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法學博士是作行集者
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人物論をか人物評博さかいふの類は、取つき
やすくて、その質、これ程六
かしいものはない。況んや、幕末維新をいふやうな、
複雑多端な場面に登場
する人物を月旦するこさは生やさしい腕では
出来るものではない。僕はこれ
を敢てしようなざをいふ非望は微塵も有しない
のであるが、唯だその史料を
忠質に世に紹介したいをいふこをを念するの外
他意はないのであるが、これ
さて一朝一夕に出来るこをではない。近時維新の研究
が盛んさなるにつれ、
従来知られなかった幾多の史料が出て来 たこをは
、眞に慶賀 すべきこをで
あるが史料が出れば出るほざ、また不明の獣が
多くなり研究の困難が増加す
〜〜〜


〜〜〜〜〜〜〜〜7
るさいふの現状である。これは文運の発達上喜ぶべくして、憂ふるに足りぬ
のであるが、我等後學の徒は望洋の嘆に堪へないのである。
いづれは、熱心なる斯學の研究者の努力に侯っのであるが、私は、各種の
人物の多方面なる角度のうちの史料の一部分の、その何十分の一かに過ぎな
い、請はゞ片鱗の片鱗をもいふべき史料を寛めたのに過ぎないので、その稲
纏った人物の数名を、こ\に公にしたのである。他日これ等の人々の完全な
る博記類の編纂せらる\に際し、礎石の一少部分に撮充せらる、の機あらば、
著者の本懐は、これに過ぐるものはない。
明治六十八年昭和乙玄仲秋
由 坂
八 七大五 四 三 二一

利 **認***** 本
面冊

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公 献 に" 奉 聯 龍
政 器の

還合 さ
目 盤所 。 。 時 馬
厳” 運 幹
鎌筆見在 動旋 勢 豊

さ 室 琵 * 空 素 霊 圭
小 博 ● ● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ses es ・・・・ ● *** * "essess se。。。。
七0
二 藩 財政 の 改革 ・ ・ ・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・・ ・・・・・・ ・・ ・・・・・・・ ・・・ ・ ・・
七三
三坂 龍馬 を の 曾 見
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● ●● ● ● ● ● ● ・ ● ● ● ● ● ● * * ・・・・・・・・・・・・・・・ * sesse ・・・ ・ ・ 。
七六
四 五 箇 條御 誓文 の起草 * ・・・・』 s ● ● ● ● ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・e ・・・・・。・・・・・ ・ ・・・・・
只0
五 明治 政府 財政 の確立 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・・・・・・・・・・・s ・・ s・・・ ・・・・・・ ・・・ ・・・・・・・・・ ・・・ ・・・ 。。。。。。
丸四
六 東京 府政 の 刷新
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ・・・・・・・・・・・・se ・・・・・・・s・・・・・・・・ 。"。。"。。。。。。。。。。。。。 一0囲
七 文献 曰 録 ・・ess ● ・・・・・・ ・・ ・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ ・・・ ・・ ・・・ ・ ・ ・ ・・・・・・ ・・・・・・ 一二0
・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。。。。。。、、。。。 一二三
エトワード・スネル
● ● ● ● ● ●・・・・・・・・・・・・・・・・・・ * ● ● ● ● ● 。。。。。。** ● ● ● ● * " * ・・* ** ● ● ● ● ** * * * ● ● ● ● ● ● ● **
一吾一
大隈 重信
一 維新に於ける大隈重信 :: 一五三
二 明治十四年政鍵の御前曾議 :: 一式三
: 一式七
・ ・・・・・・ ・ ・・・ ・・・・・・・・・ ・ ・・ ・・ ・・・・ ・・・・・・ ・ ・・ ・ ・・ ・・ 。。。。。。。
顧 澤 論 吉i
維新前に於ける福澤先生
• • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • • •• • • • • • • • • • • • • • • • • • •• • • • •• • • • •
•<<
藤澤 先生の郡語辭典編纂 :|0
藤澤先生 と新事物の魔告 : : |
法律家 として の福澤先生 :|
政治教育家 としての福澤先生 : 三
福澤先生 と明治十四年の政變に開する 1 由尖刺 :|
T開採 論 古 德 成る : |セス
攻 殺
本 法撃博士 尾 佐竹 猛 著 四六判九ポイント組 三四○頁
妹 特縮織装寛 眞数葉
書巻 維新 史 業 説 "
幕末 維新 の 人物
塞米羅新 の人物 1
近藤勇,と土方鐵三
今日の日東大帝國の基礎を形造る と とに於 て、 我が光輝ある三千年の歴史は無論であります。
近くは との三千年の歴史の精華が終し て居ります維新の正氣、 と の ととが大たる基礎をたし て
活る と とは私が中上げるまでもないのであります。 湖や今日內外の時局の因建に際しまして、 所
調非常時を以て呼ばれる今日に於 て推断念士の御園的精神の熱烈なる心情を回想するの は極めて
有意義の と とは、 これ変中上げるまでもない家第でどさいます。
併しながら と 人 で私 として少しく中上げて見たい と思いますのは、 維新動王志士の親屬的熱情
は大樹に家で知って居るのでありますが、 義 との反對地に立った佐賀の人々はどうで
あるか、 動王に勤し て佐藤 といふ對立的の言葉を以てしますと、 佐賀に立つた人々 は知何にも
軍 がないかの く広があるのであります。しかしながら翌日本 民法。
は知何なる立場に於 ても、 如何なる時代に於 ても、 動王心の導かったことは省 てないのでありま
す。 唯その時の事情に依り、 自己の立場の如何に依つて、 更に進んで主義政策の異同に依って、
と に勤王 と佐義といふ對立的の言葉を以て形容するの自己を得さる形になっ て居る ことが少から
さる こと に御注意を願はれ ばなり ません。
經國七 いひ 動王と いび、 開港成は議事、 幾多の主張政策の全貌を通して と ( に日本帝國の基礎
注し ていつれも今日 の大帝國の基礎を築くべきその護と なっ て居る書き人々 であります。 この意
味に於さまして勤王の方面を論じまする ことは無論でありますが、 それと同時に と の反對關の立
場に立って、比較的同情の薄い作流についても同情を寄せる意味に於 ての考究を要するのであり
ます。
既に延安時代,Uなっ て冷静に批判し ます と、 日本帝國の酸 となった書き人々 は要するに線 て難
忠の人である、 かういふ前提に於 て私は ど ) に少しく中上げ て見たい と思い のであります。 この
こと につきましては、 極く 一般的ながら飛来に於 て親けられた機多 の スローガン について少しく
近藤勇,と土方鐵三 三
幕末維新の人物 四
説明を申上げる必要があるのであります。動もすれば概念的に勤王ーー壌夷、佐幕ー開港、こ
の二つの主義主張が封立して居るが如く感ぜられるのであります。無論それには相違ないのでご
ざいますが、これは最初からこの二つの主義がカツキリ封立して居りませぬ、この獣を少しく申
上げて置かないと私の後に述べることについて多少お解りにならぬ酷があるかと思ひますから、
余計のことであるが申上げます。
最初に勤王といふことと、佐幕ー操夷、この三つの概念、主義主張は、必しも矛盾して居らな
いのであります。勤王、佐幕、操夷、即ち幕府は朝廷の御旨を奉じて擁夷すべし、かういふのが
初期に起った時代思潮であります。その中に段々時世が進んで参りまして、いろ〜の問題に打
突りますと、幕府の動き、その他に於ても開港論が起って参るのであります。これは無暗に外國
人を追挑ふ譚にはいかぬ、又世界の趣勢を見ると追挑ふのは不得策であるから宜しく港を開くべ
しといふ議論も出て来るのであります。併しながらこの際に於きましては勤王、佐幕、開港であ
ります。この獣を御注意願って置きます。勤王ー佐幕ー擁夷。勤王ー佐幕ー開港。この二種の議
論が思想上に於て現はれたのであります。併しながら潮攻朝廷の御旨が懐夷に傾きますと、この
開港といふこと\は雨立しない時世になって参ります。こ \でー勤王ー操夷。勤王ー佐幕。佐幕
ー開港と色々に説が分れるのであります。開港論常に佐幕とは限って居りませぬ。これも考へな
ければならぬ。動主ー佐幕。勤王ー開港、かういふ議論は何等矛盾なくして行はれて参ったので
あります。更にこれが勤王ー懐夷となり、佐幕ー開港と勤立するのはすっと後になるのでありま
。が赤、勤王ー擁夷必しも討幕論にならぬ。後になりますと、勤王、懐夷即ち討幕、佐幕ー開
港即ちこの反封となるのでありますが、最初はまだ勤王と擁夷は結付いて、まだ討幕論に移って
行かぬ。これらの時世の移り鍵りを考へまして、その時代々々に活躍した人の主義主張を能く洞
察して見ないと判らぬ酷が随分あるのであります。甚だ理窟張ったやうなことばかり申上げて恐
縮でありますが、大鶴前提としてこれだけ申上げて置きます。
一鶴擁夷とはどんなことであるか、外國人は追挑ふ。外國人は夷狭、高獣、人類以下のもので
あるからこれを碑州、即ち潔き日本に入れるのは日本の國鶴を汚すものであるから追挑はなけれ
ばならぬといふのが操夷論、今日から見ますと殆ど想像もつかぬやうなこの接夷論が常時國策と
して生命を賭して闘はれた問題である。それは何故であるか、これはいろ〜な意味に於て説明
近藤勇と土方歳三 五
嘉來維新 の人物 六
º出來ますが、 感情書もありますし 或は文新しいものに封する恐怖心もあり いろ~)に説明は出
來ますけれとも、更に大きな流れから これを考 《 庄子 と、當時歐米の勢力が日本に及び、 極東に渡
って参ります と、今日の言葉で説明します と関際資本の東寧、これが日本を生植民地投公にせんと
する、と の機會に迫って活ったのであります。とくに於て學國 一致し てと の熱導師として起 多 た
のが極東連動であります。 理論に於ては基於都心 のでありますけれとも、 この運動があつ で始め
て日本の関節の自覺 といふ連動部ら。 從來の地方分權的に割據し て居り ます就建制裁を打つ て
丸 とした日本精神が操東連動として起ったのであります。 と の幾東羅勒があって関力充實し然る
後に適當な時に開港歌したれば とそ 今日の如く日本の修道を来したのであります。 故に着し訳を
轉 しまして、 歐米列國の いぶがま に直に開催し て居ったならば或は印度、 エジプト の敵を震ん
だかも知れない といふ意見もあります。 即ら遠東縣は開港體の前提として常被起るべき 一 大運動
である といふ意味を同領しなければなら 約 のであります。 とくに於 てと の関家的運動は動王龍と
結社を認識論と結位 いて動主義與義となりカ開い敵を有っ て武藏民の頭を支配し進んで封業論に
移り行く原因をなすのであります。かういふ意味に於て大體の概念は説明し得られたと思います。
そこで命性會時 の 一般意見の 三 の例を挙げて見ます と、 維新動王の被羅地 として本場であり
ます水戶も勤王兼職は、 意義大を飾く和國的熱情を有っ て居ったのでありますが、 まだ對基輔
にまで進んで 活0ませg。 その監を御性意願っ て置かなければならぬ。 其他の諸藩に於 てº、 越
前藩に於 ては、 是は動王作業開國論であります。 薩摩藩に於 ては、 後には藤真の最左翼に韓同し
ましたが、 最初は同じ高に主張され て居0ます。 長州藩に於ても最初は開國論であって、 しかº
動王龍であります。 動王明國論であります。 所調維新の原動力となって居った有力な語源に於 て
は教わも 一度は新る時代を経過し て来たのであります。 然るに時世は進展教しゃし て、 幕府は朝
延の 目を奉じ て外籍に富るに力足らず、 其無力にし て成は自分だけでは議論を奉する調に いか
gよいふ情況に立ちまして、 比に於て朝廷と兼ねの野立になり、 又 一方國體自覺の領民運動の興
る所に依 0日本に於を ましては幕府が政權を執って居るのが難破である、 官しく日本國本家の面
目に立師Q て皇室に政權を御装ししたく てはならぬ といふ と とに立至って討論 となり高H論
教 ,るやうにたつ て出 て来たのであります。 かやうな攻第で幕末の思想は幾變體を求たし て活
-
· る のであります。
近藤 勇,と土方鐵三 七
基米羅新 の人物 八
其間に色々 の活躍をし て居ります人々 の信念には愛りはないのでありますが就會常數の愛達に
依って行動が色々 に愛って来るのであります。 動主義の本場である長州藩の立場の知をは藤にさ
うであります。 元治元年哈德門に於ては、形に於ては朝教となり、恐れ多くも得所に向つて統 元が
飛び、 長州藩士は悲始なる決心を以て、 我等は捕未正成の心を以て足利尊氏の形を露すのである
U の苦表を呼ばしめ、 またその時此戰に於て朝廷を擁護し率った暴れを有し て居る會津藩は、 成
長の戦争に於ては朝教 として離島にまみれて開城し て居ります。 とれ等の人々 は形から見れば或
は朝教 となり成は動王 となりましたが、 さういぶ人々 の心事を特産し て見ると、 一片 J れ歌 タ の
志着國に現するの 命に愛0はない と思念 のであります。 すつと後にまで行はれて居つた言葉が
あります。 晚 てば自軍敗ければ城よJ、とれは漢之助利的な言葉のやりでありますが、 その東側に
は、 命情もな國のためJ U あります。 朝政と呼ばれるも好城と呼ばる も、 國に奉する の赤心に
至っては何等獎》はない。 唯た時の情勢、 政治上の立場に使って攻は誤解され、 曲解されるとと
があり、 特に幕末の知き目まぐるしき程時世が幾つ て行く人々 の立場に於 ては敵と いび、 味方七
いひ、 封 つ人も対たるる人も共に今日の大帝國を残す基 の人柱となるに於 ては、 決して優劣はた
いことを歌ったのであります。この獣に於て従来比較的閑却せられて居りました佐幕側の人々*
歴史の表面から取上げらる\結構な時世となったのであります。古くからいふ通り歴史は糖の雨
面を見なければならぬのであります。雨方の主張立場を能く諫解して初めて弦に真の正しき心事
を発見し、面も共背後に横はって居る建國以来鍵らざる所の日本精紳のその底に横はって居る、
共心事を深く掘り下げて見ると本常の歴史を通じてその思想が現れて来るのであります。
この酷に於て従来勤王側の人々に於てはいろ〜十分に御説明もあるのでありますから、私は
比較的閑却されて居る佐幕側の人々について、この機曾に於て少しくお話申上げょうと思って長

談議に及んだ攻第であります。 そこで今日表題にも挑げて置きました通り佐幕側の人々として
彩を放って居ります近藤勇、土方歳三について一言述べることの御許を願ひたいのであります。
近藤、土方は是は或る意味に於て現代の流行見になって居る、剣劇映書に、大衆作家に、あらゆ
る方面に於て幾回、幾十回と描かれて居ります。併ながらそれ等に於て描かれたところは、 て
請へば彼等は本来の先祀博来の旗本ではないに拘らず、徳川氏のために奮闘した、そして剣術が
出来るといふ位に於て大衆に認められて居るに過ぎないのであって、継ての行動は暴力園以上に
近藤勇と土方歳三 九
義來維新 の人物 | O
しか 戰備され ておない。 而 動王の志士を断り或は神 へ、 或は私人等不都合た暴力團 の如く解や
られ て居るのであります。 素より形に於 ては新の如き行動はあったのでありますが、 唯基力團 の
みとしてこれ等の人々を見るのは余りに理解がなさ通さるのであります。 この意味に於て少しく
と の近藤、 土方の 心情について従來全0世に明かにされておたい親について述べ て見たいと思い
ます 中すまでもなく近藤は武州多摩郡の出身であります。 さらし て土方と共に新興組を組織し
たのでありますが、 と の近藤、 土方はどれだけの修養があっ て、 どれだけの訓練を経て居る かと
いぶ、 精神的修養の基礎については十分なる資料はありませぬが、 これが中央政界に活躍するに
至った過程、 彼の思想を見る と必し も常時の職 タ 者流 ではないのであります。 と の事につきまし
て近藤勇が断られましたのが、 慶應四年即ち明治元年四月二十五日であります。 江戸の板橋の刑
場、 只合でもありますが、 あの ステーション の艦の所で断られ て首は京都三條橫に爆され て居0
* 常時 のと を認した 中东鼎 34のがあります。 陈 永
日本に於ける新聞の歴史としては早く愛達したもので、 その中外新聞にはかういぶ ことを書い
て居ります 地震 は共性別選にし て様に文武の道に長し曾て有志の諸王を義0て新羅紀と説
し自ら共隊長となり、 主佐幕の志を以て四方に奔走し天下の貸めに力を霊せしが」 が私が
程申したことに御注意を願ひたいのです。勤王佐幕の志を以てとある勤王と佐幕は雨立する若し
近藤の言葉を以って云へは動主の志を以て佐幕に霊すといふのであります。それから攻に「この
度計らす*王師に抗するの罪により下継の流山漫にて官軍の貸めに捕はれ、四月二十五日板橋に
於て死刑に魔せられたり、質に情しむべし」云々、かう書いてあるのであります、常時官筆が
擁の勢を以て四方に競令する際に佐幕の闘士として斬られた近藤のために、足だけの同情のこと
を書くのはょくょくのことであります。 今日の共産賞の被告以上に思はれて居ったものに勤して
これだけの同情があるい『勤王佐幕の志を以て四方に奔走し天下の貸に力を霊す』。常時の世人は
近藤のために哀悼の念を惜まなかったのであります。
最初近藤勇が同志を率みて新徴組に加った時分にはまだ誰もその名を知らなかったのでありま
す。それが新徴組から分離して新撰組を組織された、慈に至って近藤の名盤が中外に轟いたので
あります。無論最初はまだ新撰組の隊長ではないが、その頃既に近藤の名撃は轟いて居ったので
あります。丁度その頃に倉津藩主鈴木丹下の「騒務日記 に依ると、『近藤勇といふものは智男奪
近藤勇と土方歳三 一 二
幕末維新の人物 一二
ね備り何事の懸合に及び候ても滞りなく返答し候もの\由に候』 智勇衆備、智と勇と鍛備って居
ると賞讃の鮮がそのころの書物に散見して居ります。軍なる剣術一方の男ではない。暴力園一方
の男でなかったといふことは是でも知れるのであります。その中に新撰組に於きまして御承知の
通り隊長の芦澤鴨が失脚して、近藤一派に賞権が移るのでありますが、近藤が文久三年十月十五
日に出した上書に依りますと、『全鶴私共は霊忠報國の志士、依って今般御召しに相應じ去る二
月中通々上京仕りシ之御英断承知仕度存志にてシ龍在候」とあります。 リに
應じて新徴組に入りましたのは霊忠報國の思想、皇命奪戴即ち朝廷の命を奉じて飛んで参り夷狭
を擁ふ積りであるいとあって即ら勤王、佐幕、携夷、この三つの思想が何等の矛盾を感じてみな
い、これが霊忠報國の思想であると自信して居ったのであります。またその頃京都の守護職曾津
肥後守の招きに應じ薩摩、土佐、安藝、、熊本、曾津の各藩の重職が曾合したその席上でも近藤は
列席を致して居るのでありますが、その時に曾津の家老である横山主税、薩摩の島津基などに報
國の有志近藤に高論承りたき旨申越され候、是が近藤の手紙にある、これらの人々から近藤のと
ころに意見を聴かれた、そこで 『自分は熟考するに、只今までは、操夷接夷といって居るけれ
ども、それは薩摩の擁夷、長州の擁夷、つまり薩摩藩長州藩の擁夷に過ぎすしてそれは日本の擁
夷といふことにはならぬ。これには第一に公武合鶴専一にし共上幕府に於て断然と擁夷仰出され
候はゞ自然國内の安全とも存候、素々外國の事より斯くの如く天下貴 然内蹴をも醸候哉と存候、
午恐政府を助け、皇國一致海岸防察策略より外他有間敷と相答候各藩銘々同意と被申』 云々、近
藤の意見としては、これまで擁夷々々と云って居るけれども、それは長州藩、薩摩藩の擁夷で日
本の擁夷ではない。それには公武合鶴ー足は常時の政界の主張であります。朝廷と幕府と合鶴
してやる、即ち國難に勤しては國内に於て朝廷と幕府が相争ふことは宜しくない、宜しく撃國一
致外患に常るべしといふ思想であるのであります。 公武合鶴といふ思想は、最初幕府の力が強く
朝廷の御旨を承けて政治を行って居つたのでありますが、その後潮次朝廷の方にも賞権を回復せ
られまして、朝廷と幕府と封立闘係になって、江戸と京都の勢力上勤立することになりまして、
この尖鋭化した時局を牧拾するためには公武合鶴、纏て協同一致すべし、今の言葉で申しますと
委協政治であります。委協しなければいかぬ、比國家内外の多難に際して相争ふことはいかぬ、
どうしても公武合鶴である、薩摩や土佐、宇和島、越前、比四藩が主として主張して居るので何
近藤勇と土方歳三 一三
幕末維新の人物 一四
時でも政争の遍迫した場合に於て出て来る説でありますが、面も遂に又久しきを待たすして左
右に分裂するのであります。これが分裂して擁夷、討幕と佐幕開國と封立するに至ったのであり
ます。これまでは公武合 、即ちシ一致して外 に*るべしといシがこ
の意見を述べて居ります
かういふやうなことで以て各藩の重職と堂々と議論を上下して居る、近藤の遺墨は外にもいろ
いろあります。越前藩、薩藩その他の人々が寄って議論する際に近藤が吐きました議論の書付け
が澤山あるのであります。さういふ譚で単なる暴力園若くは非常警察の意味でなくして、高遠な
る理想を以って新徴組へ入ったのであります。がこれが常時色々の事情から上洛して京都へ参っ
て居つたのでありますが、京都に於きましては盛にテロが行はれまして、所請天誌が行はれて居
る時代でありますからこの新撰組にも非常警察の役目を行はせようとしたのであります。併し新
撰組としては頻る不満であったので、このことにつきましては近藤としてはかういふ書面がある、
『私共は昨年以来霊忠報國有志と御募り相成即御召しに應じて上京仕りこれまで滞京龍在昨年八
月中市中見廻りを仰付けられ常四月中相改見廻被仰付有りがたく相勤龍在候』私共へ見廻りの役
は決して不服ではありませぬが、役目ではない、もう少し高遠な思想で以て参りました。といふ
趣旨の上書が元治元年五月三日附で出て居るのであります。
かういふゃうなことから幕府は別に又京都市中見廻組といふものを作ったのであります。この
市中見廻組の手で坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺を計ったのでありますけれども、常時からすっと
明治の初めに至るまで坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺は新撰組の手であるかの如く誤解されて居る
のであります。それから時勢は急鍵して元治元年の船御門の戦は長州藩が御所に向って務砲す
る。曾津藩薩摩藩が之を防ぐといふ戦が始ったのであります。この頃新撰組としては充分腕を振
ふ除地は無かったのでありますけれども、時の幕府の老中から
「撃々御委任の新撰組にも速かに出張多人数打取候段、巨細御聴に達候虜常々申付方宜しく一同
忠勤を励み候段、比類なき働き碑妙に思召候、比段申聞くべき旨上意に候』
かういふ書附が曾津肥後守即ち新撰組を所轄して居る主人へ出て居ります。
斯くして時局は一韓して長州征伐に鍵轄するのでありますが、次いで長州派の無條件降服に依
って治ったが間もなく第二回目の長州征伐が行はれ天下の大問題になるのでありますが、この際
近藤勇と土方歳三 一五
幕末維新の人物 一六
に近藤勇は非常に活躍して居ります。このことは 『連城紀聞』 の記事に、
『廣島より去る十七日夜の早打にて通行の近藤勇、比の人は新撰組の頭にて交書衆備之 人長井主
水正の家来分にて常所へ下り先達中より手績有者と申し長州へ忍入居之由』
とあります。かういふ事填に依っても近藤の活動が如何に目覚しかったかといふことが断片的な
がら判るのであります。かやうに近藤の赴曾的地位は堂々たるものとなって居ります。「ご \に近
藤の一大楽器としては、常時宮廷第一の豪傑であらせられまして孝明天皇の御信任最も厚き久適
宮朝彦親王の御目がねにかなって居るのであります。これは朝彦親王の、慶應三年三月十日の御
日記の中に近藤勇云々といふことがありまして、更に九月十三日の所に、かういふ記事があるの
であります。
『秋月傍次郎招きに依つて参る』
これは曾津の家来でありますが、
『幕府大小目付の内原市之進のかはり致すべき人鶴も無之』
これは、常時慶喜公の最高秘書官とも申すべき地位に居て手腕を振って居りました原市之進が暗殺
せられまして、之に代るべき人材がないとの仰せです。そして次に
『予が勘考には新撰組の近藤勇然るべきや』
かやうに仰せられてあります。
『又同人予方へ借用の儀、肥後守へ内談暫時幕へ屋候共上予新家故家格も立衆候故、幕へ衆て頼
置候漫を以て、幕より予へ借候方可然、極秘心添候也』
近藤を自分の所へ傭ふことについて、借りることに付て、この継てを肥後守に内談された。初めは
幕府に傭って朝彦親王の御方へ借りるやうにしたとさういふことが朝彦親王の御日記の中に書い
てあります。近藤としては賞に一代の名誉であります。併しこのことは近藤の耳へ入ったか、どう
かこれははっきり分って居りませぬが、曾津の方の記録を見ますと、先程申しました原市之進が
暗殺せられたことについて、登城往来の際は、危険であるから新撰組に警衛の儀申付けること、
なり近藤勇を召し寄せ申し聞けたとありますから、是等は朝彦親王の御話に闘係があるのであら
うと思ふのであります&この頃が近藤勇の一番得意な時代で所請剣劇、大衆作家の材料となるの
で京都に於ける彼の六年間は最も得意な時代であります。詳しいことは申上げるまでもないから
近藤勇と土方歳三 一七
幕末維新の人物 一八
略し*東山三十六條、鶴かに民るシの衛、シる剣劇の響」といふ場面になるのであり
ます
併ながら幕府の方は段々否運となりまして、遂に政権奉還となり、こ \に於てこの最も大きな
後糖が無くなったので、是から新撰組の立場も至って惨めなものであります。鳥羽、伏見の戦に
は近藤は常時負傷して居って出て居りませぬ。土方歳三が新撰組の 一隊を率みて奮戦して居るの
でありますが、大部隊の戦争で、近世式の銃砲戦でありますから一騎打の得意である新撰組には
大なる働きを貸す譚に参らす徒らに死傷者を増すのみであった。又この頃大政奉還の際でありま
すが、大政奉還の建白書の大立者たる土佐藩の後藤象二郎と近藤勇が曾ふて居る記事などござい
ますが、是も有名な話で、後藤象二郎が近藤勇と曾つた最初に 『抽者は貴殿の腰に差して居るも
のが大嫌である』といって居る。そこで近藤も笑って刀を脱して後藤といろいろ相談して居る。
常時の雨雄封談の場面がそ ゞろに偲ばれるのであります。このことばかりでなく、又薩藩の代表
的人物であり維新の原動力であった大久保市蔵後の大久保利通等と、時の陸戦質愛の所へ行って
大政奉還のことについて色々話をした事賞があるのであります。
かういふゃうに幕府の最後の場面に於ても活躍して居るのであります。もう大勢は幕府に利る
らすして鳥羽、伏見の戦争に敗れ江戸に引揚げた近藤が、その前に新撰組から分離した一派の貸
めに狙撃せられた時の傷が治りませぬから江戸に参ってからも療治をして居つた。将軍の御典賢
であります松本良順後の軍賢継監松本順、この人の所に於て傷の療治をして居る。この際に又人
権史上特に注意すべきことは、所請機多非人の稲競廃止、特殊部落の稲競廃止に付いて近藤と松
本が骨を折って居る事填があります。この事は殆ど世の中には知れて居りませぬが、言はれなき
差別待遇として、積多非人なる名稲の下に長き博統に於て差別的待遇を蒙って居つたのが、明治
新政府が人権平等の理想に基き、積多非人も継ての日本國民は等しく天皇の赤子である。といふ
意味に於て、稼多非人の稲競を廃せられましたのが明治四年でありますが是より先き慶應四年、
即ち明治元年奮幕府が江戸に於て機多の稲競魔止といふ人権史上の 一大革新を行って居るので
あります。
纏て幕府方若くは佐幕方の幾多の新しき施設は政治上の敗者となった貸めに酒滅せられて居る
のでありますが、是等の事填は特に注意すべき事柄であるのであります。これはいろ〜政治上
近藤勇と土方歳三 一九
幕末維新の人物 二○
の理由もあり種々の問題もあるのでありますが、少くも機多の身分を平民に復せしめなくてはい
かぬ。といふことを松本良順と近藤が相談致し、常時の将軍の御典賢、今の言葉では侍賢ともい
ふべき最高の地位に居つた松本良順が、人間以下として扱はれて居った機多頭園左衛門の父親が
病気になるや、松本が療治をしておる。それからいろ〜話があって奮幕府の幹部で決行したの
が慶應四年の年で、機多頭六十人の身分が平民に復し追ってはそれ以下のものも全部平民に復す
るといふことを断行したのであります。この問題は間もなく江戸城明渡となってその賞行は出来
なかったが、少くも人権自由の一大鋒火は最初幕府に於て手を附けたことは初論であります。面
してこの問題の主唱者は近藤であるといふことを看過することは出来ないと云ふことを申上げた
いのであります。
かやうにして近藤勇はいろ〜割策致したのでありますけれども、人間も落目になってはする
こと貸すこと番く後手となり、我が幕府のために最後の一戦をとむらうべく新たに新撰組を率み
て板垣退助の率ゆる官軍と甲州勝沼に戦って一敗地に塗れ、下纏流山に駐屯し途に捕へられて板
橋の刑場に於て斬られたのであります。その末路については御承知のことでありますから、今更
申すまでもないことであります。この時に近藤を捕へたことにつきましては香川敬三の手柄にな
って居りますが、一説では薩藩の有馬藤太であるといふことになって居ります。何れにしても少
くも近藤とも請はれる者が、官軍の陣営に進んで出掛けて捕へられてしまったのであります。
この際に同志の土方歳三は行ってはいかぬ、官軍の陣営ではどんな手にか\るかも知れぬから注
意したまへといったに拘らず、近藤は軍身出かけて途に捕へられて首を斬られた」土方はこれを
慣概して更に残りの新撰組を率おて活躍する舞豪になるのであります。土方歳三は同じく多摩郡
の近藤勇の近村でありますが、共に近藤邦武に就いて剣術を寧び、剣術は土方の方が出来た。近
藤は剣術といふよりは寧ろ度胸に於て優って居った。剣術に於ては一段土方の方が立まさって居
った。それから近藤は常に表面に立ち、土方は女房役として新撰組を統率して居ったのでありま
す。池田屋の観人その他については土方の働きは質に目覚しいものでありますが、更に角近藤は
表に立って居る。土方はそれ程表面に現れて居りませぬ。忠質なる女房役であったのであります。
併し近藤が斬られまして後、自ら更に残った新撰組を率みて途には北海道に於て活躍し、これか
ら土方の濁自の舞豪は始まるのであります。
近藤勇と土方歳三 二一
-
幕末維新の人物 二二
扱て江戸城が明渡しになって、志ある幕臣は四方へ脱走して居るのであります。丁度慶應四年
の四月十二日、江戸を脱走した幕臣の人々が、市川、只今の千葉懸の市川、あそこの寺に集った
ものが約二千人除りあります。これ等が如何にすべきかといふ相談をしてをった所へ、幕府の陸
軍を率みて居った大鳥圭介が、数百人を率みて之に加はり、この集った連中が協議をして居る時
に、大鳥圭介は継督で、参謀格に土方歳三が選ばれて居ります。こ\には幕臣のいろ〜の人が
集って居ります。その中に桑名の人で立見勘三郎が矢張り一隊を率みて居ります。 この立見勘三
郎は後の陸軍大将で日露戦争に悪溝豪に奮戦した東洋一の用兵家といはれた立見尚文子爵であり
ます。
これ等の人々 が陣容を調へましてこれから結城城を陥れ、小山の城に戦ひ、宇都宮の城を陥
れ、幕軍の勢が強いのでありますがその中に官軍の逆襲に曾ひまして宇都宮城は陥落して、引
いて日光方面に於て幕軍と官軍と戦ふのでありますが、この時に土方は手足に傷ついて居りま
す。途に戦ひ利あらすして東北聯合軍の中堅たる曾津若松城に入るのでありますが、常時東北の
形勢は日本を雨分して東北越諸藩二十六藩の大同盟を形作って、西南諸藩に封し日本初って以来
の大戦争を雨方に別れてやったのでありますが、このとき曾津若松に新撰組が行って居るのであ
ります。それから大鳥圭介の一隊も行って居る。土方と大島は庄内の方に行くか行かぬに付きい
ろ〜交渉がありますが途にこの東北大同盟は官軍に破られて番く瓦解するのであります。
この頃別に江戸では榎本武揚は海軍の大艦隊を率みて、品川を脱走致しまして東北シのた
めに来ったのでありますが、既に東北聯合軍は破れて居るので幕軍は番く榎本武揚の艦隊に投す
るのであります。土方は一隊を率おて之に加はり、明治元年十月海陸の兵を合せて北海道、「
その頃北海道といふ名はなくして蝦夷といって居りますーに上陸し、戦ふのであります。その
時先づ函館の残の木に上陸致しまして、非常な険道を越へて進軍をする。十月になりますとシ
道は雪が降って居る、その雪の最中に雪を踏んで溺館へ参りました。常時商館には官軍として
田、弘前、小倉、松前、顧山の諸藩の兵が居ったのでありますけれども、手もなく幕軍のために
打破られたのであります。続いて土方は彰義隊の一隊を率みて松前へ進撃して、シからシ
シるのであります。にこのシ。
の陣屋を陥れまして、非常に奮戦をして大勝を博するのであります。途に北海方面に於ての官軍
近藤勇と土方歳三 二三
幕末維新の人物 二四
は番く破れた。幕府の陸海軍で北海全土を平定して、こ \に 一個の交戦園鶴を形造つて官軍に勤
抗せんとするのであります。これは幕末史上の最も異彩のある場面であります。即ち北海全土を
平定致しましたに付き欧館に駐在して居ります、イギリス、フランスの領事と交渉して、英備の
領事は百 一務の祀砲を務つて居る状況であります。こ \に於ては吾 々は烏合の兵であるから何と
か纏ての係りを決めようではないかといふので、その時選撃に依って決める。常時まだ選撃なん
といふ思想はない時分でありますが、選撃に依って決める。纏裁は榎本武揚、副継裁松平太郎、
陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井部之助で、土方は陸軍奉行並、即ち幕軍の陸軍大臣格に選撃さ
れて居るのであります。こ \で幕軍は非常に勝つたのであります。その勝つた勢に乗じて軍紀案
れ、遊情にふけるものがあった。その頃土方は厳然として目く、今日は是れ何の時であるか、個
令戦に勝つと難ども左様に遊情にふける時ではないと、極めて厳格であったと常時の物語りとし
て博へられて居るのであります。
斯くして、北海は平定致したのでありますが、官軍に於ても捨置く譚に参りませぬので、大撃
して明治二年北海の征討に向ったのであります。その途中に於て幕府の軍艦と官軍の艦隊が、南
部の宮古港に大激戦が起るのであります。幕艦回天艦一隻で官艦八隻と戦ひ、しかも官軍の旗艦
の甲銭艦を奪はんとしたる大激戦であります。この際土方は回天丸に乗込んで居ったのでありま
すが、途に幕軍利あらすして引揚げるのであります。別の話でありますがこの戦の官艦に薩摩藩
の軍艦春日丸が参加して居りますが、この春日丸に乗込で居りました一青年士官東郷平八郎は
後の東郷元帥であります。さて幕軍の志成らす回天丸は図館に騎って引績いて官軍との大激戦に
なるのであります。官軍は海陸を進んで幕軍と戦ふのでありますが、その中の最も激戦は四月
十三日二股日の激戦であります。土方の一隊は衝鋒隊。偉習隊を率みて官軍と戦ふのであります
が、その時の幕軍は、数としては僅々二百三十人であります。それで官軍を迎へ討って激戦する
こと十七時間、弾丸を務射すること三萬五千務、銃身が熱して水に浸して冷しっ、発射した。さ
ういふ譚で官軍は引揚げるが、 しかし夜間に又夜襲するだらうといって居ると、果して夜襲して
来たのを撃退した。足が北海の二股日に於ける激戦であります。引績いて官軍は全力を注いで各
地に激戦をいたしまして、幕軍は潮攻破れ商館の近くの五稜郭、只今でも残って居りますが、こ
こで最後の戦争を致すのであります。
二五
近藤勇と土方歳三
幕末維新の人物 二六
この際の官軍の参謀からの報告に依りますと、味方攻め立て誠に困難目下の味方人数ではとて
も叶はぬ、賊勢多数押寄せる時は味方危し、 至急援兵大勢を送ってくれといふ報告が官軍の本営
に達して居る位で、なか〜幕軍の力が強いのであります。引績いて四、五雨月に亘って各所に
戦ふのであります。しかし援兵のない幕軍は官軍のために海陸とも破られまして、途に五月十日
を以て適館の継攻撃といふことになるのでありますが、その際に土方は一隊を率みて一本木の方
面を守って居ったが、全軍苦戦でありますから土方は馬を陣頭に進めまして、全軍を激励して居
ります。『敵は大勢であっても恐る\に足らぬ、我軍はこの胸壁に擁りて飽く逸頑守せよ。その
中に援隊が来るから奮闘しょう』と競令をして、奮戦して水戸、筑前の官軍と戦って破り更に進
んで肥前の軍に追らんとする時に流丸が飛んで来て土方の胸を貫いたのであります。それで落馬
し左の腕及び腸部に重傷を負ったのでありますが、その血を拭ひながら奮戦して途に壮烈なる死
を遂げたのであります。
この死に臨んで土方は、『我は先きに近藤が死んだときに共に死ななかったのは、一度故主の寛
をそ \がんとする積りであったが、今ではもう診方がない、却て生きて居つて近藤に勤する面目を
失するより、寧ろ地下に於て近藤と見えるのが本懐である』といったので、聞くもの皆涙を流し
た。丁度その常時『蝦夷錦』といふ本がありますが、その時のことをかう書いておる、『土方公は
猛雄なり、大鳥公は常に新撰組長近藤勇の早死を敷かれたり。闘東流山を捨て\味方の大勢に加
はれと再三申付に従はざるが悲運なりといふ。土方公は一本木にて松平公の命にて下馬して進ま
んとせしに流丸に介る』それから又『説夢録』に『共初八王子同心より出て撃剣をよくし、新撰
組に入り近藤勇と共に京師に霊力し、戊辰伏見の役を経て江戸城引渡しの後、継野に奥越に苦戦
し寛に蝦夷島に渡り四方に馳脳し、千音高苦言ふべからす。終に比役に戦死す、惜しまさるべけ
んゃ』常時幕軍官軍とも土方の壮烈なる死を惜まさるものはなかったのであります。斯くして幕
軍全鶴は破れ、明治二年五月を以て戊辰戦争は終りを告げたのであります。その後に近藤・土方
に付ては共志を隣み、板橋の刑場に於て御承知の通り碑も建って居ります。又倉津に於ても、
それから故郷にも碑が建って居ります。
これ等の人々の働いたことを形に於て論じますれば、先程申上げる通り佐幕といふ形にはなっ
て居るが、その人々の本来の精紳を考へれば必しも勤王の人々に劣るもの ではないのであります。
近藤勇と土方歳三
二七
-
基本經新 の人物 二八
類來幾星艦、 今日の時世に際會致しまして、 文學に義鄉に、 それ等の人々 が施明 となって居るの
は恐らく地下に於て被吉美を禁じ得ないだらうと思よのであります。
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多摩 水源 源義 中 之 難度 法 經常 服 器材 加勢 東 欧米 海味 甘肅 宗 李
府 縣 誌上 水 可 之 百 里 以 養 部下 官商 主要 其 利用 來 大 象徵 师 為 男
子 江藤 目 立 王 カ 義景 氣旋 於 其 兩 種(陽 節 期 德 之 神)
坂本 龍 馬
蘇陸氏は曾て 「土佐人は一方に於ては、寧ろ理論に拘泥して、頻る融通の利かざる偏屈者があ
り、他方に於ては、除りに融通が利き過ぎて、殆んど無軌道に汽車を奔らするが如き者がある。
之を個人的に共の代表者として見れば、前者には板垣伯があり、後者には、後藤伯(象二郎)が
ある。」 といつたのは確かに一面の観察である。明治時代の土佐人観として、将た二大人物の批
評としては、流石に肯緊に常って居るが、更らに遡って、基氏が 「中岡龍太郎を寧んで、ある 一
部を獲る所があったのは板垣伯であり、坂本龍馬に私淑して出来損ったのが後藤伯である」 と評
したのは、また一段の妙味がある。が、しかし、これは、形から見た批評であって、事貫から見
た批評ではない。即ち板垣伯は中岡型であり、後藤伯は坂本型であるといふのが寧ろ正しい観察
的 ある。面して坂本はその 一方の型であり、後藤以上の風雲

坂本 龍馬 二九
幕末維新の人物 三○
見であり、しかも、時勢を達観する鋭き眼光と、その手腕とは、土佐の産出した偉れたる人物で
あり、近世日本の偉大なる桁外れの人物である。
一方、また土佐に於ては、主流の人物として武市牛平太がある。坂本が「武市が相鍵らす窮屈
なことばかり言ふて居るか」 といひ、武市がまた、「坂本がまた大法螺を吹きをらう」 といったの
も面白い。この雨者の人と貸りが能く現はれて居る。しかも、その武市も
肝磨何雄大 奇機自溜生
飛潜有誰識 偏不恥龍
と坂本を月旦したのは、能く坂本の人物を洞察した至言である。武市といひ坂本といひ表面から
見ればその性格は相反したるかの如くであるが、武市の理想派たるに勤し坂本の行動派たるの差
あるに止まり、いっれも土佐人としての共通したる長所を共有して居るのである。
坂本が、西郷隆盛を評して 「馬鹿も馬鹿、底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴
り、大きく叩けば大きく鳴る」 といひたるに封し、勝海舟が感嘆して止ます、人を観るの標準は
自家の識量にあり、龍馬が西郷を評するの語は、即ち、以て龍馬の人物を評すべしとなし、その
日記に 「評する人も評する人、評せらる \人も評せらる \人」 と特記した。勝の批評も流石では
あるが龍馬の比言は眞に 一唱三嘆を禁じ能はざるのである。しかして、坂本は、賞に西郷の如く
所請大馬鹿に成り切らぬことに於て、その長所もあり、また短所もある。
また或人は、坂本を評して、蘇張の群、諸葛の智、魯連の高踏、田横の義侠、一身に乗ね備へ
たるに近かった。と褒めちぎって居るが、そんな道具建てにて形容するには、除りに桁外れの龍
馬であった。故にこの形容詞的の賛鮮の凡てにもまた、どれにも常て儀るともい へるが、またそ
の何れの型にも道人らぬ時外の人物ともいへる。
若しも坂本をして明治時代まで生存せしめたならばとは、常に起る好箇の話題である。蘇率氏
は「彼は維新後に生存したりとて、固より魔堂に立つべき漢ではなかった。恐らくは彼にして在
りしならば、三菱曾赴の事業は彼に依って創始せられ、彼に依って経営せられたであらう」 とい
ったのは、中らすといへども遠からざるの言である。事賞、事業の系統としては、三菱は寧ろ、
坂本の海援隊の後身とも見て可なるのである。故に坂本としては、或は岩崎その他に事業を任
かせ、自身は満蒙の地か、南米あたりに、東印度曾赴のやうなものを経営し、或時は大に失敗し
坂本 龍馬 三一
幕末維新の人物 三二
或時は大に成功して居ることであらうと想像される。
初論、板垣、後藤に由りて蜂火を撃げられたる自由民権運動は、坂本の在世せしならば、その
指導者として、 将た質行者として、より大に、より功果的に全國を風魔したであらうことは容易
に断言出来る。質際、板垣、後藤の運動は、坂本の衣鉢を襲ぎたるものに外ならないのである。
一、小 博
坂本龍馬は天保六年十一月十日を以て、高知 本町一丁目に生れた。父は八平直足、母は幸子、
姉っのり


そ一末子
あ、




郷士で あり、父は潮江村の山本氏で、坂本家に入り幸子
の婿となったのである。
龍馬、名は直柔、(直隣、直陰) 後年國事に奔走するに常り才谷梅太郎と稲したのは、先祀が
長倉我部氏に仕へて、高知の東北、才谷に住んで居ったのに因んだのである。また別に、高坂龍
攻郎、大濱 次郎、取巻抜六などの個稲もある。
少年時代は憶病で泣虫で、十四才になりても寝小便を垂れ、人からはなたれ ㎞)と呼ばれ
て居ったとの説があるが、一説には、それは根擁なき流言だといふものもあるが、いっれにして
も、世の碑童型ではなく、特別、目立ったこともなかったらしい。嘉永六年十九歳、江戸に出て
千葉重太郎の道場に通って剣を寧んだ。安政元年、土佐の大地震あり案じて家郷に騎ったが、
二年、また江戸に出て、同五年に騎郷した。
文久元年、武市牛平太が 佐に騎り、勤王の士を叫合するや、これに加はり、密旨を含んで、
京坂、長州等に遊んだ。
文久二年、脱藩して京都に出で、九州に渡り南下したが、薩摩に入るを得ずして京都に騎り、
更らに江戸に出で、勝海舟を訪ふて壊夷論を説破せられ、これより海舟と相得て、その指導を受
くること\なった。海舟が海軍奉行として、揺海に砲豪を築き海軍所を設くるゃ、これに従ふて
大坂に至った。後海舟の幹旋に依り脱藩の罪を免され、文久三年、海舟の旨を受け、越前に松平
春嶽を訪ふて海軍所の資金を借り、海舟に従って碑戸の海軍所に至り大に海軍の興起に霊す所が
あった。元治元年、土佐藩聴が碑戸海軍修業生に騎國を命じたが、これを拒んで再び脱藩した。
比年、海舟は、幕府の嫌疑を蒙り軍艦奉行を免ぜられ江戸へ招喚せられた。こ \に於て海舟は
坂本 龍馬 三三
幕末維新の人物 三四
龍馬を薩藩に依頼し、同藩の保護に依り龍馬は、幕吏や土佐藩吏の探索より免れ、またこれより
-
薩藩士と結ぶところがあった。 -
また、紳戸の海軍所が閉鎖を命ぜらる\や、海舟の塾生は四散したが、その中に一園ありて、
龍馬と共に薩藩の周旋にて長崎に操り航海運輸業に常り龍馬を首領と仰いだ、これが後に海援隊
となり、瀬戸内海の一少海上王となった。
慶應元年、幕府が長州再征の軍を起すや、龍馬は中岡慣太郎と謀って奔走霊力、遂に薩長聯合
を形造るに至ったのはその 一大偉績である。
斯くて、龍馬は、伏見に至り寺田屋に投宿するや捕吏に襲はれたが、脱出して薩邸に匿れ、や
がて薩摩へ下った。それより長崎に於て後藤象二郎と曾し、互に相得る所あり共に京都に騎り、
これょり大政奉還の一大飛躍運動となり、土佐の藩論として、後藤象二郎をして将軍慶喜に説か
しめ、終に慶應三年十月十四日、大政奉還となった。
これょり、龍馬の大に手腕を振ふべき、また大に龍馬を必要とする時勢となりたるに、同年十
一月十五日、刺客の襲ふ所となり、中岡慣太郎と共に凶双に警れたのである。享年、三十三歳。
二、環境 と 時勢
坂本の家は、前項に述べた如く、郷士の家であり、先祀は長曾我部氏に仕へたのである。郷士
は何れの地方でも城下士よりは下位に居るのであるが、土佐は、この差別が特に甚しかった。即
ち藩主山内家は、遠州掛川より韓封せられて土佐の國主となったのであるから、長曾我部系統の
郷士では、被征服的立場であったのであり、山内氏に仕へたとはいひ條、差別待遇のあるのは己
むを得ざる結果である。或者は、土佐人と高知人と匿別して、呼ぶものすらあつた。高知人とは
即ち山内家に随従して来った家柄をいひ、その以前の土着の士は、土佐人であるのである。
面して、階級の確立維持は封建制度の根幹であり、階級はその固定化が年所を経るに従つて、
盆々差別の甚しくなるを普通とするから、土佐の郷士の城下士に勤する劣位は、その度を高めっ
つあったのである。
更らに他方、いづれの地方に於ても、異ぼ同様なるが如く、維新の政鍵は上級武士に封する下
級武士の挑戦である。下級武士は、その製難に虜するより世故に長じ、修養を積み、人材の興起
坂本 龍馬 三五
すで 徳めて
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感銘


