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離 新 前 の 宮廷 生活

三田 史學 倉 発行
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」の3

緒 言
三田史學倉は大正十年六月#三日及び三十日の雨同 折節京都から御上京の下
橋敬長翁を御招き申して維新前の宮廷生活に闘する御講話を拝聴致しました。
下橋氏は 一條家の侍の家で敬長貧は十二歳の時主家の御側 席に出仕、共の後装束
召具方を勤められ、慶應三年八月嫡孫承祀で祀父陸奥 守敬義の跡を継がれました
が、間もなく御維新 をなり、御維新後も泉山御陵 又は京都御所に奉仕せられ、只今は
全く御関 散で悠々和歌を楽しみ をして居られます。撮 家の御 側 席を勤めて居れ
ば朝廷の公事 並びに御用の儀は、暇令聞くまい 見まい をして も、目 に入り 耳に 入り
ます。況して耳目 聴 明記憶明断 の翁は、御 高齢(本年七十八歳)なる に 拘らす、往事を
談するこ を 拾も掌を指すが如くで、雨同の御 講話は午後早々から夜 遅くまで継 々
浪々をして霊きす共の間年月日や地名人名を撃げらる、に、一酷の瀬もなく速記
者も筆記者も鉛筆を休める暇が無かっ た程です。本曾は折角の御講話を出席者
の拝聴 するのみ に止め ず、之を曾 員諸氏 に博 へ たい 考で筆記を印刷に付し曾 員 一
同に願布する事に致しました。御講演に加へて本原稿を雨度まで関譲せられ、神
、 ●
緒言 一
緒言 二
々訂正増補 せられた貧の御好意 を比 虜に厚く威謝致します。
大正十 一年五月 三田 史學曾 同人
日 次
一、親王家を門跡准門跡 附比丘尼御所 一頁
親王は三公の下ー伏見宮ー邦家親王は子顧者ー王子女の入寺得度さ宮家御取立ー入寺の理由ー有栖川宮ー桂宮ー閑院宮
ー中川宮と山階宮ー門跡の資格ー門跡寺院の宗旨別ー仁和寺ー線法務宮さ継在聴ー法親王さ入道親王ー大覚寺ー守護使
不入ー宮門跡さ撮家門跡との席次ー蓮華光院ー醍醐寺さ三賞院さの闘係ー永宣旨ー随心院ー勧修寺ー梶井門跡ー青蓮院
ー妙法院ー長珠院ー輪王寺宮ー准三宮さ天台座主宣下ー昆沙門堂ー聖護院ー照高院ー賞相院ー圓満院ー一乗院ー大乗院
y。 ー興顧寺別常ー知恩院さ徳川家さの闘係ー知恩院方丈ー獅子さ養子ー質子さ養子ー六派門跡ー東西本願寺ー東本願寺は
* 、 も 〜

* f
ごく

-- 無藤ー親王家・門跡・准門跡・比丘尼御所の御領ー興正寺さ備光寺ー伯爵清棲家教ー専修寺さ錦織寺ー六派門跡は撮家親王

く 〜 *
ィ、 家の獅子ー比丘尼御所の宗旨別さ門跡の資格ー文秀女王さ村雲日楽尼
-
二、撮家を闘自 一三頁
公家・堂上・殿上人・公卿の字義ー撮家の異稲さ邸吐ー撮家必すしも藤原姓にあらすー撮家と皇室との御縁組ー二條家さ将
* 軍家さの闘係ー播家の元服ー禁色雑砲好殿を聴すー越階さ剰闘推任ー近衛中少将ー小折紙ー大中納言ー近衛左大将筆任
ー大臣闘自ー正権の匿別無しー闘白は日勤ー御所の席次ー本座宣下ー太閣さ輝閣ー童昇殿ー 闘目屋ー 撮家の家領ー闘目
の役料さ氏長者の藤
-
目 、次 一
更 學 第一巻 第三競 二
三、清華大臣家及び共の他の諸家 三0頁
清華九軒の系圓ー官位昇進の順序ー菊亭家は「おめり申上ぐべし」ー官職 推襲の家ー 久技家の特権 ・大臣家三軒の系圓ー
紙大臣ー公家の類別ー諸家の氏名ー同姓の公家ー 山科家高倉家の衣紋さ五條家の京相撲支配ー 水無瀬家さ水無瀬宮ー町
尻竹内雨家ー自川家と吉田家ー吉田官ー土御門家ー藤波家ー管家と清家ー大内記ー諸家昇進の順序ー従一位准大臣ー羽
林家さ名家ー新家ー平堂上の生活ー貸物屋
四、撮家を門流 三人員
門流の分闘ー元旦先づ撮家邸に至るー撮家の参賀さ門流の送迎ー門流の元服嫁要ー御所様ー太刀一腰 馬一匹の進上ー基
の返濃ー天子拝領の鍋ー淀河の鶴ー御召古拝領
五、議奏・武家博奏・職事・近習・内々・外様 六位蔵人を非蔵人 三三負
議奏議奏加勢及び武家博奏の定員ー博奏の警詞血判ー議奏博奏の職務さ役料ー職事の家ー職事の定員さ役料ー頭中将さ
頭魏ー頭中将の苦心ー職事の職務さ役料ー日勤と詰所ー小折紙の認方ー勅問日ー御爪獣ー職事日頭にて宣下すー宣下の
御濃ー位記ー三番所ー内々さ外様さの匿別ー近習ー六位蔵人の定員さ役料ー六位蔵人の四階級ー堂上家御取立ー典薬頭
小森家ー六位蔵人の家ー五位さ六位の相違ー非蔵人の服装さ軒数ー共の職務ー御所にて項載の食事ー茶腕さ硫
六、地下官人 三丸貞
地下ー外記方 官方・蔵人方ー押小路大外記ー中務省ー史生ー文殿ー町人一躍して省察職司の史生さなる「玄闘構さ御被
の高張提灯ー式部省ー内賢ー天皇御重の紛失ー内堅高屋基御重彼見の功ー高屋遠江守の死刑ー高屋家内舎人さして存す
ー安永の御所騒動ー遠江守最期の怨言ー鼓師証師ー壬生左大史ー内舎人ー諸陵寮ー大蔵省さ木工寮ー主殿察さ生火ー衛
土ー四府の駕興丁ー平田出納ー修理職・戸屋主・下南座等ー御車童子・大備師・槍所等ー法橋・法眼・法印ー女役ー検非違使
ー築人ー瀧日ー左右近衛府ー院官人ー院蔵人ー上北面ー下北面ー東宮附官人ー碑祇官ー幸徳井陰陽助ー陰陽ー小森典薬
頭ー警師ー天脈拝診ー賢生ー上御倉ー下御倉ー書所預ー地下官人表
七、坊官・諸大夫・侍 吾美頁
無所属の諸大夫ー撮家の諸大夫ー親王家の諸大夫ー伏見宮附の殿上人ー清華大臣家の諸大夫ー勘解由の短稲ー中山家の
諸大夫ー門跡の坊官ー線在聴ー准門跡の諸大夫ー坊官諸大夫の藤高ー撮家の侍ー准門跡に待を置かす「親王家龍華大臣
家共の他の侍ー侍以下の家臣ー「三石さん」ー坊官諸大夫侍表
八、日向諸役人 交三頁
日向の字義ー御附武家ー出勤退出と執務振りー御附の行列ー中語及び使番より出世する諸役ー執攻ー賄頭ー勘使策御買
物方ー御膳番ー主上御使用の楊著は癌を治すー中諸ー修理職ー賄方六人ー板元諸役ー鍵番ー奏者番ー使番番頭ー使書ー
小間使ー園慮裏間ー仕丁の身分・服装・職務ー仙洞・大宮・中宮御所の日向諸役人ー仕丁一統士族に編入せらる
九、女官 -
夫丸頁
E 次 三
史 寧 第一巻 第三競 四
内女房ー典侍ー大典侍ー掌侍ー長橋局ー命婦女蔵人・御差ー伊醸ー三頭ー二字名さ1字名ー御末・女端・御服所ー三仲間
ー仲居の紅前垂ー御局の女中ー内侍所の刀自ー仙洞・大宮・准后・東宮 御直宮附の女官
維新 前 の 宮廷 生活
下 敬 長 話
一、親王家さ門跡准門跡附比丘尼御所
維新以降皇室の御繁楽は格別で、只今は数々の宮家が御座いますが、維新少し前までは宮家を申し
ては僅かに伏見・有栖川・桂・開院の御四方で、朝廷での席次は三公の下で、さうして共の三公には誰が
なるかどいへば撮家ですから、撮家の方が親王家より一段立勝ってみるのでした。朝廷で御法事を行
はれる場合に、撮家の焼香が済んでから親王方が御焼香になる。往来で撮家の乗物を親王家の乗物を
出*へは、親王家の方で避けられる。今日から見れば基だ順序を失した次第ですが、徳川時代は右に
申すゃうでした。然し御話の順序をしては、矢張親王家から始めた方が都合が宜しい。
伏見宮の御初代は崇光院天皇の皇子変仁親王、二代は比魔親王即ち後崇光院太上天皇を申上げた御
方です。楽仁親王は有栖川に御出で遊ばしたので有栖川殿を申し、 貞成親王から伏見殿を御改稲です。
我々は一般に伏見宮を申上げますが、維新前宮家では伏見殿をいはれて、 伏見宮をはいはれませなん
*基のシ天皇は貞成親王の御賞子で、御代々は共の御血統であるから、御所、 御殿も
維新前の宮廷生活 (下橋) 1
-
史 寧 第一巻 第三競 二
同様であるをいふ意味のやうに承って居ります。
伏見宮邦家親王は五十何人をいふ御子顧者で、維新前後新規御取立になりました久通宮・山階宮 聖
護院宮(北自川宮)・小松宮・梨本宮・華頂宮は皆邦家親王の御子様です。併し以上の方々は宮家御取立ま
ではいづれも門跡寺院に御入寺遊ばしたもので、久週宮朝彦親王は御還俗前南都一乗院宮へ 御入寺、次
ぎに青運院宮へ御韓住で、青蓮院入道奪融親王を申され、山階晃親王は勧修寺入道済範親王、聖護院
宮嘉言親王は聖護院宮入道雄仁親王、小松宮彰仁親王は仁和寺宮入道純仁親王、 梨本宮守修親王は梶
非宮入道昌仁親王、華頂宮博経親王は知恩院宮入道奪秀親王を申されました。博手に御話致し置きま
すが、久通宮朝彦親王は最初中川宮を申し、それから賀陽宮を御改めになり、小松宮彰仁親王は最初
仁和寺宮嘉彰親王と申し、それから東伏見宮を御改めになり、又聖護院宮嘉言親王は早く変去で、御
質弟智成親王が跡目御相績の上、明治三年に北自川宮を改められましたが、 雨三年た、ぬ中にまた夢
去で、 今度は御質兄の能久親王が御相績をなりました。御還俗前の智成親王を聖護院宮入道信仁親王、
能久親王を輪王寺宮入道公現親王を申上げます、 関院宮を御相績の戴仁親王も邦家親王の御子で、一
旦江州木部村眞宗錦織寺住職をならせられ、夫より三質院にお入りになりましたが、得度致されない
中に御維新をなり、御取戻をなったのです。東伏見宮依仁親王も邦家親王の御子ですが、慶属の末に御
誕生なので、御入寺のこをは終にありませなんだ。 く
斯様に澤山の御子様方を門跡寺院にお遣はしになるのは何の貸めかを申せば、共の寺々から宮家へ クツロ
書し、年々百石なり五十石なり相鷹の御手博をなされる、宮家の御経済は之が貸めに大いに甘がれる
をいふ次第です。南都圓照寺は比丘尼御所ですが、比所には邦家親王の御子の文秀女王が居られます。
子女を僧尼をするこをは宮家ばかりではなく、撮家以下堂上地下共に多く行はれたことで、只今から
は異様に見えませうが、常時は一向不思儀では無かつたのです。
有栖川宮は後陽成院天皇の皇子好仁親王が御初代で、高松殿を稲せられ、二代の良仁親王は花松殿
を稲せられ、三代幸仁親王に至って有栖川をなられました。良仁親王は御兄後光明院天皇崩御の後帝
に即かせられ、之を後西院天皇を申上げます。 *
桂宮は後陽成院天皇の御弟八條宮智仁親王が御初代です。親王は豊臣秀吉公の獅子をなつた御方で、
只今の桂離宮はもを桂御茶屋を稲し、秀吉が建築して親王に差上げたものです。八條宮から常磐井宮
をなり、京極宮をなり、それから桂宮を稲せられ、仁孝天皇の皇女桂宮線子内親王の夢去を共に宮家
は絶えました。
関院宮は東山院天皇の皇子直仁親王が御初代で、比の宮家御取立については、新井自石先生の獣議
が大いに有力であったを申します。後桃園院天皇崩御後御継鶴の皇子があらせられぬ虜から、二代典
仁親王の王子象仁親王が撃護院の御附弟であらせられたのをお迎へして御位に即け奉った。之が光格
天皇で、それから仁孝・孝明・明治・今上を御血統が御績きになって居ります。
関院宮も桂宮も、皇子を申受けて御相績を願ふをいふので、久しく御主人なしでしたが、閑院宮で
は維新の際諸大夫から願立て、伏見宮邦家親王の王子宮を三質院から御迎へ致しました。即ち今の
載仁親王の御事です。
維新前の宮廷生活 (下橋) -

史 學 第一巻 第三競 四
中川宮は文久三年二月、山階宮は元治元年正月の御取立で、幕末には親王家は六家をなりました。
中川宮朝彦親王及び山階宮見親王を伏見宮貞敬親王御子を、 雲上明覧なざにあります。之では邦家親
王を御兄弟になる譚ですが、邦家親王の御子であるこをは確です。
御直宮や、親王家や、撮家から御入寺になる門跡寺院は都合十九箇寺あります。門跡になる方の身
分によつて、宮門跡方撮家門跡方の二つに分け、通例輪王寺・仁和寺・大畳寺・妙法院・聖護院・昭高院・
青蓮院・知恩院・勧修寺・梶井・漫珠院・昆沙門堂・圓満院を宮門跡方、大乗院・一乗院・質相院・三質院・随
心院・蓮華光院を撮家門跡方を稲へますが、眞質に宮門跡方をいふべきは仁和寺を知恩院、撮家門跡方
をいふべきは大乗院を随心院をで、共の他は宮撮家ざちらからでも入れます、又宗旨から分ければ、
眞言宗が六箇寺、天台宗山門派が六箇寺、天台宗寺門派が四箇寺、法相宗が二箇寺、浄土宗が一箇寺
をなります。先づ眞言宗の六箇寺から申します。
仁和寺 墓野郡御室村 仁和寺は一に御室御所を稲へ、宇多院天皇御落飾後常寺に御隠居遊ばされ、そ
れ以来代々法親王又は入道親王の御相績です。門跡をいふ詞は御門の跡、即ち宇多院天皇御入寺のこ
をから起ったといふ位です。比寺の門跡宮へは朝廷から継法務の宣下がありますから、之を継法務官
を申し、又坊官へは継在鷹の宣下があります。之は五軒の坊官で順番に持ちますが、継在應をなれば、
勅曾の場合には何虜へでも参役して差圓を致し、大した権勢がありました。
ſ
法親王と入道親王をは匿別があります。己に御刺髪になり、法名を持つて居られる方に、親王宣下
があれば法親王、御入寺前に親王宣下になり、御名を賜はられた方が、御入寺御得度の上法名を御附

