くだり み時、御日付石川将監、 村上大學下りて、
下し文を以て中渡、松前へ来る事を禁じ、 交通交商の事、いづれとも難中、 願ひ候ならば、 長崎 へ 出
可申、共上沙汰に可及。長崎へ出て願候ならば、信牌可渡事。遠方漂流人っれ来りし務を以て、大長
刀共外賜ひ、御目付へもおくり物有之に付、菓子共外返濃遣はし候。殊の外歓び候てかへり候よし。
共後長崎へ不来事久しく、つひに文化元年長崎へ来りし也。
即ち定信の政策によれば、通商の諸否に就いては明言しないで、長崎に来た時、はじめて
確答を興へ るにあった。面も長崎に於てこれを許すべきか、蝦夷地に於てこれを許すべき
かは、ゆる〜評議しようといふのである。開港の場所に就いては、まだ定見がなかった
らしい。比封策を知って然る後に、かの論書を讃みなほす時には、共意おのづから明かな
るものがあるやうに豊える。さればラクスマンの解響せるが如く、また本多利明等の信じ
*
た如く、長崎に赴けば、直ちに貿易の希望が達せられるものと速断するのは、元より誤解

であった。然れども彼等をして、かくの如き誤解を生せしめた所以のものは、常年の幕閣
に開國貿易の決心があったから
第二章 ラクスマン の 渡来 一三 一


鶴| 五



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時% 討。 * <本之 神 で、 小時參s ,。 ,。
3、北平之* *
に応 «
長崎 本、 通商之後中立候は 、 そのせ 、 この違 て交易いたし 然被加此條かく
かみさ身分 では
易被神仏像か、 いつれわかり 不中條。 交易は日本之母にも成り彼かと、 北方とも
辞め
定信は、 作會使两人の考~して、 =本は破て通商を好まないのではない、 寧のこれが
* ?
利益

がある~、 非公式 に伸进する ことを内命してみる。 また日 く、


氏方の明
へ出線將之战于 被は 、 紅毛人も通商いたし彼 行、 北道光に 出於北條
不人陈
、 紅毛同様 、 通商始め 彼は 、 紅毛も同校之平 て川府之成所在彼 られ も 交給
成形之至
~ても通商の説もひら は不中平 條。 此使は 心, )日本人送り来 c於義に 、とく

國法布《 被問、 北段中波、 さとく之處、 大冰之冠を以て、 使下物などは、 正«行N
は、
來れば、 通商の途がおのっから開ける との松永の、 今 まれてかたと解釋 ,3の
不自然 でない。 而 定信は、 北京を以て、 ラクスマン に葬ら しめよう,335
游 ' & 7 2 x » ン の 渡米 三
航 究 政 字 和 時代 三四
作神將之修 は で、 終 あい彼せつ 」 和波、 作戰役和波佐竹、 一般可入來 可中平
是海 がたさなど中條 とも、 紅毛も 一般日本 來於義行、 戦の外成がたく 、 長崎
へ入來修で、 その頃の本行のが決ま6ては、 船數之義も中位方可有之、 まつ初メ 人來 形容は 映之
義、 能 分 可被中合平º

御日付、 安會のせつ 一度も出し、 映させ可然。 先述も何れ之祭日など、 守候补は無用 三條。 只好
彼 て 神れ口ロ、 交易は何なおも いたし彼成环中平のみ 、 帝侯て可然保
~て、 放射 に関する探りを入れよう としてある。 定信が ラクス »を北 に扱いたのは、
れだけ の登船があったのであ
が 傳 《 たか は 、 定信の手段階に敗


た共和先 にも、 またラクスマン の日記 にも、 明記さられて みない。 而も ラクスマン が、
長崎に赴きさ 、 すれば、 通商の協定が出來るもの と確信してみたのを思 に、 英雄伝を興
へん に力のある義語が、 交換されてわた と、 考察す べき であらう。 また ラクスマン の 日記
, •
による に、 六月北上 日 の金 日死の光上 に於て、 仁義仲 が 、 我が図,と光陰 の交 を締結 ん~
開鉛電
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断 港
闘歴に
じ ゞ
そ き の 長
臓器 羅。
* 豊 影響

ふ 見 な あ 夷
候へども」 とは、定信
他の諸國が、みづから *7
一 の行動を辿るべき可能性を醸想し、或は國防整備の上、「詞有之候は

の取計も出来るとも考へてみた。定信は、晩年秘録大要を著は
らしてみるけれども、寛政の執政時 代には、まだそれほどまで進んだ考はない。己むを得
また将来適常の時機に、通商を取消すかも知れないとも考慮してみた事が、手留の文によ

内容が全く違ふ。即ち開園の必要を認識せる結果としての開國でない。避戦の目的を
る。これ我が近世史を讃むもの、、最も注意

易り 海
よ産
開の穀
焼橋歩
る物米
定信は鎖國を讃美する労、 己むを得すして 國の決心引 をした。 それには 如何なる方法を

歌出 。
、 * 〜 し、女有ーご

-
*。ったか。これも定信の手留に、長崎ニて残願、代日物がへ等之儀、長崎
てかけ 合ひ云々」
Hひ云々 と見えてみる o 上文
-
、L
日物が へは、『3らく で分夫了 ○
ぎ 幕 ー弘 で と こ
な 府 が は 説 べ 是 れ
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文 示 十 永 の , * 信 S 選
意 す 六 六 で し リ豊 ? 商 敷
明 所 I1 年 * に " 意 人 貯
歌 * 水 蒸 ほ ペ 見 2 。
歴 袖蝶
鷲 も 声 藤 畿交 宏 * 繋
翌く よ
魔 獲 臨 等驚
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忠 易 ー
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み 無 意
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事 房 如 は

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あ 任 を ャ 暮 * 見 里 影
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誌 記
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武 博
へ 。に 明 事 戻
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* 一 り 崎 も 患 る 塾 ー
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筐 す 特 来 & # れ 雲 物
随 べ に て、見 朝 ど じ の
市 き 書 開 ら 豆 も な 債
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西 の い を る 申 高
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一の行動を辿るべき可能性を醸想し、或は國防整備
の取計も出来るとも考へてみた。定信は、晩年秘録
らしてみるけれども、寛政の執政時代には、まだ
ない貸めに通商は許すが、もし出来るならっから手を引くやうになればよい。
また将来適常の時機に、通商を取消すかも知れないとも考慮してみた事が、手留の文によ
㎞。 って想像せられる。同じ開園の説でありながら、天明度の幕閣、井に工藤球卿等とは、主
張の内容が全く違ふ。即ち開國の必要を認識せる結果としての開國でない。避戦の目的を
達するが貸めに、除儀なくせられた開國である。これ我が近世史を讃むもの、、最も注意
すべき所、将来懐夷論と封立せる、所請開國論者の開國論と、策論の基礎を同じくするも
のであった。要するに定信の所見は、鎖國主義者の開園論と評すべきものである。
㎞ 定信は劉園を讃美する労、己むを得すして開園の決心をした。それには如何なる方法を
る開國貿日
採るべき考であったか。これも定信の手留に、長
てかけ Hひ云々」 して見えてみる。 上文
信。 代口物が
あ行













ぎない


けれども


西








同年る から
作 首相

幕府 、

ある
では あ説れる

寛し


もので







ら常時

記と







は録の政る明 定信る明見
では
意これだけ


不忠
あか


けれども 談る話 の

あ房

筆記
。 また







幕府


中 出録
捻中心












する
す石う
て た川
ある


カ あり



べき





し 交末信り易





あ足



定の




始し


朝臣


ゆるし
通商
により 長川年
石天保









物語
将監
左近
なれじるく人り

商ま
如て


すの

ま自由





さ事

など

たり 書儀らん地き て






園米

さ時には


かへ







公に


の 物り

将監
左近






西











いたし
、 語



ら 嘉
もとよりべ一記


筆示す

同無責任
すと








でない
きもの 阿正
*中
老 部た園節 のか
開プーチヤチシ



し長崎




使が




-『


。シッ「ァ「ァッ渡来の際、幕府は過去に於ける=隊のを砂に就いて
シた記%も、シ科の一部である。なに比外、シ
3
ピ〜
**いて、正弘から着昭に示してみる。 ェ *低山



*
1下
も、また共際の調査に基いてみる事は、明確に承認せ
# る
*任からいっても、勘定奉行たる職責からい

正弘の股版たる闘係か
*っても、これを調査しなければならない地位にあ
シ古記 は、勘定所所蔵の文献であらう。また築翁公自筆の細書とある も、詳か
。、 時幕府に博はってみたことは、疑ふべきでない。今これを以 、かの
シ比較するに、闘字の地名は、厚岸の二字であったと思はれる。面し
シ、『 上また、忠房の談話が、寛政度幕閣の方針を示すものとして解#すべき
。かく*へる時、享保以来政治上、経済上、吐倉上、常に 好を
ました米債調節の問題が、 開園通商の議と相鋼れたのも、 決して不自然でない。武士の救
済に全力を滞 した定信が、 これにょって至難の問題に、手を着け ょうと企てたのは、有り

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もまた騎踏せられる。比酷に就いては、なほ始く疑
幕府が共論書に於て、ラクスマンに告げた所は、概





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。 足に
ければ、直ちに江戸に赴くであらうといへる一言は、非常に定信を驚かした
事の危険なるを思は
於て、外國船の取扱には、厳重の國法があると述べて、沿岸に近づく ーカ
と共に
しめる れてみたやうに見え
、また密に國威の盛んなるを示さうとする用意が、含ま
に許さうとするのは、窮除
る。これが第一の理由であらう。なほまた定信が、通商を露園
の状態に復したいと考
の一策に過きない。故に通商を開いても、将来出来るならば、事前
一四三
、第 二 章 ラクスマン の 渡 米
第五組 ! 四四
へてわる。 通商の開始は、 安心學分布はない所であった。 此意味に於て、 通商の距離が、
國家の政策である と明言して認く ことは、 何等か の機會に、 對外の関係を、 有利に導くも
外交上 の敵 令 の,として役立つ,と考 、たやう に見える。 これが第二 の理由であらりうº 要するにそれは、

交上の統合 に過ぎない。 崔作現在の政策を、 正しく打明けたもの ではな
そラクスマン が退去した後に も 、 かくの知さ政策を務求した事もなければ、

後繼站間に於
ても、 途にまだこれを信行しなかっ たのである。 たく 文政の打排令があるけれとも、 お の
っから別の理由によって行はれた。 詳しく は第七線文政時代の修に説明しよう と思 。
主義としての
銀河 主義 としては敵國、 政策 としては開國、 これが ラクスマシ に封する松平定信の態度であ
政彼 としての
開國 た。 此 才后 补 る態度を、 水质しないやうに張經した所に定信の苦心が ある。 秋に天明時
代に於て、 戦闘の性質の酸化する過程を迎 9はじめた事は、 上文に述べて従いた。 體細
~
を受けてわるのであらう。 就中 フスクマン に授けた論書に、 通信活
る諸國の外、 張りにこれを許す事が出来ない とい へるは、 東(經國の本質から離れて、 “
す7)最重の東線を加 、よう とする天明度の野外患 想,と、 全く無關係で
-
- -
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られない。 かく て所前通信通商は、 かれ て定めてある諸國に限る -
㎞㎞
り/

かうした場合ばからでなく、開園の方面にも、同じ現象を留めてみる
㎞ するものは、濁り
度頭


綻銀

常甘て田沼意次によって代表せられる天明度の幕閣は、露國の貸めに蝦夷地の
事を考察に上せながら、途にこれを中止したけれども、寛永鎖國令の精紳に反する貿易港
の増加を不可としなかった。面して定信もまた、厚岸開港の策を按じ、貿易港
に限定する奮制度の破壊を意に介してみない。蓋し意次の施設は、鎖國制度破綻
見るべきものであり、定信が、意次の騎踏した所を、質行すべき決心のあつたこと
“7
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門を固くすると共に、政策の上に利用して、事質上鎖園制度の破綻を促したのである。将
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来我が日本が、鍵化の二様式の内、共いづれの途を 歩むべきかは、 後 ハダ B)
後継幕閣の態度にょっ
第二 章 ラクスマン の 渡来 一四五
第 五 編 寛政 享 和 時代 一四六
商船を清國に 定信の封外策を考察する上に、なほまた見通す事の出来ないのは、出貿易の意見であつ
派遣せんとす
る幕府の内議
た。共著宇下人言に目く、
(*カ、以下同ジ]
唐船不入来ば、寛文己前の例により、唐かたへわたりて、築物かいもとめてひさぐべし。もと渡唐寛
文に御禁じは、日本の人多く唐土へ来りて、或は妻子をもち、いくとせも唐土に住居するなんど、み
● だりなる事ありしかば、禁せられしにて、唐土は萬國の至る所にて、彼方よりきんぜしにはあらす。
寛文の禁怒ちに地べられんもいか ゞながら、人命に預る虜の築物霊なば、これ又至仁の思めしに背く
べし。しかれば天下の人の貸にはそのきんをゆるべ、渡唐して有無をかへんに、何の論もなかるべし


これ定信が、寛政二年長崎貿易に改革を加へ、清蘭二國との貿易歳額を制限







か、り、将来もし清舶の入津が絶えて、薬品の映乏するやうな場
船を同地に派遣したいとの意見であつた
の 。こ、に所請貿易とは、軍に薬品の輸入を目的と
するものであり、また民間の貿易商にも委ねす、官船の派遣であるかの如くに思はれるけ
れども、外國に出かけて貿易を行ふといふ事質は同じである。殊に寛永鎖國令の精碑は、
渡来の外人に封するよりも、寧ろ多く、國民の海外に渡航するものを、厳重に取締るにあ
った。然るに共最も重要祀せる海外渡航の禁を地べようとするのである。暇令箇人の渡航
。のでなく、官船の派遣に過ぎなかったとするも、定信が必要に應じて、鎖園制度
. 之中,加 < 0 * = +か の ふ , 4 +? s;"> ; ; ;; • •
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* でありた。 而 ㏊ s ㏊ :6%討厭 2 * * : 阿图3
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て、 常年に於ける南側の機地を察することが出來よう と思 。
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第三章 外國船舶の待遇
外國船の出没
と幕府の警戒
寛政三年の秋、異國船一般、長門、石見、筑前などの海岸に出没する事八日の後、共
影を失った。時は方に露國との闘係が、潮く識者の憂慮に の
を見て、幕府もまた戒心せるもの、如く、九月朝日諸大名に達して目く、
外園船の取扱 継て異園船漂着候ハ く、何れニも手常いたし、先船具は取上げ置、長崎へ送り遺ハし候慣、夫々可
に闘する幕府
の注意 相伺事ニ候。以来異園船見かけ候ハマ、早々手常、人数等差配り、先見えか、り、事がましく無之様
ニいたし、筆談役或ハ見分之もの等出し、様子相試み可申候。若拒み候様子ニ候ハべ、船をも人をも
打辞き、無貧着筋ニ候之間、彼船へ乗移り、迅速ニ相働き、切捨等ニもいたし候ハべ、召捕候儀も犬
可相成候。初論大筒火矢杯用候も、勝手次第之事ニ候。筆談等も相整ひ、又ハ見分等をも不相拒候趣
ニ候ハ く、成丈穏ニ取計ひ、右船をバ計策を以なり共繋留、船具をも取あげ置、人をバ上陸いたさ
せ、番人付置、立騎り不申様致し、早々可被相伺候。若及異儀候ハマ、捕置可被申候。異國之者ハ宗
門之所をも不相分儀ニ付、番人之外、見物等をも可被禁候。右漂流一二般之儀ニも候ハべ、前文之通
可被相心得候。若数般ニも及び候獣、又ハ敷少く候とも、最初より厳重ニ不取計して難相成様子候ハ
ゞ、共儀ハ時宜次第たるべき事ニ候。犬右鶴之節ハ、都て最寄領分へも早々申通じ、人数、船等も取
揃へ、可被差出候。 ㎞、
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一五二
第 五 編 寛政 享 和 時代
第四章 蝦夷地の経営

封する世上の疑惑は、後継幕閣をして、定信の考へたよりは更に一歩を進め、もっと適切
なる計書を立てる事の必要を威せしめた。蝦夷地の経営が即ちそれである。
嫁封
* 世道
疑す松

上廣
のに
る前

フクスマンの渡来があり、尋で数回に互る幕吏の巡見があつてから、

封露の闘係は、廣く識者
道廣の批政
認識せられるやうになっ
けれども、放縦にして批政多く、家を共子章廣に譲ってからも、なほ藩政を怒にし、権勢
音日の如くであった。かやうな有様は、同藩がこれまで、外國に闘する事を隠蔽して置い
た事質の暴露と相合して、世上の猫疑を招いたもの、如く、道廣が、密に外夷と通商し、
蒙厳の行が多いといはれ、㎞或は異園への通路があって、密に野心を抱いてみるといは
れ、或は糧を露園に致し、婚を露王と結ぶといはれ、㎞ 更にまた松前は、満洲とも露國
とも和融する園柄であるから、表向きは日本を敬ふ やうであるが、内密には、比雨國を手
引するまでになるであらうともいはれ、㎞。シ園に内通するといふ嫌疑が次第に濃厚に
なった。大原左金五日が地北高談を者はしたのも、比際の事である。
大原左金吾の
地北高談に記 大原左金吾は春響と競し、詩文及び槍書を以て世に知られ、か*てシる。寛政七
されたる道廣
の陰謀 年松前道魔の貸に、文武の資師として聘せられ、翌八年に至るまで、足かけ三年の間、松

、共間に於ける見聞と、見聞を基礎とする封露策とを述べたも

のであるが、道廣に就いて、次のやうに記してみる。即ち道廣は才智抜群にして精得、最

* o
も事を好み、非行が多 の後にもなほ藩政を専らにした。是より先寛政四年ラクス



マンの松前に来た時、侍賢加藤肩吾に命じて、密に奥羽の地圓を贈り、且露國にして、も

し日本を侵略する意志があるならば、予は先鋒の任を勤めるであらう。予をして幸に、日
本を掌握せしめたならば、永く朝貢を怠らないといはしめた事がある。左金吾みづか


がル
7*7
また、道廣と曾見の結果、松前藩が、露國に封する
が 防備を修め ないのは、共入冠の際彼に

降り、自己の功名心を満足せしめる貸めであるのを看破し、共陰謀に
ア石 驚いたとは、地北高
談の硬概である。かくて左金吾は、松前を去つて水戸に赴き、道慮の野心陰謀を立原翠軒
に告げた、撃軒もまた非常に驚き、左金吾と相前後して江戸に至り、寛政八年十二月って
を求めて、密にこれを老中松平信明に訴へた。比時信明は、詳細の事質を知りたいと希望


1。





第五編 寛政 享 和 時代 一五四
の 地北高談である。翠軒はまた藩主水
戸治保をも説いたけれども容易に信用しない。更に附家老中山信敬を動かし、信敬を介し

のれ

値地
富疑
談は

債る

地北高談に記載せる松前道廣の陰謀が、如何なる程度まで信すべきかは最大の疑問であ
る。同書は鳥有子関とあつて、自己の署名がしてない。また「何れの御時にかありけん」と
書き起して、年代も定めてない。共上に、松前を吾妻江、道廣を大江介、鍵㎞道廣
の庶弟艦 崎将監を高崎牧賢といふやうに、地名、人名は凡て鍵名を用み、自己みづからを
も書中の 一人物として取扱ひ、これも大山小賢吾と記してある。全編の立意は共序文に、
「質を暇にし、言を高し、かくれて露る、ものあり、あらはれて潜むものあり」 といへる
が如く、高意の鶴になってみる。抑も本書は、道廣の陰謀を幕府に訴へるが貸めに、殊に
また老中の内命によって起草せるものであった。決して隠者の放言でない。然るに比大事
を議するに常り、何が故に曖昧模綱の筆を弄したか。誠に國家の貸めに、共刷を除かうと
せば、正々堂々、これを筆課すべきはすである。面も事こ、に出でざりし所以のものは、
蓋し共推測にか、り、所請陰謀を立誇すべき論擁が、薄弱であったからに相違ない。彼が
水戸に於て立原翠軒と曾見の際、
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藩 二 忠 ." 河 江 大 の て 封 営 れ 府 掃 に
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* 、ミー八 、 し ** } 、→
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を管相館
根室、國後、摂 児を守り、津軽 の丘ハは砂原、標児 を守って 市 田を第 れ、好に本営
揮捉鳥 を園防 に置き、事鍵に際しては、奥初の諸藩から鷹援する事になった。粋㎞ 面して蝦夷地経営の
上の第 一線と
する蝦夷 地経 方針は、羽太正養の著はした休明光記に、
営の方針
蝦夷地は、四方海にして、廣大なる島なれば、いつこをさして、堅城砦杯を設くべき謀もあらす、只
只夷人共を厚く撫育し、悪く國家の仁政にのべふし、衆人一致に心を決し、外國よりいかになっくる
とも、敢てかたむかざるやうに教へなすより、施すべき術もなし。もとよりプロシャ國は攻戦を好ま
す、人をなづくるをのみ業とすれば、比術よく整ふ時は、外震獄食の道を断切る道理にして、則衆人
を以て堅城砦となすの法也。
ーと 、重きを開拓と撫育とに置いたのであるから、物産の利を興す事には注意
露園との衝 したけれども、露園に封しては、出来るだけ衝突を避けようとした。比時に常り落人は、
突を避くる
政策
既に得撫島にまで来住してみる。かるが故に専ら力を、これと相隣れる採捉島
た。越えて享和二年二月羽太正養と小納戸頭取戸川安論とを厳夷地の
箱館奉行の新 た
設 館奉行の稲を定め、奉行所を箱館の亀田
東西蝦夷地の
上知 を改めて 「永久の上知」 と貸し、松前氏には歳額三千五百雨を授けたが、文化四年二月更
-
一五十七
第四章 娘 裏地 の 経営
㎞ をも牧め、蝦夷地一圓幕府の領地となる。よって松前氏を奥州梁川に移
し、一萬八千石を興へた。比時松前道魔が、家督中、蝦夷地の施政の不行届であるばかり
でなく、隠居の後も不護慎の行があるといふので、永熱居を命せられたのは、幕府の嫌疑
に基くものといはれてみる。 ㎞㎞
蝦夷地の上知、奉行の任命が
るべきものが多い。事は詳かに休明光記にあり、 *6
た近年北海道聴の編纂にか、る北海道史にも記されてみるので、継て省略して置く。かの
得撫在留の露人の如きも、蝦夷人との交通貿易を遮断せられた貸めに、幕府の像期したや
うに、文化二年になって途に退去したのである。面も揮捉島に於て露國南下の勢力を防が
うとする幕府の政策は、共経営の力を割いて、得撫島にまで及ばす事を承認しなかったと
見えて、たゞ僅に採捉島在留の幕吏と、南部、津軽二藩の兵士とが、臓虎猟と巡祀とを傘
島投無
列得

の以
北 ねて、毎年夏秋の交、同島に渡航したに過ぎない。かくて幕府は途に、得撫以北の千島列

島を放棄し、将来日露國境の議の起ることに、探捉以南の、我が領土たる事を主張してみ
るのである。議㎞
参照。
蝦夷地経営に
封する時論の
シ夷地の経営に着手した寛政、享和の
-
- ョ
際に
た寛政 享和の際に於て

の祭こ 学 *
、十二し 上ミーニ

世上共是非を論するものもまた
価#。
開中照

収い


シ 〜はハ* い、。即 ・り中井竹山 は草*#き日 の中に〜


論竹
拓#

シ 、シノ塔ヶッ上ハ、共除モ我園ョリ総推シテ、手ノ届ク可程ノ所ハ、内附セシムペ
キ者ナリ。


編圏

放棄 とて、開拓の説を唱 へてみるが、同時にまた、
今ノ蝦夷ハ域外ノ事故、是ラ秦皇漢武ノ、漫チ聞キタル如クスべキニ非ズ。タマ互市務チ置テ、管轄
スルバカリノ「也。若北狭ノ冠大ニ至事アラバ、府チ撤シテ引取テスムべシ。何モ國ノ吐トスルニハ
足ズ。初ョリ屯成ヲ設ヶテ、夷壊ラ衛ルニ非ザレバ、引取「何モ卑怯トスべカラズ。又絶域ノ「ナレ
バ、カ、ル時應援ヲ議シ、我國ラ勢メ共地ァ争フナド、云事、決メ有べカラズ。蝦夷モシ外狭ニ奪ハ
レタラバ、又ッノ狭ト、互市ヲ通ダョクバ通ジ、絶テョクバ絶べシ。是等ハミナ度外ニオクべキノミ。
と稲し、始息の放棄論を唱へてみる。蓋し蝦夷地をば、我が領土と見ないからであらう。
は、露國と事を生じない限り、これを開拓する意見であったが、共弟中井履
軒に至っては、極力開拓に反封し、寛政十一年の頃、漫策を著はしてこれを論じて目く。
只恐るべきは北地也。津軽、松前の間十里にたらす、蝦夷地三百里を過て、ソウャより唐太

第 五 編 寛政 享 和 時代 一六○
北風や日本 頑患なるは日本の幸とす。故に誰人の作りて有けむ。北風や日本の火除蝦夷が島と、よくいふと請べ
の火除獣夷
が島 し。今江戸より品川に至り三里の間、三田、高輪建績きたれば、南風にて品川に火災あれば、江戸も
危ふしといふべし。三田、高輪空地なれば、何ぞ心を用ひんや。北にラロシャ、アシハセの夷狭あり
といへども、三百里不毛の地を越べからす、比島を除けば遠海卒に来るべからす、故に北顧の憂もな
しとす。然るに今比園を開き、田畑を開務し、和人多く渡りて、質貨充満し、教育する時は、夷地不
毛にあらす、又頑愚にあらすして、終に豊健文才の地となるべし。是則今開き玉ふ所の御心にして、
北願の備たりといへども、日本に於て何の盆かあらん。今己に大勢の人数を遣され、大金、米穀を費
し、之を起し玉ふ、比損はいつか補ふべき。既に補ひ得たる時は、夷地豊健の地となるべし。是ぞ高
の家を建たるが如くにて、後世北風のたきつけなるべし。: 願くは蝦夷地を共儒差置れ、不毛の
島険を以、北風を防ぎ給はド、来冠の憂あるべからす。
と稲し、日露雨園の間に、不毛の夷地の横はるのは、自然の要害を貸すものである。これ
を開拓するが如きは、 甚しき誤解であると論じた後、
日露貿易反 抑夷狭をあしらふは、只病犬の如くすべし。吾方に近付ぬを極上とす。:今までかけはなれてあり
封論
しものを、別に事を通じて之を近付、何の盆あらんや。交易によりて、我國の米穀、金畠多く渡し
て、比味を知しめ給はゞ、誕を流すは必定なり。然る時は年々に日本を義み、したひ心かけて、霊る
期あるべからす。於是守人の隙はあるべからす。
て、日露貿易の開始
。 しラクスマンとの鷹接について、灰聞する所
7「『ュー ・ ・シ
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松前氏復領
の。った りか、然らざれば、幕府の共撃に出でん事を恐れての事でからう
- }、 t
論 原野はなはまた共著年成録に於て、
近き頃娯夷の経営は科政なり。:共闘きたる地は、みな松前へかへしあたへて治めしむべし。
蝦夷地放棄 とて、松前氏復領の説を唱へ、履軒幽人文稿漫録所載露人への擬論に於て、

生民之命。お㎞ 故今抜懸収民、撃土地遠子粛慎、以復子天
とて、蝦夷地の放棄をも論じた。履軒はた\に開拓を非とし、松前氏の復領を説くばかり


、蝦夷地を露國の侵略に委ねようとする
松平定信の 比頃また履軒と同じく、蝦夷地不毛の野を以て、自然の防御 地帯と考へたもの、多かっ
非開拓論
た事は、漫策の中にある 「北風」 の便謎によっ て H寺
なほ太田南畝もまた幕府の施設に反封し、
といへる事が、文恭公質録に見えてみる。やはり幕府の開拓経営を不可とする意見であら
て上
イー
第 五 編 寛政 享 和 時代 一六二
蝦夷地経営に 箱館奉行羽太正養は、中井履軒が漫策を著はし、幕府の蝦夷地経営を非難せるを見て、
封する時論の


t
一斑(共二) 家臣馬場正通に命じ、駿論を草せしめた。正通即ち漫策務臓を著はして提出したのを、正
羽太正養馬
場正通の開
拓論 養みづから加除刷正したのが、名高い漫策私携で、質に享和三年の事にか、る。今共説を
按するに、
千島唐 皇威盛んなる御代には、西方カラフトの地、東北はカムサスカまでも服従したる事 なし。されば和
領土構
歌にも、蝦夷の千島といふ事を多く詠ぜり。
* * **-* - - 策 も これ
とて、千島、唐太の、我が領土たるを説き、シ㎞
松前氏小身にして國政行届かす、只管好商どもにゆだね置のみにて、好商は自己の利を謀りて、ほし
いま\に夷人をしひたぐる故に、夷人は年々に困厄して、共政令のあしきを怒る事甚しければ、比弊

に乗じて、近来奥蝦夷の島々へロシャ人来りて、かの文盲頑愚なるものを、潮々に、或 は衣食を興
へ、或は器物を投じて、共歓をとる故に、大牛恵に感じ、彼國の民たらん事を欲し、彼國の風俗に鶴




たるも既に少なからす。蓋比勢につのらば、遠からすして蝦夷一圓、ラロシ




んぞ捨 置べ き ならむ。
といひ、離㎞また不毛の地を特むの不可なるを精じては、


不毛の地を

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晴む事の不

*発を食て活る人こそ、不毛の地を愛ふべけれど、固よs米競を食せすして活る人なれば、不毛
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第五胡 党 政 字 和 時代
に散見してみる。 个これ等の諸書によって、 利明の説を果 くれば、 約國が既に千島列島を
て對

開寶
拓 と

沈めて戦克人を擁有し、 更に我が標比をも共抗して、 純化を勤めた事を語り、 共北 の守党


ならさるを論じ、 また帝に得標、 店太に来て、 越年 1る事を述べ 、 こ 故が風情 カ
宗 人 が 狗め の問題 であらう,と疑り、 かく の知く新聞が、 既に迫っ て来て わるの に、 な
品製成地を共*^ にして軽くのは、 何故であるか-稱し、 柳
お のつ から高刑が ある。 源不以後の 武家の興亡が 同志 打であり、 天下に,とって相会館のない
やうな大第~は、 同 でない と説いてある。 體解かくて製成地開拓の急務に及び、 製炎、
唐太は、 金銀其他の魔物に常 のる良地 である。 然るに世の旗人等は、 家地 で元投を生じな
い,とか、 在居も出來ない,とか 稱し、 甚しいのは、 一眼の鬼が わて、 これに過 《光直ちに死
ç るなといふ ものもあるが、 其私な事は気の非に抵 /ない。 これ者僅學の撃 を受け て、 天
文、 地理、 航海の果に暗いからである と述べ て休載を排し、 開拓の初恋 に落すべ からざるを
說さ、 盛んに船船を送って土人を標有し、 これを教化して、 國倫に服 せしめる と共に、 內
地人を移して、新州の任に彼らしめなければならない ての地正弦楽を呼べた。 魏晉
してまた日く、
*成就 S
開業成就 上は 前半
S 上は、 分 」トハヌに『 -く , ----_--
外の 日本の関%程も出來才? し 天が日本 へ入來るに於では、 只会 の繁目を借
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富國シ 兵 を救ふの術を富園別正ハといふ。シ。た級急 の二 りが りり、更に校にして急なるものと、
急にして緩なるものとの別がある。富国強兵を図り、恐るべき赤夷に備へるのは緩であり、
懇田を開き、民に耕耗を教へるのは急である。面もまた緩中の急、急中の緩と稀すべきも
のがある。緩中の急とは、赤夷に封する虜置であり、急中の緩とは、懇田を開く事である
共露國観 といひ、兵備と開拓とを傘ね講すべきを論じ、更に露國の恐るべきを説いては、赤夷の外
國を侵略するのに三つの術がある。はじめは商買を以てし、次には教を以てし、後には兵
を以てする。これを蘭人の言に徴しても、赤夷の廣大にして、國を弘める事に力めてみる
は明かであり、Hまた幸大夫騎國の後、共詳かなるを聞いて、三尺の童子も、彼の國の
廣大なると、境を我が毛夷に接するを知らないものはないといってみる。然れどもまとま
- -
j:Liー賞政 八 ・・
った意見を述べたものとしては、北地危言㎞ に喋らなければならない。同書には、
-
庁 露

直いたならば、蝦夷は途に我が有でない。幕府、諸藩共に、宜しく砲術を講じ、水軍を練
の軍艦を 豪を築いて防備を厳にし、なほまた諸大名の疲弊
を救ひ、武士を土着せしめ、農兵を設けて、士気の振興するのが、今日の急務である
四章 夷 地 の 経営 一六七
五 編 寛政 享 保 時代 一六八
前堪警
氏へ 備

武る 任
力松に*
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る後、蝦夷地の危急は、日前に迫ってみるにもか、はらす、松前氏の武力は、到底藩属

成玄は山丹、満洲、#質は虎狼の赤夷に隣り、共間に、反覆常なき蝦夷ども有之候間、たとひ数十萬

石の大侯、是を鎮として居られ候とも、全く備の手、届くほどには至り申まぶ
粒の米穀も生じ不申、兵は二百に足らす、金城湯池の固メもなく、軍意無事の時に御座候故、一かど
の藩罪と相見へ候得共、質は死地にすて置にひとしく、一旦比虜に事を生じ候はド、歯の寒きにも至
り可申候。:今赤夷の大國 を あらば、謀を迅速に決し、早く松前をとるにしく
べからす。赤夷の極大を以、一松前をとるは、養中を探るにひとしかるべし。松前もし彼等が有と相

* 従






へ の にひ、連綿として土地相績き、前は三潮の険を以
で城郭を築き、田畑を開き、始の間は比方へ手を出す事なく、持重を専らと

また、松前氏は蝦夷人に封して、教を布かす、武器を授けす、文字を教へす、日本





ばしめないで、これを愚にする事のみ闘ってみるのは私曲であると非難した後、
速に鍛夷地を開拓し、土人を教化し、且銃砲を授けて補助兵たらしめると共に、天下の貧
-
工ナ し し 白 -
り』 * タ
可 と JリE) 2
同時に松前氏の居城をも、北
の箱館に移し、鎮豪を松前と南部の佐井と に置き、 互にーリオ5
開足の勢を貸し
レ勢 て、露園の通路
て、銭B 、 ぷ
ならば、北顧の憂が*〜 々るであらうと結んでかる。 露園の野心を説
〜ものー
足より先既に林子平があるけれ。、 面も共意を極論し、松前氏の武力の、
シの仕に携
へない事を説いたのは、左金吾が鳴矢であった。これを見ても、露國勢力の歴追に封する
國民の意識が、 潮く強く、 潮く深くなり つ 、あつた情勢を察する ことが出来よう。
第四章 夷 地 の 経営 一六九
第 五 編 寛政 享 和 時代 一七○




*




於し


* むま J-A *
のは、本書の目的でないから
國の富弾を語りて、共然る所以に及び、
人の道開け、六千除年経歴する間に、道理の至る所を推究すれば、金銀銅を外國より取込の外に道な
く、是を取込には交易の外に道なく、交易は外國と交易するの外道なく、外國と交易するは、海洋を




ろ 外




自在に渉渡する 目在に渉渡するには、針路 針
には、天文學、地理寧の外に道 な 、海洋渉渡の明法を組立、
・)
こ に渉渡して、共國共島へ相距り、王侯大人と交易し、金銀銅の
大利を求得て、西洋諸國へ取込故なり。比故に海洋渉渡の明法は、西洋諸國、制度第一の國務とする
園風なり。是自園を末増に、富國にする道理を鍋し究たる制度なり。東洋の諸園に於ては、いまだ共
沙汰なし。残念なる次第なり。
利通
盆商


貿{
“て、世界を横行して、通商貿易を行ふの貸めなるを説き、更に、
共金銀銅を取込には、 自園の産物を用て、
外國の金銀銅と交易し、 利潤の金銀銅を得るの


父得るの外に道ある

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惨状を呈しない。暇令日本全國の記健でも、海外の諸國から米発を輸入し、一人の餓死す
るものもなく、萬民をして、安んじて産業に就かしめる事が出来るといってみる。 併
長崎貿易に
封する不満
し長崎貿易を論じては、金銀銅の濫出を憂へ、
といへるを見れば、長崎貿易の現状に平かでないものがあった。これ蓋し、共所請 「自然
産物 」 を主とする輸出貿易である からであらう。
本多利明の 開
國論(共四)
更に利明の属島開業の策を接するに、開業とは拓殖の事である。故に
植民政策 未だ人道の開けざるは、撫育井誠して教化なし、未だ人間の少なき國士は人種を藤き、萬事萬端、渡
来の得益を遠く慮りて精密を書す。 ㎞員
と稲し、また
比雑費の償ひ方は、共島の自然土産を取って日本へ運送し、交易して足を償ふを手始とする也。

とも論じてみる。かくて拓殖の経営は、我が近海なる小笠原島、常陸沖の無人島、佐渡沖
の マッッ島、 「五島沖の波島、蝦夷、千島、唐太をはしめ、露領治海州の地
第 五 章 開園 論 及び 鎮 國 論 の 提唱 一七三
第五編 寛政 享 和 時代 一七四
方から山丹、満洲に及び、更に南洋の諸島にまで、共歩を進めるにあった。 利
明みづからこれを撫育交易と稲してみる。然れども、
戦争を歴てさへも、土地人民を得べきは、王侯の天職なり。ェ
他園を侵しても、本園を増殖せんこそ園君の務なるべきにi、
と補し、なはまた欧洲諸園が園富み兵弾く、「萬國ノ内侵シ抗ムルョト共数ァ知ラズ」 ㎞

殊に英國が世界到る所に、廣大なる植民地を有するを美皇し、我が國でも開業の策を行は
ば、東洋の英國たる事、決して不可能でないといへるを見れば、㎞ 近代的なる植民政策
*
を理想とするものであった。故に、
カムチャッカ
遷都論
日本を天下第一の最良園と成すべき法を論すれば、神武以来三毛五百歳の内、潮々諸道も具足せしに
乗じ、カムサスカの土地に本都を遷し、 ㎞西唐大島に大城廊を建立し、
㎞。i日本の 國競をカムサスカの土地に移し、今の日本を古日本と改競
し、カムサスカに暇館をする 、貴職の内より、大器英才ありて、徳と能とを奪備の人物を撰揮し、郡
懸に任じ、彼地に住居を構へ、開業を丹誠ならしむるに於ては、年を経て良國となり、追々繁昌を添
-- =』 - ( ) 出、上野
へ、途に世界第一の良園とならん。
といふやうな提唱をも見たのである。


別の所シ島の開業は、我が國力の進展に伴うて行はるべきものである。鎖園の天地
に挑战 ºšS 能( * 3; ” 正に於て現實 s 問題を解決する が かに, ،2…
大對家達 の つた。 其 は大熱氣道の禁を解く事である。
解禁
大衆 国中唯s 制を送して、敵を保つに於ては、永久に破坏人間故なり。 縣。
観光地 の開

其二は戦克地 の開拓である。

も西洋にも、 日本に射すべき詰 «あれとも先語、 製炎の諸島は、 常時 º スコピャベ家るべき大


(

の非怖分 に、徐のうもの文がない。 新。
日露政局 の は日將其功 の開始である。
開始
みとみ: <なじり 鳥 場規定 メ、 日本 ) 依物 之用テ、 なみしや土產物ト交易 スル 状テハ無事
ナレベンo た スレパ人柄 眼王 卡 如 影 、 彼 テ、 何ク様2平常 で アルペシ。 背 分 をみし や人形海 でザ
ル放 、 かむさすか)十人ト 公共、 矢張島駅東 ア、 無脊椎2者共ナレバ 、 打扮道 のペク し 大、 近
年 カリテハ 、 もすこびや 2 充 到リ、 廣府教導き バ 、 北 ) かむさすかトハ大 限り、 なみし や ノ 政 *
ト大明1歲、 剛ト成リテス、 ト 通92 德萊克 公主 クテキス所主 ッパ 、 何 レノ関 リモッ*
< 、 北をみしやナル 、 如何ナル株洲 北アルハ遣 す 。 陈
によれば、 交通路易の開始 によって、 彼の両 の 平府を楽し、 對將來に資する のが、 其
たやうに見える。 而して 分に於ては、 神社、 國後の 仏を開き、 輸出品に於
、 戦火の海產物を定てる にあ た。 為 ( 長崎竹 の加 さ金魚綱の輸出は、 共不可~*
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« S 州征 _| + 王
第五 輪 党 政 事 和 時代 1十六
る所であるから、 常時高く、 支那 、 の輸出品 として重要視 5れて来た海產物に若日した
のであらう。 即將國の事情を探らうとした事、 製炎地を開かうとした事など、 天明時代
の工藤球軌の所說,と相通する所が ある。 假令球軌が、 開港の場所の、 より自由なる べ さ能
度を示し、 また金銀例 の輸出を不可,としなかった
~、 後會の根拠を同じくせる事は、 水解しなければならない。 體 現狀のよ ^ に製成
地を放任して置いては、 衛國の 銃 のに修はれる,といふ 受限に就 いても、 共投を 一 つ にして
ある。 二人は共に等しく開國論者 であり、 製成地開拓論者 であり、 関學者 であった。 思~
,




す同明
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して

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國學說は
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要 する に利明

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先さ 間距


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現に
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野質ない過た を

理外地在ぎのべ想 も


が規非


ので


よう
ある




い通人
行貿易 外

とつる
め模し
か商
平正地 開國論家であった。 其說は、 文政、 享和の交、 紅茶杯れた正案の命によろ
て起草した遊後來教練に見え て わるº
外國貿易の 事を 概によしなし といふは、
- 管路 分子死にして -
は、 優勝の ___- - -
中正 の弟子の言にあらす 大股 有靈
-
-* - - - - - - - - - - - - - > - - -
^ ^ **+ → ****** * * * * <? … …
، ، ، ، ، .…
を通じ 文功 すりは 聖人 の 近也º * 24日 s 政敵陣 に ,6 = 中 しん なして 水下の 兄 " ," ?
り ばかね りな がして退され s))北側が 狗 る とい へ 0° ་他所の 収しむ の物、 甘油 に てド式
《, 12 % : のものも、 他知 に は光平あり。 近くは人參は、 浮上して 取所に て 、 李氏。R
ト のた 江と 結部、 朝鮮の如さ、 北地に多く光する風にては、 さまで立。 ことだきょし。 文 いº の
の は、 或因にては多く出走して、 素より ものにもあらされとも、 外側に ては、 大正式。ポ
た 0… *上にも非法立成に、 い0この平を海參 と書して、 人参 见证を奪しくする物做、 海 S
人參とい 程の平な0人 を 放に修士にては、 馬史を以て、 い0この機 物を愛する の あ3。 本被
新にも 見えた00 光性物、 樂品など、 外関の楽にして、 我那の正弦たるもの多いれば、 1 期に外側
性物, 以 生の用だ つ事、 老本もあるべからすなといふは、 素より低能の論にして、 外 交易 S
特。 … ㎞の松のであった。 性 物には 理 李。个 平
如く、 金銀到を輸出するの は文 、平でない。 されば 「唯北側使 そ、 あら*はし^ *
日成安易の | S ~て、 改善 の必要を論した後、 鄭國,との放射に及び、
開始
个称西亞人 交易の路を開かば、 彼金銀制を渡すまでもなく、 米設を以て交易 でんには、 世俗 を r姊
さ也º 3 年 五段を他那 達さんは、 金銀制を渡さんよりも共擊性しかるペ けれとも、 『 五裂
年々生するもの にして、 金銀期の 再び生じ離さ期にあらされば、 関に制度 のいて、 たとい的年鄭成な
02も、 宋氏をし て、 死亡に至らしめ g程の価あらば、 北総は外因 出す とても、 岡の者たることめ
第 五 章 爾 國 論 及び 教団 後調 の 投 七
関豊 開中
論野 國井
柳 論履
帽 軒
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鎖 非

和 の ら ら く
元 る は か う 貿
年 け れ く ° 易
に れ だ の に
至 ど の 如 闘
り も で 《 す
. . あ 天 る
笹 そ る 明 同酸
て れ ° い 論
長 は 蓋 寛 を
崎 非 し 政 削
の 開 是 の 除
和 國 よ 交 し
蘭 論 り 「* -

迎 で 先 開 の
癖 市 國 る
で 必 井 論 の
あ す 履 が は
り し 軒 提 *

" も は 唱 誕
ま 鎖 い せ 府

有 論 夷 れ 有
数 と 地 た
の の の 際
具1


蘭 み 開 ° し
豊見 拓 鎖 て
者 る 國 *

で ベ II 論 黄
* き 露 も 任
劉 も 貿 ま の
" の 易 た 地
野 で の "マ 位
柳 な 開 は に
忠志 い。 歴 じ 居
常盤 こ め こ
* 然 反 そ か
は る 封 世 ら
* に じ に で
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所以。智光分をゆ義し て飼育~名づけ た。 ケッペル の 設 は、 北側 ル に交を結び、 方
集を通 , の は、 天地自然 の理 であり 、 以て人知の半端を光地 , 生が出来る。 然るに 見
2~ =たばか 9北走路を触して、 通商貿易 しないの は何故で あるか。 若 し=本人は、 國內
の生産 によって、 共生活を格もに十分であり 、 また光华、 工食をはじめ、 彼等の 趣味を向
上 し、 李 定 せ しむべ さ各種 の製作品に富入 、 供給を海外に 抑(必要がないからである。 汉
ç を通が開け 、 商業が張り、 貨物 の形成が 焼く行はれ、 共上に倒戈の 元気は低価で、 武勇
に住み、 能(外活を防ぐ事も出來るからな は史である。 湖湖为人が渡米を禁止 さ られたの
は、 北野心を作 地民政策 の 基盤に原因してみる。 かくの 知さ國家が倒を納 して、 自己の
平和を 保 たうとする のは、 決して大理に背くものでない といふ にあったが、 柳間は これを
した後、 佐木に彼自身 の成組を述べ て日く、



倒.


滿 .



())


",


関の放 となら ざること、 我行政

{
る ヘーかの谷町北人が、 大に共闘 を開さて、 北は水海に帰し、 西
は波羅陀亞、 蘇術祭品に迫り、 南は伯術隆 帝に通り 、 文迪く平方に向いて、 多く東西社製 の地を併せ
て、 ネルトシンス 4%討 さいる所に至6て支配に追い、 文武平方sナムナスクに至3て、 或
に過らん とするが如 さは、 我に在c ても、 新に 一 的 S 校を得 たるに似たれとも、 かの カムサスカ の 地
たるや、 既にその 本政を大 ること二千里にして、 文或明において海を へ て、 眼皮を出て、 前後の 使
ビ九
第 五 柱 問 政 廳 及び 經 國 倫 の 川に 相 -
-
第 五 編 寛政 享 和 時代
- 一八○
利を得す。H又彼が本國、外は都見格國、熱爾馬泥亜國等の強大なるに封し、内は諸部諸郡の鍵側展
難と備合んき

こと






堅固





伸せ
武和

にして、常に多事なれば 、遥に共手を



か類、

敵外患
の ラフト
蝦カの

國る夷
なべけれ






予は








すも

べし


木たきるしり助 なるる
あ。

かて

有御代

に難き
らす 能
る また、 らも





ざら
なん
出入
通濫
治て放に、 する
守所以


中ま我
皇まり商らん々た護



人く
な、
仰を

べの
教ぎ



語て
、用


親の
内 お


固する
な心
をくしむ 又




きりるく りの む
悪普
べし

邪暴行
べく
恐、
異異風 ど、

天に
く求 の
更奪
む 草、蒙さ
こと



雨露
ま上

と共に
べ國る説く下もにき 太平
の な 一とも








楽、
語な


いて、微く神盆する虜もありなんかしと、思ふばかりに
思 なんあり け る。
柳園の意蓋し、開闘以来常に、萬邦争奪濁蹴の外に排手して、いまだ曾て外國の奴となら
ざるを以て、鎖國の結果であると考へ、ケンべ ルの所説を籍り、幕府の鎖園政策を謳歌し
たのであらう。鎖國政策を讃美し、一箇の議論として纏めたものは、質に柳園がはじめで
ある。柳園の信する所、また必すしも理由のないものではない。常時の日本が、海外に求
*ょうとするものは、長崎の貿易で供給せられ、それ以上の必要を成じてみなかった。江
戸時代の泰平が、鎖國に負ふ 所の多いのも事質である。且また露國が、大兵を我園に送る
* -
事の出来ないと云へるのも誤解
の 誤 7 * に ま 、ふい -
**
。った。面もこれあるが残めに、将来も永く修平を
〜に足るといふ所説と北
持績せられるとの見解に至っては、我 が園の武九、能〜外冠を防
から開園 への過渡期に於て、必
に、著しい思想上の鉄陥があった。要するに柳園は、鎖園
の意義を有してみる。
す起る べき保守派の思想を代表するものとして、共存在

第 五 章 開園 論 及び 績 園 論 の 提唱
寛、










す國民
識 する



の 意




なっ





ラ、
に 政
官和










封代

る識く学露
す関




なつ






に 代クる識力
勢に
國封
-






明度


















経営

企。

然天藤説け
夷拓


松定信
にの


首たる
及、
一全く
これ
放し
を松氏

統に
委する
平相び時棄前治任
於た

に 中柳園
。も
同見解

抱て
みやう

見。 野じいた平 の
松定信
まえる
も 可なる
不を
すもの
信多。
が中履軒
如は
の最有力
、なる
代表


一で
あ能るい井きも人っ は


みの


勢を
國阻す
べ無




あ、
でこ越て
を 内にる力止きりれえ地る 奮
迫事 に


しょう















互蝦
不毛






横循たに上夷海 ある
。 比
最深く
際國民




集た
蝦地
はあ。
で蓋







地もめ夷っる ば
あから
で 幕でも



で共




建に
をり

主露
、を封
園とみる
象。
として
てる
府以て
もして スマシ



あか後
て 、





惹した


なば
しさらない
。来っら
けれ
意起れ


寛享
編時一
和二

政代

ける




開説
の抑





天度




中した

しので
ある
。拓明止









概政代

、tr----

*


7
*た

メイ
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シ ィー * ?? 中**** リシ **、* 、
ども、露人を以て 一種の量族と考へてみたから、まだ深い注意を挑ふまでには至らなかっ
た。日ハ僅に鎮草を津軽、南部の地に設けて、露園の勢力の、内地に迫るのを防がうとした
に過ぎない。蓋し九州に於ける長崎奉行の制度に倣ふ積りであらう。要するに定信の露國
に封する國防上の見解は、徹底しない所が多かった。然るに後継幕閣を率みる松平信明の
時、はじめて蝦夷地を松前氏から牧め、みづから共経営に着手すると共に、兵備をも設け
蝦夷地の領土 たのは、國防計書として一歩を進めたものである。殊にこれまで世上識者といはれる人々
権に封する認
識の発生
でも、継て皆暇夷を園外の地として、我が領土であるといふ考察は起ってみない。工藤球
卿、林子平などがそれであり、寛政時代に於ても、松平定信をはじめ、中井竹山、中井魔
軒、馬場正通の如きもまた相同じく、竹山は日露衝突の起る懸念のある時には、これを放
棄するが宜いと稲し、履軒は共地を撃げて粛慣に還し、露園の占有に任かせょうとさへ稲
してみる。然るに松平信明を首相とする幕閣が、か うな晒見に囚はれないで、兵を置い
て蝦夷地を守備したのは、誠に事宜に適 し
蝦夷地領土権
の確定
第五輪 究 政事 和 時代 | <
成 は勿論、 千島、 光太から アムチ。カ でも、 我が領土である との説を明 、 戦火の千:
~い へ の 古獸-て、 アムチ。 ア の語が、 製成語 である事 とを果げてこれを立路してみる。 若
し戦克人は日本の風光 であるから、 戦克人の活在 する限り 、 總て武が領土 である といふ に
あったらしい。 此民解は、 既に早く光政元年、 松前民から光 、 の上中書中にも見えてみ
同の義に上 った事に就 いて、 特別の注意を要する。
盛 政殿 の 二方 製炎を図外の地,とする見解 ,と共に、 なにまた性意す べきは、 张图が 近代的なる帝國主義

の関家でない といふ 見解であった。 此說は、 大明年間工藤球軌によって、 はじめて提唱 さ
れてから後、 これに和 する者多く、 初大正交、 馬場正通、 本多利明なども特同の意を表し
« かが入 《纽
らであらう。 然るにか やうな見解に反對し、 衛國が侵略を事,とするを説いて観光を成 のだ
ものは、 大原在金曲 である。 故に彼は、 戦克
町 へ、 且於前正 の兵力は、 利根茎の任に城 へない事を託した。 是より先拔子不が関物
---- * -_
『ひょ、 戦火地を取が衝上, 留めなかった めに、 防御の後には及んでわない。 所說明
なかった。 松前民のみすなさを論じ


積り












考へる





な。






題らる夷 い問
くら後 の

貿


ん策
みる
調




説を

、輸










が 通と する
易で節き出ら 輸を
海の
蝦て
、開二







故。
利明
しを
表意

不満足
産物
出夷いにた 、


現貿易

長崎
置を
重輸銅
金、
共人
ど然
二れ 状くき出銀にもるじ 事
み論と

。 」
也 ぬ

かて
な道


交易
外。

あで
要自間
天は

する
有も
相通


なく國る求然地無 正




した



貿易
規、
の大









海て

の、
し 模きる外 輸
場張園 を
工も
品り

原封




自足
自の
園内
同て
受を
學説
経西洋
の 料給済 まも
出じく
業入れ 利




み述

がを
所説
すと




自足

経済


一た明やるべ可給立 。
ある




統潮











國民

家 一び 國
でれ 。

なが
もの
疑義

再び

まも

試策
、封

として
主義




かっむた民
み家國 、
を國


幕府




もの

一に

を策







しめ



以て
時期

るさ 蝦



命藩
てに
津の
二南、


断が

これ
幕常
時比
りの

みた
いて
夷じ軽部然府に 傾

前説
寧は
多世の


みれ


考の


す園

に ろく上る察く レ
如かする
露 。 。








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を以て

左 吾
概の
時章


観代 卿










開園
早く














注意
更に
藤もり
る唱園
き 西用



寛政




1 <大
第五線 府政 事 和 時代
う。 而して中非行山の 知さでさく 、 必ずしも 日將資易を不可,としなかった事は、「ツノパト

互市 フ通ジテクメ 通ジ、 絶 テクメ 經 ? ン」 ,とい へ るを見て推測せられる。 松平定信
たのは、 黃し此
米個關節を主要なる 目的 として、 日將其功の食 のに、 厚岸開港 の議を定め
人々 の所見 と、 おの つから相通するものがあった。
領國論の提唱 開國論 と共に、 領國論の提唱 せられたのも、 省 政、 享和時代の情勢であった。 是より先

林子不は、 國防を論じたけれとも、 開戦の見解に倒れてみない。 大原在金吾もまた同様
貨物
ある。 然るに中非原野の、 戦東地非開拓の説を建てるに及び、 はじめて後 國人 の交通
し、
が、 彼をして従らに、 日本を期製する金を指長 しめる との理由によってこれに反對
の樹外
発で中野新聞は、 國內の自給自足が現在の風情に適し、 領國なればこそ、 英國本側 -
_
比時
に立つてみられる,と解 し、 幕府の領國政策を講義 した。 近世日本に於ける領國論は
から
起った。 而も第來逐に、 有力なる主張,となり得なかったのは、 我が風情に適應しない
である。 這般の事情は、 章を重ねる に従って、 おの つから開明さられる であらう。
安易型の 二方
面 *金像劇の輸出を主~する長崎路易に就いては、 早くから読者の愛麗に上 ってから
“** *の後、本多利 蘭、 野正通等،た非怖を記 、 中花山に応
*** る所があった。 光夜 年安 、 桃園~の路易筋に、 多大の制限を加 に
° **' が である。 然 。金像 のを出を不可… … ……
の物を不可-にする結論に到達する ものでない。 かるが故に登场改善 の設の行はれてゆる事
は、 佐に述べて従いた。 總監。 利明、 正通等*た所見を同じくし、 いつれも非改革家を
韓戰 在してかたのである。 世上成は、 彼年間の母親かを以て、 平衡の範圍成梁が、40多
る史家 の 考察 -
--- - - --،
科” (樂團になったとい ものもあるけれども、 同一 の拳術は * の 而に於て、 日省政財の

開始

決議し、 更に必要に施しては、 商船を支那に派遣す べき語義を重ね てみた。 其武術


である事は、 細說を要しなからうと思 。 假个校不定信は
てかた~、 両側の平常に制されて光が出来ない。 不本松が 開關s
したはとである から、 事實に現はれた所では、 軍 の敵國政後來被称の情勢を示してみる。
* かくの 加く、 天明以來進んで来た開國の機運 は、 路に松平定信をして、 敵國政策を放棄
嚢 國 定 て と
に の 信 " 蓋 す あ ら 第
幕 機 の 再 し る る く 巫
府 運 如 び 長 さ を 景 編
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交 、禁煙
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信 に し 。 開 % を 賞 。
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携 巫 見 篤 変 に を 競
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レ 年 て は に い 易
ザ 間 も ま 反

° を
" 開 た し こ 公
期 で 2
*
の 滞在し
共結果として 島列島の放棄である。常甘て松
千島の放棄
て登録せらせられた千島列島
幕府が如何に避戦政策に傾い
間に、採捉、唐太をも放棄して、
に 一轄して、無抵



第 六章 寛政 享
一九C
第一章 レザノフの渡来
特派大使レザ
ノフ の任命
露國政府は、最にラクスマンの騎國復命の後、國事多端の貸めに、意を東方政策に用み
る逸なく、空しく数年を経過したが、一八O三年 ㎞・我が仙 発の漂民津大夫等四名
に名

㎞。の護送を機として、再び通商開始の事を交渉すべく、侍従レ

ザノフを日本特派大使に任命した。追般の事情は、堀竹雄學士の譚述にか、る十九世紀初
年日本に於けるロシア使節 ㎞ があり、田保橋教授の近代日本外國闘係史があり、一
通り研究せられてみる。今便宜雨氏の叙述に譲って置く。但し比遠征隊が、露米商曾の計
書に成るものであるけれども、同時にまた露國官憲の承認する所となり、レザノフには、
皇帝政府の特派大使の任務が付興せられた。従って前日のラクスマンが、地方官憲の代表
であったのと、共資格に於て、著しい相違のある事を注意しなければならない。
レザノフの長
崎入津と貿易
開始の要求
レザノフは露國皇帝の親輸を奉じ、常て幕府からラクスマンに授けた信牌を携へ、海軍
大佐クルーゼ システルンの指揮せる軍艦に乗組み、一年有除の大航海の後
第 一章 レザノフ の 渡来 一九 一
第 六 編 文化 時代 一九二



月甘六日、即ち我が文化元年 れ て長崎に至り、尋で親輸の寛と信牌とを奉行所
に提出した。親輸には前年信牌を授けられた事を謝して、通商を希望する旨を述べ、且漂
民護送の事をも附言せるものであった。奉行成瀬正定、肥田豊常、命を九州の諸藩に博へ、

主 其


警備を厳にすると共に、状を幕府に報じて指令を仰いだ。比時の幕府は、松平信


任を退き、老中戸田氏教が首席である。かくて奉行に封し、露船は信牌をも携へ、願



へたけ
意もほゞ 明かであり、疑はしい事もないから、平穏に取扱ふやうにとの旨を博


幕府の拒絶 の
東の諸否に就ては、容易に評議が定まらない。同年の暮に及んで、潮く共請を拒絶

するに決し、目付遠山景晋にレザノフ への論書を授けて、長崎に急行せしめたのである
景晋は長崎到着の後、翌二年三月六日奉行と共に、レザノフを立山の奉行所に招いて渡来
の趣旨を尋わ、また前年松前で論した旨に背き、國書を持参した事を詰ってみるが、翌日
論書の交付 再びこれを招き、幕府からの論書を授けた。共文に目く、
我國昔より、海外に通問する諸國不少といへども、事便宜にあらざるが故に、厳禁を設けて、我國の
商戸外國に往事をとゞめ、外國の賞船もまた、たやすく我國に来る事を許さす。強て来る海舶ありと
いへども、固く退けていれす、唯唐山、朝鮮、琉球、紅毛の往来する事は、互市の利を必とするに
*、*。の久しき、素より基請 あるを以てなり。基園の如きは、昔よりいまだ倉て信を通せし
事なし。 計らざるに前年、 我國漂流
-
の ピ
シの入を て通面を乞ト、トんさ
誘ひて、松前に来りて通商を乞
前に来り ひ、今又長崎に到s 好み
歴世封譲を
守るの常法 の
請て答へすんば、濃を知らざるの園とならん。答へんとすれば海外萬里、 何れの國か然るべから




ん、容れざるの勝れるにしかす。互市の如きは、共園の有所を以て我無所に易ふ。 各共利あ
、貿易の有害 りといへども、通じて足を論すれば、海外無債の物を得て、我國有用の貨を失はん。要するに園計の
善なるものにあらす。汎や又軽制の民、好獅の商、物を競ひ債を伊ひて、 唯利これ謀て、や、もすれ
ば風を壊り俗を蹴る。我民を養ふに害ありて、深く取らざる所なり。互市交易の 事なくして、唯信を

同時に長崎奉行からも論書を授けた。共文に目く、
書と唱ふるもの、我園の仮名に
先年松前へ来りし節、都て通信通商は成難き事をも一通り申論し、國書と唱
官府へ申次所にあらす、若
似たる書も、解しがたき間持来事を許さす、第一松前の地は、異園の事を官府
比上、共園に残りし漂流人を連来る敷、或は又願ひ申旨などありとも、松前にては決して事通せざる
間、右の旨あらば長崎へ参るべし。長崎は異園の事に預る地なる故に、議する事もあるべしとて、長
第 一章 レザノフ の 渡来
第六根 ș 化 時代 九四
術に到るため の信號を東 へ しなり。 然るを个交國王の書を持來る事は、 松前において中論したる 日、
解 がたさにやあらん。 是偏に城を果にし、 風土の等しから約成に、 通じ離さ事然り 。 此设改めて政
府の 目を請て、 中論す事件の如し。 特に船中新水の料を興 。 然る上は、 我國に近さ島沖にも、 決し
て船を繋ぐベからす。 早々地方を離れ、 速に騎射すべしº
即も前日出す所の風雲を返却 し、 信神は投收し、食料 として米 什使、陽子役を授け、
別に最期二千把を贈った。 九日 レザフラ三なび本行所に来て別を告げたが、 比時產行は レ
外國船橋位 の
國法 に開する ザフラ に封し、 錦國の途中、風波の食わに、 英武が指定 に標有するやうの事があつても、
永،
本行から投げた論書を示 さばい。 秋に我國は艦船に限らず、 何國の船が深有しても、 こ
れを標地 する団法であるから、 安心 でよ~生けてある。 発で十日本行所の断定をして深民
源氏康徳に開 を 受領し、 日將來日本人が、 衛國に深者した時には、 和地す たは攻略記に送り、 南船に近
する飛輪
して、 錦國 º る やう に取計 つて背 がたい。 日本の海岸に深者した後 國船は厚く振育し、 船
船修理の使 其をも興 、、 もし修理が不可能であるならば、 深民は長崎に送り、 関紙に近し
て触國社 しめるであらう。 深化を標育する のは、 衛國のみに限った事でない。 何國の船で
3回盤であり、 既に師廟。出してある 輸 -雞せしめた。 十九=レギアノ酸に長崎
外國船特選 に
關する市道
** ** ** た。 かくて同三年正月十六日発作は、 海岸に紹介及3和行所を有する
*不以上以下の面々に、 ネのやうな先進を出して か。
た道て おりし や 船长崎 高校本下し、 通商等之後和風俗代夫、 智 取用油 公式 中%し、 光年與 武侯に
许も取上之 以來半 夜間教育政 く中津、 射 砲 いた させ然 分、 再設 公 いた ,開敏使得共、 比後高 1 %
流 平等來達後、 何れ之浦方 、 船を察中間最もの も無之術開、 與國船 と見諸侯 王宮いたし、 人
數等差記り、 先見分之者表出、 得 と様子和約し、 湖かみし や船 無相違相關條 公 » 能 タ中會、 たるた
け根に純いたし彼特阿散計候。 尤實體與 遊び、 深流いたし於林子 て、 食料新木等之しく、 直
總站延用成太宗族 分 、 相應 其品相與 人 、 可治路附然。 几何程相關條 とも、 決て上陸分 不贊
致、 岐 器能研習、 見物等を和集し、 北段子 «可有在進條。 尤再繼中拿破ても訳、 不散館駅、 及
吳俊候 分 》、 時官に離し不及何打排、 其它 可中間保。 方體之始末 至り絵師 公 、 諸非怖攻三次年與國
船之後 付、 相關條邊 性かし取付中破。

る。 若し其意を レザノフ に口述したからであらう。 それだけ用英國船族 分の策が、 筑大にな
3た事を廃しなければならない。 陳
市政支化 開催 此時の道分は、 大體 フクスマン派來の際に於けるそれに準優してみるので、 其會書の知
間地設 の 比較
(其 一 )
さも、 お のつ から相通する所がある。 然れとも共特制に於ては若しい相違が あつた。 既に
政局開始 の
非都 延べ た 加く 、 ラクスマン へ の論書には、 趙國打神の説が力强く通? てあるけれとも、 それ
は社傍の政友でない。 政策 としては軍 の開園に傾き、 長崎に於て、 路易開始の交渉に艦*
徐 27 S * * |大五
一九六
第 六 編 文化 時代
べき用意さへもあった。またそれが貸めに、長崎入港の信牌をも授けてみる。然るに今幕
府から、レザノフへの論書を見るに、前幕閣の主張の中で、たゞ形式の方面だけを率直に


踏襲し、更に長崎奉行の論書に於ても、「松前へ来りし節、都て通信通商は、成難き事をも

一通り申論し」 とのみ述べて、管ては 「通信通商 の
景 E
定置たる外、猟にゆるしがたき事
なれども、獅も望むことあらば、長崎にいたりて、共所の沙汰にまかすべし」 とて、信
を授けた事のあるのを、忘れたかの如き態度を示してみる。面も却て 「今又國王の書を持
来る事は、松前において申論したる旨、耕へがたきにやあらん」 と稲して、これを詰った
のは、幕府唯一 の好鮮柄に相違ないけれども、遷延年を互るの後、一篇の論書によって、
共要求を拒絶せるが如き、約鍵の甚しいものである。程経て文化四年八月幕府が、心得

貸めにとて、日露闘係の歴史を記して、松前奉行に授けた覚書の中に、ラクスマンに授け
た論書のことに及び、
右之節、長崎へ可龍超信牌を被下候儀ハ、彼地ニて交易等可差免ための事ニハ無之、病気ニて彼園ニ
相残候漂流民も有之由ニ付、若比以後
- -
天 ハ く一え Y - -
ても銀 上陸 許しがたき間、共節Ng 信㎞ イ
シ申含候虜、委細承服、騎帆いたし候。Q魔除
「 書してみる。然れども途に 「通信通 -*
るしがたき事なれども、

拒基
絶ご

i又


由 ほ
青 林 様 鎖 ら
木 述 の 國
瞬l
興 斎 解 豊
勝 い 程器

野 行f

持旨

ふみ*
\
な ゞ 栗 は す 朝
ど 同 山 “れ の 廷 株公
* じ は て は 歴
所 見 " ぬ い 世

請 解 新 た ふ ?
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置。 器 悲 供 。 ? * #豊
リ 良 履 ? 寛 法 恋
ま 泉は、計 軒 初 厳 が 國
たこ いげ次 で * 年 二 * 有
第 六 編 文化 時代
通論であり、林述斎、柴野栗山もまたこれに和した。 歴代の幕閣が、長崎貿易
の縮少を計つてみるのも、軍意かっ うな見解に基くものであるから、今比理由によって通
商を拒絶したのは、決して怪むべきでない。たゞ注意しなければならないのは、前日ラク
スマン への論書に、定めて置いた諸國の外、容易に通信通商を許せないと記し、共國名を
撃げてないけれども、今は明かに、朝鮮、琉球、支那、和蘭の四國を指示したことである。
後世の幕閣が常に日にせる、通信は朝鮮
政策の淵源また質にこ、に存する。かるが故に寛政年度には、ラクス


港を限り共再渡を許してみるにもか、はらす、今や却て、将来の渡来を厳禁せるが如き、
寧ろ常然の結果であるといはなければならない。
寛政文化雨幕 更に文化三年正月の外國船待遇令を見るに、これもまた著しい相違がある。即ちラクス
閣施設の比較
(共三)
外國船の待 マン への論書には、我が海岸に漂着した船舶は、通信のある諸國ならば、これを長崎に送

り、蘭人に託して本國に騎らしめ、通信のない諸國ならば、船は打沈め、乗員は拘留して
騎國を許さないといへるに、レザノフへの論書には、それに鍋れる所がなく、却て比布達
に於て、漂着の船舶には、新水食料を給興するといへる事である。 但し布達の文面では、
シるゃうであるけれども、長崎奉行からレザノフに博へた日達に、露園に限らす、
佛陀 ( s ㏊ 瘤 钠 ~ ~~" sv
『風 の社 で,5 · * * ** * * *~ * ~ *~
23 … … …年 の天保暖水作の 知~ 此 e定に準*~ *********
高くの仲間が圧に久し(水泳ぐる所であり、 かのラクスマン への論書は、 政策上の都 令に
過ぎない。 故に事實に於ては、 和達を認めないけれとも、 これを法文 に載せ、 また これを
外國の使臣に使 《てみるのは、 密克政度の宣言を改訂したもの ともい へよう。
宣政文化用紅
開始設 の 比較 これを要するに、 省 政度の東側が、 ラクスマン へ の論書にい へ る所は、 鹿れ外交上 の駐
C 共 四)
紅樹 の 性質 介 に過ぎない。 實際の施設は、 寧の他の方面にあった。 然るに文化使の東側は、 經國に就
の愛化
いては、 直にこれを採って関家の法規~定め、 外國船の待遇に就いては、 前=
6多く光大になった。 秋に共領國の見解に於て、 衛政使の空間が、 たく 使然、 定めて高い
文化使 の新
制度 た諸國人 のみいる所を明確に張宗したのは、 はじめて文化反に設けられた新しい側
である。 經國の性質が、 省 政年間に第 一 次の愛化を示した後、 更に第二次 の愛化を遂げた

の は、 官 に比時であった。 若し始改度の東側は、 政策~してか やうな愛化を生きしめる考
はない。 學の開放的の改造を行 にあったけれとも、 个 全くれを放棄し、 より多く

-
第 > > > Q * 一 九九
% 討代 105
第六期
程を ーした、 されば經國 の本質たる、 北総数の仕様 と関係のない限り 、 知何なる風で3、
長崎だけ は、 渡来して資材を行 自出が興 、 つれてみたのを、 こ ^ に至り 、 通信地商は、
}
ーリ 氏
_
--- ば、 法说人民調するから である。 かくして紹
は開國の意義に前後の差別が 生じた。 若し始關人 開國人 の性質は、 岐、 文化の交を分界
底 改文化用紙 接するに光の鎮國政策は、 松平定信が、 衛國に封して通商貿易を許し、 製炎地の 一帶
開地設 の比較
(其 五)
納國政策の
を開かうとする 決意を示した際、 明か に共被称を示してみる。 もし此政策が放時 なく進展
被殺と共湖
経 したならば、 日本の開國史は、 極めて興味の多い、 幾多の波源を生じたであらう。 然るに
定信は修行の機會を失して議を退き、 後繼站開は、 熊座を 愛して共被解を操縦した。 是

時 院民 於
一 †) に
て 日 被験を生した領國政策も、 これが成に再び成時の面目に復歸し、 而もより多く


,s ) と 2, 3 -*- :: ----
ºれたが 、 再度の被降は、 特種なる再度の平常に歩いて
來 行は 3%……

(/)