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川 こかり




の土佐

あっ
状勢

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では
かし級での 下級


\




打破




論調



討幕




武士状



- 人三

維新
幕末


この複雑なる藩情たる土佐に於て、郷士系統より、勤王運動は起ったのであるから、共運動た
るや極めて困難なる立場にあったのである。
しかも、比困難を突破しつ、郷士の代表的人物たる武市牛平太は蹴起して、土佐勤王運動の
主流となったのである。
されど、勤王運動は幾多の競噴を経、未だ一藩の全力を集中して、従事するを得ず、一面、藩
の持論たる公武合鶴も行き詰りとなりたるに際し、この状勢を打破し、韓回運動として、大政
奉還の一大飛躍をなしたのは坂本の巨腕であった。
然れども、その表面の運動は、上級武士たる後藤象二郎の活躍であった貸め、同じく土佐 藩の
出身として相常の場面に足跡を印した顧岡孝弟すら、維新後、獅ほその坂本の 策たりしことを

知らざりし程、坂本の地位が低くかったことを知らねばならぬ。
この制時期的の大運動たる大政奉還の他面には、また薩長職合といふ大仕事を仕途げて、幕府
の最後に止めを刺したのも、坂本の手腕であった。
坂本 龍馬 *}セ
幕末維新の人物 三八
三、薩長聯合の幹旋
武市牛平太の勤王運動時代は、未だ坂本の頭角を現はすまでには至らなかったが、薩長職合を
策するに及んで、政界の大立物となったのである。
薩と長とは、雄藩として中央政界に活躍し、各、競争的封立的、立場にあったのが、元治元年
には、遂に敵味方として火蓋を切ること \なった。長藩は、この薩摩と曾津の聯合軍を目して、
薩賊曾姦と叫んで慣激した。封建勤立感情として唯さへ敵國と目して居るところへ更らに砲火に
訴へて相殺しあった以上は、不倶戴天の敵とも請ふべき間柄なる比雨藩をして手を握らしめんと
するのであるから、非常に困難なることである。これを現代意識として大裂装に述ぶることを許
さる \ならば、濁逸と備蘭西をして、握手せしめんとするの類ともいふことが出来るのである。
しかし、これには幸なことには、中岡慎太郎といふ好箇の同志があった。
中岡は同じ郷士出身の人材であり、坂本とは性格に於て相反したところもあるが、また雨人の
相提携することに於て、互に長短相補ひ合つて離るべからざるの闘係にあったのである。
中岡は尻に、薩長雨藩に着目し、
自今以後天下を起さん者は、必らす薩長雨藩なるべし、吾思ふ天下近日の内に二藩の令に従ふ
こと鏡に掛て見るが如し。面して他日國鶴を立て外夷の軽侮を絶つ も赤比二藩に本づくなる
べし
と論じた卓見家である。坂本も固より薩長雨藩をして互に争はしむるよりは、その力を一にして
幕府に勤せしむるを上策と考へたのである。見れば、長州は必死の覚悟にて幕府の大軍を四方に
受けて居るのときである。少しの外援をも欲するの状態である。一方薩藩は曾ては、長藩と戦っ
たとはいへ、今回の長州再征には反封して居り乗り気になって居らぬ。幕府の貸めに、犬馬の勢
を欲しない。この機微を捉へたのが、坂本、中岡である。それには都合の宜いことには、坂本は
薩藩士と懇意の者多く、中岡は長藩士に知己がある、局外者として調停の地位に立つには、好箇
の立場にある。
そこで具鶴的の問題として、薩摩の名に於て長州の貸めに武器の購入の周旋をなし、薩摩は
洛の際の兵糧を馬闘漫にて購入の意思あることに乗じて霊力もした。されど本題たる薩長職合は
坂本 龍馬 三九
基米羅新 の人物 四O
なか(羅事であった。 長州は親愛に立つ て 宮るとはい へ、 自ら親善を吐い て他の救援特に信
ては敵 としたる魔の助を求れる と とは 面目上到底城 へ 得さる ところであり、 藤原は、 また目
ら進ん で 長州を授けさる べからざる必要 と理由とを有しない。 それに、 長の代表者たる超小 五
實驗) といい、 魔の代表着たる西魏 氏、 これまた、たか(の人物である。 歷任しか
く聞事に進行しない。 幾度か被れん としては、 湖くにし て と に藤長聯合成す で、 見面は 難し
た。 正に張本、 中島の補助であり、 特に張本の勢力に よ ころが大であった。
斯くて、 慶長聯合に出る執業運動の進展するや、 坂本は、 また 一方に大政奉還の運動にも成功
した。 武力に因る記兼太 、 平和運動たる大政奉還 さを開季に操る直観は、 坂本の非凡なる政治的
手腕たると同時に、 また史上の疑問 とせられて居る。
離心 に、 坂本 としては、 首尾能く建長期満を握手やしめたる以上は、 これにて幕府を倒し得%
し と信じたの ではあるが、 その成功の職は土佐藩の立場は知何と考 《 心を得ない。 土佐の藩藩
は到底 一 致し て議長の封禁軍と歩調を 一 にする造には編》得ない。 さすれば接続は藤長に録し て
土佐は落在者となる。所調、 大帝所って降の館 となるのである。 こ で土佐藤本位の興時の立場
を考 《 て、 大政奉還の新運動を起し、 藤長の剣先を調べ て中央の舞臺に臨す出したのである。
と は、また髪 に も出来る。 海 の 武力 帆,就有の大政奉
還の決行も容易なるべく、 若し然らすし て大政奉還の建自を採用せざる ときは、 常 % 討論の軍を
起すべく、 とれには土佐の漢語を刺球し てとれに 歌し、 以 て封禁軍の中堅たるを得 し との方
策であったらう、ともい ひ得る のである。
東に角、 藤原子、 からさる行動派たる攻本の運動は、 德大なる政界の議である。
四、 大政奉還の運動
體長にも人物多しと離、 武力に因る政權 等变以外に方法%るを知らさすし龐 《、 突如 し て、
土佐藩の平和的解決に依る大政奉還運動の超 ったのには間從ったのである。 特に、 その大政奉還
は軍總たる無條件の 政權學還にあらすし て、 上下兩院を修件とする といふ新奇なる政策であるか
ら、 とれには限を みはったのである。
土佐藩は、 武力對論に向っては、 李安をし て政權を奉還能しかれば、 これを討伐するに及ぶ
版 小 雅 四
幕末維新の人物 四二
まいとて、その鼻先を押へ、佐幕論者に向っては、政権を奉還しても徳川中心の内閣を作り、こ
れに上下雨院を設くれば、徳川氏の従来の勢望博統に由りて、徳川氏に有力なる多数決となるや
必せり、これ名を棄て、質を探るの妙策なりとて、その歓心を得、一般赴曾に封しては、戦争の
惨顧を避けて平和に政権を授受するのである。と撃言したのは、最も鮮かなる手腕であった。
抑も、幕府をして大政を奉還せしむべしとの論者は、他に必らずしも絶無ではなく、また誰人
も考へ得ることであるが、これを上下雨院論に結付けたのは、確かに坂本の創見である。
また上下雨院論も、幾分移入せられたりとはいへ、一部有識者の書斎論に過ぎなかったのである
が、 れを街頭に進出せしめ質陰政治論として活躍せしめたのも坂本の手腕である。(㎞
㎞参照)
然らば、坂本の比思想は、いづれより得たりやといへば、種々の方面よりこの鋭敏なる頭脳に
眼じたのであるが、その直接の原因として数へらる\のは、常時長崎に居つた土佐の賢であった
今非純正(清、成)即ち後に坂本の秘書となった長岡謙吉が、上下雨院論を坂本に吹き込んだの
だと博へられて居る。
/
その長岡 とと進機會制度を理解し て活ったかは明らか ではないが、 韓的の受賞0 でどうや
不完全なものであったら うが、 これが攻本の頭に入るや、 急同職大飛躍を残し て、 常 « たる大賞
言 となったのである。
慶應三年、 坂本は長崎にて後藤家二郎に説くととろあり、 相 作公 て藩の船中に於 て、 後藤に
示したの が有名なる宗中八第である。
第一 義 夫下有益の人材を招致し龐間に備
第二酸 有村 の諸侯を選用し朝廷の官爵を開い現今有名無實の官を除く
第三義 夫國 の交際を議定す
第四歲 律令を避み新に無後 の大典を定它建全部に定れば語德伯者比を奉じ て部下を奉% -
第五輪 上下議政所
第六義 灣 降 軍馬
第七義 線 兵
八義 是 國合日 の金銀物價を外國上 平均す
収 本 器 ? 四三
意の










は 見


金しくき均銀 べき

宜一

平物

べ外國



事 置む衛き 宜しく




守一


し市

事 海軍

一 古令













折 来 べき
外つ






宜しく









事 國



約 天しくく間材下 事






宜顧人一





除に





有名
従来
べ 上き議下 事

置一




公議










べで


に 天き還廷権下

政一
朝の
奉を
べに


より
朝廷
宜しく
政令
しめ
なさ なし

る 上門然の議下り 、
天廷

公始




云々
公布
と共に
も萬民


断に
権は
征討




貴族 議以てら々っ侯定







諸右
待し




云の
自て
を口

となり
盟主


人四物

維新
幕末

べき



べき

選定


*
以上八葉は方个天下の形勢を察し之を学内高國に徴するにNを捨て他に導師の急務めるなし
府も比數使を新行をは皇道を撤回し國勢を撤離し高國太平文 ,るも流感て難し なさ すめて
頭(は公明正大の道理に基き 大英新を以て天下を更始 新址ん
U の建白素 と なった。
右の案は、 更に修正やられ て藩士開的 なり
、 方个皇國 の夜、 國體を約定し高國に臨 て不論、 是れ第 一 職 と す共要、 王政復古学内の形勢
を 参的し天下後世に至 て精英の遺構なき の大修理を以って残せん。 國に 二王なし家に二主な
し政權 者に触す是 在英大修理なり。 我皇家總* %高西木場、 総るに古郡縣の制裁ド て今
許証の証となり大震に義に触し上帝あるを知ら ぎふぞ胤
船がなだが 、 御制度 新政齒類に触し龐大坪、 後藤は以て商
に臨で不論是た以 て初 て武皇國 の製鐵特立する者 と云、し。 若一の事件を執>業*曲直
を前輪し朝鮮語使得に相貌建し被秦に載せ小修理に止0、 郭 て皇國の大基本を失す党に本武
たら びや。 湖後黎公公平所見高國に存すべ し此大修理を以て比の大基本を建つ、 今日常 *語
收 本 羯 羯 , 因西
幕末維新の人物 一四
時でも政争の遍迫した場合に於て出て来る説でありますが、面も途に又久しきを 待たすして左
右に分裂するのであります。これが分裂して擁夷、討幕と佐幕開國と封立するに至ったのであり
ます。これまでは公武合 、即ち撃園一致して外 に常るべしとい 思想でありまェがこ
の意見を述べて居ります
かういふやうなことで以て各藩の重職と堂々と議論を上下して居る、近藤の遺墨は外にもいろ
いろあります。越前藩、薩藩その他の人々が寄って議論する際に近藤が吐きました議論の書付け
が澤山あるのであります。さういふ譚で軍なる暴力園若くは非常警察の意味でなくして、高遠な
る理想を以って新徴組へ入ったのであります。がこれが常時色々の事情から上洛して京都へ参っ
て居ったのでありますが、京都に於きましては盛にテロが行はれまして、所請天誌が行はれて居
る時代でありますからこの新撰組にも非常警察の役目を行はせようとしたのであります。併し新
撰組としては頻る不満であったので、このことにつきましては近藤としてはかういふ書面がある、
『私共は昨年以来霊忠報國有志と御募り相成即御召しに應じて 上京仕りこれまで滞京龍在昨年八
月中市中見廻りを仰付けられ常四月中相改見廻被仰付有りがたく相勤龍在候』 私共へ見廻りの役
は決して不服ではありませぬが、役目ではない、もう少し高遠な思想で以て参りました。といふ
趣旨の上書が元治元年五月三日附で出て居るのであります。
かういふやうなことから幕府は別に又京都市中見廻組といふものを作ったのであります。この
市中見廻組の手で坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺を計ったのでありますけれども、常時からすつと
明治の初めに至るまで坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺は新撰組の手であるかの如く誤解されて居る
のであります。それから時勢は急鍵して元治元年の始御門の戦は長州藩が御所に向って発砲す
る。曾津藩薩摩藩が之を防ぐといふ戦が始ったのであります。この頃新撰組としては充分腕を振
ふ除地は無かったのでありますけれども、時の幕府の老中から
『醸々御委任の新撰組にも速かに出張多人数打取候段、巨細御聴に達候虜常々申付方宜しく一同
忠勤を励み候段、比類なき働き碑妙に思召候、比段申聞くべき旨上意に候』
かういふ書附が曾津肥後守即ち新撰組を所轄して居る主人へ出て居ります。
斯くして時局は一轄して長州征伐に鍵轄するのでありますが、次いで長州派の無條件降服に依
って治ったが間もなく第二回目の長州征伐が行はれ天下の大問題になるのでありますが、この際
近藤勇と土方歳三 一五
幕末維新の人物 一六
に近藤勇は非常に活躍して居ります。このことは 『連城紀聞』 の記事に、
『廣島より去る十七日夜の早打にて通行の近藤勇、比の人は新撰組の頭にて交武衆備之 人長井主
水正の家来分にて常所へ下り先達中より手績有者と申し長州へ忍入居之由』
とあります。かういふ事填に依っても近藤の活動が如何に目覚しかったかといふことが断片的な
がら判るのであります。かやうに近藤の赴曾的地位は堂々たるものとなって居ります。「ご \に近
藤の 一大楽器としては、常時宮廷第一の豪傑であらせられまして孝明天皇の御信任最も厚き久適
宮朝彦親王の御目がねにかなって居るのであります。これは朝彦親王の、慶應三年三月十日の御
日記の中に近藤勇云々といふことがありまして、更に九月十三日の所に、かういふ記事があるの
であります。
『秋月傍次郎招きに依つて参る』
これは曾津の家来でありますが、
『幕府大小目付の内原市之進のかはり致すべき人鶴も無之』
これは、常時慶喜公の最高秘書官とも申すべき地位に居て手腕を振って居りました原市之進が暗殺
せられまして、之に代るべき人材がないとの仰せです。そして攻に
『予が勘考には新撰組の近藤勇然るべきや』
かやうに仰せられてあります。
『又同人予方へ借用の儀、肥後守へ内談暫時幕へ雇候共上予新家故家格も立衆候故、幕へ衆て頼
置候漫を以て、幕より予へ借候方可然、極秘心添候也』
近藤を自分の所へ傭ふことについて、借りることに付て、この継てを肥後守に内談された。初めは
幕府に傭って朝彦親王の御方へ借りるやうにしたとさういふことが朝彦親王の御日記の中に書い
てあります。近藤としては賞に一代の名誉であります。併しこのことは近藤の耳へ入ったか、どう
かこれははっきり分って居りませぬが、曾津の方の記録を見ますと、先程申しました原市之進が
暗殺せられたことについて、登城往来の際は、危険であるから新撰組に警衛の儀申付けること、
なり近藤勇を召し寄せ申し聞けたとありますから、是等は朝彦親王の御話に闘係があるのであら
うと思ふのであります&この頃が近藤勇の一番得意な時代で所請剣劇、大衆作家の材料となるの
で京都に於ける彼の六年間は最も得意な時代であります。詳しいことは申上げるまでもないから
近藤勇と土方歳三 - 一七
幕末維新の人物 一 八
シ、シになる。
ます
併ながら幕府の方は段々否運となりまして、途に政権奉還となり、こ\に於てこの最も大きな
後瀬が無くなったので、是から新撰組の立場も至って惨めなものであります。鳥羽、伏見の戦に
は近藤は常時負傷して居って出て居りませぬ。土方歳三が新撰組の一隊を率みて奮戦して居るの
でありますが、大部隊の戦争で、近世式の銃砲戦でありますから一騎打の得意である新撰組には
大なる働きを貸す譚に参らす徒らに死傷者を増すのみであった。又この頃大政奉還の際でありま
すが、大政奉還の建自書の大立者たる土佐藩の後藤象二郎と近藤勇が曾ふて居る記事などござい
ますが、是も有名な話で、後藤象二郎が近藤勇と曾った最初に 『抽者は貴殿の腰に差して居るも
のが大嫌である」といって居る。そこで近藤も笑って刀を脱して後藤といろいろ相談して居る。
常時の雨雄勤談の場面がそゞろに偲ばれるのであります。このことばかりでなく、又薩藩の代表
的人物であり維新の原動力であった大久保市蔵後の大久保利通等と、時の陸戦質愛の所へ行って
大政奉還のことについて色々話をした事賞があるのであります。
かういふゃうに幕府の最後の場面に於ても活躍して居るのであります。もう大勢は幕府に利あ
らすして鳥羽、伏見の戦争に敗れ江戸に引揚げた近藤が、その前に新撰組から分離した一派の貸
めに狙撃せられた時の傷が治りませぬから江戸に参ってからも療治をして居った。将軍の御典賢
であります松本良順後の軍賢継監松本順、この人の所に於て傷の療治をして居る。この際に又人
権史上特に注意すべきことは、所請機多非人の稲競廃止、特殊部落の稲競魔止に付いて近藤と松
本が骨を折って居る事填があります。この事は殆ど世の中には知れて居りませぬが、言はれなき
差別待遇として、機多非人なる名稲の下に長き博統に於て差別的待遇を蒙って居ったのが、明治
新政府が人権平等の理想に基き、機多非人も継ての日本國民は等しく天皇の赤子である。といふ
意味に於て、機多非人の稲競を魔せられましたのが明治四年でありますが是より先き慶應四年、
即ち明治元年奮幕府が江戸に於て 機多の稲競魔止といふ人権史上の 一大革新を行って居るので
あります。
継て幕府方若くは佐幕方の幾多の新しき施設は政治上の敗者となった貸めに酒滅せられて居る
のでありますが、是等の事填は特に注意すべき事柄であるのであります。これはいろ〜政治上
-
近藤勇と土方歳三 一九



二○
の理由もあり種々の問題もあるのでありますが、少くも機多の身分を平民に復せしめなくてはい
かぬ。といふことを松本良順と近藤が相談致し、常時の将軍の御典賢、今の言葉では侍賢ともい
ふべき最高の地位に居つた松本良順が、人間以下として扱はれて居った機多頭園左衛門の父親が
病気になるや、松本が療治をしておる。それからいろ〜話があって奮幕府の幹部で決行したの
が慶應四年の年で、機多頭六十人の身分が平民に復し追つてはそれ以下のものも全部平民に復す
るといふことを断行したのであります。この問題は間もなく江戸城明渡となってその貫行は出来
なかったが、少くも人権自由の 一大鋒火は最初幕府に於て手を附けたことは初論であります。面
してこの問題の主唱者は近藤であるといふことを看過することは出来ないと云ふことを申上げた
いのであります。
かやうにして近藤勇はいろ〜割策致したのでありますけれども、人間も落目になってはする
こと貸すこと番く後手となり、我が幕府のために最後の一戦をとむらうべく新たに新撰組を率み
て板垣退助の率ゆる官軍と甲州勝沼に戦って一敗地に塗れ、下纏流山に駐屯し遂に捕へられて板
橋の刑場に於て斬られたのであります。その末路については御承知のことでありますから、今更
申すまでもないことであります。この時に近藤を捕へたことにつきましては香川敬三の手柄にな
つて居りますが、一説では薩藩の有馬藤太であるといふことになって居ります。何れにしても少
くも近藤とも請はれる者が、官軍の陣営に進んで出掛けて捕へられてしまったのであります。
この際に同志の土方歳三は行つてはいかぬ、官軍の陣営ではどんな手にか\るかも知れぬから注
意したまへといったに拘らず、近藤は軍身出かけて途に捕へられて首を斬られた」土方はこれを
慣概して更に残りの新撰組を率みて活躍する舞豪になるのであります。土方歳三は同じく多摩郡
の近藤勇の近村でありますが、共に近藤邦武に就いて剣術を學び、剣術は土方の方が出来た。近
藤は剣術といふよりは寧ろ度胸に於て優って居った。剣術に於ては一段土方の方が立まさって居
った。それから近藤は常に表面に立ち、土方は女房役として新撰組を統率して居ったのでありま
す。池田屋の観人その他については土方の働きは質に目覚しいものでありますが、更に角近藤は
表に立って居る。土方はそれ程表面に現れて居りませぬ。忠質なる女房役であったのであります。
併し近藤が斬られまして後、自ら更に残った新撰組を率みて途には北海道に於て活躍し、これか
ら土方の濁自の舞豪は始まるのであります。
近藤勇と土方歳三 二一
幕末維新の人物 二四
は番く破れた。幕府の陸海軍で北海全土を平定して、こ \に一個の交戦園鶴を形造って官軍に勤
抗せんとするのであります。これは幕末史上の最も異彩のある場面であります。即ち北海全土を
平定致しましたに付き腐館に駐在して居ります、イギリス、フランスの領事と交渉して、英備の
領事は百一務の祀砲を務つて居る状況であります。こ \に於ては吾々は烏合の兵であるから何と
か纏ての係りを決めようではないかといふので、その時選撃に依って決める。常時まだ選撃なん
といふ思想はない時分でありますが、選撃に依って決める。纏裁は榎本武揚、副纏裁松平太郎、
陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井部之助で、土方は陸軍奉行並、即ち幕軍の陸軍大臣格に選撃さ
れて居るのであります。こ \で幕軍は非常に勝ったのであります。その勝った勢に乗じて軍紀斎
れ、遊情にふけるものがあった。その頃土方は厳然として目く、今日は是れ何の時であるか、個
令戦に勝つと難ども左様に遊情にふける時ではないと、極めて厳格であったと常時の物語りとし
て博へられて居るのであります。
斯くして、北海は平定致したのでありますが、官軍に於ても捨置く譚に参りませぬので、大撃
して明治二年北海の征討に向ったのであります。その途中に於て幕府の軍艦と官軍の艦隊が、南
部の宮古港に大激戦が起るのであります。幕艦回天艦二隻で官艦八隻と戦ひ、しか*官軍の旗艦
の甲録艦を奪はんとしたる大激戦であります。この際土方は回天丸に乗込んで居ったのでありま
すが、途に幕軍利あらすして引揚げるのであります。別の話でありますがこの戦の官艦に薩摩藩
の軍艦春日丸が参加して居りますが、この春日丸に乗込で居りました一青年士官東郷平八郎は
後の東郷元帥であります。 さて幕軍の志成らす回天丸は画館に騎って引績いて官軍と の大激戦に
なるのであります。官軍は海陸を進んで幕軍と戦ふのでありますが、その中の最*激戦は四月
十三日二股日の激戦であります。土方の一隊は衝鋒隊。 博習隊を率おて官軍と戦ふのであります
が、その時の幕軍は、数としては僅々二百三十人であります。それで官軍を迎へ討って激戦する
こと十七時間、弾丸を務射すること三萬五千務、銃身が熱して水に浸して冷しっA発射した。
ういふ講で官軍は引揚げるが、しかし夜間に又夜襲するだらうといって居ると、果して夜襲して
来たのを撃退した。是が北海の二股日に於ける激戦であります。引績いて官軍は全力を注いで各
地に激戦をいたしまして、幕軍は潮攻破れ商館の近くの五稜郭、只今でも残って居りますが、こ
こで最後の戦争を致すのであります。
二五
近藤勇と土方歳三
幕末維新の人物 二六
この際の官軍の参謀からの報告に依りますと、味方攻め立て誠に困難目下の味方人数ではとて
*叶はぬ、賊勢多数押寄せる時は味方危し、 至急援兵大勢を送ってくれといふ報告が官軍の本営
に達して居る位で、なか〜幕軍の力が強いのであります。引績いて四、五雨月に亘って各所に
戦ふのであります。しかし援兵のない幕軍は官軍のために海陸とも破られまして、途に五月十日
を以てM館の継攻撃といふことになるのでありますが、その際に土方は一隊を率おて一本木の方
面を守って居ったが、全軍苦戦でありますから土方は馬を陣頭に進めまして、全軍を激励して居
ります。『敵は大勢であっても恐る\に足らぬ、我軍はこの胸壁に擁りて飽く逸頑守せよ。その
中に援隊が来るから奮闘しょう』と競令をして、奮戦して水戸、筑前の官軍と戦って破り更に進
んで肥前の軍に追らんとする時に流丸が飛んで来て土方の胸を貫いたのであります。それで落馬
し左の腕及び腸部に重傷を負ったのでありますが、その血を拭ひながら奮戦して途に壮烈なる死
を遂げたのであります。
この死に臨んで土方は、『我は先きに近藤が死んだときに共に死ななかったのは、一度故主の寛
をそ \がんとする積りであったが、今ではもう診方がない、却て生きて居つて近藤に封する面目を
失するより、寧ろ地下に於て近藤と見えるのが本懐である』 といつたので、聞くもの皆涙を流し
た。丁度その常時『蝦夷錦』 といふ本がありますが、その時のことをかう書いておる、『土方公は
猛雄なり、大鳥公は常に新撰組長近藤勇の早死を敷かれたり。闘東流山を捨て 、味方の大勢に加
はれと再三申付に従はざるが悲運なりといふ。土方公は一本木にて松平公の命にて下馬して進ま
んとせしに流丸に仕る』 それから又 『説夢録』 に 『共初八王子同心より出て撃剣をよくし、新撰
組に入り近藤勇と共に京師に霊力し、戊辰伏見の役を経て江戸城引渡しの後、継野に奥越に苦戦
し意に蝦夷島に渡り四方に馳闘し、千辛萬苦言ふべからす。終に比役に戦死す、惜しまざるべけ
んゃ』 常時幕軍官軍とも土方の壮烈なる死を惜まざるものはなかったのであります。斯くして幕
軍全鶴は破れ、明治二年五月を以て成辰戦争は終りを告げたのであります。その後に近藤・土方
に付ては共志を隣み、板橋の刑場に於て御承知の通り 碑も建って居ります。又曾津に於ても、
それから故郷にも碑が建つて居ります。
これ等の人々の働いたことを形に於て論じますれば、先程申上げる通り佐幕といふ形にはなっ
て居るが、その人々の本来の精紳を考へれば必しも勤王の人々に劣るものではないのであります。
近藤勇と土方歳三 二七
-
基來維新 の人物 二八
源來幾星嶺、 今日の時世に際會致しまして、 文學に熱病に、 それ等の人々 が観光となって居るの
は恐らく地下に於 て撤者集を禁じ得ないだらうと思よのであります。
多摩 太陽 神武 中 之 難度 流 經常 服 器材 加勢 神殿 水 池塘 市 番 本書
安康 路上 水 可 N 桜 部下 官 高生 變 其 利用 來 大 象徵 师傅 里
子 江蘇 員 各 王 カ 義 發覺 是 於 其 兩 種(陽 節 爾 繼 之 神)







リ 、や

* 於ては、寧ろ理論に拘泥して、頻る融通の利かざる偏屈者があ



*\
共 て


** カ 利き過ぎて、殆んど無軌道に汽車を奔らするが如き者がある。


帥 段 た に ? 代




見れば、前者には板垣伯があり、後者には、後藤伯 象三郎)が


一つ





ある

面の観察である。明治時代の土佐人観として、将た二大人物の批

十青




A
*

流D


として

居るが、更らに遡って、基氏が
遡 「中岡慣太郎を寧んで、ある一
7

地坂





ま 所獲る


、坂本龍馬に私淑して出来損ったのが後藤伯である」 と評

ベト




W。






した
かし、これは、形から見た批評であって、事質から見

で 、型
あ で


土 地区

型 岡
佐 伯



批評

ある では


り、後藤伯は坂本型であるといふのが寧ろ正しい 観察

I]

区雨



ーへ


*
端H






後藤
面して坂本はその一方の型であり、後藤以上の風雲
{}


L


二ナ
幕末維新の人物 三○
見であり、しかも、時勢を達観する鋭き眼光と、その手腕とは、土佐の産出した偉れたる人物で
あり、近世日本の偉大なる桁外れの人物である。
一方、また土佐に於ては、主流の人物として武市牛平太がある。坂本が 「武市が相鍵らす窮屈
なことばかり言ふて居るか」 といひ、武市がまた、「坂本がまた大法螺を吹きをらう」 といったの
も面白い。この雨者の人と貸りが能く現はれて居る。しかも、その武市も
肝磨何雄大 交司機自漏生
飛潜有誰識 偏不離龍
と坂本を月旦したのは、能く坂本の人物を洞察した至言である。武市といひ坂本といひ表面から
見ればその性格は相反したるかの如くであるが、武市の理想派たるに勤し坂本の行動派たるの差
あるに止まり、いづれも土佐人としての共通したる長所を具有して居るのである。
坂本が、西郷隆盛を評して 「馬鹿も馬鹿、底の知れぬ大馬鹿である。小さく叩けば小さく鳴
り、大きく叩けば大きく鳴る」 といひたるに勤し、勝海舟が感嘆して止ます、人を観るの標準は
自家の識避にあり、龍馬が西郷を評するの語は、即ち、以て龍馬の人物を評すべしとなし、その
日記に 「評する人も評する人、評せらる \人も評せらる \人」 と特記した。勝の批評も流石では
あるが龍馬の比言は眞に 一唱三嘆を禁じ能はざるのである。しかして、坂本は、賞に西郷の如く
所請大馬鹿に成り切らぬことに於て、その長所もあり、また短所もある。
また或人は、坂本を評して、蘇張の群、諸葛の智、魯連の高踏、田横の義侠、一身に乗ね備へ
たるに近かった。と褒めちぎって居るが、そんな道具建てにて形容するには、除りに桁外れの龍
馬であった。故にこの形容詞的の賛鮮の凡てにもまた、どれにも常て僚るともい へるが、またそ
の何れの型にも這入らぬ将外の人物ともい へる。
若しも坂本をして明治時代まで生存せしめたならばとは、常に起る好箇の話題である。蘇率氏
は「彼は維新後に生存したりとて、固より願堂に立っべき漢ではなかった。恐らくは彼にして在
りしならば、三菱曾赴の事業は彼に依って創始せられ、彼に依って経営せられたであらう」 とい
ったのは、中らすといへども遠からざるの言である。事質、事業の系統としては、三菱は寧ろ、
坂本の海援隊の後身とも見て可なるのである。故に坂本としては、或は岩崎その他に事業を任
かせ、自身は満蒙の地か、南米あたりに、東印度曾赴のやうなものを経営し、或時は大に失敗し
坂本 龍馬 三一
幕末維新の人物 三二
或時は大に成功して居ることであらうと想像される。
初論、板垣、後藤に由りて蜂火を撃げられたる自由民権運動は、坂本の在世せしならば、その
指導者として、将た貫行者として、より大に、より功果的に全國を風魔したであらうことは容易
に断言出来る。賞際、板垣、後藤の運動は、坂本の衣鉢を襲ぎたるものに外ならないのである。
一、小 停
坂本龍馬は天保六年十一月十日を以て、高知本町一丁目に生れた。父は八平直足、母は幸子、
一兄三姉あり、その末子であった。家は郷士であり、父は潮江村の山本氏で、坂本家に入り幸子
の婿となったのである。
龍馬、名は直柔、(直隣、直陰) 後年國事に奔走するに常り才谷梅太郎と稲したのは、先祀が
長曾我部氏に仕へて、高知の東北、才谷に住んで居ったのに因んだのである。また別に、高坂龍
攻郎、大濱 次郎、取巻抜六などの個稲もある。
少年時代は憶病で泣虫で、十四才になりても寝小便を垂れ、人からはなたれ ㎞)と呼ばれ
て居ったとの説があるが、一説には、それは根擁なき流言だといふものもあるが、いっれにして
も、世の碑童型ではなく、特別、目立ったこともなかったらしい。嘉永六年十九歳、江戸に出て
千葉重太郎の道場に通って剣を寧んだ。安政元年、土佐の大地震あり案じて家郷に騎ったが、
二年、また江戸に出て、同五年に騎郷した。
文久元年、武市牛平太が土佐に騎り、動主の土を叫合するゃ、これに加は 、シんで、
京坂、長州等に遊んだ。
文久二年、脱藩して京都に出で、九州に渡り南下したが、薩摩に入るを得ずして京都に騎り、
更らに江戸に出で、勝海舟を訪ふて壊夷論を説破せられ、これより海舟と相得て、その指導を受
くること\なった。海舟が海軍奉行として、播海に砲豪を築き海軍所を設くるゃ、これに従ふて
大坂に至った。後海舟の幹旋に依り脱藩の罪を免され、文久三年、海舟の旨を受け、越前にシ
春嶽を訪ふて海軍所の資金を借り、海舟に従って碑戸の海軍所に至り大に海軍の興起に霊す所が
あった。元治元年、土佐藩鷹が碑戸海軍修業生に騎國を命じたが、これを拒んで再び脱藩した。
比年、海舟は、幕府の嫌疑を蒙り軍艦奉行を免ぜられ江戸へ招喚せられた。こ\に於て海舟は
坂本 龍馬 三三
幕末維新の人物 三四
龍馬を薩藩に依頼し、同藩の保護に依り龍馬は、幕吏や土佐藩吏の探索より免れ、またこれより
薩藩士と結ぶところがあった。
また、紳戸の海軍所が閉鎖を命ぜらる\や、海舟の塾生は四散したが、その中に一園ありて、
龍馬と共に薩藩の周旋にて長崎に擁り航海運輸業に常り龍馬を首領と仰いだ、これが後に海援隊
となり、瀬戸内海の 一少海上王となった。
慶應元年、幕府が長州再征の軍を起すや、龍馬は中岡慎太郎と謀って奔走霊力、遂に薩長聯合
を形造るに至ったのはその 一大偉績である。
斯くて、龍馬は、伏見に至り寺田屋に投宿するや捕吏に襲はれたが、脱出して薩邸に匿れ、や
がて薩摩へ下った。それより長崎に於て後藤象二郎と曾し、互に相得る所あり共に京都に騎り、
これより大政奉還の一大飛躍運動となり、土佐の藩論として、後藤象二郎をして将軍慶喜に説か
しめ、終に慶應三年十月十四日、大政奉還となった。
これょり、龍馬の大に手腕を振ふべき、また大に龍馬を必要とする時勢となりたるに、同年十
一月十五日、刺客の襲ふ所となり、中岡慎太郎と共に凶双に驚れたのである。享年、三十三歳。
二、環境 と 時勢
坂本の家は、前項に述べた如く、郷士の家であり、先祀は長曾我部氏に仕へたのである。郷士
は何れの地方でも城下士よりは下位に居るのであるが、土佐は、この差別が特に甚しかった。即
ち藩主山内家は、遠州掛川より韓封せられて土佐の國主となったのであるから、長曾我部系統の
郷士では、被征服的立場であったのであり、山内氏に仕へたとはいひ條、差別待遇のあるのは己
むを得ざる結果である。或者は、土佐人と高知人と匿別して、呼ぶものすらあった。高知人とは
即ち山内家に随従して来った家柄をいひ、その以前の土着の士は、土佐人であるのである。
面して、階級の確立維持は封建制度の根幹であり、階級はその固定化が年所を経るに従って、
盆々差別の甚しくなるを普通とするから、土佐の郷士の城下士に勤する劣位は、その度を高めっ
つあったのである。
更らに他方、いづれの地方に於ても、異ぼ同様なるが如く、維新の政鍵は上級武士に封する下
級武士の挑戦である。下級武士は、その製難に虜するより世故に長じ、修養を積み、人材の興起
坂本 龍馬 三五
幕末維新の人物 -

三六
せるに反し、上級武士は逸楽に慣れ、凡骨無能の士を以て満たさる \に至って、或種の階級争闘
は起らさるを得ないのである。
こ \に於て、下級武士は現状打破を叫ぶの除、その論調は、勤王討幕論に走り、上級武士は現
状維持論の根抵から、佐幕論となり公武合鶴論となるのが、各藩を通じての大鶴の状勢であった
のである。
土佐に於ても、この状勢ではあったのであるが、しかし、上級武士は、しかし凡骨ばかりでは
なかったのである。第一に藩主容堂は、大名中に聞えたる人物である、裸で世間へ出しても立派
に通用する政治家である。それに、その左右の人物は、またそれん〜の人材が居ったのである。
更らに山内家としては、徳川氏に封して特殊の闘係がある。薩長二藩は闘ケ原役に於て徳川氏
に封し深刻なる怨恨を含めるに反し、山内家は、その戦争の論功行賞として、掛川六萬石より、
一躍二十四萬石の土佐それも石高の外に山海の利極めて多き土佐に楽韓せしめられたのである
から、徳川氏の恩顧には深く感銘して居る。これ、藩主容堂が、極めて勤王心の篤きにも拘はら
*佐幕論であり、公武合鶴論者であった所以である。
この複雑なる藩情たる土佐に於て、郷士系統より、勤王運動は起ったのであるから、共運動た
るや極めて困難なる立場にあったのである。
しかも、比困難を突破しつ、郷士の代表的人物たる武市牛平太は蹴起して、土佐勤王運動の
主流となったのである。
されど、勤王運動は幾多の難噴を経、未だ一藩の全力を集中して、従事するを得ず、一面、
の持論たる公武合鶴も行き 詰りとなりたるに際し、この状勢を打破し、韓回運動として、大政
奉還の一大飛躍をなしたのは坂本の巨腕であった。
然れども、その表面の運動は、上級武士たる後藤象二郎の活躍であった貸め、同じく土佐藩の
出身として相常の場面に足跡を印した顧岡孝弟すら、維新後、獅ほその坂本の 策たりしことを

知らざりし程、坂本の地位が低くかったことを知らねばならぬ。
この割時期的の大運動たる大政奉還の他面には、また薩長職合といふ大仕事を仕途げて、幕府
し たのも、坂本の手腕であった。
/
坂本 龍馬 基)屯
幕末維新の人物 三八
三、薩長聯合の幹旋
武市牛平太の勤王運動時代は、未だ坂本の頭角を現はすまでには至らなかったが、薩長職合を
策するに及んで、政界の大立物となったのである。
薩と長とは、雄藩として中央政界に活躍し、各、競争的封立的、立場にあったのが、元治元年
には、途に敵味方として火蓋を切ること \なった。長藩は、この薩摩と曾津の聯合軍を目して、
薩賊曾姦と叫んで慣激した。封建勤立感情として唯さへ敵國と目して居るところへ更らに砲火に
訴へて相殺しあった以上は、不倶戴天の敵とも請ふべき間柄なる比雨藩をして手を握らしめんと
するのであるから、非常に困難なることである。これを現代意識として大裂装に述ぶることを許
さる、ならば、濁逸と備蘭西をして、握手せしめんとするの類ともいふことが出来るのである。
しかし、これには幸なことには、中岡慎太郎といふ好箇の同志があった。
中岡は同じ郷士出身の人材であり、坂本とは性格に於て相反したところもあるが、また雨人の
相提携することに於て、互に長短相補ひ合って離るべからざるの闘係にあったのである。
中岡は尻に、薩長雨藩に着目し、
自今以後天下を起さん者は、必らす薩長雨藩なるべし、吾思ふ天下近日の内に二藩の令に従ふ
こと鏡に掛て見るが如し。面して他日國鶴を立て外夷の軽侮を絶つ も赤比二藩に本づくなる
べし
と論じた卓見家である。坂本も固より薩長雨藩をして互に争はしむるよりは、その力を一にして
幕府に勤せしむるを上策と考へたのである。見れば、長州は必死の覚悟にて幕府の大軍を四方に
受けて居るのときである。少しの外援をも欲するの状態である。一方薩藩は曾ては、長藩と戦っ
たとはいへ、今回の長州再征には反封して居り乗り気になって居らぬ。幕府の貸めに、犬馬の勢
を欲しない。この機微を捉へたのが、坂本、中岡である。それには都合の宜いことには、坂本は
薩藩士と懇意の者多く、中岡は長藩士に知己がある、局外者として調停の地位に立つには、好箇
の立場にある。
そこで具鶴的の問題として、薩摩の名に於て長州の貸めに武器の購入の周旋をなし、薩摩は上
洛の際の兵糧を馬闘漫にて購入の意思あることに乗じて霊力もした。されど本題たる薩長職合は
坂本 龍馬 三九
嘉來維新 の人物 四O
なか(羅事であった。 長州は新幾に立つ て武るとはい へ、 自ら親善を吐い て他の救援特に信
ては敵 としたる藤澤の助を求れる と とは 面目上到底隧 《 傳さる ところであり、 薩摩は、 法た自
ら進ん で 長州を授けさる べからざる必要 と理由とを有しない。 それに、 長の代表者たる経小五
張軌) といい、 魔の代表者たる西郷といい、 これまた、たか(の人物である。 雌はしか
く高學に進行しない。 幾度か被打 死亡し ては、 湖くにし て とくに藤長聯合成り で、 周囲は 難し
た。 正に張本、 中岡の補助であり、 特に取の勢力に負を とみが大であった。
斯く て、 慶長聯合に出る執業運動の進展するや、 坂本は、 また 一方に大政奉還の運動にも成功
した。 武力に因る記兼 U、 平和運動たる大政奉還 を開 季に操る直観は、 坂本の非凡なる政治的
手腕を 同時に、 また史上の寄せられてる。
離心 に、 坂本 としては、 首尾能く建長崎藩を握手やしめたる 以上は、 これに て幕府を倒し得%