けになれば、入道親王を申します。
大覚寺 *野郡上陸戦村 暁戦御所を補へ、維新前まで陸戯一帯は大畳寺の支配で、徳川家の支配を受
けません。所聞守護使不入で、大覚寺に自洲も平屋もありました。有栖川宮龍仁親王の御子入道慈性
親王が最後の御門跡で、比の御方が輪王寺に御轄住になりました後は無住でした。
宮門跡を揺家門跡をの席次を見ますを、撮家門跡は大僧正で居る間は、宮門跡の下に就きますが、
シの宣下を愛りますさ、宮門跡の上に座ります。大覚寺を仁和寺をは権力 で仲が悪い、お互に
門跡随一を稲して下らない。そこで大覚寺では撮家門跡を迎へ、准三宮の宣下を得て誇を致したもの
です。砦細なこをですが、廣澤池の漁業権についても、雨寺は絶えす訴訟を致して居りましたが、裁
到をすべき京都町奉行は能く事情を知って居るので、勝敗をつけすに捨て、置きました。
運華光院 シ松原上町 安井御殿を稲へ、大覚寺の衆帯寺で維新後廃寺をなり、建築物は安井
小學校で使用して居りましたが、之も改築せられ、今は跡方もありません。寺内の金昆羅さんが安井
碑赴をして現存してみるばかりです。
三賀院宇シ 元来三質院は醍醐寺中の一院ですが、醍醐寺共のものが無くなってから、質力
し(
* を握り、醍醐寺の寺領三千九百九十八石二斗除を、三資院で全部持ってしまひました。さうして大畳
\ 寺を同じく、共の支配地即ち醍醐一帯は守護使不入で、中々大した勢力でした。
仁和寺・大覚寺・三資院から法橋・法眼 法印などの僧位を許す宣旨を出します。之をシ旨を申し、
朝廷から御委任を受けて寺が出す譚で、初論寺からは永宣旨を出したこをを朝廷へ御届いたします。比
維新前の宮廷生活 (下橋) 五
史學 第一巻 第三読 六
の永宣旨で許される僧位は、朝廷から賜はる僧位を決して相違はありませんから、早く昇進したいもの
は永宣旨を受けます。御室法橋だの、艦戦法橋だの、醍醐法橋など、いふのは、永宣旨の位で、朝廷
から賜はる位を私に匿別して申す名稲です。
随心院 宇治郡小野村 小野御殿を稲へ、代々撮家門跡で、南都東大寺の別常に補せられます。
勧修寺 宇治郡勧修寺村 南山科御殿を稲へます。
以上で量言宗の門跡は終りましたから、 次ぎに天台宗の門跡に移ります。
掲非『跡 寺は圓院とも三千院とも申して、愛宕郡大原村にありますが、円路は代々シ今出
川日下ル東側の梶井御殿一に梨本御殿に住って居られます。
青蓮院 粟田日
妙法院 大 寺院所在の地名に因んで大備宮とも申します、伏見宮貞愛親王はもを 管さ補し、常
寺三十七代入道教仁親王の御跡御相績をして御入寺になりましたが、御得度前御兄伏見宮貞教親王が
夢去せられたので、宮家へ お騎りになり、貞教親王の御跡に直られたので御座います。
最珠院 愛宕郡一乗寺村 常寺の門跡は代々北野天満宮の別常に補せられます。維新前久しく御無住で
した。 *
輪王寺 寺が日光にあるので日光宮をも稲へますが、門跡は代々江戸上野に御住居です。初代が天
海僧正、二代が花山院家の公海准三宮、三代目に至って後水尾院天皇の御子入道守澄親王を御迎へい
をたしました。輸王寺宮は江戸幕府を特別なる縁故がありますので、朝廷の御取扱も他門跡をは相違し、
宮が京都に御上りになるを、必す進三宮の宣下があり、又天台座主に補せられます。入道親王に准三
宮を宣下せられ、又梶井・青蓮院・妙法院・漫珠院の中で持つて居る天台座主を鮮退させて、之を賜は
るをいふのは、全く特例です。光も宮は江戸へ御騎りの時に、天台座主を御鮮退になり、座主の職は
改めて四箇寺の中のざれかに宣下になるのです。
昆沙門堂 宇治郡山科村字安朱 昆沙門堂は俗稀で、寺を出雲寺を申します。輪王寺門跡の奪帯で、門跡が
御隠居になるを常寺にお入りになります。 - -
以上六箇寺が天台宗の山門派で、以下の四箇寺は同じ天台宗でも寺門派です。
、聖護院 シ R今は京都市内撃護院町さなりました、役行者即ち離撃大菩薩を祀をする修
-
験道の管領で、森御殿を稲へます。
照高院 愛宕郡自川村 昆沙門堂が輪王寺門跡の御隠殿である如く、之は聖護院門跡の御隠殿です。聖
護院宮智成親王は 一時照高院宮を稲せられ、それから北白川宮 を御改めになつたので、寺は維新後魔
寺をなりました。
質相院 シ 有撃御殿を補へます。第三十八代義賢大僧正が残せられてから、維新までズッ
を御無住でした。
圓満院 大津三井寺中 最後の門跡の入道畳酵親王は後に梶井に御韓住で、入道昌仁親王を御改めにな
りました。即ち梨本宮守修 親王のこをです。
一乗院 奈長興顧寺中 橘御殿を補へます。常寺を大乗院をは法相宗で、雨寺をも維新後魔寺をなりま
維新前の宮廷生活 (下橋) 七
-
史 寧 第一巻 第三跳 入
した。一乗院四十代の門跡奪應親王は伏見宮邦家親王の御子で、後に青蓮院に御韓住の上、御名を奪
融を改められました。有名なる久運宮朝彦親王のことです。それから程経て近衛忠照公の御子の鷹郷
大僧都が相績せられましたが、比の御方は維新後近衛家へお騎りになり、共の後別家して男爵水谷朋
家をいふものが出来ました、御物として名高い伊都内親王の願文は水谷川家から献上になったもので
す。
大乗院 奈長高畑 飛鳥御殿を稲へます。常寺は代々撮家門跡で、最後の門跡九條尚忠公の子隆芳大僧
正の後は、只今の男爵松園家で御座います。一乗院を大乗院をは興顧寺中の門跡寺院で、雨院の中ど
ちらかが必す興顧寺の別常を持ち、別常を持って居る方で、春日赴の寺務を掌りました。
知恩院落東東山 華頂御殿を稲へ、宗旨は浄土で、代々宮門跡です、元来知恩院は後陽成院天皇の
、 第八皇子入道良純親王を、徳川家康公の獅子をして知恩院門跡に据るたのが発端ですから、徳川家を
は特別の縁故で、代々の門跡は先づ時の将軍の獅子をなり、次ぎには天皇の御養子をして親王宣下を
なりました。例へば入道奪秀親王の如きは、賞は伏見宮邦家親王の御子ですが、将軍徳川家茂公の獅
子孝明天皇の御養子をして常寺の門跡をなられ、御還俗後華頂宮博経親王を御改めになりました。
知恩院では門跡の外に方丈があつて、之が一山の事務を執りますから、門跡をしての御用は、開山法
然上人の大遠忌でも廻って来ました時に、方丈を交代に導師を御勤めになる位のもので、寺の質権は
全く方丈の手にありました。 -
-
比所で一寸養子を獅子をの匿別を述べます。四親王家の王子で、宮家を御相績になる方は、必す時
の天皇の御獅子をして親王宣下がありますが、門跡寺院に御人りの方は、必す時の天皇の御養子をし
て親王宣下があります。天皇の御養子をなられますを、典侍か掌侍の中で御母儀が出来ますが、御獅
子には御母儀をいふものはありません、宮家御相績をも門跡寺院へ御入寺をも極まらぬ王子達に、親
王宣下の御座います時は、御養子をもなり、又御獅子をもなり、一定致して居りませぬ。それから博
手に質子を養子との匿別を申上げませう。言はすも解って居るを仰せらるかは知りませんが、決して
左様でない、申上げねば御解りになりますまい。堂上方の系圓を見ますを、誰々の質子何基ごあるの
は、決して量質の子ではなく、質は養子で、賞の子ならば軍に子とのみ書いてあります。養子ではあ
るが生家と全く縁を切り、 生家の系圓から全く氏名を抜取って養家先の賞の子の如くなるのが賞子、
里方を線を切らす、質父母を養父母を雨方に親子闘係を持つて居るが養子で、質子になれば生家の雨
親に不幸があつても、忌引は出来ません。「仔細の所勢」ありを稲して引籠るだけです。孝明天皇は仁
孝天皇の准后新朝平門院の御養子でしたから、御生母を新待賢門院を申して、女院の御取扱をなされ、
従つて新待賢門院の御父正親町前権大納言賞光卿は贈左大臣宣下で質光公を稲せられましたが、明治
天皇は英照皇太后の御賞子をなられましたから、御生母の中山慶子様は何虜までも一位局で、之を御
上並に御取扱になることは出来なかったのであります。又揺家の三男が清華家へ養子にいって、共の
家を相績せらる、を、朝廷の宿番は初論、議奏博奏の雨役を免せられ、毎月朝日又は五節句の参内等
すべて撮家同様ですが、賞子をなつて相績せらる、を、一般清華家の通り、宿直もすれば雨役も勤め
ます。近い例を申せば、一條准三宮忠良公の三男前内大臣建通公は久我通明公の質子ごして、又鷹司
維新前の宮廷生活 (下橋) 九
史學 第一巻 第三競 一○
前殿下輔隠公の長男前右大臣公純公は徳大寺質堅公の質子をして相績により、大臣に任せらる、まで
は宿直及び議奏役を勤仕せられました。
准門跡は基宗六派の本山即ち本願寺(六條御殿)東本願寺・興正寺・備光寺・駆修寺・錦艦専(本部御殿)
の六箇寺で、之を六派門跡を稲へます。
雨本願寺の門跡は大僧正に進みます。本願寺は只今本派本願寺、東本願寺は大谷派本願寺を稲へ、
両門跡共に大谷氏を稲し、伯爵を戴いて居ります。東本願寺には寺領がありません。慶長七年徳川家康
が常寺を取立てた時、寺領を附けやうをいふ沙汰のあつたのを、 教如法主が御断りをして、態々無藤
をなったを申します。東本願寺を除き、門跡・准門跡・比丘尼御所すべて御領がある。最も多いのは輪
王寺の一萬三千石、最も少いのが備光寺の六石八斗で、千石以上が門跡十九箇寺の中で十三箇寺あり
ます。親王家の中桂宮の三千六石除は特別をして、伏見・有栖川・関院の三宮が千石又は千石少々の御
領であるここを思へば、宮撮家から門跡寺院へ御入りになるこをは、容易に御合酷が行きませう。准
門跡を比丘尼御所の御領は概して少く、五百石以上は准門跡には皆無、比丘尼御所に僅かに二箇寺あ
るのみです。併し准門跡は信徒の寄捨で立派にやって行けますが、比丘尼御所の方は維新後御気の毒
様のお寺もこれ有るやに伺つて居ります。
興正寺は西本願寺の南に、備光寺は備光寺高倉にあります。雨寺の門跡は大僧都より進んで僧正に
終はるのが例で、大僧正にはなれません。明治になってから、興正寺は華園、 備光寺は鶴谷を残し、
共に男爵を戴いて居ります。備光寺二十三代の門跡量達権僧正は、鷹司太閣政通公の御子で、ニ條左
大臣藤信公の獅子をして、備光寺を御相績でしたが、基府第六十常は代シ姓を満模名
政教公の獅子をして備光寺相績の虜、明治二十一年思名を以て代シ。、
㎞ ました。シは伊勢二身田に、シに。
無位無官です。明治にな
す。専修寺は大僧正まで進めますが、錦織寺は官位は要らぬといふ見識で、
ってから、専修寺は常磐井を名乗り、錦織寺は木部を名乗り、 共に男爵を授けられました。
系圓から申しますを、興正寺撮信僧正は開院宮の血統を博へた鷹司太閣政通公の二男で、同寺相績後
他㎞さい ことがありませんから 同寺は王孫です。備光寺は前に申したシの子院 が
相績せられましたから、之も王孫 又事修寺圓蔵大僧正は後陽成院天皇の御血統を博へた近シ
熙公の三男で、同寺相績後美照を改名、共の子鶴松即ち発獄が現時の管長で、之*王孫です。
備光寺は代々二條家の獅子をなるのが例でした。共の他の門跡も代々宮家ゃ撮家の獅子に。
西本願寺は九條家、東本願寺は近衛家、興正寺は鷹司家、専修寺は有栖川宮家、シ寺は一家の
子をなります。身分に箱をつける一手段を外考へられません。
四宗衆學・法相律・律、
比丘尼御所は合計十五箇寺で、宗旨別をしますを、弾宗が一番多くて九筒寺、
浮土・日蓮・天台各々一箇寺をなります。 又尼門跡になるべき方の身分から申しますを、御直宮即ち皇
女の御座りになるものを、宮撮家から御入寺になるものと、 撮家以下の堂上方から御入寺になるもの
-
-
こに分れます。 ン