-
-
從たのである。 然 とも正保 武帝の面積 する遊戲政策は、 世の冬



A
從か、 また よ

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時代の下る '~によ*/) 建
ºった。 李俊のは別など、 結ん.
對に、 外國~事を伸 < る のを高* いみ-;市はぐり 01 號誌, *化使 の 仲間 , …) *=
史記 し2し、 レチ 27 « の書には、 もはや外國船を引种 -が、 國社で* *~*
てわない。 これ外國船底分の 仲が、 著しく 見大になった所以 である。
政長 距離 の理
由 と時參の 要
是より先進資年間、 英般レターン酸が、 容易の開始を促すに常9、 時の空間は、 北 國王
が、 我が禁制國なる衛 大國王の女,と結婚した といふ、 宗後開眼を理由,てして相繼してわ
る。 然るに天明度の東側 は、 長崎路易を保護する 為 のに、 仁 路路易の開始を使 6、 个はよ
だ、 朝廷派世の法~、 資材無用の説 とを理由 として、 レザクフの要求を伴いた。 以て時數
の愛化を察する ことが出來よう。
第 一 肇 ンザナフ の 渡 來 1101
第 六編 文化 時代 二○二
第二章 レザノフの渡来に闘する時論の一斑
林述斎 家野 レザノフ渡来の際、拒絶の意見を述べたもの、ある事は、前章に撃げて置い
山の拒絶論
所説の内容を検討するに、林述斎、柴野栗山は、文化元年十月幕府の諮問に答
は、冒頭先づ 「彼方持参仕國書之由申候一札、御取上無之、調見通商の願も御免無之段
-*
、誠以無比上御深慮と奉存候」 と稲して、幕府の原案に賛同した後、
*
鎖園の祀法 い づれニ も、比度サット御手切の御所置有之度候。: 中々無作と長り申候て、騎帆 ハ仕間
上品ニ より候ハ
ハ ゞ、又々引績跡よりも参り可中も難計奉存候。いづれニも御祀法を乾度被仰立、い
逸も御承引無之、二三年懸り候とも、四五年懸り候とも、気根競と申御取扱、専要ニ奉存候。左様の
御すはりニて御取扱御座候得バ穏ニて、果は片付可申と奉存候。
露園の野心 オロシャ人之、御園に目を掛候事ハ、中々 一朝一夕之事ニ無之、元文頃より段々と手寄を附、色々と
手段をかえ寛ひより、近々國王より、御直ニ書輸差上候と中逸ニ仕寄候事ニ有之、深遠之思慮も御座
いひ、なほまた通信通商の事、支那では如何やうの振合であるかとの御尋ねであるが、
支那は財質も兵力も。十分に備はつてみる大國である。故に四夷の朝貢を希ひ、廣く貿易
してみるけれども、害となった事が多いと述べて、
武力譲庁の 御國ニて ハ、弘長、弘安中、北條氏 より薬古のあっかひ、近くハ寛文、正保の頃
必要 、シ船御取扱 ん*
比上もなき御手本と奉存候。
と結び、長崎奉行からレザノフへ授くべき論書案をも添へてある。論書案には、新らたに

*
貿易の有害
外國と交はるのは、祀法に鋼れるから、應する事が出来ない。また貿易も、我が産物だけ
で國用を葬じ、他國の物を仰ぐ必要がない。殊に遠方の珍物が到来したならば、愚民ども
無益の物を脱び、質素の風を失ふやうになるから、これも應する事が出来ない。併し御厚
意のほどは決して疎略に思はないとの旨を認め、後日幕府の授けたものよりは、文意通に
丁寧なものであつた。要するに拒絶の理由は、祀宗の禁令と、貿易は我が國では必要がな
く、共上質素の風を失ふといふ二ヶ修を主とする事、ほゞ幕府のそれと同様である。なほ
露園が日本を窺ふ事、一朝一夕でないといふのも、他の 一 つの理由であらう。故に共別紙
に於て、元文以来露園が、或は我が近海を探り、或は千島を競食した事を記した後、現在

露人が在留してみるさょ であるが、レザノフと交渉して、退去せしめなけ

プ島之義、御捨被置候てハ、頼てエトロフ島へも、クナジリ島へも入込可申候。共
上ウルップ島は、臓虎之猟在之候ニて、比節皆ラロシャ人ニ押領いたされ、彼方ニてハ、年分三百定
第二章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二○三
二○四
第 六 編 文化時代
除も猟取、蝦夷人は潮四五定も手ニ入衆候由風聞仕候。加之御國界目之儀、等閑に被成候てハ、相済
申間敷候。御評議被貸在度奉存候。ェ㎞
といへるは、日露國境割定論の鳴矢である。思ふに述斎、栗山の答申は、幕府をして拒絶
ム間て
に傾かしめた有力なる参考資料の一つであらう。た\共武力擁庁の説は、一種
あるが、決して幕府の好む所でない。採用せられなかったのも常然である。
青木興勝の拒
絶論(共一) 青木興勝が、答問十策を著はしたのも、レザノフがまだ長崎に滞在してみる文化元年七
月であった。梶原照の南海紀聞の裁に、 「及魯西亜使節来手長崎、先生奮起乃至、
至面六日、以装即騎。時有答間十策之撰」とあるので、本書著作の由来を知る事が出来ょ
ける
う。また共戯文の中に、「本藩之有獄學、自定遠始」とあるが如く、 ㎞ 筑前藩に於
蘭學の鼻祀であった。今本書を接するに、和蘭との貿易を論じては、
貿易の有害
彼ニ莫大ノ利アリテ、我ニ寸雇ノ盆ナキノミニ非ズ、大ナル害ァリ。先彼ノ帯来ル所ノ毛織、修隠呪、
握々織ノ類ハ、世ノ華美ラ進ル害少カラズ。: 井築物ウニコール、サフラン、テリアカノ類
、好人
之チ唱テ病家チ惑シ、人ノ財ラ敗ラシム。共害大ナリ。:共外奇器、浮巧ノ玩物、及ビ異高、怪獣
ノ類、古ョリ明主ノ悪ム所、暗主ノ喜プ所、共害甚シ。比等ノ品ラ以テ、萬國ニ勝レタル金銀銅ト交
易スルハ惜ムべキ「ナルべシ。
“、シき、支那との貿易に就いては、基持来る薬材は必要であり、
また我が園 から輸出するのは雑物㎞ である から、五に利公益を得てかり。た 〜綱釈、シ
器、諸近物の輸入は固くこれを禁じ、薬材を主として、鉛、鍋、鉄鍋、書籍など、貿易す
拒絶 吉利


るやうにしなければならないといへる後、鎖園に及び、吉利支丹の事に就いて、渡来を禁

じたのは、伊斯把個亜、波爾社瓦爾、欧亜、亜婚港、新意斯把尼亜、諸厄利亜の六園であ
る。然らば露國は格別であるかといふに、決してさうでない。蓋し比六國は、昔我が國と
交通したものである。暇令吉利支丹であっても、我園と交がなく、また共國名をも知らない
ものは禁じょうがない。故に横文字を用みる園は、制禁と心得べきである。殊に露國は、
照宮の頃までは微弱であったのに、近年勃興して、世界を併呑する萌があり、或は兵力
を以て、或は吉利支丹の法を以て四方を経略し、既に鍵翻 からカムチャッカを経て、亜米利


見1

加の北地、井に諸島を押領した
**。

然ルニ今我東蝦夷プ開 観シ、西長崎ニ使船チ騎スルコト一日ノコトニ非ズ。年久ク計リタルコト也。
* - 、
証 夏

和蘭、諸尼利亜ナドノ交易プ請フトハ、又格別ノ主意ラ含メリ。往年林子平、魯西亜ノ事ヲ懐概



緩 臨デ奮記ナド玲味シ、是ハ古何園ノ例、 彼ハ吉利支丹、是ハ商船
ノバ
ナド 、、匿々ナル評議 *
バ、後悔胴プ職トモ及プべカラズ。在上ノ君子、明ナル碑祀ノ
へご

へ"



ノレ




と論じてみる。文中に所請碑祀の御法
将 二章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二○五
第 六 編 文化 時代 二○六
拒絶しなければならないとの主張であった。かるが故に、
とて、共鮮をも掲げてある。即ち使者を通する事は、 ſ

貿。



應 か易る制ら

禁の
あで






近が

告つ 我、

の産物には除常がない。五十
が 年の後もし除格を生じたならば、承








成く
すべ



な、
また 、
論比
に し諾
ほ敗よう
あといふ

1

へ%
和 蘭と 貿易をも五十ヶ年中止し、毎年輸出する銅を以て、大砲を鋳造する事の必要を説



ふした
貿の

はか易

萬でない
き、且また、和蘭に渡来を許

形の


報蹴
治。勢國



る頼ほい 萬、 めせ告

然ある

今や


開が しめる
國けで
るに

知る
の 形勢 を のにも、さまでの不
の依蘭
と和
に自由



な面



すしよう

頼ん
は しを
で、盗賊を診議
すると同様である。目明しと盗賊とは大した相違はないと
ほゞ林述斎等と同じであるけれども、述斎等は祀宗の禁令と貿易の弊害とに重きを置き、
勝は寧ろ露國の野心に重きを置いた。興勝、常時詩を賦して日く、
何物胡見起北隅、井呑震旦百王都、無端更得唐虜術、能使民紳騎版圓。
我関満清興地圓、秦時羽微豊匿々、長城高里経然在、豊貸如今容北胡。シ
共志の存する所、知るべきである。
青木興勝 の拒 興勝はまた、二日年来外園の、日本を窺ふもの、なかったのは、豊太問の除列 に四るも
絶論(共二)
武備の充賞 のである。されば平素外夷との應封にも、園鶴を失はす、武威を落さないゃうにするのが、
成備の第一であるといふ事から説き起し、外園の軍艦は堅固で、狂風逆浪をも恐れす、自
在に大海を横行するから、火器を用みなければ、防ぐ事も出来ない。大小砲を鋳造し、優
参勤交代の
鍵革
墨を築き、沿岸の防備を厳重にするのが急務である。それには参勤交代の制を革め、五年
或は三年に一度の参勤として、諸大名を休養せしめなければならないとも論じた。共國防
論は、林子平の海國兵談を祀述したに過ぎないとするも、時弊に中ってみるのは、今も昔
も同様である。かくて比後、大小砲の鋳造、砲豪の築造が、軍艦の製造、海軍の振興と共
に、天下の興論となるまでに進展した事情は、詳しく後章に述べようと思ふ。
蘭人信ず可か
らずとの意見 按するに蘭人必すしも信用が出来ないとの説は、天明年間に工藤球卿がはじめてこれを
唱へ、㎞ 寛政年間には大原左金吾がこれに和し、㎞ 今や興勝もまた、同じ見解を有し
てみる。二百年来親交を重ねた蘭人に封してまで、嫌疑の情のあるを見て、海外勢力の波
及に刺激せられ、我が國民の碑経が、如何に過敏になって来たかの一斑を察すべきであら
*
参勤交代制度 う。また参勤交代の制を寛にして、諸大名の窮乏を救いたいといふのは、早く熊澤審山の
し、
鍵革の意見
主唱にか、り、㎞ 松平定信㎞ 中井竹山㎞ 等後にこれに和し、荻生組探もまた、制度
H
第 二章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二○七
二○八
第 六 編 文化 時
の鍵革には不同意であったけれども、なほ参勤の供連を減する必要を論じた。 併しい
づれも皆武士階級の救済を主眼とし、いまだ常甘て外患の意識と相鋼れて、國防を完備する
必要から論じたものはない。面して共これあるは、質に興勝を以て噛矢とする。但し大原
左金吾が、参勤の伴連を牛減して、軍艦の製造、大砲の鋳造、沿岸の防備に力を用みしめ
ようといった事はあるが、やはり狙徳と同じく、制度共ものを鍵革する意見でなかった。
かくて杉田玄白、曾澤正志斎等も、興勝と同説を唱へるなど、世の下るに従ひ、次第に世
論を喚起した事は、注意しなければな
山片幡桃の拒
絶論
山片幡桃㎞ -
レザノフの事を述べて、
幕府施設の 文化二年モスコビャ人國ニカへル。コノ時ノ進退、漢ノ匈奴ニオケル。五代ノ契丹ニオケルガ如シ。
讃美
コレラ恐ル、トキハ方量ナシ。然ルラ一介ノ使チ以テ、應封シテ國ニカへ シ。再ビ来ルコトラュルザ
ズ。故ニ来ルョトナシ。ッノ信服スベシ、共文玩チべシ。ァ、我園ノ古ノ元ニ待ス。今モスョビャニ
接シテ、断絶シテ共法チ得ルモノナリ。コノ回ノ良策奇計、古今ニ通徹シテ動ザルモノ泰山ノ如シ。
シニ人ァリ、子路、司馬公ニマサレリ。ッノ時ノ行人達山興四郎 ト 。i又北條氏ノ元人
ニォヶル、売秋ニ虜スルノ善法ナリ。萬古コノ法チ用ユべキナリ。
g㎞度は、文推れて
「シし、日を極めて幕府の施設を讃美してみる。人暴行の問題に鍋
- 三年 の交の
筆 にか
は 、る 事、露
-
み な いので推測が出来る。
事、 い

く てまた 日 ()、
假定 せ られ 通商) 」, 分 、 活 下就 把 ト 駅ラモラレタルハ、 古今2 大快ナッパ沈 k ペタラズ 、 又增スペカラメ
たる通商國
生態が 北條氏)市 )外 アレジ。 小不窮大樓、 5 、 松永 ンチ、後フラ 出す ショッ
外國)使う 道か へ スペシº 自 ハザレバ 設スペシº :然 レドモブロシャ人 公 、 紅毛、 波士、 朝鮮)
トキハナラズ 、 カペスム) « か うべ、 文忠ルベカラズ。 流2 民之信 ” )大者 ア 初出ン、 縣
及永久 n トナカレ º 份參 日、 青海省 2後續 三 太タ 神樂 之 列ット。 プロシャノ 計策 、 伊勢2御師
也º 政カル コトナカレ トム。
彼も また比時の空間の知く、 通商は支那、 和地に限る のが加法である と信じ、 これを愛
更することを好まなかった。 根絶論は こ ^ にも原因してみるのであらう。 然れとも共主因
山ル艦橋の距
經驗(其 二)
艦艇は大阪 に於ける 航点の交官 であるばかりでなく、 熊本を中非行山に軍は 、 天文學を


黃山前立に受けて栄の間 高く、 や 船 をも解してみた。 鄭、 彼に恋の代には、


外の形勢を論し、 欧洲語國 が、 岡田 氏宗 寺をはじめ、 路面の東亞後路に就いてふ


-
路易の群英 論して かる。 加之 消灭 2 - 在 7以 子 や カ へ 、 少フ以 多 之 《 、 佛 ?


形 フンナ へ 、 弘 カラザルフガルカ市 > 利 ナリ」,とて、 長崎路易を離散し、「我國 金銀
第 二章 ンザフラ の 渡来 に 翻 9 る 時 說 の 一 班 O大
第 六 編 文化 時代 二一○
鐵多キニョリラ、萬國ミナ是ァ求ム。故ニ薬物、衣服、器玩、珠玉ァ斎ラシ来テ銅鐵ニ易
ュ。二百除年ニ至ラ共数計ルべカラズ。スデニ正徳ノ頃、自石先生比数ヲ撃グテ、外園へ
渡スョトヲ歌ズ。然ルニ共ノチ今ニ至リテ百除年、惜ゲナクカレへ渡サル、コトナルニ、
金銀又銅鏡ノ不足ノョトモナシ。自石先生ノ時 、如比外園へワタサル、時 、日本ノ質
貨三五十年ニ 、湖果ルャッニモ聞ェシニ、イマダ何ノョトモナケレバ、比上百年二百年
過ルトモ、赤同ジョトナルベシ」といひ、金銀銅ノ輸出を不可としないなど、共所説、従
来の鎖國論者と著しい相違がある。されば拒絶論の根擁も、常然これを他に求むべきであ
つた。故に目く、
シッ求。日本ハ財貨多キヲ以テ、又米競ノ多キラバ義、互市ァ乞ノコト多年、ステニ
自子ノ 大シッ価トシラョ*ァ名ニ、幸ニシテ公ニ人ァリテョレァウクズ。然ルニ今観成ァ ラ
キ、炊輸プ通ジ、互市ラナストキハ、尚サラニ米金多キノ質チシリテ、 誕ラ流サセテ、悪心チ萌スべ
ッ。今マデハ輸ニラ、國ァレドモナキガ如ク、山海ニ遮ラレテ消シ息レザレバ、手チサスべキャウナ
キニ 、 蝦夷ダン 〜 ニヒラケテ、 互市 ニナリタルト + ニハ、 日本ノ消息ラョク〜聞スマシ、 共備
へノス* マラ見、又ハ森悪ノ下吏ニ利ラァタへテ、我ラ伺フトキニハ、イカナル患ラカナスべキモシ
ラズ。ッ。ョッ付入ニナリテ松前へ来ルトキハ、奥遽サワガシクナラシモハカリガタシ。カへス〜
モ拾オキテ可ナリ。
これ即ち蝦夷非開拓論であり、同時にまた露國と交はることの危険なるを語るものであっ
た。幡桃の拒絶論の根擁は蓋しこ、に存し、所請露國を以て、伊勢の御師に比する所以も、

おのづから理解せられるやうに思ふ。然れども、
捜夷の不可 夷狭ハ厳ニ劉 グべシ、近クべカラズ。又踏込デ征伐スルモ、本ョリ善事ニアラズ。:常世ノラロシ
ャノ勢ヒ恐ルべシトイへドモ、コレ赤漢世ノ匈奴ノ如シ。思角相手ニナラザルコトコソ然ルべケレ。
相手ニナリカ、リテハ、紅毛人ノ如ク、唯命ニ従フテハ居ルジマキナリ。然ルトキハ悔トモ及プマジ
キナリ。断切テ然ルべシ。萬一入冠スルコトアラバ、ソノ時ノ虜置ァルべシ。
といってみるのを見れば、上文に北條氏の態度に倣ふとあるのも、兵力の使用を意味する
ものでなく、寧ろ共請を都ける事であらう。要するに 「鬼角相手ニナラザルコッ然ルべヶ
レ」 といふのが、幡桃の論策の出務獣であった。

絶 に共
林述斎等の見る所かくの如く、政策としてはいづれも皆、幕府の鎖國的態度に同意して

通 所論見
みる。また議論の根抵に多少の相違があるけれども、露園の野心を疑ひ、相交はることの
危険を説くに至っては、全く一致してみる。たゞ山片幡桃は、兵力の使用を絶封の條件と 山
な林



の斎
述寧い野ろ
柴栗山

して こ れ を可とした。即ち擁夷論に近いもので
ニ三D 〜

ある。更に青木興勝の如きも、述斎等と同論であった。抑も興勝の答問十策は、第九策ま
でを説いて、第十策を撃げてみない。興勝の師亀井南冥共事由を語って目く、
第二 章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二一 一
第 六編 文化 時代 二 一二
十策闘義は、少々存寄御座候ての事に候。: 三代将軍の頃までの太刀風にて、厳敷誌罰を加へ、再
び得窺不申様に仕度ものなりと申意を相述申候を、作り可申料簡に御座候所、太平の代、士大夫の気
る 行はれぬ上に、却
臆して、更角文弱なる事ならでは、参らぬものと心得たる風俗故、是等の論は一向
は相止申候。 輸。
て疎略の様に沙汰し、九策をも取用申問敷と心付、作文書
●A
---
て封外の闘係は、國民の碑経をして過敏なら
三川 しめたばかり
は 、渡来の外船を掃懐しようとする論策の発生を促
に、懐夷論の萌芽と見ることは出来ないけれども、共務展
し ぷよ
幕府の施設に 幕府の施設に封して、これを支持するものがあつたと同じく、一面には反封の意見を有
封する反封意

するものもまた決して勘くはない。松平定信は共有力なる代表者の一人であった。今、花
松平定信の要 月日記文政元年五月十五日の修を見るに、
求拒絶に闘す
る非難 文化のころ、かの園㎞信牌をもちて、長崎 へ来り て通商を願ひ、あまたのさ〜げものしてけり。こ
の虜置いと難事なりとは思へど、翁はその折はその職ならねば、日とちてみるべけれど、これもまた
定信の助言
と幕閣の不
同意
い。す、みす〜園れのはしともなるべければと思ひて、二た\び三たび日き\し事もあれど、
㎞。。、何くれのあらそひたえさるべしといひしに、っるに信輝もとりあげ
らいに、
*イ ●
。、F。のも御かへしありて、いたくた〜れけり。
と記して、満院の不平を浅らしてみる。なほ比文によれば、意見を老中等に述べたことも
あるけれども、採用せられなかったのである。自己の政策を破壊しょうとする後継幕閣の
態度に封して、様焉の情を抱いたのは常然の事である。然らば定信は、依然開國の説に執
定信 を開

國策

着してみたかといふに、必すしもさうでない。花月日記上文のつゞきに、
所見 回せる

この御虜置いといたうかたき事にて、霧が輩いふべき事にはあらす。まづ願ひをゆるすと、ゆるさざ
るとの二ッにありて、ゆるすときは、しばしいとゆたかにして、後のわざはひ至て深し。ゆるさゞる
ときは、わざはひ近きにあれど、そのわざはひ浅かるべし。いづれもじちは害あり、蹴れのはしとな
一露す


る。たゞ一ッの道ありてこそ虜置すべけれど、行
さ7 ふものなければ共道なし。されば月に雲、花に嵐、
」る

つの ゞ

いつとても心にか〜らぬ折はあらす。
また十九日の條に、
満 る幕

の封
定閣

不す
信に

起出て心にうかびし。
橘に似たるこのみの國ならでかく心をば何つくすらむ
ともすれば袖も決も五月雨の雲 ぞ通ふこの頃の空
山鳩も池の峠もねにたて、あはれをさそふ五月雨の空
盤にもかわらじものよ世をうれふ思ひは草の朽もはてなん
夏木立生ひしげりては大空もおほひかくして風も通はす
第二 章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二一三
第 六 編 文化 時代 二一四
共歌により、共文により、定信の深愛を察することが出来る。同時にまた共心境の鍵化を
も認めなければならない。定信はもはや寛政年間に於けるが如く、日露通商の開始を以て、
萬全の策とのみは考へてみなかった。開鎖雨様共に「じちは害あり、剣れのはしとなる」
といってみる。所請 「たゞ一ツの道」 こそ、定信の胸中に秘する深謀であったが、何故か
共説明を加へてない。定信の遺文を見ても、比疑問を解決する資料は残ってみない。然れ


ども文政度幕閣の施設に、同意しなか
杉田玄白の前
約異鍵に闘す 杉田玄白もまた、幕府の施設を喜ばなかった。共著野曳濁語㎞ には、日露の闘係を
る非難
述べた後に、
三十年己来、我東北奥蝦夷の諸島を競食し、又頻りに隣譲交易を取結ぶの事を願ひ、これ逸段々次第
して、甲子の秋㎞長崎表へ使節を送り候区、御論文を被下、御取上なく差戻されし故に、彼共宿
志に背きし事なれば、不快に思ひしと見へ、長崎表の御取扱厳酷に過ぎ、前約異鍵也とて慣り、夫を
三四年 観夷西北諸島へ側入せしと申すなり。ェ㎞ 足事情の通せざる
名として、去秋常夏㎞
行違に出たる事なるべし。然れども愚夫庸俗の類は、委細の事をも耕へす、何か御異鍵の様にのみ心
大國への御
無濃 得、はる〜音物を持参せし使者を、空しく御返し被成しは、夷狭ながら大國へ封し、御無濃のやう
- - -
-
日、、 はZ す -
上下 い -

に中、彼を是とし、比を非と思ふ様に申聞ゆる也。是無識者の論する事なれ共、我國の人心逸服せざ


。所あるに似て、以ての外の事也。天の時は地の利にしかす、地の利は人の和に如すと -
j - 』
れば、何事有ても、我が人心に服せざるの所は大切の御事也。
と稲し、前約異髪の事を語り、「夷秋ながら大園へ封し無濃」の撃なるを指摘した。更に山
-
堅田 よ上ミに *文化四年の著、文中に「文化十卵夏六月我堅田候命を奉にて松前の地を巡濃す、臣遷 を
田綱三郎㎞ は共著醸見録㎞
㎞、に於て、
近時ロシーャ赤来りて睦を結び、信義をあらはさん事を乞ひ、衆て互市の道を開かんとす。蓋しその
我隣邦たるを以てなり。政府前に納れ後に絶つ。於是廉赤既に大なる疑なき事能はす。又共一撃、民
を煩し、兵を潰さんことを恐る。
*「 -
の「)

と稲し、「前に納れ後に絶つ」の不可を論じ、司馬江漢は、共著春波楼筆記㎞
?* * 化八
に於て
- に* * 」』は』 - *
*
藤豊

魯西亜の使節を牛年長崎に留め、上陸をも免さす、共の上彼 等が意に戻り、日基の返答甚失敬不遜、
71
魯西亜は北方の漫地、不毛の土にして、下國なりと難も、大國にして属國も赤多し。一概に夷狭のふ
るまひ非鶴ならすや。レサノト%列 は彼の園の王の使者なり。王は吾園の王と異ならんや。夫濃は
人道教示の壁とす。之を警へば、位官正しきに裸になりて立つが如し。必や吾國の人を、彼等奮獣の
如く思ふなるべし。鳴呼概哉。
使節を待遇する道を失ったことを非難した。また共文
は 、た、要求を拒絶したといふ以外に、幕府
第二 章 レザノフ の 渡来 に 闘 する 時 論 の 一斑 二 一五
第 六 祖 究 化 時代 | 1
ても、 かく の知さ表裏の度分を見解しない期に於て、 宗師の 一致する所であった。 如*
府開國の決意は、 康定 の秘事である。 而して低に早く世上に流布されてみた。 それだけ樟
府に封する非難の整が高かったのであらう。 李安の有司中でも、 松前本行測光之、 池
成章などは、 は 非民を同じくしてかた。 體。 除に移山支自は開國會系であるから、 な
古賀特里 の要
求相經に関す に光幕府の施設に好成を持てなかったやうに見える。 製鐵 中独特里が、 艦隊會時半封
る非難
事教練 の中に、
作年後 將他將、 北 平常 以公正於或。 從 大 熊本龍及遠 遠離 不許、 西武術大英。
~論じてわる のも、 嘉府の非開國主義に封する非難であった。
嘉府 の資易有 更に注意すべ さは、 幕府の論書中に、 資材 は海外債の物を得て、 我國有用の貨を失。
者說に封する
反對意見 もの であり、「要するに関前の書なるものにあらす 」 ,とい へ る 資材製である。 此說は長崎路
易の貨幣に師する立論にか ^ 6、 山龍泉行、 三宅被測等反にこれを唱 《、 新井白石“永和
和してから後、 議者 の能力與義のない所であったけれども、また形 すしも容易を無用 とす
る結論を導くものでない。 其改善を 論じたもの 熱くなかったこ~は、 上文に述べ て置い
た。體 從るに文化年間に至り、 山崎義は、 北美少の代に於て容易の利を設さ、設
張正數は、 李商道入德國子解嚴經 に於て、 商人は海外の建物はい に及ばす、 吳郡の
珍奇に至るまで取揃へて置いて、世の需要に應する心がけが必要であるといへる後、
商の務を知らんとせば、正債の出る所を知るべきなり。正債の出る所を知らんとせば、先づ我邦はい
ふに及ばす、四海の内、五大洲の國士に産出する所の物を知るべし。是を知らされば、共物品の精施
と眞偽とを審に擁する事能はす。是を解ぜざれば、正債の出る所を知る事なし。
と説いた。幡桃の説は貿易の承認であり、正敏の説は、直接貿易の問題には鋼れてみない
けれども、異邦の珍奇までも、取扱ふことを装刷する獣に於て、全く従来識者の通論を否
定してみる。要するにいづれも皆、貿易を以て 「國計の善なるものにあらす」といふ幕府
の見解と、相反するものであつた。
傾向


かくの如く、共所請祀法を重んする精碑から、或は露園に封する政策から、拒絶論を探
るものがあり、また或は國際上の常道から、或は寛政度幕閣の施設を裏切ることを不可と
するの見解から、非拒絶論を採るものがあり、更にまた貿易肯定の説を建てるものがある
など、賛否相牛ばする有様である。面も幕府は鎖園主義に逆轄したので、開園の機運は著


力開

しく阻害せられた。然れども幕府の施設を不可とするものは、露園の要求を納れる結果と

I翼

計説



なるべきはすであるから、概ね開 傾いて
る。かくて鎖國主義の政府の治下に、開


I円



國説が拾も木の葉をくゞる山中の清水の如く、 -
ては大きな河流となる素因を持ちなが
第二 章 レザノフ の 渡来 に闘 する時論 の 一斑 二 一七
二一八
第 六 編 文化 時代
ら、漂うてみたことを注意しなければならない。世上の史家往々にして、鎖園を讃美する
に思ふ。
のが、常年の興論であったと説くもの、あるのは、再玲味を加へる除地があるやう
第二章 雪路人の暴行と時論の沸騰
千島及唐太の ラクスマン渡来の際に於ける松平定信の態度、井に共命を奉じて應接の任に常れる石川
事鍵
忠房、村上義濃の行動が、好い印象を彼等に興へ。もし他日信牌を携へて日本に赴かば、
レザノフの不
通商開始の交渉に應するものと考へしめた。然るに共期待が全く裏切られたので、レザノ
フは快々として楽まない。長崎を去るに臨み、常て松前へ行った時、日本の官吏は、何で
も願事があれば、長崎 へ来いといふことであつたから、今度わざ〜来たのに、前日の言
たもない偽である。日本人のやうに不正直のものはないと告げたといふ。 眞
詳かでないけれども、レザノフの心中は、正にかくの如くであったらうと思はれる。
レザノフの示
かくて彼は、騎途宗谷混 及びアニッ混 ㎞ に泊して北境の形勢を探り、我が警備の極
威運動開始の めて薄弱なるを知つた、クルーゼ システルシの如きは、唐太を占領するは、一撃手一投足
計書
の勢に過ぎないと述べてみる。さればレザノフのべトロポーロスクに騎着するや、間もな
く日本をして、共港潟を開かしめる貸めに、示威運動開始の策を定めた。比時レザノフは、
露米商曾の事務に参興し、極東に於ける商曾の事業を継轄する全権をも授けられてみたか
ら、商曾勤務の現役将校海軍大尉 フォストフ、海軍少尉ダビドフの二人に命じて質行の任
第 三 章 露 人 の 暴行 と 時 論 の 沸騰 二 一九
二二○
第 六 編 文化 時代
に常らしめた。然るにレザノフはこれに先だち、醸め共計書を具申して、本國政府の訓令
を仰いたが、許可を得ることの困難を威じたもの、如く、途に共命令を取消したけれども、


の 唐
フ。ストラ等はレザノフの意中を付度して計書を進め、文化三年九月十一日フォストフま
づ唐太の久春古丹を侵し、松前藩の番人を捕へ、貨物を奪ひ、家屋、船舶を焼き、アレキ
フォストフ及
ダビドフの揮
サンドル一世の名によって、同地を占領するよしの銅版を留めて去った。
捉侵抗
で同四年四月甘三日再びダビドフと共に揮捉の内保に来り、甘五日上陸して貨物を抗め、
番人を捕へ、甘九日更に紗那に迫った。妙那は曾所の在る所で、箱館奉行支配調役元
田又大夫が滞在してみる。又大夫即ち津軽、南部二藩の兵を督して防いだけれども、敵す
ることが出来ない。又大夫は途に自双した。フォストフ等ます〜抗奪を怒にして曾所を
焼き、五月初旬同地を去ったが、共間また國後の情勢を窺ひ、甘一日更に唐太に赴き、留
多加の運上屋を焼く。時に松前藩の家老松前左膳、去年の鍵を聞いて久春古丹に来てみた
が、直ちに自主に走り、尋で宗谷に通れた。甘九日フォストラ等また利尻島を抗め、幕府の官
船、松前藩の船舶各二隻を焼き、搭載せる武器、貨物を奪ふの後、潮く退去したのである。
共松前氏への
呈書
面して共去るに臨み、唐太、揮捉の雨地で捕へた番人八名を放還し、松前氏に贈る書輸を
授けた。書輸には、長崎に赴いて通商を求めたが應じないから、我が皇帝は怒って、共手
並を示 され たのである。 もし通商を許せば、 末代までも敵意にすべく、 さもなければ市 に
多数の船を出して、 今度のやうにするであらう~の 目を記してあり、別に本書店太、将提、
得德三島の内に来て、 近車を問さだい,との事を、 放送の番人に記して使者や しめてわるº
陳錦鯉
時會 の海艦 と
成土 の横綱 時に常 6、 具不能に 二百年に近く、 天下火しく兵革を見ない。 秋に外國の船船が武が
沿岸を認したのは、 これを以てはじめ とする。 されば人心的女人として共路に安んせす。
必ある者は皆國家の前途を愛 。 是に於て世論期に流露し、 愛國の士の野崎の策謀を建て
る者が多く、 慶十の機能もまた橋(盛んになった。 魏 º 个、 張 斑を考察す
本山行嚴の主
戰後調 るに、 主戰論,と遊戲會人 の 二つに別けることが出来る。 主戰論者 として著名なのは平山行
雲峰 の氏め
の出兵
威人造生非本人 であった。 行義の上執政和公開下書 體環線 を見るに、 背部に於て、
代性、 我國開關以來、 千萬有餘年于故、 未科紫外國之術 、 國成过經於宇宙º
~時被して、 光榮ある間中 を離散し、 神で敵人の 基行に及び、 其祖在 を離 にするを借り、
病態の説を建て 〜 目く、
大衆也。北電氣象, 而代之術、非法之光也 非怖士大夫、 北征服以
代之之光道夫 。 然如加河而可 推出个光明之世、 德哥市井之間、 近民政使、 維化不移者、 生 «有
第三章 … < 11111
第六根 亲征時代111111
之º斯之宮被、別不應機變通以發成攻發光之術平º
~いび、みづから銀座佛殿の放、游城地從の流を救9て、入船の職を駆逐し、製炎の定義
已に満に路るものを復したい」と称してみ る。行職がかくの加く、常法を用なるのを不可~
したのは、別に理由があった。
陸人の暴行 请人犯之形、法非阿元酵素之比英雄9年號の講以百日從之、何也先後開催化
~&º----止於
校 死文士
は日本校
而 何也將
の番にあら
ずとの考察 本科石灰熊、北後於中。而未停靠地安之佛寺廟
*
行職が、路人の家行を以て、元磨の知さものでない,と見たのは、特地に師
た。故に軍隊の派遣を必要とせず、寧の命知らすの従を用方やうとしたの
れとも行職は、それが限公海城の類に過ぎない,としても、決して地新しては
つてある。
體形をして 以降級新总、使體視新德之心路、別人將之集以不变化、達自是多平安然如虎的防成、欧
神修の心を
路かしむる 、商不可。北魏不多,而不可知、國力自地安非怖之長者也被制能够,不必
事の不可
在武帝利、要在法學。光大總統、非正所在也。特斯洛朗政院之拳、血戰死刑.安平
告後舉、貨物種之患癌 :張將不與此做成立於天地之間奏。·布命體構、商出于安地獄後N
守、佛。战败诉求之心、建在神之士、而東平集和他之正與辛子比企不下駅舎
運回 r 姊姊于他日︽天º **以見。
,,2*人 の運行を駆使して、 入校 の城を拡張しよう とする上戰略 である。 だ*( 李光が
2* ストア の 役 した書院 に封し、 船にこれに徹して、 通商を許さ 考で ある~の風成が
日露通商の
風 設 と共反
行い た。 行政委派の除 0、 再び上北兩者 號線 を平して 非不可を論した。 地 。 フ"?

アが通商之祖雲し、 もし難かなければ。 更に多數の船を出さいったこ~を果が て、 或
を使らものとなし、 前日成國に於ては通商を必要~~ない~の理由により、 張軌を続けだ
の は、 彼の立しさを得てわる。 然るに彼に脅かされて、 命を離(やうなこ~があっては、
國成を傷ける と激語し、 断然拒絶すべ さを論して目《、
和親 の呼和 與非上 内安中國、 外回避開、 熊猫和親之际、 母和好之蛇、 而與東和法、 鄭經安通、 川正以二帝
好の 道
三王元子母姓也 說如此、 別關於立、 人称安、 天下方向不感、 而上自主役前王、 下至武夫婦、 縣級
知大半之不可交、 龍類之不可製炎。 其後關之所及、 逃命之所組、 光天之下、李士之树、英不從而然也。
故にもし通商を許したならば、 大義派格し、 人心解體するばかりでなく、 諸侯伯*た岡
家を使るやうになるであらう といび、 最後に
*

/9)
代英、 若上線
た:w 文
政時前職、 不感興郡、 新選 英將成路 系為、武將從東將、而光在之以生被N構,

I;
松政治女儿

%

使之無黨軍歩 之根 实P 能照 鈴、 熊大、 破竹縣、 我式以來、 電撃成 非、 風帆、 株式將取

J.


-
第三章 際 人 の 暴行 と 時 佛殿 1111
第六鎮 夫 化 時代 二二 战
史士、 城成宗子者、 兒汗於眼皮北建而後已º
~結んである。 若し後人の沖を以て国际~し、採ってこれを生 がうとした。彼に戻さ
られ、 彼の兵成に加して通商を許すのは、 國家の科山を抜ける とい のが、後會 の骨子で
ある。 通商其もの 心 是非を論じたの ではなかった。 たく 前には常法を用るることの不可を
說さ、 後には 英將の下に出師の 必要を論じ、 1 ヶ月の間に議論の愛
るか、 群かでないけれとも、 要するに兵力を以て、 客人を捕獲しなけ
破の主張であった。
戴國 の日本 行隊は、 敵人兼行の状を見て、 これ別元気軌を製 の比でない。 所調海城の類である と
遠征不可能
いつたが、 なはまた大兵を飛國に送る ことの出來ない事由を論じ てみる。 即 其著海防間
符號幹に於て、 衛國は我國を去るこ~1 的四千里に及び、 英國は大きいけれども人民は
少 い。 どうして大兵を出すことが出來よう。 日本を侵略する が 知さは、 残し能はぎる所で
ある といび、 更に株子平の海國兵装を許して、 この書は兵を知る者の作でない。 書中の言
*だっ~~して取るべきものがない。 常に大砲を備え て、 東城を防がうとい のも恐
*** 『 後の大師を、 三百五位の雑に彼を、 絵に近づいて経洵
《のがい。 孫に建制、 唐山から、 山 - -
*** ***** ないな 勝して、冬
リ シ 、シ
しめたのは、所請造言の罪に常ってみる。世俗で これを信するが故に、異船が 隻目ルえて
も、大騒ぎをするやうになったのは、 子平の罪であると論じた。上執政相公閣下書に、防
成を置き、守備を厳にする事の不可を論じてみるのも、ゃはり子平の説を最したので。
う。露園が大兵を撃げて、日本を襲ふことの出来ないとは、林子平、中野シが、ョ(*
政、享和の際に説く所、行蔵はこれを祀述したに過ぎない。また子平の説をシして。
のは、蓋し奮式の兵寧者が、洋式兵制の採用に反封せる 矢であった。
蒲生君平の主
戦論
平山行蔵と同時に、蒲生君平もまた、 文化四年六月書を若年寄水野忠成に呈して國家の
雪辱の貸の
擁庁
急務を論じた。池して不快線といふ。基奪加の上表には主戦論が いて。
自天地之割分、面碑州有天子之受天命馬、面停群長久、無有窮極。難世布盛衰、シ、面*
佐之、以賢宰良相、不喪共碑器、不歴共民命、不車 園鶴、未曾有高獣横虐人類、未曾有夷競戒狭、
侵 中士。奈何之、乃至於今、可郷地夫魯西亜討虎之暴於北漫哉、足天下忠シ之士、人々所以切

歯拒腕面慣也。


CS







とて、悲慣の情を波らし、進ん
鳴呼自弘安有蒙古之狙職西漫、 五百年之後、今方復有夫魯西亜之%於北漫英。夫魯西亜者、不シ
古管湖共水軍十高波詳N怒平。碑州回天命之所全顧、宗園及山川百制百祀、起 風、シ、『*
之忠義他悩之十、奮面作気、一可以敵百、十可以敵高。既面有一社、常地兵走 、直他 、シ



二二五
第 三 章 露人 の 暴行 と 時 論 の

二二六
第 六 編 文化 時代
]
4IE

主居共種、面無嘩類突。不然宗廟及山川百碑百祀有差焉。面天下忠義僅概之士、食不知共砲、寝不成
共睡、死不安共鬼。
と論じてみる。共旨趣の存する所、平山行蔵と全く同じであった。然れども上文のつゞき
に、林子平常て比虜を憂へ、海國兵談を著はしたが、妖言といふことで虜罰せられた。子
平幽死の後数 年、官家早くも共言を用み、蝦夷に事あり、また十除年にして今日の鍵に
てみるのは、行蔵の冷評


し、 とい
宜しく共の墓を祭りて、共霊に謝さなけつ
封外の策を論じ、まづ
と比較封照して、興味の深きを覚える。かくて本論には封
患、
泰平の除繁 成狭胡掲之種、腕機貸養、高心獣行、警資足習、不比人類、不化於中國之教。故時冠漫、侵抗貸

自古共常、又何怪焉。但承平日久、世皆特海内無虜、面不知復有殊類発謀、積歳説愛漫微、一旦北部
告鍵、面天下驚擢、訛言赤従之。
露國圓南の
野心
と稲して、世人が泰平に慣れて、外患を忘る、を概き、更に北部の諸島は、古へから我が
方域であるのに、露國次第にこれを奪ひ、途に撰捉、唐太に垂延し、将に蝦夷を呑み、中
國に及ばうとしてみる。共闘南の志を挟めること、一朝一夕の故でないといひ、比時に常
外患の刺激
によつて宿
繁を革むべ
り北海の侵略を見たのは、却て幸顧であるとの説を述べて目く、
しとの所見
シ、別シ兵講武、不和㎞々倍々、以後楽安如他日也。i今方習久安、面天下皆
共有貸者、彼不先来冠、則執能設共備哉
の東城 によって沈家を半 の、 人心を引立て よう~する見解 にボ(もの や りり た。
故に 放 日 の 知さも、 共派認する所でないº
安易 の有省 使其所求、 乃我要来 交易之法、 同通有無、 可以 长生有用之資、 易道方不急之移成 。 是官府武、 胡 志
王建筑 特以繼續成宗 羲、 副总人經、風不可使。=北和、 和平
爭ķ


市而從發、 發而作亂、 苏成非和松樹狀、 步取地旅於李金、 病或用大於韓衛、 鄭成就此於球路、 降機不

H

無任

ºf沈
游、 田園以接 民之道離不必水平 於是唯我們建、 義或綠、 而後東北野、 母堂之微、 彼以都
我國, 是道正義也º
對外後の前 安に対する雑誌の情が、 知何に掛かったかを推測することが出来よう。 果して松 は北
*
提として の
*
政治改革會 は
衛將 日 %た定規模、 離出來 、 而外华德、 內不穩時也。 雖于神和、 而不敢
白馬 以先定規模、 要在乎修 讀成政黨。

而して敵を修して政を成すには、 上は 空を飲んで名分を明か にし、 下は諸侯を応 して
仁政を施し、また鉄を抱くし彼を省 いて、 民の恋者を除く と共に、 政府 武侯 、 九宫 人
性を名 さ、 これを以て平岡の資に供し、 陈情を察して艦を設け、 農兵を組織すべきである
といつてかる。 愛するに封外の策を講じて、 國家の不安を保たうとするには、 これに先だ
つて内衣を整え なければならない といふ ので、 國力の表紙、 士気の魔戒、 國防の不備に
第 三 章 院 人 の 暴行 と 時 會 の 構 體 1111
第 六編 文化 時代 二二八
安を抱ける識者が、國難に直面して、比危機から解脱しようとする悲痛なる叫び
た。林子平常甘てこれを天明、寛政の交に唱へ、今また君平が、殊に一書を著は
封外策と封
内策とが 一 してみるのを見ても、封外策が潮く、封内策と一致するまでに進んで行く鍵化の情勢を察
致すべき情
勢の進展 すべきである。かくして封外問題は、眞剣に考慮せられるやうになった
の如きも、重大なる意義を有してみるが、始くこれを下文㎞ に譲って置く。
蒲生君平の國
防論 君平は、不怖緯に於て、國防の論に鋼れてみるけれども、共鶴的の説を述べてない。
意見を徴すべきものは、別に形勢論がある。ェ 質に文化の初年、露人暴行以前の作
であった。便宜こ、に合叙して、君平の策論を検討する一資料として考察しよう。即ち天
下を治める者は、形勢を知らなければならない。日本は海國である。故にまづ海園の用を
知ってから、防御 の策に及ばなければならないと述べた後に、
軍艦の製造
海軍の振興
夫海國之用何貴。日艦貸先。今宇内之艦製、北虜貸精。面吾邦之製光施悪。: 豊能度萬里之険、以
征於異域哉。然則方今之急務、宜巡覧四方之瀬海幅要之地、以置都督府於四漫、命天下之諸侯、取法
平彼最精者、以大製戦艦、海内之諸侯、因共大園小國之分、以定共定数、各以共戦艦、属共方面之都
督府。凡朝親幣間、職貢消連、必由共府面往反、不許共自陸道、以艦用諸路之人畜也。夫然後、天下
之戦艦大備、面人興艦潮相習、共来件干海路者、又倉陸耳。於足平可以用之於水戦決。
か〜て平時には、轄連遭輸の事を治め、有無を遠週に通じ、朝事あらば、船艦皆所属の
府に至って任に就く。是に於て守御の策整ひ、攻征また意の如くであり、碑州の成はしり
て字内に振ふであらうといひ、更に露國の形勢を語り、強大にして水戦に長じ、侵略を事
とするを撃げ、共兵勢の盛んなるは元冠に勝り、船艦、器械の用も、通に共右に出てみる。
伊勢の碑風を頼ることの出来ないのは、智者を挨たすとも明かである。國の外患ある、正
にかくの如きにか、はらす、括然として守御票の備を設けないのは、策の得たるものでない
と稲し、最後に、
邪虜:地職人稀、生穀固少、西南界於諸夷、面戦艦不可用。旦共東北隅、率是職莫不毛之郷、共精兵







元リ

使





在平西南之間、面共地興諸夷接。則不可徹共守御票、以専力於 T "
大撃也。然則共國難大、共兵維練、共器械難精旦巧、是固不足憂也。故荷知碑州之形勢、面霊吾海國
之用、則宇内之國、共誰興我敵、面豊濁郭虜也哉。
と結んでみる。洋式軍艦の製造、海軍振興の議が、次第に 多 の

察すべきである。露園の恐るべきは元冠の比でない。伊勢の碑風も頼りにな
いへるなど、蓋し世人を戒めるにあったやうに思 ふ
可能


を説き、深く憂ふるに足らないと述べてみるのは、平山行蔵と同しであった。たゞ行
蔵は、露國の勢力を軽祀し、唐太、千島の事鍵に封しても
第 三 章 露人 の 暴行 と 時 論 の 沸騰 二二九
第 六 編 文化 時代 二三○
-
ける必要を認めす、また子平の所説、一つも取るべきものがないといったが、君平は、海
園たる形勢に鑑みて海軍の振興を論じ、且子平の霊を祭れといへるなど、二人の策論には
著しい相違があった。故に行蔵は、共所請入冠の賊を暦懲したならば、後患がないと信じ
たやうであり、君平は大いに内政を整へ、守御 を設ける必要を力説したのである。露國が
日本を征服し、または侵略する貸めに、大軍を派遣し難いのは、常年の質情であるけれど
も、行蔵、君平の考へたやうに、また管て林子平、中野柳園の信じたやうに、安心してみ
られないことは、後にこそ識者の理解する所となったけれども、天明、寛政から文化の初
年にかけては、己むを得ない考察であらう。
柴野栗山もまた、平山行蔵、蒲生君平と所見を同じくしてみた。博ふる所にょれば、文
化四年八月甘一日栗山は、行蔵を自邸に招いて露人暴行の事を論じ、今彼の地カムチッカ
に押渡り、幸大夫等と共に露國に漂着したま、で騎國せす、我が虚質を彼に告げて、入犯
を貸さしめる者を捕へ、祀根を絶ちたいと思ふ。足下にして共志があらば、士卒の調達、
将食の僕給、船隻の差援など、自分の手で取計ふであらうと告げた。行蔵大に喜び、天下
撃って守備の策を論じてみるのに、濁り先生は進撃を説かれる。天壌の差といはなければ
*」 、ト 、。こさ A
ならない
。に向ってみるから、来春まで延ばしてはといったので、栗山も同
-
- 占い

意した。然るに同年十二月に亜未山の死に遭ひ、計書もまた控折したとい
栗山にかやうな計書があったかどうか、研究の除地があるやうに思はれるけれども、文化
元年の上書㎞と併せ考へ、懐庁の意見を有してみたのは、疑のない事質であらう。蓋
しまた一種の主戦論であった。
時人の感想 更に平田篤胤の編纂した千島自波を接するに、文化四年六月十二日付箱館奉行の属吏田
中伴四郎の書輸を載せてある。
比度の一制御聞及、御驚入之御事、追々注進、一として吉事は無之、誠不始末の働之事面己、言語同
断に御座候。日本開て以来、他園の人に負たる事なき國なり。然虜比度ェトロフ之大敗、残念不過之
候。元来ウッカリヒ・シとした人はかり三人㎞行居候偉、如比不持の致方面己。日本国の大
吐なり。何ッか比吐雪事やあるべき。誠に残念至極に御座候。
といってみるのは、常時多数の人々の抱いた威想であらう。主戦擁庁の説は、蓋しかゃう
な威想から出務した自然の結論であった。
古賀精里の和 かくの如く露人の暴行に悲憤して、主戦の議を建てる者のあった際、これに反封して避
貿易論
戦論を唱へたのは、古賀精里、杉田玄自等であった。文化四年精里擬答㎞ を作る。
即ち日本園松前奉行喋魯西亜幹薩化師聴と題し、喋文に擬したものであった。共大意を按
第 三 章 露 人 の 暴行 と 時 論 の 沸騰 二三 一
天之


可有


本常


以朝



軽鍵


求通

細有


微較



地職重故





貴、

之市修


誠不摩
%
隣園


師国面在資


前日の暴行は、貿易を拒まれたことを、不快に思っての仕業であらうから、我が国に於て

も謝絶した。何ぞ漫阪の小援を恐れて、請に従ふことが出来ょう。今や岡國
切歯、一死以て比怨に報じ、比吐を雪がうとして、兵艦、我器なども共
ども今暫く衆怒を抑へて、来喋に答へようとするのは、おのづから共理由があると稲し、
もまた、必すしも貴國を敵祀しないとの意を述べ。


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二穏し 長崎
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何故政策
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な文年
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し、面*上下皆倫菊情安の情を抱き、一人も國家の

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思所以謝道自新、使我有以#日、不思
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大話これに過ぐるものが

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に忠赤を露はし、報効

-

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きょい 、、

*
* -
守察の十策 一 を展べるもの、ないのを概き、今の内に治安の策を講じ、備御 を設けなければ、調害の及
ぶ所、測り知る可からざるものがあるとて十策を論じた。一 に日〜、言路を開いて擁シ敵を
防ぐ。二に目く、武事を講じて士気を振ふ。三に目く、火器を陥めて虜の長を奪ふ。四に
曰く、水戦を習ひて武備を補ふ。五に目く、軍法を厳にして暮気を作す。六に目く、冗員
を省いて國用を贈はす。七に目く、百姓を愛して怨萌を絶つ。八に目く、諸侯を封じて北
睡を守る。九に目く、蝦夷に教 へて成守を省く、十に目く、和親を論じて獅像を定むとい
ふのがそれである。面して共和親の説に目く、
露國の勢力

小、柔強扶弱貸事。天下有不服従者、不先之以兵、必先善鮮命以乞通信、不可則侵抗共境界、以却
以 制

制之。彼獅不可、然後従面征之。用兵征國、毎若不得己。吾有敵僚討悪之気、敵有知罪悔過之意。是
所向無不得志、遠者長威、近者懐徳、以至擁地五千里、稲貸六洲第一帝者、彼覚徒然也哉。
かるが故に精里は、幕府が前年露國の請を都けたのは失計であり、彼をして北睡を侵抗せ
しめたも、要するに共術中に陥るものであるといひ、更に今日の計を論すれば和を利とす
開戦の危険 若以今日之利害論之平、和利面戦害、緩戦利、面急戦害。何也、兵衆之未練、舟損之未具、以比守城、
の 満 魔
第 三 章 露 人 の 暴行 と 時 論 の 二三三
第 六根 șę 代 三四
以此航政、 正所調以不教民戰者、 難有德將成亞、 恐不能以將手被º
トと いつてわる。 然れとも降人は、 能に使敵を行ってあるから、 日本で和親の議を務官すべ
さでない。 かくの知さは、 國體を辞め、 梁を四夷に取るものである。 もし彼にして過を施
い、 改めて論 所があらば、 これを許しても負い~稱し、 更に目く、
和して後に 和親些成、 交市有無、 松駅過其意、 使徒不能生兵器、 以其間修整武備、 數十年之後, 先祖師已經完,
武術を修ち
る の策 兵來說已修練、 別推器所欲將、 無不如愿。 是和親所以將戰之資、 戰之得勝、 遠因和親為之基也º
これ部ら特里立論の士服であらう。 かくてまた、 和親が成立したならば、 天下これに安ん
じ、 民心の張はない思れ もある。 官しく普希洛 公? から発売して兵備を修め、 力以て敵に常
る べく、 教以て勝を制するに足る の策を講じなければならない。 この決心がなくして和親
を説くのは、 大草計である,と称した。 要するに ロを 加して 一時を掛か、 其間に防守の術を
北新語字架
の策
整 《、 國力を充實し、 和親の構を、 我が手中に張らなければ、 和 其の和でなく、 戰も真
の戦でない といふにあったらしい。 されば他の諸條に於て、 我が風俗、 刀格号馬を重んじ、
大小學成立葉を述べて、大小組を改善し、 陈を義する必要を救う、 もた紙製造の
** 、李氏の軍艦を製造し、 水平を興すべ さを論し、 かくの知 : *の創作
周り るから、
** ****** > ~、大德公にして、し現在の小组
*給は、徒らに成法を墨守して、外夷に笑はれるよりも、舟艦を修め、水軍を習ひ、海
内を威制するのを、喜ばれるに相違ないと極言し、更に南部、津軽の二藩が、蝦夷地を守
-

るだけでは十分でない。大名中の人物を撃げて、漢の刺史、太守、唐の節度使、観察使の
やうな任務を授け、蝦夷人を訓練して、兵と貸すべきを説き、併せて言路を開き、 士気を振
ひ、軍法を厳にし、冗費を省き、百姓を愛するなど、政治を刷新する急務をも述べた。従
来洋式の軍艦を製し、海軍を起すことを主張するものはあったが、大艦製造の解禁に就い
て明言したのは、精里をはじめとする。
杉田玄白もまた、精里と所見を同じくし、文化四年野史濁語を著はして、封露の策を述
べた。彼はまづ世態将に革らうとして、共萌が見えてみる。中興の政を布くのが必要であ
るといふことから説き起し、蹴兆の第一といふべきは、露西亜の外患である。三十年己来
北奥厳夷の諸島を競食し、また履々来って通商を求め、我の拒絶するに及んで、去秋今
の Hじた。これに虜する方法としては、貿易を許すか、船を引受け、戦争して打
開根繁

浅勢力の
潰すかの二つしかない。今、世上武家の有様を見るに、三百年に近い泰平の貸めに、士気
へ、旗下御家人なども、十に七八は共状婦女子の如く、諸大名もまた文弱に流れ、
能く武門の鶴面を保ってみるものは、殆んど空である。これに反して露國は世界の強園で
第三 章 露 人 の 暴行 と 時 論 の 海 艦 二三五
第 六 編 文化 時代 -

二三六
ある。支那の康熙帝さへ、持て除したほどであるから、我が國の弱兵を以て、彼の國の精 -
兵に常らうとするのは、無暴であるといひ、さて目く、
露國が千島 蝦夷の奥島を侵抗せしは、先年までは、是といふ領主の有事なければ、潮取ひろめしなるべし。かく
を占有せる
理由 日本に近寄、本邦と隣境となりたる上は、盆々隣好を結び、共諸地の民をば養ふ貸めに、我と信義を
結び、交易を求むる事なるべし。
共所請奥島侵抗に闘する観察は、常て工藤球卿、本多利明等の見る所と同じであった。さ
れば千島、唐太の事鍵の如き、我が國もまた責を免れないとて、レザノフ渡来の際の虜置
を非難した後、
露人の暴行 彼等が深意は、どこ逸も交易を望む宿願なりと聞ば、我國漫備の程も知れぬ事に、何ぞ最初より、か
は日本の油
くの如き勝ちを取らんと思ふべきや。全こなたの油断からして、大敵を受けし心地して、敗走せし故
の事と見ゆるなり。彼園にては、比方にて悪む程の不法と思へるにもあらざるも知れす。詰り交易さ
へゆるし給はゞ。何もかも如故にして、捨も送り可返と申越せしなれば、一旦の腹いせ、小見の闘争
同前の仕打、彼と足と、共性情の通せざる虜より出でたる如しと見えたり。彼方には何卒平和に調
ひ、交易の道を開き度の望計りにして、全く手切して、合戦仕懸る事とも見えす。
とて、極 て冷静の 科を下し、宜しく人材を探んで、カムチッカに派遣し、今回の暴行
を詰 *
A ● *
。、。した。は、基請を許しても宜い。されど将来如何やうの事髪が
後に
講ず 和

るかも知れなけれども、それまでには十年乃至十五年の歳月を関する事故、共間に兵を積
中興 る
の を
策 守備

り、士気を養ひ、武備を整へるのが肝要であると稲し、かくて所請中興の政に及び、質素
ふ の 請

政治 共

険約を守り、奥向の費を減じ、武士を土着せしめ、参勤交代の制を寛にする事などを説
足らず 耶蘇教

る 憂

き、且露西亜は、御法度の宗旨の國であるが、厳重の備を設けたならば、憂ふるに足らな
いと述べた。要するに彼我勢力の比較上、開戦の不利盆を聴り、暫く共請を納れて形勢を

緩和し、武備を整へようとするので、古賀精里と同論であった。たゞ精里は、露人の暴行
を憤る意気を示してみるが、玄白は、我が園で考へるほどの不法とは思つてみないかも知
れないと、寧ろ同情ある見方をした獣に於て、著しい相違を認める。


する 政治
問題

接するに従来開園の説を建てたものは、寧説としてこれを唱へ、然らざるも経済上の立

論 と

成立 開國

論であった。これに反し精里、玄白は、開戦を不可とし、貿易の開始によって、形勢を緩


和しょうとする政見に立脚してみる。常甘て松平定信は、同じ事情に除儀なれ




國の幕議を決し、今また精里、玄白もこれに和した。政策としての開園論は、比頃から潮
く、世上識者の注意に上り、世上の一勢力となるべき淵源を貸してみる。幕末の開園論は、
要するにかくの如き政論の延長であった。
割綱

論郎

國山
境田

定三
二。

主戦論及び非戦論の外に、國境割定の議を唱へたのは山田綱三郎であった。文化四年の
-
第 三 章 露 人 の 暴行 と 時 論 の 沸騰 二三七
第 六編 文化 時代 二三八
著なる醸見録に、露國は四方を併呑して、既に我が北境に迫ってみる。然るに我が國の所
属たる蝦夷、千島、唐太の霊境を明かにしないのは、一大鉄酷であると論じ、また露人暴
行の事に就いては、これ蓋し國王の命を奉じたものでなく、カムチャッカ、オホーツクあた
りの漫境にある者の仕業であらう。さりとて漫民の仕業が、必すしも國王の闘知しない所
であるとのみは断言し難いとて、康熙年間支那に封する露國の政策を記して立誇した後、
恐くは我を挑み、我を疲れしめてから、手を著けようとするのであらうといひ、更に
廉深く共園を疲し、民を変せん事の、天藤を奉する者の嘆すべき事なるを鍵ふ。H外監べからざる
の義あるを以て、つら〜之を測るに、今に虜するの要は、蝦夷の霊境を審にするを以て第一義とし
て、我先彼を制するにありといへども、世いまだ比義あるを聞す。故に一策を獣じて今日の急を奉す。
と述べてみる。蝦夷の霊境を審にする所以のものは、結局日露の國境を明かにすることに
到達すべきであった。常時ほゞ同じ意見を述べた者に、林述斎、柴野栗山がある。國境割
定の議が、潮く國民の意識に上って来た情勢をトするに足りようと思ふ。殊に漫民の仕業、
また必すしも中央政府と無闘係とはいへないといへるは、これを以てはじめとする。蓋し
シのある主張でないけれども、露園に封する識者の考察の鍵化を、如質に物語るもので
あつた。
の分離
政の

と暴如





和か。




戦あ者





面す論て

は 行くる園

を非とし、戦を非とするものは開園を是とした。たゞに和戦の見解ばかりでない。然れども
いづれも皆、事鍵の封策としての論議であり、開鎖共もの、是非を説くのではなかった。

い機
こ。




下文
すづれ


あを


らう
れる と も の
あ主義






は鎖開



や見て
らう
式國え 可
説なが
開を
、國きる 故に
たる
論者
鎖祀



古賀 許す

通商


暴二







と沸行騰

三 分は
しの


ある
ので
情に従って





、関濃厚
著年

にする
しく
た離勢
そもの
す、
論必


しする





と断のない


こと
出れは者した定み来
。 行蔵
平山
たる
論者
主戦







する
な 要



川耐l な
;去 屈*し







論じ

こと
ある

策論



みる

-
-

かく
第 六 編 文化 時代 二四○
第四章 露船打挑令の公布
事鍵に封する
幕府の善後策 露船の暴行があって、世論頓に沸騰し、和戦の論潮く置 すしき際、幕府は如何なる施設
を試みたか。抑も事鍵のはじめて起つたのは、西蝦夷地上知の令が出て、まだ共受授を終
へない時のことである。面も箱館奉行羽太正養は、報に接すると共に、南部、津軽、秋田、
庄内四藩の兵を徴して各地に分遣し、要害を固めしめたが、幕府でも事の容易ならざるを
見て、文化四年六月若年寄堀田正敦、大目付中川忠英、目付遠山景晋等を蝦夷地に派遣し
て、善後の策を講せしめた。尋で奉行所を、箱館から松前に移して松前奉行と改稲し、ま
た秋田、庄内の二藩兵を騎國せしめ、曾津、仙豪の二藩をしてこれに代らしめた。ェ、
然れども防備、警衛のことは、本編の主とする所でないから、継て他の成書に譲り、幕府
の封露策に就いて、研究しなければならない。
幕府の避戦政
第 文化四年四月在府箱館奉行戸川安論書を幕府に呈して、西蝦夷地上知後の虜分を候し、
H露人の暴行に鑑み、唐太の警衛を厳にすることを述べた。然るに幕府は五月に至り、
唐太揮提の
放棄案 。、“う。日之海上は、異国船も往返の場所と申、比方より遺し候人数も掛隔、非常之時
示谷に
- - - - - - -- …
--- '* * * - - - -> , ، ، ، --__
!!| {! 慈 - - -
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方,と在快º : 1 ㎝砲弾人 と 仲 いは心得 に て は、 日間 に 寄港,もつれ於後も出來可致成r k ㎡部战 胜诉
人 の政府 はとには~ : E荡 不中方、 神風格も可從。 光義於城所 へ人數を逃し活 , 寄託上手道も
有之徒では、 外掛 40 成因を離婚之はじめを開中間放もの にも無之、 假利之平にて、 御成光にも拘0
然而 能«安維繫 ~中、 平。
,と指令し、 神でまた
からふと島之後, 當年は眼皮人計にて差賣、 彼島周邊界與國境之校于月改修後は、 来年先經さ者1 兩
人差遣し、 共模子來第、 支配向之者进修後は、 街交例之上取社可中平º
,と述した。 幾もなく後她再度被行の報の達するに及び、 袁術は更に安會に封して、
赤人却不器之故方將不及中條得共、 み とみた彼は、 近年比方より手を入德城所に彼得は、 赤人評價
いた
球可被毀於º : 赤人之内に、 比方之文字言語に通じ使ものも有之山、 何とを手段いたし、 比度被神
に及破城派使平に除 坎地者之上、 丁前可被选侯。
南部佛經以
下五 湖 、 愛
附近 地利比
~金し、 同時に南部、 北韓、 仙桃、 秋田、 八戸線 の王道 へも、 左の知く成書してみる。
の 飛輪 此節期成地 へ 来然地図能、 共方組分も向後的 三 位、 海岸近く水0條 公 %、 同心得方之後做出 和他、 手

何れ も不法 手向い、 及於神修法條 公 » 、 時宣帝陵 太 上條て、 打氣候隊 もいたし、 十分可被
第四章 统 就 打 排 令 の 公布 11 四
第六編 文化 時 二四二
取計候。最初より上陸貸致間敷と面己存込、速ニ比方より手指を始候て、打挑候儀ハ不宜候事。の
上休
明光記附
録別巻。
平和の維持に
闘する幕府の
7
幕府が露船暴行の原因が、レザノフの要求を拒絶した貸めであるのを知ったのは、
苦心 ホ
* #分 第
ストフの書輸 参照。 の江戸に到着した六月 の工日 こ可 ー ンこL、J下リ い
憲法部類績編所成文化四
句のことである。ェ㎞
月の頃には、まだこれを知るはすもなく、箱館奉行をして、露人に質問せしめようとして
*

もっれを生するから、去秋の狼籍などには、取合はない方が宜いといひ、更に赤人が標捉
を押領しても、取戻すには及ばないと指令し

て置いたならば、露人に奪はれると警告して
I

る る
。 巻戸川安論何書。
*
㎞ 然るに幕府は、
U" ミへ ョリドー
の 卒 寧 ろ唐太、揮捉を放棄してまでも、露園と事を構 を喜ばなかったのを見て、如何に
奥初越諸藩
和の
の戒論 維持に苦心したかを、察しなければならない。かくて六月更に、陸奥、出羽、越後
海岸に所領を有する諸藩に達して目く、
比度蝦夷地へ、魯西亜船来着及不法、箱館、松前之沖合ニも、怪敷船相見候山ニ付、領分井御預所浦
浦之手常念入申付、萬一怪敷船和見候ハ ゞ、諸事寛政三玄年相達候趣相心得取計可申候。午然事ヶ間
敷用意いたし候筋ニハ無之候條、可被得共意候。ェ㎞
、、に寛政二年の達とあるのは、異國船が漂着したならば、穏に取計ひ、計策を以てなり
シー-
* *
とも繋置き、大々何ふやうにせよとの旨を記したものであった。蓋しか〜して暴行の事山
を訳問する機曾をつくりたいからであらう。然るにフ “ ストフの書輸に接し、水春には返
日リ o 休明光
事を聞きに来るとのことを知ったけれども、評議は容易に決しない ㎞。同年十二月九
露船打挑令の
公布
日潮く、海岸 所領を有する高石以上以下の輩に封して、露船打挑の令を布いた。
おろしや船取計方之儀ニ付、去g年㎞ 相達候旨も有之候虜、共後銀売N島々へ来り、シニおょ
び候上ハ、向後いっれ之浦方ニても、おろしや船と見請候ハべ、厳重ニ打挑、近付候ニ おいてハ召捕
又ハ打捨、時宜ニ應じ可申ハ初論之事候。萬一難船漂着ニまぎれ無之様、船具等も担候程之儀ニ候ハ
バ、共所ニとめ、手常いたし置可被相伺候。軍意おろしや人不持之次第ニ付、取計方きびしくいたし
候わけニ候間、油断なく可被申付候。ェ
日露交渉開始 幕府はかくの如く、打挑の令を布いて、決戦の豊悟を示したけ れ て
に闘する幕府 しj
の態度
幕吏の蝦夷
ろ平和の解決を希ひ、越えて十一日、使番小管猪右衛門、村上監物、小姓組番士山岡博十
地派遣 門は
郎、書院番士夏目長右衛門に蝦夷地御用の旨を達し、#六日更に、猪右衛門は箱館に、監
初 よt
*1 } }-〜
こ、 は唐太に、長右衛門は撰提に出張することを命じた。蓋しラ。ストフ
tr 右衛門 *jt - H
の書槍に、明春唐太、撰捉に赴いて、返事を聞かうといへるに鑑み、これを迎へて交渉を
開かうとするのである。故に唐太、探捉に於ける露船の打挑は、得と奉行へ申談するゃう




露 船 打 挑 令 の 公布 二四三
第六鎮 夫 化 時代 11 四 四
千島度 太に
於ける 打排 に~成 のである。 議 なくて帝王年二月於前本行は、 千島、 唐太教師の任に伸びる他
の総裁
臺、 會性 の 二道に、
今陝西亞人從師、 クラフト、 ソウキ、 トラクナシリN他 、 様子 光及對應器之 作。
心得方列政和越族。 其外成所、 諸國 統之御魂之通州公禅、 打排初夏侯º 有四ク所述も、 手助 及
候上 同義仲、 心和方在 道德 · 舒*
,と述し、 神でまた
東國船より 不法之島数族 、 不及死角初挑可中後 使得英、 東國上り仕向 的、 及對義仲間、共
趣可被公禅院事º
O前後路、
1 東國人上陸之時、 非德對之 最初、 簡先高く王宗教條出 三條間、 共取可被用心得像 通航 一覧。
~に達した。 若し此時他基盤は 将提、 國後、 會津藩は唐太、 宗谷を守ってわたからである。
日露交涉に
關する 松前
なは同年五月於前举行の何に、
家行の何
トラ、 クラト は 、寺被分布隆、梁3 时家出をも中將 發跡 で
尖 '㏊瘤'安 條 ︽'出關條跑 //،
Ř月政治經濟

----
**** * * *人之內 市進 ㎞ 式步扩, - 隊。
可食作集在陰 ༄ º
> E斯之
クナジッN義 、 エトア半島之 作為 人类, 俗名 こも 無之处 。
, ,
, … *****
* * **- -
*
様相合選在候様、可貸仕奉存候。
一ソウャニてハ、談方ニ寄、手切有無相聞候義ニ付、前段之趣同様貸心得、犬検使不被遺場所ニ候間、
倉院機之義ハ、共場所頭分之者へ申達候様、可貸仕奉存候。ェ
とあるのを見て、共事情を察することが出来よう。
幕府には、フォストフの言によって共再渡を醸想し、交渉を開く考がある。然らばこれ
に封する諾否の見解はいづれにあったか、資料の徴すべきものがないけれども、常時諸有
司の中に於て、開園論もまた、相常の勢力を有してみたことは、羽太正養、戸川安論罪免
の後を承けて、露人暴行の善後策に鉄掌せる松前奉行河尻春之、荒尾成章が、これを主張
したのを見ても推測せられる。文化五年二月二人の上申書に目く、
謝罪を條件 一於蝦夷地之交易、今度達て彼方より相願候儀有之節ハ、詞をも改、去年去々年之狼群をも、相記候
として の 日
露の修交 て之事ニ候ハマ、最初長崎ニてレサノト%列。精々申述候趣、粗共通りニ相成候ニて御座候。
㎞ 然パ彼園之願と、比方之思召と、元来戻り候筋ニハ無之虜、右ニ就て一旦於蝦夷地、重き
鍵事引起候本ハと相尋候へバ、共次第具に上達不仕ニ寄候て之事ニ候間、比段ハ比方ニて之取次申
日本の不行

