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妙 講義
言 次
序 説: :
男 一章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ● を ● ● ● ● ● ● ● *
三五
第一一章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・ 七一
第三章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九八
第 四 章・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一二○
第 五章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一二八
第六章i * * ● ● ● ● ● * * ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● * * ● ● ● * * * * * ● ●
一四四
一六三
第七章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第 八 章:・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ A

歌異妙講義 旧次 1
* シ
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
以 与
嘆異砂講義
近角 常 観 講述
序 説
二 ラシテチフル二 チ * ルチプ ルコトチ
籍 廻悪案 粗軌 古今 数 黒元師師博之置信 思有後學相績之疑惑
デカ シャルコトチイ
幸不低有縁知識者 争 得 入場行一門 裁全以自見之覚悟 英配他 シルス チガ セシカ
力宗旨例故㎞撃人御物語之趣所留H底シ信
行者之不審 也云云
こう し みしん らん
『瀬院の五郡悪催の願をよく〜案ずればひとへに親盤一人が貸なりけりさればそ
こう*賞
くばくの業をもちける身にて ありけるを たすけんと おぼしたちける本願のかたじ
ご じゅつくわい
けなさよ』これが親震聖人の平素の御 述懐てあった つく〜この お言葉を味はひ奉
るに質に廣大無窮の御慈悲があらはれて下さる、親盤聖人一代の教化っゞまると

嘆異妙講義 序説 く 一
* ー
嘆異妙講義 序説 二
ひ い
きやう
0 ゃく 、>。 >
ころ聖人がこの自 督 の披源 に 過ない のてある 聖人が眞宗 の骨 目を示したまひし『教
ぎやうしんしやう へき とう おん く せい
、 D、 - * こ m 、に *
行信護』の開巻壁 頭に籍かに以みれば難思の弘誓は難度海を度するの大船無得の光
明 は無明 の闇を破 する の 恵 日なり」 と仰せられ たはその弾 院 の 五 却 思惟 の 願 を、よく
〜 案ずれば、ひと へ に親鶴 一人が貸なりけりとの質威て ある 難度海 といふ も親 盤
が現に沈 論しっ、ある比世の有様てある無明の間といふも親盤が胸中の煩悩をも
つて 厳は 江 たる 有様て ある、しかるに備は これを救 ひ、之 を照し 給 ふ の てある「無明 長
夜の燈婚なり割映暗しと悲しむな生死大海の難彼なり罪障おもしとなげかされこ
れ 如来が親鶴 一人 に むか ひ たまひての 招 喚の呼撃てある、かく 如来の呼撃をうけた
まひし聖人はさればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとふぼし
めし、たちける本願 の かたじけな さよ」と威 謝したまひし ☆御 光の事 て ある。
ちやうたつじやせ じやうごう
『教行信謎』の次の文に総 れば浮邦縁熟して調達閣世をして逆害を興 さしめ浮業機あ
イ 左H
らはれて精迦撃盤をして安養をえらばしめたまへり これ乃ち権化の仁斎しく苦悩
ぐん もう ひ ぎやくばうせん たい
の 群 萌を救済し世 雄の 悲 正しく 逆誘闘 提を恵 まんと欲して なり』とい へ る も同様 の
威謝てある親鷲聖人の眼中には提婆阿闘世の逆 悪も車提獄中の得信も皆是親鷲 一
-
人がためなりけり 大聖*の〜もろともに九悪底下のっみひとを通悪もらさぬ誓
風に方便引入せしめけり あ、そくばくの薬をもちける身にてありけるをたすけん
とおぼしたちける本願のかたじけなさよ撃要も我なり阿間世も我なり#提も我な
り我等がごとき凡過底下の罪人を救ひ給ふ大慈大悲のありがたさ 職カ無窮にまし
ませば罪業深重 も お もからず 備智無漫 にましませば 散蹴 放逸 もすてられず「質にそ
くばくの業を もちける身 にて ありけるを、たすけんと おぼし たちける、願 力のきは ま
りなきことを威謝したまふ聖人の御述懐なり今比喩異鍵 はかくのごとき聖人の平
素の自普威謝をき、たまひし御弟子の一人が聖人の仰せそのま\を筆にせられた
ものてある、これ『嘆異砂』を拝譲したてまつるにつきて 暫らくも忘れてなら ぬ 心持て
-
ある。
かくの ごとき聖人 の自 督 を直接 うけたまはりた まひし『嘆 異録』の著者は 如何 に これ
を いた ゞ きたまひしか、既に『嘆異 砂』の結文 に於て、前記の御 述懐をあげ 直ちに、これを
仰ぎて目くされはかたじけなくもわが御身にひきかけてあれらが身の罪悪深きほ
どを ☆しらず、如来の御 恩の高きことをもしらず してまよ へ るをお も ひしらせんが
嘆異妙講義 序説 - 三
* シ -シ
嘆異妙講義 序説 -

ためにて さふらひけり、まことに 如来 の御 恩といふことをばさたなくして、われも人
もょしあしといふことをのみまふしあへり とこれ著者自身の自督てあるあ、われ
らが身の罪悪の深きほどをもしらず われらは相常に善人なりときめこんて居るの
てある如来の御思の高きこともしらず日に如来といひながら書夜に如来の給表を
蒙りっ、あるといふことをしみ〜と威せずに居るのてある 人が弾院の大慈大
悲は親盤 一人 がためなりけりとよろこび たまひしは、即ちこれ、瀬 陀の大慈 大悲は我
等 一人 一人の貸なることを御身を以てしらせたまふのてある 親鷲のごときそくば
くの業をもちける 身なりとい へ るは、またわれら 一人 一人の身の上をか へりみれば
質に罪悪深重 煩悩織盛の 人間たることを御自身の身 をもつ てしらして下さ つたの
てある 結局かくの ごとき罪悪深重のもの を 見はなしたまは ぬ のが、如来 の御 恩てあ
る。この 如来 の御恩 だに よろこば ゞ、世によしあしは なきものを、この如来 の御恩をは
いた ゞ かずして 是非邪正をのみ日にするは初鶴なきことなり聖人既に 足非しらず
邪正もわか ぬ この身なり」と仰せられしに あらずや、た ゞ なにごともさしおきて、如来
の御恩だに一度威じ来らば何事も皆如来の御力にてょきにはからひたまふべし こ
の如来の御恩を威ずると威ぜざるとが浮ぶと沈むの 境なり「煩悩具足の 凡夫 火宅無
常の世界は、よろづのことみなもてそらごと たわごと まことあることなきにた ゞ 念
備のみぞまことにて おわします 何事はない、この如来 のまことに着眼 せよ、この念備
を信ぜょ「親 盤においては、た ゞ 念備して 弾 院にたすけられま ひらすべしと よきひと
の仰せをかふむりて信ずる外に別 の仔細なきなり」とた ゞ 弾 陀の誓願不思議てある、
名跳不思議て ある無義の義てある 自然法爾てある法然上人の仰せられた通りてあ
る”法然上人に すかされま おらせて、念備して地獄に落ちたりとも 更に後悔せぬのて
ある かくのごとき親 鶴聖人の仰せにより て我身の罪も如来 の御恩もしら えて頂だ
いたのてある 何事☆親盤聖人の 仰せらる、ごとくてある親霊聖人を信 しま おらせ
て地獄に落ちたりとも更に後悔すべからず候といふが即ち著者が聖人の自督に封
する信仰てある故に、この『嘆異砂』を拝讃するものは、また比 著者が聖人に封せられた
と同様の心持になって葬譲せずば共基意を味はひ奉ることを出来ぬのてあるこれ
しばらく☆わすれてはならぬ第二の用意 てある
著者は既にかくのごとき信仰を以て聖人に封せられて共一言一句について深く信
嘆翼砂講義 序説 五
-
嘆異妙講義 序説 六
じて居られたが聖人在世の常時より滅後にいたりてはその眞意を理解せずして或
は聖人の 仰せなきことを仰せとい ひまぎらはし甚だしきに到っては論義問答を主
として共争論に 勝っ貸に何もかも聖人の仰せといふ 様な傾向を生じ来った、この現
象を眺めている著者は質に腕を断ち 血を吐くが如き思をして魔息せられたも無理
てない 全鶴信仰の言葉は 信仰 は 入a なければ 共味 を 味 ぶ d とは 出来 ぬ そこて興質
信仰に入らざる人が聖人の言葉だけをき、て、勝手に自分の考を以て 種々の事をい
ひふらす ☆のゆる に如来に虚妄を申しつけま おらせ、或は聖人 の徳を汚し奉り、甚だ
しきに 至りては著者は撃を励まして「法の魔障也備の怨敵 也自ら他力の信心 かくる
のみならず誤って他をまよはさんとす 謹しんて恐るべし、先師の御 心にそむくこと
を かねてあはれ むべし弾 院の本願 にあらざることをと嘆息 せねばならぬ様になっ
てきたのてある 基異論異義を嘆きて途に文字にあらはれたがこの『嘆 異砂』てある 故

に信仰の書物は 何れ ☆上に あげ たる二 個 條の用意は常に忘れてはなら ぬが、こと
この書に於ては最も比獣に於て深く注意をせねばならぬなほシにこれをいへは
この書は軍に信仰を正面から賞したるのみてなく殊更に異れる信仰に封して共異
-
いまし
酷を深く戒むる貸に筆をとりてある故自然に親震 上人の信仰の特徴が著じるしぐ
あらは れて ある。それゆる 比書は 他の書 よりは、拝譲 し たてまつる 者 が深く威 じ た て
まっる攻第てあるなほわかりやすくいへばわれわれの心を窮ち信仰をよび起さる
しやうゅう
るには最も力強き㎞ てあるこれ現時の求道者が信仰を開らく態として比書に無
上 の味 ひ を見出さ る 、所以 てあります。
既に比書の 目的が、かくの ごとく、きは どき信仰を いひ つめて あるものゆる 、求道 者の
ためには信仰を開らく鍵てあるだけそれだけ求道心切質ならざるものには順ぶる
驚きを興へる次第てある本書に於て最も著じるしく書かれたる悪人救済の徳音の
如きは、道を 求め ざる 者 に 向 つては、少し も了解出来 ざるのみなら ず、却りて かくのご
き ゆう
とき極端なる救済をとくは道徳 上有害に あらずやなどい へ る相愛を抱く様になる、
現に近頃求道者が本書を金科玉條としてこれを貴ぶだけそれだけ他の一方には頻
り に倫理界 の評論 に上りつ 、ある 拾 かもこれ、著者 がこの書 をか、れし常時に起り
つ 、あり し異論 異義と同様 にして、論義 問答 を旨とし、結局備院 に勤 する 信仰を有 せ
ぬ 人てある 比獣に於て は信仰 問題は千古同様の事を 反覆する ものて現時 寧者間に
嘆異妙講義 序説 七
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嘆異妙講義 序説 八
於て、この書に封して疑をさしはさむは寧ろ比書本来の 目的を達しつ、あるものて
ある同 個 の 言語は信仰 な きもの に 理解されない のは常然てある 理解 されない もの
ゆえに、足を疑ふ 疑ふた結果不安を威 ずる 不安を威するところて自己の薄弱な事を
自覚し、遂に 絶 封救済の光明 に 浴 する様となるのてある。されど共絶封救済 の味 を威
ずるに到るまては如何様にしても了解てきるものてない こは拾かも宗教的人格に
封する信仰と同様てある たとへば親鶴聖人が法然聖人 と同時に流罪に あひ たまひ
しとき「これなほ師 教 の 恩 致 なり」と喜び たま ひたる ごとくてある。信仰 の局所は まは
りどをいものてはない を信ずるか信ぜないかといふ一言て左右を決することが
出来るのてある。あ、宗教 的人格に封 する信仰なるもの は 絶 封 的なものてある 共ご
とく比書物も赤是を信ずる か、これをそしる かを決すべしと きりつめた問題を提出
されて あるのてある。
さらに 何にして比書を信じらる『になるかといふにそれが即ち最初注意した地
書をよむにつきての用意二酷てある、一つは聖人自督 自身なることと二っには共自
#は則ち我等が自普たるべきことを味はふことなりこれを要するに譲者自身が自
己が罪悪 の極にして、かつ 如来の御 恩に 浴 するものなりとの信仰を 達せらる、こと
て ある面して本書の講義は 諸君 がこの質験に接 せらる、事を勉 めるのを目的とし
ます かつて『敷異砂』の開題として、私 の質験 を披 歴した『磯 悔録』は足の参考 に供せら
-
れん こと を 願 ひ ます。
吾人は進みて、比書が著は された常時の信仰状態 について、歴史的に 研究して、見た
いと思ふ 初論比研究は単に事質的の問題のみてはなく信仰上の内心の経験に照し
て味 は ねばなら ぬ そは外 て もない。古今東西の宗教 歴史を通じて絶封の信仰 の起る
ときは必らず電源と信仰 といへる一問題を生じ来るのてある
共意味は従来の宗教の教ふる虜が一種の形式となり 律法的に人の行貸を慰継す
る強制 的 の意義を鍵じ去 られたるとき、新らしき 信仰は共律法を破り来 つて絶封の
救済を興ふること、なる科奪博に於て始め響奪は印度従来の波 羅門を撃び哲學的
に 共 教理を研究し質 行 的 に共苦行を修した まひしが 結局何等 の効力もなきことを
犯概して断然これを郷ち府避粛河に沿 盤して樹下石上に静座内観し途に膨魔厳避
の晩に達せられたは即ち波羅門の律法主義を破壊して備教の絶封解脱の経験の起
歌異妙講義 序説 九
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『シ *} :** シ、
獣異妙講義 。序説 十
くり すと けうじゆ てあけう くわい
りたる根本てある又基督教は獅太数の律法主義を硬壊して愛の救済主義を説きた
☆のてある 浄土門の起り たるも全く同意義にして、聖道門自力の律 法主義を破壊 し
てシ備の絶封教済を開き来ったのてある法然聖人が聖道門難行道を成は地ち
のたま
或は閣き 或は捨て、或は離ると宣ふごときは皆比の律 法主義を破壊 せられた 酷てあ
る面して親盤聖人に至っては全然律法主義を破壊して自ら無戒名字の比丘なりど
告自して弾 院の誓願不思議の絶封救済を説きたもふたのてある北獣に於ては古今
東西の宗教歴史上親盤聖人の上に出づるものは無いと確信する
かくの如く宗教歴史の通則として律法主義の 継を脱して絶封救済の信仰主義
起りたる後 又共信仰 主義が却って 前の律 法主義の精紳に 立ち騎 りて、一種の新たな
る律法主義を来すとがある 獅太教の律法 主義を脱して生れ出てたる共 基督教の絶
封救済の主義が復シの律法主教の貸に化せられて獅太的基督教と云ふものを
生ずるに 至っ た俳 教 の如きも波 羅門の苦行 主義を排して起りたるもの にして備 教
の 戒律の如きは本来健全なる道徳に外なら ざるにもか、はらず後には 比の戒律の
律法主義に陥り 遂に法然聖人の他力念備の救済主義によりて破壊せられたものて
ある鉄 るに法然聖人の他力の念備も後には単に念備を行ずる 一種の律 法主義と鍵
化し去りたるを以て親常 聖人は足を破壊するが貸め絶封信仰の救済主義を説かれ
たのてある燃るにシ人の滅後に於ても 未だ一種の律法主義が起りて に就き
て事細かに云ふ 主義が起ったらしい 面して『敷異砂』は比主義に反 封して書い たもの
らしい 故に比書はた ゞに親 鶴聖人の絶封救済を説くのみならず 聖人滅後に 起れる
彼の抗を重んずる第二の律法主義の異義に封して獅 力強く絶封救済を説いた。の
らしいシて 人数 なる が 以てある
吾人は砦か聖人が晩年に於ける博道に於て弟子方の間に諸種の傾向を生じたら
しいともふ 吾人は歴史上の問題としての材料は備はらさるも信仰上の 過にょ
りて砦か常時の様子を研究しよふと思ふ 聖人は比の『敷異 砂』の上に書きあらは
され
たる如く俳院の絶封 救済を説き如何なる罪悪の者も助け給 ふと云ふ
ことを示 され
た多くの人はこれが%に深く自分の悪しき事を成じて如来の御業悪を撃がずして
却って 悪しき者を救 ひたまふ備陀故悪をしても差支 へ ない、悪を作りて 性生の業と
すべしと云 へ るが如き邪見に陥った人があったらしい、是れ が第 一 に起り
たる他力
獣異妙講義 序説 十二
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歌異妙講義 序説 十二
* 。 モシ・ ● っをっ 残っ 、『 に、し湾そべー シ )
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信仰の誤解てある 比の様子は『末魔砂」及び『御消息 集』の中に 明らかに現はれてある
「御消息集」第五通に目く信㎞が申す様かへす〜不鷹の事なりわるき身なれば
とて、ことさらに、ひが事を好みて、師の ため善知識のため、悪しき とを沙汰 し、念備の
人々 の貸に、とがとなるべきことを知らず ば備恩をしらず、よく 〜 はから ひたま
ふ べし 乃至 信 願 坊がまふす やうは、凡夫のならひなれば、悪るき こそ本なればとて
思ふ まじきことを好み、身 にもすまじき ことをし、日 にも言ふまじきことを申すべ
きょうにまふされ候こそ信願坊が申し様とは心得ず候性生に隠りなければとて、
事をこのむべしとはまふしたること候はずかへす〜心得ず*ぼえ候診する
所備事申さん人は共身一人こそともかくもなりさふらはめすべてよろづの念研
者の妨となるべしとは、おぼえず候云々悪信場蹴
『末魔砂」終ょり二通目に目く先づ各の昔は瀬 陀の誓をもしらず阿瀬 院備をもまう
さず おはしまし候しが、響 迦弾 陀の御方便に催され て今瀬陀の誓をき、はじめて
どんよく しん る ぐ
*はします身にて候なりもとは無明の酒によひて貧獄職慰腕の三毒をのみこ
のみあふて候へるに備のちかひをき、はじめしより無明の離もやう〜すこし
づ 、さめ「三毒 ☆すこしづ、このまずして阿 弾 陀備のくすり をつねに このみめす
身となりておはしましあふて候ぞかし然るになほ酔もさめやらぬに重ねて酔を
す、め *きえゃらぬになほ毒をす、められ候らんこそあさましく候へ%備具
足の身なればとて心にまかせて身にもすまじき とをも許し、日にも言ふまじきこ
とを許し 心にも思ふまじきことをも許して いかにも心の僅にてあるべしと申し
あふて候らんこそ返す 〜不便に おぼえ候へ 酔もさめやらぬになほ酒をす、め、
毒も消えゃらぬにいょ〜毒をす、めんが如し薬あり毒をこのめと候らんこと
は あるべくも候はずどこそお ほえ 候
比等の消息にょりて見るに常時 明らかに邪見に陥りたる人のあったに違ひない、
そして聖人がいかにも之を不便に思召して慰々と駆し又 々と離しめられた様子
は歴々と見える様てある 獅比「末燈砂」の次ぎの文字が聖人罪悪救済を説かれた意味
が明らかになりてある、即ち未だ備の慈悲を見出さずして我身の如き罪悪深きもの
が、如何にせば助かるべき かと云ふ 人 にこそ備の絶封 救済を説くのてある、との 事て
ある、既に備 の御 慈悲を威 じたるものが我 身の悪しきを鶴 梅する心のなき答がない
歌翼妙講義 序説 十三
歌異妙講義 序説 十四
との誠て ある 目く、
備の御名をもき、念備を申して、ひさしくなりて おはしまさん人々はこの世 のあ
しきことを鷹ふしるし、この身の悪しきとをば脈ひ捨てんとおぼしめすしるしも
候べしとこそ おぼえ 候 へ、はじめて備のちかひをき、はじ むる人々 の わが身の わ
るく、こ 、ろの わろき を お も ひ しりて、この身 の やうに ては なんぞ 性生せん ずる と
いふ 人 にこそ頻悩具足したる身 なれば、わがこ、ろの善悪をばさ たせずして迎 へ
たまふ ぞとは申候 へ、かくき、てのち備を信ぜんとお ☆ふこ\ろふかくなりぬる
にまととにこの身をも脈ひ流離せんことを申しなんとする人はもとの心のま、
にて悪事をもふるまひなんとせんと おぼしめしあはせたまは ゞ こそ世を厩ふし
るしにて候はめまた往生の信心は精過弾 院の御す、めにょりておこるとこそみ
えて候へばさりともまとのこ\ろ*こらせたまひなんにはいか*むかしの御心
の儒 に て 候べき
如来選標の願心より発起し大聖シ の警%より耐したる基質の信心を得たるもの
か昔の備 の 心にてあるべき等 はないとまて阿 責 され たのてあるが、聖人が平素 信仰
かき あつ
己後の行貸にっきて時々御弟子に戒められたものと見える共聖人の訓
誠を書集め
たものが即ち親 霊聖人の 二十 一箇篠てある、そこて是非 比二十 一箇篠
につき て私 の
考を被せねばならぬ 私は管て「花園文庫」といふ書に於て之を一撃したるとがあっ
たされど常時私かに考ふるに足は風る怪しきものてある何んとなれば親賞聖人が
細々しく箇修を作り撃文をなして注意せらるといふは如何はしきと考へたしかる
に 昨年越後 高田浮興寺 に参詣して、同 寺に博 ふる二 十 一個 修を 拝見する
に及びて大
に 疑が晴れた のみならず、大に常時 の信仰界の模様を知る ことが
出来たのてある、即
ちこの 二十 一箇篠 の内容は 何れも親 盤聖人 の自から 戒められ たもの
ては あるが、之
をシ 聖人は後鳥羽天皇の第十二の皇子にして親電聖人に随って出家し浮興寺の
祀 先て あるとの事 てあるが、ま づ共歴史的 考 謎は他 日に譲り、少くとも
共 主義が 巫ろ
に見ることが出来る即ち 一方には聖人の訓戒を箇條に作りて之を厳守せ
ざる輩は
衆中をシすべきもの也とまて切りっめたものらしい今共帳文の全文を撃ぐれば
-
左の如し
専修 念備 帳文 日記
歌異妙講義 序説
-
十五
-
. ، ،
數與納議義 族就 十六
先 師傅 受 之 手 水 事
從 希 爾羌 人 等 性 基人集配 地 法 性 法師李 秀逸 見面 金 色素也
11 小可 證 法 戰勝
經 離島,關 學 教养 師 執,於背部 設之 學者 有宗 徒之 義定 得 所 傳導 數 被海通
一般 棲 學 11 道 五 不可有 德 勒
1 ≤,無 脊 身 不可 拓,認識
| 小劇,是非 科 不可 制备 光子 等
| 小不 使節 說書 處 說,那 義務 時 任意 名 事先 可 望之
於 佛門生平寧王 繼位 继而不可 少見
1 %無 脊 身 就職 之 處 可 達 維 吉 由 何
国際大乘
1 張を造 商,隨 行
不可 經, 使命 長 鄭 長者 意 香 物 上 可見,に1 號 表 也
-
1 代 語 事 不可 羅 人
-- - "
« * 事之書 兼同 本可讀
實人 會非生所 留 日 入
| 可 望,讓 言 中 書處 言
| 可 說,他人 之 妻 女被 租車
| 可拓,請 博愛 德 六
金術高 行之 日本 女不可 同 屬
同執行 之 日 不可食魚 屬第 五帝 同執行 中 可 協商 法
-
| 者 可 隨,其 所 主意 結
巴東北 寬頻 繁栄不可思議於不用 此劇 法王李金 紫 之後
義可 被停 放棄中將 他 知書 省 北 管 支配 者 如 新選 五金門誌 論及不 達北師作 以 體力
成數之五金門 侍 御書成數之 靈址
正光 年中使此 會信心 廣義 出來各 金屬學之利 自古寧人所 給物 浦 氏 重金被 處 為
義上愛之 佛寺也更 不齐奥 評審議使此人々 木刻本條 和之以降
寫海 之 字
數與納議義 者が設 十七
へ シ ****} 。
鶴シ
十八
歌異妙講義 序説
比二十 一個條の内容を検するに願る味の深きものてある 加何にも聖人の訓戒 を書
きたものては あらうが 主要なる獣に於て『敷異砂』『日博砂」等と正 反封になってある 師
判に背く輩は衆徒の義定あって博ふる所の聖教を悔み還 さるべしとか、十悪 五逆生
ると信知して面も小 罪をも犯す へ からずとか云ふことは共調子といひ 内容といひ、
全然旨共正面の反封て ある共事は後に比較するつもりてあるが 更に角足て比二 十 一
條を集記せられたる善性聖人なる人の気象が分かる除程 厳格主義の人てあったら
しい限に比の如き個修を作りて張文を出すといふが律法主義の違り方てある特に
比張文に縦はぬ ものは衆中を停放するといふは願る厳しき 戒めてある
そこて比誓文は親震 聖人が書かれたものてない けど☆ 親獄 聖人の書かれたと同様
てあるといふ群解てある 格かも「二門傷」に於て行者が信行に於て行ふ虜の五念門を
本と弾院如来の園力に於て成就したまふ 五念門てあると言はれたるが如く比二十
一箇條も異愛知識成就てある即ち盤聖人の作てあるとの奥書てある 如之常時既に
比二 十 一箇 條を主張して自力の計に陥りたものがあったのてある、比 二十箇條の如
きも信仰上自然に行ふことが出来るものてかくせねばならぬと云ふ律法主義ては
ない、されど既に張文を作りて之を主張したる己上は 比自力の計が盛ん になったの
てある 奥書に既に明言したる通り正 嘉年中比主義の貸に自力の計を主張して信心
疎かなるものが出来たそこて聖人の御消息 を拝するに無上豊の悟を得ることは補
の御計て決して行者の計にあらずとの事なれば自力の計を挿 むべ からずとの注意
てある、比消息は『御消息集』最後の消息てある、さ されば比の如き注意が奥書に かきて
あるは比二 十 一箇條張 文が少なからず 律法主義の傾向を造出した謎擁てある 足が
第二の異解てある古来宗教 歴史に救済主義が再び律法主義に立騎るといふは即ち
是てある 響奪の戒律が律法 主義に陥り 法然聖人の念備が自力主義に陥りたと同様
の有様てある 敷異録』は格も比一の異解に封しては初論第二の異解に勤して極力絶
封救済を説かれたものてある親獄 聖人が平素説きたまひし絶勤 救済の意味を明ら
かにして比第二の律 法主義を戒められたるものてある既に本文にして 明瞭なるが
如く諸の異 解に封して 兵質信仰を 説きたまひしものなれど『敷異砂」全鶴として如何
にも比酷に力が入ってある 即ち悪人救済の意義は比所てある面して行細に『敷異砂」
の本文を見れば明瞭てある第十三節は明らかに比消息を渡らしてある。
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歌異鈴講義 序説 十九
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数異妙講義 序説 二十
、い い 、、い、 、、、、 、、 、、、 、 、 、
そのかみ 邪見に おちたる 人 ありて悪 をつくり たるものを たすけ んといふ 願 にま
、、いい、 、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、 い 、、、、、、、、、、、
しませばと て わざとこの みて 悪を つくりて 往生の 業とすべ きよしを いひ て、やう
い * * * * * * * * ミ * * * *
に あし ざま なることのきこ る さ ふら ひしとき、御 消息 に、くすりあればとて 毒 やこ
のpべからすとこそあそばされてさふらふはかの邪載をやめんがためなりまた
く悪は往生のさはりたるべしとにはあらず様戒将伴にてのみ本願を信ずべくば
われらい かて か生死をは なるべき や か \ る あさましき身 も本願 に あ ひ たてまつ
りてこそげにほこられさふらへさればとて身にそなへ ざらん悪業は よもつくられ
さふらはじものをまたうみかはにあみをひきっりをして世をあたるものも野ゃ
ま にし、を かり、鳥をとり て、いのちをつぐともがらも あきな ひをもし田畠 をつく
り てすぐる ひとも、た ゞ おなじことなり、さるべき 業 縁 のもよ ほせば、いかなる ふる
まひ もすべ しとこそ 聖人は 仰せ さ ふら ひしに常時は 後世 者ぶりして、よ からん☆
のばかり念備まうすべきゃうにおもひ あるびは道場にはりぶみをしてなかなか
の ことしたらん ものをは道場 へ いるべから ずなんど、いふ こと、ひと へ に 賢善 精
進の相をほか にしめして、うちには虚暇 を いだけるものか、願 にほこりてつくらん
っみも宿業のもよほすゆるなり さればよきこともあしきことも 業報にさ
しまか
せて、ひとへ に本願をたのみまいらすれば こそ他力 にて さふら

かくの如く絶封慈悲の救済を説きたまひしが比書の至極て
ある 面して第 一 の異
解の如きわざとこのみて悪を作りて往生の業とせんなど
い へ るは未た眞 質我身の
悪しきを自覚せぬのてある第二の異解の如く持戒持律にて救はれんと
欲するは未
だ兵質の絶 封の救済を自覚せぬのてある要するに何れにして☆
基質の備 院の御恵
を威せぬからてある 之を敷きて、一室の行者の中に信心異なかる
ことな からんため
た、〜筆を染めて書かれたのが即ち比 敷異砂 てある 、
次に「敷異砂』は何人の筆になったかといふ問題は最も味
深き研究てある、夫は何故
かといふに常時既に 一方には煩悩具足の身なれば三業とも心の
僅にてょろしとい
ふ邪見起り、一方には道場に二十 一箇條の張文をして律法
主義の計 ひに と主張 した
人のあった次第ゆ へ に共間に於て親霊 聖人の信仰の眞 髄を
書きたまひし方は何人
てあるかといふ事は吾人聖人の信仰に潟仰し特に『敷異砂』
にょて最も明らかに 他力
救済の味を頂きつ、あるものにとりては 頼る肝要な問題てある
吾人は特に前記二
歌異砂講義 序説
二十一
-
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-
-***
-
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-
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二十二
-
敷異妙講義 序説
十一箇條の張文の内容につきて一層精密に研究して共律法主義の計らひに勤して はつき
力強く他力絶封の救済を説かれし著者の精碑を発揮することは雷に歴史的の問題
てあるばかりて無く千古繰り返 へ さる、信仰上の問題として共眞意を味はねばな
ら ぬ。

厳。
日を








彼各 調が
鶴な

研する
にて全
に 記究子法
筆っき








改あ獣





大法較る
筆すると





っ見に





注なら
ねぬ


先 』







意ば あっ

縦難 寛 賜聖教共師判 於 背 説之輩 者有 衆徒之義定 項 所 博聖教被 海還


如何にも魔鏡なる日調てあって後人が聖人を奪むの除り師に くの霊を もるた
めなるべけれど親シ人の真意を去ること基しきものてある聖人は如来の はか
らひを信じたまひて特に本奪聖教を私の物の如く取返すといふ事は固く禁じ給 ひ
たのてある 『日博砂』上六章に 目く
一弟子同行をあらそひ本奪聖教をうばひとらむとしかるべからざるょしの事
しんき つ
常陸國新提の鶴 撃競聖人㎞の御前にて法文の義理ゆへに おほせをもちるまふ
*} を
聖たて

ひかにふ
、☆



てに
風の




にくけれ

法師
より
教とい情 たる






し、
親な物
ば流











かるに通来か
り字り
れ す自

わたくし

とも
といふ
い門







むび





べるっ な
方の
衆利
盆は
聖奪



べから
し〜


云繁に

か 國かる
便生教云昌中 こ
なす
いふ

とを
へ信、



の 心 を
ところ
つし


とり

んどりくる 聖本

と逆






常ず
あたる
づさ



またれ
ば 教き世らけたとみえ
として












こと







なり
す便る心
生 ともに
同行
みなれ

弟御

如来


べき
弟てな子子 ず
といふ



こと に



弟は
一人



ゆ子 すへ
その
となり
ざる
べから
しかる
はと
なはだ と奪

か聖、




ほの
い聖と
仰ふ

かな

ん儀



こり教せ人ら さ上

まて
るなを
た下
御門
ほ聖教
たる

され
あた



だめ
され

そば
し盤 外
と らるか教 、
なかんづく



こと
ふん
ふさ
べく
さへ
やし


聖の


ろ とる
わたさ
づは






は儀
てを
御の
弟境






なれ
こけ門 さふ




弟、
き下
御の



あ鼻
て突

にさ
るゞ
ざみ
づかり
れ子より

序説
講歌



二異

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れん



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歌異妙講義 序説 二十四
山野 にすつといふとも、そのところの 有情群類 かの聖教 にすくはれて、こと〜
くその 盆をうべし、しからば衆生利盆の本懐 そのとき満足すべ し、凡夫の執する
ところの財賞のごとくにとりか へすといふ義あるべからざるなり、よく〜 こ
-
\ ろう べしとお ほせ ありき。
『改 邪砂』第六 章 に 目 く、
一 談義かたるとなづけて同行知識に鮮橋のとき あがむるところの本奪聖教をう

ばひとりたてまっるいはれなき事
比意義は 上の『日 博砂』と同様てある、如何に も 聖人が寛 宏なる度量圓満なる人格があ
らはれてある これは世俗の寛大などいふ意味てはなくて本奪聖教は備物流通物に
して 我物 に あらずといふ 信念 から来 て あるの て ある、しかるに二 十 売豆個 修 の筆者は
共 意味 を 了解 せずして、正反 封 に 聖教を悔 ひ 還 さるべしと主張 して ある、獅 ほ最も著
-
しき正 反 封 は 張文の第 七條て ある、
一 松念備門生 十悪五逆信知面不可 犯 小罪
とあるを『日 博砂』下終 より 二 章目 には 旨共 正面 より正反 封 に共誤認 を指摘 して 正 され
てある( ㎞)目く
一、つみ は五逆 誘 法むまるとしりて しかも小罪 ☆ つくるべからず
といふ事、
シバのぼせばいはぐ世のひとつねに**
へ らく、小 罪なりとつみを おそれ お も ひて、と ゞ めばやとお ☆は ゞ
こころにま か
せてとゞ められ 善根 は修し行ぜんとお もは ゞ たくは へ られて、
これをも て大盆
をも得 出離の方法ともなりぬ べしと、この修旨共宗の肝要に
そむき、先哲 のロ授 に
違せり、まづ逆 罪等をつくること、またく諸 宗のをきて備 法の本意
にあらず、しか
れども悪業の 凡夫過古の業因 に ひかれて、これらの重罪をを
かす 是と ゞ めがた
く伏しがたしまた小罪なりともをかすべからずといへは兄夫こ、ろにまかせ
てつみ をばと ゞ めえつ べしときこゆ、し かれども、もとより罪鶴
の凡夫、大小を論
ぜす三業みな づみにあらずといふことなし しかるに小罪を☆
おかすべ からず
とい へ ば、あやまつ て おかさば性生すべ からざるなりと落居する
か、この修 もと
も思揮 すべ し、これ もし抑止門のこ 、ろ敷、抑止は 響奪の 方便なり
具宗の 落居は
瀬院の本風にきはまるしかれば小罪も大罪もっみの沙汰をしたくは止めてこ
歌異妙講義 序説 二十五
-
ー、「 ー
二十六
敷異妙講義 序説
そその訟は あれ、と ゞめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとく い へ ば
瀬 陀の本願に 騎託する機 いかてかあらん、誘法罪はまた備法を信ずるこ、ろの
なきより おこるものなれば、もとよりそのうつは ものに あら ず、もし改悔 せば む
まるべきものなりしかれば 瞬混闘シと響せらる、このゆへなり
之を以てみれば『日 博砂』には二 十売 個條の張文の主義即ち律 法主義のはから ひ を最
正面に正したまふことが明らかてある面して『日博砂」も「改邪勢」も豊如上人が如信聖
人 より面授 口 決したま ひたるところ を筆にし給 ひし事は雨 書の奥書 に記 され て あ
る、面して比『日博妙』は『数異砂』とは全然 一致してある、即ち『日博 砂』下終 より第三章 目、
一、如来 の本願は もと凡夫のため にして聖人 のためにあらざる事、
本願寺の聖人シぶり 御相承どて如信 上人おはせられていはぐ世のひとつね
におもへらく悪人なをもて往生すいはんや善人 をやと このことをくは弾院の
本願にそむき、ちかくば 響奪出世の金言に違せり(乃至 悪 凡夫を本として善兄夫
をかたはらにかねたり かるかゆるに傍機たる善 凡夫など往生せばもはら正機
ばう き しやうき
たる悪 兄夫 いかてか件 生せざらん、し かれば善人 なほ☆て往生すいかに い はん
や悪人 をやといふ べしとお ほせ ことありき
とあるは『敷異砂』第参章 悪人 正機の章 と全く同 意義て 言語逸同様 てある。又『日 博砂』上
第四章に、
一善悪二 業の事
聖人 親 盤 お ぼせ にの たまは く、某は またく 善き☆ほし からず、また 悪 もをそれなし、
善のほしからざるゆへは弾院の本願を信受するにまされる善なきがゆへに悪の
をそれ なきといふ は、弾 陀の 本願を さまたぐる悪 なきがゆ へ に(乃至)た ゞ 善悪の ふ
たつ をば過去 の因にまかせ 往生の大 盆をは 如来の他力に まかせて かつて機の よ
し あしきに は 目をかけて 往生 の得 否 を さだ むべ から ずとなり、これ によりて ある
ときのぶはせにのたまはくなんだら念備するよりなは彼 生にだやすぎ みちおり
ごれ をさづぐべしどひとを千人殺害したらばやすく往生すべしおの〜 このお
しへにしたがへいかんとどぎにある、人 まぶしていはぐ基におきては千人まて
はおもひもよらず、一人たりとも殺害しっべきこ、ちせず云云乃至善悪のふたっ
しくいん
宿 因のは からひとして 現果を威 ずるところなり、しかれば、またく徳生においては
歌異砂講義 序説 -
二十七
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歌異妙講義 序説 -
二十八
善 もたすけとならず、悪もさはりとなら ずといふ ことこれを☆て準 知すべ し。
とあるは『敷異妙』に於て 罪悪救済 の極を説き たまひし第宣章 及第十三章と言葉 ☆
同じく又唯圓坊に封する御教化の事質まて同様の事柄てある又かの最も有名なる
『敷異砂』の第二 章の『たと ひ法然聖人に すか されまみ らせて地獄 に おちたりとも さら
に後悔すべからず候」は「義持抄」第二章の 故聖人㎞のおほせに源空があら
んところ に ゆかんとお もはるべしと たしかに うけ たまはりしう へ は、たとひ 地獄 な
りとも故聖人 のわたらせたまふところ へ ま みるべしとお ☆ ふ なり」と全然同様 てあ
る。そして『執持砂』は 赤 豊 如上 人 の筆 てある、
己 上の諸文を相 封 照するときは『敷 異砂』は二 十 売豆個 條 日記に 正 反 勤 に立ちて、絶封
ひし事八年なれば面授日決したまふことは出来ぬ 等 てあるしか
に「故親 盤聖人御物語の趣 所 留 耳底 馴記 之」と云 ひ又結文には『露命
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-
シ 序説



●講


歌 義 -







書と



物御
き初め語〜
おり
まして
まし






聖震
、本に








そ『
あして
、 く
願寺
人してる 如
け撃




あて
同が

言と








内共
て る様葉容く 人
たなは

の 如豊
かく
あが






文の


覚如
たて
に筆
な稀

たる
上しかに
る章しる溢の
信て
にし
簡潔
力に
非は
文の







なれと
、 強く

られ
念あて
常章りえ
る筆 の
聖如

故に
あて
明は


撃人


また
受を


らか

直て
侍り
るたひけ化々 に
聖人
た、
いと
なふ
」ふさ
しかに
かせ

まひも

きつけ

ばひし
りらい か1
いら
かり か



おもむき
かい

さご




聖盤

たは

いと
云て


らと人ひ云 ど

ぶざ

まが
じき



おもむき
びじ
ぶさ




聖人
はま
いら
らすらりた
もを
不御

ひふ
たま
はな
うけ

ひあ
こに
、ほふ
ふ審さ

しめ



ととそどら
云之



















取云要 之
聖師












専之

日人心授七日
面人

先師
談話 七
徳謝
報。

聖師





下旬
仲*
暦之


元弘
夜之恩人冬学


存き
なと

ずん

ふさ



こと
なき
いし
こさ

&


*
じけらけそ

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-
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*** 『
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。。も-
敷異妙講義 序説 三十
右比妙者祀師 本願寺聖人親獄面授 日 決 手先師大綱如信 法師之正旨報土得生之最
要也余壮年 之往日添従三代 博持之血脈 以降鎮所 蓄 二奪興説之目足 池
-
云云
とある故に『日博抄』『改邪砂』は筆だけは豊 如上人てあるが、内容は如信上人の直話と言
ふ てもよい、共 上に 引用せる如く『日博 砂』『敷異砂』と同一 た る「善人 な をもて 往生をと
ぐ、いはんや 悪人をや」の文句のあげるとき 若くは 二 十 一個 條に 正反封のことを示し
たま ふとき「本願寺 の聖人先徳より御 相承とて如信上 人 お ほせられていはく」とか「お

なじき聖人の お ほせとて先師如信上人の おほせに いはく」とあるを以てみれば古来

博ふる如くます〜 比『敷異妙』は如信 上人の作たる ことは疑を容るべき 除地を見出
さ ぬと断言する ことが出来る。
然し落に一っ面自きことは「敷異砂 中に親盤聖人の封話として個人の名のあらは
れたるは唯圓 坊 一人てあって しかも 二度まても出 てある第九章に
念備まうしさ ふら へ ども踊躍敷喜のこ \ろをろそかに さふらふ ことまた いそぎ
浄土へまいりたきこ、ろのさふらはぬはいかにとさふらふゃらんとまずじいがで
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ー 三

けり
あて


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お坊





あり
不審
こなじ
りも




ひじ
うさ
のち

一。


ふさ



仰せ
とき
ひし
ふ人

仰と


すべ
一は



かし
らせ定ら









あて
な様

書が
た者




云云
さ申きれら*
ふと

ふっ



ぼ され
ま状

さ申
ふと
ふさ
さは




後者
然なら

うねば
れと筆

らんるにみ功









すと




あが


書て

追懐
か自
れ圓


を きらた
様るる らせ



子て
呼が
聖て




びかけ


いれ

見を

授文章

かにも
人る勢は


あて
なに


書が
自と

云ば
しひ

るさ

申し
ふと






も云

かららん後
あて
な様

ふ問

自」

云ば
しひ

うさ
って
いし
たま「


前者

云と
かられうる 、

に事



善章



つき
又悪



知て

こぞ
はと
まるべ




こと
いがふは
いふ



じき

さて
かにが
びじ
ぶら
じど

らぶ
ざぶ
はぶ
とも
べっ


てに
器の


さも
ずしこ量の てゃ

こ千

ひは
をたが
へびじ
ざうら
うん




ろが
ひあ
謎と
ひし
じだふら
ふさ



かさね
かと
まふ

らさ

こん



がとらぶ
びじ
じき
ぶら
じ中ど
さが


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ひし
ふの

ほせ
かと
信ずる
わは



とき
ある

また
らが

三序説

十講妙
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三十二
歌異妙講義 序説
に書きなをした本も出来たの かもし
夫を 他人 が書 寛するときに第三者 か書きた様
側から面り御覧じて書か
れ ぬ、されど聖人 が唯 圓坊と直々 封話の様子を如信上 人が
中ても著しき人て特
れたとも*へられぬこともない全鶴比唯圓坊は祀師の御弟子
見える 豊如上人も唯圓 坊上京の時共直
に善悪二業の事は除程有名な話てあったと
目く、
話をきかれたことが『幕騎槍詞』三の終に出 てある
侶上洛しけるとき封面して、日来
延慶元年冬 の比 常陸國阿和田唯圓坊と競せし法
の問題をあげて自 他数遍の談に
不審の法文において善悪二業を決し今度あまた
ありしかばこれに
*ょびけりかの唯圓大徳 は盤聖人の面授なり湖才罪説の名暴
封しても ます〜 常流の気味を添けるとぞ
救済のことにっきては深く頂
何にして*唯圓坊は久しく聖人に面授して特に罪悪
要するに唯圓 坊如信上人豊 如上人何れ
きて居られ た人 たることは確かてある之を
を霊 されたる獣は同一系統てあ
*祀師滅後の律法主義の計らひを正さんために力
もない 面して『日博砂』『改 砂邪』
る故に唯圓坊とするも如 信上人とするも格別の相違

の奥書の筆勢 から想像するに『敷異妙』の端書に
*
*
籍廻悪案祖期 古今敷異 先師日博之基信思 有後學相頼之疑惑幸不依有縁之知識争
得入易行之一門裁云全以 目見シ偲ガ宗旨
とある如何に も厳かなる文句 は 如 信上人の筆とみる方が穏常てあろう 何となれば、
既に 豊 如上 人 か 如 信 上人の事を先師と 呼はれ たるが如く又如 信 上人は親鶴聖人 の
ことを先師と呼はれた のてあろう、又 奥書 により 如信 上人が親鶴聖人 より面授 日決
され たことも明らかに 分かる、加之共「日博砂』の内容と『敷異砂』と符合 することが如何
にも多い故に古備の如く如信撃人の作てあらうこ、に吾人が深く威 ずべきことは
如 信 上人 の 父君 は善獄大徳 てある、それて親獄 聖人は善鶴大徳が員質 如来 の御慈悲
を頂かずして自力を雑 へられた共事は「幕騎槍詞 第四の第一段「最須敬重槍詞』五の第
十七に 出てある夫かために近づけさせられなんだとの事てある足が親盤聖人か血
統ょ り☆信仰の方を重 んぜられたからてある、夫程にせられたから又共善 震上人の
子の如信上人が常に祀父親総聖人を仰きて有線の知識と喜び 最も力強き絶封他力
の眞艦を継承したまひたるは如何にも美はしく唇きとてある如信上人は稲田の草
庵 の後田ょ り牧穫したる庵田 米を負ふ て箱根の険を越 へ 御 正 息に上洛せられたと
歌異妙講義 序説 三十三
* シ -" 「 -
敷異妙講義 序説 三十四
いふ 言 ひ博がある 程にやさしき人格てあったとの事てあるが、たしかに 比『敷異砂」は
基濃かな情か溶れて文字となったものてある 即ち「まごどにおれもひど もそらごど も 、ミ
* 、、、、、 、、、、 、 、、、、、、、 、 、 、、、、、、、、、、、、、?