し と信じたの ではあるが、 その成功 の議は土佐藩の立場は知何と考 《 るを得ない。 土佐の藩置
は到底 一 致し て議長の封禁軍 と歩調を 一 にする造には織り得ない。 さすれば後藤は議長に録し て
土佐は落伍者となる。所調、 大常所って降の師となるのである。 こ で土佐藤本位の興時の立場
を考へて、大政奉還の新運動を起し、薩長の鼻先を押へて中央の舞豪に躍り出したのである。
これは、また斯ふ考へることも出来る。即ち、 園コ藩の武力を背景と すれば「幕府の大政奉
還の決行も容易なるべく、若し然らすして大政奉還の建自を採用せざるときは、堂々討幕の軍を
起すべく、これには土佐の藩論を刺戦してこれに 一致し、以て討幕軍の中堅たるを得べしとの方
策であったらう、ともいひ得るのである。
更に角、端脱すべ からざる行動派たる坂本の運動は、偉大なる政界の謎である。
四、大政奉還の運動
薩長にも人物多しと難、武力に因る政権争奪以外に方法あるを知らざりし虜へ、突如として、
土佐藩の平和的解決に依る大政奉還運動の起ったのには面食ったのである。特に、その大政奉還
は単純なる無條件の政権奉還にあらすして、上下雨院を條件とするといふ新奇なる政策であるか
ら、これには眼をみはったのである。
土佐藩は、武力討幕論に向っては、幕府をして政権を奉還せしむれば、これを討伐するに及ぶ
坂本 龍馬 四一
幕末維新の人物 四二
まいとて、その鼻先を押へ、佐幕論者に向っては、政権を奉還しても徳川中心の内閣を作り、こ
れに上下雨院を設くれば、徳川氏の従来の勢望博統に由りて、徳川氏に有力なる多数決となるや
必せり、これ名を棄て、質を採るの妙策なりとて、その歓心を得、一般赴曾に勤しては、戦争の
惨顧を避けて平和に政権を授受するのである。と盤言したのは、最も鮮かなる手腕であった。
抑も、幕府をして大政を奉還せしむべしとの論者は、他に必らずしも絶無ではなく、また誰人
*考へ得ることであるが、これを上下雨院論に結付けたのは、確かに坂本の創見である。
また上下雨院論も、幾分移入せられたりとはいへ、一部有識者の書療論に過ぎなかったのである
㎞頭に進出せしめ質隊政治論として活躍せしめたのも坂本の手腕である。(㎞
る立憲思想、
㎞参照)
らは、坂本の比思想は、いづれより得たりやといへば、種々の方面よりこの鋭敏なる頭脳に
眼じたのであるが、その直接の原因として数へらる\のは、常時長崎に居った土佐の賢であった
今非純正(消、成) 即ち後に坂本の秘書となった長岡謙吉が、上下雨院論を坂本に吹き込んだの
だと博へられて居る。
/
その長岡 とと進議會制度を理解し て活ったかは明らか ではないが、 鄭麗的の受賞り でどうや
不完全なもの であったらうが、 これが攻本の頭に入るや、 急同義大飛躍を貸し て、 常 « たる大宫
言 となったのである。
慶應三年、 坂本は長崎にて後藤家二郎に説くととろあり、 相 作公 て臨海の船中に於 て、 後藤に
示したの が有名なる宗中八第である。
第 一 義大下有益の人材を招致し龐間に備
第二套 有村の諸侯を選用し朝廷の官府を開い現今有名無實の官を除く
第三義 作詞の交際を議定す
第四輪 律令を避み新に無後 の大典を定它德全部に定れは諸侯伯者比を奉じ て部下を奉s -
第五裂 上下議政所
第六歲 海 陸軍 展
第七歲 觀 兵
八義 是國金 日の金銀物價を外國七 平均す
攻 本 爾 四三
幕末維新の人物 四四
右像め二三の明眼士を議定し諸侯の曾盟の日を待つて云々口口口自ら盟主となり比を以て、朝
廷に上り始て天下萬民と共に公布云々強抗非濃公議に違ふものは断然征討す権門貴族も暇借す
る事なし
比意見が土佐の藩論となったものは
一、天下の政権を朝廷に奉還なさしめ政令宜しく朝廷より出づべき事
一、上下議欧局を設け議賞を置き で 機を参賛せじめ高機宜じぐ公議に渡すべき事
一、有材の公シび天下の人シに備へ官候を風ひ官しく従来有名無質の官を除くべ
き事
一、外國の交際宜しく廣く公議を採り新に至常の規約を立つべき事
一、古来の律令を折襲し新に無究の大典を選定すべき事
一、海軍宜しく擁張すべき事
一、御親兵を置き市都を守衛せしむべき事
一、金銀物債宜しく外國と平均を設くべき事
以上八葉は方今天下の形勢を察し之を学内高國に徴するにNを捨て他に導師の急務あるなし
布。此數幾と断行をは皇道を撤回し國勢を撤離し高國大 成立 するも変態て難し なさすべて
頭》は公明正大の道理に張さ 大英新を以て天下を更始 新址。
と の建自家 となった。
右の案は、 更に修正やられ て魔王朗區約 となす
、 方个皇親 の夜、 國體を約定し高國に臨て不認、 是 約第 一 職とす其要、 王政復古学内の形勢
を 参的し天下後世に至 て始其の遺構なき の大修理を以っ て残せん。 國に二王なし家に二主な
し政權 武に 師 ,是 什北大修理なり。 我皇家總 « %高方 不易、 総るに古郡縣の制裁し て今
許証の証をた大震に義に触し上帝あるを知らぎふぞ胤
粉がなだが 、仙劍 新政齒類に触し龐大邱毅、 後藤は以て義國
に臨で不能是た以 て初 で武皇國 の関胤特立する者 と 云、し。 若一の事件を執り離 * 曲直
を前輪し朝鮮語使得に相貌建し被張に載せ小修理に止り、 神 て皇國の大基本を失す党に本武
たら びや。 隨後黎公公平所見英國に存すべし此大修理を以て比の大基本を建つ、 今日常 *話
收 本 態 ㎞, 因西
幕末維新の人物 四六
侯の責のみ、成否顧る虜に非す警れて後己まむ。今般更始一新皇國の興復を謀り好謀を除き
明良を撃げ治平を求め天下萬民の貸めに寛仁明怒の政を貸さむと怒し 共法則を定むる事左
の如し
一、天下の大政を議定する全権は朝廷に在り我皇國の制度法則一切之萬機京師の議事堂より出
るを要す
一、議事院を建立するは宜しく諸藩より共の入費を貢献すべし
一、議事院上下を分ち、議事官ピば公職より下暗臣歴 民に 至る まで正義純粋の著を避撃じ、高
Hづ諸シら基職掌にてピ院の任に つ
一、将軍職を以て天下の高機を掌握するの理なし、自今宜しく共職を鮮し諸侯の列に騎順し政
権朝廷に騎すべきは初論なり
● き も も
一、各港外園の修約、兵庫港に於て新に朝霧の大臣諸候の主大夫を
立て誠賞の商法を行ふべし
一、朝廷の制度法則は往昔より律例ありと難も常今の時勢に参し或は常らさるものあり、宜し
* * * * * * * * * * *
く共弊風を一新改革して地球上機ちぎる園本を立てむ
一、比皇國興復の議事に闘係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けす正質を貴び既往
非曲直を不問人心一和を主として比議論と定むべし
右約定せる決議上の盟約は、方今の急務、天下の大事之に如くものなし、故に一旦盟約決議
の上は何ぞ共事の成敗利鈍を顧むや唯一心協力永く貫徹せむことを要す
となり、藩論として慶應三年六月後藤象二郎等が之を持廻り、京畿有志の間に力説し、終に有名
なる政権奉還の建白と なったのである。共建自本文は、之を略するが共添へ たる別書は右の案
の、確定文とも見るべきものであるから、煩を厩はす全文を掲載する。
宇内ノ形勢古今ノ得失ヲ廃ミ㎞伏惟 皇國興復ノ基業ヲ建シト欲セハ園鶴ヲ一定シ制
度プ 一新シ
王制復古、萬國萬世ニ不恥者ヲ以テ本旨トスペシ。好ヲ除キ良ヲ撃ケ寛怨ノ政プ施行シ、朝
幕諸侯湾ク比大基本ニ注意スルヲ以テ方今急務ト奉存候、前月四藩上京仕一二献言ノ次第モ
有之容堂儀 ハ病症ニ因テ騎國仕候以来、獅又篤ト熟考仕候ニ質ハ不容易事態ニテ安危ノ決今
坂本 龍馬 四七
-
幕末維新の人物 四八
日 ニ有之哉ニ愚慮仕候、因テ早速再上仕右ノ次第一々午不及建言仕候志願ニ御座候虜、今ニ
至テ病症難満仕不得己徴践ノ私共ヲ以テ愚存ノ趣、午恐言上貸仕候
一、天下ノ大政ヲ議定スル全権ハ
朝廷 ニ在リ、乃我
も * も ● * * も も *
シノ岬度滋期 萬機必ズ京師ノ議政所 ョリ出%へシ
一、シパビ公㎞下暗臣監民 正明純良ノポチ選撃ズべジ
一、癖序學校ヲ都曾ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分ケ、學術技藝ヲ教導セサルへカラス
一、一切外藩トノ規約ハ兵庫港ニ於テ新ニ
朝廷ノ大臣ト諸藩ト相議シ、道理明確ノ新條約ヲ結ヒ、誠質ノ商法ヲ行ヒ、信義ヲ外藩ニ
失 セサルプ以テ主要トス へ シ
一、海陸軍備ハ 一大至要トス、軍局ヲ京撮ノ間ニ築造シ
朝廷守護ノ親兵トシ、世界ニ比類チキ兵隊ト貸サンコトヲ要ス
一、中古以来、政刑武門ニ出ツ。洋艦来航以後、天下紛転國家多難、於是政権稽動ク、是自然
ノ勢チリ。今日ニ至リ古来ノ奮弊ヲ改新シ、枝葉ニ馳セス小條理ニ止マラス大根基ヲ建ッル
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ヲ以テ主トス
一、朝廷ノ制度法則、従昔ノ律例アリト難方今ノ時勢ニ参合シ間或ハ常然チラサルモファラシ
宜ク共弊風ヲ除一新改革シテ地球上ニ濁立スルノ國本プ建ッへシ
一、議事ノ士太夫ハ、私心ヲ去リ公平ニ基キ術策ヲ設ケス、正直ヲ旨トシ既往ノ是非曲直ヲ問
ハス、一新更始今後ノ事ヲ見ルヲ要ス。シへヵラス。
右ノ條目恐クハ常今ノ急務内外各般ノ至要是ヲ捨テ、他ニ 求ムへキモノハ有之間敷ト奉存
候。然則職ニ常ル者成敗利鈍ヲ不顧、一心協力萬世ニ亘テ貫徹シ候様有之度、若或ハ従来ノ
事件ヲ執リ精難抗論。朝幕諸侯互ニ相争ノ意アルハ犬然ルへカラス。是則容堂ノ志願ニ御座
候。因テ愚味不才ヲ不顧、大意建言仕候、就テハ午恐是等ノ次第空シク御聴捨相成候テハ天
下ノ貸、残懐不鮮候。獅又比上寛仁ノ御趣旨ヲ以テ 徴践ノ私共ト難モ御親問被仰付度奉懇
願候
慶應三丁卵九月 松平土佐守内
坂本 龍馬 四九
幕末維新の人物 五○

後藤 象 二
顧 岡

即ち、前述の舟中八策の敷行に過ぎないのである。
斯くて、慶應三年十月十四日、十五代将軍徳川慶喜は大政を奉還した。共文に目く。
『魔著護面皇國時運の沿革を考候に、昔王綱紐を解き、相家権を執り、保平の観、政権武門に
彩てょり祀宗に至り更に龍春を被り二百除年子孫相受、臣共職を奉すと難、政刑常を失ふ不、
少今日の形勢に至候も撃章薄徳の所 致不 携 衛棟 候、況や常今外國の交際日に盛なるにより
㎞一途に出不レ申候面者綱紀難 立候間従来の奮習を改め政権を撃、 騎魔ぐ天 ドの公議を
し聖断を仰き同心協力共に皇國を保護仕候得ば、必ず海外萬國と可 並立 候、臣慶喜國家に所、
霊不 と奉レ存候年、去獅見込の儀も有 之候得者可 申聞 音諸藩へ相達置候依 比段謹で奏
聞仕候 以上。
その前日、慶喜は在京四十除藩の重役を二條城に召し、共決心を布達したるに、面して之を争ふ
ものは無かった。比事件の主働者たる後藤象二郎、大に喜び、退城後、首尾如何にと案ぜる同志
の面々 へ急報した書面には、
唯今下城、今日の趣不取敢奉申上候、大樹公政権を朝廷に騎する競令を示せり、比事を明日奏
聞明後日参内勅許を得て直様政事堂を個に設げ上院下院を創業する事に獣べり質に千歳の一週
貸天下萬姓大慶不過之比段不取敢奉申上候 勾々頓首
十月十三日 後藤 象 二郎
才谷 梅太郎 殿 (坂本龍馬)
とある。即ち、奉還の上奏文に「廣く天下の公議を霊し」とあり、後藤の手紙に「上院下院」と
ありて、慶喜も正に、上下雨院を條件としたる大政奉還たることの意圓であったことが知れるの
である。
面して、更らに大政奉還後の新官制をも坂本は案出して居る。
一、闘白 一人
坂本 龍馬 五一
幕末維新の人物 五二
公卿中最も徳望智識衆修の者を以て之に充つ、上一人を、輔弱し、萬機を闘自し、大政を継
裁す。(暗に三條質美を之れに擬した)
一、議奏 若干人
親王公卿諸侯の光も徳望智識ある者を以て之に充つ、萬機を献替し大政を議定敷奏し象て諸
官の長を分掌す(暗に島津、毛利、山内、伊達宗城、越前春嶽、鍋島閑曳、及、岩倉、東久
世、瞳戦、中山の諸卿を指す)
一、参議 若干人 ダ
公卿諸侯大夫士庶人を以て之に充つ、大政に参興し象て諸官を分掌す (暗に小松、西郷、大
久保、木戸、後藤、三岡八郎、横井平四郎、長岡良之助等を以て之に擬す)
面して、徳川慶喜は内大臣の官あるを以て、闘自の次位、副闘白といふ地位に擬した。坂本は、
之を後藤、中岡に示し、中岡は之を岩倉具祀に呈した。
一方、徳川魔喜は、大政奉還後の政鶴として、西周助をして憲法(㎞)を起草せしめ
た。これに依れば、全國政府の元首は、徳川常主を奪奉して、行政構は番くこれに属し、上院
(議政院)議長となり、三個の投票権を有し、又下院の解散権をも有して居り、閣員は、萬石以
上の大小名より採用すと、いふのである。純然たる徳川中心政治にて、所請、名を棄て、質を採
るの主義なることは、正に、坂本の案と、表裏相永應するのである。こ、逸は、着々坂本の思ふ
壺に進行したのであるが、政界の動きは微妙である。その健傍観して居る薩長ではない。朝廷の
中堅たる岩倉具祀も、慶喜は政権奉還の空名のみを上奏し、その心質測るべからざるものありと
なして、討幕の計書も進展し、大政奉還と同日に、討幕の密勅は、薩長雨藩に降ったのである。
彼等は、土佐藩の大政奉還運動には道連れとなったが、その條件たる上下雨院論を切離して無
條件の大政奉還となし、剰へ鮮柄を設けて、武力討幕に移らんとしたのである。
引個満は「刃 かれたのである。こ\に於て、土佐藩の立場は一韓して究地に陥っ
たのである。討幕派よりは幕府に加擁してその行動を妨げたるものとし、佐幕派よりは主家を賞
りたるものと攻撃せられ、進退雨難となったのである。
五、政権 の 所在
坂本 龍馬 五三
幕末維新の人物 五四
こ、で、青年諸君の貸めに少しく籍ぜなくてはならぬことは、大政奉還といふことは、如何な
る意味であるか、進んでは、政権は何に附随して居るかといふ問題である。
大政奉還とは、一見内閣明渡しの感あるが、徳川氏大政を奉還しても明渡すべき内閣は無いの
である。徳川氏は自己の兵力財力を以て天下を支配したのである。大老老中などいへる内閣員
*、徳川氏の家臣である。例を韓すれば、満洲國以前に、張作霧が、東三省の兵力財力即ち自己
の私兵と財政とを以て、支那全園を支配し若くは支配せんとしたるのと、相似て居る。
また大政奉還と同時に、徳川氏はその領地たる闘東八州を返上すべきであるといふ考も出るや
うであるが、これも然らすである。徳川氏の闘東八州は、 豊臣秀吉から受けたので、これは、島
津氏の、薩摩、日向、大隅の三州。毛利氏の周防、長門の二州と同じ性質のものである。薩長氏
が自己の領土を返還せすして、徳川氏の領土返還をのみ迫る理屈は無いのである。
これといふのも、軍章、討幕論なるものは、最初は徳川氏を倒すのか幕府を倒すのか明確を欠
いた時代があり、その後時勢は進んでも、幕府を倒すこと、封建制度を廃減すること\は別物
と考へたのである。即ち各藩が存在することの前提の下に、幕府を倒さんとしたのである。それ
故に、幕府の倒れた後も明治四年の廃藩置懸まで、封建制度は存績して居つたのである。然ら
ば、征夷大将軍に政権が着いて居るかといへば、抑も征夷大将軍なるものは、蝦夷征伐の貸め臨
時の職であったのであるが、後には軍隊統帥権の継境者たるかの如き楽職となり、政権は、武門
に騎したのであるが、貫際は、その職を有するが故に政権が着いたのではなくて、寧ろ、政権を
有するものへの、職名として征夷大将軍に任ぜらる \に至ったのである。故に、普通には、大政
奉還とは征夷大将軍鮮退と速断するが、事賞は、大政奉還は、慶應三年十月十四日で、征夷大将
軍艦退は同月二十四日である。別々の行動である。面して、朝廷より務せられたる王政復古の大
競令は、同年十二月九日である。即ち、大政奉還と、征夷大将軍辞退と、王政復古とは、別々の
概念であるのである。
っまり、政権は質力に附随するのである。徳川氏は、闘東八州八百萬石、旗本八萬騎と稲す
る、財力、兵力を有すればこそ、政権はこれに騎したのである。故に政権奉還は空名に過ぎぬ。
その質力を叩き潰さねばならぬと看破ったのが、岩倉具祀一派である。政権奉還の美名の下に、
名を棄て、賞を採らんとしたのが慶喜並に土佐藩である。質際政治家の虚々賞々の掛引は、大政
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坂本 龍馬 五五
幕末維新の人物 五六
奉還の奏上より、王政復古の大競令までの二箇月間、政権の移動を廻って自熱化したのである。
比間に於ける坂本の活動は如何といへば、政構奉還の美撃を風向ふに振りかざし、萬機公論の
多数決の下に、薩長を歴せんとし、その勢、なか〜侮るべからざるものがあった。面して、こ
れより盆々坂本が運身の精力を傾倒すべきであったのに、何事ぞ、幕臣側の貸めに暗殺せられた
のである。この暗殺は幕府の貸めに不利でこそあれ、決して、その利益とはならないのである。
何が貸めの暗殺であるかの理由さへも明瞭でないのである。由来、凡ての暗殺者なるものは、頭
の単純なもので、しかも、暗殺そのものが、國家赴曾の貸めとなったことは殆んど皆無であるの
を普通とするが、この場合は暗殺は営に、徳川氏の貸めの不利なるのみならず、土佐藩は素より
近世日本の大なる損失であった。
唯だ、その後の土佐藩の行動は、王政復古の御前曾議に於て、藩主容堂の大激論となり、乾
(板垣)退助一派の鳥羽伏見の参戦となり、徳川慶喜の無條件大政奉還絶勤恭順となりて、こ \に
土佐藩は窮地を脱して、薩長土の三藩と井び稲せらる\に至ったのであるが、若し坂本をして獅
ほ生存せしめたならば、より有利に局面を韓回せしめて、大なる活躍を貸したであらうことは想
像に難くはない。眞に惜しむべき極みである。
六、『藩論』 に現はれた政見
坂本の政見を見るべきものに 『藩論』 の著がある。
坂本の博記として、史料の能く寛められた千頭清臣氏著『坂本龍馬』 には
(上略) 獅ほ世に魔く知られざるもの二三あり。請ふ先づ 『藩論』(未定稿)より撃げむ。博へ
ていふ、或時、龍馬、海援隊の船にありて外人舶載の 一小冊子を手にし、隊士をして之を日述
せしめけるに、欧米諸國憲法に闘するものなり。龍馬大に喜び、熟考衛味共の暗示によって自
ら 一説を作り、秘書、長岡謙吉をして之を書せしむと。是れ即ち 『藩論』 なり。
「落論」の原文溺じて世に他はらず、唯常時通課官として長崎にありし英人ホール氏(ミ*
ミ 現に横濱駐在英國継領事) が英譚して之を公使パークスに 送りしものといふもの、即ち
左の如し。
7ミミミミ、s ミミss ミミ cミミ “Zミ Zoミ”(“We (Zミ 2&cミs さミ”)
坂本 龍馬 五七
幕末維新の人物 五八
トミ /
ミeミミミ、ミesecoミossesesミ
(本文略)
『藩論」はこ\に霊く、著者倉て之れを「チャパシクロニクル』紙上 ㎞)に掲げた
ることあり。譲み来れば、封建制度の弊疾を別挟し、立憲政鶴の精髄を提唱する所、論旨最も徹
底せるを見る 云々
とあり、坂本の未定稿であり、原文酒滅して世に博はらすとあるが、吉田正春談では、
土佐藩主山内容堂侯 (豊信) の思想はといふと、代議政鶴を造り徳川慶喜公を議長にすべきで
あるとなし、即ち伏見の戦争をしないでやらうとしたのであった。彼の坂本龍馬もこの説を主張
したのであったが、龍馬の書記であった所の長岡謙吉は 『藩論』 なる小著述を貸して、興論の
喚起に努力したのである。比『藩論』は腰本であっで今野では得るごどが出来ないが、英人ジ
ョシヶリホール氏がNを英文に翻したのがある。比ホールといふ人は、横濱に居た英園の継
領事で、一昨年七十歳の高齢に達し満期になって騎國したが、日本に滞在したこと 五十年除
で、予は明治二年から六年逸英國領事館に出て居たので、ホール氏に親んだのであるが、維新
常時英人等は眞に日本を援けようとした事情も、能く知って居る所である。面して『藩論』 に
述べられた趣旨は、如何なる事であったかといふと、大鶴常時各藩に於ける藩主の多くは唐愚
なるを論じ奮務して曾議を起せといふ封外思想の発露で、日本國の濁立を計り、開進主義を全
ふするには、宜しく各藩が集議しなければならぬと云ふのであった。
即ち残り土佐藩の貸めばかりでなく、列藩に向って呼競したのである云々。ェ㎞)
とあって版本であるといふのである。
故岩崎鏡川氏の息、英恭氏も、右の英文を課されたことがあるが、何分にも原本が手に入らな
いものだから、或者の如きは、常時封建武士の頭脳では、斯る卓抜なる意見のある答はないか
ら、恐らくは外人の偽作であらうと逸極言するものさへあった。
然るに私の所蔵に 『藩論』 なるものがある。比本は正しく、前掲英文の原本である。
牛紙版十六枚綴、木版留で、表紙に、『二百部限減版』とある。唯、共減版の字の下に r Jミ
といふ朱印の押擁してあるのは、どういふ意味か不明である。
坂本 龍馬 五九
幕末維新の人物 -
六○
こ \で第一 の疑問は、『明治紀元十二月』 とあり、本文中にも、坂本龍馬暗殺後のことがあるか
ら、直に以て、坂本の著述とは断じ難い酷もある。只だ、『小引』の 一節に
今、予カ奮友基藩士基氏チル者、予プシテ比藩事ヲ論セシムル 云々
基氏ノ心機既ニ決シテ予カ癖プ許サス、予カ抽プ問ハス只管急成ヲ欲ルカ故ニ今更博雅ノ訂正
プ請テ醜婦カ自粉ニ粧ラノ 暇モチシ、特ニ恐ル、共文以テ法ヲ失ヒ、共字以テ義ヲ違シコト
プ。斯ク自ラ浅晒ノ抽キプ知レトモ、赤肯テ共需ニ應スルハ唯基氏ノ熱志ニ答フルノミ
とある。基氏とは坂本であるとしても、比書はその意見を書き記したとも、またその命を受けて
自分の意見を書いたとも、雨様に解されるのである。
即ち、どこまでが坂本の意見で、どこまでが長岡の意見であるのか明瞭しない酷がある。長岡
は始めて、坂本に上下雨院論を吹き込んだ男であるから、平凡なる筆耕者ではない。が、しか
し、大鶴は坂本の意見であらうといふことに議論は一定して居る。
この書で離人も残に外人間で驚いたのは、英闘にて、左の一節である。
按 するに、たとへ政権が人民の手に委ねらる\にせよ、若しそれによって帝國の良き政治が行
はる\ならば共は正常にして正義であり、たとへ最高の権威によってなさる、にせよ、若し國
事にして紛糾に陥るならば、そは不常にして過失である。
この一節は、原本には、
夫レ天下國家ノ事、治ムルニ於テハ民コノ柄プ執ルモ可チリ、蹴スニ於テハ至奪之ヲ貸スモ不
可チリ、故ニ天下ヲ治メ國家ヲ理ムルノ権ハ、唯人心ノ向ラ所ニ騎スへシ、藩内封土ヲ治ムル
モ赤之ニ他チラス
となって居る。
英譚では近代的文章となって居るが、固より意味に差異なく、寧ろ譚文の方が、近代人の耳に
入り易いのである。封建時代に、極東日本に斯の如き思想のあらうとは、欧米人の驚異したのも
犬と思はれる。吾人が譲んでも、質に不思議なくらみに思ふのである。
それよりも更に驚くべきは、官吏公選論である。
家格ノ制ヲ減シ、世藤ノ法ヲ絶シ、一旦官等ヲ魔シ、級爵ヲ牧メ、闘藩混合平均シテ更ニ同類
庶生ノ尋常大公 ト見倣シ、然シテ後チ、共藩ノ大小、共臣ノ多寡ニ準シテ、醸シメ定則ノ人
坂本 龍馬 六一
幕末維新の人物 六二
員ヲ期シ、各々望ム所ノ人名ヲ進メルコト、世俗入札ノ式ヲ用テ以テ衆人徳壁ノ騎スル人物
プ撰ム へ シ
しかし複選法を採用すべしとの意見である。
一度コノ公選ノ法ヲ用ュレハ、共札数ノ多寡ニ従テ用捨ノ人名判然タル可シ、面後、藩主ョノ
初撰ニ撃レル数輩ヲシテ、更ニ又定則ノ人員ヲ期シ再クヒ清撰ノ人物ヲ撃ヶシメ、自除ノ諸士
プシテ退テ後ノ令プ侯タシム へ シ
その複選の理由は
凡ソ人物公選ノ事ハ西洋文明ノ各國多クコノ法アリト難、彼ノ従来ノ常行ニ由テ童子ト難知ル
所チリ、然ルニ我カ列藩未タソノ制アルプ聞ス、故ニ共策、最モ智チリト難、闘藩カチラス野
俗チキコト能ハス
我國破天荒の制度なることが第一 の理由であり、
智者策ヲ過人ニ決シ、明主法ヲ癖臣ニ程ルコト、拾モ賭子ニ 黒自ノ情ヲ尋ネ、襲見ニ清濁ッ撃
> BB
ヲ討ムルカ如キモノチリ、故ニ衆或ハ之ヲ領解セス、偶撰撰ノ命ヲ被ルト難、或ハ能ァルヲ問
詳る












から









。 細 せ

い 一明






庶民
吏員









か 節




と に

その 。
現る















の 時
こる
それから
















。 れ



し シ ノ


及 抜民
























撰 擢


テ シメテ チ
ラシムルフ








シ故
セ任


チリ
主意 ハ則

プコト





チリ
チ所以


反復








カラシムルハ
サル 是
シテ 落キ


























レ 札



ス 心スト









ラ除


是 子 卑
リ リコレプハノ 撰



マス

ク親疎














テ部


践 術
ハス






テ吾












チ求

コレプ
キヲ
キプ


龍馬
坂本



幕末維新の人物 六四
藩主先ッ藩臣ニ令シテ奮規ヲ魔シ、更ニ新律ヲ立ルニ就テ、闘藩異志チカラシムルカ貸メ、改
テ誓約ノ濃式ヲ行ハシム可シ
その理由として *

-
夫レ人臣ノ共主ニ於ケル本ョリ骨肉ノ親アルニ非ス、唯條律ニ束縛セラレテ命ハ以テ奉 セサル
ヲ得ス、令ハ以テ背クコト能ハス、人主ノ共臣ニ於ルモ赤然リ、故ニ細大妄リニ約下プ易レハ
復タ臣下ヲ覇御スルヲ得ス、以テ君権ヲ操擁スルコト能ハス云々
とまで突込んだ説明がある。
これは、坂本舟中八策の 一つであり、大政奉還建自の理由の一となった、「新に無究の大典を
定む」といへると、共通の根本理由であるが、誓約といふことに付ては、五箇篠の御誓文と闘職
して考へて見なくてはならぬ。
比書の出たのは、御誓文務布以後であるから、その形式のことを踏襲したと見るべきである
が、若し坂本の意見だとすると、御誓文以前のこと なるから、この思想の由来にっいて考究す
るの必要がある。
従来の説では、五箇篠の御誓文の起草は、土佐の顧岡孝弟がこれに参興し、発布の形式は亀井
慈監、顧羽美静一派の按となって居るが、若し、 この書の意見が先きであったとすると、この方
面にも土佐派は重大なる役割を演じて居るものと見ねばならぬ。
また、この書の始めに
漫リニ常世ノ流行ニ溺レ、伐ニ和譚ノ洋籍ヲ窺ヒ又ハ航家ニ西情ヲ尋ネ、彼土ノ風ヲ比國ニ移
シ以テ萬事ヲ掌セムト欲シ、或ハ復古ノ底意ヲ解セス、只管書獣ノ鮮説ニ泥ミ史ニ因リ籍ニ循
テ古ヲ援キ、以テ今ニ謎シ今時ノ俗ヲ昔時ニ易ェ以テ衆庶ヲ治メムト欲ス
とあるは、拾も、現時の左傾、右傾論旨に封するもの\如くである。特に「和譚ノ洋籍」の語の
如きは、マルクスボーイを痛罵して倫快である。
七、財 政 策
坂本は曾て、その率ゆる海援隊士を評して、「この中で雨刀を取り上げても飯の食へるのは、
俺と陸奥陽之助(宗光)だ」といった如く、固より軍なる武群ではない。雨刀を取り上げなくて
坂本 龍馬 六五
幕末維新の人物 六六
も、寧ろ雨力を邪魔にする男である。その組織した海援隊は所請義勇艦隊である。平時には通商
運輸業を営み、戦時には、軍艦としての機能を務揮するのである。坂本は長州再征に際しては、
自ら長艦三隻を指揮して幕艦と戦った経験をも有して居る。海援隊の費用は、初めは自給自足で
あったから、種々財源の牧入に努力して居り、後に正式に土佐藩の附属となったのである。
坂本の家信に
皆人の申候には、比龍馬の船の論たるや、日本の海路定則を定めたりとて、船乗等は聞きに来
り申候。
とある。瀬戸内海は、日本の地中海である、海権を掌握せんとするの熱望に燃へて居たのである。
その天下の財政策として、前述の舟中八策に「皇國今日の金銀物債を外園と平均す」の一項が
ある、これ金銀の比重が、外國と非常の差あって、金貨流出の弊を痛感しての政見である。面た
て大政奉還後の最も困難なる新政府の財政官として、越前藩士三岡八郎 (由利公正) を見出しし
のである。
佐々木高行の日記に目く
#八日(㎞)夜、才谷梅太郎来り談話数刻共夜止宿す、共節才谷の内話に、常所運上所に十
萬圓計金子有之趣に付、一朝事起らば、右金子は吾が物とすべし。共計書醸め致し置度と色々
相談せり。又目く是より天下の事を知るには曾計犬大事也。幸ひ越前藩光(三)岡八郎は曾計
に長じ候間衆て哺合も致置き候事有之候。共御含にて同人を速に御採用肝要と申したり。
とあり、大政奉還が奪々上奏せらる \や十一月二日、坂本は顧井に赴きて、三岡を訪ふて財政策
に就き所見を叩いた、騎来、間も無く凶刃に襲れたが、三岡は所期の如く明治新政府の財政官に
登庸せられ、太政官札を務行して眉の急を救ひ以て坂本の志を貸したのである。
八、文献 目 録
一、坂本龍馬 千 頭 清 臣著
大正三年 博文館発行
一、焦高傑坂本龍馬 坂本中岡雨先生銅像建設曾編
昭和二年 同曾発行

幕末維新の人物
一、坂本中岡雨先生五十年祭 紀念講演集
大正六年 同紀念祭典曾発行
一、坂本龍馬闘係文書 二冊 岩崎 英重編
大正十五年 日本史籍協曾務行
一、坂本龍馬 弘 松 宣 技著
明治二十九年 民友赴発行
一、坂本龍馬 土 田 泰著
明治三十年 三松堂発行
一、坂本龍馬言行録 川又 慶二著
大正六年 東亜堂発行
一、坂本龍馬海援隊始末 平 尾道 雄著
昭和四年 萬里閣発行
一、土佐の勤王 徳富 蘇峰著
昭和四年 民友赴発行
単行本の主たるものは以上の如くであり、その他雑誌に出でたる記事多きも、一切これを省略
す只坂本暗殺の下手人に付ては
尾 佐竹 猛著
㎞ 疑獄難獄
昭和四年 一元赴発行
中の二、「坂本龍馬暗殺の下手人」の一項を参照せられなば幸甚である。
惣て哺しは質とは相違すれども、軍は別て然るもの也。之を筆に
し差上げても質となさずやも知れず。一度やって見たる人なれば
哺しが出来る(龍馬より兄権平へ宛てたる手紙の一節)
幕末維新の人物 七○
由 利 公正
一、小 博
由利公正、初めの名は三岡石五郎、後、八郎と改め、維新後、奮姓由利に復し、名を公正と改
めた。文政十二年十一月十一日、顧井毛矢町に生る。父は近習番、次郎大夫義知、母はきく、長
子である。少年時には一般の武士の如く武術を修めたが、西洋砲術を寧んだのは稽異色であった。
弘化四年、熊本の横井小楠が顧井に来り、藩士の貸めに 「大學」 を講じたが、普通儒者の訓話誌
響と異り、寿舞孔子血の道は國家経輪の寧であり、道徳は、経國安民の本でなければならぬとの、
活きたる説明には、顧井藩士一同に深き感銘を興へたのであるが、中にも常時十九歳の石五郎
は、酔へるが如く、これに傾倒した。これが石五郎の将来の大成を貸すの一韓機であった。
嘉永六年、砲術調練修業を命ぜられて江戸に登り、間もなく練兵教授方に任ぜられて騎藩し
た。安政元年べリー再渡来の節、江戸湾警備を命ぜられて江戸に到った。安政四年、火薬銃砲製
造所頭取を命ぜられ、西洋銃数千挺を製造し、新式軍備を充質すると共に、これを藩外に輸出
し、藩庫を賑はした。同年現職の健明道館出仕を命ぜられた。明道館は橋本左内が寧監であっ
た。これより左内と肝磨相照らすところがあった。
左内が将軍継嗣問題に付き、京師に活躍するや、石五郎もまた上京、大に運動するところがあ
った。
文久二年、藩の財政策として、常局者をして五萬雨の藩札を発行せしめて、士民の興業資金に
貸興し、その製品の輸出に因って、藩庫を富まし、こ\に藩の財政を確立した。この功に依り奉
行に撃げられ重役の一人となり、石五郎を改めて八郎と稲した。
比年、藩主慶永の入京するや八郎も徴されて上京し、御用人の心得を以て他藩との交渉に常る
べきの内命を受けた。
翌年、越前藩が列藩曾議を開くの案を樹て、四方に使を出すや八郎は、肥後薩摩に使した。然
由利 公正 七一
-
幕末維新の人物 七二
るに藩情一鍵、八郎は塾居を命ぜられた。
慶應三年十一月、塾居中の八郎は、坂本龍馬の来訪を受けて、大政奉還を聞き、財政策を論じ
た。同年十二月入京して徴士参興職に任ぜられ、金穀取扱掛を仰付けられた。常時の新政府は殆
んど無一文に等しく軍費政費の急に迫られて居る難境に立ち、苦心奔走、焦眉の急に應じ財政策
を樹て、五箇條の御誓文を起草し、太政官札を発行し新政府の基礎確立した。四月従四位下に叙
し、八月御即位御用相勤め十二月東京皇居御造営掛仰付けられ、明治二年鮮職し、徴士参興、故
の如しとの癖令を受け、同年版籍奉還の撃あるや顧井藩知事を輔弱し、藩政を改革し殖産を興し
た。明治三年八月、祀先に因んで、姓を由利に復し、公正と名乗った。十二月、維新の功に由り
賞典藤八百石を賜はり、明治四年顧井藩大参事心得、魔藩置懸の成るや、比年東京府知事に任ぜ
られた。その在任中、特命全権大使岩倉具祀一行の随行を命ぜられ、明治五年五月出帆し、米國
より英國に渡って間もなく、東京府知事龍免、明治六年二月騎朝した。
征韓論破裂の後、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎等と共に民選議院設立を建白し、政賞の基
礎として幸顧安全赴を起した。明治八年元老院議官に任じ、明治九年依願免官、明治十八年再
任動二等に叙し、明治二十年華族に列 せられ子爵を授けらる。正四位、明治二十三年、貴族院議
員常選、魔香間祇候、明治二十六年従三位、明治三十四年正三位、明治三十九年、明治三十七八
年戦役の功に依ゆ動一等瑞資章、明治四十二年豪去、享年八十一歳、従二位に叙し旭日大授章を
授けらる。品川海曇寺に葬る。
以上㎞の主なるものであるが、早くより質業界に霊くす所あり、日本興業銀行、有隣生命
じ 、。。シ*** 、
保険株式倉軌などは、その成果を得たる題著なるものである。
11、藩 財政の改革
由利が財政家として認められたのは、越前藩の財政大改革であった。
三岡家の家藤は百石であったが、常時の賞牧入は四斗六引入七十俵であった。自分自身が斯の
如く窮して居ったのみならす、藩財政の窮乏も極度であった。これが由利をして財政家たらしめ
た深刻なる必然的理由であった。
由利の賞話に目く
由利 公正 -

七三
幕末維新の人物 七四
常藩内物産を擁張すべしとは、即ち民を富ますの術で、民富めば國富むの理である。扱物産を
擁張せんとならば國是を定め上下心を一にして振作せねばならぬ。然るに常時の様な貧困では
融通の手段も無ければ、國債を起して民間に貸附け、継曾所を建て 、運轄を自在にする貸め
に、試みに五萬雨の切手を作り國債と貸すべきである。共の作用は、先づ力役者二十萬人と見
積り、一人一分の資本を貸付る。但し質際は一時に一分を渡さす、工業により多少長短の差が
あれども共の運轄自在、即ち纏曾所の事宜に任せるので、例へば一人の女が五十文の綿を買ひ
糸を引けば凡そ六十五文と貸る、無用の薬も縄に綱へば十文の値があるといふ様に、継て人民
の随意に任せ、二十萬人で一日十文宛稼げば一日二千貫文即ち三百三十雨の富を貸す、三十日
にして九千九百雨、一ケ月殆んど一萬雨の富を得られる。されば五萬の國債を起しても、決し
で愛ふるに足らぬ。速に決行せられたいといって圓を作って示した。(圓略)又鏡山の例を引い
て、資金怒ち金銀に化することを説き、従来の如く去って還らざる不生産事業そのものに使用
するのでは無い事を熱心に主張した。横井小楠も仲裁の勢を執ったので、ャット藩の大評定と
なり、従来務行の藩札以外に製造方の切手五萬雨を務行する事に決した。
これは安政五年十一月のことである。が、この切手は、途に藩札発行となった。
斯くて切手五高雨発行の準備に着手せられんとす。石五郎以貸らく、今務行する所の切手は物
産と貸り、次で 正貨に化するに至るべきも、従来の藩札は抵常無き純粋の不換紙幣なるに因
り、人情として藩札を嫌ふべきは理の常然なり、故に切手発行の貸、藩の札所を倒産せしむる
ゃ測られずと、乃ち之を長谷部(㎞)に謀る、目く或は然らん、故に最初足下の主張したる
従来の藩札を以て之を補ふに若かすと、途に五萬雨の藩札を増務すること\なれり(㎞)
斯くて、物産継曾所を設立し、資金として貸出し製産を奨励しその各種製品を受けて、これに荷
貸替の方法を始めて、通商貿易販賞し、以て正金を藩庫に牧めたのである。
その製産の主なるものは、緑、布、学、木綿、岐帳地、生糸、茶、麻等にて薬類のみにても初
年北海道に販賞したる纏額は二十萬何千雨除の多きに達し、また養賞を奨励し文久二年、和蘭商
館に販賞したる金額二十五萬典に及び、次年には生糸響油の代債六十高歩となり、爾来潮次増加
して纏高一ケ年金三百萬雨に達し、藩札は潮次正貨に鍵じ、金庫には常に五十萬雨内外の正貨を
貯蓄し、取引は頻繁となり商買の産を起すもの、比年増加した。
由利 公正 七五
幕末維新の人物 七六
由利は功に依り、文久元年三月奉行役見習を 命ぜられ、水主頭次席に列し、製産方頭取を衆
ね、文久二年九月、奉行役と貸った。が、後、政情一鍵し、文久三年八月、塾居を命ぜられた。
三、坂本龍馬との曾見
由利の藩財政改革の手腕が認められ、これが明治政府勢頭の財政官となる端緒であるが、これ
を推撃したのが坂本龍馬であった。
坂本が顧井へ来りしは二回で、第一回は文久三年、勝海舟の命を受け、藩主松平春嶽に、海軍
所の資金を借りに来たのであった。この時に、由利は曾って居る。
これより先き、坂本は勝海舟によって小楠㎞)を知り、熊本にも越前にも往来したので私(㎞)
とも知合になった。小楠の邸宅は、私の家と足羽川を隔て \封ひ向って居た。或日、親戚の招
宴で遅く騎った虜、夜牛に大撃で戸を叩く者がある、出て見ると、小楠が坂本と一緒に小舟に
挑して来た。そこで三人が嘘を抱へて飲み始めたが、坂本が倫快極って「君が貸捨っる命は情
しまねど心にか\る國の行末」といふ歌を謡ったが、共の撃調が頻る妙であった。翌朝坂本は