上方、不行届と申儀ハ、申達候方ニ仕度奉存候。犬もェ 去々年雨度観暴之始末ハ、全く彼園
之者共不東之儀ニ付、共段ハ貸誤、又比方ニて不行届之儀ハ無取緒申達、理非明白ニ仕、手前勝手
無之儀と、彼方ニても服し候様ニ仕度儀ニ奉存候。
第四章 露 船 打 挑 令 の 公布 二四五
のを露 武 時貿 日
水抱國 備 期易 露
認 (の の 開 の
事怒 充 始 國
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かるが故に暮府は、か〜ては通商に重きを置いて、手羽に聞えると指令したので、同年二
月再び意見書を日毛した。共亜女に日〜、
蝦夷地の開
一右ニ付交易之儀、於長崎御論有之、不相成御國法と申所ハ、決て戻き難き儀ニ奉存候。依之重て彼
園漫土より仕出、松前附何れ之場所ニも候ハマ別儀と被成、御免御座候方にても可有御座哉と奉存
候。:遽土同士軽き事ニ候ハ ゞ、別儀ニ有之由を、御許御座候方可然哉と奉存候。
開港の決心 一彼方より前度之罪を説候ハ、「軍意彼方之願筋を途度が貸ニ、相記候儀ニ可有之候間、漫土之交易も
を有せざる
必止と御許し無之趣ニ候ハ ゞ、貸説候ニも不及、又説も仕間敷候。尚又返事ニも無之書付、相渡し
遺候も無盆ニ可有之哉:、
と稲し、圓満の解決を見るには、所請漫土の交易、即ち暇夷地開港の必要を論じて、幕府
謝罪 の 條件
の再考を促してみる。かくて二人は、謝罪の條件として、重職の書輸を呈出せしめる事、
國力の疲弊
を考慮せる 聞えるけれども、時宜に適應しない。今日仙豪
避戦論
を以て、僅に三千除人の兵を厳夷地に出してみ
津軽の二藩も、拝借金を命せられたが、共費を補
ょ7
らう。汎や数萬の大軍を務するに於てはなほ更である。宿㎞、助郷の疲弊、また考慮しな
第 四 章 露 船 打 挑 令 の 公布 二四七
第六期 夫 作 時代 11 四 人
ければならgº 5し國力の領かない時には、 どうすることも出來ない。 只令が 」使い場
合であるから、 龍公平易、 彼の罪の貴も ベさものはこれを責め、 我に於て非なる所は、 こ
を改めるのが 安常である と称し、 更に
若非なる所有之 と在條ても、 是を取締役て理を不盡, 人命 及陈國の大事を撃破て 、 天より初 と見
外國 0 他と証可中成安大 之功新分 、 職 中 不足像 神座修得共、 後々神病之所 获て恐入
し龐 した。
7 體育し二人は、國力が開戰に城 へない事、 井に恋人の暴行が、 我に於て
附帶


非真を分 できもの ある事を理由 として、 連戰開國の能を唱 《尤? うに思 は
松前を 行兩度の早書を接する に、 英文中 「義士の交易も必止~神武德之經 被 *、 食
帝侯 ,5不及 不久~あるを見れば、 彼を議事だしめるこ~が、 日露交渉の際に於ける H
要條件であったやうに見える。 また岡城の制定が、 業施の内議に上 ってみたこ~ 前かで
あら2 充滿の知さは、 東行の抗議がなく とも、 敵てこれを管有する意志がなかった。 要
するに安は、 常時の世論中、 主戰論を吸って共形式を飾り、 衛隊に法では避諱に後
い、また高裁判定の意見をも採用して、 評議を重ねてあた である。 然 れとも開國の説に
至っては、 途にこれを頼みなかった。
*f j"・“ミートも 、 、も =ー、トー・ ・ ・ シ
松田 博十郎間 幕府が最装に戸川 女論の何に封し、軽き者一雨人を唐太 に遣つて、共周洞仕井に國境の様子
宮林蔵の唐太
探険 を見聞せしめよといへ るは、國境を定める考のあった貸であること、上文に述べ た如くで
あり、共後もまた、同じ評定を重ねてみたことが、河尻春之等の上申書に見えてみる。比
時に常り唐太が牛島であるか、離島であるかは、内外人の間に於ける未解決の問題であっ
た。然るに文化五年春夏の交、松前奉行支配調役下役元締松田博十郎幕命を奉じ、奪々唐

/
太の霊境を探るが貸めに、雇間宮林蔵を従へて同地に航し、東西道を分けて進んだが、六
月下旬に及び、博十郎まづラッカに至りて、共離島たるを務見し、尋でまた林蔵と相曾
じめて
-
間宮林蔵の満 鳥以
洲探険
鶴 郎の熱

に航し、文化六年六月経細海峡を越えて東㎞の地に入り、所請満洲暇府の所在地なる徳併
に赴き、そこから引返した。ェ㎞ 林蔵が鍵組海峡を渡ったことは、ます〜唐太の
離島たるを明かにした。それ林蔵の満洲に入るや、敢て幕府の命令に出たのでない。彼み
海外旅行の鳴 づからの告白せるが如く、「命なくして異域に入るも、赤園禁のおそれありといへども、皆

比島㎞にあづかることの専務なるに、共一事の漢奥を探り霊さすして騎り来らんも、再
見を命せられし共診あるまじ」㎞ と信じたからである。鎖園以来邦人が、公然海外の地
第 六 編 文化 時代 二五○
に航したのは、質に林蔵を以て噛矢とする。また幕府が唐太を探険せしめたのも、國境取
極めの内議に資するが貸めであった。
日露交渉の中 明年渡来するといふフォストフの言によって、幕府の施設する所はゞかくの如くであっ

ブ 然

た。然るに像期に反して彼は途に来ない。これ蓋し露米商曾に好威を持たないォホーック
長 た

トレ

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ハーリンが、フォストフ等の遠征を海賊的行貸と見倣し、共 ォホーッ クに着

共に逮捕監禁して、歯獲の貨物をも没牧したの と、レザノフもこれに先だつて、露 都べテ


ルブルグに騎京の途上、クラスノャルスクで病没した貸めに、継てのことが裏切られたか
らである。棘㎞ 足に於て文化五年の秋、唐太、探提に出張せる山岡博十郎等は
騎府の途に上り、幕府もまた、臨時派遣軍たる仙 堂、曾津の二藩をして、兵を戦夷地から
撤せしめ、尋で十二月南部、津軽の二藩に、永く東西蝦夷地の警衛を命じた。『 されば露
人の暴行に闘する日露の交渉は、質現せられなかったけれども、幾もなくゴローニンの幽
囚事件が起った。
第五章 ゴローニンの幽囚と日露の交渉
㎞。 我が文化八年露國海軍少佐ゴローニンは、千島列島及び沿海洲測量の命を受け、軍艦デ
「ーナ跳に乗じて共事に従ひ、五月初旬揮捉島の跡居屋に上陸した。同地滞在の松前奉行
支配調役下役石坂武兵衛は、かねての打挑令により、急に開戦の準備をしたが、また敢て
共上陸を拒まない。軍に新水食料を求めるにあるき
あ 、振別に行くようにと稲して、


揮役
調
支配
松奉行

特に 前山太


源へ
深宇


-

-
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た が 連 日 の 逆風 れ
-
ゴローニン ; - - - -
も引「"。 島の國後混に入った。松前奉行支配調役奈佐瀬 左衛 門 、南部藩の成兵を督して、砲撃を加
ぜrい 西口 J
へたけれども、ゴローニンは敢て應じない。新水食料を求める意を通じて、撃止もまた
めて穏である。是に於て瀬左衛門も砲撃を停め、船を比地に繋留せしめてから、松前奉行
の指令を仰がうと思ひ、共上陸曾見を促した、六月四日ゴローニンは、部下の十卒六名と、
通挑 の貸めに従へる千島の羅虜和島の土人一名と共に上陸した。瀬左衛門これを曾所に引
見して渡来の事情を問ひ、且フォストフの狼籍以来、露船打挑の命令があるから
際にも砲撃したけれども、別に手向ひをせす、態度も穏であるので、特に倉見を許した。
第 五 章 ゴローニン の 幽囚 と 日 露の 交渉 二五 一
第六編 文化 時代 二五二
されば新水食料の如きも、専断で授けることが出来ない。松前奉行の命令の達するまでの
間、船は港内に繋ぎ置き、卿等の内一人こ、に残って貰いたいと告げた。ゴローニン即ち、




共に評議の後、否やの返事をしようと答へたが、瀬左衛門は、質を留
こと日なほ浅く、我は彼の眞意を疑ひ、彼は我の復讐を恐れてみるので、曾見の如きも、と
かく威情の融和を得ない。然るに今や質を留める要求に接し、ゴローニン等は危擢の念に
襲はれ、彼に立上つて曾所から通れようとした。是に於て瀬左衛門も己むを得す、悪くこ
*
- m 覧、 ローニ
れを捕へたのである。ェ「

ゴロー 一 ンの チ ャーナ跳の副長リコルドは、艦上から曾見の様子を望見してみたが、曾所の附近儀に
松前護送
騒授を極め、また日本の兵士が、ゴローニシ等の乗捨てたボートを奪ふのを確め、はじめ
て異鍵のあるを覚り、事情を探る貸めに、船を海岸に近けるや否や、曾所井に各保 墨から
一時に砲撃を開始したのである。リコルドも直に應戦したが、我が砲弾はデャーナ跳まで
届かす、彼の砲弾は保 闘 に支へられて、曾所を破壊することが出来ない。彼我共に目的を
達しなかつた。リコルド 即ち先任将校を以て艦長の任に就き、善後の策を講じたけれど
も、兵員が少いので、 上陸襲撃の便なく、またゴローニン等の生死もわからないの
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と記し、 なは長官 の 記者に は、 武術 の 武器は、 能 に散佈於初大して欲求し離 いこ,とを説し、
正帝國人衆に於て、 永久不變之修後所を定め、 好を結ぶ ~を踏 ましをふして%
3 た。 事し國隊を定め、 通商を開かうとするのである。 球 锦蛇
* - - - > Q は作は、 神及び長官の東新鮮明に補足して、 同月下旬 1 ン等八名の地城を。
松前來行より 形 ド に交付し、 また松前本行の論書をも投げ た。 英文に目《、
の論書
我國行かしより、 非國七位もなく似もなしº 其國の船、 製炎の島を制約 しによりて、 我國にて も守
備を設け、 くなじりにして非國の者ともな地へ たり。 無間するに及び 、 先年随所を設立しは、 北國被
人の知らさら明にて、 海城の所持な0,といぶ 。 然れとも いまだ作用するに足らす。 此模式地の役人よ
6書を敵0て、 正義をあらはし発射 する所、我を収さる事を知れ0。此被にわれもまた疑念を放して、
通商開始の こく に正面の者ともを録し、 互に感を避さす。 如外因 とあらたに通信號的を議する事は、 或因の禁に
外國船行排 して許さざる事, 在年共图より長崎に来れる時、委しく認識 しが知し。 或因の地名 はいぶ に及ばず、
の 政法
頭皮肉においても、 東部の船民s る時は、 統元を以て打排 水平、 宗我知の敵にして遊ぶ事なし。 さ
れば此设の平に記して、 通路を求めん として推して来る とも、 徐なくして過めるにいたらん。 あか
じめ論し知らしむる所以なり。
松前來行屬史 同時に松前东行支配 給水從高橋三年、 批本兵五郎からも書を授けだが、 今、 英主要の
よりの論書
部分を排出する。
第五章 1 » Q 仏 と 日 露 の 交涉 11五五
第六期 在文化 時代 二五六
陈寿 桜の大祭はさ0したんなりº es 外にて、 エウ 。 メの船をリカ は、 陸によれてすして打
の 民法
排 º S て北関に限るにあらす。 此定は問答する所あるにより、 クナジリ にても打排はず、 文的し
て来る海路は打排を と でお。 此後約來も なくして船をよせ たらば、 用發なく打排 ? し。 よく批 日を
かれ て 心得、 あやまらあり,とて相 行? 小らすº
部延政布教 都て歌都巴 より来0しもの、 我國人にさりした んの数を勤われば、 共人を辞さすして、 正さ地非に行
の氏型
は我國法なりº ॥ たる共因のものとも、 か ( る所构なさを以て、 比度 か へ す事を許す。 此事も従
能排 ? しº
劇劇を出典 我知は、 外國の交易を始ますして、 國用禁じ來れ6。 長崎の交易は、 むかしよりいはれある風タ の仕
執。 來を許して、 利制を必 とするにはあらさるなり 。 然るに先年より、 其國の好む所を以て、 敵りに我國
を謀るは、 大なる説なれば、 比後交易を公 の念を絶ベ さなりº
陳 かく てリュルド の、 ブローニンを作りて出航 するに臨み、 二人連者 の書を私前本行 に望
註 42-9平に 、 贵人衆に捨て、永久不少康奈、
を結ぶことに就き、 明年六七月、魏 氏を備 くない小船を、 神社よで張道さるであら
うから、 駅克人を以て返除を開はり たい)といつ てみる。 ゴローニン の手記によれ ば、 道し
通商 の距離~ 羯 座を定め、 通商を行~ 高水 であった。 其後光 では評議の結果、 永久不愛の艦隊所を定
國 政府 定 に制
する非怖诗歌
め、 好を結ぶ の は、 通信道府に常 るから武 斗 ない。 國境に於ては 、 成は神虎を配す、 彼は
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第六期 夫化時 二五人

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にも 失力に訴 、ないで、 後國をして共地を読むしめ、 收年に 死 る 総 線
~しためは、 外交の成功~もい へよう。 秋に返國が フ “ ストフ の根村 とは似もやら ず、 ア
形 ド の態度の疑であり、 我が命これ從 有様であったことは、 松竹井に多数 の
國に封する好成を抱かしめ、 後=支流水、 安政の交、 松岡に頼って、 米國之制しよう とする
政策の素因を残してある。
幕府 の封城後 第二に注意すべきは、 リュルド に投げた光の書である。 其中、 我が図は外國人 の女
に加 する考察
(其 ')
政策 の 手段
易を必要 としない事、 切文明の数法は、 我國の大祭である平、 新たに外國, 並佔
~1し ての打
魏の宣言 開かないのが、 我が図法である事などは、別に論する必要はない。 たく 「我國の仲を はい。
に及ばず、 製成仏タ においても、 張所の船月e る時は、 銃水を以て打排 こと、 是我國の
拉機にして述。 こ~な~ ~いび、 長崎の外にて、 エウメ の船を見れば、 陸に上 にて
*~ て打牌 。 あべて北側に限るにあらす」,といふ に至っては、 レチノアに授けた寺

{
反するばかりでなく、 また貨に、 李安の艦隊の施設~ 大厅してかる。 レチノア へ の仲
には、打神の商法は設 いてない。 即て深流の船船は、とこの海岸でも これを救㎞する のが、
日本の劇性である~語 、 且これを肯行して来たのである。 文化四年及び 同人年の打地介
º、 後面に 限 られてみた。 こ ^ に所謂、 長崎以外に派來する総て の 駅州航船 を打排~)とい
ょ 、シ シ 、、 山 は 、t れいゅ - 〜
シーr ㎞** も ㎞「 # し シ日 * 、シ、 、 、、? ** * Q シー***
へるは、寛政年間松平定信が、テクスマッに授けた論書と、は、共*を一っにして。』
も幕府の基意でなかったのは、途にか、る意味の布達を出してみないのを見て。 か。
らう。要するに幕府が、往々打挑のことを日にしてみるのは、一時の手段カシ。 ラ」o
あらゆる犠牲を挑っても、平和を維持したいといふのが、本来のシ“。っ
これまで外國船の来た時に 共商船た
第三に注意すべきは、リョルドの待遇である。
---
*-*〜 f リ 、) こo除外例としては、 証保測、
幕府の封露策 ると軍艦たるとを問はす、兵器弾薬を陸揚せしめるの が恒例であった。獅㎞の制菊%の電艦が
仁F 日月
に闘する考察
(共三) これを拒絶した事がある。 またラ 及に レザノフもまた

使節及び士官十二 一人の個剣と、
ょ7 -
に鷹じて、
〜 りん
寛大なるリ ク マ % の場合は詳かでない。『 *
よ 文 て上 ** でなリ
コルドの待 陸揚した
*
は悪く陸揚したが、今回は一切放任した事。レザノフの長
今回は一切放任 まま
長崎
吏節の護衛兵七
使節の護衛兵七人の銃との外は番

よーノ
奉行と倉見の貸めに上陸する際には、七名の士卒が随行しただけで、途中のシは「本の


フの式場に入るや、皆共個剣を脱し、論書を授ける際には将


許し、座するを要しなかった事など、著しい相違があった。

新譜
さ * レ
して、國書をも持参したけ れども、リコ ノ


ない。面も共待遇の、レザノフょりも厚か
イー、、1
る。外人に封する待遇の、次第に寛容を加
渉 二五九
第五 章 ゴローニン の 幽囚 と日露 の 交
第六編 文化 時代 二六○
第六章 英艦フュートン競の不穏行貸
英船の出没 延質元年に商船レターシ跳が、長崎に渡来して貿易の再興を請ひ、幕府の拒む所となっ
てから後数十年の間、英船の我が海岸に近寄るものもなかったが、寛政の頃には、紀伊、
安房、上継、常陸、陸奥及び蝦夷の各地に、共船影をあらはすやうになった。偶々欧洲に
は備國の大革命があり、波測の及ぶ所、和蘭本國は備園に併合せられ、印度洋方面に於
る蘭領植民地は、英國に侵略せられた。英國は後またバ
商館をも共手に移さうとしたけれども、目的を達しな
も興味の深いものであるが、本書の研究と直接の闘係を持たないから、継て他の成書に譲
って、細説しないことにする。 橋 教授


命㎞
基の
ペに

政リョーき令府

ン競の長崎入 大佐を艦長とする英艦フュートン焼は、和蘭商船捕獲の貸め
日月
『シs一に、一八o八年十月十四日、即ち文化五年八月十五日突然長崎に入港した。橋頭には和間
企圓 *A * *
の國旗が翻ってみるので、これを信じた長崎奉行の手附、通詞等は、出島の和蘭商館員こ
人と共に恒例に従ひ、旗合の貸めに訪問しようとしたが、彼もまた小舟を下し、相近くや否
。一ゃ、武装した英兵は強迫して、二名の間人を本船に拉致し、且和蘭の園旗を撤して英国の
國旗を掲げたのである。かくてペリョーは、商人の判問にょり、和蘭 商船の不在を知った

捜索
港内

けれども、なほ疑ふ所があり、即夜ポートを放って港内を捜索した。これが%めに流言輩
語紛々として起り、長崎の騒動は一と通りでない。和蘭甲比丹ド“ーフもまた、危擢して
難を奉行所に避け た。 直に戒厳の令を布き、肥前、筑前

*
二藩に英艦焼討の用意を整へしめ、 藩は隔年に交代して長崎を警備し
* LY Lこ Hい * タ ZH占に監
『㎞ ㎞『H英艦もし退去するやうな
らば、これを抑留すべき事を命じ、併せてまた二藩には増人数、大村藩には出兵を促し、
なほ九州の諸藩にも、時宜により應援の兵を派遣すべき旨を達した。 ェ。


書 長崎
奉行

松平康英は、まづ二名の蘭人を取戻した後に、英艦を焼討する考であったから、兵備を
中止 艦


井 計


整へる傍、属吏を英艦に遣つて、共交付を促した所、却て食料の鉄乏を訴へ、これを受領




交渉 蘭

する後に経放しようと答へた。康英には應諾の意志がない。然るに翌十六日べリ“ーは、*}*} } }

脅迫


逮捕せる蘭人の中一名を上陸せしめて書を奉行に贈り、もし食料
ーtj
*小
港内にある日本、支那の船舶を焼挑ふと稲して脅迫したのである。康英ます〜共不通無

きい 上/ 世 巴
司封


可 の
能焼

濃を怒り、 を督して英艦を
名しかみない、蓋し泰平に馴れて、密に兵数を減じてみたのである。H筑前、大村二藩の兵

不資料英 責長 英
問す艦 自崎 艦 交新
的る の 刃米 の 付水
態藤行 行 退 搭
度府動 の 去 料
のに 引 の

し ま 企 に 主 し め 八 速 不 蘭 英 戦
て 。 て 封 フ 鍋 だ だ 英 日 に 敬 商 ? ?
穏 蘭 た す * 島 が 罪 艦 に 鱗 ? 船 許 不
劉 A ば 盆 l 壺 ° 盗 ? は 逸 意 客 怒 更
彼 を か 悪 ト 正 十 幕 出 筑 に 志 捕 得 を
動 捕 り 意 ン に 一 府 帆 前 就 は 獲 て 説
で へ で を 別院 過 月 に す の く な す 食 い
な 。。 な 持 ? 塞 に 陳 る 兵 旨 い る 料 て
' 悪 (、? 長 察 至 謝 や も を 。 に 急 。。
に 、" の 崎 命 り し " 着 も 新 あ 贈 諫
燃 食 國 で 渡 じ 幕 た 帥 (R 偉 氷 つ つ め
& 料 法 は 来 た 府 の & だ へ 食 だ た る
に の を な は " は で 松 け い 料 ° ° 所
癖蝶 犯 か エ麗 あ * れ を 二 是 が
燃 総 と 2 基 * 園 る、農 ど 岳 蓋 名 ほ あ
ー 恋 高 た み 藩 ° 英 も !! 贈 の 於 つ
) な 深 ." づ が 尋 は " 笠 せ 蘭 て た
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顧みなかった。それには相常の理由があらう。今試みに推論するに、
共事由 外國と事を構へるのを欲しなかったのが共一である。
共 一避戦政
出来るだけ、外國との交渉を避けて、平和を維持しようとする所請避戦政策は、博統的
のものである。さればかの露船打挑令を布いた後にも、なほ平和の解決を希望した。かく
の如く既に事を外國と構へるのを好まないとすれば、英艦の不穏なる行動に封して、何等
の施設を試みなかったのも、決して不思議はない。
共二紛授闘
係の増加に 英國を敵國として待遇するのを好まなかったのが共二である。
封する憂慮
比時に際して幕府は、既に露船打挑令を布き、北方に於て、形式上の敵園としての露國
がある。然るに再び同じ態度に出で、、西方に於て、更に形式上の敵國としての英國を見
出すことは、必すや共喜ばない所であらう。英艦の不穏なる行動に封して、何等の施設を
試みなかったのも、決して不思議はない。
㎞闘人の 蘭人の警告に鑑みたのが共三である。


英艦がまだ長崎滞在中、和蘭甲比井ドーフは、書を長崎奉行に贈り、英露二園は同
の園であるから、これと恨を結ぶのは、得策でないといつてみる。また共出 帆 後に提出し
た意見書にも、英艦は蘭船捕獲の貸めに来たので、日本には悪意を持ってみないといふけ
第 六 章 英 艦 フェートン 競 の 不穏 行 貸 二六三
第六編 文化 時代 二六四
れども、質は多大の疑がある。もし果して然らば、港内に蘭船のみないことを知った後、速
-

騎帆すべき所、恋に港内を横行し、剰へ食料を得なけ れ

へるなど、いづれも皆前言と符合しない。思ふに英園は、露園と親交がある

貸めに長崎の要害を探りに来たのであらう。されば騎園の後には、必すこれを露園に報す
〜賞*
へご


く、或はまた雨國示し合せて、襲来するかも知れないと稲した。蓋し日本が露園と事あ
るに乗じ、英露通謀の説を進めて、離間策を試みたやうであるが、これが貸めに幕府をし ゾ小
て、危擢の念を抱かしめたことも推測せられる。幕府は既に、形式上の敵園を、併 ナ」上手
せ打 ン

のを喜ばないのに、今また蘭人の警告に接したとすれば、英艦の不穏なる行動に封して、
何等の施設を試みなかったのも、決して不思議はない。
博統的なる幕府の避戦平和政策は、フ“ートン跳の事件に於てもまた、能くあらはれて
みる。鎖國時代を通じて、幕府は途に比政策を改めなかった。比政策が将来幕府をして、
開園を断行せ 比は、イ
のに興って、最も力のあった次第は、後章に譲って置く。
シ が
松平康英の死に同情し、途に赴を建て、これを祭った。 また文化五年には、佐藤信淵
比が左打
が 列 略に於て、特に蝦夷、長崎の雨事鍵を論じ、高崎藩の儒者犬塚印流用が、
『ョー』ー
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同年北陸札夏、西海紀事を著はして、雨事鍵の顔末を叙し、同八年には、平田篤胤が千島
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浪 胤事愛南
島田海 薩増
白 篤紀相"印
千卒西北犬

白浪を編纂して、雨事鍵に闘する資料を韓め、井に英露雨國の、恐るべき外患なるを説い

て、國民の注意を促したのを見ても、共一斑を察すべきである。かくの如くにして我が

羅隠

の祀聴は、潮く北から西へ移り鍵るやうになつた。
第 六 章 英 艦 フュートン 競 の 不穏行 貸 二六五
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二六八
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を得す英國軍艦の捕獲を免れる貸めに、臨時に雇備した旨を告白したが、奉行手限の虜分
米船の入津に
闘する本多利 として幕府に上申しなかったのである。ェ㎞、比事いっしか渡れて、潮く識者
明の考察
の議に上り、享和元年本多利明は、
唯今長崎へ渡来の紅毛船は、質はエンゲランドの船なり。近年ェングランドと
の 紅毛と挑合ひしが、終
に紅毛敗軍して、隣國より和睦を入れ、共償として、
復せしといへり。 ㎞
じめである。たゞ利明の信じた英船といふ は、 ょ7
頻りに英國の富強を語り、共属國は九十九國に及び、共船舶は、石火矢を二段に張り、堅
固無双の上に、水戦に長じた兵士を養ってみるから、威勢欧洲に輝き、富強宇内第一 であ
ると稲揚したけれども、やはり封英の策論を述べてみない。然るに享和三年に至り、蘭人
米船の入津に
闘する和蘭甲 ははじめて、近来入津の船が、雇備の米船なることを、公然風説書に掲げたのは、蓋しもは
比丹の告白
米船 の 入津に や共秘密を、奉行、通詞限りの獣認に付することが出来なくなったからであらう。㎞・然
闘 する青木興
獣勝の考察 るに文化元年青木興勝は、答問十策の中に、英人の態度の疑ふ べきを論じ、かの スチ 、ァ
といへるを見れば、共勢力に封しても、また戒心する所があったのであらう。




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封憂


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和蘭政鍵の暴
露と國民の憂
比時に常り、仙豪の漂民津大夫等が、レザノフに伴はれて騎園した。彼等は共露領滞在

*〜
中、和蘭園王が英園に出奔したことを聞いたと物語ってみるから、㎞ これが貸めに啓務
大槻玄澤の せられたものもあるに相違ない。故に文化四年蘭寧の泰斗大槻玄澤は、蘭人みづから共風
封英策 (共
非開園説)
説書に、英國と開戦の結果、 植民地を侵略せられたこの
とを告白してみる

和蘭國王の出奔を告げたのを併せ考へて、和蘭の國勢が衰へ、英園に鷹倒 )*
を暁り、共雇備せる米船と稲する ものは、いづれも英船であらうと疑ひ、随を得て蜀を望
むのは人情である、英人等途に、出島の和蘭商館を奪はうとするかも知れないと稲し。
㎞。更に英園に封して、戒心すべきを論じて目く、
伊祇利須、和蘭とは間隙あり。魯西亜も近来和蘭を悪む事基しと聞り。雨園共に日本の通商を望むこ
と久しく、魯西亜は日本と交易して、隣境不毛荒無の領地を潤さんとし、伊祇利須は和蘭を挫て、共
衰ふるに乗じ、日本交易を絶しめて之に代らんとす。我園に望事は、雨園同情と見ゆればなり。若雨
英露通謀の
疑 國共に共志を達せざる時は、相興してこ〜に仇するも知るべからす。魯西亜に次で恐るべきは伊祇利
須なり。潮く比邦の海上を園廻するも、先は地理を知らんとの深意なるも知るべからす。:雨雄志
を合するが如きは、防戦最難かるべし。伊祇利須近年我國を何ふも、既に魯西亜の素志を助くる貸か
英国近づ〜 とも疑はる。比國一旦我國を鮮したるものなれば、遠くべし近づくべからす。 新水を請ふ貸といひ、
可からず
漂着せるといふ異船には、奴方々油断なきやうにありたく、又長崎来津の児共船も、深く御崎味有て然る
べきなり。之を手荒く扱ふも無益なり。但彼を詳に知りて所置ありたき也。彼が中日をもて引常とす
べからす。騎ればよし、挑ひは易しとして、常に心を置て忘れざるこそ然らんか。彼等は深遠の謀慮
ありて、志す所を促急にせざる國俗と聞ゆれば、恐るべく怖るべし。若之を疎漫にして、事急に及ば
ば、膳を瞳とも及び難からん。比等余が臆度に出ること
度 なれども、天下の気運、各土の時勢を察知す
べし。疑て設くるは、鍵に常つて目あり、侮て備へすんば、盗を見て縄をなふの請もあらん。かねが
ね遠き慮なき時は、國家の大事なるべし。何れにも我國は、四面に海を受けたる地なれば、外震に備
ふるこそ第一なるべし。
要するにそれは、英國に封する非開國 といふ


ものには油断してはならない。一旦鮮去したものであるから、近づけないが へ
など、如何に疑惑の情の つ を る時
に、英國の軍艦が、海上に於て
、にここ歩ト + Heギ)、この事は津大夫が同船目撃する所、 玄
動に赴いて交渉せる事を撃げ、
を ㎞
共子細は聞得されども、定て國王に出曾し、共過失を責め、彼是討論し、共罪を謝する誓書にても取
楽たる様子なり。二三人伴ひし計にて軍船へ取乗り、いはゞ敵園へ行がごとし。しかれども彼に在て
は、職も無濃することなく、長敬制旬すること〜見えたり。彼勇恨強盛なるイギリスと難、魯西亜の
貸には屈服し、共猛威見るがごとし。如 ば、 何事によらす、魯西亜の命は背く事有るまじ
第七章 英國 に 封 する 國民 の 憂 擢 二七一
第六編 文化 時代 二七二

社闘
問○
- さ - さ さき し(マ、) - -
く、又事あらばイギリスには左祖すべし。事の破れに及ぶが如きは、雨園必す相賞すべし。 影
と論じてみる。これ英露通謀の説の起る所以であり、暇令共考察には誤があるとしても、
玄澤の見る所は質にかくの如くであった。非開園の説蓋しまたこ、に原因してみる。故に
海防を厳にする必要を述べ、更に
外冠の刺激 昇平日久しく、士民安塔に日を消したれば、今卿か魯西亜の外冠あるも、却て我武を養ふの築価たる
による民心 き
O ○捕影
の革正 べし。鷹箱
と稲した。玄澤は蘭學者であるが、共封外観は、寧ろ後の懐夷論者と相通じてみる。面し
杉田玄白の
疑惑
て杉田玄白も、やはり和蘭に封して疑を挟み、同年著はす所の野曳濁語
る虜の荷日替り、また船の様子も替ること、聞けば、國勢衰へ、イギリ
も是に替り、共國の船、共園の人も、間々交り来る杯いふことにもなきや、疑はしき事な
きにもあらす」といひ、「近来アメリカ船、べンガラ船とて、交易望み来りし共聞ゆ。又虜々
に異國船漂着といふもの、多くはイギリス國と見ゆ」など述べたけれども、封英の政策に
大槻玄澤の は鋼れなかった。然るにフ “ートン跳の事件の起るに及び、大槻玄澤はます〜英園の態
憂榴
度に憂擢の念を抱き、これ必す露園の貸めに、日本の國情を偵察するのであらう。宜しく
捕 影間飲合
蘭人を礼問して、質 情を質さなければならないと痛論した。翻㎞
*} =| }=
文化上ハ年草林府もまた、かやうな情勢に鑑みたものと見えて、和蘭通詞石橋助左衛門、七
木庄左衛門に命じ、甲比丹ドューフに英園との闘係を質問せしめた。足に於てドョーフは
はじめて、和蘭が備園の占有に騎し、ナポレオンの弟を國王とした事。英園と開戦した
事、英園の貸めに、共植民地を侵略せられた事、寛政九年以来、英艦の捕獲を免れる必要
上、腰々米船を雇うて渡来した事、享和三年入津の長崎跳、べ ンガル跳は、共に米船であ
つた事、米國が近頃英國の覇絆を脱して、濁立した事などを告白し、また「海岸防備之事、
尚外國筋へ封し、御心常にも相成候心得、内存承度候事」 といへ
の二國は一致の國であるから、比際是非とも海岸の防備を厳にし 白月
の用意をしなければならない。今や比二園は、和蘭及び備園と戦争してみるので、日本



*



攻めて来ることもなからうけれども、欧洲が平和 ば



先I




國、軍艦は英園など手分して相結び、押寄せ て



ドューフはフ“ートン競渡来の際、既に早く英露の
重ねてこれを警告した。大槻玄澤に同じ愛のあつたのも、怪し
和蘭政鍵に闘
するゴローニ 化
ンの説明
くて和蘭に及ばした英園の勢力はほゞ明かになった
ンは、バタビャが英園の手に落ちたことを幕吏に物語り、また備園の和蘭併合に闘する記
第七章 英 園 に 封 する 園 民 の 憂 榴
にこ 潮日



府f



新 代


豊 明





第八章 領國論及び開園論
績園論及開園

化時代、露園に封して非開園の説

片蜂継、青木興勝があり、平山行競、蒲生君平がある。また英園に封して非開園の説を唱
へたものに大槻玄澤がある。いづれも皆封露、封英の策論上から開園
白、古賀精里の開園論も、やはり政策としての論議
見解を述べたものも勘くはない。今、共人々の
はじめ先づ國學者に就いて考察するに、彼等は概ね
は、上代海外の諸國に封しても、厳重に収めてみたのが、中世以来潮く彼の國を慕ひ美
み、奪軍の匿別もなく、不心得のものも出来るやうになったので、「ヲゴッカナル御教」 が
必要になり、途に 「西ニ東ニ戒狭ラガ國ハ更ナリ、都テ諸越へ モ往カフ事ヲ厳 シク制メ給
へル 、iイトモ〜奪ク賢キ大御抗ナリケリ」といってみる。 また共著古道大
意 ㎞ に、中野柳側の鎖園論を引誇し、ケンペルが、「交易を専とすることは、一鶴物
が足らぬからのことじや、賞へばこ、に一つの園が有て、かの天地を造らしッた天津碑様
が、世に殊なる御恵をかけられて、命を保つべき一切の物、満足らうやうになされて、國
第 八 章 鎖國 論 及び 開國 論 二七五
第六編 文化 時代 二七六
けく

から



も し


國人も勇気がすさまじくって、外國から攻て来たる時などに、
く防ぐ手段が有て、外國の物を受けすとも、事の鉄けぬほど有たならば、外國と交易せぬ
分が、園の風も飢れんで、却て園の大なる盆じゃ」とい へることを撃げてみるのを見れば、
所見を同じくしてみるのであらう。また橘守部は、文化時代にはたゞ、「海外ノ諸園ノ内、
吾皇國ニマシテ、穀木金畠ヲ始メ、諸ノ産物多キ園又有ル事ナシ」とて日本の豊鏡を語り、
更に西洋諸園の貿易を営めるを述べて、「一生身ァ苦シメチ、萬里ノ波満ァ凌ぎ、商ァ以ラ
J、 す
利ヲ貧ルコトモ、智巧姦曲ニョリテナリ」と稲し、これに倣ふには及ばないことを暗示 /
{ 雌
鎖 局左
るに過ぎなかったが、㎞文政、天保の交には、明かに鎖園讃美の説を唱へ、殊に枝
詰の中に、菅井淡山の譚した和蘭の地理書を引誇して、「萬物皆備はりて、海外諸國 こ通
交する必要」 のない所以を論じた。これ恐くは、最初からの見解であらう。更に伴信友

も、鎖國制度に闘して、「これらゆる あるめでたき御政なるべし」と評してみる。別に共理
由は述べてみないけれども、やはり篤胤、守部等と同様に相違ない。鱗 ㎞ 。
國學者が鎖國を讃美したのは、おのづから共原因がある。彼等は皆、日本が世界の宗
であり、萬國は番く我が國に服従すべきであるといふ見解に固執してみた。比見解は、國
家及び國鶴に闘する自覚の発生と相伴ふことは、説明するまでもない。かくて彼等はまた
「ノー() 〜
外園崇拝の弊を提めるが貸めに、内算外車の説を、 。“でに述べて、日
本の奪く、海外諸園の魔しむべきを論じ、更に我が國が、高物の具足せる美園であるとの
前提の下に、海外の諸園は萬物の不足せる悪い國であるから、世界を横行して貿易を行ふ
だと解響した。 ㎞ 要するに内奪外卑の思想を基調としてみるの
で、鎖國の讃美も常然それから出発した。従つてそれは國鶴論の片影であり、政治上、経
済上の寧説に立脚した正確の概念でない。故に海外の諸國は、賊しいものであるといひな
鎖國論の一面 洋科學の優秀なことを承認し、また共智識をも受入れたばか
に横はる開國


的思想
『、篤胤は、「阿蘭陀と云ふ園は、i殊勝な園で、唐などの
やうに、推量の上すべりなどは云はぬ」と稲揚し、守部は、「八十のからどもより、無きも
の足はざるものを持来て皇國をさきはへ、今も長崎の津へ、商と名づけて持来る種々の物
を、皇碑の御心よりみれば、みな貢なり」 とて、長崎貿易の利益を説き、H高物具足と自
負せる國家にも、質はなほ不足のもの、あることを認識してみる。國威の宣揚、國連の進
展は、園撃者の最も希望する所であり、熱心に宣博する所でもあった。本居宣長の収戒概
そ上下
言は更にもいはす、伴信友は中外経緯博を著はして、朝鮮、琉球、蝦夷との 闘係を経ね、
三韓の内附、琉球、蝦夷の服属を稲へ、豊臣秀吉の征韓をも、「大御園の御稜威を外っ園に
第八章 鎮 國 論 及び 開國 論 二七七
第六期 夫化時代1 七
-…_-
"-_-
*--
鄰したり」と評した。また鈴鹿は、神功皇后の外他に無限の成就を挙げ、秋
小山
_--- -_-位次於
… -
山田文政の事故を述べて、=本の成原を外國に師はしたことを誇り、柳 ㎢3た
神功皇后の像劇を飛べまつり、而して守部も似も、外國の文化を輸入同化し、知てこれ
---،
*-古道
大意、-
を凌駕するのは、我が図の長所であるとしてある。縣* _---
2た思想は、封闭

(Z)
主義と明文しない。流や姫は、「世界的國は



引 、张く中國に従が作るべきは、初登

II
-*「人----

-- --*
修辭,いび、守派は、湖南側の仲を述べた所に飲水時のe:は、もの

っからっさ ん)に自號來なんことは、神で彼かてはか0おかせた0けらし龐,稱し、
1周以外の脚ターとの容易をも水路)した。若し國體制を基調とする特內外中の思想からは、
納國を背定するやうに見えるけれとも、國成の作坊を基調とする帝國主義的の思想から
は、軍の海外語國,との新らしい関係の終生をも否まうとしないのである。物論此新しい
關係の発生に就いては、外國の服從を意味し、長崎路易を入武人見る彼はあるが、それは
形式の和速で事實の和道でない。要するに服從なり入武公9、共名はいつれであつても、
これを事實に出現するのは、敵國の破紀であらればなられ。即も同學者の士服には、左右 八
)した11つの内容が成られてみる。若し進取明國は、我が図の仲村的村顾である。日本村顾
の研究を土要なる日的)とする団學者の思想が、それに触れないはすはな
__い~て思はれるか
- - - ---→
---→ - - - - - -
-
- | "、
*「』
"ノー(し
ら、上に記した同国的の考も、これによって事かれた 。シ**ん、を
に開園の説を明言しなかった。蓋し外警の刺激は、彼等をしてこ、に至らしめたやうに%
える。されば平田篤胤は古道大意に於て、「外園の奴原などが、御國近くの放れ島へでも、
生こしやくなことでもすると、驚いて眉を撃めなんどする者がある。こりや一向はかない
愚かなことでこざる。然れどもこれは御國人の底心からさうでない。i 共外國を強いか
のやうに思ふのも、質は外國びいきの人に言立られて、ちョいとかぶれるばかりのことで、
共底の心には、比國は碑國じや、我等も碑孫じや、何ぞ毛唐人めが戒秋どもめが、何程の
ことを仕出すものか、駆散らしてやるがよいなど、いふ、いやけしからぬ強い者が底に有
て、:腰ぬけは御國に限って、一人も有るまいでござる」 といひ、また大道或問に於て、
「東照宮は数百年の飢世を治め給ひ、夷秋を擁ひ、天下の悪政を正して、天皇を厚く御奪
」 と稲し、更に伊吹於呂志に於て、「征夷の夷の字は、えびすと訓む字で、i
第 八 章 鎖國 論 及び開園 論 二七九
第 六 編 文化 時代 二八○

ルニ



セ置
シ任















サシメメラニ

細 !!!
思惟
コッアラメ。i後ニ外國ヲ討取シ階様トナルべ キ也」 と稲して懐庁を説いいた。 比 撰后の
説は、 萬國の服従を期待するものであるから、 鎖園とは雨立しないものであった。 面も守
部の主張は、共基く所明かでないけれども、篤胤に至つては、明か に外警の刺激を受け

つ*
ことを示してみる。また征夷大将軍に闘する説明の如き、世上或は、共は じ め 蝦夷を征



時に授けた臨時の職任であり、後には内地の叛民を征するもの、稲呼として適用せら
れ た。征夷の夷を、欧米人に擬するのは、附曾の迂説であると批評したものもある。面も
質は、 Hて蝦夷を征するが貸めの軍司令官の地位が、武家の棟梁として、國務に任するも
の、地位を表現するまでに移りかはつた如く、今や外に封して内を衛る事の特に必要な際
に常り、これを以て征夷大将軍の最も重要なる任務として、期待するやうになったのは、
寧ろ解響の進歩であらねばならぬ。封外闘係の務展は、時代の要求をしてこ、に至らし
めたのである。篤胤の解響はそこから出発した。要するに識者階級の人々が、外警の刺
激に 目覚め て 来たことを、如質に物語るものである。面してまたそれは、おのづから
奪土懐市炭論にまで進展すべき素因ともなつた。詳しくは懐 夷論を考察する修 下に譲って
置〜。
『 シ『 シ 夏
* シ ** ** メ *ーー
國學者の開國 かくの如く國學者の多くが、鎖國の説に傾いてみる際に、開國論を唱へたものは本居太

本居太平
御園は萬國の祀國なり、君なり。異園は臣なり、民なり。i異園は皆、御園のたすけそなはりとな
るべきものなれば、たえてにくみきらふべきにあらす。とりあへむつむべきものなり。:獅よく思
へば、天皇のしきます都のうちには、なくて足らはぬものは、西園、東國、北の國々、南の國々、そ
の國つものどもを、その國より奉らしめて、海つ物も、山のおくに出くる物をも、朝ゆふに用ひさせ
給 ふことなれば、あやにしきのおりものをはじめ、玉にもあれ、金銀にもあれ、薬のたぐひにもあ
れ、萬の異園の園つものを、奉らしめて用ひたまふぞ、貴くすぐれたる御園のひかりにはありける。
- --
あなかしこ、あな算、紳の御心を思ひかしこみて、ちひさくせばく、あらそふ心はおもふまじき
○古寧要 (文
なり。低㎞)

とて、海外の諸國と懇親を結ぶのが碑の御心である。小さく狭く争ふ心があつてはならぬ
と論じた。もとより具鶴的の策論ではないけれども、また一種の開園論と見倣すことが出
来よう。面も太平は、途に封外の質地問題と鋼れなかつた。
i}
佐藤信淵の開 最 は佐 丁二月に著はし
iノ
國論
*** 佐藤信淵家學大要 べく、 原論は貿
三山 〜 ふー 論であり、
三ョ
た防海策 ㎞ の奥 あむ
* ん ーン -
策論は封外の政策であった。共貿易論に目く、
第八章 鎖國 論 及び 開國 論 二八一
第六期 ャ ル化 時代 二人
在頭 の手段 阿佐すねずれん坊 >業務 分 、 愛す様クシ、 竹義アクスル ニアリ。 第二 分 外國航シチ、 通商
ーとして の 政
从 1790 k ㎡% 討す レメ、 風俗来すり。 約之子 レバ、 都 サル 公論之後す 形 下す
アル> ㏊)大利す與 天公 、 通商交易 9大す ルハナシ。 故 斯泰興す バッパ、 永久 慈愛ク
※">~ &アgクス 政後 、 母チ行7ペクラチル北º:春天地)來的行 し チ大功 成* *
カス 形容 ンチ、 武初)生產スル、 南北北ア東 シ、 而 多 後 北川 7个 フスルネナリ。
㏊)はア)、 紫陽)+' < > ラメ、 生氏)天年 全7** * **
從 2 ン 人將天地)受 小 9 n 阴极大和2北部 アメ、 亞大党部文《佛 說 《 多 成。
有無關節»、 安達和周クスルハ、 別す天意す本行スルノサリ。
して、 有無相通するのは、 父をして共生を得 しめる所以なるを設さ、
白河),字 仲介ン、 他因 出す文物も チル関 、 郡内 布9來リノ東約2外 、 佐すね スペキノ術ナ
キナ以文、 人氏人陈氏ス 形 使 )、 國內水泳裝起》、 後 、 彼氏後母2 後期シテ、 ヒッカボ
《性子チ砲射ス 形 至少º 大し人公 大地)合衆 シテ、 人若2充實也。 且人離子 或子プ 後被卡ッ ル者
アラシャo 羯上)非物 そ、 北極 至 ル 為 公 、 関家ア表新 スルプ以 22枚也。
トとて、 國內自給の 不可を論じ。
北海道街)業務 メ パ 沈 氏) 知) 的光 ス 形 而已ナラズ、 不常大洋 科~、 多クノ は東地说及 º 府
战乱 g /女性 ア** ア在來 スレナ以 7 #)士 民生日 放射 死 + 97 附 + 1 = フ 、 、 、ヴォッ
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史 > < ンチお祭 天 》 + 03 是?以 7政 區~ 兵特 2 %教祖大す * * す リ。
… …生をするが 冷め に、 士以 必 のグ から明武の気性の姿はれる利益をふけてº
3 &#:海防を論するのが目的であるから、 通商の設の 知、敵て書かでな いずれ。
た は北野を知る ことが出來よう。 即 因内自給は、 國家を拡張ならしめる所以でない。
廣(海外の諸國人 通商して、 非怖を吸收しなければならない~い にあった。 故に送風が
脚注入 英祖(、 多くの周囲を有し、 成教世界を撃してあるのは、 大洋を航行して、 成過
通商する からである。 我が図もまたこれを果公 ? 心を説さ、 更に通商航海を行 には、 ま
グ 戦前の制を設定 にし、 假个原油、 経済 の難に通っても恐れる所なく、 また天文、 地理、
湖北の殺 を修め、 英語版物を精巧にし、 其武備を厳重にして、 英里の大海を航すること、
なは松永の執務を行くが加くならしめる必要を論じた。 それ続海業を盛んにする には、 天
ァ、 乙
文、 地理、 湖北の果を明かにし、 諸器械を執政にし、 船船の制を取回にしなければならな

(
い)とは、 既に修改年間本多利 明の提唱 する所、 國內自給を不可~とするのも また利明の説に


*


見えて わる。 二人の所說、 如 る和通するものがあった。 信源は問學者 でないけ れ
蘭學 の影響 て宇田川文節の門に遊び、 本草及 と 和阿 2話說 フ學ど、木村制權 統キテ、 天文、 地理、
川 *:
::
江 ー 2他7受 體。 其交友には聞學系が多い。 通商貿易の説なども、 こ にまいて
第 八 章 術 的 論 及び 間 因 體 二八三
-
第六期 究 生 時代 二人四
家學 の 影響 の使
るのであらう。 然打とも交州五代の仲舒 たる、 所調經濟の果に負 所、 寧の大なるものが
あつ だや うに思はれる。 世或は信洲が、 玄院の門下たるの故を以て、 南學者,とするものも
あるけれとも、 関學を解しなかったことは、 共著作平地板會に明記してわる。 南學者とす
るの は、 明か に誤である。
信道 の政期列 信洲の路易論に於て最も注意すべ さは、 共 一 つの修作,として、 武備を破重にすることを
國の勢力擴張
に封する考察
關しては、 特に精細を極め、 比諾國が、 或は過去に於て、 或は現在に於て、 常强,となり得
たのは、 留其功,と植民,とを併せ行 からである と説さ、 更に政策の途行に及び、 各航海交易
>業ア系 3、 事ラ通商フ以 事トン 、 「或 通商 シテ方 市 > 利ア政 メ、 或 教化 シテ士人
7號 シメ、 或 與成 7以 2攻略 シ 、 「是7開す如 »、 成人ラ地 す開拓ス 、「成 和
親 7結ど ア南龍 7第キ、 或 與成7以 文之 院”、 其地 フ取テ是 張り、· 版圖年々
武力の後接
による経済 廣泛」 のが、 非常低于秋かるを論して国民を成 のた。 近代的の語を使用するならば、 常
市場 の獲得
に武カの後援を頼んで、 封 る所に英称海市場を獲得した。 最後の解決は武力である~い。
، JM } である。 に M
} 科部 ち運者
議の説教仁
記 イ~ 武備の感
\*
経: 洵 |
そW
-
N
… … …詞 で ポ愛
すも 議者の注意に上6、 幾多の波源を生する素因を食してみることは、 おのっから解說
せらる べ さ機會が あらう,と思 。
信源はまた非中に於て、 英國が既に印度に張って、 手を東亞にまで延ばしたばかりで
なく、 兵成會與大 ンチ、 南洋中ノ 比利及印設 ノ語義フ在 排シア、 伊斯把地亞ク 成長 す學
透 ン、 廣タ 在 城 フ第キ、 水軍フ也ンチ橋脚フ他代 シ、 校然トシテ学內フ張同 スルノ 意ァ
9 、「魔 被 形 ? キノ國 ンチ、 比後天下 >大限ファシモノ 、 必ズ此語 是利亞ナラジ
~いび、 更にまた絵図 の東亞使路が、 ベートル大帝以來、 若タ 所を求した事實を彼し、「ア
ムナスカノ 海港 等价フ置キ 、 成 英フ加、 以近物ア無機 シ、 比地 フ以 非本トン、 北港
m2天井郡 フ發 ンチ、 亞細亞洲2 東北路 站、 及亞塞利加州 ノ路面 ラ開拓 シ、 國 7得影 n ト
非公眾多 ,ていび、 英國に封して成心の情を抱いた。 羅
信洲の所見此にかくの 加くであるから、 對外の後來も また、 英俊の 二國に分れてみる。 我

等は再び 上述の防海後來 に就いて、 考察しなければならない。 其對將來に目 く、
先ジ前期及 と安南、 池線等)路西 へ 入 使う逸シ、 共體 之 所々 シ、 共體 之關之 三 ツテ以 )和親う 結 ど、
第八章 領 國 論 及び 開國 論 11 入五
く て集 場 に開西 の國ツ と カ
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ミ BN 『 豆言\ V引

島ノ物産ァ倉疑シ、以テ清綱、撃、印度奪ン議園髪 V
高 髪 Y N
ヲ興スべ シ」 と稲した。
信淵の封英策 共封英策に曰く
南洋の経略
先ッ伊豆ノ七島ョッ前ァ出シテ、南海中ノ無人島ラ開発シ、八丈島等ノ、土地ノ狭ク、人ノ多キ地ョ
リ人ァ選ッ植へ、共南洋ノ中ナルセリビイシゼノ諸島ァ開拓シ、悪ク共地ノ産物チ楽メテ、清朝、安
南、運羅ノ諸島ト交易シ、盆諸島ァ経略シテ、琉球園ト特角チナシ、不意ニ舟師チ出シテ、呂宋ト巴
刺比亜ノ二國ァ攻取べシ。比二園ハ共ニ気候温熱ニシテ、物産極メテ豊備ナリ。悪クコレラ倉楽シ、
以ラ諸園ニ交易シ、比二園ニハ兵楽ァ置キ、武備チ厳ニシ、以テ比地チ鎮護シ、比二園チ以テ圓 ノ
基礎トッ、比地ョリ又知ァ出シテ、瓜時、湖泥ョリ以外ノ諸州島ァ経営シ、成ハ和現ァ結に、以テ互
市ノ利ァ取メ、或ハ舟師ァ遺ハシテ、以テ共弱キラ奪*、共要害ノ地ニハ軍卒チ置キ、武威チ張テ、
兵ァ南洋ニシカサバ、諸尼利亜人得ェナリト難ドモ、敢テ東洋チ競ノコトヲ得ザルナリ。
信淵の清國に
封する憂慮 信湖はまた、清國の強大にして、H我園に接近してみるのを見て、もし務船の主があっ
て、シの志を記したならば、基忠は軽少でない。故に単発厚聘して我が興園と貸し、貿
易を通じて、互市の利を牧めるのが、今日の急務であるといっ
て、欧洲に常る考のあるからであらう。これやがて後に、日清職盟論を提唱する洞職を残
章 鎖國 論 及び 開園 論 二八七
二八八
第 六 期 夫 化 時代
すもの であった。
其理想として 要するに信源の防海後は、 退いて國を飾るのでなく、 進んで敵を制する にあった。 南北
の巡察的因財



經略の設定に於てか是心。 然 とも降は、 非洲國貿易會の 部に過ぎない。 何となれば


は、 歐洲語國の通商を行 に常 9、 抵抗力の弱い 頃 に 封 しては、 武力を以てこれを張要

(
し、 成は利權を拡張した事情を、 西北の研究によって来得たからである。 戰敗に非學
公所を逆用して、 國家常服の質を挙げ よう とした。 秋に世上の識者が、 後 國に封して、 和
戰の是非を論議する の際、 其根據地を抜か なければ、 後氏を除くことが出來ない,と神した
の は、 離党の高さを思 はしめる。 なにまた「我 日本太平日 | 11 日年、 士民~ す術界 シチ、
オカデカ大洋 横行 シテ、 他國 7攻伐 2 事被 称 《 ンャ。 故 使が別 手段 アリテ、 多ク
ノ 死士 フ得影 《 佛 アリ」 ,と述べ たけれとも、 所前列の手段に就 いては記してない。 若し其
理想を説いたので、 現實の問題,として取扱はなかったことは、 文政年間に著はした宇內提
同級法によって、 容易に立証さられるであらう。 魏 %討さいまだ業もなくして、 衛
國 に封する非開國 の説を唱 へ てある。

對する非常 困 * — » 高山事件に関する =術の交涉が、 斯(進みたる文化 元年の春、 延安は珍阁に
*** 」 、 米波を輸出さる であらう との風說があった。 信源 代を不可とし、 各國
* = 水侵略 の野心が *? “ 而,5* ** ** * 21, **** の アムチ', ^2 * -
た息を助長
する日 成
島 の 間社 》 《2 會方が使社 にそし(、 大兵を失守 rº'* **>かんである。 さん。
*
-- - w " )"张俊º W 月球 チ资者生長ンチ , 1 )
微米 諸多德 %討論5條從 神雕像。 武官 はブ系 作多 % 大學
ナシムレト中客 制定 以修卡年之中 ' %族之友 好吃草 ' 雙子座 是 毛が知之 師
和親交易は 座修改 和親交易う議ス、 議政 )第 三 神座修 者文宗ク打排除 外 » 、 年々海海諸州 三 分 、 小賢
J政 の策 --
->
元帝之祭、後 大戰 之間際 體總冠
~稱して、 非開國、 機 の説を呼べた、 柳も アムチ。 カは絵画の東洋經略の根康であり、
が 我が図に封する成聯であるとは、 信
また非怖活 から、 西比利亞にかけての開拓の成業が、

源の主張する所、 果して総らば共開拓を助け て、 戦線の念を指定せしめるはず の日將資材
の開始に反對し、「七國の策 とい へ るのもまた怪しむに足らない。 かくて撃能 としては資
開朗 讀者 の非
開 朗讀
易發佈會之町 へ、 理想,としては進取開國を説く のみ、 政策 としては非明國論を採った。 開
國論者 の非開國論はじめてこ ^ に起る。 然打 とも信洲は、 新聞に封する開國に反對しただ
けで、 なにいまだ其他の諸國,との 通商をも、 不可,としたの ではなかった。

土生 為齊の開
関論
作農作關人 は»所見を同じくしながら、 結論を収にしたものは、 江戸の術者王生過廣義
曹魏。である。 文化入九年の交後不舒 翰 を送はして、 松岡の東亞使者の
第八章 ㎝3 ㎢ % % 討 因 體 11 人力
第 六 編 文化 時代 二九○
露國に日本 大勢を語り、既に西比利亜を占有したけれども、概ね不毛の地で住民も少く、且本國とも
候略の意あ
りといふは
猿智恵の沙
遠く隔ってみるから、日本と

の貿易によって、共地を賑はさうとしてみる。これ使節を我
が園に派遣した所以であった。然るに熊澤藩rー、藩山は北秋に
参A
だ、
山、 剛 ㎞。 備 へる心要を述べたが、露園に封
林子平の説に誤られて、日本を窺ふ野心があると思ふのは、猿智恵の沙汰である。殊に
學者などは、彼の國勢を張皇し、愚俗を揺惑するのは、不届至極であるといひ、更に露
國が、共本國から兵を日本に加へようとするには、数千里不毛の西比利亜を通過しなけれ
露國の日本
侵略の不可 ばならない。それは不可能である。萬一険を冒して来ても、日本へ着いた頃には、疲勢し
て役に立たない。さりとて海上から来るのもまた容易でないから、日本侵略の兵を動かす
の は、殆んど有り得べからざることであると論じ
てみる。されば千島、唐太の事鍵に就い
主戦論に封 奥エゾ、カムサスカチ貸開、交易チ願来リシラ、公上ニ御コトワリナサレシ、ソレラ遺恨ニ、少々調
する冷評
社魯布漫チ騒動サセタルチ、唐人ドモ除リニ思案ニ凝テ、コレラ日本ラ伺フ心根ナラントテ、種々説
言チ云フラシ、儒者ハ異國五胡、遼、金、元、清ノ夷狭ョリ、中國ラ奪タル例ラヒキ、蘭寧者ハ、萬
國ノ事チ案内ナリトテ、供ニ 諸人ニ崇敬セラレテ高慢 ニ 口ラ利キ、又 一種軍寧者、砲術者ノ内ニ、御
膝下ノ火消シ、武ノ者二三百人頂戴シテ、急度北遼ノ御防可仕ト奉願モノァレバ、胸㎞
小船ニノリ、二三百日ノ銃チ如本シ、敵舟ノ間近クニナッテ、共身ト共ニ 粉シスル了簡 ニテ、横腹ラ見
- 』 - -
-

『 -シ
コミ、テ、ゥ チ碑クベント開馬リ シル トモガラモ アリ。 にト浪人賢
**}
倭羅斯ガ 高ガ高ニ 来ラヌ課合チー
お㎞ 何 レモ殊勝ノ言句ナレドモー
差ァテ分別ナキ思 -
ササテ〜気毒千萬ナ ゾ ひ
、、 H「 言 我論 、しにこう』 *
といC 翁とも彼もまた、 国に封して論を担いて
みる。
カムチャッカ い、、 rに 〜 ** ー
の闘発は距 倭羅斯ノ通カニ交易ラ願ヒ来ル本謀ハ、加模沙斯加ノ港チ貸開ノコトニテ、比港一度開ケ、貨融通シ
本に封する * *}
* * こ 』 べfきて **j・* ** - は、- ***
威藤 テ、人類繁殖セシニハ、奥蝦夷、調社魯布、玲刺布土漫魔下ノ諸島、自然共掌握ニ入テ、久シクシテ
ハ、潮々松前マデモ㎞食シ、終ニ我ト一水ラへダテ、、境チナスニ到ランカ、是天地
ナり。故ニ共頃廟堂ノ堅ク御断ナサレシハ、誠ニ事ラ未然ニフセグ格別ノ御長策ト仰ギ奉ルべシ。然
レドモ交易シテ加換沙斯加ラヒラキ、石弊理亜一帯チ潤サント欲スルコトハ、倭羅斯
ラ決シ、今日ニ至テ一朝一夕ノ事ニァラザレバ、仮令日本ニテ御断ナサルレドモ、共マ、獣止スべ
理ャァラシ。是非トモ無己時ハ、必定日本ノ東南海ノメダリ、 帝駆諸園ニ交易セバ、日本ニ来ルト、
海上四五百里ノ遠近ニ不過、継ノ便不便ハ有ドモ、加換沙斯加ハ遅速開クべシ。比港モシ一度開テ、
奥戦夷共掌握ニ入ラバ、國家後来北門ノ御要害、信ニ御心遣多キコトドモ出来セン。サレバ過意ニハ、
露國を制す * でミ i * ・・ - 杉 “ * え 、 * き
るが貸めの 先年倭羅斯ノ交易ラ願ヒ来ル、共機括ニ投ジ、間ニ髪チ容レズ、偏強ノ御虜置モ可有カノ御事ナレド
開園貿

nt - ーニョき * は - * * tj j
、最早過去テ共甲斐ナヶレバ、今被仰遺、交易ラ通ジテ、調社魯布、玲刺布土雨所ニ於テ、我ョリ
先ゾ奥蝦夷開カンモノ也。
第 八 章 鎖國 論 及び 開國 論 二九一
第 六編 文化 時代 二九二
唐太揮捉の こ、に奥暇夷を開くとい へるは、開園通商及び遠略を行ふことである。即ち唐太と撰提
開港
とに奉行所を置き、市場を開き、露人を招いて貿易を営み、我よりは米穀及び蝦夷諸島の


米穀の輸出
産物を輸出し、米穀は専ら奥羽の産を用みる。然らば幕府の利益はいふまでもなく、奥



帯もこれが貸めに潤ひ、唐太、探捉は、繁築の都市となるであらう。かくて支那、
をはじめ、西南の諸番をも同所に招き寄せ、且従来長崎に於て、支那、和蘭へ輸出せる銅
を停止したならば、國家数百年の宿弊一時に革り、富強の質が備はると稲した。蓋し唐太、
撰捉開港の説である。



* *
獅斎の遠略論 遜斎はなほ進んで遠略の策に及び、唐太、撰捉雨地の基礎が出来たならば、 共除 を


て城を築き、撰捉を領東府として東蝦夷を領せしめ、唐太を領西府として西蝦夷を領せ
め、大坂、駿府の例に準じて、譜第大名を城代に任命すると共に、宗谷、國後、松前、箱
館等に軍園を置き、遥にカムチャッカを歴したならば、彼も共策を施す所なく、カムチャッカ
の地また我が幕下となるであらう。かくて雄偉英遮の規書を施したならば、途に亜細亜を
併せ、欧羅巴を呑み、五洲に 一帝たらんこと、必すしも困難でないと壮語した。
遜斎の所見は、佐藤信淵に比べて、明確を闘くものもあるけれども、カムチャッカから西
比利亜 一帯の開けるのは日本の大忠である。醸め備 へなければならないしてい ふに至つては

入の







なを
撃港どた と
げ後に
、 い、
更ラクスマシ
渡来


幕から
、授け





切の
禁を


し事




支丹制た 著



筆㎞




記化八


r

*
こ 蓋

海の
事が

次國民




なて

展せ
らたから
第に

あ外。
情っ開れる 比
及び
オ も
威以て は


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第 六 編 文化 時代 二九四
切支丹恐る は千里の遠路にして、赤蝦夷地において交易の場を開く時は、彼の地自ら開くべし。また
るに足らず 切支丹を甚
恐る\は何事ぞや。信長彼の宗法 信じ、彼の園の僧を多く渡海を
海 許しければ、僧徒日本美園な






調
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人日の調節
紫陽虜々の子多きを欲せす、五子あれば二子を殺す。習うて以て常とす。人も怪します。呼
人を以て
虎狼に如かざるべけんや。
子の多き事を欲せざる國、筑前、筑後のみにあらす。豊前、豊後、日向、或は常陸、出羽
、奥州に至
て、農夫早く取委る。故に子を産む事十に過る、殺すもの多し。吾國土地小にして狭し
。西洋の諸邦交
を隣園にす、人の勘きを憂ふ、故にかつてなし。
これ洗子の罪悪を説き、海外と交はつて、過剰の人日を海外に移仕
せしめる必要を論じた
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のである。亜女するに江漢は、米債井に人日の調節を根博してして、開園の説を建てたやうに
思はれる。但し暇夷地に於て露園と貿易を行ひ、専ら米穀を輸出しょうとするのは、共明
記した所であるが、人口問題に闘する移住の説は、なほ廣く通商を行はうとする結論にま
で達したかどうかは詳かでない。また封露の政策に就いて、もつと纏まつた意見を聞くこ
との出来ないのを遺減とする。
第八章 鎖 園 論 及び 開國 論 二九五
第 六 編 文化 時代 二九六
第九章 文化時代の概観
江戸幕府が鎖園政策を断行したのは、これによって園内統治の質を撃げたいといふのも
共一因であったが、面も最大の理由は、耶蘇教を禁過しようとする宗教問題に基いてみ
る。然るに長崎貿易の質状が、金銀銅の濫出に傾き、且共巨額に上れるのを見て、識者は
潮く憂慮しはじめた。かくてもしこのま、に放任して置いたならば、國家の疲弊を招くで
あらうとの説が起り、幕府もまたこれに共鳴して、或は金銀の輸出を停め、或は銅の輸出
を制限すると共に、貿易縮少の手段を講じた。さればおのづから、貿易は海内有用の財を
以て、海外無用の物に換へるとの見解の起った事、また長崎に於て貿易するものは、い
の間にか、清蘭二園の商船ばかりとなってみる状態に即して、我國に渡来を許されるもの
は比二國を限り、他の諸國と新らたに貿易を開くのは、祀法に背くとの見解の起った事、
面してまた比二つの見解を以て、鎖國を維持すべき常然の修件と考へるやうに なっ た事
は、既に前章に述べた所である。鎖國の原因は、専ら宗教問題であったのが、寛政、享和
更に添加 せ
られたる経 の交に至り、更に経済問題をも考慮し、または考慮しなければならないと思はしめるやう
済問題
になった。足に於て文化元年レザノフの渡来するや、幕府は比こうが鎖園の修件であると
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澳 单上 なれる 非怖 の連載政策の深厚になったのも、 やはり 文化時代であった。 光は作て、 趙國を維
朱安 の 離 戰政
彼 特するが 狗 め に、 武力の使用をも放て証しない法らを有したこともあるが、 正保以來應使
を半めて、 総使の艦船を採るやうになった。 かくて座代の荒期, 此後來を踏襲し、 京政から
文化の時代にかけては、 特に注意を勝つてある。 若し始末、 正保の頃に於ける飛が協力は
な は盛んであり、 海外語國の使を受けないだけ の元氣もあった。 されば共通戰政策の 知さ
も、 國內の統治に必要なもの,として、 白山に標定したもの と見られる。 然るに修改、 文化
の天地は、 もはや非物の知 さ白山 の成仏が許されない。 外國の追術を 始れたい ゆめ の良他
の念に基くが故に、 同じ道戦政策でありながら、 共內容に於て、 共有安に於て、 甚しい的
9があった。 文化四年將那打物の介を布 いた後にも、 なは平和 の

散射外交 の由

トン の事件に際しても、 其不像校かる行動に野し、 蘇令の上 に於
~が出來なかったのである。
橫 紋狀俳人 遊
戰敗後と の オ 崇光はか 《 の 知( にして、 松平定信 の開國後來を非 9、 趙國に因伤する方、 出來るだけ

外の詩風~事端の開けるのが 通い よう とした。 然るに英杰 西人 の関係は大第に困難を極
め、共成城 を威することも、年ーと共に強ノ〜なった。 時に常 り草郡府にして、あ〜までも領
園を維持したいからには、兵力によって懐庁する豊悟が必要である。面もそれは、幕府の
貸し得る所でない。かくて鎖國政策と避戦政策との矛盾が暴露せられた。幕府は比際宜し
く共矛盾を解決すべきであった。然るに幕府は、進んで開國を断行することも出来なけれ
ば、退いて鎖國を固執することも出来ない。みづから進退雨難の苦境に陥り、爾来弘化、
頃に至るまで数十年の間、徒らに煩問を重ねてみる。共病原をつくったのは、方に
主す

上%
また鎖國論は、清蘭二園以外に、貿易を許さないのが祀法である事、我が國は自給自足で
十分であり、物資を海外に仰ぐ必要がなく、貿易それ自鶴に於ても、有
急の用に換へるに過ぎない事などを論擁とするのは、
た。殊にそれは、主として露園に封するものとして論議せられてみる。蓋しまた露園の野
第 九 章 文化 時代 の 概観 二九九
第 六 編 文化 時代 三○○
心を疑ふのが、主要の考察であった。故に露園に封して主戦論を抱く人々が、共開園に反
封したのもまた常然の成行きである。
露 なほ注意すべきは、露園に封する和戦の説である。平山行蔵、蒲生君平の主戦論は、所

請共入冠の賊を討って、園威を全くしたいといふので、議論の内容も、後の擁夷論者と似
てみるけれども、質質に於てはもとより異同がある。面して非戦論者が、彼我の勢力を比
較して、開戦の不利を説き、一時屈して貿易を許し、共間に武備を整へ、和戦の権を我が
手中に牧めようといへるは、後の和親開園論者と、全く共揆を一っにしてみる。また露人
の暴行に封して悲慣の情を抱くことは、主戦論者も非戦論者も同様であったが、たゞ濁り
杉田玄白が、日本人の考へるほどの不法ではないかも知れないと稲し、且開國貿易が、必
すしも一時を屈するの策でなく、貿易共ものを承認しょうとしたのは、著しい相違であっ
た。なは玄白ほどの徹底した主張を持たないが、土生通斎、司馬江漢もまた、ほゞ所見を
同じくしてみる。
策論の進歩 比時に常り我が國民は、或は蘭學の発達に伴ひ、或は清蘭二國商人の報告により、また
或は海外から騎園した漂民の談話により、更に露人に捕へられた高田屋嘉兵衛、さては我
が捕虜してなれるゴローニン等の談話により、には、海外の形勢を知る・ ことが出来た。か の露
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人の暴行が、我が園を併任するやうな大規模の遠征でなかった事。ェ㎞園が
容易に大兵を日本に送ることの出来ない事。職㎞、同園が=本の開園を促す * シ *もシ
のは、カムチャッカ附近を潤はしたい貸めである事、またカムチ。カ、ォ*「 ツ
慶に まで迫って来た事をはじめ、米國の
経略の根擁地としてみる事、英園の勢力が既に印度
濁立、ナポレオン戦争の概略、共影響としての英備間三國の闘係などは、潮く理解せる所
であった。故に佐藤信淵、土生遜斎等は、 露國が暇令大兵を日本に送ることが出来ないと
しても、西比利亜の開発が行 はれ、カムチ ャッカ 附近が繁昌すれば、恐しい結果を生すると
-
稲し、はじめて共根擁地を破 壊する策を建てたのは、これまでの封露論者の全く気付かな
い所であった。殊に一部の識 者は、欧洲諸園が、常に共強大なる武力を背景として、経済
市場の獲得に従事せる事質を知るに及んで 、更に不安の念に襲はれた。佐藤信淵の武装的
開園説を唱へたものもこれが貸めである。 大槻玄澤が英露二園の通謀を疑ひ、危擢の情を
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非常時日本な レ
る意識の発生
* こ じーム 。 i *-○
第に進歩の姿を呈すると共に、非常時日本なる意識の務生を促したのである


避戦の手段と 園
し ての開園論
更に注意すべきは開園論者の態度である
経済上の學説を基礎とした。工藤球卿、馬場
第九章 文化 時代 の 概観 三○一
三○二
第 六編 文化 時代
はみるが、共
カ 主とする所は寧ろ経済論にあった。然るに寛政年間に至り、はじめて松平定
信は、我が國力の衰顔を憂 へ、表心密に、多大の執着を鎖園の維持に有しながら、萬一 の
鎖國論者の開 鍵を恐れて、開園の策を按じた。即ち鎖國論者の開國論であり、避戦の手段としての開園
國論
論である。然るに文化時代に及び、定信の見解に共鳴するもの潮く多く、杉田玄白、古賀