をのみ まうしあ ひさふらふ なかに ひとつ のいたは しきことのさ ふら ふなり、その
へは念備 ま うすについて 信心の おもむきをもたかひに問答し、ひとに い ひきかする
ときひとのくちをふさぎ相論のた\かひかたんがためにまだ〜おはせ にでなぎ 、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、 、、、、、、、、、、、

ことを、お ほせとのみまうすことあさましくなげき存じ さふらふ なり』とある、如何
☆切質 な文字て ある、これ端書に『全く自見の豊悟を以て 他力の宗旨 を蹴ること莫れ』
とある獣てある即ち十章E後に一々撃げたる異議様々あれど要するところ他カの
御計を自分の計 ひを以て 蹴るからてある 依て共自分 の計ひ をやめて同一信心の行
者となれ がしと筆をとられ たのてある故に結文に『さいはい に念備し ながら直に報
、、 、、、 、いい、、、、 、 、
、 、 、、、、、
土に むまれず して 漫地に やどをとらん と、一室 の行者の なかに信心 ことなる ことな
も も も
がらんだめになぐ 〜筆を そめでされをじ るすなづけて敷異砂といふべし」とある
* も * *
吾人 は是より 各 章につき て味 は んと思ふ
第 一章、
弾 院の誓願不思議にたすけられまみ ら せて、往生をばと ぐる
なりと信じて念備まうさんとお もひたつこ、ろの おこると
き、すなはち撮取不 捨の利益にあ づけしめたまふなり 弾 陀の
本願には老少善悪のひとをえらばれず、た 、信心を要とすと
しる べし、その ゆる は罪悪深重頻悩 織盛の衆生をたすけんが
ための願にてましますしかれば、本願を信 ぜんには他の 善 も
要にあら ず 斜 備 に 引さる べ きゆ へ に、悪をも おそる べ
からず、弾 陀の本願を さまたぐるほどの悪なきか ゆる にと云云
本砂十八章の中て初の 九章は直接聖人の御言の儒を直々に書き示 され後の九章は
常時の異解に封して一々誤認を指摘されたものてある面して聖人の御言は積極的
に共信仰を言ひあらはされたるものて異解を正されたるは消極的に常時の疑威を
識められたものてある言ひ換ゆれば前は絶封地力の備の御はからひを仰がれたる
-
歌異砂講義 第一章 三十五



即ちるけ
らたる

和序とも

」 請
べェ
っ二


首れ讃文きめ 勤め
勤疑
を譲 牛

裏より
は疑


らた
めもと
みよろしい
聖人
が 面れのて き
なられ
もに
た らべのなく 初
ひけれども
違かの
、如自然

に よ分類

順を
にふ

書た
てもは
な奪


心 り序きのくぶせから
浮任て



書 ょ





時違
常正

さの
あ固
てょ
信といふ
り書もの

の間れる仰物 誓願
不思議

信たま
聖の
ふ自


あ後
は じ人っ願力 もの
誓不思議




自の
散は 後



自の
封行かひ



もて
あ獅
適言
にへ



力者られのる切

誓願
不思議

うが

ひた 陀







\

御名

す性
稲は

る 信心
まことに
うる
ひと
は 妙


講一
第章
義三


憶念


つし

ねに

報お
恩ひ

あずるり

さじん





雨面
らし
めと

軍 欧 牛
れ 信仰




威 表

より

を 面


-
-
-
- - -

*











べき
申す



とも
本の
聖親

こて


るれが
も色人あて






信を
不御

分共

が水嶺る シ
あて



ずる





思議 名

何て


あはも
%


*





け作

s
かは
かり
れるたらの
行ふ







不可思議
誓て
ひを



ひき


ほせ
とに



らき
願らおゆ

不説











可思議




第ひ
示を
給鶴



可しず



かは

不誓り
の ょ
正眞

なふ
」可思議
たま
しめ
づあ





願面りけ 捨



はす


とき
おの



ひもちたっうじ ぐ
とお
さん
まを




こる

なり と

往て

まいら
られ
たに
不思議
誓の








あて



すけ
生願る議の


あて
、の
まに

かは




あて
まかせる
かす
るらる か


自分
唯々
あて










思・
-る議

面U て 共信





要するに
あて


不㎞





信を

思議
るずる
歌異妙講義 第一章

宮殿のうおに五百歳
-

むなしくすぐ とぞ のべ たまふ

いし
}



-
- 』

疑ふとは何をか疑ふや 目く信ずるは警願不

*

三十七

-
三十八
歌異砂講義 第一章
人九 十歳の 勧化も唯 比 一 獣てある、彼 冠頭の二 首 を 拝し奉るに 前も 瀬院の名跳 とな
へ つ \」とある 後 も「御名を 稲 するとある 唯雨 者 の分 れ 目は 一 は「信心まことに うる ひ
とてある一はシ不思議をうシ sてとあるシ を見*るべしシまうさ
んとおもひたっ 念備には無義をもて義とす 撃意根本は一の念備てある されど弾院
の誓願不思議 不可稲不可説 不可思議が信ぜられるや否やが「敷異砂』一部の眼日てあ
る、故に 比第 一章は 聖人 直々の 御勤 化の眞 髄を壁労 頭 より提け られ た もの て、前九 章の
精碑とも言 ふ べく、廣く 言 へ ば『歓異砂』全鶴の 精紳とも 言ふ べき 質 に 甚 深微 妙の大切
なる章と申すも決して過言てはない
瀬 陀 の誓願 不思議 に たすけ られまいら せ て往生をばと ぐる なりと信じ て 念備 ま
うさんとお も ひ たつこ 、ろ の起るとき すなはち撮 取 不捨 の 利益 に あづけ しめ た
ま ふ なり。
法然聖人が『往生要集』を講じたまひしとき音 吐朗々と讃み 上げて「夫れ 件 生極楽の教
行は濁世 末代の目 足也道俗 貴践誰か 騎 せざる 者あらん、但し顕密の教 法共文 一 に非
ぐわんろ
ず事理の業因共行権れ多し利智精進の人は未だ難しとせず子が如き頑管の者登敢
て せんや」 と讃み 上げられ しとき闘 白 気質 公 は 威極まり て 延 を地 につけ撃 を放ちて
泣 かれたとの事てある。
如何にも法然聖人が他力念備に入りたまひたる御手引の「往生要集』を幼年より御者
年ま て讃みて譲みて 讃み破りて、南無 阿 弾 陀俳往生之業念 俳 貸本と御寛悟 の定まり
たる後 胸中無量 の 信念を以て、共文を讃み 上 け られたる ことなれば、如何 に あり かた
きことなりしか、今日 想像 し奉るだ に、涙を催す 次第てある、今我々が 質に比『敷異砂』開
巻最初 の 組訓 に封する に 質に同様の 威 に堪へ ざる 次第てある。
弾 院 の誓願 不思議に たすけられ ま おらせて、往生をばとぐるなりと信して 念俳ま
うさんとおもひたっ こ、ろのおこるときすなはち撮取不捨の利盆にあづけしめた
まふなり須らく病通し奉るべし 界論したてまっるべし完璧 容易に手を鋼る、を許
されぬ次第てある何たる慈悲深き瀬院備そゃ何たる偉大なる本願ぞゃ何たる深廣
なる不可思議 ぞ や、鳴呼 弾 陀の 誓願 不思議、質 に言 ふ べからざる 我等衆生の貸 の力な
る 裁、聖人 一代 の 教化の特色は 質に 如来 の本願 に 目 をつけた まひし 酷 て ある、聖人 曰
はく他力と言ふは如来の本願力也目く聞と云ふは衆生備願の生起本末を聞て疑心
敷異妙講義 一章 三十九
#*ーーーーーー
**ーーーーーー
歌異妙講義 第一章 四十
あることなき 之を聞くといふ 鳴呼 比本願な かりせば、我々 は何を信ずべき、我々 は何
を力とすべき法然聖人の仰の如く念 備は力てある されど共念備は質に選 探本願念
備てある 本願なかりせば念備は無意義てある さればこそ名 競不思議は即ち 誓願不
思議てある、私は常に御備 の御 慈悲を喜ばし て 貰て居る、されど御慈悲は 如何なる 御
慈悲なるかといへは我々如き罪深きものを助けんと警ひたまへる切なる如来の警
が即ちシてある卵々瀬院の測院たるの は何れになりや諾備平等一如より
来りたまふ 何が故に特に 弾 院備として影現したま へ る 超世の本願 なかりせば 弾 陀
備たるの要獣はない、十方微塵世界の 念備の衆生をみそなはし 撮取し てす て されば、
阿瀬院 となづけ たてまつる、鳴 呼 本願 あれ ば こそ弾 陀がある のて ある、共本願 あれば
こそ念備 の衆生をみそ なはし 撮 取 して す て ぬ のてある 故に比誓願 不思議 を信じ て
念備まうさんと思 ひたっ心の起るとき撮 取不捨の利 盆にあづけしめたまぶのてあ

、 衆
発生


気 救








の第十 八 願て あ


切 の 修行の 結果て あ
る、私は世上幾多の求道 者に向っ て警告 する 諸君は五 却 思惟、永 却修行の備 陀の、云何
にして存在するゃと云 へる問題は起りはせぬか、これ恐らくは多くの求道者の通れ
ぬ 門戸て あらう『抑も存在 する や。否やなといふ、冷 かな問題てある 斯の 如き言 を用み
る人は人間のシを駆として備院の存在と否とを確める積りてある人間の標準
て、誇 明 された備 陀なれば備 陀 より も人間の 智 隷 の方が確 なの て あらう、何となれば
人間の 智 隷 が尽 度て、備 院 はこれて計 られ たもの て ある。この方針てはとても、備 院 を
計る ことは 出来 なくなる。出来なくなるの が常然て ある。如来 の智 隷 海は、深廣 にして
涯 底なし、二乗の 測る所に あらず、唯だ備 のみ 濁り、明 に 悟りたま へ る。人間の 尺度 て計
られぬが常然てある事ろ人間相封の尺度て計られぬとが勝って来てから初めて絶
響無限の智悲たるとが分るのてある 故に五却思惟兆載永㎞の修行は凡夫見地の存
在たの何だのといふ位の話てはない質に〜無限絶封の大慈悲の顕現てあるその
大慈悲は 即ち比の 如き、五 却の思惟 に依りて、選揮 撮 取 したま へ し、超世の大願 即ち 十
方衆生罪悪 至極の底下 の 凡夫を、たすけずんば我 も自覚して 俳 陀たる まじとの誓 を
立て たまひ 不可思議 兆載永 却の間 に、菩薩の行を行じたまひし時、三業の修したまふ
数異妙講義 第一章 四十一
四十二
歌異妙講義 第一章
凝 つて
ところ、乃至 一念 一利 那も旨共質ならざる なく清 浮 ならざる ことなし その念力
知らず〜の間に成備したまふこと木の火答を以て火を燃して船っかざるに火著
に燃え 付きたるが如きものてある 共成備の結果が南無 阿瀬院備 てある、聖人 が力を
こめて弾 院の五却思惟の願をょく〜案ずればひとへに親獄一人がためなりけり
、本願 の
さればそこ ばくの業 をもちける 身 に て あり けるを、助け んと おぼし たちける
かたじけな さょ」と、の たまひ三信一々味 ひて、吾 々が不具 質 不信心 不 回向なる に就け
ても如来 菩薩の行を行じたまひし時を回想して如来の眞質 如来の身業如来の廻向
事質て
をよろご びたまひしは、比所て ある親の慈悲は 親が子 の貸 に苦勢して下さる

分かる、如来 は 一切の貸 に常に慈 父母となり、たま へり、常に 知るべし、諸の衆生は皆
れ 如来の子 也 世奪大慈悲 衆の貸に苦行を修したまふ こと、人の鬼魅に著 せられて狂
の賞
蹴 所貸多き が如 し、比事 質 に気 の つくまては 親 の 慈悲 か 分つた様 て 分から ぬ、親
を貰ふ ときは 難 有とは 言 へ ど共親 の 苦 勢を 知らぬ うちは 旨共の 難有味 を威 ぜ ぬ、我々
到 せ ぬ、
は 六字名跳 の 賞を得る も共本願 成就 の御 苦勢 か分からねば備の 御慈悲が 徹

共名跳を聞くといふ は、聖人は 備 願 の 生起本末 を聞くと 響 されたのも 御 光の次第
*
ある。
かく備は何が貸に苦勢したまへる 何が貸に久しく思惟したまへる 何か故に特に
選揮本願といふ、如何なる獣が超世の悲願てある、目く、五逆 十悪誘法闘提の罪悪深重
煩悩織盛の 吾人を助け んとの本願てある、運如上 人は質に噛んてく、める様に本願
を示 されて ある、目 く 阿弾 臨 如来の 仰せられける様は、末代の凡夫罪業の我等たらん
もの、罪は 如何程深くとも 我を 一心にたの まん衆生をば必ず 救ふべし」と仰せられた
り質に罪は如何程 深くともとは如何に廣大無 漫なる誓願そや 願力無窮にましませ
は「罪業深重もおもからず備智無漫にましませば 散蹴 放逸 ☆すてられず 世に 不思議
といs*賞といふこと多けれど足 の不思議はない不思議の不思議なる獣は足て
ある運 如上人『御一代聞書』に「法敬坊 違如上人 へ申され候 あそは され候御名 競焼申候
が六鶴の備になり申候 不思議なる事と申 され候 へば前々住上人その時仰られ 候 そ
れは不思議にてもなきなり 備の備に御なり候は不思議てもなく候悪兄夫の弾 院を
たのむ 一念にて備になるこそ不思議よと仰 られ候なり」とある 世に罪悪 至極の 人間
が備となる程 不可思議なることは ない。
第一章 四十三

*** 四十四
比の 如き瀬 陀の誓願不思議 にたすけらる、ことは 疑ふべき除地を見出すことは
出来ない、比本願によりてたすけられて往生を途 ぐるなりと信ずるなと申ざる、☆
信ぜすには居られ ぬ様 になる 弾 院 観音大勢至大願のふねに乗じて そ 生死のうみに
うかみつ、、有情 をよばふ てのせたま ふ」弾陀の本願 は比の 如き救の船てある、助けの
呼撃てある 吾人は共願船のましますことを聞きたるときは共不思議によりて たす
けられて往生を遂ぐるといふことは一酷も疑ふ ことは出来ぬ 若しこれが信せられ
ぬ ものならば未 た自分が生死の苦海に沈論しっ 、あることに気づかぬ からてある、
善導 大師が吾人 の境遇 を描かれて「我 身は現に是れ罪悪 生死の 凡夫 噴 却ょ り己来常
に沈み常に流轄して出離の縁あることなしと深信 せよ」と仰せらる、何人も常に 日
にする文句ゆへ何とも想はずに居る 競かす甲斐こそなけれ村雀耳なれぬればなる
こにぞのる 我等は質に耳なれ雀てある善導大師の比言は千古動かぬ確言てある旦
っ共一言一句悪く金輪より生へぬきたる魔の如くてある我勢はとは信仰問題の眼
目てある、是が人 並てあるなど思ふ て居る間は 我身は誰より も悪性 罪業の深き 凡夫
てあるとは分から ぬ 聖人も「そこ ばく の 業 を 持ち ける引と繊悔し たまふのてある、さ
* * *
れば こそ 喜びたま ふ ことが出来るのて ある、そして 現に 是
れとは即今現在比私が罪悪を犯し生死に苦しみっ、ある凡悪てあります そして気
の つきたるは 質に 昨今て ある、されど我等は 噴却 の昔 より迷 ひつ 、あるの
てある、無
始の昔より苦しみっ、あるのてある聖人は無始より己来乃至今日今時に至るまて
と仰せられてある『に人㎞の書より現在*"にョるまて引きてあるシ
の苦のみならず前途未来 も赤同様の涯 底なき生死海て ある常に 沈み、常に
流轄して
出離の繰あることなしてある 出離の縁あることなしとは質に最終の宣告てある善
事大師は我今難らは赤死せん催 らは赤死せん かば赤死せん、一種として死を免れ
ず」と言ふてある、起て 居ても 一分 一時も安らかな時はない、罪悪は具足して
居る 生死
無常の世界てある罪悪も無常も極りてある 一獣発るべき除地を残されぬ比の如き
我 身の上に弾 随の誓願不思議の願船 がある 西岸上の喚撃がある共願船に
助けられ
て、生死の苦海 を解脱して、安楽世界に 往生 さして 下さるのてある 故に 弾
随の誓願不
思議にだすけられ まいらせ盤 生 をはどぐるなりど信じでとある又比の如き我等が
比の如き喚撃をきかばかく信ぜざるを得ぬ のてある
軟異妙講義 第一章 四十五
--- - -- シ -
歌異妙講義 第一章 四十六
信じてとはたった一言なれ共千萬庁の力てある北の如き力強き警願不思議あれ
ど、之を信 せざる かぎりは 我 力とは ならぬる 列3丸風 類カの 制引
あつ も 信心 の 手を「の べ て「N を づか ねば た ず から ぬ、されど比の 如き弱き我等、比
の如く弾きカをきかは之を信せずには居られぬ 否々基弾きカの に信せしめる、
のて ある、獅きり つめて 言 へ は共御 力が我等 の 上に届い て 下たつたのが即ち信ぜ ら
れたのてある 疑はれ ぬ やうになったのてある 疑はれ ぬ は我力て疑は ぬ のてはない、
備の慈悲が力強きため 疑深き我身が疑 ふ ことの出来 ぬ やうになっ たのてある、思 へ
は思へは質に不思議てはないか今が今逸弾 随も本願も信 せられなんだ人が鳴呼比
の 如き弾 確 大悲 の誓願は 私 一人 の貸て あるといふ とは 豪 髪も疑 ふ ことが出来 ぬ 様
になったそして今が今逸どうかして出離せねばならぬ 足非とも屋を撃ち上らねば
なら ぬ と苦しみ つ 、あつ たも のか、自分 て出 離する 線は ない、力て 上れる もの ては な
いと深信すると同時にいっの間にか如来の風船に乗託さして貰った如来の綱が何
時の間 に か手に あつ た、貫 に不思議て ある、不思議を信じて 初めて 不思議 が味はれた、
今造の苦悩が一時に去った生死が気にか、なぬ様になった親の様に地かれっ、あ
る心地てある 質に身は梁姿にあるも心は往生を得たのてある 有瀬の機身はかはら
ね ど心は浄土にすみあそぶ不思議とも不思議とも異質 の不思議てある 五湖闘曲の
有 樹 の 選標本 願 信ずれば 不可稲 不可説 不可 思 調 の 功徳は 行者 の引 は 外dり 引 で
弾 随の誓願不思議 が怒ち我々の胸中 に宿 つた不可思議 となった、是が金剛堅固の信
心、絶 封不二 の信心て ある。 "、
比の 如く我々が胸中 如来 の御慈悲を信 ずれば自から念備 は 湧き出づるのて ある、
一たび水ある地層に達すれば自然に水は海 れて湊 々として止むときはない“弾随大
悲 の 誓願を深く 信せん ひと はみな ね て☆ ッ め ても へだて なく 南無阿 闘 臨 備剤
ふべし 少しも計らひを挟まねども自づ から念備は 稲 へらる \のてある、一念とは信
築開務の時刻の極速を乾す、一 たび信楽開務し ぬれば自然と多 念の念備は稲 へらる
のてある今は貫に共一念の心持をかく適切に示したまひてシ備 まうざんど思ひだ
っ心の電 るどきと宜ひたのてある 真質の信心には必ず名競を具す名競には必しも
願 力の信心を具せ ざるなり」口 に 念備を 稲 ふればとて 必しも如来 の御 慈悲 を信じた
ものとは言へぬ 何んとなれば現に誓願不思議をうたがひて御名を稲するひとがあ
歌異妙講義 第一章 四十七
- - - ----- - - - - -
-
四十八
歌異妙講義 第一章
る、されど具質如来 の御 慈悲を信ずる 人なれ ば、稲 以 る な も稲 へ 引 に は居 られ
以「稲 ペ んと欲し て稲ふるにあらず して自から出て くるのてある 厳はんと欲して蔵
ふあたはざる有様てある 劉u剤は神は包み引り今賞引g引あまりぬるかな
威謝の念備は憶念の源泉より流れ来るのてある 弾院の名競 となへ っ、信心まこと
に うる ひとは 隠念 の 心つねにして備恩報する お も ひ あり 故に眞質の信心だにあら
ば日にあらはる、とあらはれぬとの匿別はない信楽開務の 一念に念備まふさんと
思ひたつ 必起りて、未だ 日 に出てざる中に 既に業 に往生の業事成携 して撮取 不捨の
利盆にあづけて下さるとの適切なる御教訓てある比 の 加 ききはどききりっめた御
教訓は『敷異釣』てなけ ねば頂くことが出来 ぬ のて ある、
撮 取不捨の利 盆にあづけしめたまふなり前にも言ひしが如く掘取 して すて た
ばざるが 闘 随の瀬陥 たる獣てある 本願の本願 たる獣てある 共弾随本願の力が事質
となりて行者の上にあらはれたところてある諸君も知らる、如く聖人は「信巻末に
信心の現生十種の利益があけてある若し数へたてたならば無量の徳てある 約めて
言へは 一 って他を皆こもらせることも出来る撮 取不樹といふ は「Tた
悲引受 引 たもの なればいかに するも如来 の 悲 熱 以 り離 る 、ことは 出来 ぬゴが「び 九
Fは 知らね ども 共 光 の 中 を 出つるJ国 間 弱 ぬ「願圏 に な
こさ ペ られて撮取の光明みざれども 大悲☆の刃 なくd っ料にわか 引照引
なり』かく撮取の心光に撮護せられてみれば根本の 立場が、一轄して無明疑惑の闇は
れて 如来 の 御 慈悲は 疑は れ ぬ、故に 時としては 貧愛 眠幡mの雲霧 の貸 に覆は る 、と あ
るも、そは 信心を覆 ふ にすぎざれば、貧愛 の波 去り、瞳 憎 の炎 退くるときは 信心の 白道
は金剛不壊てある足即ち我能く次を護らむ水火の二河に魔せんことを恐れされと
の心光撮護の参てある事質を以て之を言へば人が び 備 の 御 慈悲 を 信じ た 上 国
境遇によりては あり 喜ぶ お もなくなり種々 の逆境に 陥る やう の事ありて 一時
☆- 「たび 闘は「り たる 信心は 金剛 堅「
固て根 抵 的に「ロく する ことは出来 ぬ 寧ろ自ら之を 亡くせんと試みる も亡くする こ
とが出来 ぬ 「御一代聞書』に目 く 有人撮取不捨のことはりをしりたきと雲居寺の阿弾
陀 に斬 誓あり ければ夢想に 阿 弾 陀の今の 人 の 神 をとら へ たま ふ に、に げけれども、し
かととらへてはなしたまはず撮取とキはにぐる者をとらへてをきたまふゃうなる
歌異妙講義 第一章 四十九
こと、こ、にて思付たり足を引言に仰せられ候とある、一たび弾 院の警願不思議を
信ずれば 日に念備となりてあらはれぬ利那に既に比の如き退韓出来 ぬ撮取不捨の
光 奪 中に おさめ いれて下さる ぞ よとの 御 祀訓て ある。
弾 陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず た ゞ信心を要とすとしるべしその
ゆへは罪悪深重煩悩嫌盛の衆生をたすけんがための願にてまします
、瀬 院の本
是れ上に 撃げた る弾 院 の誓願 不思議 の不思議 たる 獣を示し 給 ふ のてある
畑には十方衆生と呼びかけたまふのてある低に十方衆生とのたまふ以上は如何な
る善人も如何なる悪人も皆比中に波る\ことはない 法然聖人自河の御房に於て夜
いづれ の機
もすがら御 説法した まひし時 の たまは く「もとより 十 方衆生 の貸 なれは
、聖人、持
かもれ、いづれ の輩が 捨て られ む、十 方衆生の なかには 有 智 無智、有罪、無罪、凡夫
戒破戒 若は男若は女善悪の人乃至三質滅霊の時の機まてみなこもれり」と質にこれ
方衆生と
様の下の 耳 四郎をして 改悔機 悔 せしめ たる御 教化て ある御 言葉 の 如く十
云へる御呼盤は老少善悪 貧富賞購買悪男女道俗 すべて 一切群生何等の匿別をも見
の 如く弾
とめたま は ぬ 無縁平等 の大慈悲 を示し たま ひたる御言葉 てある、蓋しかく
陀の本願には何等の匿別もなく継ての人を簡ばず平等にむかへ たまふ ことを著し
く示した まひしは 慈 欧惑 三蔵の御 響文て ある。曰く、
彼 備 因 中立弘誓 聞名念我継迎来 不 簡貧窮 将富貴
不簡下 智 興 高才 不簡 多聞 持浮 戒 不簡破戒 罪根深
但使廻心多念備 能令瓦磯鍵成金
親 ㎞ 聖人 は『唯信 砂 文意』の 中 に 比 澤 文を 和らげ て 窓 々 と示し たまひ て ある 『帖外和讃』
に も 之を簡単に 述べ たまひ て「多聞 浮戒 えらばれず、破戒 罪業きらはれず、た ゞ よく念
する ひとの みそ 瓦 磯 も金と鍵じける」とある、一言身 に 必 み渡る金言て ある、又『信巻』に
ーQ
引用したまひし元照律師の響文にも左の如く云ふ てある。
念備法門不節 過智豪曖不論久近善悪唯取派シ信臨終悪相 千念性生比乃具博見
過 層治下類利那超越成備之法可 調 世



上の惑路三蔵の 輝文を「唯信砂文意」に和

、ら
富貧て
はと

を る
あ文鍵


ず貴窮る字
社 へ 撃げ て ある、質に聖人御 眼 に 止りた


を智


ば才
簡す
多聞


ばす
持て るを 、破戒と罪根 の深きとを簡 ばす
歌異妙講義 第一章 五十 一
- -
- - シ
善悪の人をえらばれずとはこれてある 併比等の文字 を単に文字として味ふては弾
といひ又恐智豪殿を簡ばす人近善悪を論せずといふ今本文に郷院の本園には老少
陀の本願 を頂く とが出来 ぬ、眼前 の事 貫 て 知らして貰 はねばなら ぬ 数 年前 久しく私
亡くな つたそう て ある、年 は

の所にて張面を附けたり雑誌の封紙を書きたりして居りし小僧さんが先日病気て
g
はん
能ば























さら
以ずべくえの



























、 るらな
念品れ
し ずるらたと



あ所

臨悪
なども
和十念
往生

とへ




あシ
れる終れいる 抱き













う、
を心大


久ず
てく
亡しる中び ぬ
なづき
しから と事

知した










心に
なたま
とて
へ共


いふらいふ
に持り 来




説て
聞唯


せと
勧たる











出かせ
悲きよめしと来 む












たため
臨及
にて



如きっ親
仰っ終びめ を















絶心麻痺
て 亡られ

た 前食臓 る
らたくな は


N
聞て
悲の




如御



頂は
老の


なdd
き哀来く少き

歌異妙講義 第一章
阿可

i






な死
しそう

てがらた
-

五 十二
め十念を具足して 南無阿瀬院備と稲す備名を利するが故に念々の中 に於て入十億
引 生死の罪を除く」とある、然るに今話した人の如きは日に稲 へ ることすらも出来な
んだ唯 鳴呼難有は頂きた ゞけて日まても出ぬのてある足こそ質に闘随の誓願不 思「
*ー*ー*ートートしなし、し、し*ーもしもしトートー*ー
議 に 助け られ て性生を途 ぐるなりと信じ て 念備ま ミ さん と 思び だつこ、ろ の 起 る
どぎすなはち撮取不樹の利盆にあづけしめたまふなりの『鶴的の御教化てある
かくの如く若きも老みたるも善人も悪人も臨終悪相なるも 心にあり 〜と備を
念ずることが出来ずともたとび撃に出して念備を稲ふることが出来ずとも 夫には
拘 はらぬ、されど唯一 っ如来 の御慈悲を頂きて噴 却 己来久しく沈み つ 浮みつ今日 に
至り、また末来 永々 却唯苦悩の漫涯なき私を悲 欄したまふ、大慈 大悲の御親心を承り
て鳴呼 難有 いと 一念信ぜ させて頂くのが肝腎てある法然上人が白河 の房にて御説
教 のとき☆”その機を い へ ば 十 悪五 逆 四 重誘 法蘭提破戒 破見等 の 罪人、その 行を論 す
れば十撃 一撃いかなる要見もとなへっべしその信をい へば、一念十念 いかなる愚者
*をこしっべし とある 如来の御慈悲はいかなる者も簡ひなき御慈悲てあるか之を
頂くのは信心の一 ってある 上に撃げたる「和讃」にもだ のみ 、 丸
敷異妙講義 第一章 五三
-
数異妙講義 第一章 五四
uげォd ある又元照律師の響文にも唯決 警発信を取ればとある前の本
文にも往生を遂くるなりと信じてとある念備まうさんと思ひたっ心の起るどきと
ある即信楽開発の一念てある今本文は殊に共獣を著しく御示したまひてたい 信心
を要どすどじるべじと力を込めて押へて下さったのてある十方衆生の御呼び盤は
何人も簡 びなきも三信十念の信行即 信する 一 つ 行する 一 つ 獅手短かに言へば如来
の御慈悲 を難有 いと頂く信心 一 つ助けて下さるのてある 信心とて 外 の事があるて
はない知来の御業悪に気附かせて下さることてある上に撃げた小僧さんも微笑し
っ 、御助けを仰ぎて念備しつ 、亡くなった務狂の人も心に御慈悲を嫡しく頂 かれ
たのてある「和讃」に五 濁調 世のわれ らこ剤 酬の信心はかりはむ 剤 列引引
ーーーーーーも「



*トー
日然の浄土 に いたる なれ 金剛堅固の信心の3 だ る と て、ど弾院
の心光編護してながく 生死を へだてける 比金剛堅固の信心は自分の起す信心ては
ない、如来ょり起したまひ、如来 より賜はる信心てある、すなはち本願に信行を誓ひた
まひたるが既に如来の回向成就職したまひたる次第てある
先日 態々薩摩 の國ょり 求道の貸 めに上京せられたる人があった御自身は 如来の
御 慈悲 を喜ばれつ 、あるが、年来 一 つの 不審 ありとて 心を開きて 披 歴 せ られ た、夫は
こうてある 抑々 如来様は如何なるものをも闘はず助けたまふ 廣大無漫 の御慈悲を
垂れ たま ふ に 貫 に 恐れ多く申し上げ にくき事なれども、何 が故に 信ずるものを助く
る、たのむものを助くるとの御 仰なる や、如何なる ものて もと呼び掛け たまふ こと質
に嫡しき限りなれど 信ずるもの、たのむものとある御 一言が際立ちて何となく魔大
無 漫 の御 慈悲 に限り が出来、漫際が出来 た やう に 思は れ ます、こは 必ず何かの 誤 とは
存じつれど同じことなれば信ぜ ずとも、たのまず とも、との 仰 を蒙り たき 心地するは
如何の ものに 候は ん、こは御 慈悲 に慣れたる横着なる 心とは 豊 悟 は しつれど年来不
審のはれやらぬふしに候 へば遠方より尋ね参りたる所訟に打明けて教を請ふとの
事てあった質に思ひ切った尋てある北尋が譲者諸君の胸中に如何に響くか之に答
へて信ぜればならぬ たのまねばならぬと言はんか 査々不審を増すのみならず却て
自力に 陥らし むること、なる、然らば信ぜずともよ いたのまずともよい と答 ふ べき
か、近 時 行は る、無條件 の救済とか、た ゞ の御 助とか いふ 言葉は 成は 比の 如き 意味 に
用みられて居らぬか 少くとも比の如き誤解を来たさしむる慮がなきか比問に勤し
歌異砂講義 第一章 五十五
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敷異妙講義 第一章 。 五十六
て 然 りと答 ふ べき か 否 と答 ふ べきか、言 へ ば間違 ひ言はねば 分からず 抑々法門 と心
得 て居る 間は 如来 の御 慈悲 は頂け ぬ、私 の答 は 左 の 如くてあつ た
抑々如来の御慈悲を頂くに自分が如来様と衆生の間に立ちて横から傍観して居
る 心持 て居る ゆえ 分らない、自分が如来 の仰 を取次ぎて衆生に 届ける 心持 ゆえ、同じ
ことなら信ぜよたのめの御言がなかったならば衆生が頂き安きてあらうなどと思
ふ のて ある、是は軍意 信心と引換 に救済が興 へらる 、やう に 思ふ からてある、全鶴信
仰間題は如来と私との間題の外はない人に説くのは自分が如来の仰せを加く心持
を告白 すれば よい の て ある、さて 我々 が如来 の 仰せを頂く心持 を 考 へ て みる に信ず
るたのむといふは如来の御慈悲を頂く條件てはない、如来の御慈悲の頂けた心持 て
ある、如来 の御 慈悲 に気 の附きた 一念て ある、比 一念なし に 御助けを得 やうと思ふ は
入口 を通らず に家に入り たい と言 ふ や うな ものてある、本願 に 比信心を御誓 ひ下さ
れたは基入日を知らして下さったのてある基入日まても御成就下されたのてある
信ずる ものを助くるとの御本願は 即ち信ぜしめて助けて下さる 御慈悲 てある『信巻」
え あく お せん
し て清浄 の 心なく、虚 暇 語偽 にし て旨具質の 心 なし」と仰せ られ て ある、我等
自身ては 県
質もない、信心も ない、回 向 心もない、故に 如来は 我 等に 封して 旨共質
を以て大慈 大悲を
起して回 向したまふとの事てある、比如来 の 大慈 大悲を 聞き て五言等 は信ぜ ざる を得
g やうになる 之が即ち信心てある故に吾等が大慈大悲を頂くことの出来るは全く
本願 に 信心まてを成就 したま ひたる からて ある、如何なる悪人 て も
信ずる ものを助
くるとの仰 は 如何なる悪人 ても信ぜ しめて、助くるとの 仰 て ある、かく
薩摩 の方 に御
答をした、今本文 に信心を 要とすとしる べしとい へ るは 比如 来 の御 慈悲を頂く
信心
一 つ は肝要 て ある、との御 教化てある。
そのゆえは罪悪深重煩悩織盛の衆生をたすけんがための願に てましますとはい
よ 〜 本願 の賞面目 を正面 より言 ひ顕は され たるもの て ある 瀬院の
本願 は十 方衆
生 いかなる人間も闘はず老少善悪男女賢悪の匿別なく唯備の御慈悲を仰ぎ喜ぶ信
の一 っにて助けらる、所以のもの 抑々本願の眞意は罪悪深重類悩織盛 の人を助け
んとする 魔大無 漫 の御 慈悲てある からて ある、是質に『敷異砂』全部 を貫徹
する骨髄て
ある、面して 正に これ親 盤聖人 が本願 の 正 意を開顕した ま ひたる 眼目て
ある、抑々『大
歌異妙講義 第一章 十七
五十八
敷異妙講義 第一章
無量義経』の本願に十方衆生とあるも如来の殊に悲棚したまふは凡夫てある 人て
ある されば響奪は唯五逆と講誘正法を除くと誠めて邪見に陥らぬ ゃっに 勉めた。
ひしかと述には王舎城中に大騒動が起り大隠謀が企てられ大悪連が行はれたシ
は標奪に謀叛した 備の教園を破壊せんと企てた加之備の大植越たる摩詞
沙羅王の太子阿間世を教唆して基父を残書して王位をシせしめんとシ
世太子は父王を績に投じて食を興へない園の大夫人掌提希は密かに食を運んだ阿
闇世 太子は怒りて 赤 母を猿 に じた、草提希は獄中に秋 夏権 棒して俳に請 ふ て備を
*められた備自ら集中に入りて法を説きたきたまsたが即シ である。
逆の罪人阿間世王も出来た排読正法の悪人提婆も出た現んゃ女子たるシ人
は最も悲惨たる境遇に陥り 頻婆沙羅王は死に垂んとしっ、ある地時に常*て大聖
響奪の興 へたまふべき法は他にない阿弾陀備の大慈悲のみてある*提希夫人は堀
陀の浄土を鷹 業して如何にし て之に生るべきかを尋ねた備微笑して出世の素 振を
あらはし草提希に告げたまはく 次今知るや否や阿弾陀備比を去ると遠からず 改正に
念を繋けて彼園の浮業を成したまへるひとを観すべし と聖人は「化巻」に比語を し
たまひて本風成就の霊十方無例光如来を観知すべしとあるいょ〜本風の正意を顕
はされた下品下生にいたりては五逆十悪具諸不善の悪人も十撃稲備の下に助けら
れた 猫中の頻婆 沙羅王も備微笑の光明を拝して安慰を得て腹 せられた、父 王を殺し
た 阿 闇 世 も終には後悔 痛恨 して 憂関機 悔共極に 達して 遂に 赤備 の大慈悲 を蒙りて
助けれた足れ質に罪悪深重類橋様盛の衆生を助けんための風 が事質上に顕現し来
ったのてある さればこそ聖人が『教行信誇」開巻に 難思の弘誓無得の光明を撃げて直
ちに「然れば 浮 邦 縁 熟して調達 闇世をして逆害 を興ぜ しめ、浮業機 彰れ て 響 迦 堂提を
して安養を選ば しめたま へり 云云と説き、また『信巻』の 終り に は長 々 しく『混撃経』の 阿
閣世王が大類問の後 信仰に 入りたる事 質を示したまひて本願 醒 醐の妙薬てあると
説きたまひたのてある地事質は詳しく弧著ェ」の中に叙述し又 g仰間題の中の
信仰論の下にも論じ霊してあるから比には略して唯比の如き大 悪人阿間世 王が信
仰 に 入られ たときの 心相 を述べ てみれば、今まて 後悔 の 念 止みがたく、問 へ 苦しみつ
、ありし阿 閣世 王が今まて 怨をなせ し備 陀 より 却 て 非常 の恵み を頂き備 陀は 窓 々
としてたとへば病子 に封して父母の愛偏に 重きが如く如来 ☆ 殊に罪あるものに 封
歌異妙講義 第一章 五十九
軟異妙講義 第一章 -
六十
して 心偏に重しといひ 頻婆沙羅王往昔備を供養せしが貸 に王となり 基 王位を貧る
が貸に次之を害した次第てある故に 次若し罪を得べくんば諸備世奪☆赤た従て罪
を得たまふべしとまて説きた まひた、そこて阿 闇世王は怒 ち大 歓喜を生じて大に 備
の御慈悲を喜ぶ心が個に生じて来たそこて魔じて目く世奪我世間を見るに臭き伊
蹴手より伊蘭樹を生ずるを見た未だ伊蘭子より香しき務権樹を生ずるを見なんだ、
しかるに不思議なるかな今始めて我身の如き臭き伊蘭子の身中に藤きもせぬに梅
植の如き香はしき信心が生じた我古より備法僧を信ぜず遂に空しく地獄にて永く
苦 むべ かりしに今備を見奉りた御薩て助けられた、比備の功徳は我斯かるのみなら
ず衆生の悪 煩悩を破壊して下さるに違ない と喜ばれてそこて備は善哉 々 々 改 質 に
一切衆生の悪心を破壊する源を作りだと褒めたまひた阿 闇世王は威激の除 り備に
威謝して目く、
皆是如来子 世奪大慈悲 貸 衆修 苦
如来貸 一切 常作 意父母 常知諸衆生
行 加入著鬼魅 狂避多所
これ質に信仰の極所てある親賞聖人は比言を自分の上に引き常て常に喜びたまひ
たものと見 へ て 晩年の作なる『聖徳 和讃』の奥 書にかきて ある、又『信巻に』阿闇世王 の文
を引く悲 哉 愚秀賞 沈没 於愛欲 廣 海 迷惑 於名利 大山 不、喜入 定 緊之数 不快 近 貢 誇 之謎
と繊 悔 したまひて ある、そして『敷異録』は共 聖人の自督 を傾けて 罪悪深重 類機織盛