勝と大久保に倉ひに行くといふ事で江戸に向った。(㎞ 話 )
慶應二年七月、坂本より兄権平への手紙の 一節に
常時天下の人物と云へば
越前藩にては、光(三)岡八郎、長谷部勘左衛門云々
とあり、また、越前藩士下山尚の西南紀行に、坂本と大政奉還後の善後策を講する一節に、
越藩ノ内民政曾計プ託スル人アリャ、余答テ云ラ、
三岡八郎チラン、然レトモ今ャ宴君ノ忌講ニ鍋レ幽閉年久シ、余等密ニ往キ叩クニ常時ノ事ヲ
以テスルアリ、余愛ニ来ルニ際シ送ルニ一篇ノ詩ヲ以テス請フ之ヲ見ョ、氏( )見テ大ニ感シ
手プ拍テ共名ヲ記ス。 \
とある。更らに佐々木高行日記に、由利を推奨して居ることは坂本の部に於て述べた如くである
慶應三年十月、将軍慶喜大政を奉還するや、坂本は、顧井に来り由利を訪ふた。
慶應三年十一月朝、坂本が復、顧井に来た。藩聴から御目附を以て申達されたには、今般坂本
龍馬出幅、國家の儀に付三岡八郎へ面曾致度趣申出候、諸否如何御答候様との事、則ち抽者何
由利 公正 七七
幕末維新の人物 七八
時も面曾可致付面は御答之身分、他國者曾見は相常之立合被付候様致度旨返答した。尚又折返
し面曾之都合如何取計哉申来候に付、明日朝五ツ時、坂本旅宿へ出頭可致候、無差支様取計れ
度と申し聞、翌朝五ツ時山本姻草屋へ向ったら、御用人月番松平源太郎(正直) 御目付月番出
淵博之丞雨人が龍り越した。姻草屋へ這入って龍馬と呼んだら、ャー断す事が山程あるといふ
共顔を見ると直に天下の事成就と思はれた。自分は罪人であるから立合人をつれて来たと断り
をいへば、おれも同様付人がある健三来よと呼ぶ、これは土佐の目付の下役で岡本健三郎とい
ふ人だ、共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と雨人は短焼に這入つ
て徳川政権返上の攻第、朝廷の事情等、曲さに聞いた。面て今後の計書は如何ちゃと尋ねると
これはまだ決せんが先づ戦はせぬ積りちや、といふから、我より戦を貸ぬでも彼より求めたら
逃げる平。イャ夫れは出来ぬといふ、然らば不虜に備へねばならぬ、龍馬目く、金も無く人も
無くて至極難義である、私の言ふのに、天子天下の貸に政を貸さる、天下の民は皆天子の民で
ある、天下安寧の貸に財を散す、財則安寧の具なり、何ぞ財無く人無きを憂へんやだ。坂本目
く、われそんな事を云ふと思ふて態々来たは、皆云へと、夫から名分財源経輪の順序まで、像
て貯へた満腹の意見を語り、夜牛九ツ過るまで我を忘れて哺した。則ち金札を発行せざれば、
今日天下の計書は出来ぬといふ事も委く語り、常時自分は幽閉人なれば、飛び立っ如く思ふて
も出京はならす、全く坂本に依頼した事だ。
。坂本は明朝出立するといって寛眞を出して呉れた。やがて宿を出ると、博之丞は我が背を打ち
て、不届者、目付役を立合せて謀反の策を談するとは、と云つて更らに、眞に敬服安心したと
いふ。私も今日の次第は委しく共筋に言上を頼んだ。十三日夕、家老岡部豊後の別荘に招か
れ、坂本の寛眞を懐中して行って、倉見の始末を話し、夜牛に川を渡って騎る時、懐中物を落
し、直ちに川を捜したけれど不得、物前の遺失大いに気掛りとなり、京都の便りを待ったが、
十五日に坂本の凶鍵が知れ、下山、海顧、中田の三人を招き、窃かに祭りを貸た。誠に千秋の
遺悩である。(㎞)
坂本は不幸、凶鍵に磐れたが、その遺策は踏襲せられ、十二月、 朝廷より召されて由利は参興職
に任ぜられた。
由利 公正 七九
四、五箇篠御誓文の起草
明治新政府、鍵頭の財政官としての由利が、その手腕を振ふに至るは、後節に述ぶるが、これ
と同時に、五箇篠御誓文を起草したことを述べなくてはならぬ。
五箇條の御誓文は、明治新政府施政の大方針を中外に撃明したるものにして、常局の抱負一世
を覆ふの概あり。比方針、大抱負ありてこそ始めて我帝國をして世界の一等國たらしむるの素地
を貸したのである。
明治史を論ずるものは、常に必らす比御誓文を以て出発獣となし、憲政を論ずるもの、さては
普通選撃の議論にさへ御誓文を援用して居る。請はば御誓文は年と共に盆々共光輝を発輝するの
であるが、共始めにありては必らすしも今日解するが如き意味を包含しなかったのである。面か
*新の如き時勢の地薬と共に、解類を 張して何等の遺構無く萬古不層の経典たるは、以て立法
者の手腕の凡ならざるを賭るに足るべく、新興國家の澄測たる宣言が弾力性を有し後進者をして
仰ひで、共擁る所を知らしむるのである。
御誓文務布の動機は、主として維新の際人心を新たにするの必要から生じたので、七百年の武
家政治を根抵より覆し、碑武創業の古に復る大鍵革を貸したる明治新政府は中外に勤する撃明と
して、一大宣言を要する必要に迫られたからであるが、共直接の動機としては、二三の理由を撃
ぐる事が出来る。
共第一 は土佐藩等議曾派の主張の継績である。即ち、大政奉還の條件論が形を鍵へたのであ
る。始めの主張では、慶喜議長説を要素としたる議曾設置を以て、大政奉還の不可分條件とした
のであるが、共後政局の推移は共貫行不能となりしより中頃は、共要素を批擲して軍なる議曾設
置を以て、大政奉還の條件たりし物とし、後には大政奉還と 闘係無くとも議曾設置の必要あり
とし、純然たる憲政論に到達したのである。比中頃以後の主張が御誓文に現はれたのである。
第二の理由は、政府財政の欠乏を救ふ貸め、方針を確立し新政府を信用せしむる必要からであ
る。比酷に付ては、顧岡孝弟は
御誓文務布ノ直接ノ動機トシテ、政府財政ノ窮乏プ撃ゲル者モアル。常時朝廷ニテハ御内努 ニ
鉄乏シ、勤王諸藩モ既 ニ各自共財政ニ苦シンデキタノデ、朝廷ニ献金スルノ除裕モ無カッタ。
由利 公正 八一
幕末維新の人物 - 八二
然ルニ一方征東継督カラハ軍資金ノ督促ガ矢ノ様ニ来テキタ際デアック。ソレデ民間ノ豪農富
商ァ促シテ御用金ヲ献上セシムルガ貸メニ 、朝廷ノ大方針ヲ確立シ彼等ヲシテ新政府ヲ信用
セシムルノ方策ニ出テネハチラチカッタ。ッレガ貸メニ園是ノ確定、新政ノ大方針ヲ宣明スル
ニ至ックノデアルト云ツテ居ル。
素ョリ財政上ッ必要カ、五箇篠御誓文ノ務布ヲ将来シタ一ノ動機デアックコトハ疑ナイケレド
モ、云々 ㎞
との 一説
説を撃げて居る。この獣が由利としては肝腎である。由利の質話に、
正月七日夜、御親征被仰出たるに就いては、共名分天下に御布告あるべく、且又倉計の基礎御
決定あるべしとの事で、参興たる大久保、魔澤、後藤、顧岡、岩下、吾等は岩倉公の出席を乞
ひ大に議した事である。何も突然に起った事なれば、誰とて方針の有様は無く、只岩倉公へお
迫り致し、暁に至るも決せず、無擁共備にして席を分れたが、途中も心安からすフト思ひ付
いたは、岩倉公へお追りは申したものの、萬一吾に方針を命ぜられたならば如何答ふるぞと考
へ、岡崎屋敷の小舎へ騎り石筆を執り時事の大鶴を案じて鼻紙に認めたは五ヶ條なり云々 (由
利公正博)
とありて、顧岡の 一説とは之を指すもの\如くである。新政府が財政に苦み貸めに方針を確立し
て、民間の信用を得るを要するは、支那の革命政府に於て、又は露西亜の各政権に於て、吾人の
近く見聞する虜である。明治政府も赤た比の如き状態であったことはあまりに顕著なる事賞で
ある。
第三は闘東征討の貸め、諸侯結束の必要からで、是れは右の由利の質話の中にも大略見へて居
るが、坂崎拭の説では、
官軍を闘東に下すに付いての必要上御誓文を迫った方があります。それは誰かと言ひますと東
久世伯(通轄)であります。幕府を討つといふ事に付て、跡で異論が出ぬ様に、諸侯が誓約をし
てそれから戦争をすれば、跡で知らなかったといふ鮮柄が残ることは無いから、乾度諸侯を誓
はせるが宜いといふので、薩藩の人も長州の人も是非やつて貰ひたいといふことであります。
共の意見を三條公へ東久世伯が贈って居られる書面もあります。或は官軍東征の朝議を決する
の必要として、御誓文が要求せられたと云ふ意味もあったので、さういふ一方の目的にも使用
由利 公正 八三
幕末維新の人物 八四
されたのであります。
東久世通蔵の「㎞維新前後」には、
常時は奮習悪弊が多く、名は革新の政令と云ながら、質は苦々しい事許りであった。そこで第
一に建議したのは、常時世上では長州が朝廷を擁して徳川を倒すとか、薩州が萬事切盛りする
とか、甚だしいのは天下は長州が取るか、薩州が執るか、必す雨藩の中が将軍になるで有らう
と云ふ噂が行はれる。是容易ならぬ事で、貸めに人心疑惑して、諸侯の心離反するに至るかも知
れぬから、急に諸侯を集めて、天皇より親く東征の御主意を御親論になり、諸侯をして連署の
誓書を差上る様にさせ、正々堂々と錦旗を闘東へ御下しになるがよい。また御較治はずべて公
論によって私なぐ御施行なされたいと云ふ様な事を申立た。また岩倉へも忠告書をやった。貴
下を誰誘する者が多い。共譚は貴下権勢を食り、百事専断多しと云ふ事であるが、それでは天
下の御貸めに相なるまい、誰 誘は嫉妬より起るかも知れぬが、八千丸 (岩倉の子息) を東山道
継督として下した事なども私の行貸なりと云ふ者あり。除程身を慣み、皇國の貸めに公平に致
されたしと云ふ様な書面をやつて、三條も岩倉も吾等が意見を容れて、二月三日に天皇太政官
代(二條城)に親臨なされて、御親征の語書を御務になり。諸大名に命じて出兵の準備をなさ
しめたから、初めて諸大名も朝廷の眞意を知り、薩長の貸に働く譚では無いと云ふ事が分っ
て、是で函根より西南の大名は一人も二の足を踏むものがなくなったのである。
とあるのが、それである。
斯くて、明治元年(㎞)正月、園是一定に付き御下問があったが、その頃由利の起草したのは
議事の鶴大意
一、庶民志を遂げ人心をして巻まざらしむるを欲す
一、士民心を一にして盛に経輪を行ふを要す
一、智識を世界に求め廣く皇基を振起すべし
一、貢士期限を以て賢才に譲るべし
一、萬機公論に決し私に論するなかれ
である、右の第一項は正文の第三項であるが、由利は、共著「英雄観」 に、
庶民をして各志を遂げ人心をして俺まさらしむべしとは、治園の要道であって、古今東西の
-
由利 公正 八五
幕末維新の人物 八六
善政は番く比一言に騎着するのである。看よ立憲政治ちやといふても、或は名君の仁政ちや
といっても、要はこれに他ならぬのである。然るに未だ斯大道を寧ばぬものは、専ら己の志
を遂げようとして、貸めに人心をして俗意ならしむるか或は又小隷を弄し却て将に来らんと
する治平を妨得するのである。面して庶民をして各志を遂げしめるには
一、明徳を明かにすべし
一、民を新にすべし
一、至善に止るべし
の三大天則があって、これは昔より既に明かなことである云々
とあるが如く、共平素の主張を第一項に掲げたのである。その、「庶民」 の語を冒頭に置いたの
は、共師、横井小楠の共和主義の系統であることは明瞭である。
第二項の、意義に付ては、顧岡の談には、
盛ニ経輪ヲ行フヲ要ストハ、常時由利ガ盛ニ経輪々 々トイフ文句プロ鮮ノ如ク振舞シテキタ所
チァッタラ、シニシテ置さタノァル。経論トイラ字ノ意味 、元 経済トカシト
カプ主トシテ意味シク様デアルガ、シカシコレハ説ク人々ノ解響 ニ任シテョイノデアルェ
とあり、由利の著 『迂抽草』 の一節に、『論経輪』 の目ありて、
國を治むるもの宜しく経済を整理すべし治民の術経済より先なるはなし云々
又、『國利民幅に就いて』 といへる短文中にも、
夫治道は経輪を先とす。ェの術は業を興すにあり、業を興すは資本を充すと、販路を得るの
二途の外あるべからす、云々
とあるに依りて、立案の趣旨は明である。是れも横井小楠が顧井藩の貸めに、『國是三論』を草せ
し中に、『一國上の経輪』といへる章句あり。主として財政経済の事を論じて居るから、比感化を
受けたのであろう。
共『士民心を 一にし』とい へるは、由利が、明治政府に徴されしとき、財政意見を述べた 一節に
は寛裕を貴ぶ、若し朝廷にして節険を行は ゞ天下の民皆餓へん、況や内怒 を節するも大海の
一満のみ、安んぞ天下の究乏を救ふに足らんや。今や幕府は大政を奉還し、朝廷の稜威将に大
由利 公正 八七
幕末維新の人物 八八
に揚らんとす。誠に千載一遇の秋なり、上に非常の君主あり。下に非常の輔相あり、愛に非常
の政を貸し、非常の制度を定めば上下 一致して諏く非常の財源を得べし。今全園の人日を三千
萬と概定し、一人金一雨を課すれば三千萬雨を得、故に金札三千萬雨を民間に貸興し、之を用
みて物産を興し、通商を盛んにし、上下の流通を圓滑ならしむる方法あり、匿々たる金策に躍
観するが如きは、断じて不可なりと、霊日坂本龍馬に語げし虜の経輪策を陳じたり(㎞)
とある所請太政官札発行の意見に闘するものである。
第三項以下は時勢の要求である。
『由利公正博』 は、目く、
維新の大鍵革に伴ふ國是大方針を、比の如く哺瞳の際に起案せしことを疑ふものあるが如し。
是れ先考の抱負を知らざる者にして、共前後の歴史を詳にせば響然として氷解すべきなり。今
之を略言せんに、嘉永六年米艦の来航に際し、親しく艦船銃砲の精鋭なるを見て操夷鎖港の空
論なるを悟りてより泰西の寧術を探査し経済の道を討究し、橋本左内と共に和親開國の論を持
し、攻で幕府建備の事に奔走して共の狙ふ所と貸り、脱して園に騎り、宮國強兵の事を策し、
官貿易を靭め、属々長崎に往来して海外の事情に通暁し、公武合鶴の説起るや、京師に出て横
井小楠と共に藩主を輔佐し、諸侯を京師に曾して國是を定めんと謀り、命を奉じて加肥薩に使
せし時、藩論一鍵怒ち幽閉を被りしが、坂本龍馬の来訪に曾して将軍還政の事を聞きてより、
立國の方針時勢の要求は一日も研究を怠らざりき。かくの如き境遇に在り、斯の如き識見あり
し先考が、控惚の際に五ケ條の大方針を立案せしも決して怪むに足らす。云々
と説明は十分では無いが、大鶴はこれにて霊きて居る。
右草案の起草された月日に付ては顧岡は、
恐ラク慶應三年十二月末日頃ノ事デモアッタロウト思ハレルガ固ョリ断言ハ出来ナィ(㎞
平案起稿はどうも伏見戦争の前でなくてはならぬ。(㎞。
とあるが、由利の賞話には、
正月七日夜御親征被仰出たるに就ては、共名分天下に御布告あるべく、且又曾計の基礎御決定
あるべしとの事で、参興たる大久保、廣澤、後藤、顧岡、岩下、吾等は岩倉公の出席を乞ひ、
大に議した事である。何も突然に起った事なれば誰とて方針の有様は無く、只岩倉公へお迫り
由利 公正 八九
幕末維新の人物 九○
致し暁に至るも決せず、無擁共儒にして席を別れたが、途中も心安からす、ラト思ひ付いたは
岩倉公へお迫り申たもの\、萬一吾に方針を命ぜられたならば如何答ふるぞと考へ、岡崎屋敷
の小舎へ騎り、石筆を執り時事の大鶴を案じて、鼻紙に認めたは五ヶ條なり、それこれする
内、再び出勤すべき時就に成り、寝る間も無く茶漬を食ひ、村田氏毒に書面を見せ、眠き目で
書いた事なれば譲んで呉れと言ったら、村田は一言のいふべきなしと大に感じて、夫より老公
の御機嫌を伺ひ、常八日は個太政官移轄の日であり、吾御用係なれば諸向の手配萬端多事なる
故、早朝に出勤したり。それこれ差圓をして居る内、毛受洪が出勤したから、彼の五箇條を取
出し、個名違も無きかと尋ねたが、相違無しとの事に付懐に入れた云々
とありて正月八日のこと\なって居る。坂崎城が由利から聞いたのは九日といふ(㎞)
ことであるから、正確といへるが、右の質話中に八日に個太政官移韓の日とあるのが問題であ
る。そは太政官代を九條道孝邸に置いたのは十三日であるから、由利が太政官移轄といふのは、
他の混雑した事柄の記憶違であるとい へば、それで宜いが、そうでないとすると、七日といふ起
算獣が間違ったのでは無いか、即ち下間の公文が九日に出たのであるから、夫れ以後で十三日頃
逸の間の、起草では無かったらうか、顧岡は、
私ノ記憶デハ今デモ常時太政官代トチッタ加修駆ノ席ノ上デ矢立ノ筆ヲ以テ書キ合ック様チ気
ガスル
と、いふて居るから参考すべきである。岡部精一説では正月十三日の太政官代を九條邸に置いた
のは形式の日で共質隊は十二月二十九日か晦日に移韓して居ったから、起草の日も比雨日であら
-
うと云つて居る。
攻に、髪間となるは石筆 ㎞)を以て鼻紙に認めた、とあるが由利家に現存する草案は
毛筆を以て巻紙に認めてある。これに付いて由利家の遺族の談では
明治十八年中、東京赤坂中の町なる先考の邸宅にて、余は先考が維新の常時、常用せる懐中物
の内に、鉛筆を以て懐紙に認めたる五ヶ條の草稿を、他の重要書類と共に納めるを見し事あり
これ先効が共手恒中に秘滅したる者なりしが後共所在を失ひたり
とありて鉛筆の分もありし様なるが、現存せる物に付ては、
今之を推測するに、起案の常時、太政官代に於て懐紙に書したるものを顧岡氏に示すに、鉛筆
由利 公正 九一
幕末維新の人物 九二
の跡不明瞭なるに因り、太政官代に在りし巻紙に毛筆を以て韓寛せしならん。又比時顧岡氏も
先考とは同じく制度掛なりしかども、先考の事務は曾計に在りしを以て、制度事務の顧岡氏に
清書を託し、氏は清書の後原稿を返戻したるに因り、二通の草稿を我が家に博ふるに至りしな
らん。
との、説明がある。これ以上のことは今日では判らないのである。
由利の草案に封し、土佐藩士にして参興たる顧岡藤次 (考弟子爵)は、加筆して、
曾 盟
一、官武一途庶民に至る逸各共志を遂げ人心をして巻まざらしむるを欲す
一、上下心を 一にし盛に経輪を行ふを要す
一、知識を世界に求め皇基を振起すべし
一、徴士期間を以て賢才に譲るべし
一、列侯曾議を起し萬機公論に決すべし
と貸し由利は共末尾に
諸侯會盟之御題意有等之物に可被视出我
U、 追書し、 福岡は、
大放之事
1 、 列侯會盟ノ式 、 列藩部员使2 式
U、 派畫し東にク を、
會 盟
1 、 列侯會議を興し 高機公論に決すべし
、 食糧食に至る資金 を遂げ人心をして優良さらしれるを徴 す
1 、 上下心を 一 にし 勝 に総統を行か べし
| 、 智離を世界に求め大に皇基を振起すべし
1 、 微士期限を以て資本に議るべし
右等之御都 可被视出成日在會盟相立候補に て大敵之金 可被视觉
| 、 列侯會盟ノ式
由 和 « 九三
嘉來維新 の人物 九四
| 、 列藩道员使 ノ式
U海書した。
これを更らに、 木戸事先が加筆し、 會盟式の盟を書と改め、 微士長 の 項を制》
蘇萊2軒ア競り、 学術 評議 後フ « »
の 項を加 《、 と の 字的《通義 を ︽地 ノ公道 U改めた。 天地 2公道 % 的 《通
義 も、 共に戦闘公法(國際法) の意味である、 羅來》原宮 とは、 主として飼養の思想を
指した のである。
新く て、三月十四日、神聖なる儀式を以て、五萬條の御書文を務府やられたのである。 後年、由利
が、民選議院設立建自者に加はり、 元老院議官に任せられ、第二 帝國議會に貴族院議員に選任 せら
れたのも、この図線に基づくと語って可なるのである。 《武春藤新前後に於ける立战果想象限)
五、 明治政府財政の確立
由利の功績の中に、 最も大なるは、 明治新政府の成立に際し、 財政の 基礎を確立した と と で
ある。
由利は、慶應三年十二月二十三日、御用金穀取扱方に任ぜられたが、新設の明治政府は殆んど
無一文に近い窮状であった。そこで、各方面に奔走し、常座の急を救ふ貸めに京阪の富豪に、献
金を命じたが、同月二十七日より翌四年(㎞)正月末日逸に集った金銭は、三高八千除雨と米千
二百石除とであった。
その間に、鳥羽伏見の開戦となり、東征大継督の進務となり、軍費の支出が焦眉の急となり、
潮く正月二十三日を以て曾計基金三百萬雨募債の件と金札(俗に所請太政官札の発行) の議が決
定せらる \に至つたのである。
由利の質話に
岩倉公の出席を求めて廣澤兵助、岩下方平、後藤象二郎、顧岡孝弟、大久保利通と自分とで大
評議を開いたが、その時廣澤が是非共武拾萬雨を用意すべしと言ったのを、自分は武拾萬雨位
の金では何等の要をなさぬ。少くとも三百萬雨は準備せねばならぬと主張した。廣澤は現時の
有様では、斯の如き大金を得る方策は覚束なからうといふ。自分は出来ても出来なくても作ら
由利 公正 九五
-
幕末維新の人物 六
ねばならぬ。自分は是非作る考だが、只御用金を調達するといふ丈けでは、中々應するものが
ない、調達した金は皆返済するといふ事にして、共返済方法は金札を発行して之を人民に貸
渡し、之を以て殖産興業の資をなさしめ、十三ヶ年間に元利返済の方法を立て\共金を以て調
達金の返済に充つるものであるといふ理由を述べたところが、然らばそれを貫行して見ようと
その内相談が極つた。
即ち、由利が越前藩にて質行したることを、政府に試みんとするのである。
斯くて、曾計事務総督より
今度より天下更始一新公明正大之御政道被貸行候に付費用金先づ三百萬雨被貸積置度御趣意に
候依之京大阪不申及無遠還富鏡之者共調達貸致是を國債とし萬國普通之公法を以可及返舞決し
て後日之難瀧に不相成候様可取計候間無懸念早々調金之儀曾計事務裁判所江可申出事
と達し、二十九日二條城に京都の富豪の主なるものを召集して、曾計事務継督中御門経之より
論 達
比度於太政官萬機被聞召候ニ付テハ金穀共外民間戸日賦役等ノ儀凡テ曾計局御取扱ニ相成候ニ
位英方共同後會計師用被空位候間傳レモ 學相心得正路与以上下共産支無之機構*書力可有之事
尤是造生來 9體通 人物論新規取引ノ樂手術體成功登ア以手度想通す キラレ度神經意 德蘭公府
之家第有之修 大 » 早々 可中出事
金子論 自高兩
右 大 比度會計為御方立國建可有之事在返鄉之德 大石高了以御引常 被成下條等候得共同好之
擁有之後 可申出事
總3 て大阪の監察にも、 これを論した。 が、 三百萬兩といふ大金に驚いて これに順子るものが な
かつた。 然るに、 更らに御魔術大阪行幸の愛用が必要となり東都、 大阪に各五萬兩院を調達だし
れるとと 1たり、 その中三萬三千頭が納付きられたに過ぎなかった。 しかしてまた、 關東大橋接
使東ド誌 に甲羅寶入金として五輪高兩の必要が生じ大獎、 魏、 西宮、 伊丹、 漢、 江州等に
で、 斯(命委的兩を調達し得たに過ぎなかったので、 三百萬兩の領に達するには容易なら安徽宗
業であった。
一方金和發行に付では中利は、 越前藩の手を経て、 金和調製に着手し、 四月十九日を以て
由 和 « 九七
幕末維新の人物 九八
皇政更始之折柄富國之基礎被貸建度衆議を霊し一時之構法を以て金札御製造被仰出世上一同之
困窮を救助被遊度思召に付常辰年より来辰年まで十三箇年間皇國一圓通用有之候御仕法は左之
通相心得可申者也
但通用日限之儀は追面可被仰出候事
右之通被仰出候間末々逸不演様共向々より早々可相鍋候事
一、金札御製造之上列藩石高に應じ萬石に付豊雨づ \拝借被仰付候間共筋へ可願出候事
一、返納方之儀は必共金札を以て毎年暮共金高より一割宛差出し来辰年逸十三箇年にて上納湾
切之事
、列藩拝借之金札は富國之基礎被貸建度御趣意を奉鶴認是を以て産物等精々取建共國盆を引
起し候様可致候
但共藩之役場に於て狼に遣ひ込候儀は決て不相成候事
一、京撮及び近郷之商質拝借願上度者は金札役所へ可願出候金高等は取扱候産物高に應じ御貸
渡相成候事
一、諸國裁判所始め諸侯領地内農商之者ども拝借等申出候へば共身元厚簿之見込を以て金高貸
渡産業相立候様可致遣犬返納之儀は年々相常の元利貸差出候事
但退邑鮮阪と難も金札取扱向は京撮商賞之振合を以て取計可致事
一、拝借金高之内年割上納之札は於曾計官裁捨可申事
但正月より七月逸に拝借之分は共暮一割上納七月より十二月逸に 拝借之分は 五分上納可
致事
右之御趣意を以て即今之不融通を御補ひ被貸遊度御仁倫之思召に候間心得違有之間敷犬金札を
以て返納之御仕法に付引換は 一切無之候事
と達した。
始めは、全國の人口三千萬人とし共石高三千萬と見積り 一人一石に付壺雨宛の醸算を以て三千
萬雨の発行の醸定であったが、後に千八百萬雨超過して四千八百萬雨を発行するに至った。これ
は金札の発行は由利の主張の如く、本来は、殖産興業の資金に充つる目的であったが、一方三百
萬雨の基金募集がなか〜醸定の如く、集らなかったところへ、東征軍の軍費催促矢の如く、終
由利 公正 九九
幕末維新の人物 一 ○○
に窮除、金札をこの方面に向け所請不換紙幣の如き意味のものとなり、斯の如く多額の発行を見
ること \なったのである。
しかるに、その流通がなか〜圓満に行かす、大阪にては正金百雨に付き金札は百十五雨とい
ふ相場を生じた、そこで魔法令を発布して正金と金札との差を立っることを厳禁したのである
が、容易に行はれなかった。のみならす京坂以外には殆んど流通しなかったのである。例って更
らに正金同様に通用するよう達したが流通難で債額下落するのみであった。そこで政府部内に反
封論起り、由利は途に、九月二十九日を以て畔表を提出し、一旦は慰論せられたが、十二月二十
四日の布告にて諸上納には金札百二十雨を以て金百雨に充てしむることに定められたるより、由
利は憤然として辞意を決して出です、明治二年二月十七日鮮職聴許となったのである。
しかし、その後、金札は潮攻、信用を増加し全國的に流通するに至り、明治三年には、反って
正金に打歩を生する奇観さへ生するに至ったのである。
由利の辞職を貸すに至つた財政策については、最も有力なる反勤者は大隈重信であり外國官副
知事より曾計官御用を衆ね、由利鮮職後はこれに替って全権を振ったのである。
『大隈侯昔日譚』 に目く
余の曾計官御用係を命ぜらる\や、時の曾計官副知事由利公正等と商議協談して共整理を努む
べき任務を負ひしと難も、(中略)今は百尺の筆頭に一歩を進めて曾計全鶴の上に向って厳鋭な
る論難を加ふるに至れり、是よりして議は盆々由利の一派と相譜はざりし。
是より先き後藤象二郎、五代才助等も、曾計全鶴の上に就て嫌震たらざる所あり、曾計官の虜
置に痛く反封し、中央政府に向って共の革新を追りしも、常時由利は、大久保利通、木戸孝九
等の深く信用する所と残り、且理財家として順る勢威を有せしを以て、多少の反勤非議の貸め
に、韓く共地位を動かすべくもあらす。(下略)
由利は資性順る剛復にして容易に人に屈せず、加ふるに深く先輩の信任を得たるあり、手腕の
以て勢威を占めたるあり。面して獅旦共職を退くの己むを得ざるに至る、時運の然らしむる所
と云ふといへども、今にして之を思へば、赤た隣むべきなり。
由利己に去る、共後に任ぜられて副知事官たりしものは即ち発㎞)なりき。
とある。蘇峰氏も
-
一 ○一
由利 公正
幕末維新の人物 一 ○二
事質を芸へば由利公正は、横井小楠の経済意見を踏襲するばかりでなく、濁自の見解を持し、
坂本龍馬の如きは肥後と越前との間に奔走し、醸て由利と打合せたる事あり。比の如くにして
由利は幽囚の中より京都に出て、直ちに維新草創の財政の運用者と云はすんば、共の重なる一
人となった。
然るに、ゃがて大隈八太郎(侯爵重信)が取って之に代り、殆んど財務の各部に於ける由利派
といはチんば、由利によりて推薦せられ由利によって採用せられたる人々を一掃した。肥後に
於ける横井小楠の寧統に属する質學者連が、明治の初期に於て、大隈に輝然たらなかったの
は、比等の理由若しくは事情による。芸々 ㎞)
と這間の事情を説明してある。
明治四年となり、大隈を退けて由利を起用せんとするの議あるや、伊藤博文、井上撃は、これ
に反封して居る。
又聞、越之経済家㎞)を再び撃て民政ァ委託スト、比ニ至テ在朝人ヲ撃識スルノ活眼チキ面己
チラズ既ニ施行シタル事務之得失ヲ自カラ精ズル不能、終ニ賞罰之大典モ地ニ堕、年恐 明天
子之大徳プ汚スニ至ルニ非スャ、今日朝廷之曾計、潮維持スルヲ得タルハ大隈之力ニ非スシテ
誰カ共初ニ常リ是非ヲ論スル卓議ノ有リクル人アリャ、三岡プシテ若シ 朝廷ニ在ラシメハ全
國之人民一小片紙プ抱ヒテ路傍ニ駄死セシムルノ外チシ、貨幣を鋳造シテ外國人ニ被籠絡共利
プ占得セラル、ノ外チシ。朝廷プシテ終ニ 一大商賞ノ極、損亡瓦解スルフ形勢ニ至ラシムルフ
外チシ。是皆経済之質理ニ明ラカチラサルョリ出ルノ外チシ。在朝之人、未能知之、大隈一人
早ク共憂ヲ知リ之ヲ未萌ニ防、全國ノ災害ヲ除却シテ今日之興隆ニ至ラシメタリ。共卓見ニ及
ハサル面己チラズ、共後ト難モ幾度カ製難危害ニ常リ比難事ニ虜セシメタリ、面シテ未タ共人
物之如何プ不知ハ三尺之小見ニモ劣ルト云ハザルヲ不得也。云々
(明治四年七月十四日伊藤博文より井上撃への書輸の一節)
随分、露骨な酷評である。以て、如何に、大隈派と由利派との封立して居ったかを知るに足る
のである。
始め由利を大蔵省に起用せんとしたのは、大隈と面白からす由利の同情者たる西郷隆盛が、大
久保利通との協議に出でたのであるが、右の伊藤井上の異議あった貸め、木戸孝充より、抗議
由利 公正 一 ○三
幕末維新の人物 一 ○四
し、終に沙汰止みとなったのであるが、その替り、明治四年七月二十二日由利は、魔藩置懸後第
一回の東京府知事に任ぜられた。これには井上撃の霊力があったのである。
井上は大隈の同情者ではあるが、その貸め由利を飽逸排庁せざるべからすとの考を有するもの
ではなく、反って生来の世話好きの性格は、それでは東京府知事では如何と、由利の内意を確め
に行き、由利がこれを承諾し、改革條件を持出したから、井上はそれは凡て賛成である、その改
革を容る、ならば就職するかと念を押し、由利は初論と答へたから、それではとて、木戸始めそ
の他に話し、こ \に決定したのである。
六、東京府政の刷新
由利は、東京府知事に就任するや醸ての腹案の如く、こ \に府政の大刷新を圓つたのである。
先づ人員を陶汰して、冗員六百人を減じ、廊内に代書人二名を置き無料にて代書せしめ、ポリ
ス創設に霊すところあり、町曾所を設立し、物産増殖の途を開き、銀座街の煉瓦街を築造して人
目を奪動し、その他幾多の施設があった。然るに、銀行設立問題に付て、大蔵省と衝突した。
由利の賞話に
最初比の時は銀行とは云はすしてバンクと云って居た。それでパンクの組織を設けて町曾所の
始末をして相琉通する様にしたいといふ考で、太政官にバンクを設けたいといふ建議をした虜
が、太政官では即時に決して早く行って民間を安培せしむる様にとの事で、速に着手する事に
なった。然るに大蔵省が不同意で、どうしても府願にさせてはならぬといふ論争で太政官に訴
へたけれども、太政官ではそりや大蔵省でやる事で無いとて相手にならぬ有様であった、所が
大蔵省の方では常時亜米利加の國立銀行を調べて、 日本に國立銀行を起すの目論見であったか
ら、中々承知しなかった。
とある。その由利の銀行案なるものは
東京 銀行規則
第 則
一、比曾赴は切手を融通して商業を開達せしめ眞に富強となすを以て主意とす
第 二 則
由利 公正 一 ○五
幕末維新の人物 一 ○六
一、通用切手を製すべき財本は販質株五萬を以て定限とし現在金高之同数切手を務行す共財本
に っべき金は新貨幣を本位とし共質株は百圓を以て一株とし一人にて多数を有つも随意た
るべし
但株金は新貨幣之時債を以て何金に拘らす請取るべし
第 三 則
一、官員華士族及遠境之人たりとも販賞株買保つも随意たるべし
第 四 則
一、株式之諡書は個令ひ一人にて百株を有っとも一株毎に謎書を作り番競を記し置右之謎書を
他人へ譲り渡す事勝手たるべし
但共旨曾赴へ届出べし盗難焼失等も同断之事
第 五 則
一、第二則に掲示せし財本を以て製する切手は西洋普通の仕様に微ひ旦共法則に従ふべし
第 六 則
一、曾赴を建る地所並諸造営用切手を製する等の諸入費は先入之財主より立替置明細に記して
布告し新加入之財主へ分割すべき利盆金之内より潮次引去べし
第 七 則
一、利益は曾赴之積金諸入費を差引平等に分賦すべし天災地妖非常之損失も赴中平等に之を受
くべし
但曾赴造営等に引去る高は共立替置たる金高に満る逸利益金之内五歩つ \引落すべし
第 八 則
一、販質株之定限に満る逸は入赴何時にても随意たるべし出赴も赤自在たるべし
第 九 則
一、通用切手は曾赴の蔵へ納め置出入は差配方取締方立合出納を司る者之を取扱ふべし
第 十 則
一、曾赴へ預け金借用金を頼み来る時は共分課之掛にて町噂に取扱ひ預り金貸金共共法則に従
ひ信切に取計ふべし
-
由利 公正 一 ○七
幕末維新の人物 一○八
第 十 則
一、曾赴之記帳面類は毎月赴長継取締並分課之差配方取締方等立合之上之を正すべし
但諸帳面之認め方は犬見易く了解し易き様出納之表を造り厳正精密にすべし
第 十 二 則
一、曾赴に闘係する事件は番く曾赴之記競印を用ゆべし私に曾赴之印を用ゆる事厳に禁止たる
べし
第 十 三 則
、赴中は初論差配方取締方共他印鑑帳へ調印なし置若鉄損し遺失等なしたる節は共旨速に届
出べし
第 十 四 則
一、己む事を得ずして官裁を乞ふの類は都面赴長纏取締或は共他之掛之内にて之に任すべし旦
御法律御布令之筋町法等之儀も同様たるべし右に闘係する入費は曾赴より出すべし
第 十 五 則
| 、 排名表 《 社中各之姓名を自設し港金之高を 認め在所本業等海明細に離し分縣定らば文之を
書加 《晋、し
第 + < ॥
| 、 財本之高司手之數を初め政統之多少會試之語表等に至る造業績を記し上木して興寺 X,
第 + ॥
| 、 公益を起し會社之利湖とも可成事は必ず商議をケベ し
第 + < ॥
| 、 北各社は修卡人民一般使利福通之為に設けたるものたれば體外之人たり とも自己之會離 -
同 之心得に て可否得失見込ある者は無邊區 中心者おるべし
右之修目之通 40 發行やし むるもの なり
明治五王中年二月 東 小 雅
この時 の大藏 着 は、 大限が全權を張で活0新事物の採用に抜 *たる大きあった。 當時、 省的 で
は高田海成 の英國流と伊藤博文の東國流の銀行論とが互に議論さられ て思ったととる べ、 この議
由 和 & | Oた
幕末維新の人物 一 一○
があったのであるが、大蔵省は一顧もしなかった。
しかし、由利の勢力で閣議では通過した。その主張者は西郷隆盛と板垣退助とであった。銀行
の設立に大蔵省が反封し、西郷板垣といふ武人がこれに賛成したといふ奇観を呈し、大隈、伊藤
井上等の新進政治家と、西郷、板垣、由利のブロックとの封立となったのである。その内由利は、
岩倉大使一行に随従して欧米を巡遊し米國の銀行制度を取調べ、英國に渡ったとき、明治五年七
月十九日、突然東京府知事を免職となった。
その免職の原因は、由利の銀行反封者の策動であったらしい。面して由利の擁護者たる西郷、
垣等は間もなく征韓論で、噛堂を去った貸め、あれほどの勢力のあった由利も、爾来官界を断
念したのであらう。
七、文献 自 録
一、由利公正 芳賀 八 瀬著
明治三十五年 八尾書店発行
一由利公正博 三 岡 丈夫述
大正五年 光融館発行
雑誌の論文としては
一、維新史上の由利公正 京 日 元 吉
昭和十年 史観第八冊
が最も要を得てみる。その他維新史特に財政史には必らす由利の貸めの記事の存せざるはない。
/
君が ため いそく旅路 の 荒血越
衣 の雪 をはら ふま も なし 八郎

由利 公正
幕末維新の人物 一 一二
日同藩の有志大山宗太(重)来って、将に暴行を加へんとす。八郎、尻く之
「を察し怒ち宗太に請って目く大山三千萬雨の反古で天下を買ふたがチント安
目出度い
飲め
一杯
から













去れ 一 山




v








に及 ば
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
エトワード・ スネル
幕末維新の政鍵の裸には、いろ〜の外人が活躍した。それは善い意味のものもあったが、な
かには、また悪い意味のものもあった。
なにしろ、交通不便の時代に、壊夷熱の織んな日本に乗り込んで来る外人であるから、一筋縄
に行かぬ連中が多く、その目指すところはいづれも一掴千金の儲けであった。
和蘭人で、エドワード・スネルといふのは、幕末に早くから横濱へ来て、相常手廣くゃって居
たが、これは常時の外人の儲けロであった銃砲弾薬等の質込であった。
ったが
時勢が追々切迫して、東北諸藩が聯合して、官軍に抗する頃となると、その需要が激増し、
ネルはその方面へ盛んに質込んで居った。この男順る日本通で、羽織椅で大小を帯し、自ら姓名 -
を平松武兵衛と名乗り、日本語も達者で、諸藩の重役連と交際して居った。
エトワード ・スネル 一 一三
幕末維新の人物 一 一四
その中でも、長岡藩の傑物河井継之助と深く相許し、同藩が江戸を引挑ふに際し、仕器書類等
の運送を託され、注文の銃砲弾薬等も積込んで新潟へ着船し、常時の新潟にも着目し、それより
曾津、仙豪へも行き、大に法螺を吹いて各藩の信用を博し、曾津城中では世界の形勢を説いて、
攻守の策を講じ、自ら戦場を見廻りなどして、頻る得意であったが、その中形勢は急韓し、明治
元年七月二十九日、官軍は終に、長岡新潟を陥れた貸め、スネルは官軍に捕へられて進退谷ま
り、命ばかりはお助けと哀願したので、外國人のことではあり、面倒だからとて、これを放免し
たのであった。
然るに荘内藩家老石原倉右衛門が戦死したとき、その懐中に
口演
比度御注文フ定約書サシ上候 御覧ノ上御返シチシ下サレ度奉存候先達テ御注文相チリ右不足
品相記ス虜ハカリ立切御遣ハシ下サレ奉存候
比度御注文ノ四分一金子手金トシテ相渡候様スネル申キケ光ノ事チカラ如何仕候テョロシク御
座候裁御伺候手金御ツカワシノ事ニ御座候ハ 、早速御遺シチシ下サレ度奉存候
小子不快中々快気無御座苦痛ニクエス 旦随分テマトレ臨梅 ニテ大困極仕候
右用事面己申上候
七月二十四日 友 三 郎
継 助 様
左ノ通リ注文イタシ候タメ金子前方四分一遣シ候事 四拾一ドルニテ三十雨三分ニ相チル

シャーピス 六百挺
同s> *一握先達面 まル四十一
御パトョシ二百ッ、シ
比方ハサンフランシスコ江取リニツカハシ置候間殊ニョリ候ハ 、百日程モ日数カ、リ候牛
除ハ三十日モ過候ハ、マイリ可申
同パトロン 百 ニ付四トル三分 六十萬
アメリカミニゲール 八枚則六雨 三百挺
惣繊二帯ミニゲール 十七枚十二雨二分 七十挺
子 トワード ・ スネル 一 一五
幕末維新の人物 一 一六
附属品不残添
二分






ビスボル

十挺
圓 ラ二分





七ツ
航海
銃 日本

五枚
小ル

火薬




五樽

右ノ通リ極上ノ虜御差向可被成下候
辰 七月
エドワルト
スネル君
といふ書類があったから、これが問題となり、終 奈川在勤外國官判事から、比書を添へて、
和蘭領事に談判した。
以手紙致啓達候然ハ貴國商人スネル儀曾津共他之賊徒ト馴合武器類可質渡約定イクシ継高五萬
古屋之 分五稜線 第三千三十二塁手金錢德 赞成績優勝トイッシ後證
別措施以不屈2所幸存保證書類2德 修的面 有之地 或政府之後許多不支
《 魔族後不相成像 中海產 黨之其上或政府 尹德對中之職德 邁德被列傳送分
陈寿間相當之御魔術者之要有大道«可及獨聯合使得共產商前書體從 東映像神劍道
三事變 不 m2部政上2上我方 《 御引渡有之德機酸度北段可得德加此海德
以上
八月 二十三日
非 關懷 有 氣門 從神
寺 桜花押
荷蘭阿士
ダブリー ・ フワンチルクック質下
亦名 の肩書に岡士とあるのは、 コンシル の音譯である。
この書に源《 友書類といぶのは、 前擁護神の翻譯の更に知識したと思はれるºŞが伸ばって居
エトワード ・ スネル | | }
幕末維新の人物 一 一八
るが、少し相違があるから、これをも掲げる。
荘内侯執事本間氏ト エトワルド スネルト取結へル約定
短シャープス騎銃 六百抱 但一分
銀七百二十個
洋銀二萬四千枚 但一抱ニ付四十ドル宛
比 一分数百二十
スプリングラキールド銃三百抱㎞
債二千四百ドル
シャーブス騎銃弾六十萬百 二付四ドルッ、
債二萬四千ドル
短ェシラキールド銃七十抱㎞
債千百九十ドル
パトロン 二百ツ 、
ウィッゥッシル銃十抱
俱三百 八十 ドル
*-| ッ | ). 《 三十 六 K
日本館開 立校 |ドレツ ) + 西 ドル
火藥 ㎝
通計五萬二千百 三十 一 下 化
右手金二分五リン 一 萬三千三十二ドル
八百 六 十 八

八月十八日 十議論
新潟すぐ }
エドワルド ・ スネル
然るに領事よりは遊客がなかったから、 更らに和關公使に勝利した。
以手紙教義上條然者其國商人スネル機新潟 *< %討議使ト國合式蒸氣候約定イクシ 所 命後取
候機 付を使政約之機失建 チ中等高陽城外 一人当 リ意图阿士ト別號之通中入德 《 共于今回答無
エトワード ・ スネル 11 月
蘇東維新 の人物 | 11 O
-
之際 空港 m 2外 《 保リ候機 付車 及 經取和之上師所腹股下展在條有之都可得獨意如此制度假
以上
十 月 一 日
東 久世 中 將 死神
和關公使
" - アラクラフ ・ ファンボルスブロック
そこで、 十月二十三日 に訴訟, 3 % と とになったが、 スネル はなか(周しない。 その答辯書は
日本政府 2期著 《 對 シチ被差出德語歌之事 府同修司教團下之命題者在之通中越候
今日本政府之手 アル的定書之機 大 部署其的定之都相乘ン不中共約書中 記載 キシ手術金之後
決議取不中裝有約定書ラ達 の サル郡 大 规置郡者批部之期三條ト 重 約定取結候機神座德烈し
武者 於 不法之義ト 在»不中德瑞安 七月 十四日 議。體 機遊樂之國新潟
開始成侯德學院生种意大利亞公使 司 5公然亦告有之英國亞民之外 被地 離婚事 之被禁烟者
ス 人 無之總共領新福之政府 公然政府之處置ラナシ 朝著新編 到着キシ福 瑞者并 被地
アル外國人之為 在 北部官员之處置 其地政府之處置 有之事務 し無之德光景秀樹物之
傑 弗朗 基 在政府 《 道上相続然ル上被地之語德林 郡高人 《愛護之機被發售日常地大樹
ョ リ資源之久郡者 へ 送リ越候補物中 重 武器有之德日朝著能存民族通
天皇朝下之政府 尹機將長崎 }日 « 武器并能組ノ如キ品 * 隊 シク被取號艦 尾 北部政府 取
波德國隊之理す ルシ被地ク製油者 被中關條間部署之商场并 强者 《 龍»候補物梗概»
其上智明物相變 »德約定イクシ 線機制服裝有之舞う以石之說認 2頭 し サキ事トラベキッ"
ナラス大法之後ト海 等候在中通線通新潟 湖者フ文配 スル人無之修得英東地政府之法律 學
從 文化 得 天文英地帶在七 » 般無之故構道《 韓德イクシ家族被 劉德瑞塔爾物之武器合
李福生 リリームル航中 能 »武裝填海湖之歌う レ 德統治制者之海物 の論其外卡 卡 素敵す
レ 德而已ナラス 期著平 フシチ保命教條家第 1位都酒之金子并 他人ブ有 屬スル金子都合天
萬兩種 虛 無敵機械»料中裝日本政府有暴行う評すし彼得 太郎 與政府之處置相機等 等在德
日文翻 新潮 安徽 ミノ 商業之事 大都ア政府之關係 無之月新然出來顯卡被下毒在條橫越升長
術之大商新潟而已す ラス西北之海岸 北部リ語使 李明や シ 港 *イチ橋種之浦島ア北部之語
エトワード ・ スネル | 11
-
嘉來維新 の人物 | 11
德 意義》 等之處和蘭之配下屬スルモノ而已 對シ日本政府 委 會主 と繋在德
郡者之魔物フ際 タク商賽歌德 米澤德 經處德政府發計の上學者取扱之術物ア新海邊リ期
者 フ武器フ賽德侯事例來 裝有御室 专 有之使得 大字源生公使神 アルリシドウア共識人
相立可中结
日本政府 文 譯者之新潮 解在德機感知相成其地 デ商實 スヘキ理氣之義ト被服役使得 大 阿蘭
ンシルファ學學會 有之靈之鍊 金剛 クレ
魔物金字典政府之兵卒業額が武器前27號》系 9シ上 北部之路德 》詩)シ手金
請求被救援 人 無之ト李存续 以上
エトワル ド スネル 手記
*
阿蘭 " | K - ルレシデント
ド デ クラフ ファンボルス ブロック朝下
相違無之島 阿爾公使館始書記官
ケレーシチース
十月二十三日即ち一八六八年十二月六日に、開廷といふことになり、日本政府の代表者として
寺島陶蔵即ち後の伯爵寺島宗則が原告、スネルが被告で、和蘭公使ボルスブルックが裁判長ダブ
リユシハンオールト及エルイカルストが立曾、和蘭公使館附書記官エルチケレインチースが書記
にて、午前十時開廷せられた。
裁判長はスネルに封し、荘内侯へ武器共他賞渡契約に付き、貴君に封し日本政府より訴訟提起
ありたる旨を告げ、訴訟並に前掲約定書を譲上げ、スネルは宣誓した。
それから訳問に入る。
裁判長 問 君は比約定書を承知して居るか。
被告 答 これは私から荘内侯へ送った契約書の草稿です。草稿丈けです。
裁 君はこの約定書の武器を賞渡したのか。
被 左様な事質はありません。右質渡のときは私の方へ二割五分の前金を挑ふ答ですが、それを
挑つてないから、私からは、右契約は履行しません。荘内侯の執事は右草稿を私へ示したの
ですが、私はこれを横濱へ廻はし、望の者あるや否を調査する積りであつたのです。
エトワード ・ スネル 一 二三
幕末維新の人物 一 二四
裁 右手附金を確かに挑はなかったか。
被 決して受取りません。荘内侯の執事が右草稿を持参し國へ騎りましたから、執事が再度来た
ならば、その上にて、私が横濱へ交渉し、この約束に應する組合があるか否かを尋ねる積り
であつたのです。
立曾 ハンオールド目く、能く見るとこの書面は契約書ではない、その理由はいづれの契約書で
も双方井に謎人の署名調印ある管なのに、 この書面は一方のみの署名であるから、完成し
た契約書と認められない。
原告 それでは、比書面は謎擁になりませぬか。
裁 謎擁になりません。
立倉 カルスト目く、これは契約書でもなく、また鶴擁にもならぬ。
裁 被告は一鶴、書類は何虜に置いてあるのか。
被 南方の士官 (官軍)等が新潟 を攻陥したとき、蹴妨に及び、その上欧羅巴人に務砲した
から、私は、診方なく凡ての物を残して置きました。
そこで、裁判長は原告の求めに依り、被告に封し
君は小銃を曾津共他の諸侯へ賞渡したることがあるか。
被 左様です。私が新潟へ行った節は、彼地は北部の政府(奥羽列藩同盟) であり、その政府
から、常地は既に開港となれりといはれ、私は役所へ闘税を挑ひました。
立曾 カルスト目く、そのことは本件に闘係がないではないか。
裁 新潟では南方の軍卒 (官軍)が兵器を押牧したのか。
被 左様です。そして長崎から乗込んで来た南方の軍隊 (官軍) の船には武器を積み込み居り
比方の分は異議なく陸揚して居りました。
裁 その武器は誰人のものか。
被 諸商人の物ですが、その名前は知りません。新潟攻陥の際、私の所持金二萬雨は奪はれま
した。
原 約定書を送ったことだけでも、被告が武器を賞渡したことの謎擁である。しかし右の約定
書が謎擁とならぬとしても、他の藩へ武器を賞渡したことを認むる以上は、この酷でも罰
エトワード ・ スネル 一 二五
幕末維新の人物 一二 六
すべきである。
立倉 それは本件に闘係はない。
原 被告が手附金を受取ったか否かの謎擁は本間から出させます。
立曾 ハンオールト目く、被告が新潟で商業を営みし頃は、彼地にて北方政府の免許を受けたの
であるから被告に不正の酷は無い。
原 それでは例へば、戸が開放しにしてあるときは金を盗取ってもよろしいか。
立曾 ハンオールト夫れは金子の持主が注意して、金箱に仕舞って置けば宜い。
裁 局外中立の布告は南方諸侯の貸にも北部諸侯のためにも同様である。
これは成辰の戦争を南軍(西南諸藩) と、北軍 (闘東東北諸藩) の戦として、列國外交園は局外
中立を布告したから、局外中立は双方に封するもので、官軍(南軍)には賞っても宜しいが東北
諸藩 (北軍) に賞つては不可といふことはない、宜しく公平なるべしといふのである。
原 しかし和蘭條約では、武器は政府のみ買入る\こと \なって居る。
裁 そうではない、右は伊、自、丁の修約にはないから、右の定めは魔したのである。和蘭人
民も、右の國々の人民同様の権利がある。伊太利井字漏生公使から、その商人等が新潟に
て受取りし金の償金を願出でたことがあるか。
左様のことはない。
カルスト、新潟で敵方の諸侯へ武器を費渡したものに勤し訴訟せんとするならば、政府に
てもまた外國人の所有物を紛失せざるよう注意すべきである。
和蘭領事へ預つてある銅は君の物か。
左様ではありません。右は箱館のウイルキー及びガルトネルが碑奈川の私宛に送った品物
です。
被 裁 原 裁 原

被告が敵方へ武器を賞渡す権利あるや否や承りたい。
それはない、しかし政府でも外國人より武器を買入る \ことはならぬ。
領事から債の請書を出せば、政府から銅は引渡してもよろしい。
そうはいかぬ、銅は預り置く。
私が新潟へ送った荷物は南方へ資渡しました。しかし私より外の商人が北部へ資渡したも
エトワード ・ スネル 一 二七
-
幕末維新の人物 一 二八
のへは、何の尋ね もない の です。それに私は単に荷主の支配人として武器を賞拠いたの
で、私は只だ荷物を送る世話人に過ぎないのです。
原 裁 被 原、

私の方では被告のことだけ聞き及んで居るのである。
新潟では凡て、欧羅巴人は誰でもスネルと呼んで居るのです。
原告から被告へ獅ほ質問することがありますか。
書類には双方の調印なく、私の方では約定書とも受取書とも決し奪ねるから、本間を呼出
した上で、右約定書にある武器質渡したるや否や質問します。

本間の方で武器は誰から買れたか、明白にならば、私も満足です。
被 原 裁

幾日程か \れば本間が常地へ来れるか。
二十日とも三十日とも確言は出来ぬ。
日本人だとて謎書を取らすに金子を挑ふものもあるまいから、請取書が本間の手 にあら
ば出すでせう。