精里の如き、いづれも皆共主張を抱いて、一世を指導しようとした。開國論が経済論から
経済論より政 政治論に轄化したのは、方に比際のことである。面して後世開國を説くもの、継て皆比規
治論 への鍵化
を越えなかつたのは、特に注意しなければならない。旦佐藤信淵が、開國貿易の説を有す
るにもか、はらす、却て露國に貿易を許すの不可を論じ、打挑の利を説いたのは、露國に
開園論者の鎖 封する鎖國懐夷の説であった。これ理論と質際、寧説と政策との相違に基き、開國論者の
擁論
鎖懐論の発生を意味する。後年の懐夷論は、質に比見解を基礎として発展したので、同じ
くまた特に注意しなければならない。大槻玄澤が英國に封する非開園の説を唱へたのも、
やはり信淵と見る所を一つにした貸めであらう。世上の史家皆目く、開國の説を探るもの

の形勢に明かなる人々であり、鎖國論者、懐夷論者はこれに反してみる。故に世
を知るに及んで、鎖國論または携夷論から、開園論に進化したのであると。面も
シを 切ってみる。大槻玄浮、佐藤信淵等は、いづれも皆、海外の形勢に
通することに於て第一人者であった。史家の定論、必すしも誤認を伴はないものとは断言
し得ないのである。なは懐夷論に就いては、章を改めて細説したいと思ふ。
第 九 章 文化 時代 の 概観 三○三
三○四
シーイ→ お㎞ ** シー、
第七編 文政時代
第一章 外警に闘する意識の衰頼
泰平の隆治と 天明、寛政の交、露國南潮の勢力に深憂を抱き、はじめて世人を戒めたのは二三の識者
人心の類地
であった。然るに文化時代に入ってから、北に露人の暴行があり、西に英人の不倫快なる
行動を示すに及び、潮く海外の歴迫を威するもの多く、外警に闘する意識の明かになった
事は、既に述べた所である。然るに久しきに互れる日露の交渉は、平和の解決を得て、千
島の白波途に起さす、再渡を約せるリコルドも期に臨んで渡来しない。殊に露人が如何に
も素直に謝意を表した事は、非常に善い威情を日本人に興へた。これが貸めに不安の念か
ら解放せられて、共意を安んじたものも、勘くはなかったであらう。時は方に江戸幕府二
日を経るに従って、多数の士民から忘れられて行く。我等は今こ、に、文政時
第 一章 外 警 に 闘 する 意識 の 衰 類 三○五
第七編 文政 時代 三○六
相を描寛する追を有しない。始く識者の筆を借りて、常年に於ける國民が、封外上の問題
に就いて、如何に無闘心であつたかを考察しよう。
文化十年松平定信が婆心録を著はして、外患の恐るべきをいへるが中に、

たる世態人情
江戸湾防備 少しく日きくものらのいふ、異國船の来るなどきく毎に、何かと心をくだきぬるは、小量の故なるべ }
無用論
しとさとりぬ。いかにとなれば、江戸の暇艦たる継房、相州の間などは、御三代のうち何かと御定め
もあるべきに、左も聞えざるはいかにと、疑惑はれざるなんどいふ者多きが:、
これ江戸の湖頭に、防御 を設けるに及ばないといふもの、あった事を誇明してみる。官て
*> っ * -
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定信が老中たる時、江戸混の防備を修めるが貸めに、沿岸を巡祀したのを見て、好事の仕
さ * さい **
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業であり 晴天の雨傘であると評したものがあり、また中井履軒の如きは、今度自川侯の
建議で、房継、浦賀漫に砲豪を築かれるさうだが、定めし日本橋から、支那、和蘭まで、境
なしの水路であるといふ林子平の説を採用せられたのであらう。併し水路なればこそ、共
心配がないとさへ非難してみる。ェ㎞層軒の亜流は、共後にもなほ多かったに
相違ない。定信また日く、
㎞。人 人知のものらは、とかくに上見s常の心にて、F現sとし、取園宮大なりと、小量%園の心より思ふ
が故に、我が火術、我が大銃を以て、寄せくる所の異船をば、立どころに打砕くべし。我がうる所の
長沼流、甲州流なんどの軍備に、かつものあるべからすなど、かつて敵をはかる事をもせす、外園は
--* 『』『』『 』』『シー』 『
いっ*、かの文シ鮮の軍の如く、日本人かっべきものと心得、萬一襲来するも、夏か恐る、 に足ら
すといふ類ひは、質に酔中の放言、夢中の狂言にて、いふにも足ら ぬ事なり。
* * *ない
平山行蔵の如く、兵器、軍艦の改善に、好意を持たなかったものは、勘くとも定信の批評に
上った 一人であらう。面して比頃にも同じ見解を抱くものが多い。頼山陽などがそれであ
る。
撃 定信また目く、
狭院なる性の者は、只今日に安んじて、除所の事を知らざる故に、海は品川の如く、川は大川、玉川
の如しと思ふばかりにて、思慮も只目先きの事を貸し、かつて遠慮遠謀に及ぶ事は、盆なしと心得る

*

いっも我が流の、注文の如くして来るべしと思ふ輩もありて

また口く、
外船渡来の
際に於ける
世態の鍵化 あ
に至っての遠島の事、かつて驚くべからすなど、町ぶれありし程に、様々浮説もあり
頃又異船相州の御備場近く来り、或は浦賀へ来りし事などありしが、させる浮説もなく、人情犬も静
三○七
第七期 $ 战略 代 ○入
もはや 同等の刺激 にだ になり 得なかった情勢を 推測する事が出來よう。
我等は更に水戶の術學會釋正志賀によって使 《 5れた所を考察しよう。 文政入年に成仁
る新館を接するに、 數種の始是 說が架けてある。 其 一 に日 く、
倫安之徒動調、 彼科魚科高、 阿武帝平、 不足歩道路
これ近海に来る外國船に封しての世人の成很であった。 其二に日く、
張仲文語、 白書神州之兵、 就說話的國。 皮炎小郡、 不足 後將
これ落 の愛が生じても、 我が武力は、 能く歌を制する事が出來る といふのである。 其三
に目<、
康休之武、 佛經海速來、 其正 不得性愛。 自號幹部門、 不足後鳥º
これ球迷路面から、 大舉法 化する事の不可能なるを見て、 小康に安んするもの 多かった
のを、 物語るもの である。 共四に日く、
康休之間、 安政機關、 可收養, 而不可同君子、 不足後裔
これ部隊教に封する批評である。 但し此街修は見解の相違で、 事實の和達でないから別人
~して、 基地の諸修は、 いつれも西安の人情に来 いてみる。 然 れとも第 一 ~第三,とは、 常年
上がてド軍隊の平常 に師( 、 選民人稱する事 は出来ないが、 欧洲の勢力 今や正に我が関
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第 七 編 文政 時代 三一○
動、修怒楽散、援面敵之可英。彼乗潮面進、我縦共進、面出共背可美。彼之職、利於及遠 我シ
に不必 地、 不必設也。船興競、皆竹共奮、面接之用之者、講面 と面己
これ要害を拝んで屯成を置くを不可とし、且兵器、軍艦の製を革め、海軍を振興しようと
する林子平以下の説に反封したので、「不審彼我之勢、祀彼過重、内自勢敵」といへるは、
幕府が國防を修め、蝦夷地を経営せる事を指したのであらう。山陽また常て長崎に遊び、
-
荷蘭船行の長詩を賦し、共中に、
獄情難測廟謀勢、兵努獅不撤約船、鳴呼小醜何煩憂目高、萬里逐利在貧盤、可隣一葉凌鯨㎞、警如浮
犠幕翔燥、母乃割鶏費牛刀、母乃環境換木桃。
とも述べた。淵
詩釣。 山陽の西洋諸園を観る事かくの如く、園防上の施設を評する事またかく
の如くである。時勢に封して、相常の注意を挑ってみる識者なほ然りとせば、共他の群衆は
英船の出没と に生寸の #
人心の沈静 初論であった。されば文政の初年、英船のしば〜常陸の海上に出没した時の世態を、松
浦静山の記したのを見るに、「去年は鉄子浦、高崎の御領地へも 黒船来り、又今年 も
如比。近頃は除り数度に及べば、人も怪しむ者も無き様になりにき」 ㎞ と見えてみる。
松平定信の著述して併せ考 へ、人情の鍵化した事が、理解せられるであらう。
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共影響 文政時代に外警 に封する意識が衰 へ、これから受ける刺激さ へも止人はれつ 〜 あうた一地
である。面して共影響する所、幕府の戦売地経営の中止となり、水戸
*


は、ほゞかくの如く
學派

の懐夷論となり、幾多の波測を生する基因と貸った。
第 一章 外 警 に 闘 する 意識 の 衰 類 三一一
林公
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を附ルと、又彼ょり手を入、尚々附近候。碑祀以来、享保中とても御手を不被附候が宜、共間の海を
境として被差置候事、第一との説を、碑田橋㎞へ文政中に建日之筋有之候よし。初州㎞ 夫ニ
乗じ、比人素より海外ハ闇故、労常座之菊 草等ニ睦し、共漫ニて努比説深入いたし居候哉ニ、密々耳
ニ入候儀ニ有之。松前氏へ被託置候ほど、太平外患は無之と申説を被信用候偉ニて、比節有之かニ、
*こしき、 、 以上山
冥々中ニ被愚考候。ェ
復領の事は、松前氏から一橋治済、水野忠成へ運動の結果、忠成の虜分として行はれたの
で、共理由は、蝦夷地の開拓が、却て事端を滋くする恐もあるから、寧ろ奮の如く、松前氏
に委任して、平和を保たうといふにあつた。松前氏の贈賄は早く世人の注意に上り、松本
胤通の如きは、専ら一橋治済の幹旋に出で、忠成さへ知らなかったと稲してみるが。
主として忠成の裁量にか、る事は、閣老の 一人たる忠眞の説明する所である。
幕府が蝦夷地 近時の史家或は説を貸して曰く、幕府が蝦夷地を松前氏に還付したのは、拓殖警衛の貸
経営費に苦め
りとの説の誤 めに費す所巨額に上り、常時の窮乏せる財政に於て負擁に堪へないから、途に放棄したの

であると。文政度の幕府が、歳入の不足を威する事甚しく、潮く貨幣の改鋳による出目の
ー \ry ト*



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牧盆で支へてみたのは

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編 だ
費に苦


ょ7 事質で あるけれども、 三右



じめ寛政十一年幕府が、東蝦夷地を常分御用地とした時、毎年五高
第七編 文政 時代 三一四
付した。享和三年全くこれを牧公するに及び、拓殖費二萬五千雨、有司の手常一萬雨、松
前氏への下付金三千五百雨㎞と定め、拓殖費二萬五千雨の内、二萬雨は蝦夷地
産物の代金を以て宛て、不足の五千雨と、有司の手常、松前氏への下付金とは幕府から支
出した。然るに産物の牧盆も年々増加したので、文化三年以後、五千雨の補給と松前氏へ
の下付金との支出を停め、有司の手常をも五千八百除雨に削減してみる。されば蝦夷地経
営の貸めに幕府の支出する所は、年額僅に五千除雨に過ぎない。雑調 文化四年西蝦夷地直
轄後の財政状態は詳かでないけれども、拓殖の功次第に撃り、牧盆も増したから、質際に
シは、左まで多くはなかった。今、シした際、
㎞ 府の調査せる経費組額の決算を見るに、 ㎞
寛政十一未年ョリ文政六未年逸
蝦夷地御用金元挑仕譚書
一金三拾萬武千九百九十九雨三分永武百四拾九文四分
蝦夷地御用地相成迫々御下ケ金ノ分
一金百七拾九萬六千七百拾壺雨宣分永武拾六文
蝦夷地産物代井諸牧納金仕入物米代共外諸納金元組ニ相成候分
合金武百九萬九千七百拾壺雨壺分永武拾五文四分

章 列芝
メ 内

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分 交て


第七期 $ 战 時代 | 1
而して決算の結果得る所出十萬兩に及んだ。 然るに非怖 の支出氣中には、「從西亞維修
作 作、 臨時傳下 金2分」,として二萬五千萬、 松本政手代辦 於
海船员、 非道組人用神及林金 2 分 ,として二萬 人手術をも含まれ
に就 いてい へば、 それだけの利益を加算しなければならない、 要
せられてわた知く、 製炎地 の総督は、 嘉作の財政を、 より多く相繼に導く際問,となってお
ない。 學みこれによって財政上 の油器を加 《 海? ”はすであった。 而3後述に戦克地を放棄
幕府 の為安 して頼みなかったのは、 日露の統被が解決さられてから、 また北緯を聞か ず、 幕府をして
おの つから共育 を安んせしめたのも、 1 つの原因であらう。 そこに松前民の諸元の行はれ
る 際地があった。 此政問題,と、 製炎地 の中止 との間に連絡を求めるのは、 阿難であるやう
に思 。 此時に常 9天下來平の極に達して、 上下將內無事を喜び、 外線 に開する意識も表
へ てわたのは、 前車に い へ るが 知く、 而して頼山陽など、 邦人の海防を論するもの、 外國
の勢力を過重する事の不可を論するものもあれば、 或は中开展計、 山开暖流など、 戦克地
の開拓に反對 ,るものもある。 此人来より海外は間」 ,と同僚から武斗 られ た水野忠成が 、
路軍の値を持人、 純弥补 小池氏の諸元を納れて、 眼光地
の走分をした の 3、 若 しまたか ~) の,如さゆが困在東の、 お の つかっ赤くらし め た所であらう。
第 二章 ×政村城合 の原布
政た府


敵人橋

ノル

文化十年9 ドの総武術以來、 久し(金は北 を見せないの に反し、 これに代 ?


求進
要の ~

て飛が 松年に近づいた の % 討った 姿态方キ 作遊人 が「シ、 梁* 1


ッ クからの館進、 浦賀に入港して資材の開始を要求した。 泰行內藤正弘、 會津、 白川二道
の兵を降して非常を成 の、 且新たに登场を許すのは関銃であるから遠に退去し、 再び=
英文
浦賀 地熱

本の光に近づいてはならない と告げたが、 彼は音を」して欲を去った。 越えて元 年四


給新
供水
の と
入港

月北五日英般がまた姉 に入港したのである。 此時にも本行小笠原長保、 小田原、 川越


能の兵を彼し、 且自山川道の衛兵,と共に海陸を固めた。 然るにそれは、 同國 の拡散熱す ラセ
トア
シ號で、 新木を求めよう として入港した事が分かっ たから、 光の命によってこれを供給
(
常英
沖捕
陸國

に飲
於船
けの

此時に常 6時期の師範業者が、 共派出場人として理器やる大西洋には、 次第に獲物が少くな


第 三章 ş 秋 れ 神金 の 如 布 三1 +
第 七 編 文政 時代 三一八

川u

のとしてで平

大っ


ま、
主洋
じめら影もるた岸本り これがは







やう
する
進出



J口


る作業


し沿日起ラセシ


サに


はの
す競
どと


船。
あ共









初 夏秋
い鯨

捕 て

はしたのは数年以前であった。即ち文化元年以後後
つ 。
領岸るみ鯨陸内

常水戸


捕漁




試の
みを
沿て

漁夫
最寄ら
鯨 な



間恐れ
近の
てそ



かつしか



い人









て れ

近づき













漁りむ品し夫 たと







懇語に
交日っ意換本
まで
なする

にとい
さな
利 商人等これを


、 込て

あを
商介知っも
もの

、途に見なれない異園の貨物が、常陸
の國内に流布せられたのである。水戸の藩吏怪んで偵察の結果、潮く共事を明かにしたの
で、同七年漁夫、商人等を捕へて虜罰したものが数百人に達した。 甲子夜話所載
水戸藩士の聞書には、次の如き消息を博へてみる。
異國人猟師を撫他する事、船中の人を取扱ふと同様にて、少しも隔心なき故、比節に相成候ては、磯
師共申候は、異國人は至て深切なるもの故、吾々沖合にて風雨にあひ難儀の節は、彼船にて凌ぎ、炎
天の節は冷水を興へ、病気の節は楽を興へ、大に力を得候事多く、吾等の力に及び衆候鯨魚を捕候面
己にて、漁猟の妨に少も不相成を、何故に公儀にては、異國人を婦敵の如く御扱ひ被成候やなど〜申
候者有之由。
國防を説き開鎖を論する のは、世界の形勢に日豊めた先夏の識者に限られ、一般 の 民衆
『』『 』シ 『』*『*『
が、かくの如き方面に、全く無関心であった有様を推測すべきである。日人情に東西の匿
別がないから、外人と接鋼せる漁夫等が、却てこれと相親んだのも怪しむに足らない。一
事は萬事である。我が國民が徒らに外人を嫌悪するものでないのは、比事質に徴しても、
おのづから明かであらう。要するに開園といひ、鎖國といひ、懐夷といふのも、軍意は常
面の難局を展開しようとする政治問題であつた。
英園捕鯨船員
〜レ の常陸大津演
文政七年五月甘八日二隻の捕鯨船が常陸の大津濱に来り、船員十二名小銃を携へて上陸


上陸及共捕縛 類船で
した。蓋し新水食料を求めようとするのである。思ふに前年来渡来せる捕鯨船の



らう。クレメントに従へば、甲比丹ダッス、同ブラチンの一行であったといふ㎞
津濱は水戸の附家老中山氏の乗邑であるから、直ちに兵を務してこれを捕へ、状を水戸藩
聴に報じた。水戸藩また兵を遣って守備を整へ、磐城平、自川、棚倉三藩の兵も来援した。
捕虜の放還 たが
幕府即ち代官古山善吉等を急派したが、審問の結果、共事情も明かになったので、六月十
一日國法を論して放還し、特に食料をも授けた。論書 は、禁を犯して上陸したのは、不
都合だけれども、いまだ我が國法を知らす、また病人の貸めに果質、野楽を得た し、
の品々を 興へる。基㎞ こ の
らない貸めに、船中
三二○
第七編 文政 時代
よとあつて、別に、


に騎帆い
我國の法にて、常々来らざる外國の船、いづれの所にても、着岸をゆるさゞる事なれば、


たすべきなり。
と記した出帆の命令書をも授けたが、いづれも打挑の國法は宣言してみない。ェ
㎞ 藤田東湖が、三たび死を決すといへる共第一回は、質に比時
捕船員

け藤 鯨

同年八月八日英國捕鯨船一隻、また薩摩の属島なる質島に上
難の

る 於


九助が来意を質したけれども、言語不通の貸めに要領を得ない。然るに翌日再び上陸して、
火酒、獅駒、金銀貨等を出し、耕牛を指して交易を求めたが、九助これを拒み、野菜だけ
を興へた所、彼等は 一まづ本船に騎つてから更に上陸し、小銃を放ちながら耕牛を奪ひ、
本船でも務砲して番所を傷けた。九助彼等を共騎途に要し、首領らしいもの一人を銃殺し
たので、彼等は死者を捨て、通れ、十一日に退帆した。薩藩では報を得ると共に、直ちに一
隊の兵を派遣したが、共後重ねて船影を見せなかった。ェ㎞蓋し食料を求めよう
として、言語不通の貸めに、抗奪を敢てするに至つたに過ぎないけれども、抗奪は抗奪で

出於
英奥
船犯
のに

隣併
ある。暴行振籍の事質を打消す事は出来ない。なほ同六七年の交、奥羽の海上に出没し、
* 武江雑 幕(内藤職印受
附近に出 の漁船に 「 法
近に出㎞の漁船に「教法の書」を投じた事もあった。ェ㎞)
!リ
外國船の渡来 かくの如く我が沿岸に来れる英船は、概ね捕鯨船であったが、教養の乏しい部員で。
に伴ふ 士民の
困難 から、債島に於ける暴行などを生じたのも、己むを得ない次第であらう。面*シの。
た時、大名でも旗本でも、海岸に領地のあるものは、「手常致し、人数等差配り、。 騎帆

逸は番船附置」 メ〜
事が、幕府から命せられてみる。 もとより基軍艦たり、商船
たり、漁船たるの差別はなかった。これが貸めに、大名、 旗本の苦痛は容易でない。ェ
加之「農家は手後れになり、漁事は出船不被致候に付一向無之、誠に大シ」
㎞ といへるが如く、農民は農を休み、漁夫は出獄も出来ないか。、シ
阻害し、延いては土民一般の難瀧ともなった。是に於て途に名高い文政の打 が、。
て幕府の評議に上ったのである。
高橋跳保の薬
船打挑の建議
足より先文政七年七月天文方策書物奉行高橋景保書を幕府に呈して、外国船の虜分を論
じた。共概要は、近頃我が沿岸に来る英船は、継て捕鯨を業とする


上にあって土を踏ます、また野楽にも乏しいので病人が
求めたい貸めに寄港するので、我が園に封しての野心は持ってみない。かくてシの 、
望に任せてこれを興へ、再渡然止の旨を博へるけれども、依然船を せる事、シ
同様である。また暇令命令を守って船を寄せないにしても、海上に於て我がシっ“、
三二 一
第 三 章 文政 打 挑 令 の 額 布
第 七編 文政 時代 三二二
愚味の漁夫等を欺いて、望の品を整へるのは容易であり、途には密貿易の端を開き、教法
を勧めるやうな事のないとはいへない。現に去今年奥州の沖で、教法の書を興へたものも
ある。且共来る ごとに、諸大名の警固厳重を極める
甚しく、却て武威を損する恐がある。殊に諸家の疲弊、百姓、漁民の苦痛は一と通りでな
い。宜しく江戸湾の附近は初論、沿岸に領地のある諸大名に命じて、砲豪


際事

断打
、挑
船渡

来 の
し。

船薬また

病貸

め 然人用
たい

た は食 料を 求 め る も

、置は
にてしい



)


/
の 挑ふ る が、このま 際限
に遭って、船鶴を段損せるものには、御救怖あるべきであらう。なほ印度の
風に
には英國出張の
{ に ーリー-I 商館があるから、蘭人に託して、共旨を同地滞在の官吏に通告しようとい
!
ふにあった。面して共文中に、
-
奥州南部地より東海岸、常陸、下総、上総、安房逸之間、遠浅にて船着岸難成場所は相職き、船寄易
き所より豪場を築き、玉日一貫目の大筒二三挺相備、衆て御代官、領主、地頭より、共所の名主、長
百姓へ合築を渡置、夷船見懸次第、玉込不仕、三務計務候ハマ、決て近寄間敷候。
とあり、なほ濃霧或は風雨夜陰に乗じ、思ひがけなく着岸する事もあらうから、共時には、

#
j 〜
「シ之船日本の濱漫に近寄ものは、打挑ふべき我園の抗を知らすして来りしならば、速
コ『-』
に騎 *、間、露三園文の説書を用意して置いて、これをなけ しょ・うし
つててみるのを見れば、所請打挑とはいふもの 〜、正しい意味
での砲撃でない。
。い。空砲を発し
m /、毎 モ/庁 、 つである。まこ基所請丁卵も、毎学から七 丁
て魔 加 ㎞ へ 言せる いのである また専周 封到る ジラブ ず里以内に来た
時に限るとあるのは、蓋し十里以内を、日本の領海と認めれ
たやうに思は
合を通るものは、別に干渉する必要がないといふのかも知れない。いづれにしても景保
意見は、英船は継て皆微々たる捕鯨船であるのに、戦闘準備までして、士民の疲弊を招く
のは得策でない。寧ろ威噛手段を用み、海岸に近寄せない手段を講するが宜いといふにあ

った。ェ
景保は最に文化五年、幕命を奉じて藩賊排指譚説を草した。ケシべルの日本史中、「波

爾社瓦爾及以西把尼亜國人、日本ニ至リテ通信交易ヲ貸シ、且法教ヲ弘メ、途ニ隠謀露顕
シラ、指庁セラレシ始末」を砂譚したものである。常甘て中野柳園は、同書の附録を採って
鎖國論を草したが、今や方に一歩を進めて 「排搭」 の説に及んだ。面も露人暴行の年に著
㎞ 譚せられたのを見ても、時勢の急激なる鍵化が、思ひやられるであらう。蘭學者の所見は、
リ さ はi、
0
、し zー 、
通じてみた。然れども柳園が、鎖園論の末に自己の意見を附記してみるに
第 三 章 文政 打 挑 令 の 願 布 三二三
第 七 編 文政 時代 三二四
景保の耶蘇 景保は別に共主張を述べてみない。たゞ凡例の中に、「今比譚説ニ因テ、獄賊ノ出入、教法
教観

ノ盛衰、共始末ノ概ヲ知レリ。即今コレヲ聞クガ如キモ身鶴冷然タリ。厳制将禁故へァ ノ



哉」といひ、切支丹の禁制を讃美しただけである。思ふに景保の打 挑の建議も、耶蘇教の


博播を恐れたのが、共一因であったに相違ない。かの上書に於て、英船が、奥羽ので


教法の書を授けた事をいへるつゞきに、「然ば奪々共意㎞ 有之誇擁に御座候
基にて、一大事に御座候」と記せるなど、また傍誇とすべきであらう。然れども共主張が、
現在史家の間に信じられてみるやうな、激烈なる懐夷の説でなかった事は、常然認識しな
0
ればな れば景保の所請打挑は、威し鐵砲の意味に過ぎないからである。
面も比意見に徴し、また藩賊排指譚説の著譚とを併せ考へる時には、彼が鎖國論者であっ
幕府は高橋景保の建議を受くるに及び、比機曾に封英策を定める考があったと見えて、
三奉行等の意見を徴してみる。 これに封して寺赴奉行太田資始等は、「狙ニ上陸致し
候儀も有之、折々 日本の漁船を見懸候節、様ヶ候手段いたし候哉ニ相聞、共上書面杯船
中へ投込、迅速ニ走リ行候事杯も風聞有之、船之働自在故、日本之漁船逃候譚ニ 参リ策
候由ニ 相聞、右邪宗門之儀を、日本暇名字ニて、 難有事之様ニ書付、自然邪教 ニ導候様之
事***之、不シ」であるから、打掃 が宜いといひ、 ㎞* 説定奉行シ
晋、 定玲味役館野勝説等は「異國之儀、是逸通商往来を被免候園之外 、渡来致間敷、
勘定奉行勘
定胎 味役等
渡来致候 ゃ、堅く退て不容、強て来るに於て 、厳重ニ取計國典ニ候虜、近来諸厄
の打挑論
利亜園之船漂流之由ニて、所々へ来り、新水糧食等乞候ニ付、賑値之情難獣止、所乞之物
計を興へ遣す所、昨年 我 内所々ニ於て及不法候段、基以不時之#ニ候間、以来=本之
地へ乗寄、又 上陸等致ニ於て 、是非を不論可打挑」といってみる。
㎞・景晋は同年別に等海因循録を著はし、封外の策を論じて目く、
戦争闘ノコトラナシ、井呑ノ志ァルナド、云コトニテハ更ニナキ
ョト也。競売ナリト難、数萬里ノ波湖ラ歴テ、戦闘スルノ理アラシャ。萬々無キコトト云べシ。人々

夷船ノ来ルラ恐怖スル者ハ、軍意獄撃盛ニ行ハレ、彼ガ虚言ノ噂チ聞、長チナシテノコト也。林子
スルニ足ラザレドモ、毒チ流スコト最大ナル者ト云べシ。今来ル者ハ全ク海賊ニテ、萬里ラ過
漫海ラ侵抗シ、有合ノ物ラ奪取マデニテ、恐ル、ニ足ラズト云べシ。
とて、海賊に過ぎないとの考察を下した後、



る。


望ッ


し/


ノレ
使








ニモ







念軽侮スルニ至ルナリ。
第 三 章 文政 打 挑 令 の 領 布 三二五
第 七 編 文政 時代 三二六
と稲して、幕府の態度を非難し、もしこれまでの如く、いつも新水食料を興へるやうでは、
共来る事は己まない、途には沿海のものも懇意となり、密貿易も行はれるであらう。故に
jp
比後は、新水を求 めると、貿易を請ふとの差別なく、共船を奪ひ、共首長を斬り、他の r1
員は特に救助して國法を説聞せ、蘭船に託して送り騎へすが宜いと述べた。即ち一種の
夷論である。以て共上書にいふ所を補足する事が出来よう。面してこ、に注意すべき は


町奉行の打 町奉行筒井政憲の意見である。政憲はまづ、英人が資性聴隷にして好智多く、また勇恨に
挑論
して水戦に長じ、共國威の盛んなる事を述べた後に、文化五年長崎に於ける狙籍は、海賊
同様の撃動と評し、更に質島の暴行、東海で廻船を追ひ、米穀を奪った事を撃げ、かくの
如く近海に出没するのを、共ま、にして置いては、沿海の大小名が奔命に疲れ、容易なら
ざる困弊ともならうから、今の内に永久の御手常がありたいといひ、また彼等が展々来る
デカタ
間には、おのづから海路に熟し、沿岸の浅深をも挑じ、ます〜地方近く乗寄せるやうに
なる。かくては國弊を生するから、なるべく地方近く寄付けないが宜 いといひ、なほまた
彼等は、上陸の際に於て、或は海上に於て、書物、器具などを邦人に興へる事もある。一
鶴#央園は 大土教を奉じてみるから、白然これを宣値 しないしても限らない。さな〜ーても浦方
の思民等は、少しの利潤に泥 み、怒親を結ぶ 恐もある。宜し〜御深慮の上、急度仰出され
-
-
*
- -
- - - -"-『 』 }=
」ー 、、、* “。。“。
るが宜いていひ、更に、これまで異國船の来た時には、許水食料を賜はる例で、御仁恵は
有難い事であるけれども際限がない。却て御料、私領共に失費が崇高み、郡國疲弊の端とな
るであらう。異國の貸めに、國内の疲弊を招くのは、決して得策でない。通商御免の國の
、邪宗門の國を厳重に取締るのは、國初以来の規定であるから、比際厳重の御鋼を出さ
れるのが宜いとも稲してみる。かくの如く政憲は、打挑の説を唱へた後また目く、我が國
の廻船は、近来沖合を通るから、異國船と出曾ふのである。なるべく地方を通行せしめな
ければならない。今や西洋諸園は戦雲潮く牧まり、泰平となつたので、欧洲以外の地に共
利を求めようとしてみる。就中我が國は、物産に富んでみるから、貿易を求めるものも、
次第に多くなるであらう、彼等をして凱観の念を断たしめる虜置が必要である。かくて打
挑の令を布けば、國防はます〜厳重にするのは初論ながら、一時に多数の兵を配置して
は、諸大名の費も多く、永績のほども豊束ない。されば要害の土地は格別、共外軽い備場に
は、事あるに隔み、百姓、町人を徴務して、補助兵とするのも一策であらう。それには國
民の敵悔心を鼓舞するのが急務であると稲し、左の如く結論した。
唯々平日、異國人と申者は、人を欺き、人を侮り、可悪と申儀能々申論、百姓、町人逸異國人を憎
み、日本之吐辱を取間敷と申心を生じ候様教候て、所請敵信之心にて一廉之助に可相成哉
三二七

第 三 章 文政 打 挑 令 の 類 布

第七期 $ 战神代三二


师师


殖的




脚が、かくの知くにして次第に落

*




'<


‫؟‬


二月十八日達に映洲
り交界救命 崔府は、高橋長保の建設~、諸有司の意見~を容的して、文政入年
船船打排介を布いた。名高い文政の打地介である。英文に日く、
、文化之徒收て相關條文
與國船渡来之術設計方、前々より数度被叫出有之、おろしや船之義行てハ
小船て来命、新木村をタ、主
第も破壊、いぎりす之船、先年長崎におみて及於諾、近來分所々
追タ根行之服飾、共上光宗開口
年至り彼て公报發上陸、成分舰船之末段、島方之野生等條來修改、
、南接西洋之義分、御制策光教之國
動の入院教方も相比べ、安維被發者非三條。牠いぎりす不限
其所有合人大を以、不及有無
三條間、以來傳れ之前方かるても、與國船業後光線を見受像分»、




し彼 »部取、文打招德て


Ş



打排、近建筑出、共分差道、若非て上陸いた


私**?锥形科、梁之もの指: 4
،-
→-
マ日日於永,中文句--…)--
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㎝* ** «他手艾倫· 其
台視,5集之、永約可安庁--
* -->
可致使立を考***"F後光線。尤先科隆慶応と、船形、人物も
…永和 2544,人
小偷 Aºv 2
*** ㏊ ***N能成功與和使とも、御系设有N
まじく保加、無念 →--
地を心がけを不吃,
*************
々廻船、漁舟、海上におみて、異國船 ニ相親ミ候儀ハ、従前々御法度之事ニ候。今度浦々ニおみて、


乗寄攻第ニ可打挑旨、改て被仰出候間、船方、漁民等弾厳重ニ相守、船之乗筋等、可成丈異園
船ニ 不出曾様心懸可申候。若異國船ニ親ミ候儀を隠し置、後日相顕ニ おみてハ可被虜厳科、有妹訴出


ノ\

\*

上日

同意之者ニても、御褒美可被下候間、不相包可申出者也。
外 き7
との建札を浦々に建て、㎞ 更に蘭人をして、打 *}
㎞打挑の理由が、「いぎりす之船i追々横行之振舞、共上邪宗門勧め入候致方も相聞、
帝 難被捨置事ニ候」 といふ酷に存し、また打挑の方法 有
一圓ニ打挑」 ふにあった事は布達に明記する所、「押て上陸」 ょ7
の事がなくば、必すしも破却、殺費を必要としなかった。要するに外國船をして海岸に近
付かしめないのが、立法の精紳であると思はれる。なほ比布達には、「何れ之浦方におみて

除外例として も」とあるけれども、天保九年林述斎が、幕府の諮問に封する答申書には、「長崎之外へ龍
、の長崎
越候異船 、何方ニても打挑候義、既前以御沙汰も有之候事ニ候」㎞ とあるを見れば、
長崎の一港のみは、外國との接衝地として、依然除外されてみたのであらう。
打挑令に闘す
る史家の考察
比打挑令ニ就ては、従来史家の間に三通りの考察が行はれてみる。共一に目く、打挑
第三章 文政打挑 令の願布 三二九
三三○
第 七 編 文政 時代
と共誤認 は、敢て海外の諸國を敵とし、全國の体戚を賭して砲撃を行ひ、鎖國を質行しようといふ
奮説の要獣
やうな、断平たる決心から出たものでない。軽怒に高橋景保の建議を信用し、かくの如く
発令して、これを海外の諸國にも博へたならば、必す恐れて近寄るまいとの虚鳴に出た
で、共精碑に於て、寛永の鎖國令とは雲壌の差がある。共二に目く、打挑令は、景保の建
議に基いたもので、異國船を以て漫海凱観の賊と見てみない。捕鯨船の行動と、國家の政
策とを匿別して考へたものである。共三に目く、打挑令は、懐夷の士論と、荷息の俗情と
打挑令が高橋
景保の主張に による武断政策であったと。抑も比打挑令が、景保の建議を動機として質現したには相違
基くといへる
考察の誤認 ないけれども、景保の意見が、共ま、採用せられたのではなかった。殊に景保は、我が海
景保の意見 -
と打挑令と 岸に来るものは、概ね捕鯨船であるから、少しも祀心を有してみないといふ事を主眼とせ
fr、
の相違
るに
にもか、はらす、幕府の見る所は、寧ろこれと相反してみる。三奉行への諮問書に、
いぎりすの船、先年於長崎及狼積、近年年々之様所々へ乗寄、食料新水を乞、常年ニ到り候てハ、張
ニ上陸致し、廻船の米穀、島方の野牛等奪取候次第、追々横行之振舞、尚比上何様之狼積可仕出も難
計、難被捨置事ニ候。向々評議
N書面別紙之通りニ候間 ㎞一覧之上、継て異園之井渡来之節、向
たら o ○御書付


候事。シ
*
る いす、5 戸 い O
「 *うん*= ㎞も シー ** ミ * *ん、よ 、シ 、a ** *、*く - 『
*、* “** b シ 〜** こ* ー * *、* * *日 *
候」 とい へ るもの、即ち幕府の眞市教を語るものであった。面して三奉行の見る所、また幕
府のそれと同じである。 し幕府の愛ふる所は、文化以来頻々として起れる英船との
接鋼H共不倫快なる行動であった。かくて将来なは多く、かくの如き事件が発生して、國


家の刷となるべきを恐れた。故に打挑の質行によって、彼我の




s


|
がうとするにあつたらしい。また外船の渡来に基き、諸大
- - * *に * - 上ート 上
苦痛とを除く考もあったらうけれども、主要なる目的は、こ、に非すして、寧ろ彼に存し
たのは、殆んど疑のないやうに思はれる。されば景保の建議を採用して、打挑令を布いた
動打捕鯨




A、


といふ史家の考察には誤 従
策船
政と
して 家
のを 行と
の園

して考へたとの第二説は、途に信する事が出来ない
信 。な
る匿

誤認 たり
とい 別考

どうかは、布達の文面にはあらは れ
考察

*7 たる引
するものとは考へなかったであらう。然れども英園共もの、勢力に封しての憂構は、早く
から存在してみた。三奉行の答申にもそれに鍋れてみる。暇令法文にあらはれてみないと
しても、勘くとも共獣に闘して、考慮されてみた事は け ーと

定封
信i 反


比 際し、打挑を非とする意見もかなりに有力



**
に } - i 上 1
く - ) “す うい
家古襲来の事を述べて、「北條の使斬りたるは、壮快のやうにい

i
第 - 章 文政 打 挑 令 の 類 布 三三一



第七 文 日
慮深謀かつてなく、國力をも知らす、敵の情をも察せす、かの碑風吹かすばいかゞせん
イー の罪なり」 ーとい つ

則質に北條
もとより北條数代に にして、 武を口口するもの出来ざるぞ。
月多〜1 〜


己 も のであるから、鮮を北










條氏に籍つて、幕府の打挑令を評したものと見られる。定信
川日長㎞ た。また水戸の傾學川口長猫が、
予窃ニ請ラク、民産チ制シ、國用チ足シ、恩威筆用テ、萬國ラ動カシ、六大州遍ク我ラ仰ガシメン。
之チ上策トス。沿海ノ守製チ慣ミ、屯田シテ財用チ費サズ、勝兵ヲ以テ来ラバ騙除シ、好ラ以テ来ラ
バ、鮮令チ善クシテ濃遇シ、彼チシテ日ニ群ク事無ラシメン。如是バ獅憂ラ緩フシ無事ナルベシ。之
ァ中策トス。共除ノ策ハ如何ァリナシ、予ガ知ラザル所ナリ。ェ㎞ 。 課した諸厄利亜
浦野元周 といへるのもまた、打挑を下策としたのである。なほ浦野元周㎞ 校とあるから、
㎞では
あらう。 打挑の説を評して、
鳴呼かくの如きは、まことに倫快の論なり。然れども所請血気の勇、暴虎憑河の説なり。正々堂々た
る良術にあらすして、固隅浅見の浮策なり。
といひ、更に基説を進めて、時を以て熟慮すれば、二百除年の泰平に浴して、兵革を見な
シ久しく、武士シ業に就り、怠情属逸に流れ、物の用に立つものとは (-6
。シ、シして。シを下しても、 速に
戦艦を製し、、武備を整へる事は出来ない。然るに英園は戦に馴れて水軍に長じてみる。 執
ぞ我が兵を以て、彼に抗する事が出来よう。また理に就いて考ふるに、暇令偽にもせよ、
漂流窮困して救を求めるに常り、共人を誌し、共船を焼くなどは人情に背く。海國に漂船



のあるのは常然である。これを救ひ、これを恵むのが、海國の徳であらう。毎年新水
を開くに於て
を給興しても、分量は何程もあるまい。更に勢を以て論すれ ば、狙りに戦端








は、恨鶴の夷賊等必す攻来り、海内の騒援を招き、如何なる英雄があ
苦しむであらうといひ、時勢理の三方面から、打挑の不可を撃げた後に、
軍意彼が時々来舶するは何ぞ、共便宜手が、りを得ん貸なり。然るに共船を焼き、共人を襲するは、
彼がもとより庶幾する所にして、吾に於ては、共謀に陥るが如し。吾子が論する所は、兵志に、彼を
知らす己を知らすして戦は、戦ふごとに殆しといへるものなり。宜しく彼を知り己
の全策を施すこそ、願はしきことなれ。ェ
大刀 しい〜1て
政五年の著)。 ょん
(打挑令領布後 と稲した。以て世論の一斑を察すべきである。殊に注意すべきは、打挑令煩布後に於ける
に於ける諸藩
の態度
松前藩 諸藩の態度である。天保二年二月異國船一隻、蝦夷の厚岸附近に来たが、松前藩は、数日
-
上、しに 七七

間手を排してこれを守り、共上陸するに 及んではじ ではじめて発砲した。ェ、また同八年
- て)
j と、"日 シ日 n、庄 L上→、 船員数名上陸したけれども、同藩吏はこれを
に来た時
薩州藩 七月米船モリソシ 跳の薩州山川港 nい
第三 章 文政 打 挑 令 の 類 布 三三三
第 七編 文政 時代 三三四
津和泉が、兵を率みて到着するに及んで、または
*
じめて砲撃を加へた。 打挑令の徹底しない事かくの如くである。面も二藩は

南部

より先文政八年五六月の交、陸奥の海岸に異國船

里」
〜 用亡 シ、


---*」
逐に打挑を質行しなかった。ェ

西早
文政八年乙西二月十九日幕府夷船打挑のこと鍋書出つ。四月十五日夷船打挑幕府の令、威武を海外に
示すと難も、張に発砲して、却て我より鍵を生じ、諸家の通船を妨く間敷にも非す。これ天下の大患
ならすや。防御票を主とし、上陸を拒ぎ止べき旨、執政赤林八郎左衛門より諸向へ鍋書出す。然るに幕
-* \ ) - こ また藤田東湖
府の命と翻語すると云て、土家の評論盆起る。シ㎞。
これ明かに打挑令を無祀するものである。
かくの如く常時識者の間には、打挑反封の説が行はれ、面して諸藩に於てもまた、或は



考察 の
誤認 とい

へ 夷




基く 打
砲撃を騎路し、或は砲撃しないものがあり、甚しきは公然打挑を差留めたものもある。蓋

し比時に際し、擁夷の説潮く勃興すべき機運を生じたけ き、
の勢力となり得たのは、天保以後に属する。 シは決して
え -
鬼は へし
に属する
士人多数の意見でなかった。さ
* * ト A
れば打挑分が、 揮夷の士論に基くと、
基くといふ第三説も 誤解を免れない *
うに思ふ。

#
;

打挑令が虚弱
又は荷息の俗 更に第一説に、かくの如く発令して、海外の諸園にも博へたならば、必す恐れて近寄る
情に基くとい
へる考察の誤 まいとの虚鳴に出たといひ、第三説に荷息の俗情に基くといへるのも想像の言である。幕

府は、「比上何様之振籍可仕出も難計、難被捨置事ニ 候」といふ見解の下に発令したのであ
息の俗情とはいへない。また一片の布達によつて、外國船の渡来を社絶し得ら


j
とも、信じてはみなかつたであらう。要するにそれは、打挑の




放 船


k


よって惹起せらるべき紛援を、未然に防がうとする眞撃の政

策である。虚鳴を敢てするが如き、不眞面目のものではなかつた。
平和の保障と 抑も幕府の打挑令は、英國を主たる封象とするものであり、更にこれに伴うて、他の諸
しての打挑令
國をも考慮に上せた事は、共文意により、また有司への諮問、有司の答申、井に高橋景保
の建議を見ても、おのづから明かである。然るに常時我が國は、まだ直接に英國の威嘘を
受けてみない。近寄するものは概ね捕鯨船であり、我國に及ぼした英國の勢力はまだ微弱
である。打挑へば打挑へるものとして、共質行を考慮せしめる除地があつた。これ即ち打
挑令の存在を可能ならしめた所以である。従って打挑令の精碑は、事端の発生を促し、物
議を滋くするを恐れて、外國船を近寄せまいとするにあった。何となれば、外國船の近寄
るのは事端の発生を促し、物議を滋くする恐があるからである。されば既にこれを恐れる
第 三 章 文政 打 挑 令 の 願 布 三三五

た 冒て
のある

危をま質


すが
期如は
立の
、精
でなかっ
紳。
たで険しでるき法は に


上"
1

、り




危なる


つこれ
撤した
要打
。挑


令険て回和障 き
するに
平の
、保
として

撰 は










戦争












る及っれ片りび府 の
幕直
、ち 存










原因
とも
なる
べき



場合





撤在端する回 る
せら

べ 決から


もでない


し獣
だは
こを
、肯し
なば
なぬ
故打
。令

心のけれ
たけれ定らに 諸





全の
休賭

砲を



鎖質
しといふ

う、



ふ、戚撃國な 以上
し國よう 必


決を
のし事
有ま明か
もで
あ。








ない
らう
意た




時代

六政




は、




國家擁護運動
安永の交、我が國民が はじめて、将に日本の存在を脅かさうとする恐のある海外
*

の発生
J

の勢力 に就いて意識してから後 牛世紀を越える歳月が流れた。共間に於て國民の海外に封


する注意はます〜濃厚を加へ、これと共に封外上の識見も進み、園を衛るが貸めの施設、
井に政策も徐々として務展の姿を呈してみる。かくて比際、もし一歩を誤らば、金闘無鉄
の園鶴を傷ける恐さへもある事に気付くに及び、潮く園鶴観念に即する奪王の思想と相鋼
れて、上下一致しての國家擁護の運動が開始せられたので る。面して比國家擁護の運動
共表現として
の奪王擁夷論 は、共主義政策として見る時には、奪王懐夷論論と佐 幕
-
及佐幕開図論 - じに 〜*}
等の研究も次第に共歩を進めて、所請奪王擁夷論と佐幕開園論に就いて考察すべき地頭
L、 - り"Arr
な手 2
*
立ってみる。然れどもこれを考察するには、像めまづ江戸時代の奪王思想
式によって表現せ られれ

A--*
すさ
王擁夷論と佐幕開園論とが相封立して、将来途に流血の惨事をも生せ
L
しこ
三三七
第 七 福 $ 战神 代 三人
《年を同して、 特王の思想に就いて考察を加 《 たい と思 。 然れとも比小艇に於て、 細說
する事は不可能であるから、 大勢の推移を語るだけに留めて置くº
拿王思想の役

判も武が近世に於ける等主此想の鉄道は、 艦に以來水い間の戦術 に橋まされた國民の間
に、 いっ,しか再び、 統一 のる航會に復歸しよう とする意識の起 た事、 而してもたかく の
如 意識の下に、 統 的花在 としての皇室が、 再認識せられた事から導かれてかる0 ㎏
あっての日本である。 日本は皇室を中心 として、 統一 さられなければなられ~は、 熊年に
於ける論家の敵であった。 故に離出信長、 豊臣秀吉によって行はれた社會 維 の事業も、
宗室の祭、 白玉の復興を基礎 として、 はじめて大なり小なり”成功し得たのである。

-+
ZR
II, Č.
たく 不幸にして成が国民の、 皇室に封する統 的存在 としての認識が不十分であっため


に、 秀吉の業後、 江戶幕府の創立 となり、 武家政治の存在を可能ならしめた。 從つて食主
思想の他全なる鉄道は、 これを脱水に期待する の外はなかった。
學問より掛か
れたる等主 の
思想
江戶時代は、成が良を通して、 孫に見る素 の時代であった。かくて攻陷:
*** 、“**** *るだけの精神的の 魔術を得た。北寬 3 …
我が聞網に就いて,5
る ***のが東、 金の後漢,…
“**** ", 元; カ
ら出發した のである。
魯 王思想の開
新秀 として触 江戶時代の初期に於て、 國史、 神道の研究は、 まだまとまった 1 つの平面した 33 ,
い。 東側 でい へば、 李德學に限られてあるから、 光時代にはじめて国史、 神道の研究に
手を下したものも、 やはり使者 であり、 同時にまた神王思想の開拓者 としての任務に就い
-
たものも、 一 部の術者 であった。
近世=水に於て、熊本の保加~例がれる藤原稱將は、 1 面にはまた神王思想最初の開拓者
でもあった。 武者服名性理は、 熊本の精神を、 通俗に、 中近に、 分りやすく記明したもの
である。 同書の中に、 後白河法中の時、 神道の精神が失はれたから、 自然收機も武門に移
る やうになった~稱,して、 皇室の式微を施さ、 更に 「日本の軌道も、 我心を正し 2して、
成民をめばれみ、 孫武を施さを極意~~し、 発の道もこれを極意 とするなりº もみこしに

}學


ては備道~いび、 =本にては順道 といぶ。 名はかはり、 心は つなり」, 稱し、
生*
れさも、 従来の精神~日本精神 との 一致結合を企圖した
ある。 古くから存在してみる日本 は神岡な6~いふ 思想が、 視節によって平衡的に信仰
けられた半は、 陈水に種々の影響を及ばし、 北門人林鐵山に至り、 更に進んで神道の研究
第 四 章 $ HE 型 と 野外 祖籍 人 の 結合 三大
第 七編 文政 時代 三四○
-
を貸さしめたのである。
林羅山の碑道 林羅山は碑道研究の結果、本朝碑赴考及び碑赴考詳節を著はして、碑道を説き國鶴を論

じ、本地垂述の説を排庁してみる。即ち碑赴考の序文には、「夫本朝者碑國也」といふ事か


○ト
なる
ら説き起して、皇室の衰へたのは、備教が行はれて王道が類れ、碑道の廃した結果
述べ、本地垂述説や雨部碑道の非を撃げ、我が 園の古典を基礎として、純正なる 碑道を闘
明しなければならない事を論じてみる。碑道の闘明は即ち國鶴の闘明である。羅山が、我
が國鶴に闘して、明確なる理解を持つてみた事は初論であるが、共理解は更に彼の國史研
林羅山の奪王

究によって、ます〜力あるものとなった。故に羅山文集所載倭賦には、共豊富なる國史
の智識によって國鶴を論じ、皇室が衰へ、政権の武家に移った事に就いて悲慣の涙を濃ぎ、
「厩武人之修快分君臣之義殆不存、余生今之世分寧思古之人」 と記してみる。羅山の奪王
の思想は、必すしも微温的のものでなかつた。尋で羅山の子驚峯もまた、父の思想を承け
林警峯の奪王

て、鷲峯文集所載甲子曾紀及び國史館日録には奪王の説が見えてみる。即ち藤原氏の専横
を慣つては「天下知有撮家、不知有王室」といひ、頼朝の覇業を論じては、「自是政移武門、
面シ存面己」と稲し、また鷹仁飢後、下就上の風の盛んになった事を述べた後に「貴
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第 七 編 文政 時代 三四二
んで、忠君の精碑を忘れてはならないといふのが、闇斎の主張であった。また共門人友松
氏興の書像に 「事君忠潔志、欲學伯夷賢、曾記貴周濃、差稲焼楚権」 と賛してみるのを見
&
ても、奪王慶覇の思想が、充分に窺はれる。比書賛は、垂加文集拾遺にも載ってみるが、
下の二句が殊更に
五グ 闘字になってみる。出版の際門人等が、世を樺って削ったのであらうと
いはれる。また所請内外の別を説き、支那を指して中華、中國と稲する事の誤をも指摘し
た。常時間斎の門人でさ へも、萬一孔子が大将となり、子血子が副将となって攻めて来た時
にはどうするかとの質問に封し、返事が出来なかったといふ位、 園鶴意識の衰
へてみたのを見れば、闇斎の主張は、確に時弊に中るものであった。
支那崇拝の通 抑も華夷内外の鍵は、奪王賊覇の説と共に、朱子學の最も重んする所である。朱子學者

たる闇斎に比主張のあるのは、不思議でないやうに思はれるけれども、面も同じ朱子學者
でありながら、恨高、羅山には、これを認める事が出来ない。爆高、羅山は奪王の説を述
べてみるが、いづれも支那崇拝の晒習に陥り、中華、中國の文字を使用せるのみならす、
標高の如きは、共支那に生れないで、現在の日本に生れたのは不幸であると稀し、 羅
山もまた、我が皇室を以て呉の太伯の後とする博説を信じ、これを日本の名撃と考へ、「姫
氏孫子、本支百世、可至萬世面貸君、不赤盛平。:
面我邦之資産、興天地無窮。余於是、
* * 之成 地」 帆* ~いび、 夫子态系。 ま府主德而成王為 執 …
る。 か やうな時代に、 支那心都洛に 整を加え たのは、 城に見上げた議月 、か ?
せ しめ た空力,と共に、 國民 の自覺を促した所、 知る大なるもの があ
つた。 かく て 其後に出た山龍泉行は、 世上 の信者 が、 外國の艦文のみを暗んじ、 知て 日本
の本質を知らないのを拾って武家事紀を楽はし、 魏。 同じくまた外國來神の思潮に反抗
,して中期本質を落はし、 我が図士,と國體,とが、 世界に勝 れたるを説さ、 日本こそ世界の中
國である と論じ、 武臣 一 系の皇統水 《 に非怖よします事を義さ本6、 或は仲ては三韓を征
してこれを原因, とするなど、 國成を海外に頼した事はあるけれども、 いまだす地,とい へ と
も、 外國の 飛 沙 に奪はれた事はない と、 光榮ある国史を 繋ぎるが 知さ、 或は武家の政 を

執る事、 五代総年の久しさに及び、 北 而時に、 不必得のものもない で
を飲んで、 非正の義を失はない の は、 印刷台 宗の御座修 が、 國民の
らである と論したる が知 さ、 いつれも背、 國體に関する理解 の進ん で未だ
物語るものである。 然れとも特王を説いて、 胡林則徐の祭に、 一種の間亦を興 、た
佛山 の理 熊能出であった。
想 としての王
政復古蹟
熊山は支那を指して中國人 いび、 中性,といび、 また天照大神を以て、 吳の佐伯 に艦
-
第 四 章 șH E - 新 仆 E 型 ト の 結合 三四
三四四
第七編 文政 時代
し奉るなど、思想上、寧説上の闘酷もないではないが、奪王論に至つては、時流に卓絶し
なり。是
てみる。審山は、「もと武家、公家とわかる、はひがことなり。むかしはなきこと
も奪ゆるに出来たるなり」㎞ と稲し、我が國鶴上から、幕府の存在を否定した。即ち王
政復古の説である。然れども藩山の活躍せる五代将軍綱吉の時代は、幕府の威力が強く、
暇令理論上、幕府の存在を否定しても、これを質現せしめる可能性はない。故に王政の復
古は、常分豊束ないと明言してみる。ェ 著し審山に従へば、王政の壊れたのは、濃築の
衰へた結果であるから、もし将来の慮を貸さうとせば、大に濃築を興し、教化を布き、朝
*7

廷に學校を建て、、根抵から立てなほさなければならぬ。果して然らば、幕府でもまた
日、
政権を朝廷に奉還する時機が来るであらうといふにあった。ェ、かくの如き前提の下

\。
に、彼の王政復古の理想が描かれたのである。かくて共理想の現代に行はれない以上、審

熊澤審山の理
想を粉飾せる
山といへども、更に別箇の手段によって、奪王の目的を達しなければならない。されば
山は、碑武天皇以来歴代の聖主、皆天地の間に稀なる功徳のおはしますが故に、帝王の御
公武合鶴論
流は永へに絶える時なく、武家の代になっても、天下を取る人も、帝王となることが出来
ない。君臣の大義は、萬世に五ってかはらないものであるといひ、更にまた、かくの如く

。、シんて 、シ
*
- ダ 〜 しま でも、敬ひ奉らね
*。ド。いってる。 職・即ち幕府をして、奪王の質を撃げしめようとする公武合鶴
論である。時勢はまだ王政の復古を、事質上の問題として論議するには早やかった。これ
王政復古の理想を有しながら、公武合鶴を説くの除儀なきに至らしめた所以である。要す
るに藩山の公武合鶴論は、裏心の主張たる王政復古論を粉飾したに過ぎない。故に同じ公
奪王思想に於
ける二大系統 武合鶴論でも、林驚峯とは、見解の上に著しい相違がある。やがてそれが、将来或は佐幕
論となり、討幕論となり、奪王論の二つに分れる素因を貸し、奪王思想上に於ける二大系
統を貸すものであつた。


浅見湖斎の公
武合鶴論 熊澤審山と同じく、王政復古の理想を有し、一世を指導しようとしたのは、山崎闇斎


流を汲む所請崎門派の人々であった。就中共門人浅見綱斎が最も勝れてみる。綱斎が、


志皇室に存し、幕府の所在地たる闘東に、足を踏入れる事を潔しとしなかったのは有名


話である。湯浅常山の文曾雑記によれば、時機を見て義兵を撃げる考であったといふ。
説は、事質として共ま、受入れる事は出来ないやうに思はれるけれども、靖獣遺言の著述
あるを思へば、かくの如き博説の生じたのも決して不思議はない。同書は忠君愛國の思想
を宣博する貸めに著はしたので、朝廷の御貸めに、國家の貸めには、死を以て霊すべきで

あるといふ事を、支那人の事填を借りて説明してみる。山口剛斎の綱斎先生小博には、先

四 章 奪 王 思想 と 封 外 思想 と の 結合 三四五
第 七 編 文政 時代 三四六
生は則ち、微意を比書に高すと記し、或る理想の下に貸された事を述べてみるけれども、
共所請微意に就いての説明がない。然れども靖戯遺言に録する所凡て八人、共内の五人ま
では、難に殉じ、節に死した人々なるを見れば、綱斎の意中もまたほゞ推測せられる。蓋
し倫理綱常を衰世に維持し、一朝事あるの際、進退を誤らないやうにしたいといふのが、
共精碑であったらうと思ふ。綱斎が個刀の鋼に、赤心報園の四字を刻し、また毎朝東方に
向って個月刀を揮ったといふ博説と併せ考へ、彼が王政復古の理想を有してみた事を推察
すべきである。然れども現在の時勢を顧みる時、綱斎といへども、共不可能なるを思はざ
るを得なかったであらう。故に共著識割録に於て、今の武家政治
家 は、頼朝以来鍵遷を重ね
て来たもので、必すしも徳川氏を各むべきでない。幕府は天皇の御名代として政を撮する
ものであるから、君臣の分を正しくして、朝廷を敬ひ奉れる今日では、承久、建武の如き
撃に出づべきでない。もし萬一朝廷に濃を失するやうな事があれば、共時は高時と同罪に
虜すべきであるといってみる。理想と質際とは、やはり匿別して考へる外はない。かくし
て綱斎もまた、公武合鶴の説を採らざるを得なかったのである。 然れどもこ、に、幕府は
○ * * *い / ●
朝 ーと草麻在日との Mを認 *」
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廷と幕府と の封立を認め
『。天皇の御委任を受けて政を行ふ代理者に過ぎな
政三 政桑 政栗
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古 古松 古潜
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耳 不 た も 人 於 が て 則 進 宅 へ に い
* 自 中 明 の 故 い 。い 豊 講 観測 て 蝶 と
と、篤 興 か 感 弾 そ 狂 徒 し 潤 癖 行 驚い
稀 之 鑑 で 想 正 れ 潤 切 た が と 《 に ふ
し ° 言 あ を 天t に を 歯 も あ 同 こ よ の
* 面 を ら 語 八 は 帥E 茶 の る 門 と つ で
勢 不 著 う れ 修 桑 倒 卓 で ° の は て あ
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よ 篤 し い も 王 松 回 以 王 鈴 に 後 は
つ 之 て ふ の 平 雲 さ 懲 政 の 桑 に じ か
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導 。 建 で 松 之 序 と 凶 衰 保 松 * 謡 2
い 懸 武 雲 「 が す 逆 不 建 雲 よ 豊畑
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な 翁 奥 《 所 書 つ 復 ° 政 記 あ # * 競
ら 之 % 松 闘 ( て 苦 必 橘 は り、黒 綴
は _ 敗 雲 欄 て 。 論 態 ? ぶ 、 * リ ー
* 赤 因 に 臣 あ 傷 で 流 武 後 松 た。
中 不 を も の る 望 あ 瀬 門 西 雲 購
興 可 論 王 蹴 ° 綱 つ 相互 に 天 の 爾 に
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数釜 # 盤 リ 露豊塁 施策
第 七 編 文政 時代 三四八
理想と現質と 王政復古論者としての観測の地位は、軽祀すべきものでなかった。然れども観測、潜鋒
の矛盾
の二人、相前後して水戸藩に仕へ、大日本史の編纂に参興し、殊に観測の如きは、共志道
を行ふの獣に存してみないといふので、綱斎の破門する所となり、㎞ 後また水戸を去っ
て幕府に仕へた。㎞潜鋒はともかく、 観潤の進退が、公武合鶴の主張に基ける事は、殆
んど疑のない事質であらう。こ、にも理想と現質との矛盾があった。
竹内式部の王 かくの如く崎門派の間には、王政復古の説を有するものもあるが、いづれも共理想であ
政復古論
り、これを現在に行ふといふのではなかつた。故に或は公武合鶴に傾き、或は孤掌の鳴ら
し難きを敷するの際、同じ崎門派でありながら、碑道方面の學統、即ち垂加流碑道の流を
汲む竹内式部が、更に一歩を進めて、理想の幾分を事質に行はうとしたのは、それよりも
約牛世紀の後であった。式部は尻に王政復古の説を有し、今や天下を撃げて、将軍の奪き
を知るも、天子の貴いの を知らないのは、「天子御代々不足御學問、御不徳、臣下闘白己
下、何も非器無才」 の故である。されば君臣合鶴して寧問を働み、五常の道が備はつたな
らば、 表下の漢民皆基種に難し、 将軍もおのづから、政権を返上するであらうと考へてみ


」 f
が、韓㎞ 現在直ちに道の行はれないのは明かであるけれども、手を東ねて世の衰へて行
(。、シすべきでないと稲し、㎞力を公家、堂上の教育に用み、更に門下の
公家を通じて、共説を桃園天皇に御進講せしめた。 ㎞・式部はまた 「関東の政、
一條々々京都三公え御相談被遊、勅命にて被取行候哉。共儀は不奉存候得共、一々左様
見及不申候。初論砦細之事、闘外之儀は、御窺にも及間敷候へ共、大事は三公え御相談
之、勅命を請て被貸取行候はゞ、濃築征伐従天子出ると申ものにて、危も安くなるシ
と奉存候」㎞と論じてみるのを見れば、大事は朝命を奉行せしめる位の程度にまで、
権を回収したい考であったらしい。要するに王政復古の像備行貸に手を著けたのである。
然るに闘自近衛内前等これを危み、強いて主上を諫め奉り、公家の進講を止め、尋で共任
に常るものを虜罰すると共に、幕府でも式部を京都から追放した。世にいふ所の質暦事件
論感
復懸
古大
政山

竹内式部に比して、更に共議論の明確なものは、同じく垂加流碑道の流を汲む山懸大武
である。大武は共著柳子新論に於て、皇室の衰微を概き、「至子保平之後、朝政潮衰、毒治
之御、途移東夷、萬機之事、一切武断、暗臣専権、魔立出共私。i室町氏継興、武威盆
盛、名稲将相、質借南面之位」といへるもの、併せてまた徳川氏にも適用すべきで あっ
た。故に「白龍失水、受制小魚。i富不若小國之君」 の御有様を憤り、「天得一以清、地
以寧、王侯得一以貸天下之貞。i故天無二日、民無二王、忠臣不事二君、烈女不鍋
得一以
章 奪 王 思想 と 封 外 思想 と の 結合 三四九
-
-
-
-
第 七 編 文政 時代 三五○
二夫。:貸國計者、赤惟、不如復官制以正共名、興濃築以示共質、君臣無武、権勢騎一、
行禁止」と稲して、王政の復古を論じ、「我東方之政、毒治之後、吾無取也」 と稲して、
絶封に幕府の存在を否定してみる。これが貸めに大武は謀反の疑を受けて、幕府から死刑
に虜せられた。世にいふ所の明和の事鍵である。奪王思想の発展は、是に於て最頂獣に達
した。然れどもそれは、濁り大武に限られた思想であり、いまだ廣く共同志を得るまでに
進んでみない。殊に質暦、明和の事鍵は、却て人心を業委縮せしめた所もあったと見えて、
爾来久しく王政復古を説くものを見ないのである。故に江戸時代を通じて、世上を風魔し
たのは公武合鶴論であった。
水戸光園の公 王政復古の理想を伴はない公武合鶴の思想には、林驚峯以務
武合鶴論

想の片影をだに示した事はなない。奪ろ公武合鶴論者であつたと思はしめる形跡を留めてみ
。シ記に、公家衆参向の序に、どなたやらむ小石川へ御出有て、いろ〜御哺の有
しに、いや〜皇家の天下をとり申た
しに、皇家の天下を、武家へとられ参らせてとあり
と御答ありければ、誠に左様に候
るにては候はす、撮家の天下を、武家へ取申たるにて候
の肯定者であった光例の面目を窺
とて、威敷なされしとなり」とあるを見ても、武家政治
、水府の寧問を代表する安積濃泊の烈
ふ事が出来よう。されば大日本史編纂の継裁として
頭してみる。奪王佐幕は、
は、家康を以て、奪王の質を撃げた忠臣として共徳を
園六代の孫治紀が、自分は如何ほど
比頃から、水戸學の中心思想を貸すものであった。光
r、
場合には、従はな
将軍家が御光もの事でも、皇室に弓を引かれるやうな
からであ
分が平素将軍家を敬ふのは、将軍家で皇室を奪敬せられる
を守

武公 であった。
てはならないと戒めてみるのもェ やはり公武合鶴の説
- -
も - へ〜6

のは、比豊悟を忘れ
を有す も
共他の公武合 光園と同じ頃に、或はまた共後に於て、公武合鶴の説
鶴論者
、頼春
見、堀景山、伊藤仁斎、貝原盆軒、新井白石、中井竹山
である
栗山など、共名を撃げるさへ、煩に堪へないほどの有様

國學者の主張に就いて、考察する必要があらうと思ふ
本居宣長の公 、安永の際であっ
武合鶴論 國學が本居宣長によって、ほゞ完備せられたのは明和
を説き、大義名分を明かにするの
の研究によって、日本精碑を闘明する奥問である。國鶴
三五一
第 四 章 奪 王 思想と 封 外 思想 と の 結合
第 七編 文政 時代 三五二
は、共重大なる使命であらねばならぬ。然るに宣長は、朝廷と幕府との闘係に就いて、極
めて穏かな説を唱へてみる。宣長に従へば、現在徳川家で天下の政を行ふのは、朝廷の御
委任によるものであり、幕幕府といふものが、朝廷 以外に濁立して存在するのではない。土
幕地


や人府民

大名の私有でなく、やはり朝廷から御預けになってみるのである。故に
幕府の命令は、即ち朝廷の命令である。従って幕府は朝廷を奪崇しなければ、道にかなは
ないわけである。また室町時代以来世の中の蹴れてみたのを、織田、豊臣の二将が出てこ
れを鎮め、尋で家康の力により、泰平に騎する事が出来た。家康の功績は偉大であり、朝
廷の御再興あらせられたのもまた家康の力である。然るに世上或は朝廷が、今でも衰へて
みられるやうに思ふもの、あるのは、上古全盛の御代に比べるからで、これを戦國の頃の
御有様に比べたならば、どの位御盛んであるかは、おのづから明かであらう。抑も國家の
盛衰は碑の御所貸で、善悪共に人力の及ぶ所でない。暇令少しばかり國の貸めに宜くない
事があっても、強てこれを改めようとすれば、碑の御心に反く。 「されば今の世の
園政は、又今の世の模様に従ひて、今の上の御院にそむかす、有り薬りたるま、の形を類
さす、跡を守りて執行ひたまふが、即ちまことの道の趣にして、とりも直さす、これかの
)シ 、
上古の 紳随治め給ひし旨にあたる なり」 ほ といふにあった。 要するに宣長の意見は、 世
相の質際から、幕府の存在を肯定する公武合鶴論であり、時勢の鍵化せる今日、故なくし
て上古の御代に騎へし奉るべきでない。現在に於ては、幕府をして奪王の質を撃げしむべ
く、王政の復古を計書するが如きは、却て事を誤るといふにあり、それとなく竹内式部、
山懸大武の王政復古論に反封の意を表してみる。
平田篤胤の公
武合鶴論
比見解は濁り本居宣長ばかりでなく。平田篤胤も共著大道或問には、「午恐撮政、闘白、
、大樹公と申せども、天皇の勅許を蒙り給ひて、官位に任じ玉ひ候へば、是以て天皇の御臣
下なる御事は申逸も無之候。但天皇の御名代として、天下の萬民を御治め在せられ、下々
の者は、近く御恵を蒙る事に候へば、天皇の御次には、右の御方々を奪び奉るべき事に候。
殊に東照宮は、数百年の飢世を治め玉ひ、夷秋を懐ひ、天下の悪政を正して、天皇を厚く
C/

御奪崇被貸在、正しき學問の始をも起し玉ひ、共功徳の大なる事は申逸も無之、常時太平
は 徳
を楽み候も、皆比碑の御恩徳なれば、共御志に基き奉るべき事に候」 とて家康 の徳 を頭



丸呈



、「己 な
し、また古道大意の結びに 天津碑、國津碑への碑忠、是がすなはち恐れなが
ら、天皇また大将軍家への御厚恩を、粗略に思ひ奉らざる一端、是がすなはち雨親に出生
されて、育て、もらひたる恩返しで、直に人間の道で有らうと存するでござる」 とて、幕
府の恩を粗略に思はないのが、やがてまた古道の精紳であると説明してみる。篤胤の思想
第 四 章 奪 王 思想 と 封 外 思想 と の 結合 三五三
第 七 福 克 政 時代 三五四
* „が 正政の復古を論議するまでに進んであない。
日本特剛の肌を以て、 絶對應 の目的 とする風暴がなはかくの知くである。 世上智久
たる食 主の思想が、 公式合體に低いてみたのも、 怪しむには足らない。 これ に文化、 文
夜の際に於ける 一般の情勢であった。 即將王の思想は和常に後述して、 最早それが脚注
の常識となっておだけれども、 比前提から、 直らに王政復古、 明治維新を招來 ,る結論を
導くものでない。 何となれば此站の容主峰 は、 王政復古を以て、 絶對の件 としてあない
からである。 分會非金 を評語 のて行けば、 常総王政の復古~なるべきはすであるけれさ
も、 それまでにはなは、 永い成片を 要したであらう。 即も また時代の要求でなかった。 然
るに海外の諸國於 受けた力强い制数は、 東(國民をして皇室の御殿成を仰さ、 未曾有の
建局を切被:3より外に、最善の方法のない事を破らしめたのである。かくて王政復古が、
必然的に時代の要求となって、 途に明治維新 、と進展した。 而して武器を通る 最初のあ
*成都 對熱 容である。
㎞生教宗 の勢
外第~し て の
欧 主會 ******…**
地線を送 :
**************
***** ( 邈のものに付 5, 4年
みづか らこれ を説明して
金。 金、 性魚、松竹 桃科天下 陰莖 ㎢
方个水不 二百年其入交。 上下標«科平帝後、 有空站、 衣食慾素, 而劉氏之功業 不能從此 反応
而來不成、 正德利用原生之方、 所在如意、 正義大下三盤、 新之語也。 韓戰三集、 以致意思 :生所以
金王室, 而法將條、 樂 性也 說
~稱し。 天下の三盤の ~して休士の事を数え てわる。 此時に常 0卷土の説は、 佐に世上

の常識 となるまでに後述し、 對外上の政策も、 天明、 佐敦以降 これを論するものが多い
然れさºいまだは王によって、 對外間地を解決しよう とするものはなかった。 而して不
若不は、 對外來を完備するには、 金王の質を挙げる のが急降である。 したのか 月 ,
外患の意識 と関胤の意識 とが、 一致する に至る情勢
思想~對外此地 との結合を示したのは、 貨に非平を以て政大 するº かくして特王楠は 、