大聖寺 御 御所) 鳥丸連上*
一二
維新前の宮廷生活 (下橋)
史學 第」巻 第三競 一二
ド ドンズ ショ
賓 鏡 寺(百々御所) 寺之内通小川 禰
曇 、華 院(竹 御所) 東洞院三條上ル 禰
1
光照 院(常磐御所) 新町通上立責上ル 四宗奪撃
以上四箇寺には御直宮が御座りになるのが例で、御座りになるべき皇女が御出で遊ばさぬ時は、御
無住でしたが、維新後は奮堂上家の姫君で御相績をいふこをになりました。曇華院は維新後下雌戦村
に移り、又光照院は浮土宗に代りました。
霊 鑑 寺(谷 御殿) 鹿ヶ谷 弾
圓 照寺(山村御所) 南都山村 弾
林 丘 寺(音羽御所) 修寧院村 弾
中 宮寺(撃姫御殿) 南都法隆寺中 法相 律
慈 受 院 新鳥丸通丸太町一町上ル常時寺之内通堀川東入線拝院に同居 弾
三時知恩寺(入江御所) 新町通上立賞下ル 浮 土
法華寺 南都法華寺村 律
瑞龍 寺(村雲御所) 西堀川通元警願寺下ル 日 蓮
継 持 院(薄雲御所) 寺之内通堀川東入 輝
賞 慈 院(千代御所) 上京木之下町 弾
本 光 院(蔵人御所) 北野今小路シ 天 台
比の中慈受院は、曇華院の兼帯で、元は下艦戦村の曇華院中に寺籍だけを置いてみましたが、常時
は継持院に同居です。それで慈受院を除いて霊鑑寺から瑞龍寺までの七箇寺は、宮撮家ざちらからで
も入られます。さうして継持院賞慈院は平堂上家から、本光院は撮家清華の中から入りました。
圓照寺の文秀女王、瑞龍寺の村雲日楽尼御二方は伏見宮邦家親王の御子です。文秀女王は孝明天皇
の御養子をして圓照寺へ、日築尼は闘自九條尚忠公の獅子として瑞龍寺へ御入りになり、明治になっ
てから文秀女王は伏見宮へ御復籍になりましたが、日築尼は瑞龍寺御住職で終られました。それから
善光寺大本願の久我誓圓尼も邦家親王の御子で、前内大良久我通明公の質子をなられた御方でしたが、
明治四十三年八十三歳で御残になりました。
二、撮家さ闘白
公家といふ詞は武家に封する詞で、撮家以下シに至るまでを含みます。堂上さいふ詞は廣い意
味では公家を同じに用ひられますが、 狭い意味では撮家 清華 大臣家を除いた公家を指すので、之を
平堂上さいふこをもあります。又駆上人をいふ詞は昇殿を許されたる人の意味ですが、通例之を狭く
解響し、四位五位の堂上並びに六位蔵人を引括めて殿上人を稲へ、位は三位以上官は参議以上のもの
を指して%卿を申します。
撮家は撮政家の略で、撮政闘白に補せらる、を先途をする家柄です。近衛・九條・二條・一條・鷹司の
五軒で、近衛家を陽明御殿、九條家を陶化御殿、二條家を銅駄御殿、一條家を桃華御殿、鷹司家を楊
維新前の宮廷生活 (下橋) 一三
史 學 -
第一巻 第三競 一四
幕御殿を申します。屋敷の位置は二修家が一番北で今出川御門外一町東、近衛家が公家御門通北行賞、
一條家が同北西側で、雨家斜に向合ひ、九條家を鷹司家をはズッを南で、 九條家が境町御門内西側、鷹
司家が同東側で、雨家東西に相封してみます。凡て四親王家や撮家以下堂上方の屋敷は御所を中心を
して共の周園に集ってみますが、中には御所からや、離れて居るのもある、吉田萩原の二軒が吉田村
にあるゃうなものですが、水無瀬家一軒だけは順る飛離れ、撮州廣瀬村にあります。
撮家は藤原姓で、近衛家の初代を九條家の初代をは兄弟の間柄、さうして鷹司家は近衛家の分家、
二條家を一條家をは九條家の分家ですが、仔細に系圓を調べて見ますを、 純粋の藤原氏の血統ごいへ
ぬ獣が御座います。近衛家の第十九代闘自左大臣信尋公は後陽成院天皇の皇子で、 近衛家を御相績遊
ばされ、共の御血統で常代まで績いて居りますから、同家は信尋公以来王孫です、又一條家第十四代
の昭良公は後陽成院天皇の皇子、鷹司家第二十代の輔平公は関院宮直仁親王の御子で、 東山院天皇の
御孫ですから、雨家をもそれ以来王孫をなりましたが、一條家は昭良公・ 教輔公・乗輝公の三代で共の
御血統は絶え、第十七代の衆香公(鷹司房輔公男)から、 又鷹司家は輔平公・政熙公・政通公・輔熙公の四
代で基の御血統は絶え、第二十四代の照通公(九條向忠公男)から、藤原氏に復騎せられました。但し一
條家は常代の質輝公がまた王孫をなります。共の理由は質輝公は、四條隆調卿の子(質は共の弟隆平
卿の子)をして、一條家へ養子にまみられた方で、隆調隆平兄弟の父前権大納言隆生卿は醍醐権大納
言輝久卿の二男で、醍醐家は一條昭良公の次男冬基卿から始まり、他家より養子をいふこをの無い立
派な王孫であるからです。
九條家では尚忠公の質子幸経卿が鷹司政通公の子で、政通公は王孫ですから、九條家も一代は王孫
です。二條家には絶えて王孫を交へたこをはありません。
女御只今で申せば皇后宮には親王家・撮家・将軍家の姫君が御立ち遊ばします。近代撮家を皇室をの
御縁組は、英照皇太后が闘自九條向忠公の御女、昭憲皇太后が左大臣一條忠香公の御女、常今の皇后
陸下が公爵九條道孝公の御女であらせらる、こをを申上げるだけで充分で御座いませう。
それから注意すべきは、二條家を徳川将軍家この闘係で、二條家では第十五代康道公以下代々将軍
の獅子となり、将軍の名前の一字を貰ふのが例です。康道公の父闘自昭質公は元和元年の禁中並公家
衆法度に家康秀忠を連署して居られますが、共の頃から徳川家と浅からぬ闘係があったものを見えま
す。
維新前撮家の勢をいふものは艦いもので、殊に近衛家は撮家随一で、特別に宜しかったのでありま
す。昔は額髪を刺るのを元服を申しましたが、貴人になるを冠を加へるのを元服を申します。元服の
際に近衛家に限り、時の天子の御直筆で名前を賜はります。近衛忠熙公は忠熙をいふ名を光格天皇か
ら、又近衛忠房公は忠房をいふ名を仁孝天皇から頂いて居られますが、か、るこをは断じて他の撮家
にはありませぬ。
撮家は大抵七入歳で元服を致しますが、共の日「シ昇殿を聴す」をいふ宣下を被り、従五位上
若しくは正五位下に叙せられます。禁色を聴されるを、公卿でなければ着るこをの出来ない有紋の椅・
撃 衛などを着用するこをが出来、又雑抱を聴されるを 直衣を以て衣冠に代へるこをが出来ます。そ
-
新前の宮廷生活 (下橋) -
一五
- 史學 第一巻 第三競 一六
れから間も無く正五位下の人は従四位上に、従五位上の人は従四位下に、越階を申して一段飛んで推
叙せられ、又剰闘艦任で近衛権少将に任せられ、績いて構中将に上ります。近衛権少将や構中将は左
右八人づくが定員ですのに、撮家であるを、定員外に任命せらる、ので、之を剰闘推任を申します。
中将少将で居る間でも、撮家の家柄ですを、自分より官位の高い、例へば正二位大納言従二位中納言
をいふやうな平堂上に道で曾うた場合、先方では丁寧に濃をするのに、比方は駕籠の戸前を引いて家
来扱に致します。すべて大納言以下の人々は闘白・大臣・撮家・親王に往来で曾へば、今逸究いてみた草
履を脱ぎ、わざ〜査を突いて御鮮儀をするのが濃です。そればかりではありません、撮家の中少将
が御所で、食事を頂く時には、四位五位の殿上人が暗膳をする、 御所を退散する時は、殿上人が御所
の玄闘まで送って来て平伏する、それを撮家の中少将は見向もせすに騎つて仕舞ひます。
共の後従四位下の人は越階で正四位下に推叙せられ、従四位上の人は越階で 正四位上を踏ますに、
直ちに従三位を申します。三位以上になると、いかな撮家でも推叙をいふこをは無く、矢張が折紙を
出して願はねばなりませぬ。小折紙のこをは後に申しますが、何にせよ撮家の勢ですから、小折紙を
出しさへすれば、直ぐに勅問があって、「従三位に叙す中将故の如し」をいふ宣下を被り、三位の中将
をなり、次ぎには参議を経ずに権中納言をなり、中将故の如しで、中納言の中将をなります。但し、権中
納言は剰闘推任といふ譚にはまみりませぬ、定員は十人ですが、 闘のない場合がある、 さうするを闘
自から基の権中納言に鮮職を命する、命せられた某は否をはいへず、鮮職を申出づるを、即日聞届を
なり、共の構中納言は撮家の三位中将の所へいつて仕舞ひます。
今度は構大納言になりますが、之も都合よく空いて居れば結構、空いて居らなければ前同様、某の
権大納言を御取上になって、撮家の中納言を権大納言に任せられます。構大納言をなれば常然中将は
去りますから、帯剣を聴すをの宣旨を被り、それから左近衛大将の闘を待って之に乗任せられる。左
*大将は中納言や大納言のやうに取上げるこをは出来ませぬから、現任の大将が空くまで待たなければな
りません。大納言大将をなってから、大臣の空くのを待って、先づ内大臣をなり、右大臣・左大臣・闘
白を順々に上る譚です。内大臣の時は大将故の如しで、右大臣になるを大将を去りますから、随身兵
位を賜はります。左大臣も同断で、闘白になるを氏長者・内覧・随身・兵位・牛車を一時に宣下になりま
す。左大臣の上に太政大臣がありますが、之は多くは女帝幼帝の場合に置かれ、平常は闘けてみます。
太政大臣で闘自であれば闘自太政大臣、左大臣で闘自であれば闘自左大臣を稲します。
只今まで少将中将を申したり、権少言権中将を申したり、中納言大納将を申したり、権中納言権大
納言を申したりするので、不審に思召しませうが、近年はすべて正権の匿別なく、権官ばかりですか
ら、少将中将を申しても、賞は権少将権中将のこを、中納言大納言を申しても、質は権中納言権大納
言のこをを御承知を願ひます。又近衛には左右雨方ありますから、本来ならば右近衛構少将・左近衛
構少将・右近衛権中将・左近衛権中将をいはねばなりません 撮家の中少将は多分は 左近衛の中少将で
すが、大将に限り必す左近衛大将をなるのは、清華で右近衛大将を持つからです。
闘白には現官の大臣からなるばかりでなく、前官の大臣からもなります。闘白になるを中々忙しい。
大臣・納言・参議の輩は毎月朝日十五日に御濃に参内するのを、公事に召された時に参仕するのをより、-
維新前の宮廷生活 (下橋) * 一七
第一巻 第三跳 一八
主退 寧
外に御用はありません。光も納言以下には勤番がありますが、それをて月に数同です。然るに『自に
なるを毎日己刻に参内して八ッ時に退出する、今の時刻に直せば、午前十時出勤午後三時シで、八
景間を詰所をし、議奏や武家博奏を相談して御所の政治を掌るのですから、苦勢*あれば、多忙で。
ある、闘自は大抵五年か十年で鮮職されます。鷹司政通公は三十六年間闘自で居られましたが、期様
な例は滅多にありませぬ。闘自が鮮職を致します場合には、御差止が五六度あってから、潮く「シ
ながら聞召さる」をいふ譚で、前闘自をなります。闘自在職中功勢ある者は准三宮宣下 こなり、席次
は闘自の下席、太政大臣の上席をなる、前闘自だけで准三宮の宣下が無いを、 親王の下席に落ちます。
御所の席次を申しますを、闘自 進三宮・太政大臣・左大臣・右大臣・親王・前闘自・前左大臣 前右大臣
内大臣 前内大臣・准大臣・従一位・権大納言・前権大納言をいふ順になります。但し、機大納言の首席で、
シが宣いさか非常に功労があったさかいふ場合には、鮮官の節シを被り、前夫熱言になって
もの首席に座ります、本座宣下のあるのは大納言だけて、中納言は大納言に進む途が開けてみるか
ら、中納言にはありませぬ、前権大納言の次ぎが権中納言・参議・前参議・正二位・従二位・正三位・従三
位をいふ風になります、
シであって、共の子がまた圓自になりますと、観はシを補へ、太側がシすればシ
へます。鷹司政通公は三十六年間の闘自で、格別の功勢があられたので、 安政三年八月闘白を鮮職せ
らる、を、直ちに准三宮宣下をなり、同時に太閣の競を賜はりました。 彼の時は九條尚忠公が政通公
に代って闘自に任せられたのですから、政通公が太閣をなったのは特例です。闘自職が親から子に得
はる時は、獣つて居ても太閣をなるので、宜下も何にもありませぬ、それで太閣になるのはさして困
難ではなく、撮家には澤山ありました。
闘自の嫡孫はシ殿をいって、無位無官で昇殿を致しますから、元服の時には、禁色雑組を聴され
無い。それから官
へば、撮家の嫡子
に出曾った時を同様御鮮儀を致します。
近代撮家中で一條鷹司の雨家が多く闘白を持ちました。そこで「一條を鷹司をは闘白屋じや」なざを
申したものです。撮家の中で一番家領の多いのが九條家で三千四十三石、之は安政年間従来の家領二
千四十三石の上に、更に千石の加増があつたからで、近衛家は二千八百六十石除、一條家は二千四十
四石除、二條家は千七百八石除、鷹司家は 一番少くて千五百石です。さうして之は地方で取るのです
から、水損もあれば干損もありまして、到底表高だけは入らぬ、先づザッを三分二位の牧入です。そ
こで子女を寺院へ入れられたり、御縁家の大名に御手博を御依頼になつたりする。奮主 一條家の如き
も、毎年紀州から千石、水戸から五百石か三百石、肥後から千石、備前から千石、共の外一橋・越前・
伊醸西條等からソレ〜御手博がありまして、御手博の方が御家の 表高より遥に多う御座いました。
光も闘自になりますを、役料をして年に正米五百石、氏の長者の藤が年に正米五百石、合せて千石は
否でも應でも年々入ります。家藤以外に正米千石の牧 入 をい へば大したもので、それに闘白職を持
つて居れば、また諸方から色々入るものがあります。維新前鷹司家は頻る有顧である との評到が立ち
維新前の宮廷生活 (下橋) - 一九
史 學 第一巻 第三競 二○
ましたが、萬更評到ばかりでも無かったやうです。
三、清華大臣家及び共の他の諸家
セイグワクワショク
撮家に次ぐ家柄の公家を清華一に花族をいひます。宜い家柄の意味で、三公に任せらる、を以て先
途をする家筋です。欠我・三條(韓法輪)、西園寺 徳大寺・花山院 大炊御門・菊亭魔幡 配闘都合九軒の
中、廣幡醍醐の二軒は新家です。 撃
清華九軒の姓を調べますを、久我家が村上源氏、廣幡家も矢張源氏ですが、之は桂宮の初代智仁親
王の二男忠幸卿を先祀をし、共の他の七軒は皆藤原氏です。三條・西園寺・徳大寺の三家は閑院太政大
臣公季公の子孫ですから、系圓の方では閑院家を申します。菊亭家は今出川家をも稲へ、同家の初代
愛季公は西園寺太政大臣質衆公の四男ですから、西園寺の分家です。花山院家は花山院左大臣家思公
の子孫、大炊御門家は家忠公の弟大納言経質卿の子孫ですから兄弟の家筋に常り、又醍醐家は撮家の一
篠家の分家で、同家の初代冬基卿は前刻申上げた通り一條昭良公の次男をなります。系圓の上から公
家の嫡博庶流を調べるを、面白い結果を得ますが、一々申せば煩はしう御座いますから、手近な所で
諸家知譜抽紀なざを御覧下さいまし。
清華は初叙が従五位下、それから従五位上正五位下を順に進み、童形で既に侍従に任せられます。
従四位下になってから元服昇殿を聴され、近衛権少将を経て権中将に任じ、従三位に進みます。 所請
三位中将で、 今度は参議を経すに権中納言に任じ、帯魏を聴され、位は大抵権中納言でみる間に正二
***、構大納言をなってから近衛右大将を奪ね、それから内大臣・右大臣・左大臣を行く管です
が、左右大臣は撮家で持切ですから、内大臣以上には滅多になれません。
清華の官位昇進の順序は大鶴右の通ですが、家の強いを弱いをによって、若干の相違があります。
例へは魔崎家を除いた八軒は大臣になっても大将を持ってみますが、廣幡家は大臣になるを大将を去り
ます。又菊亭家は「おめり申上ぐべし」をいふこをになってみます。 遠慮して申請せよをいふ意味で、
他家が二年目に官なり位なりを申請するものをせば、菊亭家は三年目に申請せよをいふこをです。そ
んな風に菊亭家は弱いのですが、家領に於ては清華第一で、千三百五十五石除を取ってみる、清華で
『名以上のものは他に一軒もありません。多分豊臣秀吉の巻顧を得た右大臣晴季公の手腕で、大藤を
領するやうになつたのでせう。
家で闘自を持ち、撮家清華で三公を持っをいっても、撮家中然るべき人を闘自に任じ、撮家清華
中 るべき人を三公に任するのですから、共所に多少なりをも選揮の自由がありますが、公家中に
は或る官職を世襲して断じて他へ渡さぬ家があります。自川家の碑祇伯、土御門家の陰陽頭の如きも
ので、紳祇伯の貸すべき仕事、陰陽頭の貸すべき仕事の上について、 白川家なり土御門家なりに特殊
の奥儀を博へてみる貸めに、 紳祇伯若しくは陰陽頭を世襲するこをになったのでせう。 又共の道共の
術を以て朝廷に仕へて居らすをも、歴代共の道共の術の秘龍を博へ、 家元をして崇めらる、公家も少
(ありません。冷泉家が和歌の家、飛鳥井家が職駒の家であるこをは、世上に周く知れておますが、
シ道の家で、地下官人の中でシ主が出来ると、花山院家から筆地四十三箇修を

維新前の宮廷生活 (下橋) 二一
史 *●
第一巻 第三競 二二
博し、花山院家が代替になるを、前に皆博を得た書博士から花山院家の常主へ筆道四十三箇條を博授し、
相方助合って秘博の絶えぬやうにして居ります。それから官職でもなく、藝術でもなく、特殊の権利
を博へて居る家がある。例へば久我家の如きで、同家は盲人に官職・乗物・袋杖なざを許す特権を有し
てみます。琵琶法師・琴三舷の師匠・按摩、すべて久我家へ願出で、同家の許可を得て始めて検校勾常
をなり、網代興に乗り、袋杖を用ひ得る、 按摩によくある何龍をいふ市名も、 勝手に稲ふるこをは出
来ない、矢張久我家の許可が要る。さうして是等の許可を得るには皆相常の金子を出すのです。久我
家は代々源氏長者淳和奨學雨院の別常でしたが、それを徳川氏の懇望に任せて譲った貸めに、右の特
権を興へられたを申すこをです。
大臣家は中院・正親町三條・三條西の三軒で、正親町三條は維新後暁峨を改めました。系圓を見れば、
中院は久我家の労系で村上源氏、正親町三條は三條家、又三條西は正親町三條家の労系ですから、雨
家をも関院流です。
官位昇進の次第は清華ご同様ですが、大納言に任せられて大将を象ねす、内大臣に任せらる、を以
て先途を致します。さうして共の内大臣も清華の持った跡を一寸任せられて直ぐ鮮職する、内大臣を
一寸紙るだけですから記天臣を申す悪日があります。 併し質際は紙るこをすらむづかしう御座いまし
たが、何はをもあれ大臣になれる家ですから結構で、撮家・大臣・親王は平日の参内には網代興、晴の参
内には軽を用ひ、歩行くことは決してありませなんだ。
慣例で公家 全鶴を撮家・清華・大臣家・閑院家・花山院家・中御門家・御子左家・日野家・勧修寺家・四條
家・水無瀬家・高倉家・二條殿別流・源家村上源氏・源家宇多源氏・源家花山源氏・源家シ・菅家・平家・清家・安
倍家・大中臣家・ト部家・丹波家・大江家を分けてみます。源家平家を姓氏で分けるなら、藤原家を作ら
ねばなりません。撮家以下二條殿別流までは大部分藤原氏ですが、共の中に源氏が三軒ある。久我を
中院を廣幡で、久我を中院をは源家村上源氏の方へ入らねばならず、又廣幡は源家でも、系圓の方から
申せば、正親町源氏をいふ一流です。関院家をか花山院家をかいふのは、成程藤原氏の諸流ですが、
それならで関院家の中に清華の三條・西園寺・徳大寺・菊亭を大臣家の正親町三條・三條西をを、又花山
院家の中に清華の花山院大炊御門を入れねばなりません。撮家・清華・大臣家を一方には姓氏に闘係せ
すに家筋の宜い分を集め、それ以下は姓氏で分類しやうをして居るのですから、結局前後不揃の分け
方をなつて居ります。
関 院 家 正親町・滋野井・姉小路・清水谷・四辻・橋本・河鰭・阿野・花園・裏辻・梅園・山本・大
宮・武者小路・小倉・風早・押小路・高松・園池・整・中園・西四辻・高丘の二十三軒
花山院家 中山・飛鳥井蹴韓和歌・難波蹴韓・野宮・今城の五軒
中 御門家中御門(松木) 園生死 東園・持明院シ・高野・石山筆a 手生 石野・六角筆道の九軒
、御子 左家 冷泉(上冷泉)和歌・冷泉(下冷泉)・藤谷・入江の四軒
日野 家 日野・廣橋・柳原:鳥丸和歌・竹屋シ・日野西・勘解由小路・裏松・外山・豊岡・三室戸・北
小路の十二軒
翻修 事家 甘露寺 葉室 勤修寺 高里小路 清瀧寺・中御門 坊城之山 池尻 権小路・岡崎・穂
維新前の宮廷生活 (下橋) - 二三
史學 第一巻 第三跳 二四
波・堤の十三軒
四條 家 鷲尾 沖小路・概衛・四條亭・山科衣 ・西大路入條の七軒
水無瀬家 水無瀬・七條・町尻・標井・山井の五軒
高倉 家 高倉衣教・堀河・樋日の三軒
二條殿別流 富小路一軒
源家村上源氏 六條・久世・岩倉 千書 権漢・愛宕 東久世 植松生花の八軒
源家宇多源氏 庭田雅楽・綾小路雅楽・五辻・大原・慈光寺の五軒
源家花山源氏 白川一軒
源家清和源氏 竹内一軒
菅 家 高辻・五條相撲・東坊城・唐橋・清岡・桑原の六軒
平 家 西洞院・平松・長谷・変野・石井の五軒
清 家 船橋・伏原・澤の三軒
安倍 家 土御門天文道・倉橋の二軒
大 中臣 家 藤波一軒
下部 家 吉田・萩原・錦織・藤井の四軒
丹波 家 錦小路一軒
大江 家 北小路二軒
以上百二十一軒の中に、中御門が二軒、冷泉が二軒、北小路が三軒ある。中御門家の中御門は松木
をも稲へ、ナカミカドを訓み、勧修寺家の中御門はノ字を入れてナカノミカドを訓みます。冷泉は二
軒をも御子左家で、今出川御門外に屋敷のある分を俗に上冷泉、二階町に屋敷のある分を下冷泉を呼
んで匿別しますが、日野家の北小路を大江家の北小路二軒をは、別段匿別もありませなんだ。光も大江
家の北小路は一軒は嘉永元年、一軒は慶應三年十一月の御取立で、間もなく御維新をなって仕舞ひま
したから、匿別の必要も無かつたのでせう。
家の名の下に、共の家に博はる薬業を記し置きましたが、共の中衣終をあるのは衣服の制度着用の
法式等を掌る家筋で、四條家の山科を高倉家の高倉をが共の家です。従って衣紋に山科流を高倉流を
を生じ、主上の御服は雨家隔番に奉仕いたし、高倉流は武家の間に行はれ、山科流は多く公家の間に
用ひられました。菅家の五條は野見宿禰の末流をいふ所から相撲を支配致しますが、京相撲を支配す
るばかりで、江戸相撲は共の支配外でした。
水無瀬家の水無瀬は水無瀬宮を守護する貸めに、撮州三島郡廣瀬村に住んでみて、御所の勤番は御
免です。水無瀬宮は信賞朝臣が書いたをいふ後鳥羽院天皇の御影を存する名高い赴で、今は官幣中赴で
すが、もをは水無瀬の邸内にあつて、平民の参拝なざは思ひも寄らんこをでした。比の水無瀬の労系
の町尻は以前近衛家の諸大夫であつたので、堂上になってからも、近衛家に出るを家来扱でした。清
和源氏の竹内も以前久我家の諸大夫をいふ所で、久我家では矢張家来扱に致しました。例へば玄闘か
ら上るここを許さず、中ノ口から上げて諸大夫の間へ通すをいふやうな取扱振です。竹内は清和源氏
維新前の宮廷生活 (下橋) 二五
史學 第一巻 第三跳 二六
で徳川氏を同流であるこいふ所から、幕府の周旋で堂上家に取立てられた家です。
花山源氏の白川家は花山院天皇の皇子清仁親王の男延信王の後裔で、代々碑祇伯に任せられ、碑祇
伯に任せられるを源氏を魔して王氏に復します。諸國の碑赴は継べて白川家に属したものですが、ト
部家の吉田が碑祇管領になってから、共の株を奪取り、碑赴の碑階碑官の官位は吉田家の執奏によつ
て宣下をいふこをになりました。共の他吉田家では無位無官の碑官に園司の官を興へたり、装束を許
したりして、莫大の牧入をなつたを申すこをです。朝廷に闘係なく吉田家限りで勝手に許す官ですか
ら、之を吉田官をいって、音は同じでも文字をかへる、山城等を書くべき所を山城頭を書くさいふ風
に、守の字を態を頭の字に改めてあります。それから安倍家の土御門は代々陰陽頭で、諸國の易者を
配し、大中臣家の藤波は代々祭主の家で、祭主家をも稲へました。
菅家の六軒は文章の家、清家の二軒は経學の家で、一方は文章博士をなり、一方は明経博士をなり
ます。菅家の人々は元服前に北野天満宮に参籠して論文を書き、それを碑前に獣じてから元服を行ひ、
正六位上に叙し、文章得業生をなり、共の後何年かを経て文章博士をなる。初叙正六位上は菅公の先
例によるので、何も初叙従五位下の家に劣るこいふ次第ではありません。菅家が任せられる大内記を
いふ官は、宣命語勅の類を書く役で、牧入になりますから、六軒で三年交代に持廻りにしてみます。
家々の特長は比の位にして、今度は昇進の順序に移ります。初論その順序は一様ではありませんが、
引括めて申すを、官は権大納言若しくは権中納言、位は従五位下から立つて正二位まで昇るのを普通
を致します。権大納言を鮮して後本座宣下を許されるのは除程宜い方で、共の上になるを従一位宣下、
更に共の上になるを准大臣宣下をなる。花山院家の中山・飛鳥井、中御門家の中御門 (松木)・園、日野家
の日野・廣橋・柳原・鳥丸四軒、勧修寺家の甘露寺・葉室・勧修寺・萬里小路・清閑寺・中御門・坊城七軒、字
多源氏の庭田の如きは、構大納言を鮮して後本座を聴され、功勢にょり従一位に叙せられる家ですが、
それから更に准大臣に任せられるのは中山・中御門(松木) 園・廣橋位のものです。又折角構大納言や構
中納言まで進んでも、間も無く鮮職をせねばならぬ家筋がある。共の下になるご位は正二位でも、官
は三位相常の京官で、老年に至り潮く参議に任せられる。更に共の下になるご従二位で終る。一鶴に
近代は位が高くて官が低う御座いました。
#進の順序をして近衛の中少将に任せられる家を羽林家を申します。唐代に近衛府を羽林を補した
からです。羽林家は関院家二十三軒・花山院家五軒・中御門家九軒、合計三十七軒で、比の中関院家の正
親町・滋野井・姉小路・清水谷・四辻・橋本、花山院家の中山・今城、中御門家の中御門・園・東園、四條家の
鷲尾・油小路・橋筒、宇多源氏の庭田、以上十三軒は頭中将をなる家で、五位侍従から近衛の中少将を経
て蔵人頭をなり、次ぎに参議に任じ、中将元の如しで、それから権中納言権大納言さ進みます。又日
野家十二軒勧修寺家十三軒合計二十五軒を名家を申します。比の中日野・魔橋 柳原 島丸の四軒を勧修
寺家の甘露寺・葉室・勧修寺・萬里小路・清閑寺・中御門・坊城の七軒をは頭携をなる家で、五位の侍従か
ら擁官をなり、蔵人に補し、検非違使を兼ね、蔵人頭に任じて所請頭携をなり、次ぎに参議に任じ、舞
官故の如しで、それから検非違使別常・右衛門督・権中納言・権大納言をいふ風に進みます。
親王家や撮家・清華・大臣家に諸大夫といふものが仕へてみます、系圓を調べるご堂上方の次三男の
二七
シ前の宮廷生活 (下積
-
史 撃 第一巻 第三競 二入
後裔で、昔は諸大夫家の者が自己の寧才により舞官を経て参議をなり、中納言をなり、次第に立身す
る、それが三代績くを立派に堂上家をなり、之を名家を申しました。近代は新規に堂上家に御取立に
なるのは、蔵人の極龍を共の身一代に三度繰返すか、 三代績いて極龍をなつたものに限り、之を新家
を申します。丹波家の錦小路、大江家の北小路二軒、共の外にも澤山新家があります。
家の中で一番の取高が三千石、清華で千三百石、大臣家で五百石ですから、共の他の堂上家の家
*大概推察せられます。光も日野家の日野の千百五十三石、大中臣家の藤波をト部家の萩原をの千
シ別で、二百石 百八十石・百五十石 百三十石をいふ所が一番多く、新家になるを僅かに御蔵米
三十石“三人扶持です。御蔵米三十石をいへは二修の御蔵から正米で三十石渡るのですから、地方取
ょりは割合が宜いが、何にせょたった三十石で、それに三人扶持ー一人扶持が日に五合、三人扶持で
『上五石四斗「を加へても生計は仲々苦しい、若狭屋喜右衛門通稲若喜鍵屋新兵衛通稲鍵新を申す二
『の資物屋が流行ったも無理はありません。比所へ依頼すれば、装束から傘 難色自丁何でも間に合
“、信用料は五位の赤抱が二百定、四位の黒抱と六位の繰抱が百定づ、と畳えて居ります。
四、撮家さ門流
『華大臣家及び共の他の堂上家は概ね撮家五軒に分属してみます。之を慰とも御家顧をもいひ、
*時代から走ったと聞博へます。雲上明覧によるを近衛家に四十八軒、九條家に二十軒、二條家に
シ、 シに三十七 、鷹司家に入軒の門流があります。私の記憶によるを魔幡家も近衛家の門流
しげいてれ内で 一同
人所分ら流れし殿っ々 女官
居り に