それでは本間の到着まで訴訟は延期する。
これにて閉廷した、日本側がさん〜の負けであった。 しかし最後に本間の訳問があるから、こ
れにて盛り返へす積りで、明治二年三月、刑法官(司法省の前身)で本間友三郎を呼出し、訳問
したるに、
酒井徳之助家来
本間 友三郎
右友三郎儀去辰七月上旬藩主命令ニ依テ越後新潟漫形勢貸探索龍越候虜同所在留外國人ョリ器
械買入可致様政府命令ニ付共取計及可旨同月下旬同藩器械掛リ阿部継助ト申者ョリ書東ヲ以申
越ニ付居住ノ蘭商エトワルドスネールト申者ニ及買談候虜即時持合無之ニ付メリケンヒャへ談
シ世話可致旨申聞候ニ付注文書相渡スネールョリモ蘭字約定書受取債ノ儀ハ直ニ聞取書記イタ
シ債高ノ二分五リン手付金トシテ相渡答残金器械着次第相渡答約束イタシ右スネールョリ受取
蘭字ノ分債付共衆テ出張龍在同藩家老石原修右衛門へ相渡右代金前後渡方ノ儀モ申聞置虜同人
至急用向出来騎國ノ湖於途中貸官軍死亡致シ書類等モ 一切散失共節新潟一圓戦争ト相成候ニ付
、自分モ引取本藩ニ龍在追々降伏イクシ候旨申立候事
エトワード ・ スネル 一二九
幕末維新の人物 一三O
といふ要領を得ぬ答でもあり、どうも勝味もないから、この訴訟はその健泣寝入りとなって終っ
たのである。
公的には比の如く日本側の負けとなったのであるが、初論、その事質が存在しなかったのでは
ない、 大に存したのであるが、その荘内藩が買入れし事情に付ては、「㎞ 奥羽シ史」
には、
庄内侯が奪西軍に抗するに常りて、魔下兵員を見るに足が不足を告ぐる大なるを以て外人に供
給を申込みしかば外人は横演にて取引する譚には参らさる所より北海道函館に来って共到るを
待ちしか程に庄内侯勤大阪鴻ノ池の博説を耳にしたりと云ふ依て伐かに説を改め庄内侯とは断
じて取引せすと宣言せり庄内侯の落藤それ木から落ちた感ありき比時に常りて鴻ノ池事件の常
事者たる酒田の本間家に於ては家恩君難に報ゆるは比時なりと即ち画館に往いて酒田本家の名
義を以て銃砲弾薬を買入借用して是を庄内侯に引き渡したりと云ふ庄内十四萬石の城主さても
信用なかりしものぞ思ひは博説鴻ノ池事件奇略に富たる一軒の風来人本間家の祀庄内侯の借用
誇書事除談に移るを以て遺感ながら筆を止ね云々
阿部正己氏の 『荘内藩軍船』 に左の 一節がある。
庄内よりは石原倉右衛門が新潟に差遣さる\こと なったから、銃器購入を引受けた本間外衛
は本間友三郎を倉右衛門に随行して新潟に遣つた。外衛は本間家の常主で、友三郎は共弟であ
る。・・・・・・ この時、友三郎は新潟に至りてスネルと契約を結び、酒田に居つて本間家の財政を擁
常しておた本間惣助にあて\、手金四分の一をスネルに渡すように通知した:
スネルの二船の行動について、再述するに、五月末に荘内藩と銃器購入契約を結んで、弟スネ
ルは横濱に、兄スネルは新潟に向った。弟スネルは六月甘五日仙豪に立寄りて横濱に至り、銃
器を積込んで七月十日仙豪に上陸し、更に曾津、米澤の注文を受け、十日過ぎ酒田に着いた
が、兄スネル塔乗の船は酒田に確泊して居ない。依って新潟に居ったことを聞き、新潟に出帆
し、七月二十五日夕刻西軍が新潟を占領した日に着いたのであらう。:
二船は八月一日新潟を出帆して二日酒田に着いたのである。:
スネルが酒田に到着するや、前に注文した銃器の引渡をしながら、友三郎が新潟で注文した銃
器の注文契約について折衝したのである。この銃器の新注文に勤して、若干の手附金を交付せ
エトワード ・ スネル 一三一
幕末維新の人物 一三二
ねばならぬが、金は既に鉄乏して無い。依って究策として奇擁丸を手附金即ち契約金として渡
さねばならないことになった。この荘内藩唯一の軍艦をスネルに渡した理由は、前記の銃器新
注文の手附金の意味もあったらうが、スネルの忠言によって、近々越後方面より西軍の軍艦数
隻が来襲することになった場合には、この一隻の軍艦では直ちに撃破さる\か、或は奪取さる
ることは常然である。之が貸めにもスネルに引渡するを有利としたものであらう。
奇擁丸が、三月三十日酒田港に着いてから四ケ月を経て、八月初めに、スネルに一時引渡すこ
- - - - - -
と \なった。
奇擁丸を手附金に替へて渡す事の考案は、松山藩 (今の松嶺)家老山内貞之助の案出したもの
と見ゆる。
曾津藩仙豪藩との闘係に付ては、松山(松嶺) 藩使者、鈴木廣禰の仙豪在舎中、米澤の小見鍋
蔵、曾津の諏訪常吉より見せられし書類の寛なりといふのに
仙豪二軒茶屋に於てフロイス人と應接大略
通詞を以て面曾 を請ふ、速に承知せり、通詞彼が居間に案内す。座定て互に初封面の濃を述
%、 我不日進擊神様の手等 たれとも無機其他調はず、 希くは我が大義を助け、 無機工業をし て
不足をしひる事たかれ、 彼氏、 比方の諸侯、 大義を撃げられしは、 西洋各國處し活れり、 我等
安に来るも、 素より話者の志を成さしめんと鉄し て北、 何品なりとも、 御用水0義すべし。 該
制中、 ライスノル 、 シャンメン湾港出し、 自身的し て武等に飲ましむ。 終而其產を引く。
通國 武、 比度の歌劇節易にし て変更遠に相法し、 ライスノルノフ 英格をしと中越。
長也月十日
フロイス 人 N イスノル
同 ノフ
同通路 太田原 三郎
會來兩漢に て
第 一 高貴妃 阳离大千兩位
電管自覚 +爾金
製作主義大十萬發 | 第 二千兩
エトワード ・ スネル 三
業本雜新 の人物 1 三四
二萬ドル
日本 ダ 軍用于原位
右之手府金二千兩相愛す
横文字體交受取
右を通制和解大略
橫濱に面来几四十日之內に常地加泰に来るべき散館にてテキスト ル航中康復に時來るべき始皇
合軍管の手術金として二千兩を
米澤の士官 小兒線
會津の 士官 爾諾克兄
より落手やり
八百六十 八年第八月二十七日
仙基に於て N イスノル
フロイス ライス ノル
同 ノフ
同通詞 太田 源三郎
米澤 小 見 鍋 蔵
曾津 諏訪 常 吉
仙豪 川田 兵左衛門
ライスノルはスネルである。
また左の書類も博はって居る。
七月朝日新潟奉行所ニ面應接
●スネール
常港ニ大統領ヲ置へシ子細ハ奉行トコンシュルト争論之事有リテ本國ョリ掛合ニ及テ湖ク人チ

○四藩
エトワード・ スネル 一三五
幕末維新の人物 一三六
白石ニ 宮ァリ閣老アリ同所ニ面取扱へシ
●御犬
比方之形勢 宮之御在所ニ列藩ョリ登人ツ、、ミニストルプ置チルへ シ共内ニ外國事務ヲ定ル
事ヲ欲ス外國奉行ハ構軽シ依テ大統領之間ニ全権登人ヲ置ンコトヲ欲ス
●官ノ御座所ニ議政府ヲ立各藩集リ事ヲ議スルカ
○御犬
●議政府ニ家老ヲ出スチルへシ共長ニ板倉侯小笠原侯可然
○御犬
●前條私丈ケ考プ申上チリ御取捨ヲ願フ
O常港ニ商人ノミ来ルトイラモ談判ニチラス構ノ有ル人ノ来ルヲ希望ス共道如何
●奥羽列藩ョリ各國ェ書状遺ス共趣ハ日本常時之形勢ニテハ商買モ薄ク外國ニテ困却チルへシ全
構ッ人来ルョトヲ欲ス云々申遣ス時ハ各國之評議承熟談ニ及察事書役之仁ヲ遣シイギリスノミ
ニステル不承知チリトモ各國ノ公論ヲ妨ルヲ得ス
●板倉小笠原命ヲ受ル所チシ如何
○奥羽越列藩衆議ニ面之推立ン左様チラハ 一定シテ西洋各國喜ハン
●板倉小笠原ハ奪敬セル人チレハ列藩ヨリ外國懸リミニストルプ頼ム へシ
●議政府ニ諸藩之家老集リテ事ヲ議シ外國ヨリ書輸プ送ル時ハ議政衆ニ面衆論ス へシ
●徳川氏ハ己ニ魔セシ上ハ徳川氏之臣ハ三州ニ交リ議スト云チルへ シ
●各國ミニストル来リテ政府イツレニ在ルト問ハ如何答ル
○白石ニアリ然レトモ個リニ三州集リテ眞ノ政府ヲ立ント欲ス
●ラ ロイスノミニストル来リテ問ン南北雨部ニ立ントスルカ一 ニ定ントスルカ
○妊賊ヲ除テ 帝ノ政府プ定ルト答ン
●ロセッ諸侯ヲ京師ニ集テ衆議スルヲ大君ニ進メタリ薩摩之ヲ悟リテ比極ニ至レリ依テ外國ノ説
ニノミチッムプ患フ
●大君大坂プ去シャ、スイッルノミニストルニ告、日本ニ戦争プ始ルヲ好マス我位ヲ避テ人才プ
進ルヲ待ト外國人今ニ至テ遺織トス
エトワード ・ スネル 一三七
幕末維新の人物 一三八
●京師ニ 一大君プ立ルプ申立テハ 如何
○日本政府プ眞ノ一政府ニスルコトヲ奥羽越既ニ評決セリ外國ニモ比條理ヲ貫通セシメント欲ス
●御先西洋モ感心スへシ以上ノ談判ョーロッパ人ニハ語ラス私ノ言ニ従ヒ不都合ヲ生メハ甚恐縮
ス私ハ皆忘ルへシ唯御勘考ニ備ルフミ
○外國来舶取扱ハ 如何
●外國船ノ来ルモノハ直ニ番人プ付ル也
●番兵乗入通リ切手持参有無ヲ問ヒ外乗組ノ員数ヲ改メ日本人之乗合プモ改ムへシ
但舞富ハ比方ョリ持参ス へシ
○来船之用事チクシテ院泊セシ取扱ハ如何
●院泊ハ不許不法有ラハ舶プ奪ラモ尚可也
●番兵等手配不屈時ハ不評判ヲ受ケンモ残念也急ニ規律ヲ立ルヲ乞フ
●常港ヲ開クノ手数興程六ケ敷カルへシ外國ノ事情ニ通スル人ヲ撰シテ熟談有へ シ
●宮ノ御座所定ラハ軍事懸リ全権一人ヲ置へシ
●年海關クシ後 外》進入 了禁スペシカ合之形勢方«ノ海 人レト時 ファル獲選 人間達と有
ルプ選 ル德 文觀察シ 一 進 號スペシ
●通切手之時參キサレス海船ラ神アス開港之後 ス外國2 動手 不義な
●此節大 政府すット通 ア映像すり前後進的有 時 軍李 成ル也深 ク質4 = }
O" + <港之需求援之子期間プ
●緒帝フ命ックベン軍艦 チ来し スミストルス後2般 ョリ數是 說服中三義 共時上官在
六名之邀» デラ通う モノ曲 家 來N 大陸 9分リ難シ只人ア道» RES 4个附アイスノ
"K“ 羯 庁前 と チ來 被 通シカ道路中 へ 導 率兵三十名ア語 、 シ 門番 人ア建

●" K “ 大陸》時被2款第 9號是 說德十三子發ス諸般2節此方 文中七發x >>
ルスカ發 コンシ ルセ ネラー ルス 中 一致
O會津江 ミニストル本リチ政敌人 如何
●大將條通行之規則 可被成下條
エトワード ・ スネル
1元
幕末維新の人物 一四○
●アメリカ イギリス フランス ロシャ等ノ大強國ハ最御敬ァリクシ (黒井悦次郎氏蔵)
『青淵先生六十年史』 の雨夜譚の一節に
上海へ来てみると、同虜の旅館に、濁逸人のスネールと長野慶次郎とが止宿して居った。比の
スネールといふ人は、戦争の間、曾津藩に聘せられて居たが、落城の前に兵器が足らぬといふの
で、鎌砲を買ひに来たのであって、長野は共通群として同行して来て居るといふ ことが分っ
た、自分(㎞)は長野とは前日から知人であった故、民部公子(㎞)が上海に着して、自分
も随従して居るといふことを聞込で、直ぐにスネールと同道して面曾を請ふて来たから、逢っ
て見ると、長野のいふには、薩長などが官軍と唱へて武威を振って幕府に常るから、曾津が
主となって奥羽諸侯と合従して、これに敵勤して居るけれども、兵器が不足で充分の事が出来
ぬから、鐵砲買入の貸めに常地に来たのであるといふから、自分が長野へ問ふには曾津は既に
落城したといふことを、香港で聞いて居るが、質説であるかと質して見た虜が、長野の云ふに
は、共確報はまだ得ぬ。併しながら、個令落城したからといっても、残賞が多くあるから、是
非一度は換同せんければならぬ、又比スネール氏などは外國人ではあるが、眞に力を入れて
居る。就ては一っ相談があるが、即ち民部公子の進退で今直に横濱へ御騎りにならずに、比の虜
から直に、箱館へ御連れ申して、箱館に雄擁して居る海軍(㎞)の首領としたならば、
一鶴の軍気も大に張るであらう、是非とも比の事に同意あるやうにしたいと熱心に勧告しられ
たから、共れは以の外の事で、左様の事は出来ぬ、自分に於ては、公子をして、左様な危険の
地に趣かせることは、甚だ好まぬといって、断然拒絶したことがありました。
シにェ
比ころ、都見格人二人、曾津城下若松へ来り、撤兵調練機械製造の博授をなし、又金山銀山を
見出し是を開きて金銀を得るにより、若松城下賑ふこと大方ならず、既に日光への新街道小作
越へんまでの通用金銀は多く倉津より出づるもの、よし。都見格人雨人は本園にては各園へ勤
し、日本曾津へ脱走せしよしいへど、質は國王より内命を受て来りしものにて、都見格國の人
気と曾津漫の人気と、人気同じきにより、斯親しきに及ぶといへり。
とあるのは、スネル兄弟のことらしい。
また「日々新聞』(㎞)第三戦にも
エトワード ・ スネル 一四 一
幕末維新の人物 一四二
比頃曾津藩にては備朗西人雨人、学漏生人雨人を雇いて日々盛に武事を稽古し共外國産を推ら
へ銀山を開らく様種々の目論見これあるよし或人の話なり。
「中外新聞」第三十八競(㎞)に
字漏生人雨人越後より上陸し元込の施條銃を撃く曾津へ資込旦博習を貸す由質説なり。
とあり『遠近新聞』第十八競には「土耳人二人」とあるは、いっれも同一の事柄らしい。スネル
は盛んに宣博して居ったのであらう。
その他米澤藩との闘係に付ては、
軍器弾薬が報かぬ様ではいかぬ今日に至っては彼足れ言って居られぬシ人(参考案君自く英
國人にあらす㎞ 人なり)のスネルといふ者が来て居るから元込銃一萬抵だけ獅乙から弾薬
附きで求むることにしたい云々。彼の一萬挺の軍器と云ふものが二十三日に到着したけれども
不幸にも潮加減の工合が悪るくてからにガシャ〜〜して揚げられないで二十四日から揚げ
始めて牛分揚ったか揚らない中に這入られて仕舞ったそうしてそれは皆高鍋の兵隊ゃらにッッ
クリ分捕りになって仕舞ひました牛分から上は船に残った共の事は他日大鍵苦情になってあっ
たが前に二萬圓といふ金を遣つてあつた一鶴十七萬圓遣らねばならぬのであるから跡十五萬圓
といふものを濁逸の商人から頻りに催促して来たけれども是れは最う太政官の方へ共趣を言っ
て蹴挑つて仕舞ひました彼等は元と局外中立の條約に背いたものだから之れを公然訴へる場所
が無くして牛分の鍛砲は持ち騎ったけれども牛分の録砲は更に角官軍の御手に道入って國家の
用になったといふ結果でございます(千坂高雅談、史談曾速記録第百二十二韓)
といふ有様であった、被告側となっては抗群最も努めたスネルも原告側となって請求出来なかっ
たのは口惜しかつたであらう。長岡藩との闘係に付ては
継之助(㎞)は江戸に留まりて藩邸引挑の任に常りしが先づ主家の重要なる家賞の外異代積蔵
せる書書仕器の類をエドワルド・ スネルの手を経て横濱在住の外人に質却し数萬雨を得、更に
スネル及び横濱在住のフアーブランドより最新式の大砲若干小銃数百挺を購入せり云々。斯く
て継之助は藩士根岸勝之助等百五十除名を率ひ桑名侯を始め倉楽の諸士と共に該汽船 ㎞。)
に搭乗し横濱港に滞留すること数日衆てスネル等より買入れし銃砲弾薬を積込み画館にては米
穀を賞却し二十三日新潟港に入り同地に上陸同月二十八日を以て長岡に騎城せり云々。始め織
エトワード ・ スネル 一四三
幕末維新の人物 一四四
之助は江戸の藩邸を引挑ふに際し主家の書類付器等の運送をスネルに託せるを以て共後スネル
は委託の荷物と新に注文を受けし銃器弾薬等を所有汽船に搭載して新潟港に着せしに幾ならす
して同地は西軍の領有に騎せしかば一切を撃げて共画獲に騎せり云々。銃器弾薬は折柄新潟港
にありしスネルより絶えす買入れしが、共金額質に七千雨に及べり、左は常時買入れの衝に常り
し鬼頭平四郎 (競少山) の自叙博の 一節にして、能く共詳細を霊くす。『(上略) 曾藩士或は目
く、スネル氏今来りて新潟に在り、彼は貴藩の河井大夫と交あり、往きて謀らば、或は求むる
所を得んかと。余乃ち馳せて新潟に赴き、スネル氏館する所の寺院に至る。諸藩より来りて事を
謀る者数十人、攻を以て戸外に座したり。余直に入り呼びて目く、長岡藩河井氏の使者基と、ス
ネル氏闘を排して出で大撃して目く、長岡藩の使者至ると、座客皆驚きて余を注祀す。余河井
氏の意に出づるとなし、銃器弾薬を買はんと欲するを言ふ。面も賞は一金を獅さ *るなり。 ス
ネル氏直に許諾し、翌日大砲弾薬三千庁除、後装銃四十一挺銃を交付せり(玉附長尺にして無
類の良器なり、後に長岡城族復の湖、屈強の者のみに渡せり、一挺四十二雨づ\なり) 弾丸之に
稲ふ、余受けて之を包装し加茂本陣に送致して目く、水原には弾薬の調すべき者なかりしを以
て夷人に就きて便宜事に従ひたりとて、専断の罪を謝す。重役相祀て言を務する者なし。河井
氏濁り目く使なる哉、使なる哉非常の時、常に非常の計に出づべし、堂格法に拘泥すべけんゃと
気色甚だ喜べり。(中略)河井氏色和き杯を余に属して勢を慰め、且つ明日金を残し往きてス
ネル氏に致し、更に軍器購入を約せんことを命す。余因りて河井氏に問ふて目く、余スネル氏
に於て、因より一面の識なく、又大夫の書を獅せるにも非す、面も彼れ値数千雨の軍器を附し
て疑はす、共の大量なること、我國の商質と零壊の差あるは何ぞやと、河井氏目く、彼の長所
全く比虜に在り、然れども、共質校滑犬も國人の及ぶ所に非す、足下慣で彼を過信すること初
れと後官軍の新潟に入るに及びて彼を縛せり。蓋し彼が萬國公法を犯し、戦地に銃器を買りた
るの罪に座するなり。河井氏の言、果して験あり。去れど余は歴々大金を獅し往きて、彼と軍
器の取引せしも、幸に一度も彼に奔弄せられたること無かりき。明日金をスネル氏に渡し、後
注文の大砲を請取りて騎り、復た新潟に赴き、殆んど五十除日間、加茂新潟間を往復してスネ
ル氏に應接、軍器の取引を貸し、大凡七千金を渡し軍器未納の二千金に勤して預り謎を受取り
て重役に提出せり」。(㎞)
エトワード ・ スネル - 一四五
-
幕末維新の人物 一四六
以てその一斑を知るべきである。
足より先きイダヤ人スネル奥越に往来し賊の貸めに器械弾薬を資し諸軍を指揮し自ら宇内の
軍機を知ると稲す云々(㎞ )
比船(英船ォーサカ)霊の日備獣スネル新潟脱走の時蔵四ヶ所へ残し置く諸商物並に兵器持騎
り候様頼みたれども既に諸藩の分捕となり船師常惑の由。(北征日誌)
新潟へフロイセンスネル着船すスネル見附へ来る押切戦争場見廻り敵味方の模様寛眞に寛す元
込大砲三務放ち敵の胸壁に打つ 一統熟練を驚嘆す二三日滞在曾津へ行く云々。
河井継之助博援用
(㎞)
斯の如くスネルは、或は英人といひ、伊人といひ又は備人、普魯西人などいへるは、その責任を
避けて本國を曖味にした務策からであらう。
このスネルと取引を貸したのが、他日陸軍御用商人として巨富を積むの端緒となりし男爵大倉
喜八郎のあることをも逸してはならぬ。
(上略)男(大倉)早くも比の形勢を看取し、戦争の必需品たる銃砲の商賞に着眼した。眼は
流星に似て機は撃電の如し、一日横濱に赴き外國船に搭して、親しく新武器の輸入状況を祀察
し、直下に明らめ得て、比の歳秋 (二十九歳) 意を決して銃砲店を江戸碑田和泉橋通に開き、
屋競を大倉屋と稲す。常時銃砲は頻る高債であったから、店頭には剛駅、太鼓等の附属品を陳列
して店を飾り、銃砲は注文を得て横濱から買取ることにし、注文があれば、直に横濱に往き和
蘭園の商人ズ が共他の商館より買取って来た。江戸と横濱間には郷籠の外交通機闘なく、又
白書でも強盗の出る幕府の御仕置場鈴ケ森の難所があった。或は生首が轄がって居るなど云ふ
話は毎度の事で殊に、男が注文を受けて横演へ往復するのは、何時も急ぎの注文で、夜中に掛け
て現金を携へて往復するのだから危険を感ぜざるを得なかった。因て頼みつけの旅籠屋の親方
を連れ屈弱の駕籠昇に駕籠をつらせ、所持の現金は賊に目立たないやうに、或は駕籠の天井に
釣るし、或は蒲園の下に敷き、短銃二挺を用意し、一挺は右の手に持ち、イザと云へば直ちに
打放すやうに、索金に手を掛け一擁は左の方に置き、駕籠賃も平常の二倍三倍を興へて、難所
を突破せしめた。獅ほ駕籠屋には、賊が来ても、決して逃げるな乃公がかうして短銃を持って
居るし、モ 一挺は親方に貸すから、二人で六連務を十二務打つ内には賊も逃げるだらう。首尾
エトワード ・ スネル 一四七
幕末維新の人物 一四八
能く乗り切れば、先づ着てから褒美をやると云ひ付けたのであったが、天祐や握かりけん、男
は 一度も危難に遭はなかった。(尾立維孝著『大倉喜八郎』)
れるにたる も





スで

といふ
たから
ネル







何かと便利があったことだら



然うと
ま。
\

し、






スギ


横濱

もの
なる
八 のがある。







参謀






支之
紙申立













喜配人
披 八

右申立之通リニ候
へ ハ罪状ハ無之候得共右様之始末ニハ無之旦顧島へ種紙之貸ニ龍越候儀チラハ速ニ騎演モ可致
答最早顧島モ落城日己歴候得共今以騎演不致候段全申立之通リトハ不被存候元来同人ハ米澤表
ニ出店之家名桂屋喜助ト相唱候由犬右喜八儀ハ五月上旬外國人スネル同船ニテ新潟へ相廻リ曾
米へ参リ好商相働候哉ト相聞申候午去出先之事故好商之始末等院ト相分リ不申候得共前條スネ
ル同船之一條ニテ共好物御察可被成候比時御地曾津用達海屋築太郎米澤出生演屋雄四郎等モ同
船ノ趣ニ有之候御承知ニ御座候通リスネルハ奥羽へ毎々通船妊曲相働候儀ハ顕然之事右異人へ
同船旦前段乗組人名ヲ以相考候テモ大抵難差置儀ト奉存候獅夫々御取調之上御答如比御座候
以上
八月二十九日 下 参 謀
碑奈川府判事御中
この男は、喜助とも喜八ともいつたとある。大倉の和泉橋時代には、新聞賞拠をもして居たと見
へ、慶應四年の 「萬國新聞紙」 の販賞店名に見へて居る、そして始めは喜七郎となって居っ た
が、後に、大倉屋喜八郎となって居る。萬國新聞紙は横濱外人の発行して居ったもの故、これも
ズルの闘係からであらう。
スネルは明治二年に新潟から曾津へ来り、曾津から数十名の移民を伴ひ、米國へ渡りゴルドヒ
ル附近を開拓し、その部落を若松と名付けて居ったが、それは失敗に終り、一行のおけるといふ少
女が十八歳で死んだ墓が、今に現存し、同地の一名所となって居る。近頃、質話文學を首唱し、
「ラグサーお玉」で麗筆を振った木村毅君が、その事填を調べて居るから、遠からぬうちに面白い
発表があるであらう。
共後木村君の 「sosのアメリカ』に 「おけいの遺跡をさぐる」 が出で、また、「日本國民』 第一蹴に河村
エトワード ・ スネル 一四九
幕末維新の人物 一五○
幽川氏の 『めりけんおけいとワカマッコロニイ』 が掲げられた。その他、清澤例氏や文倉平次氏も熱心に
おけいの事填を調べて居る。
『官准中外新聞第二十四競』に
スネル の妻は日本の婦人にして能く他の婦女の世話をなしたり
とあるのは若松コロニーのときの記事である。スネルは曾津に居る日本人を妻姿とし
て居つたのであるから、比時も伴ひ行ったので あらう。
ー〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大隈 重信
一、維新 に 於 ける 大隈 重信
二、明治十四年政鍵の御前曾議
幕末維新の人物 一五二
一 維新に於ける大隈重信
大隈重信老侯の一代の事績は異常なる人物であらせられますから、各方面から修養研究を貸さ
ったのでございませうが、最初は何を申すにも本来の藩地に居られるよりは、近世文化の門戸で
ある長崎に於かれて新たなる學問をせられたのが、比偉大なる頭脳に響いて後世の事業をなされ
たことは、私の今更申す逸もないのであります。共頃の事績が除りはつきり致して居りませぬか
ら、大鶴共頃からのことを断片的に申上げる 積りであります。最初は老侯は 蘭寧を御やりにな
り、それから英寧を御やりになったのでありまして、晩年になりましても蘭學の書を流楊にお譲
みになったと云つて或人が驚いた位でありますが、深く御素養があるのであります。初めて長崎
へ御出でになって各方面の勉強をなさったのでありますが、共中で最も新文化の影響を興へまし
たのがフルペッキであります。比のフルペッキの日記を見ますと、一八六一年のものにかう云ふ
-
ことがあります。
余は二人の極めて有望なる生徒を持って居った。それは副島と大隈とである。彼等は新約
全書の大部分を研究し、又米國憲法の大鶴を撃んだ:
と云ふのであります。比時の新約全書、是が老侯の後の御話に出ますのでありますが、最初は耶
蘇のことに付て寧んだ時には詰らぬもののやうな気であったが、後に是が外交上の談判に非常に
重要なる効果を来たしたと云ふことでございます。常時はまだ切支丹は邪教夷欲と云ふ観念のあ
る時分であったが、若し比耶蘇教に闘する知識がなかったならば、後の談判に付て非常に困った
であらうと思はれるが、比時のことが役に立ったと仰せられて居るので、比の右のラルペッキの
日記が参考となるのであります。
それから又フルペッキは、米國憲法の ことも副島、大隈の二氏に教へたと云ふことが ありま
すが、更に園際法に付ても老侯が御研究になって居るのであります。フルペッキが常時の名士の
谷日藍田とも闘係があります。藍田の日記即ち藍田先生日暦の慶應元年の所を見ますと、
大隈 重信 一五三
幕末維新の人物 一五四
七月二十四日鶏鳴起、課業如例、岡田嘘雲来話、敷設漫幾目云々、
とありまして、更に慶應二年の正月二十日の條に、
枝吉攻郎、小井手仙之助、大隈八太郎、小川孝一郎、中野幸一郎五子至云々、
とあります、枝吉次郎は後の副島伯でありまして、フルベッキと谷日藍田とも闘係があり、藍田
の所にも老侯が御出でになって居るのは、是で分るのであります。フルペッキと交際せられて大
いに知識を得られて居るのでありますが、是が郷賞の佐賀に於きましては、非常に迫害の種とな
ったと云ふことは、老侯の御話の中にあるのであります。比時に長崎では最初はさう長年御勉強
になったのではなかったのでありますが、御騎りになってから非常に頭が進まれた。是は只今で
も御健在の久米邦武博士の御話に出るのであります。博士は老侯とはすっと前からの御懇意であ
りまして、暫く老侯が長崎へ行ってそれから、騎られて、久米博士に云はれるには「君は一鶴人
間の精神と云ふものは何虜にあるか知って居るか」、久米博士は「それは君人間の心は方寸の中
にある。胸の裸に精紳があるのだ」 と斯う云った時に、老侯「それはいかぬ、人間の精紳は頭の
中にある」 「そんな馬鹿なことはない」 と云って議論なさったと云ふことであります。そこで後
年《家博士が は るには 元は同じゃうに準々で眠った久米と大震と地位於今日の 2に別れ
法院は、 北京 義との間後にある と芸はれたのでありますが、 成績を 2いふ とともあら2A
思念 のであります。
ラルペッキに就て欧米の軍側を研究やられたと同時に、 更に観察法の知識に就て早く通話があ
ったのは、 是 が 外交談判に極めて有利な地位に立たれたのに力があった のであります。 其時に
老使が長崎で御學びになった関除法の書は常時鐘にた0ました 戦闘公法 であります。 是 长
亞夫利加のウィリアム ・ マルチン—于植民と芸英名にたつて居る|於 東 イートン の頃法
を導した書であります。當時政宗人の東洋に於ける文化 傳事業と教しまして、 文郡に於で盛
に欧米の書を翻譯いたしまして、 日本へ入って来たの が常時非常に日本の母に利益であった ので
あります。 欧米の文化を吸收するの知識球に燃えて居るのでありますけれども、 常時の日本人は
未だ以て原武に依照系の文化を吸收するには徐0 に力が弱いのであります。 而し て 間に於て
は常時の知識能級と中すのは全部遊學者であります。 所が率いに支那に於高ましては欧米 の書に
授課して盛に出して 活る。 之を設んで常時の世界の大勢に通じました。 本來の準學者は洋學 の知
大 | 小五
基米羅新 の 人物 | {
戰於不十分でありまして、 最初は理化學· 路軍・軍事・総線・治金と 芸人 やうた自然科學の知識
は原書き入る のでありますけれども、 政治 ・ 法制・ 経済と 云よやうな方面は軍る漢語書に依て
早く日本人の頭に入った。 之に依て世界の大勢に通するととが出來たのであります。 共時には幸
いに英米人で非常に漢文の 模態た人が支那に居り まして機後の 漢譯書を出して居るのであり注
す。 今日は逆に日本人が支那に 参りまして欧米の書を 獲評して支那人に改めて 居すますけれと
も、 比時には英米人の支那に於ける文化自傳事業が日本に非常に利益になったのであります。 共
中 の として最も武周期野の人に読まれたのが 高國公法 であります。 支那の同治三年に漢譯
さられたのでありますが、 英文の順義で日本《儀はって来 して、直ちに農曆元年開成佛—
1 即ち歩約の新しい愛間をやる場所で、 後に明治政府に引継がれて後の帝國大學になるのであり
ますが|開成所に於て難到许 られて居ります。 是は 高國公法 と 云 港学を使った初であり
まして、 後には観察法と 芸 家體字が出來る のでありますが、 萬國公法J U し て有名なばかり でな
く、 幾多法制の知識を武藏人に興 《 て居る のであります。 藤に私共上 發しまして最も比書を重ん
じますのは、 初めて構利と 云 心教学を使ったのは比書であるからであります。 それ造は種利と 云
*はなかった。個に熟字がありましても今日の構利と云ふ意味と違みまして、支那の古い所
でシ勢と利益と云ふゃうな意味に過ぎないのであります。それを丁観良即ちウイリアム・マ
ァッに て初めて出来た比本の熟字が法學界の先覚たる箕作麟群氏に依て採用せられて今日の
定㎞となったのであります。比萬國公法に依て老侯が外交上の手腕を振はれたのは、足からであ
るのであります。 *
基外交上の手腕が初めて振はれましたのは、有名なる長崎倉議所の時でありまして、中央政界
の鍵動、鳥羽伏見の観、即ち大政奉還から引績いて急激なる政鍵がありまして、長崎奉行が夜に
乗じて逃げました。弦に於て各藩から出ておる少壮の書生が集まって奉行所を乗っ取って書生だ
けの倉議事務所を作りまして、外國人と交渉したのは有名な話で、更に闘税の取立、共他幾多の
外交問題が起きて比衝に常たられのが考侯であります。自治制と申しますか何と申しますか、鬼
に そこに居った書生が集まって外交に常ると云ふ時代で、鍵態ではありますけれども、最も若
大隈 重信 一五七
西八
義來維新 の人物
陈 寿た時であります。 外交談判を日本國家を代表いたした のぶ。***
… … …生交に戻する場所にめて、 金時の広義 の*
生 於作ったる所副政府に於 して、 外國人と交渉し、 外國人の議制に加しなかった地獄、
後に中央政府に認めらして、 慶長慶の士が属上に劇を執って天下を取ったの 戦士 、
李茂木の青年於熱帯を以て中央政府に書きを置くに至った。 英樹は張靈。*
„g ㏊ 瘤齿の領事 發制を教し、 其他引継いて英國公使 敵軍 をする º º
於 北 の論の髪に師ら北の 商会法 であったのであります。 外國人は基本書式の博物
に使 日本の役人に存かせば在しいと思った所が、 高めちゃ、 北本 興宗寺** *
g た。 夫時 の所開發制相手方たる無關西德事に、後年老婆が外務省では 時に 着は家い
… 3て後に張したではたいか」と 云って集はれたと芸術がありますが、 洪武ºșº家
で勝利西學於義朝として論に離すんば 1令の下に兵を兼ね て日本國を講述すぎ ょ
そちしたが、 義後に繋法を挟んであるから 順軍の力を以て兵力を呼び戻する º 成
… …詞典であったから、 クに襲われたかった 後に 成 の。** *


年 とやなり治りと頃らう と






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重信
大隈
-
幕末維新の人物 一六○
でありますが、裁判所と云ふのが今申す通り行政聴であります。鎮豪と云ふ名稲は後になります
と、陸軍の専属の役所になるのでありますが、これは奮幕以来奉行の唐名を鎮豪と云つたのであ
りまして、長崎鎮豪江戸鎮豪と云ふのは普通の文官に使って居つたのが陸軍の専用になって、鎮
豪が今日の旅園のやうな意味になって来る。海軍の方では好い官名がなくなって昔の鎮府守将軍
を持って来て、海軍鎮守府が今日出来て居るやうな次第で、官名が非常に鍵つて居るのでありま
すが、裁判所と云ふのが各地に置かれまして、明治二、三年頃から裁判所と云ふ名に於て行はれ
て居るのであります。西園寺公も鎮撫継督として一面に於て府中裁判所継督となり、裁判所と云
ふのが行政風、鎮撫継督は行政園の長官であります。殊に非常に鍵ったのは江戸でありまして、
江戸鎮豪の下に市政裁判所、民政裁判所、赴寺裁判所、元の奉行所を引継がれたのがあります
が、共中の民政裁判所が東京府に代るのであります。鎮豪が裁判所になり、東京府になり、奉行
が法衛になり行政聴になると云ふと、鍵な風に聞えるのでありますけれども、共質はちつとも鍵
つて居りませぬ。裁判所は行政聴であります。長崎に於ける行政聴が長崎裁判所であります。
面に於て九州鎮撫使、是は軍政署であります。従って裁判所は行政聴でありますから長官を継督
と云ったりして居るのであります。兵庫裁判所継督、播津裁判所継督と云ふ名があります。従っ
て参謀と云ふのも軍事に限りませぬ。軍事の場合は特に軍事参謀と云ふのであります。比時の老
侯の官名の長崎裁判所参謀と云ふのは、普通の行政願の事務官と云ふ意味であります。九州鎮撫
使副参謀、斯云ふことでありますが、比方は軍政署でありますから参謀でも宜しいので ありま
す。是が所調新政府に引継がれ、明治元年の三月には外國事務局判事、長崎府判事と云ふことに
なります。外國事務局は今日の外務省であります。最初は太政官八省制を復活する以前に簡単に
継裁、議定、参興を作られた時分には、今日の各省に常るものを局と云ふ。即ち外園事務局判事ー
ー比判事と云ふ官名は今日は法衛の役人でありますけれども、明治初年に於ては継ての行政職に
ある名前であります。知事判事は各省にあります。局長級攻官級逸皆判事と云って居りました。
殆ど同時でありますが伊藤公に兵庫裁判所判事と云ふ官名がありますが、是も兵庫裁判所即ち懸
聴の内務部長と云ふ意味でありますが、一寸考へますと今日の法衛のゃうになりまして、伊藤公
は管ては六法全書を御研究になったやうに誤解するのでありますが、全然違ふのであります。斯
くして所調外國事務局判事として長崎在勤、共中に有名な浦上村の信徒の問題が起きたのであり
大隈 重信 一六一
-
幕末維新の人物 一六二
ます。比時は非上撃侯が参謀、佐々木高行侯が参謀助役、副参謀が老侯と云ふ闘係でありました。
比時が最も考侯の最初の得意な時でありますが、殊に私共が何時も面白いと感じまするのは、比
時の老侯の名が初めて横濱務行の新聞の「もしほ草」に出て居るのであります。老侯が新聞に御
名前の出たことは、日本ばかりではありませず、世界の新聞に於て幾百回幾千回たるを知らす、
恐らく無数でありますが、抑々共最初に日本の新聞に出ましたのは慶應四年i即ち明治元年で
あります。六月三日の発行「横濱新報もしほ草」第十四篇に出て居ります。
ある人の説に長崎港は商法まことによくとの\ひて土商客商ともによろこびあへり、参謀
大熊氏は鍋島の人なり、博識英才にして時勢をさつし急務をあげ邪正を正し仁慈をほどこせ
り、支那はいにしへより日本と和親の國なれば別段によきとりあつかひをなせり、これによ
り唐商とも朝廷のおぼしめしを感載し奮弊のあらたまりけるをよろこびけり。
更に角交通の不便な時代に於て長崎の評判が横濱の新聞に出る、恐らく是は外國人の評判であ
りませう、でありますから比新聞では大隈の隈を動物の熊字を書いて居りますが、是は外國人の
発音ょり云ひ博へから斯うなったのでありませうが、更に角面白いことであります。
斯くして老侯の手腕が中央政府へ認められまして、新政府の外交の要路に立たれ、最も手腕の
ある外交園の代表たるパークスと論籍して下らなかった。老侯の外交手腕が認められまして、常
時の難問たる横須賀造船所の ことに闘して、比重大なる 任務を負はれて江戸に御出でになりま
す。比事に付ては有名なる御話でありまして昔日譚に詳しく出て居るのであります。只それに少
し足りないと思ふ記事があるのでありますが、是は明治初年の大問題と致しまして横須賀造船所
が備蘭西に差押へられて居る。是は幕府が経営したのでありまして、御承知の通り幕末の俊傑小
栗上野介が財政困難の際にも拘らす國家百年の計として横須賀造船所を経営すべしと云ふので、
或人が之を非難した時に豪語して 「賞家であっても土蔵附の資家と云ふならば景気が好いではな
いか」 と云ふ、悲壮なる笑の言葉を以て答へられた横須賀造船所であります。備蘭西人に依て経
営せられて居りましたが、是が十分金を挑ひ終らぬ中に幕府が瓦解した貸に、備蘭西が比横須賀
造船所を差押へました。堂々たる日本帝國の横須賀鎮守府の前身が借金の貸に抑へられたと云ふ
大隈 重信 一六三
幕末維新の人物 一六四
悲惨事が起きた。是ばかりでなく、横須賀造船所を押へて置きまして備蘭西は、一面に於て東洋艦
隊を集中して、政治上に大いに活躍せんとする野心と手腕を持って居る備國公使のロッシュであ
ります。慈に於て先づ何事を差措いても横須賀造船所を受け出さなくてはならぬと云ふ重大なる
任務を仰せ附かったのが、「横須賀出張を命す」と云ふ比時の老侯の御一代の難件であります。「明
治元年間四月十日横濱裁判所在勤被仰付」と履歴書にあるのが是であります。是も裁判所と申し
ても行政聴でありますが、それに付ては金を第一持って行かなくてはならぬが、金は集める方に
於ても非常に苦心なされる。是等は私が販々申上げる必要はないのでありますが、血の出るゃう
な二十五萬雨の金を持って江戸へ船で着かれた。品川湾へ入られるけれども、江戸城明渡とは云
ひながら尚ほ榎本武揚の一隊、幕府の大艦隊は品川湾に院泊して海上権を掌握して居る。そこへ
来た船を所請酷検をすると云ふ際に、老侯得意の一喝で上陸せられて、江戸城へ乗っっけられ
る。常時の参謀継長とも申すべき軍防判事ー比判事も法官でないー大村益次郎に勤して「何
事であるか、江戸城明渡と云ひながら海上の有様市中の有様はどうである。ちっとも秩序が立っ
て居ないちやないか」と云ふ、あの御話のあった時であります。そこで大村盆攻郎は「君の云ふ
ことは犬もちゃが何しろ金がない、兵がない、ない〜霊しちや、どうでも斯うでも仕様がない
が幸ひ貴公は金を持って来たと云ふ、共金を比方へ寄越せ」と云ふ談判。併し比金は横須賀造船
所を受出す金であるが、更に角共金を大村益次郎へ流用して、上野の彰義隊の討伐が出来た。是
は詳しいことを略しますが、横須賀造船所を受出す金がなく、苦心してパークスから借りて是が
受出されたことは有名な話であります。それから後年老侯が継理大臣になられた時に拾も横須賀
鎮守府五十年記念式があり、その時政務多端の貸め臨席はなかったが、その寄せられた祀鮮は月
並の大臣の祀鮮と違ひ大文章であります。老侯の感概さこそと思はれるのであります。
弦にもう一っ大問題は軍艦ストーン・ウォール即ち甲鐵艦の受出し、これは幕府が亜米利加に
詳文致して出来ました所の常時唯一の装甲艦、ストーン・ウオールと云ふ名でありまして、是が
甲録艦といふ固有名詞となり東艦となり、東洋第一の堅艦でありますが、比船が回航の途中に幕
府が潰滅いたした後に布味 から米國旗を掲げて横濱に入って来ました。そこで是は幕府の謎へた
ものでも政府が代ったから新政府へ寄越せと云ふ談判がある。いや是は局外中立でござるから渡
す譚には参らぬと云ふ談判であります。比事に付て老侯が談判せられましたが、それが巧く行か
大隈 重信 一六五
幕末維新の人物 一六六
なったのであります。局外中立と云ふことに付ては私が展々喋りもし書きも致したのであります
から、譲く申上げる必要はありませぬ。常時日本の國内の形勢は政権が何れに騎するかと云ふこ
とは日本人でも分りませぬ。外國人では尚分らぬ。今日の支那の戦争を吾々が見る以上に分らな
かったのでありませう。慈に於て常時の外園人の観察は江戸と京都の戦争、即ちシの戦争
ー大君おはぎみと呼ばすにだいぐんと音譲するのでありますがー大君と帝の戦争で、支那の
東軍西軍南軍北軍の戦争のやうに見て居って局外中立を布告して居るのであります。鳥羽伏見の
戦の前後に始まって幕府からも京都の新政府よりも、外國に向って局外中立を要求して正月二十
五日に米國を主として局外中立の布告があったのであります。これが厳格なる今日の公法より云
へば、出先きに於ける外交官の一料簡で内蹴に勤しての局外中立は鍵でありますから適法であり
ませぬが、鬼に角局外中立が出来て居りましたから、どうしても比甲鐵艦は引渡さぬのでありま
す。常時幕府は新式の極めて有力なる大艦隊を持って居るのでありまして、官軍の海軍は諸藩の
寄合で極めて微弱でありまして、比際比甲鐵艦が何れかの手に入ったならば勝敗を決すると云は
れる位有力なる軍艦でありますから巧く手に入れたいと思ふが巧くゆかぬ。どうしても之を新政
府も幕府側も欲しいが、それは局外中立で巧くゆかぬ。比昔日譚の記載に依りますと上野の戦争
が済んで、政府の威力が示されて、列國が局外中立を解除し官軍の手に入って、北海道で働いた
と云ふことも書いてありますが、それは少し筆が足らぬのであります。上野の戦争が済みまして
も、東北の諸藩聯合して官軍に常り形勢未だ逆賭すべからざる時でありますから、岩倉右兵衛督
具祀が横演に出て如何に懇々説いても局外中立が中々撤回されなかったのでありまして、明治二
年の一月二十八日になって撤回せられて、上野の戦争とは間接に闘係がありませうけれども、直
接闘係は局外中立が解かれたのはずっと共後で、比酷は少し昔日譚の説明が足らぬかと思ふので
あります。

それから明治政府の外交官となられての働きは、私が敷々申す逸もないことでありますから省
略しますが、比老侯の履歴書の中に明治二年に「謹慎被仰付」と云ふ一條があります。是はどう云
ふことかと申しますと大したことでありませぬが、常時の他の文書に依って見ますと、明治二年
大隈 重信 一六七
幕末維新の人物 一六八
の十月之に斯う云ふ進退伺が出て居るであります。常時大隈侯は民部大輔時代で、民部大輔は民
部省の攻官であり、民部省といふのは内務・大蔵・通信・農林・商工各省の仕事を掌った時代で
ありまして、比民部大輔の時代ー比進退伺を見ますと、
先月二十日御誕辰之節「天長節は極りましたが、まだ天長節と云ふ特殊の祭典はないのであ
ります「御誕辰之節参内昇賀申上ぐべく候虜、共以前より所募にて引込もり養生仕り居り、共
頃は別して不出来の折からに付て参内拝賀の御断り失念致し申上げす候段恐入り奉り候 之に依
り病中儀ながら進退伺ひ奉り候
と云ふ進退伺をしまして、十月二十四日を以て謹慣を仰付けられて、間もなく、同月二十九日
に謹孤を免ぜられたのであります。中々共頃はむづかしい時代で宮中に届出を忘れると、一々進
退伺を出したのであります。今日は中々するくなって皆病気になって鉄席ばかりして居るやうで
あります。共頃は届出を忘れると、比謹慎懲戒虜分があった譚であります。老侯の履歴の一とし
て謹慎被仰付と云ふ文句のあるのは是であります。
それから新政府の財政の中堅となられて大いに腕を振るはれたのでありますが、曾計官の副知
事と云ふ官名になって居るのであります。曾計官は大蔵省であるが、まだ大蔵省は出来す各省を
何々官と言って、曾計官が大蔵省、軍務官が陸海軍省と云ふ時分でありますが、比時の副知事ー
知事と云ふのは今日は大分下の方に下がって居りますが、比頃は大臣級にあたる官名に使って居
るのであります。古い所では太政官知事、即ち太政官知事は太政大臣のことを知食すことを知事
と云った時代があるのでありますが、明治初年には継ての各省大臣級のものを知事と云って居り
ます。それから共下が判事ー知事の下が判事、今日と大分違ふのであります。後に是が版籍奉
還の後に各藩主を藩の知事としたのは少し下落したのでありますが、後に魔藩置懸の時になりま
すと云ふと、知事懸令となりまして、知事は懸令より少し地位は上であります。三府五港と云ふ
ゃうな所に知事を置いて、共他は懸令であったのでありますが、懸令は元の代官所を懸令と唐名
に呼んだ闘係上知事懸令であった。今日は凡ての地方長官は皆知事になって居りますが、最初は
所請大臣級に知事の名を使ったのであります。副知事即ち次官であります。面も比頃の政府組織
は長官には継て公卿、大名と云ふやうな門閥を据るまして、次官級に手腕家を置いて十分腕を振
はしめた時代であります。すっと後になりまして、例へば日韓併合前に於きまして、朝鮮の内閣
大隈 重信 一六九
幕末維新の人物 一七○
に於きまして、大臣に朝鮮の人物、次官が日本の人材が行って賞権を握ったと同じやうな状況があ
る次第であります。さうして所請曾計官副知事ー今日の大蔵次官となって 一切の全権を振はれ
たのは明治二年頃であります。比際明治政府勢頭の財政官として紙幣を発行しました。由利公正
「三岡八郎「後の子爵の由利公正と意見が合はなくて、後に由利子が退職するに至るのであ
りますが、比時に共曾計官副知事が二度鮮令が出て居ります。と云ふのは任命が二度になる譚で
あります。それは私が常に申します通り、一時所請官吏を選撃した時代があって、選撃に依って二
度目に任ぜられて居るのであります。是は明治初年の面自き話と稲して宜しうございますが、
めて進歩したる時世と稲しても宜しいのでありまして、官吏公選と云ふのが明治二年に行はれて
居るのであります。よく俗に太政大臣も選撃したと言ひますが、共時は太政大臣と云ふ官名はあ
りませぬ。騎相と申すのでありますが、明治初年の制度思想が混観して居る時分でありまして、
一方で王政維新:維より新なる世、一方では王政復古i古に復る、古に復ると云ふこと、是
から新なると云ふこと \は全然違ふ言葉であります。今日の言葉で申せば右翼と左翼でありませ
う。足が幕府を倒すと云ふことに於てのみ一致して倒したのでありますが、共以後に於て比雨翼
の思想が段々分離して行くのであります。明治元年五箇條の御誓文などは無論東洋的の色彩鮮か
でありますが、共根抵に於て亜米利加の思想が無論入って居るのであります。関四月五箇篠の誓
文に基みて発布した政鶴書には堂々と三権分立を論じまして、立法、行政、司法の三権に分けなく
てはならぬとし、殊に驚くべきは「諸官四年を以て交替す公選入札の法を用ふべし。」である。只
今の投票選撃と稲して居る言葉は公選入札でありますが、四年の任期を以て継ての官吏を選任す
ると云ふ突飛な制度をやった時代でありまして、明治二年に於て官吏公選と云ふ破天荒の事質が
行はれたのであります。面も時勢の改鍵は比公選を行って間もなく維新派は敗北して、所請右翼
派の勝利に騎して比制度は止められ千四百二十年前の大賞令が復活して、太政大臣、左右大臣、
参議と云ふ官名になって共備復活して、大鶴が今日の内閣制まで残ったのであります。共時代に
於ても最初の曾計官副知事が共次に今度は選撃にして又曾計官副知事に任ぜられて居るのであり
ます。明治二年の五月、明治天皇の御前に於て投票いたしたのであります。厳格、眞正なる投票
云ふ意味は、是が本常の投票と云ふ意味であらうと思ふのであります。明治天皇の御前に於て濃
服を着け厳粛なる投票をして開票いたしましたのが輔相、輔相は宰相、即ち纏理大臣であります。
大隈 重信 一七一
一七二
幕末維新の人物
足に三條公が常選いたしまして、陸下が入御あらせられて三修公の下に各大臣級の選撃が行はれ
局長以上大臣級の選撃が行はれたのであります。比時の投票で無論有権者と申しても狭い在官者
の投票でありますが、厳格なる意味の投票ではありませぬ、選撃ではありませぬが、少くと*官
吏公選と云ふ破天荒のことをやったのでありまして、比時の投票の一番筆頭の岩倉具祀が四十九
票大久保利通が四十七票、是が常時の新政府の中堅であることは比票数で分るのであります。中
には十票、十一、二票で常選して居るのもありますが、大隈老侯は比時は三十六票あったのであ
ります。非常なる多数の 投票であります。斯くして新に曾計官副知事に 任ぜられたのでありま
す。選撃に依って更に任命せられたのであります。比選撃のことに付ては幾多の話すべきこと。
あるのでありますが、是は論題外でありますから略しますが、比選撃は是一回でありまして直ち
に今度は又大賞令の古い官制に復活して復古派、即ち右翼の方が勢力を得て居るのであります。
斯くして中央政府の官制は幾鍵遷をして、急韓直下して居るのであります。老侯が財政上の手腕
が盆々認められて来る時代であります。