代っ


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次第に


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。 、



倫命內 以
海唯 式













徐位
民無



國如心體
光之
第 四 章 容 主 炮製 と 野外 患 型 と の 結合 三五五
第 七 編 文政 時代 三五六
と稲し、且「定人心、以名分」てすることの必要を論じた。蓋し名分を正して、人心を定
めるのが、共所請奪王の手段であり、目的であり、事質である。なほいまだ微温的なるを
免れないけれども、奪王思想と封外思想と相結んで、時局を醸梅したいといふ所に、格段
平田篤胤の将
軍職に封する の進歩があった。尋で平田篤胤もまた、伊吹於呂伊志に於て、外に封して内を衛るのが、
新解響
征夷大将軍の重要なる任務であるとの新シを下してみる。比解 が、これまで一部の史
家及び批評家の主張の如く、固晒な排外的の考に基くものでない。封外闘係の発展が、
代の要求をしてこ、に至らしめた事は、前編㎞ に述べて置いた。蓋し識者階級の人
人は、既に外警の刺激に目覚め、如何にせば我等の日本を、安全ならしむべきかに就いて
腐心してみる。海外諸國の侮を防ぎ、共迫害から免れる事は、何よりも急務であった。彼
等はこれを幕府に望んだ。面もそれは征夷大将軍たる職掌から見て、常然の責任である。
奪王懐夷論の
淵源 そこに輝かしい時代精碑が宿ってみた。かくて篤胤は、大道或問の中に 「東照宮は数百年
の例世を治め給ひ、夷秋を懐ひ、天下の悪政を正して、天皇を御奪崇被貸在云々」と稲し、
シを以て、家康の行へる*王の一箇修に数へてみるのは、同じくまた奪王とシとの
致結合を説〜ものであり、おのづから奪王懐夷論の淵源とも見られる。然れども共所説は
なに明腕を闘〜所が多い。比時に常りはゞ組織だって奪懐の説を唱へたものは、水F奥の
== - シーシ -
-= =
泰斗」 がれる會津 正志書であった。 我等は更に 停工匠敵を基調~* る水戶學派 の野外資料
見を検討しなければなら明。
元七
第四章 $H 果 把 大利 外用 型 と の 結合
第七 編 文政 時代 三五八
第五章 擁夷論の淵源及び共発達
捜夷論の基因
江戸時代の懐夷論は、時代により、また共人によって、各々意義を異にし、もとより一
概に論すべきものでない。然れども海外の諸國から受けた刺激に目豊め、園鶴を擁護しよ
うとする精碑のあらはれであることは、共継てに共通せるものであった。されば最初まづ
露園の南下
と國民の憂 露國南下の勢力に封する意識から出務してみる。天明、寛政の交、吉雄耕牛、工藤球卿、
本多利明、林子平、羽太正養等が比事質を知るに及び、或は蝦夷地経営の説を唱へ、或は
國防の急を論じたのもそれが貸めであった。然れどもいづれも皆露國の千島占有を以て、
こO
我が領土を侵したものとは考へてみない。従って彼に封して國権を争ふ意志はなかった
故に球卿、利明、正養等は、露國が千島を競食したのは、日本の教化の及ばないからであ
る。即ち無人の地を拓いたのと相違はない。罪はこれを怒にせる日本にあると稲し、蝦夷
を開拓し、土人を教化する事によって、露國の勢力を防ぎ得られると信じてみた。 ㎞
㎞、。また子平が特に園防の急を叫んだのは、外に封して内を衛る用意の闘けてみる質
際を熟知してみたからである。 面して吉雄耕牛が、露園の侵略策に不安を抱
き、「我篇カニ、西人人ノ園ァトルノ術ァ知チ、國家ノ貸メニ怖催ァ抱ク」といひ、船山 *
で大原左金吾が、露國の侵略を以て國是とするを説き、兵備を講する必要を痛論したのは、
㎞ や、子平と共通の獣を有し、同時にまた、擁夷論の遠い源を貸すものとも見られる。
レザノフ渡
来の際に於
共後文化元年レザノフ渡来の際、林述斎、柴野栗山は、「弘長、弘安中、北條氏より蒙古のあ
ける擁庁論
つかひ、近くは寛文、正保の頃、南蛮船御取扱之義、比上もなき御手本と奉存候」 といひ、
㎞亀井南冥が、青木興勝の答問十策に、最後の一條を闘いた理由を説明して、「三代

将軍の頃までの太刀風にて、厳敷謀罰を加へ、再び得窺不申様に仕度ものなりと申意を、相
述申候を作り可申料簡」であったといへるなど、井に掃懐の説に傾き、國家擁護の手段とし
露人暴行
際に於ける て、兵力の使用を主張するものにか、り、潮く懐夷論に近づいて来た。然るに文化四五年
主戦論
の交、露人暴行の事あるに及び、平山行蔵、蒲生君平等は、はじめて主戦論を唱へた。二人
は共所請入冠の賊を討たうといふのであるから、指目する所は露園に限られてみる。同じ
頃平田篤胤もまた古道大意に於て、「外園の奴原などが放れ島へでも、生ごしやくな事でも
ーロ
すると、驚いて眉を類撃めなんどする者がある。こりや 一面はかない愚かなことでござる。
然れどもこれは、御國人の底心からさうでない。i共外國を強いかのやうに思ふのも、
質は外國びいきの人に言立られて、ちョ いとかぶれるばかりのことで、共底の心には、比
國は紳國じや、我等も碑孫じや、何ぞ毛唐人めが、戒秋どもめが、何程のことを仕出すも
第五章 揮 売 論 の 淵源 及び 共 発達 三五九
第 七 期 夫 政 時代 三 大O
か、 販らしてやるがよいなど ^ いよ、 いやけしから 明思いものが派に有て、 · 慶g
は御國に限って 一人も有る まいでござる」,と戦し、 機來的な思想を宣傳 之 が、 更に大
機亦 思想の 道或間に於て、 家康の衛王を説さ、 東鉄を横かし」 事を列舉したのは、 伊吹於宮本中にい
池板
へん ね光の解釋人 共に、 一般的の機來會に進展しつ ^ ある情勢を物語るものであった。
義來說後達 の かる を 9しも備側西軍金の影響を受けて、 我が図民が、 西の方から追って来る英國の
過程
教方に刺殺せられたのは、 京政、 文化の交であった。 此時に常 6試者の世界排気の結果~
して、 歐洲語國の政治的、 經濟的進出には、 常に武力の後援を作り、 熱力の微弱な國に封
して、 特に非現象の著しいもの あるのを知ってから、 ます()不安の念を高めた。 大規
玄港が英俊二國の通識を疑い、 更に標有人 いび、 新米を語 なと称する英國船には、 油断
が出來ないと論じたのは排英の説であり、 魏 德府機來會 接近してある。 また佐藤信源
が、胸 甲に開國の説を務しながら、密國に資材を許すのを不可~~し、 和親交易ラ議ス、 戲
七國之祭神座修。 若文打排练 » 、 年々格德語州 、 小野 町有之使得英、 後フ大总
布慾 狄* は、鹿に敵 疎まった。熱くて
外壁の製に反応を動かす事多く、 操に英雄 N"1->業の事件から引っていて、 同國地
熱點の出反 …*第に繋(、 彼成の接触による新たなる不安の生するに及び、 幕府の




忍『よ

文政打持令 打挑の説を唱へ、面して幕府もまた、かくの如き不安から解放せられる貸め

に、途に文政八年の 打挑令を頭布したのである。比打挑令は、現在の事情に即して、質行
の可能なる範園内に於てのみ、敢てすべきであつた事は既に述べた如く、要するに打挑つ
共基礎とし
ての擁夷論 ても危険のない場合に限られてみた。ェ 然れども打挑の質行によって、継ての外國船、
=正確にいへば和蘭を除いた他の欧洲船を懐庁するものであるから、共基礎を貸す所の見
解は、即ち懐夷論である。かくして懐夷論は比時にほゞ成立した。面も懐夷論が、幕府の


的 て

政策にあらは るが如く、またこれまでの識者によつて論議せられたもの、如く、た
だ平和維持を目的とする以外、別に深い意味を伴はないものであるならば、能く幕末の思
配して、維新の別天地を開くやうな、偉大なる働きを貸し得なかったであらう。
懐夷論が他日一世を風魔した所以のものは、おのづから特種の理由があった。蓋し國外に

である。比意義に於て以上の懐夷論は、まだ完備したものとはいへない。面して共これに
じめで
あるは、質に水戸學派の懐夷論がはじめ
藤田幽谷の捜
裏論
水戸藩に於て最も早く外警に注意したのは、史館継裁として、安積湾泊の死後、妻微し
て十 #九
て振はない水府の寧問を復興した立原翠軒であった。翠軒尻に日露の闘係に就いて戒心す 刃


第 擁 夷 論 の 淵源 及び 共 発達 三六 一
第 七 編 文政 時代 三六二
る所があり、寛政年間門人木村謙次を、近藤重蔵の従者として、蝦夷、千島の形勢を探らし
す *- 』 - - * 応 五 闘
水戸人 博 ** -* に はすに、
め、㎞また大原左金吾の地北高談を幕府に提出して、共注意を促した事もある。ェ
㎞ 然れども封外の意見を述べた遺書の世に出ない貸めに、経給の策の如きも明かでない。
殊に裂 軒は佐幕に執着する除り、水藩博来の奪王思想に異論を立てるものであったか
㎞ 厳正なる意味に於ての水戸學派の中で、封外の策を論じたものは、事質上水戸學
の建設者たる藤田幽谷を鳴矢とする。はじめ天明、寛政の交、露國圓南の事、潮く識者の
憂慮に上るや、幽谷また深くこれを察し、寛政九年書を藩主水戸治保に呈して志を述べた。
即ち露國今や日本を蹴観せるにもか、はらす、海内荷安の情を抱いて、外患あることを忘
れてみる。天下の憂これより甚しいものはない。然るに我が藩の領地は海に臨み、冠と隣
接するが故に、殊更共備を設ける必要がある。執そ因循始息、生を貧るの時であらうぞと
稲し、懐夷の説を貸して目く、
今北虜之警、歳切一歳。面常路之人、率喜無貸、常鋼以静。以臣 観之、共不知時甚夫。如寛永天帥之
鍵、離世㎞拳、禁翼園家 、騎将程*、家甘老死騎下者、所奪有N。ェ後、 ㎞者、
未必無之。一旦騒援、将数天下之鍵故。幕府羅速運方略、務兵征動、然祀如風稿狗盗、不足以貸憂者、
時成遊園、以示無事。比府以鎮之術也。今海内皆潮於宴安英。以己量人、夏シ水。若有隷兵事者、
︽ 春日、 陈世宗李光也 將其後 成英王在上、 敵疎作與、 陈小报。 而为用
神之術、 弘安提升本也 不亦將平 獎、 而陈德、登斯和反应、各後時 也。 背北條氏
攻读作也、 神奈之使、 前朝正五、 以明宗與被殺。 乃令語研日、 蒙古將與我、 不可不備、 天下將士

経 宜
務勞

Ş使約資本用 於是將士人々将使、 途得議被中將之祭於西海。 雖朝宗社事作,


- --

-
* 之力也 就年成使之末、 世 軍將以說我、 陶宛城時以成敗、 南堂無人、 敵
胡安、 而將天下之士氣 排名李伯、 仲不若北條氏子º 南下級不能建議于麻布、 以故將作之道、 ホ如可
士大夫之術也 夫在無平之日、 科教職之平、 同有本地超议之嫌。 然有將之君、 安不忘位,
_
以將軍令 自有北城之路、 幕府城府下令、 使教府武侯、微備不勝。 此服兵之定機、 不可夫也º
-
?
對內後として 當代の所見が構成 にある事は勿論ながら、 而も上書の主眼,と する所は、 所 前北城の敵 を
純 形容詞
人心を張與し、 在國服兵の質を果け、 水戶道の面日を 一 新するにあった。 故に封
の刺激によって、 內政を整 《 る事を論じてみる。 若 し
、 國をねまし兵を除く する平が出来ない、また岡谷 氏宗 にめらさ
れば、 外患を防ぐ事も出來ないからである。 是に於て高公は更に共意を述べ て日く、
無 几秒、 立足所附方而平衡状有言、 初代其不來、 特許有以備。 期間下情
- -
發性、 用前兆之德、 施出版之政、 無疑人之に、 無光大之說、 武術不胜、 與 民同好感、激前 正、
五章 議 成 體 の 湖 湖 及び 其 發達 三大 三
第 七 編 文政 時代 三六四
つた
幕府に期待する所であらねばならぬ。共 「常鎮以静」の不可を説き、北條の封蒙古策を讃
美し、「堂々幕府、曾不若北條氏哉」とい へるなど、皆 「作内政、以高軍令」 の意に出でた
ものである。幽谷の懐夷論は、おのづからまた、林述斎、柴野栗山、青木興勝、亀井南冥、
平山行蔵等と相異なる所があった。されば文政七年英園捕鯨船員の常陸大津濱に上陸する
や、 常時十九歳の青年たりし共子東湖に封し、頻年醜魔寛密漫海、時或鳴大砲、震
驚我人民、微慢無祀、 共請之何。面撃世始息喜無事。吾恐共或出於放還之策、以荷一日之
安。果然則堂々碑州、無一具眼人也。吾甚塊馬。次速赴大津、稲伺動静、若審共放還之議
則直入夷人之舎、模賞力、慶夷廃、然後従容就官請裁。難出於一時権宜、庶平足以少
伸碑州之正気英。吾不幸多女子、唯有次 一男耳。次面死、則吾祀絶 英。是吾興次、命窮之
時 L


ものでない。 然れども基志は、 志気を鼓舞し、 憶心を高めるにあつた。 海内委然とし
て、また兵革の何もの
可 たるを知らす、警世夢死の間に、戦の危を忘れるの人情は、幽谷の
憂ふる所で の )、かやうの境涯から土民を解放し、明確なる外忠の意識を持っ殆 園の精紳
であり
に更生せしめたいといふのが、議論の根抵を貸してみるやうに思ふ。共懐夷論もそこから
手段として 出務した。要するに懐夷は、かくの如き心境に達せんが貸めの手段に過ぎない。水戸藩の
の擁夷論
懐夷論は、終始比範園を出でなかった。然れども共説く所なほ精緻を闘き、また奪王論との
闘係にも鋼れてみない。これを大成すべき任務を撃げて、東湖及び門人曾澤正志斎に譲っ
た。東湖の説は便宜次編に掲げ、今先づ文政八年に成れる正志斎の新論から考察しょう。
曾澤正志斎の 新論の一編は、懐夷によって民心を定め、然る後我が國博統的の精碑に則り、進取開國
進取経略論
の策を行はうとする経給を述べたものである。抑も鎖國なるものは。我が民族精碑と一致
しない。早晩これを破壊すべき要求が、何等かの形となって表現せらるべきはすである事
進取開園の
精碑に伴ふ は、既に我等の説明せる所であった。 かくて天明前後の頃、進取開園の精碑の更
國威発揚の
思想 生するに及び、常ては國威を海外にまで輝した事のある國史の成績が、次第に回想せられ
るやうになった。本居宣長は安永七年に収戒概言を著はして「大御國に外國もろ〜の、
まつろひまみる事」の歴史を語り、共結語に於て、
シs、天の下中シEなりてょ 、 - -- - --
萬の事もやう〜に、古へに立かへりっ〜、
いともめで度さかゆく御世とし成ぬれば、はるけき四方の國々よりも、みっぎものたてまっり、かの
もろこしの國、はたむつび給はねども、おのづからそのくにつものも、あまりあるまで、年ごとに、
第 五 章 擁 夷 論 の 淵源 及び 共 発達 三六五
世 以
還 繋 慈器 巫
以 制
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經略天下之意冷笑º
, 稱して、 進攻道路の行はれなくなったことを抱いてある。 正志賀は明か に納國の講究者
でない。 而入 新會に於て、 趙國機成の 説を述べ た。 其間特種の事山の存在するの
っから推察せられる であらう。
康成高 の根據 正忠義の信する所によれば、 我が図は 大戰之所出、 元氣之所始、 天=之制、 世神虎隊、
終在不易º.政府縣學生內、文化所傳、 無布達通系 である。 然るに今や海外語國の容 ,
所 となって、 北勢力に悩まされてわる。 此地 から 始れるには、 國力を盛んにしなけ れば
-
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ならないº ㎝… 之定以制族、 政教是以變成、 松る後はじめて 「開放的生·以以化四
將」 あることが出来る。 それには民志を 1 つにする のが 最大の 形で る。 對外の政策は
こ から出後する といふにあった。 かくて正志強は、 現代の監察の
時參の愛 の愛と光能の常人 の 二 つを 挙げてみる。 時効の殺人 は何であるか、
夫日大地制制約有人民 而天荒井岡山海、 維修、 宋代有人联顺利天位 。·天道之笛、 歌手
-
其不可延、 非正之分定、 而大將以明安。 · 而攻政宗介 、 出於本大阪神之義、 川氏心安得 不平


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る。


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Þ.

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演し


であつ
横から引っ くいて、武家政治の開始 となり、更に空間時代に至
第 五 章 議 成 高 の 源源 及び 其 發 过 三大 士
第 七福 夫 成 時代 三 大入
の大道も知れた。 此時に監6、 豊臣氏四大から起って魔術を本が、 關白を以て天下に成分
し、 上地人氏を つに統、 帝室を突破したが、 発で家康の興るに及び、 李 忠孝を以て
走を立て、 遠に二百年太平の業を成し得たのである とい へる後、
登记之時, 大下之土地人民 共濟會於 1、 海內 壘、 航天朝之に、 而李宗之發。 天下之數可開始
安º
と仲してかる。 然 打とも非不能に久しくして使高砂の つから生し、 天下有土の君は安通に
* 3て、 永遠を何とも非怖を設けず、 上下た»利を征するこ~を思い、 國家の安定を
总れる名 2になった。 土地人民村を以て統一 し、 國體例を以て難時すべさであらう~は、
正志賀の見た時教 の疑である。
かくて、
其居正徳 と たた集之效應天下 唯政长之不動、 唐人之關條 時、 唯意見之成動。 故務教師不、 使城破棄置前,
しての被夷
༄༅„
新年 建筑、李** * ︽社
重金平貿 «書令 天下人 之***天下女。
*。所以前也。 金 以吸光 天 之所以書。 佛大 之不 复 „
* * * 以當天下之靈性主地 人民、 玉** * *- „,
- - - - - - …
岩見基難貸哉。比乃千載之 一時、必不可失之機也。
これ即ち時勢の鍵を巨救し、天下を範園して一身と貸す所以。懐夷は比目的を達するが
邪説の害 めの手段であった。次に邪説の害とは何であるか。
昔者碑聖、既以碑道設教、所以絹牧民心者、専出於一、固有成規焉。面事天祀先之意、博之後世、民
-
知報本反始之義英。
これ即も天下朝廷を仰ぐこと天神の如く、孝を以て君に事へ、心を同じくし、志を一っ
にし、共に共忠を輸して、風俗もまた慎厚なる所以であった。應碑天皇の朝に及び、儒教
が博はつたが、教ふる所天祀の粋訓と一致するものであるから、ます〜祀宗の政教を修
明することが出来た。然るに共後異端邪説潮く作り、巫現の流があり、浮居の法があり、
晒備俗學があり、西洋耶蘇の説があり、化を清し、俗を傷るもの枚撃するに勝へない。か
くて忠孝魔し、民志散じ、途に名を蹴し、義を遺れ、天朝を見る富公の如く、上は列聖の
メ〜
化を傷り、下は幕府の義を害するまでになった。國鶴いづくにか存し、天人の大道いっ
にかあると稲し、富國強兵の事に及んで目く、


I

論者方言、富國強兵、守漫之要務。今虜乗民心之無主、陰誘漫民、暗移之心。民心一移、則未戦



下既貸夷虜之有。所請富強者、既非我有。面適足以借賊兵獅盗糧耳。勢心弱慮、富強共園、一日
第五章 揮 売 論 の 淵源 及び 共 発達 三六九
に被


新語




構成













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東く


安山下徽


天號
金金

嫁妝
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天下
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第 七 編 文政 時代 三七二
に置き、然る後はじめて防御 の策を施すことが出来ると稲し、更に



今虜、但請通市、未至戦、和戦之策、似非所論。然世不知通市之害者、共心展戦 必出 和者
。能痛拒絶通市者、難共勢至戦面不長者也。凡事像則立、二者得不像決哉。
べきであると論じた。こ、に
に譲って置く㎞ かがくて正志斎は、然るに今や幸にして、懐夷の令天下に布き、和
既下
決し


向 に

ふ所を知ってみる。比際宜しく守御 の策を講じなければなよ

し、内政を修め、軍政を飾へ、邦國を富まし、守備を煩つの四事を論じた。内政を修める
とは、士風を興し、奪修を禁じ、萬民を安んじ、賢才を撃げる事である。軍政を飾へると
は、騎兵を除き、兵衆を増し、訓練を精ふする事で、騎する所武士を土着せしめるにあっ
た。邦國を富ますとは、富豪の勢力を抑へ、諸大名を休養せしめる事である。守備を傾つ
とは、屯兵を置き、保障を設け、蜂盤、族旗、跳抱の制を定め、洋式のF艦を造り、海軍を
興し、砲墨を築き、大小砲を鋳、資糧を貯へる事である。就中江戸、京都、大坂、尻総、
伊勢、熱田、長崎等の守備を最重にし、蝦夷及び海島には、時に兵を派して巡祀 せしりな
*

すし yよ、よらいよ 、 。まに三叉高切員目坊の加きも、既ね証 用のものであり、な自多を倉反せしめるも


のであるから、これが制限を設け、金銅の輸出は禁止しなければならないと述べてみる。
壌夷論の内容 正志斎はまた、以上三項の中に、懐夷の策に鋼れたことが多い。今こ、に 一括すれば、
(共三)
始息論の反
較 先づはじめに、幾多倫安の説を掲げて、これを反験してみる。即ち暇令外虜の攻寄せるや
うなことがあっても、絶海遠来の寡兵であるから、憂ふるに足らないといへるを評して、
倭冠の例を引き、兵の多寡を以て論すべきでないと稲し、また碑州の兵は、共精鋭なるこ
と高風に藤れてみるから、 憂ふるに足らないといへるを評して、 今や海内泰平の除弊を受
け、士気が衰へてみる。往昔の精鋭を特んで、今日の計を貸すのを忘れてはならないと稲
し、また我が沿岸に来るものは漁船である。愛ふるに足らないといへるを評し、彼等は萬
里を航海して人の國家を伺ふもの、糧を敵に借るのは常然である。故に或は商業を行ひ、
或は漁業を営んで、屯田の用を貸すに過ぎない。もし鯨を獲る貸めならば、共場所は近く
にもあらう。わざ〜絶険を度って、東洋にまで来る必要はあるまいと稲した。最後の一
懐夷の質行 條は誤解であるが、共他は時弊に中つてみる。かくて世を撃げて戦を長れる現状を概き、
酒々として安逸を貧り、携夷の令既に下ってみるにもか、はらす、いまだ賞て擁夷するも
の、ない有様に憤る所があり、
第五
五 章 懐 夷 論 の 淵源 及び 共発達 三七三
第七期 ş 秋 時代 三七 四
个街道 办、 別大下地地者、 徐知所終 失。 然後使 的處月者、 如從高志其物、 所以投之無所在、 而
共被使 火士不應、 松赞高º

すっ
あに






てる
長 だも士

へ必


しい


~ょの

死 の地 に置い た。

最後

鄭成高 の内容 編の 結論,とも見る べ さものであり、 四海を以て 一家 となし、 两性


許の項は、 全編
(共 四)
長許
を 日~成すの雄路を述べ てある。 共設に目く、
1

松的

、期
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º





人類器



四逃難
井海

當以四海姆 一家、 地位 為 一 日、 因如聖












同湖點武仁 欲






將榮
光児率

之接受、 徐知大倫、 張成人起、 使光元




路文人
大觀光





被志
之 鹿机
外、 以及發炎、 使大人免於胡期將同形
仁人之类也 º

- * 内外の 説
大學の平成内外の命を水 ものであるが、陈永眠るなどのみは彼* る --

成龍



,
株潭 &。 知て飛がに愛の徳によって、 包合すべき事を説いてある。 世人在久 'し と
城が協数の
-
思想 な - % ، -* --__-----*
魏 排
«ば、 無意義の排外 部隊 ,るものもあるけれども、 宮は正志義等の破てきさる所で
奈の 親密
あった。 かくて
花生 、 成冰之道不息、 助制學之道不明、 神聖之道不明、 別成旅之道不息、 不變後、 前交於後、 教
不能和容。
***** ~為し、 彼を制するの法に及5
持生态而廣東、 浮在於明萬隆 街大卡、 1 个古、 博度依人、 以照耀安克、 街制水之名而實之、 所以
足兵也º 術論議之名而實之、 所以足後也º 明思家以將廣大下、 所以使民信之也。 三者並舉、 食定、 兵
足、 民信之、 忠孝以明、 天人合 、 南明無敵、 以正陽能、 以夏後來、 商世而不已者、 不致之类也º
これ就顯的に、 政治的に、 經濟的に、 更生すべ さことを説くものであった。 然れともかく
池政問國論 の 知さは、 天下の大業、 武臣の長榮、 固まり親タの就すべ さでない、 相當の成片を要する
を説いて日く、
个变 一定之策、 立不敗之北、 必常为自中國、 外野正發、 上原於太初、 下要於無窮、 途絶望之發制、 船
東照之大然、 路恭子、 総然水水、 千萬世如一 日、 必將四海的關於密松、 使天地間、 無
数、 中原京子、 永光於兩期之歌词、
*Tw 松 巴º :然後大興級領之師、 企天神之根、 神大神之兵、 代天
神之に、 而希氏成、 以方行天下、 秋楽隊之、 陰 本之、 神武不殺之成、 松方經驗、 前正被使海外
諸將、 東映像神 。 亦位后平、 兵们接將光之恩也º
義成書を以て
前 從日 結論 と
これ部ら新會最後の結び である。 北 進攻開國論の 一 班は、 は 推測する事が出來よう。 世
する考察 の 認
羅 或は水戶の機來語は前提にして、 同時に結論である と評するものもあるが、 而 新聞に論
く光は、進取開國の前提にはじまり、 進取開國の結論に終 つてみる。 共融解であることは、
改めて排する までもない。
鄭成高 の内容
(共 五) 最後に注意すべ きものは、 非怖王の説である。 新會には関銃を論すること精細を極めて











三七五
第七期 夫 教 時代 三七 人
拿王 龍 わるけれども、 つまりは公武合體に過ぎない。 家康の創業を許して、 天下之土地人民、 北
治時於 1 」,といび、 天下之勢可調治安」,とい へ るのを見ても、 想像やられよう と思 。 然
れとも聞網を明かにし、 特王を説く所以のものは、 非正の義を正し、 父子の親を教くし、
天下を総面して 1 ~し、 李氏を盗して 心 とするにあった。 設 されば
天龍祥洋在上、 皇派認道、 愛育解除、 大將軍陸戰術室、 以極權國家、 那教各統治療內、 使民有安氏
生、 而免签º 个共部群之介、 李安之法、 所以較大湖、 而跟大亂也 加林院及部非之治、 有所統
馬。 ·欧家所以往 加、 共和與雜誌、 以共部教之介、 李林院之法、 破大湖以极大亂、 死以繼分組分公
之志也。 即其食和修德之心、 布所統 馬。 若大如此, 則大副大將之に、 初於海內、 李安邦之義、 若
於天下、 義父亲子之地、中於永世、 熊本及射之義明、 而取之後立安民日山之 而不妥協 .
雖有百靈體不能移民心º
~いってある。 即將王作業の見解ではあるが、 かくの加さ球性に到達するには、 大名の
カで3出來ない、 泰安のカでも出來ない。 朝廷を仰さ、 鼻祖宗の遺制を奉じ、 我が 図體
に求さ、 若正の義を明かにし、 父子の親を飲(する ことによってのみ、 はじめて封建社 ら
れる~說いてあるから、 律王僧が 論後來の基礎地板を残すもの で あっ た。 特王路を離れ て
*?… , 倉木の意義が全(大は 、 従って*た北捷克會,成立しないのである。 足に於て金王
對社”。 大阪大會 分離 , « か りさ:330 公廳 ,・ 人 の出來~~の~ りた。 ***
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奪王操売 論
*奪王であり。奪 上は即ち懐夷である。世にこれを奪王撮夷論といふ。かくして近世史上
偉大の力を持っ奪王懐夷論が、比時に発生したことは、最も注意しなければならない。然
れども奪王懐夷論の内容、井に共意義に就いては、なほ説明を要するものがある。便宜藤
田東湖の説と共に、後編㎞に述べたいと思ふ。
懐夷論の内容
(共六) 新論にあらはれた懐夷論が、外船懐庁の主張を持つことは初論であるけれども、共主眼
封外策即封
内第 は、寧ろ奪王によって衆志を一つにし、國鶴を擁護し、進んでは國威を発揚する
に足るべき質力を養ふにあった。封外の策たると同時に封内の策である。面も最も重きを
置いたのは後者であった。是より先天明、寛政の交、海外の刺激を受けてから後、或は蝦






く、


い*





夷地の経営を説き、或は國防を論じ、また式
柴野栗山、青木興勝、亀井南冥等は懐夷論を唱へ、平山行蔵、佐藤信淵は露國懐庁の議を
イー
る封外の策である。また蒲生君平

唱へたけれども、いづれも皆純然たる



じ、これを除かなければ、封外の策を完備することが出来ない へ
七十
渉に、策論の基礎を置くものであるが、なほいまだ封外の策が、同時 n、
はならぬといふほど、密接の闘係を持つてみない。面して共これあるは、水藩の懐夷論を
以てはじめとする。殊に君平が、所請三弊の中に奪王のことを数へ、尋で平田篤胤もまた、
第五章 擁 売 論 の 淵源 及び 共 発達 三七七
第 七 編 文政 時代 三七八
奪王と懐夷との間に連絡を求めてみるが、なほいまだ比二つが、絶封に分離することの出
へてみ
来ないほど、密接の闘係を持つものとは考へてみない。面して共これあるは、水藩の懐夷
論を以てはじめとする。蓋し水藩の懐夷論は、封外の策たると共に封内の策であり、懐夷
と奪王とが一 っものである所に、特種の債値を有するものであつた。
擁夷論に封す
る史家の考察 水藩の懐夷論に就いては、既に述べた如く、或は儒教の封外思想を根擁とする排外の説
と共誤認
とし、或は前提旦結論とするもの、外にも、幾多の異論がある。共一は、奪王の手段であ
るといひ、共二は、倒幕の手段であるといひ、共三は、武備を充質し、士気を鼓舞する手

で あるといひ、共四は、海外の形勢に闇い貸めに、欧洲諸園の恐るべきを知らす、盲目

的に懐夷の説を唱へたのであるといふにあった。史家の懐夷論を説くもの、決して勘くは
奪王の手段
論 な
*
とする事の 〜
けれども、概ね以上の範園を出でない。比中、第一説は事質でない。新論による懐夷
誤認
は、兵力虜を制するに足り、政教夷を鍵するに足り、然る後はじめて威を萬里に輝かす
ことが出来るといふ期待の下に、守御の策を講じ、質力を養ひ、共所請長計、即ち進取開
國の撃に出っべき貸めの手段である。面も長計を策するには、國鶴を明かにし、名分を巨
のが、寧ろ先決問題であるといってみる。決して奪王の日的を達せんが貸めの手段でない。
奪王は即・「懐夷であり、懐夷は即ち奪 土であり、絶封に分離する事の出来ないものであつ
討幕又は倒 た。また奪王の意味を、倒幕または討幕を伴ふものとするならば、第二説と同じであるか
背兼 の手段 と
する事の 誤 ら、こ、には略して置く。第二説の如く、懐夷論が、本来の面目から離れて、倒幕または
討幕と同じ意味に鍵化したのは、文久以後に属すること、近世史の立説する所であり、説
明の必要さへ認めないほど、顕著の事質である。それ以前に於ては、懐夷論は、携夷論と
武備充質の
手段とする しての特種の意義があった。比事は、なは後編にも述べてある。第三説は事質に近いもの
事の誤認
であるけれども、最後の結論を説かす、また奪王論にも鋼れないのは、龍を書いて眼を獣
海外の形勢
に盲目なる
じないのと同様である。水藩擁夷論の眞相とは隔りが多い。第四説は、最も魔く行れ
が貸めの主
論 最

張とする事 最も多くの誤解を伴ふものである。抑も揮夷論務達の過程に於て述べた如く、事質上棋成
の誤認
なるものは、海外の形勢に通暁せる人々によって、力強き主張となった。蘭撃の泰斗大
1

ニョ
槻玄澤の排英説、同じく高橋景保の擁夷論、蘭學者でないが、蘭事者との交遊多く、西洋
史の著作もある佐藤信淵の排露説を見ても、共情勢を察すべきであらう。曾湾正志斎の語
れる海外の形勢の如き、もとより蘭學者はどの確質性はない。従って誤解があるけれ。、
東亜に於ける日本の地位に闘しては、ほ*正確なる程度の智識を有してみた。シ
は、開園説を唱へたものに、比較的蘭學者の多いのを見て、彼等が海外の形勢に則かなる
を思ひ、開園の説を有するものが、先見の明に富み、携夷の説を有するものが、無㎞の
第 五 章 揮 裏 論 の 淵源 及び 共 発達 三七九
第 七編 文政 時代 三八○
論を試みたとの暇想の下に、推断してみるやうに見えるけれども、比暇想の全然誤解であ
る事は、章の進むに従って、おのづから明かにせられるであらう。なほ特に注意しなけ
ばならないのは、懐夷は絶封の手段でないといふことである。幕府の打挑令が、打挑へば
懐夷の可能性 打挑ふ事の出来る可能性の存在に立脚せると同じく、水藩の懐夷論にもまた、それが考慮
を考慮せる主
張 れ てみた。新論による懐夷論が、欧洲諸園の迫害から免れる貸めに、提唱せられた
いふまでもない。共 時もし我


するに足り云々とあるやうな期待の下に懐夷論が主張せられた。かるが
精鋭なることは萬國に勝れてみるか ら、少しも恐れるに足らないとい へる説を験して、そ
れは過去の情勢で、今日の情勢でない。二百除年の泰平は、士気の類魔をして、共極に達
せしめたと述べて、世人を戒めてみる。かくの如く士気の類魔せる兵を以て、欧洲の強國
壇売論存在の
意義 と戦を開くなどは、殆んど醸期しない所であらう。面もなほ必戦の豊悟を説いて、擁夷を
論じたのは、基頃の質際の有様が、これを論議せしめる除地のあった事、たとへは次の天
シ代に起れる米船モリッシ跳に封する砲撃に徴しても、容易に認識せられる。如何なる
シで*、存在の除地のない所に発生すべきものでない。共除地があり、存在の意義があ
* } ィ - 員 " Ly *** ー 』ー ㎞
シ 。ー。ム 、 り #* 、リシ員 り もり引シ 〜 し 、?、シ 、 ー *A* ㎞ ㎞ 、 、シー *、* き * シ〜
ればこそ、発生もすれば、勢力ともなり得たのである。 遥か後のことではあるが、嘉永 ハ
戸湾昭の 年べリー渡来の際、水戸着昭が、共虜分に封して、老中阿部正弘のシ、
打挑の不可を論じた時、謀臣戸田造軒、藤田東湖に手書を授けて、シ。
本文を通り 我等シし候は、有志の人々即候ハマ、定て不シニて、引シ
へ共、先年の慮ハ、先より戦争を仕かけ候ニ無之候へバ、打挑候へバ、退散可シ“、。
戦争ニ来り候故、比方より打挑候を、待申候もの故、打挑候へバ、彼が術中ニ*入*“、。
打放し候へバ、敵封ニ相成候故、たとへ浦賀ハ引退候ても、大島、八丈島、無シ人民。
れ、共上運上米等妨可申、又共上ニも、度々浦賀へ来り可申候虜、 傘て我等申候船も無之、筒も不足
故、逆も可勝事ニ無之候。ェ
擁夷論の精紳 蓋し海外諸園との接鋼が起り、次第に共勢力に悩まされながら、外に封して内をシ
意が出来てみない。宜しくまづ共用意をしなければならないといふのが、構成論のシ
ある。懐夷の貸めに、恐るべき結果を生することの換想せられる場合に於ても、な はこれ
\
を質行しようといふが如き無謀なものでない。質行しても、園家の前途を、シ( *
がないと信せしめた場合であるから、携夷論が主張せられたのである。比非常に微 。
闘係を意得しなければ、水戸藩の立場を理解することは出来ない。なに天保時代に*。
三八 一
第 五章 揮 夷 論 の 淵源 及び共務 道





つ。
*


第六章 術上明國論の提唱
佐藤 信仰 の字
內 相依
文化年間開國志略の 説を建て 、 進取的の防御 茶を論 した佐藤信洲は、 文政大年 に宇內
胡同級後來を若はして、 世界の併合を説いた。 即も
自大御國 公 、大地)最初 成 し ル関 シテ、世界的图 )根本 テリ。 放射能ク其根本 サ部統 スルトキハ 、
则世光秀 2能像トスペク、 両側)非文、 非正使トスペシ。 李神世)古典クル 、 所知市海峰
潮之八百事也トハ、 良和伊邪那岐大神)、 池袋作之男命 李俊シ關フ 新すリ。 然 レ パ別世界的政 2 年
生す安永 ルハ、 最初 m 9 平野 生タル者 > 業務タルコトナル º
迪政問國の精
神 の 更生に伴 ~い へ るは、 牛肉の統 は、 我が図の大藏 たることを説いたのである。 若しかく の知さ考
よ 字内 布倫
本居官員長
は、 進取開國の精神の更生 した頃から、 日本主義者 の間に起 った。 されば本店長は、
高天原は英國 一同に載く新の高天原にし て、 天照大御神は、その天をしみ しめす制前にて しませば、
宇宙の間にならぶものなく、 そこしな ヘ に天地の限をあまれく認しまし~)て、 四海的风、 比佛德光
を愛らす といよことなく、 何れの図 とても、 比大御神の御殿にもれては、 日开時も立つ ことあたは
す、 世中に至て食で、 ありがたさは比大御神なりº :さてかくの如く本側は、 天照大御神の御本
國、 その 基納のしろしめす 神風にして、 英國の元本大宗なる御料なれば、 商民共に、 この御園を彼
載さ、 正版して、 四海の内みな、比まことの道に依 c道はでは、 かなはお ことわりなるに:
三八]
第 六 章 ș H 開 因 高 の 提唱
第七福 夫 政 時代 三八四
本田俊東
脚は、 正神龍生の神木材に て、 天皇は共約子孫に被保在彼 は、 世界西は、 悪く自西に従い素るべ
會導 正志書
いび、 會津市忠義 も また、
熊、 神州者大關之所出、 元氣之所始、 天日之制、 世神農炮、 終古不易。 同大地之 光百、 而两國之稱
紀也 越野牛肉、 文化所は、無か遵義安納。
してい へ るなど、 いつれも背同じ思想 の流に浮気ものであった。 信湖は、 宇多川文院の門に
遊んで、本草及び和附の地点を挙 の安、宜長、 德溫の若者 によって成が風の古典を知り、
登でみから起社 を研究し、後また神道方古川派中郎の門に入る。 縣學者( 學か
ら受け た影響に基くものであらう。
信源の経路客觀
信州の所調他同の策は、 元 ッ他那 フ經略 スルノ 法 、 現クシテ政 ッ キ指す新 形 之道
トス。金 術 、世界的國中 於 、 中國 2 シアを食,为 山地 、 支那國 海湖
ッ取 す場 キナシ」,とて、 よう高刑 を略し) 支那本土に及ぶ べ さを説いて、 専ら武方法を
*」、 民に 回カを逆向する体に及んで ある。 然り すか(の 知道政齒輪の祭が、 明代に
こ #** 「 も日シ *} }、{}
於て行はれるものでないことは、除りに明白であった。故に
シ。
然レドモ将ニ脳外ニ 事アラントスルニハ、先ゾ能ク内地ヲ経輪スべ
といひ、また
満溢シ、武器
経済大典ノ法教既ニ行ハレ、継園ノ人民既ニ安ク、物産盛ニ開ケ、貨財多ク貯へ、兵根

鋭利ニ、船舶既ニ裕足シ、軍卒既ニ精練シ、面シテ後ニ、壁テ海外ニ事アルべシ
、所説の放脳なる
と稲し、共将来の事業たるべきを明言してみる。世上の識者往々にして
を見て、机上の空論、鬼面人を威すものと批評するものもあった。古賀制番、
陰㎞ の如きがそれである。然れども質は、赴倉の鍵革が行はれ、國富み
で着手すべき理想を語るに過ぎない。然らばこれに先つて行はうとする改革案
信淵は先づ帝都を定める必要を論じ、
スルコ
チ撰プべシ。:王都ラ建ルノ地ハ、江戸チ以テ天下第一トス。王都ラ比地ニ定テ、永ク移動
シ。
ト無カル べシ。浪華モ赤天然ノ大都曾ナレバ、之ヲ四京トシテ別都ニ貸スべ
くて江戸を以て東京と定め、皇城の四方に官省を置く。中央政府は、太政、
第 七 編 文政 時代 三八六
の出づる所、碑事豪は紳事を掌り、教化豪は教育を管し、農事府は農政を治め、賦税を収
納し、物産府は殖産、興業を掌り、百工府は、諸府、諸城の修理、舟車、武器、農具等を
製し、融通府は財政、交易の事を挑じ、陸水雨軍府は軍務を掌る。また全園の行政匿割を
東西の雨京と、府中 名古屋 勝所㎞ 高知鶴 大泊 撃能本 博多 松
江㎞ 金澤 沼垂㎞ 青森 仙豪園・南部 の十四省に分ち、西京にも三発六府の
吏員を派し、十四省には節度使を置いて、省内の政を継べしめ、國ことに國司を補す。雨
京十四省共に隷属の兵士があり、部内土着の人民から精選する。諸侯を封するには、三高
石以上二十萬石以下とし、三萬石以下は、魔米を支給して土地を興へない。
進取経略の方 以上は信淵の理想とする制度改革案であるが、共部分的の説明の中に、闘西地方の物産

を述べて、「百工府ノ官人等、ョク共工夫ァ凝スニ於テ 、尚種々精好ノ妙品ァ作リ出ス
必定ナリ。営ニ日本國中ノミナラズ、遍ク世界萬國ニ輸送シラ、之ヲ互市スべッ」といひ、
また四園方面から、フィリピン諸島を開拓すべきことを論じて、「年々五千人ッ、モ遺シラ、
比諸島ヲ経略シ、潮々ニ人ァ植テ開拓セ 、数年間ニ、南洋数千里ノ地、悪多版圓ニ入
ルべ シ」といひ、更に 「仙豪、青森雨鎮、諸州有除ノ米穀ヲ以テ、唐太島ョリ比ヲ基龍
ニ輸シ、金澤、沼垂雨鎮ノ除米ァバ、満洲ノ南海諸洲ョリ、エン河、ャラン河、ュ レ 河等
破と 封
王のす外
政管 る 策
復論 現 を
古 状前
論 打提

あ 司 れ る る 。 を は 本 蝶 。 し ば ス く
る を の 所 朝 説 _ 書 我 信 よ . ル 豊
か 補 も で " 廷 き 王 に 等 淵 う 其 ニ 港
ら し、廻 あ 面 ? 。 部 於 ? ? と 宇 及 意
* " 何 る し 掌 新 を て 注 進 す 内 ン 輸
歌 節 な 。 て 握 政 建 ." 意 駆 る 混 デ シ
懸 度 る 彼 こ に 府 て 具 し 経 進 同 " "
の 使 範 は > か の な 豊 な 略 取 の 妙 初
制 を 圏 ま に > 組 け 的 け ? 開 策 策 。
要 し に た 帝 る 織 れ の れ 説 國 は ヲ 通
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る、れ す 大 設 れ すで ら 論 ら な の 力 土 易
國 を べ 名 け 王 る な は な ほ 策 の 人 愛
民 線 き を る 政 な い 述 い 微 で 後 乏 篤
皆 べ か 二 と 復 ど と べ の 細 あ 援 婦 シ
兵 し は 十 い 古 " い て は の つ の 服 "
主 め " 萬 ふ の 総 ひ の " 黙 た 下 セ 以
義 " 明 石 の 理 て " な 制 に ° に シ テ
? 政 瞭 以 は 想 皆 江 い 度 解。 い メ 其
探 魔 に 下 ." を 茨 戸 _ 改 れ 植 ベ 夷
用 直 記 三 徳 語 皇 を 面 革 て 民 " 秋
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第七編 文政 時代 -
三八八
あるかの如くにも見えるけれども、政治の運用が、郡懸制度を基礎とする中央集権の力に
侯つ所多からしめようとの抱負は、随所にあらはれてみる。要するに信淵は、幕府の存在
郡懸の
を否定して、王政の復古を夢み、諸大名を削平して、郡懸の治を布き、中央集権の質を撃
げる考であったらしい。これ即ち封外策を前提とする現状打破の策論である。
封外策として 抑も我が識者が、外警の刺激を受けてから後、封外の策を完備するには、同時にまた内
の政治改革論
の発生
政をも、改革しなければならないと説くものが多い。蓋し江戸時代に於ける政治の類魔は、
既に早く寛文の頃、下馬将軍酒井忠清全盛の時代からはじまり、貞享の改革、正徳、享保
の改革、寛政の改革が必要とせられてみる。また泰平の除弊は、元藤の時代、明和、安永
の時代、文化、文政の時代に於て、著しくあらはれてみる。これにつれて政治改革の議論
も、山崎間斎、 熊澤藩山、騎 来生但徳、 *太宰春豪㎞をはじめ、幾多の識者
によって提唱せられた。然れども概ね皆、貨幣経済の発達に伴ふ武士の窮乏を救ふのを、
主たる目的とするものであり、幕政改革の如きも、期する所はやはりそこにあった。然る
に外*に接してから後の議者の政治改革論は、武士の救済といふゃうな部分的の間地より
も、寧 の多〜、國家及び園鶴の擁護に重きを置かしめたのである。か〜して封外策の 一内
容をなす政治改革論が発生した。林子平は共最も早いものであり、軍制の改革、風俗のに
正をはじめ、武士をして土着せしめる事、文武奪備の大學校を起して人才を養ふ事、産業
を盛んにし、民をして富ましめる事を論じ、 ㎞で杉田玄白は、「申も恐れ多き
ことながら、比時節は、 世将蹴の萌見えたるやうなり。 専ら中興の御政道を行ひ可然御時
節かと存る也」 と稲し、世態鍵革の兆あるを述べて、幕政改革の必要を説き、 ㎞ 古賀精
里また同説を唱へ。 更に蒲生君平は、王室を奪び、諸侯を富まし、百姓を築ましめ
る事が現代の急務である。この三事を敢てしなければ、外患も防ぐ事が出来ない、治平も
望む事が出来ないと極言した。 然れども読れも皆、幕府によってこれを行はしめよう
とするのである。いまだ常甘て王政復古の思想と相合して、現状打破の策論を説くものがな
い。力強く奪王を主張した曾澤正志斎の改革論、即ち奪王懐夷論でさへも、比問題には鍋
れなかった。面して共これあるは、佐藤信淵を以て鳴矢とする。蓋し奪王開國の説であっ
た。然れども王政復古論者にして開園を説くものは、前後たゞ 一人の信淵あるのみ。面も

信淵もまた、幾もなく懐夷論に約鍵したので、爾来開園論者は、悪く皆佐暮論者に限られ
てみる。共事情、共理由の如き、質に本編の主たる研究題目であるから、章を逐うて闘明
しよう。
第七章 奪 王 開國 論 の 提唱 三八九
第 七編 文政 時代 三九○
第七章 文政時代の概観
義の封

挑策

意て
汁と

文政時代は、江戸時代の隆治共極に達し、上下相率みて歓築に比り、泰平を粉飾するを
以て能事としてみる。されば露人の暴行、英艦の脅迫も一場の夢となって、次第に世俗の
記憶から遠ざかり、世の中はいつまでも事のないやうに思はれた。蝦夷地の経営が、老中
水野忠成の専断によって中止せられ、閣僚も共議に興らなかったといふのでも、時勢が推
測せられる。然るにいまだ幾もなく、同じ幕閣が打挑令を布いたのは意外であった。世に
博ふる所によれば、打挑令調査の任に常ったものは、老中大久保忠眞であるといはれる。
㎞ 町奉行筒井政憲が、幕府に提出した答申書に「異園船之儀ニ付、大久保加賀守殿 ㎞
へ別段申上候書付」とあるを思へば、㎞ 蓋し事質であらう。比事質はまた一面に於て忠
眞の勢力が、閣中に伸びて来た質際を裏書してみる。忠眞は、幕末の偉人川路聖護が評し
て、「加州は精忠の執政にて、御同人長く老中の職にあらんには、赴機の大幸に可有之候」
聖譲随筆 (川路聖 -
まい A * *} }f に、
㎞。といへるほどの人物であるから、基施設の如き、おのづから忠成と異なる。
つ たやうに見える。但し共施設が、果して適切であったか否やは別間地であるが、
B方
外警に封する意識の衰へた際に、英園との闘係を考慮してこ、上出“*。 は、忠成の行へ

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る暇夷地経営の中止と同日の談でない。然れども比政策は、共存在を可能ならしめた時勢
に立脚し、諸外國と輸痛を争ふといふよりも、打挑へば打挑ふことの出来る外船を、近寄
せない貸めであった。打挑の可能性を伴はない強力の艦船に、比策を適用することは、幕
府の好まない所である。また好むと好まないとにか、はらす、それだけの質力を有せざる
我が國の、貸す能はざる所であった。故に打挑令存在の債値は、打挑っても差支のない時期
に限られてみる。共可能性の失はれた時は、即ち存在の意義を失ふ時であった。世或は、
幕府が懐夷の策を執ったのを見て、封外策が著しく鍵化したやうに考へるものもあるけれ
ども、事質に相違してみる。既に述べた如く、所請避戦政策は、正保以来、歴代の幕閣の
踏襲する所、いまだ常て放棄したことがない。忠眞等の見る所またこれと同じく、兵双の
間に相見えるなどは、元よりはじめから像期してみない。打挑令の精碑が、幕府の博 統的

な避戦政策と、絶封に抵鋼しなければこそ願布せられた、かるが故に時勢が鍵化し、打挑
令存在の可能性が失はれ、共避戦政策と抵鋼する恐のある場合には、常然撤回すべきはす
である。天保年間途にこれを撤回して、名高い新水令を布いたのを見ても、蓋し思ひ牛ば
に過ぐるものがあらう。要するに打挑令の煩布は、政策の鍵化を意味するものでない。
士民の豊醒に
封する識者の 比時に常り 世上、外患に封する意識の衰へたのを憂ふる識者もまた勘くはなかった。町
第 七 章 文政 時代 の 概観 三九一
第 七 編 文政 時代 三九二
努力 奉行筒井政憲が、「唯々平日、異園人と申者は、人を欺き人を侮り、可悪と申儀能々申論、
百姓、町人共逸異國人を憎み、日本之馳辱を取間敷と申心を生じ候様教候

&
は、



日に7* 筒井政 Fこt

|
〜と
心にて、一廉之助に可相成哉」㎞・と幕府に具申してみる
の 手段であった。寺赴町勘定の三奉行を中心とする美容間有司は、人才の淵議であ
刑の一勢力である。面して筒井政憲の所見かくの如くなりとせば、これを立誇すべ

リ し
**
き何等の資料がないとしても、打挑令の裏面には、或は比用意が含まれてみたかも知れな
ふ 。また松平定信が、外患の恐るべきを説いて、荷安の情を抱く人々を戒めた
はり時勢に平かでないからであり、曾澤正志斎が、民を必死の地に置いて、守御
は の
じようとしたのも、世態人情の衰類に、激する所があつたからである。面も世態人
識者 が出来なかつたけれども、世を憂へ時事に激す
指導者として 地位にまで進み、能く群集を指導して、明治維
の識者の地位
懐売 論の鍵遷 夷論を見るに、共はじめは、露國の侵抗行貸を鷹徴することから出発した。然る
に英園に封する危棚の念の生すると共に、識者の眼は潮く海外に注がれ、欧洲の地理歴史
の研究に従ふものが多い。か〜して彼等は、風洲列園の料済的、政治的進出の海員特田に就 い

- ---
て意識する所があり、更に廣く戒心せざるを得なかった。これが貸めに、或は蘭學者の排
英説となり、或は蘭學系統の士の排露説となり、また或は蘭學者の懐夷論となって形を整
へ、更に水戸學派の奪王懐夷論となって、ほゞ完備したのである。面も完備せられたる奪
王懐夷論は、封外の策であり、同時にそれが封内の策であり、特に封内の策として、より
多く存在の意義があり、債値があった。懐夷論の内容にも、著しい鍵化のあることを、理
解して置かなければならない。
㎞ 文政度に於ける識者の封外策として、最も注意すべきは、開園論者たると、携夷論者た
るとを問はす、共に重きを内政の魔革を置いたことである。比政論は、天明、寛政の頃か
ら行はれてみるが、まだ力ある主張とはなり得なかった。然るに文政度には、みづから内
に顧みて、國家の現状に多大の鉄陥のあるのを意識することます〜深く、國内魔革の業
を大成しなければ、到底前途に横はる不安を除けないとの確信を高め、これを力説して、
㎞ 一世を指導しようとした。即ち或は、王政を復古し、富國強兵の質を撃げてから、開園遠
略の策を行ひたいといふものもある。封外策を前提とする現状打破の策論であった。また
或は、奪王によって衆志を一 つにし、百弊を除き、君臣合鶴、撃國一致、以て困難に鷹り、

國鶴を擁護しなければならないといふものもある。奪王懐夷の説であった。かくして開園
第 七 章 文政 時代 の 概観 三九三
あ事
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のる よって 信淵 佐
重要
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月シ
1

第八線 H人保時
第1 章 業組 でリソン朝の渡來,と共約藝
モリソン酸 の 天保のはじめ た州の編組 後、 江戸 へ航海の途中屬原に達 か、 太平洋上に標。 こと十四
術資入法
ケ月、 死亡 するもの相 つぎ、 斯(生在 せる音吉、 岩吉、 久古 の三名は、 亞米利加西北岸の
クキン ・ チャー ロット島に深有した。 彼等は不幸にして、 心なさ士人に捕 、 つれたが、
シピャ河口に於て、 英國手 及會就の派遣其に救はれて英本國に送られ、 更に英國 小鹿港
に韓法 やられ、 獨通の各教師グッラフ の状突を受けた。 若し英國政府は、 機會を見て、
日本に送り向ける考であっ たからである。 幾もなく記後の先人正殿、 道三郎、 カ
部の四人も、 フィリピン に滞在し、 イスメニャ官僚 の病 のに救はれて、 また期徒に到着し
た。 此時廣東に於て東洋政務 に従事やる米國のオリ フォント會社は、我が標定の前後して
(

港に来たのを見て、 これを日本に護送するを機會 に、 通商の開始を計畫し、 航船 º ッシン

號を派遣する ことになった。 かく て モリンシ 院が、 七名の深民を載せて処 に入港したの



は 一 八三七年七月三十日、 我が大保 人 年六月十 八日 で ある
第 1 ș * 動 º > > ン 酸 の波来 と共 組 聚 元五
第 八 編 天保 時代 三九六
*、
他の成書に譲って詳しく述べない事にする。史學
雑誌三十三編にも、田保橋教授の研究が載っみる。
魏行
リ浦
ソ賀
ン奉

砲の
梁モ

*
ちに砲撃の準備を整へ、
以て、封岸なる富津の砲豪にも通告した。比二藩は、かねて有事の際の出兵を命せられて
みたのである。幾もなく資統は途に砲撃を加へた。モリッシ跳は、平和の使船たることを
誇明する貸めに、海賊共他不虜に備へる武装を解除してみたから、驚いて野比濱の沖に退
却した。共夜資統更に兵を野比濱に進め、翌朝再び砲撃を加へたので、モリッシ跳も目的
の達し難いのを暁り、途に退去した。面もなほ事の成否を試みるつもりで、鳥羽港に入ら
うとしたが、風波に支へられてこれを中止し、七月轄じて薩州の山川港に船を寄せたので
ある。即ち形勢を探る貸めに、庄蔵、毒三郎を上陸せしめた所、やがて二名の同藩吏を伴
うて来た。藩吏は、上官の沙汰のあるまで滞在することを命じた。然るに藩府が、家老島
津和泉を急派して砲撃を加へたのは、やはり打挑令に従ったのである。モリッシ競辛うじ
て同港を脱し、空しく婚港に騎った。七名の漂民は、共後魏港、香港等に住して職を求め、
騎園を断念したといふ。他日海外から騎園せる我が漂民の内には、シ見
警三郎㎞帯公記、亜墨

た。ェ ㎞
モリソン酸度 越えて天保 九年六月間組が 長崎に入社し、 新任の中比方 メランドソン の浅水した時、 前
來 に関する関
人 の 報告
在の甲北非 1 * シ~共に連署して、 內省の計者を長崎本行入世與正よで提出した。 其和
解には 「モリンシ,と中 王 ヴレス般·エグレス之商館ん江府 へ向ク在出し、 . 江府近海
へ至被處、 石水夫を被打線條得共、 場所を見線、 旅を入海船致肝硬度、 夜中石水夫四邊、
淡 地方有之、 魔王 》本船 《 向族出之內、 水 艇 中條得英、 幸 して 1 人も手賞
無之、 年去直 延を親が、 廣州 へ向ク出航いたし彼族、·龐克島ん軍李白人除も出張有
之、 鐵道、 石水夫等を打放候得英、 少も熱中 列作無之修。 有能 事組 無之故、 武器等
之術 も無之修饰、 右校理不器之琳 娜、 大雅 いたし彼得共、 終 些 場を逃れ、 アマカ
ア へ 放射雕像 。「石之主意 、第一 環流之日本人七人、御常地 へ 復發掘調度 との趣修得英、
內實 高度随之ため、 船出修由」,とあり、 深民也人の内三人は 「アメリカ州之西子之塔
て火羅盤、 同所º » ドン 酸 飲0、 夫のアナサ 絡 r他の四人は コンジ
島之路 て没羅盤、 イスメニャ國之船 てアマカソニ 僑法相像」,とい ぐるものであった。
在外孫氏 の護
松 に翻する加
安楽行の何
地**期を英殿 試してある外には、 最も正確に モリンシ城池水の始末を報告し てあるo
是に於て本行は、 鹿港に送り神 へ されたセ名の標民をば、 南人に命じて、 再びき込むしひ
べ さや不老 に就いて、 李宗の新分を仰いだ。 此文書こそ、 後日經多の誤解を生きしめた基
第 * 9 > ン 酸 の 波 来 ,と 共 服務 三カモ
第 八 編 天保 時代 三九八
であるから、全文を掲げて置く。
比度入津阿蘭陀船新古かひたん、横文字封書差出候間、和解貸仕候虜、漂流之日本人七人乗組、モリ
ソンと申ェグレス船仕立、右之漂流人差越候趣ニハ候得共、内質ハ商願候ため出船之山ニて、江府近
海へ至り候始末等委細ニ申立候。右 ハ去ル六日入津之節、風説書一同可申立答之虜、認置候横文字、
比節見出候付内密申立候段、雨かひたん申之候。右之通異園へ漂流龍在候趣ニ付、手寄も有之候ハべ、
重て入津之節、連渡候様可仕旨、常秋阿蘭陀船出帆之刷、申渡候様可仕哉。比段御内慮奉伺候。以上。
成 六月 久世 伊勢 守
漂民護送に闘 幕府は、奉行の伺書を諸有司に示して共意見を徴した。これに封して勘定奉行内藤短佳、
する幕府より
諸有司 への諮
問 明楽茂村、勘定玲味役中野又兵衛、村田幾三郎、根本善右衛門、及び勘定方の面々は、
勘定奉行等
の答申 和蘭陀より連渡候儀ハ、文化四卵年先例も御座候間、手寄も有之候ハマ、重て渡来之節連渡候様、騎
帆之紅毛人へ可申渡段、伊勢守へ被仰渡候方可然哉ニ奉存候。
林述斎の答
中 といひ、儒役林述斎は、
伊勢守伺之通、阿蘭陀出帆之刷申渡候ハ、共通被仰渡初論之儀と奉存候。Q㎞
大小日付の といひ、大目付碑尾元孝、目付水野忠一は、
笠合中
日本漂流人之儀ハ、何園候共阿蘭陀へ引受候得バ、渡来之節連渡候趣ニ 御座候間、帝ガ伊勢守相何候通
被仰渡、不苦儀と奉存候。灯期鮮
-
漂民護送に闘
する幕府 といひ、いづれも奉行の何の如く、沙汰すべきことを答へてみる。たゞ評定所一座のみは、
間人へ の依頼
れども、 幕府は衆議に従ひ、同年十二月「書面伺之通、漂流人手寄も
御座候 ゃ、入津之節連渡候様、阿蘭陀人へ可申渡旨」を、長崎奉行に指令してみる。翻㎞
漂際民護送の
民 督
促 かくて奉行はこれを蘭人に博へた。然るに共後何等の消息にも接しないので、同十三年幕
府は、再び長崎奉行に命じ、蘭人に質問せしめたが、翌十四年に至り蘭人は、漂民等今や
騎國の意なく、且「エグレス」臣下のものに被召抱てみるから、強て連れて来ることが出
来ないと答へ、比問題が潮く落着した。ェ㎞
英船渡来問題
の発展と共事 諸有司の答申書には、漂民の外、英船渡来の時の虜分にも鋼れてみる。蓋し彼等は、モ

リッシ跳が近い内に、漂民を護送して来ると誤解したからで、林述斎が 「本邦人漂流候七
人を、エゲレス船に乗組、送越可申之由」 といひ、勘定奉行内藤矩佳等が、「外國ん交易筋
ニ付、通商之儀相願候ため、漂流人連渡候共」 といひ、大目付碑尾元孝等が、「暇令日本漂
流人召連候迎も、江府近海へ乗入、共上商責等相願候心含ニも候 ゞ」といひ、評定所一
座が、「漂流日本人貸乗組候異國船、渡来可致哉之風説書」といへるを見て、これを察する
ことが出来る。もし幕府が、蘭人の提出した所請風説書を、共ま、示したならば、誤解を

\
七、
生じなかったであらうが、諸有司に下付したのは、長崎奉行の何書たゞ一通であった。共
第 一章 米 船 モリソン 競 の 渡来 と 共 砲撃 三九九
編 天保 時 四○○
事は各通共に、文章には相違があるけれども、「久世伊勢守相伺候書面御下ゲ 一覧仕候」
㎞ との意味が記されてみるので明かである。然るに奉行の伺書には、「江府近海へ至リ
候始末委細ニ申立候」とあり、「至リ候」 の句は解響次第で、過去とも、現在とも、未来と
もなるべきであるから、常識を以て未来と考へたのは何等の不思議もない。殊に前年浦賀
に来た船が、今問題にしてみる 「モリソンと申エグレス船」 であるといふ譲解を闘いてみ
たとすればなほ更である。然れどもそれは比三細の問題に過ぎない。比誤解によって論議せ
れた英船渡来の時の虜分こそ、最も注意に値するものであった。

月保
英般渡来問趣 八年 * *}
に闘する論議 英船の渡来に封する虜分に就いて、勘定奉行内藤矩住等の答申書 「には、蘭人が漂
勘定奉行等
の拒絶論 れて来ることは、差支ないといへる前文に、 文 召い。
H
外國より交易筋ニ付、通商之義相願候ため、漂流人連渡候共御取用ニ難相成:
林述斎の打 と稲し、拒絶の意を浅らしてみるが、面も打挑の是非に及ばなかった。然るに林述斎の答
挑反封論
申書㎞には、蘭人をして護送せしめることを主張した後、封撃暇令これを蘭人に博達
しても、それと行違ひに、英船が渡来するかも知れないとて、基場合の魔分に及び、
イミ
墨意尋人を運参り候思悪を以仕懸候事を、無電に打シ ニも相成間敷候得バ、取扱方もむつかしきも
の ニ 御座候。
** ー --
年八

日付
論 大小

と稲し、打挑の不可を調し、大目付碑尾元孝等の答申書には、胴 附。

政○

、御書付
日本漂流人召連候連も、江府近海へ乗入、共上商質等相願候心含ニも候ハマ、獅更以之儀

㎞。之通、無二念打挑候より外無之
と稲し、打挑令に準擁すべきを論じてみる。ェ
る打是に

挑非

萬一を醸想した
かくの如く有司の所見には、多少の異同があったが、幕府では、恐らく

諮問 り司闘

有へ よ
す幕府

たる林述斎に示し
のであらう、打挑を主張せる勘定奉行、大目付等の答申書を、反封論者
論林


挑 打


て、共意見を徴した。述斎は比時明かに打挑の不可を論じ、
之事ニ候得共、
最初邦人を連来候敷否不相分内ハ、随分打挑、成丈寄付申さぬ様ニ仕候事、元より相常
ニ打挑候
定て本船ハ沖懸りニ仕、停馬船ニて、邦人を最初ニ近寄候事たるべく候。左候時、無二無三
仕候も同様之儀、
てハ、一向ニ課之分り申さぬ事ニ候。営バ軍中ニて敵國之使番参り候時は、矢留を
一偏ニ取付申さぬ
比意之分チ無御座候てハ、比方之仕方却て無法と申ものニ御座候。:譚も無之、
様ニ計仕候ハ、却て失鶴之事と奉存候。
と稲し、もしそれが漂民を護送せるものならば、打挑ふべきでないといひ、園法によって
を論
長崎に廻航せしめ、漂民を受領し、相常の品を興へて、騎園せしめることの委常なる

挑所
打定
の評

じた。 。是に於て幕府は、更に以上諸有司の答申書を取揃へて、評定所一座の評議に
附したのである。一座の意見は、
四○一
第 一 章 米 船 モリソン 競 の渡来 と共 砲撃
第 八祖 < は 時代 四01
元來與國 人流之日本人迷你後 、 集て何關人も心得能在、 珠 三个故かひたん中立候式成这之義を
以、 方海流人排除隊、 阿蘭花人へ中波被 分 、 孫氏を排除依人 、 彼因之もの共推考發問數共部中,
在條て 、 外國 人 被對被神經意 將條橫行、 源流人達波之後分 、 阿蘭尼人 へ中應於 不及投靠度
~て、 深民の護送を、 間人に命することを不可,とし、 更に、 英語をはじめ、 異國船を打排
よ のは、 文政入年の建がある とい へ る後、

右 述O
成交响之王乔治を聞 いたし、 利を止後、 ︽不出之化形 化 大學觀

[i ]

強;
* 『僕寺之靈址、広島 、松 散布之間後. 詞後裔
御書籍 之道を以、無念打獵物論 方之.
袁術上り等
定所 へ の再 ~て、 打神の説を述べた。 李安はこれを見て、 彼らば 「文化使わみしや船之義仲、 上非
數間
大校舎 、熊本行 《 御殿被成像神似之御殿、 不采用方便成、 重ねて覚を具
中すべ さ を評定所 腹に達した。 土井利位が始能來行に授けた建~は、 ラクスマン及び
レザフラ族家の際に於ける交涉の期末なさを記し、 心得~して文化四年八月に、 交付した
評定所 一座
再度の打排 ものである。 然るに一座からの容中は、

•• Lº 候歌坛上 公 、 素より おろし
些地圖說之後得英、 通商を可选手段を以
„…>*=2學及李守府之劍, 無之、 成東風氣孔廟之孫
* * *
で 、 支隊入青年改て、 鄭
ニシ仰出候建も有之候得バ、前書おろしゃ船最初渡来之節之振合等、最早可論筋合ニハ無之候
と稲し、重ねて打挑を主張してみる。鴨弾㎞
書○以上賞 除 一得。
萬一英船の渡来を醸想しての幕府の内議は、共後如何に決着したか詳かでない。世上往々
-
㎞。 て
打挑に決したやうに解響するものもあるが、それは評定所一座の答申を以て、幕府の決議
と誤認した過である。事質は寧ろ正反封であったらうと思はれる。共理由の一つは、土井
利位の達を評定所に示して、意見を徴したことである。比時幕府の諮問した趣旨は明瞭で
ないけれども、共答申に、「素ょりおろしや船最初渡来いたし候節之御取扱等可有之道理も
無之」といひ、また「前書おろしや船最初渡来之節之振合等、最早可論筋ニ 無之候」と
いひ、二回まで繰返へして、共不可を論じてみるのを見て、ほゞ幕府の意のある所を察す
ることが出来る。蓋し幕府は、ラクスマン渡来の時に於ける虜分を學ぶ考があって、共議
を評定所一座に下したのではあるまいか。果して然らば、幕府の態度の革るべきを暗示せ
るものであった。高野長英の獄赴遭厄小記に、比時のことを記して、「閣老水野越前守殿、
















ア リる考
㎞ 文化初年ォロシャノ使レサノトノ例ニ 準 ジ

暇て離






説く
置。
定として
述べ
- こ
すべきである。然れども確誇はないから、試 -

ても、 なほ暇定説を助ける根擁がある。即ち第二の理由である。抑も比時打挑令が既に{
第 一章 米 船 モリソン 競 の 渡来と 共 砲撃 四○三
第八 祖 < は 時代 四0四
布かれ、 共處分は確定の事實~して保留さられてある。 个更有司に付して、 再成する必要
を見ない。 而3これを放てセ る所以のものは、 非常に於て、 假介此此定の平條目を禁軍 ・ベ
さぬ はないにしても、 何等かこれを考慮するだけ の、 或はまた考慮して見だい,といふ被
幼な動きの あらはれであった とも見られる。 熱く,とも文政村地介の非難に、 破紀の生した
~を意味するものであらればなら3°
非怖の態度に疑問を来たしたのは、 御 9こればかり でない。 はじめ死敵、 文化の交、 客
國から、 我が深民の前後して触期した際、 光は明か に彼等の仲間が、 なは残留してわる
のを知りながら、 少しも これを迎 、取る ことを考慮しなる
これを護送 でしむべ さを伸道し、 其後數年間常意に接し
ある。 海外に於ける不幸なる成が 同胞は、 かくして働く愛荷の注意に上 った。 城に就くべ
さ發化である。
第二章 モリソン競渡来に闘する時論の一斑
世論の満騰 モリソン跳渡来の事質は、天保九年六月蘭人によって、米船を誤って英船とした外、概
略ではあるが、正確に幕府に報告せられた。然るに偶然の過失から、幕府の諸有司は、将
来我が漂民を護送して来るものとなし、打挑の是非をさへ論議してみる。比誤解は更に延
いて、渡漫軍山、高野長英等をして、一層の誤解を重ねしめ、共結果世論の沸騰を招いた。
獄赴の存在 文政、天保の交、江戸に於て、渡漫 車山、高野長英、小闘三英、幡崎開等を中心とする蘭
學者、井に西洋文化に興味を持つ人々の集園があった。世にこれを獄赴といふ。長英、三
英、開は蘭學の大家であり、審山は蘭學者ではないが、有力なる蘭寧の保護者であった。
比獄赴の仲間ともいふべきは、寄合松平外記、使番松平伊勢守、代官羽倉用九㎞。同江川
正川
英龍 小姓組番十下曾根金三郎、評定所の属吏芳賀市三郎、納戸日番花井虎一、明屋敷
番伊賀の者内田瀬太郎等の幕臣をはじめ、増上寺代官奥村喜三郎、紀州藩士遠藤勝助、水
戸藩士立原査所、田原藩主三宅氏の一族同友信、田原藩士鈴木春山、高松藩士赤井東海及
尚歯曾の組織 び佐藤信淵等であった。時に遠藤勝助、名を故老の招待に積り、尚歯曾といふを設けて、


同志と共に政治経済を討論する機闘とした。獄赴の人々が、共主たるものであり、藤田東
第二章 モリソン 競渡 来 に闘 する 時 論 の 一斑 四○五
第 八 編 天保 時代 四○六
湖なども出席したことがある、室山は地位と徳望とを以て、長英は才學を以て、おのづか
*
モリソン競には
ら俗輩の間に重んせられ、陰然盟主の立場にあった。たま〜モリッシ競事件が幕府の評
する