衆生を 助けるが貸 めの願 にてましますとの べたまひ たのて ある、是れ 比講義の初め
に申せし如くわが御身にひき かけて我等に如来の御慈悲を知らして下さるのてあ
る、近代の念備 者 後藤耐護 老師の臨終の 御 機 悔が何より 難有 い、曰く、極重悪人、無
他方
便唯 稲瀬 陀 得生極築、
扱 て『敷異妙』次の御 言葉に「し かれ ば本願 を信 ぜんには 他の善 も要に あらず、念備に
まさる べき善なき ゆ へ に 悪をも お そる べからず鋼 昭 の本願を さま たぐる はどの悪
きが ゆ へ にと云云」と いかにも聖人が本願を信受 したまへる 確信の極酷を霊され
た御言葉てある 本願は 質に 絶封の力て あるシ 備は 封の善てある、この絶 封無
限の 大慈大悲 の本願 念備の前に は 他の 世上相封 の善の 如きは、善 として成立 い、
また我等が罪悪の深重なる質に極りなしと離 闘力無㎞にましませは罪業深重も重
しとせ ず」質に悪 も悪として成立 たない、鳴 呼 質に魔 大なる本願 力てある、聖人の『和讃」
歌異妙講義 第一章 六十
六十二
歌異妙講義 第一章

名競不思議 の 海水 は
逆誘 の尻 骸 もと、ま らず
衆悪の萬川 騎 し ぬれば
功徳 の うし を に、一味 なり、
とある 総封無得の弘園 一乗海のうちには如何なるものても皆同一鉱脈てある本園
を信ぜん には他の善 も要 に あらず、たと ひ河 の流は清ければとて大願 海 に 流れ こむ
ときは共清きを歓び迎 ふる譚ては ない、念備に まさるべき善なきが故に、いかなる 清
き流れも、同一職味の職の清浮なるには 及ぶ ものはない 悪をも おそるべからず、たと
ひ流 濁ればとて 大願海は決して 之を拒み鮮 する譚てはない、弾 院の本願 をさまたぐ
る程の悪なき が故に、如何 に 濁 ればとて臨 の味を妨 ぐるほどの濁 はない のてある、い
かにも廣大なることてある、こは質 に『敷異妙』一部の骨子 たる弾 院 の本願の御 力は善
悪二業に か、はら ず、すべて助け たまふといふ 聖人の確信 を示 され た ものてある 「ロ
博 砂』上第四 章に 善悪二 業の事 につき述べ たま へ る節 に 目 く、
----
* * 、 し →
-
上人親常 おほせにのたまはく基はまたく善もほしからず また悪も おそれなし善
のほしからざるは弾 陀の本願を信受するにまされる善なきがゆ へ に悪の おそれ
*
なきと云ふは弾 院の本願をさま たぐる悪なきがゆ へ に 云々。
鳴 呼 如何にも我等は善を貸 さんと思 へ ども思ふ やう に善をも貸すべからず、悪を避
けんと思 へ ども、悪は ます〜 織 てある、面して 善 が出来 ないと豊 悟は して も、やはり、
善は欲する のてある、避けられ ない 悪 の貸 に身 を焦す 恐れを 抱きつ 、ある のてある、
所請願厳に牛は身は落ちて居ながら撃ち上らんともがきっ\あるのてある否身は
落っれば落っる程 *が、さるを得ぬ境遇てある面して共者を後方より確かと艦み
たまひて落したまは ぬ 唯一 の救済力が弾 院 の本願てある 質に嫡しき弾 陀の誓願不
思議てある、比誓願 不思議 にたすけられ て 件 生を途 ぐることを信じてみれば、もはや
善 もほしからず、悪も恐れなし唯々 我等の 一身は 任せて大慈 大悲の 本願 に あり、唯こ
の本願の力に提まれてみれば我等は徒らに自力を以て撃ち上らんとてもかぐ必要
もないまたたとひ*がきてみればとて比本風力に提まれずんば我等は空しく草や
木を襲みながら落ち入るのてあるこの自力て提みもがくのが即ち他の善てある後
数異妙講義 第一章 六十三
ほし
から


聖の
仰られ


全我
、等

出ない


たに
苦っ
あ人せく
、 しみ
来める に











なて
あ比
如大慈
の大悲





てれるき明れ 如上


一の
教六
を信
字相
示た
をまし





き代化しひとる る
こて




以て の

あ、
た刃


て\

ののむ
あ、


ずてがる
るる 心
あ、
運 に
あて

信、

にり心ら みれ
あれ




押 ば






ひ心
















あたっ
てんちるけ
らて






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なと
信たる


即本願



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あ、
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れりじちたる て

あ、
こは

ふて

な信








あ職


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るれまく
思議
る ある
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ざる




本を


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なが
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は願るさきる 他
た眞

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まべき

なが




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らきひし 方
よ我


みま
撰力


本て
あ、





即本願


ぜに

りた願るちん

養せら
るる


なて
みば


かべき
自力


な少し
。育りれく 一寸


注を


たは
本に




い『





本を
は信

すとい
意き文ひ願る



講第
妙章

義六

いた




とは







もの に 向 つて の唯一 の徳音て ある。
次 に 悪をも お そるべから ず 弾 院 の 本願を さま たぐる 悪 なきがゆ へ にといひ 或は
悪 の おそれなきといふ は 弾 陀の本願 を さまたぐる 悪なきが ゆ へ にといふ は、この他
の善 も要に あらず、善 もほしから ずといふ の よりは 一歩進みたる やう にきこ ゆれど
軍意表から言ひたると裏から言ひたるとの匿別にして全く同じ心持てある 身は牛
ば 暫 蔵 に 落ちて自力て鍵 ち上らんと企つる は自分 の 身 の重 さて下 に落つるを 恐る
るからてある、抑々 人間が自力善を勤むのは 自己の罪悪深重を恐る 、からてある 他
の善も要にあらずといふは抑々自己の罪業を恐る、ことのなくなったからてある、
如何に身は重くとも後より我を撰 むところの力あることを信 智すれはもはや大 丈
夫てある 安心なものてある、しかも共力は質 に大慈大悲の極なき御 力にして我等が
如何 に罪重くとも共 力を妨 ぐることは出来 ぬ のてある、如何 に我等無明 頻 悩 の 力 強
盛なりとい へ ども、共内障 に障 へ られ ぬ 無 得の光明 て ある 無得 の 一道て ある、かくの
如き無得の力に携まれてみれば 落ちることは出来ぬのてある 蓮如上人は「いかに地
獄 に 落ち んと思ふ とも・・・・・・・・と極言 されて ある、かくの 如く悪が飽 まて 悪しきとし
敵異妙講義 第一章 六十五
- - -
---
歌異妙講義 第一章
え 六十六
て☆本願力に 安んずることを得たるが貸 に善もほしからず 赤盆にも立た ぬのてあ *
る これが質に悪をも恐るべからず弾院の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆ へに
と仰せられし聖人の偉大なる信心にして我等自ら動くあたはざる罪悪深重のため
に苦しみ所置すべからずとしりながらも比他カの見えぬために徒らに我罪を恐れ
っ、あるものに勤しての唯一の光明てあるとても所置すべからざる負債のために
苦しみっ 、ある☆のは、之を引受くる 人のなきかぎりは所置すべから ずと豊 悟しな
がら* 心配せざるを得 ぬのてある 身は九分九雇 断庭 に落ちて、もはやとても〜 撃
っべからざるのみならずづる 〜 落ちつ 、ありながら大 なる力に援まられねば落
ちっ 、一刻☆ 恐れ ずには居られ ぬのてある幸に本願他力のために救はれたる故に
比の如き境遇 に ありて之れを恐れず 心配することもなき量 の 大安慰を賜はりた の
てある。
されど比に 一 つ 特に 注意 すべき獣がある、いかにも本願を信じ、念備申し て善もほ
しからず悪☆ おそれなしといふ 大安慰の境に 到らして貰ふのてあるが夫は 唯本願
不 思義の 一 つの力がある貸 て ある 我等は 比力 に 封して みれば、よく 〜 罪重きもの
にして 落ちざるべからざるものにして、赤 如何に 企っ る☆ 自力 を以て撃ち
上るべ か
らざるものなりとの自覚心は 盆 々 明らかとなるべき答てある、我等は
比大慈 大悲に
威謝する心の陰る、と共に 加何にも我等の罪業深重を識修する心は盆々溺き来る
のてある、そして 比機 梅と威 謝とが別物ては ない、一 つの物て ある 熱るに
古今 を通じ
誤解するのてある 質は 誤解ては ない 信仰てょまずに文字てょみ 理窟て讃むからて
ある 即ちこうてある 本願を信ぜんには他の善も要にあらず 善など貸す必要は無い
悪をも 恐るべからず 弾 院の本願をさまたぐる悪なきがゆる に何を貸すも勝手
次第
てあるといふゃうに自分の得手に牽きっけて善はいらぬ悪は貸してもょいといふ
様な放逸無断な考を起すことてあるこは固 より『敷異 砂』 をょみてかくの
如き誤解
を来した のては ない、本来 比の如き得手勝手 な横着心が『敷異砂」の 言葉をロ質
として
暴露されたるに 過ぎない のてある 何んとなれば善も要に あらず悪をも恐る
べから
ずといふ 文句のみ をよみたるのみ にして、共 眞髄たる本願 を信受 するとか、
念備 とか
いふ 言葉がかくの 如き人に封しては 少しも譲 めて居ら ぬ、少しも力 となり て居ら
ぬ、
歌異妙講義 第一章 六十七
歌異妙講義 第一章 六十八
浮きて居る即ち力とすべき獣がない 従て日ては他の善も要にあらずとは言ひっ、
も心中は何んとなく不定てある即ち附け元気てある日ては悪をも恐るべからずと
は言ひっ、も 展には順る気持がよろしくない不安てある獣加味てあるそれてある
から、装 へ ば装 ふ ほど却 つて 恐ろしい。質 は かくの 如きは邪見 には 違い ない が、善をも
貸さ ず、悪 をも避け られ ぬ 貸 に 自分 の気休めに 強 て かく自ら循 り て 一時 を始息 した
横着 心て ある。
たとへば度々 犯罪を貸し て監獄 に入りたる 息子 に封して、次 は親の恵みを知れり
やと問 ふ ならば彼 は 必ず答 へ て 日 は ん、親の 恵み は 質に 辱し、他人は 我 を捨て 、顧み
ず 然るに 親 は 我 を捨て 、下さら ぬと言ふ て 居る。面して 彼 が所行 を顧みる に 少しも
犯罪が止まぬ そして彼が心の中を問ひ質すと加何に親なればとてこのま、家に騎
るは面目なし何んとか一っ成功して身を立て、故郷に騎らんとの下心てあるその
つまらぬ 虚禁心が却て 次ぎの犯罪を引き起すのてある 途に親に見附けられて無理
無理 に 我家 に 騎 りてみる に、如何 に も自己 の罪に 責められ て 苦 しさの除り、親の 金を
濫費 し、従来 の 習慣 止まず して 放 漢 に身を 持ちくづし、親は 我を捨て 、下さら ぬ 故こ
れてよい のてある 仕事をせよと親は言はれぬ 悪しきも 容めぬのが親てあるといふ
て 居る ものあらば 如何 かく言 ひつ 、ある 息子を眺め つ 、ある親 の 心は 如何 て あら
う足て親 は息子が我 慈悲をよく味 ふて呉れたと満足するてあらうか、日て親は 我 を
捨て、下さらぬと言ひながら身を立派にして故郷に騎らんとする虚楽心は何事ぞ
あせあぶら
親の汗 管を濫費しながら拾 も我物顔に考 へ つ 、あるは何事 ぞ量 質親の慈悲を頂か
ぬ からてある。つく〜 親の慈悲を 威じ来れ ば比の 如き失敗 に失敗を重ね たる もの
を捨て ずして直 に 騎 り来れとは旨共に親 の御恵て ある。比 絶 封無限の 大慈大悲 に接し
て見れば、抑々 比の 如き零落の 身 の面目 を改めて 騎 らんなど、いふ 考は 一獣 ☆ 起す
べき除地がないまた今まて親の心の分からぬ逸は親の興へた金の債をも認めずに
居 たが、親 の飽 逸 霊 して下さ つた御慈悲 を頂きて 見れば、一文 の 金も、一本 の書信 も、一
言 の 戒 も皆 親 の 心血の塊て ある。我 幸にし て比親 あり、比親 の慈悲 あり、比慈悲 の救済
あるは何たる 光築 ぞと、面目 も外聞も 投げすて \、ひたすらに親の 恵み に 威 泣して、即
時に 老親 の膝下に立 騎 りて、即刻出来 うるかぎり 働きて、鴻 恩の萬 一 に 闘みんとする
が眞質親 の恵が分り た のてある。
歌異妙講義 第一章 六市ー九
歌異妙講義 第一章 七十
「三 恒 河 沙 の諸備 の、出世のみもとに ありしとき、大 菩提心 あこ せども、自力かなは て
流 韓せり」そも 〜 我等が身 の罪悪 のふかき事 をも 知らず、如来 の御 恩の たかき こと
をも知らずして自力心を挟みっ、あるが抑々吾等迷妄の本てある全鶴吾等は自分
て よきことが出来るつもりて居るの が間違て ある。また 〜 備 の御催促に あづかり
て念備ても 申せば 我 物の 如く 考へる のてあるたとひ備 の恵みとき、て も、夫は常然
て ある かの 如く考へるのてある、よく〜 自力根性の捨て られ ぬ ことて ある。かくし
ても心が安らかでなきものゆる 途に善をせずともよい悪をしてもよいといふ ゃう
な 邪見 に 陥るやう に なる旨共 質の 大慈大悲 を頂きみれば、質に 我身は 現に 是れ罪悪生
死の 凡夫て ある。過 古を顧みれば噴 幼 より 己来常に 没し、常に流 韓したるものて ある。
将来を望むに赤出離の縁あることなき身てある 唯慈に弾 院の本願の御力のみ命の
縄てある 比大願業力に撃かれて善一っ出来ざれど他の善も要にあらず唯南無阿瀬
陀備〜 と備 恩を仰ぐばかりてある。罪業深重 なれ ど願 力無窮なるがため に、落ちん
と思ふ も落したまは ぬ 備の御 不思議を仰ぐの 外 は無い 質に 是れが『歓異砂』の 骨髄て
ある。仰ぐべく信ずべきの極てある。
第武 章
各々 十 除 箇國の さかみ をこえて、身命をか へり、みずして、たづ
ねきたらしめたま ふ 御 こ 、ろ ざし、ひと へ に往生 極楽の みち
をとひきかんがためなり しかるに念備よりほかに往生のみ
ちをも存知しまた法文等をもしりたるらんとこ、ろにく、
おぼしめし お はしましては ん べ らんは、お ほきなる あやまり
なりもししからは南都北嶺にも ゆ、しき學生たちぶほく座
せ られ て さ ふら ふ なれば、かのひと 〜 に もあなたて まつり
て、性生の要 よく 〜 きかるべきなり 親㎞ に U て は、た「N 念
備し て弾 院に たすけ られ いらすべ しと ひ 引の は
剤 信引国か u別 の 引細剤 備は刃
に おまる 、たね にて やはん べ るらん、また地獄 に お つ -
歌異妙講義 第二章 七十二
歌異妙講義 第二 七十二
る業にてやは ん べ る ちん 線 uて☆ て存知せざるなりたとひ
法然上人 に すか されまいら せて、念備 して地獄 に おち たり と
も、さらに後悔すべ からず さふら ふ そのゆる は自除の行をは
げ みて備 になる べ かりける 身が、念備をまうして地獄 にも お
ちて さ ふらは 、こそ、すか されたてまつり てといふ 後悔 も さ
ふらはめ いづれの行も および がたき身 なれば、とても地獄は
「巫
一-ſ一

一定すみかそかし職陀の本願お ことにお はしまさは輝奪の


説教、虚言 なるべからず 備 説まことに おはしま さば、善導 の御


響 虚言した ま ふ べからず 善導の 御響まこと ならば、法然の お
ほせそらことならんゃ法然のおほせまことならは親獄 がま
うすむね、またも て む な しかる べからず、さ ふらふ 敷 診 ずる と
ころ、愚身 が信心 にをき ては かくの ごとし、この う へ は、念備 を
とりて信じたてまつらんとも、またすてんとも面々の御はか
ら ひ なりと。云云
こは「世に名高き「数異砂』の最大要所として現代求道者の日に絶えざる金言てあ
ります 近代「敷異砂」が青年の間に行はる\におよびてことに比章を奪重したてまっ
ることてありますが質は近頃の青年に至りて始めて斯くなりたわけてはない 古 よ
り 篤き信仰の人は何れも『敷異 砂』を奪み『敷異砂」を奪 むものは必らず、比章を奪 む次第
てあります、お もひめぐらせば私幼少の時、父が他の 一人の僧分及び五六の同行と共
に園築し て 夜 のまど ひに 比第二 章を 反覆 熟譲して喜んて居られたことを子供 心に
記憶する次第てあります 又清澤先生が、比砂を自ら玩 索して是を青年の手に渡 され
たのが近時 行は る 、に 至りし濫 臨 てあります、私としては、去 ん ぬる明治 三 十 五年の
十 一月二 十 八 日 即ち親 鶴聖人入滅の聖 日に於て郷里に あり て夜牛 燈の下にて熟ら
是れを拝讃し奉り比第二章の文字こそ質に是れ親 盤聖人が 自 督を述べ られたる も
の即ち 信仰の告白 なりと威 じ直ちに筆を取りて簡潔に鏡仰の情を寛し、求道 寧舎来
集の人々 に送る書を作たのてあります 共翌日父は 母と共に京都本山より下 向し来
歌異鈴講義 第二章 七十三
異妙講義 第二章 - 七十四
られしゆる 早速是れを譲み上げしに 父は 殊の外に是れを喜 こびたまひ、こは頻 る有
難し、もう 以上に かくなと申 され た、再び 祝に 向っ て筆を績けんとせ しに、果して もは
や同様の霊威 を描くことはてきなんだ、それ故父 の言の 如くそれだけに 止め結文を
加 へ 東京 へ 送ったのてあります 即ち『信仰問題』の中頃に入れてある「親盤聖人の信仰
とい へ る文字 が これてあります、これが 私が『敷異砂』を味 は 、して戴く本 てあります、
爾来今日に至るまて撃舎に在りては毎朝比砂を輸譲し又全園到る虜に比勢を講じ
さして載くこと全く 廣大なる備 院 の御めぐみと威謝したてまつる 次第てあります、
かくの如き有縁の次第柄ゆる 残 に比*に至りて 一しほ威 泣に堪へませ ぬ
各々 十除箇國の さか ひをこえて身命をか へりみずしてたづねきたらしめたまふ
御こ 、ろざし ひとへ に往生極楽のみち をとひきかんがためなり。
久しく親獄聖人常陸を中心として闘 東に於て博道したまひし時面授 日談を受けし
御同行達聖人の 騎 洛したまひし後深く 聖人を慕ひたてまつり て数百里の道を遠し
とせず、十除箇國のさかひをこえて身命をか へりみずして、たづね来りたる人々 に封
して直々の御教化なり、かくも熱心に旨具面目に道を求めたまぶ 御こころざした ゞ た
■■
だ 往生極楽の道を問 ひ極め出離生死の問題に 安心するより外 に何等の他の目的あ
らざるべしとの御仰せなり蓋し比言葉は 残頭直ちに求道の眞精碑を掲げ来って信
仰 問題の 眼目 に向って警告を加 へ たまふ 御誠なり
しかるに念備よりほかに往生のみちをも存知しまた法文等をもしりたるらんと
こころ に く、おぼしめし お はし ましては ん べ らんはお ほきなる あやまりなり。☆
ししからは南都北嶺にもゆ、しき撃生たちふほく座せられてさふらふ なればか
の ひと〜 に あ ひ たてまつりて往生の 要よく 〜 きかるべきなり。
直ちに 念備 より ほかに 往生の道 を存知 せ ずと断言した まふ 御 言葉即ち足れ先師法
然上人の御 教、南無阿瀬 陀備、往生之業、念備 貸本 共 盛てあります、しかも言葉それ自身
まてか同様てあります即ち南無阿瀬院備 性生の業には念備を本と貸すとの御教を
受けて数の如く信じたまsし告自が即ち念備ょり外に往生の道を存知せぬと自然
に 日に 溢れ出 たのてある共念備より外はないといふ 確信を 一獣の除地なき酷にま
て 比 一節に 言 ひ 霊 され て あります、日 く、念備より ほかに往生 の道をも存知 し、また法
文等をもしりたるらんとこころにく、aぼしめし*はしましてはんべらんは ほ
歌異妙講義 第二章 七十五
歌異妙講義 第二章 七十六
きなるあやまりなり」云云共意は遠く闘東より十除箇國のさかひをこえ て身命をか
へりみず たづねきたらしめたまふ御こ、ろざし唯々往生極楽の道を問ひきく貸て
あらう 共往生の道は 念備ょり外はない 若しや念備より外に往生のみちを存知して
居る と思ひ 獅また珍らしき 耳よりなる法文沙汰を知りて居るならんと美深ましく思
ひて道を求め来られたならば そは大なる間違てある数十年来 親盤が説き廣むる所
決して他の事はない、更に親獄めづらしき法をも ひろめず、如来の教 法を我 も信じ人
に☆ 教 へ きかしむるばかり なり唯念備の 一 つ即ち如来の御名 跳南無阿瀬 陀備の外
は ない との仰てある 差し『敷異砂』の出来 た所以たる法文 沙汰が既に常時にあらはれ
っ 、あった☆のと見え て、夫に向て痛く誠めたまひたのてあらう 法文沙汰 や寧問沙
汰 ゃ理窟の沙汰は宗教 の貸め信仰の 貸めには少しも入 用てない 若し夫が知り たひ
といふならば奈良ゃ敬 山に多くのえらい 學者達が御 いてになる次第 なればその人
人に御出曾して往生の要をきかれ た方がよろし からん、と 一酷の除地なき 酷にまて
念備の外はないことを示したまひた我々幸にしてかくの如き聖人の直々の御言葉
を興 聴するものは深く之を服磨せねばならぬ 何んとなれば これは聖人が常時の法
-- -
--**-
〜--j - り -

-

文沙汰をする人に封する御 誠とのみ 心得て昔断のゃうに思ふ たならば かくの
如き
生きた御言葉に接 した所説はない 私が常に 日癖に言ふ 次第てあるが人生
問題信仰
問題は千古 同様の問題てある 出離生死、往生極楽とい へ る安心の道は二
つ あるべき
答はない、昔の 宗教 とか今の 宗教とか 奮信仰とか新信仰 とかある べき☆のて
ない、比
御言葉の如きは現代の様に種々の研究ゃら哲撃ゃら理論ゃら撃問沙汰を以て信仰
を求めんとする もの に封する 動きなき御 誠て ある、獅す、みて極言
せば、今日 信仰を
求むる人がもはや寧 問 や理論 て信仰 に 達せんと 考へる 人はな からうが、
されど何 か
珍 らしき 耳 新 らしき ことをき 、て、夫て 安心が出来る て あらう 何 か
不思議な 顕象に
接したり、一種鍵りたる心的状態になっ てみたい、かくの 如きことが信仰 に
入る道て
あらうといふ様な夢想がないてもない 少くとも踊躍数喜の 状態になっ てみたい信
築開発の時刻に到りたいとの切なる望を以て満たされっ、安心出来ぬ人が多いゃ
かりを眺め て併 院 の 大慈大悲
は ん と つとめる の ん の 「は ない鴨 タ 魔 大なる 湖確 の大務 大悲
の選探 本願南製 はない 唯之を 仰ぐ のみてある信ずるのみてある。
教異砂講義 第二章 七十七
-
歌異妙講義 第二章 七十八
鬼角人間といふものは何虜まても計ひ心のあるものて念備の一ってあるときけば
その念備とは如何なる意義てあるかと昔は昔風て宗學と成り今は今風て宗教學と
なり信仰の 一っと承知しながらも計ひ心を交へる初鶴なきことてある他力基質を
あかせるもろ〜の聖教は本願を信じ 念備を申さば備になる共外何の寧間かは件
生の業なるべき や、たと ひ 聖教 て あらうとも法文 沙汰となつ ては 恐れ多い、念 備 より
外 に往生のみちはない との御言葉 はあらゆる 雲 や障りが去りて賞如一質の念備 一
道の月影があらはる、心地がする、しかも聖人は我々が申すやうに念 備より外に往
生のみちは無いとは仰せられぬ 存知せぬとの仰せてある故に知りたければ他の人
人にきけと 仰せられる、飽 まて 私 なき御 言葉には 威 偏 服鷹 したてまつる の外は ない、
念備ょり外に往生の道を存知せぬと 仰せらるれは 仰せのまに 〜信じたてまつる
の外はない そこて心を空しくして次の聖人の御自督を承らねばならぬ
親 盤 に 於ては た ゞ 念備して 弾 陀 に たすけ られまいらすべ し と、よき ひとの お ほせ
をかう ふりて信ずるほかに別の子細なきなり、念備はまことに浮土にむまる、た
ね にて やは んべるらん、また地獄に お つる業にて やはんべ るらん、継じてもて存知
イ・ メ・
■1
せざるなり たとひ法然上人に すかされまみ らせて、念備して地獄に おちたりとも
さらに後悔 すべ からず さ ふらふ。
是れ質 に 親 盤聖人 の御 胸中 において、一酷 の 私 なく 一豪 のは から ひなく、た ゞ 〜
如来の御はからひにうちまかせて死するも生くるも浮ぶ☆沈むもた ゞ 〜 大悲の
御 おぼしめしに した が ひ たま ひたるま 、を有 鶴に 打 あけ て お しめし下 され たのて
ある。世界 廣しとい へ ども かくの 如き屈託 のない 安心なる 信仰は 又 と見出すことは
この聖人の御自督に封しては何とも敷行して見やうがありませぬもと〜 聖人が
御心のま \を何のはからひもなくありのま\に おしめし下されたお ことばなれば、
ーlし
我等も赤何のはからひもなく*ことば通りありのま、にいた 、かねばならぬゆみ

にた 、その おd とはどほりすらり〜と操りか へ し〜 邦讃して何のと 、こほり
もなく共ま 、に いた \ く のが何よりよろしい、こと〜 しく言葉を加 へて講義をす
るは却って取なき玉を傷っくるの恐れがありますさりとて何かいはねば共味を申
す ことさ へ 出来 ぬ 故せめてのことに 私 がだん 〜 味は 、せてい た ゞ きました 織 悔
歌 異 妙 講義 第二章 七九
敷 異 妙 講義 第二章 八○
話なりともいたし ませう。 -

-
親鍵盤 に おきて は 陥 れ イ記
昭 g対 引けられまるらすべしとよき %との封風せ
を蒙ふりて信ずるょり外に別の存細なきなり比一言は聖人が信仰の翻引あり斗
す師も聖人御年二十九歳のとき求道求法のこ \ろやるせなく六角堂へ参籠のか へ
りみち四條の橋の上に聖豊法印に出あひ 共勧めにしたがひて即日源空聖人の吉水
の碑坊に尋ねまみりたまひしとき 南無阿弾 陀備往生之業念備貸本人間た 、たのむ
べきは阿弾 院如来の撰揮本願念備の 一 ってあると具宗紹隆の大祀聖人ことに宗の
淵源をっくし教の理致を極めて、おはなしなされし言葉の下にある名競の不思議な
るかな誓願の不思議なるかな かくのごとき頻悩具足の愚秀親 獄いかてか難思の弘
警にあはずんば生死の苦海を渡るべきと打まかされたる心のありさまが即ち親賞
においてはた ゞ念備して弾院にたすけられまみらすべしとよきひとのお ほせをか
うふりて信するょり外に別の存細なきなりといへる御言葉となったのてあるそし
て共御不思議に打まかせて御師匠のふほせの如く何等のはからひもなき心持が念
備はまことに浮土にむまる、種にてゃはんべるらん又地獄にうまる、種にてやは
ー1』
、々るらん じてもて存知せざるなりといは
に至るまて少しも確らざるのみならず撃に
法然聖人の義なきを義とすといふ御教化を蒙ふりて唯々師匠のお
ほせどほりと一
- 毛一雇の私なき心地になられたのが 自然に* ことばの上にあらはれ
てたとひ法然
上人にすかされまおらせて念備して地獄に落ちたりとも
さらに後悔すべからずさ
ふらふと お ほせ られた のてある
洲かgの如く何の日からひもなく日に浮ぶにまかせて申されたる*こと
はなれ
gも コ宗の肝要教行信置の骨日ことに行信の相闘信心の精個は比一節にっ
くされ
てありますそこて私が比観賞におきてはた“念備してシにたすけられ
まるらす
べしとよきひとのおほせをかうぶりて信ずる他に別の仔細
なきなりと、いふ一句を
味は、してもらふた順序について話して見ませう 先づ
私が第一に気を付けさして
もらひました獣は信ずる他に別の存細なきなりとい へる 虜て
ありました信ずる他
に別の仔細なきなりといへるは如何にも力強き信仰てある如何
に*簡連なる信念
てある、いかにも直載なる確信てある質に信仰は共自身が面
目的てある何故信ず。
獣 異 妙 講義 第二章 八一
歌 異 妙 講義 第二章 八二



云の




信様



土い獄いかとT






でない

らい
窟 信
じもれ



理信

付ー
て残


浄に

あ信じ

ずる 地を
てま
な信じ
も も

ぬ、
なるかる


落様

へ おち楽ら
極ま

ふ が結果の いかんを眼中に おくのて はない。例 へ 地獄 に


落ちて百千 万効苦しむとも更に何の後悔もない。た ゞ 〜 法然聖人の 勧めたま ふ南
無阿弾 陀備の 一つは疑ふ 事は出来 ぬとの御 心てある 質にかくのごとき確固 不抜の
信仰は又と世界に見るべからず 格かも大盤石のシの底よりたえぬきたるが
如し我を生かさうと我を殺さうと地獄 へゃらうと極楽へ ゃらうとた ゞ上人の御こ
ころのま、なり冷も罪人が断頭豪に登りて生死を気にとめずまた赤子の慈母の胸
中に何の 心配もなくしてねむる様なものてあると、かく 私は 信 するより外に別の仔
-V
細なきなり」といふ獣に 力を 入れ て聖人が信心 貸本 のガ強 て貰ひ
まし た。
借第二に味はせて頂きましたは「た ゞ 念備して弾 随にたすけられまいらすべし」と
いふ獣に力を入れて頂きました、なるほど 信ずるょりほかに別の仔細なきなり」といふ
力強き信仰が眼目なれどなぜかく信ぜねばならぬ様になったかもとより自分てりき
- 』-|
■■
かで信ぜればならぬと足に力を入れるのてはない足の下の地盤が確かなればカ*
入れずとも安心して足を競み下すが如く信ずるはり外に別の存湖 な。。
金剛信の起るは た 、念備して弾院にたすけられまいらすへし といふ地盤があるか
らてある阿の気もなく念備を稲へっ、あるが質に念備は吾人の思議すべからざる
備陀の御力てある抑々経文を書寛 譲謡し 陀羅尼を持ちて各々共備菩薩を念ずるが
如き皆それ〜 の備の力を身に威 得するの道てある足を名けて行といふ 行といふ
は全鶴人間が共身を苦しめる功をいふのてはない備の力の人間の上にあらはれ来
ることてある 諸の自力の行てすら目常とする所は備院の力てあるこれが全鶴備教
の本義てある 特に今南無阿弾院備の大行はあらゆる行 あらゆる法の中ょりシせ
られたる絶封無得の 一道てある そして弾院備は三世十方の諸備の根本てある共備
の御力が念備てある共約束が本願てある かくの如き大なる弾院備の御力を以て助
けたまふ他力てある 北最勝兵妙不可稲不可説不可思議の功徳ある念備 警願 一備乗
の御救 がある己上は信ぜずに居られぬのてある信ずると言へば非凡なことのゃう
なれども 決して鍵りたることてはない 信ぜねばならぬ力 があるからてある否共カ
歌 異 砂講義 第Cr 八三
敷 異 砂 講義 第 二章
がゆへ にと
が人間の上に下りて来たのが即ち信てある 聖人が如来の加威力に由る
御催 に あづかりて念 備も自然
宣ふ 如く信心は如来 の力を加 へらる、のて ある 如来の
で初めて 古来 より難 闘と
に申 さる、のてある、かくの如く 念備といふ 獣に気がつき
してい た ゞ きました 全鶴念 備
して通り 難き 行信の闘係が 理窟はなれ て自然 に解ら
了解出来 なん だ、宗 寧を 研
貸本信心 貸本といふ 法然上 人と親 鶴聖人 の闘 係が久しく
ゆへに 質は信 が本意なれ ど行行 相
究したときに 法然上人の 時代 は 行の時代 てある
て、中心服する ことが出来 な
封て常時に順 じて 説かれ たのてあるといふ 説明 をき、
が、法然 上人 一代の 教 か何 んだか
んだ、かく言 へ は 如何 に も親 鶴聖人は よい 様 てある
念備を主としたまい、親 鶴聖
方便の やう に聞こえ て信ぜられぬ しからば法然上人は
やう に 思はれる、親鶴 聖人を よ
よい ものとすれば何 んとなく親 鶴聖人 は 脊 師 自立の
じっけ
しとすれば何んとなく法然上人は獅自力的てあって弾て同じといふのはご
共形
の様に威じたことがありましたこれが何故かといふに軍豊行といひ信といひ
、すてに 述べ たるが 如く念
式ばかり見て共根本たる 他力の味が分からぬ からてある

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2
|-』

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シの行てはない 業の大行てあるシ上人は基ョ**』る*を喜び『へな
まひ たのてある 夫を聞きて 信ずる より外 に別 の仔細なき 也と親 鶴聖人が 喜びたま
ひ た のてある、僅かに 比 一句 の 間に 行信 の闘係 が自然に 霊きて あります。
かく味はして 貰 へ ば、念備といふ も 弾 院に助けられるといふ も、よき人 の仰せとい
ふも結局一 ってある本願ゃ名競名競や本願 そして共警願一備乗をしらべて下さっ
た法然上人は共僅智恵の念備の権化 大勢至菩薩の御 導きてある 比に至りて備も法
も僧 ☆別てない 唯一 ってある 法然上人の御 教化夫れ自身 か即ち如来の大慈 大悲の
南無阿 弾 院備てある、夫れ か即ち本願 招喚の勅命てある、それゆ へ『選揮集』一部を「行巻」
中に牧めたまひたのてある、かく力強き本願他力を仰ぎてみれば今まて力を入れ て
味はして貰 ふた信は自然 にあらはれ来 りて信する より外に別の仔細なき也と何の
苦 もなく頂 かざるを得 ぬ やう になつ た。
かく第 一 は信 に 力を入れ第二には念 備に力を入れ、人 に も語り、自らも 喜びつ 、あ
るとき ラトしたことょり第三にまた〜喜ばせていた\く御縁に過ひました夫は
外てもありませぬ 唯年の事てありて東京監獄にをきて死刑囚を教講することにな
歌 異 妙 講義 第二 章 八五
敷 異 砂 講義 第二章 -
--

八六
りましたが共中に清水弾三次郎といふものが大層愛鶴に沈み運動もせず食事も進
まぬ有 様てあったが 何時の間にか御慈悲を喜ぶ の身となりまして非常に 心が開け
念備を郡へっ、ありましたそこて一日私が基者に心持を尋ねましたら御修て心の
蓮華が咲きました、質に比世ては身の出入にま て人様を煩は さねばなら ぬ様な罪 深
きものなれど備様の御力て南無阿測 施備〜と稲へさして頂きて次の世には自由
な身に成して頂くことが難有い事てござりますとそこて私が何の気もなくを まべ
はその様に念備を喜んて居るが念備のかけは分って居るのかと尋ねしにどうしま
して「私 は いろは さ へ 書け ぬ 教育のなき ☆ のなればどうして 念備の 講 などが分かり
まする ものか、かく 稲 へ て 居て ありがたい 念備、譚 が分 れば定め て 面白い ことてもご
ざりまし よう が、譚も分からねど唯南無 阿瀬 陀備〜 と稲 へ さして いた ゞ きて命終
れ ば楽なる 身 にして下さる のが難 有 ござりま すると答 へ た、比言を聞くや否や直 豊
的に『敷異砂」の比御言葉に私の心の中に気附かせて頂きました、ア 、親獄にをきては
た ゞ 念備して 弾 臨地にたすけられまい とすべしとよき人の仰をかう ふりて信 する外に
別の仔細なきなり」如何 に もそう てある彼 は念備が何 てある信ずるが何てある一言も
言はぬ 否言ふ ことを知らぬ、されど彼は たしかに唯念備して弾 院にたすけられると
聞かして貰ふた通りに信 して念備をしつ、あるのてある そうじや、そうじや、念備し
て助けられると云ふ仰せを信ずるといへは仰の如く何の計もなく唯念備しっ、あ
るとてある 夫がすなはち信じたのてある全鶴所信の行じゃの能行じゃのと云ふ匿
別がある ものが、念備して 助けられると仰せらる、まに 〜 仰き信じ念 備するだけ
のことじ*行といふはシの名を ふるシせを信じたあさまは
の 通り念備して 喜ぶ の外は ない、即ち有名なる冠頭の『和讃』の味はこ \ てある弾 院 の
名競とな へ つ 、信心まことにうる人 てある、彼弾 三次郎は念 備の何たる、信心の何 た
るを 知らざる も質 に弾 陀の名競とな へ つ 、信心まことに うる人てある、念備はまこ
とに 浮土に 生る、たねに てやまた地獄 に お つる業にてやは んべ るらん継じて ☆て
存知せ ざるなり、質に瀬三次郎こそ旨具 に継じて もて存知せ ぬ のてある、われ らは存知
せぬ とい ひつ 、大 に存知しつ 、ある心持 てある存知せ ぬ 譚を存知した つもりて説
明 をなしつ 、ある「よしあしの 文字をもしら ぬ人は みな、まことのこ 、ろなり けるを
善悪の字しり かほは、お ほそらごと の かたちなり、是非 しらぬ 邪 正☆ わか ぬ このみな
歌異妙講義 第二章 八十七
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数異妙講義 第二章 八十八
り小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり 賞に転機機海に堪へぬ次第てあ
り ます。
『執 持 砂』の第 一章は 拾 かも『敷異 砂』の第 二 章を反覆説明 せられたと同様てあります、
筆は豊 如上人が取 られたれど本願寺聖人の仰に云とあれば、如信上人より直々 日博
せられたに 違 ひありませ ぬ、我々 かく親獄聖人の仰言を親 く拝聴することを得るの
は 質 に嫡しく奪 むべきの極 て あります、共 御言に、
P、、、 、ド 〜う、、、 、 い、 、 、お 、 、 、、い じ 、 、 、LP、 、、 F、 、 、 、
是非しらぬ 邪 正 ☆ わか ぬ この身にて小 慈 小 悲もなけれども 名利に 人師 をこの、社
なり性生浄土にはた、信心をさきとすそのほかをはかへりみざるなりシはど
2、い、F い」 で 2 は、 、、 、い 、 、 、 、 、 、Lいう、 = で、 い、ぐい・い、 い、い 、
の 一大事 凡夫のは からふべき ことにあらず、ひとす ちに 如来にまがせたてまつる
* * - たいす、 ト、) 、、、、、)
べしす。へて 凡夫に かきらず、補 虜の弾 勤 菩薩を初めとして備智の 不思議をは から
* * * も * * も *
ふべきにあらず、まして 凡夫の浅智をや、が へ す 〜 如来 の御ちかひ にまかせたて
、ノ 、し 、 、、、 、 、い、、、、、、、、、 、、い、い、、、い、、、、 、 、、、、
まつるべきなり、さればわれ として浮土 へ ま いるべしとも、又地獄 へ ゆく べし とも
-、、、、
い 、 」、、、、、 、、 い 、 心 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
黒谷 源 空 聖人 う
さたむべからず故聖人㎞ 以 の おほせに源 空があらんところ へ ゆかんど
* *
* * * * * ** * * * * * * * * * *
お もはるべしとたしかに うけたまはりしうへ は、たとひ地獄なりとも故 聖人のお
* * * * * * も * * * * *
、、 く、、 、、、、、、、、 い *
たらせ たま ふところ へ ま いるべしとお ☆ ふ なり、この た ひもし善 知識にあ ひま つ
* も も も も も も も * * * * * * * も *