慈に於て少しく申述べねばならぬのは、比昔日譚共他に於て常時の継ての元老、先輩に付て批
評的な記事が出て居りますが、西郷南洲と老侯との闘係は如何であったかと云ふことは、それは
除り御話に承って居らぬのであります。薩摩の代表的の島津久光侯の反勤の方に大隈侯が廻はら
れたと云ふことは有名なことでありますが、比以前に於て西郷南洲に勤してはどう云ふ考へを持
って居られたかと云ひますと、比昔日認の中には筆は少し及んでありますが、西郷は立派な人間
であるが、英雄とも豪傑とも思はぬといふ風の筆録があり、殊に人の推薦に付ての間違った例と
して慈に有名なる一例が出て居ります。
西郷が推薦する人物中には固より共稲揚に反かざるものありしならむ。然れども概して請
へば推薦に任せて任撃すべきまでに信用の甚だ少からざりし、比虜を以て余は直轄にか\る
大蔵省の許に任撃すべく切なる勧誘を受けしも二、三人士の他は断平として拒絶したり。共
中にも何基 (現に健在せるを以て共姓名は言はす) の如きは西郷も除程買被りたりと見え、
大隈 重信 一七三
幕末維新の人物 一七四
比人こそは質に明治年間に於ける第一流の人物にして、共才の優に、共智の富みたること今
日沖も他に比すべきものあるべからす。若し大政裁理の重任を比人に委託すること、ならば
余等は喜んで共後に従ふて纏走せむとまで稲揚し、之を大蔵省の業職に任撃せむことを切望
したり、云々と。然れども余は思へらく世に豪雄と呼ばれ、人傑と稲せらる、不世出的の人
物は決して突如として今日偶然に生するものに非ず、必すゃ限りなく鍵韓する、世波の波湖
中に虜して、幾多の辛酸を賞め、幾多の経験を積みたるものなるべし。僅かに一介の士とし
て未だ世鍵に虜して辛酸を賞めたることなく、経験を積みたることなき何基が西郷等の稲揚
せる如く大才子、大人物ならざるを知れるを以て殆ど絶勤的に共切望を拒絶し、共任撃に反
封せしかば流石の西郷も痛く慣激して、さりとは君(余を指す)も自ら才を特むで他を凌ぐ
ものなりとの怨言を吐き共他の人々も斯くては除り狭量の沙汰ならずゃとて忠告する虜あり
しも、怨言も忠告が余が信ずる所に於ては豪も顧みる所に非すと難も、さればとて斯く逸の
切望と態源とを拒絶するは除りに情けなきこと、思ひ、心ならすも余が何基が相常なるべし
と信じたる地位を興へたり。然るに余が鑑識は誤まらす、果して何基の眞相は日を経、月を
重ねるに従って盆々暴露し西郷木戸が稲揚したるが如き人物に非ることは初論にして、余が
相常なるべしと信じて興へたる地位すらも十分に保つ能はさる程の小才なること奪々分明と
なれり云々。そこで慈に至つて流石に西郷は語落なり、余を見て淡如として謝したり。
何基と云ふ名前は秘めてはありますが、是は有名な話で紀州出身の大人物と言はれました津田
出氏のことであります 。比人は明治四年七月二十八日に大蔵少輔に任ぜられまして、暫く少輔に
置かれた時代、詰り老侯の下につかれたのは西郷からの推薦であります。けれども同年の八月二
日に大蔵少輔を免ぜられまして、常時の大蔵省の四等出仕を仰せ付けられて居るのであります。
興へられたる地位が保てすそれに又適する地位を興へた。それすらも勤まらなかったと云ふ話で
あります。所が世間の話と云ふものはよく間違ふものでありまして、比話を又聞きした人であり
ませう。有名な基氏が或る雑誌記者に語ったと見えて、共雑誌に書いてある所を見ますと、西郷
が人の推薦を誤まって大隈侯の反勤を受けたのは津田眞一郎だと書いた。津田眞一郎は幕末に著
はれた津山の人材であります。後には衆議院の副議長をやられたあの眞道氏のことであります。
老侯のお話の人とは全然別であります。更角話は間違ふのであります。斯う云ふ具合からどうし
大隈 重信 一七五
幕末維新の人物 一七六
ても西郷共他と老侯とはどうも意見が合はなかったらしいのであります。
更に私共は発見と申す程のことはありませぬが、或る史料に依りますと云ふと財政問題に付て
は西郷と老侯との意見が全然違って居る。是は面白いのでありますが、西郷が銀行の設立を主張
して考侯は反封せられた一條があるのであります。陸軍軍人が銀行と云ふものを設けようと言お
のに大蔵省が反封をしたと云ふ妙な事賞があります。明治の三、四年頃になりますと云ふと、民
間でも政府でも即ちパンクと云ふものが必要である。比パンクを銀行と譚したのは瀧澤子爵であ
りますか、顧地源一郎でありますか、更に遡って誰であるか無論議論はありますが、更に角比バ
ンクと云ふものが必要だと云ふ議論が盛んになりまして、色々調査研究をして居ったのでありま
す。大蔵省では四等出仕の吉田清成、後に外交官となられた吉田子爵、比人は英國流の銀行を設け
ると云ふ説であります。大蔵少輔の伊藤公などは米國流の銀行を設けると云ふ比議論が大蔵省内
に於て闘かはされて居るのであります。共時に東京府知事でありました由利公正氏が: 先き
に老侯に反封せられて勢力を失墜した由利公正氏、是は大した寧問のある人ではないのでありま
すが、自己の経験に基みて興業銀行のゃうなものを設立する建議があったのであります。比時は
丁度岩倉大使一行が欧米巡遊の時でありまして、留守中の連中が非常に暴息が荒くてシ
を決定するなど各省思ひ〜に腕を振って居る。殊に大蔵省の中堅で考侯などは非常に腕を は
所が比時に由利系統の銀行を主張したのが、 西郷南洲であったのでありま
れた時代であります。
す。由利子は財政上の手腕に付ては幾多の議論があるのでありますが、明治政府常時のシ
ふたとは申しながら、質際の財政上の手腕に於ては老侯に及ぶものでは無論ないのでありますが、
比由利子の背後に西郷、大久保と云ふ二大勢力が彼を擁して居った貸に、あの人が財界、シ
於て勢力があったのであります。故に西郷、 大久保亡き後に至っては、あれほどの勢力のあった
由利子が財界政界に於ける勢力の地を挑ったのは共闘であります。さて右の由利子のシ
洲の銀行論と云ふものが出たのでありますが、大蔵省に於ては全然反勤であります。それに す -
る手紙などもあります。
尚々昨日相運候筋に御座候虜修公(即ち三條公)御不参に面延引相成候。新年シ
祀し奉り候陳者東京府下パシク取設候御伺に付。大蔵省より段々議論相起候得共正院に**て
談判いたし申出之通来る四日相運候筋に今朝相決し板垣除程の霊力斯の如く成行シ
一七七
大隈 重信
幕末維新の人物 一七八
付ては知事案、勢之由御座候間、右の形行卒度御通し置被下度板垣よりも右之噂に御座候
間何卒宜敷奉希候、比旨略儀午以書中奉得御意候。
正月 朝日 西郷 吉之助
照 田 嘉納 様
器田嘉納は清綱であります。西郷南洲と板垣退助比雨氏が銀行設立の霊力をして、財政常局の
反勤あったに拘らず比勢力に依って銀行を立てると云ふことの分る手紙であります。比事は東京
府知事由利子にッット (卒度)知らして呉れと云ふのであります。そこで明治四年の十月二十三
日西郷南洲は本官の参議の健でありまして、大蔵省の勅任御用掛と云ふことを発ねまして、銀行
事務取扱と云ふことになるのであります。それから共部下には篠原國幹、桐野利秋、それに右の
黒田に、構参事三島通庸即ち大蔵省内に於て、陸軍出張所の欧米流の銀行局が出来たと云ふ妙な鍵
態であったのであります。今日の言葉で申せば軍人外交所でない。大蔵省が反勤に拘らす、軍人
銀行局が大蔵省内に出来たと云ふ妙な時勢であったのであります。是が幾多の曲折があって、左
様な鍵態は許されすして後には明治五年の十一月に國立銀行條例が公布せられまして、第一國立
銀行となり、 只今の第一 銀行となるのでありますが、 是は比南湖其他の意見には 影響されすし
て、 別に 一般時世の愛達に依って出來たのでありますが、 少くとも常高の財政問題に付て新機な
衛英がある。 衛奕と 云よよりは軍る知何に大藏省が反對しても建軍の勢を以て大藏省《神し込ん
で来た。 新機にし て銀行が出來たやうた攻第であったのでありますが、 總 て公私及方の問題に於
て西鄉南湖と考條と の意見が相違した とと は是で分る のであります。

そ から大幅になして栄子
正面の弾銃と 云ような大きた藤學對老使と 云ような問題になるのであります。 文後には是が
幾多の形を なし て色々 な政變に愛して来る因であらうと思念 のであります。 銀行間選に開する南
洲と考 條と の衝突 厥 の は、 除り世の中に知れて居なかったのでありますから赤 でに比熱を
少しく中上げて置くのであります。
それから大きな こと はもう中す必要もたいのでありますが、征討論が過ぎ て、それから後には西
大樓 ॥ | 上九
幕末維新の人物 一八○
郷南洲城山の露と消え、大久保甲東が紀尾井坂の難にか\りまして、中心人物が亡くなって考侯が
盆々手腕を振はれた時代になって、それから明治十四年の政鍵までは非常な勢の時代でありまし
て、十四年の政鍵直前に、東北、北海道御巡幸について供奉せられ、明治十四年の六月九日北自
川宮と大隈参議が牛田銀山へ御沙汰に依って差遺はされたのであります。松島瑞厳寺に於きまし
て北山和尚が紙と筆とを出しまして大隈参議へ一筆を願ったのであります。共頃はまだお書きに
ならぬと云ふ噂さがさう廣く博って居らぬと云ふ時代でありまして、所がそこには例に依って、
それはわしは書けない、それよりも慈に居る撃者連(川田護江、金井之恭、是等の人であります)
に頼んだら宜からうと云った所が、北山和尚も中々の人間で菊も大隈参議ともあらう者が書かれ
ぬと云ふことはないといったのですが、結局お書きにならなかったと云ふ筆不精の一節が東北に
一エピソードを残して居るのであります。また共時は老侯は青森懸の鮫港に巡祀せられて居るの
であります。三本木附近にもお出でになった。荒川鏡山にも行かれて居りますから、到る所東北で
は御差遣になって居るのであります。所がちよっと除談でありますが、比時に一般の費用を見ま
すと云ふと一等勅任官が書が三十銭、泊りが五十銭であります。それから奏任が書が二十銭、泊
りが四十銭と云ふやうな譚で、決して木賃宿の意味ではありませぬ。常時の大隈参議も是だけの
費用で以て御泊りになって居ると云ふ譚なんであります。それから御騎りになりまして十四年の
政鍵、足は史上に有名なることでありまして、座談倉(報知新聞赴主催)にも色々御話が出たの
であります。比際に於て明治天皇の有難き思召御沙汰のことに付きましては、私が今更申上げる
逸もないのであります。
それから少し方面を鍵へまして、老侯の持病に肝臓病があるのでありますが、是は古くからあ
ったのでありまして、確か今回の手紙(大隈文書展覧倉)の中にも三條家からの出品に考侯の肝
臓の病気に付ての手紙が出る答でありますが、共ことは明治九年の七月比御病気になられた初で
あります。常時内務卿の大久保利通卿が腫物で療養中でありまして、政界の大立物の二人とも体
まれて居ったので、常時の中外評論の第五競に記事が出て居るのであります。 共虜に面白い評が
あります。
二大臣不醸ある時は一國是が貸に得然たり。平素共指揮に従って勉働様まさるものと難も
気縮み、色阻み、周章狼狙措く所を知らす、拾も敗卒の騎する所を失するが如き形況なきを
大隈 重信 一八一
幕末維新の人物 一八二
保し難し。比頃吾等聞く所に依れば明治政府の柱石たる二大人は皆不像を以て政を見すと、
鳴呼不幸なるかな、明治政府今や我が人民をして一二大臣の不像を聞いて國家将来の鍵遷
を思念せしめば果して如何なる影響を及ぼすべきか。比時に常て執れか潜然として消下り、
惨然と悲まざらん。今天鍵属々至り、地異も頻りに顕はるの際に於て人心の援々たる紛とし
て腕の如き殆ど戊辰前後の看を倣すに於てをや、若し世人が二氏を愛するの除り誤って共病
の重旦つ深きに至らんこと思ひ悲哀痛切の撃を発し震驚危疑の撃動をなして人心を紛授せし
むるあらば二氏を愛するの心は却て二氏を害するの跡あるに至る無きを得んや。然らば即ち
世人は何を以てか比際に虜すべきかは目く大隈を愛する者は之れが貸めに魔大なる嗣堂を興
して共崇を破ひ共平穏を所る虜あれ云々。謹んで敷歌の撃を務し悲哀の情を起して世人の観
望をして災々平地に至らしむること初れ云々。
大隈の如きは多年國家曾計の要務に常り之を料理瀬縫したる銀苦の積鶴する所比大病を醸
せしに非ざらんや。鳴呼命なる哉云々。
更に角比常時の御病気が如何に重要祀せられて居つたかと云ふことが分るのであります。
それから別に前回の座談曾の瀧澤子爵の御話になりました明治十年に、老侯の旨を受けて、清
國政府に金を貸すと云ふ交渉に付て御話がありましたことに付ての共の契約の寛しが私の所にあ
りますが、比時の相談は成立たなかったやうであります。斯くして明治十四年の政鍵を一期と致
しまして、老侯の境遇が又一韓し、更に政治上に活躍いたされたのであります。それらの事柄に
付ては私が今更彼れ是れ申す必要もないのであります。
二、明治十四年政鍵の御前曾議
明治十四年の政鍵は、征韓論以来の大政鍵と稲せられたる明治史上の一大事件である。
比頃勃興しつ \あった自由民権論は、開拓使官有物挑下事件の醜聞を契機として、一斉に政府
-
攻撃の火蓋を切ったのである。
官僚専制の弊は斯る醜事を産んだのである、是れ立憲政治の布かれざるに因る議曾の開くるに
-
大隈 重信 一八三
幕末維新の物人 一八四
至らば、比弊を絶つに至るべしとの議論は、最も有力なる政論の目標として、國曾開設論に力を
集中せしめたのである。
時拾も明治天皇には、東北北海に御巡幸あらせられ、交通不便なる時代に、親しく、各地の民
草に御恩澤を垂れ給ひ、十月一日御還幸あらせられ、長途の御疲勢も御厩ひなく、即夜御前曾議
を開かせられ、大隈参議免官、開拓使官有物挑下取消、國曾開設の大語換務の大事の討議を、聞
召されたのである。
比時の模様に付て、時の元老院副議長たる佐々木高行に、至奪、親う仰せられたる事の願末
は、佐々木の「明治聖上と臣高行」に明記せられてある。明治大帝の御聖徳を偲び奉る一端とし
て、左にその 一節を摘記する。
十一日、東京着即日大臣参議一同にて、大隈を免官之れなくては、政府の趣旨相立たすと申した。
一鶴、太政大臣は、能く心得たるも、右大臣は六日騎京して初めて事情を知り、左大臣は騎京し
て初めて事情を詳にした。右の攻第に付、若しゃ薩長の参議が結合して天限を退けるのではな
いがとの疑惑もあるので、大隈の義は確謎あるかと尋ねたるに、只今確謎御取調となりては容
難けれ











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麻呂

導 論 者
一、 維新前に於ける福澤先生
二、 福澤先生の都 稱號與編集
三、 福澤先生 と新事物の魔生日
四、 法律家 としての福澤先生
五、 政治教育家 としての福澤先生
人、 明治十四年政變に開する 一 由衣料
七、 福澤 論 古 德 成る
幕末維新の人物 一 八八
一、維新前に於ける顧澤先生
表題と致しては 「維新前に於ける顧澤先生」 と云ふやうな極めて大きな表題が掲げてあるので
ありますが、質は維新に於ける顧澤先生の事績は寧ろ先生の自博に依って十分なのであります。
日本の維新史を研究するに方って、却て自博の方から材料を仰ぐやうな次第でありまして、単な
る自叙博と致しましても、あれだけの立派なものはない、況や常時の日本の赴曾事情を調べるに
方りまして、あの自徳程有益なる資料は他にないのであります。今東私が申す事は何もないので
あります。併しながら自博と申しましても事績を残らす御述べになって居る譚ではないのであり
ますから、私は唯、自博を基礎と致しまして、少しく二三の蛇足を添へたいと思ふのでありま
-
す。
先づ第一に顧澤先生の博記を一譲致しますと、先生は明治の一大偉人として、新文化の先頭に
立たれ、封建の奮棄を改革すべく運命付けられた方と云っても宜いやうな偉大なる方であります
が何と云ってもお生れになったのが封建時代でありますから封建の雰園気が全然ないとは云へぬ
と思ひます。共第一と致しましては、先生がお生れになった常時の赴曾組織の慣習と致しまして
は、少くとも先生には名乗であるとか雅競であるとか、 左様なものがおありになったに相違ない
のであります。是は従来質は除り研究されて居らぬのでありますが、最も必要な事であります。
比事に就きましては、最近の三田新聞に横山雅男さんがお書きになって居るのであります。質は
**先年多少疑問があって、公に致して置いたのでありますが、故穂積陳重博士が矢張り先生の
名乗雅競に就て御考になって居るのであります。顧澤先生に名乗或は雅競、斯様なものがあると
云ふ事は甚だ不似合でありますが、何も足の有無に依って先生の人物を軽重する譚ではない、事
の順序として、どうしても足だけの事を述べなければならぬと思ふのであります。
シましては御承知の如く「世俗」と云ふ字を崩して「三十一谷人」或は論吉と云ふ音
から来て「雪池」など、名付けられて居りますが、是は特に雅競といふ程の事で無く只だ先生の
通俗文盤を主とせらる、主義から出て居るほんの一時の慰みに過ぎないのであります。しかし共
顧 澤 論 吉 一八九
嘉來維新 の人物 1 ルO
以前の産婦女小名東にとう ものがあったらうかを申しますと、 書 の例る範囲にあては 議
2充 4名東があり、 魏には 子園 たとと 云海號が使ってあるのであります。 是は武定の頃か
ら愛麗の四年頃造にお用いにたったと思はれるのであります。 其第 1 は先生が第 1 回の浮上 し
て逆元年に配樂利加《 ︽出でにたり、 桑德に於て永 にたりました 事実施語 是は日本 《永
*>にたつてから観測し て出版されました。 是が先生の書物出版の第1 であゆきして、 東は**
の中にも出 て武0*して文を演奏で書いたのは歌っ?をことであると 云はね て居。ます。 ポ
文に掛けと文芸 4学の教書に就て ウ、 ア」 と 芸学に海0を打っと 芸人事を先生が永利沙º
たつたと 云 4 ことがあり、 これは有名た事柄でありますが、 基所交の終に 帰還算子園 と先生
の名樂於書いてあります。 其家は 高國政表 であります。 是は日本に於ける統計の書の出版の
初めでありまして、 比書は常行の前から離さられて居りましたが、 議院了前に弾行されると
と にたつで、 先生と特別の頭條ある岡本節城 (後の古川正離) 正が販機を許されて開本鐵觀光
生 の関で高宗年に 高興發表 と 云よるのが出版されたのであります。 之には失敗 。 體建築
子園 と書いてある。 それから愛德四年に出ました 中外新聞 些新聞は 西洋艦載 ***
の本と共に除程世の中に用ひられた新聞でありますが、共中外新聞の慶應四年の分には比新聞を
発行しておた柳川春三が顧澤先生とも懇意であり、「近頃顧澤子園の西洋事情を偽版するものがあ
るが甚だ怪しからん、日本では版権を保護する法律の無いのは宜しくない」 と云ふゃうな事を言
って居ります。共後一世の才人にして明治の文豪たりし成島柳北とも先生は御交際がありまし
た。常時新撃問を研究して居る人々が寄って或は研究し或は遊興した事がありますが、比成島柳
北氏の向島の誰園の別邸にも時々文人等が寄った事がありますが、先生もお出でになって居りま
す。斯う云ふ寧者連中の所請俗に申せば楽屋落とも申すゃうな面白い話の澤山書いてあります伊
都満底草といふ書物がありますが、それには「顧継衣」として継衣は「子園」 の音に常て顧は初論
顧澤先生であり斯う云ふ鍵名が使ってあります。それから是まで残って居りますもう一っの疑問
は、先生の競として「松陽子」と云ふのがおありになったのではないかと思はれる のであります。
足はまだ断定を致す譚には参りませぬが、共論擁と致しましては、慶應四年に出ました中外新聞
に理財論と云ふのがあります、それは「滋陽子」と云ふ名で譚になっ て居るのでありますが、比
論文が他の論文と纏めて別に単行本として出版せられた時には「顧澤論吉譚」斯う書いてあるの
顧 澤 識 吉 一九 一
幕末維新の人物 一九二
であります。して見ると 「滋陽子」 と云ふ競の持主は先生ではないかと思はれるのであります。
併し是も常時或は本屋が撃名高き先生の御姓名を勝手に使ったのかも知れないから、今断定は出
来ませぬが、少くとも「滋陽子」 と云ふ雅競があったのではないかと云ふ疑問があるのでありま
す。共時分拾度萬延の頃は先生の初めて洋行せられた時で、共珍談奇聞共他の事に就ては自博の
方に詳しくありますが、更に二度目の洋行をなさったのが文久元年でありまして、比時は竹内下
野守一行に附いて欧羅巴にお出でになったのであります。比時の見聞が非常に先生を盆して居る
のでありまして、比途中の記事に付きましては、無論自博に詳しくありますが、共中で少しづ\
私が蛇足を添へて申上げて宜しいと思はれる部分をお話申上げることに致します。
文久元年十二月二十三日に竹内使節一行は品川を出発し、先生も随行されたのでありまして、
共翌文久二年正月十九日に一行は新嘉披に著いて上陸せられて居る。比時新嘉披に於て日本人音
吉と云ふ者が使節一行を訪ねて色々の話を致して居ります。共時顧澤先生が「どうもお前は何虜
かで見たことのある人間のやうに思ふ」 と言はれ、それから段々話合って見ると、共男は共時よ
り九年前に英吉利の船に乗って長崎に来て通獄をしてみた事が分つた。「それではお前は俺が安政
元年に長崎に行って居た時、水野筑後守の貸めに英國との談判の通獄をしてみた男ではないか」
と先生が言はれると 「左様でございます」と云ふやうな譚で、非常に話が進んで懐奮の念に打た
れたと云ふ事が先生の 「西航記」に出て居ります。共音吉と云ふのはどう云ふ男であるかと申し
ますと、尾張國知多郡小野村の船頭でありますが、十七歳の時即ち天保三年に同勢十七人と共に
千五百石積の船に乗込んで鳥羽港を出帆して江戸に向って航海の途中暴風雨に遭って太平洋を漂
流する事十四ヶ月、共揚句北米のコロンビアの河日に打上げられたのであります。斯く長き漂流
の間に猛烈な壊血病に艦りまして一行の中生残った者が僅かに三人、即ち比音吉と岩吉と久吉の
三人であったのであります。面してコロンビアの河日に打上げられてやれ嫡しやと思って居る中
に亜米利加インデアンに捕へられて奴隷となったのであります。所が幸な事にはハドソン湾の毛
皮曾赴の重役の耳に這入り、共手に依って助けられて加奈陀から布嘘を経て倫敦に送られ、それ
から支那に駐在して居ります、英國の商務聴に引渡されまして、天保五年に厚門まで送還されて
来たのであります。それから拾度我國のバイブル翻譚に付て功勢のある英吉利の宣教師のカール
ギュッラフに保護せられて、彼の有名は高野長英事件を起したモリソン競に乗組んで、日本の近
顧 澤 論 吉 - - 一九三
幕末維新の人物 一九四
海に近付いたのでありますが、比頃は日本は例の鎖港説の盛んな時分であった貸めに、日本から
砲撃せられて上陸することが出来ず、又見す〜支那に戻り、日本へ騎ることは諦め、共後にな
つて妻を取委り子供まで出来たが、共間に英軍に従軍した事もあるが、又今度は阿片戦争が始りさ
うであるからと云ふので、病気と稲して新嘉披に至って療養して居る際、日本の使節が来たので
懐かしさの除り訪ねて来て見ると、共使節一行に像て奮知ある先生が居られたと云ふので、昔語
りをしたと云ふ譚なのであります。
それから一行は新嘉披を出務致しまして、三月五日にマルセーユに、九日には巴里に着かれて居
ります。即ち十二月に日本を出立して翌年の三月に巴里に着いた、それ程長く掛ったのでありま
すが、常時としては比較的早い方であります。斯くて 一行は巴里のホテルにお泊りになったので
ありますが、比時は先生の自博に依ると 「食堂には山海の珍味を井べて如何なる西洋嫌ひもロ腹
に携夷の念はないから皆喜んで之を味ふた」と仰しゃって居りますが、足は顧澤先生のやうな進
んだ方はさうであるが、一行中他の人は中々左様には参りませぬ、どうも食物には全く困ったら
しい、比時同じ随員であった柴田貞太郎 (後に日向守と任官して横須賀造船所の貸めに機械買入
れに又欧米へ出掛けるが比時は初めての洋行であった)比人の手紙を見ると先生の感想とは大分
違って居る。
食料の異なる事に就ては何分困り申候いづ方にても随分美味を重ね候得共多くは獣肉にて偶に
は魚肉を交へ候も之赤油にて揚げ野菜の類至って少く野薬の類出し候もまた油を加味致しボー
トル等塗り候品故一種も日に合ひ候品無之誠に閉日致候
と云ふ事が書いてある、共虜で窮除の策として生魚を刻んで、持って来た舞油を付けて刺身とし
て食って喜んだ、所が、 それを彼地の新聞赴に知られ、直ちに新聞に日本人は生魚を食ふ野鍵人
であると書かれて閉日して居りますが、是等の事は先生が御覧になったのと大分違ふ、初論随員
と云っても知識教養の程度が違って居るのでありますから、幾多意見の相違のあった事は是は己
むを得ぬことであります。斯様に先生が備蘭西へ行っておみでになる内に、又鍵った人物で備闘
西人のロニーと云ふ男が先生と懇意になって居ります。比男に封しては主として、先生が話をさ
れて居ります。比ロニーといふ男は名を色々な日本字を以て書いて居る。或は「魔尼」と書いたり
或は「魯尾」 「曜尼」と書いたりして、泡に妙な男でありまして、年は二十五歳であった。日本
顧 澤 論 吉 一九五
幕末維新の人物 九六
へ参った事はないが非常に日本好きで、日本の事を好み、日本風の生活をし、抹茶を飲んだり、刻煙
草を煙管で吸ふたり、或は又日本外史を讃んだりして日本に闘する十数種の著書もあり、常時日
本語の語學の教師をして居ったのでありますが、一行が巴里へ行った時には測量寧、機械寧、星寧
天文寧などに就て始終先生と話を致して居るのであります。比男は中々熱心な男でありまして、
一行が和蘭へ参った時にも訪ねて来、露西亜でも訪ねて来て居るのみならす翌年池田筑後守が参
た時にも矢張りロニーは訪ねて来て居ります。それから明治の才人顧地源一郎氏が初めて備蘭西
語を習ったのも比男であります。のみならす比ロニーは慶應四年に 「世の噂」 と云ふ日本字の
新聞を巴里で務行して居ります。是は恐らく一競で終ったと思ふのであります。斯様に鍵つた人
間がちよい〜出て来るのでありますが、勤手は何時も先生であります、初論新らしい話は先生
でなくては出来なかったのでありませう。それから自博の中には一寸鉄けて居るやうであります
が、先生の日記の方を見ますと、伯林にお出でになった時に議曾を傍聴して居られます。先生に
はどうも欧羅巴の事が分らぬ、機械であるとか理化寧であるとか云ふやうな事は原書で調べるか
ら彼地で聴かないでも大鶴分るが、政治、法制の事はさつばり分らぬ、彼地の人に聴いても説明
を興へない、「議曾と云ふ所はどう云ふ役所であるか」と云って問うても、笑って答へないと云ふ
のでお困りになって居りますが、常時所請知識懲の最も盛んであらせられた先生は賞際に議曾傍
聴をなさって居ります。共後七月には露國へ参って、共虜で鍵った人間に御曾ひになって居る、
是は自博にもあります。一行が露西亜の迎賓館に著くと共室には日本風の刀架があり、寝床には
木の枕があり、湯殿には糖袋がある、それから著も茶腕も出て居る、面も成べく日本人向の料理
が出る、泡に是は不思議な事であると思って段々話を聴いて見ると、接待係に日本人があると云ふ
事であった。常時共日本人は顔を出さなかったと云ふ事が書いてありますが、先生は大鍵共の事
を不思議に思はれて 「欧天不異故郷天」と云ふ詩を作られた位であります。然らば共虜に居ると
云ふ日本人は如何なる人間であったかと云ふことは、自博には出てみないが、是は近年分ったこ
とであります。共男は本名橘耕斎一名増田甲斎とも云ふが、常時露國名としてはウラデミルオシ
オウイツチャマトラ (大和夫) と云ふ男である、比男は元来遠州掛川の藩士であったが、坊主に
なり諸國を彷得うて居る内に或所で人殺をした、斯様に悪い経歴の人間であるから日本に居れな
い、共時は拾度安政元年で露西亜の使節が軍艦チャチ競に乗って下田に来て談判中彼の安政の大
顧 澤 論 吉 九七
幕末維新の人物 九八
-
地震に遭って軍艦は覆没してしまった、そこで新たに戸田で軍艦を造ることになった、比故を以
て比所は日本に於て欧羅巴人が日本人に造船術を博へた有名な所であります。
所で今申す露西亜の軍艦遭難事件の際、増田耕斎は下田に参りまして、常時露西亜使節一行の
随行員であったゴシケウキッチと知合になり、同人の日本研究に便宜を興へて、共後露西亜使節一
行が騎國の際に、自分は沖も日本の國に居れない人間であるから、ゴシヶウキッチに頼んでトラン
クの中に入れて貰って露國へ一緒に行ったのであります。さうして日本使節が露西亜へ行った頃
には日本語學校の教師をしておたのでありますが、何分左様な発状持でありますから、日本の使
節に封しても公に顔を出す譚には行かなかったが、接待に付て十分の心添をしたのであります、
さうして共頃比橋耕斎とゴシケウキッチとが共同で「和魯通言比考」詰り最初の日露鮮書を発行し
て居ります。それは版下を大和夫が書きまして石版刷にした本であります。面して比大和夫事橋
耕斎は慶應三年山内作左衛門一行の露西亜留寧生が参った時分に比男の事情が明かになったが、
まだ騎る譚には行かなかった、共後明治五年岩倉大使一行が欧米を廻られた際露西亜へ行かれ、
共時の接待にも出ましたが、もう日本の時勢も鍵ったのであるから騎っても宜からうと云ふこと
で、共後日本へ騎り、日本と露西亜とが千島樺太交換問題で談判をした際は、随分活躍して居り
ます。共後明治十八年に亡くなって居りますが、かういふ風に先生と非常に交渉がある男なので
あります。
信て日本の使節一行は露西亜へ行って彼の有名な樺太談判をして居ります。比談判に際して、
松平石見守が後年話した事の内に先生の自博共他の書物を参照し考へると大分手前味噌がある。
彼の有名な話として博へられて居る、露西亜の天文豪へ行って調べて見ると地園の色分けに丁度
五十度の所に境があるから、五十度論を主張して露國を大いにへこましたといふゃうな事を本人
が話をして居るやうでありますが、先生の自博に依ると、掛値がある、左様なものを持って行っ
て露西亜の連中と掛合ひをしようとしても辿も放談暴言寄付けない、全く談判にならなかったと
云ふことであります。それはさうでありませう、何しろ封手は常時の露西亜外務大臣ゴルチャョ
フ亜細豆島長イグチチーフでありますのに、それに封して初めて欧 Eの土を踏んだ日本の使節
でありますから、沖も太刀打は出来なかったでせう、比酷に付ては先生の博が極めて有力な資料
-
となって従来の博説を破るのであります。
顧 澤 説 吉 一九九
幕末維新の人物 二○○
それからいろ〜の事柄がありますがこれは略しまして、十月に品川鍵に先生は一行と共にお
騎りになりました。比際の洋行に於ては非常に好い獲物がありまし 、即ちこの時見聞と共前の
洋行に依って御研究になった材料と雨方を纏めて お書きになっ て出されたのが「西洋事情」 であ
*ます。足は近代の思想所請日本の思想界を風勝し、菊も文字の素養ある者は比書を譲まさる事
を とし、焼原の火の如き勢を以て一般に愛譲せられたのでありまして、新文化は之に依って啓
発せられ、之程赴倉事情や思想界に影響を興えて居る書は前後に殆ど共比がないと云っても宜し
*位であります。又共前には「唐人往来」と云ふものが出来て居る、足は出版せられないで寛本
として得はって居るだけであります。従来の西洋の事情を纏めて、日本に紹介した最初の書であ
*まして非常に我園に貢献して居ります。明治初期に於ける所の「西洋事情」は今更私が申上げ
る逸もないのでありますが、 が維新の際如何なる効果を興えたかと云ふことに付て、少しく考
へて見たいと思ひます。質は「西洋事情」と云ふものに付ては先生は無論著書としてお推へになる
積りであったらしいが、或は是は幕府の要路者の参考として出さる、積りではなかったかとも私
は考へますが、それに略ぼ相常する史料が出て来たのであります。之に付きましては先生の上書と
して使 { られて居るもの ( 終りに 西年即ら文久元年でありますが、 竹內下野守政治め御使節 と
して歌羅巴に差道はされ德靈機も始源被视位共第被地に て見開在條西洋記 一 關網景に入華族
U書いてある、 是が恐らく 東西洋事情 の事ではなかったかと思念 のであります。 此時上書せら
れましたの は是は幕末事情の 一 大獎門である 二度目の長州征伐に就て の意見が述べられ て居るの
であります。 此上書は非常に長い のでありますが、 其中特に先生 でなく てはならない車見である
U 原はれるのは、 第 一 名國 《 の公使を出すべき事が述べられ て居る のであります。
義者任後に今被金國都府《龍公使(試み ) 神拳道相成像在廣 寧郡 公使は
條約滿各國に て五に 一 名空港道し交際の事務取扱候 一般の振合に て御國にても編修約御取結の
後直に可被差道省之處今日海艇引相成就ては御國之情景各國政府 へ相繼續擴張在留之 ミス
トル のみの手を統候義に付自から行道も出來裝も難計且各國同等之御交際に於て彼國上りはミ
ストル派來救活候場領國上りは 1 人も公使不被差出と中條ては知何にも細不說我之御機に御
座線方の次第に て自然各國の人心頻國を以て自國同等の政府の機心得子或は新條約を可被精卵
の説も起停機に付金俊英德臣街へ在留之公使被差道御交際之事務官に彼國政府に誘致像機相
服 響 論 者。 1] O
幕末維新の人物 二○二
成候はば萬事御掛合向行届候は初論各國同等の御鶴裁相備自ら諸外國人心の向ふ虜も定り申す
べし云々
大鶴斯う云ふ趣旨の上書があるのであります。常時鎖港擁夷説の盛んな時代に於て進んで各國に
公使を差遣さるべきものである、菊くも條約を結んだ以上は尚ほの事であると云ふ事を仰せられ
て居る。今日ならば常り前で何でもないが、常時斯様な事を申す者はない、又先生以前に比主張
をした者はない、犬も後には池田筑後守は欧羅巴に行って矢張り斯様な事を述べて居りますが恐
らくは是は先生の説を聴合す所があったらうと思ふのであります。又共上書には常時の世論であ
り、或は興論であると申して宜しい擁夷説に付て冷評的の説明がある、足は先生の面目が躍如と