ます 家

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御共
指常
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か、

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ます
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前 で上人習れ理いし撃方は
三家


衝殿方



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、 組す味門流りん かう

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いふ軒 家


し 属衛軒院かるし

一條
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閑。



六を




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た家



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った




し 一無瀬るなす干し流




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は です です












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。 清そ足べ華れ






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し 頭流げ始顔
拝ける








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ます ざまっ



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居撮
あて





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るしのつ流



宮廷


維新
)


(
生活

*
-
史學 第一巻 第三競 三○
御上は常御殿の御上段に出御遊ばされます。摂家は下段に出て、東面で拝謁を教されますが、昇調
が済むを東上北面に着座せられ、そこで天歪を賜はり、又三方で書の御膳を下され、殿上人が暗膳を
致します。御料理は申すまでもなく二汁五楽で、それが済むを撮家方は御騎りになる。門流一同は一
足前に参内殿の御車寄を下りて之を待受け、公家門まで送って行く。ッマリ参内の時の順序を逆に行る
のです。それから撮家は准后(中宮)御殿へ行って祀詞を述べますが、之は申置くだけで御封面は無い
のですから、直ちに退出されます。退出は今の刻限で午後四時頃に常りませう。門流は公家門まで撮
家を見送り、御所の御構内を通り、准后御門で再び撮家を見送って、共虜から銘々勝手に我家へ騎りま
す。撮家参賀の時、諸大夫は供をして居りますが、近衛家の諸大夫に限り、参内殿で天歪を賜はりま
す。これは近衛家だけで、他の四家の諸大夫にはありませぬ。
門流は元服するにも、嫁を貰ふにも、養子を貰ふにも、一切己の属する撮家の同意を経ねばなりま
せぬ。元服の時には冠一頭狩衣 一具を進せられますこの日上で、撮家から使が来る、初論目録だけで
質物はありません。さうして常日は撮家から御取樹を稲して諸大夫なり侍なりが一人来る。元服をす
る家では親族方を呼んで祀宴を開かれるから、共の取持の貸めをいふ意味ですが、右の取持役は早速
座敷へ通され、親族方を同様の御馳走を頂戴するので、取持ではなく取持たれに行くやうなものです。
それで元服が滞なく終るを、先づ撮家へ濃に行き、それから御所に御濃に行かれ、翌日になって他の
四軒の撮家へ廻るをいふ有様でした。極端に申せば撮家を門流をは主従闘係を有つて居るをいつて宜
* o
し、
ショサンカ モジサンッカゴ シヨサシ
門流から議案のこさを御駆古くはシといひ、共の子息を若御腕 をいひます。撮家は初論
親王家でも清華大臣家でも、出るのを御成、騎るのを還御を申しますが、共の以下の堂上方になると、

殿様・若殿様・御出・御騎を申します。
元日門流が撮家の邸へ年賀をして出頭する時、御所様へ太刀一腰馬一匹を進上致します。太刀一腰
をいっても木太刀の飯具のやうなもので、馬一匹をいふのが自銀一枚即ち四十三欠、それを持参する
を、御所様から自銀二枚にして返して下さる。毎年幕府から御使をして上京する高家が、撮家へ太刀
馬代を進上する時も、同様の御返濃です。門流は常日使者の間に通り、應封に出て来る近習なり青士
なりに面曾して祀意を述べ、目録を木太刀をを渡す。目録には「御太刀一腰御馬一匹以上」を書いてあ
る。木太刀を渡す時は、眞物の受渡を同じやうに、双形を手前に向けて渡す。馬シへ持って行くこ
さが出来ないから、「銀1枚御馬代」を奉書紙に書いて玄闘の式豪 式豪の無い所は撃の上に置くを、中
番が取りに来て諸大夫の詰所へ持って行く。之に封する返濃として、撮家から最初持参した元の木太
刀を自銀二枚ごを使者に持たせて下さる。比の時も自銀二枚は矢張玄闘の式豪に載せて置きます。
御話が横途に入りますが、暑中土用の入になるを、撮家・親王・大臣から御上へ鋼一掛(二尾)を献上
致します。するこ共の鋼に大典侍長橋局連名の女房奉書を添へて、禁中から使番が持って来て、禁中
より進せられますを披露致します。頂戴した方ではそれを共の僅准后へ献上致しますを、御返しをし
てそれを賜はりますから、今度は皇太子へ献上致しますを、またそれを賜はるをいふ風に、一っ魚が
彼方へ行ったり比方へ来たりするのですから、終には宜い加減に腐ってしまう。けれざ*天子寿領の
-
維新前の宮廷生活 (下橋) 三一
史 寧 第一巻 第三跳 三二
鋼じゃといふて戴きます。私共も度々載きましたが、 別に叱りもしませなんだ。 それから又土用の入
には所詞代から立派な淀川の縄二尾を天子・准后・撮家・親王・大臣・議奏・博奏へ進獣致されます。 生き
たま、シへ入れて持ってまみるので、比の方は中々私共侍連中の日には入りません
メシプルシ
門流は「御名古拝領」をいって撮家から衣抱を貰みます。撮家が薬去の場合なざには、門流一同へ衣装
の御分配がありますが、門流の多い所は拝領物が少いをいふ譚です、
五、議奏 武家博奏 職事 近習 内々 外様 六位の蔵人さ非蔵人
闘自は前申した通撮家で持ち、議奏を武家博奏をは清華も持ち、大臣家も持ち、又平堂上の大中納
言参議の中でも持ちます。議奏は五人、武家博奏は二人が定員で、別に議奏加勢をいふのが一人、之
は常加勢で何時でも一人置いてあります。博奏が就職常時所司代屋敷 へ出て誓詞血到を致しますこを
、は有名なこをで、申すまでも無く御承知を存じます。
議奏の仕方 は御上ょり仰出される事を闘自を経て職事に命じ、 又下ょり職事を経て申出づる事を闘
自へ申上げる。ッマリ上下の意見を通する役で、朝廷の大小の事件に番く相談に興ります。博奏は武
家の意見を朝廷へ、朝廷の御意見を武家へ執攻ぐ役で、従って所司代及び眠説家に闘係のある御用は
皆武家博奏の手を経ます。例年二月江戸から年頭の使者をして高家が参内しますが、 比の時大名旗本
等の官位申立の小折紙を一縄に持参して武家博奏へ差出します。博奏は之を職事に送り、職事は議奏
へ差出し、議奏は闘自へ差出し、闘自議奏相談の上で御上の宣下がある。共の宣下の日宣を博奏から
貰って高家は江戸に立騎ります。博奏及び議奏は役料をして一人年二百石を貰みます。議奏加勢の役
料も同様です。
職事の定員は五人、蔵人頭が二人五位蔵人が三人ですが、蔵人頭二人中、一人は羽林家の出身で近衛
の中将を衆ねますから頭中将、一人は名家の出身で葬官を奪ねますから頭携を申します。頭中将になり
得る羽林家十五軒、頭携になり得る名家十一軒の名前は、先刻御話致しました。名家の中で竹屋・日野
西・勘解由小路・裏松の四軒は五位の蔵人となるも、蔵人頭にはなれぬ家柄ですから、舞官は共の霊にて
蔵人を離し、従四位下に進みます。凡そ群官には左右の大舞 中葬 多群を中少群の中に構官が一っあ
つて都合七群をなります。少携から順次大舞に進み、五位蔵人を勤めて後蔵人頭をなるのですから、
比の方は事務に長けて居りますが、近衛権中将からイキナリ蔵人頭になる方は一向素人で、事務に通
せず、然も職事の首席をなるのですから、下の四人が寄ってたかって之を殺してしまう、及物で殺す
では無いが仕事の上で部め殺す。頭中将から職務について解からぬこさを間はれても、彼等は一向
教へない。シがお頭だから、手前共に御相談は入りませぬ、高事御差圓下さいさいふ風に跳付ける
鷲尾隆賢朝臣の如きは、之が貸めに心配して病気を惹起し、終に亡くなられた。それですから頭中将
になるを殺されるを言博へたものです。上席の役人が下席の役人を苛める、故参が新参を家来扱にす
るこごは、昔時の役所の通弊でしたが、職事に限っては反封で、上席の頭中将が酒食を詰所に持参し、
部下を御馳走して機嫌を取る、頭中将になるを気苦勢ばかりでなく、大分金銭もかくります。近来之
を滞りなく勤上げられたのは庭田重胤卿中山忠能公位のものです。然し一方から見れば頭中将は至極
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維新前の宮廷生活 (下橋) 三三
史 學 第一巻 第三競 三四
宜い位置で、之を無事に勤めた者は参議の闘があれば直ちに参議に任じ、中納言大納言と一息に昇進
致します。頭擁昇進の次第も之を同様です。
職事は議奏博奏から博へらる、命令によって諸公事を奉行し、官位の事に就いて勅間の家へ御使し
たり、又宣下になるをそれを申渡したりします。役料は年百石です。
議奏・博奏・職事は闘白を同じく皆日勤で、 己刻参内八ッ時退出です。出勤する場所は軍に議奏詰所・
博奏詰所・職事詰所をいふばかりで、闘自前闘自の詰所を八景間、撮家・親王・大臣の詰所を瞬香間 とい
ふやうに、部屋の名はありませぬ。
比虜で小折紙のこをを一日申上げます。小折紙は官位の申請書で、堂上地下を問はす、之を差出
さなければ、何時まで経っても官位は昇進しませぬ、光も推叙推任は別です。小折紙は一般に壇紙を
に二ッ折にし、左の端を五分程折り、更に縦に三ッに畳み、中央に「申権中納言」をか「申従五位下し
をか競望の官位を書き、左へ「参議藤原某」をか「正六位下源某」をか官位姓名を記すので、共の書方*
近衛流をか、一條流をか、撮家毎に多少の相違があります。撮家から小折紙が出るご、即日披露即日
宣下をなりますが、清華以下の小折紙は左様はいきません。小折紙が職事へ出るを、職事はそれを取
纏め、大抵月一回、時をしては二回の勅問日に、職事自身澤山の小折紙を持って、闘自を除き、他の撮
家を一軒一軒廻る、比の時の職事の資格は勅使です。撮家では諸大夫が玲味して、差支無いをなって
から主人に差出す。公家なれば諸家博に引合はせ、地下なれば地下家博に引合はせて玲味します。主
人は無論諸大夫の意見通で、「すべて天気に任す」をいふ返事をして、小折紙を返すのですが、若し成官
を誰かに遺りたいを思へば、共の旨を闘自へ申博へてくれろを勅使へ告げます。さて意々撮家一同異
議なしをいふ段になって、闘白は議奏職事を連れて常御殿へ上り、御小座敷にて御上を闘白をが封座
せられ、議奏が小折紙を擁けて闘自に差出すと、闘自は属の要で獣をかけ、御上は挑指の爪で勅獣を
かけられる。それで御裁可が済んだこをになつて、宣下をなります。宣下は職事から日頭で 達します
が、宣下を被った人々は撮家・博奏・議奏・職事の家々へ共の日の中に廻濃を数し、翌日御所へ御濃に上
ります。職事が小折紙を持つて撮家の邸へ出掛けるのが書過ですから、宣下の御濃に廻るのは何うし
ても夜分になります。御蔵を受ける方でも夜十二時頃まで門の潜戸を開けて待受けてみます。
位階の方は皆家例によって小折紙を出しますから、落第するこをはありませんが、官の方は一っの
闘に封し、方々から小折紙が出ますから、落第者が多い。然し宣下の日は落第者も及第者も凡そ小折
紙を出した人々は、番く之を呼出し、堂上方は職事の詰所、地下は非蔵人口の奏下所で、職事から一
人一人及落を申渡す。例へは「従五位下中のまく宣ト音出度」、「大蔵大丞競望のまく宣下目出度」なざ、
申渡し、落第者の小折紙は共の際返却せられます。呼出しに應する時は、堂上方は衣冠、地下は麻上下
着用で、御濃に廻る時は、堂上方は名札を持ちませんが、地下は皆名札を差出します。
堂上家は通例口宣を貰みませんが、地下は宣下の翌日職事の邸へ出て口宣を貰みます。共の時に進
上する御濃は鍋二連( 一連十枚)か、金なら百定です。位記は比の口宣を大外記へ持参して之を請求し、
大外記から大内記少内記へ申付けて出来るのですが、すべて官家では位記を貰はうをせず、内記の方
でも位記を認めるのを嫌ひます。何故かを申すに、位記を貰ふ御濃をして官家が出すのは銀二枚を定
維新前の宮廷生活 (下橋) 、 三五
史 學 第1巻 第三競 三六
まってみて、紙代や表具代に銀一枚は要る。どうかする を内記の方で損をするやうな場合もあるからで
す。それを反封に、武家や地方の碑官は澤山金子を出しますから、内記の方でも喜んで位記を書きま
す。
赴家の官位は式内の赴ですを同日に宣下になりますが、式外の赴ですを、 位階は今日、官は明日宣
下になります。併し式外でも石清水・大原野・吉田・祇園・北野・上下御霊・今宮等は式内に准じ、官位を
も同日宣下です。
近習番所・内々番所・外様番所を継補して三番所を申します。 近習は今日で申す侍従で、内々を外様
をは之をいふ仕事を持って居りません。公卿殿上人の中に、内々の家を外様の家をがあります。何時
から斯様な匿別があったか、多分足利時代の末からを思ひますが、徳川時代になっては到然匿別がっ
いてみました。然し内々だから家格が高い、 外様だから低いをいふことはありません。油小路は頭中
将になり得る家柄又西園寺は大臣大将になり得る家柄ですけれざも、矢張外様でした。さうして内々
家格の公卿殿上人は内々番所へ詰め、外様家格の公卿殿上人は外様番所へ詰めてみました。六番に分
け、一番六七人づく交代に出仕するので、初論書番を夜直ごがあります。
近習には内々からでも外様からでも任せられますが、幼少の時から御上の御側で御奉公をした御雅
見は、生長すれば大抵近習になられます。番組を分けて番所に詰めるこごは内々外様と同様です。
六位蔵人は定員四人位階は正六位上ですから、 之を六位の職事を申し、六位ではありますが殿上人
で、之が蔵人頭及び五位蔵人の下役を勤める。御所の内に六位蔵人の詰所があって毎日基所に勤めて