かるにし夫れ


凡ら
かならず
地獄

べお
し、つ


いま
聖人 わ

の 御 化導 にあつ か -

* * * ** * * * * * * * * * * * * *
うり
て 院の本風 をき、蹴 取不 将のごとはりを けがにぶさめ生死のはなれがたき
をはなれ 浄土のむまれがたきを一定と期することさも にわだぐじの らがらにお
らずたとひ弾 院の備智に騎して念備するが地ェ の業だるを いつはりて往生浄土
の業因ぞと聖人さづけたまふにずがされまいらせてあれ 地獄にぶつどいぶど*
さらにぐゃじむぶ*びあるべがらず そのの、へは明師 にあびだ てまづらてゃ みな
まじがば決定 悪道べ ゆぐべがりづる 事なるがゆ へに となりしかるに善知識にす
かされたてまっりて悪道へゆかばかどりゆぐべがらず師どともにぶっべじされ
ばた ゞ 地獄なりといふ とも故聖人の わたらせたま ふところ へ まいらん お ☆ ひか
ためたれば 著 撃の生所の わ だぐしのざだが るところにあらずといふなりしとご
れ自ガ をすで、他 分に騎ずる すがだなり
いかにも 〜奪き御告白て あります、一言 にして云 へ ば備智不思議を仰ぎて 一分
一雇☆自分 のは から ひの 雑らざる 極て あります 信ずる より 他に 別の仔細は なき也
歌異妙講義 第二章 八十九
歌異鉄講義 第二章
㎞ * * * も 、
て ある から地獄 てあらう が 極業てあらう が かまは ぬ とくそやけに りきむの てない、
それては 具質 後悔すべ からず 候とは 言はれ ぬ、念備には 不思議の 力が ある から稲 へ
るばかり じ やと念備を 力とするのて はない、それなら ば継 して以 て 存知 せざるなり
とは云はれぬ 唯仰ぐへきは備智不思議の廣大なことてある名競不思議の深廣無涯
底 な ことて ある、是非しら ぬ、邪 正も わか ぬ この 身 にて 何事の わかるものか、つく 〜
引列 十九才 樹園の御願に 告を蹴り引日来、「日として 出離は3
を 安ん じ たる こと なく 東西 にはしり はり て道 を 求めし が u☆安外寸るJJと
出来ず 苦み類ひの極に達しすてに比世からの地獄にして必ず悪道にゆくべかりし
に幸 なる 哉 -
オの春明師法然 上人は過び なすまりりすt達排本願剣働 の不可思
議を承り、か \ る罪悪深きもの をたすけん とい へ る廣大の教化 を 頂きたる 一念に備
Q 議と信じたてまつり 安心 させて 仰 を蒙らずは 何れ
の時 か生死 流 轄の 苦み を免る べき、若しや 苦し、法然 聖人 の仰せ に間違あり て地獄に
ゆくべき 念備を浮土の 業因と仰せられたのてあっ て、全く聖人に 敷 かれて地獄に お
つるともさら〜 後悔は いた さ ぬ、もと〜 の闇に迷 へ る身が不思議なるかな聖人
いかた
の仰せによりて 澄を得る 生死流轄の海の中に聖人の教によりて本願の後を得た聖
豊法印が悪人の御思を喜びたまひて誠知無明長夜天電距地何悲智眼圓生死大海之
大船符 也 豊 類業障重 情思 教授恩徳、質等弾 陀悲願者、粉 骨可報之 擁 身可 謝之とある同
じ御心持たることは「和讃」によりて明らかてある質に法然聖人が即ち難思の弘誓て
ある 無得の光明 てある 若し比 澄は人を 欺 むく悪魔の魔てあり、比船は人を沈むる 羅
利 の船てあるとしても濁りゆくの てはない 法然聖人 が共 燈をもつて下さる案内者
てある法然上人が共船の船頭てある 法然聖人と共に地獄 へ ゆこうが悪道に堕在し
ょうが 如何よりとも聖人の思召し通り知来の御はからひにまかせたてまっるの外
はない義なきを義とす唯々御如来聖人のはからsに任せたてまっるはかりてある
そのゆへは自除の行をはげみて備になるべかりける身が念備をまうして地獄に
/ミ も おちてさふらはばこそすかされたてまっりてといふ後悔もさふらはめ、いっれ
もの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし
地獄 に落ちても後悔 は いた さ ぬ といふ ことの 出来るのは もと 〜 地獄 一定の 身
てあるからてある阿閣世王が父王を害したることを悔み 心に悔熱を生し偏鶴に癒
歌異妙講義 第二章 -

九十一
歌異砂講義 第二章 九十二
を生じ心中念言すらく我今比身に己に華報をうけたり地獄の果報将に近づきて遠
からず と 換 悩 秋 苦して 終に は 関 絶 鮮 地する に 至 つた時、月愛 三味 に て 身を治められ
備に見えて務権無根の信を頂きたとて喜んて目ふには我 若し如来世奪に遇はずん
は無量阿僧祇大 地獄にありて無量の書をうくべかりしに我今備を見奉るを得たと
威泣せられた、そこ て備 が 次ばかり助かったばかり てはない一切悪心の衆生の助かる
先達をしたとほめ られ たり、阿 闇世怒 ち備の 言の 下 に 一切 悪心の衆生が助かるとは
何たるとぞ之が貸に我は常に阿鼻地獄に堕って無量却地獄の苦悩を受くるも苦と
はいたしませぬと申された基所』シ可報之 可調之と同意てあるが そ*〜か
くなれるのは備に遇はなんだらば無量阿僧祇却大地に苦しむべき身てあったから
てある否身心悩 観関絶鮮地てあったからてある恐れ多きとながら比「混撃経』の文を
『信 巻』 に引用したまひ し 親盤聖人は二 十九 才 まて道を求めんが ために比 苦みを質
験したまひたのてある聖人は十九歳以後ありとあらゆる修行も観法をも試み一心
三観の定水を凝したまふも六議魔業の浪しきりに獅き三常論物の心月を潜ました
まふも無明煩悩 の雲覆ひ とても 〜備になるべくもあらず特に二十八 才の暮項ょ
りは いよ 〜命終 の時 近づけ りと根本 中堂 山王権現
に歩みを運び 終に 二 十九 才 の
春 より六角 堂の 百 日の 参 籠 に所念、を こめた まひたの てある、
このときの聖人 の御胸
中、如何 に お はせ しや、想像し 奉るだ に 血の 涙て ある、質 にこれ
命 終 近づきて 地獄 の華
報 遠からず 否 々念々刻々生きながら地獄てある共最後 の 「利那
に六角 堂の霊 告聖
愛法印の先導によりて法然上人の選標本願念備の不思議を承はれ た のて
ある共念
備て地獄に 落ちてももと 〜地獄 一定の親獄てある共 心中を
聖人直々告自したま
ひて、共故 は自 除の 行をばげみて 備 に なるべ かり ける身が
念備をまう して 地獄に落
ち候は 、こそすかされたてまっりてといふ後悔も候はめ いづれの行もおよびがた
き身 なれば とても地獄 は 必定すみか ぞ かしと仰せ
られた、七 百 歳の 下、親しく比告白
をきく 鳴 呼 何たる 光 楽 ぞ や。
瀬院 の 本願 「こと に「お はしま さば 響 奪の 説教 虚言なる
べからず備 説 まことに「封
はしま さは善導の御響艦言したまふ べからず 善導の御標 こと ならば湖 然の引
-
-
ー口
ほせそらごとならん や 法然の お ほせまことなら コーし
ば親 震がまうす むねまた も て む
なしかるべからずさふらふ敷診ずるところ思身が信心にをきてはかくの
ごとし
歌異妙講義 第二章
九十三
九十四
歌異妙講義 第二章
の御 は から
この う へ は 念備をとり て信じ たてまつらんとも、またすてんとも面々
ひ なりと 云云。
是れ正面より積極的に堂々と力強く聖人の信仰を告白し給 ひたお 言葉てある 弾院
の私 ことに はしまさば とい へる 一句は質に信仰の根底 てある今日青年がふ
根底 に気を着
かく他 力信仰 に 心を寄せ『敷異砂』を拝 讃しつ 、ある が、深く共の 他力の
する事ては
け ねばなら ぬ 他力と云 へ ばとて 唯漫然と自力て は行か ぬと投げ 遺りに
初め せ
無い、我等が乗 託すべき力を見出さ ねばなら ぬ。私は 自己の 質験 を「生百 白 ずィるーに
信仰に 入っ た 初 一念の 心持は 何の事は無い 備は 慈悲の 塊てある 備 とは「惑 悪ばか
てある 共慈悲は私如き悪しき者を先方より進みて同情して下さる 、友てある獣ん
りJ )J)
て下さる親てあるとても言ふべき歓喜の情てあった 比の親の慈悲に 気の着 いた時
、、Fri)
が 信仰に入った時てある 面して備の光明とは比 慈悲の光てあり 比の名競は即ち 親
比の備の 恵
のみ名てあると段々気着かして貰ひました燃 るに今日の青年の 多くは
ほ 一歩進み
みに気 着く初 一念の威 無くし て漫然と 他力 に任 かすと云 病繁 が ある、獅
せねばな
て共気着く可 き慈悲の慈悲たる虜、親の親 たる親心は何れに あるかを注意
-*
らシてあるか㎞の『 』へず*
我 等を 救は んとて 思惟したま ひたる慈悲 心てある。永 加の間 一利 那 ☆ 止むときなく
我等がために苦行したまひし清浄具質の親心てある即是が弾院の本願てある、如来
の風心てある北親心こそ我等が絶封の信頼する他カてある聖人が「行菊』に他カと云
ぷ は如来の本願力也と宣 ひたるが 足て比 一酷疑ふべからざる親心 の本願を 正面 よ7
り示したまひたのてある 共親心を響奪は『大経』に設我得備十方衆生至心信楽欲生我
國若 不生者 不 取 正豊 と説き給 ひ、共御 教を受け て 善導大師は若 我成備 十 方衆生稲 我
名競下至 十撃若 不生者不取 正豊といひ 共教のま \を法然上人は 選響本願念備南無
阿瀬院備牲生之業念備貸本と仰せられた共法然上人の仰が即ちた ゞ念備して弾院
に たすけ られま おらすべ しとの御 教化てある、共仰を蒙りて 信 ず より 外なき親 盤聖
人なれば 更に 何のは から ひもない のて ある唯念備して助けられまいらすべしとの
法然上人 の仰が、即ち瀬 陀の本願てある 所請 形をみれば法然詞をきけば弾 院 の直 説
てある共瀬陀の本願の御はからひにまかせ奉るより外はない瀬陀の本願のまこと
なる 己上は 親 盤の申すところ決して空しかるべき答 はないとの手 強き御 教化てあ
敷異砂講義 第二章 九十五
歌異妙講義 第二章 九十六
ります 質に弾院の本願共偉が 響奪の説教善導の御 響 法然の仰せ親獄の御信心てあ
ります、比講義 の壁 頭に掲げ たる弾 院 の五却 思惟の願をよく 〜 案ずれば、ひと へ に
親震 一人 がためなり けり、さればそこ ばくの業を もちける 身に て あり けるを たすけ
んとおぼしたちける本願のかたじけなさょとはこの本願の親心を聖人が御受なさ
れた御自督てある。 -
-
かくたやすく頂けば何事もなきやうなれど 響奪比世に出てたまひ 横説堅説五十
年間 の説法は軍 覚、比大悲 の 親心を五 濁 の 凡 患 にしらせん が貸てある『正信 傷』にも 如
来世に出興したまふ所以は唯瀬院の本願海を説かんとなり 五湖悪時の衆生群生海
鷹に如来如質の言を信すべしと宣ひたるが是れてあるされど共如来の本風は如来
なる大 罪人なりとも 助けんとの 親心なれども 親心 に甘 へ て大 悪 を犯す もの もあら
ん か 途に 王舎城の 大 騒動 が起りて、章提 希夫人は苦悩 し、阿 閣世 王は五 逆罪を犯す に
至りて見れば 響奪も途に 瀬院の本願の極獣まて開顕したまひたのが『観無量毒経』て
ある、面して 唐朝 の善導大師 が霊 十方 一切の三賞、三世の諸備、響迦備 弾 陀備、観音勢至
等に至心に騎命して共「観経」の奥義を開き示して下されたのが四帖の琉てあります
即ち『観 経』には 長 々と 定散雨門 の益 を説くと難 備の 本願 に 望むる に 意、一向に 弾 院 の
備名 を種 せし むるに 在りと仰せられた、かくの 如き奪 き聖教 ☆高閣の 上に 束ねられ
て共 員意を味 へ るもの 少 かりしに、法然聖人求法の 心 やるせなく、雌 戦 の清涼寺 に 七
日間参籠したまひ出離の道を求めたまひ後に黒谷の報恩蔵 に入りて五通 一切経を
讃みたま へども未だ安心したまはず、遂に恵心僧都の『往生要集』を導きとして善導大
『の日 の を書きたいニ連日に至りてシ の 心シ名豊行シ不
問時節久近 念 々不捨者是名正定之業順 彼備 願故とい へ る文に気を附けたまひ、如何
に も備 の本願 に順 ひ て 念備する の 外は ない と決定したまひて、念備 往生の 一門を開
きて選揮本願念備をす、めたまひた質に承安五 年春生年四十三歳の御時てある 面
して 親 盤 聖人は 多年 求法の 後 聖徳 太子 の御 導きにより 建仁元年の 春 即ち承 安 五年
より二 十 七年の後吉水の輝房に於て共 選揮 本願念備を御聞きなされたのてある 聖
人は『化 巻』の終に共潟 仰の情を披源 し給 ひて目 く、年を渉 り日を渉り共 教 論を蒙る
の 人千 萬なりと難、親と云 ひ疎と云 ひ、比見寛 を獲るの 徒基 だ 以 て 難し、爾 る に 既に製
作を書寛 し、眞影を 圓書 す、是 れ専念 正業の 徳なり、是決定件 生 の徴なり、仇て 悲喜 の 涙
歓異妙講義 第二章 九十七
歌異妙講義 第三章 九十入
を抑 へ て 由来 の縁を 誌 す、と 如何 にも魔 大 なる慶喜てある、親 盤の信 する 所、比先師 の
数の僅を奉し如来の本風の僅を信ずるのみてある、さればこそ「化巻』の次の文には
シとシ
したまひたこれが親撃が胸中をありのま\にさらへ出したのてある信するすべて
てある、この上は比の 如き廣大なる念備を信 モんとも面々の考に任す次第てある親
盤は 一獣の 私を以て 絶 ゆる のては ない、た ゞ 比の 如き廣大 なる親心大悲 の御名をき
きて何人か之を信じ喜ばずして空しく過ぐることは出来ょうと質に悲喜の涙を抑
へ て 聖人の御 心の儒 即ち大悲 の 願心の儒を御 示し 下 された金言てあります。
第三章 「シーて 『プを 杉 *。
剖人剤独 生 』3いはん や悪人を やしかるを世のひ
とつねにい はく、悪人な を往生す、いかにいは ん や善人をや と、
この修 一旦その いは れあるにに たれ ども、本願他 力の意趣に
そむけり その思は自力作善の ひとは ひとへに他力をたのむ
こ、ろがけたるあいだ 瑠院の本願にあらずしかれども自力
のこ、ろをひるがへして他力をたのみたてまっれば置質報
士の往生をと ぐるなり、煩悩具足のわれらは、いづれの行にて
も生死をは なる 、ことあるべから ざるをあはれみたま ひて、
願を おこしたまふ本意、悪人成備 のためなれば 他力をたのみ
たてまっ る悪人もとも往生の 正因なり、よ て善人だにこそ往
生 すれまして 悪人はとお ほせ さ ふら ひき
比章は『敷異砂』の骨目たる悪人救済の極致即ち悪人正機といふことを殊更にかど
をた て、示したまひたのてある若し第 一章の文句のうちにて弾 陀の誓願不思議に
たすけられ まいらせて往生をとぐるなりと信 する獣即 た ゞ 信を要とすとしるべしと
い へ ることを第 二 章 に 説きの へ たま いたる者とすなれば、比章は罪悪 深重類悩織盛
シ 第三章 九十九
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歌異妙講義 第三章 百
の衆生をたすけんがための願にてましますといふ 獣即ち悪をも おそるべからず 弾
陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにとい へることを示したまひたのてあ
る 管て全國典獄倉議のとき常時の大臣演説に善人なほ☆て往生をとぐいはんや悪
人をや他力救済の門戸は在囚の上に開けりといふ ことがありました質に適切なる
教訓てあります、如来の本願の本意は悪しきもの程盆 々救済せんとの思召てある『敷
異砂』こそ質に在 囚 の人に向 つての唯一 の徳音てある、かく言 へ ば在 囚ならざる☆の
は、はや在 囚 の人 より も罪軽きが如く 考 ふるならば大なる 誤 てある、存 豊 上人は 目 く、
耳四郎は至極の罪人悪機の手本といsっべし今時の道俗たれのともがらかこれに
かはるところあらんや をよそこの身にをいて内に三毒をたた へ、ほかに 十悪をっ く
る、つくるに強弱ありとい へ ども、三 業みなこれ造罪なり、をかすに浅 深 ありとい へ ど
も三業こと〜 くこれ妄悪なり、しかれば、たれのと☆がらか煩悩成就の鶴にあらざ
らんっくるもっくらざるもみな罪鶴なりふもふも**はさるもこと〜ぐ妄念な
りしかるに常世のひとみな**へりわがみにさほどの罪業なければ本園にすくは
れなん、わがこ 、ろ、に さほどの妄念なければ性生の願 にはは たしつ べしと、この お ☆
ひ しかるべから ず、その ゆ へ は たとひ 身心ともに 起 悪造罪なくとも念備をた のまず
は極楽 に生じがたし、たとひ 逆誘闘提 なりとも願力 に 乗ぜ ば性生 うたが ひなし、罪業
の 有無による べからず、本願 の信 不信 に あるべきなり、そ ☆ 〜 かの耳 四郎は 山賊、海
賊強盗 籍盗放火 殺害かくのこときの悪行をもて朝タの能とし妻子をたすくるさ\
へ とせり、なかんづく殺害にをき ては幾千万 といふ ことをしら ざりけるとかや、か、
るもの 、そのわ さをしつ、も念備を修し本願をたのみける、ことにたうとく☆はん
べ る もの かな、と 鳴 呼 奪き本願 なる 哉、奪 き念備なか哉、耳 四郎の如き我 等を かくも哀
みたま ふ 大悲 の唇 じけ なき、すべて の 罪悪を包蔵 せる 我 等の 身の上に、かく も隣 欄の
涙 を注ぎたまふ このと難有き、我 等極悪最下の凡 患は相 帥 みて深く自ら悔責して 大
悲治京の招撃の下に悲泣信築するの外は無い比章は大悲殆真の極所を示されたの*
てある、目く
善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をゃしかるを世の人っねにいはX 要人な
ほ性生す、いかにい はんや善人をやと、この篠 一旦その いはれ あるに に たれど☆、本
願 他 力の意趣 にそむけ り。
歌異妙講義 第三章 百一
**
百二
歌異妙講義 第三章
前章に反覆せる如く質に本願は大慈 大悲の親心てある、そして共親心は悪き子供
のことすら日夜心配したまふもの まして現んや我等悪しき子供のことは片時も忘
れたまはぬが 御親の眞情てあるかく承れば質に喜はずには居られぬ しかるに世の
人は 誤り て 悪人なほ性 生す現んや 善人をやといふ、一應 きけば 最 の様 なれども、夫は
善根の力て性生する人の ことて ある、共時は 善人が先づ 性生せねば なら ぬ、故に悪人
てすら性生するもの、現んや善人をやと云ふ のも無理はない 併し夫は自分の善根の
力て往生する自力の場合てあるしかるに今は全く他力の御恵みにて救はる、場合
ゆ へ 善人てすら救 はる 、現 んや悪人は 獅 救はる、といふ 次第てある。他人の間柄 な
れば悪しき人すら世話 する、現 んや善き人 は見捨て ぬといふて あらう、併し親 が子 に
封 する情ならば善き子すら 忘れ ぬ もの、悪しき 子供はとても 〜 忘 る、ことが出来
ぬが情てある『混撃経」に阿間世王にし封して着姿が説きて目く 賞へば一人にして七
子あらんに比七子の中病に遇へば父母の心平等ならざるに非れども然し病める子
)し
に於て 心偏に重きが如し、如来 も赤 爾り 諸の衆生に 於て平等なら ざるに非ざれ ども、
罪あるもの に於て心偏 へ に重し、放逸の 者に於ては 備則ち慈悲 の念 を生ず、不放 逸の

者に は 別 *2 枚 ず と、即 是 て ある。
更に 1 度達する 事例 を 示さ ば國家 の 資金 を 載 し ︽ 關法 と さよ か(*
かば かすを 感じたる食 民にすら食を題 は る ん や多額を載したる術家 とやとい«
Fºてあるしかる著 し 惩戒 にして 働運 的機制 下两翼 展 した* * *
必ずや かく 落碍 食ある もの すら退場 を 東 へ た さ よん や金 日 食 の に 米 なさ もの に
於 て を や ~ S ~& 、 さてある 文雄 下 郡 亞 に 野 し て 論功 行資 あら せ らるく 時 は、かく の
如 さ 機動 の ? の 着任 動 を 開 公元 化 や大功ある もの に 於 て を や とい メ 、さ である。し
かる に 降下 に 強 の 大 御 > ~~ 特級 を開 は る 場合 ならば あずやかく 離さ 利 時 の もの
すら落 は常 被た 期 メム や 重罪 1 全 なさ 格 有權 行 可 さ もの に 於 て を や と s &? ،
である が*に倒産が農民 に書し て絵はる 電腦 下が無人に 詳し て法 がせる)
常 被 任意 の大 御 てある 今 大森 大悲 の 本 關 が 管 に 北本 陆 法皇 の御 である 光 に 於
ィ や 武 等 意 しさ に 事 の 民 なれ とも 事 人 の 常に 宣 ~& 和 《孝子 の 父母 に 続 し 中 亞 の君
に する議論 に非*出校 必ず あるが無く離 家交際 の間 の に ( 位置
し 本 る の 外 は ない。
歌與參議義學 三章 -
-*
-
- - - ー *ーーーーー - ー -** *
し- }-
歌異妙講義 第三章 百四
獅ほ 我等は比の如き大悲の親心の奥底を叩きて示 されたる聖人の御教化を軽々
しく受け てはならぬ『黒谷上人博』の中 に上人の常に仰られける御 詞の 一 に 目く、
罪は十悪五逆の者なほむまると信じて小罪をも犯かさじと思ふべし罪人なほむ
まる、いかに い は ん や善人をや 行は 一念 十念 むなしからず と信じて無間に修すべ
し、一念なほ むまる、いかに い はんや多念をや
と、是が浮土宗 の人々が法然 上人の御 教化なりと思ふて書きとめられた御言て ある、
初 論法然上人は邪見に陥ら ぬ やうに罪を犯すなとか、急らぬやうに念備を喜べと 仰
せられたこともあり たるべ けれども、かく 小 罪を も犯してはなら ぬ 善人ほど助かる
念備は無闇に修せよ澤山 稲 ふる程よい といふ 様な思召てはなかつ たてあらう、夫に
ついて 思ひ出すは 聖豊 法印の『唯信 砂』の御言て ある。
よの人つねに 目 く、備の願 を信ぜざるにはあらざれども、わが身のほどをは からふ
に 罪障のつもれる ことはお ほく、善心の おこる こと はすくなし、こ 、ろ つねに 散 蹴
して 一心をうる ことかたし、身 とこ しな へ に 解念 にして 精進なる ことなし 備の 願
ふかしといふ とも、いかて か比の身をむか へ たまはんと、この お もひまことに かし

こきににたり 橋慢をおこさず高貴の心なししか*。の不思議カをうたかふ
のとがあり いかばかりの力ましますとしら毛 にすくはえぞ
おもふべき五避の ㎞ のあひ た に往生をと
シ避㎞ たらんをや、つみぶがくばい はバV
㎞深どいべ ㎞
じコシ備来避シ
て備 智
不思議を うか が とながれ
っみシはならず功十念にすぎたらんをやといへは悪人なほ往生すいかにいは
* *人をゃと言語は似たれども意味は全く反封てある将奪な阿闘世王に封して
シ“目く一切衆生の所作の罪業に九二種あり 」には ニには重なり若
ー。Fとょ るをは名けて軽といひ 身と日と心とに作るを名けて重と残す大王
。F***て身に作さゞれば得る所の報軽し大王昔日日に殺せと勅せず個
シ“へ*ェ若し効せしかば侍臣立ちどころに王の首を斬らん座の時即
。シんゃェ せざるをゃと足阿園世王に封して獅ほ次のシ
敷異妙講義 第三章 -
百五
歌異鉄講義 第三章
しと言ふて深き類関に陥れるを慰籍し 如来の救 ひの深きことを示したまひたのて
ある今聖豊法印も罪深ければ 性生出来 ぬと悲めるものに封して、つみ五逆に いたら
ず、功十念 に 過ぎたらんをやと慰めて、他 力念備の奪き ことを示したま ふ のて ある ゆ

る に 次 に 罪 ふかくば いよ 〜 極楽をね がふ べし、善 すくなく ばます 〜 瀬院を念
べしと 勧められ た のてある、法然 聖人の 宣 へ る罪人をなほ むまる、い は ん や善人を や
一念なほ むまる、いかに い はん や多念を やといふ も、比 聖豊 法印の 言と同意味 てあつ
たのてあらう と思ふ、しかるに『黒谷上人 博』には 全く自力 律 法のは からひ に 陥りて、罪
は 十悪 五逆 なほ むまると信じて小 罪をも犯さ じと思ふ べしと戒め て、罪人なほ むま
る 現ん や善人を やと自力作 善を す \ め、行は 一念 十念 むなし からず と信して 無闇に
修すべしと自力念備のはからひを打立て、一念なほ むまる現んや多念をやと共の
偏数の多少を動ましたものてある かくの如き事を法然聖人の仰せらる、等 がない、
鳴 呼 言語は同じくとも『唯信 妙』と『黒谷 上人博』とは 心は黒白 の相違がある『唯信 勢』には
備智不思議の救済を示すために用みられたる語が「黒谷博 ては自力作善の功力を動
ます貸の 語となってある。面し て比『黒谷 博』の一語 々 々 に暗合 して 厳しく聖人が戒め
イ→ もり 〜ー は日 〜
" ョ -tt
ー』
たまひたる御教化が『日博砂』の最終の三章てある、目く -

一如来の本願はもと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事 ●
本願寺の聖人黒谷の先徳ょり御相承とて如信聖人おほぜられて目く世のひとっ
ねにおもへらく悪人なほもて往生すいはんゃ善人をゃと このこととをくは瀬院
の本願 にそむき、ちかくば 響 奪出世の 金言に 違せり、云々
一、つみは 五 逆 誘法 むまるとしりて、しかも小 罪もつくるべからずといふ 事
おなじき聖人のお ほせとて先師信上人の お ほせに目く世の ひとつねに お もへ らく、
小罪なりともっみををそれ お もひ てと ゞ めばやとお もは ゞ、こ 、ろにまかせてと
とめられ善根を修し行せんとおもは ゞ たくはへ られてこれをもて大盆をも得出
魔の方法ともなりぬべしとこの修業宗の肝要にそむき先者の日授に違せり会々
一、一念 にてたり ぬ としりて多 念をはげむべしといふ 事
*
この こと 一念 も多 念もともに 本願 の 文なり、い は ゆる 上 霊 一形下 至 一念 とら響 せ
らる 、これその 文なり、し かれども下 至 一念 は本願を たもつ 性生決定 の時 就 なり
上霊 一形は 往生即得のう へ の備 恩報謝の つとめなり、そのこ 、ろ経 響顕然なる を、
歌異妙講義 第三章 百七
『『 **
敷異妙講義 第三章 百八
一念も多 念もともに従生のための 正因 たるやうにこ \ ろにみたす 條すこぶる経
響 に違せる ものか、云々
面して比初の 一章か比『敷異砂』の第三章と全く同一 の御教化てあります 質に法然上
人の御 弟子三百八 十余人の 中、本願他力の親心は 我等 凡 患 底下の罪人を救は んとの
大慈 大悲なりといふ ことを御 頂きなされた方は 聖 豊 法印 をはじめ 五六人に 過ぎ な
かった面して我親賞聖人は特に共誤り易き酷にかどを立て、自ら如来大悲を頂き
たま へ る 儒を、かく噛み て 含める やうに御示し下 された 我等幸にかくの 如き聖人の
御 教化を直々 承る を得 たるは貫 に 千載の 一遇と遠く宿 線 を慶ば ねば なら ぬ、そして
聖人の後にも法然上人の後と同じく、自力律法主義 の起ったことは序説に も述べ た
如く、二 十 一箇 修 中 に 罪は 十 悪 五 逆生ると信 知して 面☆ 小 罪も犯す べからずと ある
を見ても分かる、しかるに『敷異砂』『日博砂』の御教化は赤比疑の雲をも挑て隈なく他力
本願 の俳 日を仰 がしめ たま ふ こと多生億 却 に も値 遇し難き 殊 恩と威 謝 せ ねばなら
ぬ。
そのゆ へ は 自力作善 の ひとは、ひと へ に他力をたのむこ 、ろかけたるあいだ 弾 院

の本願にあらずしかれども自力のこ、ろをひる か へ して他力をたのみたてまっ
れば旨共質 報土の往生をとぐるなり

自力作善 の人は 自己の力て 善をなして 夫て飽まて光明を 認めんとする人てある、が
く自分に 夫だけの力がある と考 へ て居る己上は具質備 の御恵みの力即ち本願力を
認めて居らぬ人てある橋慢と厳と解怠のものは以て比 法を信すること難し自分の
力て修行が出来るといふ 橋慢の頭が高まっ て居る間は 決して備智 不思議を信ずる
ことは安→き やすき様て あるが中々 六 ケ 布 い、浄土門 を信ずる、念備を唱 へ る、それて 他
力を信じたのてあると云ふ 様に考 へ て居る人が多い 成程形 の上ょり見れば他力を
信じたやう に見える が眞質に他 力を信じ たとは云 へ ぬ、信楽 受 持する こと 基 た以 て
し 中之建期に過ぎたるはなしとまて%人が力を入れて戒めらる、は決して無
意味 のことては ない。たとひ 浄土ありと信じ、口 に念備を 補 ふると難若し自己が念備
を稲ふる の功徳 を以て浮土に 往生せんと欲する人ならば備の本願の力を信じて居
るのてはない事ろ自己の力を信じて居るのてある善を修すれば顧あり 罪を犯せば
祀 ありと考 へ て居るのてある 即ち罪顧を信ずる人て ある、罪顧を信じつ 、念備を 種
-
歌異妙講義 第三章 百九
歌異妙講義 第三章 百十
ふるものは眞質備陀絶封の救済を信じて居らぬのてあるたとひ浄土を願ふと離備
が我等がために成就したまひたる報土たるを信せずして自己が修行の功によりて
往生する浮土と考 へ つ 、あるゆ へ に最 質の浮土を認めることが出来 ぬ、故に念備を
稲 へ な から共 心は自力なる が故に 他力中の 自力てある、浄土を願 ひつ 、も旨共質の 浮
土を見る ことが出来 ずして自己が見により て匿 割 を つけ た浮土 共力 相 常 の 浮土て
階級 を生ずる 化 土て ある、かくの如く 念備を 補 へ 浮土を 願 ひ ながらも 旨共質備 陀 の力
を信ぜざるゆへに備智不思議を信ぜさる疑心の善人てある疑惑の行者てある既に
備 智不思議を疑惑して旨共質の備 陀を信ぜざる人なれば共結果浄土に往生するも三
質を見聞せざるは自然の理てある、夫 故疑城胎宮 とか七賞の牢獄とか稲せらる、譚
てある面して自己の力をたのみとする橋慢心より来りたるものなれば漫地解慢界
と云は る 、次第てある。 -『
比 くの 如く本来 備 院の御力を 信ぜ ず して自分の力 てやり通 さんとする 様な 考の
人は弾院の本願の目的とする所ではない されどかく自己の橋慢心より備智不思議
を疑ふ人を基僅にしてきたならば永久疑の晴るべき等はない備院は備智不思議
--- - - -
を疑ふ ものに封して 獅共疑を翻して俳智 不思議を信ぜしめんとの大慈悲を以て 向
ふて下さる是即ち十九二十の本願のある所以てある若し比本願なかりせば備智不
思議を疑ふ ものが疑の晴るべき時節がない 権 質旨具暇 の到 響といふ ことは 所請教 相
魔立とのみ 心得て、大悲の備院 が比方便の願を起 したま ひたる旨共意 を見誤りてはな
ら ぬ 聖人は『末 燈 砂』に 下の如き御 教 誠がある。
比信を得ることは『週郷院十方諸備の御方便ょりたまはりたるとしるべししか
れば諸備の御 をし へ をそしる ことなし、除 の善根 を行 ずる人をそしる ことなし、こ
の念備する 人をにくみそしる人をもに くみそしるべからず、あはれみをなし、かな
しむこ \ろをもつべしとこそ聖人はおほせことありしかあなかしこ〜、備恩の
たかきことは、解慢漫地 に往生し疑城 胎宮 に往生するたも弾 院の御 ちか ひのなか
に第十 九第二 十の 願の御 あはれみて こそ、不可思議 の たのしみに あふことにて さ
ふら へ。
かく自力修善に て 他 力をたのむ こ \ ろなき疑惑 の人をも 飽まて信 せしめんとの 大
慈悲 心が即 十九二 十の願 てある比願あるが貸に備の果 途の御心が届きて途に疑惑
歌異妙講義 第三章 百十一
歌異妙講義 第三章 百十二
が晴れて備部不思議を信ずる様になる初めは自己の力を気みて手常り次第に如何
なる善 をも成し得べしと自負 心を起して進みつ 、ある間に 途に辿も諸善万行は貸
し得べからず、ともかくも備力に頼るの外なしとまて気がつきたるが即ち念備 一行
になつ た 酷てある、即 第十 九願 の人 が第二 十 の 願 の人となつ て も上に も言ふた 如く
備智不思議の信せられぬ間は自力修善たるを免かれぬ 自力ながらも念備しっ、あ
る間に途に果途の御念力が届いて絶封救済の無限の大悲を仰ぐこと、なる是二十
の願より十八願に韓入したといふ ものてある、これは聖人自身が経験 されたる道行
にして 現に『化 巻』に も
V○ク

「愚 秀 響 震論主の解義 を仰ぎ宗師の 勧化に依 て、久しく高行諸善 の暇 門 を出 て、永


く讐樹林下 の往生を離れ 善本 徳本 の長門 に廻 入 して偏 へ に難 思往生の 心 を発し
き然るに今特に方便の真門を出て、選探の園海に韓入せり速に難思往生の心を
離れて難 思議往生を途げんと欲す、果 途の誓良 に故由 ある かな」
と告白 されてあるあ、かくまての深き備の御恵みあればこそ幸に親鷲は備智不思
議を仰ぎて難思議往生を遂げさして裁くのてあるとの喜てある故に次の文に
○ %に人しく願海に入 て深く備 思を知れり 至徳を報謝せんが貸に基 宗のシ 過
ふて恒常に不可思議の徳海を観念す弾々これを喜愛し 特にこれをシす。地
と申された然るに常時同じ法然上人の門下にありながら聖人の喜はれた備智不思
議を喜ばずに『観経』の定散諸善 やら『阿瀬 陀経』の善本 徳本の念備を修行して得色ある
人々 が多くあったのてある。即ち西山 鎮西の諸派 はこれてあるそこて聖人は深く之
を憂 ひて
悲哉折 障の凡 患無際 より己来助正間雑し定散心雑はるが故に出離共期なし 自ら、
流轄輪廻を度るに微塵切を超過すれども備の風力に騎し難く天信海に入り難し
良に傷陸 すべ し 悲嘆すべし、凡そ大小 の聖人 一切の善人本願の嘉競 を以て己が善
根と貸るが故に信を生することあたはず 備智を了らず彼因を建立することを了
知する こと能はざる か故に報 土に入る ことなし
と申されたのてある聖人の仰せらる\ には、かくの如く備智不思議の如来 二種の回
向を信ぜ ずして定散諸善や善本徳本を力とする人は備智不思議を疑ふ 人てある「疑
惑和讃」にシぶごどを戒め「聖徳講」にはシのシぜじ
歌異妙講義 第三章 百十三
-
-

歌異砂講義 第三章 ・百十四
、、、日 さ 、、、、、、、、、、、、、、、、、、」、、、、、、 いいす、い、、、 、、 、 、、、、、、、、
め如来二 種の 廻 向 にす \ め入れ たまひ し 恩 徳を威謝 いた された のてある
しかるに西山 鎮西の人々 の如き比備 智 不思議を信せ ず、定散諸善善本徳本を作 つ
さんとする人々 の貸 に十 九、二 十 の本願 ある 次第に て、共自分 の 心に従ふ て修善をな
し、ある間に自然に自己の力の不足なることが分り同時は他力不思議 が分かる様
に なるのてある、『化巻』に定善は 観を示すの縁 也散善は行を顕はずの縁也とあっ て、
十 三観三顧 九 品を辿りつ、ある間に霊十 方無得の光明に接して備 智不思議を信ず
る様になるのてある、かく 一旦 は自力修善て賞質他力をなむ心のなかった人ても途
に自力の 心を翻 へ して絶封の慈悲を仰げは具質報土の絶封の浮土に往生して永久
備院無限の慈悲海中に遊ぶ ことが出来るのてある 比虜を自力の心をひるかへして
他 力をたのみたてまっれば具質 報土の往生を遂ぐるなりと云はれた、故に『観経』の表
面に 説てある 定散二善は軍意 共自力の 心に従ふ て途に自力を翻 さしむるためてあ
る燃れども『観経』夫れ自身の眞意 は提婆阿閣世の如き悪人章提夫人の如き女人が絶
封の大慈悲即ち本願によりて救済 せらる、といふことてある。面してこれ即ち悪人
正機の本願てある、そこて次に
ー』
類橋具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなる、ことあるべからざ。
はれみたまひて願をおこしたまふ本意悪人成備のためなれば他力をたのみたて
まっる悪人 もとも往生の正因 なり、ょて善人だにこそ往生すれ まして悪人はとお
ほせ さふら ひき 云々
第 一章の罪悪深重頻 悩 織盛の衆生を たすけんかための願 にてましますといふ下て
述べたる 如く、我等は 質に阿閣 世同様の極悪最下 の衆生てある、比の如きもの に封し
て極善 最上の本題 醒闘の妙薬を説きて下さるのてある 質に善導 の申 さる、如く「外
に賢善 精進の相を 現ずる ことを得 ざれ、中に虚 暇を懐けばなり、貧 臓邪偽好 詐百 端に
して悪性侵め難し事蛇場に同じ三業を起すと難名づけて雑毒の善と貸し赤虚暇の
-
行と名づく 真質の行と名づけざる 也」といふ が我々の内心の有様てある、してみれば、
とても〜我等が企っる行にて生死を離る\ことが出来ぬのてある そこて如来
切苦悩の衆生海を悲 欄したまひて 不可思議兆載永却に於て基質 清浄の行をなして
諸有 ゆる 一切 煩悩悪業 邪智の我等に興 へ たまふのて ある、そこて 我等は唯自己は煩
悩の具足と信智として本願力に乗ずるの深信 一 つてある 即ち機法 二種の深信 これ
歌翼銭講義 第三章 -
日十五
歌異妙講義 第三章 百十六
て ある『信巻』引用の諸経濃織儀 に出づる善導大師 の機 悔に目 く
二者深心即是基質信心信知自身足具足姫 備元夫善根満 韓 三界 不 出 火宅 今
信 知瀬院本弘誓及 稲 名競 下至十撃 一撃等 定得 往生
比文そのま 、が煩悩 具足のわれらは生死をはなる、ことあるべからざる をあは
れみたまひて願を おこしたまふ本意悪人成備のためてあるとの深信てある共深信
が即ち他力をたのみたてまっる悪人最も往生の正 因てある、しかるに比に注意すべ
きことは悪人正機といふことを力強く言ふために通俗 に「如来は悪人はありて も大
事ないと仰せらる、といふことをきく、全鶴大事ない」といふ ことは如何なる意味て
ある か 悪 を行 ふ てもよろしい と許しても興 へ られたやうの意味 に誤解しやう もの
ならば大なる誤てある唯悪を大事ないと云ふて許すといふならば悪をす 、めるや
うなものてある悪人記園 は悪し だけ貧 々備が期㎞びきを 調
例したまふ親心 の本願 を 示 されたのてある 共悲欄したまふ親心を示さずに悪人正
機を説く ことは 出来 ぬ のてある。
近来動もすれば「敷異砂」の行はる\に従てあまり罪悪救済の力強きを見愛する人
もある決して罪悪数派を如何に力撃く説きても愛ふるには及ば*る事撃のみを
説きて共救済の大慈悲を説く力の弱きを憂ふる 次第てある 我等ごとき煩悩具足の
凡夫 を悲 欄 したま ふ 親心なればこそ我等 凡夫が之に安 んずる ことを得るのて ある、
かくの如き大慈悲 に 封してみれ ば 盆 々 罪深きことを織 悔して 比 慈悲の力 に よら ず
ん は生死 を出づべから ずとの深信 も起るのて ある『唯信 砂』に 目 く。 、
たとへは人ありてたかききしのし*にありてのぼることあたはさらんにちから
つよき ひときしの う へ に ありて つ なを おろし て、この つ な にとりつかせて、われき
しのう へ にのぼせんといはんに ひく人のちからをうたがひて、つなの弱からんこ
とをあゃぶみて手をおさめてこれをと ずはさ*にきしのうへにのぼることを
得べからず ひとへにそのことばにしたがふ てたなご、ろをのべてこれをとらん
にはすなはちのぼることをうべし備力をうたがひ園力をたのまさる人は菩提の
きしにのぼることかたした ゞ 信心の手をのべて誓願のつなをとるべし備力無窮
なり罪障深重の身をお もしとせず 備智無漫なり 散蹴放逸のものをも すっること
なし、た ゞ 信心を要とす、そのほか をば、か へ りみざるなり
歌異妙講義 第三章 百十七
歩も上ることの出来ぬ者は共備智不思議の綱をとるや否や直ちに救ひ上げらる、