して居ります。
先年外國と御條約御取結相成候以来世間にて奪王壌夷など虚誕妄説を申唱へ是が貸に御國内多
少之混雑を生じ廟堂の御心配不少儀に候得共軍意共説之趣意は天子を奪び候にも無之外國人を
撃挑候にも無之唯活計なき浮浪之輩衣食を求候敷又一 つは野心を抱き候諸大名上の御手を離れ
度と申姦計の日質と成候逸の儀にて共謎跡顕然に付別段精論仕候にも不及儀に御座候
彼等は本気に言って居るのではない、院外園や壮士輩が騒いで居ると同じであると云ふ識見が
先生の胸中には見ることが出来るのであります。上書に就てはまだ〜申す事がありますが、
は略して置きます。
一鶴「西洋事情」は常時出版せらる \以前に於て寛本として各有識者間には博はって居ります。
之に就ては後に岡田播の航西小記が之を引いて居りますが、それより更に重大なのは所請坂本龍
馬一派の土佐藩の大政奉還の建白書であります。是は舟中八策と稲へ、海路長崎から土佐へ騎る
舟の中で考へられた八つの策で、是が大政奉還の本でありますが、比八策中重要な事は上下雨院
を設けるの議がある、如何にして坂本龍馬の思想に斯の如き意見が這入ったのであらうか、比事
に就ては無論坂本龍馬の卓見に騎するのであるが、既に先生の「西洋事情」の寝本が徳はって足
が頭に這入つて居る、之に就ては土佐藩の史家阪崎紫蘭などが既に先年断定をして居ります。土
佐藩の卓見は大政奉還と上下雨院論とが結付く事でありますが、土佐藩の藩論としては、大政奉
還の建自をした趣旨は将軍自ら大政を奉還し同時に所請天下の大名井に人材が集って上下雨院を
作り、興論を以て政治をなし、面して共議長としては前将軍がなって質権を統べると云ふ斯う云
顧 澤 識 吉 二○三
幕末維新の人物 二○四
ふ意見に基いた建白であります、即ち大政を奉還と云ふ事に於て薩長雨藩の討幕の鮮先を挫き、
面して大政を奉還し、新たな政治組織の質権を握り依然として徳川氏中心の政治を行はんとする、
比貸め新しい政治としての上下雨院論があるのであります。即ち大政を奉還して上下雨院を設け
ると云ふ比不可分の闘係にあったのであります。然るに政機の鍵韓は意外に出でまして、先づ大
政奉還を貸すべし、上下雨院の設立は後廻しとし、更に武力を以て討幕をせんとする、語り薩長
雨派が裏を播いたのであります。比虚々質々の懸引に付ては慈に申すことは本論でないから略し
ますが、従来の政権争奪は武力闘争以外には何等の方法を知らざる日本武士である、薩長雨藩と
難も武力討幕以外には方法を知らない、然るに比間議曾論を以て中央政界に馳顧した土佐藩の
目覚ましい活躍、是には無論幾多の原因もあったらうが、顧澤先生の 「西洋事情」が興って 力
がある。大政奉還の一大原動力となった「西洋事情」 是は近代史的に極めて重要なる一事項であ
ります。是は政治上の大問題としての影響でありますが、極く小さい問題として私共の方面から
見ると泡に結構な書であります。欧米の政治法制に闘する事が極めて平易に書いてありまして、
殊に私共から申しますれば、比中に階審制度に闘する事が最も分り易く書いてある事には感謝し
なければなりませね。固より陪審の思想は原書として或は翻譚書として這入って来て居るのは幕
末の頃でありますが、之を譚し之を説明する者は共意義を解しない、然るにさすがは先生であり
ます、「西洋事情」 を見ると 「陪審」 と云ふ譚語は使つてありませぬが、「立曾人」と云ふ譚があ
る。トライエル、バイジュリーを説明し英國のミルの大法に基くと云ふ説明まで \ある。
斯様に先生は政治の有ゆる方面の知識に於て秀でて居られるばかりでなく又法制の知識に於て
も優れて居られると云ふことは近代の先覚者では他に類がない、私共の研究致して居る方面から
云っても、「西洋事情」 が極めて有力なる債値を持つて居るのであります、扱て右に申した大政奉
還に依って、新政府を形造る際に於て、土佐藩は所請高機公論のモットーを提げて所請五箇條の御
誓文に遭付けるのであります。五箇條の御誓文と分離すべからざる政鶴書即ち明治元年閏四月に
は最も進んだ三権分立を論じ官吏の公選を規定致して居る、纏理大臣は初論役人を公選するの規
定であります。是等は全く非常なる卓見と申して宜しい。この政鶴書の起草者たる顧岡孝弟の参
考書を見ると令義解とか職員抄とか云ふ日本の古い書の中に交つて唯一の参考書として比 「西洋
事情」 があるのであります。面して明治政府の組織は之に依って出来て居るのであります。即ち
顧 澤 識 吉 二○五
幕末維新の人物 二○六
一冊の 「西洋事情」 に依って大政奉還の大事業が遂げられ、更に五箇篠の御誓文の宣布となった
のも先生の見聞に基く所の「西洋事情」に由来する所があるのであります。研究すればする程「西
洋事情」 が偉大なる力を貸して居ることが分るのであります。更に常時各藩に於ける施設は皆比
「西洋事情」 に基いてやったのであります。その中でも有名なのは北陸加賀の前田藩も比 「西洋
事情」に感奮して各種の施設を致して居るのでありまして、殊に病院、養育院等の施設が百萬石
の加賀の領内に於て行はれて居るのであります。斯様にして各方面にそれ〜の用があって所請
明治の新文化を作ったのでありますが、日本が斯の如き文化の発展を来し、近世の大事業を貸し
途げたことには「西洋事情」 が非常なる力を貸して居るのであります。
終りに一つ自博にも全集にも漏れて居ると思ひます事は慶應四年に先生が翻譚せられた 「兵士
懐中便覧」と云ふ本があります。是は小さい本で軍隊の操練の事を書いた本でありまして、仙豪
藩に於て出版になって居るのであります。共間の事情は能く分りませぬが、高橋是清翁の一代記
に仙豪の大童信太夫と云ふ人が顧澤先生と懇意で、外國文の翻譚など頼んだといふことがありま
すから、恐らく比人が先生に頼んで響をして貰ったのではなからうか、即ち戊辰の際の戦争の
用の貸めに翻譚をお願ひしたのではないかと思ひます。それから引績き明治政府が組織になって
からも、私共として極めて先生に感謝しなければならぬのは、今日の警察制度の本を貸したもの
は顧澤先生であります。明治二年に東京府に於て始めて警察の制度を造らなければならぬと云ふ
ので、長州の一人物で後の参議廣澤眞臣が先生の所へ行って「西洋に於て警察に闘する制度があ
るさうだから翻講して貰ひたい」と頼み込むと、「宜しい」 と云ふので引受けられた、是は自博に
出て居ります。面して共交換條件として泡に安く挑下げられたのが島原の藩邸である、それが所
請本塾の基であると云ふことを先生が述べられて居ります。共翻譚せられたものは明治の中頃に
亡くなった実戸環氏の遺族から出て来ました。共頃はまだ警察と云ふ語の譚がない、取締之法と
してあります。これが秩序立った警察制度の初めでこれは東京ばかりでなく、大阪共他の各地方
にもこれに擁って制度を設けて居ります。それから後に所請薩藩の川路利良などが質行上の基礎
を立てたのでありますが、要するに今日の警察制度の本は先生の翻譚であります。面も本塾の本
が共翻譚料を以て出来たのであります。濁立自奪の大平民顧澤先生が警察にも軍隊にも斯の如く
闘係があるのは極めて面白いのであります。是等の事績に付ては従来除りに知れて居りませぬ、
顧 澤 論 吉 二○七
幕末維新の人物 二○八
又私共の方面にも知れなかったのでありますが、追々に共事績が出て来るのであります。斯の如
くにして先生の御事績が知れ \ば知れる程盆々各方面に行渡って至らざるなきといふことは眞に
景仰の念に堪えないのであります。尚ほ引績いて明治の新文化に勤して御貢献になった事は是は
私から駄獄を勢する必要はないのであります。
二、顧澤先生の邦語鮮典編纂
幅澤先生が本邦最初の邦語鮮典編纂者であることは先生博第二巻に、その 榎概が出 て居るか
-
ら、これを拝借すると
私 (岡田吉顕) は顧山の寧制を確立するために、先生に普通寧の寧料課程をアメリカの寧制に
基いて立案して頂いたことがあった。その時先生から、将来漢字廃止個名採用の暁に備へたる
ために日本語の字書を編纂したら随分役に立つだらうといふお話しがあったので、 それは至極
結構な事ですから最非先生のお骨折りが願ひたいとお願ひに及んだところ、それには他の翻譚
や著書に常分掛るわけにはいかなくなるから、相常の経費さへ負擁してくれ 、ば引受ようとい
はれたので、顧山藩の曾計から毎年千五百圓づ \の、報酬を差上げて、右の鮮書編纂の事を
引受けていたゞくことにした、この話が極つてから約一年か二年の後であったらう。先生は中
津へ騎られ、上京の途次、顧山へ御立寄りになられたことがあった。その時例の鮮書はやっと
これだけ出来たが:といはれてその原稿をお見せになった。見ると賞にどうも細かく旦廣大
な範園に亘ってお調べになっておられたので、見せられた比方こそ除り大事業なのに驚嘆した
くらおであったが、先生もこの仕事には余程お困りの様で、明らさまに日へ出してかうとは仰
しやらなかったけれども、一旦引受けたものを今更中途で投げ出す譚にも行かず、さりとてこ
の先幾年かかるか一寸見込も立たぬといふ有様で除程閉日してみられたゃうであった。しかし
その内魔藩置懸の後暫く元のま\であった知事も懸聴も皆鍵更せらる\に至ったので、途に右
のお約束はとう〜自然消滅といふ形になってしまった。
とある、これが今度発見の史料の
顧 澤 論 吉 二○九
幕末維新の人物 二一○
窮理、地理、共他質用寧の分は顧澤の赴中へ翻譚を依頼し先生へは特に助力を請ひ邦語の字書
編制の事を託し五年間他業を止むる貸め先生の生計費を藩より給する契約を成してi
四年の春、先生中津へ騎省の時立寄、字書編制に着手、イの部丈けを見せられたり云々
とあるのに承應するのである。右の文中
窮理とあるのは、いふまでもなく物理寧のことで、先生に窮理何々といふ書が数多あり、この
-
頃流行の語であった。
右の文中にある翻譚のことに付ては、先生が明治五年に、顧山藩寧校係の杉山新十郎へ宛てら
-
れた手紙の一節に -
衆て御約束申置候翻譚書の儀、赴中にて、追々共業に取掛候得共、翻譚の難易も有之、人数の増
減も有、労以、唯今より取極幾ヶ月の間に幾部の書出来と申儀、難差定、警へば、常年春は英
氏経済論初著三冊開板相成、尚今年中には二篇三篇も務免可相成、比外に論吉翻譚のをしへ草
と申書も五冊、比赤常秋逸開版可相成、共代金の高も何程と申義、院と難差定、右二品のみに
ても凡二千雨乃至三千雨には可相成と存候云々
といふのがある。この頃の千雨といへば、今の一、二萬圓にも常る大金である。それを何千圓も
翻譚の貸め出金するのは、一の藩としては容易ならぬことである。特に戦争その他維新の政鍵で
各藩とも多大の出費に苦しんで居つた際としては、非常な決断と請はねばならぬ。
面して、このことの首唱者は、大参事の岡田吉顕であった。大参事とは、職務権限からいへば
今の内務部長であるが、そのころは奮家老職で一藩の全権を掌握して居った。威権競々 たる大
官であった。偶然にも先般の 「歴史公論」 の日槍に 「明治二年六月画館出兵の備後顧山藩軍が東
京品川に上陸の際の将校紀念撮影」といふものが掲げられ、その中央に出兵継督岡田吉顕の省像
がある、服装は洋服に靴で頻る新式であるが、結髪に雨刀を帯びて居るこれは常時としては常
然であるが、今の青年諸君の目には異様に感ぜらる、であらう。なほ別に晩年の寛眞も添へてあ
る。凡てが常時の最新式であるのは成程と首肯される。扱てまた、先生と岡田との闘係に付いて
すよ
奮顧山藩士で維新後同藩の大参事をした岡田吉題は、明治初年に設けられた衆議院(これは集
議院の誤植である)に漢字魔止個名探用の議案を提出した事がある。岡田はこの議案を提出す
顧 澤 論 吉 二一
幕末維新の人物 二 一二
る前に先生にその意見を尋ねたところ先生も大に賛成せられ、常時横濱在住の英人賢師へボン
の、支那今日の衰微は文字難解のため教育普及せざるによるとの説を引いて岡田を励まされた
といふ。
といふことである。へボンは近世文化に貢献の偉大なる外人で、その著「和英語林集成」 のロー
マ字綴が今日ローマ字論者に採用せられておるほどであり、先生は第一回の渡米の際には、ウエ
ブスターの鮮書を将来せられ、なほ、「英華鮮典」の増訂版を出版せられたのであり鮮書の編纂は
疾くに痛感せられ居り、又、漢字を攻撃せられ平易なる文鶴の主唱者で、またその先騙者であり
「文字の教」 を著され、また 「かなのくわい」 の発起人でもあり
或云。頼山陽が色々の書物を集めて 「日本外史」 を綴りたる甚だよし。然るに右の引書は大概
個名文なるに、業に之を漢文に翻譚したるは何故なる哉。唐人計りに日本の歴史を見せる積り
敷又は己が漢寧の上手といふを人に自慢する積り敷。何分日本人の貸めに漢文は不便利なり、
更角儒者には比癖多く、動もすれば日本人一般に分らぬ書を著述することあり。
との痛快なる言ある先生のことでもあるから、岡田やへボンの個名文字論にも賛成せられ、鮮書
編纂の必要もあつて、邦語鮮典の編纂に片肌脱がれたのである。
なにしろ、常時は智識階級といへば全部漢寧者であり、新しい寧問でも例へば折角その道の人
々の骨折ったバイブルの 個名交り譚より漢譚が重んぜられ、スペルリングの漢譚さへ 出版せら
れ、小學校でも 「十八史略」などの漢文書を教科書に用みたところもあった程漢寧萬能の時代に、
仮名文を主張し、邦語鮮典の編纂に着手せられたのは、軍なる癖書編纂の歴史としてよりも、文
化の先騙者としての卓識を見るべきある。然るにこの大事業も終に完結に至らなかったのは、寧
界の貸め最大痛恨事である。
三、顧澤先生と新事物の廣告
封建経済に寄生した金融資本時代に於ては、廣告は必らずしも重要なる地位を占めて居なかっ
顧 澤 論 吉 二 一三
幕末維新の人物 二 一四
た。所請 「良質は深く蔵して空しきが如し」 といへる形容詞的商業美徳は、到底廣告と相容るべ
き性質のものではなかった。
然るに金融資本が産業資本に韓化するや、猛然として廣告の必要を感じたのは、これまた常然
であった。我邦は、正に近く維新の鍵革に於て、比時機に常面したのであった。
比期に於て、封建博統の打倒を絶叫し、新日本の黎明期に向って、指導的地位に立って一大獅
子呪を貸されたのは顧澤先生であった。
しかも、それは単なる 政治的方面のみでなく、赴曾的、経済的その他のあらゆる方面に 向っ
ても、先生の雄風は眞に堀裏たるものがあった。
町人級の自覚、経済立國の提唱に、先生が全力を傾倒して闘はれたのであった。
比時勢に、比努力である、政治的には演説を始められ、経済的には廣告方面に共除力を向けら
れたのである。つまり、政治的廣告は演説であり、経済的演説は廣告である。
面して、その演説が紙上に発表せらる \に至つて、新聞発達を来たし、廣告が紙上を賑はすに
至って、新聞の使命が確立したのである。
故に新聞の駐於領であれば、 廣告はその洞である。 二者称 と分離すべからさる概念である
にも利はらず、 我都和期の新聞は、 就說に重きを置き、 廣告を度外觀して居ったのである。 これ
は封建イデオロギーの経た色濃くして、 その幹部たるものは神教育を受けたる 。の 人多かっ
たから、 新る金曲を後たしたのである。
今日 の新聞於教材も、 廣告に主力を置き、 就說の知さは存在せざるものあるも、 世人の敵で経
まさる のと比し て、 正に帰世の感があるのである。
先生は、 この初期に於て、 廣告の重んすべきを説かれ、 また自ら機多の交後の代筆法で廃され
たのである。
文筆は士人最高の必要であり、 町人階級は結んと放課題されて活った時代には、 その魔君の代
李春とは想像も及ばれ のであり、 それが新文化に開始されても、 代の思想の会場に立っ掛的
人物が、 これを残すを着しとせざる時代に於て、 先生は自から、 これを強されたのである。
先生と魔者と の親族に付では、 松野氏が 書かれて活るから、 敵て金の元素を使っ越ºない
が、 戦全集に掲げられである魔高文の制定はでも相當の敵が事行得られる のである。
福 論 者 11
幕末維新の人物 二 一六
更に最近、本塾に牧蔵されたもの\内に、先生が牛肉曾赴の貸めに立案せられたもの、珍史料
がある。
先生は、明治三年に、牛馬曾赴の貸めに 「肉食之説」 を起草せられ、これが宣博用として出版
せられたことは有名なる事柄である。
これに付ては、更に時勢を考察する必要がある。
それは、奮文化の打破、新文化の樹立に付ては、一般民衆に向っては有形の物質からの質物教
育に着手するのが近か路である。
故に先づ牛乳、牛肉等の奨励は必要であるが、無意味の博統に因はれ、これを忌み嫌ふものが
多かったから、先生としては、軍なる商品の宣博といふ以外に、新文化の移入といふ大目的の貸
めにも、この勢を執られたのである。しかも、この肉食は、新文化の纏本山たる本塾に於て、盛
んに食せられたが、これに付ては、左の挿話がある。
今日の如く、牛鍋の流行を来せる源を尋ぬる時は、共頃のハイカラのチャキ〜顧澤先生と光
妙寺三郎氏の勧誘も興って力ありしもの\如し。中川屋、この雨先生より 「牛肉は世の開ける
に従ひ、誰でも食用するやうになる」 由を聞かされ、いつそ江戸に手を擁げやうとの念を強く
-
せり、されども、常時、江戸にては獅頑固にして、層牛の地を貸す者さへ無かりし。
幸ひ共頃天領なりし自金村(今の芝匿自金町)の名主堀越藤吉は、祀父に常りたれば、之に相談
して、共邸内の畑の一部を借り受けることを得たり、常時牛を層るのは大鍵な騒ぎにて、機れぬ
やうにと、青竹を四本立て、それに御幣を結び、四方へ注連を張り共中へ牛を繋ぎそして、掛
矢にて 一 つゴツンと撲殺せるものなり、今日の如く骨の間の肉まで削り取る如き器用のこと無
く、ホンの上肉だけを取り、残除は皆土中深く埋め、後ちお経を上げるといふ始末なりし。三
四頭層りしに、怒ち村が機れるといふ物議が起れり、流石名主の事ではあるし、殊に備藤吉と
線名される位の人望家なりしかば、表立ちてグズ〜云ふ者こそ無けれ内心大に平らかならざ
る模様なりしぞ、堀越は、百方奔走して、共頃は、蔑芦に足の踏所も無き後の料理店 「見晴し」
の漫に層牛場を新設せり。層肉場は出来たれども、牛肉を販く路とては、僅に慶應義塾の撃生
に質る位が闘の山なりし、一頭層せば直に腐ると云ふを恐れ、端より小さく切って仙煮となし
、それを竹の皮に包みて塾に持ち行くなるが、平関魔の主唱者顧澤シ生の襲にておりながら、
顧 澤 論 吉 二 一七
幕末維新の人物 二 一八
シには、必シん、 切火の洗濃を愛はなはれば、敷知せず、唯にぞ
ればが、にシ、シせず、癖のシに賞らいあたい、常時の義
塾の賄は、塾より飯と澤庵より他興へす、英屋といふが出入して、味噌汁一杯五文、鮮の煮付
然)
幾らと帳面に付けおき、月末挑ひの極めなり、従って挑ひの溜る者もあり倒れる者もあり、然
るに牛肉屋のみは、比の如き臭いものを賞りながら、現金にて取って行くとて、薬屋が義しが
りしものなり、質際常時の肉は、今日の如く血を絞る事を全然知らざりし貸め、本常に臭気多
かりしといふ。
中川屋は、堀越と相談し肉を販くのみにては行末面白からず、一っ牛肉鍋を賞りて見たしと(犬
も、猪鹿の肉と徳とを煮、飽貝にた\へて賞ることは、文久ころより特に盛なりければ、それ
より思ひっきしなるべし)芝京橋の漫にかし家をさがせしに、牛肉鋼を質ると聞きて、皆之を
断り、或は共家賃の高きを喜びて之に應するものありても、五人組承知せず、廣き下町に貸す
家一軒もなし、とかくする内に、芝露月町の東側ー常時は共の裏は直ぐ海岸なりしーに一軒の
貸家あり、共持主は、懲張婆にして、高き家賃を乾々と納むるに於ては、五人組何を言ふとて
も直にお貸申さん、と答ふるにぞ、早速借り受けて牛肉店を開くことにせり。然るに中川屋は、
五残廊の氷の切出し事業に失敗して姿を隠さゞるを得ず、異人館の肉納人の株をも引受け、堀
越一人にて経営すること 、なれり、店の眞中は、ズット奥まで土間にし、左右の壁に沿ふて三
尺の床、それには市松の薄縁、今の場末のそば屋といふ鶴裁なり。
情店を開くは開きしも、一向来客無し、無き答なり、店前を通る人さへ、比店の前は鼻を押へ
目を眠り、二三軒先より駆けて行く位なり、「見世開きにお客が一人も無いといふのは心細い」
と日小言云ひ〜夜の十時頃に店を閉めやうとする時、園部六に酔ひし仲間二人飛び込み来り
「サァ牛肉を食はせろ、俺達等はイカモノ食ひだ」 と大威張にて食ひ行けり、共後とも時たま
来る客は、悪御家人や雲助、人柄の悪い奴ばかりにて 「俺は牛の肉を食った」 と強がりの道具
に使ふ貸めなりし。
来る客も客なれば、賞手も賞手なり、主人の藤吉も俸の清次郎も、天領の郷士にて名主を勤め、
苗字帯刀御免の家柄なりしかば、短いながら脇差を一本差し居たり、尚店の隅には衛菊酒に唐
物、ョップ、帽子の如きものを僅かに賞り居たり、それは汽船や商館の需用を充たせる残りの
顧 澤 論 吉 二一九
幕末維新の人物 二二○
牛を仕入に行く序に、商館のサンプル物を買ひ来りて並べ置きしなりき。
共時代は座蒲園などは無論出さず、鍋を掛ける火鉢なども無く、今京橋具足町の河合にてゃる
アオリと同じき薄き鍋にて煮て出せるものなり、著も塗著、外に薬味の恋と香の物位ょり出さ
す、そして茶を用ひす素湯を出せるものなりしが、明治七年に至り中川が、素湯にては幾ら玲
味してもオリの出来るを防ぎ得す始めて茶に代へしものなり。(明治事物起原)
この中川屋といふのは、我邦の商人にして、始めて新聞廣告を貸した先騙者である。
それは、慶應三年に、横濱に於てペーリーの発行した「萬國新聞紙」には毎競外人の廣告が多
かったが、日本人としては、未だこれを利用するもの、なかったとき、その第三集に
パン、ビスケット、ポットル、右品物私店に御座候間多少に寄らす御求被下度奉願候
横演 元町一丁目 中川 屋 嘉兵衛
-
第五集に
中 川 屋 基
比人今般江戸高輪英吉利館波戸場側に個店を開き肉類を買出せり就中牛肉は健康鶴に宜しき
のみならず別して虚弱及び病身の人又は病後に之を食すれば気力を増し身鶴を壮健にす旦又
肉の素性を探み成る丈け下直に質挑ふべし四方の君子多分に買ひ求めんことを望む又牛肉の
全 を園に題はし共解を添へて共名所を知らしめ何れの部をロースト、ボアイル、ステイウ
に用ゆべきやを詳かに説き明かせり
牛肉部分の善悪に由て五等に分つ
とあり、これに牛肉部分圓と解を添へて、
一、腰の部 ロースト (中略)
十四、頂 スープ、グレヴイストック、バイ、サウセンに用ゆ
十五、歴 骨 ステイウ
高輪英吉波止場側
中川 屋 出店
とあり、また、第九集には
シ御用葬の貸牛肉店高輪へ開候虜御薬用労諸家様より御用被仰付日に増繁栄仕遠路郎
顧 澤 論 吉 二二 一
幕末維新の人物 二二二
び出来衆候に付今般柳原へ出張質弘申候間澤山御買取之程奉願候
江戸柳原請負地 中 川 屋 基
といふ廣告を出して居る程である。その廣告に付ては、先生の教を受けたと見るべき史料はなき
も、前述の如き先生と闘係もある故、少くとも、廣告のことに付ても、先生に知られて居ったの
であらうと思はれるから、慈に蛇足ながら先生の廣告観に付て述べた序に附記したのである。
四、法律家としての顧澤先生
私は常に申すことでありますが、顧澤先生は、各専門の寧問に亘って居られるので あります
が、しかも共の専門を超越しての偉大なる存在といふことが、顧澤先生の重きを貸さる\所以て
ある。共の専門々々に常つては、或は専門家の方が顧澤先生に勝る力を有って居る人が絶無では
ないのでありますが凡ゆる新文化の先頭に立つ専門を線合して、更に共の上に立っ所の偉大なる
存在は顧澤先生の眞債値でありまして、他人の到底及ぶ能はさる所が比の酷に存するのでありま
す。随て共の専門の方面から顧澤先生を研究せんとするのは、拾も木を数へて山を忘る\のと同
様てあります。所請群音象を評するの壁に湖れずして、顧澤先生の偉大なることは到底解らない
のでありまするが、併しながら又継ての専門を超越して居られまする先生の本領を説明せんとす
るに常っては、又各方面に亘れる事門的方面を閑却してはならないのであります。即ち各専門の
上に 立たれる偉大なる存在といふ方面からも見て、面してまた専門的方面の研究を忘れないの
が、顧澤先生を研究する所以であると私は考へて居るのであります。比の酷に就きましては、従
来各方面から顧澤先生に闘する研究は霊されて居るのでありますが、偉大なる先生でありますか
ら、如何に研究してもまだ研究し霊されないのであります。唯共の各方面の研究に於きまして、
比較的閑却せられて居るのではないかと思はれるのが、法律方面より見たる先生であります。是
は先生の極めて小なる部分であります。殆ど先生としては歯牙に掛けられなかった部分かも知れ
ませぬけれども、吾々多少法律に闘係して居る者は、比の酷から少しく観察しようと思ふのであ
ります。
顧 澤 論 吉 二二三
幕末維新の人物 二二四
近世の各方面に、霊出したる偉人には夫れ〜敬服すべき獣があり、各々特長を有って居るの
でありますが共の中に於きまして、私共が特に敬服致して居りますのが、顧澤先生と大隈重信侯
の書かれたものなり、話された断片なのであります、それらを味って居りまするといふと、比
の雨偉人は少くとも法律的素養があられたといふことを、私共は常に感するのであります。普通
の偉人傑士の言も味ふべき酷が無論多いが共の中でも比の雨偉人に勤しては、是は法律をゃられ
た方であるといふことは、私共多少法律に闘係して居る者が想到し得る獣であるのであッます。
故に比の酷から少しく先生を見ようと思ふのであります。無論先生の全般に亘って、法律家とし
て批評するといふやうな信越なる考へはないのであります。
そこで私の考から先生の博を少しく見たのであります。比の酷に於きまして、先生の博を見ま
すといふと、先生が初めて欧米の文化に接せられましたる高延元年の亜米利加の渡航、文久二年
の欧羅巴の渡航、比の際に於ける先生の研究努力といふことを考へ なくてはならぬのでありま
す。最初の洋行の際に於かれましては、先生自ら言はれて居りまする如く、初めて新文化に個接し
て何が何やら分らなかったといふやうなことを言はれて居るのであります。併ながら二回目の文
久二年の欧羅巴の各國においでになりました時には、十分なる醸備知識があり、面も燃ゆるが如
き研究の熱心を以て、欧米文化に鍋接せられたのであります。共の時感想を自博なり全集の緒言
に書いて居られるのであります。常時先生は欧米の継ての文化に向って、研究の歩を進めて有ゆ
る方面に向って質問を務せられる。さうすると向ふの方では機械であるとか、共の他自然科學の
ことに就て説明をして聞かす。併しそれは日本に於て、比方は十分に研究して居ったのであるか
ら言はなくても分つて居る。之に反して政治法制であるとか、赴曾とかいふやうなことになると
比方はちつとも見常が付かぬから、向ふで聞くと、向ふの方ではそんなことは分り切ったことだ
といって説明をして呉れないといふやうなことを述べて居られるのであります。共の二三の文句
を引用致しますと、自博の方には斯ういふ文句があります。
政治上の選撃法と云ふやうな事が皆無分らない、分らないから選撃法とは如何な法律で議院と
は如何な役所かと尋ねると彼方の人は只笑ておる、何を聞くのか分り切た事だと云ふ様な譚、
ソレが比方では分らなくてどうにも始末が付かない又賞派には保守賞と自由賞と徒賞のやうな
者があって双方負けず劣らす鏡を削て争ふて居ると云ふ、何の事だ、泰平無事の天下に政治上
顧 澤 論 吉 二二五
幕末維新の人物 二二六
の喧嘩をして居ると云ふサァ分らないコリャ大鍵なことだ何をして居るのか知らん少しも考の
付かう答がない彼の人と比の人とは敵だなんと云ふて同じテーブルで酒を飲で飯を喰て居る少
しも分らないソレが略分るやうにならうと云ふまでには骨の折れた話で共請れ因縁が少しづ〜
分るやうになって来て入組んだ事柄になると五日も十日も掛てャツト胸に落ると云ふやうな譚
でソレが今度洋行の利益でした
斯ういふやうなことを自博に仰しやって居るのであります。是と同じやうなことが全集の緒言の
所にもう少し詳しく出て居ります。
質問を試るに先方の貸めには尋常普通分り切たる事のみにして如何にも馬鹿らしく思ふやうな
れども質問者に於ては至極の難問題のみ例へば政治上に日本にては三人以上何か内々申合せ致
す者を徒賞と稲し徒賞は曲事たる可しと政府の高札 (法度の掲示場) に明記して最も重き禁制
なるに英國には政窯なるものありて青天白日、政権の受授を争ふと云ふ左れば英國にては虚士
横議を許して
虜士横議といふ言葉は除り今日では流行って居りませぬが、虚士が盗に議論する。今日の言葉で
いへば在野賞の無責任な言論といふことですが、顧澤先生はやはり共の常時の言葉として
虜士横議を許して直に時の政法を誰 誘するも罪せらることなき、斯かる蹴暴にて一國の治安を
維持するとは不思議千萬、何の事やら少しも分らすとて夫れより種々様々に不審を起し一問一
答潮くして同國議院の由来帝室との闘係、興論の勢力、内閣更送の習慣等次第に之を聞くに従
って始めて共事質を得たるが如く尚ほ未だ得ざるが如し満目の人事唯不審のみにして法律は寧
者の寧問なりと云ひ代言人は他人の訴訟を引受け罪人の貸に耕護する者なりと云ふも日本に居
るとき公儀(幕府)に御大法百箇條あるを博聞したるのみの書生には少しも分らす、民間商質人
の仕事に生命保険曾赴あり海上保険曾赴ありと云ふが如き成程面白き工風なりと思へども共仕
組を詳にするは甚だ容易ならす
斯ういふ工合に談ぜられて居りますが、是は顧澤先生は解らぬことは解らぬで済まして居られ
ぬ。解らぬが故に非常な努力をして研究になりまして、比の洋行から お騎りになって出来 まし
たのが、明治初年を風魔致しました西洋事情であります。西洋事情には御承知の通り欧米先進國
の文物の各方面に亘って詳細噛んで含めるやうに詳しく書いてあるのであります。解らなかった
顧 澤 論 吉 二二七
基米羅新 の人物 二 二八
先生の努力は彼らにし てあの像大なる著書となったのであります。 西洋事情のととに就きまして
は、 私が今更ら中す 选もないのでありますが、 比の 中に特に私 が本日中上げたい と思念 のは法律
に開する事柄であります。 政治法制 一般に就 ては詳しい能明がありますが、 其の中に特に御注意
を願いたいの は今日或國に行はれて居りまする階海詞度を最初に紹介やられましたの は、 福澤先
生の西洋事情であります、 それ以前に於を ましても、 多少新片的に翻譯なり、 鄭に依って監察
といぶやりた文字があります。 文字だけは道入って居りますが、 常時の日本人はそれに就 て始ん
と理解力を有たなかったのであります。 それに勤し て福澤先生が極めて簡單に要領を得た説明を
され てわる のであります。 其の 一節を数に中上げます。
英國にては裁判役の福斯にて無人を除隊し型師に行よととを得す必ず立會の もの有て裁判の正
香を見て之を論議し羅人も共舞に伏し立合の もの も共發制に付き理論なきに至て初 て別に帰す
るたり真立會の者とは平生國內にて身分よきものを選び軍を載到 の起る毎に入札を以て共人數
の内より北四人、 或は十 二人死を呼出し て裁判員に列產能しむるなり北接を トライエル ・ メ
イ ・ ジュリー と 云 。 但し合衆國 同樣の法なれとも、 佛蘭西海關等には比法なし
と説明がありまして、 更に進んで、 武の起りはジ"ンの大法に基くといぶ、斯 2いよ所まで詳し
2試明され て居る のであります。 歐米の文物法律が解らない。 而 東洋の封建事制國に於をまし
で、 初めて新しい文化に編隊やられました先生が、 共の文化の中で最も進んだる、 最も説明の因
維たる暗器に就て是程容易に説明なさつて居るのであります。 此の頃はまだ時宗 といふ教学は あ
りませg。 本生は立合と評 されて居0ます。 他の方面に於ては共の後衛家に臨海である か、 或
は参族、 印ら到廣するといぶやうた意味の教学が出て来るのでありますが、 先生の用いられた立
合といぶ高樂於永く用いられて居るのであります。 是は明治六年に出ました中村被李先生の武和
政治といふた があります、 比の中にもトライエル ・メイ・ジ " 5— に臨海龍獸を聴く地も+ 1人
の立合の今泉といふ就明を付けまして、 陈家といふ所へ開けて、 やはり立合論時 3 %承德洛%
附いて活0ます。 是は福澤生の神学を中村被李先生も用いられたのであります。 典の頃出し
た兵生真とい 人於於原子といふ學名で書いて活りますが、 是は本盤に も多少關係のあった人で
あります。 此の人が隆慶賀藩の環とい。 唐物を出して活ります。 此の本の原は千八百五十 六年に
ゼームスレツアが支那に於て著しました神探案と いよ英傑羅の教科書であります。 共の中に
随 響 論 者 1111 万
-
泰米羅新 の人物 11 三 O
神像º い、 数字があったのを、 氏生於克子が日本学に露したのでありまして、 非の産の証明の
所に勝家 とい。教学が新角あったに拘らず、 Nを立合於陳の論と評して活0まして、 是 先生 の
國語を使って活すます。 同じく明治六年に魔劍橋といふ人が、 やはり北 の本に基いて和羅した本
そº文台人數を聴くの論 とい のでありまして、 立合人とい, 所にチリーとい 顔名を掛け
て明る。 最初勝家を紹介されましたる先生の韓語が永く初期の語に各方面に用いられて活 た
のであºます。 それから西洋事情の中には色«海山た法規に関する事柄がある のであります。 是
ポの寺院。ない、 而 西洋事情が明治の維新の思想に知何に影響したものであるか、 五福隆
の御殿後に知何に影響したかといふ と とに就ては、 先年張が逃 «た第に共の事に論及し て置きも
し次から、 本日は典の方の説明は略するのでありますが、 五萬條の御書文の中で、
1 、 藤本プ優香フ被り、 天地2公道 義久 < ンº
いふ 1後であります。 是は木戸事先が加《たのでありをするが、 最初の案には 天地の公道
ºś*のは 天地》通識 といふと とに書いてある。 此の通義といふ教学は是も西洋事情の 編に
先生が盛んに用いられて居る教学であります。 而李先生の通識といふ教学は今日 の艦和と g ॥
味に用ひられて居るのであります。
第二 「ライト」とは元来正直の義なり漢人の譚にも正の字を用ひ或は非の字に反して是非と封
用せしもあり正理に従って人間の職分を勤める邪曲なきの趣意なり
又比字義より韓じて求む可き理と云ふ義に用ゆることあり漢譚に達義通義等の字を用ひたれど
も詳に解し難し元来求む可き理とは催促する答又は求ても常然のこと 、云ふ義なり警へば至常
の職分なくして求む可き通義なしと云ふ語あり即ち己が身に貸す可き事をば貸さすして他人へ
向ひ求め催促する答なしと云ふ義なり
又事を貸す可き権と云ふ義あり即ち罪人を取押るは市中廻方の権なり
又常然に所持する答のこと \ 云ふ義あり即ち私有の通義と云へば私有の物を所持する答の通義
と云ふことなり理外の物に封しては我通義なしとは道理に叶はぬ物を取る答はなしと云ふ義な
り人生の自由は共通義なりとは人は生ながら濁立不覇にして束縛を被るの由縁なく自由自在な
る可き答の道理を持つと云ふことなり
泡に説明は今日の人には耳に這入り難い。それよりも権利といへば反つて誰でも解って居るので
顧 澤 識 吉 二三 一
幕末維新の人物 二三二
すが明治の初年に比の熟字が日本に移植せられた時には容易に解らないのであります。そこで先
生は委曲を霊して説明されて居るのでありますが、一般民衆には権利といふ熟字が頭に這入るの
は除程の年数を要して居るのであります。吾々の仲間に於きましても、専門學者法律家が初めて
法律をゃった時に、権利といふことの概念を頭に入れるには約一年位掛ったといふ話を聞いたこ
とがあります。ですから共の頃権利といふことを説明するのは非常にむづかしいことであったの
を、先生が解り易く斯様に説明されて居るのであります。比の通義といふ韓が直ちに五個修の御
*文に用ひられたといふ直接の資料はないのでありまするが、五個條の御誓文と維新の政鍵の影
響は顧澤先生の思想に影響して居るといふ大きな方面から見ますと、通義と御誓文とは密接な闘
係ありと見て大なる誤もないのであらうと私は考へるのであります。
それから又西洋事情を除きましても、深い法律的研究があるのは警察制度の創設であります。比
の警察制度の創設と塾の所在地とが密接な闘係がある。足は有名な事柄ではありますけれ共、比の
獣に就ても大鶴申述べて置くのでありす。是は自博にあります。常時といふのは明治二年頃です。
常時東京の取締には過卒とか何とか云ふ名を付げて諸藩の兵士が繊砲を擁いで市中を巡廻して
居る共有様の殺風景とも何とも丸で戦地のゃうに見える、政府も之を宜くないこと、思ひ西洋
風にボリスの仕組に改革しやうと心付きはしたが扱そのポリスとは全鶴ドンなものであるか概
略でも宜しい取調べて呉れぬかと役人が私方に来て懇々内談する共様子は比取調さへ出来れば
何か濃をすると云ふやうに見えるから比方は得たり賢しお易い御用で御座る早速取調べて上げ
ませうが私の方からも願の筋がある衆て長官へ内々御話いたしたこともある通り三田の島原の
屋敷地を拝借いたしたい是れ丈けは厚く御含を願ふと云ふは巡査法の取調と屋敷地の拝借と交
易にしゃうと云ふやうな魔術に持掛けて役人も否と云はすに獣諾して騎るソレから私は色々な
原書を集めて警察法に闘する部分を翻課し綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が東
京府では比翻譚を種にして尚ほ市中の質際を期 的し、様々に工風して断然彼の兵士の巡廻を魔
し改めて巡過と云ふものを組織し後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏常の取締法が出来
ました
斯ういふことでありまして、先生の翻譚せられましたる警察法のことに就きましては、近く出
ました先生の博に全文が載って居ります。共の頃はまだ警察といふ譚字がありませぬから、先生
顧 澤 論 吉 二三三
幕末維新の人物 二三四
は取締の法と譚されて居るのであります。
取締とは事物の修理を守り法律を行はしめんが貸め、是非曲直を裁断する常務の権力なり (常
務の権力とは兵力にあらざるを云)
是は今日の警察の譚にも斯ういふ工合に説明されて居るのであります。先生の比の翻譚が出来
まして、それから明治三年には東京府に取締といふ、所請今日の警察の本が出来ました。それ逸は
今お話した通り、各藩の兵士即ち軍政組織の警察制度であったのが、純然たる行政組織の警察制度
が出来たのでありす。比の警察制度の起ったのが今日の塾の元たる島原の屋敷挑下を受けられた
因縁になるのであります。濁立自奪の大権威である先生と官僚の権化とも言はれる警察は、斯うい
ふやうな妙な闘係を有して居るのですが軍政的警察を行政的警察に一進歩せしめたのは矢張り先
生のお力であります。共の警察制度の緒に就きましたのは、翌年の明治四年西郷隆盛が薩摩から
千人の子弟を率みて東京に出て来ましたのが警察制度の初めであります。永く警祀聴が薩閥の根
継となって居りました。慶見島人でなくては動まらぬと言はれたのは共虜から祀るのでありま
す。共のポリスの組織は先生の翻譚に基いて居るのでありまして、共の事につきましては薩藩の
市来四郎が、西郷隆盛の命を受けて、ポリスのことに就て先生を訪うて、色々聞いて居るのであり
ます。比の制度は東京ばかりではなく、更に各地方へも先生の翻課に依ってそれを模して行はれ
て居る。攻に出来ましたのが大阪の警察制度、是もやはり先生の翻課に依るのであります。是は
竹内綱の自叙博にあります。東京が三年から四年に完成して、四年に大阪の警察制度が出来た。
常時大阪に浪花隊と稲する四百人の守備兵あり
是も軍政であります。
之を廃して取締避卒と名附け、外に二百除人を募りて之に加へ市中各所に交番所を設け服役を
定め避卒をして書夜交替巡遍せしむ。比取締制度は顧澤論吉の著書西洋取締法に依り創設せる
ものにして、諸府懸に先立って警察制度の噛矢となれり
といふのがありますが、是は東京が先であるといふことは書いてありませぬが東京が先でありま
す。それから大阪が出来たのであります。東京大阪の二大都市の警察制度は先生の翻譚に依つ
て出来たのであります。引績いて全國に是等の大都市を模範として警察制度が出来たのでありま
す。故に今日の警察制度の基礎は先生の著書翻譚に依るといふことは明なのであります。
顧 澤 論 吉 二三五
幕末維新の人物 二三六
それからもう一つは精護士制度であります。獄護士の制度はァドボカートを代言人と譚したの
は先生であるといふ説もあります。いやさうではない、他の人であるといふ説もありまするが、
最も早く欧米の精護士制度に著目をせられて、共の質施に就て先んぜられましたのが先生であり
ます。是は丁度常時亜米利加から騎って参りました見玉淳一郎、近年逸大阪の助役をして居りま
した見玉孝顕君の先代であります。比の人が明治二年に山ロ藩から法律祀察の貸に亜米利加に渡
航致しまして、三年に騎りまして、更に太政官の命に依って刑法の研究として亜米利加へ参りま
した。華盛頓の裁判所に出入して、司法事務を見撃した人であります。それが明治五年に岩倉大
使一行が亜米利加へ参りました際にも、法律取調の補助を致して居ったのであります。明治六年
の四月に騎って参りましたが、共の頃法律をやったなんといふ人は珍らしい、 洋行騎りが頻る珍
しい時でありますから非常に珍重せられて居るのであります。或る人に言はせると、顧澤先生も
大分買被って御座った、見玉は偉さうな法螺を吹いたーといふと語弊がありますが、法律を
知って居るやうに言って居ったのであります。そこで先生の所に居りまして、常時出版赴があり
ましたが、共の三階に住ひをして居って、塾中に弟子を集めて比の人が法律の講義をして居った
のであります。共の中に質際問題と致しまして、明治の七年に三谷三九郎事件といふ大きな事件
が起きました。是は自柳秀湖君が色々の本に書いて居ります。稀な一大裁判であります。比の事
件の筋途は略しますが、比の三谷三九郎の貸に先生が見玉淳一郎を勧めて法廷に初めて精護士と
して立たしめたのであります。是が所請法律家らしい法律家、精護士らしい精護士の元祀であり
ます。それと同時に中貞勝といふ人が見玉淳一郎の下にやはり法廷に出たのでありす。中貞勝と
いふのは大阪の緒方洪庵の塾に居りまして、是が先生の同窓の人であります。緒方塾を出まし
て。方向が違ひますが、軍賢の方に道入りまして、相常の所まで参りましたが、意見が合はすし
て、途中で魔めて居ったのを、先生の紹介に依って、見玉淳一郎と相知って、共に先生の命に依
って法廷に立ったのであります。比の三谷事件といふのは、常時の豪商でありまして、三井組と
の闘係の大きな訴訟で、法廷に於て幾多の波湖があったのでありますが、共の三谷三九郎が裁判
所の呼出に應じなかったといふので、裁判所に拘留せられたのであります。比の時に見玉淳一郎
が人身保護の上願書といふ、人身保護に闘する書を書きまして、之を先生の添削を経て東京府知
事へ出したのであります。司法と行政とが大分混観して居つた頃でありますから、さういふこと
顧 澤 識 吉 二三七
幕末維新の人物 二三八
があった。東京府知事が更に司法卿及び太政大臣に伺を入れて、三谷三九郎の拘留を響いて騎さ
れたのであります。是は見玉の出した人身保護の上願書に先生が添削されたのであります。比の
事件は色々の鍵化がありまして、結局三谷側の負になったのでありますけれども、法廷に於て欧
米の法理を説いて、新式の法律論を戦はした初めであります。丁度共の頃中上川彦次郎であると
か、朝吹英二であるといふ後に質業界の大立物となった人も、比の時には見玉淳一郎の書記とい
ふことになって居るのであります。比の事に就ては朝吹英二博に詳しく書いてあります。
顧澤先生の著作が盛に質れたから、全國各地に偽版をする者が多く、版権法も何にもない頃と
て、之を防ぐ貸に、東京大阪京都などで、知事相手に先生が建白書を出して、版権保護の必要を
説き、一方偽版を差押へて告訴をする。共の苦心と悪戦は今日誰も考及ばぬことであったが、斯
ういふ場合の用意として、朝吹君と中上川氏は代言人見玉淳一郎の下に書記の免状を取って、代
理の事務を取られたといふことが朝吹博にあるのであります。恐らくそんなこともあったでせう
が、先生の著書の偽版のことに就きましては、今度出ました先生の博に詳しく書いてあります。
色々の問題が澤山起き、先生の著書が非常に賞れるから、色々の偽版が出たのであります。是等
のことに就ても初論代言人の制度が必要であったのでありませうが、本来人権擁護の貸に置か
れた精護士でありますから、先生が比の制度に著目せられたことは、さもあるべきことだらうと
思ふのでありませす。斯くして精護士制度が幾多の鍵遷を経て今日の制度に完成したのでありま
す。
極く大要を申上げても只今逸申す通り、陪審であるとか、警察であるとか、精護士といふやう
な有ゆる法律方面に於て、先生の努力を煩はさないものはないのであります。随て本塾には明治十
三年に法律科といふものが出来て居るのであります。共の時の講師が相馬永胤、金子堅太郎、目
賀田種太郎、津田純一であります。今日は幾多の私寧が出来て居ります。共の中で一番早いのが
今日の専修大寧であります。是は明治十三年、本塾に法律科が出来た翌年であります。明治大學
が明治法律寧校と申し起ったのは明治十四年、早稲田大學の前身たる東京専門學校が共の翌年の
明治十五年、いづれも法律を以て主としたのでありますが、それよりも本塾が最も早く法律科を
置かれたのであります。引績いて二十三年に本塾が大寧組織になります時に法律科を置かれたの
であります。本塾の法律科は動ともすると、世人から忘れられて居る如く、或は新しい寧科であ
顧 澤 論 吉 二三九
幕末維新の人物 二四○
るが如く解する人もあるのでありまするが由来するところ斯の如く深いのでありまして、更に遡
れば先生の法律に闘する十分な理解があったことから、比の制度が由来して居るのであります。
今日法律が完備して居る時代から見まして、如何に常時の草創時代に於て、先覚たる顧澤先生が
御苦心なさったかといふことに就ても、殆ど世人が忘れて居るのであります。顧澤先生の偉大な
る他の方面に於ては語り霊されて居るのでありますが、極く一少部分たる法律方面に於て、従来
除り論及されて居らないのは前申す通りであります。私が敢て不敏をも顧みす、断片ながら申し
た次第であります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(?\{
比度慶應義塾にて法律の一科を設け長く海外に遊撃し、法律に名高き、金子
堅太郎、津田純一、相馬永胤、目賀田種太郎の諸氏を招待し、毎週月火木金
/
曜日の夜七時より講義を開かる、といふ。生徒も必らず奮闘して該塾一層の
盛大を見るに至るべし。 (明治十二年十二月九日 朝野新聞)
)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ブ
五、政治教育家としての顧澤先生
顧澤先生の偉大なる御人格に就きましては、私が今更申上げる逸もなく、幾度研究しても述べ
霊し書き霊せない偉大なる御人格であることは私が今更申上げる逸もありませぬ。併し近来の研
究は先生の道徳的方面、経済方面の御研究が極めて盛んなやうに拝聴して居ります。無論是*先
生の一面でありますが、比較的政治方面の研究が、閑却と言っては語弊がありますが、共方が
廻しになって居るやうであります。先生の政治方面の事に就ては何も今更申す逸もなく、本勢 か
ら政治界に送り出した幾多著名の人材の盤出これは除りに顕著なのでありますから、シす
る程の必要もないのであります。併しながら青年諸君に向っては、或は比方面の研究を足から*
顧 澤 論 吉 二四一
幕末維新の人物 二四二
やりになった方が宜いかと思ふのでありまして、斯様な表題を掲げた次第で あります。例に依
って表題極めて大きくして内容の貧弱なのは私の癖であります、是は像め御譲承を願って置きま
す。
先生が御生れになった時代の雰園気は封建の世の中であることは申す逸もない、随つて偉大な
る先覚者としての先生も比封建の雰園気に於てお育ちになった。地位も低くあらせられたのであ
りますから、常時の國情として天下の政治を論すると云ふやうな機曾も地位も境遇も恵まれて居
らなかったのであります。が幸にも天は比人を捨てすして幕末に於て数回の洋行をされたことが
是が先生が近代文化の先覚者として偉大なる見識をお現しになった第一歩で あります。併し
第一回の御洋行、即ち高延元年正月木村撮津守一行の随員として桑港にお出でになる、比時には
何が何やら分らなかった、と後年仰せられて居ります。無論さうでせう、初めて日本から亜米利
加へお出でになったのでありますから、併しながら第二回の洋行として文久二年に竹内下野守の
一行に随って欧羅巴にお出でになりました時には、十分な醸備知識もあらせられ、又知識懲も燃
えるが如くでありましたから、比時の獲物は非常に多かったのであります。併しながら比時の御
感想として自博の中に出て居る所を見ますと、最初の感想に次のやうな事が出て居ります。
夫れでも私に政治思想のないではない例へば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と
三人色々日本の時勢を論じて共時私が「ドゥだ迎も幕府の一手持は六かしい先づ諸大名を集め
て濁逸聯邦のやうにしては如何」 と云ふに松木も箕作も「マアそんな事が穏かだらう」と云ふ、
夫れから段々身の上話に及んで「今日吾々共の思ふ通りを云へば正米を年に二百俵貰ふて親玉
(将軍の事) の御師匠番になって思ふ様に文明開國の説を吹込んで大鍵革をさして見たい」 と
云ふと松木が手を拍て 「左様だ〜是れは遣て見たい」 と云たのは松木の功名心も共時には二
百俵の米を貰ふて将軍に文明説を吹込むぐらみの事で常時の洋寧者の考は大抵皆大同小異、一
身の貸めに大きな事は考へない後に共松木が寺島宗則となって参議とか外務卿とか云ふ賞際の
國事に常たのは賞は本人の柄に於て商賞違ひであったと思ひます。
斯う卒直に仰せられて居るのであります。何しろ封建政治で言論の自由は絶勤にない時代であ
りますから、理想を行はんとするには役人になる、共役人も将軍の側役人になってNに文明開化
の議論を吹込む、是より外にない。又立派な大官にも直ぐ登れると云ふ時代でもありませぬか
顧 澤 論 吉 二四三
嘉來維新 の人物 二 四四
ら、 新 2 武 公方法でやるより仕方があるまい と云心のが常時の新知識であります。 二百德七 武 *
の は松木の意見であるが、 先生 失張それ位の 象考であったらうと思念、 文管線に行はれ得、き
安宮前としてはそれ位の もの であったらうと思はれる。 唯此時に先生の言はれた点月、 大名を樹
遠縣部の やうにすると 云よ事でありますが、 富時此の福建議院の組織 と云ようなものが解って
居る者は日本に離も無い、 無い所ではない、 外交談判の衛に常って自殺を歌しました場部線正は
擔任此海邊聯邦と ルクセンブルグ との関係が解らなくて修約締結した といふ賽任を負い て自殺し
たと 云 ようた重大た事がある。 在機に外國の事が解ら安時分でありますが、 流石は先生の御車
見、 是法とうも仕方がたい、 獨達縣都のやりにして政治の組織を率めたらどうか、 新 2 公式や考
である。 當時は大名が政治上の軍位となって養育種を有し、 是から離新の政變を来すのでありま
す。 後に形が愛0まして比大名が省議を起し之に代表者を出す と とになり、 比列藩會議論が後に
萬機公論になる のでありますが、 これ とは別に先生は新組織 としての湖邊聯邦 と 芸者 が頻る面
白いのである。 東に角此海邊聯邦 と云 ような事が未だ解らない時分に是於けの事を考 《 て活ら
れると 云 心事だけでも先生の御見識に私共は敵疎するのであります。 沙たと と には明治十四年の
政鍵の原動力になりました大隈参議の奏議と誤り博へられて居る交詞赴案の憲法と更に誤り博へ
られて居る基案には日本の各州を聯邦組織にするといふ案がある、武蔵州とか相模州とか云ふ風
に日本の各州を聯邦組織にすると云ふのである。是は偶然の結果でせうが、職邦論と云ふ妙な所
に響いて来ると云ふ事を附加へて申上げて置きます。
扱て第二回目に先生は窓々向ふにおいでになり欧羅巴の六ヶ國を使節一行に随うて廻られたの
でありますが、他の連中は何が何やら解らないが、 は非常に御苦心なされて色々御研究にな
ったのであります。如何に共時の様子が困難であったかと云ふことは、是も自博の中に出て居り
ますから、御承知でせうが大鶴申上げます。
ソレカラ又政治上の選撃法と云ふやうな事が皆無分らない、分らないから選撃法とは如何な法
律で議院とは如何な役所かと尋ねると彼方の人は只笑て居る、何を聞くのか分り切た事だと云
ふ様な譚、ソレが比方では分らなくてどうにも始末が付かない、又賞派には保守賞と自由賞と
徒賞のやうな者があって双方負けす劣らす鏡を削て争ふて居ると云ふ、何の事だ太平無事の天
下に政治上の喧嘩をして居ると云ふサア分らない、ョリャ大鍵なことだ何をして居るのか知ら
-
顧 澤 論 吉 二四五
義來維新 の人物 1 四六
んかしゃあの付から着がない、 彼の人間の人とは敵をたんと云 て同じ アーブルで酒を吹き
彼を除 て活る少しも分らない、 ソレが話分るやうにならうと芸 &#でには骨の折れた話で、 共
調れ因線が少しつ 人 分るやうになって来て入網友だ事柄になると五日中日も難 でキット卿に落
ら る と 云 ような議でソレが今度洋行の利益でした。
是親の修行を されたのでありますが、 流石は先生であります。 此行の最大の土産としてお姉0
になってお作りになったのが 西洋事情 、之には各國の風情政治上の様子が手に取るやうに書い
てある。 あれだけの事を説かれるには先生でなく ては残し得ない。 經んば是於けの者心をした所
があれだけの事を書く集を持っ て居ら約。 又あれだけの事を書く第は持つ て居る人でも是於けの
者心をした人は無いのであります。 先生が比 ſ西洋事情 を象作りになったのは、 幕府の参考に
資する と云 。 ことで書かれたのでありますが、 一面に於ては藤原の火の知き教を以て明治の初年
に嫌って彼らにして数十萬の本が出た、 荷李明治の初年に於て、 風雲の志を抱き文明開化を題歌
し西洋の事情を知らん とする者は必ず之を読またければならぬ と 云心臓に流行った本であるので
あります。 而し て是が大政奉還論たる攻本龍馬の思想に愛隆し、 さらし て五ヶ修飾藝文に重大た
-+