みます。役料百石。 -
六位蔵人は一番下が新蔵人、基の攻きが民蔵人、共の攻ぎがシ人、一番上を艦脳を申します。
氏蔵人でみる間は本姓を稲し、源氏ならば源蔵人、丹波氏なれば丹蔵人を稲へる。六位はすべて標抱
ですが、極薦になるを魏塵の御抱、即ち御上が御召しになる山鳩色の御抱を拝領し、毎日之を着て出
勤致します。極薦を自分一代で三度勤めるか、父子孫三代績いて極薦を勤めるを、堂上家に御取立にな
ります。
六位蔵人は一段づ、上るにザッを十年はか、る、新蔵人を十年勤めて氏蔵人になり、氏蔵人を十年
勤めて差次蔵人になるをいふ風ですから、極薦を勤上げて新蔵人に返り、再び極薦まで進んで、又新
蔵人に返り、三たび極薦まで進む、即ち我身一代に三度極薦を勤めるをいふこをは、到底出来無い相
談です。併し父子孫三代績いて極薦を勤めるこをは有勝で、比の功勢によつて堂上家に取立てられた
例は彼是あります。土御門。倉橋・慈光寺・錦小路の如きがそれですが、中には堂上家 になるのを態々
断つたのもあります。之は典薬頭の小森家で、同家の如きは疾くに堂上になるべき答で ありましたが、
強いて御断りをしました、をいふのは、六位蔵人であれば役料百石の牧入がある、堂上をなれば蔵米
で僅かに三十石三人扶持、牧入の上から見れば大いに損ですから、小森家は堂上にならなかつた。共
所は大層利口なやうでしたが、御維新になってから奮堂上方は皆子爵華族になられたのに、地下で押
通した、め、小森家は今でも士族です。
六位蔵人になる家は諸大夫格の北小路二軒、典薬頭の小森、非蔵人の細川・藤島・橋本、官務の千年な
維新前の宮廷生活 (下橋) 三七
、 史 寧 第一巻 第三競 三八

ざで、六位蔵人を鮮すれば諸大夫へ復します。北小路二軒は幕末に堂上をなり、橋本は競望が弱いの
で近代久しく出ませす、又千生は従五位下左大史を鮮して蔵人になり、新蔵人から氏蔵人まで進み、
また元の地下に騎り、従五位下左大下をなつて次第に昇進する、他家をは 一寸鍵つて居ります。
位階の難有味を申しますを、参議以上は官の順ですが、四位五位になるを位階の順になりますから、
少将が上席になって、中将が下席に座るこをもあります。それから同じ位階でも五位を六位をは御取
扱上大いに匿別があります。五位以上になるこ九門内の乗打が出来ましたが、六位以下では馬を牽か
せて歩行かなければなりません。六位の太刀は黒漆銀造ですが、五位になるを金造梨子地をなります。
、五位以上は勅授ですから位記に天皇御軍が接してありますが、六位は奏授故、太政官印が挨してあり
ます。位を頂くなら誰しも五位以上を願った次第です、
非蔵人は六位に准じますから、共の服装は冠 細機・ 親 郷の闘脳 表務に自の常帯で素定です。非
蔵人になる家は六十二軒ありますが、維新常時人数が足らぬ所から、それ等の家の二三男で、新規に
取立てられたのが十八軒あります。非蔵人には知行取を蔵米取をがありますが、概して蔵米取で、十
五石三人扶持といふのが通例です。三日に一度の出勤で、毎日五十人位宛は非蔵人の詰所に出て居り
ましたらう。さうしてそれを支配する貸めに三人の番頭が毎日交代に出てみました。番頭の役料は一人
年三石です。
非蔵人は非蔵人口での執次、 撮家・親王・大臣方の送迎、 武家僧侶参内の節の取持、闘白・議奏・博奏
以下諸詰所の掃除、議奏・博奏・職事への陪膳、宿直をする近習・内々・外様の夜具の受渡な ざを致しま
す。大名などが参内をすると、受持の非蔵人は心附を貰って懐中を肥したものです。
、御所で下さる食事は、撮家・大臣・親王が二汁五菜で暗膳は殿上人、議奏・博奏・職事は一汁三葉 て暗
膳は非蔵人が致します。近習・内々・外様も右同様になって居りますが、質際は非蔵人の陪膳でなく、
下席新参の人が上席故参の人の御給仕もすれば、寝道具の世話もする。尚共の上に、時には御馳走も
しなければなりませなんだ。又非蔵人並びに日向諸役人の中執 次以下小間使に至るまで士分の者には
一汁二菜の食事を、仕丁には 一汁一菜の食事を賜ります。すべて御所に出勤する者には食事時になれ
ば食事は御所で下さる。只今のやうに群常持参など、 いふこをは夢にも無い。宿直の節は銘々自宅か
ら寝道具を持参したものです。
御所で食事を載く時に、食器が茶腕であるか腕であるかにょって、大鍵な懸隔があります。恐れな
がら御上は茶腕で召上ります。撮家・親王・大臣以下六位以上の分は皆茶腕で食べ、七位以下又は無位
無官の分は皆腕で食べる。非蔵人は無位無官のものですが、六位の御取扱たるによって、矢張茶腕で
食べます。日向侍は無位無官の規定ですから、暇令有位有官の官人が之を乗務して居ても、日向侍を
して食事を下さる時は腕です。食膳は御上・撮家・親王・大臣は白木の三方、以下はすべて白木の平付を
*** *
用みました。
ハ、地下官人
下は堂上殿上に封する詞で、昇殿を聴されざる官人を継稲して地下を申します。地下官人は有位
維新前の宮廷生活 (下橋) -
三九
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史 環学 第一巻 第三競 四○
者で、六位立即ち初叙六位から昇進する者を並官人を補へ、七位立並びに史生の類を下官人を禰しま
す。家藤の有る分を無い分をありますが、有るをいふても極めて少い。共所で撮家親王家以下の家臣
をなって共の家へ勤仕するもあり、日向へ勤仕するもあり、眞に己むを得ざる分は賢術・槍書・儒学等上
品なる藝業によって生活を立て、みます。町人をなるこをは絶封に出来ません。光も史生以下は元来
が町人ですから、本職の商業で生活してみます。
地下官人は大部分は外記方・官方・蔵人方の三つに分れ、これを三催をいひ、外記方は押小路大外記、
官方は手生常務、蔵人方は平田世継が継轄致して居ります今日でいへは押小路 千生・平田の三軒が支
配頭の姿で、三催に属する官人は願伺届官位宣下一切萬端各自の支配頭の手を経ねばなりませなんだ。
先づ外記方から御話致します。地下官人表を引合はせて御聞き下さい。押小路は太政官中外記局の
頭ですから局務をも申します。諸公事に勤仕し、共の所管の文書を掌るのが職分で、従五位下から立
ち正三位まで進みます。大外記の下が少外記・権少外記・史生で、大外記の身分は諸大夫です。
少外記になる家に平田をいふのがあって、之が中務省を乗ねてみます。中務省には暇令名ばかりに
せよ、卿・輔・丞・録を揃ってみるのに、平田が中務省を策ねるを申しては、如何にも不審に聞えますが、
天保五年平田基が闘白鷹司政通公に願って中務省が再興せられたので、共の功により平田は外記から
中務省を奪ね、をう〜中務省は平田の家付のものをなつてしまひました。言葉を換へてい へば、中
務省の質権を平田が握ってしまったので、卿輔なざには少しも質権が無い。濁り中務省ばかりでなく、
他の省・職・寮・司も比の例に漏れす、質権は上席の人に存せずして却て下席の者の手にあつた。
シシャウイチン
外記方の更生は、省 職・寮・司の史生を違ひ、 正の到授です。一上は普通左大臣ですが、左大臣が

闘白である時は、之を右大臣に譲ります。
交殿は太政官の文殿即ち文庫の意味ですが、名義だけ残って居て質物はありません。そこで文殿を
勤める青木家の仕事は太政官印を預るこをになって居るのですが、共の官印も平生大外記の家で預り、
必要の時に青木へ渡すゃうなシは概して名義だけ存してその質が無いものが多い 番組
は公事の時太政官の雑務を足し、少納言侍は之も公事の時少納言に附いて雑務を足す役です。
それから中務省史生、中務省は初論、省・職・寮・司は皆史生をいふものがあります。之は外記方史
生を違ひ、共の省・職・寮・司の到授で、例へば中務省の史生は中務省の平田の到授ですから、自分の家
に出入してみる魚屋・傘屋・小間物屋・織屋乃至養変屋でも、史生にして呉れろ を頼むものがあれば、そ
れに「補 中務省史生 」をいふ鮮令を出すこをが出来る。さうして共の旨を職事に届けるを、職事は之
を地下次第に書入れ、暫くしてから本人は正七位下に叙せられ、越前大様をか武蔵大様をかいふ風に
國の様に任せられます。申す逸もなく、官位はお上へ奏聞が済んでから頂戴いたすので、かうなるを
何屋何兵衛一躍して何國大株正七位下何朝臣某となりすまし、公事で出仕する時には位相常の装束を
着け、供を連れて大威張で出かけますが、家へ騎つて装束を脱げば、もをの魚屋・傘屋・小間物屋・織屋
万至蓄変屋の旦那を早鍵りを致します。
、この史生には世襲の家を申すものは御座いません。龍めれば同時に鮮官位記返上で、元の町人に復
します。好んで史生になるやうな者に限って、家は有顧で、店の隣に玄闘を構へ、菊の御紋の高張提
維新前の宮廷生活 (下橋) 四一
史學 第一巻 第三競 四二
ヤカマ
灯を出して置きます。唯今では菊の御紋は喧しう御座いますけれざも、維新前はそれ程でも御座いま
せなんだ。位階を持つて居ります を、よしんば悪事があつて、町奉行所から役人が召捕に来ても、家
内へ踏込んで召捕るをいふこをは致しません。何をか日質を作って門日へ呼出してから縄をかけまし
た。又維新前町家の迷惑致しましたは「もうろくさいって、交身だらけの身鶴に年中組の軍衣を著、
尻を高くからげて膝逸出した風鶴の悪い男が、店先に立はだかって無心を吹掛ける、誠に厄介な事径
でしたが、流石に御紋の高張提灯があるを、店へ入込んで来ませなんだ。御上の有難いこをは之で解
--
ります。 -
地下官人表について 一々地下の官名や、それを勤める家柄なざを申しては、時間もか、り、煩はし
くもありますから、以後は大鶴のこをは表に譲り、特に説明を要する廉だけを御話するこをに致しま
せう。
式部省は勧修寺家の近習谷日基の敷願によって、天保年間再興をなりましたから、共の功により谷
日一軒で式部省を持ってみます、文官の位記に署名をするのが職分です。それから造酒司史生二軒の
中、一軒で酒波を兼ねてみます、酒波は酒を造る役ですが、例の名義だけです。
内賢はもを渡漫高屋の二軒でしたが、安永年間高屋が罪められて 近衛家の近習の林が入りました。
内賢で主館を象ねて居る一軒で、天皇御重を御預り申して居りますが、自宅の床脇の袋戸棚へ入れて
置くをいふ位で、保管も一向行届かない。そこで甚だ恐入ったこをですが、東山院天皇の御代に御軍
は盗難に羅って紛失いたし、新に御寧を御調製に相成りました。然るに年経て内賢の高屋某が大備前
の紙層屋の店先で、彼の盗難に羅った御軍を見附け、早速買取って之を獣納致しましたので、新調の
分は御使用御見合せをなり、もをの御率が御維新まで引績き御使用になりました。高屋は比の功によ
り伏見の三栖村で十二石の地方を賜はり、甚だ名誉の次第でしたが、安永の御所騒動で日向から大勢
の罪人が出た時、共の 一人に高屋の子孫で高屋遠江守をいふ者が居りまして、之が日向の執次を兼ね
てみた所から、栗田日で死刑に虜せられ、高屋の家は可愛想に断絶といふこをになった。それを一條
家で感然に思召され、 御軍務見の功を申立てられたので、 高屋の家は内賢から内舎人に落されました
が、家名だけは残りました。 -

*
安永の御所騒動は、松原通鳥丸東入町因幡薬師の御堂に、菊の御紋を附けた紫縮細の幕が張ってあっ
たのを、近衛家の家来が不審に思って尋ねた所、朝廷からの御寄進じやを答へられ、念々不審に思つて
御主人の闘白内前公に伺はれたのが発端で、玲味の末、日向役人の寄進を到明し、それから段々日向
役人の不正騎奪の事質が露顕に及び、をう〜百何人をいふものが一時に虜刑になり、重いのは死刑
流罪、軽いのは追放をなって落着を告げた。之は全く内前公の果断によつたので、虜刑せられる方で
は酷く之を怨み、遠江守なざは死刑に臨んで、「誠に心外の至りである、吾々の怨ばかりでも比の後七
代近衛家 へは闘白を遣らぬ」を罵りました。まさか共の怨念の貸めでもありますまいが、内前公の後二
代は闘自になられず、三代目の忠熙公が闘自になられた時、「もう高屋の妄執も晴れたかいなア」を申
したやうなこをです。
鷹官 人は陣の儀の雑務を足す役、数師銀師は御即位の時、兵庫頭に従って鼓鉱を打っ役で、平生置
維新前の宮廷生活 (下橋) 四三
史 寧 第一巻 第三競 四四
いてある官でなく、又家が定まって居るをいふのでもありません。御用の場合に町人なり百姓なりを
魔って来るので、無位無官です。官人の無位無官は極めて少い。それから賞者は御即位の時儀式を掌
る少納言即ち典儀の撃を博へる役、使部は大外記の御使役で、慶應三年使部一同従八位上に叙せられ、
『のシられるこさにな*ましたが、以前は皆無位で、上席雨三軒のみ園の様に任せられました。
『方は左大史の手生家が継轄し、之を官務を申します。諸公事に勤仕し、共の所管の文書を掌るの
が職分で、従五位下から立ち正三位まで進みます。身分は諸大夫で、
-

主殿頭を等博士さは必す左大史
が奪ねます。 -
方大史の次ぎが右大史・左少史・右少史・左史生・右史生・左官撃 右官掌なさで、右大史以下の身分は
侍です。左史生右史生は外記方の史生同様一上の到授で、家は山日一軒限りですから、父子二人ある
時は左右共に存し、一人の時は一方を闘いてみます。 比の山口は行事官内匠寮を策ね、公事に就いて
の諸器具を調進致します所から、整多しい牧入で有名なものです。左官掌右官掌は太政官の雑務を足す
後、シは外記方の名彼と同様、又 罪 信は外記方の少納言待を同様、た、少納言に附くのを推官に
附くのをの相違です。
*人三十三 中、三十 六位で止まり、五位に進む家は僅かに1傑家の内シの魔二
です。近代は概して官ょり位の方が高く、位より官の方が高いのは極めて少いのですが、内舎人を諸
大夫格のものをは位相常の官に任せらるくは初論のこを、それより一段高い官に任せられる、 官位相
常を申して、例へば八省の大丞 諸寮の助・太宰の大監・弾正の忠は六位相常の官、 左右京職・大膳職・修
理職等の発は五位相常の官を極って居るのですが、内舎人は六位でありながら、五位相常の官に任せ
られます。
諸陵寮は慶應元年の御再興で、三條西家々臣谷森種楽吉田赴家鈴鹿勝文の末子鈴鹿勝藝が之に任せ
られました。勝藝の養父連胤は御陵の事に苦心した人、種案も右同断で、之は内舎人から諸陵寮を兼
勤致しました。
大蔵省を木工寮をを堀川一軒で持って居ります、堀川を申すは検非違使の家で、一條家の諸大夫格
にて又大蔵省を木工寮とを条れ、木工発では百石の家職を貰って居りました。「一シ、ニ出納、
三四のけて五堀川」を常時申しましたは、左史生の山口は乗行事官内匠寮で牧入が一番多い、出納の平
田は二番目で、木工寮の堀川の牧入は五番目に多いをいふこをを言ったものです。
主殿寮は小野二軒で持ち、氏によって一方を伴方、一方を佐伯方を申します、雨家に言はせるを、
自分の家は諸大夫格だを威張りますが、併し諸大夫格なれば六位にて國の守宣下なれども、雨家は五位
に昇進の上園の守宣下になりますから、必ずしも諸大夫格を言はれますまい。左生*官人右生火官人を
いふのはシ火を掌る役で、太古より博へた火を守護し、御即位の節共の火で蘭査待を焼くのじゃを言
博へます。
使部の官位は外記方使部を同様、衛士は三軒中一軒だけ有位有官で、二軒は無位無官です。衛士を