比法語は願力無窮の『和讃」の典操にして、いかにも悪人正機
親盤聖人が仰せられたとの意味と見てよろしい、されど 一本に『おほせられさふらひ

そこ て「よて善人だ に こそ往生すれ、まして悪人 はとお ほせ さ ふらひき」とある。


きと云々』となっ て ある本 もある、これなれば前 九章 何れ も祀訓 共 備 を直接 談話風 に



すを
とても
可豊
不、


と論

比何ぜ
ばひ


また一
ふして
ら能れ人ま 即悪人
が正





あ撃ち


院上 ちるらん れ
ら多少

と力
有する

企 た綱
あ即ち
て有






煩我
具足

本強力
これ
る悩め願 願

あども


、々

と得
落ち
上ざる
べもの


た下ても


に から
るれりめさ ば

何強き

て必岸



ひあ、
られる
即十

こ衆本
方きあげ
人ずる生 思議
ちれ 疑



執、


ぬあ自力
人さ無
な一
功たを

れど
とり
らるび る

な善

て力人


か自力

らと

にす備
あ智
即不
い作己んるち ある
落で

そこ
で大事

居ない
では
居もの
落ち








群ちもる
おほせられさふらひきとは「敷異砂』の著者即ち如信上人なり若くは唯圓房がかく

歌異妙講義 第三章

}
*


の意味がよくあらはれて
百十八
書きて云々 の語を結びてあると統一をたもっことになって大に可しい 共時は仰せ
られ候 ひきまてが皆親震聖人 の語となる 熱らば誰が仰せられた かと云 へ ば、先師法
然上人が仰せられ たとのことてあろう、上に引用した『日博砂」同意の文に本願寺 の聖
人黒谷の光徳より御相承とて如信上人 お ほせられていはくと書き初めてあるに封
照して見れは 分かる、そして 捨 も上に 黒谷博中に法然上人の常に 仰せられける御詞
として自力作善の浮土宗腹に て 博 へ られたるに封して 殊に親鶴聖人は 法然上人 の
眞意を御相承なされたもの ゆ へ に殊にかどをたて 、世 の人つねに 目くとまて 之を
封して悪人正機を示 されたと見ることが出来る 聖人が兄弟子として奪敬 せられた
聖豊 法印も「唯信砂』にしかも適切に祀師と同じく悪人正機を力強くのべらる、は盆
盆同信の御弟子の肝勝相照すところが顕はれて嫡しい 故に仰せられ候ひき云々は
法然上人の仰せになる若し云々なきときは如信上人の言となりて親鶴聖人の仰せ
となる
何れにしても比に面白き事質を見ることが出来る序論 に自力律 法主義をいっ☆
他力救済主義て打破ることは度々繰返さる、ことを述べたが、即ち善人なほ☆て往
歌異 第三章 -
百十九
=シ ーシー
シ 第四 百二十
生をとぐい はんや悪人 をや」の 一句は黒谷先徳より相 承して親鶴 聖人は浮 士宗の自
カ修善に封して他力救済を説き如信上人は又之を観賞聖人ょり和承してニ十一箇
條張文の自力律法に封して本願の眞意を説きたまひた ものてあらろう質に 比章は
眞宗 の 眼目 にして又『敷異砂』の眼目 て ある
第四 章
慈悲に聖道 浮 士のかはりめあり、聖道の 慈悲といふ は、ものを
あはれみ、かなしみ、はぐくむなり しかれども、思ふ が如く、たす
けと ぐることは、きはめ て ありがたし浮 士の慈悲といふは、念
備して、いそぎ備に なりて、大慈 大悲心をも て、をもふ が ごとく
衆生を利益 するをいふ べきなり 今生に いかに、いとし 不便と
をもふも 存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終 なし
しかれば斜 側引 うずの みぞ、すえとをりたる 大慈悲心にてさ
引 べきと云々。

『1『-

抑々 聖道門 浄土門と言 ふ ことは軍に 一代 教を分類したのては ない 質行的に聖道
の迎るべからざるを 悟りて、浮土 一門の 開け 来 りたる質 験て ある。
全 鶴 聖 道門 とい パは「比湖 湖 世界 に 相 り ながら大覚の位 に 登る こと を期する 大㎞
の風み行かれな道とい*dとてあっ a3 り 輝割が 「代の剛種ォg説が剤
は「これ て ある 足決して 悪しき に「あら ざれ ど 我 等 が 創 法 的 に 行 は ん と すると3 は 不
可能て ある 比聖 道門に 勤 し て備 の 願 力に 乗 ッ て 極楽 浄土 に往生 する 道を 浄 H 門引
名 けた のてある『聖道門は大聖の行 ひたる奪 き道なれども、大聖 響奪 の在世 と距 つる
事逸遠なる 上 に、又共 の説くところも高尚且 幽玄 なれば、我等 凡夫が自力を以て 律 法
間に行はんとするも到底行くことの出来ぬ道てあるそこて浄土の一門が開け来り
て男女老少善悪の間びなく唯信仰の一にて容易に 取さる、道てある地々*道門
を魔して浄土門に入るとか 難行道を捨て、浄土門に入るとか 云ふことは皆律法主
義 が破れて 信仰が溜き 来る質験 に外なら ぬ ことを 注意 せ ねばなら ぬ
慈悲に聖道浮土のかはりめあり聖道の慈悲といふはものをあはれみかなしみは
ぐ、むなり、しかれども思ふが 如くたすけとぐる こと きはめてありがたし、
歌異砂講義 第四章 百二十一
シ 第四章 百二十二
今比章は慈悲といふことに就て聖浮二門の匿別をいふてあるが 基の意味を質魔
的に一言に云ふて見れば何人も出来得べくんば比世に於て充分に人に地けをかけ
人に助けを生虜いとは『ふところてあるが自カのシふさと"。
か敷いどうしても思ふ通りに助け途ることはあり得ないと言ひ放ったのてある人
生にありて如何にもして善き事を貸さんとか他逸他に親切を霊さんとか企てるの
は言ふ逸もなく自分には親切も出来人を助くることも出来ると思ふからてある
れども比人生相封の世界にありては種々入り組んだ事情が有り無量の障例があり
て連も理想通りに行はれぬは初論我等人間の不完全なる到底自己の力にょりて
奪の所説の如くに人を救ひ途ること能はぬは足れ人生の質際にして比章の示すと
ころは正しくこの獣てある北虜を道緯碑師は『大集月蔵経』を引いて 我末法時中信 々
衆生起行修道 未有 一人得者」と断言せられてある熱らば如何なる道にょりて我等は
助かるかといふに道緯風師は攻に 唯有 海士一門可通入路 と数えられた斯く*道律
法主義の門戸が閉づると同時に眼前に開け来るものは絶勤他力救済の浄土一門て
ある。
比聖道浮土の二門の事を既に龍樹がまた難行道易行道と名けられた如きは、一層適
切なる質行 的 質験的 の言 てある 難行道といふ は 拾 も 唆 阪 険 路 を 駿 渉 するものが、或
は頭き或は疲れて終には倒る\に至るが如く比人生にありて何人にも親切にせね
ばなら ぬ、暇令他が我 を理解し得ずして、怨み怒り て大に 我を苦しむるが如きことあ
りても 我は怨に報ゆるに徳を以てせねばならぬあ\せねばならぬ こうせねばなら
ぬと入らぬ自分の計らひを以て気を配ったり人に気を置いたりするから順る難行
て、能くその終 あることは 六 かしい。
私は信仰に入る前に苦しんだは比の獣てある如何にもして世の貸めに霊さねば
なら ぬ、又人に は善 くせねばなら ぬ、先方が隔て、も疑つて ☆ 比方から開い て行 かね
ばならぬと色々と考へて見たがどうしても届かぬのみならず後には却て自分の方
から右 に隔て左 に隔てするやう に なつて、甚だ苦しんだ ことて ある 斯 の如 きものを
向ふから隔てぬ友はなきか捨てぬ親は無きかと求めた最後に初めてかく隔て苦し
むもの を隔て ず愛し給 ふ 絶封 の同情者は備なりと、廣大 の備の 恵み が 向 ふ から届い
て下さった自分は如何に善くせんとし 如何に善くならんと計っ てもとうして も届
-
敷異妙講義 第四章 百二十三
敷異妙講義 第四章 -
百二十四
かぬ所に 先方から顕はれて 下さるのが浮土他力の 一門てある 比門は 全く備の御恵
により先方より開け来る門 てある、比の門ばかりが私 の通ることの出来 た門てある、
比門は何人ても行く事の出来る道て易行道と名けた所以てある 相封有限の人生か
一 ら絶封無限の霊境に引き入れらる、門戸は唯この 一門てある唯有浮土一門可通入
路といふ は質 に動かすべからざる 鐵案てある 法然上人が聖道門を開い て 浄土の 一
宗を開いて下されたも全く上人が質験上ょり来りた結果てある展 繰り反す如く上
人は出家以来 種々の宗義を尋ね、色々と修行を試み、一切経を五遍逸繰り
れ たが どうしても安心を得ざりし 最後に善導大師の「一心専念弾 陀名競 乃至順彼備
顧故の文に編れて怒然として備院の廣大なる恵みの光を順彼備弧の上に認めて鳴
呼 助かる道は比本願を除い て外にはあらじと大 安心を得給ひた 之によりて法然上
人 一代の教化は 絶封的に 選 揮本願の念備 を開顕せられた。
常に 云ふ ことてあるが、現今道を 求むる人の大に 注意すべき獣は備 教 には多くの
門戸がある、何れの道 より 入るも妨あることなし杯 と思うて居るは大なる 誤りてあ
って信仰に入らんとするには大なる障りて ある 足の如き心得てはい つまても信仰

に入ることが出来ぬといふことてある、一寸考 へれば備法には八万四千の門がある、
之を分て は自力 聖 道門と他力 浮 土門とて、斯の 如く二門ある から何れ からても入り
得るかの如く思うてあらふが信仰の質際はそういふ ものてない 退いて静に我身の
上を案じ見るときは何人とい へども大聖の示し給へる填は深遠幽玄にして如何し
て も通り 得べき道て無い ことは、異論 あるまい と思は れる“末世の道 俗各々己 が能を
思慮せよ」といふは、誠に親切 なる教 てある よく〜 自己の能を思慮して、自力の計 ひ
をす て、願 力 に 継るところて、自分も絶封 界 へ 引き入れて貰はれるし、絶封界 に 入り
得ての 上ては、又 他の もの をも同じ境 に引き入る、ことが出来る。
また 浮土の 慈悲といふ は、念備していそ き備 になり て、大慈 大悲 心をもちて、思ふが
如く衆生を利益するをいふべきなり今生にいかに いとをし不便とお☆ふとも 存
知のごとく助けがたければこの慈悲始終なししかれば念備まふすのみぞ すると
ほりたる大 慈悲 心にては候 ふ べきと云云。
私は 倉って かう思ふて居った備教は世を救 ひ人を済ふを本旨とするのてある常
今備教の有様は比赴倉人生とは殆んど別物になって居る敷すべきとてある須く大
歌異妙講義 第四章 、百二十五
歌異砂講義 第四章 百二十六
に赴曾事業慈善事業を起して備 教の本旨をあらはし常時の鉄 陥を補は ざるべから
ずとかう思って居った比の見地よりすれば今比章に云ふところは順る了解し難い
ことになって来る どう いふことてあるかと怪しんて居つた然るに 今ょり四年前父
親 の病気の時に 傍に看病し て何とかして、もう一度 平復せられる やう に仕度 い ☆の
てあると 色々 心を砕い たが 途に 届かない、人間のことは何事も因縁が霊きれ ばそれ
切りてある、何と思ふ て見て も人間の力て助け 途ることは極めて 有り得 ぬことてあ
る 成程人を助けるの人を恵むのといふ ことは 立派な事に相違無い、殊に 親の最後に
自分の命を捨て、親の命に代らんと思ふは人間の至情てはあるが 質際は人力の及
ばぬことてある、比 の 闘 に 陥「「の 力は 備 院 の 御 樹 悲「つて ある、比の時備の御慈悲な
かりせば天に突し地に働するも仕方が無い、比れ浮土の 一門ありて通入すべ し私 の
親は平日備の御恵みを喜んて居られたがます〜 南無阿弾院備〜と念備を喜び
つ 、、如何にも平穏に念備の息が絶えて極楽に往生して下さった共様子は拾☆障子
を明けて中 へ 這入る姿を後から眺める如く思はれ 如何にも賞質護の極楽世界の有
様を比世から眺めさせて頂くことが出来ました このとき初めて彼土得置の浄土門
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の味 を味 は して頂き、同時に 直ちに 再び 機 土の我 等 を顧みて 済度 したまふ 比世の 親

は未来の親となって 下さった どうしても如来の御 恵みあらずんば 到底助かること
能はさるものと深く思はせて貰って初めて比章の有り難い味をしみ〜と知らせ
てい た ゞ きました、親 盤 聖人 の『和讃』 に
南無阿弾陀備の廻向の 恩徳廣大不思議にて、
往 相 廻 向 の利益 には、 通相廻向に廻入せり
また -


願土に いたれば速に、 無上混撃 を誇して ぞ、
すなはち大悲を起すなり 之 を廻向と名げたり
とあります 還 相 の廻 向といふ て 別に頂くの てはない が、廣大の備の 恵を喜ばせて頂
く念備の中に、比の大利 盆が籠 つてある から 念備の行者極楽浄土に到ると同時に自
然に還相利他の廣大の力用を現はし来るのてあって比時こそ初めて生死の菌林の
中に分け入りて思ふが如く先づ有縁のものを度することを得るのてある盆れば念
備は質 に 末 通りたる大慈悲てある 念備して いそぎ 浮土に参りて 大慈大悲の備とな
歌異妙講義 第四章 百二十七
-
歌異妙講義 第五章 百二十八
り度 い ものてあります。面して 斯の 如く 考 へ 来 つて 見れば、我等 か比人生 にあつ て人
の 到 め に 謁「引の 威 国「世 の 残 め に する のとい 刃 共の 小さい計 a ひ「は「過ぎ ぬ 因
刃 通るものてない比の 所作 を ば備院魔 大 の御恵に比べて見れ
*
シ 『根 だ の と 名く べき程 のものてはない とい は「ねば な引
第 五章
親 蹴は父母 孝養 の ためと て、念 備 一 返 に て「も 引u たる「こと
いま た さ ふらはす。その ゆ へ は、一切の有情は みなも て世々 生
生の父母兄弟なり、いっれも 〜 この順次生に備になりてたシ
すけさふらふべきなり 材が 引が にて 。
は「Nd Q 備引劉 向u て父母 剤け ちはめ た 、自
力をすて、いそぎ浮土のさとりを ひらきなは六道四生のあ
る だ、いづれの業苦 にしづめ りとも、紳 通方便をもて、ま づ 有縁
を 度 す べき なりと 云云。
比章は念備は如来廻向にして行者の方ょりは不廻向てあるといふ とをきはどく
父母 孝養の上にかけて示したまひたのてある 従て 「面 りは「我 等 は自力て父母 孝
養 も出来るも はな によりてこそ生 名「世 引の 父母 兄弟 剤
すくる こと が出来る のてあるといふ ことを 示 され て ある 敵 に樹局 あ剤 個制(
理は信仰にょ らなければ なりた 、ぬ と いぶ こと に なる 故に 一面比章は所請倫理己
上の信仰といふことを示 されたこと、なる 抑々「敷異妙』の特徴 は すべ 問題に つ
以て 言 ひ あ3は「され た「獣 は ある 親鶴聖人 の信仰 は「如何
が ない、されど聖人御自身 の筆 にあらはれ
たるときは共寛容偉大な人格を通して現はる、貸に頼る追らさる有様がある『教行
信謎」は多く経論 響 の文 を 類撃し て共間々 に 簡潔なる御鎖仰 の司を加 ペ引れ剤
のゆへ 除程 味 はねば 御嶽 か 分かりかねるT銘文」やr一多置文」や「唯信勢文意」は如
何に*分かりょけれど穏かなる御言てあるゆへにきはどき酷がわからぬT愚秀砂』に
は最* きはどき獣を示されたれど言ひあらはしが角だ、ぬゆ へに矢張圓満てある、
比きはどき獣を反面より著しく角た てられたるは即ち『化身十巻』なれど日常生活の
〜 、
歌異妙講義 第五章 - 百二十九
歌異妙講義 第五章 百三十
上にあらはれた獣を拝見した てまっることが出来 ぬ、しかるに『御消息集』や『未燈妙』上
ては共絶封の信仰が生活の上にあらはれ た獣がたしかに寛ふ ことが出来るが特に
共獣を直々 口 づ から御話 をなされ た御 語は 比『敷異妙』に於て 明らかに 拝むことが出
来る、これは『敷異砂』の著者の人格と筆致とが比 きはとぎ 絶封の態度を角だ て 、著し
く 蘭明 するに興りて力ある ことなるべ けれどもと〜 親鶴聖人の絶 封的信仰が遣
*なく***れなるものであるシなかったならば書きはとき
獣を角 たて 、日常生活の 上に 味 ふ ことは出来 ぬ、面して比章 の 如きは最も共特徴の
あらはれた ものてある。
親 獄は父母 孝養の ためとて、一遍 にて ☆念備まうしたること、いまだ さふらはす、
比 T 言は味は「へ は 県 ぶ だけ深き意味のある 言葉 てある まづ文字の上より従来ひ
と の 気 附きたるとほりを申せば 親 鶴聖人の宗旨 は 自力の 念 備 をゆる され ぬ、たと ひ
父母孝養のためなりとも父母の気風をいのるために一通の念備にてもまふしたこ
とはないとま ふ されたといふ それ故むかしょり比章をよむ心持は長宗ては追善 廻
向のために、念備をまふさぬといふ 極特別な意味にのみ 了解したらしい。こは聖人 の
信仰より来りたる結果なれど今は共源に さかのばりて信仰そのものを味は、ねば
ならぬ即ち聖人の信仰にては念備は如来廻向の御慈悲なれば、一酷なりとも自力廻
向のこ\ろなきゆへに如来の御恩をよろこぶ外に何もない たとひ父母のためなり
ともわれらがっとむべき念備はない。初 論われらがつとめた、めに効力があるもの
ならばっとめ☆ しょふが、一酷われらの力なき故に 如来廻向の念備をいた ゞきたる
次第なれば如来の慈悲をよろこぶ他に稲 へ様なき念備てあるといふ事を示 された
のてある。

又近頃は青年にして 数賞砂」を過仰するものにとりては比言葉は質に心地よく倫
理上の宗教をいひあらはされたるものとして奪ぶ次第てある 地時は念備といふよ
りも父母 孝養といふ事に力を入れて父母孝養よりも信仰が大切てあるときわどぐ
いひはなちたる意味 に 了解するのて ある、クリスト 教 に 我は子を親より離 さんがた
めに云々とある意味と暗合する者としてクリスト教者自身が親盤聖人の信仰の絶
封なるに驚博する 次第てある足 赤悩かに比言葉の内に含まれたるものにして、一本
シは父母*養のためとてシ、電はで**ふしたる事さふらはずとっくりs
敷異妙講義 第五章 百三十一
歌異妙講義。第五章 百三十二
る如きは比方の意味をっょめる事になるすなはちシは父母考 発のために念備ニ
遍 て も申した事は ない との 意味と なる、されど是赤 信仰 に力 を入れて倫理と 衝突す
るかのごとく甚だしきは忠孝の思想に反抗するのが信仰てあるかのごとく誤解す
る ものがある。こ は決して共様 な 意味 てはない。そ も〜 信仰は備 陀によりて助け ら
れるのてある 備 陀の力の外は何 物によりても救はれぬ、決して父母 を疎にする様 て
はないが信仰の一如に至りては 父母のカと離も如何ともすべからざる事てあるそ
れ故に又我等は父母の貸にかはりて信仰する事も出来ぬのてあるそ*〜備教に
於て南無備と日を開いて三賞に 騎命するも乃ち 比意味てある親 鶴聖人が『化身土』の
巻に「菩薩戒経」をひきて出家のひとは國王に向ひて濃界せず父母に向ひて濃邦せず
六親に務へず鬼碑を濃せずと申されたも比意味てあるかく子として親の力に依て
救はる、事も出来ねば子として親を救ふ事も出来ぬ信仰の間題は倫理以上てある
尚ほ 一歩進めてい へ ば我々は父母 孝養 をしたい が理想的に い へ ば、我々の力て 父母
孝養すらも出来ぬ人間てある親がいかほど六道にまょひっ\ あるとも いかんとも
すべき力はない のてある 如比父母 挙養の出来ぬ ものても唯比備 の力のみありて 救
ひ下 されるのてある、比備の御力が即ち念備てある 比備力 にょりて救 は れてみれ ば、
共備の力て遂に生々世々の父母兄弟即ち一切衆生を救ふ事が出来る様になると云
ふ唯一備力を力として我身を謙虚にする親獄聖人の絶封的信仰を遺減なくいひあ
らは されて ある。
以上雨 面より 比一言 を味 ふた 次第て ある。前者は 如来 廻向の念備 なれば父母 孝養
のためとて一通にても申されぬとの意後者は父母孝養も及ばぬ身なれどた ゞ備力
によりて 救 はれてこそ生々 世々 の 父母 孝養も出来るといふ 意軍、章 同一 の 意味 て あ
る。これ にて 充分 親 鶴聖人の絶 封の信仰をいひ あらは すことを得 たがなほ 今世の多
くの人が親盤聖人を理解する上に於て充分ならぬ うらみがある前にも申すことく
親獄聖人の信仰を拾かもクリスト教の信仰の如く何となくすさまじぐ大魔なる断
言をきわどくすつばりと 一世に宣言されたるが如く威ずるのてある。こは樋かに聖
人の 信仰より来る自然の結果としてあらは れ来る現象にして肉食 妻帯の宗風の如
き外面 より みれば かくのごとき観察を下すも無理 は なく、しかれども 聖人の信仰 的
内面に立いたりてみればこれまた前にも申す如く頻る自ら謙虚にして唯備力を讃
シ 第五撃 百三十三
百三十四
数異妙講義 第五章
てたる結果たる
の如く春風の如き信仰より流れ出
仰したま へる 一酷私なき温潤玉
事を忘れては ならぬ
前軸
信仰を いだかれたる 源は 法然H 人の
さて聖人がかくの如き柔 順調園私な 外面観察よりみ
の御を し ペ たるd引思 れ剤
阿瀬 随備往生 N業 Q備貸本 人に反封する
ばかりを稲へて何等の計書もなく
れば法然上人は何の事はない 念備 まふしたる事
父母 孝養のために念備一遍にても
事。なく説法したまひしに従って 上
ぐびにも申されぬ様に思へる成程法然
さふらはずなどといふ主角ある言葉はを なれば共徳化の
も上下師表として湯仰したる次第
人は徳行たかくして朝廷☆人民 て鍛 へあげて圓満
ど 共徳化は軍に修養の力により
著しきは申すまて☆なき事なれ の信仰南無阿瀬 院備にある
になられたのてはない 共源は上人の内心に於ける 絶封
遺減なく発揮せ
信仰の骨髄を示 されたる『選揮集』に
事を忘れてはならぬ そは上人の

られ て ある。
として観れず且っ念備
そ*〜「シ 」の書方をみるに質に明子にして修理井然足本より自
封なる事質に比類なき有様てある
の一行を主張したまへる共態度の絶
、己の 経験 より来れる ものにして 上人が念備を信じたま ふ 信念 の告白なれど頻る直
裁明瞭 なる ものてある、十 六章段 番 く或は道緯 輝師 聖道を捨て、正しく 浮土に 騎 す
といひ或は善導和尚雑行をすて、正行に騎すといひ遂に弾院如来除行を以て往生
の本願とせず唯念備を以て往生の本願となすと いひ是より以下三輩念備往生念備
利 盆特留念備「観経』の撮取念備行者「弾陀経』の謎誠念備等絶封に念備を主張してある
常時全盛の聖道門に封して捨閉欄拠の文字を用るて一酷もゆるされぬ虜はをぼえ
ず機を正さしむる者がある常時の南北の寧匠が慣概して遂に上人を議訴するに至
つた もこれ てある。聖人が かくまて も主張 した ま ふ 所以のものは もとより 上人が 聖
道門を質 行して自ら捨閉欄 拠 せられたる経験そのま、にして、いかに迫害に出 あふ
とも、これをい はずに居られ ぬ 信念があるからてある。
共信念の源は 則ち選 揮 本願 念備てある『選揮集』に弾 陀 如来除 行を以て往生の本願
となさず唯念備を以て往生の本願となすといふ事を委しく説明してかの諸備の土
に於て或は布施を以て往生の行とするあり 乃至或は持戒或は忍辱成は精進或は顧
定或は般若乃至或は起立塔像飯食沙門及撃シ挙事師長等種々の行を以て往生
敷異妙講義 第五章 百三十五

口 口コ
百三十六
敷異妙講義 第互章
の業とするあり或は又事ら共園の備名を残して往生の業となすあり即ち今前の布
施持戒乃至変撃撃養等の諸行を選びすて、専稲備競を選取す 故に選奨といふなり、
とある配に比の如く弾院の本願それ自身に於てシをえらびすて往生の業と
なさず唯念備の行をなしてわれらが貸にちかひ給ひたのてある 北選揮本願を法然
上人より直々承られた親盤聖人が 親鶴は父母 孝養の貸に念備 「遍☆申し たる事「M「
まだ さぶらはず と だ は、 人の仰通りを信受したまひたる謙虚なる
信仰 て ある 北弾 院の本願それ自身 に於て除行をすて、唯念備の 一法をる らびと。
たまひしが故に念備すなはち難変建師の行てある「選探集』一部は念備は如来選 邦本
願の廻向にして我等自力の廻向の行に非すといふ事を絶封的に示したまひしに他
ならぬのてある 本勢第二章に弾院の本願まことに おはしまさば乃至法然のお ほせ
そら ごと ならんゃと仰せられたも比虜てある 行巻」の文と終り三遠の文とをあげて
「シニ部を引用し%人『じて目く明かに知んg更 ル小自力の行に非ずシ
師の行と名づくるなり大小聖人重軽の悪人者同じく 斎しく選響大賞海に騎して念
備成備すべしとのたまひてある足質にシの基鶴にして聖人 正信備」に
さ、
ばな答

あも
積消に
信の


否いる極仰る 封
あて
から

もの
なる

積極 絶

一他

必は
も所る



放ひ


積極
一的

どは
絶き
面ずの以ち面く は
あて
となり
言葉
ら ☆ が
仰 いほ、

仰人


法然
如かく
あて

師奉

父養
、ひりせくる長母 通り
仰の


法に
自の


しはしら
信仰
な虚


聖し
まひ
せ然らる人 向


本の
大悲
如に
従し
蒙を
教の



な様

ざる
から
願来順り化る 土ひ



信念
な法

また
し入り の 謝

門るひ し 威
中と
の世


本揮




教シ







法然
心願護お3O
-**A

*い H
なり

べふ
ふさ
たて
なに



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きらり 順
こ〜


いなり

兄弟
父生々

世て
みは
有の

づれ
ゆる
その
のなも
母々情切 しふ



甲た


即ち また
見を
本揮

かく
ある
出し
ひ願

{


三比
あず
















化『
」なに
顧る身る

-

の上に人生に於 て活きた 言葉として、親





きわど
といふ
は候
い事
たる
まだ

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*
あて



*
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*
もい
* **

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*

*
*

*
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*
-
-





孝養
父は



ひま
し揚


大悲
たるた

たる
さは
あら

*
-

遍 た

に ち に し る
|
Q
て 信 孝9 従
百三十八
歌異録講義 第五章
こそ雨面 に云ひあらは されるのてある熱る に軍に消極 一面にして 積極方面を有 せ
ざる消極ならば 所請律法主義のあきらめ心 自力主義の りきみ 心に過ぎぬ、若 し世は
無常なり無我なりとあきらめて混撃の常 築を味はずんは如何にあきらめんと力味
でもあきらめ られ ぬ ものてある 親盤は父母 孝養の貸とて 一遍 にて も念備申したる
と候はずといふきはどき消極的の言も他に如来廻向の念備によりて順次生に生々
世々の父母兄弟を救ふとが出来るといふ絶割的の大積極があるからてある若しこ
れなくして父母*養のために一通にても念備申したること候はずといふならば無
理あきらめ力味心たるを免れぬ自超自度の小乗根性といふはこの事てある今親獄
聖人は共様な力味心のあきらめてはない 如来廻向の念備の功徳には還相廻向の御
力あれば、比 生を終るゃ否ゃ直に大般混撃に入り怒ち自由自
との 出来る ことは 疑もなきことなれば共御 恵を信 受 する 外に 暇 令
て 一 獣 の は から ひ を挟 さま ぬ と絶封 的 に 言は れた 所以 てある、ことに 大 に 注意すべ
きことは更角量宗の宗 乗を教理的に考へて性相還相の廻向の如き
組立てあると思ふ弊がある親鶴聖人の信仰が共僅兵宗教義なれば

活躍しっ 、ある 酷を味はねばなら ぬ 今還相回 向 の御恵を信ずる己上はたとひ 現世
て整へねども未来て救ふまた比一生の父母兄弟ばかりてない生々世々の父母兄弟
まても皆 助ける ことが出来るといふ絶封的の大 積極の希望が輝き来るの てある、比
思想は 絶大なる度衆生心て ある。
全鶴近時人道主義四海兄弟主義が盛に川へられて人が皆基下に集る次第てあるが、
どうも 絶封の「立場てない、夫故 唯人情として 麗はしい、理想として 高尚 てあるといふ
ばかりにして精紳 上質行上質際が 之 に伴は ぬ 域がある足人間立場の人道主義 兄弟
主義てある からてある積極を鉄 きたる消極が無理あきらめの力味心たる かの如く、
消極を鉄きたる積極は力味心より出る無理人道といふべきてある 若し極言せば 偽
善と言 はなければならぬ、全鶴相 封の人間の 一個人が何等根擁をもた ずして他のす
べてを絶封に救 ふべしなど思ふ は無理たるのみならず、寧ろ橋慢の態度てある 故に
我こそは人道を行はんとい へ る 人道 主義は眞の人道主義にあらず 我等人道を行ふ
など言へ るものてない 唯絶封の備の恵のみを蒙るときは、比恵は 一切衆生皆平等な
れば、凡ての人と共に恵に浴せんといふ具の四海兄弟主義が出て来るの てある シ
敷異妙講義 第五章 - 百三十九
敷異妙講義 第五章 百四十
和尚が同一 に 念備して別の道なきが故に、夫れ遠く通ずる に四海 の中皆 兄弟 也と言
はれたが是てある夫故に剤「信 の心
が自然に 起「る の てある『信 巻』に願作備 心は 即ち是
衆生 を撮 取して 安楽浮土に生ぜし むる 心 なり、是
大 慈悲 心なり 云云とある
かく信心に は常行大悲 の 功徳は 知らず 識 ら ず父母 兄弟 を初め 自然に 信心に 導く
もの なれど 獅 我等 比世に あら ん限り は思ふ やう に 我 は から ひ に て 助くる ことは出
来 ぬ、しかるに いよ 〜、浄土 に 往生して 正豊 浮華より 化生し ぬれば 怒 ち大悲順次生
身 に質現して 響 奪の 如く種々の應化身を現して生々世々の父母兄弟 を救 ふ ことの
出来る基の四海兄弟主義を理想的に質現することの出来るのてある格も前の章に
大慈悲の質現を来世に期して念備を申すを浄土の慈悲と申されたる如く生々世々
の父母 の救済を来世 に 騎して、唯如来 廻向の 念備を示 され たのて ある
わがちからに ては けむ 善 にて も さ ふら は ゞ こそ、念備を廻 向 して 父母 を もたすけ
さふらはめ、た ゞ 自力をすて、いそぎ浮土の さとりをひらきなば 王ハ道 四 生 のあ ひ
-『

*、*
業者

の 」ー にしっめりとも紳通方便をもてまっ有縁を度すべ。。


はげ引剤 らは「NJ剤 備社「同 して父 明剤だ 引け す
は旨共個に 比二 章 に 於け ある 抑、親鶴 聖人の眞宗 は比 廻向 の意


在は親
方の
り向

といふも 過言dはない普通の意義に於て廻向といふは廻韓趣


向といふ 意味て我等自身が行ひ積みたる 功徳を自己の貸 めにせず して、之を 廻轄し
て他人の めに趣向せしむると云ふことてある足が廻向本義てある比意味にては
我 等が念 備した る功徳 を自己 の貸 にせずして、父母 孝養等 の貸 に、之を 廻 轄して備 に
趣向 せしむる ことて ある、然るに 法然聖人が『選 撰集』に念備 は不 廻 向 の 行なりと ある
数 行信 誇』に凡聖 自力 の行 に非ず、故に不 週 向 の行と名

くる 北 と
響 せられ た、即ち念 備は 我等が行して之を 他の貸 に 廻 轄して 備 に趣向 せし むるの行
てない、何 んとなれ ば急 引科 なオ斗の はd で我等が自力
響に即是共行といふは選探本願是也とはこの意て
へらる 、念備て ある、して みれば 廻向 の 意義
が方向 轄 換して、我 等が行じ て、他 の 貸に 廻轄し て備 に 趣向 するの意 に 非ずして備が
敷異鉄講義 第五章 百四十二
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-
百四十二
敷異妙講義 第五章
行じて、我等が貸 に廻轄して、我等 に趣向した ま ふ こと、なる、比に於 て廻 向といふ は
如来 廻向といふ ことになる 言南無者の響に務 願廻向といふ は如来既に 務願して、衆
生の行 を廻施し たま ふ の心也とある がこ 、てある、願 成就 の文に 至 心に廻 向 したま
へりとあるもこ、てある 比務 願廻向の方向轄換が質に基 宗の骨日てある我等自力
の 務願が 十 九の 願の 至 心発願欲 生て ある、我等 自力 の廻 向 が 甘の願 の 至 心廻 向 欲生
て ある、面し て 如来 の務 願 廻 向が即ち第十 八 願 の 至心信楽欲生てある『信 巻』に然ル"微
慶界 有情流 韓煩悩海 漂没生死海無眞質 廻向心無 清浮廻向心足故如来殆 京一切苦悩
群生海行 菩薩 行時三業 所修乃至一念一利那廻向心 残首得成就大悲心故云云とある
が比廻向 の方向 轄換 を明示 され たの てある、そこて『浮土 論』の五 念門も 願 力成就 て あ
って殊に第五の廻向門は 如来廻向の本源てある そこて往相の廻向 も還相の廻向も
皆 如来 の 願力廻 向 てある、是即ち『教 行信 誇』の壁 頭件 還 二種 の廻 向 を以て浮土 旨共宗 を
開かれたる所以てある かく味ひ来れば浄土 真宗の骨目は比廻向の方向韓換にある
といふも過言てはない比獣を直言したのが 親盤は父母*養の とて一通にても念
備中したる こと候はずの断言てある 共方向 韓換の意義を明らかにしたの が、わがち
『 --t
『闘

-*
からにてはげむ善にても さふうは 、こそ念備を廻向して父母をもたすけ さ ふらは
め、の 言てある、かく念備は自力の廻 向 に あらずし て 全く 如来 の廻 向なれば豪 髪も我
はからひを用ゆべきてない共如来 廻向は往還二種の廻向なれば臨終一念のタに極
築無貸混撃の基質置を開きなば直ちに還相廻向の利益に廻入して衆生済度をする
ことが出来るそこを た ゞ自力をすて、いそぎ浮土の さとりをひらきなばといふた
のてある 混撃 一如の境界は 如来の来現したまふ 都てある 『謎巻』に然者 弾 陀如来 従 如
来生 示現報鷹化種種身地とあるのが足てある我等一たび浄土に往生して比境に至
りなば 又 響 奪の如く 應化身を示現 して、衆生済度の出来るは 寧ろ自然てある、即ち類
悩の林に遊びて碑通を現じ生死の蘭に應化を示し自山 自在 は 遊
を済度 する の てある 地獄 戦鬼畜生 修羅 人間 天上の六道胎卵 潔化の四生の間何れの
業苦 に 沈づめりとも紳 通 方便を以て、先づ 縁 の ある父母 兄弟を初めとして済度し、乃
至生々世々の父母兄弟 一切の有情を救ふことが出来るのてあるT和讃」に南無阿瀬院
備の廻向の思徳魔大不思義にて往相廻向の利盆には還相廻向に廻入せりとあるが
こ 、てある、比の如き利 盆 ある如来 廻 向 の念備なれ ば、何ぞ 自力 廻 向 の念 備をも て父
敷異妙講義 第五章 百四十三
敷異妙講義 第六章 百四十四
母 孝養 の 要 もなく、赤 之 に 用みる ことを得べ けん やといふ が比章の 主眼 てある
第六章
専修念備のともがらの、わが弟子なとの弟子といふ相論のさ
ふらふら ん こと、もつ て の ほか の 子細 なり 親 ㎞は弟子 一人 も
も た ず さぶ らぶ、そのゆる はわがはから ひにて、ひとに念備 を
まう させ さ ふらは 、こそ、弟子にても さ ふらはめ、ひと へ に 弾
陀の御も よほしにあづかりて念備まうしさ ふらふ ひとを、わ
が弟子とま うす こと、きはめたる 荒涼 の ことなり。つく べき縁
あればともない、は なる べき 縁 あればは なる 、ことの ある を
も 師をそむさて ひとにつれて 念備 すれば、往生 すべ から ざる
ものなりなんといふ こと不可説なり 如来 よりたまはりたる
信心を、わがものが ほにとりか へ さんとま うすに や、か へ す が
へ すもあるべから ざることなり自然の ことはりにあひかな
1 --
は 、備思をもしり また師の恩をもしるべきなりと云云
比章は親獄は弟子 一人ももたずと断言して十方衆生皆如来の御弟子なりと
四海兄
弟の眞意味をあらはせらる、従来信仰の書を解するに あまり科文を
切りて 分類を
明瞭にせんと企て率強 附倉に陥る弊ありて却て信仰の味を失ふゃうな慮がある和
讃や砂物などは所威を主とするものゆるに比獣は注意せねばならぬ 信仰の質
職を
味ふ ことは 珠を弄ぶが如し、よく 〜 玩賞すればする程光澤 文潤言ふ
べからざる味
がある 共味をかきならべたるものなれば分類的に論ずることは出来ぬ
されど信仰
共れ自身の珠は同一なるものにして之を右より眺め 左より透して
共味 を味ふ*の
なれば前章後章自ら共味の連絡あることを忘れてはならぬ 例せば第四章
に聖道 浮
土の慈悲をのべて今世に いかに いとをし不便とお ☆ふとも
たすけがたければ念備
して、いそぎ備に なりて大慈大悲をもって おもふ が、ことく衆生
を利 盆 すると言 ふた
故第五章には直ちに親盤は父母すらも我 力にては今生て助けること
は出来ぬ 共代
りには備の力にて順次生には生々世々の父母兄弟も救ふ ことが出来ると
仰せられ
たそこて話がまた進みて比章て親獄は父母の残にさへ我カにては及ばぬ 現んゃ親
敷異砂講義 第六章 百四十五
敷異妙講義 第六章 -

百四十六
鶴はわがはから ひにて人に念備させることは出来 ぬ 皆弾 随の御催なれば 親盤の弟
子て はない、皆 如来 の御 弟子じやと盆。四海 兄弟の味 が深くなり 益、全く私を離れて、如
来御催の念備の 珠の絶 封なることがあらはれ、そこて次の第七章には念備者は無得
の 一道 也と絶封の大道 があらはれた、かく 如来の大行大善なる 故に第八章には念 備
は行者の貸 には非行非善なりと反面ょりきつばりと言 ひ放ち、既に行者の 行にあら
ずとせば、たとひ 踊躍数 喜なきが貸に性 生不定にはあらず、いそぎ浮土 へ まいりたき
心なきがために性生不定にあらず、却て比の如き類悩ある 我等行者がために起した
ま へ る大悲大願なりと極端まて誓願不思議をあらはしたま ひしが第九章てある、か
くの如く前章後 章脈絡が貫通して あると言は んより は 寧ろ同じことが言 をか へ 方
面をかへ人生の折々にあらはれ出てたる信仰の光てある 故に 一章の味が眞質にわ
かれば常分るのてある四大海水も一瀬味へば共戯なることを知れる如くてある猫
次手ながら 一言附加 すべきとは『敷 異砂』は共味を教理 的 一般的 に言ひ あらは さず に、
聖人が質験的に個人的に言ひあらはせらる、獣が特に我等個人々々に如来の御光
を"けて下さるすなはち常にシ々々と御名を名のりて仰せらる、訓剤
国 だ「F念備U 剛 随 g た引引 られ おらすべ しと よきひとの「おぼせ を か うむ引
信ずる 国かに別の仔細なきなり 親獄が引名 すむねまたもてむなしかる べからず*
ぶり外劇 調剤 のかめ引1「週は引も公備 をしたること い*ださ ぶり
はず』親闘引 「人ももたずさ ぶら3親鶴も この不審 ありっるは唯圓場 おなじ こ
sる 確ありけ たがふまじきとはいシの
五刻 思%の 願を 引く「〜 案ずれば、ひと へ に親 盤 一人が ためなり け 引何れの言も皆 著
しき威じを興へざるものはない全鶴信仰は個人的のものてある面して何れも事人
自身の述懐告自の個人的たるが上に殊に何れも絶封の態度のあらはれたる 言語て
ある前章にきはどき獣といふたのがこれてある金備一遍にてもとか 弟子一人にて
もと云ふことき心地ょきまてに一獣の私を雑へず牛獣のはからいを加へたまはさ
る言てある。 -