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11


幕末維新の人物 二四八
しふお考が起ったのでせうが、もう時勢が鍵って来ると役人にならすとも赴曾教育と云ふ方面が開
かれる、面して共方法として本塾を経営せられて居るのでありますから、先生が既に一歩時勢に先
たれて居るのを知らずに官奪民卑の封建思想で任官をお勧めしたとて駄目な答です。丁度明治元
年に新政府が出来まして人材を求むること食なるの時に常りまして、 都の新政府が初めて江戸
ーの人材に目を著けた第一著は顧澤先生と碑田孝平、柳河春三の三人であります。碑田孝平は政府
に仕へまして、後に兵庫懸令から元老院議官男爵となりました。碑田リーダー乃武の先代であり
ます。柳河春三、是は江戸に残って居る。先生は新政府に仕へることを嫌って官に就かれすして事
ら政治教育に力を注がれるのであります。併しながら政治教育と申しましても常時の塾生は殆ど
主ばかりである、殊に未だ戦乱の十分治まらぬ時代でありますから中々血園い生徒があったと芸
ーふ事は事質である、戦争から騎って来て繊砲を持って共備講義を聴いて居る塾生がある。今日で
は剣劇より外滅多に見られない塾生であったでせう、除程後になっても斯う云ふ事はあった、自分
で自分の帯を締めることが出来ない生徒が可なりあった、それから便所に行って手洗鉢の所で手
ー だけ出して居る、誰か水をかけて呉れるものと思って居る、さう云ふ生徒がある。詰り常時の
徒は武士階級の子弟であった。随って先生の大平民主義は比時には完全に行はれて居らない、併
しながら是は己むを得ない、百姓町人は寧問を不要祀せられて居る時代であって、百姓町人の奴
隷根性が容易に改らなかったと云ふ事は先生の公言されて居る所であります。一般民衆の自覚は
未だ遠いのでありますから、最初は士に教育を施されて居る、比武士階級の教育と云ふと常時は
政治教育であります。常時青年の向ふ所は政治以外にはない、文藝藝術共他は未だ途が開かれて
居ないのであります。常時の寧間は所請治國平天下の寧間、今日の言葉で申せば支配階級の寧問
であります。支配階級の寧間を目的とするものに教育をすることは必らずしも御本心ではないの
でありますけれども、比所請支配階級者の寧問に依って欧米文化に接すべく努力せられた苦心は
並大抵ではなかったのであります。
そこで先生は盆々教育の方に努力せられて居るのでありますが、明治政府は人材を要求するこ
と急にして先生に向って色々の勧誘をする、有ゆる方面から手を鍵へ品を鍵へて役人になられる
ことを希望するのであります。常時の官界は登龍門でありまして、立身出世青年の義望の的であり
ます。富貴功名権勢を一面に襲断した官界でありますが、先生は断然として役人にはおなりになら
顧 澤 融 吉 二四九
幕末維新の人物 二 五○
ない。是が先生の偉い所でありまして、今更私が申す逸もない事であります。共なられない理由を
澤山お述べになって、最後に斯う云ふ事を言はれて居る、是は私共常に感銘すべき事であります。
私は政治の事を全く知らぬではない日に談論もすれば紙に書きもする、但し談論書記する計り
で自から共事に常らうと思はぬ共趣は拾も診察賢が病を診断して共病を療治しやうとも思はす
又事賞に於て療治する腕もないやうなものでせうが、病床の療治は皆無素人でも時としては診
察賢も役に立っことがある、グカラ世間の人も私の政治診断書を見て是は本常の開業賢で療治
が出来るだらう病家を求めるだらうと推察するのは大間違の沙汰です。
面白い事を申されて居る。自分は政治教育家にして政治家にあらすと云ふ事を極めて巧妙に仰
せられて居るのであります。併しながら色々寧識が高いのでありますから、官界と云はす民間と云
はす有ゆる翻譚をお頼みして居る、今日の纏ての基礎が大部分先生の翻講に依って成って居る
是は単り中央政府ばかりでない、各地方聴でも色々先生に翻譚をお願ひして居るのであります。
共中で足まで除り世の中に知れて居らなかった事柄は、明治六年に至って先生に勤して憲法起草
或は政鶴の改革をお願ひしては如何と云ふ大久保利通の意見が出て居るのであります。丁度明治
四年の勝浦賀縣に依っ て封建の制度は滅び てしまった、 是より中央集權 代號 一 國家が出來るの
でありますが、 比隊に於て中央政府は幾多の施設を試み て居る。 一面に於ては延體論其他の内外
に言る大きな事件が是なら起るのでありますが、 比對建の名 と賞が滅びる事に就て全國の人心が
逃離し て行く、 其隊に歌米を授進しました岩倉大使の 一行が騎ってそれから徒體論になるのであ
りますが、 其中の木戸事先は騎って来て意法起草の議を奉ったが未だ時執が早くて容れられない
のでありやす。 同じく歌羅巴を巡っ て来て後には専制政治家の構化の 知く場 へ られ て居る大久保
利通る意法制定と云 心線を奉って活るのであります。 新くし て意法制定と云 心事は未だ星 いが東
に角此做にし て置いては官しくない と芸 ので、 明治六年の 穴月に政體取調委員 と云 よる の が出
來ました。 此時に明治政府の中堅であります大久保利通の意見として、 憲法制定其他に福澤論吉
を加 《 ては知何、 新2 充 よ事を中出たのであります。 所がクに勤して伊藤博文、 後の意法制定の
功を専らにした伊藤公は共時に反對し て新5 公車を言って活る。
私は更に不同意無之至極富盛裝《共、 是等の人物を取於領時に必ず其人之議員 と道理を以て論
し院事は、 政府に於て不採用は都 て真人をし て整を失をしむるの愛を生すべ きか 否 タ 。
觀 灣 論 育 11 五
基米羅新 の人物 -
二 五1
左機をれは官 い事ではどさいませうが、 福澤に お願いすると福澤の意見で意法を作り上げ られ
る、 それを着し政府で採用したい と云 心 と とになると基於福澤が失望する、 だから直くあるまい
と云 心 と とで反對を教えれて居るのであります。 是は 理あるのであります。 當時顯宗生種後
れた頭の人は無いのであります。 先生の意法が出來てしま ぶ、 クに政府で反對である と 云 よ JU
になると風 のでありますが、色«の帯をすれば、 金時雙 て 政治家である
は芸 いながら撤政思想は未だ進んで届たい、 福澤先生に負けるに決って居るのであります。 最近
に出生した成る書にもある通り、 伊藤博文 と芸人は極めて使い人である、 離の意見でも容れる
人であるが、 どうかすると自分の功を奪はれると とを欲しない と云 心地質がある、 後の明治十四
年の政變に於ける大魔神職の問題が失張りそれである と云 よと とであります。 私は何も停辦公の
事を彼此れ言 心の ではありませ ぬ が、 當時德大なる福澤先生の御見識に就ての エピソードを l †
故に述べ たのであります。
新<し て居ります間に所開明治七年の民選議院の建自 たり、 是より政治軍が高次最高調に建
して来るのであります。 同時に 面に於書きしては官界は雲に人材の源義であふして、 政治學
新聞界に於ける人材を出すには本塾を措いては他に無かったのであります。面も政治論高調の時
でありましたから本塾出身の人は政治界の第一線に立って働くのでありまして、今日政界の元動
元老と云はれる人は番く本塾出身の人であるのであります。之を後に出ました「薩長土肥」とい
ふ書に要領能く書いてありますその一節を引いて私の抽群に代へるのであります。
民避議院建自の出でしゃ慶應義塾の最も隆盛なる時なりき。各個的自由教育を受けたる三田書
生が文壇に演説に潮く共伎個を試み初めたるの時なりき。民選議院論をして天下に波及せしめ
たる者、三田書生の功牛ばに居る。
慶應義塾が最も熱心に各個的自由教育を施したる事は、常時彼の國家的厳師父的空気中に人と
貸りたる薩長肥三藩子弟が共塾に入ることを層しとせざりしを以て謎すべし。土人の入塾せし
者少からず、是れ気質の理論的自由的なる所以なり。土州政治家が久しく政府に立つこと能は
ざりし所以なり自由民権の質行者たる所以なり
常時文化に寄興する貸に作られた明治政府は新人物の 採用に客なるものではありませ ぬけれど
も、何を申しましても政賞政治に封しては絶大の相憂を持って居るのでありまして、少しく例を
顧 澤 論 吉 二五三
幕末維新の人物 二 五四
失しますが、明治中期に至る逸官僚の所請政賞政治に封する脅怖と云ふものは質に今日の共産賞
に封する以上のものがあったのであります。随って民間に勤する弾歴は今日の共産賞以上に激烈
を極めたのが明治初年の悲槍なる政治史であります。後に憲法學者としての第一人者たる穂積八
東博士が憲法制定の由来を書かれた中に常時の事情を間明に書かれて居ります。
今の加藤弘之博士の立憲政鶴に闘する著書を始めとし津田、西、顧澤等諸學者の西洋の國法を
論するの書既に久しく行はれ世論大に動く。就中顧澤氏の著書は共影響する虜廣く朝野に及び
勢力頻る大なりき。木戸公の米國に使するや憲法を立るに付き参考の書を彼の政治家に問ふ。
彼れ答ふるに立憲の政鶴は本とモンテスキューの論に起由するを以てす。公即ち属僚に命じて
之を邦課せしむ。立憲政鶴の本旨は之に由って明かなり、今博はる萬法精理是れなり。然れど
も世上は顧澤氏等の簡易にして急進なる欧米政談を喜び、論議動もすれば軽操ならんとす。
常時の官僚の目に映じた先生は斯の如くであったのであります。是は先生が教育者で幾多の人材
を出し夫れが各方面に活躍されて勢を貸したのでありますが、又別に先生自身の筆を下された議
曾論があるのでありまして、それは明治十二年七月の報知新聞であります。共時分には未だ時事
新報は無いのでありまして、常時朝野を問はす各方面の人材は番く本塾出身者を以て占めて居る
のであります。共時に斯う云ふ事を先生が言はれて居る。
明治十年西南の戦争も片付て後、世の中は静になって人間が却て無事に苦しむと云ふとき、私
が不圓思付て是れは國曾論を論じたら天下に應する者もあらう随分面白からうと思て、ソレか
ら共論説を起草して、マダ共時には時事新報と云ふものはなかったから報知新聞の主筆藤田茂
吉、箕浦勝人に共原稿を見せて 「比論説は新聞の赴説として出されるなら出して見なさい、乾
と世間の人が脱ぶに違ひない。但し比草稿のま \に印刷すると文章の癖が見えて顧澤の筆と云
ふことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げになら
ぬ虜をお前達の思ふ通りに直して試みに出して御覧、世間で何と受けるか面白いではないか」
と云ふと年の若い元気の宜い藤田箕浦だから大に悦んで原稿を持て騎て早速報知新聞の赴説に
載せました、常時世の中にまだ國曾論の勢力のない時ですから、比赴説が果して人気に投する
やら又は何でもない事になって仕舞ふやら頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のゃう
に赴説欄内を撮めて、又藤田箕浦が筆を加へて、東京の同業者を煽動するやうに書立て 、世間の
顧 澤 識 吉 二五五
基本雜新 の人物 二百六
形勢如何 と見て居た所が、 不思議なる機、 元で二三節目も経つと東京市中の諸新聞は無論、 田
金の方にも設 « 議論が暗しくなって来て、 途には例の地方の有志者於國會開設議題 だんで東京
に出 て来るやうな顔 になっ て来た。
地 も常時 の世論が盛なり と離心来だ十分の力がない鳥に比國會議が世論に火を転じたのでありま
す。 所調國會開設備將通動と云 心頻道路治史上の 大運動が起 ったのであります。 全國各地方 の
有志は変わて東京に来す大政官文は元老院に封し國會開設を願望した、 官候は比期望を民權家庭
起の秋 に 戻って非常に育施した。 時の日々新聞は御用新聞でありましたが、 英 第に新 2充 心事
が ある。
附と議者をし て、 比其統は安政文久年間に諸藩の有志雲が建て操東經驗を兼ねに差出したる
不雅の 日 に同じきが如く と、 衛に愛樂也しめたり き 。
而º世論は議會開設の目標に至って全國の人心 が熱狂するが知き教 が であったのであります。 時
熱 ではありますが、 比運動に就て 一點の火を投げ られたる福澤先生の藤れたる事柄に就 ては従來
は除り知られて居らなかったのであります。 此教 认 に乗じ て明治十四年の政變が起る のでありま
す。明治十四年の政鍵は極めて重大なる事件でありますが殆ど眞相が判っきりして居ないので、
誤り博へられて居る事が多いのであります。面も顧澤先生が是が貸に非常に御迷惑を感ぜられた
事であるのであります。比機曾に於て十四年の政鍵に就て少しく知り得る所を述べようと思ひま
す。
比民間の勢ひに乗じて、政府部内に於てはどうしても是は憲法を制定して國曾を開かなければ
ならぬと云ふ意見があるのであります。そこで常時の参議、即ち大臣の意見を明治天皇の御手許へ
差出すことになり、左大臣有栖川宮の方に差出すことになったのであります。時の参議の中で最も
進歩的意見を持して居る大隈重信侯は比際中々意見を出さなかった、さうして自ら陸下に憲法意
見書を差出されたのであります。共出された意見書は賞は本塾の大先輩であります矢野文雄先生
のお書きになったものであります。足が世間に極く近く造、共際に大隈参議が憲法草案を作って之
を陸下の御手許に差出したと云ふやうに誤り博へられて居るのであります。然るに間もなく北海
道開拓使官有物挑下問題が起るのでありますが、最近に出ました基名士の書きました本の中にも
矢張誤りがある。常時の北海道開拓使官有物挑下問題に就て民間の興論が盛んである際に、大隈参
顧 澤 論 吉 二五七
幕末維新の人物 二五八
議が憲法草案を提出した、斯う云ふのであるが、是は全然違ふ、開拓使官有物挑下問題以前に大隈
参議の意見書が出て居る。是は憲法制定に闘する意見書七箇條でありまして憲法草案は出て居な
いのであります。所が妙に常時から誤解されて居る、大隈門下の所請官界の人材であります。只
今の尾崎行雄氏を初め、犬養毅、矢野文雄氏等有ゆる本塾出身の先輩が大隈幕下に在って各々勢
力を占めて居るのであります。併しながら前に申しましたやうに別に交駒赴案の憲法案が出来て
居るのであります。官界に於ては憲法制定の議はありましても絶封秘密であったから、民間の政治
家は官僚が如何なる勝手の憲法を作るかも知れないから、吾々も宜しく憲法草案を作って彼等を
豊醒せしめなければならぬと云ふので、先覚者が寄って憲法草案を作った、之を私擬憲法と云ふ。
その交駒赴に於て作られたのが所請交論赴案と申して、小幡、矢野、小泉、馬場、阿部、江木等
常時の政治家が作られた、是が世の中に誤り博へられて居るのでありまして、大隈が憲法草案を
出したさうだが、それならば比交駒赴案が出たらうと云ふ事が段々誤り博へられて居るのであり
ます。共時に大隈参議は明治天皇へ憲法草案は密奏して居りませぬ。比際に従来手を取って進歩
的政治家として歩調を一にして来た大隈参議と伊藤、井上雨参議の間に非常なる障壁を来して、
是より非常に溝襲が深くなるのでありますが、間もなく起きたのが只今申しました北海道開拓使
官有物挑下事件と云ふ大事件であります。
是は只今は北海道願となって居りますが、共以前は所請開拓使と言ひまして今日の豪湾継督朝
鮮継督以上の質権を以て北海道開拓に任じて居った重要なる官聴であります。比開拓使が明治十
四年に至って補助金が切れるので、もう時勢も進歩したのであるから比補助金を打切ると云ふ議
になり、そこでそれでは従来の北海道開拓使の経営した継ての物は挑下げょうと云ふことになっ
たのでありますが、それが大鍵な問題になる、今日で言へば所請疑獄、之を務き合ふ疑獄事件の
泥仕合が慈に起るのであります。是は世間に博った所では甚だ宜しくない、明治元年から明治十
四年逸開拓使に注いだ國庫の補助金は前後二千萬圓近くになって居る、比貸に色々の事業を経営
して進んだ事業もあるのであります。それを比度念々挑下げる時には幾らと見積ったかと言ふと
僅に三十萬圓と見積った、面も三十箇年賦無利息で挑下げると云ふ、共挑下を受けるのは誰か
と言ふと、所請御用商人たる薩派と開拓使に居った元の役人であるから猛然として反勤論が起っ
たのであります。是逸は色々の政治上の意見は持って居ったがそれは目標の無いものでありまし
顧 澤 論 吉 二五九
幕末維新の人物 二 六○
たが、斯様なる目標が目の前に下ると猛然として立ったのであります、是は専制政治の弊であ
る、議書を開くならば斯の如き事はないのである、電しく議倉を開くべしと云ふ議倉論に結付い
て各方面に是程反封論の歩調の揃ったことは無い程に猛烈に政府攻撃になったのであります。面
も比攻撃の第一線に立つたのは本塾出身の政治家であるのであります。是に於て官僚の驚きは容
易なものではなかったのであります。是も常時の状況を先生の自博に殆ど冷笑的に書かれて居り
ます。
常時の政府の騒ぎは中々 一通りでない、政府が動けば政界の小輩も皆動揺して随て種々様々の
風聞を製造する者も多い。共風聞の一二を申せば、全鶴大隈と云ふは専横な男で様々な事を企
てる。共後には顧澤が居て謀主になってる。共上に三菱の岩崎弾太郎が金主になって、既に三
十萬圓の大金を出したさうだなんて馬鹿な茶番狂言の筋書見たやうな事を鍋廻はして居た。
先生から見れば茶番狂言でありますが、常時の官僚の驚きは殆ど想像の付かぬ程であった。大隈
は様々な事を企てる、共大隈の謀主は顧澤だ、共顧澤の上には三菱の岩崎が潜んで居ると云ふの
であつて、丁度今日露西亜から金が来て赤化宣博をして居ると云うて驚く以上に非常に驚いて居
るのであります。又別の所に先生は斯う云ふ事を言はれて居ります。
常時の政鍵は政府人の発狂とでも云ふやうな有様で、私は共後岩倉から度々呼びに来てソット
裏の茶室のやうな虜で面曾、主人公何かエライ心配な様子で比度の一件は政府中、賞に容易な
らぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦勢したが今度の始末はそれよりも六かしいなんかん
と話すのを聞けば、除程騒いだものと察しられる。
西南戦争以上に心配をしたと云ふのでありますから大鍵なものである。是は極く近くまで新政府
の要路に立つた大官が暴動を起して失敗した質例があるのであります。況んや常時の國曾運動で
あるとか政治運動とかいふものは、百姓一揆の親類位にしか理解のない常路者の驚きは、非常な
ものであったのであります。現に政府の智嚢としての井上毅子、後に憲法起草の中心人物となり
教育勅語起草者ともなり又文部大臣ともなった井上毅子が、京都に居りました岩倉への手紙に斯
う云ふ事を書いて居る。
顧澤は盛に急進論を唱へ、共賞派は三四千に満ち魔く全園に変延し、己に鹿見島内部にも及び
共他各地比二三十日来結合奮起の勢にて、比儒打過候には事鍵不測と相見へ申候。
顧 澤 論 吉 二 六一
幕末維新の人物 二六二
丁度赤化宣博と同じやうに共の驚きは大鍵なものである。是が新知識の井上毅子の意見でありま
す。又三條太政大臣から岩倉右大臣への手紙には斯ふ 云ふ事が書いてある。
大隈氏建言以来専ら顧澤賞の気脈内部に侵入之事に至つては、一同憤激之模様に有之云々。
一方官僚からは煽動者と見られて居る大隈参議は比騒ぎの時は、明治天皇の東北御巡幸に供奉致
しての留守中である、大隈参議如何に怪腕であるとは云へ、あの通信交通の不便な時代に、留守
中に東京を指揮して是だけの騒ぎをすると云ふことは想像にも及ばない事である。頻りに比通報
が出張先の大隈参議の所に行く。比大隈参議と懇意であった岩崎徹輔の手紙が遺って居る、之を
見ると斯う云ふ事が書いてある。
大隈参議國曾開設の主唱となり、顧澤岩崎等は羽翼となり、民心を動揺し大権を牧め同僚を壊
はんと欲す。
もう一 つ常時大隈さんと極めて懇意でありました北畠治房、比人の手紙に、
開拓使の非撃をならし候三菱顧澤の所貸は全く閣下の煽動せられしに出でたりと、喋々として
止ます。
とある。斯う云ふやうに顧澤が大隈を煽動したと云ふことで流言輩語は斯の如く盛んであった。
まだ〜常務なのは、足は矢野文雄先生に水ったのでありますが、矢野文雄先生はシ
の大先輩で面も大隈の参謀長と云ふやうな重要なる地位を占めて居った、それで暑中でありまし
たから休暇を賜って郷里の大分懸に騎って魚釣をして居る、所が世間の評判は大鍵である、大限
は子分の矢野を九州に出張せしめて凡ゆる策動をせしめて居ると云ふ。本人は何も知らない。そ
れは伊藤博文もこの説を信用して居ったと見えまして、後に佐々木高行の日誌に斯う云ふ事が書
いてある。
伊藤の内話に、この頃大限の内意は方今の民権論へ同意いたし、只今の政府にてはとても見込
無之との趣旨にて極密局外之者と相結び候趣矢野文雄へ命じ、九州方面へ巡回の湖、その趣旨
を申述べさせたる由、肥後人より内通があった。これは三菱曾赴及び顧澤論吉と相計りたる由
-
賞に悪むべきこと。
ー 斯う云ふ事を伊藤博文まで信じて居ると云ふのでありますから質に大鍵である。まだ〜ある、
常時の薩紙の代表人物としては黒田清隆、あの人は軍純な頭の人でありますから大鍵である、質
顧 澤 識 吉
-
二六三
幕末維新の人物 二六四
に園鶴に闘する大問題であると云ふので、常時北海道には未だ屯田兵がある時分であるから、そ
の軍隊の決死隊を十名ばかり連れて至急出て来い、國鶴に闘する大問題であると云うて騒いで居
る。向ふは夢中になって居るが比方は冷笑して居る、共事に就ての先生の手紙が大隈方に一つ遺
って居る、明治十四年の十月一日に先生から大隈さんの所に手紙が来て居る、之には他人の事の
やうに書いてある。
北門の一條は誠に騒然、最早二箇月にも相成候得共世論は中々止み不申、人之噂七十五日之類
に無之、近来一説あり、云く今回之一條不正と申せば不正ならん。なれ共明治政府は十四年間
比類之事不珍、何ぞ比度に限りて喋々する譚もあるまじ。然るに斯くも喧しきは、軍意三菱と
五代と利を争ひ大隈と黒田と権を争ふより生じたるものにして、云はゞ一場の私闘たるに過ぎ
す云々とて、比作説は随分官界に流行して或る人々の日質にも可相成模様なり。
斯う云ふ説もあるが、極めて冷静に何虜にそんな説があるかと云ふ事が比手紙の中に窺はれる、
同時に寧ろ迷惑される顧澤先生の常時の政治界に於ける勢力が、如何に偉大であるかと云ふ事を
申述べる有名なる材料になるのであります。面も本塾出身者が比政治界に立って如何に有力であ
ったかを物語る一節であります。比結果は念々薩長聯合の大隈参議追挑ひと云ふ事になる、明治天
皇が東北御巡幸から御還りになって、御疲れにも拘らす、御還幸の即夜御前曾議を開いて大隈参議
を追挑ふことになる、同時に官有物挑下は取消といふ勅旨であったのであります。面も明治二十
三年を以て國曾を開くと云ふ語勅が出るのであります。同時に大隈の一賞は番く朝を退いてから
改進賞が組織されるのでありますが、比十四年の政鍵の獲物としては軍り比國曾開設と云ふ大な
ることがあるばかりではなかった。是は私一個の私見でありますが、更に比政鍵に鑑みて、どうし
ても軍隊を固めなければいかぬと云ふことで出来たのが、今日軍隊で捧讃して居ります軍隊の勅
論であります。面も比軍隊の勅論を奏請し、太政大臣奉勅の例に依らず、至奪より軍隊へ賜はるや
うにと上奏したのは参議山懸有朋であります。今日有名なる問題の、所請統帥権濁立問題の公文
書に現れた初めであります。是等の事は無論副産物でありますが、之を一韓期として顧澤先生が
常時の政治界の除りに浅ましいのに驚かれて書かれた大文章があります、足は公けではありませ
ぬが誰でも知って居る事であります。足から大隈侯は野に下って早稲田事門撃校を設立され、本
塾との闘係も更に進展して来るのでありまして、是より後にも尚ほ先生は政治上に幾多迷惑せら
顧 澤 論 吉 二 六五
幕末維新の人物 二 六六
れた事もあるのでありますが、それは寧ろ比除波と見られるのであります。是より更に先生は政
治教育、赴曾教育に力を注がれるのでありまして、若し先生にして御健在でありましたならば、
今日の如き激しい雨翼の思想界に於て、更に一大偉人として大なる教育方針を以て現代の人心を
安定せしめられるのであらうと思ひます、時報にして偉人を想ふこと切なるものがあります。
六、顧澤先生と明治十四年の政鍵に闘する一史料
山本達雄氏が、故矢野文雄氏追悼曾の席上で述べられた一節に
私が明治十六年の春、三菱曾赴に入赴致しましたが、間もなく同赴重役荘田平五郎君に随ひ、仙
豪、盛岡、青森を経て北海道を巡回したことがありましたが、共頃荘田君は各地支店ある虜に
て、顧主のため宴曾を開きしが、夜中旅館に騎りて寝につくに常り、手駒より一冊の書物を取り
出して寝ながらこれを歌譲するを常とし、人のこれを知るを博るもの、如く、随行者にして何人
も何の書冊なるゃを知る者もなかったのであります。函館を経て小樽に在る時、たま〜支店
長久保扶桑氏の主催にて同地の料亭に招かれ曾食することになり、夕景旅館を出づる前、案内
のため荘田君の室に入りたる時、一冊の書物床の間に横はりおるゆる、何気なくこれを見る
に、矢野龍渓先生の新著、経國美談にてありし、発刊早々著者より荘田君に贈呈せられたるも
のでありました。発行早々にて、未だ多く世に知られざるものであり、しかも敬慕する先生の著
書なれば急に観たくなり、間を得て之を讃まんと、内々之を懐中し料亭に赴きました。夜更け
て旅館に騎りたる後、荘田君は例の如く就寝の節、之を譲まんと捜せしも見常らず、その時初
めて料亭に置忘れし事を思出して、ひたすらその粗怒を謝し恐縮を極めしことがありました
が、温厚にして何事にも謹み深き荘田君も、この時許りは顔色を鍵へて怒り出し、どうも貴方
は除り酷いではありませんか、彼の本は親友矢野君から内々贈り来りたる大事の本にて、貴方
*御存知の通り人目を輝りて、常に手駒に牧め置き、夜分人が寝静まった後、初めて讃む位注
意して居るに、人にも告げす料亭に持ち行き、しかも置忘れて騎るなどとは除り蹴暴でないか。
また語を継ぎて目く、
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顧 澤 論 吉 - 二 六七
幕末維新の人物 二六八
矢野君は改進賞大隈公の片腕ともいふべき最も重んぜらる \政治家である。今大隈公と三菱岩
崎との間には離間中傷をなす者少なからす、就中古澤滋氏の如き、新聞や雑誌に於て激烈なる
三菱攻撃をなしをる最中なれば、われ〜の行動は最も注意せねばならぬ、況や矢野君の如き
政治家の著書は、除程世間の耳目に鍋れぬやう注意して譲まねばならぬ答と手強く叱責せられ
たことがありました云々。
といふのがある。荘田平五郎といへる財界の大立者が、拾も、共産賞の秘密出版物でも譲むが如
く戦々恐々として、譲んで居った『経國美談』 といへば、今更ら説明する逸もなく、洛陽の紙債
を貴からしめた政治小説、歴史小説で、荷も文字あるものは讃まざるはなく、常時の青年は、そ
の一章一句を暗謡して居つた程有名なる作品である。
左様に有名な小説を譲むに、人目を輝らねばならぬとは、今から考ふれば想像もつかぬことで
あるが、これは、その小説よりも、その著者たる矢野文雄が、政府筋の注意人物であったからで
あるといっても、矢野その人は決して不穏人物でもなんでもなく、慶應義塾出身の 大先輩であ
り、新地の政治家であり、教養ある日本神主として典型的の英国流の持主であった。
拾も、比頃は、自由賞が、改進賞と三菱攻撃とに全力を注いで居るときである。即ち政賞と財
閥との結託を攻撃して居るときであった。しかも、この攻撃は、その前奏曲ともいふべき明治十
-
四年政鍵の後継運動である。
矢野は、この時は改進賞の参謀総長ともいふべき地位にあり、十四年のときは、政府攻撃の第
一線に立っ指揮官ともいふべき武者振りであったのである。
その十四年のときには、佐々木高行日記、八月二十九日の條に
さて伊藤(博文) の内話に、この頃大隈の内意は、方今の民権論へ同意いたし、只今の政府に
ては、とても見込無之との趣旨にて、極密局外の者と相結び候趣、矢野文雄へ命じ、九州地方
へ巡回の湖、その趣旨を申述べさせたる由、肥後人より内通があった。これは三菱倉赴及び顧
澤論吉と相計りたる由、賞に悪むべきこと。
とある最も聴明なるべき伊藤博文ですら、デマを信じて、最も悪むべきものと目せられた顧澤先
生といふものが、この矢野の背後にあるといふことが、常に政府筋の目の光ったる所以である。
然らば、その十四年の政鍵はといへば、明治史上の重大なる事件であるにも拘はらす、近年に
-
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顧 澤 識 吉 二 六九
幕末維新の人物 二七○
至る逸、その眞相が明瞭を鉄き、甚しきは前後顧倒した誤認さへ博はつて眞事賞と信ぜられて居
ったのである。これには、比事件の中心人物と目された大隈重信侯と、顧澤先生との雨方面より
研究せなくてはならぬが、これも寧界の進歩は難有いもので、大隈家側からは、渡漫幾治郎氏の
『文書より観たる大隈重信侯』 の一節に 『明治十四年政鍵の眞相』 が掲げられ、また 『季刊明治
文化研究』 第二韓にも、同氏の 『明治十四年政鍵に就いて』 が載せられ、顧澤家側よりは、先生
停第三巻第三十三編に 『明治十四年の政鍵』 が出て幅澤先生が、自らその願末を書し、筐底に蔵せ
られてあった明治辛己紀事が、始めて公にせられ、これは 『績顧澤全集』 第七巻にも掲げられて
ある、それから、また小泉塾長の 『師、友、書籍』 中の 『顧澤論吉博』 及び高橋誠一郎氏の 『幅
澤先生博』 にも、いづれも論究せられて、全貌が明白となった。
これ等に依れば、あの常識を失したと思はれる程の馬鹿々 々しき騒ぎをなした政鍵 の基は、幅
澤先生に闘する限りに於ては事賞無根のデマであることは明瞭となったのである。
結局は、薩長出身の参議が聯合して、大隈重信を排庁の癖柄として一場の喜劇を演じたことに
騎するのであるが、あの騒ぎの最中には、薩長連と別に、この際に、薩長を押へねばならぬといふ
宮廷内の一派の運動に付ては、従来除り知られなかったが、これも、常時一等侍補から元老院副
議長となり、君徳培養運動に専念しつ \あった佐々木高行の史料が公にせられ、一部は 『明治聖
上と臣高行』 に掲げられてあるから、その中より顧澤先生に闘する一節を援用せんに、明治十四-
年九月二十六日、元老院書記官金子堅太郎は、佐々木高行を訪ひて
顧澤から藤田茂吉をして板垣に内談し、大隈も板垣と聯盟の策を樹てたさうな。又三菱曾赴か
ら顧澤に金八千圓を運動費として渡したので、小幡篤次郎が北海道遊説に赴くよし、旦三菱は
大阪の新聞買牧のため一萬二千圓を出したとの事である。
と語って居る。 - -
それから、また宮内少輔より内務大輔となった土方久元は、十月六日佐々木に
報知新聞赴員に招かれて酒席に座したる太田卓二の談に、同赴は三菱から一萬圓を貰らひ、五
千圓を醸備金とし、他は赴員に割り興へたさうだ。
と語って居る、三菱の豊富なる財力は、直ちに運動費を聯想されるのである。
また十月一日、金子は佐々木に
顧 澤 識 吉 二七一
秦末維新 の人物 二七1
福建等は遠から中國會開設については、 同主義者にて多數の議員を得ん と周旋し、 三菱會社よ
0月給三百 國にで議員五条を結ぶ事となったさうだ。 されと各縣にて得るは難を放、 福澤は長
宗を評立て、 本願寺より各縣の門徒に論書やしめるの策を執った。 三義が新くまで心配するの
は、 同會社は政府に二百萬間の負債があり、 且十年戰役に十 一般の官網を借りたるを、 國會に
で北 の金額と言語の遊約時起るべきを嫌って、 福澤と岡0多數の議員を得んとする次第で、 國
を愛かるためでたく、 利己主義にて政て新の如を購置に及ぶ と聞く。
と語って宮る。 この本願寺 公 タ の説の出所は、 大限重信が
當時我軍は主義宣傳の誘わに、 本願寺を手先に使い、 本願寺を中心にした朝野新聞に成鳥類也
於民で、 其第で全國六七十萬の門徒に宣傳をし て居たから、 北天下藝術 の状を呈する 、 巴れ
火につけたの は、 大限定、 大展は太い奴だ、 横須の野郎だと、 表面具體的な財務は無い評で、
令にして思 《 江、 老君の筋は頼る者制に類する位だが、 みんなでトウ(教導者にして 」っ
た。 武 タ
とある と と から出た能傳である。
十月二日には、北代正臣は佐々木を訪ふて
大隈、河野、岩崎、顧澤、沼間等は結合して政府を乗り取って、大隈、副島を大臣としその他
の者は要路に立ち、急擁國曾を開くとのよし、或は還幸後直に之が決行されん*計り難い、質
に憂ふべき事た。
と語って居る。河野とは農商務卿である敏鎌のことであり、沼間は、東京横濱毎日新聞の赴長と
し、喫鳴赴の牛耳を執る守一のことである。
こんどは利権より進んで獅官となったのである、十二日、参議衆外務卿たる井上撃は、佐々木に
副島は、過日三條へ建自し、速に國曾を開設ありたく、今日 の内閣も改造ありたい、私の人選
では、顧澤を外務卿に、田日卵吉を大蔵卿に、沼間守一を司法卿に、顧地源一郎を何 にと、
共他も夫々役割して差出したさうだ。或は云ふ別に大東義徹を以て御巡幸*へ右の趣旨を 自
し、参議一同の免官をも乞ふたそうだ。
と談じたから、佐々木は
宮内卿徳大寺に問ひたるに、成程秋田にて大東基が副島よりの封書を、左大臣官に皇したのを
二七三
顧 澤 論 吉
幕末維新の人物 二七四
見受けたが、何の趣旨かは判らぬ。宮から奏聞されたかも判らぬと答へた。
即ち、有栖川織仁親王の御手許へ比説は達したやうである。
それからまた、『明治辛己紀事』 には
本月 C十月)十三四日の頃、中上川が伊藤の宅へ参りたるとき、 井上も丁度共席に居合はせて
語攻、中上川へ向ひ、足下の叔父様が太政大臣に貸りても云々と語りたり。云々
とある。中上川彦次郎は常時外務権大書記官であった。顧澤太政大臣、または顧澤外務卿などは
頻る倫快である。
十一月二十八日、内閣にて井上は佐々木に
財政は甚だ困難なるに、大隈は頻りに商業家に官金の貸下げをなした。僕が大蔵大輔たる時
は、一人にも貸下げはせなかった。昨年も顧澤論吉から寧校へ四十高圓拝借したしと申立てた
ので、大限は諸したが、伊藤は異議を述べた。顧澤が僕を訪ふて周旋し呉れといふ故、僕は不
同意を唱へるために、顧澤は 「五代や岩崎へ貸下げ、寧校へ貸下げるのに、不同意とは解せ
ぬ」と笑ふ。僕はこれに答へて「君は寧者先生と心得て、今日まで交際したが、五代や岩崎な
どの商人と同等の身分なれば、向来共心得で交際せん、然らば願書を出されよ、僕は同意せ
ぬ。」 云々
とある。これは明治十 一年から明治十二年にかけ、塾の経営困難の貸め、顧澤先生から借用金を
願ひ出でたるときのことで、詳細は先生博第二巻、第二十九編に掲げてある、このことさへも、
十四年の政鍵と結付けて考へられて居るので萬事、色目鏡で見ると斯ふでもあったらう。一犬虚
を映へとでもいふべきか、それからそれへと、デマが飛んだことは、今日から見れば、寧ろ滑稽
に見へるが、常時如何に、騒いだかは想像されるのである。
佐々木史料には、その他幾多面白い談柄はあるがこれは省略するが、その中に、左の一節だけ
は注目に値する。
十月三十日夜、岩崎潮太郎は、佐々木と土方久元とに次の如く語って居る。
この頃自分は大に嫌疑を受けて居るも、決して國事に闘係して好策を施したのではない。然る
に政府にては疑念を以て探索のため、忍び巡査を近所に遣り、僕の出入並に他人の出入に目を
属し、甚だ以て困却する。悪意五代友厚などの議言で、三菱倉赴を陥る、妊策、平日の商業上
顧 澤 論 吉 二七五
幕末維新の人物 二七六
にて抵抗するので、開拓使事件につき、三菱曾赴から金を出して百方攻撃させ、大隈の地位を
保たせるといふ事から、比の機曾に乗じて三菱を押潰さんとすると、薩人は信用して三菱を謀
叛人の如く思ふのである。
といふと、佐々木と土方とは
如何にも共嫌疑がある、自分共も疑ふて居る。成程國事に闘係はなきも商業上の争ひから、要
路の人々を悪様に唱へるやう、金力を以てした嫌はあらう。
と云へば、岩崎は
決してない、彼の官有物挑下は沖も目的なし、彼の徒をして共の意を達せしめば、却って大敗
を取ること目前にあり。されば商業上より見ても彼の徒を拒む事はない。共の敗を取ること却
つて三菱の商業上には便利である、又大隈と密着の闘係はない。
と答へた。政府が巨額の國費を支出して、十数年を経て成績の撃らざる開拓使の事業を挑下げ
て、民間で遺らうとしても算盤の探れぬことは解り切って居る、いっそ、これを挑下げさせて商
敵たる五代友厚一派に失敗させるこそ、三菱の附け目であるのに、その挑下げに反勤する貸め運
動費を三菱が出す答がないとの説は光である。
この根本がハッキリすれば、従って、三菱が運動費を出して、顧澤先生を使勝し、顧澤先生
が、また大隈を煽動するといふことは、あり得ない。っまり、明治十四年の政鍵の基礎は、多言
を侯つ逸もなく全くのデマであることが明瞭となるのである。
故に、その後に自由賞の改進賞攻撃、三菱攻撃のときは、三菱と大隈との結託を攻撃するに止
まり、この時は顧澤先生は脱けて居る、若し、十四年のときに、三菱ー顧澤「大隈のブロッ
クがあったとするならば、この時にも、比三頭目攻撃が主要でなくてはならぬ。十四年のときの
政府攻撃の闘士も改進賞の幹部も、いづれも、義塾出身の有力者であることに於て、鍵りはな
いのであるから、顧澤先生煽動説を喧博するには、雨者共都合が好いのであるが、その然らざる
は、十四年のときのデマであったことに、世の中が気がついたからである。
故に、能く〜の邪清、悪意の眼を以て、十四年の政鍵を観ても、三菱と大隈との闘係のデマ
は、何等か色濃いことありと仮定しても、顧澤先生は全然寛罪であることは、極めて明自である。
顧 澤 論 吉 二七七
幕末維新の人物 二七八
「顧 澤論吉博」成る
顧澤先生の博記が編纂されると聞いたとき、これは六かしいことを始めたものだと思った。一
鶴、人の博記といふものはなか〜編纂が六かしいものであるのに、殊に近世の如き複雑多端な
時代に活躍した人の博記は、獅更ら困難である。況んや顧澤先生の如き近代文化の大先達者の博
記ときては維新史、明治史の全般を記述するの豊悟がなくては、到底筆を下すことが出来ない、
なまじいに鍵なものを書かれては、それこそ虎を描いて猫にも似ざるの笑ひを招くに過ぎない虜
がある。いっそ、なんにも書かない方がましである。現に基々氏の博記の如きは、その例で
ある。それよりも、大久保利通文書、木戸孝九文書、同日記の編纂の如きは、寧ろ賢明な方法で
あるともい へる。
一鶴、纏った維新史や明治史の未だ出来て居らす、特に文化史の方面よりの記述したものの乏
しき現代學界に於 て、 その中心人物たる福澤先生 の と とを書くのであるから 、 とれは非常なる因
難であるといはなくてはなら 約。
福澤先生の 一生は、 漢然として大別すれば、 三期に分っ と と が出來る。 それは維新前に於ける
福澤先生で、 とれは、 その修養時代、 準備時代、 或は離代時代ともいぶ べき時期であり、 封建の
鐵離の中に新文化の暗光の崩し始めたときで、 と の 細なる暗光を食る知く、 體得し て、 その大を
成したる先生 の緊急不放、 百 所不満の精神に至っては、 軍なる個人の使計 としても、 修築設立志
該として 一世 の模範とすべく、 とれ支付でも 一 部の大者を成すに足るのである。
その攻は明治文化の建設時代である。 封建傳統の破壊を大呼し て、 新文化の目標に向 つて敵を
場けたる先生の離原は、 資に千古を張するの傷がある。 個人の力と時教の進運とピソタリ 一致
し て接原の火の知 き教を以て、 全國を風魔し、 新文化を建設したる勢は 資に変しい ものであつ
た。 這間、 幾多の反動者流が、 先生 に向って批離の整を現けたもの もあったのであるが、 いは ド
ど やめ のはだしり で、 それとそ、 救がた ( なかったのである。 と の時期が、 先生 の最も重要なる
時代であり、 従ってまた、 最も終還の国憲法る時期である。 新文化師も先生、 先生部も新文化で
頭 禪 論 者 11 ル
幕末維新の人物 二八○
あるから、時勢と個人とを分離しては、到底、記述することが出来ないのである。
しかも先生の特徴としては一局部に偏する専門はない。凡ての専門の上に立つ偉大なる人格者
であることである。兵寧でも、賢寧でも理化寧でも、法制経済でも荷くも新文化と名の つくも
のは、一として先生を煩はさざるはなく、また先生としてはそのいづれにも通暁して居るが、さ
て、その 一 一 の専門々 々に就いて検討すれば先生に勝る人材は決して乏しくはない。がその貸め
に先生の債値は一豪も損せす、依然として偉大なる存在である。
これ、雲の如き先生の門下生や雨の如き慶應義塾出身者が、いづれも一薬一能に通じて、赴曾
の各方面に活躍しながら、先生の全人格を継ぐものなき所以である。
これがそも〜博記編纂の最も困難なる所以である。動もすれば木を数へて林を忘れる虜れが
あるのである。
その攻は、先生は一方に、新文化を指導しっ、一面には勢ひに乗じて脱線した連中を橋正し
つ \軌道に引戻さんと努力せられた時代である。これが先生の苦心せられた時代であり、卒然と
して観れば矛盾憧着があるかの如く感ぜらる\のであるから、その叙述がなか〜困難である。
下手に書くと先生を傷つけるのである。
先生の博記編纂には以上の如く幾多の困難が伴ふのであるが、また一面に幸なことは、先生の
「顧翁自博』あり『顧澤百話』あり、また『顧澤全集』 があり、先生の筆せられたる『時事新報」
その他の新聞雑誌があり、門下生は全國に豪延して居る。これは、他の人々の博記編纂ょはり、
非常に便利で重賞で、編纂者は所請恵まれたる地位にあると請はねばならぬ。が、これまた一苦い
勢である。これ等の材料を羅列した丈けでは編纂の意味を貸さぬ、さりとてそれ以上の史料を捜
すとなると、なか〜骨が折れる。それにまた、先生の自身の記述としても、記憶違いのないの
を保せない。鶴呑みにする譚には行かぬから、その傍謎を検討せなくてはならぬ、追加増補もせ
なくてはならぬ。さりとて先生の記述自鶴を傷けたくはない。顧翁自博は基氏の所請、我國に於
ける最大最高の自叙博であるからこれをその儒採録したい。これが始めから自由に書き下すのょ
りも一層骨の折れる仕事である。人の知らぬ苦勢がある。
要は編纂者にその人を得ると否とにある。慶應義塾が、編纂を決議するに常って、編韓主任に
石河幹明氏を任じ、氏は健康を害する逸、全身全力を傾倒し、七年の歳月を経て脱稿したのであ
顧 澤 職 吉 二八 一
幕末維新の人物 二八二
った。共間これを助くるに富田正文氏等の少壮寧者を以てし、一言一句も菊くもせず、断簡零撃
と難も、探牧する眞撃なる努力に勤しては敬服したのであるが、それでも出版を見るまでには、
多少の危惧の念がないとはいへなかったといふのは、慶應義塾が顧澤先生博記を編纂するのであ
るからどうかすると、先生を偶像に祭り上げはしないかと思ったのである。世の中には、鬼角何
何公博とか何々閣下博といふの類で、鼻持ちのならぬものが多いからである。眞逆慶應の編纂所
では、その心配はあるまいだらうとは思ったが、若し知らす〜の間に筆先がさういふ風に向い
たなら、それこそ博記の鶴裁を失するのみならす、先生の志に背くもの大なるものがあるからで
ある。
然るに奪出版せらる \に至って、その相憂に過ぎなかったのを喜んだのである。極めて公平冷
静に根本史料を忠貫に按配し、一言一句も荷くもせず、考謎該博、研究の周到なる、眞に敬服す
べきものがある。しかも重要なる史料は節末に附記しあり、編纂の鶴裁としても、最も整備し、
僅記の編纂としては自眉である、といふとも、決して溢美の言ではないのである。
今回出版せられたのは第一巻で第一編 『先生の誕生』 から始まり第十八篇『塾を三田に移す』
逸であるが、約八百べージを費してあるのを観るも、如何にその努力の大なるかを知るに足る
のである。この時期は、余の所請先生の修養時代、準備時代、艦伏時代ともいふべき時期で、本
僅記の根幹を貸す部分であるが史料の最も乏しき時代であるので、能くも、斯く逸、詳細に研究
し霊されたものと、唯だ〜敬服する計りである。
この巻には、『日本洋寧の歴史』(第四編)『幕末外交談』(第十編)『第一回の米國行』(第八編)
『欧羅巴行』(第九編)『第二回の米國行』(第十三編) の如きは、近世文化史上、外交史上必譲の
大文字であり、顧澤先生博記たることを除外しても、何人も一譲せざるべからざる史料である
その他の各篇の如き、偉大なる顧澤先生の人格を仰ぐばかりでなく、幕末史、維新史の研究と
して、眞に鉄くべからざるの良書である。
幕末史、維新史が、勤王佐幕一酷張りの時代を過ぎて、文化史的研究の要望せらる\現代に於
て、比書の出現は、正に大早の雲霊である。
菊も現代文化の基づく虜を知らんとせば、歴史家たると否とに論なく、比書を一譲するの要が
ある。
顧 澤 識 吉 二八三
人物

維新
幕末

一定債 登圓八拾銭






昭和 日




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発行 昭和

著 尾 佐 竹
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郎所

玄 眞 赴 印 日加



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1103019678

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