議の
漏世
議に上った時、評定所一座の幕府への答申書㎞は、芳賀市三郎によって、天保九年
十月十日の例倉に提出せられ、始めて衆目に鋼れたのである。然るに評定所一座の意見が
渡漫*山高野
長英等の憂慮 打㎞にあるのを見て、室山、長英等は大に驚き、もしかくの如くならば、信を外園に失ひ、
愛を海外に開き、不測の鍵を生するに相違ないと稲し、やがて 華山は西洋事情御答書、慣
機論を草し、長英は成成夢物語を著はして打挑の不可を論じた。幕府の有司でさへも、過
去と将来とを取違へたほどであるから、評定所一座の答申書を讃んで、共記事に 誤まられ
華山の西洋事情御答書㎞ は、他の問に答へる鶴に記したもので、西洋の事情を知る
のは、今日の急務であるといふことから説き起して、海外の形勢に及び、西洋諸園の政教
の盛んであり、能く行届いてみるのを讃美し、共勢力は全世界を歴し、東亜の如きも、大
年はシ食せられたことを説き、就中英露二國の富強最も恐るべく、面して共に領土の擁張
にカめ、今ゃ将に我が國を凱観してみる。宜しく敵情を審にしなければならないと稲し、
更に鎖國政策を評して日〜、
- - 』
事髪に従ひ政を立候儀は、古今の通議に御座候。天地古今髪せざれば不止。太古の世は、日本僅に大
八洲に限り、奥州は未開候虜、追々地方を排へ、態襲征伐後、皇后自ら新羅を征し、共後越の津軽の
地、陸奥地次第に相開き、終に後世松前蝦夷に及、皆大抵事生じ、憂動の所及威力共に撃り、終に大
閣の征戦と相成候。中葉耶蘇の邪教に懲り、規模狭少と相成、唯一國を治る意なる故、終に海外の侮
を受候にて、己後の鍵如何を不存候。是は如何にと云に、昔一室を治候者、志僅に鐘釜妻産委に有之、
偶大盗至れば、門を堅め埼を高ふして、内妻
が 愛に騎る。大盗歴来候共、門埼は越されども、一村焼討



候て
延、

候。所請荘子の壁の如く御座候。抑西洋の可恐は、雷を聞て耳を塞ぎ、電を忌て





目を塞ぎ候 一 仕候。
これ國運の発展著しかりし過去を回想して現代と比較し、鎖園以来規模の狭少となれるを
敷き、 事鍵に 匹うて政を立てる必要を説き、 鎖園政策の革むべきを い へ る 開國論であつ

西洋諸國無名の師は興し不申候間、何れにも名を正する事を始と致し候。ボナパルテ厄入多を征し候
裏と
時 も 渡海 り 妨 é 奮 年 O)
)
、不義の事と、数件の譚を申立致し候。
といひ、打挑が、敵に用兵の名義を興へることを調し、更に
通、権地球に及候洋人は、質に大敵と申も除り有之候事にて、何卒比上は、御政聴の御規模の廣
第二章 モリソン 競渡 来 に 闘 する 時 論 の 一斑 四○七
時四

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、八
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主。





結經


國てとな
み然
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あび張るも分さ

再派し。


機で
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び會元

年基解た保山釈




に供



正の


あ月る

微機會には、 英殿 を リンシ,と使 、 つれるものは、 貨は英人毛 リソン のことで、 船 と人 と


{

を収道 へてわる。 英人 毛 リンシ は、 廣東の商館に十六年間相學し、 支那の事情に通じ、 若


書も また多い。 人 となり来地放進、 本國でも問地が高く、 成数も盛んである。 かく の 知さ
名士が、特に深民を護送して来るのは、必ず本國政府の命によるものであらう。 除に彼は、
支那の軍開に明るく、 亞細亞の人情をも解 してみる。 此人を選拔したのも 、 意味が あるに


和目


い-

~稱した。 若し 軍山は、 かれ て的人 ーマン等から、 英人 毛 リンシ のことを聞か



Ż)


、 それが先入主になつて、 かく の知く進新したよう に見える。 舉山の所調





、 廣東に於て赤松井 る英國の宣教師であった。 後に東印度高會の通羅有人となっ





通じ、 支那文學に精しく、 支那文法、 英宗對羅維吉を著は し、 新校學書を


那語に翻譯したことも あり、 東洋學者,として著名 である。 1 人三四年八月、 我が天保五
年六月に残した。 基山の論議する頃には既に故人であるが、 ニーマン の義語に引付けられ
た経験は、 永(崔 =を支配して、 誤解 でしめたのも、 これ を得ないたほ から20 ただ
周 6 筆山はか でな 《、 高野長共3同じであった。 か( て連山は北財を進め て日(~
、 使に店山、 我國、 百期西亞の 三國のみ。 其內西人 と通信サ さるものは、 只或國在するのみº 英

も、 實に相愛に城 へ す。 論すべきは、 西人より 一説すれば、 我國は途上の遺内の






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兵を果ることなけ
これ

交通路易が世界の公道であり、 且これを拒ものは、 用兵の総称を彼に興 、 るに過ぎな


いことを説くものである。
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个或四周都統の海、 天下英國球る所の果にして、 我にありて世に不備の政名く、 彼が来る、 本 上り
所に限ること証はず、 1 日本あるに至っては、 全國の力を以てす とい へ とも、 慶 S 長して馬鹿に及ば
め、 世 タ
第 二章 º > > ン 級 將來 に関する 時 會 の 1 ॥ 四Cカ
これ開戦の結果の恐るべきを説くものである。かくて最後に目く、
鳴呼今、夫れ是を在上の大臣に責んと欲すれば、固より統務の子弟、要路の権臣を責め
も賄略の俸臣、唯是有心者は儒臣、儒臣変望没ふして、大を措き小を取り、
-
り。今夫如比束手して震を待たんか。
これ幕府有司の無能、事を誤るを説くもの、文鮮順る橋激に流れてみる。要するに 華山の
意見は、鎖國を以て國運の発展を阻害し、天地自然の理に戻り、且彼我勢力の懸隔
き今日、打挑に出づるが如きは、國難を醸するものであるといふ、非戦開國論であ
㎞ 高野 長英は成成夢物語㎞ に於て、英園の地理園情を説き、基園民が数投動勉、文
成夢物語
學を修め、工技を研究し、武術を練磨するばかりでなく、政府もまた民を富まし、園を強
くするを先務とし、貿易を営み、植民を行ふが故に、共領地は南北亜米利加、亜歩利加、
印度、南洋の諸島に跨り、本國に四倍してみる。最も航海の術と水軍とに長じ、富強五大
の いひ、更にモリッシの人名なるを説き、傾學宏才の土であるから、
たが、二十年前から清國魔東に来り、共言語、文章を事び、名 盤頼
一時
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論闘


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また
第八編 天保 時代 四一二






祀を生する恐れもあり、且は國威をも傷けるといふのが、打挑を非とする

蓋 常 被 海



^

器 鮮 接地
C)
只今イギリス人の底意は鬼も角も、彼仁義を唱へ、漂流人を送来り候得ば、江戸近



(。

総 隣 右
響 端麗
衛 豊 御
*

C)


て、着岸御免難被成候得ば、長崎
ヨイH万名年N引 引 T月 なり何方なり共御有免被仰付、右漂流民は御受取被

しく 震 付

【向
として、厚く御褒美御恵み被下置、:今度イギリス人龍越候こそ幸の時節に付

.ſ

\
魯西亜、共外近園の事情御尋被仰付候はド、彼比度一廉の功を立候て、交易を願度

勢 J
定めて的質詳細に言上可仕、左候はゞ座して、常今外國の的質なる事情を詳にせすして、蘇武
張震を得るが如く、願ても無之國家の御大幸にて候。面して彼より願上候義は、一旦は御聞届被遊候
て、扱交易といふ所に至り候て、國初より御規定の虜厳敷被仰渡、断然御制禁の旨被仰渡候はゞ、我
におひて仁義の名を失はす、彼におひて赤如何とも可致様無之、恨も慣も仕間敷、萬事穏に相湾可申
被存候。
即ち濃を以て使節を迎
るにあった。蓋し非戦鎖國論である
非戦論の根操 霊華山、長英の非戦論は、共に開戦の危険が考慮せられてみる。面も峯山は、萬國相交は
るのは、天地自然の道であると考へてみたから、常然の結果として開園論となり、長英は
これに反し、専ら鶴節に重きを置いた貸めに、鎖園の説に傾いた。ミ人共に 駐ら順抽で

じでない。世成ま、 え上

-*
があつて、珠更に開園の説を

-
述べなかったといふものもあるけれども、既に幕 府の政 策を論評する以上、別にこれを悼
る必要はないはすであるから、傍誇のない限り、鎖國論と見るのが 安常である。
単山の憶機論は未定稿であり、西洋事情御答書は廣く同志に示さなかったけれども、 挙

口供



:
日L㎞
十分


*A

㎞ 。長英の夢物語は早く世上に
上 せ
流布せられた。これが貸めに人心おのづから動揺し、 みる
とか
何稲
来春にはモリソンが来るとか、いや既に 九州まで来て



な、

となく
* リ七でB、 Lョリ。、、」H百パ Aム にト兄に月 *
官江川英龍、八王子同心 組頭松本胤通等は
L
事は詳かでない。また聖談の上書したことを聞かないけれども、数年
ワ末 治小へ叩
丁%
の筆に成る宋名臣言行録除 論の中に、封外の策を論じ が
が、人材の有無、時の強弱を察しないで戦を説くのは、國家を危くするものである
「病人有之候節、附子、大黄を用ひ可然をも、病人により、良将必す人参、桂枝等
る薬を用ひ一旦を防ぎ、先づ追ての全快を謀り候」 といひ、また「けなげなる
論には、容易く同意難仕義に御座候」といへるを見れば、ほゞ所見を察することが出来る。
〜 グイド (#
所見
弘化の
コ力 れい 、 、必すしも天保の所見と、同一であったとは断言し難いけれども、大鶴に於て、
第二 章 モリソン 競渡 来 に 闘 する 時 論 の 一斑 四一三
第 八 編 天保 時代
「柔なる薬を用ひ、一旦を防ぐ」の説であったらうと思ふ。
執筆なる事奥書に見え、
文中にも共誇がある。
鶴赴の獄 単山、長英は、共著書の貸めに筆職を買ひ、名高い獄赴の獄が起った。
悪く皆新奮思想の衝突と解響してみるが、質は単山、長英等の虜割

リr


*
れたからで、新奮思想の衝突と見るべきものでない。
幕府の法規を守り、上書建自の手績を執った貸めに、却て変質せられた。今、本編と直接のシがな
いから略して置く。
松本胤通の非
戦論
また松本胤通は、天保九年十一月書を幕府に呈して打挑の不可を論じた。ェ。基シ
を撃ぐれば、文化六年長崎での御器、文政七年常陸大津濱の上陸、薩州質島での銀射など
は、古への倭冠の類である。官府の命令を受けたものとは思はれない。共園の政府から派
遺した使節をも、これと同一に取扱のは間違であらう。旦内情はともかく、名義とする所
は、殊勝のことであるから、ラクスマン、レザノフと同じに扱はなければならない。打湖
の如きは、使節に封する濃を失ふばかりでなく、皇園の民を隣まない不仁の行貸である。
また漂民を紀して、共見聞する所を探れば、海外の形勢を明かにし、防御 の 一助ーて。な も
う。況や共園は宇内の強園である。開戦の暁には、海運初心に社絶して、 府内の米穀諸色の
-
--
『 シシ
ない。宜しく濃を以て鷹接

し、漂民を請取り、貿易に
に至至っては、レザノフへ授けた論書の趣 旨に基いて教論を加へ、
萬一承諾しない場合に、はじめて打挑ふべきであるといふにあった。殆んど高野長英と同
説である。面して上書の末尾に、慶長以来英園との闘係を叙し、「右は東照宮、台徳院様ょ
り、御朱印逸も頂戴仕り、和間同様、御由緒も有之と申依、荒増和記候逸に御座候」とある
のは、か、る由緒もあるから 官い との意を調したのであらう。
是より先天保八年九月胤通また獣光微吏を著はして開園の説を唱へ、國初の由緒もあるか
ら、英園との通商を得したいと論じた。和封照して、 示の義を解することが出来ょう
論評

以上の人々は、いづれも打挑反封論者であるが、これに反して強硬の擁夷を主張したの
は、成成夢物語評の作者である。即ち長英の説を以て、園家に忠なるに似て、質は大鶴を

ど 政
知らないのだと稲し、且「盛にイギリス園の兵備仁 杯ある様に書なし、また日本近海へ
往来自由杯いへるは、我に油断せしめざる様子なれども、却って小民を恐れしむる


り」とて、まづ共態度を非難した後、國家に禁制があって、夷秋を近づけないのは、我が
國を蹴観するからである。「豊濁匿々の漂民を救はざるの名を忌んで、國家の大害を招き給
はんや。浅智無識の、明に議すべきにあらすと思はる、なり」 と論じた。蓋し評定所一座
第 二章 モリソン 競渡来 に闘 する時論 の 一斑 四一五
第 八 編 天保 時代 四一六




答申

ゞ共所見を同じくしてみる。
らす、 = ご
-
な 三口川 mo
佐藤信淵の開こ、に注意すべきは佐藤信淵の説である 上、シーに 分五日天保十 - 信淵もモリソンを
戦期待論 共著夢々物語㎞ に目く、 人名と信じてみた。
纏鶴日本人は、智恵が短く、脆が小き故、莫利宋が来るといふ事を恐る、なれど、愚接にては、何分
ーと
初論夢物語。ェ㎞ の説も重々犬の事にて、事の有無も間はすして、あたまから手荒き事をし
常 *
もの故に、漂流
たる上にて、彼より交易を願出 な 比以後は海岸に於て、新一本、
水一適もゃる事ならぬと申渡しなば、英利宋も立腹して、折角態々数高里の波 を凌ぎ、日本人を護
送し来り候上に、前々より日本海岸におひては、暗厄利亜船と見れば、火砲を打かけ、又は支那、阿
T よ

る属島を引っれ来り、一戦勝負の上、交易の論に及んなどいふ
事なるべし。共故に手血子にも、入ては則法守挑士なく、出ては
あるが如く、日本は治海中の孤島、支那の如 世
患がなき故に、鷹以武備も衰へ、四海中の眠りも深きから
ンボンは良業かと思はる、なり。
信淵もまた濃を以て使節を迎ふ べきを説き、打挑に反封した。即ち高野長# して同説 であ
-
「 ** -
。、もし* シ
""" - - =- - -』|
あった。蓋し長英は、
る。然れども質は形式の 一致に過ぎない。議論の根紙に著しい相違が
封したが、信淵は寧ろ開戦を以て、園家の長計としてみる。
共曲我にあるが故に、彼の激して事を開くのを待たうとした。要
十い
。開うるくた園

かて
ある
ので
よと
め ま

の説を唱 へ、


附るは、内質はボン
外園との交易は、日本の盆ちやの、海外の生民の貸にもなるのと、様々理窟を
経営し給ふ御細工
ボンをいやがる故の事なり。抑この廣大無漫の上天公が、かくの如くに、萬世界を
沿海を
は、誠に不思議の御手際なるものにて、豪怒も人工を費さすして、日本は日本だけを一匿として

周らし、支那は支那だけを一匿として沙漠 を設け、魯西亜、諸尼利亜とても同じ筋にして、共一匿内


融通
状 も同じき故に、共一匿だけづ〜に交易融通し て、一豪 も隔外
の内、各気候風土、人情習俗、言語形状
の内へ、萬々人の人を
へ求めすして、何不足なく、諸道具一切満足するものにて、扱上天公が共一匿

も不自由
御出しなさる、時には、共萬々人だけの人の衣食住の品より、病気の節の築品まで、ひとつ
から、居宅の料だけ
なき様に深切を霊し、生々して下さる、ものにて、衣食の数だけは生々してやる
までは手が届かぬから、よ
は、外國から買って来いの、又衣食住の品々だけは気張てやるけれど、薬
言語文字も通せぬ大海、
そから取って来いと云様なる、抽き不細工なる上天公はなき答なり。然るに
、人工を用
沙漠を隔たる、敷萬里外の國々と交易するは、上天公をぬるこしとして、天然の道に背き
たる、かしこ過ぎたるといふものなり。
四一七
第二章 モリソン 競渡 来 に 闘 する 時 論 の 一斑
第八編 天保 時代 四一八
かくの如く、萬國皆天の化育を受けてみるから、交易せすとも共生を安んすることが出
来ると説き、更に
今日既に書物も十分に渡り込であり、また天文、賢薬等の事も、大分開けか、りてあるからは、北上
は寧文、天文をも、日本人の心掛骨折次第にて、支那にもまけぬ聖賢の人物も起るべし。魯西亜

厄利亜に勝る天文、賢築の道も開くろ答の事なれども、何分日本は世界第一の国にて、味き物 食ひ
過て、安逸に暮さる\に依て、人々が遊柏に流れて、魂気薄き故に、何事も支那、暗足利亜邦君の事
を、得仕出すして、彼を常にして、親が、6根性といふ類にて、何分日本には保出せし人物が少きか
らは、比度莫利宋に交易を許さぬ申譚労々にも宜しき事故、比序に支那、和蘭陀の交易 も一切
俗止
して、外園より書物、諸品も、絶て来ぬ事になったならば、日本にも不自由なるが合獣が出来て、除
儀なく骨折工夫して、どれ程の人物、いか程の諸品も、外園にまけぬ様になって来て、ャ*支那
の診
物ちやの、諸尼利亜の奇品ちやのといふとも、たまげもせぬ様になりて、レサノットの来た
ーと たま の、モリ
ソンが来るのといふ騒ぎも、なきやうになるはすの事なり。
の待
職期
開it

利せ
とて、清蘭二園との貿易をも停止するが宜いとの過激なる鎖園論を唱へ、最後に
開戦の列
盆を述べて日く、
今日の如く、 四海中が遊情大眠となっては、眼前さしむく所、金穀などの利権さへ 一切下々に取られ、
大下園々の上々方には、おはかた困窮し給ひて、 比日本に有除る五穀にさ へ不日山にして、


ルシを蹴
死させる様なる有様にては、㎞ 、外 より先に内気かと思へば、英利宋位
は世話もなき事にて、海中のボン〜より、内のボン〜の恐しき事は、逆も言語に霊されぬ故に、
若や莫利宋が、馬鹿肝頼をおこして呉たならば、恭脱であらふと云は、比ボン〜の震雷の響きに應
じ、どこぞから胡湾養、揚板山が出かけて来て、数百年来の奮弊を一洗して、下々逸脱服する程にな
って、比日本國が一丸けに成つて防ぐといふ日に成ては、いか程も草来の間より英雄豪傑が躍出で、
暇令支那、暗厄利亜、魯西亜が一時に攻来ても、元来武に勝たる我國なれば、どんな事でも、外園に
負ける気遣はなき事故に、呉々國鶴蕭埼の内さへ、青天金石の如く、至正至堅にましまさば、莫利宋
に交易を許さぬのみか、支那、和蘭陀の交易をも停止して、比後は外國どもを、一寸も海岸に寄付ぬ
様にするが、大日本國萬々年、御永久の長策なるべし。
これ封外の策は、まづ國家の基礎を固め、人心を一新した後でなければ、確立することの
出来ないといふので、江戸湾に轟く砲盤によって、上下の情眠を覚まさうとするのである。
かくて 一日も早く 「朝廷の上に闘唯㎞地の徳有て、中間、義局の者逸も、腹心干城となる様
にする仕方が重畳大根本にて、一番大事の所」 といひ、果してかくのごとくならば、「支那
も、魯西亜も、べ ンガラも、イギリスも、扱々初鶴なき御仁國と仰ぎ見習ひて、阿房交易
三味も止メにして、孝弟力田を勤め、是逸は夷といひし外國も、葬の世となさば、誠に
比日本國王は、天地同様の御徳にて、萬世界一統の王とも可奉申也」と稲し、「共上にも常
第二 章 モリソン 競渡 来 に 闘 する 時 論 の 一斑 四一九
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第八編 天保 時代 四二二
日に、人馬をも心掛候様に仕り、共質之武備を修候事、士民之怠情を引立候大本と奉存候。
*

計主
面問

これ懐夷によつて、士民の豊醒を促さうとするもので、新論の誌脚に充てることが 出来
B 丁よ、
る。されば翌二年七月の建白にも、 東湖及び
㎞ ㎞ 懐夷のことを論じて曰く、


近来又々ラロシャ、イギリス等の異人ども、度々寄せ来候のみならす、松前、長崎等蹴妨いたし、剰

田川
比度の如く、廻船等へ狼積に及候始末不届至極、言語同断に御座候間、是非一と御手段無之候ては龍
成間敷奉存候。然る所右異船之儀、うはのそらに相心得、天下惣鶴之勢も不心得、太平の御世、いつ
逸も如比ものと存居候者は、盲人之蛇を不恐類に有之:、
これ泰平に酔うて無事を喜び、また天下國家あることを忘れてみる世態人情を慣概せるも
東時
湖論

批封
許す
N

のであった。かくて東湖等は、目下水戸の家中で、志ある者はこれを憂へ、策議する所に
の |

二説あるを述べ、第一説は、今最



*
武 備の薄弱なことであるから、大砲を鋳、


大船を造り、農兵を組織
して、鍵に備へなければ ならないといふのであり、第二説は、武
士の魂を入れ替へるのが
弱一 の急務である。比根本さへ立てば、枝葉は論するに足らない
といふのであると説明した後、第一説を評して、
常時天下」シ、大シに部れ層候世の中に御座候ては、有 大 、。
逆も、臆病者へ甲冑を貸着、兵具等貸持候に似寄候儀にて 表同は勇々敷可有之候へども、シ
へば、一戦にも不及、敵の貸に物具被奪取候儀は指見申候。左候へば、右の説* には候へ共、共本
い*

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持別脱

**"く*


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等露 愛 *








へご


第八編 天保 時代 四二四
と論じたのである。 るに 「眼前に冠戒有之候ものと心得させ」、懐夷の質行を期するの
でなければ、政治の にあつた。新論に
説く所の、民を必死
水戸警昭の擁 東湖の著常陸帯に
夷論
あるのは、天保年間
る所は三種に過ぎない。第一説
二公の奮典を守り、打挑を励行して、夷秋を近づけてはならない。上下共に大和魂を磨き、
國を撃げて難に殉するとも、彼等には皇園の地は踏ませまいと思ひ定め、防御の術を講じ、
銃砲、船艦の備などを怒にせす、萬人心を一 にして、碑國を衛るべきであるといひ、第二
説は、時に古今の鍵があるから、奮典必すしも保守する必要はない。宜しく祀宗の制度を
改めて園を開き、貿易を行ひ、更に進んで海外に航し、諸國を懐柔すべきであるといひ、
第三説は、一日 貿易を許して彼が心を慰め、共間に武備を整へ、國威能く海外を制するに
及んで、貿易を禁すべきであるといふことを撃げ、これに封する水戸済昭の評を掲げて目
武備充賞論 く、
『} } ここ、
に 封する批
評 シふは、交易を許して、#間に武』をきんといふは、シ"。
代に事なきゃうにと願ふ心より出たる説なるべし。北條は蒙古の使を斬り、三代将軍シは船を焼き、
人を様にし給ふ。我國の人をして豊悟を定しむる所以なり。人々豊悟定りぬれば、武備整はすとも敵
を防ぐに足れり。況して武備整ふをや。然るに夷狭を近づけ、交易を許さんには、人の心いよ〜地
み、いつとて武備の整ふ時やあるべき。門外に付める盗人を引入て親みながら、盗人を防ぐ事を心せ

ふに均し。しかのみならす彼大際務酷なる夷人、是彼と術を霊し、邪教をもて人を懐けん事、
ーと

に懸たるが如し、人心は弾み、武備は怠り、邪教は弘りたらんには、噴を噛とも及ぶまじきわざな
-や

O

これ第三説に封する騒論である。


-


し*
開園論に封
する批評 又大なる船を造て外園に渡り、諸々の國を切従へんといふ事、いと勇ましきに似たれども、我
危き事に思ふなり。我國の人は軽標にして、共心物に移り易し、欲情薄くして思慮浅し。なまちひに
夷狭の業に習て、國々に渡りなば、診にいはゆる鵜のまねする鳥に均く、害のみ有て利なかるべし。交
易といふは、是彼と取交し、互に利あればこそよけれ。今我國は、何一つとして事足ぬものなく、彼
國々より持渡る物、多くは著を勧る無用の品なり。阿蘭陀一國と交易するさへ、識者の憂る所なるに、
内には諸鍵を引入て交易し、外には大船を出して外國に交らん



害をなさん事まのあたりなるべし。唯彼は大船に乗て寄来るに、我國に
彼を待ち、彼は過れども、我は堅き舟なければ、逐打事もかなはざるは日 さ
る事を許し、鯨を捕り、米穀を送るなどに事よせて、常に舟軍を習はしむるはさる事
四二五
第 三 章 奪 王擁夷 論 の 発達
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新論の結論と併せ考へて、水戸學派懐夷論の質相を明かにすることが出来ょうと思ふ。
豊田東湖の倉
王擁裏論
東湖の意見は、更に弘道館記述義によって、検討しなければならぬ。共奪懐の説に目く、
「 -
堂々紳州、天日之㎞、世奉碑器、君臨萬方。上下内外之分、獅天地之不可易焉。然則奪王擁夷者、質
志士仁人、書忠報國之大義也。
また口く、
夫奪皇室、携夷狭、文武之最大者。
東湖に従へば、奪懐は我が國鶴に基く大義であり、且それは文武の最も大なるものであ
た。然るに「忠孝無二、文武不岐、寧問事業、不殊共数」 といふのが、水戸學の主張で
あり、共生命である。いづれも皆それ〜の二つを、分離することが出来ない、絶封に合

が故に奪王懐夷もまた、分離することが出来ないとの結論に到
達するのである。要するに奪王も懐夷も、水戸學の國鶴論から出務した。蓋し新論の主張
を、更に理論の上から説明したのが、即ち東湖の奪懐論である。かくの如く水戸學派の奪
王懐夷論は、我が國鶴に即するものであった。然らば共奪王の説は如何。我等は更にこれ
を検討して、奪王懐夷論の正しい精碑に鋼れなければならない。
水戸藩の公武
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2 f子L 2 日い 目いい t、Am 、へj 門 にとり つ こ
f 、1 三こっ
合鶴論 水戸光園の奪王 の思想が公武合鶴であった如く、着昭の主張もまた奪王 すた こo
佐幕であった
四二八
第八 編 天保 時代
水戸斉昭 故に「王室家はすべて古昔に復せんことを思ひ、又左なき者は、王室家を悪みて、さまざ
説を云虜、復古するは、君臣の大義に似たれど、文武一致の難き
まの説
が故に、霊く復古す
る時は、 必す文に過ぎて武衰へ、又々天下の難事起ること、鏡に掛て見るが如し。左
る時
は、
は、反て天皇の御危難をも引出るの害あり。将軍にして天下の政をあづかり給ふとき
ば、是王
将軍の権ある様なれども、悪しければ、将軍をうらみて、天皇を怨むる者なけれ
を復古し給
室の全き所以と云ふべし。されば我東照宮の明智にまし〜しも、天下の政務
はぬは、御深慮と云べし」㎞とて、王政の復古に反封し、更に目く、
ゞちに天朝、公漫へ
人々天祀、東照宮の御恩を報んとて悪しく心得違ひ、眼前の君父をもさし置、た
忠を霊さむと思はゞ、却て借側の罪のがるまじく候。 ㎞
比見解は既に早く、藤田幽谷の唱ふる所、共正名論に、
幕府奪皇室、則諸侯崇幕府、諸侯崇幕府、則卿大夫敬諸侯。夫然後上下相保、萬邦協和。
さ に 、“A、 *
と記してある。然れども詳かに考察する時には それよりも更に力ある主張が、水戸藩の
*王思想の根根に流れてみたことを、見通すことが出来ない。
幕末の頃水戸藩には、世にいふ所の天狗、俗論の雨限があり、基野突町議は、最初撃町
上の争から起り、延いて政治上に及び、 途に流血の惨事を生じ、 同藩人才の大牛は、共犠


大日本史編 牲となって磐れた。面して共淵源に測れば、藤田立原雨門の争に騎すべきである。抑も同
纂事業の盛
藩の學は、光図の大日本史編纂によつて起り、これを輔くるに安積準泊の博學を以てし、
潮く水戸學の基礎を築いた。然るに光図、濃泊相前後して残してから後、人才跡を絶ち、
立原翠軒と
藤田幽谷と 水府の學振はざるもの数十年、天明六年立原翠軒の史館継裁となるに及んで、復興の機運
の軌較
に際曾したのである。比時に常り大日本史紀博の初稿既に成り、専ら志表を編纂してみた
が、裂 軒は、義公の志が紀博にあるを論じ、寧ろこれに修正を加へて、一日も早く出版す
るが宜いと唱へ、共議用みられて、寛政元年以来校訂を急ぐことになった。門人藤田幽谷
これを非とし、高橋坦室㎞ と共に固く共不可を争ひ、併せてまた大日本史の題競を
改め、論賛を刑るべきを主張した。世に大日本史の三大議論といひ、撃軒、幽谷の、互に
執って相譲らざる所、師弟不和の原因を貸すものである。幾もなく藩主水戸治保途に幽谷
の説に従ひ、享和三年撃軒の職を龍めて致仕を命じ、志表修補の議を定め、大日本史を史
稿と改稲し、文化二年論賛を刑る。翠軒快々として築ます、志を同じくするものは悪く史
館を去り、幽谷代って編纂の質権を握った。是に於て門戸の争が、はじめて激成せられた


幽谷に封す
撃軒の批 のである。ェ㎞ 率軒深く幽谷の貸す所を憤り、義絶する考であったが、門人

宮山根軒の課によって思ひ止った。併しおのづから絶交の姿であったといふ。 「興助
第 三 章 奪 王擁夷 論 の 発達 四二九
四三○
第 八 編 天保 時代
㎞ は幼年より教育を受候門人にて、寧業成就仕候へば、大恩師にて御座候。然るに共大
事、冠履倒置、
恩師を、彼是議訴申上候を御信用被遊、頭取被仰付、黎野をば御除き被遊候
は勝れ候と
本末失所と可申候。御園鶴に於て不相済儀と奉存候。i興助等何程學問、文章 ァ不ー
聖教

心術不正、
に於て容れざる所に御座候」㎞ 「比者ェ 奥才は別段に御座候得共、


候故、追々
勤候人物に無御座候。iとかく悪性去り不申候へども、表向才器御座
、好人はすべて
御取立に龍成候。i一通り見候ては、非常之才御座候様に見え候へども
左様成物にて御座候」㎞ とは、撃軒が幽谷を評する所、如何に嫌悪の情の甚しかったか
を知るべきである。
㎞ 水戸藩に立原派、藤田派と稀し、門戸の争の起ったのは、かくの如く大日本史編暴上の
それはか
㎞。一意見の衝突に原因してみる。然れども今少し深く立入って考察する時には、軍に
あつたのが、誠の原
りでなく、思想、寧問の根抵に於て、相容れることの出来ないもの、
因であらうと思ふ。
㎞ 水戸の事問は元来朱子學である。然るに大井松隣が古撃を奉じてから後、往々にしてこ
ニJェ
の影響
言号Nシェ ミ A いこ
/ 3造 F、ミr #ABGM に よトミミ 川 0
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を受けたる れを ものがあつたこ9 翠軒の師事せる夫内態 谷田部常徳等 は基ミ 例 である ㎞ま j』
-
シ『日f 児月 、しいニー
立原翠軒の む し -

た古事を奉じ、好んで来生祖徳の著書を譲んだといふ。 魔㎞、仙彼は幕府
1は A 〜
思想
心主義の寧者である。三宅尚斎が、「博聞、室某、荻生某等、陰有革命之説。大義酒晦、滅
綱常、共罪莫所容美」㎞ と評したやうに、革命の説はなかったであらうが、「天下ノ諸大
名、皆々御家来ナレドモ、官位 上方ョリ論旨位記ヲ被下コト成故、下心ニ 、禁裏ヲ誠
ノ君ト存ズル輩モ可有、常今只御威勢ニ 恐テ、御家来ニ成タルト云逸ノコト杯トノ心根不
ハバ、世ノ末ニ成タラン時、安心成難キ筋モ有也」 とて、朝廷以外、別に官位、動等、服
制を定める必要を論じ、「継ジテ御政務ノ筋、何事モ堂上方邪魔ト成テ、上ノ御心一杯ニ御
行ヒ難被遊筋モ有様成バ、及比愚案也」 といってみるのを見れば、革命説に近いも
のであった。兵馬の大権を武家に奪はれ、僅に名爵授興の大権だけが、朝廷に保存せられ
てみる。これをも朝廷から奪ひ、武家をして完全に、朝廷以外に濁立せしめたならば、何
物が朝廷に残るであらう。かくの如き思想は、いつしか撃軒にも威染したやうに見える。
翠軒は寛政の初年、屋代弘賢の紹介により、松平定信に呈書し、天下に三大患あることを
述べた。小宮山槻軒の考言管得聞には、第一 に魯西亜、第二に一向宗を撃げ、第三は 「何事
なるや聞くに及ばす」とて記述を避けてみ 藤
た。鱗 これ明かに水藩博統の奪王思想を裏切るもので
抗せんが貸めに起った。大日本史三大議論の争などは、枝葉
第 三 章 奪 王擁夷 論 の 発達 四三一
四三二
第八 編 天保 時代
水戸の寧問は、比時に分裂したのである。かくて撃軒の學派に属するものは佐幕に傾き、
幽谷の學派に属するものは奪王に傾き、安政以来激烈なる賞争を生する素因ともなった。
水戸寧派と王
政復古の思想
幽谷によって指導せられた水戸學派の奪王論が、公武合鶴であったことは、上文に述べ
て置いた。然れども水戸の學問の分裂した質際の有様に徴し、共奪王の思想が、必すしも
藤田幽谷 微温的のものでなかつたであらうと想像せしめる可能性があるやうに思ふ。 故に幽谷は、
今夫幕府、治天下國家者也。上載天子、下撫諸侯、覇主之業也。共治天下國家者、揺天子之政也。天
子垂供、不聴政久美。久則難髪也。幕府撮天子之政、赤共勢衛。ェ
曾澤正志斎 と稲し、武家政治なるものが、絶封の権威を有つものでないことを調示してみる。曾澤正
志斎が、
碑州萬國之元首、皇統不得有二、以萬民奉一君、共義在霊臣子分美。ェ
といへるのもまた、言外の意味があるやうに思ふ。武家政治は、萬民を以て一君を奉する
ものでないからである。殊に東湖の如きは、警昭への呈書に於て、後鳥羽、後鶴闘雨天皇
の御企の失敗せることを述べて、「共後はいよ〜闘東の権威のみ盛んに和成り、 は発契
ょり、更に御手を御出し不被遊候よりも一段あしく想成候勢、何共可申様無御座候」とい
ひ、また後光明天皇の英適に入らせられることを幕府で気遣ったことを撃げ、「不幸にして
天皇御早世被遊候故、闘東にでは御安心被遊候得ども、質は比時に又々一段、京都之方を
きびしく被遊候様にも奉存候。右の通り英明の天子様被貸在候度毎に、却て 一段々々に、
闘東の御用心は深く相成候姿、是非もなき御儀に奉存候」 といひ、更に光図の大日本史編
纂のことに及び、
比虜西山公には御深慮被貸在候と相見え、所請力づくに被遊候へば、盆々京都の御難儀に相成候故、
まづ天下一統の人心を御直し被遊候牛と、日本史の御目論見被貸在候獣。是はかけはなれ候事故、公
儀にても御手の付け様無之、将軍停などは、誠に御耳のいたき事許りに御座候得共、御常代の御事に
は無御座候故、是れ以致方も無之:、
と稲し、共修史事業が、皇権回復の意圓の下に計書せられたことを論じ、更に
天朝の貸に御忠節を御霊し被遊、夫れにて幕府より御忌まれ被遊候辿も、少も御馳しき御儀には無御
Q医購亜澤所
座候。 載東湖上書。
こo 引」こ * は っ こい よ ALf 、キノさ、上文 > り
と極言した。光図にさまでの考のあつたとも思はれないけれども 参照。 くの如き推測の
下に、共遺訓を奉じ、或は修史の業に携はり、或は政治に参興せる東湖の思想が、同じ程
度にあったこと、即ち朝権回復の考を以て、大日本史の編纂に従ひ、また政局にも臨んだ
水戸藩君臣の
京都手入 ことは、認識しなけれ ばならない。かるが故に管昭の意見の、幕府の納る、所とならない
第三章 奪 王 懐 裏論 の 務 達 四三三
第 八 編 天保 時代 四三四
のを見て、水藩の君臣は、天下に率先して京都手入を試みてみる。同藩の手入は、天保十

一年光格天皇崩御の際、管昭が
-
天皇 の際 管 昭が書を闘白鷹司政通
#
1}イ* 別名門鷹司攻通 に贈り、山シ
* ,いソ を起し、溢焼を
山陵を起 論跳を復足す
すべ きこ

うとするものであり、政権推移の端緒の開けたことを暗示すると共に、一面には共勢を助
け、一面には 「眼前の君父をさし置、た\ち
罪のがるまじく候」といへる告志篇の主張を裏切るものである。
王政復古論と
しての奪王捜 かやうに考察する時、我等は水戸藩君臣の奪王の思想が、既に王政の復古を、考慮に
夷論
せるまでに進展してみたと推定することの、必すしも誤認ではなからうと信するものであ
る。初論共思想がこ、まで進展したとしても、公然これを日にするのは、三家としての立
場が容易に許さない所であるから、形式に於ては依然公武合鶴、奪王佐幕たらざるを得な
かったことも、見通すわけには行かない。面もそれは王政復古論を粉備するが貸めの奪王
佐幕論である。形式であって事質でない。されば水戸學の威化を受け、または水戸寧に共
鳴する人々が、奪懐の説を唱へ、後途に皇権回復の質際運動を起したのも、怪しむに足ら
ないのである。果して然らば、共奪 土壌市%論もまた、新論や弘道館記述義の文造 にあらは
ま 獲 複 田
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あ も く て
第八編 天保 時代 \
四三六
る。常ては公武合鶴論に歴せられて、微々として振はなかった王政復古論も、こ、に至っ
て潮く躍進し、おのづから相封立する姿を呈した。奪王思想は比際に分裂して、将来或は
るべき道を辿りはじめたのである。
く皆奪王の思想と相結んで、所請奪携を唱へたのではない。常て文政年間三奉行によって
提唱せられ、また遠山景晋の等海因循録にあるやうな見解を有するものも赤多かった。斎
藤地堂㎞。佐藤一斎㎞の如きは共一例である。二人共に推夷の説はな
るが、奪携の主張は有してみない。要するに単純なる懐夷の説であった。かくて水戸學が
分裂し、奪王論が分裂したと同じく、懐夷論も比際に分裂した。懐夷論必すしも、開園の
結論を有し、王政復古の理想があるとのみはいへない。それは質に、奪王懐夷論に限られ
た主張であることを、特に理解して置かなければならないのである。
第四章 開國論の発達
ある。胤通の
天保年間、開園論を唱へたものは、渡漫ェ華山の外に松本胤通、古賀制器が
常甘ては遠洋航海にも堪
説は、 天保八年徳川管 胆に呈した戯芦微裏に見えてみる。胤通は、
概き、かくの如き
へた我が船舶も、鎖國の後全く衰へて、所請地乗船になったとてこれを
堅牢の
有様では、西洋の船と戦は出来ない。故に海國の武備を整へようとするには、高大
であると稀し、
船を造らなければならない。かくてはじめて西洋諸國との強弱を論すべき
、安房等の防
の制を地べて、諸大名を休養し、共費用を造船に宛てしめる事、伊豆、相模
を から、露國南下の勢力に及び、宜しく日露の國境を定めて、
曰く、
凱観の念を絶たしめると共に、既に奪はれた千島をも取返 へす策を建て、
ニオロシャノ交易ラ許シ
千島ヲ取リ復シテ、古ノ如ク蝦夷ノ属園トセンコト、難ニモ非ル平。先第一
法師ノ云シ如ク、築ノ
テ、唐山トノ私交易プ停止スべ キ也。:常時唐山船ニ積来ル貨物ノ中、衆好
外ニハ、無クトモカク マジキナリ。
内へ、國書チ添へ
借魯西亜ノ交易ラ許シテ、唐山ノ私交易ラ停ルニハ、先ゾカムサスカ、オーッカノ
四三七
第 四 章 開國 論 の 発達
第八幡 天保 時代 四 三八
千島回復を 使節 之 道スペシ。 其國書大意 大、 先年長崎、 松前 《 使節義通す し 、 交易2事態初 三 字 語 大 し シ成,
條件 とする
** *ーヴた母
日 將其功後調 在細 ァリテ 1 日本意 後天 、 圖ラズ 非國2 位將門クº 放 三 个数函授)位將 對シ、 魏國) 好~ ?
多、 二周 2界ラたメ、 交易2事す議センガ后使者 ア帝蕭スº ︽多 ク 公使者 アロ野 ། >> ト元禄 二 型 シ
テ、 分界 大 前後 五 龙 观 ク、 服喪ト名付ル所 分 、 古來愈者或就 ) 為國子 レメ、 與國 於 2 百有餘年來
開拓キシ、 シ ムチ チャウ リシ モシリ島 * ア後 フズ这サンメ、 シムチチャウア以 南到分界)地ト
シ、 文安陽 、 弘文虎山號 就來 作物目錄 以 此曲«年«義文字ク時候 ? ン。 除 或所產物

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出 2日 、 別統目錄2通り、 交易トシテ義派る ペシº 些外制2 期、 金


線編號 》報 公 、 1 品タリトモ成維+數う以 文、 旅對義す強グ、 國主 《 書上 )上、 分界、 交易爾模ト
卡 米諾ノ上 公 、 波塔省長崎港之中越スペキ 目曾長 會將卡、 信標 う異 { }、 本邦2使節 分館收 スペ *
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かくて施通は、 我國,との交通路易は、 衛國多年の宿題であるから、「君臣高校 2 月 ア開キ、
怪タタル 製成路島 ノ使地、 快ク近 スペシト間 形 ・ ナリ。 然打 とも高 一方 を拒行 時は、
日英政局會 奥羽の諸大名に命して、 客 が退さうと称した。 なは英國が許て資材した ことのある態度を
像し、
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,とて、 同じく これを許すべ さを説き、 更にかく の知(英俊二國に路易を許すのは、 和簡の
好まない所であるから、 防省するであらうけれども、 断然都けるが広い。 果して彼らば、
蘭人寿の勝を破り、 國家の長後來である といび、 また支那賀島 作正の 飛沙 に、 數十萬 元の
紅衛は内地に留 6、 其使が低落して、 諸大名も心房く、 大砲を製造することが出來る とい
つてある。




, ،
資易港に就 いては、 日將 物を へる
方交易間距 ル 上 分 、 場所 分 前後 で述ル 如ク、 眼皮於前2 內 2 號7ベキュトナレドモ 、 是 分 股金川
母 チ來ルトモ、 是非長崎 町村ク、 和蘭2 張合 三津»、 取扱定 コトナラズャº 尔 顿 大 ロシャハ 遣大

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ア帝國子 レメ 、 一 小王國 ) 和關 m 格州 三 丁寧 スペキ也º
- - -
~とあるが、 英國に関しては地 ? てない。 やはり長崎に於てする考であらう。
據|}}}
根其

施通の口舒 翰は、 千島の回復を日的,とする交換 修作を基礎 としてみるやう で ある


が、 日英路易 の説 のあるのを見れば、 必ずしも さうばかり
- 用途 _ - - *
敵による非戰論 の知さは、 北 原因であらう。 な ば
第四章 洲 國 論 の 後述 四元
第八編 天保 時代 四四○
また露園が廣く通商貿易を試み、共都には通商國の使臣が滞在してみることを撃げてみる
のを見れば、交通は常然の要求であるとの見解を、有してみたのかも知れない。但し支那
貿停べくし易め




に和



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述て

理由


てな い
開れ



古賀






















ぐ 園





は國

國に
つ、



あらすて防る

みないのを概き、船舶を造り、銃砲を鋳、沿海の
守備を整へるのが、今日の急務なるを論じ、大船製造禁止の祀法を革め、海軍を興すべき
を説いた後に、西洋の諸國が、振虎の心を以て人の國を奪ひ、五大洲の内共競食を免る、
もの、濁り亜細亜あるのみ、それさへ英國は既に印度を奪有し、露國は満洲を窺へる事質
を撃げて、西力浸潮の勢の如何に恐るべきかを示すと共に、なほまた露國が、千島を奪つ
て潮く得撫に及び、英園が亜米利加を占有して、除威将に我に迫らうとするの状を語り、
㎞二園の強大校獣なる、眞に恐るべきであると稲し、國民
の注意を促した。
桐番 はまた、大原左金吾をはじめ、水戸學派の人々などが、耶蘇教を以て侵略の方便と
解する説を評して、それは過去の政策であつた。今や概ね敵の卵非を評 ひ、共約に負〜を資
めて、丘ハを加 へ ることにしてみる。邦人、思共教民を誘 ふ の害を知つて、銃砲、舟艦力攻の
顧に備へることを知らないのは迂潤であるとて、兵備を講する必要を説き、また自園の富
庶昌織を殆り、他國の長を採るのを恐れる弊害を指摘し、学露、莫駄見の如き、いづれも
勢力を特んで、兵力を怠った貸めに滅びた。支那の騎殆なるも大瓶である。面して騎の一
失は、 が園もまたこれを免れることが出来ないといひ、世人が元冠の役を自負して、欧
洲諸國を、それと同一祀するを戒め、更に幕府の有司等が、英露の貧校を悪みながら、共
政俗及び防御 の宜をいはす、また他人のこれをいふことをも喜ばないのを非難し、宜しく
共方を講究し、博く興人の議を乗ることが必要である。共方を講究せす、人の言をも聞か
ないのは、外患以上の調であると痛論してみる。
共園鶴擁護 かくて個
個器 は、碑武以来弦に二千五百有除年、いまだ常て戒虜稿操の鍵に遭はす、姦臣
き、 共
恨藩算奪の刷にも羅らす、萬世一系の皇統天地と共に悠久たるが如き、五大洲中共
ざる所、無暇の玉である。面も比奪厳なる國鶴を擁護すべきもの ま
励ますの外はないと論じた。これ質に、常時識者に共通する思想であり、開園論も、懐夷
論も、継て皆こ、から出務した。明治維新なるものは、要するにかくの如き國鶴擁護運動
の継清算であった。
個器 は潮く本論に入りて、非戦論を唱へて目く、
第四章 開園 論 の 発達 四四一
第八祖 < は 時代 四四 二
个 建安 大都以g, 象之心地區劃 上來 無間平水與%、張以大佛之、 陈
№ Nた代 牧師也 % 、 天下至關、 北河、 無脊液。今不幸 。李
从勾配電磁 學術, 莖 北太武安 那人大學 之學、陈 瑞。

丁 之後 輪 駆使之虎、 李自此之神。
こればねの打地介を以て、 神で武を行す となすのである。
个贵、 冬天井秀明山市、 非裔美、 命海、直以大的 機器之、 使人陳水泳池、 玉 ㏊
派在 北 安人乘、 北米至如金之於宋、 特以其不論不那大祭、 而强盛 京帝 、 方式
李=之文化 不足以服上总之男、 而神使人寿。·波不知、外光大之金、 高的靈
之傳 佛之末、 曾以轉盤、 必波被入选之志光、 松大和義之。 斯科大國之舉動家。
*人の末 、 別に掛かつてのことでない、 松るに故なくして砲撃を加 《るが勃 ºド間通
ので、 張光に反對した。
共開國論 の 个代, ㎏之為 生於四之術有 、 日、 彼來將士市、 断然不正、 以官的地地非常性、 他 不滿
根據
*=3 - 北上 書, 他以將- 高以 使之不作战象部 也 。 而大丈夫多方 和李守 李 ***
==،*~*~* + + = = =以 优之* ************
日|}

心-本科 學術也 成婚礼仪之性、 陰N後、 德利益、 不順位與義。 母親王蛇。 兩大樂器


正、 記憶力學之 間不舒適當也 隨即非に人所好。 两«不破口、 松用之。 且也今日海防之未 滿,
卒位之水素科、 離以應动政 政不如於成城、 橫紋石、 使被無難以射到關。 彼結和平均衡、 不肯斯代
於我、 遠至交鋒、 別從師出無名、 而我將軍大人、 衛政不義、 別大椎、 而我武備隊編修整。 斯可以
交战。 然兩張主神戸 市、 布恩伯之說者、 其心金総称城輯之兄、 特共經成加用密武 º
これ兵備國防の整はない内に、 戰を開く 放牧を説き、 寧の始く 放射を許して、 其完備を制
るの得後來なるを論じたもので、 若し個地の開國論の基礎を残してみる。 然れとも 比外に*
组阁 の不利 なは、 共識族たる べ さ主張があった。 戦闘を不可,とするのが共 である。 故に

本邦日市不接外成 天正、 愛文之際、 特利安通、 無幾宗趙、 齐斯图之稱。 是以政法體文、 大举日
局於我國、 不能應及遠、 如無敵方放路克之平、 概地之定外º
~て観の繁を説さ、
常複姓水前作制、 遠在天後 、 通網、 安南等地方互市º 為的共衛、 赤可以資的國。



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- 雞して、 趙國制度の放棄を論 した。 道路を行 のが共 二 で





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カの術 なるに常 6、 海南の諸島及び北海の方面、 なはいま


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じ、 これを統路したならば、 歐 洲の勢力を未然に防ぎ得たにか
7 ^は


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^> _ さないのは、 千秋の遺域である といび、
四四四
第 八 編 天保時代
今也、業己失好機 、別無他策。常大設砲銃、舟艦、厳沿海備、以固守金園、シ
地耳。
と論じ、意略の策を建て、みる。かくて世或は、海南の諸島及びカムチ。 を取り、シを
張るの説を残すものもあるが、今や彼の備は周密を極め、容易に攻めることが出来ない。
また幸にこれを平げても、推土重来するであらうから、途に兵連り怨結び、永く無窮の患
を醸すの恐があるといへるは、佐藤信淵の説を験したものと思はれる。然れ。基所
蘭人を利す 西不争の地に就いての説明をしなかた。蘭人を制するのが共三である。故に泰西の俗、
るの策
利を競うて理義を顧みない。面して和蘭も赤泰西の一園であると稲し、邦人の間人を す
ること厚きに過ぐるを戒め、
和蘭闘組互市之利、以彦手今慈、二百戦如一日也。夫互市止於一園、則離有シ根之言、シ
自面露 若別有一園入員、則造相獣検、欲以決 共取、故不得少有欺職、固基常#。今シ
二園互市、則彼争呈確質之言、外園情形、日瞭然平心目、赤可以資防 之質。
と稲した。
㎞の望たる 同海はまた、幕府の施設宜しきを得ないものを数へてみる。基一に目(、『てっッ。
幕府の奏政
薬た時、多数 撃員で、基園 したのは、魔力を委 o 共二
共一
シ“して、シ。
に目(、 李國:我が漢文を標有して、 本邦の政化原省を採っておる のに、 我が風では構タ
客人を獲れば、 これを祀ること発光の知く、 速に放送してわるのは得法でない。 共産する
こ~、 衛國のそれを撃沈 ? ???。 其三に目く、 我が深民の外國140億る者 は、 聖人同
様に取扱い、 克船の海上に来るものは、 使球の城,と見るのは何故であるか。 外國に深到し
ながら、 整(詩 2て触國3るのは、 本郡を願意するからである。 原(魔 を加え なければ
ならない。 武四に目く、 克船の海上に出沒するのは、 必ずしも容を挑む張のみ でない。
朱仙座を間はすして栄 るのは、 降機能を依る の苦しいものである。 かくて北愛
草の要を説いてあるのは、 若しまた開國の説を助けるもの であった。
*本來會







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船统、 科神木戰之树是也º 大

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以政中心靈感、 補者 说之劍、以美比原、崇明殿之位, 以張士氣、省後有之寶,
四 沒



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似。




養9


* 無
邦、 共可長眠術加也。 命前後文金、 時々以斯、 略省主张、 使朝野郡郡、 纽 此
第四章 器 國論 の後 達 四四五
四四六
第 八 編 天保 時代
也。
所以導民心面使一。共於海防、神盆泡弘多。較夫徒以成令革民面者、固不可同日面論
統一することを説け
といひ、士民をして外人の恐るべく疾むべ きを知らしめ、以て民心を

開國論と壇夷
論との相違
るなど、おのづから水戸藩の懐夷論と相通するものがあった。共他の諸論また類似の酷
い。面して途に開國となり懐夷となり、氷炭相容れない所以のものは、開園
を整へるか、開園してから後に、内政を整へるかの酷に於て、所見全く相反し
である。これ最も注意を要する所、章を重ねて闘明しようと思ふ。
按するに松本胤通の所説は始く措き、これを古賀制器に就いて見るに、開園論の発達
政治的開園論
の大成
が、正に共頂獣に達したことを示してみる。然れども海防艦測にいふ所は、精粗の別こそ
あれ、専ら共父精里の意見を祀述したものであり、 面してまた大鶴に於て、概ね
これを評
先哲の士、もしくは同時代の識者が、世を驚かした所と運庭を見ない。勝海舟が
して、「共言盤々音緊に中るもの多し。常時に在ては、質に空谷の造音なり」㎞といへる






は溢美に過ぎる。兵器、軍艦の改善と、沿海 林子平によって、蘭人を制するこ
が寛政時
とは工藤球卿によって、井に天明時代に提唱せられ、開國遠略の策は、本多利明
0 こ\『Vま、倉上“区、 AEお 員長 領袖を
) 、
代に説いてみる。また大心を するや愛は、蒲シ、シ 湖愛
の領袖、 松本
に司じ〜 た工族は三日明川、 水戸學派
胤通等のいへる所、欧洲の勢力との衝突を避ける見解は、松平定信にはじ
の党音であらう。たゞ以上の諸説を緑合統一し、一貫した生命を興へた酷に於て、海防慮
測の債値が認識せられる。比時に常り経済的開國論は潮く影を潜め、政治的開國論がこれ
代らうとした。個基の所見は、かくの如き政治的開園論を修大成せるもの、共ほゞ発達
の域に達したのは、質に比時であった。爾来鎖國の時代を終るまで、開園の議を唱へたも
のは多いけれども、いまだ常甘て個器 の規を越えない。比意義に於て個器 は、政治的開園論
者の代表者と見るを得べ く、海防魔測の一篇が、世に重きを貸す所以も、またこ、に存す
るのである。かくて開國論は、経済的の寧説を基礎
メー として発達すべきであったが、中道に

やう




存在


開論
る持
濁 りつ
國み
なった。



第四章 開國 論 の 発達 同四七
第八線 < は 時代 四四 人
第五章 <保新木令の拡充
英國勢力の東 經國時代 とい へとも、 なは日海外の形勢が、 其波動を武が図に及ばしたことは、 既に述

べた所である。 就中最も大きな影響を及ばしたのは、 阿片戰爭の vれであった。 是より先
英國は、クライズ、 スチング等の際によって、 次第に印度先の を挙げる 東に、
其势力もまた東軍して支那に及び、 入三四年支那に於ける東印度高會の特權を放北し、
**********
入四O年から四二年にかけての同开敏寺の起 たことは、 細能を要しないはと願者なる史
實である。 支那から東すれば成が日本である。 英國東潮の勢力は、 常被我が脚に及ぶ べさ
であった。 而もそれに先につて既に早く、阿片戰爭の刺激は、我が図民に使大なる生さだ数
調を興 < たのである。 若し支那は、 我が文化の因て来る所の先進國であり、 其對城の大な
る、 民衆の多さ、 容易に比肩するものもないから、 一方には極端なる支那州科洛を出す~
共に、他の 方には、 共教方に封して彼德の念を抱かしめた。 熊本山、 敵 疎遠寺
政总 ، W 降 Wr,
神奈、陈
書上表。
建國 " 寿。 :
- **
英國 のみ のに好關也 れ
-
地 を判 さ、 復
し、 武~ ~~のとして考え られて***

金を納れて和を語ったので、 我が協定は、 个更の細くに散州州際の勢力に就いて、 敵兵の







----

服を時てさる ゲ 得なか ク にº 來、 陈國,と共に、 我が図に野心あるもの と


{




ła
-

皆書

思維 せられ、 世の野外の後來を 受 - 英俊の 二國を封象,としてみた,とすればな は


更である。 されば海國がもし 歐人に役球やられたならば、 劉雲市も に我が風に及ぶ であら
う,とは、 議者 の外 に愛 る所で あった。 體 而して北戰爭は、 我が天保+ 1年から十三年
まで継続し、 共間、 事變の始末は、 詳かに満期二國商人 の報告する所 となり、 國民の視廳
を敵かした。 球錦 かくて成が国民 の成したのは、 英樹の勢力が、 達からす 阿等か の形
に於て内侍 3るであらう とい よ ことであった。 されば上下共に危機 の念を高め、 また特に
國防の不備に 國防 の神病なるを思り、 これ を破格するの必要を、 より多く認識したのである。 何となれ
關 する 政 民 の
不安 科 书 られ
港口 の砲撃を修築したばかりで、 銃他の改善、 軍
の張榮 、 總て光行さられてかない。體 。 かくの
私を極めたる土家 に於て、 彼 と婚姻を開くこ~との、 新竹に危
であり、 またこれを論するものも多かった。 微分光化以後で
述べ たのは、 高島 被朝,と佐久間來山,とである。
第五章 < は 新 水合 の 領先
第 八 編 天保 時代 四五○
稿島秋帆の園
防論
天保十一年九月高島秋帆は書を幕府に呈し、清蘭二國人から聴く所の阿片戦争のことを
撃げ、共敗因が主として砲術の未熟にあるを論じ、我が國でも速にこれを改善しなければ
ならないといへるは、阿片戦争に鑑みて、危険を成じたからである。ェ㎞ 然れども
佐久間象山の 封外の策には鋼れなかったが、同十三年十一月佐久間象山も、書を藩主眞田幸貫に呈して
非開園論
國防を論じた。幸貫は比時老中であるから、別の意味に於て、幕府への建議とも見られる
面して共書中には、支那が英國との戦に、利を失つてみるやうであるが、我が國もまた
めこれに備へなければならない。もし萬一英園が戦勝の除威に乗じ、来って貿易を強請し
ても、兵威に恐れてこれを許すのは、春秋城下の盟である。天下剛大正直の気も挫け、碑
國尚武の威も衰へ、外夷軽侮の端が、おのづから開けるであらうと稲した後に、
非戦論
様、有御座度奉存候。
。砲* を築く事、大 を製する

*、洋式の大船を造り、海運を使にする事、シ 設ける事、洋式の戦艦
造り

海軍を練る事、寧校を都部に興し、教化を布く事、賞罰を明かにし、思威井び行ひ、民心


を統一する事、貢士の法を設ける事、就中砲と艦とが急務であるから、蘭人を聘してこれ
を學び、大に海軍を興し、江戸、鳥羽、大坂、下ノ闘、長崎、新潟、石の巻の七ヶ所を根擁
安積良斎、斎
藤竹堂、大塚 とする事の必要を論じてみる。ェ 尋で嘉永年間には、安積良斎、 斎堂竹堂、 大
同審、大槻磐
渓の非戦論 塚同器、 大槻磐渓、 等もまた、阿片戦争を論じて非戦論を唱へ、なほ良斎、磐
渓は、外船の来ることに、幾千の兵を動かしてこれを守り、敷高の財を費すのは、戦はす
して國力を損するものであるといひ、竹堂は、支那がみづから中夏と稲し、海外の諸國を
祀ること、犬録 猫風の如く、他の長所を探るを怠ったのは、共敗因であるといひ、同器 は
敗因の、洋式の砲術を講じない貸めであるを論じ、我が國に於ても、速にこれを講すべき
を説くなど、異同はあるけれども、支那の覆撤を践まないやうにとの、絶大の用意を含め

*
ることは、共揆を一にしてみる。かくして非戦論が次第に擁頭した。
阿片戦争より 時に常り、幕府もまた、蘭人の風説書により、清商の早書により、共開戦と殆んど同時
受けたる幕府
・ の憂慮
にこれを知つたが、更に詳細の事質を探るが貸めに、長崎奉行に命じ、清蘭雨國人に就い
て調査せしめた。面も共指示せる調査事項が、軍艦及び兵士、兵器の数、種類、井に軍略、
用兵の模様であったのを見ても、幕府の憂慮が、いづこにあつたかを察することが出来よ
第五章 天保 葬 水 令 の 願 布 四五 一
修水 廳 * &#作
う。 趙、また天保十二年正月七日治中水野忠部の、 佐渡本行加隆地設に船れる書中に、
-
南國阿片通商破集之不取神上 0, 4 9 ス人地不平、 軍艦山松散 前、 寧波府に仕將戰爭、 李成像
部被修改修出、 比度來創人より中出線 道函之義に彼得共、 別自國之成に可和成本人 在條。 牠 的 數
之建議定、 不求之平ともに終盤

か政









文 く

~とあるを思い に、 嘉府の受けた劇家3 、 決して小さくはな
でない
存白る在

す佛


明を


もの

事實であらればな らむ 。 幾もなく思部 が こ
れを撤回し、 新宗介を加布した所以のもの、 若しこ ^ に基くもの と思はれる。 其相思義は
老中であつだけれども、 前將軍家族が大御所 として、 政治の質構を張ってあるから、 十分
に就是と仲ばせなかった。 然るに同年間正月後擔が焼し、 赤軍家慶の親政~なるに及び、
其信任を得て、 所調天保の改革に 世を敵かずや、 翌十三年七月を以て打神化を停め、 新
水供給の介を布 いた。 其文に目く、
吳國船渡来之師、 熊本列佛可中 日、 文政人年被加出像。 然遺唐時的平御改正 て、 李俊、 安政之御
攻北 俊、何平 よらす制に政を被施设人 の建有限者 使。方位で 、外國之者 でも強風、沈
流等 て、 食物都水を名候名義來像を 生 下町か 、 周に打排除で 、 衛政 使對網頁上
* 不被恶名候。 依之文化三年限界附帶來之師、取社方之義村、被加出被徵 和彼し候校被叫出缺血,
通 料*
初姚 岩f

N日語和應 與 r 姊
を 見受破 »、 得大隊子和紅、 金科 水之しく、 特朗新成魔術 分 » ,



三代て 、 海岸防御系の手常、 6 るかせ 政し置 其
など) 小得道、 文公 三 期六 條家等 人 發前數成 三 行、 警衛向之義大 滿載重に故し、 人数并武
船より、 海岸之
器手常等之義 分 、 是泛より 分 段手形、 脚 ても 心地入無之校和 心得可由 彼方與國
之成も難社線 へ来、 夫等之
桃子をうか で ひ、 共場所人心之劍術を試験ためが 、 鐵地を打擊破期可有
% 討共役方より 創新之
事 三 軌將不致、 渡来之平賀能 多 相分り、 御機卿之御主意匠さ候被取對可中被º
始末行之祭典、 空之間和與 人 彼ても降 議然 分K 。 這 三村鄉、 臨機之眼就 分 物論之平 侯
備向手常之義大、 航道て和 可布之成 侯。 文化三年和關條紋、 非怖 分 可有之使得共、 残心
戦で語能には、 武術を整 、 大砲其他武器及び人數等、 李泰140 周 恩して広く ことを達
源氏康於 に開 共他の諸國
する南人 へ の し、また秋元化元年、 例來成が深化は支那、 和尚の内 へ受攻 9 て述家る べく、
布達
か 丹に達し、 且これ を海外 の諸國に仲介 しめ、
和 的通過を消費に滞在 せしめる ことにしたº


外敵機來の際、 艦隊の用に供する 為 の、

( -

蓝窓
寶二

轉.通
一流i班
航!!!