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専修念備 のともがらの わが弟子 ひとの弟子といふ 相論のさふらふらんこと。て
のほかの 子細なり、親 盤は 弟子 一人もも たずさ ふらふ
『改邪録』によりて考 ふるに 聖人の御滅後常時自分所属の同行を弟子ょばはりをして、
-
百四十七
シ 第六*
』- - - - - - =- -
-
-
歌異妙講義 第六章 百四十八
厳しく取扱ひ又従て本奪聖教に知識の名を書して興へ又同行知識鮮盾の時は共興
へ たる本奪聖教 をとり か へ し、又従て わが弟子、人の弟子といふ 争などを生じたるも
のと見へる序説のとき「日博砂『改邪抄」を引きたる中に新堤の信楽坊が聖人の突鼻
にあづかりて下 向の柳、運 位房が本奪 聖教 をとりか へ さんと申し たるに親盤は 弟子
一人ももたず本奪聖教は如来の流通物なりと懇々と御教化があった全鶴もと〜
如来の本風の下に有縁の者が同一念備の兄弟として集ったものてあるとのことす
ら明らかなれ ば、すべて 是等の誤 のあるべき 答は ない、信仰 が冷却 するに従て、怒 に間
違を生ずる 様になり 安い、宗派 てあれ、教 曾て あれ、如来 の下に 如来の御弟子 御同行が
集りて 居るといふ 根本義たる ことを忘れてはならぬ。
その ゆ へ は わかは から ひ にて、ひと に 念備 をまう させ さ ふらは \ こそ弟子 に て ☆
さふらはめ、ひと へ に弾 院の御も よほしにあつかりて念 備まうしさ ふらふ ひとを
わか弟子とま うすこと、きはめ たる荒涼 の ことなり。
『改邪砂』四章には明瞭にかく記してある。
弟子と稲 して同行等 侶を自専の あまり、放言 悪 日 すること、い はれなき事
光明寺の大師の御標にはもし念備するひとは人中の好人なり妙好人なり最勝人
なり上人なり上上人なりとのたまへりしかればそのむねにまかせて風師のふほ
せにも、それ かしは いまだ、またく弟子 一人ももたす、そのゆ へ は弾 院の本願 をた ☆
たし むるほかは、なに ことを お し へ てか弟子と競 せん、弾 院の本願は備 智他力 のさ
づけたまふところなり、しかれはみなともの同行なり、わたくしの弟子にあらず、と
ェニ これによりてたかひに仰崇の濃義をた\しくし眠近の芳好をなすへしとな
り、その義なくして、あまつ さ へ 悪口 をはく修こと 〜く祀師先徳の御遺訓をそむ
-
くに あら ずや、しるべし。
我 等は 東角世間的 習慣に なれて居るがため に、信仰上 の基 面目の言 まて共意味を世
f
間化する ことがある親盤は 弟子 一人ももたず さふらふ、とあれば直に是聖人謙遜の
言と する著しシといふ**が事に 人の恋に所へはょき㎞のシといふ
のは、我居るべき位置を 一歩下りて遠慮するがこときことを意味する、聖人の弟子 一
人ももたずと仰せらる、は、かくの如き普通道徳上の講 遜てない兵に 自身の弟子て
ないと確信して居らる、からかく仰せらる、のてあるしからば誰の弟子かといふ
歌異砂講義 第六章 百四十九
-
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-

歌異砂講義 第六章 百五十


に 如来 の御 弟子てあるこれは かく、債値を引上げ て人を世間的に奪敬 したのてはな
い、事 貫て ある 事 質を事 貫通り認 むるならば 世間 的 の 謙遜ても、奪 敬て☆ない、共代り
是が 眞 正 の 謙遜 奪 敬てある、何 んとなれば、心中 より 我 弟子と認め ず、心中如来の御 弟
子と認むるからてある 東角信仰が人生の上にあらはれたるときは世人は共物を直
に信仰と認めない、又教理的に書きたるときは、世人は 一個の抽象的の ものとみて人
生にあらはる、信仰 事質たることを認め難い、夫故に廣略『文類』等 と『敷異砂』『日博録」
等とは讃む時の心持が異りてくる こは大なる誤てある親盤は弟子一人ももたずみ
な如来の御弟子なりといふは善導大師の眞 の備弟子の言から来てある『信巻』下に 目
*
く*
言葉備弟子者 シ限地弟子者シ諸備之弟子 を彫行人地中期信行 必可電
鶴大混撃故目基備弟子 中略又言聞法能不忘見敬得大慶則我善親友又言 基有 至心
園生安楽園 者シ智恵明達 功徳殊勝又言魔大勝解者又言が 足等類大威徳義能生
廣大異門又言者念備奉常知比人足人中 基陀利華
比虜 には獅『大 経』の鋼光 柔頼の 願を初めとして、道 緯善導の文を引きて念 備の行者は
-|
ー = = } ー『 ) 」ー ! ) = 〜『 しー リート }、シ at ート =- -- - - -
シの直々の御子なり 次なりと示したまひた 改郡裁 に引ける 事の
基 華の響 もみな 引きた まひて ある、特に『略文類』に

善事和亀言 番有人地最勝人也妙好人也 好人地上上人地異備弟子シ
とある「ひとへ に弾 随の御 もよう しにあっ かりて念 備まう しさふらふ
ひと」とは 如何
にも直接なる言 ひ顕は してある、こ \ は たしかに聖人 が常に 認め たまひ
し事 質てあ
つて、人が信心に入り、念備を 稲 へ るといふ ことは、たしかに弾 院響迦 諸備の
共人 へ 直
直の御 催なる こと を認めたまひた、これも善導の御 文をたしかに事質
にょみたまひ
た『末 魔 勢」に、
撮取 不治事、
たづね お ほせられて候撮 取 不捨の ことは般 舟三味行道 性生讃と申に お
ほせられ
て さふらふ をみまいらせ候 へは、響迦 如来弾 陀備 我らが慈悲 の父母 にて
さま 〜
の方便にて、われ らか無 上の信心をは ひらき おこ させたま ふと候 へ は、まこと
の信
心の さたまることは、響 迦弾 陀の御は から ひとみえて候 へ は、往生の心に
うた か ひ
なくなり候は撮取せられまいらせたる ゆ へ とみえて候 撮取の う へ は ともかくの
、歌異妙講義 第六章 -
百五十一
歌異妙講義・第六章 -
百五十二
-
行者 のは から ひ あるべからず 候 云云
「日博砂」にも
聖人のおほせに い はく本奪 聖教をとりかへ すこと はなはだしかるへ からざるこ
一、となりそのゆへは親盤は弟子一人ももたすなにことををしへ て弟子といふべき
ぞや、みな如来の御 弟子なれば、みなともに同行なり、念 備往生の信心をうる ことは
響 迦獅陀 二 奪の御方便として発起すとみえ たれば、また 〜 親 盤かさづけたるに
あらず 云
質に我等が信心の起るは如来直々の御催てある共御催といふことは即ち本園の御
心が直々に我等に届きて下さったのてある上に引きた「改那ゅ の御文にそのゆへは
瀬 陀の本願 をたもたしむるほかは、な にことをお し へ てか弟子と競せん 弾院の本願
は備智他カのさづけたまふところなりとある本風といふ*備智といふ*神催とい
ふも撮取といふもみな同じことてあるこ\を ひとへに弾 院の御催にあづかりて念
備申しさ ふらふ」と仰せられた質に これ備智 不思議 誓願不思議 名競不思議てある、比
不思議の御力をなきものにして我弟子などいふは質に言語道断なりと仰せられた
-
|』 ー
-

つくべき縁あればともない、はなるべき 縁あれば、はなる、ことのあるをも 師 をそ
むきて、ひとにつれて念備すれば性生すべからざるものなりなんどいふこと不可
説なり、如来 より たまはり たる信心を、わがものかほにとり か へ さんとまうす にや、
か へ す 〜 もあるべからざることなり、
『改 邪 砂」に正しく 同行を争ふことを戒められたる修に 比事が詳しく記 されてある 之
を 一譲すれば、如何 に も明らかてある 曰く、
わが同行、ひとの同行と簡別して、これを相論すること、いはれなき事 倉祀師 ㎞ 聖人
の 七個 條の御起請文 に いは く、静 論のところに は、もろ 〜 の煩悩 おこる、智者 これ
を遠離すること 百 由旬、い は んや 一向 念備の行人 においてをやと云云 しかればた
だ 是非を糾明 し、邪 正を問答する、なをも て かくの ごとく 厳 制 に お よふ、い は んや人
倫をもて、もし世 財 に類する所存 ありて相 論せしむる数、いまたそのこ \ ろをえ ず、
祀師 聖人御在世に ある御直 弟のなかに、つねに この さたありけり、そのとき お ぼせ
に い はく、世間の妻子春 属もあ ひした かふ べき宿縁あるほどは、別離せんとすれど
も捨離するとあたはず 宿縁っきぬるときはしたひむっれんとすれどもかなはず、
歌異妙講義・第六章 百五十三
-* * 譲 -
敷異妙講義 第六章 百五十四
い は ん や出世の 同行等 侶 においては 凡夫の ちからをもて、したしむ べき にも あら
ず、はなるべき にもあらず、あ ひともな ふ といふとも、縁 つき ぬれば、疎遠 に なる、した
しまじとすれとも、縁 つき ざるほどは、あ ひともなふ に たれり、これ みな過去の 因縁
による ことなれば、今生 一世の ことに あら ず、かつ はまた宿善 ある機は、正法を のぶ
る善知識にしたしむ べきによりて、まねかざれども ひとをまよは すまじき法燈に
は かならす むつ ふ べきい は れなり、宿善 なき機は まねかざれ ども、お のづ から悪 知
識 に ちかづきて善 知識にはとをざかるべき い は れなれば、むつ ばらる、も、とをざ
かるもかっは智識の環弾もあらはれしられぬべし所化の運否宿善の有無ももと
も能所ともに 恥べきものをや しかるにこのことはりにくらきがいたすゆ へ敷、一
H我執 を さきとして、宿縁 の有無をわすれ、わが同行ひとの同行と相 論すること愚
鈍の いたり、備 祀 の照覧をは ゞ からざる 條、至極 つたなきもの敷、いかん、しる べし、
世間の事善悪みな宿業て ある、たとひ 親子の間柄とい へ ども宿業なれ ば致方はない、
聖人は御質子善盤大徳てさへ、一味の信心に入らせらる、ことは叶はなんだのてあ
る『御消息集』に常時 の思召を示したまひてある、目 く、
|
『 『
-
ー』
さては念備のあひたのことによりてところせきゃうにうけたまはりさふらふか
へ す 〜 こ、ろくるしくさ ふらふ 訟するところ、その
ところの縁 をつき させ たま
ひさ ふらふらん、 中略 そのところに念 備の ひろまり さ
ふらはんことも備天 の御は
からsにてさらふべし*信坊がゃう〜にまふしょふらふなるによりてひと
ひとも御 こ、ろとものや ふくにならせたま ひさふらふよし、
うけたまは りさふら
ふかへす〜不便のことにさふらふ ともかくも備天の御はからひに
まかせまい
らせたまふべしそのところの縁っきて おはしましさ ふらふて
おはは、いっれのと
ころにて もうつらせたまひて さふら ふて お はしますやう
に御 はから ひさふらふ
べし、云云
如何にも備 天の御 は からひ 一 つ に 打任せ て、一酷 も自分のは
からひ をさしは さ ませ
られぬ 聖人は嘘弘警 強縁多生巨値基質浄信億邦 区獲個獲行信 遠慶宿線 と威謝
した
まひ し聖人は御 質子慈信 坊 善賞 大徳が 法義を蹴 させられ
ても備 天の御 はから ひな
れば致 方ない と 少しもは からひを加 へ られぬ、たとひ人 に念備
をす、める にも自分
の力て 出来る やう に思ふ と、人が 信仰 に入ら ぬ といふて
患海を こぼすやう になる、い
敷異妙講義 第六章
『"


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敷異妙講義 第六章 百五十六
かにも熱心のやうなれど軍覚自分のはからひに過ぎぬ『末魔録』にもかく仰せられた
往生の信心は響 迦弾随の御す、めによりて おこるとこそみえ て候 へ ば、さりとも、
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、、、、、、 、
、、、、、、ミ s s * 、、、、、、、、、、
まことの こ 、ろ お こらせた まひ なん には、いかて か むかし の御 こ \ ろの ま \ に て
は候べきこの御中の人々も少々はあしきさまなることのきこえ候めり師をそし
り義知識をかろしめ同行をもあなっりなんとしあはせたまふょしきこえ候こそ
あさましく候へすてに勝法のひとなり五逆のひとなりなれむっふべからず浮土
論と申文には、かやうの人は備法信 するこ \ろのなき より、このこ \ ろは おこるな
りと候 めり、また 至誠心の なかには、かやう に 悪をこの まん ひとには、つ \ しみて、と
ざかれ、ちかつくべからすとこそと かれて候 へ 善知識同行 には、したし みちかっ
、、、、、、、、、、、
い 、、、、、、 、、、、、、 、、、 、、 、、 、、、、
とこそとき をかれて候 へ、悪を この む人にもち か つきなんとすることは、浮土 へ
、、 、、、、、、ミ いいさ、 、 、 、、、、、、、、 、、、、 、、 、、、 、、 、、、、、、 、、、、、、、、、 、、、、
りてのち、衆生利益 に か へりて こそ、さやう の罪人に もしたしみちかつく こと
べをお*おがはがらびにはあらす弾院のちかひによりて御たすけにてこそ
ふ さまのふる まひも候はんずれ、常時は この身とものやう に ては いか ゞ 候 へ
んときほえ候 ょく〜案ぜさせたまふべくさふらふ住 生の金剛心の3ご る
どはシの はがらかによりでおごり候べは全開心 をど
ぞじい幹知霊をおなづりなんど するごどは候は
自分の 力て悪人をたすけんなどは からふてはない 共代り
は出来ずとも 備のはから ひにて 順次生に たすけるとの仰せ、こ
同様の豊 悟になった、一 の夢を引けは 全鶴の信仰の脈 がみな動く、かく 善きも悪しき
も備天のは からひなれば、我を離れて人に従ふとも、悲むに も及ばず、一旦 離れた人て
も何時宿縁が熟して他所て信心に入るやら又 騎 り来るやら 分から ぬ、皆 如来の御は
から ひ に 任せ奉るより 外はない。
自然のことはりに あひかなは ゞ 備恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと 云云
自然のことはりといふはすなはち如来の御はからひのことてある自然の文字は聖
一人晩年の個名文字に残に多くあらはれてある 第文 の自致不運韓の自のシ自然
閉、自然 之所牽 を初めとして『一念多 念謎文』の 前足具足無上 功徳 の響『唯信 砂文意』の
|、観音勢至自来迎の自の響 みな同し意なり 最後の一っを引か
目はおのづがらどいぶ sのづがらどいぶは自然どいぶ自然どいぶはじがらじむ
歌翼砂議義 第六章 百五十七

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歌異妙講義 第六章 百五十八

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来" い"

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行は
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かじめて


かともかく
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るほちり海みろす とすいふ


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ご と し弾い 色 の 願 力 を ſ





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陀 の 悲母 方 便に よい う て 無 務起せしめたまふとみえたり、これ自然の
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利 盆 ないう しい るいべ しい
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は か らひ


に て信心の おこることを自然のことはりにあひ かなは ゞと申
されたのてある、この如来のはから ひとは即ち本願のことてある、殊に『末魔 砂」自然法
爾章義なきを義とすとの響に至りては自然の 一言て何もかも包容せらる、『和讃」
こ、
-シ
ョt
信 は 願 より生 すれば 念備成備自然なり *
自然はすなはち報土なり 誇大混撃うたがはず ●
とある本願の自然のはからひによりて自然に信を得信ょり自然に念備流出て自然
に必定に入り自然に無上の功徳を得自然に無貸混撃界に入り自然に衆生済度に出
づる『和讃』奥書「自然 法 爾法語は 比意を示 されたる 質に聖人の最後の御化導てある、

く如来 の御は から ひ によりて信心を得ることなれ ば、いかに 師 にそむけるもの
て☆
必ず備 恩師恩をしるやう になる ことなれば 唯々 この御は からひに まかせよと
の仰
てある、一寸 注意すべきは 如来のは からひ に まかすといふ ことは 決して
見捨て、し
まふ ことては ない、我は から ひをすてるといふ は 如来の御は からひ、即ち御力を
信ず
ることてある、共 如来 の力を信 する日上は、たとひ我 にそむくとも、心中には信心
に入
-
れかし、念備喜べ がしとの隣みの 心をも つべてある、『末魔 砂』
* * *
るごどは撃避弾 院平方譜備の御方便より
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-
-
歌異砂講義 第六章 百六
* 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、 、、、、、、 、 ? 、 s
みをなし、かなしむこ \ ろをもっべしとこそ聖人はお ほせことありしが、あなかし
こ〜備思のふかきことは瞬慢漫地に往生し疑城胎宮に往生するたにも弾戦の
ド、 、、 、、、、 、、 、、、、、、、、 、、、、、 ド、、、、、、、、、、 、 、 、、、 、、、、、い、、、 、、、
御 ちか ひ のなか に 第十 九第 二 十 の 願 の御 あはれみに て こそ不可思議の たのしみ
におぶごどにでさぶらべョ 備恩のふかきこと そのきはもなし、いかにいはんゃ
真質の報土へ往生して大混撃のさとりをひらかんこと備慰ょぐ〜 御案ど*ざ
* * * * * * * s * * * s * * * * * * * s s * * * * * s s * *
ふらふべし、これさらに性信房親盤がはからひにまふするにあらず候ゆめ〜如
来 の は から ひを信ずる身の いかて我を捨て 我を 誘 り、我 を悪むものと難、之を悪 むべ
き、如来 は備智 不思議 を疑惑 する ものすら も哀感して 十九 二 十 の 願をたて 果 途の誓
をたて たま ふ に あらずや、ます 〜 あはれみをなし、かなしみを かけ よとの御 仰てあ
る我等の力て悪を隣み 敵を愛する心なと起る等 はなけれども自然のことはりてか
くなるのてあるまた共うちに自然のことはりにて我に背ける人も稀過弾院の御力
にて 信心 を務 起するやう に なり、自然に備 恩の ふかきことをしり、自然に今逸離れ背

きたる師の思をしるゃうになる「御一代聞書」に
安藝の運宗園をくっがへしくせことに付て御門徒をはなされ候前々住上人御病
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--

中に御寺内へ 参り御託言申候 へども、とりつぎ候人なく候ひし その折節前々住上
人 ふと仰られ候 安藝をなをさうと思へょと仰せられ候御兄弟以下御申には、一度
備法にあだをなし申人にて候へば、いかがと御申候 へば仰られ候 それぞとょ謎間
敷事を いふ ぞとよ、心中だになをらばなにたるもの成とも御☆ らしなきことに候
と仰せられ候て 御赦免候ひき その時 御前 へ 参り御月に か、られ候とき 威涙弾に
うかみ候と云云面して御中陰の中に運 宗☆寺内にて すぎられ候
これすなはち自然のことはりにて備恩師恩がしれたのてある抑 弟子争などする*
のが、比備恩師恩をしらぬのてある 如来の御催の念備 如来ょり賜はりたる 信心を我
物顔にとりかへ さんとするのが非常のはからひてある それゆへ如来のは からひに
まかして備恩を仰げば自然のことはりにて 一旦師にそむきた弟子☆金剛の信を得
て備思を落ぶゃうになりて師匠の思もしれるゃうになるとの仰てある
かく比章にあらはれたる 一酷私なき聖人の御心が後世一天 四海 に魔まる宗旨を形
作りたものてある、即ち弟子 一人ももたずと宜 へ る聖人の教化には十方衆生弟子た
らさるものはない 上に引ける「改邪砂」の文意を以て違 如上人は『御文」に かく述べられ
歌異妙講義職第六章 百六十一
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敷異妙講義 第六章 百六十二
***
故 聖人 の お ほせには、親 震は 弟子 一人 ☆ ☆ た ず とこそ お ほせられ候 ひつ れ、その ゆ
* * * * ss * 〜 * * * * *
*ss*s*s*sss**s、
い 、、 、 、、 s
へ は 如来 の 教 法 を十 方衆生 にとき きかし むるときは、ただ 如来 の 御代官 をまうし
っ るはかりなりさらに親獄めづらしき法をも弘めす如来の教法をわれも信じ人
にも教へきかしむるばかりなり そのほかなにを おしへて弟子とい はんぞと仰せ
*
られっるなり されはとも同行なるべきものなり、これにおいで聖人は御同朋御同
* * も * * ミ も * s * * * s
、、
行とこそ かしづき て 仰せられ けり。
比 章と同意 ては あるが、如来 の教 法 を十 方衆生 にとききかしむる時は、ただ 如来 の御
代官をまうしっるばかりなりとの一言が如何にも謙虚一獣の私なく申されたそし
て 我等 より 仰 きみれば 十 方衆生といひ、如来 の 代官と云 ひ無意識の 間に 聖人が本願
の 封 手 たる 十 方衆生 に 封して 如来 の代理とならせ たま ふ こと に なる、一 獣 の は から
ひを加 へ ざる は 如来 の御は から ひ共理を代表 する所以となる 故に 聖人の 教化を聴
聞する十方衆生は何人も聖人の弟子 たらざるものなく備恩 共偉 に師 恩を威ぜざる
もの は ない、たと ひ 法然 上人 に すか され まみ らせ て 念備 し て 地獄 に おち たり と 。さ


















譚提羅
菩三
を菊 多


あて





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といふ
一の





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聖人
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後に

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云道ゆえ
なき
こと
おも


はた

こと
す感
もよぶずる報罪
業悪 、
なし
こと
す皇


外道
魔界
伏敬

地碑



行者
るし祇の
信ば
なと
いれ


その
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かん
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講妙


一の





ふ稲

道る し
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紫砂

第七章 百六十四
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道 者無 邪道也 經 言 十 方無關 人、 道出生死 道者 無線道也 無關者 制御神
學 是带 入不 法門縣級 和 他
地 人 は ク を 行李Jに 引用 し な ふいて ある 行 参Jに は 唯 會社 を 引き たか いたる のか た
ºf後 の北交 ~ ~ 及無し てみ ほか に農業の本書かかる大橋の ことを 示3
主 なる。のであるf高雄 鳥の文に書畫 師 是修正 門位 日利和修课 薰 多摩 €
焙 煎 と書寫 書か
自利 利他 し て得な ? 3, 通 なれば、即 ら 南無 同 源 極 他 の 道 たる は 砲 も 解除 地 ،
ないし て北に 引ける 議をは 事人自行樂 家に書か に 引用した s てある 日<
1 *
&\| }> -
ナリ m=
リア 王 へ リ، } - * -
ナリ
華 嚴 經 言 文殊 法 常 被法 王維 * 初 無關 人道出生死, 者 修身 能 是 法身。
ナリ ナリ
心 羯 摩 力 無 関東 松
ſ大 要 參 による に 大中華嚴 經 開 區 の 文 てある 知 何 に も 絶對應 の 文殊 地利法 王子 の
法 を 示 された 。ので ある、 初 舞踊人 と は 中文語使 の こと で ある金 平方諸 佛 と 廊(
陳儀 に精靈 址られた のである 地文殊 菩薩は絶 動態 を示さ る 大法 である。
*** 桜町 である古 朱慈善 機と称する 書長行國 職業 界文 峰
利発願 経』には 十方 三世 一切 の諸備 を 途 に 阿瀬 随 一備に 結 騎 して ある、目 く、
普 賢 菩薩名 諸備第 一子、我 善根廻向 願番 興彼同 身 日意清浄 自在荘厳利、速成 等正覚
皆番 同普賢 加文珠師利、普賢 菩薩行我所有 善根、廻向赤 如是、三世諸如来所敷廻 向道
我 廻 向善根 行成満 普賢行 願 我命終時 除滅諸障礎 面見阿瀬院、往生安楽國生彼備國
己 成満諸大願、阿瀬院 如来、現 前授我記、厳浮 普賢行、満足 文殊願、霊未来際却 究章 善 薩
一丁。
くイ
抑、華厳 重々無霊 の法門も 入法界 品に 至り、瀬 陀念備 の一法に 終 騎 する、求道 者善 財 童
子が弾 勤 菩薩 の 教 を 受けて 潮 次 に 南 の 方 一百 一十 城を 経遊し て 思惟 観察して 一心
に文殊に見へんとし文殊によりて信を生じ 途に五十三の智識に遇 ひて道を求め最
後に普賢菩薩の行風によりて備道に上ることを示されたのてある基善財 童子が功
徳雲比丘 の 所に ゆき て自て言く大師云何して警護の道を修し*量の石に すべき
と、是時 比丘善財に告 て 目 く、我 世 奪智隷海中に於て、唯一法を知る、請 く 念備三味門な
り何んとなれば比三味門の中に於て悪く能く、一切諸備及共春属厳浮備利を観見し
て能く衆生をして順倒を遠離せしむとある かく華厳を初として共他諸経中に文殊
敷異妙講義 第七章 百六十五
- -
- シーシ
-
歌異砂講義 第七章 百六十六
の法は 一行三味てあることを説き てある 『安楽集』の虜 々 に出てある 足れ諸備を弾 院
一備に結騎する絶封唯一 の大道てある抑ェ 獄和尚が世俗の君子に答へられたは 即
比 一行の 意 てある 『唯信 砂』巻末 未 に 目 く、
曇盤和尚碑文法師常修浮土 変毎有世俗君子 来町 法師 目十方備園皆残 浮土法師何
乃鋼意注 西景共 個見生地法師勤目音既九夫賀悪浅短米入地位念力須加 似置 賞
引シ心 帰概 豊得 船旅全無所 騎 離 復難者紛転面法師鋼決下略
道科大師は暴露の滅後比碑文を見て怒ち混撃の魔業を捨て、念備に騎したまひた
のてある『安楽集』に一行三味を虜 々に示さる、も、慌に 信仰上系統の存することてあ
る暴 盤大師 自ら赤『讃阿 弾 陀備褐』に共信念を告白 讃詠してある 目く、
十方三世無量悲同乗 一如撃正愛三智圓滞道平等 撮化艦船 級者子現㎞院浮土
即足時命 備園 戦以 一心議 一備園編平方無研人 如是十方無量備戚各至心頭面顧、
全く是れ無得の 一道の意味てある抑 比問題は順る奥深き問題と考へる先っ二三の
暗示だけを興へて置かん第一に『華厳経』と『大無量書経』とは文鶴に於て思想に於て
確に 連絡を有 して居る『大経」序分を見れば明瞭て備華厳三味の文字すらある第二支
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那に於て 五豪山 を中心としての連絡てあるT績高僧博』六に目 く、
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ラチ テ ラ



『シ 撃
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備祀遺瞬心碑歌脱面便出家
面して 五豪山は『華厳経』に 説ける清涼山 にして文殊 の浮土と博ふる聖雌てある 故に
華厳宗の根本地てあり赤念備三味の根本地てある備陀波利三蔵か遠く印度より五
豪 山 を訪 ひ、霊告 によりて 再 ひ 流沙 を渉 りて将来 し 来 り たる 貧 勝 陀羅尼 に も 阿 弾 陀
如来 極楽浄土の事が書きて ある、又法然上人が『和語燈録』に も示 されたる如く法照弾
師 か 五 豪山 に 上り 普 賢 菩薩の指 圓 により文殊 菩薩に 遇 ふ て、念備三味 を授かり たる
ことがある又日本天台に於ても慈覚大師か入唐して五豪山に上り常行三味を博へ、
騎りて文殊機院を建て、修行せられたが念備てある第三に日本に於て法然上人浮
土念備 門 を開きた まひ し前 に 拾 も前 騙 者 として あらは れ たる良忍 上人 の 融通 念備
宗 は華厳 の 一即 一切 一切 即 一 の 立場 に於 て 念備を修 せられた の て ある、上 に引用せ
る普賢行願讃の如きは共骨髄てある己上は唯古今を通じて華厳と念備との歴史的
-
闘 係 の 一端 を渡 した のみて ある。
歌異妙講義 第七章 百六十七


和讃
及次







び。あ味

なの


平とけ
撃混
煩〜
も間



識る和悩ろ。
知れ

らず を



一、
如来
あて
意混

生鶴
即知

信心
凡は
染惑

る味死夫シ




喜愛
















調




そこ念信死。
断 て
来が
所以
宣なり
大の
一は




至た


さ道
申と


る言道りれ之

あ是
*
故て








六院
』阿「
経 る方瀬ちの
即讃
嘆 *



あ足
第て
正成
三弾
等院














る覚味世。
F


*
と出生

如来
一三世
方十
大に
如獅




=


いふ切地乗シ







せら

















備 い道りの
る言 る


三如く
方十
なに
王二





といふ
世きく
喩、之 如、海 也良知 女 経
霊十方の無得光は



大水
園成雑





韓E
来人海



悲本元道












と賞
はふ




*るき


講歌
第妙





ル三

テカ
無明のやみをてら
説 言 婚 悩 氷解 成功 徳水


-

-
一念 数 喜する ひとを かならず滅度にいたらしむ
無得 光 の利 盆 より 威徳廣大の信を得て
るち
はな
菩提
のみ
なづ

かならず 頻機 の こほりとけ す
-
ほこ
とくつり

罪障 功徳の鶴となる



ほ に
しお てみと
ごの

こ ほり お ほきにみ づ お ほし

ほ徳

り 逆




名 競不思議の 海水 は
衆 悪 の萬川 騎 し ぬれば 大悲
大願
海の
智謀 に 功徳

しう
一に
水 なり と




味ほ ず
霊 十方無得 光の
煩悩 の衆流 騎 し ぬれば のうしほに一味なり
全鶴無湖は 十方無偲光如来の無得てある部に響のあるが如く我等には内外の
二障がある外障は草木園土乃至善悪鬼碑等の外物てある内障は我等心内の煩悩悪
業てある、聖人が常に無得を響したまふ ときは我等が煩悩 悪業 にさ へ られぬ といふ
信心の上につきて示したまふ のてある、比氷と水の喩は質に無得内心の味を示 され
てある、即ち悪しき 心がとけ て絶封瀬 陀の 光明 に撮 取せらる 、一念 てある、営悪のみ
敷異妙講義 第七章 百六十九
百七十
歌翼妙講義 第七章
ならずたとひ聖者の善と離 比念備無得の 一道に入りてこそ初めて絶勤の 大善大功
徳となるのてある 恒沙塵数の如来は萬行の小善きらひっ\ 名競不思議の信心をひ
としくひとへにす、めしむ海の喩は比意味を示されたシの川*大海に入りて同
一職味となる が如くてある、既に功徳大賞海 に入りたる己上は四大海水☆はゃ本の
川水の味はない、何れの 一橋 も戯味たら ざるはない、一たび選揮本願の念備に流れ 込
みたる己上は華厳も奪勝院羅尼も文殊も普賢も皆瀬院念備の無得の一道夫自身の
外はない抑 『行巻』に『論誌』無得の一道の文に連績して 一乗海を響するにっきて『華厳経』
夫 自身を引て 無得の 一道を説 かれたは、華厳 を念備 に結騎 する の意 にあらず『華厳経』
夫れ自身が念備無例の一道を説くに外ならぬといふ祀意てある比時は 道門浮土
門 の封 立てない、『華厳経』夫自身が、つまり 霊十 方無得 光如来 運華蔵世界を説き たまひ
しより外なく文殊法常爾法王唯一法は即南無阿瀬院備のことてある同様に「混撃経』
の一道清浄若くば皆騎一道をも引きたまひ 法華の文は引きたまはねど聖人の御自
響に法華の無二赤無三若くは於一備乗分別説三の意味があるかくの如く味ひ来れ
ば。一切経 を念備 の 一 法 に結 騎 する のてはない、一切 経夫自身が念備 夫れ自身を説か
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れたるに外ならぬ 何んとなれは『阿弾院経』にある如く 響奪夫れ自身が十方諸備の随
一なれば 標奪の比世に出てませる所以のもの念備を讃嘆するが貸ならずや衛らば
一切経 は 皆 念備 一乗を説きたるものなりと言ふ のは常然のことてある、比意味 を遺
減なく説きたま ひしが 一乗海 の 響 て ある、共 澤 の 起原 は『論誌』無得 の 一道の 文てある、
そは次の一乗海の種の書き方て明らかてある目く
-
言 一乗海者一乗者大乗 大乗者備乗得 一乗者得 阿将多羅三菱三善提阿藤善提者即
足混撃界 混撃界者即是究意法身 得究電身者叫究 愛二乗無雲如来 無異 法身 如来即
法身究 意一乗者即是無漫不断天乗無有二乗三乗二乗三乗者人が 「乗 一乗者即第
一義乗唯是誓願 一備乗
次 に『混 撃 経』と『華厳経』を引用し求 りて、結びて 曰く、
爾者期等豊悟 者以安養浮利之大利備願 難思之至徳 也
と断言 され た、次 に 上に引ける海 の 響が来るのてある、そこて『行巻』の 一乗海といふ は
即無稿の 一道と同意てある、上来述べ来りたる海の響にあらはれたる内外の二障 頻
悩 の衆悪 高行の 少善皆如来の願海 に圓融するが無得の意てある 絶封の 一備乗が 一
敷異妙講義 第七章 -
-
百七十二
-
百七十二
歌異妙講義 第七章
道の 意てある、故に『行巻』に念備 諸善比較 封論、か 終りて 曰く、
ル 二 スル二 チ
然接 本願 一乗海 圓 融 満足 極速無 得 絶封 不 二 之教 也
と力強く 讃嘆した まひ、比 念備を信 する者は、比 絶封の備 力の宿り たま ふ人なれ ば赤
機 に就て 封 論して 赤 曰く、
然艇 一乗海機金剛信心絶封不二之機也
と極力 讃嘆した まひてある 今『敷異砂』本文に軍 に念備 はと言はずして念備者 は無得
の一道といひ 家の文に直に受け来りてそのいはれいかんとならば信心の存春には

とのたま ひたるのが、即ち比 選撰 本願を信して 念備する 行者につき て 述 へ たまひ
の てある、質に『敷異砂』ほど行 信 の闘係につき て圓満 に いた ゞ ける書は ない、抑。闘係 な
どいふ文字を用sるから法門沙汰に陥る てある従来ても能行所行 能信所信の文
字が如何 程人の頭 を苦しめた かもしれ ぬ何んのことはない 如来の本願を信じて念
備を 獅 ふるのじや、それを法然上人 は 選揮本願 念備 南無阿 弾 陀備往生之業 念備 貸本
と申された基数を受け共法然 上人の したまsしことを信じて共通りシ人が
赤念備せられたのてある夫が即ち念備者てある 信心の行者てある
-』t
そこて共無得 の 一道より自然にあらはれ来る力をあらはして天碑地祇も敬伏し
云々 と示 された、是上に記したる内外二障に渡り て示 されてある内外固より何を以
て 匿別する か分からねども、一應匿別せば、天 碑地祇も敬伏し、魔界 外道も障得する こ
となしは 外界 罪悪 も業報☆威 ずる事あたはず、諸善も およぶ 事なしは 内界といふ て
☆よろしい 併し善悪因果業報はすべて外界に務 現するものなれば内界固より外界
を離る 、者ては ない、そこて 一 つ 注意すべきは無得の光明無得 の名 跳によりて 信心
を獲得すること夫自身が既に無得 の徳てある 上に撃げた『和讃』に霊十方の無 得光は
無明 のやみをてらしつ 、若くば無得光の利 盆 より威徳廣大の信を得て 云々 とある
は何れも無得の徳によりて 一念開務 信心獲得する有様を述べられたのてある 今は
寧ろ共無穏の力が信心の 一念に於て行者に宿りて後 行者の身の上にあらはる、上
にっき て示 されたのてある 信後自然に あらはる、功徳につきて無得の力をあらは

された即ち「信巻」にある現生十種の利盆 及ひ「現世利盆和讃」に示されたる功徳てある
固ょり一念にあるものゆへに後念にあらはる、ものなれば一念後念の匿別が必要
なのてはないが唯注意すべき獣は比等の功徳利盆は信ありて初めて発現すべきも
歌異妙講義 。第七章 百七十
- -
百七十四
敷異妙講義 第七章 -
のて Nを信の目的となすべきものてない、と云ふことてある即信といふことが即無
陽の 一道夫自身 に外ならぬゆ へ に信自身より比等の力を自然にあらはし来るのて
ある 若し比等の利盆の貸に念備するが如きことあらば夫は信てないと言 ふ ことを
自白 するや うなものてある 何んとなれば人生の利 盆、現世の功徳 を醸 想する 如。は
即ち雑修雑善てある側競 むねと修すれども 現世を いのる行者をは これ*雑修とな
と は る 、霊 ろ如来の御力を信じ名競を信ずる力夫自身が奪
きものてある 結 射 の 如何を 顔 想 する は 信ずる の てはない 共如来の力唯一を信ずる
所が無得の 一道てある、そこて聖人が『化身土巻』末に於て諸の修多羅に擁 て兵偽を勘
決して外教邪偽の異執を教誠せられたのてある 質に『化土巻』といふ*のは基質の行
信を反面より言ひ顕は されたものてある「教行信謎」は積極的に眞質を顕 をはしたる
もの『化身土』は消極的に兵質を顕はしたるもの 是方便たる所以てある 今『化身土巻』に
よりて上来述べ来りたる無例の一道を消極的に顕明してみゃう目く
混撃証言騎依於備者終不 更騎 依基除天神
般舟三味経言優婆夷 間 足三味 欲撃者カ至自騎命備 騎命法 騎命 比丘艦不得事
一 。” ""。”、“。“、「*。「 こミ 。「_ -
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-
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不、得 拝、天、不、得 動東 碑不 B、観 吉良 出 乃至 不得 B 拝、天 制 記離
備 教 の 冥㎞ 南無備 る、面して十 方三世 一切 常住の 三資は 即
ち南無阿 弾 陀備の無得 の 一道中に 牧まる のてある、面して 比三賞 己外念 備己外に何
等のものをも濃舞すべきてはない 日月星辰天碑地祇善碑悪鬼何物にも事ふべきて
は ない、否 比等の 凡 て のもの は 皆 備 法を護持 養育 する もの てある。そこ て『化身 土巻』次
の文 に大方等、『日蔵経』及 ひ『月蔵経』を引きて、日月、年時、大小、星宿、四天王 等を安置し て諸
の衆生を安楽ならしめ魔女衆魔女魔軍 魔王が念備三味三質騎敬の人を得ふるあた
は ざる こと、悪鬼 碑 敬信 を得ること 諸 天王が備 法 を護持養育すること、大 禁 王帝響 等
備法を護持養育すること等を如何にも丁寧に引用したまひてある 遂に『灌頂経』を引
きて三 十 六部は 騎 三質の人を護り『地蔵十輪経』を引きて吉凶 顧 顧を遠離すべ しと云
ひ『本願薬師経』を引きて浮信の善男子善女人は神明 鶴輝 歴 蔵 呪阻を遠離すべき こと
を極言し『菩薩戒経』を引きて出家の人は國王 父母、六親 鬼碑を濃拝すべ からずと断じ、
「偽本行集経』を引きて三迎業の事火外道の苦行を戒め「電信論」を引きて妄念外道の三
味を戒め 「葬正論』を引きて道教を戒め 善導、天台 慈雲 観法師 碑 智、大智 源信『論語』を引き
教異勢講義 第七章 百七十五
-
百七十六
敷異砂講義 第七章
も『行巻』に燥 興、張倫 度 文元照、慈
て鬼碑 に事 ふべから さることを極言 せられ たる は 拾
照を引き
雲 大智戒 度用飲 法位の念備を讃嘆するを引き『信巻」には王日 休用飲 智豊元
は聖
て念備の行者を讃嘆して劉雷抑子厚自楽天まて浄土に騎せしを嘆し途に暇と
たと同精碑て
道の諸 機 浮土の定散 偽とは六十 二見、九 十五種の外道 是也と断ぜられ
はした まひた のて ある、
ある『教行信誇』は表面 より 言顕し 『化身土』は裏面 より言 ひあら
の外教 邪偽を戒められ
かくの如き絶 封無得 の念備 一道てある『化身土』は共念 備己外

たのてあるか 表面より言へは即ち『信巻』の冥衆護持の盆 至徳具足の盆 韓悪成善の
利 盆讃』に 一々南無
等の現 生十種の利益及び『現世利 盆讃』となるのてある、そこて「現世
の 一道 を確信 し
阿 弾 陀をとなふればと徴票して讃嘆せられ たのが 如何に も比無得
之を我身事質
たまひし信念が動き てある 営に信念 たるのみならず赤之を聖人自ら
外界に於ける 奇 填と
に質験せられ たることてあらう 即ち皆 是れ内心に於ける 霊威
して聖人が質験せられたるものてある「御博勢」に於ける箱根権現の供養は天碑地祇
の巻数を示し平太郎の熊野参詣は一向事念の無例の一道を示されてある共他聖人
の「代は一として比無得のカの外に出っるものはない
落に最も注意すべき法劉雨聖人の念備のために流刑に魔せられた
質 」ある、面 し 「親鶴聖人は 比時死罪に虜 せらるべき所六角 中納言の進言にょりて
流罪となったと の叫すある 阿瀬院如来来化し引 思弱延命の外 めにとて金光明の書
更 品 と剤 「ペ「る みのり なり の讃文 も決して偶然ては ない、若し常時 聖人死刑
に魔せられたまsし ば恐くは「教行信置E下 人の御教化は残らなんだてあらう
土基宗は奥行せなんだてあらうかく言へは世俗の て然らば流罪もなさそうな
ものと云 ふ は から ひを挟み ては なら ぬ『化身土』巻末 に 直 に 然諸 寺 響 門 香 教今 不、知兵
暇門戸 落都儒林迷行今無群邪正道路芸云とある足基個邪正の人生に水際たちてあ
ら はれたる事質て ある若し常時法然 聖人が 捨閉閣拠の文字を 掲げ て『漂
非 は なかっ た「て あら タ
りたまひ し は足流罪 を以て得ふる あたは ざる無残
に 法然上人御出 立の模様を描き て 目 く、
聖人のたまはく齢すてに八旬にせまれり、おなじ帝 畿にありとも、ながく いきて 誰
かみんた \し因縁っきずはなんぞまた今生の再倉なからん 騒路はこれ聖者のゆ
敷異妙講義 第七章 百七十七