クハゴ
いへば百人一首から直ぐ庭療を禁くやうに想はれますが、アレは質は火短師が楚くので、衛士の職分
は勅祭の時内蔵寮の幣物を捧げて行く役です。御香水役人は毎年正月大元帥法を行はれまする節、南
維新前の宮廷生活 (下橋) 四五
史 學
第一巻 第三競 四六
都秋篠寺へ御香水を取りに行く役、 又 立役人を幡鮮をは御即位の節に御用を勤めるばかり、 いづれ
も無位無官。
。左近所・右近府 ェ衛府・右兵衛府これを四府を残へ、多勢の獅興丁が居ます。 風量を昇ぐ
で、それを差園するのが兄部及び沙汰人です 兄部、沙汰人郷興丁はいっれも相常の町家の主人が勤
。シ官でしたが、慶應三年に至り、一同従入位下に叙し、園の野に任せられました
シの平田家が構轄します。蔵人所の出納を掌る職分ですが、初論名義はかり 、 位は正
六位上から立って、従四位上に至り、 功勢にょり正四位下まで進みます、身分は侍です。
御蔵小舎人の名義は天子の御蔵を御預りする意味ですが、 御預りをする蔵なざはありません。所衆
シ七年十一月の再興で、鷹司家の近習数、勧修寺家の家臣神岡の雨人之に補せられ、 共の後五軒を
増しました、
シ倉人 所業は職事の命を受けて御用を取扱ひ、又主上御葬式の節は御霊松の御
*を奉仕致します。職事が御用で諸方に行向はる、時、随行するのは御蔵小倉人所素です 御蔵小
舎人で山科正之を申すものが近年従 位下に昇りましたが、 之は特別の例で、後にも前にも之丈です。
シゃ賞所御神楽の御用を奉仕し、圓書寮は宣命その外御用の紙類を調進し、又主水司は
御祭典の節参役の上卿勅使等の御手水を奉仕いたします。
修理職二軒は世襲ではありません、
ロシのシ平田の到授で修理職となり、地下家第に
名を列するので、尚委しくは日向の條に述べませう。 戸屋主をいふは御上の御草駐を お預り申す役、

ザッカ
シモンチウ


ビトカチイド
下南座は公事の時籍道を敷く役、住人は外記方官方の使部に常り、 釜殿は無位無官で御式の御湯を調
進し、又衛士は官方の衛士が乗務致します。
御シ学以下奪取までは牛車に就いての諸役、陰陽は大黒1軒で勤の、蔵人所の威をする役、それ
から大備師・院承仕・槍所はいづれも備法に闘係のある諸役で、大備師は朝廷御用の備像御位牌を作り、
院承仕は御織法講の節清涼殿の敷設を掌り、又槍所では備書を掌ります。大備師を槍所とは法橋から
法眼に進みますが、院承仕は法印まで進みます。法橋・法眼・法印は僧位で、法橋は六位相常、法眼は
五位相常、法印は四位相常です。御経蔵を申すは例の有名無賞を御承知を願ひます。
以上は三催の支配に属するもの、これから以下は三催の支配以外のものです。
安術は御式の時だけに出るので。平日の御用とてはありません。一番女は内侍所の刀自が持ち、ニ
乗女を三乗女をは御末の中から勤めます。主殿司には六條家の雑掌長澤某の妻が出ますし、内教坊に
は小林主計なるものから婦人を差出しますが、比の小林主計と申すは、質は小松屋安兵衛を申す菓子屋
でした。シ二名は節倉の時承明門の左右に、北向に座る役で、大聖寺宮を甘露寺家から出すこさに
なって居りますが、賞際は長橋局の女中を頼んで出て貰み、名義は大聖寺宮を甘露寺家から出したこ
をに致して置きます。
検非違使は奮家五軒、新家三軒、別に後院侍から交代に検非違使を兼ねる家が二軒あります。奮家
は正六位上から正四位下に至り、功勢によって正四位上まで進み、新家は従六位下から正四位下まで
進み、 後院の侍から衆ねる二軒は本職の方で位官が進みます。検非違使の官は衛門 尉 志に任じ、弾正
忠國の守などを乗ねます。 --
維新前の宮廷生活 (下橋) 四七
史 寧 第一巻 第三競 四八
正月七日には検非違使一同公家門から入って参内殿の前庭で西向に立ち、罪人赦免の形式を行ひ、
四月の賀茂祭には検非違使二名が順番で、路次警衛の貸め、行列に加つて赴頭に参向致します。それ
から改元定の翌日には一同騎馬で六角の牢屋敷に至り、罪人を呼出して赦免の宣告を致しますが、之
も形式ばかりですか、或は質際赦免になりますか、鬼に角検非違使の仕事を申しては比の位のもので
す。
築人は南都方・天王寺方・京都方・在江戸楽人をに 分れ、堂上の四辻家で楽所の長を勤めます。南都
方は一に興顧寺方とも申し、大抵京都住で、御用の節は臨期南都に出張致しますが、天王寺方は多く
大阪住です。以上三方の築人は正六位下から立つて正四位下に至り、奮家で年八十以上に及ぶを正四
位上に進みますのに、在江戸築人一に紅葉山楽人は正六位下から立って正五位下で止まります。之は
諸侯や高家などをの位階の闘係上態を位を低くしたのでせうが、牧入の酷になるを、全く反封で、江
戸の方が遥に宜しい、大抵六七十石から百石位になる、然るに京・大阪・奈良の楽人は楽人一統へ封し
て下さる、地方の二千石、即ち正米六百石を家領・師匠料・藝料・稽古料なざに分配されるのですから、
中々生活に困難であつた。
賀茂祭の舞人陥従は楽人で勤めますが、之は築人の資格で出るのではなく、五位六位の集人は近衛
の将曹将監に任せられて居るから、共の方で出るので、勅使が近衛中将若しくは少将ですから、部下
の将監将曹を率みて行くをいふ譚です。
瀧口は昔時は清涼殿の瀧日に伺候したのですが、後世は左様なこをはありません。主上御葬送の節
松明を持って霊枢の御前火を奉仕し、又入道親王御入寺の供奉をする位のものです。
ミニズ井沙シ
左右近衛府はもを御随身を稲し、天保五年に近衛府を御改稲になりました。左方の鋼頭は調子の本
家、右方の園 は土山の本家で、共に将曹から将監に進み、共の他の二十八軒は府生から立って将監
まで進みます。それから近衛の番長になる家が二十三軒あって、之は府生まで進みます。さうして番
長府生は定員二十人宛で、近衛大将の到授です。職掌は節倉行幸啓の節一員官人大臣大将の供をした
り、衛府撃を稲して大中納言参議の供をしたり、又入道親王御入寺の節範の後に附いてまるったりし
ます。光も御入寺の御伴は将監・将曹・府生の中で勤め、番長ではいけませぬ。近衛府は番皆撮家の附
属ですが、多分は一條家に附属し、土山だけが清華の久我家に附魔してみます
次ぎに仙洞御所の方に移ります。仙洞御所には先づ院の執事即ち御所の闘白に常るものを、院附の堂
上をがあり、それから地下の分には鷹官・蔵人 所衆 御盤名次 上北配下北面なざ段々ありますが、
仙洞が崩御遊ばしますを、院應官は後院應官、院所衆は後院所衆、御壺召次は後院召次、下北面は後院侍
を改稲し、院蔵人を非蔵人出身の上北面をは諸大夫の格に入ります。
院蔵人は非蔵人中上北面の奮家株から出ます、人数は一人或は二人で、院では昇殿が出来ますが、
御所では出来ません、位は正六位上に叙せられたま、です。
上北面は撮家の諸大夫から五人を非蔵人中上北面になり得る十軒から五人を、都合十人で之を勤め、
勤中撮家諸大夫出身の分は撮家へ出仕せす、又非蔵人出身の分は御所へ出ません。上北面は五位のも
のですから、撮家からは多く五位の諸大夫を出し、非蔵人の方は五位の宣下を被って出ます。上北面は
維新前の官廷生活 (下橋) メ 四九
史 寧 第一巻 第三競 五○
院の昇殿を聴され、共の身一代限り年二十石三人扶持を賜はり、仙洞崩御をなれば、諸大夫出身の上
北面はもをの撮家へ騎り、非蔵人出身の分は諸大夫格に入ります。行幸の節御興脇に供奉を致す位で
格別の御用はありません。
下北面は奮家十三軒新家二軒、外に検非違使から奪勤する家が二軒で、奮家の中速水河端は廣橋家
附属雑掌の取扱又新家の三上畑は徳大寺家附属六位侍の取扱です。奮家には知行百石以下二十五石ま
でそれ〜家藤がありますが、新家に限り、家藤をいふものがありません、共の身一代限り御蔵米十
五石を載くのですから死んでは困る、質際死亡しても死んだ届を出さすに、次の仙洞御所の御出来に
なるまで生きて居る鶴にして、さうして子なり孫なりに相績の手績を致します。下北面は初叙従六位
下、それから正四位下まで進み、職分は御所の非蔵人同様、取次やら堂上方の御世話なざを数します。
仙洞への出仕は院附の堂上から下北面に至るまで鳥帽子狩姿で、御所よりは除程略式です。
女院侍は三軒の外に近衛府から 衆勤する家が一軒あります、之は大宮附で、大宮崩御の後は、後院北 -
-
殿侍を名稲をかへます。
東宮附の官人については別に説明するここもありません、陣頭は撮家親王家の諸大夫及び非蔵人中
上北面になる家から、侍者は撮家の六位待 内舎人 左右官掌から出ます。主馬主殿首主魔正は長
--
官ばかり置かれて下役は居りません。
碑祇官の位階はすべて本職の碑官の方で進みます。碑祇官は中臣・忌部・下部三姓の人が之に任する
譚で、十一軒中中臣姓が一番多く、忌部姓は時岡一軒限りです。時岡はもを自川家の雑掌でしたが、安
政元年四月御所炎上の際、内侍所を取出した功により内舎人に補せられ、又忌部姓である所から碑祇
少史に任せられたのです。さうして比の時岡を一緒に内侍所の取出しに霊力した使番の上田基も、内
舎人になりました。
陰陽寮の助を権助をは幸徳井二軒で持切りで、決して他へ渡しません。一軒は京住一軒は奈良住で、
奈良の方は住んで居る町の名を幸徳井町を呼ぶ位です。身分は諸大夫、位は正六位下から正三位まで進
み、暦道が家の業で、儀式を行ふ日取や刻限は、すべて幸徳井で極めて書付を差出します。それですか
ら位置からいへば幸徳井は陰陽頭土御門家の下ですが、土御門の支配を受けすに威張り返って居りまし
た。陰陽の大黒氏は蔵人方の陰陽を同人で、明治になって天園を改姓致しました。御所では左義長の日
に鬼になって踊ったり、土用に御水合をしたり、九月の御菊綿の節に常御殿の西の御庭に菊を植るたり
しますが、御用の際には市中へ出て荒碑威を致します。
典薬寮の頭助は代々小森家で持ちますが、共の質賢道には通じて居りません。身分は諸大夫で、六位
蔵人になりますし、又日本國中の賢師の取締を致します所から、多額の牧入で有顧の聞えがありまし
た。典薬寮の権助は上賀茂の赴家の藤木二軒の中の何方かで持ちますが、鐵博士権鐵博士は二軒で乾度
持ちまして、之は本常に繊術が出来ます、
賢師は奮家三十軒新家十軒、都合四十軒で、皆町賢です。奮家は法鶴で法橋から法眼に進み、稀には
法印になるものも御座いました、朝廷の御碑事中法鶴では御門を入れませぬから、共の時は付諸をして
冠を頂き、法橋なら六位の抱、法眼なら五位の抱を著けて天脈拝診に上ります。然るに天保以後髪を蓄
雄新前の宮廷生活 下橋 五一
史 學 第一巻 第三競 五二
へて俗鶴をなり、新家同様官位を戴きましたが、御維新まで法鶴のま、で通したものも数名ありました。
賢師を名を賜はる以上は、一度は天脈を拝診致さねばならぬ講ですが、賀川の如きは産科ですから、
天脈拝診をいふこをは、有るべき答がない。そこで賀川の子息は必す賢生から立って賢師に昇進致し
ます。父か天脈を拝診して居るを、共の子息は最初から賢師に補せられますが、さうでないと賢生から
出るこをに定まってみます。それから典薬寮の史生は質は小森の家来で、交代に小森の邸へ詰めて、執
-
事の役を致して居りました。
ビ御倉は立入家二軒で預りますが、質際御倉があるのではありません。先年従二位を追贈せられまし
た立入宗継は、共の父及び祀父を三代の間、日々御弱を香の物をを御所へ獣上いたした。御所は常時至
極の御衰弊であったので、正親町院天皇深く之を御叡威あらせられ、上御倉の職名を賜はったのです。
立入家は二軒に分れ、本家は勧修寺家の雑掌、分家は同家の近習を勤め、上御倉をしては分家は無職で
したが、本家は家藤七十石を賜はり、毎年八月一日古例により 配 一斗を香の物百本をを長橋の奏者所
を経て獣上致しました。鶴は立入家の本家で造るので、それを造る三畳敷ばかりの部屋に、毎時も注連
縄が張つて御座いました。
下御倉は築人の多の本家で、俗に金持多をいはれた家です。多の先祀が正親町院天皇の皇子誠仁親王
即ち陽光院贈太上天皇に日々の供御を上った、共の功によって賜はった職名です。
書所預は土佐二軒で、位は従六位上から正四位下まで進み、官は左近将監から國の守介に任せられま
す。御所の槍の御用は一切土佐の支配で、他人が御用命を受けましても、一々土佐の手を経なければな
りません。光も土佐の外に別に書所がありまして、狩野探幽の門人の探山が、東山院天皇から鶴澤の姓
を載いて之を勤め、子孫に及びました。常御殿の御穂は土佐を鶴澤をの雨家で描くこをに定まってみま
す。
院雑色をは勧學院の雑色で、平素何の御用もありません。春日祭の節氏長者より御奉納の馬を牽き、
束帯で二人南都 へ参向します。
地下 官 人 表
○ 外 記 方
大外記 O少外記・権少外記ショ 三軒 o史生 二軒 o交殿 一軒 o在 。二軒
oシ、ニ軒 o中務省史生 二人 o大舎人寮 四軒 o大倉人寮史生 二人 o内魔察
難造酒司 一軒 O同官人 一軒 O同史生 二人 ○縫殿寮 三軒 ○同史生 二人 ○式部省
一軒 ○同史生 二人 ○大膳職楽大炊察 一軒 ○大膳寮史生 二人 ○大炊寮史生 二人 ○掃
サカチミ チン ンクワシニシ
部寮 二軒 ○同史生 二人 ○造酒司史生楽消波 二人 ○内覧筆主鈴 二軒 ○陣 官 人 二軒
シャウジサンニャ
左馬寮・右馬寮 二軒 ○兵庫寮 一軒 ○同史生 二人 ○鼓師 一人 ○鉱師 一人 ○賛者
二軒 ○使部 十軒
○ 官方 -

クワシャウ
左大史一軒 ○右大史・左少史・右少史四軒 ○左史生楽行事官内匠寮・右史生 一軒 ○左官掌
シザウドネ リ
二軒 O右官掌 二軒 o召使 二軒 o推 得、二軒 o内奪人 三十二軒 o内匠寮史生 ニ
維新前の宮廷生活 (下橋) -
五三
史 寧 第一巻 第三跳 五四
人 ○諸陵寮 二軒 ○同史生 二人 ○大蔵省・木工寮 一軒 ○大蔵生史生 二人 ○木工寮
官人 一軒 O同史生 二人 O主殿寮㎞ O同官人㎞カ O同史生㎞万
O左シ官人律ヵ 一軒 o有生吹官人佐伯ヵ 一軒 O使部 十軒 O衛士 三群 O御香水役
人 二軒 o鋳立役人 一軒 O幡鮮 一軒 o郷興丁左近府遊部。一軒 o同府沙汰人 一軒
○右近ニ付府兄部 一軒 O同府沙汰人 一軒 ○同左兵衛府兄部 一軒 -

O同右兵衛府兄部
一軒 ○四府駕興丁、若干人
○ 蔵 人 方
眠継。一軒 O御蔵小舎人 四軒 ○所衆 七軒 O行事所 一軒 O圓書寮 二軒 O同史生
二人 ○内蔵寮官人 二軒モノチウザ ○同史生 二人
ツカ へピト
○主水司 一軒 O同史生 二人 O修理職 二
カナイドルマ ドウシ
へ ャ シュシ
軒 ○戸屋圭一軒 O下南座 一軒 ○仕人 三軒 O釜殿 四軒 ○衛士 三軒 Qシ
二軒 O御車副 O御車舎人 O御車大工御車副 ○御車機持 O楊持 ○掛筆持 O鑑取 C
○右近府鼓師 一人 O右近府証師 一人 O陰陽 一軒 O大備師 一軒 ○院承仕シ
一軒 ○槍所 一軒
o 女 盤
一本女 二人 o二乗女 二人 o三米女 一人 o主殿司 一人 o内教坊 一人 oシ
二人
○ 検非違使 八 軒
南都方 十三軒 天王寺方 二十一軒
○ ・楽