に準
柳*此新米公の加布は、 天保改革の 一 部であり、 天保改革は、 草根廷政 の改革
天保改革 の
部 としての新
水金 す
てある。 而して文政の打物介は、 安政度從河の施設 と相容れない とすれば、 これを廃止
四五
第五章 者 保 新 木 令 の 銀元
第八編 天保 時代 四五四
るのは、改革事業の精紳から見て、常然の虜置であつた。但し共準擁する前令が、寛政三
年の令に擁らすに、文政三年の達に従ったのは、法の精碑を同じうして、面も文鮮の上に、
より多く寛大の意味があらはれてみるからであらう。いづれにしてもそれが、寛政改革を
學ぶにあったとすれば、新水令を願布せる所以もまた、おのづから理解せられる。然れど
も阿片戦争の刺激がなくば、果して比設備を見たかどうかは疑なきを得ない。蓋し清國の
敗動に鑑みたのが、最大の原因であらう。
葬新水令と漂民


の書輸(共一) 菊水令の願布に就いては別になは一説がある。開國起原に奥右筆宮重久右衛門信愛手録
を引き、「天保十三年柳生伊勢守久包より、急使を以申越せる趣は、我が國の漂民を助け、
先年英國モリッシ船を浦賀近海に寄る虜、是非を問はすして打挑はる。夫より薩摩地に至
り又砲撃せられ、清國廣東に騎る。モリンシ願意他なし、漂民を送り、貿易を請 ふ のみ
と。書を蘭船に託し、長崎に達す。久包飛札を江戸閣老に呈せり」と書き起し、老中水野
忠邦、土井利位、堀田正篤、 最田幸貫等これを見て謀議を凝した。幸貫は、同情に堪
へす、打挑廃止の議を唱へたが、忠邦以下いづれも賛同しない。途に将軍家慶の親裁を仰


布したといふのである。開園起原は比。
いだ。家慶は幸貫の意見を用みて、 新 水令を煩布した


採り、向山誠着の接番年表、職 田* 園の海 彙議及び外交志稿もこれに従ってみる。今*
是非を論するに常り、まづ暮議の基礎になったといふ長崎奉行の呈書から、検討しなけれ
ばならない。
新水令と漂民 開國起原に引く宮重信愛の手録にある長崎奉行の呈書なるものは、奉行の呈書と、和蘭
の書輸(共二)
甲比丹の風説書と、漂民の書輸とを混同してみるので、事質は次の如くであった。同年六
月和蘭の新甲比丹ビクが長崎に来た。ビクは来朝の途次、婚港に於て、我が漂民庄蔵、毒
三郎の二人に逢ひ、二人から共郷里に寄せる書輸を託せられた。故に長崎着早々これを長
崎奉行に呈し、同時に差出した風説書の中にも共事を述べ、右人々究て去る和間千八百三
十七年㎞・モリッシと中ェゲレス船ニ乗組、日本地方へ龍越、空敷乗戻候漂流之人ニて可
有之奉存候」と記してある。 また漂民の書湖は、それ〜父兄に寄せたもので、漂
流の事、米船に伴はれて浦賀に至り、砲撃に逢った事、もはや騎園を断念したから、出務
の日を命日として貰いたい事、一日も故郷を忘れかねる事、今では何一つ不自由しない事
などを記し、望郷の情綿々として霊きざるものがあった。かくて翌七月奉行は、これ等の
書類を幕府に轄送し、別に「右日本人如何様申付方取計可申哉、比段奉伺候」との伺書を
* トー ? " *
*o 日本財政経済史料
許水令と漂民
呈して、指令を仰いだのである。翻㎞
の書輸(共三) かくの如く奉行の伺は、比漂民に封して、如何に虜置すべきかにあったから、それに就
第 五 章 天保 葬新 水 令 の 願 布 四五五
四五六
第 八 編 天保 時代
いての幕議も開かれたと思はれるが、資料が闘けて詳かでない。また奉行への指令も同様
として、幕府
である。然れども 一漂民の存在が、打挑令の存在を否定するほど力あるもの
どうかゞ、第一に疑は れる。また漂民の存在から闘聯して、打挑令のこ
かどこ
の評議に上ったか
のは七月中旬であら
とに及び、自然評議が催されたとしても、奉行 の伺書の幕府に達する
1-、-A- * い
-
う。㎞ 暇に十五六日の頃とすれば、打挑令の廃止、新水令の願布は、#三日で
七月初旬に務 す し 、1 ) っよ、
週間し ない。一週間で比大事を評議し、結着するまでの除格はあり

あるから、共間約一週間しか
ことは、除程
得ないと思ふ。要するに漂民の書輸が、打挑令廃止の原因になったと考へる


奉行の伺書が
の無理がある。然れどもかねて共魔止が評議されてみる際に、漂民の書輸、
常の債値はあ
到着し、評決を助ける材料となったかも知れない。比事は肯定せらるべき相


が出来ない。
らう。それにしても水野忠邦が反封したといふに至っては、途に信すること
多大
忠邦は前年所請モリソン跳事件の時、既に寛容の態度を示し、阿片戦争に就いても、
の注意を挑つてみたからである。
天保葬新水令の
意義
今接するに、文政の打挑令は、打挑へば打挑ふことの出来る可能性が考慮せられた 所
戦することを條件と したのではな
もとより 海外の諸國と開戦すこ。松 る
に、 基存在の意義があった。
い。 従って上述の可能性の失はれ*
… - 雞肉:に掛かはし、 北がカは、 完全に求が聞 の仲に地 った。 江青少 の平


(7)
]]



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あり、 もはや近地 の出水る可能性が失はい だ。



*

陈 S㏊ て近地化を撤回したのは、 近地价の楽が あべて、 李從 S式 ”


53 ㎏,3に形式の後にで、 非怖の和速でない。 光は北側から、 歐洲の補償
の間に加比 3岁はなかった。 かくて名將北 に光は、 北 地 級政策だる遊戲 主義の色彩を即
に滞在せしめたの は、 陈水に
かにした。 而しても 特別關 閉鎖が 招い で、 州に帰
於 後成の故郷、陈- 雞になるべき をふた 。
世界東側 の窓 水公 に於てr 姊 姊姊妹 で 、 松岡 被對於細胞的 人 不被叫做 ~い へるは、 前か
に世界的阿卜 い ものが、 論さられるやうになって来た義作を示すのであった。 湖面
二胡人 の秋分關係のみを特級し、 また世界のるを知らなかった時代は、 いっ,しか過去の愛
海外の 形勢 に …)、 个:我が図も、 北的國の 日である~の認識が生じたのである。 汉文傑西亞
よって支配
られる開閉 の ら の松岡は、 延 いて文安打排公の北川 となり、 阿片戰術 の形態 は、 天保本 の北四人 。
情勢

(*







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此次


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なつ たとすればなは火であらう。 海外の形勢が
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か くして光は、 いま た日後的に関を開く意志を有して


決して弱いものではなくなった


*
… 之いれとも、 海外掛からの緊迫は、 途に光をして、 自己の彼するがよ ^ に、
本五章 <保新木令の如布 四五 七
第八線 < 保 時代 四 五人
對外上の施設を放てする自由を失よ ベく際機なくせしめた。 要するに外國勢力の来す加は
る ことに、 一步()開國の方に進んで行かうとする のが、 天保時代の情勢である。 而して
其歸納を開いたのは、 印ら天保新光分 であった。
第六章 街活せる進取開國の精神
進攻開閉 の精
科の姿 度 明和、 安永の交に更生した造成開國の精神は、 其後來第に発展して、 文政、 天保の交完
全に復活した。 其情勢は議者 の野外來の上 にもあらはれてみる。 是より先天明、 衛政の頃、
工藤球軌、 本多利明等の主張 る開國論はいふ に及ばす、 林子平が三國通政齒說の序に、
朝鮮、 地球、 製炎のことを果がて 「大比三國 樂 フ本邦 接 シチ、 實戰號 >國也。 :
政 從テ三國 入 影 人有トモ、 比國7機 スルトキメ 、 三國く 分內了松トシテ月建 在 形
が 知ク、 奈然トシテ被 h ゲベシ。 是小子比國 之作 ア世人 永 ス所す リ」 ,とい へ るは、
後の進取經略論の湖湖を残すものであり、発で利明 が比間期に帰れてみる。 また本居官長、
本田俊地等の関學者は、 古典の研究から出發して、 字为恶く、 我が皇室の御殿成に流( ベ
うもの である,と論じ、 更に文政時代には佐藤信洲によって、 天保時代には古賀個地によっ
て、 進攻開國論が提唱 さられた。 水戶學派の機來會が、 進取開國の結論を有する こともま
た、 既に述べた所である。 要するに機來會大 いはず、 開國論,といはず、 共政策には必守道
政經略を作り、經國論者 でき 、 同様であった。本田茂樹、高野長英等の範圍龍を見ても、
其 一 班が狗はれる。 我等は更に、 別の方面から追殺の情勢を考察しよう。
第 六 章 在 活 せる 道 駅 間 間 の 封 神 四五九
第 八 編 天保 時代 四六○
最初にまづ注意すべきは、耶蘇教に封する思想の鍵化である。是より先一部識者の間に、
耶無教を再玲味する考の起ってみることは、前編に述べて置いた。 かくて寛政年
間本多利明は、西域物語に於て耶蘇教のことに及び、「備法に比すれば遥かに良法なりと
て、支那の豪傑等も取用ひて、民を治めるの一助とするといへり」
察ではないけれども、また敢 これを邪教祀しない批判が、おのづから
松原右仲 尋で文化年間松原右仲も、「天主と申は天笠の響迦の如し。i 害に和成候事とは見へ不申
候由」と稲し、共左道にあらざるをいへるなど、利明よりは更に明確
てみる。ェ されば文政十二年豊田貢の獄に連座せる大坂の賢師藤田顕蔵は、禁書九部十
五冊、紛敷書類九部十二冊、頸槍寛四枚を蔵し、燃雇除稿といふ耶蘇教に闘する著述さ へ

あつたといふ。 ㎞ また同じ頃大槻磐水門下の秀才といはれる蘭學者橋本宗吉も、
渡漫量山 か
蘇教は、海外普通の宗教であるからには、邪宗ではなからうと、かねて疑ってみた。適々
小闘三英 、腐に小闘三英をしてこれを讃ましめ、みっか。
「切支丹略博の小冊子」を手に入れたので
切 *
で これを筆記 シった 三業大き、シ、。
支丹小博」を譚讃したことが、暴露したからであらうと誤解し、即夜自双したのである。
単山先生略博
(三宅友信著)


耶蘇教の承認 来したのであらう。元来長崎の譚
峯山、三英の譚讃せる基督の博は、恐くは長崎から博来


官の間には聖書さへも、秘密の間に讃まれてみたやうに見 る。常甘て安永年間、三浦梅園
吉雄耕牛 が、吉雄耕牛の許で示されたといふ「我邦碑代巻トモ 云フべキ書」は、確に聖書であった。
㎞ 即ち禁書は初論、耶蘇教闘係の蘭書も、幕府の目を擦めて輸入流博せられ、蘭學者の
古賀個審 間に讃まれてみたのである。寧山が基督博を手に入れたのも偶然でない。なほ古賀側番の
海防臓測に
歴沖 「観夫蔵教之祀、常貸世俗説道、違信者順衆。既面貸暴人所嫉、相興潜殺之。
闘する多少の智識を有してみたのであ
卵一庸夫耳」 といへるを見れば、彼もまた基督に闘す
蓋赤
る。従って彼に共智識を
つ 供給した人物なり、書籍なりの存在をも認めなければい
然れども彼はまだ、宗教としての債値を承認しなかった。これに比すれば単山、三英等の



西







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* - * T い
鶴峯戊申 が、「能行届たる法」 で、「人々に深切に、仁義を行はせ、慈悲を行
第六章 復活 せる 進取 開國 の 精 紳 四六一
第八編 天保 時代 四六二
ば」決して排庁すべきでない。「我碑州にては、先王の美を野に求給ひし御趣に随ひて、彼
が美事を取て、敬碑の道をかざり、碑道の助とすべき事」 を論じたのは、明かに一個の宗

たるを承認したので、常時にあっては、誠に放勝の主張であった。
無意義となれ
る鎖國制度
以上撃ぐる所は、偶々我等の目に鋼れた僅少の一例に過ぎない。然れども豊田貢の獄が
起らなければ、藤田顕蔵、橋本宗吉のことが顕は が起らなければ、渡漫 車
- こ
山、小闘三英のことが、博はらなかつたかも れによって考へると、密に耶蘇
教を研究し、聖書を譲み、または耶蘇教に好威を寄せた人々で、露顕の機曾がなく、共事


本本




填の酒滅したもの、多かつたことも想像せられる。 無教禁止の令は、厳とし存在す
るにもか、はらす、禁書の一部は民間に行はれ、聖書と基督博とは輸入譚讃せられ、これ
を知らうとする識者の智識欲もあり、二三の人々は、既に共邪教にあらざるを疑ひ、或は
宗教としての債値を認めてみる。比風早く質永の頃に兆してから次第に発展し、弘化、嘉
永の際に及んでは、ます〜進んで来た。誠に驚くべき思想上の鍵化である。かくの如き
〜7、〜
はなほ一部分に限られ、且蘭學者を中心とする狭い範園の事質であったとしても、思想の
発展こ、に髪べるからは、豪魔や鶴園を断 した最夫や魔園 、おのづから無意義になる
時機の来ること、必すしも遠きにあらさるを暗示せるやうに思はれる。
更に接するに、寛政、文化の交識者の間に、経済的開園論が行はれ、國内の自給自足に
反封し、貿易によって國を富ますべきことを論じた。共威化が如何なる獣にまで及んだか
は詳かでないけれども、富有にして豪脆なる商人階級の二三者が、熱心に貿易の開始を希
望したのは、争ふことの出来ない事質である。文化九年高田屋嘉兵衛が、日露間紛援の犠
つれた時、或日の曾談に我が國情を語り、且前年レザ
開けるのを期待してみたのに、意外にも裏切られ
たものもあると告げたといふ。ェ『 失望の除り不
なかった はれるけれども、かやうな威想を抱くもの、あ
してみる。嘉兵衛の如きは、蓋し共一人であらう。また加州
銭屋五兵衛
の豪商銭屋五兵衛が、天保年間密貿易をしたとの博説には研究の除地がある。然れども五
兵衛の部下たりし清水九兵衛の談によれば、航海中或る暖い島で貿易したといひ、常時疑
獄の取調に参興せる藩吏石黒堅三郎、飯森清之丞の談によれば、五兵衛の蔵品中に、近世
の絶妙類があったといひ、同じく安井顕比の談によれば、五兵衛常甘て耶蘇の書像を示し、

航海中外船から投入れたと告げたと語ったといへ
質を推定することが出来る。近時川島元次郎君は、薩州の日之永良部島で、英人と貿易し
第 六 章 復活 せる 進取 開國 の 精 紳 四六三
第八 期 & 小 四 六四
--
たのであう との考證を後來した。 體 秋に加州の中村役職棒球 所管理三郎が、 元兵衛
に致富の策を発 れた時、 外國貿易に限るけれとも、 紫制の彼
制 のに出來ないの は残念だ と告
げ たって み だ の
~ いふ から、 魏 勒(~彼が、 海外貿易に、 和常の期待を持
は、 背定しなければならない。 嘉兵衛、 五兵衛は商界の後継であり、 共
に於て時流に車組してある。 當時の商人等が撤れ彼等の 知く、 熱心なる外國貿易の情报者
であったとはい へないけれとも、 かくの知さ思想の流れてみたことだけは、 承認せられよ
う,と思よº
時代の要求 人
なれる道收開
進取開國の精神が、 帰り政治的の方面ばかりでなく、 精神的方面にも、 經濟的方面にも

あらはれて来たことは かくの加くであった。 これ北 俊活を意味するものである。 我等は進
取開國の精神の更生を語れる修下に於て、假令それが武が図の使節的精神である とはい へ、
~ ~の姿に復歸する には、 元來納國なるものは、 平安時代の要求によって生したものであ
る から、 比要求が消滅して、 他の新たなる要求の起る 時でなければならない。 武の間相
常の成几を要すると述べて置いた。 然るに个 比特神の復活したのは、 地*他の新た*
る愛求が建った … … … 3 た要求にま、 金” 、“***
… … e:の が、 開國會~***“。*
第七章 <保時代の能觀
世界東國の意 歐洲人 の接続が再び開けてから、 年を関すること正に不世紀を越え、 我が頭足の限界は

次第に魔くなり、 世界的の神職も無く指進した。 されば いつ~となく、 世界英國,とい もの
が共意識に上り、 松陰なる離後も、 お のっから 提明する機運が導かれたのである。 かの 毛
リンシ 能の渡來の時 のあった時には、 既に早く打排令を抱? ることが考慮さられ、 また
人に命じ、 海外在留の深民を連れて永させよう としてみるなど、 いつれもか ^ る情勢のあ
らばれであった。 深民の護送は、 我が同胞に封する機感同情の念に出來する以外、 个现に
我等の同胞が、 海外に わる といふ意識が、 力强く動いたであらうことは、 香 て後 國に残留
せる際民を、 放棄して頼みなかった態度, 比較して、 容易に推察せられる。 即も海外 %だ
は世界 といふ認識が明かになったればこそ、 通タ 通 《吸らうとしたり、 或は數年間共租
に接しないに及んで、 間人に特征したのであった。 非常にしてもし、 それだけの認識がな
い,としたならば、 密克政、 文化時代の仲間 と、 同じ能使を示したかも知れない。 天保暖水分
に 「萬國 被對德纳塔省~ 不被恶名候」,とい へ る破天荒の何を使用したのも、 それが成
めであった。
第 七章 < 保 時代 の 概観 四六五
第 八 編 天保 時代 四六六
非戦論の擁頭 かくの如く世界萬國といふ意識の生じたと共に、彼我勢力の比較による非戦論の擁頭し
たのも怪しむに足らない。渡漫単山、高野長英、松本胤通、川路聖談等が、モリッシ跳事
件の際、我より事端を開く不可を論じたのはこれが貸めである。比見解は阿片戦争の刺激
を受けるに及んで、ます〜濃厚となり、識者の多くは非戦論を唱へ、面して幕府もまた
打挑令を撤回した。蓋し打挑令は、我が沿岸を洗ふ欧洲勢力の波動が弱いから、存在の除
地があるので、大波激浪に封する防ぎは、全然考慮せられてみない。新水令の願布は、寧
ろ像定の退却である。かくて時代の情勢は、概ね戦を避けて、和平を保っに傾き、幕府の
避戦政策の如きも、正保以来の博統を踏襲して、なほ旦これを凌駕しょうとした。戦を避
けるには、勢ひ我が主張と政策とを曲げる必要が起る。鎖國政策は、かくの如くにしてこ
こに崩壊の端を開き、潮く開國に推移する形述を示した。
開國論の発達 かくの如き情勢は、またおのづから開國論をして、政治的の策論たらしめた。されば経
済上の寧説による開國論は、常時たゞ僅に佐藤信淵の主張したばかりである。渡漫 華山、
松本胤通、古賀側葉にも、同じ主張を伴ふけれども、面も基主とする所は、開戦の発険を
避けるにあった。加N 園以前に禁て、肉には龍く外人を容れ、外には遠く海外にも航す

るなど、規模の雄大であったことをはじめ、三韓の内附、元冠の勝利、 豊太闘の外 、
* 、 * }*・剤* } }- 〜
-
國貿易の隆盛、朱印船の発展に至る輝かしい成績を回想し、過去の盛時を再び繰返したい
との考が、油然として起つた。進歩、向上、発展を理想とする我が國民性は、かうした方
面からも開園論を誘導した。単山、胤道、個幕等皆さうである。縄㎞かくて開園


捜夷論の発達 論は純然たる政治論に鍵化した。これに反し懐夷論は、最初から政治論である。殊に天

頃に際しては、開園以前に内政を整へるが貸めの手段に供せられた。水戸學派は共代表
者である。たゞ沿岸に近づく外船の掃懐を主張したのは、粗暴に思はれるけれども、空論
を以て群集を導くことは出来ない。これを導くには、目標が必要である。懐夷は共目標で
あつた。面も常時質際の有様が、かくの如き懐夷を敢てせしめる除地のあつた貸めに、共
成立を促したのであるから、形勢が一鍵し、存在の除地のなくなった場合、常然鍵化すべ
き素因を有してみたことを、注意しなければならない。
佐幕論として
の開國論
比時に際し、開國論者にも、懐夷論者にも共通して、殆ど異論のないのは、内政を整へ
勤王論として
の擁夷論 ることであつた。かくて皇室を中心として共策を行ふのが、懐夷論者の主張であり。幕府
を中心として共策を行ふのが、開國論者の主張であった。かくて共見解は、必然的に勤王
論と佐幕論とに分れる素因を貸してみる。か、る情勢は文政時代に萌し、天保時代に至っ
て、完全に封立の形を示した。たゞ開國論者の佐藤信淵のみ、皇室を中心とすべき論議を
第 七 章 天保 時代 の 概観 四六七
第八線 < 保 時代 四六人
試みたこともあるけれども、 天保時代に対義したので、 衛來よた開國論者 にして、 純正传
王龍を説くもの がない。 現狀破壊、 王政復古の主張を有する のは、 梅克倫者 に限られるや
うになった。
領國卡 う関國
{ の神樂劇
これを要するに非怖の野外來 は、 使統的の遊戰政策を凌駕して、 和平を保つ に苦心し、
結んど組對に離を 外國に構 《 るのを喜ばない。 ひたすらに支那の護職を踏まんことを恐れ
て、 もはや行語りの姿を呈し、 達からす阿等かの形式により、 酸化しなければならない情
教を示してわる。 また水戶學派の代表する機來會 、 古賀地の代表する開國論も、 既に
發達の頂上に達した。 されば機來會が勝っか、 開國論が勝つか、 或は相共に安格 するか、
其族佔(所は、 我が図に迫る外國勢力の波動に従って、 定まるべき連命の下に置かれてあ
た。 若し 一切の御が、 外國を封象 としてみたからである。 秋に進取開國の精神の復活した
ことも、 遺般の情勢,と相關聯して、 共進路を見出す べきであった。 かくの知(崔府の政策
が行前6、 機來會、 開國論が後達の極に達し、 進取開國の精神の復活したことは、 やがて
また韓國公るものが、 今や飛に熱潮にあるのを物語るものである。 彼に天保時代に機構
*る元化為水に、 福岡の大吉卜 て製るよ~、李明園の応 して* *
安省であらかに。 2。 従って成等の研究 、 天保にゲスて終局 ですべきである。*
化嘉永の形勢を語らなければ、本編の唯一 の目的たる明治維新を貫く指導精碑を、
完全に闘明し得ない械があるので、次編に於てこれを概説し、以て比研究を終りたいと思
第 七 章 天保 時代 の 概観 四六九
ーシー』ー』ー
四七O
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* シ = y』 七ェ 、シ ははリaー、
第九編 弘化嘉永時代
第一章 弘化嘉永時代の大勢
序説 著者が本書に於て企圓する所は、鎖國時代に於ける封外策=面も共一面に封内策として
の重要性を有する=を通じて、明治維新の原因を求め、共指導精碑を闘明するのにある。
の歴史を述べるのは、敢て著者の志でない。汎や共指導精紳は、
闘係、 開園の

たと信するものであり、また比精紳による質際の働は、維新史として考
察すべきである。故に弘化嘉永の時代は、本編の結論を導くに必要なる程度に於て、叙述
の筆を進めたいと思ふ。
西方東潮の情

比時に常り、英國は

*A
そァうを主* - -
#ピリ
み、暫く東方の経営を等閑に付したが、一八四八年ムラビョフが、東部西比利亜継督とな
第 一章 弘 化 嘉 永 時代 の 大勢 四七二
便 し は

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&受託し、これを江戶に返したが、非怖には、株洲国の近高山が、年~式に盛に進
んだた平、蒸汽船の数则以來世界北峰の加(、交通の白山になった平、光時に常成國
…&はしないのは、大勢に反する平、もし龐て欲しよう~せば、必ず外側~開戰
か月3% ºたとを、阿片戰爭の仲間を挙げて立成し、速に国公開いて通信地商を
また外人を作っに近似を以てし、兵廠 沿るべさ平を忠告したものである。これに対して






(*

老中の返於湖 和附就收に興
八和附~ 老中地將の近衛を授けた。北愛は、武则来之際、

海外路部、通商贸易出無定。及後
分*定通信之國、通商之國、通信眾神館、職は、湖南駅
九睦文脈、外一切不許新线交通。北國於我、從來在通商業地、山高文件列也。今依
分布氏、而達州法。故他正等、趙光法公等、商之於國王。平成不雅。然法之城知
此。所以不得已。胡亂之。·柳州法定、關係不可不修道。後來代役或几体。成北本松
龍舌兰、不能交、李方為諾。至於公等非怖、赤地之不為世。至於國王忠誠意、間
成中亦沒收錄、不收錄外也」といので、同時に州南北非、李叔。**
-- --→
__-_
ま可笑いであ" 4 「文水以北川を文成仁れº若し比平め,り~とも、村が明かすし
=- & ->
は同意であるが、未定に後來成**フ~~,オ~1

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-河航時針、
て敗し道・ベし」~記してあった。戰神
第1章 小作游水時代の大勢四十三

渡船


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第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 四七六
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外の港と異なり、外國と折衝の場所であるから、特に在留の蘭人を介して受領すべ

きかと伺出たが、幕府はこれに封し、渡来の趣旨が分明し、また武器
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弾薬を陸揚せしめた
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れば、入港を許せない。然れども軟願の旨もあらば、武器弾薬の陸揚を免じ、臨
期の虜分をしても差支ない。漂民護送のことは、共次第により、確泊せしめてから、指揮
漂民護送に闘 抑も漂民護送のことは、天保新水令願布の 角
する制度の破

す清蘭二國の船に託して護送すべく、共他の 諸國から護送
欧米各園に博達せしめた。 然るに同二年四月米園捕鯨船マシタン競が、我が漂
民を護送して浦賀に来た時、奉行土岐頼旨は、かねて清蘭二園以外のものが、漂民を護送
して来ても受領しない定であり、またかやうの場合には、長崎に赴かしめた前例もある。
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、二* - つっ 、母 云」ョ ことま#* が O
然るに比度は、海上にて難破船を救助したのであり、海外に環著したとは事情が違。残

に捕鯨船が、自分の業務を休んで、わ さ〜渡来したのであるから、漂民を受領し、共厚
意を謝したい。また長崎に赴かしめる のは、彼をして更に、数日の産業を失はしめる不仁

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第 九編 弘 化 嘉 永 時代 四七八
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是に於てビドルも、共意の途げ難いのを障 リ 住じ ○ 通航 覧績韓、 新伊

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幕府が比時の論書に、國法を説いて通信通商を拒絶したのは、怪し



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態度 *、共末兄に、 外園の事は、長崎ニて扱ふ國法ニて、比地は外園の事を扱ふ所ニあらざれ
ば、願ひ申旨ありとも、こ 、に来りては事通せざる間、 再び愛ニ 来る事なかれ」 とい へ



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は注意を要する。蓋し寛政年間ラクスマンに授けた論書 に、「通信通商の事、定置た
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外狙ニゆるしがたき事なれども、獅も望む事あらば、長 ニいたりて、共虜の沙汰ニ任す
べし」とあるのと同意であり、「願ひ申旨」あらば、長崎へ来いとの意味があらはれてみる。
但し比時の幕開は、寛政度の松平定信の如く、開園の決意あってのことでないのは初論で
*、ただ将来幾度か来るであらうことを慮り、これを長崎に誘引するつもりに相違な
い*れ。、無意識の間に、寛容の精神を宮する所、たま〜以て幕府の態度が、将に髪
化すべき情勢を示してみるやうに思はれる。ェ㎞

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じめ米艦渡来の際、浦賀奉行大久保忠豊から幕府への上申書に、武器弾薬陸揚の不可
能なるを述べ、「銃砲類取上可中虜、如何ニも概重之備方ニ付、容易 ニ 差出中間敷本存候。
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第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 四八○
営中に召して、「琉球園へ異國船渡来之虜、彼地之義 、素より共方一手之進退ニ委任之事
故、比度之義も、存寄一杯取計、光園鶴を不失、寛猛之虜置勘盤之上、何れニも後思無之
様及惑慮、取締向機鍵ニ應じ取計可申事」 と達した。比際管形が正弘と内議せる所は、備
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國軍艦が来て、重ねて追ることがあっても、一旦はこれを拒み、彼の聴かざ るに及び、清
國顧建で貿易すべきを提議し、なほ聴かなければ、八重山、宮古諸島の中で需に應すべき
を説き、それでもなほ承諾しない時、は
國に騎り、専ら琉球と英備二國と交渉
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大島の地闘を製するなど準備に着手
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に於ける琉球の開港は、質現せられなかった。ェ㎞
共決議の原因
幕府が琉球開港の内議を決したのは、共地が島津氏の領分とはいひながら、内地同様に
見ることの出来ない貸めでもあるが、主要の原因は
嘉藤次に博達し
た次第を、嘉藤次から家老調所廣郷に報告せる文書には、次の如く見えてみる。
三奉行之内ニハ、備園と比方様 ㎞ 組和成候ハ ゃ、別て御利益の事候。左候ハ ゃ長崎表公
遽御商法羊左障候杯と、中張り 候向も有之候得共、高
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り備國商法御免とハ被仰出間敷候得共、前條之御趣意を以て、定て阿部様より御内論も可有之候間、
最早無御掛念、琉球園手限、備園と商法御取組被成候ても宜き由。右之通備園と通商御取組之上ハ、
イギリス國杯よりも、同断之儀申立候儀申掛候ハ、案中と被察候得共。琉球國ハ小國故産物少く、手
廣ニ商法難相成趣を以、備園へ託し置、備園へ、イギリス園杯へ、厚く貸中訟候様、御取計有之候方
宜敷由。右一條筒井殿ニハ、御取扱之御方故、極密たり共難被相渡儀ハ初論之事候
殿シニハ、比御方様格別被奉象御懇命候ニ付、私限りニ、右之趣極機密ニ可致内話旨、昨日態々紀

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伊守殿㎞宅へ金三郎殿被相招、極内話之山i、 ㎞

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これによれば、「萬一琉球園と備園及戦争候時 、現在御園鶴
幕府をして比決心を貸さしめた重大原因であった。蓋し琉球 から、備園


琉球との開戦は、事質に於て、備園と薩州藩との開戦であり、やがてまた日備の開戦であ

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る。幕府が比危険を避ける貸に、琉球開港の内議を定
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た。Hまた琉球と備園との貿易は、やはり事質 に於て、薩州藩と備園との貿易であるから

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開國の序幕 暇令それが、内地と一様に見られないとしても、日本の開園の序幕を貸すものであった。
是に於て幕府の鎖國政策は、再び破綻を生じたといふことが出来る。
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とする政策
なほ按するに、下曾根信之の博達の中に、備園に託して、英園共他へ論告せしめょうと
第 一章 弘 化 嘉 永 時代 の 大勢 四八 一
第 九編 弘 化 嘉 永 時代 四七八
、比地は外國の事を扱ふ所ニあらざれば、願ひ申す旨ありとも、こ\ニ来りては事通ぜざる間、再
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是に於てビドルも、共意の途げ難いのを暁り、七日に同港を去った。 ㎞
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幕府が比時の論書に、國法を説いて通信通商を拒絶したのは、怪しむに足らないけれど
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も、共末尾に、「外國の事は、長崎ニて扱ふ國法ニて、比地は外國の事を扱ふ所ニあらざれ
ば、願ひ申旨ありとも、こ、に来りては事通せざる間、再び愛ニ来る事なかれ」といへ
は注意を要する。蓋し寛政年間ラクスマシに授けた論書の 中に、「通信通商の事、定置たた 、1、イー、、引
外張ニゆるしがたき事なれども、獅も望む事あらば、長崎ニ いたりて、共虜の沙汰ニ任す

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べし」とあるのと同意であり、「願ひ中旨」あらば、長崎へ来いとの意味があらはれてみる。
但し比時の幕閣は、寛政度の松平定信の如く、開園の決意あつてのことでないのは初論で
あり、ただ将来幾度か来るであらうことを慮り、これを長崎に誘引する つもり に相違な



けれども、無意識の間に、寛容の精紳を萬する所、たま〜以て幕府の態度が、将に鍵


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第九編 弘 化 嘉 永 時代 四八○
営中に召して、「琉球國へ異國船渡来之虜、彼地之義ハ、素より共方一手之進退ニ委任之事
故、比度之義も、存寄一杯取計、光國鶴を不失、寛猛之虜置勘競之上、何れニも後患無之
様及熟慮、取締向機鍵ニ應じ取計可申事」と達した。比際管形が正弘と内議せる所は、備
國軍艦が来て、重ねて追ることがあっても、一旦はこれを拒み、彼の聴かざるに及び、清














顧建で貿易すべきを提議し、なほ聴かな
を説き、それでもなほ承諾しない時、はじめて那覇を開くにあったといふ。かくて管形は
國に騎り、専ら琉球と英備二園と交渉の始末、琉球の顧建貿易の状態等を調査し、琉球、
大島の地闘を製するなど準備に着手したが、共後始く英備共に渡来しないので、鎖國時代
に於ける琉球の開港は、質現せられなかった。ェ㎞、
共決議の原因
幕府が琉球開港の内議を決したのは、共地が島津氏の領分とはいひながら、内地同様に
見ることの出来ない貸めでもあるが、主要の原因は、寧ろ和平を保つにあった。同年五月
五日下曾根信之が、共父筒井政憲の命を含み、幕府の内意を薩州藩吏牛田嘉藤次に博達し
た次第を、嘉藤次から家老調所廣郷に報告せる文書には、次の如く見えてみる。
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三奉行之内ニハ、備園と比方様 ㎞ 通商取組相度候ハさ、別て御利益の事候 左候ハ、長崎表公
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シと、中シ 、。
拘候儀不心付評議故、右之調ハ阿部㎞ニも更ニ御取用無之御様子と相伺候。併し表立て、公遂ょ
り備國商法御免とハ被仰出間敷候得共、前條之御趣意を以て、定て阿部様より御内論も可有之候間、
最早無御掛念、琉球國手限、備國と商法御取組被成候ても宜き由。右之通備國と通商御取組之上ハ、
イギリス園杯よりも、同断之儀申立候儀申掛候ハ、案中と被察候得共。琉球國ハ小園故産物少く、手
廣ニ商法難相成趣を以、備國へ託し置、備園へ、イギリス國杯へ、厚く貸申論候様、御取計有之候方
宜敷由。右一條筒井殿ニハ、御取扱之御方故、極密たり共難被相浅儀ハ初論之事候得共、衆々金三郎
殿シニハ、比御方様格別被奉業御懇命候ニ付、私限りニ、右之趣極機密ニ可致内話旨、昨日態々紀
伊守殿㎞宅へ金三郎殿被相招、極内話之山i、 ㎞


これによれば、「萬一琉球園と備園及戦争候時 、現在御園鶴ニも相拘候儀」といふのが、


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鷲 俳
幕府をして比決心を貸さしめた重大原因であった。蓋し琉球には軍備がないか
琉球との開戦は、事質に於て、備園と薩州藩との開戦であり、やがてまた日備の開戦で
る。幕府が比危険を避ける貸に、琉球開港の内議を定めたのも、己むを得ない次第であっ
た。且また琉球と備園との貿易は、やはり事質に於て、薩州藩と備園との貿易であるから
開國の序幕 暇令それが、内地と一様に見られないとしても、日本の開園の序幕を貸すものであった
是に於て幕府の鎖國政策は、再び破綻を生じたといふことが出来る。
備園に頼りて
英國を制せん
とする政策
なほ接するに、下曾根信之の博達の中に、備國に託して、英國共他へ論告せしめようと
第 一章 弘 化 嘉 永 時代 の 大勢 四八 一
第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 四八二
あるのも、また注意を要する。これ蓋し備園に頼って、英國を制するの策であった。後年
べリー渡来の際、幕府が一旦、露國に頼って、米園を制しょうとした日露盟約の策議は、
不び小 カ
既に比頃から肝胎してみるのである。
和蘭より再び かくの如く暮府は、備園との開戦を恐れて、琉球開港の内議を決した。暇令質行の機曾
開園の忠告
がなかったとしても、将来開戦か開園か、二つに一つを揮ぶ場合、疑もなく開國すべきは、
これによって立誇せられた。幕府の態度の革って行くのは自然の結果である。然れどもな
ほみづから進んで、開園の手段を講する意志はなかった。されば嘉永五年和蘭政府が、べリ
1提督の渡来を醸報し、開園に就ての再度の忠告を試みた時にも、耳を傾けなかった。面
も甲比丹クルチュスが、國王の命を受けて、東印度継督の公文を提出するに常り、幕府は、
通信に類するからとの理由で、一旦受領を拒絶したけれども、クルチョスが、継督の書中に
は重大の事件が記載されてみると語り、また共風説書に、米國政府は日本の開國を促すが
貸めに、べリー提督を使節に任命し、今や数隻の艦隊を率みて、支那の海岸まで来てみる。
武力を使用する決心があると見えて、盛んに戦備を整へてみるとあるに驚き、國王の命令
つこ *
* ミ
通信に闘す を認めた筆記で、書 でないとの解縁の下に、風説書に準じて 。
。通壇』 ㎞、面
㎞。 如何に欧米の勢力に、危催の念を抱いて みたかを察することが出来。シ
して幕府はこれが貸めに、弘化二年老中連署して和蘭執政に寄せた返輸に、比後文書の往
復を停めるといひ、甲比丹への論書に、「後来必す書簡差越事なかれ。若し共事ありとも、
封を開かすして返し遣すべし」といへる制度をみづから破壊した。これを要するに、弘化、
嘉永の際に於ける幕府の態度は、事ごとに鎖園に伴
*7 歴
なければ、開戦の恐あるを憂へ、避戦政策の命するがま、に、除儀なくこ、に及んだので
は宜しく比際に於て、明確に共態度を決すべきであった。面も計こ、に出です、
-
徒らにべリー提督の渡来を迎ふ。梁川星 が
一道シ天、邦家従比*騒然、何須警報方貸備、韓海書来己十年。
といへるのもまた、蓋し暮府としては、甘受せざるを得ないであらう。
第 一章 弘 化 嘉 永 時
時 代 の 大 勢 四八三
第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 四八四
第二章 弘化嘉永時代に於ける時論の一斑
天保葬水令の 幕府が阿片戦争に鑑みて打挑令を廃し、新水令を煩布してから後、これに闘する是非の
牛表牛裏
議論も行はれてみるが、共内最も注意すべきは、沿岸に所領を有する諸大名の異論であつ
た。蓋し新水令によれば、平和の鷹接により、共所請 「御仁政」 を施すに あつ たけれど
も、同時にまた 「警衛向之儀 、弾厳重ニ いたし、人数井武器手常等之儀 、是逸よりも
一段手厚、卿ニても心地無之様」 にしなければならない。殊に萬一異心のある場合には、
打挑ふことを命じてあるから、㎞ 和戦雨様の意を含んでみる。面も外船の我が沿岸
諸大名の不平 に近づき、或は海上に出没する時、醸め共眞意を判別することは出来ない。是に於て諸大
名は、まづ異心あるものとして、鍵に應する備をしなければならない。さなくとも出兵警
衛は、常然の義務である。故に外國船の出没が、繁ければ繁いほど、諸大名の奔命に疲れ
ることも大きかった。加之これが貸めに共態度も定まらす、戦ふが如く和するが如く、脚
る虜置に苦んだのである。かくて各支の曖昧に不平を抱き、競撃の増加することに就いて、
- 矛した 説 国 に、
志に示した諮問書
望するものもあったのは、 嘉永年五月老中阿部正弘の、 筒井政憲に
「元来右打挑之義、御差止被仰出候義 、質々貴殿一般、私ニ議論*シ
別て海岸領主之面々 、言語文字も不通之異船へ封し、通鮮等之備も無之故、共事情も難
探得、又衆て被仰出候御趣意も有之上 、素より猛烈之取扱も致衆候場より、質ハ牛表牛
裏ニ相成、一致一決之所置難相成、共上新水等を乞ひ、或 風間切等ニ事寄せ、滞船等致
候得バ、獅以入費相満、基迷惑之赴ニも有之、質ニ光之事情ニ被相考候」㎞、とあ
に近づくもの特に多く、これを共以前と比較すれば、非常の相違があった。蓋し汽船の発
明と、捕鯨業の発達とに原因するものながら、世人はこれを以て打挑令の廃止に騎し、前
令に復すれば、共弊を免れるといふ説が、やはり諸藩の間にあったと見えて、同年五月筒
井政憲から、阿部正弘への答申書に、異船之依 、質年御改革㎞己来、手強き取計無
之を見侮り、近海逸も罪越、何かニ事寄せ、御園地之様子を探り
又ハ風間切居、共間陸地之警衛逸ニ、人数も差出候事ニて、日数相懸り候
費相懸り、諸藩吸弊之基ニ有之」㎞ とあり、同月江川英龍の答申書にも「異船渡来ニ付


速ニ打挑被仰出候ハ ゞ、御國威ニ恐怖仕、渡度

んーー
もので、騎する所は、新水令が、「牛表牛裏ニ 相成、一致一決之所置難相成」からであつた。
第 二 章 弘 化 嘉 永 時代 に 於 ける 時 論 の 一斑 四八五
第九編 弘 化 嘉 永 時代 四八六
比獣から考へても、幕府は宜しく和戦の策を決しなければならない。面も策こ、に出で
す、弘化、嘉永の父、四回まで打挑令復古のことが、幕府の内議に上ってみるのは、かく
の如き異論を緩和する目的のやうに思はれる。然れども今更復古の出来ないのは明瞭であ
るから、途に質行せられなかった。 ㎞
水戸警昭の打 水戸管昭もまた打挑令復古の議を唱へ、新水令公布以来、雇々書を阿部正弘に寄せて、
挑論撤回
共不可を論じてみる。然るに弘化三年七月正弘は、着昭に答へ、貴説誠に御光の次第であ
るが、海防が整はす、必勝の成算なき今日、軽々しく兵を交へて、國難を醸すべきでない。
せめて浦賀をはじめ、近海の防備のや、整ふのを待って、打挑の前令に復したい。軍艦製
造のことも急務であるから、只今評議中であると告ぐるに及び、管昭ははじめてこれに賛
同し、
T
* - * * ●
今にては打挑も相成衆候姿に可有之候へば、御評議も御犬に存候。無理なる義にては、一旦は 十す
勝候様にても、長き内には、御損に相成申候。異人にて名を付候のみならす、比地の人にても、や は
り比方が御無理と存候ては、御損に相成申候。貴書にも有之候通り、比地の備向は、何分にも厳重に
いたし、夷人にては、名目付候事不相成様、御仕向に致度候。
といひ、また軍艦製造の内議に就いて、
本文御文面之通りに候へば、質に以有がたき次第、年来至願致居候虜に御座候故、何卒右様相成候や
う仕度奉存候。
と告げた。発で八月管昭は、更に書を将軍家慶に呈して、
日本只今姿のま〜にて、只打挑とのみ被仰出候ては、如何にも御手薄く被貸在候故、浦賀等を初、海
岸領分の大名共、備向厳重に致候様、井夷狭防御 票の貸、三家初へ、海軍船製造御免の義、一日も御早
く被仰出候て、決てまけ不申やう、先ゾ〜日本内の御備を御急ぎ被仰出、御手厚に被遊候上にて、
打挑の義御達被遊候が、御よろしく奉存候。
手厚に被仰出候が先にて、日本中御備御手厚の上、
打挑 ㎞
といひ、明かに國防を先にし、打挑を後にする幕府の評議に同意した。即ち開國の問題に
鋼れないだけで、共他は開國論者の主張と、相一致するものである。水戸藩の奪王懐夷論
共理由 は、こ、に至って著しい鍵化を生じた。共理由は、斉昭みづからこれを説明してみる。嘉
永五年十一月十八日越前藩主松平慶永に寄せた書輸に、
紳皇の大道を明にし、夷狭の邪教を拒ぎ候は、海防の大眼目と存候虜、一朝一夕に出来候事に無之、

指常り夷賊乃案願の時節、大道のみ論じ候は迂遠に 候間、急に應じ候一策無之ては不叶段、是赤初論に
候。 紀事。










あ比


、っ

分へる
考を



り離 げた
時なる

如く
急に

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化あ勢激るっ
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まで






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示た


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製海藩
、水昔

君主せるっ艦造軍成戸臣張
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、幕潮


行藩


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、み重は
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上往文書

昭 くたね復 重要
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海解編以て
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軍城

違がある。「抽者は内戦に、 外和に致候方と存候。 内さ へ戦に豊 し


以なやし、夫にて先より、兵端を開くとも差支は無之」とは、嘉永六年八月松平慶永に告ぐ
る所、即ち内戦外和の説である。比意味は、共後安政二年十月家臣石河幹忠への書輸に「バ

クニテは、平穏々々といふ所を専らと唱候へ共、平穏に被扱候中はよろしく候へ共、平穏
に扱衆る日に相成候へば、如何とも致し方無之候へば、平穏に相成候中に、御武備御手厚
く被成置候へば、萬一 の事有之候ても、御手づかひに不相成候へ共:」 とあり、また同
年十一月同人への書輸にも 「今御手常も無之て、夷秋をあら立候は不宜候へば、表向は御
なやし置候て、只深入不致様に致し置、共中に御武備御手厚に相成り、比方より戦争を初
ろ〜と申程の御先に相成候へば、先にても死は不好故、先かはづす様可相成」 とあるを
見ても、理解せられるであらう。即ち外國との闘係に於て、如何なる場合にも、平和が得
られるといふ絶封の保誇は出来ないから、鍵に應する豊悟が必要である。比豊悟さへ定ま
れば、武備はおのづから整ひ、面してまた却て戦争の不幸から免れるといふにあった。然
れども平和の裸に必戦の豊悟を定めるが如きは、世上一般の群集には望めない。故に平和
の手段によって海外の諸國と交渉することは、貸政者の胸脳に秘し、群集を導くには、や
はり擁夷を以てするが宜いと主張してみる。 従って管昭は、裏心に於て打挑を非とし、
第 二 章 弘 化 嘉 永 時代に 於 ける 時 論 の 一斑 四八九
第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 四九○
形式に於て打挑を是とした。故に老中、有
導するには戦を唱へるといふやうに、和戦雨様


から、「五胡狙概園将傾、肉食只言眞太平、却怪

*A_。







指してみる。 ○
㎞といはれて、携夷の主張を捨てたと非難せられ、また「只


にて、直に戦争之方可然之趣は被仰候得共、奪之虜に至り候ては、御和談之趣にも被仰、
怒争戦之御論に相成候と申様にて、更に御取極メ無之」㎞、といはれ、和戦に就

打 以

いての取極めがないと評せられた所以である
る。




失はれたる奪 挑の説を撤回し、面もなほ形式に於て、懐夷の主張


擁の意義











の奪懐論は、比際に存在の意義を失ったので

奪王と懐夷と
の分離 ある。裏心懐夷を否とする以上、もはや懐夷論とはいへない。また形式によって、懐夷論
合間
の存在を粉飾してみるけれども、奪王論と相 結んで、分離す可からざるものでもなくなっ
た。蓋し「指常り夷賊条願の時節、大道㎞ のみ論じ候は迂遠」といふ以上、奪王と
結論に近づけ 懐夷との分離作用が行はれたからである。かくして水藩奪懐の説は、前提の擁東を去り、
る捜夷論
外部に現はれ
結論の開國に近づいた。いまだ幾もなく斉昭が、安政開園の際、責任ある同意を表してみ
たる奪王擁夷 るのも怪しむに足らない。然れどもかくの如きは、共質質に闘しての考察である。外部上
論の存在

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第九編 弘 化 嘉 永 時代 四九二
大ニ欲スル所ヲ遅フスルノ便計チ得ンコトチ期望スルニテ、共質 ハ封狼ノ心ナリ。故ニ皇朝ノ國禁チ
教論シテ、然後騎帆セシメタキ者ナレドモ、軍意彼賊ハ人面獣心ナルチ以テ、寛仁ノミチ施給ヒテ、
*
マゴッキ ナカトマリ
或不逮覆耳ノ迅雷プ務シ、強胡プ林恐セシムルノ雄略チ行ハザレバ、幾度モ船チ寄来テ、倍凝纏潮ス

ルコト有ン。以後若来ルトキハ、厳シク之ヲ打援テ、碑國ノ猛威チ示シ、鶴廃チシテ魂曜ラ失ハシム
べ シ。
即ち打挑令復古の説である。信淵は天保年間夢々物語を著はして、開戦の利盆を述べたが、
今や更に一歩を進めて推庁論となった。思ふに天保年間の主張と同じやうに、姿縮せる人
心を興起せしめるが貸めの、一時の方便であらう。されば同時にまた富國弾兵のことを論
じ、「軍船、大砲次第ニ多ク出来ル」 に及び、「遠洋ニ乗出シ」、進取経略の策を講すべきを説
いてみる。懐夷論が済時の政策なることは、 これを見ても明かであらう。 尋で嘉永二年ま
邦に鐘らんとす」、宜しく清國の豊醒を促し、共能く阿片戦争の屈辱を雪いで、「永く本
の西尻たらしめんことを欲す」 と論じた。東洋の諸國相侍り相輔けて、欧洲列強に常ら
る策論であり、亜細亜モンロー土義の萌芽とも見られる。

信 に
開園論の概観
シ成中 更に開園論に至っては、鶴峯戊申は内密答問録㎞ に於て、善隣園質館を建て、、通



のこしてを掌らしめ、「近来漂流人を送来て、交易願候園にのみ」、貿易を許すべ、さを説
シ 『』 『 『 『シ
いた。思ふに露米の二國を指したのであらう。面も英國を除外してあるのは、阿片戦争の
大槻磐渓
刺激かも知れない。また大槻磐渓は戯庁微裏㎞ を著はして、親露排英のことを説い
た。即ち松前を開いて露國と通商すると共に、英國の排庁すべきを論じ、露國は世界の強
國であり、且信義に富み、境をも接してみる。彼もし我が興國たらば、共威を暇りて諸藩
を制することも出来ょう。況や近時英國は清國を犯して勢、狙猟である。萬一我が國を窺
ふやうのことあれば、援を露國に求めなければならないといつてみる。一種の日露盟約論
であった。排英の説は、既に共父玄澤の唱ふる所、同じ考は磐渓にも博はつてみる。殊に
阿片戦争の刺激を受けてから、ます〜嫌悪の念が強く、途に援を露國に求めるの策とな
ったのであらう。日露盟約の説はじめてこ、に起り、他日幕府もまた、一時比説に傾いた
る主小
菊池渓琴もこれを讃んで「貸今之計者、莫如外結魯西亜
ことは、次章に譲って置く。常時漢 -
、ト よにjく*
f 赤城 て史リー田 嘉永二年 、 別引
-
㎞ なほ清水磯
内固士心也」 と相和してみる。 寸叫 は擬封編 ㎞ を著はし、 使節
を英米等の諸國に派遣して國情を探り、野心の
いへるも、また開國の説であつた。
非戦の説を建てたものには赤井東海がある、「抑異シムべ キ
共無謀なるを説き、「我ガ彼ヲ打挑 ハントスルハ、却テ彼ニ打挑ハル 、道ニアラズャ」とて




第二 章 弘 化 嘉 永 時代 に 於 ける 時 論 の 一

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く の 、 す 稀 互 一 " も て べ
第三章 開
せプーチャチシ
らて
の れ
べリー提督の渡来、及びそれにに刺激せ ら記
航海 渡来の始末などは、既に早
くべリーの遠征記、ゴンデャロフの 海 をはじめ、内外の史籍によって、一と通り調査
せられてみる。今便宜これを他の成書に
成 譲り、寧ろ開園に伴ふ封外策の鍵遷、井に國論の
騎趣を考察し、明治維新の指導精碑に就いて、研究の歩を進めなければならない。
嘉永六年六月三日べリー提督が
共翌日を以て浦賀奉行に封し、「取計方之儀 御委任被成置候間、 御園鶴不失様相心得、可
成丈ヶ穏便ニ出帆候様可致候事」と達し、江戸潜警衛の曾津、彦根、忍、川越の四藩にも、
「平常よりは一層手厚ニ いたし、取締 方入念、卒附之取計無之様可被致候事」と達した。

㎞ 共専ら平和を希ひ、「可成丈ヶ穏便」にする考であったことが知
書の如きも、「比上御拒絶ニ相成候 や、如何様之不法ニ及び候哉も難計、既ニ阿蘭陀本國
よりの忠告等も、全く是等之時機、只奮制ニ面己泥ミ、一向ニ被相拒候 、、必永く御國
を譲し候依 必定ニ付、宜可注進とN趣申立、夫面己ならず、外夷之情質難計、i阿
片煙騒蹴之先雌も有之、大國之支那ニても、意 ニ園を狭められし程之園害ニ立至り候。御
第三 章 開國 四九五
第九編 弘 化 嘉 永 時代 四九六
國之儀 環海之御國柄、若し外冠を引受候ニ至候て 、海岸之武備不完、質不容御國難」
であるといふので、「一時之権策」を以て浦賀で受領し、且浦賀は應接の場所でないから、
べリーの退去 應答のことに及ばないと告けた所、べリーは、それには頓着せす、数ヶ月の後再び来て、
確答を聞くであらうとの言を残して浦賀を去った。 ㎞
べリーの威味 べリーは浦賀滞在中、常に兵威を挟んで我を脅迫し、態度順る倣る。共奉行の制止を用
みないで、展々船を内海に進め、はては羽田の沖にまで来たことがあり、また六月四日奉
行属吏の米艦を訪問した時に、もし國書を受領しなければ、非常手段に訴へるといひ、七
日にも、満足の答を得なければ、戦争の外はないといひ、 ㎞ 九日船を内
海に進めた時には、園書を受領しなければ、自由行動を取るであらうといひ、 開戦
のことを調示したが、國書提出の際には、白旗二施を奉行に贈り、「御不承知ニ候 、干式
を以、天理ニ背くの罪を紀し候ニ付、共方も國法を立て防戦致すべし。左候 、防戦の時
ニ臨み、必勝ハ我等ニ有之、共方敵封成衆可申、若共節ニ至り和睦を乞度 、比度贈り置
候所之自旗を押立べし。然バ比方の抱を止メ、艦を退ラ和睦いたすべし」との一書をも添
附した 。町奉所書類所牧外園事件書。○高勝環雑記にも これを載せ、諸大名御灌㎞。面も幕府はこれに
面も幕府
㎞ とある から、幕府でも流石に他見を輝ったのであらう
封して、戦々賞々、たく共意に逆らふを恐れ、F制止を加へたことで*、*。
には、常に容認して貸すがま、に任せた。應接場所の撰定、沿岸の測量、内海の進入など
がそれである。是に於て彼我の應接交渉は、概ね米園の主張に基き、彼の満足する條件の
下に解決せられた。質力を伴はない外交が、國威の宣揚に値しないこと古今一 撤に出づ。
古を以て今を思ひ、今を以て古を思ふ ごとに、轄々概敷に堪へないものがある。されば幕
府は、数萬の大軍を、江戸潜の雨岸に配置して、警備を厳重にしたけれども、要するに虚
い * Q
#
餅に過ぎない 中
*} 賀奉行附興力合原継蔵が、「浦賀にては腫物にさはる様にいたし、i御
固四家㎞、 、の人数は、岸の上にて見物するのみ」㎞ といへるは、常時の
質状であつた。
要入 ヤ
開のプ

求 津チ
の崎 チ

と ン
國長 I

べリーが去ってから幾もなく、同年七月十七日露國のプーチャチンもまた、開園及び國
境を議するが貸めに長崎に来た。共報の幕府に達したのは甘七日である。をりしも 将軍徳
川家慶の夢去㎞ 共子家定の相績、引っゞいて将に家慶の葬儀を行はうとする眞際であ
つたが、直ちに園書受領の議を定め、長崎奉行に命じてこれを受けしめ、且蘭人を介して

|
んmー 介を拒み、必す江
返輸を授けることをも博へしめた。然るにプーチャチンは、固く蘭人の仲
}
ればならないと稲して、承知しなかったのである。
第 三 章 開園 四九七
第九 編 弘 化 嘉 永 時代 四九八
幕府の封米策 是より先嘉永六年六月十四日、海防掛筒井政憲、川路聖談は、老中阿部正弘の旨を含ん
で水戸管昭を訪ひ、米園に封する虜置を謀議した時、まづ通商許可の説を述べ、和蘭への
輸出品の牛ばを割いて、米國と貿易しては如何といひ、斉昭に不賛の色あるを見て、更に
語を改め、五年も十年も回答を興へないで、拒むともなく、許すともなくあやなし置き、
o 新伊勢
共間に武備を整へ、然る後拒絶しようと告げたことがある。 拒絶云々は、いふまで
もなく鮮令に過ぎない。眞意は数年間開園を延期するにあった。
i} t jうJメ
出これによれば、ペリ
ー渡来の際に於ける幕府の内議が、少量の貿易を開くか、然らざれば暫くこれを延期する
かの二策にあったことを知るべきである。かくて米艦退去の後、潮く第二策を採用し、「公
方様 。共以前より御不例の虜、終ニ夢 御被遊候。依て 御吉凶の大濃、御代替之要務共
数多有之」 が故に、「急々ニハ難及挨拶」 との旨を、和蘭甲比丹に託して、べリーに博達せ
しめた。幕府が比文書を長崎奉行に授けたのは七月、奉行から蘭人に達したのは九月であ

-**

幕府の親露排
米第 か、る折しもプーチャチシ渡来のことあるに及び、幕府は債に態度を改めて、親露排米
< 阿部正弘の

の策を採らうとした。同年八月五日阿部正弘が営中に於て、水戸済昭と倉見の 、シ
** 、
● * *こ * *> 戸藩史料所
結んで米園を防がせたいと告げたのを見ても、推察することが出来る。ェ 著し貿
易を露國に許して、米園にはこれを拒絶するにあった。今共意味を闘明すべき貸めの傍誇
江 川英龍 の
説 を求めるに、第一は海防掛江川英龍の説である。英龍は八月五日斉昭の謀臣藤田東湖を自


邸に招き、もし米露の一 園ともに拒絶したならば、腹背に敵を受けるやうになって、容易
ならざる大事である。さればまづ露園に貿易を許してこれと相結び、以て米國を拒まなけ
ればならない。比事は世界の大勢から考へたものであるから、老公㎞
こし
載東湖書韓。 また九 書を幕府に呈し、露園は濃を重んじ、隣園の好もある上に
上に
敷願に及んでみるから貿易を許したい。旦宇内の強國たる露園を敵とするは、将来の顧根
を残すものである。これに反して米國は、浦賀渡来の際の撃動、無濃至極である か
戦の豊悟を定め、たゞ戦期を延ばす虜置を講じて、共間に武備を整へなければならないと
稲し、十月更に上書して、速に露園と貿易を開き、共利盆を以て、武備を整へるのが急務
大澤乗哲等
の説 であるとも切言した。ェ。第二は長崎奉行の説である。是より先七月奉行手附大井三郎
けい
助、馬場五郎左衛門、白石藤三郎は、連署して書を奉行大澤乗哲に呈し、プーチャチンの


渡来 深 のるやうに見える。思ふに露園は、米園が日本を侵さうとする陰謀のあ
理由があるや
るのを知って、萬一 の場合日本を助ける貸めに、軍艦を派遣したのであらう。旦使節の行
第 三 章 開國 四九九
第九 編 弘 化 嘉 永 時代 五○○
動を見るに、少しも不穏の様子がない。然るに徒らに疑心を挟むが如きは、却て彼を激せ
しめ、共結果恐るべきものがあらう。宜しく請ふ所を容れて、貿易を許すのが得策である
といへるに、乗哲はこれを江戸に廻送して、正弘の覧に供した。 乗哲もまた同じ意
石河政平の
見であったに相違ない。第三は海防掛石河政平の説である。いまだ共本書を得ないけれど
も、江川英龍の上書中に摘記せるを見るに、露國に貿易を許したいといふのは、英龍と同
じであるが、他の諸國はこれを拒絶すべきを論じ、像め露國をして、米國共他から、貿目
筒井政憲川
路聖譲等の を要求しないことを、保誇せしめなければならないと附言した。 劉㎞ 第四は海防掛
筒井政憲、川路聖護の説である。共意見はゞ石河政平と同じであった。 ェ㎞ 要す
るに多少の相違はあるが、露園だけに貿易を許すといふに至っては一致してみる。正弘が


比人々の意見を参酔したことは、殆んど疑を容れる除地のないやうに思ふ。況や海防掛

排 鈴
親露排米の
意義
面々が、正弘の離軽に参謀せるからにはなほ更である。即ち封外の間係に不安を抱くの




り、強國たる露園の援助を得て、他の列國から の開國の要求を拒絶するのが、



米の意義であった。面してかくの如く露國に親みを持たしめたのは、常甘て日露間に紛摂


起つた時、リコルドとの交渉の結果、極めて従順に謝罪の意を表した事と、プーチ 、チ

す。
み手
石和

が我が國法を奪重して長崎に入港し、また共態度も、べリーの促併には似もや
であった事とが、上下一般に好威を興へたからであらう。大槻磐渓等が、野にあって同説
共危険性
を唱へたのも、やはりそれが貸めであった。ェ 世或は比政策を以て、日露同盟論と解経
するものもあるけれども、決して封等の同盟でない。露園の被護によって、危難を免れよ


うとするのである。殊に長崎奉行手附の想像したやうに、露國が日本に封して、私恩を売買




-
上、


か 個
*」、
なくとも、 日

る考のあった事は、米園もまたこれを疑ってみる。 また暇令 T
間に葛藤の起つた
起 時、座祀傍観すべきでないのは明かであ るから 、露國に助を求める時
は、即ち露國干渉の手の加はる時なるを覚悟しなければならない。山共頃は、クリミャ戦
争の起る眞際であつたから、幕府の提案があっても、露國が如何なる態度を示したかは疑
問であるとはいへ。ー誠に危険なる政策であった。
幕府の親露排米主義による日露盟約の説は、多大の危機を蔵するものであったが、幸に
して共再考する所となり、米園に封すると同様の取扱をすべきに定まり、九月から返輸の
たやうに見える。返輸は阿部正弘以下老中連

漫土之経界、貴園以貸甚不明断。則論備漫藩、細加査競、面差大吏、興貴國官人曾同商議、以騎劇一、


然漫藩之査競、必按闘籍、確有憑擁、慣重従事、不許締豪疎認。是固非今日所能解也。
第 三 章 開國 五○一
第九 睦 业 化 為永 時代 五O1
~てい び、 路易に関しては、
现今 的形象 通、 登場之風級«日文、 議不能取市州作个平坦笑傲人亦令 「後処擱
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ク 王元素、 必接新加至 大洲羽山市之於加比 方法或紫陽之力 !
始末 端也。 =物或城內戰士之文、 徐氏多知、 赤松山久可能之 收
鄭、 新斯等正大小姐、 必來之宗師、 作之列侯、 龍骨骼 «た町
之時內。 雖然如 紅綠、 公等几從五言, 也被以後將
つ た。 體 部 國城のことは、 平江 桥站
開朗の延期
開《辛うには出来ない。 また開國の ことも、 時教の
開園の意志を表明した時に於て、 若しい 相違を認め らo
李宗は 見より 先、 和蘭人を介して、 徐々 には艦及宗 ,,, , ベリー に伸进かしめ た
が、 而。光波を流浪し、 同年六七八の交、 諸大名及水牛久以上 の高有可…) 米蘭の関#目
*~ て意見を欲した。 体中の大不は避戰略 である。 个 儿女 高大名の生日に見ら に~ 世
鄭成主
上* ** の六十道 初締約 领 の中、 無を見の明石、 敵疎 義塾 の 姿を除い
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編 弘 化 嘉 永 時代 五○四
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所請 「貸甘言」 の意を説明してないので、
論として置いたけれども、尾州徳川家文書所牧、徳
に長崎を開いて、貿易するが宜いとの説を唱へて
らば開園論である。また拒絶論者中にも、越前の松平慶
の御威武を萬國ニ不被輝候牛で 、難相成講と奉存候得共、退て方今之時態を致熟慮候得
バ、左様ニも御取計難被成も、無御擁次第ニて」といひ、盛岡の南部利剛の如く、「可相成
穏便之御扱を以、御静謡ニ相済候御策考有之度御事ニ 御座候得共」といひ、避戦の意
を暗示するものがあり、久留米の有馬慶頼の如く、「明年春季渡来之節 、暇令権道之御沙
汰ニ相成候共」といひ、松本の眞田幸教の如く、「萬一異人願筋御聞届ニ相成候得バ」とい
ひ、暇令幕府が開國しても、これを承認する意志を表明したものもある。前者は避戦論、
後者は開國論と見倣しても差支ないやうに思ふ。比見解によって新らたに計算する時は、
開國論二十五藩、避戦論十九藩、拒絶論十九藩となる。大勢の向ふ所は、開園にあり避戦
o 鈴木大雑集、如足我聞、量夷貿易港館、嘉永明
にあった。群観㎞唯㎞『於㎞=㎞
諸有司 の位合中 更に布衣以上諸有司の意見を按 するに、共答中書の世に存するもの勘〜、潮〜十除通を

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第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 五○六


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のは、大番頭支配組興力森重再記、役名未詳松本大輔、 聞



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拒絶論 教示方出役 色築五郎、 ㎞ 同岩瀬忠震 ㎞ へ し る もの。 *三日
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を唱へたのは、西丸持筒組島村孝圓、寧問所教示方出役岡本信太郎 ㎞
小普請組籍田治部右衛門、同井上三郎右衛門、役名未詳仲田顕忠、 ㎞
シ 比外なほまた在野志士の論議する所を見るに、開園論を唱へたものに斎藤抽堂、 安
「シ 井息軒、 鶴峯戊申、 『平野重久、 中川藤郎、 小原繊心、
* ㎞条名藩士基、 等があり、避戦論を唱へたものに佐久間象山、 奥谷宕陰、
等があり、拒絶論を唱へたものに、吉田松陰、 梁川星厳、 大橋調査、 桃井

た 。



花、 な
池内陶所、 。も拒絶の論を建てたが、面も過激なる懐夷の説ではなか
するに拒絶論は振はないのである。
園㎞ 大名有司の意見書は、全部博はつてみない。況や在野志士の論議に至つては、比外にも
多からうと思ふ。然れども予の菓集し得た限りに於て考察するに、べリー渡来の際の多数
針幕
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第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 五○八
てハ、御國屋 ニも和成候儀ニ付、防御 競質用之御備精々心掛、面々忠慣を忍び、義勇を蓄へ、彼之動
静を致熟察、萬一彼より兵端を相開き候ハマ、一同奮務、豪髪も御園鶴を不汚様、上下撃て力を悪し、
忠動可相動との上意ニ候。
こ、に所請有無の確答を興へすとあるのは、前日筒井政憲、川路聖護が水戸管昭を訪へる
時、拒むともなく許すともなく、五年も十年も引きのばして置くと告げたのと、共精神を
同じくしてみる。露園への返輸の趣旨と併せ考へ、開園延期の策であったことが、ほく推
測せられるであらう。面も露園への返輸には、共事が明示してあるのに、米園に封しての
親露排米主
義の名残り み、これを波らさなかったのは、なほ親露排米主義が潜んでみるからである。かくて安政
米國への返輸
案作成
元年正月初旬には、米園への返輸案も作成せられたもの、如く、同じ時應接掛井戸弘道、
及び浦賀奉行伊澤政義等の連署の何書に、「魯西亜井亜撃利加雨園s先般差出候書類、井亜
*利加へ可被遺御返輸案等見合」せて評議の結果、「今般御下ヶ有之候御返輸案御治定も候
ャ、右御趣意ニ基、i 交易之儀 、祀宗以来積年之法を革め候事故、衆々も申聞候通
『、議定おょひ候義 、如何様差急候ても、三五年之光陰 費し可申」とのことを「隠順
心長ニ相論し、共上なは納得せす、強情を申張る時は 「一ト先返留貸致置、逐一 率何候
㎞、取扱候様可仕」と見えてみる。返輪の内容もまた、は、推察せられるであらう。㎞
牧何
書。
露園への返輸に示された親露排米の策は、なほまた質際の 施設としてもあらは れて み
る。即ち應接掛筒井政憲、川路聖談が、嘉永六年十二月長崎に於て プーチャチンと曾見の
際、専らかの返輸の旨によって交渉したが、面も開園貿易に就いては、論書に、商議定ま
るの後、事に従ふとあるのは、無量の意味のあることで、決して要求を拒絶するのではな
い。また三五年の時月を費すとあるけれども、質は将軍宣下の大濃が済めば、すぐにも調
査に着手するはすであるから、存外に早く果取るであらうと告げ、H共請に
安政元年正月六日、「比末我邦於て、若通商差許ニも相成候 、、貴園を以は
し」との公文書をも交付した。ェ 比時露園と英備二園との間には、開戦の危機が争ま
プーチャチン
の退去
れてみるから、=所請クリミャ戦争=プーチャチンもまた、永く長崎に留まることが出来な

記澤
日大

ゴー哲

5




*




い。日本の開國は、時の問題に過ぎないとの公約に満足しょ7
悲酸なる親露
主義の暴露 共際に筒井政憲等は、他日和親の後、もし我が園に外警があらば、一管の力を借
して貰ひたいといへるに、彼は喜んで加勢するであらうと答へてみる。ェ㎞
外は欧米の諸園に脅かされながら、内は園を衛る用意を闘ける幕府の有司が、不安の念に
襲はれて、水に溺れるもの、、草をも掴むと同じ態度に出たのは、誠に悲酸の極みであっ
た。面も比政策は、べリーの再渡によって、完全に破壊せられたのである。

力L





第 九 編 弘 化 嘉 永 時代 五一○
リべー


へリー提督が再び数隻の艦隊を提げ、軸艦相卿んで江戸混に入り、浦賀を過ぎて小柴沖
に来たのは、安政元年正月十六日であるが、#七日更に船を進めて碑奈川沖に投鍋した。


場ー
リべ

幕府はべリーをして浦賀に赴かしめようとしたけれども鷹じない。 却て願の趣を承引しな
ければ、干支に訴へる用意がある。加之近海には五十隻の軍艦が遊式し、カリフ「ルニャ

成跡


國 江








所である。ェ㎞ 比時幕府では、開園延期の策を定め、既に露園と交渉して成功し
たから、米園に封しても、恐くは同様の期待を有してみたに相違ない。然れどもべリーの

力 れ
附置
國止
の陰
意め危

のの
開防

決篤


不丁





た。同年正月甘六日浦賀奉行
謀長 アダムスに贈れる書輸に、
使節へ交易取結之相談として、江戸より上官之人被参候虜、: 比度浦賀へ出張之官人は、先日長崎
『 -』

-
* *
好 甲候 方可 目、
へ参り、ロシャ人使節へ封顔いたし候役人とは違ひ、至て交易好き故、 ㎞
# 、Q迷艦渡来園書奉望 に伴所載香山楽左衛門上申
不.、書、細 許は後日築左衛門の記入したものである。
とあり、幕府に、貿易を許可する意志のあることを博へてみる。また共翌日應接掛林㎞、
井戸覚弘が連署して、開國の決を促した幕府への伺書にも、
Lはじ ○老中松日t 三、J入 大火 リしL、た口 ) 、 ダ一シ ふたへん り 、 みは
比程和泉殿 ㎞御書付之趣も有之、労以順ニ談判仕、語りハ通商之議を始候約をいたし候外ニ
取扱方無御座候。ェ
といへるを見れば、己むを得ない時には、彼の要求に 應すべき訓令を受けてみたことが知
られる。かの香山営左衛門の書輸も、比訓令に基いて 共意を通じたのであらう。要するに
H
正月の下旬には、幕府の態度既に改まり、開園によっ て危機を避ける策を定めてみたやう
に思はれる。
船中闘乏品の かくて幕府は、二月初旬林縫、井戸覚弘の二人を江戸に招還して謀議を重ねたが、開園
名義による貿



多勾
易の開始
の方針も比時に確定せるもの、如く、二月十日横濱に於て、彼我第一回の鷹接の際


は國禁であるから、今彼に應することが出来ないけれども、共他石炭、新水、食料をは



め、船中実面要の諸品を供給し、漂民を撫怖するなどは番く承知した。よって明春長崎
第三章 開國 五一 一
第 九龍 羯 座 教 宗 時代 五 11

かうとなく、また北京を記した態接非地者の文書も投げた。 文中には、
、 非裔在意の程中立 《し。 是を熱考し、 我國法 網
の 位数に絵や、 文氏他航タ 關 之の品物、 我國產は
2 C
義すべし 付出數個代物等の平は、 黒川光祿山茶之助 等を以て義すべき延
日米爾國の 安 トと見えてわる。 即 能中關之 間の名に於て、 小規模の容易を開始するにあった。 これ に
協による和親
條約 の騎射
知府からいくば、 資材の開始には和常の調査 時間が必要であるから、 それ まで開國を延期
したいとい 主張を、 或精度まで旅行し得たのであり、 ベリーからい へば、 米國が 日本の
開國之重要求するに至 れる主因、 即ら非難航に石炭以下の補給を仰さ、 深比の標誌を受ける
の空が進むられたので、 久しく関を触して外國人 交らず、 たく 使に長崎に於ける構図
この制限的貿易以外、 何等の経験を有しない日本人に、 欧米諸國に見るが 知さ、 通商
o ? >ー
條約を商議することの側建を理解し、 それ以上を迫らなかったのである。 敵對 これが家
めに警方の安格が都金(行はれ、 李ら光器系を基礎として、 幾度かの交渉の後、 元

!!

< =金 に 嫌疑心に至って栄 リー達他 把º
衛隊
| 小役したが、 泰 路*た武安蓝なるを水蒸し 克在の 5,6 月食を表し 、。 。 機體。
永以來 二月有餘年の久しさ に及 ? る競國政策は、 比日を以て全く彼城守 られた。 而して幕
府をしてこ ^ に至らしめた所以のものは、 ベリー界杯の素なる艦隊の成力 である。 梁川是
機、陽、 佐久間後山體 等が赤松城下の証に比したのも、 必ずしも執った考察とのみはい
へないやうに思い 。
世界の 日本 學術館に米國の 氏 のに関を開いた以上、 後 國の術に艦するの は常然である。 然ら にそれ
日英格 的
相關條 に先だつて、 英國艦隊の水池を受け て、 同年八月に日英放 的が締結 さ.
日爾和親條 は衛國、 發 二年十二月には和阿~和親條約を結び、 我が

土を開放し、 世界の日本人としての過程を通る ことになった。
第 三章 器國 五} |


第十種 統 論


第一 章 治維新を招來也 る指導統 の投诉

}
前提から導か
れたる最後の 章を重れる事前後四十章、 編を分つ事大綱に及び、 陈永の範囲から、 安政の開國に至る
社會
まで、 11 月有餘年の間に於ける野外の政策を記述し、 は 共推移轉達を明か になし得た
信する。 然れとも子は、 外國人との関係を歩の始末、 さては開國の事情を知るが 狗めに準を
執ったのではない。 かく の知 さ特勞の間に、 明治維新を招來す る機運が福祿 寺社。 此機




か»

(Z)

º

~ ?