シー。。
百七十八
敷異妙講義 第七章 -
く虚なり 唐には一行阿閣梨和園には役優婆塞論所はまた権化の柄 側な*ショに
は自築天 吉朝には菅 産相上古の英聖獅然なり現んゃ末世の愚恋をゃ 先雌みにあ
り証とするにたらず 惑とするにおよばす比時にあたりて遊部の事業を化せんこ
と莫大の利生なりと、
孔子が容れられずして君子を見るといひし如く流罪は少し*得 ふること出来 さる
のみならず無得の 一道の顕現てある面して却て漫部の群衆を化することを喜びた
まひた親鍵撃人も本師聖人若し流刑に虜せられたまはずば我赤配所に赴かんゃ 者
し 我配所に赴かずば何によりてか漫部の群類を化せん星獅師教の思致なりと備天
の御はからいを威謝したまひてある 『拾遺古徳博』の次の文字を讃まば念備に封する
天神地祇の加護を信じたまふ無仰の信念は質に意外に*聖人にせし敵をシー
たまふ てある 目く、
但し痛むとろこは源空興する浮土の法門は濁世衆生の決定出離の要道なるがゆ

に等護の天等定て冥職をいたさん敷、もししからば貧道か流罪弟子か斬刑かく
のこときの事前代未聞こと常締に絶たり図業のむなし 。
ば お ☆ ひ あは すべきなりと云云。
流罪ありてます〜無得の 一道の力を見るべきてある若し聖人が 一向専念を撤し
なまひしならば恐くは流刑の追害も免れたまひしならん成豊房善悪房は一向専修
てない と中立て流刑を免れたとの博もある聖人は流罪常日すら 一刻も止むべくも
ない、曰く、
また卒衛をかへりみず、一人の門弟に勤して一向専念の義をのべたまふ 御弟子西
阿推参していはくかくのごときの御義しかるべからず おぼえはんべりと聖人の
たまはくシをみずゃと西阿申ていはく㎞はしかりといへども世間の機嫌
を有するばかりなりと 聖人またのたまはくわれたとひ死刑 に おこなはるともさ
らに 襲すべからずと云々 その気色もとも 織盛なり 見たてまっる諸人涙をながし、
随喜せ ずといふ ことなし。
平素 消 酒玉の如き聖人が比の如き人の肺勝を刺す如き力強き教化を賜はる無得の
てある*して 人が 言したまsし無例の一道は事質となりて 現した目く
*た後に 信空上人 い はく先師のことは相違はず はたしてその報あり、如何となれ
シ 百七十九
敷異妙講義 第七章 -
百八十
--
ば 承久の騒 蹴に東夷上都 を静謎せしとき、君は 北海の島のなかにまし 〜 て多年
こ 、ろをいたましめ 臣は東土の道の漫にして 一時に命を失ふ 失言たがはず 後生
ょろしくきくべしと云云 おほょそ念備停魔の沙汰あることは凶事きたらずとい
-
ふ ことなし、人みな 是をしれ り。
遂に外界の出来事の上に奇職を顕はすに 至った面して法然上人流罪地讃岐職他島
の地頭入道西忍に念備往生のことを細に授けたまひ、なかにも不軽大 士校木瓦石を
しのびて四衆の縁をむすび給しがごとくいかなるはかりごとをなしてもす、めて
念備せしめたまへと宣ふた如何なる獣まて無得なるか質に計り知られぬことてあ
-
る。 -
罪悪*業報☆威ずるあたはずといふ のを罪悪も業報を威 ずるあたはずに作りた
の☆ある、そのときは罪悪は因にして業報は 果となる 何れにしても罪障功徳の鶴と
なる無個の徳諸邪業繋さはらぬ備法力の不思議なれば如何なる 罪悪も業報も威ず
ることはない諸善も及ぶ ことなきとは本願を信ぜんには他の善も要にあらず念備
***るべ。善なきゆへにと同意にして他の相封の諸善高行はとても絶封無得の
念備に 及ば ぬ 答 てある、既に 海 の 響 に於 て 言 ひ 霊 した る如く てある。
第 、八 章
念備は行者の ため は「は非行 非 善「なり、わがはから ひにて行ず
る にあら ざれば 非行といふ、わがはか ひ にて つくる善にもあ
ら ざれば 非 善といふ、ひと へ に他力にし て 自力をはなれ たる
-
・ゆへに行者のためには非行非善なりと 云ふ云云
前の章に於ける無得の 一道を反面より 言 ひ顕はして念 備は行者自力の行に非ず 善
に非ずと示して 如来絶勤の大善 大行たることを闘明せられた ものてある、すべて『熟
異鍋』は言語が何時も 明瞭直裁てある が 共代り には 合割の味が 少 いし が る「は「聖
-
直の筆に成り たるものは言語が頻る臓臓としたる風があるが自然に意味深長てあ
る「末魔砂』終の御 消息の後牛が全く比章と同意てある、目く、
賞 競経 に の たま はく、弾 陀 の 本願は 行 に あら ず 善 にあら ず、た ゞ 備名をたもつ なり、
名競はこれ善なり 行なり 行といふは善をするについて いふ ことばなり本願はも
-
敷異鉄講義 第八章 百八十一
シ- * シ
敷異妙講義 第八章 百八十二
とより備 の御約束とこ 、ろ え ぬる には善にあらず、行にあらざる なり、かるがゆ へ
に他力とはまふすなり、本願の名 跳は 能生する因 なり 能生の 因 といふ はすなはち
これ父なり大悲の光明はこれ所生の縁なり所生の繰といふはすなはちこれ母な
り、

本願 は行にあら ず 善にあらずとは何を意味するが、先づ文字 の意義を明らか


ば ぷ は 有 者 が 自力に て 作るところの善 自
力は「#行 するとdオ の1 行 とい こと て「ある 設に『敷 異 砂』にて は 行 貸 に はといふ
異 砂』には「念備は」と云 ふ て ある 足れ 一見何
なく 意味 異 る が刻 剤威 を「生 されど足が全然 一致 たる獣を味 は ねばなら
ぬ 抑法然上人の選揮本願念備といふことを明らかに了解せねばなら ぬ、普通の考に
ては 選 撰 本願中に誓ふ てある念備といふこと、解し安い、比時は選揮本願の念備と
いふ所調依主将になるそうてはない選探本風即ち念備といふ持業響に見ればなら
ぬ 何んとなれば吾人が度々述ぶるか如く備が持戒輝定乃至孝養父母等を揮びすて
て、念備のみを選びとりて Nを以て十方衆生を撮せんと本願を起したまひたるのて
ある例の選響本願が即ち念備てある 選響本願の成立が即ち念備の成立てある 故に
本願といふも念備といふも同一 てある、聖人が法然上人の教を軍に選 響本願と
のみ
宣ふも同意てある 共本願とは備の 約束てある、念備とは備の選 揮した まひし法てあ
る 下の十 一 章にある如く たもちゃすく
とな へ すき名跳を案じい だした まひて、この
名字をとなへんものをむか へんとの御約束てある かく備の約束が本願備の案じ出
したまひ し 念備、軍 意 同一物にして共物は 全く行者 自力の は から ひ により て
作りた
る善 に あらず行に あらず、唯備 が備名を たもてと 約束 したまひ たが本願、共約束
通り
名をた もつが念 備てある、故に念備 するは備願 に順 ふのみにして 我等の企 たる善
あらず又行にあらずそこて『敷異砂」には わがはからひにて行するにあらざれば非
といふ、わがは からひにて つくる善に もあらざれば非善 といふ」といふ たものてあ
る即ち行者自力のはから ひの善 ても行 て もない といふ ことてある『末燈妙』は「本願は「
もと り備の 御 約 更 とこ 、ろ え ぬ には善 にあらず 行 に あらざる なり引どい ふたも同
意てある若し之を正面より言へは如来本願のはからひたる他カの大善大行の念備
てある、詳しく云 へ は備か 不可思議兆載永 効 に修行して積功 累徳した ま ひたる結果
歌異妙講義 第八章 -
百八十三
百八十四
シ 第入章
てある そこて「末 燈砂』に 名競はこれ善なり行なり、行といふは 善をする について いふ
ことばなり」と いひ 又「かるが ゆ へ に 他力とは ま ふすなり」と いひ『敷異 録』には「ひと へ に
他力にして自力をはなれたるがゆへに行者のためには非行非善なり」といふのてあ
るかく選揮本願即ち念備をば行といひ 善といひ得るが 共行は即ち備の大行てある、
選採本園 即ち大行即ちた\備名をたもっ のてあるT行巻」に大行とは無偲光如来の名
を 稲 する 也とあると同意て ある 又 言南無者 の 響 に 務 願 回 向 といふ は 如来 既に 務 願
して、衆生 に行 を廻 施したま ふ の 心なり、即 是共行といふ は 選揮本願足なりといふ た
は全く比意てある 之を要するに 如来選揮の本願は即ち念備は行者自力の行にあら
ず 善にあらず 他力の大行大善なりといふ 意てある
さて何が故に念備は行者の貸 に非行非善なりなど云ふ妙角だちたる御教化は来
りたるかといふことを言明せねばならぬ そはシ念備を行者の の行なり善なり
と誤解したるものが多かったからてある抑々法然上人の御弟子の多数は皆 選揮本
願念備といふ ことを備の本願に行者か念備を修行する功徳によりて救ふとあるか
らシ念備を行ぜaばならぬ公備は行者の残の行なり義なりと へ。
信仰 法 ぬ
し す 行さ



















なら
ねば者



り 行非ら解也者 上










善念

あ誤行

是する




と い願然さりひ の




去殻
示之






法て


なら
本ねば



人 誤色び何解

如し




た殻

褐必ず





示し
外 去も















なら
ねば



すれ
若 り

解 了がぐり解る分 直
何 の
思がぐり
となり


あら
もの

い、





示し
再び







」へる
ず 十を


もの
誤あする

いされど






こ たとへば






















に 味 様


す 有











なら

問題







が り




き 入行者こっ虚字願るれ


あ備

本っ


空文間
そなは
行た
非て



た る 豊 若再より

に若



誤り
らて

とに


たと
如三



の来びきん
の は 来


約非

信如来
本なり
ずは





ずるる願束

で 一例
なく



約束








なら





問題
信仰
を以て


ある
講。百





第 五


義 たすけ
-

聖生上ひ心人






聖人
い信法然
如と
後運





"
-
}---

備が出て、又共光明 に撮取 さる 、のてある、即ち父母が我を生むのみならず 赤我を育


-
-----
-

の 願心が届き
して下さる如く又光明名競の父母は外縁となりて赤信心の内因を育て、下さるの
てあるかくの如ぐ 一代の間回向の信心内因が光明撮 取と念備相績の外縁に育てら


て まひ 人
内に


しまひ
信獲得
し有



あ、








』心た心る然 念
法上
人 あ『
て行



光名
し競
父因により
の て
信の




とは
ずに

聖 心る
る明母縁いふ 大



にり
恵大御
て撃
















-悲ょ慈名たき の


宿た

あ光明

如の
悲意












ありる来母る来名悲
光、
の御
にて
催本の
比慈が
御内




とが





より

明願悲心たきち から たま




こと
なれ

言の
異は

如響
なる
じ語き



如の
本を







如来
本願


は来願じるく







得て











因を以て
全く
如来
回るく縁 し
こなれ





至て




因に



如も

大悲
と人り母縁と何慈






て 異

講第
砂章






を示した まひ てある、面して共信心開発 の 一念に怒 ち日に共念


ある

いて
ある

即大


説た

程力を用みられたものと見えて阪東報恩寺の御真本に比雨重因縁の文章に澤山に
朱 を施した まひ て自ら玩 索 措くあたは ざる御様子が伺 はれる、「末 魔 砂』には 比を手短
に 示 され た
かく の如く gが 即ち信心 の 業 識 て ある、夫が 口 に
ら る『信 巻』には 共信心の 上につきて 非行非善を いふ て ある、
曰く、
ル携天信海者不 節費殿細素不証 男女老少不問造罪多少 不論 修行久近非行非 普非
頓非 潮非 定非散非 正観 非那観非 有念非 無念非 尋常非 臨終 非 多念非 一念 確是不可
思議不可稲不可説信築也監 如阿伽陀薬能激 一切 加来警剛薬能滅 智過毒地
前章に 引用せる『行 巻』の 一乗海 の 響と同意て ある、即ち 一乗海の無 得 の 一道が 心 に 宿
り たるが即ち大信 海 の業 識 てある、面して『敷異 砂』は共信心より流れ出づる念備につ
きて非行非善といふてある面して「末魔砂」は選提 本願念備の上て非行非善をいふて
ある、そして 比 三は 全く同一 物 の 如来 他 力の大 行大善て ある。
歌翼砂講義 第八章 百八十七
歌異砂講義 第九章 百八十
八十 入
○ 第 九 章
まうしさふら へども踊躍 歓喜のこ、ろをろそかにさふ
こと、また いそぎ 浮 士 へ まいりたきこ 、ろの さ ふらは ぬ
㎞引」 の 不審 あり つるに、唯園 坊 お
「ろ に て「あり けり。よく 〜 案じ みれば 天 に おどり地
に おど*るほどに、よろこぶ べきことをよろこば ぬにて、いよ
いよ往生は 一定とお も ひたまうべきなり、よろこぶべきこ、
ろを お さ へ て よろこば せ ざるは 煩悩の 所 貸 なり、しかるに俳
かねて しろしめして 煩悩 具足の 凡夫 とお は せ られ たる こと
なれば、他力 の 悲願は かく の ごときの われ らが ため なり けり
としられて、いょ ノ〜 たのもしくお ぼゆるなりまた浄土へい
そきまいりたきこ、ろのなくていさ、か所勢のこともあれ
シなん する らんとこ、ろぼごく ぼゆることも知備の
所貸なり 久遠 郡 よりいま、て流韓せる苦悩の奮里はすてが
たく、いまだむまれ ざる安養の浄土はこ ひしからずさふうふ
こと まことによく 〜 類艦の興盛にさふらふにこそ なごり
おしくお も へ ども姿婆の縁つきて、ちからなくしておはると
きにはかの土 へ はま いるべきなり、いそぎまいりたきこ 、ろ
なきものを、ことにあはれみたまふなり、これにつけ てこそ、い
ょ 〜 大悲大願はたのもしく住生は決定と存知さふらい 踊
躍 歓喜の こ 、ろもあり、いそぎ浮土 へまいりたくさふらはん
には 類悩のなきゃらんとあやしく さふらひなましと云々
シ 第九撃 百八十九
と解法も 比







不大畑




よい





s



意 喜如悲るたのばき 意味
みもは




あま






大大願 は居思いふっ持れとずるふ 云

い所

らとも



心許
なて


とが
た と悪し



可意と





とも持べふばる味
なら
ねば





ぬ 決かるにるのれ念く定 じ



強や
信心

堅固
金剛
らなる



もを
あた
して

喜 仰定












いよ




大願

は せ の




生 い居かにもとる土べ

喜成

浄親
あ又






いを





事 と解


%








仰せ







とも





し も


と されどてるしれ 地




すは
ひ動




居ば
あて

み弊




、 べから







極端















章 くを


る 大して





大願




心と

一定





不定
雑 悲 た



念 煩け
















て 悩 とも
につけ



を れ


夫 たろそか


踊比
おひ

い歓喜



おにし


な浮土

たき
そぎくり躍と
あき






















心地土

講百





第義

/|


}

*
*}-
-

*、*、*
信心なくとも可 いとても言ふ やうな意味に取ることに なる、大悲大願 に気がつきて
みれば喜 へ ずとも可 み位のことてはなお 喜べねばこそます 〜 たしかに御助てあ
るなぜなれば喜べ ぬ は煩悩御助は煩悩 織盛のものとあれば我 こそ御目常なりと喜
べぬ事程盆々本願 のたしかなことを決定するのてある 本願さへ仰げば喜べずとも
可い位てなく高べぬのてこそとの堅固深信を生ずる次第てある 燃るに若し比本願
を仰がずして喜べ ずとも可 いと言ふ ことは信心なくとも可 い、と云ふも同様てある、
例へはだ の御助けとか無修件の救済とか云ふ言語に陥る誤解と同様てある平素
信ぜねはなら ぬ 稲 へ ねばならぬ と力味 心を持つ ものゆ へ、夫 を挑 ふ ために 比言 を用
おたのてある詳かに言へは信ぜねばならぬ補へねばならぬと云ふ信心稲名は撃
自力の信行て、我等よりの参らせ 心 参らせ物てある共様なものは不用なれば之を挑
てだ、と言ひシと言ふたのてあろうされど備の大悲大風はが*ゃ無傑作位て
はない%るシ盛のものを助けんとの意悪てある北本』をきかばだ。
ゃ無修群位のことてはない我等がごとき罪悪のものをかく悪みたまふ備のシ備
の岬師の不思議を仰がねはならぬ そこて他ガ回同の信行は自然に賜はるのてある

罪深重
”類




衆を

と所



たん







まいふ
ます



生すけし 宣布








鈍なっ

居『





罪文を


本のくる悪字願字寛
文を
見 すもの

非する





こて
あ全




僧は
本といふ


る難とる俗園罪悪
深重








少差

なといふ
意味




居そこ
罪を
しみる悪 い

一とお


たふ
べなり

と所








定。

いふ
きる に

あけり
と所
」だよ
み「
よべき
こと
いふ

よりぬ
ろこぶ


往は といふ
こと
ばかり

にて
御け
いけろこば
て生よゃ
救は
少も









同心
っき所済しじ心



いぬ
とこと

あと
思や
うもの

あだ



いふ
や る字いと
無らるふな條件気体
すめ



居の





助無



救といふ
こと

誤し


るけ済解 けた


大大願


心決定



金堅固

深は

して
ら悲ぬ れべ ず
喜と剛信もよ
、 よが
喜ぬ
とよい


ふ や
う煩悩



もを
こた

みべなのそ た


無位

な俳
よ御




功を
頂條件


あ、



同て
抑 るQ.
くり徳く○○**p

様○○
抑々









誤が
あ様


全を
貫罪悪
救済
誤し

解る部く解

なら

認 歌

講第

-
-章





*

ん と
思は



心持



O ○
○○
○ -




自て




喜ん

す心

あ、


喜ばるば
調
にとめぬ 本願を信ぜんにはとよまずに他の善も要にあらずと 。ょ*****。 1
しくし 率をもおそるべたらすといたに髪して 底の転属とさをた くるにどの
なきがゆ へ に」といふ 大徳音は 少しも耳染に鋼れぬのてある 古☆今☆『敷鬼 砂』の特色
を認めず 却て遠慮勝なる態度を以て回護の身構をなすは残念 てある近時出版 され
たる妙音院 了詳師の聞記 に香月院師初め『敷異砂』を気持悪く 思ふ 身 構を 直言して
笑殺したはよみが反封に 罪悪深重といふ は行者内心の自覚の有様にして、即ち機の
深信てある、愚痴の法然房 十悪の法然房と仰せらる、如く、一切経を五 遍熟讃した
ひ 日聖人☆内心自覚の上ては 一文不通てある、一心金剛の戒師ても十悪の法然房て
あるたとひ罪悪深重類機嫌盛とありても気持悪しくするに及ばぬと推ぜられた如
何に も共通りてある、されど了 詳 師 の語気による に機の深信の信 相ては罪悪深重 て
*際上卵を深重てないのてあるから安心してもよろしいと云ふ身構に見へる
歩進めてなぜ共様に内心自覚のみにっきて罪悪救済を言ふて事質上にっきて罪悪
救済 を恐れるのか、機の深信は 法然聖人ばかりては ない、耳四郎ても同様てある 罪悪
を自覚するは事質罪悪があるからてある法然聖人てあらうが再四郎てあらうが備
敷異鉄講義 第九章 百九十三
g



あ深ば
四徒


質如皆
のて



されど
助本

構くる
れ重郎
きる ら

たと















ため



如れ人

答 解ん つて
るく 質

罪だけ
なる
深重

本願
深示
こと
強た
をさ砂


『値



悪重くれ ない


さし


て質




悪上こ回

際 な護
筆あ
れ質人とい勢 ね






なら
一て

進め
自の
心気




悪しく
べば層覚持き 老婆心

こと あを
て生は




特債


のそ認める
値かた


事れだけ
ずる
る色っ 鈍罪悪

随も深重
てよい
でも




さかと


を いんじ 附
老生しや
の 婆心 に


あなる

ざる
罪事

のま〜
程本力
顕ら重


を 悪す願 れ
救の
を本活
する
文て




あ月
香あに

院気

ながち
済願き
字ら
る にっき
こ の う *銭。 陀
あ に 己 に

ら 考

同罪悪






翌の


抑々
罪じく

悪。 数
講第










有世か


のとに
ひ如く

上罪悪
文し
のみいふ人るし字意は
注之 場考


と私




年に

大説松

之あの
っ何所来きるれ


獣 ふ


もざる


があ誤
に大


監獄
如き
ののらる 、
な動

世すなど
も監「

て』



まの

むる
危や
いれ獄ど
人 し険








ねば
され済









力 も

-
類を信じたる上は 自己の罪悪を自覚する様になるのてある 機の深信 は是て ある、既
に自己の罪悪を自発機修したるものなれば必しも危険はないのてあると言はれば
ならぬ されどかくの如き自覚を促し来る源は共罪悪深重を捨てざる如来深重の本
願の事質 に淵源することを忘れてはは ならぬ 比酷より 見れば比章は『敷異 砂』の特徴
を最も著しく示 されたものと言は ねばならぬ、即ち第 一章の罪悪深重の煩悩 織盛を
唯圓 房及 聖人の事質的問題として掲げ面も之に封する本願 不思議給 哀の事質 を撃
げて内心自覚の深信を示 されたるものてある『願力無窮にましませば 罪業深重☆ お
もからず 即ち吾人の罪悪の深重なるだけ夫れだけ本願力の無窮なることが顕現す -
る 次第て ある。
念備まう しさふら へ ども 踊躍数喜 のこ、ろをろそかに さふらふ こと また いそぎ
浄土 へまいりたきこ、ろのさ ふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふら
ふ やらんと、まう しいれ て さ ふらひ しかば親震 もこの不審 ありつるに 唯圓 坊 お な
じこ 、ろ に て あり けり。
唯圓坊が聖人より直々御教化を蒙らる、有様が眼前にあり〜 と見へるゃうてあ
敷異妙講義 第九章 百九十五
-- - ー -" "* - - - 』--
歌異妙講義 第九章 百九十六
る『数 黒砂』の特徴 たる 人生直接 の御教化は比章の如a 最も著しく あり国れれ

はっ くノ〜 思ふ には若し『敷異 砂』なかりせば、たと ひ廣略『文類』はありとも 之を人生
類』に
接に頂く ことは出来なかったてあろう『敷異砂』の各章上来述べ 来る如く、必ず『文
はる、
於て共源 を務見することが出来る、されど「文類』だけを見て は比『敷異 砂』にあら
異砂』
如く人生の上に 生きた信念として 頂くことが出来 ぬ、かく 云 へ ばとて固 より『敷
の御教
の筆者が『廣文類』に合はせょうといふ やうな 意思は なかったてあろうが聖人
化か *文額 基健なるがゆへに自然に相令するは固より常然のことてある芝を以て








悟ば懐 見考
法のは

を見録


なぬ

門ら
以て

司必 永
同様




嘆あ、
同て のせ
覚を

曰意るく ある
☆ 御











、悲







述は

ねなら
蹴知悪載g秀 賞波 務松愛欲魔海送感松名利大山不落入定楽之数不快近基鶴之置
可、地可 傷 突
比文と「数異勢」と符節を合するが如くてある金備まうしさふらへども踊闘歌喜のこ
浮土
ころ おろそか に さ ふらふとは拾も 定楽の 数に 入ることを喜ばす と同意。いそぎ
へ ま おりたきこ 、ろの さふらはぬ とは兵謎の謎に近くことを快ますと同意てある、
是れ唯圓 坊が自督 上の不審 を御 尋したる に 勤して 聖人直ちに 御自 督を以て御 論し
なされ たることなれば『文類』の文句との封比などは恐くは御雨人念頭 にはなかつ た
てあろうなれど内心の御自督共物が同一物なればかくもがつきりと相合するのて
あろう夫にっいて『文類』の文も 軍に彼御自 響の一文だけて拝してはならぬ前後を一
貫して 拝すれば『数 異砂』と盆 々同意 たる ことを発見 する、上の眞 の備 弟子 や 念備者は
無得 の 一道の下に 述べ たる通り『信 巻』末には 信心を得 念備する 者を 種 して 経文を引
、しっ: ー、B *ーす。“し ハ レ
* っ:、
きて、聞法能 不 忘、見敬得 大慶、則我 善 親友 乃至 若 念備者常 知、比人是人中共分院 利華とい
ひ善導の心数喜得忍の響を引きて阿弾院備園清浄光明怒現 眼前何勝騎闘といひ及
若念備者の幕を引きて今生既蒙 比盆捨命即入諸備之家即浮土是也といひ途には基
知瀬動大士撃等覚金剛心故誰華三倉之晩常 極無上豊位 念備衆生第横超金剛心故離
総1奪 Nダ超 護大般混撃 故目便同 也加之獲金剛心者則興*提等即呼響 得惑置信 N
シ則往相廻向之基心徹勤故無 不可思議之本警 故也とまて極言された足基の備弟
子たる所以 てある、聖 道の諸機 浮土定散機 は 暇の備 弟子、六十 二見九十 五種の 外道は
敷異妙講義 第九章 百九十七
=
-* }
} }
歌異砂講義 第九章 百九十八
偽の備弟子、濁り横超他力の金剛信の念備行者こそ眞の備弟なりと宣ひた そこて聖
人怒ち自己身上に回想し来りて鳴 呼我れ比の如き定楽に 入り 兵謎の謎に近づきな
がら何事 ぞと痛切岐酷なる織梅をなしたまひて調剤 獄愛欲の魔海 に沈没し 名
利の大山 に迷惑し 歓喜得忍の情疎か にし て臨終「斜 の タの 近剤引祀 づ
べし傷む べし参 と御述懐したまひた我等坂 機不浮愛 溺懲海の愚夫我慢我 情偽善偽
詐虚名虚飾 内懐虚暇の 卑劣漢は何等の面目を以て備祀の冥見に見 へ 奉るべき 唯圓
巧が心配して聖人に尋ねて下さっ たも光もてある、面して是正に 我等の御 尋したい
酷てある面して親獄も比不審ありっるに唯圓坊同じこ、ろにてありけりとは赤如
何 に 偉大 なる御 教化 ぞ や。
私も比御教化の偉大なることに初めは気附かなんだ成時一人の求道者来りて目
く、我 如来を疑は ざるも喜ぶ 心起らずといふて大に熱心に求め来られしゆ へ、私は頻
り に自己の経験を述べ て如来大悲の喜ばざるべからざる ことを語った、されど如何
にしても基人が喜ばしと言はずそこて翌日の再倉を期して別れた翌日時間にいな
りて急ぎて他ょり騎宅せしとき共人ははや待ち受けて居る怒ち前日の如く喜ぶ べ
ョi}t
きを述ぶる☆、盆 々己が心を追求して苦しむもの、如し、共容貌の唯ならざるを見て
心づきて前夜安眠せしや否やを尋ねしに 否と答 へ ぬ、そこてフト 我身をふりか へり
みるに前夜安眠せしのみならず今朝来さこそ備思を喜びたることもなかった面し
て比人の顔を見る や、怒ち過去の記鷹を呼び起して 歓喜を述ぶる も、比人に大悲の達
せざるは常然の事てあると一念断塊の思に住するや何とも言ふべからざる孤 濁寂
客 の威に 打 たれた、共瞬間 に 念頭 に浮にび来 りたる御言は「親 鶴も比不審 ありつるに唯
圓 坊 同じ心に てありけり」といふ撃てあった 孤 濁の身 に 聖人が怒 ち床 を同ふして 同
情を注がる、様に威じたそこて即刻共質際と質威とを披歴して我も決して御身の
申さる、ゃうに常に喜びっ、あるのてはないされど%ばぬものを盆々備みたまふ
大悲なりと比聖人の御教化を取次ぎた虜大に安心して騎られたことがある共時始
めて唯圓 坊同じ心にてありけり」の偉大にして 一酷私なきことが分かった。
倍かく聖人同情の撃は 共喜ばれぬ者を救ひたまふ大悲大願の顕現てある故に『信
巻ェ吸の次に聖人は抑 備の本願は難治の機を救済したまふが本意てあると日を開
きて『混撃経」の阿閣世王の煩闘 入信の質験を引きたまひた足常に私が熟譲拝見し奉
歌異妙講義 第九章 百九十九
敷異妙講義 第九章 二百
り『儀 悔録』『信仰 問題』を初として本妙講義にも属々 述ぶる所て ある私は質に 比阿閣
世 王と同様なる 内心の経験 にて 信仰に 入った。そこ て 聖人が比 の 如き適切 なる 文字
を二 十三 枚牛も長 々 引用したまひ しも恐くば 無意味 てはなか ろう、即ち御悲嘆 の御
文 より推 する に御 自身 御 述懐の引績 を拝見する、比 の如き大 頼悩 の 阿 闇 世王が比の
如来 の大慈 大悲の父母 に たすけられ し事賞を示し て 遂に 比の如き大徳音を宣布し
*
た まひ た、目 く、
プ テル三 イ
Q %、AQ QQは QL(Q・%、 QL お、QQuら2& Q ビル 8 % & 2 & %ーQ ー&g
是 以 今 擁 大聖 眞説 難 化 三 機 難治 三 病 者 憑 大悲 弘誓 騎 利他 信 海 狩 衰 斯 治 隣 欄 斯
A スルカタ チ づ イプ
へハメ
喩 如 醒闘妙薬 療 一切 病 潤 世 産燃類 機 悪 群生 應 求 念金剛 不壊 量 、心 可 執 持 本願 醒闘妙

薬 也、鷹、知。
* 『ーシーもしもしトー い 、iVJJ』Jl ー
- - 、、、-、-、も
是質に 備 かねて しろしめて 煩悩 具足 の 凡夫と仰せ ら た「る こと なれ ば 他 力 の 悲願
はかくのごときの我等がためなりけり」と仰せられた酷てある いそぎまみりたきこ
ころのなきもの ごとにあはれ みだまぶなり の大徳音てある かく「信巻ェ敷述懐の文
のみならず共前後 に渉り て殆んど『信巻』下巻全部にあらはれたる御自 督が比章に
遺減なく 我等 に告白して 下 され たのてある、私 は比の如き 聖人直々 の御 教化を度々
i』i』シ
聞かれたる如信上人唯圓房の光楽を養み変翻て六百五十年の末 一端なりとも比砂
-
によりて之を拝聴するの恩徳を威謝し奉る。
ょく 〜案じみれば天におどり地に おどるほどによろこぶべきことを よろこば
ぬ に て、いよ〜 往生 は 一定とお もひたま ふべきなり、よろこぶ べき こ 、ろを、お さ
へ てるょろこばせざるは煩悩の所貸なり、しかるに備かねてしろしめし 煩悩具足
の凡夫とお ほせられたることなれば他力の悲願はかくのごとき われらがためな
りけりとしられいよ 〜 たのもしく おぼ ゆるなり
「一念多念置文 に『大経 流通の数喜踊躍乃至 一念を響したまひて歓喜はうべきこと
を えてむずとさきだちてよろこぶこ、ろなり踊は天におどるといふ 躍は地におど
るといふ ょろこぶこ\ろのきはまりなきかたちなり魔築するありさまをあらはす
なり優はうべきとをえてのちによろこぶこ\ろなり業はたのしむこ\ろなりこれ
は正定%のくらみをうるかたちをあらはすなりとある面ちシ%のこ\る*る
そかにさふらふと尋ねられしゆへ、いかにも天に踊り地に躍りて喜ぶべき管てある
と仰せられた聖人は慶喜と歓喜とを文字の使ひ分けをしたまひた慶喜は信を得て
敷異妙講義 第九章 二百一
鉄翼妙講義 第九章
を部ふば慶喜量 護の置の近くを喜ぶを歓喜といォ寸*ォus 信比の如く 成就の文
には聞基名戦心軟務といひ流通の文には共有得聞彼備名競数喜師躍 方至 念とあ
るにも拘らず ょろこぶ べきことをょろこはぬにて往生は いよ〜一定とお もひた
まふべきなりとは随分思ひ切りた御教化てある抑ミ『信巻』下巻は成就の文を本とし
て行者の信楽開務の 有様を示したまひたのてある、そこて言 歓喜 者形 身心脱像 之貌
地とある基身心脱離は我等が喜ばんと企て、喜びたるものてない世の道を求むる
人が先づ自分て%びたいと企てるが大なる誤てある信を得ればならぬ補へばなら
ぬといふと企てるが自力てあると同様てある自力て喜ばんとするも 何の効もなく、
又喜も来らぬT御一代聞書」に目く、
信をは得ずしてょろこび候はんと思ふことたとへば糸にて物をぬふ にそのま、
はん
にてぬ へはぬけ候ゃうに税候はんとも 信をえぬば、いたづらことなりやみごべだ

く○Q、

○○

○○
○O








たま

すけ
○Q


なた衆生



ら候



たま
はこ のむ
れと
咲 -
-
あい










故に




ながら







D
からる べき


れ とろこぶ

信法
基質
あ清浄



よ生









してる楽 の
ざめ悩るり

なば

あ所













煩無明
た比 章全鶴



















べき
よろこぶ
こ 布


ろ なこ












て い 、
来に願る 然

あょ

本の
共 なか心い ん

信ある


ら 如ば



とても

に 何
正信



















心 定一刻
利一念 業









如来











那 基質 俗





地 心臓 一切




















之 足得

基質











過 以波

値 一海切





明然


海流
群生






講義








無中以可量




*



不以



何光明
正地

あす










といふ

浮 る を

楽 如く願れる何


来数

あにし






本が
聞ば す心













成就


数 る


く。

一切









ノト
清浄







可 変名

修之


魔*

テナリ
二百四
歌異妙講義 第九章 -
修 けい
ぬい
りい

し で

ある 軍意 貧愛慣増 の 心盛にして 如何に喜ばんとする も何 の貸 に もならぬ



膨して 頭 燃を挑 ふが如くする も軍意 糸を結ばずして 縫 ふが如くてある 『信 巻』末


悲敷の文も比信築響と同意てある しかるに最後に然らば信楽といふは比の如き



か" ち れ 等
内 は" 即 是 宇災

、 口
て如来か一念 一利那も疑を雑へたまはず 如来が我等に封する大悲心即ち
くい 俳 か >
の か" 信

*

楽てある軍意 比の 如き我等苦悩 の群生を悲隣 したま ふ本願共物 てある、是
* * * * * も も も ド・ド、 、
ね て しろしめし て、煩悩 具足の 凡夫と仰せ られ たることなれ は 他力の 悲願

、 ** ** も * ミ
** **
ごどきのおれ らがだめなりけりとの自督を生ずるのてある足即ち我 等が
、、、 、、、 、、、、、、、 、、 、、、、、、ミ 、、、、、
UM


*
務 し 来る、信楽てある、そこを」とし られてい よ 〜 たのもしく おぼ ゆる なり」
V


せ れた即ち信心 歓喜 若くは数喜愛楽といふ所以てある


く 如く比砂は『信 巻』の根本と全く 同意てある、されば 砂は 質際 にかけて、直接
D

D

播 せや とや 様
ろや こい 頂
乙w ぶや け
来の 思召を如何に もよく分かる様 にしめして 下 された『よろ
ばい こいる
い も i もい * 3 *、*
に て往生は いよ 〜 往生」よろこぶべきこ、ろ を お さ へ てよ
s s も も
貸 かね いろい めい 、煩悩具足の凡夫と仰せられたな





底 苦しみの急所を押 へ ての御教化てある、私



*もの
籍に何ふ に比 煩悩あれど大悲に てたすかるとの徳音は源信 和尚の煩悩園
大㎞と同様の御教化てある我等は徳造も領橋の魂てあるシ備を断ぜ
ずして混撃を得るといふが本職 「乗の大悲てある「論誌」に比云何不思議有兄夫人類
橋成就赤得生彼浄土三界撃業撃愛不年則是不断類備 得混撃分悪可 思議足質に煩備
具足の凡夫に封 する他力悲願の横 超の金剛信 てある、されば 如何程煩悩多くとも 之
を心配せずして悲願を信ぜよ之を心配して自ら喜ばんとするは雑修雑毒てある惑
ばれぬものを かねてしろしめしたる選揮本願 は信せずに居られぬ、こ、を『御一代聞
書』に目く、 - -
愛欲の魔海に沈没し名利の大山に迷惑して定業のかずにいることをょろこばず
眞誇の謎にちかづくとをたのしますとまふす沙汰に不審のあっかひど☆に て往

ほせさふらふなりた ゞ信ずるほかは別のことなしと仰られ候なり
往生せんずるかすまじきかなど考ふるは本願を信ぜぬ 有様てある 他力の悲願はか
-
敷異妙講義 第九章 ー 二百五
* j} } ー - ー
敷異妙講義 第九章 一「百六
くのごときのわれらがためなりけりとしられていょ〜たのもしくおばゆるな。
よろこふべびとをよろこばぬにて往生は いよ 〜 一定とお も ひ たま ふべきなり」と
いふは即得往生の心持てある、こは次の節にて詳しく携ずる く
べ借和心念るべき寸


述注意

た己

一来

信の



にっき

かき
す返さと念る を も




悲あん


往他



喜た生願る数ば
自力
無即ち


な態るが
状日




d


たとへば
ある





弱 住
一あ思
繰比








こに

1

喜び
こに

が-
前とべ程
時 もとの如く「喜
起る




g








べき





ざ す






付『






g

*



とけれ


巻 ら


いふ *
る後念の 様にっきて述べられた語気てあるされど後念と一念とは別物てはない、
自然と多念に及ぶが後念相績てある、即ち 一念の繰返しが多念てある 併し後 念に於
て 比気付きは自然にあらはる、のてある、一、念開務の時に 比獣に気を付けることが
最も肝要てある、
また浮土へ いそぎまいりたきこ、ろのなくて、いさ、か所勢のこともあれば死な
んするゃらんとこ、ろぼそく おぼゆることも煩悩 の所貸なり 久遠勃よりいまま
で流韓せる苦悩の奮里はすてがたくいまだむまれざる安養の浄土はこひしから
ずさふらふこと まことにょく〜類悩の興盛にさふらふにこそなごりおしく ふ
* へど*姿婆の縁っきて ちからなくしておはるときにかの土へはまいるべきな
り、いそぎまいりた きこ 、ろなきものをことに あはれみたまふなり、これにつけて
こそ、いょ〜大悲大願はたのもしく 往生は決定と存知さふらへ。
『敷異針 は思想に於ても文章に於 て も至れり せりと云ふべきてある 第ゴ割の刺
ョ心に残る 限なく絶封の信念を披 瀬し第七章の如き簡潔に 力弾引信を
異解者に向て縦横 に 「寸の余地な剤 J言 加 き 継切 に 丁寧 に
絶封の信相を描きて僅の遺械ない比章の如き如何にも人情の微と真相とを同情を
以て寛 されたるものて何人も首肯せざる るまい、残 に 比章 十六章結文 の如
きは 文章 に「T種の潤澤 あり て、面も少しも詩 的 想像 に 陥らず 信仰 の風情を 直寛し g
一片の浮 没の気なきは質に興面目にして美はしき聖教 て ある 階前節の如く比節☆
-
敷異妙講義 第九章 二百七
-
「『"j}ー} }ーーーー
歌異妙講義 第九章 二百八
赤一念にも後念にも通ずる、一念としては世の無常に威じても未だ欲生心を生せざ
る有様てある、後念として悲敷の文の所請 属 謎の謎に 近くとを快まずてある、「信巻』本
の欲生 心の響が信楽響と同様に微塵界有情流 韓煩悩海 漂 没生死海 無 置 質廻向心 無
清海廻向心といふのが久遠却より流韓せる苦悩の奮里はすてがたくして欲生心の
生ぜ さる有 様てある、そこ て我國に生れんと欲 へ といふ 如来 招喚の勅命、大悲廻 向が
あるのてある足いそぎまいりたきこ\るなき者をことにあはれみたまふ大悲大園
て ある 足によりて 初めて如来 に 騎する心が起るの てある、成就 の文に 至心に 廻 向し
たま へり、彼國に生れんと願 ずれば、即ち往生を得といふ が比獣てある即ち往生決定
と存じ候へと云ふのが比即得往生てある親獄聖人が十九歳の時磯長御廟の霊告を
蒙られたといふ文に諦聴謡聴我教令 次命根應十除歳命終即入清浄土善信 善信最善
し上に 比時 一層共威動を強められ+年を細
て盆々共年 に 至りて殆んと身の置き所もなく苦悩せ られたといふ こと てある 之が
の春、聖 豊 法印 の 雪人 は「週 ひ、選 揮 本願 を
安心 られ た、私は聖人が即 得往生を解して信心数喜