京都


江戸築人 十軒


瀧 口

十六軒
○ 左右近衛府 五十三軒
○ 院 官 人
シャウホクメン
院應官 一軒 ○院蔵人 一人又は二人 ○院所衆 四軒 ○御壺召次 七軒 ○上北面 十人
O下北面 十五軒 O女院侍 三軒
○ 東宮附官人
東宮陣頭 十四人 ○東宮侍者 ○主馬首 一人 ○主殿首 一人 ○主膳正 一人
○ 碑 祇 官 十 一軒
○ 陰陽 寮 二 軒
陰陽寮陰陽師・同陰陽生 六軒 ○陰陽 一軒
○ 典薬 寮 二 軒
典薬寮賢師 四十軒 ○同賢生 二軒 ○同史生 二人
○ 内膳 司 軒
内膳司史生 二人 ○同膳部 若干名
○ 御扇子所預 一 軒
○ 番 衆 1 軒
維新前の宮廷生活 (下橋) -
五五
第一巻 第三競 五六
色預倉倉 預
○ @ @ ○ ○

一 軒
軒 軒 軒 軒
雑 所 御 御





七、坊官・諸大夫・侍
先刻からの御話の中に、大外記の押小路、左大史の壬生、典薬寮の小森、陰陽寮の幸徳井二軒の身分
は諸大夫である。六位蔵人に出られる家は、壬生小森は初論、共の他もすべて諸大夫で、六位蔵人を鮮
すれば諸大夫に復り、又院蔵人非蔵人出身の上北面は、仙洞崩御後諸大夫になるを申しました。是等は
いはば無所属の諸大夫ですが、撮家や親王家に仕へて居る諸大夫も、三位に進むを、比の無所属の諸大
夫の列に入ります。
撮家の諸大夫は正六位下から立って正三位まで進み、官は省の輔・寮の頭 職の亮・司の正なざに任せ
られます。撮家の諸大夫は内蔵助をして春日祭・賀茂祭 石清水の放生倉等に宣命使をして参側れ、又山
城介をして賀茂祭に参向し、赴頭の警衛並びに行幸の先導を勤め、賀茂石清水の臨時祭の加照 、行幸
啓や女御入内の時の供奉、主人拝賀の時の前駆を勤め、又上北面東宮陣頭に補せられます。近衛家に
限り元日前駆諸大夫をなった者は参内殿に於て天歪を賜はります。雨局の内押小路は九條家の附属、千
-
生は二修家の附属ですから、拝賀の節は必ず前駆諸大夫を奉仕しますが、是等の前駆諸大夫には決し
て天歪下賜のことはありません。又幸徳井は撮家親王家の前駆を奉仕します。光も何れも位次立にて並
列します。
親王家の諸大夫は、官位に於ても、職分に於ても、大抵撮家の諸大夫を同様ですが、上北面に出ら
れぬこか、賀茂祭の内蔵使山城使を勤めぬをかいふ風に、一段おめって居る所があります。
伏見宮には若江を申す殿上人が附いて居ります。官は職の大夫・八省の大輔・弾正大少弱・園の構守に
任せられ、位階は従五位下より正四位下まで進みますが、三位にはなりませぬ、三位になるを殿上人の
稲が消えるからです。古くは撮家五軒・有栖川宮・桂宮にも伏見宮同様殿上人が附けられて居たのです
が、之は共の後朝廷に御呼返しになり、若江だけが御呼返しに應せす、飽逸伏見宮に御附き申したので
す。そんな譚で若江は明治になって華族になれませなんで、有位土族になりました。
清華の諸大夫(従六位上より従三位に至る)は官位共に撮家の諸大夫より一段劣り、大臣家の諸大夫
(従六位下より正四位下に至る)は清華の諸大夫よりまた一段劣るを申して置けば、それで宜しう御座い
ませう。官柄によって公事に勤める外は、前駆諸大夫に出る位のものです。
諸大夫の競望する官に謝解距 官をいふのがあります。勘解由は園司交替の節、前園司の治務如何を
調べるのが職分で順る多忙である。光も之は昔時の話で、後世は有名無質ですが、多忙をいふ所から、
勘解由の短据といって、公事参勤の場合、裾の端を石帯へ突込んでしまう、基の姿が類の無い虜から、
勘解由が空くを方々から競望者が出ました。
維新前の宮廷生活 (下橋) 五七
史學 第一巻 第三競 五八
中山家は准大臣が三代績いたをいふ酷で諸大夫を置くこをになりました。平堂上で諸大夫のあるの
は中山家一軒限りで、官位は大臣家の諸大夫を同様です。
門跡には諸大夫の上に坊官をいふものがあります。諸大夫は俗鶴ですが、坊官は法鶴で、法橋から法
印まで進み、法橋法眼の間は紫平絹の椅を突き、法印に進むを、特に三位の御取扱で、大紋の椅を突
きます。御所で行はれる御織法講御修法等の勅曾はもをより、各大寺で開かれる勅曾に参役致します
が、初論順番で、五六人乃至十人位出ます。仁和寺の坊官で継在應を持って居る者は、官位に拘らず上
席に座し、他の坊官を差圓する偉い見識で、継在應が出ないを、御備事が始められませぬ。それから輸
王寺の坊官は員外で、武家の諸大夫同様初叙五位から進みます。同じ門跡でも輪王寺だけは特別です。
准門跡中錦織寺には坊官がありません。さうして残り五箇寺の坊官は法橋から法印まで進みますが、
「法印はおめり申上ぐべし」で、門跡の坊官よりは遠慮して申請するこをになってみます。准門跡の坊官
は銘々自分の附いてみる寺の事を掌るだけで、朝廷の御備事や勅曾には 一切闘係致しません。
門跡の諸大夫は正六位下から正四位下まで進み、官は位階相常の京官又は國の守に任せられます 職
分は上に坊官が居て萬事を支配致しますから、結局坊官の加勢同様なものです。坊官の家に生れなが
ら、薙髪を好まない貸めに諸大夫になるこをは任意に出来ますが、それを逆に諸大夫から坊官になるに
は、家例が無いを出来ません。仁和寺・梶井・照高院の三門跡を准門跡には諸大夫が居りません。
門跡の坊官諸大夫が寺から貰ふ藤は可成な高で、聖護院の坊官今大路・照高院の坊官杉本の如きは百
石でした。撮家親王家なごの諸大夫は多くて五十石、少いのは二十石位で、到底門跡の坊官諸大夫をは
クプ
比べ物になりません。光も近衛家の諸大夫進藤の百石は特別です。
撮家の侍は従六位下から従五位下まで進み、六位の間は六位っ侍、五位になるを五位 侍ご申し、官は
八省の大少丞・職の大少進・四府の大少尉・國の介、稀には寮の助に任せられ、五位になっ て國の守に昇り
知家事になります。
シす のシ、シ、シ
撮家・親王家・清華 大臣家・門跡で諸大夫に進み得る侍の家は定まって居ります。近衛家の加治渡漫、
九條家の佐々木島田の如きもので、手前の家も祀父の時に諸大夫に進みました。幕末勤王家連から暗殺
の憂目に遭ひました。九條家の侍島田左兵衛権大尉元左近は源氏の島田で、諸大夫に進める島田は橘
氏の島田で、九條家には島田が二軒ありました。それから准門跡では侍を置くこをが出来ませんから、
東本願寺へは近衛家から一人、西本願寺へは九條家から一人、備光寺へは二條家から一人、専修寺へは
有栖川宮から二人の侍が御附人をして遣はされて居ります。表面は何虜までも近衛家・九條家・二條家・
又は有栖川宮の侍ですが、質は寺の方に日勤致し、主家へは毎月朝日に御濃に出る位のものでした。
親王家の侍は官位職掌をも撮家の侍と同様ですが、東宮侍者にはなれません。それから清華 大臣家・
中山家及び諸門跡にも、それ〜侍がみます。光も大臣家の正親町三條を三條西どの二軒は侍を置か
す、又堂上の柳原 慶橋・野宮の三軒へは山陵修補御用掛の功労により、幕末に至り新に六位侍を附けら
れました。朝廷から附けられたをいっても、質は御銘々の家臣に六位を賜はったまで*す。清華以下の
侍の官位は、撮家の侍の官位より一段低く、官柄によっては公事に出るこをもありますが、先っは稀
維新前の宮廷生活 (下橋) 五九
-
史 撃 第一巻 第三競 六○
な*り
で、専ら主人をする家なり寺なりの用事を足して居りました。

、L〜
撮家 親王 門跡には"僅特の下に用人・近智・中小姓・勘定方下

*

*を 書士・茶道なざが居ります。いづれも士
更小
ます





















姓 に




霧ラ


頭 人 青士






二三十人をいふ大勢ですが、他家では左様澤山は居りません。一條家では用人三四人・近習十四五人・中
小姓三人・勘定方三人・青士十人・茶道二人・小頭四人・中番四人位のものでした。清華大臣家では侍の下
に近習青士を置きます。近習は普通一二人で四五人居るは多い方です。
共の他の堂上家では雑掌近習を置きます。雑掌一二人近習雨三人もあるのは宜い方で、普通は近習
をして一代抱を置きます。一年の給金が僅か三石ですから、悪日に「三石さん」を申します。先年亡くな
られた男爵の尾崎三良さんは「三石さん」から出世せられた方です。又下僕はざんな家でも抱へて あり
ました。
坊官・諸大夫・侍表
諸大夫 侍 坊官 諸大夫 侍
近衛 家 七軒 二十軒内諸大夫トチル家二軒 仁和 寺 五軒 ー 十四軒㎞
九條家 七軒 十六軒内諸大夫トナル家二軒 大 覚寺 四軒 二軒 十 軒㎞
二修家 七軒 十 軒 蓮華光院 一軒 二軒 一 軒
一條 家 四軒 八 軒内諸大夫トナル家三軒 三 賞院 四軒 二軒 七 軒㎞
鷹司 家 五軒 八 軒 随心 院 一軒 一軒 一 軒
伏見 宮 四軒 五 軒内諸大夫トチル家慶軒 勘 修 寺 二軒 二軒 三 軒
寺 寺 院 院 院 院 院院院堂院院院井
本 知 大 一 賞 圓 照聖 昆 塁 妙青 梶
伏見 宮 四軒 五 軒内諸大夫トナル家豊軒 四軒

満願 恩 乗 乗 相 満高 護隣 球 法違
有栖川宮 五軒 十 軒内諸大夫トナル家壺軒 四軒 一軒
桂 宮 三軒 六軒内諸大夫トチル家四軒 二軒 三軒
関 院 宮 四軒 七 軒 二軒 二軒
久 我家 三軒 二 軒 二軒 三軒
三條 家 三軒 二・軒 四軒 二軒
西園寺家 六軒 五 軒 二軒
徳大寺家 四軒 四 軒内諸大夫トナル家豊軒 二軒 一軒

軒 軒 軒 軒
花山院家 五軒 三 軒 三軒 一軒
大炊御門家三軒 四 軒
四軒 二軒
菊亭 家 四軒 九 軒
四軒 耳
市牛
廣幡家 六軒 三 軒
醍醐 家 二軒 二 軒 三軒 二軒
中 院家 三軒 三 軒 四軒
正親 測
三條 家 二軒 二軒
三條西家 一軒
一軒