速の導くがま ^ に、 王政 の復古人となり、 維新の新政,となり 、 来歴 が * 7
~を立戦するのが、 比小銃の試み であり、 而して共期する 所は、 世達をしてこ に至らし
めた指導熱誠の開明に作する。 されば全編の記述も また、 張(這股の意図の下に、 これ を

}}ī
政てしたのであるけれとも、 に 放した生命を興 、る必要があらう。 即ら今までの研究



o
を前提 として、 最後の結論を導か なけれ ならない
明治維新を招
來せる指導熱 明治維新を招來 る航母神神の源流 には 二 つの系統がある。 其 は進攻開國の精神であ
朝 の源流
5、他の 1 つは金王の精神である。 1 つなが 求が国間間以來の微鏡的生命 であり、 た
第 一 肇 問 治 維新 を 招 來往 る 指導 特 神 の 発展 五一五
第十 期 統會 五一大
に= 本就職 の中極を成すものである。 然れとも時には再降があ 6、 世族人情に, 從長が
あった。 如何に伸縮的の生命,とはい へ、 やはり北約束を 始社 ることが出来ない。 かくて登
達頃
精進




此王
す方興生述る代江べ と共に






抑 戰神國
囲し


範開


衛後恐怖
年 となり
、 復は
前服刑の 通





時入しめ
け戶

前 未




政進の




の取




餘ある
だ んし
年で
開治
ま式 の



思有

開國







と例


し,


國 後述


わ 取



末共に

の門原は 回(經 さ
れて、 容易に入ることを許さない。 特王思想の組織 り 行うれた所も、 公武合體論 でなけれ
ば、 共存在が不可能である。 また韓國に固執する四校 のカは張く、 更生きる進取開國の機
池を以てしても、なは これを打破することは容易でなかった。要するに特王も進攻開國も、
それが時代の要求さなって は までには、 なは永い成几を要したのである。

の資優
㎞に正常の主張であっても、時代を支配する構造のカには、 容易に近藤3~が出來
ない。 それに打撃 つ には、 打撃 つだけ の時執 の候開が必要であった。 即ら他の新しい要
上 に、 極めて有利の結果を流らしたのである。 かくて共結果、 一方には韓國制度被找の機

/*
池を作って、 時教 を開國に導 さ、 1 方には進取開國人 尊王 との合 による等主張成龍
つて、 明治維新を招來した。
領國制度の愛 柳も非怖が領國制度を採用した最大の原因は、 いまでもなく部隊教の禁通にあった。
深(共 一 )
領内 の本質
故に共汽水を拒絶したのは、 葡萄牙、 西班牙の 二國に限られてみる。 而 將 の神殿に就
いても 和常 の注意を排か、 郡縣数の仕様に無關係なる支那、 和蘭、 過經、 安南の諸国には
依然資材を許し、 他の諸國 5 %た、 同じ意味に於て、これに約簽約 ベ心はす であったが、
新 5たに来て容易を求めるものがなく、 神で過經、 安南の渡来 へも触し、 引っ くいて
クーマ
來るのは、 支那、 和南にげであるから、 光二國のみが、 邱 の特權を有するとの考が、 い
つ,となく別町の間に生じた。 知政四年光が、 松岡使節 ラクスシ に授けた論文 に、 通信
通商は、 定められた諸國の外に、 許すことは出來ない とい へ るもの、 音し此想により、
此事件 に非 いてみる。 趙國の意義が、 自然的に酸化を求したのは、 方に比熱であった。 然
れとも いまだ定められた諸國に就 いての説明を映
て 明 へ、なかつだが、 文化二年將國使節 レザノ
じ めてそれが支那、 朝鮮、 和尚、 熊隊 である,と明言し、 楚化の
-> る 老中速器 の非怖に、 「我加利策之際、 海外路
第 1 章 治 維新 を 招 來 找 る 指導 航続 の 後 獲 五1 士
繋輝
闘リ
のご度
條 の
件 愛

済 し 國 有 ふ せ 寛 こ も 政 に 化 支 邦
上 て は 用 ° ら 政 れ " 策 鎖 な 以 那 "
か . 交 ? 各 れ 二 を 其 ? 國 つ * .) 通
ら 型 易 貨 基 。 年 製 旨 蓋 % た。 歴然 態
も 潤 を を 利 遂 の 限 を 礎 意 _ 代 地 遡
) を 頼 失 あ に 整 す 明 は 義 要 ? 則 商
鎖 必 ま は る 文 革 る 示 _ の す 幕 二 園
國 と す ん に 化 に 必 し 耶 髪 る 閣 切 無
を す し _ 似 二 至 要 だ 獲 化 ㎞ は 不 エ
承 る で、要 た 釜 つ を が 数 & 鎖 、 高度 定
認 に 國 す 墓 て 感 .) 禁 殆 國 地 獅 。
し は 用 る と 府 基 。 長 遇 ん ? 規 変 炎
よ あ 癖 に い を 極 。 崎 の ど 意 定 通 後
う ら と 國 へ し ほ 所 貿 ! 闘 義 を t 競
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怒 な "。競 、 互 た 器 於 。 鷹 。 会 隻
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第 十 編 結論 五 一八
邦、通信通商固無一定。及後議定通信之國、通商之國、通信限朝鮮、琉球、通商限貴園
支那、外比則一切不許新交通」 といへるは、これを指したも の
化以来歴代の幕閣は、比規定を以て、容易に動かすことの出来ない 「祀法」 と考へるやう
になった。要するに鎖園の意義は、寛政の前後により、これを匿別しなければならない。
㎞* 條
銀園の意義の髪化と殆んど同時に、祖国の修件もまた自然的の髪化を来した。 し銀





レ英

故に、

か禁
みて
置上

過一蘇教

ター

耶基 策
るれ礎

レターシ跳渡来の際に

、共旨を明示したが、長崎貿易に於て、金銀銅の
これを制限する必要を威じ、所請正徳新例以来、潮く清蘭二園との貿易額に手加減を加へ、
せられ、途に文化二年幕府をして、「互市の如きは、共國 以
ふ。各共利あるに似たりといへども、通じてこれを論すれば、海外無債の
有用の貨を失はん、要するに國計の善なるものにあらす」 といはしめ
國は交易を頼ますして國用携じ来れり。長崎の交易は、昔よりいは
して、利潤を必とするにはあらざるなり」 といはしめるまでになった。かくて幕府は、経
済上からも、鎖國を承認しようとするのである。
領國制度 の愛 かく の 加(崇安は、 はじめには宗教間地を以て、 次には純情簡地をもそれに加 《 て、 観
逐(共 三) に
紅河 に封す
る業施 の意
國の修作 としてわるが、 更に文政、 天保以後には、 趙國共ものが、 容易に愛民の出来ない

國家の制度である といふ點に重 さを置いて、 海外語國~の交通を拒んだ。 所前 º 2 ッッ數
事件の際の諸有司の各中には、 新らたに路易の許し難い旨が述べてあり、 また元化二年和
關政府に触れる老中連者の非怖にも、 刑法 定、 關係不可不將通」,といび、 更に同年米国
使節ビドル へ の論書に於て、「我國は、 新に外國人 の通信通商を始 平整さ國榮」 と説明し
てわる。 戦闘 に封する非怖の考にも、 時代によって相違があった。


銀河河を の疑 是より先祖國の意義が おの つから愛化し、 また宗教間地の外に納達開地をふ、 製図の修
深(共四)


Q

{{{

其被殺人と廊




経 作として考慮さられた際、 幕府では前後二回まで、 開國の意志を求
意大を育廳~ ~る 大明度の空間で、 鄭國人 將 死しよう といふにあったが、 長崎路易の激烈
を愛 ることによって中止 さられた。 第二回は松平定信を育廳,とする光政度の空間で、 戦
克地開港の決議,ともなったが、 相手の術團が共機會を興 、ない内に、 定信の建議を見たの
である。 天明度はとも 何、 近設定に於ては、 明かに簡陽師度の破紀~いはなければならな
いっ 然るに後繼站間は、 定信の政策を放棄し、 開國を否認したので、 其被維も また東魏书
られ、 例來た>經國に四折する情勢のみ取くなった。
第 一 章 問 治 維新 を 招 來 執る 指導 熱 刺 の 後 提 五 一九
第十 編 結論 -

五二○
㎞の山 はじめ幕府は、鎖國を断行した時、これを維持する貸めに、武力の使用をも鮮しない決
デイ
心があり、また質際に武力を行使してみるけれども、正保以来態度を改め、暇令衛菊牙、
西班牙二園の船でも、まづ戒論して退帆を命じ、面も命に背き、不穏の撃動のあった場合
に、打挑ふことにした。蓋し國内統一の質を撃げるの際、難を海外の諸園と構へて、共機
たからであらう。二國以外の諸園はいふまでもない。汎や泰平期の幕
運を妨げるのを恐れたか
閣としてはなほ更であった。かくて渡来の外船を待つ虜分策は、年と共に寛大に流れ、途に
諸大名が、共領内に寄港せる外船に封し、専断命に背いて、新水食料を供給することをも
獣認してみる。蓋し避戦平和の政策は、正保以来博統的に進展し、いつしか幕府の封外策
の根抵を貸すものとなった。か、るをりして我國を脅したのは露園の勢力であり、尋でま
た英園勢力の歴迫を受けるようになって、幕府の封外策は、幾多の波潤を生じたにもか、
はらす、終始一貫して、いまだ常甘て鍵更せられたことがない。文政打挑令でさ へも、途に
比意義を失はなかつたのである。
露園南下の勢力と、我が國北進の勢力とが、千島に於て接鋼したのは、質暦、明和の交
であり、安永、天明の際潮く識者の憂慮に上った。かくて天明以来幕府でも暇夷地に注意
し、或は有司の調査探険となり、或は東西蝦夷地の上知となり、専ら開拓の質効を撃げて、
露國の勢力を防がうとしたが、面も避戦政策を固執するの意志は、却て増長せられたので
ある。されば文化三年には、これまで諸藩が、私に新水食料を外國船に供給せる態度を公
認して、法文に規定したばかりでなく、幾もなく露船暴行の事起るに及んでは、事端の発
生を防ぐ貸めに、唐太、揮捉の領土権をも放棄しようとした。また露船打挑令を公布した
後にも必戦の豊悟はない。露将リコルドの交渉を受入れて、共希望せるが如き平和の解決
を見た。故に英艦 フュートシ跳の不穏なる行動があっても、戒厳の令を布くことを揮るほ
どの有様である。また文化、文政の交、英船の我が沿岸に出没するもの、多いのを見て、
共或は事端の発生すべきを憂ふるの除り、これを避ける手段として文政打挑令を布いた。
かくの如くである以上、もとより永績の可能性はない。モリッシ跳渡
つた際には、早くこれを緩和すべき態度を示し、更に阿片戦争の報道に接する
や否や、直ちに打挑令を撤回して新水令を布いた。蓋し常然の成行きである。
鎖國政策と避
戦政策との矛 教問題により、また経済問題により、或はまた所請祀法により、天明、寛政の際
で用による鉄陥
の暴露 を除くの外、常に鎖國を維持しようとした。面も他の 一面には避戦政策を固執してみる。
比二つの政策が、完全に雨立し得られるのは、海外の諸國と封等の質力を有する時か、然
らざれば海外勢力の波動が、弱い力で押寄せる時かであらねばならぬ。永い間の泰平の除
第 一章 明治 維新 を 招来 せる 指導 精 碑 の 発展 五二 一
第 十 編 結論 五二二
弊を受けて、政治が類魔し、武備が衰へ、享築の気分が上下に横溢して、彼我の勢力の著
しく相違せる江戸時代の中葉以後には、最早これを望むことが出来ない。況や海外諸園の
歴迫を威する程度の、年と共に加はるに於てはなほ更である。殊に天保の末年阿片戦争の
刺激を受けてからは、共峡陥が明白に暴露せられた。かくて鎖園政策と避戦政策とは、到
底相容れることの出来ないものとなり、共矛盾から生する幾多の困難が、封外闘係の上に
も惹起せられてみる。幕府は、強て比二つを調和しようとして開鎖の間にさまよひ、進退
雨難の苦境に悩めること数十年、面も内外の情勢は、避戦政策を支持して、鎖國政策を放
棄するの除儀なきに至らしめ、こ、にはじめて進退雨難の苦境から免れた。安政の開國が
即ちそれである。
幕府の政策から考察した鎖國制度崩 かくの如くであった。然れども國
内の情勢を顧みるに、資暦、明和の頃から、安永、天明の頃にかけて、我が國の博統的精
碑が魅 り、進取開國の機運の動いて来たことは、やがて鎖國の破綻を招来する一 つの原因
ともなってみる。これが貸めに耶蘇教の再玲味が、識者によって行はれ、暇令それがなほ
いまだ狭い範園であったとしても、共邪教にあらざるを承認せしめ、或は密にこれを研究
し、或は宗教としての債値を説くに至つては、著しい思想上の鍵化であると共に、鎖國制
IH 1



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経 ー

東側
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観 統會 五 四
* 化を建設した従業を思 が、 これを現代,と比較し、 頼る遺城の情なさを得なか
つた と共に、 再び 日本及び 日本人 として本來の面日に復帰し、 今日 の航機から、 日本を救
ばらない との確信を得 た。 背も 一世を指導 きる議者の論議は、 番く者比 克爾に
時代の 要求 と
1 て の 進取開 わる。 明國論,といはず、 捷克會,といはず、 共開する所は絶てこ ^ にあった。 進取


れ、 松 る 一樣し、 かくの 知さ要求は自然に消滅して、 仲舒的精
破紀の情勢が、 これに代わ て調離さられたのである。 米國艦隊の威力による

安政の明國,5、 大局の上 から見れば、 たく 時を限定したに過ぎない。 かく の 知く にして福
義かられた道收開國の精神は、 時教 の急激なる酸化に導かれ、 おのっから逃國の精神,て相
網れ 機來會の提唱人となり、 而して共 發後の結論
指導特神 の後
生 柳も元后 防代に 安行 る政治改革命は、 能に早く元康前後の頃から、 職者によって盛んに
武士 の 勢力
を維持する
提唱 さられてみる。 然打 とも英政治改革命は、 知何にして武士階級の勢力を維持すべ さか
が ひめ の政
治 改革 後國 を、 主たる 目的 とするものであった。 山崎間體、 熊能出、 救生從後、 太华李榮 の論後
が即も それであり、 正德、 享保の改革、 筑路、 天保の改革も、 事变ºる に、 かく の知さ目
國段時
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し緩 革 め難
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後 精 和 す あ れ か 在 を 夷 治 場 士 的
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劉 尻 を 愛 と 外 れ は で ? る 招 國 救行

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め 之 が " つ に 尋 初 る す 開 す の " れ
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國 等 。 盤 驚 2 節 は 力 夷 の て、持 を
論 ま け 納 闘! 高 を 、。 で 論 獲 " と ほ
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淵 こ ば て の る ひ 家 つ い を 家 ふ 國
露 源 れ な .) 紛 に " を た 軍 促 の が と
で に ら 比 投 及 武 し * 魏 ヒ 体 廻船
あ 和 な 危 が び 士 て そ な た 戚 き 闘
目 る し い 機 事
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策 外 見 し 分 開
釜 ! ふ & 獲 に を ら 論 上 解 て 的 豊
渡 玄 の れ、生 よ 救 し と の を 、 ? 燃
盤 ( で を 盤 つ は め し 策 代 隠 闘姫
窪 も あ と 促 て う る て 論 表 重 題後
Ill 左 る 共 し 時 と も の で す に を 2
も、神l ° に い 局 す の 意 なる 考 照 職
園 ? 松 い 延 を る で 議 い も 慮 扱 恋
* 色 * 大 い 緩 政 あ が ." の す は %
鑑 蓋 が 窪 ㎞、高 和 部 を .… あ 國 が 3 で整
唱 あ 信 武 國 す | と り、家 。 や ー 蹴
へ つ の 備 家 る の い い と 帥 う " 路
三 た 謎 緩 % も 事 ふ 研 に も 燃
張 修 危 の 山 経 究 て 開 な ? 蹴 *

然 に 以 め 機 と 、 溶 あ 進 國
* 禁 . に し 考 工 債 5 論 . 太 、
* 和 い 然 も て 慮 み 硫 そ 及 途 き 豊
と 荒 る 到 い ぜ 學 が き び に 。 。
* て 賀 後 達 力 ら 説 存 道 撰 明 立 *
第 十 編 結論 - 五二六
化以来の情勢を接するに、純然たる経済上の學説に基くものは、たゞ一人佐藤信淵がある
ばかりで、土生遜斎の開園論は、露園に封する政策を含み、司馬江漢の開園論
j
節の政略を含んでみる。渡漫 車山、松本胤通の開園論も、主眼とする所は 開戦の
避けるにあった。古賀個基もまた同様である。かくて天保以降に至っては、経済的 原因を

國 塩
*
基礎とする開園論は潮く影を潜め、政治的原因を基礎とする開國論がこれに代り、阿片戦



争の刺激を受けた後には、殆んど皆経済上の寧説によって開園を説くものがない。開
は途に経済論から政治論に鍵化した。さればべリー渡来の際にも、開園の議を建てたもの
は、これを許さなければ、戦争の調害を受けるといふのが、衆論の一致する所であった。
園家自衛の貸
めの擁夷論 更に懐夷論を見るに、共はじめ露國南下の勢力に措抗するといふことから、潮く識者の
考慮に上り、文化年間露人の暴行を動機として勃興した。比時には、所請入冠の賊を討つ
て、國威を復したいといふので、軍に露國を封象とする政論に過ぎない。然るに文化時代
になって英國の勢力を威じ、また欧洲列國の、質力を有しない微弱なる國家に封する態度
が、相常に恐るべきもの、あるを院るに及び、或は佐藤信淵の露園に封する懐夷論となり、
或は大槻玄澤の懐夷論に近い排英の説となり、或は幕府有司の英國懐庁論となり、文政打
挑令となり、更に水戸學派の奪王懐夷論となって発達の域に達し、外に封して内を衛る、
即ち國家自衛の策として、存在の意義を見出したのである。
時代の要求と 開園論も懐夷論も、共に皆露英との接鋼から共端を務してみる。かくて露國に封し、英
しての園力の
回復
國に封し、如何にこれを虜分すべきかの問題が、頻りに論議せられた。然れどもそれは、
結局、西力の東潮に伴ふ常然の情勢であるから、たゞ濁り露英二國だけの問題でない。も
つと根抵から我が園の態度を定め、はっきり封外の政策を建直さなければならないとの結
論に達した。それには海外の事情を知って置く必要があるので、欧洲の地理歴史に闘する
調査研究が盛んになった。比調査研究は、寛政の頃から行はれてみるが、廣く世人の注意
に上ったのは文化、文政の際である。かくて共研究の結果、常時の識者の知り得た所は、
日本が鎖國の夢を食ってみる間に、欧洲の文化が長足の進歩を遂げ、また共
彼我の間に非常の隔りがある事と、欧洲諸園の経済的進出には、常に武

との二つであった。是に於て我が識者は、一日も早く欧洲
力を養はなければならない。即ち今日の如く、封外の闘係が面倒であり、妻微して振はな
い所以のものは、質力が闘けてみるからである。質力を養ふことは今日の急務であり、同
時に封外策の基礎根抵たるべきものでなければならない。比急務を敢てせすして、封外の
虜分を論するのは、空中に書ける模閣の如く、一とたび欧洲の勢力と衝突した場合には、
第 一章 明治 維新 を 招来 せる 指導 精 碑 の 発展 五二七
第十 週 館會 五 二八
すぐ にも消えてしま ぶ。 平 克するに無用の努力である,といふ のが、 職者 の娘 であった。 此
時に常 0 造成開國の精神は既に更生きられてわる。 されば作 方の落成、 國力の る
ーといふ のも、 若しまた外にあつては、 歐洲列强の勢力に刺激せられ、 内にあつ ては、 かく
の知さ學體によって起 つた力强 い要求であり、 而して共期する所が、 進取開國にあ
~はいふ までもない。 天明、 密克政の交から進んで来た連取開國の思想は、 个各 方
實際問題,と相続けて、 更に新しい要求,となってあらはれたのである。 従って比要
書日の提唱 に於て見られるやうに、 た マ 軍縮に難道上の問題,として取扱ったり、 或はまだ
な模なる帝國主義の追求 でない。 國家,として活人 が 狗め の要求であった。 かくの知さ必要
に非 、 かくの 知事求に従い、 かく の知さ 至羅の問題を解決しよう と試みたのが、 部も
開國論及び機來語の、 社會的勢力,として存在せる所以である。
関力回復 の 手
段方法 に関す
國力の回復を目的 とする進取開國の策は、 對外關係の危機に直面して、 遺臣の間から、
る 一樣式
現在の日本を救が出さうとする長 劍の努力であったが、 而も英手段方法に於て、 互に相異
なる所の 二つの大きな流れがあった。 其 一 つは、 まづ國を開さ、 松る後に衝力を落成しょ
うとする開國論であり、 他の 一 つは、 まっ信力を回復し、 松る後に倒を開かうとする機東
論である。 元來證者の主張した風力の回復は、 政治的に経済的に、 大改革を行 ものであ
り、 それには大に海外文化の輸入を必要 としだけれ とも、 か ^ る大規模の改革は、 一 朝
タの間に期待する ことが出來ない。 故に焦用の急務 だる兵備國防 克街が、 主,として論議
せられたのである。 兵備國防の不備は、 常年に於け
國力 の 回復
た。 故に比州附,と描み)とを去 9、 安心して交際の出來る やうになってから、 國を開く べ
を先 とする
換來說
さである といふのが、 張光譜者の主張である。 秋に散州諸國 の進出には、 武力の後援を作
時局總和を
先 とする開
よ ことに封する安蓝の、 多分に考慮さられてみたのは勿論 である。 これに反して開國論者
國論
は、 个日最も愛・ ベ うは、 外國人 爭端の開けることである。 一 期外國,との仲が 起 ったなら
ば、 其網の友 家所、 圖6気る可からさるものがある。 これを避ける のが、 最大の急務であ
らう。 それには外國の牧らを失はないやうに
やうにするには、 さしあたり外國 の希望に艦
て 一時共衛將を控え 、 徐 のに兵備國防を整 <

東な
则改



~~

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開拓 の 時期

L
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てから長崎,
に関する見
解 の和进


依体たる兵備
國防 の 不備
第 十編 結論 五三○
革、國力の回復は、雨者に共通せる所であった。幕府は宜しく、識者の間に行はれてみる
二種の見解に封して、共いづれを採用すべきかに就いて態度を定め、力を用みるべきであ
た。面も取捨判断に迷ひ、依違として決する所なく、國防の不備もまた改善の質数を撃
げてみない。幕府の兵備國防に闘する施設としては、たゞ僅に江戸の入口なる相模、伊豆、
豪長築沿岸
改港口
を砲
増設

以外
した

の 数

ヶ後修崎き所

安房、上継の た

龍 、


槍館


こ顧


山佐潟
れ夷川

翌シ
を築いたのと、高島
蝦相

j

た地
をして、洋式の砲術、練兵を教授せしめ 、また英龍に命じ、伊豆の非山に於て、銃砲を

製造せしめたに過ぎない。大船製造の禁令が解かれないから、軍艦と稲すべきものは一隻
もなく、江川の練兵も、幕府及び諸藩の子弟に教授し、共基礎をつくってみるといふだけ
で、訓練せられた軍隊も編成せられなかった。これが弘化、嘉永時代の情勢である。面も
阿部正弘が、弘化三年 ビッドルの
浦賀渡来の時のことを述べて、「無事に出帆仕候間 、無故
)
々打留可申見留も無之程之車情」 と告白せる

江戸潜 防備さへも、不十分であったのである。
㎞ 幕府で最も力を注いだ江戸湾の 天明年
間林子平が、國防の急務を叫んでから、既に六十年を経過してみるにもか、はらす、國防
上の不備はかくの如く、面して浦賀警備の任に常れる小田原、沼津、懸川の三藩など、偶々
様行國
佐せよ 式 に力
幕 らつ 國 闘回
謡 れて論 す復
た支者 るの
る 予守 に 二賞

た 意 等 現 撰 田 政 つ 態 が ほ 豊 く、養
一 味 E 状 夷 玄 2 と の あ 懸 論 甚# 。 行
人 す 撰 維 諭 白 完 よ ま つ 備 議 “魔 基 ?
? る 張 横 者 。 備 > た 闘 せ 。燃 琴 倉
現 ° 論 説 た 蒲 と 宜 で と 防 ら 其 に に
状 面 を で る 生 根 き い 共 三、れ 他 至 應
打 も 唱 あ と 君 俊 黙 こ に 重 だ ? 2 ど
破 信 ふ る の 卒 だ 態 れ .) 黙 厩 講 て 高
を 淵 る 。 幅 ? な の を 基 を 以 藩 は 世
説 が ほ 然別 唱 け 下 行 賞 置 で も ふ 乗
く 及 る を 私 れ に は 行 く あ 大 到 し
も 蒸 び に、見 以 ば " う に 政 つ 同 蓋 。
の 保 文 な 来 な こ と 闘 治 た 。 以 時
が .) は 政 か _) ら れ す し の ° 異 前 に
な 弘 じ 年 つ 殆 な を る て 改 で "死 は
い 化 め 間 た ん い 行 現 も 革 あ に ."
° の て 佐 ° ど と は 状 い 、い ? 鷹 蒸
か 交 現 藤 面 線 ? う 雑 や 國 う 勢 砲
く、、) 状 信 も て 説 と 特 は 力 " と 。
目 て 撰 打 淵 恋 の は
現 夷 破 が & 講 .) る で 二 風
状 論 ? 豊 豊 者 林 現 あ つ 復
す 説 り の こ
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帥 繋 の
て 奮

維 に 説 王 幕 に 子 状 り の に ち 衛 も
持 愛」 が 開府 通 卒 打 、い 様 件 懸 2 2
? 愛 起 國 を す の 破 他 式 念 備 任 で
説 し つ 論 し る 主 説 の が 開 國 に "
は て た を て も 唱 で ー あ 國 防 堪 賞
* か ° 唱 い の い あ は つ の の へ 戦
専 ら 現 へ こ で 大 る " た 是 問 な ?
劉 後 状 _ れ あ 原 。 現 、 非 題 か 用
開 。 2 蒸 を り、左 抑 在 其 に が つ に
堂 國 開 打 保 行 。 金 も ? ー 就 * た 立
諭 國 破 釜 は 開 吾 封 状 は い 主 と つ
者 諭 は 閲 し 國 ) 外 態 _ て と い も
に 者 甚 密 や 諭 蓋 ? を 現 。 し ふ の
よ に 政 澤 よ 者 賀 政 破 在 二 て か は
つ し ? 正 う た 糖 策 壊 の つ 議 ら 一
て て 復 志 と る 里 が し 如 の 者 い 門
蓋 " 古 驚 す と、.) 」 い き 見 2 歴陸 熱
持 ま を が る " 杉 内 も 状 解 間 史軍 な
第十 編 結論 五三二
*っ
懐夷論者に せ*れ、現状打破の説は、専ら懐夷論者によって支持せられた。現状を維持しょうとする
よつて支持
せられたる
王政復古論
ものは、幕府の存在を肯定するものであるから、おのづから佐幕に傾き、現状を打破しょ
うとするものは、幕府の存在を否定するものであるから、おのづから王政復古に傾く、蓋
政治改革論の
分裂
指導精碑の成 いひ、奪王擁夷といひ、共期待する所、根抵に於て相融和することの出来な

月カ てみる。何となれば、國
力を回復し、富國強兵の道を辿ることによって、はじめて貧弱にして旦隣れなる現状から、
信じたか らである。面して共手段方法として撰ばれたのが進取開國であ
日本が 数はれると信じた
つた。常ては進取開國の精紳を葬り、保守的の態度に出ることの必要とせられた時代もあ
-
る。然るに宇内の形勢は革まり、日本の境遇も鍵化して、鎖國の天地に弱路するを許さな
うになった。保守的に因循してみたならば、國は亡びなければな らない。かくの如く
{
べき現状から免れるには、たゞ國力を回復する ばかりである。國力を回復するに

寛政以来、先愛の士によって唱道せられた継ての論議、継ての見解は、番
つて動いてみる。面して比指導精碑が、完全に基礎づけられたのは、
開園論及び懐夷論共に務達の極に達した天保時代である。されば共後の時代は、指導精碑
\
の導くがま、に、如何に時局を虜理するかといふ質地問題の解決であらねばならぬ。
五三三
第 一章 明治維新を 招来 せる指導 精 碑 の 発展
第十 點 献 論 五三四
第二章 界體就開の線通算,としての明治維新
共に同じく國力の回復、 政治の改革を目的 としながら、 開國の時期に関して異同の
た彼 のに、 對立の姿を有社 る開國論、 機來會 、 安政開國のこ,とあるに及び、 共
達が お のっから解消した。 もはや野立の意義は失はれたはすである。 若し時教 は開國
の主張の知くに進展した以上、 開國論を唱 《 る必要がない。 また英主張は裏切られたけれ
とも、 時教 の急激なる酸化に 封しては、 接東諸者も また、主張の様式を改める必要があり、
弘化、 嘉永の際、 既に開國を承認してある以上、 秋には開國の質現せられた以上、 機來說
の存在すべ さ然地も理由も、 なかる べ さはすである。 而も安政以後に於て、 兩派の 年は事
質上没しくなって、 蘇木十七ク年に安 る統被の世相を生きしめたのは何故であるか。 明治
維新の指導特神の研究を主體,とする本書に於ては 、 特にこれを開明しなければならない。
開國の時期に関する術用が、 既に失はれたとすれば、 開國論及び機來語は、 これ と共に
自然消滅して、 残るものは たく 作為人 尊王,とである。 故に開國論、 捷克會 、 光時から続
然たる佐藤崎 とな





す ○

ちそれであつた。
なつた。これと共に我が政治外交は、日に月
して共困難は、幕府 が故に惹起せられたのである。もし安政の修約が、天皇の御名に
よつて、締結せられたな らば、即ち天皇親政の御代であったならば、かくの如き困難は、
-

恐らく務生しなかった 相違ない。また明治年間に行はれた幾多の改革事業は、既に早く

安政開園の直後から、質施せられたであらう。蓋し政治上、外交上の紛授は、共殆んど総
てが、幕府の存在を否定 する破壊事業に伴うて起つてみるからである。


幕府の衰運 五日 は、 、、十ムー 、
可 gに正じ、JにてこLH 、 正治口 、山 曲豆%に 正 B
質暦年間竹内式部は、 語に 「天下有道、則濃築征伐自天子出、天下無道、則濃築征伐
イー
自諸侯出、自諸侯出、蓋十世希不失英」 とあるを引いて、公家堂上を戒めてみ る
に十代将軍家治の在職中であった。思ふに式部は、幕府も既に衰へかけてみると考へ
たのであらう。また頼山陽は、文政年間日本外史を著はし、徳川家斉が太政大臣に任せ
れた所で共筆を留め、「蓋武門平治天下、至是極共盛云」 と記してみる。盛の極は衰の
ある。山陽もまた、徳川氏が既に衰運に向つてみると考へたのであらう。識者をしてかく
の如き考を抱かしめた所以のもの、蓋し共事質の存在を裏書きするに十分であった。天保
第二 章 園 難 打開 の 総 清算 として の 明治 維新 五三五
第十 編 結論 五三六
の改革が失敗に単つたのも、共一因はこ、にあるのである。かくて幕府は、潮く衰運に導

れたま、安政の開國を迎へた。比時に常り時勢は政治の改革を要求し、また進取開園の
世人をして不 道を辿ることを要求してみる、面も幕府の現状が、衰運に導かれてみるとしたならば、容
満を抱かしめ
たる幕府の境

易に共目的を達することが出来ない。殊に海内の士民をして、不安に陥らしめたものは、
常時の将軍十三代家定の存在であった。家定は萩変をも挑じない暗主のやうに、世上から
批評せられたけれども、痛症の貸めに絶えす療 撃が起り、撃止に奇態多く、将軍として必
たので、尋常中主の器といふべきであつた。
ノ は堪へない。また子女を撃げることの出来
ない性的の映陥もある。そこに人心の不安が伴ふ。もしこれが泰平の時代であれば、老中
が将軍を輔佐することによつて、不安を除くことも出来るけれども、國歩難難の際である

ら、老中中心の政治に封して、世人の多くは満足しなかつた。かくして人心は次第に幕


幕府の地位を


擁護せんとす 離れようとした。かるが故に越前藩主松平慶永は、幕府の一族中最も英適の聞えの
る 一橋慶喜世
子推戴の運動
高い一橋慶喜を将軍の世嗣と定め、比人をして将軍を輔佐せしめ、将に離れょうとする人
心を繋ぎ、幕府の基礎を定め、然る後時代の要求に應じ、革新の政を布くの急務なるを威
じ、安政三年はじめてこれを幕府に建議した。比運動には、幕府の有司、有力の大名、井
に高峰 の忠平论人にも共鸣者が多く、 結んと異論の 細くになった。 慶帝は水戶義路の子で
ある。 然 に松阪の大老、 老中等は、傳統的に義昭 儀和し得ない歴史を持ってあるので、
崔有 の地位を 陳方針 に反對し、 途に大老非他 而朝によって共計式を破壊した。 是に於て諸藩の志士飛
接導するが 狗
-
め に行は れ た
る吉士 の 井伊
人は、 五期を以て栄を執るもの となし、 朝廷に入敵の結果、 直树を除けて、 李商を改造
大老排斥の 計

すべ きよし の助命が政府に降った。 而朝は自衛上、 安政元六年に広 る所 關文政の大熱を起
其結果 として して、 自己 を排にする存、 公卿、大名、布河、志士、法人等數十人に厳重 の定分を加
最重 の 力 《尤。
の安政 の大获

称も比時の計式 、 志士论人を主體~する もの であったが、


-? 而 非怖に封して、
* 何等の駅
*
心をも挑んでわない。 學 時局を安定して、 進取而闻、 政治改革の途


位 を維護するにあった。 不幸にして非使大老~所見を 張にしたので、 彼等は大老の


にが、 政府の英雄を危(し、 時局の安定を破るもの と考え て非凡を企て、 大老は まだ
志上 のみ , 所を以て、 安府に不利なるもの と考 、 虎分の手を下 したのである。 要するに
られば、 北上没人 と大老、 老中,との意見の衝突に過ぎない。 政府を掛けるが 知さ意志はな
かつた。 然れとも大級の結果は、 大老、 老中等の所信を求助 9、 人心をして神で発売から
離れしめることになった。
國力回復の前
提 として解決
志上没人等が、 政府の地位を擁護する ことによって、 進取開國、 政治改革の道を迎らう
第 二 章 ⓐ 瘤 的 問 の 熱帶 氣 , 第 五三七
第十期 統會 五三八
トする 愛為推廣の運動も、 非他 大老排斥の計畫も、 共に失敗に張ったのは、 彼等をし
て空を延安に絶たしめる素因 となった。 彼等は幕府を飾りて、 非日的を述するこ~の不可
能なる平衡を、 安政の大統に於て學んだのである。 是に於て彼等は、 國力の同校、 政治の
改革など、 これを延安に空行 ことは出來ない。 學み國體の本義に基 ”、建國の精神に則》、
天皇親政の御代に逮服してから後、 北朝代する半新の政を行。 ベ さである。 國力の同校に
は、 王政の復古が先決問題である との確信を高めた。 是より先安政開園の元前に於ける彼
王德安會者も、また比现职を描いてある。 然れともなはいまだ王政の彼方を、 即告の問題
として政报 系 でに、 時代の要求人 はなつてみない。 從って非所前將王3、 被瑞的の*の
陈玉时推論の であった。 然るに个名、 王政の復古により、 國力回復の質を 挙げることになってから後の
成立
卷上の問題は、 これまでのやうな被福的のものでない。 現實の問題を解決すべ さ力强さ主
愛となってからは ねてかる。 魯王は即も計器であり、 武器は即將王であった。 彼 H~計
拿王佐業論の 義とが、 異名同體のもの となったのは方に光時である。 またかくの加く、王政復古の街地
成立
名前作するものに封し、 使然學術の花を背定するものもあった。 其信する所によれば、
个=於5%かすべきは国カの回復である。 官しく特王作業の方針を定め、 人心を安定して
から後、 愛知する所の進路を開かなければならない。 それには幕府の改造が必要で%。
公武合鶴論 いふにあった。面して主張の様式は、公武合鶴によって表現せられておる。
志士の討幕計

王政復古の期待を有つ奪王論を代表するものは常年の志士であり、薩州の有馬新七、長
久 の平野次郎、筑後の眞木和泉等が共牛耳を執り、途に志士浪人の勢力


*
して、濁力討幕の旗を京都に翻さうとした。然るに薩州藩主島津茂久の父として、
力により、志士の計書を破壊した
のが、名高い文久二年四月の寺田屋事鍵である。かくて久光は朝廷に入説し、勅命を博へ
公武合鶴派の
幕閣改造の計 せしめ、共同志たる一橋慶喜を中心とする幕政改革の端緒を開いた。爾来久

光は、越前前藩主松平慶永、土州前藩主山内豊信、伊像宇和島前藩主伊達宗城と共に、公
奪王思想分裂
の具鶴化 武合鶴派の牛耳を執り、王政復古派と封立の姿を呈した。奪王思想の分裂が、事質となっ
て具鶴化せられたのは方に比時である。
長州藩と志士 寺田屋事鍵の後、志士浪人等は共失敗に鑑み、鳥合の衆を以て兵を撃げることの不可能
浪人との討幕
職盟
を暁り、こ、にはじめて有力の大藩を盟主と仰ぎ、正々堂々たる勤王の軍を起さうとした。
比時に常り長州藩もまた、彼等と同じ見解を有してみたので、長州藩と志士浪人との職盟
い 二 し に、 -
が行はれ、志士浪人は長州藩を盟主とし、長州藩は志士浪人の勢力を羽翼として、共同の
- -- -

Bん、JL、Aに、こ - -
戦線に立つことになった。共際長州藩及び志士浪人等の標語として用みたのが即ち擁夷で --* い
第 二 章 國難 打開 の 総 清算 として の 明治 維新 五三九
討幕の標語と には、凡そ二つの理由がある。共一つ、
ーしての 擁 裏
(共 一) 機運に乗するにあった。是より先べリ
オ 際、兵力を挟んで侶倣不遜の態度を示したことは、著しく日本人の威情を害した。
*
かくして反威の情は、排外的の気勢となってあらはれ、安政四年米國継領事ハリスが出府
登城のことあるに及び、民衆の或ものは、「畜生登城 ためしがない、こんな無法をとめて
がない」㎞と罵り、水戸の郷土堀江克之助等は憤激の除り、 リスを途上に要撃しょ
た。なほまた開園の後、彼我の接鋼の行はれる際、外人の示
うとして、事前に捕縛せられょ7
した不穏なる態度、これに封する幕府の不取締も、共気勢を助けてみる。一例を撃ぐれば、
彼等は禁猟匿域に於て勝手に銃猟する。幕府は見て見ないふりをしてみる。また馬上往来


を疾騙して、女子供を騎にかけることもある。面も負傷 ものが、泣き寝入りになる場
合も多い。或はまた泥酔した水兵等が蹴暴する時、これを制止したものが罪せられる場合
もある。加之外商等の多くは、上海、廣東漫で、支那人に封すると同様の態度を以て日本
か の背馳が
人に臨み、共名誉を傷けるやうなことも勘くはない。
の気勢が高まる。萬延、文久、元治の交、頻繁に行はれた外人殺傷事件の如き、主として
-シ
こ、に基いてみるやうに思ふ。長州藩が討幕の貸めに、懐夷の標語を揮んだのは、かくの
群衆心理の
利用
如き気園気の存在により、群衆心理を利用して、目的を達する手段に供したのである。故
に同じ懐夷でも、群衆を動かす指導者の考と、指導者に動かされる群衆の考とは、必すし
討幕の標語と
して の 擁 裏 長州藩等が懐夷の標語を操んだ他の一 つの理由は、これによって討幕の名義を作り、共

(共二)
府は 是より先、朝廷の威情を融和する
機曾を捉へるにあつた。幕府は 一時の方便として、他日
鎖國懐夷することの御請がして
國 ある。もし朝廷の思召で、懐夷の御沙汰の降った場合、幕
府は容易に共不可を奏上する
は ことが出来ない。長州藩は比情勢を見通すものでなかった。
即ち勅命を以て懐夷のことを幕府に博ふる時、幕府は是非ともこれを拝受しなければなら
討幕の端緒 も
の発見
ない。面も幕府が懐夷を質行しないのか である。果して然らば討幕の端緒は、お
のづから開けるであらうといふのが共心算であった。長州藩が比意味に於ての懐夷論を提
懐夷即ち討

唱したのは文久二年であり、共後の行動は悪くこれに基いて計書せられてみる。故に懐夷
は即ち討幕であり、討幕は即ち懐夷であった。懐夷と討幕とが、異名同鶴のものとなった
のは方に比時である。
討幕に反封す


るが貸めの開 かくの如き計書に、正面から反封したものは、公武合鶴派の開國論である。彼等は幕府
國論
第 二 章 國難 打開 の 継 清算 として の 明治 維新 五四一
第十編 結論 五四二
の存在が、なほ共期待する國力の回復、政治の改革に堪へ得られるとの主張を有してみ
た。面してまた國歩鞭難の際、内側の発生を不可とする見解をも有してみた。殊に擁夷即
ち討幕であることをも察 してみた。故に討幕の計書を破壊する必要から、開園の議によっ
て應戦したのである。
懐夷の標語を
揮ぶ事を必要 長州藩が接夷の標語を定めたのは、かくの如き事情に基いてみる。面も同藩をして、懐
とせる特別の
理由 夷の標語を必要とせしめた他の特別の事情の存在を認めなければならない。蓋し同藩は、
D 必要と
理論と質際との雨方面から、王政の復古を必要とした。然る に常時の幕府には、失政が多
討幕派の悩
へ-s 、
みたる撃兵 かったけれども、いまだ暴逆容し難いほどの罪悪を犯してみない。朝廷に封してもまた同
し、 Lい
の名義
様である。従って撃兵討幕の名義に於て苦しんだ。常甘て志士等が撃兵を策した時には、魔
帝説の流言を利用してみるが、堂々たる大藩の勤王の師を動かすに常り、かくの如き薄弱
なる理由を以て、共名義とすることは出来ない。そこに討幕に闘する最大の悩みがある。
拾もよし世上には、排外的の気勢が漂ひ、幕府には、懐夷の勅命を奉行しなければならな
一條の活路 い弱獣を有した。 これが貸め に潮く 一條の活路を見出した。もし完全の名義さ へあれば、
何も苦んで懐夷の標語などに執着しなかったであらう。要するに長州藩の懐夷は、比悩み
を解〜 べき手段として採ばれたものである。
新しい意味に
於ける奪王壇
夷論と佐幕開
國論との成立






も。












し 同


の佐




討幕と佐幕 論が発生した。故に文久以後に於ける懐夷論は、純然たる討幕論であり、こ
との封立

11
開園論は、事質上王政復古に反封する佐幕論である。要するに名は懐夷論、開園論

○*
」、
でありながら、共質は王政 復古論と公武合鶴論とに鍵化 し、時勢の急激なる鍵化もまた*7
か れた。


比二つの意見の封立によ つ
王政言 古の是 の 争因とする懐夷開國雨派の軌㎞は、文久以来日に月に甚
非を絶封唯一

寧 行
の争因とする
擁夷開園雨派 しくな た。比時に常り開國派の 主張による政治上の改革は、幕府の手によって幾度か
の軌較 -

\
如 にならないい。時局の安定しないのも依然奮の如く
ろ時勢を混蹴に導いてみる。元治元年孝明天皇が、十四代将軍徳川家茂にに陽はつた寝輸に、
険悪なる時 地、上下解鶴、百姓塗炭ニ苦 シミ、殆
「鳴呼次、方今ノ形勢如何ト顧ル。内 則チ紀綱魔地
勢の 一斑
ンド瓦解土崩ノ色ヲ顕 ハシ、外ハ 則チ騎虜ノ凌侮ヲ 受ケテ、正ニ併呑ノ祀ニ羅ラントス。
共危キ1質に累卵ノ如ク、又焼眉ノ如シ。股之ヲ思 ヒテ夜モ寝スル1能ハズ、食モ明ヲ下
ラズ」 と仰せられたのを見ても、険悪なる時勢の一斑が推測せられるであらう。かくして


五 三
第 二章 國難 打開 の 継 清算 として の 明治 維新
第十
の誤

*
在る 時
府錯

**
存な

代 開國論を提げ、懐夷論に 封抗せる公武合鶴派の期待が全く裏切られた。彼等もまた途に、

雑府を輔けて進取開國の策を行ふことの時代錯誤なるを聴った。然れどもそれは濁り公武
合鶴派の人々ばかりでない。幕府みづからといへども比事質を承認した。故に最後の将軍
徳川慶喜は、一は庭訓に基き、一は時勢の鍵化に鑑み、武家政治が國家の存
幕府の政権奉
還と王政の復


非常時日本の 抑も江戸時代に於ける進取開國の精紳の復活は、我が國民性の誘導した常然の結果であ
存在




やきな力たらしめたものは、海外勢力の波
ら受けた刺激であった。比刺激は、明和、安永の交、日露の接鋼に共端を務し、西力
の れた。然るに政治の類魔、國防の不備、士気の衰類により、
外に封して内を衛る用意の闘けてみた貸めに、我が園の立場が苦しくなったことは一と通
うり
かくて途に、孝明天皇の寝輸に仰せられた如く、危急存亡の衛に立っやうにな
非常時の情勢
を有利に展開 った。即ち非常時日本の情勢が、海外諸園との接鋼と同時に弾酸せられ、安政開國の後、
せ%㎞めの
進取開國 ます〜険悪を加へたのである。天明、寛政以来、識者の提唱せる幾多の論議も、総て皆
非常時日本の情勢を 有利に延期さんが掛かに試みられた。 かるが故に海外敵方の基地が、
國於の 独立を危(し、 民族の生作を作すことを愛 、た世上の識者は、 德統的精神に則 º
進及開國の固定を定め、 政治を改革し、 國力を回復して、 北航機から 見れよう~~ た。 關
國會… いい、 康安會, いび、 読み分ける船の途こそ速 へ、 登 9っめて書かる 月は1 つであ
る。 而 5朝廷人 驚人 が、 東西に相對立してみることの、 加河に不自然であるかは、 既に
早(國史の研究によって、 阿明さられた所であり、 またこれに基因する被路は、 野外の側
其結論として
の明治維新
係の複雑になるに従って栄 られ、 而してまた非常盤は、 かくの知さ不自然なる 元的
熱力の野立を破壊するより外に、 改善の手段のないのも、 橋(世上多數の認識する所~な
った。 かくて最後の結論に達したのが、 王政の復古である。 即も困難を打開し、 民族派拉
の平和と美麗人 を飾らすには、 進攻開國の策を定め、 國力の回復を図り、 常關原氏の質を
げなければならない。 さ ば國力を回復する上に於て、
舉行なれ カ 総省~なる べきものは、 知何な
たん を問は 、 書く これを破壊することが必要 とせられた。 此必要に厳して成が
られ、 阪神木道が行は 社、 阪能幹線が行はれたのである。 これが 彼 のに進取地図の
、 王政使在の直後、
行え
既に早く元平の御將文によって定まり、 明治新政府は、 北風光




海外
然た

~
1極とも



被に





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復るに
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活熱指導送

神 にの


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本思進攻
開國
戶け=

に近公离世

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水 被よって

に 代想子る世安

子 で 變革 國 義 社




根國維新


近明ば

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り論
後れ
究 輝にく
創 會








こを


に生、



有つ師

英け維新


は明あっ
於たれ命て術
る治 (/)


つて







政治
す建新しい

しよう
をる設
社會
崎 附
す。
戸 録
-


FIF

了事


録!貢
重要 事項 年 表 二
寛永十三年、幕府長崎在留南鍵人の子女を婚港に追放す。○幕府長崎在留菊菊牙人を出島に移す。
寛永十四年十月、島原の闘起る。
寛永十五年二月、島原の蹴平ぐ。
寛永十六年七月、幕府衛菊牙人の渡来を禁じ、出島在留の同國人に退去を命じ、共来るものは船人共に
謀伐すべき旨を達す。
寛永十七年五月、婿港船長崎に来りて貿易の復奮を請ふ。幕府船を焼き人を誌し、僅に十三人を助けて
騎國せしむ。
寛永十八年、幕府蘭人を平戸より出島に移し、平戸を鎖す。
正保元年六月、筑前唐津平戸の三藩兵を務して、異國船一隻を肥前姫島の沖に殲す。或はいふ英船なり
と。
正保三年、鄭芝龍援兵を請ふ。幕府これを御く。
正保四年六月、菊菊牙軍艦長崎に来り、共濁立と國王の即位とを報じ貿易の復奮を請ふ。幕府特に禁令
違背の罪を免して騎國せしむ。武力擁庁の事爾来また行はれす。
-
慶安元年、鄭成功援兵を請ふ。幕府報ぜす。
明暦三年、水戸光園史局を開いて大日本史の編纂に着手す。
萬治元年、鄭成功再び援兵を請ふ。幕府これを御く。
萬治三年三月、幕府蘭人に命じ、毎年海外の形勢を報告せしむ。所請和蘭風説書これなり。

窓 壺 頑 元 元 工
永 藤 藤 藤 藤 -
-

二 年 -十 十 八 リ

置期f
年 間 三 一 年 膝怒
* : 年 年 。 I
露 三 。 。 闘
國 零 四 墓 川
は 観 川 府 ㎞ 如馬
「早 日| I
蒲 如 長 見 リJ i巻
中 見 崎 華 怒
興 日 貿
リ。
易 通



- 五*

言 なや 商


を 改
享 を

黙 語法

草宣
校 し 者 全を 鬱露
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長 す 領
崎 P 奇
-


こ 器出
王 -

*

に へ く
設 い す o
け 又 P 記 盗
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兵 の
衛 不
を 可
霊数 を
「節 論
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重要 事項 年 表
賞 水三年、浅見綱斎識劉録に於て公武合鶴論を唱ふ。
賞永五年、羅馬宣教師シドチ大隅屋久島に来る。幕府これを江戸に護送す。
資*六年二月、錦山模泉生増補華夷通商考に序して、貿易讃美論を唱ふ O比年シドチ江戸に来る。
新非自石命を受けてこれを尋問し、耶蘇教に再玲味を加へ、又西洋文化の長所を認識す
*正徳の交、新井自石本朝質貨通用事略を著はして金銀銅輸出の弊を論す。
正徳三年三月、新井白石来覧異言を著はす。
『徳五年正月、幕府長崎貿易を改革す。O六月、新井自石西洋紀間を著はす。
享保五年正月、新非自石暇夷志を著はす。O比年、徳川吉宗禁書の令を辿む。
*保六年四月、三輪執質執㎞先生雑著に於て、金銀銅の輸出必ずしも不可ならざるを論す。
享保十一年七月、荻生祖徳崎人欧を草す。
*シ、シ政議に於て、儒者をして幕府の文庫を蔵する郡録教闘係の書結を讃ましめん事を論
す。C大宰シ済録拾遺に於て外園貿易を讃美す。O比頃、太宰春豪清園に備ふべきを説く
元文元年十一月、青木昆陽経済纂要に於て貿易停止論を唱ふ。
元文三年、露國海軍中佐スパシべルク千島二十九島に命名す。
『シ、スバッベルグの率3る艦船、奥州及び房州の沖に現はれ、また上陸して新水食料を求む。
。『 、シ船到着の際、もし上陸せば逮捕すべき事を令す。O比年、板倉源次郎北海随筆をき
*してシ拓論を唱へ、またはじめて蝦夷地の附近に於ける露人の存在を紹介す
* シ
元文五年、徳川吉宗、青木昆陽野呂元丈等をして蘭語を學ばしむ。
賀暦九年、足より先竹内式部京都にありて王政の復古を策し、門下の公卿を通じて共説を桃園天皇の天
聴に達す。五月幕府式部を追放に虜す。○比年、山懸大武柳子新論を著はして武家政治を否定し、王
政復古論を唱ふ。○松前藩士湊豊之進厚岸に到り、はじめて露人の千島に来住せるを知り、これを藩
府に報す。
資暦十三年、平賀源内根南志具佐を著はし、共序文に楚字朝鮮文字及び和蘭文字を使用し世上の好奇心

い二

す。
質暦明和の交、國民の間に舶来品に興味を有し、欧洲の文化を仰望する風起り、延いて進取開園の精紳
の更生を促す。
明和四年八月、幕府山懸大武を死罪、藤井右門を獄門、竹内式部を遠島に虜す。
明和七年、平賀源内電気機械を製し世人を驚かす。
明和八年三月、前野良澤杉田玄自等、小塚原に於て肺分を観る。尋で解鶴新書の著講に従ふ。蘭寧これ
よりして潮く起る。○比年、本居宣長直昆霊を著はして國鶴を論す。○松前藩吏國後に到り、はじめ
人の得撫島に来りて臓虎を猟するを知り、それを藩府に報す。○蘭人提出の風説書に、露人が日
本に封して野心ある事を記載す。○べニョーブスキー胸波土佐の海岸に寄港して新水を請ひ、更に琉
球大島に到り、書を長崎奉行に寄せて、露園が日本に封して野心ある事を告ぐ。


明和安永の交、得撫以北の千島列島概ね露園の勢力範園となる。○蝦夷地に於ける日露貿易 始の風説
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に内論して、蝦夷地の施設を革めしむ。○本多利明蝦夷拾遺を著はして蝦夷地経営の急務を論す。
寛政二年、幕府長崎貿易に制限を加ふ。○老中松平定信商船清國派遣の事を内議す。○英船紀州熊野浦
請ふ。
寛政三年春、幕府普請役最上徳内等をして、蝦夷千島唐太を巡祀せしむ。○九月、幕府外國船取扱に闘
する令を領ち、寛大の虜分を講ぜしむ。○藤田幽谷正名論を著はして國鶴を論じ。公武合鶴論を唱ふ。
寛政四年春、幕府再び普請役最上徳因等をして、蝦夷唐太を巡祀せしむ。○老中松平定信、奉行所を南
部津軽の附近に設けて、遥に露國に備へん事を闘る。○九月、露國使節ラクスマン漂民を護送して根
室に来り、併せて通商の開始を請ふ。○十一月松平定信開國の議を定め、宣論使石川忠房村上義濃等
を松前に派遣す。
寛政五年六月、石川忠房等ラクスマンを松前に招きて漂民を受領し、開園の内意を博へ、信牌を授けて
長崎に赴かしむ。○ラクスマン長崎に赴かすして直に本國に騎る。○七月老中松平定信鮮免。奉行所
設置の議中止す。○老中松平信明を首班とする後継幕閣、開園の議を撤して鎖國政策に逆博す。
寛政七八年の交、本多利明 経世秘策同補遺を著はして、進取経略通商貿易の説を唱へ、蝦夷地経営の急
務を論す。
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寛政八年十二月、大原左金吾地北高談を著はして松前道魔の野心を述べ、蝦夷地経営の急務を論 す。○
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松前道廣露園内應の風説潮く盛んなり。
重要 事項 年 表 七

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重要 事項 年 表 八
寛政九年九月、中山信敬地北高談を老中松平信明に呈して、松前道魔の野心を訴ふ。○大原左金吾北地
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を守らしめ、以て露國に備ふ。○林述斎幕府に上書して、地北高 談の所説
の信す可からざるをいふ。○十二月、幕府外國船取扱に闘する令を領ち、重ねて寛大の虜分を講せし
む。○比年、藤田幽谷書を水戸治保に呈して擁夷論、政治改革論を唱ふ。○是より先和蘭に政鍵あり、
本國は備國に併合せられ、植民地は英國の侵抗する所となる。和蘭東印度商曾の商船また英艦の捕獲
に米國商船を雇傭す。比年共雇備米船はじめて長崎に入津す。我が國民これよりし
れを抑留す○本多利明西域物語を著はして海外の形勢を説き、開國論を唱へ、又耶蘇教の左道にあら
ざるを疑ふ。
寛政十一年正月、幕府勘定奉行石川忠房、目付羽太正養、使番大河内政講、勘
地取締御用掛と貸す。老中戸田氏教、若年寄立花種周これを継括す。○幕府東蝦夷抱
知床までを七ヶ年間松前氏より上知し、撰捉を以て露國に封する
放棄す。○比年、中井履軒漫策を著はして蝦夷地非開拓論、日露彰
敵蝦夷地非開拓論を唱ふ。
寛政享和の交、馬場正通、羽太正養の旨を受け、透策務喋を著はして中井履軒の説を験し、開國論、蝦
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文 化 人年五月、 松前系行支配制被充作制在佛門、 陈明海平小作ブローニン を閉後に師 、 詩 社 を公
前に護送す。 C此年不出德施古道大意に於て関砲を論じ、 公式合體論を唱え 、 また銀河を載於190
本田俊和 欧於古朱志に於て、 外関に封して関を飾る平が、 他成大將年の正大なる任務なるを成さ 、 公
式合齒を呼ぶ。 C本山德溫下為白波を殺し、 観衆の資料を従す c㎏級機
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文化 人力年の交、 土生海爾族不宣統を送 はして開拓跋、 進取經略《關を呼ぶ 。
人の間に外贸易を構成するものあるをリコルドに語る。 C+二月、 作模仿制作 於菲时平を卒し
て盛岡に対する非明明の説を呼ぶ ?
化十年九月, 陈明海軍少作リコルド結節に来り 、 フィストフ 等の 家行に関する同國官僚の神明代を 正
*。 李宗即ら ブローン を放送すº Oリコルド、 ゴローニン航路を去るに臨み 、 非を留め て通商の問
始及び日將國將到火の平を提議すº
化十 年、 散布將阿 提議の 内、 通商の詩を抑け、 関胤は神器と モジリ明湖 の 間に定めるの策を定め、
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志賞新論を著はして奪王撮夷論、政治改革論を唱ふ。
文政十年十月、松平定信婆心録に於て幕府の打挑令を非議す。
天保元年五月、藤田東湖等書を水戸警昭に呈して携夷論、政治改革論を唱ふ。
月、藤田東湖等書を水戸管昭に呈して、再び携夷論、政治改革論を唱ふ。
天保四年、水戸督昭告志編に於て公武合鶴論を唱ふ。
保八年六月、米船 モリソン競漂民を護送して浦賀に来る。浦賀奉行太田資統これを砲撃す。○七月、
モリソン跳降州山川港に入る。同藩これを砲撃す。○比年、松本胤通獣芦微表を著はして、開園論、

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漂民護送の事に就いて指令を仰ぐ。○比秋、幕府長崎奉行の同書に闘して諸
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船渡来の際に於ける虜分を諮問す。○打挑足非の論朝野の
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を唱ふ。○十二月、幕府長崎奉行に命じ、蘭人をして在外漂民を護送せしむ。○比年、川路聖 談江川
英龍書を幕府に呈して、英園に封する非戦論を唱ふ。○渡漫筆山西洋事情御答書憶機論等を者はし、
英園に封する非戦開園論を唱ふ。○古賀制茶海防脱測を著はして開園論、進取経略論、政治改革論
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建 上巻 上代國民の精碑生活 我が上代、未だ外國の文化

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て何物を有せしか、共道徳生活及び道徳思想は如何なり



高想つれ 義園
開園
進の
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そ精
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L 予
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しか、知識生活、感情生活、は如何なる様式に於て如何



底来 で理が
崇な
は 理

あた

そ史

なる程度の発達を遂け居りしか。又我等の祀先は如何な

解 を


の出ない

つこ

到維新
なば 。かむ
けれ 歴

る理想を以て園を建てしか、本書は本邦思想文化の始
ミ二ムふのが著者が本書に封する信念である。故に著者は 桜源を関明せるものである。
下巻 奈良朝園民の精紳生活 今回清原博士は奈良朝時
比の維新の考察に付ても唯軍に階級争闘の経湾的赴曾的 代の思想史を完成し始めて世に問はる。即ち先づ大化改
の鍵単ミ三ムふ見地よりせす。我國家が我國民が如何なる 新以後の思想的傾向に就て筆を起し、次で支那思想の浸
指導精紳に於て比の國家、國鶴、國民的危機を乗切つて 潤よりして儒教、道教等の質際的影響を説き、一方又我
今日の隆昌の基礎を造れるかを著者の最も得意なる史的 が碑道、陰陽五行説等の各思想を解剖して、遂に潮く奈
良朝の思想上最も重大なる役割を演じ、内面的には我國
考察に於て明快に説く。比の非常時に於て本書の意義や 民精紳生活の基調を貸し、又外面的には我邦文化史上に
又絶大。一人歴史學徒のみならす教育家思想家他緑ての - 稀有の業績を残せし常時の備教の本質を縦横に詳述解剖
㎞ の御*を 人
3 シ一七四 ●
しは 國民精紳生活 東京市牛込隔挑天町一七四 f -
-
口口
乞ふ
乙 え
務免 日T 文 館 ㎞ 務 分 中 文 館
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廣島高等師
㎞ 栗田 元 次 著 範學校教授
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K 鶴裁 菊 版 洋線 紙 数 一千貢除 建國日尚浅き米園でさへ 歴史研究流行の今日、我邦に於
て多々盆々國史研究の旺なるべきは寧ろ常然過る騎㎞で
國史學究の全目的が考誇の微細を誇るにありミせば各時
ある。然かも我二千六百年の永き歴史は共の史料に於て
代史の専門家の部分的著述に侯つべく、更に濁自の批判
的考察を以て國民を正しきに導かんミする場合は通史の も順る多く且つ玉石混済その眞偽の判定、取捨、選撰は
論述こそは最も必要なものである。然るに我園史を線合 一般史學研究者の至難事である。弦に於て日本史學史の
的に正しく共本質を掲み得んミする場合既出各様の日本 著赤極めて制切なる屋界の要求である。清原博士の本著
國史が果して好指導たり得るか之れは頻る疑問である、
蓋し本書刊行の所以は経に厳存する本書は既出の園史に 述は比㎞に於て先鞭的、濁創的の貴重なる研究ミこして期
比して左の特色を誇示し得る事が出来る。一、各時代史 待せらる、所=即ち記紀以前より奈良、平安、鎌倉、南
簡疎の臨 梅を適宜にせる事。ニ、各方面の最新寧説を緑 北朝、室町、江戸等の各時代の凡百の史籍、物語、稲史、
合的に取入れ三、全巻終始脈絡一貫 緊張味に溢れ四、 以下荷も先人の研究、著述ミして史料ミなるべきものを
掲載図表に新機軸を出したる事五、本書巻末に索引を附
し史料ミ参考書を撃け研究者の至便を企てたる事等、園 系統的に整理、論評、判定し、且つ先人史家の研究の跡
史の精華を撃研せんミする一般人士殊に高等撃校、師範 方を鮮明し、尚且つ先生濁創の卓見に於て、
O 最も明快、
寧校専攻科の教科用ミして旦文検受験者の必譲を要する 懇切に説く、歴史、思想、法制、文化史等の研究者の必

ものである 須の指針、他文検 、
須の指針 \rst:、r ー
連 補牛込㎞天町二 十四 ㎞ 東京市牛込匠猫天町一七四
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局文理科 に1 ーチ E
員でいい 山
㎞ 文學博士清原貞雄著
㎞文學博士中村久四郎山根偉三共著
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本書の原著者警召南は支那、史質考謎の最盛時ミ謳はれ 本年表は清原博士が前後五ヶ年に互り銭骨砕心の極、始
し清朝、乾隆時代の史官ミして考誇學の最高権威、偶々 めて完成せるもの、即ち天皇紀元、干支、年跳の各欄の
勅命を享けて刻苦精働殆んき共の全生涯を賭けて 「支那 下に政治、経済、宗教、教育、寧術、文藝、美術工藝の
歴代帝王年表」を著す。東洋史の権威中村先生ミ支那研 七欄を設け、碑武建國の初より昭和三年の 現代に至る
究の篤學者山根先生は彼の偉業を湯仰措く能はす。途に 逸、如上各方面の主要事項を細大浅らさす匿別分類して
共の遺業を継承完成すべく奮起し先づ斉召南の年表を譚 記載し、尚参照欄には同年代の支那、西洋の重要事項を
述し、次で清人揚州の進士、院顧の編著 「明年表」「遼、 も併記す。故に本書は従来の歴史年表の如く戦争も學藝
金、元人名、並、官名正偽表」を追加譚述し、更に中村、山 も宗教も一祀混同、園雑燕雑に編年的に記載せる年表ミ
根、雨先生自身の全勢作に成る清朝及び中華民國十六年 異なり、使用者の摘出に至便なるは初論、旦共の内容の
五月逸の年表を補遺する等、貸に前後三ヶ年間の日子を 精細豊富さに於ても遥に第一位を占む。旦又組織の整然
費消して始めて比の大業成る。即ち三皇五帝の初めより ミ分類匿別ミは検索の容易さミ相まつて群書に超絶す。
二十二朝、一共和制四千有除年の支那の治園興亡は一目 歴史家は云ふに及ばす、法制、赴曾、教育等他一切の寧
瞭然ミして、支那の全史は本書に依って簡軍に明確に遍 に携はる、人々に取つて本書の債値は精確なる辞書ミ同
年的に系統的に歴縮整理せられたり、荷も支那を日にす 然なるべく出来得べくんば各家庭に於ても是非一本の御
る *FF 必備を乞ふ。 東京市牛込区擁天町一七四
備へられたし、殊 東京市牛込区擁天町一七四
中 文
㎞ 務免 中 文 館 ㎞
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受験者等のを必譲 振替東京三八四二七
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佐伯 常 磨 著 文學博士 加藤 玄智 著
大 濃 講話 本邦生詞の研究
面腰 す付 %
【『菊判 全一冊 洋装 継 数 千 八 貢
園菊判 全一冊 洋装 継 数 三 百 貢 Q定債金参圓八拾銭 送料金参拾参銭
園定 債 金 参 圓 送料金武拾 登銭 加藤博士は十年の歳月、枯据罪勉、文部省精紳科學奨励
即位の大濃拉に大賞祭の御儀に就いて國民はこれに付 費補助の下に本邦に於る生詞の跡を尋ねて審査精探足跡
殆んこ全國に遍く、眼を東西五車の書に曝らし静に思ひ
精確なる知識を得て資詐の無窮を斬り聖毒の萬歳を祀し
審に察し本問題を攻究された結果、従来本邦には死詞は
奉り、長くも陸下が大典を行はせられ國民に垂れ給ふ所 在つても生詞の事質一も無しミ云ふ内外學者濁断の迷夢
の大教訓を奉鶴服鷹する事に努むべきである。即ち本書 を根本的に覆へし本邦の生詞を一々史質に徴して指摘し
共数百以上に及び更に生詞の特質を博士濁特の宗教史、
は右の趣意を徹底せしむべく御即位の濃、大賞祭の御儀 宗教心理等文化科學の上から縦横に究明し自在に論断し
に付詳述するミ共に併せてその御精紳のある所をも明ら 斯學界に一生面を抜き先哲未踏の新天地を撃界に開拓し
かにす。面して記述は終始學的根操を持すミ難もしかも

耐 頻
盤 頻りなるに付ても本書の如きは比我が建園の大本たる
徒らに専門的の弊に偏せす、最も平易懇切を旨ミして寧 敬 碑の根本義を明確にせるものミして寧界の推奨搭く能

ざる所、教育家は初論如何なる人も本書に依つて開発
校教育家共他一般 東京市牛込㎞天町一七四 せらるべし。
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文理科大學教授 栗田 元 次 著
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史學研究は初巻務刊以来絶大の御好評を得、多年極め曾 刻下比の険悪なる思想問題封策の根原ミしては我國鶴を
正しく認識する事が最も急務でありそれには先づ第一に
員の御支持ミ又一般譲 國史に還り建國の精紳を熟知するが何よりも緊要であ
んき資切れの盛況にあります。云ふ逸もなく本誌は毎跳 る。國史を知るミ云ふ事は決して歴史家のみの仕事でな
く、我等國民一般が自分自らを知る事でそれは義務であ
斯界の諸権威が心血を傾倒した貴重なる研究論文の発表 り、誇りでなければならない。著者は比意味に於て我が
機闘であるミ共に共學界に胎す足跡は永久に博ふべきも 建園の初めより現代に到る逸の通史を汎ゆる方面より絵
合的に叙述し、且つ共の内容ミしては専門家のみが必要
のですが旦っ又毎跳掲載せらる、史學界の電報の如きも
ミする繁雑に流れす然も乾燥無味なる史質の羅列に陥ら
後世史學研究家に取って又なき文獣ミ信じます。是等の *國民一般誰人が譲んでも最に興味深く正しき日本史を
見地から今回限り定部数を増刷し全三冊分を合韓して本 熟㎞味出来る様に記述したのが本書である。荷も我日
隣 本歴史に闘心する園民全般の乞必讃。
誌御購讃浅れの方及び一般同好者に提供致します。
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東洋大學講師 溝口 駒 造 著
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本書一度び発免されるや内外の史學法學の凡ゆる大家
日本書紀、古事記等以下我邦の古史典は古来幾多の國學
除 深厚の長敬ミ絶讃を以て感謝し歓迎せられた。誠に法制
者、歴史家、碑道學者等に依つて検討し霊され既に共 観
の権威者たる著者が多年維新史の研究に潜思し今や稀
地は無いかの様に見倣されつ、あるが事質は決して然ら の最高知識
に属する凡ゆる珍奇なる資料を菓集し、専門
す獅幾多の疑問は疑問ミして残され従つて是等を無條件
に加ふるに燃扉の史眼を以て他の追随し得ぬ重要の條件
に讃美する観念論者ミ一方是等古典に散見する謎を指摘 立憲思
を具備してみたからであつた。維新前後に於ける
して共慣値を疑はんミする者ミある。今共の依つて来る
あ 想の発展の成果を事質の排置、封照比較、湊合、曾通を
所は是等古典に封する科學的の研究が乏しいからで 用意の
以て一貫し間明してみる面も索引を附して凡ゆる
る。著者溝口氏は共研究に付天文學的、人類學的等以下諸
深切を霊して撃徒の便に資した、全巻金玉の文字であ
科學の知識をも充分加味して古来数多牽強附曾の解響を 、
し る。この國質的名著は史家、法家は初論特に高等文官
一蹴し古典の眞の姿をつきつめ前人が全く開き得ざり 國民に
文検受験者唯一 の羅針盤である、赤現時の全日本
碑秘の扉を押開ける貴き研究の成果を本書に依りて披温 *}

者、史家共他篤學
務免 中

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文 館 出来る最大目付書 務 免 中 文
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科 説 徹頭徹尾

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全般








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研究
國く 理科大學

東京
監修
啓爾
田中
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大學理科

東京
監修
久四郎
中山
教授






學習









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大地





附録







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の知識を詳述す。)〜艦替東京 に八四に代
通地理に付て最新 発 分
場に於て商業及交
も分明して世界の経済地帯を明確に説明する等線合的立
人文ミの闘係を明にし同時に又交通空間の鍵化等に付て
普通の商業地理ミは異なり各種の産業の説明にも自然さ
ト、フリードリヒ博士の世界商業交通地理の鶴系に則り
る所である。本書は世界的の名著たる濁逸の領學ェルス
の問題ミして比の種の良書の出現は學界の等しく待望す
れに影響すべく商業及び交通地理の研究は刻下盆く切質
我邦の現状に於ては世界大勢の推移如何は直ちに以て我
甲起乙駄産業界の盛衰は刻々ミ鍵化しつ、あるが、殊に

近時交通機闘の発達に伴ひ経済地理匿の鍵化は誠に著し
いものがあり、即ち日本國内は初論、世界の表面に於ても

第三高等学校教授 藤田元春著
世界商業交通地理
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に関家を護り時に外敵を退け、 皇統連統たる関體を安泰

物 つ共
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故家

出景俗行 後に
若く 努日
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に置さつ あるのは日本に武士道があるからである。 而
以て達 時 通は

文學
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史 注
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も現在我が関家は最も多平なる際、 我が関同有の武士道


然て でに

研究

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の銃を正しく認識し、 誤まれる個人主義や全體主義を







全に 而つ編





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その

是正し、 文或國民風氣體動の原動力を踏ま こぶ事は元



継世問
Q






大史



完書る因成 まる
べきた
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© る方面に於ての最も敵意事である。 而して本書は快文
整然たる文學的體系に則り、 武士道の酸生より北 後幾多
本。

方紅り面 で即の

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原より

の艦長將長、 文各時代を背景/ しての武士道の形式的發


粉無

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まさ


化に付て最も詳細に述べ、 而して此の武士道の根本籍



被詳
正確
最明快

縦無盡

線研

熊究所ち本 史料

が途に明治維新の大業を完成し戦日本國が世界初頭に征


巻末 述


し充随流
見に
研新車
は 、

し現在に至る道の武士道の経過を皮質を基礎/ ~し始はN





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史 最も
詳細
ある。 故に撃技教育家は初論、 國家の干城軍人各位、 及
正短

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に我泉家室

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かを鎖

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発の
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文明も思想的には我國鶴、我國民ミ到底入れ難き全鶴主
しせ


が邦文化が皇室を中心ミ
中 こして如何に結合 義や個人主義の弊害を持ち来り、今や眞に覚醒せる我國
し、統一せられたかの二獣を研究の重位に置き、史的研 民全般は夫等極悪不選の思想を根絶し比の光輝ある我國
究の立場から事質の展開して行く有りの僅の姿の裸にそ 威を盆く務揚せんミ努力精紳しつ、ある時比の良書を比
の眞相を捕捉し様ミ志したのが著者の本書に封する念願 の世に問ふ。即ち著者は本書の題名に特に日本國民の志
である。従つて特に我邦文化全般に互り異常の闘係を持 操ミ云ふ最も明快なる語彙を創造して、先づ前編に於て
は我國鶴を凡ゆる方面より研究考察して共の世界に全く
する所の政治に付ては初論、更に汎く藝術、産業、経済
比類なき國情を詳説し、次で後編に於ては之れを歴史的
等の萬般に互つて這個の見方から史的推移を検悪数し、長
に考察して紳武の始めより現代に到る逸の日本國民の思
くも御寝輸を始めミし共他貴重豊富なる資料を傾霊して 想生活の特異性を各方面より寧問的に仔細に述べて残す
獅ほ取捨選撰、最も詳細正鶴なる比記述は史學界に数多 所なし。非常時に於ける本書の意義や又最絶大、教育

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砂川 寛 禁 著
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東京帝國大學教授 戸田 貞 一二 著
口 家族
家族㎞研究 と 婚姻
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本書は考擁を内外の典籍に求め、我が家族制度の崩壊す 個人主義の発達を始め、共他各種の複雑極りなき赴曾事
べきものでない事を論断して、然して家族各員の顧利を 象の鍵遷に因由して我邦古来の羊風たる家族制度に付て
考へた小家族制度を理想ミし提唱せられた學界稀れに見 も、赤之れが基礎を作す婚姻に付ても潮く行詰りを来た
し一部には既に共崩壊を目前不可抗的の騎結の如く妄信
る大研究である。一、我國家族制度の研究を力説し 二、
しつ、ある人々さへある、慈に於て戸田教授は我家族制
創成時代 三、模倣時代 四、武家時代 五、過渡時代
度の存績、助長、発展に資する貸めに汎く世界諸國に於
六、大成時代 七、改革時代、の七章を家、業、結婚、 る家族ミ婚姻に闘する各種の事情を種々の祀角獣から厳
宗教、親族、婦人等百般に渉り論究頻る明確、然も従来 密に比較検討して我邦の長所は更に之れを進展し短所は
の學者が徒らに西洋の學説に附倉するを論評したるが如 是正修正して現代及未来の方向を示せる質に貴重なる研
きは、誠に先生の卓見ミ云ふべきである。教育家、赴曾 究を本書に於て世に問ふ。教育家は初論共他如何なる立
場にあるも比我立國の根本問題たる家族制度及び婚姻に
教育家の是非必譲研究、光築ある我家族制度の盆く健全
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文學 士 朝日 融 渓 著 文學 士 朝日 融 渓 著
文藝復興史概論 文藝復興史の研究
Q 菊判 全一冊 洋装 纏数七百四十頁
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宗教 に科學
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らし

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キャー ェリゲナ
始めて







本稿





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メット教の進出を述べ、斯くして文藝復興の黎明期に入

藝家ルーテル
・他
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宗哲の
一ルチン者
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リマテ
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知識階級の必設を{シ㎞四
) 1 口口
御必譲を乞ぶ。 東 市牛込岡耕天町一七四
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乞ふ。 務発 中 文 館 務免 中 文 館
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0 ㎡ %討の思想, 治, <學、武術家社、社會の レチン - 17 **地15の思想家、打亂者、宗女家,
常数に互つては中收益”, E荡者の最~得慰^4,る論評 政治家、文獻家李の思和の代r ㏊r ㏊人大學的に
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