の 一念に往生すべきものと定まるとも仰せらるも決して偶然てない足れ聖人の質
験てある 霊告の命終速入清浄土とあるは比二十九歳入信の一念てある『愚秀砂』に本
願 を信受するは前念命終なり、即入正定楽之数文 即得往生は後念即生なり即時入必
を“ス名シカを開地と』に知るべし便ち㎞に同じとあるは何
となく警告に合する様に思はれる特に基著薩の文字は基の備弟子便同弾動響薩の
標を促し来ったゃうにも思はれる残に法然聖人より親盤聖人へ御附属の文には彼
備今現在成備常知本誓重願不虚衆生稲念必得性生とあるすなはち本願の虚しから
ざるを信愛する一念に必得性生と定まるのてあるこ\をこれにっけてこそいよい
ょ大悲大願はたのもしく性生は決定と存知さふらへ」と仰せられたのてある
己上は 一念にっけて云ひたるものなれど文章の様子にては後念にっきて述べら
れ たる。のらしい 量 誇の 謎に近くことを快まずと同意てある併前節にて擁 せし如
く、一念*多念*軍 章同様てある、いさ、か所勢のこともあれば死なんずるやらんと、
こ\るばそく*ぼゆることも知備の所sなりとは何人も質験する所てある通知上
人が 法然上人の仰には潮Hを 願 ふ行人は病 患を得て「ひと ペ「に これをたのし剤
* 第九* 三百九
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はる
へべなり




書御
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あ赤

くし
まる
るき化るもの







かは
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あ沙
て婆

縁ぎり
の 夫るっ いそぐ
い婆ら念 もの





長を
貸たると


浮土


たい




抱い何
を 命しくきく かなしむ
べき
もの
かと
ある

同て





決定









を様る

心れ


すも
決命

急もの

な、



初多く

最に

自ると
てしてぐいめ後ら に は 時*

*










安念














一の終向夫


生 溺 こ 天


あべき
夫と、
ぞろ
え念

すば
し来に
あて


乗づかり
るこ
ずる
てれ迎 地の て 心
**








にし
決往生
てな

南無
阿瀬

備く定し そ
*


ひが



さの

は妄念
とうょ

申した



とり
なれ
るち出 鶴

な、

故に
安念







なり
臨終




は りのき向 来 け
一妄念 f
浅 源

-*

こ二。
エ書



本願
深き













け唱


定もにずの 和尚
れども 横


法語


想する
こと




、川起る

いども

-患


よこ

さも
ろて
おず





ろこぶ
かれ
らに
こら



第十



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大故本







べ*



りにし
、メー 〜』 *り* 〜ー } } * ** 『』* 〜1 j j
書』 シ 『『
深く威じっ、ある獣て ある『日備剣 Tに 目く、
○ *っ九夫はことに *いてったなくおろかなりその好誰なる性の質なるをっっみ
て督善なるょしをもてなすはみな不質虚暇なり たとひ未来の生虜を瀬院の報土
とお* ひさだめともに浮土の再倉をうたがひなしと期すとも、おくれさきたっ
且のかなしみ まとへる兄夫としてなんぞこれなからんなかんづく噛却流韓の世
世生々の芳契今生をもて輸轄の結句とし愛執 愛著のかりのやど、この人界の火宅
出 の奮黒たるべきあsだ依正二報ともにいかてかなごりsしからざらんこれ
をお*はずんば凡衆の撮にあらざるべし 中略たとひ安愛の述心深重なりといふ
とも、もとょりか、る機をむねと撮 持せんといてたちてこれがためにまうけられ
たる本願なるにょ り至極大罪の五逆誘法等の無間の業因ををもしとしましまさ
ざれはまして愛別離苦にた へ ざる悲敷に さ へらるべからず、云云。
いそぎまみ り たきこ 、ろなきものを、ことに あはれみた ま ふ なり と は 如
の備意てある 成人は 非常に 無制を 威 じて苦悩せし時、この い 剤
Qー6ーの JRQー● ー し口、
な きものをことに あはれ た とい 句 にて信仰 に 入り たパが ある きど にの
-
敷異妙講義 第九章 二百十 二
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云 意語れ源願い味 とき
利るび他 』


及末

あ深














日 な決


本なし


淵足

さ他

論を


大師
公然
たる
巻 ひらきるを






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とかく
なり
なべき


の 六づれ便もしだ道 な
ひば


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なり
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の とりき力ふ 乗
ひ浄土
をらき てとく



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大悲



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慈 し悲土る々のた に


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あ文字

浄出




慈第* 如庭い味何 そ
文字
意ぎの
深も
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*




騎 如い

なれ
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大悲





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増上 菩提 阿










目 三国撃就略善





中今

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多 慈み





















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宜他利利他深義と仰 嘆措かさる基深の意義にして軍意 如来大悲の願
力を以て我等
を利 盆 したまふ 浮土旨共宗の骨 目如来 廻向の大徳音 の淵源てある、
面して 次の文 に
凡足生後浄土及彼人天所建諸行者総同弾院如来本風力故 何以言之 者非 備力回十
入園便是徒シ的取三風用シ十入㎞ 備園力故 十念念備便得往生得往生故
即免三界輪㎞之事無シ十一園録 備園力故住正定*在 正定撃
乾必至滅度無回伏之舞所以衛 撃。撃撃三十二園 線 備園力故 越出常倫諸地之行現
前修習普賢之徳以超出常倫 話地行故所シ以期面推 他カ%増上縁得不

然 平。
○ ○ O う
三願的置は軍% いき
そ 浄 へ ま おらしめんとの如来増上 縁て ある 足等が いそぎま

みりたき 心なき を 特 に儒 みたまひて起したまひし本風てあるおは みたまふと云
ふは「信巻」末の殆表斯 治橋 満期盤 どの意てある北三願こそ浮土 宗の源『教行
信置』
「の樹剤、これにつけてこそいよ 〜大悲大願はたのもしく往生
は決定と深く -
仰信し 奉る 次第て ある
シのこ、ろもあり いそき浄土へまいりたくさふらはんには気 のなきゃ
歌異妙講義 第九章 二百十三
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瓶異妙講義 第九章 -

二百十四・
らんとあゃしくさうらひなましと云云
踊躍数 競のこ、ろなき こそ 安3月 美 の 本性 なれ、いそぎ浮土 へまいり たき心な
乗生なれ、もし 数 喜の こ 、ろもあり、いそぎ浮土「へ ま おり たき 心あらば、
煩悩なきかと却って怪しま ねば ならぬ、若 し 煩悩なく んば備の本願も空しく お はし
まさん 阿とならば 如来の本願の本意は罪悪深重 頻機織盛の衆生をたすけたまは 別
てあるがくて比章は第 一章 に示 され たる誓願 不思義 の御力の極、罪悪
と の 御田池
済の大悲の底を霊されたる「敷異砂」の継奥を割切に我等に開闘したまひた足眞に阿
間世王が伊蘭心中に無根族 撤の信を生じたる事質にして管て本講義開巻に撃げた
る『教行信謎 継序に * rt ㎞ こッ ング f
レパ
) け〜 北野 ㎞ シィシミ* 名 撃
然則浮邦縁熟調達開世興逆害 浮業機彰響迦章提選 委養期乃権化仁斎救済苦悩群
イマシプ -

-
萌 世雄悲 正欲 恵逆誘闘提
と仰せられた所以 てある。
己上『敷異砂』九章を講じ軍る本 砂は初九章は 親鶴 聖人の御教化共僅を書きたるも
の「に U て「始%B『教行信護』の他力回向の賞 髄を人生的 に示 されたるものと云 ふ☆

い、十 章 己後は著者 が常時行行はれっ 、あっ た異解に向て 一々共誤を指
、 して示されたものてある若し前九章を以て『教行信謎」とするならば九章以下は
『化身土巻」に常るものと云はぬばならぬ同んとなれば前九章は誓願不思議を信じ
義なきを義とする絶封の 信仰を 勧めたまひたのてあるしかるにF章 は 封割 調 不
思議を疑ひて如来のはからひにまかせずして我はからひを挑める疑惑を誠めた
まひたのてある換言せば前九章は如来の本願を正面より顕はし
し後九章は反面よー
り顕はされたのてある併「文類』とは異りて前九章 は 「々 親鶴聖 人の 御 教化なれど
s「L Jー
後九章は著者の筆てあるそこ て自然に信仰 の 言 ひ あら は *}
る、古来
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を以て














あ 學

之前九章は直説法てある 故 相
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勤的意思なくして如何にも圓満に如来本願の絶封力があらは札 ある 後九章
ー(
九章 は
一々異解に勤して書きたる故相封的意思があらはれて時々 論争的日調に陥る こ
とすらある初論 敷異砂」として是非譲まねばならぬなれど我等が求道の貸に信仰
を味ふには前九章を以て 一段落を告げてもよろしい夫故力を前九章に専注して
遺減なく意を書して完結することに致した併諸君は是非十章己後の本文を熟讃
敷異妙講義 第九章 二百十五
第九章
-
二百十六
歌異砂講義 -
せられんことを切望いたします、我が求道寧舎にては過去五年間 毎朝備前に於て
勤行後本砂を輪次 拝譲して居ります 獅本講義は 我 求道雑誌に も掲載して 居りま
すから有志の諸君は十章E後は共方て御覧を希望致します終りに臨み本講義が
因縁となりて私は諸君と共に親 震聖人の御 教化を威偏 服鷹 さして頂い た湧 恩を
深く威謝いたします 南無阿 弾 院備。
敷異砂講義
シ師日博之真信シ撃相績之疑惑義不低 有縁知識者争
シ存一門 裁 金以自見之愛シ極力宗旨 物故親獄聖人御物語之趣 所都事底
馳シ師心行者之不審也云云
第 章
二弾院の誓願 不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じ
て念備ま
うさんとお もひた つこ、ろの おこるとき すなはち撮取不捨の利
盆に あづけしめた
まふなり弾陀の本願には老少善悪のひとを えらばれず た ゞ信心
を要とすとしるべ
しそのゆるは、罪悪深重類悩織盛の衆生を たすけんがための
願にてまします しかれ
ば 本願を信ぜんには 他の善も要にあらず、念備にまさるべき
善なきゆる に 悪を * *
そるべからす 弾 陀の本願をさまたぐる ほどの悪なきがゆる
にと 云云
歌異妙講義 附 繰 *
二百二十七
-
i} =
二百二十八
歌異妙講義 附 録
第 二 章
たまふ
一 各々十 除箇國の さかひをこえ て、身命を か へ りみづして、たづね きたらしめ
御こ\ろざしひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなりしかるに念備より
ほかに往生のみちをも存知しまた法文等をもしりたるらんとこころにく、おぼし
めしおはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなりもししからは南都北嶺に
もゆ、しき撃生たちsほく撃 せられてさふらふなればかのひと〜にもあsたて
て弾 陀にた
まつりて、往生の要ょく 〜きかるべきなり 親盤に おきては、た ゞ 念備し
すけられまいらすべしとょきひとのふほせをかうふりて信ずるほかに別の子細な
きなり念備はまことに浮土に むまる、たねにてやはんべるらん また地獄におっる
まい
業にて ゃはんべ るらん継じて もて存知せざるなり たとひ法然上人にすかされ
は、自
らせて念備して地獄に おちたり とも、さらに 後悔すべ からず さふらふ そのゆえ
除の行 をはげみて備に なるべ かりける身が 念備をまうして地獄に もおちて さふら

は 、こそ、すかされ たてまつりてといふ 後悔も さふらはめ いづれの行も およびが
き身なれば とても地獄は 一定すみか ぞかし弾院の本願まことに おはしまさば 響奪
の 説教虚言 なるべから ず、備 説 まことに お は しま さば、善導 の御 響虚言 した ま ふべ か
ず 善導の御 響まことなちば、法然の お ほせそらごとならん や、法然の お ほせまことな
らば親獄がまうすむねまたもてむなしかるべからずさふらふ 敷説ずるところ過身
が信心にを きて は、かくの ごとし、この う へ は、念備をとりて信じ たてまつらんとも、

たすてんとも 面々の 御は から ひ なりと 云云。
第 三 章
一善人なを もて往生をと ぐ、い は ん や悪人をや。しかるを世の ひと、つねに い は く、悪人
なを往生す、いかにいはんや善人をやと この修 一旦そのいはれあるににたれども本
願他力の 意趣に そむけり。その ゆる は自力作 善の ひとは、ひと へ に他力をたのむこ \
ろかけたる あ ひだ 弾 陀の本願 にあらず。し かれども、自力 の こころを ひるが へ して、他
力をたのみ たてまつれば兵質 報 土の往生をとぐる なり 頻悩 具足のわれらは、いづれ
の行にても生死をはなるることあるべから ざるをあはれみた まひて、願を おこした
歌異妙講義 附 録 二百二十九
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歌異妙講義 附 録 -
二百三十
まふ本意悪人成備のためなれば他力をたのみたてまっる悪人もとも往生の正因な
り、よ て 善人た に こそ件 生すれ、まして悪人は、とお ぼせ さ ふら ひき。
第 四 章
二悪意に聖道道士のかはりめあり聖道の慈悲といふはものをあはれみがなしみは
ぐくむなり。し かれども、お も ふ が ごとくたすけとぐる こときはめてありがたし。また
浄土 の 慈悲といふ は 念備して、いそぎ備 に なりて 大慈 大悲 心をもて お ☆ ふ がごとく、
衆生を利盆するをいふべきなり今生に、いかに いとをし不便とお もふとも存知のご
とくたすけがたければ、この 慈悲始終なし。し かれば、念備ま うすのみぞ、するとほり た
る大慈悲 心にてさふらふべきと云云
第 五 章
一割は父明の剤 のためad 「遍 はd☆外 備引 u た「るJugaが「 引引以「ず
そのゆえは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、いづれも〜この順次
生に備になり てたすけさふらふ べきなり わがちからにて、はげむ善にてさふらは ゞ
こそ、念備を回向して、父母をもたすけ さ ふらはめ た ゞ 自力をすて、いそぎ浮土のさ
とりをひらきなば、六道四生の あ ひだ、いづれの業苦 にしづめりとも、碑通方便を☆て
ま づ 有 縁 を度 すべきなり と 云云
第 六 章
一専修 念備のともがらの、わが 弟子、ひとの 弟子といふ 争論 のさ ふらん と、もてのほか
の子細なり親獄は弟子一人ももたず さふらふ そのゆる は、わがは からひにて、ひとに
念備をまう させ さ ふらは ゞ こそ、弟子にて も さ ふらはめ。ひと へ に弾 陀の 御 ☆ ょ ほし
にあっかりて念備まうしさふらひふとを わが弟子とまうすこときはめたる荒涼の
ことなり。つくべき縁 あればともな ひ、は なるべき繰 あれば、はなる 、ことの あるを も
師をそむきてひとにっれて念備すれば往生すべからざるものなりなんどいふこと
不可 説 なり。如来 よりたまはり たる信心を、わがもの がほ にとり か へ さんとま うす に
や『か へ す 〜 もあるべから ざる ことなり、自然の ことはり にあ ひ かなは ゞ、備 恩を も
歌異妙講義 附録 二百三十一
・ 『ーー= -ーシー*ー - ー=
敷異妙講義 附 録 - 二百三十二
-
しり、また師の恩をもしるべきなりと 云云。
第 七 章
一念備者は無得の 一道なりそのい はれ いかんとならば信心の行者に は、天碑地祇 も
敬伏し魔界外道も障得することなし罪悪も業報も威ずることあたはず 諸善もおよ
ぶ ことなきゆる に無得の 一道なりと 云云。
第 八 章
二念備は行者のために非行非善なりわがはからひて行ずるにあらされは非行とい
ふわがは からひにてっくる善にもあらざれば非善といふ ひとへに他力にして 自力
をはなれ たるゆる に行者のため には非行非善なりと 云云。
第 九 章
一念備まう しさ ふら へ ども、踊躍 歓喜の こ 、ろ おろそかに さ ふらふ こと、また いそやき
-
浄土へまいりたきこ、ろのさふらはぬはいかにとさふらふべきことにてさふらふ
ゃらんとまうしいれて33らひしかば親盤もこの不審ありっるに唯圓房*なじこ
ころにてありけりょく〜案じみれは天にふどり地にふどるほどによる こぶべき
ことを よろこば ぬ に て、いよ 〜 往生は 一定とお も ひ たま ふべきなり。よろこぶ べき
こ\を ふさへてよろこはせざるは類権の所貸なりしかるに備かねてしろしめして
煩悩具足の凡夫ときほせられたることなれば他カの悲願は かくのごときのわれら
がためなりとしられていょ〜たのもしくおばゆるなりまた浮土へ いそぎまいり
たきこ、ろなくて、いさ\ か所勢のこともあれば 死なんずるやらんとこ 、ろぼそく
お ぼ ゆることも。煩悩の所貸 なり 久遠 助より、いまま て流 轄せる 苦悩 の 奮 里はすてが
たく、未だ むまれざる 安養の浮土はこ ひし からず さふらふ こと、まことに よく〜 類
悩の興盛 にさふらふ にこそ、なごり おしく お も へ ども、姿婆の縁つきて、ちからなくし
てをはるときにかの土へはまいるべきなりいをきまいりたきこ、なきものをこと
にあはれみたまふなりこれにっけてこそいょ〜大悲大風はたのもしく往生は決
定と存じさふらへ園園歌喜のこ\ろもあり いそぎ浮土へまいりたくさふらはんに
歌異砂講義 附 録 二百三十三
* *} } } 「『
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歌異妙講義 附 録 二百三十四
は、煩悩のなきやらんと あやしく さふらひなましと 云云。
第 十 章
一念備には無義をもて義とす不可稲不可説 不可思議のゆるにとおほせさふらひき
そも〜、かの御在生のむかし、おなじこ、ろざしにして遼遠 の洛陽にはげまし 信を
ひとっにして心を常来の報土にかけしともがらは同時に御意趣をうけたまはりし
かどもその ひと 〜 にともなひて、念備まう さる、老若そのかずをしらず お はしま
すなかに聖人のふほせにあらざる異義どもを近来はふほくぶほせられあふてさふ
らふょし、った へ うけたまはるいはれなき條 々 の仔細のこと
第 十 一章
一、一文不通のともがらの念備まうすにあふてなんちは誓願不思議を信じ て念備ま
うすか また名競不思議を信ずるかといひ おどろかしてふたつの不思議の子細をも、
分明にいひひらかずしてひとのこ\ろをまどはすこと この條かへす 〜もこ\る
-
-

をと ゞ めて、お もひ わくべきことなり 誓願の不思議によりて、たもちやすく、とな へ や
すき名競を案じいたしたまひてこの名字をとな へんものを むか へとらんと御約束
あることなればまづ弾陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて生死をいづ
べしと信じて念備まうさる、も如来の御はからひなりとおもへばすこしもみづか
らのはからひまじはらざるがゆるに 本願に相應して基質報土に往生するなり これ
は 警 願の不思議をむねと信じたてまつれば名 競の不思議 も具足して誓願名競の不
思議、ひとっにしてさらにことなることなきなり つぎにみづからのはからひをさし
はさみて善悪のふたっにっきて往生のたすけさはり二機におもふは警願の不思議
をばたのまずして、わがこ \ ろに往生の業をはげみてまうすところの念備をも 自行
になすなり、このひとは名 競の不思議をもまた信ぜ ざるなり 信ぜざれども漫地解慢
疑城胎宮 にも往生して果途の願のゆる につみに報土に生ずるは名競不思議のちか
らなり、これすなはち誓願 不思議のゆる なれば、た ゞ ひとつなるべし。
第十二章
-
-
敷異妙講義 附 録 二百三十五
歌異妙講義 附 録 二百三十六
一経 響をよみ寧 せざるともがら 往生不定のよしの こと、この修 すこぶる不足言の義
とい ひつべし 他 力 賞 質 の ね あ かせる「☆ ろ「カ〜の 聖教 は 本願を信じ 念備 をまう
*は備は なる そのぼかなに の撃間かは往生 の要なるべき やまことにこのことはり
にまょひはんべ らんひとは、いかにも いかにも寧問して本願のむねをしるべきなり
㎞をょみ撃すといへども電数の本意をこ\ろへざる修シ不便のことなり
文不通にしてシのシもしらさらんsとのとなへゃすがらんための名賞にて
お は します ゆる に見多 行といふ、學問を むね とするは 聖道門なり、難行 となづくあやま
て 寧問して名聞 利 養の お も ひに 住 する ひと順次の往生 いか ゞ あらん ず らんといふ
謎文☆ さ ふらふ ぞ かし常時専修念備の ひと \、聖道門の ひと、静 論をくはだ て \、わ
が宗こそすぐれたれ、ひとの宗は おとりなりといふ ほどに法敵もいて きたり、誘法も
〜リ「ハ( 「ゾイ。NJー
。 「し (イ)*「イJQ→21ハ 対「ジ
おこるなり、これ しかしながら みづからわが 法を破 誘 する に あら ず や たと ひ 諸門 こ
なり、その 宗 あさし、いやしといふ とも、さらにあ引
-- - が ことく、下根の 凡夫、一文 不通 の も れ ば な すか る引u 外
切な 「はりJ信 u H標 の 「の
ため には最上 の 法 に てまし す たとひ自除の教 法はすぐれたりともみづからがた
めには器量 おょばざれば、つとめがたし われもひとも生死をはなれんことこそ諸 備
の御本意にて お はしませば御 さまたげあるべからずとて、にく ひ気せずは、たれの ひ
とかありてあだをすべきやかっは静 論のところにはもろ〜の煩悩 おこる 貧者遠
離すべきょしの 誇文さふらふにこそ 故聖人の おほせには、この法をば信ずる衆生 も
あり、そしる衆生 もあるべしと備ときをかせたまひたる ことなれば、われは すてに信
じたてまっる また ひとありてそしる にて備説 まことなりけりとし られ さふらふし
かれば往生はい ょ 〜 一定とお も ひたまふべきなり あやまてそしる ひとの さふら
はさらんにこそいかに信ずるひとはあれどもそしるひとのなきゃらんとも*ぼえ
さふらひ ぬべけれ かくまうせばとてかならずひとにそしられんとにはあらず研 の
かねて信勝と。にあるべきむねをしろしめしてひとのうたがひをあらせじととき
をかせたまふことをまうすなりとこそさふらひしか。いまの世には寧問し て、ひとの
そしりをゃめん ひとへに論議問答をむねとせんとかまへられさふらふにや撃間せ
ばいょ いょ如来の御 本意をしり悲願の廣大のむねをも存知し て いやしからん身に
附 録
シ 二百三十七
*"" 二百三十八
て 往生は いか ゞ なんど、あやぶまん ひとに も、本願 には 善悪浮 機なき おもむきをも
とき、かせられ さふらは ゞ こそ撃生の甲斐にて☆さふらはめ たま 〜なにを、ろ
もなく、本願に相應 して念備する ひとをも寧問し てこそなんど \、いひ おとさる 、こ
と法の魔魔なが 偽の怨敵なりみっから他カの信心かくるのみならずあゃまて他を
ま ょ は さんとす。つ 、しんて お そる べし、先師 の御 こころにそむく ことをかねて あは
れ むべ し 弾 陀の本願 に あらざる ことを。
第十三章
一瀬院の本願不思議におはしませばとて悪をおそれざるはまた本願ぼこりとて往
生かなふ べからずといふ こと。この條本願をうたがふ善悪の宿業をこ \ろえ ざるな
り ょきこ、ろの おこるも善業のもよほすゆるなり、悪事 の お もはれせらる、も悪業
のは からふゆるなり故 聖人の おほせには、鬼毛羊毛のさきに みるちりばかりも、つく
るっみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひきまたあるとき魔』
房は、わがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ さんさふらふとまう
され さ ふら ひしかば、さらば わがい はんこと、たが ふまじき かと、かさねて お ほせの さ
ふら ひしあひだ、つ 、んて領状まう されて さふら ひしかば、たとへば ひと刻引人「ころ
u引ん剤は御 生は「定すペ udagせ 剤u引ぶほせにてはさふら
へ ども、一人 も この身 の器量 に ては、ころしつ べしとも おぼえず さ ふらふ、とまう され
て さふらひしかば、さては いかに親 鍵盤がいふ ことを、たがふまじきとはいふ ぞと。これ
にて しるべし。な に ごと☆、こ 、ろにまかせ たる ことならば、往生のために千人 ころせ
といはんに すなはちころすべししかれども 一人にてもころすべき業縁なきにより
て 害 せざるなり、わが こ 、ろ のよくて ころ さ ぬ に は あら ず。また 害せ じとお もふとも
百人千人をころすこともあるべしと ほせのさふらひしはあれらがこ\ろのょき
をばょしとお もひ あしきことをばあしとお もひて、本願の不思議 にてたすけたまふ
といふ ことを しらざる ことを お ほせの さ ふら ひしなり そのかみ 邪見に おちたる ひ
とありて、悪をつくり たるもの をたすけんといふ 願に比 ましませばとて、わざとこの
みて悪をっくりて往生の業とすべきよしを いひてやう 〜 にあしざまなる ことの
きこえ さふら ひしとき、御消息に、くすり あればとて毒 をこの むべ から ず とこそあそ
-
敷異妙講義 附録 二 百三十九
* 二百四十
ば されて さふら ふ は、かの邪執 をやめんがためなり、またく 悪は性生のさはりたるべ
しとに は あら ず、持戒 持律 に て のみ 本願 を信ず べくは、われ らい かて か生死をはなる
べきゃか\るあさましき身も本園にあsたてまっりゃこそげにほこられさふらへ
さればとて身にそなへさらん撃業はもっくられさふらはじものをまたみかは
に*をひき りをして世をあたるものも野*にし、をかりsをとりていのち
をつぐともがらも、あきな ひ をもし、田畠をつくりてすぐる ひとも、た ゞ おなじことな
り。さる べき業 線 のも よぼ せ ば「い が なる「ふる ひ ☆ すべ D と こそ 聖人 はお ぼ せ 引以
らひしに常時は後世者ぶりしてょからんものばかり念備まうすべきゃうにおもひ
あるひは道場にはりぶみをしてなんなんのこと したらんものをば道場へ いるべか
らずなんどいふ こと、ひとへ に賢善精進の相をほかにしめしてうちには虚暇をいだ
けるものか 願にほこりて、つくらんつみも宿業のもよほすゆる なり さればよきこと
☆ あしき ことも、業報に さ しまかせて、ひと へ に本願をた のみまいらすればこそ、他力
に ては さふら へ 唯信 砂にも弾 院 いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身
なればすくはれがたしとおもふべきとさふらふぞかし本願にほこるこ\ろのあら
んにっけてこそ他カをたのも信心も決定しぬべきことにてさふらへ sはよそ暴業
煩悩 を断じつくしてのち、本願を 信ぜんのみぞ、願 にほこる お もひなくてよかるべき
に、煩悩を断じなばすなはち 備なり、備のため には、五 助思惟の願、その訟 なく やましま
さん本願ほこりといましめらる、ひと〜も煩悩不浄具足せられてこそ さふらふ
げなれば、それは、願 にほこらる \ に あらずや いかなる悪を本願ほこりといふ、いかな
る悪かほこらぬにてさふろべき ぞや かへりてこ\ろをさなきことか
第十四 章
二一念に入十億勃の重罪を滅すと信ずべしといふと この條は十悪五逆の罪人 日ご
ろ念備をまうさずして命終のときはじめて善知識の おし へ にて、一念まうせば八十
億 勃の罪を滅し、十念まう せば 十八十億 勃の重罪を滅して往生すとい へり。これは 十
悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念とい へるが滅罪の利盆なり、いまだわれ
らが信ずるところに およばず そのゆる は弾 陀の光明に、てらされまいらすゆる に、一
念発起するとき金剛の信心をたまはりぬればすてに定楽のくらみにsまめしめた
- -
数異妙講義 附ー録 三百四十二
7
歌異妙講義 附 録 7
、ニ百四十三
しめたまふ なり、こ
まひて命終すれ ば☆ろ 〜の煩悩悪障を韓 じて無生忍をさとら
ひて
の悲願ましまさずばか\るあさましき罪人いかてか生死を解脱すべきとおも
うすところ の念備 は こと 〜 く「別 悲の恩 を謝す
と べ なり念備まう さんごとに つみをほろぼさんと信ぜんはすてにわれと、
、一生のあひだ、
っみをけして往生せんと はげむにてこそさふらふなれ もししからば
**ひとふ*ふと みな生死のきづなにあらざることなければいのちっきんまて念
不思議のこ
備退韓 せず して往生すべした ゞし業報 かぎりあることなれば、いかなる
とかたし
とに*あひ また病悩苦痛せめて正念に住せずしてをはらんに念備まうす
そのあsだのっみをはいか \して減すべきゃっみきをされは往生はかなふべから
罪業を おかし念
ざるか撮 取不捨の願 をたのみたてまっらば、いかなる不思議 ありて
まう されんも、た
備まうさ ずしてをはるとも すみやかに往生をとぐべしまた念備の
をたのみ
だ いまさとりをひらかんする期のちかづくにしてたがひて、いよ 〜 弾陀
は 自分 のJ
御恩を報じたてまっるにてこそさふらはめ っ み を 滅剤
ろにし て臨終正念といのるひとの本意なれば他力の信心なきにてさふらふなり
<
第十 五章
一 頻悩 具足の身をもすてに さとりをひらくといふ こと、この條☆て
のほかのこと に
さふらふ即身成備は兵言秘教の本意三密行業の謎果なり六根 清浮は
また法華一乗
の所説四安築行の威徳なり。これみな 難行上根のつとめ、観念
成就の さとり なり 来生
の開豊 は他力浄土の宗旨信心決定の道なるがゆる なりこれまた易行
下根のっとめ、
不簡 善悪の法なり。お ほよそ今生にをいて煩悩 悪障を断ぜんこと
きはめて ありがた
きあひだ兵言法華を行ずる浮 侶なをもて順次生のさとりを
いのる、いが に いはんゃ
戒行隷解 ともになしといへ ども弾院の風船に乗じて生死の苦海をわたり報
士のき
しにっきぬるものならば類橋の黒雲 はゃくはれ法性の豊月すみゃかにあらはれて、
霊十方の無 得の光明 に 一味 にして 一切の衆生を利 盆せん
ときに こそ、さとりに ては
さふら へ。この身をもて、さとりをひらくとさ ふらふ なるひと
は、響奪 のごとく種々 の
應化の身をも現じ、三十 二相、八十随 形好 をも具足して説法利 盆 さふら
ふ にゃ、これ を
こそ今生に さとりを ひらく本とはまうしさふら へ 和讃に
金剛堅固 の信心の、さだま
-
歌㎞ 附録 二百四十三
* **
二百四十四
敷異妙講義 附 録
るときを、まちえて を弾院の心光撮護して、ながく生死をへだてけるとさ ふら へ ば 信
心の さだまるとき に、ひとたび 撮 取してす てたまは ざれば、六道 に輸廻すべからす。し
かればながく生死をばべたてさふらふぞかしかくのごとくuる シ s
刃 が すべ や。あはれ に さ ふら ふ を や 浮土旨共宗 には、今生 に本願 を信じて、か の 土
にして さとりをば ひらくとならひさふらふ ぞとこそ故聖人のおほせにはさふらひ
しか
第十六 章

一。信心の行者、自然にはらをもたて、あしざま なること を も おかし、同朋 同侶 に もあ
て、口論 をもして は、かならず 廻 心すべ しといふ こと、この修 断 悪 修善 のこ 、ちか、一向

専修の ひとに をひては 廻 心といふ と、た ゞ ひとたび あるべし。その 廻心とは、日ごろ
願他力眞宗をしら ざるひと弾院の智隷をたまはりて 日ごろのこ\ろにては往生か
をこ
な ふ べから ずとお も ひて、もとのこ 、ろを ひき か へ て、本願を たのみ まいらする
さふ
そ、廻 心とはまう しさ ふら へ。一切 の ことに、あした ゆ ふ べ に、廻 心して往生 をとげ
らふ べくば、ひとの いのちは、いっる いき、いる いきをまたずして、をはることなれば剣
心*せず柔和忍馬の もひにも住せざらんさきに いのちっきば撮取不捨の警』は
むなしくならせおはしますべきにや くちには願力をたのみたてまっるといひて、こ
ころ に は さこそ悪人を たすけんといふ 願力不思議 にましゅますといふ とも、さすがよ
からん☆のをこそ、たすけたま はんずれとお もふほどに、願力 をうたがひ、他力をたの
み まいらするこ \ ろかけ て、漫地の生を うけんこと、もともなげき お も ひたまふ べき
ことなり 信心 さだまり な ば 往生は 弾 院に、は からはれ まいら せて する ことなれば、わ
が は から ひ なるべから ず、わろからん につけても、いよ 〜 願力をあふ ぎまいらせば、
自然のことはりに て、柔和忍辱の こ 、ろもいてくべし すべてよろづのことにつけて、
往 ん
にはかしこき**ひを具せずしてた ゞほれ〜と弾院の御恩の深重なること
つ ね に お ☆ ひい だしまいらすべ し。し かれば 念備 もまう され さ ふらふ、これ自然なり

が は からは ざるを、自然 とま うす なり、これ すなはち他力に てまします。しかるを自


然 い


タ ふ ことの、別に ある やう に、われもの しりがほに いふ ひとの さふらふ よし うけ

た はる、あさましく さ ふらふ。
厳異妙講義 附 録 ・二百四十五
敷異妙講義 附 録 三百四十六
二漫地の往生をとぐるひと っみには 地獄に おっべしといふことこの修いづれの謎
?〜
文にみえさふらふぞゃ撃生剤 ひとのなかにいひいたさる、ことにてさふらふ
なるこそあさましくさらへシ教をはいかゃうにみなされてさふらふゃらん信
心かけたる行者は本風をうたがふによりて遂地に生じてうたがひのっみをっぐの
ひ て のち、報 土の さとりを ひらくとこそ うけ たまは りさ ふら へ、信心の行者 すくなき
ゆる に化 土に お ほくす 、めいれられ さ ふらふを、つ み に むなしくなるべしと さ ふら
ふなるこそ加来に虚妄をまうしっけまいらせてさふらふなれ
第十八 章
一備 法の 方に施入物の多少に したが ひて、大小備になるべしといふ こと、この修 不可
説なり〜、比興のことなりまづ備に大小の分量をさだめんことあるべからずさふ
らふかの安養 浄土の教主の御身量をとかれてさふらふもそれは方便法身のかたち
なり 法性のさとりを ひらいて長短方圓の かたちにも あらず、青 黄赤白黒のいろ を*
はなれなばなにをもてか大小 をさだ むべきや 念備まうすに化備をみたてまっる と
いふ ことのさ ふらふなるこそ大念には大備をみ、小念には小備をみるとい へるか *
しこの ことはりなんどに、はし ひきかけられ さふらふ やらん かっはまた 植波羅密

行ともい ひつべし。いかにたからものを備前にもなげ 師匠に☆ほどこすとも 信心か
けなばその訟 なし、一紙牛銭も備 法のかた にいれ ずとも、他力にこ \ ろをなげて信心
ふかくばそれこそ願の本意にて さふらはめ すべて備法にことをょせて世間の懲心
もある ゆえに、同朋をいひ おとさ るる に や、
第十九 章
一右修 々 は、みなもて信心のことなるより、こと おこり さふらふか 故聖人の御☆の

たりにシ人の ときシ子そのかず*ほかりけるなかにもなじ御信心のひと
*すくなくをはじけるにこそシ御同別の御なかにして御相論のことさふらひけ
り。その ゆる は善信 が信心も 聖人の御 信心も ひとつなりとおほせのふ
さらひければ、
歌異妙講義 附 録 二百四十七
二百四十八
敷異妙講義 附 録
勢観房念備房なんどまうす御同朋達もてのほかにあらそひたまひていかてか聖人
、聖人の御 智 隷 才
には ある べき ぞとさ ふら ひければ
の 御信心 に、善信 房 の 信心ひとつ
、往生の信心に
豊 ひろく お はしますに、ひとつ ならんと まうさ ばこそ、ひがことならめ
をいてはまたくことなることなした、ひとっなりと御返答ありけれどもなをいか
てかその義あらんといふ 疑難ありければ診ずるところ聖人の御まへにて自他の是
非をさだむべきにて、この子細をまうしあげければ法然聖人の お ぼせには滅空が 信
- る信心なり 善信房の信心も如来よりたまはらせたま ひな
り、されば た 、ひとつ なり 別の信心にて お はしま さんひとは源空がまいら
ば常時の 一
んずる 浮土 へ は、よ ☆ まいら せたま ひさふらはじとお ほせさふら ひしか
、さふらふら ん
向専修の ひと びとのなかにも、親 鶴の御信心に ひとつ ならぬ御 ことも
ふなり。
と おぼえ さふらふ、いづれもノ〜、くり ことにて さふら へ ども、かきつけ さふら
露命わ づかに 枯草の身 にか、りて さふらふほどにこそあ ひともなはしめたまふひ
をも、まう しき
と ノ〜 御不審 を☆ うけ たまはり、聖人の お ほせの さ ふらひし おもむき
どもに て さふらは
かせまいらせ さふら へ ども閉眼 ののちは さこそ U 以J け剤こと -
んずらめとなげき存じさふらひて、かくのごとくの義とも お ほせられあひさふらふ
ひと〜にもいひまょはされなんどせらる、ことのさふらはんときは故聖人の御
こ\ろにあひかなひて御もちおさふらふ 御聖教どもをよく〜御覧さふらふべし
おほよそ聖教には基質権暇ともにあひまじはりさふらふなり 権をすて、質をとり
便をさし*きて基をもちsるこそ地人の御本意にてさふらへかまへて〜 数
み みだらせたまふまじくさふらふ大切の置文ども少々ぬきいてまいらせさふらふ
て、目 やす にして、この 書 にそ へ まいらせて さ ふらふ なり。聖人 のつね の お ほせ には、弾
陀の 五 勤思惟の 願を、よく 〜 案 ずれば ひと へ に親鶴 一人がため なりけり『され ばそ
く ばく の業を もちける身に てありける を、たすけ んと おぼしめしたちける 本願のか
た じけなさ よと、御 述懐 さ ふら ひしとを、いま 、た 案ずる に、善導の 自身 は これ現に 罪
悪生死の 凡夫 噴 効 より この かたつねに しづみ、つねに 流轄 して、出離 の 縁あると なき
身としれ といふ金言にすこしもたがはせ おはしま さず されば かたじけなくも、わが
御身にひきかけてわれらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩の たかき
ことをもしらずして、まよ へるを お もひしらせんがためにて さふらひけり まことに
歓異妙講義、附録 二百四十九
-
敷異妙講義、附 録 二百五十
如来の御 恩といふ ことをば、さたなくしてわれ もひともよしあしといふ とをのみま
うしあ へり。聖人 の お ほせ には 善悪 の ふたつ、継じて もて、存知 せざるなり、その ゆる は、
如来 の御 こ 、ろ に、よしと おぼしめす ほどにしりと ほしたらば こそ、よきをしり たる
にて ☆ あらめ、如来 のあしと おぼしめすほどにしりとほしたらばこそ あしきをしり
たるにてもあら めど 類悩具足の 凡夫 火宅無常 の世界は 以 ろ づのこと みなもて、そら
ごと たはごと まことある ことなき に、た「ゞ念備 のみ こと に て をはしますとこそ、
お ほせは さ ふら ひ しか、まことに、われ ☆ ひとも、そらごとをのみまう しあ ひさ ふら ふ
なかに、ひとつ の いたはしき ことの さ ふらふ なり。その ゆる は 念備ま うすについて、信
心の おもむきを もた が ひ に 問答し、ひとに もい ひき かするとき、ひとのくちをふさぎ、
相論のた\かひかたんがためにまたくおほせにてなきことをも おほせとのみまう
すことあさましくなげき存じさうらふなりこのむねをょく〜 引こ、ろ
えらるべき ことに さふら ふ。これ さらに わたくしの ことばにあら ず とい へ ども、経 響
のゆくちをも しらず、法文の 浅深をこ、ろえ わけたることもさ ふらはねば、さだめて
おかしきことにて こそ さふらはめども故親鶴聖人 の お ほせ ことさ ふら ひしお もむ

きを百分が一かたはしばかりをもおもひいてまいらせてかきっけさふらふなりか
なしきかな や、さい は ひに 念備 しながら、直 に 報 土に むま れず して 漫地に やど をとら
んこと、一室の行者のなかに信心ことなることなからん ために、なく 〜筆をそめて、
これ をしるす。なづけて敷異 砂といふ べし。外見 あるべからず
〜、くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくっく 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜くくくくくくくくくくくくく、
後鳥羽院 之御字 法然聖人他力本願念備宗を興行す 子時興顧寺僧侶 敵 奏之 御弟子中
ある よし、無質 風聞 により て罪科 に 虜せらる 、人数事。
番 多といふ 所 へ 流罪、罪名 藤井元彦男 云云、生年 七十 六歳なり、親 鶴は 越後國 罪名 藤井
善信 云云、生年三 十五歳なり。
浄聞房 澄西碑光房s 園
好 豊房 伊豆 國 行空法本 房 佐渡 國
幸西成 豊房善悪房二人同遠流に さだまる、しかるに 無動寺之善題大僧正これを申あ
づかると云云、遠流 之人々 己上八人なりと云云。
-
敷異妙講義 附 録 二百五十一
** シ
敷異妙講義 附 録 二百五十二
被 行 死罪 人々、
番 番ヘ
安 性


1番 西意善緯房


三番 住 運 房
二 位法印 奪 長 の砂法 也。

秀ノ
尋ノ シテト
親盤歌 信儀 駆 体名乃非 他非 俗然間以 シ経 来聞 了彼御由 状子今外記鷹に納

a」

と 、流罪以後患秀親シ書給也 言

右斯聖教者貸常流大事聖数地 於 無宿善機 無左右不可能之者也
響 違 如 御 列
敷 異 妙終 人ニ 一sーニ九
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シシ* *
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