軒 軒 軒 軒
中山 家 一軒 一
一軒
柳原 家 ー 一
廣橋 家 ー 二 四軒
野宮 家 ー 二 軒
維新前の宮廷生活 (下橋) 六一

史 學 第一巻 第三競 六二
門跡には諸大夫の外に坊官があるやうに、侍の外に侍法師・院家侯人・承仕なざがあります。頭を刺
ってはみますが俗人同様で、侍法師は勅曾の時法鶴に帯剣して御場所を警固し、院家の候人は坊官の差
圓を受けて勅曾に従事し、又承仕は道場の掃除や舗設を致します、但し之はどの門跡にもあるさいふの
ではありません、坊官は諸大夫の上席ですが、侍法師は六位侍の下席になります。
C侍 法 師
大畳寺 二軒 ○勧修寺 二軒 ○青蓮院 三軒 ○圓満院 一軒 ○大乗院 二軒
○院 家 候 人
若王子聖護院院家 三軒 ○住心院聖護院院家 二軒 ○喜多院興顧寺院家 一軒 ○勝安養院妙法院院家
一軒 ○理性院醍醐寺院家 一軒 ○報恩院醍醐寺院家 一軒 ○備地院圓満院院家 一軒
○承 仕
梶井 二軒 ○青蓮院 一軒 ○妙法院 二軒
八、日向 諸 役人
日向を申す詞は、下世話で申す勝手向の意味で、只今の御内儀をは違ひます。是まで段々申述べまし
た諸役人を、日向の諸役人をを比較するを、内外表裏の別があるをいつて宜しからうを存じます。
オ ツキプ ケ
ロ向の諸役人を引括めて支配致しますものを御附武家を稲へます。之は幕府から朝廷への御附人であ
カミシモ
って、略して御附をもいひ、定員二人役料千五百俵、身分は旗本で、一方を上御附、一方を下御附を稲へ
て匿別します。上御附の役宅は相國寺門前、下御附の役宅は寺町荒碑日の北東角で、上下の御附に附属し
てみる興力十騎宛を同心四十人宛をは、支配御附の役宅附近に住んでみます。
御附は隔月交代で御用を足す。月番になるを日勤で、己刻即ち十時頃に出勤致します 立派な行列をし
て豪所門を入り 武家玄闘から上りますが、豪所神を入る時には、 門番の興力同心は土下座平伏を致し、
又武家玄闘へかくる時には、共所に詰めて居る 亜 仕丁が「御附さん御上り」を大撃で編れます。「おっき
きんが書あがる」を能く冗談を申したこをを思ひ出します。御附が玄闘を上って伺候之間へ通る を、電話
が茶煙草盆を進め、さうして正午になるを二汁五菜の御料理を下され、中詰が陪膳を致します。光も三
方ではなく、平付で下さるのでありますが、二汁五菜をい へば撮家 親王・大臣に賜はる御料理を同様で
又暗勝をする中詰の中には四位五位の人さへ居りますから 大層な御取扱です。御附が出動中武家博奏
に面倉して用談をする場合には、武家博奏を自分の詰所へ呼寄せます、御附の方から出掛けるこをは決
してありませぬ。中々侮い勢力のあったもので、日向の諸役人は役付をしますさ、皆常番の御附の役宅
へまみって誓詞血到を致したものです。御附の退出は只今の午後三時頃になりますが、退出の時は中詰
が武家玄闘まで送り、又豪所門を出る時は興力同心土下座平伏を致します。
御附平日の出勤は継上下、五節句は麻上下、正月は魔斗目麻上下で、装束を着ることは滅多にありま
せん。行列は案内の同心二名徒士三名を前にし、後には傘持 草履取・笠籠 釣豪 期を随へ、自分は長棒
の駕籠に乗り、駕籠の左右に近習一名づ、を召連れ、共の前に槍を立てます。之は「お上から拝領の槍だ」
を稲して、撮家・親王・大臣に途中で出曾っても伏せません。質は自分の持館なのですが、さう稲へる。
維新前の宮廷生活 (下橋) 六三
-
史 學 第一巻 第三競 六四
初論御附自身は駕籠から下りて草履を突いて濃を致しますが、館だけは前に立て、みます、比の時撮家・
大臣・親王の方では御挨拶をして興の難を一寸上げる。興の熊は平常推上げてあるのですが、向ふから御
附が来るを見るを、供の者がそれを下し、御濃の時一寸上げます。それから日向士分以上の諸役人が御附
に出曾つて濃を致しますを、駕籠側の近習が駕籠の戸前を引く、それが御附の挨拶です。さうして士分
以下になると平伏しますが、御附の方では一向挨拶も致さすに通り過ぎます。
日向士分以上の役人を撃げるを、第一が執次、それから賄頭・勘使奪御買物方・御膳番をなって、比所
までは中詰の家から出世する。共の次ぎが修理職・賄方・板元諸役・鍵番・奏者番・使番番頭・小間使をな
つて板元諸役を小間使をを除くの外は使番の家から立身する。いづれも大した役人を申すのではありま
せんが、御所の御話をする上には、闘くべからざる役々ですから、一通り説明致します。
執次は定員七人、役料五石で、執次に昇進するこをの出来る中詰十二軒はチャン を定まってみます。
中詰は殆を全部官人で、官人では暮されませんから、中詰へ出て、家藤を貰つてみるのす。御附武家を
助けて日向一統を継括するのが執次の職務で、同人の宅には、預二名が常勤をなり、執次の出勤退出は
初論、私用で外出の節も供を致します。
賄頭一人、之は幕府の御家人ですが、旗本格になつて勤め、日向の金穀出納を継轄致します。家藤だ
けで役料はありませぬ。
シ御買物方、之は幕府の御家人二人、中詰から昇進したもの二人、都合四人あります。御家人の
方が上席、中詰から昇進した方が下席で、上席の方には役料はありませんが、下席の方には三石の役料
が付いてみます。賄頭の差圓を受けて金穀出納のこをを掌り、又御入用品一切の買入方を申付けます。
中々役得が多いので、質際の牧入は執次よりも遥かに宜いを申すこをです。
御膳番も中詰から昇進致します 員五人中、毎日二人づ、細動し、板元で調進した御上の三度の
御料理を、板元玲味役を立倉の上容器に入れ、三方に載せて御業に渡す、それを命婦が御運びを致し、
典侍掌侍が、御暗膳を貸さって、御上が召上るをいふ順序です。御上の御食膳は白木の三方、御食器は
に監の染付の御茶腕、蓋は土器、御著は楊者を承って居ります。御上の召上った御密を頂載するを、
率が落ちるを申し、手墓を求めて頂戴いたしますが、量に御用になったものはお側で折ってき下げに
なりますので、別に御答を差上げ、お上の御口に鋼れていた ゞくのださうです。お上の召上り残りは
御末が載きますが、御料理の除分や材料の残りは、御膳番を板元玲味役をで分けますから、比の雨役
も中々役徳があります。
中詰は使番に比べるを、同じ士分でも上の部です。之に出る家は三十軒ありますが、無位無官の新
規御抱一軒を除く外は、皆官人です。官人から中詰へ出て、五石二人扶持の家藤を貰ふ。比の二人扶
持は一人分八合一人分七合ですから、切米扶持雨方を合はせるを一年十石四斗になります。三番即ち
三日に一度の出勤で、詰所は伺候之間の前、仕事は御附の給仕役で、茶煙草盆を出したり、暗膳をし
たり、武家博奏や執次を呼びに行ったりする位のものです。中詰の中で執次になれる家が十二軒あり
ますが、執次は定員七人ですから、現在執次を勤めて居る者の外は、執次に闘員の出来るまで中詰で
待って居ます。勘使ゃ御膳番には執次の家以外の中詰から昇進するので、比の方は家が定まって居り
維新前の宮廷生活 (下橋) 六五
史 學 第一巻 第三競 六六
ませぬから、上手に遣りさへすれば、昇進致します。中詰は父子一緒に勤めることは出来ません。父
が執次なり勘使御膳番なりに役付きますを、共の子は十五歳以上であれば、中詰へ出られます。若し
役付きをせず中詰のま、死亡しますを、共の子は使番に落され、使番の家になってしまひます。
修理職、之は今日の内匠寮で、本役二人に常加勢一人、本役二人は無位無官の使番に限ります。日
向役人でありながら、表は蔵人方の支配に属し、平田出納の到任です、併し内質は御附武家から比の
者を修理職にしてくれろを平田へ申込むを、平田の方で直ぐ鮮令を出したものです。加勢は官人から
象勤の使番でも、無位無官の使番でもなれる。これは出納の方には少しも闘係はありませぬ。
本役の修理職には三石の役料がありますが、加勢には無い。併し役料よりも役徳の方が大きいをい
ふのは、百園以下の御普請はすべて修理職で掌るからで、光も百雨以上になるを比所の手を離れて、
幕府の 御修理で掌ります。
賄方六人役料三石、使番から昇進します。官人から乗務の使番でも無位無官の使番でもなれます。
賄頭と勘使をの差圓を請けて御賄のこをを掌るのが仕事です。
板元玲味役三人・板元若干名 板元表掛若干名:板元見習若干名、継稲して板元さ稲へます。これは御
上の御料理を致す家柄で、継計十五軒、家藤は五石二人扶持で、見習の中は役料を貰みませぬけれざ、
表掛以上に出世するを三石の役料があります。見習の中は御料理の稽古をするばかりで、眞に御上の
召上る物は板元が板元表掛を使って調進し、それを板元玲味役が一々玲味して御膳番に渡し、御膳番
が三方の上へ並べる間立曾ひます。板元十五軒は父子孫三人出勤するこをが出来ますから、継計では
可成の人数で、それが三番に分れて出勤致します。板元一同は御所内でも全く濁立した一園でしたか
ら、悪口に「織多村」を申しました。
鍵番六人、役料三石、使番から昇進致します。之は御館正即ち日向を奥をの境の戸日の鍵を預る役
で、三番に勤めます。奥には女中が澤山居ますから、自然年の若いものではいけませぬ、年齢五六十
の律義一方の者が之に任じます。
奏者番四人、役料三石、使番から昇進致します。毎日一人づ、交代で、奏者所を申す日向の玄闘へ
詰めますが、御用の多い時は全部出勤します。官家・武家・寺赴からの御使は皆奏者所へ来る。獣上物
は一切比所で請取ってから奥へ廻す、従って奏者番は獣上物の上前を平気で搬ねました。今日から見
れば怪しからぬここですが、常時は一向悪いをは思はす、公然の役徳をして取ったのです。午後三時
になるを奏者番は玄闘を締めて騎りますから、共の以後に来た分は、小間使が御豪所で請取って、
それから御錠口 へ廻します。
使番番頭、本役二人に常加勢一人、役料三石、三番の出勤で、百人以上ある使番を指揮するのです
から、使番中年功を経たものがなります。
使番の家数は凡そ百三十軒で、官人から乗務するもの四十九軒、無位無官のもの六十五軒、維新常
時新規に御抱になったもの十六軒をなりますが、家藤は胆もをも五石二人扶持です。 何分人数が多い
ので、故参で勢力のあるものは一寸顔を出し、番頭に挨拶して直ぐ騎ってしまう。新参者は自分の常
然の仕事の外に、番代をいって故参の代理を言付かりますから敵ひません。
継新前の宮廷生活 (下橋) 六七
鬼 學
-
第一巻 第三競 六入
使番の仕事は色々あります。典侍掌侍が御代参又はお宿下りの時、その乗用の駕籠を奏者所の玄闘で
駕籠昇へ渡したり、駕籠昇から請取って玄闘へ上げたり、駕籠脇の御供をしたり、御内儀からの御用
文便を諸方へ持参したり、碑赴備寺への御代参をしたり、御歌曾その他の公事にっいて、奉行から撮
家以下へ御使をしたりするのは、皆使番の仕事です、使番で勃を経たものは御用の文便の封を解かす
にそれを明けて、中の御文を讃むさうです。順々に古い使番が新しい使番に比の秘法を博へるさうで、
使番以外には誰も出来ぬ載です。使番が典侍掌侍の興脇の供をする時は、平日なれば継上下、時の時
なれば麻上下に大小を帯し、椅の股立を高くをり、素足に草履究をいふ姿で、雨天ですを草駐です。
典侍掌侍が駕籠に乗られる時、又駕籠から下りられる時は、「御塞り」を申して、女中が奏者所の支闘
の障子を閉めてしまひ、使番は障子の開くまで玄闘の式豪に控へてみます。男子に顔を見せぬをいふ
御用意でせう。
小間使は奮家三軒新規御抱二軒、都合五軒で三番に出勤致します。御内儀から出る文便を女婦から
受取って使番に渡したり、天脈拝診の貸めに毎日出頭する典薬寮の賢師の薬籠を、賢師の僕から受取
って、女婦に渡したり女婦から受取って僕に渡したり、奏者所閉鎖後、諸方から来る使者に面曾し、
奥へ差出すべきものは受取って御錠日へまはしたり、命婦・女蔵人・御差などが外出する時、興脇の供
をしたりするのは、皆小間使の仕事で、家藤は五石二人扶持、役料はありません。
御所に園嘘裏之間を申し、大きい園艦裏が切ってある廣い板敷があります。御能の時には御能舞豪
に用みられますが、平日は共の北西の隅が鍵番、東の突常りが中詰、南東の隅が小間使の詰所で、愛
敷枚を敷き、それを展 風で園うて詰所をしてみますが、御能がある時は一時皆御豪所へ引下ります。
執攻以下小間使までが士分、それから以下は鶴名仕丁で、下部又は小者さも稀し、苗字 帯刀羽織務
の服装もあれば、構兵衛入兵衛で、艦の石持の絹の看板に股引尻からげ木刀一本差しのものもみます
内侍所番・御茶換・根来同心・六門番・三門番・大宮御所・奮院番・准后御門番・御里御殿御門番・御扇子所小
者及び預は苗字帯刀で上の部、それから平仕丁になるを勘使下・賄下・奏者番下・板元煮方・公家門豪所
門詰の興力同心の給仕・山科・山之者・御花壇方・御花畑番・御末日番・釣豪昇・使番の若賞、共の外色々な
ものが居ります。御茶換は御上の召上る薄茶を換くもの、山科は御豪所の御飯楚、山之者は御庭の掃
除番です。名稲が不思儀ですから一寸説明致し置きます。御所の使丁は二百数十軒、明治三年一旦卒
族をなり、同五年七月に一統士族に編入せられました。
仙洞御所・大宮御所・中宮御所にも御所を同じやうに日向役人や仕丁がみます。御所に比較すれば簡
易であらせらる、ここは申すまでもありません。慶應の末に後院使番三軒・同小間使二軒、後院北殿執
攻三軒、同使番七軒㎞・同板元二軒・同小間使一軒、中宮御所執次三軒・同使番十一軒㎞
㎞・同板元二軒・同小間使一軒をあります。落に後院北殿をあるは英照皇太后様、中宮御所をある
は昭憲皇太后様を申上げます。 それから大宮中宮雨御所の執次は御里方から六位侍を附けられたもの
です。
九、女 官
維新前の宮廷生活 (下橋) 六九
、 史學 第一巻 第三競 七○
「雲井」を拝見しますを、主上・親王・門跡・准門跡・入道・比丘尼御所・女房方の御名前や御年齢が解り
ます。共の中内安房をあるのが、主上御侍附の女官方で、撃得 得ェ・シ御差まで出て居り
ます。
*得には大典侍・新大典侍 部典侍 接察使典侍 新中納言典侍 害相典侍・管典侍 権典侍 新典侍 今参
などの名があります。今参を申すのは、新らしく典侍にお上りになった意味で、やかで新典侍におな
りになります。
大典侍は毎時も共の人が居られましたが、共の他の御名前の典侍方は時によって有ったり無かった
りです。若い典侍方は無位ですが、大典侍になりますを位は従三位で、御奥の継取締を遊ばされ、可
成御老年です。お高は典侍方一統地方で百二十石です。
典侍には羽林家名家の中で上の部、即ち正二位大納言直任の家から出られます。父御の身分が低く
ければ、左様いふ家の獅子となって出られます。撮家・清華 大臣家の姫君で典侍にお上りの方は御座
いません。又典侍は最初から典侍で、掌侍から典侍へ御出世なざをいふこをは断じてありませぬ。
掌侍は有位無位雨方で、シ掌侍が第 、それから時に従って兵衛掌侍 門掌侍・小式部掌侍 大輔掌
侍・新掌侍・今参などの名があります。
勾常掌侍は長橋局を申し、位は五位稀には四位にもなります。 日向に封する勢力は大したもので、
御内儀から諸方へ出る御使は長橋局ょり執攻に命じ、執攻から使番に命じます。又諸方へ出す御文は
すべて長橋局の名を以て出しますし、諸方から参ります獣上物は奏者番から右京大夫を経て長橋局へ
ニラミ
上ります。内に於ては大典侍の勢力が最も重いのですが、外に封しては長橋局が一番厳が聞く、之を
一年勤めるを千雨の所得があるをいふ所から、千雨長橋をいふ詞がある位です。大典侍を勾常掌侍を
は他の典侍掌侍をは全く別物で、一般の典侍掌侍方は主上の御用をお勤になりますが、大典侍は奥向、
勾常掌侍は日向の取締をするのが職掌です。勾常掌侍は二百石、共の他は百石づ、の御高です。
掌侍には典侍に出られる家ょり一段下の堂上家から出られます。典侍掌侍を纏稲して御局様を申し
ます。
命婦女蔵人・御差は有位無位南方で、継稲して御下板を申し、共の中一人は必す御差を定まって居
ります。女蔵人から命婦へ出世は出来ますが、御差は何時までも御差で上へは昇れませぬ。一同六十
石の御高です。
命騎 女蔵人・御差は、命婦の攻席の天御究人を除く外、皆園名を補へ、越後さか能登をか申します
伊識をいふのが頭で、大典侍・勾常掌侍・伊譲を三罪を申し、現在御仕へ申して居る主上が、崩御遊ば
されましても、御暇にならすに、次ぎの主上にお仕へ申上げます。之は三頭が居らないでは新しい御
代になって御用が足りないからで、他の女房方はすべて御一代限りの御奉公です。
御差に限り、御上から御言葉を賜はり、又直きに御返事を申上げますが、命婦女蔵人は御上から御
言葉がありましても、直きに御返事を申上ぐるこをなく、獣つて御沙汰を承り、御返事は典侍掌侍方
に申上げて頂きます。之は御差は職務の上からざうしても御返事を致す譚なのです。御差の職務は何
かご御問ひ下さっても一寸申上げ悪いのです。典侍掌侍を命婦をの闘係は丁度職事を六位蔵人をの闘
維新前の宮廷生活 (下橋) 七一
第一巻 第三競 七二
史學
係のやうなものです。御上が御食事の場合に、命婦は御末から御膳を請取って御側近くまで運びます
が、御暗膳は典侍掌侍方が貸さいます。
命婦女蔵人には諸大夫の家から出ますが、親が三位になってみないをいけません。撮家ゃ親王家の
諸大夫は三位になるのが遅いので、大抵上下賀茂・松尾・日吉 春日・住吉などの赴家ゃ、押小路千生の雨
局から多く出ます。然し或る諸大夫が是非自分の女子を命婦に出さうごすれば、同列の三位の者の女
子にして出せば宜しい。それから御差は諸大夫の女子であれば宜しく、父の位階には構ひません
只今は典侍掌侍は二字名、命婦は一字名、例へば早厳典侍新樹典侍さか糸標掌侍小菊掌侍てか、桐
命婦構命婦をか呼ばれますが、之は昭憲撃本店様が御始め遊ばされたので御座います。
比の攻ぎに三仲間があります。御業 女難 御服所一名御物仕の三っに分れ、各々七人っ、で、御未
の頭を尾根、女婿の頭を阿蘇、御服所の頭を右京大夫と申します。今日では継稲を女婿をいひ、御
掛 御道具掛・御服掛の三つに分れてみますが、以前の御末は今日の御膳掛、女婦は御道具掛、御服所
は御服掛に常ります。御末は板元で調理した御上の御膳を受取って差出すばかりでなく、自らシし
たものを御上へ差上げ、御上は却って比の方を召上りました。又御服所は御上の御名物を裁縫する外
に、長橋局の命を受けて諸方へ出す手紙を認めねばなりませんから、一通りならぬ能書でした。撮家。
親王・大臣が参賀の節に、参内殿の御車寄の離を上げるのも御服所の仕事です。
有官有位の士分の女子なら御末女婦・御服所に出られますが、御服所に限り無位無官の主分の女子
でも出られます。御末女婦は御切米七石を御扶持方一ヶ月二斗七升をいふのが通例で、御服所はそれ
より少し宜しい。併し一番宜しいこをは、御末でも女婦でも御服所でも、皆お残りを頂戴致しますの
で、之をセッセを宿所に運び、共の家々は御薩で需ったものです。女子を御末に出して居れば食物に、
女婦に出して居れば炭新油に、御服所に出して居れば衣類に、不自由はしないこいふやうな始末でし
た。
その次ぎが仲居茶之間、之を雑仕を稲へます。仲居は麻の紅前垂を締めて仲居の詰所に、左様彼是
十人位も居りましたらう。仲居茶之間には士分・農家・町人、何れの女子でも出られます。
女官方が御局でお召遣ひになる女中に、針妙仲居なざがあります。大典侍の御部屋には五人も針妙
が居りまして、共の頭分になるを、三仲間よりも勢力があつたを申します。
内侍所刀自は只今の内掌典に常り、上に申述べました女官方をは全く別物で、定員五人、一生奉公
で、士分の女子であれば出られます。職務上基く積を忌みます所から、身鶴に故障があっては決して
出られません。晴の儀式に 一采女は刀自の中から、二乗女を三采女をは御末の中から勤めます。
仙洞女官には上薦三人、中薦三人、下薦三人が居ります。御在位中に典侍をして奉仕された方が上
に、掌侍をして奉仕された方が中薦に、命婦をして奉仕された方が下薦になられるので、三人の上
薦中一人を小女薦を申します。大宮・中宮・東宮にもそれ〜御附の上薦・中薦・下薦がありまして、共
の人員は初論仙洞附の女官より減じてみます。それから御直宮には上薦一人・女中二人・仲居一人が御
附添ひ申し、又國母の典侍を申して、常今の御生母であらせらる、典侍が女院になられますを、上薦・
中薦・下薦が、二人づ、お附き致します。上薦はすべて堂上家の女子、中薦は諸大夫の女子、下龍女中
維新前の宮廷生活 (下橋) 七三
史學 第一巻 第三競 七四
は士分の女子を見れば間違はありません。
撮家親王家の女房には上薦・老女(御年寄を稀す)・若年寄・中薦・表使・女中(俗に平の女中をいふ)・御
次衆・茶之間(仲居)等が居ります。上龍は堂上の女子で、名前は姉小路・中園・萬里小路・飛鳥井・染の
井・中川・山本の類、老女以下女中までは坊官・諸大夫・地下官人・非蔵人・赴家・無位無官の士分・賢師・書
師・儒者・門徒寺・郷士・諸藩士の女子なざが出ます。老女以下表使までの名前は藤岡・村岡・亀岡・鶴岡・
梅山 川島・文瀬 浦瀬・藤浦・豊崎・野坂なざの類、又老女には右衛門督・左兵衛管・播摩・大隅・小大武・小
左近・民部なざいふ名前もあります。女中はおまつ・おちよ・おさを・おちかの類、御次衆も同様、茶之
間は若菜・明石・小蝶・みどりの類で多く源氏名です。御次衆は御目見以下の士分又は史生衛士の女子か
ら出ます。主人より言葉をかけられても平伏して承るばかり、御返事は女中を以て申上げます。茶之
間は町人百姓又は日向仕丁の女子が出ます。
親王家の上薦は多分名ばかりですが、近年桂宮に小倉玉子をいふ上薦がありましたから、必すしも
名ばかりをもい へませぬ。
御上を中心をして、共の周園に居られる方々のことは、以上で大略申述べた積でありますが、定め
し落ちた所も、不充分な所もありませうから、御質問を願ひます。まこをに長時間お喋舌を致しまし
た。
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東京市赤坂匿新町五丁目四十二番地


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編韓奪発行所
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